1 :
わたしはダリ?名無しさん?:
書道についてはなしたいな。
3 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/10/11 01:06
書道作品を結構現代芸術として見ている方が
多いのですね。わたしは伝統工芸みたいなもん
かと思ってましたよ。
んーー意外と奥が不快のですね。
小学校のころ書道部にいただけのまったくのシロウトですが
墨のにおいは大好きでした。
今でもEメールなんかより、手書きの手紙の方が好きだし、
年賀状の宛名書きは筆ペンだし
だれか先生について習おうかなとも思いますが、
カルチャーセンターがいいですかね、
自宅に伺うのがいいですかね?
>4
初めてなら出来れば先生の自宅に伺って習うのが良いと思いますが
、先生と言っても色々ありますから選ぶのが問題。
良くないのにぶつかったら逃げ出すのが大変。その点では不徹底に
なりますがカルチャー教室なんかの方がはじめは安全かも。
書の世界はとにかく時代離れした封建的社会ですから、十分ご用心。
どちらにするにせよ、まともに習うつもりなら毎日墨を磨り筆を執
らなければならないと覚悟してください。
書は元々言葉を書き記すためのものでしたが、今は毛筆で日常の用
をみたすことはあり得ず、書は表現芸術の一分野になっていると思
います。
だから、伝統的な基礎技術を十分習得して、自由な表現が出来るよ
うになるのでなければ、習う意味はあまり無いのではありませんか。
私がいただく年賀状は、殆ど印刷。全て手書きの年賀状は極めてま
れです。
私は下手な手書きの年賀状よりは、ワープロで書いた年賀状の方が
好きです。ワープロと言っても、ワープロが自分で年賀状をつくっ
てくれるわけではありませんよね。手書きより面倒。私も年賀状は
パソコン、年賀の文字と署名はスキャナーで、宛名は手書きです。
とにかく書は悠々としたもの、ゆっくりぼつぼつやりましょう。
>>5 丁寧なレスありがとうございます。
>良くないのにぶつかったら逃げ出すのが大変。
>書の世界はとにかく時代離れした封建的社会ですから、十分ご用心。
近所に先生がいらっしゃるのですが心配になりました。
>だから、伝統的な基礎技術を十分習得して、
>自由な表現が出来るようになるのでなければ、
>習う意味はあまり無いのではありませんか。
そうですね。
実は着物が好きで自分で見よう見真似で着ていたのですが、
やっぱり基本から習いたくなって、師範までとってしまったのです。
着つけは3年ほどで師範はとれますが
書道はもっと奥がふかいですね。
>私は下手な手書きの年賀状よりは、ワープロで書いた年賀状の方が
>好きです。
私も送った相手にそう思われているかも。
下手、というほどでもないと思います。
小学校の書道展では金賞・銀賞でしたし(これは上手いとは別ものかも)、
すごく下手だったら、コンプレックスがあって、
かえって、習いたいという気もおきません。
なんだか、このスレをみてあ〜、先生について習ってみたいなぁ、
と思ったのです。
毎日墨を磨り筆を執らなければならないと覚悟するのも
いいかもしれなせん。
また少し、考えてみたいと思います。
芸術の秋、書展のご案内です。
横田順展(沈黙の形)。
日時 2001年10月23日(火)〜28日(日)。
12時〜19時(最終日18時)。
場所 同時代ギャラリー。
京都市中京区三条通御幸町角1928ビル一階。
Tel. 075−256−6155。
自宅 522−0002
彦根市松原町1849−42
Tel. 0749−26−0588。
いろいろ面白いものがあります。
恋をしているのが顔色に出て
悩みでもあるのか?と問われてるような
画像ありませんか?
>>5 今日本屋で山内志朗、「論文マニュアル」(平凡社新書10
3)を買いました。これまでこの手の本は何冊か買いましたが、
未だに文章が書けません。何回も推敲はするのですが、意外な
結果になることが間々あります。
まず、私はあなたの年賀状を戴いたことがありません。従っ
てあなたの年賀状について云々することは出来ません。あれは
私が戴く手書きの年賀状の中に毎年、こんなことならパソコン
で作ればよいのにと思うものが必ずあります。それであんなこ
とを書いた次第、あしからず。
書に限らず師を選ぶのは重大問題です。書の世界は極端な封
建的な系列社会ですから、それぞれが勢力争いで囲い込みをや
ります。その中へ入るとなかなか出られないことが多々ありま
す。しかし、それではいつまでも手がつけられませんから、一
旦入門して様子を見て、自分の希望に合わなければ決別する前
提でやってみましょう。
ただ、はじめはいわゆる前衛的な書を書いている人ではなく、
オーソドックスな基本技術をを正確に教えてくれる師匠を選ん
でください。はじめから表現がどうのこうのというような人は、
早々ごめん蒙ったほうがよいでしょう。
私が最初についた師匠は、街で婦人たちや子供に教えている
いわば名もない方でしたが、子供のころから脚に傷害がある私
の将来を案じて、お前なら書塾で生活出来るからやってみない
かと言って、いわゆるお習字ではなく、書の基本を倦まずに訥
々と教えてくださいました。戦争が激しくなって中断し、私も
幸いに就職できて書から離れてしまいましたが、今もって私の
基礎になっています。そのときに師匠から教えられたことが元
になって、定年になって早速又書に飛びついたということなの
です。だから只の書が好きなアマチュアに過ぎません。
オーソドックスな基礎は絶対必要です。井上有一だって若い
ときは猛烈に古典を学んでそれで有名でした。
是非始めましょうよ。書は無限と言っても良いでしょう。い
ろいろ渡り歩けば特定のところにかじりついているよりは、広
い世界が開けます。
もう一つ、段とか何とか資格には執着しないでください。囲
い込まれて身動きできなくなる虞があります。
以上老爺心から。
>>5書きたいさんへ
1件書き忘れました。自分が書いた手本で習わせる師匠だっ
たら、ご免蒙った方がいいと思います。
今は古今の名跡が手本するには十分な精度で出版されていま
すから、自分が手本を書いて与える必要はないと言っていいで
しょう。
名跡を手本にして教えるには、先ず自分がその名跡の臨書が
出来ないと教えられません。名跡を手本にすると言うことは、
ある程度は客観的に書の勉強をしているはずです。
うーん、初めてこの板に来ましたが、書道スレがあるもんなんですね。
HKJBさんの言われることよくわかります。
私もある師匠に弟子入りして展覧会活動してますが、とにかく金がかかる。
プロになるには100人は弟子が必要ですよね。
単に趣味で始めたんですが、書くことが好きなもので、金さえかからなければ、
なんとも心地良い世界だと思います。
HKJBさんのおっしゃる封建社会が崩れれば、いいのになぁと思いますが、
こんなこというのもタブーですよね。
ちなみに私は読売系です。
12 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/10/14 23:56
大展覧会に出品することが、書の活動なのか・・・。
答えは明白ですよね。古典と真摯に向き合う。
これしかないですよね。あとは書くだけ。
日展、毎日、読売、二十人展。全ていらないですよね。
ちなみにわたしは、天来第二世代です。
>>9 >>10 続けての丁寧な、お返事ありがとうございます。
掲示板はお顔がみれないため、
ついつい言葉遣いも失礼な書きこみをしてしまったりします。
定年退職された人生の大先輩とも知らずに…。
読む場合にも構えが違ってきます。
(でも、それも、おかしなことですね。差別しているようで。)
“オーソドックスな基本技術をを正確に教えてくれる師匠”
に教えていただきたいと思っています。
何にしても基本から入りたい性質です。
絵もデッサンからはいりました。
(今は、子供にせがまれてアニメキャラクターを描くだけです。)
京都にお住まいですか?
私は横浜なのです。
>>7 の自宅の電話は、横田順さんのお宅ですね?
14 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/10/16 17:36
私は書というものに触れたことはないのですが
今までも現在も細々と芸術活動をしている者です。
やはり表現の可能性という点で書道は芸術表現(芸術)だと
考えるのはまちがっているのでしょうか?
質問させていただきたいのですが、
皆様は、書というものをどのようにお考えなのでしょうか?
このような大きな質問では大変分かりずらいというか、
あいまいな質問で答えはあいまいな答えしか返ってこないと
分かってはいるのですが、書道についてはもちろんのこと、
芸術、表現、心理なにかと知識がないもので…
15 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/10/21 01:54
篠田桃紅さん好きなんですが、どなたか語ってくださいませんか?
16 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/10/23 23:21
現代書には興味があるのですが、やはり型どおりの書から入らないと
無理なのでしょうか?
17 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/10/23 23:43
> 現代書には興味があるのですが、やはり型どおりの書から
> 入らないと無理なのでしょうか?
ワタシは小学一年の頃から書道教室に通っていて、某県下で
1,2を争う程上手くなったんけど、絵の方に進んでしまった。
書の世界は絵よりさらに閉鎖的なので、誰かの弟子になって
流派の組織に入らないとまず食っていけない。
個人的にはどこにも属さず自由に書いていいんだと思っているが、
やりかたが中途半端だと、基本の型ができてないというのが
すぐに見抜けてしまう。
「型」なんてのはどうでもいいんだというくらい奔放で自由で、
ときにはすさまじいと感じさせる書でないと、響いて来ない
もんですよ。
18 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/10/23 23:45
書道ってさー、読めるのと読めないのとの差が激しいよな。
読めるのは妙に媚びた感じのが多いし、読めないのは内輪
ウケに徹しちゃってるし。結局増永コウシュンさんみたく
絵に走るのが文字の成り立ち的にも当然の帰結なのかな。
>>14 どだい無理な質問。この小さなスペースでは論じようがあり
ません。又、いくら論じても結論は出ないでしょう。
最低限議論の対象にする書の範疇を定義しないと。論じよう
によっては、ヒエログリフやさらに古代の記号までも範疇に入
るでしょうから。
あまり気後れせずに、興味があれば習ってみてください。
そうとうに奥が深く、探究心と達成感は尽きることがありません。
それゆえおもしろいのです。
展覧会うんぬんとか、封建的体制などとかの話は、プロの世界での話です。
(これは別に書道に限ったことではないはずです。どのような芸術にも存在
する世界です。)
単なる趣味でする分には、まったく関係ないです。
いま流行りの「読める書」(いわゆる調和体もしくは近代詩文)を書きたくて
習いだす人も多いと思いますが、「読める書」といえども、やはり基本は古典にあります。
初めて習いだすにあたっては、正統派の先生に就かれることをお勧めします。
(正統派というのは、日展、読売、書芸院、毎日、産経などの系統)
>20
概ね賛成。ただ正統派の師につくとはよいのですが、プロを指向しない趣味で初
めても結局その会派の展覧会書道に組み込まれてしまうのではありませんか。そう
しないと師匠自身が食えなくなってしまうでしょう。
困った現象です。
22 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/11/09 17:17
つい最近書道始めました。先生は日展若手の先生です。
一応手本はくださいますが、古典に学びなさいと
仰せられます。それにしても先生はうまいです。
打ち込みとめはねはらい、とにかく基本を
マスターしないとどうにもならないような気がしています。
それから、白と黒のバランス感覚ですかね。
まあ、道ははるかに遠いですね。
>>21 HKJBさん
私は組み入れられたクチです(笑
28歳(当時)で書道のカルチャースクールに通う男性は、まずいなくて、
目立ったのかもしれませんね。でも、師匠の作品は好きですし、今では
感謝してます。初めて合宿に行ったときなど、「おーこんな世界があるんか!」
と驚きました。
>>22 さん
がんばってください。
まずは師匠の手本との格闘、これに尽きます。
私は教室などで先生が手本を書く場面があれば、手元をしっかりみます。
ほかに紙(白、色紙)と墨色の調和、潤滑(なるべく千鳥に)、漢字系ならば天地をきっちりそろえる、
まっすぐに筋を通す。字は大きくならぬようになど、つきつめると手本の中にものすごい
量の情報があると思います。
また、合宿などに参加して、自分の師匠以外の先生や他のお弟子さんと触れあうのも,
とても勉強になります。
それよりもなによりも書くことが好きであること、これが基本だと思います。
雑誌「墨」を買いました。理由は平櫛田中の書に惹かれたから。
光雲や光太郎の彫刻はすばらしい。田中の彫刻はそれらと比べると甘いと言え
るだろうと思います。しかしわたしは田中に惹かれます。自分でも理由はわから
ない。波長が合っているとでも言うほかありません。
田中の書については、従来あまり関心がありませんでした。店頭でこの書を見
てすっかり惹かれました。単なる余技ではなく正統派と言ってもよい書だとと思
いました。やはり書は人なりを改めて実感しました。
それに比べて同じ雑誌に掲載されていた書を本業とする人たち、書家の書のな
んと貧弱なことか。本業が余技に劣る、これは致命的な恥辱ではないのか。未だ
に書は人なりを否定する書家が後を絶ちません。これでは将来は望めないと感じ
ました。技術を生かすものは、一体なんでしょうか。
25 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/11/12 08:57
>Kさん
どうも。がんばります。
教室でも書歴運十年の先輩方も多く
いろいろアドバイスをくださいます。
たまに、むかっときますが、
素直な気持ちで受入ようと努力してます。
お手本も縮小コピーして四六時中
眺めるようにすることにします。
ところで、千鳥って何なんですか?
>>25 千鳥って表現がいいのか、よく先生にいわれるのですが、
潤渇が横の字と並ばないようにといった意味です。
濃淡が並ぶと美しくないということですね、つまり、
墨量の多い字の横に同じく墨量の多い字が並ぶと
不細工なので、濃淡がそろわぬように、1枚の紙のなかに
墨を継いだ字をうまく点在させるといった意味です。
すいません、説明へたで。
27 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/11/12 17:00
>K
なるほどなるほど、よくわかりました。
画面構成上の濃淡のリズムと解していいわけですね。
さすがに長い伝統のある書道だけに
奥深い言葉があるんですね。
>>27 そうですね。濃淡のリズム、いい表現ですね。
先生の先生は、書は絵だ、ともいわれます。
いかに立体的な空間を出すかといった意味だと思います。
あと、色紙、半紙などに小品を作っていくというのも
楽しみのひとつです。自分の作品を自画自賛ではないですが、
家に飾っておくと、なんとなしに楽しくやっていけます。
書道のスレ、いいですねえ。順調に伸びてほしいものです。
>>23 Kさん
先生の手元を見るというのは、いいですよね。
古典を学ぶにしても、ただ本買ってきてまねして書いているだけじゃ、
上達しないとは言わないけど、時間がかかりすぎですよね。
とくに、線を学ぶには、やはり良い師匠を持つべきだろうと思います。
>>20 通りすがりの書家さん
>正統派というのは、日展、読売、書芸院、毎日、産経などの系統……
そうかなぁ〜。何を持って正統とするのか、という話はあるけれども、
毎日とかもそうなんすか?
いやはや、それにしても、大きな展覧会で横行する様々なことに嫌気が
さして、外に飛び出す先生達も多いですよね。そういう先生に習っている
と、まあ書道の世界で有名になるには不利かもしれないけど、「道」と
向き合っているという気にはなれるかも(笑)
>>14 書の基本は徹底して「用の美」でなければならないと思います。
でも、堅いことばっかり言ってると面白くないので、たまに心象
で遊びます。しかしながらそれは、もはや書と言えるのかどうか。
芸術表現というとなんかカコイイですが、言葉を紡ぎ書くことまでも
包括した書は、絵画的な「芸術表現」だけを強調するべきでないと
思います。
27です
えーと、その表現云々の前の話ですが、
やはり墨はすった方が良いのでしょうか。
それとも、墨をする時間があるくらいなら
墨汁で練習に邁進した方が良いのでしょうか。
墨汁によって違うのかな。
私が使っているものは、墨汁に水を足して墨ですりますが。
墨はすった方がいいと思います。
大きい物を書くときにはなかなか骨が折れますが、墨汁では
でない、豊かな色彩が現れます。すった墨は刻々と変化する
ので、その変化も書き手としては楽しいものです。
>31さん、くらこっとさん
そうですか。いろいろやりかたがあるものですね。
では、とくに急ぎでもない限り墨をすることにします。
あの香りもいいですよね。
ところで、いま通りがかりに高校の文化祭で書道の作品の
展示を見ました。高校生といえどもなかなかやるもんですね。
漢字、仮名、調和体(というのか?)どれも
すばらしかったです。パンフレットによると
合宿で朝九時から夜二時までかかって書いたそうです。
一回り見て、素人目ながら、これは!と思えるものが
何点かありましたが、それらの名札を見ると顧問の先生
の作品ばかりで、どこがどうというわけはわかりませんが、
やはり格というものが違うのかもしれないと
感じましたね。
↑難しい話が展開してました。
書って音楽と似てるなと思います。
書は意味を伝えるための文字がまずあってその上に表現があり、
音楽は音を伝えるための音符がありその上に表現がある。
音楽の場合、音そのものがまず正しく出せないと、まともな
音楽になるはずがありません。つまりAの音は440ヘルツで
正確に決まっています。そして12音階がある。演奏家は
正確な音が出せた上で自分なりの表現を追求していく。
書もまず意味を伝える字を正確に書くのが大前提だと思います。
ただ、字はこれが絶対と決まっているわけではなく、文字の
歴史の中で積み重ねてできあがってきたものなので、範とすべき
先人の字を学ぶ必要があるのだと思います。
天地逆に書いたり裏返しに書くのが歴史的に定着して
例えばワープロ入力するときの変換でそういう裏返し文字
みたいなものが選べるような状況なら、裏返し文字での書
というものもありうるのだと思います。
どんな芸術でも自分の中のなにかを表に出すという意味で
表現だと思います。自分自身のためにだけであれば
表現の方法はなんでもかまいませんが、他の人の
共感を得たいと思うのなら、やはり、共感を得るための
技術が要るのだと思います。ただそこには、技術に
おぼれないための自己の確立がどうしても必要だとも
思います。
なんて、生意気なこと書いてないで墨をすり、筆を持たねばと
自戒します。
36 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/11/20 00:26
手本を書く師匠は駄目なことを早く解らないとね。
あちらこちらフォーラムや掲示板を漁って、2chを見つけまし
た。ここと「書道の好きな方々へ」は出色のものだと思っています。
最近、私にとって不可解なことに気づきました。それは、書塾な
どで師匠が自筆の手本を書き与えているらしいと言うことです。昔
と違って今は古今の名跡を手本にするには十分な精度の印刷で入手
できるようになりました。
下手な(古今の名跡と比べると、そうとしか言えない)手本を書
き与えるよりは、名跡の臨書をさせた方がずっと有益だと思うので
すが、何故でしょう。
生徒の臨書に生徒の眼前で朱をいれる、この方がよっぽど優れた
指導方だと思うのですが。
生徒の方は、師匠が朱を入れる手の動き、指の動きを真剣に見て
ほしい。NHKの趣味講座で講師の示範の大写しが出ましたが、何
故か筆尖の大写しばかりで、講師の手が殆ど写っていませんでした。
残念でした。
生徒の眼前で朱を入れる、恐ろしいことですが逃げてはおれませ
ん。
わが師は、
「僕はこの古典の臨書としてこう書いたが、
これはあくまでも僕の解釈に基づく臨書なのだ。
だからこの手本はキミが臨書するときの参考に
しなさい。キミはあくまで原典を見て書くのだよ。」
と言って古典の臨書を手本にくれます。
でもやはりついつい先生の手本を見ながら
書いてしまいます。
ヤフーでも、書を熱く語っております。No.34のレスからお進みください。
皆様のご意見お待ちしております。
>38
良い師を得られて良かったですね。師のお言葉の通りだと思いま
す。
まず、自分で原典を精密に見て臨書する、その上で自分の臨書と
原典と師の臨書とを比較して、何処がどう違うのかを確かめる、そ
の上で次の稽古の時に、自分の臨書に朱を入れていただく、この時
に大切なことは、師の手と指の動きをよく見ることでしょう。
折角の良師のご指導を無にされないことを願っています。
>37
「書道の好きな方々へ」とは、どこのことでしょうか?
私も是非覗いてみたいのですが…
>HKJB さん
そうですね。いい先生を得たと思います。
基本点画の練習とともに臨書をがんばろうと思います。
一応、初唐三大家のうち欧陽殉(字合ってましたか)
の字がすきっとして気に入ったので
しばらくはこれで行こうと先生に相談してみます。
>のりさん
私ものぞいてみたいです。
そういえば、今年の日展はどうでしたか。
私は行ってないんですが。
ところで、今日本で、中国の現代書家を知っている人は
どれほどいるのだろう。
また、どうして相手にしないのだろう。
45 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/11/28 21:07
>44
全く違うので評価のしようがないというのが
率直な感想。どっちが上とかではなく別系統。
異種。
わたしはダリ?名無しさん? さんがどのあたりを基準に「別系統」
と言ったのかは知らないが、私は日展系の大部分の作品を
指して、理論的に何の発展がないという意味において
同系統ひいては、日本側を単なる「亜流」と見なしてもいいと
思うのだが。また、そう思われても仕方ないとも思う。
そこにおいて、明治までの日本人は必死に中国書法の導入に
躍起になっていたが、それ以降、殊戦争において日本の優位性を
示していこう、中国現代書法はさっぱり省みられなくなる。
まあ、レベルの問題も大いに関係しているのだが。
前衛活動の衰勢と、伝統書法郡の勢力維持によって、もう少し
中国の今の書家が省みられてもいいように思うのだが、
そういう話を全くといっていいほど聞かない。
書方面においても、中国人蔑視って残っているのだろうか?
↑訂正
「伝統書法郡」→「伝統書法群」
「省みる」→「顧みる」
48 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/11/29 07:41
>47
>そこにおいて、明治までの日本人は必死に中国書法の導入に
>躍起になっていた
たしかに、明治時代、張廉卿先生を頼って宮島詠士先生が入門
したという美談等話は幾つも知っているがその後日本も亜流は
亜流なりに変化(進歩とは言わんけど)していった。日本国内
においても理解できない書き方があるのに戦後60年以上交流の
なかったものを理解しようというのも簡単にはいかないのでは
ない?
>書方面においても、中国人蔑視って残っているのだろうか?
別にそれは無いのではない?自分も在日4世だしね。
>戦後60年以上交流の
なかったものを理解しようというのも簡単にはいかないのでは
ない?
それも一理あるが、ただ日本側が見落としてはならないことは、
この何千年もの書道史において、原点は常に中国側にある
ということだ。
日本側が、完全に独立した精神を書に注ぎ込んだというのなら、話は別
だが、日本書道史上において、中国書法の余韻が残る平安期を
除いて、中国書法を無視して独自の書道が見つめなおされた時代がそれ以降
存在したかと言うと、非常に疑わしい。
書道史は常に中国を起点に動いていると言っても過言ではないのに、
なぜか現代の中国書法はいくらも顧みられていない。
非常に不思議な現象である。
今や日中国交回復、航路開通、IT時代、
付け加えれば日本人にとって、経済的に中国に行って
交流すること自体、何の困難もなくなっているのに、
たまにそういう交流会はあると言えども、彼らの書を見直して
考えてみようという動きは一向に見られない。
我々にとって現代中国書法とは、本当に次元の違う、
理解しがたいものになってしまっているのだろうか。
それとも、我が国の書道が彼国のそれを、技術面・理論面で
凌駕してしまったのだろうか。
或いは、現在の彼国に対して、いまだに偏見が存在しているだけ
なのだろうか。
50 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/11/29 20:00
文革の時に交流が無くなったのが痛いのでは
ない。昔の機関紙見ると結構交流あったみたい
だね。
>或いは、現在の彼国に対して、いまだに偏見が存在しているだけ
>なのだろうか。
妙に日本と中国に拘っているみたいだけど、戦後は朝鮮半島や東南
アジアでも現代中国の書というのは評価されていないのではない?
アジア全域での書というもんを考えられる天才が現れれば面白い
だろうね。
個人的には中国の現代美術家で全く存在しない文字の活字を
作成して本を作ったりしている人(名前が出てこない。福岡
の美術館で見た)に興味があるけど。
日本の書道家が中国の現代中国の書道事情に疎いのは
確かですな。
しかし、それよりも書を欧米に広めようとしきりに
しきりにアメリカやヨーロッパでしきりに個展やグループ展を
開こうとする。その姿勢がよく分からない。
そのくせ、欧米で個展を開いたやつが、「書は世界
に通用しました。」見たいな態度を取るのも分からない。
だいいち書を理解する力が欧米の人にあるのだろうか?
はなはだ疑問。
日本の書家は現代中国の書に弱いですか?
そうかなあ。私のところは、まあ台湾ですけど、自詠自書展開いたりそれなりに
交流してるけどなあ。
みなさんのところが閉鎖的すぎるんじゃ(藁
53 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/11/29 22:46
>52
たしかに台湾との交流は結構あるが(台湾といいながら
戦前からの縁で本省人との付き合いというところもあるけど)、
改革開放以後本土に現れた若手の紹介が行われていないという
のは痛いところ。書道だけでなく中国の現代美術一般の紹介が
遅れているだけの話かもしれんが。
54 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/11/29 22:53
ついでに。
シンガポールの代々の首相はなんであんなに字が
うまいのかね。
日本の首相が書いたのも昔のやつはそれなりに
見れるけど、田中首相が中国で恥をさらして以降
妙なやつばっか。
>文革の時に交流が無くなったのが痛いのでは
ない。
文革の影響は甚だ大きいだろうね。
現代中国とそれ以前の流れを一旦断ち切ったと
言い切っていいかもしれない。
書に関連付ければ、文字自体の簡略化、統一横書き書式は
ともかく、墨をする習慣(みんな墨汁)も、手紙を筆で各習慣も
消失してしまって、むしろ日本にその習慣が保存されている
といった状態である。
私が思うに、書方面を問わず、中国の文化レベルは
隆盛時代の清などのレベルとは、随分かけ離れた
ものになってしまったと思うのだが。
しかし、経済の発展に伴ってか、少しずつ「おっ」と
いう印象を受けるのがポツポツ現れだしてるような
気配も一方で感じる。書にも画にも。
>そうかなあ。私のところは、まあ台湾ですけど、自詠自書展開いたりそれなりに
交流してるけどなあ。
前にも書いたが、交流といっても、一部の団体が
ちょっと出かけていって、展覧会して、揮毫会していって
はい終わりとうのが大半だと思う。まだ、全国規模で、
彼国の現代作品を見直してみようといった気風はみられない
と思う。
>日本の首相が書いたのも昔のやつはそれなりに
見れるけど、田中首相が中国で恥をさらして以降
妙なやつばっか。
小泉首相も、先日北京で揮毫してましたね。感想は…
56 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/11/30 00:41
どなたか1/5に日本武道館で行われる
書道の大会(?)に出られる方居ますか?
>そのくせ、欧米で個展を開いたやつが、「書は世界
に通用しました。」見たいな態度を取るのも分からない。
どこで展覧会を開くのかは個人の自由だと思うけど、
こういうふうに思い上がってる人、確かにいるかもね。
ところで、韓国で世界的に活躍している書家がいるそうですが、
どんな人なんでしょう。誰かお知りでしょうか。
>改革開放以後本土に現れた若手の紹介が行われていないという
>のは痛いところ。書道だけでなく中国の現代美術一般の紹介が
>遅れているだけの話かもしれんが
う〜ん。正直、中国の現代美術というのはとても痛いことになって
いると思う。景徳鎮とか行くと、まあもともとの期待が過大なせいも
あるかもしれないけど、あまりのイメージとの落差に愕然とさせら
れる。文革がどうのというより、共産主義という社会自体に問題が
あったのではあるまいか、と思うのですが。
>日本の首相が書いたのも昔のやつはそれなりに
>見れるけど、田中首相が中国で恥をさらして以降
>妙なやつばっか。
小泉首相もう〜ん、だったけど、まえにテレビ見てたら、
塩川さんはけっこうしっかり書いてたなあ。昔の人だから
ちゃんと正字体で書けるし。
>まだ、全国規模で、彼国の現代作品を見直してみようとい
>った気風はみられないと思う。
なるほどね。まあおっしゃるとおり。
ただ、中国の女流書家で、日本の財界からの支援も受けて活躍
している方がいましたよね。名前忘れたけど。
良いものはやっぱり評価される。
闇雲に中国をもっと評価しようと言うのも無理な話で。
寒くなりました。そして1年が過ぎようとする今、今年は何が出
来たかと振り返ってみても、これと言えるものはありませんでした。
今年最後のHPをUPしました。いろいろやった末に、怪奇なも
のになってしまいました。書は各人各様、と言うことにしておきま
しょう。
西域の書は、用いた筆が剛毫だったと藤枝博士が説かれましたが、
確かに今我々が日常使っている筆では、あのような線は書けません
でした。筆ではなく腕の問題と言われそうですが。
お手すきにご覧ください。HPでは色がどうしても実物と変わる
ので作品発表の場としては、やはり限界がありますね。しかし次善
の策としてもっと活用されてもよいのではないでしょうか。
古典ももっと実物を鑑賞できる機会が欲しいと思っています。
http://member.nifty.ne.jp/HKJB/index.htm
60 :
at_equal_distances :01/12/01 00:59
ぶっちゃげた話、村上三島ってうまいの?
62 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/12/03 16:41
>61
たるいね。
>62
氏のかな混じり文は、油性マジックで書かれていると
いう噂は本当なのだろうか。
64 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/12/04 01:16
>62
隷書も油性マジックです。
>61
雑だね。
今気づいたことだが、
今や“天皇”と呼ばれる氏でさえ、王鐸の模倣以外に
何も発展的なことは成し得てない。
私は、誰かさんが言った意見をひっくり返して、日本書道は
「変化はあったが結局“亜流”止まり」
の感を出ないのではないかと思う。
誰か、今ぱっとした書家いるかなあ。
過去において、手島右卿なんてどうかね、
弟子はぱっとしないが、彼自体独自の見方で
かなりのところまで言ったと思うけどねえ。
でもあの系統で、氏の亜流が続いていっても、ただ
気持ち悪いだけだと思うけどなあ。
石川九揚は?
>67
手書きかワープロ書きか、という古い話題にふたたび火をつけたのは、
なんとなくお祭り好きの私としては良い印象。
書の宇宙は、暇つぶしにいいかんじ。
作品はべつに見たくない。
69 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/12/05 23:29
1/5の席書大会出られる方いますか?
>67
68に大体同じ。
作品は氏の捻くれた理論を正当化しようと、わざと
ややこしくしている感を否めない。
戦後現れた、バカでも体当たりの前衛書家たちの作品と比べると、
やはりインパクト不足か。
NHKの番組みた限りでは、基礎的素養も相当欠けている。
その点においても、莫山にさえ肩を並べられないんじゃないかな。
まあ、でも随分凝ってはいるわな。
岡本光平。
ありゃ、真顔で随分バカやってると思うけどなあ。
まあ、ただバカなだけか。
『墨』のエッセイも低級だし。
西川寧、青山杉雨、この両者の評価が知りたいなあ。
彼らをどう見る?
>72
趙之謙ばりの、あの有名作はとってもいいと思う。
あれだけでも「西川先生」と呼びたくなる。
でも、なんでそれが弟子に受け継がれてないのかなあ。
不思議だし、一鑑賞者として残念でならない。
ちなみに、ケンシンの前身を西川先生とかといっしょにつくった
金子清超って先生がいるのだけど、この人はおいら的にグー。
いまでもケンシンのとなりで詩歌自詠自書とかって展覧会やって
るけど……まあそれはそれとして。
おいらの知り合いは「地味だ」って非難しまくるけど、ああ
やって漢詩を作り(そのために詩の勉強をし)「書」を書く
というのは、きっと本来の「文化人」の姿なんだろうと思う。
でも、オーソドックスすぎて、やっぱり地味に見えるのかも。
>68
作品は別に見たくもない。何故?
>41
>42
見落として失礼しました。
2chー趣味文化ー一般・他ー趣味一般
の中にあります。大抵かなり後ろの方にあります。
77 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/12/10 09:35
age
ところで、大溪洗耳なんてどうでしょう。
彼の書家批判は、一世を風靡しましたよね。
今の書家批判は半分彼が定義づけたと言っても過言
ではないのでは。
そんな、彼の書、活動、思想などについて、皆さんは
どう思いますか?
そろそろ ネタ も尽きたか★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
>61
アクの強い、ゴテゴテした作品ばかり観て疲れた目には、
氏の「お茶漬けのような」作品は心地よいです。
>72
あれほど「突き放したような」線をかける人は
もう現れないでしょう。すごいテクニックです。
>67
氏の膨大な知識には敬服します。
*カッコの引用は「天の声・地の声(だったと思う)」より。
西川寧の前半はともかく、後半には「どうしちゃったの?」と
いうような作品が目立つ。上田桑鳩をこけにしておきながら、実は
内心結構、影響されてたりして。
大溪洗耳。これ結構いいネタになると思ったんだけどな。
もしかして、もう知らない人とか結構いるのかな?
もうすでに過去の人、大溪洗耳・・・
/// ヽ\// ヽ\// ヽ\
| | l | | l | | l | l | l |
\\ヽ //\ヽ //\ヽ ///
/ ::::::::::::\
/ ,,__ __ __、 ::::::::\
/´ "─`==-;_; _;;;-ー==-─ ;` :::::::::::|
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| "ヽ.(゚。ソ) (゚。ア) /` ::::::::::::|
| `""  ̄" /:; `  ̄"" ` ::::::::::|
| ` _ ┼ ::::::::::::::/
\ -=二三-ノ ::::::::::::::::::/
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 ̄~`ヽ、 ,-─""′
___ノ 人_
,, --ー ̄ ::::::::::::::::: ̄ノ ̄ー-- ,,.__
/ ー-- .,, ..::::,, --ー " :::::\
/ ヾ ソ 丶 ヽ
/ ヽ/ :|
| : |
| :: ミ: :: ::...........:::::|
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.| :::::|: ヾ:::: ::::::::::::| :::::::::::|
| :::::|:: ミ: :::::::::::| :::::::::::|
とうとう個々まで来たか
85 :
shodoka_a:01/12/23 21:02
美術鑑賞版、発見!
>>82 「日展をダメにした」云々シリーズはいまや古典でしょう。
いろいろなところに引用されるのを見かけます。
個人的に、「日展をダメにした」云々シリーズで問題なのは、
作品論/作家論と、組織運営/政治論がごっちゃになっていることだと思います。
日展の否定論が、作品はともかく、「金がかかる」ところに主眼が置かれている
ところが気になります。
しかし、文化勲章作家を生んだことで、幅広い意味での「書の認知度」や「書」という
ブランド作り(高尚さのイメージ)に成功したことは、誰も指摘しませんね。
そのいわば政治(とマーケティングも?)論と、作家の作品を無理に結びつけている
ところを除けば、あの本は現代所の鑑賞の良い指針になると思います。
日比野五鳳は万人が作品を認めるところで特に目新しくありませんが、
小坂奇石を一番に推しているのは(著者が江口大象氏の友人であるらしい
ことを差し引いても)、卓見だと思います。
日比野五鳳の「ひよこ」は良いな。書道やってない
自分でも好きだぞ。
87 :
shodoka_a:01/12/23 21:40
「ひよこ」の現物見たことあります?
今は東博に入ってて、私は毎日50年展と今年の五鳳展と2回目の前でみました。
特に五鳳展はホントに目の前で見られて感激でした。
「墨」などの雑誌には大きく紹介されることが多いのですが、
実物は寸松庵より一回り大きいぐらいの、小さな小さな作品です。
(16cm四方ぐらい)
それにしても五鳳展、良かったなあ。
日展に出品しはじめる 18歳頃から(高卒OK)
落選の繰り返し (3〜5年)
初入選 25歳位(ちなみに初出品初入選もたまにいる)
入選落選を繰り返す (5年位)
常に入選する (5年位)
特選を受賞 35歳位(今までの最年少は確か23歳)
特選の翌年の出品は無審査でOK
約5年程出品を繰り返す (2年連続特選は近年無し)
2回目の特選を受賞 40歳位(平均的数値)
2回目の特選受賞後 出品委嘱になり以後無審査出品になる
ここでやっと審査員になれる資格を得る
理事会で審査員に選ばれるまでひたすら待つ
選ばれるまで、早い人で2年、遅い人で20年くらい待ってます
審査員に選ばれる(新審査員と呼ぶ)
無事に勤めてやっと日展会員になれる(40歳〜55歳位)
日展会員として出品を繰り返す
そうこうしてる内に 日展会員賞を受賞 (45歳〜65歳位)
日展評議員になれる
そうこうしてる内に 内閣総理大臣賞を受賞 (55歳〜75歳位)
芸術員賞の受賞の為、頑張る(受賞候補に成るには芸術員会員の推薦が必要)
芸術員賞を受賞 (60歳〜75歳位)(受賞には芸術員会員半数の票が必要)
芸術員会員になるため、頑張る(各科定員が有る為、会員が死亡しないとダメ)
会員が死亡、 会員候補に成るには芸術員会員の推薦が必要
芸術員会員に就任(70歳〜85歳位)(会員になるには会員半数の票が必要)
文化功労者になる(75歳〜85歳位)
文化勲章を天皇陛下から頂(75歳〜100歳位)
死亡.... ハーアア長かった
>85
小坂奇石か。嫌いじゃないけど、あの結体がちと単純すぎるような
気がするかも。
大溪洗耳は、西川寧に対し噛付きが甘かったなあ。
90 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/12/24 00:41
西川寧は、理詰めで書いてる感じで
噛み付く「隙」のある作品は、あんまりない気がします。
だから甘くなっちゃったのかしらん。
そっか。
でも、前にも書いたけど、後半期の作品なんかは、
筆もさばけて、ちょっと「ゆるい」の書いてた気がするけどな。
『黙然而笑』なんか、今振り返れば笑えると思うんだけど。
92 :
shodoka_a:01/12/24 06:42
石川九楊氏が西川寧の金文大字作品についてネオテニー(幼形成熟)と
呼んでいましたが、言い得て妙だと思います。
93 :
shodoka_a:01/12/24 06:43
『黙然而笑』が東博に所蔵されている点については博物館の見識を
疑いますが、金文・大字というスタイルの確立、という意味では
やはり記念碑的作品なのではないでしょうか。
(ちょうど本人も当惑していた比田井南谷氏の初期の作品が
よくあの頃の前衛書の典型とされるように)。
>>87 自分は今年高島屋であった日比野五鳳展しかみていない
厨房。タダ券もらったので見に行った。
95 :
shodoka_a:01/12/24 12:06
五鳳展は、10代の頃の十七帖の臨書や「創造」と大きく書かれた漢字も良かったです。
「創造」に見る墨の具合やかすれ方などは、漢字大字の作家の方も参考になるのでは、
と思います。金文や篆隷の大字もいいですが、楷行のシンプルだけど圧倒されるような
大字、このところあまり見かけませんね。ゴツゴツ、グニャグニャはよくありますが…。
たまには見たくないですか、そんなの。
>95
そう!五鳳の漢字っていいよね。いやあ、観る目あるなあ。
まあ、あの漢字にしてあの仮名あり、なんてよく言われるけど、
私はあの屏風作品「いろは」は納得いかないな。
出た、化け物!という印象しか受けないよ。
そう言うとまたshodoka_aさんに「あれはある意味、記念碑的・・・」
と言われそうですけどね。
大字仮名か、あれも行くところまで行ったな・・・
私は仮名なんか、篆刻が「方寸の世界」を主張するのと同じように、
ある一定の大きさを越えた時点で、「雅」に象徴されるような感じにはない
仮名独特のよさが吹っ飛んでしまうかな、なんて思うけどなあ。
ところで氏も当時、「5人の侍」と称して大字仮名運動を
展開してたそうだけど、他の五鳳大字仮名作品ってどんな感じ?
いや、恥ずかしながら五鳳展行ってないもんで・・・
97 :
shodoka_a:01/12/25 00:07
それはもったいない!東京/京都で5万人を動員して、図録だけでも2万部以上でたそ
うですよ(会期は両方で約2週間)。連休に行くと動けなかったらしいですが、私は
平日の朝にいったのでじっくり鑑賞できました。しかも図録はオールカラー約200
ページで2,000円と格安。品切れでも送料無料で届けてくれました。
作品は本当に網羅的に出てました。大字では「いろは」を始め、「日展をダメにし
た〜」に収録されている「モモクリ〜」とか「流水〜」とか。日比野五鳳の大字は最
初から線を追っていくだけで楽しい。一つ一つに表情があって、細い線でも勁くて、
太い線にはより一層の迫力があります。
98 :
shodoka_a:01/12/25 00:12
細かいところですみませんが、「記念碑的」は芸術に限らず歴史の重要な要素です
よ。ご年配の方の「書が面白くなくなってきた」は、斬新な書風がなくなった、とい
うことに尽きるのでしょう。役員で真新しい書風が見られるのは何年かに一度ですか
らね。
でも個人的には、書展はくまなく見て回るので、退屈などはしないです。書作も努力
なら鑑賞も努力。退屈なのは見る方の怠慢だ、というのが私の意見です。(偉そうで
すみません。でも書は鑑賞できるようになると楽しみが3倍増、5倍増になります。そ
う思いませんか?)
99 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/12/25 14:31
うんうん,そう思います。ただ,万人向けではないと思う。
伝達手段としての文字の役割しか考えられず,なんて書いてあるの?ばかり気にしてる人とか。
作品を眺める前に釈文ばかり見てたりして。で作品見て,「おっ,そう書いてあるな」とか「読めないな」とか。そういうのを超えると書の鑑賞がぐっと面白くなるのに。
100 :
shodoka_a:01/12/26 12:28
そうですね。書を書くことはいつでもどこでもだれでも楽しめます。見るのもそうで
すが、これはまた別個の活動なんですよね。絵や音楽にも鑑賞を楽しまない人がいま
すが、書にはまた別に、おっしゃるように文字という固定観念が働いてしまって「分
からない」から見ない人がいて残念です。
「すべての人に向くわけではない」だけで、鑑賞しようと思えば誰でもできるはず
で、この辺の層を分厚くすることが今後の課題でしょう。でもまあ、書をする人でも
他の会派の書を見る人の割合は小さいのでしょうが。
>97
そう、実にもったいない!
が、ちょ〜っとどうしても行けない理由がありまして。
>100
うん。書をやる人はこの鑑賞方面の開拓がこの上なく遅れてるよね。
みんな、「字がうまくなりたい」という発想しかないからなのか、
わざわざ足を運んで「楽しむ」ことを知らない。
ま、でもね、社中展なんかは何度か頑張って行っても、うんざりして帰って
くることがホントに多い。あれほどの人数が皆同じような書を書いているのを
見ていると「鑑賞」もくそもなくなってくる。
この辺、観るほうの努力もさることながら、書くほうもただ「手本のとおりに書いてみました」
じゃあ、鑑賞者の足は止められないだろうね。
その点、グループ展なんかは結構ヒットが多いよ。
素人くさくても各自の主張が出てて楽しめるね。
あとね、東博なんて結構穴場だと思うけどな。
102 :
shodoka_a:01/12/27 12:02
そうそう東博。あそこ常設展の人の少なさは特筆モノ。お役所は宣伝べたですからこ
れは仕方がないでしょう。でも独立行政法人になってからは努力しているみたいで、
MLで展示替え情報送られてきますよ。
http://www.tnm.go.jp/ ちょっと前に展示された空海の風信帖やら高野切3種もガラガラでじっくり見られま
した。週末に行くと身動き取れない国宝展なんかの特別展よりも、2ヵ月ごとに常設
展に行けばとても勉強になります。時々展示される大観や玉堂の絵も墨色見てると
うっとりさせられますね。
400円ちょっとで半日静かに過ごせる。学生なら確か130円?ジュース我慢して東博
に行こう!
林彪
104 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/12/27 12:34
>>102 2ヶ月毎に東博に行くなら「友の会」に入った方がいい。
1年間3000円で常設展入り放題。特別展でも1回は無料。
前売券を買う必要もないし、すぐに入れる。図録も1割引。
特別展3回行ったら、もとを取っちゃうよ。
105 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/12/28 00:19
東博!早速、今週末に行って来ようと思います。
106 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/12/28 00:25
HPを見たら、すでに年末の休館日なのでした。がくっ。
107 :
shodoka_a:01/12/28 01:51
日本の書は本館2階ですが、中国の書がある東洋館も忘れずに!
明清の長条幅や宋拓の折帖が見られればラッキー。
108 :
shodoka_a:01/12/29 10:38
>>96 見落としてましたが、普通は関西書壇の「七人の侍」(安東聖空、内田鶴雲、桑田笹
舟、田中塊堂、谷部橘南、日比野五鳳、宮本竹逕)ですね。この辺の事情は墨スペ
シャル『仮名書道の一〇〇年』(芸術新聞社)に詳しいです。
大字仮名についてはのりさんとちょっと違う意見を持ってますが、それについてはま
たの機会に。
109 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/12/29 18:18
お、復活していた!
