皇室のウソ、妄想を徹底検証 part4

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724名無しさま:2009/10/07(水) 09:56:58 ID:k9j1/T9T
まぁ、佐賀中学の前身が藩校弘道館だってのなら話は早い。
つまり、小使いさんはそれこそ「足軽」だったわけだ。藩の奉公人。
手明鑓は本来、弘道館で学ぶ方の身分=足軽よりは上、なわけで、そりゃ
「落ちぶれた」と感じられても仕方がない。

http://www.fsinet.or.jp/~yukio/rekishi/3takeo.htm

>弘道館の授業内容は特に三〇石以上の侍と三〇石以下の
>手明鑓には厳しく真剣に学ばなければ達成不可能の内容であった。

ちなみにここの文章では手明鑓は「侍と足軽の間」とある。
『村上藩』の著者が一応、足軽すら「侍」と語ったのと違い、
この文では「侍=武家」のようですね。
725名無しさま:2009/10/07(水) 10:02:16 ID:k9j1/T9T
で、問題は、江藤淳が「とり立てて学問をしたわけではない嘉蔵」と
書いていること。
手明鑓(およびそれ以上の武士)には学問と武芸が義務付けられ、
成績不良だと年貢米の返上義務まであった。
嘉蔵が手明鑓なら明らかに「学問をしている」筈。
とりたてて、というのが、佐賀藩士全般より抜きん出て、という意味なら
問題はないのだが、普通に学問をしていないという意味なら、そりゃ
手明鑓じゃないわけで。

このあたり、どうなっているんだろう。
菩提寺探しでも江藤淳は間違えているし、案外佐賀藩の組織についての
知識はいい加減なまま書いている可能性が高いよね。
726名無しさま:2009/10/07(水) 10:19:12 ID:k9j1/T9T
まぁ、村上藩話でさんざん、「足軽について」やったからなぁ。
同じ土木関係の仕事をしていても、藩と雇用関係を結んでいれば「足軽」、
そうでなければ「町人」。
仕事内容ではなくどこと関係を結んでいるかが、江戸時代では大事だった。
つまり、元藩校の小使いが「社会の」底辺のわけがない。
あくまで、「士族社会の底辺」なんだ。
と、いうわけでこれ、限りなくウソに近いな。

>嘉蔵は当時社会の底辺とされた小使になることしか選択ができなかった
>階層の出身であったかもしれませんね。
727名無しさま:2009/10/07(水) 15:48:05 ID:mfsA8wQv
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/27.html

国会図書館のHPの中の近代日本人の肖像に、江頭安太郎があるんですよね。
その中に父は佐賀藩士と書いてあるんですよ。
書くに当たっての資料は、

ttp://www.ndl.go.jp/portrait/contents/rights.html

この中にあるようなので、どれかに佐賀藩士だと書いてあるって事ですかね?
728名無しさま:2009/10/07(水) 15:56:10 ID:yI4u0KjZ
『明治過去帳』 新訂 東京美術, 1988 <GB13-E19>
『藩史大事典』 雄山閣出版, 1988-1990 8冊 <GB8-E9>

このどちらかかな。
資料としての信憑性は高そうだね。
729名無しさま:2009/10/07(水) 16:49:59 ID:mfsA8wQv
明治過去帳の方っぽいですね。
手に入れて読まれた方のブログの記事からすると、かなり充実した資料だとか。
730名無しさま:2009/10/07(水) 17:14:03 ID:yI4u0KjZ
この資料は国会図書館で一般人も閲覧できるのかな?

そこに「藩士」とあれば信憑性のあるソースとなりえるな。
安太郎が藩士なら父親の嘉蔵も藩士となるね。
731名無しさま:2009/10/07(水) 17:40:54 ID:mfsA8wQv
ttp://www.ndl.go.jp/jp/service/index.html

