ジェンダー論

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670ロニー:03/03/16 22:02 ID:h8k1JTCW
今日はちょっと時間がないので軽い返答のみをご容赦ください

>亡霊氏
ご教示ありがとうございます、「問い」というのは面白い表現です
僕はプラトンから始まるご大層なイデアもまたその程度のことでしかないと思います

少なくとも、僕はそのような問いを持つ必要性があると考えますが
問いそのものへの否定に対して、どのように回答すべきかが分かりません
しかしその点を自らの主義の中に閉じこもるのもまた問題でしょう
その点がダスマンにつながるのだと思います
しかし議論そのものを揺るがす問題を議論することができるのか、そこにも不安があります
671ロニー:03/03/16 22:34 ID:h8k1JTCW
>チキンリキン氏
>規範=ルールには「〜しなければならない」から「〜することが望まれる」までの強度のようなものがあると思うので、一概には判断できませんが
少し考えさせてください、後日、返答します

>この記述は意味論的・論理的なものでしょうか?
>それとも、認識論的なものでしょうか?分けることが適当でないものでしょうか?
意味論的と言えるのかもしれませんが、僕には明言できそうもありません

>・カントはこの枠組みを普遍的なものと捉えていたと記憶しているのですが、
カントはその枠組みを絶対に正しいと捉えてましたが、僕はそう思いません
それもまた一つの仮説にすぎないと思います
しかし、知識の獲得方法に関してはカントの発想が適していると思います

>この枠組みを各々が経験を把握する為に投影するという意味で普遍的としているのでしょうか?
>あるいは、人がその枠組みを共有しているという意味での普遍的ですか?
僕は知識の獲得に当たりそれ以外の方法を持ち得ないという意味で普遍的と呼べるものと思います
それはあくまでも仮定に過ぎないので普遍的な共有とは思いません
しかし、仮定する能力は全ての人に与えられた能力であると思います

例えばある病気の特効薬を開発するには「そのような特効薬がある」という前提が必要ですが
これは形而上学的信念であり、ただの仮定に過ぎないと思います
しかしその仮定なくして特効薬の開発をすることもできないと思います
672ロニー:03/03/16 22:39 ID:h8k1JTCW
>進化
進化に関しては真理共々、立場を変えるかもしれません
チキンリキン氏との対話を通じて感じたのですが
真理そのものを問題にする限り、進化も言えません、
チキンリキン氏の「有用性」をさらに改良して態度を変更しようかと考えてます
現在、「真理への接近」と「真理の近似の度合い」は異なるのではないかと考えています
真理への接近とはゴール(真理そのもの)の問題ではなく、競争の当事者(理論)の問題ではないかと考えるからです
そう考えることで進化を言うことができそうです

>合意できる可能性がない存在とは、例として挙げられていた犬などを考えていました
これが犬語翻訳機の開発で議論可能になったら面白いですね
これは亡霊氏のダスマンにもつながってきそうです

>>A喉が渇いた人が喉の渇きを癒すために水を飲む、B海水を飲む
>>AはBより合理的に見えますし、BはAより非合理的に見えます
この点も修正します、真理への接近を考えるならば
同じ失敗を繰り返すことが非合理的であり、過去の失敗から学び失敗を繰り返さないことが合理的と考えます

一度海水を飲んでのどの渇きが癒せなかった人が
A今度は海水ではなく真水を飲むことで喉の渇きを癒せた→合理的
Bまた海水を飲んでのどの渇きを癒せなかった→非合理的
C海水を布にこして飲んだが喉の渇きを癒せなかった→合理的
と変更することにします
結果としてのどの渇きが癒せたかどうかを考えると帰納に引っかかってしまいます
このように態度変更をすることで合理的かどうかを言えると思います

>フレームワーク問題に「正義」がどのようにからむのか教えて貰えると嬉しいです
「正義」という概念は絡まないと思います
しかし形相、もしくは「問い」という概念の方が絡んでくるのではないでしょうか
この辺は僕も不勉強なもので
673ロニー:03/03/16 23:08 ID:h8k1JTCW
>競争
僕は現代社会において競争はあると思います
また、共産主義にしたところで競争はあると思います、もっとも、それは市場における自由競争ではありませんが
ポパーに影響を受けている僕は、競争を進化と同レベルで理解していますが
競争もまた、ある/ないの二元的に語れるものでもないと思います
現代の日本において競争はありますが、それを程度論で考えるならば
競争社会と呼べる社会ではないように思えます
その意味では亡霊氏と同様、燕雀氏の「競争がない」という表現にも一つの理を感じます

>ジェンダーフリー教育
僕は教育においては規範とはどのようなものかを理解させることが重要と考えます
昔、ある教育学教授が「校則は生徒に規範とは何かを教えるためのものであるのだが、現在では校則が学校を取り締まるための道具として使用されている」と言ってました
ジェンダーフリー教育は無規範教育と思います
僕がジェンダーフリー教育の最も危険であると思う箇所は
それが性差云々に関係なく、規範概念を破壊しているように思われるからです
僕は個人と社会とは対立概念ではないと考えてますから、
あまりにも無規範に行き過ぎた教育(例えばフリーセル教育)などは逆に有害となりうると考えます

>企業における性差別
性差別の具体的な内容、構造を明らかにる必要があると考えます
その点で「性差別」という言葉が独り歩きしている現状は由々しき事態だと思います
何の問題も何の解決も生み出さない「性差別」という言葉ならば
僕はそんなものは「ない」と言い切ります

乱雑な文章をご容赦ください
長文、失礼しました
674チキンリキン ◆ozOtJW9BFA :03/03/17 16:54 ID:NxECVslr
>ロニーさん
自転車操業でやっておりますので、読む本がえらい数になってまして
今回は現在解る所についてだけ書き込みます

>671
>しかし、知識の獲得方法に関してはカントの発想が適していると思います
>しかし、仮定する能力は全ての人に与えられた能力であると思います
このような意味でしたら同意できると思います
多分・・・大丈夫なはずです