110 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/12/29 18:26
東博行きたい。
もうお役所じゃないんだから、年末年始も開けてください。
111 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/12/30 13:23
age
112 :
わたしはダリ?名無しさん?:01/12/31 21:12
もうすぐ書き初めだ。
113 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/01/01 00:58
「初日の出」って誰か大きく書いてよ。
あけましておめでとうございます。
書初めに半切1枚書上げたところ。書初めは以前からぶっつけ本番
と決めているので、今年も。実力がばれるので例年通りガックリ。
少しは目が見えるようなってますます情けなくなります。
一人で趣味でやっているので、展覧会など諸々に煩わされることは
ありませんが、自己満足に陥らないことが課題。
東京には東博があるので羨ましい。
115 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/01/02 19:33
age
116 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/01/03 22:56
>自己満足に陥らないことが課題。
展覧会に出す方が、むしろ自己満足に陥ってたりしますよね(笑)
私は展覧会やめたいと思いつつ、足を洗う勇気がなかなか出ません。
117 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/01/10 12:45
皆さんは、自分が満足できる字を書けたことがありますか?
>117
ありません。そうなりたいのだけれど。
でも、そうなったらすることがなくなり終りでしょう。
119 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/01/11 21:28
>118
まったく同感です。自分でじーっと見てると、アラが次々と出てくるのです。
120 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/01/12 11:06
>118
うんうん、そのとーり!
いくら書いてもアラだらけ、自分の下手さ加減に嫌気がさします。
しかし、謙虚な気持ちと向上心は持ち続けたいものだ。
121 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/01/12 11:58
122 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/01/13 00:04
今日、東博に行って来ました。
それで、って訳ではありませんが、今年は「かな」に力を入れてみようと思ってます。どなたか、おススメの仮名筆を教えていただけますか?
ちなみに、今は、もっぱら高野切第一種を練習してます。
123 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/01/15 11:30
日経の朝刊、一番最後のページに仮名作品が連載されてる。
読み方も書いてあり、仮名が苦手な方にもオススメ。
本当はカラーで見たいが、新聞じゃ仕方ないね。
124 :
shodoka_a:02/01/15 12:18
>>122 えっと、高野切第1種は、例えば第3種と比較してカスレをだしたりするところが楽し
いので、ちょっと固めのイタチの筆を使うといいと思います。やわらかい筆を使って
綺麗なカスレを出すにはウデがいりますよね。あと濃墨にするという手もあります
が、これだと高野切的な雰囲気が出なくて困り物です。
125 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/01/16 15:32
日経新聞のコーナーは、私も注目してました。
筆のアドバイスありがとうございます。固めイタチ筆で書いてみることにしました。確かに、第1種のカスレは、固めの筆ゆえに出た線?という印象があります。
126 :
shodoka_a:02/01/17 12:07
ちょっとトピズレしますが、日経を読む層(ビジネスマン、自営業者)で書をたしな
む人たちって多いのでしょうか?50〜60代になると、書道は退職後にやってみた
い趣味に確実にあるようですが、それ以前、すなわち30〜40代の潜在的な需要っ
てどれくらいあると思います?
日経を見てないので分からないのですが、これに対する反響って大きいのでしょう
か。日経はよく美術展の後援をやってますが、書にも関係していってくれると嬉しい
です。
127 :
shodoka_a:02/01/20 16:20
久々に東博に行ってきました。特別展では藤原行成の白氏詩巻が見られます。かつて
道風の屏風土代や佐理の詩懐紙も見たことがありますが、三蹟の本物は凄まじいイン
パクトがありますね。
白氏詩巻もそうですが、あの時代の漢字の手本物の文字の配置(たとえば粘葉本和漢
朗詠集など草書が並ぶもの)を見るといつも、あの時代の書の不思議なまでの構築性
は何なんだろうと思います。文字の収まりが、中国のものよりもびしっと決まってい
ます。
東博に行かれる方は、常設展のチェックも忘れずに。本館では、寸松庵と関戸本が見
られます(小さいですが)。東洋館は明清です。董其昌、王鐸などの長条幅のほか、
文徴明の細かい几帳面な巻物も見ものです。
グリーナウェイの「枕草子」あったじゃないですか。
あれやりたいんですけど誰に教えてもらったらいいのでしょうか?
それにしてもあの字を書いた人下手ですね。素人目からみると。
下手だけといい感じですね。
129 :
shodoka_a:02/01/22 18:26
それって体に字を書く場面のある映画…でしたっけ?
うろ覚えです。今度ビデオ探してみてみます。
130 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/01/24 01:25
いきなりですみませんが、ちょっと尋ねさせてください。
私は絵巻を鑑賞するのが好きなんですが、最近詞書も鑑賞できるようになりたいなと思うようになりました。
東京国立博物館なんかで書蹟を見ても、何が書いてあるんだかわかりません。
自分で筆を取って……というのにもやや興味はあるのですが、
それ以前に、書蹟を読み取るためにはどういう勉強をすればいいのか教えてください。
視覚的鑑賞と解読とは分けて考える必要がありますね。
詞書を解読したいのであれば、古文書学或いは古筆学なんて分野の解説書や
字書を探されることをお薦めします。結体だけでなく、特殊な文法なんかも
関係してきますからね。
しかし、結体だけからいうと平安後期以降のものは、使用される字もかなり
絞られていると思うので、解読はさほど難しくないかと・・・
132 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/01/24 11:55
唐突で、すみませんが、
確か以前NHKとかで講師(?)をしていた方って
なんていう方でしたっけ?
お名前が思えだせないで、ず〜〜〜っと気になってます。
教えてください。
133 :
shodoka_a:02/01/24 12:09
>>130 絵巻が好きで、文字も読みたい!というお気持ちはよく分かります。絵巻は読み物と
して書かれているので、のりさんも言うように、その読解は漢文がずらずら並ぶ掛け
軸ほど難しいものではありません。
変体仮名は大丈夫でしょうか?これが読めると8割がた読めるようになります。
「お」が「於」「乎」、「か」が「可」「閑」になったりしているもので、これは5
0〜100種ぐらいまとめて覚えておくといいと思います。書道辞典のほか、かな書
道の基本書などに一覧がよく出ています。平安時代の絵巻なら、ほぼこれだけで大丈
夫。
絵巻なら、写真版と釈文が一緒に並んでいる書籍があると思うので、それを探される
といいと思います。二玄社の日本名跡叢刊の「源氏物語絵巻」(絶版)なら古本が良
く出ています。ちょっと古くて白黒ですが、図版と文字を照合するには便利です。ひ
とつひとつ字をたどっていくと、だんだんと分かるようになります。
時代が下ると、漢字の草書が増えてきます。古文書辞典などもありますが、図版から
読めない文字を引くのは難しいので、やはり図版と釈文が並んでいる本を探して、複
雑な漢字があれば、そのつど書道字典で標準的な字形(主に草書)を確認しておくと
いいと思います。
絵巻は、絵の専門家から見た立場と、書の専門家から見た立場で、時代判定に誤差が
出ることがあります。両方に精通している人が望まれていますので、ぜひがんばって
ください!
134 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/01/29 19:09
>132
石飛博光?
それとも、
榎倉香邨?
今井凌雪?
え、この二人は古い?
最近、趣味カテの話についていけなくなったのは私だけでしょうか・・・
やはり趣味は趣味ということなんだろうか。
まあ、盛り上がってるならそれでいいけどね。
>127
東博、いいっすよね。
そういえば、文京区のセンチュリーミュージアム行ったことある人います?
あそこもマニアには結構お薦めの場所だったんですけど、
最近閉鎖されたそうじゃないですか。ああもったいない。
成田山書道美術館なんてご存知でしょうかねえ。あそこもなかなか
いい設備で、私もよく見に行くのだけど、もう少し行きやすい場所に
あったら・・・なんて思いますね。ああもったいない。
137 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/01/31 16:17
去年、顔真卿展はすごい人が入っていた・・・
やっぱあの力強さにひかれるのかな?
高校生ぐらいの奴らが数人いたのには驚いたなー。
自分の高校時代は周りに興味持ってる奴なんていなかったんだ(ToT)
ああいうのに行くと、日展とかって興味なくなってきた・・・
>137
それって、書道博物館のやつですか?
あそこも昔は文物をぽんと置いているだけで、勝手に触れたりしたんですよね。
今は今で好きですけどね。
ほんと近年これほど書道をやる人が多いというのに、ああいう博物館に
足を運ばない人ばかりというのは本当にもったいないですねえ。
小手先ばかり器用になっても仕方がないと思うんですがねえ。
139 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/02 02:04
すみません、孔子廟堂碑;虞西南を臨書したことの
あるかた、臨書として作品にするのにおすすめの箇所(14字)
を教えて下さい。
140 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/02 16:38
しかし、石飛博光は最近とみにメディアに出てますね
彼の参画している「書統」という雑誌は
マイナーながらごった煮的に楽しめます
141 :
shodoka_a:02/02/02 22:40
先週末は松屋に読売の閨秀展見てきました。まあ女性ばかりたくさん…。
ああいう展覧会は紙やら表具を見に行くのが楽しいですね。ちょっとしたところに
黒檀を使ったりヒノキを使ったり、金箔をふんだんに使った紙があったりで。
この辺はバブル時より進化してるような…。
>>135 NHKは、榊莫山氏の頃に好きでよく見てました。古いですね(笑)
>>136 センチュリーも閉鎖ですか?
同じビルの古筆学研究所の閉鎖のニュースは聞きましたが。
>>140 石飛氏のところは若いお弟子さんがいろいろなところで活躍されてますよね。
可能性をどんどん追求してほしいと思います。
142 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/03 00:10
蘭亭じょ¥100まんで売ります。
>140
小泉内閣と同じで、やはり書道も実力とともにこういうメディア活動を
していくべき時代なんでしょうね。
石飛博光氏はちょうど近代詩文書方面の方だし、こういった活動はむしろ
必然であるし、やるべきであると思いますね。
>「書統」という雑誌はマイナーながらごった煮的に楽しめます
この雑誌はさすがに読んだことがありません。もしよかったら、どういうところ
がいいのか簡単に説明していただけませんでしょうか。
私はこれからの近代詩文書に可能性を託したい一人でもあるもので。
>141
センチュリーのこと、少しうそ書いたかもです。すみません。
榊莫山氏、NHKに出ているときがいちばんいい味出してましたよね。
最近画の方が目立つように思うのですが、書の本格的なの見てみたい
なあ。
石飛氏の若いお弟子さんは今どういう活動をされているのでしょうか?
あと、閨秀展というのも恥ずかしながら初耳です。どういう書展なのでしょうか?
勉強不足でお恥ずかしいですが、この掲示板なら思い切って訊けますからね。
144 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/03 12:58
>>139 数字ばっかりだったり同じ字が隣りあわなければどこでもいいのでは?
145 :
shodoka_a:02/02/03 20:20
>>139 14字なら半切でしょうか。作品として残すのなら、最低限漢文としての区切りがいい
ほうがいいように思います。二玄社の法書選はお持ちですか?今ざっと見たところ、
12ページの最初なんか(「易道に賛して〜」「故に能く〜」だと、14字で区切りがい
いですし、文もいいですよ。(五経の)易経と春秋を学んだ人を褒め称えたところで
す。
146 :
shodoka_a:02/02/03 20:31
>>143 石飛氏のお弟子さんには20〜30代でパフォーマンスなどをやっている人がいるみたい
ですよ。今まで書道界はメディアに頓着してませんでしたからね。実力はまああって
もなくても(自称「実力派」の趣味人のホームページもあるわけですから)、内側か
ら外側に情報を発信していくことは大切だと思います。それがいかなる形でも。
書統は競書誌ですよね。読売系、毎日系、非書壇系の先生方が入り混じって横断的に
指導されているようです。出版元が萱原書房?だったような気もするので(違ってた
らすみません)、ひょっとしたら書店にもあるのかもしれませんが、銀座の鳩居堂に
は置いてたような気がします。
閨秀展は読売の女流有力作家の展覧会で、東京では毎年この時期にあります。それな
りの規模ですが、女性ばかりのせいか特に表具に凝っていて、随所にナントカ流の生
け花も配置されているので華やかです。3月には大阪でも開催されます。
莫山センセは去年横浜に展覧会を観に行きました。書芸院在籍時代の書作品や、大字
の屏風なども置いてありました。人気が高くて、いろは歌の額1つに200万もするんで
すけど…実力が伴っているので後世評価される作家の一人でしょうね。
来週は銀座に日本の書展を観に行って、もう少しすると東博で横山大観展(すごく楽
しみ!)、謙慎展、創玄展と続きます。東京在住者にとって楽しいシーズンの到来で
す。
>>144,145
アドバイスありがとうございます。
見事に14字ですね。故に能く〜に挑戦してみたいと思います!
実は、レスいただく前に別の箇所を練習し始めていたのですが、
16ページ<皇帝欽明〜>を作品にするには無理があるでしょうか?
同じ字が二つなのですが...(半切なので隣り合わないです)
>146
貴重な情報提供有り難うございます。
>実力はまああってもなくても(自称「実力派」の趣味人のホームページもあ
るわけですから)、内側から外側に情報を発信していくことは大切だと思います。
それがいかなる形でも。
うん、共感できますね。
書統か、そういえば聞いたことあるなあ。参考になりそうですかね?
閨秀展は、日本の女流書展(?)とはまた違うんですかね。名前が変わったのかな?
かなの書展なんか、特に派手ですよね。会場にいる女性の衣装も負けず劣らずですが。
149 :
shodoka_a:02/02/04 22:14
>>147 短い文の中に同じ字があると、まとめるのが難しかったり、見た目に気になったりし
ます。でも、そういう点を克服してみるのもまたいい勉強になるかもしれません。
見栄えがするという理由だけで選ぶのもまた一考ですよ。ある作家が、半切や二尺八
尺など大きな臨書作品は、選ぶ箇所である程度その人の実力が分かると述べていまし
た。一理ありますね。
>>148 閨秀展と日本の女流書展とは別のものです。前者は「読売」の女流書展で読売系の作
家のみ、後者は「日本の書展」の女流書展(存在意義が少々?ですが)で会派はごっ
た混ぜです。
女性は大変ですね…というと語弊があるかもしれないので、「やりがいがありますよ
ね」というべきでしょうか。でも書に親しんでいるのは圧倒的に女性が多いわけで、
ネット上に横断的な女性の書道コミュニティなどがあれば、潜在的な需要は大きいの
かもしれません。
>>149 ありがとうございました。
敢えて挑戦してみます!!
151 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/05 06:37
莫山氏.....人気はあるし、人の好みには文句つけないが
彼の書道に関する著作には裏づけの無いものが多すぎる。
特にいつだったかNHKで自分の書道用具を披露しておられたが
一つとしてまとものものはなかった。和墨を明墨といって
取り出した時にはもう.......。
152 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/05 11:19
縛残滓のバックグランドはどのようなものなのでしょうか?
古典の臨書などはきちんと書けるのでしょうか?
素人の印象に過ぎないのですがあまり見たことがないもので…
むしろ精神性主体の「高僧の墨跡」に近いのかな?
相田みつを氏と共にカテゴライズに悩むところです
突き詰めると「書とは何か?」とわからなくなります
153 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/05 15:28
莫山氏の若い頃の臨書、昨年上野の松坂屋で見ました。数点ですが。あれ?若い頃、というより中学生の頃の作品でしたが。
154 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/05 17:18
バクザン氏の作品の価格は異常だろう。
200万もあったら斉白石の小品買うなあ、私なら。
>154
う〜ん、確かに。
私も斉白石がほしい。
小品なら200万で買えますか?
156 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/06 01:20
>>155 斉白石なら本物なら100万〜数億ですね。
斉白石派のものならせいぜい数十万ってとこですが。
157 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/06 01:32
↑訂正。
作にもよるけど100万で斉白石っていわれたら信用できないなあ。
158 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/06 02:01
このスレの住人にお聞きしたいが、ホントに村上サントー先生や
バクダン先生の作品に感動するの?石川供養先生のお説に
納得できるの?あいだみつお氏の詩や書に癒されるの?
ホントに?ホント?心から?
そうなら理由を是非お聞きしたい。
159 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/06 03:05
「木村白嶺」知らないだろうな…とっても素敵な作品を書かれます。
>158
ね、私もそこんとこ突っ込んで聞いてみたい!
しかし、そんな私は片岡鶴太郎の個展を見て感動してしまった、
というか感心してしまった愚か者でありますが。
鶴太郎の書画なんてどう思いますか?
161 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/06 13:53
線質やら感じ取れない人々は、鶴太郎の小手先テクニックに騙されてるのだと思います。ああいうのを見てると、現代詩文書・漢字仮名交じり文の将来性はかなり疑問です。
162 :
shodoka_a:02/02/07 00:07
個人的には村上、榊、片岡、石川の各氏は○、相田は△、ってとこですが。
○はうまいのと視点が面白いこと、△は書としてみるとちょっと、というところ。
163 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/07 01:28
>>161 漢字かな混じり文に関しては石川センセが色々言っておられるが
かくいう氏の書論もいまひとつだからなあ。
164 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/07 01:59
あの「トン・ツー・トン」とか「筆触」とかいうの。
違うんじゃない?とか思うんだけど。
165 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/07 04:03
バクダン発言
日本の書家の99.99%なんて作品は弟子が買って(買わせて)本人
が死んだら価格は暴落。よって買う価値無し。
日展にしろ、その他の大型書展はみんな紙資源の無駄遣い。
毎年毎年よくやるよ。
>>165 市場価値云々でものを考える姿勢が、すでに伝統芸術に携わる者として
失格だね。(w
こういう芸術の第一義は自己精進にあるということを肝に銘じましょう。
売れるか売れないかは二の次。
>166
>市場価値云々でものを考える姿勢が、すでに伝統芸術に携わる者として
失格だね。
書を伝統芸術と割り切るにはまだ早計のように思います。現に学校教育にも
いまだに採りいれられているではありませんか。
>こういう芸術の第一義は自己精進にあるということを肝に銘じましょう。
書でも絵でも音楽でも、それを芸術活動と認識している以上、その第一義が
自己精進であるなんてことがあっては困ります。音楽は主に自己精進のために
やるのですか?「こういう芸術(書道)」と他の芸術との違いはどこにあるのか
あなたは明確に説明できるのですか?
売れるか売れないかは二の次であることは理解できます。ただそういった市場
開拓が極端に遅れているのもこの分野の課題であることは確かです。
書道の市場は細いけどリピートに強い。
マーケティング的には、他の太いけどリピートの弱いジャンルと
ミックスしてみたら面白いかなと思う。たとえば
デザインフォントとかロゴとか。
>167
定義がすべておかしい。
貴方が言ってる「音楽」はWW2以降の音楽のことでしょう。
少なくともバルトークやベルクの音楽をBGMに聴く人はほぼ皆無
でしょう。(w
学校教育の書は「習字」、我々がやっているのは「書道」。
まったく目指すものが違います。
反論お待ちしております。
170 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/07 20:52
ちょっと割り込み。
>学校教育の書は「習字」、我々がやっているのは「書道」。
それは義務教育だけの定義では?
高校以降の内容は「書道」ですよ。
書作家的な活動とは一線を画すものですが・・・
>169
>少なくともバルトークやベルクの音楽をBGMに聴く人はほぼ皆無
でしょう。
う〜ん、それとあなたが166で述べた定義とはどう結びつくのか、
そちらのほうがおかしくないけい?
専門用語並べてかしこく取り繕われても困るんだが、あなたの言うそのな
んたらとかいう音楽は、つまりそのあなたのいう自己精進のための音楽なの
けい?(藁
>学校教育の書は「習字」、我々がやっているのは「書道」。
あれ?じゃあ高等学校でのあの授業は何ていうのですか?
そんでもって、同じ歴史の長さがあっても音楽や美術を伝
統芸術と呼びますか?
>まったく目指すものが違います。
ほう、どう違うのか是非聞きたいですね。
ご教示お待ちしております。
>170
ありゃりゃ、タッチの差で出遅れてしまった。黒星、黒星…
ここで荒れると
>>166の思う壺だな。
といいつつ書いてみる。
高校の書道なんか
>>170の言うとおり、書作家からみれば
実質的には習字と大差ない。点数出して成績をつけるんですから。
なんたらとはなんと乱暴な書き方でしょう。
ベートーベン以降の芸術概念を考えれば、すぐにお分かりでしょう?
絵画もしかり。
175 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/07 22:14
>>173 貴方が理解している「ベートーベン以降の芸術概念」とは?
客観芸術か主観芸術の違い。
モーッアルト以前は前者で、ベートーベン以降は後者。
明日早いので、今日はもう寝ます。また近いうちに。
う〜ん、166よ、君はしゃべればしゃべるほど荒が目立ってくるな。
まあ、最初から程度はわかるもんだが。
まず、私の問いに早く答えて欲しいな。>173>176では答えの
欠片にもなっていないだけでなく、ただの逃げにしか見えませんぞよ。
それから、
>高校の書道なんか
>>170の言うとおり、書作家からみれば
実質的には習字と大差ない。点数出して成績をつけるんですから。
だが、誰も
>書作家からみれば実質的には習字と大差ない。
なんて言っていないぞ。>170の内容を勝手にすりかえてはいけないよ。
それから、だからどう大差がないのかを説明して欲しい。その書作家とやらの
概念規定も曖昧だ。
ちなみに私から見れば、大半の書作家の方が実質的には習字と大差ないと
断言できるぞ。高校書道のほうがまだレベル上だね。
>点数出して成績をつけるんですから。
これが貶す理由になるの?どうして?大半の書作家なんかあからさまに
点数つけて、入落競い合ってるよ。
点数出してというより、お金を出して成績つけてるんでしたっけ、大人の
世界は(藁
このような発言をするということはお主まだ若いな?これじゃあ、漫画に
よくあるアフレコと同じ程度じゃん。
>ここで荒れると
>>166の思う壺だな。
なんか、上っ面の知識しか持ち合わせない人間は、どうも私に質問されると
すぐ「荒らしだ」「厨房だ」と言って話をそらして、その場逃れをしようと
する。
166がそうでないことを祈ってるよ。
じゃあ、まずは>167と>171に答えるところからいってみようか。
178 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/08 01:41
わるいが大半の書作家なんて所詮学校書道の延長ではないの?
別冊「墨」で日展特集、今年のも観たけど、あいも変わらず
だよな。金出してまで買いたい作品なんて零。
買わないまでも、習ってみたい人いるか?正直な話。
仮名にはまあいい人もいるけど、自分で和歌や漢詩作って
作品書いてる人絶無じゃない。また調和体部門での文章
あれなに?あいだみつお悪くいえるの?
179 :
shodoka_a:02/02/08 02:12
> わるいが大半の書作家なんて所詮学校書道の延長ではないの?
これに反対することいままで言った人いませんよ(笑)。
> 買わないまでも、習ってみたい人いるか?正直な話。
でもこれはもうちょっとしっかり作品をご覧になったほうがいいと思います。
人に習うことを超えてしまったならともかくとして。
あと、あいだみつをも言葉や作品の在り方を否定した人はいないですよ。
ちなみに私の
>>162は、書作品としてみるとどうかという話です。
調和体の撰文は大切ですよね。
これは書作家としてあること以前の問題だと思います。
180 :
shodoka_a:02/02/08 02:37
>>168 広告業界さんの意見、面白いですね。よく作家の方で書の売れる環境を作ることが大
切だとおっしゃる先生がいますが、この場合の環境とは、供給サイドを考えたものば
かりです。要するに、先に作品ありきで、販路だけ確保すれば大丈夫ということです
ね。
でも普通にモノを考えると、書が売れないのは、作品がマーケットに対応していない
ことが原因です。作家が本当に作品を売りたいなら、市場に媚びた作品を書くか、既
存の作品に対する需要を掘り起こさなければなりません。いつまでも供給側だけ考え
ているうちはだめでしょう(どこかしら公共工事みたいです)。
181 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/08 10:35
ある高名な書家の相続税の申告に関わったことがある。
そのときに、残された作品の評価を時価でやらなきゃ
ならんわけです。
それで、いろいろな書道関係者に取材したのだが、
「書は人格の表現であるので、その人の死とともに無価値になる。」
という意見が圧倒的であった。
俺はおもった。すばらしい。なんて潔い世界なのだと。
そして、書を始める決意をした。
182 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/08 14:13
日展、毎日展、読売展、、、
そういうしがらみを振り切って、孤高を保ち作品を発表する人が増えてる。
で、権力争いに加わらず書き続ける書家のほうが、
展覧会の中での勢力争いを繰り広げる面々より、実力も度胸もある。
と私は思います。
183 :
shodoka_a:02/02/08 19:38
正確には、実力も度胸もある人もいるが、多くはそうではない、ですね。私もこうい
う人が多くなることは望ましいことだと思いますが、展覧会を飛び出て組織批判を
やっている人で実力を伴う人は、残念ながら多数派ではありません。組織にいる
いないと実力のあるなしは関係のないことです。
オリジナリティを追求しているいわゆる無会派系の人たちで師風追随批判をする人
もありますが、そういう人達の「独創的な作品」が単に独りよがりで退屈なこともあ
るので、外に出た人を一方的に賞賛するのはどうかと思います。
独立して一人でやってて、かつ実力のある人はあまり表立って組織批判する人が
いないような気がします。おっしゃるとおりもくもくと書いてます。そういう意味で彼ら
は人格者、というよりもオトナの書家なのかもしれません。いずれにしても発表の
場所をどこに求めるかは、作家が自由に決めればよいことです。
184 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/08 19:45
日展会員の阿部醒石さんの作品についての感想を聞かせて下さいませんか?
本屋で日展特集みたいなのを立ち読みして興味を持ったので。墨かなんかの
特別号かな?最近のやつです。
185 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/08 21:55
>>181 それは結局、生前は弟子が買っていたのが、本人がおなくなりに
なった後は買う弟子がいなくなったからだろ?弟子も大型展に出品
したさに買ってたんだから。
もちろん死後も少しずつ値段のあがる先生もおられるけどね。
でもそういった先生方はいまの日展の大御所たちの先生の世代
のホンの一部だよね。村上先生や栗原先生はどうだろう?
「墨」の日展特集観ながらおもった。
中国の書家で名の通った人の作品なら、死後はどんどん値段が上がるよ。
本人がお亡くなりになったら、もう作品は増えないから価値が上がって
ゆくのが普通じゃない?
日展、二科展の御歴々も結局そうだろ?別に組織批判や体制批判する気は
ないよ。
>>183も言うとおり、「好きにやったらいい。」
186 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/08 21:57
芸術の価値を「お金」で計ることを毛嫌いする人がいるけど
感動はお金には変えられないよ。ただ、良い作品であれば欲し
がる人も多いわけだから、自然と値段が上がるのは市場原理
でしょうがない。
187 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/08 23:16
「栗原」先生の今回の、というか今回も、というかあの良さを
だれか説明してくれ。
んん、最近なんか本音トークでおもしろくなってきたなあ。ワラタ。
>187
栗原氏か、あまり好みじゃないなあ。
それなら古谷氏のほうがおもしろいことになってると思うぞよ。
189 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/08 23:28
「書」を芸術として語らなければならないところが悲惨だよな。
と、ポツリと言ってみる。
190 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/08 23:31
ああ、日展の先生方、上に行くほどマンネリですなあ。
新境地開きましょうよ、弟子どもがついて来られなく
なるくらいの。
>189
深いなあ。。。
192 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/02/09 01:28
>>189 ああ、芸大には書道科ないからねえ。
ってそういういみでもなく?
193 :
shodoka_a:02/02/10 03:11
銀座に『日本の書展』を観てきました。超会派の小品展です。
大きいのが得意でも小さいのが得意な作家とか、その逆とかいろいろですね。大きい
作品が書けないと小さい作品も書けないと言われることがあります。小品を拡大して
も間が持たないが、大作を凝縮して小品を書くと精気が出る、とそういうことでしょうか。
>193
>小品を拡大しても間が持たないが、大作を凝縮して小品を書くと
精気が出る、とそういうことでしょうか。
そうですね。こんなことよく言われますが実際はどうなんでしょうね。
大作ばかりに挑んで、肝心の手紙が書けない、賞状が書けない。だから、
それらは実用書道と割り切って、別物と考える。
なんか以上のような傾向が、yahooの書道掲示板にも見られて、首を傾げて
しまうのですが。
ちょっと話が違うような気がしてきました。でも個人的には確かに大作の制作は
小品にプラスになることは大だと思いますね。ただそれは間接的であって、
やはり小品にはそれなりの鍛錬がいることが言いたかったのでしょうか、自分としては。
結局長く待っても166からの回答無し、予想通りただ電波だったか。
なんだか他のスレでも電波飛ばして荒らしてるようだし。
>180
「市場に媚びた作品」という言葉、ちょっと興味が湧きました。煽りではなくて、
こんな作品この分野で書ける人がマジいるのかな、と。でも、もしいたら貴重だな
とも。こういう人はマジ応援したいです。
書道も大衆芸術化をもっと考える人が出てきたらいいのになと思います。
大衆芸術だって立派な分野なのにね。
この分野では「市場に媚び」る前に、「師匠に媚び」ている作品が問題なん
ですね。(苦笑)
それにしてもshodoka_aさんは、いつもこまめに書展へ足を運ばれるのですね。
その御姿勢にいつも敬服しています。これからも情報提供よろしくお願いしますね。
196 :
shodoka_a:02/02/11 18:27
単に書展好きなだけで、お褒めいただくほどのものでは…。周りの人が言うほど飽きな
いので楽しく拝観させていただいております。現代書も毎回観に行くと作家の成長が分
かって面白いですよ。
ちなみに、日本の書展のついでに東博に寄ってみました。東洋館は臨書特集。孝女曹
娥碑、十七帖、集字聖教序の拓本(と後世の臨書作品)が出ているので、晋唐ものファ
ンは必見です。特に孝女曹娥碑は小品ながら圧倒させられます。法書選を見て満足し
ていてはいけません。実物はすごい!
197 :
shodoka_a:02/02/11 19:28
>>195 > 市場に媚びた作品」という言葉、ちょっと興味が湧きました。
金田石城と池田満寿雄の両氏が対談した本の中で、石城氏が若い頃に1,000円で短
冊を売った話がでてきます。作家として食うなら、とにかく「売る」ことが重要であり、値
段はその次、と氏は当時考えたそうです。
書では幸い教えることで食えるので、あまり作品を売ることに重きを置かなくてもいい
のですが、仮に売ることを考えた場合(本当の意味で「作家」として生計を立てる場合)、
現実問題として、供給(作家)側のほかに需要(購入者)の側面を重視しないといけま
せん。媚びるという表現は適切でないかもしれませんが、1つの方法ではあります。
インテリアの書展や鑑賞を学ぶ講座など、最近はいろいろな工夫がなされています。
いい作品を書くことも大事ですが、結局のところ、書作品がほしい、家に飾りたい、と
思わせるような啓蒙イベントなり研究会などが、最終的には需要開拓の一助になるの
かな、とそんなことを考えたりします。
198 :
shodoka_a:02/02/24 03:14
少し前の書道美○新聞に、書道の展覧会で会場を暗くするとは何事だ、けしからん、
という読者の意見が掲載されていました。年初に和光であった毎日の有力書家の展
覧会を指したものです。個人的には非常によかったと思ったので、私はこうした見方
に批判的です。
ここの新聞に載るエッセーは雑誌「○」と同様に全般的に質の低いことで有名(?)
ですが、まあさまざまな意見も踏まえつつ、作家の方には会場にいろいろな工夫を
していってほしいと思います。
199 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/03/02 03:46
んー、でもしっかり見ようとすると、くらいのはいらつく。
雰囲気だけなら、そういう照明でもいいけど
>拝観させていただいております。
字を書く前に、言葉をもっと勉強してください。
201 :
shodoka_a:02/03/02 17:53
多忙につき謙慎展は無理かも。創玄展は回顧展を観たいのですが。
>>200 2ちゃんねるでのタイプミスにわざわざどうも。ご意見ありがたく拝長(笑)
>>201 ミスタイピングではありません。
拝観+させて+いただいて+おります
過剰敬語にも程があります。
「拝観しました」とか「見ております」で充分です。
指摘されても気付かないなら、やっぱり日本語の勉強を先になさった方がいいんじゃ・・
203 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/03/02 23:07
くだらない揚げ足を取って何が楽しいの?
そんなことより書について語ってみなよ。
言葉尻をとらえて喜んでるだけの厨房じゃないところを見せてみな。
204 :
shodoka_a:02/03/03 02:42
まあまあ、日本語にも朱筆を入れてもらえる書道スレということで、ありがたく御勉
強させていただきたく存じますでございます。
>>199 雰囲気作りは重要な要素だと思いますが、暗くしてしまうと確かに墨色など分かりに
くいかもしれません。見せる方法を考えることも大事だと思うのですが、照明や会場
設営についてもっと意見ないですか。
ところで九州にも国立博物館ができるそうですね。書のひときわ盛んな九州ですが、
書作品の収蔵品はいかに。九州には中国や韓国からの旅行者が多いと聞きますので、
中韓の書も数多く入るといいですね。
http://www.pref.fukuoka.jp/somu/01b110201.htm
205 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/03/04 00:53
200はfj住民
206 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/03/04 22:44
じゃあ
参拝させていただいております。
書道の臨書に付いて、気が付いたこと。
臨書するなら、オリジナルの字の大きさ、使った筆の形(大きいか小さい 太い細い長い短い
硬い柔らかい)、立って書いたか 座って書いたか、姿勢はよかったか 猫背か
右利きか左利きか、おおらかな筆使いか せこいか 几帳面か ぶっきらぼうか
慌てて書いたか、ゆったり書いたか、
紙は生か熟しか、繊維が細かいか粗いか 絹本か、墨はねばいか さらさらか
とにかく、いろいろ注意してしっかり鑑賞してから
始めると、楽です。
イタチの毛の小筆で書いた法帖を、羊毛の太い筆で書くのと
力の入れ方や癖のまねの仕方も、ぜんぜん腕の使い方が変わってくるので
臨書しても意味が無いかも知れません。
臨書するってのは、しっかり鑑賞する上で 書きはじめないと何をしてるか
わけが解らなくなってくると思いました。
208 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/03/07 04:44
柿沼康二さんも一日5時間くらい臨書をしてるそうですね。
自分もはじめようかな。>臨書
209 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/03/07 08:14
毎日じゃ 無いと思われます、1日5時間臨書する時もあるって
ことじゃないかな
このあいだ 収録に時間のかかるテレビに出てたし
その後か 前に 5時間も時間とれないって。
しょどーかってHKなの?
211 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/03/08 09:04
HKってなに?
212 :
麻姑ちゃん:02/03/14 14:01
『墨』の最新号(たぶん…)は面白かったです
いろんな先生方の「臨書観」が比較できて…
それにしても○飛先生って
○のもんたにソックリ!
213 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/03/21 20:58
はらぐろさもそくり
age
倉庫行き決定
くだらんこと 書くからだ はやくなくなれ
216 :
DQN書家:02/05/09 17:39
初めてこの板に来ました、、、もう誰もいないのかな?
関西でかの著名作家の元にいます。
、、といってもまだご飯が食べれるレベルではなく、
おまけに失業しちゃってへこみ気味。。。
ここで語って奮起したひ。。。。
217 :
DQN書家:02/05/09 17:52
なんとなくしばらくレスが付きそうな気がしないので、
一人でウンチクしてます。。(笑)
私が書を始めたのは今から18年前です。
最初は公民館の「習字」でしたが、
私の能力を見込んだ親が(根拠はない)、今の教室に
変わらせてくれたのが、中学にあがる時でした。
けど、大分長い事ブランクがあって、、、
つまり、いい加減にしてきたんですよね。先生も誉めてくれてたってのに。
今回リストラされて、自分には何も出来る事が無いんだ、
と自信喪失した時、目に入ったのが筆と墨だった。
仕事も全然見つからなくて、ヒッキーみたいになっていく中で、
筆が本当に私を支えてくれています。
お稽古も真面目に通い始めました。
どこへ就職活動をしに行っても断られて、疲労感が蓄積していく中で、
書だけは私の味方、慰めてくれるもの、と思っています。
先生が著名な方なので、チャンスを信じて頑張りたいです。
私をこれほどまでに助けてくれた書に、恩返しがしたいな、と思ってます。
218 :
DQN書家:02/05/09 17:53
そして、、、
同じように書を志す方々に何か書いて欲しひ(笑)
219 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/05/09 21:32
>>217 書道塾の場所を調べて、人口や子供の数に比べて、教室がない所で
教室ひらけば?なんとかなるって。
団地の近くとか、住宅地の近くなど、子供相手だと習字を教えると言うより
しつけるって感じかな、先生の出してる小冊子を使って、
作品を提出してもらって ちょっとづつ級をあげて、ほめてほめて おだてて
良い気持ちにさせてあげて、、、、
楽しく習字って感じかな。
220 :
DQN書家:02/05/09 23:55
>>219 今はまだ教えるとこ迄は考えて無いんですよね。
ブランク埋めるのが先でして、、、それに、やっぱし先生に黙って
勝手な事は出来ないし、、それを不自由に思った事はありません。
好きな事ですから。。。。。
221 :
DQN書家:02/05/10 11:09
今日もお恵子開始です。誰か書き込んで下さい、リバイバル書家板!
222 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/05/10 14:00
>先生が著名な方なので、チャンスを信じて頑張りたいです。
先生が著名でないと、チャンスはないのか?
それじゃ、私は無理だ。
でも、そんなチャンスは欲しくないな。
223 :
DQN書家:02/05/10 20:32
>>222 あの、別に著名な方に付かないと望みはないなんてつもりで言ったんじゃないんです。
すみません。。あの、どういった方ですか?良ければ教えて下さい。。(^-^)
224 :
DQN書家:02/05/11 09:45
今日はお稽古日。朝から筆ならししとかなきゃ。。
225 :
DQN書家:02/05/11 09:56
しかしあれだな、一人で喋り続けるのも変だな…(笑)このスレって続けていいんだよね?
前は沢山来られていた様だけど…
226 :
DQN書家:02/05/11 10:05
しかしあれだな、なんで過去にはかなり書をやってます、みたいな人が
来てたのにさっぱりになったんだ?(笑)
227 :
DQN書家:02/05/11 23:36
今日は稽古日。今やっているのは仮名と細字(さいじ)の勉強です。
仮名は右への揺れ、細字は、お手本毎の特徴を掴め、と言われました。
心を新たに頑張りたいですね。
書を志す方々は、どのようなお稽古をされてるのかな?聞きたいなぁ…
228 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/05/11 23:54
じゃあ
草書は楊州八怪の黄慎のけっこう好きです
行草は蒲華
篆書は呉昌碩
をよく臨書してます。
229 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/05/11 23:55
紙がもったいないので
とりあえず
毎日 昨日の新聞紙を使っていろいろ臨書して
無くなったら終わり。
って練習かな。
230 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/05/12 00:04
書の白と黒の美しさにはまりかけています。
ところで楷書から練習したいのですが、
模写(っていうのか)するのにおすすめの書家さんなど教えて。
231 :
DQN書家:02/05/12 10:59
>>228 篆書以外は手元に手本がなく、どういう作品か判らなかったのですが、
見たところ癖のないスタンダードなもののようですね。呉昌碩の篆書、清々しく美しい。
私のところは、篆書、隷書は殆どやらないです。大体それ以外の三体を小学生
は楷書の四文字(先生の書かれた手本のコピー)、中学生は同様に行書、そして高校生に
なると仮名基礎から、三体の臨書をやります。
確か…虞世南・王義之・ちょ遂良(漢字が無くてごめんなさい)、辺りからです。蘭亭序や孔子廟堂碑等から入ります。
232 :
DQN書家:02/05/12 11:13
>>229 習いに行かれてるんですか?紙は確かにバカになりませんね。改めて紙を大切に
使うことを学びました。私意見ですが、紙はお使いになられることをおすすめします。
筆ならしや字形の稽古なら新聞紙で十分ですが、滲み具合や白と黒のコントラスト、
スペースに合わせた練習等は半紙なんじゃないかと。紙問屋さんなら、千枚単位で格安です(^-^)
>>230 これまた私意見ですが、今まで見た中で一番基本稽古に適してると思ったの
は通信教育です。「日本書道協会」の「現代書道講座 本科」
という冨田翠江先生の講座はいいと思いました。
233 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/05/13 00:36
>>228 私の勝手な解釈かもしれませんが・・・
宋時代以降の書家のものって、王羲之や顔真卿の踏襲だったり、あるいは妙な習気
が感じられて、どうも好きになれません。作品を作る際に、文字の崩し方などを書
道字典に出ているような範囲で参考にしたりはしますが。石鼓文を臨書する際に、
よく見えない文字について呉昌碩の臨書を参考にしたり。
私が臨書で習うのは、
草書は王羲之の尺牘か、書譜あたり。
行書は王羲之・顔真卿・空海・太宗など。
楷書は顔真卿まで。唐楷はもちろんですが北魏の造像記や隋あたりの墓誌銘なども。
篆書や隷書はそれぞれ成立した頃のものを。
といった感じです。
初心者が楷書を習う場合、初唐の物より隋あたりの墓誌銘が私的にはお薦めです。
少しクセがあるけれど、点画がはっきりしていて見やすい物が多いのと、必要以上
にテクに走ってないところがいい。三大家の書は完璧すぎて、最初のうちはいくら
練習しても全然上達した感じがしない。最初のうちに墓誌のクセに対応することで
あとから三大家の書にもすんなり入っていけるような気がします。
こんな私に、明清あたりの書の魅力について語っていただけませんか?
234 :
DQN書家:02/05/13 06:55
すごいですねぇ…習うところによって、全く違う教材や教え方…自分の世間狭さが良く解ります。
私はイワユル習字から入った人間なんで…今の教室になってからは、
先生の書かれたお手本ばかりだし、とにかく年を重ねる毎に三体は余り練習しなくなってます。
多分風信帖すらかじったかかじってないか位…こういう伝統のある芸術は、
まず古典を、は定説なんで私も更に学びたいな。特に余り中国の古典を知らないと言う点もウィークポイントかなと。
多分先生の作風が仮名芸術の流れを汲み、代々そういうお家だというのも大きいんだろうな。
235 :
DQN書家:02/05/13 07:29
>>233 。。。という訳で私は明清の書の魅力に関しては、
漢字の御稽古を余りしていないので無理みたい。
他に、漢字を良く御存じの方意見キボンヌ。
皆さん、どんな書籍を手元においてお稽古なさってますか??
是非知りたいです。
236 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/05/13 08:19
中国での 書の勉強の仕方は、子供の時まず篆書から 勉強して
隷書 楷書 行 草 と、書の成り立ちの歴史をなぞって
勉強しているみたいです、篆書だと字の上手い下手がめだたず
絵のようなので 楽しく筆になじむとこから入る様です。
筆力もつくし、ぞうほう 逆筆も身に付くし、なるほどなって感じです。
237 :
DQN書家:02/05/13 08:27
そうなの?すごーい!!知らなかった…合理的だよね、ウン、ホント。日本は平がなもしくは線から、、うーん(ワラ
238 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/05/15 23:32
中国では初等教育から毛筆を芸術として
教えている。
それにくらべて、わが日本
「硬筆の基礎としての毛筆」。
中途半端でよくわかんないよね。
既に実用の品ではなくなった伝統文化を、
必死で学校教育に残そうとする、
悲しい現実がそこにある感じがしますね。
いっそのこと毛筆の授業をなくしてしまったら
すっきりするのではないかな。
239 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/05/26 01:01
age
240 :
くらこっと:02/05/28 13:34
このスレ、生き残っていたんですね〜。
書に恩返しっていうのがいいですね。書でたくさん稼げるようになるのが、
一番の恩返しと思いますので、がんばってください!
墓誌銘のお話は納得。
やってみようかな……。
241 :
joseph:02/06/15 11:11
私は魏の造像記群が好きですね。
あのヒリヒリした鋭さがいいな。
九成宮も好きだけど。
>>35 思うに、音楽と書との類似点って、それを鑑賞する際の
我々の側の内的な時間のあり方なんでしょうね。
というのも、書を見る時間は、書く時間でもあるからです。
つまりその作品を見ながら、その文字を、内的な筆で
なぞるかたどるかしていますよね。
音楽も、それを聴いている際によく注意してみれば、
自分が一緒になってそれを歌っているのに気付きますよね。
鑑賞することが、一つの創造になっているんではないでしょうか。
一方、絵は、それを見ながら、我々の内的な筆をとって、その絵を
描き直しているわけではない。むしろ、その全体の構成が
一気に与えられて、それを捉える方がよほどの「かなめ」である
(このような意見には、大いに反論の余地がありましょうけれど)。
例えばレオナルドやアングルなどの絵には、ほとんど「ふであと」が
見られない(実際彼等はそれを消す努力もしていたようですが)けれど、
あれは時間(の流れ)を封じ込める効果をもたらしてるように思えます
(制作にかかった時間じゃなくて、作品の中の時間、のことですが)。
磨きあげられた大理石の彫刻もそうなのでしょうが、
あれらの一瞬の表現は、「ふであと」や「のみあと」の
なさにその成功の一つの原因を負っているように見えます。
243 :
DQN書家:02/06/24 15:18
久しぶりです・・・
少しでもレスが進んでますね、嬉しい。
まずは
>>240 くらこっとさん、ありがとうございます。
今は職も決まり、今度は仕事を爽やかに続ける上での支えになってくれています。
そしてそして、今までは普通に大先生が書いたのをコピー機で印刷した、
言っては悪いですが全然濃淡や筆跡がわかりにくいお手本でしたのが、
大先生の息子先生(つまり今習ってる方ですね)の直筆手本に変わりますた。
ちょっと出世したw
今までは仮名と漢字の能力の差が余りにも激しく、
目も当てられないほどでしたが、今はほんの少しだけましになって、
毎日コンスタントに細細とですが稽古し、お稽古にも通っています。
何十年経ったら、「描く書」に辿り着けるかしらん。。。。(遠い目)
244 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/07/20 16:53
國井誠海って方はどうなんですか?