行って閲覧する分には大丈夫じゃないかな。
近くの図書館を通じて、貸出を受ける時は制限があるみたいだけど。
国会図書館の明治過去帳の情報を見ると、やっぱりそれっぽいんだよね。

ttp://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000001211358.php
732名無しさま:2009/10/07(水) 18:34:03 ID:1juo4q/u
出版年月日を見る限り雅子さんのことはまったく関係ない時代に編纂されたもの
だから、ジャーナリストの「〜と思われる」的な本がソースではないのは
確かだね。
733名無しさま:2009/10/07(水) 19:37:38 ID:mfsA8wQv
元々が昭和10年に大植四郎さんが私家版として出したものが、慶応大学の図書館に保管されてあったそうです。
丁度過去帳を発行しようとしていた出版社がそれを見て、これ以上のものを出せないと、ご本人の許可を受けて出版したんだとか。
雅子様が生まれるかなり前の話ですから、掲載されていれば中立な資料として信頼価値はあるでしょうね。
近くの図書館には無いかな。
734名無しさま:2009/10/07(水) 22:41:56 ID:hBb0F9KL
>>701 小和田金吉はどこの中学校を出ているのか教えてください。
735名無しさま:2009/10/07(水) 22:46:47 ID:hBb0F9KL
>>727 明治過去帳等には江頭安太郎は佐賀藩士の江頭嘉蔵の二男だと
書いているんですよ。
ところが、嘉蔵が佐賀藩士であったことを裏付ける史料は全くない。
だから、川口素生氏も江頭嘉蔵は手明鑓であったか否かを含めてルーツ
については分らない、と書いているんです。

裏づけとなる史料がない限り、江頭家のルーツについては不祥ですね。
736名無しさま:2009/10/07(水) 22:57:54 ID:hBb0F9KL
>>725 佐賀藩の場合、手明鑓という下級武士の身分でも藩校の弘道館で
学ぶことが出来るんです。
江戸時代に藩校で学ぶことが出来たのは大変なエリートかつ知識人階級
に属したわけです。
ですから、明治になって教職についたのは旧武士階級の人たちが圧倒的
多数を占めた。
弘道館といえば江戸時代には最高峰の学問的水準を誇り、岩倉具視が息子
たちをわざわざ佐賀にを学ばせたぐらいですから。

江頭嘉蔵が元藩士で弘道館で学んでいたとすれば、維新後は小学校の校長
くらいは十二分に務めることのできる教養はあったはずです。
江戸時代の藩校の小使というのは、大抵は士分でない中間か一般町民が
雇われてするようなものです。
とても武士がするような仕事じゃありません。
737名無しさま:2009/10/07(水) 23:10:47 ID:hBb0F9KL
訂正しておきます。
私が見たのは『明治過去帳』ではなくて、『近代名士之面影』の方でした。

昭和5年に肥前史談会が編纂した『先覚者小伝』の江頭安太郎の項には、
父の名前も、出自について何も書かれていませんから、昭和の初め頃の
時に既に江頭安太郎の出自についてはよく分らなくなっていたようですね。
738名無しさま:2009/10/07(水) 23:30:42 ID:hBb0F9KL
>>726 江頭嘉蔵は旧藩時代に藩校に勤務したのではありません。
明治になって佐賀変則中学校に小使として雇われたわけです。

山縣有朋は長州藩の藩校である明倫館に給仕として働いていまし
たが、山縣は武士ではありませんでした。
長州藩においては足軽以下は士分とは認められていませんでしたから。
739名無しさま:2009/10/07(水) 23:36:40 ID:kPRXx9oi
いったいいつまでこれ続けるの?
740名無しさま:2009/10/07(水) 23:52:46 ID:mfsA8wQv
ttp://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/takeda-heinosuke/takeda-heinosuke.htm

これに明治過去帳の引用があるんですが、かなり詳しいようなんですよね。
ただ、江頭安太郎が掲載されているか確認した訳ではないですし、同じ詳しさであるかも分からないですが、

>その他注記:墓碑・新聞・官報等から故人の没年月日を採集し、その日付順に排列して解説した辞典。

という事ですし、実際に墓地にも出向かれて、30年かけて完成したもののようです。
それなりの信頼性を持った資料として、確認するだけはしてもいいのではないでしょうか?
もしも掲載されていて、やはり疑うと言うなら、ご遺族は健在のようですし、資料などを直接問合せたらどうでしょう?
手に入れるのはちょっと難しそうなので、私も地元の図書館を当たってみますよ。
741名無しさま:2009/10/07(水) 23:55:30 ID:hBb0F9KL
大植四郎っていう人は何千人もの人物の出自について実地調査したわけじゃ
ないでしょ?
江頭嘉蔵が佐賀藩士だと書かれた資料を孫引きしただけかも知れないし。

