1 :
無名草子さん:
2 :
無名草子さん:2013/01/01(火) 13:00:25.17
3 :
無名草子さん:2013/01/01(火) 13:58:20.19
4 :
無名草子さん:2013/01/01(火) 14:08:03.84
元日に新スレとは、めでたい。おめでとうございます。
5 :
予定:2013/01/01(火) 14:25:55.47
韓のくに紀行
モンゴル紀行
人間の集団について
6 :
無名草子さん:2013/01/01(火) 17:29:59.52
7 :
無名草子さん:2013/01/01(火) 18:15:41.18
8 :
無名草子さん:2013/01/01(火) 19:22:57.78
元日から司馬遼太郎なの?
『韓のくに紀行』は、週刊朝日の昭和46年7月16日号−昭和47年2月4日号に連載された。
基礎になった旅は、昭和46年5月15日から5月18日までの4日間の韓国旅行である。
たった4日間の旅で、このボリューム。おそれいった。
>>9 『街道をゆく』は第2巻から始めるの?
第1巻はやらないの?
>>11 街道は全集に収載された順序でやろうと思っているので、単行本・文庫本の順序と異なることがあります。
「韓のくに紀行」は第2巻、「モンゴル紀行」は第5巻です。
第1巻に収載された街道は「湖西のみち」「竹内街道」「甲州街道」「葛城みち」「長州路」の五篇でした。
『街道をゆく』の最終巻は、司馬さんが終戦を迎えた地である「佐野から関東平野へ」
という構想だったそうだが、未完に終わってしまったな。
第1編 【加羅の旅】
第1章 韓国へ
この章は、日本国内におけるお話。旅行社のミス・チャ(車)との会話。
「日本人も朝鮮人も一つだ」といった感じの無邪気な発言にすら、「それは日韓同祖論か?」
と過剰に反応(しかも相手は旅行社の顧客)してしまう韓国人の姿が描かれる。
∧__∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∩`Д´>< つまりゴウヘイ(合併)しようとおっしゃるかニダ?
□………(つ | \_______________
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
“日本帝国主義支配三十六年”
★36年の日本帝国主義支配のせいで
★朝鮮半島の人口が2倍に増えて
★24歳だった平均寿命が30年以上伸ばされて
★人口の30%を占めていた奴隷が開放されて
★幼児売春や幼児売買が禁止されて
★5200校以上の小学校がつくられて
★師範学校や高等学校が、あわせて1000以上つくられて
★239万人が就学して、識字率が4%から61%に上がって
★大学が造られて、病院が造られて
★日本人はずっと徴兵されていて戦場で大量に死んだのに
★朝鮮人は終戦間近の1年しか徴兵されず、内地の勤労動員だけで済まされていて
★志願兵の朝鮮人が戦死したら、日本人と同じく英霊として祀られてしまって
俺も司馬さんと同じくウラル・アルタイ語族という概念に慣れてしまっているのだが、
どうやら現在ではウラル語族とアルタイ語族との関連性は否定されているようである。
本文に出てくるフィンランドやハンガリーはウラル語族。
なお、日本語・朝鮮語をアルタイ諸語に含めるのも、そういう学説があるというだけで
通説ではないようである。
百済郡の健郡は、百済最後の王・義慈王の王子・善光が難波に定住するようになったことと関係する。
なお、善光の兄・豊璋は日本の朝廷から兵を借りて百済に帰国し、白村江の戦いで大敗を喫して
高句麗へ逃亡した人物である。
在日朝鮮人にしても、被差別部落にしても、差別されたことのない側からみると、
「えっ?こんなことで差別されたと感じるの?」と思うような些細というか意外なことで
被差別意識をもつようだ。自意識過剰というほかないのだが、庶民同士におつき合い
のレベルでなら、相手の日本人も我慢できないことはない。
しかし、政治問題として韓国が“日本帝国主義支配三十六年”を出してくるのであれば、
日本政府は自国の立場の正当性を主張していかなければならないな。
自意識過剰を国家の外交レベルにまで持ち込まれては、かなわない。
>>15 加羅の旅とはいうものの、前半はずっと対馬藩の対朝鮮外交の話だな。
南北朝鮮がここまで色合いの違う国になってしまうと、統一しなくてよいような気もするが、
北朝鮮の国民の不幸を思うとき、金王朝は遅かれ早かれ滅亡させなければならないであろう。
その前提として、北朝鮮の保護者である中国共産党の一党独裁を終了させる必要がある。
梃子になるのは、香港だろうな。香港のような自由と民主主義が欲しいと中国の国民が願うことが梃子になる。
そして、中国共産党の支配が動揺し、内乱になる。金王朝を撲滅するのは、その機会だな。
韓流ファンか、韓国企業が取引先ででもないかぎり、
ふつうの日本人は、一年のうち5分ぐらいしか韓国のことを考えないよ。
>>14 「私の関東地図」という司馬作品にしてはやけにセンチメンタルな私小説があるな。
第2章 釜山の倭館
飛行機は釜山空港に到着しているのだが、これから訪れようとしている倭館跡についての前説が長い。
>>27 なぜか評論随筆枠で語られてしまう「私の関東地図」であるが、小説だよな。
しかも作者が主人公でラストで大泣きしてしまう。
司馬作品のなかでは、ある意味もっとも驚いた一作であった。
>>14 「私の関東地図」は
“その後、箕輪にも佐野にも、あるいは九十九里浜というところにも行っていない”
の一行で締めくくられている。
これを読むと、「街道をゆく」の最後の旅は、
九十九里浜で終わらせてあげたかったと思うね。
先日から「竜馬がゆく」を読み始めたんだけどさ……。
なにこのハーレムラノベ。
>>33 たしか涙で濡れた顔を海水で洗うシーンがあったと覚えていたんだけど、
佐野に海はないはずだと自分の記憶に自信がなかった。
と思っていたら、佐野から九十九里浜に移動してたのね。やっとわかった。
『歴史の舞台』の文庫本には「イリ十日記」に関する写真がふんだんに載せられている。
トルスングリさんの写真もある。若くてスタイルもよくてどちらかというと可愛らしい顔ではある。
しかしこの程度の顔で、故障したトイレの修理の手配をしてくれなかったら、腹は立つと思う。
>>37 紡績工場で働くウイグル人女性の写真もグラビアにある。
風景や動植物や物品は写真があった方がわかりやすいけど、
女性は顔ではなく後ろ姿の写真の方が作品のイメージを壊さないと思う。
司馬遼太郎という人は女性の容姿を手放しに褒める癖がある。
後日その方の写真を拝見して首をひねることが多い。
>>38 こういうことをいつもやっていると、創作上の人物であるお田鶴さまのような人まで、
実はブスなのではと疑ってしまうようになる。
第3章 倭城と倭館
司馬さんの釜山での目的は対馬藩の倭館跡を見学することであったが、
ガイドのミセス・イム(任忠実)の勘違いにより、壬辰ノ倭乱の倭城に案内されてしまった。
ホテルの窓から見えた金井山
http://www.pusannavi.com/miru/1054/# そこから一行は釜山の市街に引き返し、倭城に向かいました。
はじめに行ったのが釜山鎮城で、次に行った動物園が釜山鎮支城であろうと思われます。
文禄・慶長の役の最初の戦闘である釜山鎮の戦い(1592年4月13日)は、
日本軍の圧倒的な勝利に終りました。日本軍の指揮官は、対馬の宗義智です。
翌14日の早朝、宗義智は東莱城を攻撃しました。
日本風の石垣が残るこの丘は子城台公園と呼ばれ、現在は、簡単な運動が出来る施設、
そして園内をぐるっと一周できる形で作られた散歩道などがあると書かれていますが、
動物園はなくなったのかもしれませんね。
高麗による対馬への侵略は、1389年に行われています(康応の外寇)。
李氏朝鮮も、1419年に侵略戦争を行っています(応永の外寇)。
第4章 釜山にて
対馬の対韓外交。とくに慶応4年、明治維新後の対韓外交は、征韓論や江華島事件につながってゆく。
対馬藩の本土における領土は、筑前国・豊前国・肥前国だけでなく、下野国にもあった。
元禄期の対馬藩の奉行・陶山庄右衛門は、訥庵の号とイノシシ退治で有名です。
雨森芳洲とは木下順庵の同門で、友人でもありました。
対馬は朝鮮に朝貢していたから韓国の領土であると主張する朝鮮日報の論理からすると、
中国に朝貢していた朝鮮は中国の領土ということになる。
どうしてこういうバカなことを平気で口にすることができるのか、不思議である。
半島すべてを精神病院にすべきである。
“皇祖・皇上”の文言を含む日本の親書が受領拒否された後、新政府の外務省から朝鮮へ派遣されたのは、
佐田白茅(久留米藩士)、と森山茂である。これが明治3年3月のことであるが、この紀行では「三人の外交官」
で「うちひとりは天誅組生き残り」とある。
>>53 >三人の外交官
明治3年3月の佐田白茅と森山茂の派遣は、調査団という名目だよ。
明治3年10月に、外務卿・沢宣嘉の国書を携えた外務権少丞の吉岡弘毅が正式に派遣されている。
その随員が森山茂と広津弘信だ。合計三人。「韓のくに紀行」に書かれているのは、こっちだろう。
ただし、この3人のうちの誰が天誅組の生き残りなのかは知らない。
韓国では「服装だけは頑固に変えず、いまなお、この釜山市で一目瞭然であるように、
老若男女の多くが、その「俗」を守りつづけている」とあるが、韓国で日常の服装として
韓服が着用された最後の時期が、司馬さんのこの旅行の時期だと思われる。
で、いつになったら倭館跡を見学するんだ?
唐浦の海戦(1592/6/2)
6月2日朝、李舜臣は唐浦に停泊中の来島通之・亀井茲矩率いる20余隻の船団を攻撃し、来島通之を戦死させた。
閑山洋の海戦(1592/7/8)
脇坂安治は抜け駆けをして7月7日に巨済島へ単独出撃
脇坂艦隊は李舜臣の迎撃を受け大きな被害を出し、脇坂安治も窮地に陥るが、機動性を生かして撤退(1592/7/8)
脇坂の抜け駆けを知った九鬼嘉隆と加藤嘉明の水軍は7月6日に釜山出帆
安骨浦に日本艦隊が停泊しているとの報告を受けた李舜臣は、10日に停泊中の日本艦隊を襲撃
攻撃を受けた日本艦隊は夜の内に安骨浦を脱出して帰投し、朝鮮水軍も翌日から根拠地へ帰投
以上が文禄の役における海戦です。
露梁津の海戦は慶長の役の海戦ですが、朝鮮の役のなかで最大の海戦です。
秀吉没後に小西行長軍を中心とする陸兵を帰国させる途上で起きた海戦です。
明治38年の日本海海戦の前に、鎮海湾で川田功少佐(当時は少尉)が李舜臣の霊に祈った、
という話は、川田功の小説のなかに出てくる話なのかもしれません。
申し遅れましたが、川田功少佐は退官後、小説家になられています。
>>63 これ本当は帰国してから調べたんじゃなくて、旅行前から地図で調べていたと思うよ。
「街道をゆく」は、偶然の出来事じゃなくても、わざと偶然の出来事のように書くことが、よくある。
>>64 書いてあることを素直に認めてやれよ。
しかし、「倭館、倭館」と連載5回も引っ張っておいて、
「おや竜頭山公園は、倭館跡だったんですか」というオチは、いかにもくさいな。
結局、ミセス・イムは客が希望していた倭館を倭城と勘違いしたまま、倭館へは連れていかなかったということだからな。
あれだけ「倭館、倭館」と騒いでいたんだから、旅行中も、司馬は「倭館へ連れてゆけ」と強く希望したはずだ。
おかしい。
文章の好みでいうと、昭和45年から50年あたりが
密度の濃さと判りやすさのバランスが良くて
ピークかなという気がする。
第6章 駕洛国の故地
朝鮮人が漢民族風に改姓した始めは、新羅の武烈王(7c)であるといわれている。
『対談・中国を考える』のあとがきには、司馬さんの大阪外語時代のモンゴル語の先生の名前が
書かれていませんでしたが、ウルトンバートル先生であることが判明いたしました。
78 :
無名草子さん:2013/01/05(土) 19:01:49.60
「項羽と劉邦」で韓信の世話をしていた小蛾という女性は、もう少し出番があってもよかったのにな。
一回こっきりだったね。
>>78 『風神の門』の小若みたぁにフェイドアウトしただぎゃあ。
第2編 【新羅の旅】
第8章 首露王陵
ここから第2編「新羅の旅」なんだが、場所は前章と同じく金海。
新羅のシの字も出てこない。厳密には次章から、新羅の旅。
>>80 こういうのって、男子トイレ7個と女子トイレ1個を一部屋に収めたみたいで、すごく嫌だよな。
しょっぱなに竜谷大学図書館の屋根が瓦葺きか銅葺きかという話が出てくるが、
現在の建物よりも、二つか三つ前の建物の話なので、パス。
>>82 そのような現存しない建造物等の画像を執拗に追っかけるのが、このスレの仕事だぞ。
さぼるな。
88 :
無名草子さん:2013/01/06(日) 19:31:05.77
>>83 あったぞ。
龍谷大学大宮図書館の画像があった。司馬さんが話題にしている図書館がこれならば、
正解は瓦葺きだな。
昭和48年に竣工した図書館を新深草図書館というから、おそらく大宮図書館で間違いない。
89 :
無名草子さん:2013/01/06(日) 19:33:03.87
慶州朴氏は赫居世の子孫を名乗っている。
朴一族は創氏改名の時代に日本名を名乗ることになったとき、
赫居世が新羅国を建国したことと蘿井という井戸に近い場所で生まれたという故事から
新井姓を通名として使用する事を好んだ。
また、朴の字を分解した「木下」姓を名乗ることも多い。
周防の大内氏は、百済の斉明王の第三皇子・琳聖太子の末裔であると自称しているが、
周防国で周防権介を世襲した在庁官人の出であること以外、実態は不明である。
百済側の史料には琳聖太子の名前はなく、架空の人物であると言われている。
なお、斉明王は聖明王の誤りである。
第10章 慶州仏国寺
韓国から修学旅行で日本に来た韓国人中学生が、広隆寺の弥勒半跏思惟像を拝観して、
「これも日本が韓国から掠奪したものだ」と言ったそうだ。
日本の新聞は、「ごくさらりとした好意的な書き方」をして、この事実を紹介したらしい。
40年以上も前から、韓国人と日本の新聞はバカだった。
秦氏は、この作品では朝鮮からの渡来人になっている。
『兜率天の巡礼』では、ユダヤ人だった。
また朝鮮人がやってきた。
何度目かの罵倒を日本にむかって繰りかえした。
日本はとっくの以前に戦争などやめてしまっていて問題は解消しているはずなのだが、
しかし朝鮮人にとっては具体的存在である日本がどうであれ、
自分の観念の中にある戦前の日本人像にむかって爆発を繰りかえしているために、
罵詈罵倒はもはや儀式のようになってしまっているようであった。
ソ連邦が軍事的脅威であった冷戦期に、ソ連邦の隣国日本にサヨクが多かったのはわかるんだよな。
今川につくか織田につくかで三河の武士は二分された。
いまのサヨクって何なの?バカ?
>>103 この章に出てくる背広氏のような歴史認識を日本に強要する朝鮮人は、
いじめ問題でいうと、被害者に転校を勧める学校に似ているな。
日本の戦争責任を否定するつもりはないが、責任を果たした後は隣国どうしの儀礼が残るのみで、
責任を果たした国の責任というものはない。
未来永劫責任が続くのであれば、一度でも戦争責任を負った敗戦国の責任で世界は充満することになる。
そういうものが、サヨクが大好きな
「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会」なんですか?
圧迫と偏狭そのものという気がしますね。
>>103 一部の跳ね上がりと戦争を煽った無責任な言論人を除くと、
現代の日本人が憧れるのは同時代人ではなくて、戦争中の日本人だ。
これは多くの日本人の正直な気持ちだろう。
それにもかかわらず、戦争中の日本を手放しで賞賛できない国民のストレスに配慮しない日本の政党は、滅びざるを得ないと思うよ。
ほぼすべての日本の家族が戦争に関わっているんだ。
先祖の悪口を言われて気分の良くなる日本人がおるわけないだろう。
サヨクは朝鮮半島へ帰れ。
日本は、百済・新羅から渡来人を受け入れたぞ。
朝鮮はそのお返しに、日本のサヨクを引き取れ。
第11章 歌垣
仏国寺の松林の歌垣で反日背広氏にからまれた井上博道氏の不運のお話の続きです。
男女の集団乱交につながるおそれのある歌垣は、日本では宝亀元年(770)に禁止されました。
韓国では、いまでも続いています。日本国内でみられる淫靡な性行為の習俗が、どの民族に
よって行われているかは、想像が容易であります。
日本の野党が野合をお得意とするのは、そのいかがわしい性風俗の名残であります。
前の章で反日の背広氏を登場させたので、この章では友好的な韓国人を7人も登場させているな。
同行した詩人のTさんって誰?勝手に谷川俊太郎だと思ってたんだけど、
なんか違うみたい。
だって他にイニシャルTの詩人といえば、高村光太郎しか知らない。
釜山 → 金海の入江 → 首露王陵 → 慶州・仏国寺 → 掛陵 → 友鹿洞
戦時中の軍医で戦後名古屋で外科医を開業した市村龍文氏の話によって
司馬さんは朝鮮ノ役の降倭について興味をもつ。
この市村龍文、『明治砂糖演義』の著者と同一人物なのであろうか?
