皇室にまつわるデマ・ウソを徹底検証

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843名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 14:59:38
卒族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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卒族(そつぞく)は、明治初期の身分呼称の一つ。藩によって同心・足軽等の
呼称で呼ばれた士分格を有さない下級の侍がこれにあたる。1870年(明治3
年)より制度が開始されたが、2年後に廃止となった。 廃止にあたってはそれ
まで世襲していた者は士族に、一代限りの者は平民に編入された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%92%E6%97%8F
844名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 15:05:26
>>838の間違いを指摘。
足軽を士分と認めた藩もあったが、大抵の藩で足軽は「軽輩」などと
呼ばれ、士分の者とは厳格に区別された。
明治3年に士分の者は「士族」に、足軽など軽輩のものを「卒族」として、
区別されたが、2年後の明治5年に一代限りのものは「平民」に、世襲
のものは「士族」に編入された。

明治5年に士族に編入された足軽は、江戸時代には士分ではなかった。
845名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 15:13:56
明治期に士族となったら士族でいいんじゃないの?
江戸期は士族でも明治期に華族となった家は華族ではないの?
846名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 15:28:29
卒族から士族に編入されたものたちは「新士族」と呼ばれ、
馬鹿にされたそうだ。
847名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 15:37:34
>>838 兵五郎と道助が親子であったというソースは?
道助が兵五郎の兄だというソースは?
道蔵の墓石を移転する前には、小和田家の菩提の中にあった、という
ソースは?

早くソースを教えてください。

848名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 15:40:38
>>845でも士族は士族、新平民のように「新」が戸籍に明記されたわけじゃないでしょ?
士族あがりの「新華族」だって皇族や元公家の「華族」からしたら
身分違いのなりあがり。それでも華族は華族。
849名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 15:46:23
>>847 道助と兵五郎は兄弟

遥かなる村上藩──雅子妃のふるさと(1993年6月)
 新六匡安の子に道助という秀才があらわれた。──P66

 小和田雅子さんの先祖である兵五郎は西本願寺派の西真寺の過去帳にあるが、道助の兄弟
 として分家したと言われている。昭和62年11月に毅夫氏、恒氏の両夫妻が墓参に訪れたと
 きに対面した細工町の小和田豊春さんが、「私のところは道助の兄弟の勝治から分家して
 いる」と説明したところ、毅夫氏も、「うちも道助から出ているんです」と語ったという。
 ──P73
850名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 15:56:53
>>847  小和田兵五郎と道蔵の妻子のみがある西真寺、
金吉の墓だけ移動したというが、泉性寺には道蔵の墓のみという矛盾は
あるものの、西真寺の住職の話から兵五郎と道蔵の親子関係、
小和田家の菩提から道蔵の墓を移転したことは明らか。
泉性寺の墓は金吉も合葬になっていて、雅子妃も6才から墓参りに訪れている。
この前亡くなった恒氏の長兄が墓を継承しているだろうから、
その兄も埋葬されているのでは?(これはどうだかわからんが普通はそうなる)
ちなみに金吉氏の写真が金吉の友人(新潟県高官の息子)子孫のブログに写真が
あって、金吉は1人だけ洋装をしていた。実在の人物であったことは間違いない。


河原敏明『皇太子妃雅子さま』 小 和 田 家 の 系 譜

その祖先が眠るという西真寺を訪ねた。西真寺は村上市にある浄土真宗の寺 で、
元和四年以来、ここで三百七十年の歴史を持つ。住職本荘長弘師はその小和田家の墓について、
毅夫氏が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟 市の泉性寺に移した、
という話をしてくれた。
ゆえにいま西真寺にある小和田家の墓には、兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻
とその子供だけで(夫の道蔵の墓は新潟に)二基の墓石が並んでいる。高さが
七十センチ、近隣のものと比べて極端に小さく墓域にも余裕がない。
「なぜ祖父の妻と子、および曽祖父夫妻の墓を残していったのか。ふつう移す
ときはそっくりもっていくものなんですがねえ」
と住職夫妻も不審気だった。昭和六十一年十一月、恒氏が外務省官房長のとき、
恒、毅夫の両氏夫妻が村上市にきたが、そのときも祖父、曽祖父が眠って
いるにもかかわらず墓参していないことにも、理由をはかりかねていた
そこで小和田毅夫氏が、村上から墓を移したという新潟市の泉性寺に聞くと住職の広沢誠師が、
「小和田家の墓は明治七年よりうちにあるが、ただ金吉と兵五郎の墓はない。匡利(道蔵)の墓
だけがあります。
851名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 16:15:40
>>849

