1 :
名無しさま :
2009/06/13(土) 17:18:43 ID:5xixOEhR いまネット上には確かな根拠もないまま、皇族方にまつわる嘘やデマ、
誹謗中傷 が流布し、それらが既成事実化されようとしております。
そういった嘘やデマ、妄想、捏造、都市伝説を徹底的に検証しようとする趣旨の のスレです。
特定の皇族を擁護したり、また敵視するのでもなく、
あくまでも中立的な立場で噂や都市伝説を検証していきたいと思っております。
といっても堅苦しい感じのスレではなく、思わず噴出してしまうおバカなレスを見て、
住民の方達が笑い合って楽しめるネタスレ的な要素も加味したスレッドにしようと 思っています。
皆様方のご協力をお願いします。
過去スレ
皇室のウソ、妄想を徹底検証 part3
http://dubai.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1240577257/ 板の仕様で1スレ512kまでとなっておりますのでご注意ください
2 :
名無しさま :2009/06/13(土) 17:21:52 ID:5xixOEhR
↑…という前スレ
>>1 のアンチ雅子妃、アンチ東宮の姑息スレでしたがww、
コテンパンに論破されつくして、いつものように卑怯に背走状態となっておりますwwww
雅子妃やそのご実家、東宮家をおとしめ、
秋篠宮紀子やその実家を不自然に妄想と捏造、無理矢理な結論で持ち上げる
秋篠派を嗤うスレになっておりますwwww
どうぞ皆様、ご参加を!!!!!wwww
3 :
名無しさま :2009/06/13(土) 17:22:50 ID:5xixOEhR
512KB超えたらしいので、前スレ続きね?w
>675 名前:名無しさま[] 投稿日:2009/06/04(木) 23:51:16 ID:C+DRODxj
>小和田金吉の父母の名前は誰なのか、過去スレで何度も質問があったけど、
>誰一人答えられないんだよねw
劣勢すぎて、涙目で焦っているのがよくわかるよwww
>「名家」である江頭家の出自について質問しても、それには答えずに山屋家
>だの菊池家だの傍系の話題に話を逸らすしねw
いつも都合が悪くなると、話をそらして誤魔化しているのはお前だよんwww
>「名家」であるなら先祖代々の家系図くらい即座にうpできると思うんだけどw
仮にも卑しくも議論しようとほざくぐらいなら、「過去帳が焼けた」ぐらいは一度言われたら即座に覚えられると思うんだけど?w
>>676 もそう。涙目で無理矢理すぎ。
>>681 に同意。
>691 名前:名無しさま[] 投稿日:2009/06/08(月) 23:14:55 ID:VI0iARXd
>
>>681 >川嶋庄一郎は確かに幼い頃に父を亡くして貧しい思いをした。
確かには関係ない。
いい家なら、父を亡くしても貧しくならないよ。w
>小和田家は村上藩の下級武士であったといわれている。
「あったといわれている。」か。w
>村上藩の下級武士というのは、大体二人扶持三両。
「大体」w
>これは町人よりも生活水準はずっと低い。
ソースなしw
>山屋家に至っては江戸時代を通じてたった二人扶持の「極貧」生活だと
>地元岩手の郷土史研究家や新聞記者が名言している。
ではソースを貼れ。
焦りすぎて日本語間違いすぎ、明言、だろw
「江戸時代を通じて」かどうかも全然わからない。
どうでもいいが、池上某も、最後は極貧生活だったんでしょ?
>一般町民、農民よりも貧しい生活を何百年も送ってきたのが山屋家なのだが。
自分の推論から腐ったカワシマ家擁護の結論を出すのがいつも得意なようだねwww
4 :
名無しさま :2009/06/13(土) 17:23:31 ID:5xixOEhR
>>683 悔し紛れに、ここを「皇室廃止論者」の巣にしたいようだけど、
自分は皇室には続いてほしいと思っている派だよ?www
日本人の心の拠り所、日本の象徴として末永く、双系で繋いでね。
5 :
名無しさま :2009/06/13(土) 17:24:22 ID:5xixOEhR
>685 名前:名無しさま[sage] 投稿日:2009/06/08(月) 09:03:20 ID:SUxUnJv4 >いや、答え出てないもんで。 >勘違いしているようだけど私、306ではない。つまり、306と411のどちらが >妥当か検討してるわけ。 もういいってwww 答え出てるからwwwww 勘違いしているようだけどお前が306かどうかも別に関係ないと思うのだが?w まだ市の機構っつってるのかwwww それを言い張りたいのなら、お前がよく言うように、 お前が「市は郡より上で、県の視学官に監督されていなかった」を立証しないといけないだろバカ。 >で、やってることは「視学」が現在の教育行政では何に例えられるかだよね。 市の教育長は、「小学校だけ視察」したりしないよ?w 根拠がないのは お 前 w
6 :
名無しさま :2009/06/13(土) 17:25:02 ID:5xixOEhR
>>686 >>411 に固執してるねぇw
どうでもいいけど、時代によって違うみたい、と前のほうのレスで例を出してきたのはお前だよ?w
(もうコイツのレスが必死な駄レスすぎて面倒なので、その当該レス番を探す気にもならないw)
>つまり、視学官であれ視学であれ、現在と「同じ形」では教育長とは
>いえません。「似た形」をどう評価するということですね。
↑この時点で、すでに市教育長より下なんだが…オイwwwww
>つまり「実質的」には視学官が
>教育行政を決めていたから、視学官を教育長と例えるのは妥当という意見。
これについてももう書いただろ
本来はないのに、視学に実質的に人事権があって、かなり長い間、批判が相次いでいたこと。
本来あれば「実質的」とは書かれないから。
全然妥当じゃねーよカス。
既出の論点に関して、何度も何度も負け惜しみで蒸し返すな。真性カス。さすがBカワシマの手下だな。下賎さが違う。
>まぁ、秋篠宮の婚約内定を「婚約」とするかしないかどうかみたいなもんです。
>正式な婚約は納采の儀だ、という立場。
>実質的に婚約であり、結婚の約束の公表というのは公的な婚約だ、
>という立場。
またずうずうしく蒸し返してるよコイツwww
秋篠の婚約の件は、とっくにたくさんのレスで検証されている。
「具体的な日にちのことではなくて、 昭 和 天 皇 の 喪 中 に 婚 約 に 持 ち 込 ん だ 経 緯 」
そのものについて言われているだけの話。
秋篠宮自身も、会見で「喪中」って言っているんだしね。
>どっちでもいいんじゃないですかね?
>前者のみというのは、視界狭窄というか、それを誘おうとしているというか・・・。
視野狭窄もお前
こじつけ無理矢理結論、それを常に誘おうとしているのもオマエだから。
我が事は棚に上げて…。いい加減にしろよこの真性カス!
7 :
名無しさま :2009/06/13(土) 17:42:01 ID:5xixOEhR
>>687 いつも誤魔化し印象操作文章書くときだけ、さて、だの、ま、だの、ただ、だの、威勢がいいよなwwwwwwwww
>687 名前:名無しさま[sage] 投稿日:2009/06/08(月) 09:07:54 ID:SUxUnJv4
>さて、郡視学が現在の(郡)教育長でもいいじゃない?と前に
>書きましたが、となると市視学は?ということになります。
ならねーけどw
>ところが市についての文部省の規程は、「学務委員」について
>書かれてまして、「市視学」については記載がない。
>つまり、どうも市が勝手に作った役職みたいです・・・。
勝手に作った役職カヨ!wwwwwwwww
>ただ、渡辺担平氏という方を紹介したサイトに以下の文があります。
>>また、大正9年42歳の時、南安曇郡視学に就任、その後長野市視学を歴任、
>>信州教育に新風を吹き込みながら常に信州教育の重要な位置にいた。
>つまり、市視学とは郡視学を引っ張ってこれるような役職です。
>重さ的には同程度でしょうね。というか、郡視学のような役職です、という
>ことを示すために「市視学」と名づけたのでしょう。
そこへ貼った文章からだけでは、引っ張ってこれるの根拠にすらなっていないんだがw
他の文章があるならそれも貼るべきだね。
同程度ってわかったんだね。
で、市視学が郡視学と同程度って結論にはやっと達したのね?あーあwww
>ちなみに「市視学」単数例がありました。
>
http://www.library.pref.kagawa.jp/kgwlib_doc/local/local_2033-18.html >高松市に市視学を置く。の文の後の人名は一人です。
>市視学は単数のときもあり、複数のときもある。
うん、新潟市の例だと二人だったみたいだけど、小さい市だと一人だろうねw
郡でも小さい郡だと一人のことが多かっただろうねw
同程度だもんねww
8 :
名無しさま :2009/06/13(土) 17:42:41 ID:5xixOEhR
>688 名前:名無しさま[sage] 投稿日:2009/06/08(月) 09:10:05 ID:SUxUnJv4 >結論。市視学について。 独断こじつけ腐れの無理矢理結論は、いつも誰も嗤っているだけだよ?要らないしwww >1.「教育長ではない」は言い過ぎ。教育長相当の場合もある。 >(ただし川嶋氏がそうであるかどうかは不明) 小学校の視察だけしていて、しかも長らく批判まであって、教育長と同じは言い過ぎ。これ結論。 >2.「教育委員」は妥当。 ま、その辺じゃないの?w >3.市の下役人は言い過ぎ。市のかなり上の方です。 教育委員は市のかなり上のほうじゃない。言い過ぎ。かなり下のほうだからwww ここのこじつけ逃亡バカなりにw、叩かれて矛盾点突かれてちょっとはわかったみたいだね、ヨーシヨシ!wwwww( ´,_ゝ`)pks
9 :
名無しさま :2009/06/13(土) 17:43:50 ID:5xixOEhR
690 名前:名無しさま[sage] 投稿日:2009/06/08(月) 19:06:35 ID:Sfsud9x0
皇室批判する人って、最後はだいたい人格批判に行き着くよね
>>690 そうそう!盆がどうだの、丼がどうだの、ね!w
>>1 みたいな、根拠の全くないスライド丸出しの家柄批判も根は全く同じだと思うけどねw
10 :
名無しさま :2009/06/13(土) 17:49:17 ID:5xixOEhR
>>692 >地元和歌山の新聞記者によると川嶋家は立派なお家だそうですよ。
お祝い事だし、ご祝儀記事だろうね、普通それしか書けないわな。
結婚前に和歌山に墓参りに行って、
県庁訪問して皇族扱いを要求したり
まだ皇族でもないのにお手振りやらかして叩かれた話は?www
和歌山に墓参に行って、ドピンクポリバケツから柄杓で水汲んで、大股広げて
ノリコが水かけている写真も永久に残っているのに、いいお家?wwww
笑わせるなって感じ。
よみうり写真館で、「川嶋紀子さま(礼宮さま婚約者)一家で先祖の墓前に婚約報告」
で、検索してみ?w
その頃からすでにオッサンみたいな、神社の娘とデキ婚シュウもいるよ?www
別にカワシマ家じゃなくても、その頃東京に出て行った立派な人はたくさんいるのだがw
もしかして、そのくらいしか褒めるところがなかったのかしら?w
>下段
ソースないしwww
家系が大事と言ってみたり、お金持ち度対決してみたりwww
前のほうのレスで、江戸時代でも、家系がよくなくても金に物を言わせて
上士待遇になる武士はたくさんいたということも書いたはずだけど?w
>川嶋庄一郎氏は、明治二十七年、清水町の松浦家から川嶋家の婿養子になり、そ
>の後、全国各地の師範学校で教壇に立ち教育者としての人生を送り、大正九年、和
>歌山市の視学(教育長にあたる)
だから、ソースは?
11 :
名無しさま :2009/06/13(土) 17:49:57 ID:5xixOEhR
>>693 >>名字もなかったお百姓さんの家柄が上ってことになるのですか?意味がわかりません・・
>>養子になってようやく苗字ができたドン百姓だったわね…紀子さんの先祖
>何か勘違いしていません?
>江戸時代には公家や武士以外の町人や農民は苗字を持たなかった、という
>説は現在では否定されており、小作人でも苗字を私称していたことが判明しています。
>ただ、藩に提出する文書などで公的に名乗ることが出来なかっただけです。
「私称」、ねw
「過去帳」だの「家系図」以下の話なんだ?ww
私称で名字があったとしても、山奥のドン百姓出身だったことに変わりはないわけでね。w(しかも父系wwwww)
小和田家が「私称の名字」だったとしたら、お前が許すとは思えないけどねwww
「痩せても枯れても、武士は武士」
伊能忠敬や二宮尊徳をこんな時だけ借り出してくるなよ
伊能忠敬も二宮尊徳も汚らわしい、ってきっと怒るよ?w
>松浦家の方たちも、公的な文書では名前だけだったり門(かど)や不動(ふどう)
>という屋号を記されるだけであったでしょうが、
「でしょうが、」w
>村の祭礼などでは、一般農民も名字を堂々と名乗っていました。
「堂々と」はいつものお前のクッダラない印象操作に過ぎない。
仮に小和田家がそうだったとして、お前が同じことを言っているとは全然思えないけどねwww
>松浦家も屋号と共に「松浦」という姓を代々大事に継承し、明治になってから
>公に名乗ったということでしょう。
「ということでしょう。」w
百姓でそれなら、小和田の先祖はもっとそうでしょ!w
どんなに貧乏になってもね。武士は武士と言いたいのなら。>極貧池上w
自分の親類にも聞いたことがあるけど、屋号のあった農民は普通だと思うよ。
12 :
名無しさま :2009/06/13(土) 17:50:38 ID:5xixOEhR
>>694 その件についてももう何度も出ているじゃん…
池田厚子さんの件についても書いた、このスレの過去レスあさってみ?w
「三権の長」って言ってみたり、コイツは本当に「意味のない頭の悪いゴマカシ・コケオドシ」が大好きなんだねw
カワシマ家そっくりww
三権の長が認めたとか言うなら、雅子様の出自やご実家、結婚についてもここで妄想捏造で文句垂れなくてもいいだろうにwwwww
>>695 GJ!w
今度「親王と内親王は違います!」って言ったら、
>>697 のレスを覚えておこうね!w
>しかも、礼宮の場合は皇室会議で公的に承認されたものです。
池田厚子さんは両陛下や国が認めなかったの?駆け落ちでもしたの?w
13 :
名無しさま :2009/06/13(土) 17:51:18 ID:5xixOEhR
>>696 >国民精神総動員和歌山県実行委員会
なんだコレ?www
ウサンくさすぎるにも程があるwwwwwwwww
これに名を連ねていると名士なのか大笑いwwwwwwwwwwwww
議員がいるなら名士?
じゃあ、典範改正の小泉さんも名士だベーw
「県より上の国」の議員だし?wwwww
14 :
名無しさま :2009/06/13(土) 17:52:18 ID:5xixOEhR
>>705-706 苦しくなると、そうやって逃亡しては「皇室廃止論者なりすまし」みたいなレス貼って工作するのやめなよw
下品で卑怯すぎるwwwww
自分は、皇室は続いてほしいと思っているよ。
15 :
名無しさま :2009/06/13(土) 17:53:15 ID:5xixOEhR
>707 名前:名無しさま[sage] 投稿日:2009/06/09(火) 15:32:03 ID:90oxO3/U >とりあえず、688についてのきちんとした反論は出ていないようなので。 >「市視学」については、市の教育長か教育委員かといったところ、で >まとめればオーケーですね。 お前みたいに暇に張り付いていないので悪かったがw、 全然オーケーじゃない。真性カス。屑。 「小学校しか視察しない」のに教育長か?www 人数の点にやたらとすがっているようだが、 「市教育長未満」の視学であっても、規模の小さい市なら一人で済ませただろう。 その点については考えなかったのか。 人数だけが問題なら、2人置く市があったことと辻褄が合わないよな、全然www >トンでもない的外れだったので キチガイの、『いつもの』『トンでもない的外れレス』、乙wwww
16 :
名無しさま :2009/06/13(土) 17:53:56 ID:5xixOEhR
>>708 ググってねじゃなくてソース貼れよ、
>>713 にも突っ込まれているけどさwww
>(川嶋庄一郎氏が勤めたのは第一師範なので、実際にはもっと高いか?)
いつも言っているだろう、お前の脳内希望妄想は要らないってw
>「明治人の俸給」というサイトによると(ぐぐってね)、
単数例は複数のソースにはならなかったんじゃなかったっけ?w
なんで高知県なんだよ。
天下りだのすぐ小和田氏を叩くアンチ東宮からすると、その頃の高知県公務員は頑張ってたんじゃんw
県によって違うってことはなく一律だったって?
じゃあ、市視学が2人いた新潟と一緒の身分でしょう、カワシマ某視学もwww
>ま、私とてお金に関して言えば、現在の雅子妃の実家>紀子妃の実家と
>いうのは当たり前だと思っているのですが、
ふーん、お金持ち対決していたのに認めたんだ、よかったねやっとわかったんだ?それ、結論ね?wwwww
でも、お金持ち度だけじゃないのが何とも…w
>これ、単純に
>小和田恒氏と川嶋辰彦氏の現在の代の問題ですね。
>・・・辰彦氏が「売家と唐様で書く三代目」なのでは?という気がして
>しょうがない今日この頃であります。
その言葉、単に「過去は名家だった」という意味ではなくて、三代目の「放蕩バカ息子」の例だよ
クソワロタwwwwwwwwwwwwwwwwwww
爆笑wwwwwwwwwwwwwwwwww
しかも過去にしても(男系派の拠り所とする男系のw、ウププw、)山奥のドン百姓…w
17 :
名無しさま :2009/06/13(土) 17:54:36 ID:5xixOEhR
>>709 >間違い。
間違い。wwww
>雅子妃の先祖>紀子妃の先祖、なら賛成なんだけど。
そこは賛成なんだね?w
よしよし、メモメモ!w
>家名を出すと話が違ってしまう。
>川嶋家(紀子妃の男系先祖)>小和田家(雅子妃の男系先祖)です。
え、男系って農民ばっかりでしょw
キコの祖母のイトコの先祖に池上家があるだけじゃない?
>雅子妃の実家に経済力があるのは、女系&小和田恒氏一代の才覚です。
才覚があるだけでもすごいわな。
カワシマ家と違って、先祖はほとんど武家のお家柄だし小和田家は。
>穀夫氏は、川嶋庄一郎氏とほぼ同等。
お前がそうやって寝言妄想言い張り続けるなら、この検証スレとやらはいらないじゃんw
>金吉氏にいたっては、まぁ、
>完全に一般庶民としか考えにくいですからね。
どの点で?
お金の点でなら、お前が上で否定したばかりなんだがwww
武家と、お金持ちとをごっちゃにして誤魔化そうとしすぎ。
>まぁ、雅子妃は男系女系の両方に立身出世を遂げた人間がいて。
>紀子妃は片方の系に過ぎなかった。落ち着くところはそんなところかな。
>私はアンチ雅子妃でもアンチ紀子妃でもないので、それで十分。
そうそ、やっとわかったのね?w
メモメモw
18 :
名無しさま :2009/06/13(土) 17:55:17 ID:5xixOEhR
>>713-714 ワロタ!ホントそうだよねw
>>715 苦しくなると、その度にこういう荒らしレスが入るよね…もう哀れでナントモカントモwwwww
>>716 3年しか違わない件wwwwwwwww
>>718 >論文資料の中に、川嶋庄一郎のデータがあった可能性すらある。
>川嶋庄一郎氏の経済力を知る上では、これ以上ない情報だと思いますね。
「可能性すらある。」の根拠レベルで、「この上ない情報」って普通の日本人は言わないよ?w
起源はウリナラニダ!と同じレベルだよ?wwwww
19 :
名無しさま :2009/06/13(土) 17:57:24 ID:wJsNALNt
>>719 時代をそろえてねーでこのスレで叩かれたのはお前(もしくは別人格w、お仲間)だと記憶しているが?w
>ただ、時代ずれますが川嶋庄一郎と小和田穀夫は同タイプ
>でしょうね。貧しい家の秀才が出世するために高等師範を選んだ。
>そして財を貯め、息子は帝大(東大)に行かせた。
>両者ともお金があれば最初から帝大に行くという道もあったかもしれない。
妄想はいいからw
「同レベル」でないことがわかったら「同タイプ」ですかwwww
>>719 によって、今度は「同タイプなら同等」の新ルールが提案されましたよぉ???www
20 :
名無しさま :2009/06/13(土) 17:58:53 ID:wJsNALNt
>>723 また、自分のレスに自分で「そうそう、」とか言っているのかな?w
>そうそう、秋篠宮の婚約は法的にも、宮内庁的にはもまったく問題ないんだよね。
雅子様の婚儀もないね
チッソの問題もねw
皇后の妹も昭和電工に嫁いだしね。
>ただいまだにああだこうだと非難されるのは、あくまで国民感情として
>昭和天皇の喪中に婚約しましたと発する必要はないだろう、
>喪が明けるまでの数ヶ月なんで待てないの?非常識だ!!ていうやつ。
何で待てなかったのか教えてくれまいか?w
723じゃわからないかも知れないけどw
>雅子さん批判も同様なんだよね。
>病気療養中だから公務に欠席が多いのも当然。
>ただ一見元気そうに私的外出ができるから、公務もせずにと
>感情的に許せないという声があがってるわけだ。
全然同様じゃない。
病気はなろうとしてなれるものじゃない。
喪中婚約は遅らせようと思えば遅らせられるよ?w
>その他の批判は婆嘘サイトで全て論破されてるただの誹謗中傷だしね。
そこは同意。
>秋篠宮婚約の件が無問題なら、雅子さんのことも無問題でスルーでいいんだよね?
それは諸刃の剣のように見えるけどね。上でも書いたように、全くの、別問題だよ。
>東宮の静養に同行するのは家族なんだから当たり前だよね?
東宮の静養じゃない、雅子妃も含めての静養ご招待w
21 :
名無しさま :2009/06/13(土) 17:59:34 ID:wJsNALNt
>>724 >美智子妃入内によって民間人の産んだ皇子が皇位につくという
>天皇家始って以来なかったことが近い将来おこる。
側室、民間人いなかったっけ?
>>725 には同意だよ。IDが一致しているのでもない限り、誰がどうとかは基本はどうでもいいよね。
…で、下役人についてまだ謝ってくれないんだがここのアンチ東宮オサーン一匹wwwww
22 :
名無しさま :2009/06/13(土) 18:00:20 ID:wJsNALNt
>727 名前:名無しさま[] 投稿日:2009/06/11(木) 16:43:22 ID:kq/ld+ik
>
>>710 >父方の曾祖父と祖父を比較してどうなるの?
そういうのを一番好きなのが、ここのアンチ雅子妃じゃんw
>小和田家の曾祖父の金吉さんてどういう職業であったのかも
>よく分らない人だし、学歴すらも丸っきり不明。
過去帳が焼けたんじゃなかったっけ?
「十代前までわかってますけど、農民でしたぁっ!」てのよりいいんじゃないかな?w
農民差別するつもりはないけどね。
武士社会の米本位制を維持するためにも、一生懸命働いたと思うよ、農民階層。
アボリジニーの酋長だったかな?部族の礼にならって鼻と鼻の挨拶をした雅子様の写真や記事が出ても
まだ「レイシスト雅子」なんて言って、白人との普通の礼儀に拠ったハグをいやらしい目で見たりするアンチ東宮のほうが、
よっぽど差別主義者であり、レイシストだと思うよ?www
>川嶋庄一郎は明治時代に現在の大学院に相当する東京高等師範学校
>の研究科を卒業し、
現在に当てはめられないって、お前前のほうのレスで書いてなかったっけ?w
都合が悪くなると忘れるんだねwwww
そんなにいい学歴だったのなら、なんで最後は小学校視察だけの視学…(ry w
>東京外国語学校の別科も卒業しているんだから、
>大変なエリートだよ。
でも最後は視学w(ry
>紀子妃の祖父の川嶋孝彦氏は、当時高等官一等の内閣統計局長だから
>新潟の高校の校長であった小和田毅夫氏よりも格が上だ!なんてバカな
>ことを言う人はいないよね?
言っているのはお前だけw
負け惜しみキツすぎ。
でも、先祖トータルでみると小和田家がずっと上なんだなぁw
先祖誰でも出してきてもいいのなら、建築詐欺師と較べようか?www
>小和田毅夫さんは教育に生涯を捧げた人で、別に出世をするために教育
>者になったわけではない。
負け惜しみキツすぎ。十分ご立派。出世もなさっている。むしろ、嫌われ者の視学で終った奴と較べろよwwwwww ( ゚д゚)、ペッ!
23 :
名無しさま :2009/06/13(土) 18:01:19 ID:wJsNALNt
>>728 >はっきり言ってどちらの俸給も安い。
>しかし、川嶋家が貧しかったというと、それは違う。
>明治40年の和歌山市の長者番付けでは川嶋庄右衛門、大正13年版
>では川嶋庄一郎の名があるから、そこそこの金持ちであったことが分る。
>川嶋家は、和歌山の地主で小作も何軒か抱えていたそうだから、裕福で
>お金には困らなかっただろう。
だからソース、出典だけでも貼れってwww
>小和田毅夫氏が奨学金で上級学校に進めたのに対し、
当然だろ
武士階級が一気に職をなくした維新もあったし
優秀な武士階級の子が世に出られるのは日本全体にとってもいいこと。
極貧のままだった池上某とかいうのもいたっけか???www
>川嶋庄一郎は
>南葵奨学金の賛助員となって就学困難な学生を支援していたんだから。
お金出していたほうが「偉いんだから。そうなんだから。」だってさ!wwww
24 :
名無しさま :2009/06/13(土) 18:02:19 ID:wJsNALNt
>729 名前:名無しさま[] 投稿日:2009/06/11(木) 17:05:10 ID:kq/ld+ik
>
>>726 >小和田恒氏が国連大使や国際司法裁判所の判事になれたのは、
>皇太子妃の父親であるからという面も見逃せないよ。
>>741 も同じく、ソース、もしくは根拠w
あ、いつものように、出せないよね?w
>>730 にも証拠つきで反論されているよ?www
>事務次官経験者は通常は駐米大使に就任するものだけど、駐米
>大使館職員の反対によって小和田恒氏はなれなかった。
ソース。
>その小和田氏に国連大使の座を政府が用意し、前国際司法裁判所
>判事であった小田滋氏を任期途中で辞めさせようと工作をはかったこ
>とは有名な話。
ソースw
アンチ東宮のいつもの何百ものデマとして「有名な話」だろどうせそれ?w
>小和田氏の国際司法裁判所長の就任には、政府や外務省が「皇太子妃
>の父」小和田恒氏の処遇をめぐって多大な多数派工作が裏で繰り広げら
>れたことは間違いない。
「間違いない。」w
だから、いつものお前の脳内ソースじゃなくて、確実なソースw
>そういう生臭い政治的な場に身を置くことは皇太子妃の父親としては危険
>極まりないし、皇室の外戚の立場を利用していると非難されて仕方のない面もある。
生臭いも何も、小和田氏は元々そういう畑で生きてきたんだが…www
それでも「皇室会議で了承されたからいい」んでしょ?www
外戚としての立場を利用、と言われても仕方がないのはノリコの実家。
>それなら川嶋辰彦氏のように学究一筋で、ボランティア活動に励んでいる方がよっぽど害も無いし、
有償ボランティア、それはいいけど限りなく怪しいボランティアだってね?w
体調不良を理由に、大学と院は休んでいるらしいけど、そのボランティアとやらの引継ぎのためにタイには行っているんだってよ?w
「タイには行けるのに、教授の本分である大学と院は休むのか!」ってアンチ雅子妃は筵旗上げて叩かないの?????wwwww
>世間からの非難も受けない。
受けてますwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
世間ってお前一人じゃないんだよ?w
むしろ小和田氏への避難でまともなのを見たことがないよwww
25 :
名無しさま :2009/06/13(土) 18:05:05 ID:wJsNALNt
横レスだけどw、 >735 名前:名無しさま[sage] 投稿日:2009/06/12(金) 09:14:54 ID:oKfmPRgm >川嶋夫妻がその3DKに今もまだ住んでるかな? あらあら? 「皇室の妃になったことが外戚としての力を乱用」みたいに書いたばっかりですよね?w まだ住んでいなくても、ノリコが入内する時でさえ、3DKにいたそうですね。 そういうのは、職員や教員になりたての家族が入って、早々に出て行くのが普通なんじゃない?w >小和田夫妻も以前はそういう家に住んでた過去だってあるよな?外務省職員専用の官舎に。 もちろん、官舎にいたこともあるでしょう。 でも、後輩に迷惑をかけないように、さっさと引っ越したと思うよ?w 雅子様入内の時はもちろん、自宅から。w >部屋ったってどこの家でも汚いものは汚い。 >川嶋家は私生活を売っただけで小和田家は私生活を売ってないからそう言えるだけなんだよ。 この2行、超面白いwwwwww そろそろガケップチ瀬戸際になって来て、本性が出てきたって感じの文章だねwwwww 永久保存だなぁ!wwwww どこの家でも汚いものは汚いの?w そうじゃない家のほうが普通じゃないの?www 納采の儀の日に、破れ壁紙のままだった写真が永久に残る皇室、ヒサヒトの母ならますます日本の恥!w カワシマ家は私生活を売った、んだね!よく覚えておくよ!w >小和田家の男子はみな東大だとぬかすが、現在どういう職についてるかな? >ただ出るだけで立派なのか、734は。 じゃあ按摩のジーサンは?735w >それから孫が東宮妃だろうとなんだろうと、男子がいない以上 >小和田家の血筋が皇室に留まることはないんだよ、アホンダラ734 泣いてる泣いてるwwwww 結局、これがコイツの本性だったってことか。 愛子様を貶めるために、小和田家を叩く。でも負け惜しみ逃亡。 典範改正議論はまた再開されたねwwwww
26 :
名無しさま :2009/06/13(土) 18:05:47 ID:wJsNALNt
>>736 都合が悪くなると、「愛子様もヒソヒトも成長具合に心配があるので」だの
よく見かけるけど、
お前も一緒かな?w
都合が悪くなると「どっちも同程度。目糞鼻糞」w
愛子様も、雅子様のご実家も、目糞でも鼻糞でもないからw
念のためw
>>738 あ、お金対決で最高なの?ppp、じゃ、江頭豊氏も最高だね!w
27 :
名無しさま :2009/06/13(土) 18:07:25 ID:wJsNALNt
>>742 >雅子妃の出自がどうであれお妃候補には挙がっただろう。
何か、雅子妃の出自に問題があったかのような言い草だよね。
お前のようなキチガイは一生そうやってデマを言い続けるんだろうが。
>彼女の場合チッソの江頭氏が問題視され一度外されたが、
>皇太子がご執心だったから復活して入内が決定した。
皇后の妹は昭和電工に嫁がれているが?w
「お妃候補にすらあがらなかったw」コソコソカワシマ家ノリコは、
礼宮がご執心だったから、それだけで宮妃になれたんだけどね?wwwwww
>民間出身であるという時点で高貴な方々からは平民としか見なされない。
そか、敗北宣言だwww
>美智子様は正真正銘のお嬢様だが、皇族華族揃いの妃からは蔑まれた。
>庶民からみれば藩士と農民なら藩士の身分が高いが、
>妃の出自としては大差ない。
ここでの
>>1 のいやらしい動機は、「雅子妃 vs. 紀子」じゃなかったっけ?www
都合が悪くなるとすぐ「同じようなもの」で片付けようとするねw
さすが、武士(武士道、武家w)の風上どころか、風下にすらにもおけない卑怯者、家の出だなぁwww
28 :
名無しさま :2009/06/13(土) 18:08:06 ID:wJsNALNt
>>743 >そんなこと無いよ。
>出自の分らない、4代前が小使いで、
小使いの経緯についても書いたよ。
その悪い頭でこのスレを全部読み直しな?w
アンチ東宮、アンチ雅子妃は、そうやってどんなに論破されても知らないふりで布教を続けたいんだろうけどねw
418 名前:名無しさま[sage] 投稿日:2009/05/20(水) 00:16:58 ID:Geo3SP3e
1872の学制発布により、日本にもやっとこさ、なんとか小学校とかが出来たわけだよね。
1865生まれの安太郎氏は、その頃丁度学齢期だよね。
小使いさんの仕事も、その頃出来たんだろうね。
…でさ、武士階級の大半は、維新後職業にかなり苦労したのは周知の通り。
嘉蔵氏はそれまで、記録には残っていないだけで、当然その前は、別の職に就いていたんだろうね。
より今に時代の近い、晩年の記録は残っていたんだろうけどさw
>2代前がチッソ社長であった
>江頭家の娘さんが現に皇室に迎えられて、皇太子妃になてるじゃん。
なてるじゃん。www
皇后の妹は昭和電工に嫁いでるんだがw
しかも、企業のトップとして、水俣病に全然学んでいなかったのか、っていうような時期にまた同じ公害病。
29 :
名無しさま :2009/06/13(土) 18:08:46 ID:wJsNALNt
>>744 >いくらアンチ紀子妃の連中が、小和田家は元村上藩士族だ、江頭家は
>海軍中将を輩出した家系だ、と威張ったところで、3代前の先祖の素性
>すら分らない家を「名家」だとは小学生でも思わない。
いくらアンチ雅子妃のこういう連中が威張ったところで、
「火災でなくなった過去帳」を無視しているんじゃ、小学生ですらプゲラだよなwww
どうでもいいけど、「雅子妃の実家が名家だと思われたら困る」奴なのだろうか?
>>744 はw
あまりに必死すぎて笑えるんですけど?wwwww
>アンチの連中が小和田家を「お武家さま」だの「名家」だと叫ぶ度に俺は
>失笑をこらえるので必死だw
アンチ雅子妃の連中がカバシマ家を「お武家さま」だの「名家」だと叫ぶ度に俺は
失笑をこらえるので必死だw
30 :
名無しさま :2009/06/13(土) 18:09:55 ID:wJsNALNt
>>745 ソースがテリー伊藤なのには笑ったがw、
仕事に厳しいのは非常にいいことだと思うんだがどうよ?w
>>756 だなワラッタwwwww
>>754 GJ!w
こんなバカ滅多に見ないよな…マジにwww
753 名前:名無しさま[sage] 投稿日:2009/06/13(土) 12:26:20 ID:tlA8+RYB
>>656 以降、久々に来てみたw
今日はここで遊ぶかな?w
でも、このスレ、某ヲチスレで少し前に以下のようにバカにされてたよ?
>>1 www
すごい的確な表現
自分が書いたかと思ったくらいだよ!
やっぱりみんな同じことを思っているんだね。ここのいつもの逃亡アンチ東宮については。
もう逃亡したかな?
噂板のほうへも行って、さらにコテンパンにやっつけてやると面白いかな?w
どう思う?住人のみなさんwww
----------------------------------------------------------------
798 名前:名無し草[sage] 投稿日:2009/06/08(月) 04:35:16
皇室にまつわるデマ・ウソを徹底検証
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/uwasa/1244354079/ 皇室板での検証は諦めて、噂板に移動した模様。
799 名前:名無し草[sage] 投稿日:2009/06/08(月) 05:40:41
無意味・・・
800 名前:名無し草[sage] 投稿日:2009/06/08(月) 06:10:44
>>798 皇室板の婆はワンパターンで論点ずらし、印象操作を繰り返したあげく
アンチ紀子がのしてきたら「削除依頼だすか」だと
いかにも婆らしいw
皇室の噂スレみたいなもんだな
32 :
名無しさま :2009/06/14(日) 09:14:17 ID:4sEJwTMG
>>8 >>1.「教育長ではない」は言い過ぎ。教育長相当の場合もある。
>>(ただし川嶋氏がそうであるかどうかは不明)
>小学校の視察だけしていて、しかも長らく批判まであって、教育長と同じは言い過ぎ。これ結論。
当時の中学校は府県立なんだから、市の管轄じゃないでしょ?
現在の高校が市の担当じゃないのと同じわけ。
市の管轄の教育全般を受け持っているという点では、「教育長と同じ」です。
(まさか市の管轄と府県の管轄も調べてないほどバカだとは思わなかった)
というわけで郡視学が「郡の教育長相当」と考えることが出来るように、
市視学も「市の教育長相当」と考えることは可能です。
(そういえば、郡視学が何に相当するか明確に答えてないね、この人。)
>3.市の下役人は言い過ぎ。市のかなり上の方です。
教育委員は市のかなり上のほうじゃない。言い過ぎ。かなり下のほうだからwww
これ、「教育委員」が下のほうだというソースよろしく。
市視学ではなくてね。
ちなみに新潟市教育委員会について書かれたサイトには
結構立派な役職(前職)が書かれてますね。
http://www.city.niigata.jp/info/kyoiku_somu/iinkai.htm とても市の下の方とは思えない。
33 :
名無しさま :2009/06/14(日) 09:16:43 ID:4sEJwTMG
で、5xixOEhRはとりあえず、単数の可能性は認めたわけですね。 >うん、新潟市の例だと二人だったみたいだけど、小さい市だと一人だろうねw ということで、市視学が教育行政の単独トップの可能性も高い、という ことを認めていただいたわけなので、それでいいです。 これで堂々と「現在なら教育長あるいは教育委員相当」ということで。
34 :
名無しさま :2009/06/14(日) 11:07:33 ID:4sEJwTMG
ところで、前スレで和歌山市視学の俸給が1400円と書いた方、 ソース提示できますか?高すぎて信じがたい。 師範学校校長「時代」の俸給はありえそうな数字だけどね。 (高女校長兼任時代なら、それくらいになりそうだ) あと、小和田家の過去帳が火災で焼けたというのもソース提示 お願いいたします。ググッたけど見つからなかった。
35 :
名無しさま :2009/06/14(日) 11:28:11 ID:1b4Sc8x3
36 :
名無しさま :2009/06/14(日) 13:30:40 ID:1b4Sc8x3
37 :
名無しさま :2009/06/14(日) 21:38:46 ID:Q2wIhgm/
>>34 村上では三度の火災があった。
慶応四年(1868)戊辰戦争のさなか村上城の本丸が炎上し、
藩政時代の貴重な資料が失われた。
昭和22年(1947)には金吉の本籍地である本町役場が焼失。
昭和24年(1949)旧士族内部での内紛のため城跡保存育英会が内部資料を
焼き捨てた。
これに加えて金吉の父、道蔵匡利が葬られた新潟市内の泉性寺は明治13年に大火に
みまわれ資料を失った。
河原敏明『皇太子妃雅子さま』 小 和 田 家 の 系 譜
この河原氏の本に「なぜ曽祖父の兵五郎夫妻の墓を残して、道蔵の
墓を移転したのか不思議だ」というようなことが書いてあるけど、
道蔵は兵五郎の長男じゃないから当たり前なんだよね。
道蔵は分家だから勝手にその親の墓は移転できないので。
38 :
名無しさま :2009/06/14(日) 21:43:29 ID:Q2wIhgm/
>>36 徳仁のお名前は昭和天皇が命名なさったもの。
それをそんなふうに歪んだ見方をして昭和天皇への無礼、非礼にもほどがある!
「浩宮」の号は四書五経のうちの『中庸』第32章にある「浩々たる天」、
「徳仁」の名は同じく「聡明聖知にして天徳に達する者」を典拠とする。
だそうだ。
将来皇太子、天皇となる立場の親王誕生のために相応しいお名前をと、
昭和天皇がいくつかあった候補からお決めになったのだろう。
39 :
名無しさま :2009/06/15(月) 12:03:21 ID:bja0hwiE
>>35 郡と市の関係についてはその通り。府県の下に郡と市がある。
ところが、明治二十三年の小学校令では郡視学を定めていますが、
市視学という記述はありません。
文部省の学制百年史によれば「市町村長およびその補助機関と
しての学務委員とによって行なわれる」となってます。
この部分分かりにくいのですが、要は「市は、市町村長と学務委員」
ってことでしょうね。
学制百年史
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_076.html つまり、府県視学・郡視学は文部省の規程により置かれたものなんですが、
市視学は違うんです。
本来の教育機関は「学務委員」。市視学は、おそらく市長が教育行政を
運営するために新たに作った役職でしょう。
ただ「視学」という名前をつけたのは、郡視学と同じような仕事をします、
と分かるようにでしょう。職務内容は変わらないと思います。
40 :
名無しさま :2009/06/15(月) 12:05:48 ID:bja0hwiE
>>34 了解。明治十三年に寺が火災と書籍にあるのならソースとしては十分ですね。
書籍だって間違っていることは多々ありますが、ネットの素人よりは遥かに
信頼できます。
で、そちらは納得したのですが新たな疑問。
>道蔵は兵五郎の長男じゃないから当たり前なんだよね。
これ、どっからきた情報ですか?
私個人としては寺の火事というソースがあれば十分だったのですが、
よく分からないおまけ情報出されると別の疑問がわきます。
城と寺が焼けているのなら、どこからこんな古い情報が出てきたんだ?
41 :
名無しさま :2009/06/15(月) 16:41:42 ID:elIwajR4
42 :
名無しさま :2009/06/15(月) 17:16:59 ID:5HZnoNn+
>>40 河原敏明『皇太子妃雅子さま』 小 和 田 家 の 系 譜
ここで小和田家の戸籍系統図をみよう。本家は岩夫氏といい、現在東京都下
の小平市に住んでいる。岩夫氏の五代前の群蔵から分かれた兵五郎が、雅子さ
んの直接先祖になる。つまり兵五郎―道蔵(匡利)―金吉―毅夫―恒―雅子の
流れである。
その祖先が眠るという西真寺を訪ねた。西真寺は村上市にある浄土真宗の寺 で、
元和四年以来、ここで三百七十年の歴史を持つ。住職本荘長弘師はその小和田家の墓について、
毅夫氏が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟 市の泉性寺に移した、
という話をしてくれた。
ゆえにいま西真寺にある小和田家の墓には、兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻
とその子供だけで(夫の道蔵の墓は新潟に)二基の墓石が並んでいる。高さが
七十センチ、近隣のものと比べて極端に小さく墓域にも余裕がない。
「なぜ祖父の妻と子、および曽祖父夫妻の墓を残していったのか。ふつう移す
ときはそっくりもっていくものなんですがねえ」
43 :
名無しさま :2009/06/15(月) 19:52:14 ID:xTntLiND
>>39 教育は国からの委任事務なので、郡には視学を設け、市には設けていないとなると、制度としておかしくありませんか?
勿論過渡期だから区別があった可能性もありますが、区別を設けるには設けるなりの理由や背景があると思うのですが、そういった解説のものも見当らないですし。
根拠条文を見たいのですが、中野文庫でも見つけかねている状態なので、ご存知ならURLを教えてもらえますか?
44 :
名無しさま :2009/06/15(月) 22:13:58 ID:xTntLiND
>>38 その通りですね。
でも、噂は一人歩きしますので、後鳥羽院以降使わなくなったとされる本来の意味を確認する事には、価値があるように思ったのです。
45 :
名無しさま :2009/06/15(月) 22:48:00 ID:5HZnoNn+
なんで生まれたての親王に昭和天皇がわざわざそんな意味をこめて名前を授けなきゃ ならんのさ? 後鳥羽上皇のことは死後の話だろ? 常識で考えられそうなもんだけど。
46 :
名無しさま :2009/06/16(火) 21:41:52 ID:zTGZR1uW
継体天皇以前が不確かで、神を祖としてる!?天皇家が万世一系なんて ちゃんちゃらおかしい♪ 男系による万世一系というなら天照大神の夫を祖としなきゃおかしいじゃん。 なんでそんな矛盾をスルーできるの? 継体天皇が応神天皇の曾孫の孫っていうのも、確かに証明できる史料って 存在しないんだよ。系譜を記す史料が喪失してるから臆測でしかない。 しょせん実在性のない天皇から派生したどこの馬の骨男の系譜かも わからんような天皇家に男系も女系もない。 万世一系なんてしょせん宗教。 軍部の象徴のため、国民の掌握のため、という役目の終わった戦後の象徴天皇には 宗教的存在価値なんてあっちゃいけないんだよ。
47 :
名無しさま :2009/06/17(水) 09:05:17 ID:5stPoNWT
>>46 今上の「渡来人が祖先にいた…」発言もありますしね。
しょせん成り立ちは極めて怪しい天皇家。
古墳の調度品や絵などは渡来系色の強いものばかり。
学術調査も拒み続け、GHQが破壊しようとしたおかげで
これらの貴重な発見もできたという。
いまだに万世一系なんて天皇家を神格化しようとする風潮はどうかと思いますね。
先祖に神ではなく、渡来人だったことはほぼ確定しているのだから、
せめて子孫たちは国際社会で恥じることのない皇位継承を続けて欲しいものです。
弟の『野心』、なんて海外メディアに揶揄されるような日本の皇室は恥ずかしい。
48 :
名無しさま :2009/06/17(水) 09:42:55 ID:njy02TuL
49 :
名無しさま :2009/06/17(水) 09:45:32 ID:njy02TuL
>>42 あ、墓の移転のソースじゃなくて、
「道蔵が兵五郎の長男ではない」「分家」という言葉の方です。
長男ではないというデータがどこにあったのかと、長男ではないからと
いって分家とは限らない(兄が夭折した可能性)のと二つ疑問だったので。
50 :
名無しさま :2009/06/17(水) 22:30:03 ID:oy4Niur/
・ 皇室の伝統を破壊し権威に泥を塗る「東宮一家」に廃太子の声をあげよう! (盆暗・仮病・ロイヤルニート・祭祀しない・公務しない・静養ばかり・遊びばかり) ・ 皇室には敬意を感じる。天皇皇后両陛下や秋篠宮一家・皇族方は敬愛するが 東宮一家は嫌いだ。特に雅子妃は嫌いだと周囲の人達に伝えクチコミしましょう。 ・ 東宮一家の提灯記事が掲載されている週刊誌は購入しないようにしましょう。 (提灯記事はコンビニや書店等で立ち読みで済ませる:批判記事は応援買い) ・ ニュースやワイドショーで東宮一家のことが放送されたら『気分がわるくなる』 『とても不愉快だ』とTV局にクレームを入れ東宮一家の不人気を伝えましょう。 ・ 東宮一家の廃嫡に賛同する人は他サイトの数多くの掲示板・ブログに投稿して 宮内庁やマスコミ(TV局・新聞社・雑誌社)にも積極的にTEL・メールをしましょう。 ・ 東宮一家の提灯記事を掲載する女性誌に真の国民の声(怒り)を届けましょう! 女性誌は東宮広報部的な存在で世論誘導を目的とした確信犯のプロパガンダ誌。 (記事の中で登場する匿名人物は東宮擁護用に女性誌が作りだした架空の人物) *東宮御所は外務省出身の売国奴ばかりで小和田機関の伏魔殿に成っている! このままでは皇室に対する国民の敬愛が深く静かに傷ついていく。(行動を!!)
51 :
名無しさま :2009/06/18(木) 12:47:50 ID:QCIxcdP1
>>50 も気の毒に…
だって東宮夫妻が近い将来天皇・皇后になるのは決まってることだもの。
大嫌いな雅子妃が、皇居の女主人、愛子様は第一皇女ね。
そんでもって秋篠宮との格差はますます開いちゃうしねw
もう即位したら当分涙目でくやしくてくやしくて夜も寝られなくなっちゃうね♪
日本国中新天皇・皇后万歳!!ムードで記念硬貨や切手は発行されるわ、
海外の王族や要人から祝福の嵐だわ、どのチャンネルにしても
「雅子様、皇后への軌跡」なんていう特番だらけ。
秋篠宮家は影も形もなくなっちゃうわね。
これまで同様せっせとどさまわり公務をしっかりやってもらわなきゃ。
>>50 ってかわいそうだね(棒)
52 :
名無しさま :2009/06/19(金) 06:00:08 ID:T3Qfn8Ss
>>51 浩宮様が天皇になったら、秋篠宮さまは皇太子になるんでしょ?
そしたら格差って広がるの?
秋篠宮さまのご家庭には今よりお付きの方が増えたり、東宮御所に移るんだよね
53 :
名無しさま :2009/06/19(金) 06:11:26 ID:EKPLEwtg
皇太子にはならないよ? 雅子様が皇后になられても、すぐには次の皇太子妃も誕生しない。
54 :
名無しさま :2009/06/19(金) 06:51:01 ID:T3Qfn8Ss
でもいずれはなるんでしょ 昭和天皇が崩御されて、浩宮様がご結婚急がれたし、皇太子は結婚しているのが条件みたいなニュースあって、雅子さまと結婚したときほっとしたの覚えてる。 浩宮様が天皇になって、秋篠宮さまは皇太子。 その後の男系譜も続いていくし、日本はすごく安泰だと思う。
55 :
名無しさま :2009/06/19(金) 06:56:48 ID:EKPLEwtg
>>54 だから、皇太子は一生不可能だって
秋篠宮の場合は、なったとしても皇太弟
56 :
名無しさま :2009/06/19(金) 07:02:39 ID:T3Qfn8Ss
あ、そうか ありがとう
57 :
名無しさま :2009/06/19(金) 07:35:45 ID:j+GoDaau
秋篠宮は浩宮在位中はずっと宮家当主のまま。 皇太子は天皇直系の男子の子供か孫という規定があるから。 同じ皇位継承順位第一位でも皇太子とこの場合の秋篠宮のようなケースとでは 天と地ほどの差があるんですよ。 浩宮が再婚して男子をもうけたら秋篠宮の皇位継承順は2位になってしまいますしね。 皇太子の場合はどの家に男子が生まれてもゆるぎない第1位のまま。
58 :
名無しさま :2009/06/19(金) 08:12:14 ID:8I8Sc6bh
昭和天皇の嫁の良子さんは、酸性が強く女の子しか産めない。 男の子を生むには、借り腹しかない。 今日の医学では、常陸宮と今上天皇の兄弟関係は確認できない。 三笠宮との血のつながりも確認できない。 昭和天皇との血のつながりも確認できない。 だから、勝手に昭和天皇などのお墓を荒し、火葬としてしまったと言う事だ。 所詮、戦勝国に皇位継承権のない事を確認されて、崩れやすい捏造歴史、 つまり、東京軍事裁判の結審結果とその歴史史観を守り続ける事を条件に、 東宮や常陸宮となり。 今日、今上天皇や常陸宮となった人。 美智子さんが産んだのだが、種は常陸宮の東宮を皇太子だ。 もう通用しないよ。 皇室離れが進んでいる。 東京軍事裁判の結審結果とその歴史史観の崩壊と共に、バレるよ。
59 :
名無しさま :2009/06/19(金) 08:53:58 ID:T3Qfn8Ss
良子さんが女腹で今上が側室の子どもってこと?
60 :
名無しさま :2009/06/19(金) 09:32:26 ID:8I8Sc6bh
大正天皇は、チャレンジャーとして生まれている。勃起はするが、子種はない。 皇室は永く弟派グループが天皇となり、皇后は兄派グループから出して争いを避けてきた。 弟派の明治天皇は今までの約束事を破り、第二第三借腹で、高松宮や昭和天皇、秩父宮を作っている。 そして、疑問を払拭する為に、遺言通り昭和天皇と第四借腹で三笠宮を。 昭和天皇など弟派は、血の薄い岡山県の伊達さんと結婚する事を工作、失敗。 兄派派のくにの宮などは、怒り狂って良子さんと結婚する事を強要。 良子さんは、酸性が強くおんな腹。 それで、兄派同士で親王を作ろうとして、京都三條家のお世話係と近衛の精子で男の子を作ろうとしたが。 近衛が昭和天皇など弟派に遠慮して、築地に入る左横にある神社の横で物売りをしていた人に精子をもらい。 近衛の精子ですと借腹や良子さんに渡している。 戦争が終わり、このことが米軍の調査で分かり。 近衛は良子さんに、青酸カリ自殺の強要を受けて自殺。今上天皇も、良子さんに殺害されたが米軍によって保護され。 捏造歴史を守る事を条件に、そのまま東宮として。 常陸宮は、兄派の愛知外務大臣となった人と、兄派の京都三條家のお世話係の女性との間に出来た人。 今上天皇は、昭和天皇の血を受け継いでいない。 だから、火葬としたと言う事。
61 :
名無しさま :2009/06/19(金) 11:59:43 ID:j+GoDaau
昭和天皇の遺体は火葬されてません。 神式は本来火葬はしませんので。 1トンとも言われた棺に厳重に遺体が保存され、儀式をあれこれ やったあとに、埋葬されてます。 それに火葬しても遺骨からDNA鑑定は可能ですよ? まったく意味のないことをするわけないでしょ?
62 :
名無しさま :2009/06/19(金) 14:51:23 ID:FJDbnJG1
昭和天皇や秩父宮などが亡くなられた時、過去の例に倣って土葬とされたと 宮内庁が発表し。 メデアも同じ様に報道していた。 昭和天皇の嫁の良子さんが亡くなられた時、昭和天皇と同じ様に火葬とされた と宮内庁が発表し。 メデアも同じ様に報道していた。 つまり、DNA鑑定の進歩に恐れをなして。 皇位継承権のない事を確認されて、崩れやすい東京軍事裁判の結審結果と その歴史史観となる捏造歴史を守り続ける事を条件に、 東宮や常陸宮となったとバレないように。 東京軍事裁判の結審結果とその歴史史観を守り続ける立場の、米国の一部 キッシンジャー達や、中共の江沢民や李鵬などと共に。 昭和天皇などのお墓を荒し、勝手に1200度以上でカリカリに 火葬としてしまっている。 今上天皇と常陸宮は、公務で外出が多い。 種も畑も違うとバレている。 昭和天皇と良子さんとの間に生まれたかも、違うとバレている。 だから、DNA鑑定できないように火葬としているよ。 イギリスなどの要人もいたから、相当の口止め料となるだろう。 イギリスの高速鉄道に、日本は無担保無利子で上限3兆円の融資。 場合によっては、元金の返済はないとの事。 米国の高速鉄道も、口止め料としてその様になるかも。 もう、偽皇室をたてまつることは無理。 このまま皇室に居座ればあらゆる理由で、日本経済の崩壊だ。
63 :
名無しさま :2009/06/19(金) 23:44:02 ID:YsgfzBaU
>>41 東京外国語学校独逸語別科は
ウィキが正しいなら3か月の速習?
64 :
名無しさま :2009/06/20(土) 03:50:23 ID:eNyMion7
>>62 遺髪があるから鑑定可能だけど…
君の言う通りなら、なんて無駄で無意味な努力www
65 :
名無しさま :2009/06/21(日) 13:32:48 ID:vhSbMkMV
日本で人工授精の技術が用いられるようになったのは 戦後のことなんだがw
66 :
名無しさま :2009/06/21(日) 15:28:42 ID:x1aqJn1s
オレも口止め料を、美智子さんや今上天皇や常陸宮から10億円提示されたよ。 東京軍事裁判の結審結果とその歴史史観を守り続ける事を条件に。 皇位継承権のない事を確認されて、東宮や常陸宮となり、今日、今上天皇や 常陸宮一家に、協力する事はできないと言う事で辞退したよ。 その後いつものように、自白剤と電気ショックで記憶障害とそれに伴う 能力障害となっていたが、本当に迷惑。 10億円の口止め料は、安くみられている。 ショックだなぁ〜^ー^〜。
67 :
名無しさま :2009/06/21(日) 16:03:41 ID:AyBrdeHs
昭和天皇などのお墓を荒らして、勝手に火葬として。 DNA鑑定で、昭和天皇の遺伝子もない。良子さんの遺伝子もない。 崩れやすい東京軍事裁判の結審結果とその歴史史観を、守り続ける為だけの オッサンとバレないようにやってしまったと言うことでしょう。 昭和天皇は、防腐処理されて土葬とされていたよ。 ろくな事をしないねぇ〜。
68 :
名無しさま :2009/06/21(日) 21:11:53 ID:3VQz46+S
皇位継承権のない現皇室メンバーなどは、早く蟄居しなければ。 日本経済の崩壊を持って不快感をあらわされるよ。 分かっているのに居座っている。 最悪。
69 :
名無しさま :2009/06/22(月) 18:43:58 ID:tgJz4Rpi
>>3 >これは町人よりも生活水準はずっと低い。
ソースなしw
>山屋家に至っては江戸時代を通じてたった二人扶持の「極貧」生活だと
>地元岩手の郷土史研究家や新聞記者が名言している。
ではソースを貼れ。
焦りすぎて日本語間違いすぎ、明言、だろw
「江戸時代を通じて」かどうかも全然わからない。
どうでもいいが、池上某も、最後は極貧生活だったんでしょ?
>一般町民、農民よりも貧しい生活を何百年も送ってきたのが山屋家なのだが。
自分の推論から腐ったカワシマ家擁護の結論を出すのがいつも得意なようだねwww
スマソ、雅子妃アンチではないが、下級武士の暮らしぶりの悲惨さは有名で、
一般庶民よりも生活水準が低かったことは有名だよ。
70 :
名無しさま :2009/06/22(月) 18:49:54 ID:tgJz4Rpi
雅子妃の先祖は、村上藩の下級武士ではなっかたと言われている。 その村上藩の下級武士の生活はどのようなものだったか? 元村上市史編纂専門員の大場喜代司氏の著書より。 大場喜代司『村上藩』 侍と町人の結婚 徒士、足軽、中間、若党は家中の外である。徒士と足軽は藩と雇用関係を結ぶが、 中間、若党は主人と本人の契約で、藩とは関係ない。いずれにせよ彼らは侍の籍に はあるが、藩主が転封するときは従う義務はない。 徒士や足軽の居住区は、町人地に近い曲輪の外れや、町人地の中などである。 中間や若党の住居は主人の屋敷の一隅であり、長屋門内であった。彼らは町人と接 触の多い環境にあり、最も町人に近い存在であった。 戦乱の世では、中間も若党も軍事集団の一員である。主人の身の回りの雑務をこな し、槍や鉄砲で敵と命のやりとりをしなければならない。ところが江戸時代は平和であ る。彼らの職務はもっぱら主家の雑役や登城の供である。 嘉永六年(一八五三)ころの徒士や足軽の職務は、大工頭、小細工方、作事監督、料 理人、仕立物師などで職人そのものである。扶持は平均二人扶持三、四両であるから、 一家を養うには足りない。幕末の村上では、一般家庭の生活費は、一年に一〇両であ った。しかし彼らは職人同様だから内職は容易である。
71 :
名無しさま :2009/06/22(月) 18:54:12 ID:tgJz4Rpi
大場氏の著書の説明によると、幕末の村上城下の一般家庭の生活費は、 一年に一〇両。 それに対して、下級武士の俸禄はわずか二人扶持三、四両。 石高に直せば5、6石か6、6石。 一般町民の生活費の6割程度の俸禄しか支給されなかったから、非常に 貧しかったといえる。
72 :
名無しさま :2009/06/22(月) 18:58:35 ID:tgJz4Rpi
次は盛岡タイムズの校閲部長、藤井茂氏の著書から抜粋。 藤井茂『山屋他人 ある海軍大将の生涯』 系譜は代々微禄士族 山屋他人の思い出を語る人の中には、非常に貧しい家庭に育ったことを共通してあ げる傾向がある。確かにそうだったらしく、南部藩士の履歴や封禄をまとめた「御番割 遠近帳」では、他人の祖父権八の禄高は、たった二人扶持である。 藩士としては最下級である。 役職は年間を通じて「お盆の数日間、寺の灯ろうの火の番をした」だけというから、ほ とんど職らしい職を与えられなかったといえるだろう。 「御扶持方帳」によると、天保十一年(一八四〇年)の盛岡藩の封禄で一人扶持という のは、だいたい馬に三駄分つまり米六俵である。つまり山屋権八は年間米十二俵分と なり、月一俵の割合になる。一俵は三斗七升だから、一日一升余りとなり、極貧の部 類に入るだろう。 ちなみに、郷土史家で盛岡タイムス総務部長の工藤利悦氏の教示で「参考諸家系 図」により作成した山屋家の家系図を揚げておく。案の定、一番最初に位置している十 代前の山屋三右衛門の禄高は、四駄二人扶持だった。江戸時代初期の南部重信公 のとき召し出されたというが、戦国時代、盛岡の南に独立した勢力をもっていた稗貫氏 の支族亀ヶ森氏が南部藩の傘下に入り山屋と改名したようだ。 南部藩にとっては後から入った外様だったので、最初から家禄を削られやすい弱い 立場にあったといえる。当時、足軽でも六駄二人扶持だったから、山屋家の先祖は、 それよりも禄をもらえない下級も下級の武士として出発を運命づけられたのである。 その後も山屋家の石高が上昇する気運は一向に見えない。むしろ少しずつながら 下降していった。祖父権八のときには四駄も取れて、たった二人扶持となってしまっ た。山屋家は江戸時代を通じ最下級の武士として終始一貫したといえるだろう。 極貧のほかに、山屋家の家系をたどって判明したことがある。それは、際立って女 性の家系だったため、非常に多くの養子が入っていることである。家系図には記さな かったが、これに書ききれないほど多い。そのためか、比較的おとなしい男性が入っ たようで、それが連綿として優しく女性的な家系を築き上げたようだ。
73 :
名無しさま :2009/06/22(月) 19:09:47 ID:tgJz4Rpi
藤井氏の著書の説明でもあるように、山屋他人について語られる場合、「非常に 貧しい家庭に育ったこと」が共通して上げられる。 実際、山屋家は貧しかった。 山屋他人の10代前の山屋三右衛門の禄高は、四駄二人扶持。 足軽でも六駄二人扶持であったから、山屋家は南部藩の家臣として召し抱えられ た最初の時から足軽以下の低禄の下級武士であることを運命づけられて、幕末 には何とたったの二人扶持にまでになってしまった。 元村上市史編纂専門員の大場喜代司や盛岡タイムズ紙の校閲部長の藤井茂 氏が、はっきりと著書の中で小和田、山屋家は貧しい生活をしていたと書いている んだよね。 山屋家については「極貧」だったとハッキリと書いている。
74 :
名無しさま :2009/06/22(月) 19:38:51 ID:zTOpBz+/
75 :
名無しさま :2009/06/22(月) 20:34:58 ID:Pu3Byprh
二人扶持だから貧しいのではなくて、100石程度以下の武士は誰もが かつかつの生活だったといわれている。二人扶持ということは、自分以外に 与えられた扶持で家来を一人雇うことを義務づけられていたってこと。 でも相場的に家族と家来を養うに足りるものが支給されていたのだから 生活はできたのだろう。 二人扶持なら小さいながらも屋敷を拝領されているだろうから、 そこに賃貸長屋を建てて賃貸料を取ったりしてた武士もいたそうだ。 極貧というのが、どこを視点にするかによるよ。 二人扶持だって安定した扶持米をもらえるわけだし、家来を従うことができる身分 なんだから、百姓の極貧とはレベルが違う。
76 :
名無しさま :2009/06/24(水) 18:44:12 ID:m1hSTJEO
そもそも江戸時代の経済力を「何のために」論じているのか。
経済力でいうなら、五摂家以外の堂上家は会津の池上家より劣るんでない?
(あ、副業は除くだよ。山屋家の副業収入だって規模は分からないんだから)
http://okwave.jp/qa4665620.html しかし、家柄がいいのは当然、堂上家の方なわけで。
出自と経済力は別物なんだよね。
もっとも公家は出自のよさを副業に生かしてるから「完全に」別物ではないけど。
算数(経済力)のテストの文章問題の点数が悪かったからって、
国語(出自)のテストの点数を無理やり減点しようとしてるような?
経済力があろうとなかろうと、最低レベルだろうと藩士は藩士。
77 :
名無しさま :2009/06/24(水) 22:46:35 ID:cbb3/Mo2
>>74 山屋家の家系はやたらと婿養子が多い。
それは何故かといえば、江戸時代の東北は凶作が続き、飢饉が
連続した。
それに加えて山屋家は極貧だから、男子が生まれなかったり、生まれ
てもすぐに亡くなったりして、遠縁から婿養子を迎えるしか家を存続さ
せる手立てが無かったから。
山屋家の代々の悲惨で過酷な生活ぶりは、山屋他人の子孫の方たち
が集まった枝栄会編集『謙譲の人 海将山屋他人の足跡』に詳しく書かれ
ているから。
78 :
名無しさま :2009/06/24(水) 22:53:56 ID:cbb3/Mo2
さんぴん‐ざむらい〔‐ざむらひ〕【三▽一侍】 「さんぴんざむらい」を大辞林でも検索する 《1年間の扶持が3両1分であったところから》江戸時代、身分の低い武士 を卑しんでいう語。三一奴(さんぴんやっこ)。 [ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ] 一般町人が、貧しく身分の低い侍を嘲っていう言葉に「三一侍」 というのがある。 三両一人扶持は、石高でいえば4、8石。 二人扶持三両といえば、5、6石だから、サンピンよりは少しは上。 二人扶持といえば3、6石だからサンピンの3分の2しかない。 サンピン侍は、別にサンピン奴という言葉でも呼ばれたけど、山屋家の 俸禄は、そのサンピン奴の三分の二しかなかったことになる。
79 :
名無しさま :2009/06/24(水) 23:05:27 ID:cbb3/Mo2
>>75 山屋他人の父である山屋勝寿一家は、幕末頃盛岡城下の
組屋敷(足軽屋敷)に暮らしていたとされている。
盛岡藩の足軽の住居について。
佐藤竜一『盛岡藩』
武士の住まい
住居も身分により異なっていた。利直は町割りに当たり、武家屋敷をあまり広く取らな
いようにした。表口は一三間(二三・六メートル)、奥行きは二五間(四五・五メートル)と
決められた。
その中で、内丸にあった高知衆の屋敷は大きな構えで、広い庭があった。表玄関、書
院、表居間のほか、脇玄関もついていた。
少し地位が低くなると、家族が住む裏座敷と表座敷が兼用で、家族が多い場合には台
所と寝る部屋が共用ということもあった。
身分により、住居の広さは相違があったが、たとえば最も身分の低い武士である足軽
は、藁葺き屋根の曲がり屋に住んでいた。その広さは一○坪から一五坪くらいしかなか
った。二部屋に台所くらいしかついていず、かわや(便所)と井戸は共同使用であった。
現代風にいえば、33平方bから50平方b程度の広さの2DK。トイレと風呂は共同。
とても住宅を建てて他人に貸せるような広さではないね。
80 :
名無しさま :2009/06/24(水) 23:09:04 ID:cbb3/Mo2
>>75 二人扶持の足軽が家来を雇う余裕なんてないよ。
そもそも、足軽は一人前の武士とは言えず、武士の奉公人という身分
上の位置づけなんだから。
従者を雇うことが出来るのは中級以上の武士。
81 :
名無しさま :2009/06/24(水) 23:22:39 ID:SB63Lb8P
久しぶりにきたけど、いつまで先祖のことやってるの? ずーーーーーーーーーーーーっとおんなじことの繰り返し。
82 :
名無しさま :2009/06/25(木) 00:22:46 ID:WF+Likwz
雅子さまが愛子さまを妊娠中に喫煙していた話は嘘か本当かわかりますか どこで見たか思い出せませんが、東宮のえらい人がバラシタ的な話を前にどこかで読みました。
83 :
名無しさま :2009/06/25(木) 08:00:48 ID:/bO4W4Sv
>>80 余裕があるないに関わらず、二人扶持は家来を一人
雇うのが義務なの。扶持が多ければ多いで、それに見合った
人数の家来を雇わなければならない決まりだった。(違反すると罰則あり)
だから武士の生活は大名家であってもきつきつだったのさ。
そこが幕府の狙いでもあった。
経済的な余裕を与えなくして、余力をなくすことで、謀反などの
危険性を排除した。
84 :
名無しさま :2009/06/25(木) 12:56:14 ID:3jcjFUdf
>>77 1.凶作が続くと、農民は離散します。家を保てたということは、武士は
やっぱりマシな生活してたのでは?