沙也可は誰かについての諸説
1.雑賀説…そのうち司馬はこれを言いはじめる。
2.岡本(阿蘇宮)越後守説…この章で没。
3.原田信種説
沙也可を扱った作品
江宮隆之著『沙也可―義に生きた降倭の将―』
仲路さとる著『新戦国志』
河承男・司敬著『沙也可 日韓・戦国時代絵巻』
紀州東照宮に二階俊博衆議院議員の揮毫で沙也可の記念碑が建てられている。
おかげで二階議員はネトウヨから売国奴と罵られている。
http://blogs.yahoo.co.jp/x1konno/33893387.html
ミス・チャもいまは、70歳ぐらいの婆さんだろうな。
125 :
無名草子さん:2013/01/08(火) 17:29:33.90
沙也可は一般には女性の名前なんで初読のときすげえ違和感があった。
150年前、日本にやってきたペリー艦隊を最もおどろかせたのが、伊豆下田公衆浴場の混浴風景だった。
キリスト教を基盤とする欧米人の風習やモラルから見れば、
公共の場で男女ともに異性の前で平然と裸をさらけ出すような光景は、世界観を揺るがすほどの衝撃だった。
この紀行から40年後の韓国で、目下の者が目上の者の前で煙草を吸わないかというと、
多少事情は変化しているらしい。世代によって違いもあるのだろうが、「絶対」吸わない
ということはないようだ。まあ、これは韓流ドラマを見ている奴のほうが詳しいか。俺は見ない。
遣隋使と煬帝の話などは他作品でも頻出なので、ここでは割愛する。
韓国なんかどうでもいい
第15章 沙也可の降伏
私は慕夏堂の村に着くまでのあいだに、沙也可について結論を出しておきたいとおもった。
沙也可が「中華の文明を慕って」投降したという部分について、藤原惺窩と姜の挿話を
通じて考えている章だ。
この部分は、『この国のかたち』5巻「藤原惺窩」に敷衍されている。
前田利家と加藤清正の挿話など、司馬作品で何度お目にかかったことか数えきれない。
ヒッピーの語がこの作品が書かれた時代の空気を匂わせるな。
日本ではHippieと瘋癲(フーテン)は同義語である。
瘋癲は元来精神異常の状態を指す語であったが、
後に1960〜70年代における和風ヒッピーの俗称となった。
>>136 田舎では、あのファッションで歩く若者はさすがに少なかったな。
ヒッピーというとハナ肇のタメゴローしか思い浮かばない。
>>123 >1.雑賀説…そのうち司馬はこれを言いはじめる。
対馬藩士説みたいだけど?
第16章 金忠善
沙也可(金忠善)の正体について、
>>123の岡本(阿蘇宮)越後守説は既に否定された。
この章では、
>>123には掲げられていないが、対馬藩の受図書人ではないかという説を展開されている。
受図書人とは、李氏朝鮮から通交貿易を許可する証としての銅印(図書)を受けた日本人を指す。
この章では元寇によって対馬が受けた甚大な被害について述べられている。
元寇について神風が吹いて元軍・高麗軍を追い返したといったパーなことを言うのは、
そろそろよしたらどうだろうか。とくに残虐だったのは高麗軍である。
日本政府は韓国政府の歴史認識と謝罪を要求してはどうだろうか?
韓国政府と中日新聞によれば、時効はないようであるから。
>当時の対馬の住人のうち、4分の1が殺された。
>耳、鼻をそいだ上、殺した。
>女性は手のひらに穴をあけて船にくくり付けて浅瀬や海中を引きずりまわした。
>>140 さすが東方儀礼の国。お行儀のよいことで。
>>140 対馬の倭寇が朝鮮沿岸を襲うようになるのは、もちろん元寇の後。
当然の報復でしょうな。むしろおとなしすぎる報復といっていい。
146 :
無名草子さん:2013/01/09(水) 17:19:38.62
写真を見ただけで、行きたくなくなるような友鹿洞。
>>146 ミセス・イムが言っているのが正しいよね。ここは行きたくない。
この章には、いいことが書いてある。韓国人はこころして聞け。
「それは暴虐なる日帝三十余年の支配によるものです」
と、韓国の知識人は例によって千枚通しの錐のようにするどい
怨恨的発想の政治論理でもって規定しきってしまうかもしれないが、
日帝がいかに暴虐であろうとも、長い朝鮮史のなかで
その期間はたかが三十余年であるにすぎない。
李朝五百年が、朝鮮の生産力と朝鮮人の心を停滞せしめた
影響力のほうがはるかに深刻なようにおもうのだが、
しかし私の知りうるかぎりの朝鮮人で、
このことをいったひとにただ一人しか私はめぐりあっていない。
「自分をこうしたのはあいつだ、すべての不幸とすべての悪はあいつがもたらした」という式の、
自分自身の抜け落ちた議論は白刃のようにするどくもあるが、
しかしするどさがかならずしも物を生みだすものではないのである。
>>148 500年間、自分を主人公にした勧善懲悪ドラマばかりを見続けていた民族なんで、
そりゃ馬鹿になる。
その北には馬鹿の程度が韓国の100倍の国があるしな。
>>148 >「自分をこうしたのはあいつだ、すべての不幸とすべての悪はあいつがもたらした」という式の、
>自分自身の抜け落ちた議論
という朝鮮政党が、ほんの1ヶ月前まで政権に就いていたと思うと、空恐ろしくなる。
それと同類のバカ・メディアも、さっさと潰れてくれ。
いまはネットがあるから、潰れても支障はないと思うがな。
商品広告だって、一方的に垂れ流したものを見たいと思う人は少ないよ。
自分で探して見るものだろう。
地域の商店の折込広告をすばやく検索できるシステムができれば、旧来型のマスゴミは不要になると思う。
152 :
無名草子さん:2013/01/09(水) 18:42:51.25
日韓関係改善の兆しが反映された良スレだな。
>>140 本土が被害を受けていなければ被害がないかのような言い方は、島で暮らしている人々をバカにしているとおもう。
これは元冦に限らず、日本が受けた(あるいは被害者が外国であっても同じだが)侵略一般について言えること。
周辺の島ひとつというなめた気持ちが本土の人間にあるからだと思う。
島が無人島であっても同じだ。侵略は許してはならない。
>>142 >むしろおとなしすぎる報復
韓国人が日本人旅行客からカネをぼったくったとき、そういう風に思うらしいよ。
この紀行の少しあとに、その話が出てくる。
>>155 チョンを相手に交渉事を進めるときは、日本人もチョンの流儀でやるしかないよ。
こちらの態度が相手にどのように映るかを意識して芝居をしないと上手くいかない。
日本人が「親切」「優しさ」と思ってすることを、チョンは「服従」としか思わない。
民族によって同じ行為が違う意味に捉えられるのは習慣の違いで、どちらの民族が良い悪いといった問題ではない。
第18章 両班
友鹿洞は全戸両班の村であったということで、両班の話題になる。
>>123 沙也可が雑賀党だったという話は、まったく出てこないよ。
第19章 沙也可の実在
友鹿洞の広場で金容熙(77歳)という偉そうなジジイに会った話と、
沙也可を祀った鹿洞書院を訪ねた話。
金容熙は同姓同名の詩人がいるが、この紀行に出てくる金容熙とは別人。
検索してもヒットしないから、偉そうなだけの田舎の糞ジジイだろう。
>>158 この章で沙也可の話は終わりだけど、沙也可が雑賀党だったという話は、まったく出てこなかったね。
第3編 【百済の旅】
第20章 大邱のマッサージ師
ここから【百済の旅】であるが、大邱は百済ではない。もとは加羅(任那)で新羅に征服された。
300ウォンのマッサージをうけるために、大邸のホテルのフロント係に3000ウォンぼったくられた話。
韓国ではよくある話。
ぼったくりフロント係のいるホテルを特定しようと試みたが、40年前の作品なので
建物はおそらく再建されているだろう。「白と黒」を基調とした「高台」にあるホテルは、
残念ながら発見できなかった。もっとも韓国はどこへ行ってもこうなので、特定する必要もない。
『長安から北京へ』で儒教が近代国家を作るための障害になることが繰り返し指摘されていたが、
同じ儒教国の韓国についても同じような弊害がある。この章のフロント係の例が、わかりやすい。
∬
∫ ∧_,._∧ イルボンからむしり取るニダ
~━⊂<`∀´r,>つ-、
/// ./_/::::::/
|:::|/⊂ヽノ|:::| /」
/ ̄ ̄ ̄ ̄旦 ̄/|
第21章 賄賂について
前章のつづき。
ヴァチカンに駐在していた外交官X氏が誰だかはわかりませんでした。
ヴァチカンのクラブがどんなものだかも知りませんが、興味深い記事がありました。
ローマ法王庁(バチカン)の文化評議会議長(文化相に相当)ジャンフランコ・ラバジ(Gianfranco Ravasi)大司教は、
あるハンガリーの大聖堂が「今やナイトクラブに改装され、祭壇の上でストリッバーが踊っている」と例を挙げ、
維持ができなくなった教会を売却する際に、ナイトクラブとして転用されたりしないよう「最大の注意を払うように」と勧告を行いました。
韓国が賄賂大国であることは、例を挙げるのが面倒になるほどに連日報道されているから割愛する。
司馬作品では、中国における儒教の弊害を払拭するための共産主義を称賛する傾向が強い。
しかしながら、司馬さんの死後情況は大きく変化している。
2年ほど前に北京・天安門広場前に、高さ約9・5メートルの孔子の銅像が建設され、
毛沢東の遺体が安置されている毛主席記念堂を、この銅像が見下している。
中華人民共和国も、賄賂大国へ大きく舵をきったようだ。
……とっくのむかしにきってたかwww
この章で司馬さんがいいたいのは、日本は鎌倉時代にすでに脱亜しているから、
ことさらに脱亜論など唱える必要はないということだな。
近代以降、西欧と日本は様々な発明や技術の改良で人類の幸福のために
大きな貢献をしているだろう。真似っこだけの中韓は、すこし謙虚になれよ。
果実だけを食い逃げしようとしても、そうはいかんぞ。
韓国旅行でチョンに偽ブランド品をつかまされた被害者の会を日本で結成すると、
らくに会員500万人を超えると思う。
『韓のくに紀行』は昭和46年の作品だが、文明批評を本格的にやり始めた作品
という意味で重要な作品だな。それ以前にも断片的には『坂の上の雲』
などで似たようなことはやっていたが、小説の枠組の中での余談にすぎなかった。
∧,,_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
< `∀´ >彡 < マッサージ安くしとくニダ〜
(m9 つ \_________
.人 Y 彡
レ'(_)
今や、中公文庫『長安から北京へ』は、入手不可能なんだが。
>>175 まだ毛沢東が生きていた頃の中国の紀行だからな。
いまの中国しか知らない若い人には、
「長安から北京へ」はチンプンカンプンな本かもしれないな。
日韓友好のための良スレ
>>163 百済の読み方であるが、我々はクダラと習った。
不思議な漢字の読み方だなと思ったが、それ以外の読み方はないと信じてクダラと読み、
また周囲にそれ以外の読み方をする日本人は一人もいなかった。
大学生の頃、本屋で歴史地図を立ち読みしていて、百済にヒャクサイのルビが振られているのを見て愕然とした。
ヒャクサイは朝鮮語の読みに近い。クダラのほうは、この紀行にも書かれているように半島在住の倭人の読み方だったのであろう。
なにゆえ朝鮮語読みをしなければならん。
金日成はキンニッセイと読めばよい。キムなんちゃらなんて読み方は覚える気もしない。
日本はニッポンと読むだろう。日常会話の中でJapanと読む日本人はいない。
百済はクダラと読め。ヒャクサイなどというチョン読みは、直ちに禁止すべきである。
なぜ日本の出版社はチョンの圧力に屈してヒャクサイなどというチョン読みを採用した。
それともチョンを執筆者に採用したのか?
ここは日本だ。ヒャクサイなんてチョン読みをするチョンは半島へ帰れ。
マスゴミは日本を朝鮮にする気か?
ふざけるな!
反戦サヨクは、戦争中に行われる破壊行為を、平時の犯罪行為と同視する。
自衛のためであれ一切の戦争を否定する我々は、犯罪に荷担しないとでも言いたいんだろう。
ところが、日本の防衛をいかにするかについては、憲法を守れとしか言わない。
外患援助も犯罪であることは一顧だにしない。
>>178 朝鮮人の名前を朝鮮語読みする弊害は、名前が日本人の耳に馴染まず覚えにくいところにある。
名前を覚えられないから、親しみが持てない。
テレビが朝鮮人名を朝鮮語読みするようになった時期と、嫌韓がブームになった時期は、ほぼ重なる。
つまり日韓友好の邪魔をしているのはマスゴミ。ほんとゴミはゴミなことしかしない。
>>182 ロサンゼルスを現地の発音どおりに発音していたら、日本人に親しまれていないよ。
外国語は日本人が発音しやすいように日本語化しないと普及しない。
馬鹿でもわかる理屈。マスゴミの脳障害は馬鹿以下。
それとも外国語が喋れることを鼻にかけて優越感を持ってんのか?
名前と顔が一致する朝鮮人は、ぺ・ヨンジュンとキム・ヨナの二人しかいない。
ぺ・ヨンジュンはぺヤングソース焼きそばに似ているから、たまたま覚えられた。
キム・ヨナは、小文字のャュョを含んでいない4文字だから日本人にも覚えやすい。
他はすべて名前と顔が一致しない。
キム・ジョンウンが将軍三代の中の一人だということはわかるが、どれだかわからなくなることもある。
身近にいて名前と顔が一致する人のことを「知人」というだろう。
日本人と朝鮮人を疎遠にしたのは、朝鮮人名の朝鮮語読みだと思う。
漢字の音読みで朝鮮人名を呼んでいたころは、俺でも20人以上の朝鮮人の名前が言えた。
名前と顔が一致しない外国人がテレビを通じて茶の間に飛び込んでくるというのは気味悪いもので、
朝鮮人嫌いが増えるのもマスゴミの責任だな。
洛東江の想い出を語るT氏は、第18章「両班」に登場した朝鮮人T氏と同一人物です。
18章では出身地が礼泉、この章では醴泉になっていますが、礼と醴は同じ字です。
>>192 北はアメリカ軍の捕虜を虐殺した。これは戦争犯罪だな。
194 :
無名草子さん:2013/01/11(金) 15:16:12.77
倭館邑も、百済に属するんですか?
>>194 倭館邑は百済ではない。もとは任那だが、のちに新羅になる。
百済の旅が始まるのは、次章から。
第23章 倭の順なること
ここから百済の旅。
倭館邑から扶余へ向かいますが、この章では大田市儒城温泉で遅い昼食を摂りました。
∧__∧ くだらんニダ
<#`Д´>|||
( O//バンッ!!
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| |
>>199 韓国の風景は、醜いな。
日本も最近醜い風景が増えてきたから大きな口はたたけないけど、
韓国は輪をかけてひどい。画像を見てもいっこうに楽しくない。
もう貼らなくていいよ。特に都市部。それと食べ物。
“三月ノ雨ハ六朝ノ涙ニ似タリ”
これは司馬作品には頻出の漢詩である。たしか『歳月』にも出てきた。
しかし、その都度、司馬さんは出典を思い出せない。
“耿々一片の侠気”という言葉は司馬作品にはよく出てくる。
短編集『大坂侍』に収録された「盗賊と間者」の主人公・佐渡八の口癖であった。
おそらく"耿耿一片の冰心(氷心)"のことなのであろう。
>>206 雑誌掲載時は「盗賊と女と間者」であったが、単行本化に際し題名が短くされた。
三角関係の話なんで、原題のほうが優れていると思う。
>>208 よくできた話なんだよね。全集からは外されたけど。
全集に収録された「泥棒名人」よりはずっと面白い。
>>203 たぶん「三月雨似六朝涙」のようになるんだろうが、漢詩サイトにヒットしないな。
司馬さんが自作したんじゃないのか?
>>209 寒風のなかのうどんの屋台のシーンが大好きだ。
温かそうで美味そうで、思い出すと腹がへってくる。
>>209 大坂町奉行所の与力・田中松次郎が、内山彦次郎に似すぎていたのが不満だったのかもな。
モデルが内山彦次郎なんだから似ているのは当たり前なんだけど、内山彦次郎を知っている
読者にはちょっと変な感じがする。フィクションなのに内山彦次郎色が強すぎるというか。
内山彦次郎本人が脇で登場する司馬作品は、他にあるからね。全集から外されたのは、そんな理由かな。
>>202 扶余というと『朱盗』の扶余ノ穴蛙を思い出すな。
>>213 司馬作品では珍しく奈良時代を舞台にした小説。
謀反人藤原広嗣が盗人穴蛙の前で小人物に見えてしまう不思議な魅力に満ちた作品だったな。
>>214 神武東征伝説を小説化した『八タ烏』も面白い。
平安時代だと『外法仏』もあるな。
数は少ないが古代モノも上手いよ。
第25章 百済仏
この章から最終章までは、白村江の海戦に至るまでのお話になります。
この章では、607年の高句麗と突厥の同盟から、648年の羅唐同盟までが語られます。
シルクロードにはロマンを感じるが、古代チョンの歴史にはまったくロマンを感じないな。
子孫があれだと、古代の先祖までが軽んじられる。
日本が敗ける海戦の話なぞ、気分が乗ってこねーよ。
>>215 平安時代だと「牛黄加持」もあるな。長編の「空海の風景」「義経」。
『竜馬がゆく』を読んでみたら、女性キャラの魅力のなさに唖然とした。
ラノベ読んでるほうがマシ。
日本の若者が極左や極右になる場合も、かつて(朝鮮人と)同祖であった血が騒ぐのか、
他民族にはちょっと考えられぬほどに観念の一大振動体になり、
政治青年という古代巫人そのままの憑依的人格になる場合が多いから、
われわれは原型としては似ているのである。
…似ているのではなく、朝鮮人そのものだからw
>>175 Amazonで在庫2点ありとなっていたよ。
紀行や評論随筆でも、司馬遼太郎は絶版にはならんだろう。
俺は中央公論連載中に読んだ。そのときの原題は『中国の旅』だった。
>>207 李夕湖先生のプロフィールは、あとで紹介されているわけではないから、
君の書き込みが貴重な資料になった。また頼む。
>>219 女人の肌以上だといって百済仏を撫で回す李夕湖先生、キモいです。
学校の現状は、テレビでコメンテーターが国会議員に向かって頭ごなしに文句を言っているのと同じ。
校長・教頭は、テレビでコメンテーターにペコペコしている哀れな国会議員と同じだよ。
管理職を増員して上下関係を厳しくしないと、教師の非常識は永久に糺せないよ。
みんな同窓会へ行けばわかるだろう。教師だけが学生時代のノリを何歳になっても保持している。
管理職と管理職候補以外はね。
230 :
無名草子さん:2013/01/13(日) 09:18:06.12
歳よ
今更
燃えよ剣
がおもしれえ
唐と同盟したときの新羅の王は有名な武烈王である。
朝鮮人が漢民族風に改姓したのは、唐との同盟を円滑に進めるためであった(
>>67参照)。
この武烈王は、661年に死亡している。百済滅亡(663年)のときの新羅王は、
武烈王の長子・文武王である。
百済最後の王・義慈王を「荒淫耽楽」と評した高句麗の僧・道顕は、百済滅亡前に、
大和大安寺の学僧となっている。「日本書紀」の義慈王の件がやけに詳しいのは、
この道顕の証言が基礎になっているからである。
235 :
無名草子さん:2013/01/13(日) 14:32:04.90
>>234 橿原神宮は、昨日BSで放送していた「陰陽師U」のロケ地だね。見覚えがある。
>>232 百済の義慈王が唐に連れ去られたときの新羅の王は、武烈王でいいんだよ。
660年のことだから。一般には660年を百済の滅亡とするんじゃない?