新六の息子が道助だというのも確かな史料はなく、推測でしょう。
山本茂氏も「小和田雅子さんの先祖である兵五郎は西本願寺派の西真寺の過去帳にあるが、
道助の兄弟 として分家したと言われている」と書いているように、兵五郎が道助の弟で分家
したというのは、あくまでも推測、仮説に過ぎない。
村上市の西真寺には過去帳があり、そこには兵五郎の名も記されているけど、兵五郎が
道助の弟であり、道蔵の父であるということは書かれていない。
だから、金吉以前の過去帳や史料は無く、それ以前の系譜は推測でしか過ぎません。
852名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 16:20:25
金吉ネタはもうあきた。
結局ループじゃん。
状況証拠的には何の疑いの余地はないよ。

それより副島家ネタだれかだしてよ。
金吉さんぐらい詳しいやつ。
菩提寺や過去帳、親子関係を絶対的に証明できるもの、
扶持や姻戚関係、本家とどこで枝分かれしてるとか、
小和田家だって、江頭家だってこれだけ情報があるのだから、当然あるのでしょ?
853名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 16:26:26
>>851 そこまで疑ってたらきりがないよね。
そんなに簡単に赤の他人が親子や兄弟になり済ませるなら
川嶋家や副島家、正田家にもわしゃわしゃ部落民やら朝鮮人が
入り込んでるね、きっとw
それなら関係ないじゃん、しょせんそんな妃殿下の集まりなんだから。
854名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 16:28:41
河原敏明『皇太子妃雅子さま』 小 和 田 家 の 系 譜

その祖先が眠るという西真寺を訪ねた。西真寺は村上市にある浄土真宗の寺 で、
元和四年以来、ここで三百七十年の歴史を持つ。住職本荘長弘師はその小和田家の墓について、
毅夫氏が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟 市の泉性寺に移した、
という話をしてくれた。
ゆえにいま西真寺にある小和田家の墓には、兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻
とその子供だけで(夫の道蔵の墓は新潟に)二基の墓石が並んでいる。高さが
七十センチ、近隣のものと比べて極端に小さく墓域にも余裕がない。
「なぜ祖父の妻と子、および曽祖父夫妻の墓を残していったのか。ふつう移す
ときはそっくりもっていくものなんですがねえ」
と住職夫妻も不審気だった。昭和六十一年十一月、恒氏が外務省官房長のとき、
恒、毅夫の両氏夫妻が村上市にきたが、そのときも祖父、曽祖父が眠って
いるにもかかわらず墓参していないことにも、理由をはかりかねていた
------------------------
西真寺の住職も兵五郎と道蔵の関係については分らない。
小和田家の人たちですら、金吉以前の系譜は知らなかった。
昭和61年11月に小和田恒氏、毅夫・静夫妻が村上市郷土資料館を訪れた
ときに、清水館長が城下絵図の同心長屋の小和田兵五郎の名を指して「これ
が皆さんのご先祖です」とリップサービスで言ってしまったのが、そもそもの
過ち。

気の毒に、小和田毅夫さんは自分と全く無関係である小和田兵五郎の墓を
高齢になって墓参に訪れていたそうだから。
855名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 16:31:18
>>849の>>小和田豊春さんが、「私のところは道助の兄弟の勝治から分家している」

その豊春さんだって道助と勝治の兄弟関係を証明できるのだろうか?
新六の子供であることだって証明できないんじゃないの?
856名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 16:34:45
『諸君!』1993年3月号
保阪正康『天皇家「生存への選択」』

