1 :
名無し物書き@推敲中?:
リーマン版より移動しました。
孤独な男と女の深い絆の行くえを追いかけて見ます。
2 :
sage:2006/09/13(水) 16:10:04
3 :
名無し物書き@推敲中?:2006/09/13(水) 16:25:46
追いかけてきますたッ(`・ω・´)ゞ 乙です!!
ついていきます(`・ω・´)ゞむん
5 :
名無し物書き@推敲中?:2006/09/13(水) 16:27:44
あいしていますッ(`・ω・´)ゞ (違
いや、帰れ。オナニー小説の発表なら他でやってくれ。
ここはそういう板じゃない。
確かにガイドにもそういうふうに書いてありますね(´・ω・`)
8 :
名無し物書き@推敲中?:2006/09/13(水) 18:14:16
どこへ行ってもついてくさ!!
9 :
愛シル作者:2006/09/13(水) 18:53:50
やはりここでは拙いようですね。
うかつにスレ立てて済みません。
>>9 いいよ、ここで。
ここのスレ一覧みてごらん、ひどいもんだよ。
とりあえずやってごらんなさいよ。
たくさんファンがいるのだから、どうか続けて欲しい。
どこまでもついていくよ。
出版されたら本買うよ。
続けて下さい!楽しみに待っていますよ!
13 :
名無し物書き@推敲中?:2006/09/13(水) 22:16:49
ホント面白いよなぁ。
それぞれのキャラが光ってると思う。
無駄な登場人物が見あたらない。
正直、1日に何度もチェックしてるわー。
打ち切りにならなくて良かった…!
どこまでもついていきます!
(65)
「重男ー、久しぶりだなー、まあお上がり」
重男の母親も元気そうである。
重男が母親と居間に行くと、父親も畳敷きのテーブルの前に座って待っていた。
追っかけ、兄の伸一も来るであろう。
重男の父親は以前は近くの港町の漁協の勤めていたが、今は引退して年金暮らしである。
重男の兄がその後を継ぐようにして漁協に勤めている。
すでに白髪が殆どの50過ぎの兄の伸一は結婚しており、子供が二人いるがすでに
成人して東京の方で勤めていた。
重男は次男と言うこともあり、何が何でも結婚を考える必要もなかったが、
両親としては人並みに重男にも連れ添いを持って欲しいのだろう、いつまで経っても
その兆候の現れない重男に対して、顔を見れば「いい相手がいないかなあ」という
のが常であった。
父親は、久しぶりの息子の顔を笑顔で迎えるなり、早速のように大きなファイルを
取り出した。
「重男、今度ばかりはちょっと、ちょっとじゃぞ」
何がちょっとちょっとなのか判らないが、酷く上機嫌である。
戻ってきた兄の伸一もいう。
「俺の知り合いの人がなあ、どうかなって話し持ってきてくれたんだけど、いい話だと思うんだ」
「重男も今度ばかりはよう考えてみるべ」
母親も追いかけていう。
重男は余り期待せずに釣書を開いてみた。
自分はもう45になろうかというのに、どんな相手が来ると言うのだ?
もっと若かった時でさえ、ごめん被るという相手ばかりの話だったくせに・・・
(66)
「おっ」重男は息を呑んだ。
年は重男より二つほど上の48歳であるが、写真に写っている女性は普通以上に綺麗
だった。
実際に実物がどうなのか判らないが、写真で見る限りは惹かれるものが充分あった。
どこかの小料理屋であろうか、カウンターの側の小さな座敷で着物姿で正座して
こっちに向かって微笑んでいる姿は、東京の料亭でのお上さんとしても充分通用すると
思える品格、美貌を備えている。
「こ、これは・・・」
重男はしばらく声が出なかった。
しかし、どうしてこのような女性が俺なんかと見合いを?
両親たちは、そうだろうそうだろうというような顔で重男の表情を見ていたが、
漸く説明をし始めた。
「あのなあ、こん人は十年前に旦那さんに先立たれてそのまま小料理屋を継いだんだと。
今までは親戚の老夫婦に手伝ってもらっていたんだけど、その夫婦も高齢でなあ、
もし、一緒にお店をやっていけるような人に出会えたら再婚してもいいということらしい」
「し、しかし、俺みたいなのじゃ相手にしてくれないだろ」
重男はややどもりながら聞いた。
「お店が小料理してるから少しは料理の手伝いが出来る人がいいらしい。
だけんど、お前、ほれ、食品会社でオカズとか扱ってるべ、それで手伝いくらいできるべ」
「まあ、現場にも出ること良くあるから、調理師の免許はないけど手伝いは出来るがなあ」
「んだ、んだ。それで充分だっぺ。専門に料理作る人は別にいるらしいし、旦那になる人は
それぐらいでいいらしいべ」
「それより、俺の方について相手はどうなんだろう・・・写真とか見せた?」
父親がにんまりと笑って答えた。
「心配ねえ。相手もお前の写真や経歴見てぜひ会いたいっていってるんじゃ」
「え?本当に?
(67)
母親が言う。
「そうだよ。お前の写真見て会いたいという人なんて、ほんに珍しい人もいるもんだで」
「お前の写真が一時審査通るなんてなあ。まあ、向こうの人がいうには以前の旦那は
男前だったし、自分はさほど男前かどうかには興味はなくて、真面目で固い人なら
ぜひといっておったぞ。ワシもお店に行ってみたがいい人のようじゃ」
自分たちの息子なのにえらい言いようだが、同時に重男は驚いた。
「え、お父さんもう会ったんですか?」
「ああ、それで、善は急げとな、今日の夕方、有月会館に場所を取ったんじゃ」
重男はなんだか体の底から興奮してくる自分を感じていた。
応接室に1人戻ってからも、今日の夕方に会えるであろうお見合いの相手を思い浮かべた。
「篠崎佐知枝か・・・」
どんな人なんだろう。ホントに俺のこと相手として見てくれるんだろうか。
重男は懐から自分の名刺を取り出した。
名刺には 惣菜課 課長特任補佐 井桁重男 と書かれていた。
以前にスーパー花輪の店長から、新店舗の契約業者の内定を貰って部長たちに
功労賞として貰ったのがこの肩書きである。
係長から課長特任補佐へ昇進か・・・・
昇進したはずなのに給与は変わらなかった。
まだ新店舗で成増食品が契約しているわけでないから、課長になれないのは判る。
しかし、補佐止まりなんだよな。この特任というとってつけたようなのもなんだかな。
いいのか悪いのか判らないし、でも課長という文字が入っているからまだましかな。
外部の人が見てこれで地位がわかるか?課長権限のある課長代理ならまだしも、
補佐だもんな。係長とどこが違うんだ?
どうも、部長にうまいこと騙されているような気がする。
(68)
メガネを掛ければメガネザル。メガネを取れば手長サル。
容姿に自信がない分、仕事に打ち込む都会のサラリーマンという姿で勝負するしかない。
今までの経験で充分に小料理屋の主人を任せられるぞとな。
重男はくたびれたソファーにもたれると目を閉じた。
三時過ぎに、重男は両親を伴って街中の有月会館に足を運んだ。
苦い思い出の多い場所である。
今まで何度もここで見合いをさせられたが、すべて一回だけの出会いで終わってしまった。
重男にここで会った女性はみんな「しまった」という表情になり、二度と返事は来なかった。
見合いであるから、一通りの食事とか話し合いがあるはずだが、中には途中で
トイレに行く振りをしてそのまま消えてしまう場合もあった。
縁起を担ぐなら、見合いの場所としては最悪である。
重男としては期待半分で、断られたときのショックに備えることも忘れなかった。。
俺も年は45だし、見かけは冴えないし学歴も地位もないしと、自分を卑下しておき、
断られて落胆することに対しての予防線を張っておくのだ。
会館の中に入ると、母親が目ざとく相手を見つけた。「いた、いた」
「重男、この方、この方」
重男はかちかちに固まりなが挨拶をした。
手のひらが汗びっしょりになってしまっている。
歩く時も右足と右手が一緒に動いていた。
もしこの場で重男を走らせたら、間違いなく欽ちゃん走りの走り方になることは間違いない
くらい緊張していた。
「始めまして、篠崎といいます」
写真どうりの美形である。美人とまでいかなくても気品が漂っている。
一通りの双方の挨拶が済むと、すぐに重男の両親や紹介者は姿が消えた。
大人の交際なのだから余計な人間は邪魔というものだ。
(69)
重男は名刺を佐知枝に渡した。
「課長特任補佐ですか・・・。難しそうなお仕事されているんですね。」
「ぼ、僕は食品会社で惣菜とかのオカズの材料の仕入れから注文先への納入まで
やっているんですよ。まあ、今風に言えばスーパーバイザーとでもいいますかね。
まあ、若いときから現場で指導しておりましたんで、簡単な調理は
お手の物ですよ、そのような場合はプレイイングマネージャーとしての役割も
果たすわけです、はははは」
重男は自分でも意味がよく判らない横文字を羅列することで、いかに自分が都会風であるかを
見せ付けようとした。
佐知枝の話で、20になる息子が東京で調理師専門学校に通っていること、一緒にお店をやって
いける人を探していることなどがわかって来た。、
「もし、こちらに来られるんでしたら、お仕事の方はどうされるんですか?」
重男は躊躇なく答える。
「いやあ、いいんですよ。一つの区切りとして会社を辞めても。自分の経験が生かせる
場がこちらにできるのであればね。それに両親もこちらにいますし」
二人でいろいろととりとめもない話を続けたが、時間が迫った頃、佐知枝が重男に言った。
「あの・・・正月に、よろしかったらもう一度会っていただけますでしょうか」
重男はきょとんとした。
「もし、正月にこちらへおいでくださるのなら、一度お店の方を見ていただけませんか?」
「は、はい、大丈夫だと思います」重男は動揺を悟られぬよう、内心小躍りしながら答えた。
そして、懐から手帳を取り出すと
「えーと、スケジュールが年末年始はどこあいているかな・・・と。
ええ、年末や年始は取引業者からの接待とかで忙しいんですよ。あちこちお呼ばれする
ものでねえ」
(70)
これは嘘である。お呼ばれするのは部長や課長までであり、下っ端には声は掛からない。
重男は空白だらけの手帳の中から適当に空いている日を選び、また佐知枝と会うことを
約束したのであった。
夕方、五時千倉発の内房線特急さざなみの座席に重男は座っていた。
正月にまた逢う約束をしたことを家族に告げると、両親はもう結婚も決まったかのような
喜びようであった。
結納は挙式はなどと騒ぎ出す母親を抑えるのも一苦労であった。
これからが本当の勝負なのだ。
特急電車が外房総から東京湾沿いの京浜工業地帯に入っていくに連れて、
真っ暗だった外の風景も各工場の色とりどりの照明がきらびやかに点滅してきた。
重男は佐知枝の態度に、かつてない手ごたえを感じていた。
佐知枝さんは終止笑みを浮かべていた。俺に対して拒否反応はない。これは脈があるぞ。
今度の正月にまた逢うことを想像すると、
重男は自分の脳天が何かカッと熱くなり、上気する自分を感じていた。
誰しも人生には三度大きなチャンスが訪れると、何かで読んだ記憶がある。
もしかしたら、これはその大きなチャンスの一つなのかもしれない。
会社を辞めて人生の転換期を迎えるのか?
25年近く平社員を続けてきて、正直、もうサラリーマン生活にもうんざりしていたところだ。
この先も昇進する見込みはないし、アパートに1人暮らしで定年まで勤めて・・・
と想像しただけでぞっとしていた。
自分の人生はこのまま、梅雨の曇り空のようにどんよりした重苦しい雰囲気で終わって
しまうのかと思っていたが、そうではないかもしれない。
「これは、人生の勝負を掛けるときかな」
(71)
佐知枝との出会いがもしかしたら重男の運命を変えるかもしれないのだ。
重男は正月の再開を想像しながら、電車の窓ガラスに映る自分の顔を見てにやにやした。
電車は内房線の錦糸町から地下に潜り、間もなく東京へ到着する。
座席で窓ガラスを観てにやにやしていた重男の顔が突然硬直した。
ま、まさか?
重男の全身に冷や水が掛けられたような気がした。
やがて電車は東京駅に到着した。
重男は俯き加減に他の乗客と共に電車から降りると、階段の方へ向かった。
足早から小走りに、小走りから駆け足になりかけたところで、
「おい!!!待て、こらあ!!!」
物凄い怒鳴り声とともに腕を掴まれた。
やばい、見つかったよ・・・
「おい、やっぱりお前えだな。今日の朝、トイレを蹴飛ばしたのはあ!!」
「い、いえ何のことです、人違いですよ」
重男の声は震えていた。
頭の毛も半分に後退した筋肉隆々の男は収まらない。
「お前だよ!!そのサルみてえな顔、見間違えるか!挙句に喧嘩売るような真似しやがって
ただじゃおかねえぞこの野郎!!」
重男の腕を掴んで揺さぶった。今にも殴ってきそうだ。
通りがかる周囲の乗客たちがこのやり取りを遠巻きに眺めだした。
さっき電車の座席に座って窓を見たときに気がついた。
ガラスに反射して見えたのは、離れた席から重男を睨んでいるあの男だった。
朝、電車のトイレに閉じこもって、重男をよもやの事態にまで追い込んだあの男である。
こともあろうに、帰りの電車で同じ車両に乗り合わせたのだ。
(72)
しかしまさか、人がたくさんいるこの場でこの男も暴力は奮えまい。
そう思うと重男もやや安心した。
そうなると、少しは反撃する余裕も出てきた。
暴力奮えば捕まるのはこいつだしな。
「大体だな、あんたがいつまでもウンコ垂れてるからいけないんだ。こっちはもう
漏れそうになっていたんだぞ」
男はおとなしそうな重男のいきなりの反撃に目を剥いた。
「な、何い?俺がどれくらいウンコしようがお前に関係ないだろ!お前こそクソ漏れるんな
ら他使えばいいだろ!」
「ウンコが漏れそうなのに他に行く余裕があるか!何だってあんたのクソ詰まりのせいで
おれが慌てなくちゃいけないんだ?ウンコなんかさっさとすればいいだろ」
「ああ?何?お前がゲリなのも俺のせいかよ。お前がゲリ漏らしそうなのはお前のせいだろ。
俺が自分のウンコを好きなだけするのにお前の指図は受けねえよ」
「何いこのクソ詰まりが!」
「何だとこのゲリ便野郎!!」
二人が掴みあいになったところで、近くにいた駅員と鉄道警察隊が中に割って入り、
漸く喧嘩?が止められた。
周辺の見物している人たちから笑い声が起こっている。
駅員と警察隊も実はすでに来ていたのだが、大の大人が「クソだ」「ウンコだ」と言い合う二人の罵りあいが
余りにもバカらしい内容なので、本当の喧嘩なのか判断がつかなかったのである。
どうなるかと思ったけど、やっと続きが読めました!
これからも期待してます!!
24 :
名無し物書き@推敲中?:2006/09/14(木) 09:27:59
朝から笑ったwwww
安心したよwwwww
続きが読めて本当にうれしいです!愛のシルエットさんありがとう!!!!!
これからも読みたいです。本が出たら買います(・∀・)実現キボン♪
愛のシルエットさん、もう本当の作家になっちゃいなよ。
これ見てる出版社の人がいたら、ぜひこのかたをスカウト(?)したってください。
(73)
「えー、あー、昨年は厳しい年でありましたが、諸君が一丸となって奮起して
戴いたお陰で無事、年を越えることができました。
そして、今年こそは我が社が一段と飛躍する年にしたいと思います。
その為には、常に、我が社の理念である、真心、愛情、丁寧をモットーに
より美味しく、より安全な食品を社会に提供し、今年こそ飛躍して・・・」
延々と続く、社長の訓示を真剣に聞いている職員は一部の幹部社員だけであり、
殆どの社員、そしてほぼ全部のパート・アルバイト社員は他のことを考え、
忍耐強く訓示が終わるのを待っていた。
年末恒例の全社忘年会が社長の都合でお流れとなり、新年早々、新年会を開く
運びとなったのである。
冒頭の社長の長たらしく眠けを催す訓示が漸く終わり、乾杯となった。
全社といっても、たかだか100人もいないのだが、社員は強制、パート・アルバイトなどの
非常勤社員はお年玉と称する金一封の寸志で釣り、成増食品の殆どの社員が出席していた。
「それでは、成増食品のより一層の発展を願って、カンパーイ!」
総務部長の音頭でいっせいに乾杯の声が響き渡り、あちこちで会話に乗ずるざわめきが
始まりだした。
「あーあ、毎年毎年、『飛躍の年』の繰り返しだな」
「全くだ。これで飛躍した試しがないもんな」
「俺の賞与は飛躍どころか低空飛行だよ、ハハハ」
「給料が飛躍してるのは上のほうだけじゃないか?末端は安い賃金でパートをこき使うから
しょっちゅう入れ替え入れ替えじゃないか」
「その方が若い子をどんどん入れ替えできるからじゃないのか?」
「せっかくいい娘が来ても、俺たちの給料じゃ養っていけないよな」
「全くだ。俺もそろそろ考え時かなー」
(74)
すぐ側の現場部門の若手男性社員の会話を耳にしながら、重男は1人、手酌で飲んでいた。
いつもなら、あちこちに周って酌をするのだが、今日はあまりその気になれなかった。
部長連中も、こんなうらぶれた中年社員に注いで貰っても嬉しくもないだろう。
それでなくても、側には綺麗どころの女子社員を侍らせているのだ。
もちろん、女子社員が幹部とはいえ小汚いオヤジ社員に酌をして面白いわけがない。
そのために、課長連中が事前にこっそり女子社員に商品券などの「わいろ?」を
渡して手なずけているのだ。
「部長、今度パソコン教室に通われているとか?」
「うむ、時代が時代だからな。流行のウインドウズも知らないんじゃ恥ずかしいだろう。
井桁君はやらないのか?パソコン」
「そうですねー、私なんかあのアルファベットが並んだ白い板を見ただけで
もう頭が変になりそうです。アレルギーみたいな物で」
重男が自分の額をペチペチ叩く。
「まあ、慣れだな。ウィンドウズ98とかいうのも慣れたら面白いぞ。
今のところ囲碁ばっかりしとるがね」
「おおーこりゃ凄いですなー。パソコン相手に囲碁のつわものが挑戦というわけですかー。
今度、部長と囲碁のお手合わせをする時には、もう逆立ちしても適わないかもしれません」
「なあにがつわものだ。井桁君も上手いなあ、はっはっはっ」
と言う話は昔のことだ。
今では重男も太鼓持ちをする気力も年とともに消えうせた。
最近は女子社員の綺麗どころを呼んで幹部の話し相手をさせるマネージャー?
みたいなことをして茶を濁している。
女子社員には商品券を積んで何度も頭を下げて、飲み会の時に部長連中の話し相手をするよう
頼んでいる。
部長連中は、自分に人望があるから入れ替わり立ち代り女子社員が酌に来るもんだと
都合よく思い込んでいる。
いい気なものだ。
(75)
「おい、課長特任補佐。呑んでるか?」
総務部長の城岩だ。側には課長の山下もいる。
「はい、まあ」
「なんか浮かないなあ、元気出せ。ほれ」
重男は注がれた日本酒を飲み干すと、お返しに総務部長の杯に注いだ。
「ところで、なんだな。どうだ、特任補佐になった気分は」
「はあ、別に・・・かわりません」
「そうだろうな。そもそも、そんな肩書きは我が社にない。だから給与も査定しようがない。
判るか?」
「はい、別に構いません」
「君は十数年前にうちに入社してるから、本来ならうちの山下みたいに課長になってもらっても
おかしくないんだがな」
重男は何となく、側の山下の顔が見辛かった。
なるほど、山下は大卒であり、新卒でここに入社してる。俺は高卒の上、他のお惣菜会社から
ここに中途で入ってきている。しかし、年齢は十以上離れてはいるがここでの年功は同じだ。
だが、それが会社というものであろう。
年功だけで昇進が決まるわけではない。
仮に重男が同じ年齢で山下と入社しても、結果は同じなのは明白である。
「ここだけじゃない。他所に行くと君のような冷や飯を食っている連中は多いぞ。
正式な課長のほかに、課長代理、課長事務取り扱い、担当課長とかいたり、
主任、主査、主務とかもうどれがいったい責任者なのか訳判らん」
「はあ、そうですね」
ここで、城岩は声を潜めた。
「井桁君、もうすぐ惣菜課長が辞めるからその時は君が正式に課長になれ」
そういうと、総務部長は山下を伴って去っていった。
(76)
重男は心臓が止まったかと思った。
お、おれが課長?するってーと、杉田課長は辞めるかもしれないのか?
このまま行けば俺は飛躍の年になるかもしれない!
思いがけない話に重男は何倍も日本酒を注いでは呑んだ。
「ぎゃははははは!」
おばちゃんパート社員たちの笑い声が座敷に響く。
女性社員たちは一度集団になると、途端にカラスの集団に成り下がる。
その合間を縫って縫って重男は外に出ようとしていた。
「あら、係長ー、ちょっと寄っていきなさいよ」
カラスの集団から声が掛かる。
運悪く、深海魚グループの側を通ってしまった。
客引きに捕まったら最後だ。
身包み剥がされる。
重男は手を振ってキャバレー深海魚の集団から逃れようとした。
しかし、フクロウナギというあだ名の深海魚の1人が重男の手を引っ張って、
地獄の中に無理やり誘い込んだ。
彼女たちは職場の管理者である重男を労うのではない。
「係長ー、いつもお世話様ですー、まあ一杯どうぞ。お刺身もありますよー」
すでに出来上がっている。
重男は観念した。
「係長ー、材料加工の出口の手洗いの水の出が悪いのよねー」
「それに夏の暑さ酷いわよー、冷房もっとちゃんとしてくれないかしらあ」
「休憩室の椅子ガタが来てるの多いと思わない?」
「時給が去年から据え置きなのどうしてれすかあ?」
「係長から上にいってもらってよー。女性はねえー、たち仕事が多いと足が
浮腫むんですよー。職員の健康ももっと配慮してってー」
(77)
出るわ出るわ、惣菜関係の女性社員の一年分の不満を尽く重男にぶつけるのだ。
毎度のことだが、重男はそれを全て受け止める羽目になる。
「ああ、これは困りましたねえ。ええ、私のほうから上に相談しますよー」
と、笑顔で心にもないことを口走りながら、重男は「これも仕事のうち」と割り切るしかなかった。
方法の体で座敷を脱出した重男は外の空気を吸いに出た。
一月半ばの外は寒い。
頭の中は色々なことが駆け巡っていた。
そういえば、さっきの惣菜課の女子グループに沢野さんがいなかったな。
あの人は体つきが目立つから、いればすぐにわかる。
金一封のお年玉もいらないくらい呑み会に興味がないのか、家の用事なのか・・・
それに、俺がもしかすると「課長」か・・・
課長になれば取引先にいっても対等の対応が出来るなあ。
しかし、佐知枝との話はどうする?・・・
小料理屋を継ぐとすると・・・
重男は先週の日曜日に千倉へ行き、佐知枝と逢って来た。
佐知枝の経営する小料理屋に招待され、お店の造りから商売のしくみをつぶさに
観察してきたのである。
佐知枝は相変わらず重男には好意的で、上にも置かぬもてなし様だった。
重男も少しは慣れて来たのか、今度は以前ほど緊張することもなく、普通の
会話が出来るようになってきた。
「実は、息子の裕也が東京から帰って来ているので会って頂けますか?」
重男は少々驚いたものの、いずれは紹介されるべきものであるゆえ快諾した。
佐知枝の息子は20くらいで専門学校に行っていると言ったがどんな男性だろう?
重男はまたも緊張する自分を感じていた。
(78)
佐知枝の自宅は小料理屋から歩いてすぐのところにある、こじんまりとした一軒家である。
促されて家に入り、佐知枝が「ユウ、ユウ、お客さんですよ」と声を掛ける。
中からは応答がない。
佐知枝と重男が家に入り、居間の中を覗くと1人の若者がテレビを観ていた。
「ユウ、紹介するね。この方が井桁さん」
しかし、若者はちらと重男の方を見るとすぐに目をテレビに向けた。
「井桁といいます。よろしく」
重男は名刺を取り出すと、若者の前に差し出した。
ユウという若者は、興味なさそうな手つきで名刺をつまむと。そのままテーブルの
上に放り出すように置いた。
「ユウ、もう少しちゃんと挨拶しなさい」
「・・・こんにちは」
何か取り付く島もなかった。
それよりも、重男は気が滅入るような思いがした。
ユウとかいう息子は、あちこち磨り減ったジーンズに耳にピアスをし、首からは
何やらチャラチャラした首輪みたいなのがぶら下がり、髪はばさばさにウェーブがかった
茶髪である。
重男はこういうタイプが苦手である。
苦手というより、このような若者と今まで相手をしたことがない、いわば、想像の世界の
人種なのである。
これから先、いったいどういう風にこの子と付き合っていけばいいんだ?
これが俺の息子になるのか・・・?
(79)
夕方に重男が東京方面に戻るために駅に行って、電車の待ち時間の間に見送りに来た佐知枝
と喫茶店で時間を潰した。
佐知枝の話題は息子の裕也のことばかりである。
「裕也は東京の専門学校に通わせているんですが、ちゃんと通っているのかどうか。
毎日心配で・・・」
「父親がいなくて私がお店に掛かりっきりで育てたもので、甘やかしすぎたかも・・・」
「東京で1人暮らしで大丈夫なのかどうか・・・」
等等、いかに佐知枝の心中が裕也に対する悩みで満ちているか、重男には重荷ともいえる
話ばかりだった。
「御免なさい。知り合ったばかりの人にこんな悩み事ばかりして・・・」
「いや、とんでもない。誰しも心に抱える悩み事はたくさんあるものです。
僕でよかったらいつでもお力になりますから・・・」
自分でも少しいいカッコし過ぎかなとも思いながら、千倉の駅を後にしたのだった。
それ以来、重男の腹の中には裕也のことが、重石になったかのように固まっているのだ。
「あらあ、係長ー、こんな所で何黄昏てるのよー。一服してるの?」
惣菜課のママさん事務員たちだ。
「お帰りですか?」
「そうよー、貰うもん貰えばもう用ないもんねー」
「ねー」
お年玉さえ貰えばすたこらさっさと言うわけだ。その気持ちは判る。
「あ、ところで今日、沢野さん来てなかったよね」
「あ、西の関脇?下の子供さんが風邪ひいたんだって。だからじゃない?」
風邪?そうか、心臓が悪いからちょっとした病気でも命取りになる恐れがあるからな。
親としては少しでも気を許せないんだろう。
また理恵という小学生の笑顔が目に浮かんだ。
オレが重男だったら、違う意味でやめるな。
息子よりも甘やかしている母親の方がいやだ。
(80)
翌朝、重男は二日酔いだった。
昼過ぎに漸く起きれるようになって、顔を洗って鏡を見た。
そこにはしょぼくれた中年のオヤジが写っている。
しかし、何だな。佐知枝さんはいったい俺のどこに魅力を感じたのだろう。
男前には程遠いのは間違いないしな。
でも、顔をこうやって引き締めれば、そう、こういう風にだ。
これならどう見ても真面目一本やりのサラリーマンに見えるな。
俺は賭け事が全然ダメだし、浮気するような甲斐性もない。
生真面目なだけしか取り得がない男だ。
いや、これが取り得と言えるのかどうか。
佐知枝さんは店を続けたがっていたから、本当に真面目に家を守ってくれそうな俺
みたいなタイプで良かったんだろうな、きっと。
重男は佐知枝の日本女性を彷彿とさせる着物姿を思い浮かべた。
そして、にこやかに夫婦で料理屋の客を相手にしている風景を想像した。
しかし、今の自分にあの息子と上手くやっていく自信は微塵もない。
これからが本当の勝負かな。
人生の転機がそうすんなりと上手く行くわけがない。
本当の俺の力がこれから試されるのだ。
もしこの機会を逃したら、俺みたいな男が二度と佐知枝みたいな女性と
まみえることはあるまい。
あの息子にしたって、遠くはなれた東京にいるんだし、しょっちゅう顔を見るわけでもない。
そんなに気にすることもないのかな。
そう自分に納得させると、重男は少し安心したのである。
(81)
二月に入ると一段と寒さも厳しくなった。
しかし、梅の花はそろそろ開き始める頃である。
この寒さももう少しの辛抱だ。
朝に夕に製造場所からオカズの匂いが、もわもわと漂って来る。
いつも同じ匂いを嗅いでいると少しゲンナリするものだ。
重男は小学校の時、給食の時間が嫌だった。
四時間目頃になると、校舎の調理室から給食の匂いが漂って来る。
昭和の時代に育った重男は給食のミルクは脱脂粉乳である。
不味いおかずと脱脂粉乳、そして食パンは評判が悪かった。
戦後、急激に増えた児童、そしてまだ成長期で財政の弱い日本の給食事情はまだ良くなかった。
その頃は、給食の残りは残飯として集められ、養豚場に運ばれてブタの餌にされていた。
ところが、ブタが残飯の中でなぜか食パンだけ残すという、養豚業者の投書が新聞に
載ったこともあるくらい、不味いパンを児童が食わされていたのだ。
地域や学校で味に格差はあるのだろうが、重男は匂いを嗅いだだけでもうお腹一杯
という感じで、毎日、味わうこともなく胃に流し込んでいた。
胃に流し込める男子なんかはまだいいほうで、小食の女の子などは全部食べられず、
しかし全部食べるまで先生は許さず、昼休みもそして五時間目まで給食を片付けられない子もいた。
その頃の思い出が残っていたのか、重男が食品調理会社に就職して美味いオカズを
作れるような仕事を選択したのも偶然ではないだろう。
「珍しいな、井桁君から呑みに誘われるなんて。初めてじゃないか?」
「いえ、ちょっとご相談したいことがありまして。ぜひ、先輩としての経験なりお知恵なり
をいただけたらと思いまして」
惣菜の杉田課長と重男は、会社の帰りに呑み屋の座敷で差し向かいに酒を交わしていた。
「で、何かな、相談って。あまり難しいことはなしだよ」
(82)
「ええ。課長のお宅はお子さんが二人でしたよね。上のお子さんは国立大を出られてもう
働いておられるとか」
「まあな。下の子が就職するまでもうしばらくの我慢だがな」
「そういう風に順風満帆に子供を育てられた課長が羨ましいですよ。
実はですね。知り合いに青年期で反抗期の息子がいて、父親としてその対応に
苦慮しているらしいんですよ。どうでした?子育ての先輩として。
私なんかこの通りですから、
子供のことはまるっきりな者でして・・・」
「そうか。子供が可愛いのは小学生くらいまでだからなあ。何でもはいはいと親の
言うことを聞いて・・・」
杉田はちびちび舐めるようにコップに口をつけて続けた。
「ところが、中学、高校と自分の世界が広がるに連れて、もう親の言うことなんか聞きやしない。
見かけと違って、俺も今まで何度親子喧嘩したことか。
子供とやりあって痣を作って会社に行ったことも一度や二度じゃない。
まあ、あれだな。それまでは子供にとって親が絶対権力者であったが、
社会を知るに連れてそうじゃないということがわかってくるんだろう。
徹底的に親を敵視してくるな」
「はあ、課長も随分苦労されたんですね」
「そうさ、どこの家庭でもそうだろうよ。自立する子供の反抗期には苦労してるさ。
もう親が力で子供を押さえつけることは出来ない。
大学になってからは、重要なことはカミさんを通してしか話をしない。
子供から見れば、俺なんか現金自動支払機くらいにしか思ってないんだよ」
「現金自動支払機・・・ですか。会社で汗水流す身としては辛いですね」
「そうだ。しかし、これはどうしようもないよ。子供というのはいずれ自立して親の元から
飛び立っていくんだからな。いつまでも小さな頃を懐かしがっても仕方ないんだな」
(83)
杉田課長はぼんやりと目を宙に漂わせて言った。
「結局は時間が過ぎるのを待つしかないんだな。
息子は地方の国立大学に入ってからは俺のことなんかバカにしてたぞ。
だがな、あいつは自分で働くようになって俺に対する態度が少しずつ変わってきた。
男が外で働くと言うことがどんなに大変なことか判ってきたんだろう。
家では偉そうにしていても、親父は外では惨めに頭を下げて屈辱に耐えながら働いている
という苦労を知ったからだろうな、きっと」
重男は何も言えなかった。
国立大に進学するような息子を持っていてもこんなに苦労しているのか・・・
時間が過ぎるのを待つしかない・・・か。
それまで辛抱強く待つしかない。
苦手な息子は遠くにいるし、俺は佐知枝と千葉の漁港町で小料理屋を静かに経営する、
これでいいじゃないか。
「俺はな、下の子が学校卒業したら焼肉屋でも開こうかと思ってる。もうサラリーマン
はうんざりだ。思い切って店の主ってのに賭けてみようかと思っているんだ」
「は?焼肉屋ですか?」
「ははは、口が滑ったか。まあ忘れてくれ。昔からの夢だよ夢」
そうか、忘年会の時に総務部長が耳元で囁いた、「杉田の後に課長になれ」と言ったのは
このことか・・・
しかし、俺もいずれは小料理屋で脱サラするかもしれないんだよな。
課長は時間が解決してくれるといったが、重男には時間がなかった。
つい先日、千葉の佐知枝から電話が掛かってきて、裕也の様子を見てくれないかと
頼まれたのだ。
息子の裕也が自宅のアパートに殆ど帰らない様子で、学校にちゃんと行っているのかどうかも
怪しい。
ついては少し意見してやってくれないかというものだった。
(84)
重男は気が重かった。
結婚を前提に付き合っているとはいえ、他人の息子の生活態度を改めさせることなど
出来るわけがない。
まして、裕也が一度しか会っていない重男の言うことなど耳を貸すわけがない。
しかし、佐知枝に何でも相談してくれと大見得を切った以上はもう後に戻れなかった。
重男は次の日曜日に、裕也の住所を尋ねて東京の中野にあるアパートに行ってみた。
昼過ぎに篠崎裕也と書かれた下手糞な手書きの表札の前にたどり着いたが、
戸をノックしても応答がなかった。
「留守か・・・夕方に出直すか」
重男は新宿や渋谷で時間を潰し、夕方にまた中野に戻ってきた。
ドアをノックする。
やっぱり返事がない。
はあ。時間の無駄だったか。
ドアノブを回してみた。すると、なんとドアが開いた。
なんだ、鍵が掛かってないじゃないか。
じゃあ、昼に来た時も開いていたのか?
くそっ時間の無駄だ本当に。といっても本人がいないんじゃ同じだが。
そっと中に入ってみた。
電気を点けてみたが誰もいない。
1人暮らしの男の部屋らしく、雑然としており、六畳の部屋には布団が敷いたままだ。
台所には雑誌やゴミがビニール袋にいっぱいに押し込められ置きっ放しである。
机の上の本棚を見る。
雑然と調理関係の教科書が並んでいるが、殆どは新品同様で、埃を被っていて使用された
形跡はなかった。
(85)
案の定だな。学校の勉強は殆どしてないようだ。
すると毎日何をしているんだろ?
ここは単なる寝蔵か?
ふと、畳を見ると端のほうに読みかけの新聞が無造作に広げられている。
「新聞くらいはちゃんと読むみたいだな・・・」
何気なく記事を見ると、「ふーん、湘南海岸で海開きか・・・って今は二月だろ!」
読みかけの新聞は半年以上そのまま広げられた状態だったようだ。
恐る恐る、新聞をどけてみると新聞の跡だけ畳みの色が変色していた。
あいつは一体何をして暮らしているんだ?
重男は今度は押入れを開けてみた。何だか捜索しているようで緊張する。
押入れの中には雑然と服やらダンボールやら小物やら詰め込まれていたが、
手前の方に銀色の塗料用みたいな缶がたくさん並んでいる。
「何々、トルエン?・・・。トルエンって・・・あいつ塗装のアルバイトでもしてるのか?
って違うだろう!!トルエンといえば、昔のシンナーに代わるあれだ!!」
「あんた、何してるんだよ!!」
(86)
「ひっ!」
重男の心臓が止まった。
いつの間にか裕也が帰っていたのだ。
「お、お帰り・・・」
「お帰りじゃないだろう!人の部屋でなにしてるんだと言ってるんだよ!」
重男は額に汗が浮かんできた。
「い、いや、君のお母さんに頼まれて君の生活状態をだな。様子を探り・・・いや
見に来ただけだ」
「母さん?余計なお世話だな。帰ってくれ」
「いや、そういうわけには行かない。君は学校はどうしてるんだ?この溶剤は何なのだ?
千葉にいるお母さんに心配掛けてなんとも思わないのか?」
重男は矢継ぎ早に裕也に言葉を浴びせた。
間合いを置くことができないのが重男の力量の限界である。
裕也は黙って重男を睨みつける。
「君はいったい、毎日何をしてるんだ?もし、悩みでもあるなら僕に・・・」
「うるさい!!!」
裕也が怒鳴る。
「なあにが、相談だよ。どこの誰とも知らないような奴が偉そうに。とっとと帰れ!」
「いや、帰らない。君が生活態度を改めると誓うまではな」
「じゃあずっとここにいろ」
裕也は出て行こうとした。
重男は作戦を誤ったのに気付いた。
「ま、ま、待ってくれ。どこに行くんだ。ここで話会おうじゃないか。話せば
君の問題も解決するかも知れないぞ」
裕也は蔑むような目つきで重男を見ると、
「その年で結婚も出来ずに、ちんけな会社でペーペーのリーマンやってるおっさんが
何を偉そうに相談相手になるなんてほざいているんだよ」
(87)
重男は頭がカッと熱くなるのを感じた。
「な、な、お前に何が判る!ちんけな会社で悪かったな!俺は確かに大きなことは
何も出来ないが、これまで真面目に勤め上げてきたんだ。お前にどうこう言われたくない!」
しまった。
裕也を諭すために来ているのに喧嘩をしてどうなる。
裕也は黙って部屋を出て行った。
重男はしばらく、部屋で待っていたがとうとう裕也はその晩部屋に戻ってこなかった。
重男はしばらくはこのことが気に掛かって、仕事にも集中できない日々を過ごした。
佐知枝の方には裕也があまり学校に行っていないことは連絡したが、トルエンが
押入れに隠してあったことは伏せた。
今のうちに何とかしなければ・・・
重男にはいい案が浮かばない。
数日後、またもや佐知枝から電話が今度は職場に掛かってきた。
「裕也が裕也が・・・」
佐知枝は泣いている。
「警察に捕まったらしいの。お願い、井桁さん警察に行って貰えない?身元引受人が
いないと出られないらしいの」
やれやれ、またもや裕也か・・・。前途多難だな。
重男は体調が悪いという嘘をついて会社を早退し、裕也が留置されているという
渋谷の警察署に行った。
ふと思った。なぜか、この作品では好青年、美人キャラには感情移入できない俺ガイル
楽しみに待ってます!
45 :
名無し物書き@推敲中?:2006/09/19(火) 00:47:58
佐知枝さんには確かに感情移入しにくいw
重男に迷惑かけるなよ・・・としか思えんww
まったく、整ったキャラがすごく味気なく見えるw 人間味の調味加減抜群!
これはシルエットさんの素晴らしい文才のおかげだな。
爽快でいて且つ続きが気になってしょうがない後味・・・イイ!
なんだ作者の自作自演かー。がっかり。。
49 :
名無し物書き@推敲中?:2006/09/19(火) 17:06:36
>>48 シーッ!
ダメダメ、かまっちゃw
どーも、作者さんの人気っぷりが気にくわないヤツがいるみたいw
(88)
ま、まさかトルエンの密売で捕まったんじゃ・・・
しかし、重男の心配は杞憂に終わった。
「ははは、大した喧嘩じゃないんですがね。まあ、仲間同士の内輪もめですな。
最近、ここらで若者どうしの縄張り争いが頻々と起こっていますしね、オヤジ狩り
の強盗とか未然に防ぐためにも、警察も神経を尖らせているんですよ。通報した
商店街の人も商店の看板を幾つか壊されてるんですが、弁償さえしてくれれば
被害届も出さないと・・・」
警察の担当者は重男にそう説明した。
喧嘩も双方とも事件になるほど傷害はなく、暴行程度だったため起訴もされないらしい。
裕也を引き取った重男はタクシーで中野に向かった。
気詰まりな二人は車の中でも無言だった。
アパートに着いた。
部屋に入ると裕也は疲れたように寝転んだ。
「今日は大変だったな。まあゆっくり休め」
重男が話しかけても無言だ。
「渋谷によく行くのか?」
「関係ねえよ」
取り付く島もない。
そもそも身元引受人として、わざわざ署まで身請けに行ったのに礼の言葉すらない。
「俺の想像なんだが、あの溶剤はもしかして売ってるのか?」
「・・・」
「渋谷で売りさばいているんだな?」
裕也が目を光らせて重男を睨む。
(89)
「関係ねえだろう」
「お前、そんなことしてお母さんに・・・」
「うるせえつってんだろう!!!」
裕也は寝転がったまま、重男に背を向けた。
重男は黙って部屋を出た。
そのまま通りまで出ると、近所のコンビニに行って食べ物をたくさん買い求め、部屋に戻った。
部屋を覗くと、裕也はさっきと同じ姿勢のまま目を閉じて寝息を立てていた。
そっと、顔を覗くと涙が流れた跡がある。
重男はしばらく裕也の顔を眺めていたが、冷蔵庫の中やテーブルの上に食料を並べると、
ついでに財布から一万円札を何枚か出して置き、アパートを後にした。
裕也の奴はどうしたものか・・・
それからも相変わらず重男は悶々とした日々を過ごしていた。
佐知枝に会いに行きたいのだが、このままでは裕也の問題ばかり話しに出るのは
間違いなかった。
「何だか、俺と佐知枝の関係って裕也の相談相手でしかないな・・・」
事務所でぼんやり書類を眺めていると、惣菜の女子社員が飛び込んできた。
「係長!沢野さんが倒れちゃったんです。すぐ来てください!」
「な、何い!」
(90)
重男が製造部門に駆けつけて見ると、沢野が運搬のトレイを放り出して倒れていた。
トレイ三つ分のオカズパックが散乱している。
この人、こんなに一度に運んでいたのか?普通の女ならトレイはひとつづつしか運ばないぞ?
「救急車は?」
「もう手配してます」
女子社員が代わるがわる沢野に声を掛けたり揺さぶっているが、沢野はピクとも動かなかった。
追っかけ杉田課長や総務の連中もやって来る。
「どうした」
「さあ?気絶してるみたいですが」
「取りあえず、納品に間に合うよう他の従業員は作業について!井桁君は女子事務員と一緒に
病院まで行ってくれ」
「はい判りました」
やがて救急車が到着した。もちろん隊員だけの力では沢野をストレッチャーに載せるのは
容易ではなったので、その場に居合わせた男たちが手伝って車内に運んだ。
救急車の中で酸素吸入を受けている最中に沢野は気がついたようで、意識もはっきり
してきた。
やがて、救急病院に着いたときには沢野はもうすっかり意識を取り戻しており、
もう大丈夫と言い張ったが、重男は念のために検査を受けさせた。
沢野はトレイを運んでいる最中に急にめまいがして気を失ったらしい。
本人はちょっとした貧血だと思っているようだった。
(91)
「すみません。関係者の方いますか」看護婦に呼ばれた。
「はい」
といって、重男は沢野の介護は女子事務員に任せ、ひとり診察室に入った。
沢野はすでに待合室へ戻っている。
医師が椅子を回して重男に向き合った。
「あなたはどのようなご関係で?」
「職場の上司ですが」
「患者さんのご家族と連絡は取れますか?」
「はあ。本人の両親はすでに他界しており、兄が市内にいるらしいですが」
「そうですか。ではご本人にお伝え下さい。今回のめまいは過労によるものだと思います。
しかし、念のために精密検査をするようにと」
「どこか悪いのですか?」
「いえ、ここでは精密な検査をする機械がないので何とも言えないのです。
血圧と血糖が高いようですね。それだけが原因とも思われないので、他でまた検査したほうが
いいと思います」
「はあ、精密検査ですか・・・」
重男は沢野に過労によるめまいであるということ、そして精密検査を受けた方がいいこと
など説明した。
「確かに川崎に兄夫婦がいるんですが、心配は掛けたくないので・・・」
「でもほかに身寄りってないんでしょう?仕方ないよ、こういう場合なんだから」
「今まで散々世話になってきたからもうこれ以上は・・・」
沢野は自分の兄夫婦に連絡を取ることを嫌がった。
重男は仕方なく、沢野に精密検査を受けることを約束させた。
沢野は沈んだ顔で頷いていたので、取りあえずその日は自宅に帰らせた。
(92)
沢野さん、ちゃんと精密検査受けるかな・・・
沢野さんも子供の手術が目前に迫っているし、問題山積だな・・・
沢野のことをぼんやりと考えているその時、重男の脳裏に閃くものがあった。
「あ、そうだ!もしかしたらこれがいいかも!」
次の週末、重男は夜の渋谷の街を徘徊していた。
土曜日は不発だった。
しかし日曜日の晩に見つかった。
渋谷駅から井の頭通り沿いに放送センターの近く、代々木公園前の公園だった。
重男の苦手とする奇抜な格好をした若者の中に裕也が混じっていた。
重男は足が震えた。まったく、こういう場面に自分は向いていないのだ。
何の因果でこういう場所に来なきゃならんのだ、全く。
重男はしばらく躊躇したが、わずかに残る勇気を絞って足を踏み出した。
裕也のいるグループが近寄ってくる重男を見ている。
重男は裕也を見据えた。
「裕也、もう帰りなさい」声が震えている。
裕也があっけに取られた顔で重男を見た。
他の男たちが口を開く。
「何だ?お前。ぽち(警察)の関係か?」
「い、いや、関係ない。保護者だ」
「おい、ユウ。お前の親父かよ」
「ざけんな。知らねえよ、こんな奴」
裕也は怒りのこもった声で答える。
「いや、俺は君の保護者だ。君が家に帰るまで君を見張る」
一瞬、間を置いて裕也の周りの男たちが声を挙げて笑った。
「何だこいつ」
「あははは、見張るってさあ」
(93)
「ねえ、あんたさあ、どこのおじ様あ?若い男欲しいのお?」
暗がりでも判るくらい香水と化粧の濃い、痩せた男が重男に寄ってきた。
しぐさが実に気味が悪いくらくらい、なよなよしていた。
ゲッ、オカマかゲイか?
重男はたじろいだ。
「裕也、もう帰れ。こんなところは君の・・・ぎゃああああ!」
ゲイのような男がいきなり重男の股間を鷲掴みにしたのだ。
重男の男根と睾丸が男の手の中で握られていた。
「うわ、うわ、放せ、は・・な・・せ・・・」
男は無言で次第に握力を強めてくる。重男は想像を絶する痛みに言葉が出なかった。
周囲の男たちは爆笑している。
「ねえー、潰れたらどうするー。一個くらいいいかなー」
こ、こいつ、気が狂ってる。気違いだ。
重男は男の腕にしがみつきながら気が遠のきそうになった。
漸く男?は重男の股間から手を離した。重男は痛みのために額に汗が噴出した。
「おい、テルより女の方がいいんじゃないか?こいつ。サッチー連れてこいよ」
他の男がいうと、誰かが走り出していた。
「おっさん、好みの若い子用意するからよ」またみんなが笑った。
漸く、股間の痛みから回復してふらふら立ち上がった重男の前に、今度はヒラヒラした
ロリータファッションの女の子が現れた。
一見、綺麗な衣装で若い娘を思わせたが、「おじさーん、あたしと遊ぼうー」と
近づけてきた顔を見ると重男は目を背け、逃げようともがいた。
前歯はところどころ抜けて口臭が酷く、化粧は厚く、目だけ大きさを強調するような
彩である。
(94)
接近した顔にははっきり、幾本もの皺が刻み込まれている。
明るいところで見たらどんな男も逃げ出すのではないか?
間違っても男性の男根を縮こまらせこそすれ、屹立させるような女性ではなかった。
「おっさん、これでもサッチーは二十代だぜえ」またみんなが爆笑する。
「三枚でいいから遊ぼうよー」
サッチーとかいう女は重男の服にしがみついて手を離さない。
「は、離せ。金なんか出せるか!」
重男が手を振りほどこうとしながらいう。
「何だってー!!」
途端に、サッチーは重男の服を掴むと股間に膝蹴りを食わせた。
「ぎゃっ!」
ま、また金玉が・・・。
今日は重男の睾丸は災い続きである。
重男は前のめりに地面に膝まずいて股間を押さえ、呻いた。
しばらく唸ったのち、漸く気がついてみると、裕也のいたグループの姿はいつのまにか
いなくなっていた。
数日後、重男は東京の取引先に出向いたのをこれ幸いとし、そのまま直帰扱いにした。
そしてそのまま夕方、裕也のアパートに向かった。
どうも、裕也は土日の夜は繁華街に出向いているようなので、平日なら夕方は自宅にいるだろう
と踏んだのだが、当たった。
(95)
裕也はドアを開けると、重男の顔を見てうんざりした顔になった。
「またあんたか・・・」
「ちょっと近くまで来たんでね」
重男は構わずずかずかと部屋に入り込んだ。
裕也も舌打ちをしながら付いてくる。
重男はテーブルに座ると、買ってきた珍味と缶ビールを裕也に勧めた。
「君はああいう仲間と一緒にいて面白いのか?」
裕也は憮然とした表情で答える。
「どうでもいいだろう、そんなこと」
「良くはない。これから先どうするつもりだ?一生こんな毎日で済むわけがないだろう?」
「・・・・」
「君は本当は何がしたいんだ?何をやりたい?」
「判らねえよ。そんなこと」
「取りあえずはあの仲間から抜けないか?」
裕也は重男の顔を見た。
「今更そんなこと出来ねえよ。ヘッドには世話になっているし、おまけにバックには
組が付いてるんだからな」
組?暴力団か?
ただのチンピラの集まりじゃないんだ・・・
重男は自分が知らない世界に足を踏み入れようとしているのに気付いた。
組と聞いて重男も黙り込んだ。
「あんた、甘いね。確かにトルエンは小瓶で売ってるんだよ。結構いいアルバイトだよ。
だけど、今まで稼がせて貰ったのに簡単に辞めますなんてことで済むわけないだろう」
裕也は顔を伏せた。
「学校なんて面白くねえし、かといって今更リーマンなんて鈍クセエのやりたくないし」
(96)
「サラリーマンをバカにするな!地道に生きると言うことがどんなに大変なことか
お前にわかるか!確かに地味だけどな、それなりに意味があってみんな働いて
いるんだ」
重男の口調に力が入った。
「あんた、偉そうなこと言うけど、そのリーマン辞めて母さんと小料理屋やる
つもりなんだろう?なんでリーマン辞めるんだよ」
「あ、な、そ、それは・・・」
途端に重男はしどろもどろになる。
「辞めるといってもだ、これまでの地道に積み重ねてきた経験があってこそだ。
小料理屋にそれが生かせるのも、今までのサラリーマンを続けてきたからこそだろ」
なんだか説明になっていない。
重男はビールを呷って誤魔化した。
「しかし、あんたも物好きだね。あんな借金だらけの店を手伝うっていうんだから」
重男はビールを噴出しそうになった。
目が一瞬、ギャグ漫画のキャラクターみたいに左右が上下逆に向いたような気がした。
借金?借金?しゃっきん!!
そんな話聞いてないぞ?、何それ?
しかし、重男は動揺を悟られまいと必死に自分を抑えた。
「そ、そりゃあ、多少の借金があるのは仕方ないさ。そのためにも、僕と君のお母さんが
協力して頑張って返していけばいいのさ。今でもお客は結構いるらしいし」
「そうかあ?一千万もの借金なんてそう簡単に返せるのかなあ?俺はてっきりもうお店は
閉じるんだと思ってたけどなあ」
(97)
「ブハッ!」
重男はついに鼻からビールを噴出した。
い、いっせんまーん?一千万!
どういうことだ?これは。
佐知枝さんは小料理屋の借金が一千万もあるなんて一言も言ってなかったぞ?
重男は膝や畳のビールをハンカチで拭きながらも、今度ははっきりと膝が目に
見えるように震えるのがわかった。
「な、な、な、そんな馬鹿な!それじゃ俺は・・・」
カモネギだったのか・・・?
佐知枝のような美人が俺との話に乗り気だったのは、あくまで店を守るため・・・?
挙句にこんな不肖息子まで抱えて。
そうか、だからあんなに美人なのに後家さんが長かったんだ。
誰でも借金付の後家さんじゃ逃げるわな・・・
裕也が重男をじっと見る。
「あんた、借金があってもあの店手伝うんだろう?」
重男は爆発しそうになる自分を必死に抑えた。
こんな話はご破算だ。俺はもう止める!!といいたかった。
しかし、ここで俺がケツまくれば、裕也はどうなる。
もう誰もこいつを助ける人はいなくなるぞ・・・
そして佐知枝さんだって店が潰れる・・・
もう俺は動き出したんだ、今更止めることはできない。
(98)
重男は歯を食いしばった。
「もし君が今の状態を変えたいと言うのなら俺は協力するぞ」
裕也は重男を見て寂しげに笑った。
「ふふ、出来るわけないよ・・・」
その日の帰り道、重男は悄然とした表情で歩いていた。
佐知枝が自分に積極的に近寄ってきた理由もわかった。
俺の貯金や退職金を店の借金返済の当てにしたんだろう。
そして今までの従業員を辞めさせて、俺を店に入れれば人件費も浮くし、店は安泰というわけだ。
そして男親として息子のために力になってほしいというわけか。
あの親子にとってはいい話だろう。
でも、もし、今俺がここで佐知枝との話を放り出したら、裕也はどうなる・・・
数日後、重男は今度は二人の男を伴って裕也の部屋に訪れた。
今度は裕也はいなかった。
重男は構わず部屋に入り込むと、裕也の部屋の押入れを開けてトルエンの缶を全部引き出した。
そして、連れの男たちと一緒に全てのトルエンを車に積み込むとそのままどこかに消えた。
その晩、案の定、裕也から重男の自宅に電話が掛かってきた。
「おい、あれどこに隠した?」
「いきなりおいはないだろう。母さんにここの電話番号聞いたのか?」
「そんなことはどうでもいい、あれがないと俺がどうなるのか知ってるのか!」
裕也の声は切羽詰っていた。
>>51他
作者さんが何かの機会に整理するだろうけど。
「沢野さん」は「杏子」のことだよな?
62 :
61:2006/09/20(水) 00:17:53
失礼、↓
-----
地の文の「沢野」は「杏子」のことだよな?
63 :
名無し物書き@推敲中?:2006/09/20(水) 02:03:43
>>49 フォローありがとう。アンチもきてるみたいだから感想はなるべく控えるよ。
シルエットさん、感想書けなくてもいつも楽しみに読んでいるから!(・∀・)
私も楽しみです。応援カキコ(・∀・)
66 :
名無し物書き@推敲中?:2006/09/20(水) 20:20:23
ニヤニヤ
67 :
名無し物書き@推敲中?:2006/09/21(木) 09:05:57
始めの印象と違って重男イイ男!
続き早く読みたいです!!
まだ続きなかった…
作者サン忙しいのかな?
無理しないでくださいね!
気長に待ってます(`・ω・´)
71 :
愛シル作者:2006/09/25(月) 09:00:38
作者多忙につき、続編は十月からとなります。すみませんが、いましばらくお待ち下さい。
72 :
名無し物書き@推敲中?:2006/09/25(月) 17:15:17
待つッス!!!
wktk
74 :
名無し物書き@推敲中?:2006/10/01(日) 03:08:21
10月突入期待あげ
この一週間で子供産んじゃったよ…
退院したら早く続き読みたいです。
76 :
名無し物書き@推敲中?:2006/10/01(日) 16:38:43
>>75 ゜・:,。★\('ー'*)♪才×〒"├¬♪(*'ー')/★,。・:・゜
(99)
しかし、重男は落ち着き払って答えた。
「心配いらんよ。しかるべきスジを通してあのトルエンは元の持ち主に返したんだ」
「か、返したって?蛇の目組にか?何でそんなことが出来る?」
「ほう、蛇の目組っていうのか?お前のグループの元売は」
「う、関係ねえだろ!」
「ちゃんとスジを通したてるから心配はいらないよ。もう君は渋谷に行く必要もない」
裕也の声のトーンが下がってきた。
「本当にか?本当なんだな。どうしてあんたがそんなことが出来るんだ?
渋谷の組関係で知り合いでもいるのか?」
「まあ、そんなところだ。二度と関わりは持ちたくないがね」
重男は電話を切った。
「もう少し、あの二人に世話になるかな・・・」
重男は安心したようにつぶやいた。
それからしばらく裕也は渋谷に行かなかった。
確かに渋谷のグループの奴らからは裕也のところに何も言ってこない。
本当に、上の組の方に話をつけてあるのか。
このまま、渋谷に顔を出さなければ俺は絞められるぞ。大丈夫なのか?
どこかに逃げた方がいいんじゃないか?
悶々とそんなことを考えているある日、玄関の前に二人の男が現れた。
背の高いがっしりした中年の男と、小太りで頭が簾になりかかったおっさんだ。
(100)
「はい、こんにちは」
「はい、あの、どなたです?」
「ちょっと一緒に来てもらおう」
裕也は身構えた。
トルエン売りから身を引いた自分に何かの手が回ったのかと思ったのだ。
「いやいや、心配要らないよ。そういうもんじゃないからさ」
小太りの簾頭が言った。
「君にちょっと見せたい物があってさあ。会社訪問だよ」
「か、会社訪問?何それ」
「まあいいからいいから、見るだけ見て損はないよー」
小太りはおどけたように言うと、裕也を車に案内した。
背の高い方は車を運転し、助手席の簾頭が裕也に話しかけた。
「あんたの持っていたトルエンはうちの上のほうが、
猫目組にスジ通して返したから心配ないよ」
裕也は仰天した。
裕也の所属していたチンピラグループは、さらにそれを統括するヘッドを蛇の目組の末端が
管理していた。
猫目組といえば、その蛇の目組のさらに上部団体でチンピラグループからすれば
雲の上の存在である。
昔はともかく、今は組関係は学生相手に売りつける有機溶剤ごときに直接手は出さない。
組とは無関係のチンピラのリーダー格を手なずけて、その仲間に売らせるのだ。
あくまで陰で資金を提供し、溶剤の入手先を紹介するだけである。
だから仮にチンピラが警察に挙げられても、組は一切無関係で通す。
だが、後ろで糸を引いているのは間違いない。
裕也でさえ知らない上部団体の猫の目組に口が利ける?
この人たちはいったいどういう組織の人なんだ?