245 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/08/20 20:16
あちこちで宣伝してる東博の西川寧展をみてきた。
例えば、東京オリンピックの体操の演技を見てるような雰囲気。
→当時は斬新ですごかったんだろうけど、いま見るとどこもぱっとしない。
誰か行った人いる?
246 :
くらこっと:02/08/21 08:44
>>245 そのすぐ後用事があるにもかかわらず、見に行ってしまいました……。
全然じっくり見られなかった。もったいない。
私の印象は、ぱっとしないというほどではなかったです。
今はいろんなことやる人がいますからね〜。でも、西川さんはやっぱり
底力が違うような気がするな。
247 :
くらこっと:02/08/21 08:55
>>243 さん
直筆のお手本、おめでとうございます。
書作品って(まあ書に関わらずですが)、ライブ感がとっても大事です
よね。それがあるとお手本といえど見ているのが楽しくなってきて、
練習するにも励みになろうというものです。
>>241 さん
書って、絵や写真よりも切り取る時間帯が大きい気がします。
今その一瞬を残そうとした西洋絵画がものすごく写実的なのはむべなるかな。
それはある意味神様への傾斜であり挑戦であったような気がしますが、
書は筆が紙にのろうとする瞬間から、離れてながれてゆく瞬間までを切り取り、
残そうとする。どちらもそれぞれに、面白いところがありますね。
248 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/08/21 17:06
>>245 本館に飾ってあった青山杉雨が良かった。あれを収蔵した東博はさすがって思う。
西川展平日に逝ったらガラガラだったぞ。客は入ったのだろうか?
250 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/08/24 22:44
age
251 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/09/02 13:01
公募展って、出品者以外にはどういう人が見に行くんだろう。
田●文▲
はじめてココを知りました。最初から読まして頂きましたけど、
いろいろ勉強されていますね〜。
紙・筆・墨・・・など、相性もありますし、奥深いものだと思います。
皆さんは、関西系?関東系?どちらですか?
これからは、毎日書き込んでいきたいと思います。
よろしくです。
今月の芸術新潮 読んだ?
鉄斎の書っていいねー
今の書家となんか根本的に違う気がする
なんなんだろう。
私は、関西(大阪)に住んでいます。いろいろ専門店がおおくて・・・。
学生時代から某天満のお店で買っています。
↑
ここってマイナーなお店なんですかねっ?
>>255 駅前の額縁屋?紙なら天満橋のあそこかな?
257 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/09/11 10:21
僕はあめみや改めキョーワ。
でも、筆はとてもじゃないが買う気がしない。
258 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/09/22 14:29
書道とはちょっとスレ違いになるのだけど、他に良いスレが無いので。
今日の日経朝刊に日本書道協会の筆順字典ってのの広告があるんだけど、
婿の字の楷書、行書、草書の字が土へんになってる。なんか見ただけで
色々と間違いがあるんだけど、この団体ってDQNになっちゃったの?
>>258 「土」じゃなくて、「士」ですよ。つまり男という意味です。
字義としては「士」のほうが正しい。
260 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/09/25 05:33
261 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/09/26 18:50
「士」とはサムライのことを本来示し、何かあるものを司る行為をする人
言わばその道のスペシャリストのことをそう呼ぶようになった。
ある意味、美男と考えることもできるのであるが、
「男」と言う意味とはチョト違うんでないかい?259YO、と思うぞい?
262 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/09/27 01:31
>>261 確かに「士」単独の意味は、そのとおりでしょうが、
婿という字で使われる「士」の意味はそこまで限定するのですか?
婿はスペシャリストでなくてはならないのですか?
初めまして。これまで「書道の好きな方々へ」に顔を出していましたが、知らぬ間
にスレッドがなくなっていました。それでこれからは折に触れてこちらに顔を出さ
せていただきます。各人各様の見解があって面白く見ています。
かねてから小さなホームページを開いて、毎月新たなページを加えてきました。長
くなりますから、僕が何をしているのかはお手数ですがそちらをご覧ください。今
日、10月分をUPしました。Netscapeでは画面が崩れれるようなのであ
しからず。
ようやく酷暑から逃れて一息ついたところです。
9月中は廟堂碑拓本の書丹を探っていました。主に虞世南が習ったといわれる智永
の真草千字文とを並べて習いました。
その過程をHPに載せようかと思いましたが、読出すのにあまりにも長時間を要す
るので断念しました。
廟堂碑を真草千字文やこの時代の肉筆の用筆のように書いてみましたが、同じよう
にはなりませんでした。しかし、拓本は書丹とはかなり違ったものになっていると
いうことは間違いないようです。
研究者の研究成果は十分参考にしなければなりませんが、その一つ一つを自分でや
ってみることは勉強に不可欠の条件だということを痛感しました。
書は楽しく面白いものですが僕のような老人には、健康上はあまり好ましくないよ
うです。
僕のURLは下記のとおりです。よろしく。
http://member.nifty.ne.jp/HKJB/index.htm
>>258
婿はもともと士部に属する字、壻が正字です。土ではなく士が正解、壻は妻から見
た夫の義とあります。士はもともと戦士の階級。(字通)
265 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/01 10:20
誰か馬王堆木竹簡・帛書のいい図版がのってる本知らない?
266 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/01 10:29
>263
あるよ。
267 :
DD猫 ◆liLPqQr. :02/10/01 19:59
みなさん、文房四宝にはこだわりまふか?
>>267 私は特にこだわりません。
練習の墨・紙代で精一杯・・・
文房四宝の良いものを手に入れるにはお金がかかる。
しかも大事すぎて鑑賞用になってしまうという罠。
269 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/02 20:13
オレは毎日乾隆墨磨るけどね。
貧乏人に書はできないよ。
いやさぁ、文房四宝の仕事についちゃったもんで、
この期に書道はじめようかと・・・
展覧会のご案内
横田順展(沈黙の形)。
場所 東京銀座 小野画廊。
104−0061
東京都中央区銀座1−9−6、第2銀鴻rル2F。Tel。03−3535−1185
日時 2002年10月28日〜11月2日。
11:30〜19:00(最終日16:00)。
これは書か絵画か。
272 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/08 12:33
唐突ですが。書を音楽に喩える人って多いけど、伝統書(漢詩を書くヤツね)に関していえば、
歌みたいなもんなんじゃないかと。どちらも詩(言葉)を歌い上げるものだから。
んでね。すごい歌のうまい人は、ちょっとした台詞の節回しに、ホレボレさせる
ものがあるでしょ。フェイクかけながらも、発音が意外にきちっとしてたり。
なのでその辺のこまかい魅力にピンと来ると、はまるのだ。
だからあたしゃあ、前衛書とか、文字からはみ出したものはどうか?となってしまう。
歌でいえば、言葉にならん声を聞かされてるようで・・。んで書は芸術だのいう前に、
大衆の娯楽だと思うものなり。とくに明代以降の額とか条幅ものを部屋に飾るという
習慣は、現代で、お気に入りの歌をBGMで部屋に流すのと大差ない楽しみ方だと思いますけど
言い過ぎか?
273 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/08 13:17
274 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/08 21:08
>>272 生活の中に入り込んでこその芸術だ。
あなたのおっしゃることはもっともだ。
だがはたして書は、BGMのように気楽に飾られているだろうか。
生活の中に、入り込めているだろうか。
275 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/10 00:33
書をやってれば他人の書もすらすら読めるようになる?
なんてことはないよね
>>275 おいらのようなタダの横好きでも、行草が少し読めれば
意味はなんとなくわかります。で、読めなくても情感が伝わるのがある。
その佇まいがただならぬいい雰囲気のものがある。梧竹とか。わしはそれで満足します。
>>274 う〜〜ん。題材の形骸化が問題か、はたまた権威主義のせいか・・。
それともわれわれが漢詩文化を捨てたのがそもそもの間違いか・・・。
漢字書の表情が好きなのでなんともいえないが、やっぱり指導者は、
伝統芸能などと権威ぶらず、娯楽と捉えた方が、よい作品を生むことになるとおもいます
あの碑学研究の第1人者、西川寧ですら、「だれか女子高生の書く文字(まる文字:当時)を、本気で
研究したらどうか?」と書道全集に書いていた(確か)。つまりリアルタイム
の芸術を志向してたわけで、彼の古典研究はあのボリュームをしてあくまで自作の
手がかりだったと思う。作品も現代の人に訴えるものをもっていた。題材は古文でも。
ただ権威はやはり権威ということで。それで飯食っている人にはいろいろあるし。
それは昔もあったと思います。それに本当に大衆すべてを相手にした芸術はつまらないですよ。
わしは国民的スターになった歌手は応援しない。カレーライスの旨さを力説するようで甲斐がない。
納豆なら力説できますが。
277 :
272(喩え魔):02/10/10 03:29
くどいけど、つけたし。大衆の、好きな人と、通じる人だけの(オタとよばないで)
ちょっとお洒落なたしなみ。これが理想ですよね。
ゴルフも一緒か。もとはといえばそういう位置付けなのに、
プロゴルフとか、接待とかに使われると、お洒落とはほど遠い世界に。
接待ゴルフは、させる人の幼さが諸悪の根源。きっと書道も、取り組む人の心構え
ひとつですよ。もとい、余裕がないと、できないのね〜・・
278 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/18 13:37
>276,277
わかるけどね。
実際、微妙なところですね。これは書道に限った話ではないでしょうが、
芸術の大衆化というのは、それだけその「芸」で飯を食える人が多くなる反面、
長い永い時間を経ても人の心に残るような「作品」はかえって生まれにくくなる
かもしれない。悪貨が良貨を駆逐してしまうようなところが、大衆的人間には
あるからね。
でも、人の生活をまるで無視したかのような「芸術」も、それはそれで問題なの
ではないだろうか。そういう意味で生命力を感じることが出来なくなった芸は
形式的・教条的になり、やがて廃れていくことでしょう。
僕の理想的には、カレンダー(どっかの粗品でもらってくるようなものではなく、
もっとインテリア的な使い方ができるもの)とか、普段持ち歩いている手帳の表紙
などに、わかりやすいかたちで書が活用されている……なんてのがいいな。
生活のさりげないところに、書があるといい。
そんな書が、もっと世に出てくるといい。
279 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/19 00:40
syodoka A さん、元気かなあ。
280 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/19 07:28
>279 元気だよ
趣味一般板から来ました。
マタ−リと書道を勉強している者です。
こちらも面白いですね。ちょくちょくお邪魔させていただきます。
>>263 HKJBさん
趣味板の書道スレ健在ですよ。
そちらへの書き込みがないのでどうしていらっしゃるのかと心配してました。
最近お金に関する話が多いので厭になっちゃったのかなあ?とか、いろいろ。
おまけにそっちに「HKJBさん、元気かなあ?」なんて書いてしまって・・・
失礼の段お許しくださいませね。
283 :
squal:02/10/23 01:01
始めまして。私は高校で書道を専門に学び、大学卒業後、学科では書道が専攻できなかったため、履修生として書道学んでいます。
書道に関するお仕事に就きたいのですが、中々情報がなく困っています。
どなたか、これなら書道と関われるという仕事を知っている方いらっしゃいませんか?
折角学んできたので、書道を生かせる仕事に就きたいのです。よろしくお願いします。
284 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/23 01:08
僕の母さん書道家です。
285 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/23 01:51
筆絵みたいなん描こうと思ったら結局仮名書道はやらにゃならんと気付いて
今毎日いろは歌を書くのが日課になってます。書画一致とはよくいったもんだね。
筆絵に限らず線に拘るなら書道は格好良い線引き能力の養成ギプスだわ。
286 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/23 08:32
書道で飯を食う、一番てっとり早い方法は、書道の教職に就くことだろう。
287 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/23 13:28
時代は変わったんだよ。書道の教職なんか求人が年に数人しかないんだよ。
288 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/24 00:33
確かに・・・書道の教職は厳しい。唯一書道の専門で募集している埼玉県は年に約一人採用です。
しかも、書道は、埼玉県の私の卒業高校のある先生が権力を握っているので、卒業生優先の状態です。
そして、お気に入りの教え子、実力、年の順番も関係ある・・・
埼玉県内では、はっきり言って、ある高校を卒業すれば教職に断然有利(例外もありますでしょうが)。
埼玉県立の高校ですし、教育の場と教育委員会が繋がっているので。
これから一層、実力ある生徒がその高校から輩出されますから。
はっきり言ってしまえば、高校から専門で技術は勿論、学術に関しても専門的に学んでいるので、書道に力を入れているD大学にほとんど推薦で入ってしまいます(日文・中文・書道にクラスに3分の2以上)
所詮コネの世界です。
289 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/24 02:05
書道で飯は食えないでしょう、うちの母は20年前は生徒が200人位いたけど今は10人位だよ。
290 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/24 03:43
>>289 そうそう、昔は書道教室って子供の習い事として結構人気あったよな。
なんでこんなに廃れちったんだろ?
291 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/24 11:58
フフ、俺は教員採用されたぜ
292 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/24 12:35
運いいですね。でも、採用されるのに何年かかったんだろう・・・
普通高校の書道教員は、1高校に一人くらいだと思うので、派閥とかはないだろうけど、生徒にそういうのを押し付けないで下さい。
結局、迷惑なのは生徒の方。純粋にやりたいのに、教師のせいで潰しちゃうのですから。
ひいきが成績に出てしまうような事、日常茶飯事でした。それで、嫌になって卒業後、全く書道に関わらない進路を選んだ人もいます。
教育委員会も、そういうのがはびこっていると思うと、本当に腐ってるなと思いますよ。いや、教育全体が腐っているのか。
どうにかしてほしいものです・・・
293 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/24 12:50
知り合いは結構、教職してるけど。
あ、でも講師って扱いなのかな。
作品売って食える人はまずいないし、よっぽど運が良くないと、教室の先生として
も食ってゆけないだろう……。
ああ、大変。
294 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/24 16:30
A県の場合、書道は芸術ではない。後に教頭に出世した主任がそう言ってた。それから、
「教育に芸術は必要ない」との事。後に校長を経て今年H市教育長に出世した教頭がそ
う言ってた。また基礎指導は全県規模で禁止されている。例えば平仮名単体を読める様に
してはならない。もちろん、「どうすれば誤字にならない様に書けるか」の指導も禁止。
高教研で何人かの書道担当教員に聞いてみたら、どこの高校も皆そうらしい。書道教員採
用試験は二十年以上実施されていないので諦めている模様。書道担当の指導主事も専門外
の人が片手間に受け持っているだけだから、要望したって無駄になる。
通常、書道の指導は国語教員が代行する。実技試験は完全免除、専門知識も選抜対象外。
まともなやり方なら、国語専攻で書道の免許を持っている人の方が書道科卒業生よりも有
利になる。ただしコネを使う場合は話が別。採用試験がないから人材不足は慢性化してお
り、秋冬になると県教委は独自に人材探しを始める。ベテラン教員に電話して、教え子や
社中の知人を紹介して貰う。そうして講師が決まる。免許保持者が見つからない場合は教
育職員免許法で許されている奥の手、臨時免許状を交付して間に合わせる(県内の教育機
関全体では、年間百名交付の実績あり)。これで最長六年間が安泰となる。県教委の説明
によると、これはいわゆる「地域の人材の活用」だから、地元ではむしろ大歓迎される。
社中の勢力分布は三つか四つくらいで、それ以外の書流は入り込む余地がない。
295 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/24 16:31
国語で採用された書道担当教員が国語的に教える事(学習指導要領の文言では「国語と
の接続」)を重視していると思ったら大間違いだった。あくまで「書道は読めない」とす
る常識の維持・教育が前提のため、影響は国語それ自体の中身にも丸ごと波及する。校長
曰く、「読めないものは教えるな」と。〜A県では英語教員の勢力が強い。漢字は悪魔の
文字であり、書道に至っては戦前の精神主義に加担した諸悪の元凶だから論外。書道担当
の国語教員は、大学で古文書学を学ぶだろう生徒に対する基礎指導すら禁止されている。
国語には踏み込むな、という訳だ。ここで国語教育の正体が明らかになる。そもそも国語
は明治以降の共通語政策が前提だから、それ以前の「筆文字の時代」は対象外となり「読
めないから教えるな」が正当化されるのであった。前記H市にある国立大学でも、書道
担当の教授はかなり前に絶滅した。
昨年、この件に関する投書が地元紙に掲載された。その影響だろうか、今年は二十三年
ぶりに書道教員採用試験が実施された(代わりに美術の試験が消えた…音楽・美術・書道
の芸術三科目間で、採用枠をめぐる共食い紛争が勃発?)。しかしまだ、基礎指導禁止慣
行は相変わらず生きている(「教育に芸術は必要ない」)。ちょうど実技試験復活と引き換
えに、国語との絆が完全に断たれた恰好で、「平仮名を読める様にする」指導はいっそう
困難になった。情報ある者は、書道教員採用試験の採点・選抜メンバーに注目されたし。
最後にクイズ。A県H市にある国立大学の名称を答えよ。
(ヒント/国立三大学教育学部統合には積極的。相手校の一つには書道科がある。)
296 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/24 16:37
鑑賞板と趣旨は違うけど、おもしろくなってきたので許す。がんがんやれ。
298 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/24 17:59
>>297 嫌だよーん(これ以上書いたらヤバイ)。じゃ、鑑賞板らしい話題にこじつけよう。
文字意識なし鑑賞は書道を前衛芸術に変える。線の芸術、凍れる音楽、読めなくても分
かる人には分かる伝統芸術。これじゃ「分かり方」自体が才能任せの頓悟主義で、「読め
る」所から始める「漸悟」型の人は初めから排除されているのと同じ事。書ける才能と分
かる才能の混同。読める才能は「教えなくても読める」自己学習力の精華となる。これこ
そまさに、教育の放棄から成る「ゆとり教育」の実態。過去百年の書道教育の歴史を見れ
ば、「ゆとり教育」の行く末が分かる。
仮に〜分裂的な書の鑑賞を正当化するとしよう。視覚的な美だけを求めるなら、書道展
はむしろ誤字作品に寛容であるべきではないのか。敢えて「漢字らしさ」のある非漢字で
確信犯的作品を出品し、書から言語芸術としての側面を撲滅するべきではないのか。尤も
私は、本気でそんな事を考えている訳じゃありませんけれどもね。
でも…漢字それ自体の創作・作品化は面白かったなあ。誰にも読めない書を、ひたすら
美しく書く。結局「草書もどき」にしかならなかったけどね。明朝体活字の臨書には飽き
た。披麻皴とか芝麻皴とか米点とかを駆使して、山水画にトライした方がよほど面白い。
299 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/24 18:05
誤記訂正。二行目「文字意識なし」→「文字意識なき」
300 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/25 02:04
関西の学校も若いのより年寄りを先に雇う傾向にあるな。なんとかしてくれよ。
301 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/25 07:36
302 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/25 16:39
全日本高等学校書道教育研究会調査「公立高校書道専任採用試験実施状況」(△印は実施状況不明)
…年度‖五九|六〇|六一|六二|六三|平元|平二|平三|平四|平五
北海道‖…△|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×
青森県‖…△|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×
岩手県‖…△|…○|…○|…△|…○|…○|…△|…△|…△|…○
宮城県‖…×|…×|…×|…○|…×|…○|…×|…×|…×|…×
秋田県‖…△|…×|…○|…○|…○|…○|…×|…×|…×|…×
山形県‖…○|…△|…△|…○|…×|…×|…×|…×|…×|…○
福島県‖…△|…△|…△|…○|…×|…×|…△|…△|…△|…×
茨城県‖…○|…○|…○|…○|…×|…×|…×|…×|…×|…×
栃木県‖…○|…○|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×
群馬県‖…×|…×|…×|…×|…×|…×|…○|…×|…×|…×
埼玉県‖…○|…○|…○|…○|…○|…○|…○|…○|…○|…○
千葉県‖…○|…○|…○|…×|…○|…○|…△|…△|…○|…○
東京都‖…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×
神奈川‖…×|…○|…△|…○|…○|…○|…△|…△|…×|…○
新潟県‖…△|…×|…×|…×|…×|…○|…△|…×|…×|…×
富山県‖…△|…○|…○|…○|…○|…○|…○|…○|…○|…○
石川県‖…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×
福井県‖…○|…○|…○|…○|…○|…×|…△|…○|…○|…○
山梨県‖…△|…×|…×|…×|…○|…○|…×|…×|…○|…×
長野県‖…△|…○|…○|…○|…○|…○|…○|…○|…○|…○
岐阜県‖…×|…×|…×|…×|…×|…○|…×|…×|…×|…×
静岡県‖…○|…○|…○|…×|…○|…○|…○|…○|…×|…×
愛知県‖…△|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×
三重県‖…△|…○|…×|…○|…×|…×|…○|…○|…×|…×
滋賀県‖…△|…×|…×|…○|…○|…×|…×|…○|…○|…○
303 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/25 16:41
…年度‖五九|六〇|六一|六二|六三|平元|平二|平三|平四|平五
京都府‖…△|…○|…○|…○|…○|…○|…○|…△|…△|…×
大阪府‖…○|…△|…△|…○|…○|…○|…○|…○|…○|…×
兵庫県‖…○|…○|…○|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×
奈良県‖…○|…○|…×|…○|…×|…×|…×|…×|…×|…○
和歌山‖…△|…×|…×|…×|…×|…×|…○|…×|…×|…×
鳥取県‖…△|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×
島根県‖…×|…×|…×|…×|…×|…×|…△|…△|…×|…×
岡山県‖…×|…○|…○|…○|…○|…×|…×|…×|…×|…○
広島県‖…△|…△|…△|…○|…○|…○|…○|…○|…×|…×
山口県‖…○|…×|…○|…△|…×|…×|…×|…△|…×|…×
徳島県‖…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×
香川県‖…△|…○|…○|…○|…○|…○|…×|…△|…×|…○
愛媛県‖…×|…○|…○|…○|…×|…○|…×|…○|…○|…×
高知県‖…△|…×|…○|…×|…×|…×|…×|…△|…△|…×
福岡県‖…○|…×|…×|…×|…○|…○|…×|…△|…○|…×
佐賀県‖…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×
長崎県‖…△|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…△|…△|…×
熊本県‖…△|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×|…×
大分県‖…△|…○|…×|…○|…○|…○|…△|…○|…○|…○
宮崎県‖…△|…×|…○|…×|…○|…○|…×|…×|…○|…×
鹿児島‖…△|…×|…○|…×|…×|…○|…○|…○|…○|…×
沖縄県‖…△|…×|…○|…×|…×|…×|…×|…△|…△|…×
…○計‖十二|十八|十九|二十|十九|十六|十一|十一|十三|十三
(情報源/『書道美術新聞』平成元年1月25日付、平成6年3月21日付)
304 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/26 00:14
労作あっぱれ!
305 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/26 00:14
一般的に言って、書道科生の教員免許保持者は、ほとんど国語と一緒にとっています。
というのも、ちゃんと教師からそう指導されている。(というより教職目指す人はよく聞かされるので、とるの当たり前)
その上、コネも強いのでかなりの有利。まぁー勉強しないとなれないが。
なるまでの間、講師の形で書道科で教えている。
でも、私的には、教師の下であれやこれやとこきつかわれ、土日返上で朝錬から部活終了時まで面倒見なければならないというのは嫌だな・・・
講師の先生を見てて可愛そうになるほどである。教育実習の時も、実習生は2週間休日なしの朝錬7時前から部活終了時までいなくてはならない。
その上、実際教えるのは2週間目から。そして、毎朝夕の先生への挨拶を欠かさないといけない。(注意される)
書道は完全孤立化し、他の実習生と交流が持てない。
書道科も今や教師が派閥抗争から1つになり、科展も単調。その上、派閥で弱い立場の教師は、もって3年、長くて6年。すぐにいなくなる。
その間、科内の中心教師のお気に入りの生徒は、対する教師に嫌われ、かなりいじめられた生徒もいる。ヒステリックな女教師もいたそうだ。実習生もかなりいじめられたそう。
その先生も、科内の中心教師にスカウトされてきたのだがね。なんとも生徒を振り回さないで欲しいものだ・・・
306 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/26 00:38
ある有名な先生につくと、どのくらいお金かかるのでしょう・・・?
私は、大学の頃からお世話になって卒業した今でもお世話になっています。
しかも、月謝とか払っていません。
書道って、色々流派とかあるけど、いいものはいいと素直に受け入れる事って大事なんじゃないかなぁー
年を取れば、頭が固くなる・・・これはしょうがないのかな。。。
307 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/26 00:50
>>307 そりゃあんた、大学を卒業した恩恵ってやつでしょ。
大学の先生なら多少なりとも未来があるんだから(ないかもしれないけど)
ただでついてきゃいい。
ある有名な先生につくとってか?
展覧会ごとに数十万、日展だと百数十万さ。
わかったかい、あまちゃん。
みんなそれだけ苦労してんだよね。
好きでやってるからいいんだけどさ。
308 :
な、なんだ?:02/10/26 02:32
ひょっとして3月末からいなくなったshodoka aが、書道講師になって辛酸なめたあげく、ここでグチをこぼしてるのか!?おいおい、どうせやるならかつての高尚(?)な議論に戻してくれよ
309 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/26 04:47
shodoka aさんと、のりさん元気にしてるかな?
310 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/26 04:49
のりさんと話がしたいな。
311 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/26 11:51
ここ来たけど、大変なんだ。衝動をやるのって・・・。
312 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/26 15:14
…305のは勉強になるなあ。でも、どうやら私が294と295で書いた基礎指導禁止環境
とはかなり違う様ね。実技の練習に熱心だと、そうなる事もあるのかなあ。
本来、基礎は書風・書流の差異を横断するから、先生同士がお互いに学び合っても問題
はない筈。例えば右卿系統の人なら、いったん天来や鳴鶴に戻ってから翠軒や信山を学ぶ
とか。天来の作品や書法観には翠軒の原型があるし、鳴鶴と信山の根底には菱湖系統の基
礎がある。基礎と云うより教養かな。千字文とか和漢朗詠集とかも含めるなら。
そうした点で、宇野精一『書香の家』(明治書院)は面白かった。書道はいつから書家
の専有文化になったの?
313 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/28 00:20
>>307さんへ
一応言っておきますが、305と306書いたのは同一人物の私。
有名な先生と言っても、ある大学の名誉教授です。その先生からはかなり指導して頂いて私は運が良かったとしか言いようがないですね。
若手を育てるのに熱心な先生でしたから。
現在の大学での書道レベルは、はっきり言って私が卒業した高校以下。
何なの一体!と言うぐらい、レベルが低い。お手本は講師が書いたを、仮名は拡大して書いてるし。。。
そして、私は反抗してる。
その上、大学では近代詩文書の講義がない。これじゃ、一体教師になったら漢字仮名交じりの書の時間をどう教えるんだ?
あまちゃんではないですよーすくなからず、高校から書道世界の汚い部分みてましたからね。
ある意味、大金払って習っている人って、一体・・・
その流儀に染まってしまえば、その世界しか見えてこない。応用が利かないのでは・・・?自分の創作したいものを自由に創作できないのはなんだか。。。
創作しても、結局その流儀止まりってことなのではないでしょうか。
やはり、ひたすら色んな古典を書くのが1番なのではないでしょうか。また。ろくに古典を練習してないのに、いきなりそういう流派の世界にはいるのも・・・?
ちなみに、私は書展では、古典しか出さない。まだ、自分は未熟者だしね。
>>312さんへ
私の高校では、普通科と比べて授業の半分は書道の時間が確保されています。そして、もっぱら古典の臨書。創作系は漢字の書や仮名の書の時間内で確保されたり、漢字仮名交じりの書、篆刻刻字、レタリング、作品装丁など、色んな授業を選べるようになっています。
時には、大学の先生や有名書家を呼んで講演会をします。ちなみに、かなり有名なトップにいる人たちです。しかし、講演に来る先生方は善意に等しいです。講演料は本当になきに等しいです。
流派などは関係なく、そういうのに染まらないようになっていますが、やはり教師によってそういうのがでちゃうんですよね・・・
でも、本当に古典の練習が中心です。あとは。書道史の授業や鑑賞、書道概論など書道専門の事や、書いている内容を把握するためにも、古典(漢文・古文)の授業があります。
しかし、大学進学のための最低限の普通科目のカリキュラムは組み込まれていますよ。
書そのものとはかけ離れた俗な話が続いてますね。
2ちゃんで愚痴る労力使うならもっとリアル世界でガンガレ。
ちなみに、私は書展では、古典しか出さない>そりゃ退屈な書展だね
316 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/28 02:20
312です。古典をやるのが当たり前という事は承知の上ですから、その点はご安堵を。
ただ、創作に限らず臨書の方も書き手によってずいぶん違いますから、「そういうのがで
ちゃう」事については色々とお察しします。
それにしても、なんちゅう高度な授業だ。私立かな? 本当は中学卒業までに変体仮名
や平易な草書くらいはそこそこ読める様になっていて欲しいし、千字文も一通り目を通し
て置いた方が後で楽できますよね。見方次第で感じ方も自ずと違ってきますから、古典を
学ぶ前の段階の方が遙かに重要と思っています(ここを戦後ずっと疎かにしてきたから、
書人ばかりが生まれて純然たる鑑賞者が不在になる)。
古典しか出さない書展が退屈なら、誰も故宮とか出光とか五島とかに行かなくなるだろ
うな。同じ欧陽詢でも天来、翠軒、信山、凌雪、泰雲、芳翠あたりを参考に書き分けると、
作例の準備自体がとてつもなく面白い稽古になるし、生徒の刺激にもなる。実際、張猛龍
碑の授業で用筆法の変化を各自選択させたら、面白がって西川式解釈の逆入平出を夢中で
こねくり回していた生徒もいたし。
墨は磨らせると時間不足になるから、仕方なく練墨五色選択制に切り替えました(これ
でも改善のつもりで墨液一色主義をやめさせたのよ)。こんな事やるから嫌われたのね。
生徒からカネ集めて、業者いたぶって半額一括購入したら学校売店のマージンが激減した
し。それに筆ペンで充分と思ってる書写・書道混同先生が大半じゃ、多勢に無勢だわ。
317 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/28 11:58
私が毎日書道展で古典しかださないのです。
初めの1回目は、近代詩文書出したけど、やっぱりね・・・
それ以降、仮名の古典しか出していない。
毎年入選し続けているけれど、やはり今はひたすら古典を書いて基礎を築きたい。
古典から、自分の世界を作っていきたいので。
>>316さんへ
一応、公立高校ですよ。全国で1つしかありませんが。色んな書の世界の視野を広げるにはいい所だと思います。
しかし、書道界の汚い部分も見せられるので。
そういえば、凌雪も講演会にきたよ。生徒の目の前で書きました。いつか平山画家を呼ぶって言ってたので、私も絶対その時見に行きます。
結構贅沢な体験もしてますね。中国にも、演習旅行でいきますし。ただし、希望者のみ。実物の古典の碑をみて、感激したなぁ。
もうすこし、注意しないと、ほんとうに葬られちゃうよ
319 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/29 09:36
320 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/10/30 11:48
11月のHPをUPしました。毎度同じようなものですがお手空きにご覧くださ
い。
相変らず書塾の問題が賑やかだが、なぜ書塾に齧り付いていなければならないの
か、不可解。王羲之も歐陽詢も書塾には縁がなかったはず、他人の手で自分の字は
書けません。勉強は自分でするもの、他人に依存していては他人の奴隷になるだけ
でしょう。
書を楽しみたければ、道具や紙、古典の手本や字典、参考書を一通り揃え、塾に
属したりすれば塾の月謝や買わされる物、展覧会の負担などを加えると、10年間
でトータルでは100万円は軽く超えるでしょう。本当に書をやれば書は決して安
く済むものではありません。もちろん安く上げようとすれば出来ますが、それでは
何のためにやっているのか無意味だと思います。
これまでの経験から私は最初は別にして特定のグループに長く属することには疑
問をもっています。印刷の発達した今日、古今の名跡を見て手本にすることが出来
ます。塾主宰者の下手な書のコピーを習わせる書家がいるとはどういうことなのか、
こんなところで何が習えるのか不可解です。1年か2年もやれば古典によって書を
勉強できる基礎は出来ているはずです。先賢のアドバイスを受けることは重要です。
しかしアドバイスはあくまでアドバイス、最後は自分でやるしかありません。出来
るかどうかは本人次第というほかありません。
くだらん>321
323 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/04 23:59
のりさん元気かなあ。
324 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/05 04:43
のりですが、何か?
325 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/05 13:08
そのパターンにも飽きたなあ。
326 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/06 18:24
書はどうやって見たらいいか分からん.手習いのことはいいから,美術館に飾ってあるへたくそに見える作品(と言っていいのか?)の鑑賞方法を教えてくれ.
327 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/07 04:34
鑑賞とは心でみるもの。
もし、感じないのなら縁がないというだけの話。
センスの問題だよ。
それじゃあ本末転倒だよ。
328 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/07 12:27
鑑賞マニュアルくらいつくれそうなものだけど、手習い向けのもの以外は見た事ない。
「鑑賞」を謳った何冊かの本も、結局は手習いに行き着く。テレビの新旧「日曜美術館」
や「故宮」はどう? 「日曜美術館」の、細川元総理の親父様(?)と中国人そっくりの
戸田禎佑先生が永青文庫蔵品の展覧会を解説してた回では、ペダンティックな要素をかな
り重視してたっけ。希望を出せば再放送してくれるかも。
文字として見る場合と絵として見る場合とでは、そもそも観点が異なる。昔風に云えば、
書画一致の感覚で見るのが基本になるのかな。
329 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/08 10:05
画を鑑賞する感覚で書を見ようとすると多分分からないよ。
330 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/08 22:22
一番簡単な鑑賞法は一画目から筆跡を丁寧に追っていくことです。
従って臨書は鑑賞の一種なのです。
墨象は文字ではないので絵画的鑑賞に切り替えなければ見えません。
読もうとしても観えない。
絵として観ると観えて来ない。
それが「書」ですな。
「書」と「書道」と「習字」は違うけど。
ちなみに私は書家です。
331 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/09 19:00
>ちなみに私は書家です。
(^^)もしかして「無名の」?
332 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/10 01:53
ぷっ。
もしかして「有名」とか「無名」で判断してんの?
あぼーん。。
そしたら一番の書家はあいだみつをじゃね。>>糞糞
333 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/10 10:39
「従って臨書は鑑賞の一種なのです」ってのは、確か比田井天来も云ってたなあ。最新
号の『墨』では、天来の孫娘も正しい事を書いてるし。
そもそも、「読めない書道教育」が書画の分断を国民的合意に仕立て上げている。筆脈
に溶解した視覚言語特有の記憶痕跡を楷書・行書併習段階(国語科書写)でみっちり仕込
まないから、文字意識は欠落するし、草書を当てずっぽうで読む手懸かりも失われる。平
仮名連綿は変体仮名の有無に関わらず全部ミミズ文字に見える。読めない神秘性だけが強
調され、「書は心」式の精神論が読解メカニズム抜きに独歩する。挙句の果ては「読めな
いからこそ美しい」式の倒錯に結び付く。「分からないから読めない」と「読めないから
分からない」が循環する。
やがて「たぶん読める筈」の感覚が解離状態の極限に陥った途端、書家は精神病者と同
然の扱いを受ける様になる。変人ぶりを嘲笑された岡本太郎の方がまだマシになる。フラ
ンス語を操りショパンを弾いた太郎を知るに及んで、書家は客観的かつ相対的にもう一方
の極となる〜つまり名実ともに言語新作する分裂病者となる。他者にとっては、意味を持
たないシニフィアンこそが書道芸術であることになる。ここまで来れば、前衛書と墨象は
恰好の口実になる。どう足掻いても「ほら見ろ、やっぱり病気だ」、となる。
「精神異常者は隔離しろ。」〜これが学校教育の常識。
>332 過去ログを読むと331の真意が分かる。。。はず
335 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/10 12:15
>>333の方が言うとおり、書の鑑賞に欠けているのは「書は心」式の精神論
からの脱却でしょうね。
ただ、初等・中等学校の書道/書写教育に何を期待してるのでしょう?その
段階で文字意識の欠落や、草書読解能力の欠如が問題になるとは思われない
のですが。
逆に、大学教育における書の指導方法に疑問を呈している人がいましたが、
大学教育ではむしろ書史についての体系的な理解、鑑賞を含めた書のあり方
についての思考を深化させることが重要なのではないですか?
問題は、書道関係者に抽象的思考能力に長けている人が多くないことだと思
うのですが。(だから精神論が跋扈するのでしょうが)
336 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/10 13:50
〉332
ぷっ、ちゃんと過去ログ読んでから投稿しろよ。
マナーってやつだぜ!
337 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/10 14:01
〉335
〉問題は、書道関係者に抽象的思考能力に長けている人が多くないことだと思
うのですが。(だから精神論が跋扈するのでしょうが)
全く、精神論唱えてるだけまだいいほうだよ。
字書き養成所と化している今の書壇の現状では、思考さえ統制されてしまうのだから。
また、たとえいくら理論武装しても、実践と連動しなければ空虚なもの・・・
338 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/10 14:57
書家はみんな看板屋。
理論とか芸術なんて関係ないもんねー。
339 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/10 20:37
>書家はみんな看板屋。
別にそういう考え方があってもいいと思うんですよ。ひたすら書くことが楽しいっ
ていう人がたくさんいるんですから。でもそのことと、書の歴史的評価を行うこと
とはまた別のことです。結果として、書を客観的に評価する方法を確立することが
広い意味で書を発展させることに繋がるのだと思います。
340 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/11 19:57
>>335 333です。私の云う文字意識の欠落とは、要するに「行書が読めない」って事です。行
書が読めるなら、草書も初見でかなり読める様になりますよね。だから仮名と漢字も、来
歴において同一視できる様になる。敢えて分けて学ぶ必要はなくなる。学ばなくても当て
ずっぽうで読めるんだから。草書読解も行書読解も平易なものはほぼ同じ。平易な草書の
読解能力がないって事は、行書が読めないって事。行書読解能力の欠如が問題にならない
とは思われないのですが。
抽象的思考能力の基礎があれば、草略原理の発展的学習は自ずと行書・草書・平仮名の
等価性を導く様になる筈。また草略原理それ自体も、楷書学習段階における筆順指導を発
展させれば自ずと変形生成に向かう筈。
341 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/13 00:50
みなさんの言うとおりですね。
行にしても草にしても昔の誰かさんが使ってたんでしょ?
それが現代ではミミズ。しかし、ミミズがゲージュツ?そこですよ。
書をお稽古事で終わらせるか、芸術的観点で見据えるか。
草書を読めるようになると考えるのなら書は伝統継承に過ぎません。
もし、もっと力入れるなら原点(中国ね)を見直すべき。振る返るべきよ。
根っこから離れすぎ!
例えば前衛みたいなモノをアートとして見るなら伝統は関係ないです。
ま、前衛をそこら辺の厨房にわかってたまるか!といった感じですけどね。
これからは前衛書はもっと現代アートととして確立していくべきですよ。
今の形で止まったままじゃないですか。
(伝統継承とは別路線でね。)
前衛に関して言えば、結局、裏付けが必要ですよね。
その裏づけで外人さんが理解してくれればもうこっちのモノよ!
欧米人に漢字を感じろ!(シャレじゃねーよ)といっても所詮は無理な話。
そこを切り開けば書にも未来があるんじゃない?
ところで、前衛の方います??
>341
話そらすな。
それから、前衛が裏づけを持ったらそれは前衛でありえなくなる。
「確立」したら「止まっ」て当然だろうが。
それから言い忘れた。
そこら辺の厨房には線を引くのに、外人さんには理解してもらいたいってか?
えらく権威主義的な前衛だな。(w
344 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/13 10:15
>>343はどう考える?
無くなることはないにしても未来のなかで大きくなるか、小さくなるか?
大きくするにはどうしたら良いか?
学校教育は学校教育法や学習指導要領その他の法令、文部科学省の通達などによ
って規制されている。高校は就業年数僅か3年、それも多くの高校が大学受験の予
備校と化している。
高校における書教育は芸術科書道と規定されている。しかし、高校教育の前提で
ある義務教育学校では書くことは国語科書写に属する。しかもそれを教える教師で
正しい文字で板書が出来る者がはたしてどれだけいるのか。基礎なしでわずか三年
間毛筆を手にしても何が出来るのか、些かでも毛筆を手にしたことのある者には自
明の体験であろう。
しかも毛筆書写は、つとに本来の言語を記録する手段としての用を失っているの
である。他方書写手段は極めて多様になって、CGにまで及んでいる。わずか三年
の芸術科書道で何が出来るのか。
なぜ無用の高校の書教育に齧りついていなければならないのか、学校の外には制
約のない無限の可能性がある場が存在する。書壇やグループの制約がない自由な書
教育が可能である。そこに若者を誘うことが出来ないのは、書家自身の無能としか
言いようがないのではないか。美を求めている若者が決して少数派ではないことは、
社会の実態を見れば瞭然である。
346 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/13 11:26
340です。前衛の裏付けと云うと、例えばバウハウスの「伝統」との融合とか? 私も
それなりに、構成学などによる裏付けは必要だと思います。ただし、東洋的伝統を西欧的
視点に準拠させようとするのは困りますが。あちらに迎合するかの様に準拠させるのでは
なく、差異の肯定を踏まえて西欧美学をこちらから変えていくくらいでなくては。音楽と
の類比などはたまに見かけますが、この場合も当時の前衛技法と伝統技法との接点を掘り
下げる事に意味があったのではないかと。例えばシュプレヒシュティンメ(朗唱)の場合
は、文学性の表出方法を全く異なる仕方で組み込んだ事例と云えるでしょうから、この手
の主体的パラダイム内における前衛性については、革命的要素と或る程度分けて考えた方
がよさそうな気がします。
前衛書や墨象が伝統書の枠組みからの離脱を意図しているなら、その動機自体はなんと
なく推察できます。先ず伝統との比較があり、次にそれを拠り所とした遊牧的離脱作用が
ある、とする様な。ところが他方では、芸術にこだわりすぎるあまり芸術自体の消尽作用
が見失われている様な気もします。消尽とか蕩尽と云わず、一種のプラグマティズムと云
った方がいいかしら。芸術でない筈のものの中に芸術があり、芸術とは無関係な作用と芸
術的作用とが同一のマテリアルの中に折り畳まれている状態。平たく云えば用美一体。こ
こでは見方次第で中身ががらりと変わるから、鑑賞者の育成が不可欠になる、と。
母語表記に漢字を使わない人々にとって、漢字はそれ自体が前衛的な刺激をアフォード
する筈。同じ感覚を共有しようとするなら、日本人はいっそ漢字を捨ててしまえばよい。
〜が、これだと本末転倒になると思います。伝統書との境界も潜勢的な流れにおいて転倒
するし、却って未来がなくなっていくかも(未来が過去を指示して空中分解する)。
当たり前の事が当たり前でなくなるとき、当たり前の事が分かる人々にとってそれは鼻
持ちならないか、もしくは新鮮な感動となるでしょう。もちろん、その逆もある筈。読め
るという事が当たり前でなくなると、昔の文盲とは異なる知的文盲の世界が創発する筈。
そうした時代の要請に依拠しすぎると、芸術自体が従来の文化とは別の地平で空回りし始
めるのではないか…と、そんな気がしています。
347 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/13 12:24
>>345 現在の教育や書の在り方を否定するのは非常に簡単です。ただ、あなたの言う
とおり小中高における教育が「何の役にも立たないと決めつけたところで、書
の発展が見込めるかどうかは疑問です。
せいぜい、現在の書壇は役に立たない、それよりホームページに私の稚拙な書
を発表したので見てくれ、という程度の、独りよがりの書家の大量生産を招く
のが落ちでしょう。それ自体は決して憂うべき事態ではありませんが、書の
生産的な未来を示唆するか、という点での帰結は否定的なものとなると思い
ます。
若年層の書教育の可能性は否定すべきものではありません。それは学書にお
いてもそうですし、ここで複数の方が提唱されている鑑賞重視型の教育につ
いてもそうです。
それは将来的な書道人口の増加に寄与し、書で生計を立てている人にメリッ
トを提供するだけではなく、芸術としての書の建設的な議論を促す上で有益
なものと考えます。
348 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/13 12:26
などといいつつ、
>>340で主張されている(小中高の時点での)読解能力の向
上といった側面については、無視すべきではないが重点を置かなくともよい、
という意見を持っています。これは高校のときから思っていたのですが、音楽、
美術といった他の芸術科目と比較すると、小中高の書道は「修練」の意味合い
が強すぎませんか?もうすこし、「破壊と蕩尽」的な要素を重視してもいいよ
うに思います。その点について、
>>340と
>>346の矛盾はどう捉えますか>
>>340=346さん?