 明治時代末期、村上藩に縁のある人々が集まって、維新前の村上城下絵図を復元
している(大正元年に発行)。その絵図を見ると、小和田家の祖先のうちの一人と見ら
れる小和田兵五郎の名があり、足軽長屋に住居があったとされている。
 幕末から明治にかけての史料の中には、この兵五郎の他に、いくつかの小和田姓が
散見されるが、嘉永元年(一八四八年)四月に村上領沖に外国船が現れ、村上藩が海
岸防衛のために出兵した中に見られる小和田道助が小和田家の祖先であるという。
 小和田雅子の四代前は匡利で、明治七年に亡くなっているが、この人物海岸防衛に
出兵した道助との関係は不明である。匡利の息子は金吉。その息子が雅子嬢の祖父
にあたる小和田毅夫(明治三十一年生まれ。現在、水戸市の老人ホームで妻・静ととも
に存命)、そしてこの小和田毅夫には、五男二女がいる。小和田嬢の父・恒は毅夫の次
男にあたる。
 小和田家の関係者にあたっていくと、金吉は明治元年生まれで、明治三十三年に病
死している。新潟県の吏員で、高田税務署の税吏だったという証言もある。
 小和田家は、前述の道助の時代に本家と分家に分かれたが、それから匡利の代まで
どう続いているのか、維新時に匡利が何をしていたか、彼が村上をいつ離れたのかは、
関係者の話からは判らなかった。いまや、自分の三代前の人物のことがはっきり判って
いる家の方が少なくなっているが、小和田家もまたその例外ではないということだろう。
しかし、匡利が村上を離れたのはいつか、あるいは離れなかったのか、ということは、実
は歴史的に興味深い問題なのだ。
857名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 16:39:51
女性誌に女帝・女系容認派の鳩山由紀夫が典範改正か!という記事がでたとたん
また小和田家のネガティブキャンペーンですか〜w
未来の天皇の祖父になられるのは皮死魔教授じゃく、小和田恒国際司法裁判所長
でしたねw
民主はさっそくあれこれ動いてますから、改正着手は年内かな。
可決となったら小和田家の墓石に無理やり「皮」「畜」とか彫られそうだねw
858名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 16:41:33
>>856 保阪正康のレポにある通り、兵五郎が小和田家の先祖ではないか?という
仮説。確固たる史料が存在するわけではない。
道助の代に分家して、その分家筋が雅子さんのご先祖ではないか?と推測され
ているのだけれど、関係者に聞いても、道助と道蔵とはどう繋がっているのかは
分らなかった。



859名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 16:45:49
>>851
それじゃあ兵五郎と道助が親子、道蔵の墓石は村上の西真寺から新潟の
泉性寺に移したというのはウソだったんですね?

860名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 16:49:47
>>858 そうですか、でもそれってさんざん既出のレス貼ってるだけ。
見飽きました。
それよりさっそく副島家を辿って詳細にレポしてください。
推測、仮説じゃなく、明らかに
親子関係、親族関係が証明できるソースもつけて。
そうでなければ皇后の母方は家系を乗っ取られて、
えたいのしれない人物が入り込んでいる、可能性も充分考えられますからね。
861名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 16:53:08
>>852
>小和田家だって、江頭家だってこれだけ情報があるのだから、当然あるのでしょ?

情報が無いから問題にしているんですけど>小和田&江頭家

小和田金吉はどういう教育を受けて、どのような職業に就いていたんですか?
江頭家の出自は何ですか?
江頭家の菩提寺はどこにあるのですか?
教えてください。
862名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 16:54:35
仮説が嘘というなら、平松力松、松浦平吉、かつに関することは
全部嘘か…
863名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 16:59:48
>>862 どういう情報ですか?
その平松力松、松浦平吉、かつって?
初めて聞く名前ですけど。
864名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 17:13:42
>>862 ひょっとしてこれのこと?
↓ ↓ ↓
9 名前:可愛い奥様 :2007/07/26(木) 17:33:48 ID:s6R7tR2f0
華麗なる川島一族の家系図

■華麗なる川島一族の家系図

松浦平吉(童話)

(童話)川島庄一郎 <--松浦家から川島家へ養子に

|    池上四郎
|      |
(童話)川島孝彦 = 紀子(いとこ)

(童話)杉本和代=辰彦(童話)

秋篠宮=紀子(きこ)童話

-------------------------------------------------
【解説】
※川嶋家ルーツの松浦平吉氏の家と墓地は地元では周知の童話地区にあるとのこと。
※杉本和代氏と川島辰彦氏は部落解放同盟の研究会で知り合い結婚に至ったとのこと。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
川嶋庄一郎の出身地、山保田組(現・有田川町)に同和地区(被差別部落)は存在しま
せん。
中世や古代にまで遡っても、山保田組に被差別部落は存在しません。
これは仮説ではなく、悪質なデマであり捏造です。
865名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 18:05:41
>>848
明治維新になってから江戸時代に穢多、非人身分であった人たちが
戸籍に「新平民」と記された、ということは現在では全く根拠の無い
都市伝説であったことが証明されている。