2.極貧だから男子が生まれない?なんだそりゃ。
(男子が産まれるまで何人も子どもを作ることが出来ないだけだろうね)
3.婿養子が来るってことは、ちゃんと通婚しあう集団があるってこと。
別レスの長屋も同様。下級武士集団がいたからこそ、一軒ではなく、長屋になる。
山屋家が悲惨なわけではなく、生産性が低い土地の東北では、庶民一般の生活が
過酷だってことでしょう。
そしてその中で、下級武士という階級集団があった、と。
85 :
名無しさま :2009/06/25(木) 12:58:31 ID:3jcjFUdf
で、山屋家、二人扶持だってのにえらく資料があるもんだね、と思ったら、 wikiみる限り本家はそれなりの家でした。 山屋万左衛門家明という人の次男勘右衛門が山屋他人の直系の祖ですが、 跡取りの長男万右衛門辰明の家からは奉行だのどこかの家の家老だの 代官だのが出てます。資料があるのは、おそらくこちらの家に保存されて いたんだろうね。 なるほど、山屋他人の家の貧しさは語れても、出自は語れないわけですね。 武家の次男が分家すると、一気に長男の家と格が違ってしまうなんて、 池上四郎が立派な藩士の出っ、といいたい人たちは困ってしまうでしょう。 藩士の出であっても、次男三男じゃ、同格の家に婿に入れず分家なら、 家格が何段も落ちる家になってしまうという証明ですもんね、こりゃ。
86 :
名無しさま :2009/06/28(日) 10:52:42 ID:G7s4hrEh
>>81 それは婆嘘サイトのおかげで、あらゆす誹謗中傷がソースつきで
「嘘、捏造、勘違い」によるものと証明されたから、
残るのは貧乏か否かという曖昧なネタの先祖たたきぐらいしかないわけよ。
しかし川嶋マンセーが先祖マンセーを繰り返すことによって、
現在の川嶋家の没落ぶりをより引き立たせることになることに
いい加減気がつくべきだな。
小和田家の先祖たたきもすればするほど、現在の小和田家の社会的・経済的成功を
浮き立たせることにしかならない。
87 :
名無しさま :2009/06/30(火) 19:45:45 ID:0cNk4Aog
東宮一家、及び小和田家親族に関するありとあらゆる誹謗中傷が嘘、捏造、妄想、 だとわかった。 同時に秋篠宮一家、川嶋家親族に関するありとあらゆる賞賛も 嘘、捏造、妄想、だということもね。
88 :
名無しさま :2009/07/01(水) 10:10:44 ID:p2A1SxQq
誹謗中傷はたいてい嘘・捏造・妄想だ。とりたてていうほどのものではない。 で、賞賛の方だけど、賞賛に値する物もある。 私は川嶋教授に関しては、いかにも学者らしい「妙なエピソード」しか 印象になかったもんで、そういう家かと思ってた。 しかし先代・先々代は真面目というか、普通の努力家の生き方をしてる。 変な印象を受けたのは、川嶋辰彦氏個人のキャラクターゆえだね。 雅子妃のマグナ・クム・ラウデもそうだが「マスコミには賞賛されてる けど、実はこうなのよ」とアンチ(東宮・秋篠宮双方)がくさす情報を 流せば流すほど、逆に「あら、立派なもんじゃん」と知るというか。 縁談時のいいエピソードなんて、話半分に聞いてるもんで。 (新郎新婦に対して悪い話を出す披露宴があるか、と。賞を受けたと 知っても、それが「どの程度の賞か」なんて考えたりしないって)、 マスコミ情報のいいイメージを基準に、それを必死で引き下げようとする アンチの行動は、結局、「マスコミ情報に近い・あるいはそれより上の 妃殿下像」を流布させてますな。
89 :
名無しさま :2009/07/01(水) 22:28:08 ID:2CzqazDu
90 :
名無しさま :2009/07/04(土) 17:53:18 ID:KrFXNalc
>>85 wikiの記事は、最初本家の歴史のみを記して他人の生家が分家であった
ことは秘匿してたぞw
確かに山屋本家の方はそれなりに藩の要職に就いた人物が輩出して
いるけど、山屋他人の生家は代々二人扶持の微禄で、藩の要職に就いた
人物は全くいない、と川口素生『小和田家の歴史』にも説明されているのだ
けど。
出自云々を言えば、池上家は会津藩の家臣の中でも最も歴史が古く格式
の高い高遠衆で上士。
山屋家は、南部藩の家臣では外様で、藩士の中では最下層の二人扶持。
藩の要職に就いた者は全くいない。
足軽は士分ではないし、出自云々を言われて困るのは山屋家の方じゃない
の?
91 :
名無しさま :2009/07/04(土) 18:06:06 ID:KrFXNalc
>>86 >
>>81 それは婆嘘サイトのおかげで、あらゆす誹謗中傷がソースつきで
>「嘘、捏造、勘違い」によるものと証明されたから、
>残るのは貧乏か否かという曖昧なネタの先祖たたきぐらいしかないわけよ
婆ウソサイトって、いまだに礼宮が喪中婚約をしたという嘘を言い張っている
捏造サイトのことだねw
そのサイトに関する「嘘、捏造、勘違い」については過去スレでも散々指摘
されていたけどね。
小和田家が貧乏であったというのは、『小和田家の歴史』その他のどの本を
見てもそう書かれている。
小和田家が豊かではなかったというのは嘘ではなくて事実。
婆ウソサイトでは、小和田金吉は3男で母親の面倒をみなけれればならな
かったので貧しかった、という説明をしているけど、どの本を見てもそんな
ことは書かれていない。
金吉の両親の名前は誰で、金吉の2人の兄は誰なのか?という問いには
まだ回答が無いから、このスレで検証してみようよ。
92 :
名無しさま :2009/07/04(土) 18:16:05 ID:q+Pw1pdD
>>90-91 そしてまた金吉ネタに誘導するんだねw
それ以外とりえはないのか?
川嶋家ってw
93 :
名無しさま :2009/07/04(土) 18:19:46 ID:KrFXNalc
>>92 ハァ?川嶋家のことなど話題にしてませんけど?
婆ウソサイトが金吉は3男だと言ってるけど、どの本を調べても
そんなことは書かれていないから、金吉の両親は誰で兄弟は誰な
のかを訊いているだけなんだけど。
94 :
名無しさま :2009/07/04(土) 23:08:20 ID:q+Pw1pdD
まぁまぁ、いくら浩宮が天皇の国事代行を任されてるからって 荒れても仕方ないだろ? 浩宮は皇太子なんだからさ♪ 秋篠宮とは立場が違うんだよ。 >>そのサイトに関する「嘘、捏造、勘違い」については過去スレでも散々指摘 されていたけどね。 まずは金吉ネタ以外で↑を片っ端から一つ残さず 信憑性のあるソースつきで反論してくれない? それもないのに婆嘘サイトが「嘘、捏造、勘違い」と断言されてもね。 金吉ネタはそれこそ何度もこのスレでループして論議されてるから 今さら繰り返す価値もない。 このスレ読めば読むほど川嶋家がどの程度の家系かはよ〜くわかったよw だから紀子さんは嫁入りまで個室もないような3DKのアパート (そう書いてた雑誌あったよな!)に住んで、 「尻で壁押す納采の儀」なんて皮肉られる程度の生活ぶりだったんだね。
95 :
名無しさま :2009/07/05(日) 09:51:01 ID:2q4zhjXO
>>94 秋篠宮夫妻の婚約が昭和天皇の喪中ではなかったことは、過去
何度もソース付きで間違いであると検証されたよね。
しかし、それで間違いを認めずに、喪中に婚約したとテンプレ
に書いてあるこんなサイトなんて全く信頼性はないねw
【お知らせ】
今後、新聞やテレビなどの報道で
宮内庁から「礼宮の婚約は喪中ではなかった」旨の発表があるまで
『礼宮の喪中婚約』や『服喪令関連』のページは訂正しません。
http://babauso.white.prohosting.com/
96 :
名無しさま :2009/07/05(日) 10:02:08 ID:2q4zhjXO
「婆嘘検証」の嘘、捏造、勘違いについては、過去スレでいくつもソース 付きで論破されているから、ぐぐってみたら分るよ。 >このスレ読めば読むほど川嶋家がどの程度の家系かはよ〜くわかったよw >だから紀子さんは嫁入りまで個室もないような3DKのアパート はいはい、またまたアンチお得意の捏造。 紀子さんは個室を与えられていたよ。その部屋に祖母の紀子(いとこ)さんが 来て泊まっていったこともある。 まあ、雅子さんだって2DKや3LDKの公務員住宅住まいだったから、その時は 双子の姉妹と一緒の勉強部屋だったのかもしれない。 >金吉ネタはそれこそ何度もこのスレでループして論議されてるから >今さら繰り返す価値もない。 これを見て小和田家の家系がどの程度のものかよ〜く分ったよw 3代前の先祖の素性すら判然としない。 金吉ネタに触れられるのがよっぽど怖いんだねw 3代前の素性すら分からない家のどこが「名家」なんだよ、まったく笑わせるよなw
97 :
名無しさま :2009/07/05(日) 10:11:08 ID:TyIG6U1g
金吉の父親や兄弟って判明してるじゃん。 ただアンチがかたくなに認めないだけで。 毅夫さんが祖父と父親の供養をしに毎年のように菩提寺に来ていたと 住職が証言してるのだから、何をいちゃもんつけてんの? 雅子さん姉妹も幼い頃から同伴して来てたって言ってたじゃん。 小和田家の先祖を卑しめることでしか優越にたてないんだね、川嶋家って…
98 :
名無しさま :2009/07/05(日) 10:24:44 ID:2q4zhjXO
>>97 えっ!金吉の父親と兄弟は誰ですか?
是非教えてください!
99 :
名無しさま :2009/07/05(日) 10:32:04 ID:2q4zhjXO
秋篠宮紀子嫌い全員集合
http://dubai.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1229088927/l50 600 名前:名無しさま 投稿日:2009/07/04(土) 15:38:08 ID:iXKa/bx5
>>598 その同和天皇…あまりにも違和感なくて恐ろしい
601 名前:名無しさま 投稿日:2009/07/04(土) 21:20:06 ID:tLRRLmrv
同和天皇を辛抱するとしても
あの悠仁が天皇になるなんて、考えられないのが、国民の総意。
間抜けな顔面を国民に見せるのだけは、止めろ。
秋篠宮家は、海外に対しても、日本国の恥さらし一家である。
過去スレでソース付きで論破されているにもかかわらず、こういう
デマを流して秋篠宮家を貶めることでしか優位に立つことのできない
アンチって哀れw
いくら小和田家が3代以上は遡れない家系だからといって…
100 :
名無しさま :2009/07/05(日) 11:43:01 ID:TyIG6U1g
本当に川嶋家って、アンチサイトも見まくってまで 小和田家を貶めたいんだね…
101 :
名無しさま :2009/07/05(日) 12:38:22 ID:v23d1Kp0
出自に拘る事を突き詰めれば、皇室に嫁ぐつもりなら、それなりの家を選んで生まれろ、と言ってるも同然なんだくれども、そのナンセンスさにいつになったら気付くんだろう?
102 :
名無しさま :2009/07/05(日) 18:34:41 ID:WFPLH2Ss
川嶋家→庄屋 小和田家→足軽 どっちもそう変わらんよ 大学教授と高級官僚だから現在の社会的地位は同じくらい
103 :
名無しさま :2009/07/06(月) 07:41:13 ID:a9I/9hTd
>>102 現在は無職と国際司法裁判所長で比較にならないほど小和田氏のほうが
社会的地位は上なんすけど。
104 :
名無しさま :2009/07/06(月) 14:19:20 ID:CcBtvgpO
>>90 >wikiの記事は、最初本家の歴史のみを記して他人の生家が分家であった
>ことは秘匿してたぞw
いつの話?85はwiki見て書いたんだけど?
あなた、昔の記憶のまま確かめなかったのか、嘘か読解力がないのか、
どれですか?
ま、たいした違いはないわな。
山屋他人の先祖は百石の武士、山屋三右衛門喜明。
ただし、山屋他人の祖は次男なので、三右衛門喜明の家は継げなかった。
池上家も先祖は二百五十石の武士、池上武輔。
ただし、池上四郎は次男(正確には四男)なので、江戸時代が続いていた
としても、武輔の家は継げなかった。
山屋家も池上家も状況一緒としか思えませんね。
四郎氏自身が、江戸の時代が終わってよかったと思ってたんじゃないですかね。
次男三男は嫡男と天と地ですから。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1712634.html そもそも、武家の出を誇りにしているのなら、娘を庄屋の家に嫁がせたり
しないでしょう。家ではなく才能と思えばこそ、「帝大出の官僚」の嫁に
したのでは?
江戸時代から生きていた人間が身分より才能と割り切っていたのに、
なにが悲しくてそんな身分が関係ない時代の人間が「武家、武家」と・・・。
105 :
名無しさま :2009/07/06(月) 14:25:53 ID:CcBtvgpO
>>103 さすがに無職はいいすぎ。人間引退した後は、それ以前の職で語るのが
礼儀ですよ。
とはいえ、世界に五万といる大学教授(数えたことないけど、世界なら
いるよね)と、世界にただ一つの、極めて重要な機関の長とでは
違いすぎるのは事実です。
片方を「無職」と貶める必要はない。もう片方が極めて重要な地位なのだから。
106 :
名無しさま :2009/07/06(月) 14:45:50 ID:CcBtvgpO
>>98 金吉の親までは確定でしょう。
さすがに直系親族でもない人間に墓の移設は許可しないと思うんだよね。
42さんのあげた、河原氏の書籍の内容を示せば、「常識ある人間」なら
道蔵までは納得すると思う。兵五郎はちょっとばかり微妙だけど。
107 :
名無しさま :2009/07/06(月) 15:02:19 ID:CcBtvgpO
>>101 小和田家や川嶋家を調べて思うことは「娘は少しくらいなら出自が劣る家に
とつがせてもかまわない。ただし相手に才能がないと」ということですな。
一応藩士確定の古賀家は、才気ある同郷の、ちと家は劣る江頭安太郎氏に
娘を嫁がせている。池上四郎氏も、家長はインテリだが一庄屋の家の
出に過ぎない孝彦氏に娘を嫁がせている。
逆に言うと、嫁取りは出来るならちょっと上の方を望む、ということ
なんでしょう。
しかし、皇室に「ちょっと上」は存在しないからなぁ。
下から選ぶのであれば、そりゃ、昔から金があるけど、異父母兄弟が
いてややこしい家なんて選びたくないでしょう。
宮内庁管理しにくいもの。
妾などのいない家、というのを選んだら、成り上がり系になってしまった
(無駄遣いはせず真面目に仕事に励んだから)というのは分からなくもない。
108 :
名無しさま :2009/07/06(月) 17:32:52 ID:5KE7Fi7e
>>107 ここで出自を取り上げてるのは、そういった意味じゃない人が殆ど。
こういった出自だからと、貶める意味で取り上げてる人が多いでしょ。
どの家に生まれるかを、選択して生まれてるんなら幾ら言われても仕方無いんだろうけど、実際は違う、あるいは赤ん坊が生まれる家を選んでいるかは判明してないんだから、貶める為に出自を取り上げて検証するのは違うような気がする。
雅子さまも紀子さまも、それまで育った環境とは異質なところに嫁がれて、私らが分からないような苦労をされたと思われるのに、なんで生まれた家の先祖の事までいつまでも言われて、貶められなければならないのか。
と思ったので、ナンセンスだとレスしたのです。
109 :
名無しさま :2009/07/06(月) 19:25:12 ID:CcBtvgpO
>>108 まぁ結局「貶めたい」という気持ちがあるから出自でもなんでも難癖つけてる
わけ。つまるところ自分の家とかわらない、と思いたいのね。
そうじゃなきゃ、元大学教授に対して無職は言わないでしょうし。
自分の先祖が足軽なら「足軽は武士じゃない」と安易に言わないでしょうし。
自分の先祖に庄屋がいたら、庄屋に対して「金のない家」とも言わないでしょうし。
ま、ド庶民が「自分と変わらないじゃん」と言いたいだけですな。
(あ、私がド庶民なことは言うまでもありません)
110 :
名無しさま :2009/07/07(火) 10:39:38 ID:Idre5fiz
出自や実家の経済状態については紀子さんも結婚する一年も前から 心を痛めていた問題なんだよ。 「自分の努力で克服できるものと、そうでないものがあります。宝くじに当たらない とダメだったり、タイムマシンで過去に遡らなければ改められない問題もあります」 (昭和63年9月談)アサヒグラフ平成元年9月15日号より 喪服の「私たち婚約しますから会見」の一年前からアサヒの取材に応じていた 紀子さんは、皇室に嫁ぐには莫大な金がかかる(宝くじ〜発言)、 ド庶民で皇室にふさわしくない出自(タイムマシンで過去に〜発言)、 を嘆いていて、結婚にいたらないとどうしよう!!と思っていたんですね。 その伏線もあってマスコミの取材にあえて応じて、秋篠宮との関係を 公に残しておく、という作戦にでたわけです。 川嶋家マンセーが吠えまくるように、川嶋家の出自がそんなにご立派なら タイムマシンで過去に溯ったり、宝クジをあてにせずとも 先祖からの広大な田畑を継承できていたのでは? wikiにある川嶋山とやらはどうして手放してしまったんでしょうね? 農地改革の対象になったのは田畑だけで、山は対象外でした。 小作に土地を開放したところで、地主にも生活を維持するだけの 土地は残されていたはずです。川嶋家はよほど金に困っていたんでしょうね。
111 :
名無しさま :2009/07/07(火) 11:59:51 ID:NSXPpmll
112 :
名無しさま :2009/07/08(水) 07:43:50 ID:Jdj0FqWM
現在の社会的地位 国際司法裁判所長>>>>休職中の二流私立大学教授だねw ところでなんで紀子さんはマスコミの取材を結婚の4年も前から 応じてたの?ずっと紀子さんの件はフライデーだかのスクープだと思ってた。 良識あるお嬢様なら仮に付き合いがあったり、将来を誓い合った仲であっても 普通はマスコミの取材なんてお断りするものだと思うけどな。 「お付き合いはありません」とか「ただのサークルの先輩後輩ですから」とでも言って 取材依頼をかわしておけばすむ問題だろうに。
113 :
名無しさま :2009/07/08(水) 13:02:10 ID:fxeiNq4+
>>110 金がないったって一応、子供二人を学習院に通わせる家ですからねぇ。
あれ?学費は教職員割引あるのかな?
それにしても、公立に行かせるしかない、ド庶民レベルとは違うでしょう。
どちらかというと、家は職員住宅でも教育には金をかける、それが川嶋家
の家風なのではないかしらん。
庄一郎氏自体が、教員しながら貯金して、自力で高等師範に進学。
辰彦氏は父親孝彦氏が高校生のときに亡くなってる、つまり、収入がなくなって
いるというのに、東大進学−東大大学院進学−アメリカの大学の大学院進学。
1960年代後半、当時の円とドルの為替レート考えても、日本からの仕送りで学費と
生活費をまかなってたら、そりゃ、山だって売る羽目になると思う。
総領息子なんだから、大学出れば就職して、母親に楽をさせてやろうとか
考えても不思議はない。なのに進学し続けるような息子に、生活圏から
離れた山なんか残しても面倒見れないと思う。
売って正解でしょうね。おかげで教授になったわけだし。
114 :
名無しさま :2009/07/09(木) 07:52:07 ID:au6Irz/T
>>113 ソースは?
臆測だけの個人的見解ならスレ主旨に反するわけだが。
115 :
名無しさま :2009/07/10(金) 09:05:36 ID:QphJwRUx
>>113 てものすごい貧乏育ちなの?
私立なんてド庶民でもいけますけど。
住居費用がただみたいなところに住んでるんだから、
本来かかる住居費を子供二人の私立小中の学費(職員割引ありだし)に
あてることは充分可能でしょう。
私立中に行けるのは自営業の金持ちばかりと思ってるのでしょうかねw
川嶋家が山を手放した時期は本当にその頃なの?
それだって妄想のような気がするのですが??
116 :
名無しさま :2009/07/10(金) 21:51:04 ID:bHHZf8Hj
>>110 山を持っていることに関して誤解があるようなんだが、山は持ってるだけでは意味が無い。
儲けは木を売ることによって発生する。つまり大変な手入れの手間がかかる。
しかも国産の材木より、安い海外材のほうが売れるため、手間の割りに儲けが出ない。
土地代はタダ同然のため、税金などは安いが、相続の時など値打ちも無いのに面倒なので
処分してしまうところも多い。
川島家が山を手放した理由はわからないが、そこが農地でもない限り、さっさと手放すほうが
先見の明があったといえなくも無い。
117 :
名無しさま :2009/07/11(土) 09:00:23 ID:lHrqmUVl
>>116 そんな利益にもならない山を持っていたというなら
川嶋家にとってもともとなんの財産価値もないということになって
川嶋家の経済力を誇示するにはなんの役にはてっていないとなるが?
しかし観光地になるような山なら駐車場代や店に土地を貸したりと
持っているだけで利益がでる。(温泉がでたり、有名な神社があったり)
栗やりんごなど、田畑以外の農作物の利益がある山もある。
斜面に畑をつくっている場合もある。
先祖から継承してきた財産価値もない山を売ったとことは、
先見の明でもなんでもなくよくよく金に困ったからだろう、
としか考えられないがな。
多少でも余裕があれば先祖からの土地を売るようなことは
極力避けるだろう。先祖からの財産を守る、それが旧家の子孫の義務。
118 :
名無しさま :2009/07/11(土) 12:36:08 ID:zdd2VYlG
>>117 川嶋山がどのような山か不明なこと、川嶋家がいつ手放したかも判らないことからして
不毛な議論ではあるが、
>観光地になるような山なら駐車場代や店に土地を貸したりと
>持っているだけで利益がでる。(温泉がでたり、有名な神社があったり)
>栗やりんごなど、田畑以外の農作物の利益がある山もある。
>斜面に畑をつくっている場合もある。
このような山なら手放さないだろう。
日本の林業が駄目になったのは戦後のことで、安い輸入材に押されて国内産の杉だの
売れなくなった。それまでは山持ちは一種のステータスシンボルだった。しかし山の基本
的な収入が断たれたわけで、手入れする人間がいないのなら山は荒れていくだけだし、
それならいっそ手放すのも選択肢の一つ。
言ってる意味わかるよね、美山が荒れていくくらいなら手入れしてくれる人に渡した方が
ご先祖様も喜ぶってこと。
川嶋家に林業を継いで手入れをする人がいるなら山は売らないだろうが、継ぐ人も無い
のに持ってることは無い。
つまり、川嶋家が山を手放した理由はまったく不明だが、後継者が都会に出てしまった
場合は特に不自然でもなんでもなく、金に困っている以外にも、経費や相続、山が荒れ
ていくに忍びないといったことから手放すこともあるってわけ。
119 :
名無しさま :2009/07/11(土) 16:20:52 ID:RAxPhlOm
>>118 つまり川嶋家は山を維持していくだけの金がなかったってことだなw
つか、いつ売ったとか、どの程度の規模の山だったとか、
収益がいくらだったとか、川嶋山といってもどこの本家の川嶋さんだったのか
分家だったのかも不明で、まったく情報がないのに、こんなやりとり不毛なだけなんですけど。
120 :
名無しさま :2009/07/12(日) 12:41:51 ID:3Ou7JK2Z
>>118 少なくとも高度成長期までは国内の林業はかなり盛んだったぞ?
東南アジアから安い木材云々だって、円高ドル安が始ったずっと後の話。
1ドル360円の時代なら国内産の木材の方が安かった。
新幹線や高速道路を国がガンガンつくったおかげで、国土計画で
土地や山がひっかかった人がおもわぬ大金をもうけられたし、
川嶋山がなんの価値もなかったとか、なんでわかるの?
なんか無理やり擁護してるよね。
121 :
名無しさま :2009/07/12(日) 16:02:11 ID:xzUXVM5E
427 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/29(水) 20:35:58 ID:17KGYvix
>>426 > ぺこぺこするしか能のない紀子さんと子供達はどうして生きていくんだろう。
これまで通り、ペコペコしながら生きていくんじゃない?
祖父の按摩さんがそうしてきたように。
428 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/29(水) 21:18:33 ID:hYn7fiB6
>>427 按摩さんはペコペコしてるのは偉いだろう
女性客にセクハラする馬鹿按摩もいる世の中だしさ
122 :
名無しさま :2009/07/12(日) 16:03:08 ID:xzUXVM5E
■朝日新聞 1990年9月12日 嘉助さんは横浜工業専門学校(現横浜国大)を卒業後、満鉄に入り、旧満州に渡っ た。敗戦後、脊椎矯正器具を開発して特許を取得。二カ月前まで整体師として開業し ていた。 ■毎日新聞 1989年8月27日 嘉助さんは太平洋戦争中旧満鉄に勤務し、終戦後、故郷にもどり独学で指圧を学 び、昨年まで同市内で開業していた。現在は悠々自適。 ■讀賣新聞静岡版 1989年8月27日 杉本さん夫妻は、旧満州から静岡に引き揚げ、昭和十七年、紀子さんの母親、和 代さんを産んだ。嘉助さんは最近まで整体業を営んでいたが、現在は引退して隠居 生活を送っている。 ■週刊現代 1989年9月16日号 和代さんの父、つまり紀子さんの母方の祖父・杉本嘉助さん(75歳)は今も祖母・栄 子さん(74歳)と静岡市に健在である。 「嘉助さんは地元の小学校卒業後、木工職人になるつもりだったのが成績優秀のため 学校のすすめで、現在の静岡工業高校に進学。その後、横浜高専へ。卒業後、満鉄 に入社、終戦後、地元で指圧師になったんです。祖母にあたる栄子さんは静岡市の精 華高女卒で、高校時代はバスケットの選手でした」(地元の人) ■神一行『天皇家の人々』 いっぽう、紀子妃の母・和代は、静岡県在住の杉本嘉助と栄子の間に生まれた。杉 本家は同市で代々、水産加工業を営んでいる。 嘉助は、横浜工業専門学校(現・横浜国大)を卒業した後、満州鉄道にはいり、旧満 州に渡った。敗戦後、矯正器具を開発して特許を取り、整体治療院を開業していた。 ■毎日グラフ別冊『秋篠宮家創立 文仁親王殿下と紀子妃殿下』 嘉助さんも横浜工業専門学校(現横浜国大)を卒業後、満鉄入りし旧満州にあっ た8つの鉄道工場を管理する鉄道総局工作局工場課に勤務した。敗戦後、せきつい 矯正器械を開発して特許をとり昭和30年代から一昨年まで静岡市内で指圧療院を 営 んでいた。
123 :
名無しさま :2009/07/12(日) 16:14:16 ID:xzUXVM5E
色々な雑誌、新聞を調べてみたら杉本嘉助さんの職業は整体師だった
という記事と指圧師だったという記事が半々。
嘉助さんが按摩師であったという記事は見当たらず。
鍼師・灸師・あん摩マッサージ指圧師について
鍼師・灸師・あんま、マッサージ、指圧師は、法で定められた学校を卒業し、国家試験に合格し、
厚生労働省から 医療者として免許を取得した者であります。
http://www.japan-net.ne.jp/~aamm/q&a.html#hari どの記事でも杉本嘉助さんは、満州から戦後日本に引き揚げてから独学で
整体や指圧を学んで治療院を開いた、と書いてある。
つまり、国家資格を取ったのはなさそう。
針・鍼灸・按摩・マッサージ師の国家資格を取得していない杉本嘉助さんは按摩師
ではないし、按摩師を名乗ることは出来ない。
124 :
名無しさま :2009/07/12(日) 16:20:15 ID:xzUXVM5E
429 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/29(水) 23:20:18 ID:17KGYvix
>>428 そうね、確かにギッコのお祖父様は感じのいい人だった。
ギッコのことを「小さい頃から気がきつかった」と正直に話してたしw
按摩さんでも真面目に働いていらしたんだから続けさせてあげればいいのに、
ギッコの結婚前にやめさせられてたわね。
おかわいそうに。
按摩さんという職業を一番恥ずかしがっていたのは川島家だったという皮肉w
朝日新聞の記事では杉本嘉助さんは平成元年の7月まで、
毎日新聞の記事では昭和63年7月まで指圧療院を営んだ、とある。
両紙の記事では1年間のズレがあるけど、礼宮と川嶋紀子さんの婚約
内定が固まる、のスクープ記事が朝日新聞に掲載されたのは、平成
元年8月26日。
嘉助さんは、そのスクープ記事が掲載される前に指圧療院を閉じたの
だから、やめさせられたのではなく、高齢になったため自主廃業したん
だろうね。
125 :
名無しさま :2009/07/12(日) 16:25:10 ID:xzUXVM5E
160 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/05/07(木) 14:56:05 ID:OF1wuERN >嘉助さんは横浜工業専門学校(現横浜国大)を卒業した後、特許を 何件も取っているから、かなり優秀な方だと言えるでしょう。 嘉助さんのころは、中卒で入る程度の専門学校だったから、いいとこ高卒レベルだよ。 現在の横国とは全然違う。それに、横浜工専他いくつかの学校が統合されて 横国になったのだから、国立大卒のように言うのは、ちょっとずるい。 まぁ「優秀」は言いすぎだね。 だって、大卒なら満州から引き揚げてからもいい会社や官公庁に就職できてるもの。 うちの祖父がそうだったんだけど。 紀子さんのお祖父さんは、普通の田舎のオジィさんだよ。
126 :
名無しさま :2009/07/12(日) 16:26:29 ID:xzUXVM5E
杉本嘉助さんが卒業した横浜高等工業学校(昭和18年に横浜工専と改称)は、 高等教育機関。 伊藤 隆監修 百瀬 孝著『事典 昭和宣前記の日本 制度と実態』 (三)高等教育 高等教育機関には、高等学校・専門学校・大学があった。 イ 専門学校 専門学校は明治三六年の専門学校令(勅令第六一号)によって制度が確立し、以後 四十数年継続して、制度上最も長い歴史をもった学校である。明治以後東大はじめ専 門学校が昇格して大学になったのであるが、戦後は殆どの専門学校が大学になったの は周知のとおりである。 専門学校は高等の学術技芸を教授することを目的とした。実業学校のうち、高等の教 育をするものは実業専門学校として、実業学校令と専門学校令の両方にまたがる存在 であったが、昭和一八年の実業学校廃止令に伴い、専門学校令のみによることになっ た。 ○高等工業学校 工業に関する実業専門学校である。昭和四年に東京・大阪の高等工業学校が大学に 昇格したあとの高等工業学校は、官立の名古屋・熊本・仙台・米沢・桐生・横浜・広島・ 金沢・神戸・浜松・徳島・長岡・福井・山梨の一四校と、東京・京都の高等工芸学校、秋 田の鉱山専門学校および明治専門学校(当初私立、福岡県戸畑、四年制)であった。こ れらは昭和一九年、秋田を除いてすべて工業専門学校と改称され、三年制に統一され た。
127 :
名無しさま :2009/07/12(日) 16:31:15 ID:iH37YkTO
>嘉助さんのころは、中卒で入る程度の専門学校だったから、 >いいとこ高卒レベルだよ。 今の高校は、昔の中学なんだが。知らんのか? 昔はそもそも中卒が少なかった。 その上の専門学校にいくのは昔ならエリート。
128 :
名無しさま :2009/07/12(日) 16:32:44 ID:xzUXVM5E
162 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/05/07(木) 18:27:49 ID:OF1wuERN じゃあ、何に相当するんですか?明らかに大卒ではない。 中卒程度の人が進学するけど、高卒よりは少し上という程度? 仕事内容も、鉄道機関士だったわけだから、 ホワイトカラーではないですよね。 特許を取ったから優秀というのもよくわからないし。 マッサージ業にしか就けなかったのはなぜだろうね。 横浜高専は中等教育機関を終えた学生たちが進学する高等教育機関。 戦前の満鉄は高学歴学生たちにとっては憧れの職場だった。 岡部牧夫編『南満州鉄道会社の研究』 四 日本社会における満鉄の位置 日本の敗戦によって、満鉄は一九四五年八月末にソ連占領軍当局に管理・使用権 を引渡したのち、連合国軍総司令部の命令によって九月末日に解散した。一九〇六 年一一月二六日の設立総会から足かけ四〇年、厳密には三八年一〇ヶ月の命であ った。 その間満鉄は、高学歴の事務・技術職をはじめ、各層の日本人を多数雇用し、大学 や専門学校の卒業者にとって、国内の官庁、大企業とならぶ魅力的な就職先であっ た。「広大な満州」という事業地の印象、「新天地の開発」という事業の先端性、実力 本位で形式にとらわれないとされた社風は、国民国家の達成と同時に急速に帝国化 しはじめた日本のナショナリズムを象徴する言説として、その高額の給与とともに、 「大陸雄飛」にあこがれる青年の心をとくに魅した。
129 :
名無しさま :2009/07/12(日) 16:36:17 ID:iH37YkTO
>敗戦後、脊椎矯正器具を開発して特許を取得。 >二カ月前まで整体師として開業していた。 要は、自分の発明で商売してた、ってことかと。 技術者には、よく見られる生き方だね。
130 :
名無しさま :2009/07/12(日) 16:38:26 ID:xzUXVM5E
346 名前:名無しさま 投稿日:2009/05/17(日) 22:27:43 ID:9ttjLmJ5 満鉄職員は憧れじゃないよ・・。 家を継げない次男三男どころか、 新天地を求めてヒサベツの人がたくさん満州に渡ったそうだよ? ちょっと調べればわかること。 あと、川嶋庄一郎は、和歌山県の視学という、教育長のような立場に あったから、いろいろなところの理事などに名前は出ているだろうね。 とりあえず、戦後の農地改革で財産はすべて失っているのが川嶋家。 もしそんな財産家なら、紀子妃父上の川島教授は、現在中古マンション暮らしなど してらっしゃるはずがない。 在満日本人社会の中で、満鉄社員の暮らしぶりはトップレベル。 小林英夫『<満州>の歴史』 P221-P222 2 満州国の職業人たち 羽振りのよい満鉄職員 満鉄職員も、満州国の社会では上層の生活をエンジョイしていたといえる。満鉄職員 は、雇員、傭員と比較しても満鉄のなかでもトップの階層に属するわけで、そのぶん豊 かな生活を享受していた。 勤務時間は、原則九時から五時までだが、かなり自由に出勤し退社していた。満鉄 の本社は大連だが、満州国ができてからは、中央官庁が新京(現長春)にあるため、し ばしば打ち合わせのため出張しているが、多くの場合には夜行列車を利用してこなして いたようだ。仕事の締め切りが迫ると徹夜に近い状況になるのは、今も昔も同じよいで、 しばしばそんな生活を強いられていたようだ。 しかし休日は、家族そろってのショッピングを楽しむ余裕もあったようで、満鉄社員用 の消費組合切符をつかって、現金無しで衣類や家具などの購入、さらにはヤマトホテル での飲食を楽しむこともできた。昼に当時としては贅沢なアイスクリームやお子様ランチ の類を家族で楽しんでいる記録が残されている。娘のピアノや舞踊発表会に親が同伴 する機会もあったようだ。いずれにせよ、一九二〇〜三〇年代前半までの満州での彼 らは、日本内地よりははるかに豊かな生活を保証されていたといえる。
131 :
名無しさま :2009/07/12(日) 16:39:16 ID:iH37YkTO
>マッサージ業にしか就けなかったのはなぜだろうね。 どうも世間ではマッサージ業は低く見られてるようだが、 やってる人たちは、皆自分なりの動機があるわけで。 逆に、天皇は随分とエライもんだと思ってるようだが やってる人は、別にやりたくてやってるわけでもない と思ったことは一度でもないのか?
132 :
名無しさま :2009/07/12(日) 16:46:56 ID:xzUXVM5E
346 名前:名無しさま 投稿日:2009/05/17(日) 22:27:43 ID:9ttjLmJ5 満鉄職員は憧れじゃないよ・・。 家を継げない次男三男どころか、 新天地を求めてヒサベツの人がたくさん満州に渡ったそうだよ? ちょっと調べればわかること。 あと、川嶋庄一郎は、和歌山県の視学という、教育長のような立場に あったから、いろいろなところの理事などに名前は出ているだろうね。 とりあえず、戦後の農地改革で財産はすべて失っているのが川嶋家。 もしそんな財産家なら、紀子妃父上の川島教授は、現在中古マンション暮らしなど してらっしゃるはずがない。 戦前には特権階級だった元華族も戦後は生活に困窮して、馴れない商売を はじめて客の呼び込みをやったり、広大な屋敷を売り払って借家や オンボロアパートに住んでいた人も多い。 元庄屋で裕福な地主であった川嶋家が農地解放で土地を没収され、 目白の家が空襲で消失したのだから、小さい家に引越ししたのはやむ を得ないだろ。 川嶋孝彦氏は参議院専門員に就任しているから、高額の報酬を貰い、 貧しかったわけではない。
133 :
126 :2009/07/12(日) 17:32:31 ID:xzUXVM5E
訂正 ×杉本嘉助さんが卒業した横浜高等工業学校(昭和18年に横浜工専と改称)は ○杉本嘉助さんが卒業した横浜高等工業学校(昭和19年4月横浜工業専門学校と改称)は
134 :
名無しさま :2009/07/12(日) 17:50:29 ID:NXrnfglR
川嶋家、杉本家ageに必死のマンセーが懲りずに常駐してるんですね。 残念ながら今も昔も小和田家にはどんなに吠えてもかないません。
135 :
名無しさま :2009/07/12(日) 18:34:48 ID:vFtlRrPp
コピペしたレスにも、似たような事をレスしてたような記憶があるんだけど、気のせい? 壊れたレコードと言うか、メビウスの帯と言うか、双六の振り出しに戻るだらけと言うか。 まともに検証しようという気を無くさせて、誰もいなくなるのを狙っているんだろうか、と穿った見方をしたくなる。
136 :
名無しさま :2009/07/13(月) 02:17:17 ID:nz+i5RSm
>>119 不毛な議論だけど、山を売ったことで川嶋家は金に困っていたとか決め付けるレスがあるからじゃね?
金に困ろうが困るまいが、山を維持する金があろうが無かろうが売るときは売るってことだろ。
実家について延々と議論していて、それこそ不毛だし飽きてきたんだけど。
ご立派な出自でも現在の行いが悪ければ何にもならんし、貧乏の出でも努力して尽くしていれば評価に
値するわけだしさ。
137 :
名無しさま :2009/07/13(月) 07:41:52 ID:uxD6J1jH
>>136 でも、紀子さんが結婚した段階で川嶋家は裕福ではなかったんでしょうね。
だって納采の儀だというのに、変色した壁紙があちこち剥がれて
統一感のない安っぽいカーテンがぶらさがって…
>>現在の行いが悪ければ
これってもちろん川嶋家のことでしょ?
身内が宮妃になったことで、詐欺行為を告発されたり、
「いずれ天皇の祖父になられる方」という立場を利用して
京都の高級ホテルのスウィート3泊させてもらって、政財界に影響力があるという
胡散臭い前科のある坊主と接触したりとか?(記事には祈祷をお願いしたとか)
しかもパチンコ屋が仲介になってるなんてねぇ〜
まぁ行いが悪いとまではいえないかもしれないけど、紀子さんの弟も
獣医ということで秋篠宮家が飼ってるいろんなペットの面倒を
一任されてるというのも、立場を利用して独占的に利益を得てるあたり
ほめられたことじゃないけどね。
138 :
名無しさま :2009/07/13(月) 15:02:54 ID:96nRrNl0
昭和天皇に世継ぎがなかなかお生まれにならないとき側室制度が議論された。 このとき陛下は「良宮でいい」と側室を拒否されたが、 山屋他人大将のご息女寿々子さんが側室候補にあがったとき陛下は側室を賛成された。 しかし、皇后が不慮の妊娠をし、生まれたのは男の子。 寿々子さんが側室になられるのを期待した多くの国民たちは残念がっていた。 それから20年余りたった昭和30年ごろ、明仁皇太子のお妃候補に江頭優美子さんがあがった。 彼女の美しさに惹かれた明仁は求婚されたが粉屋の小娘である正田美智子と 政略結婚させられ、その後宮内庁から「せめて弟宮に優美子さんをお妃に」という声が出て 義宮に優美子さんを紹介させお二人は生涯をともに過ごそうと約束されたのに 種無し説が飛び回り、その結果優美子さんは義宮のもとを去ってしまう。 その後義宮は石女の津軽華子と結婚する羽目になり、生涯小梨という悲劇に見舞われる。 そして1980年代に入ったころ。どこにでもいるような庶民と交際する礼宮。 しかもその庶民とは3DKのレオパレス21のボロアパートに住む川嶋紀子だった。 昭和天皇とその側近から別れるよう命じられ、小和田礼子さんを紹介された。 同じ「礼」の字もあってか、お2人はすぐに気が合い、生涯をともに過ごされるところだったのに 紀子の誘惑により、礼宮は精神を病み、礼子さんを泣かせてしまう。 そのことを知った昭和天皇はご体調を崩され、 20年前の1989年(昭和64年)1月7日6時33分、吹上御所で崩御された。 まだ喪が明けていないというのに堂々と婚約を発表した礼宮と川嶋紀子。 即位式を挙げていないのに結婚し秋篠宮家を興した文仁と紀子。 その後、徳仁皇太子殿下が小和田雅子さんとご成婚され、 皇室は闇から救われたのである。2001年には敬宮愛子内親王殿下がご誕生。 やがては愛子内親王殿下が明るい未来を築き、すばらしき女帝になられるでしょう。
139 :
名無しさま :2009/07/13(月) 22:37:44 ID:c9yynRhF
杉本嘉助さんが学生時代をおくった昭和初期の進学状況は大体こんなもの。
明治時代、中学や高等教育機関に進学する者は華族、士族、地主、そして新し
く生まれてきたブルジョアとプチブル階層の出身者にほとんど限定されていた。
例えば、唐津中学校ボート部の玄界灘遭難事故の記事(『佐賀新聞』1895年5月
2日)によると。「死者8人、生存者1人のうち、士族が5人、3人が平民、不詳が1人
」となっていた[2]。
大正デモクラシーの時代になると中学進学が一般市民の間にも広がってきた。
第一次世界大戦後、都市住民の子弟の中学校・高等女学校・実業学校といった
旧制中等教育学校への進学熱は急速に高まってきたが、それでも一般大衆には
まだまだ「高嶺の花」だった[2]。
当時のインテリ層の代表である小学校の教員の月収が1929年の段階で46円ほ
どなのに、東京の市立中学の入学年次における学費は直接経費だけでも146円
19銭もあった。このため、せっかく入学できても中途退学を余儀なくされる者は入
学者の1/3にも達した[2]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%88%B6%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1
140 :
名無しさま :2009/07/13(月) 22:38:44 ID:c9yynRhF
この状況を当時の文部省は次のように考えていた。
「半途退学者の中にはその他の事由によるというのが約3分の1近くを占めている。
この中には落第して原級に留まっている者も多少含まれているが、然しこの大多
数は一定の方針もなく只漫然と入学した者で、父兄にその責任がある。もし世の父
兄の考えがもっと着実になって、出鱈目な入学に目覚め、半途退学者の数を減ら
すことが出来たなら、今日の試験地獄は著しく緩和されるであろう」(『読売新聞』1929
年12月10日)
つまり、所得の低い一般庶民の子弟は中学に行くなと考えていたのである[2]。
皮肉なことに、日中戦争による戦時景気で一般庶民でも中学に進学できるようになっ
た。それでも旧制中等教育学校への進学率は13%前後に過ぎず、特に中学入学者に
ついてみると進学率は8%くらいだった。農村からの進学者は地主の子弟が主で、村で
1人か2人くらいしかいなかった。農村の二男三男は小学校6年卒あるいは高等小学校
2年卒で町工場へ出稼ぎに出るのが当たり前だった[2]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%88%B6%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1
141 :
名無しさま :2009/07/13(月) 22:43:23 ID:c9yynRhF
戦前の義務教育は尋常小学校まで。 尋常小学校を卒業して旧制中等教育機関に進学できたのは約13%。 旧制中等教育機関を卒業して高等教育機関に進学できたのは、さらに 少ないでしょう。 戦前において高等教育機関に進学できたのはエリートであって、杉本 嘉助さんが優秀であったとともに、工業学校5年、高等工業学校3年間 の学費を負担できる余裕が杉本家にはあったといえから、それなりに 裕福な家だったんでしょう。
142 :
名無しさま :2009/07/13(月) 22:52:20 ID:c9yynRhF
雅子様の祖父、小和田毅夫氏は奨学金を受けながら旧制高田中学校に学び、
広島高等師範学校に進んでいます。
高等師範学校は学費がいらない上に生活も保証されていましたから、貧しくて
向上心のある学生が進学する「貧家の秀才コース」とも言われていました。
師範学校は、卒業後教職に就くことを前提に授業料がかからないのみならず生活も保
障されたので、優秀でも貧しい家の子弟への救済策の役割を果たしていた。師範学校
→高等師範学校→文理科大学というコースをとれば、学費無料で中等学校→高等学
校→帝国大学という正規のルートに匹敵する教育が受けられたため、経済的な理由で
進学を断念せざるをえない優秀な人材を多く吸収した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%AB%E7%AF%84%E5%AD%A6%E6%A0%A1 杉本嘉助さんは奨学金も受けずに静岡工業、横浜高工に進学していますから、
少なくとも小和田家よりは家計的には余裕はあったと思います。
143 :
名無しさま :2009/07/13(月) 23:02:57 ID:c9yynRhF
>>137 >>身内が宮妃になったことで、詐欺行為を告発されたり
すみません。ソースは何ですか?
紀子妃の身内で詐欺行為で告発された方はいませんけど。
>>「いずれ天皇の祖父になられる方」という立場を利用して
>>京都の高級ホテルのスウィート3泊させてもらって、
これは辰彦氏が会長を務めているNPO法人日本トレッキング協会の会員から
の招待を受けてのものですよね。
招待する側が宿泊するホテルを用意するのは当然のことですが。
>>まぁ行いが悪いとまではいえないかもしれないけど、紀子さんの弟も
>>獣医ということで秋篠宮家が飼ってるいろんなペットの面倒を
>>一任されてるというのも、立場を利用して独占的に利益を得てるあたり
>>ほめられたことじゃないけどね。
初耳です。紀子妃の弟さんが立場を利用して独占的に利益を得ている、
というソースを教えてください。
144 :
名無しさま :2009/07/13(月) 23:15:01 ID:OyWzW1HK
>>143 >これは辰彦氏が会長を務めているNPO法人日本トレッキング協会の会員から
>の招待を受けてのものですよね。
週刊誌にはそこまで書かれていなかったですね。
私はてっきり「炎の行者」が用意した部屋だと思ってました。
NPO法人て、スゥィートを用意できるほど金もってるんですか。
そのNPO法人が用意した部屋というソースがあればお願いできますか?
145 :
名無しさま :2009/07/13(月) 23:18:43 ID:c9yynRhF
>>144 トレッキング協会の会員が辰彦氏を京都に招待した、と文春の記事
にはありましたけど。
それから前科坊主って何言ってるんですか?
前科のある人間が社会的な活動をしてはいけないんでしょうか。
東国原宮崎県知事も以前起こしたフライデー襲撃事件で逮捕され、
確か実刑判決がおりたと思うんですけど。
146 :
名無しさま :2009/07/13(月) 23:24:26 ID:OyWzW1HK
>>145 文春に書いてありましたか。
ありがとうございます。
で、前科坊主つて何のことですか?
私、そんなこと一言も書いてないのですが。
147 :
名無しさま :2009/07/13(月) 23:31:32 ID:c9yynRhF
>>146 これは、
>>胡散臭い前科のある坊主と接触したりとか?(記事には祈祷をお願いしたとか)
とおっしゃっている
>>137 さんあてのレスです。
148 :
名無しさま :2009/07/13(月) 23:32:21 ID:ksew9Tvd
149 :
名無しさま :2009/07/14(火) 04:06:55 ID:ZNOKmCxo
150 :
名無しさま :2009/07/14(火) 06:46:11 ID:BqYha/Rx
陛下は、日本と世界の平和と繁栄を願って祈ってくださる。 それで十分。 いつまでもわれ等の皇室が続きますように。
151 :
名無しさま :2009/07/14(火) 07:40:01 ID:TFFK9NUF
秋篠宮家のお抱え獣医が紀子さんの弟の舟さんだ、と週刊誌にあったけど。 弟というコネを利用して、と思われても仕方ないでしょうね。 このやりとりもここの過去スレにあると思う。 納采の儀の時の紀子さんの自宅は確かにひどかった。 狭いのは仕方ないにしても壁紙があちこち剥がれてて、びっくりした。 これって貧乏だからというより、川嶋家の見識の問題でしょう。 いくらなんでもそんな金がないはずもないし、親戚に借りたって 壁紙ぐらい張り替えるべきだったよね。 娘の晴れの日、しかも全マスコミに部屋の内部が配信されると わかってて壁紙張り替えることもしない親ってどうよ、と紀子さんが気の毒に思った。 確か陛下や皇后、皇太子も川嶋家に行ったことあると思ったけど、 あの壁紙のままおもてなししたのかと思うと…招待されたほうにあまりに失礼だわ。
152 :
名無しさま :2009/07/14(火) 14:08:55 ID:uhJtbhSG
381 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/24(金) 08:47:06 ID:E88FRHbs 紀子は普通にお見合いで断られるレベルでしょ。 一応父は大学教授だが、なんせ財産がなさすぎる。 さすがに子供が成人しても職員住宅はあり得ない。 また、もし民間人の金持ちと運良く結婚してたとしても、 イトコの詐欺逮捕で、やはり婚家先からは疎まれただろう。 そんなレベルの人が、「宮妃としてヨーロッパ外遊」 ふざけてるとしか言いようがない。 税金の無駄。 -------------------------- 週刊文春 2006.3.2の記事内容。 紀子妃の従弟が建築設計を請け負った住宅に欠陥があり、結露がひどく、そのうち に家中でカビが大繁殖。 依頼主の子供が急性気管支炎にかかった。 そこで依頼主は損害賠償を求めて民事訴訟を起こした。 記事では、 「原田さんがA氏を相手取った民事訴訟は現在、第一回口頭弁論を経て、建築調停 中だという。」 紀子妃の従兄弟は詐欺罪で逮捕はされていない。 記事中では建築調停中、とあるからその後和解が成立したか、依頼主が詐称を 取り下げたかのどちらかだろう。
153 :
名無しさま :2009/07/14(火) 14:12:37 ID:uhJtbhSG
298 名前:名無しさま 投稿日:2009/05/14(木) 09:22:15 ID:y8BOHOLJ チッソの話は出してもしょうがないよ。 だって、「社長」という役職にあったから、代表として何かと名前が残ってる というだけなんだもの。 当時の時代背景や、日本の政治システムからいっても、 国や県も公害即停止命令などはならず、停止までに数年かかってしまった。 水俣市の人口の4分の1はチッソの社員だったわけだから、停止は解雇失業につながる、 おいそれとできることではない。これらの要因をまったく考慮もせず、 公害の原因を、当時「銀行からの派遣」で来たばかりだった江頭社長に すべて押し付けるのは、完全な間違い。 その証拠に、江頭さんを名指しで批判するのは、結局のところ「アンチ雅子」サイトだけ。 皇族の親戚だと相手を安心させて仕事をとり、 一級建築士の免許もないのに、家を設計して、勝手に印鑑使って 公文書偽造して欠陥住宅建てた。 これは明らかに個人の資質の問題であり、個人の責任。 すべては川嶋某という紀子妃の従兄弟個人の責任。 なぜこの二つの話題を同列に語れるのかがわかりません。
154 :
名無しさま :2009/07/14(火) 14:21:10 ID:uhJtbhSG
週刊文春 2006.3.2の記事。 A氏を訴えたのは杉並区在住の主婦、原田涼子さん(37歳・仮名)。原田さんがA氏 との裁判に至るまでの経緯を語ってくれた。 「七年前のことです。マンション住まいだった私たち夫婦は子供ができたことを機に、家 を建てようと思ったんです。幸い近くにいい土地も見つかったんで、せっかくだから、建 築士さんに自宅をデザインしてもらおうと思って、友人夫婦に『いい建築士がいたら教え て』と頼んだところ、紹介されたのがAさんでした」 九九年五月、その友人夫婦の紹介で、原田さんは初めてA氏と会ったという。 「友人夫婦のご主人と、Aさんが高校時代の同級生で、気心が知れた仲らしく、ご主人 はAさんのことを、こう紹介してくれました。『腕のいい建築士で、賞も取っている。それに 秋篠宮妃紀子さまの親戚で、信用できる』と。けど、まさか皇族の親戚がこんな身近に いるとは思いもよらなかったので、Aさんに直接聞いてみたんです。そしたらAさんは『そう です。従兄弟なんです』と答えたんです。友人夫婦は『腕のいい建築士』だっていうし、そ んなお立場の方が悪いことをするわけないって信じ込んでしまったんです」 紀子妃の従兄弟を賞も取っている腕の良い建築士で紀子さまの親戚で信用できる、と 依頼主に紹介したのは従兄弟の高校時代の同級生。 紀子妃の従兄弟が自ら皇室の親戚だと名乗ってのでは全然ないよ。 同じく週刊文春2006年3月2日号の記事より。 ―原告は、貴方が「紀子さまの従兄弟だ」というから、信用したと言ってます。 「質問されて『そうです』と答えたことはあったかもしれないが、私からはそのような話は していない」
155 :
名無しさま :2009/07/14(火) 14:33:24 ID:uhJtbhSG
>>148 >実際に被害者に対し「庶民が何を言うか」「貧乏人が腐った魚を食べて病気になった」などと言う発言が映像に残っている[要出典]。
江頭豊氏がこのような暴言を吐いたというのはデマ。
しかし、彼がチッソの社長時代にも工場の操業を停止させずに水銀を海に
タレ流し続けたことは事実。
また、大阪府警の警告を無視して株主総会で暴力的な警備会社のガードマン
を雇い、株主に暴行を働かせて怪我を負わせている。
また総会屋を動員して江頭豊社長を擁護するような発言をさせたりして、議事
を進行させようとした。
このような江頭社長の水俣病被害患者への対応は当時、マスコミ各社からは
非常に印象が悪く、連日チッソや江頭社長の対応ぶりが非難されている。
江頭豊氏は刑事事件で告訴はされてはいないけど、水俣病加害の責任は、
道義的には明らかにある。
156 :
名無しさま :2009/07/14(火) 15:43:47 ID:/iFhA4CM
ようするに、紀子の従兄弟の一級建築士は腕が最低だということだけは確かね。 紀子の従兄弟だと自分から名乗ってないのはただの言い訳。 仲介した友人には「自分は紀子の従兄弟だ」とぺらぺら話して、 仕事とってきてもらってるんじゃないの。 でなきゃその友人とやらはAが紀子の従兄弟だってなんで知ったのさw
157 :
名無しさま :2009/07/14(火) 22:26:41 ID:b6olk7dX
>>155 そのような江頭社長の対応のソース、ありますか?
暴力的な警備会社というのが、理解できません。
警備員は守るべき物や人に危害が加えられそうなときに行動を起こすのではないかと思います。
それとも、その暴力的な警備会社は何もしない人たちに暴力をふるったのでしょうか。
雅子さまが皇太子妃に決まったとき、患者さんたちは江頭社長を
知らなかったって何かにでてたと思うのですが。
曖昧な記憶で申し訳ないです。
158 :
名無しさま :2009/07/14(火) 22:48:02 ID:gWWxyrLW
>>155 肝心の水俣病患者たちから、雅子様入内を祖父が江頭氏だから反対だとか、
許せない、という意見がでていたとはまったく記憶にない。
以下参照
皇太子妃・雅子を生んだ小和田家の犯罪ルーツを徹底追跡!
噂の真相 1993年4月号
現地水俣でも異変が……
それにしても、かつて自分たちを苦しめた加害者の孫娘が皇太子妃に選ばれたことを、被害者
である水俣の人々はどう感じているのだろうか。
マスコミは内定直後、宮内庁の言い分をあれだけたれ流しながら、肝心の患者たちの生の声を
ほとんど取り上げようとしなかった。
「自主規制ですよ。わずかに共同通信熊本支局がきわめて当たり障りのない患者の声を配信
しましたが、それとて掲載した新聞はほとんどなかった」(大手紙・社会部記者)
そして、驚いたことにそうした自主規制のムードは水俣病の患者自身にまで広がっている。実際、
取材をしてもほとんどの患者たちはこの件については、何もしゃべりたがらないのだ。
「何をいっても慶事に水を差すととられかねない、という恐れをいだいてるんですよ」
と語るのは地元支局の記者。
ある患者がマスコミにコメントを求められ、ごく素直なお祝いの気持ちを話したらしいんです。
ところが、それが掲載されたとたん、右翼と称する人物から『結婚を台なしにするつもりか』との
脅迫電話がはいったらしい」
今なお残っている水俣病患者に対する差別構造。そして、その構造は天皇制という差別のシス
テムによって、さらに増幅されていく。
しかし、ひとりの思考がようやく重い口を開き、本音を語ってくれた。
「正直いって、江頭については今も怒りの感情は消えていない。が、だからといってあの男の孫
がお妃になることをどうこういうつもりもない。これはほとんどの患者がそう考えていると思う。
ただ−」
呼吸をおいて患者はこう続けた。
「許せないのは宮内庁だ。五年前、あの男の孫がお妃になれなかったのが水俣のせいだといわ
れて、我々が周囲からどれだけ白い目でみられたか、ところが、宮内庁は今度はまるで水俣病
の問題が解決したようなことをいう。宮内庁にいったい水俣の何がわかるというんだ」
159 :
名無しさま :2009/07/15(水) 10:50:47 ID:OFdfZUlE
>>142 まず、奨学金を「受けていない」という証拠は?
成績優秀なら受けている可能性はあるかと。確かそれこそ、和歌山には
奨学金制度があったと思います。
むろん、受けているからって杉本家が小和田家と同程度の経済力と
いう気はないですけどね。小和田家の場合、当主が若くして亡くなられて
いるんだから、切り詰めた暮らしは当然。
むしろ小和田家と同等だとしたら、嘉助氏の父親は何してるんだ、と。
とりあえず奨学金を受けていない、というソースをお願いいたします。
160 :
名無しさま :2009/07/15(水) 11:01:43 ID:OFdfZUlE
>>141-142 高等教育機関に進んだ割合は?数パーセントくらいあるんじゃない?
工業高等学校は、1920年代に続々と出来てますよね。つまり、工業分野の
人材需要が高まるのに応じて門戸が広くなりつつある時代の進学。
国に二つの、貧しい家庭の子弟が殺到する広島高等師範と比べると
広き門ではないかと。
高等教育機関に行ったという点で穀夫氏と嘉助氏は同等、で、
実家は後者の方が裕福だからそれだけ後者は恵まれてると
いいたいんだろうけど。前者の方が多分、学歴評価が上です。
むしろ恵まれていない環境で、自力で出来うる限りの高い場所に
登っていった穀夫氏の方を尊敬するなぁ。
(あ、私は紀子妃アンチではないので、小和田穀夫氏と同等に
上っていった川嶋庄一郎氏も尊敬しますけどね)
161 :
名無しさま :2009/07/15(水) 22:45:46 ID:XpvsALAf
皇室のウソ、妄想を徹底検証 part4
http://dubai.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1244881123/l50 427 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/29(水) 20:35:58 ID:17KGYvix
>>426 > ぺこぺこするしか能のない紀子さんと子供達はどうして生きていくんだろう。
これまで通り、ペコペコしながら生きていくんじゃない?