と、ここだけしか今のところ回答ができません
申し訳ないです

さて、いままで明らかにしてませんでしたが、今回はフェミニズムとジェンダーについての本を
パラパラ読んでみて思ったことを書き込んでみたいと思います
>フェミニズム
ようやく、亡霊さんのフェミニズムの区別がピンとくるようになりました
結論から言えば、私はフェミニズムのような視点の提案を歓迎します
これは支持することを意味しませんが、試みとして意義があるとは思います
>ジェンダーフリー
押し付けることも、押し付けられることにも否定的(押し付ける必要がある場合は最小限)な私は、
2ちゃんねるで見かける性差の否定を押し付けているようなジェンダーフリーには反対です
ただ、言葉の意味から言っても「ジェンダー」からの解放を志向するという印象を受けるのですが・・・
675亡霊:03/03/19 02:09 ID:44Wgq66y
>>670
【「問い」を「共有」しない人】
 「問い」を「共有」しない人に対してどう対処するか。ロニーさんのご指摘
でいえば、問いそのものを否定する人にどう対処するか。
 これは少なくとも私にとっての理論的実践的難問です。
 まず理論的には「問い」を否定することは不可能であるという方策。
 これは第一に「問い」とは何か、ということでもあります。日々の人間にあ
る悩み。あるいは自省する人間ということをモデルとすること。実はこれはダ
スマンは原理的には不可能であるという主張になります。「問い」を忘却する
とき、まさに忘却という行為・意識があるとすればこのことは根拠づけられる
と思います。
 しかし、「いつのまにか周りに飲み込まれていく」事態をどうすべきか、こ
れを無視してよいのか・・・悩むところです。
676亡霊:03/03/19 02:36 ID:44Wgq66y
【「問い」を「共有」しない人〜理論的説得の困難】
 実践的にはどう対処するか。次の例により、問題の所在だけ示します。
 問いを共有する気すらない人。精神分析でいう「否認」を行うことがある。
 この問題は、例えば、9月11日事件に対する報復でアフガンの一般市民
が死んだという報道をしたことに対するアメリカ人の批判的反応において顕
著です。すなわち、「アフガンに味方をするのか」という。
 しかし、考えてみればおかしなことです。アフガン攻撃により、当然一般
市民が死ぬことは中学生でもわかることです。だとすると、アフガン攻撃を
支持する人は当然一般市民が死ぬことを(理論的には)許容しているはずで
ある。にもかかわらず、その許容の現実化を報道することが否定される。
 そして、かかる振る舞いはそこかしこによくみられる。
 以上のことをまとめれば、人は合理的に判断しているわけではなく、しば
しば理論的矛盾を積極的に引き起こしている。
 そしてこのことが示す困難は、こういう人に対して理論的説得を行うこと
は不可能ではないか、ということです。理論的矛盾を自ら引き起こしている
のだから。
 以上が(私の)問題の所在です。

677ここに訴えたまえ:03/03/24 11:55 ID:LKLL/0P5
恐怖のフェミナチ掲示板AURORA BBS
http://aurorae.net/cgi-bin/bbs.cgi
恐怖のフェミナチ掲示板AURORA BBSの姉妹板
http://aurorae.net/cgi-bin/anti.cgi
678燕雀 ◆hWNdpaui4k :03/03/27 04:35 ID:trol/Rfs
>>662
何か最近忙しくて・・・。
亀レスで申し訳ないです。

1.1 「行動は自己中心的であってはならない」
1.2 「人の数だけ世界が存在する」

この2つについてですが、「人の数だけ世界が存在する」当たり前のことなのですけどね。
しかし、ある人の世界が更に小さな世界の集合で構成されると考えた場合、
その部分集合は、他の誰かの世界の部分集合と一致する場合もあり、一致しない場合もある。
まあ、実際には完全一致ということはほとんど無いでしょうけど。
で、我々社会で暮らす人間と言うのは他人や社会と接する場合、
その何とか一致する部分集合を用いて人と接して暮らしていると言う訳です。
そして、一致しない部分集合を用いての接触はかなり慎重に進めなくてはならないことになります。
更に、行動を起こすということは他人と接することでもありますから、
一致しない部分集合を用いての接触はかなり慎重に進めなくてはならないことになります。
何故なら、普段人と接するときに用いているのは一致する部分集合だからですね。
故に「その行動が自己中心的であってはならない」と言う訳です。
679燕雀 ◆hWNdpaui4k :03/03/27 04:35 ID:trol/Rfs
>>663
2.1 「現代に競争はあるか否か」
多分、皆さんが興味あるのは企業間の競争ではなく、個人間での競争だと思いますよ。
ロニーさんが言われるように、現代社会は程度論で言えば競争が無いと言う事です。
私は現代社会には「個人間での競争」と、
「挑戦者を求む!」という精神が抜け落ちていると思います。
向上心が無い人も大勢いますからね。
更に、私は個人間での競争を回避する構造が今の社会にはあると考えています。・・・(a)
現代社会のここをいじれば、少しは今の雇用状況が良くなるとは思いますが、
いろいろと難しい問題が残りますね・・・。
しかし、「ドリームキャスト」とは懐かしいですね・・・。

2.2 「企業における性差別はあるか、あるいは、別の事象の現れか」
これは2.1(a)にかかってくることですね。
今後の日本社会がどのような方向に進むのか・・・。
維持するのか、維持しながら変えてゆくのか、或いは全てを変えるのか・・・。
あ、これ独り言です(w

2.3 「社会に関する事実は教育が与えるものか否か」
いや、別に否定しているわけではないですよ(w
ただ、高校までの教育者にとっては事実を知る機会があまり無いでしょうから、
ちょっと大変かなとは思います。
680ロニー:03/03/27 05:56 ID:ahWmfALd
今日はもう時間がないので、書き込みできません
ご容赦ください
次回は今週末、ちょっと月末は忙しいので来月頭になるかもしれません

>亡霊氏
遅ればせながら『共生の作法』購入いたしました
自らの問題意識がさらに洗練されて述べられているのでかなり衝撃的でした
同時に著者、井上達夫氏のポパーからの影響を強く感じました
井上氏自身も言及していますが、正義の問題は同時に真理の問題でもあり
そしてポパーの真理観、客観の設定こそが、「正義」という概念の復古、引いては「真理」という概念の復古にもつながると思います

『共生の作法』を読み僕自身大きく影響を受けましたし、いくつかの曖昧だった点が明瞭となりました
また、僕独自のコミュニケーション論展開のきっかけも頂きました
これはこれからのチキンリキン氏との対話に生かせそうです
参考書推薦ありがとうございました

>チキンリキン氏
レスが遅れてすみません
僕はまだ浅学勉強中なもので、自らの持論がコロコロと変わってしまいますが
それでよろしければお付き合いください
681ロニー:03/03/27 06:12 ID:ahWmfALd
追記
>亡霊氏
「共生の作法」において、僕が最もショックを受けた文は次です
>人をして独断家足らしめるのは確信の強さではなく、確信の「質」である。
>独断とは自己の判断の真理性を確信することではなく、自己の判断の確実性=不可謬性を確信することである。
楽観主義にとっては勇気付けられる文章です

