☆☆「読書交換日記〜長文歓迎〜」☆☆

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1吾輩は名無しである
本の読了後の感想、意見などを「読書交換日記ふう」に綴るスレです。
長文歓迎します。
荒らし予防のためにも「sage」進行でお願いします。
2吾輩は名無しである:2005/06/26(日) 09:02:57
天才作家の二階堂黎人様が>>2ゲットだ!

>>3はどうしてそんなことお申しになりますの?
>>4は、何と凄まじい告発であっただろう!
我々に与えたその衝撃は、まさに>>5が鳴動し、>>6がひっくり返る
ほどの大変動であった。白日の下にさらけ出された>>7は、実に凄惨、
酸鼻を極めた事柄であったことか! これは、>>8の言うとおり、
二重にも三重にも考え抜かれた、まさに地獄さながらの大犯罪だったのだ!
>>9 よくぞ私の正体を見破ったな、二階堂蘭子!
>>10 フフフ、ワタシハマジュツオウ
>>11 ゲドババァ!
3 ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/26(日) 10:11:30
1です。
モーリス・ブランショの「わたしについてこなかった男」、「至高者」、
「望みのときに」を読了しました。
4SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/06/26(日) 20:57:36
>>3
こんばんは。
読むペースが速いですねぇ。
感想はどうでした?
5 ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/26(日) 21:35:17
SXY ◆uyLlZvjSXY さん

新スレにさっそくいらしていただき、ありがとうございます。お手数おかけしました。

わたしの場合は書ける時と書けない時の落差がかなり大きいですね……。
萎縮してしまうと一行も書けないのですよ。書ける時は言葉たちがせがみ、せっつく感じです。

>最近の作家だと『熊の敷石』で芥川賞をとった堀江敏幸でしょうか。
堀江敏幸さんのファンです! 『書かれる手』作家について語ったエッセー集の「あとがき」で、
「結局、私の関心は、おのれを語ることの困難と闘い、《はざま》への隘路へ、言葉と言葉、
他者と他者とのあいだをすり抜けていくか細い線への、つまり本質に触れそうで触れない
漸近線への憧憬を失わない書き手に一貫して向けられていたことが、ぼんやりと見えてくる」
と述べています。

武満徹氏の言葉、ありがとうございました。作曲家なのですね! 検索して初めて知りました。
>私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。
>そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない
「音」をそのまま「言葉」に置き換えると、作家たちの想いになりますね。
得られた「言葉」は「沈黙」と同じくらいに強いものでなければならない、、、
まさに、ブランショが言わんとしていることに通じています。

>これらの言葉を書いている手を読んで欲しい、
>そうブランショ自身が読者に語りかけているのだと思います。
なるほど…。書く手はどのようにして「書かれる」のかを汲み取ってほしい、ということですね。

>ロマンやレシを締めくくる文字通りの最後の言葉について
>ブランショ自身かなり意識的だったと思います。
わたしもそのことをずっと感じていました。「終わり」とあえて書き記すことの意味は何だろう?と。


(つづきます)
6 ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/26(日) 21:36:15

予定を変更して、先に『わたしについてこなかった男』の感想を述べます。
明るい夏の光のなかで繰り広げられる「私」と「同伴者」の男の物語ですね。
「わたしについてこなかった男」とは一体誰なのか? 読み始めたとき最大の謎でした。
「わたしについてこなかった男」=「同伴者」=「私自身」であると作中でブランショは語って
いますが、これだけでは何だか狐につままれたままのような。。。

――これから何が起こるか、私は知っています。(略) あなたにこれから描写して
あげることにします――(p75)
また、同伴者よりもつねに「私」のほうが時間的には一歩先にあること、彼はわたしを助ける
ことができない存在であり、「私」は彼に対してはいつも主人であること、書かれたものによって
ふたりが結び合わされていること。これらを踏まえた上で、
「わたしについてこなかった男」=「同伴者」とは、≪書き手である私≫の文章を読むもう一人の
≪読み手である私≫なのではないかと思いました。
優れた書き手は同時に優れた読み手でもあるといいます。ブランショは作家であると同時に
批評家でもあったのですね? けれどもその批評は他の作家たちの作品に対してのみでした。
自作の物語の≪書き手である私≫と自作を≪批評する私≫、この両者を融合させることを
試みたのがこの作品だったのではないでしょうか?

この作品はしばしば同じ場面が何回も繰り返し描写されていますね。室内、階段、台所…、
そのたびに私と同伴者の会話がなされます。そして、情景描写もそのたびに詳しく描かれ、
奥行きが広がりを見せてゆきます。


(つづきます)
7 ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/26(日) 21:38:25

≪読み手である私≫が例えば椅子について、絵について≪書き手である私≫に質問したと
しましょう。「椅子はどんな椅子? 絵は誰の絵?」と。≪書き手である私≫は彼の問いに応えて
素描を丁寧に描写し直すことが可能です。また、ひとつの描写には幾通りもの書き方があります。
ですから、両者の対話が無限に続く限り、描写は何十回も書き換えられることが可能です。
果てがないのです。物語を私が「終わらせない」限りは…。
そして、物語が終わると同時に彼も消失します。なぜなら、彼は書いている(創作している)間
だけの同伴者なのですから。(ある意味、ミューズに近い存在かもしれません…)

こうしたことは、小説家に限らずあらゆる創作をする人にいえるのではないでしょうか?
画家、作曲家…。創作すると同時に一人の鑑賞者であること。「同伴者」と対話するたびに、
問われるたびに、作品は幾たびも途中で手を加えられ、削られ、作り直されます。
あらゆる作り手は、こうした苦悩と快楽とを同時に味わっているはずです。

「書くこと」は言葉を紡ぐ作業であり、言葉との格闘であり、最終的には一人でやり遂げなければ
ならないものですが、そのためにも書くことを促す、「同伴者」を必要とします。
――空間全体の開花にして微笑みだったのであり――(p227) 親密な友愛の光線が微笑み
から私のもとへ届けられていたのだ。これ以上静かなものは何もない――(p229)

静かな共感と親密な友情でもって≪書き手である私≫を見つめていてくれる「同伴者」。
彼とともにあって初めて≪私≫は萎縮することなく、≪私≫独自の作品世界を構築できるの
ですね。作中の言葉を借りるならば、「夏の光」のなかの「自由な空間」で、「必ずやらねばなら
ない」こと、「至高な出来事」はその瞬間にこそ可能となる。


(つづきます)
8 ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/26(日) 21:39:40

――日の微笑みであり、そして、それによって日はいっそう美しくなっていく――(p234)
「日」とは「同伴者」を暗示するのではないでしょうか?
日のなかに言葉たちが溶けていくとは、
≪読み手である私≫に≪書き手である私≫が書いた言葉たちも穏やかに
吸収されていく……。

――やっと終わりが到来したときには、すでにすべてが消え失せていた。日とともに
消え失せていた――(p236)
この最後の一行は≪書き手である私≫が物語を書き終えた途端に、
≪読み手である私≫=「同伴者」も同時に消失したことを現わしているのでは
ないでしょうか……?

全編に不思議な明るい光が満ちていました。けれども、夜でなくても、また濃霧でなくても、
昼間の明るい陽光のなかでさえも人は迷い、彷徨するのですね……。
この作品を喩えるならば、白昼夢のなかで遭遇した夏の光を纏った旧友、です。

さて、ここでSXYさんが書かれていたことについて、わたしなりに考えてみました。
>「日と共に消え失せていた。」 という《最後の言葉》は
>別の言葉(=時間)を予告しているのではないか、と感じました。
>「日」とともに《終わり》は訪れるのですが
>その《終わり》は別の時間=「夜」の開始予告と読める。
そうですね。「時間」を考えたとき、昼―夜という時間軸の推移がもっとも妥当ですね。
疑問なのはなぜそこにブランショは「言葉」を絡めたのか、ということですね。


(つづきます)
9 ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/26(日) 21:41:00

>このレシのなかでは、「日」のなかでは言葉たちは「日の透明さ」を獲得し、
>「夜」においては言葉たちは「夜の隠蔽」とされています。 (※)

文豪ゲーテの最期の言葉、「もっと光を…」をふと想起しました。。。
確かに光がなければ、わたしたちは書くことも読むこともできないのですよね。

「言葉」とは昼と夜においては異なってしまうのでしょうか?
《光》の濃淡によってその性質を変容してしまうものなのでしょうか? 
《光》とは書き手の気持ち、あるいは読み手の気分を暗示するもののように思えました。
日の中――陽、高揚した明るい気持ち、夜――陰、沈鬱な沈んだ気分、というように。。。
言葉とはそのときのその人のこころの状態によって書く側も、読む側も左右されてしまうもの
なのですね。
例えば書き手が《明るい夏の光のような精神状態》で言葉を綴ったとしても、読み手のこころが
《真冬のような暗い精神状態》であったなら、言葉の意味はまったく逆に伝わってしまうでしょう。

両者ともまさしく、「命がけの飛躍」です。
こころの状態=言葉、それが《光》(昼―夜/光―闇)なのではないかと……。
(※)の部分の日を言葉に置き換えて、僭越ながらわたしなりに本歌取りさせていただきました。
(畏れ多い蛮行、どうかお許しを…)
「夏の光」(のこころの状態)に包まれた言葉たちは「明るさ」を獲得し、
「冬の夜」(の心理状態)を纏った言葉たちは「暗さ」として記されます……

――それでは。
10SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/06/27(月) 00:32:59
>>5-9
武満徹は、大江健三郎や谷川俊太郎、シュルレアリスト瀧口修造らとの親交があり、
音楽だけでなく、言葉を紡ぐことにおいても素晴らしい芸術家です。
『音、沈黙と測りあえるほどに』というエッセイを読むと
武満徹が音に対するのと同様に言葉に対しても敏感であることがわかります。
瀧口修造からマルセル・デュシャンへ、武満徹からジョン・ケージへと
思考連鎖させていくのも面白いかな、と思いますね。

実際、ジョン・ケージの対話集『小鳥たちのために』には
「私は音と沈黙を取り替えるんです。」
という武満の言葉に饗応するものや、
「沈黙はすでに音であり、あらためて音なのです。またはノイズです。
沈黙はそのとき音になるのです。」
という文章を読むとき、
ブランショにおける「言葉/沈黙」「日/夜」のテーマにもつながる
興味深い参照点があるように感じつつ。
11SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/06/27(月) 00:36:45
>>5-9>>10の続き)
『私についてこなかった男』の感想、興味深く拝読しました。
特に>>7にはとてもインスパイアされました!
>物語が終わると同時に彼も消失します。なぜなら、彼は書いている(創作している)間
>だけの同伴者なのですから。(ある意味、ミューズに近い存在かもしれません…)
そうですね。同伴者が現れるのは書いている間だけです。
しかしその同伴の仕方にはつかずはなれずといった微妙さがあります。
書くことは、特に、書くことに自覚的に書くことは、
私という存在を二重にするようなところがあるのでしょう。

「あなたは書いているのですか、今この時?」
というリフレインは、我々読者にもまた、
ブランショの「書く手」を意識させます。
12SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/06/27(月) 00:54:22
>>5-9>>11の続き)
もう少し途中経過報告を(あくまでも結論じゃなくて)。

「言葉/沈黙」「日/夜」は対立するものではなくて、
ジョン・ケージが語っていることをパラフレーズするならば、
言葉は沈黙と交換可能であり、沈黙はすでに言葉であり、
またはノイズであり、 沈黙はそのとき言葉になる。。。

そして、P187-188の言葉と絡めるならば、
「夜には、言葉たちは夜の隠蔽となる」のは、
言葉は夜=沈黙に包まれるがままにならないノイズであり、
「日中には,言葉たちは日の透明さを獲得する」のは、
言葉は透明な沈黙へと導かれるからであって、
その逆説的な「言葉/沈黙」「日/夜」の関係が
書くことを(あるいは、書くことを書くことを)うながす。。。

今これを書いているこの時、
こんな言葉を聴き取るのは驚くべきことでもあるのでしょう。

――「あなたは書いているのですか、今この時?」――  〆
13元ゴーダ:2005/06/27(月) 17:34:32
スレ立てたんだ、乙(笑
がんばれよ。文学王ひさしぶり。
「わたしについてこなかった男」は未読だから
まざらねーよ。「小鳥たちのために」は読んだ。
ゲソ音好きだからな(笑

ケージのおすすめは「竜安寺」
んじゃまたな。
14 ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/27(月) 21:40:08
>>13 元ゴーダさん

こんにちは。
某板の某スレでは、いつもありがとうです。
ジョン・ケージってアメリカの作曲家なのですね?
(検索しました。キノコが好きなのですね)

ゴーダさんの読了されている本も、そのうち出てくるかもしれません。
そのときはぜひ、お寄りくださいね。

エール、ありがとうです。
とてもうれしいです。。。
あちらのスレも時折カキコする予定ですよ。

p.s
「竜安寺」、聴いてみたいです。
小石を楽譜に見立てて……って、何だかわくわくしますね!
15 ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/29(水) 21:59:24
>>10-12 SXY ◆uyLlZvjSXYさん

新スレ第一弾の輝かしきレス、ありがとうございます!
『わたしについてこなかった男』については、わたしももう少し時間をかけて
ゆっくりと対話してみたいと思っています。スレはまだ始まったばかりです。
作中の言葉を借りるなら、――たっぷり時間があります――(p20)

>武満徹が音に対するのと同様に言葉に対しても敏感であることがわかります。
>沈黙はすでに音であり、あらためて音なのです。またはノイズです。
とても興味深く読ませていただきました。
沈黙とは発話される言葉、音や声以上に沈黙それ自体が主張でありますね。
それはさながら何も書かれていない行間そのものが、綴られた言葉を遥かに超えて
より多くのことを語っているように……。

――自分の語りうることを超えて、それ以上のことをすでに私は語ってしまったという印象
であり――(p12)
ブランショは決して饒舌な語り口の作家ではありません。非常に寡黙な作家ですよね。
この一文はおそらく「沈黙を通して」語ってしまった、ということなのだろうと思います。
……沈黙は饒舌以上に多くのことを語り得るのですね。
ウィトゲンシュタインの「語りえぬことについては沈黙しなければならない」を引用するなら、
「語らぬことこそがより多くのことを語りうる」これがブランショの文学の神髄でしょうか。


(つづきます)
16 ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/29(水) 22:00:30

>書くことは、特に、書くことに自覚的に書くことは、
>私という存在を二重にするようなところがあるのでしょう。
そうですね、ブランショの「書くこと」と「言葉」に向き合う姿勢には求道的なものを感じます。
「書くときはこころは熱く、頭は冷静に」とはよく言われることですが、言葉を綴るという行為は
書きたいという燃えるような想い(欲望)と同時に、理性をも持ち合わせていなければなりません。
ブランショは《自覚的に書くこと》を徹底して意識した作家ですね。。。

>「夜には、言葉たちは夜の隠蔽となる」のは、
>言葉は夜=沈黙に包まれるがままにならないノイズであり、
>「日中には,言葉たちは日の透明さを獲得する」のは、
>言葉は透明な沈黙へと導かれるからであって、

なるほど。言葉は隠蔽されても全き沈黙とはならず、また、発話していてもいつしか
沈黙へ導かれる…。完全な沈黙というものはなく、全開の発話もないということなのですね。
相反する性質をつねに併せ持つ、生物に喩えるならば両性(両棲)具有のような。。。
わたしはここに、言葉の変幻自在さと自由で伸びやかな飛翔を見るのですね。
言葉は、沈黙〜発話〜再び沈黙、へと巡回します。これが言葉の円還なのでしょうか。


(つづきます)
17 ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/29(水) 22:01:27

谷口博史氏が訳者解説のなかで「ガラス」や「鏡」について触れていましたので、
わたしも思いつくままに、少し書いてみようと思います。

ガラスも鏡も《光》を「通して」意味をなすものですね。《光》という媒介を必要とします。
つまり、そのもの自体が単独で用をなすものではないということです。
(光の無い所ではガラスが無用なように、鏡は写らないように…)

「同伴者」にも同じようなことがいえるのではないでしょうか?
言葉は、発話され、書かれて初めて意味を成すものです。
「話す」「書く」という媒介を経て、つまり「通して」伝わります。
それでは、沈黙とはいったい何でしょう? 発話もせず、書かれもせず、
そこにただ「在る」だけのもの。それでいて、一番雄弁な力を持ちえているもの。
その沈黙を《書き手》が伝えようとしないならば、いったい誰が伝えるのにふさわしいでしょう?
それはまぎれもなく「同伴者」=《読み手である私》、をおいて他にないのです。
喩えるなら、彼はまさにガラスや鏡に《光》を通して「伝える」という使命を帯びた人
なのですから。
《書き手》の沈黙を、《書き手》との対話を通して「伝える人」でなければなりません。
孤独な《書き手》に促すこと、「同伴者」の最大の使命ではないでしょうか?

――そのとおりです。あなたは一人ぼっちではありません。
ここにいるのは私たちだけです――(p113)
18 ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/29(水) 22:02:17

(追 記)

ジョン・ケージの「竜安寺」の収録されたCD、今日購入しました!
輸入物で一点だけありました。(輸入CD買うの初めてです)
5曲収録されていて、「竜安寺」はダブルバスと打楽器、それに女声が加わった演奏です。

楽曲というよりも、効果音を思わせますね。
不連続な駄楽器の音、弦楽器の唸りにも似た響き、そして時折入る女声音。
ところどころに置かれる沈黙……。幽玄かつ幻想的な世界ですね。。。

これは『高野聖』(泉鏡花)の世界だなあ……、と思いました。
鬱蒼と森閑とした闇に包まれた森に潜む、魑魅魍魎の魔物たち。
僧侶はひとり黙々とひたすら闇を進みます。闇は妖しく美しく、時に美女に姿を変えて
沈黙のうちに僧侶を誘います。
妖気漂う闇夜の美しさと、沈黙のささやき……。背筋がぞくっとなりました。。。

ちなみに収録曲は以下の5曲です。
(1) the wonderful widow of eighteen springs 1942 ,(2) ryoanji 1984 , (3) a flower 1950 ,
(4) 59 1/2 1953 , (5) joelle leandre a j… 1984


――それでは。
19SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/03(日) 10:47:32
>>13
ん? そのHNは確かに見覚えがある!
文学王というHNは大衆向きに付けた一過性の仮面なんだが
どうも自分が想像する以上に変にインパクトがあったらしく
ちょっと今は封印してるんだ。

ところで、『小鳥たちのために』読んでるなんて奇遇だ。
ジョン・ケージの次はピエール・ブーレーズを読もうと計画中。
20SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/03(日) 10:50:01
>>15-18

「ガラス」「鏡」についてのレス(>>17)、興味深く拝読。
わかりやすく、またイメージ豊かな表現ですねぇ!
Cucさんはいつもながら、とても的確に、また絵画的に、
自分の言葉で伸びやかに語れるのはうらやましい。

「鏡」ということで私が最初に思い浮かべる書き手は宮川淳です。
ブランショの訳者でもあります。彼は若くして亡くなりましたが、
死の床でも『私についてこなかった男』についてのメモを取っていた、
ということを清水徹の文章だったかで読んだ記憶があります。

「一方において、鏡の中のイマージュは永遠に自己同一性にとらわれながら、
他方、彼自身はいよいよ自分のコギトを失っていく」(『鏡・空間・イマージュ』)

書くことを、書く手を、意識するということは、
書く行為に読む行為を重ね合わせるころでもあり、
書く行為と読む行為の二重化のなかで、
私という人称の二重化のなかで、
言葉と沈黙の、不可思議な中間地帯を開きます。
それは「鏡」の世界なのでしょう。
そして、ナルシスの神話にあるように、
それは危険な「死」に接する世界でもあり。。。
21SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/03(日) 11:00:48
(承前)

>ガラスも鏡も《光》を「通して」意味をなすものですね。《光》という媒介を必要とします。
>つまり、そのもの自体が単独で用をなすものではないということです。

そうですね。《光》というものがなかればガラスも鏡も意味はなく、
また、見ることという視覚そのものが《光》なしでは成り立たない。
そして、「鏡」そのものを我々は見ることはできませんね。
見ることができるのは「鏡」に映った像でしかない。
「鏡」そのものは不可視のままに留まり、視線から逃れます。

ブランショの作品で語られるイメージは可視と不可視の
両面的な、中間的な地帯に誘ってくれる。
ジャコメッティ独特の縦長に伸びてぼやけた人物像のような感じ。

ジャコメッティはこう語っています(『エクリ』)。
「ぼくは自分が曖昧で少しぼやけていて、まちがった場所に置かれている
人間だという気がしている」「決してフォルムのためでなく、また造型のため、
美学のためでも決してなく、その反対だ。立ち向かうこと、絶対的に」
22SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/03(日) 11:13:02
(承前)

書くことにおいて、分裂する「私」。
「死」に接するエクリチュール。
ブランショはこう書いていました。

「しかも私はほとんど私自身ではなくなっている。
だが、書くとはこういうことなのだ。」
(『私についてこなかった男』P162)  〆
23SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/03(日) 21:07:55
(追記)

>>20で書いたことに勘違いと記憶違いがあったので訂正です。
宮川淳はブランショではなくクロソウスキーの訳者でした。
それから、宮川が病におかされながらメモを取っていたのは、
『望みのときに』で、 そのことを知ったのは清水徹の文章ではなく、
丹生谷貴志の文章でした(いやはや、我が素晴らしい記憶力よ。。。)。

それから、
Cucさんは以前にバタイユについてどこかに書き込みをしてたそうですが、
機会があったら是非拝読したく。
24 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/03(日) 22:15:06
>>20-23 SXY ◆uyLlZvjSXYさん

SXYさんは、文学や哲学だけでなく、音楽や美術にもとても造詣が深いのですね!
すらすらと作者の名前や作品がでてくるなんて、こちらこそうらやましい限りです。。。

>それから、宮川が病におかされながらメモを取っていたのは、
>『望みのときに』で、そのことを知ったのは清水徹の文章ではなく、
>丹生谷貴志の文章でした
…すごいですね。そこまで惚れこまれたならブランショも作家冥利に尽きるでしょうねえ…。
また、宮川氏自身も最期まで情熱を傾けられる作家に出逢えて本望だったと思います。

>それは「鏡」の世界なのでしょう。
>そして、ナルシスの神話にあるように、
>それは危険な「死」に接する世界でもあり。。。
福永武彦氏の『鏡の中の私』という小説をふと想起しました。
繊細でエキセントリックな若い女性が主人公です。彼女は鏡に向かい、鏡に写った自身と対話
しながら絵を描くのです。彼女は絵を決して誰にも見せません。そこは自己愛と自己陶酔に
満ちた世界です。物語は悲劇的な結末を迎えます。まさに「死」に隣接した危うい世界です。


(つづきます)
25 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/03(日) 22:15:54

>ジャコメッティ独特の縦長に伸びてぼやけた人物像のような感じ。
初めて知った画家の名前です! 検索して絵を鑑賞しました。(パソコンて便利ですね)
物悲しく、寂しい印象の絵を描いた人だったのですね……。

>「ぼくは自分が曖昧で少しぼやけていて、まちがった場所に置かれている
>人間だという気がしている」
…確かにブランショも「曖昧」さがありますし、強く言い切らない部分が似ていますね。
ジャコメッティの絵を観て真っ先に脳裏を過ぎったのは、マニエリスム時代の画家、
ポントルモの『十字架降下』でした。(ご参照)↓
http://www.salvastyle.com/menu_mannierism/pontormo_deposizione.html

重心を失って足元が覚束ない宙を舞うような人物たち。虚ろな視線。全体が浮遊している
ような頼りない印象……。
およそ力強さとは反対の絵画ですが、わたしはそのあやふやさがとても好きなのです。
危ういところや、浮遊感や、定まらなさ、などに「黙して語らぬ」ものの訴えを見るのです。
鑑賞者のこころをつかむのは、強い主張ばかりではなく、時として「危うさ」や「沈黙」の
ほうなのかもしれません。。。

――秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず――『風姿花伝』(世阿弥)


(つづきます)
26 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/03(日) 22:16:53

武満徹氏の『音、沈黙と測りあえるほどに』というエッセイ、わたしもぜひ読んでみたいと思い、
図書館で借りてきました。
音楽について、言葉について、沈黙について、さまざまな分野の表現について
実に深い言葉で語っていますね。

ジョン・ケージの音楽について触れているところで、下記の文章が印象に残りました。
――黙示は未分であり、それだからそれは生きものだ。それは、さまざまの貌をしている。
そして、読みとる人によってさまざまに現われる――(p99)

まさに沈黙はわたしたちの想像力を掻き立てますね。「〜は〜である」と断定してしまうと
その先にあるのは、同意か反対の二者択一になってしまいます。
けれども沈黙は、両者のあわい、もしくは全く異なったものを想起させ、広がりをもたらす
ものであるような……。

――遠い花火があのやうに美しいのは、遅く来る音の前に、あざやかに無音の光りの幻が
空中に花咲き、音の来るときはもう終わっているからではないだらうか。
光りは言葉であり、音は音楽である――三島由紀夫(p88)

「光りは言葉」、とは美しい表現ですね。ガラスも鏡も光を伝えるものであるなら、
まさしく「同伴者」とは、≪光り=言葉≫を第三者のわたしたちに伝える使者なのですね。。。


(つづきます)
27 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/03(日) 22:17:45

谷川俊太郎氏の『沈黙のまわり』というエッセイも一緒に借りてきました。
沈黙について断片的に延べているところを幾つか、記してみます。

――沈黙を語ることのできるものは、沈黙それ自身しかない。では、言葉をもって沈黙を
語ろうとすることに、どんな意味があるのか。それにはむしろ意味はない。
何故なら、詩人にとって、沈黙を語ることはひとつの戦いなのだから。

――初めに沈黙があった。言葉はその後で来た。今でもその順序に変りはない。
言葉はあとから来るものだ。

――沈黙は夜である。それは本質的に非人間的なものだ。それは人間の敵だ。
だが同時に、沈黙は母である。わわれわれはみな沈黙から生まれた。

――われわれは沈黙と戦うことによって、沈黙とむすばれることを願っているのかもしれない。
沈黙は決して傷つかない。沈黙は決して負けない。
われわれは皆いつか沈黙に帰り、そこに安らうであろう。


(つづきます)
28 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/03(日) 22:18:30
(追記)

堀江敏幸さんは自身の書くものを『回送電車』になぞらえています。
「特急でも準急でもなく各駅でもない幻の電車。そんな回送電車の位置取りは、じつは私が
漠然と夢見ている文学の理想としての《居候》的な身分にほど近い。評論や小説やエッセイ等
の諸領域を横断する散文の呼吸。」である、と。

堀江さんにちなんで、わたしもここを「各駅停車の旅列車」になぞらえようと思います。
急ぐ旅ではないのです。ゆっくりと寛ぎながら楽しむ旅の列車。
行き先は風まかせ、その日の気分まかせ。
途中下車して、いろいろな寄り道を楽しんでみるのもいいです。
急勾配の駅にさしかかった時はスイッチ・バックをして、あと戻りすることもできます。
途中で楽しい道草をすることによって、今まで素通りしていたものの発見や、
見えていなかった景色が垣間見られるかもしれませんね。

ブランショの「沈黙」から端を発して、武満徹氏、谷川俊太郎氏、ジョン・ケージ、
そして画家のジャコメッティへ、わたしの知らないさまざまな表現者たちの紹介と、
自由に飛翔して語り合えることを感謝します。


引き続き、各駅停車の旅をお楽しみくださいね。
29 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/03(日) 22:28:04

>Cucさんは以前にバタイユについてどこかに書き込みをしてたそうですが、
>機会があったら是非拝読したく。

…哲学板のバタイユのスレに書き込みをしました。
文学板でSXYさんと対話をする以前でしたので、かなり短いもので、まとまりもなく、
内容も断片的なものばかりです。。。
文学板のスレと一部重複するところもあり、あまり読むべきところもないかもしれませんが、
以下コピペです。

◎◎◎ ジョルジュ・バタイユ ◎◎◎

http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1082725020/l50


(以下、バタイユ・スレのわたしの書き込みのコピペです)
30 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/03(日) 22:29:26

≪バタイユ関連のコピペ、その1≫

140 :考える名無しさん :2005/03/27(日) 00:03:54
芥川は猥雑なものをいっさい切り捨てて、ひたすら虚構の
美へと向かいました。
バタイユは「空の青み」「死者」しかまだ読んでいませんが、
およそ対極にあるものではないでしょうか?