祖父の按摩さんがそうしてきたように。
428 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/29(水) 21:18:33 ID:hYn7fiB6
>>427 按摩さんはペコペコしてるのは偉いだろう
女性客にセクハラする馬鹿按摩もいる世の中だしさ
429 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/29(水) 23:20:18 ID:17KGYvix
>>428 そうね、確かにギッコのお祖父様は感じのいい人だった。
ギッコのことを「小さい頃から気がきつかった」と正直に話してたしw
按摩さんでも真面目に働いていらしたんだから続けさせてあげればいいのに、
ギッコの結婚前にやめさせられてたわね。
おかわいそうに。
按摩さんという職業を一番恥ずかしがっていたのは川島家だったという皮肉w
162 :
名無しさま :2009/07/15(水) 22:49:07 ID:XpvsALAf
地元静岡市のご近所の人たちや知人による杉本嘉助さんの評判。 なお、記事では和代さんが昭和女子大学卒業となっていますが、 正しくは昭和女子短大の卒業です。 文藝春秋 1989年10月号 「平成の皇族」礼宮の恋愛結婚 こうみてくると、皇族妃はなるべく学者や高級官僚などの家系から出るのがいいとい う結論になる。そして、お金はあったほうがいいが、それは必ずしも絶対に必要なこと ではない。裕福であるよりも、代々堅実な生活を営み、近隣社会から信頼されている家 庭のほうが、望ましいのである。その意味で川嶋家は皇族のお妃の実家としての条件 を、十分でないまでもかなり満たしている。 紀子さんの父、辰彦氏は東大経済学部卒業で、米国のペンシルバニア大学で博士 号を取得している。その父、孝彦氏は東大卒の内務官僚で、内閣統計局長をつとめた。 また、孝彦氏の父は学習院教授だった。孝彦氏の妻、つまり紀子さんの祖母はやはり 紀子というが、その父は大阪市長だったという。そして、辰彦氏の兄弟やその配偶者に は、東京国際大学、白梅学園短大、専修大学の教授がいる。ようするに、川嶋家は学 者、官僚の家系なのである。 一方、紀子さんの母、和代さんは昭和女子大卒業だが、両親は静岡県在住、父は整 体師をしており、誠実な人柄で近所の評判もいいという。 ただ、いくら実家の条件がよくても、本人に皇族妃としての能力がなければお話にな らないことは、いうまでもない。その点、紀子さんは申し分ない。
163 :
名無しさま :2009/07/15(水) 22:50:02 ID:XpvsALAf
『3LDKのプリンセス 川嶋紀子さんの魅力のすべて』 紀子さんの母・和代さんは、静岡県出身。いまも静岡市に健在の杉本嘉助さん(75) ・栄子さん(73)夫妻の長女として生まれ、ミッション系のお嬢さま学校として知られる 静岡の英和女学院から昭和女子大へと進んだ。 杉本家は、戦前、従業員20人ほどをかかえる鏡台製作所を営んでいたfが、そこに 息子として生れた嘉助さんは成績優秀。 「当初木工職人になるつもりだったようですが、勉強があまりによくできるので、先生 のすすめで現在の静岡工業高校に進学。その後、横浜高専(現・横浜国大)へ。卒業 後は満鉄(満州鉄道)に入社したんです。 終戦後は故郷に引き揚げてきましたが、他の同僚達のように国鉄に横すべりするこ とはせずに、指圧師として再出発したんです。気骨のあるいい人ですよ。 栄子さんは精華高女卒で、当時はバスケットボールの選手をしていたといいます。 お二人は、本当に和代さんをそれこそ手塩にかけて育て、子供の教育には苦労をい とわなかったですね」 と、地元の人。
164 :
名無しさま :2009/07/15(水) 22:51:05 ID:XpvsALAf
女性自身 1991.4.2 おめでとう、紀子さま! 静岡のおじいちゃん・杉本嘉助さんが親しい友人に語った万感 の思い 「古いといわれるかもしれませんが、私たちの育った時代は、嫁入りさせた側としては “差し上げた”ものだという観念を持っておりまして、今回のことも口出しは控えさせて いただいております」 と姿勢を正して言う紀子さまの母方の祖父・杉本嘉助さん(76)。かたわらに祖母・栄 子さん(74)も控えていた。 残念ながら直接喜びの声は聞けなかったが、この話を聞いて、嘉助さんの知人は、 「いかにも嘉助さんらしい言葉ですね。なにしろ、昨年でしたか、紀子さまから電話があ った後も、“じじ、ばばに電話する暇があったら、皇室のため、宮さまのため一生懸命お つくしするように”と川嶋家のご両親を通じてさとしたというくらいですから。本当に堅い 人ですよ」
165 :
名無しさま :2009/07/15(水) 22:53:14 ID:XpvsALAf
その他のどの記事を見ても、杉本嘉助さんの人物像は温厚、誠実、気骨 のある堅実な性格であるという評価。
166 :
名無しさま :2009/07/15(水) 23:01:12 ID:XpvsALAf
江頭豊さんは確かに被害者の方たちに頭を下げておられますね。 しかし、加害者側の企業の社長が水俣病被害者の方たちに謝罪をするのは 当然のことで美談でも何でもない。 社内に研究班を設けて、水俣病の原因がチッソの工業排水であることを自ら が突き止めさせて被害者の方たちに謝罪した、というのなら美談にもなるけ ど、政府が水俣病の原因がチッソ廃液であると認定して、とうとう誤魔化しき れなくなってからの謝罪ですからね。 噂の真相 1993年 4月号 皇太子妃・雅子を生んだ 小和田家の犯罪の ルーツを徹底追跡! 江頭チッソがようやく自らの責任を認めたのは、水俣病発生が発覚してから 一○年以上も経過した一九六八年のことだった。 江頭はこの年の九月二六日、「患者遺族にはお詫びする。補償は誠意をもっ て話し合う」との談話を発表。そして翌々日には、患者の家庭を訪問し、チッ ソ関係者としてはじめて水俣病患者に頭を下げた。 しかし、これとてけっして江頭自身の自発的な判断ではない。この年、政府 がついに水俣病の原因をチッソ廃液とする正式見解を発表したため、チッソと しても対応せざるをえなくなっただけのことである。 それどころか、この政府見解発表が出される前には、地元選出の自民党議員 と結託して、それを止めるべく画策していたフシさえうかがえる。しかし、さ すがの自民党政府も明確な事実と悲惨な現実を前に、水俣病を公害病と認定せ ざるをえなかったというのが“真相”なのである。
167 :
名無しさま :2009/07/15(水) 23:02:36 ID:XpvsALAf
江頭さんは頭を下げるどころか、土下座までしておられますよ。 噂の真相 1993年 4月号 皇太子妃・雅子を生んだ 小和田家の犯罪の ルーツを徹底追跡! ■江頭はチッソA級戦犯 こうした度重なる酷い仕打ちで、患者たちのチッソおよび江頭社長に対する不信感 は次第に膨らみ、怒りという形に姿を変えていったのはいうまでもない。 それが爆発したのが、七〇年一一月二八日のチッソ第四二期株主総会である。 三島由紀夫割腹事件直後のこの日、会場となった大阪の厚生年金会館には、白装 束の巡礼姿で位牌を手にした患者たちが、鈴を鳴らし「ご詠歌」を口ずさみながら多 数、つめかけた。このころ患者たちは自身でチッソの株を所有することによる「一株運 動」を実践していたのである。 午前一一時、会場の舞台の緞帳が上がり、代表取締役社長江頭の報告が始まる と、この患者たちからいっせいに、「患者に発言させろ」「おまえも水銀を飲んでみろ」 「人殺しッ」などの怒号が浴びせられた。 株主懇談会に切り替わると、江頭は公開質問に答えるかたちで「説明会」を開始す る。「水俣病については、申し訳ないと思い責任を感じた」と切り出すが、熊本県の調 停や補償処理委員会のあっせんに基づいて処理したと、明らかなごまかしと思われる 説明をしたために、再び場内はヤジと怒号で騒然となる。質問が「水俣工場を閉鎖す るかどうか」の項目に移った一一時一八分、ついに一株株主たちは堪え切れなくなり、 壇上にかけのぼってしまう。 約一〇〇人が取囲む中で、江頭はいくつもの位牌をつきつけられた。「子供を返せ」 「もとのからだに戻せ」の抗議のことばのなかで「ごまかして、ごまかして」と江頭の肩 をつかまんばかりの者もいた。 「江頭っ、土下座してあやまれ!」との鋭い声に、江頭は床にへたへたと座り込んで、 頭をすりつけるように平伏したのである。
168 :
名無しさま :2009/07/15(水) 23:07:11 ID:XpvsALAf
ところが、その後の対応がまずかった。記者会見では一転して高姿勢な態度に。 翌年の株主総会ではガードマンを配置して患者に暴行を加えさせる。 この江頭社長の対応に世間は一斉に非難の声を浴びせ、被害者側と大紛糾 を起こしています。 噂の真相 1993年 4月号 皇太子妃・雅子を生んだ 小和田家の犯罪の ルーツを徹底追跡! だが、江頭が本心から反省していたかというと、けっしてそうではない。それどころ かこの土下座の直後、ロイヤル・ホテルで開かれた記者会見で江頭はうってかわっ て「一株運動といえども、株主として会社のためになる、あるいは経営者をはげます ような態度であってほしい」「壇上にかけあがってきて妨害するなどは行過ぎだと思 う」と患者批判を口にしたのである。 さらに翌年五月の株主総会では、自らを守るためにガードマンを配置。患者に暴行 を加えさせ、再び大紛糾を引き起こした。 また、各地で起きた患者の座り込み闘争にたいしても江頭チッソはとんでもない対 応をしでかす。一九七一年、東京本社で座り込み抗議をする患者・支援者を排除する ために警官隊出動を要請。三人を逮捕させてしまう。 こうした江頭のやり口に患者側もますます態度を硬化させ、闘争・要求は次第にエ スカレート。水俣病事件はまさしくチッソが排出した水俣湾のヘドロのごとくの泥沼に はまりこんでいく。 ところが一九七一年七月より代表取締役会長に就任していた江頭は、水俣病第一 次訴訟で患者側の全面勝訴判決が出た七三年、さっさと会長職を退陣し、相談役に 退いてしまうのだ。はじめての勝訴に他の患者たちもいきおいづき、次々とチッソ本社 に押しかけ始めたさなかの退陣は、引責辞任というよりまさに逃亡という表現がぴった りくるものだった(実際、江頭が退陣した翌日には、チッソ本社から全社員が書類をも って逃亡するという事件まで起きている)。 結局、江頭はとりかえしのつかない傷痕だけを残して水俣から去っていった。さらな る混乱、さらなる苦痛、差別感情、市民同士のいがみ合い、そして何人もの患者を見 殺しにしたという事実だけを残して、である。 いったいこの江頭のどこが水俣病と「無関係」で、「責任はない」というのか。まさに 「ミナマタ」という地獄を作り出したA級戦犯そのものではないのか。
169 :
名無しさま :2009/07/15(水) 23:20:23 ID:XpvsALAf
愛子様大好きな奴集まれ
http://dubai.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1228951674/l50 84 名前:名無しさま 投稿日:2009/07/15(水) 20:26:58 ID:7MwnWoQz
>>71 よくもまあ、ここまで川島家のスライドができるものだわ。
小和田家は皇太子のお妃候補の本命として初期からリストアップされるような家柄ですよ。
エタのことはよく知りませんが、紀子妃の父親が専門みたいですね。
肩書は経済学者なのにw
これの意味することは?……子供にもわかりますね。
---------------------------------------------
川嶋教授の専門は統計学、計量経済学、空間経済学。
同和問題の論文など1本も書いていないことは過去スレで検証済みです。
文部省 学術情報センター 監修
財団法人電気・電子情報学術振興財団 編集
『研究者・研究課題総覧(1996年版) 法学・経済学』
川嶋辰彦(1940.4.20)
学習院大学・経済学部・経済学科教授
学歴 東京大学・経済学部・経済学科/ペンシルヴァニア大学・博士課程・
地域科学
学位 地域科学博士、経済学修士
所属学会 国際地域学会(Regional Sciense Association)
応用地域学会
日本交通学界
研究課題 都市化/最適交通混雑税/地域発展政策と環境保全政策
170 :
名無しさま :2009/07/15(水) 23:23:07 ID:46Q+xYjr
記事のコピペ、結構なんですが、 「小和田家の犯罪のルーツ」なんていう表題をつけた時点で この記事がどういった背景で書かれたものかがわかる。 決して公平なジャーナリズムによる記事じゃない。
171 :
名無しさま :2009/07/15(水) 23:27:47 ID:XpvsALAf
>>170 それは公平ではない噂の真相の記事を基に江頭豊さんを擁護している
>>158 さんにおっしゃってください。
172 :
名無しさま :2009/07/16(木) 01:09:22 ID:cYRUhulJ
173 :
名無しさま :2009/07/16(木) 05:26:34 ID:w0Y2ay0b
174 :
名無しさま :2009/07/16(木) 07:37:50 ID:46BokyqN
大量コピペを貼り付けて、突っ込まれると逃亡、しばらくなりを潜めて また登場…を繰り返すやり方。 面倒だし、何度も見てるコピペだし、 過去スレで何度も反論もでてるネタだから今回もスルーでいいでしょう。 川嶋マンセーネタもどんだけこのスレで貼られていたことか!! 逆にそれっきゃないの?紀子さんの実家がらみの自慢はwと 失笑ものということがまだ気がつかない。 そもそも江頭問題は最終的には宮内庁が不問にしたことですしね。 どうせ貼るなら水俣病患者は全国にまだ大勢いますので、その方たちの 「今の声」を貼ってくださらない?
175 :
名無しさま :2009/07/17(金) 17:07:15 ID:C4i9KtxD
>>162 >そして、辰彦氏の兄弟やその配偶者には、東京国際大学、白梅学園短大、
>専修大学の教授がいる。
国際大学が弟さんですよね。となると後者二人が女きょうだいの配偶者ですか。
跡取り息子が高校生のときに夫を亡くした(wiki参照)後家さんが、息子を
大学院まで行かせ、娘を大学の先生になろうかという人に嫁がせた。
・・・そりゃ、金もなくなりますね。息子の学費は人一倍かかり、娘の嫁入り
支度だってそれくらいの相手じゃかかるわ。
そして、紀子さんは絵を大量に描いてたわけでしょ。趣味にもお金使ってる。
なんつーか、川嶋辰彦氏の家に「金がない」(本当かどうかはともかく、
そういう印象を与えない)のは納得できました。
みなさんお金使ってるわ、それじゃ。
176 :
名無しさま :2009/07/17(金) 17:25:07 ID:C4i9KtxD
>>163 成績優秀。やっぱり奨学金もらってるんじゃない?
従業員20人なら今で言う町工場のおやじって感じでしょ。
お金ないとは思わないけど、見栄でお金をかけたりしないと思う。
情報大量に出しながら質問に答えないってことは、奨学金貰ってない、
という話にソースはないのだろうね。
177 :
名無しさま :2009/07/17(金) 17:32:04 ID:C4i9KtxD
>>162 おまけ。
満州行って帰ってきて、心機一転、それまでの職とは畑違いの整体師(?)
を選ぶというのは、
>裕福であるよりも、代々堅実な生活を営み、近隣社会から信頼されている家
庭のほうが、望ましいのである。
「代々」堅実ではないと思うよ。むしろなかなかの冒険家だ。
「堅実」なら横滑りして国鉄行くと思う。
178 :
名無しさま :2009/07/18(土) 23:38:19 ID:9W/xdXh2
満州からの引き上げ者なんて、財産を全部なくし、すってんてんで命からがら 帰ってきた人ばかり。 按摩稼業に身をやつし、手に職をつけて食いつないでいくしかなかったんでしょ。
179 :
名無しさま :2009/07/30(木) 13:24:17 ID:Lv6tuv8C
>>178 杉本嘉助さんは按摩ではないことは検証済みだけど?
嘉助さんは独学でカイロプラティックや指圧の勉強をし、脊椎矯正の
器具を開発、特許を取得して指圧療院を開業していた。
按摩さんは国家資格の鍼灸・あんま・マッサージ師の資格を持たない
と開業できないから、嘉助さんは按摩師ではない。
180 :
名無しさま :2009/07/30(木) 13:30:28 ID:Lv6tuv8C
>>160 貧しい環境から志を抱いて立身出世をとげる生き方に戦前の日本人は
喝采を送った。
貧しい家に生まれ育ったことは恥ずかしいことでも何でもない。
なのに小和田家や山屋家は貧しかったことを必死になって否定する人たち
が存在する。
それが問題なんだよ。
マスコミのほとんどが小和田家や江頭家、山屋家は貧しかったと書いている
のに。
181 :
名無しさま :2009/07/30(木) 13:33:01 ID:Lv6tuv8C
182 :
名無しさま :2009/07/30(木) 13:35:14 ID:Lv6tuv8C
75 名前:名無しさま 投稿日:2009/06/22(月) 20:34:58 ID:Pu3Byprh 二人扶持だから貧しいのではなくて、100石程度以下の武士は誰もが かつかつの生活だったといわれている。二人扶持ということは、自分以外に 与えられた扶持で家来を一人雇うことを義務づけられていたってこと。 でも相場的に家族と家来を養うに足りるものが支給されていたのだから 生活はできたのだろう。 二人扶持なら小さいながらも屋敷を拝領されているだろうから、 そこに賃貸長屋を建てて賃貸料を取ったりしてた武士もいたそうだ。 極貧というのが、どこを視点にするかによるよ。 二人扶持だって安定した扶持米をもらえるわけだし、家来を従うことができる身分 なんだから、百姓の極貧とはレベルが違う。 ------------------------------ 山屋家が屋敷を拝領されていて、そこに賃貸長屋を建てて賃貸料を取っていたという ソースは?
183 :
名無しさま :2009/07/30(木) 13:45:04 ID:Lv6tuv8C
川嶋庄一郎氏は、明治3年生まれ、幼名・松浦力松
父・松浦平吉、母・かつの三男、長兄は庄太郎、次兄は虎松
古くは屋号を(ふどう)不動、江戸期は(かど)門と呼び、明治4年頃、平民
の苗字使用許可に際し、松浦姓を名乗る
小和田金吉氏同様、幼くして父を失ったが、金吉氏と違い恵まれていたの
は、ふたりの兄が家を守り、学問の道に進む彼を支えてくれたこと
師範学校に進むと、あちこちに赴任する
家に母をひとり残して、京都・富山・滋賀・佐賀・東京と転勤することは難し
かったと思われる
松浦家の三兄弟は、父亡き後子供らを育てた母かつをとても大事にしてい
たとあるのでなおさらだろう
金吉氏は慶応3年あるいは明治元年生まれ
力松氏と同じく三男と言われているが、二人の兄は早世していたようす
http://sakura.45.kg/fuetayo/03/kawashimake.html -------------------------
過去スレから何度もソースを求められているけど、金吉が老母の介護の
ために新潟を離れなれなかったというソースは?
金吉は税務署員として新潟県内を転々としていた、と各記事にはあるけど、
母親を伴っていたという記述は見たこともないし、金吉に兄弟がいたという
記事も見たことが無い。
金吉の兄弟が早世していたというソースきぼんね。
184 :
名無しさま :2009/07/30(木) 21:25:17 ID:+zNa1hEB
>>179 杉本嘉助さんて紀子さんが婚約した時ステテコ姿でインタビューに
こたえてたおじいちゃんでしょ?
>>独学でカイロプラティックや指圧の勉強をし、脊椎矯正の
器具を開発、特許を取得して指圧療院を開業していた
これって杉本嘉助さんは無資格で指圧療院を開業してるってこと?
国家資格に「按摩マッサージ指圧師」というのがあるんだけど、
この資格がないと開業できないんじゃないのかしら?
この資格をもっているのなら名称から「按摩さん」「指圧師」「マッサージ師」
と呼ばれても仕方ないと思うけどね。
185 :
名無しさま :2009/07/31(金) 17:52:37 ID:9e0TSdn8
紀子の祖父が無免許で指圧療院と開業が事実なら 例の従兄の詐欺事件より大スキャンダルだねw 「按摩」という言葉に蔑称的な意味が強いからなんとか 切り離そうと必死なんだろうけど、 国家資格が「按摩マッサージ指圧師」とあるのなら 按摩よばわりされても仕方ないな。 紀子の祖父は「按摩さん」でOK。
186 :
名無しさま :2009/07/31(金) 20:17:36 ID:Gn13fJdF
>「堅実」なら横滑りして国鉄行くと思う。 無理。簡単に横滑りできたら国鉄が潰れる
187 :
名無しさま :2009/08/01(土) 06:31:57 ID:QiS3EHdL
>>184 整体師と書いてある記事と指圧師と書いた記事の半々くらいだね。
整体師になるのには国家資格は必要ないから、整体の他に指圧
やマッサージを加味した治療院を開いていたのかもしれない。
按摩・指圧・マッサージ師の国家資格を取得すれば、そのどの名称
でも開業できる。
国家資格を持っているのか持っていないのかは分らないけど、杉本
嘉助氏が按摩師だと書いた記事はないし、自らも名乗っていないので
按摩師ではない。
それからステテコ姿だというのは夏だから当たり前だろ。
あの取材を受けた当日、嘉助氏は体調が悪く自宅で寝込んでいたん
だから。
紀子妃が赤ちゃんの時に静岡の自宅で撮影した写真も見たけど、き
ちんとスーツとネクタイ姿だったよ。
188 :
名無しさま :2009/08/01(土) 06:45:13 ID:QiS3EHdL
>>185 紀子妃の従兄弟は詐欺事件なんか起こしていないんだけどw
過去には「按摩」という言葉には、蔑称、職業差別的な意味合いが含まれて
いたけど、現在では按摩は蔑称でも差別用語でもないんだよ。
高木正幸『差別用語の基礎知識'99』を見ても、按摩は差別用語であるとは
指定されていない。
ただ、80年にNHK教育テレビの「趣味技能講座・釣り入門」のテキストにあ
った「アンマヅリ」「メクラオダ」「メクラアワセ」という古くからの用語5つを不適当
としてテキストを回収したとある。
不適当だとされたのは職業差別からではなく、盲人差別だと判断されたから。
現在では按摩さんというのは視覚障害者のみが携わる職業ではなく、あんま・
指圧・マッサージ師の国家資格を取得できなければ開業できないから、
賎しい職業ではなくて世間からも蔑視されていない。
あんま・指圧・マッサージ師の国家資格は難関であるから、手技療法を志す人たち
にとっては憧れの職業であり、世間から尊敬を受ける職業である。
189 :
名無しさま :2009/08/01(土) 06:54:04 ID:QiS3EHdL
「本物のお嬢さま」で「名家」の出で、今上の「お妃候補」であったという 小和田優美子さん。 その優美子さんの曾祖父は、旧制佐賀中学の小使であった。 しかし、この「小使」という言葉には大変な偏見が含まれている蔑称であり、 差別用語なのだ。 高木正幸『差別用語の基礎知識'99』 P199 職業にかかわる差別表現 職業に関する用語の中には、それ自体が歴史的、社会的に侮辱的意味をもって使わ れたり、その仕事にたずさわる人に不快感や差別感を与えるものがあり、使った人には その意図、意思がまったくなくても、抗議を受けたりすることがある。その人の仕事、立 場、生い立ちなどによって、同じ言葉でもその受け止め方は異なる。他について何かを いうときは、それぞれの立場を思いやる配慮を必要とする所以である。 これまでマスコミなどにその使用について抗議が寄せられたりした職業的言葉には、 「屠殺」「バタ屋」「人夫」「土方」「小使」「女中」「女工」などがある。 「小使」という言葉は、「屠殺」や「土方」「女中」などと並んで、その職業に対する侮蔑的な 意味合いを持ち、その職業に携わる人たちを傷つけるものとして、テレビ局や新聞社、出版 者などで差別用語、放送禁止用語に指定されている。
190 :
名無しさま :2009/08/01(土) 06:57:17 ID:QiS3EHdL
高木正幸『差別用語の基礎知識'99』 P206-P207 「小使」「用務員」 ●七四年一月、TBSテレビのドリフターズ「8時だよ全員集合」の中で、「小使」「小使」 と連発、自治労から「職業蔑視だ」との抗議が来た。 「小使」の言い換えとして「用務員」という言葉もあるが、これも「差別的」としてテレビ 局が抗議を受けた例もあり、「校務員」という言い方を使用しているテレビ局もある。 ●七五年十一月十八日、大阪朝日放送で放映したアニメ「魔法のマコちゃん」の中の 「小使いさん」という言葉に対し、全日本自治団体労働組合(自治労)大阪府本部と中 央本部が「職業差別」と朝日放送やキー局のNETに抗議、NET側は自治労中央本部委 員長あて謝罪文を提出した。さらに翌七六年に入って大阪府教育長、大阪市教育長か らも抗議文が朝日放送に伝えられ、朝日放送は両委員会に謝罪文を送った。 ●八四年二月には、フジテレビのドラマ「乙女学園男子部」で、「そんなこといっている から用務員にしかなれないんだ」というせりふがあり、系列局の関西テレビに解放同盟 から抗議が来たこともあるという。 ●九〇年十月九日、集英社発行『週刊少年ジャンプ』十月二十二日号掲載、佐藤正さ ん作の学園もの人気連載漫画「燃える!お兄さん サイボーグ用務員さんの巻」の中で、 新しい担任が来たため学校用務員になった先生を、生徒たちがからかったり、いじめたり するストーリーがあった。その中で、 「先生じゃなきゃただの働くおっさんなんだ。何を言ってもかまわないのだ」 など、用務員の仕事を侮辱する表現がいたる所にあった。発売直後の十月中旬から問 題が表面化、自治労大阪本部などの抗議で、同社は回収などの措置を決めた。 高木正幸『差別用語の基礎知識'99』 P300 △踏切番△線路工夫△小使△女工なども、不適切な言葉である。もっとも最近は、社 会の認識が深まり、使用されなくなった。
191 :
名無しさま :2009/08/01(土) 06:59:59 ID:QiS3EHdL
ところが、差別表現には極めて敏感であるはずの出版社や新聞社が 刊行した書籍の中には、江頭嘉蔵は「小使い」であったと堂々と記述 されているではないか! 川口素生『小和田家の歴史』 江頭嘉蔵氏の次男・安太郎氏が雅子妃殿下の曽祖父にあたる。江藤淳氏が『一 族再会』〔第一部〕(講談社)に引用しているが、当時の生徒(のち代議士)の回顧 録のなかに「木原村出身の人で親切な小使」として嘉蔵氏が登場するという。やが て、安太郎少年は父が小使としてつとめているこの佐賀中学校の門をくぐることに なる。この頃の佐賀中学校には授業料の減免制度や教科書の貸与制度などがあ った。いずれも余裕のない家庭の生徒をおもんぱかっての制度であるが、在学中に 父・嘉蔵氏が物故(明治十二年=一八七九年十月二日)した安太郎少年も、当然、 この制度の恩恵を受けたものと思われる。 週刊朝日 1993.1.29 江頭家は清貧だった。嘉蔵は維新後、息子の通う中学の「小使い」。
192 :
名無しさま :2009/08/01(土) 07:06:48 ID:QiS3EHdL
杉本嘉助氏が按摩師であると書いた記事は1つもないから按摩師 ではない。 マスコミ各媒体の記事では指圧師、あるいは整体師。 また、按摩という言葉は現在では差別的なニュアンスは含まれて いないし、差別用語にも指定されていない。 江頭嘉蔵が「小使」であったというのは、天下の朝日新聞や歴史専門 出版社の新人物往来社から刊行されている『小和田家の歴史』にも書 かれているのだから間違いないよね。 杉本嘉助氏は指圧師、あるいは整体師。 江頭嘉蔵氏は小使いでおk。
193 :
名無しさま :2009/08/01(土) 08:10:31 ID:igiBLOZd
194 :
名無しさま :2009/08/01(土) 10:06:27 ID:En/TWMvV
>>192 最終的に江頭嘉蔵氏は小間使いの身分で終わったわけじゃないし、
それって無理やりすぎ。
紀子さんの父親だって大学の講師や助教授時代を経て教授になったのだから
「紀子さんの父親は講師でOK」でもよいのか、という話になる。
杉本嘉助氏があん摩マッサージ指圧師の免許で開業して最終的な職業が
それだったのだから、按摩さんだのマッサージ師だのいわれても仕方ないね。
記事あるなしは関係ないんじゃないの?
世間じゃいまでもその手の職業を「もみ屋」「按摩」と言ってる人がいるのだから。
でもその国家資格もない無免許というのなら、按摩さんともいえないわな。
自称「按摩師」「マッサージ業」とでも言うべきか。
195 :
名無しさま :2009/08/01(土) 22:35:27 ID:vJm2E0LK
神武天皇って本当に存在したの? 宮内庁の公式見解は? また、その祖先にあたる天照大神の存在は?
196 :
名無しさま :2009/08/02(日) 16:43:58 ID:bbjiBtG2
>>180 >なのに小和田家や山屋家は貧しかったことを必死になって否定する人たち
>が存在する。
2ちゃんの変人以外いないんだから、別に問題とすべきことでもない。
貧しかったことは検証すればすぐわかる、ほっとけ。
197 :
名無しさま :2009/08/02(日) 16:57:10 ID:bbjiBtG2
>>181 ソースは74で十分でしょ。下級武士は城の俸給以外の収入があった「可能性が高い」。
つまり、城の俸給のみで生活を推測するのは間違っている、ということをいうのに
これ以上のソースはいらない。
つまり、山屋家の生活水準を語りたい人が、副業があったかどうか、その収入が、
当時の藩の庶民と比べてどうかを調べて提示しろ、ということです。
そうじゃないと正確なところは「分からない」。
私は「語りたい」人じゃなくて「知りたい」人なので、ソース提示希望っ。
198 :
名無しさま :2009/08/02(日) 17:09:05 ID:bbjiBtG2
>>186 あ、163見てね。
>他の同僚達のように国鉄に横すべりすることはせずに、指圧師として
>再出発したんです。
と、『3LDKのプリンセス』に記載されているわけ。つまり、
満州鉄道の人間は国鉄にそれなりの数採用されている。
特に満州鉄道は色々と技術的に実験的なことをしていたから、技術畑の
人間なら鉄道会社も欲しかったはずだよ。
「簡単に」横滑りは出来ないかもしれないけど、工業の高専出ならただの
職員よりは優先されるでしょうな。
199 :
名無しさま :2009/08/02(日) 17:14:49 ID:bbjiBtG2
>>191 >ところが、差別表現には極めて敏感であるはずの出版社や新聞社が
>刊行した書籍の中には、江頭嘉蔵は「小使い」であったと堂々と記述
>されているではないか!
アホの証明してるの?
女工という言葉は差別的かもしれないけど、過去の生糸工場を舞台にしたドラマ
例えば映画「あゝ野麦峠」では、女工という言葉は当たり前に使われていますがな。
古い時代の話をするときには、古い時代の言葉を使う、これ常識ね。
(むろん現在生活している人間がその言葉に苦痛を感じる場合は、その限りではない)
200 :
名無しさま :2009/08/02(日) 20:28:14 ID:e51KYg65
【皇室】皇室典範、97年から内閣・宮内庁OBらによる極秘検討会…紀宮さま即位も?
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1132871774/ 内閣や宮内庁のOBらによって皇室典範の改正を念頭にした極秘の
検討会が、97年から開かれていたことが、政府関係者の証言などで
24日明らかになった。メンバーは、内閣法制局や宮内庁、総理府(当時)
の元幹部らで、天皇家の長女、紀宮さま(黒田清子さん)の即位の
シミュレーションも行われた。政府関係者が皇位継承の危機的状態を
背景に少なくとも8年も前から検討を始めていた実態が浮かんだ。
会合は特別研究会や懇話会などの名前で、OBを集めて行われ、当時、
宮内庁の鎌倉節長官や古川貞二郎官房副長官、大森政輔内閣法制局
長官ら現役の政府関係者も参加したこともあったという。97年4月から
始まり、皇位継承制度を重要な課題と位置づけ、法律・政治・歴史などの
研究者を集めて月1回程度の割合で開いていた。
大学教授らが資料を作成して持ち寄っての勉強会形式で、結果は、
今回の有識者会議の資料としても活用された。有識者会議で座長代理
を務めた元最高裁判事の園部逸夫氏も当時の研究者のメンバーの一人で、
主に法律上の課題や法改正の方向をまとめる中心になっていたという。
皇太子妃雅子さまの懐妊などがあり、研究会は3年近く開かれなかった
時期もあったが、03年春から内閣の官房・法制局、宮内庁が公式検討に
向けて準備を始め、女性天皇の配偶者に関する項目など具体的検討に
入った。関係者の一人は「皇室制度の改正は、天皇家に直接かかわる
話で、性質上、細心の注意を払って対応した」と極秘検討の理由を説明
している。
ソース(毎日新聞)
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20051125k0000m010172000c.html
201 :
名無しさま :2009/08/03(月) 07:59:45 ID:It/+l8WG
202 :
名無しさま :2009/08/06(木) 15:17:40 ID:MEpv+dVv
>>194 >
>>192 最終的に江頭嘉蔵氏は小間使いの身分で終わったわけじゃないし、
>それって無理やりすぎ。
>紀子さんの父親だって大学の講師や助教授時代を経て教授になったのだから
>「紀子さんの父親は講師でOK」でもよいのか、という話になる。
それこそ支離滅裂な論理だね。
川嶋辰彦氏はペンシルバニア大学の専任講師から学習院大学の助教授に
迎えられ、現在は学習院大学の教授。
これが現在の肩書きで、おそらくは最終職歴になるだろうから、学習院大学
経済学部教授でOK。
杉本嘉助さんは、戦前には満鉄の技術者として勤務し、戦後引き揚げてきて
からは指圧療院を開いていた、と記事には書いてある。
一方、江頭嘉蔵は家系図などでは「旧佐賀藩士」と書かれてある。
江頭嘉蔵は旧制佐賀中学校の小使であったんだから、最終職歴の通り「旧制
佐賀中学校小使」と書くべきだよね。
それに、江頭嘉蔵が佐賀藩士であったという史料は存在せず、ルーツについて
は全く不明なんだし。
203 :
名無しさま :2009/08/06(木) 15:23:45 ID:MEpv+dVv
169 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/05/09(土) 00:33:27 ID:Mv/HfiRZ
>>165 その経歴、全然たいしたことない上に、
戦後はマッサージ師しかやることなかった人なんて
どうやっても持ちあがらないよ。
それ以上でも以下でもない。
マッサージ師は、マッサージ師。
病気の老人や、肉体労働者が相手の仕事。
それから、産婆さんは雅子さんの曽祖父の奥さんの話だろ?
曽祖父自身は税務署勤務じゃん。何でそう必死なん?
祖父がマッサージ師ってどうよ。
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疾病を抱える人たちの治療や保健のために施術をするのは立派な医業類似行為
なんだけど。
医業類似行為
医業類似行為とは、疾病の治療または保健の目的をもって光熱機器・器具
その他の物を使用し、または四肢もしくは精神作用を利用して施術をする行
為で、西洋医学の診療行為に当たらない療法をいいます。
治療を目的とする按摩・マッサージ・指圧・鍼灸・柔道整復などは、医療保険
がきく場合もあります。
法律上は、医業類似行為は、按摩・マッサージ・指圧師・鍼師・灸師・柔道整
復師(整骨・接骨)などの国家資格を有する者が行う鍼灸指圧などの施術と、民
間資格などのカイロ・整体・アロマ・リフレ等の療術とに分類しています。
一定の判断と治療行為も行いますが、判断を特定し、具体的な病名に結び
つけたり、それを患者に告げる行為は医師法に抵触します。
国家資格を有しない民間療法も、人の健康に害を及ぼすおそれのある行為で
なければ職業の自由であり問題ないと解されています。
http://www.shouhiseikatu.metro.tokyo.jp/sodan/s_faq/memo/m_iryouruijikoui.html
204 :
名無しさま :2009/08/06(木) 15:30:45 ID:MEpv+dVv
「日本では古くからは医療の一分野であった按摩が、医中の賎技として軽視されるよ うになった」(増永静人『指圧療法』) なぜ按摩が賎技とみなされて、按摩師が一段低い職業であるとされたかといえば、 江戸時代に幕府が盲人保護の名目で盲人が按摩業に携わることを奨励した。 そして、いつしか按摩業は盲人の生活保護の手段と化し、技法や理論面の発展も 見られずに、世間は按摩を療術ではなく単なる慰安行為としてのみ求めるようにな ったため。
205 :
名無しさま :2009/08/06(木) 15:33:31 ID:MEpv+dVv
これに対してわれわれは按摩師ではない、指圧には確たる理論の裏付け もあり技法としても按摩とは全然違うものである、と主張したのが指圧療法 に携わっていた人たち。 増永静人『症状別家庭でできる指圧』 P31−P32 築田多吉の『実際的看護の秘訣』は赤本とよばれ半世紀にわたるベストセラーですが、 このなかで「指圧療法は難病根治の法である」と、著者自身が実際に見聞してたしかめ た紹介があり、その簡単な実施法までのせていました。また戦前から「主婦の友」などの 家庭雑誌が、さかんに民間療法の紹介をしていましたが、このなかでも指圧のことがとり あげられ、一部の人にその名称が注目され、指圧の効果を体験した人もふえてきたわけ です。 このようにして指圧という名称が簡明で、語感も印象深いところから、病気を治す手技療 法はすべて指圧と一般に受けとられ、戦前に療術師組合ができたときも、それらは指圧・ 整体部門に統一されることになり、指圧の評価は確固としたものになったのです。 戦争による医薬不足によって医者が無気力になっているとき、徒手空拳で効果のある指 圧はとくに注目を受け、戦後は職を失った知識階級から多数指圧師として活躍する人ので てきたことも、指圧の評価を高めることになりました。
206 :
名無しさま :2009/08/06(木) 15:46:39 ID:MEpv+dVv
増永静人さんは両親も指圧師であった、親子2代続けて指圧業を営んだ方。 この増永氏に指圧を教わった人は多く、文化人類学者の藤岡喜愛氏もその 一人。 増永静人氏は京都大学の哲学科の出身。 同じく戦前に指圧の普及にあたった小山善太郎はもとは貿易商であった人物 で、同じく戦前に整体・指圧療法の術者として有名だった平田内蔵吉は、京都 大学医学部の出身。平田内蔵吉は、劇作家の平田オリザの祖父にあたる。 このように戦前から指圧や整体療術に携わった人たちには、高学歴の知識階級 の人たちが多い。 そして、戦後職を失った知識階級から指圧師として活躍する人たちが多く輩出し、 指圧療法に対する世間の信頼度を多いに高めた。
207 :
名無しさま :2009/08/06(木) 15:50:27 ID:MEpv+dVv
427 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/29(水) 20:35:58 ID:17KGYvix
>>426 > ぺこぺこするしか能のない紀子さんと子供達はどうして生きていくんだろう。
これまで通り、ペコペコしながら生きていくんじゃない?
祖父の按摩さんがそうしてきたように。
428 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/29(水) 21:18:33 ID:hYn7fiB6
>>427 按摩さんはペコペコしてるのは偉いだろう
女性客にセクハラする馬鹿按摩もいる世の中だしさ
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新聞、雑誌のバックナンバーをいくら探しても、杉本嘉助さんがペコペコしながら生活していた
という記事は見つからなかった。
杉本嘉助さんの近所の人たち、友人、知人の評価は「気骨のある人」「固い人」「温厚で誠実
な人」だという評価ばかりだね。
208 :
名無しさま :2009/08/06(木) 15:59:17 ID:MEpv+dVv
按摩さんがペコペコしていたかどうかは知らないけど。 杉本嘉助氏は、戦後静岡に引き揚げてきてから、手に職をつけようと指圧師 として再出発した(『3LDKのプリンセス 川嶋紀子さんのすべて』) 戦後指圧師として開業した人たちは、知識階級の人たちが多かったことは 前述の通り。 その指圧師の施術に対する姿勢はどうであったか? 再び増永静人氏の著書から引用。 ------------------------------------ 増永静人『症状別家庭でできる指圧』 P31−P32 戦争による医薬不足によって医者が無気力になっているとき、徒手空拳で効果のある指 圧はとくに注目を受け、戦後は職を失った知識階級から多数指圧師として活躍する人ので てきたことも、指圧の評価を高めることになりました。 私の父なども母にすすめられて戦後指圧師になったのですが、以前、柔道師範であった 経験が相当役にたっていました。指圧師として活躍した人たちは、病気を治すことにおいて は医者に負けないという自信と風格があり、独自の理論づけによって、どんな病気でも治る という信念をもっていました。 --------------------------------------- 指圧師は理論づけに自信を持っており、どんな病気でも治るという信念があり、風格があった。 ペコペコするのとは正反対の療術に対する態度であったことが分る。
209 :
名無しさま :2009/08/07(金) 09:07:31 ID:yituj17X
210 :
名無しさま :2009/08/07(金) 09:12:55 ID:yituj17X
秋篠宮夫妻の婚約は、昭和天皇の喪明けであることは過去スレで 検証済み。 川嶋紀子さんが会見のときに着ていたのは、喪服ではなくて濃紺 のワンピース。 日本経済新聞 1989年9月12日 紀子さんは濃紺のワンピースに真珠のレックレス姿で、手には白い手袋。 ちなみに、皇室の喪服は。 清水一郎・畠山和久監修『平成の皇室事典』 P154 喪服 皇室の第一礼装は洋装とされていますから、喪のときでも和服は着ません。特に女子 は黒のローブモンタントです。光沢のない黒い生地で、襟は詰まっていて、長袖になって います。これに、黒のベールのついた黒の帽子、さらにコートや手袋、靴、扇子などすべ て光沢のない黒を身につけます。
211 :
名無しさま :2009/08/07(金) 09:13:39 ID:yituj17X
週刊女性増刊『お健やか秋篠宮眞子さま』 本誌読者1000人にアンケート あこがれファッション人気投票では、126票を集めて 堂々の1位に輝いている。 「やっぱり」という感じもありますが、根強い人気で堂々の1位。紺のワンピースと白い 手袋がとても清楚でした。 読者座談会より 本誌 今回、本誌のアンケートで、ロイヤルファッションの人気投票をおこなったんです が、紀子さまのご婚約発表のときの紺のワンピースが第1位でして。 A やっぱりね。とても、可愛らしかったですしね。清潔感があって。 D だけど、このワンピースは好感度が高いわよ。年代に関係なく、誰からも好かれる って感じだし。 A 例えば将来、息子が生まれたとして、その子が初めて家に連れてくる女の子が、あ のワンピースを着るような子だったら交際を認めてあげちゃうとかね。 一同 笑い
212 :
名無しさま :2009/08/07(金) 10:44:11 ID:yituj17X
秋篠宮家資料庫
http://dubai.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1248794334/l50 67 名前:名無しさま 投稿日:2009/08/07(金) 10:37:24 ID:61SSTTzp
現代
秋篠宮眞子様「芸大志望」プリンセスの素顔
ネットで眞子様大人気
「皇室でオタクの一番人気。汚れなき美少女の理想像を具現化したような存在」@唐沢俊一
「美術品修復に興味を示されており将来は修復師希望。芸大志望の声も。
宮内庁書陵部を自ら訪ね職員や専門家から話を聞いて勉強している」@松崎氏
ピアノも得意、家族団欒の場で披露も
「紀子様に教えてもらってケーキ作りも お菓子好きでちょっと太られたかも」@学習院関係者
「数学が苦手、歴史が得意。普段はおとなしい。佳子様のほうが活発。
スカート丈はウエストで折り返して短く、携帯電話も持っている。
紀子様と姉妹で悠仁様の面倒を見ている」@学習院関係者
「中等科のころはジャニーズのコンサートに行きたがりまわりをこまらせたことも。
NEWS山下のファン、学校でもそのジャニーズの話題で盛り上がっている」@全国紙宮内庁担当
美智子様は特に目をかけており、単独公務をこなすようになり、皇后は相好を崩し
「眞子ちゃん、ご苦労様」と人目もはばからずお褒めの言葉
213 :
名無しさま :2009/08/07(金) 10:49:45 ID:yituj17X
眞子内親王がジャニーズのコンサートに出かけた、という事実は無く、宮内庁は
TBSと「週刊新潮」に対し公式に抗議をしている。
TBSテレビの番組「2時っチャオ!」において,平成20年9月11日に放送されました
秋篠宮妃殿下のお誕生日特集番組中,眞子内親王殿下がジャニーズのコンサー
トに行かれた旨の放送がありましたが,このような事実はありませんので,その旨,
TBSテレビにお伝えしました。
また,これと同旨の報道が,一昨年の秋にも「週刊新潮」においてなされ,当時も宮
内庁から同社に対し,事実に反する旨指摘するとともに,今後は事実の確認と客観
的事実に基づいた記事を掲載されるよう要請しています。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/taio-h20-0926.html
214 :
名無しさま :2009/08/07(金) 16:50:59 ID:HxGBCaRc
結局紀子の祖父は満州から引き上げたあとは、 国鉄からの再雇用のオファもなく、指圧医院を開業した ってことでOKかな? いくら否定しても按摩マッサージ指圧師の免許で開業したのなら 世間から按摩さんと呼ばれても仕方ないな。
215 :
名無しさま :2009/08/08(土) 23:11:12 ID:LCUuYhLy
>>214 あん摩マッサージ指圧師の免許を取得したら、あん摩マッサージ指圧師と名乗っても
いいし、あん摩師、マッサージ師、指圧師と名乗ってもかまいません。
ここで問題になっているのは、あん摩師という言葉の使い方ですよ。
あん摩師という言葉は、以前は視覚障害者への差別的な蔑称として使われていましたが、
現在あん摩師に対して世間の偏見もなく、あん摩師は差別用語でもありません。
また、杉本嘉助氏は整体師であったという記事もありますが、整体やカイロプラティック
には国家資格は存在せず、民間療法であるとの位置づけですが、施術をされる者に害
が及ばさない限り、自由に開業できますし、法律的には何の問題もありません。
216 :
名無しさま :2009/08/08(土) 23:59:01 ID:OT5ZuNqJ
>いくら否定しても按摩マッサージ指圧師の免許で開業したのなら >世間から按摩さんと呼ばれても仕方ないな 仕方がある、仕方のないの問題じゃないんだよ。 按摩マッサージ指圧師の免許を取っても、あくまでも自分は按摩師であって マッサージや指圧師とは技法も理論も違うという考えから按摩師を名乗り、 按摩単独の療院を開業する人もいる。それはマッサージ師や指圧師であって も同様のこと。 本人が按摩師を名乗っているのなら按摩師、マッサージ師を名乗っているのなら マッサージ師と呼ぶべき。 紀子妃の祖父を按摩師であると書いた記事はどこにもない。 また、按摩マッサージ指圧師の国家免許を持たないで按摩師を名乗り、 按摩業務を行うことは法律違反になるよ。 検証スレなんだから、紀子日の祖父が按摩免許を持っており、按摩師を 名乗って按摩業をしていたというソースをうpしてよ。
217 :
名無しさま :2009/08/08(土) 23:59:27 ID:LWb5kyZ2
>>214 じゃ紀子さんの祖父は按摩さんでOKなんじゃん。
当時は「ロイヤルマッサージ業」なんて馬鹿にされてたけどなw
地方じゃいまでも按摩さん=めくら=もみ屋、という意味で使ってるところ
あるぞ。うちの田舎じゃそのへん一緒だ。
めくら商売のくせに→按摩稼業、とよく耳にした。
218 :
名無しさま :2009/08/09(日) 00:14:29 ID:sfSspBFc
>>217 それは杉本嘉助氏が全く実態のない「ロイヤルマッサージの会」の会長に
されて、怪文書を撒かれた、杉本氏が被害者だった事件なんだけど。
俺はいい歳こいたオヤジだけど、按摩さんに対する蔑視とかはなかった。
うちの近所に盲人で自宅で按摩治療院を開いていた人がいて、その娘は
俺と同級生だったけど、クラスでそのことについて差別意識を持つやつ
はいなかったよ。
それに杉本寡助氏は盲人でもないし、当時としては高学歴の知識階級に
属した人でしょ。
219 :
名無しさま :2009/08/09(日) 00:18:38 ID:JSgvyeRH
220 :
名無しさま :2009/08/09(日) 00:24:06 ID:sfSspBFc
杉本氏が按摩師ならそれでもいいよ。 按摩師は立派な職業なんだし。 ただ、按摩師の国家資格持たないで按摩治療院を開業することは法律違反に なるよ。 あと、提案だけどここを見ているのは噂板を見ている人が多い。 このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20) 秋篠宮家のお噂170 [噂話] 皇室にまつわるデマ・ウソを徹底検証 [噂話] 秋篠宮家のお噂167 [噂話] 秋篠宮家のお噂169 [噂話] 秋篠宮家のお噂168 [噂話] 噂板は妄想・デマレスの宝庫だから、そこを徹底的に過去スレから 検証してみればいいと思う。 それから、デマ・妄想レスを晒しあげる意味でも、出来ればage推奨で。
221 :
名無しさま :2009/08/09(日) 00:28:54 ID:sfSspBFc
>>218 按摩師に対するID:LWb5kyZ2の決め付けこそ偏見じゃない。
杉本氏が按摩師ではないのに按摩師であるというのも捏造だね。
杉本氏は盲人でないことは事実だし、当時としては全体の数パー
セントしか進学できなかった高等教育を受けた人だというのは
客観的な事実だろ。
222 :
名無しさま :2009/08/09(日) 07:34:06 ID:xFV4YaIZ
あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律
第一条 医師以外の者で、あん摩、マツサージ若しくは指圧、はり又はきゆうを業とし
ようとする者は、それぞれ、あん摩マツサージ指圧師免許、はり師免許又はきゆう師
免許(以下免許という。)を受けなければならない。
第二条 免許は、学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)第九十条第一項の規
定により大学に入学することのできる者(この項の規定により文部科学大臣の認定し
た学校が大学である場合において、当該大学が同条第二項の規定により当該大学に
入学させた者を含む。)で、三年以上、文部科学省令・厚生労働省令で定める基準に
適合するものとして、文部科学大臣の認定した学校又は厚生労働大臣の認定した養成
施設において解剖学、生理学、病理学、衛生学その他あん摩マツサージ指圧師、はり
師又はきゆう師となるのに必要な知識及び技能を修得したものであつて、厚生労働大臣
の行うあん摩マツサージ指圧師試験、はり師試験又はきゆう師試験(以下「試験」という。)
に合格した者に対して、厚生労働大臣が、これを与える。
http://www.ron.gr.jp/law/law/anma.htm
223 :
名無しさま :2009/08/09(日) 07:38:31 ID:xFV4YaIZ
第十三条の七 次の各号のいずれかに該当する者は、五十万円以下の罰金に処する。
一 第一条の規定に違反して、あん摩、マツサージ若しくは指圧、はり又はきゆうを業とした者
二 虚偽又は不正の事実に基づいてあん摩マツサージ指圧師免許、はり師免許又はきゆう師免許を受けた者
三 第七条の二(第十二条の二第二項において準用する場合を含む。)の規定に違反した者
四 第十二条の規定に違反した者
五 第十二条の三の規定に基づく業務禁止の処分に違反した者
2 前項第三号の罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。
http://www.ron.gr.jp/law/law/anma.htm
224 :
名無しさま :2009/08/09(日) 07:40:51 ID:xFV4YaIZ
あん摩マッサージ指圧師免許を持たないものがあん摩を行うことは 法律で禁じられているよ。 杉本嘉助氏があん摩マッサージ指圧師の免許を取得してあん摩療院 を開いていたというソースは?
225 :
名無しさま :2009/08/09(日) 07:53:22 ID:xFV4YaIZ
226 :
名無しさま :2009/08/09(日) 10:23:44 ID:I22ey+Sp
>>224 指圧医院を開業していたのは事実なんでしょ?
もとを読めば指圧医院を開業するには「あん摩マツサージ指圧師免許」が必要。
なら按摩師と称されても仕方ないでしょ、という話なんですけど。
免許にその3つの行為が包括されてるのに、名称のみ個別にこだわるのは変な話。
227 :
名無しさま :2009/08/09(日) 12:14:46 ID:xFV4YaIZ
>>226 217 名前:名無しさま 投稿日:2009/08/08(土) 23:59:27 ID:LWb5kyZ2
>>214 じゃ紀子さんの祖父は按摩さんでOKなんじゃん。
当時は「ロイヤルマッサージ業」なんて馬鹿にされてたけどなw
地方じゃいまでも按摩さん=めくら=もみ屋、という意味で使ってるところ
あるぞ。うちの田舎じゃそのへん一緒だ。
めくら商売のくせに→按摩稼業、とよく耳にした。
↑
こいつのレスが端なくもアンチ連中の本音をゲロってる。
なぜこうも執拗にあん摩という言葉にこだわって連呼するかといえば、
あん摩=メクラのする仕事、そのメクラのするあん摩をしていた祖父を
持つ紀子妃という印象操作で貶めて罵倒するための目的。
あん摩師は賎業でもないし、そもそも職業に貴賎はないのだから、杉本
嘉助師があん摩マッサージ指圧師の免許を取ってあん摩師の仕事をし
ていたのであったらそれは何も問題はない。
杉本嘉助氏はいつあん摩マッサージ指圧師の免許を取ったのか教えて
欲しいと言ってるだけなんだけど。
あん摩マッサージ指圧師の免許を持たないであん摩をすることは法律で
禁じられているんだから、無免許であん摩をしていたんだったらそれこそ
スキャンダルだ。
228 :
名無しさま :2009/08/09(日) 12:18:19 ID:xFV4YaIZ
過去の記事内容では、杉本嘉助氏は終戦後独学で指圧、整体を学んだ、 と書いてあるから、免許を持たないでい開業できる整体師であった可能性 が高いと思うけど。
229 :
名無しさま :2009/08/09(日) 13:09:10 ID:I22ey+Sp
>>227 つかどういう看板で商売していたのかがわかればいいのでしょ?
過去記事だと指圧院とあったから、それが事実なら按摩マッサージ指圧師の
免許を取得してなきゃ無免許の違法行為となるのだけど。
230 :
名無しさま :2009/08/09(日) 13:09:35 ID:xFV4YaIZ
>>229 訂正
誤 杉本 嘉助師があん摩マッサージ指圧師の免許を取って
正 杉本 嘉助氏があん摩マッサージ指圧師の免許を取って
231 :
名無しさま :2009/08/09(日) 13:21:52 ID:xFV4YaIZ
>>229 整体師と書いた記事と指圧師と書いた記事があるから、どういう看板で
開業していたかといえば指圧療院、あるいは整体療院だろうね。
本人がどう名乗っていたかと言えば指圧師、あるいは整体師。
指圧の免許を持っていないのに指圧を行えば法律に反することだから
罰せられるよ。
整体療院で整体を行って、医業類似行為ではなく、あくまでも家庭療法としての
指圧を施すのであれば法律違反ではないし、罰せられることもないけど。
232 :
名無しさま :2009/08/09(日) 16:32:52 ID:XFyk9hKZ
>>227 それには全くの同意ですけど、ID:LWb5kyZ2みたいな人間の屑に
いってもムダですよ。
職業に貴賎がある無いは主観の問題ですからね。
杉本氏は視覚障害者ではなくて晴眼者ですし、ペコペコして生きてこなかった。
周囲の評価は温和、気骨がある。
指圧や整体の民間療法家たちは知識階級の人たちが多かった。
戦後職を失った知識階級層から指圧師になった人が多かった。そして、
そういう人たちの活躍によって指圧に対する世間の信頼度は高まった。
検証スレだからこういう客観的事実をコツコツと積み上げていって
もらいたいですね。
主観的な思い込みのみで一方を攻撃したり、また擁護するばかりではなくて。
233 :
名無しさま :2009/08/09(日) 16:37:50 ID:XFyk9hKZ
234 :
名無しさま :2009/08/09(日) 16:58:11 ID:4X7a3iUS
232の話は はじめて聞きます。 知識階級であろうと何であろうと資格を持ってなければ、違法でしょうに。 最近こそ違うけど、戦後などは 按摩、指圧などは ハンディを持った方の生活手段だから、特に知識人と言われる人々は その職業につくのは遠慮したのですのに。
235 :
名無しさま :2009/08/09(日) 17:19:18 ID:4X7a3iUS
で、キコさんの伯父様は 免許を とっての開業では なかったってこと? そう言う理解で いいのですよね。 ・・ま、驚きませんが、キコ妃の お従兄弟さんも 無免許で設計事務所だかなんだか、やってて逮捕されてたし。
236 :
名無しさま :2009/08/09(日) 23:03:38 ID:xFV4YaIZ
>>234 増永静人『症状別家庭でできる指圧』 P31−P32
築田多吉の『実際的看護の秘訣』は赤本とよばれ半世紀にわたるベストセラーですが、
このなかで「指圧療法は難病根治の法である」と、著者自身が実際に見聞してたしかめ
た紹介があり、その簡単な実施法までのせていました。また戦前から「主婦の友」などの
家庭雑誌が、さかんに民間療法の紹介をしていましたが、このなかでも指圧のことがとり
あげられ、一部の人にその名称が注目され、指圧の効果を体験した人もふえてきたわけ
です。
このようにして指圧という名称が簡明で、語感も印象深いところから、病気を治す手技療
法はすべて指圧と一般に受けとられ、戦前に療術師組合ができたときも、それらは指圧・
整体部門に統一されることになり、指圧の評価は確固としたものになったのです。
戦争による医薬不足によって医者が無気力になっているとき、徒手空拳で効果のある指
圧はとくに注目を受け、戦後は職を失った知識階級から多数指圧師として活躍する人ので
てきたことも、指圧の評価を高めることになりました。
237 :
名無しさま :2009/08/09(日) 23:06:14 ID:xFV4YaIZ
増永静人氏は京大文学部の卒業だそうだね。 そういう知識階級の人たちが、戦後職を失って指圧師となったそうだ。
238 :
名無しさま :2009/08/09(日) 23:13:23 ID:xFV4YaIZ
>>235 整体師は国家免許を取得しなくても開業ができるから、免許無しで整体療院を
開業しても法的には何の問題も無いよ。
ただし、人体や健康に害を及ぼす施術であったら、法律で厳しく罰せられて、施術
を行うことを禁じられるけど。
紀子妃の従兄弟は建築士ではなくて、建築デザイナー。
設計した建物を知り合いの建築業者に依頼したところ、その業者は無免許だった。
杜撰な建築施工であったので、依頼主が民事訴訟を起こして、のちに和解交渉に。
紀子妃の従兄弟は逮捕なんぞされていないけどw
239 :
名無しさま :2009/08/09(日) 23:55:29 ID:nUL5oREb
>>236 指圧師でもない無免許でもOKの整体師である紀子の祖父なんて
按摩より劣る商売やってたってわけだねw
240 :
名無しさま :2009/08/10(月) 11:45:53 ID:dK4uiFkO
紀子さんの祖父は紀子さんの結婚後まもなく廃業してるんだけど、 あれこれ下賎なことを言われたから世間体を憚ってというのが一般人の見方。 本当にそんなにあん摩や指圧が高尚な仕事なら堂々と営業を続けてるんじゃないの? 宮妃の祖父がそんな職業では「みっともない」 という思いがあるから早々に廃業したとしか思えない。
241 :
名無しさま :2009/08/10(月) 23:05:44 ID:6vTX2Xvn
>>240 杉本嘉助さんが廃業したのは1988年7月。
礼宮と川嶋紀子さんの婚約内定の報道がなされたの1989年8月だから、
その1年以上前に廃業している。
■毎日グラフ別冊『秋篠宮家創立 文仁親王殿下と紀子妃殿下』
嘉助さんも横浜工業専門学校(現横浜国大)を卒業後、満鉄入りし旧満州にあっ
た8つの鉄道工場を管理する鉄道総局工作局工場課に勤務した。敗戦後、せきつい
矯正器械を開発して特許をとり昭和30年代から一昨年まで静岡市内で指圧療院を
営 んでいた。
242 :
名無しさま :2009/08/10(月) 23:08:46 ID:6vTX2Xvn
杉本嘉助さんが指圧師だと書いているのは毎日新聞だけで、朝日や読売、 その他の新聞、雑誌でも整体治療院を開業していた、と書いている記事が 多い。 神一行『天皇家の人々』 いっぽう、紀子妃の母・和代は、静岡県在住の杉本嘉助と栄子の間に生まれた。 杉本家は同市で代々、水産加工業を営んでいる。 嘉助は、横浜工業専門学校(現・横浜国大)を卒業した後、満州鉄道にはいり、旧 満州に渡った。終戦後、矯正器具を開発して特許を取り、整体治療院を開業してい た。
243 :
名無しさま :2009/08/10(月) 23:28:01 ID:6vTX2Xvn
あん摩もマッサージ、指圧も同じじゃん、というようなレスが多いけど、それは違う。
あん摩、マッサージ、指圧はその成り立ちも技法も全く異なる。
あん摩・・・・・・・古代中国で生まれる
マッサージ・・・・・・・16世紀のフランスで医療技術として生まれ、明治期
にその技法が日本に紹介される
指圧・・・・・・・・大正時代の日本で生まれた手技療法
>>194 >杉本嘉助氏があん摩マッサージ指圧師の免許で開業して最終的な職業が
>それだったのだから、按摩さんだのマッサージ師だのいわれても仕方ないね。
>記事あるなしは関係ないんじゃないの?
>世間じゃいまでもその手の職業を「もみ屋」「按摩」と言ってる人がいるのだから。
>でもその国家資格もない無免許というのなら、按摩さんともいえないわな。
>自称「按摩師」「マッサージ業」とでも言うべきか。
あん摩には揉んだり、さすったり、ひねったりする技法があるけど、指圧にはその
ような技法は存在せずにただツボを圧すだけ。
指圧には揉みという技法が存在しないから、指圧師はもみ屋ではなくて、あん摩
とは全く違う技法です。
244 :
名無しさま :2009/08/11(火) 07:26:02 ID:p7HBRteM
技法は違っていても、あん摩マッサージ指圧師の免許をお持ちなら、どれも出来るんじゃないですか? あん摩だけ否定しようとするのは、差別意識の裏返しにも見えますよ。 後、杉本嘉助さんが矯正具の特許をお持ちだというソースは何でしょうか? どういった矯正具だったのか知りたくて探したんですが、検索した範囲では2chのレスぐらいしか見つからなかったもので、ご存知の方がおられたなら教えて貰いたいのですが。
245 :
名無しさま :2009/08/11(火) 11:00:25 ID:9AdRJA13
>>243 でも法的には同じものと分類されてるんですよ。
資格取得の教科をみても、それぞれが独自に学習するわけじゃない。
成り立ちは異なってもやってることは同じ施行なので
国家資格の名称も「あん摩マッサージ指圧師」になってる。
逆にこの3つをきっちり分離してやるということこそ至難の業でしょうね。
だからこの免許があれば3つとも技術的にできるはず。
あん摩師じゃないけど、指圧師です、なんて理屈は通りません。
免許もやってること一緒なのだから。
246 :
名無しさま :2009/08/11(火) 22:32:37 ID:qpyf67nB
>>244 杉本さんが脊椎矯正器具の特許を取ったことは、色んな雑誌や新聞で
報道されているから、記事はすぐに見つかる。
247 :
名無しさま :2009/08/11(火) 22:41:15 ID:qpyf67nB
>>245 戦後手技療法は全てあん摩に一括されたときに、我々はあん摩にあらずと
銀座で抗議のデモ行進をして、厚生省にあん摩、マッサージ以外の手技療法
であることを認めさせ、その結果「あん摩・マッサージ・指圧師法」という法律名
になった経緯があるのを知ってる?
指圧業界の関係者が、指圧はあん摩ではなくて全く違う手技療法だと主張して
いるんだから、指圧とあん摩は法律上の名称では同一とされているけど、本来
は全く異なるもの。
整体なら、なおさらあん摩とは異なる手技療法だね。
248 :
名無しさま :2009/08/11(火) 22:46:13 ID:qpyf67nB
あん摩マッサージ指圧師の試験に合格すれば、どの名称で開業しても問題
ない。
だからあん摩、マッサージ、指圧の全ての看板を掲げて開業する人の方が
多い。
だけど、指圧関係の人たちはあん摩とは違う手技であるという主張をしてきた
経過からか、あん摩マッサージ指圧師免許に合格しても、あくまでも指圧師と
いう名称で自らを名乗っている人もいるようだ。
池永清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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池永 清(いけなが きよし、1966年 - )は、カナダを中心に活躍する日本の指圧師。
東京都生まれ。カナダ指圧カレッジ理事長、カナダBC州指圧協会初代会長/現常
任理事、日本指圧協会カナダ支部初代支部長、国際指圧インストラクター。
日本指圧専門学校浪越学園にて指圧の創始者浪越徳治郎に師事。1986年卒業後
んまマッサージ指圧師免許を取得。1996年カナダトロントに渡り、指圧アカデミーに
て指圧師兼指圧教師を務めた後、ブリティッシュコロンビア州バンクーバーに移動し
て、カナダ指圧カレッジ (Canadian College of Shiatsu Therapy)、カナダBC州指圧
協会 (Canadian Shiatsu Society of BC) を設立。日本指圧協会浪越徳冶郎会長
(当時)から初代カナダ支部長に任命される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E6%B0%B8%E6%B8%85
249 :
名無しさま :2009/08/11(火) 22:57:56 ID:qpyf67nB
明治になってヨーロッパから日本にマッサージの技法が紹介され、それ をあん摩師の人たちが取り入れたので、現在では両者の技法はあまり 変わらずに、ほとんど同じだといってもいい。 また、戦後になってあん摩マッサージ指圧法が制定された後、あん摩師 の人たちが指圧の技術を取り入れたこともあったらしい。 しかし、いまでも指圧には「もむ」という技法は存在しない。 だから指圧師を「もみ屋」だというのは間違っている。
250 :
名無しさま :2009/08/12(水) 00:47:26 ID:h4fOvuQF
251 :
名無しさま :2009/08/12(水) 19:49:49 ID:6yJq0D9A
>>250 杉本嘉助氏が特許を取得した記事は、過去スレでも既出なので、自分で探す
こと。
252 :
名無しさま :2009/08/12(水) 19:51:05 ID:6yJq0D9A
296 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/10/17(金) 02:03:51
>>286 >チッソ関係の犯罪者の系譜
雅子様の祖父である江頭氏はチッソ問題の収拾のため、
政府系金融機関である日本興業銀行から送り込まれた社長であって、
問題発生当時は何の関係もなかった人ですよ。
…それに、それを言うたら美智子様の実の妹さんが第2水俣病の原因企業のひとつである、
昭和電工の創業者の創業者の孫とである安西孝之氏と結婚してます。
この人は第2水俣病発生当時、既に昭和電工の社員、それも幹部社員でしたよ?
問題が明らかになった当時、美智子様は既に皇太子妃。離婚すべきでしたね、
>>286 の考え方で言うと。
紀子さんは、悠仁くん妊娠当時、従兄弟が詐欺で逮捕、立件されてるなああら大変だー。
詐欺師の従姉妹が皇后、詐欺師の従姉妹の子が天皇なんて、戦前だったら考えられませんねwww
235 名前:名無しさま 投稿日:2009/08/09(日) 17:19:18 ID:4X7a3iUS
で、キコさんの伯父様は 免許を とっての開業では なかったってこと?