349 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/13 21:15
糞真面目な議論ですね。
でも書道の栄華と習字やってるひとの数に何の関係がある?
無知な看板屋書家が増えてもどうにもならんでしょう。
習字やってる人が習眼しなくてどうする?
雑魚が大勢と、たった一人の天才。
それだけでいいでしょ。
本物書ける人。
無論学校で天才など育つわけもない。学校では平均万歳!
だいたい前衛書って今では後衛書でしょ。
やってることは伝統書も墨象も一緒。
ありがたい先生のお手本もらってあーでもない、こーでもない。
よーするに習字。書じゃない。
そもそも書が芸術だなんて昭和のハナシ。
アホ。書は書でしょ。
ARTという語そのものが近代の産物なんだから。
このポストポストモダンな時代にねー。
書が生まれたのはずーと前なんだからやっぱり書は書だろうが。
芸術とか伝統とか前衛とか考えるからアホなんだよー。
350 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/13 22:05
>>349の言ってることも一理ある。しかし、そんな単純な解釈で物事を捉えたら書に限らず、この世の中全てつまらなくなるよ。
単なる文字がせっかく芸術という分野の中で開花したんですからそれをもっと大きくするべきでしょう。
諸外国見ても文字が芸術となることなんてそんなにないですよ!
平均万歳って、社会主義者ってこと??
351 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/14 00:44
↑あぼーん。。
>>そんな単純な解釈で物事を捉えたら書に限らず、この世の中全てつまらなくなるよ
その考え方が単純なんだよー。
>>単なる文字がせっかく芸術という分野の中で開花したんですからそれをもっと大きくするべきでしょう。
芸術は高度で崇高なものなんだからなんとか書を芸術の一分野として認めて欲しい。
この西洋かぶれめ。そんなんだから書がダメになっていくんだ。書は書として独立してんだ。
芸術の下に一分野として存在してるわけではなーーい。
>>平均万歳って、社会主義者ってこと??
ひょっとしてアボーンですか?学校教育の現状をしらんとは。
小学校運動会の競争で順位をつけない理由もわからんとは・・・
中、高校の評定基準が3に設定してるのはなぜ?
絶対評価のハズなのに3が多いのは・・・・・
よく考えてから発言してね。
おっと書からは話題がはずれてしまいましたが。。
352 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/14 01:41
>>351 書は芸術ではない。書は書として独立している。
とはどういうことか、詳しく伺いたい。
サルはサルとして独立している、決して人間の祖先などではない、とか言ってる某宗教信者みたい
354 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/14 03:24
>>352
書はだいぶ昔からありましたよね?文字が発明された3500年前ぐらいからちょっとあとのものです。現在の歴史では。
書としての美意識をもった時点で書の起源としたら甲骨や木簡、残紙はすごくシュールに美意識が働いている。そこからの長い歴史がある。
一方、日本においての芸術という語自体は明治期の輸入言語でしょ?その頃は芸術と美術、つまり立体も平面も文学もごっちゃだった。
しかも西洋のジャンルこそが芸術だったわけで。だから日本の芸大には書がない。台湾なんかの芸大で書は一年次から必修。そのあとに洋画
やら彫刻やらにいく。つまり日本の芸術という語=西洋の美術なわけで。その名残がいまでもあるわけで。。
書をむりやり西洋の枠組みにハメルのは難しい。つーか意味がないと思うのです。平面芸術で、視覚芸術で、瞬間芸術で、文学で、しかも一回性のある、、、
なんて説明するんじゃなくて、書は書である。それでいいんじゃないでしょうか?
そこに書道の「道」という概念も入ってくる。もち文化でもある。哲学性も強い。やっぱり書は書であって書以外のなにものでもないのでは?
しかもそれでいいのでは?
それを戦後のアンフォロメルやら日展の問題やらで、なんか芸術という語そのものに価値をつけてしまった。ポロックは前衛書に感動したわけでは
ないのに勘違いしてしまった。いまでも日本人はなにかに付けて「芸術的だ」とかいいますよね?それってもしかしてトラウマなのではないですか?
もともと芸術全体に匹敵する「ホンモノ」をもってるはずなのに。書だけでなくほかのジャンルでも、です。
さらっとですが、こんな感じでどうでしょう?
反論願います。
355 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/14 06:45
>>1こと子豚よ・・・いい加減にしたらどうだ(WWWW
お前は今までずっとそうやって生きてきたな(WWW自分にとって都合のいい話しか聞かない豚野郎(WW
不快になる%A
356 :
とりあえず反論:02/11/14 10:32
>>354 単純な考え方の違いだけど、
芸術の一分野に書があるのではなくて、
書の中に、芸術、教育、道徳があるのでは…
芸術書道…前衛
教育書道…伝統
道徳書道… 道
文化の一分野に書があるのでは、
357 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/14 12:30
>>354 私が思うに、「白」という無機的空間に「黒」という有機質を与え、
そこから生まれる緊張関係、文字の構成、文字の意味、線から受ける生命的な「気」、
これらを考えると、「芸術」に成りえる要素を十分に含んでいないだろうか。
359 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/15 13:05
360 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/15 14:40
>>354 面白いねえ。
>>357さんのように、「芸術」という名札をとにかく崇高なものとありがたがって
しまうと、たしかに「書」は袋小路に入ってしまうのかもしれない。「書」とは、
ということを考える前に、「書という芸術」とは、ということを考えてしまう。
で、結局、
>>346さんのように、知的文盲がどうとかいう話が出てきてしまう。
361 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/15 16:05
340=346です。修練重視の傾向と比較すれば矛盾になるでしょうが、可読性指導とその
蕩尽との関係は、むしろ言語芸術と視覚芸術との調和を促進すると思います。
第一点。〜そもそも国語教育における漢字指導の規範は活字体への準拠が前提となって
いるため、成長に比例して書写体・異体との脈絡を欠いていく様な工夫があらかじめ施さ
れています(教科書体から明朝体へ)。ところが中学校の国語科書写では、芸術科書道に
移行する前段階で古典的要素を扱う事が建前となっており、まともにやればこの時点で「美
しく速く整えて書く」規範の中の「美」と「整」が同時に揺らぎ始めます。つまり国語教
育に書写教育側での変容徴候が組み込まれている限り、国語教育は自らの規範の蕩尽によ
る停滞を招く虞と常に隣り合わせている訳です。
国語は書写の敵ではないが、書写は国語の敵。実際は(こちらの県の場合)中学一年で
書写指導を終える例が殆どですから、古典に踏み込むタイプの指導は例外的な教員の理解
次第でどうにでもなります。ここでは書塾との協力関係による事実上の選択科目化が成立。
学校は塾に踏み込まず、塾も学校に踏み込まず、生徒自身を媒介して暗黙の了解が指導の
場を緊急避難的に発生させます。通常、学校側は塾の指導を評価基準に組み込みません。
下手に組み込むと教育機会均等の建前を損ねてしまうため、指導行為の方ではなく結果=
作品においてのみ、辛うじて評価の対象が合一することになります。
こうした状況下、発展的な書写教育は原理軽視・模倣重視の傾向を維持して初めて評価
に値するものとなります。識別可能な文字認知を支える筈の諸々の原理を教えても、作品
の質的向上には結び付かない。読解行為自体が模倣の体制により事前淘汰されているから、
元々ここに重点は置かれていないし、教員の方は無視を無視とも思っていない。それゆえ
「読解能力の向上といった側面については、無視すべきではないが重点を置かなくともよ
い」とする判断は、無視されている状況への対応としての「重点化」を否定するのと同じ
結果に結び付きます。
362 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/15 16:07
第二点。〜学校教育における芸術科目のテリトリーは、基本的に芸術以外・芸術以前の
テリトリーを放逐した水準で成り立っています。文字通り「芸術科目」である以上、結局
そうならざるを得ない。明治以後の「芸術」概念変容の影響も確かにあります(佐藤道信
の著書を参照)。「書画」のテリトリーが絵画中心の視点に引きずられつつ歪められ、書
家の側も「美術」扱いされるのを拒否し(高田竹山の見解「書は神術なり」や日下部鳴鶴
の帝展拒否等々)、やがて「美術」の語が「芸術」の語のデノテーションを根本から多義
化するに及んで、コノテーションの方もそれを中心に回り始めた訳ですから。
国語の側も分裂しましたね。活字中心の言語政策と書字・習字とが乖離し、当時の文部
省の巡視報告(1877年)では草書で書かれた証文を読めないまま放置する習字教育が批
判されたりして。国語からも美術からも放逐されたテリトリーが「芸能」に〜新興デノテ
ーションとしての「芸術」に統合されたら何が起こるか、少なくとも戦後間もない頃に活
躍した専門家達なら、自身の経験を踏まえて簡単に予測できた筈です。自分は言語記述上
の基礎をしっかり学んでいるくせに、教育家の立場ではあくまで「芸術」のテリトリーに
収まる基礎ばかりを見つけ、かつ強調している。それを非難するつもりはありませんが、
せめて「基礎以前の基礎」の重要性に少しは配慮して貰いたかった。
ここを「修練」「稽古」で埋めるとでも? しかし実際はそうなったし、それでよしと
された。国語と芸術の両方に迷惑をかける訳にはいかなかった。迷惑をかけたら最後、書
道教育自体が学校から排除されるのは目に見えていた。この時点で既に三十年以上(見方
次第では五十年)の準備期間が経過していた事を差し引いて考えれば、辛うじて同情くら
いは出来ますけれどもね。
363 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/15 16:09
国語を蕩尽に向かわせるのは、戦前・戦後を問わず国家の言語政策に反する。また芸術
概念を揺さぶるのも、国語との絡みで問題がある。国語は国語であって、文学芸術ではな
い。にもかかわらず、国語では文学をも扱う。国語教育自体がそうした点で自ら矛盾して
いるのに、一蓮托生の国語科書写が同じ矛盾を共有できないとは何事か。所詮、書写は書
道の雛形ではないのか。そして書道は、ワーグナーの音楽と同様の「戦犯」科目ではない
のか。恥を知れ。〜豊道春海が手練手管で習字教育を復活させた時、既にこの手の感覚が
国内全土を覆っていたのでは?
…と、今回はここまで。推敲不足だなあ。まだあるんだけど。
364 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/15 17:00
361〜363です。
さて。
途中半端で投稿したのは、360さんに煽られた様な気がしたからです。確かに仰有る通
りの側面はありそうですからね。
知的文盲は単純なる文盲に非ず。現代のリテラシーはしっかり備えていて、しかも古文
書が全く読めない人々。これを私は知的文盲と呼んでいます。ここでは翻訳的前提が不可
欠となりますから、原典も知的文盲者も等しく第一次の翻訳者に左右される結果となる。
古文書解読にしばしば垣間見られる誤読を、免疫的に是正する能力が衰退している。それ
でも彼ら享受せる人々は確かに知的であって、ただ単に原典が読めないだけ。もちろん美
的属性(或いはニュアンス)も読み込めず、総て無意識に活字に置き換えてから読み直す。
原典を読めない事それ自体が、知的洗練においてフィルターの役割を果たしている。
閑話休題。
私は書き手の充実より、読み手の充実の方を望んでいます。あれこれ鍛錬して作品を出
しても、同族以外まともに鑑賞してくれる人がいないってのは実際、寂しい事でしょう?
365 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/15 20:38
>>361〜
>>364 なげーな・・・読む気しねぇ・・・。
あとでゆっくり読ましてもらいます・・・。
>>361-364 確かに一度には読みづらい。(w
がしかし、国語教育から書道を語ったものは今までなかったと思うから、
新鮮でよいです。
今までは政治的な俗な話ばかりでしたからなあ。
またゆっくり拝見します。
367 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/16 07:20
354とかですが、364に質問。
>>私は書き手の充実より、読み手の充実の方を望んでいます。あれこれ鍛錬して作品を出
しても、同族以外まともに鑑賞してくれる人がいないってのは実際、寂しい事でしょう?
と、いうことは鑑賞者あるいは受容者が大事だということですよね?
そしてそのような方向に向ける時に重要なのは無論、教育ということになる。
しかし、あなたがナガ―ク語ってたのは(特に361)は書き手の教育、書くための文字認識
ではないですか。
例えば(指導行為の方ではなく結果=
作品においてのみ、辛うじて評価の対象が合一することになります。
こうした状況下、発展的な書写教育は原理軽視・模倣重視の傾向を維持して初めて評価
に値するものとなります。識別可能な文字認知を支える筈の諸々の原理を教えても、作品
の質的向上には結び付かない。)とか。
それとも文字を読めなければ「書」は観れないとか、そういうことですか???
368 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/16 08:59
>>367 364です。一言で云えば相補的、との意味で書きました。例えば国語における漢字の書
き取りで、読めないまま書かせるとどうなるでしょうか。
念のため補足して置きますが、私は文字言語が音声に従属すべきだとは考えて居りませ
ん。だから音声化できなくとも目的に応じて意味理解できるなら、それは「読める」事に
なる。そうした意味で云うなら、読めない人は書けないし、鑑賞の水準も著しく落ちる筈
です。ただ〜従来、読むための練習の一環に「書く」事が含まれるのは当然でしたが、今
では「書く」代わりに「打つ」練習で代替できる余地が広がりつつある様ですので、この
点に関してはいったん判断を保留して置きます。が、いづれにしろ「書く」目的の一つは
「読む」事にある筈です。造字構造が読めなければ筆順は滅茶苦茶に識別されたりするで
しょうし、草略体の構造が読めない場合は実画と虚画を区別できなくなるでしょう。
芸術作品の制作者は最初の鑑賞者であって、大抵の場合はそうした在り方が強固に結び
付いていますが、鑑賞者一般が制作者である必要はない筈。演奏できない聴衆でも音楽は
鑑賞できる様に。もし、それと同じ方向に書を持っていこうとするなら、実技指導の必然
性は著しく薄まることになるでしょう。ところが実際は367さんの仰せの通り、書は書で
すからね。読める事と書ける事が必然的に結び付いていても決しておかしくはない筈。
ところで、「読めない」書と抽象墨画との区別はどこにあると思いますか?
369 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/16 09:11
念のため補足。
361の大部分は悪循環に陥る現状を描写したものです。その事を現場では「無視を無視
とも思っていない」。ゆえに「「読解能力の向上といった側面については、無視すべきで
はないが重点を置かなくともよい」とする判断は、無視されている状況への対応としての
「重点化」を否定するのと同じ結果に結び付きます」とした訳です。あれは348さんへの
返答ですから、その脈絡でお読み下さい。
371 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/17 12:40
中国の筆に貼ってるナントカ牌について教えて下さい。
双羊牌と周虎臣が手許にあります。
双羊牌はかなり書きやすいですよ。
上海工芸はいまいち小筆の先が丸くなっていやだったけど、
これは鋭いです。
スレ違いスマソ
373 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/17 21:17
>>361-
>>369 何度読んでも理解に苦しむ。
374 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/18 01:34
>>333=340=346=361-364=368-369
366です。ようやく拝見しましたよ。(w
仰ること、正しく理解できたかどうかは解りませんが、まさに正鵠を射ていると思います。
まず読めることから始めなきゃいかんですよ。
視覚的にイメージできない(読めない)ものを、(いつか機会があれば)表現できる(書ける)わけない。
理想的には、読むと書くは車の両輪のように同時進行させるべき関係にあると思うが、
実際にはバランス崩れている。というより日常生活で草書を「書く必要性がない」から
「別に読めなくてもいい」となっているのか?
このヘンはどうもよくワカラン。
司馬遼太郎なんかは、欧米の文明を日本語化することでシェイクスピアの翻訳本
に感動することができるようにはなったが、西鶴や近松門左衛門が読めなくなった、
と「功罪」を述べていたが。
それから蛇足ですが、よくもまあそんなに高密度な文章が書けますね。(皮肉じゃなくて)
これとは別に、「書」は芸術じゃなくてあくまで「書」でいいんじゃないかとも
私は思う。
例えば(明治以前の)書に限らず邦楽とか狂言(w)の分野にしても、芸術(広義では個人・自由主義)の言葉に
毒されて、表現なんか自己顕示なんかわからんようなヤツ(モノ)が多すぎる。
いわゆる匠気というヤツですな。悪いとは言わんが、どうも鼻につく。(あくまで主観だが)
日本文化の本質は、「はんなりマターリの職人気質」にあると思うのだが。
これを崩すのは自分で自分の首を絞めている気がしてやまない。
ま、やるのは自由(主義w)だが。
375 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/18 04:32
「何度読んでも理解に苦しむ」って事は、要するに文章が下手だって事だよね。
高密度って人もいるけど、中学生に読める文章でなきゃ。
今はもう、書道や古文書が読めないとか何とかの時代じゃない。
読める日本語と読めない日本語を分けて、夏目漱石や森鴎外を教科書から排除する時代。
読めるのも自由、読めないのも自由。国語も書道もそうなってるんだから仕方ない。
論より証拠。高校で書道の授業を受けて、「読める様になった」人、いる?
この結果が教育的には正しい。(そうでなきゃ学校が悪者になる。)
悪循環に陥っている香具師ハケーン!
377 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/18 18:24
>>348です。興味深く読ませていただきました。結局のところ「学校教育における芸
術科目のテリトリーは、基本的に芸術以外・芸術以前のテリトリーを放逐した水準
で成り立って」いるというところに、はっ!としました。学校教育という前提がある
限り、純粋に楽しむだけのことではだめということですね。私の言うように蕩尽(
経済人類学的なニュアンスで使ったつもりで
>>369さんの言う意味と少しニュアン
スが違います)すると、「ゆとり教育」そのままになってしまう。
>>369の「無視を無視とも思っていない」という指摘は重要だと思います。どちらか
というと、
>>369さんの側では「無視の批判」、私の場合は「無視の認識(あるいは
無視の奨励(?)」という立場でしょうか。強制的かつ全般的に導入される「ゆとり
教育」には否定的ですが、初等中等教育の書には「ゆとり」的な役割を担ってもらい
たいと考えています。「読解能力の向上といった側面については、無視すべきでは
ないが重点を置かなくともよい」というのもこの辺を意識したものです。
>>369さんの文章を読む限りでは、まだ何らかの「物語の共有」が前提になっている
感じがします。「知的文盲」であることに恥ずかしさを覚えない人が増えたという
ことは、ある種の物語が崩壊したことの証左といはいえませんか。上に出てきた、
学校教育を軽視する風潮もまた然りです。書による「共通の物語」の構築は可能だ
し、また必要だと考えます。それは思想に免疫がある人がやればいい。ただ、それ
を初等中等教育の段階で押し付けるのはどうかと思うのです。
念のため補足を。ちなみに私も鑑賞教育推進派であります。「理論がしっかりしてい
ないと書けない」という「典型的な正論」を幼少のころから刷り込んだ結果、「理論
が分からないから書を鑑賞できない」というこれまた「典型的な(だが論理的には正
しくない)正論」が横行して書の鑑賞離れが発生する、という悪循環を断ち切りたい
との考えが
>>377には含まれています。
もちろん、理論が分かり、書作の経験があれば書をよりよく鑑賞できるということは
事実ですから、一方では理論の構築に注目し、一方では書作に携わる人を増やすこと
を考えています。結局のところ、そのためには、市場とか政治とか「ベタ」なことを
考える必要が生じます。そこが難点なのですが。
379 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/18 19:19
おい、自作自演か?
377-388≠348は、明白だろう。
381 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/18 20:15
ん?347=348=377=378ですよ。最初の方にもっとありますけど(苦笑)。
番号は間違っていないと思いますが。
382 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/19 03:16
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383 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/19 18:52
>>377-378 369です。「物語」の正体が何か気になりますね。私は先ず言語としての共有を前提し
ていますが、これが崩壊したのは確かだし、そうした現状を肯定する所から始めるのは或
る意味で当然とも思います。ただしその肯定が古典的な受容の方式を含意しない場合、含
意されない方式からそれに即した理論が派生する事もないでしょうし、とどのつまりは空
洞化したままの痕跡だけがその箇所に残る筈。ここを別の「共通の物語」で埋めようとし
ても、痕跡の性質は場の要請の形であらかじめ決まっていますから、結局は同じ事の繰り
返しになるのではありますまいか。
もし書表現からあからさまな言語としての属性を排除するなら、もはや書であり続ける
必要はないでしょう。仮に絵画的な方面に傾くとしても、そこには別の言語的な体系があ
りますし(水墨山水では各種の皴法をやったり、バウハウスでも構成学をやったり)。要
するに〜どのみち言語的蓄積は回避できず、結局はその中のどの層にプラグマティックな
変形作用が属するか、といった差異でしかない様な気がします。読めても読めなくても、
また自覚的な理論があってもなくても書は書であり続けますが、それはあくまで見る側の
都合。書かれた時点で封入されたアフォーダンスがアクチュアルなものとなるかどうかは、
鑑賞の方法次第で大きく変わるでしょう。
それから蕩尽の件ですが、私は現代書の表現に過剰を感じ取っています。可読性指導と
の相互溶解に蕩尽を求めるのは、表現とのバランスを取るため。今の書表現(具体的には
「作品」)の消費状況に満足している訳ではありません。一方が過剰なのに、一方は不足
どころか壊滅状態にある。そしてそこには、視覚芸術の過剰と言語芸術の放逐を同時に実
現する教育の枠組みがある。〜書と文学との一体性が維持できなくなっている原因の、少
なくとも一つはここにあると思っています。
384 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/19 18:54
平成元年度版の学習指導要領以降、漢字仮名交じり書の指導が重視される様になったの
は、この点を底辺から是正していこうとする意図がはたらいたからなのでは? 現に村上
三島の過渡的指針には或る種のリハビリの様な意味合いが強く感じられるし、その限りに
おいてのみ私には肯定できる。ただし、なるべく早いうちに漢字・仮名それぞれの古典的
性格との接続を実現しないと、漢字仮名交じり表現はやがて伝統書の破壊に貢献し始める
のではないかと予測しています。
書道Tには国語との接続項目があります。にもかかわらず、その方法や文言解釈は現場
任せ。教育基本法の解釈も似たり寄ったり。明記されてなくとも「伝統・文化の尊重」は
含意されていると見る立場も一部にはありますが、「創造」の方は明記されてある。創造
のための歴史的蓄積が教育されていない段階で創造を強要しても法を逸脱した事にはなら
ず、「芸術はゆとり科目」とか「専門家を育てる訳ではない」式の解釈が伝承に優先する。
これなら既に実現しています(その結果、読めなくなった)。
伝統の伝承を優先する見方であれ、伝統の伝統たる所以より創造の方を優先する見方で
あれ、仮にこれらを「思想」と呼んで「それは思想に免疫がある人がやればいい」とする
なら、何も始まらなくなるのではありませんか。私には、一方が思想でもう一方は思想で
ないと見るための根拠が見つかりません。また、歴史的蓄積なき創造の事例も知りません。
私から見れば、伝統は(理論でなく)単なる既成事実でして、指導法や学習法の効率化を
目指して論理的に組み立て直すのとは全く別の事です。
385 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/21 05:59
梅棹忠夫センセが熱心に取り組んでるローマ字化だけど、
実現したら習字・書道もローマ字でやるのかな。
386 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/23 12:05
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387 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/23 23:42
>>374 369です。正鵠を射ているかどうか分かりませんが、どうも。
私は「読めないまま創作できる」人がどんな制作プロセスを経ているのか、非常に興味
が御座います。まだ詳細を知る機会はありませんが、成り行き次第では(つまり納得でき
た場合は)前言撤回もあり得ます。
実は私、公教育の書道で「読める人を育てる」タイプの指導をしている高校の先生がい
るかどうか知りません(大学なら國學院とかに実在?)。従って「私の知っている先生方」
の指導が正しい場合、そこにはきっと正しさを証明し得る論理や美学が潜在している筈。
…でも実際は、そのほぼ全員が名目上は国語教員として採用され、かつ書道を兼任(また
は専任)しているんですけどね。もしこの先生方が純然たる書道教員だったなら、国語と
は別の見方を革命的方法で示唆できる筈。国語教員の立場で「読めない」国語の開拓の在
り方を示唆できるなら、もちろんそれに越した事はありません。
「匠気」や「職人気質」の話は実に興味深う御座います。前者は既に良寛絡みの伝説と
なっていますし、その他…幕末だか明治初期だか忘れましたが、確か「根岸の三天狗」と
呼ばれた書家がいた筈。
司馬の本は未読です。もし宜しかったら、書名を紹介していただけませんか?
388 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/23 23:43
在日がいろいろ人種工作やってるけど、真相はかなり違う。
大雑把に、
頭示数が、韓国人は短頭〜過短頭、日本人は中頭〜短頭。
鼻示数が、韓国人は中鼻、日本人は広鼻〜中鼻。
二重の出現率が、韓国人は約2割、日本人が約5割。
一般的に韓国人の顔は、ツリ目が多く、鼻は低く目立たず、彫りが浅い。
頭は絶壁傾向が強く、その分頬骨が高い。体毛が薄いのに比例して
眉毛や髭などが薄い。全体的に見て平坦な印象。形態もさる事ながら、
中国人ほどではないが遺伝子の方もかなり違う事から考えれば、
日本人と韓国人は人種的には近いが異人種であるという事が分かる。
http://www3.mahoroba.ne.jp/~npa/narayaku/image/dna_map.jpg
389 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/24 23:43
>>387 366=374です。
「読めないまま創作できる」人は大勢居るでしょう。
そういう人は素材(題材)を技術に特化して創作していると思われます。
例えば、墨蹟趣味は、場合によっては書法を後退させる効果はあっても、進歩させる効果はない
と明確に言い切った書家もおられましたよね。
ここで私自身の見解は述べかねます。身元が割れそうで怖ひのよね。(w
ただ、現在の書道(書壇)があまりにも「ことば」から乖離している現状には、若干疑問を抱いております。
ちなみにかういう私自身も、いつか自詠の漢詩を作品にしたためたいという願望を強く持っております。
匠気とは、書の「ことば」性を疎かにする結果としての過剰な視覚表現効果といえるかもしれません。
例のシバリョーの典拠は、「街道をゆく」シリーズの『ニューヨーク散歩』になります。
390 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/24 23:52
続けてすみません。
今の私の書き込みは、書き手からの側面でした。
読み手からの読解を主張するあなたの論点から反れてしまったことをお詫びいたします。
391 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/24 23:58
今日の情熱大陸は書家の柿沼さん
たびたびすみません。誤解を生むような書き方をしてしまいました。
墨蹟趣味以下のことを言った書家は、きちんと読めるご人です。
ただ考え方のエッセンスが、「読めないまま創作できる」人にたびたび見受けられる
ということを述べたかっただけです。
393 :
書道家α ◆nLqs7MgabM :02/11/25 01:36
コテハンにしてみました。名なしにすると自作自演かと言われたり、勝手に
「元気だよ」ってなことになったり、はたまた新任講師にされたりするよう
ですので。依然に出没していた似たような名前の方は親戚です、ということ
で。「書道家」っていうインチキくさい響き、私好きなんです。
さて、
>>383さんへの返事ですが、私が言っているのはあくまでも高等(大学
)教育より前の話でありまして、初等中等教育で読解を軽視したからといって
、「書表現からあからさまな言語としての特性を排除」しているとするのは過
剰反応に聞こえます。少なくとも、中学高校までのレベルで言語としての特性
を排除した例を私は見たことがないし、現実問題としてそれが可能だとも思わ
ないのですが。
あと、漢字かなまじりが伝統書の崩壊に繋がるということは間違ってもない
でしょう。読める字を書くことという目標は、結局のところ書表現の伝統へ
の回帰に繋がるのではないですか。基本的に、書表現の伝統に「読めない字」
はないわけですから(重箱の隅を突っつくような議論はふっかけないでくだ
さいね→ギャラリーの方々)。似たような名前の親戚(さらに苦笑)が以前
に指摘したところによると、村上三島氏の功績の一つは「自分の言葉を書く」
という姿勢を再認識させた点にあります。それはそれで、伝統的な書の「在り
方」への回帰と捉えることもできます。
394 :
書道家α ◆nLqs7MgabM :02/11/25 01:38
共有可能な物語の話に触れたのは、
>>383さんの文章を読んでいると、モダンを
引きずりつつポストモダンを説いた80年代の現代思想、すなわち、権力や知識
層による規律や教育は依然有効であるという議論を思い出したからです。トッ
プダウン的なアプローチよりは、ボトムアップ的なアプローチを形成しないと、
これからの書(書教育)は難しいのではないかと思います。まあそれは書に限
らずの話ですが。
いま書道を専攻する大学生には甲骨・金文が人気があるそうです。自主的に古
代文字を学んだ結果として、芸が「ゲイ」ではなくて「ウン」であることや
「欠」がケツではなくケンであることを知るのはいいことですが、これを初等
中等教育で教えるには相当な努力がいるし、それは現実問題として無理なので
はないかという話なのです。結局のところ、初等中等教育でこの議論にもって
いくなら、「ゆとり教育」の一環としたほうがいいのではないかというのが
私の見方です。なお、創造を優先する見方を思想と呼んだのではないことは、
再度読み返していただければ明白と思います。
395 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/25 03:32
山形浩生
リンクを張らせろとかいうしゃらくせぇメールはよこすなバカ野郎! ケチなんかつけねーから、
どこへでも黙ってさっさと張れ! そういうメールをよこしやがったら、断るからな。いちいち相手
の身元を確認していいの悪いの判断するほど暇じゃねーんだ! そんなけちくさい真似するくら
いなら、最初っから無料でこんなもん公開したりしねーぞ! 世間様におめもじさせられねぇと
思ったら、その時点で引っ込めるわい。
黙って張る分にはなんの文句もつけない。絶賛リンクも結構、「こんなバカがいる」的罵倒嘲笑
リンクも大いに結構。煮るなり焼くなり好きにしやがれ。ファンメールもかねた事後報告もオッケー。
あとおひねりでもくれるってんなら、もらってやるからありがたく思え。いいの悪いの返事も書いて愛
想の一つも振りまこうってなもんだ。
でも、そうでなきゃそんなメール受け取って、読んで、おまけに返事書くだけのコストを、なんでこ
のオレが負担してやんなきゃならんのだ。しかもそういうメールに限って、クソていねいでまわりっくどくて
あいさつと社交辞令ばっかで、いつまでたっても用件がはじまんないで、長ったらしくて官僚的で、
他人に配慮してるようなツラして実は自分のケツをカバーすることしか考えてねーのが見え見え。
どうしても許可がないとリンク張りがリスキーだと思うんなら、明示的に許可がないと法的にリンク
が困難とかいうんなら、そんなとこはリンクしていただかないで結構。黙ってリンクしていいという文章
を読んで、それを理解する能力がないやつ(個人法人を問わず)なんか相手にしてられっか!
丸ごとコピーしたいときも、文章自体を変えないで(変える場合にも変えたところを明示すれば
オッケー)、もとのURLと版権と、転載自由だってのさえ明記すればなーんも文句はつけないので、
これも黙ってやってくれ。
でも山形が死んだらどうなるんだ、という心配性の人のために、遺言もつくっといてやろう。いたれ
りつくせり。親切だろう。どうだ、これでもまだ文句あるか。じゃあな。
396 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/25 05:01
>>391 アメリカの画商って意外とバカだね。アレって特に低級な奴なのか?
「書は一瞬で出来ちゃうから高くは買えないよ」だって(w
柿沼さんの挑戦は尊敬するが俺はあんなバカ共と関わりたかねーなぁ。
>>396 柿沼さんなんて知らなかったけど大学の教授、DQN!いくら彼がアマチュア扱いだとしても
あんなデコボコな場所使わせたり、作り手側の意見ぐらい尊重しろや!と思った。
書道とかって精神や感情がものすごく出てしまうと思うんだけど
あれでもやってのけてしまうのはプロなんでしょうね。
教育学部の国語科に在籍しています。
書道は下手ですがとても楽しく、大好きです。
399 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/26 17:15
ドウモ〜〜〜ッ!!お〜o(⌒0⌒)oは〜♪ハジメマシテ〜〜〜ッ☆☆(*⌒ヮ⌒*)
私は27歳のOLしてるのぉ〜〜〜っ♪(#⌒〇⌒#)キャハ
うーんとー、私メル友がすっごくすっごく欲しくってー、\(⌒∇⌒)/
探してたら(◎_◎)なんσ(^_^)とっ!☆彡(ノ^^)ノ☆彡ヘ(^^ヘ)☆彡(ノ^^)ノ☆彡
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あやしい所(゚□゚;ハウッ!とか…{{ (>_<;) }} ブルブルすごい数の掲示板がありますけど、
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メル友に、なってσ(^_^)くれるよねっ。(*^-^*) お・ね・が・い♪(* ̄・ ̄)ちゅ♪ッ
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☆○(゜ο゜)o ぱ〜んち、☆(゜o(○=(゜ο゜)o バコ〜ン!!♪(#⌒〇⌒#)キャハ ( ゚▽゚)=◯)`ν゚)・;'パーンチ
(>_<) いてっ!ダメ!! ゛o(≧◇≦*)oo(*≧◇≦)o″ダメ!!
素敵(゚□゚;ハウッ!な掲示板♪ガ━━━(゚ロ゚)━━━ン を発見!!!!(^o^)//""" パチパチパチ
(☆o☆)きゃ〜〜(@_@;)やられた〜〜(o_ _)o ドテッ ガ━━(゚Д゚;)━━ン!
(+_+) 気絶中。。。。・゚゚・o(iДi)o・゚゚・。うぇぇん <(゜ロ゜;)>ノォオオオオオ!! (゚□゚;ハウッ!
なあんて(#⌒▽⌒#)こんな♪(#⌒〇⌒#)キャハ 私っ!σ(^_^)だけど、(///▽///)
お友達σ(^_^)になってm(_ _)mくださいませませ♪('-'*)フフ ドガ━━━Σ(ll◎д◎ll)━━━━━ン
ということで。(^-^)vじゃあね〜〜〜♪(⌒0⌒)/~~ ほんじゃo(゜▽゜ヽ)(/゜▽゜)o レッツゴー♪
それでは、今から他の掲示(゚□゚;ハウッ!板も色々見てきまーすC= C= C= C=┌(^ .^)┘
(*^-^*)ノ~~マタネー☆'.・*.・:★'.・*.・:☆'.・*.・:★
おめでとう!
402 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/29 00:59
>>389-390 383=387です。司馬作品の件、有難う御座います。
こちらの論点は融通無碍。必ずしも読み手からの読解に拘泥している訳ではありません
ので、書き手からの側面には結構、共感できたりもします。ただし分からないものは分か
らない。特に厄介なのが実体験。例えば静かに下筆したのに、筆が勝手に飛沫を出してい
た時とか。私の場合、それまでは勢いをつけて出すものだとばかり思っていましたから、
こうした驚きを専門的に積み重ねれば、誰だって技術に特化したくなるでしょう。
墨蹟趣味…ですか。書法は後退するかも知れませんが、読める書ではありますね。藤原
定家あたりは下手に見えるけれども味はあるし、何より読みやすい(笑)。〜こんなのを
比較するとどうなるでしょうか。作為的であるがゆえに読みにくい書と、稚拙でも読める
書(ただし結果が「読める」であって、そこに至る過程で「読みやすい」とは限らない)。
見る側に読む能力が身に付いていない場合、どちらも読めないがゆえに焦点は巧拙の問題
に集中する筈。ここでは可読性が捨象される。
先日の「情熱大陸」を見ました。あれが「不死鳥」って字で、しかも結体にかなりの気
配りがある点を読み取れたなら、評価はきっと別のものになったでしょうね。この点を捨
象すると、アクションペインティングの一類型でしかなくなる。どれも大して変わり映え
しない様に見え、素人の公募展批判と同じレベルで語られる。「神は細部に宿る」なんて
言葉があるそうですが、この手のマニエリスムは一般受けしないのかなあ。
403 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/29 01:02
>>393-394 383です。ボトムアップ…ですか。指導内容の話でなく、指導方法の話としてなら分か
ります。ただし方法生成の動機や、内容の具体的属性との関係に疑問は残りますが。
本末転倒して、方法が内容を従属させるケースは結構目立ちます。例えば指導内容が「役
に立つ」かどうか、といった視点。書教育が独立教科としての自己完結に向かう場合、書
道専攻を学習目的としない生徒にとっては全く役立たなかったりします。ところが一方で
は読み方をちょっと教えるだけで、文学科や史学科に進学する生徒にとっては意外と役立
ったりもする。私としては、この手の間口を広げて他分野との横断性を確保する事が内容
面では必要と思っています。〜以前指導要領で見た「東アジア」の語は新鮮でした。これ
なら間口はハングル書道なんかにも広がりますからね。
しかし実際は教科毎の縄張りや先入観がありますから、書道側で国語的な指導をすると
猛烈な反発が生じたりします。とにかく書かせてさえいれば、練習しているうちに読める
様になる(?)と思われている。確かに自己学習力のある生徒ならそうなる事はあります
が、ここでは練習が主で理解が従。つまり稽古の内発的プロセスはボトムアップ型だから、
書教育は稽古事であるべきだとする見方が含意されている。私から見れば、こんなものは
効率無視の空理空論。時間がかかるのを承知で「ゆとり教育」と無理に接合すれば、大抵
は時間不足になる。それでも表面的には、学年相応の指導をした事になる。主要教科と違
って定期考査もないから、評価基準は結局ご都合主義になる。そのうえ今度の指導要領で
は、漢字・仮名・漢字仮名交じりを全部やる必要がない。しかも改訂の目玉は漢字仮名交
じり重視だから、相対的に伝統書の方は指導不足と直結する。これで伝統書の崩壊につな
がらないなら見事と云わざるを得ません。実験の中で基礎理論を発見させる理科授業の様
な方法が、時数不足の書教育でどれだけ通用するでしょうか。
404 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/29 01:03
先日、県内中学の総合文化祭で現役生徒に訊いてみたら、国語科書写の授業は中一だけ
で私の頃と同じ。正味の時数はむしろ少なくなっている。〜私の頃は教育実習生の板書が
不評でした。「生」を行書(草書と同型)で書いたら、生徒側から「読めない」と文句が。
実習生は「信じられない」といった顔でした。
当時も認知規範の接続不良が目立っていました。楷書も行書も同じ深層構造を持つのに、
表面だけやるから書体別に切断され、差異ばかりが目立つ。だからと云って規範が楷書の
側にある訳ではない。書写教科書の楷書は活字規範の援用となり、九成宮醴泉銘はそれよ
り更に遠くなる。美の規範が活字からも古典からも乖離して、書写教科書を中心化させて
しまう。生徒はその記憶を高校以後に持ち込む。字の規範は活字、美の規範は書写教科書。
それに対して古典や現代書の表現は、どちらからも必要とされない特殊な領分となって無
益な独立を果たす。要するにプラグマティックではない。
中学高校までのレベルで言語としての特性排除は既に常態化していますし、現実問題と
しては特性そのものが各書体機能の中間に折り畳まれたまま(包含的離接)、概念上では
潜勢的な可能態に留まっています。従って事実上、書写教育の規範に収まらないものは楷
書も行書も総て古代文字扱い(甲骨文・金文ほどではありませんが)。
古典を扱う以上、「芸」を「藝」で教える必要はあるでしょう。また私が云っているの
は(「藝」の場合)上中下(中は更に左右)に分割可能な構造内部での変形生成作用を示
唆する事であって、書体横断型の自発的変化を促すための記憶(とその相補性)に依拠し
ています(音声については捨象)。記憶は一即多、多即一。そこに書かれたままの「場所
の記憶」と、学習により定着した脳内記憶・身体記憶との照合は、伝統的であろうとなか
ろうと創発的な識別に向かうという事です。
405 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/11/30 19:30
先日某古書店で、瀬尾謙一著『有栖川流書道』を手に入れました。
限定500部という大変な希少本。
皇室や公家に伝わる有栖川流の、
市販されているものでは唯一と言ってもいいお手本書です。
一年が終ります。毎月好き勝手なことをしてホームページを続けていましたが、
多くの方がご覧くださいました。有難うございました。
書は書くもの、1年間自分なりに書き続けました。書は書くもの、自分の主張は
まず作品で示さなければ空論に過ぎないのではないか。最近のこの板への投稿を読
んでみて、書くことの議論が少ない、不可解。いくら書論を弁じても書かなければ
空論でしかないでしょう。
今年最後のHPをUPしました。表現は当然用具によって左右されます。さしあ
たり軟毫と剛毫ではどう違うか。一面使いようでどうにでもなる毛筆では、どうに
でもなるというのが実態でした。お手空きにご覧ください。
来年は80歳、書くということは容易なことではないとこのごろ感じるようにな
りました。皆さんは毎日どう書いていらっしゃいますか。皆さんの書も披露してい
ただけたら幸いです。
今年も1年間専ら楷書を習っていました。試行錯誤を続けていると、特に清朝に
盛んになった書論にも色々疑問が生じます。結局書は書く一人一人のも、一人一人
自分の書を求めるほかないということでしょう。
もう、いつまで続けられるかわかりませんが、来年もボツボツ続けようと思って
います。
皆さんどうぞよい新年をおお迎えください。
http://member.nifty.ne.jp/HKJB/index.htm
407 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/01 12:57
>>406 ちょっとちょっと、それはないでしょう。
あなたは
>>347 に対する反論(または
>>345 の撤回)をするべきです。
そうでないと議論を放棄したことと通り越して、あたなご自身の人間性を疑われかねませんよ。
私は347ではありませんが、あなたの
>>345 の書き込みにはまったく同意しておりません。
そういうことを言うと、学校教育の根幹をも否定しかねませんからね。
書くことの議論をする前に、まずあなたは
>>347 へのレスをすべきなのです。
408 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/02 02:43
てん刻はどうだ?あれは書道か?
409 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/02 04:29
定家流、と言うか、藤原定家と小堀遠州の手跡をたくさん見たいのですが、
どなたか、何かいい本、ご存じ有りませんでしょうか?
410 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/02 10:51
411 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/02 11:00
気に入ってるのは、これ。
小松英雄『日本語書記史原論』 1998年 笠間書院
412 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/02 21:44
山形浩生
リンクを張らせろとかいうしゃらくせぇメールはよこすなバカ野郎! ケチなんかつけねーから、
どこへでも黙ってさっさと張れ! そういうメールをよこしやがったら、断るからな。いちいち相手
の身元を確認していいの悪いの判断するほど暇じゃねーんだ! そんなけちくさい真似するくら
いなら、最初っから無料でこんなもん公開したりしねーぞ! 世間様におめもじさせられねぇと
思ったら、その時点で引っ込めるわい。
黙って張る分にはなんの文句もつけない。絶賛リンクも結構、「こんなバカがいる」的罵倒嘲笑
リンクも大いに結構。煮るなり焼くなり好きにしやがれ。ファンメールもかねた事後報告もオッケー。
あとおひねりでもくれるってんなら、もらってやるからありがたく思え。いいの悪いの返事も書いて愛
想の一つも振りまこうってなもんだ。
でも、そうでなきゃそんなメール受け取って、読んで、おまけに返事書くだけのコストを、なんでこ
のオレが負担してやんなきゃならんのだ。しかもそういうメールに限って、クソていねいでまわりっくどくて
あいさつと社交辞令ばっかで、いつまでたっても用件がはじまんないで、長ったらしくて官僚的で、
他人に配慮してるようなツラして実は自分のケツをカバーすることしか考えてねーのが見え見え。
どうしても許可がないとリンク張りがリスキーだと思うんなら、明示的に許可がないと法的にリンク
が困難とかいうんなら、そんなとこはリンクしていただかないで結構。黙ってリンクしていいという文章
を読んで、それを理解する能力がないやつ(個人法人を問わず)なんか相手にしてられっか!
丸ごとコピーしたいときも、文章自体を変えないで(変える場合にも変えたところを明示すれば
オッケー)、もとのURLと版権と、転載自由だってのさえ明記すればなーんも文句はつけないので、
これも黙ってやってくれ。
でも山形が死んだらどうなるんだ、という心配性の人のために、遺言もつくっといてやろう。いたれ
りつくせり。親切だろう。どうだ、これでもまだ文句あるか。じゃあな。
413 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/03 02:41
刻字が書なら篆刻も書?