「問い」に対する返答も少し待ってください、前レスの時は理解が甘かったです
構成説的な解釈とは見てませんでした

682名無しさん 〜君の性差〜:03/03/28 17:00 ID:HvyZ5O5p
>>681
>>独断とは自己の判断の真理性を確信することではなく、自己の判断の確実性=不可謬性を確信することである。

「自己の不可謬性」・・・そのまんま、フェミニストを指している言葉ですな・・・。
683亡霊:03/03/29 03:50 ID:9PwtNHsv
>>678
 ご教示ありがとうございます。

>1.1 「行動は自己中心的であってはならない」
>1.2 「人の数だけ世界が存在する」
>この2つについてですが、「人の数だけ世界が存在する」当たり前のことなのですけどね。

 当たり前と言われてもわからないです(少なくとも私には)。自己が他者
によって規定されているという議論もある。
 この時も「人の数だけ世界は存在する」といえるのか。

>しかし、ある人の世界が更に小さな世界の集合で構成されると考えた場合、
>その部分集合は、他の誰かの世界の部分集合と一致する場合もあり、一致しない場合もある。
>まあ、実際には完全一致ということはほとんど無いでしょうけど。
>で、我々社会で暮らす人間と言うのは他人や社会と接する場合、
>その何とか一致する部分集合を用いて人と接して暮らしていると言う訳です。
>そして、一致しない部分集合を用いての接触はかなり慎重に進めなくてはならないことになります。
>更に、行動を起こすということは他人と接することでもありますから、
>一致しない部分集合を用いての接触はかなり慎重に進めなくてはならないことになります。
>何故なら、普段人と接するときに用いているのは一致する部分集合だからですね。
>故に「その行動が自己中心的であってはならない」と言う訳です。

 要するに、「一致する部分集合」が「通常」であるという認識が前提にある。
 そして結論に自己中心的なことを否定する。
 しかし、自己中心的な行動をしても、他の人と協力することもあるのではな
いですか。例えば、私は飲み物が欲しく、店はお金が欲しいから、売買がある。
自己中心的な行動から、お互いが一致することがありうる。
 @一致する部分集合があるかとA自己中心的か否かの問題は区別しうるので
はないですか。
684由美子@議論の為の模索:03/03/29 04:09 ID:yBJjV46t
ふも。
685暗黒大将軍:03/03/29 04:10 ID:0Yf4tJdG
テロ生
投票しれ
http://www.tv-asahi.co.jp/asanama/video/Curr/opinion.html
少し押され気味です
686名無しさん 〜君の性差〜:03/03/29 04:27 ID:ZEvIi57u
>>684
フェミニストであるあなたは、「フェミニズムを絶対のものとする」だけで済むからな。
687名無しさん 〜君の性差〜:03/03/29 13:13 ID:zX8cmKox
ジャンダーフリーについてのサイトはイパーイあるけどサー
どれも、人間の本能的なもの全く考えてないよね。
ただひたすら女性差別を指摘してるだけだし。
688名無しさん 〜君の性差〜:03/03/29 13:14 ID:GFABCDhJ
>>687
そうだね
子猫を守る母猫の姿とか
飼い犬でも産後牙を剥く母犬とか
そういうのを見て何も感じないのかね
と思う
689ロニー:03/03/29 23:30 ID:CnuONPOQ
>由美子氏
>>684
僕はそれを不毛とは思いません
なぜならば、仮にそれが不毛であるとするならば議論もまた不毛であると結論付けられかねないからです
不毛か否かの判断が、その決定性ではなく、知識の再生産性にあるとするならば
このような思索は不毛ではないと僕は思います

むしろ決定性に固執することの方が僕には不毛に思えます
また、そうしたことを議論してるのがこのスレの現状でもあると思います
690ロニー:03/03/30 00:34 ID:aDIfGL5Z
>亡霊氏
>【「問い」を「共有」しない人】、理論的アプローチ
仮に議論が成立したとしてその問題設定が「『問い』はあるのか」といった問題であった時
まさにその議論において「問い」が成立しているわけですから
「問いがない」という主張の非合理性は説くことができると思います
しかし、それは理論家が納得できる範囲内でしかないような気がします

>【「問い」を「共有」しない人】、実践的アプローチ
実践的問題となった時、これはとても難しいと思います
亡霊氏は精神分析で言う「否認」を挙げていましたが、
理論的説得が必ず成功するとは言えないでしょうが、必ず失敗するとも言えません
そこには何らかの「問い」を持つチャンスがあると思います
そこには議論がはじまる何らかのきっかけがあります、しかし、

691ロニー:03/03/30 00:35 ID:aDIfGL5Z
僕が危惧するのは議論そのものへの排斥です
『共生の作法』でも井上氏は「受験生根性」と非難していましたが、
知を愛する者(理論家)にとって議論は何より望むべきものであることが明らかになったとしても
「全ての人間は理論家でなければならない」と決定的に言うことはできません
受験生根性だけで世の中を渡ることを是とする者もいます
「議論をしない自由もある」という言葉を放ち、問いへのコミットすなわち議論そのものを放棄する者もいます
これは一部のフェミニストにも見られる兆候であると思います
これは僕流の表現で言えば「のどの渇きを癒すために海水を飲む」ようなものですが
しかし、「それをしてはいけない、しない方がいい」と要請することはできても、その禁止を実践させることは我々には不可能です
そして、議論の排斥とは要請を相手にしないということです
彼らのような者に対して我々は持つべき方法を何ら持たないということです(それでも要請するぐらいしか方法はありません)

独我論は〜論と名乗っている時点で独我論ではない、という言葉があります
独我論を説く者は独我論を主張する非独我論者でしかないということになります
そしてそこに独我論反駁の可能性があるのだと思いますが、
真性の独我論者を前にした時、(それはもはや独我論者ですらないのかもしれないが)僕は楽観主義者であることに限界を感じます
同じように、現実社会においての受験生根性の蔓延は、受験生根性の卑しさや不毛さをどれほど説こうとも全く耳に入らないのかもしれません
この板でもよく見られる傾向ですが、その虚無主義的内容「現実を完全に表現する理論は不可能だから理論の追求は不毛」というものを
理論として主張するのではなく実践として行動する者に対して、我々理論家はあまりにも無力であるように思います
亡霊氏の問題意識とは少しズレますが、これが僕の問題意識「合理主義の基礎付け」に関わってくる問題です