猥褻ぎりぎりのものが、勿論「美」であることは認めますが…


143 :考える名無しさん :2005/03/27(日) 04:04:22
バタイユの生涯のテーマは、エロスと死であるそうですが、エロスを描くには
何も猥褻な表現だけとは限らないと思います。

芥川の『地獄変』には狂気と、美と、エロスがあります。
そのエロスとは、隠微でサディスティックで、夜の闇、炎、陰影礼賛のような
ものでしょうか。
決して表立った表現はしていないのに、煙に咽ぶ娘の赤い唇や、細い首筋、
衣から乱れて剥き出しになった白い足などが、ぞくっとするほど艶かしいのです。

バタイユは直截的な表現(かなり際どい言葉)を好みますが、読み手の想像力を
激しく掻き立て、刺激するのは芥川のほうが数段上ではないでしょうか。


(その2へつづきます)
31 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/03(日) 22:30:26

≪バタイユ関連のコピペ、その2≫

145 :ローカルルール審議中 :2005/04/10(日) 21:31:55
「太陽肛門」読み終えたところです。

エロスが漂う詩的な文章に、ただ、驚いています…
海の潮の満ち引きが、生命を生み出す原初的な律動、
つまり性行為の運動である、という指摘には唸りました。。。

これはとても短いものですが、他の作品に比べ簡潔で美しい小品です。


146 :ローカルルール審議中 :2005/04/17(日) 00:43:46
今「C神父」読んでいます。
神への冒涜といいますか、反逆といいますか、バタイユは神を
否定しながらも、実はかなり深くとらわれていたのではないでしょうか?

なぜなら、人は無関心なものに対しては冷淡であり、一瞥もくれないはずです。
それが、こんなにも神を汚すような作品を書くということは、
バタイユは神を生涯に亘って、離反できなかったのではないでしょうか?

否定すればするほど、強くとらわれていることの証です。


(その3へ、つづきます)
32 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/03(日) 22:35:18

≪バタイユ関連のコピペ、その3≫

149 :145=146:2005/04/21(木) 12:54:01
>>147
>>148

…そうですね、西洋哲学、西欧文学、西洋文化などを学ぶときに
真っ先に理解しなければならないのは、彼らにとっての「神」の
概念ではないでしょうか。

わたしたちには馴染みの薄い「神」という存在。
彼らが「神」というものに対して、信頼するにしろ否定するにしろ

そこには「神」そのものが深く強くはたらいていることは確かだと思います。
「神」を己に内在しているからこそ、禁忌を破るときに強い快楽がはたらきます。
逆説的ですが、神がいなかったら、悪徳の文学など生まれようがなかったのでは
ないでしょうか?

また、ニーチェがあれほど躍起になって「神の死」を唱えたということは
彼もやはり生涯「神」から逃れることが不可能だったのではないでしょうか…。
わたしは未読ですが、和辻哲郎あたりを読めば、日本人の宗教観がわかるかもしれませんね。
(内村鑑三は読みました)


(その4へ、つづきます)
33 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/03(日) 22:36:10

≪バタイユ関連のコピペ、その4≫

151 :149:2005/04/21(木) 14:53:14
確かにひと頃と比べますと、欧米人のキリスト教に対する意識は
かなり薄いと思われます。

ちょうど、欧米人が日本文化を理解するには侘び・寂び・もののあはれ
を知らなければならないと、思い込んでいると同じように…
わたしたちは、そうしたものからかなり遠く隔たってしまいました。。。

バタイユやサド、マゾッホなどの時代は確実に神への反逆がありました。
「神」が文学の核となっていた時代は、もう過ぎてしまったということでしょうか…?


(バタイユ関連のコピペ、以上で終わり)

わ〜、こうしてまとめとみると赤面ものですねえ……。
まあ、稚拙ながらわたしの足跡です。。。


――それでは。
34SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/03(日) 23:51:25
>Cucさん
>>29-33のバタイユ・スレからの引用、どうもありがとう。
お手数かけましたね。今日は取り急ぎのお礼のみにて。
35SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/06(水) 22:26:16
>>24-28   ◇《沈黙》について

福永武彦――世阿弥――三島由紀夫――谷川俊太郎――堀江敏幸
時間軸を自在に移動するユニークな各駅停車!
Cucさんは古今東西の本をいろいろ狩猟されてますね。

谷川俊太郎は武満徹と親交が深く(大江健三郎とともに)、
ジョン・ケージ――武満徹――谷川俊太郎において、
《沈黙》は大きなテーマです。

「沈黙は夜である。それは本質的に非人間的なものだ。それは人間の敵だ。
だが同時に、沈黙は母である。わわれわれはみな沈黙から生まれた。」
という谷川俊太郎がいうように、
沈黙は言葉と対立するだけのものではなく、
言葉の母体でもあることを語っていますが、
ジョン・ケージの『4分33秒』もそのことを
語っています。沈黙のうちに。

ちなみにこの曲は私でも弾けます。
演奏者は楽器の前に4分33秒間座っているだけなので。。。
36SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/06(水) 22:33:15
(承前)   ◇《鏡》について

ポントルモ『十字架降下』リンクの返礼にと
ジャコメッティのなかの好きな絵を探したのですが
ちょっと見つけられなかったので、かわりに(というのもなんですが)、
ミシェル・フーコー『言葉と物』での素晴らしい読解で有名になった、
ベラスケス「侍女たち」の絵を(ここにも《鏡》が出てきます)。
http://members.at.infoseek.co.jp/serpent_owl/arch-pic/velazquez.htm

「非人称的な<書く行為>と<読む行為>とによってたえず
二重化されなければならないこの鏡の空間」と宮川淳は書きます。

>それはまぎれもなく「同伴者」=《読み手である私》、をおいて他にないのです。
>喩えるなら、彼はまさにガラスや鏡に《光》を通して「伝える」という使命を帯び
>た人なのですから。
というCucさんの言葉に関連させると興味深いと思います。

宮川淳ならば、書き手と読み手の鏡のような二重性は、
イマージュの構造、あるいはむしろ、言葉そのものの構造によって、
あらかじめ誘導されている、とでも言うでしょう。

ジャコメッティと宮川淳については機会があればまた。。。   〆
37吾輩は名無しである:2005/07/08(金) 15:40:41

38 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/08(金) 21:36:02
>>34-36  SXY ◆uyLlZvjSXY さん

ベラスケス「侍女たち」の絵とミシェル・フーコーの解説のサイトのご紹介、
ありがとうございました!
この有名な絵画をかつて美術館で鑑賞したことがありますが、フーコーのこのような素晴らしい
解説があるとはまったく知りませんでした…。
「見る・見られる関係」という解説に深く納得しました。

以前に初めてこの絵を見たとき、とても奇妙な印象を覚えました。
わたしは風景画などの写実的な絵画(印象派)が好きなのですが、幻想的な作風や
シュールレアリスムも好きです。超現実的な作品を目の前にしたとしても、さほど奇妙な感情は
抱かないのですね。
ところがこのベラスケスの「侍女たち」の絵を見たときは、何ともいえない違和感と奇妙さを
感じたことを今でも覚えています。
それは「見る・見られる関係」という観点から考察すれば、絵の中の人物総勢11人の視線が
ばらばらであり誰ひとりとして同一方向を見ていないということ、またこれだけの人数が居合わせ
ながら誰ひとりとして視線を交していない (見つめ合わない、視線が絡んでいない) ということ
です。この噛み合わなさ、ちぐはぐさがわたしに奇妙な印象を抱かせたのだと思います。

初めてブランショの作品『死の宣告』を読了したときも、同じ奇妙さを感じました。
噛み合わない会話、見つめ合おうとしない伏目がちな人物たち、寡黙な対話のなかにふいに
訪れる沈黙。

ベラスケスの「侍女たち」もブランショの作品も、見つめ合わない、相手に向き合おうとしない、
云わば各々のモノログで成り立っている世界のような……。


(つづきます)
39 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/08(金) 21:36:53

>ジョン・ケージの『4分33秒』もそのことを
>語っています。沈黙のうちに。
う〜ん、さすがジョン・ケージ! 音と沈黙とが対等であることを作品(?)で示したのですね。

宮川淳氏の名前、初めて知りました! 
SXYさんは美術評論家や、音楽評論家たちにも本当によく通じていらっしゃいますよね!
調べましたら、大学ではブランショ、デリダなどを講読、とありました。
また、翻訳や「美術史」などの評論を手がけた人でもあったのですね。。。

>宮川淳ならば、書き手と読み手の鏡のような二重性は、
>イマージュの構造、あるいはむしろ、言葉そのものの構造によって、
>あらかじめ誘導されている、とでも言うでしょう。
…なるほど。イマージュと言葉の構造によって誘導されるのですね。
確かに書かれた言葉は鏡に写す、写されるという相関関係が生じますね。
それは同様に、発話した言葉にもその二重性が当てはまると思うのです。
わたしが話した言葉をわたしが聞く、というように。。。
話し言葉における鏡の誘導的な役割は、音でしょうか。

言葉を写す方向へ向かわせる人は、文筆家になり、
言葉を発話する方向へ向かわせる人は、音楽家になるということでしょうか。


(つづきます)
40 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/08(金) 21:37:41

『わたしについてこなかった男』について、もう少し述べてみようと思います。

谷口博史氏が訳者解説の中で「ガラス」「鏡」、それからもうひとつ
「コップ一杯の水」についても触れていましたね。
確かに氏の指摘どおり、ガラスや鏡と同様に「コップ一杯の水」は『望みのときに』や
『至高者』においても登場します。
単純に「水」と読み流すのであれば、『望みのときに』の半病人めいた男、
『至高者』のペストに罹ったアンリ、『わたしについてこなかった男』の体力の消耗した
≪書き手のわたし≫は熱にうなされたがゆえに「一杯の水」を求めるのは頷けます。

ただ、ブランショは物語のなかに≪書くこと≫を非常に意識して織り込んでいますよね。
その最たるものが『わたしについてこなかった男』です。『望みのときに』や
『至高者』においても『わたしについてこなかった男』ほどではないにしろ、
かなり≪書くこと≫のこだわりを語っています。


(つづきます)
41 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/08(金) 21:38:22

≪書くこと≫は言葉を拾い、掬い上げ、そこから編み出していく綿密な作業です。
それはさながら、「言葉」という群れの広大な砂漠の砂をひと粒ひと粒丹念に掬っては選び、
捨てていく気の遠くなるような忍耐を要する作業なのです。
言葉という夥しい砂を掬っては選び、捨てていく旅程で、誰もがオアシスを、
一杯の水を求めて彷徨します。言葉に囲まれすぎると逆に人は渇望するのです。

書きたいと欲望した瞬間の発熱にも似た想い、書いているときの熱に浮かれたような状態、
書けないときのひりひりと灼けつくような苦しみ……、人は誰もが≪書くこと≫においては、
目の前に広がる遠大な言葉の砂漠のなかで「一杯の水」を所望せずにはいられないのです。
一度でも本気で≪書くこと≫を志したことがある人なら、同様の渇きを体験したはずです。

灼けつくような言葉の砂漠の砂を丁寧に拾い、一杯の水を求めてあえぎながら旅をすること。
言葉を取捨選択し、≪書くこと≫とは、言葉を紡ぐとは、そういうことなのです。
言葉を軽んじてはならないのですね。
そうでないと必ず自分の書いた言葉に復讐されます。
ブランショは何よりも言葉を畏れていたのではないでしょうか…?
沈黙は、畏れの結果ではないでしょうか。。。


(つづきます)
42 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/08(金) 21:39:09

「水を一杯いただけますか」というセリフに、イエスがサマリヤの女に同じように
水を所望した箇所を想起しました。(ヨハネ4:1−15)

カトリック作家の遠藤周作氏はイエスを、自身の人生の「同伴者」と呼びました。
氏はルオーの絵をこよなく愛した作家です。
ルオーには《郊外のキリスト》という作品があります。
この絵はエマオへ向かう弟子たちの「同伴者」となるイエスの姿が描かれています。
(エマオへの旅人、ルカ24章13〜35節)
道中、弟子たちはイエスと熱い対話をします。そして、ふたりが復活したイエスだと気づいた
とたん、イエスは見えなくなりました。
あたかも「同伴者」=≪読み手のわたし≫が、物語の最後に消えてしまったかのように……。

ブランショはたびたび、「至高」という言葉あるいは「至高者」という人物を作品に登場させて
いますね。神 (救い主)を意識した上でのことなのでしょうか。
内容は決して宗教的ではないのに、わたしはとても不思議でした。。。

《書くこと》は一杯の水を所望しながら、終わりなく続くイエスの旅のようであり、
過酷な旅の道中では、誰もが「同伴者」を求めずにはいられないのでしょうね……。

――我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずには
ゐられないのであらう。――「続西方の人」芥川龍之介

《郊外のキリスト》/ジョルジュ・ルオー(Georges Rouault)
http://www.planet-japan.com/wallpaper/wallpaper162/rouault106-1280.htm


――それでは。
43吾輩は名無しである:2005/07/09(土) 20:26:43

44SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/09(土) 23:35:57
>>37>>43
なるほど、沈黙について沈黙によって語っている(もしくはいない)わけか。

>>38-42
大好きな作家の一人、クロード・シモンが亡くなってしまいました。
今日はここに立ち寄ったのですが、どうも書くことができないので
明日にでもまた書こうと思います。
45SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/10(日) 23:17:25
>>38-42 Cucさんへ
◇ブランショについて

>ブランショは物語のなかに≪書くこと≫を非常に意識して織り込んでいますよね。
>その最たるものが『わたしについてこなかった男』です。
その通りですね。書くこと=エクリチュールそのものが感じられる作品です。
エクリ(ecrit)としてのレシ(recit)でしょうか。

>ブランショは何よりも言葉を畏れていたのではないでしょうか…?
>沈黙は、畏れの結果ではないでしょうか。。。
おそらく、ブランショにとって≪書くこと≫は常軌を逸した行為なのでしょう。
そのテクストを読むことでブランショの書く手を思い浮かべる時、
我々は張り詰めた危うい綱の上を渡るようにして言葉を辿るのですが、
その時、ブランショにおける≪書くこと≫の異常さに少し触れているのかもしれない。。。

>ブランショはたびたび、「至高」という言葉あるいは「至高者」という人物を作品に
>登場させていますね。神 (救い主)を意識した上でのことなのでしょうか。
>内容は決して宗教的ではないのに、わたしはとても不思議でした。。。
確かに不思議です。無神論的な神としての≪法≫?

>ガラスや鏡と同様に「コップ一杯の水」は『望みのときに』や
>『至高者』においても登場します。
そうですね。そこには飢えがあります。
ブランショはそうした一節を書いている時、
喉が渇いていたかもしれません(半分だけ冗談ですが)。
46SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/10(日) 23:38:36
>>38-42 (承前)
◇イメージについて

ベラスケス「侍女たち」は画家自身も描かれた奇妙な絵ですね。
ルネ・マグリットにもそうした自画像があります。
http://cgfa.sunsite.dk/magritte/p-magritte13.htm
http://cgfa.sunsite.dk/magritte/p-magritte14.htm

ミシェル・フーコーには『これはパイプではない』というマグリット論もあり、
そこで言葉とイメージについての刺激的な読解が読めます。
マグリット「これはパイプではない」
http://dubhe.free.fr/gpeint/magritte6.html

オリジナルと写しの関係は「類似」ですが
「相似」の関係においてはオリジナルは存在しなくなります。
(クロソウスキーはこれをシミュラークルと呼びます)
何らかの原型に似ているのではなく、お互いに似ている世界。。。

>イマージュと言葉の構造によって誘導されるのですね
『わたしについてこなかった男』のテーマが書くことだとすれば、
イマージュをテーマにしたのが『望みのときに』だと思います。
この作品ではイマージュと言葉の関係が、時にイメージ的に、
そしてまたある時は批評的に(言語的に)描かれています。  〆
47 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/12(火) 20:52:59
>>44-46  SXY ◆uyLlZvjSXY さん

>大好きな作家の一人、クロード・シモンが亡くなってしまいました。
読売新聞の朝刊で知りました。ヌーヴォー・ロマン(新しい小説)の先駆者として知られる
フランスのノーベル文学賞作家で、享年91歳だったのですね。未読の作家です。
好きな作家が亡くなるのはまことに寂しいですね……。

>そのテクストを読むことでブランショの書く手を思い浮かべる時、
>我々は張り詰めた危うい綱の上を渡るようにして言葉を辿るのですが、
>その時、ブランショにおける≪書くこと≫の異常さに少し触れているのかもしれない。。。
そうですね。読む行為とは書かれた言葉に多かれ少なかれ感染することだと思うのです。
ですから、ブランショという作家の世界にわたしたちは言葉をとおして時に狂わされ、
幻想を見させられ、妖しい闇を漂わされ、いつしか発熱状態になります。。。

>確かに不思議です。無神論的な神としての≪法≫?
バタイユにおいてもこの無神論的な神は疑問でしたね。神=絶対者とすれば、
バタイユにとっての至高者=エロスをもたらす者、であり、
ブランショにとっての至高者=沈黙者、なのでしょうか……?


(つづきます)
48 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/12(火) 20:53:54

ルネ・マグリットの絵画のサイトのご紹介、ありがとうございました!
初めて知る画家です。
画家自身がモデルを描いている作業中(〜ing)の絵には驚きました。モデルの腕が
創作中で片腕であるのも何だか臨場感がありスリリングな感じがしますね。
まさに芸術家とは「創る人」なのだなあ…と。
ここでも≪描く私≫と≪鑑賞する私≫の二重性が見られますね。

>何らかの原型に似ているのではなく、お互いに似ている世界。。。
これはまさに「共感」「共鳴」しあう世界でしょうか。ひな型があるから似ているということ
ではなく、まったく別の次元にいて、質も異なるのに「お互いに似ている世界」。
一番強く惹かれあう関係ではないでしょうか? そこにおいては互いが妥協することも
譲歩することも一切ないのですから。
各々が独自の世界のままで互いの自由を阻まない関係ですね。

>イマージュをテーマにしたのが『望みのときに』だと思います。
>この作品ではイマージュと言葉の関係が、時にイメージ的に、
>そしてまたある時は批評的に(言語的に)描かれています。 
『望みのときに』について触れられてますので、感想をupします。
(3週間ほど前に読了したときの感想を、ワードに保存しておいたものです)


(つづきます)
49 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/12(火) 20:54:57

『望みのときに』の感想を記します。(2005年6月21日読了)

≪わたし≫の記憶のなかでだけ語られるクローディア、ジュディット、この二人の女性たちは
はたして実在していたのでしょうか? 実体が伴わない幻のような人たち…。
――彼女はしばしば遠くに、とても遠くにいます(p92) 彼女はほとんど誰でもありません(p94)
――ジュディットって誰ですか? (略) これはぼくが彼女に与えた名前なんです――(p168)

作中の人物を消したり遠ざけたり、名前を与えることが許されているのは、作者をおいて他に
ありません。これは書き手にのみ与えられた権能です。
ですから、≪わたし≫=≪書き手≫であり、クローディアとジュディットは≪わたし≫によって
創り出された作中の人物ということになります。つまり、この作品は≪書き手≫である≪わたし≫
と≪物語の人物≫との対話、ということになるのではないでしょうか?

――なぜなら、どちらにとってもこの瞬間が望みのときだったからだ――(p117)
≪わたし≫がジュディットを見る、彼女は≪わたし≫に見られていることを知りつつも、見ない…。
これがふたりにとっての「望みのとき」である、とブランショは言います。
一方的な視線、沈黙、それは「至高の出現」である、と。
ブランショは、≪書き手≫の≪わたし≫が自身の物語の登場人物と対峙して見つめあうことや、
冗漫な会話を交わすことさえも、徹底して拒否するのですね。。。
真の交流とは交わされた視線や対話を超えたものの外にある、ということでしょうか……?