742名無しさま:2009/10/08(木) 00:17:48 ID:wZqBNE5l
図書館である程度の資料は調べたようですよね。
でも、孫引きするような資料があるなら、資料が他にもあるという事ですから。
近代名士之面影にしても、発行は大正4年ですから、昭和初期には不明となっていても、以前は確認が取れるような資料があったという事ではないですか?
743名無しさま:2009/10/08(木) 06:54:59 ID:q6rvIiWX
>>738
うん。手明鑓が明治になって、もともと足軽がやってた職についた。
「落ちぶれた」と息子は思っていた。
ってことだよね、江藤淳の文章が書いていることは。

だからここに、「当時社会の底辺」という言葉が出てくる理由はないわけ。
足軽は武家社会の底辺ではあるけど、社会全体の底辺ではないからね。

つまり、DpZ2ILt4は、「当時、社会全体の底辺であったこと」の
証明をしないといけない。そこを避けている以上、限りなく「ウソ」に近いよ。
744名無しさま:2009/10/08(木) 07:10:17 ID:q6rvIiWX
佐賀藩士か、という説の前に、藩士という言葉の整理をしておいた方がいいんじゃない?

wiki 藩士。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E5%A3%AB

足軽や中間まで含んでいるわけ。つまり、「士族」と認められたなら
藩士と書かれる。
戸籍がいるような場所で士族と名乗っているのなら、佐賀藩士でしょ。
嘉蔵も安太郎も、そういう資料がいりそうな場所で就職してる。
745名無しさま:2009/10/08(木) 12:29:31 ID:q9RV7ygg
一連のやり取りを見てると、つくづく人間ってのは勝手だな〜て思いますね。
紀子妃の祖父が整体師であったら「アンマの孫」とか言って罵倒するくせに、
雅子妃の祖父に対しては「江頭豊氏はチッソ経営再建のために興銀から送り
込まれ、被害者救済のために尽力した」、まるでものすごい人格者であるか
のように説明されてしまうw

紀子妃の先祖に小使がいたら、そのことを延々と揶揄、罵倒のタネに使うこと
でしょうが、江頭嘉蔵に対しては「当時は社会的に信頼された階層が小使にな
った」だの「小使になるのには社長になるよりも難しい」だの、初めて耳にする
ような(゚Д゚)ハァ?な擁護意見が続くw

小使の社会的地位が当時低かったとしても結構なことじゃないですか。
そういう貧しい底辺に属する階級出身の人間でも、自分の才覚と精進でいくら
でも出世できるようになったのが明治=近代社会なのですから。
746名無しさま:2009/10/08(木) 12:36:59 ID:q9RV7ygg
足軽、中間、小物というのは士分ではありませんでした。
ただ、足軽を徒士と同等に扱う藩も存在した。
だからwikiの説明でも、拡大解釈をして足軽までが藩士だということになった
のでしょう。

中間にいたっては武士ではなくて、完全に武家奉公人です。
中間を士分扱いした藩は無かったはずですよ。
よく伊藤博文や山県有朋を長州藩の下級武士の出身であると説明している文献
がありますが、それは正確ではありません。
747名無しさま:2009/10/08(木) 13:31:02 ID:q6rvIiWX
wikiを読んでみよう。

>江戸時代は、藩士が自らのことを藩士と呼ぶことはなかった。

藩士という言葉は幕末の志士が使い、その後明治になって広まった言葉。
つまり、士族という範囲に対応する言葉が藩士だったわけです。
(まぁ藩内に住む限りは○○藩藩士などと名乗る必要ないし、江戸詰めだって
○○屋敷の者で済むわけで)

つまり、ここに「歴史をめぐる幻想」があったわけね。

・藩士とは藩と雇用関係がある武士(幻想)。

妄想と書かないのは、かなりの人が共有していると思われるので。
実際には

・藩士という言葉は、直接的であれ間接的であれ、藩に代々関わることを生業と
してきた人間。

ということだったのでしょう。
748名無しさま:2009/10/08(木) 13:37:02 ID:q6rvIiWX
つまり、伊藤博文や山県有朋を士分じゃない!と定義するのは正しいが、
長州藩士じゃない、と定義するのは正しくない。
(あ、周防藩ってことはないよね?)