(101)
「誤解しないように言っておくけど、俺たちの会社は普通に商売している会社だから。
会長がちょっとそのスジと知り合いだと言うだけだからね」
そうだろうな。
この簾頭がスジものに見えないもんな。
ただのオッサンにしか見えない。
しかし、話の通り蛇の目組からトップダウンで話が行ってるのなら、
もう俺はどうどうと渋谷の街も歩けるわけだ。
裕也はほっと胸を撫で下ろした。
それを見透かしたように、背の高い方が言った。
「当分は渋谷には顔を出さないほうがいいな。上の方で話がついてもチンピラ共は
きっとお前を許さないと思うからね」
まあ、そうだろうな。
当面は夜の渋谷は控えるか・・・
裕也はともかく自分が夜のバイト?から縁が切れたことを実感したのである。
三人の乗った車は、東京湾を右手に見ながら湾岸高速を経由して東京と千葉の境まで来た。
やがて、車は高速から降りてビル街のある建物に入っていく。
裕也はどこにいくのか見当もつかなかった。
「あの・・・ヤマさん。どこに行くんですか?」
車の中で「タケ」「ヤマさん」と二人が呼び合っていたので、裕也はヤマさんと
言われていたほうに声を掛けた。
「ビルの解体現場だ。うちが下請けで解体や搬出処理を請け負ってるんだ」
車はやがて正門から巨大なビルの懐に入っていく。
(102)
「ここで降りろ」
ヤマは言うと連れを促し、プレハブの作業小屋みたいなところへ向かった。
裕也が見回すと巨大な古いビルが半ば壊されているところであった。
見たことも無いような巨大な重機がビルを破壊し、残渣を集め、運搬車が運び出している。
「これを被れ」
ヤマに渡されたヘルメットを被って三人は、解体現場に近寄っていった。
裕也は初めて見るビルの解体シーンに目を見張った。
クレーンの先端から振り子の様に巨大な鉄球がぶら下がっており、その鉄球を反動をつけて
コンクリートの壁にぶち当てていた。
巨大な鉄球が壁に当たると,頑丈なコンクリートが轟音と共にいとも簡単に割れて崩れ落ちる。
そして巨大なショベルカーが瓦礫を掬い上げる。
ブルトーザーが瓦礫を寄せ集める。
圧倒される威圧感がそこにはあった。
「どうだ、迫力あるべ」
ヤマから声を掛けられても裕也は言葉も出なかった。
街中での解体作業なんてシートで覆われて外からはなかなか見ることは出来ない。
間近で見ることなどついぞ経験したことが無かった。
「あの・・・・。あれはなんという機械ですか?」
裕也がさっきから食い入るように見ていた重機は、まるでロボットを思わせるものだった。
「ああ、あれはクラッシャーとかいっていたな。凄いだろ、あれは何でも食いちぎるぜ」
ヤマが言うとおり、その重機は先端が巨大な蟹のハサミのような形状をしており、
鉄筋だろうがコンクリートだろうが、轟音を立てて食いちぎっていた。
まるで、肉食の恐竜が獲物に食らいつくようなその様はいつまで観ていても飽きない。
「凄い・・・ですね。本当に凄い・・・」
(103)
裕也はじっと見つめていた。
ヤマは言った。
「お前、料理学校に行ってるとか言っていたけど、もしかしたら料理は余り好きじゃないんじゃ
ねえのか?」
裕也ははにかむようにしながら答える。
「はあ、母親が実家の小料理屋を継げと昔から言うんで行っていたけど・・・
ああいう狭い部屋でチョコチョコやるのは性に合わなくて・・・」
「だったら一度、うちの会社みたいな外でやる仕事でやって見ねえか?」
裕也はぎょっとした。
「ええー。いきなりそんな。出来るかどうかもわからないし・・・」
タケが口を挟んだ。
「出来るかどうかはお前次第だろ。やる気があれば出来るし。なければ出来ない」
ヤマも頷く。
「こんなこというのは何だけど、自分に向いてないと思ったらスパッと諦めて
別の道を探せばいいんさ。
俺たちも、お前くらいの年の頃は何をしたらいいのか判らずにうろうろしていたもんだ。
なあタケ」
「ははっ。確かにそうですね。俺たちの口から、辛抱して続けろなんて
偉そうなことは言えませんよね」
「そうだ。若いからこそ色んなことを試してみる価値はあるんじゃねえのか?無理に続けろ
なんてことは言わねえよ」
(104)
次第に裕也の顔が上気してくる。
「あの・・・・。あのでかいクレーン車って俺でも操縦できるんすかね」
「ああ、大型特殊の免許さえ取れればな」
「ああいう大きな機械操ってみたいです・・・」
「それはお前次第だ。頑張って免許さえ取ればすぐにでも操縦できるさ」
裕也が小さく頷いた。
「あの・・・俺、やってみます」
「でも、お前本当にいいのか?うちの会社は一箇所だけテナントビルも経営してるから、
売り場の店員とかだってやれるんだぜ?」
ヤマが念を押した。
「いえ、俺・・・人間より機械相手のほうがいいです。人間は難しいから・・・」
タケが安心したように言った。
「じゃあ、ヤマさん、一旦本社に戻りますか。これから先は裕也君はアパートを引き払って
うちのどこかの寮にでも入ってもらうことにして」
「そうだな、千葉の最終処分場(産業廃棄物の埋め立て地)に寮があるし、
本人がその気なら、そこから大型の教習所に行けるし。まあうちの専務とじっくり
話あってみろや」
三人は夕日の照らす解体現場を後にした。
愛のシルエット 三部 完
83 :
名無し物書き@推敲中?:2006/10/02(月) 08:44:15
待ってましたー!
愛のシルエットの作者さん、いつも楽しく読ませて貰ってます
続きを読みたいと思わせる能力がとても長けてると思います
丁度区切りがついたようなので、前から気になっていた事を言わせて下さい
>そのために、課長連中が事前にこっそり女子社員に商品券などの「わいろ?」を
>渡して手なずけているのだ。
>最近は女子社員の綺麗どころを呼んで幹部の話し相手をさせるマネージャー?
>漸く男?は重男の股間から手を離した。
>裕也はともかく自分が夜のバイト?から縁が切れたことを実感したのである。
上記の様に「?」を使われると、読む勢いが止まってしまいます
「?」を使わない作者さん独自の言い回しを読みたいです
あくまで、いち意見ですが
85 :
名無し物書き@推敲中?:2006/10/02(月) 23:04:25
>84
「?」のかわりに「のようなもの」にしたらいいのかなー。
誤字訂正とかは出版のときでいいんじゃないの?
愛のシルエットさん、いつもありがとうございます。
うるおいのない日々の数少ない楽しみです。
第四部、待っています。
なぜ浮気をしてしまうのかが気になります。
(1)
「井桁係長ー。正門のところにお客さんがお見えのようですよー」
総務の女子事務員が惣菜課に来て言った。
「あー、今行く。でもなんで外なんだ?応接空いてないのか?」
「お客さんが外で待つからって・・・」
「ふーん誰かな?」
「なんかいけ好かない簾頭のおじさんよ。嫌らしい目つきでじろじろ胸元見るのよー
係長も変な知り合いばかりね」
「簾頭?あ、わかったわかった」
簾頭に嫌らしい目つきとくればヤマさんしかいない。
やれやれ。
課長特任補佐とは名ばかりで、未だにみんな「係長」としか言わないな。
この前は名付け親の部長本人が俺のこと「係長」なんて呼んでいたからな。
結局、名刺だけか、課長特任補佐というのは・・・
などと考えながら、重男は正門を横切って構内から外に出てみた。
自家用車が塀に横付けされて、その前に三人の男が立っている。
「ああ、ヤマさんとタケさん」
と重男は言いかけて、目を見開いた。
ヤマとタケの前で、現代風の白っぽい作業着を着て立っているのは・・・
「君・・・。裕也君?」
裕也が頷いた。
「はい、この度は井桁さんに大変お世話になりました」
重男は声が出なかった。
(2)
何という変わりようだろう。
裕也は以前の茶色に染めてウェーブの掛かった長い髪を、さっぱり落としスポーツ刈りに近い
頭に変貌していた。
それだけでなく、指輪や重男の忌み嫌うピアスも顔面や耳から無なっている。
真新しい作業服がまぶしかった。
「え、あ、あの、どうしたの。その格好」
重男は裕也の変貌の意味が判らなかった。
ヤマが笑い顔で前に出てきた。
「井桁さんには言わなかったけど、裕也は今度うちで働くことになったから」
ヤマは裕也の背中をぽんと叩く。
「ま、どこまで行けるか判んないけどさ。本人がその気みたいだし、しばらく預かるよ」
裕也も笑顔で頷きながら言った。
「ヤマさんとタケさんに仕事の方を紹介されて、考えたんですけど、自分の力でどこまで
やれるか頑張ってみようと思うんです」
重男は声が出なかった。
これが、いつもあのふてくされてた裕也か?
投げやりにしか返事の出来なかった裕也か?
「が、頑張ってみるって、そんな優等生みたいなこと言っても、世の中厳しいぞ」
「はい、それは覚悟しています」
「で、何をするんだ?ヤマさんの会社で」
「はい、取りあえずあちこちの現場で解体や収集の手伝いしながら大型特殊の免許を
取ろうと思っています。免許取るまでは給料は少ないらしいけど、社員寮で飯も出るので
1人で生活できます」
(3)
裕也の返事も前と違ってはっきりした話しぶりである。
社会人としての一歩を踏み出したわけか・・・
重男の声が鼻詰まり声になってきた。
「そうか、大変だけどな、力一杯やってみろ。なーに、もし自分に合わなかったら
また別の道探せばいいし、とにかく自分の力を試すってことは必ず君のためになる」
裕也が笑う。
「ははは、井桁さんもヤマさんたちと同じこと言うんですねー」
「そうかあ?」
ヤマとタケも笑っていた。
ヤマが「じゃあ、後は任してくれ」といって裕也を促し車へと戻ろうとした。
その時、裕也が重男の前にさっと寄ってきて、重男の顔をじっと見て言った。
「あの・・・、井桁さん。母をどうかよろしく頼みます」
そういうと深々と重男の前で頭を下げた。
重男は一瞬戸惑ったが、静かに答えた。
「ああ、判った。君のお母さんのことは心配するな。君は自分の仕事に専念していいよ」
裕也はもう一度、重男に頭を下げると車に戻っていった。
遠ざかる車を見つめながら、重男は目が霞むのを感じた。
手探りでポケットのハンカチを出そうとしたが、まごつく間に重男の頬には幾筋もの
涙が伝わり落ちたのだった。
作者より
二部、三部において、スーパー花輪のエピソードが挿入されていますが、
あくまで作者の創作であり、現実にこのようなことが行われている
ことを示唆するものではありません。
その他、記述上のご指摘ありがとうございます。
これからもよろしくお願いいたします。
(4)
話は数週間前に遡る。
その日、杏子はそれぞれパックに詰めた惣菜を並べたトレイを運搬車の所に運んで、
パックを全て渡すと空のトレイをまた持ってくるという作業を繰り返していた。
その日は昼頃からめまいを感じるようになり、午後になって足がもつれたなと感じた時は
もう意識が無かった。
綺麗な高原だった。
見渡す限り緑の草花が広がっている。
理恵がすぐそこでしゃがんで遊んでいた。
ふと、理恵が顔を上げる。
「お母さん・・・」
杏子が答える。
「理恵、どうしたの?」
なぜか理恵が怯えたような顔つきになった。
「お母さん、お母さん、どこに行くの?どこに行くのー」
「理恵、ママはここよー」
杏子が理恵の下に駆け寄ろうとするほど、なぜか、理恵がだんだん遠ざかる。
どうして理恵が遠ざかるの、私はここにいるのに。
「理恵、理恵ーー!」
杏子はもがいた。必死にもがいた。
手が何かを掴んだ。
「理恵っ、理恵っ」杏子は声を上げながらしがみつく。
(5)
ふと気がつくと、目の前にはメガネを掛けたサルが心配そうに杏子の顔を覗き込んでいた。
「サ、サル・・・?」
杏子は少しずつ意識が戻ってきた。
気がつくと、夢の中で理恵と思って杏子がしがみついていたのは井桁だった。
「あ、係長?」
サル、いや井桁課長特任補佐がほっとしたような表情で声を掛けた。
「気がついたか。良かった。もうすぐ病院だから心配しないで」
杏子は自分の顔に掛けられている酸素マスク、そして救急車の車内を不安そうに見回した。
「どうしたんです私」
「いや、ちょっと気を失ったみたいだ。貧血かな」
井桁は不安を打ち消すように言う。
「貧血か・・・」杏子は呟いた。
確かに最近は疲れが溜まっているようだ。
仕事も忙しいが、目前に迫った理沙の手術のこと、来年には進路を決めなくてはならない
高校生の理恵のこと、底を尽いている家計のことなど、杏子の神経がパンクしかかっている
のも原因なのかもしれなかった。
救急車が病院に着いた頃は、杏子の意識もはっきりしており、自覚症状も特に無かった。
そのため、病院でも採血検査と医師の問診、触診程度で帰れることになった。
医師の話は井桁が聞いてくれて、検査結果も「血糖と血圧がちょっと高い」程度の様だった。
診療費は「会社が出すから」と井桁がいってくれたので杏子は助かった。
今の杏子にとっては些細でも臨時出費は痛いのだ。
その日、自宅に帰って杏子はそのまま布団に倒れこんだ。
(6)
もし、自分が今、倒れるようなことがあったら・・・
力の無い子供たちを誰が面倒見てくれるのか。
杏子の唯一の頼りになる実家の母親を数年前に無くして以来、杏子は子供たちが早く自立して
くれることだけを願ってきた。
「三人で力を合わせて頑張ろうね」
自治体の生活保護を受けながら、公営住宅に入居できた日に杏子は子供たちと誓い合った。
父親がいなくても、子供にだけは惨めな思いをさせたくない。
生活保護を受けていれば普通の生活は営めた。
子供の教育関係の費用や病気の治療費など、殆どが無料となる。
しかし、育ち盛りの子供を抱えての家計は常にギリギリの生活水準を余儀なくされる。
子供たちの他の級友と、同程度の生活水準を維持するのは並大抵ではない。
生活保護は、あくまでも働いても収入が不足する家庭の生活費を補うための制度である。
だから、もちろん余裕のある生活など認められない。
収入が潤えば生活保護は打ち切られる。
しがないパート勤めの杏子の収入などたかが知れているが、杏子は少しでも家計の足しに
する必要があった。
杏子の誤算は二年前に金融業者からお金を借りたことである。
理沙の高校進学や、その他いろいろと出費が重なり数十万工面してしまったのだ。
そのときは月に1万程度の返済で済んだので、あまり負担ではなかった。
そのままのペースで返済が済めばよかったのだが、世の中はそう甘くなかった。
お金と言うものは予期せぬ時に出費が嵩むものである。
毎月の返済が済まないうちに、別の入用があり、また5万、10万と重ねて借りてしまった。
金融業者の親切な「まだこれだけお貸しできますよ」という甘言に乗せられて、
「まだ余裕があるんだなあ」と錯覚したのがいけなかった。
現在では毎月、五万近い返済を続けている状態である。
(7)
「最初から兄さんに頼めばよかった・・・」
それも、無理な話である。
縁の遠い兄だからこそ、金融業者に足を向けたのである。
それでなくとも母が生きていた頃には何かと経済的な援助を受けてきた。
まして、現在のように返済総額が200万近くなったのでは、尚更、兄には頼ることは出来ない。
三月の初めに理恵の手術の日にちが決まった。
三週間は入院することになるだろう。
杏子は幼い子供の入院中はできるだけ側にいてあげたかった。
しかし、杏子はパートを休む余裕は無い。
「理恵には可哀想だけど、夜と日曜だけしか病院には行けないなあ」
と悶々としながら仕事を続けるある日、井桁係長から声を掛けられた。
昼休みに会議室で二人は向かい合った。
井桁は自販機からコーヒーを運んでくると、杏子の前に置いた。
「すみません、課長さんにこんなことしていただいて」杏子は恐縮した。
「いや、いや、ま、どうぞ気楽に。で、どうですか、その後お加減は」
「はい、特に変わったこともなくて大丈夫みたいです」
「まあ、無理しないようにね。疲れが溜まってるのかも知れないよ?」
ここで、井桁は一瞬口を湿らすかのようにコーヒーを口に運んだ。
「で、あのね。用件はね。ほら、以前、スーパー花輪でさ、二人組の男が店長に
苦情を言いに来たじゃない?」
「はあ」
「あの二人と知り合いだって沢野さん言ってたよね」
(8)
「はい、知り合いといっても、ほんのちょっとなんですが」
「でさ、僕としてはあの人たちに少し手助けして欲しいと思ってるんだけどね」
手助け?何の?
杏子は予想外の井桁の話に皆目見当がつかなかった。
てっきり、今日、係長に呼ばれたのは勤務のことかと思っていたのだ。
杏子はもしかしたら、体調不良で解雇の話が出るかと半ば覚悟してきたのである。
井桁から聞いて、凡その内容は判った。
井桁の知り合いの息子が渋谷でよからぬバイトをしているようなので、それを突き止めて欲しい
ということらしかった。
「判りました、いちおう向こうに聞いてみますが、内容は係長の方から向こうと話し合って
くださいね」
「無論だとも。もちろん報酬も払うし、あなたに迷惑はかけない。
あの方たちに断られてもそれは仕方ないと思って諦めるよ。他にこういうこと頼めるつてが
無いんでね。よろしく頼むよ」
杏子は自分の仕事の話ではなかったので安心した。
その晩、例の二人組、タケとヤマの所属する犬川産業に連絡したみたが、電話に出たのは
タケのほうだった。
「あ、久しぶりです、姉御」
「姉御じゃなくて沢野です。ヤマさんいないの?」
「今日は他所です。数日戻らないっすよ」
「私の会社の人があなたたち二人に頼みごとがあるらしいの。聞いてくれる?」
「あ、はいいいですよ。ただし、俺たちも仕事はあるんで時間の都合のつくときしか
出来ないですけど」
「もちろんよ。ちゃんと報酬も出すって言ってるから、有給休暇でも取って手伝えば
いいじゃない?」
「うーん、アルバイトってことですね。ヤマさんが戻ったら相談してみます」
杏子は井桁の連絡先をタケに教えて電話を切った。
(9)
それから十日後、杏子はまた井桁に呼ばれた。
「この前はどうもありがとう。本当に助かったよ。お陰で知り合いの息子もへんなバイトは
辞めたようだし」
「そうですか。お役に立てて良かったです」
井桁はことのほか嬉しそうだった。
「ま、知り合いの息子も自分なりに進路を決めたようで本当に助かったよ」
井桁に礼を言われて杏子もホッとした。
タケとヤマを紹介しただけだが、どうやら双方でうまい具合にことが済んだようだ。
「それで、これはあなたへのお礼なんだけど・・・」
と、井桁は杏子に封筒を手渡した。
「はあ?」
杏子が封筒を少し覗くと、一万円札が何枚か入っているのが見えた。
「あの、係長、これはなんでも・・・。別にお礼なんか・・・」
「はっはっ。いいからいいから、ホンの気持ち。僕の気が済まないから気にしないで」
井桁はすぐに笑い飛ばして、杏子から身を引くように離れた。
もちろん、杏子に封筒を返されないためである。
井桁は杏子が簡単に謝礼など受け取らないことなどお見通しなのだろう。
「そうですか。では遠慮なくいただきます」
杏子は頭を下げた。
「いや、例を言うのは僕の方だってば。あなたには感謝してるよ。じゃ」
(10)
井桁が足早に部屋を出て行ってから、杏子はそっと封筒を覗いてみた。
心臓がどきどきした。
十万円ある・・・・
単に知り合いの人を紹介しただけにしては、不自然に大きな金額であったが、
今の杏子には深く考える余裕すらなかった。
これなら二か月分の借金返済に充てられる。
そう思うと、杏子はワッと叫びたいくらいの嬉しさが込み上げて来た。
お金が全てではないけど、今の杏子にとっては命綱にも等しい金額であった。
「良かった・・・」
心が久しぶりにウキウキするのを感じながら、杏子は部屋を出て行った。
杏子はその夜、久しぶりに夕食の献立を豪華にしてみた。
いつも職場の持ち帰りオカズが主役なのだが、今日は臨時収入があったことが
気を大きくさせた。
「わー、どうしたの?今日は美味しそうー」
理恵が久しぶりの刺身や中華のおかずに喜びの声を上げる。
「まあ、たまには美味しいものも食べないとね」
杏子はいいながら、壁の時計を見る。
理沙がまだ帰ってこないのだ。
高校生の理沙が二年になってから、土曜日曜と外に出てばかりいたのはもう慣れたが、
ここ数ヶ月は平日も帰宅が遅い日が増えてきた。
本人は部活動だとか、友達と勉強してるとかいっていたが、高校生の女の子が
そんなにしょっちゅう遅くまで帰宅しないものなのだろうか。
(11)
漸く、八時を過ぎようかという頃になって理沙が帰って来た。
理恵には先に食べさせたが、杏子もまだ食事をしないで待っていた。
「理沙ー、今日も部活?」
理沙は「お腹空いたー」といいながらトレーナーとジャージに着替えて食卓に座る。
「うん、いろいろと」
「前から思っていたんだけど、本当に部活なの?」
杏子が聞いても、理沙はテレビに顔を向けて食べながらそっけなく答える。
「いいじゃん、そんなこと」
「いいじゃんって、あなた。高校生がそんなに暗くなるまで部活なんかするの?」
「するんだからしょうがないよ」
「だってあなたのクラブって文学だか読書だかするだけっていってたじゃない」
理沙は杏子に顔を向けようともしなかった。
「遅くてもいいじゃない。誰にも迷惑掛けてないんだし」
ほんとにもう、高校生ともなると親に口答えばかりして・・・
どこの親子もこんなんだろうか。
「あなたねえ、迷惑さえ掛けなければいいってものじゃないのよ?
高校生がこんなに遅くまで出歩いていていいわけないじゃない?あなたは女の子なんだから
親として心配になるでしょう?」
理沙が杏子を睨む。
「じゃあ、いけないの?遅くなったら?もう高校生なのに門限でも作るのママ?」
「門限というより、もっと早く帰れるように・・・」
(12)
「判ったわよ!」
理沙は茶碗をテーブルにドンと置くと、荒々しく立ち上がり、自分の部屋に向かった。
「理沙、ご飯は?ご飯をちゃんと食べなさいっ」
理沙が部屋の戸を閉めたらもう出てこない。
どうせ夜中にまたこっそりと食べるんだ・・・
杏子は理沙の食事の分だけラップに包んでテーブルの上に並べた。
杏子には判っていた。
一年近く前から理沙が土曜日曜に家をずっと空けているのは、昼間どこかでバイトを
しているのであろうことを。
ここ数ヶ月、平日も遅くなっているのは、もしかしたら帰宅途中に出来る
バイト口を見つけたのかもしれない。
しかし、女子高生が夜にバイトをするのは不安であった。
もっと高校生らしい学校生活を送りたいだろうに、バイトに明け暮れる毎日。
でも、杏子は不安であっても無理やり理沙を辞めさせることができない。
高校生ともなればいろいろとお金も必要に決まっている。
だが、今の杏子には理沙にお小遣いすら与える余裕がないのだ。
それというのも、ギリギリの生活を強いられているためであり、杏子が親として理沙に
バイトを辞めろと言えないのがもどかしかった。
理沙は理沙で苦しんでいるんだ・・・
理沙も杏子の苦境を知っているからこそ、子供の頃から今まで我侭を言ったことは一度もない。
杏子に言わずに自分で服や靴下をこっそり繕い直しているのを見て、杏子は申し訳ない
気持ちが先に立つのみである。
(13)
「自分が至らないばかりに・・・」
自分を苛める杏子は理沙に強く出れないのであった。
中学生の時だったか、理沙が「私、小学校の先生になりたいなあ」とふと言ったことを
思い出した。
理沙は小学校の時に担任だった女性教師が大好きで、今でも年賀状でやり取りしていた。
その体験からだろうか、卒業文集にも「将来の希望は学校の先生になって、子供たちと
楽しい仲間を作る」と書いてあったくらいだ。
その理沙が杏子に「大きくなったら先生になりたいな」と漏らした時、
うっかり杏子は「でも、それなら大学に行かなければ成れないんじゃない?
うちは無理かもよ」といってしまったのだ。
杏子はずっと先のことと思って軽い気持ちで言ったのだが、
理沙は顔を強張らせると黙って自室に引きこもってしまった。
確かに現実に目を向ければ、どう逆立ちしても杏子の家では理沙を大学にやれる余裕は無かった。
高校までは自治体の補助でなんとかなったが、自費で大学に行ける余裕は無い。
国立大に入って奨学金をもらったり、バイトしながら自宅から通えば可能なのかも
知れないが、今の杏子の頭の中は「早く高校を卒業して自立して欲しい」
という願いしかなかった。
それでなくても、小学生の理恵が心臓病を抱えており、どうしても杏子の家庭は理恵を
中心に動かざる負えないのだ。
乳児の検診で理恵の心臓に異常が見つかり、「普通の生活はできるけど、このままだと
30から40くらいの寿命になりますよ」と医師に言われて以来、杏子の頭は常に
理恵のことでいっぱいだった。
そのために理沙の将来のことに思いを馳せる余裕もなかったといえよう。
理沙は大学に行くための費用を溜めているのかもねえ・・・
応援してます(`・ω・´)ゞ
私も応援してます(`・ω・´)ゞ
しかし、杏子は最初とは別人だ!
かっこいいよー。
私もずっと応援してます。
本当におもしろくてぐいぐいと引き込まれます。
作者さん頑張って。
103 :
名無し物書き@推敲中?:2006/10/09(月) 18:02:13
(14)
重男の職場では、惣菜課に属するパートの沢野が子供の入院が近いためか、
ちょくちょく休むようになり、また急に1人辞めたこともあって慢性的に人手が不足してきた。
その不足分は、いきおい下っ端の社員に負担が及ぶこととなり、重男もその
例外ではなった。
重男も社内にいるときは、作業用の上っ張りを羽織って材料や製品の運搬を手伝うことが
随分増えてきた。
ここが中小企業の辛いとこで、管理職といえど下っ端は現場との掛け持ちもやらされる。
「はあー疲れたー。今日は家に帰ったらビールで回復だあー」
重男が夕方に事務所で一息をついていると、内線電話が鳴った。
「はい、惣菜です」
受話器を耳に当てた重男は椅子から飛び上がった。
「え?今日ですか?えーと七時頃です。目黒の方から来られます?
じゃあ七時頃に大北駅で待ち合わせましょう。そこが僕の最寄り駅なんで」
受話器を置いた重男は動悸が止まらなかった。
千葉から裕也の母親である篠崎佐知枝から、上京してきたという連絡だった。
前触れも無かった。
重男の心の準備も出来ていない。
「裕也に母を頼みますと言われたからな・・・」
(15)
重男は退社までの時間、何をどうしていたのか覚えていない。
その日は気もそぞろに退社すると、勇躍、駅に向かった。
逸る気持ちを抑えながら目を走らせて、大北駅の改札口で佐知枝を見つけた。
まだ肌寒い季節である。
佐知枝は今日は和服ではなく、洋服にコートを羽織っている。
いつもと違う服装が重男に新鮮さを感じさせた。
相変わらず綺麗だな・・・
「こんにちは」
「あ、井桁さん。この度は裕也がいろいろとお世話になりまして・・・」
「まあまあ、話はそこでお茶でも飲みながらゆっくりとしましょう」
近場にある「太平楽」という喫茶店に二人は入る。
もう何度か逢っているためか、重男も最初の頃ほど緊張することもなくなっていた。
「裕也君から何か連絡ありましたか?」
「はい、井桁さんのお陰で仕事先が見つかったと。今までの裕也と違ってはっきり
話すのでびっくりしました。以前は何を聞いても生返事しかしない子だったのに・・・」
佐知枝は何度も頭を下げながら話した。
「そうですか。彼も彼なりにいろいろ悩みがあったんでしょう。
それより、裕也君は料理学校はもう辞めるみたいですけど、あなたは
それで良かったのですか?」
以前とは違って、自分の縄張りでもある地元での逢瀬ということも、重男に心の余裕を
もたらしていた。
(16)
佐知枝はちょっと口を閉じたが、気を取り直すように言った。
「はい、本当は将来、あの子にお店を継いで欲しかったんですけど、あの子にはあの子の
道があるんだということが判りましたので、もう諦めます」
「そうですか・・・。まあお店は僕たちの力で細々と続ければいいじゃないですか。
どこまで続くか判らないけど」
「そうですね・・・」
というものの、佐知枝はなぜか力なく微笑むだけであった。
「今日はどこかに泊まる予定はあるんですか?お送りしますよ」
「いえ、急に思い立って出てきたのでまだどこも・・・」
「じゃあ、どこか駅の近くの宿でも・・・」
重男を遮るように佐知枝が言った。
「あの、その前に井桁さんのご自宅をお邪魔してはいけませんか?」
重男は心臓が止まったかと思った。
「ぼ、僕の家って?いいけど、不精してるから汚いですよ?」
「いずれ、何かの時に自分でご自宅まで伺えるようにしようと思いまして・・・。
ご迷惑でしょうか?」
さっきまでの余裕はどこに消えたか、途端に重男は慌てた。
予期せぬ事態に直面すると弱いのだ。
昔から応用が利かないのが重男の特徴である。
「ま、まあこの駅から二つ先ですから近くだけど・・・。汚いのに驚かないという
条件付なら・・・」
(17)
お、俺の部屋に行くって、まさかそのまま泊まるなんて言い出すんじゃないだろうな。
布団は一組しかないぞお?
と、泊まる?まさか。お、男と女だぞ。
で、でも、婚約者だからいいのか、いいのか?いいのか?いいんだ。
お、俺は、童貞だ。だからどうだ?どうだというのだ?
別に何かをいたすわけじゃない落ち着け。
落 ち 着 く ん だ 重 男
「あの・・・どうかしましたか?」
「あ、い、いや別に。じゃあ行きましょうか」
やがて、重男の住まいの最寄り駅まで二人は辿り着いた。
佐知枝が安心したように重男に言った。
「この駅からなら渋谷にも川崎にも行くのに便利ですね。帰りはここから川崎に出て
ホテルに泊まることにします。川崎なら前にも泊まったホテルがあるんです」
なんだ・・・
俺の勘違いか・・・。焦って損した気分・・・
それまでワクワクしていた下腹部が沈静し、重男の心臓が落ち着きを取り戻した。
重男はアパートの前で佐知枝を待たせ、特急で室内の万年床や散らかった服、読み物
の類を片付ける。
女性の目に不快なものを、取りあえず目に見えないところに隠した。
(18)
「どうぞ」
佐知枝が部屋に入ってくる。
重男は石油ストーブを点火した。
「まあ、綺麗に片付いているんですね。男の方の1人住まいってもっと散らかっているのかと
思ってましたわ」
重男は顔を歪める。
「ははは、いつもはもっと散らかってますよ」
「裕也の部屋に行ったことがありますけど、あの子は酷い散らかりようでしたわ。
千葉の自宅にいた頃はもっと整理できる子だったんですけど・・・」
重男は佐知枝にお茶を差し出しながら言った。
「まあ、あの子もこれからですよ。人間なんてものは長い目で見ないと。
中身はどんどん成長しますからね。僕なんか未だに成長途上ですよ」
「それなら私だって、あははは」
その時、佐知枝の目がテレビの下のキャビネットの中に釘付けになった。
その視線を追って、重男は頭がカッとなるのを覚えた。
キャビネットの中にレンタルビデオが何枚か横に寝かせてある。
それがこともあろうにアダルトものばかりなのだ。
背表紙が見えた。
「団地妻のお昼ごはん。太いの欲しいわ」
「女教師、舐めて教えて」
などなど。
とっさに部屋を片付けたので、ビデオにまで重男の気が回らなかった。
(19)
「あ、あれね。友人が家でカミさんがいるから観れないからってここに置いていくんですよ。
もう、あいつ、いい年してるのになあ。僕はもう興味ないんすけどね。ははは」
重男は顔から火が出るというのはこのことだとつくづく思った。
ビールを飲んだときのように顔を真っ赤にしながらも、
佐知枝の気を逸らそうと、重男は気になっていることを質問した。
「ところで、お店なんですが、本当に僕の力でやっていけるんでしょうね?」
佐知枝が重男の顔を怪訝そうに伺う。
「どうしてですか?井桁さんさえ来ていただければ大丈夫ですよ。
今でもお客さんは多いんですから」
「そうですか・・・。何と言っても佐知枝さんが亡くなったご主人と始めたお店
ですからねえ。何としてでも続けなければいけないですよねえ」
重男はお茶をがぶりと飲んだ。
佐知枝はなぜか沈み込んだ表情になった。
「あの・・・。実は井桁さんにお話してないことがあるんです」
そら来た。
借金の話か。結婚を前提に俺に肩代わりして欲しいってことだろう。
裕也から事前に聞いて置いて良かったよ。
もし、今、初めて借金の話を聞いたら鼻からお茶を噴出してるよ俺。
「どんなことです?」
重男は冷静を装って聞いた。
答えが判っているだけに、余裕の表情である。
「実は・・・今までいろいろと経費が掛かってしまって、お店に借金があるんです」
重男はちょっと驚いたそぶりを見せた。
「ほう、そうなんですか」
(20)
「それで今住んでいる自宅を売却して、その返済を済ませてからお店を続けようかと・・・」
「えーっ。自宅を売る?」
予期せぬことだった。
てっきり借金の肩代わりの話かと思ったら、佐知枝の自宅を売却するとは。
そうか、自宅を担保にして借金が出来たのか・・・
お店の方はは他所の土地を借りてるんだもんな。
そうすると、佐知枝には財産と言う物は何も残らなくなるな・・・
「自宅を売るんですか?じゃあ僕とどこかに家でも借りて住むということですね?」
「はい・・・井桁さんさえよければ」
意外だった。
佐知枝は自宅を売却してでも重男とお店をやりたいのだ。
そこまで俺を買ってくれているのか・・・
この俺がそこまで頼りにされるなんて・・・
それからしばらくして佐知枝を駅まで送ることにした。
重男の住まいが小奇麗なマンションの一室であれば、佐知枝に泊まっていけと言えるのだが、
中年1人住まいの男の部屋ではあまりにもむさ苦しい。
玄関に共だって、佐知枝が靴を履こうとした時、いきなり躓いて後ろに立っていた重男に
背中から倒れ掛かった。
「あ、あ、な、な」
重男は慌てる。しかし佐知枝の体をしっかり受け止めた。
佐知枝の着けている香水の香しい匂いが重男の鼻をくすぐった。
目と鼻の先に佐知枝の白いうなじがある。
(21)
「すみません、私も年かしら、足がよろけて・・・」
「は、は、狭いから気をつけて・・・」
ああ、このまま佐知枝を抱きしめたい・・・
重男は自分の誘惑に辛うじて打ち勝つと、佐知枝を放した。
駅で佐知枝を見送って、重男はどっと今日の疲れが全身に溢れてくるのを感じた。
ドアのところで佐知枝が倒れ掛かった時は、本当にどうしようかと思った。
女性と付き合った経験のある男なら凌ぎ方も判るのだろうが、重男は付き合うどころか、
今まで手さえ握ったことも無いのだ。
抱きついた時に、佐知枝の柔らかい肉体を服を通して感じ、心地よい香水の匂いを嗅いで、
重男の男根が直立してしまった。
もし、あのまま佐知枝を抱きしめていたらどうなっていたか・・・
重男はひとり部屋に戻ると大の字に寝転がった。
裕也には苦労したな・・・
彼には今回の件でかなりの出費を余儀なくされた。
ヤマとタケへの報酬、そして裕也の関係していた蛇の目組や猫の目組へのお詫び金など、
犬川産業の顔利き役の人へ払った金額は優に150万を超えていた。
そのスジに話を通すのに仲介料がいるのは当然であろう。
影の世界には面識も何も無い輩が頼みごとを持ちかけるのだから。
ヤマから「話を通すなら、それ相応の包みがいるよ」と言われても、重男はさもありなんと
驚かなかった。
(22)
「もし、何か裕也の使い道があるなら犬川産業で使ってもらえないかな」
と、ダメもとでヤマに裕也の仕事の斡旋も頼んだのが当たった。
夜のバイトを失う裕也には、お金を稼ぐ手立てを講じなければすぐにまた元に戻るだろう。
思いがけず、裕也が自分の道を選んでくれたことを知ったときは、我がことのように嬉しかった。
この結果なら、150万以上費やしたのも少しも気にはならない。
また沢野に礼金を十万渡したのも、これを口実に少しでも子供の入院の
足しにして欲しかったからだ。
「まあ、こういうことでもない限り、俺には大金の使い道が無いからな・・・」
もともと吝嗇と言うわけでもない、無駄使いをしないだけの
重男は少しも浪費したという気がしないのだった。
また当分は会社のオカズを主体に飯を食うか・・・
疲れ果てた重男は、スーツの上着を脱いだままの格好でそのまま眠りについた。
113 :
名無し物書き@推敲中?:2006/10/11(水) 23:55:34
実に気持ちの良い男だ・・・
114 :
名無し物書き@推敲中?:2006/10/16(月) 17:58:37
続きがたのしみ〜。
(23)
三月に入り、春の陽気が漂って来る時分に、理恵は小児循環器センターに検査入院した。
病院は小児専門であるため看護の手も厚く、親が付き添う必要は無かったが、
杏子は理恵の不安を少しでも和らげるために、しょっちゅう病棟に顔を出していた。
「もう桜の花も咲きそうよ」
杏子は病室の窓から外を見て理恵に話しかけた。
病室は外科で回復期にある子供たちが同室の六人部屋だった。
理恵は運のいいことに窓側のベットである。
術前検査のための入院なので、元気そのものの理恵は毎日が退屈であった。
「お母さん、四月までには退院できるんだよね。中学校には間に合わないと
いけないからね」
早くも中学校の生活に期待で胸を膨らませる理恵である。
「当然よ。三月中には退院してるから、中学校には間に合うって先生が言ってたんだから」
杏子は外の景色を眺めながら理恵に話しかけた。
今のところ、検査の結果も大丈夫の様で、3日後には手術の予定が組まれていた。
最初は巨大な循環器センターの病院内が物珍しく、二人であちこち探検して周ったのだが、
今では飽きてしまい、理恵も病室や子供図書館で本を読むことが多くなった。
「理沙もたまにはここに顔を出してくれればいいんだけどねえ・・・」
(24)
二人姉妹なのに、理沙は理恵が検査入院しても、まだ一度も病室に顔を出していない。
理沙が進学のための学費を自分で稼ぐのは理解できるが、家族が手術をするという
一大事なのに、まして妹なのに自分の仕事を優先していることが杏子は悲しかった。
「理沙は理恵の病気より自分のことの方が大事なのかしら・・・」
杏子としてはそうは思いたくなかったが、依然として平日も帰宅が遅い理沙に不信感が
募るのを覚えるのだった。
それも問題だが、杏子自身も家庭の経済的苦境に立たされていた。
理恵の世話に掛かりっきりで、パートのほうがだいぶんおろそかになってきている。
手術したらもう一ヶ月は仕事に出られそうに無かった。
今の時点で収入が減るのは厳しい。
節約程度では追いつきそうに無い。
日々、表面化してくる生活費の窮乏状態が恨めしい。
自治体から支給される生活費は用途がすべて決まっており、余裕が無かった。
まさか理沙に頼るわけにも・・・
ふと頭に浮かんだ自分の考えを慌てて打ち消した。
親が学生の子供が稼いだお金を当てにするなんて、本末転倒もいいとこだ。
まして、理沙は遊行費ではなく大学進学の資金として貯めているのだ。
杏子は当座の生活費を工面する方法を考えるしかなかった。
以前はこのような苦境には消費者金融を渡り歩いたのだが、現在では
限度を超えているので、大通りに面した業者では貸してくれない。
裏道の、高金利業者しかないだろう。
しかし、もし、そのような業者に借りれば、金利を工面するためにまた別の高利業者に借りる
という自転車操業になるのは目に見えている。
(25)
そこら辺はさすがに杏子も予想がついた。
ではどうするか。
杏子は理恵の前では臆面にも出さずに、日夜、頭を悩ませているのであった。
日曜日の夕方、理沙は仕事から疲れて帰って来た。
もっとも、理沙が仕事から帰ったというのは杏子の想像であり、理沙の口から
働いているという話は一度も聞かされていない。
聞かされたのは「クラブ活動よ」とか「友達と遊んでて」くらいである。
「お帰り。夕ご飯にしましょうかね」杏子がテーブルに食器を並べながら話しかけたが、
理沙は「いらない。友達と約束したから、また出かける」とそっけなかった。
杏子は呆れたように理沙を見つめた。
「出かけるって、どこに?もう夜よ?」
「いいじゃない。友達と約束したんだから」
「よくないわよ。高校生がこんなに毎晩遅くに出かけていいの?」
理沙は返事をしなかった。
「あなたが何をしてるのか知らないけど、学生の身分ってこと忘れないでね。
最近は物騒だし、女の子が夜に出歩くものじゃないのよ?」
理沙は答えずに帰宅したままの服装でそのまま出て行こうとした。
「理沙っ!どこに行くのか言いなさい!」
杏子は玄関まで走りよると、理沙の手を掴んだ。
「痛いわよ!離してよ!」
「いーえ。もう今日は許さないよ!どこに行って、誰と会うのか言うまで
離しません」
杏子の力は強い。
万力の様な杏子の手に捕まっては、大の男でさえも逃げることはできない。
「じゃあ、じゃあ、お母さんのいうことを聞いたら、私、大学に行けるの!?」
(26)
杏子は思わずはっとして理沙の手を離した。
理沙の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
次の瞬間、理沙はドアを開けてまだ肌寒い外へ飛び出していった。
理沙は思わず本音が出たのだろう。
確かにそうだ。
私に甲斐性がないばっかりに理沙を大学に行かせてやることも出来ない。
世の中には母子家庭でも母親がしっかり働いていて子供を大学に進学
させている人も少なくないだろうに・・・・
杏子はそのままそこに座り込むと、ぼんやりと冷たい床を見つめ続けた。
その夜、理沙は九時過ぎに帰って来たが、二人は一言も言葉を交わすことなく眠りについたのだった。
翌月曜日に杏子は成増食品に赴いた。
惣菜に顔を出すと、係長の井桁を探す。
いたいた。
サルがメガネを掛けた状態で、新聞を読みながらコーヒーを啜っていた。
以前、この係長は新聞に夢中になってしまい、灰皿と間違えて自分のコーヒーに灰を
落としたことがあった。
しかもそれに気付かず、そのコーヒーを飲んでしまい「今日は苦いな・・・」
と感想を漏らしたという逸話があった。
(27)
「あの、係長さん」
「お?ああ沢野さん。早いね、どうした?」
「ええ、ちょっと折り入ってご相談が・・・」
「ん?わかった。じゃあ会議室にでも行こうか」
二人は会議室に入った。
季節柄、まだまだヒンヤリと寒かった。
杏子は薄着である。
皮下脂肪が厚いから寒くないのではない。
余分な服を買う余裕はないので秋のいでたちのままなのだ。
井桁は部屋のエアコンを入れると、杏子の向かいに座った。
「あなた、最近はずっと休んでるよね。子供さんの関係かい?」
「ええ、明後日には手術することになりまして」
「ほう、そうか。難しくは無いといわれている病気だけど、お母さんとしては
気ががりでしょうなあ。で、話と言うのはなんですか?」
杏子はすぐには話を切り出せなかった。
もじもじ、そわそわしてから漸く重い口を開いた。
「あの・・・。娘の入院や退院してからの世話があるので、一ヶ月ほど
仕事に来れそうもないんです」
前に乗り出していた井桁は椅子に深く座りなおした。
「なんだ、それなら大丈夫だよ。その辺は考えて人員の手当てはしてあるから。
あなたは安心して子供さんの看護をしなさい」
杏子は唇を噛んだ。
「で、あのー。本当に申し上げ難いことなんですが・・・」
杏子は俯いて、いったん言葉を切った。
「給与を前借させていただけませんか?」
(28)
「へ?前借?」
井桁はぽかんと口を開けた。
今、自分が何を言われたのか順序良く整理しないと理解できそうに無い。
それもそうだろう。
今までちょくちょく休んで、その挙句に一ヶ月これから休むというパート社員が、
給与を前借させてくれと言うのだから。
「そ、それはちょっと・・・無理だよ」
井桁は杏子から視線を逸らしながら言葉を捜した。
「あなたは先月も休みが多かったし、今月も出られそうに無いというのに給与を
前借というのは・・・。まず課長が認めないし、経理だってそんな前例がないよ、
たぶん」
杏子はやはりというようなそぶりで、伏目がちに小刻みに何度も頷いた。
当然だよね・・・
パート社員が給与を前借だなんて聞いたこと無いものね。
杏子は諦めるしかなかった。
「済みません。無理を言ってしまって。いえ、どうしてもと言うわけではないので」
杏子は席を立った。
「い、いや、待ちなさい。もし、どうしてもというなら僕が・・・」
井桁が言いかけたが、杏子は最後まで聞かずに礼をすると部屋を出た。
係長さんにこれ以上迷惑を掛けたくなかった。
ただでさえ、欠勤が相次いでいて職場の同僚に迷惑を掛けているのだ。
杏子は諦めるしかなかった。
(29)
とうとう理恵の手術の日が来た。
杏子は前の晩から不安で殆ど眠れなかった。
手術は心臓手術の中でも最も安全な部類らしい。
「一週間もしないうちに1人で歩けるようになります」と、主治医は杏子に話したが、
何と言っても心臓の手術である。
娘の小さな胸が切り開かれるのかと思うと、理恵が不憫でならなかった。
杏子自身は注射一本でさえも怖いくらいなのに、理恵はそんな程度では
済まない大手術なのだ。
理沙は朝から術前処置室で寝ていた。
「お母さん。昨日は眠れた?私は眠れたよ。隣のベットの水口さんのお母さんが
ハリーポッターっていう本を貸してくれたの。面白くて昨日はずっと読んでた。
また部屋に戻ったら続きを読みたいな」
杏子はもうずっと理恵に付きっ切りである。
「二三日は無理かもね。でもその後はすぐに読めるよ。後で水口さんに礼を言って
おかなきゃねえ」
「理恵ー、元気ー?」
杏子が振り向くと理沙であった。どうやら学校を休んできたようだ。
「あ、お姉ちゃん。今日は学校どうしたの?」
理恵が嬉しそうに理沙に話しかけた。
「いいのいいの。もうすぐ春休みだしね」
杏子は理沙が見舞いに来てくれただけで、何か自分に頼もしい援軍が来たかのごとく
思えた。
母親なのに、自分ひとりでは心細かったのだ。
理恵だって、姉が来てくれただけでどんなに心強く思うことか。
理沙が来てくれただけで、自分の不安感がこんなにも薄れるとは思いも寄らなかった。
(30)
「理恵、お姉ちゃんとママが付いているからね。先生たちも立派な人たちだから
何も心配いらないよ。いいね」
杏子は何度も理恵に話しかけた。
半分は自分にも言い聞かせているのだ。
何よりも不安なのは、これから手術を受ける理恵よりも自分かもしれない。
杏子は処置室に入ったとき、から自分の鼓動が早くなっているのを感じていた。
足もぶるぶる震えていた。
春の寒さのせいではない。
ああ、神様。どうか無事に手術が終わりますように。どうか、どうかお願いします。
難しくない手術といっても、人間が執刀するのだ。
一番重要な臓器にメスを入れるのに、絶対に安全ということはありえない。
万が一ということが頭を掠めると、杏子はいてもたってもいられなかった。
薄いグリーンの手術着を着たマスクを着用している女性看護師が来た。
「では予備麻酔の注射をしますので、ご家族の方はこちらへ」
「じゃあ理恵、頑張るのよ。すぐに済むから。目が覚めたらまた会おうね」
「うん、じゃあね」
杏子と理沙は廊下に追い出された。
杏子は放心したように廊下の長いすに腰掛けた。
「お母さん、大丈夫よ。夕方にはまた理恵に元気な顔で会えるんだから」
「うん、でもあんな小さい子がこんな手術を受けるのかと思うと・・・」
杏子は堪らず顔を両手で覆った。
(31)
しばらく理沙は杏子をそのままにしていたが、やがて口を開いた。
「あの・・・。お母さん。理恵の入院とかでいろいろと入用だと
思うから、これ使ってよ」
「え?」
杏子はきょとんとして理沙を見た。
理沙は封筒を杏子に差し出す。
杏子が呆然としていると、理沙は杏子の手を取って封筒を載せた。
「ちょ、ちょっと、これは何なの?」
「うーんと。バイトで貯めたお金」
「貯めたお金って、あなた、進学するために・・・」
「進学なんかいいよ。去年から理恵が手術するって話してたからそれに備えていただけ」
「そんな、あなた、ダメよ。進学の貯金にしなさい」
「いいの!進学するほどいい成績って訳じゃないから!」
理沙はそう言い放つと駆けて行った。
取り残された杏子が封筒を開けて数えてみると、40万もある。
高校生がバイトでこれだけ貯めるのにどれだけ働いたのだろう。
理沙は進学する気はないといっていたが、今にも泣きそうなあの顔を見ると
嘘であることは間違いなかった。
泣きそうになったから駆け足で出て行ったのだ。
本当は進学したいくせに・・・御免なさい・・・理沙。
杏子は理沙の手渡した封筒を強く握り締めると、何度も何度も袖で目を拭った。
124 :
名無し物書き@推敲中?:2006/10/17(火) 09:59:30
あれ・・・?
なんだろ、おかしいな・・・目にゴミでも入った・・・かな・・・(ノд・。)
。・゚・(つд∩)・゚・。 ウエーン
杏子・理沙・理恵ガンガーレ!!
。・゚・(つд∩)・゚・。 ウワーン
なんていい子なんだ、理沙!!
。・゚・(つд∩)・゚・。
な、ないてなんかないよ。
目から汗がでたんだよー!!
(32)
「この度、惣菜課に勤務される沢野さんの次女、理恵さんが心臓の手術を
受けることになり、皆様方の心温まるお力を募る次第であり・・・」
重男は小さな木箱に一筆を書いた紙を貼り付けた。
沢野さんはこういうことは嫌がるだろうな。
しかし、これしか方法が無い。
会社に前借りを頼みに来るくらいだから、沢野さんはかなり窮しているに違いない。
あの女性は甘えているのではない。
背に腹を代えられないところまで来ているのだろう。
だからといって、職場の上司であるこの俺が、直接手を差し伸べてもそれは拒否するだろう。
「だからこうすればいいんだよっと」
重男は箱を手に立ち上がると、惣菜の杉田課長のところに向かった。
「あ、課長。これはいいところに・・・」
杉田は振り向いた。
「何だよ。俺がどこにいようがいいだろが」
「いえいえ、実はですね。この基金箱なんですがね」
「何?こりゃなんだ?・・・沢野さんが?ほう心臓なのか?」
「ええ、まだ小学生なんですよ。少しでも彼女のために、みんなで支えになってあげようかと
思いまして」
(33)
杉田は思案げに片手で顎をひねりながら言った。
「で、この箱をどうするんだ?」
「ええと、各課を周りまして、説明だけして経理のところにしばらく置いておこうかと」
「ふーん。まあ、いいんじゃない?どれだけ効果あるかわからんが」
重男はほっとした。
「はい、それでは各課に説明をしてきます」
よっしゃ!課長の承諾は得たぞ。
部長が何か言うかもしれないが、そんなものほっとけだ。
重男は惣菜や生鮮、配送そして各事務部門の主だった人に声を掛けて回り、
最後に経理の部屋の入口の台に置いた。
後は口コミでこの募金箱の噂が広まるのを待てばいいと考えた。
「誰だ!あの箱を置いたのは!!」
惣菜の部屋に今西経理部長が入ってきた。
「あ、はい。私です」重男は青くなった。
「あれをどうするんだい?」
「え、と、募金箱です」
「それは判っている!その後どうするんだ?」
「えーと、数日後に回収して、ご本人に渡そうと・・・」
「君が回収するのか?中身を君1人が確認するのか?」
重男はアッと思った。
お金のことである。
こんな杜撰な管理で良い訳が無かった。
(34)
「は、はい。えーと最後に開封する時は他の人に立ち会ってもらって、集計金額を
公表します」
「そうだろ。経理の者としてはいい加減なお金の扱いはして欲しくないからな」
そして、今西経理部長は出て行きがけに付け加えた。
「さっき、社長にも了解貰って、社のほうからもあの募金箱に入れさせて貰ったよ。
お子さんのことだからな。でもこれはあくまで特例だぞ」
重男は目を丸くした。
「ははーっ。これは恐れ入ります!」
「井桁係長!」
重男が夕刻、加工場から本館に戻り、通路を歩いていると、呼び止められた。
女性事務員の園田だった。
以前にパソコンのネット検索で、心臓病の資料をダウンロードしてくれた女性だ。
「係長。心臓病の方って、沢野さんの娘さんだったんですね」
「ああ、そうなんだよ。でもそんなに悪くなくて手術で治るらしい」
「それは良かったですね。でも、課長さんが社員の子供の病気のためにそこまで
親身に思ってくれる方とは思いませんでしたわ」
重男はちょっと照れた。
「いやはっ、乗りかかった船だからね」
園田はちょっと笑った。
「これからも、パソコンのことで判らないことがありましたら、遠慮なく聞きに来て
下さい。では」
重男は園田の後姿を見ながら思った。
「今度はエロサイトを見ないように気をつけないとな・・・」
(35)
やがて一週間が過ぎようとしていた。
重男はそろそろ募金箱も締め切るかなと、考え始めていた。
こういうのはいつまでも延ばしていおいても仕方ないし、それに早く病院にいかないと
娘さんが退院してしまうかもしれない。
それに何よりも、沢野にその中身を届けたかった。
重男はそんなことを思案しながら、加工品の休憩所近くの通路を通りがかった時だった。
「へーっ。理沙ちゃんがねー」
「そうなの・・・」
「でも、どこで・・・」
休憩所の中からママさんパートや社員たちが談笑している声が聞こえる。
重男は反射的に通路側から休憩所の壁に張り付いた。
全神経を集中して耳をそばだてる重男。
ディズニーのアニメのように、耳がダンボになるくらい大きくしたかった。
確かに今、理沙ちゃんといった。
沢野さんの上の子が確か理沙だったはず。
何の話をしてるんだろ?
「夜遅くにに男の運転する車に・・・」
「それって流行のエンコーじゃない?」
「女子高校生がエンコ・・・」
エンコー?エンコーって何だ?
理沙ちゃんが男の車に?
(36)
「何をしてるんだ!?」
「ぴゃっ!」
重男は飛び上がった。
製造部長の飯田だった。
「あ、いえ、その、立て付けの壁が最近具合がどうかなと・・・」
飯田は無表情に重男を見ている。
「君はサルに飽き足らなくて、今度はヤモリになるつもりか?みっともないぞ。
廊下で壁にへばりついてじっとしているのは。
てっきり、そのまま壁を這い上がるのかと思ったよ」
重男は苦笑いをして誤魔化した。
「ははは、スパイダーマンみたいに這い上がるだけの根性があれば
もっと仕事も進んでいるんですが・・・」
飯田は今度は重男を睨んだ。
「仕事と言えば、君が以前に話を持ってきた、スーパー花輪の新店舗の件はな、
入札制になったぞ。てっきりうちに内定かと思ったら、とんだぬか喜びだったよ。
もし落札できなければ君は課長補佐どころか、係長特任補佐に降格だ」
重男は青くなった。
「ええーっ。それは・・・」
飯田はくるりと背を向けると行ってしまった。
(37)
入札制になったのは俺のせいじゃない。
それよりも「係長特任補佐」ってなんなんだよ。
全国探してもこんな珍妙な肩書きはないぞ。
くそっ、飯田の奴。
大口を受注するかどうかはお前の職務だろうが。
お前こそ、失注したら責任とって、部長代理補佐予備役でも補欠でも
足軽でも何でもなりやがれっ!
重男は心の中で口汚く罵っていたが、それどころではないことを思い出し、
すぐさま経理部にとって返した。
運良く、経理課長と係長がいたので両名に立会いのもとで募金箱を開けて集計した。
「えーと合計8万5千8百円ですね。実川君、小銭はお札に両替しなさい」
経理課長が金額を確認し、係長に命じた。
「では確かに。私がお見舞いがてら、責任を持って沢野さんに届けます」
重男は頭を下げて礼を言った。
惣菜課に戻ると、重男はコーヒーを入れた。
コーヒーを口に運びながら、安堵のため息をつき、
ふと、傍らを通りかかる女性事務員を捕まえて聞いてみた。
「ねえ、君、ちょっと聞きたいんだけどさ。女子高生のエンコーってどういう
ことなんだろう」
(38)
女子事務員は重男を軽蔑の眼差しで見た。
「まさか、係長がそんなことするんじゃないでしょうね」
「え?いや、意味がわからないので聞いてるんだよ」
「そうですか。援助交際ってことえですよ。略してエンコー」
「え、援助交際?それって・・・お金を貰って、そのホテルに行くあれか?」
「そうです」
女子事務員は去った。
理沙ちゃんが援助交際?まさか・・・売春??