そう言う理解で いいのですよね。
・・ま、驚きませんが、キコ妃の お従兄弟さんも 無免許で設計事務所だかなんだか、やってて逮捕されてたし。
253 :
名無しさま :2009/08/12(水) 19:52:24 ID:6yJq0D9A
週刊文春2006年3月2日『紀子さまの従兄弟が「違法建築」で告訴された!』要旨 杉並区在住の主婦、原田涼子さん(仮名)は、マンション住まいであったが子どもが出来 たことを機に家を建てようと思い、友人夫婦から「腕のいい建築士で、賞もとってる」と紹 介されたのが紀子妃の従兄弟の建築デザイナー・A氏であった。 原田さんは、2000年5月にA氏との間で自宅の設計管理業務を、250万円で委託すると いう「設計管理業務委託契約」を取り交わした。 しかし、A氏の設計管理業務に従い、実際の原田邸の建築を手がけたB氏は無許可の 建築業者だった。 暖房が全く効かず、家のいたるところで結露が発生し、そのうちに家中でカビが繁殖。 子どもたちも気管支炎は肺炎で入退院を繰り返すようになった。 原田さんが、A氏に対して損害賠償を求めて訴訟を起こした。 文春の同記事によれば、 「原田さんがA氏を相手取った民事訴訟は現在、第一回口頭弁論を経て、建築調停 中だという。」 その後この事件については続報はないが、おそらくは原田さんとAさんの間で和解が 成立したか、あるいは原田さんが訴訟を取りさげたかの、どちらかであると思われる。 紀子妃の従兄弟・A氏は詐欺事件で立件も逮捕もされていないし、民事でも実刑判決 がおりたわけでもない。
254 :
名無しさま :2009/08/12(水) 19:58:53 ID:6yJq0D9A
日本指圧専門学校HPより
指圧とは
日本独特の技法であって、あん摩、マッサージのようにもんだり、
たたいたりせず、手指や手掌で体表に圧を加える技法。
筋肉の疲労物質を除去し、筋肉を正常化し、体の均衡を保つこと
を目的に手指によって圧の操作を変化させます。種々の圧法、圧
加減等、また、加圧の速度も体の状態に応じ、ゆっくりと、ある場
合はリズミカルに操作し、中枢から末梢へと遠心性の方式で行う
特徴があります。
http://www.shiatsu.ac.jp/shiatsu/
255 :
名無しさま :2009/08/12(水) 19:59:56 ID:6yJq0D9A
あん摩マッサージ師圧師の資格をとる為には
指圧がはじめて法的に認められるようになったのは、昭和三十年八月十二日
公布の法律第百六十一号によってである。あん摩(マッサージ、指圧を含む)
として、指圧という名称が、はじめて法律の中に取り入れられたのである。
しかし、この法律では、あん摩のカッコ内に指圧を含むという、いかにも、あ
ん摩の枠内に閉じ込められ、付随した不合理な扱いであった。そこで、これを
不服として、指圧師たちが一丸となって運動をおこし、昭和三十九年六月三十
日公布の法律第百二十号により、あん摩、マッサージ、指圧師法と名称が改
正され、ようやく指圧の独自の手技法が認められたのである。
指圧師とは、このように法律で定められた名称で、あん摩、マッサージ、指
圧師の免許を受けた者をいうのである。指圧師の資格を得るためには、厚生
大臣に認定された養成施設(日本指圧専門学校等)において、指圧理論、実
技その他について三年間、指圧師となるのに必要な知識および技能を修得し、
国家試験に合格しなければならない。これは、法第二条に規定されている。
http://www.shiatsu.or.jp/shikaku.html
256 :
名無しさま :2009/08/12(水) 20:07:44 ID:6yJq0D9A
あん摩マッサージ指圧師法で、指圧はあん摩やマッサージと同じ扱いだから 指圧もあん摩も同じだろ、と言うけれども日本指圧協会は、指圧は日本で生まれ た独自の療法で、あん摩やマッサージとは異なると主張しているんだから、指圧 関係者の主張を認めるべきだね。 指圧師となって開業するのには、あん摩マッサージ指圧師の国家試験に合格しな ければ開業できないけど、日本指圧専門学校では、あくまでも指圧の理論や技法 を教え、将来指圧師として開業する人たちを養成しているよう。
257 :
名無しさま :2009/08/13(木) 00:18:28 ID:SiGm0RCx
杉本嘉助さんが、指圧師であったのか、整体師であったのか、その検証が先では?
整体師であったのなら、あん摩マッサージ指圧師の資格や技法の違いは、無関係な話になるでしょ?
ttp://www15.ocn.ne.jp/~ahaki/experiment.html あん摩マッサージ指圧師の試験を行う東洋療法研修試験財団にある現在の受験資格では、所定の養成所を出ないと試験を受けられないようになっています。
当時も同じ条件だったとすれば、独学で資格を取る事が出来たのか?という疑問があります。
特許を取ったと言われる矯正器具も、整体で使用するもののようだし、整体師だったのじゃないの?というきがするのですが。
過去ログを見ろと言いますが、●が無いので見れません。
どの本にあったとか、いつ、どの新聞記事にあったとか、ヒントだけでももらえると有り難いのですが。
258 :
名無しさま :2009/08/20(木) 07:10:31 ID:789hAB3X
>>202 最終職歴を持って職歴紹介とするルールはない。
最高とみなされる職歴を書くのが普通です。
川嶋孝彦氏は元内閣統計局長という例を見れば分かることだ。
杉本氏が満鉄の副参事(だっけ?)と紹介されるように。
杉本氏の「整体師」と江頭氏の「小使」が、社会的に見て「満鉄勤務者」や
「藩士」より劣るとみなされているのは事実なんだろうね、言い換えると。
藩の出勤簿に載らないようなレベルであっても、藩の構成メンバーとして
地域社会に認められているというのはそれだけの重みがあったのだろう。
まぁ実際には、藩士とやらで一番人口が多いのはこの層なんだろうし
(昔の組織ってのは大抵ピラミッド構造)、ここを否定するとなると、
「うちの祖先を否定するのかっ」という人間が大勢出てくるだろうから、
表立っての説には出来ないよねぇ。
末端藩士は藩士にあらず、というのは、ネットだからこそ成立する論だ。
259 :
名無しさま :2009/08/20(木) 08:39:36 ID:789hAB3X
>>232 まず、塊よりはじめよ、だ。
>指圧や整体の民間療法家たちは知識階級の人たちが多かった。
>戦後職を失った知識階級層から指圧師になった人が多かった。そして、
>そういう人たちの活躍によって指圧に対する世間の信頼度は高まった。
>検証スレだからこういう客観的事実をコツコツと積み上げていって
>もらいたいですね。
指圧という仕事に 知識階級層の人間が多くついたという話の
ソースを教えてくれっ。
温和、気骨があるまではソース出ているから納得するけど、ここいら
あたりが急に出ても納得がいかん。
いってるそばから客観的事実を積み上げていない説を持ち出してどーするんだ?
ま、知識階級という言葉自体が実体を持たない言葉だから、そもそも
検証スレに持ち出していい用語ではないような。
wikiにすら出てこないし、検索して出てきた「インテリ」を見た限り
では現場の技術者は違うという感じだし、杉本氏を語るのには
関係のない用語では?
260 :
名無しさま :2009/08/20(木) 08:50:36 ID:789hAB3X
続き。 >戦後は職を失った知識階級から多数指圧師として活躍する人ので >てきたことも、指圧の評価を高めることになりました。 ソースがこの文章だというのならちと違う。 この文章が示しているのは、指圧師に知識階級層が多いのではなく 「活躍した人」に知識階級層が多いといってるだけです。 指圧師における知識階級層の割合が高いかどうかは不明。 そもそも指圧師というのは1対1で行うものですから、当然関わる人数は 限度があります。 マスコミ・出版の分野か教育の分野に関わるからこそ知名度が高くなる、 それを称して「活躍する」と言われるわけで、となると他の分野の知識も ある「高学歴者」が有利なのは当然ですね。
261 :
名無しさま :2009/08/21(金) 10:51:46 ID:Wr86fflQ
>>251 特許取得の記事って、毎日グラフのこと?
過去スレにはこれしかなかったようだ。
(過去スレと限定されれば、検索ワードに「ウソ 妄想」を入れられるので
楽に探せる)
嘉助さんも横浜工業専門学校(現横浜国大)を卒業後、満鉄入りし旧満州にあっ
た8つの鉄道工場を管理する鉄道総局工作局工場課に勤務した。敗戦後、せきつい
矯正器械を開発して特許をとり昭和30年代から一昨年まで静岡市内で指圧療院を営
んでいた。
嘉助さんの祖父、吉三郎氏のめいの夫に静岡県清水市長を務めた鈴木平一郎氏が
いる。
『毎日グラフ増刊 文仁親王妃と紀子妃殿下』
262 :
名無しさま :2009/08/21(金) 10:57:49 ID:Wr86fflQ
マッサージについていえば、現在雨後のたけのこのようにあるクイック マッサージに資格いらないし、美容院だってマッサージしたりする。 あれ、医療行為ではないってことで許可とらずやってる。かわりに効用もうたえない。 指圧も「医療行為ではない、リラックスしていただけるためのサービス」って ことなら無資格者でも行える。整体メイン&指圧の可能性もあるね。 まぁ、とっくの昔に廃業している仕事の判定なんて難しいでしょうな。
263 :
名無しさま :2009/08/22(土) 13:38:57 ID:Q5s79KiK
那須御用邸に秋篠宮家も静養にきたようだけど、 宮家が利用する場合は職員用宿舎に泊まると何かで読んだけど、 今回もそうなの? 本来天皇家のための保養施設なのに何度も静養に利用する宮家って かなりあつかましいと思うのですが。 他の宮家の方々はまったくといっていいほど利用してはいないのに。 それから髭の殿下が今回またアル中の治療で入院というのは本当ですか? この方も皇位継承資格があるにも関わらず立場をわきまえない不摂生ぶりには あきれるばかりですね。
264 :
名無しさま :2009/08/22(土) 17:54:36 ID:xy3JP3Pb
キコさんのお祖父さんがアンマさんだったという のは嘘だったんだね?
265 :
名無しさま :2009/08/22(土) 20:21:57 ID:t4k3q4ea
>>258 まず、江頭嘉蔵について。
江頭嘉蔵以前の系図や史料、過去帳などは一切現存しないため、ルーツに
ついては全く分らない。
江頭嘉蔵が佐賀藩士であったとことを示す史料は全くない。
中学校の小使いをする前に何をしていたのかも分らないんだから、江頭嘉蔵
については「旧制佐賀中学校小使い」と書くしか仕方ないよ。
川口素生『小和田家の歴史』
さて、江頭豊氏の祖父・嘉蔵氏は明治維新までは肥前佐賀藩主・鍋島家の家臣
であったといわれる。ところが、明治初年の二種類の佐賀藩 侍着到(註=現代の
出勤簿に相当)には嘉蔵氏の名が見えない。これについて、豊氏の甥(優美子さん
のいとこ)にあたる作家の江藤淳(本名江頭淳夫)氏は、嘉蔵氏は佐賀藩の「手明
鑓」と呼ばれるクラスの藩士ではなかったかと推測している。「手明槍」は平時は無
役だが、戦時には槍や具足を携えて戦場に赴く者たちを指す。江戸時代中期以降
は無役だった「手明鑓」も藩の役職に採用されたし、幕末維新期には多くが鉄砲を
担当して活躍したといわれる。ただ、嘉蔵氏以前の系図や史料が現存していないた
め、嘉蔵氏が「手明鑓」か否かを含めて、ルーツや俸禄などはまったくわからない。
明治維新前後、嘉蔵氏は家族とともに肥前佐賀郡北川副村木原(現=佐賀市北川
副町木原)に移り住んだ。
266 :
名無しさま :2009/08/22(土) 20:44:20 ID:t4k3q4ea
>>259 >>260 戦後指圧や整体に携わった人たちに高学歴の人たちの割合が
多かったかどうかは知らない。
ただ、検証スレで実証可能な事実のみを取上げるなら、キチスレ
で言われているように杉本嘉助さんがペコペコしていたという話は
聞かない。
「気骨がある」「固い」「温和」、知人や近所の人たちは、そのような評価ばかり。
また、自分の職業を憚って廃業した、というのも嘘。
毎日新聞平成元年8月27日によれば「一昨年の7月まで指圧療院
を開いていた」。
つまり礼宮と紀子さんの婚約内定のスクープが流れる1年以上も
前に指圧療院を廃業している。
267 :
名無しさま :2009/08/22(土) 20:50:13 ID:t4k3q4ea
杉本嘉助さんは「昭和三十三年から三十五年にかけ、自ら開発した 脊椎矯正装置で三件の特許を取得している。当時としてはざん新な ローラーなどを利用した治療器具の発明だった。(中日新聞 平成 元年8月26日) 杉本嘉助さんは、その他にも指圧機など数件の実用新案も取得し ているそうだ。
268 :
名無しさま :2009/08/22(土) 23:42:10 ID:Q5s79KiK
皇室ジャーナリストの書いた本には 杉本氏は「整体医」を開業し、特許を数個持ち、現在は指圧師をしている、 と書いてありましたね。(まだ生きていた頃出版したのでしょう) 廃業してるのに指圧師をしているとあるので、看板をさげても頼まれれば 指圧師をしていたということでしょうか? それにしても「整体医」なんていう職業なんてありません。 しかも無資格のくせに廃業後は指圧メインに生業としていたかと思われる。 それにしても生きてる映像まである人なのにこれほど職業が特定できない ということは、別の見方をすればそれだけ紀子さんの母方実家が 本当に大したことがないという証拠ですね。 そういえばその方の本には美智子皇后の生母の冨美子さんの父方は 南部藩士だったとありました。あまり身分は高くないようで、 詳細ははっきりしてません。ただ冨美子さん自身は何不自由なく育ったようで 冨美子さんも雙葉学園OGだそうです。 士族といっても華族になるほど身分は高くなく、婚約後も母方が士族だという のはほとんど言及されなかったので、それこそ小和田家級の足軽士族じゃ なかろうか? 高円宮久子さんの父方はその本でも父方出自は詳細不詳。 旧家とだけあるのみ。祖父の名前から祖父は次男のようだけど、 曽祖父のことなどもなにも触れてない。 紀子さんよりもさらに怪しい久子さん。
269 :
名無しさま :2009/08/23(日) 00:19:20 ID:aFEPrMrK
270 :
名無しさま :2009/08/23(日) 19:34:48 ID:QIPLORiz
>>258 ここは検証スレだから江頭嘉蔵が佐賀藩士であったことを
示す資料をうpしてよ。
江頭家の出自については全く分からなくて謎に包まれてい
るんだから。
271 :
名無しさま :2009/08/23(日) 19:42:32 ID:QIPLORiz
>>268 カイロプラクテクターのことをカイロプラクティック・ドクターとも
呼ぶから整体師の杉本氏をカイロプラクテクターと思ったことから来る
間違いでは?
杉本氏は独学でカイロプラクティックを学んだそうだから、整体医だと
いうのは違う。
しかし、中学校の小使いを「佐賀藩士」だと書くど厚かましさよりは
ずっと害は無いと思うけど。
272 :
名無しさま :2009/08/23(日) 21:00:15 ID:Sc/lB6Yd
>>271 >>独学でカイロプラクティックを学んだそうだから、整体医だと
いうのは違う。
カイロプラティックドクターは無資格で名乗ることができますよ。
国家資格はいらないし、独学でも、専門学校行ってもなれる。
専門学校で発行する民間資格なんてあってもなくても開業可。
だからカイロプラティックドクターという意味での整体医なら問題なし。
ただし日本ではカイロ師を整体医とは普通いわないがな。
小間使いだろうと息子を攻玉社から海軍兵学校首席、海軍大優等という
スーパーエリートに育てた器量は相当評価されてもいい。
昭和初期あたりの海兵進学は日本最難関といっていいほどの超エリートだった。
東大進学なんぞよりはるかに難しい。山家他人も同様。
戦前生まれの人なら一族にそういうエリートがいる、というだけで
そこの家系に一目置くでしょうし、正直小和田家よりも上の評価。
273 :
名無しさま :2009/08/23(日) 23:25:06 ID:Kb4jKiFG
>>272 問題になっているのは江頭安太郎の経歴ではないの。
江頭家の出自がよく分らない。
だからそれを検証しようよ、ということなんだけど。
過去スレで江頭家は名家だと言ってる人たちがいたけど、そん
な名家なら佐賀県の歴史書には江頭家の家系図は載ってるよね?
江頭家の出自を教えてください。
また、江頭家の家系図のうpもよろしく。
274 :
名無しさま :2009/08/24(月) 12:47:22 ID:2hxuUwFp
名家の定義にもよるだろう。 いくら出自が辿れても正田家や川嶋家だって 旧皇族、華族からみたら「名家なんてしゃらくさいw」と馬鹿にされるんだから。
275 :
名無しさま :2009/08/24(月) 13:36:52 ID:W/596PH1
>>270 時代が時代だし、正式に証明する文献資料がなくてもしょうがないのでは?
という気がしてきた今日この頃です。
当時の人間の身分証明は、属する地域社会が認め合っているかが基盤で、
文書化されたのはごく一部のような気がするんですね。
例えば、こんな文があります。
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/byakko02.htm 上士階級だけで八百戸です。その下の階層は同程度かそれ以上いるでしょう。
これらすべてを、城の文献で管理していたかどうか・・・紙は今と違って
それなりに貴重だっただけに疑問ですね。
「資料がない以上、認められない」というのをQIPLORizさんがルールとするのは
自由ですが、となると、幕末の志士も士と認めていいかどうか分からない人間が
大勢でてくるので・・・。
日本史感覚が狂うようなルールは私は受け入れがたいですね。
276 :
名無しさま :2009/08/24(月) 13:51:57 ID:W/596PH1
>>266 ペコペコしていたのを否定したいのなら、関係ない「知識階級」なんぞ
持ち出すもんじゃない。低学歴だって堂々たる人間はいくらでもいる。
要は、あなたが指圧とか整体とかの職業だけじゃ物足りないんでしょうが。
だからこそ、「知識階級の人間が・・・」などと言い出す。
開拓地で地獄を見て、のどかな田舎に帰って暮らし、若い頃の知識を
生かして特許をとるという杉本氏の生き方というのはなかなか
魅力あるわけで、余計な飾りはいらないと思うんですがねぇ。
277 :
名無しさま :2009/08/24(月) 13:58:57 ID:W/596PH1
>>273 伊藤博文は教科書に載ってるし、家系図もあるが、だからって江戸時代から
伊藤家が名家だと目されてたわけではないぞ。桂小五郎から手下扱いされる
ような家だ(家系図はでっちあげだろうと言われている)。
江戸時代の出自を持って名家かどうか計るってのは、要は、明治大正昭和の
時代を無として扱うってことなわけ。
何が悲しくて、皇室の話を、皇室が軽んじられた時代を基盤として話さなくて
はいけないのか。
武士に拘るのも、武士じゃないことに拘るのも、あんまり意味がないと思うんだけどね。
(あ、貴族階級に拘るのなら分からなくもない)
278 :
名無しさま :2009/08/24(月) 14:05:39 ID:W/596PH1
>>271 中学校の小使いで元藩士が他にもいたらどうするんだ?
十分ありうることなんだから「あつかましい」という感情論はやめましょう。
明治初期なら中学校というのは、各県に一つくらいしかない、最高の教育機関、
つまり、地域の名士の子息が通うところなのだから、身分証明が出来る、
人格的にも安定した人間を選んだと思うよ。
郷士階級は士社会では下働き程度の仕事をやっているが、土地ではそれなりに
色々切り盛りしていて信用があるという人間だったんだから、他でも採用されてて
おかしくないと思う。
279 :
名無しさま :2009/08/24(月) 22:06:36 ID:/PEMS+At
要するに「江頭家が佐賀藩士だったという資料はどこにもない」と言う事だな 長々と言い訳ありがとう
280 :
名無しさま :2009/08/25(火) 08:55:15 ID:x8F6N1F1
つか、佐賀藩士と断定できたところで名家と認めるつもりもないんでしょ? 藩士もぴんきりだ、下級藩士は町人以下の生活だと 小和田家の出自でさんざん言ってたんだから。
281 :
名無しさま :2009/08/25(火) 14:16:06 ID:o5ocVmwl
下級藩士の生活が、町人以下だったのは事実 ここは、ウソか妄想か検証してるんだろ 川嶋家が大庄屋:本当 松浦家が部落:ウソ 紀子妃の祖父が按摩:ウソ 紀子妃は婚前堕胎した:ウソ 小和田家が三代前が不明:本当 江頭家が佐賀藩士:ウソ あと何かあったっけ、上記に反論したいのなら妄想言い訳 (自分の知り合いうんぬん、この時代…していたらしいから…に違いないe.t.c)でなく ちゃんとしたソースよろしく
282 :
名無しさま :2009/08/25(火) 14:17:03 ID:HJhW88A8
ま、資料がないというのは藩士で「ある」とも「ない」とも証明できないってこと なわけです。資料がない=藩士ではない、とするのも詭弁ですな。 で、手明鑓というのは普通、家系図も出勤簿もないような家なのか?と いうことで検索してみました「手明鑓 -皇室」と。 皇室関係のバイヤスかかった情報ぬきで、歴史感覚を知りたかったもんで。 維新の有名人、江藤新平がひっかかった!父親の名前はあるが、系図は見つからないっ。 手明鑓とは、ま、そういう家なんですね。平時は無役なら、出勤簿がないのも当然だし。 結局「藩士」という名乗りは、侍身分の端っこでも名乗って当然の身分なわけですね。 (ちなみに手明鑓は端っこではなくて、どうもまだ下がいたらしい) ま、そうだよね、坂本龍馬だって脱藩した後、元藩士と名乗ってたわけだし (龍馬は先祖は士ですらない) 藩士というのは、まぁ、○○社社員みたいに、団体に身分保障された存在である という名乗りじゃなくて、せいぜい、○○社勤務という名乗りなんでしょうね。 そこの仕事をしてますよ、という程度。臨時職員でもオーケー、と。
283 :
名無しさま :2009/08/25(火) 14:22:10 ID:HJhW88A8
284 :
名無しさま :2009/08/25(火) 15:22:53 ID:HJhW88A8
>>281 アホか。それなら、
紀子妃はは婚前堕胎した:本当
だってソースがないのだから否定できないよ。
ソースがないのなら、当人・関係者が当然そうだと認めることを通説と
するのが真っ当なルールだ。
つまり、
松浦家が部落:ウソ
紀子妃は婚前堕胎した:ウソ
小和田家が三代前が不明:ウソ
江頭家が佐賀藩士:本当
となる。
285 :
名無しさま :2009/08/25(火) 16:34:02 ID:o5ocVmwl
>>284 ならん、なかった事を証明はできない
悪魔の証明をしっているか?
なら同じく
雅子妃がアメリカで同棲して堕胎した:本当→になる
紀子妃堕胎伝説が本当たるソースはどこにもない
記事になった事もなければ、実在人物が証言したという事もない
ただ、宮内庁病院でブライダルチェックを受けたというソースはある
いかが?
286 :
名無しさま :2009/08/25(火) 16:37:21 ID:o5ocVmwl
ついでにどさくさに紛れて 小和田家三代前が不明「ウソ」 江頭氏佐賀藩士を「本当」にしないように 上記を主張したければ、きちんと繋がった小和田家の三代前以上の系図 江頭家が佐賀藩士だったという資料を見せてくれ
287 :
名無しさま :2009/08/25(火) 17:11:25 ID:wzYcEZ+q
>>258 検証スレですから、江頭家が佐賀藩士であったということを記した
書籍の名を教えてください。
288 :
名無しさま :2009/08/25(火) 17:17:01 ID:wzYcEZ+q
小和田家は、雅子妃から3代前は小和田金吉。 よって、 小和田家の3代前は不明→ウソ 小和田金吉の父母は不明なので、「3代前から先は 不明」が正しい。 過去スレで小和田金吉には2人の兄がいて、母と共に 新潟県内を転々としたから貧しかった、と書いてた人へ。 小和田金吉の両親と兄弟の名前を教えてください。 あと、小和田家は貧しくなかったという根拠を確たる資料 を元に提示お願いします。 江頭家が名家で、佐賀藩士の家系であったというソースも お願いします。
289 :
名無しさま :2009/08/25(火) 17:40:45 ID:SheXI7Op
金吉ネタは定期的に沸いてくるけど、過去レスみなよ。 さんざんでてるから。 また同じもの貼っても、不毛なやり取りをするだけ。 形勢不利になるとだしてくるよね、金吉ネタw
290 :
名無しさま :2009/08/26(水) 17:26:53 ID:OG6zdD3v
金吉さんよりも、久子妃の父方の系図のほうがずっと気になってた。 旧家の出身というわりに、曽祖父の名前や、祖父の経歴も一切不詳。 父親はそれなりの実業家で身を立てた人なんでしょうけど、 母方がちゃんと調べ上げられているのになぜ父方は不詳なんでしょう? 婚約内定した頃は両親それそれの先祖のの系図はちゃんと 公表されているのでしょうか? だれか詳細をご存知の方いますか?
291 :
名無しさま :2009/08/27(木) 09:13:50 ID:UtbF3MZL
久子さんは入内当時からあれこれいわれてましたよ。 かなりの「プレーガール」だったのは有名。 雑誌に芸者の姿をした写真が掲載されたりしてましたよ。 やり手の久子妃にボンの高円宮がつかまった。 でも宮家の次男だし、検閲も甘く、結婚が認められた。 母方の血筋がまぁ悪くなかったのが救いでしたね。 父方の家系は自分もいまだにお目にかかったことないです。 地元ではずっと続く旧家とあるけど、本家じゃないのは確かで 旧家もピンキリ、エタ庄屋なんていうのもありますからね。 久子妃の奔放な血を色濃く継いだのがビッチ承子。 高円宮から皇室の頭の悪い遺伝子を継いだのが3女。 次女は折衷でなんとか普通に育ってるとか。
292 :
名無しさま :2009/08/27(木) 10:39:23 ID:0GOuh08a
>>285 なかったことは証明できないが、あったことは証明できる。
江戸時代なら、身分のない人物なんぞそういないわけだからね。
江頭嘉蔵氏が実在の人物である以上、身分と生業(中学校勤務の前の)は
存在した筈。
江頭嘉蔵氏の以前の「身分と生業」を示せば、ウソという証明は出来る。
証明できないことを本当であるかのごとく語るのを、ウソという以上、
元佐賀藩士ではない、というのこそ「ウソ」だ。
(不明と語るのは本当だけど)
佐賀で、手明鑓200名の子孫みなさんに、「あなたの先祖が元佐賀藩士と
いうのは、出勤簿も系図もない、真っ赤なウソです」と言えるか?
「じゃあ、先祖は何だったというのか、失礼な」と怒られるのがオチだと思う。
「不明」なら多数の共感得られるのだから、わざわざ「ウソ」などと言うもんじゃない。
293 :
名無しさま :2009/08/27(木) 10:55:15 ID:0GOuh08a
>過去スレで小和田金吉には2人の兄がいて、母と共に 新潟県内を転々としたから貧しかった、と書いてた人へ。 >小和田金吉の両親と兄弟の名前を教えてください。 >あと、小和田家は貧しくなかったという根拠を確たる資料 >を元に提示お願いします。 むちゃくちゃやなー。 なんで「貧しかった」と書いている人に、「貧しくなかったという根拠」を 聞くんだ? 聞くのなら「貧しかったという根拠」だろうに。 あと、名前を聞くのも無茶だろう? 池上四郎の家の長男の名前を誰が知ってますか? 成人前に亡くなってたら、名前なんぞ残らないって。 なんでもかんでも噛み付くんじゃない。
294 :
名無しさま :2009/08/27(木) 11:26:46 ID:0GOuh08a
まぁ皇后陛下も母系は祖父の副島氏までだ、名前出てるの。 で、紀子妃も祖父杉本氏までの調査。 となると、雅子妃だけ江頭嘉蔵氏の話になるのは公平を欠くと思う。 江頭安太郎氏で十分だよね。 佐賀の20石取りの下級武士だったが私設の海軍予備校を持つにいたった 古賀家は江頭家と二重の婚姻をし、後に養子を貰ったりまでしている。 「古賀家にとって」江頭家は同格なんだろう。 それくらいの家のイメージでいいと思うよ。
295 :
名無しさま :2009/08/27(木) 16:46:05 ID:/FSovmXy
紀子さんの母方って祖父の職業も正確にわからんの? どんだけ底辺なんだよ! あの祖父は婚約当時だって生きてたじゃん、下着姿でテレビ映ってたし。 あのド田舎で満州帰りの整体師なんていったら胡散臭すぎるぞw 国家資格持って按摩や指圧やってました、というほうがましなのに それも違うって、もうどんだけ〜っ! 宮家で妃殿下が別荘もないのは紀子さんぐらいだよな。 夏になると辛いだろうね、たかるように天皇家専用の御用邸に 泊めさせてもらって…(本当は宮家の使用はダメだったのに、あつかましいね)
296 :
名無しさま :2009/08/28(金) 09:47:45 ID:MVJwoTob
459 :名無しさん@十周年:2009/08/28(金) 09:43:57 ID:Zdqj4V220 日程がほぼ固まった7月中旬、秋篠宮サイドから三つの要望。 ・船で運河を巡る予定を「暑いからやめてほしい」 →「暑いから」なんていい大人が我がままだよね〜 ・当初予定になかったのに「動物園に行きたい」 →よりによって動物園なんて駄々こねるなんていい大人が超我がままだよね〜 「警備の予定もあり、日程は早々気軽に変えられるものではない。 この急な(←どこが?)ご要望には現場担当者も頭を抱えてしまった」 ・さらに、日程後半に予定されていた両殿下と随行員の食事会を 「夫婦二人だけにしてほしい」。 →側近への思いやりのかけらもない、いい大人がすごい我がままだよね〜 公務のあり方を「受け身」とした秋篠宮殿下。 自分から要望を出すことはしないはずなのになぜ? そりゃこいつらが海外公務なんて海外旅行の遊びの延長だと 思ってるから、そういう要望がでるに決まってるだろ♪ これがこいつら本性なんだって昔からわかってたから いまさら驚かないよw 今年の静養は天皇皇后からおもいっきり距離を置かれた理由がわかったよ。
297 :
名無しさま :2009/08/28(金) 11:33:49 ID:GB/Xs7Cj
298 :
名無しさま :2009/08/28(金) 11:44:28 ID:GB/Xs7Cj
むろん川嶋家が「大庄屋」の任命を受けていたというきちんとした情報が あるのなら是非提示してください。 城下に近い場所なんで、可能性は十分あると思っております。
299 :
名無しさま :2009/08/28(金) 17:11:34 ID:jSIQ4z/B
大庄屋って本陣とかをいうのでは? 川嶋家が本陣ではないのは事実。 そうならとっくにソースがでまわってる。 ただの土地持ち百姓なんでしょうね。
300 :
名無しさま :2009/08/29(土) 14:39:38 ID:0pgGogxy
>>292 では江頭氏が「手明鑓」だったという確実なソースか、資料をくれ
話はそれからだ
301 :
名無しさま :2009/08/29(土) 20:15:23 ID:UKLb13gt
ttp://www.tabiken.com/history/doc/P/P124C200.HTM >第4に、藩士の数が多く(1870年の華士卒族の全人口に対する比率は16.31%)、多くの下級武士は農村に住み、耕作に従事したり、城下に住む場合も宿屋をはじめさまざまな商業を営んでいたこと、
>武士と町人・百姓の中間身分として被官と呼ばれる層があったことなどがあげられる。
全人口の16.31%と言われる藩士を確認出来る名簿等は存在するのですか?
そういったものが無いのであれば、検証不可能ではないのでしょうか?
戸籍などで先祖を辿る事は可能なんでしょうが、第三者が見る事は不可能だと前にも言った記憶があるんですが。
302 :
名無しさま :2009/08/29(土) 23:00:35 ID:FAdolnT3
江頭家の姻戚関係をみれば、先祖に問題なしということはよくわかる。 名家ではないにせよ、部落出身や在日なんてことはない。 これは小和田家も川嶋家も同様。 姻戚関係でだいたいの家格や出自がわかるというもの。 明治期なんて特権階級も庶民も家同士の結婚なんだから、つりあいのとれた家同士で 結婚するものだ。
名家の定義もいろいろだからな。 ケネディ家も一代で成り上がったが、元は貧しいアイルランド移民。 政治家としての歴史も2代だけなのに、それでも名門ケネディ家で通る。 経済的なことは別問題としたら 正田家も川嶋家も小和田家も名門でも名家でもないでしょう。 かといって部落民とか底辺庶民でもない。 その程度の出自でOKサインがでたのだからいいじゃん。 旧皇族華族じゃないとなったら皇室じゃ「民間人」ひとくくりの出身なんだしさ。
>>300 292では「不明」は妥当だと書いているわけで、ソースはいらない。
ソースなし=不明。アンカー間違えたねぇ。
>>304 じゃあ「江頭氏は5代前は不明はホント」だな
「不明」というのは、どこの誰かは解らないという事
江頭氏の6代前の詳しい資料求む
あったら、「江頭氏5代前は不明はウソ」になる
306 :
名無しさま :2009/08/31(月) 08:46:22 ID:bP0WQT+H
>>305 はいはい、同様に皇后陛下の副島家・紀子妃殿下の杉本家の五代前も
不明、ということでよろしいですね。
江戸時代はそういう時代であったということで。
307 :
名無しさま :2009/08/31(月) 12:12:07 ID:iQ9pKAb0
>>306 なまじ出自がわかってしまうのも損なところもあるわな。
祖父の職業が満州帰りの整体師&無免許指圧師なんて…(最低)
308 :
名無しさま :2009/08/31(月) 20:12:25 ID:yC/FQoPN
>>306 ならないよ「江頭氏が5代前が不明」となっているのは
他ならぬ江頭淳が、自分のルーツを捜しに佐賀に行って
どうしても江頭嘉蔵以前の事が解らなかった、と自著に書いているから
江頭嘉蔵以前の系図が、全くなかった
活字ではっきりと「解らない」と発表された資料があるから
「江頭氏5代前は不明」
皇后陛下の副島家、紀子妃殿下の杉本家の5代前が不明と
活字になった確かな資料があるなら、不明でいいけど
あるの?そんな資料
ネット上に資料がないから「不明」ということにはならない
ネットにあがっていない資料もたくさんあるから
江頭淳は自分で色々調べたあげくが「解らなかった」んだから
309 :
名無しさま :2009/08/31(月) 21:09:42 ID:ESwHyWig
49 :日本@名無史さん[sage]:2007/12/25(火) 14:38:32 喜三郎は、安太郎と同じ北川副村の出身だ。 江藤淳さんは二十六年前、北川副村に出向いた。あてはなく、偶然に見つけた岩松 軒寺という曹洞宗の寺を訪問したが、住職の奥さんに、 「寺は戦災に遭い、山門を残し丸焼けになってしまった。過去帳も残っていない」 というような話を聞き、むなしく引き揚げたという。 しかし、岩松軒寺の来歴を調べると、美智子皇后と雅子さんの祖先を結びつける興味 深い事実が浮かび上がる。 江戸時代の地図を見ると、岩松軒寺は多久氏の所領の中にある。多久氏は、元来の 佐賀の領主、龍造寺一族だ。龍造寺氏は龍造寺隆信の死後、家臣の鍋島氏に実権を 奪われて逆に家臣に下り、佐賀の西方の多久の地に自治領を認められた。 「多久」といえば、美智子皇后の母の富美子さんが多久市の副島家の出身。その祖先 は多久氏の家来なのである。 多久在住で古文書に詳しい細川章さん(佐賀女子短大非常勤講師)は、こういう。 「岩松軒寺は、もとは龍造寺氏隆信の母で女傑といわれた慶門の隠居所で、隆信の弟 の長信が、母亡き後、寺にしたという記録があります」 長信は多久氏の祖だ。 佐賀城周辺の龍造寺家の領地は江戸時代、つぎつぎ召し上げられ、唯一、岩松軒寺 の周辺だけが残ったという。 また、古賀喜三郎の主人、多久縫殿は多久家三代目の当主の四男が鍋島家に召し 抱えられた家柄。
310 :
名無しさま :2009/08/31(月) 21:10:47 ID:ESwHyWig
50 :日本@名無史さん[sage]:2007/12/25(火) 14:39:21 佐賀城周辺の龍造寺家の領地は江戸時代、つぎつぎ召し上げられ、唯一、岩松軒寺 の周辺だけが残ったという。 また、古賀喜三郎の主人、多久縫殿は多久家三代目の当主の四男が鍋島家に召し 抱えられた家柄。 さらに、『一族再会』によれば、江頭嘉蔵の一家も、維新後は、多久氏の屋敷の一隅 に住んでいた。副島・江頭・古賀の各家と多久のかかわりは因縁浅からぬものがある。 多久は江戸時代、 「チーチーと多久は雀も『論語』を反す」 といわれたほどの学問が盛んな土地柄だ。日本で最初の電気工学の教授の志田林 三郎や、刑法法典をつくった鶴田晧も多久の邑(村)校「東源庠舎」で習った。江頭安太 郎にも“多久の血”が流れているのだろうか。 いずれにしても、安太郎は、明治の海軍の秀才だった。雅子さんの母方のもう一人の 曽祖父、岩手出身の山屋他人海軍大将も、秀才として知られた。安太郎と他人とは海 軍兵学校での同期で、それが縁で、他人の娘の寿々子さんが安太郎の息子の豊氏に 嫁ぐのである。他人は長生きして大将まで上りつめた。
311 :
名無しさま :2009/08/31(月) 21:18:10 ID:ESwHyWig
江頭嘉蔵が士族と関わり、それなりの家柄をもつ 多久氏の邸の一角に住むことを許されたのだから 嘉蔵自身が士族である、と江頭淳が推測しても仕方ないのでは? だから江頭家の子孫がそれなりの家柄と縁組できているということに繋がる。
312 :
名無しさま :2009/09/01(火) 09:28:01 ID:4M405HuX
正田冨美子さんの父方の副島家も先祖たどれるの? ちなみに3代先は誰で何をしていた人で菩提寺はどこ? 副島家は南部藩士と書いてある本もあったけど、もともとは佐賀県の副島家が なぜ南部に??
313 :
名無しさま :2009/09/01(火) 10:47:32 ID:BJndfPg1
>>308 あれ?ないことは証明できないという主張が、確か285でなされて
いませんでしたっけ?(私は堕胎伝説には興味がないけどさ。)
ないことは証明できない=ないとみなす、ですよね。
つまり、資料がないことは証明できない=資料がないとみなす、で
いいでしょう。
今のところ副島家も杉本家も、五代前がどこの誰か確定できる資料は
提示されていない=ないとみなします。
というわけで、副島家も杉本家も江頭家も五代前は不明。
ただし、江頭家に関して言えば、著名な文学者が調べた上で「分からなかった」
と記載されている、という付加条項を付けるのはいいかと思います。
所詮江藤淳は文学者であって、歴史学者じゃないんだ。
314 :
名無しさま :2009/09/01(火) 10:54:13 ID:BJndfPg1
>>308 ソースはないけど資料はある「かも」というのは不明といわないというのなら、
304の時点で異議申し立てしてくださいね。
ソースなし=不明、と既に書いています。
315 :
名無しさま :2009/09/01(火) 11:13:07 ID:BJndfPg1
>>309 古賀喜三郎と江頭安太郎、同村ですか!こりゃ、江頭家元藩士なのは間違いないな。
同村なら、家の噂なんぞ色々入る。
明治なんだから、ただの農家の倅だって才能があれば、嫁を嫁がせたりする
可能性はあるだろう。
でも、経歴詐称するような男の息子になんぞ、娘やったりしないだろうし、
そんな男の孫を自分の血を引いているとはいえ、養子に迎えたりはしないだろう。
むろんただの状況証拠。
証明にはならないけど、まぁ、普通の人間を納得させるには十分な話だ。
疑り深い人間を説得させられはしないだろうけどね。
316 :
名無しさま :2009/09/01(火) 12:45:08 ID:BJndfPg1
まとめると。 江頭家については「系図・出勤簿なし。過去帳があると思われた寺は戦災で 焼失のためたどれなかった(江藤氏の著作によると)」でいいですね。 そして副島家・杉本家については「皇后・妃の祖父以前の先祖についての ソースはなし。過去の情報があるかどうかすら一般庶民には調べるのが 難しい状態」と。 杉本家はたぶん、単なる庶民だからだろうけど、副島家がないのは不思議だな。 調べることが出来ても、発表が難しかったのかもしれないね。
317 :
名無しさま :2009/09/02(水) 18:57:59 ID:5DQv9osw
フライデーに載ってた「秋篠宮のわがまま公務の実態、暑いからクルーズは嫌、 でも暑くても動物園視察を公務にしろ!」という記事に対して 宮内庁から抗議がないからあれは真実ね! 皇族にあるまじき言動だわ。 「公務は受身」なんてほら吹いて!! 好きな公務だけします、ですか?
318 :
名無しさま :2009/09/04(金) 12:36:03 ID:2dKoZGMV
>>289 金吉ネタを過剰に忌み嫌うのは、小和田家の家系に触れて欲しく
ないからじゃない?
過去スレ見たらどう見たって形勢が不利なのはアンチの方だったけどw
319 :
名無しさま :2009/09/04(金) 12:42:07 ID:2dKoZGMV
>>316 朝日新聞、毎日新聞等の報道では、杉本家は静岡市で代々
水産加工業っを営んだ、とある。
杉本嘉助氏の祖父は杉本吉三郎。名前からして3男だろうから、本家
から分家したんだろう。
吉三郎の兄である本家の菩提寺の過去帳を見れば代々の先祖の名前
も載っているよ。
普通の庶民であっても、寛政時代くらいからの先祖は分るはずだ。
320 :
名無しさま :2009/09/04(金) 12:45:23 ID:2dKoZGMV
江頭家の家系は4代前までしか分らない。 江頭嘉蔵のルーツは不明。 川口素生氏が著書の中で述べているんだから。 川口素生『小和田家の歴史』 さて、江頭豊氏の祖父・嘉蔵氏は明治維新までは肥前佐賀藩主・鍋島家の家臣 であったといわれる。ところが、明治初年の二種類の佐賀藩 侍着到(註=現代の 出勤簿に相当)には嘉蔵氏の名が見えない。これについて、豊氏の甥(優美子さん のいとこ)にあたる作家の江藤淳(本名江頭淳夫)氏は、嘉蔵氏は佐賀藩の「手明 鑓」と呼ばれるクラスの藩士ではなかったかと推測している。「手明槍」は平時は無 役だが、戦時には槍や具足を携えて戦場に赴く者たちを指す。江戸時代中期以降 は無役だった「手明鑓」も藩の役職に採用されたし、幕末維新期には多くが鉄砲を 担当して活躍したといわれる。ただ、嘉蔵氏以前の系図や史料が現存していないた め、嘉蔵氏が「手明鑓」か否かを含めて、ルーツや俸禄などはまったくわからない。 明治維新前後、嘉蔵氏は家族とともに肥前佐賀郡北川副村木原(現=佐賀市北川 副町木原)に移り住んだ。 ( 中 略 ) 範貞少年、安太郎少年が学齢期を迎えた頃、父・嘉蔵氏は旧制県立佐賀中学校 (現=佐賀県立佐賀西高等学校)に小使として勤務していた。 嘉蔵氏の生年はわからないが、安太郎少年が生まれた頃、すでに四十数歳であっ たといわれる。
321 :
名無しさま :2009/09/04(金) 13:02:31 ID:l7vetbBV
またいつもの独断、推測、仮定ばかりの人登場ねw
>>319 なんて全部自分の推測ばかりじゃん。
〜だろうばっかり。三郎と名がつけば絶対三男なの?
名家だと先祖の名前を長男につけることもあるんですけどね。
有名なのは桂小五郎。彼は五男じゃなくてれっきとした長男。
桂家の先祖の名前からとった。
寺の過去帳なんて亡くなった順に羅列してあって家単位じゃない。
書いてあるのは戒名と命日ぐらいよ。家族関係なんていちいち書いてない。
なんの証拠にもならない。
〜だろう、じゃなくてソースを提示しなさいよ、ちゃんとしたソースをね。
どうせまた同じもん貼り付けて形勢不利になるとばっくれて、
またちょっとしたら金吉ネタと江頭ネタを投下して…∞
322 :
名無しさま :2009/09/04(金) 15:08:37 ID:XMNFOggA
>>319 なんだよ吉三郎は長男だかなんだかもわからんの?
先祖なんて全然辿れてないじゃんw
エッタが家系乗っ取りやったかもな、簡単なんだろ?
よくもまぁ小和田家や江頭家のことをえらそうに言えたもんだ。
323 :
名無しさま :2009/09/04(金) 19:30:51 ID:1i3i679R
>>322 推測で言っているのは江頭氏も同じ
大きな違いは、小和田氏、江頭氏は「調べても解らなかった」と活字になっている
ネット以外の資料を調べても解らなかったという事
杉本氏はネット以外の情報を見れば、解る可能性がある
だけど、小和田氏、江頭氏はネット以外の情報でも解らない
小和田氏、江頭氏はそれぞれ3代前、5代前が不明とはそういう事
324 :
名無しさま :2009/09/04(金) 20:00:13 ID:NspMeeBB
>>323 いっしょだろ。
可能性ということは杉本家も調べてもわからなかったということも
50%の確率である。
それなのに他家のことを誹謗中傷する資格ないだろ?
小和田家の調査は誰がやったんだ?
赤の他人がどこまで調査できるんだ?
本を読む限り、付き合いのない本家や傍系ばかり訪ね歩いて
肝心の小和田顕氏の仏壇や位牌、過去帳、法事の記録など
誰か調査したのか?そんな話はまったくあがらんが。
江頭淳の調査だってあの本読む限り行き当たりばったりの調査だ。
菩提寺を調査したわけじゃなく、自分が知ってる情報をもとに
嘉蔵氏がかつて住んでいた近辺の調査だけしかしてない。
探偵社に依頼しても、5代ぐらい前までの先祖調査は一ヶ月〜3ヶ月は要する。
淳氏以外に誰か嘉蔵氏の調査を本格的にした人物はいるのか?
素人の淳氏だけの調査で不明と断定し、それを鵜呑みにするというのか?
自分で杉本家、小和田家、江頭家をプロの探偵社に頼んで徹底的に調べてもらって
それから言いたいことがあれば言え。
325 :
名無しさま :2009/09/05(土) 17:32:40 ID:oMpEnXCz
江藤淳は自らのルーツを探るため1967年5月に初めて佐賀の地を踏んだ。 しかし、弘化二年、元治元年の二種類の侍着到(藩士の出勤簿)には、江頭嘉蔵の名 は見当たらなかった。 これについて、江藤は、江頭嘉蔵は平時は無役だが、戦時には槍や具足を携えて戦場 に赴く「手明鑓」と呼ばれる藩士ではなかったかと推測している。 タクシーで木原に着いた江藤は、最初に訪れた寺で来意を告げると、留守番をしていた 梵妻さんが「ここは浄土真宗の寺だから旧藩関係者の檀家はない。禅寺はもう少し奥に 入ったところにある」と教えられた。 近くにある岩松軒は禅宗(曹洞宗)の寺院で、鍋島家と関係があり、旧藩時代には藩士 の檀家が多かった。 岩松軒は戦災で丸焼けとなり過去帳等も焼失しているが、江藤淳はこの岩松軒が江頭 家の菩提所であり、江頭嘉蔵の菩提もここにあったのだろうという推測をしている。
326 :
名無しさま :2009/09/05(土) 17:40:00 ID:oMpEnXCz
小和田雅子さんが皇太子に内定した後、佐賀市長から江頭家のルーツ探しを 依頼された郷土史家で元市会議員の驫木保氏の調査では、岩松軒寺は江頭 家の菩提寺ではなかったことが判明。 古賀家の墓は浄土宗の阿弥陀寺にあり、無縁として合祀されている。 江頭嘉蔵の妻のキノの墓は、東京青山墓地にあるけど、嘉蔵の墓はどこにある のか驫木氏の調査でも分らなかった。
327 :
名無しさま :2009/09/05(土) 17:41:52 ID:oMpEnXCz
毎日グラフ臨時増刊 1993.6.26 『皇太子さま 雅子さま ご成婚記念特別号』 P127 菩提寺は阿弥陀寺 阿弥陀寺に戻ろう。 吉田住職が古い過去帳を繰りながら話してくれた。 「木原となっているのを東京と墨で消して書き直してある。『古賀喜三郎』とあるのが、 おそらく喜三郎さんの家だと思います。養子になった博さん(江頭安太郎に二男で海 城学園長)が昭和51年ころに私の寺に、お参りに見えました」 じつは、江頭・古賀家の菩提寺探しについては、混乱したところがある。 同じ木原にある岩松軒寺を、江藤淳が訪れたと『一族再会』に書いてあるところから、 この寺が菩提寺のように思われたが、『ウチではないと思います』と、岩松軒寺の住職 は迷惑顔である。 阿弥陀寺をつきとめたのは、地元の郷土史研究家である轟木保氏(81)である。轟木 氏は元市会議員、数年前から故郷の歴史を調べて、1冊にまとめた。その実績を買わ れて、雅子さまのルーツ探しを市長から頼まれたのだと言う。 「阿弥陀寺、岩松軒寺、さらにもう1つ普門院という廃寺の3つがこの地区で龍造寺時代 からの寺院です。阿弥陀寺の住職にうかがったら、江藤淳さんもここに見えて、子供の ときに来たことがあると言っておられたそうです」 地元でしばらく続いた菩提寺探しの騒動も、これで一段落である。 ご結婚当日、北川副地区では記念の植樹で祝うことにした。
328 :
名無しさま :2009/09/05(土) 17:42:53 ID:oMpEnXCz
毎日グラフ臨時増刊 1993.6.26 『皇太子さま 雅子さま ご成婚記念特別号』 P127 安太郎は慶応3年(1867)年生まれ、やはり下級武士、というよりは戦時のときだけ 戦いに召集される身分だった。関ヶ原の戦いの後、縮小政策の結果出来た制度だが、 あるいは龍造寺家に仕えていた家かも知れない。貧しかったが秀才で、海軍兵学校を 首席で卒業、のちに海軍中将にまで出世した。 江頭家は、安太郎の父の代に佐賀市内に移り住んだ。東京・青山墓地にある江頭 家の墓地は、安太郎の母親から埋葬されていて、それ以前の墓所はわからないとい う。
329 :
名無しさま :2009/09/05(土) 19:56:19 ID:DtwMcNVT
佐賀郡北川副村木原というところが江頭安太郎が生まれ育ったところだそうだから そこを調べれば被差別部落出身か否かぐらいをか調べるのは簡単じゃないか? またその周辺の寺などがもともとの江頭家の菩提寺である可能性が高いのだが、 その調査はしたのかな? 下の内容から父親と安太郎との間になにかしらの事情が生じて 縁を切った状態のようだな。だから母親のみ死後菩提を弔ったと。 江藤淳『一族再会』 祖父 T 木原村 肥前国佐賀郡北川副村木原は、現在の佐賀市大字木原で、国鉄佐賀線の南佐賀 駅にほど近い農村地帯である。明治四十三年ごろ、祖父に連れられてはじめて佐賀 に行った父は、市中に田圃があるのにおどろいたのを今でも印象にとどめている。そ のとき祖父は、小学生だった父にむかって、「おれの生まれた家はこの田圃のはるか 向うのほうだった」といったという。つまりそれが木原である。それから三年後に祖父は 死んだ。 父の記憶にないところをみると、祖父はこの佐賀滞在を利用して生家のあった木原を 訪ねようとはしなかったらしい。それが何故であったかは私にもよくわからない。当時木 原にはすでに近親の残存者は皆無で、裁判官になっていた祖父の兄も遠く東北の任 地にあった。しかし海軍少将で佐世保鎮守府参謀長の職に在った祖父が、久しぶりの 帰郷にあえて生家の跡をおとずれようとしなかったのは、やはり彼に故郷に対する根強 い嫌悪感があったからではないかと思われる。彼はおそらく「錦を飾る」などというには ほど遠い心境だったのである。
330 :
名無しさま :2009/09/06(日) 11:31:00 ID:B+ZMByXO
ようするに、阿弥陀寺は古賀家の菩提寺だが今は無縁。 岩松軒寺は江頭淳が立ち寄っただけで両家に何の縁のない寺。 その近辺には廃寺になった普門院もあるが、廃寺なので調査できず。 佐賀郡北川副村木原は江頭安太郎の故郷、つまり嘉蔵の先祖なども 住んでいた可能性がある地域、そこらへんの寺などの調査の記載はなし。 読む限りでは普門院か、木原のどこかの寺が江頭家の菩提寺だった 可能性が高いと思うが? 普門院はもう調べることは不可能だろうから、そのせいで先祖をたどれないのか。 あるいは木原にひっそり江頭嘉蔵の墓なりがあるが、どういった事情が 親子で仲違いしたか、なにかの事情で嘉蔵の供養は子供たちは継承してない、 嘉蔵の母親の墓のみ安太郎以下の子孫が供養をしていると。 ここで新しい発見があったな。嘉蔵の妻の名前や没年は明らかだということ。 安太郎の母方のルーツからなにかしらの情報があるかもしれないが 誰もやってないのだから、不審に思うやつが徹底的に調べればいいじゃん。 それもしないでネット上の情報だけでああだこうだ言う資格はない。 とりあえずその木原に被差部落があったかどうかぐらい行けば調べがつくだろう。 エタ寺なんかがあれば間違いないし、そのへんの年寄りに聞くだけで だいたいのことがわかる。へたしたらまだ部落としてあるかもしれない。 江頭嘉蔵以前の家系を知りたかったらまずはそのへんのこと自分の足で 調査してみれば?
331 :
名無しさま :2009/09/06(日) 21:48:38 ID:EM6+pP9n
つか、木原が部落かどうかなんてすでに部落に詳しいやつとか調査済みでしょ。 でなきゃ人権版で早々に騒がれてたはずだもん、本に書いてあるソースなら みんな知ってるし。違うからこそあえてそこの部分はスルーされてきて、 嘉蔵より上の代は溯れない、出身地不詳と言い続けているんだろうな。
332 :
名無しさま :2009/09/06(日) 23:13:24 ID:/Kg/j83s
検証スレだから、憶測ではなく史料をうpして論じてください。 江頭嘉蔵が部落民だというなら、それを示す史料を。 江頭家が佐賀藩士だというなら、それを示す史料をうpしてください。 過去スレで散々江頭家は名家だと主張している人たちがいたのに、 いまだに江頭家の家系図がうpされないのはどうしてでしょうか? 江頭家が地域で大きな役割をはたしてきた家ならば、江頭家の先祖 の功績を称える古文書などが佐賀に残されているはずです。 それは、どの文書に書かれているのですか? また、小和田家には過去帳が残されているけど、当主の小和田顕氏が その公開を拒んでいる、というのはどの本に書かれているのですか? 公開するとマズイことが記載されている過去帳なのでしょうか?
333 :
名無しさま :2009/09/06(日) 23:35:41 ID:EM6+pP9n
>>332 だから自分で調べろって。
それをソースとして貼れっていってるだろ?
君がどう結論付けようがそれも憶測ですぎんのだから。
334 :
名無しさま :2009/09/07(月) 09:47:09 ID:oE9o2Wyy
とりあえず
>>332 でもできそうな調査はこれだな
>>東京・青山墓地にある江頭
家の墓地は、安太郎の母親から埋葬されていて、それ以前の墓所はわからないとい
う。
管理人に聞けば江頭家の菩提寺の場所を教えてくれるだろう。
墓石の横に誰の遺骨が埋葬されているか刻んである石碑があるだろう。
もしくは墓石の側面か裏に彫ってあるだろうから、姓名や命日など
調査してくれば?
ネット上では不詳事項だった嘉蔵の妻の出自を示す苗字がわかっただけでも
大発見だな。
335 :
名無しさま :2009/09/07(月) 09:49:00 ID:oE9o2Wyy
あ、苗字はどうせ妻だから江頭なんだな。 江戸時代の武家の墓だと実家の苗字も家系図に残し、 墓石に出自を刻んであることがほとんどだから 勘違いしてた。
336 :
名無しさま :2009/09/07(月) 12:06:37 ID:eIZmYz90
>>329 あれ?安太郎氏の兄は父親と縁を切ってないのかな?
となるとこちらに情報がある可能性がありますね(過去帳は寺院だけでなく、
家も持ってたりしますから)。
こりゃ、「一族再会」を全部読んで、江藤淳の言うところの「一族」とやらが
どれくらいの範囲か確認しないと分からない話になってきましたね。
江頭嘉蔵氏の長男ルートを調べることが出来たら、情報出てくる可能性がある。
やっぱり杉本家と似たような状況のようですね。
杉本吉三郎氏は家の跡取りではない→本家にアクセスしないと情報があるか不明。
江頭安太郎氏も家の跡取りではない→本家にアクセスしないと情報があるか不明。
337 :
名無しさま :2009/09/07(月) 12:17:27 ID:eIZmYz90
ま、嫁の母方の祖父の家系に何の意味があるのかという問題がそもそもあるけど。 昔から身分の低い娘を娶りたい場合、家の格が同等の家に養女に入ってもらって から嫁にするなんてのがよくあった。 要は身分が違う親戚がいるとややこしいから婚姻しないだけで、畑は借り物って 感覚も強いのが日本。 祖父母がどういう「生活をしているか」は大事。扶養する人間がいないのに 見捨ててるというのは外聞が悪いからね。 しかし、嫁の祖父母の「祖先」までを問う社会ではなかった。 嫁の家である「小和田家」「川嶋家」「正田家」までがかつてのマスコミの 記事範囲だし、それが普通の感覚だった。
338 :
名無しさま :2009/09/07(月) 13:29:58 ID:eIZmYz90
>>319 「杉本家は静岡市で代々水産加工業を営んだ」の原文ありますか?
代々というのが、明治〜平成までの可能性もありますよね。
杉本氏の「先祖の」家業紹介か、「本家筋の」家業紹介か、
原文を見ないと分かりかねます。
339 :
名無しさま :2009/09/07(月) 14:09:52 ID:eIZmYz90
>>332 ところで、そろそろ名家という意味のない言葉は使わないでくれないか?
過去スレ検索してみたが「名家」と「(江戸時代の)江頭家」を結び付けようとする
レスはない(明治期以降は別)。
「名家と主張する人間がいる」と、いう主張のレスがあるのみだ。
「主張する人間がいる」という意見自体が単なる妄想の可能性が高いので、
これ以上検証スレに持ち出すのは止めてくれ。
どうしても持ち出したいのなら、過去スレからきちんとそう主張するレスを
提示してからお願いする。
340 :
名無しさま :2009/09/08(火) 16:57:00 ID:fUSxo2bN
皇室にまつわるデマ・ウソを徹底検証
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/uwasa/1244354079/l50 875 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/09/02(水) 20:01:14
>>872 ようするにソースなしの推測であることを認めるのですね?
過去帳があるというのも君の臆測なんですよね。
ないかもしれないわけで。
しょせん紀子さんも三代先は出自不詳な松浦家の血もひいているわけですね。
平吉の母親の出自も不詳。
赤の他人の家に簡単に入ることができるなら
川嶋家も例外ではなくありえることですね。
それから副島家のことも知りたい人がいるようですが
私も知りたいですね。過去帳は?菩提寺は?
-----------------
松浦家の当主は松浦朗さんという方。
その朗さんの1代前は愛治(梁瀬森谷家より養子 明治35年12月28日生
昭和62年3月2日没)。
2代前が康太郎(板尾冨森家より養子 明治24年6月16日生 昭和30年
2月26日没)
3代前が庄太郎(文久2年2月25日生 昭和29年8月27日没)。
4代前が平吉(明治9年3月16日没)。
その妻はかつ(天保9年10月13日生 昭和5年3月11日没)。
341 :
名無しさま :2009/09/08(火) 17:01:49 ID:fUSxo2bN
朗さんから4代前の平吉までがマスコミには発表されていますが、松浦家の
過去帳は菩提寺の徳善寺にあり、江戸時代以前からの系譜は分っています。
---------(引用)------------
川嶋庄一郎氏は、明治3年生まれ、幼名・松浦力松
父・松浦平吉、母・かつの三男、長兄は庄太郎、次兄は虎松
古くは屋号を(ふどう)不動、江戸期は(かど)門と呼び、明治4年頃、平民
の苗字使用許可に際し、松浦姓を名乗る
小和田金吉氏同様、幼くして父を失ったが、金吉氏と違い恵まれていたの
は、ふたりの兄が家を守り、学問の道に進む彼を支えてくれたこと
師範学校に進むと、あちこちに赴任する
家に母をひとり残して、京都・富山・滋賀・佐賀・東京と転勤することは難し
かったと思われる
松浦家の三兄弟は、父亡き後子供らを育てた母かつをとても大事にしてい
たとあるのでなおさらだろう
金吉氏は慶応3年あるいは明治元年生まれ
力松氏と同じく三男と言われているが、二人の兄は早世していたようす
http://sakura.45.kg/fuetayo/03/kawashimake.html --------(引用終わり)--------
江戸時代以前からの歴史があるならば、少なくとも400年以上の系譜が
判明している家ですね。
1世代30年と計算したら、少なくとも15、6代前までの先祖は判明しています。
342 :
名無しさま :2009/09/08(火) 17:08:49 ID:fUSxo2bN
小和田家の当主は、小和田顕氏(昨年物故)。 顕氏の1代前が毅夫氏。 2代前が金吉氏。 3代前は不明です。道蔵だという説と、いや兵五郎だという人もいる。 江頭安太郎の直系の孫は江藤淳(江頭淳夫)。 1代前が隆氏。 2代前が安太郎氏。 3代前が嘉蔵氏。 嘉蔵以前の系譜については系図や過去帳などの史料が存在しなため 不明。 小和田家は顕氏から数えて2代前から先、 江頭家は江藤淳氏から数えて3代前から先が不明です。
343 :
名無しさま :2009/09/08(火) 17:29:29 ID:IDkTbhyc
>>341 >>江戸時代以前からの系譜は分っています。
じゃはやく教えてよ。平吉の両親はだれ?
344 :
名無しさま :2009/09/08(火) 17:31:34 ID:IDkTbhyc
>>342 >>嘉蔵以前の系譜については系図や過去帳などの史料が存在しなため
存在しないってどうして断言できるの?
345 :
名無しさま :2009/09/08(火) 17:39:12 ID:NNooT1Dd
噂板の検証スレの続きはあるのだから、そちらでやったらどうですか? 出自の話はこちらでは何度もコピペされてますから、あちらしか見てない方にも分かるように、同じ板のスレでやって貰いたいです。
346 :
名無しさま :2009/09/09(水) 09:09:28 ID:xPU/Fc/U
>>341 「江戸時代以前からの系譜が分かっている」また根拠がないことを。
屋号は歴史であるけれど、系譜ではないよ。
引用文が示しているのは、あくまで松浦平吉までの系譜だ。
それ以前の祖先がどこの誰か、正確に言うと「誰か」は分からない。
347 :
名無しさま :2009/09/09(水) 10:04:06 ID:xPU/Fc/U
>>342 「系図や過去帳などの史料が存在しないため」のソースは?
残念ながら、327と329のレスによって、歴史学者ではない江藤氏の言は、
資料として信頼できないことが明らかになりましたけど?
理由1:江藤は江頭嘉蔵の家の跡取りではない。先祖の過去帳が家になくても
当たり前。「家に存在しない」は「世に存在しない」ではない。
理由2:先祖を探るのに、自分の家の宗派・母方の古賀家の宗派すら調べていないで
寺院の目星を付けている。歴史を辿るための基本情報すら押さえていない。
と、いうわけで江藤の言を金科玉条にする意味はないですな。
348 :
名無しさま :2009/09/09(水) 10:16:39 ID:GlKgeR3n
fUSxo2bNは、
>>342 に書いてる3代前が不明だという主張をしたいだけなのかと思ったけど違うの?
雅子様から3代前じゃなく、家の現在の当主から見た3代前というロジックで。
で、宮内庁は3代前を調査してない、検証しようと言いたいのかと思った。
349 :
名無しさま :2009/09/09(水) 10:30:18 ID:xPU/Fc/U
342を整理してみましょう。 >小和田家の当主は、小和田顕氏(昨年物故)。 >顕氏の1代前が毅夫氏。 >2代前が金吉氏。 で、3代前は道蔵でいいと思う(資料:河原敏明『皇太子妃雅子さま』)。 道蔵説を否定できるほどの資料は出ていないと記憶する。 (否定するならちゃんと出してね) 比較材料として川嶋家(妃の父の家)。 当主は川嶋辰彦氏。 1代前は川嶋孝彦氏。 2代前は川嶋庄一郎氏。 3代前は川嶋庄右衛門氏だが、庄一郎氏と血縁関係なし(庄一郎氏は婿養子)。 庄一郎氏の父は松浦平吉。ここまで確定です。 2代前は確定の小和田家。3代前は確定の川嶋家。 そして小和田家の場合確定ではないものの、3代前もほぼ推測可能。 あんまり違いを感じない。川嶋家・松浦家の4代前の方も提示されてないから。 調べたら平吉氏や庄右衛門氏が養子で、どこから来たのか分からない〜の可能性も あるわけで。 むしろ、小和田家の方がその前の系まで資料が出ている分(ここに食い違い が多いため論が色々出ているわけだけど)、まぁ武家だろうという信頼感が かえって増してる。 村上旧藩の閉鎖性って、昭和まで続いているくらいトンでもない代物だしね。
350 :
名無しさま :2009/09/09(水) 10:49:10 ID:xPU/Fc/U
続き。 >江頭安太郎の直系の孫は江藤淳(江頭淳夫)。 >1代前が隆氏。 >2代前が安太郎氏。 ・ただし次男。 >3代前が嘉蔵氏。 >嘉蔵以前の系譜については系図や過去帳などの史料が存在しなため ・過去帳については安太郎氏の家に存在しないのは確定。嘉蔵以前の 過去帳が存在しないかどうかは不明。 ・系図は佐賀藩はかなりの武家でも存在しないため、それを持って不備とはいえない。 過去帳が存在する可能性はかなり高いが、江頭嘉蔵氏の長男の系を見出す 必要がある。 比較材料として、杉本家。 紀子妃の祖父は杉本嘉助。 曽祖父は杉本吉太郎。 その父は杉本吉三郎。ここまで確定ですね。 その前はよく分からない(資料提示がない)、と。 やっぱり時代状況じゃない?戸籍関係に記載がないと、情報がにわかに あいまいになってしまうと取るのが素直な取り方だと思う。
351 :
名無しさま :2009/09/09(水) 19:26:54 ID:w4gflnju
>>343 過去スレから何度も聞かれているけど答えてよ。
小和田金吉の両親の名は?
早世した2人の兄の名は?