○○藩士であるという証明は、○○藩とのつながりではなく、
戸籍で十分だということです。

伊藤博文が足軽だったから、足軽は士族になることが出来たそうですが。
まさか、将来の皇太子妃の先祖話に関わってくるとは、伊藤博文には
想像もつかなかったろうなぁ。
749名無しさま:2009/10/08(木) 13:43:04 ID:q6rvIiWX
あら、勝手なのはq9RV7yggさんですよ。
それこそ、オバマ大統領を「解放奴隷の子」と言い出し、証拠もないのに
「解放奴隷の子といって何が悪いのよっ!」と言ってるようなものですから。

別に解放奴隷の子が大統領になってもそれはすばらしいことですが、
オバマ氏はそうじゃないですよね、そこを問題とされているのですよ。

検証スレですから、証拠もないことを言い出すのは問題です。
だから、当時「小使い」が、「社会全体の底辺」であることを示す
ソースを出してくださいと言ってるわけです。
750名無しさま:2009/10/08(木) 14:01:39 ID:q9RV7ygg
あ、私の書き方がまずかったかな。
長州藩では足軽、中間は士分ではなくて、姓を名乗ることも許されなかった
はずです。
そのような士分外の者でも藩と雇用関係を結んでいれば、藩士の一員とさ
れるんだよね。
中間が武士であるというのは誤りです。
武家奉公人であって士分と認めた藩はないはずですから。

751名無しさま:2009/10/08(木) 14:04:13 ID:q9RV7ygg
それよりも小使は、明治初期には社会的地位の高い職表であり、社長になるの
よりも難しかったことを証明するソースを出してください。

それから小和田金吉は中学校で学んだそうですが、どこの中学校の卒業生なん
ですか?
752名無しさま:2009/10/08(木) 14:17:49 ID:q9RV7ygg
元皇族・黒田清子さんスレ3
http://dubai.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1249498182/l50956
名前:名無しさま 投稿日:2009/10/08(木) 11:50:09 ID:qplCTpcO
チッソチッソ言うが、問題解決の為に送り込まれたのであって
公害出したのは他の人だし。

959 名前:名無しさま 投稿日:2009/10/08(木) 13:06:59 ID:fMykFXnj
>>956
中立派のふりしてまで、なんですぐばれる嘘つくのか理解不可能だよね>東宮アンチ
チッソのメインバンクだった興銀から出向したって事実がそんなに都合悪いのかと


江頭豊氏は確かに経営再建のために興銀からチッソから送り込まれたんだけど、
そのときの被害者や遺族の人たちへの対応が大批判を受けて、チッソの社会的な
イメージは大変悪いものになった。
チッソの営業不振と水俣病被害者への対応を非難された責任を取って江頭豊氏は
社長を辞任した。
それに水俣病が発生した時に社長であったのは江頭氏ではないけれど、社長時代に
工場の操業を止めずに水銀を水俣湾にタレ流し続けたのは事実だからね。
江頭氏が水俣病問題に責任が無いなんてありえないんだけど。
753名無しさま:2009/10/08(木) 14:19:22 ID:q9RV7ygg
>>752
×江頭豊氏は確かに経営再建のために興銀からチッソから送り込まれたんだけど、
○江頭豊氏は確かに経営再建のために興銀からチッソに送り込まれたんだけど、
754名無しさま:2009/10/08(木) 15:28:19 ID:q6rvIiWX
>>750
では、賛成していただけますね。

・○○藩士であるという証明は、江戸時代の○○藩とのつながりの証明はいらない。
・○○藩士という証明は、戸籍(士族という記載)で十分である

私は別に江頭嘉蔵の江戸時代の身分はどうでもいいけど、
出自をいつわっているかのような言葉が気になって
チェックしてるもんで。

あと、足軽が「藩の奉公人」というのもご賛同いただけますね。
武家ではなく藩との契約だと(ソース『村上藩』)。

ま、賛同しなくてもいいんだけどね。ちゃんとした反証がないのなら、
それが妥当ってことだからして。
755名無しさま:2009/10/08(木) 15:49:48 ID:q9RV7ygg
よく「雅子さまのご先祖は当時支配階級であった武士である」というようなレスを
目にしますが、雅子妃の先祖ではなっかたかと推測されている足軽(同心)と
いうのは武士ではないんです。
足軽というのは基本的には一代限りで藩との雇用関係を結ぶのが建前です
が、世襲していくことも可能でした。
そのように足軽身分を世襲していた人は、明治になって卒族とされ、明治5年に
士族に編入された。
戸籍で士族と書かれているから先祖は武士であったというのは思い込みです。

>○○藩士という証明は、戸籍(士族という記載)で十分である

マスコミは小和田家の戸籍を調べなかったのではないか?というのが、これま
での流れの中での結論ですよね?
マスコミは小和田・江頭家の戸籍を調べたんでしょうか?