しかし、あのババアたちだって「じゃないの?」といっていただけで
目撃したわけじゃないし、そもそも、夜に見たというのも見間違えってこともあるし・・・
翌日、重男は外注先に直行で立ち寄り、そこそこに仕事を切り上げると、
理恵の入院している小児循環器センターに向かった。
予定では午後に病院に行くつもりだったが、仕事が思ったより早く済んだので、
十二時前には病院に着いた。
受付で沢野理恵の病室を尋ねると、すでに個室から外科の回復病棟に移っている
とかで大部屋のある西館を案内された。
館内を移動しながら見回すと、さすがに小児専門の病院だけある。
どこもかしこも造りが丸みを帯びていて、病院特有のとげとげしい雰囲気が無かった。
グリーンとクリーム色を基調に彩色がほどこされていて目に柔らかい
印象を与える。
至る所の壁にカラフルな動物のキャラクターが描かれており、ちょっと見た目には高級な
幼稚園か児童館と見まがえる景観であった。
(39)
「こんな明るい雰囲気なら俺も入院してみたいものだ」
時折、すれ違う女性看護師のナースルックに視線を這わせながら、重男は目指す病室へと向かった。
「あ、ここかな」
病室の入口に名札が
掲げられており、ドアに丸窓が付いている。
そこから中を覗くといくつかのベッドが見えた。
奥のほうに本を読んでいる理恵らしき姿が見えたが、母親の沢野はいないようである。
いないのか・・・どうしよう。
患者の理恵はいても、母親の沢野がいないのでは入室するのをためらわれた。
重男はしならく躊躇したが、昼前でもあるし、取りあえず食事をして時間を潰すことにした。
重男は本館に戻って地下に下りて行く。
目指すは外来者用のレストランではなく、病院職員専用の食堂である。
重男が以前に勤めていた会社が病院に材料を卸していたことがあり、大病院の内部には
職員専用の食堂があることを知っていた。
外来者向けのレストランと違って、そこは職員価格なので料金が安い。
それでいてメニューはそこそこいいものばかりである。
偉いお医者さんが利用するのだから、当然と言えば当然かもしれない。
重男が以前に大学病院の職員食堂に入ったときは、物珍しさにきょろきょろしたものだ。
殆どの利用者は医師や看護師ばかりであり、みんな白衣を着ている。
しかも看護学校が併設されていることもあり、若い女性看護師も多い。
ナース服のいでたちの女性はどれもこれも美人に見え、食事もそこそこに
重男はついあれこれと見とれてしまったくらいだった。
(40)
そんなことを思い出してながら、白衣の医師や看護師でごった返す
地下の職員食堂で食券を買ってカウンターに並んだ。
料理が揃うのを待っている間に、それとなく場内のテーブルを見ると、なんと、沢野が
こちらに背を向けて食事しているのが見えた。
ひときわ大柄なのですぐに判った。心なしか、猫背気味で殆ど動かないように見える。
重男は慌てて注文したカレーを両手に抱えると、沢野のテーブルの反対側に向かった。
テーブルで沢野の反対側にたどり着いた重男は声を掛けた。
「こんにちは、沢野さん」
ぼんやり考え込んでいた沢野は、はっと驚いた表情で立っている重男に目を向けた。
「あ、井桁さん」
「丁度よかった。今お見舞いに来たところでね。廊下の窓から理恵ちゃん
見たけど元気そうで何よりだよ」
「・・・・・・」
沢野は重男を凝視して答えない。
「?どうかしましたか?」
沢野はやっと口を開いた。
「あの・・・ネクタイがカレーに浸かってますけど・・・」
重男は目を下に向けた。
「あいやっ!!」
慌てたためか、両手に持ったトレイのカレーの中に、
無残にも重男のネクタイの先がどっぷり浸かっていた。
テーブルの周囲の看護師たちも気付き、噴出すのを堪えて必死の形相になった。
(41)
「ははは、こりゃ、ネクタイ風味のカレーになっちゃいました、ははは」
重男は力なく笑いながらハンカチでネクタイを拭った。
「で、どうですか具合の方は。もういいんでしょう?」
「はい、お陰さまでもうすっかり。来週には退院できるそうです」
「そうか。それは良かった」
重男は安心したが、心なしか、沢野は思ったより気が沈んでいるように見えた。
沢野の食事も殆ど進んでいない。
「ところで、あなたに渡したい物があるんだけどあとでお渡ししますよ。
会社のみんなからのお見舞い何だけど」
「ええ?そんな、本当に気持ちだけで結構ですから」
「いやいや、そんな訳にはいかないよ。みんなもお子さんのことを気遣ってくれているんだよ。
ここはひとつ、素直になろうよ」
「そうですか・・・。みんなにあれほど迷惑かけっぱなしなのに・・・感謝の言葉も
ないです・・・」
食事の後、ロビーで重男は職場のお見舞金を沢野に手渡した。
中身は15万円である。
差額は重男が自腹を切った。もちろん内緒だ。
「職場のみんなのお見舞金と、会社からのお見舞いも合計してあるからね」
「済みません、本当に何から何まで・・・」
沢野はあたかも重男から戴いたかのごとく、何度も重男に向かって礼を言った。
「まあ気にしないでいいから。今は子供さんが一刻も早く良くなるように看病するのが
あなたの役目ですよ、はははは」
「あの、せっかくですから、理恵に会ってください。娘にも挨拶させたいし」
「そうですか。そうだね。僕も元気な顔を見たいしね」
(42)
二人は西病棟の理恵の部屋に向かった。
病室に入ると、その部屋は女の子専用であり、どのベットも小学生から中学生くらいの
女の子が占めている。
どの子も回復期にあるらしく、元気そうだ。
本を読んだり、ゲームをしたりと普通の子と変わらない。
母親の姿を認めた理恵は、本を置くとベットの横に腰掛けた。
「ママ、お昼済んだの?」
「うん、理恵、ママの会社の人がお見舞いに来てくれたの。挨拶しなさい」
理恵は重男の方を向くと、
「こんにちは」とはにかみながら挨拶した。
重男もつい微笑みながら、
「だいぶん元気になったね。もうこれで中学校に行けるね」
というと、理恵は嬉しそうに笑った。
「はい、四月には間に合うって」
ああ、この笑顔だ。屈託の無い笑顔ってこういう子のことを言うんだろうな。
この子の笑顔は何かほっとするものがある・・・
元気になって良かった。本当に良かった・・・
ほどなく、重男は杏子に見送られて病院の玄関まで出てきた。
帰る前に、重男はずっと気になっていることを沢野に聞きたかった。
「あの・・・、沢野さん。上の娘さんは理沙ちゃんといいましたよね」
「はい」
「で、あのー、そのー、理沙ちゃんって帰りが夜遅くなることがよくあるんですか?」
「はあ?」
(43)
なぜそんなことを聞くの?と言う風な目つきで沢野が重男の顔を見つめた。
重男が今まで見たことの無いような冷たい表情である。
重男は思わず逃げ出そうかと思ったくらいだ。
「い、いや、僕の勘違いならいいんだけどね、ちょっと小耳に挟んだだけで」
しかし、沢野は重男に詰め寄るように迫った。
「どこで聞いたのですか?それはどういうことなんでしょう?」
重男は少し焦る。
「あ、い、いやきっと、何かの用事で遅くなっただけなんでしょう。
別にどうこうじゃないから・・・」
沢野は表情がいつもの状態に戻った。
一息吐くと、力なく話しはじめた。
「理沙はいつも遅いんです。何か仕事をしているみたいなんですが、私にも
判らないんです・・・」
そういうと沢野は俯いた。
な、なに?何かの仕事をしているー?
高校生なのにか?
まさかとは思うが・・・
「はあ、そうですか。仕事って普段の夜だけですか?」
「いえ、土日も朝から出てるみたいなんです」
「そう。高校生が大変だね」
沢野は何も答えなかった。
取りあえず、重男はその場を切り上げるしかなかった。
沢野は何も知らないようなのだ。
自分の娘が何の仕事をしているのかすら知らないらしい。
(44)
重男が「じゃあ理恵ちゃんお大事に」とその場を去ろうとすると、沢野が呼び止めた。
「あの・・・。理沙には、理沙には、苦労かけてるんです・・・」
というと両手で顔を覆って言葉が続かなくなった。
「あ、いや、そ、そうか」
重男は慌てて、病院の玄関の外の庭に沢野を連れ出すと、ベンチに腰掛けさせた。
重男は沢野を何と言って慰めてよいか判らなかった。
しかし、入院した理恵や高校生の理沙のことなど、沢野が色々な問題を抱え憔悴している
ことだけはよく判った。
「理沙は本当は大学に進学したいはずなのに、うちの家計を心配して働いて
くれているんです」
「はあ、そうですか。進学はお金かかるしねえ。でも親思いのいい子じゃないですか」
「はい、それだけにあの子の願いすら叶えられない自分が情けなくて・・・」
「それなりに事情があって夜も働いているんだろうなあ」
沢野はハンカチで顔を拭きながら黙っている。
重男は続けた。
「あの、もし心配なら、僕が理沙ちゃんがどこで働いているのか調べてみましょうか?」
沢野はびっくりした顔で重男を見た。
「ええ?でも、そんな。お忙しいのに」
「いやあ、いいんですよ。僕は独り身だから自由が効くし」
重男は笑った。
「親にとって子供は大切ですからね。何をして働いているのか心配でしょう。
ぜひお手伝いさせてください」
(45)
「すみません。いろいろご迷惑ばかり掛けて」
沢野は重男の提案に頷くのであった。
「重男、佐知枝さんがこの前うちに挨拶にこられたべ。」
「ええー?家に?それで何だって?」
重男の千葉の実家の母親からの電話である。
重男のお見合いした佐知枝が、どうやら重男の実家に訪れたらしい。
「うん、そんでな、至らない自分ですが、是非ともお前のところにお嫁に行きたい
って挨拶して行ったんだわ」
重男の母親は嬉しそうだった。
「父ちゃんも大喜びだべ。こちらこそもよろしくお願いしますって言うたでな」
重男も驚いた。
「そうかあ、ホントにそうかあ?俺でいいってか」
「そうじゃ。あたしたちも一日も早くあんたが一緒になるようにこれから
考えていかななるべえ」
「そんじゃあ、俺も出来るだけ早いとこ千葉に顔出して佐知枝さんとこの後のこと
相談しなきゃならんな。一緒にやるお店のこともあるしね」
「んだ。お前もぼやぼやせんと、そのうち向こうの気が変わるで?お店に入るなら
入るでそっちの後始末もあるだろうから、これから少しずつ準備せんとな」
「判った。会社の方もすぐにって訳にいかないから三月中に辞める方向で
話を進めるよ」
重男は電話を切った。
(46)
そうかあ。
もうお互いの気持ちは通じていたが、俺の両親のところに挨拶に来たのだから
もう結婚は決まったも同然だ。
今度行く時は結納だな。
会社だって、この年で係長補佐に降格になりそうなくらいだからもう未練はない。
長かったサラリーマン生活ももう終わりだ。
部長や課長にこき使われながらの奴隷じゃなくなるんだ。
小さいながらも俺はお店の社長だ。
よーし、佐知枝と頑張って店を盛り上げるぞー!!
次の土曜日の朝、重男は沢野の住んでいる県営住宅の付近を歩いていた。
土曜と言えど本当は会社に出勤しなくてはいけないのだが、急用が出来たことにして
代理の社員に代わりに出て貰った。
お陰で別の日には、そいつに昼飯くらいは奢らなくてはいけなくなったのだが。
沢野の自宅の見当はついている。
問題は娘の理沙がどこへ向かうかだ。
住宅から大通りに出てバスで駅に向かうはずである。
この辺に繁華街などないし、仕事なら駅まで出てそこから電車に乗って移動するであろう
ことは予想できた。
運のいいことに、重男の顔が理沙にばれていないことである。
以前に、会社の門のところで沢野に会いに着た理沙を見ているので、重男は理沙の顔を
覚えている。
(47)
沢野は、土日も朝早くから理沙が仕事に出かけると言っていた。
重男は七時から離れた住宅の陰で、沢野の家を見張っているがまだ理沙が出てくる気配が
ない。
理沙はバスに乗るに違いないので、新聞で顔を隠しながらバスに同乗し、終点の駅で
一緒に降りる。
電車は切符を買うのにまごつくと見失う恐れがあったので、遠い料金分の切符は
予め買っておいた。
どこでバスに乗ってもいいように共通のバスカードも購入した。
用意は万全である。
理沙ちゃんが働いている場所を突き止めなくちゃな。
まともな仕事なら沢野も安心するだろうし、変な仕事なら俺が出しゃばってでも辞めさせる。
重男としてはとにかく、沢野の娘に道を踏み外して欲しくなかった。
あ、出てきた!!
理沙が住宅の中から出てきた。八時を過ぎている。
よし、後をゆっくり近づいてバスに乗ろう。
しかし、理沙は道に出ることなく、家の横の物置の中に入っていった。
「あれ?何してる・・・・ああーっつ!!」
理沙が物置に入ったのは自転車を引っ張り出すためだった。
自転車とは?!想定外だったっ!
(48)
理沙は自転車に乗ると、悠然とバス通りに出て行った。
重男は虚しくも後を追いかけたが、いかんせん、40代の体力で追いつくはずが無い。
バス通りを駅の方へと去っていく理沙を呆然と見送るしかなかった。
「朝から見張った挙句にわざわざ買った電車の切符とバスカードがパアか・・・ははは」
いかに重男らしいドジであった。
駅に向かうバスに乗り、重男は今後の作戦を考え直すしかなかった。
当初の計画では、土曜に理沙の勤務先を突き止め、日曜は千葉の佐知枝の元に会いに
行くことにしていたが、最初から躓いてしまったのだ。
そもそも俺はいったい何をしてるのだ?
ひとり頑張っている沢野をこのまま見捨てるに忍びない。
娘の理沙が売春さえしてないことを突き止めれば安心なのだ。
いや、それだけではない。
母親が心配するように、高校生が夜働くことを辞めさせなければ。
さて、貴重な土曜日をどうするか・・・
明日は千葉の佐知枝に会いに行きたいな。
ぼんやりと考え込んでいるうちにバスが駅に到着した。
重男はバス停から駅に向かう途中で飲み物を買いたくなり、角にあるコンビニに入った。
適当なお茶を選ぶと、レジのカウンターに並んだ。
先客が一人おり、レジ前ののど飴を物色しながら女性店員を何気なく見ると、重男は
思わず声が出そうになった。
レジで会計をしている店員の名札には「沢野」とある・・・
(49)
理沙ちゃん、ここで働いていたのか!
慌てた重男は理沙に目を合わせないようそっぽを向き、体も横向きにしてペットボトルを
差出、会計を済ませると足早に店を出た。
思いもかけず、理沙の職場がわかった。
駅前のコンビニで働いていたのだ。
重男はほっとした気持ちになった。
コンビニなら高校生でも働いている人は多い。
ただ、昼間ならともかく、夜もというのはいただけないな。
何と言っても未成年だし、最近はコンビニも物騒だしな。
しかし、夜まで働くというのは沢野家の経済的事情もあるのだろうから、俺がどうこう
言える立場ではないしなあ。
それにしても、夜に男の運転する車に同乗していたというのは気になる・・・
重男はしばらく外で考え込んだが、近くの公衆電話のボックスに入った。
「もしもし、あ、井桁です。あ、理沙ちゃんの仕事わかりましたよ。
駅前のコンビニでした。はい、心配することないですね。
うーん、夜もきっとそこなんでしょうねえ。はい、本人には言わない方が・・・
はい、そうですね。じゃあ」
公衆電話を出た重男は何となく肩の荷が降りた気がした。
ワクテカが止まらない支援
どう冒頭の展開に繋がるのか楽しみでたまらんな。
146 :
名無し物書き@推敲中?:2006/11/02(木) 13:44:11
(50)
日曜日の朝、重男は東京駅から千葉方面の外房線の特急に乗っていた。
いつもなら内房線に乗って千倉まで行くのだが、今日は晴れ晴れしい気分なので
外房総の海を眺めながら行くことにした。
もう季節は春真っ盛りである。
千葉の山々は桜の花で桃色に染まっている。
房総半島は関東の南国といわれるくらい、海に面した地域は温暖である。
「春の海、ひねもすのたりのたりかな・・・か」
誰かの句にこんなのがあったよな。
春の海は判るが「ひねもす」って何だ?
「のたりのたり」って海に漂っているのかな?
ということはだ、「ひねもす」って海に浮かぶ生き物か?魚の一種か?
「ひねもす」という生き物が「のたりのたり」と海に漂っている?
何か変な句だ・・・
意味不明のことを想像しているうちに、特急は安房鴨川に到着した。
内房線なら一本で千倉に行けるのだが外房線ではここで乗換えだ。
在来線に乗り換えて千倉の実家まであと一息。
予め実家には乗る電車を知らせておいたが、兄貴、迎えに来てるかな?
佐知枝に逢うのは、この前彼女が川崎の重男の自宅に来て以来である。
重男は次第に胸が高鳴るのを感じた。
重男にとって、彼女は会うたびに美しく感じる。
50に近い年輪ではあるが、逆にそれゆえの美しさというものもある。
何といっても初めて重男を認めてくれた女性なのだ。
誰しも自分を理解してくれる、認めてくれる異性には夢中になるだろう。
まして重男にとって本来なら不釣合いかとも言うべき美人なのだから尚更である。
(51)
千倉の駅に着いた。
重男が改札口を出ると佐知枝が立っていた。
「あ、佐知枝さん!」
「こんにちは。お忙しいところわざわざ来て戴いて済みません」
佐知枝はにっこりと微笑みながら重男に挨拶した。
今日は安房鴨川で乗り換えたのでいつもより時間を食っている。
佐知枝は辛抱強くずっと待っていてくれたのだろう。
「いや、まさかお迎えに来てくれているなんて・・・」
「いえいえ、とんでもない。こちらこそ、おいそがしいのにせかしたようで、
申し訳ありませんわ」
重男と佐知枝は、もう慣れ親しんだ間柄の様に会話をしながら、タクシーで重男の実家に
向かった。
重男の実家ではすでに重男の両親と兄夫婦とその子供たちも顔を揃えていて、
みんなでお出迎えである。
普段は気難しい重男の父も、今日はよそ行きの明るい表情だ。
「さあさあ、今日は目出度い日だべ。重男におカミさんが来てくれるんじゃ。
まあ、みんなで話し合ってこれからの予定を決めるべ」
座敷には豪勢な料理がところ狭しと並んでいる。
互いにビールや酒から始まり、前祝いの祝宴が始まった。
母親が重男の側に来た。
「重男、漁協の山内さんに仲人お願いしてるけんね。後で挨拶に言っといてな」
「ええー?仲人までもう決めてるのー?まだ早いんじゃ・・・」
「何いうて。こういうことはどんどん進めなきゃあ」
(52)
重男はこっそり佐知枝に聞いた。
「あの、佐知枝さんは良いんですか?こんなに話進めちゃって」
佐知枝は微笑みながら答える。
「私のほうはいつでも構わないんです。後は重男さんのお気持ちひとつなので・・・」
し、重男さん・・・
俺のことを名前で呼んでくれる初めての女性・・・
重男は自分の胸が、思春期の少年のように「キュン」となるのを感じた。
考えてみれば重男の方はとっくの昔から佐知枝の名で呼んでいたのだが、
それは裕也のことがあったから名前で呼んでいたのだ。
確かにお互いもう他人の気がしないな。
息子の裕也の騒動が却って二人の絆を深めたわけだ。
裕也も俺の息子ってことか・・・
座敷に全員が集まり、祝言はどこでやるだの規模はどれくらいだの
話を決めているときに、ふと、重男の兄が言った。
「シゲ、お前、会社は辞められるのか?こっちで佐知枝さんの店に入るなら
もう早く辞表のほうも進めねばなんでだぞ」
「うん、今から出せば期末だから三月中には辞められると思うんだ」
その時、佐知枝が口を挟んだ。
「重男さんが会社をお辞めになるまで、私が川崎のご自宅に行っても構わないですよ」
重男はびっくりした。
「ええー?いや、あそこは汚いし、それにお店を休めないでしょう?」
「ええ、でも、お1人では不自由でしょうし、引越しの準備とかも・・・」
(53)
重男の顔が綻ぶ。
重男だって早く所帯を持ちたいのは山々だ。
「うむ。でもまあ、ちゃんと籍を入れるのが道理だから、それからでも遅くないしね」
佐知枝は頷く。
「判りました。重男さんのご都合がよろしい時になるまで待ちますわ」
佐知枝さん俺は必ず行くからな。
それまで待っていてくれよ・・・。
重男も夜の電車で川崎に戻らなくてはならない。
帰り支度を始めた重男に寄ってきた母親が、何やら紙切れを見せた。
「ん?何これ」
重男がペラペラした紙を広げてみると、それは婚姻届の用紙である。
「えーっ!何これ。まだ早いよー」
なんとも手回しの早い母親である。
佐知枝の自筆こそないが、それ以外の重男に関する部分、そして届出の証人欄もすでに
重男の両親が署名捺印してある。
要するに、あとは佐知枝が署名捺印して戸籍謄本を添付すれば正式に二人は
夫婦になってしまうのである。
重男は胸がどきどきした。
(54)
こ、これが婚姻届か。
俺には一生無縁のものだと思ったが、現実にここにあるんだ。
俺も晴れて一家の主になれるのだな。
「かあちゃん、これ、俺持っとくよ。大事なものだからな」
重男の母親は嬉しそうに笑った。
「そんでいいよ。今度来たときに後は佐知枝さんに書いて貰うべ」
重男はまだ時間に余裕があったが、佐知枝とタクシーで佐知枝の自宅に向かった。
せっかく重男と佐知枝が逢えたのに、二人っきりになる時間もないんじゃ可哀想、という
みんなの配慮だった。
小奇麗な佐知枝の自宅に訪問するのは二度目である。
女性の家らしく、綺麗に片付いている。
重男のアパートとは雲泥の差だ。
「重男さん、ここから駅までは10分くらいですから、電車の時間見て出られれば
いいですね」
「うん、一時間くらいは大丈夫だね」
しばらく二人で今後のことなど取り留めない話をしていたが、ふと佐知枝が言った。
「裕也のことはほんとに世話になりました。あの子も独り立ちできそうです。
本当によく働き口が見つかったと思います。あの子の勤め先はどなたかのご紹介なのですか?」
(55)
「ええ、職場の女性でね、真面目ないい人なんだ。実はスーパーに
行ったときにね・・・」
重男はスーパー花輪で沢野杏子に初めて出合ったときのことから始まり、
沢野の紹介の会社の人たちの手助けで裕也を回生させたことなど話した。
「その沢野さんって方、まだ重男さんの会社にお勤めなんでしょう?
いつか機会があったら裕也のお礼を言いたいわ」
重男はちょっと渋面になりながら言った。
「うーん、でも彼女は今大変な時期でね。小学生の娘さんが手術をしたり、上の娘さんと
感情がもつれたりと、苦労してるんだよ」
「そうですか。そういう時こそ夫婦が力を合わせて乗り切り・・・」
「ああ、彼女は独身なんだ。いつ離婚したのか知らないけど」
佐知枝は目を丸くした。
「まあ、そうなんですか。私も独り身になったので子供を抱えた家庭の大変さは
よく判ります」
重男も頷く。
「そうでしょう。だから僕としてもできるだけ彼女のサポートはしてきたつもりだよ。
裕也君が世話になったお礼の意味も含めてだけどね」
そして重男はソファーに深く座りなおすと続けた。
「何より彼女の頑張りが凄いと思うんだよね。子供二人育て上げてるし、
仕事は人一倍頑張るし、弱みを見せない。
今までその強さを保ち続けたしわ寄せが来てるのかなー。
彼女の家庭が落ち着くまで、会社を離れがたいというのがちょっとあるんですよ」
(56)
佐知枝は重男の黙って話を聞いていたが、やがて微笑んだ。
「重男さんって困った人に人一倍のめりこむ性格なのかしら。
裕也のこともそうでしたけど、その沢野さんのご家族のことも気になるんでしょう?」
「うーん、そうかな。そうだろうか。でも所詮は他人のことだしね。
ま、来週にでも辞表を書きますよ。時期を逃すと僕も責任上、
簡単に会社を辞められなくなるので」
これは嘘だ。
あいつは係長特任補佐に降格になったから辞めた、と職場の人間に言われたくないだけだ。
重男としては、降格になる前に辞めたかった。
この年で平社員に毛の生えた程度にまで降格になれば、もう残りの会社人生は
惣菜の現場で材料をパックに詰める手伝いだけで終わるだろう。
そんなしがないサラリーマン生活はもうごめんだ。
重男は立ち上がった。
佐知枝も見送るために食器を片付け始めた。
「重男さん、私はいつでもいいですから、会社を辞める時期はご自由になさって
くださいな」
「はい、判りました」
重男と佐知枝は駅の改札まで一緒に歩いた。
時折、佐知枝の知り合いらしき女性などが通りすがりに挨拶していったが、
重男を佐知枝の小料理屋のお客とでも思ったか、さして変に思わないようだった。
それもそうだろう。
佐知枝と重男は端から見れば不釣合いな組み合わせなのだから。
この二人が婚姻の契りを交わす仲にはとうてい見えない。
(57)
駅の改札で二人は別れの挨拶を交わした。
「佐知枝さん、あの家は手放すことはありませんよ」
「え?」
「あなたの家は僕が守って見せます」
佐知枝は何も言わずに重男の顔を見ている。
重男は構わず、「じゃあ」というと特急の待つホームへと歩いていった。
恐らく、佐知枝は結婚を機に自宅を売って借金の清算をするつもりだろう。
だが、そうはさせない。
俺の貯金で借金を返せばいいんだ。
そうすれば、あの綺麗な佐知枝の家で所帯を持てる。
綺麗に手が入れられている佐知枝の自宅を思い起こすと、重男は自分としてもあの家に
住みたいと切に思うのだった。
その夜、重男は内房線の電車で東京に向かった。
電車が外房総から東京湾に面した工業地帯に入っていく。
見慣れた東京湾の工場群の灯りが、数え切れないほどの明滅を繰り返している。
無数の電灯の灯りを見ていると、それぞれが人間の人生の明滅のように思えた。
あるものは光輝き、あるものは薄暗く、そして寿命が来て消えてしまう。
重男の光は今、人生で最大の輝きを放っているはずだ。
しかし、なぜかそれらを見ていると、重男の心に時折、
ヒンヤリとしたものが流れるのを感じた。
それは何であるかは重男にもよく判らなかった。
155 :
杏子:2006/11/02(木) 22:32:29
待ってます
156 :
名無し物書き@推敲中?:2006/11/03(金) 09:28:42
ナマ杏子ナマ杏子ナマ杏子ナマ杏子ナマ杏子ナマ杏子
ナマ杏子ナマ杏子ナマ杏子ナマ杏子ナマ杏子ナマ杏子
ナマ杏子ナマ杏子ナマ杏子ナマ杏子ナマ杏子ナマ杏子
サルみたいな男に、母子家庭で頑張っている別の女性が気になるから
まだ会社やめられない、といわれたらいやだな。
(58)
翌月曜日の朝、重男が会社の事務机で恒例のコーヒーを飲んでいると、
沢野がやってきた。
「あ、沢野さん。もういいのかい?仕事出て」
「はい、お陰さまで娘の回復も順調で、私ももう職場にでられますので」
沢野はやつれてはいたが、元気そうに答えた。
「皆さんにお見舞いを戴いたお礼の挨拶に周ってるんですよ」
「そ、そうですか。あ、ちょ、ちょっと会議室に」
重男は例によって沢野を会議室に連れ込んだ。
毎度毎度、女性社員を会議室に連れ込むんでも、相手が沢野だと問題ない。
これが若い女性社員とかを会議室に連れ込んでいたら大問題になる。
重男と沢野杏子が二人で部屋に篭っても、周囲は「仕事上の話なんだな」と全然違和感を
感じない組み合わせであるのが都合が良かった。
重男は沢野を前にして言った。
「あの、理恵ちゃんはまだ退院してないんじゃ?」
沢野はちょっと答えにくそうな顔をした。
「はい、でももう二三日で退院できますし、理恵も自由に動けるので」
「そうかい。でも病院に1人だからなあ。それに退院してもしばらくは自宅療養でしょう?
その間もあなた、職場に来れるの?」
「はい・・・」
沢野は俯いてそれ以上返事をしなかった。
重男ははたと思い当たった。
そうか、働きたいとか職場のためとかではなくて、働かざる負えないのだ。
生活資金が窮してるんだっけ。
でも、生活保護受けているはずなのにそんなに大変なんだろうか。
どれだけ行政の補助を受けているのかはよく知らないが・・・・
(59)
重男は頷くと、立ち上がった。
「判りました、あなたの都合の良い日に来て戴いて結構ですよ」
沢野も立ち上がりながら頭を下げた。
そして、去り際に重男に礼を言った。
「この間は理沙のことでご迷惑をお掛けしました」
「いやいや、とんでもない。むしろ私のほうがあなたに世話になってきたんですから、
私でよければいつでもお役に立ちますよ。それじゃ、理恵ちゃんによろしく」
沢野は部屋を出て行った。
まあ、理恵ちゃんももう中学生になるしな。
母親に頼らずとも、退院しても自分で身の回りのことは出来るだろう。
上の理沙ちゃんが働いているのは気がかりだけどな。
こればっかりは俺の手ではどうにもならない。
今はまず、沢野さんは家計を立て直すことが大事なんだ。
それにしても、沢野は以前よりだいぶん痩せてきているように見える。
少なくとも、スーパー花輪で初めて出遭った時の横綱然とした貫禄というか風格が
消えているのが気になった。
今はせいぜい、前頭ってとこかなー。
よほど心労がきついのか・・・
(60)
月曜、火曜、水曜、と日にちは過ぎていく。
重男は何度も何度も書き直した。
書き直したのは退職願いである。
もうあと一週間で三月も終わる。
四月の辞令が出る前に辞表は提出したかった。
数日前に惣菜の杉田課長に重男は呼び止められた。
「井桁君、スーパー花輪の新店舗の納品な、うちは難しいみたいだぞ」
「は、はあ」
重男に「難しいぞ」と言われてもどうしようもない。
これではますます重男の降格が決定的である。
スーパー花輪の木下店長は重男に「新店舗の材料納入業者」として重男の会社を
確約してくれたが、今や木下の社内での力も衰えているのかもしれない。
「今般、一身上の都合により、退社させて頂きたく申し上げます 惣菜課 井桁 重男」
ふー出来た。
辞表というものも難しいものだ。
たった一枚の紙切れなのにな。
筆ペンというのも難しい。何度も書き直した。
ボールペンじゃそっけないし、万年筆なんてもの今の時代持ってないしなあ。
順序から行けば杉田課長に提出すべきなんだが、人事権は飯田製造部長にあるからな。
部長に直接手渡すか。
課長に出すと、どうせああだこうだと慰留させられるしな
(61)
今日こそは辞表を出そう出そうと思いながらも、なかなか決心がつかなかった。
いざ会社を辞めるとなると、やはりそれなりの思い入れがあるのか心に迷いが残った。
漸く今日提出する気になったのは、夕べ千葉の実家の母親から電話があり、「今度の日曜に
親戚知人に結婚のお披露目をするから来てくれ」という電話があったからなのだ。
重男の優柔不断とは関係なく、周囲は動いていた。
重男としても、佐知枝のお店を続けるからにはいつまでもぐずぐずしてはいられない。
重男は勇躍勇んで部長の部屋をノックした。
すると偶然にもそこには飯田部長だけではなく、杉田課長も同席して何やら書類の
類を見ているところであった。
「おーこれはいいところに来た。まあ入りなさい」
なぜか、飯田部長は機嫌がいい。
重男は緊張した面持ちで飯田の前に立った。
「あの、部長、実はお話があるんです」
「ほお、そうか。僕の方も君に話があるんだよ。いいね杉田君」
杉田課長も意味ありげに頷いた。
重男は躊躇した。
部長の話って何だ?降格の件かな?
「あの、部長の方からどうぞ」
「君が先だろう、部下が先に決まっとる」
「そ、そうですね・・・」
重男は震える手を胸ポケットに差し入れた。
が、手が動かない。
漸く手が辞表の入った封筒を掴んだ。
重男は息を吸い込むと、一気に懐から封筒を引き出した。
「あの、ぶ、部長、こ、これを・・・」
(62)
「何だねこれは・・・」
飯田は重男に手渡された封筒の中身を取り出す。
飯田は重男の辞表を一目見ると、それを無言で杉田課長に差し出した。
杉田課長も重男の辞表を一目見て「おっ」とびっくりした様子で飯田と
顔を見合わせた。
飯田は腕を組んでしばらく考え込む様子だったが、やがて口を開いた。
「井桁君、よく考えたのかね。仕事上の不満か?個人的事情か?」
重男は予め想定しておいた返答マニュアルにしたがって答える。
「はい、個人的事情で実家に戻ることになりました」
「ふむ、個人的事情じゃ仕方ないか・・・。しかし、もう一度よく考えて見て
くれないか。うちの職場でも君の貢献度は評価されているんだよ」
嘘をつけ、評価している社員をずっと係長のままで扱うわけ無いだろ!
「はい、いろいろと考えたゆえに自分なりに結論を出しました」
飯田はまだ納得できないようだ。
「ふーむ、そうか」
また杉田課長と顔を見合わせる。
「判った。じゃあ来週まで預かろう。もう一度考えて見てくれ。
それでも君がどうしても実家に戻るという結論が変わらなければ受け取るしかないな」
「はい、ではまた来週にお伺いします」
どこの会社でも見られる形式的な慰留だ。
お荷物社員で無い限り、辞表がその場で受理されることは殆ど無い。
重男は一礼をすると、部屋を出た。
(63)
気がついてみると、体中に汗をかいてる。
辞表を出すだけでもかなり緊張するものだな。
来週にも辞表は受理されるだろう。
後任は外部から引き抜いてくるのか、他所の課から引っ張ってくるのか知らないが、
一週間もあれば引継ぎも出来る。
自分の今後の見通しがたったことで、重男は何かやっと肩の荷が下りた気分になった。。
その週末の土曜日、重男は土曜と言うこともあり、外出はせずに事務所で書類の整理を
していた。
翌日曜に重男はまた千葉の実家に行くことになっている。
午後から仮祝言ということで、親戚知人を集めてのお披露目が準備されているのだ。
佐知枝も明日を待ちかねていることだろう。
昼食を挟んで午後のまどろみの中、勤務中にも重男の頭には
明日の予定のことばかり浮かんだ。
明日は夕方からだから、昼頃にこっちを出ればいいかな。
夜は最終電車で川崎に戻ればいいか。
ふーむ、明日は天気が雨模様か・・・心配だな。
別に婚礼衣装を着るわけじゃないから別に構わないが・・・
誰かが外の廊下を走ってくる音がした。
ドン!と事務所の戸が開く。
「係長!沢野さんがまた倒れました!」
(64)
事務所の社員たちがどよめく中、重男はすでに廊下を走っていた。
惣菜の製造現場に駆けつけると、沢野杏子は女性社員たちに囲まれて横たわっていた。
この前と違って、意識はあるようだ。
しかし頭でも痛いのか、両手で頭を抱えて苦しそうにしている。
「救急車は?」
重男が周囲に尋ねる。
「はい、もうすぐ来ると思います」
「そうか、取りあえず誰か毛布持って来い」
女性の1人が本館へ駆けていく。
「沢野さん、沢野さん、どこか痛むんですか?どうですか?」
重男が聞いても、沢野は頭を抱えて苦しそうに唸るだけであった。
横たわった沢野はひとしお小柄に見えた。
やがて救急車が来た。
重男は今度もまた女性社員と一緒に同乗して病院まで付き添うことにした。
この前と違って、沢野は救急車の中でもずっと唸りっぱなしだった。
「この前はすぐに元気になったんだけどなあ」
救急隊員は沢野の具合を見て、「脈拍や鼓動、呼吸に異常はないようです」と伝えた。
救急車は街中の個人病院に到着すると、隊員は沢野を処置室に連れて行った。
「沢野さんどうしたんでしょうね?」
付き添った女性社員がつぶやいた。
「うーん、最近忙しかったから疲労が溜まってるんだと思う。彼女は休息が必要
なんだろうなあ」
「そうですかあ?沢野さんずっと休んでいたのにですかあ?」
重男は答え無かった。
(65)
恐らく、頭痛の持病でもあるんだろう。
偏頭痛ってのは七転八倒の痛みらしいし。
小一時間は待たされたろうか。
中年の医師の1人が中から出てきた。
廊下の椅子に掛けていた重男たちは駆け寄った。
「先生、どうでした?」
「あー、関係者の方ですか?頭痛が酷かったようですが今は薬で落ち着いています」
「そうですか。ただの頭痛ですか・・・」
「ですが、もう少し検査をした方がいいと思います。ここにはMRIという機械があるので
後で精密検査してみます」
重男はちょっと慌てた。
「先生、精密検査する必要があるんですか?」
「ええ。直接の症状は頭痛なんですが、何が原因で頭痛が起きるか調べないとね」
重男はすがるように言った。
「先生、彼女は最近疲れが溜まっているんです。疲れがそういう症状を起こす原因に
なりませんか?」
「まあ、そういう場合もあります。とにかく、検査を受けて見てください」
重男は椅子に腰掛けた。
なんてことだ。
沢野には娘たちしかいない。
それも退院したばかりの小学生と仕事に出かけている高校生だ。
母親が入院でもしたらどうなる。
取りあえず、沢野の自宅に連絡しなくては。
(66)
重男は県営住宅の沢野の自宅に電話を入れた。
やはり下の娘の理恵が電話に出た。
「あ、理恵ちゃん?おじさん覚えているかな。あなたが入院していた時、
お見舞いに行ったおじちゃん、あ、そうそう。それでね、お母さん
なんだけどね」
重男は一瞬言葉を切った。
「ちょっと具合が悪くなって・・・いやいや、大したことないんだよ。
ちょっと疲れちゃったのかな。病院でお薬でお休みしてるだけだから
大丈夫。ん、心配ないって。それでね、理沙ちゃんだっけ。お姉ちゃんが
帰って来たら病院に来て欲しいんだ」
重男はハンカチで額の汗を拭った。
三月の終わりなのに暑かった。
「お姉ちゃんいつ戻るか判らない?ん、判った遅くなってもいいからいっといてよ。
病院の名前はね伊勢浜病院、電話は・・・」
もう夕方である。
重男は女子事務員は先に帰社させた。
取りあえず精密検査が終了して、今日退院できるなら沢野を家まで送り届けるつもりだった。
重男は腹が減っているのを感じたので、病院の売店でパンを買うと、
待合室でモソモソと食べて空腹を満たした。
理恵ちゃんは家で食事が出来てるんだろうか。
病人食じゃないよな。
胃腸の病気じゃないし。
インスタントものでも自分で作って食ってるだろう。
上の理沙ちゃんはこんな時間まで何してるんだ?
母親が病気だと言うのに・・・
166 :
名無し物書き@推敲中?:2006/11/04(土) 02:26:50
ガ・・・ガンガレーーー!!!
167 :
名無し物書き@推敲中?:2006/11/04(土) 03:47:41
理沙。。。まさか。
重男重男重男重男重男重男重男重男重男
男重男重男重男重男重男重男重男重男重
重男重男重男重男重男重男重男重男重男
男重男重男重男重男重男重男重男重男重
重男重男重男重男重男重男重男重男重男
なぜ結局杏子と結ばれることになったのかが気になる。
無理に冒頭に繋げなくてもいいような気がしてきた。整合性が取れなくなる。
170 :
名無し物書き@推敲中?:2006/11/07(火) 09:08:23
>>169 それ思う!
むりくり繋げなくても十分楽しませてもらってるし、逆に繋げて欲しくなかったりするw
(67)
「沢野さんのご主人さんですか?」
突然話しかけられ、見上げると、女性看護師が側に立っていた。
「はあ、いえ、彼女の勤務する職場のものです」
看護師は困ったような顔をした。
「沢野さんのご家族の方はお見えになられないのでしょうか。検査結果をお伝え
したいのですが」
重男も困った。
何と言って答えればいいのだ?
「はあ、彼女は未成年の子供しかいないんです。ご両親も亡くなられていて。
それに上の子はまだ連絡が取れないし。でも、私が代わりにお話を伺います。
上司として責任を持ちますので」
「そうですか。それではちょっと先生に聞いてみます」
女性看護師は程なく重男のところに戻ってきた。
「それでは明日の午前中にもう一度来ていただけますか?ご本人が今夜はもう
寝ていらっしゃるので、明日、先生がご本人に直に説明するそうです」
「判りました。で、そんなに大したことないんですよね。習慣みたいなものなんでしょう?」
重男は自分を安心させるように看護師に聞いた。
「さあ?私は判りませんので、明日、先生にお聞き下さい」
看護師は立ち去りながら付け加えた。
「今日はもう寝ていらっしゃるので、退院は明日になりますからお宅様はもう
お帰りになって結構ですよ」
「はい・・・」
重男は小さな声で答えるが、そのまま照明が半分に落とされた待合室に行くと
ソファに座り込んだ。
(68)
帰れたって、理沙ちゃんがここに来るかもしれないのに帰れない。
どうすればいいんだ。
時間は過ぎていく。
もう夜十時を回ろうとしている。
いったい、高校生がこんな時間まで何ほっつき歩いているんだ?
仕事でこんな遅くなるわけが無い。
未成年をこんな時間まで働かせるところがあるのか?
うわさのとおり、男と出歩いてるのか?
で、理沙ちゃんが来たからどうするっていうんだ?
沢野さんの・・・
その時、待合の通用門に通じる一角から理沙が小走りに入ってきた、
「理沙ちゃん!」
重男は思わず強い調子で声を掛けた。
理沙は、誰?というような顔で重男を見る。
「あ、僕はね、君のお母さんの職場のもので井桁というものだ」
理沙は「はあ」というような顔で頭を下げた。
「で、お母さんなんだけどね。ちょっと頭痛が酷くて今日は入院するそうだ。
明日には退院できるということだ」
理沙はほっとしたような顔になり、「良かった、大したこと無くて」と呟いた。
重男は思わず大声を上げた。
「良かったじゃないよ!お母さんが倒れたと言うのに、高校生がこんな遅くまで男と
出歩くとは何事だ!」
理沙は一瞬、重男の気迫に圧倒されて反射的に「すみません」というと頭を下げた。
が、しかし、すぐさま重男に対して睨みつけるように言い返してきた。
(69)
「あの、私が遅くまで出かけようと、おじさんに何も関係ないじゃないですか。
それに男と出歩くって、どうしてそんなこと判るんですか?」
重男は想像で口走ったことを後悔した。
男と出歩いているという証拠は何も無いのだ。
「ま、まあそれはともかく、妹さんもまだ丈夫じゃないんだし、お母さんもこういう
時だから、今後は夜は家にいるようにしたほうがいいんじゃないのかね?」
理沙は何も言わずにきつい目で重男を見ている。
「家のことは私たちで何とかします。おじさんのご心配は結構ですから」
「いや、まあそうはいっても君たちもまだ子供だし・・・」
「母の病室はどこなんでしょう?教えてください」
なんだか取り付く島も無い。
夜遅くに出歩いているという言い方が悪かったのか?
初めて会った人にいきなり怒られたんじゃ、気分が良いわけが無いか。
「病室は教えるけど、今は寝ているから明日の朝迎えに来るといい」
理沙は無言で頷いた。
理沙と二人で母親の入室している部屋を確認すると、揃って病院の玄関まで出てきた。
「通りでタクシーを拾おう。僕の帰り道だからあなたの自宅まで送るよ。
理恵ちゃんも一人ぼっちで心配だろうから、早く帰ってあげないと。いいね」
理沙はこの提案に異存は無い様だ。
小さな声で「済みません」と答えた。
通りで拾ったタクシーが県営住宅に沿った大通りに入っていく。
二人は車内でも殆ど無言だった。
今日初めて出あった二人に会話など出来ようもない。
やがて理沙が重男に問いかけた。
(70)
「あの、理恵が入院していた時にお世話になった方って、もしかしておじさんですか?」
「あ、ああ。そうかもしれない」
「そうですか。職場の上司の方だって母が言ってました。私からも礼をいいます」
と、隣の重男に向かって改めて頭を下げた。
「あ、いや、そう改まらなくても。君のお母さんは働き者だからね。
他にもおじさんもいろいろとお世話になってるからね」
その時、タクシーは住宅内の敷地を走り始めた。
「ああ、君は駅に自転車を置きっぱなしなんだよね。明日は・・・」
言いかけて重男はしまったと思った。
理沙が目を丸くして隣の重男を見ている。
「あの・・・おじさん、どうして私が駅に自転車を置いていること知ってるんですか?」
重男は顔が赤くなった。
暗いので表情の変化が見えないのが助かる。
が、どう取り繕っていいかわからない。
「い、いや、家から駅まで離れているから、もしかして自転車かな・・・と」
理沙はそれ以上何も言わなかった。
やがて車は住宅街の中の沢野の家の前に着いた。
まだ灯りが点いている。
理恵は起きて待っているのだろう。
理沙だけ車から降りると、理沙は重男に礼を言って自宅に入っていった。
重男だけ乗ったタクシーが大通りに出たところで、重男は明日のスケジュールを
考えた。
(71)
明日は午後から千葉で大事な佐知枝さんとのお披露目があるしなあ。
午前中に病院に行って沢野さんの具合を聞かないと行けないし、大忙しだな。
沢野さんが、もしも自宅療養とかいわれたらあの子たちも大変だぞ。
退院したばかりの子に、仕事で手一杯の子か・・・
また休業になったらどうするんだよ・・・
その時、ふと、シートについた重男の手に何やら鍵束のようなものが触った。
車窓の薄明かりで見てみると、自転車とドアの鍵のようである。
「運転手さん!車、さっきのところに戻して!忘れ物だ」
理沙が車から降りるときにシートに落としたに違いなかった。
車の中で確かにカバンからチャラと鍵のようなものを出す音を聞いた。
家が近くなったので、ポケットに移し変えたつもりが落としたのだろう。
車が住宅地に着くまで、重男は沢野の自宅にまで届けるかどうか迷った。
夜中に女の子だけの家に、届け物だけとはいえ顔を出すのは憚られたのだ。
思案した挙句、結局、郵便ポストに入れておくことにした。
そうして、駅にでも着いてからそのことを電話すればいい。
鍵はティッシュにでも包んで入れておくか。
車を待たせて、沢野の家にそっと近寄った。
門の横についている郵便受けの後ろから、鍵を包んだティッシュを入れようと
裏ブタを空けたとき、何やら封筒の束がばさばさと中から落ちてきた。
薄明かりの中で拾い上げた封筒の数々を見た重男の顔が強張る。
重男はなぜか、しばらく封筒の束を見つめたままその場から動かない。
表のタクシーが催促の警笛を軽く鳴らしたその音で、重男は我に帰ったように
車のところまで小走りに戻っていった。
176 :
名無し物書き@推敲中?:2006/11/07(火) 22:38:30
封筒の束…。そんなところに鍵束をいれていいの?
(72)
翌朝、重男は寝不足のやつれた顔で病院に向かった。
空はどんよりと曇っている。
もう四月になろうかというのに薄ら寒い朝であった。
日曜なので病院はロビーも閑散としている。
外来が無い休日のお陰で病院内も静かだ。
理恵が入院していた小児病院と違って、薬品の匂いの漂うここはまさしく病院であった。
朝来てくれと言われただけで、時間は言われなかったからどうしよう。
重男は迷ったが、取りあえず沢野杏子の病室を覗いて見ることにした。
沢野の病室のあるフロアまでエレベーターに乗った。
エレベーターがそのフロアで止まり、ドアが開くと、なんと、沢野が娘の理沙・理恵と
一緒に通路のソファに座っているのに気がついた。
「あ」
殆ど同時に気がつき、お互いに挨拶した。
沢野が申し訳なさそうに言う。
「度々、済みません、救急車ばかりお世話になって」
「いやいや、元気そうでなによりです。もう気分はいいんですか?」
「はい、もう全然何とも無いです。もう年なんですかねー、ほほほ」
隣の理沙と理恵も黙って笑っていた。
母親が心配したよりも元気だったので、安心したのだろう。
重男が来る前にすでに退院しようとしていたようだ。
(73)
「夕べは鍵を届けていただいて、ありがとうございました」
理沙が落とした家の鍵の礼を言った。
夕べ、重男は鍵を家のポストに入れて、駅から自宅の理沙に電話を入れたのだった。
「い、いやなに、夜も遅いからね。ポストに入れてすぐに駅まで行ったから・・・」
そこへ女性看護師がやって来た。
「沢野さん、先生の診察室にお入り下さい。昨日の先生は今日は日曜でおりませんので
代わりの先生がご説明します」
「はい」
理沙と理恵も付いて行こうとした。
「待ちなさい、君たちはここで待っていた方がいいよ」
重男は二人に向かって言った。
二人は不服そうにソファに戻ってきた。
その時、看護師に付き添われた沢野が心細げな顔つきで、重男たちの方を振り返った。
沢野の表情を見た重男は、思わず二人を追いかけた。
重男は沢野に追いつくと言った。
「良かったら、僕が一緒に先生の話をお聞きしましょうか?今後のお仕事の都合とかもあるし」
すると思いのほか、沢野は嬉しげに答えた。
「すみません。お願いできます?私、先生の難しい話はあまりよく判らないと思うので・・・」
しばらくすると、沢野と重男は診察室から出てきた。
沢野は割りと朗らかな顔つきである。
重男はちょっと顔が強張っている。
「ママ、どうだって?」
真っ先に理恵が聞いた。
入院の経験のある理恵としては一番気になるのだろう。
「うん、取りあえずは普通に生活していいって。時々は検査に来なさいってさ。それだけよ」
(74)
重男も言葉を挟む。
「おじさんも心配したんだけど、大したことなくて良かったよ。
またお仕事も出来るから安心していいよ」
「ママも少し痩せないとね。ダイエットしようかな」
ダイエットしなくても痩せて来てるんじゃないのか?と重男は思った。
「ああー良かったあ」
安心した理沙が大げさに言う。
「じゃあ、これで無罪放免ね。さ、帰ろうよ」
理沙と理恵ははしゃぎながら母親の手を取ると、引っ張って出口へと向かっていった。
病院の出口で三人は重男に礼を言うと、三人で寄り添ってバス乗り場へと歩いて
行く。
取り残された重男は待合室のソファに座り込んだ。
「・・・・・」
重男は全身の疲れがどっと沸いてきたような脱力感を味わっていた。
これから、千葉に行かなくては・・・・
佐知枝さんが待っている・・・
重男は鉛のように重い体で立ち上がった。
内房線の特急電車は木更津を過ぎ、海沿いの線路を館山方面に進んでいた。
東京から曇り空だったのが、房総半島に入ると、時折小雨が窓にまとわり付くようになってきた。
南房総の天気は移り変わりが激しい。
曇り空になると、いつ大雨になるか予測できないほどだ。
重男はぼんやりと車窓を眺めていた。
雨脚が次第に強くなり、斜めに残っていた水跡が今では滴るほどになってきた。
(75)
特急が千倉に着いたのはもう四時近かった。
予定では、重男は今日は昼過ぎには実家に着いていなければならないはずだ。
千倉の実家に着いてから家族と合流し、駅前に予約してある料亭の会場に行く予定
であった。
佐知枝は会場に近いので自宅から直かに来るらしい。
予定では五時からということになっていた。
今から実家に寄っても、大急ぎでみんなが会場に行かなければならない。
重男はこんなにも到着が遅れるということを連絡していなかった。
東京駅で何度も電話しようとしたが、決心がつかなかったのである。
千倉の駅を降りたとき、もう小雨が降っていた。
重男は濃紺のスーツに雨が掛かるのも気にかけず、タクシー乗り場へ向かった。
佐知枝さんが待っている。
俺を待ってくれている。
あの小奇麗な家で俺を待ってくれている
だから・・・
重男は自分の実家の前でタクシーを降りた。
小雨の中、玄関まで歩いていく。
中から人の話し声が聞こえてくる。父や母の甲高い声が聞こえてきた。
重男は玄関の前で立ち止まった。
取っ手に手を掛けた。
(76)
こ、これを開ければいいんだ。
思い切って中に入ろう。
それで全てことが進む。
重男の手は玄関の取ってのところで止まった。
いいのか?いいのか?本当にいいのか?
俺は何をするつもりだ?何を考えているんだ?
重男は歯を食いしばると、体を引き剥がすように玄関から取って返し、
家の門を出た。
そしてそのままバス停に向かった。
駅側の繁華街。
路地を抜けると、佐知枝の自宅がある。
そこの玄関の前に重男は立っていた。
しばらくじっとその家を眺めていた重男は、ドアを開けた。
「あらっ、重男さん!どうしたの?こんなにずぶぬれになって。
お父さんやお母さんはもう会場ですか?」
飛び出してきた佐知枝がびっくりして言った。
それもそうだろう。
会場で落ち合うことになっているはずの本人が、夕刻にずぶぬれで予告なしに現れたのだから。
重男は佐知枝の顔を見ないで俯いたままだった。
「重男さんどうしたの?何かあったんですか?」
重男の様子に佐知枝もただならぬ雰囲気を感じ取っていた。
(77)
重男はゆっくりと足を折るように膝まづいた。
そして上体を床に伏せながら押し出すように言った。
「佐知枝さん、申し訳ありません!この話は・・・この話は・・・・
無かったことにしてください!」
佐知枝は口を開けたまま言葉が出なかった。
突然の重男の言葉に呆然とするばかりである。
「失礼この上ないことは重々承知しています。何卒、何卒お許し下さい!」
重男は繰り返すばかりである。
じっと重男を見つめていた佐知枝は、漸く口を開いた。
「そんな・・・。訳が判らないわ。
あの・・・私に何か至らない点でも・・・」
重男は強く首を振る。
「いえ、そのようなことは全くありません。むしろ僕の方が至らないばかりで。
全て、僕の我がままなんです。どうかお許し下さい!」
しばらく二人はそのまま動かなかった。
奥で佐知枝の家の電話が鳴り始めた。
しかし、佐知枝は動こうともしない。
やがて、佐知枝が静かに口を開いた。
「あの、私・・・重男さんがいい加減な人だとは思いません。だから、きっとそれだけの
理由がおありになるのだと思いますわ」
「申し訳ありません、理由は・・・」
「いえ、いいんです。重男さんのことは信じてます。理由はお聞きしなくてもいいです。
今回はきっと縁が無かったんですよ。」
佐知枝の語尾が震えている。
(77)
重男は力なく立ち上がった。
顔はうなだれたままである。
メガネが湿気で曇っている。
佐知枝がハンカチを差し出した。
「重男さん、メガネが曇ってますよ」
重男は礼を言うと、佐知枝のハンカチでメガネの曇りを拭った。
その時、佐知枝は初めて重男の素顔を見た。
重男さん!
メガネを掛けているときは、分厚いレンズが目立ってメガネサルにしか見えなかったが、
素顔の目は以外にも澄んだ目をしていた。
この人、見かけによらず男らしい目つきしてるんだ・・・
重男はまた元通り、メガネを掛けてサル顔に戻ると言った。
「さっきの電話はきっとうちの両親でしょう。僕から会場に電話します」
佐知枝は黙って頷いた。
が、もう顔を上げることがなかった。
重男が玄関の戸を開けると、佐知枝は最後の言葉を振り絞った。
「重男さん、私のことはもういいですから心配なく。でも・・・私は
ずっと待っています」
そういうと立ち上がって奥へ駆け込んでいった。
(78)
小雨の降り続く中、重男は佐知枝の家から駅まで傘も持たずに歩いて行った。
帰りの電車の中で、重男はぼんやりと真っ暗な車窓を眺めていた。
もう何度、この路線を往復したことだろう。
この路線に乗る度に色々なことが起きてきたなあ。
会場で待ちかねていた両親への電話は堪えた。
両親からはもう完全に親不孝物扱いである。
まして、佐知枝みたいな女性との縁談をご破算にしたのだから、
重男の両親のみならず、誰しも怒るだろう。
当分は実家に顔を出せないな・・・
俺の選択は正しかったのだろうか。
重男はカバンから一枚の紙を引っ張り出した。
折り目もなく綺麗にしまってあった紙である。
しばらくじっと見ていたが、またゆっくりカバンに仕舞いこんだ。
重男…
40過ぎて独身でもメガネザルでも低収入でもいい、こんな男と結婚したいよ。
重男の持ってる紙と、杏子宅の封筒の束が気になる。
重男も杏子も最初とはキャラが全然違う。
でも、イイヨ(・∀・)!
(79)
「井桁君!聞いてるのか!」
製造部長の飯田が怒鳴った。
重男の隣に座っている総務の山下課長が重男のわき腹をこづく。
「は、はい」
俯いていた重男は、気を引き締めるように姿勢を伸ばして座りなおした。
会議室では期末の会議が開かれている。
週の始まりの月曜の朝ともなれば、ただでさえ社員たちは気が重い。
そこに持ってきて、各部課長そろい踏みの会議では尚更だ。
今日は社長以下、係長以上の役職者が集まり、来期の方針を各部長が説明
しているのだった。
「でー、あるからにしてー、製造現場ではー、ラインの拡充が必要でありー」
「むやみに増産体勢を取って、出荷量が減った場合に対処は・・・」
「いったん人員増すると削減するのは容易では・・・」
各部長が意見をぶつけあっていた。
時折、社長が「よし、これで行こう」とか、「それは時期相応に」とか口を
挟んだり、「バカモン!昨年の教訓はどうした!」と雷を落としたりしている。
重男の頭の中は、土曜日曜の出来事で混乱していた。
会議の内容どころではない。
製造部長が方針を説明していても、何の方針だかさっぱり頭に入らなかった。
会議が終わって、総務の山下課長が重男に向かって言った。
「井桁さん良かったですね。頑張った甲斐がありましたね」
しかし、重男には何のことやらさっぱり判らない。
おおかた、製造部門の目標が今年度はクリアしたので、製造部が誉められでもしたのだろうと
思った。
(80)
会議は昼前に終わった。
重男は事務室に戻る前に、本館から外に出て惣菜加工品の建屋を覗いてみた。
すると、やはり来ていた。
パートや女子社員の群れに混じって、沢野がきびきびと仕事をこなしている
様子が判った。
「誰か気になる人でもいるんですか?」
「はっ!」
書類の束を抱えた、女子事務員の園田だった。
いつも予期せぬ時に誰かにふいに声を掛けられる。
重男は別に悪いことをしているわけでもないのに心臓がドキドキした。
「い、いや、別に。製造部門が滞りなく動いているかと思って・・・」
言い訳する必要も無いのに、つい言い訳してしまうのが重男である。
園田は細めのメガネの奥からじっと重男を見ている。
「だったら、そんな所で見なくて中に入ればいいのに」
というと、ニヤリと意味不明の笑い顔をして中に入っていった。
昼食の時間になったが食欲が湧かない。
重男は会社から外に出た。
近所の喫茶店に入ると、取りあえずサンドイッチを注文した。
まずは今後どうするかだ。
この前、部長に預けた辞表を取り戻さなければな。
一度、辞めますといった人間をはいそうですかと会社が受け入れるかなー。
辞表を自分に返すのと一緒に「ついでに平社員からやり直しな」
と言われるのが落ちだろう。
俺が部長ならそうする。
男が簡単に辞めます、やっぱり辞めませんなどとコロコロ変えるのでは
男の信念が問われるというものだ。
(81)
そして重男は目を閉じて背中を椅子にもたれた。
本当なら来週から佐知枝さんと心機一転・・・だった・・・
いつまでもぐずぐず言うな!未練がましい!
そろそろ昼も終わり近いぞ。
早く部長のところに行こう。
今の俺には会社を辞めることはできない。
重男は立ち上がった。
重男は会社の門を潜り建屋に入ると、まっすぐに製造部長の居室へ向かった。
ドアをノックする。
中に入ると、飯田部長が新聞を読んでいた。
なぜか重男を目にするとニヤリと笑った。
不気味な奴だ。
どいつもこいつもニヤリとしやがって。
いつからこの会社ではニヤリ笑いが流行りだしたんだ?