そして、ポパーが「倫理的にナイーブ」と揶揄される所以でもあり、
その著で『〜 its enemy』(その敵)と激しく糾弾したそのものです
692名無しさん 〜君の性差〜:03/03/30 01:02 ID:gYiQpFC4
age
693江田島平七 ◆Upy4wcs9SI :03/03/30 01:08 ID:rfJ0z4NM
>>689
彼女は論議そのものを拒絶することでしか自己のフェミ論理を維持できないから・・・・
694ロニー:03/03/30 01:11 ID:aDIfGL5Z
>チキンリキン氏
>自転車操業でやっておりますので、読む本がえらい数になってまして
>今回は現在解る所についてだけ書き込みます
僕もえらいことになってます
あっちこっち読んでは別の本を読み直し、また読んでは読み直し、という繰り返しです
それでもチキンリキン氏との対話を通じて僕自身の思考がより洗練されたと思います
それは僕にとってこの上なく有益であったと思います

>仮説実在論
僕はこの点をさらに独自に展開することにします
実在論は「ある/ない」が争点となって語られますが、僕は倫理的に語ることにします
つまり僕が「ある」と主張するのはいかなる目的からか、というものです
発想の基盤はカントに大きく影響を受けています

もし「実在」が存在しないのならば、認識には普遍性がなく、我々は知識を共有しえなくなる
1、しかし我々は共有される知識を構成することを望む
2、そして、理論の対象に対して、それらが個々人においても同一のものであるという仮定を設定する
3、これらすべて我々が客観的知識に接近しようと意図する倫理的態度によって要請されるものである
4、その仮定(仮説実在論)は最も合理的な理論として表せらるべきである

4の補足、仮にスリムな表現への収束がなければ
天動説も地動説も同じものになってしまいます(地球の周囲を小さく三回円を描きながら一つの円を描いて動く/太陽の周囲を円を描いて動く)
知識とはそれが世界に対して語る内容をもたねばなりません
我々は可能世界を持って知識とするのではなく、経験世界を持って知識とするのですから

695ロニー:03/03/30 01:39 ID:aDIfGL5Z
>真理と確実性の分離
『共生の作法』を読んで思ったことですが、僕はまずこの点を主張することにします
我々が知識を得ようと求めるものは、正しい理論であり、確実な理論ではありません
これは「真理」と「確実性」は異なり、我々は「確実性」ではなく「真理」を求めるべきである、と主張しているということです
真理がどのようなものかについては、僕は知りません、しかし理論について問う時、それは常に「確実さ」ではなく「正しさ」であるということです
そして「真理」は理論について問う時に、「対象との一致」と「合理性」の2つが問われるということです

>合理性
合理的であるというのをまず2分割します、
A合理/非合理の境界設定と
B程度論による合理性です

696ロニー:03/03/30 01:39 ID:aDIfGL5Z
Bにおいてはかなり前の引用、信号、表示、スリム、などで通用すると思います
それら合理性Bがなぜ合理的であるかを説明するためにメタ合理性Aを設定します
ここでは境界設定としての合理性Aについて僕自身の考えを述べたいと思います
合理性Aとは、端的に言って真理接近度である
それは「どれだけの確率で正しいだろうか」という確実性ではなく、「真理」を問題とする
しかし我々は「真理」そのものを確実には知りえない
従って合理性Aとは「真理」との距離ではなく、「真理」への内在的接近度を意味する
合理性Aとは「いかに正しさに近づいているか」ではない、むしろ、発想は逆であり
[仮にそれが間違っているとしてどれだけ間違いから学べるか」の指針である
これが前回の境界設定での主張となります
>A今度は海水ではなく真水を飲むことで喉の渇きを癒せた→合理的
>Bまた海水を飲んでのどの渇きを癒せなかった→非合理的
>C今度は海水を布にこして飲んだが喉の渇きを癒せなかった→合理的
もちろんCよりAの方が合理的ですが、それは別の経験から合理的に判断できる事柄であるでしょう

そして合理性Bにおいて、それらの概念が合理的であると考えられるのは
スリムな理論、信号としての効果が高い理論、etcのほうが、そうでない理論と比較して、仮に間違っていた時に得られる知識の量がより多いということである
矛盾率、曖昧な理論からはいかなる命題も引き出せます
しかし、それが間違いだと分かったとして我々の知識は大きな何かを得られるでしょうか

このように、基準をゴールではなく、競争者自身の能力に合わせる時に
理論間の競争(合理的な批判的議論)が進化であると解釈することができるように思えます
697ロニー:03/03/30 02:05 ID:aDIfGL5Z
>コミュニケーション行為論
先の仮説実在論から、僕は自分なりのコミュニケーション論を立てることにします
ハーバーマスのコミュニケーション行為論における理想的対話状況、誠実性、明快性、真実性、妥当性の4つはとても素晴らしいものであると思いますし、僕も大きく影響を受けてました
しかし、ハーバーマスの語る誠実性と僕自身が解釈する誠実性にも若干のズレを感じてました
ハーバーマスにとっての誠実性とは冗談を言わない、ごまかさないというレベルです
しかし、それは問題に真剣に取り組むというよりは、自らの解答に真剣に囚われ過ぎているように思えます
僕自身の解釈との間にズレを感じてましたが、僕はこれを解消するために「真摯さ」を主張します
議論において重要なもの(もちろん異なるフレームワーク間における議論においても)は<真摯さ>である
真摯さとは問題に真剣に接触するという行為である
そして
>正解がどこかにあるから問うのではない。逆である。
>問いを真正の問いとして認めるからこそ、その正解の存在を想定せざるをえないのである。
(『共生の作法』第一章、5、p24 l8)
とあるように、真剣に問いに取り組むときに我々はおのずと、主観とは切り離された客観を設定し、実在を設定する
異なる意見同士のものが議論を通じて形だけの「解答」という枠組みを共有する
そこに同意なくしてよりよき議論が成立する何らかのヒントがあるように思えます
698ロニー:03/03/30 02:40 ID:aDIfGL5Z
>フェミニズム
>試みとして意義があるとは思います
フェミニズムも多くに分類されるようなので一概には何とも言えませんが
少なからず役立ったことはある模様です
以前に先生に訊ねた際には、昔のアメリカにおいては企業進出する女性に対して当時の医者(当時は男しかいない)が陰核の切除などの制裁を積極的に加えていた
そのような男女の分布格差に隠された不正を告発するという意味でフェミニズムにも功績はある、と言ってました
また、性本質主義フェミニズムのような女性特有の視点からの新しい発想は
思想にも新しい息吹を与えるかもしれない、と評価していました
しかし、フェミニズムの中には(フェミニズムに限らず昨今の思想の流行でもあるというのが悲しいですが)
競争にどこまでも否定的な思想があります、正当化に囚われた逆説的絶対主義思想があります
言葉の無力さを説き、口だけの発言で問題を見ない思想があります
知識破壊的、人間性破壊的、と評せるような思想があります
僕はそのような思想は開かれた社会の名のもとに、吟味にかける必要があると思います
吟味にかけた後に、それを捨てるかどうかは僕の力の及ぶ範囲ではありませんが、