(つづきます)
50 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/12(火) 20:56:00

≪わたし≫がクローディアに一歩踏み込もうとした瞬間に、こう彼女は拒絶します。
――ここでは誰も物語に拘束されたくはないのです――(p90)
その結果≪わたし≫に過ぎった感情とは失意ではなく、「喜悦」であり「明るい光」であると
語っています。遠慮がちな慎しみや淡いやりとりがここでは歓迎されるのですね。

この作品の≪書き手≫=≪わたし≫である以上、最後の一行も納得がいきます。
――わたしは永遠を消すためにこう書くであろう。今、終わり。と――(p139)
≪書き手≫が「終わり」と記さなければ物語は永遠に終わらないのです。
「終わり」と記すことで二人の女性は初めて物語から解放されるのですから。

本編のなかでガラス越しの外の景色が霧から雪に変わる描写は、大変美しいですね。
雨や風には音がありますが、霧や雪は音もなく「沈黙」のうちに降るのです……。
まさにブランショにふさわしい情景といえるでしょう。。。

「言葉」とは素手でつかまえることができるのでしょうか?
読み進むうちにそんな疑問が過ぎりました。
「思考する」とは言葉によって為される行為です。
言葉は「書く」ことによって、あるいは「語る」ことによって初めて相手に伝えられます。
書き手は言葉を求め、言葉を得るために暗中模索の試行錯誤を繰り返します。
書き手は自身の思想や思考を登場人物に託して語りたいと望みます。


(つづきます)
51 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/12(火) 20:56:58

この作品の二人の対照的な女性は、書き手である≪わたし≫の言葉に対する姿勢を
託されているのではないでしょうか? あるいは、言葉が擬人化され具現されたのが
この二人である、と…。

貪欲な目を持ち、時に嫉妬し、「野生の王国」に君臨する、強い威光を放つジュディット。
慎しみ深く、遠慮がちで「控えめ」に見守る黄昏の国の住人クローディア。
ブランショは物語のなかにおいても、つねに言葉と格闘する作家であり自身の言葉との
「格闘」の経緯を作中にしばしば織り込んでいますね。→日の光を象徴するジュディット的態度
その結果、記されたものは驚くほど控えめで謙虚でありどの作品にも共通することは「暗示」、
仄めかしの程度に留まっています。→闇を象徴するクローディア的態度

言葉に対する貪欲さと慎しみ、まさに書くことの二面性を物語っていますね。

この作品を喩えるならば、日の光と闇のなかで交互に交される密やかな「ささやき」です……。
ブランショの作品は総じて、この世の至るところに点在し、蜃気楼のように現れては消える
冥府への入り口を思わせ、わたしを惑わせ魅了します…。


――それでは。
52SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/15(金) 23:13:15
>>47-48(Cucさん)

>好きな作家が亡くなるのはまことに寂しいですね……。
なんだかそんな感じです。去年のデリダ、一昨年のブランショに続いて
今年はC・シモンです。もし機会があったら『フランドルへの道』を。

確かブランショはこんな言葉をどこかに記していました。
(今は出典が何だったかを注記できないのですが)
――人は失ったものしか思い出せないのだ――
記憶(としてのイメージ)は喪失の別名なのでしょう。

>バタイユにおいてもこの無神論的な神は疑問でしたね。
バタイユの神がその概念自体をも超える過剰さをもっていたのに対し、
ブランショにおける至高者は高さ/低さetcの両義性を感じさせます。
53SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/15(金) 23:16:54
>>49-51(Cucさん)

『望みのときに』の感想拝読しました。
>≪わたし≫の記憶のなかでだけ語られるクローディア、ジュディット
>この二人の女性たちははたして実在していたのでしょうか?
記憶=イメージが喪失の別名であってみれば、
彼女たちはその存在の不確かさによって現前しているかもしれないですね。
あるいは逆に、現れることによって遠ざかっている、と言うべきでしょうか。

その意味で
>蜃気楼のように現れては消える冥府への入り口を思わせ、
>わたしを惑わせ魅了します…。
というCucさん感想は、正鵠を射たものに思われます。

>一方的な視線、沈黙、それは「至高の出現」である、と。
>真の交流とは交わされた視線や対話を超えたものの外にある、ということでしょうか……?
『望みのときに』では『私についてこなかった男』以上に
《見ること》つまりイメージについて濃厚に書かれています。
54SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/15(金) 23:21:00
(承前)

>この作品の≪書き手≫=≪わたし≫である以上、最後の一行も納得がいきます。
>――わたしは永遠を消すためにこう書くであろう。今、終わり。と――(p139)
最後に「今、終わり」と書き終える語り手=私(≒作者)ですが、
その直前には、「すでに円環に導かれているとはいえ」という言葉があったり、
「終わりとは再び始めることだ」といった言葉があったりもしたと思います。
終わること/始まること、にも二重性が感じられます。

>「言葉」とは素手でつかまえることができるのでしょうか?
>読み進むうちにそんな疑問が過ぎりました。
言葉もまた、遠ざかりによって現れる《イメージ》と無縁じゃないのでしょう。
つかまえようとすると逃げてゆく陽炎のような。。。

>日の光を象徴するジュディット的態度
>闇を象徴するクローディア的態度
>言葉に対する貪欲さと慎しみ、まさに書くことの二面性を物語っていますね。
ブランショのテクストのあちこちで、様々な両義性が見られますね。
現れる/消える、饒舌/沈黙、昼/夜、遠さ/近さなどなど。
それが捉えにくさにも魅力にもなっているのですが。  〆
55 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/17(日) 22:01:38
>>52-54 SXY ◆uyLlZvjSXY さん

>もし機会があったら『フランドルへの道』を。
図書館で検索しましたら、他に『アカシア』『路面電車』がありました。
水曜日に『アカシア』を借りてきました。『フランドルへの道』『路面電車』も追って読む予定です。

まだ途中までなのですが、『アカシア』は百花繚乱の群舞する比喩、押し寄せる言葉たち
の洪水ですね…。そして、一文が長い、長い。。。
ブランショの濃霧に包まれたモノクロームの世界の後では、シモンの小説は天然色が
鮮やかで少し眩暈がするような。。。(心地よい眩暈です)
幻想的な場面はほとんど出てこない、禁欲的で独身を通したふたりの姉妹に溺愛された
弟の物語。姉妹と弟のそれぞれの日々の生活が細密に語られ、日記(手記)のような手法
ですね。

>――人は失ったものしか思い出せないのだ――
>記憶(としてのイメージ)は喪失の別名なのでしょう。
追憶、追想というものは当時の時代、かつての瞬間の煌きにはふたたび戻れぬがゆえに
美しく語られますね…。時の流れというフィルターに装飾されます。甘美に、陶酔する如く。。。


(つづきます)
56 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/17(日) 22:03:28

追憶については、尾崎翠氏が『花束』という作品のなかで以下のように語っています。
――私に取っては、追憶は人生の清涼剤です。人間の幸福は過去にばかりある物ですね。
追憶は人間を幾分でも慰めるために、あの消極的な一種なつかしい慰めを置いて行くために、
時々やって来るのだ。追憶という心のはたらきは、人生の避難所の一つとして
人間に与えられた宝玉だ。私はいつとなくそう考えるようになりました――

>ブランショにおける至高者は高さ/低さetcの両義性を感じさせます。
……これでようやくわかりました!
高さ/低さは、支配するもの/支配されるもの、という関係をも生み出すということですね?
『望みのときに』『至高者』において、主人公の青年はどちらも女性に支配されていますね。
(前者においては二人の女性に、後者においては母親、妹、看護婦に支配されています)

>その直前には、「すでに円環に導かれているとはいえ」という言葉があったり、
>「終わりとは再び始めることだ」といった言葉があったりもしたと思います。
>終わること/始まること、にも二重性が感じられます。
ああ、そういえば確かに…。毎回のことながらSXYさんは、読みが実に深いですよね!
ブランショは「終わり」と記しながらも実はなかなか物語を終わらせない書き手
でもありますね。終わり、と記しながらそこから新たな始まりを予感させるような……。
読み手に余韻を残し、想像力を深め、イメージの広がりをもたらすことにおいては
群を抜いている作家といえるでしょうか。


(つづきます)
57 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/17(日) 22:04:46

>(未訳ですが『終りなき対話』という書名のものもあります)
前スレで、この書名をおしえていただきました。永遠に終らない物語…。
円環に類似した諺で「ひとつの扉が閉まったとき、別の扉がひらく」があるそうですが
ブランショの「終りなき対話」という題名そのものを想起させます。

>ブランショのテクストのあちこちで、様々な両義性が見られますね。
>現れる/消える、饒舌/沈黙、昼/夜、遠さ/近さなどなど。
光―闇、という効果を鮮やかに描いた画家、レンブラントを想起しました。
けれども、ブランショの作風はレンブラントのような鮮明さはありません。
むしろ、曖昧さや、寡黙さ、含羞といったあわあわとしたものを歓迎しました。
現実と夢との境界にある世界を幻想的に描いた作家のように思えますよね。
幻想的な作風ということではイメージは画家のアンリ・ルソーのほうが近いような……。
ルソーには『夢』という作品があります。

(ご参考) 
レンブラント――『風車The Mill』はわたしの好きな作品です。
http://art.pro.tok2.com/R/Rembrandt/remb11.jpg

アンリ・ルソーの代表作品
http://www5c.biglobe.ne.jp/~wonder/sub711.htm

アンリ・ルソー『夢』(アポリネールの詩が添えられています)
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/rousseau_dream.html
http://www.salvastyle.com/images/collect/rousseau_dream00.jpg


(つづきます)
58 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/17(日) 22:06:14

追記

『望みのときに』では密やかな「ささやき」をイメージしましたが、
先日購入したジョン・ケージのCDに収録されていた、
Joelle Leandre のhommage a j...をどこかほうふつさせます。
この楽曲には妖しげ(?) で幻聴のような女声の笑い声が録音されています。
まさに、幻のジュディットとクローディアのささやきとひそひそ笑いのような……。

※  オマージュ [(フランス) hommage] ―― (1) 尊敬。敬意。 (2) 賛辞。献辞。
検索して初めてこの単語の意味を知りましたよ。。。

わたしが購入したのは以下のCDです。
John Cage:The Wonderful Widow of Eighteen Springs; Ryoanji [FROM US] [IMPORT]

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00004WKJ4/qid=1121301544/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-8192865-1497850


――それでは。
59SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/18(月) 14:16:21
>>55-58(Cucさん)

>水曜日に『アカシア』を借りてきました。
>『フランドルへの道』『路面電車』も追って読む予定です。
順序としては『アカシア』より『フランドルへの道』 を先に、
という気もしましたが、Cucさんなら大丈夫でしょう。
読後に両書を頭の中で再構成すればいいのですから。
(確かにシモンの作品は心地よい眩暈を起こさせてくれます)

>確かブランショはこんな言葉をどこかに記していました。
>――人は失ったものしか思い出せないのだ――
>>52で書いたのですが、記憶違いだった可能性があります。
ジャベスの言葉をブランショのものとして記憶したかな。。。
(記憶に頼って書くとこういうことがしばしばあり。。。)

ちなみにエドモン・ジャベスからの正確な引用はこうでした。
――人はもはや存在しないものしか憶い出さない――(『歓待の書』P102)

思い出やイメージには、存在しないものという幽霊じみた性格があり、
イメージの現れ・近接には、かつて存在してたものの遠ざかりもまた、
含まれていることになるのでしょう(近さ/遠さの両義性)。
60SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/18(月) 14:21:31
(承前)

アンリ・ルソーのリンク感謝です。
ジャリやアポリネールはルソーの絵を愛していたようですね。
アポリネールはとても好きな作家です(短篇が特に)。
それからCucさんが引用した第七官界の作者もとても好きです。

Cucさんはきっと美術が好きなんだろうな、と感じていたのですが、
というのも、ブランショ作品の読後感想を視覚的に記述してたからで、
たとえば、『アミナダブ』についての
>夜光虫の飛び交う地中で妖しく誘う隠花植物の絡みつく根、でしょうか。
や、『謎の男トマ』についての
>イメージとして喩えるならば、深い海のなか音もなく静かに降る、マリン・スノウです。
という喩えが、絵画的だなあと思ったからでした。

>けれども、ブランショの作風はレンブラントのような鮮明さはありません。
>むしろ、曖昧さや、寡黙さ、含羞といったあわあわとしたものを歓迎しました。
ブランショの書物にもし挿し絵を入れるとすれば、と考えると、
まず脳裏に浮かんでくるのが、前に名前を挙げたジャコメッティです。
ひょろ長い影のようなモノクロームの人物像の、やや粗い線の塊からは、
ジャコメッティの描く手が感じられる気がします。

ブランショの「曖昧さや、寡黙さ、含羞といったあわあわとしたもの」については
『私についてこなかった男』P8あたりでも「ただ」という中断された言葉をめぐり、
その「ただ」というほのめかしの言葉は「沈黙したままの方向の指示」であり、
その言葉が会話を促がしてゆく、という記述がありましたね。
61SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/18(月) 14:33:53
(承前)

ブランショの曖昧さはほのめかしや暗示によるだけではありませんね。
記述自体が平易な言葉で書かれ、比較的明快であっても、
ときに両義的で、ときに逆説的で、一方向に進まないことが多い。

『望みのときに』が「今、終りと」という言葉で終っていたのに対し、
『至高者』では「今こそわたしは語るんだ」という言葉で終っていました。

クレタ島人の逆説を思い起こさせる『至高者』のエピグラフはまさしくそうですね。

――わたしからあなたへ伝わるものはすべて、あなたにとっては嘘でしかない。
   なぜなら、わたしはすなわち真実だからです。――
62引用1 ◆uyLlZvjSXY :2005/07/18(月) 14:37:03
193 : ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/16(月) 22:01:23

『死の宣告』、読み終えました。

魔境に迷い込んだかと思いました。
霧の中をさまよいながら、ようやく読み終えた気分です。

物語とは「語る」ものなのに、この作品の主人公以外の人物たちは「語らない」「語ろうとしない」
人たちです。つまり対話が成り立たない。それも成り立たないゆえのちぐはぐさは時として、
ユーモアをもたらすものなのに、行き止まりの息苦しさのようなものを感じさせます。
登場人物たちは皆、生きながらにして死んでいる人=死者であるような印象を受けました。

また、この作品は全編「私」のモノログで語られていますが、夢か現か判断しかねる語り口です。
対象を怜悧な目で観察し、意識は極めて鋭く醒めているはずなのに、現実感がなく、実体を
伴わない。ここにおいては、登場人物の誰ひとりとして呼吸しているとは思えないのですね。
カフカの登場人物でさえ、日常はくだくだとこまやかに描かれ、息づいて動き回っているのに、
『死の宣告』の人物たちは物語の始まりと終わりがあるにも拘わらず、時間も人物も静止したまま、
モノクロームの静物画そのものです。

全体に動きというものがほとんど感じられず、夢遊病者が断崖を歩いているような作品でした。
魅入られる、とはこのような作品のことをいうのでしょうか……。
63引用2 ◆uyLlZvjSXY :2005/07/18(月) 14:38:16
207 : ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/21(土) 22:49:42

『牧歌』、読み終えました。

「真の自由」とは何か、を読み手であるわたしにも突きつけられた作品でした。
作品の表題『牧歌』とは、沈黙の霧が濃厚に垂れ込める不幸で不毛な祝祭とされる結婚生活である、
とはブランショの痛烈な皮肉でしょうか。(こうした風刺や冷笑はカフカに近いような…)

異邦人である男は結婚すれば救護所から出られ、自由の身になれたにも拘わらず脱走を試みて
鞭打ちの刑を受け死んでいきます。
「偽りの自由」=「牧歌的な結婚」を拒み、「真の自由」=「死」を欲したわけですが、
カミュの『異邦人』のムルソーというよりは、「真理」のために自ら毒杯を仰いで死んでいった
ソクラテスをほうふつとさせました。

なぜなら、ソクラテスも当時、悪妻(?)との牧歌的な悲惨な結婚生活に散々辛苦を
嘗めさせられていたからです。(…事実かどうかは、ともかくとして)
主人公の男は、所長の牧歌的な寒々しい結婚生活を目の当たりにして、「真の自由」を得るために
死んでいきますが、この男の死が果たして幸か不幸かは神のみぞ知るところでありましょうね……。
それにしても『死の宣告』とはまったく異なる作風に、少し驚いています。
『死の宣告』を濃霧に喩えるなら、『牧歌』は沙漠に吹く風です。
64引用3 ◆uyLlZvjSXY :2005/07/18(月) 14:39:16
216 : ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/25(水) 20:14:27

『窮極の言葉』の感想です。

これはいったい、どのような類の小説なのでしょう…? 言葉を裁く小説でしょうか?
「言葉」に対するブランショの痛烈な批判の書なのでしょうか?
「合い言葉」とは何の意味で使われていたのか、さっぱりわからないまま終わりを告げます。
「に、いたるまで」、「で、ない」「が、ある」断片的に飛び交う意図的(?)かつ思わせぶりな単語の数々、
まさに言葉の迷宮です…。

主人公が裁判官であることから鑑みれば、裁判官の「窮極のお告げ」の言葉は人の生死、運命を
決定づける裁定の言葉です。彼の最後のひとことで運命が決まるのですから恐ろしい「言葉」ですよね。

――最後の言葉とは、すでにもはや言葉ではないが、だからといって、ほかのものの始まりでも
ないのだ。(中略)つまり、窮極の言葉でもなく、また言葉の決除でも、また言葉以外の別のもの
でもありえないことだ。――(p225〜226)
この表現は「言葉」とは深遠な意味の深さも、内容の広がりも示し得ない、「言葉」は「言葉」以外の
なにものでもない、という意味にもとれます。

物語の最後に出てくる塔の所有者=全能なる神、は裁判官に「わたしの共犯者よ」とささやきます。
神だけが人を裁ける権能を持ち得るのですから、「言葉」で人を裁く裁判官もある意味、確かに
共犯者なのでしょう。
最後に崩壊する塔は、おそらくは人間が有している「言葉」の世界の象徴ではないでしょうか?
そして、塔の所有者=全能なる神も、裁判官も女も倒壊した塔から落下していきます。
「言葉」の創造主である神の死、「言葉」で人を裁く裁判官の死、わたしたちが使っている言葉の死。
ここで暗示されているのは、言葉の世界が死に絶える瞬間でしょうか。
言葉という怪物になぶり殺される男の物語でした。
イメージとして喩えるならば、草原炎上です。(注:草の葉を言の葉=言葉になぞらえました)
65引用4 ◆uyLlZvjSXY :2005/07/18(月) 14:42:14
226 : ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/31(火) 21:58:41

『謎の男トマ』の感想です。
先ず、わたしがこれから記すのは断片的なものです。この作品について述べようとしても、今は
まだ模索中でなかなかまとまらないからです。その点、ご了承いただければと思います。

冒頭、トマが海水に浸る場面。海はあらゆる原初の生命を誕生させる象徴でもあるのですね。
(バタイユの「太陽肛門」の海の律動を想起しました…) 陸に上がった生命はやがて死を迎え、
土に還るという運命を辿ります。けれども、原初の海においてさえトマは生きながらにしてすでに
死者なのです。トマは海の中から深い死の匂いを纏わりつかせて地上に上がります。

彼の死臭は、ある種の人を惹きつけます。それは死を望んでいる人です。
トマがアンヌに出逢ったのは偶然などではありません。アンヌにとっては必然です。
なぜなら彼女は死を渇望していたから。

ホテルの一室で読書するトマは、自分が「言葉」という雌のかまきりに食われそうになっている
雄のカマキリであるように錯覚します。「単語」は彼にとって殺戮行為であると錯乱状態になりま
す。かくして、言葉との格闘の末、彼は半狂乱になって廊下に飛び出していきます。
氾濫する活字の群れ、増殖する言葉たち、夥しい単語の数々…、ブランショは言葉を綴る人で
ありながら、実際は言葉を非常に怖れ(=畏れ)ていた人ではないでしょうか。
(つづきます)
66引用5 ◆uyLlZvjSXY :2005/07/18(月) 14:43:13
227 : ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/31(火) 21:59:53

――じじつ彼は死んでおり、同時にまた死の現実から押し返されてもいた。彼は、死のなかに
おいてすら死を奪いとられているのだ。(略) 死からも生からも同時に引き離されているという
確信を抱きつつ――トマはこの世にはいない人間、つまり不在者、であることを知っています。
生者でもない、また、完全な死者にもなれない、いったいトマとはどういう男なのでしょう?

トマがホテルの壁に上に書きつけた ――我考う、ゆえに我在らず―― 
という言葉。思考のみが在って、主体である「私」は無い、デカルトへの皮肉でしょうか?

アンヌのトマへの問いかけ。――ほんとのところ、あなたってどんなひとなのかしらねえ?――
この問いかけは、いつもここで中断され、問いも答えも結局は、沈黙のまま終わります。

――ぼくは思考する、そして眼に見えず、言葉にあらわすことができず、生存もしていないトマに
ぼくはなった(略)、ぼくの存在は不在(略)、ぼくはたしかに彼岸の世界にいるのだ――

トマは「死」そのものの具現者です。考え、沈黙し、語りながらも彼はこの世のどこにも存在しな
い。アンヌが「死」の権化であるトマに出逢った以上、死ななければならない運命にあるのは必須
です。トマに惹かれ近づくたびに、至高の時を旅する人となっていくアンヌ。彼女が体験するさま
ざまな至高の時間――死滅した都市や地下墓地、化石やミイラ――すでに死に絶えた過去の
遺物たち。彼女がいつしか沈黙と孤独の「夜」を愛するようになっていく描写は幻想的で妖しく
大変美しいですね。ブランショの小説家としての本領が発揮されている箇所と言えるのではない
でしょうか。死の世界がまぎれもなくアンヌをとらえたとき、ここでトマとアンヌの立ち位置は逆転し
ます。それまではトマが優位に立っていたのに、今やアンヌのほうが高みに立っているのです。
なぜなら、彼女は確実な死者となりつつあるから。トマのように完全な死者でもなく生者でもない、
あやふやな存在ではないから。アンヌは死を完全に自分のものにしたから。
(つづきます)
67引用6 ◆uyLlZvjSXY :2005/07/18(月) 14:44:30
228 : ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/31(火) 22:01:10

物語のラスト、春の野原は生き生きと活気にあふれ、彷徨するトマとは何と対照的なことでしょ
う。生命の息吹を受け万物は輝き、大地は力強く鼓動し、そこではすべてが彩られ息づいていま
す。アンヌのまったき死の世界にも行けず、この世にも居場所が見つけられないトマは、茫然自
失するしかすべがない。彼は死を「外側」からしか語れない。なぜなら、トマは死からも押し返され
た存在だから。彼に残されたのは沈黙を守ることだけ。言葉も思考も今では何と空虚なことか。
ついに終末を目指してトマは「飛び込んだ」のです。  どこへ? 何に向かって?
時間のなかへ…言葉のなかへ…思考のなかへ…騒音のなかへ…闇のなかへ…沈黙のなかへ
人々のなかへ…トマが愛したアンヌの記憶のなかへ……?

「沈黙」、「至高」、本編のなかで繰り返し登場する言葉です。
「至高」というとバタイユを想起するのですが、ブランショの「至高」とは少し異なりますね。
バタイユにおける「至高」は《死》と《エロス》に結びつけられます。
ブランショにおいて「至高」は《死》と《沈黙》で表現されます。
両者に共通して語られているのは《死》ですね。

中盤、現実と幻想の世界とを自在に行き来しているアンヌの内的世界がひとり歩きしています
ね。幽玄で神秘的な世界の描写の美しさに惹きつけられました。読後も、嵌まったままです……。
『死の宣告』によく似た作風だと思いました。
イメージとして喩えるならば、深い海のなか音もなく静かに降る、マリン・スノウです。
68引用7 ◆uyLlZvjSXY :2005/07/18(月) 14:45:44
240 : ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/11(土) 19:58:14

『アミナダブ』の感想を記します。
闇に捧げる賛歌、夜を彷徨する旅人の物語ですね。
普通、旅人というのは昼間旅をし、夜は休むためのものであるのにここでは逆転しています。
間借り人トマは建物の上方を目指して横柄な職員たちと噛み合わない会話をし、世話係りの娘に
懇願しながら上階への道を尋ねて迷路のような建物を彷徨しながらついに病気で倒れます。
目覚めたとき、トマの記憶は茫洋としています。

トマのそばにいつもつききりだったドムが、このとき初めてトマに「真実」を告げますね。
――あなたの野心は上に行くこと、階から階へと昇ることでした。(略)真の道はちゃんと通じてい
たのです。それはゆるやかな下り道で、努力も相談も必要ではなかった。それにその道は、
あなたが生きがいのある暮らしを送れる地帯に向かっていた。(略)地階のほうへ行く道です――

また娘もおなじようなことを言います。
――あなたは待っていればよかったのよ。勝手に歩き回らず。上には何もありませんし、
誰も住んでいません。これは真実ですわ――
69引用8 ◆uyLlZvjSXY :2005/07/18(月) 14:46:34
241 : ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/11(土) 19:59:18

ドムは地下での暮らし、すなわち大地のもたらす偉大さをトマに語るのですが、トマは受け入れな
い。これは人が生来、より高見へ、より上方を目指すことへの痛烈な批判なのでしょうか?
衣食住を例に出せば、たいていの人は「下方」ではなく「上方」に属するほうが安泰であると考え
るからです。そのためにトマのようにあちこちを彷徨し、ついに野心半ばで倒れるということが少
なくありません。ドムや娘の言うように、その場を動かないでいるか、もしくは無理な上方など望ま
ずにゆるやかな地下へと降りていく道を選んだほうがいいのか……。

ブランショの言う地下への道とは、努力を放棄することや怠惰を許すことではないのでしょう。
実際、地下では地中で掘り続ける仕事が待っているようですし。。。
但し、その仕事は苦役ではなく「甘美な沈黙」である、と言ってます。

途中、トマと職員の建物の間借り人の「掟」について対話のやりとりは、まさにカフカ的ですね。
例えば以下の会話などが好例です。この作品はカフカをかなり意識しているようですね。
――法規ははるか遠くある、わたしたちの経験や言語ではつかまえることができない、それは
近づきえぬものなのだ――

ブランショの小説の魅力は、何といっても幻想的な魅惑に満ちた夜の闇の描写です。
幽玄な至高の世界へ、異界へとわたしを誘惑するのです。
――夜がまなざしを閃かせて、真の夜のイメージを浮かびあがらせる――
――甘美な暗闇のなかで完全な行動の自由が得られます(略)すこし慣れれば、影をとおして
輝き、優しく眼を引きつける一種の明るさのようなものをよく見分けられるようになります。この明
るさは内的真実であり(略)――
70引用9 ◆uyLlZvjSXY :2005/07/18(月) 14:53:55
242 : ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/11(土) 20:00:05

不思議だったことは、トマが歓迎せざる間借り人であり、闇や沈黙がふんだんに散りばめられて
いるにも拘わらず孤独感があまり感じられないことでした。真の対話も意思疎通もできない人間
は通常「孤独感」に打ちのめされるはずなのですが。。。
トマの関心(野心)が、ひたすら建物の上階にしか向いていないから、でしょうか?