戸籍に「新平民」と記された人もあったらしいけど、それは例外中の
例外。
866名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 18:52:40
>>865 http://blhrri.org/info/koza/koza_0138.htm

壬申戸籍には「新平民」以外にも「エタ」「ヒニン」と記載されていたようですね。
867名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 18:54:40
>>864 松浦平吉と父親、祖父は絶対親子関係にあるっていう証拠は?
母親のかつの出自は?両親は誰なの?菩提寺は?
868名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 19:00:37
>>866 二宮教授が述べているように、エタ、非人と戸籍に書かれたの
は全国でもごく少数。
ほとんど全ての被差別部落民は、戸籍の属欄には「平民」と記載された。

この戸籍の編製には二つの特徴があります。まず一つは現況主義に沿って
現住所地で編製したこと、もう一つは尊属・卑属、直系・傍系、男・女というよ
うに家族の序列を記した戸籍同戸列次の順になっていた点です。更に江戸
時代からの身分制を引きずり「華族」や「士族」などの族称を記載する欄があ
り、解放令発令以降は部落出身者の族称欄に「穢多」「非人」「元穢多」「新平
民」等の賎称を記載する例もありました(解放令以前は部落出身者に戸籍は
ありませんでした)。
http://blhrri.org/info/koza/koza_0138.htm
869名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 19:02:01
>>868 >>二宮教授が述べているように、エタ、非人と戸籍に書かれたの
は全国でもごく少数。

全国でもごく少数であるというソースは?
870名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 19:08:58
ちなみに土地持ちの名家でも部落民だった人の例

http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2005/12/post_2452.html

度目、「壬申戸籍」を見たのは、徳山藩の北穢多村の系譜を引く被差別部落の
住人の戸籍でした。
その被差別部落に事務所を構えている部落解放同盟の書記の方が入手したもので、
戸籍の写しではなく、「原戸籍」(?)とよばれているもので、
本格的な「壬申戸籍」でした。
そのとき、「研究用にコピーしてもいい・・・」と言われましたが、
「個人情報は必要なし」として辞退した記憶があります。
その被差別部落の住民というのは、その地区の名家で土地も屋敷も持っている家
であるということでした。「族称欄」は、3文字で記載され、
その1字は消されていました。
「族称欄」の枠と、その中に記載された文字の配置の不自然さから、
もともと、「新平民」と記載されていたところを修正して
「 平民」とされていることが分かりました。
871名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 19:26:32
>>867 松浦家の菩提寺は、有田川町にある徳善寺。宗派は高野山真言宗。
江戸時代には寺請け制度があり、寺院が戸籍係の役割を果たしていました。
宗門人別帳には家族や、使用人、その家族の名前までが記載されていた精
密なものでした。
松浦家は代々山保田組に暮らし、菩提寺の徳善寺には過去帳も残っていま
すから、松浦平吉の両親の名前をはじめ、先祖代々の名前も記載されてい
るでしょう。

872名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 19:50:44
>>871 先祖代々の名前も記載されているでしょう。

これは君の推測ですよね?
推測では納得させられないことを小和田家のことでよくわかってるはずです。
過去帳をみたのですか?
平吉の母親はどこの誰ですか?
確実に平吉の名前はあるのですか?
873名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 19:51:08
>>867
17 名前:● 投稿日:2007/06/10(日) 20:48:52
川嶋庄一郎氏は、明治3年生まれ、幼名・松浦力松
父・松浦平吉、母・かつの三男、長兄は庄太郎、次兄は虎松
古くは屋号を(ふどう)不動、江戸期は(かど)門と呼び、明治4年頃、平民
の苗字使用許可に際し、松浦姓を名乗る

小和田金吉氏同様、幼くして父を失ったが、金吉氏と違い恵まれていたの
は、ふたりの兄が家を守り、学問の道に進む彼を支えてくれたこと
師範学校に進むと、あちこちに赴任する
家に母をひとり残して、京都・富山・滋賀・佐賀・東京と転勤することは難し
かったと思われる
松浦家の三兄弟は、父亡き後子供らを育てた母かつをとても大事にしてい
たとあるのでなおさらだろう