>>ジェンダーフリー
東八漏というこの板のコテが面白いユーモアを言ってました
「フリー〜〜」とフリーを先につけると〜〜の自由を意味するが
「〜〜フリー」とフリーを後につけると〜〜の排斥を意味するそうです

開放(リブ)という言葉にも抵抗があります
男女の性に必要以上に固執するのも愚かなことですが
問題は、その性に縛られた上で、いかによりよい世の中にするかということだと思います

ポパーは政治において
「誰が支配するか」という問いは何の解決ももたらさない、「民衆が支配すべきである」という回答ですら、と述べてます
問題は、「民衆はいかにして悪い支配を回避できるか」という問いこそ、政治の持つ問いである、と述べてます
699ロニー:03/03/30 02:53 ID:aDIfGL5Z
>693
>江田島平七氏

彼女は議論を回避しますが、それでも議論を続けていく気がある上でのはぐらかしのように思えるのです
虚無主義の議論回避ではなく、はぐらかしによる議論展開ではないかと・・
買いかぶりかもしれませんが・・・

それでは、毎度のセリフですが長文失礼いたしました
700江田島平七 ◆Upy4wcs9SI :03/03/30 03:06 ID:rfJ0z4NM
>>699
いえいえ、長文などとんでもない。
男女板きっての”良心”と思っていますので今後とも頑張ってください。

それと、買かぶりだと思います。
701チキンリキン ◆ozOtJW9BFA :03/03/30 06:08 ID:ytA9S/99
返事が大変遅くなってしまいました
申し訳ありません
>亡霊さん
>642
ここの部分は「哲学論考」を見つけるまで待っていただけると有難いです
ここまで引っ張っておいてこんな返事で済みません・・・

>ロニーさん
>671
>例えばある病気の特効薬を開発するには「そのような特効薬がある」という前提が必要ですが
>これは形而上学的信念であり、ただの仮定に過ぎないと思います
>しかしその仮定なくして特効薬の開発をすることもできないと思います
成る程、確かにその通りかもしれません

>672
>現在、「真理への接近」と「真理の近似の度合い」は異なるのではないかと考えています
>真理への接近とはゴール(真理そのもの)の問題ではなく、競争の当事者(理論)の問題ではないかと考えるからです
>そう考えることで進化を言うことができそうです
この「真理への近接」の概念には、非常に関心があります
ただ、当事者(理論)の競争であるとした場合、判定基準が当事者の認識の外に存在するのか否かという
フレームワーク(通約不可能性)の問題をどう扱うのかということについての検討も必要みたいですし
難しい(私には)ところです
>>A喉が渇いた人が喉の渇きを癒すために水を飲む、B海水を飲む
>>AはBより合理的に見えますし、BはAより非合理的に見えます
>この点も修正します、真理への接近を考えるならば
>同じ失敗を繰り返すことが非合理的であり、過去の失敗から学び失敗を繰り返さないことが合理的と考えます
ある目的に対するそのような態度を合理的、非合理的の基準にすることに異議は見付けられません
ただ、真理への近接と表現することに対してはいったん意見を保留させて下さい
後の方でロニーさんが主張している、倫理的な展開と共に考えてみたいです
>しかし形相、もしくは「問い」という概念の方が絡んでくるのではないでしょうか
「共生の作法」を読んでみたいのですが、田舎なので図書館にあるかどうか
非常に残念なのですが、「推測と反駁」もタルスキの本も近くの図書館にはありませんでしたし・・・
702チキンリキン ◆ozOtJW9BFA :03/03/30 06:48 ID:ytA9S/99
>680
私でも解るように説明することが、ロニーさんに困難を強いていると思いますのでそのように仰られると
恐縮してしまいます
こちらこそ、よろしくお願いします

>694
>僕もえらいことになってます
大変なのは私だけでは無いようですw
読みたいから読むのであって、むしろその他の雑務等が煩わしく感じたりするので大変と表現すべきなのか
迷いましたが・・・
私も、ロニーさんとの対話=負荷によって自分の仮説の筋繊維が太くなって、脂肪も若干減ったと感じています
まだ、だいぶふくよかですけれど
そしてこの対話は、有益でしたし、有益ですし、まだお付き合いねがえるのであれば有益であろうと思います
議論を競争の場と考えるのであれば、競争相手に投げる言葉としては適当ではないかもしれませんね
>仮説実在論
パスカル(←曖昧)による神の存在証明を思い出してしまいました
仮説的実在とは、認識外の真理基準を持たないという感じで理解していたのですが・・・
1から4まで私の志向に合致する所は多いのですけれども、仮説的実在についての認識を深めないと責任ある
反応ができないようです
申し訳ありません、大雑把なカント理解まで猶予を下さい

>695
>真理がどのようなものかについては、僕は知りません、しかし理論について問う時、それは常に「確実さ」ではなく「>正しさ」であるということです
理論に対して「確実さ」ではなく「正しさ」を問う、ということには同意します

>696
>合理性Aとは、端的に言って真理接近度である
>合理性Aとは「いかに正しさに近づいているか」ではない、むしろ、発想は逆であり
>[仮にそれが間違っているとしてどれだけ間違いから学べるか」の指針である
このような合理性の把握の仕方は、受け入れ易いです
ポパーの言う「豊饒な仮説」とも違うようですね
あとは合理性と真理の関係ですが、真理を把握するまで時間を・・・ってこればかりですがお許しください
703チキンリキン ◆ozOtJW9BFA :03/03/30 07:15 ID:ytA9S/99
>967
>コミュニケーション行為論
>議論において重要なもの(もちろん異なるフレームワーク間における議論においても)は<真摯さ>である
>真摯さとは問題に真剣に接触するという行為である
ここまでは同意するのですが
>真剣に問いに取り組むときに我々はおのずと、主観とは切り離された客観を設定し、実在を設定する
ここの件は、疑問です
仮に「問いを真正の問いとして認めるからこそ、その正解の存在を想定せざるをえない」としても、主観より
切り離された客観(実在)の設定が正解の想定に不可欠であると言えるのでしょうか
私には不必要とも、不可欠とも言う自信が無いので卑怯なのですが、以前の「有効性」と「対象との一致」に関する
論点に似ている気がします
恐らく私は「有効性」と「対象との一致」という概念を分けることができないでいる為にこの部分に引っかかって
いるのでしょう
704チキンリキン ◆ozOtJW9BFA :03/03/30 07:37 ID:ytA9S/99
>703
訂正します 967→697