この作品の題名でもある「アミナダブ」とは何を示すのでしょうか?
検索しましたら、人の名前で、イエス・キリストの系図のひとりに該当するようです。

――巨大な正門で、かれらがアミナダブと呼んでいる男によって守られていることになって
います――
この門は地下にあり、門に近づくのはきわめて簡単です。そこでは法規の力はほとんど
弱まっているのです。。。

アミナダブとはキリストを暗示します。つまり、救い主です。救い主=至高者は通常に考えるなら
最高位にあり、わたしたちを見下ろし睥睨するものであるのに、ここでは地下という底辺におり、
闇のなかの労働者とともにあり彼らを守る存在です。上方にあり高みから人を支配するものが
「法」である、とここでは描かれています。本来ならば、至高者のほうが上で法はその下に置かれ
て然るべきものではないでしょうか?
いえ、真の至高者とは底辺にある人たちとともにあり、守る存在なのですね? 高みにいて一方
的に崇められるものではないのですね。至高者とは支配しないのです。
トマが希求したものは地下にいる至高者ではなく、上方にある権威の象徴、法であったがゆえ
に、悲劇的な最後を迎えました……。
71引用10 ◆uyLlZvjSXY :2005/07/18(月) 14:55:29
243 : ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/11(土) 20:00:54

カフカとブランショを対比するならば、両者とも主人公が深い迷路を彷徨する作風でありながら、
カフカの彷徨させる舞台は城壁、道、門など非常に人工的、無機質なものであります。
それゆえに「生きている」人物のこまごました動き、会話が際立ちます。
ブランショの場合は同じように人工的な建物や廊下を舞台にしながらも、暗い森や、濃霧、
深い地中、淀んだ水など、いつしか自然界に紛れ込んだような錯覚を覚えるのです。
そして、人物は生きながらにして「死んでいる」ような人であり、沈黙しています。

人工的な上方にあるものは饒舌でわかりやすく、人間の欲望を掻き立て誘惑しますが、自然界
の被造物は深く沈黙しているのです。そして、沈黙が死と密接に結びついているとすれば、わた
したち人間はいつか必ず沈黙している大地へ還らなければならない運命にあるのです。
トマが地下(大地)に下るのではなく、上方ばかりを目指して進んでいたのは、あたかも死から
逃れたいという人間の本能ゆえの行為なのでしょうか……。

この作品を喩えるならば、夜光虫の飛び交う地中で妖しく誘う隠花植物の絡みつく根、
でしょうか。
72SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/18(月) 19:10:40
>>58に追記です。

Joelle Leandre hommage a j...“は
聞いたことがないので今度聞いてみたいですね。

ジョン・ケージは鈴木大拙の禅や易経から影響を受け
東洋的思想を自身の音楽にも取り入れていますが、
一方でジョイスを読んでモチーフにしたりもしています。 〆
73SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/18(月) 19:56:38
>>72の前に書き込みをしたのですが、
どうもDEAD LETTERみたいに行方不明になってしまったようです。
74 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/18(月) 20:27:45
>>59-61  SXY ◆uyLlZvjSXY さん

エドモン・ジャベス、初めて知る名前です。
彼は詩人であり、デリダ、ブランショ、レヴィナスに絶賛されたのですね!

>――人はもはや存在しないものしか憶い出さない――(『歓待の書』P102)
>思い出やイメージには、存在しないものという幽霊じみた性格があり、
>イメージの現れ・近接には、かつて存在してたものの遠ざかりもまた、
>含まれていることになるのでしょう(近さ/遠さの両義性)。
今読んでいる『アカシア』にもあてはまりますね。主人公は自身の戦争体験を回想という形で
記していますが、その回想の濃密なこと! それは突き詰めて言えば「もはや存在しないもの」
だからなのですね? 遠いものゆえに近くへ呼び寄せようと躍起になる。。。

>アポリネールはとても好きな作家です(短篇が特に)。
実はわたしは、アポリネールは「ミラボー橋」くらいしか知らないのです。。。
「日が去り、月がゆき 過ぎた時も 昔の恋も二度とまた帰って来ない
ミラボー橋の下を セーヌ河が流れる
日も暮れよ、鐘も鳴れ 月日は流れ、わたしは残る――[堀口大學訳] 」

>それからCucさんが引用した第七官界の作者もとても好きです。
うれしいです! 空想癖のある感受性ゆたかな少女の片恋を描いたら、尾崎翠氏の右に
出るものはいないですね〜。わたしが持っている全集は創樹社から出ているもの(全一巻)
です。少女漫画家たちは無論、山田詠美さん、嶽本野ばらさんなども尾崎翠のファンです。


(つづきます)
75 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/18(月) 20:28:31

>Cucさんはきっと美術が好きなんだろうな、と感じていたのですが、
…ほんの趣味程度です。(…赤面)美術や美術史を専門に学んだわけでもなく、ただ何となく
絵を観るのが好きなのです。一番好きなのは小説ですが、絵画は鑑賞者を一瞬で惹きつける
ことができるのですね。例えば小説ならば何十時間かかけて読了します。異国のものならば
翻訳を介してでしか読むことができません。「言葉」とは伝達に時間を要するものなのです。
ところが、絵画は言葉も時間も要らない、一瞬で直接感性に訴えかけてきます。
ですから、読書に疲れたときなどに絵画を観ると「瞬間勝負だなあ〜!」と思います。

>ブランショの曖昧さはほのめかしや暗示によるだけではありませんね。
>記述自体が平易な言葉で書かれ、比較的明快であっても、
>ときに両義的で、ときに逆説的で、一方向に進まないことが多い。
確かにそうですね! 対立的な、あえて対峙させるような言葉を意図的に選んでいます。
わたしたち読み手はこれが結論なのかな? と憶測するのですが、次の瞬間見事に
裏切られますね。(快い裏切りですが。。。)
ある意味、読者を最後の最後まで油断させない作家ですね。筋も掴ませず、予想も
裏切られ、結末らしい結末にも導かれない……、おそらく、これこそがブランショの
最大の魅力でもあると思うのですが。

『至高者』について触れていらっしゃいますので、感想をupします。


(つづきます)
76 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/18(月) 20:29:34

『至高者』読み終えました。。。(2005年6月11日)

アンリという青年が伝染病(ペスト)に罹り、ひとりの看護婦に偏執的に熱愛され
「至高者」と名づけられ、最後には殺されるお話です……。
――法はどこにあるのか? 法は何をしているのか? このような叫びは常に聞かれた
ものだった。――
この作品の核を成しているもの、政治について、法について、批判し糾弾している箇所が
随所に見られます。そうした意味合いではまたしても、カフカ的でありますね。
わたしたちの上に君臨する法、法治国家においては「法」こそが至高のものであります。
つまり、法こそが非情な掟の最高位のものなのです。甘さもなく、緩みもない。。。

ところで、なぜ、この元市役所職員の青年が「至高者」なのでしょうか?
わたしたちが通常「至高者」を想起するとき、全能のもの、善意のもの、力のあるもの、
救済してくれるものを想定するのですが、彼はどれにも該当しません。善意にあふれている
どころかむしろ逆の性質であり、権力も持たない、まったくなにものも持たない罹病者です。

――そのときわたしは確信した。わたしの行動の註釈をし時間ごとに書いていくだけで、
わたしの行動の中に至高の真理の開花を見つけ出すことができるだろう――(p33)

ブランショのいう「至高者」とは「至高の真理の開花を見つけた者」なのですね。
そして、彼のいう真理とは≪絶えず書きつづけていくもの≫のなかにある。思考したり、
語るだけではそれは真理と呼べず≪書くこと≫、≪書き記すこと≫の行為においてこそ、
真理となる。。。
ここにおいても、ブランショは≪書く≫行為にかなりこだわりを見せています。
他人が書いた文書に自分の名前を署名するようアンリが強要される場面が何回も出てきます。


(つづきます)
77 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/18(月) 20:30:21

結果だけ見れば、自分の意志で書いた文書でなくとも署名をすれば同意と見なされるのですね。
では、そこに真理はあるのでしょうか? 何も知らない第三者はその文面と署名でのみ判断
します。看護婦はアンリとともにいたいがために、「ほかのつきそいは望まないと書きなさい」
と強要します。アンリは署名します。その瞬間、おそらくこの女にとってアンリは「至高者」と
なったのでしょう。署名するだけのこと、それは女にとって重大なことだったから。

そして、彼女によって勝手に「至高者」と名づけられた彼は、彼女の手によって殺されます。
なぜなら、「至高者」とは彼女にとってだけの「至高者」であり、他の人にとって「至高者」で
あってはならないから。自分だけが見つけた真実のものを人は独占したいと欲します。
その真実が人間である場合、永遠に独占するには「死」しかありません。
最後の ――今だ、今こそ話す―― とはいったい何でしょう?
アンリは最期の瞬間に自分が誰であるかを、話そうとしたのでしょうか? 
そういえば、至高者であるとは看護婦が勝手に命名したことであり、彼自身の口からは一度も
発せられたことがありませんね。エピグラフの「わたしはすなわち真実だからです」を
引用するなら、真実を話すもの=至高者、ということになりますが。。。

アンリの母親も妹も役所の職員も随分と彼には威圧的で、彼らにいいように扱われていた
前半から一転して、後半、看護婦が彼を「至高者」と宣言する、この立ち位置の逆転の見事さ
といいますか。最も非力で無力で凡庸な男を「至高者」とする設定は遠藤周作氏が好んで
描いたテーマではありますが、ブランショのような乾いた眼は遠藤氏にはありません。

本編の挿話で、アンリと妹が子供の頃墓所に迷い込んだ体験の描写は、『謎の男トマ』同様
幻想的で美しいですね……。ブランショは、墓所や地下、闇、夜を描くと筆が一段と冴えます。


(つづきます)
78 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/18(月) 20:31:17

――香りが漂よい、それはわたしが夜中に嗅いだ香り、大地と死んだ水の香りだった。
ルイーズは花を散らし、さらにかがみ込み(略) わたしにふれ、庭の土よりそらに黒く、
さらに死んだ塊りとなってわたしを埋めた。(略) 
ルイーズがわたしの目の中に何を読んだか、わからない――(p118)
――わたしが生きている限り、あなたは生きる、そして死が生きる。(略) そして今、わたしは
誓った。不正の死があったところには、正しい死があるだろう。(略) そして陽光が最悪の
ものにおいて欠けるために、最善のものが闇となるであろう――(p117〜118)

不正と正、最悪と最善、そして生と死が同時に存在する場所、それが墓所であると
ブランショは言いたかったのではないでしょうか? 死は沈黙ではない、それを示しているのが
墓所。なぜなら、既出のルイーズの言葉を借りるなら「不正の死があったところには、正しい死が
ある」から。死は、沈黙のうちに「物語る」のですね。。。真実だけを断定する。
おそらく、アンリの死後、妹のルイーズは彼の墓所に来て、死の意味を悟るでしょう。
この兄妹は反目し合っているようで実は、深いところで(魂の次元で)繋がっているのですね。
執拗な干渉と支配、当初、精神的な近親相姦かと思いました……。妹にとっても兄のアンリは
「至高者」なのです。「至高者」とは崇められると同時に侵犯されて初めてその存在が際立ち、
確立されるのですから。

威圧的な母親、支配的な妹、強制的な看護婦、この作品に登場する女性たちは皆、
押さえつける人たちばかり。まさに「法」そのものです。「法」から逃れる手段はただひとつ。
自らが超越的な存在になること、つまり「至高者」になることです。

この作品をイメージで喩えるなら、滅びゆく寸前の明滅した光を放つ暗黒星です…。
79 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/18(月) 20:40:19
(追 記)

>>62-71、引用1〜10を、わたしの今までの感想を一連にまとめて下さいまして
ありがとうございます! まとめるの、大変だったと思います。

シモンの『三枚つづきの絵』が最寄りの図書館になくて残念に思っていたところ、他の地区の
図書館にあることが判明しました。おそらく、リクエストすれば取り寄せてもらうことができます。
そろそろ『アカシア』読了です。
アカシアって、春に黄色い可憐な花をつけるミモザのことをいうのですね?
ミモザの季節はもう過ぎてしまいましたが、昼下がりにアカシアの緑陰で
読書できたら最高でしょうね。涼風に吹かれてそのまま、まどろむのもいいし…。
でも、近くにアカシアの並木がないのが残念。。。

>>72-73
>ジョン・ケージは鈴木大拙の禅や易経から影響を受け
>東洋的思想を自身の音楽にも取り入れていますが、
>一方でジョイスを読んでモチーフにしたりもしています。
やっぱり優れた音楽家は、ジャンルを問わずいろいろな分野の方から影響を受けている
のですね? 「竜安寺」は東洋思想の影響が濃厚に漂っていますね。お経のような音階
と木魚をイメージさせる打楽器の音です。ジョイスは『ユリシーズ』が有名ですが未読です。
いつか読んでみたい一冊です。

>どうもDEAD LETTERみたいに行方不明になってしまったようです
わたしもしょっちゅう迷子の手紙になります。まあ、これは新しく書きなさいという思し召し(?)
なのでしょうかねえ。。。

それでは。  ――感謝とともに
80SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/21(木) 00:40:04
>>74-79(Cucさん)

>エドモン・ジャベス、初めて知る名前です。
>彼は詩人であり、デリダ、ブランショ、レヴィナスに絶賛されたのですね!
どうもわたしが惹かれる作家や思想家にはユダヤ人が多いようで。
ジャベスやレヴィナスの思考の根幹にはユダヤ性があります。

>空想癖のある感受性ゆたかな少女の片恋を描いたら、
>尾崎翠氏の右に出るものはいないですね〜。
独特の感性を持つ尾崎翠の本に似合う絵画は。。。と考えて、
個人的にはパウル・クレーのパステルっぽいタブローが思い浮かびました。
パウル・クレーもジョン・ケージも音楽と絵画の両方をやっていましたが、
前者は絵画の道を、後者は音楽の道を選びました。

それにしても1920年代30年代には日本にも優れた幻想作家がいますね。
尾崎翠のほか、宮沢賢治、内田百閨A稲垣足穂、牧野信一などなど。

>絵画は言葉も時間も要らない、一瞬で直接感性に訴えかけてきます。
シモン『三枚つづきの絵』は、感性に訴えかけてくる絵画の一撃を、
アクロバティックな手法で見事にテクストに溶かし込んでいるように感じます。
81SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/21(木) 00:41:09
(承前)

『至高者』の感想を拝読。
この作品も他のブランショ作品同様「死」「法」がモチーフですね。
そして、他の作品以上に「名前」も重要なファクターだと思われます。
「至高者」でもあり「ありふれた人間」でもある青年アンリ・ソルジュ(sorge)は
ドイツ語でゾルゲ=不安であり、ハイデガーあたりの実存主義を想起させます。

『牧歌』や『窮極の言葉』という初期の短篇から
『謎の男トマ』『アミナダブ』『至高者』というロマンを経て、
『死の宣告』『望みのときに』のレシに至るまで、
何らかの名前を持った人たちが出てきました。

『謎の男トマ』『アミナダブ』では
トマという主人公が設定されていましたね。
それがファントマ(幻影)であろうとも。

固有名詞ははやがて「私」という一人称になっていきましたが、
それでも1951年の『望みのときに』までは対話者として
ジュディット、クローディアという名前を持った女性たちがいました。

それが1953年の『私についてこなかった男』になると
誰も名前を持たなくなり、女性たちも消えてしまった。
対話者=同伴者は、以前よりもさらに影のような稀薄な存在になり、
もはや異なる性すらも持っていません。
82SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/21(木) 00:45:39
(承前)

余談ですが、この名前の消去に関して興味深く思われるのは、
同時期にベケットがやはり名前を消していったということです。

ベケット『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名づけられぬもの』の三部作は、
ブランショ『望みのときに』『私についてこなかった男』と時を同じくして
1951年〜1953年にかけて発表されていますが、
モロイという名前の主人公は遂に《名づけられぬもの》になってしまいます。
(ほかにも言葉と沈黙の関係など、共通項がありますが。。。) 

それから、クロード・シモンを読み始められているのですね。
シモンの作品は、ブランショと違う意味で眩暈を与えられますが、
色彩豊かで濃厚な描写が長いセンテンスの中で
(また括弧の中で(ときに入れ子状の括弧の中で(『フランドルへの道』では特に)))
連綿と続き、意識やイメージの横滑り的連鎖反応とでも呼ぶべきものに、
読む者を心地よく感染させてくれます。  〆
83 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/22(金) 22:48:34
>>80-82  SXY ◆uyLlZvjSXさん

>どうもわたしが惹かれる作家や思想家にはユダヤ人が多いようで。
>ジャベスやレヴィナスの思考の根幹にはユダヤ性があります。
ユダヤ性について、真っ先に想起するのは「選民」と「迫害、放浪の民」です。
彼らは、その優秀な頭脳ゆえにいろいろな分野で頭角を表す一方、その才能ゆえに
どこへ行っても妬まれ、追われてしまう……。神に選ばれし民ゆえの悲劇でしょうか。
彼らを駆り立てているのは、安住の約束の地を求める情熱でしょうか。

パウル・クレー、いいですね! 検索して作品を鑑賞しました。夢見るようなやわらかな
筆遣いが、幻想的で霞を食べて生きているような尾崎翠の作品にぴったりです。感謝です。

>それにしても1920年代30年代には日本にも優れた幻想作家がいますね。
>尾崎翠のほか、宮沢賢治、内田百閨A稲垣足穂、牧野信一などなど。
内田百閨A稲垣足穂、牧野信一は未読の作家たちです。
SXYさんはフランス文学は無論のこと、日本文学についてもよくご存知ですね!
それから、絵画や音楽にも大変造詣が深いですし。。。知的な分野、芸術の領域、どちらにも
幅が広くていらっしゃいます! 拝読するたびに芳醇でアカデミックな風に触れる思いがします。

>シモン『三枚つづきの絵』は、感性に訴えかけてくる絵画の一撃を、
>アクロバティックな手法で見事にテクストに溶かし込んでいるように感じます。
今から、『三枚つづきの絵』を読むのがとても楽しみです。 


(つづきます)
84 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/22(金) 22:49:23

>そして、他の作品以上に「名前」も重要なファクターだと思われます。
>それが1953年の『私についてこなかった男』になると
>誰も名前を持たなくなり、女性たちも消えてしまった。
…そうですね。名前も性別も持たない人物たちというのは存在していないと同じことに
なりますよね。人物の「存在」の有無については『謎の男トマ』でこのような描写がありました。
――我考う、ゆえに我在らず――、トマがホテルの壁に書きつけた言葉です。
デカルトは何をおいても「私」が存在する事実だけは疑い得ないと提唱しました。
確固とした「私」という存在、その他大勢ではない「私」の存在を高らかに宣言しました。
ブランショは、デカルトとは真っ向から対立する思考の持ち主のように思えますね。。。
「私」はあやふやな存在であり、名前も無ければ性別も無い、生きているのか死んでいるのか
さえわからない……。「私」とは沈黙しているだけのもの、存在が曖昧なものである、と。

哲学者としてデカルトが「確固たる私の存在」を謳い上げた最初の人ならば、
文学者としてブランショは「私とは存在しないものである」と、ひそかに反撃した
希少な人物のひとりなのでしょうか……?

>余談ですが、この名前の消去に関して興味深く思われるのは、
>同時期にベケットがやはり名前を消していったということです。
両者ともなかなか意味深ですね! ベケットはシモンの次に読む予定の作家です。


(つづきます)
85 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/22(金) 22:50:37

>それから、クロード・シモンを読み始められているのですね。
>シモンの作品は、ブランショと違う意味で眩暈を与えられますが
最初は特有の長い文体に馴れるまでかなり戸惑いましたね。。。
途切れなく続くのは、彼のイマージュが書くそばからぐんぐんと飛翔していく証しなのでしょう。
洗練度や完成度云々よりも、先ずはあふれかえる想いありき。降るほどの言葉ありき。

『アカシア』、読了しました。
まだ、文体に感染した熱が引かないような……。
『アカシア』の感想をupする前に、ブランショとバタイユについてのささやかな感想を
upします。少し前にワードに保存しておいたものです。
明日からは、いよいよ『フランドルへの道』を読みます。


(つづきます)
86 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/22(金) 22:51:31

≪バタイユとブランショの作品についての断片的な私見≫

バタイユは喩えるならば、原初の《生》である「海」です。
原初の海とは、バタイユが『太陽肛門』で記しているように海中で性の律動が行われ、
生命が「育まれる」母なる海、なのです。海は万物万人を受け容れる寛容な器です。
それは≪開いている世界≫なのです。
けれども海は雨や風によって刻一刻とその表情を変えます。凪いでいると思ったら、
次の瞬間は牙を剥いて荒れ狂います。まさしく「生きている」ものです。
エロスは「攻め」の世界です。
死の間際ぎりぎりまで生やエロスを謳歌し、そこにこそ濃密な輝きを見出すのです。

ブランショは深く沈黙している《死》を想起させる「湖」です。
森の奥にあるひっそりとした湖は、訪問者を徹底して拒み、誰にも知られることなく
鬱蒼としたまま隠されています。風雨に湖面はいくらか波立つでしょうが、水の中は
驚くほど穏やかです。そこに棲んでいるのは、滅多に姿を現さない《主(ぬし)》と
呼ばれる幻の老魚であるかもしれません。
湖も周りの木々も棲息する魚たちもすべてが深い沈黙の霧に包まれています。
それは≪閉じている世界≫なのです。
沈黙は「守り」の世界です。あたかも湖の主がひっそりと湖を守っているかのように…。


(つづきます)
87 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/22(金) 22:52:18

バタイユは「生の始まり」である≪エロス≫を讃美し、
ブランショは「生の終焉」である≪死≫への鎮魂歌を、作品に織り込みました。

バタイユは「至高」と≪エロス≫と「死」を、ブランショは「至高」と≪沈黙≫と「死」を
求めました。
両者とも「至高」と「死」を希求した作家です。
同じように「至高」と「死」を求めながらも、バタイユのような直截的な表現は
ブランショにはいっさい見られません。
はぐらかし、正体を隠し、仄かな輪郭さえも、わたしたちは最後まで掴むことができません。
また、バタイユも大胆な表現をしながらも、どこか神秘的で謎めいています。

バタイユは「至高」と「死」を希求するにあたり、≪エロス≫を必要としました。
一方、ブランショは「至高」と「死」を希求するにあたり、≪沈黙≫を必要としました。
これが両者の決定的な相違でしょうか。

またその一方で、表現方法がまったく異なりますが、両者とも含羞の作家であると思うのです。
含羞の度が過ぎた結果、大胆な≪エロス≫という開き直りで至高を求めたのがバタイユ。
含羞ゆえに戸惑い、≪沈黙≫のうちにこそ至高性が啓示されると仄めかしたブランショ。
根底にあるものが同じであるがゆえに、この二人の作家は友愛で結びつけられて
いたのではないでしょうか? 誕生と死は表裏一体で深く結びついているのです。


――それでは。
88SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/26(火) 21:29:12
>>83-87(Cucさん)
まずちょっと書いておきたいのですが、
実は文学、思想、芸術の知識はたいへん少ないのです。
あるいは、非常に好みが偏っているのです。
文学も正式に学んだことはなく、趣味の領域を出ていないのです。
ですから、常識的な部分がすっぽりと抜けてたりもするのです。

>――我考う、ゆえに我在らず――、
>トマがホテルの壁に書きつけた言葉です。
その箇所は忘れていましたが、確かにデカルト的コギトの正反対ですね。
ブランショにおいて《考えること》、そして何より《書くこと》は、
「私」という主体を死に結びつけ、非人称的なものにする行為なのでしょう。
(これについて詳しく掘り下げるにはブランショの評論、
特にカフカ論とマラルメ論を参照しなければならないでしょうが。。。)