早く教えてください。
>>344 川口素生氏が『小和田家の歴史』で、江頭嘉蔵以前の系図や史料は
存在しないためルーツについては不明、だと書いているよ。
川口素生『小和田家の歴史』
さて、江頭豊氏の祖父・嘉蔵氏は明治維新までは肥前佐賀藩主・鍋島家の家臣
であったといわれる。ところが、明治初年の二種類の佐賀藩 侍着到(註=現代の
出勤簿に相当)には嘉蔵氏の名が見えない。これについて、豊氏の甥(優美子さん
のいとこ)にあたる作家の江藤淳(本名江頭淳夫)氏は、嘉蔵氏は佐賀藩の「手明
鑓」と呼ばれるクラスの藩士ではなかったかと推測している。「手明槍」は平時は無
役だが、戦時には槍や具足を携えて戦場に赴く者たちを指す。江戸時代中期以降
は無役だった「手明鑓」も藩の役職に採用されたし、幕末維新期には多くが鉄砲を
担当して活躍したといわれる。ただ、嘉蔵氏以前の系図や史料が現存していないた
め、嘉蔵氏が「手明鑓」か否かを含めて、ルーツや俸禄などはまったくわからない。
明治維新前後、嘉蔵氏は家族とともに肥前佐賀郡北川副村木原(現=佐賀市北川
副町木原)に移り住んだ。
352 :
名無しさま :2009/09/09(水) 19:34:16 ID:w4gflnju
>>346 検証スレにもあるように松浦家は江戸時代以前からの系譜があることは
地元清水町の郷土史研究家の調べで明らかになっています。
屋号というのは、その家の特徴を現すものとして代々大事に世襲されるものです。
屋号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
屋号、家号(やごう)とは、一門・一家の特徴を基に家に付けられる称号のことである。
日本、ヨーロッパにおいて使用されている例がある。
日本 [編集]
日本における屋号は、江戸時代には、原則としては士農工商の身分制度により武士
以外の者が苗字を名乗ることが認められていなかったため[1]、商人や大きな農家(豪
農)が、取引をするために必要であったから、あるいは日常生活の上で必要だったこと
から、屋号を使うようになった。
古くからの地域や特定の集まりに根付いた家は、集落内における家の特徴[2]を含ん
で屋号がつけられている。また、家長が代々襲名する名乗りを屋号にしていることもあ
る。この場合、屋号はその地域や特定の集まり以外でほとんど使われることがない。
地域によっては家の姓に代わるものとしても用いられたので、一家族、一族の系統を
示すものとしても用いられている[3]。この場合、地方によっては士農工商の身分制度
とは関わりなく用いられ、姓を持つ士族の家系にも使われている事がある。これらの
制度は商人との取引が多かった地域などに見ることもできる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%8B%E5%8F%B7
353 :
名無しさま :2009/09/09(水) 19:41:25 ID:w4gflnju
>>346 山屋他人の母・ヤスの生家・野辺地家では代々「川原田(からだ)」という
屋号を世襲していました。
この川原田(からだ)というのは地名からとられたそうで、野辺地家の出身地な
のでしょう。
また、後藤田正晴の生家は忌部氏の流れを汲む庄屋でしたが、代々「古姓(ふるしょう)」
という屋号を世襲していました。
古姓という屋号は、「一番歴史の古い本家」ということを意味するもので、屋号は
その家の歴史や特徴をあらわすものとして代々当主が大事に世襲したものです。
松浦家の場合は江戸時代は門(かど)、それ以前は不動(ふどう)という屋号を世襲した
ということですから、江戸以前からの系譜が分っているということですね。
354 :
名無しさま :2009/09/09(水) 19:59:41 ID:w4gflnju
>>349 まず基本的な間違いを指摘。小和田家の先祖は足軽だと推測されていますよね?
足軽は武家の奉公人であって、武士ではありません。
足軽というのは農民から召抱えられる例が多く、また農家や商家から養子を迎えいれて
います。
村上藩の場合、徒士以下の軽輩は、下駄屋や大工などの職人階級と婚姻関係を結んで
いたようです。
大場喜代司『村上藩』
こうした要素が、町人との婚姻を容易にしていった。万延元年(一八六〇)頃から明
治三、四年(一八七〇、七一)までの「職分人別」を見ると、侍地に隣接する町人地に、
両者の婚姻関係を持つ家が多い。なかでも羽黒町には二二軒、久保多町には一八軒
もある。ついで小町一三軒、片町一一軒、上町七軒、長井町六軒、寺町五軒などであ
る。
職業は修験や僧侶、商人もあるが、下駄屋、大工、塗師、紙漉きなど職人が多い。
武家から町家への婚姻が多く、婿養子は侍の二男、三男が対象となっていた。いうま
でもなく口減らしである。この反対に町家から侍の家へ入籍しているのは三、四人程度
である。
「軽き侍」の町家への入籍は、藩経済の悪化に伴い頻度を増す傾向にあった。
355 :
名無しさま :2009/09/09(水) 20:05:39 ID:w4gflnju
>>349 マスコミで発表される川嶋家の家系図は、当主・辰彦氏の曾祖父・川嶋庄右衛門
までですが、それ以前の先祖の墓碑も過去帳も菩提寺に残されています。川嶋庄右衛門
は6代目。つまり、現当主の辰彦氏は9代目です。
川嶋家について [編集]
川嶋家は、江戸時代から和歌山市の本町8丁に居を構え、市内の府中、粟地区に広大
な土地や田畑を所有し、多くの小作人を抱え庄屋等の役職を多年務めた旧家である。
辰彦で9代目となる。川嶋家が所有していた土地は戦後の農地改革で没収されたが、
同市黒岩に川嶋家がかつて所有していた山が残っている。その山は、地元の人たちの
間で今も「川嶋山」と呼ばれている[3]。
川嶋家の菩提寺・専念寺の古河英雄住職によれば、そもそも川嶋家のルーツは、現在
の和歌山市を拠点に江戸時代から手広く海運業を営んだ有田屋であるという[4]。当主
は代々庄右衛門を世襲した。明治初期に当主となった6代目庄右衛門には跡継ぎとな
る男子がいなかったため、長女の志まの婿養子を探した。そこで目に留まったのが、和
歌山県有田郡安諦村(現・有田川町)の農家・松浦平吉の三男で、当時東京高等師範
学校に在学していた松浦力松であった。松浦力松は、庄右衛門から「庄」の一字をもら
って1894年(明治27年)3月21日に庄一郎と改名し、3月25日に庄右衛門の長女・志ま
と結婚した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B6%8B%E8%BE%B0%E5%BD%A6
356 :
名無しさま :2009/09/09(水) 20:13:13 ID:w4gflnju
おそらくは道蔵は金吉の父であるだろうという推測は成り立ちますが、 新潟市の泉性寺には過去帳もなく、おそらく小和田家にも過去帳や 家系図は存在しないでしょうから、金吉の父は誰であるかは分かりません。 神一行氏の記述が妥当だと思われます。 ================================== 神一行『閨閥』より さて、その雅子さまの実家の小和田家であるが、そのルーツは現在の 新潟県村上市を治めていた村上藩内藤家五万石の下級武士の出身だ ったようだ。代々、下横目(目付)、奥方付きお庭番などの役職につき、柔 術「制剛流」の達人の家柄だったというが、はっきりした系譜は曽祖父に あたる金吉からしかわかっていない。 ==================================== 川嶋家は当主の辰彦氏から8代前。 また、祖父・庄一郎の生家である松浦家は江戸時代より前からの系譜が 分っています。 江頭家の場合は、 江藤淳の3代前から先は不明。 小和田家の場合、 小和田顕氏の2代前から先は不明です。
357 :
名無しさま :2009/09/09(水) 20:21:59 ID:pHynZ+bK
>>356 >>おそらく小和田家にも過去帳や家系図は存在しないでしょうから、
故小和田顕さんの未亡人に聞いてみたの?
>>松浦家は江戸時代より前からの系譜が分っています。
なら早く松浦家の系譜を明らかにしてよ。
平吉から先はどうなってるの?母方はどこの出身??
358 :
名無しさま :2009/09/10(木) 09:51:50 ID:E3fbc+QA
>>352 その郷土研究家の文を見たいと検索してみた。前嶋さんの文?
記述には平吉・かつの二人しか名前は挙げられていない。
過去帳を調べたといっても、命日の分かる平吉・かつさんの名があることを
確かめただけの可能性がある。
(土地の人間としては妃と確固たるつながりがあることを確認できたわけで
それだけで意味がある)
つまり、その先代が「誰」であったかはいまだ分からないのでは?
「どこ」の人間かは確かに屋号があるから分かるけど。
>地域によっては家の姓に代わるものとしても用いられたので、一家族、一族の系統を
>示すものとしても用いられている[3]
「地域によっては」とある。「門」「不動」という家があったのは間違いないが、
それが一族によって受け継がれてきた保証はないわけだ。
没落して売り払って、新たに来た人間がその屋号を名乗った可能性もある。
それこそ、近隣の素性が分かる庄屋の次男とかで人格もよければ、
地域の人間は跡目を認めたかもしれない。
松浦家があり、菩提寺が確定し、平吉が「門」の家だったことまではその
郷土研究家の調べで分かっているのは認める。
また、郷土資料に「不動」「門」の名が何度も出てきていたからこそ、
その人は江戸期以前の話も書けたのだろう。
しかし、「不動」の頃からずっと松浦平吉の系だったという保証までは
その研究家はしてないのではないか?
断絶が起きている可能性は十分にある。
松浦平吉かその跡取りは古い家の人間として土地の人間から尊重されて
きただろう、それくらいの意味合いだろうね。
359 :
名無しさま :2009/09/10(木) 09:56:37 ID:E3fbc+QA
>>354 >この反対に町家から侍の家へ入籍しているのは三、四人程度
>である。
侍の家に町人は原則、入っていないわけですな。町人の家に跡目を
取れなかった侍の子息は入っているけれど。
小和田金吉、侍じゃん。つまり、村上藩の人間は、家の当主と嫡男、
それ以外の子を厳格に分けるルールがあったということだ。
漁業権を認められた金吉は、間違いなく村上の士族社会から侍と
みなされていたということだね。
360 :
名無しさま :2009/09/10(木) 11:42:07 ID:+TZrvOxq
よくも、まぁまぁ〜、松浦の家系図を捏造できたものだわ。
361 :
名無しさま :2009/09/10(木) 12:14:51 ID:m7US1SHG
松浦本家の人なの、その平吉って人?? 家をでた分家の子孫なんかは本家の屋号は世襲しないでしょ? 住んでる建物に対してつけられてるものだから、 ようは番地みたいなもの。
362 :
名無しさま :2009/09/10(木) 14:05:25 ID:E3fbc+QA
>>356 さて、妄想が出てきましたね。
>おそらく小和田家にも過去帳や家系図は存在しない
根拠のまったくない妄想です。
「はっきりとした系譜は金吉」というのは正しいです。
「松浦家のはっきりとした系譜は平吉」と同等に。
それ以前についてはどちらも状況証拠になるため、きちんとした研究家で
あれば可能性は高いと言う事が出来ても、確定とはいわないでしょう。
363 :
名無しさま :2009/09/10(木) 14:18:57 ID:E3fbc+QA
さて、まとめますか。 各種資料により確定している事実。 小和田家の先祖・金吉。 江頭家の先祖・江頭嘉蔵 川嶋家の先祖・六代目川嶋庄右衛門 川嶋家に養子に入った松浦家の先祖・松浦平吉。 杉本家の先祖・杉本吉三郎。 次に確定していないが、かなり高い確率の推測。 小和田金吉の父は道蔵(西真寺が道蔵の墓の移転を許可している= 金吉・穀夫を跡取りと認識していた) 川嶋庄右衛門の五代目・四代目・・・が六代目の先祖の可能性 (確率めちゃくちゃ高いが、こういう継承は調べないと確定できない)。 ま、ここまでですかね。 結局、道蔵さんが明治初頭に亡くなってるから、明治の戸籍に載らないので 関係を明示できないというところじゃないかな。
364 :
名無しさま :2009/09/10(木) 14:44:04 ID:RAXQ6JcB
>>363 都合のいいまとめ乙!
5 :これまでのまとめ 1:2008/10/18(土) 17:48:29
平成のリアル横溝ワールド【小和田家の一族】 祭祀拒否の謎
雅子妃ー恒ー毅夫ー金吉…その前は不明
小和田親子が手を合わせている墓の「小和田匡利」って誰?
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20071226130438.jpg 小和田家家系図は「金吉」以前は不明
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20070420100835.jpg 6 :これまでのまとめ 2:2008/10/18(土) 17:49:39
1 村上市西真寺住職、本荘長弘師の証言(現在は兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻とその子供だけの墓がある寺)
「小和田家の墓について毅夫氏(明治31年生まれ)が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟市の泉性寺に移した」
「なぜ祖父の妻と子及び曽祖父夫妻の墓を残していったのか。普通移すときはそっくりもっていくものなんですがねえ」
昭和61年(1986年or1987年)11月 恒、毅夫の両夫妻が村上に来たがここに墓参していない
2 新潟市泉性寺住職、広沢誠師の証言
「小和田家の墓は明治7年よりうちにあるが金吉と兵五郎の墓はない 匡利(道蔵)の墓だけがあります
…30年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということはまったく知りません」
3 ご成婚前の小和田家の墓参り
両親と娘が拝んだ墓は新潟市泉性寺にある「匡利(道蔵)の墓」であり「小和田家の墓」ではない
(昭和55年(1980)に小和田毅夫(恒の父)がこの泉性寺にある墓の台座だけを新調した結果異様なツギハギの墓)
墓の場所は撮影前前日墓地の中央に移動させた(それまでは墓地の端っこにひっそりと置かれていた)
4 金吉と妻竹野(旧姓熊倉)は毅夫の幼い頃別居し金吉死亡後、竹野再婚説としてない説があるが、してないならば竹野のお墓は所在不明
よって毅夫は両親の墓参りをしたことがあるのかないのか不明 金吉と竹野の間には毅夫と妹ミヨシがいる(結婚後は星野姓、子供は二人)
5 専門家の意見
「 一説に小和田金吉は小和田道蔵匡利の三男と伝えるも年代齟齬して審かならず、仮に小和田兵五郎の三男の系に継ぐ。おそらくは別流ならん歟」
金吉が匡利の子なら匡利12〜13歳の時に生まれた三男となり有り得ない 一言でいえば「この小和田家ではない」と言っている
6 新潟県村上市小和田本家の証言
TVでのインタビューにて老当主が「あちらの小和田家とウチが親戚とは初耳 こちらでもいろいろ調べてみたがわからない」と答えた
【小和田】雅子さまのご先祖【江頭】part2 より
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1224309858/
365 :
名無しさま :2009/09/10(木) 15:08:03 ID:3kG871iH
>>364 小和田本家は東京都小平市在住なので、6はどこの本家の小和田さん??
ってかんじなんすけど。
366 :
名無しさま :2009/09/10(木) 21:33:40 ID:M66MmofB
小和田家の先祖は同心、つまり足軽であったと推測されている。 そもそも、足軽は武士ではない。 八幡和郎『本当は恐ろしい江戸時代』 P215-P216抜粋 足軽は「士族」であっても「武士」ではない お年寄りと話していると、「私の家は元士族でして」と誇らしげに言われたりすること がある。この「士族」とは何なのだろうか。はたして「武士」と同じなのだろうか。結論か らいうとまったく別のものである。 「元士族……」と言う方は、先祖が足軽だったことが多いようだ。だが、そもそも足軽は 武士でない。 明治維新のあと明治二年(一八六九)に版籍奉還が行われ、その時は足軽などは 「卒族」とされた。だが、何とかしてほしいと運動するものもあり、のちに世襲のものは 武家奉公人などであっても「士族」、一時雇いのものは平民に分けられた。 足軽というのは、戦場で刀でなく槍、鉄砲、弓などで専ら集団戦を戦う者たちである。 日頃は門番とか下級事務員のような仕事をしていた。行事などの時は別だが、日常的 には機敏に動けるように、「尻端折り」という袴のすそを高くまくり上げた格好をし、真冬 でも股引などは穿けず、足をむき出しにすることが義務づけられていた。 福沢諭吉によると、彼の出身地の中津藩では足軽は士分のものと往来で会えば、雨 中でも跪かなくてはならなかった。 こうした待遇を足軽は嫌がり、幕末に沿岸警備のために相模に出張した彦根藩部隊 の足軽が士分のような言葉遣いや服装をして問題を起こした。だからこそ明治になって 「士族」となれたことの嬉しさは格別で、ことあるごとに吹聴したから、その子孫が「士 族」などと自慢するのは、お祖父ちゃんがことあるごとに「士族」を強調していた影響な のかも知れない。
367 :
名無しさま :2009/09/10(木) 23:00:40 ID:hF7mNreO
1 :かなえφ ★:2009/09/10(木) 21:43:14 ID:???0
宮内庁の羽毛田信吾長官は10日の記者会見で、民主党などの連立政権による内閣が
近く発足することに関し「皇位継承の問題があることを(新内閣に)伝え、対処して
いただく必要があると申し上げたい」と述べ、皇位継承の対象を男系の男子皇族に
限定している皇室典範の改正問題に取り組むよう要請する考えを示した。
羽毛田長官は「皇室が安定的に続くかどうかという問題が存在するという意識は、
政権が変わっても変わらず持っている」と述べ、あらためて皇位継承の現状への懸念を
表明。その上で「事実を伝えることはやらねばならない(私の)務め。できるだけ早く
そういう場を持ちたいと思っている」と意欲を示した。
皇室典範の規定では、天皇陛下の孫の世代の皇位継承対象者は秋篠宮家の
長男悠仁さま(3)しかいないのが現状。典範改正をめぐっては、政府の有識者会議が
2005年11月、女性・女系天皇を容認する報告書をまとめたが、その後の議論は
停滞している。
羽毛田長官はこれまでにも皇位継承の不安定さを指摘。昨年12月には陛下の心身の
不調に対し「陛下がここ何年、将来にわたる皇統の問題、皇室にかかわるもろもろの
問題に憂慮される様子を拝してきた」との所見を述べた。
共同通信 2009/09/10 20:23
http://www.47news.jp/CN/200909/CN2009091001000994.html
368 :
名無しさま :2009/09/10(木) 23:16:40 ID:5NgIbrYu
やっぱり天皇は愛子ちゃんを天皇にしたかったんだね。 こんなことを羽毛田の独断で言うわけない。
369 :
名無しさま :2009/09/11(金) 01:10:01 ID:I8BnKyJ0
370 :
名無しさま :2009/09/11(金) 06:33:46 ID:qLI4cV8Y
>>364 ソースなしに書かれてもなぁ。まともな情報は1くらいだし。
2は「私の父が死んでいるので、その辺の詳細は分かりませんが。」と
広沢誠師が詳細を知らないのをわざわざ抜いてる。
〜河原敏明『皇太子妃雅子さま』小和田家の系譜〜
3も撮影移動話のソースがほしいところだわね。墓の姿はテレビ放送だろうけど、
こういう裏話は文書化されないと出てこない。
5の専門家なんて、何の専門家だ?城が焼けた村上藩で、なぜ道蔵の出生の
年が分かるんだ?金吉ですら二説あるってのに。
4は出す意味が分からない情報だ。
検証に値する情報をお願いします。
371 :
名無しさま :2009/09/11(金) 06:43:44 ID:qLI4cV8Y
>>366 でも、侍でしょ。
354でw4gflnjuがこの文章を出している。つまり、w4gflnju自体が軽き「侍」で
あることを認めているわけで。執筆者の大場喜代司も同様。
結局、全体像が見えないわけ。
「武士より下」と連呼されても、じゃ、社会全体での位置づけは?ということ。
町家に婿入りしていっても、町家から婿取りはしない。
軽き侍→町家の流れはあっても、軽き侍←町家の流れはおきていない。
左が川の上流、右が下流のような流れがちゃんとあるわけね。
結局、雅子妃の系を「なにものでもないがマイナス情報がある」と
位置づけたいのだろうけど、「なにものでもない」ということはありえない。
マイナス情報を提示したら、で、それは、社会全体から見てどーよ、と
いう俯瞰した視点に戻されるのだな。
372 :
名無しさま :2009/09/11(金) 07:41:12 ID:P07uYmdj
卒族は士族じゃないとするアンチが多いけど、 一代限りじゃない卒族は正式に士族と認められたのは事実。 明治期の身分制度での士族はインチキ呼ばわりするけど それじゃ武士階級から華族になった人は華族ではないのか という話になる。皇族、公家から華族になった人は華族じゃないのか、 という話にもなる。 道蔵氏の墓石に「士族」とあるのだから大和田道蔵が 士族であったことは紛れもない事実だしね。
373 :
名無しさま :2009/09/12(土) 04:48:46 ID:o5U1XVdI
>>355 YO!篠沢のダチ公!紀州にはろくな奴はいない!
魚君!
374 :
名無しさま :2009/09/13(日) 20:08:49 ID:Ey8cvDKY
>>372 江戸時代において士分の者と軽輩の間には、武士と町民以上の
隔絶した身分差があった。
足軽は江戸時代には武家の奉公人であって武士ではなかった。
大体嬉しそうに「自分の先祖は士族で」なんていう奴らに限って、足軽で
あったりするw
>>373 紀州は大変な人材を輩出し続けているぞ。陸奥宗光、津田出、
濱口 梧陵etc. その他数えられないほどの人材を政、官、財界に送り
出している。
375 :
名無しさま :2009/09/13(日) 20:16:47 ID:hMk+6v+C
>>374 それでも明治政府が正式認めていた、
足軽あがりの「士族」は存在した。
まずは足軽あがりの「士族」は存在していなかったと
証明してから、自論を述べるべきだな。
376 :
名無しさま :2009/09/13(日) 20:25:57 ID:Ey8cvDKY
江頭安太郎の父である江頭嘉蔵は佐賀藩士であるとされている。しかし、明治初年の 二種類の侍着到には江頭嘉蔵の名は載っていなかった。 安太郎の曾孫にあたる小和田雅子さんが皇太子妃に決定した時、佐賀市長から江頭 家のルーツ探しの依頼を受けた元市会議員で郷土史研究家の轟木保氏は、江頭家の 菩提寺を探したけど、ついに見つけることが出来なかった。 江頭家の墓は、東京・青山墓地に嘉蔵の妻のキノからの墓があり、嘉蔵の墓がどこに あるのかも分からなかった。 金吉とどのような関係にあるのかも判然としない人物の名を強引に?げて 小和田兵五郎―道蔵匡利―金吉―毅夫―恒―雅子妃殿下 という家系図を掲げている川口氏も、江頭家に関する史料は全く無いため、嘉蔵以前 の系譜も出自も全く分っていない、と著書の中で述べている。 さすがの川口氏もお手上げ状態だったんだろうね。 川口素生『小和田家の歴史』 P17 また、系図や史料が現存していないため、嘉蔵氏以前の系譜も現在のところ、明らか にはなっていない。
377 :
名無しさま :2009/09/13(日) 20:33:40 ID:Ey8cvDKY
>>375 足軽は江戸時代には武士ではなくて武士の奉公人という身分上の位置づけ
で、士分の者とは厳格に区分された。
----------------------------------------------
八幡和郎『本当は恐ろしい江戸時代』 P215-P216抜粋
足軽は「士族」であっても「武士」ではない
お年寄りと話していると、「私の家は元士族でして」と誇らしげに言われたりすること
がある。この「士族」とは何なのだろうか。はたして「武士」と同じなのだろうか。結論か
らいうとまったく別のものである。
「元士族……」と言う方は、先祖が足軽だったことが多いようだ。だが、そもそも足軽は
武士でない。
明治維新のあと明治二年(一八六九)に版籍奉還が行われ、その時は足軽などは
「卒族」とされた。だが、何とかしてほしいと運動するものもあり、のちに世襲のものは
武家奉公人などであっても「士族」、一時雇いのものは平民に分けられた。
---------------------------------------------------
武家の奉公人であった足軽は、明治維新以降一旦は「卒族」とされ、明治5年に世襲
の者は「士族」に、一代抱えの者は「平民」とされた。
江戸時代に武家の奉公人であった者も、明治以降「士族」とされたわけ。
道蔵の墓に「士族」と記されているからといって、小和田家の先祖が「武士」であった
と考えるのは大きな誤解。
足軽は武士の奉公人であって武士ではない。
それに道蔵と金吉がどのような関係にあったかを示す史料は無いしね。
378 :
名無しさま :2009/09/13(日) 20:40:43 ID:kAyl4NqH
>>366 にある文章を、またコピペしなくてもいいですよ。
同じスレなら、アンカーを付けてくれたら読めますから。
379 :
名無しさま :2009/09/13(日) 20:46:34 ID:Ey8cvDKY
175 名前:名無し投票@2/15(日) 投稿日:2009/02/11(水) 13:31:54 ID:klHBVGTR 小和田金吉さんは藩士の子弟仲間と写った写真もあるし、 下級武士の名簿にも載ってるよね。 それに息子さんの毅夫さん(雅子妃の祖父)は、 村上藩の藩士の子弟だけが受けられる奨学金制度を受けている。 また毅夫さんの奥様のご実家は豪農でその実家は今も 重要文化財として村上市に残されている。 別に小和田家が名家とまでは思わないが、 古い歴史のある、武士の子孫であることは確かでしょう。 414 名前:名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中 投稿日:2009/03/30(月) 16:57:13 ID:TbLd/8PAO どんなに気に入らない嫁でも香諄皇太后は 決して美智子皇后をないがしろにして 次男の妻ばかり贔屓するようなことはなさいませんでしたよね 武家の出である常陸宮妃のほうを目にかけていたようですが お互い高貴な出同士分をわきまえることが自然に備わっているのでしょうか 庶民つながりで皇后と紀子さんがつるむなんて やめて下さいね 雅子様ご自身も先祖は武家ですけれど 美智子皇后はどうなのでしょう? 紀子さんは先祖がお百姓ですが
380 :
名無しさま :2009/09/13(日) 20:55:17 ID:Ey8cvDKY
小和田金吉の妻・竹野の生家は熊倉家だけど、その生家の建物が重要文化財に 指定されているという話は聞かないね。 よく小和田金吉が藩士の子弟と一緒に写っている写真を自慢げに持ち出す人が いるけど、よく分らないね。 明治維新以降は四民平等で、武士や町民、農民といった身分上の区別は無くなっ たんだから、町民や農民、部落民の子弟が元武士の子弟と一緒に写真に写っている 例もあるでしょ。 また、「士族」=「武士」だというのが誤解であることは、前述の通り。 雅子妃の先祖は3代前の金吉からしか、はっきりとした系譜は分かっていない。
381 :
不死魅宮博恭 :2009/09/13(日) 21:46:21 ID:FYc3iM3Z
我は、皇族 沖縄、長崎、広島、玉砕、大空襲、笑止・笑止。 比するに価せず 皇族は生まれながらに神なるもの、 国家なり 皇族一命は一都市を凌駕する 我らの存亡が国家を永続させる 箋民は、心して国家の盾となるべし
382 :
名無しさま :2009/09/14(月) 09:36:43 ID:7/QGY9hz
まぁ話がずれていることから見ても、「○代前は不明、不明はどこの誰か 分からないこと」という定義に意味はなかったのだろうね。 「誰か」が確定される=名が確定される、だからね。 つまり、松浦家は平吉、杉本家は吉三郎、小和田家は金吉、江頭家は嘉蔵。 代をカウントすると一代くらいしか変わらない、と。 例外が川嶋家だが、この場合は「市川団十郎」の襲名みたいなもので、逆に 代々継いでいる名前ほど「元はどういう素性」を調べないと意味がない。 今の団十郎は昔と系が違うし、団十郎の中には演技が下手で、生前はとても 襲名できずに死後遺族で襲名したなんてのもある。 継承の中身調べてナンボ、なんですな。 というわけで、長々としてきた「○代前は不明」は、そろそろ意味のない キャッチフレーズに過ぎなかった、ということにしたいと思います。 言ってもいいけど、他の妃だって一代程度しか違わないよ、そもそも 皇后陛下なんぞ祖父までしか分からないよ、と。
383 :
名無しさま :2009/09/14(月) 09:48:46 ID:7/QGY9hz
>>377 小和田家、「先祖」は武家の可能性あります(これは村上藩に「小和田家」の
記録があるからいってるわけですが)。
足軽階級って要は武家の分家の分家の・・・でしょ。
小和田家も元を辿れば武士の可能性がある。
小和田道蔵の家が足軽階級なのは確かですけどね。
足軽、元を辿れば足軽とは限らないというのは、既に山屋他人の系譜で
出てきてます。江戸時代の階級は、同じ血族でも分かれていくもの
ですから、このあたりの表現は難しい。
384 :
名無しさま :2009/09/14(月) 09:55:33 ID:7/QGY9hz
>>377 >道蔵と金吉がどのような関係にあったかを示す史料は無いしね。
現在ないというのと、当時ないというのとまた違いますしね。
当時はあったと思いますよ。時間がないので後述しますが。
ちょいとここから抜粋。
http://sakura.45.kg/fuetayo/01/nazo09-01.html 明治17年(1884) 旧藩士ら、三面川の永久管理権を得る
この年、漁業権者名簿に小和田金吉の名前
で、金吉が村上の漁業権を認められている明治17年の時点で、既に
戸籍制度は出来ています(明治5年式戸籍)。
村上の戸籍は昭和22年に役場が焼失しているため、現時点では
確認できません。しかし、明治17年当時であれば確認可能なわけです。
金額的にもそれなりの金額が動き、それ以上に村上の士族の誇りで
あり、団結を担った鮭の漁業権です。資料があるのに調べもせず
認めたとは思えない。
そもそも識字率から考えても、字が読めて失業している階層である士族が
動員されて戸籍が作られただろうってのは見当がつくしね。
つまり、「金吉氏の祖先は不明」は歴史家として間違っていない。
しかし「士族だった」のも間違いないでしょう。
当時の人間の認定を根拠なくくつがえすのは、歴史家としてどうかと思います。
386 :
足軽 :2009/09/14(月) 13:09:06 ID:7/QGY9hz
>>377 足軽については、これがバランスがいい文章じゃないかな。
http://tetuyaake.blog83.fc2.com/blog-entry-149.html 加賀藩の場合、足軽すら庭付き一戸建て。他所の藩と比べてちと良過ぎですが。
で、武家の奉公人と言われて我々がイメージする存在とは違うようですな。
> 平士階層の住宅・武家屋敷には、小者や女中など、家族以外の使用人が必ずいましたが、足軽は家族だけで生活していました。
武家の奉公人と言われると、この文の「小者や女中」をイメージしますよね。
「武家」に所属と。
でも足軽はどうも、一応仕えているのは城主のようです。
明治以降の一兵卒が、例え陛下のお目通りなんてありえなくても、○○大将の
軍の人間じゃなくて、陛下・日本国の軍人であるのと同じようなもんですな。
今なら、役所の○○課で働いている非常勤ワーキングプア職員が、それでも
「役所の職員」であって「課が雇っている職員」ではないようなもんです。
387 :
不死魅宮博恭 :2009/09/14(月) 13:16:35 ID:v6mfHnXr
皇族は神なり 沖縄・長崎・廣島、笑止・笑止 我らの貴尊さの足元にも及ばず 箋民 数百万の血が流れても 我らの血は一滴たりとも流れず 我らは皇国の母体なり 下がれよ、箋民 つつしめ、卑民 卑しき身で我らを語る事なかれ! 無心で、我らを崇めよ
388 :
武家の奉公人 :2009/09/14(月) 13:33:14 ID:7/QGY9hz
389 :
名無しさま :2009/09/14(月) 15:06:52 ID:6VBKtqJA
>>385 戸籍は市町村役場と法務局で保管されています。
法務局が火災にあっていないのなら、それを元に戸籍を再製するので、確認出来ないという事は無いと思います。
勿論、第三者では無理ですが。
390 :
不死魅宮博恭 :2009/09/15(火) 01:54:33 ID:eFtBn0J3
我は、皇家 卑しき身で我らを語る事、 無かれ 神の冒涜たらんこと恥じるがよい 日本国箋民の殺生与奪権は我に在る 皇国を亡国に導き不能民の存在は、大罪なり 死して皇国の人柱となるべし 我らは神なり 我が領土全てに生けるもの、 殺生与奪権は我に在り
391 :
名無しさま :2009/09/15(火) 09:10:45 ID:tor0yK1S
>>389 火災にあったのは市町村役場の方です。ちなみに明治5年式戸籍(壬申戸籍)は
現在封印されていますので、法務局にあったとしても見れないでしょうね。
ただ、当時の金吉氏は請求すれば手に入ったでしょう。本人だし封印以前だし。
392 :
名無しさま :2009/09/15(火) 14:47:03 ID:TT9jocMd
>>391 壬申戸籍の後何度か様式が変わり、戦後の現代の戸籍になりました。
それらは全て、その前の戸籍を元に改製されます。
改製原戸籍と呼ばれるものですね。
小和田金吉が死亡したと言われる時期には、壬申戸籍から様式が変わってますから、改製原戸籍はあったでしょう。
第三者では見れない事には変わりないですがね。
393 :
名無しさま :2009/09/15(火) 16:49:14 ID:uFWpjzRQ
第三者は見れなくても、宮内庁経由なら見れたでしょうね。 その結果が雅子妃入内というわけです。
394 :
名無しさま :2009/09/15(火) 22:52:44 ID:axxhYo0d
足軽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
江戸時代においては、「押足軽」と称する、中間・小者を指揮する役目の足軽もおり、「江
戸学の祖」と云われた三田村鳶魚は、「足軽は兵卒だが、まず今日の下士か上等兵ぐら
いな位置にいる。役目としても、軍曹あたりの勤務をも担当していた」と述べているように、
準武士としての位置づけがなされた例もあるが、基本的に足軽は、武家奉公人として中間
・小者と同列に見られる例も多かった。諸藩の分限帳には、足軽や中間の人名や禄高の
記入はなくて、ただ人数だけが記入されているものが多い。或いはそれさえないものがあ
る。足軽は中間と区別されないで、苗字を名乗ることも許されず、百姓や町人と同じ扱いを
された藩もあった。長州藩においては死罪相当の罪を犯した際に切腹が許されず、磔にさ
れると定められており、犯罪行為の処罰についても武士とは区別されていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E8%BB%BD 薩摩藩のように足軽でも士分であると認められた藩もあるけど、基本的に足軽は
士分ではなかった。
明治以降に足軽のような軽輩までもが士族に組み込まれたから、小和田家の
先祖は武士だ、小和田家は武家だという人がいるけど、それは大きな誤解。
395 :
名無しさま :2009/09/15(火) 23:02:30 ID:axxhYo0d
小和田金吉の父親ではないかと推測されている道蔵については、詳しく 書かれた資料は残っていない。 川口素生氏の著書『小和田家の歴史』の中でも「道蔵は最後の町同心 をつとめていたものと思われる」と述べられているだけ。 町同心はおそらく村上藩では士分ではないと思うよ。 大場喜代司著『村上藩』によれば、村上藩は徒士以下の者は家中の外で あったと述べられているから、道蔵は士分でもなく家臣でもない陪卒であ ったということになる。
396 :
名無しさま :2009/09/15(火) 23:08:06 ID:axxhYo0d
>>383 町同心であったと思われる道蔵が金吉の父親であるならば、道蔵は士分では
ない、つまり武士ではないことになりますね。
山屋家については南部藩ではどのような身分だったのでしょうか?
前スレでは足軽以下の最下級の藩士だったというレスを見ましたが、極貧の
二人扶持とはいえ士分であったのでしょうか?
397 :
名無しさま :2009/09/15(火) 23:28:04 ID:TT9jocMd
398 :
名無しさま :2009/09/15(火) 23:31:05 ID:axxhYo0d
江戸幕府の同心と、その他の藩の同心は全く別もの。 名前は同じだけどね。 戦国時代に足軽とよばれた雑兵は、江戸時代になてから 同心という名称に変わった藩が多かった。 村上の町同心というのは足軽でしょうね、おそらく。
399 :
名無しさま :2009/09/16(水) 00:21:26 ID:cIbQwQRX
400 :
不死魅宮博恭 :2009/09/16(水) 01:12:08 ID:O+QprTTD
我は、真正皇家 生まれながらに選ばれし者。 卑しき身で我らを語る事、 神の冒涜たらんこと恥じるがよい 沖縄・長崎・廣島、万歳突撃、、笑止! 是非に及ばず 皇国を亡国に導き不能民は、皇民に非らず、 生存、即ち大罪なり 死を賭して皇国の人柱となるべし 我らは神なり 皇家は、全知全能の神。 我が領土全てに生きとし活けるもの、 全ては我らの防人たらん。 これ、皇国の定めなり 皇国が、軍事大国に帰り咲くとき 我、必ずや中枢部の神とならん! 皇国、全ての殺生与奪権は我らの手中に帰するなり
401 :
名無しさま :2009/09/16(水) 08:12:51 ID:nY1FL7UI
公家出身の華族は大名家出身や維新の功労者であった下級士族出身の華族を蔑み、 同列の身分にされることを非常に嫌がって、華族学校でも 両者に壁があったという。でも華族は華族、卒族クラスあがりの政府高官も 五摂家や臣籍降下した元皇族も、華族と称されてまったく問題なし。 なぜアンチは小和田家は士族じゃない、と否定したがるんだ? 墓石に刻まれた「士族」の文字が事実を証明してるじゃないか? 明治初頭で士族は全人口の6〜7%。 小和田家が士族を誇りに思い、あえて古い墓石を残したのもわかる。
402 :
名無しさま :2009/09/16(水) 14:53:03 ID:aJyh9LCn
wikiを見るなら、このあたりも必要かな。
士分
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E5%88%86 つまり、士分>足軽>中間>小者というところですかね。
で、足軽は一応(厳密にではないが)藩の構成員としてみなされている。
つまり、大身の武士の家来にも足軽はいるものの・・・武家の奉公人だと
取るのはやはり、牽強付会という気がします。
「武家の奉公人」という言葉で示すのは中間・小者で、足軽をもし例えるの
なら「藩の奉公人」でしょうね。
(ちなみに、wikiの武家奉公人を引いても足軽そのものは出てこない。別の
身分の説明として足軽待遇という説明語はあったけど)
足軽身分の人間が「士族」として認められたのは、おそらく藩の構成員として
運命共同体だったからでしょうね。
そもそも銃を持つ足軽ががんばってくれなければ、偉い人たちも困るわけだし、
藩の一大事に命を懸けたという点では足軽たちは同志なわけです。
幕末から明治はじめの動乱期、運命を共にしたということが後の「卒族」との
違いとなったのかもしれませんな。
403 :
不死魅宮博恭 :2009/09/16(水) 23:55:23 ID:O+QprTTD
我は、皇家 生まれながらに選ばれし者。 箋民の末裔は箋民なり。 汝ら土民の歴史は、我ら天上人の防人となりて土に返る、 これ、太古より普遍の定めなり。 我らは皇国の全知全能の神たらん。 我らを卑しき身で語る事なかれ 全ての土民に告ぐ、、 我らを無心で崇めよ
404 :
名無しさま :2009/09/17(木) 02:52:57 ID:+2DLRXVh
秋篠 穢多三宅終了
405 :
名無しさま :2009/09/17(木) 08:15:03 ID:v0pu/XsJ
>>396 383で「小和田家も元を辿れば武士の可能性がある。」
「小和田道蔵の家が足軽階級なのは確か」といってる文に対し、
なお
>道蔵は士分ではない、つまり武士ではないことになりますね。
と繰り返す意味は?
道蔵は足軽だからってそれ以前の小和田家の先祖が武士ではないとは限らない、
と言う意味で383を書いているのに、噛み合わないレス付けられても困ります。
てか、そやって話をそらそうとしても繰り返すだけですが。
小和田新六氏は分限帳に載ってるとあります。
http://www.iwafune.ne.jp/~osyagiri/masako.htm で、この分限帳自体は『村上市史』に載ってるらしいので、おしゃぎり
会館がウソ書いてたとしたら地元から突っ込みくると思うんですよ。
小和田家の「先祖」が武士の可能性はあるということです。
むろん、新六が小和田道蔵の先祖かどうかは分からないですけど。
「可能性」はある。
身分は家の格だけど、先祖は血族のことだからね。
分家していけば当然家の格が落ちていくけど、だからって先祖の血筋まで
決めてしまうのは無理です。
幕末の小和田家の格を持って、江戸時代の「先祖」は計れない。
406 :
名無しさま :2009/09/17(木) 08:44:49 ID:v0pu/XsJ
ちなみに、下横目を足軽がやってる藩もありますので、新六も足軽の
可能性もあるわけですけど。
で、
>>395 大場喜代司著『村上藩』によれば、村上藩は徒士以下の者は家中の外で
あったと述べられているから、道蔵は士分でもなく家臣でもない陪卒であ
ったということになる。
395さん、この部分の文章あります?「徒士以下の者は家中の外」という部分。
407 :
名無しさま :2009/09/17(木) 10:39:32 ID:Q+EjOD03
小和田本家の道助氏は黒船来航の時に出兵した名簿に名が残ってるから 士分と見なされてもいいんじゃないかな? ただし、分家した兵五郎は「同心組」に名を連ねていたと 菩提寺の住職が語っていたから、同心組、つまり足軽級の 身分だったと考えられる。兵五郎の息子の 道蔵は「士族」と墓石に刻まれていたのは、父親の名跡を 継いだからに他ならない。 ちなみに兵五郎の墓がある菩提寺の住職は兵五郎が穀夫の 曽祖父であり、道蔵は祖父であると認めてる発言をしているのだから、 道蔵と兵五郎は親子関係であり、道蔵と毅夫は祖父と孫になる。 金吉と毅夫は親子関係であるのは、母方の親族の証言からも明らかで よって金吉と道蔵は親子、道蔵と兵五郎も親子、 つまり、小和田金吉以降の先祖はちゃんと辿っていけるということだ。
408 :
名無しさま :2009/09/17(木) 17:28:54 ID:MigmN7ot
>>382 美智子皇后の生家・正田家は庄田六三郎という人物が始祖らしい。
1682年没ということらしいから、300年以上の歴史はあるね。
神一行『天皇家の人々』 P183-P184
正田家の祖先は源義家の孫・新田義重の重臣、生田隼人までさかのぼるといわれ
ている。文献で確認できるのは、約三百年前の庄田六三郎(一六八二年没)からであ
る。
この六三郎が館林における正田家の始祖といわれる。四代を経て正田文右衛門と
いう人物が登場し、以後代々、正田家の当主はこの名を襲名するに至っている。現在
の当主は七代目にあたる。
江戸時代は「米文」の屋号で代々米問屋を営んでいたようで、江戸深川や大阪堂島
の米相場をうごかす近郊きっての豪商だったと伝えられる。
大繁盛した米問屋であったが、一八七三年(明治六年)、正田英三郎(美智子皇后
の父)の曾祖父にあたる三代目文右衛門は、突然、家業をやめ、「亀甲正」という商号
で、新しく醤油醸造業を始める。
409 :
名無しさま :2009/09/17(木) 17:34:53 ID:MigmN7ot
>>382 正田家の当主は代々「文右衛門」という名を名乗った。
川嶋家の当主は代々「庄右衛門」という名を名乗ったという。
代々受け継がれた名を名乗ることは、その家督を継承したことを
意味する。
正田家の屋号は「米文」。
この屋号も代々継承されていくものだから、屋号が分ればその家
の先祖を辿っていけることになる。
松浦家では、江戸時代には門(かど)、それ以前には不動(ふどう)
という屋号を継承してきたそうだから、江戸時代より前の先祖まで
分かっている。
410 :
名無しさま :2009/09/17(木) 17:42:26 ID:MigmN7ot
>>407 『諸君!』1993年3月 保阪正康『天皇家「生存への選択」』
小和田雅子の四代前は匡利で、明治七年に亡くなっているが、この人物と
海岸防衛に出兵した道助との関係は不明である。匡利の息子は金吉。
============
道助と匡利(道蔵)との関係は不明。
保阪正康は道蔵が金吉の父親であると書いているけど、実は金吉の父が
道蔵であることを示した資料はなくて、あくまでも父親ではないか?と推測
される程度。
411 :
名無しさま :2009/09/18(金) 08:27:58 ID:k+aw0jWX
>>409 >この屋号も代々継承されていくものだから、屋号が分ればその家
>の先祖を辿っていけることになる。
ここがウソというか、妄想になりうるところ。
つまり、屋号は代々継承されるし、家の当主を辿れるわけですが、
それが先祖かどうかはまた別の話です。
甥や近隣の才ある子を跡取りにする場合もあれば、夫婦養子もある。
ちなみに戦前の民法によれば、妻の連れ子は夫に男子がいない場合、
相続権があります(娘がいても!)。
つまり、戦前までは価値があったのは「家」なんで、代々継承されて
きた家の跡取りというのはそれだけで重んじられるものなわけです。
しかし、それは今我々がイメージする「先祖」ではなく、ご先祖様を
含めて家を守ってきた人すべてなんですな。
412 :
名無しさま :2009/09/18(金) 08:53:22 ID:k+aw0jWX
つまり、 >保阪正康は道蔵が金吉の父親であると書いているけど、実は金吉の父が >道蔵であることを示した資料はなくて、あくまでも父親ではないか?と推測 >される程度。 屋号も、あくまでも父親ではないか、と推測可能な程度のものに過ぎないんですよ。 関係性は宗門帳あたりで確認する必要がある。 ただし、当然ながら○代目とその一代前は「濃密な縁」があったのは間違い ないでしょうけどね。一代前が認めない限り、継承は出来ないから。
413 :
名無しさま :2009/09/18(金) 09:09:53 ID:Gg3BisGl
>>410 臆測じゃなく、事実。親子関係を証明するのに、いちいち戸籍を
提示しなくては納得できないというのなら、平吉さんもやってもらわなくちゃなw
>>ちなみに兵五郎の墓がある菩提寺の住職は兵五郎が穀夫の
曽祖父であり、道蔵は祖父であると認めてる発言をしているのだから、
道蔵と兵五郎は親子関係であり、道蔵と毅夫は祖父と孫になる。
金吉と毅夫は親子関係であるのは、母方の親族の証言からも明らかで
よって金吉と道蔵は親子、道蔵と兵五郎も親子、
つまり、小和田金吉以降の先祖はちゃんと辿っていけるということだ。
414 :
名無しさま :2009/09/18(金) 11:02:40 ID:ysaWjLm0
このスレでは、捏造してウソを書くこと
415 :
名無しさま :2009/09/18(金) 14:29:19 ID:JHdor4Fj
>>411 >ここがウソというか、妄想になりうるところ。
>つまり、屋号は代々継承されるし、家の当主を辿れるわけですが、
>それが先祖かどうかはまた別の話です。
>甥や近隣の才ある子を跡取りにする場合もあれば、夫婦養子もある。
>ちなみに戦前の民法によれば、妻の連れ子は夫に男子がいない場合、
>相続権があります(娘がいても!)。
またまたアホが現われた。
戦前、いや現在でも一般庶民は家を継承していくことを第一義的に重視して
おり、血統の継承などは第二義的なものと考えている。
そもそも男系男子の血統を連綿と継承しているのは天皇家くらいなものだ。
例えばこの山屋家系図
(勘右衛門)==留之助(勘右衛門)勝安==権八==富治勝寿━━他人━━太郎
==で表記されているのは養子を意味しているのだろう。山屋家は代々養子の
出入りが非常に多かったことが知られている。
極貧の家だったためか跡取り息子が病死したりして、家を継承していくために他家
から養子を迎えた。
山屋家は稗貫氏の支流の亀ヶ森氏だという。
しかし、山屋家は代々他家から養子を迎えており、亀ヶ森氏のDNAはとっくの昔
に断絶しているはずだ。
血統が繋がってはいないものの、亀ヶ森氏が山屋家の先祖であることは間違い
ないし、山屋家が何十代に渡って家を継承してきたことは事実。
416 :
名無しさま :2009/09/18(金) 14:42:01 ID:k+aw0jWX
>>415 「現在でも一般庶民は家を継承していくことを第一義的に重視」
そうとは限らないですよ、庶民は。庶民ではない家は分かりませんけどね。
そもそも、家の存続が大事で血統が論外だったら、「門」だの「不動」だの
といった話は出ません。
庄屋の川嶋家の話で終わっているはずです。せいぜい松浦力松・平吉で
十分。松浦家のそれ以前だの、江頭家の話が出ること自体が、「家」だけの
話では収まらない現代人の意識を示しているわけです。
417 :
名無しさま :2009/09/18(金) 14:51:54 ID:JHdor4Fj
>>416 その通りだよ。松浦力松は川嶋家に婿入りし、庄一郎と改名して7代目を
継承した。
あくまでも川嶋家の系譜を問題にすべきなんだよ。
山屋家は代々養子を貰ったけど、その養子の生家の家系を問題にする者はいない
し、そんなことを問題にする方がおかしい。
418 :
名無しさま :2009/09/18(金) 14:55:26 ID:k+aw0jWX
そもそも山屋家が何十代継承したにしろ、ここの話はその「娘」の子孫の話だしね。 山屋家の継承から外れてしまった他家の人間。 家重視だというのなら山屋家から出た娘の子孫の、そのまたその家から出て しまった娘(雅子妃)なんぞどうでもいいんでない?
419 :
名無しさま :2009/09/18(金) 15:00:59 ID:k+aw0jWX
>>417 じゃ、小和田家も兵五郎が祖、道蔵は曽祖父扱いで問題ないと思う。
ちゃんと今の小和田家当主が墓を面倒見て、無縁になってないわけでしょ。
兵五郎も含め。血筋ではなく家の継承者として現在の小和田家の当主が
きちんとしているのなら、それでいいんだと思う。
小和田恒氏は一家創立の分家、それだけのことだよね。
420 :
名無しさま :2009/09/18(金) 15:09:07 ID:JHdor4Fj
>>412 清水町なら宗門改帳やその他の史料は豊富に残っているよ。
それらの史料を調べて前嶋氏は、松浦家は古くは屋号を門(かど)、江戸期には
不動(ふどう)である、と清水町誌にも書いたんだろう。
小和田家の場合、金吉以前の系譜ははっきりしない。
村上市史編纂室長の大場喜代司も、士族会理事長の竹沢盛夫氏も、小和田金吉
の父は分らないと語っている。
村上市の西真寺の過去帳には小和田兵五郎の墓はあるけど、兵五郎と金吉の
関係は不明。
江頭家のルーツ探しを依頼された驫木保はついに江頭家の墓所を見つけること
が出来なかった。
嘉蔵の妻のキノ以降の墓は青山墓地にあるが、それ以前は不明。
出自についても不明。
421 :
420 :2009/09/18(金) 15:12:44 ID:JHdor4Fj
訂正 ×松浦家は古くは屋号を門(かど)、江戸期には 不動(ふどう)である、と清水町誌 にも書いたんだろう。 ○松浦家は古くは屋号を不動(ふどう)、江戸期には 門(かど)である、と清水町誌 にも書いたんだろう。 ×村上市の西真寺の過去帳には小和田兵五郎の墓はあるけど、兵五郎と金吉の 関係は不明。 ○村上市の西真寺の過去帳には小和田兵五郎の名前はあるけど、兵五郎と金吉の 関係は不明。
422 :
名無しさま :2009/09/18(金) 15:21:37 ID:k+aw0jWX
>>420 > 松浦家は、清水町大字板尾寺原四二五、板尾の菩提所徳善寺の隣にあって、古くは
>屋号をふどう(不動)江戸期にはかど(門)とよび、明治四年頃平民の苗字使用許可に際
>し松浦姓を名乗る。
原文、これですか?どっちかというと場所の名ではない?
「門」に住んでいるから門と名乗ってるという感じですね。
とりあえず、前嶋氏は代々今の松浦家の系が昔から住んでいたと
書いてはいないと思う(可能性自体は高いだろう)。
423 :
名無しさま :2009/09/18(金) 15:22:24 ID:JHdor4Fj
>ここがウソというか、妄想になりうるところ。 >つまり、屋号は代々継承されるし、家の当主を辿れるわけですが、 >それが先祖かどうかはまた別の話です。 >甥や近隣の才ある子を跡取りにする場合もあれば、夫婦養子もある。 >ちなみに戦前の民法によれば、妻の連れ子は夫に男子がいない場合、 >相続権があります(娘がいても!)。 山屋家は代々他家から養子を迎えたけど、山屋家の家督を相続した当主 であることには違いない。 亀ヶ森氏の血脈はとっくの前に途絶えていただろうけど、亀ヶ森氏が山屋 家の先祖であるということには違いないし、他家から養子入りして家督を 相続した代々の当主が山屋他人の先祖であることも間違いない事実。 養子入りしたから、血統を受け継いでいないから先祖ではない、とのレス をよく見かけるが、それは家系というか社会常識も知らないバカなんだろ うね。
424 :
名無しさま :2009/09/18(金) 15:29:24 ID:k+aw0jWX
>>420 資料が焼失している以上、歴史家ほど「分からない」としか書けないよ、
証拠がないのだから。
先祖探しは本家の協力が不可欠なんだけど、小和田家も江頭家も一家創立の
分家だからね(小和田家の場合、恒さんが一家を構える頃には民法変わって
ますが)。
しかし、それは係累を辿れないということではないよ。小和田本家には
道蔵・金吉の過去帳が残っている可能性がある(むろんなくなっている
可能性もある)。
協力を得るか得られないか、だ。
しかし分家の、嫁に行った娘のためにルーツさらす人間はいないだろうね。
425 :
名無しさま :2009/09/18(金) 15:31:11 ID:JHdor4Fj
>>424 小和田家に過去帳があるというソースは?
426 :
名無しさま :2009/09/18(金) 15:38:21 ID:k+aw0jWX
>>423 >先祖(せんぞ)とは、現在生きている人の、既に亡くなった数世代以前の血縁者全般のこと。
この規定では血縁者ですよ。
家と血縁が別というのは、社会常識ではない。このあたり、性差かもしれません。
○○と名乗りながらも結婚して姓を変えた女性が○○家の人間を先祖とは
思ってませんからね(自分の子の先祖ではあるが)。
ま、それこそ川嶋庄一郎に聞いてみたいもんだ、川嶋家の過去の代を
「自分の」先祖とは言わない気がする。
「この家の」ご先祖様と敬うだろうけど。
427 :
名無しさま :2009/09/18(金) 15:57:06 ID:JHdor4Fj
>>426 太田亮『家系系図の研究』 P23-P24
2 家系と血系
このように、自己の受けたいわゆる血液の調査は数代以前にさえ、さかのぼることは
いかに立派な家でも不可能であろう。むしろ上代日本に活動して子孫を残しえた人は、
すべて自己の祖先であると想像している方がよかろう。したがって普通系図研究で調
査するのは、このうちの限られた人で、次の二者に帰するといってよい。
1、家の祖先、
2、男系の祖先、
前者を家系といい、後者を血系というのである。わが国は近世養子ということが盛ん
であったから、皇室を除けば、家系と血系と一致する家がきわめて少ない。五摂家、清
華の諸家さえもしばしば養子をしたから、家系と血系とは非常に違っている。また徳川
家も直系は早く絶えて、紀州と水戸から跡をついでいる。
-----------------------
家と血統が一致する家はほとんどない。
一致すているのは、それこそ天皇家ぐらいなもの。
五摂家や清華家ですら養子を頻繁に迎えているんだから。
428 :
名無しさま :2009/09/18(金) 16:06:19 ID:JHdor4Fj
>この規定では血縁者ですよ。 >家と血縁が別というのは、社会常識ではない。このあたり、性差かもしれません。 家系と血系が一致する家など天皇家くらいなもの。 >○○と名乗りながらも結婚して姓を変えた女性が○○家の人間を先祖とは >思ってませんからね(自分の子の先祖ではあるが)。 >ま、それこそ川嶋庄一郎に聞いてみたいもんだ、川嶋家の過去の代を >「自分の」先祖とは言わない気がする。 >「この家の」ご先祖様と敬うだろうけど。 その理屈で言うなら、山屋他人の五女の寿々子さんが江頭豊に嫁して 江頭寿々子となり、その娘の優美子が小和田恒に嫁して小和田優美子 となり、その長女の雅子さんが徳仁親王に嫁して姓の無い身分になった のだから、山屋他人や江頭安太郎を雅子妃の先祖だというのはおかしい ということになるけど? 雅子妃は嫁ぎ先である天皇家の先祖を自分の先祖であるとは思ってい ないのかな? それだと彼女が宮中祭祀にあまり熱心ではないことの理由は分る気が する。
429 :
名無しさま :2009/09/18(金) 16:07:48 ID:50dT7jQH
>>420 >>小和田家の場合、金吉以前の系譜ははっきりしない。
菩提寺の西真寺の住職が毅夫の祖父が道蔵、曽祖父が兵五郎と
認めてるんだからはっきりしてるじゃん。
金吉と毅夫は親子なのは確定。それじゃ金吉の父親が道蔵、祖父が兵五郎で
あることも確定。
430 :
名無しさま :2009/09/18(金) 16:20:27 ID:JHdor4Fj
>>429 『皇太子殿下と雅子さま ご結婚記念保存愛蔵版豪華写真集 』(毎日新聞社)
小和田家のルーツは新潟県村上市。祖先は村上藩内藤家の藩士だったといわれ
ている。
村上藩六代目村上信敦の家臣として、一七八七(天明七)年に記された「内藤家
分限帳」に小和田信六の名がある。禄高は「弐人扶持三両」。
また、新六という人物については「村上藩武術史」にも記載があり、武術に秀でて
いたらしく、柔術の「村上藩制剛法」印可を受けたとある。
この新六の孫が、雅子さまの曽祖父・金吉氏だというのが有力な説である。ただし、
小和田家は下級武士であったためか、金吉氏の父も含めて、金吉氏以前の系譜は
はっきりしない。
村上城跡保存育英会の竹沢盛夫理事長が所有する「村上藩政役名」には、江戸
末期の家臣として小和田千助の名が見える。さらに同時期の「村上城下絵図」に、
同音の専助の名があり、同一人物である可能性が高いと見られている。このほか「西
真寺」の過去帳には小和田兵五郎の名もあるが、これらの人物と金吉氏の関係は定
かではない。
------------------------------
「小和田家は下級武士であったためか、金吉氏の父も含めて、金吉氏以前の系譜は
はっきりしない」
「西 真寺」の過去帳には小和田兵五郎の名もあるが、これらの人物と金吉氏の関係は定
かではない」
金吉の以前の系譜ははっきりしない。
金吉の父の名もわかっていない(恐らく道蔵?)
西真寺の過去帳には兵五郎の名があるが、金吉との関係は不明である。
毎日新聞社記者の取材。
431 :
名無しさま :2009/09/18(金) 16:36:31 ID:50dT7jQH
>>430 だから西真寺の住職がこう言ってるの。
河原敏明『皇太子妃雅子さま』
その祖先が眠るという西真寺を訪ねた。西真寺は村上市にある浄土真宗の寺
で、元和四年以来、ここで三百七十年の歴史を持つ。住職本荘長弘師はその小和田
家の墓について、毅夫氏が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟市の
泉性寺に移した、という話をしてくれた。
ゆえにいま西真寺にある小和田家の墓には、兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻
とその子供だけ(夫の道蔵の墓は新潟に)二基の墓石が並んでいる。高さが七
十センチ、近隣のものと比べて極端に小さく墓域にも余裕がない。
「なぜ祖父の妻と子、および曽祖父夫妻の墓を残していったのか。ふつう移す
ときはそっくりもっていくものなんですがねえ」
住職が毅夫の祖父は道蔵、曽祖父は兵五郎、と認めてるでしょ?
どうやら西真寺には道蔵の子供の墓もあるという。つまり金吉の兄弟(姉妹?)
もいたことがわかる。過去帳には兵五郎夫妻と道蔵夫妻とその子供の
法名やら戒名などもなきゃおかしい、墓石があるのだから。
過去帳にあるはずの道蔵のことはなぜ触れるじまい?
誰も調べてないの?金吉には兄弟もいたことも事実だというのに。
ちなみに新六の子供が道助はじめ男子が数人いて、
道助が小平市にいる小和田本家の先祖。
小和田恒氏が「うちも道助からでたんですよ」と語っていたように
道助が継いだ本家から分家した兵五郎が恒氏たちの祖。
432 :
名無しさま :2009/09/18(金) 17:01:01 ID:JHdor4Fj
>>431 >住職が毅夫の祖父は道蔵、曽祖父は兵五郎、と認めてるでしょ?
>どうやら西真寺には道蔵の子供の墓もあるという。つまり金吉の兄弟(姉妹?)
>もいたことがわかる。過去帳には兵五郎夫妻と道蔵夫妻とその子供の
>法名やら戒名などもなきゃおかしい、墓石があるのだから。
>過去帳にあるはずの道蔵のことはなぜ触れるじまい?
>誰も調べてないの?金吉には兄弟もいたことも事実だというのに。
兵五郎―道蔵―金吉の系図は、マスコミが西真寺と泉性寺の過去帳や墓碑名
をつなぎ合わせて勝手に作ったもの。
その証拠に西真寺を取材した毎日新聞記者が、兵五郎と金吉の関係は不明だ
と書いてるじゃない。
433 :
名無しさま :2009/09/18(金) 17:04:09 ID:JHdor4Fj
>ちなみに新六の子供が道助はじめ男子が数人いて、 >道助が小平市にいる小和田本家の先祖。 >小和田恒氏が「うちも道助からでたんですよ」と語っていたように >道助が継いだ本家から分家した兵五郎が恒氏たちの祖。 兵五郎が道助の分家かどうかは分らない。 保阪正康や関係者に取材して、道助と道蔵の関係は不明であると記事に 書いているんだから。 『諸君!』1993年3月号 保阪正康『天皇家「生存への選択」』 明治時代末期、村上藩に縁のある人々が集まって、維新前の村上城下絵図を復元 している(大正元年に発行)。その絵図を見ると、小和田家の祖先のうちの一人と見ら れる小和田兵五郎の名があり、足軽長屋に住居があったとされている。 幕末から明治にかけての史料の中には、この兵五郎の他に、いくつかの小和田姓が 散見されるが、嘉永元年(一八四八年)四月に村上領沖に外国船が現れ、村上藩が海 岸防衛のために出兵した中に見られる小和田道助が小和田家の祖先であるという。 小和田雅子の四代前は匡利で、明治七年に亡くなっているが、この人物海岸防衛に 出兵した道助との関係は不明である。匡利の息子は金吉。その息子が雅子嬢の祖父 にあたる小和田毅夫(明治三十一年生まれ。現在、水戸市の老人ホームで妻・静ととも に存命)、そしてこの小和田毅夫には、五男二女がいる。小和田嬢の父・恒は毅夫の次 男にあたる。 小和田家の関係者にあたっていくと、金吉は明治元年生まれで、明治三十三年に病 死している。新潟県の吏員で、高田税務署の税吏だったという証言もある。 小和田家は、前述の道助の時代に本家と分家に分かれたが、それから匡利の代まで どう続いているのか、維新時に匡利が何をしていたか、彼が村上をいつ離れたのかは、 関係者の話からは判らなかった。いまや、自分の三代前の人物のことがはっきり判って いる家の方が少なくなっているが、小和田家もまたその例外ではないということだろう。 しかし、匡利が村上を離れたのはいつか、あるいは離れなかったのか、ということは、実 は歴史的に興味深い問題なのだ。
434 :
名無しさま :2009/09/18(金) 17:05:39 ID:50dT7jQH
>>432 住職の証言はじゃどう解釈するの?
「なぜ祖父の妻と子、および曽祖父夫妻の墓を残していったのか。ふつう移す
ときはそっくりもっていくものなんですがねえ」
毎日新聞社の記者が馬鹿で↑を理解できなかったってことだね。
435 :
名無しさま :2009/09/18(金) 17:10:57 ID:JHdor4Fj
>>434 それじゃあ泉性寺の住職の話はどう説明する?
泉性寺には金吉の墓はないらしい。
河原敏明『皇太子妃雅子さま』 P161-P162
ゆえにいま西真寺にある小和田家の墓には、兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻
とその子供だけ(夫の道蔵の墓は新潟に)二基の墓石が並んでいる。高さが七
十センチ、近隣のものと比べて極端に小さく墓域にも余裕がない。
「なぜ祖父の妻と子、および曽祖父夫妻の墓を残していったのか。ふつう移す
ときはそっくりもっていくものなんですがねえ」
と住職夫妻も不審気だった。昭和六十一年十一月、恒氏が外務省官房長のと
き、恒、毅夫の両氏夫妻が村上にきたが、そのときも祖父、曽祖父が眠ってい
るにもかかわらず墓参していないことにも、理由をはかりかねていた。
そこで小和田毅夫氏が、村上から墓を移したという新潟市の泉性寺に聞くと
住職の広沢誠師が、
「小和田家の墓は明治七年よりうちにあるが、ただ金吉と兵五郎の墓はない。
匡利(道蔵)の墓だけがあります。外務省の小和田家にとって初代にあたる兵
五郎の墓は寺にありません。私の父が死んでいるので、その辺の詳細は分かり
ませんが。三十年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということ
はまったく知りません」
と西真寺の住職の話とはだいぶ食い違いがある。しかも泉性寺が明治十三年
の大火で類焼しているので資料が乏しいという。
436 :
名無しさま :2009/09/18(金) 17:18:24 ID:50dT7jQH
ちなみに
http://www.iwafune.ne.jp/~osyagiri/masako.htm 「一族の墓は、本悟寺と同市寺町の西真寺に残ります。
西真寺の話では、同心組に名を連ねた小和田兵五郎の墓を、
小和田毅夫氏が何度か訪れているとのことでした。
また、旧村上藩士族の団体である村上城址保存育英会に保存されている
明治17年の村上鮭産育養所の漁業権者名簿(736戸)に金吉氏、
大正13年の名簿に毅夫氏の名が記載されています」
本悟寺のほうにも小和田家の墓があるらしい。
「江戸末期、村上藩沖にも「黒船」が姿を現わします。
嘉永元年(1848)4月、内藤藩は酒井藩とともに海岸防衛のために出兵します。
その中に、小和田道助の名前が見えます。
道助は、安政6年(1859)親鸞上人の大法要の時、
本悟寺(村上市細工町)に絹に銀の刺繍をした立派な打敷を寄進、
今も同寺に残っています」
この道助系統が小平市にある小和田本家。
道助が寄進したということは、こっちが本家の菩提寺だろう。
兵五郎は分家したので菩提寺が違うと。
こちらの調査は誰がやったのかな?