「あ、あ、あの、部長。実はですね、私の・・・」
「これだろう?」
飯田はテーブルの上に重男が以前書いた辞表を放り出した。
「あ、はい、これです。実はいろいろと考えて・・・」
「いいからいいから、もう一度、心機一転やり直せ。初心に戻ってな。ハハハハ」
初心に戻ってって・・・
平社員かよ・・・・
(82)
「ありがとうございます」
重男は辞表を手にすると、礼を言って部長の部屋を後にした。
その日の午後は重男にとって、この上もなく苦痛であった。
以前のように「係長」と言われることもいずれ無くなるのだ。
しかし、「いや、辞表は受理した。もう返さない」と言われることに
比べれば御の字だ。
これならまだ以前の「万年係長」の方がまだマシだったな。
来週から作業服でも着て、製造現場でパートのおばちゃんたちと一緒に働くか・・・
しかし、こんな俺でも受け入れてくれるかな・・・
夕方、重男はまた惣菜の加工現場に顔を出した。
もう五時を過ぎている。
重男は惣菜のその日の班長である女性社員を呼び止めた。
「ちょっと。惣菜のパートさん4人残業してるみたいだけど、沢野さんはなんで
残業してるの?」
班長はいぶかしげに答えた。
「はあ。あの人?自分から七時までやりたいって言い出したんで」
「ダメだよ、病み上がりなんだから。ちょっと呼んで」
班長は加工場の中に入って行った。
程なく、作業用のマスクを外しながら、沢野が班長と共に戻ってきた。
「あのねえ、沢野さん。残業はしなくていいからもう帰りなさい」
重男が言うと、沢野は慌てたように答えた。
「いえ、私は残業したいんです。今まで随分休んできたので」
(83)
「いやダメだ。子供さんも退院して日が浅いし、あなたも先週倒れたばかりだ。
家に帰ったほうがいい」
「いえ、あの、体は全然何ともないし、子供も元気ですし・・・」
しかし、重男は沢野に冷たく言い放った。
「職場の上長が帰れと言ってるのだから帰りなさい。時間外勤務は認めません」
沢野はあっけに取られた顔で重男の顔を見つめた。
恐らく、沢野はこう思っているに違いない。
昨日までの、あれほど沢野に対して気を遣ってくれた井桁係長のこの冷たさは何なんだ?
井桁は沢野が経済的に窮していることを見抜いている。
だからこそ、むしろ、残業を奨励するのが本当ではないのか?
しかし、重男の顔には何も感情が表れていなかった。
そこには冷たい管理職としての顔があるだけである。
「無理に残業でもして、また体を壊されては会社が迷惑なのです」
重男の言葉に、沢野は打ちのめされたようにゆっくりと頷いて、更衣室へと足を向けた。
(84)
「ちょっと、係長!そんな言い方ってないでしょう!人手が足りない時は
頭下げてみんなに残業頼んでいるくせに!」
女性班長が重男に毒づく。
古参社員なだけに、男社員にも容赦ない。
「自分から残業する人ってあまりいないのよ!本人がやる気でいるのに足引っ張ること
ないでしょう!」
本館に戻る重男にさらに後ろから追い討ちを掛ける。
「何よ、このメガネ!自分で食べたバナナの皮にでも滑って転んでしまえ!」
本館に戻った重男が、事務所の窓からそっと覗くと、遠く、
正門のところを沢野がノロノロと出て行くのが
見えた。
俯き加減で歩いている沢野の後姿を見ていた重男は、そっと手の甲で目を拭った。
濡れた手の甲は、室内の蛍光灯の光が反射して光っていた。
愛のシルエット 第四部 完
193 :
杏子:2006/11/08(水) 22:35:13
愛のシルエットさん LOVEです
194 :
名無し物書き@推敲中?:2006/11/09(木) 00:28:36
しっげっお!しっげっお!
ニヤリ、が気になる・・・。
196 :
名無し物書き@推敲中?:2006/11/17(金) 20:35:14
まちあげ
197 :
名無し物書き@推敲中?:2006/11/18(土) 00:06:20
ウズウズ
198 :
名無し物書き@推敲中?:2006/11/19(日) 17:11:51
ワクワク
(1)
カレンダーも四月になった。
金曜日の夜、重男は寂れたアパートの自室でぼんやりとテレビを見ていた。
この前の土日曜の出来事で、今週は心身が疲れ果てていた。
明日の土曜日も出勤かと思うと、気が重かった。
佐知枝との別れは辛かった。
しかし、重男はこの道を選ばなくてはいけないのだと思った。
そして、沢野のことを思うと、すぐにでも自分が動かなくてはいけないのは判っていた。
体は一つしかない。
重男が最後のところで舵をきったのは正しかったのか。
しかし、舵を切った刃いいが、これからどのように動けばいいのかがわからない。
昨日のことにしてもそうだ。
沢野の残業をむげに断ったのだって、沢野には訳が判らないに違いない。
重男はカレンダーを見上げた。
「日曜は理恵ちゃんの入学式だな・・・」
理恵の中学校の入学式が明後日に迫っている。
健康になった理恵の喜び一杯の笑顔や、嬉しそうな沢野杏子の顔を思い浮かべると、
重男の胸が痛んだ。
ため息をついて、またビールの缶に手を伸ばす。
その時、玄関のベルが鳴った。
(2)
誰だ?こんな時間に。
重男はけだるそうに立ち上がると玄関に向かった。
玄関を開けると、そこに立っているのは佐知枝の息子の裕也だった。
「あっ・・・」
重男は次の言葉が出ずに表情が固まる。
裕也はにっこりと笑うと、「今晩は。夜に突然すみません」
と言いながら重男に構わず玄関に入ってきた。
重男は驚きながらも「い、いや、まあ、とにかく入りなさい」
と裕也を部屋に招きいれた。
わざわざ来るくらいだから、恐らく話があってきたのだろう。
俺が裕也の母親、佐知枝との縁談を断ったことの文句でも言いに来たか?
部屋に入ると、重男は座って裕也に頭を下げた。
「裕也君。今回は君のお母さんに対して本当に済まないことをした。
君とも約束したこの話・・・」
「いやいや、違うんですよ井桁さん。僕は井桁さんに文句を言いに来たわけではないです」
重男は裕也が怒っているわけでは無いのを知ると、安堵して冷蔵庫から缶ビール
を取り出した。
幾つかのつまみをテーブルに広げると、裕也に勧める。
「母からの電話で事情は判りました。井桁さんにもきっと、それなりの理由があったのだろうと
思います」
「すまない。勘弁してくれ」
重男はまた頭を下げた。
「いやいや、そうじゃないんです。僕は母から井桁さんに伝えて欲しいと言われたんですよ」
(3)
重男は裕也の顔を見た。
「は?伝えるって?」
「ええ、母がですね、自分のことなら大丈夫ですから、気にしないで井桁さんの
選んだ道を歩んでくださいって」
重男は俯いた。
「はあ、そうですか・・・」
「だから井桁さんもうちの母のことはさっぱりと忘れて、これからのことを考えたほうが
いいですよ」
裕也も若いくせにしっかりした物言いをする。
二ヶ月前とは大違いだ。
以前は重男の方が裕也に説教したのに、今は裕也と重男の立場が逆転しているような気がした。
「しかし、お店を手伝うと言いながら、それもご破算にして僕は男として・・・」
重男の言葉を裕也が遮った。
「お店なら心配要りません。お店はこれからも続けるそうです。
自宅は今度売却して借金の返済に充てるそうですよ」
重男は驚いた。
「ええっ?するとあの家はなくなるのか?」
「いえ、違います。家は売るんですが、今度はそこに間借り人として住むので
動く必要は無いんですよ。まあ今度は借家人ですから持ち家ではなくなりますけどね。
お店の売り上げで家賃くらいはなんとかなるそうですし、何より借金が
無くなるのがいいですから」
重男は何だか肩の荷が下りたような気がした。
「そうですか。借金が無くなるのなら何よりだ・・・」
「井桁さんが母の借金のことを気に掛けているんじゃないかと思って、お伝えしておいた
方がいいかと思いましてね」
(4)
そして、裕也が重男の顔をじっと見た。
「それより、僕は母の話でぴんときたのですが・・・」
「な、何がだい?」
「井桁さん、もしかして他に良い方がいるんじゃないですか?」
「あ・・・」
重男は返事が出来なかった。
ここで誤魔化そうかどうしようか、重男の脳内では目まぐるしく緊急会議が行われた。
「い、いや、いるといえばいるかもしれないし、いないかもしれない・・・」
支離滅裂な答えにも裕也は笑わなかった。
重男の顔の表情から、何かを探り出そうとするかのように目を動かさない。
「もしも、もしもですよ。他に良い人がいても井桁さんの決めた人なら僕は文句ありません。
きっと、うちの母よりずっと井桁さんに相応しい人だと思いますから」
重男は呼吸が荒くなってきた。
震える手で缶ビールを手に取った。
考えてみれば、重男は誰にも相談も出来ず、ずっと自分の胸に仕舞っているのだ。
自分の悩み、苦しみを自分の胸にじっと仕舞いこんでいることほど辛いことはない。
ひときわ孤独感を味わうのはそういう時だ。
「ゆ、裕也君。じ、実はだな。君にだけ話す。き、聞いてくれるか」
ビールの酔いと、全身の疲れが重男の弱さを全面に押し出したのか。
ぞっと自分の胸に秘めていた、苦汁の思いを持ち続ける辛さに耐え切れなくなった。
重男は裕也にだけは全てを話したくなった。
いや、誰でも良い、自分のこの苦しみをどうすればいいのか聞いてくれる人なら
誰でも良かった。
(5)
・・・・
しばらくして裕也は玄関に立った。
「井桁さん、頑張ってください。僕も井桁さんのように強い男になりたいものです」
それだけいうと、裕也は帰っていった。
褒め言葉なんだろうが、重男には実感が湧かなかった。
決心もつかなくてウジウジしている自分が強いどころか、裕也に相談して初めて
立ち上がる気力が湧いたのである。
重男は放心したように、また居間のテーブルの前に座り込んだ。
翌日の土曜日、重男は昼近くになると惣菜の加工現場に顔を出した。
沢野を認めると、近寄って行った。
「沢野さん、今日は昼で上がりですか?」
土曜日はパートの人は午前で帰る人が多いのだ。
「あ、はい。今日は午後は帰りますが?」
「帰る前に会議室に寄っていただけますか?」
沢野は不安そうな顔をした。
「はい、わかりました」
会議室に呼ばれるのは良い話ではないことの方が多い。
沢野が不安そうな顔をするのも当然だろう。
十二時を過ぎると、着替えた沢野が事務所に顔を出した。
重男はすぐに会議室に沢野を伴って入る。
「で、話なんですがね、折り入ってお話したいことがあるので、ご自宅にお伺いしたいのですが」
「はあ?ここではいけないのですか?」
沢野が驚いた。無理も無い。
「ええ、仕事以外のこともありまして。ほら、理恵ちゃん、明日入学式でしょう。
お祝いを渡したいんですよ。今日の夕方にでもちょっと時間を取れませんか?」
キタワァ*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。. .。.:*・゜゚・* !!!!!
とうとう告白・・・
( ゚∀)キタ!!( ゚∀゚ )キタ━━━
206 :
名無し物書き@推敲中?:2006/11/20(月) 10:52:11
うおーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!
告白キタ━━━━━(゚(゚∀(゚∀゚(☆∀☆)゚∀゚)∀゚)゚)━━━━━ッ!!
(6)
「理恵にですか・・・ありがとうございます」
沢野は礼を言ったが、重男の来訪を歓迎している風はない。
それもそうだろう。
職場の上司の突然の家庭訪問など、素直に受け入れられるわけが無い。
重男もそれは承知していた。
「うん、急なことなので、自宅が都合が悪いようでしたら、
駅前の喫茶店でもいいですよ」
しかし、沢野の返事は予想外の内容だった。
「いえ、散らかっていますけど家においで下さい。理恵の元気な姿を見てください。
今まで係長にはいろいろお世話になってきましたから」
重男としても思いがけない返事ではあったが、人の目の無い自宅であることは何より都合が
良かった。
「そうですか、では、僕は夕方まで仕事なので、その後顔を出します。
いえ、すぐにお暇しますから気は遣わないように」
その日の夕刻、帰り道の途中に重男は銀行に寄った。
そして沢野の自宅のもよりの駅に降り立ち、駅前の道路を突っ切ると、
沢野の娘の理沙がバイトしているであろうのコンビニを覗いてみた。
今は春休みだから、きっといるだろうな。
あ、やっぱりいた。
理沙は黙々と接客をこなしている。
長期に渡ってバイトしてきた為か、手馴れた物である。
てきぱきと動く手早さは、やはり母親譲りなのだろうか。
(7)
貴重な高校時代をバイトで殆ど費やしたのだな・・・。
重男は何度も頷くと。理沙に悟られないようにその場を去った。
重野乗ったバスが県営住宅の近傍に停車する。
重男は勝手知ったる道で有るかのごとく、沢野の自宅まで歩いてきた。
玄関の扉をノックした。
「すみません。井桁です」
しばらくして沢野が出てきた。
「あ、どうぞ。お上がり下さい」
築何十年という公営住宅だ。
一戸建てではあるが、かなり年季が入っている。
土地の効率を考えると、恐らく、この一帯もいずれ高層住宅に建て替えられるのだろう。
重男は玄関から居間に通された。
狭い廊下を歩く沢野の後姿を見て、「ずいぶん痩せたな」と重男は感じた。
昔見た頃の沢野なら、体を半身にしなければ通れなかったであろう廊下を、
今は普通に歩いている。
女性ばかりの家だから綺麗に片付いているとは限らないのかもしれないが、
沢野の家は余計な家具が少ないこともあり、さっぱりとしている。
質素な生活を思わせる室内の雰囲気であった。
重男は出されたお茶に礼を言った。
「もう四月ですねえ。理恵ちゃんは出かけているんですか?」
沢野はお茶菓子を並べながら答える。
「ええ、今日は友達のところへ行ってます。明日、一緒に中学に行く子なんですよ。本当なら
ここにいて、ご挨拶させないといけないのですけど」
(8)
「そうですか。いや、返って良かったかも知れない」
重男としてはむしろ理恵がいないほうが都合がよかった。
沢野は心配そうな顔つきで重男の顔を見る。
「あの・・・お話ってどんなことなんでしょう」
重男はすぐには答えなかった。
自分自身、急に沢野の自宅を訪問することを決めたこともあり、どのような順序で
話すべきか自分でもまとめきれていないのだ。
夕べ、裕也に経緯を話したときもそうだった。
重男の話を聞いていた裕也自身、内容が混乱し、重男に何度も聞きなおしていた。
しかし、とにかく、理恵が帰って来るまでに終わらせよう・・・
重男は深呼吸をすると口を開いた。
「実は沢野さんにうちの職場を辞めていただきたいのです」
思いがけない重男の言葉に沢野は顔色を失った。
「そ、そんな、急に言われても・・・。でもどうしてですか?私の何が・・・」
「いや、怒らないで下さい。これは会社の方針なのです。あなたは欠勤が多かったので、
会社としても今年度の再雇用契約を見直すことになったのです」
沢野は顔を歪めると歯を食いしばった。
「そんな・・・。私、四月からはもう休まないで働けるようになったのに・・・」
重男の顔を見ていった。
「係長のお力で何とかなりませんか?私が子供の事情で・・・」
(9)
重男は沢野の言葉を遮った。
「いや、僕はもう係長じゃないんですよ。あなたの力にはなりえません」
「え?どういうことですか?」
「ええ、今期は僕は平社員に降格だと思います。働きが悪いもので、もう管理職じゃ
なくなるんですよ」
「そんな、井桁さんまで・・・」
沢野は何も言えずに肩を落とした。
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
重男は傍らの自分のカバンを引き寄せると、一瞬、躊躇したのちに、
カバンのチャックを開けて中から封筒と紙を取り出した。
「沢野さん、顔を上げてください」
力の抜けた表情の沢野が重男を見た。
重男は分厚い封筒をテーブルに載せて、沢野の方へ押しやった。
沢野は不思議そうな顔でそれを見ていた。
封筒には住菱銀行のネームが印刷されている。
「ここに400万円あります。これでまず、あなたの借金を返してください」
「えーっ!」
沢野は目を見開いた。
恐らく、今まで重男が見た沢野の顔の中で一番驚いた顔だろう。
沢野の驚きは想定内ではあるが、それにしても表情の変化は凄い物だった。
(10)
重男は落ち着いて言った。
「判っています。どうして借金のことを知っているのかってことでしょう?」
重男はまずお茶で喉を潤した。
ビールの方がもっと落ち着いたのだが、まさかこんな所で飲むわけにいかない。
「以前に偶然見てしまったんです。沢野さんの郵便受けを。その時、金融会社からの
郵便物がかなりあるのを見ました。理沙ちゃんがバイトに明け暮れていたり、
あなたが病気を押してまで働こうとするのはそれが理由ではないですか?」
以前に病院から理沙を家まで送った際、鍵を届けに郵便受けを開けて中から出てきたのは
金融会社の郵便物ばかりであった。
それらの封筒に「親展」「重要」と明記されてあれば凡その想像はつくものだ。
沢野は何も言わなかった。
ただ、悲しそうな顔をするだけである。
それは、あたかも永年隠し通せた不正がばれて、公にされた犯罪者であるかのような
打ちしおれた表情である。
「理沙ちゃんは未成年だし、理恵ちゃんも小さい。子供の為にも、このままでは
いけません。とにかく、このお金で金融会社の借金を返済してください」
沢野は青白くなった顔を上げた。
「でも、井桁さんにそんな大金をお借りするわけには・・・。それに、職も無くなる
私にはいつ返せるかどうか・・・」
「返す必要はありません」
沢野が「は?」を怪訝そうな顔で重男を見た。
重男は今度は一枚の紙を広げて沢野の前に差し出した。
(11)
「唐突で、しかもこんな形で言うべきことではないのでしょうが、この紙が僕の今の
気持ちなのです」
重男が広げた紙。
それは以前に実家で母親から手渡された婚姻届であった。
重男と立会人の名前住所がすでに記載されている。
後は配偶者の記載があればそのまま役所に提出できる代物である。
重男は佐知枝と最後の別れをし、東京に戻る電車の中でその婚姻届の用紙を
何度も眺めた。
そして、そこに記載されるのべきは佐知枝ではなく、沢野杏子の名前しかないという
決意を固めたのであった。
本来なら、その紙は捨てて新たに婚姻届を用意するべきかもしれない。
しかし、重男は自分にとって、婚姻届は一生に一枚しかない代物という思いが
強かった。
これがダメだから今度はこれ、という紙ではないのだ。
自分にとって、一生に一度しか必要でない物。
そして、そこに書かれる名前も1人だけなのである。
とはいえ、立会人の名前が都合よくすでに記載済みという理由もあることはあった。
沢野は用紙を見て口を半ば開いたまま、言葉が出なかった。
「そんな、そんなこと。急に言われても・・・」
(12)
「判っています。大事なことですから。でもこの井桁重男はあなたの力になりたいのです。
返事は今でなくて構いません。お気持ちがはっきりするまで考えてください」
重男は立ち上がった。
「あ、あの、井桁さん・・・」
沢野がすがるような目で井桁に続いて立ち上がった。
「あの、返事はしばらく時間を下さい」
重男は頷いた。
「はい、急ぎませんから。それから・・・明日の理恵ちゃんの入学式を
観にいって構いませんか?」
沢野は頷いた。
「それは、むしろお願いしたいくらいです。理恵が随分とお世話になりましたし、
ぜひ、晴れの姿を見て下さい
重男は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「それでは失礼します」
沢野の家を出た途端、重男は一気に緊張の糸が緩み、その場にへたり込みたくなった。
こういう堅いシチュエーションは肌に合わないのだ。
取り急ぎというか、駆け足で結婚を申し込んだ形になったが、
沢野さんは理解できたのだろうか。
用意周到に記名された婚姻届が準備されているというのも不自然極まりないよな。
実は元々は他の人の為に準備した婚姻届だった、などと知ったらただでは済まない
だろうな。
それに借金返済のお金と結婚がセットだなんて、まるでお金で人を買うみたいで
失礼にもほどがあると思うかもしれない。
(13)
「人の弱みに付け込んだ男と思われないだろうか」
重男は沢野がどのような返事をくれるか確信が持てなかった。
本来ならこんな結婚の申し込み方はおかしいだろうな。
佐知枝を除いて、女性と付き合った経験の無い重男にとって、男と女の契りというのは
相撲の立会いに似ていると思っていた。
土俵に立った力士が互いに両手を地面についてにらみ合う。
その、一瞬の呼吸が合った時に両者が立ち会うのである。
両手を地面に突いて睨んでも、呼吸というか間合いがちょっとでもずれれば
仕切り直しである。
先ほどの重男の沢野に対する求婚は、言わば、土俵に上がるなり仕切りなしで
相手に待ったなし勝負を仕掛けたようなもので、尋常とはいえないやり方だった。
結婚すると言えば、ただ単に男女が同居するだけじゃないよな。
年頃の子供の気持ちだって考慮する必要があるだろう。
一緒に暮らすのも無理があるぞ・・・
重男は考えれば考えるほど、次から次へと疑問が湧いてくるのだった。
しかし、重男にこのように舵を取らせた理由は、ある一点に全て凝縮されるのである。
その理由があるからには、もう引き返すことは出来なかった。
「俺はもう突き進むだけだ」
重男ははっきりと口に出すと、勇躍、バス停まで歩いて行った。
ワクワク
愛のシルエットさん、いつも楽しみにしております。
最近の楽しみは愛シルさんのお話とNHKの朝ドラです♪
寒くなってきましたので、お体、ご自愛くださいませ。
217 :
名無し物書き@推敲中?:2006/11/27(月) 12:56:24
昼ドラ可キボ-----ン!!
(14)
「お母さん、こんなに暗くなってるのにどうしたの?電気もつけないで」
理恵の声に杏子ははっと気が付いた。
さっき、井桁が出て行ってからぼんやりと考え込んでいて、時間が経つのも、
理恵が帰って来たのも気付かなかったのだ。
杏子はテーブルの上の婚姻届の用紙と分厚い封筒を掴むと、そそくさと立ち上がった。
「あ、もうこんな時間。すぐにご飯の用意するわね。あなたもちょっと手伝って」
井桁係長が駆け足で話をしていったが、杏子には何だかよく話が飲み込めないままだった。
来月からの雇用契約の打ち切り、そして結婚という大事な話。
それらがさも仕事の手続きみたいな感じで杏子に伝えられたのだ。
400万という大金を、井桁はまるで連絡文書を手渡すみたいに無造作に置いていった。
杏子には井桁という男の行為が唐突過ぎてよく理解できていなかった。
「でも、いかにもあの人らしいな・・・」
杏子がつぶやいたのは、婚姻届に井桁の両親の直筆で、立会人の署名がしてあることだった。
両親が息子の結婚相手に会ったこともないのに、婚姻届に署名なんぞするわけが無い。
恐らく、本来は別の女性が配偶者の欄に名を連ねる予定だったのだろう。
「それが何かの理由で私に変更になったわけか・・・」
杏子にとって、井桁という男性の人間性に拒否感はなかった。
仕事ぶりや今までの関わりの中で、「おっちょこちょいだけど、思いやりのある誠実な男性」
という印象は抱いていた。
井桁はさほど仕事の能力があるわけではない、見かけがスマートなわけでもない、むしろ
逆の男性だ。
しかし、杏子も30代半ばに成長しており、人を外見だけではなく内面を見る目も
育ってきたのも事実だ。
(15)
杏子の様な美人とはいえない子持ちで窮乏状態である、言わば条件としては決して好ましいとはいえない女性に、
大金を積んでまで結婚を申し込むのは、よほどの好意がなければ出来ないことだろう。
いったい井桁は自分のどこに惹かれたのか・・・?
しかも、切羽詰ったようにいきなり・・・
杏子は少し考えたがすぐに止めた。
考えれば考えるほど判らなくなりそうだった。
それよりも、杏子の家庭の窮状を井桁が知っていたことの方が意外だった。
今の杏子の家庭事情は瀬戸際という言葉がまさにぴったりだった。
借金の利息が膨らんできて、いつ家庭が崩壊するか、もう時間の問題だ。
事実、杏子は四月中には自己破産の申請もするかどうかと思い始めたところだ。
そこに一筋の光明であるがごとく、井桁の求婚は杏子の家庭を助け上げるきっかけになるかもしれない。
いきなりの失職も衝撃的だったが、川崎の地は工業地帯だ。
パートの職なら山ほどあるので、職探しそのものは造作ない。
しかし、今の杏子にとっては悠長にしている時間すらない状況だった。。
自分のことはともかく、この話は子供たちにとってはどうだろう。
「400万もあれば借金返済どころか、理沙を大学に行かせることもできる」
井桁の申し出を承諾すれば、今の経済的問題は一気に解消する。
井桁と杏子で共稼ぎすれば、これからは子供たちに何不自由ない生活をさせてあげられる。
これは杏子にとって大きな意味があった。
子供を抱える身としては、自分のことより子供のための生活が第一なのだ。
その子供の生活が充実するとなれば・・・
(16)
いきなり婚姻届を差し出したり、現金を目の前に積んだりと傍から見れば失礼極まりない
井桁の行為ではあるが、むしろ、井桁らしい無作法で返って好ましく思えた。
あの人なりの考えがあってそうするしか無かったのだろう。
そう考えると、杏子の気持ちは一気に井桁の方に傾いたのであった。
そうなると、問題は子供たちの気持ちである。
あまりにも話が急過ぎる。
こども達は何度か井桁には会っているからまったく知らない仲ではない。
理恵も幾分か親しみを感じているようだ。
しかし、父親になるとなると話は別だろう。
お母さんは今度、結婚します。相手はこの人です。
突然これでは思春期の子供は堪らない。
しばらくは慣れるまで別居して通い妻になるかなあ。
井桁さんがそれで承知してくれるかな。
そもそも、娘たちが新しい父親に慣れてくれるかどうか・・・
理恵はまだしも、高校生の理沙の反応が心配だった。
理沙は幼稚園まで実の父親の孝之に懐いていたのだ。
実父の思い出を胸に秘めている子が、簡単に他人を父親として受け入れられようか。
(17)
杏子は居間に行った。
「理恵ー。あのねえ、明日の入学式なんだけどね」
「なーに?」
「あのー、ほら、理恵が入院した時にお見舞い持ってきた会社のおじさんいるでしょ、
あの人が理恵の入学式見たいって言ってるんだけどいいよね?」
「えー?あのお猿さんみたいなおじさん?別にいいよ。でも他所の子の入学式なのにねー」
「まあいいじゃないの。理恵の病気が治ったの喜んでいたから。
元気になったところを見たいのよ」
「あのおじさん、自分の子供とかいないの?他所の子の入学式なんかわざわざ
来るんだ?」
「んー、あの人は独り者だからね」
「そう・・・」
理恵は不思議そうな顔をしながらも、杏子の話に拒否感を示すことは無かった。
取りあえずは少しずつ井桁を子供たちの心に浸透させて、それから切り出すしかない。
翌日の日曜日、理恵の晴れの入学式の日が来た。
杏子は朝から落ち着かなかった。
もちろん、理恵の入学式ということもあるが、会場の中学校で井桁と出くわしたら
どう挨拶をすればいいか迷うのだ。
昨日の今日ということもあり、結婚の申し出に対してもう答えたほうがいいのか、
それとも、もう少し時間をおくことにして何食わぬ顔で話を逸らすか。
「理沙はまたバイトに行っちゃったけど仕方ないよね」
杏子は身づくろいしながら理恵に言った。
「別にいいよ。入学式くらい」
理恵は真新しい制服に顔をほころばせながら、何度も洗面所で鏡を見ていた。
(18)
理恵の制服が卒業生とかの中古でなくて良かった。
理恵に真新しい制服を用意できたのも、理沙がバイトでお金を工面してくれたお陰だ。
杏子は理沙には一生頭が上がらないような気がした。
血はつながってないけれど、あの子は一生私の子よね・・・
理沙が幼稚園に行く頃の出会いから十数年、二人の絆は血よりも濃くなっているかもしれない。
理恵も家庭の経済が厳しい状態を肌で感じ取っているに違いない。
きっと彼女も心の中で「お姉ちゃんアリガトウ」とつぶやいていることだろう。
中学校の校庭は薄桃色の桜の花びらがあっちこっちに降り注ぎ、白い絨毯のようであった。
真新しい制服に身を包んだ男子女子の群れが体育館に集合した。
父兄たちも着飾って後部の座席に整列している。
杏子は就職の面接用にあつらえたとっておきの、というより一着だけなのだが、スーツ
に身を纏い座っている。
昔は窮屈に思えたこのスーツも、なぜか今ではだぶついて襟も袖もスカスカである。
何だかあたし、最近ずいぶん痩せたなあ。
昔の杏子なら、他所で椅子に座るときは体重で椅子を壊さないよう、慎重に腰掛けたものだったが、
今では普通に腰掛けても大丈夫であった。
杏子は座席からさりげなく場内のあちこちに目をやったが、井桁が来ている様子はない。
(19)
「今日、来るって言ってたのに・・・もしかして気が変わったのかな」
一晩経って、考えて見てやっぱり結婚は取り消します、なんてことにならないだろうなあ・・・
もし、井桁さんの気が変わったりしたら・・・
杏子はちょっと不安に襲われた。
それと同時に今ではむしろ、井桁が現れるのを心待ちにしている自分になりつつあるのを
感じているのであった。
式次第が進み、各人の挨拶、入学する生徒の名前が呼ばれ、吹奏楽部のお祝いの演奏、
等々行事は無事に終了した。
新入生たちは父兄や先生たちに見送られて、各教室へと退場していく。
とうとう井桁さんは来なかった。
杏子は半ば気落ちした思いで会場の体育館を出た。
これから、理恵のいる一年の教室に父兄も集まることになっていた。
杏子が渡り廊下を歩いていた時、ふいに肩を叩かれた。
はっと、振り向くとそこには井桁がにこやかに微笑みながら立っていた。
(20)
「あ、井桁さん来られていたんですか」
「はい、遅れてきたもので、体育館の後ろから見てました。
良かったですね。新入生というのは初々しくていいものです」
「ええ、お陰さまで。無事、理恵も一年生に成れましたわ」
杏子は井桁に向かってお辞儀をした。
「いやいや、うん、良かった。ほんとに良かった」
そういうと、井桁はなぜか涙ぐみ、慌てて手に持ったハンカチで目を拭った。
「・・・・」
杏子は何と言っていいかわからなかった。
子供の入学式くらいで泣く親なんかいない。
まして他所の子供で泣くのか?
井桁は人一倍、涙もろいのだろうか。
「じゃ、じゃあ僕はこれで。あの、返事はゆっくり考えてください、では」
井桁は涙もろいのを隠すかのごとく去って行った。
私としてはもう決心は固まってるんだけど・・・
杏子はちょっと拍子抜けがしたが、そのまま一年生の教室へと歩いて行った。
(21)
「わあー、ケーキ?ありがとー」
理恵が歓声をあげた。
夕方、帰って来た理沙が理恵のお祝いにとケーキを買ってきてくれたのだ。
いつもなら日曜も遅くまでバイトする理沙であるが、今日は理恵のお祝いということで
早く帰宅してくれたのだろう。
杏子も夕ご飯の準備に追われていた。
「ケーキは夕ご飯が終わってからよー」
理恵の真新しい制服、新品の教科書や道具、そしてピカピカのカバン、
どれも新品を揃えることが出来た。
それも、理沙がバイトで援助してくれたお陰だ。
もし、それが無かったら、理恵の制服やカバンは卒業生の中古品を工面するところであった。
人のお古の制服を着た理恵を想像すると、杏子はただただ理沙に感謝するしかない。
杏子は料理の準備をしながら井桁のことを考えた。
井桁との結婚話を二人の娘にどうやって納得させるかが
これからの課題である。
取りあえずは別居が第一条件だよね。
年頃の子供もいる家庭にいきなり男の人が入ってくるわけだからね。
しばらくは通い妻になるしかないかな。
それもこれも結婚を子供たちが許してくれればの話だけど・・・
理沙は真の強い子だから、「私は反対!」と言い出したら絶対に折れないだろうな。
(22)
井桁さんがもう少し格好いい男性なら良かったんだけど・・・
杏子が年頃の時も、素敵な男性に憧れていたのだから無理も無い。
若い子から見たら、確かに井桁は単なる風采の上がらない親父さんにしか見えないだろう。
「お母さん・・・」
杏子ははっとした。
いつの間にか理沙が側に立っている。
てっきり、理恵とテーブルに食器を並べてテレビでも観ているのかと思っていたら・・・
台所で煮物を作りながら井桁のことを考えていたので、料理を作る手も上の空だった。
「お母さん、あのね、井桁さんのこと。あたしは賛成よ」
「えーっ!」
杏子は声を上げた。
居間の理恵が驚いたような顔をしてこっちを振り返った。
「ど、どうして?あなたなぜ?」
杏子はもう完全に頭が混乱してきた。
「お母さん落ち着いて。説明するからさ」
杏子は取りあえず、流しのコップで水を一口飲んで気を落ち着かせた。
(23)
「あのねえ、昨日の晩にあたしのバイトしているコンビニに井桁さんが来たのよ」
杏子は何も言えず、黙って目を見開いて理沙を見つめた。
「いきなりお店に来てね、『お母さんのことで大事な話があるので五分だけ時間もらえないか』
っていうからね。その後の休憩の時に外で話をしたの」
しかし、井桁も無手勝流だ。
まったく、予想もしない行動ばかりで杏子は落ち着く暇も無かった。
「そ、それで、なんて?」
「うん、『お母さんを大事にするから認めてください』ってあたしに何度も頭を下げるの。
認めても何も、大人同士のことだから本人たちで決めてくださいって、私言ったわよ」
「そしたら?」
「判りましたって言って帰って行ったわ。まああまりセンスが良いとはいえない人だけどね、
あの人はお母さんの病院に付き添ってくれた感じから見ても、決して悪い人じゃないことだけは
判る」
杏子はほっと肩の力を抜いた。
「そうなの。私はあなたたちさえ賛成してくれればと思ってるんだけどねえ」
理沙は笑顔で答えた。
「お母さんが良い人なら私も賛成よ。理恵もきっと判ってくれるって」
「あ、ありがとう」
杏子の顔が歪んだ。
居間から理恵の叫び声が聞こえた。
「二人で何の話してるのー?」
228 :
名無し物書き@推敲中?:2006/12/06(水) 11:52:49
期待あげ
229 :
名無し物書き@推敲中?:2006/12/08(金) 09:46:16
マダァ-? (・∀・ )っ/凵⌒☆チンチン
230 :
名無し物書き@推敲中?:2006/12/09(土) 11:39:48
続き読みたい…
(24)
月曜日の朝が来た。
重男の勤める食品加工会社は今日から新年度である。
年明けの新年の始まりはパート、アルバイトも含めた全従業員も集めて
中庭で社長から訓等の話があったりするが、四月の年度切り替え時は
正社員だけが会議室に集められて社長の挨拶などが行われる。
週初めの月曜の朝なのでどの社員の顔もあまりぱっとしない。
週の始まりはどこの会社もそうである。
これから一週間の労働が始まると思うと、気が滅入るのも仕方ない。
重男もご他聞に漏れず、重苦しい気分で社長の話を聞いていた。
沢野杏子との今後のことを思いつつ、社長の話をつぎはぎに耳に入れていた時、
ふいに重男の顔に緊張が走った。
「このように、スーパー花輪の新店舗に我が社の加工品を一括で納入するからには・・・」
「今季の製造ラインの増設に伴い、みなさんのより一層の協力が必要とされ・・・」
な、何い!?スーパー花輪の新店舗の納入をうちで受注できたのか?
この前の期末の会議では・・・
俺は殆ど上の空だったから全然気付かなかったのか。
道理で、部長連中が増設だの人員確保だので騒がしくやり合っていたんだな。
重男は何だか体がブルブル震えた。
(25)
元はと言えば、この俺が花輪の木下店長から貰った話みたいな物だったんだがなあ。
ああ、辞表なんか出すんじゃなかった。
そうすれば、係長止まりでいられたものを・・・。
でもあの頃は、もうこの会社に見切りをつけて、千葉で小料理屋のオヤジになるつもりだったんだから
自業自得か。
また、重男は沢野杏子のことを思った。
重男が週末に杏子の元を訪れた際に、「雇用契約を延長しない」と言ったのは嘘であった。
会社はそんな指示は出していない。
重男の独断である。
なぜ重男は杏子を辞めさせようとしたのか。
杏子は二人の子供を抱えて働き尽くめで、ついには借金まで抱え、もうにっちもさっちも行かない
状態だ。
ここで俺が支えなくてどうする。
あなたはもう充分頑張ってきた。
後は俺に任せてくれ。
重男は杏子にそう言いたかった。
昨日の理恵の入学式でも杏子と話をしたかったが出来なかった。
重男は式の行われている体育館の一番後ろからこっそり見ていたのだが、
新入生が次々と名前が呼ばれ、理恵が元気よく返事をして立ち上がったのを見ると、
なぜか涙が溢れてきてしまったのだ。
その後で杏子に会う事は会ったが、挨拶もそこそこに逃げるように帰って来た。
(26)
もう俺は泣いたりはしない。
絶対に泣いたりはしないぞ。
この時、重男は自分の心に固く誓ったのであった。
「えー、以上で新年度の訓話を終わりたいと思います。
この後、辞令交付がございますので、該当者はそのままここに残っていてください」
マイクを持った総務部長が閉会を告げると、社員たちは三々五々に散らばって行きだした。
重男もぼんやりと人の波にもまれながら会議室を後にした。
廊下を歩いていると、肩を叩かれた。
「あれ?なんでここにいるの?」
惣菜課の杉田課長である。
「はあ?」
重男は訳も判らず聞き返した。
「はあ、じゃないよ。会議室に戻らなきゃあ」
「え?何で僕が?」
「何でって、相変わらずだなー。掲示板見てないのか?辞令交付の該当者だろうが」
「ええっ、僕が?・・・・移動になるんですか」
とたんに杉田課長はニヤニヤしだした。
「まあ、そうだろな。早く行きなよ」
重男は半ば呆然と会議室に向かった。
(27)
移動か?今度はどこの部署だろう?
今まで総務、経理、惣菜と移ってきたから今度は・・・
搬送部門くらいか?となると運転手かな。
現場には違いないがこの年で運搬業務なんて・・・
会議室では社長以下各部門の部長たち、そして辞令が交付される数人が
並んでいた。
総務部長が次々に辞令を読み上げ、社長が直々に手渡していた。
部門間の移動あり、昇進ありと様々である。
「じゃ井桁さんこっちへ」
総務部長は重男を呼んだ。
重男は社長の前に立ち、かしこまる。
社長は重男の辞令を読み上げた。
「辞令。四月一日をもって、井桁重男を惣菜課、課長に任ずる」
重男の体が硬直した。
社長が辞令を手渡そうと重男に手向けたが、すぐには重男の手が動かなかった。
ようやく、辞令を手にした重男の手は端から見ても判るくらい震えている。
こ、この俺が課長?、課長だって?
「以上で辞令交付式を終了いたします。交付された方は期待される社員として評価されている
のでありますからして・・・・」
もう人の言葉も耳に入らなかった。
足も震えてどこをどう歩いたのか、気が付いたときは、惣菜課の自分の机に腰掛けていた。
(28)
手に持っている用紙を何度も見た。
無意識のうちに用紙を力こめて持っていたので皺ができている。
間違いなく、「惣菜課 課長」と書かれていた。
その時漸く気が付いた。
三月の終わりに飯田部長のところへ辞表を出しに行ったとき、部長と課長が実に妙な顔をしていた。
その後でも他の社員たちが井桁に会うたびに意味ありげにニヤニヤしていたのは、
内々で重男が昇進することを知っていたからなのだろう。
恐らく、三月になって急転直下、スーパー花輪の受注が決まったのでその功労者としての
俺に昇進辞令が出ることになったのだ。
期末の会議で受注に関するその話が出ていたのに俺は気が付かなかった。
課長に昇進させるつもりの部下から辞表を突きつけられたのでは、部長も変な顔をするわけだ。
そう言えば、杉田課長も以前からもう辞めたいと言っていたから、俺がその後釜に座るのに
時期としても丁度良かったのだろう。
思えば、この会社に移ってきて十何年になるかなあ。
後から入ってきた十以上も年下の後輩が先に課長になって、俺はこのまま係長止まりだと
思ってきたが・・・
苦節十年・・・。
思わず唇をかみ締めた重男の目に、また涙が溢れそうになった。
いかんいかん、もう俺は二度と泣かないんだ。
そう決めただろう
(29)
そのとき、重男はハッと気付いた。
杏子のことである。
一昨日、杏子の家に結婚の申し込みに行ったとき、「俺はもう降格になる」などと言ってしまった。
杏子が「課長になるのなら、そのお力でなんとかパート社員として残してもらえないか」
と言い出したらどうしよう。
取りあえず、惣菜の製造現場に顔を出すか。
課長として挨拶もしたいし、まあおばちゃん連中に冷やかされるだろうがな。
重男は午後になって、製造の建屋の中に顔を出した。
惣菜のラインで社員たちが忙しく動き回っているが、杏子の姿は見えなかった。
「あら、課長さん、何か御用でございますかあ?」
パートのおばちゃんがわざとらしく丁寧な口利きで話しかけてきた。
以前なら「何か用?」の一言なのだが、やはり冷やかしが入っている。
「ああっと。沢野さんは今日はお休み?」
「ああ、あの人ね、今朝早く荷物まとめて帰っちゃいましたよ」
「は?」
おばちゃんは怪訝そうな顔で重男を見た。
(30)
「は?じゃないわよ。今日付けで辞めることにしましたって言ってたわよ。
上司のあなたが知らないのおかしいじゃん」
重男は何とか平静を保とうとした。
「あ、ああ、そうだった。忘れてたよ」
そうか。
もう早々と退社したんだ。
総務にはなんて言ったんだろう。
まさか俺から辞めろと言われたなんて言ってないだろうな。
重男は不安に思いながらも、総務に行って沢野のことを確認してみた。
しかし、意外にも総務の事務員が言うには、杏子は家庭の事情で今日付けて辞めさせて欲しい
と話したということだった。
重男は漸く安心した。
杏子のこのような行動は、一昨日の重男の願いを聞き届けるという意思表示に思えたのである。
ということは・・・・
昨日、理恵の入学式で会った時も杏子は重男を拒絶するそぶりは全く無かったし、
重男の頼みどおり今日退社していることなどから考えると、重男の願いどおりに
ことは進んでいると考えて良さそうである。
しかも、俺が課長に昇進するという大きな手土産ができた。
よし、いけるぞこれは。
重男は自分の視界が大きく開けたような気分になった。
238 :
名無し物書き@推敲中?:2006/12/09(土) 23:59:05
゜・:,。★\('ー'*)♪祝・昇進♪(*'ー')/★,。・:・゜
239 :
名無し物書き@推敲中?:2006/12/10(日) 14:57:57
よっ重男、やったじゃん。
最初に始まったのが7月、あれから5ヶ月、毎日ワクワクしながら見てました。
いよいよ結婚ですか!
これからも楽しみにしてますよ!!
期待カキコ
いつも楽しみにしてまーす。
242 :
名無し物書き@推敲中?:2006/12/18(月) 02:37:57
早く続きが読みたいです。
(31)
「あ、そうなんだ、ふーん。杉田さん辞めるんですか」
ここはスーパー花輪の店長室である。
木下店長は重男の差し出した名刺を見て、何度も頷いていた。
昨日から、重男は飯田部長、杉田前課長と取引先の業者を挨拶巡りしていた。
惣菜の課長が杉田から重男に代わることの先方への挨拶である。
「ま、これからもよろしく頼むよ。係長だった井桁さんには散々無理難題を
押し付けたけど、課長になったんじゃもう遠慮しないといけないかな?ははははは」
木下は豪快に笑った。
以前にパック詰めの商品の計量誤魔化しで、あわや汚職事件になりそうになったことなど
どこ吹く風である。
重男の肩書きが課長になったからといって、仕事がやりやすくなる訳でもないだろう。
むしろ、責任が重くなる分これまで以上に慎重にならなければいけないな。
と、重男は胸に刻み込んだ。
部長の飯田が言葉を挟んだ。
「うちの井桁は小回りが結構利くのでどんなことでもお申し付け下さい。
今後ともよろしくお願いします」
「で、今まで井桁さんが担当していた納品や手配品のやりとりは今後は誰になるんですか?」
「はあ、それはまだ後任が未定ということもありまして、当分は井桁が業務を
兼任することになろうかと」
木下は安心したように頷いた。
「それは助かる。永年馴染みになっている人が急に変わっちゃうとやりにくくなるからねえ」
(32)
社への帰り道、重男は先々、どんな人が部下として宛がわれるのか不安だった。
今までは係長とはいえ、自分が社員としては惣菜の最下層に位置していたので、現場での
業者との付き合いは何でもこなしていた。
それだけに、雑多な業務を何でも引き受けるフットワークが要求される。
お店や納入先に顔を出した時に「今、商品並べてるから手伝ってくれ」と言われて
他所の社員であるにも関わらず、すぐにそのお店に手伝いに入ったり、
「今品薄だから追加で納入頼むよ」などと言われ、
すぐに会社にとって返し、惣菜の加工ラインに自ら加わり追加で製造する
といった小回りが利くのが重男の利点であった。
デスクワークは苦手だが、重男の数少ない長所が生かせる環境でもあったわけである。
重男は無理な要求にも嫌な顔をせずに、引き受け、理屈をこねたりしない。
取引先の業者から好まれているのも重男のこういう面だった。
事務的に書類上のやり取りするだけなら、課長クラスの応対で充分だ。
しかし、今の若い人は残業よりも自分の時間を大切にするし、またプライドも高い。
俺の代わりが務まる若手が来てくれればいいのだが・・・
「部長、私の下にはいつ頃人を配属できそうですか?」
重男は思い切って飯田部長に尋ねてみた。
「ああ、今、人選をしている。全くの新人よりも、すでに会社になじんだ若手の
方がいいだろう?一から教える手間がはぶけるしな。まあもう少し待ってくれ」
(33)
すでに入社した若手、と聞いて重男は不安になった。
むしろ、新人のほうが余計なものがない分教えやすいのだがなと思った。
課長の業務引継ぎや挨拶周りで、一週間が瞬く間に過ぎようとしていた。
しかし、重男はもちろん沢野杏子のことを忘れたわけではない。
杏子がどう思っているのか返事を聞きたかった。
もう時間は充分掛けたと思う。
子供たちへの説得はどうだったのだろう。
週末にでも一度電話してみるかな。
そう思いながらアパートの自室に入ろうとしたとき、郵便受けに「速達」の赤い字が刻印
された封筒が見えた。
少し震える手で取り出すと、思ったとおり杏子からの手紙であった。
そうそうに部屋に入って封を開けてみる。
試験を受けて合否の通知を受け取ったような気分である。
合格か否か?
まず封筒から出てきたのは、先だって杏子に手渡した婚姻届であった。
杏子の自筆と捺印がしてある。
同封されている便箋には一行のみ。
「謹んでお受けしたいと存じます」
重男は「ほっ」とため息をついた。
余計な美辞麗句がなく、あっさりしているところは如何にも杏子らしい書き方であった。
しかし、重男にはこの一行にいろいろな思いが込められているような気がした。
(34)
今度、会ったときにてっきり返事をくれるものと思っていたが、わざわざ先に郵送
してくるくらいだから彼女もまんざらでもないんだ。
さあ、これからが大変だ。
今までは杏子と結婚することだけしか頭に無かったから、ひたすら突っ走ったが、
これからはいきなり四人家族だ。
扶養家族が一気に三人も出来たのだ。
会社や役所への届け、住まいをどうするか、引越しは?
と、と、取りあえず今後のことを話し合わなければ。
重男はその場で杏子の家に電話した。
「はい、沢野です」
「あ、あの井桁です」
「あ、今晩は。手紙は着きましたでしょうか」
「ええ、さっき見ました。とても嬉しく思っています」
「はい・・・」
ここで一瞬、二人の間に沈黙が流れた。
「で、あのですね。今後のことを話し合いたいと思いますので、今度の土曜か日曜にでも
時間は取れませんでしょうかね」
「ええ、もちろんですわ。井桁さんのご都合のよろしい日にちで構いません」
「そうですか。じゃあ善は急げだし土曜でいいですか?あ、そうだいっそのこと、
家族みんなで夕方お食事しませんか?」
「え?そうですか?じゃあ、みんなで時間を取れるようにします」
「うん、そうしよう。駅前にでも僕がお店を探しておくよ」
(35)
重男は電話を切ると額の汗を拭った。
なぜか緊張する。
職場で会話をしていた頃はこんなに緊張しなかったのに。
電話も初めのうちは余所余所しい会話だったが、後になるに連れて漸く緊張がほぐれた。
家族か・・・。いい響きだな。
数ヶ月前までは俺が家族を持つなんてことは思いも寄らなかったのに、人生なんてわからない
ものだ。
取りあえず、今度会うまでに凡そのことは決めておいた方がいいだろうな。
重男にとって久々に安心して眠れる晩であった。
金曜日の朝で、重男は明日の土曜に予定している杏子たちとの食事会を
思うとで気も漫ろである。
ところがその重男に冷や水を掛けるような出来事が待ち受けていた。
「井桁君、今度君の部下に配属する平岩君だ」
飯田部長が重男の元に1人の男性を連れてきた。
あっ!トン平。
重男の部下として部長に連れてこられた社員は、平岩和人という普通の名前であったが、
和人の終わりの「と」と平の字から最初は「とっぺい」というあだ名で
みんなから呼ばれていたが、余りにも頓馬なことばかりしでかすので、
「とんぺい」に変わってしまった。
あだ名だが、名は体ををあらわすというそのままである。
(36)
トン平は入社した頃は配送部門で運搬を手伝わされたが、運送の途中に助手席で
居眠りばかりするので見限られ、今は製造部門で入荷した材料の仕分けを手伝わされている。
20代後半になるのに相変わらず「手伝い」で済まされていることからして、
この男の能力が推し量れようと言うものだ。
普通の社員ならば、ある程度責任を持たされている年齢であろう。
いやー、まいったな。
よりによってこいつかあー。
重男は部長に向かって「これは助かります。これで仕事がはかどると思います」
とは言えなかった。
部長もその辺は判っているのだろう。
口ごもりながら礼を言う重男に軽く頭を下げると去って行った。
「で、君はいつから惣菜に移れるの?」
重男はトン平に尋ねた。
「え?えと。ただ行けって言われただけで・・・」
なんじゃあこりゃあ?
自分がどうするのかもよく判ってないのか?
先が思いやられるなー。
「じゃあ、もう君の身の回りの物をこっちに持ってきたらいい。
その机が君のだから、そこ使って。それから・・・」
(37)
以前に重男が加工品の現場で惣菜の出来具合を見ていたとき、トン平が通りがかった。
「へー、こんな具合に美味そうに出来るんですねえ」
「そうだ。結構美味そうだろう」
「ちょっと味見していいですかー?」
重男は気安く小さな容器に移してトン平に差し出した。
「こりゃ美味い。こっちはどうです」
「これはちょっと辛いぞ。ごはんのおかずだからな」
「これはいい。ご飯が美味いだろうなこれなら」
と、次々と試食するトン平だったが、重男はてっきりトン平が休憩時間なのだと
思っていた。
ところがふいに「ゴラア!トン平!車でずっと待ってんのにこんなところで油
売ってんのかっ!」
と配送の怖い社員が飛んできた。
トン平は青くなって言い訳をした。
「いえ、油は運んでません。ちょっと試食しただけで・・・」
「バカ!それが油を売るってことだ。来い!!」
ええー?こいつ運搬中なのにのんびりと試食してるってどういうことだ?
しかも油を売るという意味すら判らないじゃないか・・・
重男のトン平に対する印象はこんな程度であった。
午後に重男が廊下を歩いていると、杉田元課長が通りかかった。
「や、井桁君。今日で僕もお別れだよ」
重男ははっと足を止めた。
「あ、杉田さん。今日でお別れですか。残念です。今まで本当にお世話になって」
「いやいや、僕も君には随分助けられたよ。ところで君のところにトン平が来るんだって?」
(38)
何だもう知ってるのか。
「ええ、よりによってという感じで、何かこう、肩の荷が一気に増えたような気がしますよ」
「まあまあ、人は変わるもんだって。僕だって昔はそういうときがあったけど、君なんか
見たまえ、もうバリバリの一人前の管理職じゃないか」
「いやー、なんか照れますね、そう褒められると。ははははは」
杉田も笑った。
「はははは。じゃ、元気でな」
名残惜しそうに杉田の後姿を見ていた重男はハッと気付いた。
今、杉田さんは「僕だって昔はそういうときがあった」って言ったけど、あれは
俺のことを指して言ってるんじゃないのか?
ということはだ、俺も惣菜課に配属された時は杉田課長に「よりによってこんな奴が」
と思われていたってことじゃないか?
あ、あのなあ・・・
重男の顔が苦渋に歪んだ。
昔の俺ってそんなに評価が酷かったのか・・・
しかし、自分の過去を思い起こすと、確かにドジばかり踏んでいたように思う。
何だかトン平をハナから嫌う自分がいかに
狭い考えであるかが身に染みて感じられたのであった。
251 :
名無し物書き@推敲中?:2006/12/19(火) 14:41:44
つ・つ・つづきを早く読みたい。
(39)
土曜の夕方、重男は杏子の済んでいる公営住宅の最寄の駅前に立っていた。
すでに駅の近くの割烹料理屋に部屋を予約してある。
一応、四人分予約してあるが、アルバイトがあるであろう理沙が来なくても構わなかった。
三人で四人分食べればいい。
重男が今日一番気になるのは、理沙と理恵の気持ちである。
子連れ再婚は子供の意思が重要だ。
大人の本人同士がいくら納得しても、一緒にくる子供たちが納得しなければ家庭として
上手くいくはずがない。
特にあの理沙とかいう子だ。
丁度一番敏感な年頃の娘であるだけにどうだろう。
子供と大人の境目の年だからなあ。
この前はフライング気味にコンビニで話をしてしまったが、強引だったかなあ。
図々しいオヤジと思われてるかな。
押し付けがましい男って若い子には嫌われるんだろう?
ある意味、この重男と杏子の結婚話は唐突に過ぎたかもしれない。
重男には確たる理由があっての結婚の申し込みであったが、杏子たちにとっては
ふいの出来事にただ身を任せているだけかもしれなかった。
あっ来たっ。
(40)
意外にも杏子と理沙、そして理恵の三人がバスから降りてきた。
「こんにちは」
重男と杏子が挨拶を交わすと、二人の娘も後ろから遠慮がちに挨拶をした。
「む、向こうのお店に予約をしてあるから」
何だか緊張する。
三対一か・・・負けないぞ。
何を負けないのか判らないが、とにかく頑張るだけである。
四人は言葉少なに駅近くの小道を歩き、料理屋に到着して部屋に通された。
小奇麗な和室に通されると、二人の娘たちが「わあー」「庭が綺麗ねー」などと
小声で囁きあっていた。
取りあえず、重男と杏子が差し向かい。
重男の隣に理沙が、杏子の隣に理恵が座った。
「えー、今日はわざわざ来ていただいてありがとう。君たちも聞いていると思うけど、
今回えーと・・・」
緊張する。
こういう司会みたいな立場が重男は苦手であった。
ひたすら表に出たくない、目立ちたくない性格なのだ。
たった三人を前にしても言葉に詰まる。
職場のおばちゃんたち相手だともっとすんなり行くのだが・・・
(41)
「君たちも急な話で気持ちが落ち着かないことだとは思うが、時間を掛けて理解して
もらうように努力しますから、ぜひ、協力して欲しい」
重男のつたない演説もどきにも、三人は真面目にかしこまって聞いていた。
その間に料理が少しずつ運ばれて来て、飲み物が出揃ったところで、
重男は乾杯をすることにした。
「じゃあ、みんなで乾杯するか」
ジュースやビールを注いだコップを片手に奉げた。
「これから、新しい家族みんなが力を合わせて頑張って行きましょう」
「カンパーイ」
すかさず箸を取って料理に目を光らせる二人の娘たち。
おそらく、こういうところで食べる機会など一度も無かったであろう、
二人の娘を眩しげに重男は見ていた。
「まあ、今日はみんな揃っての食事会だから、ゆっくりと食べながら今後のことでも
話し合おうよ」
重男はビールで唇を濡らして言った。
「あの・・・重男さん、籍はもう来週にでも入れますか?」
「うん、戸籍謄本とか取り寄せないとな」
重男も料理に箸を伸ばしながら言った。
「会社や役所への届出とか、君たちも扶養家族になるから母子家庭の免除取りやめ
とかいろいろあるけど、まあ急ぐことは無い。のんびりやっていこうよ」
「そうですね。時間はたっぷりあるから」
重男の箸が一瞬止まった。
(42)
時間・・・時間か・・・
しかし、すぐに刺身を挟むと何事も無かったように口に運んだ。
「さあ、どんどん食べろよ。もっと後からいろいろ出てくるから」
「はーい。戴いてまーす」
お腹が満ちてくると娘たちの口も饒舌になる。
「あ、言い忘れたけど、僕、今度課長になったから」
杏子が目を丸くした。
「えー?惣菜のですか?わー凄い!二人とも聞いて。重男さん課長に昇進したんだって」
「えー。おめでとうございまーす」
理沙と理恵はおざなりにお祝いの言葉を述べたが、それよりも口を動かす方が
忙しそうだった。
その理沙がふいに口を開いた。
「あの・・・。お父さんとお母さん、結婚式ってするの?」
杏子と重男は顔を見合わせた。
重男としてもそういう問題があるのは判ってはいるが、取りあえずは触れずに置いてきたのだ。
重男にとってまず、結婚することが先決であった。
「まあ、そのうちにね。落ち着いたら内輪で式でもあげるかな」
杏子も相槌を打った。
「そうですよね。時期を見てでいいんじゃないの?」
「ふーん。まあいいけどね」
理沙はがっかりしたように言った。
(43)
子供なりにお互いの親戚付き合いとか気になるのかな?