>698
>フェミニズム
>しかし、フェミニズムの中には(フェミニズムに限らず昨今の思想の流行でもあるというのが悲しいですが)
>競争にどこまでも否定的な思想があります、正当化に囚われた逆説的絶対主義思想があります
>言葉の無力さを説き、口だけの発言で問題を見ない思想があります
>知識破壊的、人間性破壊的、と評せるような思想があります
同意します
私もかなり染まっているようなので、強くは言えないのですが・・・
しかし、このような思想がフェミニズムで特に顕著なのだとも思いません
多かれ少なかれ、どの主義や学問でも影響を受けていると感じるからです
ここまでフェミニズムが叩かれるのは、思想内容というよりもその政治的なポテンシャルに対する危惧による
のではないでしょうか?
>「フリー〜〜」とフリーを先につけると〜〜の自由を意味するが
>「〜〜フリー」とフリーを後につけると〜〜の排斥を意味するそうです
成る程w
バリアフリーなんかも排斥かもしれません
>「誰が支配するか」という問いは何の解決ももたらさない、「民衆が支配すべきである」という回答ですら、と述べてます
>問題は、「民衆はいかにして悪い支配を回避できるか」という問いこそ、政治の持つ問いである、と述べてます
完全に同意します
しかし・・・私の想像するフェミニストと批判されているフェミニストとの乖離が甚だしいですね・・・
現実にフェミニストと対話したことがないのだから、現実から離れていても当然かもしれませんね
705東八漏 ◆8masoKjFq6 :03/03/30 11:05 ID:IXJMboP4
>>704
> >「フリー〜〜」とフリーを先につけると〜〜の自由を意味するが
> >「〜〜フリー」とフリーを後につけると〜〜の排斥を意味するそうです
> 成る程w
> バリアフリーなんかも排斥かもしれません

詭弁警報が鳴ったので来てみました。

で、指摘。

○○フリーは、○○が無い状態、○○を排斥した状態を指します。

バリアフリーも当然、バリアを排斥し、バリアが無くなった状態を指しています。


他にタックスフリーやファットフリーなども同様。
706チキンリキン ◆ozOtJW9BFA :03/03/31 00:12 ID:93toQZOD
>東八漏さん
>705
指摘をありがとうございます
仰るとおりですね
詭弁の箇所はどこなのか私には解らないのですが、
申し訳ないです
707燕雀 ◆hWNdpaui4k :03/04/06 16:50 ID:xTYONi7r
>>683
多分、「自己中心的」という言葉の意味を拡張しての見解であると思います。
本来の「自己中心的」という言葉の定義で考えればよいと思います。

>自己が他者によって規定されているという議論もある。

どこまで自分が他者に規定されているかが問題だと思います。
自分のすべてが他者によって規定されていると思い、
そして他者の期待?を裏切らないように自分が行動するのだとすれば、
それは精神的な病気だと思います。

亡霊さんも自分の世界というものがあるからこそこうして書き込んでいる訳ですよね。
そして、亡霊さんの世界と私の世界が違うからこそ
亡霊さんは自分の疑問を私に投げかける訳です。
そこに、「人の数だけ世界が存在する」ということを見出すことが出来るのではないでしょうか。
708ジェンダー論の本場は:03/04/07 20:07 ID:vp/3ga8T
709ロニー:03/04/07 20:25 ID:t1h71vhK
>チキンリキン氏
遅くなって申しわけありません
>>701
>ただ、当事者(理論)の競争であるとした場合、判定基準が当事者の認識の外に存在するのか否かという
>フレームワーク(通約不可能性)の問題をどう扱うのかということについての検討も必要みたいですし
>難しい(私には)ところです
当事者どうしが認識の外にその判定基準を設定すると思います
その設定は同一性である必要性はありません、ただお互いに設定するだけでことたりうる考えます
これは僕のコミュニケーション論、真摯さに絡むでしょうね
また、その判定基準は決定的ではありません、当為でしかない(人を殺すことが可能であるように、従わないことが可能である)と思います
それはその認識の外の基準の設定がすでに当為にすぎないと僕が考えているからです(それは認識の際に必ず生じるものではない)

>ただ、真理への近接と表現することに対してはいったん意見を保留させて下さい
僕が、それを「真理への接近」と表現するのは、それを「真理への近似」と区別するためです
ポパーはこの2つを用語上、混同していると思われます(その点を批判しているものも多くあります)
「真理への接近」は「真理への近似」を意味しない、逆にそれが遠く離れているかもしれない
「真理への接近」が意味するものは、真理に対して前進しようとするための内在的な目安です

>非常に残念なのですが、「推測と反駁」もタルスキの本も近くの図書館にはありませんでしたし・・・
僕はタルスキは理解できませんでした、先生からは数学の素養が必要と言われました
カントの真理観「その内容がもの(対象)と一致した時、それは真理である」というものに近いそうです

>私でも解るように説明することが、ロニーさんに困難を強いていると思いますのでそのように仰られると恐縮してしまいます
>こちらこそ、よろしくお願いします
いえ、そんなことはありません、それに自分だけの理論は客観的知識として無意味です
それは単純に僕が甘いということですし、チキンリキン氏との対話は僕自身の成長の大きな助けになります
よろしくお願いします

710ロニー:03/04/07 20:32 ID:t1h71vhK
>議論を競争の場と考えるのであれば、競争相手に投げる言葉としては適当ではないかもしれませんね
そんなことはないと思います
僕は先の合理性の関する設定でゴールを放棄してしまいました
それはゴールに早く着くための競争から、自らより精進させるための競争へと態度を変更したということです
自らの思考の洗練のために仮のゴールを設定し、それに向かって競争する、
それは生命の進化への競争もまた、同じ解釈ができると思います
そして、僕をその解釈にいたらせたのは、チキンリキン氏の進化に関する批判です