437 :
名無しさま :2009/09/18(金) 17:22:21 ID:50dT7jQH
>>435 183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/17(木) 11:50:25
>河原敏明『皇太子妃雅子さま』
>その祖先が眠るという西真寺を訪ねた。
>西真寺は村上市にある浄土真宗の寺で、元和四年以来、ここで三百七十年の
歴史を持つ。
>住職本荘長弘師はその小和田家の墓について、
毅夫氏が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟市の泉性寺に移した、
という話をしてくれた。
西真寺に小和田金吉のお墓が無ければ、知り得ない情報だよね。
どうしても住職が適当な事を言ったと主張するなら、根拠をお願いします。
438 :
名無しさま :2009/09/18(金) 17:28:52 ID:JHdor4Fj
>>436 『諸君!』1993年3月号
保阪正康『天皇家「生存への選択」』
明治時代末期、村上藩に縁のある人々が集まって、維新前の村上城下絵図を復元
している(大正元年に発行)。その絵図を見ると、小和田家の祖先のうちの一人と見ら
れる小和田兵五郎の名があり、足軽長屋に住居があったとされている。
幕末から明治にかけての史料の中には、この兵五郎の他に、いくつかの小和田姓が
散見されるが、嘉永元年(一八四八年)四月に村上領沖に外国船が現れ、村上藩が海
岸防衛のために出兵した中に見られる小和田道助が小和田家の祖先であるという。
小和田雅子の四代前は匡利で、明治七年に亡くなっているが、この人物海岸防衛に
出兵した道助との関係は不明である。
--------------------
道蔵と道助の関係は不明。
道助の代に分家が出たが、それが金吉とどう繋がっているのかは、関係者
に取材しても分らなかった。
439 :
名無しさま :2009/09/18(金) 17:31:48 ID:50dT7jQH
はいはい、繰り返しベタベタ貼っても無駄。 関係者がちゃんと兵五郎〜穀夫までの親子関係を証明する証言を してたっていうのに、今の今まで気がつかないなんて馬鹿だね。
440 :
名無しさま :2009/09/18(金) 17:33:15 ID:JHdor4Fj
江戸末期、村上藩沖にも「黒船」が姿を現わします。嘉永元年(1848)4月、
内藤藩は酒井藩とともに海岸防衛のために出兵します。その中に、小和田
道助の名前が見えます。道助は、安政6年(1859)親鸞上人の大法要の時、
本悟寺(村上市細工町)に絹に銀の刺繍をした立派な打敷を寄進、今も同寺
に残っています。幕末、小和田家はいくつかの分家を出したといわれ、雅子
様のご先祖もそのひとつになります。
小和田新六から曾祖父金吉までの家系については不明の点が多く、これ
からの調査に待つところが大きいのが現状です。
http://www.iwafune.ne.jp/~osyagiri/masako.htm 現にこのサイトでも道助と金吉の関係は不明だと書いてあるじゃない。
道助からの分家が雅子妃の先祖ではないか?程度の推測ね。
441 :
名無しさま :2009/09/18(金) 17:41:08 ID:50dT7jQH
不明だといったって、現に兵五郎が穀夫の曽祖父、道蔵が祖父、であると 菩提寺の住職が言ってるじゃんw 金吉と穀夫が親子関係であったのは、金吉の母方の親族の証言などからも 明らか。 なら金吉と道蔵は親子、道蔵と兵五郎は親子、兵五郎と道助は兄弟(これは 穀夫氏が証言)、とならなきゃおかしいよね? 他にどう解釈できるのかな??
442 :
名無しさま :2009/09/18(金) 17:48:59 ID:i+Ua6BBU
>小和田新六から曾祖父金吉までの家系については不明の点が多く 全く分かっておらないではなく、不明の点が多く、ですよ。 分かっている部分もあるけれども、分からない部分も多いという事だから、西真寺の住職を否定するものではありません。
443 :
名無しさま :2009/09/18(金) 17:52:30 ID:JHdor4Fj
村上市の西真寺には過去帳が残っていて、小和田兵五郎の名が あるのだから、兵五郎の息子が道蔵で、その息子が金吉であるな らば、兵五郎は金吉の祖父であると書くはずだが、毎日新聞ご成婚 記念写真集では兵五郎と金吉の関係は不明である、と書いている。 ちなみに、この写真集には小和田家の家系図が載っているけど、 小和田金吉以降の系図しか載っていない。 過去帳等によって兵五郎が金吉の祖父であるとするならば、 兵五郎ー道蔵ー金吉ー毅夫ー恒ー雅子 の系図を載せるはずだけどね。 金吉までしか確かな系譜は分からなかったんだろう。
444 :
名無しさま :2009/09/18(金) 17:59:08 ID:50dT7jQH
>>443 記者が過去帳を調べたとは書いてあるの?
そもそも寺側が第三者に過去帳を閲覧しない可能性も高い。
過去帳を調べたけど不明だったということがどこかに書いてありますか?
それともでたらめな話を住職がしたという証拠でもあるのでしょうか?
墓の管理をしている住職の証言よりも、第三者のどの程度の調査かも
わからない記事のほうが信憑性のある話だというのですか♪
445 :
名無しさま :2009/09/18(金) 17:59:15 ID:i+Ua6BBU
宮内庁の発表は小和田金吉からという事では無かったですか? 宮内庁の発表に沿って系図を載せたマスコミと、独自取材で系図を載せたマスコミがあるのではありませんか?
446 :
名無しさま :2009/09/18(金) 18:07:28 ID:JHdor4Fj
>>444 電波皇室ライター河原敏明の著書よりも毎日新聞記者の取材を
普通は信用するよ、まともな人間ならね。
それに河原本をソースとするならば、泉性寺の住職が金吉の墓
はうちにはないと語ったことはどう説明するのかな?
447 :
名無しさま :2009/09/18(金) 18:17:20 ID:i+Ua6BBU
河原さんの取材を信用出来ないなら、泉性寺に墓が無いという話も信用されない、という事ですね。
448 :
名無しさま :2009/09/18(金) 18:19:54 ID:JHdor4Fj
河原本を信頼するなら、泉性寺には金吉の墓は無い。
449 :
名無しさま :2009/09/18(金) 18:29:43 ID:i+Ua6BBU
どっちなんです? 河原さんの取材を信用するのかしないのか。 信用するなら、金吉と道蔵と兵五郎の関係がはっきりしたけども、お墓の場所は不明。 信用しないなら、お墓がないという主張の根拠を失うので、お墓参りをした泉性寺にあるという事を疑えない。 兵五郎、道蔵との関係ははっきりしない事にはなりますが、同じお墓に葬られたのであれば、道蔵とは何らかの縁故があったと推定する事は可能。
450 :
名無しさま :2009/09/18(金) 18:40:51 ID:JHdor4Fj
色んな記事を総合してみると、兵五郎と道蔵の関係は不明。 道助の代に分家が数家出て、その分家の一つが兵五郎である とされているが、どの記事を見ても確かな史料ではなくて、あくま でも推測のよう。 小和田毅夫氏や恒氏、雅子妃も何度か泉性寺の墓を参っている のだから、匡利(道蔵)が金吉の縁戚であることは、常識的に考え て間違いのないことだと思われる。 恐らくは道蔵が金吉の父である可能性が高い。 しかし、確かな史料は存在しないため断言はできない。 道蔵は金吉の兄弟か、あるいは異母兄弟、叔父、従兄弟なのかも しれない。 全く無関係の人物である可能性も否定はできない。
451 :
名無しさま :2009/09/18(金) 18:48:47 ID:50dT7jQH
>>446 河原さんの独断や臆測はともかく、
西真寺の住職の証言を捏造しているとでも?
過去帳の中身は見ることは難しいだろうが、
小和田家の現在ある墓の有無は第三者が確認できること。
住職の言うとおりに兵五郎夫妻、道蔵の妻と子供の墓石が
あったら、住職の証言がまるっきり嘘だとは言いいれないよね?
過去帳の管理もしてる菩提寺の住職の話以上に
信憑性のあるソースなんてないんじゃないの?
452 :
名無しさま :2009/09/18(金) 18:52:15 ID:i+Ua6BBU
お墓の件は同意頂けたようです。 後は同じお墓に入っている道蔵と金吉との関係、西真寺にある兵五郎と同じ場所に道蔵の妻と子のお墓がある事の真偽の確認ですね。 これは、西真寺に確認するしか方法はありませんか?
453 :
名無しさま :2009/09/18(金) 19:06:53 ID:JHdor4Fj
>>452 道蔵と金吉が同じ墓に眠っているという証拠は無いよ。
泉性寺の住職によれば金吉の墓は無いとのことだから。
金吉が泉性寺の墓に埋葬されたことを示す史料は存在しない。
454 :
名無しさま :2009/09/18(金) 19:13:48 ID:i+Ua6BBU
お墓参りをしたのは道蔵の墓で、写真もネットに出回っていて、台座を交換したという話とも符合していて。 あれ?河原さんの本と合ってるんですね。 じゃあ、河原さんの取材は合っていて、お墓の方が不明で繋がりは分かっている方が正しいのかな?
455 :
名無しさま :2009/09/18(金) 19:18:07 ID:JHdor4Fj
結局、道蔵が金吉の父で、兵五郎が祖父であることを示したソースは 河原本のみってこと? 他の記事では金吉以前はよく分っていないと書かれているんだけど。 地元の村上市郷土資料館の公式サイトでも金吉までの系譜はよく 分っていない、と説明されているんだけどね。
456 :
名無しさま :2009/09/18(金) 19:23:41 ID:50dT7jQH
>>453 でも現在真西寺にある小和田家の墓石は合葬墓ですよ。
「西真寺にある小和田家の墓には、兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻
とその子供だけで(夫の道蔵の墓は新潟に)二基の墓石が並んでいる。」
子供の数は何人か知りませんが、仮に一人だとしても、
3人埋葬されてるのに、墓石は二基。数があいません。
誰と誰が合葬墓かわかりませんが、現に一族がそうやって
葬られているのだから、道蔵と金吉が同じ墓であった
可能性は高いでしょうね。なんせ金吉は妻子と別れ妻子とは絶縁、その後
すぐに亡くなっている。
頼るべき父親もいない状況で、親族が金吉のために墓石を建てて埋葬してくれた
とも考えられませんしね。
ああいう状態で亡くなった金吉の墓石がないのはむしろ不思議でもなんでも
ありませんよ。
それに史料は存在しないとは言い切れないでしょ?
合葬墓にせよ、亡くなって墓地に埋葬されたら寺の過去帳には必ず書いてあるはず。
兵五郎夫妻、道蔵夫妻、金吉の兄弟、を過去帳で確認した人はいるのですか?
兵五郎だけじゃないはずですよ。その過去帳にはこれらの亡くなった方の
記載が必ずありますから。
その過去帳の中に金吉の名前は本当になかったのですか?
それは誰がいつ調べたのでしょうか?
457 :
名無しさま :2009/09/18(金) 19:24:44 ID:i+Ua6BBU
河原さんの本にしか無いお墓の事で、お墓もない得体の知れない人という話が出回ってますからね。 取材の信頼性をまず検証しないと。
458 :
名無しさま :2009/09/18(金) 19:35:03 ID:JHdor4Fj
>>456 兵五郎の息子が道蔵、その子が金吉であり、金吉が最初は村上市の
西真寺に葬られたとするならば、過去帳にも記載されて、俗名の他に
法名も記載されているはずだよ。
なのに、毎日新聞記者の取材では兵五郎と金吉の関係は分らない。
兵五郎が金吉の祖父ならば、墓参に訪れるはずだけど昭和61年に講演
のために訪れた小和田恒氏と毅夫氏は、西真寺を訪れなかった。
459 :
名無しさま :2009/09/18(金) 19:38:45 ID:i+Ua6BBU
取材した結果分からなかった、と書いてある部分の引用をお願いします。 書いている事≠取材して分かった事全部 なので。
460 :
名無しさま :2009/09/18(金) 19:41:36 ID:50dT7jQH
461 :
名無しさま :2009/09/18(金) 19:50:00 ID:JHdor4Fj
>>460 毅夫氏が西真寺を墓参に訪れるようになったのは昭和61年以降の
ことのようだね。
昭和61年に村上市郷土資料館を訪れた小和田恒、毅夫氏に館長
が大正時代に復元された城下絵図を見せ、足軽長屋の小和田兵五郎
を先祖だと紹介してしまった。
それ以降小和田毅夫氏は兵五郎が自分の先祖であると思い、西真寺
に墓参するようになった。
それまでは毅夫自身も自分の先祖についてよく知らなかったらしい。
462 :
名無しさま :2009/09/18(金) 19:58:31 ID:i+Ua6BBU
sage
463 :
名無しさま :2009/09/18(金) 20:03:52 ID:i+Ua6BBU
すみません。上のは間違いです。 それは、いつ頃の何にある情報ですか? 小和田毅夫が台座を交換したのは昭和55年で、河原さんが取材した時から遡って30年前にお墓を移したという話の精度を知りたいので。
464 :
名無しさま :2009/09/18(金) 22:11:47 ID:JHdor4Fj
985 名前:名無しさま 投稿日:2009/09/18(金) 21:05:17 ID:50dT7jQH 女帝・女系容認となったら男系は優先する必要はなくなるのです。 なぜなら万世一系を継承できない異なる血統の男系が混在している 女系皇族に皇位継承資格を認めた、となった時点で男系優先の 正当性がなくなるから。天皇家は万世一系だから男系男子は優先されてきたのです。 でもそうじゃなくなるのです。万世一系を否定したのですから。 女帝・女系容認となったら天皇家最優先で直系継承とならなければなりません。 だから皇太子→愛子様→そのお子様…という直系継承になります。 禿げたさんの要望はすなわち「愛子様が次の皇太子に」、 こういうことだったんです。 --------------- こんな妄想を書き綴っている奴が、事実を検証する資格 など無いと思うけど…
465 :
名無しさま :2009/09/18(金) 22:38:21 ID:i+Ua6BBU
>>459 ,463についての情報お待ちしております。
検証する資格の検証も結構ですが、元情報を示すまでは、それも妄想と同然に扱われますよ。
466 :
名無しさま :2009/09/19(土) 11:53:55 ID:dhSRY9fS
江頭家については安太郎の父である嘉蔵の墓がどこにあるのか 分らなかった。 江頭嘉蔵は佐賀藩士であったといわれているけど、それを示す 史料は無い。 川口素生も江頭家については嘉蔵以前の史料は存在せず、ルーツ については全く分っていないと『小和田家の歴史』で述べている。 江頭家は佐賀藩士であることは事実だというレスがあったけど、出自 は不明。
467 :
名無しさま :2009/09/19(土) 14:57:20 ID:dhSRY9fS
24 名前:名無しさま 投稿日:2009/09/19(土) 06:10:11 ID:oL2xgLlp 認識しておかなければならないのは、 1945年の敗戦で、旧体制が完全否定され、 占領体勢を経て、日本は国民主権の国に変わったと言うこと。 天皇の地位は、国民の総意に基づく、 と定められたんだよ。 国民が女系でいいと考えれば、女系でいい。 というか、 目の前にいる、愛子ちゃんと悠仁クンを見て今の国民が考えるだけでいいんだよ。 30年後にどうなっているかは、その時代の国民が考えればいい。 20年前の、喪中婚約記者会見の、天皇の尊厳を否定するようなバカップルを見た国民として、 悠仁を天皇に戴くなんてありえない。 ↑ 過去スレでとっくの前に論破されたのにもかかわらず、いまだ「喪中婚約」 だといいはる池沼婆ハケーン!!
468 :
名無しさま :2009/09/19(土) 17:00:41 ID:kuxvTqof
>>461 >毅夫氏が西真寺を墓参に訪れるようになったのは昭和61年以降の
>ことのようだね。
ウソ(?)発見かな。ソースお願いします。
469 :
名無しさま :2009/09/19(土) 17:04:26 ID:dhSRY9fS
>>468 小和田毅夫氏が昭和61年以前に西真寺を墓参に訪れていたという
ソースきぼんぬ。
470 :
名無しさま :2009/09/19(土) 17:14:20 ID:kuxvTqof
>>458 金吉氏の墓が移転されているのなら、西真寺に金吉氏の記録がなくても不思議
はない。それこそ古賀喜三郎氏の例にあるとおり、転出したら末梢ですから。
小さい寺なら消したままでしょうが、大きな寺なら当然、その後に同じ
命日の故人の名を書くので、いっぱいになれば転記する必要がでて
きます。その場合、抹消したものは転記されません。
寺としては兵五郎の記録は責任とって面倒みないといけませんが、金吉は
そうではない。
471 :
名無しさま :2009/09/19(土) 17:17:36 ID:kuxvTqof
>>469 ソースを示さず反論。つまり、ウソだということだね。
何度か訪れていた、に、時間の証言はなかった、余計な情報を付け加えた、と。
「小和田穀物氏は西真寺に何度か墓参に訪れていた」。
これはウソという枝葉のついていない情報。いつかは不明。
472 :
名無しさま :2009/09/19(土) 17:26:37 ID:kuxvTqof
とりあえず、江頭家・小和田家のルーツにつべこべいいたい人間が かたくなにコメントをしない事柄がある。 それは、当然ながら江頭嘉蔵氏・小和田兵五郎氏・道蔵氏・金吉氏の 過去帳が江頭家・小和田家の「当主」に渡されたということだ。 過去帳は寺と家と両方が持ち、家系の繋がりが明示されるのは「家」の 側が持っている物の方である(寺の情報は命日と氏名を検索キーとするもの であり、備考情報として故人の情報も書かれるが、命日というキーがないと そこから他の人の情報は辿れない)。 そして雅子妃の親は、当主の家の系ではなく分家である。 調べるのなら、本家に情報を提示してもらう必要がある。 そのことは、杉本家の場合に「本家に訪ねれば分かる」という記述を していることから、江頭家・小和田家につべこべ言っている人間も 本当は知っている。 つまり、「分かっていてとぼけている」わけだな。
473 :
名無しさま :2009/09/19(土) 17:30:11 ID:dhSRY9fS
兵五郎が毅夫氏の曾祖父なら西真寺に墓参に訪れるはずだが、昭和61年には 訪れなかった。 その村上市訪問の際、郷土資料館の館長から兵五郎が先祖であるとの説明 を受けた。 よって毅夫氏が西真寺に訪れるようになったのは昭和61年以降だと解釈した。 金吉の墓が西真寺から泉性寺に移されて、毅夫氏は何度も墓参に訪れて住職 とも面識があり、会話も交わしているはずなのに、金吉の墓は無いと語ったこと も不可解だね。 あと、江頭家は佐賀藩士であったことは事実だと言ってた人がいるけど、そのこ とを証明する史料のうpきぼんぬ。
474 :
名無しさま :2009/09/19(土) 17:39:50 ID:dhSRY9fS
>>472 杉本家は静岡市の感応寺に杉本嘉助氏の祖父にあたる
吉三郎からの墓がある。
その墓を嘉助氏が昭和58年に改修して新しい墓を立てている。
江頭家は江頭豊氏の祖父にあたる嘉蔵の墓所は分らなかった。
菩提寺が分らないために、それ以前の系譜も出自も分からない。
小和田家の場合は泉性寺に過去帳は無いようだ。
過去帳があるのであれば、西真寺から移されたという金吉の名は
過去帳に記されているはずなのに、住職は墓は無いと断言してい
るんだから。
475 :
名無しさま :2009/09/19(土) 17:53:11 ID:dhSRY9fS
>>472 >それは、当然ながら江頭嘉蔵氏・小和田兵五郎氏・道蔵氏・金吉氏の
>過去帳が江頭家・小和田家の「当主」に渡されたということだ。
>過去帳は寺と家と両方が持ち、家系の繋がりが明示されるのは「家」の
>側が持っている物の方である(寺の情報は命日と氏名を検索キーとするもの
>であり、備考情報として故人の情報も書かれるが、命日というキーがないと
>そこから他の人の情報は辿れない)。
ソースは?
小和田・江頭家の当主に過去帳が渡されたというのは?
476 :
名無しさま :2009/09/19(土) 18:00:40 ID:kuxvTqof
>>473 まずは、その説明とやらのソース提示をよろしく。
477 :
名無しさま :2009/09/19(土) 18:03:42 ID:kuxvTqof
>>473 あれ?
>郷土資料館の館長から兵五郎が先祖であるとの説明
なんだ、小和田氏の先祖が兵五郎という説は、責任ある立場の人間が
既に発表していたわけだね。
この説明とやらを詳しくお願いいたします。
検証に値する資料ですね。「郷土博物館の人間」だ。
478 :
名無しさま :2009/09/19(土) 18:09:18 ID:dhSRY9fS
@昭和61年以前に小和田毅夫氏が西真寺を墓参に何度か訪れていた。 A小和田・江頭家の当主に過去帳が手渡された。 上記のことを記した記事のうpをお願いします。 検証スレなんだから、確かな資料を基に論じてください。
479 :
名無しさま :2009/09/19(土) 18:13:53 ID:kuxvTqof
>>475 うーんと、在家用の過去帳の存在を知らないとか?wiki読んでね。
墓まで作ったら、当然、作った家に過去帳渡しますよ。
こんなことにソースがいるわけ?
で、私、小和田家の「当主」と書きました。道蔵と金吉がつながって
ないなら、金吉以外の「小和田家の当主」が過去帳を持っているだろう
ということです。
つながっていたら、当然金吉が持つ。
480 :
名無しさま :2009/09/19(土) 18:15:39 ID:kuxvTqof
>>478 小和田毅夫氏が西真寺を墓参に何度か訪れていた。
ソース、おしゃぎり会館のホームページ。これが過不足のない情報です。
時制を付け加えたいのなら、付け加えたい側がソース提示をお願いします。
481 :
名無しさま :2009/09/19(土) 18:21:24 ID:90mgTgVR
>>473 >>よって毅夫氏が西真寺に訪れるようになったのは昭和61年以降だと解釈した。
そうですか、あなたの臆測でしたか。
勝手に解釈してただけだったんですね。
482 :
名無しさま :2009/09/19(土) 18:23:48 ID:kuxvTqof
>>474 杉本吉三郎−吉太郎(嫡男)−嘉助。という家系ですな。つまり
吉三郎氏の墓は吉太郎が面倒を見ないといけない。
吉太郎の長男ではないと思われる嘉助がなんで改修したのか知らないけど、
嫡男が亡くなってたとか没落していたとか?ですかね。
江頭嘉蔵−安太郎(次男)−豊。
嘉蔵の墓の面倒は嫡男が見るもの、安太郎の系じゃないよ。
本家・当主と分家という表現では分からなかったということですかね?
483 :
名無しさま :2009/09/19(土) 20:29:13 ID:PJRgaqDG
>>479 >で、私、小和田家の「当主」と書きました。道蔵と金吉がつながって
>ないなら、金吉以外の「小和田家の当主」が過去帳を持っているだろう
>ということです。
>つながっていたら、当然金吉が持つ。
つまり憶測だということね。
金吉と道蔵との明確な関係は分らない。
過去帳が存在すれば、金吉の父は道蔵であることが判明するのだけどね。
>>481 昭和61年には西真寺を訪れなかったのだから、墓参に来るようになったのは
それ以降だと推測した。
村上市郷土資料館のHPには昭和61年以前に西真寺を墓参に来たとは一言
も書いていないので、昭和61年以前に西真寺を訪れたというのも、あくまでも
君の推測なんだね?
484 :
名無しさま :2009/09/19(土) 20:34:53 ID:PJRgaqDG
>>482 >杉本吉三郎−吉太郎(嫡男)−嘉助。という家系ですな。つまり
>吉三郎氏の墓は吉太郎が面倒を見ないといけない。
>吉太郎の長男ではないと思われる嘉助がなんで改修したのか知らないけど、
嘉助氏が吉太郎の長男ではないとする根拠は?
江頭家が佐賀藩士の家系であったというソースのうpも頼むよ。
池上四郎は池上武助の長男ではなかったけど、会津若松の池上家の墓を
改修している。
四郎は池上家の跡継ぎではなかったけど、池上家代々の系譜は判明して
いる。
佐賀の名家だという江頭家も当然嘉蔵以前の家系図も存在するんだろうね。
江頭家系図のうpも頼むわ。
485 :
名無しさま :2009/09/19(土) 20:47:31 ID:90mgTgVR
>>483 道蔵と金吉の関係は明確ですよ。
>>441 :名無しさま:2009/09/18(金) 17:41:08 ID:50dT7jQH
不明だといったって、現に兵五郎が穀夫の曽祖父、道蔵が祖父、であると
菩提寺の住職が言ってるじゃんw
金吉と穀夫が親子関係であったのは、金吉の母方の親族の証言などからも
明らか。
なら金吉と道蔵は親子、道蔵と兵五郎は親子、兵五郎と道助は兄弟(これは
穀夫氏が証言)、とならなきゃおかしいよね?
他にどう解釈できるのかな??
少なくとも道蔵の墓を移転する時は穀夫氏は西真寺に訪ねてますよ。
あれは昭和61年以前のことですが?
486 :
名無しさま :2009/09/19(土) 20:52:34 ID:PJRgaqDG
>>485 金吉以前の系譜は不明。村上市の西真寺を直接取材した毎日新聞
記者が書いているんだけど。
430 名前:名無しさま 投稿日:2009/09/18(金) 16:20:27 ID:JHdor4Fj
>>429 『皇太子殿下と雅子さま ご結婚記念保存愛蔵版豪華写真集 』(毎日新聞社)
小和田家のルーツは新潟県村上市。祖先は村上藩内藤家の藩士だったといわれ
ている。
村上藩六代目村上信敦の家臣として、一七八七(天明七)年に記された「内藤家
分限帳」に小和田信六の名がある。禄高は「弐人扶持三両」。
また、新六という人物については「村上藩武術史」にも記載があり、武術に秀でて
いたらしく、柔術の「村上藩制剛法」印可を受けたとある。
この新六の孫が、雅子さまの曽祖父・金吉氏だというのが有力な説である。ただし、
小和田家は下級武士であったためか、金吉氏の父も含めて、金吉氏以前の系譜は
はっきりしない。
村上城跡保存育英会の竹沢盛夫理事長が所有する「村上藩政役名」には、江戸
末期の家臣として小和田千助の名が見える。さらに同時期の「村上城下絵図」に、
同音の専助の名があり、同一人物である可能性が高いと見られている。このほか「西
真寺」の過去帳には小和田兵五郎の名もあるが、これらの人物と金吉氏の関係は定
かではない。
------------------------------
「小和田家は下級武士であったためか、金吉氏の父も含めて、金吉氏以前の系譜は
はっきりしない」
「西 真寺」の過去帳には小和田兵五郎の名もあるが、これらの人物と金吉氏の関係は定
かではない」
金吉の以前の系譜ははっきりしない。
金吉の父の名もわかっていない(恐らく道蔵?)
西真寺の過去帳には兵五郎の名があるが、金吉との関係は不明である。
毎日新聞社記者の取材。
487 :
名無しさま :2009/09/19(土) 20:55:28 ID:90mgTgVR
>>486 でもその西真寺の住職がこう言ってるの。
「なぜ祖父の妻と子、および曽祖父夫妻の墓を残していったのか。ふつう移す
ときはそっくりもっていくものなんですがねえ」
ちょっと前をロムったの?
君と同じものしつこく貼り付けてまったく同じやり取りしてるのにw
つか同じ人か♪
488 :
名無しさま :2009/09/19(土) 20:59:42 ID:PJRgaqDG
>>487 河原本をしつこくコピペしてるのも同じ人物かな?w
毎日グラフ 1993.1.31
新潟県・村上市 慶祝ムード 小和田家のルーツ・系譜に論議わく
恒さん夫妻は87年11月22日、毅夫さん夫妻とともに、郷土資料館を訪ねている。当
時の館長、前田健さんは「士族の血を引く人物らしいエピソード」として、その模様を日
記にこう書き残している。
「お父様(毅夫さんのこと)は足がお悪いとのことで車に残られ、お母様と奥様と恒さん
をご案内した。おしゃぎり(村上市の祭りで使われる山車)の説明を終えて、二階へ階
段をのぼられる時、恒さんはお母様をおんぶされてのぼられたのには敬服した。なかな
かの人だと思った」
小和田家と同じ村上藩士の子孫で、郷土史研究家の村上城跡保存育英会の竹沢盛
夫理事長(77)も、小和田家のルーツ探しに追われる日々だ。竹沢さん自身、雅子さん
の父方の曽祖父、金吉さん以前の祖先がつかめていない。
「ご婚約は同じ士族の子孫として大変喜ばしいこと。下級武士であったために小和田家
のルーツは記録が少ないが、これで系譜を解きあかす興味が増えた」
といきいきとした表情で語った。
489 :
名無しさま :2009/09/19(土) 21:05:21 ID:90mgTgVR
みんなちゃんと西真寺の住職に取材をせずに、でまわってる情報だけで ぐるぐる臆測書いてるからこうなるんだね。 とっくの昔に兵五郎→道蔵→金吉→穀夫→恒の関係は明らかだっていうの 誰もきがつかないわけ?墓の管理してる住職が言ってる証言以上の 信憑性のあるソースなんてないだろうに。
490 :
名無しさま :2009/09/19(土) 22:08:52 ID:UrpkJzr4
>「小和田家の墓は明治七年よりうちにあるが、ただ金吉と兵五郎の墓はない。 >匡利(道蔵)の墓だけがあります。 >外務省の小和田家にとって初代にあたる兵五郎の墓は寺にありません。 >私の父が死んでいるので、その辺の詳細は分かりませんが。 >三十年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということはまったく知りません」 これは質問を省いて、答えだけを羅列してるんですよね。 聞かれもしないのに、30年前という具体的な数字を揚げて、答えるのは変ですから。 とすれば、河原氏は誰からかお墓を移したのは30年くらい前だと聞いていた? それは西真寺の住職から聞いたと考えるのが自然だと思うのですが。 西真寺には何かの記録が残っているのか、住職の記憶だけで答えたのか。 入内が決まった頃の取材のようなので、そこから遡る事30年前、昭和38年頃にお墓を移転した可能性は読み取れますね。
491 :
名無しさま :2009/09/19(土) 22:23:30 ID:UrpkJzr4
そうそう。河原氏の本は
>>364 のように、小和田家の家系図が不明だと主張する時に、散々引用されてきたんですよ。
主張の内容によって、信頼性を否定したり肯定したりするのは、検証するスタンスとして如何なものかと。
492 :
名無しさま :2009/09/19(土) 23:40:00 ID:XtQirKeX
じゃあ聞くよ。 河原敏明の本が事実であるならば、金吉は一旦西真寺に埋葬されて、 その後に新潟市の泉性寺に改装された。 なぜ金吉のみの墓を移したんだろうか? 泉性寺には道蔵が葬られていて、過去帳もあるのなら金吉の父では ないかと推測されている道蔵とその妻、つまり金吉の母の名前も記載 されているはずだ。 金吉の母って誰なの? 金吉の2人の兄の名は? 江頭家の家系図のうpもよろしく。
493 :
名無しさま :2009/09/19(土) 23:49:45 ID:90mgTgVR
>>492 過去帳に両親の名前なんて書いてないけど、そもそも。
寺の過去帳は仏さんの没年や法名が亡くなった順に羅列してあるだけのもの。
兄弟の名前なんて書いてあるわけないじゃん。
兄弟や母親なら墓のある西真寺に聞けば一発でわかるでしょ。
なんで墓のある菩提寺に聞かないのかな?
墓があるのにどうしてどのジャーナリストも墓石の字を読もうともしないのだろう?
住職に聞かなくたって名前、法名、生年月日、命日ぐらいならわかるのに。
どうみたって手落ちだらけの調査記事を鵜呑みにするほうもどうかと思うし、
その程度の調査を本にしたり記事にする神経がわからんね。
江頭家だってきちんとしたプロが調査してるわけじゃないんでしょ?
そんなに知りたかったら身元調査専門の興信所に頼めばいいのに。
それでも不詳となったら堂々と問題視すれば?
そうでなければただの臆測に基づく誹謗中傷。
494 :
名無しさま :2009/09/19(土) 23:54:11 ID:XtQirKeX
>>493 じゃあ何で金吉には2人の兄弟がいたと分るの?
川嶋庄一郎と小和田金吉はほぼ同時代人だけど、川嶋庄一郎は両親
と2人の兄の名前も生没年も分っているのに。
川嶋庄一郎氏は、明治3年生まれ、幼名・松浦力松
父・松浦平吉、母・かつの三男、長兄は庄太郎、次兄は虎松
古くは屋号を(ふどう)不動、江戸期は(かど)門と呼び、明治4年頃、平民
の苗字使用許可に際し、松浦姓を名乗る
小和田金吉氏同様、幼くして父を失ったが、金吉氏と違い恵まれていたの
は、ふたりの兄が家を守り、学問の道に進む彼を支えてくれたこと
師範学校に進むと、あちこちに赴任する
家に母をひとり残して、京都・富山・滋賀・佐賀・東京と転勤することは難し
かったと思われる
松浦家の三兄弟は、父亡き後子供らを育てた母かつをとても大事にしてい
たとあるのでなおさらだろう
金吉氏は慶応3年あるいは明治元年生まれ
力松氏と同じく三男と言われているが、二人の兄は早世していたようす
http://sakura.45.kg/fuetayo/03/kawashimake.html
495 :
名無しさま :2009/09/20(日) 00:02:05 ID:kVrtoQLU
>>494 だから自分で西真寺に聞いて調べれば?
道蔵の妻子の墓があるってわかってるんだから。
川嶋庄一郎はそこまで調べた人がいた。
金吉の場合は兄弟や母親の墓があるのにそこまで調べてくれる人が
いまだにいなかった、ってだけでしょ。
調べてないだけなのに不詳だの、素性が怪しい、だのなんてなりっこないじゃん。
496 :
名無しさま :2009/09/20(日) 01:50:51 ID:lZk0ryWa
もちろん皇室だから、金吉の壬申戸籍を確認済みだよ。 普通に考えても、確認しないで結婚させるなんてありえないだろ?
497 :
名無しさま :2009/09/20(日) 10:15:46 ID:qTCuVaLS
ttp://kakeizukoubou.seesaa.net/article/8138387.html >お寺の過去帳というのは、家々毎に書かれて綴られているのではありません。
>そのお寺の檀家全部の情報が載せられています。
>また、没年毎に記録されたものでもなく、亡くなった日毎に記録されているものです。
>そのため、天保3年4月1日に亡くなった佐藤太郎さんと、平成10年4月1日に亡くなった田中次郎さんが同じグループに入れられていることになります。
過去帳があっても、亡くなられた日が分からないと、調べるのは困難なんですね。
他人が軽々に調べられるものでは無いようです。
兵五郎氏については、お墓から没年月日が分かって過去帳を確認出来た。
金吉氏については、お墓を移転した後だから、過去帳を全部見ないと確認出来ない。
どうしても調べたい人が、住職の信頼を得て全部の過去帳を見せて貰うしか、過去帳に載っているかいないかを証明する事は、出来ないんじゃないですかね。
498 :
名無しさま :2009/09/20(日) 18:16:28 ID:IScohMeS
>>497 西真寺の過去帳の金吉の情報なら、調べても出てこない可能性も高いよ。
つまり、移転した仏はもう寺にとって関係ない仏だから、記録から抹消される。
抹消そのものは線でも引くだけだろうけど、過去帳は新しいものに転記して
作り変えたりもする。そのとき、抹消された記録までは転記しない。
金吉氏の「寺側の」過去帳はどこにも存在しない可能性は高いんです。
泉性寺は焼けてますからね。
499 :
名無しさま :2009/09/20(日) 18:26:27 ID:IScohMeS
>>483 小和田家の当主が持つについては、憶測ではないよ。
過去帳を渡すのは寺として当然行う行為なんだ。特に浄土真宗は。
○○の墓があるならその寺には当然過去帳に○○の記載があるはず、という
のを憶測とは言わないわけで。それと同程度に当然のこと。
金吉が葬ったのなら、金吉が持っているだろう。
他の誰かが道蔵を葬ったのなら、その人だろう。
それだけの話だ。
500 :
名無しさま :2009/09/20(日) 18:42:06 ID:IScohMeS
>>484 杉本吉三郎−吉太郎(嫡男)−嘉助(嫡男)。
なの?知らなかった。なら嘉助が面倒みて当然ですね。
江頭嘉蔵−安太郎(次男)−豊。
とは明らかに話が違う。
>池上四郎は池上武助の長男ではなかったけど、会津若松の池上家の墓を
>改修している。
池上三郎(嫡男)さんは何してたんですか?としか思わない。
普通嫡男だろーっ、当時なら特に。亡くなられてたのかねぇ。
四人も息子がいたのに、四番目が面倒みる羽目になるとは、
結構浮き沈みの多い人生だったのでしょうかね、お父様は。
501 :
名無しさま :2009/09/20(日) 19:16:33 ID:qTCuVaLS
502 :
名無しさま :2009/09/20(日) 19:40:05 ID:IScohMeS
>>501 あ、ごめんなさい。道蔵氏と取り違えた。金吉氏の過去帳なら泉性寺に
あるかもしれないね。小和田家の当主(恒氏ではないよ、本家)の
協力が得られれば調べられるかな。
503 :
名無しさま :2009/09/21(月) 13:01:12 ID:6s4BjDsR
>>500 池上三郎は武輔の長男で、四郎は次男であったそうです。
三郎は大正二年に亡くなっていますから、嫡男ではなく次男で
分家独立した四郎が池上家の墓を改修したのだと思います。
池上武輔は池上新之丞高尚の後裔で、八代目にあたります。
池上四郎は分家独立したものの、池上家の系統は代々分って
います。
江頭家の場合はどうなんですか?
江頭嘉蔵以前の家系図が存在するのであれば、佐賀県立図書館
や博物館で保存されているはずですが。
504 :
名無しさま :2009/09/21(月) 13:04:21 ID:6s4BjDsR
505 :
名無しさま :2009/09/21(月) 13:07:52 ID:6s4BjDsR
河原敏明『皇太子妃雅子さま』 その祖先が眠るという西真寺を訪ねた。西真寺は村上市にある浄土真宗の寺 で、元和四年以来、ここで三百七十年の歴史を持つ。住職本荘長弘師はその小和田 家の墓について、毅夫氏が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟市の 泉性寺に移した、という話をしてくれた。 ゆえにいま西真寺にある小和田家の墓には、兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻 とその子供だけ(夫の道蔵の墓は新潟に)二基の墓石が並んでいる。高さが七 十センチ、近隣のものと比べて極端に小さく墓域にも余裕がない。 「なぜ祖父の妻と子、および曽祖父夫妻の墓を残していったのか。ふつう移す ときはそっくりもっていくものなんですがねえ」 と住職夫妻も不審気だった。昭和六十一年十一月、恒氏が外務省官房長のと き、恒、毅夫の両氏夫妻が村上にきたが、そのときも祖父、曽祖父が眠ってい るにもかかわらず墓参していないことにも、理由をはかりかねていた。 そこで小和田毅夫氏が、村上から墓を移したという新潟市の泉性寺に聞くと 住職の広沢誠師が、 「小和田家の墓は明治七年よりうちにあるが、ただ金吉と兵五郎の墓はない。 匡利(道蔵)の墓だけがあります。外務省の小和田家にとって初代にあたる兵 五郎の墓は寺にありません。私の父が死んでいるので、その辺の詳細は分かり ませんが。三十年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということ はまったく知りません」 と西真寺の住職の話とはだいぶ食い違いがある。しかも泉性寺が明治十三年 の大火で類焼しているので資料が乏しいという。 ================================================= これは明らかに編集者がリライトした記事ですね。
506 :
名無しさま :2009/09/21(月) 13:20:37 ID:6s4BjDsR
『ゆえにいま西真寺にある小和田家の墓には、兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻 とその子供だけ(夫の道蔵の墓は新潟に)二基の墓石が並んでいる。高さが七 十センチ、近隣のものと比べて極端に小さく墓域にも余裕がない。 「なぜ祖父の妻と子、および曽祖父夫妻の墓を残していったのか。ふつう移す ときはそっくりもっていくものなんですがねえ」 と住職夫妻も不審気だった。昭和六十一年十一月、恒氏が外務省官房長のと き、恒、毅夫の両氏夫妻が村上にきたが、そのときも祖父、曽祖父が眠ってい るにもかかわらず墓参していないことにも、理由をはかりかねていた。 』 『そこで小和田毅夫氏が、村上から墓を移したという新潟市の泉性寺に聞くと 住職の広沢誠師が、 「小和田家の墓は明治七年よりうちにあるが、ただ金吉と兵五郎の墓はない。 匡利(道蔵)の墓だけがあります。外務省の小和田家にとって初代にあたる兵 五郎の墓は寺にありません。私の父が死んでいるので、その辺の詳細は分かり ませんが。三十年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということ はまったく知りません」 』 住職の答えは明らかに編集者が書き直しています。 インタビュアーは、「金吉の祖父は兵五郎で、父は道蔵。金吉は道蔵の3男だと 言われていますが、金吉の墓はありますか?」と聞いたのに対して、西真寺 住職は「金吉の墓は無い。金吉の祖父が兵五郎だとするならば、ふつうそっくり 移すはずなんですがねえ」とでも答えたのでしょう。 泉性寺の住職には「西真寺の住職によれば金吉の墓を移したとうかがっていま すが。金吉の祖父は兵五郎の祖父で、小和田分家の初代にあたるそうですが」 という聞き方をしたと思われます。 それに答えて泉性寺住職は「小和田家の墓はあるが、金吉の墓はない。兵五郎 という人物の墓は無い」とでも答えたのでしょう。 明らかにリライトされた文章です。
507 :
名無しさま :2009/09/21(月) 16:11:35 ID:ADoO5qEB
と、河原氏の本をID:6s4BjDsRがリライトして申しておりますw 〜という聞き方をしたと思われます。 って自分勝手な妄想でリライトすんなってw その前に本当のところを真西寺と泉性寺の住職達に聞けば?
508 :
名無しさま :2009/09/22(火) 22:46:04 ID:lnygGrP7
小和田家に過去帳があるっていのも事実ではなくて、あくまでも 「推測」なんだよね? 当主の小和田毅夫氏ですら、雅子さんが皇太子妃候補としてマスコミ で取上げられるまでは自家のルーツについてよくは知らなかったらしい から。 週刊文春 1993.1.21 小和田家の人々「清貧の思想」 恒氏個人はともかく、正田家に続いて民間からお妃を出すことになった小和田家に ついては、そのルーツがほとんど知られていない。雅子さんが初めてお妃候補と騒が れた六年前には、父親の恒氏も祖父の毅夫氏(94)さえも詳しく知らなかったという。 河原敏明『昭和と平成の皇太子妃』 P125 美智子さまの正田家につづいて、民間から皇太子妃を出すことになった小和田家。 しかし、初めて雅子さんがお妃候補と騒がれた時点では、そのルーツなどはほとんど 分っていなかった。それまでは恒氏も、自分の祖先のことを深く顧みることはなかった のだろうか、その騒動の翌年、小和田夫妻は両親の毅夫夫妻と、自分の祖先の地を 訪ねている。
509 :
名無しさま :2009/09/22(火) 22:48:52 ID:lnygGrP7
>>508 ×小和田家に過去帳があるっていのも事実ではなくて
↓
○小和田家に過去帳があるっていうのも事実ではなくて
510 :
名無しさま :2009/09/22(火) 23:05:33 ID:TA0JVYb/
>>508 そうやってまたとぼけて同じネタふりループはやめてくれない?
ちょっと前をロムればいつもの結論にたどり着くの知ってるでしょ?
511 :
名無しさま :2009/09/22(火) 23:09:55 ID:lnygGrP7
つまり、「小和田家の当主は過去帳を持っているだろう」という 推測なわけだね? 誰か小和田家の方に確認を取った人はいるの?
512 :
名無しさま :2009/09/22(火) 23:38:36 ID:TA0JVYb/
>>511 お前がやれ、って言われていつもだんまりのくせにw
513 :
名無しさま :2009/09/23(水) 08:57:51 ID:vjO0nuoY
>>511 →「小和田家に過去帳がないというのも臆測だよね?」
→確認したければ自分で菩提寺に聞けば?
もしくは自分で小和田顕氏の奥さんに確認すれば?
文句が言いたければそれからだよね?
→いつもの粘着キモ♂逃亡
→数日後に使い古された河原本をべたべた、金吉が〜墓が〜過去帳が〜江頭が〜…
〜以下エンドレス〜
514 :
名無しさま :2009/09/23(水) 17:33:59 ID:k9B7Tk9M
現代 1993.3 小和田家の娘 岩瀬達哉 まず、父方のルーツに接するため、新潟県北部の村上市を訪ねた。 小和田家のルーツは、ここ村上市で五代前の道助までたどれるが、それ以上となる と判然としない。 五代前の道助は、旧村上・内藤藩で年貢の取り立てなどをしていた下級武士で、こ こから分家した匡利が現在の小和田家の初代ということになる。その子、金吉は税務 官吏で県内各地を転転としていたといわれる。 諸君! 1993.3 天皇家の「生存への選択」 保阪正康 明治時代末期、村上藩に縁のある人々が集まって、維新前の村上城下絵図を復元 している(大正元年に発行)。その絵図を見ると、小和田家の祖先のうちの一人と見ら れる小和田兵五郎の名があり、足軽長屋に住居があったとされている。 幕末から明治にかけての史料の中には、この兵五郎の他に、いくつかの小和田姓が 散見されるが、嘉永元年(一八四八年)四月に村上領沖に外国船が現れ、村上藩が海 岸防衛のために出兵した中に見られる小和田道助が小和田家の祖先であるという。 小和田雅子の四代前は匡利で、明治七年に亡くなっているが、この人物と海岸防衛 に出兵した道助との関係は不明である。 ( 中 略 ) 小和田家は、前述の道助の時代に本家と分家とに分かれたが、それから匡利の代ま でどう続いているのか、維新時に匡利が何をしていたか、彼が村上をいつ離れたのかは、 関係者の話からは判らなかった。いまや、自分の三代前の人物のことがはっきり判って いる家の方が少なくなっているが、小和田家もまたその例外ではないということだろう。 しかし、匡利が村上を離れたのはいつか、あるいは離れなかったのか、ということは、実 は歴史的には興味深い問題なのだ。
515 :
名無しさま :2009/09/23(水) 17:46:15 ID:k9B7Tk9M
村上市に現地取材をした岩瀬達哉、保阪正康両氏のレポ。 『現代』1993年3月号の「小和田家の娘」で岩瀬氏は道助から分家した匡利が 小和田家の初代である、と書いている。 『諸君!』1993年3月号「天皇家の『生存への選択』」で保坂氏は、兵五郎は小和田 家の祖先のうちの一人であると見られれる、と書いていている。 また、道助と匡利(道蔵)との関係は不明で、匡利がいつ村上を離れたか、あるいは 離れなかったかも不明だとしている。 『週刊朝日』1993年1月29日号に掲載された小和田家系図は、 小和田新六(?)・・・・・・道助・・・・・・匡利―金吉―毅夫―恒―雅子 となっており、兵五郎の名は家系図にも記事中にも1回も登場していない。
516 :
名無しさま :2009/09/23(水) 19:56:01 ID:eizW5I0O
>>515 兵五郎夫妻の墓の横に道蔵の妻と子供の墓があるのに道蔵とは無関係と?
ようは菩提寺の調査をしなかったのでしょうね。
517 :
名無しさま :2009/09/23(水) 23:51:58 ID:kbIxWguc
>>516 >>430 を参照のこと。
兵五郎の隣りの墓は、おそらく道蔵の妻子の墓ではないか?という推測だった
ようだね。兵五郎が金吉の曾祖父で、隣りの墓がその義理の娘と孫であるとす
るならば、毅夫氏が曾祖父と祖母の墓を村上に残していったことは説明がつか
ないし。
皇太子ご夫妻ご成婚直後に発売された毎日新聞の写真集では、こう説明されている。
===================================
『皇太子殿下と雅子さま ご結婚記念保存愛蔵版豪華写真集 』(毎日新聞社)
小和田家のルーツは新潟県村上市。祖先は村上藩内藤家の藩士だったといわれ
ている。
村上藩六代目村上信敦の家臣として、一七八七(天明七)年に記された「内藤家
分限帳」に小和田信六の名がある。禄高は「弐人扶持三両」。
また、新六という人物については「村上藩武術史」にも記載があり、武術に秀でて
いたらしく、柔術の「村上藩制剛法」印可を受けたとある。
この新六の孫が、雅子さまの曽祖父・金吉氏だというのが有力な説である。ただし、
小和田家は下級武士であったためか、金吉氏の父も含めて、金吉氏以前の系譜は
はっきりしない。
村上城跡保存育英会の竹沢盛夫理事長が所有する「村上藩政役名」には、江戸
末期の家臣として小和田千助の名が見える。さらに同時期の「村上城下絵図」に、
同音の専助の名があり、同一人物である可能性が高いと見られている。このほか「西
真寺」の過去帳には小和田兵五郎の名もあるが、これらの人物と金吉氏の関係は定
かではない。
518 :
名無しさま :2009/09/24(木) 00:03:59 ID:Tf3FrvLy
>>517 〜とするならば、推測のようだね、って
お前の勝手な臆測はどうでもいいわなw
嘘か本当か西真寺の住職に聞いてこいや!
墓石見れば小和田○○、裏か側面に誰それの妻、誰それの長男とか
書いてあるから確かめてこいや!
ついでに住職に小和田兵五郎夫妻、道蔵の妻子の過去帳も確認させてもらえや!
話はそれから聞いてやるよ♪
519 :
名無しさま :2009/09/24(木) 10:52:27 ID:CHc4R/Jd
>>503 池上四郎が分家独立しているかどうか分からないけど?
旧民法では結婚したからって分家するとは限らない。
要は三郎さんのお子さんが家を継げなかったってことかな?
(お子さんがいないか、娘さんだけだったか?)
分家独立していなければ、その場合家督は池上四郎さんに行きます。
池上家、お武家さんですよね。江戸時代、武家の場合は長男に跡取りが
生まれるまで、次男は家に留め置く習慣があったりします。
長男に何かあったときの用心なんですね。
(同格の家から婿にと求められた場合は別です。次男が複数男児を
設けることができれば、養子にできますから)
時代が変わったので結婚は許しても、分家はさせていないかも。
江頭嘉蔵の家の家督相続人は安太郎じゃなくて、長男(wikiによると
範貞さん)と考えるのが妥当。そこに嫡男が居れば、墓を含めて
相続はそちらに行きますから、安太郎氏の家には嘉蔵関係のものが
なくても何の不思議もないのですよ。
江頭嘉蔵関係のものが、「安太郎の系を調べる限りにおいては」存在しない
研究家がそう言っているのは分かります。
しかし、嘉蔵関係のものが「現在存在しない」といいきるには、江頭嘉蔵の
家の家督相続をした子孫を調べるしかないのですよ。
520 :
名無しさま :2009/09/24(木) 11:17:22 ID:CHc4R/Jd
>>511 いや、推測以前の話をしているんだけど?誰かを葬ったら位牌は当然作る
でしょう?で、浄土真宗の場合位牌は義務じゃなくて、在家用の過去帳の
方が義務なわけ。
つまり、道蔵であれ金吉であれ、彼らを葬った人は過去帳持ってるということ。
金吉−穀夫−顕のラインは戸籍により確定だよね。ならば当然小和田顕氏は
持っているでしょう(紛失しない限り。というか、紛失したってどこの
寺に葬ったか分かってて供養料払っているんだから、作り直しを依頼
すればいいこと。金吉さんの命日くらいは覚えている筈、祖父だから。)
道蔵は?金吉が道蔵の嫡男なら、金吉が持っているだろうから、当然
同じように顕さんが持っているでしょう(ただ、紛失した場合作り直し
できるかどうかは、金吉・穀夫の教育次第かも。さすがに曽祖父となると
命日分からないかも)。
金吉がそうでなければ、どこかにいる、小和田道蔵さんを葬った方の
子孫が持っているでしょう、ということ。
521 :
西真寺の情報 :2009/09/24(木) 11:23:57 ID:CHc4R/Jd
とりあえず、西真寺の情報をまとめてみよう。 1.兵五郎の墓がある。 2.道蔵の妻子の墓がある。 これ、すくなくとも「住職はそう思っている」。 住職は墓の管理者です。 住職の発言なくして、墓に祭られた人を確定することは(普通)できない。 河原氏は古くから書かれているライターです。こんなことで先走りは しないでしょう。 住職の発言をもって、「兵五郎と道蔵の妻子の墓」と確定したはずです。
522 :
西真寺の情報 :2009/09/24(木) 11:49:40 ID:CHc4R/Jd
次。 3.小和田穀夫氏は、兵五郎および道蔵の妻子の墓の権利者。 住職は墓の「管理」者です。「関係者以外が墓を持っていく」ことを 当然とする発言をするわけがありません。 つまり「なぜ残していったのか」と不審に思っているとしたら、 それは小和田穀夫氏がその墓の権利を持っていることを認めている ということです。 身内であっても供養料を払っていない契約外の人間に対して、 勝手に移転をすることなど認めるわけにはいかないですから。 というわけで、「資料館の説明を聞いて兵五郎の存在を知り、 西真寺に来るようになった」は、大嘘ですな。 小和田穀夫氏は、西真寺に墓を「管理してもらっている」人間だよ。
523 :
西真寺の情報 :2009/09/24(木) 12:18:05 ID:CHc4R/Jd
次。 「住職本荘長弘師はその小和田家の墓について、毅夫氏が新潟市の学校に 在勤中、父金吉の墓のみを新潟市の泉性寺に移した、という話をしてくれた。」 で、住職が寺の管理者である以上、 4.金吉の墓があった 5.小和田穀夫氏が移転の手続きを取った。 の二つは間違いないと見ていいでしょう。管理者がいい加減なことを 言っては、檀家の信頼を失います。 ただし、小和田穀夫氏が「泉性寺に移します」と西真寺に語り、 他の寺に移した可能性はなくもない。それは西真寺の人間の権限外ですから。
524 :
名無しさま :2009/09/24(木) 12:54:31 ID:CHc4R/Jd
毎日グラフ 1993.1.31 「新潟県・村上市 慶祝ムード 小和田家のルーツ・系譜に論議わく」 『現代』1993年3月号の「小和田家の娘」 岩瀬達哉 『諸君!』1993年3月号「天皇家の『生存への選択』」 保阪正康 「皇太子妃雅子さま」発行年月:1993年04月 河原敏明 『皇太子殿下と雅子さま ご結婚記念保存愛蔵版豪華写真集 』 出版1993年7月 毎日新聞社 時系列で並べてみた。 で、兵五郎の名が出たのは河原氏の本からだね。 つまり、河原氏が調べてはじめて分かったということかもしれない。 毎日新聞社はそれを読んでその情報を載せたけど、「過去帳にある」の 裏を取るのが精一杯で、その情報について掘り下げた調査をする 暇はなかった、と。
525 :
名無しさま :2009/09/24(木) 12:57:19 ID:CHc4R/Jd
ちなみに保阪氏のレポ、なんで一番いいところで切るんだ? 村上を出ていないなら、わざわざ新潟に葬ったというのは重大な事情が ある可能性が高いわけで。続きが読みたい。
526 :
名無しさま :2009/09/24(木) 15:58:04 ID:Us1CLldI
>>524 小和田恒氏夫妻と小和田毅夫氏が昭和60年11月に村上市の
招きを受けて、村上市立郷土資料館を訪問した。
村上市立郷土史料館には大正時代に復元された江戸末期の村上
城下絵図が展示されていて、その絵図に小和田兵五郎の名がある。
その兵五郎を恐らく小和田家の先祖だろうと、当時の館長が小和田
家の人たちに紹介したのが、兵五郎=小和田家の始祖説の始まり。
兵五郎と金吉の関係は不明。
当主の毅夫自身ですら自分の先祖については、よく知らなかった
らしい。
527 :
名無しさま :2009/09/24(木) 16:02:28 ID:Us1CLldI
毎日グラフ 1993.1.31 「新潟県・村上市 慶祝ムード 小和田家のルーツ・系譜に論議わく」 『現代』1993年3月号の「小和田家の娘」 岩瀬達哉 『諸君!』1993年3月号「天皇家の『生存への選択』」 保阪正康 「皇太子妃雅子さま」発行年月:1993年04月 河原敏明 『皇太子殿下と雅子さま ご結婚記念保存愛蔵版豪華写真集 』 出版1993年7月 毎日新聞社 ↑ それに加えて『週刊朝日』1993.1.29 「柔道がお家芸だった小和田家?」に掲載された系図 新六(?)・・・・・・道助・・・・・匡利―金吉―毅夫―恒―雅子 となっていて、記事中にも系図にも兵五郎の名前は全く出ていない。
528 :
名無しさま :2009/09/24(木) 16:13:46 ID:Us1CLldI
>>519 池上四郎は分家独立していますよ。
会津藩の家臣に池上姓の者は十家近くあって、四郎の生家は分家の
うちの一つ。
その分家の系統は、
池上十左衛門高尚━━新左衛門高品━━善左衛門高当━━善左衛門高俊
━━新左衛門高保━━又八郎高次━━繁治高久━━武輔高賢━┳三郎
┗四郎
本家の系図を遡っていけば、さらに古くからの系譜は判明するはず。
江頭家の場合は、安太郎系統のみでなく、江頭嘉蔵以前の系譜を示した
史料が一切存在しない。佐賀の郷土史家が江頭家の菩提寺を探したけど、
遂に発見することは出来なかった。
つまり江頭家に関する系図や過去帳は一切存在しないため、出自について
も不明。
529 :
名無しさま :2009/09/24(木) 17:02:14 ID:l7t6IYzn
分家が本家の墓を改修ってありえないんだけど? 本家の跡取りは何してたの?? 三郎以下の家系図はなんでないの?
530 :
名無しさま :2009/09/24(木) 17:11:13 ID:Us1CLldI
三郎には実子がなくて、養子を迎えたはずだよ。 江頭嘉蔵の嫡男(?)範貞以降の系図が出ないことや。嘉蔵の墓が 無いことの方がよっぽど不思議だけど。
531 :
名無しさま :2009/09/24(木) 17:14:34 ID:l7t6IYzn
>>530 いや、迎えた「はずだ」という臆測なら江頭家のことを
ああだこうだいう資格はないのだが…?
どこの家からもらったなんと言う養子だ?
養子だろうが本家当主なら本家の墓の改修なんて養子の仕事だろうに、
なんだ分家がやるんだ?
家系にあれこれ不詳不明な点がある、ということで一緒だなw
532 :
名無しさま :2009/09/24(木) 17:21:56 ID:Us1CLldI
>>531 いや、池上家の家系図も過去帳も残っていて、始祖池上十左衛門高尚
から四郎までの系譜もはっきりと判明しているんだけど。
江頭家は嘉蔵以前の系譜は不明だよ。
533 :
名無しさま :2009/09/24(木) 17:38:08 ID:VSqK5yJU
このスレを読んで思ったこと 「ない袖は振れない」 ない物をどれだけあると、詭弁を弄しても無駄
534 :
名無しさま :2009/09/24(木) 17:38:28 ID:l7t6IYzn
>>532 判明してるなら教えてよ。
それになんで長男次男が三郎、四郎なの?
535 :
名無しさま :2009/09/25(金) 13:05:56 ID:iivMwGgB
536 :
名無しさま :2009/09/25(金) 13:25:56 ID:iivMwGgB
>財団法人森記念財団 役員・評議員 森記念財団は、世界主要都市の人口分析を行っている。 川嶋辰彦氏は都市圏の人口解析における世界的な権威の一人だから、評議員 に迎えられたことは当然のことだろう。 >財団法人松下国際財団 役員名簿 >※2002年度に川嶋辰彦教授への研究助成あり 川嶋辰彦氏が取り組んでいる、日タイ間の学生交流やボランティア活動は大きな評価 を受けている。国際相互交流、ボランティア活動の第一人者である川嶋氏を松下国際 財団が理事として招いたことは納得がいくし、松下国際財団設立の目的、事業内容は、 1.経済・社会・文化等に関する国際的な研究及び協力活動に対する助成並びにその 関連事業に対する助成 2.上記活動とその関連事業に関する人材の招聘・派遣及び国際会議の行催事並びに それらの事業を行う機関団体等に対する助成 3.国際相互理解を推進し又はこれを担う人材を養成する事業に対する助成 4.前各号の事業に関する啓発及び広報に関する活動に対する助成 5.その他この財団の目的を達成するために必要な事業 とあるので、川嶋氏が取り組んでいる国際交流やボランティア、研究活動が助成に値する 事業と認められたことを意味している。
537 :
名無しさま :2009/09/25(金) 13:43:32 ID:iivMwGgB
538 :
名無しさま :2009/09/25(金) 13:57:35 ID:iivMwGgB
539 :
名無しさま :2009/09/26(土) 08:35:32 ID:AvhYKb3p
>>526 ソース提示がないですね。今後提示されない限り、「嘘」と判断します。
根拠は488の記事。
1.資料館訪問は1987年。85年ではない。
2.村上城跡保存育英会の竹沢盛夫理事長も、金吉以前の祖父はつかめていない。
と言っている(1993年に)。
85年に資料館を訪問し、どのようなことを話したか、きちんとした
ソースを提示してください。
540 :
名無しさま :2009/09/26(土) 08:44:57 ID:AvhYKb3p
>>530 それは不思議ないでしょう。
現在、戸籍調査は「先祖供養のため」、本人の先祖の戸籍を取り寄せることは
出来ますが、傍系はむりですから。
江頭範貞氏の系図を調べるほうが難しい。
池上三郎が養子を迎えたことが分かるほうが異常です。
というわけでぜんぜん信じてません。
ま、本当であっても、家督相続した戸主が、相続してない叔父に
墓を任せるほうが異常で参考例にはなりません。
ソース提示してもらっても意味ないですけどね。
541 :
名無しさま :2009/09/26(土) 08:48:24 ID:AvhYKb3p
>>534 Us1CLldIではないですが。
wikiによると池上家の次男は会津城で戦死されているそうです。
戸籍が出来たのが明治なので、そのとき生きていた息子が「長男・次男」と
なったのでしょうね。戸籍は生きている人間を管理するために作られたので、
死んでいる人間の情報は要らなかったのでしょう。
長男はネットで調べる限り不明。次男の名前は二郎ではないので、
多分最初から跡取りのつもりだったと思います。
つまり、長男は夭折じゃないかな?
542 :
名無しさま :2009/09/26(土) 08:56:55 ID:AvhYKb3p
>>533 逆でしょう。
あるものを一生懸命無視している、としか思えない。
「くさいものにフタ」ですか?
江頭家の状況を「断言」するなら範貞氏の調査が不可欠だし。
小和田家の状況を「断言」するなら当然、在家の過去帳の存在に触れない
といけない(在家の過去帳こそ先祖を時系列にまとめた、系図ですからね。
寺が作りますから勝手に作れないし)。
そこを避けたり、不思議がっている時点で、断言不可能なことを証明してますよ。
あ、断言できない=不明、でいいんですけどね。
その代わり松浦家も同様。平吉の先代の名前を出さなければ「系図」とは言わない。
川嶋家の場合は系図と言っていいが、名を継ぐ前の素性が分からない系図に
なんの意味があるのやら。
543 :
名無しさま :2009/09/26(土) 09:05:29 ID:AvhYKb3p
>>527 時系列で並べますね。
>それに加えて『週刊朝日』1993.1.29
>「柔道がお家芸だった小和田家?」に掲載された系図
>新六(?)・・・・・・道助・・・・・匡利―金吉―毅夫―恒―雅子
毎日グラフ 1993.1.31
「新潟県・村上市 慶祝ムード 小和田家のルーツ・系譜に論議わく」
『現代』1993年3月号の「小和田家の娘」 岩瀬達哉
『諸君!』1993年3月号「天皇家の『生存への選択』」 保阪正康
「皇太子妃雅子さま」発行年月:1993年04月 河原敏明
『皇太子殿下と雅子さま ご結婚記念保存愛蔵版豪華写真集 』
出版1993年7月 毎日新聞社
兵五郎の存在は、河原氏が調べて初めてマスコミが知ったのでは?
という説の補強になりますね。情報、ありがとう。
544 :
名無しさま :2009/09/26(土) 09:11:24 ID:AvhYKb3p
>江頭家の場合は、安太郎系統のみでなく、江頭嘉蔵以前の系譜を示した >史料が一切存在しない。佐賀の郷土史家が江頭家の菩提寺を探したけど、 >遂に発見することは出来なかった。 >つまり江頭家に関する系図や過去帳は一切存在しないため、出自について >も不明。 大嘘ですな。 安太郎の系に関係した情報源を「調べた限りでは」存在しないため、出自に ついても不明ではある。 しかしそれは、江頭嘉蔵以前の系譜を示した史料が「一切存在しない」 ことではないよ。 そこを断言できるような範貞氏の系の調査をした人間は居ないはずだ。 範貞氏の系を調べた、というのは開示しないといけない情報。 後世調べる人間の労を省くために。これくらいのことは当然、研究家なら 分かっていること。
545 :
名無しさま :2009/09/26(土) 09:16:20 ID:AvhYKb3p
>>528 その系図見ても分からない。出典出してもらわないと。
何で江戸期の情報と明治期以降の情報が両方書かれるのだ?疑問もいいこと。
第一、なんで立派なお武家だったというのに、分家が本家の墓の面倒を
見るんだ〜!