書画一致論に依拠するなら文人画も書?
芸術科書道に含まれないものは書ではない?
字を筆で書く事と仮定すれば、筆で書いたレタリングも書?
字でなくても書なら、書って一体、何?
まさか、東洋精神を象徴言語化したものなら何でもあり…とか?
もしそうなら、書教育を排除したGHQとかCIEの亡霊に祟られそうだなあ。
414 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/03 05:30
272ぐらいで「書はかつてのソングであって、単なるミュージックじゃねェ」などと
書いたモンですけどね。久しぶりにきてみたら、なにやら読みづらく、かつ、
書き込みづらくなっとるの。書も音楽も遊びでしょ?この板もあそびでしょ。
遊びは楽しめる、ためになる、スリルがある、ジーンときちゃう、なんでもいいけど、
快楽を追求しないと嘘だぜ。あとな、遊びなのにやけに敷居が高いのは
嘘なんだよ。誰でも好きなようにかかわっていいし、そうやって内臓や脳みその
働きを良くしたりもできるのがいいんだ。
どうすればもっと楽しめるかについて、ヒントを出し合うために
ここに遊びに来るんならいいのに、と思っちゃうぞ。
HKJBサンの言われることは、もともと「楽しむためには」に焦点をあてていて、
本筋からそれないものです。HP拝見しましたが、堂に入ったもので随分楽しんでおられる、
楽しみ方のコツをちょいと分けて下さってるだけです。
私としても、書がソングなら、歌詞が無理なく理解でき、自分で書けたらなお楽し、
とおもう。で、英詞のようにやや難があっても、それはそれで構わんともおもう。
徐々に理解できるという楽しみもある。
なのに、競争心が先立っているものにはいつも興味をそがれるの。
アタシはアンタより高尚なのよ、難しいことで悩んでいるの。アンタには解んない
でしょ?みたいな気分を遊びの場に持ち込まんでくれ、人を負かすことを
遊びだと思うのは幼い、ンなものは遊びじゃない世界に腐るほどあるんだ。
無粋なことじゃよ。
さて繰り返しますが、私にとって書はソングであります。現在は歌はレコードに
して、再生できます、以前はそれがなかっただけです。
歌は、文章だが記事ではない部分が大切でしょう。むかしから、そういうものを
求める気持ちはあったわけです。歌とちがう部分もありましょうけど、,その辺は任せます。
415 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/03 05:33
長いので分けてます。
今回言いたい事。皆さんは、歌を聞くと「これ好き」「嫌い」とすぐやるでしょう。
それで文句いわれる筋合いなんてないでしょう。
また、自分で歌ったり、作ったりしてみよう、「イケとる」か、「イマイチ」は大概
わかるし、どうなりたいかは把握している。
でだ。書に関しても、同じようにやっていいんだ、ということを提言したい。
だって元々そういうもんだし、こう考えることで、クリアになる問題がいっぱい
あって便利だから、ヒントになれば、と思って書いてるんです。
歌同様、楽しみたい人のために書はいまもあるんだ。楽しみ方まで、他人に
押し付けられてたら、楽しいどころじゃないよ。悪いけど、これだけはいいたい。
芸術性とか、現代アートがどうとか、公教育でどう教えるとか、将来の・・
とかは、こ難しい議論をしなくても、この基本を押さえればスンナリわかることなん
だよな。逆にどうして、遊び方をノルマみたいに決め付けて、窮屈にしたがる人が
こんなにも多いのか、そっちのほうが疑問じゃ。
「その遊び方はオマエ、間違っとるぞ!」・・こんなヘンテコな言い分があるかいな。
俺は言葉に新たな命を吹き込むような歌い方をする人が好きだし、自分がやる
時も参考にしたいと思う。書もまったく同様だ。
そういう人は少なくなってきたけど、探せば絶対いるんだから別に問題とも思わん。
ちがうキャラクターの人を責めるつもりもない。そのやり方で楽しめてるんなら、
好きにやりな!つうこと。
416 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/03 14:08
417 :
PURE-GOLD:02/12/03 14:44
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418 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/03 15:38
>>1 私は障碍歴約40年の男です。前からこのホームペイジを見ていて不思議に思い
また、憤りをおぼえていた者です。
この掲示板では、feelさん、前の大野氏いずれも障害者としての正当な権利や意
見の主張をしたに過ぎず、それを受け入れないばかりか他の主張も、健常者に媚
び諂い、同じ障害者を援護するどころか、貶めている傾向がある。
過去と現在の障碍者を取り巻く扱いは明らかに不当であり、差別であった事は
火を見るより明らかな事実であってそれを改善するという正義の革命は
今以上に性急に行わねばならない障害者の権利は、これを健常者が無条件で
受け入れねばならず、それに異論を唱えるものはすべて差別主義者であると言
わざるを得ない。
あらゆる物事、結婚、就職、就学などに障碍を理由にして断わられる事はあっ
てはならない
もしそれらを行った場合、その個人または団体に対し、刑事または民事で訴え
られるような法律の整備こそが最優先で、また、障碍者差別をなくす唯一の方
法であると確信しています。
障碍、健常のお互いの理解などは不可能です
健常である事は暴君であり、障碍を得ている者は市民であり、強者と弱者、お
互いにお互いの心など酌みようがないのはあたりまえと言えばあたりまえであり
仕方のないことである。
小生も40代にして、いまだに独身なのは障碍のせいではなく障碍を差別視する
世の中の風潮や、世の中の女性の悪しき思想のせいであることは言うまでもなく、
今まで何人もの女性に自分の偽りのない愛を告白して来たが、みな障碍を理由に
断わられてきたという、あからさまな差別を受けてきたのである。
真のバリアフリーや真に差別をなくすという事は健常者と障碍者が話し合い行う
ものではなく、障害者の要求と要望をすべて健常者と社会が受け入れるべき
なのである、現在のような差別発言や、差別発言を行う者への援護の書き込みは
厳に慎まれたい。
障害者特別性交特権の早期実現を!
419 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/03 19:01
>414さんへ
このスレが読みにくくなったのはきっとニュウアカの残党が紛れ込んだからだよ。
まあ、40代前半のヤローだなきっと。
別にスレ立てて、そこでやってほしいもんだぜ全く。
こちとら唐人は知ってても蕩尽なんかしらねえんだ。
欧陽脩は自前の詩文を婆さんに見せて婆さん読めなきゃ
取り下げたそーじゃねーか。
悔しかったらもっと平易な文章綴ってみやがれ。
420 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/03 21:35
>>419 江戸時代まで続いたものを欧風「芸術」の文脈で仕立て直したのが明治以降。
いったんそこに戻って再評価しようとするのがニュウアカ扱いとは。
かつて学問だったものを、今の学問用語で語るなと云うのなら、
学問としての書道は時代錯誤のままで構わないって事かいな。
それとも、印印泥とかの古風な語を使えばいいのかな?
平易な言葉しか理解できないなら、もっと勉強しな。
それに相手は婆さんではない。勉強中の未成年を念頭に置いた話だ。
「勉強なんかやめて遊びなさい」ってか? 欧陽脩が聞いたら泣くね。
421 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/03 21:38
ん〜。こちらから敷居を高くする気はないんじゃ・・が
アナタなにげに引き出し多いのネ
421の言葉は≫419です。
423 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/03 21:59
「勉強する事」それ自体で遊ぼう
初めて書き込みます。
大学で書道の研究室に所属しているものです(いるに過ぎない身ですが)
ちょっと一通り拝見させていただきたいのですが、あいにく今時間がありません。
最初から拝見しないと発言ははばかられますので、また読後、書き込みしたいと思います。
>>420 そうそう!この文章はいいね。解りやすくて通りもいい。学術用語
使うなとは申しませんし申せません。時には論理学的応酬の必要も
ありましょうが・・・
ただ、場と言うものがあります。
解らなければ勉強しろ、では多くの方々がはじかれてしまいます。
書鑑賞に於ても然り。(私は本当はそれでいいと思っているのですが・・)
文化、学問は敷居が高くてあたりまえです。ただここは2ちゃんのスレ、
いわば井戸端なわけです。もうすこし、くだけていただければさーっと
読めればきもちがよい。これは要望です。御考慮被下度。
(井戸端な)名詞+な として、形容詞化することは口語に於ては認め
られる所、ギャラリーな方々、ツッコミご免。
上記、学術用語は学問用語の誤りです。
>>414 敷居が高くなればなる程面白い、それが文化、学問なのだよ。
誰でもできます、簡単ですよ!じゃあ、すぐあきるでしょ。
(入り口としてはそれでいいの。初学者が辟易しないようにね)
書だってそうじゃないの?
やればやる程、門外漢には解らない処に行ってしまうわけ。何でも
そうでしょ?だ・か・ら それについての文章は平易さを旨とすべき
だと思うのね。難しいことを難しく表現するのは簡単なのよ。
人間って、解ってもらいたいわけじゃない?本能として。ほんとは
解る人が解ってくれればいいのだけれど、それは作品上の
問題であって、言葉はべつ。況や多くの人が<参加>する場において
おや、です。しかもここは<書について語りましょう>
のコーナーであって、(基本的におしゃべりの場であって)
学術誌上に於ける論争の場でもなかろうになぁ、と思ったわけ。
(たまにはソレもあり、とはおもうけどね。でもソレって2ちゃん
以外の掲示板でもやってるんじゃない?)
414さんのカキコに便乗して述懐してしまいました。御免ゴメン。
428 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/04 18:38
なるほど。よく分かりました。敷居が高くなったのは、流れの関係で話がエスカレート
したのと、平易な言葉だと長くなるのを嫌ったのが原因かな。とにかく短く凝縮して書く
事ばかり心がけてたのよ。
「もっと〜しな」は私の滅多に使わない用法。取り敢えず「ヤロー」とか「〜みやがれ」
とかの表現に合わせてみました。これ使うと短くなるけど、品はないし内容も薄くなるか
らヤだなあ。
≫419さん 概ね代弁していただきました。
これまでの議論の内容自体は非常に興味深いと思っています 雑言ご容赦下さい。
414では他に、書を歌になぞらえることを提言しました。
素材は言語が主
表現者は言語を記録して、鑑賞者はそれを解読する
表現者は、言葉に独自の“節”なり“構成(時間的な流れを伴う)”を与えつつ、記録する。
鑑賞者は、それが解読されるときに、言語の意味だけではなく、
その構成や節から多くの情報を得る。表現者はもとよりそれを意図して製作するのです。
・・といったところでしょうか。よーく似ているのです。
作為的で、聞き取りにくい歌は巷にあふれています。
「読みにくい書」「稚拙な書」と重ねて考えると、イメージがしやすいと思うのです。
「墨象」みたいな歌?も、さがせば簡単に見つけられます
私見では、自分の言葉にメッセージをこめるという、強い意欲がないものは、
やはり魅力が減ずると思います。でも歌の世界をみても、危惧するほど間違った方向に
進むことは今後もなさそうです。
思うに今の書は、カラオケ化が進んでいる。
素材は借り物、表現技法は他人の模倣。需要がないのは「なっとく」。
公募展は、カラオケ大会そのものなんです。
悪口ではないです。こうすると現状がよく見えて便利なのです。
つまり、どうすれば書道がもっと魅力的になるか。歌の世界はモデルにできる
いつになっても、良い歌を作る人はあらわれるでしょうから・・
この説をチョトいじってくれると嬉しいなあ。
430 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/04 20:40
431 :
書道家α ◆nLqs7MgabM :02/12/04 21:40
>>403-404 面白いですね。指導内容を軽視すると理解が深化しなくなるし、指導方法を
軽視すると生徒から敬遠される。でも内容と方法とどっちが不足しているのか
を判断するのは難しい。「認知規範の接続不良」については、広くいえばいわ
ゆるオタク文化の到来以降いわれている「社会の細分化」現象に似ています。
楷行草や漢字仮名の分断はもちろん、書の専門領域の分断化、タコツボ化も
進んでいて、研究者間の意思疎通が図りにくくなっているようです。
要は細分化したものを「繋ぐ」ことが必要なのですが、昔いたような何でも
知ってる(ゆえにすべてを繋ぐことができる)書家はいなくなってしまいまし
た。偉い先生なら何でも知っている、その先生の教えにただただ従えばよい、
という共通の物語が崩壊したわけです。
432 :
書道家α ◆nLqs7MgabM :02/12/04 21:41
最近、書史研究の面であらゆるものを繋いでくれる人たちが出てきたことは喜
ぶべきことです。書家や教員の側でも細分化された領域を積極的に「繋ぐ」人
たちが増えると、内容も方法も適当なところに落ち着くでしょう。そんなことを
言うと、そのような人々を増やすにはどうするかという話になってしまいそう
ですが、私は知識よりもそれを伝える能力や方法といったところに問題が潜ん
でいると思います。
少し別のところで質問させてください。
>>403さんが「伝統書の崩壊」や「創
造の重視」というとき、私には毎日系の作品がちらつくのですが、この辺はど
うでしょう?あと、書作品に過剰を感じ取っているとありましたが、これはど
の程度の作品を指しているのでしょう?「過剰」は毎日系までいくのか、それ
とも読売系でもそうなのか。この辺が気になっています。
433 :
書道家α ◆nLqs7MgabM :02/12/04 21:42
>>398 教育学部の国語科では書をどのように扱っているのでしょう?ただ書くだけですか?
書道史などの授業もありますか?国文関係だと影印本を読む授業などもあるようです
が、たとえば国語科の学生はどの程度「読める」ことを必要とされるのでしょうか?
もしよければ教えてください。
正直読めることは必要とされていないのが実状です。
また、書道史の授業はありますが、書道の研究室生以外は受講しないのが実態です。
そのため、他の研究室(国語科)の子は、欧陽詢や虞世南といった名前すら知らない
といっても、決して過言ではありません。
そうはいっても、決して書道だからというわけではなく、恥ずかしながら僕自身も、
言語学や国語教育学の細かいことはよくわからないのです。
ただし、必修で国語科全員が受けねばならない書道の授業が1つだけあります。
たった一つです。90分×15回。それだけです。
必然的に古典には触れられません。教育書道のごくごくさわりをやるだけです。
435 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/05 00:52
梅舒適は行草がうまかった
436 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/05 02:01
殿村藍田は漢字も仮名も文人画(墨梅・墨竹が殆ど?)もうまかった
437 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/05 03:17
どっちもスキダ
石川九楊氏の書道観ってどうですか?
「中國書史」には感銘を受けました。
>>421さんへ
激しく同意!どころか、文言(もんごん)に意をこめぬ、<書>
などは、元来在り得べからざることです。かような<幽霊書道>
が跋扈しているわけですね。十九、二十の小娘(やや下品な表現、
失礼)が陶淵明の帰去来辞書いて入賞?なんじゃあそりゃああああ!
うまいもんだとギャラリー大絶賛!因みにこれを解りの良い日本語
でかいてごらん?この子はいくつ?となるのは必定。重ねてこの子、
歌がうまいときたもんだ。(ゴメンね、調子こいて)カラオケで、
リクエストとばかりに、美空ひばりの みだれ髪’大絶唱!これも
難なくクリア。でも歌えんのかねぇ?この小娘(重ねて無礼)に。
憎や恋しや塩屋の岬〜ってね。ね、ここですよ。ないのよ、この
小娘(以下略)にゃ。この歌を歌うべき、ただうまけりゃいい、
じゃ通らない歌心の深さってやつが。
ただうまい、ただそれだけ。裏打ちがないのね。必然性欠落なの。
421さん、言葉に自分の思いが反映されない書は魅力がないのでは・・
そうじゃないです、このような書は書にあらず!なのです。
断言します。これら幽霊書道(私はこう表現しています)は、
全く、全く、全くの虚偽、野狐下乗の最たるもの!
ここの所を論理学的に突き詰めていたのですね。
了解です。
書とは、文学性と造形性を両有するところのもの。
一方が欠落した時点で、片手お 否、担板漢。
441 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/06 00:14
>>423
遅まきながら、賛成。空の引出しからは何も出てこない。
442 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/06 01:18
石川九楊ので最も高く評価できるのは、トン・スー・トンの再評価してる所。
あのセンセ、京都精華大学だっけ?
新潟や兵庫教育には掲示板ある様だけど、ここには出身者いる?
>>419様 わ〜い はじめて伝わった カンゲキっ!
門前の小僧なので、実のところ漢文はたいして読めません。
なのに東坡の「寒食帖」や、王鐸を肉筆で見たとき、ああこれは歌ってるようだ、
なんか訴えてるな、と感じ入ったものです。
こんな俺にもわかるってところが、一流なんだろうな、と一人納得した次第。
そんなことから、「読み手側の読解力を高めないと・・」という話題にいたって、
「?」を出したくなりました・・
なぜなら東坡の時代でも、理解できる人はホンの一握りだったはず、
「そんなの構いやしねェ」といわんばかりの表現意欲こそが、実は肝だと思うのです。
究極のエゴの世界、野放図で、やりっ放しで、それでいいのかもしれんです・・
書道家αさんの393の言葉にも通じるかもしれません。(手前味噌です・・)
宮島詠士の帖幅一行書なんて、かなりの自己中。が、あれにはサルも感動するはず
ポピュラーソング業界ではそういう価値観がうまく生かされてきてます
皆さんどう思いますか?
445 :
KOTE/419:02/12/06 09:01
暫くコテハンで行かせていただきます。
>>421様へ
>なぜなら東坡の時代でも、理解できる人はホンの一握りだったはず
士大夫階級の方々ですね。でもヒラの方々も少々教育をうけた人ならば
なんとなくではあるが、意味は解ったらしいです。しかし、文章を書く
ことは総じて難しかったらしい。東坡だったか誰だったか、資料引っ張る
のが面倒だから申し訳ないですが、友人の手紙の文章に於いての「語助」
(虚詞、助字のこと)の使い方がおかしいと、逐一教示したとのこと。
>究極のエゴの世界、野放図で、やりっ放しで、それでいいのかもしれんです・
作家としては、それでいいと私もおもいます。「読み手側の読解力を高めないと」
なんて、そこまで親切にしてやらんでもいい。逆に、僭越ですわね。作品見て
もらって、俺もこんなのやりたいなぁ、読めるようになりたいなぁ、と思って
もらえるような作品を一生懸命作りゃいいとおもいます。あとのことは、知らん!
ってね。しかし、ここまで文言(ぶんげん:漢文のこと)が廃れた時代になると、
勉強するのも一苦労、発奮発起すべき奇特な人がはたして幾人いることやら・・
446 :
KOTE/419:02/12/06 12:11
承前
>東坡の「寒食帖」や、王鐸を肉筆で見たとき、ああこれは歌ってるようだ、
なんか訴えてるな、と感じ入ったものです。
こんな俺にもわかるってところが、一流なんだろうな、と一人納得した次第。
ポイントですよね。彼らは自分が何を書いているのか、知っているわけです
よね、当然。<自分の思い>を文章に仮借せしめ、熱を込めながらソレに
相応しい筆法を駆使しながら・・。だから、すべてを解読せずともその書は
発光するのですよね。もし<自分の思い>がなかったら、文章(すでにソレは
虚体である)に、何を仮借せしめ、何に熱を込め、何に相応しい筆法で書こう
と言うのか。師風を仮借せしめ、入選入賞に熱を込め、当番審査員の好みに
称う筆法で書こうと言うのなら、作品に光など宿るわけがない。この辺りの
問題から展覧会の弊へアプローチできないものでしょうか?421さん!
447 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/06 14:22
「あいうえお」を碌に読めないまま仮名作品を見たって所詮、単なるミミズ模様にしか見
えないのでは? 国語で云う意味での「読解」と、書表現に「はみ出た」部分についての
「読解」とを混同していないかい? 琴棊書画なんてのにも、琴は感、棊は数理、などの
序列構造で理解する向きがあるとか。書を画より尊重しろと云うつもりはないが、楽譜の
読めない演奏家とか棋譜の読めない棋士なんてのがいたら是非お目にかかりたいもんだ。
448 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/06 14:25
カラヤンは「楽譜の読めない歌手」の扱いで苦労したそうな
449 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/06 14:32
>>445 親切な教育は僭越…「ゆとり教育」は才能任せの放置プレイでよし?
>>447san
えー、古文や漢文の意味を厳密に理解するところまで行かなくても、楽しむくらい
出来んじゃないの?という意味で申し上げたですよ。俺かて、仮名や草書の一般的
なところまでは読めて、それで初めて楽しさがわかってきたので、おっしゃる事は
ごもっともです。ただ、むりやり教えなくても、やる人だけがやればいいんじゃないすか?
ルイ・アームストロング チャック・ベリーをはじめ、
ブルース、ロック周辺の分野には「楽譜なぞ読めなくて良い」とする人が
たーくさんいます。レイ・チャールズやスティーヴィー・ワンダー(ともに盲目)に
楽譜が読めるわけがない レコードに「実際の音」が記録できるように
なったから、一流の中には楽譜を信用しない人も多いよ。
451 :
KOTE/419:02/12/06 22:58
>>449 >親切な教育は僭越…「ゆとり教育」は才能任せの放置プレイでよし?
<教育>のことに言及したかな?ギャラリーに付いていったのよこの場合。
<作家>の立場でね。<教育>は別問題。<作家>が鑑賞者の鑑賞力を気
にして仕事する必要はないってことよ。
>>KOTE419さん
カラオケ大会は、腕を磨くのには悪くないと思うんですよ、
とはいえ所謂プロの仕事とは思えない・・
お客さんに「つまらない」と思わせたらマズイ、そういう仕組みになってないのが
特殊ですよね。実際は、お客さんの目が「ふし穴」なわけじゃないと思います・・
それはこのスレ読んでたらわかるです。
453 :
KOTE/419:02/12/06 23:11
>>447 漢文の読めない漢字作家、た〜くさんいますがどーすんの?これ。
454 :
KOTE/419:02/12/07 00:11
>>421様
>カラオケ大会は、腕を磨くのには悪くないと思うんですよ、
とはいえ所謂プロの仕事とは思えない・・
貴兄のスレにあったように「カラオケ大会」を「公募展」に置き換えると
背景がスッキリしますね!
455 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/07 01:53
>>453 どーしようもない。自分のコピーを大量生産する書塾のボスは特に。
そもそも塾やってない書家って、どれくらいいる? 作家なら教育は放棄してもよい?
<作家>が鑑賞者の鑑賞力を気にして仕事する必要はないってのは確かにそうだけど、
教育に情熱を注ぐ音楽家ってのもたくさんいる。特にクラシックやる人に多いね。
>>450 それから公募展って、社中展の寄せ集めになってない?
教育目的を含まない社中展ってのはあるのか?
むりやり教えなくても、ってのもどうかな。少なくとも高校では、選択教科になってる。
芸術科目の中から一つ、むりやり選択させる事がよくないって意味かな?
選択も強制の一つだから、選択したからといって基礎指導してよい事にはならないとか。
456 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/07 02:01
昔の書の前でなんて書いてあるのかわからない先生いるね。
457 :
小手/421:02/12/07 02:11
だんだん見えてきましたよ・・美術一般は必需品ではありえない。ならば
あらゆる知識や技法の探求、注ぎ込む努力、なんにせよ自主的な動機に
よるのでなければ美しくないと。常識や義務感にしばられるなら、白々しいものに・・
むむ、深い・・
458 :
小手/421:02/12/07 03:06
455san 指導してはいけないというニュアンスではないです。
指導しないと、誰も興味を持たないんじゃあ悲しい、と。
「学べ」ではなく「憧れろ」というメッセージが発信されるといいです。
皆さんもきっかけはそうじゃなかったですか?
459 :
KOTE/419:02/12/07 08:39
>>455卿へ
わかります。私も指導しますから。しかし指導者気分で作品に取り組むことは
ありません。これやっちゃうと、ボロボロになりますからね!作家としては、
「見せてさしあげる」ことしかできないからね。作品について質問があった時は
ちゃんとレスしますが、弟子なら兎に角、縁なき衆生の首つかまえて<教育>
するようなマネはできかねますからね。<教育、指導>の大切なことは、無論です。
しかし、対象者にその”要求”がない限り<教育、指導>が存する理由(いわれ)
がない、ということです。その“要求”をもってもらうために、「見ていただく」
(この時点で対象者になんらかの要求があるのは明白ですが)、それをも<教育>
だとおっしゃるのなら、いわれるまでのことです。
学校での教科選択が一種の強制なら、レストランで限られたメニュウの中から選択
<させられる?>のも一種の強制ですね!
小手/421様
全面的に同感です!!
460 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/07 19:41
461 :
KOTE/419:02/12/07 23:52
>>460さん
それは貴兄のお仕事。だだ言うだけでは奴さん達、耳かしません。まずは作品で
ドカンとかましてやってください。貴兄の学識をさりげに披瀝することも忘れずにね。
そろそろ本題に戻りましょう。私ばかり話しててもしかたがない。え〜なんだっけ?
<伝統書と和漢混交文書との相克>?
だったっけ。428さ〜ん!あれ?成績つけてんの?問題提議たのんます。願わくは
みんなが参加できるような「井戸端な+α」な文体でネ。
462 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/08 16:41
>>461 428ですけど、簡潔には応答しにくい
>>432の方が気になっててね。いくつか試してみ
ても、不満足ゆえ破棄してばかり。と云う事で432さん、これから書く事は前置きにもな
ると思うから、気長に読みとってね。
「ぐだぐだ理屈をこねずに作品で示せ」式の感覚はどこにでもあります。もちろん学校
にも。要するに、「教員であると同時に作家でもある」事が求められる。ところが他方で
は、作家活動で多忙な教員は教員としての仕事を疎かにしている様にも見えるから、とど
のつまりは虻蜂取らずのイメージになる。教員であり作家であるという事は、その専門性
において教員でも作家でもない事と同義になる。高所大所から見れば、たぶん理屈派より
作家派の方が正しいのでしょう。通りがよい様ですから。
そこで現場では、唐突に基礎指導禁止となる。生徒は教員の作家活動を模倣すればよい、
書作活動の読解方法は生徒が自ら発見すればよい、となる。大抵は臨書中心ですね。高総
文の書道部門あたりでは、教員の創作を生徒が模倣すれば創作指導した事になる場合もあ
る。客観的評価は結果重視だから、余計な過程を省いた方が有利になる。まともな創作な
んかやらせたら、時間不足になって他教科から文句がくる。で、表面をなぞるだけに留め
れば総てが丸く収まる。
ここに流派が入り込みます。元々書道に流派は付き物だから(それが共通認識になって
いる)、特定書流に帰属しない指導法を排除すればするほど、周囲からはむしろ好ましい
評価が得られる。民意を反映したものが理屈抜きに正しい(感覚に理屈はいらない?)。
県教委も管理職も大体そうした方針です。
するとどうなるか。今度は書道教員採用試験が邪魔になります。まともにやると書流上
のよそ者を排除できなくなって、他教科に対抗するための団結力が低下する、との理由が
あるかも知れません。また管理職の方はそもそも書道を芸術扱いしないし、教育に芸術は
いらないとする例もある。〜以下、昨年の参考資料を一部伏せ字にて転載します。
463 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/08 16:43
×× ××様
教員採用試験に関する知事への提案について、回答します。
本県の教員採用試験では、昭和54年度に書道を実施して以来、書道の試験を
行っておりませんが、それは次の理由からです。
教員の人数は、学校の規模等で決まってきますが、その限られた人数を教科ご
との開設時間数等を見ながら配置していくため、教科によっては、専任の教員を
置かずに兼任させたり、非常勤の教員で対応する場合があります。
書道については、平成13年度において開設している全日制高校は、分校を含
めて70校中51校あります。このうち、非常勤の教員で対応している学校が1
9校、専任の教員で担当している学校が19校、他の教科との掛持ちで対応して
いる学校が13校という状況です。なお、これらの場合、ほとんどが書道免許所
持者であり、免許教科外担任等で対応している学校は1校のみです。
教員採用試験で試験を実施する科目については、退職等により不足になる教科
科目、各学校の教育課程編成による需用見込みを勘案して決定しておりますが、
書道については、書道専門の教諭がいない場合でも、他の書道免許所持者が担当
しており、学校として不具合がないことから、書道専門の教員を採用して欲しい
との要望はほとんどありません。そのようなことから、書道の試験についても昭
和55年度以降実施していないものです。
しかしながら、本県全体を見た場合、書道担当教員の高齢化が進んでいるため
本県の書道教育の次代を担う人材が不足していることは否定できません。
また、学校完全週5日制の実施、新学習指導要領への移行により全体的に授業
時数が減少することから、教員配置のあり方(例えば教科によっては複数校を兼
務することの可能性など)を含め、教員採用試験における実施科目を今後さらに
検討していくこととしております。
最後に、返事が遅くなってしまいましたことについてお詫び申し上げます。今
後ともよろしくお願いします。
××県教育庁県立学校課 課長 ××
×
464 :
泣いてる女:02/12/08 17:09
すいません
ぶしつけですが、
書について、興味が、ありまして、
わかりやすいところから、、と手にした本が、
石川九揚著「誰も文字などかいてはいない」
でした。
素人的に、わかりやすかったのですが、このかた
の情報ありましたら、なんでもよろしいので、お願いします。
466 :
小手/421:02/12/08 18:13
>>462さん 学校教育においては、本格的にやりたい子に対しては
「書道部に来れば、基礎からみっちりやるぞ」ということではダメなのですか?
書に対する理解を、もっともっと一般的に浸透させること(“布教”的な意味合い)
に拘りをもっておられるように思えますが・・・
ただ、貴方がそう思われる程に、今の子供達が「チンプンカンプン」な
現状があるのかもしれませんね。
あくまで横ヤリでした、失敬。
467 :
小手/421:02/12/08 19:27
ただしですね、あなた方のいっている「認知規範の接続不良」というのが、
ほんとうに、現代人だけの特別な問題なのかどうか、まず考えてみてくださいヨ。
昔は書にも「共通の物語」があり、(つまり)強力な規範に倣うことができたから良かった?
現代になってから「オタク文化」「社会の細分化」が到来したのがマズイ?
テレビも、電話も、公立学校もない時代の暮らしを、チョイと想像してみてください。
話の前提が、少しだけおかしいですよ。細かい話題に移るのは、ちょっと待った。
469 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/08 20:42
>>465素人さん 石川九揚についての話題は、この前のスレにもあるよ。
googleの検索でも見つけられるからやってみてちょ。
470 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/09 05:50
>>1さん
私は障碍歴約40年の男です。前からこのホームペイジを見ていて不思議に思い
また、憤りをおぼえていた者です。
この掲示板では、feelさん、前の大野氏いずれも障害者としての正当な権利や意
見の主張をしたに過ぎず、それを受け入れないばかりか他の主張も、健常者に媚
び諂い、同じ障害者を援護するどころか、貶めている傾向がある。
過去と現在の障碍者を取り巻く扱いは明らかに不当であり、差別であった事は
火を見るより明らかな事実であってそれを改善するという正義の革命は
今以上に性急に行わねばならない障害者の権利は、これを健常者が無条件で
受け入れねばならず、それに異論を唱えるものはすべて差別主義者であると言
わざるを得ない。
あらゆる物事、結婚、就職、就学などに障碍を理由にして断わられる事はあっ
てはならない
もしそれらを行った場合、その個人または団体に対し、刑事または民事で訴え
られるような法律の整備こそが最優先で、また、障碍者差別をなくす唯一の方
法であると確信しています。
障碍、健常のお互いの理解などは不可能です
健常である事は暴君であり、障碍を得ている者は市民であり、強者と弱者、お
互いにお互いの心など酌みようがないのはあたりまえと言えばあたりまえであり
仕方のないことである。
小生も40代にして、いまだに独身なのは障碍のせいではなく障碍を差別視する
世の中の風潮や、世の中の女性の悪しき思想のせいであることは言うまでもなく、
今まで何人もの女性に自分の偽りのない愛を告白して来たが、みな障碍を理由に
断わられてきたという、あからさまな差別を受けてきたのである。
真のバリアフリーや真に差別をなくすという事は健常者と障碍者が話し合い行う
ものではなく、障害者の要求と要望をすべて健常者と社会が受け入れるべき
なのである、現在のような差別発言や、差別発言を行う者への援護の書き込みは
厳に慎まれたい。
障害者特別性交特権の早期実現を!
471 :
KOTE/419:02/12/10 03:17
>>462卿へ
書道家αさんのレスを待つ間、ひとこと。
少々論理の飛躍を感じました。私は教員ではありません故、卿のご苦労を察し得ぬ
ことによる違和感なのかもしれませんが。(因みに書壇での友人の殆どは教員です)
>「ぐだぐだ理屈をこねずに作品で示せ」式の感覚はどこにでもあります。もちろん学校
にも。
指導法として、やってはならぬ行為であると私は思います。否、これは<指導>ではなく、単なる
<発表>ですね。それが<指導>なら、楽なものです!
>教員であり作家であるという事は、その専門性
において教員でも作家でもない事と同義になる。
これはその道で弟子を抱え乍ら物を作る全ての者に対し言えることですよね。
後進を育成する<陶芸家>は指導者でも作家でもないでしょうか。卿の言う専門性とはつまり
レッスンプロとトーナメントプロのような<メシの種>としての対立の謂いでしょうか?
もし違うのならば、これらを正、反として、合の部分に専門性があるのでは?指導も創作活動も
アクションのひとつとは考えられないでしょうか?
>そこで現場では、唐突に基礎指導禁止となる。生徒は教員の作家活動を模倣すればよい、
書作活動の読解方法は生徒が自ら発見すればよい、となる。
全く唐突です。作家活動の意味がいまひとつ不明瞭ですが、基礎知識や技術もなしに、いきなり
作家活動の<模倣>やれちゃうところがすごい。やらせる方はもっとすごい。
卿の目するところはわかります。そういう先生、多いのでしょうね。しかし失礼ながら
管見をもって論理を紡ぎ出しておられるようです。そうなることの方が不思議です。
問題は「高所、大所からみれば」「作家の方が通りがよい」、といってなぜ教育の場である学校で
作家やらにゃあかんの?とおもっちゃうわけです。そこら辺りの現場のニュアンスおしえてほしいな。
ごめんねチャチャいれて。
472 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/10 04:11
A県教委(<<294)がらみの苦情かと
473 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/10 06:04
A県って、石川九楊『誰も文字など書いてはいない』のp.10?
他のところはどうなの?
474 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/11 01:12
>>466-467 「書道部に来れば、基礎からみっちりやるぞ」…となると、授業で基礎をやる必要はあ
りませんね。基礎指導放棄の教員に年間三百万以上を支払うと、「税金のムダ」と云われ
そうですが。こうした実績を県教委や各校管理職主導で積み重ねれば、(工芸と同様)芸
術科目からの書道排除は実現可能だと思います。現に実例もありますし、後は全県規模ま
たは全国規模の合意が取り付けられるかどうか。
「相手が読めない字を書いてはいけない」とする合意は既に出来上がっています。また
相手が「読めない」様になる指導の方にも、明治後期以来の実績があります。これは「現
代人だけの特別な問題」でしょう。「読める」活字系規範と「読めない」書字系規範との
乖離は、明治以降に普及した事ですから。それまでは、活字系規範が書字系規範に従属し
て居りました。書を芸術・美術扱いするかどうかの議論が始まった時期と重ね合わせれば、
「現代」の起源は自ずと明らかになるのでは?
そうした観点の場合、「オタク文化」や「社会の細分化」は成熟段階の話になるでしょ
うね。前提が明治以降の文脈に従っているから、脱亜入欧から脱欧入米に至る来歴のフレ
ームは東洋文化の伝承を根こそぎ捨象する。「少しだけおかしい」のはむしろ、この手の
フレーム問題の方でしょう。
475 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/11 01:13
>>471 指導は発表の要請により評価可能となります。そこに罠がある。罠を仕掛ける環境上の
要請もある。要請を拒んだケースでは、講師の罷免や教諭の配置換え(例えば、書道から
国語へ)などの実績もある。前例主義ゆえ、既成事実が不文法的な役割を担う。
陶芸家は指導者でもなければ教員でもありません。理由は簡単。「芸術科陶芸」が存在
しないから。また〜私が前稿で書いた「専門性」は、学校からの排除を前提した「コミュ
ニケーションの消尽」または溶解を指します。そうした点で、「合の部分」はあらかじめ
学校以外の場に要請されている。
それから「模倣」の件ですが、古典や手本の模倣に留まるならまだいい。それを発表に
結びつけるところに「作家活動」の形骸が転写されてくる。形骸ですから、誰もそれを作
家活動とは思っていません。だからこそ形骸模倣はそのまま保全される。教育活動は理念
の免罪符。理念は教育活動の既成事実から創発し、「管見」そのままの「閉じた群集心理」
は民主主義教育をも実現します。
別の例で現場のニュアンスを一つ。〜絶対評価ってのがありますね。高校ではずいぶん
前からそうです。ここに相対評価の内規を介入させる。すると「絶対評価したものを相対
評価するのだから、絶対評価は取り入れられていることになる」とする解釈が生まれます。
これなら適応しやすい。適応できない(しない)教員は不適応教員ですから、そこから先
は懲罰あるのみ。もう一つ付け加えると、厳密な相対評価も行ってはならない模様。理由
は「人間的でないから」だそうです。
外務省には、「台湾に行ってはいけない」内規があったそうですね。
476 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/11 03:28
学校教育なんかに頼らず、これからの塾のカリキュラムを考える…
477 :
小手/421:02/12/11 07:39
>>474 最初の一段には納得です。
でもぉ・・明治時代以降に活字規範が普及したお陰で、識字率自体が格段に
あがってるわけでしょう?書どころか、字もほとんど読めない人が沢山いたはずです。
あなたが「昔は書が読めた」というときは、社会全体を指してはいないけれど、
今の学校教育では、ほぼ全ての世帯の子供を相手にしてる。
この辺を踏まえた上で発言しないと、他人を説得できないんじゃっ?
478 :
小手/421:02/12/11 07:57
>>477 「他人」とは、とくに書道を専門としない人のことです。
479 :
KOTE/419:02/12/11 17:16
>>474+小手/421さま
いやいや待った。実は今、江戸末期の書簡が三通手元にある。ひとつは長州は玉木
文之進のもの。恥ずかしながら殆ど読めない。ひとつは吉田松陰の黒船密航の罪
状書の写し。80%本人の手書きと思われるが未だ審かならず。3割読めない。
いまひとつは松田某が杉民治(松陰の兄)に宛てたもの。庶民の手であるが、これも
3割読めない。玉木のものは極端な連綿体候文で、古文書の学者も俄かには読めなかった。
松陰のものは癖字に難渋したが何とかなりそう。問題は松田某のもの。参った。驚くべき
俗体である。この体が庶民(といっても<通俗的実践的読み書き?>教育は受けた程度の)のなかで
取り交わされていたことを思うと、果たして<生きた字>とはなにか、という問い直し
をせにゃならんような気がする。ひょっとしたら<読める書写系と読めない活字系>
という構図もあったのかもしれぬ。興味があります。書写系と活字系の考察はおもしろい。
480 :
KOTE/419:02/12/11 17:23
>>475さま
・・・・・大変だなこりゃ。
要するに<書道教員>とは鵺である、と。
481 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/11 17:53
書道を小学校から音楽や美術のように専門教科として
取り入れるともっと芸術としての価値が上がるのでは・・・?
482 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/11 19:16
483 :
小手/421:02/12/12 00:34
<<474様 いちおう拙い見解を・・
書字規範についていえば、活字の登場によって
「読める人」+「読めない人」だったものが、
「読める人」+「読めそで読めない人」になった、ならば俺らも納得いくです。
これ教育者の功績だと思います・・活字責められないっす
<<KOTE419様
浅はかでした(汗) それら長州人の通用体を、たとえば江戸の人が
難なく読めたかどうかも、これまた謎ですねえ・・・。
ハイレベルスレの予感
<<418 よ、それができりゃー苦労はないそよ。
484 :
小手/421:02/12/12 00:45
485 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/12 10:37
きな、家の近ぐの吉野家さいったんず吉野家。
したっきゃ、なんだがさ人がっぱいで座らいねーんず。
んで、よぐ見だっきゃ垂れ幕さがってで、ふぇぐごんじゅえん引きって書いじゅーんず。
もうな、ほんずがと、バガがど。
ふぇぐごんじゅえん引きぐらいでいっつも来ね吉野家さくるなじゃよ、ほんずが。
ふぇぐごんじゅえんだよ ふぇぐごんじゅえん。
なんが家のやづみんなきちゅーし。
一家そろっで吉野家な おめでてーじゃ。
「とっちゃ、特盛り頼むじゃ」とかいっちゅーんず。 もう見でらいね。
おめ達や、ねぷた煎餅やるはんでその席空げろって。
吉野家ってのはもっと殺伐としちゅーべぎなんだね。
いづ Uの字カウンターさ向かい合っちゅーやづさやすめらいるがもわがんねー
やすめらいるがふんじゃまがいるが、、そった雰囲気がいいんでねーんずな。
かっちゃわらしだば家さ引っ込んでろ。
で、やっと座るにいいがと思ったっきゃ、となり奴が、つゆだぐけじゃ〜とか言っちゅーんず。
そごでまんだブヂ切れだべさ。
なーよ、つゆだぐだの今時流行らねんだいな、ほんずこの。
なにいい面してつゆだぐけじゃ〜、よ。
吉野家通のわぁがら言わさへりゃ今、吉野屋通での最新流行だっきゃやっぱし、
白、これだねな。
大盛り白ギョク。これが通の頼みがだや。
白ってば白飯だげ。そんかわり肉も汁もなんも入ってね。これや。
で、それさ大盛りギョク(玉子)。これ最強。
だばってこれとば頼むど次がら店員さ目とば付けらいる諸刃の剣。
素人さだっきゃ薦めらいねな。
まぁ、おめみてった素人だば、十万国でめぐねウニでも喰ってろってごったね。
486 :
KOTE/419:02/12/12 13:55
>>小手421さま
それら長州人の通用体を、たとえば江戸の人が
難なく読めたかどうかも、これまた謎ですねえ・・・。
着眼点、実にお見事!研究に値するです。誰か学論書いてねえかな〜ぁ。
(私、実は篆刻屋さんなのでこの研究チト守備範囲超えとります)
479は通俗即戦的の方がいいな。実践的はおかしい。
487 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/12 14:01
488 :
KOTE/419:02/12/12 15:43
>>487sama
情報お〜きに!!また教えてくりゃれよ。
489 :
KOTE/419:02/12/12 16:23
>>487殿
上貼掲示板見ました。いや〜ぁ、こんな板があったとは・・・
老拙、心より御礼申し上げ仕り奉ります!
今後共、宜しくご教示願い度く存じます。
伏乞鑑察 敬請
学 安 弟 KOTE/419頓首再拝
487大哥先生英鑑
491 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/12 18:37
今年の漢字は「帰」だと。
毎年揮毫してる坊さんだが、ありゃうまいのか?
どうもばらんすくるってるようにおもえてしょうがねぇ
492 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/12 18:41
>>491 中国と違い、日本の場合、書いた人の地位が
そのまま物の価値となります
494 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/13 15:24
ブリュッセルの王立美術館の近代画館に手島右卿氏の作品がありました。
前衛書道は絵画なんですね。
496 :
書?なんなの?:02/12/14 22:20
>>492 こんにちは、初めまして。
>中国と違い、日本の場合、書いた人の地位が
そのまま物の価値となります
中国もそうだと思いますが。というより、中国は本当地位
と作品が同じ場所にあるように思います、
北京市長(行政関係)の作品となるとかなりの価値が発生するようだし、上手いか下手かはどうでもいいのか?と思ってしまいます。
というか、中国人にとって書は教養。
展覧会を見にいっても、日本のように「壁面芸術」をかかげサイズの統一、額装のみやら、そんな規定もなくとりあえず飾る。
日本慣れしている私はちょっと驚きました。
芸術的方面も勿論あるでしょう、しかし、
現代中国書は大部分の方面において、自分の教養を世に発表するための一つの方法なのかな。
497 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/15 02:04
>>496 王羲之の右軍将軍も欧陽詢の率更令もみな官職。王鐸もそう。
巧拙がどうでもいい訳ではないが、レベルが下がったとは云えそうですね。
教養軽視の現代日本書道と比較するのは難しいだろうなあ。
西洋でも芸術は、教養や学問との融合から地位を得た筈。
ところが一般受けするタイプの芸術観は、感性偏重で教養を殆ど顧慮しない。
この傾向って、日本の受容感覚に顕著みたい。
中には、こんな意識もあるらしい。
「西洋の芸術家は苦労して極貧のまま死んでいったから、
日本の芸術家も極貧不遇で死んで初めて西洋に追いつける様になる。」
498 :
書?なんなの?:02/12/15 04:13
そうですね、間違えなくレベルは下がってますね、
実際ある中国の有名な文人は、書・絵画その他もろもろ
の伝承に焦りを見せてるようです。
私も書は芸術として1人歩きすべきものでない、
上條信山はこう言っています。
「書は本来、用美一体である。しかし書が用を
失った現代、美として生き残るほかない。
すなわち、芸術として。」
たしかこんな事でした。私自身賛成。
しかし、現代書は芸術に偏り過ぎ。
芸術を掲げて躍進した巨匠の時代は
もっと学問も大切のしていた。
今の若手、といっても40、50代?