金吉氏は慶応3年あるいは明治元年生まれ
力松氏と同じく三男と言われているが、二人の兄は早世していたようす
------------------------------------------------
松浦家は江戸時代以前からの系譜が分っている。
川嶋庄一郎には庄太郎、虎松という2人の兄がいたことも事実。

小和田金吉に2人の兄がいたというソースは?
早世したというけど、いつ頃亡くなったの?
過去帳があるなら、そこに没年は記載されているよね。
また金吉の両親は誰なのかも教えてください。

874名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 19:58:28
>>872
清水町文化(第十三号) 一九九〇年

連載 歴史文化探訪シリーズ(第十三回)     教育家 川嶋庄一郎翁と紀子さん
                                          前 嶋 高 藏
    三、翁の生い立ちと安諦小学校

 川嶋庄一郎翁(幼名力松)は、明治三年(一八七〇)四月十四日有田郡山保田組板
尾村、農業父平吉、母かつの三男として出生した。
 松浦家は、清水町大字板尾寺原四二五、板尾の菩提所徳善寺の隣にあって、古くは
屋号をふどう(不動)江戸期にはかど(門)とよび、明治四年頃平民の苗字使用許可に際
し松浦姓を名乗る。

前嶋高蔵氏は清水町議、清水町文化協会副会長、清水町史編纂委員も務めた地元の
名士で、郷土史研究家としても有名な人物。
その前嶋氏は徳善寺にある松浦家の過去帳を調べたんだから間違いないよ。
875名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 20:01:14
>>872 ようするにソースなしの推測であることを認めるのですね?

過去帳があるというのも君の臆測なんですよね。
ないかもしれないわけで。
しょせん紀子さんも三代先は出自不詳な松浦家の血もひいているわけですね。
平吉の母親の出自も不詳。
赤の他人の家に簡単に入ることができるなら
川嶋家も例外ではなくありえることですね。

それから副島家のことも知りたい人がいるようですが
私も知りたいですね。過去帳は?菩提寺は?
876名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 20:02:23
>>874 >>前嶋氏は徳善寺にある松浦家の過去帳を調べたんだから

ソースは?
877名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 20:07:48
>>875  3代前どころか江戸時代以前からの系譜がわかっているんだけど。
400以上前からの先祖が分っている>松浦家

>>876
清水町文化(第十三号) 一九九〇年

連載 歴史文化探訪シリーズ(第十三回)     教育家 川嶋庄一郎翁と紀子さん
                                          前 嶋 高 藏

 前出の「生活様式」の記録中、和歌山師範学校嘱託とあって昭和何年から勤務され
たのか今のところ不明であるが、昭和十四・十五年頃、翁の國語漢文の専攻科の教え
を受けた生徒が町域に二人あり、庄一郎翁の揮毫された扁額を所持されている。その
一人楠本の前島克己氏は、本号一九ページに「御師川嶋庄一郎先生の思い出」として
記述されているのでご一読されたい。
 翁は、書道にも精通の達人で、県師範学校の書道の専攻科をも担当されたようで、ふ
るさとの村名「安諦」を雅号としている。
 翁は、昭和二十二年二月十二日七十八歳の天寿をもって逝去された。
板尾徳善寺の過去帳によれば、法名、教善院積空聖道居士。


前嶋氏はこの記事を書くにあたって徳善寺の松浦家の過去帳も調べて
いる。
878名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 20:11:02
で、金吉の2人の兄の名前は?
2人はいつ亡くなったのか?
金吉の両親の名前は?
はやく教えてくださ〜い!!
879名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 20:14:33
>>877 だから松嶋氏が過去帳を調査したというソースは?
880名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 20:19:13
一般的な寺の過去帳は命日順、年代順に記されており檀家別にはなってないし、
それみただけじゃ家族関係なんてわからんぞ。

881名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 20:22:48
2ちゃんにかかったら、皇后の出自も怪しい、紀子さんも、雅子さんも、久子さんも、
となるわけだねw
だから妃殿下はみな旧皇族、華族からもらっておけばいいんだよ。
美智子さんという先例のせいで取り返しのつかないことになっちまった。
それでも戦後は母方はかなり怪しいのが入り込んでる可能性もあるけどさ。
882名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 20:26:08
>>879
>>877

金吉の2人が早世したのは過去帳に記載されているんだろうね?