豊璋をも百済王としてカウントするなら、663年が百済の滅亡ということになるがね。
第27章 日本の登場
義慈王が唐へ連れ去られた後(660年)、百済の遺臣・鬼室福信は日本に救援を求めます。
斉明帝(68歳)と中大兄皇子は、筑紫の朝倉ノ宮へ移り、半島への出兵を準備しました。
豊璋の台詞の中に出てくる「廬原君臣」は駿河の廬原国造で、のちに出てくる渡海のための
造船を担当した豪族である。本文中にはその関連が書かれていないので念のため。
∧,,∧
(;`・ω・) 。・゚・⌒) 阿倍引田のピラフ
/ o━ヽニニフ))
しー-J
第28章 白村江の海戦
敗けた。気分よくね。
百済派遣軍は、本文にあるように三派に分かれて順次渡海した。
【第一派】:1万余人。船舶170余隻。
指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
豊璋王を護送する先遣隊。661年5月出発。
【第二派】:2万7千人。軍主力。
指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
662年3月出発。
【第三派】:1万余人。指揮官は廬原君。
>>246 この本だと、阿倍比羅夫と阿倍引田比羅夫は別人のような書き方をしているね。
同一人物のように書かれている文献もあるけどな。
阿倍比羅夫は、百済派遣軍の指揮官となっていなくて、
阿倍引田比羅夫が瀬戸内海を拠点とする水軍のように述べられ、
水軍第一軍が阿曇比羅夫、水軍第二軍が阿倍引田比羅夫となっている。
古代史は文献が限られているのと、現代人の合理的な思考からすると不可解と
思える行動・事件が多いために、珍説が噴出する。
鬼室福信は唐のスパイであるとか、豊璋=中臣鎌足という珍説まである。
ここまでやるとロマンというより、暇人のたわごとにしか思えない。
>>249 中国と韓国の合作による捏造だよ。
白村江の戦いが実際にあったというのなら場所ぐらい特定しろよ。
なかったんだよ、そんな戦い。
wikipediaさんは、白村江=錦江だな。
ちなみに、wikipediaさんは、白村江=錦江=熊津江=白馬江なんで、わけわからん。
>>247 タイトルは忘れたが、むかし読んだ時代小説には阿倍比羅夫が出ていたぞ。
というか、白村江の海戦に登場する日本軍の将軍のなかで、日本史で覚えさせられる
人名は阿倍比羅夫だけだからな。これを出さなきゃ誰も読んでくれんだろう。
「訴因を明示するには、できる限り日時、場所及び方法を以て罪となるべき事実を特定してこれをしなければならない」
戦闘場所も特定できていない白村江の海戦は、訴因不特定で起訴状は無効。
白村江の海戦はなかったに等しいな。よって勝敗を議論する必要なし。
司馬さんが書いているように、白村江の戦いが日本の世界史デビューだったんだろうな。
天皇家が全国区の政権になったのも、この戦いからだ。
>>252 司馬さんは、白江(白村江)と錦江(熊津江)は別の河口だと書いているな。
その上で、戦闘場所は、群山港=白江とおっしゃっている。
>>249 扶余は海浜の都市ではなく、かなり内陸にある。
義慈王を唐へ連れ去る船は白馬江(熊津江つまり現在の錦江の上流を白馬江と呼んだ)を遡って扶余まで来た。
しかし扶余近辺の白馬江で水上戦はできない。狭いから。
また、史実でも唐の水軍は河口で待ち伏せていたとある。
海浜の港町である群山港で闘ったのは間違いない。
群山港にある河口は、錦江(当時は熊津江)だ。
その上流を白馬江と呼ぶだけで、熊津江と白村江という二つの河口があるわけではない。
こんなところが正解じゃないかな。
百済は統一国家とはいっても、古代のことなので部族連合の色彩は払拭しきれていない。
同一の川であっても部族によって呼び方が違うこともあったろうな。
また、歴史の記録者が漢・韓・倭と三国(新羅と百済を分けると四国)もあるから、
同一の川が違う名称で記録されることがある。
さらに時代によって川の名称が変わる。
これらの複合によって議論が錯綜しているんだろう。
とりわけ白馬江と白江(白村江)が紛らわしいが、同じ川と考えていいと思う。
古代は現代のような情報化社会ではないから、同一のモノなのに記録者によって違う名称が付与されていることがままある。
違う名称であっても共通の属性があるならば大胆に同一のモノであると認めていかないと、議論が複雑になるだけなんだよな。
ところが学者の通弊として概念の細分化は得意だが、概念の総合には極めて慎重というところがある。
一般的にはそれで間違いではないのだが、こと古代史に関しては、大胆な総合を試みる天才学者が登場しないかぎり、
真相はいつまでも闇の中というところはあるな。
>>260 江上波夫は親父ギャグ満載で結構わらえるんだがw
>>257 上流が白馬江で、下流が熊津江とおっしゃっているように読めますが、反対ではないでしょうか。
都市の熊津(現在の公州)は、扶余よりさらに上流にあります。
扶余近辺で白馬江というのであれば、その上流を熊津江というような気がします。
263 :
無名草子さん:2013/01/13(日) 23:32:58.49
うぜえよ、おまいら。
どうせ学生時代に使っていた地図帳見ながら話してんだろうが。
でかい韓国地図を買ってきて見れば、そんなんイッパツでわかるだろうよ。
>>257 『三国史記』と『日本書紀』はそれでクリアーできるが、『旧唐書』がクリアーできない。
劉仁軌は、「熊津江より白江に往き…白江の河口において四戦してみな捷つ」とある。
>>264 南京事件を見ろよ。中国なんて捏造の本場なんだから、旧唐書は無視でいいんだよ。
マジレスすると、唐の史家は韓国に常駐していない。
韓国の地理に精通しているのは、地元の韓国人と帰化人のいる日本だよ。旧唐書は無視。
百済と日本が敗れたという結論は三書共通なんだが、ニュアンスが微妙に違う。
読み比べると、芥川の「藪の中」のような面白さがある。
世界史の概説書には、たいてい三書が併記してある。
司馬さんは、三書からバランスよくつまみ食いしている。
>>264 司馬さんは熊津江=錦江で白江は別に存在するという前提で話を進めているが、
『世界の歴史6巻』では「白江=錦江河口か」になっている。
専門家でも「か?」なんだから、これから先は想像するしかないな。
俺は『旧唐書』の記載が誤っていると思う。
まず、白江=熊津江=錦江だと思う。
劉仁軌が通過した河口は、白江=熊津江=錦江よりもずっと北か南にある別の名称の河口、
もしくは白江=熊津江=錦江の支流で本流の河口付近に小さな河口をもつものだと思う。
>>262 そういう法則はない。信濃川の河口は新潟市にあるが、
上流が信濃を流れるから信濃川という。
>>268 ウゼエ!詳しい韓国地図を買えって言ってるだろうが!
>>269 Google地図がハングルだから読めないんだよ。ハングルやめろよ。
日本でいうと、全部ひらがなみたいなもんだろう。
小学校1年の教科書みたいなものはかえって読みにくいだろう。
朝鮮人の知能レベルが小学1年なのはわかるが。
>>252 結局、wikipediaが正しくて、『旧唐書』の記述をそのまま引用された司馬さんの負けということですか。
誤りではないけれど、旧唐書を無視するのがいちばんスッキリする。
第29章 平済塔
扶余の町をブラブラ歩いて、史跡めぐりです。
>>222 そのあたりの作品は、短編集『果心居士の幻術』に収められているな。
発表順に紹介すると、
1)朱盗 (昭和35年11月)
2)壬生狂言の夜 (昭和35年11月)
3)牛黄加持 (昭和35年12月)
4)飛び加藤 (昭和36年1月)
5)八咫烏 (昭和36年1月)
6)果心居士の幻術 (昭和36年3月)
第30章 近江の鬼室集斯
前章までで百済の旅は終了です。この最終章は、近江の紀行です。
鬼室福信の縁者・鬼室集斯は、天智紀8年(669)、日本に渡来しました。
その墓を訪ねる旅です。
>>281 蒲生(ガモウ)=鴨(カモ)…。
おおげさに言わなくても、素人でもそうかなと思うわな。
この八日市は、現在は東近江市に含まれている。
薗畑→瓜生津→市原野までは、八日市インターのすぐ傍だ。
なお、薗畑という町名は見当たらなかった。道順からして「御園町」がそれであろう。
中之郷は日野町の大字である。
鬼室神社
【 所在地 】 蒲生郡日野町小野304
【 交 通 】 近江鉄道 「桜川駅」下車
中之郷方面行きバスで中之郷下車
徒歩約30分 ←www
>>278 『果心居士の幻術』以降、短篇の完成度が急速に高くなるな。
>>289 果心居士の幻術は、とくに出来が良いな。
第1編 【ハバロフスクへ】
第1章 新潟から
前半の2章はシベリア紀行になっている。
当時ソビエト連邦が健在で、モンゴルも一党独裁の社会主義国であったため、
ソ連を経由しなければモンゴルへの入国ができなかったのである。
現在はウランバートルへの直行便があり、5時間で到着する。
司馬さんが味わったような苦労をしないですむようになった。
モンゴル紀行…「街道をゆく」第5巻
旅の時期;昭和48年年8月21日から8月31日までの11日間
初出;「週刊朝日」昭和48年11月2日号から翌年6月14日号に連載
>>293 三人兄弟の次男みたいなようなもんで、二代目ターミナルビルの画像はないな。
第2章 偉大なる逆説
ハバロフスクに到着。ボストーク・ホテルに入る。
『長安から北京へ』でボロクソに叩かれていたトイレの水が出てこないホテルである。
話題の中心は、帰路ハバロフスクに一泊したとき出会ったシベリア抑留経験のある
日本人客とのひとときである。
>>295 ソ連というのは、便器の水を流さないことについて異常な情熱を燃やす国なんだね。
それはともかく、この紀行前半のシベリア紀行の部分を読んでいると、社会主義国に
ならないで正解だったなという事例がいやというほど出てくるよ。
これじゃあ生活できないよ、といったレベル。
>>279 紀行文というのは、小説と違って、登場していた人たちが突然消えてしまうんだね。
ミセス・イムや李夕湖先生に「さよなら」も言わないで、突然消してしまった。
>>298 日本の高度成長期に交通渋滞を考慮しないでバスのダイヤを組んで、
15分以上停留所でバスを待ったという経験がある。
しかし、飛行機の乗員オーバーがあると、1週間帰国を足止めされるといった
無茶な話はなかったな。司馬さんの紀行の中でも、飛行機の8時間遅れとか
ザラに出てくる。ソ連は滅びるべくして滅んだな。
>>302 日本でもつい最近「近いうち」が3ヶ月という社会主義国のような異常な事態が発生したよ。
中国のようにメディアが政権批判をすると権力で押さえ込むのも嫌だけど、
日本のようにメディアの愚劣な政権批判を黙って見過ごすしかないというのも
歯がゆいな。メディアは調子に乗りすぎて馬鹿さかげんを増幅させるだけで、
国民多数の意見とかけ離れていることを一顧だにしない。
あんな愚劣な役立たずが、実質寡占であるために淘汰されることもない。
国民多数の意見w
306 :
無名草子さん:2013/01/14(月) 20:27:00.51
>>275 本文には「長槍を天に突きあげて立っている」と書かれているが、
槍なんか持っていないよね。
翔ぶが如くと坂の上の雲は鬼門だ
高校の時から挑戦してるけど、跳ね返されてばっかだ
ドストもキツイのあったけど、上記2作品の足元にも及ばない、、
>>303 民主党は次の参院選でほぼ壊滅するから、もうそういうことはないよ。
>>308 地図を片手に読まないと分からなくなるね。
一党独裁だと「戦争を始めます」の決定が早いよな。
中国と北朝鮮は、自分たちの国が世界最低なんだということを自覚しろよな。
ソビエト連邦は、侵略国家で、世界の軍事的脅威で、
同志は粛清する、政治犯は虐待する、
悪いところを挙げると書ききれない世界最低の国家だった。
ただ、国民生活の詳細はあまり知られてなかった。
その点、「モンゴル紀行」を読んでいくらか理解できるようになったな。
旧国鉄や現日教組のような糞のような労働者ばかりになると、国は滅びる。
>>312 タイトルは『モンゴル紀行』だけど、半分はソビエト紀行なんだよね。
むしろ興味深かったのは、ソビエト紀行のほうだ。
多くの先進国は資本主義と社会主義の複合経済をやっていて、
右だ左といっても両者のバランスをどのあたりに求めるかの相違にすぎない。
戦後の国際政治は、独裁との戦いでしょうよ。
独裁を排除して個々人の自由を守るのが先進国が目指してきたこと。
そして独裁国家は圧倒的に共産圏に多かった。彼らは自由と平和の敵なんです。
基地外のような連合赤軍と同類の人間が政権を運営しているんだから当然なんだけどな。
満州国の建国にしても、筋は通っている。
清を興した女真族の本拠地が満州であったために、満州は清の領土になった。
しかし元来満州は長城の外にあって、中国にとっては夷狄の土地であった。
中国人は興漢滅満のスローガンの下に帝政を滅ぼしたのだから、女真がその故郷で建国することに何も問題はないはず。
その建国を親切な隣国が支援することに何か問題がありますか。
>>307 常識的に考えて、うんこの流れないトイレのあるホテルには二度と泊まらないと思うんだ。
苦情が殺到して営業できなくなると思うよ。
日本のように水が豊富な国では、毎日トイレタンクの水道の元栓を閉めたりはしない。
しかし外国のホテルでは、それを閉めるという習慣があるのではないかな。
司馬さんの泊まるソ連・中国のホテルのトイレがことごとく水が流れないというのは、なんか変だよ。
そんなに偶然が重なるものかな。
>>315 同行者のなかに犯人がいるんじゃないか。
先回りして司馬さんの部屋の水洗システムを壊して回ってる奴とか…。
>>301 小説でも脇役の最終登場シーンで、いちいちお別れの台詞は入らないよ。
>>313 最近マスゴミ・サヨクがよく使う“右傾化”は、外交上の意思表示を明確にすることなんだよね。
棚上げ論や土下座外交だと、右傾化とは言われない。
外交の第一歩はまず国家の意思を表明することであって、それをしなければそもそも外交は始まらない。
つまり右傾化と騒いでいる馬鹿どもの主張は、外務省廃止論のようなもので、
思想というようなものではなく、単なる無知。
江戸時代の水呑百姓のようなもの。
外交上の意思表示をするだけで、戦争になると論理が飛躍するんだけど、
正直いって彼らマスゴミ・サヨクの心理は僕には理解できない。
要するに、鎖国政策と同じで、外国が外交的・軍事的にいかなるアクションを起こしても、
わが国からは何らの意思表示をせず、ただニヤニヤしておけということだろう。
人間であることを止めろというに等しい。
右傾化と騒ぎ立てるマスゴミ・サヨクの馬鹿どもに意見があるとすれば、
強盗や恐喝に遭ったときは、おとなしく金を渡して愛想笑いをしていれば、
怪我をしないですみますよ、ということだろうな。
犯罪者は一度成功して味をしめると、新しい被害者を探す手間を省いて、
同じ被害者に対して犯行を繰り返すんだぞ。
世間知らずもいい加減にしとけよ。
右傾化と騒ぎ立てるマスゴミ・サヨクの馬鹿どもの本音を代弁すると、
せっかくお金をたくさん稼いだのに、戦争に巻き込まれて死んだらどうしようとパニクっているだけだな。
冷静に状況を分析する意思も能力も奴らにはない。
愚者が情報の送り手と受け手の中間に介在しているという不幸な状態を早急に改善すべきだね。
政治も行政も司法も、ネットを通じて国民に直接情報を発信しろよ。
メディアは必要ない。
>>319 自国の領土であると意思表示しないと外交がスタートしないよね。
当たり前のことをしているだけだ。
それなのに憲法改正などの状況証拠で右傾化と批判する。
しかし、自衛隊と憲法9条の問題にしたって、サヨクは棚上げしろと言っているだけだ。
自衛隊廃止までは、さしもの馬鹿サヨクも主張しないからね。
棚上げ論では、ものごとが何も決められない。
蛇足ながら、「決められない政治」を批判するのは、誰だったかね?