私という主体が「私」という一人称で書くのはごく自然な行為ではありますが、
「私」と今ここで私が書くとき、その「私」は私とは似ていても異なるのです。
というのも「私」とは存在ではなく、言葉なのですから。
そして「私」は私と類似しながらも私の存在自体を希薄化させ、
私から隔たりながら、「私」は「私」自身に似てゆく。。。
ここには言葉と事物(存在)の関係がかかわってくきます。
(ちょっとややこしくなってきたので、いったん切ります)

「私は考える、ゆえに私は存在しない」
これはまた、ランボオの「私とは他者である(Je est un autre)」を想起させます。
89SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/26(火) 21:41:58
(承前)

ブランショとバタイユを比較しながらの感想を興味深く読みました。
両者の相違点と共通点を見るのも面白いかもしれませんね。
あるいは、相違点と共通点の関係そのものにフォーカスしていくことも。

ブランショにおける友愛の関係とは、おそらく他者との距離を孕むものなのでしょう。
そしてそれは、私たちと言葉との間の関係にもいえるのかもしれません。

それから、クロード・シモンは読まれたでしょうか?
90SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/27(水) 00:36:43
(追記)

ブランショとバタイユとを比較したときの私見ですが、
バタイユのほうに「沈黙」への志向を感じたりもします。
というのも、彼は性的体験や宗教的神秘体験という「体験」を、
言語を超絶するものとして特権化しているためです。
バタイユがいくらエロスや悪を饒舌に描き語ったとしても。。。

一方、ブランショの語り口は饒舌とはほど遠いものですが、
それは言葉の中に沈黙を、沈黙の中に言葉を織り交ぜてゆくものであり、
決してバタイユのように言語以上に体験を特権化することなく、
常に「書くこと」「言葉」をめぐっているように感じます。  〆
91吾輩は名無しである:2005/07/29(金) 12:54:28
あげ
92 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/30(土) 11:29:37
>>88-90 SXY ◆uyLlZvjSXY さん

「もうずっと人大杉」の表示がでていますので、ギコナビを使ってレスしますね。

>(これについて詳しく掘り下げるにはブランショの評論、
>特にカフカ論とマラルメ論を参照しなければならないでしょうが。。。)
実は少し前にブランショの評論、『文学空間』(現代思潮社)を借りたことがありました。
ところが、半分も読めないまま挫折してしまいました……。
ブランショが批評している小説のほとんどが未読であることも理由のひとつですが、
それよりも、とにかく書かれていることがわたしにとって、難解この上ない内容でした。。。
評論や哲学書という類の書物は、わたしにとっては永遠にそびえ立つ難関の書のようです。
この両書を読める人はそれだけで「選ばれた人」なのだなあ、と思いました…。

>「私」と今ここで私が書くとき、その「私」は私とは似ていても異なるのです。
>というのも「私」とは存在ではなく、言葉なのですから。
「書いた私」と「書かれた言葉」は確かに似て非なるものです。「私」と言葉は乖離
していますね。書かれた言葉はあくまでも言葉にすぎず、それは決して「私」ではない
のですから。よく一人称の私小説で作者(書いた私)=主人公(書かれた言葉)ですか?
と読者が質問しますが、重なる部分はあるにしろ決して同じではないのでしょう。

芥川は藤村の私小説(告白小説)『新生』を読んで――『新生』の主人公ほど老獪な
偽善者に出会ったことはなかった――と糾弾しました。
「ボバリー夫人は私だ」とフローベルは言いましたが、真意はともかく、言葉というものは
リルケの言うように――手はおよそ僕の心にない言葉を書き記す――ものであり、
書かれた言葉は「私」ではないのですね。


(つづきます)
93 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/30(土) 11:30:56

>バタイユのほうに「沈黙」への志向を感じたりもします。
>というのも、彼は性的体験や宗教的神秘体験という「体験」を、
>言語を超絶するものとして特権化しているためです。
ああ、思い出しました! 体験とは言葉ではすべて語りえないものである、と以前「体験」に
ついてお話ししたことがありましたね。語りえないもの、それは「神秘」であり「示される」
ものである、と。(すっかり、記憶の彼方に沈んでいました…)

>それは言葉の中に沈黙を、沈黙の中に言葉を織り交ぜてゆくものであり、
>決してバタイユのように言語以上に体験を特権化することなく、
>常に「書くこと」「言葉」をめぐっているように感じます。
沈黙と言葉の相関関係ですね。(相互依存、共存といえるかもしれません)
ブランショは体験よりも両者の相関関係のほうを選んだのはまぎれもない事実ですね。
ちょっと乱暴ですが、例えば小説(ロマン)とはエピソードを組み合わせて創られている
ようなところがあります。登場人物たちが「体験」した出来事が挿話として記されています。
物語(レシ)はそうしたものが削ぎ落とされ、ひたすら「言葉」のみが綴られています。
書きたいことだけを書き、書きたくないこと、書けないことは徹底して沈黙する、
ある意味、思索的で哲学に近いような気がしますが……。


(つづきます)
94 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/30(土) 11:31:51

『アカシア』の感想です。

この小説は作者のこころの赴くままに、それぞれの年代が順不同に綴られているのですね。
ひとたび書き出すと記憶の糸があちこちに飛び、いきあたったところから順序かまわず
書き記したような印象を覚えます。あえて未整理のままの形をとることで、記憶の断片が
よりリアルであることを物語っています。(実際、人の記憶とは整然と秩序立てて語れるもの
ではなく、断片的に蘇るものですから)

主人公の父親と母親、父親の二人の未婚の姉妹たちのふたつの家族の半生を
回想で綴った手記ですね。何篇かの章にはノスタルジーが漂っています。
けれども、ヘッセの『郷愁』のような静謐さはみられません。過剰かつ猥雑です。
大きな比重を占めているのは父と子の二代に渡った戦争体験。
シモンの描く戦争はトルストイの『戦争と平和』のような壮大な叙事詩ではありません。
未婚の二人の叔母たちが弟(主人公の父親)に仕送りするため生活をきりつめて
教師をしながら、寸暇も惜しまず野良仕事をする情景が克明に語られています。
また、彼女らと対照的な主人公の母親の娘時代の階級の隔たりと裕福な暮らし。
弟の結婚式のためにドレスを新調しにいった店で、店の針子が彼女たちのあかぎれ
だらけの手を見てみぬふりをした場面には、せつなくて胸が痛くなりました……。
けれども、作者の視線はどこかあたたかい。。。

各章をそれぞれ独立したものとして読んでも、格別な面白さがあります。
タペストリーのように、部分だけを仔細に見てももそれなりに味わいがありますが、
一枚の構図として全体を眺めると、また違った風合いを帯びてくるような……。


(つづきます)
95 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/30(土) 11:32:47

この小説は、女(二人の姉妹)、男(主人公の父親)、女(主人公の妻)、男(主人公)、
というように女たちの生活と男たちの戦争体験が各章で交互に語られています。
わたしは、二人の姉妹の禁欲的な性格、謹厳実直さや、慎ましい生活ぶりの描写のほうが
こまごまと彩りに富んでいて興味深く読めました。
主人公と彼の父親の戦争体験の描写は、横殴りの雨や、炸裂する銃の音、舞い上がる砂塵、
血糊のべったりついた軍服などの描写があまりにもリアルでした。

殺伐とした戦場とはまったく対照的な、瑞々しい自然描写には目を見張りました!
――小鳥のさえずりも、透明な大気のなかでそよぐかすかな葉ずれの音も聞こえず、
牧草地に散在する花も、生垣の若芽が朝の微風にかすかに揺れるのも見えず――(p88)
――いいお天気で、すでに大きくなり、みずみずしい緑やエメラルド・グリーンや
レモン・イエロー色にきらきら光っている木の葉のあいだで陽光がたわむれている――(p251)

クロード・シモンは自然を観察する目がかなりこまやかな人であり、絵を描いた人でも
ある、と訳者あとがきで知り納得しました。
主人公は『人間喜劇』を読み耽るようになり、アカシアの葉が風に揺れているところで
この小説は終わりを告げます。訳者によればアカシアの葉がペン先の形をしており、彼が
書くことを暗示している、とあります。この伏線として本文に以下の一文がありますね。

――あとになってはじめてで、彼が正常な人間、つまり、話し言葉になんらかの力、
物語ること、言葉を使っていわく言いがたいものを現出させようとすることに、他人にとっても
自分にとってもなんらかの利害があると考える(というか想像する)ことができる人間に
もどったときのことで――(p340)


(つづきます)
96 ◆Fafd1c3Cuc :2005/07/30(土) 11:33:28

戦争というものは、まさしく人間から言葉を奪うものなのですね……。
主人公は戦争以来、言葉で何かを表現することを奪われ、新聞も読まず茫然自失の
日々を送っていたある日、偶然古書店で『人間喜劇』を手にし、少しずつ活字の世界に
目覚めてゆきます。この場面は短く淡々と描かれていますが、この小説の鍵ともなるべき
大変重要な場面です。

春という復活と再生の季節、黄昏の光のなか、近い将来言葉が書き込まれるで
あろうことを予感させる真っ白に輝く紙、そしてアカシアのペンの形……。
古い季節(戦争体験)は終わり、言葉を再び獲得した彼はこの瞬間から書き始めるのですね。
彼にとって言葉とはもう一度生き直すための、最後の砦なのですから…。

シモンの文章の並外れた過剰さはどこからくるものなのでしょうか?
戦争体験、脱走というつねに何かに急き立てられる切迫感や追い立てられる強迫観念、
こうした実体験を抜きにしては考えられないのでしょう。
この瞬間に湧きあがる言葉すべてを書き留めておかねばならない、それも今すぐに!
なぜなら、戦場では明日の命があるとは誰も保証してくれないのですから……。

言葉を徹底して削ぎ落としていく人と、過剰な装飾をする人と、作家には二種類の人がいます。
シモンはまぎれもなく後者ですね。書くことが枝の先までびっしりと葉をつけた瑞々しいアカシアに
象徴されるように、彼にとって言葉とは切り落とすものではなく、新芽がどんどん出てくるように、
伸びゆく若葉の勢いを止められないように、際限なくあふれてくるものをすべて書き記すこと
なのでしょう。豊穣に生い茂る夏草の逞しい生命力、それが彼のとらえた言葉なのですね。

アカシアよりも、密林に旺盛に繁殖する熱帯植物のほうがふさわしいような気もしましたが…。


――それでは。
97SXY:2005/07/31(日) 23:55:17
最近うまくかきこめないですね。
98SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/31(日) 23:57:26
92-96(Cucさん)
>少し前にブランショの評論、『文学空間』(現代思潮社)を借りたことがありました。
『文学空間』は確かに難解な書ですね。
わたしも充分に理解を深めるためには再読の必要があるのですが、
オルフェウス/エウリディケーとオデュッセウス/セイレーンの神話を取り上げ、
(カミュの場合はシーシュポスでしたが)
見ること、聞くこと、という基本的な人間の営為を通して、
書くこと=文学というものの本質を抉ろうとするのは魅力的です。

>物語(レシ)はそうしたものが削ぎ落とされ、ひたすら「言葉」のみが綴られています。
>書きたいことだけを書き、書きたくないこと、書けないことは徹底して沈黙する、
>ある意味、思索的で哲学に近いような気がしますが……。
そうですね。ブランショのレシには余計なものが削ぎ落とされて、
あたかも《書くこと》そのものを読者に読ませるようなところがあります。
99SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/08/01(月) 00:00:16
(承前)

『アカシア』の感想拝読しました。

>けれども、作者の視線はどこかあたたかい。。。
クロード・シモンの作品は、洗練されていると思いますが、
一方で、繊細で濃密な自然描写などを通して、
温かさや情熱を確かに感じます。

>わたしは、二人の姉妹の禁欲的な性格、謹厳実直さや、慎ましい生活ぶりの
>描写のほうがこまごまと彩りに富んでいて興味深く読めました。
なるほど。細やかな感覚を持っている人は関心を寄せる場所も違ってくるんですね。
当方はアバウトな性格なので。。。
100SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/08/01(月) 00:01:57
(承前)

>訳者によればアカシアの葉がペン先の形をしており、
>彼が書くことを暗示している、とあります。
ラストは、プルーストの『失われた時を求めて』を想起させます。

>シモンの文章の並外れた過剰さはどこからくるものなのでしょうか?
>戦争体験、脱走というつねに何かに急き立てられる切迫感や追い立てられる強迫観念、
>こうした実体験を抜きにしては考えられないのでしょう。
人は瀬死の状態になると、様々な記憶があふれ出し、走馬灯のように蘇える、
ということがよくいわれますが、そうした記憶の洪水の感覚に近いものを
戦争体験という記憶自体が引き連れているのかもしれず、
シモンの思考と筆に切迫感と過剰さを与えているような気がします。  〆
101 ◆Fafd1c3Cuc :2005/08/03(水) 21:49:12
>>97-100  SXY ◆uyLlZvjSXY さん

>見ること、聞くこと、という基本的な人間の営為を通して、
>書くこと=文学というものの本質を抉ろうとするのは魅力的です。
やはり、すでに読んでいらしたのですね! ブランショの評論は(小説もですが)難解で
一読しただけではなかなか理解できませんね…。
読解力、思考力を鍛えるための書のような気もします。
見る、聞く、書く、語る、言葉はさまざまな表現手段を有しており、そのなかでも「書く」ことに
文学の本質はありますが、ブランショほど「書く」過程、「書かれる」経緯に情熱を
傾けた作家もいないのではないでしょうか。

>当方はアバウトな性格なので。。。
わたしもかなりアバウトな性格です。
興味のあるものには熱が上がって夢中になりますが、そうでないものにはまるで無関心です。
ほどよい中間、中庸という部分がすっぽり抜けています。。。

>ラストは、プルーストの『失われた時を求めて』を想起させます。
未読ですのでいつか読もうと思いつつも、あのとてつもない長さに怯んでしまい、
現在に至ります……。


(つづきます)
102 ◆Fafd1c3Cuc :2005/08/03(水) 21:50:11

『フランドルへの道』の感想を記します。

霖雨の夜に果てしなく語られる物語ですね。(句読点なし、改行なし、長い一文で延々と…)
語り部はジョルジュであったり、彼の父であったり、イグレジアであったり、自在に
変わります。語り主が一文のなかで容易に入れ替わるのでかなり戸惑いました。。。
長雨の夜、雨音=馬の蹄の音であり、語り部たちの回想は戦争体験へと入り込んで
ゆきます。

戦争体験と女たちとの情事のエピソードがひとつの文章の中に並列して同時に語られて
います。時間と空間を無視し、縦横無尽に無秩序に語る手法は『アカシア』同様、ここでも
健在です。

大尉の妻コリンヌという女性は、イグレジアによれば驕慢で奔放で低俗の極みですが、
ジョルジュに語らせると上流社会にふさわしい優雅な貴婦人、ということになります。
イグレジアの一時の情事の相手として貶められつつ語られるコリンヌは、放埓で滑稽味もあり、
なかなか楽しませてくれます。
――年齢を超越した女(略)、あらゆる女たちを総和したみたいな女(略)、
「このあばずれあまめ! 売女め!」――(p137)
一方、ジョルジュによって回想される彼女は永遠の女性のイメージです。
――その世界では彼女(コリンヌ)もその重々しい香水の匂いにもかかわらず(略)
やはり非現実的な、信じられないような存在に見え――(p221)

語る人によって事実がまったく異なる、まるで芥川の『藪の中』のようですね……。
けれども、イマージュというものは当人の主観によるものですから異なって当然なのでしょう。
まして、回想という過去の時間の寄木細工の中では何が事実であるのか判定し難いのですね。


(つづきます)
103 ◆Fafd1c3Cuc :2005/08/03(水) 21:51:05

『アカシア』もそうでしたが、ここでも階級の差が語られています。
無学な農民の息子であるジョルジュの父は、彼に有名な高等師範学校を受験させたがり、
教養をつけさせたかったのですね。下層の人間が出世するには、学問を身につけるか、
戦場で手柄をたてるかしか術がない。。。

哲学者ならどんなふうに考えたろう? という語句が『アカシア』でもこの作品でも兵士の口
からしばしば発せられます。思索すること、思考を極めること――哲学はシモンにとって
憧れであると同時に劣等感の裏返しの学問だったのでしょうか……?

戦場で繰り返される殺戮のなかに、今回も挿話のように牧場の干し草の匂いや、
マロニエの花の描写が書き込まれていますね。
――マロニエの木はこの季節には花が咲いているから、薄明のなかでその無数の白い
房がちょうどほのかに燐光を放つ枝つき初燭台みたいで、だんだん青みを深くしてゆく
濃い影がいまは彼らの上に降りてき(略)、夕べのそよ風に吹き飛ばされないように(p227)、
おなじ平和ななまあたたかい五月のたそがれ、その青くさい草の匂いと家々の果樹園や庭に
おりはじめた青みがかったかすかな湿気があるだけだから――(p229)
戦士の休息ならぬ筆者の筆休め(?)として、とても好きな箇所です。
ヘッセの佳品『乾草の月』の庭園の美しい夕暮れの情景をほうふつとさせます…。

老馬が雨のなかで死にゆく場面がありましたね。
老いさらばえた身でありながら戦場に駆り出され、酷使され、衰弱して静かに死んでいく…、
敵兵たちは車で悠々と移動しているのに、ジョルジュたちは老馬でとぼとぼと…、この差!
馬は果樹園の木の根元に埋葬され、盛り上がった馬の墓所に雨は静かに降りつづけます。
若い兵士の戦死も老馬の死も、命あるものの鎮魂歌としてここでは同列に語られています。


(つづきます)
104 ◆Fafd1c3Cuc :2005/08/03(水) 21:51:47

――なぜなら死とはたぶん純粋に動いているかいないかの問題かもしれないからで、
動かなくなればまたもとのいくばくかの白亜、砂、泥にかえるだけなのだろう――(p226)
戦場での死は、かくも簡単に語られます。それがどのような壮絶な最期であろうとも。

若い兵士たちにとって「生」とはまさに「性」であり、死の恐怖から逃れるように女を求め、
貪るように濃密な「性」を味わいます。ほとばしる「性」への欲望は忍び寄る「死」への
抵抗でしょうか。戦場では死の恐怖は連綿と続くのに、快楽は非連続的で断片でしかなく、
つかの間に消えてしまうとは、いかなる神の采配なのでしょう。

起承転結が物語の基本であるならば、シモンの作品は著しく逸脱していることになります。
時間も空間も人物の繋がりも読者には明示されず、混乱をきたすような手法です。
けれども、戦争とは法や秩序を無視したものなのではないでしょうか。
そこにあるのは、生きるか死ぬか(殺すか殺されるか)、しかありません。
無秩序な戦争という体験を語る上では、あえてこのような手法のほうがふさわしいと
いえるのかもしれません。
そして、その語り部の語り口とは、作中の作者の言葉を引用するならば
――その声、それらの言葉は(略)、はるか昔から行軍をつづけるかのような馬たちの、
ながい行列が延々とつづいている(略)、彼の父が決して話しやめるということをせず(略)、
老人がからの肘掛け椅子に向かってなおもしゃべりつづける――(p32)
冗長なおしゃべりは、嘲笑よりもむしろある種の憐れみを誘うかのようです……。

――それでは。
105SXY:2005/08/11(木) 20:49:27
人大杉がながいですね
106SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/08/11(木) 21:10:52
>>101-104(Cucさん)

このところ仕事が忙しくなってしまって
ごく簡単な書き込みになりますがご容赦ください。

>ブランショほど「書く」過程、「書かれる」経緯に
>情熱を傾けた作家もいないのではないでしょうか。
そうだと思います。
「書く」ということを、深く鋭く意識し思考しただけでなく、
そのことをレシなどの作品において感じとらせる作家ですね。
107SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/08/11(木) 21:16:37
(承前)

『フランドルへの道』の感想を拝読しました。

>時間と空間を無視し、縦横無尽に無秩序に語る手法は『アカシア』同様、
>ここでも健在です。
その縦横無尽さが心地よくも感じられるのは、
私たちの思考自体にそうした自由さがあるためでしょう。

>戦場で繰り返される殺戮のなかに、今回も挿話のように牧場の干し草の匂いや、
>マロニエの花の描写が書き込まれていますね。
クロード・シモンの自然描写は非常に濃密ですね。
それがまた戦争体験の描写にも効果的につながり、
相乗効果を与えている気がします。
大岡昇平もまた、自然と戦争を効果的に同時に描いた作家ですが、
人は死を意識するとき、自然に対する感覚も研ぎ澄まされるのかな、
と思いました。雨のなかで死にゆく老馬の場面などもそうですね。
108SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/08/11(木) 21:23:22
閑話休題。Cucさんは遠藤周作に言及されてたことがありましたが、
キリスト教に対する関心があるのかなあと感じていました。

実は最近クリスチャンである椎名麟三を少し読んだので、
ふとそんなことが頭をよぎりました。

ではまた。  〆
109 ◆Fafd1c3Cuc :2005/08/15(月) 01:19:34
>>105-108 SXY ◆uyLlZvjSXY さん

>このところ仕事が忙しくなってしまって
>ごく簡単な書き込みになりますがご容赦ください。

どうぞ、SXYさんのペースでゆったりと書き込んで
いただければと思います。
ここは「各駅停車」で旅する列車です。急ぐ旅ではありませんので。
実はわたしも八月に入ってから、お盆休み前にやらなければならない
ことがたくさんあり、何かとバタバタしていました。
 今、お盆休みでようやくひと息ついています。

>「書く」ということを、深く鋭く意識し思考しただけでなく、
>そのことをレシなどの作品において感じとらせる作家ですね。
ブランショを読んで初めてレシというジャンルがあることを知りました。
そして、「書くこと」その行為を作品に織り込む作家がいることも。
う〜ん、世界は未知なるもので満ちていますね……。
未読の作品を一冊読むたびに、新鮮な驚きが増えてゆきます。
このドキドキ感、わくわく感がわたしは大好きです。


(つづきます)
110 ◆Fafd1c3Cuc :2005/08/15(月) 01:20:51

>その縦横無尽さが心地よくも感じられるのは、
>私たちの思考自体にそうした自由さがあるためでしょう。
そうですね。中には不快に思う人や、怒りを感じる人もいるのでしょうね。
シモンの野放図な自由さは、実はわたしたちが誰もが憧れているもので
あるかと思うのですね。
では、わたしたちはこの不自由さを嫌悪しているかというとそうでもなく、
少なからず歓迎している部分があるのも事実です。
(何をしてもいい自由が与えられると、人は困惑してしまうのですね。
人が欲する自由とは、どうやら枠の中での自由のようです。。。)

シモンの縦横無尽さを心地よく感じられる人は自分のなかにも同じものを
見出し、共鳴できることが嬉しいと思える人なのだと思います。
並外れた思考や行動にエールを贈ることができる人。
それは、ひとことでいえばこころの柔軟性によるものなのでしょうね。

>クロード・シモンの自然描写は非常に濃密ですね。
>それがまた戦争体験の描写にも効果的につながり、
>相乗効果を与えている気がします。
血の色と青い空の色、木漏れ陽と銃の乱反射の光、干し草の匂いと硝煙の匂い、
戦場に降る雨と肥沃な大地を潤す雨…。対比が実に鮮やかですよね。
言葉を持たない自然界の被造物たちの、殺戮を繰り返す人間たちへの無言の
怒りと諌めと許しが描かれているように思えました。。。


(つづきます)
111 ◆Fafd1c3Cuc :2005/08/15(月) 01:22:07

>大岡昇平もまた、自然と戦争を効果的に同時に描いた作家ですが、
大岡氏は戦争体験を描いた『俘虜記』『野火』が有名ですが未読です。
それにしても実に幅広いジャンルの作品をお読みですね!