そのぐらいの書家に学問にも精通する作家は
何人いますか?
その点中国人はそこを大事に勉強しているように
思います。日本人書家への知識も豊富です。
書人口は減ってはいますが、一人一人の
意識は高いのでは。ま、とりあえず字だけ書ける。
という人は少ない、書家と名乗るには当然知識も兼ね備わり
初めて書家と名乗れる。それが中国の書家のようです。
日本も見習うべきだと思います。
>>496 書家の書と異なり有名人の書はサイン程度でしょうか?
500
501 :
KOTE/:02/12/15 12:42
>>497>>498 書は本来、文人の余技
萬巻の書物の上に置かれた一朶の華
書家が芸術の語に喧しくなったのは己が仕事に対する自信の無さの
表明でしょう。いくら文房四宝集めても文人にはなれない。
その脳袋に<文>がなければ。文人が文人である所以はそれ
以外無いのだから。宰相必ずしも文人に非ず、名人(有名人)
も亦然り。否、しかるべき地位にあるものはソレでないと恥ずかしい
とされていたようですね。今の書家は<文人文化のつまみ食い>ですね。
それにしても<書?なんなの?>さん。ずばっときましたな!
502 :
KOTE/419:02/12/15 12:50
503 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/15 14:34
>>496 >>501 なかなか手厳しいですな。正しいことには違いないが。
ただ一つ言わせてもらえば、学問(ここでは漢籍と言えばよいか)も「一生の仕事」です。
生半可な覚悟でやるべきではない。
下手にかじれば、書的技術も落ち学識も中途半端という状態に仕上がる危険がある。
それこそ<つまみ食い>になりかねない。
そもそも現代人にとって、一から教養(主に漢籍)を学ぶのは、ほぼ不可能なのでは?
学校教育とかいうレベル云々じゃない。現代はもう、あまりに古来教養からかけ離れている。
それは誰のせいでもない。
それが同時代の趨勢から導かれる当然の帰結だから。
そうだからといって、漢籍から離れての書道は成り立たないから勉強はしなくてならない。
このあたりが難しい・・・
504 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/15 14:43
505 :
書?なんなの?:02/12/15 15:05
書。頭いたい。
506 :
書?なんなの?:02/12/15 15:08
なんか、とりあえず今の金欲、権力主義どうにかしないと。
最近は汚いイメージしかないです。日本書道
507 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/15 15:27
>>506 その話は止めろや。
権力批判の挙句の果ては、レスが不毛の地になる。
せっかくレスが建設的な方向に進んでいるから、
今の路線でもっと伸ばして行かないと。
508 :
書?なんなの?:02/12/15 15:42
権力批判したいのではありません、そんなことしても何も始まらない。
この現実ふまえた上で、みなさん書の将来どう考えますか?
509 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/15 17:10
>508氏への返答半分と皆さんへの質問半分です。
大学や専門学校など学府の教育体系として
「書」を「科」として扱っている様な学校は無いんでしょうか?
また専門の教育体系として確立しないまでも文書機器隆盛の昨今にあっては
国語力の礎として少なからず力が入っても良い分野だと思うのです。
私はむしろ「書」は「芸術」であるより「実」である方が良いと思っています。
あぼーん
511 :
KOTE/419:02/12/15 18:41
>>507っ!
はげどーだ!意気衝天もっときぼんぬ。
>>506っ!
ちょっと苦しかったのね。わかるよ。そっち叩いたほ〜が、楽になるもんね!
>>503っ!
>そもそも現代人にとって、一から教養(主に漢籍)を学ぶのは、ほぼ不可能なのでは?
>学校教育とかいうレベル云々じゃない。現代はもう、あまりに古来教養からかけ離れている。
>それは誰のせいでもない。
>それが同時代の趨勢から導かれる当然の帰結だから。
>そうだからといって、漢籍から離れての書道は成り立たないから勉強はしなくてならない。
>このあたりが難しい・・・
だから駄目なんだってば!そこで思考停止なのよ。時代の趨勢関係ね〜よ。
皆とはいわない、全て、こう あ・る・べ・き だともいわない、ただこの
当たり前の在り方気づいたんならさ、わしらからやろうよ!ってなぜ言わない?
「一から漢籍学ぶのはほぼ不可能」とか言いながら年取っていくんだよ。
ヘタに手を出すと怪我する、って筆ばっかりこねくっているから俺みたいな
厨房篆刻家に何も言えね〜んだよ、書壇の連中。(チト興奮してしもーた、失礼スマソ)
512 :
書?なんなの?:02/12/15 19:14
>>509 >書」を「科」として扱っている様な学校は無いんでしょうか?
書の学科がある学校ですか?
学会の糞偽善者どもは、さり気なく情報を訊き出しては、
行く先々にあらゆる人材を送り込み、偶然を装っては
チンケな猿芝居やコザカしい罠、悪質な嫌がらせを次々と仕掛けてくる。
その、あまりにも回りくどく分かりにくい嫌がらせの手法で、
実際、気付くのに五年以上かかった。普通はまさか?と思うものだ。
だが偶然ではなかった。全て計画的に仕組まれたものだった。
あくまでも偶然を装ってである。何とも白々しく腹黒く悪質で陰険なことか!
こっちが気付かない、或いは知らん振りしてると、しつこく睨み続けてくる。
こっちが気付き不快感をあらわにすると、知らん振り。
頭にきて攻撃すると、散々自分から仕掛けて来ておきながら、
いかにも自分が被害者ぶるのである。
たとえ地元から遠く離れていても、である。
前以って嫌がらせを組織や会場にに潜り込ませたり、
あらかじめ通過地点に嫌がらせを配置・待機させる事もある。
一体奴らは何がしたいのか?気に入らないならダイレクトに来い!
被害妄想と思うかもしれないが、そうする事で
今までの不可解な出来事の全てにおいて、つじつまが合うのである。
偽善者という言葉は奴等の為にある。
学会のあるクソ信者と一緒にいると、
必ず初対面の人間からも頭ごなしに白い目で睨まれる。
明らかに年下の人間も俺を見下した目で見ている。
「あいつはロクでもないガキだ!」とでも吹いて回ってるんだろう。
表面上は親切ぶっていても、裏で糸を引いているのは奴等である。
正に偽善者と呼ぶに相応しい。
いつでも助けてやるよ!と言いながら、足を引っ張っているのは奴らだ!
偽善スマイルの裏では、腐ったはらわたがドス黒く渦巻いている。
学会の人間に心を開いてはいけない。
自分の知らない同一人物が目の前に度々現れたら要注意である。
514 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/15 20:52
>>509 書道科となるとなかなか思い出せないなあ。再編後のを調べるのは面倒くさいし。
取り敢えず、実績がありそうな所の2ch的(?)印象を思いつくままに。ただし誤解多数。
北海道教育大学(近代詩文に偏っていそう?)
岩手大学(知石流の独裁体制?)
新潟大学(犀水時代の面影なし?)
筑波大学(学者教員養成課程?)
東京学芸大学(大作ばかり?)
上越教育大学(海外からの情報ってあるの?)
愛知教育大学(仮名は院政?)
大阪教育大学(よくわかんない)
奈良教育大学(よくわかんない)
兵庫教育大学(教育理論の空回り?)
福岡教育大学(教授ばかりが目立つ?)
大東文化大学(高校相手の商売上手?)
二松学舎大学(昔の話しか知らない)
國學院大學(読解重視で毀誉褒貶?)
四国大学(カリキュラムを見て眩暈がしそう?)
専門学校では上松一条の所があったかなあ。…他、遺漏多数。
515 :
KOTE/419:02/12/15 21:27
>>503へ
マジレスです。
時代が違うのは尤もです。読書階級の者たちはその読書そのものが生きる術
に繋がっていましたからね。彼らのレベルに達するなどとても無理、論じる
までもないでしょう。しかし、少なくとも漢字作家にとって漢詩文は一番大切な
ツールであることも否めません。わかっていながら長文を前にしたとたん,腰が
引けるのは何故か。案ずるに我々は漢詩文(文言)なる物の敷居をあまりに
高くし過ぎる一種の<漢文畏怖症候群>に罹ってはしないかとさえ感じます。
(高島俊夫氏も御著書のなかで述べておられますが)
503氏をして「一生の仕事、生半可な覚悟でやるべきではない」と言はしめる
所以もまた、ここに端緒があろうかと思います。しかし<文言>も世界あまた
ある言語のひとつにすぎません。萬巻の書を読むのはそれは大変ですが、まず
<読める>段階まで至ることは外国語を読むにいたる為の労力とさほどの大差は
ないはずなのです。(こんな事書くと所謂漢学者黙ってないでしょうけどね)
まず、<漢文崇拝>という観念の呪縛を解くことがなにより必要かと思います。
>>511 元気なレスどうも。これもまた正しいことに違いない。
ただねえ、人生には忙閑のサイクルがあって、私は今「忙」の真っ最中なのよ。
「忙中自ずから閑あり」、細切れの時間を縫ってかろうじてレスをするぐらいはできるが、
本腰を入れて漢籍を勉強する時間もエネルギーもないわけ。
だからああいうレスになってしまったんだ。
しかしこれは、あくまで私個人の事情に限っての話なんだ。
決して一般的な意味で書いたのではないことを断っておきたい。
まああと2年もすれば暇になるだろうから、そのときは気合入れて勉強したいね。
517 :
KOTE/419:02/12/15 23:18
もう寝よう。私も頭が痛い。
あぼーん
あぼーん
520 :
◆jF6T0YZyL2 :02/12/16 03:20
ところで、古文漢文板、どうでした?下〜の方に「古文書よんでるか〜」スレが
地味にあったけども。リンク張ったら来るかな?
521 :
◆jF6T0YZyL2 :02/12/16 03:28
ん?名前が出ん・・小手でした。。
522 :
KOTE/419:02/12/16 15:10
あ、小手さん?どこいってたの?あなたが居なかったから一人で漫才やってたよ。
そんなスレあったっけ?わたしは<CD-ROM版四庫全書ってどおよ>と<個人で
大漢和>でやつらちょっとひやかしてたから忘れてた、ごめん!
「通俗体の地域的差異」についてコメンテーター募集すっか。
<古文漢文>の人達、大学講師〜助教授で特定のスレに固まっているから
リンク張ればレスするかも。暇なときにやるから手伝ってね。
523 :
KOTE/419:02/12/16 15:26
四庫全書じゃなく白川さんの方だった。
524 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/16 15:41
525 :
いきぬきを:02/12/16 15:41
526 :
KOTE/419:02/12/16 16:36
>>520小手さんへ
「古文書よんでるか〜」のスレ、見つけられなかったよ。
三箇所ほど「ご教示ください」+リンク張って来たけど、どうもスレ違い。
小手さんリンク張っといて。暇だな俺も・・
>>524さん
四庫全書のスレ、人気ないねぇ。
>KOTE/419
よそに出張して、スレに無関係な質問でageまくるのはやめてください。
はっきりいって迷惑です。
それとも、確信犯の荒らしですか?
まあまあ
529 :
KOTE/419:02/12/16 17:22
>>527さん
あっちゃあ〜!ごめんなさい!なにせ消防のもんで。
530 :
小手/master:02/12/16 18:20
リンク張っときまつた。。
531 :
小手 ◆cxt6jyx9JU :02/12/16 18:28
あーもう。。トリップむづい。
532 :
KOTE/419:02/12/16 18:53
いや〜ぁ、リンク張ってsage忘れてた!ほんと、みなさんごめんなさい!
>>508さん
>>516さん
お暇な折、書のあり方について何かコメントしてね。
小手さん、取り敢えずレスまちまひょ。。
test
534 :
小手 ◆cxt6jyx9JU :02/12/17 04:32
↑ さっそく騙るなYO!
535 :
KOTE/419:02/12/17 11:03
書について騙りましょう!てか。
語るのも騙るのもやぶさかではないが、その前に、
おまえがあちこちの無関係なスレでageて回った質問の
削除依頼を出して、各板のみなさんに謝って来い。
話はそれからだ。
537 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/17 12:21
道について騙りましょう!てか。
>536
そんな依頼が通るはずもないし。今更謝罪レスつけられてもウゼェよ(ここ肝心)。
539 :
KOTE/419:02/12/17 15:32
538氏の助言に従っておきます。
茲に謹んで謝罪申し上げます。
曩過敗鄙責誠不能免不啻妄入尊公掲示板又
sage忽之可謂<逝>矣!鄙伏請大方以一粲
恕之! KOTE419奉
540 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/17 22:59
>>462-463の続き。
こうした教育環境における規範は既に、
>>432中の「伝統書」とか「創造」の領分を遙
かに超越しています。もちろんそれは、
>>431中の「昔いたような何でも知ってる」過去
的規範の要請と相容れないし、また「書史研究の面」での深化はあくまで対岸の出来事と
して語られます。
「毎日系の作品がちらつく」のは当然かも知れません。しかし他方では、「読売系」の
語から汲み取れるタイプの伝統でさえも、同列の規範の中で解体してしまいます。そうし
た意味で、学問教育を目的としない学校教育においては、もはや選択の余地など元々あり
得ません。いくら書史研究が進んでも、それを初等・中等教育に反映させてはならないの
ですから。(これまでの経緯から、この書き込み自体が皮肉を含意する事はあらかじめご
理解いただけるのではないかと期待しています。)
学校の〈内〉と〈外〉とでは、期待される判断の予定調和的性格が異なります。常識と
しての「読めない書道教育」が不可侵の前提となっている以上、毎日展の作品群も読売展
の作品群も教育思想上、アプリオリかつ平等に「読めない」領分とされなければならない。
そこでキーワードとなるのが「幼稚化」です。
先月、H大学(国立四年制)教育学部国語科の書写指導担当講師(六十代の元高校書道
担当教諭)と話をしてきました。たぶん純粋経験の重視を意図したかったのでしょうが、
その言い分には可読性に関する国語科的な指導法を殊更に避けていた節がありました。国
語科教員が国語科的感性に由来する指導法の工夫を忌避したら何が残るか、考えただけで
ゾッとします。〜曰く、「正論では通らない」と。
美術教育においては子供の感性を最大限に尊重する神話的姿勢が重視されている模様。
書と美術との融合を擬態する上ではそれなりに理解できます。もちろん、この姿勢を文学
教育に反映させた場合の想像も可能。例えば、日本語教育を捨象した文学教育とか。
541 :
小手 ◆cxt6jyx9JU :02/12/17 23:07
アプリオリ→先験的に→自明の事実として
フツーの辞書引いてもない言葉はなるべく避けよー
542 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/17 23:17
543 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/17 23:56
どなたか「書学の可能性」というレポートにアドバイスかヒントくれませんか。
スレちがいかもしれませんが助けてください。
544 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/18 00:48
>>543
書を学ぶ事によって日本の伝統や文化に触れ
伝えることの出来る芸術だと思います。
調和体などで自分の表現したいものができ、
心を落ち着かせる事ができるんじゃないでしょうか
545 :
KOTE/419:02/12/18 10:57
>541小手さん
アプリオリくらい(+α)でいいかもね。昔はよく使ってた。
今はちょっと・・ね。
>540さん
続き聞かせて。
>>543 <書学>はもとは実用性と表裏に関係にありました。筆を用いることの少なくなった現代
にとって<書学>は実用を離れ<芸術,文化>にカテゴライズされました。(少々異論は
ありますが)実用を離れる、とはつまり「役に立たないもの」と言っても過言ではありま
せん。しかしここに意味がある、つまり無益と無意味とは不等号なのです。<芸術とは無
益なもの>と考えてもいい、しかし人間の精神が真に(ちょっといやな言い方ですが)開
放されるのは無益なものと戯れる時ではないだろうか。<豊穣なる無益さ>それこそが精
神を深化させる唯一のツール、それが芸術、文化、とりもなおさず<書学>である、と考
えると可能性が見えてきますね。(この「無益なもの」を役に立たせようとしたり、出世
や権力獲得の”ため”に使ってしまうと、最早ソレは精神を開放するなんらの力も無くな
ってしまうのでしょうね)こんな言葉があります。
「無益の事を為さざれば、何を以て有涯の生を悦ばしめん」とね。
546 :
KOTE/419:02/12/18 11:07
544さんの付録の意味で書きました。<書学>にニュアンスが
>>544さん
と若干違っているかもしれませんね。
>545 豊穣なる無益さ…心の豊かさの様なものですね。
>543
「書学の可能性」とは現状における「可能性」を指すのでしょうか?
それとも545でKOTE氏が言われる「実用性」を失う以前に有していた
「書学の可能性」を含めた「可能性」をも含むのでしょうか?
「書学の可能性」をもって限定する範囲でレポートの方向性や
諸氏からのコメントも変わると思ったのでレスしました。
549 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/18 18:53
>544〜548
レスありがとうございます。とても参考になります。
なんとか見通しがでてきました。本当にありがとうございます!
>548
たぶん現状における「書学の可能性」だとおもいます。
私は広義の意味の「書くという行為」全体のことを考えようかとおもってます。
550 :
KOTE/419:02/12/18 21:32
551 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/18 21:33
>549
頑張ってください!
自分は満足なアドバイス出来ないのですが(^^;)
552 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/18 22:35
>>549 広義の意味の「書くという行為」全体、という事でしたら、別の視点も組み込む必要が
ありそうですね。例えばデリダの『グラマトロジーについて』とか、クリステヴァの『セ
メイオチケ』とか。お勧めはオング『声の文化と文字の文化』(藤原書店)。あと、音声
中心主義と文字中心主義についての入門書では『書くということ』(東京大学出版会、認
知科学選書)が面白う御座いました。また丸山圭三郎の研究では、ソシュールを筋金入り
の音声中心主義者とは見なしていない模様。
マイクロソフト「エンカルタ総合大百科」では、守中高明が石川九楊の筆蝕論を批判し
ています(「痕跡から豊かな誤読可能性へ―「グーテンベルク銀河系」以後のエクリチュ
ール」)。これが実に面白く、つい「運動の外在性」に触れた箇所をベイトソンやギブソ
ンのと読み比べたくなったりして。後者のアフォーダンス理論は書道関係者にも注目され
つつある模様。「発話に対する痕跡の先行性」の箇所では、認知心理学などの分野で云う
「記憶痕跡(エングラム)」と絡み付けるとどうなるか興味があります。〜書字と読字は
両方とも、深層構造に埋め込まれた記憶痕跡の実体化プロセスに共依存するのではないか
と。また活字文化においては、このプロセス全体が極度に単純化されているか、もしくは
無視されているのではないかと。
553 :
書道家α ◆nLqs7MgabM :02/12/18 22:38
>>434 国語科では書の授業は意外と少ないのですね。少し残念ですが、先生になって書道を
教える機会があれば、ぜひ書く楽しみと鑑賞する楽しみの両方を教えてあげてください。
>>466 私がなぜ「布教」的な意味合いの話をよくするのかというと、いまの一定年齢以上の
方々は、書の普及・拡大期にあたる時期に書を学んだため、ほうっておいても書をと
りまく環境が今の形で続くと考えている節があるからです。いま書を学ぶ若者が今後
を考えたときに、そんな明るい(現状維持さえ明るく見える)ビジョンは見えません。
昭和後期に大量の書物が出版され、廉価で書作品を鑑賞できるようになったのは、戦
後に書道界全体が活況を呈し、需給が拡大したことが大きな要因です。そんなことさ
え今や忘れられようとしています。
つい10数年前には免許を取れば誰でもなれた書道教員も倍率はいまや数十倍。書道界
の老害や展覧会のシステムについて文句ばかり言う人がいても、若年層の将来について
考えてくれるひとは少ないのです。先に誰かが触れていた上條先生は学校教育に書を
残してくれた人ですよね。そろそろ底辺を広げる努力をする人がでてきてもいいように
思うのですが。
554 :
書道家α ◆nLqs7MgabM :02/12/18 22:39
>>467 かつての「共通の物語」と「社会の細分化」についてはここ数十年の現状を述べ
ているだけで、良し悪しの話をしているのではありません(ちなみに東浩紀から
とってきました)。テレビがなかろうが公立学校がなかろうが、共通の物語は存
在していましたよね?何の前提がおかしいのでしょう?
>>540さんの教育へのこだわりの意味がだんだんとわかってきました。またレス
します。
555 :
書道家α ◆nLqs7MgabM :02/12/18 22:43
書人に教養が足らないことを嘆きつつ、難しい言葉が分からないから簡単な言葉
で説明しろという人がいる一方で、そういった意見に妥協して簡単な言葉で説明
しようとすると、思っていることがうまく伝わらない。こんな小さなスレでも人
生の縮図がありありと。
石川九楊の話が出ていたのでひとこと。最近酒の肴に日本書史を拾い読みして
います。中國書史はふりがながなくて、少し読みづらかったのですが、その点
日本書史は読みやすい。
面白かったのは俊成、定家のあたりと、近衛家煕のところ。従来「奇癖」とさ
れてきた俊成・定家の書が平安時代の仮名の当然の行く末であったことや、家熙
の書の筆力の弱さや日本書史上の位置付けを指摘するところなどはう〜ん、と
うなってしまいました。まあ細かいところは難癖をつけたくなるのですが、そん
なことしてるとこの人の本は読めませんよね(笑)
556 :
小手 ◆cxt6jyx9JU :02/12/18 23:37
私は、KOTEサンの「吉田松陰の手紙が、江戸の人に読めたか」といった
話題を通じて、昔の人はもっと我侭で、創造的だったのではないかと
問いたかったのです。現代のように情報がやりとりできないならば、
例えば吉田松陰は、江戸の人に読まれることは念頭におかずに書くことが
多いでしょう?おそらく隣町の人にすら、見られる機会は少ないでしょう。
共通の規範があったのか?というのは批判ではなく質問です。
557 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/18 23:54
在日がいろいろ人種工作やってるけど、真相はかなり違う。
大雑把に、
頭示数が、韓国人は短頭〜過短頭、日本人は中頭〜短頭。
鼻示数が、韓国人は中鼻、日本人は広鼻〜中鼻。
二重の出現率が、韓国人は約2割、日本人が約5割。
一般的に韓国人の顔は、ツリ目が多く、鼻は低く目立たず、彫りが浅い。
頭は絶壁頭の傾向が強く、その分頬骨が高い。体毛が薄いのに比例して
眉毛や髭などが薄い。全体的に見て平坦な印象。形態もさる事ながら、
中国人ほどではないが遺伝子の方もかなり違う事から考えれば、
韓国人は人種的に日本人とはかなり違った異人種であるという事が分かる。
http://www3.mahoroba.ne.jp/~npa/narayaku/image/dna_map.jpg
558 :
KOTE/419:02/12/19 10:08
>>555 >書人に教養が足らないことを嘆きつつ、難しい言葉が分からないから簡単な言葉
>で説明しろという人がいる
こう書かれると自家撞着に陥っている様に見えますね。言質取るならもっと正確にお願いします。
>そういった意見に妥協して簡単な言葉で説明
>しようとすると、思っていることがうまく伝わらない
納得と妥協は同義語でしょうか?もし、妥協したのなら即刻止めて戴きたい。
>>小手さん
松陰の手ではなく、松田某の書簡ですね。書写における、フォーマルとカジュアル、
公用語と方言との差異の有無については長期戦で考証致しましょう。
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´Д` ) < 必 死 だ な
/, / \
(ぃ9 |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ /、
/ ∧_二つ
/ /
/ \ ((( ))) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ /~\ \ ( ´Д`) < 必死だな
/ / > ) (ぃ9 ) \_______
/ ノ / / / ∧つ
/ / . / ../ / \ (゚Д゚) <アフォ先生
/ ./ ( ヽ、 / /⌒> ) @( )>
( _) \__つ (_) \_つ / >
561 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/19 17:54
>>514 > 愛知教育大学(仮名は院政?)
詳細キボーソ
564 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/20 01:23
>>563 大学のHPを覗いてみたけど、あらら…。黒野清宇の時代はどうだったのかなあ。詳細は
知らないけど、参考までに取り敢えず一つ。「愛知教育大学書道担当」は衣川彰人教官。
Q.
冠省 高校書道教員を国語科の試験で採用する慣行が何十年も続いている場合、言語とし
ての指導、すなわち可読性の指導が、県内どこの高校でも事実上禁止されている理由につ
いて、先生方の予測する所をご教示いただければ幸甚です。頓首。
A.
冠省 お問い合わせいただきましたが,
ご質問の趣旨について分かりかねますので
十分な回答ができません。
本学の書道教員養成に関するご質問でしたら
回答できるかと思いますが,
教員採用や教育現場での指導に関するお問い合わせでしたら,
教育委員会へお尋ねいただいた方がよろしいかと思います。 匆々
愛知教育大学書道担当
>559-560
BAKANOYAMAさんはもっと慎重にレスをしていただけませんか?
批判誘導ばかりか煽りのAAまで張られてはさすがにスレ汚しです。
566 :
小手 ◆cxt6jyx9JU :02/12/20 07:25
>>558 あい。今忙しいし、その方が都合よいでつ。
みなさま、師走だけど、ここはマターリいきましょう、ね
567 :
KOTE/419:02/12/20 10:56
国語と書道教育との乖離がここまで進行していたとは・・
展覧会馬鹿の認識不足、お恥ずかしきかぎり。
それにしても衣川氏の返答、全くの猿芝居。この現状はかつての国語審議会による
漢字排斥工作(!)を彷彿とさせますね。この工作に深く関わられた元東大名誉教授
倉石武四郎氏の『漢字の運命』(岩波新書)は比類なき名著です。読めば元気になり
ますよ、ある意味。
568 :
KOTE/419:02/12/20 11:33
文部科学省もはっきり言えばいいのにね、
「書道教育はじゃまである!」とね。あ、もう言っているんですね!
569 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/20 21:14
570 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/22 00:33
>>567 どこの馬の骨とも分からぬ相手からの質問ゆえ、衣川教官の対応はごく普通なのでしょう。
答えられない理由がはっきり書いてあるし、セクション重視の姿勢も窺える。
ただ〜総じて、少なからぬ大学が警戒心を抱いている可能性は否定できないでしょうね。
下手をすれば、国立大学教育学部統合で大打撃を受けるだろうし。
どこの大学でも、卒業生は一種の知的財産。学閥(傍目には流派扱い?)の根絶は不可能。
ただし、今後の教育機能を弱体化させる上で学部統合は好都合かも。
例えば書道科のあるA大から書道科のないB大に統合する場合、
A大の書道科は地域との結びつきを失う可能性があり、結果として平準化につながるとか。
書道蔑視地域のB大にA大の書道科が移転するにしろしないにしろ、
主要教科の学力調査資料とは無関係だから、地域格差の解消だけが評価されて終わる筈。
そもそも、非主要教科の学力低下を裏付ける全国規模の調査なんて聞いた事がない。
科学的根拠のない事に科学的判断は下せない。これこそ科学信仰の盲点。
もうじきそこに、教育の地方自治が加わる。
民主的かつ合法的に、地域の実情に応じた科目の改廃が行われる。
書道が消えても音楽と美術が残れば、芸術科目の選択制は維持される。
単に規模が縮小するだけ。少子化対策と同列。民間教育の振興にもなる。
学校書写教育との連動に傾いた昭和三十年代と異なり、心理的な枠組みは撤廃される。
その代わり、「学校で落ちこぼれない様に」式の動機も保護者から失われる。
ここから先は書塾にも、学校と同様の「興味・関心を育てる」機能がいっそう求められる。
主要教科の学習塾は、大半が受験目的のシステムに依存している。
受験目的を含まない塾の研究を進めないと、書塾はやがて生き残れなくなる。
…なんて事を試しに書いてみる。実現の可能性はどれくらい?
571 :
KOTE/419:02/12/22 07:26
>567さま
残念ながら・・・・皆無。書塾を現在の学習塾と相対して思考する限り。
子供相手では食えない、これが今の書塾のありさまです。将来<書>で食おうとするにしろ、書塾なんか
より進学塾に通った方が有利なのは必定。こうなるといきおいシルバー産業に<転向>するのが糧道確保
の唯一の選択肢。私は篆刻家ですが、昔は篆刻では食えないから子供相手の書塾構えて<しのぎ>をやる
仲間が多かった。今ではむしろ大人相手に篆刻教える方が食えるようになってしまいました。
社会が文化に対する認識を変えるか(百年河清を俟つが如し!ですね)、受験志向とは全く別のパラダイム
を構築する以外(めちゃ観念論)、子供が書塾に戻ることはありえないでしょうね。
572 :
KOTE/419:02/12/22 07:32
承前
あ、レスの焦点がちょっとずれてた!すんません。
573 :
KOTE/419:02/12/22 07:40
あ、>567は>570さんの間違い。ん〜、疲れとる。
574 :
KOTE/419:02/12/22 13:33
現在学校において書写教育は書写体の活字に対する特異性を国語教育の障碍と見なされ、
国語教育との乖離が意図的になされている。これは或る面「活字」を標準体とする当局
よりすれば、その是非は別に論議するとして「むべなるかな」の感はあります。
ここで敢えて教育関係者諸賢にお尋ねしたい。
かりに学校において書写教育が必要であるとなさるなら、何ゆえ必要と思われるのか。
書写教育の必要性について明快に論述願いたい。
575 :
小手 ◆cxt6jyx9JU :02/12/24 12:07
生存中
>>574 僕も一番気になっているところです
576 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/26 02:22
>>574 「書写教育が必要でないとなさるなら」との設問であればそれなりに予測できそうです
が、その反対となると現場で通用するかどうか…。文言上の建前は学習指導要領の通りで
も、「正しく」「読みやすく」「整えて」「速く」に毛筆は必要とされていない模様。
ろ そもそも今と昔で基準が異なる「正しく」の項目については、留意はすれども結果的
に過去を過去と割り切って葬り去る。「読みやすく」の基準も同様で、昔の字は「読みに
くい」「読めない」のが現在の常識だから論外扱いとなる。とどのつまり来歴を無視して、
既成事実化した「読める」字だけを「読みやすく」教えればよい。また〜「整った字」と
はどんな字か、ここでもその由来を教えないから派生構造自体が意味不明になる。「速く」
の項目なら毛筆より硬筆の方が明らかに上で、しかもこれは多くの学校で教えていない中
学二、三年書写の領分だから事実上の空文と化す。大抵の文言は運用段階でいじればどう
にでもなり、その根拠は自ずと常識的コミュニケーションへの従属を強いる。事の是非は
所与の教職環境に服従しているかどうかで判断され、校内フレームの場合で云えば、一人
の書写・書道担当教員の適応状態が数十人の他科教員に民主的に裁かれる。
こうした暗黙の規範が県教委の指導主事にも適用される事は既に確認済みです。例えば
高校書道の指導主事を高校体育の指導主事が兼務するとか。義務教育のセクションについ
ては存じませんが、書写それ自体が国語科に従属している点から、書写教育への理解の乏
しい国語担当指導主事が数多く存在し得る事くらいは容易に推測できます。
以上…答えになっていませんが、今の段階で私に書ける事はこれくらいです。
兵庫教育大学の小竹研究室に掲示板を見かけた記憶がありますから、詳細についてはこ
ちらに問い合わせてみてはいかがでしょうか。研究内容を見た範囲では、信頼できる素晴
らしい先生です。と云っても私はインターネットを始めた頃、或る過失により閲覧禁止を
申し渡されましたので、爾来HP自体を閲覧して居りません。当時はメール・アドレスが
掲示板と直結していた模様。長文不可。
一行に一度は「、」を
二行に一度は「。」を
三行に一度は改行を
これだけで格段に読みやすくなります。
あとは一行で漢字は○○字までなどの決まりごとをつくっておけばなおよし。
漢字の割合が25%をこえると、とたんに読みにくくなります。
どれほど難しい字を使ったところで中身はかわりません。
皆さん、もっと漢字をひらきましょう。
578 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/26 16:43
一部訂正。
>>576四行目の行頭「ろ」は削除。ここから第二段落となります。
>>577 格好の事例を有難う御座います。ここに見られる通り、国語教育の規範は恐ろしく形式
的。句読点の過度の挿入が却って意味の連結構造を分かりにくくする可能性については殆
ど顧慮せず、しかも歪んだ漢字制限政策が前提となっています。漢字それ自体の意味分節
作用を黙殺するから、「どれほど難しい字を使ったところで中身はかわりません」式の発
想が出てくるのでしょう。
「句読点を必要としない書記様式」の来歴には漢字と仮名の差異も関与する筈なのに、
敢えて「一行に一度は「、」を」式に小学生向きの作文規範を持ち出す。そのうち四十年
ほど前の中国みたいに、「書作品にも句読点を」なんて言い出すんじゃないか。
単純にあまりにも576が読みにくかったのでつい一言。
あまり気にしないでいいですよ。
580 :
小手 ◆cxt6jyx9JU :02/12/27 14:11
>>576 教育委員会の方針がドッチ向いてても構いません、
貴方の思うところを述べてください。明快に
あぼーん
582 :
小手 ◆cxt6jyx9JU :02/12/27 20:30
おれが書くと次はいっつもコピペだよ・・・もう
583 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/29 00:18
543です。
遅くなりましたがみなさまのおかげでレポート乗り切りました。
参考文献等教えてくださり本当にありがとうございました。
あぼーん
585 :
KOTE/419:02/12/30 19:13
>>576 う〜ん、どうもコミュニケーションが取りずらい。あ・な・た・は・
書写教育に従事なさっているわけですよね?あ・な・た・が・
<仮に>書写教育を今後必要であると規定なさるのなら、その<個人的見解>
を聞きたかったのだけどね。当局側の不当とも思える措置に対し、情熱的に批判を展開
した、あ・な・た・だからこそ言ってもらいたいのよ。あとはもう>582の小手さんのレス、
私もコピペするしかないな〜。必要性説けないのなら今までの論述即ち空論に終わっちゃうよ。
それに>577に対するレスは少々過敏反応でねいけい?
586 :
KOTE/419:02/12/30 19:49
>>583さん
よかったですね。私はさておき、ここにはそれぞれ<ひとかど>の人たちが集まっているから
頼もしいですね。いつか貴方の意見も聞かせてね!
587 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/31 02:07
>>579 一部はいつも気にしている事なので、つい過敏に反応してしまい相済みませんでした。
千字文の「寸陰是競」は「ゼキョウ」か「シケイ」か、藤原行成は「こうぜい」か「ゆき
なり」か…と、音声はとにかくややこしい。そこで私は「エエイ面倒だ、いっそ漢字は読
みなんか調べず、先に字面で読んじまえ」とひねくれた。これでは国語教育側の理と矛盾
する。でも発音さえしなければ、字面だけでも確かに意味の伝達は可能。私はこの字面の
機能を重視する立場で、書表現による補完機能が国民の教養であり続けても構わないと思
っています。と云っても音声を無視している訳ではなく、字面を優先しているだけ。(「ひ
らきましょう」と接合可能な字は「開・拓・闢」など色々ありますから、接合行為自体の
是非も含めて私の場合はあれこれ迷いました。)
>>580 これらの事どもをあれこれ併せると、ますます明快には書けなくなります。
試しに「書教育の立場から(現行の)学校教育を否定する」とでも書いてみましょうか。
書教育の一部は学校教育に含まれますから、これは矛盾です。ところがこの手の否定や矛
盾は、書教育の一部が学校教育に包含される以上、学校教育を肯定しないと導き出せない。
学校教育を否定すると書教育の一部も否定する事になる。これまた矛盾です。一方、肯定
から生じた否定の場では、矛盾と矛盾が折り畳み合って襞となる。否定を肯定すると矛盾
に相補性が生じたりする。矛盾の肯定は矛盾したままの整合を可能にしたりする。だから
「教育委員会の方針がドッチ向いてても構いません」とする立場で「明快に」書くと、私
の「思うところ」と整合しない点が出てきます。
588 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/31 02:09
>>585 さて、どちらが「空論」になるでしょうか。「ドッチ向いてても構いません」式に学校
と乖離した結果「貴方がそう思うのなら勝手にやれば」と却下・排除されて終わるのと、
初めから学校教育に何も期待しないで見捨てるのと、それ以外と。
公教育の側は恐らく、最終的には「見解の相違」で済ませて泰然自若となる。現にお抱
え書道教員の支持もある(書写教育を必要としない立場に配慮できる教員だけが書教育を
担当できる)。つまり民間の教育力に依存した伝統文化の質の多様性を顧慮しないか、も
しくは学校側の見解を優先する場合、学校側の判断が正しくないとは言い切れなくなる筈。
ところが私には、その「正しさ」を納得させてくれる説明がなかなか見つけられない。ま
さか単なる多数決に終始する訳ではありますまい。それだと学問自体が学校文化内の政治
的判断に従属してしまいますからね。
「<仮に>書写教育を今後必要であると規定なさるのなら」との条件が「その<個人的
見解>」の分裂を肯定する場合、「書写教育」の場も分裂可能になるでしょう。答える前
にこの点を片付けて置かないと、堂々巡りに陥るかも知れません。
…と、ここまでの推敲で大丈夫かどうか。書きたい放題に書けば憂さが晴れるというも
のでもない以上、続きはもっと熟慮してから書くべきでしょう。なぜ「教育関係者諸賢に
お尋ね」なのか、ヒントがあれば幸甚です。ここを御覧の皆様にもお尋ねしたい。「貴方
は教員ですか」と。反応がなければ予想通り「沈黙は金」なのでしょう。そうした体質は
重々承知しています。
589 :
わたしはダリ?名無しさん?:02/12/31 02:18
590 :
小手 ◆cxt6jyx9JU :02/12/31 17:22
>>587 ???要するに、貴方は教え子さんに
一体「何」を与えたいんですか?
それを数行でもいい、書いていただければ幸いです。
大晦日に生意気な質問をしてすみません。
良いお年を。
591 :
KOTE/419:02/12/31 18:58
真摯なレス、ありがとうございます。実は氏との対話によろこびさえ感じます。(勿論皮肉じゃなく)
漢字を「ひらく」というときの「ひらく」という和語を漢字に接合するのは不要かと存じます。
厳密な意味で<漢字を「ひらく」>の意(漢字をかなに易化置換する)に相当する「漢字」(漢語)
は存在しないでしょうから。義を取るにしても「訓」「解」ともに動詞として振る舞いますが
ニュアンスを異にします。むしろ「融」のほうが妥とすべきかもしれません。私も商売柄(?)
<文言>を綴りますゆえ、この手の考究はいやと言うほどやりますが和語においては
<必ずしも漢語を典拠とせず>との考えを有っております。(必不ではなく不必ということで)
「読み」の問題ですがこれ以上は板違い。またの機会に・・。
「書表現による補完機能」ではなく文字表現のそれでしょう。
592 :
KOTE/419:02/12/31 18:59
理想論と現実論でしょうか。私は現実に即した「会議」をここでは望んで
居りません。しかしこのレスは貴方の真摯さの為せる所以なのでしょう。
「<仮に>書写教育を今後必要であると規定なさるのなら」との条件づけは氏に対し
ひとつの<セーフティゾーン>を設けたつもりなのですが、(そもそも2chそのものが言論
におけるセーフティゾーンだったりしますが・・)それそのものが「本音と建前」の分裂を含蓄
するのは言うまでもありません、むしろ私は氏がこの場だけでも問題認識を<分裂もしくは峻別>
できるものならそれを期待したのですが・・。氏が存在としてこれらを含蓄せぬ者ならば
一層結構なことです、その御立場で論述戴ければ幸いです。設問を立てますゆえ、もし
差し支えなければ御答えください。
1 氏は「書写教育を必要としない立場に配慮できる教員」なのでしょうか、否でしょうか。
2 否の場合、書写教育の必要性についてご論述ください。
3 絶対必要としないがあった方がよいとされるならば、なぜあった方がよいのか、
ご意見お聞かせください。
実は私自身、学校における書写教育の意義について<明快な>論拠を見出し得ぬのです。
どうぞ、ご教示ください。そこから演繹して今後の社会における書文化の意義まで皆で対話
できれば次の地平が見出せるように思います。
593 :
KOTE/419:02/12/31 19:08
みなさ〜ん!あと5時間足らずで新年です。楽しい対話をありがとー!
よいお年を!来年もよろしく!さーて、年賀状書くか・・
594 :
KOTE/419:02/12/31 19:21
>>588 レス忘れ。
>なぜ「教育関係者諸賢にお尋ね」なのか、ヒントがあれば幸甚です。
「餅は餅屋」、他意はございません。
明けましておめでとうございます。皆様それぞれ新たな年を迎えられたことと思
います。
今年もぼちぼち好きなように書を楽しみたいと思っています。何となく追い立て
られるようなこのごろ、書にも潤いのある或いは艶のある書を見ることがなったの
は残念です。
1月のHPをUPしました、変わり映えしませんが。今年も毎月何か新しいもの
をと思っています。よろしく。
http://memmber.nifty.ne.jp/HKJB/index.htm
596 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/05 08:06
>>592 賀正。丁寧に読んでいただき有難う御座います。「書写教育を必要としない立場に配慮
できる教員」でない場合の末期については、既に
>>576と
>>588で記した通り。…緩衝し
にくいので、いったん分類し直します。
(1)教員でない場合。
〜(1a)教員になろうとする場合。(1b)教員になろうとしない場合。
(2)教員である場合。
〜(2a)教員を続けようとする場合。(2b)教員をやめようとする場合。
私が(1)なら教職経験の有無を問わず、他人事の様に書いても構いません。特に(1b)の
場合はそうです。ところが(1a)と(2a)の場合、「書写教育を必要としない立場に配慮」す
る必要が生じます。すると事実上、(2b)は相対的に「学校への反逆」を意味しますから、
取り敢えず「教員をやめざるを得なくなる場合」も含める事としましょう。
…要するに、「教育関係者諸賢にお尋ね」ってのがあると現実的にならざるを得ないか
ら答えにくいのよね。(こだわり過ぎ?)
こうした事を丸ごと棚上げにするなら、私の捉える「書教育の必要性」は「伝統文化の
肯定」以外ではあり得なくなります。
【ただ単純に、文字としての機能を肯定するなら文字として教えればよい。】
…でも、こんな拍子抜けする様な答えで済むのでしょうか?
この程度なら
>>590さんとて既に把握済みの筈。きっとこれとは別の、もっと捻った事
について「一体「何」を与えたいんですか?」と問うている筈。上記のごとき答えで済ま
せても、解釈次第で「空論」扱いできる事には何ら変わりありませんし。
597 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/05 08:10
試しに「伝統文化の護持」と「正しい日本語の護持」とを比較してみましょうか。ここ
では「正しい日本語」の正体そのものが曖昧で、「言語は時代によって変わる」がゆえに、
むしろ「護持」の姿勢の方が弱点を孕んでくる。それぞれの時代の在り方を、あるがまま
に肯定するだけで充分とも云える。これなら変容可能性を肯定した上での護持に留まるか
ら、「何がどの様に変わるか」のうち、「何が」の部分を規定する行為が「護持」となる。
変容を認めるのだから、「護持」と云うよりベルクソン的「持続」か。
他方、美術教育では子供の素直な感性を重視してますね。〜或る生徒が集王聖教序を臨
書した。変なものになった。しかし原本を見ると臨書の通りになっている。彼は碑の毀損
箇所もありのまま臨書していた!〜美術側の見方なら素直に許容できるのかも知れません
が、アフォーダンスの差異くらいは教えて置かないと後々トンデモナイ事になる筈。素直
に見えた中身が見方それ自体を食い尽くし、何物にも囚われない謬見を自ら生産する筈。
優れた芸術家にしばしば見られる「思いこみの激しさ」は独創性を自ら裏付けますが、自
らの個性を食い潰して狂気に至る例も少なくない模様。
…書の場合だとどうなるでしょうか。この手の創発性を書教育に適用すると、個性より
先に文字の方が食い潰される筈。病識の指標としての意味でも、文字性の教育は欠かせな
いでしょう。(うまくまとまらないな…)
598 :
小手 ◆cxt6jyx9JU :03/01/06 05:19
>>all あけましておめでとうございます
>>596 私のレスに深い意味はありません、
ええと・・596さんは以前から、教育委員会の書道教員排斥の動きに対して
穏やかでないご様子でしたから、それならば
書道教員として、関係者を説得できるような
意見をこの場でつむぎ出せれば面白いと考えていたわけです。
ですが学術上の専門的な意見になればなるほど、
部外者にとっては「?」なものになってしまうはずです
なにしろ書道教員が説得すべき相手は、生徒であり、保護者であり、
別分野の教育者だからです。
そうした意味で、いまの生徒さんやPTAにとっては、中学校あるいは
高等学校は、専門的な研究に入る場所ではなくて、あくまで準備段階で
あります。これは一般の認識がそうなのであって、規範的にどうこういう
ものではありません。
こうした人々を相手に、「伝統文化の護持」といった主張を
受け入れてもらえるものかどうか。これは疑問でもありますが、
可能性があるならば、いっちょ突き詰めてみたいと思ってもいるわけです。
599 :
小手 ◆cxt6jyx9JU :03/01/06 05:26
と新春早々、駄文を連ねましたが・・
いかかなものでしょうか
あくまで匿名ですし、もっと気軽にレスされてください
空論だとか非難するつもりはありませんし
600 :
KOTE/419:03/01/06 14:02
皆様あけましておめでとうございます。
>>596 すみません。私の言葉が氏をして観念固定せしめたようです。「教育関係者諸賢にお尋ね」は
<あぼーん>で結構ですよ。(今更・・ですが)
>>567 なるほど良くわかります。しかし、これは書学におけるアプリオリ(
>>541参照)なる文字依存性
を再認識することの必要性を説いたものであり、書写教育のそれとは違うようです。
書教育における創発と矩縄(基準になるもの、型)との比重は是非別に論議したいところです。
私は最早<個性重視>という言葉をしらじらしいものと感じています。
「伝統文化の護持」と「正しい日本語の護持」とでは自ずから質を異にしますね。前者は文化的であり
後者は文明的であり・・。
<伝統文化の護持>という紋切り型も、そろそろ一度解凍する必要がありそうですね。
さて、ここで次の問いができそうです。
「書写教育を通じて書の伝統文化を学校にて教える意義とは何か・・。」
これで現在僅かながら残っている書写演習の実用性(祝賀会場で署名するなどの)を捨象できます。
皆様は如何ですか?