馬鹿サヨクは防衛問題になると、見苦しいまでに理性を失う。
基地外の基地外たるゆえんは、口だけで戦争に反対している自分たちのほうが理性的だと思っているところ。
笑止千万。戦争を未開人種の喧嘩と勘違いしている。
馬鹿サヨクの愚痴をテレビ・新聞で垂れ流すのはやめとけ。
平和を守っているのは、反戦的な言論ではなく、
海上保安庁やきさまらが嫌う自衛隊の軍事力だ。勘違いするな。
>>323 マスゴミ様はグレーゾーンが大好きだったサラ金様がスポンサーだった。
いまはグレーゾーン過払い返還請求の弁護士事務所様が大事なスポンサー様だ。
いずれにしてもグレーゾーンが大好きなマスゴミ様だ。
棚上げ論マンセーは当たり前。
>>315 旧ソ連と中国でうんこが流せなかったというところがポイント。
修理しないとホテル開業以来のうんこが溜まっていたはず。
でもそうじゃなかった。共産圏では貴重な食糧なんだよ。
第3章 アムール川の靺鞨
ハバロフスクを散歩する司馬さん。
ロシア領ではナナイ族、中国ではホジェン族と呼ばれる少数民族のお話。
ナナイ族は、サケ・マスなどの魚皮衣を着ていた。バッテラみたいなもんだな。
第4章 通訳長
…とは、ハバロフスク郷土誌博物館へ案内してくれたインツーリストの社員チュートリン氏。
シベリア出兵について語られる章である。
「すべての発見の基地は、ヤクーツクでした」
司馬さんは、かの地の原住民のことをヤクーツク人と言っておられるが、
ふつうヤクートと呼ばれる。ヤクルトではない。
ヤクートはテュルク(トルコ)系民族で、自らはサハと読んでいる。ネトウヨではない。
ロシア連邦内のサハ共和国を構成する主要民族である。
もっともサハ人がヤクーツクへ来たのは13世紀ごろで、それ以前に先住民の
エヴェンキがいた。エヴェンキはツングース系で朝鮮民族の祖先とも言われている。
そのうち中国はアイグン条約(1858年)は無効で、バイカル湖以東はすべて中国の領土だと言い出すよ。
ニコライエフスクで全滅した石川正雅少佐率いる陸軍守備隊の話が出てくるが、大きなくくりでいうと尼港事件という。
ニコラエフスクを占領したパルチザン部隊4,300名が、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した事件である。
日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた。
アカは人権と平和の敵である。
チュートリン氏が若き日に学んだモスクワ東洋語学校とは、モスクワ東洋学院であろうか。
もしそうであれば、同学院はモスクワ大学ではなく、モスクワ国際関係大学に吸収されたはず。
339 :
無名草子さん:2013/01/15(火) 17:11:05.38
>>278 「八咫烏」における古代人の描き方は、上手いと思った。
>>307 「モンゴル紀行」によると四階建なんだよな。その写真だと五階建に見えるよ。
新館かもしれないね。
第5章 ボストーク・ホテル
トイレの水が流れないボストーク・ホテル。
ハバロフスクをブラブラ散歩している章です。
ホテルのフロントに勤務しておられた遠藤玲子さん。
司馬さんの頼みでハバロフの略歴を図書館で調べてくれた方です。
ロシヤ極東ハバロフスクに在住し活躍されている日本人の方々による情報が盛りだくさん
の「六花」というサイトがありまして、そのなかに遠藤玲子さんのお名前が出てきます。
おそらく同一人物ではないかと思われます。
http://hisgan.fc2web.com/rikka19.htm
そういう私を、ひまそうな鳥打帽の初老の男が、ぼんやり柵に寄りかかって見ている。
その男にとって私が娯楽対象になっている。ハバロフスクはそういう町であった。
鳥打帽というよりハンチング帽と言った方がナウい。
第2編 【イルクーツクへ】
第6章 イルクーツクへ
むかしは飛行機の機内で煙草が吸えた。
イルクーツクは湖まで車で二時間ほど離れたところにあり、
バイカル湖にそそぐアンガラ川に沿っている。
つい不用意に「イルクーツクはバイカル湖畔の町」と言ってしまうが、
日本地図と世界地図の縮尺の違いからくる錯覚だな。
伝子研究の発達や、また考古学の観点から、弥生人と同じく縄文人も北方起源であるという仮説がある。
「日本人バイカル湖畔起源説」という。
だからどうしたって感じだがな。
>>348 この章にもソ連邦の非道な労働者が出てくるね。
社会主義国では、おもてなしの心は育たない。
おもてなしの心がないから、トイレの水が流れなくても平然としていられる。
ハバロフスク付近を制圧したコサックの隊長ハバロフの活動は
十九世紀以前の概念でいえば英雄的であるであろう。
しかしこの種の国家行動は、十九世紀から二十世紀にかけて、侵略という概念になった。
近代国家の領土主権の概念が、全世界で共有されるようになったからな。
二十一世紀になっても中国には、これが理解できない。世界最低の国家。
>>354 イルクーツクのホテルのトイレ
幸い、ハバロフスクでの部屋のようには故障していなかった。
ただ掃除された形跡がまったくなく、先客の黄色い排泄物が白いホーロー製の便器にたっぷり付着していて、
新入者に対して無言の脅迫をしているようでもあった。
>>356 その箇所を読むと、司馬さんは自ら便器の掃除をしているよね。
みどり夫人は、便所掃除はしないんだね。
「便器に前の客の糞がこびりついとんねん」
「あなた、掃除してよ」
「ハバロフスクでも、わしが糞拾ったんやで。たまには掃除やれや」
「お断りよ。次の街道の旅はあなた一人で行ってちょうだい。
そうだ、いまから橋本さんに、そう言ってくるわ」
「ちょっ…。わかったがな。掃除すればええんやろ」
定一はみどりが同行しないと、ひとりで着替えができなかった。
ウランバートルのホテルのトイレ
シベリアで経てきたソ連のどのホテルよりも清潔で掃除がゆきとどいていたし、
室内の水道設備なども古びてはいるが、よく手入れされていた。
第7章 光太夫
イルクーツク所縁の日本人といえば大黒屋光太夫。
大黒屋光太夫のお話に一章割きました。
>>360 大黒屋光太夫については、『菜の花の沖』第43章「ロシア事情」のほうが詳しいな。
もっと詳しく知りたければ、この章に掲げられている参考文献を参照せよ。
元文4年(1739)のシュパンベルグ船隊の黒船騒ぎの話が出てくる。
ここは少し補足が必要であろう。
シュパンベルグ中尉→大尉の誤り
ワルトン大尉→中尉の誤り、名前もウォールトン中尉というのが一般的である。
元文の黒船とは、ミハイル号・ガブリイル号・ナデジダ号という3隻の軍艦である。
日本探検分遣隊隊長はデンマーク人のマルティン・シュパンベルク大尉、
彼はミハイル号の船長であり、ガブリイル号の船長がウォールトン中尉である。
大黒屋光太夫よりもかなり以前に漂着したデンベイとは、大坂谷町万九質屋の立川伝兵衛。
彼についても詳しくは、『菜の花の沖』第43章「ロシア事情」を参照せよ。
ゴンザとソーザは、竹原信一市長で有名な鹿児島県阿久根市出身らしい。
八代将軍吉宗の時代の1728年、薩摩から17人の乗組員を乗せた船が大阪の薩摩藩邸に向けて出帆した。
しかし、その船は嵐に遭い6ヶ月も洋上を漂流してロシア領カムチャッカ半島にたどり着いた。
そこでコサックの襲撃をうけて15人が殺された。
生き残ったのは、舵取りの父の手伝いでこの船に乗り込んでいた11歳のゴンザと、35歳の商人のソーザであった。
第8章 モンゴル領事館
イルクーツクへは夜7時に到着した。
大阪外語のd松源一教授は、『韓のくに紀行』の第9章「新羅国」にも出てきた。
金はツングース語では「アイシン」ということを教えてくれた司馬さんの恩師。
第9章 ブリャートの娘
…とは、前章でホテルのインツーリストのガイド詰所に一人残っていた学生アルバイトである。
前章では性別が明らかでなかったが、この章でワーリャという名前の女子大生であることが判明した。
なお、前章では司馬さんから窮状を救ってもらいたいと哀願したことになっているが、
本章ではワーリャの方から「なにかお役に立つことがありますか」と切り出したことになっている。
19世紀前半のゴールド・ラッシュは、イルクーツク北方のクラスノヤルスクで金鉱が発見されてからである。
須田画伯が食べていたインスタント・ラーメンとは、あとの章で明らかになるが、カップヌードルである。
昭和46年に新発売されたカップヌードルは、当時、流行の先端をゆく食品だった。
382 :
無名草子さん:2013/01/16(水) 17:16:27.43
>>385 ヘソパン顔に近眼鏡のワーリャをナンパしようとする遊蕩児も出てくるぐらいだから、
肉感的な肢体なのではないか?身長170cmだというし。
第10章 匈奴
シベリア紀行は、この章の前半までです。イルクーツクには一泊しただけで、
しかも遅着きの早立ちであったため、市内の観光はほとんどありませんでした。
漢の高祖が大同近郊の白登山で匈奴と戦って敗れた話は、
『長安から北京へ』の第3章「西域行」に出てくる。
このとき高祖劉邦は、本気で長女の魯元公主を遣わそうとした。
しかし、妻の呂后が黙っているはずがない。
結局、一族の女を公主であると偽り称して冒頓単于に遣わした。
「漢書」の引用文に登場する季布が、項羽の武将の季布であることは言うまでもない。
季布が項羽滅亡後、夏侯嬰の仲介により漢に仕えたことは、前スレで述べたと思う。
乳酪とはチーズのことであるが、「後漢書」烏桓伝の引用文には、「乳酪を飲み」とある。
おそらく液状のヨーグルトであろうと思う。
これに対して、馬乳酒とは、馬の乳から作られたアルコール度数1〜2%の発酵飲料である。
両者は別物である。
>>381 須田さんがいるといないとでは、街道をゆくの雰囲気が随分ちがう。
韓のくに紀行は須田さんがいないせいで盛り上がりに欠けた。
>>397 紀行文なんで盛り上がらなくてもいいが、須田さんを出すと笑いがとれるからな。
シリアスな話題に振った後でも須田さんを出すと、全体のトーンを明るく保てる。
399 :
無名草子さん:2013/01/17(木) 11:11:12.45
「あれは、ゴーゴーですか」という司馬さんの台詞が後で出てくるんですが、
昭和48年ごろはまだゴーゴーが死語ではなかったんですか?
>>399 ピンキーとキラーズ、星影のワルツも、そろそろ出てくるはずだ。
第11章 飛行機の中で
イルクーツクからウランバートルへ向かう機内で、モンゴル人民共和国の建国について考える。
モンゴル独立運動と建国については、そこに登場する人名を極力はぶいて概略しか書かれていない。
革命史は党派の離合集散がはげしく容易に全貌を把握できないので、こういう書き方でいいと思う。
革命史は、小沢一郎がカネの代わりに大砲とギロチンをもって暴れまわっているようなもので、
全貌を理解するのは無駄な努力だ。魅力的な人物は、ほとんど登場しない。
本文に書かれていることを補足するにとどめたいと思う。
しかしモンゴル人民党の党名ぐらいは書けよな。
1990年に一党独裁を放棄し、社会民主主義を掲げる中道左派政党へと衣替えした。
第3編 【ウランバートルへ】
第12章 ウランバートル
いまだAN24型機の機内です。国境を越えモンゴル高原が見えてきました。
ウランバートル空港に到着。ツェベックマさん登場。
この本のはじめのほうに登場した司馬さんの友人で「モンゴルという国、あるの?」と訊いた人、
本当に知らんかったのかね?
>>414 当時はモンゴル出身の力士がいなかった。
第13章 ノモンハンの悪夢
モンゴル科学アカデミーの前にあるスターリンの銅像から、ノモンハン事件の話が展開する。
スターリン像が撤去されたとなると、この章に書かれてあることは、話半分に聞くしかないね。
日本にいる反日サヨクも、早急に撤去しようね。
424 :
無名草子さん:2013/01/17(木) 17:57:34.23
バイバイ猿さん
小説『ノモンハン』は書かなくて正解だったね。モンゴル紀行に書かれている内容は、
『ノモンハン』にも書かれると思うが、司馬さんの死後こんなに事情が変化するとなると、
コメディ小説になっていたところだったね。
第14章 丘の上から
話の流れから理解できると思うが、英霊の丘の英霊とはモンゴル革命の英霊たちではなく、
第二次大戦後もソ連軍によって抑留された日本人捕虜で異国で死んだ英霊たちを指す。
その丘を、ダンバダルジャー墓地という。
冷戦終了によって、この章に書かれている内容も、ずいぶん古い話になっている。
コメコン[経済相互援助会議]は、1991年6月に解散している。
434 :
無名草子さん:2013/01/17(木) 19:28:40.04
>>430 お前は知ってて作品の内容を改竄しているのか?
436 :
無名草子さん:2013/01/17(木) 19:36:16.02
ツェベックマさんの台詞の中に「革命に斃れた英霊の記念塔のある丘」と書いてあるだろうよ。
よく読め。
司馬さんたちは、日本人捕虜の死者を慰霊するダンバダルジャー墓地へ行ったのではなくて、
モンゴル革命の英霊を慰霊するザイサン・トルゴイという丘へ行ったんだよ。
まあ、いいじゃん。モンゴルの英霊はモンゴル人が称えればいい。
日本人は日本の英霊を称えようよ。
ただし、ここは司馬スレなんでな、作品の内容に沿った話をしてくれ。
本文にある愛国主義と民族主義を排した憲法は改正された。
1992年2月に、新しいモンゴル国憲法が施行された。
1924年に独立したモンゴルですら4つも憲法をもっている。
20年余に一度のペースで改正しているということだ。
20年も経てば、憲法をとりまく環境は大きく変化するということだよ。
440 :
無名草子さん:2013/01/17(木) 19:59:05.86
>>438 愛国主義と民族主義を排した条項まで改正されたかどうかも調べてから書き込めよ。
441 :
補足:2013/01/17(木) 20:15:57.09
>>441 ツェベックマさんの台詞を信用するなら、一行が出かけたのはザイサン・トルゴイだろうな。
しかし、司馬さんはソ連に奴隷労働を強いられた日本人捕虜の話をこんなに長々としながら、
彼らの墓地があることについて一言も触れないのは、どういうつもりなんだろうな?
ひょっとしてモンゴル紀行の後にダンバダルジャー墓地が造られたのか?
443 :
無名草子さん:2013/01/17(木) 21:41:56.60
>>433 > ダンバダルジャー墓地はウランバートル中心部から北東15kmのところにある。
> ツェベックマさんの言う「石段が長い」
石段の捏造はひどくないか?
ザイサン・トルゴイの石段のことを言っているはずだよ。
財産盗る鯉
憲法を守れとアロンアルファのように粘着している人たちも、
冷静に世界を見渡し、世間の多数が有する平明な価値観で歴史を見つめ直してみればどうだろう。
徒党を組んで、その徒党の中でしか通用しない史観で歴史をながめるから、固執から抜け出せない。
念仏を唱えていれば浄土へ行けると信じるのは勝手だが、
ミサイルにぶっ飛ばされて浄土へ逝くのは嫌じゃないか?
自分たちが駄々をこねていても、他人が何とかしてくれる。
深層心理には米軍と自衛隊に依存している自分の姿を省みたことがあるか?
歪みまくった貴様らに説教するだけ無駄だけどな。
ダンバダルジャー
ジャンバルジャン
似てねぇ?
ツェベックマさんと『草原の記』のツェベクマさんは同じ人なんですか?