>人は死を意識するとき、自然に対する感覚も研ぎ澄まされるのかな、
>と思いました。
確かにその通りですね。死を宣告された瞬間や死を余儀なくされたとき、
人は自分を取り巻く自然に目を向けます。そして、自然の見事さに打たれ、
厳かな気持ちになります。生かされてあること、命あることの尊さを初めて
知らされるのですね。自分がこの世界からいなくなっても空は青く澄み渡り、
四季は巡り、星は輝き続けます。そのことを悟ったとき、誰もが謙虚になり
ます。自らも被造物のひとつにすぎないのだ、と……。

>キリスト教に対する関心があるのかなあと感じていました。
宗教画を初め、文学、哲学、音楽、映画、、、西洋の芸術や学問のなかで
キリスト教の占める分野はとても大きいですね。
わたしが惹かれるのはキリスト教の教義というよりも、「祈り」と「受容」
についてですね。救済についてはよくわからないのですが……。


(つづきます)
112 ◆Fafd1c3Cuc :2005/08/15(月) 01:23:15

自殺した芥川龍之介の枕元には聖書が置いてあったそうです。
彼にとって聖書は救済にはならなかった、彼は聖書をこよなく愛読した
けれども、それは「文学」としてのみ読まれたと知りました。

わたしはミレーの「晩鐘」がとても好きです。一日の労働を終えた農夫が
つつましく「祈り」を捧げている姿に惹かれます。
今日一日を感謝し、明日の無事を祈る姿に、人生に対する静かな「受容」
を見るのです。ミレーの絵は人間を美化しすぎている、という批判も目に
したことがあります。確かにそうなのでしょう。感謝や受容どころか、
不満、怒り、失望、を日々膨らませ、抱えているのが人間なのですから。

「祈り」が神との対話であるのなら、そうした諸々の感情も含めてすべて
を捧げ、時には文句を言うことも含まれているのではないでしょうか。
そして、どのような対話の内容であれ祈るときに人は頭を垂れ、跪くのですね。
わたしは祈るときの人の姿に謙虚なものを見るのです。

祈りがなければ受容の瞬間も訪れないのではないのではないでしょうか。
啓示がどのようになされるのか、わたしにはわかりません。。。
ただ、ひとつだけ言えることは、祈りも受容も啓示も神に対してこころが
開いている状態でなければならないということです。


(つづきます)
113 ◆Fafd1c3Cuc :2005/08/15(月) 01:24:37

>実は最近クリスチャンである椎名麟三を少し読んだので、
>ふとそんなことが頭をよぎりました。
『美しい女』をかつて読んだことがありました。(以下、うろ覚えですが…)
美しい女の姿も形も具体的には何ひとつわからないけれども、明るい
眩しい自由な光として存在する女。
当時は椎名氏がキリスト者とは知らずに読了し、解説で初めて知りました。
同僚に嘲笑されても私の全存在を肯定し、悪所に通う私に微笑みかけて
くれる美しい女。評論家たちの指摘するように美しい女が氏の信仰を
指すものなのか、未だにわからないのです。

人はどんなに荒んだ暮らしをしていても、こころの奥深くに誰もが「聖域」
を持っています。そこは清らかな光があふれ、限りない慰めが与えられる
無垢な場所。それを信仰と呼ぶのであればすべての人が信仰者です。
但し、何にも帰属しない、教義のない信仰です。
自らの聖域においては「祈り」は必要ありません。
なぜなら、祈りとは大いなるものの前に跪き、対話することですから。

信仰とは理解でも納得でもなく、まさに啓示なのではないでしょうか。
椎名氏が「美しい女」が具体的に何を示すのか、あえて口を閉ざしたのは
「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という、
表現者としての慎みからくるものなのかもしれません。。。


??それでは。
114 ◆Fafd1c3Cuc :2005/08/15(月) 15:25:47
(追 記)

椎名氏の抱いている信仰が「明るく眩しい光」であるならば、それは何と
清冽な強い真昼の光であることでしょう。
氏の思想遍歴が共産主義運動→キリスト教であることを鑑みれば、なるほど
と思います。。。

わたしが思い描く信仰の光とは、真昼の強烈な光ではありません。
黄昏の穏やかな光、一日を終えた人々の背中をそっと包み込む夕暮れの淡い
あたたかな光です。そこにあるのは悲哀に沈む人々の神への素朴な問いかけ
であり、自分に注がれる神のまなざしとの真摯な対話です。

――電話もない、電気もない砂漠にいると祈りがいかに偉大な力を発揮する
かがわかる。膨大な時空を超えてひとりの人間の愛を伝えるには、祈りしか
ないのだ――
曽野綾子さんの言葉です。


いつもはWindowsを使っているのですが、初めて借りたMacを使ったら
文字化けしてしまいました。→(??それでは。)


――それでは。
115SXY:2005/08/22(月) 00:31:27
とてもすばらしいレスです。また、お気遣いどうもありがとう。
116SXY:2005/08/22(月) 00:51:09
Cucさんへ(109-114)
>いつもはWindowsを使っているのですが、
>初めて借りたMacを使ったら文字化けしてしまいました。
わたしはいつもWinを使い、IEで書き込んでいます。
専用ブラウザを使うともっと便利なのでしょうか。。。

>大岡氏は戦争体験を描いた『俘虜記』『野火』が有名ですが未読です。
十代で大岡昇平の『野火』を読んだときは衝撃を受けました。
『俘虜記』もそうですが、意識が朦朧とするような状況においてさえ、
その朦朧とするさまを明晰に捉えようとするような姿勢がすごいと思いましたね。
大岡昇平は島尾敏雄とともに、戦争体験を描いた作家のなかで、
というよりも、日本の作家のなかで、忘れることのできない名前だと思います。
117SXY:2005/08/22(月) 01:10:42
(承前)

>宗教画を初め、文学、哲学、音楽、映画、、、西洋の芸術や学問のなかで
>キリスト教の占める分野はとても大きいですね。
>わたしが惹かれるのはキリスト教の教義というよりも、「祈り」と「受容」
>についてですね。救済についてはよくわからないのですが……。

大江健三郎も特定の宗教によらない「祈り」をテーマにしていますね。
西洋の思想や芸術は確かにユダヤ教・キリスト教抜きでは語れませんが、
「神」という概念をどう考えていいのか、まだよくわからないのです。。。
ただ、わたしが惹かれる椎名麟三や島尾敏雄がクリスチャンになったことや、
レヴィナスという思想家が「神」という概念を保持し続けたことなどがあり、
これから考えていかなければならないだろうな、と思っています。
118SXY:2005/08/22(月) 01:11:15
(承前)

>人はどんなに荒んだ暮らしをしていても、こころの奥深くに誰もが「聖域」
>を持っています。そこは清らかな光があふれ、限りない慰めが与えられる
>無垢な場所。それを信仰と呼ぶのであればすべての人が信仰者です。
>但し、何にも帰属しない、教義のない信仰です。
>自らの聖域においては「祈り」は必要ありません。
>なぜなら、祈りとは大いなるものの前に跪き、対話することですから。

おそらくは、無信仰者であるわたしにも何らかの「聖域」はあるのでしょう。
宇宙や自然の神秘の前に謙虚になることもあるのでしょう。
しかし、バタイユがいうように、神の存在は神という概念を超えているのならば、
(ここでレヴィナスのいう「無限」という概念も通底してくるのですが)
人間の言葉は神に届かず、神を表現することもできないわけであり、
神を神と名づけることさえも、神への裏切りを孕んでしまう面があります。
神を考えるときには、言葉についても考えないわけにはいかなくなってしまうのです。 〆
119 ◆Fafd1c3Cuc :2005/08/25(木) 20:17:12
>>115-118  SXYさん

>とてもすばらしいレスです。
ありがとうございます。うれしいです!

>わたしはいつもWinを使い、IEで書き込んでいます。
>専用ブラウザを使うともっと便利なのでしょうか。。。
わたしも同じです。WindowsでIEを使っています。このところ、文学板人口が
増えたのでしょうか。ずっと「人大杉」になっていますね。。。
それで前々回からギコナビを使ってみました。ギコナビは画面が簡素な感じですね。

>十代で大岡昇平の『野火』を読んだときは衝撃を受けました。
十代ですでに『野火』を読まれていたのですね。
やはり当時から文学青年(少年)でいらしたのですね!
わたしは、当時は学校推薦図書っぽいものばかりでした。芥川、太宰、漱石、堀辰雄、など。
あと、少女小説の類のもの、モンゴメリ、オールコット、などですね。。。
想像力豊かなアンや、本を読むのが大好きなジョーに夢中になりました。
(そういえば、この二人の少女は長じて作家になる設定でした。)

>『俘虜記』もそうですが、意識が朦朧とするような状況においてさえ、
>その朦朧とするさまを明晰に捉えようとするような姿勢がすごいと思いましたね。
極限状態にある人間が次第に薄れつつある意識と闘いながら、それでも尚、理性に
訴えかけ、明確に表現しようとする姿勢はまさに表現者の神髄を見るような思いがしますね。
本来なら意識が遠のくままに任せたほうが、遥かに楽なのに、あえてその状態を言葉で
捉えようとする、そう、文士とはかくあるべし、、、


(つづきます)
120 ◆Fafd1c3Cuc :2005/08/25(木) 20:18:17

>大江健三郎も特定の宗教によらない「祈り」をテーマにしていますね。

作品すべてを読んでいるわけではないのですが、『雨の木を聴く女たち』は雨の木を
題材にした短編集でした。(おぼろげな記憶を頼りに以下、感想です…)

雨の木の下に集うさまざまな人間たち。悲惨さや、怒りや、絶望を抱えて、ある者は死を選び、
ある者は何とか生きていこうとそれぞれの道を選びます。
雨の木は人間に特別な何かをもたらしてくれるわけではありません。
真夜中の驟雨を葉に宿らせ、翌日の昼までその滴をしたたらせているだけです。
人々はその木を見てさまざまな思索に耽ったり、暑さの一時凌ぎのささやかな喜びに浸ります。
葉から雨滴を受ける人の姿はカトリックの聖体拝領を想起させます。
雨の木とは自然界の大いなるものの象徴であり、人が生きていく上で希求し渇望せずには
いられない核となる何かの比喩なのでしょうか……?
枝の先までびっしり雨滴を滴らせた雨の木の佇まいは、ある時は外敵から守るが如く雄々しく
そびえ立ち、また別の時にはやさしく憩わすオアシスであり、さながら神の手を思わせるのです。

>西洋の思想や芸術は確かにユダヤ教・キリスト教抜きでは語れませんが、
>「神」という概念をどう考えていいのか、まだよくわからないのです。。。
確かにこれはとても難しい問題だと思います…。
西洋の人たちは生まれたときに幼児洗礼を受け、日曜学校や教会へ通います。
また、先祖代々の時代から家族で信仰を守っています。歴史があるのですね。
仮にわたしたちが信仰に興味を持ったとしても、中途参入のような付け焼刃になりがちです。
風土そのものが信仰に馴染んでいる民族とでは、信仰の質が異なるような気がします…。


(つづきます)
121 ◆Fafd1c3Cuc :2005/08/25(木) 20:19:32

わたしもキリスト教の信仰については、文学作品や絵画で惹かれた程度にすぎないので、
実際のところ、よく把握できていないのですね。。。

>しかし、バタイユがいうように、神の存在は神という概念を超えているのならば、
>(ここでレヴィナスのいう「無限」という概念も通底してくるのですが)
バタイユはいわゆる神を超越した、言葉にできない存在を捉えていたように思えます。
それは超宗教とでもいいますか、彼にとって教義とは侵犯するためのもののような……。

>人間の言葉は神に届かず、神を表現することもできないわけであり、
>神を神と名づけることさえも、神への裏切りを孕んでしまう面があります。
わたしたちが表現する神は、人間が作り出した神であり、人間の言葉が届く神、ですね。。。
本来神とは畏怖すべき神秘的な存在であり、啓示だけの存在でなければならないので
しょう。容易に語り合えたりできる存在ではない、と。
そこで、神と人間との仲介者として人の子であるイエスが登場してくるわけですが。
(彼は神を、アッバ・父よ、と呼びかけました…)
それまで旧約の世界では神と語らえる人は預言者のみ、とされていたのが、
イエスが登場したことで、イエスの名によって預言者ではない人たちも語り得ることが
できるようになったのではないでしょうか。


(つづきます)
122 ◆Fafd1c3Cuc :2005/08/25(木) 20:20:12

――みんながめいめい自分の神さまがほんとうの神さまだというだろう、
けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。
それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。
そして勝負がつかないだろう。けれども、もしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんと
ほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、
もう信仰も化学と同じようになる――『銀河鉄道の夜』 宮沢賢治

方法論さえつかめれば、化学の実験のように信仰の真偽が極められるのでしょうか?
盲目的に信ずることは美しいとは思いますが、狂信となると危ないですし、かと言って実験で
極められるというのも疑問が残りますね…。

>神を考えるときには、言葉についても考えないわけにはいかなくなってしまうのです。
――初めにみ言葉があった。み言葉は神とともにあった――
神=言葉であるならば、では神の言葉をはたして人間が聞くことができるのか、ですよね。
おそらくは明確な言葉というよりも暗示、仄めかしのようなものではないかと思うのですが、
こればかりはわかりませんね……。
(既出ですが、アシジの聖フランシスコは病床でヒバリの声を聞き、信仰に目覚めました。
ヒバリの声は彼にとって神の言葉<啓示>だったのでしょう…)
また、椎名氏にとっては「明るく眩しい光」であり、遠藤周作氏にとっては「永遠の同伴者」を
示すものでした。神の言葉とはこのように言葉そのものではなく、ほかの形で啓示される
ようですね。それは<メッセージ>であり、最終的には言葉へ導かれるのでしょうが。。。


(つづきます)
123 ◆Fafd1c3Cuc :2005/08/25(木) 20:20:53

祈りは原始共同体では「豊穣祈願」であり、天変地異(神の怒り)を鎮めてもらうための
「執り成し」であり、また、個々人の願望を叶えて欲しいときの伝達の手段でありました。
そして、もうひとつ「対話」があります。

人間に言葉が与えられた以上、誰もが対話を欲します。
誰かと話したい、これは人間の本能でしょう。誰かとは人間である場合もありますが、
極限状態に陥った時は、人間以外の超越者である場合もあるのでしょう。
その際に交される対話とは言葉でありながら、言葉を超えたものなのかもしれません。
ひとつだけはっきりしていることは、こちらから呼びかけない限り、あるいは自らが呼びかけに
応じない限り、対話は成り立たないということです。祈りとは最も純粋かつ素朴で真摯な
呼びかけであり、その呼びかけとは「命懸けの跳躍」でなければならないのですね。

――夜になると、私は一人で大地にうずくまり、星と砂だけの空間にとり残される。
しかし人間である以上、私はいつも誰かと語りたいのだ。
 その時、私は誰と語ったらいいだろう。愛する者は常にその人の心の中にいるというが、
しかし、現実にその人は、数百、数千キロのかなたにいる。
ここでも語り合える合える人はいないのだろうか。
 その時、人々は砂漠に神を感じるのであった。神は遍在するから、数千キロの空間の
へだたりを飛び越えて、すぐ傍らにいてくれるように感じられるのであった。
ここでは実在感のある「人」は神しかなかった――『砂漠・この神の土地』 曽野綾子

砂漠は曽野さんにとって、神との濃密な語らいの場所であり、神の<メッセージ>を
運ぶ聖地なのでしょう……。


――それでは。
124 ◆Fafd1c3Cuc :2005/08/27(土) 14:14:18

<メッセージ>といえば、松任谷由実さんが荒井由実時代に
作られた曲、「やさしさに包まれたなら」が好きです。


〜「やさしさに包まれたなら」〜   荒井由実

小さい頃は神さまがいて
不思議に夢をかなえてくれた
やさしい気持ちで目覚めた朝は
おとなになっても 奇蹟はおこるよ
カーテンを開いて 静かな木漏れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ

小さい頃は神さまがいて
毎日愛を届けてくれた
心の奥にしまい忘れた
大切な箱 ひらくときは今
雨上がりの庭で くちなしの香りの
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ


――夏の終わりの休日の午後、「やさしさに包まれたなら」を聴きながら――
125SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/08/30(火) 22:52:16
>>119-124(Cucさんへ)

いつものことではあるのですが、Cucさんのレスを読むと心が洗われます。

Cucさんの読書というのは生きることにダイレクトに結びついていますね。
当方の場合の読書は、この世界から遊離した、とはいわないまでも、
今ここで生きるということからは、ワンクッション置いたような感じで、
Cucさんのようにはしっかりと地に足がついていないように思います。

>想像力豊かなアンや、本を読むのが大好きなジョーに夢中になりました。
赤毛のアンは当方もかつて(小学校かな?)夢中で読みましたよ。
グリーンゲイブルス(でしたっけ?)、あの輝きに満ちた世界は忘れがたく――。
散歩道などに命名することで世界に息吹を与えるアンの魔法で
自然=世界と人間との幸福な交歓が果たされてますね。
都会が舞台では不可能でしょうかねぇ。。。
126SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/08/30(火) 22:54:28
(承前)

>雨の木とは自然界の大いなるものの象徴であり、人が生きていく上で希求し
>渇望せずには いられない核となる何かの比喩なのでしょうか……?
『雨の木を聴く女たち』を読まれていましたか。
大江作品もまた、生きることに強く結びついているので、
きっと読まれているのではないか、と思っていました。
フォークナー同様に、ある特定の場所を舞台にサーガを書き続けた大江ですが、
(また「路地」を舞台に数多くの作品を書いた中上健次もそうでした)
『万延元年のフットボール』『洪水は我が魂に及び』などを読むと、
フォークナーに見られるいくつかの特徴(性、暴力、聖など)を媒介に、
大いなるもの、宇宙的なものをとらえようとする姿勢が感じられます。
といっても、わたしはあまりいい大江読者ではないような気も。。。
127SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/08/30(火) 22:55:42
(承前)

>イエスが登場したことで、イエスの名によって預言者ではない人たちも語り得ることが
>できるようになったのではないでしょうか。
メディア=媒介者が必要とされるわけですね。
そして、人間の言葉もまた、神の言葉のメディアとなりうるのでしょうか。
アシジの聖者にとってはそれがヒバリの声だったわけですね。
見えず聴こえないものを感じることが啓示だとすれば、
見えず聴こえないものは、たとえば電気のようなものに喩えられるでしょうか。
コンセントやコードなどのメディア=媒介によって電気は光となり音となる。。。

>盲目的に信ずることは美しいとは思いますが、狂信となると危ないですし、
>かと言って実験で極められるというのも疑問が残りますね…。
素朴さや純粋さと狂信や盲信との差は紙一重もないかもしれないですね。
しかしながら、盲目とは異なる純粋さが必要なのかもしれないとは感じます。
宮沢賢治にはそうした純粋さがきっとあったのでしょう。
精神の純粋な状態(電気を通しやすくすること)が、啓示を受けやすくする。。。
逆に疑いなどのノイズは電気を通しにくくするのかもしれません。。。
128SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/08/30(火) 23:01:40
(承前)

>また、椎名氏にとっては「明るく眩しい光」であり、遠藤周作氏にとっては「永遠の同伴者」を
>示すものでした。神の言葉とはこのように言葉そのものではなく、ほかの形で啓示される
>ようですね。それは<メッセージ>であり、最終的には言葉へ導かれるのでしょうが。。。
椎名麟三はドストエフスキーを読み、ニーチェを読んだ後で入信していますが、
「神は死んだ」と宣言した反クリストのニーチェを経由しているだけあって、
その信仰というのは少し複雑なスタイルをとってます。
彼にとっての電気=神は、「自由」や「美しい女」として表現されますが、
彼はそれが不可能なものである事を承知した上で、強く求めているかのようです。
その姿勢にあるのは、盲目でも純粋でもなく、うまく表現できないのですが、
“不可能ゆえに我求む”みたいなある種の逆説性を感じるとともに、
“真摯なやけっぱち”とでも呼んでいいような喜劇性もまた感じる面があります。
希望のなさを、それゆえにこそ情熱的になれるとでもいわんばかりに、
悲劇的な状況を喜劇的に生きる“真摯なやけっぱち”。
「神の道化師」ということを意識しているのですね。
(キルケゴールにとって、逆説はつまづきでしたが。。。)
129SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/08/30(火) 23:07:43
(承前)

>ひとつだけはっきりしていることは、こちらから呼びかけない限り、あるいは自らが呼びかけに
>応じない限り、対話は成り立たないということです。祈りとは最も純粋かつ素朴で真摯な
>呼びかけであり、その呼びかけとは「命懸けの跳躍」でなければならないのですね。
無信仰者といえるわたしもまた、「対話」を欲していることになるのでしょう。
それが特定の人間であるときもあれば、もっと大いなる存在であることもあるのでしょう。
わたしもまた《呼びかけ》をしているのでしょうが、
それは、常に既に呼びかけられているためであり、
《メッセージ》を受けているためなのかもしれませんね。。。
曽野綾子が神の<メッセージ>を砂漠で感じたとのことですが、
ここでユダヤ人エドモン・ジャベスを思い起こしました。
彼こそは「砂漠」の、そして「対話」の思想家でしたから。

そしてバタイユにとって、電気=メッセージ=神とは、
耐えがたいほどの非常に強烈な電気、
もしそれに触れれば、感電させられるほどの電気でしょうか。
直視できない太陽。。。 〆
130 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/03(土) 20:35:23
>>125-129  SXY ◆uyLlZvjSXY さん

大変濃厚かつ深い示唆に富んだレスをありがとうございます。
ゆっくりと丁寧に繰り返し読ませていただきました。

>いつものことではあるのですが、Cucさんのレスを読むと心が洗われます。
ありがとうございます。そのように言っていただけて、本当にうれしいです!
わたしは、SXYさんのレスを読むたびにいつも触発されています。
未読の小説や、哲学書、芸術家、作曲家、紹介していただいた作品に触れるたびに
世界が一変して、輝きを帯びて生き生きと迫ってくるのです。

>当方の場合の読書は、この世界から遊離した、とはいわないまでも、
>今ここで生きるということからは、ワンクッション置いたような感じで、
わたしもまったく同じです。読書は現実から遊離できる夢のようなひとときですね。

なぜわたしたちは本を読むのでしょう。
未知の世界に触れたいから、小説をとおして自分も異次元の旅に出たいから。。。
自分以外の人の生き方や恋愛や思考に、小説の人物をとおして触れてみたいから。
悲哀や苦悩に共感したいから。わたしは小説で何かを学ぼうとは思わないのですね。
結果として、学ぶことはあってもそれは最初から意図してのことではありません。
一冊の本を前にしたとき、ここから何かを得よう、とか学ばなければならない、
という強迫観念は読み手のこころの未知なものを前にしたしときの新鮮な好奇心や
高揚感、伸びやかさを奪うからです。
まっさらな気持ちで一遍の小説を読みたい、いつもそう思います。
(某板の某スレでわたしが書いたものです。)
131 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/03(土) 20:36:22

名前は失念しましたが、ある男性作家が文芸誌で語っていたことを思い出しました。
「現状に満ち足りている人や、この世が生きづらいと微塵も思わない人は、本を読む
必要はないわけです。本を読んだり、文章を書いたりすることは、そうでもしなければ
発狂するか、自殺するかのどちらかになってしまうからです。」

>赤毛のアンは当方もかつて(小学校かな?)夢中で読みましたよ。
>グリーンゲイブルス(でしたっけ?)、あの輝きに満ちた世界は忘れがたく――。
小学生のときにすでに読まれていたのですね! わたしがアンを読んだのは高一の
時でした。当時アンの真似をして「風のささやく小径」とかいろいろ名前をつけて楽しん
でました。アンの影響で、今でもノートなどギンガム・チェックの小物は大好きです。

>フォークナー同様に、ある特定の場所を舞台にサーガを書き続けた大江ですが、
フォークナーは代表作『八月の光』『アブサロム、アブサロム!』などの題名だけは
知っていますが、未読の作家です。。。
大江氏の作品は初期の頃と昨今の作品とでは、随分作風が変わりましたね。
『死者の奢り』『飼育』など、皮肉な結末や善悪の対比など、短編が冴える作家で
あると思いました。


(つづきます)
132 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/03(土) 20:37:08

>(また「路地」を舞台に数多くの作品を書いた中上健次もそうでした)
中上健次氏の作品は『岬』、『枯木灘』、『火まつり』、『鳳仙花』、『鳩どもの家』などを
読んだことがあります。彼の作品には夏芙蓉の甘い香りが濃厚に漂っていますね。

世間から隔絶された被差別地区、「路地」。
差別とは別の意味で、隔絶されたもうひとつの場所があります。
それは神を祀っている場所であり、神が舞い降りる畏怖の地です。
彼にとって「路地」はひとつの「祭壇」でありました。
そこは被差別の地であるとともに、神が降臨し、祭りごとが行われる地でした。
彼はその地で自ら「神」になりたかった、そう、物語をつくることによって。。。

彼の持つ強い自己顕示欲は、劣等感と優越感が表裏一体となっているものです。
自らの出生の地を忌避し隠蔽することは、自身の生を、存在を否定することでした。
出生の地を神格化し祀り上げることで初めて己れを肯定することができたのですね。
彼にとって生の肯定とは、神話を自ら作る、という文学の世界でのみ可能でした。
オリュウノオバ、トモノオジなどカタカナの人物名は「古事記」を想起させますね。

中上氏の作品の魅力は、出身地ゆえの劣等感や捩れをいわゆる社会的な問題とし
て悲痛さを装って訴えるのではなく、路地に対する排他的な思いとそれを遥かに上回
る強い愛着を、あくまでも彼個人のものと限定して濃密に描ききったことです。
初めて読んだ時は、強い衝撃を受けると同時に目眩がしました。剥き出しの情熱と
濃厚な筆致は、祭壇を前に跪くような想いで綴られた信仰告白ではないでしょうか。