「書写教育を通じて書の伝統文化を学校にて教える意義とは何か・・。」
601 :
KOTE/419:03/01/06 15:08
あぼーん
603 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/07 00:06
こんなの見つけました。
全国の書道の先生へ アンケートのお願い
天来書院では、書籍だけではなく、ビデオやCD、DVDなど、いろいろなメディアに
挑戦したいと思います。そこで、全国の小学校・中学校・高等学校・大学・専門学校など
の先生に、教室の設備や授業の実体などについてのアンケートをお願いすることにいたし
ました。ご協力くださった先生には、天来書院テキストシリーズからお好きな本を一冊差
し上げます。用紙をお送りしますので、メール・電話・ファクス・郵便でご連絡ください。
http://www.shodo.co.jp/tenrai
アフォ基地先生は教師の免許国へ返して
棺の中で笑って眠れ。
っつうか氏ね。
605 :
KOTE/419:03/01/07 13:43
>>603 あ、ここよく存じ上げて居ります。掲示板もありますね。
和子さん、まめだなぁ〜。
606 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/07 14:06
お前ら貫名海屋という幕末の三筆について誰か知ってるひとがいたら
語ってください。
ほりゃ!
www.yamatane-museum.or.jp/html-database/ shoseki(L)/A1082.html - 2k
あぼーん
610 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/07 20:34
古墨がほすいが偽物ばかし
(^^)
612 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/09 11:42
613 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/09 23:45
ヤフオクで古印の偽物いっぱい出てるぞ
印面が下手なのですぐわかるが
古色はうまくつけている
614 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/10 00:03
615 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/10 02:52
>>600 なるほど…「書写教育を通じて」「書の伝統文化を」「学校にて」「教える意義」ですか。
伝統文化の伝承手段を教育と見なして、次の問いに分割してみましょうか。
・書写教育の必要はあるか。
・書は伝統文化であるか。
・伝承の場が学校でよいのか。
私の場合は現状をこう捉えています。〜国語科教育における書写は識字教育の手段とし
て組み込まれ、学習指導要領では言語事項に分類。一方、芸術科目としての書道は書写教
育の枠組みに収まりきらない発展的属性を保ったまま、事実上の「断ち切られた国語教育」
となっている。まるで「国語科にとって書字の発展的指導はお払い箱、後は芸術科目の側
で勝手にやってくれ」と云わんばかりの仕儀。
数学に喩えるなら、「公式は丸暗記すれば事足りる」様なもの。公式の導き方を捨象し
て応用方法ばかり教えると計算技術の訓練に偏り、考え方の指導は不要になる。数学と論
理学の絆を断ち切る事になる。考え方の再発見は才能任せで委細放置。才能なき者は計算
技術だけ訓練すればよい、となる。(別の視点で言葉尻をあげつらうなら、「算数」なき
「数学」教育と相似たり。)
話を書教育に戻すと、「最低限度の文字言語指導だけで事足りる」様なもの。「字」の
来歴を捨象して「文」ばかり教えると量だけが増え、語に縮約された質の指導は不要にな
る。統語論と意味論の絆を断ち切る事になる。質の吟味は才能任せで、才能なき者は空気
任せの「言語明瞭、意味不明瞭」状態を互いに是認すればよい、となる。(具体的にあげ
つらうなら、「文字性を教えない書道教員が清書の誤字を減点するのは不当だ」となる筈
だが、誤字表現容認派の書道教員を私は見た事がない。)
616 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/10 02:53
昭和老大家の学生時代を範とする場合、文字性に依拠した伝統的領分を積極的に護持す
る必要はないでしょう。この手の領分は「自然と身に付いた」筈ですからね。ところが実
際は、自己教育力への依存に必要な環境面の因子が順調に減り続けたためか、周知の通り
殆どの生徒が筆文字(特に草略体)を読み書きできなくなっている。「必要な書写教育」
と「不要な書写教育」との絆が断ち切られた結果、後者を冷遇するのが国語教育の常識と
なっている模様。
持続なき「伝統文化の護持」、或いは「伝統文化の死蔵」と云うべきかしら。ただし、
あらかじめ「歴史は既に市民権を失っている」と見なすなら話は別。ここでは持続も護持
も、結局「どうでもいい事」に落ち着くでしょうから。これからは英語の時代、音声中心
主義でいくべきだと。現にこちらの県では英語(実質は米語)話者への羨望が強く、かつ
英語の伝統・来歴よりも実用性の方に過剰な価値基準を措定しています。
〜某英語科教員曰く、「中国へ行け」と。彼らには古典的な仮名が中国語に見える模様。
この時、もはや書字文化は日本語文化ではない…と観念しましたね。そうした意味で私は、
(少なくとも教育上の規範に於ては)現代の日本人ではない。外国人が日本の公務員にな
れないのと同様、旧日本人も現代日本の公務員としては存在自体が不適切。外国人教員が
講師に留まる以上、書道教員の教諭採用を否定しても問題はない(=平等)。学校には既
に、こうしたグローバリズムが教育思想上で浸透しています。
「<伝統文化の護持>という紋切り型も、そろそろ一度解凍」との仰せを、この手の現
状と照らし合わせると結果はどうなるでしょうか?
>>598 もっと平易に書きたいところですが、なかなかうまくいきません(煩悩)。
617 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/10 03:41
おいこらお前らのなかで小坂奇石について詳しく知っているひとがいたら
よろしければ語ってください。
>>613さん
!!あなた、玄人ね。篆刻スレ立てますから来てね。
>>615さん
脳みそシャッフルしてるから時間ちょうだい。
619 :
KOTE/419:03/01/10 15:59
>>617どの
彼については引き出しからっぽ。。
おいこらてめーら誰か語って差し上げて頂けませんでしょうか?
620 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/10 17:12
拝石自筆の手本帳が古本屋の片隅で
埃をかぶっていたのでもらってきた。
なかなかいい字だ。
621 :
KOTE/419 :03/01/10 17:34
篆刻スレッド立てました。よろしこ!
622 :
KOTE/419:03/01/10 17:36
623 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/10 19:16
なんかココのひとって2ちゃんのわりには礼儀を知ってるんだよな、
さすがに書の道を学んだ人たちだけあるな(笑
おお黒木排石自筆をただとはいい買い物したねえ、相場は確かに安い。
624 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/15 04:43
何か書道教育必要かとか言ってるのいるけど、文化度ひくいね〜
625 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/15 04:56
確かに読む気にもならない。
627 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/15 07:55
たまに礼儀正しくてビックリしちゃう板ってあるよな。
628 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/15 15:39
>>624 まともな人間は誰も、書道を芸術だなんて思ってないよ
教育念仏の精神異常者はほっとけ 相手にするな
そもそも進歩的な学校に書道の先生はいらない
>>302 >>303 >>463を見てみー 書道はベンキョーのじゃま
629 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/15 18:10
>>628 困ったちゃんですね。書は文化なのに、自国の文字の
文化を教えることに、進歩的もくそもないとおもうが。
そして、決めつけるのはよくないよ!
630 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/15 18:12
>>628 困ったちゃんですね。書は文化なのに、自国の文字の
文化を教えることに、進歩的もくそもないとおもうが。
そして、進歩的ってなんなのよ!
631 :
桃花と直美:03/01/16 00:02
http://momolin.fc2web.com/ 【探し物とくとくページ】
ごめんなさい みんなにみて欲しいから投稿させて下さい
[yahoo] [infoseek] [google]などの検索サイトにて「探し物 とくとく」で検索
タイトル【探し物とくとくページ】を探してね あなたの探し物見つけて下さい
このスレは書道の必要性を語るスレですか?
それとも書道の不必要性を語るスレですか?
双方の意見が頻繁に入り混じって荒れているように見えます。
暫定的にでも方向性を定めた方が良いと思うのですが、
有力コテハン諸氏はいかがお思いでしょうか?
633 :
KOTE/419 :03/01/16 14:33
いまのところ、<学校における書写教育の意義>を通じて
社会における書の可能性を問うべく、暫定的方向性を定めるための
解凍作業を試行しております。少々頓挫気味でご迷惑おかけしておりますが・・。
しかし、必要性、不必要性どちらを語っていただいても良いのではないでしょうか?
また、必ずしもこの話題に抵触する必要も無いはず。書道についてのことなら何でも
良いと思います。
>>632さんもご発言ねがいます!
634 :
KOTE/419:03/01/16 14:59
たしかに、すこし荒れているようにも感じますね。
しかし、
>>604>>624>>625の如き一発書きの「氏ね、文化度ひくいね〜」レス
は、黙殺しております。特に
>>624>>625などは恐らく自作自演でしょうし・・。
彼らに対し「文化度ってな〜に?説明して。」などと煽ったところで答えられない
でしょうし。彼らの煽りをまともに受けるようなコテハンはいません、ここには。
635 :
KOTE/419:03/01/17 17:41
>>615さん+小手さん
Romな方はちょっと退屈なレスにお付き合いくださいね。
伝統文化という言葉は何かちょっとシャーベットの上にアイスクリーム乗っけた感じですから
まず両者の定義をはっきりさせておきますね。
伝統:1系統をうけ伝えること。また、うけ伝えた系統。
2(tradition) 伝承に同じ。また、特にそのうちの精神的核心または脈絡。
文化:1、2は省略。
3(culture)人間が学習によって社会から習得した生活の仕方の総称。衣食住を初め技術、学問、
道徳、芸術、宗教など物心両面にわたる生活形成の様式と内容とを含む。(広辞苑)
いかなる文化も一日にしては成りませんから、それが成長するためにはその様式をうけ伝える必要がある。
当然、成長は変容を伴うがある程度の<アーキタイプ>は保存される。この<アーキタイプ>を我々
は通常、<伝統>と呼んでいる。ゆえに具体的に文化を言う場合(時間と場を混ぜ合わせて論じる場合
。不確定性原理においては不可能だが概念としては可能、ってゆーかそこまでゆーなって?)、既にある
程度、伝統の消息を暗示する。<伝統文化>とは特に文化の時間的価値を強調する謂いである・・。と、
ここまではよろしいでしょうか?
636 :
KOTE/419:03/01/17 17:46
先の定義を踏まえて試行してみましょう。
<伝統文化>というものを私なりに解凍しますと、まず次の二要素に分割されます。
型(様式)と気分(情緒)と。つまり、或る<型>より発生するところの或る特殊な気分、
突き詰めれば、これが<伝統文化>の当体であると。或いは精神が<型>に憑依
するときに得られる感応と言うべきかもしれません。
いずれにせよ、この<或る特殊な気分>は<型>(様式)なくしては発現し得ません。
更にこの<型>は二要素に分割されます。有形と無形と。これは「無形文化財」の謂い
と同じく、それを取り巻く「物」と、諸々の作法すなわち「技術」であります。
「物」はそれ自体、保存すれば何とかなりそうですが、「技術」は一度失伝されたが
最後、ほぼ再生不可能です。ここから論理を飛躍させます。
この型より発生するところの気分、これを転写、奪胎して新たなる<痕跡>を、或いは
次なる<型>を作る、これが文化的創造の営為でありましょう。
(「文化に触れる」と言う言葉があります。例えば「京の文化に触れる」。
これは文字通り「触れる」にとどまります。なぜなら観光者は<型>を持たないからです。
「京の文化を表現し、かつそれに則って新たなる可能性をひらく」ためには京文化が内蔵する
<型>を体得する必要があります。)閑話休題。
しかしながら、ここにおいて幾多の<型>が近代化の名の元に破壊されて参りました。
最早その<型>が齎す気分を私たちは享受できぬのです。<型>が持つ意味の再認識
と保存、これこそが来るべき世代への遺産ではないか。文化を語る場合、<型>抜きでは
文字通り形無しなのです。
637 :
KOTE/419:03/01/17 17:47
ハンチントンではありませんが、文明の衝突を掻い潜った後に来るものは文化のそれか、
或いは融和でしょう(融合ではなく、融和です)。己が文化を自覚せぬ者が他者の文化を
理解する所以はありません。
「書写教育を通じて書の伝統文化を学校にて教える」ことを通じて文化の持つ意味を
子供達に教えることは教育者として、何の「やぶさかさ」もいらぬはずです。
(もちろん書写教育に限定することもありません。しかし「文化の持つ意味を教えるための
演習」としては最適なのではないでしょうか?)
「文化教育としての書写(書道)教育」・・これ以外、学校にて書写(書道)教育を行う
「必要性」はありますまい。あと、もしあるとすれば実用面において、筆記体としての
行草を教える位のものでしょう。
学校教育のフレームで思考する場合、
「伝統文化」の護持、これは我々の希求であり(ほんとはここ、一番大事)、
書写(書道)教育を通じて文化の意味を教える(勿論その楽しさまでも)、
これには「必要性」が認められる。私の今のところの結論はこれです。
(う〜ん、うまくまとまらんなぁ)
>>615さんへ一言・・
<如何なる結論も永劫に「終(つい)なる結論」にはなり得ませんから、
安心して「結論」づけていいですよ!>
638 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/18 03:18
>>634 自作自演とは・・・・・それ考えすぎでしょ!
「文化度」私がここで文化度といったのは、漢字を使う民族が
その国の文字のたどってきた歴史そして、これからの
可能性を知らないでどうするか!ただ、鉛筆で書く。
それを人ないし、自分が読む。
我々日本人の使う文字はそれが全てではない。
文字の中に「美」「芸術」を見いだす事のできる、
世界でも数少ない文字。
それを学校教育で教えないで、誰がおしえる?
学校教育から、書に対し興味をもつ人も、少なくないはず。
もし、学校から書教育がなくなったら、いつか日本人の大半は
書を見ても、「あ、漢字だ」としか思わなくなりそう。
それはあまりにも「文化度」が低すぎる。
639 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/18 04:10
640 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/18 05:33
福田和也のいう生活の「スタイル」みたいなものかな・・・
伝統は。
(^^)
642 :
KOTE/419:03/01/18 10:55
>>638さん
なるほどね!「不必要、役に立たない、じゃま」という理由で
このような奥深く、侮りがたいものを削り落とそうとする、これを
文化度低いと言わずして何という!ということですね。すみません。
でもこれ、文化度以前の問題だよなぁ。おもしろいからガンガン書け!
書道として伝えられる日本の文字教育は、
人間教育の現場において絶対に必要なものであり、
素晴らしい有用性を持った芸術に達し得る技術であると、
私は考えます。
このような考え方と意見については、
ここで意見を交わし、要素を蓄積してきたてきた方々に対して、
失礼に当たる箇所もあるかと存じますが、
どうぞお聞きいただきたい次第です。
かつて日本の文字教育の根幹は毛筆を用いた書習いでした。
習う者がそこから学ぶことは多く、
教える者もまたそこから多くのものを学ぶ、
市井と学術層を結び得る一つの繋がりでした。
以下、発生の根源的な部分は敢えて割愛し、
そこから来る有用性と効果を、
私見を織り交ぜてではございますがご意見いたします。
続く
続き
私が書道の必要性として最も強く主張しますのは、
書習いを行う子供達の発育についてです。
鉛筆はおろか機械鉛筆等が隆盛を極める昨今において、
子供達は小さな紙に小さな文字を書いて字を覚えています。
別にそれがいけないとは申しません。
それだけに偏ることに問題があるのです。
書道をはじめとする手習いでは、
通常肘を置かずに腰より上の上半身を稼動させ、
下半身は椅子座り正座ともしっかりと身体を支えることを基本とします。
手習いを始めたばかりの多くの子供達は、
この時点で文字を書くことの窮屈さや大変さ、
紙に向かうことへの疲れを知るとともに、
美しい文字と、正しい姿勢を手に入れる事が出来ます。
続く
続き
また大きな文字を書くことは、
表現に向かう書面を空間として把握出来る力を養います。
少年期に手に入れる美しい文字と正しい姿勢、
そして空間に物を表現し得る感性は、
かつて日本教育が誇る西洋に負けない力の一端でした。
これは戦後に行われたGHQの視察においても、
「日本の少年少女は欧米人に無い感性を養っている」
と言わせしめたほどです。
また現在においても、
少年期の書道が脳の働きを活発にすると認められています。
続く
続き
そして書習いの人間関係は、
文字について常に考え、
貧富も年の差も関係無い、
縦横無尽に繋がり得る社交手段でもありました。
私見として言わせていただければ、
これほど沢山の利益を持った教育手段を、
少年少女から取り上げてしまった文部省という組織は、
愚かしい行為を行ったとしか申せません。
私のようなものに言わせれば、
語彙力も乏しい、姿勢も悪い、感性も膨らまない、
そんな教育を行ってきた今だからこそ「書」でなのです。
書道はその可能性を模索するものなのでは断じて無く、
ゆとり教育の隙間を埋め、
青壮年層には学びを振り返る機械を与え、
熟年世代にはその知恵の伝承を図り得る重要な手段なのです。
ここで交わされているような話題は本来市井で交わされ、
家庭や学校、それ以外の様々な職場で交わされて然るべきなのです。
書道は間違い無くそれが出来るだけの力があると、
私は自負しております。
以上、乱筆乱文の程ご容赦くださいませ。
647 :
KOTE/419 :03/01/19 04:32
キタキタキタキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!
>>646 あなたは私が論述した書文化における<型>を殆ど言い尽くされた。
書的右派マンセー!
648 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/19 05:18
>>646 あれ、いいですね〜!
あ〜最近の若者に書の緊張感と
エクスタシーを是非味わっていただきたい!
日常では、なかなか味わえないとおもうね!
ま、誰でも味わえるかはわかりませんが!
でも、この忙しくて、流されそうな時代
紙に向かうような、静かな時間が誰しも必要かも。
649 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/19 05:21
なんか二人とも自己陶酔し過ぎでいやだ・・・
もう少し冷静に。
650 :
KOTE/419:03/01/19 14:24
おりょりょ・・ハンセー!
651 :
ギャラリー:03/01/19 14:33
>>649 「キター」とか「マンセー」とかいう言葉は、単におどけて書いているだけだろう。
レスの中身はきわめて冷静だと思われるが。
どっか忘れたけど、上のほうのレスで「伝統は既成事実に過ぎない」
とかなんとか書いている輩がいたからな。
(だったら伝統は単なる慣習の集合体であるに過ぎないというのか!)
これくらい書いたほうが良いと思われ。
KOTE/419 氏と書的右派氏には、もっとガンガンやって頂きたい。
>>651 え、違うの?
>(だったら伝統は単なる慣習の集合体であるに過ぎないというのか!)
653 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/19 15:23
伝統とは思い出に過ぎない
と、俺じゃなく小林秀雄が言っていた。
だからどうした。
654 :
KOTE/419:03/01/19 15:54
>>653 >伝統とは思い出に過ぎない
>と、俺じゃなく小林秀雄が言っていた。
>だからどうした。
どーもせん。そして、我々の存在自体が思いでで出来ている。
これでどーだ!
655 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/19 16:02
あ、ごめん。「伝統」ではなく、「歴史」だった・・
すまそ・・・
>そして、我々の存在自体が思いでで出来ている。
いやそのとおり。
656 :
ギャラリー:03/01/19 16:45
>>652 違うも何も、慣習とは
>>636でいう「有形」の「型」以上のものは
持っていない。
言い換えれば、慣習とは、客観的事実のうちの可視的部分に過ぎない。
これを伝統と同範疇で語られるのは、到底納得いかない。
では伝統とはいかなるものかというと、
>>636 以下をご覧下され。
ただし、これを読んだ人すべてが心から納得できるかどうかは
怪しいものがある。
とくに「精神的核心または脈絡」とか「気分(情緒)」とかは、理解できない人には、
どう言っても理解してもらえないだろうね。
<彼女(彼氏)と二人、夕刻の海岸にて>
「みてみな、空と海が綺麗ね。」
「なんで?どこがどういう風に綺麗なの?論理的に説明してよ。」
・・・あぼーん。。。
657 :
http://www.h4.dion.ne.jp/~udonchan/index.html:03/01/19 16:48
658 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/19 18:02
>>651 「伝統は既成事実」って、
>>384の事かいな? これは文脈上、
>>377にある「それは思
想に免疫がある人がやればいい」との対比が前提。免疫のない人に思想的免疫を植え付け
るのではなく、それ以前の即物的段階を先ず肉付けして、後から伝統の芳醇な部分や表現
の多様性を学べばいいって事なのね。「読めない」まま「書かせる」タイプの現代的書教
育は、どこか本末転倒しているのではないかい? 大袈裟に云えば、「國學院の学生は読
めるから教員採用しない」って結果を出す県教委が実在する事を念頭に置いているのよ。
基礎を体現していない人にとって、伝統はやはり既成事実に過ぎない。
659 :
ギャラリー:03/01/19 18:53
>>658 あなたの言う基礎とは、即物的段階のことで、
それはつまり「読める」ことということですね?
で、それが出来ない人にとって、伝統は既成事実に過ぎない、と。
そういう条件付で既成事実と仰るのであれば、納得できます。
しかし、いま私が勘違いしたように、どうしても誤解の与えやすい書き方
ですな・・・
「伝統は、基礎を体現していない人にとって既成事実に過ぎない。」
こう書けばいいかと思います。
660 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/19 19:20
ぐお〜何か難しすぎる。ついていけない〜!
ま、感受性において、理論やら何やらいっても
仕方ない。
ところでみなさん書教育スレッド作ったら?
そのほうが、まとまりあってよし!
教員志望の人の為になりそう。
自分で作る気はないけど。
このスレ面白いけど、読みにくいような。
悪い意味ではない。
661 :
KOTE/419:03/01/20 00:17
>>656ギャラリーどの
>言い換えれば、慣習とは、客観的事実のうちの可視的部分に過ぎない。
>これを伝統と同範疇で語られるのは、到底納得いかない。
慣習と伝統を「ひとからげ」にして語る人、多いですね。何がなんだか判らなくなっちゃう。
例えれば<伝統>とは<光>の性質に似ている。物質として観測すれば
光子として確認できるが、光波としての確認も可能。しかし、その実態は依然、
<光>として存在している・・。つまり、物心両面の性質を持ち、その上部に
実態をひろげているもの、って考えれば良いのかも。
だからごくごく稀に、一度失われた<型>が、残された情緒の余韻を増幅することに
よって蘇ることだってある。ただしそれが<原型>かどうかは確かめようがないが・・。
><彼女(彼氏)と二人、夕刻の海岸にて>
>「みてみな、空と海が綺麗ね。」
>「なんで?どこがどういう風に綺麗なの?論理的に説明してよ。」
>・・・あぼーん。。。
最後のあぼーん。。に激しくワラタ。
あなたおもしろい。ガリガリ書きこんで戴きたい!
でもここにいる皆さんで、情緒を理解できない人はいないよねぇ・・。え?いるの?
>>615さん
んで、どーよ?
662 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/20 00:28
663 :
ギャラリー:03/01/20 01:31
>>661 KOTE/419氏
レスを頂き有難う存じます。
仰せによると、ガリガリ書き込めとの様でございますが、あいにく
時間的な都合で、私には恒常的に書き込む余裕がございませぬ。
私はあくまで一ギャラリーに徹します。
影ながら、あなたの獅子奮迅ぶりを応援致しております。
しかしまた暇があればここに伺います。その時はよろしこ!です。
664 :
KOTE/419:03/01/20 02:38
>>663ギャラリーどの
是非、お待ちしております!でも・・負けそーになった時は、
応援よろしこ!です。
665 :
KOTE/419:03/01/20 14:48
>>661卿
最近モニタの前に釘付けになっておりまして、自身の作品製作は
前倒し、依頼印も貯まりに貯まってしまいました。どうぞ、ユクーリ、
マタ−リとお書きこみくださいまし。ちょっと仕事しますね・・。
666 :
KOTE/419:03/01/20 14:51
667 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/20 15:19
668 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/21 13:09
字を表現しない前衛の作品って、書道の部類に入るのかなぁー
669 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/21 22:25
>>668 微妙、書は漢字を使うもんだからね!前衛は前衛
書は書だと思う、なんで前衛書とよばれるのかな〜
筆、墨、紙使うから?まさかね〜
670 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/22 00:04
小山正太郎と岡倉天心の「書は美術か」っていう論争を読んだ人いる?
671 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/22 07:39
>>665 篆刻では、特に字学を重視する様ですね。高校書道の場合、刻っているうちに字画が歪
んで誤字になる場合はともかく、印稿段階での誤字に添削の手が及ばない点は失念してま
した。大抵は篆刻字典の類で生徒に調べさせて済ませる。転写の際にカーボン紙を使わせ
る人もいる様ですが、私の場合は専ら銀朱でした(印稿重視主義)。液製品は薄過ぎるし
磨らせる時間もないため、帰宅後に全員分を磨る。墨運堂のは小さいから照僲堂の大きい
のを取り寄せましたが、何か他にいい手があったら教えていただきたいところ。
以下、本題。
>>635以降と
>>643以降には概ね同感ですが…実際は順序が逆になったり解釈が変質し
たりしています。少なくとも公教育上では、この点が教員の覚悟を左右する模様。
高校書道は事実上、「型」の一部を欠如した「気分」の教育になっています。普通はこ
れを「芸術」と呼び、伝統の内包如何に拘わらず、書の総体から「芸術」に見合った属性
としての「気分」だけを抽出する。ここにも当然、それなりの「型」は付きまといます。
しかしこの「型」が訴えかけるアフォーダンスはもはや伝統そのままの姿ではなく、あく
まで「芸術」教育の観点においてのみ解釈方向が許され、かつ「気分」と伝統との調和が
所与の覚悟の下で図られます。
目に見えるものだけが「型」であるとは限らず、他方には「気分」が作り出す「型」も
ありますね(この点は皆様の稿にも含意されている筈)。例えば、草書の内包する「型」
は楷書の「気分」から派生した局面を持つ様に。ところが教科教育上では、こうした横断
性に踏み込むと禁忌に抵触してしまいます。「楷書も行書も草書もそれ以外も、共通の根
源的な「型」の変奏=書体として表層に定着する。ここが書体と書風との決定的な差異で
ある」(実際はもっと分かりやすく)などと教えてはならない。「気分」優先の芸術的書
風指導が揺らぐと、芸術科目としての脆弱な独立性が損なわれてしまう虞があるからです。
672 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/22 07:40
仮に模範的教員を演ずるなら、教育思想上ではこう明言できる筈。〜「我々は書を芸術
として指導する責務を担っているから、芸術以外の領分は排除しなければならない。この
工程を我々は文部科学省の要請通り「精選」と呼ぶ。」…実にくだらない。こんな立場に
至る覚悟は、書家と一般人との絆を断ち切ってしまう(と個人的には思う)。
試しに皮肉ってみましょうか。〜「ヤクザ社会を変えるためには、先ずヤクザとしての
実証的経験を積むべきである。ヤクザ社会から認められない立場は、黙殺されるか抗争に
至るのが落ちである。だから最初は人殺しでも何でもやって「仲間」としての実績を認め
て貰い、ヤクザ社会の変革に寄与できる地位と権力の獲得を目標としなければならない。
そうして初めて、ヤクザ社会に認められた立場からの変革が可能になる。」
>>637に云う「楽しさ」が要請する筈の「型」は、「楽しさ」という「気分」の回帰す
る地点を生徒が自ら選択できる様に要請します。教員の方は「そう仕向ける」義務に縛ら
れる。
>>445に云うがごとく、学校と雖も「そこまで親切にしてやらんでもいい。逆に、
僭越ですわね」となる。
ここに至ると、「型」にまつわるアフォーダンスは過剰に分裂せざるを得なくなる。と
ころが一方で、可視的な「型」の同一性により保障された幻影は、アフォーダンスの多様
性を一つのイデア=「型」に収束させる事で自己免疫的な解決に向かう(その方が「分か
りやすい」)。するとここでは一つで多数の「型」が実現し、アフォーダンスの消尽が「型」
の同一性を自ら保障する様になる(アフォーダンスは不要となる)。悪しき相互補完関係
が「芸術書道」の分離独立を保障(正当化?)するから、非「芸術書道」を排斥しても、
それが「排斥」であるとは認識されない。また認識してはいけない。「自覚はいらない」
とする覚悟が教員社会に底流し、生徒にも伝播する。
673 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/22 07:41
ここでは「型」への盲信が、逆に「型」の変質を是認します。だからこそ
>>661に云う
「それが<原型>かどうかは確かめようがない」点には共鳴せざるを得ないし、その分だ
け余計に歯痒さも残ります。アフォーダンスと「気分」には、たぶん密接な関係があるの
でしょう。〜「伝統」を「私」に見立てるなら、学校で教えられる事は「私は私である」
という事だけ。「他人に私がどう見えるか」といったアフォーダンスの多様性は放置され、
その結果この手の多様性を「私」の側から導く見方は消尽する。「他人」の側から導く見
方は生徒自身が勝手に(大抵は被害者意識の下に)発見する。
これと同じ理由で、私は
>>659の言い換えに危険かつ一面的な誘因を感じ取っています。
>>658末文の主語は「伝統は」のみに収束せず、暗黙の諒解としての「基礎を体現してい
ない人」が二重構文上の主題となって並立する様に意図しました。ところが
>>659式に書
き換えると「伝統」の方が先に立ち、「人」という環境条件による分断が引っ込む。「人」
は「伝統」に対して解釈(生殺与奪?)の権を行使しますから、私としては先ずここを問
題視したい訳です。
書教育の必要性なら、ここの皆様は委細ご承知。しかしそれは「あるべき」論。百年の
大計たる「脱亜入欧」の新伝統から見れば、旧伝統を駆逐する大義名分は戦前・戦後を通
じて揺るぎありません。なにしろ学校制度が明治期に成立して以来、あらかじめ近代的理
念として組み込まれていますから。伝統の継承自体は必要でも、「腐っても鯛」式の変質
が条件となれば結果は骨抜きとなる。変質教育に適応しない教員を排除するシステムも見
事に機能している。ここに昨今の教育基本法改正論議が絡む筈。
よく分からないのは
>>637の、「文化教育としての書写(書道)教育」と「これ以外、
学校にて書写(書道)教育を行う「必要性」はありますまい」との関係。何が「これ以外」
に相当するのか、もう少し詳しい説明を所望します。〜因みに冒頭の篆刻の例では、印稿
重視の指導が排除対象。「バランスが悪いから1mm寄せろ」「今度はよくなった、転写し
て刻ってよし」式の指導は御法度の様です。
>>671-673 つまり書道教育は無くならないが、近代教育には敵わず排斥は続く。
…で、中身の薄い書教育の外郭だけが権威として残る…と。
これでは合っても無くても変わりませんな(どっとはらい)
675 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/22 11:23
最初から見えてたけど、長話の結論はそれですか。
■■書道は近代教育に敵わない■■
まだ続く?
676 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/22 12:21
どこをどう読めば、
■■書道は近代教育に敵わない■■
が「長話の結論」になるのだろう。
「問題点」=「結論」?
677 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/22 16:49
いや、実際どんなに頑張っても、
「書道は近代教育に敵わない」のでわ?
問題点というより前提でしょう。
678 :
KOTE/419:03/01/22 18:57
>>671さん
篆刻での字学(説文学)の重視は伝統だったのですが、このところ希薄になってきました。
文字考証や訓詁学をベースにした篆刻作品には滅多にお目にかかれませんね。
転写は雁皮紙が良いです。朱墨は有便堂の朱錠をお薦めします(千円くらいです)。
(布字は正規に目で見てやる方が良いですが・・)
転写法についてご希望があれば<篆刻スレッド>に書きますね。
書写(書道)教育を芸術教育(ここで言う<芸術>なる語が公教育上どんな意味で
用いられているのかはわかりませんが)に範疇化されているところに問題があるようですね。
さて、ちょっと込み入ってまいりました。氏は<技術>を捨象した<芸術>というものをどう思考
なさいますか?(氏のレスを見れば聞かずもがなですが、敢えて・・)
<型>の体得を忽せにし、表面的な気分だけで「やっつけられた」芸術作品・・。近代芸術の
フレームでは大いに発揚されてしかるべきものなのかもしれませんが、書作品全体にまでそれを
スライドするやり方について、みんな、どうお?(
>>688の前衛書の問題もそう。因みに私が親しく
して頂いている、さる著名前衛書家は古典派の書家よりも古典に精通しており、私が見るところ、
単に気分だけでやっているのではなさそうです、というより<型>としての古典なくしては続かない
のでしょう、気分が)
679 :
KOTE/419:03/01/22 18:58
>「文化教育としての書写(書道)教育」と「これ以外、学校にて書写(書道)教育を行う「必要性」
>はありますまい」との関係。何が「これ以外」に相当するのか、もう少し詳しい説明を所望します。
芸術科目としてのそれです。<脆弱な独立性>のまま必要性を見出すには甚だ心もとない・・と。
つまりここでは<型>に根付くところの文化と<個性の特質を>最重要視する芸術との対峙において
書道というものを教育するにあたり、どちらを優先すべきなのか、最初から思い通り滅茶苦茶やって
いいと言うのなら書道なんかやらんでもいいでしょ、ということです。(しかし公教育の目論見、
わからんでもないですよ。書における「おいしいとこ」(芸術的なとこ?)だけを限られた時間内でやろう
としていると解釈すればね。つまり、<精選>ですなぁ。でも、キスも愛撫も抜きにしていきなり
突っ込んだって・・ねぇ。気分が出んよ、気分が)
>目に見えるものだけが「型」であるとは限らず、他方には「気分」が作り出す「型」もありますね
そしてそこに新たなる<伝統>が構築され、それが「既成事実」として生徒達に君臨する。気分
と伝統の相補性に則した唾棄すべき<書写教育新伝統>なるものが発生する、そしてそれは
一見、既存の<書文化の伝統>と俄かに見分けが付かない(あまつさえ教員は見分けることすら禁忌
とされている)。既存のものと新構築されたものとの共有部分に皆をして意識集注させしめ、同一確認
された結果、それが独り歩きしてしまう危険性を孕んでいることを訴えられておられる、とレス全体により
認識いたしました。
考察すべきは公教育はなぜこのようなスタンスを取るに至ったのか。過程ではなく意図はどうでしょう
680 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/22 18:59
そんな書道の延命策を講じるスレがココですがそれが何か?
681 :
KOTE/419:03/01/22 19:05
で、単純な話、「どーすればいいの?」
氏が「ヤクザ社会を変えるためには」で述べられた皮肉は自身に対する嘲笑?とさえ感じられます。
「どーすればいいの?」に対する氏のレスが、氏の言う<「あるべき」論>になると氏が判断するのなら、
失礼ながら氏は<パラドキシカルな無限回廊>に居られることになる。この無限回廊の巡回から逃避すべく、ひたすら現状批判を繰り返したとて、
<パラドキシカルな無限回廊>は依然、解決されぬまま氏の思考を制限しつづけるのではないでしょうか?この<パラドキシカルな無限回廊>を
破るには陳腐ながら、<「あるべき」論>の肯定と再構築しか手はないのではないか。(ここでの<「あるべき」論>の再構築は<書写教育新伝統>
に対抗する形のものでいいのです。それを「新伝統に対しての<あるべき論>など所詮新伝統に矯められたもの」なんて言わないでね)それとも
<「あるべき」論>を肯定したが最後、氏は教職を追われる立場になる、このことが氏をして無限回廊の巡回から開放せしめないのなら・・(違ってたらごめん)。
ここでだけでも結構です。氏の<「あるべき」論>を展開して頂きたく存じます。それが議論され、統一見解として定礎せぬ限り、どうすれば良いのかが見えてきませんので・・。
で、単純な話、「どーあればいいの?」
「だから何なの?」というレスを拒絶するようなレスを期待します。
682 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/22 19:12
頑張ってもなお「あるべき論」は出て来ずに嘆き節ばかり…。
つまりココは消えてしまいかねない書道の儚さを嘆く場所…ですね。
683 :
KOTE/419:03/01/22 19:12
↑コピペが変になってゴメン。
684 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/22 20:04
KOTE/419氏。
今日、「小坂奇石展」に行って来ました。このまえご教示された様に
10個くらいあった印もじっくりみて来ました。
1名前(作った人かな?)は、石井、松丸、中村、小林、など
が並んでいました。
2次に質は寿山石、青田石、巴林石、金などでした。
3硯はタンケイでした。
なにか分かりますか?(私、初心者でほとんど分かりません・・)
685 :
KOTE/419:03/01/22 20:43
686 :
近代教育推進論者:03/01/23 04:25
こと教育現場に限って言うなら、書道は必要無いと思うんですよ。
近代教育、こと戦後の教育ともなれば学習方法の見直しが成され、
授業において書道に費やす時間などは随分削減された訳です。
それでも書道は教育現場に残った。
必要性を考えるならこれで十分だと思います。
事実、教育現場で書道の必要性は認められていますし、
授業時間もきちんと設定されています。
他の教科より授業時間が少ないのは、
他教科と比べ書道は役に立たないと判断されただけのことです。
同様の評価で教育現場から姿を消した授業があるにも関わらず、
書道に授業時間が設定されていることは、
むしろ喜ぶべき部分だと思いますが皆さんは不服なんですか?
…そんなことありませんよね。
687 :
近代教育推進論者:03/01/23 04:30
>>686 >こと教育現場に限って言うなら、書道は必要無いと思うんですよ。
…まだ授業時間が残ってるのに「必要無い」じゃいけませんね。
…「然して必要では無い」に訂正しますね。
688 :
KOTE/419:03/01/23 09:28
・・・・・・雪ですな。
689 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/23 10:16
教育者が近代教育を語る。
‥茶番劇ですね。
691 :
KOTE/419:03/01/23 14:59
>>686 役に立たないからこそ価値があるのにね。近代功利主義が齎した歪みを
この<役立たずの書写教育>が少しでも是正してくれるのならと願って
いるのですが・・。これじゃぁ子供の精神が枯渇したってしゃあないね。
未だに前世紀のたわごと言ってるし。
>>690 茶でものも。のりさんと話がしたいな。
692 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/23 18:48
>>691 芸術科工芸が美術に収斂し、芸術科書道の教員が国語に転向する現象をどう説明する?
美術では工芸指導ができる(しなくともよい)。国語では書写指導ができる(しなくともよい)。
>>686を否定すると、
>>679と矛盾しないかい?
「芸術科目としてのそれ」は不要なんだよね?
693 :
近代教育推進論者:03/01/23 22:39
>>690 私の職場での常識を述べただけですが、それが何か?
>>691 主要教科に比べて役に立たないとは言いましたが、無価値とは言っていません。
少なくとも選択科目の評価になる以上、推薦受験などでの戦略価値はあります。
また生徒の精神ですが、枯渇以前に生徒自身の自己管理とその家庭の問題です。
教師も生徒も親御さんも、心のゆとり以上に進学や就職を重視していますよ。
694 :
KOTE/419:03/01/24 10:19
>>692 >「芸術科目としてのそれ」は不要なんだよね?
不要?芸術科目としてのそれでは必要性を説くのには心もとない、
と言ったのです。<必要性>を説くなら、今のところ文化教育のそれ
しか見えないでしょう、と。あなたは芸術科目における必要性説けますか?
否、書写(書道)教育の必要性を説いてください(私は説いて頂きたかったの
です)。私は最初にこう申しました。「実は私自身、学校における書写教育
の意義について<明快な>論拠を見出し得ぬのです」と。あなたに何らかの
<必要性>を示唆して頂ければと思い、さまざまなフィールドを試行して参り
ました。(伝統文化を解凍してまで教育には「ど素人」の私が、話を進める
為の暫定的方向性をも提示したのに・・)
私が勝手にやったことですね、頼まれもしないのに・・。
もう結構です。
あなたはなぜ書道教員として子供達に書道教えているの?これすら
言えないのなら、これ以上、現場の「恨み節」垂れ流されても、私としては
無視するしかございません。
695 :
KOTE/419:03/01/24 10:21
696 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/24 11:04
>このスレは書道の必要性を語るスレですか?
>それとも書道の不必要性を語るスレですか?
632以降、必要論と不必要論が擦れ違ったまま勝手なことの言い合いです。
荒れに対して、肯定派と否定派は住み分ける必要があるのではと思います。
697 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/24 12:39
698 :
KOTE/419:03/01/24 14:28
書道教育の存続を願っているのですよ、私は。文化教育に属せしめたのは、
審議会に対する言わば<武装>を試行して見たものです。(芸術は他にも
あるでしょ、と言われたら二の句がつげないから・・)出来れば<文化性>も
<芸術性>も教育できた方が良いに決まっています。ただ二つながらの論理武装
が能力的に出来ないだけのこと。
>「芸術科目としてのそれ」は不要なんだよね?
のひとことにはショックでした。
700 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/24 20:34
「実は私自身、
学校における書写教育の意義について<明快な>論拠を見出し得ぬのです」
………KOTE氏ですらそう思うのなら、それが真実なのでわ?
………そう、思えてきた。
701 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/24 21:00
企業側からの即戦力として有能な人物の要請、社会生活をおくる上で必要な知識、
受験に必要か不必要か・・・
そういったものと学問とを同列に考えてはいけないと思う。必要か不必要か実社会
で役に立つか否かだけで考えれば消えてしまう学問は沢山あると思う。しかしすべ
ては文化であり守っていかなければならないと感じています。
702 :
KOTE/419:03/01/24 21:08
703 :
書道家α ◆nLqs7MgabM :03/01/24 23:39
遅まきながら現代書道二十人展のレポートを。
村上三島の草書はいろいろと言われることがありますが、今年の作品はいい感じに
「壊れて」ましたね。作品の中には、意図しない形で発現したと思われる筆法が随所
に見られて(卒意と言ってしまうとちょっと違う気がするのですが)、微妙なアンバ
ランス感がかえって作品の完成度を高めていた気がしました。ここまで来て初めて精
神性という言葉を使っていいのかな、とも思いますが。。。ダメ?
梅舒適の屏風も良かったです。氏は毎回楽しませてくれる作家の一人。篆刻作家なが
ら漢字の中字作品がいいのは章法の感覚が優れているのでしょうね。白居易の『古塚
狐』、内容が面白いんですよ。狐が化けた女よりも女が狐のように媚びる方が怖
い。。。うーん。
704 :
書道家α ◆nLqs7MgabM :03/01/24 23:40
梅原清山の多字数の楷書は力作ですね。角度のそろった統一感がとても心地よい作品
だと思います。仮名は土橋靖子がよかったです。女性ながら五鳳ばりの大字に力を入
れているようですが、見ごたえがあります。
卒意を前面に押し出した作品が関東組(?)にもっとあるといいと思うのですが。関
西組も今井凌雪ぐらいの大胆な大字がまた見たいものです。(以上敬称略)
705 :
書道家α ◆nLqs7MgabM :03/01/25 00:57
706 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/25 14:57
現代書道どころか書道自体、さっぱりのド素人なのですが、
なんかおもしろそうなので横浜松坂屋の現代書道二十人展に
行くことになりました(新聞屋からチケットもらった)。
予習したいのですが、書道(現代書道)についてのわかりやすい
入門書みたいなのってオススメないですか?
707 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/26 04:44
井上有一ってどうですか?