でも、俺の親戚はとても呼べないな・・・
「あの・・・。重男さん、私、両親のお墓に結婚することの報告に行きたいんですけど
いいですか?」
「え?ああ、いいですよ。ご両親は亡くなられているんでしたね。
僕も一緒のほうが良ければ時間の都合がつくときにでも」
杏子はほっとしたように笑った。
「何だか両親を安心させたくて・・・。三浦半島の山の上にある墓地なんですけどね」
理恵が歓声をあげた。
「行こう行こう、みんなで。あそこハイキングにもいいところだよ。
おばあちゃんが死んでからあまり行ってないよね」
両親か・・・
俺の両親はいつかは俺のことを許してくれるかな・・・
重男は天婦羅を口にしたが、苦い味がするのを感じた。
重男は杏子と会社のことなどを話題にしながら黙々と食べ続けていたが、不意に
箸を置いた。
「あの・・・。いくつかお願いがあるんだけどいいかな」
三人が何事かと重男を見つめる。
「えと、まず、住まいのことなんだけどね。君たちの中にいきなり僕みたいなオッサンが
割り込むのもなんだから、取りあえずはあなたたちの住んでいる公営住宅の近くに
アパート借りて、1人住まいにしようと思ってるんだ」
(44)
杏子が驚いたような声を挙げた。
「えっ?でも今のところでも部屋は大丈夫ですよ。そんなに広くはないですけど」
「うん、でも僕も1人暮らしが長かったからいきなりの共同生活はね。
まあ、慣れてきたらそのうちってことにしようよ。単身赴任だと思えばいいさ」
「そうですか。でも近くに住まわれるのなら構いませんけど」
と言いながらも杏子の表情からは安堵の思いが伺えた。
それは当然であろう。
年頃の娘が二人もいる生活にいきなり赤の他人だった男が割り込んでくるのだから、
娘たちにとっては好ましい状況とはいえない。
重男にとってもそれは充分承知していた。
重男もまだ男だ。
間近に年頃の女の子と生活すると、どんな気の迷いが出てくるかわからない。
世間の評判だって悪い方にしか取らないに決まってる。
重男はこの先、ずっとこの娘たちとは同居せずに近くから見守っていくという方針を
貫くことを強く自分に言い聞かせていた。
「それともう一つ、理沙さんはバイトを辞めること」
理沙が箸を止めた。
「えー?そんな。それはダメですよー」
杏子も慌てたように言う。
「そ、それは、でもねえ」
(45)
「バイトは辞めて、これからは受験勉強に専念するんだ。いいね」
重男の言葉に一瞬、杏子たち三人の動きが止まった。
最初に理恵が声を挙げた。
「わー。オネエチャン、大学に行けるんだー。良かったねー」
理沙は重男の隣に座っているので重男には理沙の表情が判らなかった。
どうやら、理沙は何も言わずに料理を見つめているだけのようだ。
「理沙、理沙、良かったね。ほんとに良かった・・・」
鼻声になった杏子の目に涙が浮かんでいる。
重男に向かって何度も頭を下げながら、杏子は慌てて傍らのバックからハンカチを取り出した。
もしかしたら、理沙が大学に行けると言うことで、この中で一番喜んだのは
杏子かもしれない。
理沙はちょっと顔を重男に向けると無言で頭を下げ、また料理に箸を伸ばしたが、その箸は
見た目にはっきり判るほど震えていた。
259 :
名無し物書き@推敲中?:2006/12/21(木) 01:44:06
理沙ちゃん良かったね・・・
260 :
名無し物書き@推敲中?:2006/12/21(木) 02:39:55
なんでこんないい男が童貞なのかとwww
261 :
名無し物書き@推敲中?:2006/12/22(金) 11:44:46
愛のシルエット作者様へ
前に整合性がないって書いていた人がいたけど、
書いてる途中でストーリーがどんどん膨らんじゃって
最初の重男&杏子とは違うって解釈しているですけど、
それでOKですか?
262 :
名無し物書き@推敲中?:2006/12/22(金) 16:23:10
>>261 コラ!!そんな野暮なこと聞くんじゃなーい!!
そういうのも含めて、最後どうなっていくのか楽しみにしてるんだから〜。
263 :
261:2006/12/23(土) 00:20:00
理沙ちゃん本当によかった。
こんなこと言うのも変だけど、作者さんありがとう。
メリークリスマス期待age
年末ジャンボ結果よりも更新が待ち遠しいです。
266 :
265:2006/12/25(月) 02:17:47
ageワスレage
作者さん、来年も楽しみにしてますよ。
作者さん、来年も楽しみにしてますね。
今年も楽しみにしてまーす
(46)
割烹料理屋での食事の後、四人は駅に向かった。
「今日はご馳走になりました。今までこんなに美味しいお料理食べたことが
なかったもので」
杏子がしきりに恐縮して重男に何度も頭を下げた。
「本当。美味しかったです。あまり出来のいい姉妹ではないけど、これからもよろしく
お願いします」
理沙も重男に礼を言った。
「いや、まあそんなにかしこまらなくても。これからは家族なんだし。
今日はみんなの門出だからね」
理沙は理恵の方を向くと、促した。
「じゃあ、私と理恵は先にバスで帰りますから。お母さん、ゆっくり二人でお茶でも
飲んできたらいいよ」
「え、先に帰るの?でも重男さんが・・・」
杏子は重男の顔を伺ったが、重男としても異存はなかった。
「いや、せっかくこう言ってくれてるんだから、ちょっとお茶でも飲んでいきましょうか」
理沙たちと別れて、重男と杏子は駅近くの喫茶店に入った。
却って子供たちがいないほうが二人にとっては都合が良い。
お互い子供の前では出来ない話ができる。
理沙もその辺を察して気を遣ったのだろう。
運ばれてきたコーヒーを前にして、重男の方が口を先に開いた。
「あの、杏子さんのご両親がおられないのは以前から知ってましたが、
ご兄弟とかはおられるんですか?」
杏子はちょっと考え込むような振りをした。
「ええ、相模の方に兄夫婦がいるんですが、母が亡くなってからは縁が遠くなってしまって、
全く交流はありません。もともと昔から付き合いは無かったんですけどね」
(47)
杏子はそれっきり口をつぐんだ。
重男はコーヒーに口をつけた。
杏子の表情から察するに、あまり触れて欲しくない部分らしい感じがした。
以前に杏子が職場で倒れ病院に運ばれた時も、県内に兄がいるにも拘らず連絡さえしようと
しなかったのだ。
「そうですか。それではこの結婚についても・・・」
「ええ、特に連絡はするつもりはありません。以前の結婚もそうでしたし」
杏子はきっぱりと言った。
この話題から離れたいためか、今度は杏子が重男に質問してきた。
「あの、重男さんのご両親はご健在なんですよね。今度、ご挨拶に伺わなければ
いけないのではないですか?」
やはり来たか、その質問が。
「うん。僕も千葉に兄夫婦と両親が一緒に住んでいるんだけどね」
重男はちょっと口を切った。
「ちょっと、事情があって両親のところに行けなくなったんだよ。
あ、いや、うちの両親はあなたには会っていないけど、いろいろ僕の話を聞いてね、
この結婚は大賛成してくれている。
ほら、婚姻届にだってサインしてくれていただろ?」
我ながら下手糞な説明だ。
こんな話で納得するわけないな。
杏子はゆっくり頷きながら重男の話を聞いていた。
その表情からは重男は何も読み取れなかった。
(48)
「まあ、そういうことだからさ。そのうち、機会ができたら家族みんなを千葉の両親に
紹介するよ。取りあえずは今の家族の生活を充実させることが先決だからね」
「そうですね。重男さんのご両親も賛成してくれているのだから、まずはみんなで
力を合わせてちゃんとした家庭を築くことですよね」
良かった。
杏子は特に疑問も持たないようだ。
重男は安堵のため息を漏らした。
だが、杏子も勘が鈍いわけではない。
どこの世界に、息子の結婚相手に会ったこともないのに、先に婚姻届にサインする親がいるだろうか。
それに賛成してくれているはずの両親に会わせてもらえないなどというのは、
どうみても不自然である。
しかし、杏子はそれらの疑問を深く追求することはしなかった。
突然降って湧いたような結婚話の流れにそのまま体を預けてきたのだ。
今さらその流れに逆らってあれこれ考える気もなかった。
重男なりの事情があることは判ったし、自分だって事情があって兄夫婦と縁が切れているのだ。
二人はしばらく黙ってコーヒーを飲んだ。
何となくお互いの境遇が似ていることが感じられた。
「それで、お住まいの方はこの辺にアパートを借りるんですか?」
杏子が話題を変えたので、漸く重男は寛いだ気分になった。
「うん、僕1人だから一部屋あればいいからね。安いことろならいくらでも
あるだろう」
「それなら私が不動産屋さん当たってみましょうか?私も以前は1人暮らしだったから
探し方はわかります」
「そうか。じゃあお願いしようかな」
「ええ、昼間、仕事探しの合間に当たってみますよ」
(49)
重男は呑みかけたコーヒーを思わずカップに戻した。
「仕事探し?」
「ええ、じっとしていても何ですから」
「そんな。探す必要はないよ!」
重男の強い口調に、杏子は驚いて重男の顔を見つめた。
思わず声に力が入ってしまった重男はちょっと赤面した。
「あ、いや。なんだ、その。あなたが働くほど経済的に困るわけじゃないしね」
「ええ、でも。重男さんだけにお仕事の苦労掛けてはと思って・・・」
重男は少し慌てるように言った。
「えーと。じゃあせめて、理沙ちゃんが大学に入るまで。それまではしっかり
子供たちの面倒を見て家庭を守ってくれないかな」
杏子は神妙に重男の言葉を聞いている。
「それならいいだろう?今まであなたも忙しかったんだから、一年くらい休養かねてさ」
微笑みながら杏子は頷いた。
「判りました。お言葉に甘えてしばらく家事に専念します」
その杏子を見ながら、重男の顔はなぜか悲しそうな表情になっているのだった。
「おい、平岩君」
「へい」
「へいじゃない。はいといいなさい」
「はい、言うてます」
「まあいい。ラッキー食品と坂下屋からの入荷はいつになるんだ?」
「えーと」
と平岩は手元の帳簿をくくりはじめた。
(50)
「何をしてる。入出荷のファイルは俺のところにある。ここに書いてないから
聞いてるんだよ」
重男は少しイライラしながら平岩に言った。
「あ、そっちですか。それを早く言ってくださいよー」
「そういう問題じゃないだろ。先月以降のスケジュールはどうなってる?」
平岩は重男のところに来て、ファイルを覗き込みながら頭をかしげた。
「えーと。もうすぐのはずですが?」
「はず?はずってなんだい?向こうからの発注票から書き写してないのか?」
「えーと。そうですね」
「いや、あの、そうですねって、入荷がはっきりしないと製造ラインの予定が立てられないだろう。
すぐに調べろ。発注票はどこにあるんだ?」
平岩は恨めしそうに上目使いで黙って重男を見つめた。
「とにかくすぐに発注票を探し出してファイルに記入しろ、時間が無いぞ」
全くやりきれないな。
重男は胃が重かった。
トン平は書類のやり取りさえ満足に出来ない。
これでは現場での製造ラインの管理や、客先で品物の発注管理など務まらない。
当分は重男が現場や客先に赴いて対応しなければ追いつきそうに無かった。
いや、当分で済めばいいが、半永久的にトン平にはこなせそうも無い予感がした。
俺も惣菜に来た頃は何も出来なかったが、自分なりに色々勉強して1人で出来るように
努力はしたんだがな。
トン平の奴は全然その気が無い・・・
思えば杉田課長は楽だったよな。
俺が客先に出向いて殆どの対応をこなしたから、杉田さんは会社で書類だけ睨んでいれば
良かったんだから。
俺も井桁重男並みの部下が欲しいよ、全く。
(51)
午後になって、漸く平岩が入荷予定表を作り出して重男のところに持ってきた。
「これです。完璧ですよ」
トン平が重男のところにファイルを持ってきた。
「ああ、ありがと・・・って、おい!」
重男はトン平を睨んだ。
「坂下屋からの海産物の入荷がさ来週になってるじゃないか?」
「はあ」
「いや、あの、はあじゃなくて、これじゃあ来週に出荷する惣菜の海産物関係が
追いつかないんだろ!」
重男は頭を抱えた。
重男は出荷予定の加工製造スケジュールで頭がいっぱいで、
材料の入荷までチェックする余裕がなかった。
トン平に任せたのが間違っていた・・・
小売店から注文の来る毎月の出荷する製品の量は一定ではない。
だからそれに合わせて加工品の材料も入荷量を調整しなくてはならない。
その変動する多様な入出荷の状況を管理するのは大変なのだが、部下にも分担させなければ
管理しきれる物ではない。
もっと早く判っていれば、納入する客先に交渉して製品を他の製品に変えるとか、品数を
減らすとか対応できるのだが、もう時間が無かった。
「こい。今すぐ納入する予定の客先を周って、海産物の惣菜を納入できないことをお詫びして周るんだ」
重男は立ち上がった。
「えー、今からですかー。夕方に重要な会議が入ってるんですけどー」
「そんなものより客先の対応が先だ!空いているライトバンを手配しろ!」
(52)
やれやれ。
課長になってから気の休まる暇も無い。
こいつひとりに客先の現場を任せられるのはいつになることやら・・・
トン平をライトバンの助手席に乗せて重男は車を走らせた。
えーと、海産物の出荷が間に合わない客先は、弁当屋が二件と小口スーパーが一軒だったな。
これくらいなら何とかなるだろう。
大口の客だったら、部長も同伴して詫びるところだよまったく。
運転しながら隣のトン平を見た。
こいつ!居眠りしてやがる。
これから客先にお詫びに行くってのに!
「ワン!!」
重男はトン平の耳元で吼えた。
「ぎゃ」
トン平が目覚めた。
「君は客先に対してこのような場合、どう対処すればいいと思う?」
トン平はクビをかしげた。
「うーん。どないしますかねー、まず謝りますね」
ったりまえだ!アホ!
(53)
「それで?」
「えーまだありますの?」
「向こうも商売だ。入る予定の品が入ってこないんだぜ?謝って済む問題じゃない」
「まあ、運が悪かったと思って諦めてもらいますか?」
こ、こいつ・・・
こいつは新人類だ!エイリアンだ!俺たちとは人種が違う!
重男はハンドルを握る手が震えた。
「お前な、午後に重要な会議が入ってるって言ってたけど、何の会議だ?」
トン平はにっこり笑った。
「ええ、僕、職場のテニス同好会の幹事やってますねん。それで今度連休に合宿やろう
思いまして、その打ち合わせです」
トン平はため息をついた。
「それが今日はお流れになってしもうて、どないしよかと・・・」
「お前・・・」
二人の乗ったライトバンは小さなスーパーの駐車場に入っていった。
278 :
名無し物書き@推敲中?:2007/01/04(木) 16:01:48
作者さん、乙
新人教育、うなずきながら読みました。
身につまされます。
279 :
名無し物書き@推敲中?:2007/01/06(土) 02:33:34
応援してます!
続きが待ち遠しい!
まだかなまだかな・・・
(54)
二人はこじんまりしたスーパーの事務室に入っていった。
案の定、40代になろうかという中年の男性店長は怒った。
「ええーっ、困る!!もうチラシに海の幸の惣菜が載ってるんだ!
チラシに書いてある品物が無かったら、お客さんにどう説明すればいいの?」
しわがれ声で怒鳴った。
「はあ、ごもっともです。何か別の製品で代替して戴けないものかと・・・」
「別の製品って何よ」
「はい、実はですね、代替品としてここにサンプルを持ってまいりました。
鶏肉の餡かけでございます。この度、新製品として特別な香味で味を調えておりまして、
まだうちとしては販売してない製品なんですが、これを代わりにご提供願えないかと」
店長は黙って重男の差し出したサンプルに手を伸ばした。
「こんなもんで事を収めようってのか?ありきたりの代物んじゃねえか」
と言いながらも手につまんで口に放り込む。
「鶏肉かあ・・・。うむ、うむ・・・。おー、美味いねえこれ。こんなの初めて食べたよ。
うーん。これかあ。うーん、いいかも知れんなあ」
「もしこの製品でご納得して戴けるなら、お詫びの印にこれを半額でご提供
させていただきますがどうでしょう」
重男は店長の顔を見つめた。
途端に店長の顔が綻んだ。
「うーん。これを格安で客に提供するかー。その代わり大量注文可能なんだろうな」
「それはもう間違いなく」
(55)
「店長さん、ちょっと僕にも味見させて貰えませんか?」
さっきからぼーっと突っ立っていたトン平が店長に言った。
重男は赤くなった。
「ばか、店長さんに向かって何を言うんだ!君が味見をする必要は無い!」
「えー、そうですかあ」
「あのね、君のせいでこういう事態になったんだよ。もう少しお詫びの姿勢を取りたまえ。
店長さんにお詫びの一言はないのか?」
「これはどうもすんません」
トン平がコクリと頭を下げた。
「ははは、まあいいよ。井桁さんには今まで結構無理を言ってきたから、今回はこれでいいよ」
店長の言葉に重男はほっとした。
二人は車に戻った。
運転席に座った重男はトン平に話しかけた。
「君はお詫びに来ているんだから、もう少ししおらしい態度は取れないのかね」
トン平はきょとんとして重男の方を見た。
「しおらしいって?」
「だから、その、申し訳なさそうなそぶりだ。相手だけではない、うちの社にとっても
損害なんだ。極秘に開発したあんかけ味を安値で卸すはめになったんだから」
トン平はあっけにとられた顔になった。
「えーっ!うちにも損害を掛けたんですか?」
あらららら・・・
こいつは納期に納品できないことが、双方にどのような損失を被るか理解してないのかよ。
(56)
「だって向こうの店長さんは却って喜んでたじゃないですか?」
「いや、だからそれはうちが格安、つまり赤字であんかけの鶏肉を卸すからだろう。
うちは採算度外視だから赤字なんだよ」
トン平はクビをかしげた。
「代わりに納めるのにどうして採算度外視で卸すんですか?」
いや、あのな・・・。
もういい!お前になんか説明してやんない!
あっかんべーだチクチョー
重男は半泣きの表情で車を発進させ、次の弁当屋に向かった。
次の弁当屋はちょっと手強い。
年配のオヤジさんが一代で築き上げた弁当屋で、味がいいので評判がよく、店も繁盛している。
これがちょっと煩いので重男も気を引き締めてかかる必要があった。
裏口から厨房を覗くと、主のオヤジはパートの主婦たちと忙しげに材料を切っていた。
「あのー、成増ですが」
重男が声を掛けると、オヤジが気付いた。
「おっ、何よ。井桁さん、何だい?今日は」
小太りに野太いしわがれ声である。
年の頃は60になろうかというのに威勢がいい。
鼻水を袖で拭きながら入口に出てきた。
「実は折り入ってご相談したいことが」
「おっ、そうか。じゃそっちの小部屋で待っててくれ、うちのイケイケ美人ウェートレスに茶を
運ばせっからよ!」
(57)
重男とトン平は小部屋の事務所に入った。
四人が座ればいっぱいの小さなテーブルに腰掛けていると、やがて仏頂面の年配の弛んだおばさんが
お茶を運んできた。
「凄い美人ウェイトレスですね」
トン平が小声で重男にささやいた。
「しっ、黙ってろ」
やがてオヤジが部屋に入ってきた。
「おっ、今日は何?」
重男はトン平を促すと、一緒に立ち上がって頭を下げた。
「実はですね、来週こちら様に納入するはずの・・・」
「んなことが許されっかあ!!」
厨房内にまで響き渡るオヤジの怒鳴り声に、材料を切っていたパートの主婦たちが、
何事かと驚いた表情で事務所のほうを見た。
「あのな、こっちは月間メニューってのを作って客先に配ってあるんだ。
一品でもずっと欠けるって訳にはいかねえんだよ!今更、他の品で代用なんかできるかよ!」
オヤジの額に青筋が立っている。
「はい、申し訳ございません。それでですね、急遽、代用品としてこの鶏肉のあんかけを
お持ちした次第でございます」
重男の説明にオヤジはサンプルのあんかけを手に取った。
(58)
「なんじゃこりゃ?これが代わりになるのか?海産物と・・・」
「まあ、とにかくご賞味ください」
オヤジは渋い表情ながらも手でつまんだ。
「う、うーん。これは・・・うん。いい味出してるな」
重男は内心ほっとした。
「ですからこれを代替品として割り込ませて見てはいかがでしょう?」
オヤジは目を瞑って口をもぐもぐさせていたが、やがて考え込むように腕を組んだ。
「だけどよ、おめえ。弁当ってのはオカズが一品じゃなくて何種類か組み合わせて
出来てるもんだぜ?他のオカズに鳥のから揚げがとか手羽先とか
入っている日には鶏どうしがガッチンコしちまうじゃねえか」
あ、そうだった。
考えてみればそうだった。
スーパーの惣菜コーナーのように単品売りならば、品物の代替で済むが、弁当のように
数種類のオカズを組み合わせた完成品では、違う種類をもぐりこませるのも限界があった。
「入る予定だった海藻を使ったサラダは言わば脇役だ。こいつをその代わりに入れちゃあ、
主役の肉や魚を押しのけてしまうぞ」
オヤジは上目使いに重男を睨んだ。
さっきからクネクネと何か言いたそうに体を動かしていたトン平が、堪りかねたように口を挟んだ。
「ほなら、逆にこのあんかけ鶏肉を主役に持ってきたらどないです?
こいつは充分に主役になれる味ですよってに」
(59)
横から口を挟んだトン平の言葉に重男は思わず顔が紅潮した。
こいつ余計なことを!
火に油を注ぐな!
怒鳴るかと思ったオヤジは、鼻水を袖で拭くと、黙ってまたサンプルのあんかけ鶏肉を口にした。
重男は、トン平の軽口をカバーせんがために何か言わなくてはと焦った。
「いや、しかし、今月のメニューの予定表は出来てるからもうメインディッシュの種類は
変えられないですよね。あんかけだけでは単調であるなら野菜系のサラダを追加納入
いたしますが・・・」
オヤジはまだ黙って口をモグモグさせている。
あのオヤジは何度も袖で鼻水を拭いているが、あの手でさっきは弁当の材料を触っていたぞ。
今日の弁当はきっと塩味がついているに違いない。
重男はぼんやりとオヤジの仕草を眺めていた。
「あの、どうでっしゃろ、これをメインに据えたオカズの組み合わせは。いける思うんですけど」
また口を挟んだトン平の言葉に重男はつい口調が強くなった。
「君!お客様の予定を勝手に都合よく変えるなんて失礼だぞ!それに今回の件は君の落ち度で
こうなったんだ。少しはしおらしくしたらどうなんだ?」
トン平はフグのように口を膨らました。
「しおらしくしてますねん」
「どこがだ?さっきからトイレ待ちの人みたいにクネクネしてるだけじゃないか?」
「じゃあしおらしくするというのを見本見せてください」
「いいか、しおらしくと言うのはだな、こういう風にショボーンと悪びれる・・・」
重男はうなだれて如何にも申し訳無さそうな顔をした。
(60)
「あはは、慣れてますね井桁さん。今まで散々俺が怒ってきたからな」
オヤジが笑った。
「い、いや、そうでも・・・」
とトン平を見ると、トン平も笑っていた。
こ、こいつ・・・
重男はトン平に顔を向けた。
「それにだ。君はお客様の前で関西弁を使っているが、お客さまの前では遠慮しなさい」
トン平は渋い顔をした。
「関西弁じゃのうて京言葉ですねん」
「どっちでもいい。標準語にするんだ、いいね」
「はあ、あきませんか?」
「あかんのや!!」
重男の声が大きくなった。
「もういい!あんたら漫才しとんのか!」
オヤジが一喝した。
「おい、お兄さん。ほんまにこのあんかけで主役になれると思うとるんか?」
オヤジの言葉がいつの間にか関西言葉になっていた。
するとトン平は待ってましたとばかりに自分の案を並べだした。
「このあんかけはもう少し甘酢を弱くしたら飽きが来ませんのや。濃い味付けは美味いけど
飽きまっせ。そして混ぜる野菜を色々変えれば変化が出まっせ」
「ふん、どんな風にだ?」
「例えば、イモ類とか、香料付けにセロリ使うとか、インゲン、梅肉混ぜてもいける思います」
オヤジはフムフムと頷いた。
「そやな。あんかけの味をベースに混ぜる野菜を工夫すれば、これを主役にしても充分いけるかもな」
「兄ちゃんよういろいろな案を持ってるな」
「へえ、これがほんとの案かけですねん」
(61)
わはははは。
思わず重男とオヤジは笑った。
しかし重男はすぐに怖い顔つきになった。
オヤジは膝をパン!と叩いた。
「よっしゃ、この兄さんの案に乗ったわ。これで行くで!」
「さよでっか!それでメニュー表はどないしましょ」
重男まで思わず関西言葉を使った。
「そうやな。作り直すしかおまへんな。ただし、印刷代はあんたとこで持ってや」
「はいはい、それはもう当然でございます」
重男は舞台劇に出てくる番頭のように何度も頭を下げた。
車の所に戻った重男はハンカチで汗を拭った。
トン平が惣菜にいっぱしの知識を持っていて助かった。
まったく、こいつには冷や冷やさせられる。
綱渡りしているようで俺の神経が持たないぜこれじゃ。
座席に座った重男はトン平に話しかけた。
「君はあんかけに詳しいな。中華が好きなのか?」
「好きちゅうわけじゃおまへんが、自分で料理作るの好きなんで」
「そうか、自炊が多いのか。ひとりもんは大変だな」
「いや、カミさんがおりますけど」
(62)
重男は目を瞠った。
「ホンマか?君、結婚してたんだ?」
「ええ」
「ふーん。カミさんは京都美人か?」
「いえ、東北の秋田出身です」
「ほなら、君が京都出身か?」
「いえ、僕も秋田です、京都に住んだことはおまへん」
「そしたらご両親が京都?」
「いえ、両親も親戚も秋田です。課長はなぜ京都にこだわりますの?」
重男は腑に落ちない顔でトン平に聞いた。
「だって君は京言葉使うから京都の人かと」
「いや、ちゃいますがな。これは何となく好きなんでテレビドラマ観てて覚えただけです」
「・・・」
最後の弁当屋は割りと簡単に片付いた。
店長は年配の女性で、重男の説明を聞いた瞬間はムンクの有名な「叫び」に出てくるような
顔つきをしたが、トン平の案に無い胸を撫で下ろし、了解してくれた。
やれやれ、やっと終わった。
重男はトン平の不始末が片付いたことにより半ば心地よい気分で帰社した。
帰り道、トン平はどういう神経の持ち主なのか、重男の運転する隣で居眠りを
していた。
まったく、俺はタクシードライバー扱いだな。
とにかく、首尾を部長に報告しておかなくては。
応援カキコ
(63)
「うむ、まあ何とか片付いたな」
飯田製造部長は頷いた。
「ええ、ほんとに彼には苦労させられます。惣菜に配属そうそう、これですからねえ。
先が思いやられますよ」
重男がうんざりした顔つきで言った。
「まあ、部下の管理も仕事だと思って頑張ってやってくれ」
「しかし、部長。彼は惣菜に向いているんですかねえ?数字の見方ひとつとっても・・・」
「君、君は知らんだろうがね、杉田課長も同じ事を口にしてたぞ」
重男はいぶかしげな顔をした。
「はあ?杉田さんは平岩のことを知ってるんですか?」
飯田はにやにやしながら言った。
「違うよ。昔、君が惣菜に部下として配属された時にだよ」
重男はあっという顔つきになった。
「君が総務や経理で足手まといになっていたのを引っ張ったのもこの俺だ。
その時、杉田君が君の上司になって、やっぱり今の君のように疲れ果てた
顔をしていたよ。でもな、井桁は必ず変わる、それまでの辛抱だと我慢させた。
それがみろ、今やいっぱしの課長になったじゃないか」
「はあ、そうですね」
何だか重男は叱られているようでうなだれて聞いていた。
「君だって、入出荷の間違いはやったことあるだろう。そもそも、経理から外されたのだって、
君が帳簿の記載忘れで税理士にお目玉食ったのが原因じゃなかったかね?」
重男はますます体を小さくした。
(64)
確かに俺が若い頃は、数え切れないほどドジを踏んだ物だったな・・・
「杉田さんもよく辛抱してくれたと思う。管理職というのはだな、部下を育て
部下に仕事をさせるのが仕事だと思ってくれ。自分が仕事をするんじゃない、
部下を使って仕事をさせるんだ。切れ味の悪い包丁かも知れんが、それを
研ぐのは君の仕事だ」
「はあ、わかりました」
重男は何度も頭を下げた。
事務所への帰り道、自分が若い頃のことが脳裏に浮かんだ。
考えてみれば、重男も数え切れないほどの失敗を積み重ねた経験があるから
今の能力が身についたと言えるのである。
恐らく、どこの管理職も部下の扱いには苦労しているだろう。
最初から研ぎ澄まされた社員なんかいるわけがない。
そもそも、トン平が優秀な奴だったらもっとマシな会社に行くはずだよな。
トン平もこの小さな食品会社では相応の人材なのかもしれない。
しかし、あいつを研ぎ澄ませる前に俺のほうがボロボロになりそうだ・・・。
重男は部長の話に納得はしたが、疲れ果てた気分で退社した。
くたびれて、ボロアパートに帰り着き、玄関を開けた。
部屋に入ると、何だかいつもと雰囲気が違う。
妙に部屋が片付いている。
重男は一瞬何が起こったのか判らなかった。
見ると、部屋の真ん中のテーブルの上に食器が並べられていた。
(65)
あれ?これは・・・
テーブルの上に一枚の紙が置かれてた。
「夕飯のおかずを多く造ったのでお持ちしました。
日曜日の墓参りよろしくお願いします。
杏子」
簡単にだが掃除もしていったのだろう、部屋がきちんと片付いている。
テーブルの上にはレンジで温めればよいだけになった、和風のオカズと
ご飯、そしてポットにはお湯も沸かしてある。
普段はうら寂しい重男の部屋であったが、今日は杏子のぬくもりが残っているような
気がした。
親元を離れて30年近く1人で自室で自炊するか、外食したことのない重男にとって、
初めて自分の為に人が作ってくれた夕食であった。
レンジで温めればすぐに温かいご飯が食べられる。
重男はご飯とオカズを次々に温めた。
女性が自分の為に作ってくれた夕食が、こんなにも美味しいなんて・・・
重男はそのまま服も着替えずに無言でご飯を口に頬張った。
「うわー、これは見晴らしがいい!」
重男の言葉に杏子は笑顔で微笑んだ。
二人が立っているのは、相模湾が見渡せる三浦半島の付け根の高台である。
今日は、杏子の両親のお墓に結婚の報告に連れ立って来たのだ。
「こんなに景色の良い所なら、理恵ちゃんが一緒に来たがったのがわかるよ」
(66)
杏子も遠く相模湾を見通した。
春の終わりの爽やかな風が吹き抜けている。
「二人が小さい頃から、よく墓参りを兼ねてハイキングに来たんですよ。
母が生きていた頃は母も一緒でしたけど」
四月も下旬になり、三浦半島の付け根の逗子の山々は新緑の香りが至るところに
湧き出ている。
重男は何度も深呼吸をした。
「あれが江ノ島ですか。その向こうに伊豆半島が見えるし、何より富士山が風景に
溶け込んでいるのがいいですねー」
相模湾の向こうには薄曇りに陽炎の様に富士山がそびえているのが見えた。
秋や冬には真っ青な空の下で凛々しい姿を見せることだろう。
「理恵は今日も一緒に来たかったみたいだけど、理沙が遠慮しなさいって言って。
あの子も気を遣ってるんだわ」
重男も頷いた。
両親の二人っきりの場を邪魔しないようにってわけか。
杏子の両親のお墓は丘の上の小さな霊園にあった。
丘の上でも周囲は緑が多く、鳥のさえずりか風の音くらいしか耳に入らない静かな場所である。
「こんなに静かで見晴らしのいい場所なら、お墓に眠る人たちも落ち着くでしょうね」
「ええ、この辺は開発されていないので静かでいい所ですよ」
(67)
二人で墓前に報告を済ませたところで、重男は気になったことを杏子に聞いてみた。
「このお墓って、相模のお兄さんが管理してるんですよね」
杏子は俯き加減で答えた。
「ええ。でもなるべく会わないように時期をずらして来るようにしてるんです」
杏子は歩き出した。
「母が生きている頃からいろいろと面倒かけたので、正直、会わせる顔が無い
というのが本当です」
重男はとまどってしまい、どう返事をしたらいいものか迷った。
「そうですか・・・」
「離婚して理沙1人でも大変なのに、すぐに今度は理恵を産んでしまい、いろいろと
母や兄に頼ってしまって、随分迷惑をかけました」
「それならこれから恩返しすればいいじゃないですか。僕も力になりますよ」
杏子は黙って微笑むと頷いた。
墓参りが済んでからも、杏子は名残惜しいのか、黙ってずっと両親の墓石を撫でていた。
297 :
名無し物書き@推敲中?:2007/01/27(土) 10:48:46
作者さん、いつも楽しみに読んでますよ〜
支援あげ
今夜こそ続きを…
(1)
「井桁君ちょっと」
飯田部長からの呼び出しの電話に、重男は席を立って事務室を出た。
いったい何だろう?
大体、部長に呼び出されるのはろくなことがあった試しがないからなあ。
重男は部長の部屋をノックした。
「ああ、来たか。まあ掛けたまえ」
「はあ」
飯田はわりとにこやかな顔つきだった。
重男はその表情から、どうやら叱責や注意では無いらしい雰囲気を感じ取り、
不安が少しずつ消えていった。
「君ね、今度結婚するんだって?」
は?もう知ってるのか?
「は、はあ。いずれは部長にもお伝えしようかと・・・」
「ははは、まあいいんだよ。君にも事情があって、あまり公にしたくないのかもしれないけどな」
重男は困ったような顔つきになった。
「はあ、まあ私も年が年ですし、式だの披露宴だの大げさなことは控えたいし、
一応、籍だけ届けてその程度ということにしようかと思いまして」
飯田はうんうんと頷きながら聞いている。
「それでだね、部としても課長が結婚するのに全く知らん振りというのも何だから、
週末に内輪でお祝い会でもどうかなと思っているんだよ」
(2)
重男の複雑な顔つきにも構わず飯田は続けた。
「どうかね、形だけでもみんなに祝ってもらったら」
「は、はあ。忙しい中、世話を掛けさせて申し訳ありません」
「じゃあ、いいね。土曜日でも人を集めるから」
重男は礼を言って部長室を辞した。
土曜か・・・夕方にまた出かけることになるかな。
重男は今度の土曜は会社を休んで引越しをする予定になっていた。
杏子の住む団地のすぐ側にアパートが見つかったのだ。
二重生活が当分続くだろうが、年頃の娘がいる以上、しばらくはそうするしかなかった。
いずれは賃貸でも借りて家族全員で住めるような広い家に移る必要があるだろう。
杏子は「団地の隣だから、これからは色々お世話が出来ると思います」と言っていたが、
引っ越した初日のお祝い会は有り難迷惑の気がしないでもなかった。
しかし、早いな。部長の耳に入るのが。
総務の「カナリア」の奴だな、話を広めたのは。
総務で受付事務を担当している女子社員は、私服が派手な原色ばかりなので
カナリアという可愛いあだ名だが、口の軽さはチュンチュン囀るスズメそのものだった。
(3)
重男も結婚した以上、当然のことながら扶養家族の申請を総務にする必要があった。
しかし、重男としてはできるだけ内々にしておきたかった手続きだ。
結婚相手が以前パートで勤務していた従業員となれば、おばちゃん仲間でいいうわさのタネになる。
周囲の人たちが気付かないうちに重男が結婚していて、
「あれ?いつの間にか結婚していたんだ」
という程度の流れになればいいなあと想像していたのだ。
以前に離婚した男性社員が、総務にいるカナリアに扶養家族変更の書類を提出して自分の職場に戻り、
席につこうとしたその時に同僚から「君、離婚したんだって?」と聞かれたという
伝説もある。
もしこれが事実なら、カナリアの口から広まる噂は実に音速並みといっても過言ではなかった。
いや、今では磨きが掛かって光速並みに速度を上げているかもしれなかった。
それだけに重男も一気に扶養家族が3人も増え、しかも配偶者が以前にパート社員であった
杏子という書類の申請は慎重だった。
こともなげに、カナリアに書類を手渡し、「これ、急ぐからすぐに回してくれ」と頼んだのだが、
やはり、目は眩ませなかったようだ。
「ね、ね、ここだけの話。あなただけに教えるけど絶対他の人には言わないでね」
「うんうん。私は口が堅いから大丈夫よ。で、何なの?」
「あのね、惣菜の井桁課長、結婚するみたいよ。その相手がね・・・」
「うそー!元パートの?うわー、信じらんないー。子持ちなの?年が年だもんねー」
「他の人には内緒よ。あなただから教えたんだから」
「わかった、ここだけの話よね」
302 :
名無し物書き@推敲中?:2007/02/01(木) 19:28:13
(4)
と、こういう具合に「ここだけの話」が、水面の広がりのように女性社員やパート社員の中に
放射状に広まっていくのは自明の理である。
その証拠に、重男が朝提出したばかりの内容が、もう昼前に部長のところまで伝わっていて、
その上「お祝い会」なるものまで計画されていた。
あいつはカナリアじゃなくてスズメだ。
口封じの餌を蒔いて置くべきだったと思ったが後の祭りである。
人のプライバシーほど美味い餌は無いのだ。
土曜日に重男は会社を休んで引越しをした。
引越し先のアパートは年数はかなり行っていたが和室が二部屋あった。
六畳と四畳半にキッチンと台所があった。
二重生活で無駄に経費を掛けるわけにも行かない。
杏子たちの住んでいる団地に近いということを最優先にして選んだのだ。
それでも以前に住んでいたところよりは築年数が新しいのが助かった。
重男の持ち物はあまりなく、小型トラック一台で間に合った。
この程度の引越しであるから、午前中には荷物の運搬も終え、昼からは整理するだけになった。
手伝いに来ている杏子と、部屋で昼飯を食べている時に杏子が重男に言った。
「あの、今晩は私もここに泊まっていいですか?」
重男は一瞬、きょとんとした顔をしたが、意味を測りかねてあいまいに頷いた。
「う、うん、いいですよ。僕はちょっと夕方で掛かるから遅くなるかもしれないけど」
「そうですか。それまでに部屋を綺麗に片付けておきます」
(5)
重男は顔がカアッと赤くなるのを感じた。
と、泊まるってことは・・・布団二組あったっけ。
部屋は別々に寝るのか?
いや、そんなに急がなくても・・・
もうせっかちだなあ。
「あの、何か?」
杏子の声に重男は我に返った。
「い、いや、1日引越しの手伝いで大変だけど、疲れないかと思って」
「いえ、そんなことないです。仕事で働くのに比べたらこれくらい」
重男は今まで、杏子に対して女性として見たことは無かったのだが、服に張り詰めた乳房を
見て思わず目を背けた。
今までそんなところに視線を向けたことが無かったのだ。
俺、経験がないんだよ・・・。想像では経験充分なんだけど。
うーん弱った。
こともなげに、手馴れている振りをして誤魔化すか。
夜の職場のお祝い会も憂鬱だがさらにそれに加えて・・・。
落ち着け、今夜はここで一緒に泊まるだけだ。
心配することはない。
「じゃあ、ちょっと出かけてくる。職場の呑み会なんだ」
「いってらっしゃい。私も団地に行ってまたここに戻りますから」
杏子の笑顔に送られて、夕方重男はアパートを出た。
(6)
その夜の重男の結婚祝いの場でも、何となく重男は気が重かった。
これからは休日の度に杏子が重男の元に来るのだろうか。
1人暮らしが長かっただけに、いきなりの女性との同居はまだ精神的準備が出来ていない。
その晩のお祝い会は重男のお祝いにかこつけた、職場の呑み会みたいなものであった。
重男の職場では定期的な呑み会がない代わりに、何かきっかけさえあれば呑み会が
開かれるのである。
誰かに子供が生まれた、誰かが家を新築したなどなど、口実は何でもいいのだ。
だからその日も、形だけ上座に重男は据え置かれたが、乾杯の音頭の後はすぐに
無礼講になり座は騒がしくなった。
重男としても、結婚に至る経緯を根掘り葉掘り聞かれないのが助かったのである。
「どうだね、井桁君。今度のカミさんは」
すでに赤ら顔になった飯田部長が重男に酌をしにきた。
「あ、これはどうも」
重男は恐縮してコップに酒を注いでもらった。
「今度の相手は以前うちに勤めていたそうだね。いくつの人なんだ?」
「は、はあ。えと、13歳くらい下で・・・」
「ほー、13も年下なのか!」
飯田の大きな声に周囲の社員が振り向いた。
重男は酒で赤くなった顔がもっと赤くなった。
(7)
もっとも、この場に出席している製造現場関係の数人は、重男の相手の杏子を見知っているので
別段驚かなかった。
が、現場の職員をあまり知らない事務方の社員たちは、13も年下の妻を娶る重男に羨望の眼差しを
向けた。
13も年下といっても、重男の年齢が年齢だからたかが知れているのだが、大体が男の
勝手な想像で若々しい女性を想像してしまうのだった。
勤務期間もあまり長くなかった杏子を知らない飯田もご多聞に漏れず、重男にやっかみ半分
助言をした。
「羨ましいねえ。うちのカミさんなんか俺より年上だよ。うちなんかもう老人世帯
見たいなもんだ。まあ孫もいるんだけどね」
そして、にやにやしながら重男の肩を叩いた。
「カミさんが若いんだから頑張って子作りに励めよ。今ならまだ間に合う」
頑張れって・・・
重男は肩を落とした。
その晩、重男は二次会のカラオケを辞退して駅に急いだ。
今日は杏子が泊まりに来るのだ。
急がなくてはいけなかった。
いよいよ初夜につながるのか?
続きが楽しみ。
(8)
ひとり、駅の方面に足早に歩いていると、
「井桁さん」
後ろから追いかけてくる声があった。
「あ?及川さん」
購買課にいる及川亜依子だった。
及川は独身である。
年は三十代半ばで、重男の社内でも美形の部類であった。
美形なのに独身なのは、離婚歴があるからである。
結婚して幼い子供がいるはずであったが、いつともしれず離婚したらしいという噂が
流れていた。
いつもは音速で個人情報を撒き散らす総務のカナリア女史も、同僚の女性職員に対しては防衛協定を
を結んでいるのか、及川が離婚したという情報は誰にも漏らさなかった。
「井桁さん、歩くの早いんですね、やっと追いついたわ」
「は、はあ。駅に行かれるんですか?」
「ええ、私も川崎から乗換えなの。井桁さんは南武線?」
「え、ええまあ」
「そうですか。駅まで一緒に行きましょう」
「・・・」
重男としては何か意外な気がした。
なぜなら、職場では殆ど会話もしたことがない相手が駅まで一緒にとは?
亜依子は重男の服と服が擦れ合うくらいの近さで並んで歩き出した。
重男は何を話していいかわからない。
およそ仕事の話以外では、女性と世間話をするのが苦手なのである。
「い、今は購買課も忙しいでしょうね・・・」
重男は場違いな言葉しか出なかった。
亜依子は無言でゆっくり歩いている。
勢い、重男も速度を落とさざる負えなかった。
(9)
こ、こんな話しかけ方じゃ、話が続かないよな。
職場じゃないんだし。
結婚相談所でもそうだった。
綺麗な人の前じゃ全然会話が思いつかないんだよな。
杏子だと自然に会話が弾むのだが・・・
すぐ側に亜依子が歩いている。
時折、風の流れで亜依子のリンスだか化粧水だかの香りが重男の鼻をくすぐった。
やがて、亜依子がぽつりと言った。
「井桁さん、いい人が見つかってよかったですね」
重男は何とも返事のしようがなかった。
「え、ええ、まあ、運命のいたずらというか、僕みたいな男でも縁があったようで・・・」
亜依子はまた黙って俯いて歩いている。
重男も次の言葉の糸口を見出そうと頭の中であれこれ模索した。
「あの、井桁さんもう少し呑みませんか?」
重男の心臓が一瞬止まった。
「え?僕と・・・ですか?家のほうはいいんですか?」
「今日は遅くなるから子供は実家に預けてきたんです。家に帰っても1人なの」
「あ、ああ、そうですか」
重男は時計を見た。まだ八時ちょっとだ。
杏子が待ってる。
しかし、女性に呑みに誘われたのは生まれて初めてだ。
しかも相手が職場でも高嶺の花と言われている亜依子なのだ。
俺の結婚祝いなんだから、祝ってくれるだけだからな、ちょっとだけならいいだろう。
(10)
「じゃ、じゃあ、遅くならないようにちょっとだけなら」
「奥様がいるのですからご迷惑にならないようにしますわ」
二人は適当に駅裏をうろつき、居酒屋に入った。
「おめでとうございます」
二人でコップを乾杯しあった。
しばらくは、職場の話がでたが、どうも話が続かなかった。
ひとしきり、コップを重ね、会話もひと段落したところで、亜依子が言った。
「井桁さんいつの間に、相手の方と知りあったんですか?」
「あ、ああ、まあいつの間にかにね。僕も急だったんで何がなんだかよく判らないんですよ」
亜依子はぼんやりした表情だ。
「あたし、井桁さんみたいな人に憧れていたのに・・・」
重男は口から酒を吹き出すところだった。
こんなところで、鼻から酒を噴出したら、憧れもクソもない。
「な、な、どうして、僕なんかこんなみすぼらしいオジンじゃないですか」
「うーん、どうしてなんでしょうね・・・。結婚に失敗してるから男を見る目が変った
のかもしれません」
亜依子は笑った。
一時間ほどで二人は店を出た。
亜依子は飲みすぎたのか少し足元がふらついている。
重男が大丈夫ですか?と声を掛けると、いきなり重男の腕をとった。
「あ、は、あ、え?」
重男は声にならない。
亜依子の柔らかい腕が重男に絡みついた。
(11)
と、とにかく、駅に。
重男が亜依子の腕につかまれたまま歩き出そうとすると、亜依子は駅と反対の方向に歩こうと
する。
「え?駅はこっちですよ?」
「散歩しましょ。酔い覚まし!」
「は、はあ」
重男は仕方なく亜依子に引きづられるままに歩いた。
賑やかな方向とは別の駅裏の方向に入っていく、外灯の数も少なくなり闇が覆ってきた。
あ、これ、やばいよ。
周囲はホテル街のけばけばしいネオンがはためいている。
「あ、あの、及川さん。こっちは拙いよ」
重男が亜依子の腕を引っ張ろうとした。
すると突然、亜依子が重男にしがみついてきた。
「あっ」
重男は仰天した顔のまま全身が固まった。
井桁重男四十数年の人生で、女性からこのようなアプローチを受けたのは驚天動地の出来事
であった。
先月、破談になった佐知枝との交際で多少の免疫は出来ていたものの、正面から女性に抱きつかれたのは
生まれて初めてである。
重男は心臓が狂ったように胸を打ち、血が頭に上ってしまった。
手馴れている男なら女性の気持ちを汲み取り、そのまま何事もないかのごとくホテルの一室に
連れ入ることだろう。
しかし、重男の場合はそうではなかった。
幾多のエロ本、エロビデオで本番以降の手順・テクニックについては知識として頭に充満
しているが、そこに至るまでの工程については全くの無知であった。
(12)
亜依子のふくよかな胸の膨らみが重男の腹に押し付けられている。
顔のすぐ下に埋めている亜依子の髪からリンスの香りが漂って来る。
ネオンきらめくホテル街入口で女性からこのようなアプローチをされたら、男として取る道は
決まっている。
重男は息遣いも粗く、目が宙を彷徨っている。
き、、杏子、ごめん。
今回だけだ。
二度とないチャンス・・・
お、男だ俺も。
よ、よし、決心したぞ!
重男は亜依子の腰に手を回そうとした。
その時、重男の胸に顔をうずめ、重男の心臓の鼓動を聞くかのようにじっとしていた亜依子が
急に体を離した。
「ごめんなさい。私、酔ったみたい」
そして、重男の袖を引くと駅の方向へと歩き出した。
あ、あ、あ。
ホ、ホテル・・・
重男は二度とない好機を逃したことを悟った。
一瞬の機会を逸したために、大魚はスルリと網から抜け出したのだ。
さっきまで自分で歩くのもおぼつかないくらい重男にしがみついていた、亜依子は今では
重男の手を引っ張るくらいにさっさと歩いている。
重男は言葉の掛けようもなく、ただひたすら亜依子についていった。
(13)
「井桁さん。あたし、離婚して子供いるから気後れしてたの」
「は?」
「前から井桁さんのこと気になっていたんだけど、今更手遅れですよね」
「あ、あの意味がよく・・・」
亜依子はクスクス笑った。
「もう、鈍感なんですね。でもそういうところが井桁さんらしくて」
た、確かに鈍感と言われればそうだ。
さっきだって・・・
「私も離婚して1人で頑張ってきたけど、最近は疲れたのか心の拠り所が欲しくなったみたい」
「でも子供さんがいるじゃないですか。僕なんかずっと侘しくひとりだったし」
「うん・・・。井桁さんみたいな支えになってくれる人がいればって、時々
思ってました」
「え?」
二人は駅裏から雑踏の表通りに出た。
「じゃあ、ここでお別れです。さよなら」
亜依子は1人で小走りに駅の方向へと歩き出した。
「さ、さよなら」
ひとり取り残された感じの重男は弱弱しく手を振った。
気のせいか、亜依子の目が潤んで光っているように見えた。
重男が団地の近くのアパートに辿り着いた頃はもう十一時近くだった。
午前中に荷物は運んでおり、杏子が室内の片づけを大方済ませていることだろう。
重男はドアをノックした。
(14)
「お帰りなさい」
杏子が玄関を開けた。
「済まなかったね、お祝い会が長引いて遅くなっちゃった」
「いえいえ、疲れたでしょう。今日は引越しもあったし」
重男は室内に入った。
なるほど、室内は整理されていてゴミもなかった。
結構、まめな性格してるんだな。
1人暮らしで不精をしていた期間が長かったので、整理された部屋というのが
何とも落ち着かなかった。
しかも、今日は新妻が目の前にいるのだ。
洋服タンスの前で杏子が重男の上着を脱がせた。
重男はタンス扉の内側にある鏡を見ながらネクタイを外そうとした。
その鏡に後ろの杏子が映っている。
ネクタイを持つ重男の手が止まった。
ハンガーに上着を通そうとしている杏子の手が何かをつまみ光にかざしている。
重男は鏡に映る杏子の手のつまんでいる物を見た。
か、髪の毛・・・長い・・・
亜依子の髪の毛に違いなかった。
さっき重男の胸に顔を埋めた時に付いたのだ。
(15)
き、杏子はなんと思うだろう。
初日から女の髪の毛を服につけて帰る夫。
これは拙い。
怒り狂うかも・・・
重男はそっと、右目方向の鏡を盗み見た。
?杏子がいない?
「重男さん」
「ひゃっ!!」
いつの間にか杏子が左後ろ側に立っている。
重男は足が一瞬震えた。
しかし、杏子は何も言わずに怪訝そうな顔で重男からワイシャツを受け取ると、着替えを手渡した。
「外で食べたかもしれないけど、団地でかやくご飯作って持ってきてあるんですけど食べますか?」
「あ、ああ少し、いただこうか」
重男は小さなテーブルに座った。
髪の毛のことは不問なのか?
浮気したの?とか他にも女がいるの?とか聞かれないのかな。
杏子の作ったかやく飯は美味かったが何とも喉を通らなかった。
「お風呂入れてありますけど」
「あ、ああ入るよ」
今日は二人っきりで一緒と思うと、どうも会話が弾まなかった。
酒の酔いも残ってるし、風呂に入って早く寝たいな。
(16)
重男はそうそうに風呂に入った。
アパートの狭いユニットバスは重男でも窮屈だった。
湯船に浸かっていると眠気が催してくる。
こりゃいかん。
重男は体を拭くと風呂場から洗面所に出ようとした。
「あっ!」
そこには杏子が裸にタオルを体に巻いただけの姿で立っていた。
「あら、お背中流そうかと思いましたのに」
「い、いやいいよ。もう出るから」
重男の声が震えた。
「そうですか。じゃあ私入ります」
杏子の下腹部と胸を隠すにはタオルは小さく、杏子の豊満な乳房が殆ど露に見えていた。
重男は心臓の動悸が収まらない。
何といっても童貞一筋40数年である。
いきなり現物の女体を目の当たりにしては刺激が強すぎた。
重男もエロ本での知識は溜め込んでいるので、「理論では俺は負けない」などと強がって
はいるものの、いざ実戦となると、もうどうしていいか皆目見当がつかなかった。
いくら「女を喜ばす四十八手」の知識を詰め込んでも、実戦の経験がなかったら
使えるはずが無い。
重男は歯を磨き、布団に倒れこんだ。
杏子はまだ風呂に入っている。
布団は隣り合わせに二組敷かれている。
先に寝た振りしようか。
取りあえず、今晩はお預けということにして・・・
つ…ついに…
(17)
しかし、さっきの杏子の豊満な胸が目に焼きついて離れない。
杏子はまだ30代半ばだ。
以前に比べれば痩せているけど、白い肌はまだつやがあった。
風呂場のドアが音を立てた。
杏子が出てきたのだろう。
あ、あの白い乳房に覆いつくされたら・・・
杏子が洗面所で身づくろいをしている間、重男は和室の布団に転がって
杏子の豊満な裸体を想像した。
確かに佐知枝の円熟した姿態や、子供がいるとはいえまだ若い亜依子に比べれば、
元々は筋肉質だった杏子は女性としては見劣りする。
しかし、体の張りが衰えかけている豊満な肉体の方がむしろ重男の感覚を刺激した。
も、もうすぐ来る。
どうアプローチしよう。
慣れた風を装うしかないか。
それとも、童貞ですと正直に告白するか。
向こうの方は男の間隔は空いているだろうが、ベテランなんだ。
下手に手馴れた演技してもばれるぞ。
いや、しかし、四八手の性技は俺のほうが詳しい。
使ったことはないけど。
き、今日はし、初歩的に後ろから・・・。
そ、それとも寝た振りして今回は見逃してもらうか?
(18)
重男は目を閉じた。
側に、杏子が来たようだ。
布団がめくられた。
重男は薄目を開けると、なんと、杏子は素っ裸で重男に寄り添おうとしている。
わ、わ!いきなりか?
重男は体を硬くした。
しかし、それに構わず杏子は重男を優しく抱きしめた。
「あ、あ、杏子」
杏子の大胆な行為に重男は身動きできなかった。
というより、肉感的な杏子に抱きしめられては逃げることさえもう無理だった。
杏子が重男の下腹部をさわっているのか、快感が急速に重男の全身を包み込む。
杏子は体を捻ると、重男の下腹部に顔を向けた。
杏子の口が重男の怒張した一物を咥え込む。
重男の全身に快感が貫いた。
「あ、あ、杏子」
急に杏子が消えた。
洗面所にでも行ったのか、向こうからなにやらどしんどしんと音がする。
全身の力が抜けている重男は起き上がろうとしたが、体が動かなかった。
「誰なの?」
いつの間にか、傍らに杏子が来て重男の顔を覗き込んでいた。
(19)
「だ、誰って?」
重男は少し青ざめながら返事をする。
「あの髪の毛は誰なの?」
杏子の顔が重男の目の前に来た。
覆いかぶさるように重男の目の前に杏子の顔が接近している。
重男は今度は震えながら答える。
「だ、だから、何のこと?」
黙って杏子の体が重男の上に乗りかかってきた。
重男の全身に重量物がのしかかった様に重くなり、杏子の顔が目の前いっぱいに広がる。
「誰なの?」
重男は観念した。
「すまん。職場の及川さんなんだ。偶然髪の毛がついただけで、何もしてない。
何もしてないんだ!」
「そんなこと信じないわ!」
今度は杏子が重男の体を締め付ける。
重男はまるで、大蛇に巻きつかれた獲物である。
全身が縛り上げられたようで、重男は息ができない。
「うーん。許して、許して、もうしない、もうしないからー」
(20)
重男は必死に体をくねらせて飲み込まれる前に大蛇から逃げ延びようとした。
しかし、上から乗った杏子の体はまるで石が乗ったようにびくともしない。
く、苦しい、助けてくれ!
杏子、助けてくれ!
もう二度と亜依子をホテルに連れ込もうなんて思わないから!
重男は必死になって杏子から逃れようとした。
重男はもがいた、必死にもがいた。
ふと気が付くと。
部屋が真っ暗である。
な、何?
しかし、重男の胸の上には巨大な丸太が乗っているようだった。
触ってみると柔らかい。
次第に意識がはっきりして来ると同時に、暗闇の中で目をこらすと、
胸の上に載っている丸太は杏子の足だった。
杏子は重男と反対向きに寝ており、どうやら寝返りか何かでその足が
重男の上に乗ったようである。
はあ・・・夢だったのか・・・
(21)
気が付くとパジャマの中の下着がじっとり冷えている。
どうやら夢精したらしい。
重男は杏子を起こさないようにそっと居間のタンスから下着を出すと、
洗面所に行って下着を着替えて汚れた下着を手洗いした。
思春期の高校生じゃあるまいし、こんなところを杏子に見られたら一世一代の恥だな。
さっきのは夢だったのか。
しかし、どこから夢だったのかよく覚えていない。
初めての夜で緊張したせいかな。
布団に転がり込んだのまでは覚えているけどなあ。
最初は色っぽいと思ったけど、夢の中の杏子は怖かった。
重男は静かに寝息を立てている杏子の寝顔を見ながら、また眠りについた。
翌朝、重男が目を覚ますと、すでに杏子は着替えて朝食の用意に取り掛かっていた。
「おはようございます。朝ごはんは簡単に用意しておきますね」
「あ、ああ、おはよう」
重男は密かに杏子の表情を探ったが、別段変化は見られなかった。
良かった、夕べは特に何も無かったんだな。
「私は団地に戻って子供たちの世話もあるので、重男さんゆっくり食べてください」
「悪いね、昨日からいろいろ面倒掛けて」
重男はご飯をよそってもらった茶碗を手にした。
重男が朝食を食べている間に杏子は手早く帰宅の準備をした。
(22)
「夕べはお疲れになっていたようで」
「う、うん、まあ呑み会だったからな」
「すぐに寝てしまったんですね」
重男はちょっと顔が赤くなった。
「ま、まあね。疲れが溜まっていたのかも」
「洗濯は私がしますから置いといてください」
重男はお茶を口に含んだ。
気の利く女だな、杏子は。
本当に上げ膳据え膳じゃないか。
「あの、ワイシャツに染みが付いていたので、それだけクリーニングに出しますから」
「染み?何の染みだろ、そんな汚れるようなことはしてないはずだが」
重男はまたお茶を呑もうとした。
「口紅みたいなので落ちないんです」
ブハッ!