それから金吉はどの中学校で学んだんですか?
756名無しさま:2009/10/08(木) 15:50:47 ID:q9RV7ygg
>>755
×雅子妃の先祖ではなっかたかと推測されている足軽(同心)と
○雅子妃の先祖ではなかったかと推測されている足軽(同心)と
757名無しさま:2009/10/08(木) 15:54:25 ID:q6rvIiWX
そうですね、確かに金吉氏については確たるソースはありませんでした。
確か金吉氏には写真があり、それについて、親族が学校の知り合いと
とったものと説明があった。ただこれ「新潟の学校」としか書かれてない。

写真を撮った仲間は他県の出なので、村上の中学校には行けなかったかと。
となると新潟の小学で金吉氏と出会ったのか、中学より上か?
上だと定義できれば当然、村上の中学にも行ってたと推察できますが
(鮭の子奨学金のことを考えると村上でしょう)。

写真についてお聞きしたいなとホームページを見ると思うのですが、
妃殿下の出自をとやかく言うなんて失礼な話を年配の方にするのは
気が引けますね。
758名無しさま:2009/10/08(木) 15:56:39 ID:q9RV7ygg
>>701
>「優秀な」家系です。あの時代に中学(義務教育ではないよ)を出た金吉を
>はじめとして、能力値が高いですよねぇ、出てくるご先祖のみなさん。

ソース待ち。
小和田金吉はいつ、どの中学校に学んだのか?
759名無しさま:2009/10/08(木) 15:57:56 ID:q6rvIiWX
>>755

平成のマスコミは調べられないが、大正や昭和なら可能。
『明治過去帳』の著者の一次資料は戸籍でしょう。

あと、こんなのもあります。
http://blogs.yahoo.co.jp/siran13tb/58836041.html

変則中学は、戸籍入手してますね。米の分配が違うのだから!おおきいぞ。
ちなみにこのサイト、変則中学は士族ばかりだったとも書いているのですが、
他にソース見つけられなくてねぇ。
確信が持てない。
760名無しさま:2009/10/08(木) 22:00:10 ID:wZqBNE5l
ttp://www.geocities.jp/nakanolib/hou/ht03-26.htm

大正の戸籍法ですが、これは今の戸籍法の前のものです。
第14条を見ていただけば分かりますが、閲覧の制限は特にありませんでした。
今の戸籍法でも、制限が出来たのは後からだったと記憶しているのですが、具体的な日付は調べてみないとはっきり言えません。
少なくとも、昭和50年代には制限があったと思いますが、ソースはネット上にあるか、探してはみますが。
761名無しさま:2009/10/09(金) 01:17:16 ID:IS4gLP6E
ttp://hourei.hounavi.jp/seitei/hou/S22/S22HO224.php
当初の戸籍法がこれですね。

ttp://hourei.hounavi.jp/seitei/hou/S51/S51HO066.php
除籍に関して請求の制限を設けたのが、昭和51年です。
それまでは、正当な理由が無い限り請求があれば発行しなければならなかったという事です。
ただ、秋篠宮妃にしても皇太子妃にしても、この改正後の入内なので、ご成婚の際に戸籍を調査するのは難しかったでしょう。
この改正以前の資料なら、戸籍を確認したという可能性はあるでしょうね。
ただ、それをどう裏付けるかはかなり厄介だとは思いますが。
762名無しさま:2009/10/09(金) 10:01:01 ID:RuZWC0IX
>>755

>マスコミは小和田家の戸籍を調べなかったのではないか?というのが、これま
>での流れの中での結論ですよね?