作品名は失念しましたがあとがきで、祈りにも似たせつない心情を吐露しています。
――私の想いははたして届くのだろうか? 私の言葉は読者に届くだろうか?――


(つづきます)
133 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/03(土) 20:38:01

>見えず聴こえないものは、たとえば電気のようなものに喩えられるでしょうか。
>コンセントやコードなどのメディア=媒介によって電気は光となり音となる。。。
実に斬新な、説得力のある喩えですね! 世界は電気=光=音で満ちています。
直接触れると危険な電流は、コードという媒介を確かに必要としますね。

>宮沢賢治にはそうした純粋さがきっとあったのでしょう。
純粋さと激しさを抱えている人特有の孤高の哀しみが、作品に漂っていますね。
求めるものが大きいゆえに理解されぬことの懊悩と、深く沈殿していく孤独…。

>精神の純粋な状態(電気を通しやすくすること)が、啓示を受けやすくする。。。
――悲しむ者は幸いである、その人は慰められるであろう――
――こころの清い人は幸いである、その人は神を見るであろう――
宗派は違いますが、彼のような人の傍らにこそ神は立つのかもしれません。

>“不可能ゆえに我求む”みたいなある種の逆説性を感じるとともに、
>“真摯なやけっぱち”とでも呼んでいいような喜劇性もまた感じる面があります。
大変興味深く読ませていただきました。慧眼です!
深手を負った獲物が、最後には開き直って自ら敵の前に身を呈するとでもいうので
しょうか。納得づくでも理解でもなく切羽詰った破れかぶれな “真摯なやけっぱち”。
理詰めで理解した結果信仰に入る人より遥かに強い。肝が座っているのですね。
椎名氏は入信の際に何も期待しなかったでしょうね。
希望のなさや救済は訪れないことを承知の上で、激流に身を投じたのでしょう。
なぜなら、中上氏のように自ら神になれないことを知っていたから…。


(つづきます)
134 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/03(土) 20:38:49

>わたしもまた《呼びかけ》をしているのでしょうが、
>それは、常に既に呼びかけられているためであり、
戸口でノックをしている神の使者と、家の中にいる人の絵を見たことがありました。
取っ手は扉の内側にしかないのです。つまり、使者が呼びかけても中にいる人が
扉を開けなければ開かない仕組みになっているのですね。
いくら呼びかけられても扉を開けない人はずっとそのままであり、応えて扉を開ける
人は対話が可能である、ということでしょうか。

>ここでユダヤ人エドモン・ジャベスを思い起こしました。
>彼こそは「砂漠」の、そして「対話」の思想家でしたから。
著書は未読ですが、砂漠を放浪する孤独な民にとって「対話」とは人が人たり得る
ための、人であり続けるための<永遠に尽きぬ泉>(終わりなき対話)のようなもので
しょうか。命(こころ)の糧として枯らしてはならぬもの。。。

>そしてバタイユにとって、電気=メッセージ=神とは、
>直視できない太陽。。。 〆
太陽(光源)とは何かを媒介にして初めて意味を為すのですね?
ガラスや鏡が然りですね。真っ向から太陽に飛び失墜したイカロスのように、
近づきすぎると灼かれてしまうのでしょうか。
バタイユは神に対して畏敬の念を抱いていたからこそ遠ざかったのかもしれません。
逆説的ですが、円環として見れば彼の行為は結果として神に近づく最短距離で
あったような気もしますね……。


――それでは。
135SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/09/04(日) 23:09:44
>>130-134(Cucさんへ)

>まっさらな気持ちで一遍の小説を読みたい、いつもそう思います。

そうですね。本の頁をめくるにあたっての姿勢という点では同感です。
ただ、どんな作品を手に取るかというところで、
その人の志向による取捨選択があるわけですから、
本の頁をめくる前のその志向に、嗜好と思考も前提となっているのでしょう。
読書傾向において「その人らしさ」というものは少なからず出ると思います。

また、同じ作品でも人によって読み取るものが当然異なりますが、
本の頁を閉じた後の読後感においても、嗜好と思考が現れてきます。

頁をめくる前と頁を閉じた後のCucさんの真摯な姿勢はいつも伝わってきます。
136SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/09/04(日) 23:16:38
(承前)

>彼はその地で自ら「神」になりたかった、そう、物語をつくることによって。。。
>彼にとって生の肯定とは、神話を自ら作る、という文学の世界でのみ可能でした。
>そこは被差別の地であるとともに、神が降臨し、祭りごとが行われる地でした。

中上は小説に「物語」あるいはむしろ「神話」の力を与えようとしてましたね。
中上は「神」になりたかった、あるいは神のメディアとしての巫女(巫男?)になりたかった、
といえるでしょうね。『枯木灘』では父殺しというオイディプス神話をなぞりながらも、
秋幸に龍造を殺させないことで、定型的な神話をあえて迂回し、なおかつ、
ケガレをハレに転換させる現代的神話を紡ごうとしたのではないでしょうか。

>深手を負った獲物が、最後には開き直って自ら敵の前に身を呈するとでもいうので
>しょうか。納得づくでも理解でもなく切羽詰った破れかぶれな “真摯なやけっぱち”。

ああ、そうです! そんなふうなことを言いたかったのです。
十二分に理解してもらえる喜びを与えてもらいました。
(椎名麟三作品に対するそういう読み方が適切かどうかはわかりませんが・・・)
137SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/09/04(日) 23:26:50
(承前)

>真っ向から太陽に飛び失墜したイカロスのように、
>近づきすぎると灼かれてしまうのでしょうか。

神のメタファーとしての太陽は古今東西によく見られますね。
エジプト神話の太陽神ラー、真言密教の大日如来、古代インカ帝国など・・・。
そこには、神=ロゴス(言葉・理性)=光というイメージの連鎖があるのでしょうか。
(――しかし、もう一方の闇、沈黙、悪魔は?)

賎と聖を一体化させた中上健次との接点がどれほどあるのかはわかりませんが、
太陽と肛門を結びつけたバタイユの作品も、ケガレとハレを一体化させようとした、
光と闇を通底させようとした、といえるのではないでしょうか。 〆
138音蚤:2005/09/05(月) 13:16:39
厳格なカトリックの家庭に生まれて、
反動形成でエクストリームに突っ走っちゃう奴って
たまにいるよな。バタイユしかり、バタイユと付き合ってた
ロールしかり、関係ないがセックスピストルズの
ジョン・ライドンも(笑

バタイユについては、キリスト教的な「神・教会システム」
には愛想を尽かしていたと思うが、「神聖なもの」の存在、
というか様態の存在を信じていたんじゃないかな。彼にとって
それは性的なトランスとも密接な関係があったように思う。
対立概念の一体化という脳内実験ではすんでいない何かが
バタイユにあると思うのは、おれのひいき目かな(笑

シリウス、文学王、久しぶりだ。
文学王、ケージの「小鳥のために」を読んでた、あのおれだ。
行ってた板の流れがどーも気持ち悪くなってきたんで
戻ってきた。たまに絡ませてもらうぜ。
139 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/05(月) 18:11:38

>>138 音蚤さん

こんにちは、ようこそいらしてくださいました。とてもうれしいです!
いつでもいらしてください。歓迎いたしますよ。

>厳格なカトリックの家庭に生まれて、
>反動形成でエクストリームに突っ走っちゃう奴って
>たまにいるよな。
います、います!極端から極端に走ってしまう人。無菌培養、純粋培養は弱い…。
放蕩の末に何とか戻れればいいのですが、戻れないまま野垂れ死に
してしまうんですよね。やはりバランス感覚といいますか、中庸といいますか、
外界に対する免疫はそれなりに必要ですね。

>対立概念の一体化という脳内実験ではすんでいない何かが
>バタイユにあると思うのは、おれのひいき目かな(笑
う〜ん、そうですね。。。確かにバタイユが見ていたものは、単なる対立概念を
遥かに超えたもののような気もしますね。
それは、神や禁忌の侵犯という尺度ではかれるようなものではなく、
もっと根源的なもの、生命そのものを突き動かしている何かの象徴…?
いったいバタイユが見ていたものは何だったのでしょうね? 命の光?
140 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/05(月) 18:13:10

SXYさん

このスレの前スレで、「シリウス」のハンドルで室生犀星と立原道造の詩を
書き写したのは、実はわたしです。
あのスレ主さんには少しの間でしたがスレを提供していただきましたので、
書かせていただことへの感謝の気持ちを込めて、最近二編ほど書きました。
これからも、時々、好きな詩をあちらのスレに書き写していこうかと思っています。

>>135-137についてのレスは、あと2〜3日ほどお待ちくださいね。
――とり急ぎ、ご報告まで。
141名無し物書き@推敲中?:2005/09/06(火) 23:18:29
f
142 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/08(木) 22:20:00
>>135-137 SXY ◆uyLlZvjSXY さん

>本の頁をめくる前のその志向に、嗜好と思考も前提となっているのでしょう。
>読書傾向において「その人らしさ」というものは少なからず出ると思います。

…そうですね。本を選ぶという行為は、わたしの意思で選んでいるのはまぎれもない
事実ですが、時折ふと逆に本に選ばれているような錯覚に陥ることがありますね。
本に呼ばれている、とでもいうのでしょうか。。。たくさんある未読の本たちのなかで
選んでいるように思わせておいて、実は本のほうがわたしを招いているのかな?と。
特に目立つ装丁でもなく、また店頭に華々しく平積みにされているわけではないの
に、隅にひっそりと埋もれていながら確実にわたしを惹きつける本があります。
堀江敏幸さんの言葉を借りて言うならば、それはその本だけが放っている特別な
「本の音」なのですね。わたしには「音」というよりはむしろ「声」、「ささやき」のような
感じです。ささやく内容は言葉として明確に聞き取れることはないのですが、、、

>また、同じ作品でも人によって読み取るものが当然異なりますが、
>本の頁を閉じた後の読後感においても、嗜好と思考が現れてきます。

その人の感受性や経験、洞察力、環境、心境などによって随分異なりますね。
また、最初にページを開いた瞬間に感じるその小説の持つ色の傾向というものが
ありますが(寒色系、淡い水彩系、濃厚な情熱色系など)、読後は最初抱いていた
色彩とはまったく変わってしまう作品もあります。
変わらないものはそれなりに安心して読めますし、変われば変わったでそれもまた
いい意味での裏切りでもありますね。初めは何となく興が乗らず今いちだったのが、
終わる頃には夢中になったり、またその逆も然り、ですね。。。


(つづきます)
143 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/08(木) 22:20:45

>中上は小説に「物語」あるいはむしろ「神話」の力を与えようとしてましたね。
「高貴な穢れた血」を持つ民。「高貴」と「穢れ」という相反する言葉が等価値で
語られているのですね。
被差別地区に住む人たちは「穢れ」であると世間からは見なされています。
転倒させるには同じくらい、いえそれを上回る「高貴」な存在を必要としました。
つまり「神」=「高貴」な血、です。神との交わりの結果新しく生まれた命は人間界から
は高貴な血をひく者として半ば畏れられ、半ば異形のものとして忌避されたでしょう。
また、神々の世界にあっては穢れた下界の人間の血をひく者として、当然天上界か
ら追放されたでしょう。堕天使のごとく。。。

>『枯木灘』では父殺しというオイディプス神話をなぞりながらも、
>秋幸に龍造を殺させないことで、定型的な神話をあえて迂回し、なおかつ、
>ケガレをハレに転換させる現代的神話を紡ごうとしたのではないでしょうか。
…なるほど、なぜ秋幸が龍造を殺さなかったのか不思議でしたが、中上氏がつくりあ
げたかったのは「現代の神話」なのですね? 古来より人は「死」という報復手段を
とるものですが、秋幸のなかには「高貴」な血が流れていることを証しさせたかったの
ですね。人は人を許すことはできなくても憐れむことなら可能なのですから…。
「穢れ」から「高貴」へと一瞬のうちに飛翔し転換させる世界。まさに文学の力ですね。

中上氏は「高貴な穢れた血」の一族の神話をつくりあげることで、自らに流れている
血の呪縛から解放されたかったのではないでしょうか。


(つづきます)
144 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/08(木) 22:23:49

>ああ、そうです! そんなふうなことを言いたかったのです。
そうでしたか。こちらもうれしいです!実は初稿では以下の文が加えられていました。
――もうここまで来たら後には引き返せない、後は野となれ山となれ、「信仰」に飛び
込むしかない! 椎名氏の場合はまさしく「命懸けの跳躍」です。――

>(椎名麟三作品に対するそういう読み方が適切かどうかはわかりませんが・・・)
的確な読みだと思います。本棚の奥から『私の聖書物語』(中公文庫)を引っ張り
出しました。
――私は、自分の生き方に行きづまって、一番いやなものに近づくように
聖書へ近づいたのである――(p11)
――日々谷図書館ではじめて聖書を読んだ。
そしてなるほどほんとにこれはバカヤロウの本だと思った――(p23)

彼がもっとも忌み嫌う相手に、バカヤロウと罵倒した対象に、満身創痍の身を投げ
出したのです。それも、悪態をつきながら。。。(気骨があって頼もしいですね)
“真摯なやけっぱち”と呼ぶにふさわしい男は彼をおいて他にはいないでしょうね。

余談ですが、先月『美しい女』の感想を書いたあとで宮本輝氏の『星宿海への道』を
読んだときの感動がふいに蘇りました。
(宮本氏が某宗教に帰依していることを、つい最近まで知りませんでした…。)
以下、感想です。


(つづきます)
145 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/08(木) 22:24:41

およそこの世の悲惨さをすべて引き受けたような母と少年、長じて彼は愛する女性と
めぐり逢いながらも、黄河の源とされる星宿海を求めて砂漠へと旅立ち、ある日忽然
と姿を消します。この男がこころの奥に大切にしている原風景は、幼い頃母とふたり
で見た、満天の降るほどの星が海に宿るように映っている光景です。
それはまさしくこの世のものとは思えない美しい夢幻の星の海です。この永遠の一瞬
は彼のこころに深く刻まれました。母と見た唯一の幸福な思い出の一片。

人が生きていく上で原動力になっているものは何でしょう?
ある人にとっては仕事であり、別の人にとっては愛や夢であるかもしれません。
では、それらを追うことに疲れたとき、その人を支えてくれるものは何でしょう? 
信仰を持っている人は信仰そのものがその人の道標になるのでしょう。
では、信仰を持っていない人は? この小説の男のように、幼い頃に見た星の降る海
という、永遠にも似た一瞬の光景という場合もあるのでしょう。
時が経ても色褪せることなく、こころの片隅に息づいている鮮明な情景。

彼にとっては、星の降る海こそがこころのなかで燦然と輝く「聖域」だとわたしには
思えたのです。信仰に近いけれども、教義や戒律のない世界。
誰もがこころの奥にひそかに隠し持っており、生涯に亘り確固たる意志で守り抜く
「聖域」。彼にとって<星の降る海>とは、<明るく眩しい自由な光>として存在する
『美しい女』と同質なものを持っていたのではないでしょうか……。


(つづきます)
146 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/08(木) 22:26:12

>神のメタファーとしての太陽は古今東西によく見られますね。
「いつもお天道様が見てるよ」という素朴な太陽信仰は昔から日本にもありますね。

>そこには、神=ロゴス(言葉・理性)=光というイメージの連鎖があるのでしょうか。
日本人は農耕民族ですから、太陽は命を育むものとして捉えられていると思います。
また人は光=言葉がなければ対話も思考もできず動物と同じになってしまいますね。

>(――しかし、もう一方の闇、沈黙、悪魔は?)
『遠野物語』(柳田国男)では神隠しが起こる時刻や隠される人にはパターンがあり、
黄昏は「人の時間」としての昼間が終わり「異界のもの」の蠢き出すもっとも不安定な
時刻である、とのことです。
昼間(光)=人(神)、闇=魔物という図式がここでも見られますね。
総じてこの世界は二元論(陰陽)で成り立つしかないということでしょうか。一方だけで
は成立しない。なぜなら光の真価が最も問われ、発揮されるのは闇のなかをおいて
他にないのですから。光だけの世界では、もはや光そのものに価値はないのですね。

>太陽と肛門を結びつけたバタイユの作品も、ケガレとハレを一体化させようとした、
>光と闇を通底させようとした、といえるのではないでしょうか。 〆
実に鋭いご指摘です! 『太陽肛門』は太陽=神と、肛門=穢れとを同列に置いて
詠まれた美しい作品です。肛門は太陽に少しも劣ることなく謳い上げられています。
バタイユにおいては両者の貴賎はつけようもなく、真のエロスとは侵犯を凌駕し、
両者が等価値で共存することで初めて体験できる神秘な世界なのでしょうか……。


――それでは。
147SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/09/11(日) 20:46:29
>>138(音蚤氏)

>「神聖なもの」の存在、というか様態の存在を信じていたんじゃないかな。
>彼にとってそれは性的なトランスとも密接な関係があったように思う。

その通りだと思う。
バタイユにとって、性的恍惚と宗教的神秘体験はほとんど等価だったし、
「光と闇の通底」といっても、「対立概念の一体化」というわけじゃなく、
ヘーゲル的な弁証法でもなくて(彼はコジェーブを介してヘーゲルを読んでたけど)、
あくまでも概念化されない内的体験(恍惚の瞬間)をモチーフにして、
それを言語化できうる限り表現しようとしてたわけで、
むしろ【光=言葉】と【闇=沈黙】の融合と考えるべきかもしれない。。。

お久しぶりで。呼び方は「オトノミ」?
148SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/09/11(日) 21:23:02
>>140(Cucさん)
立原は犀星家の留守番をしてたようですね。
あっちには%というHNで気が向いたときに。
といってもあまり詩には明るくないのですが。。。

シリウスはエジプトでは女神イシスを同一視され、崇拝されもしてた星ですね。
149SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/09/11(日) 21:48:27
>>142-146(Cucさん)

 >時折ふと逆に本に選ばれているような錯覚に陥ることがありますね。
 >本に呼ばれている、とでもいうのでしょうか。。。
書物への呼びかけの前に、書物から呼びかけられているわけですね。
ここで、ジャベス『問いの書』から何か引用でも、と思ったのですが、
残念ながら今日は時間がないので、またの機会に。

 >中上氏は「高貴な穢れた血」の一族の神話をつくりあげることで、
 >自らに流れている血の呪縛から解放されたかったのではないでしょうか。
「血」の呪縛はまた路地という「地」の呪縛でもありますね。
その「地」においての「穢」から「貴」への転換には、中上における、
性欲や暴力や汗などの肉体的な描写の背後に隠された「知」が感じられます。
(『地の果て至上の時』よりも『枯木灘』のほうが好きではありますが。。。)
150SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/09/11(日) 21:58:24
(承前)

 >実は初稿では以下の文が加えられていました。
 >――もうここまで来たら後には引き返せない、後は野となれ山となれ、「信仰」に
 >飛び込むしかない! 椎名氏の場合はまさしく「命懸けの跳躍」です。――
自らガラス窓に飛び込んで血を流す『自由の彼方で』の主人公清作にも似て、
悪態をつきながら、また微笑みながら、神の前に満身創痍の身を投げ出す。。。
初期作品から『美しい女』『運河』を経て『懲役人の告発』に至る諸作品で、
そんな椎名の姿が脳裏に浮かんでくる感じがします。

 >先月『美しい女』の感想を書いたあとで宮本輝氏の『星宿海への道』を
 >読んだときの感動がふいに蘇りました。
『星宿海への道』は未読で、参考にさせていただきます。
(宮本輝については、食わず嫌いという感じで今まで縁遠い存在でした。。。)
151SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/09/11(日) 22:16:01
(承前)

 >『遠野物語』(柳田国男)では神隠しが起こる時刻や隠される人にはパターンがあり、
 >黄昏は「人の時間」としての昼間が終わり「異界のもの」の蠢き出すもっとも不安定な
 >時刻である、とのことです。
黄昏時とは薄明、薄暮であり、光と闇の境界ですね。
また語源である"誰ぞ彼"に含まれる語義(人の判別しがたさ)を広げれば、
人称や主体をも曖昧にさせる時空間と捉えることも可能でしょうか。
黄昏は、ブランショの作品に通じる言葉かも知れませんね。
(分身や同伴者、謎めいた女性たちのフィギュール。。。)

 >バタイユにおいては両者の貴賎はつけようもなく、真のエロスとは侵犯を凌駕し、
 >両者が等価値で共存することで初めて体験できる神秘な世界なのでしょうか……。
バタイユが見たもの(体験したもの)を我々はどのように体験すればいいのか、
これはちょっとわかりませんが、肛門と太陽が、性的なものと宗教的なものが、
等価値で語られるバタイユ的世界においては、光すなわち闇という感じを受けます。〆
152音蚤(おとのみ):2005/09/12(月) 13:31:46
地下鉄のシール広告で赤いゴシック文字で「なんとか大腸肛門科」っていうのがあって
(なんとかの部分地名だったんだけど憶えてないや)それ見るたびにバタイユを思い出す(笑

>あくまでも概念化されない内的体験(恍惚の瞬間)をモチーフにして、
>それを言語化できうる限り表現しようとしてたわけで、
>むしろ【光=言葉】と【闇=沈黙】の融合と考えるべきかもしれない。。。 (SXY)

>それは、神や禁忌の侵犯という尺度ではかれるようなものではなく、
>もっと根源的なもの、生命そのものを突き動かしている何かの象徴…?
>いったいバタイユが見ていたものは何だったのでしょうね? 命の光? (Cuc)

宗教的トランスにしても性的トランス(そして音楽的トランス)にしても、
トランス(恍惚を感じている時間)は言表できない。
言語秩序以前の意識の様態、概念化できない感覚の波に、
ただ流されて行くしかない時間。内的でしかありえない体験。
バタイユが見ていたものはそれだったんじゃないかな。
彼はその言語化できない領域を「信じて」いたんだろうね。
ここからがおれのひいき目なんだが、
バタイユはその領域の言語化不可能なところまで理解した上で、
トランスを発動できる文章を組み立てていったんじゃないかと思う。
小説での性的表現にしても、決定的な描写は非常に短く、検閲による削除を
思わせるような、描写の欠如を感じることがけっこうある。空行、余韻。
サドの、淡々と数量的に圧倒してしていこうとする描写とは対照的だ。
トランスを描写しようとはせず、読む者にトランスを起こさせるプログラム。
その部分は書くまでもなく、内的体験の領域は万人に共通するのだと、
彼は考えていたんじゃないのかな。そこのところで、やはり「宗教的」と
言えるかもな。
153 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/14(水) 21:09:27

>>152 音蚤さん

大変興味深く読ませていただきました。

>言語秩序以前の意識の様態、概念化できない感覚の波に、
>ただ流されて行くしかない時間。内的でしかありえない体験。
わたしたちが感じたり体験していることは、瞬間の感覚をただ「断片的」に時が
繋ぎ合わせているだけなのですよね。「連続」ではないのだと思います。
ですから一瞬の閃光のようなトランス状態は、言葉ではなかなかとらえられない。
体験(感覚)が先で、意識はいつも遅れてやってくるのですから。その遅れてきた意識
をさらに言葉で再現しようとしても、それは意図的に偽造捏造されたものでしかない。

>トランスを発動できる文章を組み立てていったんじゃないかと思う。
>読む者にトランスを起こさせるプログラム。
バタイユはトランス状態を喚起させるには、それに先立つ苦痛、恐怖、絶望、嫌悪
などが必要であると表現しました。それは、歓迎しない、拒絶したい負の領域です。
首を絞められながらの性交、動物の眼球を抉り出し自らの体内に入れること、
汚物を浴びせかけながらの性の交わり、、、彼の小説の人物たちはこうした行為を
繰り返します。そして、ある臨界点を超えた瞬間、苦痛は甘美に、嫌悪は陶酔へと
一転します。

バタイユは臨界点を超えた瞬間を「内的体験」と呼びました。
彼にとって、忌避から受諾への転倒の鍵となるものは「法悦」であったのですね。
(中上健次氏は「穢れ」から「高貴」なものへの転換を「血」で表現しましたが)


(つづきます)
154 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/14(水) 21:10:28

バタイユは恐怖や苦痛は忌避すべき負の領域のものではなく、その先にあるものは
死に隣接した快楽や法悦であると、自らの内的体験を通して確信を得たのではない
でしょうか。そして、言葉にできない内的体験は彼にとってのみでなく、人間にとって
普遍的なものであり、あらゆる恐怖や苦痛は恍惚に繋がるものである、と「信じて」
いたのではないでしょうか。
それは発狂寸前の、まさにぎりぎりの快楽です。
真の法悦とは苦痛を超えた上でしか成り立たないことを、彼は知っていました。
安穏とした緩い状況では真の法悦の瞬間は訪れません。

宗教的にいえば、真の喜びはあらゆる苦悩を土台にして初めて得られるものである、
だから、嘆くのではなく苦悩を神に捧げ喜びに変えなさい、ということでしょうか。
宗教が闇に光を見出すものならば、そしてまた、生の苦悩や死の恐怖を取り除く
ためのものならば、バタイユの言わんとしていることはまさしく「宗教的」ですよね。。。