重男はお茶を噴出した。
慌てて杏子が雑巾を差し出した。
重男はパジャマやテーブルの上を拭きながら亜依子を呪った。
あのクソ女〜。
俺に抱きついた時にしっかり後を付けやがったな。
俺が新婚初夜だと知ってのことか・・・。
(23)
「い、いやあの、夕べの宴会でさ、みんなで肩組んで歌ったりしたんでその時・・・」
「ほほほ、女の人は口紅がついてるから嫌ですよねえ。満員電車に乗ったり
したときも、背中に口紅付けられている男性見たことありますから」
杏子の笑顔を見て重男は体の緊張が取れた。
笑う杏子は、夢の中で見た恐ろしい顔ではない。
団地に帰った杏子を見送った重男は、和室に座り込むと一気に二日分の疲れが
蘇ったかのようにまた眠り込んだ。
翌週から重男は職場の昼食に弁当を持参した。
独身の頃は職場のし出し弁当を利用していたが、杏子が律儀に毎朝重男の部屋に
弁当を届けてくれるのだ。
重男も最初は断ったが、杏子の「子供のついでに作るから」という声に負けた
のだ。
しかし、内心では嬉しくて堪らなかった。
重男の母親以外では初めて自分のために女性が作ってくれた弁当である。
職場では「愛妻弁当?」などと冷やかされた顔を赤くした。
四十代後半の男が、新婚で愛妻弁当とくれば冷やかされても仕方ない。
呑み会の晩は重男にあれほど急接近した及川亜依子は、何事も無かったかのような
顔で重男に会ってもそっけなかった。
女心というのは判らんな。
むしろ、亜依子はこれで重男への思いを綺麗に断ち切ったのかもしれない。
それよりも重男は五月の連休に家族旅行を計画しなければならなかった。
何かが自分を急き立てているような気がしたのだ。
325 :
名無し物書き@推敲中?:2007/02/24(土) 12:55:53
保守
わくわく楽しみです。保守。
(24)
「どうだろう、今度の連休にみんなで伊豆半島に行ってみないか?」
重男の提案に杏子は顔を輝かせた。
五月のゴールデンウィークに間近なある日、重男は団地の杏子の部屋で夕食を取りながら、
以前から心の中で計画していた案を口にしてみた。
「伊豆半島ですか。今まで神奈川から西に行ったことないんですよ」
杏子は遠くを見るような目つきをした。
「いつもお墓参りで逗子の山の上から半島が見えるんですけど、いつかは
行って見たいなと思ってました」
「うん、僕もそう何度も行ったわけではないけど、この時期は大室山とか
登ると風が凄く気持ちいいよ。温泉の本場もいいもんだよ、まあ、一度は家族で
旅行でもどうかな」
しかし、理沙と理恵はちょっと複雑な表情だった。
すぐには重男の提案には飛びついてこない。
重男もある程度それは予期していた。
友達と遊び盛りの年頃だからな。
親と一緒に出かけるよりも、連休は友達と過ごす方がいいに決まってるだろう。
「理沙ちゃんたちはどうするかい?受験勉強とか友達との約束とかあるだろうけど」
「うーん、私は図書館でじっくり補習しようかと思ってたんだけど」
「あたしも、中学の友達とハイキングの約束しちゃって・・・」
やはり予想したとおりだった。
「うん、まあ学生時代はみんな自分の計画があるからね」
重男は落胆した風でもなく平静だった。
(25)
しかし、杏子は違った。
「まあ、二人とも。せっかくお父さんが誘ってくれているのに。
家族で旅行に行くなんて滅多なことではできないのよ。
勉強とか友達づきあいとかは別の機会にでも出来るじゃないの。
私たちが三人だけだった時も、一緒に旅行なんか一度もできなかったのに」
「まあまあ、杏子さん。日にちが近かったから、二人ともすでに予定があるんだし
今回は仕方ないよ」
理沙と理恵は複雑な表情で俯いたままだ。
「じゃあ折角だから二人で行こうか」
重男がとりなすように言ったが杏子はまだ不満そうな顔だった。
重男には判っていた。
この場にいる中で、一番家族全員で行きたがっているのは杏子自身であることを。
杏子は子供たちが幼い頃から一度も旅行にすら連れて行けず、子供たちと家族旅行を
一度はしたかったに違いない。
重男もそれを慮っての計画だったのだが、肝心の
子供たちがついて来ないのでは旅行の楽しみも半減する。
「それじゃあ、今回は二人だけの旅行になりますね」
「うん、まあみんなにはお土産をたくさん買ってくるからな、留守番頼むよ」
理沙と理恵はほっとしたような表情で頷いた。
五月まで一週間を切った。
重男は職場で、昼休みに伊豆半島の旅行雑誌を見て周遊するルートを模索毎日だった。
「課長、連休は旅行ですか?お安くないですね」
トン平だった。
いつの間にか肩越しに、重男の広げている雑誌を覗き込んでいる。
相変わらず上司に対する距離感のない口の利き方である。
(26)
「お安くないですねとはなんだ。君こそ気安く話しかけるな」
「また、そないつっけんどんな。部下を邪険にしたら損でっせ」
「君なんかおらん方がなんぼかマシや、邪魔せんとあっちいてくされ」
「どこの言葉ですかそれ」
トン平はぶつぶつ言いながら去っていった。
重男はまた雑誌に目を落とした。
拡げられたページには伊豆の緑鮮やかな高原の写真が広がっていた。
考えてみれば、俺自身が個人旅行なんてしたこと無かったしな。
家族で高原をドライブできたらどんなにか素晴らしいことだったろう。
しかし、子供たちも高校生と中学生だ。
家族旅行も今回が最初で最後のチャンスだったのかもしれないな・・・
その日の夜、重男が自室で杏子が用意しておいた夕食をぼそぼそ食べていると、
電話が鳴った。
電話は杏子からだった。
「あ、重男さん。二人とも旅行に行くって言ってるんですけど、今からでも大丈夫ですか?」
「えー!本当か?大丈夫だよ、一部屋借りるんだから人数が増えても問題ないよ」
理沙は勉強の気分転換に、理恵はハイキングに行く予定の友人たちが他の予定が入って
時間が空いたらしい。
重男は有頂天になった。
もしかしたら杏子の説得に二人が根負けしたのかもしれないが、
これで杏子も存分に旅行を楽しんでくれるだろう。
(27)
翌日、重男は出先の食品材料卸業者を周る合間に、旅行代理店に立ち寄ることにした。
いつもなら外を出歩く時間帯は、1人なので自由にどこでも時間潰しができたが
今回は違った。
トン平という邪魔な存在があったのだ。
本来はトン平が1人でやるべき外注業務なのだが、当分は重男が指導も兼ねて同伴なのである。
「いいか、ちょっと俺は用があるから、君はあそこの喫茶店で時間を潰して
いてくれないか?」
重男はトン平にコーヒー代として千円札を渡した。
「あ、そうですか。丁度、喉も渇いたしいいですよ。腹ごしらえしてもいいですか?」
「なんだ、昼飯食ったんだろ?」
「ええ、でも三時になると、もう腹が減るんですわ」
重男はしかめ面をしながらも、もう千円を渡した。
首尾よく代理店で連休の旅行計画を纏め上げると、重男は気分よく戻ってきた。
連休の旅行は高くつくが仕方ない。
しかし、最近の伊豆半島は寂れてきているのか、昔の様に目玉が飛び出るほど
費用も掛からなくなっているのが助かった。
トン平が待っている喫茶店に向かいながら重男は考えた。
トン平の奴は、喫茶店で資料に目を通しているか、漫画を読んでいるか、居眠りをしているか、
このうちどれかな。
俺の予想では、居眠りトン平だから腹がいっぱいになったところで居眠りという
ところかな。
いやいや、大穴で資料に目を通して頭に詰め込んでいるかも。
意外と、ああいう奴は人前では仕事熱心な姿を見せないものだ。
俺が掛けるとしたら、大穴に掛けてみるかな。
(28)
重男は喫茶店を覗いてみたが、トン平がいない。
「はて?あいつどこに?」
重男は外にでたが、見当たらないので途方に暮れた。
あいつ、トイレかな。
しばらく喫茶店の外で待った。
10分くらいして、重男がもう1人で次の業者のところへ行こうかと思った
時、トン平が別の通りから息せき切って戻ってきた。
「こら!君はどこに行ってたんだ!」
「え、あのちょっと時間潰しに」
「ここで待ってろと行っただろ、勝手に消えたら俺がわからないだろ」
「はあ、すぐ戻るつもりが当たっちゃって・・・」
「当たったって何が?」
「・・・・」
「いいか、今は勤務時間中だということを忘れるな?」
「はあ、しかし、課長だって旅行代理店に・・・」
は、しまった。
入るところを見ていたのか。
「ま、まあいい、今日のところは。次の業者に行くぞ」
重男は歩き出した。
「喫茶店で腹ごしらえはしなかったのか?お腹空いたって言ってたのに」
「ええ、時間もあるし、どうせならこれを元手に・・・」
重男は立ち止まって振り向いた。
「・・・・」
(29)
こいつ、俺のやった金でパチンコかスロットしてたんだ・・・
開いた口が塞がらないという言葉はよく聞くが、本当に開いた口が塞がらない
という経験を重男は初めてした。
俺の想像の限界を超えている・・・
しかし、重男も自分が旅行代理店に立ち寄った引け目があるので、これ以上はトン平に
何も言えなかった。
その晩、重男は団地の杏子に旅行の計画のあらましを電話した。
杏子は嬉しそうだったが、なぜか元気が無さそうだった。
重男はちょっと腑に落ちない気がしたが、気にすることは無いと
自分に言い聞かせて寝床についた。
翌日の昼休み、重男に電話が掛かってきた。
回された内線に出てみると、理沙だった。
「なに?どうしたんだい」
「あの、お父さん?あのね、お母さんちょっと具合が悪いみたいなの」
重男の顔がちょっと険しくなった。
「悪いって、どんな風に?」
「なんだか左手が痺れるって、もう一週間くらいかな。昨日は左手で持っていた
お皿とか落っことしちゃって、足も少し引きずってるの」
重男の顔が真っ青になった。
「そ、そうか。それで僕に電話したことは言ってないよね」
「うん、お母さんも言わないでって言ってるけど、もう病院に行ったほうがいいと思って」
「わ、わかった。後は僕に任せなさい、いいね」
「うん」
重男は電話を置くと、腕を組んだ。
そのまま、午後の始業のベルが鳴るまで重男は微動だにしなかった。
(30)
その日の夕方、重男は終業のベルと同時に急ぎ足で団地に向かった。
団地の杏子の部屋に着くと、杏子が玄関に出てきた。
突然の重男の訪問に驚いたようだが、笑顔で室内に招き入れた。
重男はそれとなく杏子を観察したが、やはり杏子の左半身が不自然な動きをしているのを
見逃さなかった。
「さっき、アパートに食事を届けたばかりなんですよ」
杏子は病気のそぶりは見せずに話しかけた。
「うん、明後日から旅行なんだけど、みんな大丈夫なの?」
「え、ええ何とか行けると思います」
重男はじっと杏子を見つめた。
さっきから杏子は、全然左手を使わずに右手だけでお茶やお菓子を用意している。
「あの、もし何だったら旅行は延期してもいいんだよ」
重男の言葉に杏子は目を見開いて重男を見た。
「延期って・・・」
「うん、あなたの具合が悪いんじゃないかと思ってさ」
「どうして・・・具合が悪いと?」
「この前から電話で話ししても元気が無いし、無理をするのはよくないよ」
杏子は肩を落とした。
「理沙が話したのかしら。子供たちも旅行は楽しみにしているようなのに、
今更中止だなんて」
(31)
「仕方ないさ、誰しも具合の悪い時はある。今は病院に行く方が先だよ」
「えー、病院?ちょっと神経が痺れるだけでしばらくしたら良くなりますよ」
重男はお茶を飲んだ。
「以前に救急車で行った病院があるでしょう。あそこは神経の専門家がいるから
あそこに行ってみないか?それで何ともなければ安心するじゃないか」
杏子は小さく何度か頷いた。
「そうですね。じっとしていても仕方ないですし」
隣の和室には理恵がいるのかいないのか、静まり返って音はしなかった。
「じゃあ、明日僕が迎えに来るから」
重男が立ち上がると、杏子もびっくりして立ち上がった。
「あら!そんな、会社休んでまで。1人で病院くらい行けますよ」
しかし、重男は笑いながら杏子に言った。
「これくらい旦那として協力させてくれよ。今は優秀な部下がいるんで
代わりは任せられるんだ」
トン平が優秀とは言いがたかったが、口実に使うにはこれしかない。
翌日、重男は杏子を伴って、以前杏子が救急車で運ばれた病院に行った。
ドキドキ・・・。
まだかな〜、ワクワク…。
楽しみ、楽しみ
(32)
重男は病院に着くと杏子を待合室に待たせ、受付で何やら係員と話をしていたが、
やがて戻って来た。
「この前の先生が午後なら診ていただけるそうだ。午前中はやはり予約でいっぱい
らしい」
杏子は怪訝な顔をした。
「あの、内科とか整形外科じゃないんですか?この前の先生って脳神経の先生だったし」
「うん、あのとき先生がね、痺れとかあるようだったら内科は飛ばして僕のところに来なさいって
言っていたから」
「そうですか・・・」
杏子は納得したように頷いた。
午後までは時間がかなりあった。
重男はどうやって時間を潰そうかと考えた。
もちろん、杏子が健康な身ならば街でもどこでも時間は潰せるのだが、何しろ半身に痺れの
ある身で連れ立って出かけられるはずもない。
「外は陽当たりもいいし、時間つぶしに散歩しないか?隣は公園だよ」
杏子が微笑んで頷いたのを機に二人は病院の外に出た。
四月末の公園は暖かい日差しが広がっている。
新緑の薫る青葉が茂る公園の中は実に気持ちが良かった。
(33)
遊歩道の中を歩きながら重男は何度も深呼吸をした。
「気持ちいいなあ、職場に閉じこもっているのと全然違うな」
重男は杏子に話しかけながらも、杏子の体に気遣うのを忘れなかった。
杏子は今でははっきりわかるほど、左足を引きずっている。
重男は気付かない振りを装いながらゆっくり歩き、杏子の体に負担が掛からないようにした。
ようやく、空いているベンチが見つかり、二人で腰を下ろした。
「ごめんなさいね、平日なのにこんなことで時間取っちゃって」
杏子が申し訳無さそうに重男に言った。
「なーに、お陰でこんな気持ちのいい公園を散歩できるんだから、むしろ嬉しいくらいだよ」
重男は世辞ではなく本当にそう思った。
「それに今はもう、一応、部下のいる管理職だからね。部下のそいつがまた優秀でね、
ひとつ教えれば十理解できるほどなんだ。だから僕がちょっと抜けても
支障は無いんだよ」
重男はそういいながらも、トン平の顔を思い浮かべ、その顔を地面に見立てて靴のつま先で
じりじり踏み潰した。
「そうですか、それなら私も助かるんですが・・・。
以前に工場で重男さん見ていたときは、いつも忙しそうに歩き回っていましたから
気になってました」
「いや、いや、あれは忙しそうに見えるだけ。僕なんか要領がいいから
さっさと仕事を済ませてサボる口なんですよ」
実際は重男は要領が人一倍悪く、二度手間三度手間を食い、そのために時間に追われて
走り回っていたのだが、もちろんそんなことはおくびにも出さなかった。
(34)
「本当は明後日から伊豆に旅行だったのに、子供たちにも悪いことをしたわ」
杏子はうなだれた。
「気にするなって。夏休みや冬休みもあるじゃないか、誰が病気になっても
同じことなんだからもういいんだよ」
「すみません・・・。でもみんなで大室山に行って見たかったな」
何か吹っ切れたのか、杏子は表情も明るくなった。
杏子は突然、「あ」とつぶやくとベンチから立ち上がり、草むらの方へと歩んだ。
重男はぼんやりとそれを見ていた。
杏子は足を引きずりながらも、何やら白い物をつまんで戻ってくる。
にこにこしながらベンチに腰を下ろす杏子の手元を見ると、タンポポの綿毛であった。
「ほう、タンポポか。花のことは知らんが今時分綿毛が出来るのか」
「ええ、時期は選ばないみたいですよ。私は子供の頃からこれが好きで」
杏子は茎を指に挟んでくるくる回した。
タンポポの綿毛が少しずつ離れて風に舞った。
「多摩川の近くに住んでいた子供の頃、土手でよくタンポポ見つけたわ。
あそこの土手にはタンポポが一面に咲いていました」
「ほう、懐かしいのか」
「いえ、懐かしいと言ってもいろんな意味でね」
杏子は飛んでいくタンポポの綿毛を眩しそうに見つめた。
「私もタンポポの綿毛の様に自由に空に舞ってみたいな。それで好きなところに
飛んでいってそこで育つの」
「ははは、少女みたいなこと言うんだな」
「そうよ、子供の頃はそんなことばかり考えていたの。でも、こんなデブだからね、
空想だけは人一倍強かったのよ」
(35)
杏子は笑った。
話しているうちに、重男は何だか喉が渇いてきた。
「ちょっと売店で飲み物買ってくるよ」
重男は杏子に断ると離れた公園の売店に向かった。
売店で二人分のお茶を買う合間に、ふと重男は遠くのベンチの杏子の方を見た。
すると、こちらに背を向けて座っている杏子がハンカチを顔に押し当ててい
るのが見えた。
重男は何だか見てはいけないものを見てしまったような気がして、慌てて目を
そむけた。
昼に病院に戻った二人は病院の食堂で昼食をとったが、会話も弾まず、
食欲も湧かなかった。
退院するならともかく、これから診察を受ける人たちにとって病院の食事が美味いわけが無い。
「前に、理恵ちゃんの病院で飯を食った時はネクタイをカレーに浸しちゃってなあ・・・」
重男の昔話にも杏子は力なく微笑むだけであった。
(36)
「井桁さん。井桁杏子さんお入り下さい」
重男は杏子と一緒に診察室に入った。
脳神経外科の篠原医師は入ってきた二人の顔を見て思い出したようだ。
「あ、あなたたちは以前に急患で来た・・・」
「はい、あの、苗字が以前は沢野だったんですけど、カルテが残ってるはずですが」
「あ、はいはい、沢野杏子さんですよね、覚えてます。付き添いの方は
職場の方でしたよね」
篠原は沢野杏子のカルテを開いた。
「姓が代わったんですか、そうですか。ご結婚でも?」
「はい、私とです」重男が口を挟んだ。
「は?あなたと?」
篠原はぽかんと口を開けた。
数秒間、篠原は表情が固まった。が、気を取り直すと声の調子を元に戻した。
「今日はどうしました」
杏子が症状を話すと、篠原の顔が段々気難しくなってくる。
「じゃ、ちょっと診察台に」
促されて、杏子はとなりのベッドの部屋に入った。
看護師により、カーテンがさっと引かれ医師と杏子の会話が時折聞こえてくる。
「このままで手を曲げて・・・。次は膝・・・。これじゃどう?」
重男はぼんやりと待っていた。
やがて篠原医師が出てきた。
「井桁さんは今はもうご主人さんなんですよね」
「はい」
「そうですか」
(37)
重男が医師と話をしている間に、身づくろいをした杏子が診察台の部屋から出てきた。
篠原は杏子に向かって声を掛けた。
「奥さん、しばらく検査入院してもらいますから、ちょっとご主人とお話が
あるんで廊下で待ってもらえますか?」
「あ、はい、失礼します」
杏子は静かに廊下に出て行った。
重男と篠原医師は何を話ししているのか、杏子は数十分廊下で待たされ、ようやく
重男が診察室から出てきた。
「この前と同じようにMRIとかいう機械で検査するそうだ。他にもいろいろ調べる
から入院してくれって」
入院と聞いても杏子はさほど驚かなかった。
「すみません、迷惑ばかりかけて」
「気にするなよ、検査だけなんだから。何回も通院するより楽だよ」
重男は杏子と、そして自分に言い聞かせるように言った。
「えっ?ウソッ!」
理沙が目を丸くした。
「うん、検査入院だから今回はすぐに帰れるよ」
「今回はって、その後も入院するの?」
重男はしまった、と自分の迂闊さを呪った。
「い、いや治療するのにまた入院するかもしれないだろ?そういうことさ」
今の会話、杏子に聞こえただろうか?
聞こえただろうなやっぱし
(38)
杏子は隣の和室で入院に必要な品を揃えている。
取り合えずの数日分だけでいいはずだった。
しかし、中学生と高校生の子を残して入院するのは気が重いに違いなかった。
杏子は自宅に帰ってからも口数が少なくなっている。
恐らく、自分でも検査だけで無罪放免になりそうもないことがわかっているのだろう、
ひとつひとつの動作がゆっくりしていた。
「わかったわ。私たちは自分で身の回りのことはできるから、お母さんは
ゆっくり病院で検査受けてきてよ」
隣で理恵も頷いてた。
「私が入院した時はお母さんに迷惑掛けたから、今度は私がお返しする番ね」
理恵は心臓病で入院の経験があるだけに、家に残る者の責任感を十分に理解している
ようだ。
「じゃ、僕は明日は会社に出るから君たちもお母さんに協力してやってな」
重男はひとまずアパートに帰ることにした。
連休を挟んでの入院は検査に時間が掛かった。
世間ではゴールデンウィークが終わり、またいつもの喧騒の日々が始まった頃、
漸く杏子の検査結果が出た。
会社から杏子の入院する病院に寄った重男は夜遅く、団地の杏子の家に向かった。
玄関で呼び鈴を押すと、出てきたのは理恵である。
「こんばんわー」
(39)
「よう。ちょっといいかい?」
家の中に入ると理沙がいない。
「あれ?理沙ちゃんはどうした?」
理恵はもじもじして言いにくそうに答えた。
「私もわからない。夕方出かけたの」
「どこに」
「さあ?」
「バイトはもうしてないはずだろう?高校生がこんな時間に出かけるって・・・」
重男は渋い顔をした。
理恵も黙ったままだった。
「で、お母さんなんだけどね。このまま入院治療することになった。
お医者さんの話では時間が掛かりそうだということだからね。
みんなも協力してお母さんに余計な心配をかけないようになしないとな」
理恵は母親がこのまま入院と聞いても予期していたのかさほど表情に変化は
無かった。
「理沙ちゃんにもいっといてくれ。僕はこのまま帰るから、時間があったらまた
お見舞いにも行くようにね」
「うん、わかった」
理恵は頷いた。
(40)
重男は自分のアパートに帰る道すがら、気が重かった。
そして、連休の半ばに病院に杏子を見舞いに行った時のことが、
思い起こされるのである。
病室で退屈そうな杏子を伴って病院の屋上に出てみた。
検査入院してからは杏子はもう松葉杖をついて歩いている。
その日も五月晴れで天気のいい日であった。
連休中ということで、屋上から見える町並みも、気のせいかのんびりした時間の歩みの様に
思える日である。
「検査もいろいろと大変だな。種類が多くて」
「ええ、でもこの際、全部調べた方がすっきりしますから」
「あの子達は家のことはしっかりやっているようだから、何も心配ないよ」
杏子は頷いた。
「あの二人には小さい時から苦労させてきて、またこんなことになって・・・」
「そんなに気にするなって。一番苦労してきたのは杏子さんだろう?」
杏子は思い切ったように口を開いた。
「あの・・・。本当はもっと早く行っておかなければいけなかったんですが・・・。
理沙は私の本当の子じゃないんです」
重男の口が半開きになったまま止まった。
「あの子は前夫の連れ子なんです・・・。五歳の頃私が母親になってそれからずっと・・・」
更新されてた!!
杏子どうなっちゃうのか・・。
そうか。理沙ちゃんのことを重男は知らなかったんだ。
杏子心配だ。よくなりますように。
349 :
名無し物書き@推敲中?:2007/03/16(金) 23:44:33
心配・・・
続き待っています。
350 :
名無し物書き@推敲中?:2007/03/16(金) 23:45:16
杏子!
(41)
何と言っていいものか重雄は返事に窮した。
「そ、そうか。で、理恵ちゃんは、あなたの?」
「はい、前夫との子です。でも理恵が理沙のことをどこまで知っているかわかりません。
ずっと姉妹として育ててきたから」
重男は遠くの方を眺めた。
「そうですか。色々な事情があったんだろうね。
でも血のつながりがあろうがなかろうが、今はみんなが家族なんだ。
僕とあなただって血のつながりはないんだ。そうだろう?今はみんなが不思議な
縁でこうやって家族になっているんだから、何も問題ないよ。
もちろん、僕もそんなこと気にしないし」
ようやく杏子の顔が笑顔になった。
理沙ちゃんは18になったばかりだし、杏子さんは30代半ば過ぎだから、その年関係
から考えても、凡その見当はついていたけど、自分から聞くのも何だしなあ。
でも理恵ちゃんは杏子さんの子供だったんだな・・・
「理沙と知り合った頃は、いつも私のことをオネエチャンオネエチャンと呼んで、付きまとって
いたんです」
杏子は誰に言い聞かせるとも無くつぶやいた。
「だから今でも私のことを母親というより、年の離れた姉のような感覚が抜けないみたいです」
「ふーん、確かになあ。前に看護師さんに妹の方ですか?って聞かれたことも
あったよ」
(42)
重男は青い空を見上げた。
綺麗な飛行機雲が筋を伸ばしていた。
羽田から飛んだのだろうか、それとも成田からの国際線か。
「時々、思うんです。理沙は本当の母親に会いたいんじゃないかって・・・。
それに理恵は父親の顔すら知らないままだし」
重男はぎょっとした。
「そ、そんなことはないだろう。理沙ちゃんは君の事を本当に慕っているよ。
過去がどうだったのか知らないが、産みの親より育ての親だろ。それに二人の子は
本当の姉妹なんだし、今更子供のときに離れた実の母親のことなんか忘れてるよ」
重男はそう言いながらも、幼い頃に実の両親と離れ離れになった理沙のみならず、
理恵自身も実の父親の顔すら知らないことが不憫にも思えた。
「まあ、とにかく、僕たちはこの4人で新しい家族になったんだ。
これからのことを考えようよ。
まずは君が病気を治すことが先決だろう。それからゆっくり考えればいいよ」
杏子は頷いて、それっきり重男の前で理沙の両親の話をすることはなかった。
季節も移り変わり、夏も本番に近づいて来た。
杏子の病状は一進一退の状況である。
重男は、仕事で遅くならない日は欠かさず帰りに病院に見舞いに行った。
理沙と理恵も同様である。
ある日、重男は病室で理恵と鉢合わせした。
(43)
「あ、お父さんだ」
「ああ、来てたのか理恵ちゃん。今週は僕は今日が初めてだよ、忙しかったんでな」
「あなた、今日は早かったんですね。お食事はまだでしょう?」
杏子が尋ねた。
「うん、帰りにコンビニで買って済ませるよ。いつものパターンだ、ははは」
「お父さんもたまには家に来ればいいのに。三人分くらい作るよ、ご飯」
「ははは、僕は時間が不規則だからな。今度、土日にでも食べに行くよ」
その時、看護師が病室に入ってきた。
「ご主人さんいらしてたんですか。あの、先生がお話があるらしいので
今度の午後にでも、一度外来に来ていただけませんか?」
重男は怪訝に思いながらも返事をした。
「はあ、週末までには何とか時間を取ります」
重男は理恵と一緒に団地まで帰る事にした。
帰りのバスに乗って並んで腰掛けると、重男は理恵に話しかけた。
「どうだ家のほうは。ちゃんと二人で協力してやってるか?」
「うん」と理恵は頷いたが、しばらくすると言い難そうに口を開いた。
「あのね、お姉ちゃんがね昨日も遅くまで出かけていたの」
重男は渋い顔つきになった。
またか・・・
この前から二ヶ月はたってるけど、親の目を盗んで何をやってるんだろ。
(44)
「そうか、もちろん理恵は知らないんだよね、どこに出かけているか」
「うん」
まさか、理恵に理沙がどこに出かけたか聞きだせなどと言えない。
間に挟まれている理恵も辛いのだ。
しかし、母親が闘病生活をしているってのに、自分勝手な行為はいかんな。
今度俺がじかに注意するか。
しかし、重男も理沙に面と向かって注意するのは怖い。
何といっても、親子になってまだ数ヶ月である。
そもそも、重男は子育ての経験が無いから、年頃の娘の扱い方を知らない。
実子であってさえ、年頃の子は扱いが難しいのに、重男が理沙に注意をする
ということは、素手で猛獣を手なずけろというのに等しかった。
とはいえ、このまま理沙の夜歩きを野放しにしておく訳にいかない。
重男は理沙と衝突覚悟で向き合う必要があった。
下手に怒らせると、一生冷戦状態に突入するな・・・
女性の多い職場での経験では、女性にいったん嫌われると修復不可能な場合が
多かった。
重男は気が重くなってきた。
家族と諍いは起こしたくない気持ちが強く沸いてくるのであった。
(45)
週末に重男は早めに会社を抜け出して病院に向かった。
外科の先生に話を聞くためである。
医師が帰る夕刻の時間ギリギリに何とか間に合った。
「奥さんの病状なんですが・・・」
重男は医師の説明を神妙にかしこまって聞いていた。
「・・・というわけで、来週から内科病棟に移ってもらいますから」
「わかりました、家内にも伝えておきます」
重男は医師にお辞儀をして礼を述べた。
そしてその後、杏子の病室に顔を出した。
「あら、いらっしゃい。今日は早かったんですね」
「うん、先生に呼ばれたから」
杏子の顔がちょっと曇った。
「先生に?」
「うん、あのね。治療方法を変えたいから、来週から内科病棟に移って欲しい
と言われたんだ」
「内科に・・・。それっていいことなのかしら・・・」
「もちろんだよ。少しずつ良くなっているってことだろ。
外科より内科のほうが何となく安心じゃないか」
それでも杏子から腑に落ちない表情は消えなかった。
しばらくは二人で世間話をしたが、ふいに重男は言った。
「今日はちょっと他に寄る用事があるんでこれで失礼するよ。
また明日には来るからね」
「はい、あまり無理しないでね。こっちは大丈夫だから」
重男は笑顔で頷き、病室を後にした。
(46)
重男が次に向かったのは団地である。
すでに日が暮れている時間帯なので、部屋には理沙と理恵がいた。
「あれ?お父さんどうしたの。病院の帰り?」
理沙が驚いて出てきた。
「うん、ちょっと話があってね」
「何?話って」
重男は居間にあるテーブルに腰掛けた。
テーブルの横には杏子に渡す物だろうか、洗濯したパジャマやタオル類がまとめてあり、
その上に、はがき大の写真立が乗っていた。
重男が見るともなく見ると、写真立に納まっているそれはタンポポの押し花であった。
重男の目線に気付いたのか、理沙が説明した。
「それ、お母さんが病室に持ってきてって言ったの。私もそんなのがあるって知らなかった
から、一生懸命押入れの中を探したの」
「ふーん、お母さんはタンポポが好きらしいな」
「なんか若いときの思い出があるらしいわよ」
理恵は重男の来訪の意図を悟ったのか、少しだけ顔を出すと部屋に閉じこもったきりだ。
重男は覚悟を決めて理沙に顔を向けた。
「あのね、理沙ちゃん。言いにくいことなんだが・・・」
「え?何を?」
「君はたまにだけど、夜遅くまで出歩いているよね。一応、父親としてそれは
止めて欲しいんだ」
(47)
理沙が目を大きく見開いた。
チラと理恵の部屋の方を見やったが何も言わない。
「特にお母さんがこんな時なんだから、僕たちは自分勝手な行動は止めようじゃないか。
お母さんだって心配するだろう?」
「お母さんは知ってるの?」
「いや、知らない。今までのことはもういいから、これからは親に心配かけるような
真似は止めて欲しいんだ」
重男は心臓がドキドキしてきた。
「そんなこと、あなたに関係ないじゃないの!!私のことに口出ししないで!
何さ、たった数ヶ月親になったくらいで父親面ですか?偉そうに!!」
とでも言われるかと身構えた。
「判りました。これからは気をつけます」
理沙は素直に頭を下げた。
重男はあっけにとられた。
拍子抜けがするとはこのことだろうか。
きっと重男の父親としての威厳が威力を発揮してきたのかも。
「そ、そうか。判ってくれればいいんだ・・・」
重男も次の言葉が出ない。
(48)
ここで重男は理沙が予想外に素直だったことで気が大きくなり、つい調子に乗ってしまった。
「ところで夜遅くに何してたんだ?バイトはする必要ないし、ボーイフレンドでも
いるのか?」
重男はテーブルの上のお茶をガブリと口に含んだ。
「いえ、実の父親に逢っていたんです」
「ブハッ!ゴホッゴホッ」
重男はお茶を噴出しむせた。
理沙は慌てて台所に雑巾を取りに行った。
理恵が自室のふすまを開けて飛び出してきた。
「お、お姉ちゃん!お父さんに逢ってきたの?ズルイ、ズルイよ自分だけ!」
理恵が理沙にしがみついた。
重男は予想外の展開に、あっけにとられて二人を見つめるだけだった。
「御免なさい、いつまでも隠しておけないもんね」
理沙は理恵に謝った。
しかし、理恵は泣きじゃくった。
「私も逢いたいよお父さんに。一度も逢ったことないのよ!」
重男はもうオロオロするばかりである。
「落ち着きなさい落ち着きなさい二人とも」
言いながらも重男の心の中は涙でいっぱいだった。
今の父親は俺なんだぞ・・・
俺の立場はどうなるんだ?
えぇ!今更ずうずうしいなぁ実父。
娘達の気持ちはわかるけど…早く続きが読みたい。
がんがれ、重男!
杏子の病名が気になる・・・
(49)
翌週、職場に出勤した重男は意気消沈していた。
以前にパートのおばちゃんが目撃した、理沙が男の運転する車に乗っていた
というその男ってのは理沙の父親だったのか。
それなら良かったというべきか否や。
実の父親なら別に問題ないんじゃないか?
どういう事情か知らないが、理恵は実の父親を知らないのなら
理恵だって逢わせてあげないとな・・・
しかし、そうなると俺はいったいあの子達にとって何なのだ?
それに杏子は理沙が父親と逢っていることを知らない。
黙っていていいものかどうか。
子供たちはやっぱり本当の父親に逢いたいだろうな。
杏子は前夫のことをどう思っているのかも判らないしなあ。
重男は家族として手と手を取り合っているはずの自分と、杏子たちのに間は
今まで気付かなかったとてつもない
大きな壁があるような気がした。
「課長、ハンコ欲しいんですが」
トン平が側に立っていた。
「あ、ああ」
「課長、何だか最近元気が無いですね」
「ん?そうか。そうだな」
「まあ、くよくよ悩んでも仕方ないですよ。人生なるようになれですしね!」
「お前に励まされたってなあ。あ、そうだ」
重男は机の上の書類をかき分けた。
「今度の会議で上半期の材料判別に実績を集計した物がいるんだ、君、集計表を
作っておいてくれないか。後で俺が点検はするけど、重要な資料になるから
慎重にな。やり方は事務の子に聞いてくれ」
「は、わかりました。いつまでです?」
「明日中でいい、俺は出張があるんで頼むよ」
(50)
翌日、重男は食材の会社に出張して本社に戻らなかった。
夜は遅かったので病院にも団地にも顔を出していない。
だが、むしろその方が重男にとってはありがたかった。
理沙の事情を聞いてからは、何となく杏子にも逢い辛い気がしたのだ。
さらに次の日、出社してほどなく病院から重男に電話が入った。
電話の相手は事務員の様だが、言いにくそうに話した。
「あのう、ご主人様ですか。実は奥様が階段から足を踏み外して、お怪我をなされ・・・」
「ええー?で、怪我は?」
怪我の程度は、少し腰や顔を打っただけで大したことはないらしい。
しかし、杏子の状態が状態だけに、重男はいてもたってもいられなかった。
重男は職場の人に断ると、病院に向かうことにした。
半身が不自由なだけに階段は確かに危ないが、この前会ったときは、
割と普通に歩けたんだがな。
重男は病室を覗いて見て、頭に包帯を巻いている杏子を見て驚いたが、
杏子は意外と元気で笑顔で重男を迎えた。
「ごめんなさい、足を踏み外して」
「いや、それより、どこを打ったの?おでこだけ?腰もかい?」
「うん、でもシップだけでいいみたい。ただの打ち身だから」
「そうか・・・。まあ病院内で良かった、ここは何でもあるから治せるからね」
「あ、それから、あなたが来たら先生のところに来てくださいって言ってたわ」
「うん、ちょっと寄っていくよ」
重男はいったん、口を切った。
理沙のことを言おうか言うまいか。
杏子がどう思うだろうか。
娘が前夫と出会っていたなどと言うことを・・・
(51)
その時、ふと、杏子のベットの脇の机の上に写真立が置いてあるのが目に付いた。
飾られているのは写真ではなく、タンポポの押し花だった。
「あれ?タンポポ?」
「あ、ええ」
杏子はちょっと恥ずかしそうに笑った。
「あたしがどうしても欲しいって理沙に言って、家から持ってきてもらったの。
若い頃の思い出なんですけどね」
「ふーん」
その後で重男は看護婦に連れられて内科の医局に寄った。
内科の医師は感情を微塵も含ませることなく、淡々と重男に経過を説明した。
「治療方針は以前にお話したとおりですので、今回の様なこともありますので、
今後は車椅子利用するようにしてください」
「はあ、あの本人には車椅子のことは・・・」
「はい、伝えてあります。もっとも、もう1人では歩けないので必然的に車椅子
を使わざる負えないというのが実状ですが」
重男は黙って唇をかみ締めた。
病院を出たのはもう昼過ぎであったが、食欲が全然無かった。
会社に戻る気力も湧かなかった。
自分がどん底に落ちた気分の時は、自分以外の周囲の人間たちがみんな幸せであるかの
ように見え、なおさら気が消沈するのだった。
自分でもどこをどう歩いたのか、目に付いて入った喫茶店で
空になったコーヒーとサンドイッチを目の前にしていた。
いつの間にか外は夕闇になって来た。
重男は重い腰を上げた。
(52)
覚悟を決めよう・・・
団地に電話して理沙たちが家にいることを確認してある。
重男は団地に向かった。
「こんちわ」
「あ、いらっしゃい。じゃなくてお帰りなさい」
理沙が重男を迎えた。
「夕食はどうします?ご飯ならまだ焚けますけど」
もう家事も一人前にこなしているだけあって、気の遣い方が奥さん並みだ。
「ん、いや、いいんだ。理恵もちょっと呼んでくれ」
理沙は重男の表情にちょっと首を傾げたが、理恵も呼んで二人で
テーブルに差し向かいに座った。
重男は来る途中に買ったジュースを、二人にも勧めながら自分も口に含んだ。
「実は今日は重要な話がある」
判決を下す裁判官のように気が重かった。
理沙は目を見開いて重男を見る。理恵は不安そうに額に皺を寄せている。
重男は切り出した。
「二人とももう子供じゃない。力を合わせて乗り切るんだ。いいね」
理沙と理恵は意味が判らずに黙っている。
重男はいったん、口を閉じてから判決を言い渡した。
「実は、お母さんはもう永くないんだ」
二人は息を呑んで目を見開いた。
「実は前に先生に言われていたんだが、もうかなり進んでいて、あと
一ヶ月くらいらしい。今日、病院に行ってきたんだが、もう1人では
歩くことも出来ないみたいなんだ」
理沙が俯いた。
両手を握り締めてコブシを作った。
(53)
パニックになりそうなのを押さえているのだろうか。
理恵も「お姉ちゃん・・・」とつぶやき、姉の服の裾を握り締めている。
「お、お母さんはどこが悪かったの?ただの神経痛じゃなかったの?」
「うむ、実は脳に腫瘍ができていて、それが神経に悪さをしていたらしい」
「どうして治らないの?今の医学はこんなに進んでいるのに。
病院を変えてもダメなの?」
「うん、先生の話だと、腫瘍の位置が凄く悪いところなので、治療の
仕様がないということなんだ」
重男はジュースを飲み干した。
「君たちも辛いとは思うけど、今、一番辛いのは誰か判るよな。
だからメソメソしてる暇なんかないぞ」
すでにシクシク泣き始めた理恵をみて重男は言った。
理沙は流石に姉としてまだ耐えている。
「あの、お母さんはそのことを知ってるの?」
「いや、知らないと思う。病院の先生もまだ話してないといっていた」
「そう」
理沙はまた俯いて黙り込んだ。
「みんな辛いが、こういう時こそみんなで力を合わせて行くしかない。
最後までお母さんを笑顔で見送ってあげよう」
理恵はもう堪らず両手で顔を覆って泣き始めた。
理沙は必死に耐えて妹の肩を抱いていた。
(54)
理恵は無理もない。
父親も知らず、唯一の親である母親に先立たれようとしているのだから。
しかし、理沙は実父という心の支えがあるからか、何とか持ちこたえてくれるだろう。
二人とも何とか頑張ってこの悲しみを乗り越えてくれ・・・
重男は団地を後にした。
スマートな中年の男に理沙が寄り添っている。
「お、お前は誰だ?」
男は何も言わない。
いつの間にか中年の妙齢の女性も側に立っている。
理沙がにこにこしながら二人の後に着いて行く。
「お姉ちゃんお姉ちゃん」
どこから現れたのか、理恵が後を追いかけていく。
こら、理恵どこに行くんだ。
俺はお前たちの父親だ。
どこにも行くな、行っちゃいかん。
理沙、理沙!!
重男は明け方目を覚ました。
夢か。あの男は理沙の父親か・・・
とするとあの女は・・・?
わからない。
重男にとっては、子供たちが自分の元を去っていくような後味の悪い夢だった。
ええええ??杏子・・。
思わぬ方向に・・・orz
(55)
「課長、最近やつれてきましたね。これなんかどうです」
トン平が重男の前に栄養ドリンクを置いた。
ふっ、これで結構俺に気を遣ってるんだな。
「ああ、ありがとう」
重男は礼をいうとドリンクを呑んだ。
しかし、当然そんなもので元気が出ようはずもない。
「課長、もうすぐ夏ですね。課長が以前読んでいたこの雑誌、貸してもらえませんか?」
トン平は重男の机の上の書類の間に挟まっていた旅行雑誌を引っ張り出した。
重男が五月の連休に杏子たちと計画した伊豆半島の雑誌だった。
「ああ、いいよ」
トン平は雑誌を隙間から引っ張り出した。
「二、三日でお返ししますから」
「いや、もういいんだ。君にあげる」
「へ?もういいんですか」
「ああ、もう使うことは無い・・・」
トン平はちょっと不思議そうな顔をしたが、そのまま自分の席に戻ろうとした。
「いや、ちょっと待ってくれ、それ見せて」
トン平が雑誌を重男に返した。
重男は自分が以前、折りこんであった大室山のページを開いた。
そしてじっと開いたページを見つめた。
杏子たちを一度でいいから連れて行ってあげたかったな。
もう少し早ければ・・・
重男は折込を丁寧に元に伸ばして雑誌を閉じるとトン平に渡した。
「うん、もういいよ」
(1)
重男は以前よりも、団地の杏子の家に立ち寄る回数が増えた。
母親の命がそう長くないことを知った姉妹に対して、自分が少しでも支えに
なれればと思った。
しかし、それと同時にあの夢を見て以来、このかけがえの無い娘たちが
自分の手を離れどこか遠くに行ってしまうような、得体の知れない
不安がどうしても湧いてくるのであった。
理沙と理恵は俺の元にいてくれるよな・・・
たまに夜早く、団地の家で娘たちと夕食を囲む機会があると、
重男は言いようの無い不安が、常に心の片隅に付きまとうのを感じた。
それは日に日に弱っていく杏子の姿を見るにつけ、次第に近づいてくる
杏子との別れの悲しみから自分を少しでも遠ざけたいと思う気持ちの
反動であろうか。
重男は自分で理解しているはずの現実に目を向けたくなかった。
この先、杏子がいなくなったら、もしかすると理沙と理恵は
本当の親の元に返すべきなのでは・・・
重男は目を瞑った。
また一人ぼっちの自分。
そんなこと考えたくなかった。
(2)
土曜の夕方、病院の帰りに団地の家で久々に重男と娘たちは夕食を囲んだ。
昼間、みんなで杏子を見舞ったときは、もう杏子は自力で起き上がるのがやっとで、
自分で車椅子に乗ることさえ出来ないくらい衰弱が進行していた。
あきらかに、ガンが全身に転移しているのだ。
母親の容態を見るにつけ、理沙と理恵の顔からも笑顔が消え、勢い、
団地での夕食も言葉少なに沈んだ食事となった。
重男は夕食が終わると、自分のアパートに帰るべく立ち上がった。
「じゃあ、帰るね。明日はまた病院に顔出すから。母さんも退屈だろうから
車椅子に乗せて公園でも散歩しようかと思ってる」
「うん、じゃまた明日・・・」
理沙と理恵が玄関で重男を見送った。
重男が杏子の家を出てしばらく歩くと、後から人が走ってきた。
振り返ると理沙だ。
「なんだ?どうしたの」
理沙は重男の前に来ると目を伏せた。
「あの・・・。お父さん」
「何?」
「あのね、お願いがあるの」
理沙は両手で自分の服の裾を握り締め、言いにくそうだった。
(3)
次の日、重男は杏子を車椅子に乗せて病院の近所の公園を散歩した。
杏子と一緒にこの公園に来るのは、以前に検査で病院に来たとき以来である。
以前は杏子も1人で歩けたのだが、今ではもはや、自力で立ち上がることさえままならない。
しかし、重男はそんなことを気にも留めないように冗談を連発していた。
「2千円札ってあるだろ。あれって遣いにくいねえ。邪魔だからこの前
コンビニで2千円札で買い物したんだ。そして千何百円だかおつり貰ってね。
レシートはいらんからゴミ箱に捨てるだろ。そして駅でキップ買うのに
財布見たら、捨てたはずのレシートがしっかり財布に入ってるんだ」
杏子が笑った。
「それって、もしかして捨てたのがレシートじゃなくて・・・」
「そうなんだよ、せっかちだから千円札ゴミ箱に入れたらしいんだ」
重男らしいドジのエピソードは枚挙に暇が無かった。
「でも運がいい時もあったんだ。肉屋の前で100円玉を溝に落としてしまってさ、
泥が溜まっていたけど、汚いの我慢して手探りで100円玉探したら、
なんと、500円玉拾っちゃったんだよ」
「ほほほ、運が良かったり悪かったりで面白いですね人生って」
「あ、ああ・・・」
もう夏も本番が近づいている。
公園の木々も、セミの鳴き声がそこここで交差し始めた。
まだ午前中なので風は涼しかったが、陽が昇ると暑さが増してくる。
公園の散歩も長居は無用だった。
重男は車椅子を病院の方向へと向きを変えた。
(4)
「伊豆の大室山ってきっと涼しいでしょうねえ」
ふいに杏子がつぶやいた。
重男は一瞬返事が出来なかった。
「草だけしか生えてなくて綺麗なお饅頭みたいな形なんですよね。
病院の待合室の本に写真が出てました」
「そ、そうか。綺麗だろ。麓にサボテン公園とかもあるんだ。リフトでね山の上まで行けるんだよ。
でも退院したら、きっとみんなで連れて行ってあげるから」
「そうね、みんなで行きましょうね」
杏子は微笑んで頷いた。
翌日の月曜日、重男は沈んだ気分の自分を叱咤しながら職場の机に向かっていた。
ふいに荒々しく事務所のドアを開けて飯田部長が入ってきた。
「井桁君、こりゃいったいどういうことだ!!」
飯田は手に持っている書類を振りかざした。
重男は何のことやらわからずに目を白黒させた。
「君に用意させた材料別実績調査票だよ!会議で恥を掻いたぞ!」
飯田は重男の前に書類を叩き付けた。
重男は慌てて中身を見た。
この前、時間がなくてトン平に調査させた資料だ。
ただ、トン平にやらせたのは仕方ない。
しかし、不味かったのは重男がそれをチェックしなかったことだった。
重男が中身をざっと見ると、明らかに数字がどれもこれも大きい。
トン平の奴、間違えて実績の数字ではなくて今季予定数量入れたな・・・
(5)
飯田が怒るのも無理は無い。
新規の予定数量と過去の実績数字が乖離するのは当たり前だ。
「申し訳ありません。私がチェックを怠ったせいです」
「君は何のためにそこに座ってるんだ?何のための課長だ?部下に
作業をさせてメクラ判か?判子押すだけか?それだけならうちの幼稚園の孫にだって
できるぞ!」
飯田の怒りは収まらない。
ただでさえプライドが高い男だ。
この会社は製造部があってこそ持つんだと自負している。
他の部門に対して自分が恥を掻くなどということは、あってはならないのである。
「立ちなさい」
重男は立ち上がった。
飯田はいきなり重男の椅子を蹴飛ばした。
重男の椅子は音を立てて部屋の端まで滑って転がった。
「君には袖つきの椅子なんざ100年早いな。しばらく立って仕事をしろ」
製造の事務所のみんなが静まり返って、ことの成り行きを見守っている。
重男は唇をかみ締めて俯いた。
若い頃から怒られるのは慣れている。
しかし、今は妻や子供もいる身だ。
到底、家族には見せられないような自分の姿を思うと、悔し涙がこぼれそうになった。
375 :
名無し物書き@推敲中?:2007/04/11(水) 23:11:28
続き待っています。
376 :
名無し物書き@推敲中?:2007/04/15(日) 07:14:45
age
377 :
名無し物書き@推敲中?:2007/04/15(日) 16:19:23
保守
続きお待ち申しage
379 :
名無し物書き@推敲中?:2007/04/22(日) 13:33:34
捕手
380 :
名無し物書き@推敲中?:2007/04/24(火) 19:23:06
続きをよろしくお願いもうしage
まだ読んでくれている方がおられたんですね。
ここまで続けた以上、最後まで書き続けるつもりですが、
多忙のためしばらくお時間を下さい。
ここにもいます(`・ω・´)ゞ
お暇な時の更新お待ちしてます
作者さん乙。
気長に待ってます。
(6)
重男の椅子を蹴り飛ばして飯田は漸く怒りが収まったのか、また荒らあらしく部屋を出て行った。
重男はなすすべもなく悄然と立ちすくんでいた。
「あの・・・課長。すみません」
成り行きを見ていたトン平が重男の側に来た。
「いや、いいんだ。僕が後を確認しなかったのがいけなかったんだ」
「しかし部長もあんなに怒ることないですよねえ」
ないですよねえって、お前がそもそも・・・
いや、言うまい。
部下を管理できていない俺がいけないんだ。
そもそもトン平なんだしな。
ふと、周囲に目を向けると、他所の課の社員たちが慌てて俯いて仕事をしている振りをした。
みんなの前で部長にこっぴどく叱られた手前、重男はこの部屋ににいたたまれない気持ちである。
しかし叱られた後にすごすごと黙って部屋を出て行くのでは、
いかにも能無し課長のようで情けない。
「平岩君、君の提出したこの集計表だけどな」
重男は立ったまま向かいの席に戻って座っているトン平に話しかけた。
「はい、何ですか?」
「君は実績を記入せねばならんところを目標値にしてしまったんだろう?
それで部長は怒ってるんだ。この内容にしてもだ、どういう根拠で割り出したんだ?」
重男は周囲に聞こえよがしに、やや声高にトン平に話しかけた。
(7)
本当なら課長である重男の胸に仕舞っておくか、後で言うべきなのだろうが、
自分がいつもトン平に振り回されているということを、少しくらい周囲の人たちに
見せしめとして知らしめてもいいじゃないか。
管理職としてはちょっと卑怯な気もしたが、重男が部長から罵倒されても
のんびり構えているトン平を見るとつい、懲らしめの気持ちが湧いて来たのも事実である。
「はあ、てっきり実績はもう以前出してあると思って、今季の目標を作り出しましてん」
「で、よく作り出せたな。実績の数字すらよくわからんくせに」
「それは僕なりにいろいろ分析して・・・」
「配属されたばかりの君に何が分析できるというんだ!
新規の目標値なんてものは、前年実績から作り出したたたき台だけでいいんだ!」
「いえ、前年実績だけをデータにしても来年再来年の予測は立てられませんよ。
現状の情報を元に多用なリサーチして・・・」
「何がリサーチだ!そういうことは部長が考えることだ!!
平社員の君は分際をわきまえろ!」
トン平は口をつぐむと俯いた。
重男は座っているトン平を上から見下ろしながら説教した。
トン平の方が重男より背が高いので、トン平が座っていることは重男にとって
は説教しやすい。
「いいか、我々には我々の役目というものがある。
確実に材料を仕入れ、確実に製品を送り届ける。
そこまででいいんだ。我々に要求されるのは確実性なんだ。
それ以上の先のことは上の方で考えることなんだ。それを差し出がましく
余計な手を出してだな、君は・・・」
(8)
重男がトン平を見下ろしながら小言を続けていると、俯いているトン平の
机の上に置かれた手の甲にしずくがぽたりと落ちた。
続いてまた一つ・・・
あ、あれ?涙?
声を張り上げていた重男の声が急に止んだので、周囲の社員たちが重男の方を向いた。
「と、トン平・・・」
重男が恐る恐る向かいからトン平の顔を覗き込むと、案の定、トン平は顔中に涙を滴らせ、
しくしく泣いていた。
「な、何も泣くことはないだろう?」
「あらら!、もう課長もいい加減になさいよ。トン平さんはナイーブなんだから
苛めちゃだめでしょ!」
隣の課の年配女性社員が重男の方を睨みつけた。
他の男性社員たちもニヤニヤしながら重男の方を見ている。
「い、いや、苛めるだなんて・・・」
「だからもういいじゃないの。本人も反省してるわよ」
「は、はあ」
重男は部長に怒られた時よりいたたまれない気持ちになった。
勘弁してくれよ、30近い男がこれくらいの叱責で泣くなんて・・・
(9)
重男は憮然として椅子に座ろうとした。
ドシン、ガチャン!!
重男の椅子はさっき部長が蹴飛ばしてそこにはなかった。
それを忘れてうっかり腰掛けた重男は、もんどりうって後ろにひっくり返ったのだ。
ついに周囲の社員たちから失笑が漏れた。
中には「大丈夫ですか?」と声をかける者もいたが、笑いを含んだ言い方である。
重男は度重なる惨めさに顔を赤くして立ち上がると部屋を出た。
そしてトイレに入り、鍵を掛けて便器に座り込んだ。
部長に散々怒鳴られて、挙句は部下を苛めて泣かしてしまったダメ課長か・・・
いいところがない、今日は散々だ。
重男は両手で頭を抱え込むと、そのままずっと動かなかった。
(10)
杏子の病室は内科に移ってから個室に変更になった。
午後の回診も終わり、けだるい午後のひと時、杏子はベットの上で退屈しのぎに理沙の
持って来た雑誌を広げていた。
ふいに看護師が入ってきた。
「お薬持って来ました。しばらくこれを呑んでくださいって」
「あ、ありがとう」
「今日は涼しい風が吹いているから、少し窓を開けましょうか」
「そうですね、お願いします」
看護師は外庭に面している窓を少しだけ開けた。
外のセミの鳴き声が室内に入ってきた。
そとはもう真夏が近いようだ。
太陽の熱気を含んだ風も、次々と淀んだ室内の空気と入れ替わって行くと
爽やかな気分になれる。
用事が済んで部屋を出た看護師がまた部屋に戻ってきた。
「井桁さん、お客さんみたいですよ」
「は、はい」
誰だろう?こんな時間に。家族ならお客じゃないし。
重男さんの職場の人かしら。
ドアを開けて誰かが入ってきた。
病室はベットとドアの間にカーテンがひかれて仕切られている。
風に煽られて翻ったカーテンの下に客の足元が見えた。
男性だ。
「どなたですか?」
「あの・・・僕です」
カーテンを開けて男が入ってきた。
杏子は男性を目にすると、思わず息を呑んだ。
(11)
重男は夜にアパートに戻ってからヤケ酒を呑んでいた。
部長にはみんなの前で罵倒され、挙句に自分は部下のトン平を泣かしてしまい、
どうしようもない課長という姿を曝け出してしまった。
「お父さん、お願いがあるの」
数日前の理沙の言葉、これも深く胸に突き刺さっていた。
もう終わりだ・・・
重男は自分が孤独であることを感じたのも久しぶりだった。
いくら酒を呑んでも気分は晴れない。
テレビを消すと、部屋で大の字になって寝転がった。
このアパートに越して来た頃は良かったなあ。
毎朝の様に杏子が弁当届けてくれたし、夜は向こうに行って
家族で晩飯とか食えたし。
会社から帰るのがあんなに楽しみだったことはない。
それもほんの三週間くらいだったが、俺の人生で一番充実してたんじゃ
ないか?
旅行まで計画したのになあ・・・
次々と今までのことを思い起こしているうちに、いつしか重男は眠りに入って
行った。
(12)
杏子はタオルを顔に押し当ててしばらく泣いていた。
男は黙ってそれを見つめている。
年は取っても男は以前と変わらずやせ型であった。
十数年ぶりだろうか。
元夫の姿を目にした瞬間、なぜか杏子の目には涙が溢れて止まらなかったのだ。
「ま、また会えるなんて・・・」
杏子はそれだけ声を絞り出した。
「急に顔だしてすまない。随分苦労掛けたと思う。本当にすまなかった」
「いえ、もういいのよ。子供たちも元気に大きくなりました」
杏子は孝之の顔を見上げた。
「そういえばどうしてここが判ったの?」
孝之は気まずそうな顔をしたが答えた。
「うん、実は去年、理沙にだけ会っていたんだ」
杏子は驚いた。
「理沙に?どうして?」
「1人で暮らしていて、ようやく落ち着いたら子供に逢いたくなってね。
恥を忍んで犬川産業や君の実家の人に聞いたりして団地を探し当てたんだよ」
「そう、それならもっと早く顔を見せてくれればよかったのに」
孝之は俯いた。
「そんな。逃げ出した僕は堂々と顔を出せる立場じゃないし。
身勝手な奴と言われても仕方ない」
(13)
杏子はタオルで顔を拭いながらも穏やかな気持ちになった。
「いえ、私は一度もあなたのことは責めた気にはならなかったわ」
杏子が壁際の椅子を孝之に勧めた。
「理沙も私には黙って逢っていたのね」
「いや、僕が黙っていてくれと頼んだんだ。最初はたまたま、団地の家の近くで
僕の方が理沙に見つかってね」
「え?理沙が先に?」
「そうなんだ。子供は成長するけど俺の方はあまり変わってなかったのかな。
理沙の方から、パパ、パパじゃないの?って駆け寄って来たんだ」
そうなんだ。
理沙はパパと生まれてからずっと一緒だったんだもんね。
口には出さなかったけれど、ずっとパパの面影を大事に胸に
仕舞っておいたんだろうなあ。
「あ、もしかすると、理沙がたまに夜遅くまで出かけていたのは、
あなたに逢うためだったの?」
「うん、君や理恵の話とかいろいろ聞きたくてね。
それに、別れてからほったらかしだったので、今さら君の前に顔を出し辛くて」
「ううん。もういいのよ。私は何とも思ってないわ」
杏子は微笑んだ。
(14)
「理恵にはまだ会ってないの?」
「うむ。写真だけ見た。まだ子供だしいきなり僕が父親だといっても
本人にショックだろうと思って。それに・・・」
「それに?」
「君はもう再婚しているから僕がこれ以上顔を出すのは拙いだろう」
杏子は頷いた。
「そうね。主人の立場がありますからね。今はあの子たちの父親なんですから」
孝之は見舞いに持ってきたお菓子類をベッド脇の机に置いた。
「新しい父親もいることだし、僕ももうこれ以上顔は出さないようにしようと
思っている」
「孝之さん・・・。お願い、理恵にも会ってあげて・・・」
ついに親子の対面か〜。
作者さんいつも乙です。
作者さん、お忙しい中乙です。
親子の対面もいいけど、重男の気持ちを思うとせつなくなる。
私事ながら自分の夫を大事にしようと思った。
395 :
名無し物書き@推敲中?:2007/05/06(日) 12:24:20
hosyuage
(15)
ヤケ酒を呑んだ翌日、重男は二日酔いで頭痛のする頭で出社した。
杏子の病気、理沙の気持ち、トン平とのこと、仕事での失敗など、
色々なことがただでさえ重い頭をさらに重い状態にしている。
沈んだ気分で机に向かっていると、電話が鳴った。
「はい・・・」
元気の無い表情で手に取った電話の相手は、なんと社長であった。
二日酔いも一瞬にして醒めた重男は緊張して顔を強張らせた。
し、社長が部屋に来てくれって、どういうことだ?