>>429 昭和の戦争について書いた他の文章を読むと、娯楽小説にならないことは明白だからな。
不平不満ばかりを述べた大長編は読むに耐えないだろうな。
しかも戦闘の叙述は『坂の上の雲』以上に精緻を極めるであろうし。
>>443 モンゴル紀行では人名・地名などの固有名詞は極力使わないようにしているのかな。
次の章でも「例の丘」と言っているだけだね。
「若いモンのちんこは、元気がええのう」
>私は、ウランバートル大学の東館の前の歩道を歩きつつ…
ウランバートル大学というと日本の東京大学のような印象を受けるが、
韓国系のミッションスクールであった(私立)。
第16章 代理大使の冬
日本とモンゴルが国交を樹立したのは、昭和47年2月である。
ウランバートル郊外の火力発電所
http://www.47news.jp/CN/201107/CN2011070101000922.html モンゴルは石油の宝庫らしい。
2009年2月、内モンゴル自治区四子王旗の草原で新たに埋蔵量約1億トンの油田が発見された。
なお、中国人のモンゴル人に対する虐待はすさまじいものらしい。
以下に、モンゴル人の証言を掲げておく。
中国共産党がモンゴル民族に対して行った数々の事は大変過酷な物でした。
例えば、人体に電気を通したり、口の中に人糞を詰め込んだり、舌に箸を突き刺したり、
頭髪に沸騰した油をかけたり、焼けた鉄棒を押し付けたり、燃え盛る火の直ぐ側に長時間
立たせたり、親指を針金で縛りぶら下げる、生き埋め(頭を出した状態で)にする、炎天下
に長時間立たせる、刺草で鞭打つ、木のベットに手足を縛り着け石炭で下から焼く、無理
矢理大量の水を流し込む、頸から重い物をぶら下げる、女性の性器を太い縄で擦りきり銃
の薬包をいれ爆発させる、沢山の男が強姦する、生きたまま開腹し内臓を引きずり出す、
生皮を剥ぐ、生爪を剥ぐ、眼をえぐり出す、耳を削ぎ落とす、歯を抜く、指を切り落とす、頭
に釘を打ち込む、男性の性器を切り落とす、等々の拷問を行っていた。
>>459 内モンゴルの商店主アルタイ(40歳・女性)さん〔強姦の被害者でもある〕の証言
義理の父と息子の嫁、母と息子を大勢の前でSEXさせたり、(遊牧民は家畜の近親交配で
奇形児が生まれる事を良く承知しているので、近親相姦は絶対にしない。)
夫婦を無理矢理離婚させ、その子供を遠方の施設に入れたり中国は様々な謀をやってきました。
モンゴルの代理大使・崎山喜三郎氏の名前は、『歴史の世界から』に収録の随筆「蝶への想い」にも登場する。
この随筆は、崎山氏が主人公ではなく、日本の歴史にみる蝶の話題が中心なのであるが、
崎山氏に見せてもらったモンゴルの蝶の標本の話が、導入部に出てくる。
もういいです。
第17章 若者たち
ラマ教では土を掘ることはタブーとされている。
そのモンゴル人が農業を始め野菜を栽培していることに驚く司馬さん。
>>469 おそらく「恋の季節」だったのだろうが、演奏を聴いて誰のなんていう曲なのかわからないという
司馬さんに驚いたわ。
レニングラード大学で電子工学を学んでいるツェベックマさんの娘の話の件で、
ウランバートル大学にも電子工学部があるという話をしている。
>>454で述べたように、ウランバートル大学は韓国系のミッションスクールであるから、
電子工学部はないと思う。
475 :
無名草子さん:2013/01/18(金) 16:31:51.78
>>474 首都名の下に大学と付けると、なんとなく有りそうな名称に思えるんだよな。
>>474 >レニングラード大学も、1991年の八月革命によって「サンクトペテルブルク国立大学」に
>名称を戻されているね。
サヨクは世界中で嫌われているからな。
モンゴルは「国」か、というのは正常な感覚。
形式上独立したのが、わづか二十年前。
いまだ以て他国の援助無くして生きてゆけない「国」。
宣戦布告する権利も持たない「国」。
人種は、あの元朝をつくりユーラシア大陸を席捲した種族とは何の関係も無い内陸雑種。
雑種は雑種でも、ヂンギスハン以下の蒙古族の血は全く入ってない。
日本語で言うてモンゴルなんたら共和国というのは、完全な詐称。
自活できない「国」であるのは、遊牧の民が強引に西洋化したため。
第18章 人民たち
モンゴル人の酔っぱらいにからまれた司馬さん。
中江兆民の恩賜の民権/回復の民権は、『三酔人経綸問答』に出てくる言葉。
鼎談型式のこの書物は面白いし、いま読んでもためになるよ。
モンゴルの遊牧社会の良さというのは、たとえば泥棒が、在来、比較的すくなかったことである。
40年前の書物なので、真に受けないで下さい。
日本でも昭和40年代までの農村では、玄関に鍵など付いていませんでした。
見知らぬ顔の他人はいなかったから、泥棒の心配などしたことがありません。
窃盗のような財産犯は、都市化によって増加する犯罪なのです。
在モンゴル日本国大使館では、邦人に防犯の心得を呼びかけています。
特に首都ウランバートルでは近年、治安の悪化が顕著となっており、
強盗・窃盗等の犯罪が増加し、地域によっては昼間でも一人歩きが危険な場所が存在します。
http://www.anzen.mofa.go.jp/manual/mongolia.html
>>482 むかしでも無人の納屋には錠前を付けていたろ。
>>485 納屋に錠前を付けるのはよ、窃盗対策というよりも、
若けーもんが納屋をラブホ代わりに勝手に使うからよ。
藁がちらかって片付けるのがめんどくせえ。
第19章 故郷とは
ツェベックマさんが故郷と娘イミンについて語ります。
次はいよいよゴビ砂漠だな。画像が楽しみ。
>>493 ノミンの読み方が原音に似ていないのかもしれないね。
近い音でもう一度調べてくれよ。
>>484 捨てたつもりの鯛の醤油入れを忘れ物と勘違いされて届けられれば、
感動すると同時に、そういう純朴さを失った自分が恥ずかしくなることがあるな。
日本でも田舎へ行くと、田舎の人たちの純朴さに感動することが昔はあった。
いまはないな。皆無だ。他人の親切を何か企みがあると誤解することはあってもな。
>>498 人間は簡単な道徳を幼少期にたたき込んでおくと、一生善良に生きるんだよ。
そういう善良な社会の上に軽い政府が乗っかって安全を守ってくれればいい。
人民の歴史は搾取されてきた歴史だ、権力に反抗しろ、
しかしサヨクが権力を奪ったら絶対に権力に反抗するな。
糞サヨクのおかげで世界が狂った。
>>474 チョイバルサンはモンゴル東部の都市名にもなっているな。
>>492 魚を食べる日本では、たとえば出世魚のように魚や漁業に関する用語が発達した。
遊牧の国では草や家畜に関する言葉が精緻になっているな。
第4編 【ゴビへ】
第20章 ゴビへ
突然のスコールで離陸時間が遅れましたが、AN24は無事ウランバートル空港を離陸しました。
ここでも昭和48年の日本の異常渇水について語られています。
ちなみに高松市の6月の降雨量は83mmしかありませんでした。
509 :
無名草子さん:2013/01/19(土) 13:45:02.40
>>504 どうして野獣派と呼ばれるようになったの?
>>510 ウソ。マティス、ドラン、ヴラマンクたちの自由奔放で強烈な色彩の作品に対して
批評家が、その荒々しさを野獣の凶暴さにたとえてフォーヴ(野獣)と蔑称したのが語源。
「ドントゴビィ……」と、答えてくれた。
緑草地帯にハンガイのルビを当てておられるが間違いではない。
ただし、緑草に限らず、モンゴル北部の森林・山川の多い地方も指すから、
緑豊かな自然に恵まれた土地という意味で、草原に限定されるのではない。
モンゴル紀行もそうだが、他の旅行記を読んでも、みなさん無造作に「南ゴビに着いた」と言っている。
ひとくちに南ゴビといっても広いだろうが?南ゴビ県だけでチュニジアぐらいの広さがあるんだわ。
ギリシャや北朝鮮や韓国より広いんだわ。もう少し場所を特定しろよ。
第22章 チミドの詩
チミドの詩はこの章の最後に出ているが、「わたしはモンゴル人」という名で知られている。
モンゴル紀行で引用されているのとは違う訳詩があったので載せておく。
アリガリの煙立ち上る
牧民の家に生まれた私
故郷の草原を
揺りかごだと思う
この人こそモンゴル人
故郷の愛する人よ
生れ落ちたこの大地を
自分の身体のように愛しく思い
産湯にした清らかな川を
母の乳のように懐かしく思う
なんか香ばしくなってきたなw
, '´  ̄ ̄ ` 、
i r-ー-┬-‐、i
| |,,_ _,{|
N| "゚'` {"゚`lリ 馬 糞 す る か い ?
ト.i ,__''_ !
/i/ l\ ー .イ|、
,.、-  ̄/ | l  ̄ / | |` ┬-、
/ ヽ. / ト-` 、ノ- | l l ヽ.
/ ∨ l |! | `> | i
/ |`二^> l. | | <__,| |
_| |.|-< \ i / ,イ____!/ \
.| {.| ` - 、 ,.---ァ^! | | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l
__{ ___|└―ー/  ̄´ |ヽ |___ノ____________|
}/ -= ヽ__ - 'ヽ -‐ ,r'゙ l |
__f゙// ̄ ̄ _ -' |_____ ,. -  ̄ \____|
| | -  ̄ / | _ | ̄ ̄ ̄ ̄ / \  ̄|
___`\ __ / _l - ̄ l___ / , / ヽi___.|
 ̄ ̄ ̄ | _ 二 =〒  ̄ } ̄ / l | ! ̄ ̄|
_______l -ヾ ̄ l/ l| |___|
ウンコと夕食の話をして、チミドの詩で閉めるという、なんかすごい章だなw
>>519 方角はわからないけど県庁所在地のダランザダガドから40km離れた地点だよ。
モンゴルの星空の画像はあるけれど、こればっかりは現地に行って見なければな、
という気がしますので貼りません。
>>539 1)って関係あるのか?
単に官給品(Government issues)を使うからGIなんじゃないの?
>>541 次章が蒼きオオカミの子孫・ジンギス・カンのお話なんで、いいつなぎになったな。
>>526 ランディ・バースは、牛の生うんちなのかw?
./ ̄ ̄~ヽ
..|___T_|_
シノ. _ _|
(6i, ´ 、_〉`|
|''!!lllll''''''llll
ノ '''!!llll!!''´_(⌒)
/| | |\_/| | | `ノ ~.レ-r┐ ビシッ
///| | | | |。|. | | |ノ__ .| | ト、
/ /./| |. | | |。|.( ̄ `-Lλ_レ′
T i g e r s ̄`ー--‐′
44
>>497 ノミンはそのままノミンでいいんだよ。ノミン・デパートというモンゴル最大のデパートがあって、
検索するとノミン・デパートしかヒットしない。ノミン本来の意味が調べにくいのな。
>>524 >ゲルの入口
入口は観音扉だってよ。違うじゃん。
>>518 後述されているところによると、ゴルブン・サイハン山脈みたいだね。
宿泊した包から、そう遠くない。
>>547 ヨリーンアムは、ゴルブン・サイハン山脈に含まれるんだよ。
>>518の言っている通りだよ。
>>547 宿泊場所から相当離れていたじゃないか。
人間の目には近くに見えるけど、それは錯覚だって書いてあった。
>>549 空気中の水蒸気が少ないとそのように見えると司馬さんはおっしってますが、本当なんですか?
>>550 自分が見ている巨大な山と自分の立ち位置との間に大きさを比較しうる他の山がない平原の場合、
山は近くに見えるということだろう。
新幹線から見える富士山は近くに見えるけど、歩くと遠い。
空気中に水蒸気が少ないと、山の細部までが明瞭に見えるため、さらに近くにあると錯覚するんだろうな。
ゴビに着いてから歴史についての叙述がほとんどない。
自然の雄大さが歴史などぶっ飛ばしてしまうという感じだな。
>>451 モンゴル語の固有名詞を避けているだけじゃない。
あとのほうで、誰でも知っている陳勝の名言が出てくるが、
そこでも陳勝の名前を出さないで、秦末の反乱者の一人という言い方をしている。
554 :
無名草子さん:2013/01/20(日) 13:04:58.48
>>553 この作品が発表された昭和48年頃ってNHKで「国盗り物語」が放映されて、司馬読者が急増した頃だよ。
背景には、読書人口一般の増加ということもあるがね。
固有名詞が多いと堅苦しい本という印象になる。
知らない人名・地名が多いと、知らない人にとっては苦痛だ。
知らない言葉が出てきたら自分で調べるという習慣のない読者の大量発生に対応しようという態度は感じられる作品だね。
>>553 そういえば司馬さんが出会った多くのモンゴル人もツェベクマさんとその娘以外は実名じゃないな。
ロシア人は実名で登場していたのに。
第24章 ジンギス・カンの平和
モンゴル紀行は、13世紀のモンゴル帝国について詳しく述べていません。
ここでも、1962年の「ジンギス・カン生誕800年」の催しにソ連が不快感を示した話が出てくるだけです。
ジンギスカンの先祖ドンチャルとその妻アラン・ゴワの神話がいつ頃のことかは知らない。
しかし、精子と卵子が結合しないと子は生まれない。
“五本の矢”の話は、三本の矢であれば簡単に折れるという話ではない。
日本の神話に出てくる丹塗の矢の話とは、神武天皇の皇后・五十鈴媛(いすずひめ)の
母・勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)が五十鈴媛を受胎したときの話である。
チンギス・ハーン生誕800年記念祝賀を積極的に推進したのはトゥムルオチル政治局員で、
本文に出てくる追放された政治局員とは、トゥムルオチルである。
理由は中国寄りであるということなんで、モンゴル政府の内紛を誘うために毛沢東は
チンギス・ハーンを賛美したのである。どこまでも薄汚い鬼畜である。
若き日の毛沢東はチンギス・ハーンを「鷲に向かって弓を引くことしか知らなかった男」と馬鹿にしている。
第25章 流沙
――ゴビには、サハラ砂漠のような移動性の砂丘がありますか。
と問うたとき、彼女は、ありますよ、と豊かな胸を張った。
567 :
無名草子さん:2013/01/20(日) 19:43:21.82
>>558 この章に出てくるチンギス汗の母親の名前は違うよな?
>>555 街道の他の編では、須田さんが歩きながら路傍の高山植物の名前をバンバン言い当てたりして、博識ぶりを披露する。
モンゴル紀行ではボケに徹しているよな。なんかわざとやっているような気がする。
固有名詞が伏せられていて、このスレで調べて補足説明した数でいうと、モンゴル紀行がダントツに多い。
>>568 須田さんが野糞をするのは、モンゴル紀行の次の第6巻『沖縄・先島への道』だな。
ちなみに、この巻では、みどり夫人が屋外で小用を足し、地面に残ったオシッコの痕跡を
四人のモンゴル人男性に観察されるというシーンがある。
>>565 一点、補足しておく。
第12章「ウランバートル」では、司馬が空港側の小さな丘を若草山に似ていると言っている。
>>567 ウルゲンになっているな。正しくはホエルンだよね。
ひょっとして異母兄の母親かね?
>>565 モンゴル紀行ではゴルブン・サイハンになっていますが、
ネットで検索するときはゴルバンサイハンの方がヒット数が多いです。
>>566 ターナは最終章でもう一度話題になる。
そこでは別の呼び方をされているから、そっちで調べてみるといいよ。
第26章 ラクダたち
マイクロバスでラクダ飼いのゲルを訪ねます。
ラクダ乳酒も馬乳酒の一種だからアイラグという。正確にはインゲニーアイラグ。
>>395に乳酪は液状のヨーグルトではないかと書いてあるが、
ヨーグルトのような乳製品と馬乳酒は半製品段階では同じものである。
発酵容器中に入っている場合を「オンダー」と呼び、そこからチーズになったり、酒になったりする。
モンゴル人の視力の良さは本文に書いてある通りで、
外国人でもモンゴル暮らしが長くなると視力が回復する。
モンゴル人の記憶力が優れているのも本文にある通りである。
トルコ共和国で4年に1度開催される記憶力の世界大会「Momoriad-2012」の
「Flash Numbers」という競技でモンゴル人のツオグバドラフ選手が世界新記録を樹立した。
知ったかぶりして書いているが、俺はモンゴル人ではないから、全部は信じるなよ。
わかんねえところは、ヤマカンで書いているからな。
第27章 騎馬について
ラクダの遊牧を見た以上、馬の遊牧が見たくなった。
モンゴル軍の徴兵は、男性18歳から1年間兵役である。
13世紀のモンゴル帝国について、この章でわずかばかり触れられている。
バトゥの西征でハンガリー軍を撃退した戦いを、モヒの戦いという。
バトゥはオーストリアのウィーン近くまで迫るが、その前のポーランド・ドイツ連合軍との戦いが、
高名なワールシュタットの戦いである。
ウゲディ・カンの崩御によってバトゥの西征は中止されるが、
このウゲディ・カン、第2代モンゴル帝国皇帝オゴタイである。
馬つなぎ場の画像はないの?
第28章 騎馬の場面
前章と同じ場所。
>>590 おしっこの飛び散り具合によって「子供をたくさん産めるか」どうかを判断するらしいな。
>>571 第29章「アルタン・トプチ」では、ホエルンと正しく書かれているが、
ホエルンはおっしこをする。
「雲の底が崩れ、花嫁の結婚衣装のように、裾が地上にまでとどいている」
この雲がどういう形なのかよくわかりませんでした。
>>594 地平線の上がすぐ空なんで雲が地上に届いているように見える、というのとは違うよね。
山脈の手前に見えた雲だから。
この章にもウランバートル大学が登場する。何度も言うがモンゴル国立大学である。
司馬さんのモンゴル旅行の翌々年(1975)2月、モンゴル国立大学の文学部外国語学科に
初めて日本語クラスが開設された。ツェベクマさんの言う日本語研究会が発展したのだろう。
>>581 国境線がすべて海というのが、平和ボケした人々を生み出してしまうのだろうな。
国境線の向こうで戦車が動いていたら、こんな風になっていない。
想像力の向かう方向がお花畑に行ってしまうな。
9条死守の人たちは歴史の時間に何を学んだんだろうな。
かれらの平和主義は、鎖国でもしない限り実現不可能だろうな。
>>493 ターコイズがトルコ石であるのは間違いないけど、モンゴル語ではなくて、フランス語だよ。
turquoise
第30章 ゴビン・ハタン
最終章です。ゴビからウランバートルへ、そこからソ連経由で帰国しますが、
ウランバートル空港を飛び立ったところで、この紀行は終っています。
ゴビン・ハタンは25章「流沙」に出てきた「紫色の花」である。
「これは人も食べます」とツェベックマさんは言っていた。
“この薄紫色の花の名は、さきに触れた”と司馬さんは言っているが、
さきに触れた箇所はない。
>>573が「ターナは最終章でもう一度話題になる」と言っているのは、
上記の司馬さんの勘違いに誘発された勘違いである。
ターナは羊が大好きな白い花のほうである。
副題は、【ベトナムから考える】。
昭和48年4月25日〜7月16日、サンケイ新聞に連載された。
同年の4月1日から4月13日までのサイゴン滞在が基礎になった紀行である。
昭和48年にアメリカ軍は撤退したが、昭和50年4月30日のサイゴン陥落まで戦争は続いていた。
その時期のサイゴンである。
>>608 紀行とはいえ評論部分が多いからな。どう料理すんの?