異常だ〜!
546 :
名無しさま :2009/09/26(土) 19:47:58 ID:kM01sG1k
池上家にも長男次男が亡くなった?ことをいいことに、 三郎、四郎という赤の他人が長男次男に成りすまして分家を乗っているようですなw
547 :
名無しさま :2009/09/26(土) 20:46:08 ID:J4ub27iv
>>545 会津藩の独礼御目見え以上の家臣は、藩に家系図を提出する義務
がある。
その家系図に池上家の始祖から武輔までの系図が記載されている。
その武輔の長男、次男は三郎と四郎。
長男は夭折、次男は鳥羽伏見の戦いで戦死。
戸籍制度が出来たのは明治になったてからだから、三郎は長男、
四男だと記載されている。
548 :
名無しさま :2009/09/26(土) 20:48:24 ID:J4ub27iv
>>543 兵五郎が金吉の祖父であると書かれているの記事は、河原敏明『皇太子妃雅子さま』
のみ。
河原の他の著書では、毅夫氏も自分のルーツについてはよく知らなかったと書か
れている。
549 :
名無しさま :2009/09/26(土) 20:50:13 ID:J4ub27iv
先日、なにげなくテレビのニュース番組を見ていたら、ある住宅メーカーが行った
「仏壇と神棚に関するアンケート調査」の結果を発表していました。
その調査結果の数値を見て、私は少なからずショックを受けました。
「あなたの家には仏壇や神棚はありますか?」
という質問に
「家には仏壇がない」と答えたひとは47%
「家には神棚がない」と答えたひとは53%
そして
「仏壇も神棚もない」と答えたひとは25%
というのです。
アンケートを取った人数は数百人程度でしょうが、全国的にも四軒に一軒の割合
で仏壇も神棚もない家庭があると見ていいのです。
番組では引き続き街角でのインタビューを5・6人分放映しましたが、仏壇や神棚
を家に置いていない人がその理由としてあげたのが、住まいの狭さでした。団地や
マンションでは自分たちの居住空間を確保するのが第一で、仏壇や神棚などは二
の次、三の次だというのです。
http://www.rinnou.net/cont_04/oubaku/2002
550 :
名無しさま :2009/09/26(土) 20:58:30 ID:J4ub27iv
浄土真宗では位牌の代わりに過去帳を仏壇に祭る。 しかし、昨今の家庭では仏壇を置かない家庭が約半数を占める。 金吉と実質的に離縁状態にあり、実家に戻った竹野が喪主となって 金吉の葬儀を行ったかは不明だし、父の顔を一度も見たこともない 毅夫氏が仏壇を持ち、また小和田家の過去帳を持っていたかどう かは不明。 「小和田家の当主は過去帳を持っているに違いない」→あくまでもソース のない憶測。 江頭家の菩提寺は不明で、嘉蔵の墓がどこにあるのかも不明。 川嶋家は菩提寺の専念寺に過去帳も墓も存在し、庄一郎が7代目を 継承。 松浦家の菩提寺である徳善寺には過去帳が存在し、地元の郷土史家 が調査をして、庄一郎の法名も確認している。
551 :
名無しさま :2009/09/26(土) 21:00:18 ID:J4ub27iv
>>547 訂正
会津藩の独礼御目見以上の家臣は、藩に家系図を提出する義務
がある。
その家系図に池上家の始祖から武輔までの系図が記載されている。
その武輔の長男、次男は三郎と四郎。
長男は夭折、次男は鳥羽伏見の戦いで戦死。
戸籍制度が出来たのは明治になってからだから、三郎は長男、
四郎は次男だと記載されている。
552 :
名無しさま :2009/09/26(土) 21:10:41 ID:J4ub27iv
>>542 >川嶋家の場合は系図と言っていいが、名を継ぐ前の素性が分からない系図に
>なんの意味があるのやら。
川嶋家は江戸時代から続く旧家。ルーツははっきりしてるよ。
父方、川嶋家のルーツは和歌山市にあり、江戸時代から広大な田畑、屋敷を
持つ庄屋で知られた。
紀子さまの父、辰彦氏(50)の曽祖父にあたる庄右衛門氏は男の子がいなかったた
め明治27年、庄一郎氏を婿養子に迎えた。
庄一郎氏は和歌山県安諦村(現清水市)の農家、松浦平吉氏の二男に生まれ、
東京高等師範学校(現筑波大学)を卒業、明治34年に学習院教授を務め、佐賀、
奈良両師範学校校長を経て大正9年和歌山県視学(教育の総責任者)となった。
その長男孝彦氏が紀子さまの祖父。佐賀中、一高、東大法学部と進み大正12
年内務省入り。昭和22年内閣統計局長を最後に退き、33年国会図書館専門調査
員の時、辰彦氏が高3の時、61歳で亡くなった。
毎日グラフ別冊『秋篠宮家創立 文仁親王殿下と紀子妃殿下』より
553 :
名無しさま :2009/09/26(土) 22:16:06 ID:kM01sG1k
>>551 武輔までの系図なのだから系図ではっきりしているのは
武輔まででしょ?長男は夭折、次男は鳥羽伏見の戦いで戦死。のソースって何?
それに何で長男が三郎、次男が四郎と断定できるの?
戸籍をみて確認したの?
金吉の過去帳はあるのだが調べてないだけかもしれない、
過去帳はあるが確認ができないのかもしれない、
過去帳そのものがないかもしれない、
と、あらゆる可能性があってどれを肯定、否定することも現段階では
ここの住人には不可能。
>>552 川嶋家の系図のことじゃなくて、
「名を継ぐ前の素性が分からない系図」つまり、松浦平吉のことを
疑問視しているのでしょ。松浦平吉の両親、祖父母、曽祖父あたりの
父母双方の出自の確定ができるものは何もないじゃん、て。
過去帳はあるある言ってるけど、実際平吉の祖父母、曽祖父母の名前や
母方の出自はわかるの?
554 :
名無しさま :2009/09/26(土) 22:45:26 ID:oFdCjZJe
>>553 地元会津若松市の郷土史家が池上武輔の戸籍を調べて、戸籍上では
三郎が長男、四郎が次男であると述べているのだが?
金吉の過去帳はあるのかないのかは不明。
松浦家に関しては散々既出だけど、江戸時代以前の系譜は分かっているし、
徳善寺には過去帳も残っていることは、はっきりしている。
===============
川嶋庄一郎氏は、明治3年生まれ、幼名・松浦力松
父・松浦平吉、母・かつの三男、長兄は庄太郎、次兄は虎松
古くは屋号を(ふどう)不動、江戸期は(かど)門と呼び、明治4年頃、平民
の苗字使用許可に際し、松浦姓を名乗る
小和田金吉氏同様、幼くして父を失ったが、金吉氏と違い恵まれていたの
は、ふたりの兄が家を守り、学問の道に進む彼を支えてくれたこと
師範学校に進むと、あちこちに赴任する
家に母をひとり残して、京都・富山・滋賀・佐賀・東京と転勤することは難し
かったと思われる
松浦家の三兄弟は、父亡き後子供らを育てた母かつをとても大事にしてい
たとあるのでなおさらだろう
金吉氏は慶応3年あるいは明治元年生まれ
力松氏と同じく三男と言われているが、二人の兄は早世していたようす
http://sakura.45.kg/fuetayo/03/kawashimake.html
555 :
名無しさま :2009/09/26(土) 22:51:08 ID:oFdCjZJe
川嶋庄一郎
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
生涯 [編集]
1870年(明治3年)4月14日、和歌山県有田郡山保田組板尾村(現・有田川町)の農業
松浦平吉( - 1876年)の三男として生れた。幼名は力松。母は、かつ(1838年10月13
日 - 1930年3月11日)、長兄は庄太郎(1861年12月25日 - 1954年8月27日)、次兄は
虎松(1865年12月9日 - )である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B6%8B%E5%BA%84%E4%B8%80%E9%83%8E ========================
川嶋庄一郎の実父、実母の名前も、2人の兄の名前と生没年も判っている。
金吉の両親の名前と、2人の兄の名前と生没年は?
過去帳が残っているのならすぐに判るよね?
556 :
名無しさま :2009/09/26(土) 22:54:34 ID:NdLxY0GY
ここ、まだこんなことやってんの〜? 進歩ないね。
557 :
名無しさま :2009/09/26(土) 22:57:14 ID:oFdCjZJe
まあ、小和田家と江頭家の家系図をうpしてくれたら一気に問題解決 なんだがな。 いつまで経っても「小和田家には過去帳はあると思う!いや、あるに 違いない!」だもんな。 検証スレなんだから、確かな史料をうpしろや。
558 :
名無しさま :2009/09/27(日) 01:06:11 ID:DttWJGWO
559 :
名無しさま :2009/09/27(日) 08:59:59 ID:YBF932+7
はいはい、ならば平吉さんの父親の名前と、代々の川嶋庄右衛門さんの 名を継ぐ前の名前をお願いします。 別にいいじゃん。川嶋家は明治期の庄右衛門、松浦家は平吉、杉本家は吉三郎、 小和田家は金吉、江頭家は嘉蔵でさ。 それ以前は調査が進んでいない。それだけのことだよね。 片方を無理やり持ち上げるから不自然になる。
560 :
名無しさま :2009/09/27(日) 09:03:34 ID:YBF932+7
>>548 「ルーツが分からない」のルーツがどこからを指すのか?
西真寺に供養料払ってるのなら、兵五郎が分からないわけがない。
それより前の祖先じゃないの?
西真寺に、兵五郎の墓の供養料をどこの家が払っているか聞けば
分かることですね、これは。
あと、西真寺で供養料が払われなくなった場合、どれくらいで無縁仏に
するかということも。
明治初期になくなった兵五郎の墓が現存するってことは、普通に考えれば
無縁にしなかった縁者がいるってことだからね。
561 :
名無しさま :2009/09/27(日) 09:03:52 ID:WyuUtQHn
>>地元会津若松市の郷土史家が池上武輔の戸籍を調べて、戸籍上では 三郎が長男、四郎が次男であると述べているのだが? つまり、本当の長男次男が亡くなった経緯のソースはないってことなんだね。 いつの間にやら本物の長男次男がいなくなって、三郎、四郎に入れ替わり 長男扱いの三郎ではなく分家の四郎が本家の墓を改修していたという謎。 平吉の祖父やら曽祖父やらも過去帳があるある言っておきながら 名前すらだせない。 怪しいことだらけのキコさんだねw
562 :
名無しさま :2009/09/27(日) 09:34:01 ID:YBF932+7
>>550 今と明治期を一緒にするバカ発見!
ちなみに昔は家を失っても一度作った位牌は持ち歩いたもんです。
過去帳が位牌と同じ重要性があるなら、仏壇を作れなくても持ち歩いた
でしょうな。
無理やりすぎですよ。人間、葬式はできなくたって遺体を埋葬しないわけ
にはいかないんだしねぇ。
563 :
名無しさま :2009/09/27(日) 09:40:50 ID:YBF932+7
ま、平吉、および小和田の先祖は今のところ似たようなもんです。 つまり、寺の過去帳に、門と名乗るデータが複数ある。 おなじく、村上藩の藩士関係書類に、小和田と名乗るデータが複数ある。 で、それらの集合を結びつける「線」すなわちはっきりした「系」がない。 これが「ない」のか「調べがついていない」のかは分かりませんが。 系が示されていないのに、「あそこはしっかりした調査がなされているはずだ」 と無理やり系があるように見せかけているのが松浦家贔屓の方々で。 (贔屓のひきたおしだな) 系があると思われるのに、「和尚の言い分は本の著者がいいようにまとめたからだ。 過去帳はない可能性があるからわからない」といって無理やり、「系は絶対にない」 と証明できないように見せかけてるのが小和田家にあーだこーだいう方々です。 ちなみに、江頭家については・・・安太郎がぶっちぎった感じですからなぁ。 嘉蔵で線をひくくらいなら、安太郎初代でいいんじゃないかと思う。
564 :
名無しさま :2009/09/27(日) 14:51:20 ID:KmqGnsLs
>>561 そんなら毅夫氏の父親が金吉であるのかも分からないのだが。
我々部外者は小和田家の戸籍を見ることはできないから、毅夫の父が
金吉であることを確認したわけではない。
川嶋庄一郎の実父は松浦平吉で実母はかつ。長兄は庄太郎、次兄は虎松。
養父は川嶋庄右衛門、養母はかつ。
小和田金吉の実父は不明(道蔵?)。
実母も不明。
2名いると主張している兄弟ですら、その名前を知る者はいないw
江頭家に関しては嘉蔵の菩提がどこにあるのかも不明で、ルーツに
関しても全く判明していない。
思いっきり怪しいのはどう考えても小和田、江頭家の方なんだが。
565 :
名無しさま :2009/09/27(日) 14:53:20 ID:KmqGnsLs
>>563 小和田家に関する史料は極めて少ない。
だから西真寺の過去帳に名がある兵五郎と道蔵を無理やり
繋げて家系図をマスコミが作りあげたというのが真相。
566 :
名無しさま :2009/09/27(日) 14:59:53 ID:rLlDG+jf
>>565 無理矢理作り上げたマスコミとはどこですか?
捏造である事はどうやって確認されたのですか?
567 :
名無しさま :2009/09/28(月) 09:25:18 ID:E9Oh16z/
>>564 我々庶民は見ることが出来ないが、マスコミは情報収集できる。
戸籍の取得は公共性が高いと認められる場合は可能ですからね。
妃のご成婚当時となれば、今より規定ゆるいだろうし。
568 :
名無しさま :2009/09/28(月) 10:06:11 ID:E9Oh16z/
>>564 金吉の兄弟と池上四郎の兄弟は大体同時代ですね。
池上四郎の兄の名前って全部分かってましたっけ?
武家の場合、お目通りがあってはじめて記録に残るので、
それ以前に夭折した人間の名前は残らないのですよ。
侍の家の金吉だって同様です。農家の場合、宗門人別帳でこまかく
管理されますが、小和田家は分限帳に記載される身分であって
宗門人別帳じゃないですからね。
というわけで、道蔵の「他の子の名」を問うほどばかげた話はない。
単なるアホです。
569 :
名無しさま :2009/09/28(月) 10:26:02 ID:8k6ZvuKN
>>567 >>我々庶民は見ることが出来ないが、マスコミは情報収集できる。
戸籍の取得は公共性が高いと認められる場合は可能ですからね。
ではどこかのマスコミが「戸籍を確認したけど、金吉の両親は
わからなかった」と発表してますか?
戸籍を確認できたら逆に両親の名前が判明してなきゃおかしい。
必ず書いてありますから。仮に私生児でも母親の名前、本籍地、
出生地などは絶対に書いてある。
道蔵じゃない人が父親ならそれを堂々と発表してるはずですよね?
私生児ならそのことも暴露されてるはずですよね?
金吉の両親が不詳と書いてある場合は
戸籍まで調べたものが書いた記事ではないということ。
570 :
名無しさま :2009/09/28(月) 10:55:23 ID:E9Oh16z/
>>569 いや、金吉の生年を考えると、作られた戸籍は壬申戸籍だろうから
封印されているでしょう。書式統一されていないから、それこそ
どんな情報があるかもまちまちだしね。
明治31年だっけな?戸籍法により書式が統一されたの。
穀夫氏の戸籍はこちらによる記載で、マスコミがここまで辿れたと考えれば
父金吉・母竹野の名まで出ているのは符合しますね。
で、川嶋家の場合、川嶋庄一郎が家督相続した際に、養子縁組時の実母の
戸籍情報が転記されたと考えれば充実振りもうなずけます。
(平吉は既にいませんが、かつの配偶者欄に記載があったはず)
松浦庄太郎・虎松氏は戦後の戸籍が出来るまで生きているみたいですから、
これも検索可能ですね。
571 :
名無しさま :2009/09/28(月) 11:15:38 ID:MopR0osa
>>568 村上市史編纂室長の大場喜代司によれば、村上藩では徒士以下は
家中ではないとのこと。
同心長屋に住んでいた小和田兵五郎と道蔵に関する史料が全く無い
のは、彼らが分限帳には載らない身分だったこともあると思う。
572 :
名無しさま :2009/09/28(月) 11:18:35 ID:MopR0osa
マスコミが小和田家の戸籍を調べた結果、毅夫氏の父は金吉で母は 竹野だった。 それ以前のことははっきりしない。 小和田家に過去帳があるのかどうか分からない。 まとめてみると、こんな感じかな。
573 :
名無しさま :2009/09/28(月) 11:28:21 ID:E9Oh16z/
いや、「小和田家(顕氏の家)には過去帳がある可能性が高い」ですね。 過去帳がないと「認定するに足る根拠」は誰からも示されていません。 道蔵であれ兵五郎であれ、墓のありかを小和田穀夫氏が分かっているのは 供養者だからですよ。そうじゃなきゃ住職の答は違っているはずです。 ない可能性はゼロではありませんが、「分からない」という五分五分の 話ではないはずです。
574 :
名無しさま :2009/09/28(月) 11:30:27 ID:E9Oh16z/
ってか、アンチ雅子妃が「分からない」といえば、アンチ紀子妃が 「ない可能性の方が少ない」で終わるだけの話でしょうね。 つまり、戦いのネタには向かなくなったということです。 そもそも川嶋家に過去帳あるかどうか分からないし〜。 松浦家の過去帳なんてあるかどうか調べようがないし〜。
575 :
名無しさま :2009/09/28(月) 11:37:22 ID:E9Oh16z/
>>571 あ、ここでいうのは管理方法の話ですから。お目見えという行為の対象で
あるかどうかはともかく、それくらいの年齢になって初めて「公の書類」
が出来るということ。侍の家では夭折者は書類に載らないという話です。
宗門人別帳の対象ではないのでしょ?ならば夭折した子の名は分からない
(あ、宗門人別帳だって、子ども全部載せてないかもしれないけど)
576 :
名無しさま :2009/09/28(月) 12:22:55 ID:MopR0osa
>>574 有田川町の徳善時には松浦家の過去帳はあって、清水町誌編纂委員、
清水町文化協会副会長で清水町議でもあった前嶋高藏氏が調査済み。
---------------------------------------------------------------------
清水町文化(第十三号) 一九九〇年
連載 歴史文化探訪シリーズ(第十三回) 教育家 川嶋庄一郎翁と紀子さん
前 嶋 高 藏
前出の「生活様式」の記録中、和歌山師範学校嘱託とあって昭和何年から勤務され
たのか今のところ不明であるが、昭和十四・十五年頃、翁の國語漢文の専攻科の教え
を受けた生徒が町域に二人あり、庄一郎翁の揮毫された扁額を所持されている。その
一人楠本の前島克己氏は、本号一九ページに「御師川嶋庄一郎先生の思い出」として
記述されているのでご一読されたい。
翁は、書道にも精通の達人で、県師範学校の書道の専攻科をも担当されたようで、ふ
るさとの村名「安諦」を雅号としている。
翁は、昭和二十二年二月十二日七十八歳の天寿をもって逝去された。
板尾徳善寺の過去帳によれば、法名、教善院積空聖道居士。
------------------------------------------------------------------------
川嶋家の菩提寺である専念寺の住職によれば、川嶋家のルーツは現在の和歌山市を
中心に海運業を営んでいた有田屋で、江戸時代から続いた庄屋の家柄だとマスコミの
インタビューに答えているから、当然住職は過去帳を見て答えているんだろうね。
つまり、川嶋家の過去帳は存在する。
577 :
名無しさま :2009/09/28(月) 12:27:34 ID:rsMs83Tk
マスコミが戸籍を取ったと言うのは、確かな話ですか? 弁護士や司法書士なら無条件に戸籍を取得出来た時代もありましたが、マスコミにそんな特権はありませんよ。 マスコミと言えども、個人のプライバシーに関わる理由での取得は出来ません。 だから、オウム事件で有名になった弁護士に不正な取得を依頼したマスコミがあり、それが問題となったから、今では弁護士でも正当な請求理由が必要となったのです。
578 :
名無しさま :2009/09/28(月) 13:10:47 ID:rsMs83Tk
579 :
名無しさま :2009/09/28(月) 13:18:43 ID:rsMs83Tk
すみません。 第10条の2の3でしたね。
580 :
名無しさま :2009/09/28(月) 13:46:39 ID:rsMs83Tk
>>570 明治31年に金吉氏が健在だったのなら、その書式の戸籍はあるんですよ。
書式が変わる都度、日本国民全員の戸籍を転記するんですから。
581 :
名無しさま :2009/09/28(月) 19:54:03 ID:VZURB259
結局だれも金吉の戸籍を調べた人はいない、 ということですね。 調べていたら実父が誰それ、母親は誰それと、とっくにでてるでしょうから。
582 :
名無しさま :2009/09/28(月) 23:39:14 ID:B8AxLFCV
人の祖先なんてどうでもいいんだけど。。。 そもそも冷静に考えてみれば、高級官僚の素性が 怪しいわけないんだけどね。
583 :
名無しさま :2009/09/28(月) 23:47:04 ID:YHv0+Ity
>>582 そんなら川嶋孝彦は戦前の高級官吏なんだけど。
「閣下」と呼ばれるお方の素性が怪しいわけないよ。
しかし、戦後は役人の家柄についてはあまりやかましくいわなく
なったせいか、出自の悪い人でも出世しているようだね。
実際、小和田恒氏の2代前の墓がどこにあるのか分らないし、
3代前が誰なのかも不明なんだし。
584 :
名無しさま :2009/09/28(月) 23:59:30 ID:B8AxLFCV
>>583 川島さんが高級官吏だって言うなら別に異論はないですよ。
ただ、なんでそこで小和田家の話がでてくるかね。
人ン家の墓なんてどうだっていいじゃん。
戦後は役人の家柄について〜なんて世間ほ知らない人だね。
最近でこそしないけど、小和田さんが職に就く頃は
詳しく調べられたでしょう。
あんた、バカじゃないの?
585 :
名無しさま :2009/09/29(火) 00:08:54 ID:z38r8Ka5
ソース待ち 1.マスコミが家系図を捏造したという主張の根拠 2.マスコミが戸籍を確認したという主張の根拠 1は、西真寺の住職の発言がマスコミの捏造に踊らされた、と主張する人が言い出しました。 2は、マスコミは戸籍を確認しているのだから、出自不明なのだという主張のようです。 ソースが出ないうちは、西真寺の住職の発言の信頼性を否定出来ないので、小和田恒氏の3代前が不詳なのかは確定しておりません。 ところで確認ですが、宮内庁の条件は雅子さまから3代前まで溯れる事でしたよね?
586 :
名無しさま :2009/09/29(火) 16:18:47 ID:BgpoNXYL
ソース待ち 1.河原敏明『皇太子妃雅子さま』での西真寺住職の発言の根拠 2.マスコミが戸籍を確認したという主張の根拠 3.小和田家には過去帳は存在するという根拠 4.金吉の父母と早くに亡くなった(?)2人の兄について 1の、西真寺の住職の発言については、毎日新聞が西真寺を直接取材して、 過去帳に兵五郎の名前はあるが、金吉との関係は不明である、と報道している。 また、新潟市泉性寺の住職は、金吉の墓は泉性寺にはないとコメント。 2は、マスコミは戸籍を確認しているのだから、出自ははっきりとしている、との主張。 マスコミが小和田家の戸籍を確認したというソースを提示すべき。 3については、全くの憶測。現代では仏壇も置かない家庭が多いし、小和田家が 過去帳を仏壇に祀っていたかは不明。 4について、マスコミが小和田家の戸籍や過去帳を調べたのであれば、金吉の両親 の名前も2人の兄の名前もすぐに判るはず。 いまだに両親や兄弟の名をあげられないのは何故なのか? 兵五郎が金吉の祖父であり、道蔵の父であるとする根拠は、河原敏明の著書のみ。 他の記事では金吉の父は判っていないとされている。 河原本のみが根拠であるとするなら、その説は極めてあやふやで不確実で信憑性 に乏しい。
587 :
名無しさま :2009/09/29(火) 16:23:08 ID:LZj0mDIH
>>576 あ、寺の過去帳じゃなくて、「在家の」過去帳の方だと思ってた。
小和田家側だって兵五郎の過去帳は西真寺にあるという記事が既に出ている。
あるのかないのか不明、ではなくて小和田家の過去帳は確実にあるわけ。
ただし、その小和田家と雅子妃がつながっているかどうかの方でしょ、
不明なのは。
寺の過去帳が不明ってのは、まとめ方が間違ってるね。
588 :
名無しさま :2009/09/29(火) 16:29:11 ID:LZj0mDIH
>>579 となるとマスコミが取得できたのではなくて、宮内庁が妃の親に依頼して
発表したのかな?直系血族なら請求可能だし、宮内庁経由で発表しては
いけないというルールはないもんね。
(傍系血族のデータがなくてマスコミの独自調査に近い記事なのも、
直系血族のみ発表したからではないか)
小和田家・江頭家・川嶋家・松浦家・杉本家、全部が大体明治初期から
系図が明示されていることを考えても、情報元は戸籍だと思う。
589 :
名無しさま :2009/09/29(火) 16:32:12 ID:BgpoNXYL
戸籍を確認したのであれば、金吉の両親と兄弟(?)の名前も記載されて いるのだから、マスコミは系図で書くはずだけどね。
590 :
名無しさま :2009/09/29(火) 16:39:14 ID:LZj0mDIH
591 :
名無しさま :2009/09/29(火) 16:43:42 ID:LZj0mDIH
>>589 それは牽強付会も度が過ぎる。
戸籍の作成以前に亡くなられていたら戸籍に記載されるわけないだろうが。
592 :
名無しさま :2009/09/29(火) 16:46:53 ID:BgpoNXYL
>>591 西真寺の墓が、金吉の母と2人の兄であるなら、過去帳には法名と
俗名も記載されているはずだよ。
593 :
名無しさま :2009/09/29(火) 16:51:00 ID:LZj0mDIH
ところで小和田家の亡くなった二人の兄、についてなんだけど、証明せよ、 と言ってるけど、そもそも証明できないデータなら検証対象から削除すべき であって(話題にすべきでない)、これをいつまでも蒸し返す意味が 分からない。 現時点では、小和田金吉に二人の兄がいる!と主張している人間は 誰もいないよね? 検証対象にするのではなく、話題にしない方がいいのではないか? ソースがないのだから、さくっと削除してしまいましょ。 ただし、道蔵の妻子の墓があったというデータは別ね。 これはソースがある。
594 :
名無しさま :2009/09/29(火) 16:52:31 ID:LZj0mDIH
595 :
名無しさま :2009/09/29(火) 16:55:06 ID:LZj0mDIH
あと、住職の発言の根拠を問う理由も分からないぞ。 発言を疑う根拠の方を問いたい。 前嶋氏の文は無批判なのに、寺の管理者という責任がある住職の発言を 疑ってどうするんだ? (むろん、疑うに足る根拠がある場合は別だ)
596 :
名無しさま :2009/09/29(火) 16:58:53 ID:LZj0mDIH
>>586 あらあらあら。
「○代前は不明」という話で、いや、川嶋家にも松浦家にもデータが
ある「可能性があるから不明じゃない」という流れだったので、
それなら小和田家にもデータがある「可能性があるから不明じゃない」、
という流れで出た話ですよ。
つまり、小和田家に過去帳が「ある」証明じゃなくて、「ない」証明を
しないとデータがないことにはならないのよ、ということ。
小和田家に過去帳が「ない」という証明をお願いします。
証明できないのなら、「○代前は不明」というためのルールを変えましょうね。
こちらは別に、名前が確定できないなら不明でいいですよ。
ただし、松浦家も平吉以前は不明となるだけです。
597 :
名無しさま :2009/09/29(火) 17:03:50 ID:BgpoNXYL
>>593 このサイト管理人は小和田金吉には2人の兄がいたと主張してい
るのだから、その根拠を示して欲しい。
2人の兄の名前と、いつごろ亡くなったかについて説明すべきだね。
川嶋庄一郎氏は、明治3年生まれ、幼名・松浦力松
父・松浦平吉、母・かつの三男、長兄は庄太郎、次兄は虎松
古くは屋号を(ふどう)不動、江戸期は(かど)門と呼び、明治4年頃、平民
の苗字使用許可に際し、松浦姓を名乗る
小和田金吉氏同様、幼くして父を失ったが、金吉氏と違い恵まれていたの
は、ふたりの兄が家を守り、学問の道に進む彼を支えてくれたこと
師範学校に進むと、あちこちに赴任する
家に母をひとり残して、京都・富山・滋賀・佐賀・東京と転勤することは難し
かったと思われる
松浦家の三兄弟は、父亡き後子供らを育てた母かつをとても大事にしてい
たとあるのでなおさらだろう
金吉氏は慶応3年あるいは明治元年生まれ
力松氏と同じく三男と言われているが、二人の兄は早世していたようす
http://sakura.45.kg/fuetayo/03/kawashimake.html
598 :
名無しさま :2009/09/29(火) 17:09:29 ID:BgpoNXYL
>>596 小和田家の系図の正当性を主張している人たちの根拠は、浄土真宗の
門徒は在家用の過去帳を仏壇に祀るのが決まりだ。だから、小和田家も過去帳
を持っているはずだ、というもの。
しかし、現代では仏壇を置かない家庭が半数近くいるし、真宗の門徒が過去帳
を仏壇に置くというのは、それこそ建前に過ぎない。
過去帳を持たない門徒だって多くいるはずだ。
小和田家の当主に直接確認したわけではないから、過去帳があるのか無いのか
については判らない、というのが結論だね。
599 :
名無しさま :2009/09/29(火) 17:10:39 ID:LZj0mDIH
>兵五郎が金吉の祖父であり、道蔵の父であるとする根拠は、河原敏明の著書のみ。 もう一つ考えられます。墓の情報です。 兵五郎の墓に隣接して「道蔵の妻子の墓」があり、どちらも供養者が小和田家で そもそも同じ区画内と考えられるなら、二つは当然縁者となります。 墓の文字は基本的に過去帳と同じ程度の重要度を持つといわれています。 (ちょいと先祖探しのサイトを見てみた) で、両者の墓石から(むろん、道蔵氏の場合は泉性寺のもの)没年は 分かるため、親子だろうと類推されるわけです(この場合養子でも 親子は親子)。 で、この二人をつなぐものって、これくらいしかないよね?現時点では。 つまり、捏造説を唱える方は、ぜひとも墓の写真をアップしてください。 墓に文字もないというのなら信憑性がアップします。
600 :
名無しさま :2009/09/29(火) 17:13:57 ID:BgpoNXYL
兵五郎の隣りの墓が道蔵の妻と子のものであるならば、西真寺の過去帳には その法名と俗名も記載があるはずだよ。 道蔵の妻と子の名前を教えて欲しい。
601 :
名無しさま :2009/09/29(火) 17:14:18 ID:LZj0mDIH
>>598 あるのかないのか分からないけど、小和田家の過去のデータが存在しない
という保証は不可能。だから、「○代前は不明」という言葉は使えないのだな。
使いたいのなら「データが存在しない」のではなく、「現時点では
公開されたデータがない」場合、「○代前は不明」という
ルールに変更となります。
つまり、「松浦家も平吉以前は不明」となる。
単純に、検証スレなら統一したルールを使いましょうというだけの話です。
602 :
名無しさま :2009/09/29(火) 17:17:12 ID:LZj0mDIH
>>600 それは、過去帳を墓石情報より「優先したい」だけですな。
墓の情報があれば十分だと思う。
とりあえず雅子妃の先祖については、西真寺に確認しなければ進まない、
ということでいいようですね。
603 :
名無しさま :2009/09/29(火) 17:20:41 ID:LZj0mDIH
>>597 婆嘘サイトの人間が来ている保証はないのだから意味ないよ。
604 :
名無しさま :2009/09/29(火) 17:22:33 ID:BgpoNXYL
>>602 墓があって過去帳が無いなんてありえないことだよ。
死者の菩提を弔うのが務めの寺院にとって、過去帳はいわば宝物
のようなものなんだから。
605 :
名無しさま :2009/09/29(火) 17:30:20 ID:z38r8Ka5
で、過去帳の閲覧は出来るの?
606 :
名無しさま :2009/09/29(火) 17:35:16 ID:LZj0mDIH
607 :
名無しさま :2009/09/29(火) 17:36:24 ID:BgpoNXYL
>>601 例えば美智子皇后の生家である正田家を例にとろう。
普通マスコミで公表される正田家系図は、美智子皇后の祖父で
ある正田貞一郎まで。
正田家は貞一郎までの代しか遡れないかといえば、そんなこと
はない。
正田家の祖先は天和2年没の庄田六三郎だとされる。
それから四代を経て庄田文右衛門という人物が登場し、正田に
改姓して、以後当主は代々文右衛門を襲名。現在の当主正田
宏二氏は七代目だという。
松浦家に関してはマスコミで公表されるのは平吉まで。
平吉の代までしか遡れないかといえば、そうではない。
菩提寺の徳善寺には過去帳が存在し、代々の当主の名前と没年
が記載されている。
その過去帳の代々の当主の名前をつなげていけば立派な家系図
になるし、郷土史家が松浦家の過去帳を調査して、江戸時代以前
からの系譜を確認している。
マスコミで公表されないから、それまでしか系譜は遡れない、と
考えるのは大きな誤解。
608 :
名無しさま :2009/09/29(火) 17:38:26 ID:LZj0mDIH
>>604 寺に過去帳があっても、在家用の過去帳がなければ調べようがないのだから
意味がないわけ。寺の過去帳はデータベースであって、命日という検索キー
がないと引き出せないし、今はそれが分かっても個人情報だから出せない。
一方、墓石は突き止めれば誰でも見られますから。
609 :
名無しさま :2009/09/29(火) 17:42:41 ID:BgpoNXYL
>>608 毎日新聞記者は西真寺の過去帳を調べたようだね。
寺用の過去帳であっても、没した年月日と名前は記載される。
610 :
名無しさま :2009/09/29(火) 17:46:13 ID:z38r8Ka5
>>588 宮内庁では戸籍で確認済で、マスコミは発表された事しか分かってないって事なら有り得ますね。
611 :
名無しさま :2009/09/29(火) 17:48:02 ID:BgpoNXYL
>>610 検証スレだから憶測ではなくてソース示してよ。
宮内庁が小和田家の戸籍を確認したというソースを。
612 :
名無しさま :2009/09/29(火) 17:48:44 ID:LZj0mDIH
>>607 寺の過去帳から家系図が作れる保証はない。続柄がない場合がある。
だから「在家用」の過去帳の話をしてるのだけど?
「門」という屋号が一族を示すものなんだとしたら、分家だって
名乗っている可能性がある。寺のものだけではどっちが本家か
分からないってことだ。
613 :
名無しさま :2009/09/29(火) 17:50:28 ID:BgpoNXYL
>>612 どんな庶民でも過去帳は存在するよ。
その過去帳に載っている当主の名前をつなげていけば、江戸時代中期
あたりまでの系譜はどの家でも確認できる。
614 :
名無しさま :2009/09/29(火) 17:55:02 ID:z38r8Ka5
>>590 確かにそうなんですが、少なくとも明治19年式の戸籍には転記されているでしょう。
明治31年式の戸籍にも改製される建前なので、実際に戸籍を確認しない事には、無いとは言えないと思うのですね。
金吉の名前だけなら、小和田毅夫の戸籍の父母の蘭で確認出来ますから、明治の戸籍まで確認したのかは分からないですね。
615 :
名無しさま :2009/09/29(火) 18:19:25 ID:LZj0mDIH
>>613 では、同時期に二人の「門(かど) 某」の記載があったとして、どちらが
本家でどちらが分家かどうやって分かるんだ?そこまで自信があるなら答えてね。
616 :
名無しさま :2009/09/29(火) 18:21:49 ID:BgpoNXYL
>>615 西真寺に道蔵の妻子の墓があるなら、過去帳にはその妻子の
名前が記載されているよ。
道蔵の妻と子どもの没年と法名、俗名を教えて。
617 :
名無しさま :2009/09/29(火) 18:31:07 ID:z38r8Ka5
>>616 あったら閲覧出来るんですか?
出来るなら、自分で確認出来ますよね。
出来ないなら、妻子の名前が分からないのは、過去帳に載ってない証明にはならないですよ。
618 :
名無しさま :2009/09/29(火) 19:11:44 ID:TxrkyHJY
>>616 ふむ。質問に答えず関係のない質問返しですか。
つまり、本家と分家を切り分ける方法は分からないということですね。
じゃ、系図はつくれませんねぇ。
619 :
名無しさま :2009/09/29(火) 22:53:54 ID:iVrSWCB/
>>616 過去帳のみならず、いくらでも祖先をたどる方法はあるよ。
検地帳には、その家の当主や家族の中が記録されているから、
それらの文書を調べていけば十数代くらい前までの先祖くらい
は簡単に判明します。
620 :
名無しさま :2009/09/29(火) 23:14:49 ID:iVrSWCB/
・西真寺には過去帳がある。兵五郎の名前もある(@毎日新聞ご成婚記念写真集)。 ・兵五郎と金吉の関係は分らない(@毎日新聞ご成婚記念写真集)。 ・兵五郎は金吉の祖父である(@河原敏明『皇太子妃雅子さま』)。 ・金吉には2人の兄がいて、早世した(ソース不明)。 ・小和田家には在家用の過去帳がある(推測)。 ・マスコミは小和田家の戸籍を調べたのではないか?(推測)
621 :
名無しさま :2009/09/30(水) 03:29:34 ID:VNPwbpR8
ま、マスコミか宮内庁が戸籍にあたってないのなら、そもそも 出自どうこうという話題全体が意味がなくなると思う。 公的な第一級資料にあたってない出自情報になんの意味がある? 出版物の系図で信頼できるのは妃のご成婚時に生存していた親族 (直接取材されてるから)、およびその父親(義理親含む)の 名前までだろう。親の名前は進学関係・遺産相続関係で必要となるからね。 つまり、杉本家は吉三郎まで。川嶋家は川嶋庄一郎までであって、 松浦平吉だの松浦兄弟だのは知らない、と。所詮は口伝に過ぎない。 庄一郎氏が○年に養子縁組したなんてのは、それこそ戸籍に当たってないと 証明不能なことなわけで(庄一郎氏は和歌山に住んでないから)。 江頭家は安太郎で、小和田家は金吉まで。 これ以前については、系図の根拠が提示されなければ信頼できないことに ならないかな? ま、川嶋家については松浦家より格上なので、松浦家との縁が証明できないと かえってランクあがるかな。
622 :
名無しさま :2009/09/30(水) 03:39:23 ID:VNPwbpR8
>>619 検地帳を当たれば系図は判明するという証明をお願いします。
あと、松浦家の字の検地帳が現存するという証明もね。
先祖探し関係のサイトを見る限りでは、検地帳は有効な情報源では
ありますが補助手段ですね。分かる可能性がある、という感じです。
検地帳で調べれば分かる、というのは妄想ではないでしょうか。
623 :
名無しさま :2009/09/30(水) 03:52:17 ID:VNPwbpR8
>>620 これは綺麗にまとまってるね。追加して。
・西真寺には道蔵の妻子の(ものと言われる)墓がある(@河原敏明『皇太子妃雅子さま』)。
西真寺には兵五郎の墓があるのだから、近くの墓は普通に考えれば兵五郎の身内だ。
道蔵の身内だと書いているなら、そういう情報があったということだろうね、真偽不明であれ。
624 :
名無しさま :2009/09/30(水) 03:58:28 ID:VNPwbpR8
>>614 明治19年式に転記されているかどうかはグレーゾーンですよ。
590で紹介したサイトにあるように、明治五年式をそのまま使っていた
地域もあるんですから。
625 :
名無しさま :2009/09/30(水) 04:18:29 ID:VNPwbpR8
あと、情報としてあげるべきものは ・西真寺に兵五郎の墓がある。 ・泉性寺に道蔵の墓がある。 これ自体ですな。墓は無縁仏になったらいずれ処分されますから、存続している なら供養者がいると見ていいわけです。 ただし正確には、各寺に問い合わせる必要ありますけどね。土地に余裕があるなら 残しているかもしれません。
626 :
名無しさま :2009/09/30(水) 07:50:02 ID:z40RTZv3
>>620 マスコミが金吉の戸籍を調べたのなら金吉の両親が不詳、
道蔵との関係も明らかじゃないということにはなるわけない。
金吉の両親は小和田○○と○○、ってはっきり明記するでしょうに。
その二人が道蔵とその妻なら先祖は兵五郎だと確定。
違うのなら兵五郎の名前がでてくるわけもなく、別の出自を調査するだろう。
不詳、はっきりしない、不明である、ということは
戸籍調査してないからわからないってこと。
627 :
名無しさま :2009/09/30(水) 08:32:59 ID:VNPwbpR8
ふむ。 ・マスコミは小和田金吉の戸籍調査は出来なかった。 とまとめればいいですかね。 しなかったかどうかはともかく、戸籍情報にアクセスできなかったということで。
628 :
名無しさま :2009/09/30(水) 09:37:31 ID:yGVRfb+U
>>624 それは、具体的に戸籍を当たってみなければ、分からない事なんですよ。
村上市では転記していない確定情報があれば別ですが。
仮に、壬申戸籍の用紙を代用していたにしても、明治31年式の頃は健在だったようなので、その戸籍には転記されていると思いますよ。
ただ金吉が戸主だったのかも分かってないですし、更にその父が戸主だったのかも分かっていない。
どこでどう分家されたのかが、まだ分かっていないんですよね。
その辺りは、明治以降については戸籍で分かる事なので、明治の戸籍は誰も調べて無いんだとは思いますけどね。
本家なら調べるのは簡単ですが、分家のまた分家となってくると、調べるのは結構大変ですし、役所に請求するにもチェックが厳しいですから。
629 :
名無しさま :2009/09/30(水) 14:03:39 ID:hO6rVLdZ
>>621 川嶋庄一郎は和歌山市に住んでいますよ。
それまでは各地の師範学校長などを歴任していましたが、大正9年に
依頼免官となって和歌山市に戻り、要請を受けて視学に就任。
大正13年に視学を辞しましたが、その後も請われて多くの公職に就き、
昭和22年に没するまで和歌山市の本町8丁で暮らしていました。
630 :
名無しさま :2009/09/30(水) 14:14:27 ID:hO6rVLdZ
>>621 川嶋庄一郎の実父は松浦平吉、実母は松浦かつ。
長兄は庄太郎。次兄は虎松。
それぞれの名前と生没年も分っています。
それだけの情報が分っているのは、口伝ではなくてマスコミが戸籍
を調べたからでしょう。
菩提寺の徳善寺には松浦家の過去帳もある。
養子として入った川嶋家の養父は川嶋庄右衛門。養母は松浦かつ。
川嶋家の菩提寺である専念寺には過去帳はあり、庄一郎の養父で
ある庄右衛門は6代目の当主であると。
631 :
名無しさま :2009/09/30(水) 14:17:25 ID:hO6rVLdZ
小和田金吉は1867年あるいは1868年の生れであるとされています。 川嶋庄一郎は1870年生まれ。 2人はほぼ同世代人であるのに、なぜ小和田金吉に関する情報は 川嶋庄一郎に比べてこうも少ないのでしょうか?
632 :
名無しさま :2009/09/30(水) 14:32:14 ID:hO6rVLdZ
>>621 松浦力松が川嶋庄右衛門の長女志まと結婚して、庄一郎と改名したのが
明治27年3月25日。ここまで詳細に分っているのは、川嶋家や松浦家の戸籍を
調べてのことでしょう。
地元の開明小学校(現・有田川町立安諦小学校)を卒業後和歌山県師範学校に進み、
その後東京高等師範学校に入学するが、その優秀さが、跡取りを探していた和歌山市
本町8丁の川嶋庄右衛門の目に留まった。松浦力松は、東京高等師範学校卒業直前
の1894年(明治27年)3月、川嶋家の婿養子となるに当たって、当主の庄右衛門の一字
をとって庄一郎と改名し、同月25日に庄右衛門の長女・志まと結婚した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B6%8B%E5%BA%84%E4%B8%80%E9%83%8E また、戸籍制度が出来たのは明治になってからですが、それ以前は宗門改帳が戸籍
の役割を果たしていましたから、それと過去帳などを知れべれば近世の先祖の名も
分ります。
>ま、川嶋家については松浦家より格上なので、松浦家との縁が証明できないと
>かえってランクあがるかな。
意味不明。証明も何も、川嶋庄右衛門が松浦力松を婿養子として迎え、自分の名
の一字を取って庄一郎という名前を与えたことは、戸籍等で判明していることです。
633 :
名無しさま :2009/09/30(水) 19:44:41 ID:4XqoyP1/
で、松浦力松の祖父母や曽祖父の名前とかは? 川嶋家や松浦家は意図も簡単に戸籍や過去帳が閲覧できるでしょ?
634 :
名無しさま :2009/09/30(水) 20:21:39 ID:Nv2ZYZ3W
山本茂『遙かなる村上藩』にも明治12年5月、新発田中学校村上校を 開校することを知事に申請、認可された。 同校はその後私立本町校、村上私学校へという沿革をたどって現在 の新潟県立村上高校にまでつながっている。 しかし、同書の中で小和田金吉がこの新発田中学校村上校で学んだ ということは書かれていない。 「金吉の父ではないかとされている道蔵(匡利)について山本氏は、 維新によって職も禄も失い、明治七年七月二十八日に亡くなっている。 兵五郎の墓は村上市の西真寺にあり、道蔵の墓がこの地にあって「新潟 県貫族」(県民の意味)となっているのは、彼が三男・金吉とともに明治七 年以前に村上を離れていたことを意味する。」と述べている。 小和田金吉が新発田中学校村上校第三回生だとすれば、入学したのは 明治14年ごろ。 しかし、山本氏の著書の中では金吉は父の道蔵とともに明治7年以前 には村上を離れたと書かれている。 小和田金吉の出身校は? 小和田金吉は新発田中学校村上校で学んだのか? 小和田金吉はいつ村上を離れたのか? またまた金吉にまつわる謎が増えた…
635 :
名無しさま :2009/09/30(水) 23:34:14 ID:pcYF3LJB
>>633 小和田金吉の曾祖父と曾祖母の名前は?
それ以前に金吉の両親と2人の名前は?
江頭安太郎の曾祖父と曾祖母の名前は?
江頭家は佐賀の名家の出だそうだから、家系図くらいは
あるよね?
あと、金吉はどの学校で学んだのか。
金吉が士族の子弟であるなら、明治12年5月に開校した
新発田中学校村上校に入学したはずなんだけど、卒業生
名簿に小和田金吉の名前はあるの?
636 :
名無しさま :2009/09/30(水) 23:47:07 ID:yGVRfb+U
戸籍の変遷を理解していれば、不思議でも何でもない事なんだけどな。 小和田金吉は明治33年に死亡したんでしたっけ? とすれば、あったとして明治31年式の戸籍。 川嶋庄一郎は昭和22年に死亡だから、少なくとも大正4年式の戸籍、昭和23年式の現代の戸籍に変わる時に、現存者が居ればその転記された情報から分かる事もあったりする訳で。 それに、除籍にしても改製原戸籍にしても、保存期限があるので、期限が過ぎて廃棄されていたとしたら、確認のしようがない。 単純比較して、同じ年代に生まれたから同じだけ情報が無いのはおかしいとは言えないものなんですよ。 マスコミが直接確認したというのは、法律上は有り得ないので、何らかの手段で確認したというソースが無い限りは、事実として扱うのは違うと思いますよ。 直接確認したよりも、宮内庁あるいは川嶋家から情報提供があった可能性の方が高いんじゃないですかね。
637 :
名無しさま :2009/09/30(水) 23:54:47 ID:pcYF3LJB
毎日新聞の記者と河原敏明の本で記述が食い違っているのは何故? 毎日新聞写真集では、西真寺の過去帳には兵五郎の名前はあるが、 金吉との関係は分らない。 河原敏明の本では、兵五郎は小和田家の初代だということになっていま すね。 戸籍の件はともかく、金吉はどの学校で学んだのかについては、どの記事 でも全く書かれていませんね。 明治5年に学制が敷かれて、慶応3年、あるいは4年生れの金吉も義務教育 を受ける恩恵に浴したはずなのに。
638 :
名無しさま :2009/10/01(木) 00:02:44 ID:BZpTtMI5
>>637 その当時は無名な人だったから、文献には残ってないだけじゃないですか?
別に問題無い事でしょう?
お妃候補の祖先は、文献に名を残している事という条件があるなら別ですが、無かったから入内出来たのじゃないですか?
639 :
名無しさま :2009/10/01(木) 00:28:19 ID:vri6JIeG
640 :
名無しさま :2009/10/01(木) 08:10:26 ID:v2suXSgY
学籍簿は1900年(明治33)の小学校令施行規則以降だから、 金吉の小中時代はなかったはずですが?
641 :
名無しさま :2009/10/01(木) 08:14:25 ID:eS0LQRit
>>632 うん、本来なら戸籍情報だろうね。
だから同程度の情報「父親の名・母親の名」が分かっている小和田穀夫氏の
戸籍情報は出ていると思うよ。小和田家が宮内庁に提供して、宮内庁が
間接的にマスコミに流したんだろうけど。
(ってか、母親の名前って公文書に書くこと少ないので、そういうところに
当たらないと難しい。幼年から戸主である穀夫氏の「保護者」は、母親じゃ
なくて後見人の時代だから。)
・マスコミは小和田金吉の戸籍調査は出来なかった。
・マスコミは小和田穀夫の戸籍情報を入手している(推測)。
ってところだろうね。
642 :
名無しさま :2009/10/01(木) 08:26:49 ID:eS0LQRit
>>637 保坂氏の文章はこうだったね(前、兵五郎の名の初出が河原本ではないかと
書いたけど、こちらが初出だった。訂正します)。
> 明治時代末期、村上藩に縁のある人々が集まって、維新前の村上城下絵図を復元
>している(大正元年に発行)。その絵図を見ると、小和田家の祖先のうちの一人と見ら
>れる小和田兵五郎の名があり、足軽長屋に住居があったとされている。
村上城下絵図の小和田姓は四人です。
1993年1月の段階では四人から一人に絞れなかったが、その後四人のうち一人に絞るに
値する(と判断できる)情報があって保阪氏はこう書いたのでしょう。
同様の情報を得た河原氏が寺を取材した。
一方、毎日新聞社は一人に絞るべき情報を得ていないか、採用するに値せずと
考えたということでしょうね。
643 :
名無しさま :2009/10/01(木) 08:32:47 ID:eS0LQRit
>>636 まとめると、
・戸籍は生年と同じくらい、没年が重要
ってことですか。
644 :
名無しさま :2009/10/01(木) 08:36:19 ID:eS0LQRit
>>634 お、書籍に「三男」とあるのか。
すみません、長男次男情報について何か書かれてます?そのあたりが
あったら提示願います。
山本茂氏は「三男」と書くに値する情報を入手しているってことですよね。
やっとソースが出た!
645 :
名無しさま :2009/10/01(木) 09:02:53 ID:eS0LQRit
>>634 明治七年の居住地と、明治十四年の中学校の場所と、なんの関係があるのやら。
当時は中学は県にいくつもない。進学のため下宿なんてのもあるわけです。
ま、当時の新潟市に中学校がないとは思わないけど、村上を選んだって
不思議はないと思うよ。
・・・あれ?新潟市の中学校って、明治14年ではまだないかも?
今調べているんだけど、見つからない。
646 :
名無しさま :2009/10/01(木) 14:30:08 ID:Rqf0tj8n
各記事で共通しているのは、小和田家に関する史料は極めて少なく、 ルーツ探しは困難であった、と筆者が述べていること。 例えば、山本茂氏は著書の中でこのように述べている。 ----------( 引 用 )--------------------------- 山本茂『遙かなる村上藩』 P19 現在、村上市の古い正史は昭和六年、村上本町教育委員会が発行した『村上郷土 史』のみだが、前期のアクシデントのために穴だらけで完全なものとは言えない。そうい うわけで、村上藩の歴史を遡行しつつ小和田家の祖先をたどるのは大変な困難だった。 まして、上級士族とは言えない小和田家の歴史は、ときたま藩史の暗がりから顔をの ぞかせるだけである。その実体を再現する作業は断片を集めて嵌め込むジグソーパズ ルの復元に似てくるだろう。 ----------( 引 用 終 わ り )----------------- しかし、山本氏は同著の中で、「彼(道蔵)が三男・金吉とともに明治七年以前に村上を 離れていたことを意味する」(P171、P177)と書いている? どうして金吉の父が道蔵で、金吉は三男であると判明したのか? 答えはすぐに分った。 P189に参考文献として載せられている中に、斉藤光雄聖作『村上藩藩士小和田家の系図』 が挙げられている。 どうやらこれが小和田金吉=道蔵の三男説の元ネタらしい。
647 :
名無しさま :2009/10/01(木) 14:42:38 ID:Rqf0tj8n
斉藤光雄という人物について調べてみたけど、詳しいことは分らなかった。 おそらく新潟の郷土史研究家であると思われる。 斉藤氏は村上市に残る古文書や各寺院の墓碑や過去帳などを調査した ものと思われる。 そして、西真寺に墓がある兵五郎が金吉の祖父で、その隣りの墓が金吉 の母と2人の兄ではないか?という仮説を立て、系図を作成した。 この斉藤氏の仮説と系図を参考にしたのは山本茂氏と河原敏明氏。 川口素生氏もこの斉藤説を参考にしたらしく、2001年に刊行された『小和田 家の歴史』の中で金吉は道蔵の三男であると書いている。 他の朝日新聞、毎日新聞、保阪正康氏、岩瀬達哉氏などはあくまでも一アマ チュア郷土史家の仮説にしか過ぎないというスタンスであったのか、記事中 に載せられた系図や文中には兵五郎の名前は登場していない。
648 :
名無しさま :2009/10/01(木) 14:45:54 ID:ipe19jEP
道蔵の妻子の墓は西真寺にあるのだから、それが金吉の兄二人なのかな? 寺の住職に調べてもらうのが一番手っ取り早いのだが… なぜどこのジャーナリストもやらんのだ? 墓石がある以上は過去帳もある、法名、命日、名前ぐらいわかるぞ。
649 :
名無しさま :2009/10/01(木) 15:22:31 ID:Rqf0tj8n
>>648 毎日新聞は西真寺の過去帳は調べたようだな。
650 :
名無しさま :2009/10/01(木) 16:38:27 ID:1XWnfJ92
>>649 調べてどうだったの?
道蔵の妻子の名前やら兵五郎の妻の名前なんかはどうだったの?
651 :
名無しさま :2009/10/02(金) 10:01:57 ID:hGYKwYmy
>>647 おおっ、ついに本命登場ですか。斉藤光雄氏。
>斉藤氏は村上市に残る古文書や各寺院の墓碑や過去帳などを調査した
>ものと思われる。
で、この人の資料が複数の人間の書籍に採用されているわけですね。
山本茂氏と河原敏明氏と川口素生氏。かなり確実性が高そうだ。
あと、保阪氏と毎日新聞社は兵五郎には触れているからね。
文中にないのは、1993年1月の朝日、1993年3月の岩瀬達哉氏。
雅子さま婚約関係の報道(自主)規制解除が1993年1月だったことを
考えると、「まだ情報をつかんでなかった」だけかもしれませんね。
岩瀬氏は皇室関係が専門ってわけでもなさそうだし、情報漏れがあった
のかもしれませんしね。
652 :
名無しさま :2009/10/02(金) 10:24:31 ID:hGYKwYmy
ん?読み直してみると、斉藤氏の可能性が高いだけか? つまり、山本氏と河原氏と川口氏の参考資料として、斉藤光雄氏の『系図』が あげられていたということですね。 三氏に共通する他の資料の可能性もなくはない。
653 :
名無しさま :2009/10/02(金) 10:31:38 ID:hGYKwYmy
>>648 金吉の兄二人は傍系。雅子妃の祖先じゃなくて遠縁に過ぎないからね。
普通のジャーナリストは調べる必要を感じないと思う。
調べる必要がある方が頑張るしかないでしょう。
654 :
名無しさま :2009/10/02(金) 15:15:55 ID:M+kQRqpu
少なくとも兵五郎の妻、道蔵の妻と子供の名前や命日は墓石みればわかる わけで、なんで誰もしないの? と思うのだが… 金吉の兄弟の名前、名前と知りたい連中は自分で調べてくればよいのに。 ついでの西真寺の住職にここで疑問になってることも聞いてきてくれ。 金吉の過去帳の記載はあるのかないのか? もともと墓があって移転したなら過去帳には×印があるはずだから確認ぐらい できる。 道蔵や兵五郎との関係は? 道蔵の墓石の場所が兵五郎の近くなら二人は親子だろうし、 金吉の墓石がどのあたりにあったのかによってそれも確認できる。 道蔵の近くなら親子、墓石がなく合葬されていたらもちろん親子。 暇な人頼むねw
655 :
名無しさま :2009/10/03(土) 14:05:30 ID:wjtzjKgg
どう考えても悠仁より愛子の方が天皇の器な件9
http://dubai.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1253263262/l50 117 名前:名無しさま 投稿日:2009/10/02(金) 09:07:19 ID:BFLA0JR6
>>116 >川嶋辰彦の専門は計量経済学だ。
その「専門」で、なんらみるべき実績がなく、
なぜか同和問題に長年取り組んでライフワークとしている変な人だよね。
学習院の学生を毎年、フィールドワークとして部落に連れていく。
怪童のサイトに顔写真入りで載っていたよ。
2chで騒がれて、顔写真を取り下げたヘタレ。
雅子さまのご実家は、母方、父方とも立派であったからこそ
皇太子妃候補となった。
紀子さんは、血筋に問題がありすぎたので、お妃候補にはあがらなかった。
「側室(影の女として)なら」と言われたそうだね。
>皇室にエタはいらん
紀子さんは母方、父方ともその血筋でしょう。
656 :
名無しさま :2009/10/03(土) 14:16:56 ID:wjtzjKgg
657 :
名無しさま :2009/10/03(土) 14:18:28 ID:wjtzjKgg
658 :
名無しさま :2009/10/03(土) 14:28:53 ID:wjtzjKgg
マスコミで名前を知られる岩田規久男氏、閣僚を歴任した竹中平蔵氏、元一橋大学学長 で、政府の審議会や諮問委員を務める杉山武彦氏などと比べて川嶋辰彦氏の研究分野は いかにも地味で、世間ではあまり知名度はないかもしれない。 しかし、川嶋氏の研究論文は海外の研究者から多数引用されている。 上記の一流経済学者たちの引用件数を大きく上回っている。 今から30年以上も前に発表した論文が現在でも引用され続けていることは、彼の論文 がその分野で画期的な業績をあげた古典的な価値を持つ研究成果であることを意味し ている。 川嶋氏は専門分野で何ら大した業績をあげていないというのは、明らかに誤りである。 交通経済学の第一人者で、日本よりも海外で知られる研究者(読売新聞)であることは 確かだ。
659 :
名無しさま :2009/10/03(土) 23:34:13 ID:wjtzjKgg
どう考えても悠仁より愛子の方が天皇の器な件9
http://dubai.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1253263262/l50 131 名前:名無しさま 投稿日:2009/10/02(金) 20:06:40 ID:eFxVpoF7
>>128 ちゃんとした「左翼」だったらそうなのかもしれませんが、
「バカサヨク」「ブサヨク」でしょうからねw>川嶋辰彦氏
…それにね、「左翼系」じゃないとしたら、ああいう団体とお付き合いがあるのって、
…やっぱり「そういう」エスニック・グループ出身と言うことになるようなwww
136 名前:名無しさま 投稿日:2009/10/02(金) 20:45:07 ID:eFxVpoF7
>>135 半島人が関わっているかどうかは知らんが、部落解放同盟は物凄い圧力団体だぞ
詳しくはぐぐるなりなんなり。
ちなみにNPO法人 人権センターながの も関連団体です。
---------------------------------------
ゼミで同和地区を訪問したら「そういう」エスニックグループ出身ていうことに
なるの?
じゃあ、以下の方もそういうグループ出身というのかな?
660 :
名無しさま :2009/10/03(土) 23:35:08 ID:wjtzjKgg
有馬頼寧
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有馬 頼寧(ありま よりやす、明治17年(1884年)12月17日 - 昭和32年(1957年)1月9日)
は日本の政治家。農政研究者。元農林大臣。日本中央競馬会第2代理事長。伯爵。
経歴 [編集]
旧筑後国久留米藩主有馬家当主で伯爵有馬頼万の長男として東京に生まれる。学習院中
等科(現 学習院高等科)、旧制学習院高等科を経て東京帝国大学農科(現農学部)を卒業
後、農商務省に入省して農政に携わり、東京帝国大学農科講師、助教授となり母校で教鞭
をとった。夜間学校の開校、女子教育、農民の救済や部落解放運動、震災義捐などの社会
活動に広く活躍し、農山漁村文化協会の初代会長や日本農民組合の創立にも関わった。
家族 親族 [編集]
父・有馬頼万
母・寛子(岩倉具視の娘、森有礼後妻)
叔母・小松宮妃頼子
妻・貞子(北白川宮永久王叔母)
子・頼義(直木賞作家)
孫・亀井久興(政治家)
甥・森有正(哲学者、仏文学者)
姪・関屋綾子(世界平和アピール七人委員会委員)
従甥・頼底(禅僧、臨済宗相国寺派管長)
娘婿・足利惇氏(インド学者、イラン学者)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E9%A0%BC%E5%AF%A7
661 :
名無しさま :2009/10/03(土) 23:39:01 ID:wjtzjKgg
武者小路公秀
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
武者小路 公秀(むしゃこうじ きんひで、1929年10月21日 - )は日本の男性国際政治
学者で大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター所長。専門は、国際政治学、平
和学。学位は政治学士(学習院大学)。
人物 [編集]
父は藤原北家の支流・閑院流の末裔 武者小路家の当主 外交官で元駐独大使、宮内
省宗秩寮総裁で子爵の武者小路公共。叔父に小説家の武者小路実篤がいる。衆議院
議員の猪口邦子は教え子である。元貴族院議員、駐独大使子爵武者小路公共の三男
としてブリュッセルで生まれる。学習院大学政治経済学部卒業。カトリック教徒。上智大
学、明治学院大学国際学部、フェリス女学院大学、中部大学で教鞭をとる。国連大学副
学長、反差別国際運動日本委員会理事長、主体思想国際研究所理事、人権フォーラム
21代表、ニューメディア人権機構(人権情報ネットワーク ふらっと)理事長、ピースおお
さか初代館長、世界平和アピール七人委員会委員、財団法人朝鮮奨学会評議員を務め
る。
徹底した反米、反体制、反権力主義者である。そのうち人権擁護法案の推進メンバーの
一人でもある。また、部落解放同盟との関係も深い。
尚、旧ソ連と第三世界に担がれて世界政治学会(IPSA)会長になったこと、国連大学副
学長時代には意識的にKGBのエージェントを国連大学に迎え入れたことを認めている(『複
数の東洋/複数の西洋』)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%80%85%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%85%AC%E7%A7%80
662 :
名無しさま :2009/10/03(土) 23:55:37 ID:wjtzjKgg
有馬頼寧は旧久留米藩主で伯爵有馬頼万の長男。妻は元皇族で北白川宮の出身。 被差別部落解放運動に情熱を傾けて水平社の創設にも大きく尽力した人。 武者小路公秀氏の父は、父は藤原北家の支流・閑院流の末裔 武者小路家の当主で 元子爵、駐独大使や宮内省宗秩寮総裁などを歴任した武者小路公共。叔父は小説家 の武者小路実篤。 武者小路公秀氏はもともとは国際政治学者だったけど、反差別国際運動日本委員会理 事長、主体思想国際研究所理事、人権フォーラム 21代表、ニューメディア人権機構(人 権情報ネットワーク ふらっと)理事長、ピースおお さか初代館長を務めるなど、最近では 部落差別や人権問題の専門家としての認知が多い。 ともに学習院出身で華族の出身。 川嶋辰彦氏の過去の論文を見ても被差別部落や人権問題に関する論文は一本もない。 被差別部落問題が川嶋氏のライフワークでも専門分野であるとは、とても言い難い。 川嶋教授は毎年ゼミ生を連れてタイの農村で井戸掘りのボランティアを行っている。 むしろそちらの方が世間では知られていて、高く評価されているのだけど。
663 :
名無しさま :2009/10/03(土) 23:57:44 ID:T4kufJs5
川嶋教授が、同和の人と親交が深くても、何も問題はないでしょ。 自分の私腹を肥やすのに利用してない限りは。 否定しようと躍起になるのは、自分自身が部落差別的思考を持っているからじゃないの?
664 :
名無しさま :2009/10/04(日) 00:11:24 ID:00IyzJtA
小和田家が三代前が不明でも、江頭家の先祖が佐賀藩士でなくても何も問題はないでしょ。 自分の出自をごまかすのに、嘘をでっちあげない限りは。 否定しようと躍起になるのは、自分自身が出自や家柄に差別的思考を持っているからじゃないの?