この前の部長の会議の件だろうか。
しかし、末端の俺に来てくれというのはただ事ではない。
社長の用件の内容が判らないだけに、重男の心には不安が駆け巡った。
今まで社長と顔を合わせた場面は何度もあるが、直に応対したことはない。
社長室に入ると社長は重男に応接の椅子を勧めた。
重男が社長室に入るのは初めてである。
一代で食品会社を育て上げた七十近い社長は今でも元気そのものだ。
部長連中でも大声で叱咤する強面で通っていた。
一代で商店から会社を興した自信は年齢を超越していた。
「君、この前の役員会議の資料で飯田部長の提出した物を見たのか?」
一瞬にして重男は緊張した。
責任を追及される!
(16)
「は、はい、部下が作成した物をチェックせずに部長に渡しました。
全ては私の不徳であり、至らなかった面につきましては・・・」
「そうじゃない。君は後からでもあの中身を読んだのかと聞いている」
「は、はあ、いえ、実際の会議には使えないものでしたので、中身については
吟味しておりません」
社長は、ふーむと頷くと、背もたれに深く腰掛けなおした。
「僕もてっきり、適当な間に合わせの資料だと思っていたんだがね。
後で暇つぶしに中身を見るとね、結構面白いんだなこれが」
重男はきょとんとした。
「は?とおっしゃいますと?」
「うむ、飯田君もよく見てないようなんだが、あれを作るにはかなりの手間が掛ってるよ」
重男には訳が判らなかった。
トン平は時間が無くて適当に今季の予測数値を上げたんじゃないのか?
「後で戻ってからあの資料を見て見なさい。今まで実績のあった取引先以外に
新規に開拓可能な取引先まで計算にいれてあるんだ。それに現在の取引先に
卸している商品の内容をがらりと変更してある部分もある。
あれだけ大々的な転換を予測しようと思ったら、滅密な調査でデータを
集めないと出来ないはずだ」
社長はタバコに火をつけた。
(17)
「あれを作成した平岩はね、僕の知り合いの料亭の息子なんだが、店を継いで
職人になるのを嫌がっていたのをうちで拾ってやったんだ。
ははは、まあコネ入社かと思うだろうが、俺もバカじゃない。
こんなちっぽけな会社でコネだけで人を雇う余裕なんか無い。
俺なりにあいつは見所があると思ってのことだ」
重男はひたすらかしこまって話を聞いていた。
「まあ、どちらかというと現場で細かいことをするより、大局的に経営者的な
考えをするほうが向いているようなんだな。
だから、うちに来てもどの現場部門でもあまり使い物にならなくて、
上のものが苦労しているのはわかる。
君もそうだろう」
「は、はあ・・・」
料亭の息子・・・
だから以前に弁当屋に行った時、オカズの知識が詳しかったりしたわけだ。
口先だけじゃなかったのか。
性格がおっとりしているのも言わずものがな。
「ああいうタイプはうちでも1人はいたほうがいい。
俺たちみたいな常識で凝り固まったおっさんにはない発想をするからな。
もっとも、何人もいたらそれはそれでちょっと困るがな、ははははは!」
「はあ、ごもっともです」
重男は頷くしかなかった。
(18)
よりによって、こんな宇宙人みたいな部下を持ったのもこれでは致し方なかった。
社長の伝で配属されているのでは、何も言うことはできない。
「後で彼の作った資料を見てみなさい。いろいろと参考になるぞ」
漸く重男は社長室から解放された。
ふう。
トン平はともかく、社長から激励されたのか叱咤されたのか、よくわからんが、
要するにこの部下と上手くやっていけということかな・・・。
「課長電話です」
トン平が重男に電話を差し出した。
事務所の席に戻っても、何やらぶつぶつと考え事をしていた重男は、自分の課の電話が
鳴ったのに周囲の雑音に紛れて気が付かなかったのだ。
トン平は数日前に重男の前で泣いたことなどケロッと忘れたように仕事に
専念している。
現代っ子というか、こういう後腐れを残さない性格が重男にとっては羨ましかった。
「はい、井桁です」
しばらく話をしていた重男の顔がみるみるうちに紅潮してくる。
重男は受話器を置いてから、なぜかそわそわし、また何やらぶつぶつ言い始めた。
「どうしよう、どうしよう、なあトン平どうすればいいと思う?」
「はあ?何がです?」
「うーん、どうすればええんやろかなあ」
意味不明の言葉を残して、重男はそわそわしながら席を立つと、部屋を出て行った。
残されたトン平は、不思議そうな顔をするばかりである。
(19)
夕刻、そうそうに退社した重男は駅に向かい、
構内のとある喫茶店に入っていった。
店内に入り、周囲を見渡す。
向こうの方で重男の方をじっと見つめている男がいる。
その痩せ型の男を見た瞬間、重男は胸がどきどきするのを感じた。
に、似ている!
まさしく親子だ。
重男は迷わずその男の所へと歩んでいった。
「初めまして、吉宗です。吉宗孝之といいます」
「は、初めまして井桁です」
初めて会う男性であるが、見知らぬ他人の気がしなかった。
何といっても理沙にそっくりである。
痩せて背が高いのも、優男風な雰囲気も、確かに理沙の父親であった。
理恵に似てないこともないが、理恵はどちらかと言えば杏子に似ている。
この男が杏子の前夫・・・。
重男は孝之と向かい合わせに席に着いた。
「杏子さんがご病気だそうで」
「は、はあ、まあ今のところは家族で力を合わせて乗り切っている次第で・・・」
(20)
一体何の話があるんだろこの男は。
急に会社に電話掛けてきて話があるだなんて。
重男としてはできれば会わずに済ませたかった相手だった。
どうみても話が弾むような関係ではない。
1人の女性、子供を挟んで前夫と再婚の夫である。
しかもその女性は余命いくばくも無いのだ。
重男は孝之の真意を測りかねた。
重男は以前の晩に理沙に頼み込まれた時の理沙を思い出していた。
「お父さん、お願いがあるの」
初めて見る理沙の真剣な表情に重男は戸惑った。
「お母さん、もう永くないんでしょう?」
重男は黙って頷いた。
「あの・・・。お母さんにパパを会わせて上げられないかしら。
お母さん、口には出さないけどきっとパパのことまだ忘れてないと思うの」
重男は理沙の父親の出現に戸惑ったが、杏子の気持ちを第一に考えることにした。
何といってももう永くはないのだから。
予想どおり、話が弾まない。
お互い、一言話しては沈黙、話しては沈黙の繰り返しである。
「理沙と理恵も大きくなりましたね」
「はあ、僕もこの年で娘が二人もできて泡食っている状態で」
(21)
「今回は井桁さんの好意で杏子、いや、杏子さんに会うことが出来て
お礼の言葉もありません」
「いえ、理沙がどうしてもというものですから。あの子は優しいから、
今のうちにお母さんに吉宗さんを会わせて上げたかったんでしょう」
孝之は沈黙した。
しばしの時間が流れた後、口を開いた。
「井桁さん、僕なりに考えてみたのですが、
理沙と理恵をうちで引き取ることは出来ないでしょうか」
「えっ!」
重男はぽかんと口を開けて孝之を見つめた。
孝之は言いにくそうな顔つきではあるが、しかし、言外に決意した雰囲気が
読み取れる口調であった。
「春に理沙から新しいお父さんが来る、という話を聞いて、僕はもうそのまま
黙って引き下がるつもりでした。
杏子たちの新しい生活をかきまわすつもりはなかった」
孝之は息を継いだ。
「でも、杏子を見舞いに行って考えたんです。
このまま母親がいなくなったら、あの子達はこれからどうやって生活するのだ。
受験生活がある理沙と中学になったばかりの理恵。
父親のあなたがいても、家事はみんなで分担するからどうしても
お互いに支障がでる」
(22)
重男は慌てて口を挟んだ。
「い、いや、それは大丈夫でしょう。
二人とももう子供じゃあないし、家族で力を合わせていけばそれほど無理もない
でしょう」
「井桁さん、学生は学校生活にに専念させるべきではないですか?
一度しかない青春に余計な苦労はさせたくないのです。
あ、いや、杏子たちを捨てて逃げた僕が言える立場ではないですが・・・」
重男は憮然とした表情でコーヒーを啜った。
重男の膝はさっきから震えている。
こ、これは大変なことだ。
重男、どうする?どうすればいいんだ?
「で、でも、父親が引き取るのなら環境はあなたも一緒じゃないですか」
「いえ、うちには母がいます。年は取っていますが、まだまだ健在で
娘たちや僕の家事は十分任せられます。
何より、女性ですから女の子の世話は適してるでしょう」
重男は反論する言葉が見つからなかった。
「子供たちは・・・その考えに賛成なのですか?」
「いえ、娘たちや杏子さんにはまだ話してません」
そして次の言葉は重男を打ちのめすに十分であった。
(23)
「井桁さん、図々しい奴とお思いでしょうが、あの二人は私の実の娘なのです」
そうなんだ。
理屈では判っている。
理沙は杏子の本当の娘ですらない。
まして俺とっては理沙も理恵も単なる養父でしかない。
目の前にいる男は実の父親なのだ。
実父と養父ではどちらに軍配が上がるか、言うまでもない。
理沙と理恵も生活環境が整っているなら、実の父親と生活する方が幸せになるに
決まっている。
まして祖母とはいえ、女性のいる家庭なら・・・
重男は俯いて最早、孝之の顔を見ようともしなかった。
「理恵にはまだ会っていませんが、いずれ、二人の娘たちに会ったときにでも
話してみようかと思っています。
どうか、井桁さんからもこの話をよろしくお願いします」
「わかりました・・・」
重男は俯いたまま孝之に答えた。
息を飲む展開!
作者さん、本当に乙です。
変なのが沸かないようコメント控えてたけど、楽しみに待ってますからね〜
作者さんいつも乙です。
重男・・・セツナス
(24)
「重さん、今日はご機嫌斜めですね」
マスターが声を掛けた。
「う?いやー、もうね、僕ね、もうね、らめなの。ほんっとにダメだわ俺って」
「そうですか、まあゆっくりしてってくださいよ」
重男はアパートの最寄り駅の小料理屋にいた。
孝之に会ったその日、まっすぐにアパートに帰る気になどなれなかった。
少しだけ気分転換するつもりが、どうやら重男の定量を超えてしまったようだ。
杏子と結婚し、この駅を利用するようになってから馴染みになった店である。
「重さん、お互いリーマン勤めは辛いよな、お互いいろいろあるけどさ、
まあ、のんびり行きましょうや」
たまにこの店で顔を合わせる常連の会社員が、同じカウンターの席から声を掛けた。
いつもはお互いの職場での不満をぶつけ合って、ストレスが解消するのである。
「んー、ふう、僕はね、何だかもう・・・疲れたよ」
重男はコップを煽りながらも、ろれつが回らなかった。
「どうしたのさ、また部長にお小言かい?」
「いや、もうね、今の若い者はね、あれは何なんだ一体!」
いきなり重男の声が大きくなる。
「仕事と言うものはだな。下積みを永年経験してから覚えていくものだろう?
それがだな、あいつは前触れもなしにいきなり部長や社長が決めるようなことを
しでかすんだ!」
「ははあ、若い奴ってそういう奴多いよ。重さんとこだけじゃないからさ。
若いから世の中の自分の力量が見えてないんだよ」
隣の会社員が重男のコップに酒を注いだ。
「どこでもそうなんだって、若い奴ってのは地味な経験を嫌がるものさ。
どうしたって見栄えのする仕事をしたがるもんだよ」
(25)
重男の顔は渋い表情である。
「ところがあいつはな、それなりに通用するんだよ。
悔しいけど俺には出来ないことが出来るんだよな」
「そうか、そんなに出来る部下なのかそいつは」
重男が飲み干したコップをカウンターにタン!と叩き付けた。
「この道何十年の俺が出来ないことが、入社して何年かの若造に出来るんだ。
俺が今まで積んできた苦労って、いったい何だったんだ・・・」
顔をカウンターにつっぷして唸った。
「重さん、重さん、時代が違うんだから仕方ないよ。俺たちの役割もそれなりに
あるわけだからさ、要は気の持ちようだって。
会社じゃいろいろあっても、お互い、家に帰れば一家の主なんだからさ、
主人としての気概だけは持とうよ」
重男は突っ伏したままで答えた。
「一家の主?誰がじゃ?誰がじゃ?」
「重さん家族いるんだろ?春からいきなり大家族だって喜んでいたじゃないか」
重男は返事をしなかった。
「杏子・・・行かないで・・・」
「え?何?」
「・・・・」
(26)
ふと気が付くと、店の中は静まり返っていた。
客ももう誰もいず、店主は厨房で洗い物をしていた。
重男は慌てて身づくろいを始めた。
「あ、すまんね。いつの間にか寝てしまったのか」
店主が厨房から顔を上げた。
「いやあ、井桁さんよく寝ていたからね。起こすのも悪いかなと思って」
「今日はかなりいったみたいだな、悪いねすぐに帰るよ」
「はあ、まあこんなとこで気分が晴れるならいつでもお寄り下さい」
「うん、まあ店の邪魔にならないように寄らせてもらうわ」
重男はカウンターの上をじっと見た。
「オヤジさん、この焼き鳥、持って帰るからラップにでも包んでよ」
「え?二本でいいんですか?何ならもう少し焼きますけど」
「いや、いいんだ二本で」
重男はアパートに向かう通り道を歩いていた。
その途中で塀のない家の庭の近くで立ち止まる。
もう夜中のことなので周囲は暗い。
重男はその家の敷地の境界線を越えないよう、用心しながら庭に近づいた。
小道からその家の敷地の境界線を越えると危険なのだ。
その家の庭の奥で二つの目が光った。
そして、その二つの光は低い唸り声を上げながらのっそりと近づいてきた。
(27)
ジャリ、ジャリと引きずる鎖の音が不気味だ。
重男の1メートル手前でその犬は立ち止まり、重男を睨みつけるようにして、
歯を心持、むき出しにして唸っている。
普段、この敷地の前を通り過ぎる時、重男は何度か怖い目にあった。
この家の中型犬が、なぜか重男を目の敵にして敵意をむき出しにするのだ。
重男は動物は嫌いではない。
引っ越してきて初めてこの道を通りかかった時、犬がいるのを目にして、
柵がないのでつい手招きした。
単に頭を撫でようとしただけなのだが、その茶色い日本犬が下を向いたまま
のそのそ近づいて来たので手を出そうとした。
その時、犬が心持鼻に皺を寄せているのに気付き、重男は本能的に手を引っ込めた。
次の瞬間、犬は正体を現し、猛然と吼えかかり歯をがちがち言わせて重男に
噛み付こうとしたのだった。
犬は庭の奥から繋がれている鎖によって、敷地外にいる重男に歯が届かなかった。
鎖がなかったら重男はただでは済まなかっただろう。
この初対面の時から、この犬は重男がこの小道を通りかかる度に奥から
這い出てくると鼻に皺を寄せて敵意をむき出しにするのだった。
重男には訳が判らなかった。
別に犬に意地悪をしたわけではない。
何しろ初対面の時から、こうなのだ。
(28)
この犬はもともと凶暴なんだな。
性格が粗いんだ。
だから、ほら、この家の敷地は塀が無いじゃないか。
このクソ犬が番犬になってるから塀がいらないんだよ。
こんなに凶暴な犬なら誰も近寄らないさ。
重男は自分で納得した。
ところが、ある日の夕刻、その道を通りかかったら、主婦数人がその庭で
立ち話をしているのを目撃した。
驚いたことに、あの凶暴であるはずの犬が1人の主婦に頭を撫でられて
尻尾を振っているではないか。
あれ?何だこいつ。
人に懐くのか?
通り過ぎるとき、主婦たちの会話が聞こえてきた。
「お宅のワンチャン、人懐っこいわねえ」
「そうなの、ケンちゃんはねえ、誰にでもすぐ尻尾振っちゃうから、もう番犬にするのが
心配なのよ」
「でも、犬って吼えるのより、こんな可愛げのあるほうがいいわよねえ」
「ケンちゃんももう大人なんだからもう少し、番犬らしくしてくれないとねえ、ホホホ」
おお、新しい登場犬物が…
作者さん、乙です!
(27)
またある時には、何人かの小学生が道端でこの犬と戯れているのも目撃した。
あの犬はしきりに尻尾を振って小学生にじゃれている。
小学生たちも何の戸惑いもなく、寄って集って手馴れているかのように犬の
頭や体を撫でていた。
何だ、あの犬の奴って本当は人間に慣れているんじゃないか?
重男はもしかすると、自分が誤解していたのかもしれないと思った。
自分の接し方が悪くて犬は警戒していたんじゃないのか?
子供たちのように自然に優しく接すればいいんだよ。
そもそも飼い犬なんだからさ。
小学生が去った後で、重男は微笑みながら敷地の境界線に近寄った。
犬は奥のほうできょとんとした顔で重男を見ている。
「さ、おいで、おいで、友達になろうよ」
重男は手招きした。
目を背けたまま、犬はのっそりと近づいて来る。
重男は安心して手を差し出した。
ところが重男の一メートル手前まで来た犬の表情が突然変化した。
「ギャンギャンギャン!」
猛然と歯を剥き出して重男に飛び掛って来たのだ。
奥の柱に繋がれている鎖がギシギシ鳴り、一直線に延びた。
しかし、かろうじて重男の手には犬の牙は届かず、噛みあわせた犬の歯は
空中でガチッと恐ろしい音を立てた。
「ひゃああ!」
びっくりした重男は尻餅をついてしまった。
(28)
ハアッハアッハアッ!
な、何なんだ?さっぱりわからん。
何で俺にだけこんなに凶暴なんだ?
もう少し境界線をはみ出していたら、重男の手は間違いなく牙に掛かっていただろう。
下手したら指が無くなっていたかもしれない
以来、重男はこの犬を手なずけることを諦めたのだった。
クソ犬め、人間と同じだな。
飼い主の前では良い子ぶってるし、気に入った相手には尻尾振って媚びるくせに、
気に食わない相手には態度を豹変させて牙を剥く。
犬らしくないところが気に食わんな、まったく。
重男が今日、飲み屋で焼き鳥を二本カバンにしまったのは、実はある考えが
あってのことだった。
今の重男は仕事のや家族のことなどで鬱憤が積もっている。
孤独感を癒そうと手を差し出した犬にまで
嫌われてしまっているのがやるせない。
その鬱憤のはけ口に、いつも吼えるあの犬をちょっと苛めてやろうと
思ったのだ。
犬のいる敷地の通りまで来た。
(29)
境界線でしゃがみこんで覗くと、いつもの如く、奥のほうで二つの目が光った。
じっと見つめると、暗闇で光る二つの目がゆっくりと動いたのが判る。
そして鎖の音をジャリジャリ立てながら次第に近づいて来た。
犬は目を合わさない。
犬はあらぬ方向を見ながら、次第に近づいて来る。
普段なら、このように相手を油断させておいて、至近まで近寄ってから
猛然と牙を剥くのだ。
重男はカバンから包んだ焼き鳥を取り出すと、境界線の位置すれすれにしゃがみこんだ。
犬は焼き鳥の匂いに感づいたか、ちょっと立ち止まり鼻をヒクヒクさせている。
ふん、鎖があるからここまで届かないだろう。
美味しい焼き鳥をお前の口の前でお預けしてやる。
重男は犬の口が届く寸前の位置に焼き鳥をかざし、匂いだけ嗅がせて
散々犬を焦らせるつもりだった。
大人気ない仕返しといえばそれまでだが、この程度で鬱憤が晴れるなら
可愛いものだ。
焼き鳥を一本、犬の鎖が届くぎりぎりの所にかざした。
「ほれ、食えるものなら食って・・・」
いきなり、犬は焼き鳥を目がけて飛んだ。
「わあっ!」
重男は犬の前足に蹴り倒されて尻餅を付いた。
犬は重男の手から焼き鳥を咥え取ると、地面に置き、器用に足で串を抑えて肉を食い始める。
(30)
ど、どうなってるんだ?
鎖はここまでは届かないはずだろ?
酔っ払って目測を誤ったか?
焼き鳥が無かったらとっくに噛み付かれているぞ。
予想外の展開に動悸が止まらない。
重雄は恐怖で顔を引きつらせながら尻餅をついて、後ず去った。
その時、敷地の奥の方が目に入り、次の瞬間、全身に冷水を浴びせられたような気がした。
く、鎖が繋がってない・・・
敷地の奥の柱に繋がっているはずの鎖が見えなかった。
ということは、つまり、犬は鎖を首から引きずっているものの、元の方は繋がって
いないのだ。
だから重男の手元まで犬は飛び掛ってこれたのだ。
犬はすでに一本目の焼き鳥を食い尽くし、重男の顔を見上げている。
焼き鳥を貰った感謝の顔つきではない。
鼻に皺を寄せて、目つきがヤクザそのものになっている。
「これで終わりか?まだあるんならさっさと出しな。でないと・・・」
とでも言いそうな表情だ。
重男は慌てて二本目の焼き鳥を取り出した。
犬はじっとそれを見つめている。
(31)
こ、この焼き鳥を食ったら、次に食われるのは・・・俺だ・・・。
二本目の焼き鳥を、思い切って敷地の奥に投げ込んだ。
犬はそれに釣られて、鎖を引きずりながら焼き鳥の方へ駆け出した。
その隙を見て、重男は立ち上がると小道を脱兎のごとく逃げ出した。
しかし、ものの10メートルも走れない。
く、苦しい、呑みすぎだ。
酔いが残っているためか、ものの数歩で足がよろめいた。
逃げないと、う、後ろから襲ってくる!
遠くの方で鎖を引きずる音がするようだ。
全身に震えが走る。
足が萎える。
思うように動かない。
重男は転んだ。立ち上がって足早に逃げようとする。
こけつまろびつという言葉を地で行くような光景だった。
鎖の音が後方でジャリジャリし始めた。
犬が焼き鳥を食いつくし、後を追いかけ始めたに違いなかった。
なまじ焼き鳥を与えたばかりに、その匂いの後を追いかけてくるのは明白だ。
(32)
重男は生まれて初めて死の恐怖を感じた。
真夜中で人通りもない裏道である。
よろめく足を必死に前へ前へと運んだ。
その途端、足がつんのめり、地面に膝と顔を強打した。
「ぐあああ・・・」
メガネも吹っ飛んだ。
だが痛みを感じている暇はない。
鎖の音がジャリジャリと急速に大きくなってくる。
犬は重男をすでに視野に入れ、トップスピードで背後から飛んでくる気配がする。
「わあああ、誰か、誰かあ!」
重男はもはや立ち上がれず、スーツのズボンも泥まみれになりながら、
四つんばいに這って逃げようとした。
「ガウガウガウ!!!」
唸り声が聞こえる。
重男が震えながら振り向くと、犬がもう目前に迫っていた。
外灯に照らされた剥き出しの白い牙がはっきりと目に映る。
「ひゃああ!」
重男は恐怖で全身が硬直し、失禁するのを覚えた。
犬は跳躍して飛び掛った。
仰向けになった重男は空しくも空中を両手で引っ掻き回す仕草をした。
その時、「ガシッ!」という音がして犬は悲鳴を上げてひっくり返った。
?
(´・ω・`)シゲオ・・・・・
まだまだ続き期待してます!
(33)
犬はまだギャンギャン吼えながらも重男に牙を向いているが、足元からは近寄ってこない。
どうやら、途中のどこかで鎖が引っかかっているらしく、寸前の所で
犬はそれ以上は重男に近寄れないようだ。
た、助かった・・・
それに気付くと同時に重男の意識は次第に薄れていった。
重男が気付いた時はベッドの上だった。
白い部屋で三人部屋らしく、他に二つベットがあるが誰も寝ていない。
そっと、手を動かすとチューブらしきものがつながっている。
傍らを見上げると点滴の瓶が見えた。
どうやら病院のベットらしかった。
なんでこんな所に?
記憶を辿り始める。
断片的で前後が繋がらない。
犬に飛び掛られて恐怖を覚えたところは覚えているが、そこに至るまでの
経緯が呑み込めなかった。
ど、どうした重男!
作者さん、いつも乙です。
連載ものでこんなに楽しみにしてるものって、最近ほかにないなあ…
>>423 自分もないな。
これをタダで読んでいる、それもリアルタイムで。
なんという幸運さ。
作者さんいつも乙です。
作者さん、忙しいのかな?
ムリはしないでくださいね〜。
(34)
重男は目が覚めてもしばらくまどろんでいた。
そっと手をやると、顔や頭に包帯が巻かれているのが判った。
手や足がひりひりと痛んだ。
周囲を見回すと、沢山のファイルが並んだ棚があるかと思えばコーヒーなどの
空き缶や雑誌が積んであったりと、ベッドがあるにしては何だか妙な部屋である。
医療器具は特に無く、自分の片腕に点滴の器具が刺さっているだけである。
病室の様だが病室でも無さそうだし。
ここはいったいどこなんだ?
ドアが開いて看護士の格好をした女性が入ってきた。
「あ、お目覚めですか?痛みはありませんか?」
「は、はい、特に・・・」
「気が付かれたら警察に連絡するように言われているので、しばらく
そのまま休んでいてください」
重男はギョッとした。
「け、警察?何かあったんですか?」
しかし看護士は詳しくは話さなかった。
「あの、ここは病院?」
「はい、でもあなたは軽症でしたし、処置室は患者でいっぱいなので、この職員仮眠室で
待っていただくように言われてます」
「あ、あの、事情がよく掴めないんですけど」
「一応、警察の方が事情聴取するので、あまり話さないようにいわれてますから・・・」
看護士は重男の脈と輸液の状態を診るとすぐに出て行った。
残された重男には訳が判らない。
(35)
警察って?
俺は何か事件に巻き込まれたのか?
解らん・・・
小一時間も待っただろうか。
カーテンのから差し込む日差しから見ても、朝もだいぶん過ぎているはず。
職場にも行かなければいけない。
しかし、医師も警官もなかなか来ない。
いい加減、退屈になって来た頃、医師とそして警察官が二人やってきた。
重男と同世代くらいの年配と若い警察官のコンビだ。
年配の警官が重男に声を掛けた。
「大丈夫ですか?怪我の具合は」
重男はベッドから起き上がった。
「はあ、特にもう痛みは。で、何かあったんですか?」
重男は事の真相がいまいち読めなかった。
「うーん、まあ、あなたは気絶していたので、むしろその前の状況を我々が
知りたいんですよ」
「はあ」
「井桁さんは頭や足に怪我をして倒れていたわけですが、人に襲われたとか、
争いに巻き込まれたとかあったのですか?」
「いえ、そういうことはありません」
「すると、どうして怪我をしたんでしょう?」
(36)
その時、重男の頭に記憶が鮮明に蘇ってきた。
あの猛犬に追いかけられて転んだことを。
さらに、追いかけられるに至るまでの流れが、頭の中に鮮明に蘇ってきた。
だが、まさか犬をからかおうとして失敗し、追いかけられたなどという
間抜けなことを言えるわけが無い。
「は、はあ、きっと酔っ払いすぎて転んだんだと思います」
重男は力なく俯いた。
若い方の警官が苦笑した。
「本当にそうですか?」
年配の警官はじっと重男の目を見つめた。
「はい」
警官というものは、一度は相手のいうことを疑うように訓練されているに違いない。
元々小心で、根っから誤魔化しが下手な重男は視線に耐え切れず白状しそうになった。
警官に鋭い目つきで睨まれると、まるで自分が犯罪の容疑者として
尋問されているような気がするのだ。
本当のことを言った方がいいのか?
そうすれば楽になる。
言ってしまおうか、あの犬の件を。
重男が思わず口を開こうとした矢先、警官はあっさりと引き下がった。
「そうですか。ご自分で転ばれたのなら特に事件性はないですな。
井桁さんが、何かトラブルがあって怪我をされたのか、我々が知りたかったのは
それだけですから。自損行為ということですね」
重男はほっとした。
(37)
「夕べ、ご自宅に電話入れましたが、お子さんだけのようなので、
たいした怪我ではないことと、今日帰ることだけ伝えてあります。
あ、そうそう、あなたが倒れていたのを近所の犬が発見しましてね。
お手柄だったんですよ」
「はあ?」
重男には訳がわからない話だった。
「気絶して倒れているあなたを近所の犬が見つけましてね。
飼い主に泣き声で知らせて、それで飼い主の方が救急車や警察に連絡を
くれたわけです」
「えー!そんなあ」
「そうなんですよ。井桁さんは近所にいるケンとかいう犬に助けられたわけです。
人通りがない夜中ですから、朝まで誰も気付かれずに倒れていた可能性も
あるわけですしね。真冬なら凍死しているかもしれません」
ケンってあの猛犬じゃないか?
そんなバカな!
俺はその犬のために死にかけたのに、表向きはその犬が俺を救助した
ことになっていてお手柄だなんて。
若い方の警官が口を挟んだ。
「そこの家のワンちゃんに会ってきましたけど、人懐っこくて可愛い犬でしたよ。
連絡をくれた飼い主の住所を書きとめてありますから、
後でお礼に行ってください」
(38)
「しかしわしにはあまり懐かなかったな。唸って後ずさりしてたぞ。
中年のオッサンは気に入らないのかな。
ああ、そう言えば、井桁さんは私と同い年でしたなあ」
年配の警察官はちょっと不満そうに言っていたが、
事件性は無いということなので、やがて警官たちは帰っていった。
後に残った医師がおもむろに口を開いた。
「怪我は顔や足の打撲と両手の擦過傷で大したことはありません。
酩酊状態なので、気絶してそのまま寝てしまっただけですよ」
単なる酔っ払いの自傷に関わる時間がもったいないとばかりに、早口で
説明した。
「救急外来は重患で込みますので、患者さんには医師の仮眠室で寝てもらいました。
本来ならとっくに帰宅していただくところだったんですが、
警察が来るまで帰すなということでしたので。
それから、会計は受付で名前を言ってください」
そう言い残すと、医師は慌しく出て行った。
酔っ払いの転んだ怪我くらいで病院が関わっている暇はない、
とでも言いたげな雰囲気だった。
情けない。
ひとり取り残された重男はうなだれた。
(39)
この包帯を巻いた顔を家族や職場の人に見られるのが憂鬱だった。
きっとあれこれ聞かれるに違いない。
むしろ、本当に強盗か争いに巻き込まれて怪我をする方が良かった。
もっともその場合は、命に関わるようなことになっていたかもしれないが。
脇に積まれた自分のスーツを手に取った。
スーツの上着もズボンも泥が付いている。
特にズボンの膝は破れて穴が開いていた。
メガネは片方のレンズが無くなっており、フレームも歪んで目に掛けると
斜めに掛かった。
こんなボロボロの格好で外に出るのか・・・
まだヒリヒリする絆創膏だらけの手で、のろのろと服に着替え始めた重男の視線が止まった。
たくさん並んでいるファイルの背表紙の字を読んだ目が、驚きの眼に変わって行く。
こ、この病院って・・・!
何でよりによってこんなところに運ばれたんだ?
気絶したというから、脳外科のあるここに運ばれたのだろうか?
重男はあたふたと服を着始めた。
膝の包帯がズボンを邪魔したが、無理やりに足を通した。
一刻も早く病院から逃げ出したい。
(40)
こんな無様な格好を見られたくなかった。
ドアから外の様子を伺う。
誰もいない。
通路の向こうの方が待合に面しているのか、人のざわめきが見えた。
ゆっくりと待合室に入ろうとしたその時、
「重男さんっ!大丈夫?」
「ヒャッ!」
重男の大きな声で、待合室の人たちがボロボロの格好の重男の方を見た。
声を掛けたのは杏子だった。
介添え人が車椅子を押して、杏子を寄せてくる。
「あ、いや、知ってたんの?僕がここにいるの」
杏子は包帯だらけの重男の顔を痛々しそうに見ながら重男の袖を掴んだ。
「外来の看護士さんが重男さんのことを教えてくれたの。
まさか、重男さんがここに運び込まれてるなんて・・・。
強盗に襲われたらしいって大丈夫だったの?
警察が来るまで会わせてもらえなかったし、もう心配で心配で」
杏子は重男の袖をしっかり掴んで離さなかった。
かつては片手で重男を振り回せるほど力のあった杏子の手も、今では見る影もなく
か弱い枯れ木のようだ。
弱々しい力で袖を掴む杏子の手を見ると、重男は思わず涙ぐみそうになった。
433 :
名無し物書き@推敲中?:2007/06/07(木) 15:54:57
保守age
434 :
名無し物書き@推敲中?:2007/06/11(月) 22:53:22
なにこれ酷いね
残飯は異常者
436 :
名無し物書き@推敲中?:2007/06/11(月) 23:53:32
↑
こいつが蠅残飯
作者さん、忙しいのかな。続き気長に待ってます。
(41)
「ま、まあね。大したことはないんだよ。捕まえて警察に突き出そうかと
思ったんだけど相手は逃げちゃってね。
転んだお陰で擦り傷はあるけど大したこと無いよ。
もう帰宅していいってさ」
さすがに強盗に出会ったなどという嘘は言いにくい。
かと言って、犬に追いかけられて転んだなどとは尚更言えない。
曖昧な重男の説明でも杏子は安心したように頷いた。
「良かった。命が助かっただけでも。でもこんなに包帯までして本当に大丈夫なの?」
「うん、服が破れたけどね。傷が目立つから包帯してるだけだよ」
本来なら、病人は杏子の方なのだが、今日ばっかりは重男の方が
杏子に労わられる始末だった。
「せっかくここに来たから、ちょっと外でも散歩しようか。
会社はもう今日は休むよ。こんな顔じゃみっともないしね」
「でもそんな格好じゃあ・・・」
杏子が心配したが、重男は上着を脱げばズボンが少し破れているだけだし、
包帯だらけの姿は病院では違和感もない。
重男は介添えのおばさんと交代して杏子の車椅子を押して歩き出した。
とりあえず、病院の庭に出て公園の方に行って見ることにした。
いつもは病室での見舞いなので、二人で揃って外に出るのも久しぶりだ。
「強盗が出るなんて、あの付近じゃ珍しいわねえ。団地にいた頃はそんな街に見えなかったのに」
重男は何ともバツが悪かった。
(42)
「まあ、僕がびっくりして転んだからさ、もしかすると強盗じゃなかったかもしれないしね」
「でも、気絶してたんでしょう?外来の看護士さんが言ってたわ。救急車呼んでくれた人に
礼を言わなければね」
「あ、うん。こ、今度僕が自分で行くからさ」
「そうですか」
セミの声がやかましかった。
強い日差しを避けるために日陰を選んで車椅子を押して行く。
重男は公園の池のほとりで椅子を止めた。
「ここだと風も涼しいねー」
「そうねえ。今はボートが出てるんですねこの池は」
確かに池のあちこちにはボートが何隻か浮かんでいる。
きっと休日にはカップルや家族連れで賑わうのだろう。
大きな池の水面を通る風は涼しくて気持ちがよかった。
「あの・・・。重男さん、すみません」
「え?何が?」
「・・・この前、以前のの夫が病院に来たんです」
重男としては予期していた内容なので面食らうことはなかった。
「理沙が重男さんに無理を言って来てもらったんだとかで」
「い、いや、僕は気にしてないから。それに二人の娘の父親なんだし、
杏子さんにも会いたいだろうと思ってね」
杏子はぼんやりと池の遠くを眺めている。
(43)
「でも、私はもういいんです。以前の主人のことは・・・。
私にとって、大事なのは今の家族だけですから」
重男は胸がキュンとするのを感じた。
今までこんな気持ちは経験したことがなかった。
言おうか、言うまいか。
重男は悩んだ。
杏子の前夫の孝之が二人の娘を引き取りたがっていることを、ここで杏子に話して
いいものか?
車椅子を黙って小道の方に向けた。
木漏れ日の降り注ぐ小道に椅子を進めながら、重男はついに決心をした。
「あの、杏子さん」
「はい?」
「理沙と理恵なんだけどね。実のお父さんのところに戻す訳にいかないだろうか」
「ええっ?」
杏子が車椅子のブレーキを掛けた。
後ろから椅子を押していた重男は思わずつんのめりそうになった。
「ど、どうしてあの子達を引き渡そうと思うんですか?」
久しぶりに見る、杏子の真剣な眼差しである。
重男は元気だったころの杏子の面影を思い出した。
(44)
「うむ、やはり、実の父親の元のほうが娘たちも安心して暮らせるし、
僕なんか元々まるっきり赤の他人だったからね」
杏子は重男から視線を遠ざけた。
「重男さんはあの子たちのことはあまり好きじゃないんですか?」
「い、いや、そんなことはない。とても大事に思っているよ。
だけど、子供たち本人だって実のお父さんの方が・・・」
「私は反対です」
杏子は自分で車椅子の車輪を回して進みだした。
重男は慌ててその後を追いかける。
「重男さん、でもどうして急にそんな話をするの?
理沙がいいだしたの?」
「い、いや。ふと思っただけだよ」
「これ以上・・・家族がばらばらになるなんて・・・」
杏子は俯いた。
そうだ。そうだよな。
杏子が永年掛って守ってきた家族なんだよな。
子供たちが離れ離れになるなんて耐え切れないだろう。
重男はやはり言えなかった。
孝之が娘たちを引き取るつもりであることを今、杏子に言うべきではないと思った。
日差しが真上に高く上がっている。
昼食の時間帯である。
重男たちは病院の敷地へと戻ってきた。
「あら!井桁さん。大丈夫ですか?」
(45)
病院の玄関近くに立っているのは、杏子が以前から世話になっている外来の女性看護士だった。
「ご主人さん災難でしたねえ」
重男はギョットした。
看護士の後から現れたのは製造部の上司である飯田部長だ。
「井桁君大丈夫か?凄い包帯だなあ」
「ぶ、部長、わざわざ病院まで?」
飯田は苦笑いしながらホッとしたような表情である。
「今朝、警察から会社に連絡があってね。
君が気絶して病院に担ぎ込まれたが、事件の可能性もあるから事情聴取が済んだら
迎えに来てくれと言われたんだよ」
飯田は車椅子の杏子に会釈した。
「奥さんがここで入院しているなんて知らなかった」
重男は慌てて飯田に礼を言った。
「はあ、お陰様でもうピンピンしてますから。僕はもう大丈夫です」
少し急ぎ足になりながら車椅子を押した。
胸がざわざわする。
「運が良かったですねえ。自分で転んで失神していたところを
賢いワンちゃんに助けられんですって?」
重男の後に看護士が着いてくる。
杏子が怪訝な顔つきで重男を振り返った。
「自分で転ぶほど呑みすぎないように気をつけたほうがいいですよ、
大事な奥様が入院しているんですからね」
後をついて来る飯田が止めの言葉を放つ。
「井桁君もそそっかしいぞ。呑みすぎて転ぶなんて。見つけてくれた飼い犬に
礼を言いに行かないとな」
「はいはいわかりました」
重男の顔は酔ったように赤く染るのを感じた。
飯田は重男が元気であることを確認すると会社へ戻っていった。
待ってました!
毎回乙です。
それにしてもどんどん切なくなってくるな…
作者さん、乙です。
毎回楽しみにしてます
仕事で忙しく、2ヶ月ぶりにやっと来ることが出来ました。
作者さん楽しみにしてますよ。
446 :
名無し物書き@推敲中?:2007/07/11(水) 00:21:54
今夜に期待age
続きが読みたいです!
乙です。
密かに楽しみにしています。
無理せず続き頑張って下さい!
(46)
部長の後ろ姿を見ながら、重男はあのクソ犬の顔を思い浮かべた。
そして、二度とあの犬がいる裏道を通るまいと決心したのだった。
重男は杏子の車椅子を押して病室に戻った。
病室で車椅子から杏子を抱え上げると、驚くほど杏子の体が軽いのに
気づいた。
普段は杏子の世話を介添のおばさんに任せているので、重男が直接杏子に触れることはない。
もともとは太った顔が痩せているためか、顔つきだけ見れば健康そうに見える
杏子の肉体も、確実に病魔が蝕んでいるのだろう。
今では非力な重男でも抱えられるくらい軽くなっている。
「いつかはあのボートに乗ってみたいですね。今なら痩せてるし」
重男に易々と抱えられたのをはにかむ様に杏子が笑った。
「うん、そうだね。秋ころにはもう乗れるんじゃないか?伊豆の大室山にも
行かないとな」
小旅行どころか、すでに杏子の左半身は殆ど自由が利かなくなっている。
心にもないことを口走ったことを悟られないように、あちこちに目をやりながら重男は次の
言葉を探した。
ふとベットの脇の台の上に積んである本に目をやった。
「何読んでるんだい?」
いくつか本の名称を見ると、どれもこれも少年少女向けの文学だ。
「小児病棟から借りてきたの。子供の頃読んだことがなくって」
「ほお、僕も読んでないものばかりだな」
「理恵が小児病院に入院しているときにやみつきになってね。
この機会に全集を読みつくそうと思ってるのよ」
「そうか、退屈してないんなら良かった」
杏子は一冊の本を手にして微笑んだ。
(47)
アンナカレーニナ?か・・・
こういうのは苦手だな。
何々?秘密の花園、若草物語、赤毛のアン?
少女ものばかりか。
杏子が手にしている本の題名を見るともなしに見ていると、
杏子がふいに口を開いた。
「いつかきっと家族で旅行に行けますよね」
重男はちょっとうろたえた。
「と、当然だよ。先生も少しずつだけど回復してきてるといってたし。
今はとにかく、じっくり養生して長年の疲れを取ることが先だからね」
本を見るともなしにパラパラめくっている杏子の手が止まった。
「重男さん・・・」
「ん?」
「・・・なさい」
重男がはっとして杏子の顔を覗き込むと、杏子は目に涙を溜めていた。
「な、何も心配することないじゃないよ。
こういう病気は時間が掛かるんだからさ」
杏子は肯くと、まだ自由な右手で目を拭った。
「じゃあ帰るね」
重男が病室のドアのところで、いつものように振り返り杏子に言葉をかけると、
杏子はいつもの笑顔に戻り、まだ動く右手でサヨナラの合図をした。
いつもと違って重雄はなんとなく立ち去りがたい気分だったが、
足を床から引き剥がすようにして病室を
後にした。
その日の帰り道、重男はいつになく気が重かった。
(48)
杏子の嬉し涙は見たことがあるが、悲しい涙は初めて見た。
重男はむしろ、杏子の涙を見て、こうなったら俺もとことん一緒に病気と闘ってやるぞという
気持ちを奮い立たせなければと思うのだった。
翌日、重男が職場に顔を出すと、案の定、周囲から質問攻めに遭った。
「強盗と格闘したんだって?」
「警察に突き出したんだそうね」
「犬と一緒に追いかけたってほんとうですか?」
「強盗追いかけて捕まえたんですか。いや、勇気ありますねー、僕なら逃げますよ」
予想通り、情報が錯綜してうわさが一人歩きしている。
こういう場合は何を話しても話がこんがらがるに決まってるので、
重男はあえて否定はせずに聞き流しておいた。
まあ、いいうわさなら適当に広まってくれや。
部長も本当のことはばらしてないみたいだしな。
「井桁君ちょっと」
飯田部長が廊下から呼んだ。
「はあ」
重男は廊下に出た。
「君の奥さんあそこの病院にいたんだなあ。具合はどうなんだ?」
「はあ、時間は掛かりますけど長期戦覚悟です」
「そうか、結婚早々難儀だな。ところであの人は以前ここに勤めていた
方なんだよな?」
(49)
「そうです」
「ふーん、ずいぶん痩せたんだな。なんか見違えちゃって別の女性に
見えたよ」
「確かに以前は体格が良かったですから」
「いや、体格もだけど、以前のきつそうな表情がなくなった。
ああいう風に痩せると意外と美人だな。
旦那がいいと女は変わるものだよハハハハ」
重男は何とも言えない顔つきでかしこまった。
「ところで君の件だが、体裁もあるから君が強盗にあって怪我を
したことにしてある。ま、本当のことは言ってないから安心しろ」
「恐れ入ります」
「ただ、それだけ絆創膏だらけだとみっともない。
包帯がとれるまでしばらく休んだらどうだ?」
思いがけない部長の言葉に重雄はあっけに取られた。
普段なら、親が死んでも職場に出て来いというくらいうるさい上司なのだ。
そのくせ、以前に自分の飼い猫が亡くなった?とかで休暇を取り
陰で物笑いになった部長である。
「そ、そうですか、ではお言葉に・・・」
「と、言いたいところだが、君の部下もまだ一人前じゃないようだし、
ここは我慢して仕事してくれたまえ」
何だ、お愛想か。
いつもどおりの部長だわ。
一瞬喜んで損した。
(50)
もっとも、休んだからといって仕事が減るわけでもなし、
傷が治って出てくればその分の仕事が溜まってるので返って負担が
大きい。
周囲には恥ずかしいが、当分はこの状態で仕事をするしかなかった。
ただ、外回りには出られないので、トン平に代行を頼むしかない。
午後になって、重男はトン平に外回りの業務を説明していた。
「井桁課長、電話です」
総務から回されてきた外線を重男は取った。
仕事関係なら直通で掛かってくるんだがな。
誰だろ?
「もしもし」
「あ、記念病院の者ですが、井桁杏子さんのご主人様でしょうか」
「はい、そうですが」
「実は奥様の容態が思わしくないので、至急、病院の方へ来ていただけますか?」
重男の全身がカッと熱くなった。
足が少し震えだす。
「あ、あ、あの、分かりましたすぐに伺います」
いつにない険しい表情の重男を見て、トン平が恐る恐る声を掛ける。
「あの、どこか出かけられるんですか?業者さんですか?」
「いや、うちのカミさんが入院している病院だ」
重男は資料を全部畳んでトン平に押しやった。
「悪いが俺はこれから出かける。今日は戻れないと思うから後は君に任せるよ」
「は、はい分かりました。早く行って上げてください」
重男とトン平が椅子から立ち上がった。
(51)
その時、廊下をばたばた人が走ってきた。
大きな音を立ててドアから入ってきたのは、製造ラインを担当している古参女性班長だった。
「課長!電気が来なくて機械が全部止まっちゃったんです!」
「ええっ!!」
重男とトン平は同時に声を挙げた。
「停電か?機械の故障か?設備の業者に連絡はしたのか?」
年配の女性班長は疲れきった顔つきだった。
「業者さんは今日は出張で茨城だそうで、連絡もつかないんです。
攪拌機も加熱機もラップもみんな止まったんです」
これは拙い!
製造ラインの惣菜はすべて駄目になる。
納品予定の得意先にも支障が出るぞ。
すぐに対策を立てないと大損害になる恐れがある。
顔面が蒼白になった重男は、トン平と製造部の建屋へ向かおうとして足が止まった。
お、俺は何をやってるんだ?
杏子が今、危篤なんだぞ?
今、仕事なんかに関わっていいられるのか?
俺が側に行かなくてどうする?
「き、杏子・・・」
重男は胸が苦しくなった。
(52)
どうすればいいんだ。
だが、製造ラインがストップしているという大変な事態なのに、課長ともあろうものが
ほったらかして行くことはできない。
しかし、妻が危篤なのに一人ぼっちにする夫がいるだろうか。
窓の向こうの製造部門の建屋の周囲を、職員やパート社員たちが駈けずり回ってるのが
見えた。
「こらあ!!何をしている!井桁君も現場にさっさと行かんかあ!」
飯田部長だった。
ラインがストップした情報が入ったのだろう。
飯田は作業用の上っ張りを羽織って、掛けて行った。
重男は両手の拳をギュッと握り締め、事務所へ引き返した。
電話を取り上げると気ぜわしげに数字を押した。
「もしもし、あの3年C組の井桁理沙の父親ですが、至急娘と連絡を
取りたいのですが・・・」
しばらく、やりとりがあって、理沙が呼ばれて来るまで重男は落ち着かなかった。
こうしている間にも、製造現場は大騒ぎしている。
杏子は一人ぼっちで終わりを迎えようとしている。
トイレを我慢する時の様に足元がそわそわした。
漸く理沙が電話口に出た。
「あ、理沙か。いいか、落ち着け落ち着いて聞くんだ」
(53)
まずは自分が落ち着かなくてはならない。
「あのな、お母さんの具合がよくないんだ」
電話の向こうで息を呑む気配がした。
「いいか、今からすぐに病院に行ってくれ。途中で中学に寄って理恵も連れて行った
方がいい。バスなんかじゃなくてタクシーでそのまま行け。
お金が足りなかったら家に寄って持っていくんだ。
お父さんも・・・」
重男は一旦言葉を切った。
「すぐに行く。すぐに行くから心配するな、いいね」
重男は電話を置くと深呼吸をした。
そして唇を噛むと、作業用の上っ張りを掴んで製造現場に向かった。
杏子・・・
作者さん、乙です。
この先の展開が気になる気になる
更新おまちしております。
ほしゅ
(ノД`)続きが読みたい…
462 :
名無し物書き@推敲中?:2007/08/24(金) 11:53:44
age
作者さん、もう続き書かないのかな。
すみません、作者です。
しばらく自宅を離れ病気療養してました。
スレがまだ残っていましたので、
残りは近日中にはup出来ると思います。
もうしばらくお時間下さい。
(54)
重男が製造の現場に入ると、パートの職員やら社員が右往左往してごった返していた。
中途で製造している惣菜を仕分けしている物、すでに材料に分けられたがラインが
止まって加工できない食材を冷蔵庫に運び込む者、
業者に納入する惣菜の数量に頭を抱える者、などなど。
制御盤のある部屋に入ると、飯田部長とトン平が険しい顔をしていた。
「あの電気はどこまで・・・」
重男が言いかけると、飯田は苛立たしげに怒鳴った。
「それを調べているんだ!」
トン平が説明した。
「変電所からの電源は来てました。この制御盤も電気は来ているようです」
「それじゃあどうして動かないんだろ」
トン平が制御盤の扉を開けた。
重男が初めて見る制御盤の内臓だ。
大型小型の装置がいくつも並んでおり、その全てに色んな色の線がつながっていた。
うああ、こりゃ判らん。
何が何だか。
(55)
「機械管理の業者に連絡がつかないなら、この装置を作ったメーカーに聞いてみたら
どうなんだ?」
「いえ、この装置はいつも常駐している管理者が、ここの製造現場にあわせて設計して
外注で作らせたのでメーカーにも良くわからないんじゃ・・・」
「じゃあ、管理技術者1人にすべておんぶに抱っこなのか!こういうことを想定して無かったのか
君は!!」
「はあごもっともです」
重男はひたすら頭を下げるしかなかった。
「俺は納入業者に間に合わないことの説明と善後策を決めてこなきゃならん。
機械の方は課長である君が持って処理しろ。いいな責任もってだ!」
飯田は引導を渡すような言い方で重男に伝えた。
重男はなすすべも無く飯田が小走りに去っていく姿を見送った。
何とかしろといわれても・・・
技術者もいないのにどうしようもない。
このまま機械が止まったままなら相当な損害が出る。
納品先との今後の取引にも影響が出たら・・・
重男は気が遠くなりそうだった。
杏子・・・
唇を噛んだ。
(56)
「課長、常駐の人が設計したのなら図面とかここにないですかね」
トン平の言葉に重男はきょとんとした顔でトン平を見つめた。
「機械室に有ると思うけど?」
「じゃあちょっと見て見ましょう」
「いや見てみるって君、そんなもの見ても・・・」
取りあえず二人で機械室に入って図面を探した。
「搬送ラインシステム・・・これかもしれない」
トン平は図面を広げた。
重男は目がくらくらした。
縦横無尽に配線が引かれた図面で、門外漢の重男にとってはまるっきり意味が
判らなかった。
「課長これが制御盤の主電源です。200ボルトがここに入って、シーケンサや
リレーの組み合わせでコンタクタが入り切りでモーターが動くんです」
「ふむ、そうか」
もちろん重男にはさっぱりわからない。
二人は図面を持って制御盤のところに戻った。
「課長!病院からお電話が入ってますけど!」
入口から女子事務員が声を掛けてきた。
重男は一瞬固まったがすぐに返事をした。
「うむ、後で折り返し電話すると言っておいてくれ」
「でもすぐに話したいらしいんですが」
「後でする!」
事務員は去っていった。
(57)
「課長、シーケンス上のどれかが動かなくなって連動で全部が止まったんだと思います」
シーラカンスなら聞いたことがあるがシーケンスなんてわけわからん。
「でそれはどれなんだ?」
「それはこれからシーケンスを順に追って潰していかないと、図面上で理解しないと
全体が見えないんですよ」
「そりゃ、時間が掛かりそうだな。しかし、君はどうしてそんなに電気に詳しいんだ?
そんな仕事を経験してるのか?」
「いえ、趣味で電子工作とかしてたんで。今はそれより調べるのが先ですよ」
重男は腹を括った。
これだけの騒動になったのだ。
よくて平に降格、損害の程度では馘首になるかもしてない。
機械はもうトン平に任せるしかなかった。
側にいても重男は何の役にも立たない。
こうしている間にも杏子は・・・。そして先に行った理沙と理恵も心細い思いを
していることだろう。
こんな時に側にいてやれなくて何が父親だ!
俺はやっぱり父親の資格なんか無いんだ!
重男は製造現場に戻ると、廃棄する材料、納品可能な惣菜、配送別の区分割り当てなど
製造の職員に混じって作業を手伝った。
(58)
「課長!判りました!」
トン平が小さな部品を手に走ってきた。
「おお!判ったか!どういう風に?」
「これですよ。リレーという奴なんですけど、これの接点が焼きついて動かなくなってました」
「で、どうすればいいんだ?」
「これと同じ部品があれば」
「そんなものどうやって手に入るんだ?」
「メーカーの代理店とか電材屋とかですかねえ」
「機械室に予備がないかな」
重男はトン平と一緒に機械室に入って部品収納棚を調べ始めた。
「課長、理沙さんという娘さんからお電話がありました」
女子事務員が飛び込んできた。
「おう!折り返し電話・・・」
「いえ、その、父に伝えてくださいってことです」
重男は振り向いた。
「は?何?」
「あの・・・奥様が先ほど、お亡くなりになられたそうです」
重男とトン平の手が止まった。
「課長・・・」
トン平が重男に声を掛けた。
「う、うむ」
重男は何と言っていいかわからなかった。
「課長、後は僕が探しますから、奥様のところへ・・・」
「いや、こっちも大事だ。早く探そう」
「しかし・・・」
(59)
また事務員がやってきた。
「井桁課長、飯田部長から電話です」
事務所に戻る重男は胃が痛くなった。
「はい、井桁です」
「どうだそっちは。明日は何とかなりそうか?」
「はあ、今部品を探してまして」
「そうか、今夜中には何とかしろ。納品先には今了解を貰っているところだ。
明日も機械が動かないとなると、それこそ大変だぞ」
「はい、わかりました」
「平岩君、そのリレーとか言う奴はどこか電器屋で手に入らないのか?」
「電材屋なら有ると思うけど、今の時間ですからどうですかね」
くそっ、リレーかリレーか。
あんなもの1個で・・・
管理人の奴そんなものくらい予備を普段から置いておけよ。
俺だったら・・・ん、まてよ・・・。
重男は制御盤のところに飛んで行った。
制御盤を開けると、下の隅に並んでいる紙の箱を開けてみた。
「おーい、平岩君、これじゃないのか!」
トン平が走ってくる。
重男の手にしている物を一目見るなり顔を輝かせた。
「こ、これです!どこにあったんですか?」
「いや、この盤の中に。交換部品だからもしかして同じところに予備で置いてあるかと・・・」
重男の話を聞きながらも、トン平は色んな種類の中からリレーの型式を確認して内部にはめ込んだ。
そして制御盤のパネルを閉めた。
「課長、起動させてみますから製造ラインからみんなを離して下さい」
(60)
「うむ」
トン平が操作ボタンを押すとモーターが動き出す音がした。
製造の現場から歓声が上がった。
「やった!成功だ!」
重男はトン平と肩を叩き合った。
今からラインに載せれば今夜の分はかなり取り返しがつく。
重男は今度は職員たちに残業願いをして廻った。
「おい!動いたんだって?」
飯田部長が戻っていた。
途中経過を見にいったん戻ったのだろう。
「それより井桁君!早く病院に行け。後は俺がやる。ここで何やってるんだ!」
重男の妻が亡くなったことをトン平にでも聞いたのだろうか。
「は、はい!」
重男は会社を飛び出すとタクシーに飛び乗った。
もう九時を過ぎている。
妻が亡くなったというのに仕事を優先した父親に娘たちは怒っているだろう。
よりによってこんな日にこんなトラブルが起きるとは。
重男は車窓の外に流れる街の灯りをぼんやりと見つめた。
うああああああ!
つらい、つらすぎるよ!
作者さん乙です。お体お大事に。
。・゚・(ノД`)・゚・。杏子ぉぉぉー
作者さん、お大事に。
無理しないでくださいねー。気長に待ってますから!
リーマン板の頃より全部読んでます。
杏子がとんでもないデブスで重男もウダツのあがらない男で
それがこんな展開になるなんて…。
作者さん、お大事にして下さいね〜。
この物語はどんなエンディングを迎えるんだろう…
続きが気になってしょうがないです!
YoshiだかToshiだかHideだか知らないが、
最近はやりのクソくだらない純愛ぶった携帯小説なんかよりも、
これを映画化やドラマ化すべきだ!
この愛すべき中年男の純愛物語を!!
身体に気をつけながらもラストまで頑張って作者さん!!