また、さらっとウソを。641にこういうレスがある。

>・マスコミは小和田金吉の戸籍調査は出来なかった。
>・マスコミは小和田穀夫の戸籍情報を入手している(推測)。

その後、金吉氏についての戸籍情報入手は否定されているが、
穀夫氏については否定されていないよ。
時代から考えて、戸籍入手しないと母親の名前なんぞ分からない、
という論拠に対する反論は出ていない。

つまり、とりあえず小和田家とまとめるのはやめるべき。
個人名があるのだから、正確に個人名で話しましょ。
763名無しさま:2009/10/09(金) 10:12:12 ID:RuZWC0IX
ま、サイトにこんな文章もありますし。
http://anond.hatelabo.jp/keyword/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E5%B8%B3

「明治過去帳」というのは、一級資料と思われます。

で、こちらのサイトには、私家版だったものが復刻される経緯が書かれています。
http://naval.way-nifty.com/blog/2008/02/post_930f.html

過去帳に載ってた方々全員チェックは出来なかったでしょうが、「過去帳を作ろう」
といった企画者が集めていた史料との整合性が高かったために諦めたのは
間違いないでしょう。
工業製品で言うなら、全件検査は出来ていないが、抜き取り検査では非常に精度が
高かったといったところですか。

少なくとも平成の週刊誌だの新聞だのといった、速報性が重視される
読み物より信頼性が置けると踏みました。

というわけで、「元佐賀藩士」を疑うに足る史料があれば見直しますが、
ソースは「明治過去帳」でいいという感じですね、私は。

764名無しさま:2009/10/09(金) 10:18:47 ID:RuZWC0IX
>>758
あ、ソースがない与太話ならできます。検証不能ですが。
小和田金吉と一緒に写真に写っている柴田義之助の学校を調べてみたんです。
で、そこ、小和田金吉が通っててもおかしくない。
柴田義之助と小和田金吉が写っている写真はいかにも卒業記念の写真という
感じなんで、可能性あるな、と。

q9RV7yggさんはアンチ雅子妃ではないかと思うので、ソースなし妄想は
いらないと思われますが、このスレの他の方々は興味があるかな?
765名無しさま:2009/10/09(金) 18:16:50 ID:7dgda+BM
中間について。

平凡社の『日本史大事典』によれば、中間は公家、武家、寺家などに仕える僕従の
呼称の一つ。
江戸時代は武家奉公人の一種を言い、足軽と小者の間に置かれた。侍(騎兵)がが
士分と称されたのに対し、中間は足軽(歩兵)とともに軽輩と言われた。また足軽に
はおよそ苗字帯刀が許されたが、中間にはそうしたことがなかった。
766名無しさま:2009/10/09(金) 18:21:57 ID:7dgda+BM
山縣有朋は長州藩の蔵元附中間でしたが、彼は16歳の時に藩校、明倫館の手子役と
なっています。手子役というのは、現代では学校の用務員に相当する役目だそうで、
藤村道生氏は、この手子役を「最下層の職」であると述べています。

藤村道生『山県有朋』 P4-P5

 有朋は幼名を辰之助といい、十八歳のとき小助と改め、二十歳に小輔とした。奇兵隊
に参加したころから狂介と称し、また剃髪して素狂と号した。維新後には含雪・茅城など
とも号している。 
 改革の激動のなかで嘉永三年(十三歳)蔵元付打廻手子となり、目付横目役を歴任し
た。いずれも最下層の職で、手子役は今日でいえば給仕もしくは小使の職務にあたり、
目付横目役は市中探索にあたる下級警察官であった。
767名無しさま:2009/10/09(金) 18:27:31 ID:7dgda+BM
徳富蘇峰の伝記の中にも山縣有朋が明倫館の手子役に就いていたことが記されて
いますが、徳富蘇峰はこれを「卑職」、卑しい職務であると説明していますね。
旧藩時代には、藩校の手子役(用務員)は武家の僕従である中間が就く卑しい職務
であるとされていたようです。