本文を丸写しして画像を貼るだけかw
>>614 1章、2章は総論部分なんで、俺のやることがない。
第3章 外人師団
サブタイトルは外人師団であるが、内容は1965〜73年の間ベトナムに派兵されていた
韓国兵の蛮行の数々が述べられている。韓国兵が虐殺したベトナム兵の数は、
公式発表では4万人強であるが、30万人以上は虐殺したといわれている。
また、韓国兵は、ベトナムで現地女性5万人をレイプして子供を生ませたといわれる。
昭和40年代ずっと国際ニュースの王座を占めていたベトナム戦争も、今は昔になってしまったな。
おまいらが大嫌いな団塊世代の多数がアカに走ったのも、ベトナム戦争の影響が大きい。
坂本龍一の頭髪が司馬化している。
>>611 ベトナム戦争を通じて“人間の集団行動”というものを考える。
主題が絞られていて、話がとっちらかってない作品なんで、スレを伸ばすのが難しいな。
信長がふたたび大軍をひきいてダナンにあらわれたのは、翌元亀二年八月であった。
去年の暮、サイゴンへ帰って以来、信長は多忙をきわめた。
フエに兵を出し、現地女性をレイプしまくっている韓国兵を討伐したり、
また、木下藤吉郎に任せてある軍律違反の韓国兵の処刑をサイゴンから指導したり、
さらにウォン高に喘ぐ韓国本国への攻勢を強めたりした。
いまの地図でも括弧書きでサイゴンと書かれていると思うが、
念のために言っておくと、ベトナム戦争終結後ホーチミン市になった町な。
ベトナム=戦争のイメージが強くて、平和になった現在も観光旅行の対象として考えたことがないから、
戦争以外のベトナムの画像を見たことがない。
サイパン島なども同じ。何十年経っても、そういう色眼鏡で見てしまう土地というものがある。
昭和48年の思い出といえば、ラッパのGパンで自転車に乗ると、
ラッパの内側にチェーンの油が付いて真っ黒になったぐらいしかないな。
筆者が自転車を押しながら坂道を登っていると、その横を小学生が元気よくペダルを漕いで登っていった。
「こどもは偉い」
思わず筆者は呟いた。
やっと頂上だ。これから下り坂天国が始まる。だが、下り坂天国は悲しくなるほどに短い。
再び上り坂地獄が始まった。
第4章 朝鮮半島との酷似
このサブタイトルはベトナム人にとっては迷惑だろう。
安東都護府は、唐朝が高句麗を滅ぼした(麗唐戦争)後、
高句麗旧域の管理を目的に設置した統治機構である。
ほぼ同時期に、旧百済領を熊津都督府、新羅を鶏林大都督府として半島全域を支配した。
そのため、朝鮮に朝鮮人の国はなくなった。
劉方が林邑に建立した戦勝記念碑の画像はなかった。
蘇定方が扶余の定林寺に建てた(すでにあった塔に刻み込んだ)平済塔の画像は
>>276にある。
【李朝以降のベトナムの王朝】
1.李朝 1009年〜1225年
2.陳朝 1225年〜1400年
3.黎朝 1428年〜1527年
4.分裂期 16世紀〜18世紀
5.西山朝 1786年〜1802年
6.阮朝 1802年〜1945年
第5章 世界政略の虚構
ドミノ理論が叩かれている。
Weather ReportのDomino Theory
でも結果的に反共思想って正しかったよな。
第6章 ベトナム人がいなくなるまで
私がサイゴンに着いたのは、米軍の最後の部隊が撤退した翌日(1973年4月1日)で、
町に軍服姿のアメリカ兵をひとりも見かけなかった。
…米軍の撤退完了は1973/03/29(木)なので、司馬さんの到着は翌翌翌日である。
第7章 葦と「たおやめ」ぶり
男性ふたりで腕を組んで歩くベトナム人の画像はありませんでした。
>>650 見た目はどうであれ、使ったことないから、味がわからんわ。
>>644 ベトコンの外相はいらない。タイの首相の画像くれ。ハアハア
第8章 輪廻の思想
ベトナム人の抗戦力の強さは、仏教の輪廻思想のせいではないかという話をしている。
日本の小学生の34%が「人が死んでも生き返る」と回答したアンケート結果がある。
あれを思い出したわ。
三界は、欲界・色界・無色界のこと。凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する世界。
仏陀はこの三界での輪廻から解脱している。
六道は、迷いあるものが輪廻する6種類の迷いある世界のこと。
天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道。
第10章 ウズラの魔法
昭和48年といえば、日本でもトイレットペーパー騒動があった年であるが、
トイレットペーパー騒動は昭和48年10月からなので、この紀行では触れられていない。
この紀行は4月〜7月の連載なので、トイレットペーパー騒動の前に連載が終了する。
オイル・ショックによるモノ不足を痛感したのは昭和49年だな。
まだ子供だったから、小遣いで買う物といえばレコードと音楽雑誌しかなかった。
レコードは再販商品だったからジャケットに定価が表示されていたが、
ジャケットの定価表示の上に、縦5mm横15mmぐらいの小さなシールを貼って値上げ対応していた。
雑誌の場合、紙質が劣化しページ数も少なくなっていたな。
紙質が悪いため、紙の種類によって波打っているページがあって、
バリバリした感じでページをめくりにくかった。
>>663 『週刊FM』はバブル期でもバリバリした感じでページをめくりにくかったぞ。
>>662 この章がいちばん記憶に残っていた。
「そうか、この方法で儲ければいいのか」と思ったからだろうな。
すぐに日本では口コミだけでウズラが高騰することはあるまいとバカバカしくなったけど。
>>664 雑誌の綴じ部分の波うちバリバリが気になりだしたのは昭和50年代以降だな。
紙質の問題もあるんだろうが、本屋でエアコンを使うようになったからじゃないのかな?
第11章 国家を持つこと
ラオス、カンボジアまではインド式国家を作り、
ベトナムが中国式国家を作っていたということでインドシナ半島と呼ぶ。
シナは差別用語であるとして、一部の旅行会社ではインドチャイナ半島と呼びかえる動きがあるらしい。
韓国では中国との国交正常化以後、インドチャイナ半島と呼んでいる。
呼ばれる側の主観で差別用語と決めつけ、一方的に別の呼び方に換えるというやり方は好きじゃない。
言葉は習慣的に使用しているだけで、使用する大多数の人々に差別意識はない。
遠慮を知らない自己主張は周囲を不愉快にするだけだし、被差別意識を払拭しない限り差別は根絶されない。
歴史的な経緯はともかく、現代の差別は差別される者の側の主観にしか存在しないからだ。
第12章 近代国家の重圧
タクシーの運転手の話で、戦争前のメコン・デルタで暮らすベトナム人の様子がわかる。
メコン・デルタを丁寧に言うとオメコ・ンデルタになる。
満州国の五族協和とは、日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人という五族の協和である。
司馬さんは白系ロシア人をも挙げているが、ロシア人は含まれない。仲間はずれである。
17世紀のベトナムとは、
>>631の略年表でいうと4.分裂期である。
鄭政権=オランダ、阮政権=ポルトガルの結びつきだけが書かれているが、
朱印船貿易による日本の影響を忘れてもらっては困る。
1604年〜1635年までにベトナムに渡った朱印船は71隻あった。
ベトナムに作られた日本町としては、ツーラン・フェフォが知られており、
日本人居住地としてはトンキン・ハノイ・サイゴンがある。
阮政権の外港ホイアンは、当時の姿を偲ぶことができる日本町で、
町には「日本橋」とよばれる橋が残っている。
また、ホイアンの近くには日本人の墓もあり、
ベトナムに居住し当地で亡くなった日本人が葬られている。
ハノイにしても、あれだけの兵器弾薬をソ連や中国から無償でもらって、
あとでどういうツケがまわってくるかということについてはやや鈍感なような印象がある。
中国との関係では、ベトナム戦争終結の4年後に中越戦争が起きた(1979年)。
ドミノ理論は老婆心というほかない。アカは内紛で自滅するのである。
近年、ベトナムと中国の関係は再び緊張をはらみ始め、ベトナムはロシアとの関係強化を
いっそう強めているようである。
司馬さんは、サイゴンの4月は真夏であると書かれているが、南部ベトナムに四季はない。
まあ年中夏のようなものかもしれないが、5〜10月を雨季、11〜4月を乾季という分け方をしている。
>>679 北部ベトナムは、4月が短い春、5〜10月が夏、11〜12月が秋、
1〜3月が冬で10℃近くまで気温が下がるそうだ。
農村が戦場となっていたためサイゴンへ200万人ばかりの農漁村の人口が流入していたと書かれているが、
現在でもその数は変わっていないらしい。
ホーチミン市の現在の人口は700〜800万人(流入者が多いため実数が把握できていない)。
流入の理由はもちろん戦争ではなく都鄙の経済格差。とりわけ田舎には職がない。
「なぜ自転車がいやなのか」
と、あるサイゴンの初老の労働者にきいたところ、こんな暑いところで自転車は不向きだよ、といった。
しかし、明治の日本人はたとえペダルに足を掛けずとも、自転車を押しながらでも坂を登った。
登っていく坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が輝いていてもいなくても、
また自転車を押しながら坂を登っていくのだ。
Λ_Λ
(´∀` )<「坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、
/\ / ヽ それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」だぞ
○―○ 丿
/ー//=
γ /\\\γヽ
|| /| =\l l|ニ)l|
ゝノ ` ' ゝノ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
>>658 >2005年のインタビュー動画
???
ゴ・ディン・ジエムは、反ジエムクーデターで1963年11月に殺害されたろww
この本はベトナム戦争については何も知りませんという若い人が最初に読むには
適していないかもしれないな。ベトナム戦争の概要について述べた章がいつ出て
くるかと思いながら読んでいるが、いまのところ出てこない。
この本が発表された当時の30代以上の読者にとっては、登場する人物の名前は
日々のニュースで飽きるぐらい聞かされた名前であって、そういうことは読者が
熟知しているという前提で書かれている。つまり、後世の読者のことはまったく
意識して書かれていない。
>>688 新聞に連載されたレポートなので、やむを得ないな。
いま(40年前のいま)のベトナムの姿を知りたい新聞読者が対象の連続レポートだ。
40年後に初めて読む人には、わかりにくいと思う。
ただベトナム戦争の概要を知らなくても、面白く読める部分はある。
690 :
無名草子さん:2013/01/24(木) 19:55:47.05
>>689 そういうところを、おまいらがこのスレで補足解説してくれ。
>>689 人名やカンボジアとの関係についての知識がないと理解できない部分は若干しかない。
9割5分以上はベトナム戦争の知識がなくても読めるよ。
>>691 そうだね。
この本でベトナム戦争についての知識を得ようと思う読者には不向きというにすぎない。
>>678 バイクの7人乗りができれば、
一家でサーカスに雇って貰えるんでねぇ?
>>677 戦後のベトナムの様子を伝える週刊誌のグラビアなどで、
ベトナムの海で海水浴をしているロシア人の写真が紹介されていたよ。
>>688 ベトナム戦争について書かれた書物ではなくて、
“人間はなぜ群れるのか”を考察するに当たり、
ベトナム戦争を考察の契機にしたというにすぎないからね。
ベトナム戦争がこの書物の主題ではない。
『坂の上の雲』は日露戦争を主題にした本ではないが、勢いで日露戦争の内容を詳細に書いてしまった。
『人間の集団についつ』は、そういう作品でもない。
連載当時であれば多くの読者が知っていた人名その他の知識が、いまの読者に欠けているだけのことだ。
これは古い文学作品を読むときに一般的に生じる問題で、何もこの作品に限った話ではない。
ただ時事問題を扱っているために、マイナーな人名などが現在では調べにくくなっているという部分はある。
第14章 首領の理想
西郷隆盛や毛沢東と同じく、アジア人であるベトナム人にとってホー・チ・ミンが
理想的な首領であるといった話をしている。
第15章 “普通人”の悲惨さ
この章あたりから本格的に本書の主題「人間はなぜ群れるか」が語られ始める。
ニューヨークでジュークボックスに群れる黒人、群れる日本の新左翼が槍玉に挙げられ、
引き続きベトコンの住民虐殺が語られる。上げたらすぐ下げる司馬独特の文章の流れである。
この章に書かれている司馬の学生運動批判は、昭和46年発行の高野悦子の日記
「二十歳の原点」に影響されているかもしれないな。
学生運動・失恋・人間関係での葛藤と挫折が記された日記だが、日記の書き手は自殺している。
その成人の日の日記。
「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」
70年から71年にかけては新左翼の内ゲバ殺人のニュースが連日のように報道された。
この時期の左翼は殺人狂と同義であった。
日本国民が左翼を憎悪するようになったのはこの時期からである。
1968年のテト攻勢とは、1月30日夜から展開された北ベトナム人民軍(NVA)
および南ベトナム解放民族戦線(NLF、ベトコン)による大攻勢である。
テトとは地名ではない。ベトナム語で旧正月という意味である。
>>622 フエ(ユエ)の現地女性をレイプしまくっている韓国兵は信長に討伐されているな。
第16章 政治より生物学を
前章の続きである。
15%の右翼と15%の左翼のおかげで甚大な被害を被る70%の普通人の悲劇が語られる。
サブタイトルの「生物学」の部分は、司馬氏の真意としては精神病理学にしたかったところであろう。
>>709 右翼も左翼も政治権力によって様々な目標を達成できると考えている。
政治に過剰な期待をする人々なんだよな。
理屈をこねている暇があったら畑を耕そうというのが普通の人。
>>696 >ただ時事問題を扱っているために、マイナーな人名などが現在では調べにくくなっているという部分はある。
久保田実医師については、調べようがないな。
第17章 紙幣が支配する世界
米国が南ベトナムにばらまいたカネに依存して生活せざるをえなくなったサイゴンの人々。
30万ピアストルを支払えば後方勤務に回してもらえる。カネが支配する軍隊になりました。
米国の本格介入以降にベトナム戦争に関与した大統領を司馬さんは「三代の大統領」としているが、
アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソンの「四代」が正しい。
この作品が書かれた時期の米国大統領は、ニクソンである。
>>715 女性用パンティーをはいて徴兵検査を受けるとホモと勘違いされて徴兵免除になるんじゃなかった?
第18章 “寿会”のひとびと
ここから各論の具体的な話になる。
とりとめもない長い総論が17章も続いた後なので、ホッとする。
昭和42年にベトナム旅行をした方の日記がネットで公開されていた。
まだ戦争たけなわの頃だ。東京銀行は当時からサイゴンで営業していた。
<東京銀行では、日本人支店長まで窓口に現れ、戦争が激しくなったサイゴンにやって来るとはとんでもない・・と怒られ、
両替するについては、持っていたエア・チケットではOpenとなっているサイゴン・香港便をその場で予約することと、
大使館へ連絡することを条件とされてしまった。>
http://www.shonan.ne.jp/~a-miura/dougasaigon.htm
寿会に関する研究論文はあるけど、一般向けの評論や小説はないのかね?
いまだったら体験者手記という形で出版されそうな感じがするが、
当時はそういう風潮はなかったのかな。
>>720 寿会は北ベトナム軍として戦ったわけで、アメリカ軍に対する遠慮があろう。
>>720 ベトナム独立戦争で戦った中原光信元陸軍少尉の『ベトナムへの道 - 日越貿易の歴史と展望』という本がある。
ベトナム戦争時代の話にどの程度ページを割いておられるのかは知らないが、
この方はクァンガイ陸軍中学教官だった。
日越貿易会会長も務められており、本文で述べられている「寿会のひとたちがいなければ、
日本の企業は南ベトナムにうまく入れなかったでしょう」というのは、この方々の働きを指すのだと思う。
第19章 青木茂氏の風貌
その寿会の世話役である青木茂氏と会食する司馬さん。
青木茂氏の風貌について長々と書いている章なのでぜひ画像を見つけたかったが、なかった。
青木茂氏は、トーメンのサイゴン支店に勤務しておられた。
トーメンはかつて存在した日本の総合商社で、2006年4月1日に豊田通商と合併し消滅した。
むかしの東洋棉花である。
目に力がなく、政治的手腕もないが、カネだけはある昭和30年代の若者
ノ´⌒ヽ,, \
γ⌒´ ヽ, \
// ""⌒⌒\ ) ゆき夫〜
i / ⌒ ⌒ ヽ ) 12億円のこども手当よ〜
/ !゙ (・ )` ´( ・) i/ はーい♪ /
/ | (__人_) | /
/ \ `ー' /
/ ヽ
/ / |ヽヽ
(、、) / (__)
\ 、/
ε= ε= / >、 \,-、 スタスタ
ヽ_/ \_ノ
第20章 異郷を流離する話
本章から登場する東洋大学哲学科のT君であるが、その厳父がベトナム語研究の草分け的存在と
述べられているので、確証はないが『越日小辞典』の編者・竹内与之助氏のご子息ではないかと思われる。
>>728 1922年生まれでいらっしゃるから、おそらく戦後ベビーブームの生まれであろうT君が
ご子息であってもおかしくないな。
しかし、ベトナム語研究者=苗字のイニシャルがT、この二つの条件だけで決め付けるのは、
荒っぽすぎるという気がしないでもないなw
>>730 もったいぶらずに、御本尊様の画像を早くうpしろよ。
あなたベットの上でもそうなの?
_,.‐'  ̄ ̄` ゙` '‐.、
/ \
/ _ _ ゙!
i' ,r'´ ,,,,.. `\ ゙!
i' i' ミ" ゙! ゙!
| |≡ ● . | | もともと化物じゃが?
i,. i,п@ ,i' /
〉、 \ _ 山 __,/ ,r'、
__//\  ̄ /\ ヽ,
彡へu ゙T' ‐.、____ ,.‐ イ" ⊂、 〈
ヽ、 /. リリ
r"´>、.____ ,.‐'\
`~´ `) )
//
-=iil|||||||||||||||||||||||||〈_ノ
>>726 子供の小遣いまでマスゴミがターゲットにするが、子供の小遣いでは欲望のすべて満たすことはできない。
物欲とフラストレーションの狭間で目に力のない若者が増えるんだよな。
テレビをつけると、朝から晩まで「夢、夢、夢って大切ですよね」と洗脳して、
カネがないのに、欲望に火を点けてカネを遣わそうとする。
>>724 青木茂氏との会食に同行した中野喬二記者は、
画像どころか、名前すらヒットしない。
739 :
無名草子さん:2013/01/25(金) 23:13:28.53
モンゴル紀行のイルクーツクのところで出てきた
オーロという街路樹の画像はなかったのですか?