708 :
ケケロ竹口:03/01/26 05:42
>>698 俺わ
>>693みたいな扱い方や考え方しか出来ないんなら
学校でわざわざ筆を持たせる意味は無ぇと思う。
どうせ不完全なことしか教えれんのなら無い方がマシ。
習う方も嫌々じゃあ着いて来れんぜよ。
709 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/26 05:53
710 :
KOTE/419 :03/01/26 06:46
>>ケケロ(?)竹口。
俺も、だんだんそう思えてきた。「書写教育新伝統」など、どーでもいい。
ない方がましかも。でも、きょう俺わ或る社中展で複数の書写教諭と話
してきた。彼らわ、書写教育の意義を俺に熱く語ってくれて、「こいつ等
いりゃ大丈夫」って気がした。「審議会は審議会。俺達ゃかさにかかっても
書道教えるよ」っと言ってくれたよ。んで、俺が「可読性はご法度なの?」
って言ったら、ヴォケ!って言われた。
711 :
竹口ケケロ:03/01/26 08:01
>710
それでいいんでない?
でも、その世代の先生達が一線退いたら
それこそ
>>693みたいな教育ゴロばっかりになるゼ。
そうなるくらいなら授業枠なんか譲っちまって、
部活や座学として力を入れた方がよっぽど有意義ってモンさね。
712 :
書道家α ◆nLqs7MgabM :03/01/26 11:49
>>706 現代書については良いテキストがないのが実情です。簡単に手に入るのは石川九楊の
『書とはどういう芸術か』(中公文庫)ですが、この本はたぶんとっつきにくいと思
うので、菅原教夫『現代の書流』(読売新聞社)と大溪洗耳『書をダメにした7人』
(日貿出版)という(あまり人が薦めないような)本を2冊挙げておきます。
『現代の書流』は、読売系の諸団体・作家・作品を概説したものです。情報は少々古
いのですが、非常に読みやすい良書です。20人展のメンバーは9割が読売系なので作
品の理解には少なからず役立つと思います。『書をダメにした7人』はその毒舌でか
つて一世を風靡した(らしい)本ですが、良い作品、悪い作品の判断基準を提示して
いるので(判断基準に対する意見の相違を差し引いたとしても)ためになる本だと思
います。ともに、「一見するとヘタに見える書」の良し悪しを論じている点がいいと
ころ。よければ二十人展の感想もまた聞かせてください。
714 :
書道家α ◆nLqs7MgabM :03/01/26 13:12
>>707 井上有一は現代美術の側面から語られることが多すぎて、まだ書作品として説得力の
ある説明がなされていないような気がします。書の側から現代美術アレルギー(コン
プレックス?)が抜けるまではまだしばらく時間がかかりそうなので、書としての評
価が定まってくるのはまだ先ではないでしょうか。同じ前衛書である比田井南谷、森
田子龍などについては作品評が散見されるのに対して、井上有一の(書の観点から
の)評論があまり見られない背後にはそういった理由があると思います。今後、前衛
書としては当然ですが、もう一つの見方として墨蹟の系列としての観点から語られる
ことがあるかもしれません。
平凡社ライブラリーから『新編・日々の絶筆』(海上雅臣編)という小さな本が出て
います。井上のエッセー集です。上田桑鳩との出会いや、書道展に入選するまでの経緯、
作品制作のプロセス、書道界との決別、さらには井上有一が見る古典にいたるまで、
興味の尽きないトピックがいろいろと扱われていますので興味があればご一読を。
図書館に行けば、同じ編者による大きな作品集もあると思います。
715 :
書道家α ◆nLqs7MgabM :03/01/26 13:13
少し話が飛びますけど、作品以外のアレルギー(例えば過去・現在の体制の影響と
いったような)からまだ解放されずにいまひとつ評価されない作家っていますよね。
豊道春海や辻本史邑などがそうだと思うのですが、どうでしょう。
716 :
ケロケロ竹口:03/01/26 15:06
>715
それ、団体と派閥の圧力が話題に上ると思うぜよ。
汚い話も多く、言い出すとキリが無い話題になると思うぜよ。
それだけに面白い話になると思うけど、このスレではまだ早くね?
717 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/27 02:06
>714 親切に解説して頂きありがとうございました。早速日々の絶筆を読んでみたいと思います。
>>712 遅レス申し訳ない。すげーわかりやすい解説、ありがとうございました。
三冊、読んでみたいと思います。しかし、「読売系」なんてのが
あるんですね。奥が深い・・・。二十人展の感想、見てきたら書きます。
720 :
KOTE/419 :03/01/27 11:01
>>771ケケロよ。
よく解った。しかし、教科からなくなっていいという理由も無い
と思うぞ。書写教育が弾かれてしまうことが残念というよりも寧ろ、
そのようにすぐに役に立たないという理由で・・・もういい。
721 :
竹口ケロケロ:03/01/27 14:06
>720
いや、書写教育が直ぐに役に立たないと言いたいんでわ無く、
教えきれん教科じゃ、あっても仕方ないと…。
本気で書写教育の効能を生徒に現したいんなら、
一週間に一回、二時限続き位の授業にしてもらわにゃならんぜよ。
それが公立高校だと選択科目の扱いで、月に二時限程度ぜよ。
もっと楽しく解りやすい、評価も明確でとっつきやすい教科にならにゃ、
後進などとても育たんと思うんぜよ。
722 :
KOTE/419 :03/01/27 15:49
>720
確かに確かに。ケロどのの意見は一番説得力があるなぁ。
私も現行の書写教育程度ではとても<効能>を顕すには
至らぬと思うし、それをも削られるとあればいっそ「チャラ」
になっちまった方が良いかも知れぬと思ったのだが・・。
(仕切り直しってやつだね)
でもせめて「こんなのありますよ、書道」くらいの<紹介の時間>
ぐらいは教科に残すのもありかなぁ、と思うのね。素質のある子が
興味を持つきっかけ残しとかないといかんのかな、と思うのね。
しかし、課外活動を充実させれば何とかなるのかな。たしか課外
だったと思ったが福岡の太宰府高校の芸術部の書作品、すげーぞ、
みてみ〜。あれは外部の書家の指導を濃厚に感じられたよ。窮屈な
教科内に拘るよりも課外にして外界とリンクさせた方がいいかもなー。
不便なものを使わなくなる→筆は不便だから使わない。
日本だけではないがこれは仕方が無いですね。
そろばんやタイプライターとかもそうですから。
書道が今のような立場になったのも仕方が無いですが、
僕が(今30歳)小学生の頃は「かきかた」という授業があり
墨をするところから教わりました。
725 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/27 23:49
話の流れが速い…。
>>678 雁皮紙の件、感謝。私は印影だけでなく印稿も評価・展示対象にするべきだと思ってい
ますので、転写後の印稿の状態が気になりますが、転写作業時間の節約にはなりそうです。
「<型>としての古典なくしては続かない」点には同感です。先ずここを最低限やって
から教科書の方向に持っていきたい所ですが、それを
>>679「やらんでもいいでしょ」に
わざわざ導く管理職が多いのは実に興味深い事。
「公教育はなぜこのようなスタンスを取るに至ったのか」「過程ではなく意図」につい
ては、(
>>686の見方もさる事ながら)私としては学校と書塾の乖離がそれ以上に影響し
ているのではないかと思っています。例えば音楽の場合、学校の教員は基礎指導を重視し
て、より高度な技能についてはピアノなり何なり、その筋の専門家に委ねる模様。ところ
が書道の場合は全部学校側でやるか、もしくは基礎そっちのけで芸術書道に突き進む。義
務教育段階では高校への丸投げが多く、書塾は競書中心の所が少なくない。
従って
>>681「どーすればいいの?」については、書塾との連携と管理職教育を強化す
れば解決するだろうと思っています。ただし現状認識が不足していると、先手を打たれて
空振りに終わる筈。だからあれこれ書いている訳ですが、「自身に対する嘲笑」とか必要
論と不必要論の二項対立図式に映るのは心外です。
こちらでは県下書道教員の大多数または全部が基礎指導否定派か黙認派ですし、県議会
ではつい先日も、書を芸術作品扱いしない事が遠回しに承認されました(芸術作品蒐集に
関する県側の答弁)。書塾との連携は最悪の形で実現。書道は事実上の被差別科目ですか
ら、正規採用試験の有無はどうでもよい。従って認識上、書道教員も書塾の先生も大した
違いはない、となる。ゆえに他科教員に兼任させるよりも民間人を起用した方が、傍目に
は遙かに進歩的と映る(複数教科兼任慣行はどこの県でも珍しくない)。
726 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/27 23:50
連携から吸収合併へ。〜衆知の通り、巷間には他の伝統文化・芸能と同様の流儀書道信
仰が定着。他方、公教育では昔から特定書流への偏りを否定しているにもかかわらず、書
道と聞くと大抵の人は「流派は?」と切り返す模様。
「ゆとり科目」扱いを肯定すれば、「記憶より実技」優先の常態的教育慣行が書道を「覚
えなくてもよい科目」に仕立て上げ、公教育と無媒介に流派信仰が保たれる。「ゆとり科
目」扱いを否定すれば「優れた教員」の需要が高まり(これ自体は問題ない)、特定流派
に長けた老齢講師が複数校を掛け持ちしたりする(つまり運用の恣意性が問題)。
芸術一科目に一教員を配置する学校(=大多数の学校)では、授業が必然的にワンマン
経営となります。この場合、流派の差異から生ずる一種の縄張り意識が内なる鍵となるで
しょう。真面目にやればやるほど授業にも部活動にも影響は増大しますから、「柔能制動」
の要領で指導力を逆手に取れば、内部崩壊させるのは至極簡単となる筈。
拾遺
その後の書き込みに、「無視するしかございません」「ショックでした」発言が出てき
たのには驚きました。私の感想は順番に、「それこそ書教育不要派の思うツボ」、「気持ち
はよく分かる」となります。〜「美術」「芸術」の語意変化を前提するなら、書は明らか
に芸術(=西洋芸術)ではない。明治以前は「学問」「武術」なども「芸術」に内包され
ていたが、今の民間の常識は芸術を学問扱いしない。従って意味変化に迎合しない立場を
採るなら、書を芸術扱いしないのは理の当然となる。〜或る意味、日下部鳴鶴が書の帝展
参加に反対したのと似通った理屈。(高田竹山式に「書は神術」とやれば別の語弊が出る?)
>>721 書写・書道教育が信頼されないのは、評価の問題が一番大きいかも。〜書塾を常識の基
準と仮定する。児童対象公募展や月例競書の審査は切り捨て方式。下位成績者ほど事後指
導効果は薄くなる。社中間のフォーマット(段級位)にも共通規格はない。
727 :
PURE-GOLD:03/01/27 23:59
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728 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/28 01:42
書についてのスレがこんなに続いているのに驚きです・・。
今書道ではある程度有名な大学に通っているのですが
考えたことも無い部分がたくさん語られていて凄いと思います。
そこでちょっと質問というか皆さんはどう考えるか聞きたくて書き込みました。
自分が通っている大学はいわゆる「読売系」といわれる教授ばかりです。
師匠も読売系のため、どうしても好きな書、それについての理論
などはそちらの系統になってしまいます。毎日系にもたくさんいい
書があるというのもわかるのですが、どうしても一つ理解できない書が
あります。それは「前衛書」というものです。
書というのは「文字をつかった造形芸術」ではないでしょうか?
自分はそう考えて書をしているし、他の書をなさるほとんどの
みなさんもそう考えているのではないかと思います。どこまでが文字であるか
というボーダーを引くのは自分自身であるかもしれません。
しかし前衛書は文字そのものを無視し勝手気ままに書いたものとしか
思えないのです。前衛書全てを否定するわけではありません。ただそれを
「書」とするならば、どこが「書」であるのかわからないのです。
みなさんはどうお考えになりますか??
sage
730 :
KOTE/419 :03/01/28 10:46
>>725 ・・・誤解していたようですね、あなたを。(
>>692のレスがやけに衝き放った
感じがしたものでチョット<切れて>見ました。すみません、ご容赦を。
しかし、初めて方法論を伺った感があり、とても新鮮です。
私事で恐縮ですが実は現在、自身の印稿作成に取りかかっており、暫くの間
まともなレスが困難です(普段からあまり「まとも」ではありませんが)。
しかし幸い(?)私の<切れ>によって新たなコメンテータも現れた模様。
レスポンス期待できます。
お話の印稿と転写法は篆刻スレッドに折りをみて書きこんで見ますね。
不悉
731 :
KOTE/419:03/01/28 10:52
>>728 前衛書が抱えている問題は現行書道全体を思考するにあたり、一番の
サンプリングであると感じています。あとでじっくりと議論致しましょう。
732 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/30 00:05
>>KOTE/419さん
よろしくおねがいします!
ちなみに自分の師は二十人展出品者なんですが
前衛書を遊びのようなものだといっていたそうです(先輩の話によると)
あれなら子供でも出来てしまうと。。
733 :
KOTE/419 :03/01/30 09:44
>>732さん
こちらこそ!!これは面白い展開になると思います。
734 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/30 21:00
>>726の訂正。「柔能制動」→「柔能制剛」
>>728 取り敢えず、叩き台として。
前衛書の鑑賞には、教養芸術としての背景理解が必要だと思っています。敢えて書の特
質を純粋培養するかのごとき教育上の観点は論外。
嘗ては書画一致論の下、多くの書人が文人画を嗜みました。「詩中の画」「画中の詩」
に云うところの「詩」は書表現と一体ですし、それが昂じて「詩書画三絶」は巧拙を超え
た常識となる(その後は篆刻を含めて「四絶」とか、更なる多様化と一元化が進む)。
今は多くの前衛書が現代美術指向。西洋美術の見方や技法を顧慮する点で表面上は大き
く変わる。…が、作品を構成する諸々の層から文字の痕跡が位置する層を読み取る場合、
古今両者の構造にさほど大きな差異はない様な気もします。
文人画には画賛の様な「場所の棲み分け」とか、画中への「署名の埋め込み」とか、或
いは線質に書的属性を読み取る(一種の)「見立て」などがある模様。また現代美術の方
では、線質の東洋的性格を積極的に取り込む事例が多く見られる模様。
現代美術指向の前衛書については、大雑把なところ二つのタイプに大別できる様な気が
します。例えばこんな具合。
(1)「線」(「線」の拡張としての「面」を含む)の美術に文字痕跡を組み込むタイプ。
(2)「文字」の変奏に非書法的美術表現を組み込むタイプ。
どちらの側であれ、狭義の伝統文化(日本画、蒔絵、陶芸など)とのコラボレーション
に留まる作品群は比較的穏便な方なのかも。篠田桃紅のは前者、榊莫山のは後者かな。脳
神経細胞の集合体みたいな石川九楊作品はやや過激に見えます。
735 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/30 21:01
しかしよくよく考え直すと、この見方だと江戸時代の「見立て」とか道教の護符とか、
様々な遊びや叙述的性格を包含してしまうのが難点。現代美術にこだわる事それ自体がい
けないのかも知れないし、そうでないかも知れない。
>>714の井上有一だって、真っ当な
書だと云えば確かにそう見える。では上田桑鳩や宇野雪村はどうか。手島右卿の一字書は
どうか。莫山の「行」や「土」はどうか。仮名以外のアルファベットを書いても文字を書
いた事になる。ハングル書道はどうか。文字からの乖離が前衛書の条件なら、これらは前
衛書に含まれない事になる。
マルセル・デュシャンの「泉」から便器の概念を取り除くとどうなるでしょうか。あれ
は便器ではない。それだけなら単なる退歩に過ぎないのでは?〜実際は別の哲学的意図が
ある。フーコーはルネ・マグリットの絵、ドゥルーズは映画やフランシス・ベーコンの絵
を題材に思考した。…では、書道では?(井島勉の他に。)
>>730 事態を一変させる方法については
>>673で軽く触れたので、実は
>>681に戸惑いました。
そこで
>>725を書いた訳ですが、正直なところ「これでは根本的解決にならないのでは」
と疑っています。教育基本法改正で「伝統文化の尊重」を明記して貰う方が遙かに効果的
な筈。現行法は事実上のザル法。「世界標準の周辺に辺境文化を正しく位置させる」手法
による伝統文化の迫害は運用上の必然であり、かつ「文化の尊重」の一環である…と解釈
できます(「地域の実情」に応じて、違法ではなくなる)。
736 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/01/30 21:09
>>732 それホント?その先生の話っての。子供でも書けるってのは
違うんじゃないかな。現代音楽でも、ネコがピアノを弾いたような曲ですら
実は緻密な計算が隠れていたりもするわけだし。前衛書ってどうなんだろ。
ブーレーズみたいな、計算された書とかってあるのかしら。それより
やっぱりアクション・ペインティングとかのほうに近いのかしら。
734の二つのタイプというのは勉強になったけど、735は何を言っているか
よくわかんない。
738 :
728・732:03/01/31 16:22
>>734さん
非常に勉強になりました。学生の僕にはまだまだ難しいもので
理解するのに苦労しました・・(理解はしきれていないとおもいます汗)
これはあくまで個人的な感想ですが(1)のタイプ、ここでは篠田桃紅が
上げられていたのでそれについてになってしまうのですが、
ここまでくると書と呼べるのかどうか疑問を感じてしまいます。
まず一つの問題として道具の問題。紙、墨、そして筆。
この筆を使っているのかという問題です。これは実際前衛書を
している方から聞いた話ですが、筆ではなく雑巾、など
まったく筆とは関係のないものを使う事や
また一つの作品の中に二種類のまったく違った素材の道具を
使って制作する事がよくあるそうです。
ここまでくると、書ではなくアートの世界なのではないかと考えてしまいます。
筆を使わなくては書ではないというのは、僕もわからないし
判断出来ないのですが・・・。
なぜかこの問題について考えていると頭が混乱してきます・・。
わけのわからない文章ですみません
739 :
728・732:03/01/31 16:23
>>737さん
本当であるかというと本当だと思います。
実際の自分の授業にもそのままではなく似た様なニュアンスで
講義していました。でもこれは大げさに言ったものであると思います。
話は変わるかも知れませんがこういった話もしていました
「上手い人が(ここでは古典をきちんと勉強してきた人、そして技術もある人
の事であると思います)わざと下手に、めちゃくちゃに書いて、
それを新しい書であると主張するのは間違っている。」
そして講義の資料にはこうあります
「現代にいきる我々はそこにたまることなく、さらに古典の限界の外に踏み出した
ところで、現代感覚と美意識を盛り込み、現世の今でなければ表現できない
書というものを展開していかなくてはならない」
この講義を聴いたときはなるほどと思ったんですが
あくまで「読売」の考えなのかもしれません・・・。
その先生、話が矛盾してない?
前衛書の解釈については諸説ありますが、私はそれで良いと思ってます。
またも私見ではございますが意見させてください。
従来の面に文字を書き、そこに情を描き込む毛筆による書道に対して、
文字という規制を外した前衛書と呼ばれる表現は、書道より広い範囲を表現し得ると、
あくまで私見ではございますが、私はそう考えます。
さて前衛書では、
苦闘の果てに感情を表現する師も居られれば、空間を表現される師も居られます。
またある師は、宇宙、可能性、若さ、色などを表現しようと四苦八苦しております。
これは従来の書が、面に対して「書」で表現しようと試みることに対して、
前衛書に挑む人間達は、面に対して「描」で表現しようと試みているからだと思います。
結果として師等は、
書道の枠から平面をもって再現できること限界へ挑戦しているのだと思います。
そこには既成概念を別とした様々な思考錯誤があり、
またそれらが理解される長い時間が必要なのだと思います。
かつて画家のパブロ・ピカソがこう言っています。
「私が子供の様な絵を描くのに、老人になるまでの時間がかかったよ」と。
思うに先に出てきた「前衛書は子供でも出来る」という言葉の意味は、
子供なら既成概念の別も無く、表現に立ち向かえるという意味ではないでしょうか?
自由に、楽しく、心の赴くままに表現できる。
前衛書が現代の書道に提起している可能性の一端だと思います。
…長々と失礼いたしました。
743 :
書道家α ◆nLqs7MgabM :03/02/01 11:03
>>716 そのような深い意味はなくて、いい作品だと思いませんか、ということなのですが。
豊道春海の行草、辻本史邑の隷書などは後世前向きに評価されると思っています。
744 :
書道家α ◆nLqs7MgabM :03/02/01 11:03
> (1)「線」(「線」の拡張としての「面」を含む)の美術に文字痕跡を組み込むタイプ。
> (2)「文字」の変奏に非書法的美術表現を組み込むタイプ。
上の
>>734さんの分類に同意です。
>>728さんが指摘しているのは恐らく、(1)のう
ち「文字痕跡を組み込んではいるが、組み込んでいるようには見えないタイプ」のこ
とのようですね。「文字」を扱っていない(ように見える)限り、もはや「書」とは
言えないのに、書展に作品が出されているのはおかしい、と。
しかしながら、
>>741さんも指摘しているように、規定範囲を狭めていくと表現方法
に限界が出てきます。文字を書こうとしているのに文字には見えない例は、先に挙げ
た井上有一が分かりやすい例かと思いますが、さらには西川寧や日比野五鳳など戦後
の伝統書の巨匠の作品にも見られる現象です。極めると抽象化することって良くあり
ますよね。
友達に抽象画家(のタマゴ)がいて、ペンキをキャンバスに塗りたくる作品を量産し
ていますが、彼によると「俺にはこのようにしか世界が表現できない」そうです
(ちょっとクサイですが)。書を志す人のあいだにも、このように表現方法を選べな
い人もいるでしょうから、文字を扱っている(もしくは扱っているつもりである)限り、
材料に雑巾を使おうがペンキを使おうが、書作品として見ていいのではないでしょう
か。
745 :
書道家α ◆nLqs7MgabM :03/02/01 11:04
東博の大日蓮展に行ってきました。あまり期待してなかったのですが、とても良かっ
たです。書だけ見に行っても面白いですよ。日蓮とその高弟の書はもちろん、法華経
の巻物、本阿弥光悦の書などいいものがたくさん出ています。本館では珍しく西郷隆
盛と大久保利通が出てました。東洋館では蘭亭序の特集が組まれていてこれまた必見
です。
3月からは西本願寺展だそうです。西本願寺本三十六歌仙集がすべて展示されるそうで、
今から楽しみでなりません。
746 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/01 16:08
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747 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/01 16:33
748 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/03 15:55
学校教育上の書道の必要性については、
話題がいつのまにか切り替わってますね。
「通信簿の評定平均を上げる」以外には、
必要性を押す人もいなかったわけですから、
おおむねそれが結論でいいんですよね(笑)
749 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/03 15:58
750 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/07 02:34
>>748 >「通信簿の評定平均を上げる」以外には、
>必要性を押す人もいなかったわけですから、
これって、具体的にはどこに書いてある? 見方が正反対になっているのでは? 評定
について触れてある稿が見つからないが、敢えてそれに結びつけるならば、多くの方々は
「従来の「通信簿の評定平均を上げる」だけの授業では駄目だ」と見るのでは?
今の評定方式では、学力低下しても評定平均は変わらなかったり上がったりするから、
際限なく実態とかけ離れていく。実態は小学生レベルのまま、すんなり高校書道の単位を
取ったりする。その結果、「基礎知識なんかなくても実生活上は大丈夫」ってな事が二重
に正当化される。
論より証拠。朝日系列の某地方局は先月、「書き初め」のニュースで「長い半紙」と表
現。どうやら「画仙紙」は死語扱いらしい。
751 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/07 13:49
>朝日系列の某地方局は先月、
>「書き初め」のニュースで「長い半紙」と表現。
>どうやら「画仙紙」は死語扱いらしい。
「画仙紙」では解らない人が多いと思われたからだと思われ。
書道なんて活動自体がマイナーなんだからそんなの当たり前だろ(笑)
753 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/07 14:08
>748>750
通信簿がどうかは知らんが、
学校教育上の必要性について決め手といえる意見を行った奴は特にいなかったと思う。
前衛書が無駄な話題とは思わないが、
暫定的な結論も出ないまま新しい話題に移行したのは問題だったのでは?
それが元で話しきれなかった奴が荒らしに来るんなら、
徹底して学校教育と書道を語らせてやった方が良いと思うんだが、
他の住民諸氏はどうよ?
754 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/07 21:00
>745
3月25日から5月5日までの展覧会ですね。
三十六人歌集は3期に分けて全冊展示だとか。
今から楽しみなのですが、大混雑しそうでちょっと鬱…
何年か前、神田の一誠堂で田中親美先生の複製が出ていたけど、
確か2冊(伊勢集と貫之集下)で300万円位だった。
鑑賞用に手元に置きたいなあ。
今は、新潮社の複製で我慢してます。
755 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/07 21:28
柿沼なんとかはどうですか?
756 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/08 02:02
>>737 「計算された書」
・予定計算→用意
・逐次計算→率意
と考えれば、伝統書も前衛書も大差ないのかな。
>>751 学力低下擁護論者か、それとも差別主義者か、どっち?
記憶が曖昧だが、従来「画仙紙」の語は国語科書写で既出だったと思う。つまり高校の
選択科目と違って、建て前としては全員が義務教育段階で習っている筈。これをマイナー
と云うからには、義務教育自体がマイナーだと見る立場か、もしくは(「書道なんて活動
自体が」の箇所から察するところ)教科間差別を容認する立場って事になる。
ネットで確認できる現行版では、東京書籍の中一用が「長い用紙」(「長い半紙」では
ない)となっている模様。…が、「懸腕法」「提腕法」などの語よりは遙かに常識的で、
かつ使用頻度が高い筈なんだがなあ。
http://ten.tokyo-shoseki.co.jp/text2002/cyu/cyu-shosya/html/1.html >>753 単なる「教育上の必要性」なら、学校外の場で既に色々と言い古されてある。だから誰
も焼き直さないのだろうと思っている。少なくとも〜「必要と思う立場」と「必要と思わ
ない立場」の対立は、このスレッドではまだない。
事が「学校教育上の必要性」だから、却ってややこしくなるのでは? 一人の専門家と
多数の他科教員とで構成される教員集団や、専門外の管理職集団が多数決を取ったりして、
教委・学校全体の側が「必要ない」と判断すると、そこから先は外部・専門家の意見が通
用しなくなる。法的根拠(運用面)は
>>735後半の通り。控えめに云うと「学問的に正し
いかどうか」の問題ではなく、「選択上の必要性」に左右される。
やり過ぎると、他教科でも下記の様になる。書道の場合はそこまでしなくとも、中身を
形骸化すれば「ゆとり教育」に適合するから問題はない。(学問上のモラルは論外?)
757 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/08 02:03
去年見た地方紙HPの共同通信記事では、300人でなく千人単位だった様な記憶が…。
(引用)
--------------------------------------------------------------------------------
1月19日 兵庫の県立高 受験科目以外の授業軽視
兵庫県柏原町の県立柏原高校(中尾延敏校長)で1998年度から、理数系クラスの生
徒に対し、学習指導要領で2科目の履修が決められている地理・歴史の授業のうち、受験
で選択していない科目の授業をほとんど受けさせていなかったことが19日、分かった。
同校は「受験対策」としており、卒業見込みの生徒を含め、このケースに当たる生徒は
少なくとも約300人に上るという。
県教委や同校によると、理数系クラスの生徒は、世界史、日本史、地理のうち2科目を
履修する必要があるが、受験で選択しない科目の授業時間の大半を選択科目に充て、成績
は選択科目とまったく同じ点数を付けていた。
中尾校長は「隔週週休2日制の導入などで授業時間の枠が減り、独自にやり繰りした。
生徒のためと思ったが結果としてバランスを欠いた。県教委の指導を受けて是正した」と
説明している。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/pirkaram/headline/h0201.html
758 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/08 12:10
私の学校では4月より書道の時間がなくなります。
2年前までは必須履修科目として残されてましたが、
1年前に自由選択科目となりました。
その後、
今年度中の履修者数と来年度の履修希望者の減少が元で、
来年度以降は書道が教科から外れることとなりました。
この件はゆとり教育および週休二日制導入に際し、
件教委とも相談の上で決定しました。
授業時間は削減されますが受験科目について変更の無い現状では、
選択教科や受験外科目の調整で補強を図るしかなく、
またそこに教師の仕事の質的向上も求められます。
結局、私の学校では課外講習や講座として、
不足時間や生徒の学力に補いを付けることとなりました。
>757にある例は氷山の一角で、私などはいたしかたないとも思えるのです。
759 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/08 13:03
受験より最近のりやすにはまってます!すごい作家
知ってる?
あぼーん
>>758 先生はどうなっちゃうの?いままで国語の先生がやってたとか?
762 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/08 20:23
763 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/08 22:24
路上の書家、詩人、
のりやすが最強!!
その他は糞だ
764 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/08 22:50
>761
今までは国語科教員と教頭が指導にあたっていました。
指導にあたっていたのは全員国語畑の人間です。
765 :
わたしはダリ?名無しさん? :03/02/08 23:59
766 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/09 16:18
柿沼康二がEZ!TVに出ますよ。
767 :
とおりすがりの油絵絵描き:03/02/10 00:39
今みたけど柿沼康二。いい悪いはわからないけど。
あれ前衛なの?書道では?白髪っていう我々の先輩が40年来
やってた事とあまり現象面で変わらないような印象です。
すいません書道については何も知らないので
勝手な事書込みます。
ので
768 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/10 02:47
>764
あなたは…教育現場に書道は必要だと思いますか?
769 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/10 23:28
柿沼康二は、めっさ臨書がうまいです。
半端ない。
書の基本は臨書。
770 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/11 04:56
>>767 てか白髪がああいう伝統の下に生まれたと思われ。
あの時代すでに勅使河原みたいのもいたわけだしさ。
あぼーん
772 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/11 16:26
773 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/11 23:28
デュシャンの「泉」で見立てるなら、
・「泉」=書、 ・便器=字 (
>>735)
↑そうかな?「泉」は、便器というおよそ美術館に似つかわしくないものを
美術館に作品として提示することで異化するというのがデュシャンの
目論見なわけだから、便器=字というのはズレている。というか
デュシャンとの比較がそもそも強引。アイロニーもへったくれもない。
誰の卒論だか知らんが、やっぱ関大って(以下略
774 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/12 02:08
「便器というおよそ美術館に似つかわしくないものを〜異化するというのがデュシャンの目論見」(
>>773)
→「表現動機におけるアイロニーの順序が逆」(
>>772)
→「便器=字というのはズレている」(
>>773)
「表現動機」の「ズレ」が、
「提示」行為から「作品」(?)に遡行する場合、
「書」の機能する場は、美術館に似つかわしいか。
美術館は、本来の土着的な場を西洋的に翻訳するシステムではないのか。
「鑑賞の場」に「異化」する場から、「現代書」が生まれたのではないか。
自分の母親のおじいちゃんが有名な書道家だったことを昨日知った。
要するに自分はその人のひ孫だった・・
今まで書道には関心なかったが、これを機に興味を持つかも(笑)
この板もはじめてきますた
>>774 オナニーちゃん、自分だけ楽しんじゃだめ(w
言いたいことがあるならもっと明確に、ネ?
777 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/12 05:39
>>776 面白いっ。昔の書は手紙で一対一の交わり。今は展覧会で不特定多数と乱交プレイ。
読めても読めなくても、書き手の気持ちなんか都合よく解釈しやがれ。見て気持ちイイならそれで昇天。
要するに、あんたは乱交が好きなのね。一対一じゃ物足りないの?
>>777 >読めても読めなくても、書き手の気持ちなんか都合よく解釈しやがれ。
なんでそうやってムリヤリ美術の文脈に解消しようとしたがるの?
仮に読めなくても、なにが書いてあるかは普通「観賞の場」でも
説明があるわけだし(書の「展覧会」に行ったことある?)、
だれも「見て気持ちイイならそれで昇天」なんてしてないって(w
あぼーん
780 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/12 17:46
>>778 >なんでそうやってムリヤリ美術の文脈に解消しようとしたがるの?
美術館・展覧会と現代書との関わりについての文脈が、「〜したがる」に見える?
「美術の文脈に解消」した場との比較が、「美術の文脈」への解消を促進するって事かい?
もしそうなら、展覧内容ごとに「展覧会」概念の本質的差異が生じることになる。
共通の展覧システムに書とか美術とかが乗っかるのではなく、
書とか美術とかの内容に展覧システムが従属し、それぞれ横断不能になるべきだとでも?
書画一致論の否定か、それとも新たな「書ハ美術ナラズ」論か。
そんな意図には見えない。単なる誤読じゃないの?
>なにが書いてあるかは普通「観賞の場」でも説明がある
公募展とかでなく、画廊の企画展や個展なら説明くらいあるかもね。
学芸員や作家本人が常駐しているのなら。しかし普通そこまでしてないって(w
>美術館・展覧会と現代書との関わりについての文脈が、「〜したがる」に見える?
あらあら、これこそ「単なる誤読」(w。もう一度778読めよ。どこが引用されてる?
書を「読めても読めなくても」という、ビジュアルに純化したものとして
いるところが美術の文脈にひっぱりすぎだといいたいわけ。展覧会制度云々の
話では全くない。「横断不動になるべきだとでも?」の意味もさっぱりわからん。
どこを読んでんの?わざと話ずらしてんの?それともただの(以下略
>公募展とかでなく、画廊の企画展や個展なら説明くらいあるかもね。
>学芸員や作家本人が常駐しているのなら。しかし普通そこまでしてないって(w
論外。
782 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/12 23:05
あぼーん
閑話休題。
「現代書道の二十人展」行ってきました。最終日だったので
けっこう人が多かったです。おばちゃん、多い。けっこう
わかりやすかったので楽しめました。もっと前衛的かと思っていたので
意外。何が書いてあるのかは、漢詩とかが隣に掲示されてるし。
友人と二人で何が書いてあるのかを当てるクイズなどもできました(←不謹慎)。
松下芝堂先生のが個人的には好きになりました。ピンクの色紙に
さらさらした字があってその上に金箔があったりして、とってもポップ。
『書とはどういう芸術か?』は買いましたがまだ読んでないので
読んだらまた感想を書きたいと思います。
いやだからさ、柿沼康二ってのが前衛だったりしてもてはやされる
のは、ね。井上有一はしってるけど。
どっちかっていうと伝統的なんじゃない?
本人の容姿以外は?って思ったんだけど・・・・。
勅使河原しってるけどね。
ちなみに白髪はそういう部分からでてきたのではないけどね。
どっちかってーと琳派や水墨でしょ彼の頭にあったのは?
それ以上に時代の空気だけそね。
786 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/13 05:56
>>781 >もう一度778読めよ。どこが引用されてる?
これで誤読箇所が明らかになった。
>>780は
>>777が依拠する場の説明だが、
>>781には「展覧会制度云々の話では全くない」とある。
どうやら
>>778と
>>781は、
>>777と別の視点(「読めても読めなくても」)に話をずらし、かつ
「読めても読めなくても」の表現が「展覧会」概念の横断性に依拠している事を
初めから認めない立場らしい。
場の包括性に依拠するからこそ、中身の横断性は保たれる。
書の鑑賞の場も、従来の席書や往復書簡、室内装飾の水準に留まらなかった。
また現行の展覧会は元々、西洋で「ビジュアルに純化した」場として発展したはず。
もっとも、書を導入したら弊害(「読めても読めなくても」)が生じたけどね。
そちらこそ、どこを読んでんの?わざと話ずらしてんの?
>>786 「読めても読めなくても」の表現が「展覧会」概念の横断性に依拠している事
何コレ?(w 勝手に書を美術と横断させんなよ。
あまりにもひとりよがりな議論で話にならん。
確かに書はいまや美術品と同様、展覧会に出品されたりもするが、
だからといってビジュアルに純化したわけではない。
「見て気持ちイイならそれで昇天」するのは勝手だし、邪魔しないけどさ(w
789 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/13 19:23
>>788 どっちが「ひとりよがり」かねぇ。
書画の分裂は明治以後。これは歴史上の事実で、勝手なこじつけではない。
それでも強弁して、書と美術との横断を否定するってか?話にならんな。
いったん分裂した書画はそれぞれ、西洋的展覧システムの文脈で再編に向かった。
「ビジュアルに純化」したのは西洋美術の場。そこに新参者の「書」が割り込んだ。
このプロセス抜きに、前衛書をどう解釈するというのか?
デュシャンの「泉」も最初は陳列拒否された。上田桑鳩の「愛」もそうだった。
それぞれが受容されていった流れを比べてみれば分かりそうなものだが。
あぼーん
私も柿沼康二は、伝統的だと思う。
いかにも“どっくりっつしょじんだ〜ん”な作品は別として、
彼の書は、うまくて好きだ。
792 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/13 23:28
>>デュシャンの「泉」も最初は陳列拒否された。上田桑鳩の「愛」もそうだった。
全然関係ないと思います。
794 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/14 20:28
柿沼こうじの父も書道家らしいからね
やっぱり血筋?
自分は手島右卿が好きだけど
あぼーん
796 :
書道家α ◆nLqs7MgabM :03/02/14 22:58
>>754 三十六人歌集はたぶん5回ぐらい観に行くことになりそうです(笑)。田中親美の複製
はホントちょっとしたものでも高いですね。新潮社の複製は知らないのですが、どう
いうものでしょう?伊勢集と貫之集のみが複製になっているのでしょうか?
>>784 松下芝堂の作品を見て「ポップ」という表現は若い人の感性ですね。二十人展は先に
も書いたとおり「読売」系の作品がほとんどであり、伝統的な作風の作品を制作する
作家が多いので、あまり前衛的な作品は期待できません。まもなく東京都美術館で
「創玄展」が開催されますので、そちらに行くと「毎日」系の前衛的な作品も数多く
観ることができると思います。
797 :
書道家α ◆nLqs7MgabM :03/02/14 22:58
銀座の『日本の書展』に行ってきました。いわゆる「巨匠」作家から「秀抜」作家に
至るまで様々な技量の書家の方々が小品を出しています。近年特に顕著な点は、表具
が現代風になってきたことです。軸の布地がピンクだったり淡い緑だったりするの
は、少し前だと考えられなかった現象ですね。それだけ、作品だけではなく表具を見
る楽しみというのもできてきました。
日展に行くといつも似かよった作品を見ることになりますが、日本の書展は作家の少
し違った素顔が見られて楽しいですね。二十人展のレビューで謙慎サイドは卒意の作
品が少ないのでは、と書きましたけど、小品を見る限りそのようなことは言えないよ
うです。殿村藍田のお弟子さんの作風が面白くなってきましたね。先生が亡くなっ
て、師風からの脱却による作風の変化がいい意味で顕著になってきているようです。
書道家さんの話を聞くとホッとする。
柿沼康二って何?
わけのわからん字を書いて、紙と墨のムダ使いとしか言えない
あんなのを評価する人がおるって言うのが信じれん
800 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/15 10:40
臨書のうまさを知らないから。
それに、きちんと学芸大も出ているしね。
破天荒なようで、結構ちゃんとしてる人。
>799こそ書道を知らないね。
あぼーん
それに、きちんと学芸大も出ているしね。
よくこんな恥ずかしいことを・・・
803 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/15 17:08
破天荒だったら、大学なんて出ないでしょう?
学芸大で何が悪い?と
言ってみるテスト・・・
自分も学芸大
言ってるおまえは何なの?
あぼーん
805 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/15 18:11
松下芝堂…どうも言葉が見つからない。かなりニュアンスが違うけれども、強いて云う
ならやはり「ポップ」な感じになるのかな。私の場合はいつも、紙より字の方にそれを感
じています。翠軒の古典的性格なら、宮川翠雨一派の方がより強く受け継いだ様に見える
し。芝堂が古典的でないのではなく、翠雨に古めかしさを感じているだけ。
http://www.shodo-journal.com/month/mon.html 何人が書き込んでるのか分からないが、「荒れ」誘因文句に反応したのがもう一人以上
いるらしい。柿沼氏は学芸大か。さもありなん。十数年前は小宮山さんとか青山さんもい
たなあ。みな徹夜で頑張っていたらしい。この隠れた努力を想像しなくとも、取り敢えず
「見た」事になってしまうのが、展覧会システム最大の欠陥だと思う。
アレシンスキーの映画に対し、森田子龍は書字シークェンスの切断に異を唱えた。
席書パフォーマンスの場で実現していたものは、展覧会の場で再現しにくい。
そこで映画。ここでは指揮者カラヤンの実験と同様、時間性の切断が問題視された。
「見る側」にとって、リハーサル映像なき本番はリアリティの大半を欠く。
だからこそ演奏は一発勝負に収束し、しかも時間的シークェンスは保たれる(つくられる)。
書の場合、この手のシークェンスは「見る側」の想像力に委ねられる。
公開オナニー禁止
807 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/16 05:53
「公開オナニー禁止」→
>>805中段二行目?
反省。ネットで見るところ、一方は学会で活躍中。
文脈と関係ないところで個人名を出すのは、相手に非常に失礼だと思うが
あぼーん
810 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/16 12:17
で、いいのか
わるいのか
柿沼コージ氏
BAKAに決まってんじゃん。
長渕とか大音量で聴きながらダッシュしてんでしょ。
812 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/16 15:12
ちゃうちゃう
ぼうい
あぼーん
814 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/16 15:33
良い墨を探しています。
どなたか、教えて下さい。
(
>>814に付け足し)
日本画の下図に使います。淡色に薄めて使ったりします。
いい墨を教えて下さい。スレ違いかもしれませんが、お願いします。
816 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/16 17:02
>>815 手に入ればだけど、三重県鈴鹿市白子の墨。
ネットで探してみれば?
818 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/17 02:03
茶紫系とか紫紺系とか青系とか、墨は難しそうだ。
青なら「八寶靈丹」(呉竹精昇堂と・成圭の提携)がよかった。他のは青すぎてキツーイ。
>>817 あ〜cook-
本屋に逝けば、美術新聞社「墨」っていう雑誌が、趣味コーナーにあるからね。
ときどき墨絵特集、 墨特集もあるよ
あぼーん
821 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/17 20:26
>796 え―ん!5回も行くのおー。
お問い合わせの新潮社の複製は、1964年刊行のもので、
定価は3000円ですから当時としては豪華本ですね。
2冊からなり、三十六人歌集のすべての集ごとに見開きに1葉すつ
抜き出して冊子に仕立てたものと解説からなります。
解説は木下龍也先生のご執筆、田中親美先生の序文かあります。
原寸木版彩色の美しい複製で、4万円ぐらいで5年位前に入手しました。
小さい箱に入っているので、みんな気がつかないかも。
いまなら神田の飯島さんのところにあるんじゃないかな?
でもこれを入手して余計、田中親美さんのが欲しくなるのがチトこはい。
今、桂本万葉(尚古会ではないヤツ)が120万円で出ていて金策を思案中…。
たぶん、手が出ないだろうけどね。
822 :
814(cook) ◆jdHxHHqZ4A :03/02/18 11:59
>>818 墨って奥深いんですね…ありがとうございます。
調べてみます。
>>819 おおー、イーヴル、出張してまでレスありがとん!
私の場合、上から絵の具のせちゃうからねぇ…
「墨」ね?OK見てみるー。
茶紫系が暖色系で、紫紺系が寒色系っぽいのかな?
使い分けたら面白そう。皆さん有り難うございました。。
あぼーん
あぼーん
825 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/19 02:23
あぼーん
827 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/20 00:01
文藝春秋の三月号を見たけど、石川九楊ってパソコン使うのかな
828 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/20 15:24
あのひとはパソコンも使ってます。
でも一日一書とかのやっつけ仕事はしゃっべってまつ。
いちいち書くの面倒だからテープで思いついたことをしゃべって、
それを出版担当者が文字おこしするやりかた。
うれっこは忙しいんだって。
まーアイドル本みたいなもんだ。
829 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/21 03:03
830 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/22 01:04
スイマセンが 極真空手とかのTシャツデザインしてる人で、さっきTVのデブやにでてた人はなんて人ですか?
習字ベースっぽいんでここで聞いてみます。知ってる人いたら教えてください。
831 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/22 15:07
一緒にしないで欲しいね
832 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/23 03:39
>>831 いいじゃん!なんでだめなの?
そんなんだから書はだめよ!
もっと頭柔らかくhして!
これからも同じ事くりかえすの?
書は?
そんなのやだ!
833 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/23 11:24
そんなのやだ
・・・って。
あぼーん
835 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/23 20:06
836 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/02/23 20:56
梧竹の書画をテレビで見ると、
清雅堂のコロタイプ本と違った色彩感があって新鮮だな。
カラーなら…当たり前か。
あぼーん
あぼーん
一般的な書体の、それこそ何でもいいんですが
「止め」が亀頭に見えて仕方なくないですか?
なんでこんなにそっくりなんだろうと思うと、
気が散って仕方が無いです。
840 :
わたしはダリ?名無しさん?:03/03/08 19:50
>>893 あ〜ぁ、言っちゃった。もう、みーんな「止め」が亀頭に見え(ry
841 :
わたしはダリ?名無しさん?:
あげときまうす