(61)
タクシーが静かに病院の玄関前に停まり、
重男は小走りに通用門の方から中に入った。
杏子の病室のあるフロアに上がると、フロアの待合に理沙たちが座っているのが見える。
重男が声を掛けるより先に理沙が気づいて飛んできた。
「お父さん、間に合わなかった・・・」
「ん、すまん。どうしても抜けられないトラブルが起きてしまってな」
重男が理沙と理絵を見る限り、別段泣いた様子もなく落ち着いている。
「で、お前たちはお母さんと話はできたのか?」
理沙は無言で首を振った。
「私たちが着いた時はもう意識がなかったの」
「そうか・・・」
重男は唇を噛んだ。
「じゃあ、お父さんも会ってくるからここで待っててくれ」
重男は看護師詰め所に顔を出して用件を伝え、杏子の病室に入った。
病室は音も無く静まり返っている。
重男はかたわらの椅子を引き寄せ、杏子の傍に座った。
こうしてみると、普段の見舞いの時に寝ている姿の杏子と変わらなかった。
いつもと違うのは、今はもう息をしてないということだ。
不思議にも悲しいという気持ちが湧いてこない。
予期されていたことが現実になっただけという思いしか湧かない。
一昨日、いつもどおりに話をしたのがずいぶん昔のように思える。
こうして息を引き取った姿を目の前にすると、そこには静まりかえった
厳粛な空間があるだけである。
杏子の顔は安らかに寝ている。
(62)
疲れたろう。ずいぶん痩せたなあ。
初めて見たときの風船球のような体から空気が抜けたようだ。
こうして見ると、杏子はもともとはほっそりした顔つきだったんだな・・・
本当に部長が言うとおり、昔とは別人のようだ。
今までよく頑張ってきたよな。
しばらく杏子と心の中で話をしていたが、やがて重男は席を立つと
廊下に出た。
そこには女性看護師が待ち構えていた。
「井桁さん今回は残念なことになり・・・」
「いえ、いえ、みなさん病院の方にはずいぶんお世話になりました」
重男は深々と頭を下げた。
フロアのロビーで待っている理沙たちの所に重男が戻ってきた。
「あのね、お父さんはこれから病院の手続きや葬儀社との話とかあるから
お前たちは先に帰りなさい」
「うん」
「お腹空いてるだろうから、外のファミレスで食べて行くといい。
それでタクシーで帰ればいいよ。それから明日から忌引き休暇になるから
僕の方で朝にでも学校には連絡入れとく」
話しながら、重男もしなければいけないことがたくさんあることに
だんだん気づいてきた。
「えーと、とりあえずはこんなとこかな」
「お父さん、ベッドの横のお母さんのものは全部カバンに入れたから」
理沙が自分のスポーツバックを指差した。
(63)
「あ、そうか済まないね。服とかの他のものは明日取りに来よう」
「じゃあ先に帰るね」
理沙と理恵は歩き出した。
ふと、理沙は思い出したように重男のもとに戻ってきた。
「え?なに」
「あの、看護師さんがこれ、枕の下にあったからって」
理沙はスポーツバックから薄い封筒を取り出した。
重男が見ると表書きは「重 男 様」となっている。
杏子の手紙か・・・
重男は頷くと、封筒を胸ポケットに仕舞い込んだ。
家族の面会が済んだということで、杏子の遺体は地階の霊安室に移された。
重男が葬儀社に連絡を取ってみると、引き取りは明日になると思ったのが
意外にも今引き取りに来るという。
重男は葬儀社の車が来るまで病院の裏門で待つことにした。
季節はもう秋風が吹く頃になっている。
夜風が涼しくて心地良い。
外灯で薄暗く裏庭が照らされていた。
夜遅く、静まり返った病院の裏庭のベンチに座っていると、
言いようのない孤独感が重男の身を包んだ。
ふと、さっき理沙に手渡された封筒のことを思い出した。
重男が封筒を引っ張り出して見ると、中には一枚の便箋が入っている。
便箋を広げてさっと目を通した。
次の瞬間、重男は手紙を手でくしゃと握りつぶした。
しかし、しばらくすると思い直したように、今度は握りつぶした手紙を丁寧に広げ、
皺を伸ばしてきれいに畳んだ。
(64)
「重男さんごめんなさい。職場にいた頃からお世話になり通しで
恩返しができないのが残念です。
理沙と理恵をよろしくお願いします
杏子 」
やっぱり杏子は知っていたんだ、自分の病気のことを・・・。
いつ頃したためのか判らないが、短い手紙の中に子供を託さざる終えない
杏子の辛い気持ちが現れている。
一昨日、杏子が聞き取れない声で「・・・なさい」といって
涙ぐんだのは俺に「ごめんなさい」と言っていたのか。
帰り際に杏子が笑顔で右手を振った最後の姿を思い出し、重男は思わず
涙が出そうになった。
通夜の日である。
重男の妻の死ということで、職場の人たちが何人か通夜に駆けつけたが、
皆一様に驚いた。
それもそのはず、重男の妻が以前同じ職場にいた沢野杏子と知っている者は
殆どいのだ。
職場で製造部門に携わっていた女性職員などは、杏子の遺影の写真を
目にしてあっけにとられていた。
杏子の遺影は春の理恵の入学式の写真を理恵の級友に分けて貰った物だ。
それ以外の最近の写真はない。
(65)
「ちょっと、課長の奥さんって、もしかして沢野さんだったの?」
「そうみたい、だいぶ痩せているけど間違いないみたい」
「へー、井桁課長とねー。いつの間に結婚してたのかしら」
「お子さん二人いるようだけど、ばついちだったのよね。職場にいた時、
1人で娘さん面倒看てるって言ってたし」
そもそも自分の結婚は披露宴も無く、総務に届けただけで、相手が沢野杏子であることを
告げたのは上司の飯田だけである。
通夜の読経がまだ続いているうちに焼香の列は途絶えた。
重男の職場関係、そして理沙と理恵の学友代表、担任そして友人程度の
通夜であった。
「明日の告別式はもっと人が少なくなるな」
告別式は家族と杏子の兄夫婦だけで終わりそうだ。
通夜の後で重男は杏子の兄を呼び止めた。
「あの、義兄さん、今日はわざわざ来て戴いてありがとうございます。
杏子も喜んでいることでしょう」
「いや、うちとしてももっと杏子に手助けしてあげたかったんですが、何かと
手一杯な物で」
「で、実はですね、折り入ってお願いがあるのですが」
「僕に出来ることなら・・・」
(66)
翌日の告別式は訪れる者はいなかろうと予想された。
しかし、告別式の当日は意外にも訪れた人は多かった。
重男の妻が職場の元同僚だったということが伝わったのだろう、
職場の従業員たちがひっきりなしにやってきた。
杏子が重男の職場に来る以前に勤めていたところの関係者も
いるようだ。
みんな棺の杏子を見て小さくではあるが、驚きの声を挙げていた。
「え?ほんとにあの沢野さん?」
「別人みたい」
その時、孝之が現れた。
杏子の最初の夫であり、理沙と理恵の実の父である。
理沙と理恵はちらと自分の父親を見つめたが話しかけはしなかった。
重男への遠慮もあるのだろうか。
「あ、吉宗さん」
「井桁さんこの度はご愁傷さまで。本当は僕が顔を出していいものか迷ったんですが」
と言いながら孝之は理沙の方をちらと見やった。
いいんだよ、判ってる。理沙が連絡したんだろう。
何と言っても母親が本当に愛した男だったんだから。
「杏子にお別れを言ってあげてください」
(67)
孝之は棺の方へ歩き、中に持参の花を入れようとして、驚くような
表情を見せた。
「あ、あの、井桁さん。杏子・・・ですか?」
は?何が。
重男は孝之の側に行き棺を覗き込んだ。
その時、重男は何とも言えぬ感情で胸が一杯になった。
昨日まで暗い中で目にしたので気づかなかった。
明るい灯りの元で見る棺の中の杏子は、もはや美人と表現しても
誰も疑わないほどに美しく変貌している。
「お母さん綺麗・・・」
理沙と理恵も息を呑んでいた。
杏子の死に顔は、もはや先日まで目にした病床で衰えた顔つきではない。
どうしてこんなに綺麗に・・・?
おそらく、死化粧をしてくれた人が腕のいい女性なのだろう。
綺麗に顔が化粧されて髪型も整えられており、頬にはうっすらと赤みがさして
健康そのものの色合いで、口紅も鮮やかな色が寸部の乱れもなく引かれている。
生きた女性が静かに眠っていとしか言いようの無い気品が感じられる。
普段からあまり化粧らしき化粧をしてなかった杏子だからこそ
余計引き立って見えるのだろうか。
痩せてほっそりした顔つきになって、このように化粧をした杏子はもはや
別人である。
「こんなに美しくなるなんて・・・」
孝之は言葉が詰まった。
それは重男たちも同様である。
(68)
もしかしたら、この姿が杏子の本当の姿だったのかもしれない。
皮肉にも死んでから本当の姿に戻るなんて・・・。
「お父さん、これも一緒に入れていい?」
理沙が手にしているのは、杏子がずっと枕元に置いていたタンポポの押し花
だった。
小さな額縁に入っているそれは杏子のお気に入りだ。
重男も杏子からタンポポの話を聞かされたことがある。
「ああ、いいよ」
理沙は手のひら大の額縁の裏側をはずすと、挟んであるタンポポの押し花を
取り出した。
その時、額縁の裏から台紙のような紙がひらりと落ちた。
裏返しになったそれを返してみた理沙の顔つきが変わったのに重男は気づいた。
しかし、理沙はすぐに台紙らしきものを上着のポケットにしまうと、
そのまま棺の杏子の胸元にタンポポの押し花を載せた。
「さあ、それではお別れです」
葬儀社の係員に促されて、花に埋もれた棺は蓋を閉められ火葬場へと移動された。
「お義兄さん、無理な願いをしてすみません」
重男は頭を下げた。
「いえいえとんでもない。杏子は母と父に随分可愛がられていましたからね。
今まで何も出来なかった僕も、最後に杏子の願いだけは聞いてあげたいと思います」
杏子の兄は頷いた。
読んでいて心が揺さぶられます。
まさか2chでこんな小説に出会えるとは…
ラストまで一気に読みたいところですが、
作者さんも大変だと思うので静かに待ちたいと思います。
ってか誰かまとめサイト作らないのかな?
作者さん乙です
体にはくれぐれも気を付けてください
続き気長に待ちますので、ゆっくり書いてください
(69)
重男が杏子の兄に頼んだ内容とは、杏子の遺骨を三浦半島の杏子の亡き両親が眠る霊園の
墓に一緒に入れて貰えないかということだ。
本来は重男が新規に井桁の名で墓を立てなくてはいけないのだろうが、この霊園に
今は空きがない。
杏子は両親の命日だけでなく、機会を見つけてはよく墓参りをしていた。
単にそこに両親が眠っているという理由だけではない。
相模湾を見下ろし、遠くに富士山が見える其処の景色がよほど気に入っていたに違いない。
重男も杏子たちと一緒に行楽を兼ねて行ったことがある、唯一の思い出の場所でもある。
それだけにあそこの墓にせめて遺骨だけでも杏子を入れてあげたいと重男は
考えていたのである。
幼い頃に死に別れた父、そして唯一の良き理解者であった母親の眠る墓地。
もしその墓に両親と一緒に入れるのなら、きっと杏子も安心して眠ることが出来るだろう。
杏子の納骨を数日後に控え、
重男は団地の家に来て杏子の遺品を整理していた。
もともと杏子の持ち物は少ない。
午前中に理沙と理恵に手伝って貰うとあっけなく済んだ。
主がいなくなったこの団地の家も、いずれは出て行かなくてはならない。
「ちょっと話があるんだがな」
重男は理沙と理恵を呼んだ。
(70)
「お前たちの今後のことなんだけどな」
「うん」
「いろいろ考えたんだが、吉宗さん、つまりお前たちの本当のお父さん
と一緒に住んだらどうかなと思って」
「えー?それじゃあお父さんはどうするの?」
「まあ、僕は一人暮らしに慣れてるから」
「パパはなんて言っているの?」
理恵が口を挟んだ。
理恵は実の父、孝之をパパと呼び、重男をお父さんと呼んで区分けしている
らしい。
二人父親がいるということは何とも複雑な話だ。
両親が離婚したり再婚した家庭では珍しくない話だが、子供が幼いか年頃になっているかで
複雑さの度合いも異なるだろう。
中年になってもスマートで男前の孝之は、年頃に成長した娘に
パパと呼ばれても全く違和感がない。
方や、うらぶれた中年の重男にはパパという呼称は似合わない。
「うん、ぜひともお前たちを引き取りたいそうだ。
向こうにはほら、元気なおばあちゃんもいる。
お前たちの身の回りの世話や家事などは女性だから全然問題ないよ」
「お父さんは私たちが向こうに行ったほうがいいと思うの?」
理沙が大きな瞳で重男をじっと見つめた。
「え・・・。まあ、そうだな。家族は本当の父親と暮らすべき
だと思うし、俺も一人の方が気楽だしね。
短い間の家族だったけど、この際きっぱり別れたほうがいいと思うんだ」
「お父さん本当にひとりの方がいいの?」
今度は理恵が重男を見た。
(71)
理恵は父親似の理沙よりも、さすがに杏子の面影が顔に残っている。
その理恵に見つめられると、あたかも杏子に問い詰められているようで
重男は少したじろいだ。
「う、まあ、俺一人ではお前たちの世話も何かと大変だし・・・」
「あたしたち今までも二人で家のこととか、ちゃんとやったよ。
お母さんが死んだから、もうあたしたちのことが邪魔になったんだ」
これにはさすがに重男も気色ばんで反論した。
「違う!そんなことはない。お前たちの将来を考えてのことだ!」
「お母さんはどうするの?」
理沙が静かに口を開いた。
あ・・・仏壇・・・。
「えーと、その、あれだ・・・」
「あたしたちにお母さんも置いて家を出ろっていうの?」
重男もこれにはさすがにすぐには返事ができない。
「うーんと、じゃあお母さんの仏壇も一緒に・・・」
「じゃあどうしてお母さんと結婚したの」
理沙が刺すような眼で重男を睨んだ。
ヒステリックに追求されるのもきついが、このように冷静に問い詰められるのも
やはり辛い物がある。
「・・・・・・」
黙り込んだ重男は、取調べを受けている容疑者のようにうなだれた。
(72)
つい言葉の流れで口走ったせりふだが、妻が死んだからといって
前夫に位牌を返すなどという薄情なことが許されるわけがない。
「いや、すまん。今のは失言だ。お母さんは絶対に僕の手元に
置いておく」
「じゃあどうして私たちだけ?」
「俺はもう面倒見切れないと言ってるんだ!」
重男は強い口調で突き放した。
理沙と理恵は口をつぐみ、そのまま三人が押し黙ったまま数分の時が
流れた。
うつむいたままで理沙が静かに口をひらいた。
「お父さんがそうしろというなら、あたしと理恵は横須賀の
パパのところに行くわ・・・」
重男は顔を上げられなかった。
「ただ、時々お母さんに会いに来てもいいよね」
重男はうつむいたまま黙って頷いた。
「理沙と理恵は今度孝之さんと会って、今後のことを決めて
来なさい」
重男はいったん言葉を切った。
「僕としても本当は君たちと別れるのは辛いんだ。
でも家族は本当の親子で暮らすのが本来の姿だと思うんだ。
決して邪魔になったわけじゃない。
孝之さんも今のお前たちを責任もって育ててくれるさ。
二人で一度、孝之さんのところに行って話を聞いてみたらどうだ?」
理沙は理恵を方をむいた。
「理恵、お父さんの言うとおりよ。パパのところに行こう」
「うん・・・」
(73)
「じゃあ僕は、明日会社に行くからもう少ししたらアパートに戻るよ」
重男はそういうと、杏子の仏壇のある和室に入って戸を閉めた。
仏壇の前に座り杏子の写真を見た。
写真の中の杏子は、理恵の中学の入学式で微笑んでいる。
この写真には写ってないが、隣で喜びに顔を綻ばせている理恵も
いたはずである。
杏子、ごめん・・・。
手紙で二人をよろしくと言われたのに、孝之さんのもとに返すことに
なって。
責任から逃げた訳じゃないよ。
俺が仮に娘たちと離れたくないといってもさ、
本当の父親には勝てっこないしな。
その時、写真たての中の杏子の写真が少し傾いているような気がした。
重男は写真たてを手に取り、裏の留め金を外した。
薄い裏板を外して写真を正確に揃えようとしたとき、もう一枚硬い紙が
挟んであるのに気づいた。
これは?
あっ!!
これは・・・、きっとそうだ。
あの時、お棺にタンポポの押し花を入れようとした理沙が、杏子の
押し花の額から落としてすぐにポケットに隠したあれに違いない。
理沙がここに入れなおしたんだ、きっと。
(74)
重男が手にしているそれは一枚の写真であった。
背景はディズニーランドであることは重男にもわかる。
後ろに孝之が、手前に立っているのが幼い理沙、そしてその隣に
しゃがんでいるのが杏子である。
理沙の身長はしゃがんでいる杏子と同じくらい幼い。
杏子が孝之と結婚して間もなく、また理沙の新しい母親となって間もなく
の頃だろう。
まるまると健康そうな杏子は、重男がついぞ目にしたことのない、
幸せに満ち溢れた笑顔であった。
その太く厚い手はしっかりと理沙の手を握り締めている。
杏子にも本当に幸せな時期があったんだな。
いや、杏子の短い人生の中でつかの間の一番幸せな頃だったのかもしれない。
重男は何かほっとするような安心感を感じた。
苦労し続けの杏子にも、短い間だが本当に幸せな時があったという
事実を目にすることができたのだ。
長い孤独の末に出会い、杏子が愛した夫、孝之との結婚生活も、
夫の逃亡によりあっというまに終わったことも知っている。
それからは一人で、子供たちを育てるのに必死の日々を送ってきた杏子だ。
重男と再婚してからも、その思い出を大切にしていたからといって
誰が責められよう。
もう胸がいっぱいです…。
作者さん、どうか身体に気をつけて。
し、重男〜(´Д⊂)
作者さん、無理しないで下さいね。
でも、続き待ってます。
494 :
名無し物書き@推敲中?:2007/10/05(金) 20:57:00
女性=孝之=杏子=重男
| |
理沙(姉) 理恵(妹)
重男は知らないのか。
495 :
名無し物書き@推敲中?:2007/10/10(水) 14:41:22
作者さん、大丈夫かな??
(75)
重男はそっと写真を額の中に収めた。
この大切な思い出は、理沙にとってもきっと同じだろう。
産みの母親の顔すら覚えていない理沙にとって、
幼い頃の優しかったパパとの思い出でもあるだろうしな。
理恵も漸く実の父親に逢えたかと思えば母親に先立たれてしまった。
実の父とは生き別れ、あるいは母親には死なれ、娘たちは親子で家族が
揃うことはなかった。
もう少し、もう少し杏子が生きながらえていたなら、
杏子たちは孝之とまた四人家族に戻れていたかのかもしれない。
重男は黙って写真の中の杏子を見続けた。
理沙と理恵はこれで良かったんだよな?
本当の親子に戻るんだからいいだろう?
俺は一人に戻るけど、半年前までそうだったんだから・・・。
つかの間だったが、俺も一生の思い出ができたよ。
翌日、重男は会社に出社した。
本来なら七日間は出社しなくてもいいのだが、そこは中小企業の悲しさ、
いつまでも課長が不在では業務に支障を来たしてしまう。
(76)
「課長、この度は大変でしたね」
トン平が気の毒そうに重男に声を掛けた。
「まあ、以前から具合が悪かったしな。病気なんだからしかたないさ」
「しかし、以前ここにいた沢野さんが奥様だったとは知りませんでした。
中にはうわさで課長の奥様になられたのを前から知っている人も
いましたけど、殆どの人は知らなくて・・・」
「それで翌日の告別式にあんなに職場の人たちが来たんだな」
その日の昼に重男は飯田部長に呼ばれた。
「大変だったなこの前は。どうだ、家のほうは少しは落ち着いたか?」
「はい、お陰さまで家のほうも片付き、今度納骨に行くだけです」
「そうか、ところで今日の夕方時間取れるか?ちょっと寄りたいところがあるんでな」
「そうですか。私は大丈夫です」
「そうか、じゃあ平岩君も同伴で行くぞ」
「は、彼も・・・ですか。わかりました」
何だろう。
この前のライン停止事故と何か関係があるのだろうか。
出社早々、面倒な話は嫌だな。
夕刻時、退社時刻を過ぎてから重男はトン平を伴って部長の部屋に赴いた。
「おっ、来たか。じゃ行くぞ」
(77)
三人は部長の手配したタクシーに乗った。
いきなり会社からタクシーとは豪勢である。
トン平は外の景色を見て落ち着かないらしく、きょろきょろしている。
トン平は普段は部長と接点があまりない。
同伴で部長がどこに行くのか不安なのだろう。
それは重男も同様だった。
行き先が客先だと嫌だな。
部長と一緒なら、お詫び行脚の可能性があるしなあ。
しかし、なぜ部長は行き先を言わないんだろう。
「課長、この道だと川崎駅の方ですよ」
小声でトン平がささやく。
重男は聞こえない振りをした。隣には飯田が座っているのだ。
余計な会話などできない。
三人を乗せたタクシーは川崎駅の繁華街の近くで停まった。
「こっちだ」
飯田に先導されて漸くたどり着いた場所は、いかにも高級感漂う料亭の前だった。
「さあ、入ってくれ」
重男とトン平は息を飲んだ。
ほ、本当にここに入るのか?
高そう・・・
(78)
中に入ると数人の仲居さんが三人を迎えた。
「あ、飯田様いらっしゃいませ」
重男はこのような高級の料亭に入るのは初めてである。
仲居の雰囲気からすると、飯田の馴染みの店らしい。
飯田に促されてようやく二人も靴を脱いだ。
すぐに仲居が二人の靴を手に取り、下駄箱に運んだ。
接待・・・かな?
どこの業者さん?
店の雰囲気ではお偉方の予感。
奥の間でのどこかの業者の接待に、部長のお供で連れて来られたとしか
思えない。
庭園灯に照らされた、綺麗な庭園を横目に廊下を進み、
桔梗と書かれた座敷の入り口にたどり着いた。
「まあ入れ」
部屋を覗くと三人分しか席が用意してない。
「あの、部長。どなたか来られるので?」
重男は尋ねた。
「いや、来ない」
「では、どのような・・・」
「今日は君たちの慰労会だ」
「ええっ」
重男とトン平は一緒に声を上げた。
「そうだな。料理の前にまずはビールでも飲むか。ただし、井桁君の
家庭の事情があるから乾杯はしないがな」
(78)
中に入ると数人の仲居さんが三人を迎えた。
「あ、飯田様いらっしゃいませ」
重男はこのような高級の料亭に入るのは初めてである。
仲居の雰囲気からすると、飯田の馴染みの店らしい。
飯田に促されてようやく二人も靴を脱いだ。
すぐに仲居が二人の靴を手に取り、下駄箱に運んだ。
接待・・・かな?
どこの業者さん?
店の雰囲気ではお偉方の予感。
奥の間でのどこかの業者の接待に、部長のお供で連れて来られたとしか
思えない。
庭園灯に照らされた、綺麗な庭園を横目に廊下を進み、
桔梗と書かれた座敷の入り口にたどり着いた。
「まあ入れ」
部屋を覗くと三人分しか席が用意してない。
「あの、部長。どなたか来られるので?」
重男は尋ねた。
「いや、来ない」
「では、どのような・・・」
「今日は君たちの慰労会だ」
「ええっ」
重男とトン平は一緒に声を上げた。
「そうだな。料理の前にまずはビールでも飲むか。ただし、井桁君の
家庭の事情があるから乾杯はしないがな」
(80)
「さ、食べようじゃないか、二人とも今日は大いに食ってくれ。
いくらでも追加するぞ」
三人は料理をつつき始めた。
「ここの料理は美味いだろう、うちで作ってる惣菜とは比べ物に
ならんぞ」
「はあ、本当に美味しいですね、部長はよくこちらを利用されるんですか?」
トン平が飯田にビールを注ぎながら言った。
「この店はな、うちの会社の接待に利用してる店だ。
まあ普段は役員連中が多いんだがな」
飯田は箸で料理をつまんで口に放り込んだ。
「いつも大声で叱ってばかりいるが、内心は君たちの功績に
感謝している」
職場では絶対に聞けない飯田の言葉に、重男とトン平はちょっと顔を見合わせた。
「ところで、井桁君。今回の故障で考えたんだがな。
製造設備の管理を外注に依存しているのは、問題があると思わないか?」
重男は口の動きを止めた。
「はあ、そう思います。しかし、社内で管理をするとなると・・・」
「うむ、設備の知識を持った技術者が必要だろう?」
「はあ」
「そこでだな、どうだろう、平岩君を設備管理の担当にさせてみては?」
「はあ!?」
重男とトン平が同時に声を上げた。
(81)
「し、しかし、彼は技術者ではありませんし・・・」
「うむ、それは承知している。彼を設備の管理責任者という立場にして
通常の管理は今までどおり、外注の業者にやらせるんだよ。
その中で少しずつ技術を身につけていけばいい」
重男はふーっと息を吐いた。
「そうですね。社員で設備が管理できる人がいれば、今回のような
不測の事態にも対処できますし、製造部門としては安心ですね」
飯田はトン平の顔を見た。
「どうだ、やってみる気はあるか?」
トン平は顔を輝かせた。
「はい、機械なら子供の頃から好きでしたから、ぜひやりたいです!」
「こんばんわー。飯田さんようこそいらっしゃいませー」
中年の綺麗な和服姿の女性が入ってきた。
「おお、よく来たな。紹介するよ、こちらはここの女将さんだ」
「始めまして」
「こっちが井桁君でこっちが平岩君だ。二人とも僕の部下なんだよ」
「今日は同じ職場の方たちですか?いつも飯田さんにはお世話になってます」
女将はにっこり微笑むとさっそくビールを片手に持った。
(82)
「あ、いえこちらこそ」
重男とトン平は恐縮した。
このような美人の女将に注いでもらうのはむろん初めてである。
和服姿の女将さんを見ていると、千葉の小料理屋で店をきりもみしていた
佐知江を思い出した。
「女将さん、実はな、こちらの井桁君は先日奥さんを亡くされたばかり
なんだ」
口を小さく開けて女将は目を丸くした。
「まあ、そうなんですか。それはお気の毒に」
「うむ、それで少し、元気付けてやりたいと思ってるんだ。
いつもこの二人には苦労してもらっているからな、
今日はほんの気持ちばかりの恩返しだ」
重男は恐縮した。
「いえ、とんでもない。私の方こそ、部長に迷惑ばかりかけていつも申し訳ない
と思ってます」
女将が空いた器を寄せながら言った。
「今日はビールだけですの?日本酒お持ちしましょうか?」
「うむ、しかし、今日はな・・・」
「いえ、部長、私のことならお構いなく。女将さん日本酒もお願いします」
「はい、ではご用意いますね」
女将が引き下がった。
(83)
「悪いね、井桁君。しかし、ここの料理は日本酒がすごく合うんだよ」
トン平が口に料理を頬張った。
「ごの魚で日本酒をほんだら美味ひいでしょふね」
「こらちゃんとしゃべらんか」
「しかし、何だな。井桁君も奥さんがまさかこんなに急に亡くなられるとはな」
飯田は箸で料理をつつきながら言った。
「元気に働いていた佐野さんと、四月に結婚したばかりだと言うのに、
あの頃はこんな風になるとは夢にも思わなかっただろうなあ?」
重男は箸を置いた。
そして手を膝に乗せて静かに言った。
「いえ、結婚する前から杏子の病気は知っていました」
「ええっ?」
トン平が驚いて箸を持った手を止めた。
飯田も手に持ったグラスを宙に停めたまま、重男を凝視している。
「失礼します」
日本酒を持ってきた仲居と女将が部屋に入ってきた。
酒の器を三人の前に並べ出す。
「どなたからお注ぎしましょうか」
女将の声に誰も返事をしない。
女将はちょっと戸惑っている。
作者さん乙です
無理しないでくださいね
あっ更新されてる!!
作者さん続き楽しみにしてます。
続きwktk
(84)
飯田がおもむろに口を開いた。
「うむ。すると、結婚する四月以前から彼女は病気だった・・・ということか?」
「はい、そうです」
飯田はグラスを置くと腕を組んだ。
「ふーむ、それじゃあ、いつわかったんだ?彼女が病気だと言うことが?
沢野さんの娘さんが心臓の手術を受けたのは、君がお見舞い金を募集
していたんで、知っていたが、お母さんまで病気とはな・・・」
重男は黙ってお猪口を手に取った。
女将が手早くそれに日本酒を注ぐ。
重男はちょっと会釈すると酒を口に含んだ。
「部長はご存知でしょうか?沢野さんが冬に救急車で運ばれたのを」
「ああ、知ってるよ。だが大したことないらしくて翌日から
出てきたそうじゃないか」
「最初はそうでした。医者もただの過労だろうと。
しかし、二度目の時にわかったんです」
トン平が待ちきれないように口を挟んだ。
「ど、どうしたんですその時」
(85)
飯田がトン平を睨む。
「二度目に病院に運ばれた時、単なる過労にしてはおかしいということで
念のためにと、医師が脳神経の検査をしたのです。
その時に宣告されました。年内くらいしか持ちそうにないと」
「まあ・・・」
女将が手で口を覆った。
「奥様がそんなご病気だったなんて、ご主人様はさぞかし・・・」
「いや、まだ結婚してないんだよその時は」
飯田が女将の方を向いて言った。
「え?」
女将はきょとんとしている。
「夫でもない、身内でもない君によく医者が病状を教えてくれたな?」
「はい、彼女は独身で子供は学生だし、兄夫婦がいるけど迷惑を掛けたくないので
倒れたことすら知らせないでくれと言われていました。
職場の上司ということで全責任は持つという理由で、
私にだけ教えてくれました」
「ふーむ」
飯田が今度はお猪口を手に取った。
(86)
「あの、あの、沢野さんは、沢野さん自身はその病気のことは・・・」
トン平がどもりながら質問した。
重男は黙って頷く。
「うん、医師から手術不可能な位置の脳腫瘍だと言われが、
本人には知らせてない。知っているのは僕だけだった」
重男は酒を口に空ける。
「彼女には過労がたたっていると告げたのです」
「まあ、井桁さん。本当にその方を大事にされていたんですねえ」
女将は静かにつぶやいた。
しかし、飯田はどうも腑に落ちない表情でいる。
「気を悪くするかもしれないが、なぜ先も永くない彼女と結婚したんだ?
普通ならむしろ結婚相手として決めていても、考えてしまうんじゃないか?」
「いえ、病気のことを知ったからこそ、結婚を決めたのです」
「ええっ?」
トン平と女将が驚きの声を挙げた。
部屋が静まり返った。
庭園からは秋の虫の音が聞こえてくる。
ここは庭園が広く、大通りから離れているためか、川崎の繁華街に近い
店であるのに車の騒音は殆ど聞こえない。
(87)
「ふーむ、そうか。娘さん二人を抱えてるしなあ。母親の命が残り少ないと判った時は
下の子は心臓の手術という状況だったんだなあ」
飯田の呟きにトン平も相槌を打つ。
「そうですね。確かにそのままほうっておけない状況ですね」
飯田は箸を料理に延ばすこともなく、何度も日本酒を空けた。
「ああ、判ったぞ!、それでか。君が三月に辞表を出したのは。
あれは会社を辞めてでも、杏子さんの看病に専念するためだったんだな」
「課長・・・、そこまで考えていらしたんですか・・・」
トン平が感極まったような声を出した。
「井桁さん、本当にその杏子さんという奥様を大事にされたんですねえ。
二人の娘さんも含めて・・・」
女将も涙声になっている。
あ、こりゃいかん。
辞表を出したのは別の意味だったんだが・・・
重男は迷った。
事実を話すべきか。
このままでは自分が必要以上に良い男になってしまう。
(88)
「井桁君は見かけよりずっと芯がしっかりしてるな・・・」
飯田が頷きながら料理を口に運んだ。
「いえ、違うんです。誤解です」
重男はもう黙っていられなかった。
「辞表を出したのは別の女性と結婚の約束をしていたからです」
重男の周りの三人は、今度は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。
「実は以前から、千葉の実家で見合いをしてたんです。それで・・・、
僕が会社を辞めて、その女性の小料理屋を一緒に手伝うことになっていたのです。
僕もそうするつもりで、一度は辞表を出しました」
飯田はもう混乱してきたようだ。
「なんだか良くわからないな。それと沢野さんとの関係はどう繋がっていくんだ?」
「はい、千葉の女性と結納する寸前で、僕は沢野さんの事情を知ってしまって
気持ちを切り替えたんです」
女将が口を挟んだ。
「何だか二股掛けていたように聞こえますけど、そのお見合いされた女性の方は
井桁さんのお気に召さなかったのでしょうか?」
重男はもはや、少し腰をひいて取調べを受ける容疑者のようにうな垂れて
説明を続けた。
「いえ、僕にはもったいないくらい綺麗な方で僕も有頂天でした。
でも・・・沢野さんの命が永くない、そして・・・
借金まで背負って、もう沢野さんはにっちもさっちも行かない
状態なのを知ってしまっては、見過ごすことは出来ませんでした」
(89)
「課長、もしかしてそれは沢野さんに同情して結婚したんですか?」
トン平の言葉に重男は頷いた。
「初めはそうだった。杏子も僕に最初から気があったわけじゃないと思う。
でも全てにおいても限界に来ている杏子の
ために僕ができることはそれしかなかった」
「ふーむ、まあしかし、そういう生き方があってもいいんじゃないかなあ。
平岩君、何も結婚は最初から好きあってするものとも限らないよ。
確かに恋愛結婚が主流だが、結婚してから育てる愛情だってあるんだ。
同情だけではない、何か惹かれるものが沢野さんにあったんだよ。
井桁君は大したもんだよ。会社を辞めて黙って千葉に行っていれば、
今頃は小料理屋のおやじさんだったんだからな」
飯田は感慨深げにつぶやいた。
「もっとも、会社を辞めて千葉に行っていれば、
後に残された沢野さんのご家族のことを思うと、
井桁君は心が痛んだかもしれないがな」
「でも、そのお見合い相手の方も残念でしたわね。せっかくお店を一緒にやって
くれる方がいらしたのに・・・」
女将さんの言葉に重男は頷いた。
「はい、向こうも僕を信じてくれていましたので、申し訳なかったと思います」
またしばらく無言の時間が流れた。
部屋にいるそれぞれが、重男の話を思い思いに解釈しているに違いなかった。
(90)
「あら、今日は月明かりですね。もう少しお外が見えるようにしましょうか」
女将が立ち上がって縁側に続く障子を開いた。
薄暗い中に照らされる庭園が目の前に広がり、
秋の虫の音も一段と大きく聞こえてきた。
「まあ、色んな人生があるからなあ。君がいったんは僕のところまで回した辞表を
撤回したのは、職に留まって沢野さんと結婚する決心をしたからなんだな」
「はい」
「うーん、半年かあ、半年だよなあ・・・」
飯田はつぶやくように何度も半年かあと繰り返した。
「その・・・。残されたお子さんはおいくつなんでしょう?」
女将の質問には飯田が答えた。
「うんと、中1と高3の女の子だっけ。可愛い子たちだよ」
「まあ、そうですか・・・。でも、これからはお父さんと力を合わせて
行けばいいですよね」
重男は顔を上げた。
「いえ、違うんです。娘たちは実の父親のところに戻るんです」
(91)
また三人が豆鉄砲を食らった鳩のような顔をした。
「いや、ちょっと次から次へとそう思いがけない話を出されると、
混乱してくるな。
その、なんだ、杏子さんの元の旦那さんのところに子供たちを
戻すのか?」
飯田が三人を代表するかのように重男に質問した。
「はい、娘たちはやはり実の父親のところで暮らすのが一番でしょう?」
重男は当然のように答える。
「あの・・・、余計な口を挟みますけど、それは奥様の以前のご主人様
も承知の上でですか?」
女将さんの言葉に重男は頷いた。
「はい、以前から子供たちを引き取りたいと言ってました」
「そうですか・・・」
「おい、女将さんも口が渇くだろ。少しどうだい」
飯田の声に女将さんは立ち上がった。
「あ、すみませんお気を使わせて。仲居に自分の分は用意させますので」
女将はそういうと部屋を出て行った。
(92)
今度は、無言でもしゃもしゃ料理をつまんでいたトン平が重男に話しかけた。
「あの・・・、課長、あくまで僕の感想なんですが、課長ご自身は娘さんたちと
別れてもいいんですか?」
トン平の問いにすぐには重男は返事ができなかった。
「あ、うむ。まあ、仕方ないさ」
「でも、課長は四月からすごく嬉しそうでしたよね。弁当とか毎日持ってくるように
なって、珍しく旅行の雑誌とか見てたり」
トン平は続けた。
「せっかく親子になって家族ができたのに、母親が亡くなったというだけで、
子供たちが・・・」
「もういいんだ!そのことは」
重男の語気が荒くなった。
「まあ、平岩君、井桁君の方にも考えがあってのことだから」
飯田の言葉にトン平はやや不満そうに黙り込んだ。
(93)
「お待たせ」
女将が仲居にお盆を持たせて戻ってきた。
「お邪魔でなかったもう少しお話を聞かせていただいていいですか?」
女将の声に飯田は顔を崩した。
「ああ、もちろんだよ。こういう話は人生経験豊かな女性にも聞いてもらわんとな」
そして飯田は「さて」というような面持ちで重男の方に
向き直った。
「俺の思い過ごしかもしれんがな。井桁君。どうも君は先を急ぎすぎる
気がせんでもないぞ」
重男は飯田を見つめた。
「と、いいますと?」
「うむ、まあ沢野さんとの結婚話や辞表やいろいろな。ほとんど誰にも
相談せずに自分ひとりで何でも決めて先に進んでいないか?」
重男は「あー」という顔をした。
確かに今までのことは、誰にも相談せず自分で何もかも決めて
物事を進めてきていた。
仕事と同じで、何事も即断即決に進めることに習慣つけられてきた
結果なのだろうか。
(94)
「で、肝心の二人の娘さんたちは、昔のお父さんのところに戻りたいと
言ってるのかね?」
重男はうなだれた。
「いえ、子供たちの気持ちは聞いてません」
「まあ」
女将が厭きれたような仕草をした。
「確かに部長のおっしゃるとおりでした。僕が先走って何もかも
決めてしまっていました。娘たちの考えを聞くまでもなく、
実の父親の元の方が娘たち為になるだろうと・・・」
「課長!それは違うでしょう。女手ひとつで必死に育ててくれたお母さん
を最後まで看取ってくれたお父さんですよ?課長は。
子供とはいえ、そう簡単に見捨てられるものでしょうか?」
トン平の言葉に女将も頷いた。
「そうですね。子供たちが実の父親の元に戻りたいと言うのならともかく、
お母様の恩人とも言える今のお父様から、そう簡単に離れられるかしら」
女将は続ける。
「私なら亡くなられたお母様にできなかった恩返しを、今のお父様にしたい
と思いますわ。血が繋がっているいないではなくて」
乙です。早くも続きが気になる
待ってました!
作者さん乙です。
作者さん、続き楽しみにしてます!
522 :
名無し物書き@推敲中?:2007/11/17(土) 01:10:31
捕手
作者さん、寒い日が続いてますが体調に気を付けてくださいね
(95)
「うむ、難しい問題だな」
飯田は杯を空けた。
すかさず女将が酒を注いだ。
「いや、グラスにしようか。その方がゆっくり呑める」
女将は頷いてグラスに冷酒を注いだ。
「せっかく家族になった子供たちと離れ離れになるのも忍びない。
がしかし、実の父親がいるのに唯一の親子が離ればなれになるのは
もっと忍びない。ま、そういうことだろう?井桁君」
飯田の言葉に重男は俯いたまま頷いた。
「課長・・・」
トン平が呟くように呻いた。
「せっかく家族ができたのにまたひとりぼっちになるんですか?
本当にそれでいいんですか?」
「まあ、仕方ないよ。子供たちのことを思ってのことだ」
重男はそう繰り返すだけだった。
「井桁さんのお優しい気持ちがきっと娘さんたちにも伝わると
思いますわ。いつかはきっと・・・」
女将の言葉に重男は庭園の方に顔を向けた。
「僕はひとりぼっちは慣れている。娘たちさえ幸せになればいいんだ・・・」
庭園は月明かりに照らされて樹木がシルエットをかもし出していた。
月明かりに照らされた樹木の向こうに、今は亡き杏子の
姿がシルエットとなって重男に向かって頭を下げているような
気がした。
(96)
翌日の夕方、杏子たちが住んでいた団地の部屋に着いた時、理沙たちは
まだ帰宅していなかった。
その日は理沙と理恵が実の父親である孝之に会い、今後のことを
決めているはずであった。
重男が想像するに同居が決まったならすぐにも孝之は、二人の娘の
通学に適した場所に越してくるに違いなかった。
それを待って、杏子が長年住み続けたこの団地の住居は引き払わねばならない。
杏子が苦労して子供を育ててきたこの部屋も、もうあとわずかだな。
質素な生活を思わせる室内には家具はあまりない。
引っ越そうと思うならいつでも引っ越せるほどの家具しかないのが
寂しかった。
台所に立ってみると柱のところどころに印がしてある。
低い位置に「5さいリエ」とか「10さいリサ」といった具合に年齢別に書いてある。
恐らく、毎年の誕生日のときにでも背比べをして印をつけたのだろう。
少し高い位置に「ママ」という印もあった。
今では理沙は杏子よりも高く、理恵も殆ど杏子と変わらないほど
大きくなっている。
重男はぼんやりと十数年のこの部屋の歴史に思いをはせていた。
玄関が開く音がした。
「ただいまー」
「あ、お帰り」
戻ってきた理沙と理恵だった。
実父に会って来た理沙は重男の顔を見るとちょっと気恥ずかしそうである。
「夕飯はまだか?」
「いえ、私たち向こうで済ませてきました」
「そうか」
(97)
重男も予期していたことなので別に気にしなかった。
「お父さんは?まだなら何か造りますよ?」
「いや、別にお腹空いてないから」
こうしてみると、何だか以前に杏子と交わしていた会話と変わらない。
理沙も重男と杏子の会話を耳にしてきて、杏子の話し方が自然に身についたのだろうか。
「で、どうだった?孝之さんとの話は」
テーブルの向いに理沙と理恵が座ると、重男は単刀直入に尋ねた。
「うーん」
理沙は俯いた。
「パパがね、一緒に暮らしてくれるならすぐにこっちのほうに引っ越してくるって」
「そうか、それは良かった。これで親子三人で暮らせるじゃないか。
それにおばあちゃんもいることだし」
理沙はあまり嬉しそうな顔でもない。
理恵も神妙にかしこまっているだけだ。
「でも・・・お父さんは本当に私たちが出て行ってもいいの?」
「どうして」
「どうしてって・・・。これからお父さん1人になるじゃない。
また全部1人でしなきゃいけないんだよ」
「はは、そんなこと。僕は半年前までそうだったんだから。
慣れてるよ」
「でも、お父さんを1人ぼっちにしたらお母さんに怒られそうだな・・・」
理恵が呟いた。
「いや、気にすることは無いんだって。君たちが親子で幸せになる
ことがお母さんも喜ぶだろうよ」
(98)
理恵はテーブルの上に目を落としながら話し始めた。
「あのね、あたし、今でも覚えている。
心臓病で入院した時、お母さんの会社にいた今のお父さんが何度も
お見舞いに来てくれたこと。
お見舞金を集めてくれたのがその人だってお母さんが教えてくれた。
お父さんが病室から出て行くとき、お母さんが手を合わせて拝んでいた
んだよ」
「え、そんな・・・。いや、困っちゃうなそんな大したことでもないのに」
重男顔をちょっと赤くした。
「うーんと、まあとにかくだ。君たち自身が本当に進みたい道を選べば
いいわけだ。僕のことなら気にすることは無い。
お母さんに出来なかった恩返しを今度は本当のお父さんにすれば
いいんじゃないかな。
君たちのお父さんの孝之さんがこれほどまでに君たちの事を
気に掛けているってことは、孝之さんも君たちに大して
今までのことを申し訳なく思っているんだと思うよ」
うろたえた重男は説明になるようなならないような話し方だ。
「お父さんごめんなさい。じゃあ私たち本当にパパのところに
行ってもいいのね?」
「うん」
「時々は理恵と一緒にお母さんにも会いに来るね」
「ああ、そうだな。そうしてくれれば、きっとお母さんも喜ぶよ」
重男は微笑んだ。
(99)
重男は話題を変えた。
「終末は三浦のお墓でお母さんの納骨だけど天気が悪そうだな」
「うん、さっきもパパのところでおばあちゃんが話してたけど、
関東地方は大雨みたいだって」
理恵は昔から知っている人のように話した。
初めて会ったはずのパパとおばあちゃんにもう親しんだようだ。
やはり親子であり孫なのであろうか。
その夜、重男は自分のアパートに戻った。
深夜、そろそろ布団に入って寝ようかという時刻に電話が鳴った。
「はい井桁です」
「もしもし・・・」
相手は杏子の前夫、孝之だった。
「井桁さん、あの・・・、理沙たちから話は伺ったかと思いますが」
重男はいったん唾を飲み込んでから返事をした。
「ええ、話は聞きました。理沙と理恵をよろしくお願いします。
いや、もともとあなたの娘さんなんだから、僕から言うのもおかしいですけど」
孝之は安心したような声で答えた。
「いえいえ、とんでもない。井桁さんが承知していただいて本当に嬉しいです。
永いこと杏子や子供たちを見捨てた自分に、本当の父親の資格があるか
とずっと悩んでいたんです」
「そんなことはない。今からでも遅くはないんですから、これからは
娘さんたちをしっかり育ててあげて下さい」
(100)
重男は次第に理沙と理恵を名前でなく、もはや他人の子のように娘さんと
呼んでいる自分に気づいた。
もう、自分の子供ではなく他所の子供になるんだな・・・
「あの・・・吉宗さん。最後にお願いがあるのですが」
「はい、どのような?」
「杏子の位牌もいっしょに引き取って貰えませんか?」
「・・・・」
孝之は一瞬沈黙した。
重男の申し出にどう返事すればいいか戸惑っているようだ。
「杏子を・・・ですか。それは構いませんが、井桁さんはそれでも?」
「ええ、娘たちも苦労を共にしたお母さんと一緒にいたいだろうし、
それに・・・」
今度は重男がいったん口を閉じてから言った。
「誰よりも杏子があなたのもとに帰りたがっていたのです」
(101)
重男は杏子が入院していた時から杏子の本当の気持ちに気づいていた。
せめて死んだ後にでも杏子の思いを叶えさせてあげたい。
しばらく沈黙した孝之は漸く口を開いた。
「はい、長い間の自分の不甲斐なさを詫びる気持ちもありますし、
井桁さんさえ許していただけるなら、杏子を私の手元に引き取り
たいと思います」
「それでは吉宗さんがこちらに越してこられたら
娘さんたちと一緒に・・・」
重男は受話器を静かに置いた。
その姿勢のまま、しばらくじっと動かない。
漸く重い腰を上げて布団に滑り込んだ。
横向きになって目を閉じた。
しばらくすると一筋の涙が目じりからこぼれた。
(1)
週末は天気が大荒れだった。
折からの低気圧の接近で、秋には珍しく大雨が降った。
土曜の夕方、土砂降りの中をひとりの年配の男が小料理屋に入ってくる。
「いらっしゃい、大雨で大変ですね」
女将の声に男はちらと目線を向けると会釈をしてカウンター
の端に陣取った。
「何からご用意しましょうか」
ちらちらと店内に目を見やっている男に女将が声を掛けた。
「うむ、夕飯がまだなんで、何か煮物でもあったら。
それから取りあえずビールがいいかな」
「はい」
店内には他には奥の隅に数人が畳敷きの上で酒を呑んでいる。
カウンターの中はかなりの年寄りの爺さんが料理を造っているだけだ。
女将はカウンターの男につけだしの珍味とビールを置いた。
男がコップを手にすると、すかさず女将がビールを取って注いだ。
「あ、こりゃすまんね」
「いえ、最初だけのサービスです」
女将は微笑んで答えた。
「お客さんはこの辺の方ではないですね。お仕事でいらしたんですか?」
「うむ、まあそんなとこだ」
男はちらちらと女将の顔を見るも、それ以上は何も言わなかった。
(2)
「お客さん、お客さん」
女将の声で男はカウンターから顔を上げた。
「だいぶ時間が経ってますけど時間は大丈夫ですか?」
男は時計を見てちょっと驚いたようだ。
「おっ、もうこんな時間か」
周りを見渡すと他のお客はもう誰もいなかった。
カウンターで調理をしていた年寄りの姿も見えない。
外の雨はまだ相当降っている音がする。
「女将さんこの辺に泊まれるところはあるかね。ちょっと寄ったつもりが
寝すぎたよ。もう電車も無いだろう」
「はい、駅前ですからいくらでもありますよ。あまり立派なのはありませんが」
といって女将は宿屋一覧のチラシを男に手渡して笑った。
「だいぶお疲れのようですね」
「うむ、まあな。居眠りのつもりが一時間も寝てしまうとはな。
どうも歳のせいかね、日ごろの疲れが残ってるようだ」
男は首筋を片手で揉みながら、残りの酒をコップに注いだ。
「ところでつかぬことをお聞きしますが、女将さんはこの店を一人で
やっているんですか?」
「え、ええ」
「ふーん。さっき料理をこしらえていたじいさんがおられたが」
女将は土間に出てきて他の客の使った食器を片付けながら答えた。
「あの人は通いで来てもらってるんです。でももう年なので
ここを辞めたいと前から言ってましてね」
(3)
「ほう、それは大変だな。また新しく料理人を雇うんですか?」
「いえ、新しく雇うほどお客さんも多くないし、いっそのことお店を
畳もうかと考えてるんですよ」
男はちょっと目を丸くした。
「店を畳む?見た目はこの店は永く開いていたような造りだけど
閉じちゃうのかい?何だかもったいないね」
女将はカウンターの中に戻ると洗い物を始めた。
「私ひとりではお店を続けるのは無理だし、東京にいる息子が一緒に暮らさないか
って言ってくれてるんで、いっそのこと東京に行こうかと思ってるんですよ」
男は腕組をして考え込むような姿勢になった。
「ふーん、そうかあ。東京にねえ」
「お客さんは東京のかたですか?」
「え、ああ、神奈川ですよ」
「そうですか。こっちの方の言葉じゃないから・・・。こんな千葉の片田舎
のお店じゃ、あまりお口に合わなかったんじゃないですか?」
「いや、どれも美味かったよ」
男は立ち上がって財布を取り出した。
それを目にした女将はレジのところに行って計算を始めた。
「女将さん、もし一緒にお店を続けてくれる男がいたら店を続ける気は
まだあるかね?」
突然の問いに女将の手が止まった。
「え?・・・」
(4)
女将は計算をして勘定書きを男に手渡しながら答えた。
「以前にお店を一緒にやってもいいという方がいたんですけど、
事情があったらしくて駄目になったんです」
「うむ」
「もうこの辺が潮時なんですかねえ。私ももう若くないし」
男は財布からお金を出しながら言った。
「もし、その男がまた現れたらどうです。続ける気はありますか?」
「えっ!!」
女将は驚いた表情で客の男を見つめた。
「あの・・・どうしてそんなことを言われるんですか?その方のこと
ご存知かなにか・・・」
「うむ。女将さん、もしその男がまた戻ってきたなら
店を続ける気はあるかい?」
「ええっ?。でもその方は事情があってもうここには来れないと・・・」
男は財布から名刺を一枚取り出して女将に手渡した。
(5)
「出すつもりはなかったが信用して欲しい。あいつは必ずここに戻ってくる。
いや、俺があいつの気持ちを聞いたわけでも話をしたわけでもない。
俺の勘なんだ。あいつはきっといつかまたここに来る。
それを信じてくれるなら、もうしばらくだけ店を続けてみて欲しいんだよ」
男は立ち上がって清算した。
女将は無言でお釣りを手渡した。
そしてまだ土砂降りの中、男が入り口を開けるのを傍まで来て手伝いながら
女将は言った。
「あの・・・。もうしばらくお店は続けてみます」
男は女将のその一言に黙って頷くと、駅前の通りの方へと歩いて行った。
女将は男が立ち去ったあと、店の中でもう一度男に手渡された
名刺を見た。
「成増食品 製造部長 飯田・・・」
作者さん乙です!
ほんとに大詰めまできてしまいましたね
最後まで頑張ってください
(6)
土曜日の大雨から一転して翌日の日曜日は快晴だった。
三浦半島の中ほどの小高い山の中腹。
杏子の実家の墓がある霊園はハイキングコースも
近くを通っているだけにハイカーも多い。
低気圧の通過した後の空は真っ青に晴れ渡っていた。
爽やかな秋風の吹く中、遠くは富士山、そして相模湾が一望にできた。
昼前に住職の読経も終わり、無事、杏子の遺骨は両親のお墓に
収められた。
「お義兄さん、本当に無理を言ってすみません」
重男は杏子の実兄である真一夫婦に礼を言った。
「いえいえ、これできっと杏子も両親の元で安心して眠れることでしょう」
真一は重男に頭を下げた。
そして今度は理沙たちの方を向いて言った。
「理沙さんと理恵さんは、今度横須賀のお父さんの方に戻るんでしょう?
もう会うこともないかもしれないけど、元気でな。
時々はお母さんのお墓にお参りに来てくださいね」
「はい、いろいろお世話になりました」
理沙と理恵はぺこっと頭を下げた。
(7)
「それじゃ私たちはこれで・・・」
立ち去る真一夫婦を重男たちは見送った。
晴れ渡った青空の中、秋の風はとても心地よい。
なんだか立ち去りがたい気持ちにさせる。
重男はぼんやりと相模湾のはるか遠くに見える伊豆半島を眺めた。
「一度でいいからお母さん連れてあそこまで行きたかったな」
誰にともなく呟いた。
以前に杏子たちとここを訪れた際にも、ここで同じことを言った気がする。
その時には、杏子もきっといつか行きましょうねと約束してくれた。
重男は墓石の傍に近寄った。
沢野 杏子 享年36
沢野家の墓だから名前も旧姓で彫ってある。
重男はそっとその名前を指でなでた。
「お父さん、そろそろ帰ろう?」
理沙が重男に声をかけた。
(8)
「あっ、タンポポだ!」
墓の向こうで、理恵が傍の草むらから綿毛のついたタンポポを摘みあげた。
「お姉ちゃん、タンポポだよ。お母さんが大好きだったの知ってる?」
「知ってるわよ、押し花にしてたくらいだもん」
理沙が答えた。
理恵は相模湾を見下ろす緑の斜面の方を向くと、手に持った
白く綿毛になったタンポポに向かって息を吹きかけた。
折からの秋風に乗って、白い綿毛は一瞬広がるとすぐに舞い上がり、
飛んでいった。
理恵と理沙はそのままゆっくりと霊園の下りの一本道へと歩いて行く。
飛んでいく綿毛を見やった重男は、未だ立ち去りがたく、また杏子の墓石
の傍にしゃがみこんだ。
まだまだ杏子と語り足りなかった気がする。
もっともっと家族の時間が欲しかった。
今日でもうみんなお別れなのか?
片手で冷たい墓石を撫でて俯いた。
「お父さん・・・」
いつのまにか理沙が重男の後ろに戻ってきている。
(9)
重男は振り向かずに俯いていた。
「お父さん、ありがとう」
重男は微動だにしない。
「お父さん、本当はお母さんが永くない病気だってこと、
知ってて結婚してくれたんでしょう?」
重男は何も言わず歯を食いしばった。
重男の真下に次々と滴が落ち、墓石に滲んだ。
「私たち、離ればなれになっても、お父さんのことは絶対忘れないからね」
「お姉ちゃーん、早くー」
道の向こうで理恵が呼ぶ声が聞こえる。
「今行くからー」
理沙は理恵にそう答えると、去っていった。
しばらくじっとしていた重男も漸く腰を上げ、
ハンカチを取り出して濡れたメガネを拭いて歩き出そうとした。
その時、胸元にタンポポの綿毛が一本付いているのに気づいた。
さっき、理恵が吹き飛ばしたのがくっついたのだろう。
(10)
「タンポポの綿毛って自由にどこにでも飛んでいけるから羨ましい」
入院していたとき、杏子が屋上で言った言葉が思い出された。
自由に体が動かなくなって、なおさら杏子には風に吹かれて
どこまでも飛んでいけるタンポポの綿毛が羨ましかったに違いない。
重男の胸元についた綿毛は、あたかも杏子が重男との最後のお別れに
綿毛の化身となって、重男の元に立ち寄ったように思われた。
重男はそっと指先で綿毛を摘んだ。
そして手のひらに載せると、紅葉が始まりかけている緑の斜面から
相模湾の方に向けて手を差し出した。
秋風に吹き飛ばされて、一本の綿毛はどこへとも無く消えていった。
さようなら杏子・・・
「お父さーん!」
墓地の斜面の一本道の向こうで理沙が手を振っている。
重男は軽く手を上げて答えると、一本道を下って行った。
愛のシルエット 完
長い間お付き合いありがとうございました。
恐らく二度と長文を書くことは無いと思います。
それではさようなら。
>>542 最初、ぜんぜん関係ない板に
「マニアックなエロ小説」として貼られていたのを見てから
興味本位で読み始めました。
正直、pgrしていました。
でも気がついたら続きが気になってしょうがない作品になっていて
追いかけるのが楽しみになりました。
作者さん、長い間お疲れ様でした。面白かったです。
お体大切になさってくださいね。
作者さん、長い間お疲れさまでした。
リーマン板の頃からずっと愛読していました。
これ程大作になるとは思いませんでしたが、すばらしい作品に出会えた事に感謝します。
本当にありがとうございます。
>>3のコピペだけど私も
「追いかけてきますたッ(`・ω・´)ゞ 乙です!! 」
の一人です。
最初の頃は重男も杏子も変なキャラだと思っていましたが、
グイグイ引きこまれて行きました。
まさかこんな形で終わるとは思いませんでしたが、
終わったと思うと何だか寂しいですね。
本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。
最初はウンコ漏らしのレスの合間にまたマニアックなエロ話で始まったのにいつの間にかこんな超大作の感動する話に。・゚・(ノД`)・゚・。
重男はヒーローです!
作者さん、お体、お大事に!!おもしろかったです!!!
私も「ついていきます(`・ω・´)ゞ」のうちの一人です。
リーマン板など普段まったく読まない私ですが、
どこかから引き寄せられるようにこのお話を最初から
見させていただきました。
思えば1年以上も長いお付き合いだったんですね。
作者さんお疲れ様でした。
作者さん長い間お疲れさまでした。
一番初めのスレから読んでました。
最後まで続けてくれてありがとう。
ゆっくり休んでください。
お体お大事に
作者さんお疲れ様でした。
私も普段はリーマン板など覗かないのですが、引き寄せられるように
ずっとついてきた読者でした。
終わってしまったと思うとなんだかさみしいですが、楽しかったです。
ありがとうございました。