>ポパーの言う「豊饒な仮説」とも違うようですね
基本的には同じであると僕は考えます
豊穣な仮説は経験世界について多くを語る合理的な仮説ですから、
しかしポパーは合理性を説きながら、自ら合理性に関しては全く言及していません
唯一「理論の選択においてもっともテスト(批判)を受け、そしてテストに絶えた理論を選択すること、
これが私の知る意味で最も合理的と言えることがらである」と語ってます(弟子のバートリーはまた違ったりします)
僕はポパーの真理観を考えながら、自らの合理性をさらに分解してみましたが、
この合理性への基礎付けはポパーの合理性に合致していると思ってます
711ロニー:03/04/07 21:34 ID:t1h71vhK
>ここの件は、疑問です
>仮に「問いを真正の問いとして認めるからこそ、その正解の存在を想定せざるをえない」としても、主観より
>切り離された客観(実在)の設定が正解の想定に不可欠であると言えるのでしょうか
では、この点を批判に耐えたいと思います

例えば実在を否定した者、ジョージ・バークリが有名ですが、彼はコミュニケーション不可能でしょうか
しかしバークリと議論した者もいます(名前を忘れてしまいました)
これは僕の理論を否定する例となりそうです
しかし、バークリでさえ、「実在を設定する」という行為を実践に移している、と僕は主張します
バークリの主張「存在とは表象のことであり、実在は存在しない」と<主張する>という行為が実在の設定にあたると考えます
バークリの意見には「すべての人の認識は表象であり、表象を超えた実在を認識することはできない」という前提が働いてます
そしてこの前提こそが「実在の設定」だと思います
もし、バークリの意見が正しいのならば、「認識を超えた実在はない」のだから「あなたにとっても認識を超えた実在はない」と語る意味がありません
これは井上氏が「批判者は自分の理論と自分の実践を一致させていないか、・・」と語る対象の行為です
これはクーンにも見られます

クーンの立場だと「正しい」という言葉は同じパラダイム内においてしか使用すべきものにも関わらず
>少なくとも、若干の科学者に、新しい提案は正しい軌道上にあると感じさせるものがあらねばならない。
>ときとして、それをなしうるのは、個人的で不正確な美的考慮に過ぎないが

しかし、このような態度を指摘して、その主張が誤っていることを示すはできません
それは正しいことを保証することができないだけであり、間違ってない可能性は依然としてあります
だが、それらは議論の名のもとに実在を設定して語るために、理論とその実践が食い違う結果となる

712ロニー:03/04/07 21:35 ID:t1h71vhK
結論を言います
つまり「実在の設定」とは「私とあなたが問題にするものは同じである」という倫理的な決定です
我々のコミュニケーションにおいて必要な要素の一つとして僕は真摯さを提出します
そして「真摯さ」とは
「私は問題に真摯に向き合う
そのためにあなたと理解し合うこと(競争すること)を欲する、
ゆえに、私とあなたが理解できる領域(同じゴール)を設定する」というものです

この領域におけるルール、すなわち実在のルールを考えてみます(これらは間違っている可能性を大いに含む)
1実在は、私が理解可能な世界であるのだから、私のそれとリンクしている
2実在は、あなたが理解可能な世界であるのだから、あなたのそれとリンクしている
3実在には論理的なルールが適応される、もし適応されないのなら何でも言えてしまう、それは実在を設定しないのと同じである
4論理的なルールが適応されるため、私とあなたの理論が異なるならば、矛盾になり回避されねばならない、
 ゆえに、実在はわたしの認識ともあなたの認識とも全く同じわけではない
5実在は、理解しあい、理論を洗練するための仮の設定である
 ゆえに、実在は常に知識増加的に、すなわち、合理的な存在として扱われねばならない

これらは必ず正しいとは言えません
しかし、この設定はコミュニケーションにおいて不可欠な素養であると考えます
僕は、この「真摯さ」を不可欠な条件として、コミュニケーション論を展開します
逆に言えば、これらを実践できないものとは議論不可能である(通訳不可能である)というのが僕の意見となりそうですね

ちょっと真摯さの設定が曖昧ですね
「自ら問題に真摯に向き合うことは、他者の力を欲することにつながる」という部分の論証が欠けています
そこは次までの宿題にさせてください
713ロニー:03/04/07 22:01 ID:t1h71vhK
>フェミニズム
>しかし、このような思想がフェミニズムで特に顕著なのだとも思いません
>多かれ少なかれ、どの主義や学問でも影響を受けていると感じるからです
そうですね、悲しいことに今や悲観主義者が全盛です
井上氏の言葉を借りれば受験生根性が蔓延しているということですね

>ここまでフェミニズムが叩かれるのは、思想内容というよりもその政治的なポテンシャルに対する危惧による
う〜ん、他の方は知りませんが、僕はそう思いません
むしろ問題は理論よりも、フェミニストと呼ばれる者の実践が叩かれる原因であると思います
叩いてる人間は少なくとも「正しさ」を問題にしようとしてるのでしょう
それが理論的な正しさをもっているかどうかは微妙かもしれませんが
しかし、そのような抵抗はまだ近代が過ぎ去ったわけではないということなのかもしれませんね

>しかし・・・私の想像するフェミニストと批判されているフェミニストとの乖離が甚だしいですね・・・
>現実にフェミニストと対話したことがないのだから、現実から離れていても当然かもしれませんね
僕もフェミニズムは本でしか読んだことがありませんので、現実に目の前で相手したことはありません
せいぜい、ネットでフェミニストと思われる者と議論したくらいですか
正直、政治思想と権威主義的なものを強く感じるので嫌悪感情が優先してますが
714ロニー:03/04/07 22:12 ID:t1h71vhK
>江田島平七氏
>男女板きっての”良心”と思っていますので今後とも頑張ってください。

少し照れます
ただ、僕は自分のことを良心的だとか道徳的だとは思わないですし、そうあるべきだとも思ってません
僕もまた、自分が不利益を被ってまで道徳的であろうとは思いません

しかしそれは良心や道徳がないことを意味しないと思います
われわれは、自分の利益を失ってまで、道徳を拒否しようとも思いませんし
自分が不利益を被ってまで、非道徳的な行為をする者もいないでしょう
また、自らの利益とまったく無関係ならば、道徳的に振舞うでしょうし
場合によっては、自らの利益よりも道徳を優先する方もいるでしょう

僕はそういった良心や道徳が全ての人間に存在し、そしてその力を信頼しているだけです
この世界にunjustな人間は多くいるだろうがevilな人間はきっといないだろうと
715名無しさん 〜君の性差〜:03/04/09 19:25 ID:YsShFNdu
ジェンダー論なら何と言っても、ここですね。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Jupiter/1750/gender.html
716チキンリキン ◆ozOtJW9BFA :03/04/09 23:30 ID:ePJtjdMn
>708
情報をありがとうございます