665 :
名無しさま :2009/10/04(日) 03:47:49 ID:s3PkgnnS
666 :
名無しさま :2009/10/04(日) 08:12:37 ID:3R7lqe4l
>>663 >>664 >自分自身が出自や家柄に差別的思考を持っているからじゃないの?
そういう台詞は差別主義で単細胞のID:BFLA0JR6 や ID:eFxVpoF7に言うべき。
川嶋教授の専門は同和問題ではない。
ゼミの一研究テーマとして取上げてフィールドワークに出かけたことを大騒ぎ
して、それをあちこちにコピペ貼るような連中こそ差別思想の持ち主でしょ。
>>1 をもう一度よく読んで欲しい。
ここは事実でないことが、さも事実であるかのように流布されている皇室や皇族に
関するデマや嘘を検証するスレ。
個人的にはどうでもいいことだけど、こうも出自問題に関して粘着する上記のような
アンチがはびこる限りは、この問題の検証は避けて通れないね。
667 :
名無しさま :2009/10/04(日) 08:45:31 ID:/Ur1GpdV
コピペ改変の方を引用して、一緒にアンカーを付けるのは、何か意図があるんでしょうな。
668 :
名無しさま :2009/10/04(日) 09:06:08 ID:wX6/cYyc
>>664 >小和田家が三代前が不明でも、江頭家の先祖が佐賀藩士でなくても何も問題はないでしょ。
そのとおりですね。
>自分の出自をごまかすのに、嘘をでっちあげない限りは。
「自分」ですか。つまり、小和田家の人間が出自を「ごまかす」ため、
嘘をでっち上げているということですね。
むしろ、他人の出自をけなすため、嘘をでっちあげない限り、
問題はないというのが正しいと思いますが。
例えば足軽は「武家の奉公人」とかいった類のごまかし
(そういう人たちもいたんだけど、普通は武家の奉公人といえば
中間などであって、足軽は入らないよね)がある。
そういう「皇室をめぐる嘘」を見つけるのが面白いからここにいるんだけど、
当事者(足軽の子孫たち)にとっては失礼な話であり、問題だよね。
墓参りをするということは、墓の面倒を見て、供養しているということです。
そういう行為をしている人間に対して、「自分の出自をごまかす」ため
などと証拠もなしに失礼なことを言ってはいけないでしょう。
穀夫氏が兵五郎・道蔵の跡取りではなかったという「明確な証拠」なしに
「ごまかす」などと言うのは論外ですね。
たとえ血の繋がりがなかったとしても(可能性は薄いが)、同姓で
墓の跡取りとして認められたということは「家の後継者」なのですよ。
669 :
名無しさま :2009/10/04(日) 09:27:25 ID:3R7lqe4l
平凡社の日本史大事典によれば、足軽は戦国時代においては身分の 低い雑兵。 戦場での略奪行為などから蔑視された。 近世においては武家奉公人の一種、とありますね。 つまり足軽は武士ではなくて武家の奉公人であると説明されている。
670 :
名無しさま :2009/10/04(日) 09:40:11 ID:3R7lqe4l
このスレで小和田家が自分の出自をごまかしていると書いた人なんか いたっけ? 小和田毅夫氏は泉性寺に墓参に訪れ、お墓も改修しているのだから、 道蔵とは何の関係もないということは常識的に考えてありえない、と いうのが過去スレからの共通認識ですが。 その道蔵と金吉はどういう関係にあるのかが分らない、というのが争点 になって、小和田家には在家用の過去帳があるから系譜は判明している との主張は、あくまでも推測であったらしい。 金吉が道蔵の3男だという説は、斎藤光雄氏という郷土史家らしき人の 仮説であったらしいことも判明。
671 :
名無しさま :2009/10/04(日) 15:12:46 ID:wX6/cYyc
>>670 >このスレで小和田家が自分の出自をごまかしていると書いた人なんか
>いたっけ?
664の文章の「自分」は何を指すんでしょうか?
>小和田家が三代前が不明でも、江頭家の先祖が佐賀藩士でなくても何も問題はないでしょ。
>自分の出自をごまかすのに、嘘をでっちあげない限りは。
>川嶋教授が、同和の人と親交が深くても、何も問題はないでしょ。
>自分の私腹を肥やすのに利用してない限りは。
663の文章の「自分」は、明らかに川嶋教授だよね。
当然、コピペ改変の664の文章の「自分」は、「小和田家」ならびに「江頭家」
としか読めませんが。
つまり、このスレには一応いるのであります。単独idだけど、 小和田家および
江頭家と両家について触れられる知識の持ち主なら、通りすがりじゃないわね。
672 :
名無しさま :2009/10/04(日) 15:29:18 ID:wX6/cYyc
>>669 でも、実際の奉公先は武家じゃなくて藩でしょ?
武家奉公人といって連想する中間たちとはそこが違うわけで。
Wikiにはこうあるんだけど?
>戦乱の収束により臨時雇いの足軽は大半が召し放たれ武家奉公人や
>浪人となり、残った足軽は武家社会の末端を担うことになった。
つまり、武家奉公人にならなかった方が「足軽」なんですな。
おそらくやってることは中間も足軽も変わらないから「奉公人」なのは
一緒なのだし、だから平凡社の記述は「奉公人」だったんでしょう。
所属が「藩」か「武家」かであり、「藩主」も武家と考えれば
武家の奉公人ともいえるけれど、通説とはちとずれている感じ、と。
wikiより。
>そのほか、大身の武士の家来にも足軽はいた。
これは大身の武士の方が、藩主に近い格扱いなのかも知れないね。
673 :
名無しさま :2009/10/04(日) 15:31:22 ID:wX6/cYyc
小和田家には在家用の過去帳があるから系譜は判明している との主張は、あくまでも推測であったらしい。 そんな主張はどこにもありません。 作り話はやめましょうね。先祖の情報がある「可能性がある」という 話しかなかったはずだ。
674 :
名無しさま :2009/10/04(日) 15:33:34 ID:wX6/cYyc
>金吉が道蔵の3男だという説は、斎藤光雄氏という郷土史家らしき人の >仮説であったらしいことも判明。 要修正。 斉藤光雄氏という郷土史家らしき人の説であったらしいと推測される、だ。 ポイントは二つ。 ・系図作ったのなら作り手は「仮説」とは思ってないよ。説として扱うべき。 ・判明はしていない。
675 :
名無しさま :2009/10/04(日) 15:42:28 ID:3R7lqe4l
『村上市史 通史編2 近世』 徒士と町人の結婚 徒士以下、足軽、中間、若党、あるいは家臣が私的に抱える家来、すなわち陪臣な どの地位、身分は「家中」の外であった。多くの場合そうした人々の雇用は、雇用主対 本人の契約でなされ、主人が仕える領主が転封される場合でも、かならずしも供をする 義務はない。しかし、刀を帯びることを許されているので、身分上は侍である。 そのような人々の居住地は、主人の屋敷の一隅や町人地のなかにある長屋の場合 もある。ようするに、彼らの居住地は町人地にもっとも近く、そのような関係からも彼らの 生活環境は、侍と町人の中間的なものであったと考えられられる。 鍛冶町の十二所神社は、そうした人々が祭った神社であろう。天保九年(一八三八) 社殿が再建されたとき、かつてその周辺に居住したと推測される、数名の足軽衆が奉 納した棟札が現存する。 村上市史によれば、村上藩では足軽は家臣が私的に抱える陪臣であって、家臣では ないとされていますね。 村上藩では足軽は家臣の奉公人であった。
676 :
名無しさま :2009/10/04(日) 15:46:13 ID:3R7lqe4l
小和田家の当主は先祖のことについてはよく知らなかったという 記事もある。 小和田家の当主が在家用の過去帳も持っていたか、いまでも 持っているかについては不明。 道蔵は兵五郎の嫡男で、金吉が道蔵の3男だというのは斎藤光雄氏が唱えた説。 毎日新聞記者は金吉と兵五郎の関係は分らないと述べている。
677 :
名無しさま :2009/10/04(日) 18:48:22 ID:DQ02MDyz
678 :
名無しさま :2009/10/05(月) 05:00:13 ID:K7aX99Q5
親戚が、焼き肉屋でも、何も問題はないでしょ。 焼き肉屋が全てKやBというわけではないし、もしそうであっても問題はない、わるいことをしない限りは 鬼の首を取った様に躍起になるのは、自分自身が部落差別的思考を持っているからじゃないの?
679 :
名無しさま :2009/10/05(月) 05:02:01 ID:K7aX99Q5
だけど、この焼き肉屋さんは、普通の日本人で、ついでに紀子様とは血のつながりはなし
704 名前:可愛い奥様 メェル:sage 投稿日:2009/10/04(日) 19:12:15 ID:OtQGDhcn0
>>699 この焼肉店のご主人の方は以前から存じていました。
紀子さまが曾祖父の川嶋庄一郎の墓参のために清水町(現・有田川町)を訪れた際に
JR藤並駅で当時高校生だった娘さんと共に川嶋家の方たちを出迎えて、地元紙の取材
を受けられていたことも記憶しております。
このご主人は、川嶋庄一郎の生家・松浦家の遠い親戚にあたる方です。
紀子さまとはどのような関係なのか、まずは松浦家の系譜から説明します。
705 名前:可愛い奥様 メェル:sage 投稿日:2009/10/04(日) 19:13:44 ID:OtQGDhcn0
松浦平吉には庄太郎、虎松、力松(川嶋家に養子、庄一郎と改名)の3人の息子が
いました。
平吉の長男、つまり川嶋庄一郎の長兄が松浦庄太郎です。
-----------------------------------------------------------
昭和6年 奈良新報社刊『現代人物誌 第四編』より
有田郡安諦村板尾 松 浦 庄 太 良氏
氏は文久二年十一月二十二日の出生にして、祖父平吉氏は松浦家の基となす。氏は町村制實
施以来引續き村會議員に擧げられ、區長、郡會議員、氏子總代等の名誉職に擧げられ、一面安
諦水力株式會社専務取締役を勤む。性温厚、而も活氣旺盛常に?剌たり。男子なく長女富枝子
に養子康太郎氏を配す。康太郎氏は國勢調査員、収入役、助役等にも推され目下安諦水力會社
に勤務せり。庄太郎氏は登山、圍碁に趣味を有す。家にはゑい、良子、トクヱ、澄子の孫女あり。
-------------------------------------------------------------
庄太郎さんという方は村会議員や郡会議員にも選ばれて、安諦水力電気株式会社を設立し、
山間の村に電力を引いた功労者として『清水町誌』にも名前が記載されている、立派な方でし
た。
文中にもある通り、庄太郎さんには男子がなく、養子に康太郎さんという方を迎えました。
680 :
名無しさま :2009/10/05(月) 05:02:55 ID:K7aX99Q5
706 名前:可愛い奥様 メェル:sage 投稿日:2009/10/04(日) 19:16:02 ID:OtQGDhcn0 この康太郎さんという方は実に優秀でありなお且つ人格者で、周りから請われて若く して村の収入役に就任し、後に安諦村の村長として数々の業績を残した名村長と称 えられた方です。 有田市に丸山啓造という方がおられました。『有田芸術家列伝』によれば、明治44年 古江見に生まれ、文学を愛し、油絵和歌を能し、郷土史の研究家でもあった。 地方新聞「紀伊新報」を発行し、有田短歌会を主宰。 油絵では昭和41年和歌山県展に出品して知事賞に選ばれ無鑑査となる。 多趣味で熱心な人柄を買われて、有田市中央公民館長や有田地方文化財保護審議 委員連絡協議会長に挙げられ、昭和49年8月に没するまで勤めた、という名望家で すが、この丸山啓造さんが昭和27年に有田郡内の名士や有力者を取り上げてその人 となりを紹介した『有田新人物誌』という本を著して、その中で松浦康太郎を紹介してい ます。 余談ですが、上記の『有田芸術家列伝』には「名士 川嶋庄一郎」として「多趣味で囲 碁、謡曲を好み、俳句を善した」と紹介されています。実は、川嶋庄一郎は書や俳句、 謡曲などを好み、そのどれもが一流の腕前であった大変な教養人であったそうです。 川嶋庄一郎の書や俳句に関するエピソードはいずれまた紹介することとします。
681 :
名無しさま :2009/10/05(月) 05:06:00 ID:K7aX99Q5
707 名前:可愛い奥様 メェル:sage 投稿日:2009/10/04(日) 19:17:11 ID:OtQGDhcn0 昭和27年 南海情報社刊 丸山啓造『有田新人物誌』より 松 浦 康 太 郎 氏 氏は明治二十四年富森勘之助氏の次男として呱々の声をあげ長じて松浦家に迎え られた。青年時代から衆にすぐれて賢才の誉れ高く、二十二才のとき村議会から見込 まれて収入役就任を懇請された。議會に出席中の養父庄太郎氏は断りかねて引き受 けて歸宅したが、年が若すぎると生母は猛烈に反對し生母自身が議會に出かけて? 退を申入れて断ったというエピソードが残っている。その後数年してから再び熱望された ので今度は受諾して役場に入り、収入役を七ヶ年勤めた後助役となって就任中、村民 から蔵の金失いだと笑われながら上西廣一郎氏を社長に、父君が専務取締役となって 安諦水力電氣会社を設立したので、氏も又役場を退いてこの事業を助けることになった 。昭和三年五月工事は見事完成し当初の計画通り二十五キロワットの出力を得て、山 村民に電氣の恩澤を浴さしめたが、馴れない事業だけにその間關係者の苦労は並大 抵ではなかったといわれている。 昭和十年望まれて村長となり農業會長、産業組合長などを兼任した。村長としての氏 はまづ極度の疲弊状態にあった村の経済更正を志し、綿密な基礎調査をしたり山村の 立直しについて先覚者を訪歴して意見を求めたりして、安諦村の環境地質から杉、檜、 シュロの植林と儉約の外策がないという結論に達したので、村民にこれを推奨すると共 に他郷人の手にあった山林跡山の買戻し努力して村の更正をはかり、その他主婦の会 結成や板尾大橋の架設あるは小学校の増設等、多くの功績を残して昭和十八年引退 した。質性すこぶる英邁にして温厚、人情にも厚く村の長老として村民の尊敬を一身に あつめている。とみゑ夫人も又淑徳の誉れ高く、長女ゑいさんは愛治氏を迎えて三人の 子女を設け、良子、とくゑさんは他家に嫁し、澄子さんは吉備高校を出て自宅に、恒代さ んは東京の女子大学に在学、趣味は囲碁、浄瑠璃。 (安諦村板尾)
682 :
名無しさま :2009/10/05(月) 05:09:12 ID:K7aX99Q5
709 名前:可愛い奥様 メェル:sage 投稿日:2009/10/04(日) 19:18:57 ID:OtQGDhcn0 松浦康太郎がいかに賢才で、人格者で、村政に大きな業績をあげて村民から敬愛され た人物であったことがお分かり頂けると思います。 実は康太郎さんの実父も第2代の安諦村の村長を務めています。 丸山氏の文中にもありましたが、康太郎さんにも男子が生れず、愛治さんという方を 婿養子に迎えています。 この愛治さんの実家の分家にあたる方が大阪に出られて焼肉店をはじめられたと 伺っています。 つまり紀子さまとは血縁関係はありませんが、松浦家を介して遠い親戚関係にあた る方です。 712 名前:可愛い奥様 メェル:sage 投稿日:2009/10/04(日) 19:40:51 ID:QbKQ2h4G0 松浦平吉 ┏松浦庄太郎━━━松浦康太郎━━━松浦愛治━━━松浦朗 ┣━━━┫ 松浦かつ ┣━松浦虎松(井谷村の道上家を継ぐ) ┃ ┗━松浦力松(明治27年3月21日に川嶋庄一郎と改名) ┃ ┏━━孝彦 川嶋庄右衛門 ┣━━━━━┫ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━春 ┣━━━━━川嶋志ま ┃ ┃ ┣━━俊二 川嶋たね ┃ ┣━━澄 ┃ ┗━━健三 713 名前:可愛い奥様 メェル:sage 投稿日:2009/10/04(日) 19:44:33 ID:QbKQ2h4G0 この家系図でいくと、(すみません、少しズレてますね) 川嶋庄一郎氏の兄の義理の孫にあたるのが愛治氏ですね。 その人の実家(何と言うおうちかはわかりませんが)の分家さんだと。
683 :
名無しさま :2009/10/05(月) 05:10:29 ID:K7aX99Q5
714 名前:可愛い奥様 メェル:sage 投稿日:2009/10/04(日) 19:48:07 ID:QbKQ2h4G0 こういう家系図も(これでいくと愛治氏の実家は冨森姓でしょうか) 板尾の冨森氏─────────────── 冨森康太郎(松浦姓となる) さと ├────松浦愛治――松浦朗 松浦平吉( -1876) ├─────(長女)とミゑ │ ┌(長男)庄太郎(1861-1954) ├────────┼(次男)虎松(1865-?) ──井谷村の道上家を継ぐ │ └(三男)力松(1870-1947) 川嶋庄一郎と改名 かつ(1838-1930) 715 名前:711 メェル:sage 投稿日:2009/10/04(日) 19:54:31 ID:QbKQ2h4G0 高祖父の兄弟が養子に迎えた人の実家の分家ではなく、 曽祖父の甥が養子に迎えた人の実家の分家ですね。 上より下のほうが遠い関係ですね、失礼しました
684 :
名無しさま :2009/10/05(月) 05:12:35 ID:K7aX99Q5
>>677 ちなみにこの焼き肉屋さんが、おまえのレスを見て
名誉毀損で訴えたら、ログとIPそえて提出されるのお忘れなく
685 :
名無しさま :2009/10/05(月) 06:06:12 ID:vPYhl6rf
コピペ改変の人は、やっぱりいつもの人だったのか。
686 :
名無しさま :2009/10/05(月) 07:40:48 ID:7Z8wzgkR
>>684 そう、訴えるのは「焼肉屋」であって「君じゃない」んだよね?
君がいくら「通報する、逮捕だ、名誉毀損だ」と恫喝しようが
当の「焼肉屋」じゃない限り君は「関係ない」んだよw
お疲れさん
687 :
名無しさま :2009/10/05(月) 08:44:08 ID:/7WzQzS6
>>675 >村上市史によれば、村上藩では足軽は家臣が私的に抱える陪臣であって、家臣では
>ないとされていますね。
それは、あなたの文章読解力に問題あるな。
> 徒士以下、足軽、中間、若党、あるいは家臣が私的に抱える家来、すなわち陪臣な
>どの地位、身分は「家中」の外であった。
この文章は、
・(足軽&中間&若党&家臣が私的に抱える家来)=家中の外。
と読めるけど?で、
・家臣が私的に抱える家来=陪臣
って感じだよね。
・足軽&中間&若党=家臣が私的に抱える家来、ではないよ。
「あるいは」は、並列するものの最後のものの前に付けるものでしかないからね。
688 :
名無しさま :2009/10/05(月) 08:49:07 ID:/7WzQzS6
>>675 ちなみに
>>70 にこんな文章もある。
>大場喜代司『村上藩』
>
>侍と町人の結婚
>
> 徒士、足軽、中間、若党は家中の外である。徒士と足軽は藩と雇用関係を結ぶが、
>中間、若党は主人と本人の契約で、藩とは関係ない。
足軽は藩と雇用関係を結んだものであって、陪臣ではないですね。
70自体、貴方が引用した文章ではないかと思ったのですが、違ったのかな?
689 :
名無しさま :2009/10/05(月) 09:03:33 ID:/7WzQzS6
>>676 >小和田家の当主は先祖のことについてはよく知らなかったという
>記事もある。
ソース出してね。
ソースがない記事の情報なんていい加減ですから。
たとえば、ソースのない「記事」とやらにはこんな例もある。 461と524と、ソース提示された488を比較してみよう。 461>昭和61年に村上市郷土資料館を訪れた小和田恒、毅夫氏に館長 461>が大正時代に復元された城下絵図を見せ、足軽長屋の小和田兵五郎 461>を先祖だと紹介してしまった。 526>小和田恒氏夫妻と小和田毅夫氏が昭和60年11月に村上市の 526>招きを受けて、村上市立郷土資料館を訪問した。 年が違うっ。 488> 恒さん夫妻は87年11月22日、毅夫さん夫妻とともに、郷土資料館を訪ねている。 これは毎日グラフの記事の引用。ここでは兵五郎を先祖として紹介したなんて 文章はないし、第一これまた年が違います。 つまり、ソース提示のない文章を信じるのは危険ということですね。
691 :
名無しさま :2009/10/05(月) 09:12:33 ID:/7WzQzS6
つけくわえると、小和田穀夫氏が物心つくころには、小和田家の父金吉・ 祖父道蔵・曽祖父兵五郎全員いないんです。 そりゃ、「先祖のことはよく知らない」と言っても当然でしょう。 出自のことじゃなくて、どんな人物なのか分からないという意味かもしれない。 前後の文脈をきちんと追わずに、判断できることではないですね。
692 :
名無しさま :2009/10/05(月) 10:31:38 ID:Miw++872
693 :
名無しさま :2009/10/05(月) 10:32:27 ID:Miw++872
694 :
名無しさま :2009/10/05(月) 11:28:50 ID:NgWTMqKw
【雅子妃】皇室における東宮問題を語りつくす【小和田家】★19
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news2/1253843069/l50 555 名前:朝まで名無しさん 投稿日:2009/10/04(日) 12:32:55 ID:6OUrTwXM
>>紀子の親戚には「大阪の大正区」で「焼肉屋」経営者がいる。
大正区は「沖縄部落」と「朝鮮部落」があることで有名。
その他有田地区あたりでも焼肉屋を経営してる親戚と
もう一人大阪で焼肉店経営の親戚がいる。
生母がB&Z確定なので悠仁くんの即位の可能性は消えましたので、
ここにご報告いたします。
------------------------------
宮内庁がお妃候補の家系を調べるのは6親等までらしい。
>>682 の家系図でいえば松浦康太郎まで。
康太郎は養子を迎えて、その養子の生家の分家筋の子孫が大正区で
焼肉店を開いた。
3代遡ると父方母方で合計8人の曾祖父、曾祖母が存在する。
さらにそれらの曾祖父、曾祖母らに兄弟がいて他家に嫁いだり、他家か
ら養子をもらったりしたら、その親戚関係は膨大な数に膨れあがる。
6親等から先の、本人とは血縁関係の無い親戚の分家の子孫のことなど
宮内庁は問題にもしませんよ。
そんな血縁関係もない遠縁に焼肉店主がいたとして、どうしてB&Z認定
になるのかも分らないね。
戦後大阪で焼肉店の元祖といわれる店を開いたのは純然たる日本人だ
ったし、この焼肉店主の父は、その店で修行を積んだのかもしれない。
695 :
名無しさま :2009/10/05(月) 11:31:53 ID:NgWTMqKw
小和田家のことについて詳しくは知らないけど、雅子妃の曾祖父の 金吉は33歳と11ヶ月で亡くなった、という克明な内容の記事を読んだ ことがある。 生没年が分っているのは、マスコミが戸籍を調べたからじゃないの?
696 :
名無しさま :2009/10/05(月) 12:19:51 ID:vPYhl6rf
>>695 戸籍情報なら、小和田金吉の生年月日、父母の氏名、没年月日が分かりますよね。
これまでのところ、そういった詳細な情報すら出ておりません。
これらは、戸籍でなければ分からないというものでもありませんが、戸籍の記載事項に当たる部分が分かっていないという事は、戸籍情報は確認されていないのだと思われます。
697 :
名無しさま :2009/10/05(月) 12:44:01 ID:NgWTMqKw
[ドキュメント・皇太子妃内定](2)専門興信所が4代前まで徹底調査(連載) 1993/01/09 東京読売新聞 朝刊 1ページ 「確かに五年前、小和田さんの調査をしました」 皇室関係一筋の老調査員が都内の事務所で重い口を開いた。 宮内庁から直接、調査依頼を受けたのは東京・丸の内に事務所を構える大手興信所。 (略)小和田雅子さん(29)に関する分厚い調査報告書は、作成にまる一か月かかった。 直系は四代前までさかのぼり、大祖父、祖父の兄弟姉妹まで徹底的に調べた。 両親については交友関係、勤務先、近所の評判も。肝心の本人は、さらに詳細を きわめた。経歴、性格、趣味、素行、健康状態……。 結論は「優秀な家系に驚いたのを覚えています。もちろんご本人も申し分ありません でした」。このベテラン調査員が手掛けたお妃候補は、実は雅子さんだけではない。 この五年間で十人以上にのぼる。雅子さんの調査書はその中でひときわ鮮明に 記憶に残っているという。 皇太子妃決定にかかわる身元調査等の差別助長行為に対する抗議と申し入れ ---1993.3.16(抜粋) 本年一月六日の「皇太子妃内定」の報道いらい、こうした差別撤廃、人権確立をすす める立場から看過できない内容の報道がなされています。小和田雅子さんの「家系図」 の掲載や「家柄」賛美などの過剰ともいえる報道内容、そして「皇太子妃を選ぶにあ たっては、皇室専門の興信所員が四代前まで徹底調査」などと、宮内庁自らが公然と 身元調査を指示していたことが報道されています。 いうまでもなく、すべての国民は法の下に平等であり(憲法第一四条)、婚姻は両性の 合意のみに基いて成立する(憲法第二四条)ものです。したがって、私たちは、こうした 宮内庁の身元調査の指示というものが、差別を助長・拡大させるものであるばかりで なく、憲法違反という重大な問題であると考え(略)強く抗議するものです。 ------------------------------ じゃあこの記事は誤りか。 4代前までを徹底調査したのであれば、高祖父、高祖母の名前と生没年が明らかに なるわけだしね。
698 :
名無しさま :2009/10/05(月) 12:59:14 ID:vPYhl6rf
>>697 大祖父は小和田金吉の事ですよね。
4代前という記載が誤りなのか、公表はされていないけれども4代前の調査もされたのかは、その記事では分かりません。
それに、興信所が宮内庁から依頼を受けて調査したという記事は、マスコミが戸籍という一次ソースに当たったという事を意味しませんから。
699 :
名無しさま :2009/10/05(月) 13:11:11 ID:NgWTMqKw
興信所のベテラン調査員が小和田家は申し分のない家系だと 語っているのだから、4代前までの先祖の名前と生没年くらい は公表してもおかしくはないのにね。
700 :
名無しさま :2009/10/05(月) 13:53:55 ID:vPYhl6rf
さあ?話が逸れてますね。 取り敢えず、マスコミが戸籍を確認したというソースはまだ出て来ないという事で。 新聞記事通りの祖先の公表が無いのはおかしいという意見なら宮内庁へ、ですかね。
701 :
名無しさま :2009/10/06(火) 10:13:12 ID:mJyhZsdU
>>699 697を見る限り、「申し分のない」などと言ってないですよ。
「優秀な」家系です。あの時代に中学(義務教育ではないよ)を出た金吉を
はじめとして、能力値が高いですよねぇ、出てくるご先祖のみなさん。
で、恒氏の兄弟もみな「優秀」とくる。
「優秀な人物を輩出した家系」ってことでしょう。
あと、徹底調査したからって、生没年月日が分かる保証はないですから。
調査した=情報が得られた、ではないですよん。
702 :
名無しさま :2009/10/06(火) 10:39:40 ID:mJyhZsdU
>>694 遠縁もいいところなのはよく分かった。
しかしこんな遠縁、縁があることをよく見つけたなぁ。
ちょっと信じられないっつーか。
川嶋辰彦氏の「はとこのいとこ」くらいでしょう
(実家の分家という関係がよく分からないけど。「はとこのはとこ」かも)?
松浦家の人間、「はとこの子が妃殿下」とか周りに言ってそうだなあ。
「川嶋」紀子さんであって「松浦」紀子さんではないのだから、
言わなければ分かりにくいことだろうにね。
703 :
名無しさま :2009/10/06(火) 14:28:06 ID:Ifxh2ke9
>>702 普通はね、皇室と縁続きになったとなれば、遠い親戚が我も我もと名乗りを上げる
それが全くなかったどころか、本家にすら否定された小和田家って
どうなんだ
それと、小和田家の祖父母は、ご成婚の時にまだ生存していたにもかかわらず
式に招待されていない、招待されたのは江頭の祖父母だけ
これはどういう事なんだろう
704 :
名無しさま :2009/10/06(火) 14:35:18 ID:uY11w6aM
>>703 そんな皇室を利用する気満々の、怪しい人が続出する心配ある人を入内させるの?
705 :
名無しさま :2009/10/06(火) 14:40:32 ID:uY11w6aM
小和田毅夫さんは、ご成婚の年に亡くなられた。 病状がどんなだったのか分からないのに、招待するのが当たり前って、どうして言えるんだろうか?
706 :
名無しさま :2009/10/06(火) 23:46:18 ID:hZuPXNMp
皆さま〜、そんな親族でもなく血縁関係もない焼肉屋さんのことより、 雅子様のご先祖について語り合いましょうよ! 雅子さまの親族、4親等の江頭嘉像さんです。 こんな素敵なご先祖を持つ雅子様が未来の皇后だなんて、本当に 素晴らしいことですよね! 我ら下層民の誇り!雅子さま、愛子さま!(*´∀`*)ポワワ 川口素生『小和田家の歴史』 さて、江頭豊氏の祖父・嘉蔵氏は明治維新までは肥前佐賀藩主・鍋島家の家臣 であったといわれる。ところが、明治初年の二種類の佐賀藩 侍着到(註=現代の 出勤簿に相当)には嘉蔵氏の名が見えない。これについて、豊氏の甥(優美子さん のいとこ)にあたる作家の江藤淳(本名江頭淳夫)氏は、嘉蔵氏は佐賀藩の「手明 鑓」と呼ばれるクラスの藩士ではなかったかと推測している。「手明槍」は平時は無 役だが、戦時には槍や具足を携えて戦場に赴く者たちを指す。江戸時代中期以降 は無役だった「手明鑓」も藩の役職に採用されたし、幕末維新期には多くが鉄砲を 担当して活躍したといわれる。ただ、嘉蔵氏以前の系図や史料が現存していないた め、嘉蔵氏が「手明鑓」か否かを含めて、ルーツや俸禄などはまったくわからない。 明治維新前後、嘉蔵氏は家族とともに肥前佐賀郡北川副村木原(現=佐賀市北川 副町木原)に移り住んだ。
707 :
名無しさま :2009/10/07(水) 07:39:28 ID:pHgCEJjn
現在生きて交流のある遠い親戚>死んだ親族
708 :
名無しさま :2009/10/07(水) 08:02:27 ID:DpZ2ILt4
江頭嘉蔵は雅子妃の4代前の先祖ですからね。 嘉蔵の血を受け継いでいるわけです。 血縁関係のない遠い親戚とはワケが違う。
709 :
名無しさま :2009/10/07(水) 08:10:11 ID:pHgCEJjn
「焼肉屋の親戚」の威力がすごすぎて、どんな先祖もかないませんよ。
710 :
名無しさま :2009/10/07(水) 08:51:00 ID:DpZ2ILt4
秋篠宮家のお噂218
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/uwasa/1254747521/l50 815 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/10/06(火) 16:37:24
明治期の小使いさんというのは、今の用務員さんとは違って、校長の裁量で雇われた人が多い。
中には向学の志が高い人に職を与えて、生活が出来て勉強が出来る場としてあげたほどなんだよ。
野口英世や石川啄木なども、教員の空が出るまで、校長や村長の好意で、小使いさんとして
勤めている。
時々は代教員がすぐに頼めない時は授業もやったりした。
994 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/10/06(火) 19:22:56
産婆さんと小使いさんを馬鹿にする人がいなくなったね。
産婆さんは現在の助産師。
誰でもできる仕事なら姑など身内が行ったはず。今より確実に家に女性が
多かった時代でもわざわざ求められていた仕事なのだから、資格云々以前に
高度な技術だったってこと。
小使いさんは現在の学校用務主事。
当時は字の通り学校の使用人の側面が多いけど、まさに学校で使われている
人間だっていう事実が重要なのよ。勝手に名乗れる仕事じゃないってこと。
ある意味、社長より就くのは難しいw
711 :
名無しさま :2009/10/07(水) 08:51:18 ID:k9j1/T9T
>>703 >我も我もと名乗りを上げる
気持ち悪い〜。
小和田恒氏のきょうだいも、川嶋辰彦氏のきょうだいも、目立った存在では
ありませんが?(それこそ2ちゃんに来るまで存在知らなかった)
Ifxh2ke9さんがそういうタイプだからって、妃殿下の係累がそんな
タイプだなんて決め付けないでくださいね。
712 :
名無しさま :2009/10/07(水) 08:56:06 ID:k9j1/T9T
>>710 野口英世と石川啄木か。高名ですが、放蕩人間なんだよなぁ。
もうちょっといい例が欲しい・・・。
713 :
名無しさま :2009/10/07(水) 08:59:30 ID:k9j1/T9T
714 :
名無しさま :2009/10/07(水) 08:59:53 ID:DpZ2ILt4
検証 明治時代の中学校の小使は社会的に地位の高い、「社長になる よりも難しい」職業であったのか? 江頭嘉蔵の直系の曾孫の江藤淳の著書から。 --------------<引用開始>----------------------- 江藤淳『一族再会』 P141 結果彼が選んだのは、明治九年一月を期して場内北堀端の旧藩校、弘道館内 生寮跡に設置された佐賀変則中学校の、小使になることであった。 これが嘉蔵にとってかなり思い切った就職であったことはいうまでもない。変則中学 には弘道館時代からひきつづいて勤めている先任の小使がいて、その旧藩時代の身 分は手明鑓の嘉蔵よりもよほど低いものとされていたからである。しかしとり立てて学 問をしたわけではない嘉蔵は、自分が教員になる資格がないことをよく知っていた。事 務員になるためにも彼は老いすぎていた。彼にこの口を世話してくれたのは、おそらく 会計を勤めていた同じ木原村出身の中島善右衛門である。 ---------------<引用終了>----------------------- 江藤淳によれば、江頭嘉蔵はとりたてた学問はなく、小使になるより仕方が無かった ということですね。 いくらか学問があれば、学校の会計や事務職に就けただろうに、小使になるしか術が なかったのは、嘉蔵が無学であったからでしょう。 当時の小使の地位というものは、社会的には相当低いものであった、江藤淳は述べ ています。
715 :
名無しさま :2009/10/07(水) 09:00:47 ID:k9j1/T9T
修正しようとしたら間違えて書き込むボタンを押してしまった。 ・佐賀藩は系図が分かっていない武家の方が大半。 です。 ちなみに手明鑓は足軽より上です。
716 :
名無しさま :2009/10/07(水) 09:04:24 ID:k9j1/T9T
つまり、妄想の一つとして ・ちゃんとした武家なら系図があるはず。 というのがある。しかし実際はそうとは限らない。 佐賀藩の場合、大隈家の分家すら分かってない。 かなりしっかりした系図がある、会津藩の方が例外なのかもしれない。
717 :
名無しさま :2009/10/07(水) 09:09:50 ID:DpZ2ILt4
江藤淳『一族再会』 P141-P142 弘道館以来の伝統で、変則中学は全寮制度になっていたので、小使は当然学校に住み み込まなければならなかった。起床時間に鐘を打ち鳴らして廊下を歩いて行くと、「小使小 使休打鐘。千金難換五更睡」などとわめいて世話を焼かせるのである。しかし当時の卒業 生でのちに代議士になったK氏は、この嘉蔵を「矢張り中島氏(会計)と同じく木原村の人で 「深切な小使」として記憶にとどめている。K氏がこの「深切な小使」として記憶にとどめてい る。K氏がこの「深切な小使」の名を、わざとその懐旧談に記さなかったのだとすれば、それ は同級生だった祖父安太郎への思い遣りであろう。祖父がこの変則中学校の後身である長 崎県立(当時佐賀県は長崎県に併合されていた)佐賀中学校英文部に入学したのは、明治 十一年(一八七八)九月である。つまり彼は、自分の父親が落ちぶれて小使をしている学校 にはいったのである。 ------------------------------------------------- 安太郎の同級生で後に代議士になったK氏が懐旧談の中で「深切な小使」が、嘉蔵である ことを明かさなかったのは、思い遣りであったと。 つまり、その後エリート海軍軍人として出世を遂げた江頭安太郎の父が小使であったこと を明かすことは、彼の名誉を損なうのではないかとの危惧意識が働いたのかもしれません。 それほど当時の小使の社会的地位は低いものであった。
718 :
名無しさま :2009/10/07(水) 09:10:11 ID:k9j1/T9T
>>714 >事務員になるためにも彼は老いすぎていた。
江藤淳、嘉蔵の長男の系と縁が切れている割には、よく年齢だの
事情だの分かるねぇ・・・。
うーん、ひょっとして『一族再会』には、嘉蔵の生没年情報とかきっかり
あるわけ?つまんない噂よりそちらをお願いしたいな。
ま、つまり、川嶋孝彦が内閣統計局長を辞めたあと、関係機関の委員に
就いたのと同じような歳ってことですかね?
職歴としては定年退職後の職みたいなものということですか。
引退してそうな歳の仕事を取り沙汰するってのもかっこ悪いから小使い
論議は入らない方がいいかな。
719 :
名無しさま :2009/10/07(水) 09:15:09 ID:k9j1/T9T
>つまり、その後エリート海軍軍人として出世を遂げた江頭安太郎の父が小使であったこと >を明かすことは、彼の名誉を損なうのではないかとの危惧意識が働いたのかもしれません。 つまんない推測は要らないよ。 推測を裏付けるソース(小使いの子とバカにされたなどと書かれた当時の文章が複数あるとか) があれば別だけどね。
720 :
名無しさま :2009/10/07(水) 09:16:24 ID:DpZ2ILt4
江藤淳『一族再会』 P143 安太郎がこの種の遊戯にどの程度頻繁に加わっていたかはわからない。しかし泣いた り逃げたりすれば「泣けべす」、「卑怯者」と仲間たちから嘲笑されるので、ひと通り人並 にはやったであろう。それはいわば彼が没落士族という集団に所属していることを確認し、 その集団に対する忠誠を表明するための儀式である。しかも父が小使になって、没落士 族にすら依然として、要求されていたある種のdignityを喪失した者と見られていることに、 安太郎が無関心でいられたはずはない。それは明らかに彼の心を傷つけ、集団の成員と しての資格を弱めると感じられたが、それだけに一層喧嘩に負けてはいられないのであ る。 ----------------------------------- 父親が小使ということで、同級生からも散々馬鹿にされたことでしょう。 嘉蔵は当時社会の底辺とされた小使になることしか選択ができなかった 階層の出身であったかもしれませんね。
721 :
名無しさま :2009/10/07(水) 09:22:29 ID:DpZ2ILt4
>>719 直系の曾孫にあたる江藤淳が著書の中で書いていることです。
----------------<引用開始>----------------------------
江藤淳『一族再会』 P143-P144
そういう息子の姿に、嘉蔵がなにを感じていたか私は知らない。確実なことは彼が、喧
嘩よりは学問のほうで安太郎が頭角をあらわすのを喜んでいただろうということである。
集中力にめぐまれていた安太郎は、当時の制度にしたがって下等小学と上等小学に分れ
ていた小学校の課程を、いずれも跳び級をして進級し、ほとんど規定の半分の期間で修了
してしまいそうな形勢であった。安太郎が、早く小学校を終えてしまえばそれだけ家計が
助かるとまで考えたかどうかはわからないが、「小使の子」といって馬鹿にされぬために、
圧倒的に優秀な成績をあげて級友の尊敬をかち得ておかねばならぬことは本能的に心得
ていたであろう。
--------------<引用終了>----------------------------------
江頭安太郎が、攻玉社時代に毎日英語の辞書を食いちぎって猛勉強に励んだエピソード
は有名ですが、その根底には、小使の子としての劣等コンプレックスがあったからではない
かということも江藤淳は述べていますね。
722 :
名無しさま :2009/10/07(水) 09:41:57 ID:k9j1/T9T
>>721 書いてないじゃん。
>「小使の子」といって馬鹿にされぬために
は、実際にバカにされた、ということではないよ。
しかし本当に江頭安太郎氏は優秀だったんだねぇ。
723 :
名無しさま :2009/10/07(水) 09:50:29 ID:pHgCEJjn
>>721 つかそれって江藤淳の臆測じゃんw
「〜本能的に心得ていたであろう。」なんだから。
本当に江藤安太郎は優秀なんてもんじゃないね。
あの時代じゃ東大以上だね、海兵首席、海兵大学校優等。
724 :
名無しさま :2009/10/07(水) 09:56:58 ID:k9j1/T9T
まぁ、佐賀中学の前身が藩校弘道館だってのなら話は早い。
つまり、小使いさんはそれこそ「足軽」だったわけだ。藩の奉公人。
手明鑓は本来、弘道館で学ぶ方の身分=足軽よりは上、なわけで、そりゃ
「落ちぶれた」と感じられても仕方がない。
http://www.fsinet.or.jp/~yukio/rekishi/3takeo.htm >弘道館の授業内容は特に三〇石以上の侍と三〇石以下の
>手明鑓には厳しく真剣に学ばなければ達成不可能の内容であった。
ちなみにここの文章では手明鑓は「侍と足軽の間」とある。
『村上藩』の著者が一応、足軽すら「侍」と語ったのと違い、
この文では「侍=武家」のようですね。
725 :
名無しさま :2009/10/07(水) 10:02:16 ID:k9j1/T9T
で、問題は、江藤淳が「とり立てて学問をしたわけではない嘉蔵」と 書いていること。 手明鑓(およびそれ以上の武士)には学問と武芸が義務付けられ、 成績不良だと年貢米の返上義務まであった。 嘉蔵が手明鑓なら明らかに「学問をしている」筈。 とりたてて、というのが、佐賀藩士全般より抜きん出て、という意味なら 問題はないのだが、普通に学問をしていないという意味なら、そりゃ 手明鑓じゃないわけで。 このあたり、どうなっているんだろう。 菩提寺探しでも江藤淳は間違えているし、案外佐賀藩の組織についての 知識はいい加減なまま書いている可能性が高いよね。
726 :
名無しさま :2009/10/07(水) 10:19:12 ID:k9j1/T9T
まぁ、村上藩話でさんざん、「足軽について」やったからなぁ。 同じ土木関係の仕事をしていても、藩と雇用関係を結んでいれば「足軽」、 そうでなければ「町人」。 仕事内容ではなくどこと関係を結んでいるかが、江戸時代では大事だった。 つまり、元藩校の小使いが「社会の」底辺のわけがない。 あくまで、「士族社会の底辺」なんだ。 と、いうわけでこれ、限りなくウソに近いな。 >嘉蔵は当時社会の底辺とされた小使になることしか選択ができなかった >階層の出身であったかもしれませんね。
727 :
名無しさま :2009/10/07(水) 15:48:05 ID:mfsA8wQv
728 :
名無しさま :2009/10/07(水) 15:56:10 ID:yI4u0KjZ
『明治過去帳』 新訂 東京美術, 1988 <GB13-E19> 『藩史大事典』 雄山閣出版, 1988-1990 8冊 <GB8-E9> このどちらかかな。 資料としての信憑性は高そうだね。
729 :
名無しさま :2009/10/07(水) 16:49:59 ID:mfsA8wQv
明治過去帳の方っぽいですね。 手に入れて読まれた方のブログの記事からすると、かなり充実した資料だとか。
730 :
名無しさま :2009/10/07(水) 17:14:03 ID:yI4u0KjZ
この資料は国会図書館で一般人も閲覧できるのかな? そこに「藩士」とあれば信憑性のあるソースとなりえるな。 安太郎が藩士なら父親の嘉蔵も藩士となるね。
731 :
名無しさま :2009/10/07(水) 17:40:54 ID:mfsA8wQv
732 :
名無しさま :2009/10/07(水) 18:34:03 ID:1juo4q/u
出版年月日を見る限り雅子さんのことはまったく関係ない時代に編纂されたもの だから、ジャーナリストの「〜と思われる」的な本がソースではないのは 確かだね。
733 :
名無しさま :2009/10/07(水) 19:37:38 ID:mfsA8wQv
元々が昭和10年に大植四郎さんが私家版として出したものが、慶応大学の図書館に保管されてあったそうです。 丁度過去帳を発行しようとしていた出版社がそれを見て、これ以上のものを出せないと、ご本人の許可を受けて出版したんだとか。 雅子様が生まれるかなり前の話ですから、掲載されていれば中立な資料として信頼価値はあるでしょうね。 近くの図書館には無いかな。
734 :
名無しさま :2009/10/07(水) 22:41:56 ID:hBb0F9KL
>>701 小和田金吉はどこの中学校を出ているのか教えてください。
735 :
名無しさま :2009/10/07(水) 22:46:47 ID:hBb0F9KL
>>727 明治過去帳等には江頭安太郎は佐賀藩士の江頭嘉蔵の二男だと
書いているんですよ。
ところが、嘉蔵が佐賀藩士であったことを裏付ける史料は全くない。
だから、川口素生氏も江頭嘉蔵は手明鑓であったか否かを含めてルーツ
については分らない、と書いているんです。
裏づけとなる史料がない限り、江頭家のルーツについては不祥ですね。
736 :
名無しさま :2009/10/07(水) 22:57:54 ID:hBb0F9KL
>>725 佐賀藩の場合、手明鑓という下級武士の身分でも藩校の弘道館で
学ぶことが出来るんです。
江戸時代に藩校で学ぶことが出来たのは大変なエリートかつ知識人階級
に属したわけです。
ですから、明治になって教職についたのは旧武士階級の人たちが圧倒的
多数を占めた。
弘道館といえば江戸時代には最高峰の学問的水準を誇り、岩倉具視が息子
たちをわざわざ佐賀にを学ばせたぐらいですから。
江頭嘉蔵が元藩士で弘道館で学んでいたとすれば、維新後は小学校の校長
くらいは十二分に務めることのできる教養はあったはずです。
江戸時代の藩校の小使というのは、大抵は士分でない中間か一般町民が
雇われてするようなものです。
とても武士がするような仕事じゃありません。
737 :
名無しさま :2009/10/07(水) 23:10:47 ID:hBb0F9KL
訂正しておきます。 私が見たのは『明治過去帳』ではなくて、『近代名士之面影』の方でした。 昭和5年に肥前史談会が編纂した『先覚者小伝』の江頭安太郎の項には、 父の名前も、出自について何も書かれていませんから、昭和の初め頃の 時に既に江頭安太郎の出自についてはよく分らなくなっていたようですね。
738 :
名無しさま :2009/10/07(水) 23:30:42 ID:hBb0F9KL
>>726 江頭嘉蔵は旧藩時代に藩校に勤務したのではありません。
明治になって佐賀変則中学校に小使として雇われたわけです。
山縣有朋は長州藩の藩校である明倫館に給仕として働いていまし
たが、山縣は武士ではありませんでした。
長州藩においては足軽以下は士分とは認められていませんでしたから。
739 :
名無しさま :2009/10/07(水) 23:36:40 ID:kPRXx9oi
いったいいつまでこれ続けるの?
740 :
名無しさま :2009/10/07(水) 23:52:46 ID:mfsA8wQv
ttp://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/takeda-heinosuke/takeda-heinosuke.htm これに明治過去帳の引用があるんですが、かなり詳しいようなんですよね。
ただ、江頭安太郎が掲載されているか確認した訳ではないですし、同じ詳しさであるかも分からないですが、
>その他注記:墓碑・新聞・官報等から故人の没年月日を採集し、その日付順に排列して解説した辞典。
という事ですし、実際に墓地にも出向かれて、30年かけて完成したもののようです。
それなりの信頼性を持った資料として、確認するだけはしてもいいのではないでしょうか?
もしも掲載されていて、やはり疑うと言うなら、ご遺族は健在のようですし、資料などを直接問合せたらどうでしょう?
手に入れるのはちょっと難しそうなので、私も地元の図書館を当たってみますよ。
741 :
名無しさま :2009/10/07(水) 23:55:30 ID:hBb0F9KL
大植四郎っていう人は何千人もの人物の出自について実地調査したわけじゃ ないでしょ? 江頭嘉蔵が佐賀藩士だと書かれた資料を孫引きしただけかも知れないし。
742 :
名無しさま :2009/10/08(木) 00:17:48 ID:wZqBNE5l
図書館である程度の資料は調べたようですよね。 でも、孫引きするような資料があるなら、資料が他にもあるという事ですから。 近代名士之面影にしても、発行は大正4年ですから、昭和初期には不明となっていても、以前は確認が取れるような資料があったという事ではないですか?
743 :
名無しさま :2009/10/08(木) 06:54:59 ID:q6rvIiWX
>>738 うん。手明鑓が明治になって、もともと足軽がやってた職についた。
「落ちぶれた」と息子は思っていた。
ってことだよね、江藤淳の文章が書いていることは。
だからここに、「当時社会の底辺」という言葉が出てくる理由はないわけ。
足軽は武家社会の底辺ではあるけど、社会全体の底辺ではないからね。
つまり、DpZ2ILt4は、「当時、社会全体の底辺であったこと」の
証明をしないといけない。そこを避けている以上、限りなく「ウソ」に近いよ。
744 :
名無しさま :2009/10/08(木) 07:10:17 ID:q6rvIiWX
745 :
名無しさま :2009/10/08(木) 12:29:31 ID:q9RV7ygg
一連のやり取りを見てると、つくづく人間ってのは勝手だな〜て思いますね。 紀子妃の祖父が整体師であったら「アンマの孫」とか言って罵倒するくせに、 雅子妃の祖父に対しては「江頭豊氏はチッソ経営再建のために興銀から送り 込まれ、被害者救済のために尽力した」、まるでものすごい人格者であるか のように説明されてしまうw 紀子妃の先祖に小使がいたら、そのことを延々と揶揄、罵倒のタネに使うこと でしょうが、江頭嘉蔵に対しては「当時は社会的に信頼された階層が小使にな った」だの「小使になるのには社長になるよりも難しい」だの、初めて耳にする ような(゚Д゚)ハァ?な擁護意見が続くw 小使の社会的地位が当時低かったとしても結構なことじゃないですか。 そういう貧しい底辺に属する階級出身の人間でも、自分の才覚と精進でいくら でも出世できるようになったのが明治=近代社会なのですから。
746 :
名無しさま :2009/10/08(木) 12:36:59 ID:q9RV7ygg
足軽、中間、小物というのは士分ではありませんでした。 ただ、足軽を徒士と同等に扱う藩も存在した。 だからwikiの説明でも、拡大解釈をして足軽までが藩士だということになった のでしょう。 中間にいたっては武士ではなくて、完全に武家奉公人です。 中間を士分扱いした藩は無かったはずですよ。 よく伊藤博文や山県有朋を長州藩の下級武士の出身であると説明している文献 がありますが、それは正確ではありません。
747 :
名無しさま :2009/10/08(木) 13:31:02 ID:q6rvIiWX
wikiを読んでみよう。 >江戸時代は、藩士が自らのことを藩士と呼ぶことはなかった。 藩士という言葉は幕末の志士が使い、その後明治になって広まった言葉。 つまり、士族という範囲に対応する言葉が藩士だったわけです。 (まぁ藩内に住む限りは○○藩藩士などと名乗る必要ないし、江戸詰めだって ○○屋敷の者で済むわけで) つまり、ここに「歴史をめぐる幻想」があったわけね。 ・藩士とは藩と雇用関係がある武士(幻想)。 妄想と書かないのは、かなりの人が共有していると思われるので。 実際には ・藩士という言葉は、直接的であれ間接的であれ、藩に代々関わることを生業と してきた人間。 ということだったのでしょう。
748 :
名無しさま :2009/10/08(木) 13:37:02 ID:q6rvIiWX
つまり、伊藤博文や山県有朋を士分じゃない!と定義するのは正しいが、 長州藩士じゃない、と定義するのは正しくない。 (あ、周防藩ってことはないよね?) ○○藩士であるという証明は、○○藩とのつながりではなく、 戸籍で十分だということです。 伊藤博文が足軽だったから、足軽は士族になることが出来たそうですが。 まさか、将来の皇太子妃の先祖話に関わってくるとは、伊藤博文には 想像もつかなかったろうなぁ。
749 :
名無しさま :2009/10/08(木) 13:43:04 ID:q6rvIiWX
あら、勝手なのはq9RV7yggさんですよ。 それこそ、オバマ大統領を「解放奴隷の子」と言い出し、証拠もないのに 「解放奴隷の子といって何が悪いのよっ!」と言ってるようなものですから。 別に解放奴隷の子が大統領になってもそれはすばらしいことですが、 オバマ氏はそうじゃないですよね、そこを問題とされているのですよ。 検証スレですから、証拠もないことを言い出すのは問題です。 だから、当時「小使い」が、「社会全体の底辺」であることを示す ソースを出してくださいと言ってるわけです。
750 :
名無しさま :2009/10/08(木) 14:01:39 ID:q9RV7ygg
あ、私の書き方がまずかったかな。 長州藩では足軽、中間は士分ではなくて、姓を名乗ることも許されなかった はずです。 そのような士分外の者でも藩と雇用関係を結んでいれば、藩士の一員とさ れるんだよね。 中間が武士であるというのは誤りです。 武家奉公人であって士分と認めた藩はないはずですから。
751 :
名無しさま :2009/10/08(木) 14:04:13 ID:q9RV7ygg
それよりも小使は、明治初期には社会的地位の高い職表であり、社長になるの よりも難しかったことを証明するソースを出してください。 それから小和田金吉は中学校で学んだそうですが、どこの中学校の卒業生なん ですか?
752 :
名無しさま :2009/10/08(木) 14:17:49 ID:q9RV7ygg
元皇族・黒田清子さんスレ3
http://dubai.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1249498182/l50956 名前:名無しさま 投稿日:2009/10/08(木) 11:50:09 ID:qplCTpcO
チッソチッソ言うが、問題解決の為に送り込まれたのであって
公害出したのは他の人だし。
959 名前:名無しさま 投稿日:2009/10/08(木) 13:06:59 ID:fMykFXnj
>>956 中立派のふりしてまで、なんですぐばれる嘘つくのか理解不可能だよね>東宮アンチ
チッソのメインバンクだった興銀から出向したって事実がそんなに都合悪いのかと
江頭豊氏は確かに経営再建のために興銀からチッソから送り込まれたんだけど、
そのときの被害者や遺族の人たちへの対応が大批判を受けて、チッソの社会的な
イメージは大変悪いものになった。
チッソの営業不振と水俣病被害者への対応を非難された責任を取って江頭豊氏は
社長を辞任した。
それに水俣病が発生した時に社長であったのは江頭氏ではないけれど、社長時代に
工場の操業を止めずに水銀を水俣湾にタレ流し続けたのは事実だからね。
江頭氏が水俣病問題に責任が無いなんてありえないんだけど。
753 :
名無しさま :2009/10/08(木) 14:19:22 ID:q9RV7ygg
>>752 ×江頭豊氏は確かに経営再建のために興銀からチッソから送り込まれたんだけど、
○江頭豊氏は確かに経営再建のために興銀からチッソに送り込まれたんだけど、
754 :
名無しさま :2009/10/08(木) 15:28:19 ID:q6rvIiWX
>>750 では、賛成していただけますね。
・○○藩士であるという証明は、江戸時代の○○藩とのつながりの証明はいらない。
・○○藩士という証明は、戸籍(士族という記載)で十分である
私は別に江頭嘉蔵の江戸時代の身分はどうでもいいけど、
出自をいつわっているかのような言葉が気になって
チェックしてるもんで。
あと、足軽が「藩の奉公人」というのもご賛同いただけますね。
武家ではなく藩との契約だと(ソース『村上藩』)。
ま、賛同しなくてもいいんだけどね。ちゃんとした反証がないのなら、
それが妥当ってことだからして。
755 :
名無しさま :2009/10/08(木) 15:49:48 ID:q9RV7ygg
よく「雅子さまのご先祖は当時支配階級であった武士である」というようなレスを 目にしますが、雅子妃の先祖ではなっかたかと推測されている足軽(同心)と いうのは武士ではないんです。 足軽というのは基本的には一代限りで藩との雇用関係を結ぶのが建前です が、世襲していくことも可能でした。 そのように足軽身分を世襲していた人は、明治になって卒族とされ、明治5年に 士族に編入された。 戸籍で士族と書かれているから先祖は武士であったというのは思い込みです。 >○○藩士という証明は、戸籍(士族という記載)で十分である マスコミは小和田家の戸籍を調べなかったのではないか?というのが、これま での流れの中での結論ですよね? マスコミは小和田・江頭家の戸籍を調べたんでしょうか? それから金吉はどの中学校で学んだんですか?
756 :
名無しさま :2009/10/08(木) 15:50:47 ID:q9RV7ygg
>>755 ×雅子妃の先祖ではなっかたかと推測されている足軽(同心)と
○雅子妃の先祖ではなかったかと推測されている足軽(同心)と
757 :
名無しさま :2009/10/08(木) 15:54:25 ID:q6rvIiWX
そうですね、確かに金吉氏については確たるソースはありませんでした。 確か金吉氏には写真があり、それについて、親族が学校の知り合いと とったものと説明があった。ただこれ「新潟の学校」としか書かれてない。 写真を撮った仲間は他県の出なので、村上の中学校には行けなかったかと。 となると新潟の小学で金吉氏と出会ったのか、中学より上か? 上だと定義できれば当然、村上の中学にも行ってたと推察できますが (鮭の子奨学金のことを考えると村上でしょう)。 写真についてお聞きしたいなとホームページを見ると思うのですが、 妃殿下の出自をとやかく言うなんて失礼な話を年配の方にするのは 気が引けますね。
758 :
名無しさま :2009/10/08(木) 15:56:39 ID:q9RV7ygg
>>701 >「優秀な」家系です。あの時代に中学(義務教育ではないよ)を出た金吉を
>はじめとして、能力値が高いですよねぇ、出てくるご先祖のみなさん。
ソース待ち。
小和田金吉はいつ、どの中学校に学んだのか?
759 :
名無しさま :2009/10/08(木) 15:57:56 ID:q6rvIiWX
760 :
名無しさま :2009/10/08(木) 22:00:10 ID:wZqBNE5l
761 :
名無しさま :2009/10/09(金) 01:17:16 ID:IS4gLP6E
762 :
名無しさま :2009/10/09(金) 10:01:01 ID:RuZWC0IX
>>755 >マスコミは小和田家の戸籍を調べなかったのではないか?というのが、これま
>での流れの中での結論ですよね?
また、さらっとウソを。641にこういうレスがある。
>・マスコミは小和田金吉の戸籍調査は出来なかった。
>・マスコミは小和田穀夫の戸籍情報を入手している(推測)。
その後、金吉氏についての戸籍情報入手は否定されているが、
穀夫氏については否定されていないよ。
時代から考えて、戸籍入手しないと母親の名前なんぞ分からない、
という論拠に対する反論は出ていない。
つまり、とりあえず小和田家とまとめるのはやめるべき。
個人名があるのだから、正確に個人名で話しましょ。
763 :
名無しさま :2009/10/09(金) 10:12:12 ID:RuZWC0IX
764 :
名無しさま :2009/10/09(金) 10:18:47 ID:RuZWC0IX
>>758 あ、ソースがない与太話ならできます。検証不能ですが。
小和田金吉と一緒に写真に写っている柴田義之助の学校を調べてみたんです。
で、そこ、小和田金吉が通っててもおかしくない。
柴田義之助と小和田金吉が写っている写真はいかにも卒業記念の写真という
感じなんで、可能性あるな、と。
q9RV7yggさんはアンチ雅子妃ではないかと思うので、ソースなし妄想は
いらないと思われますが、このスレの他の方々は興味があるかな?
765 :
名無しさま :2009/10/09(金) 18:16:50 ID:7dgda+BM
中間について。 平凡社の『日本史大事典』によれば、中間は公家、武家、寺家などに仕える僕従の 呼称の一つ。 江戸時代は武家奉公人の一種を言い、足軽と小者の間に置かれた。侍(騎兵)がが 士分と称されたのに対し、中間は足軽(歩兵)とともに軽輩と言われた。また足軽に はおよそ苗字帯刀が許されたが、中間にはそうしたことがなかった。
766 :
名無しさま :2009/10/09(金) 18:21:57 ID:7dgda+BM
山縣有朋は長州藩の蔵元附中間でしたが、彼は16歳の時に藩校、明倫館の手子役と なっています。手子役というのは、現代では学校の用務員に相当する役目だそうで、 藤村道生氏は、この手子役を「最下層の職」であると述べています。 藤村道生『山県有朋』 P4-P5 有朋は幼名を辰之助といい、十八歳のとき小助と改め、二十歳に小輔とした。奇兵隊 に参加したころから狂介と称し、また剃髪して素狂と号した。維新後には含雪・茅城など とも号している。 改革の激動のなかで嘉永三年(十三歳)蔵元付打廻手子となり、目付横目役を歴任し た。いずれも最下層の職で、手子役は今日でいえば給仕もしくは小使の職務にあたり、 目付横目役は市中探索にあたる下級警察官であった。
767 :
名無しさま :2009/10/09(金) 18:27:31 ID:7dgda+BM
徳富蘇峰の伝記の中にも山縣有朋が明倫館の手子役に就いていたことが記されて いますが、徳富蘇峰はこれを「卑職」、卑しい職務であると説明していますね。 旧藩時代には、藩校の手子役(用務員)は武家の僕従である中間が就く卑しい職務 であるとされていたようです。 徳富蘇峰『公爵山縣有朋傳』 P87 公の家格は、祖父以来蔵元附仲間にして卒族階級であったが、公は此の階級制度 に束縛せられて、青年時代より蔵元附や、代官所等の卑職に就かざるを得なかった。
768 :
名無しさま :2009/10/09(金) 18:33:03 ID:7dgda+BM
>>763 明治過去帳に江頭安太郎の名はありません。
明治時代に刊行された本を見ると、いずれも江頭安太郎は佐賀藩士、江頭嘉蔵の
二男、あるいは三男だと書かれていますね。
>>764 もし小和田金吉がその学校を卒業しているのであれば、卒業生名簿等の記録が残
っているだろうし、マスコミは金吉の学歴についても紹介するでしょう。
金吉の詳しい学歴について説明した記事は一切ありませんね。
769 :
名無しさま :2009/10/09(金) 19:18:32 ID:7dgda+BM
770 :
名無しさま :2009/10/09(金) 23:19:33 ID:XsrO2Anc
771 :
名無しさま :2009/10/10(土) 13:46:34 ID:HCVKTVup
772 :
名無しさま :2009/10/10(土) 13:53:46 ID:HCVKTVup
先祖の柴田義之助の横に写っている小和田金吉とは…
なんと雅子妃の先祖様。
小和田家は村上藩士。村上藩主内藤家の家臣系図で天明7年(1787年)に著さ
れた『内藤信敦分限帳』に小和田の名前は出てくる。また幕末には小和田家は本
家と三つの分家があって、明治維新後に本家と2つの分家は新潟に移り住んで
いる。当時は藩士700人が職を失って、各地に散らばる、分家の小和田金吉は新
潟の吏員になり、その後に高田税務署の税吏になっている。そして息子の小和田
毅夫が旧制高田中学の校長や高田市の教育委員を務めている。そして毅夫の息
子が小和田恒であり、その娘が雅子妃である。また小和田毅夫の妻となった田村
静(雅子妃の祖母)は、元新潟県議で自由民権運動家として有名な田村寛一郎。
金吉氏幕末生れ(明治元生まれ・明治30年代に死亡)
http://dubai.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1234417547/l50 -----------------------
このサイトの管理人氏の先祖にあたる、海軍少尉柴田義之助に関する実に詳細な
経歴が紹介されているだけで、小和田金吉に関する情報は一切無し。
天明7年『内藤信敦分限帳』に記載がある小和田新六と小和田家との関係は不明
だし、小和田道助の代に分家が出て、そのうちの一つの子孫が金吉であると言われ
ているのだけど、マスコミが村上の関係者に直接取材しても道助と金吉がどのよう
につながるのか分らなかった。
結局柴田義之助に関することばかりで、小和田家や金吉に関することは何も
言ってないんだよね、このサイトは。
773 :
名無しさま :
2009/10/10(土) 14:37:27 ID:HCVKTVup 129 名前: 名無し草 2007/03/24(土) 20:55:08
最後に、
毅夫氏が古い墓を新しい台座に乗せるというイレギュラーな事を行なった
のはなぜか。
130 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:16:58
まず小和田毅夫氏の人となりについて
昭和10年の小千谷高等女学校の「同窓会会報」に毅夫氏の寄稿が寄せられている。
国語・漢文の教師であったが、このようにも記している。
「人はパンのみにて生くるものに非ず」といふ西諺の深き意味を味ふべきであると
共に、萬物の王者を以て自ら任ずる人間には、物質以外に、精神的な、本質的な深
い欲求のあることに覚醒すべきであります」
131 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:17:07
物質以外に、精神的な、本質的なものも大事にしたいと願っていた人物だという点
は興味深い。
132 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:17:39
毅夫氏に墓を完全に新しく建て替えるほどの資力がなかったとは思えない。
そうしない方が普通ではない。
ではなぜそうしなかったのか。
133 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:17:54
しかし「普通に」建て替えをした場合、古い墓石はどうなるのだろうか。
134 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:18:21
古い、不要になった墓石は、家族の了承を得られ寺側からも申し出があった場合、
表面を削りなおして無縁仏の墓として再利用することもある。
事実、小和田本家の過去の墓石も、本悟寺においてそのように再利用されている。
http://sakura.45.kg/fuetayo/01/nazo05.html