徳富蘇峰『公爵山縣有朋傳』 P87

 公の家格は、祖父以来蔵元附仲間にして卒族階級であったが、公は此の階級制度
に束縛せられて、青年時代より蔵元附や、代官所等の卑職に就かざるを得なかった。
768名無しさま:2009/10/09(金) 18:33:03 ID:7dgda+BM
>>763
明治過去帳に江頭安太郎の名はありません。
明治時代に刊行された本を見ると、いずれも江頭安太郎は佐賀藩士、江頭嘉蔵の
二男、あるいは三男だと書かれていますね。
>>764
もし小和田金吉がその学校を卒業しているのであれば、卒業生名簿等の記録が残
っているだろうし、マスコミは金吉の学歴についても紹介するでしょう。
金吉の詳しい学歴について説明した記事は一切ありませんね。
769名無しさま:2009/10/09(金) 19:18:32 ID:7dgda+BM
>>621
wiki記事によれば、川嶋庄一郎は明治3年4月14日、和歌山県有田郡山保田組板尾村
に生まれ、地元の開明小学校から和歌山師範学校に進み、明治24年に東京高等師範
に進学・その後滋賀や富山の師範学校の訓導、学習院教授、佐賀師範学校長、奈良
師範学校長を歴任して大正9年に和歌山に戻り、昭和22年2月12日、和歌山県海草郡
紀伊村で没しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B6%8B%E5%BA%84%E4%B8%80%E9%83%8E
教育者として各地の学校を転々とはしましたが、生涯76年のうち48年間を和歌山県内で
生活しています。
川嶋庄一郎は和歌山で生まれ育ち、和歌山で亡くなっているんですよ。
770名無しさま:2009/10/09(金) 23:19:33 ID:XsrO2Anc
>>764
小和田金吉さん、素敵なスーツ姿だね。
771名無しさま:2009/10/10(土) 13:46:34 ID:HCVKTVup
37 名前:名無し投票@2/15(日) 投稿日:2009/02/14(土) 19:00:38 ID:WOTw+cxR
ttp://members.at.infoseek.co.jp/HIGEG/index-yosi01.html

このサイトにある事は?
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どれどれ、小和田家の先祖や金吉の詳しい経歴が書かれているのかと
思いきや・・
772名無しさま:2009/10/10(土) 13:53:46 ID:HCVKTVup
先祖の柴田義之助の横に写っている小和田金吉とは…

なんと雅子妃の先祖様。

小和田家は村上藩士。村上藩主内藤家の家臣系図で天明7年(1787年)に著さ
れた『内藤信敦分限帳』に小和田の名前は出てくる。また幕末には小和田家は本
家と三つの分家があって、明治維新後に本家と2つの分家は新潟に移り住んで
いる。当時は藩士700人が職を失って、各地に散らばる、分家の小和田金吉は新
潟の吏員になり、その後に高田税務署の税吏になっている。そして息子の小和田
毅夫が旧制高田中学の校長や高田市の教育委員を務めている。そして毅夫の息
子が小和田恒であり、その娘が雅子妃である。また小和田毅夫の妻となった田村
静(雅子妃の祖母)は、元新潟県議で自由民権運動家として有名な田村寛一郎。

金吉氏幕末生れ(明治元生まれ・明治30年代に死亡)
http://dubai.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1234417547/l50
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このサイトの管理人氏の先祖にあたる、海軍少尉柴田義之助に関する実に詳細な
経歴が紹介されているだけで、小和田金吉に関する情報は一切無し。
天明7年『内藤信敦分限帳』に記載がある小和田新六と小和田家との関係は不明
だし、小和田道助の代に分家が出て、そのうちの一つの子孫が金吉であると言われ
ているのだけど、マスコミが村上の関係者に直接取材しても道助と金吉がどのよう
につながるのか分らなかった。

結局柴田義之助に関することばかりで、小和田家や金吉に関することは何も
言ってないんだよね、このサイトは。
773名無しさま
129 名前: 名無し草 2007/03/24(土) 20:55:08
最後に、

毅夫氏が古い墓を新しい台座に乗せるというイレギュラーな事を行なった
のはなぜか。

130 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:16:58
まず小和田毅夫氏の人となりについて

昭和10年の小千谷高等女学校の「同窓会会報」に毅夫氏の寄稿が寄せられている。
国語・漢文の教師であったが、このようにも記している。
「人はパンのみにて生くるものに非ず」といふ西諺の深き意味を味ふべきであると
共に、萬物の王者を以て自ら任ずる人間には、物質以外に、精神的な、本質的な深
い欲求のあることに覚醒すべきであります」

131 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:17:07
物質以外に、精神的な、本質的なものも大事にしたいと願っていた人物だという点
は興味深い。

132 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:17:39
毅夫氏に墓を完全に新しく建て替えるほどの資力がなかったとは思えない。
そうしない方が普通ではない。
ではなぜそうしなかったのか。

133 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:17:54
しかし「普通に」建て替えをした場合、古い墓石はどうなるのだろうか。

134 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:18:21
古い、不要になった墓石は、家族の了承を得られ寺側からも申し出があった場合、
表面を削りなおして無縁仏の墓として再利用することもある。
事実、小和田本家の過去の墓石も、本悟寺においてそのように再利用されている。
http://sakura.45.kg/fuetayo/01/nazo05.html