少しあとで香港映画が東南アジアでたくさん観られている話がでてくる。
香港映画のストーリーは東映やくざ映画と同じで、善玉が悪玉をやっつける。
時代背景は清末の義和団の乱の頃、善玉は義和団で、悪玉は日本人、これも決まっているそうだ。
司馬さんはエレベーターの中で15歳位の少年から敵意に満ちた目で睨まれる。
サイゴンでも香港映画がよく観られていたのだ。
ところで義和団の乱で戦った国は日本だけではない。
英米仏露をはじめとする8ヶ国だ。
どうして日本だけが香港映画で悪玉にされるのだろうと司馬さんは不思議に思うが、答えはすぐに判る。
映画とはいえ、英米仏露を悪役にしていれば、英米仏露の政府から抗議がくるのだ。
中国・韓国・朝日新聞・毎日新聞から「反省」することを強要される日本政府は、
香港の映画会社に抗議できない。
そういうことをすれば、日本のマスゴミが先頭に立って日本政府を罵り始める。
「反省が足りない」と。
もちろん映画はフィクションだから、大人はそれを観て日頃の鬱憤を晴らすだけだ。
しかしエレベーターの少年のように幼児時代から悪玉日本を植えつけられると、
好悪の感情は大人になっても抜けきらない。
時代劇好きの日本人が、代官といえば賄賂が大好きと誤解しているのと同じだ。
戦争が終わってから生まれた我々日本人が、なにゆえサヨクの基地外から「反省」を強要されなければならない。
「反省」を強要している中国人・韓国人も、大多数が戦争が終わった後で生まれいる。
いかなる戦争被害を受けたのか説明できないはずである。
刑法に反省強要罪を新設して、日本国民と日本政府に反省を強要するマスゴミ人を、牢屋にぶち込むべきである。
基地外サヨクによる外交の定義は、一方的に外国の主張を認めてやることである。
それだと耳だけあればよい。口はいらない。
マスゴミの主張は日本人から口を奪えという主張と同じである。
日本人は全員整形外科へ行って唇を縫えという主張である。
基地外、死ね!
744 :
無名草子さん:2013/01/26(土) 07:58:15.33
>>741 江戸時代の代官は賄賂をとってなかったんですか?
>>744 天領(幕府領)という限定つきだけど、代官による収賄は皆無に近いという事実を、
司馬作品では繰り返し述べているよ。
>>739 司馬さんの外国語のカタカナ化には、かなり癖がある。
それで検索してもヒットしないことが多い。
取材で現地へ行くことの多い作家なので、はじめは現地人の発音により近い表記なのかと思っていたが、
必ずしもそうではない。単なる個人的な癖である。
このスレッドでは、便宜上、1章、2章と呼んでいるが、
司馬氏は「項」のつもりで書いておられる。「前項で述べたように」という叙述があった。
章と呼ぶには纏まりが小さすぎるような気もする。
>>742 マスゴミは憲法改正の議論を起こして「反省の義務」を国民の義務として憲法に明記した上で、
政府や国民に反省を求めてもらいたいな。でなければ、反省なんかしたくない。
>>748 父親が戦争体験者なんですが、相続税で相続財産の50%を納税しました。
反省も50%だけすればいいですか?
第21章 桃太郎伝説
太平洋戦争の終戦後からベトミンに加わるまでの青木茂氏のお話です。
>>751 ネットのない時代でよかったな。今だったら、楽に100スレいく。
もちろんマスコミは河崎一郎の意見に賛同し喜びを隠せない様子であった。
プノンペンで終戦を迎えた師団というと善通寺の第55師団か?
【フランス領インドシナ】
いわゆる「仏印」と呼ばれる地域は、現在の国名でいうとベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域。
【北部仏印進駐】
昭和15年の日本軍による北部仏印占領。
日本と交戦中の中華民国・蒋介石政権に対して行われていたイギリスやアメリカ合衆国などによる軍事援助ルート、
いわゆる援蒋ルートを、インドシナ半島において遮断する目的で行われた。
【南部仏印進駐】
昭和16年7月。太平洋戦争前である。
日本軍はヴィシー政権の許可を得て7月28日に仏印南部への進駐を開始した。
米英蘭が戦争を決意し南仏印に強固な拠点が築かれた場合、
日本が戦争完遂のための物資を確保するために東南アジアへ進出することが不可能になることを防止する目的。
【第1次インドシナ戦争】
1946年〜1954年。
19世紀以来フランスの植民地であったベトナム、ラオス、カンボジアは、
第二次大戦中、日本軍によって解放された。
三国は王政を布いていたが、日本の敗戦後、仏印に復帰したフランスは
三国の独立を認めず、再びフランスによる植民地にされようとした。
これら三国のフランスに対する独立戦争が第1次インドシナ戦争である。
第22章 帰属心の安らぎ
ここから3章は、カオダイ教の本山のあるタイニンを訪ねた紀行になる。
>>747 新聞連載なので一回の枚数に制限があり、本来一つのまとまりのある話題を
数回に分割して別々の表題を付けているな。
自分なりに、章分けをしてみた。
第1章 ベトナム戦争
「兵器という思想」〜「ベトナム人がいなくなるまで」の6回
第2章 ベトナム人
「葦とたおやめぶり」(7)〜「ウズラの魔法」(10)
第3章 ベトナムと国民国家
「国家をもつこと」(11)〜「首領の理想」(14)
第4章 人間の集団について
「“普通人”の悲惨さ」(15)〜「紙幣が支配する世界」(17)
第5章 青木茂氏のこと
「“寿会”のひとびと」(18)〜桃太郎伝説(21)
第6章 カオダイ教の本山
「帰属心の安らぎ」(22)〜「空想と現実の間」(24)
この項の内容は、個人は村落・宗教・国家、戦争中のベトナムであれば軍隊へ帰属することによって、
安心感ももつんだ、といったとりとめのない話をしている。
いずれかの国・社会あるいは組織ないし集団に帰属しているという個々人の「帰属意識」が、
アイデンティティの重要な要素になるという、よくある話だ。
>>761 会社組織に帰属していない自由業の人って、一度や二度は必ずこういう内容の文章を書くよな。
あちこちで作家の人がこういう内容の文章を書いているのを読んだよ。
あるいはバーの常連客になって、そこへの帰属意識で代替させたりする。
第23章 陽気な集合
カオダイ教の本山タイニンに到着しました。
本地垂迹説について、司馬さんの朝鮮人のお友達が「あればかりはわれわれにはわからないですね」
と、おっしゃったそうです。
ちょっとゲラゲラ
>>764 万物韓国起源説からすれば当然の帰結だな。
本文にはカオダイ教の使徒としてヴィクトル・ユーゴーと李白の名前しか挙げられていません。
こんなもので驚いていてはいけません。
以下の人々も、すべてカオダイのご本尊様の使徒にすぎません。
孔子、老子、釈迦、観音菩薩、キリスト、ムハンマド、
西遊記に出てくる太上老君、ソクラテス、トルストイ
>>767 なんでもありの豪華さだね。まるで民主党マニフェスト。
教祖の名前とカオダイ教が興った年が、この本とWikiで違う。
どちらが本当なんでしょうか?
Wiki……1919年 ゴ・ミン・チェン(呉明サ) ※ちなみに毎日新聞1993年9月9日も同じ
司馬……1926年 レ・ヴァン・チュン(黎文忠) ※平凡社の百科事典も同じ
>>769 わかりきったことを訊くな。変態じゃないほう。
第24章 空想と現実の間
カオダイ教紀行は、ここまでです。
この章で初めて、ご本尊様が登場します(
>>734)。
カオダイ教の全教徒数が全人口の3%〜10%というのは、いまでもそうらしい。
つまり40年経過しても、実数が把握しきれていない。
空想はユーモアがあるから好きであるが、ハッタリは虚喝であるから嫌いと言われている。
このハッタリと虚喝、『項羽と劉邦』に登場する陳勝についてしばしば使われていた言葉である。
カンボジアが現在でも仏教を国教にしているというのはその通りであるが、ラオスは仏教を国教にしていない。
ただし、この件について司馬氏に過失はない。この作品が書かれた後にラオスに共産革命が発生した。
時期は、昭和50年(1975)のサイゴン陥落の直後である。
ラオスはマルクス・レーニン主義を掲げるラオス人民革命党による社会主義国型の一党独裁制の国である。
一党独裁の下で民選議員が立法府を構成している。
赤化したため仏教は一時迫害を受けたが、いまは信教の自由が認められ、国民の6割が仏教徒である。
第25章 少数民族という旦那
ここからの三章は、華僑(中国人)のお話。
もっとも、40年前の作品なので事情は二転三転している。
まず、1975年にベトナムと中国は戦争をしている。
この際、ベトナムの華僑はボート・ピープルとなって110万人が国外脱出をした。
しかし、1986年以降のドイモイ政策により、華僑は再び増えている。
ベトナムは中国と同じく一党独裁体制のまま、産業構造においては市場メカニズムを導入している。
つまり、ここでも中国の真似。そのような事情から華僑は再び増加しており、現在130万人もいる。
司馬さんは、ラオスとカンボジアには、たいした料理はないと言い切っているが、そんなこともない。
ただ、画像を貼ることもないと判断した。ド田舎のベトナム料理と考えておけば、ほぼ間違いはない。
華僑が集中しているのはホーチミン市であるが、
1992年の統計によると、華人資本は商業の30%、軽工業の70%を占めている。
また、企業の総生産額はホーチミン市工業生産額の40%以上、輸出総額の80%を占める。
紆余曲折はあったが、元に戻ったということだなw
ビルマ(現ミャンマー)が元気よく華僑を国外追放していたのは、1960年代の古い話。
民間資本規制緩和と同時に、華僑は主として農産物売買、不動産あるいは運輸、ホテル業などを起こし、
海外の華僑ネットワークと連結して次第に規模を大きくしていった。
さらに金融の民間開放で民間銀行の設立も華僑資本が主力になっている。
「ミョウ族」という少数民族が出てくるが、「ミャオ族(苗族)」のことである。
____
/ \ ( ;;;;(
/ _ノ ヽ__\) ;;;;)
/ (─) (─ /;;/
| (__人__) l;;,´
>>781 ミョウだと思った。
/ ∩ ノ)━・'/
( \ / _ノ´.| |
.\ " /__| |
\ /___ /
(´・ω・`) 受けて笑わないとどうしてもダメ?
>>774 軍隊が来ればカネを落とすという期待があったから歓迎ムードはあったろうな。
現在の軍隊に比べると武器の殺傷能力も低かったから、
恐ろしいというムードばかりではなかったと思う。
現に韓国人売春婦のように、日本軍の移動にくっついて商売する連中もいたぐらいだからな。
何が尖閣共同管理じゃ!早稲田3年!死ね!馬鹿!!
すべて話し合いで決着がつくなら、世界中の国が軍隊を持っとらんぞ。
早く気づけよ、阿呆サヨク。
第26章 武侠映画
「侠」の字が本文と違います。ご容赦願います。
この章には華僑は登場しませんが、サイゴン市で香港武侠映画が大人気という話なので、
前章とひとくくりにしました。
>>788 司馬さんは義和団の義和拳が映画に出てくると言っているぞ。
カンフーの要素もあったのではないのか?
>>789 ありません。武侠映画とカンフー映画は、別のジャンルです。
【白系ロシア人】
ロシア革命後、ロシア国外に脱出あるいは亡命した非ソヴィエト系旧ロシア帝国国民
第27章 紋切り型
東南アジアにおける反日感情について述べられています。
前章と本章の内容についての感想は、
>>740-743に書かれている方に賛同いたします。
第7章 ベトナムの華僑
「少数民族という旦那」(25)〜「紋切り型」(27)
シェスタ(昼寝)はスペイン語だよな。なんで昼寝だけフランス語ではなくスペイン語なのかな?
それと、ステレオタイプの語源は印刷のステロ版(鉛版)なのに、ステロタイプと言わない人が多いな。
辞書類もステレオタイプになっている。
第28章 メコンへの出発
ここから区切りが変わります。
メコンデルタを訪ねるドライブなんですが、到着するまでの車中で考えたことが延々と第43章まで続きます。
メコンデルタに到着するのは、第44章「メコン河」です。
>>795 第43章までを一区切りと考えてもいいが、車中で考えたことが多岐に亘るから、
さらに細分化した章分けのほうが、読者には便宜だな。
>>791 白系の「白」は、モンゴル紀行に出てきた白軍の白、
つまり反革命の意味だな。
>>796 「メコンへの出発」〜「秘密結社」〜「団結力の弱さ」で一区切りだな。
内ゲバばかりしている日本のサヨクの馬鹿と同じで、
ベトナム人は小異に拘泥して団結できないのではないですか、
という司馬さんのB氏への問いかけをめぐる話だ。
>>795 初読のとき、車の中で考えたことがなんて長いんだろうと思った。
単行本化にあたって、分かりやすく章分けをすべきだったね。
第29章 秘密結社
ベトナム人が結束力の弱い人々であると感じた司馬さんは、彼らと比較するために
強固な結束力を誇る中国の“幇”の話を始めました。
第30章 団結力の弱さ
メコンデルタへ向かう車中で、司馬氏とB氏の「ベトナム人は団結したがらない民族か」の問答が続きます。
第8章 団結力の弱さ
「メコンへの出発」(28)〜「団結力の弱さ」(30)
「ベトナム人が結束した時の集団の力は、個人主義の中国人の比ではない」という人もいるし…。
ひとそれぞれ。まあ、勝手に言ってろ。
第31章 利口か馬鹿かの世界
ベトナム人は自分たちのことをドイツ人の次に賢いと思っているらしい。
カンボジア人はバカで、ラオス人は考えられぬほどバカだとも思っているらしい。
第9章 民族的自負心
「利口か馬鹿かの世界」(31)〜「民族的自負心」(33)
ここもメコンへ向かう車中で考えたことである。
815 :
無名草子さん:2013/01/28(月) 20:41:30.68
>>815 1976年に起きた“ソウエト虐殺"事件を中心に、白人による黒人弾圧に抵抗する勇気ある姿を描く
フィリピン映画「アモク」の解説によると、〈アモク〉とは、南アフリカ原住民の俗語で“狂気”を意味する
言葉だということだよ。
>>815 マレーシアで起きる特異な精神病であるアモックの研究から、
特定の文化環境下において発生しうる特殊な精神病の存在が指摘されて、
アモクという言葉が有名になったんだよね。
反戦サヨクの人たちも、竹島・尖閣問題から大規模な戦闘が起こるのではないかと、懸念する必要はないよ。
満州国とモンゴルの国境紛争であったノモンハン事件のときとは、国境の意味が違う。
また、戦の勝敗の決め方がノモンハン事件の時代とは全然違うのよ。
不慮の事故によって軍隊どうしの接触があったとしても、日本政府は外交解決を選ぶ。
国民が武力解決しか望んでいないから。
戦争で危ない目に遭うよりも、美味い料理を食って旅行して芝居観て楽しく暮らすほうを選ぶよ。
だからと自衛隊が何もしないわけにはいかない。
来るなら来い!いつでもぶったたいてやるからな、ってやってないとダメなのよ。
わかんないw?
正々堂々とやってくる他国の軍隊は、実は少しも怖くない。
怖いのは、コソッとやってくるテロリストよ。
文面に「反日サヨク」とか「反戦サヨク」という語を用いているレスには程度の低い場合が多い。
第32章 越僑性
越僑とは、一般には、ベトナム戦争の間に国外に脱出したベトナム人を指す。
ここでは、ベトナムの少数民族であるチュン族等の山岳民族を相手に金儲けをしている
キン族(ベトナムの多数民族)を華僑になぞらえて越僑と呼んでいるようである。
第33章 民族的自負心
高地人は馬鹿にはちがいなかろうが、馬鹿者の集団は利口者の集団がもっていない
文化性の密度というものをもっていて、じつはひそかに利口者の集団を軽蔑しているのではないか。
チャム族とミエン族[ヤオ族]は見つかったが、チュン族はないな。
語感がいちばん近いのは、チョロ族だ。
“敷島の大和心”の敷島は、大和を引きだすための枕詞なので特に意味はない。
本居宣長の「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」という和歌が有名。
第10章 戦争は終らない(一)
「チンギス汗の攻城」(34)〜「重兵器」(38)
第11章 戦争は終らない(二)
「対症療法」(39)〜「戦争は終らない」(43)
これから始まる10項が、本作品のハイライトである。
ベトナム戦争の本質に迫る部分。
>>830 第7章 ベトナムの華僑
「少数民族という旦那」(25)〜「紋切り型」(27)
第8章 団結力の弱さ
「メコンへの出発」(28)〜「団結力の弱さ」(30)
第9章 民族的自負心
「利口か馬鹿かの世界」(31)〜「民族的自負心」(33)
7章から9章は、ひとまとまりの話と考えてもいいんだがな。
まあ、8章からメコンデルタへのドライブが始まるから、分ける方が適切かな。
第34章 チンギス汗の攻城
サブタイトルにチンギス汗が出てきて唐突な感じを受けますが、
ここからの10章は、チンギス汗の世界戦略(?)とアメリカの世界戦略を比較することによって
ベトナム戦争の本質に迫ろうとする面白い評論です。
アメリカがシベリア出兵に消極的だったという見解が通説である。
アメリカは日本の領土的な野心に対抗するために、しぶしぶシベリア出兵したというのである。
しかし、冷戦時代には、旧ソ連の歴史学者を中心にシベリア出兵の主導者をアメリカに求める傾向が強かった。
第35章 何を守る
モンゴル帝国やソ連によるシベリア抑留のような掠奪は理解しやすいが、
アメリカのようにイデオロギーのために南ベトナムにカネをばらまいてまで戦争をするのは不可解、
という話をしている。
強盗のなすがままにしておきましょうという反日サヨクは、もっと不可解。
第36章 消費文明
南ベトナムの兵士は何を守るために戦っているのか、という前章からの話の続きです。
ずっと評論が続いているから、暇そうだなw
橋を守っている兵士は、携帯電話をズボンの前ポケットに入れて、携帯が震動し始めるのを待っていた。
「君のが右向きならば、右の前ポケットに入れるというのがポイントだよ」
その兵士が白い歯を見せて笑った。
第37章 国家と圧搾空気
これも司馬氏の余談の中によく出てくる話。
ベトナムは、戦争で大量に人が死に、銃殺刑が行われていても、
圧搾空気の上に乗っかった国ではないとおっしゃっています。
もう忘れた読者もいるかもしれないが、第28章の「メコンへの出発」からずっと、
メコンデルタへ向かう車中で考えたことだからな。
>>843 読んでいる方は、すでに三泊四日ぐらいした気分だなw
第38章 重兵器
代理戦争について考察している。
ベトナム人はナイフしか作る資力しかないのであれば、ナイフで殺し合えと言っている。
もっとも戦争を推奨しているわけではないのは、もとろんである。
もういいです
ここまでが、
第10章 戦争は終らない(一)
「チンギス汗の攻城」(34)〜「重兵器」(38)
この作品って、4月1日から4月13日までの旅行だろう?