>ロニーさん
遅いレスですが・・・
>529
>チキンリキン氏を批判するには、殺してよい人間が存在することを指摘することが妥当と思われます
>そして僕はその例として死刑囚を挙げます
「人間を殺してはならないこと」と「殺してよい人間がいること」、どちらを採用しても(両者をいっぺんに
採用しても)私自身の殺人に対するスタンスは変化しないようです
両者には状況や条件などの限定が付随するので棲み分けが可能になっているのだと思います
自分勝手に付随させている、と表現すべきですが

>709
>当事者どうしが認識の外にその判定基準を設定すると思います
>その設定は同一性である必要性はありません、ただお互いに設定するだけでことたりうる考えます
なるほど、それぞれが設定するということですね

>僕が、それを「真理への接近」と表現するのは、それを「真理への近似」と区別するためです
「真理への接近」と「真理への近似」という概念の差は理解しつつあります
以前説明があった「真理への接近」ですが、このような態度を合理的・非合理的の基準にすることに
異議はないのですが、未だに「真理」へのアレルギーがあるのでしょうかなかなか素直に肯定できません
「より良い(効果的な)○○○を求めて」と表現されるのであれば、問題を感じないのですが

>僕はタルスキは理解できませんでした、先生からは数学の素養が必要と言われました
では、タルスキは私にとって居ないも同じですw
とりあえず、読書リストの一番後ろに回しておきましょう

>いえ、そんなことはありません、それに自分だけの理論は客観的知識として無意味です
ゼミの先生が「難しく語ることは能力じゃない、能力の欠如だ」と言っていた事を思い出します
717チキンリキン ◆ozOtJW9BFA :03/04/09 23:53 ID:ePJtjdMn
>710
>自らの思考の洗練のために仮のゴールを設定し、それに向かって競争する、
>それは生命の進化への競争もまた、同じ解釈ができると思います
段々と、私は字面だけに引っかかっているのでは?という思いが強くなってきました
まだ、「真理」についての理解が足りないと思うので、判断は難しいのですが・・・

>基本的には同じであると僕は考えます
「豊饒な仮説」の射程がそんなに広いものだとは考えていませんでした
付け焼刃だと、応用でつまずいてしまいますw
・・・いや、ポパーが普通に>696のように主張していた可能性もありますね・・・
付け焼刃だと、どこでもつまづきますw

>711
>バークリの主張「存在とは表象のことであり、実在は存在しない」と<主張する>という行為が実在の設定にあたると>考えます
バークリーは何らかの効果を期待してこのように主張したのだと思いますが、この主張するという行為が
実在の設定にあたるとはどのような意味でのことなのか私にはピンときませんでした
言葉を発して誰かに何かを伝えようとすることは、ある意味実在を設定している行為だと言えるかもしれません
このような意味での実在の設定ということでしょうか?

>クーンの立場だと「正しい」という言葉は同じパラダイム内においてしか使用すべきものにも関わらず
>>少なくとも、若干の科学者に、新しい提案は正しい軌道上にあると感じさせるものがあらねばならない。
>>ときとして、それをなしうるのは、個人的で不正確な美的考慮に過ぎないが
私には、引用箇所に問題を見つけることができませんでした
正しいという基準ではなく、(パラダイム外では)個人的で不正確な美的考慮を基準に判断するという主張は
クーンの問題意識に沿うものだと思うのですが・・・
718チキンリキン ◆ozOtJW9BFA :03/04/10 00:32 ID:X9xL1HDA
>712
>1実在は、私が理解可能な世界であるのだから、私のそれとリンクしている
>2実在は、あなたが理解可能な世界であるのだから、あなたのそれとリンクしている
>3実在には論理的なルールが適応される、もし適応されないのなら何でも言えてしまう、それは実在を設定しないの> と同じである
>4論理的なルールが適応されるため、私とあなたの理論が異なるならば、矛盾になり回避されねばならない、
> ゆえに、実在はわたしの認識ともあなたの認識とも全く同じわけではない
>5実在は、理解しあい、理論を洗練するための仮の設定である
> ゆえに、実在は常に知識増加的に、すなわち、合理的な存在として扱われねばならない
これは、基本的に>694仮説実在論と同じ内容だと理解してよろしいですか?
何れにしても、理解のスピードはいやになるくらい遅いので申し訳ないのですが・・・
では、現在私が想像している実在の内容を書いてみます
・実在とは問題に(真剣に)対峙する意思を持つ者たちが設定せざるを得ないものである
・実在とは論理でありルールである
・実在とは設定の目的に資するように設定される
という感じです
カントを表層だけでも理解できるのか疑問になってきましたので、とりあえずやりとりの中から
理解のきっかけを掴む努力をしたいと思います

>僕は、この「真摯さ」を不可欠な条件として、コミュニケーション論を展開します
>「自ら問題に真摯に向き合うことは、他者の力を欲することにつながる」という部分の論証が欠けています
以前、言語のコミュニケーションでは参加者の善意が必要だということが議題になりましたが
それとリンクしているのでしょうか?
719チキンリキン ◆ozOtJW9BFA
>713
>叩いてる人間は少なくとも「正しさ」を問題にしようとしてるのでしょう
しかし、効果的に叩きたいと思う者であれば自分の主張に「正しさ」を組み込むでしょう
2ちゃんねるのようにギャラリーが存在するのであれば、その傾向は強くなると思いますし
たとえそれが恐れからくる反射的な反応であったとしても・・・
もちろん、フェミニスト側の理論上・実践上の問題も多々あるのだと思うのですが

>せいぜい、ネットでフェミニストと思われる者と議論したくらいですか
私はネット上でも議論をしたことがありません
議論して、自分がフェミニストだと気が付いてしまうかもしれませんが・・・

>正直、政治思想と権威主義的なものを強く感じるので嫌悪感情が優先してますが
政治思想は解りませんが、思考停止と感じるものに対してロニーさんが嫌悪感を抱くであろうことは想像できます
そして、男女版の良心だという江田島平七さんの意見に同意します
道徳的なのか、は判断できませんが

相対主義者の自家撞着とでも言うんでしょうか、本を読むたびに混乱してしまい自分の主張に自信が持てません
自業自得ではありますけれどw

>715
えーっと、>708さんと同じ方でしょうか?
紹介をありがとうございます
そこのサイトを少しだけ覗いてきました
表現も平易でしたので、解りやすかったです
時間があるときに、また見にいきたいです