どの寺に残っているの、その過去帳?
883名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 20:32:44
個人情報に関わるもので、一般的に公開されないものは、全部ソース無しになるから、幾らでも妄想出来るって事だよ。
だから、皇室板のスレでも出自は検証に不向きだって言ったのに。
出自に拘る人は多分に差別的な価値観を持ってるから、聞く耳を持ちゃしない。
884名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 20:36:08
金吉の両親の名前は不明。
金吉に2人の兄がいて早世したというのは、新潟のアマチュア郷土史家の
斎藤某が唱えた仮説であり、それを裏付ける史料は無い。

金吉以前の系譜は分からず、全て推測、仮説に過ぎない。
その仮説を確たる証拠のある定説さと主張するから混乱が起こる。
885名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 20:42:38
混乱するのは、仮説と称して妄想を唱え、その妄想を事実であるかのように触れ回るからでしょ。
木の股から生まれたと言うのでも無い限り、両親は存在する。
それを確認出来る確かな物は戸籍だけれども、赤の他人には確認出来ない。
出来ないものを、ソース出せの応酬する事自体が不毛なんだけどね。
886名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 20:47:39
寺の過去帳みたって両親の名前や親族のことなんて書いてないよ?
なんでそんなことも知らないの??
家単位で書いてなくて、命日順にどんどん書き足していくものだし、
武家の過去帳だってあっても父親の名前ぐらいだね、書いてあるの。
関東地方の戦国武将の調査をするのでその武将の菩提寺に過去帳を
みせてもらったけど、人権的なことから学術目的でなおかつそういう人物しか
過去帳の閲覧を許してくれないっていってた。
一般人である松浦氏の調査のために閲覧させちゃう寺ってどうかと思う。

仏壇がある本家で代々残している過去帳があればそれをみれば
故人の両親や兄弟姉妹のこともわかるよ。本家も分家も直系だけだろうけど。
いまどきそんな家ないかもしれないけど、小和田家の宗派って
浄土真宗でしょ?それなら恒さんの亡くなったお兄さんが長男だから
その方の家に先祖代々の過去帳があるはず。
それを調べてから不審なところがあったら怪しいのなんのと言うべきだよ。
だれか調べた人いるの?
887名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 20:50:24
どさくさで副島家の詳細や松浦平吉の母親のことをスルーしようとしてるやつがいる…
888名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 22:31:12
317 :名無しさま:2009/09/02(水) 18:57:59 ID:5DQv9osw
フライデーに載ってた「秋篠宮のわがまま公務の実態、暑いからクルーズは嫌、
でも暑くても動物園視察を公務にしろ!」という記事に対して
宮内庁から抗議がないからあれは真実ね!

皇族にあるまじき言動だわ。
「公務は受身」なんてほら吹いて!!
好きな公務だけします、ですか?
889名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 23:01:30
小和田金吉の両親の名は?
金吉には2人の兄がいて早世したということは、どの寺の過去帳
に書かれているの?

答えられないから必死で話題逸らしでっすか?w
890名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 23:21:20
>>886
>仏壇がある本家で代々残している過去帳があればそれをみれば
>故人の両親や兄弟姉妹のこともわかるよ。本家も分家も直系だけだろうけど。
>いまどきそんな家ないかもしれないけど、小和田家の宗派って
>浄土真宗でしょ?それなら恒さんの亡くなったお兄さんが長男だから
>その方の家に先祖代々の過去帳があるはず。
>それを調べてから不審なところがあったら怪しいのなんのと言うべきだよ。
>だれか調べた人いるの?

小和田毅夫氏も自分の先祖のことについてはよく知らなかった。
小和田家にも過去帳は無いだろう。
過去帳や家系図等の史料が無いのにもかかわらず、勝手に脳内妄想で
小和田金吉は道蔵の3男だと決め付ける奴がいるからこのスレで検証し
ているんだよ。
891名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 23:32:51
そろそろ次スレ立てない?
892名無しさん@お腹いっぱい。
853 名前:名無しさん@十周年 投稿日:2009/09/01(火) 15:26:35 ID:GYB7UDJe0
副島家の始祖は多久藩士、副島五郎右衛門(1635年没)。
それから7代続いて副島銀助、ここまでが藩士。
その息子の富五郎が酒造業を創業。
その孫にあたるのが正田富美子さん。

副島家は400年前まで遡れる。