わずか4時間ばかりのドライブ中に考えたことが、作品全体の3割近くを占めるって、
どういうバランスなのよw
>>855 治療中の歯に菌が入って、頬がおたふくかぜのように膨らんだって書いてあったじゃない。
半分ぐらいはホテルで寝てたんじゃないの?
戦争中の国だからな。
遠出をしようと思っても、
「今日はサイゴンを離れるのはヤバそうですぜ、旦那」
みたいな日があったんじゃないかな。
>>857 そういうことがあれば、包み隠さず書くのが司馬さん。
書いてなければ、そういったことはなかったんだよ。
>>824 これって、スルメそのものじゃなくて、「干物を戻して料理する・イカ版」ではないかと?
___
ヽ=☆=/ ばんじゃーい で ちょっと通りますよ
n( ・ω・)n
ヽエニエ/ニア
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Lミ/_/__」ミ丘百(==¬
(◎~O~~O~◎)三)-)三)
ヽ◎◎◎◎ノ三ノノ三ノ
第39章 対症療法
サブタイトルはアメリカ軍の戦術が対症療法的だというところからきている。
ベトコンの侵入を妨害するために
橋上の道路が自動車で走行しにくいような仕掛けになっているところから話が始まる。
B氏はベトナム人だから、当然、「ベトナム人が考えたのです」と、答えた。
第40章 森の知恵者
…とは、本章の主人公ツン君のこと。タクシー運転手である。
サブタイトルは前章のB氏の台詞「ベトナム人は工夫好き」を受けている。
ツン君の田舎もB氏と同じくメコン・デルタなので、一瞬同一人物かと思ったが、
次章を読むと別人のようである。
ツン君は、この作品の最初のほうで時々出ていたタクシー運転手。
すでにお忘れになられた読者もいらっしゃるかもしれないが、
第28章の「メコンへの出発」からずっとメコンデルタの町サデクに向かっている。
午前7時に出発したので、途中のタイアンの「そば屋」で食事をしたのは、
地図を見ると、おそらく8時30分ぐらいのことだと思う。
わずか1時間30分、しかも朝飯前に、司馬さんはこれだけのことを考えられるのである。
>>809 司馬さん自身、第46章「民族を鍛えたもの」で、
“ベトナム人に、何万人が一つ目的で結束するということをおしえたのはソンコイ川であった”
とおっしゃっている。
第42章 自家発電
ピーナッツ畑の灌漑用ポンプのエンジンで自家発電をしてテレビを見ているベトナム人の話から、
ベトナムにおける工業化の問題を考える。
第43章 戦争は終らない
この章は第34章「チンギス汗の攻城」で提示した問題提起に対する回答になっています。
>>830さんの指摘するように、この10章でひとつのまとまりで、本作品のハイライトでしょう。
>>875 タイアンの「そば屋」で朝飯を食ってから2時間ぐらい走っているはずなんだが、
朝食後はあまり考えなかったのかな。すぐに目的地に到着した感じだな。
第44章 メコン河
午前11時、メコンの河岸についた。
>>885 「長すぎんだよ、ヴォケ!」
Λ_Λ \\
( ・∀・) | | ガッ
と ) | |
Y /ノ 人
/ ) < >_Λ∩
_/し' //. V`Д´)/
(_フ彡 /
第12章 メコン・デルタ
「メコン河」(44)〜「葉蔭の村」(48)
ベトナム内戦は対立図式がそんなに複雑ではないが、カンボジアは難しい。
この作品の対立図式は粗雑すぎて、見た目はわかりやすが、
これだけ覚えて他人とカンボジアの話をすると笑われるぞ。
889 :
無名草子さん:2013/01/31(木) 00:01:04.37
もう何十年も前に『人間の集団について』を読みましたが、
最終章のベトナム人タクシー運転手の優しさといいますか、人の良さを述べた部分に感動しましたね。
文章を読んで心を洗われたような気分になることは滅多にない経験でした。
この最終章を読むだけでも、この作品を読む価値があると思います。
ただひとつ懸念されるのは、僕らのような年寄りは上記のような人の優しさを体験したことがある。少年期の記憶ですが。
ところが、この数十年最終章に出てくるベトナム人タクシー運転手のような優しさにお目にかかったことがありません。
今の若い人たちに正しく理解していただけるのだろうかというのが心配です。
かく言う僕でさえ、最終章のタクシー運転手に現在出会えば、彼に下心があるのかと疑ってしまうかもしれない。
数十年の間に日本人の心は、大きく変わってしまいました。
生まれ故郷の村落から都会に出てゆく人との別離が詩(歌謡曲)になるのは、
日本と韓国とベトナムだけだという話が興味深かった。
この作品がでた頃、「木綿のハンカチーフ」がヒットしていたかな、と思いながら読んでいた。
村落社会の垣根が取り払われると、こういう詩も書かれなくなるんだろうな。
白々しい“桜”を謳った歌詞ばかりが耳につく。ほかに花の名前を知らんのか、平成のパーは…。
「昔は泥棒なんていなかった」と言ったベトナム人の気持ちは良くわかる。
村落の垣根が残っていた頃は、本当に泥棒はいなかった。
毎日同じ顔しか見ないから、村落外部から侵入者がいれば、たちまち警戒される。
>>871 そういやベトナムで鳥インフルエンザによる死者が出たという記事を読んだことがあるな。
気をつけろよ。
【カンボジア内戦】
1)1953年;フランス領インドシナから独立…シアヌーク王政時代
2)1965年;ベトナム戦争…アメリカの北爆開始
シアヌークは米国と断行→ベトコンに協力
3)1970年;シアヌーク追放…ロン・ノル政権樹立
本文でいわれている「親米政権」とは、このロン・ノル政権である。
シアヌークは北京に亡命
カンボジア在住のベトナム人の虐殺が行われたのは、この時代である。
4)1973年;米軍の南ベトナム撤退…ロン・ノル政権は窮地に
クメール・ルージュ(ポル・ポト派)の活動激化
本作品は、この時期に書かれている。
5)1975年;4月、ベトナム戦争終結…ロン・ノルは国外逃亡
6)1976年;クメール・ルージュ政権(ポル・ポト派)樹立
7)1978年;ポル・ポト、ベトナムと断行
ポル・ポト派=中国 vs ベトナム=ソ連
ベトナムは、打倒ポル・ポトを掲げ、ヘン・サムリンを擁立
8)1979年;ベトナムによるプノンペン攻略…ポル・ポト派壊滅
ヘン・サムリン政権とポル・ポト派の戦いは続く
中国、報復のためベトナムと開戦…中越戦争
中国、ベトナム軍に惨敗→1ヶ月で撤退
その後、親ベトナムのヘン・サムリン政権と三派民主カンボジア政権の内戦が続く
三派とは、ポル・ポト派、シアヌーク派、ソン・サン派(ロン・ノル派の流れ)
このあたりのややこしさから、カンボジアに対する世界の関心が薄れる。私も飽きた。
写真家の伊藤さんというのは伊藤久美子さんのことで、司馬氏の資料収集の手伝いとともに
たくさんのプライベート写真を撮り続けた人。
第45章 デルタの征服者
ベトナム人は元来ハノイを中心とする北ベトナムで王朝を営んでいた。
中部ベトナムはチャム族のチャンパ王国、メコンデルタは先住民族クメール人(カンボジア人)
の土地であったが、ベトナム人に征服されたというお話です。
第46章 民族を鍛えたもの
ソンコイ・デルタは洪水が多く、メコン・デルタは洪水が少ないという話をしている。
ソンコイ・デルタの洪水の多さが、ベトナム人の結束力を鍛えたのだ、と司馬は言っている。
かつて「ベトナム人はどうして結束しないのか」とB氏に質問した人と同一人物である。
/ / / / / / /
/ / / / / /
ビュー ,.、 ,.、 / /
/ / ∠二二、ヽ / /
/ / / (( ´・ω・`)) ちょっと田んぼの様子見てくるお
/ ~~ :~~~〈 /
/ / ノ : _,,..ゝ /
/ / (,,..,)二i_,∠ / /
第47章 乙姫のいた国
やっと目的地のサデクに到着しました。長かった。
“カウボーイ”というバイクですれ違いざまに物をひったくるという犯罪は、
いまでもホーチミン市の糞ガキの伝統芸能として残っているので注意せよ。
浦島太郎は、親切にも亀を助けたのに、どうして最後は爺にされなきゃならんのだ?
第48章 葉蔭の村
サデク到着までに19章を費やし、サデク紀行はたったの2章です。
B氏は20年ぶりに叔母さんの家を訪ねたんだろう。たったの10分お邪魔しただけで
逃げるようにして帰ったのは、どうしてなんだろう?
黄檗山万福寺は、『上方武士道』の第7章「六条河原の門兵衛」にも登場する。
登場するだけで、別にどうってこともない。
開祖・隠元は、日本にインゲン豆をもたらした人として有名である。
寛文13年4月3日が隠元の命日であることから、毎年4月3日をインゲンの日と定めた。
インゲンは茹でて酢味噌胡麻和えで食っても旨いが、筆者は天麩羅が好きである。
第49章 劇的なフランス人
前章まででメコン・デルタを訪ねる小旅行は終了です。
再びサイゴン。ベトナムに所縁のあるもうひとつの民族フランス人のお話です。
第13章 劇的なフランス人
「劇的なフランス人」(49)〜「重い人生の群れ」(50)
亀とイジメっ子の自作自演
第50章 重い人生の群れ
前章のつづき。
サイゴンのシガールで働いているベトナム人給仕と、ハノイ生まれのCさんのお話です。
【明号作戦】
第二次世界大戦末期の1945年3月9日、
フランス領インドシナにおいて日本軍がフランス軍を攻撃し制圧した作戦。
仏印武力処理ともいう。
第51章 風流な犯罪
メコン・デルタへの小旅行の往路については長々と語ったが、
まだ語り足りないらしく、ここから帰路が語られる。
もういいよ。
南ベトナムの少年犯罪について述べられている。
“カウボーイ”については、
>>908に書いてしまったが、この章で詳しく述べられている。
犯罪に風流もへったくれもない。厳正に処罰しなければならない。
腕時計を盗むために手首から先を切り落とすなどは、どこが風流であるのか。
アジアの土民どもを甘やかしてはならない。
唐突に登場した“農業技術の岡本さん”って誰だよ、それ?
久保田医師と親しそうなんだが、説明しろよ。
読者にはいっこうにわからんだろうが。
第14章 アジア型共産主義
「風流な犯罪」(51)〜「アジア型共産主義」(53)
>>934 >腕時計を盗むために手首から先を切り落とすなどは、どこが風流であるのか。
いまならヨハネスブルグがそんな感じ。
第52章 日本との違い
メコン・デルタからの帰路、スペイン内乱(1936−39)について考える。
そこから、アメリカ式資本主義が日本では成功したが、ベトナムは無理ではないかと述べている。
わざわざ車中で考えたことにせんでもええんとちゃう?
フランコ独裁が終了したのは、この作品が執筆された昭和48年の2年後、1975年に王政復古した。
友達のいない奴って、同窓会の写真を持ってきて、近所のお店の奥さんと話しをするからな。
お店の奥さんは同窓生じゃないから「○○君、△△さん」と言われても、わかるわけがない。
それもでかい声で。うるさいから、さっさと帰れ。
第53章 アジア型共産主義
いまはずいぶん事情が変わっているからね。
共産党が指導しているとはいうものの、資本主義国になっている。
第54章 別離の情緒
…とは、ベトナムの歌謡曲によくでてくる歌詞について述べている。
第15章 回帰の心
「別離の情緒」(54)〜「回帰の心」(56)
>>952 ここからはメコンデルタのドライブ帰路じゃないんですよね?
第55章 美男の典型
日本やベトナムのような農耕社会では、どうして優男がモテるかを考察している。
>>959 昭和48年当時に読んでいても、「そりゃないよ」と思っただろうな。
この二人の若い頃なんか知らない読者が多かったと思う。
第56章 回帰の心
最終章です。ベトナム人の親切、大正時代までの日本人ののどかな生活と
戦後日本人の気が狂ったような競争について述べられています。
“のどかな気分”と“怠惰”の区別をすべての日本人がきちんとできるのであれば、
この最終章に書いてある通りの社会でよいと思うが、そうは上手くいかないからな。
競争に急き立てられる部分もないと、勝ち残れない。
最終章にポロリと出てきた昭和48〜49年当時の日本社会が抱えた大きな問題といういのが、
「公害」と「受験戦争」というところが面白いな。
《あとがき》
前半が中国文明の影響を受けた周辺国のひとつベトナムのこと、
後半がベトナム旅行のこと、とりわけ同行者たちのことが書かれています。
>>629 阿倍仲麻呂の話は《あとがき》に出てきます。
翰林院と国子監については、『空海の風景』の「十三」に解説してありますので、
そちらに譲ります。
同行者のひとり友田錫は、司馬遼太郎全集・月報40「胡蝶の夢一」に、
「ベトナムの司馬さん」というエッセイを寄稿している。
第1章 ベトナム戦争
「兵器という思想」(1)〜「ベトナム人がいなくなるまで」(6)
第2章 ベトナム人
「葦とたおやめぶり」(7)〜「ウズラの魔法」(10)
第3章 国民国家
「国家をもつこと」(11)〜「首領の理想」(14)
第4章 人間の集団について
「“普通人”の悲惨さ」(15)〜「紙幣が支配する世界」(17)
第5章 青木茂氏のこと
「“寿会”のひとびと」(18)〜桃太郎伝説(21)
第6章 カオダイ教の本山
「帰属心の安らぎ」(22)〜「空想と現実の間」(24)
第7章 ベトナムの華僑
「少数民族という旦那」(25)〜「紋切り型」(27)
第8章 団結力の弱さ
「メコンへの出発」(28)〜「団結力の弱さ」(30)
第9章 民族的自負心
「利口か馬鹿かの世界」(31)〜「民族的自負心」(33)
第10章 戦争は終らない(一)
「チンギス汗の攻城」(34)〜「重兵器」(38)
第11章 戦争は終らない(二)
「対症療法」(39)〜「戦争は終らない」(43)
第12章 メコン・デルタ
「メコン河」(44)〜「葉蔭の村」(48)
第13章 劇的なフランス人
「劇的なフランス人」(49)〜「重い人生の群れ」(50)
第14章 アジア型共産主義
「風流な犯罪」(51)〜「アジア型共産主義」(53)
第15章 回帰の心
「別離の情緒」(54)〜「回帰の心」(56)
もういいです
>>971 『人間の集団について』は、もう終了したからw
次はどの作品ですか?
尻啖え孫市
言い触らし団右衛門・売ろう物語・侍大将の胸毛・雨おんな
覚兵衛物語・花房助兵衛・おれは権現・軍師二人・愛染明王
などなど…
対談・紀行・評論が続いたからな。
小説に回帰の心か。
テキストは『司馬遼太郎全集 第8巻』だ。
そんなに高価ではないから、全巻買い揃えろ。
ただし、全巻買い揃えると、本棚をひとつ買わなければならなくなるのが難点といやー難点。
>>977 紙質・製本が優れているから、一生読めるよ。
書籍も雑誌も、まだまだ売上は下がるだろうから、
利益率を上げて、全集のような高級書籍に重点を移すしかないんじゃないの。
短編全集は何であのような安っぽい製本にしたんだろうな。
高価な本文用紙と布張り表紙で高級版を出してくれれば買うよ。
981 :
無名草子さん:2013/02/01(金) 23:56:34.03
『竜馬がゆく』はもう終わったんですか?
尻くらえ孫市に、商人を「あきんど」じゃなくて「あきゅうど」と書いてある。
懐かしかった。
時代劇だと「あきんど」というけど、祖母は「あきゅうど」と言っていた。
時代劇は伝統的なものを保存している部分もあるが、殺している部分もあるな。
関西では「あきゅうど」だよな。
司馬さんが緒方洪庵に強い関心をお持ちなのは、父親の是定(しじょう)氏が
若い頃、北浜の緒方病院の薬局に無給書生として勤務されていたからなんだな。
祖父の惣八さんがたいへんな攘夷家で、学校という西洋文明に息子を通わせなかった。
それで父親の是定氏は、「学校という子供の社交の場を経なかったせいか、人に対して
猜疑ぶかく、また極端に気おくれのするたちだった」と司馬氏は書かれている。
〔この国のかたち六所収の「祖父・父・学校」〕
初婚のときは、それで苦労された。
司馬遼太郎と多田道太郎は、御堂筋の歌舞伎座裏を歩いていたとき、
「肩がぶつかった」とチンピラにインネンをつけられたことがある。
991 :
スレ立て依頼:2013/02/02(土) 14:26:17.73
992 :
書き込み依頼:2013/02/02(土) 14:32:43.23
993 :
無名草子さん:2013/02/02(土) 17:50:40.31
>>991 立てられませんね。どなたかお願いします。
地震が止まらないな。
尻くらえ地震
>>995 お疲れさま。なんとか間に合いましたね。
1000なら津波こない。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。