――それでは。
155 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/14(水) 21:22:36

(追 記)
前にジョン・ケージの「竜安寺」の楽曲を紹介していただきました。
こんな詩を見つけましたよ。以下、抜粋です。


「竜安寺石庭」  室生犀星

おれは石の数をかぞへてゐた
石は七つくらゐしかなかつた
よく見ると三つくらゐしかなかつた
なほ よく見ると
ただの一つあるきりであつた

おれはしかし遂に無数の
石の群がりに遮ぎられてゐた
石はみな怒り輝いてゐた
石はみな静まり返つてゐた
石はみな叫び立たうとしてゐた
ああ 石はみな天上に還らうとしてゐた
156 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/14(水) 21:24:08

>>148-151 SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>といってもあまり詩には明るくないのですが。。。
実はわたしもそんなに詳しいというほどではないのです。
何気なく手にとった詩集をぱらぱらとめくっていて、ああ、この詩いいなあ…、
という程度です。

>シリウスはエジプトでは女神イシスを同一視され、崇拝されもしてた星ですね。
ありがとうございます。そうだったのですか! それは知りませんでした。

〜シリウスとは〜
「輝き」を意味する。おおいぬ座の1等星(光度-1.5)恒星のなかで一番明るい星。
オリオン座のベテルギウス、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオン、
この3つの明るい星(ベテルギウス・シリウス・プロキオン)が形作る三角形を
《冬の大三角》と呼びます。

シリウスは別名、天狼星ともいいます。
わたしのイメージするシリウスは、孤高な星です。人から理解されぬ哀しみを背負い、
その哀しみが強いほどに夜空を照らす光が強くなる。そんな憧憬の星です。


(つづきます)
157 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/14(水) 21:25:13

>ここで、ジャベス『問いの書』から何か引用でも、と思ったのですが、
ジャベスの『ユーカリの書』を借りてきまた。(『問いの書』がなかったので…)
ユーカリという青年と恋人サラの対話、それにラビたちの言葉が付随されています。
ユーカリは神に問い、ラビに問い、サラに話しかけます。
複数のラビたちのそれぞれ異なる答えも興味深いですね。「対話」はあらゆる学問の
原点であり、人としての事始めなのかな? と思いました。

>その「地」においての「穢」から「貴」への転換には、中上における、
>性欲や暴力や汗などの肉体的な描写の背後に隠された「知」が感じられます。
「血」=「地」=「知」、ですね! なかなか、深いですね。。。
確かに「穢」から「貴」への転換には、「地」から「知」へと魂が飛翔する必要があり
ますね。それは、かつては恐怖の対象であった龍造が今は逆転して「地」に伏し、
秋幸が「知」者として彼を睥睨するという構図でもあるのですね。

>また語源である"誰ぞ彼"に含まれる語義(人の判別しがたさ)を広げれば、
>黄昏は、ブランショの作品に通じる言葉かも知れませんね。
>(分身や同伴者、謎めいた女性たちのフィギュール。。。)
そうですね。「沈黙」という濃霧の謎は黄昏の判別不能に通じているものがあります。
ブランショの作品には正体不明、判別不可の人物が非常に多いですから。
また、バタイユの神秘体験(語り得ぬもの)もわたしたちには謎として、黄昏の光のなか
に依然として残されたまま……。


(つづきます)
158 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/14(水) 21:25:58

『三枚つづきの絵』を読了しましたので、感想を記します。

物語全体を一枚の絵とするならば、絵の中に版画や映像が整合性を無視して
幾重にも組み込まれてあり、視点をどこに据えたらいいのか面食らってしまいました。
最初は二人の少年の視点から見た出来事、――男女の性行為、フィルムを通しての
スクリーンの映像、サーカスのポスターからの想像――、など少年に主軸をおいて
読んでいったのですがこの二人も実はスクリーンの主演女優が読んでいる本の挿絵
の銅版画に描かれた少年であり、男が組み立てていたジクゾー・パズルの一片で
あることが最後に判明します。

まさにこの小説はジクゾー・パズルを組み立てていくような作品ですね。
それも、幾つかの場面が同一線上で同時進行して語られます。
前作同様に改行も章の区切りもまったくなしに……。場面Aが終ったかと思いきや、
後になって前後のつながりなど無視して、脈略もなくいきなり再登場します。
不意打ち、奇想天外、神出鬼没とはまさにこのようなストーリーを言うのでしょう。

人物すべてが仕切りのない大部屋に一緒くたにされている印象を受けました。
たいていの小説は、章や段落、改行などによって混乱しないように、人物が挿話毎に
カーテンや戸などで仕切られていたり、各部屋割りができているのですが、ここでは
皆無です。
ひとつの出来事を語っているかと思うと、改行もなくいきなり異なる挿話や人物が
混入してきます。気を抜いて読んでいると、著しい混乱状態に陥ります。
読み手の気を許さない作家であり、快い混迷をもたらす作家でもありますね。。。


(つづきます)
159 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/14(水) 21:26:58

納屋のなかでの男女の性行為があり、その一方で、兎が老婆に殺される場面が同時
に生々しく描かれています。
性欲(生殖行為)と食欲(生き物の屠殺)と、「生」にはどちらも必要でありますね。。。

『アカシア』『フランドルへの道』同様、今回も干し草や野花、牛は無論のこと、
雨の他に滝、川などの水の描写も豊富ですね。
こうした豊かな自然描写は、クロード・シモンの特質といってもいいでしょう。
といっても、のどかな田園風景だけに留まらず、そこに生きる人たちが大人も子供も
濃厚に描かれています。シモンの描写は、農民画家ミレーの絵画のようなお行儀の
良さや敬虔さにはほど遠く、牛の糞尿の匂いや濃密な性の交わりを忌憚なく晒す
筆致です。(生のリアリズム、とでもいうのでしょうか…?)

冒頭の一枚の絵葉書から端を発して、ストーリー性を無視するような奔放な想像力が
どんどん枝分かれしていき、書きたいままに意のままにペンが滑っていく印象を与え
ます。けれども訳者あとがきを読むと、奔放なように見えて実は緻密な計算がはたら
いていることを知らされました。
そのように綿密に組み立てられているとは、予想すらしませんでしたね。。。
シモンの作家としての技術の高さゆえなのでしょうか。
まるで重なり合う箱のようです。箱のふたを開くと中に箱があり、またその中に箱が
あり…、箱同士の相関性はまったくなく、それぞれを収納したいと思っても、別の場所
で必要になるので出しっぱなしのまま。。。
最後に唐突にまったく違う箱になり変わります。


(つづきます)
160 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/14(水) 21:45:38

濃厚な性描写が繰り返し出てきますが最もエロスを喚起させるのは、
蛇の出現とリンゴにかぶりつく描写です。

――頭がいまは鈍角をなしながらそのこわばった棒が水面を裂き(略)、うねうねとし
たうねりで川の表面が湧き立ち――(p171) 
――決心して少年はかたい果肉にがぶりとかぶりつき、咀嚼しはじめる――(p195)

むせ返る強い青草の匂いや、ふいに出現した蛇、そしてリンゴ。
彼らが果樹園の納屋でひそかに覗き見する大人の男女の性行為。
性に好奇心を抱き始めた年頃の少年の急激に変化しつつある身体と蛇の対比、
リンゴはエデンの園の禁断の果実を想起させます。誘惑的なリンゴの赤い皮は
女の唇の紅を、白い果肉は女の肉体の白さを暗示するかのようです。。。
村落の描写全編に響いている滝の「シューシュー」という音は、蛇が鎌首をもたげた
瞬間の擬音にも似て不気味であり、同時にエロティックです。
バタイユの『太陽肛門』もそうでしたが、シモンにおいても、直接的な性行為の際どい
描写よりも、暗喩のほうがはるかに隠微なエロスが強く匂い立ちます。

田園の二少年のある日の午後、往年女優主演のスクリーン上映、女優の読みさしの
小説、ポスターから抜け出たサーカスの白塗りの道化師の舞台、これらの挿話が
すべて順不同に同一のカメラで並行して撮られ、今回もさながら万華鏡の世界を覗い
ているようでした。。。
実際の時間は、昼下がりから夕暮れまでの出来事なのですよね。
摩訶不思議な迷宮譚、シモンの手にかかると時間軸の無い無限の時の物語のように
感じられますね。


――それでは。
161 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/15(木) 09:44:37

本の題名を間違えました。訂正します。

ジャベスの『ユーカリの書』を借りてきまた。(>>157)
訂正→『ユーケルの書』が正しい題名です。

――いったいどこで書物は開花することができるのでしょうか、
書物のなかでなければ? 
聖なるものは、われわれのうちに、深く錨をおろしているのです――(p212)

――私は、書物の過去と未来のために、書物の言葉たろうとしたのです――(p213)

――書物の王道とは、神が解放した道です。
道の果てには、道のはじめにいた神がいる――(p213)
162SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/09/21(水) 00:39:58
>>152(音蚤氏)
「大腸肛門科」で連想されるG・B。。。ハレルヤ!

>トランスを発動できる文章を組み立てていったんじゃないかと思う。(音蚤氏)
意図的な「描写の欠如」によって「読む者にトランスを起こさせるプログラム」を
もしバタイユが企てたのだとすれば、それは驚くべき明晰さでしょうね。
アルトーに対して誰か(ブルトンかな?)が形容した「超明晰」という言葉を、
そのまま当てはめてもいいかもしれない。

>バタイユは自らの内的体験を通して確信を得たのではないでしょうか。(Cuc氏)
ブランショは内的体験そのものが権威であると書いていました。
これは「謎そのものが真実だ」という表現に近いような気がします。
163SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/09/21(水) 00:41:12
(承前)

音蚤氏とCuc氏とのバタイユについてのレスを読んでいて感じたのは、
やはり陽にして陰、言葉にして沈黙という「太陽=肛門」の等式でした。
女陰を自分の指で開きながら「あたしは神よ」と言うマダム・エドワルダ。
『眼球譚』における太陽=眼球=睾丸=卵といった具象的イメージの球体群。
(そういえば『眼球譚』での筆名ロード・オーシュは「排便する神」で、
これは日本でいう便所神とは違うだろうけど。。。)

考えてみれば、バタイユが傾倒したニーチェにおいても、
『ツァラトゥストラ』で、「大いなる正午=真夜中」という等式があり、
神秘的な超明晰といえるであろうバタイユに親近性があるのは、
ヘルダーリン、ゴッホ、アルトー、ニーチェなどの狂気に接した天才たちだろうか、
と思いつつ。。。
164SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/09/21(水) 00:48:41
追伸

>音蚤さん
オートノミー(autonomy、自主性、自律性)を重んじてるのかな、と。

>Cucさん
『三枚つづきの絵』『ユーケルの書』についての非常に豊かな感想については、
今度時間のあるときに再度読ませていただいた上で。。。
165音蚤(音のみ):2005/09/22(木) 13:55:17
>意図的な「描写の欠如」によって「読む者にトランスを起こさせるプログラム」を
>もしバタイユが企てたのだとすれば、それは驚くべき明晰さでしょうね。(S)

いま念頭にあるのは「死者」の構造だな。はじめて読んだのは
角川かどっかの文庫で1ページごとに金子國義の挿絵が入ってた。
「マリー、なになにする。」の対向ページに絵が1葉。

ケージの「竜安寺」も、あの「間」で「持っていかれる」っていうのはあるよな。

>ある臨界点を超えた瞬間、苦痛は甘美に、嫌悪は陶酔へと 一転します。(C)

日常的な意識の状態からトランスへの移行には通過儀礼がある。

>体験(感覚)が先で、意識はいつも遅れてやってくるのですから。その遅れてきた意識
>をさらに言葉で再現しようとしても、それは意図的に偽造捏造されたものでしかない。(C)

言葉は常に「二度目」であり、何かに対する意識は、それを見守る自意識につきまとわれる。
ってことだな。言語秩序から解き放たれたトランスの様態は純粋に内的な体験ただそれだけと言える。

>ブランショは内的体験そのものが権威であると書いていました。(S)

バタイユが「聖なる」と言ったのと好対照な表現だな。
ブランショの場合、誰もが感じうる領域、それ自体の位置を意識的に特定してこそ、
「権威」という表現が出てくるんだろうな。ブランショは「哲学的」だ。
言葉にできぬモノに対する遡行的な考察、それは宗教や哲学の起源を思わせる。

漢字の「舞」と「巫」と「無」は同じ1つの甲骨文字から派生している。
言表不可能な「名付け得ぬ(名前の無い)モノ、神」を
舞うことによって(音楽的、宗教的、ダンス的トランス)
「降ろす」。それが巫女というわけだ。

脱線したな(笑。
166(OTO)←これにしようかな:2005/09/22(木) 13:56:22
>オートノミー(autonomy、自主性、自律性)を重んじてるのかな、と。

そんな高尚なもんじゃないよ(笑。説明すると長くなるしもともとはアニメの
なかの表現からきている。2人におれだとわかれば別に「あ」でも「い」でも
いいんだ(笑。そいえば「ゴーダ・カズンド」もアニメのキャラで、知ってれば
腹抱えて笑えると思ったんだが、この板じゃ誰も知らんようだったな(笑。

「三枚つづきの絵」はこのあいだ読んだよ。とても映画的、映像的で、
視点の移動がおもしろかった。
167 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/25(日) 20:04:49
>>162-164 SXY ◆uyLlZvjSXY さん

朝夕、かなり涼しくなりましたね。とてもよい気候です。

>ブランショは内的体験そのものが権威であると書いていました。
「私」にとっての個人的な体験、内的体験が権威であるとする思想(発想?)は、
すべての哲学者に共通するもののように思いました。
主体となる私の個人的な体験から生まれた思想が万人に共通するものであり、
普遍的なものであると論証することは一見困難であると思われますが、煎じ詰めて
いけば実にシンプルなものなのかもしれませんね。
その根本となる感情は「共感」ではないでしょうか?あるいは「理解」かもしれません。
わたしたちは他者の体験や思想に「想像力」を持って歩み寄ることができます。
ですから、「私」の内的体験が特異なものであると傲慢になってはなりませんし、
また、他者の抜きん出た内的体験に対しても卑屈になることもないのですね。

>これは「謎そのものが真実だ」という表現に近いような気がします
確かに「謎」そのものは語り得ない神秘の領域ですね。
けれども逆説的ではありますが、「謎」は語り得ないがゆえに万人に共感され、
放棄ではなく理解しようと歩み寄られるのかもしれません。
仮に真実を追究し得たとしても、おそらくはその時点で新たな謎が生じるでしょう。
その理由として、人間が思考する能力を持ち合わせていること、自らの思考力を
試してみたいという根源的な欲望があるからです。
自らの意志で謎が謎を再び呼び寄せるのですね。
なぜなら、人間の欲望には限りがないのですから……。


(つづきます)
168 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/25(日) 20:05:53

>やはり陽にして陰、言葉にして沈黙という「太陽=肛門」の等式でした。
そうですね。武満徹氏も同様のことを語っていましたね。
「音は沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない」と。
また、ジャン=リュック・ナンシーは以下のように語っています。
――歓喜と苦痛は相互に対立しない対立物である。一つの身体は苦痛の中でも
同じく享受される――『共同―体(コルプス)』 (p84)
一見相反するかに見える両者は「対立しない」のですね。
苦痛は一つの身体において享受される、その転換こそが「内的体験」という
神秘な語り得ぬ領域なのですね。

>女陰を自分の指で開きながら「あたしは神よ」と言うマダム・エドワルダ。
神が人間に「啓示」という宗教的な法悦の瞬間を与えるように、性の交わりは
男女ともに恍惚感を与えます。
神からの「啓示」としての法悦は、「一方的」に神から人間に与えられるものです。
勿論、その前提として人間も求めることが必要ですが。。。
啓示を与える側の神の恍惚については、わたしたちは口を閉ざすしかないのです。
これに対し、人間の性行為がもたらす恍惚感は「双方の」ものです。


(つづきます)
169 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/25(日) 20:07:05

バタイユは性交しながら首を絞めて殺す側の快楽と、殺される側の人が臨界点を
超えた地点で体験する恍惚を等しいものとしました。ある意味、危険な思想です。
バタイユの表現する神は自らを神と名乗り、誘惑し、互いに性の恍惚を満喫します。
恍惚は啓示のように一方的であってはならない、与える側も与えられる側も本来は
等しいものなのだ、そう確信したのではないでしょうか。

内的体験が神秘なものである以上わたしたちはその体験を現わす言葉を
持ちません。
沈黙するしかないわけですね。
ブランショの「沈黙」は語り得ることであっても、あえて意図的に語らぬ意志を
感じます。彼の小説の人物たちは対話を欲しない。語ろうとしない。
語り得ないことをテーマにしながらも、両者の思惑はこれほど差異があります。

感想文につきましては、どうぞ、お気になさいませんように。

――それでは。
170 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/25(日) 20:08:04

>>165-165 音蚤(音のみ)さん

書道展に行かれた方なればこその漢字への考察、面白く読ませていただきました。

>バタイユが「聖なる」と言ったのと好対照な表現だな。
拒絶から甘受への転換の瞬間はどのような言葉も嘘っぽくなってしまいますね。
まさに言葉では語り得ない領域、言葉の限界を感じます。
それは瞬間的に去ってしまうものであり、それゆえに強烈な印象を残します。
聖なる瞬間は夢幻の光でしょうか。この世ならぬもの、異界の光です。
神聖さと狂気はつねに表裏一体です。

>漢字の「舞」と「巫」と「無」は同じ1つの甲骨文字から派生している。
>言表不可能な「名付け得ぬ(名前の無い)モノ、神」を
>舞うことによって(音楽的、宗教的、ダンス的トランス)
>「降ろす」。それが巫女というわけだ。
なるほど…。確かにすべての表現者=芸術家(作家、音楽家、宗教家)は
巫女的な要素を持っていますね。
哲板でスレストされてしまった「芸術とは何か?」というスレがありました。
(以下、当時のわたしのカキコです)

28 :考える名無しさん :05/03/07 12:20:43
―――わたしにとって芸術は、
作品そのものを目の前にしたとき、敬虔な気持ちにさせてくれるものであり
崇高な想いを抱かせてくれるもの
そして、その瞬間のわたしの感動が普遍であることを、祈らせてくれるもの
ある意味、宗教的とも言えますが、宗教と異なるのは、「教え」や「戒律」が
介在しないことです   ―――(引用、終わり)


(つづきます)
171 ◆Fafd1c3Cuc :2005/09/25(日) 20:09:01

神を舞うゆえに、鑑賞者が敬虔な思いを抱いたり崇高さに打たれるのは
特別なことではないのですね。むしろ当然なのかもしれません。
既出ですが山本文緒さんは「そこにあるんです。降ってくるんです。
わたしはただキイを打つだけです」とインタビューに答えていました。
まさに巫女ですね。

>そいえば「ゴーダ・カズンド」もアニメのキャラで、知ってれば
>腹抱えて笑えると思ったんだが、この板じゃ誰も知らんようだったな(笑。
検索しましたよ。[攻殻機動隊]のキャラなのですね? スキン・ヘッドに顔の傷、
このキャラは悪役なのでしょうか??
わたしてっきりゴーダ・カズンドさんて音蚤さんの本名に近い名前なのかなあ、と
思っていました。(ごめんなさい、まさかアニメのキャラとは知りませんでしたよ…)
「いのち・イノセンス」の劇場版は先日ビデオレンタルしました。
哲板のスレで感想を2レスほどつけました。

>「三枚つづきの絵」はこのあいだ読んだよ。とても映画的、映像的で、
>視点の移動がおもしろかった。
移動が瞬時に行われるので、気を抜いて読んでいると混乱してしまうのですよね。
最初はオムニバス形式なのかな、と思っていたのですが、最後にジグゾー・パズルの
一片だと判明したとき、やられた! と思いました。
う〜ん、シモンはなかなかの策士ですね。


――それでは。
172無名草子さん:2005/09/26(月) 01:55:26
0
173SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/09/30(金) 00:32:01
>>165-166 (音蚤さん)
>>167-169(Cucさん)

>「ゴーダ・カズンド」もアニメのキャラで
そんなの知らないってばよっ!(NARUTO風)

>ブランショは「哲学的」だ。
>言葉にできぬモノに対する遡行的な考察、それは宗教や哲学の起源を思わせる。
哲学的といえば哲学的ではあるけれども(特に「望みのときに」)、
埴谷『死霊』やムージル『特性のない男』などとは異なり、
彼の小説(ロマン・レシ)は小難しい概念が多用されるというのではなく、
印象=イマージュや形象=フィギュール中心で綴られているから、
特に難解なわけでもないとは思うけれども、ただ、読み進むにつれ、
具体性が剥ぎ取られ、どんどん抽象性が高まる感覚があって、
そのあたりが哲学的と形容される所以じゃないかと。

それに対して、C・シモンの場合は、
イマージュやフィギュールはいつも具体的かつ濃密で、
熱があり、色があり、速度があり、力があって、
それらのイメージが時系列を無視して自由に連鎖反応を起こす。
特に『三枚つづきの絵』ではもう天衣無縫という感じで、
様々なイメージの相互浸透が心地よい眩暈を起こさせてくれますね。
174SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/09/30(金) 00:33:58
(承前)

>漢字の「舞」と「巫」と「無」は同じ1つの甲骨文字から派生している。
巫女と舞踏は深い関係があるけれども、「無」も絡むとは!
「無」=「死」とすれば、死の舞踏。。。 
ブランショにこういう言葉が。

「読書とは事実おそらくは、隔離された空間での眼に見えない者をパートナーにした
ひとつのダンス、〈墓石〉との楽しい、熱狂的なダンスなのである」(『文学空間』)。
175SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/09/30(金) 00:34:52
(承前)

>ブランショの「沈黙」は語り得ることであっても、あえて意図的に語らぬ意志を
>感じます。彼の小説の人物たちは対話を欲しない。語ろうとしない。
彼の小説(ロマン・レシ)には会話は決して少なくないのですが、
登場人物たちの会話はうまく絡み合っていない不毛さを感じさせますね。
彼らの言葉は相手に届いてるのかどうかわからない。
放たれた言葉は彷徨い、意思疎通の役には立たない。
消化不良のまま会話は途切れ、再開し、また中断する。
意思疎通がなされるのは、むしろ言葉と言葉の間であり、
その沈黙のために言葉があるようにさえ思われます。。。

架空のラビたちとの対話を中心に書物を構成したジャベスは、
一見ブランショと対照的なようでいて、かなり似ています。
あるいは、似ているようでいて対照的だともいえるかもしれません。
詩のようでもあり、アフォリズム集のようでもあり、
小説のようでもあり、哲学書のようでもあり、
そのどれでもない不可思議な書物。
彼の言葉のリズムはむしろボルヘスに近いような気も。。。
176SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/09/30(金) 00:36:29
(承前)

>言表不可能な「名付け得ぬ(名前の無い)モノ、神」を舞うことによって「降ろす」。
書くことがミューズの神を降ろすダンスならば、
ブランショがいうように読むこともダンスかも。
「名付けえぬもの」を書こうとし、読もうとするダンス。

『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名付けえぬもの』の三部作を通して、
ベケットの場合は、語り手自身が「名付けえぬもの」になっていく。。。
あるいは、その前に発表された『ワット』で既にその萌芽があって、
体の向きと足の向きとが180度異なったままのワット氏の歩行は、
パントマイムのような奇妙奇天烈なダンスです。  〆
177 ◆Fafd1c3Cuc :2005/10/02(日) 21:38:51

>>173-176 SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>印象=イマージュや形象=フィギュール中心で綴られているから、
>特に難解なわけでもないとは思うけれども、ただ、読み進むにつれ、
>具体性が剥ぎ取られ、どんどん抽象性が高まる感覚があって、
ブランショの好んで描く人物は存在感が希薄ですね。
『謎の男トマ』のトマはまさにブランショ自身を投影したかのような人物です。
死の世界からも押し戻され、現実界からも存在感のなさゆえに浮いている。
「我思う ゆえに我なし」デカルトやナンシーと真っ向から対立する思想。
ブランショの人物はバタイユの言葉を借りていうならぱ「透明人間」なのですね。
思考のみが在って身体が無いのです。

>そのあたりが哲学的と形容される所以じゃないかと。
哲学の基本が「対話」であるとするならば、ブランショは哲学的でありながらも、
あえて意図的な反哲学的とでもいうのでしょうか……?


(つづきます)
178 ◆Fafd1c3Cuc :2005/10/02(日) 21:39:35

>それに対して、C・シモンの場合は、
>イマージュやフィギュールはいつも具体的かつ濃密で、
>熱があり、色があり、速度があり、力があって、
シモンの小説は読んでいて情景や人物が鮮やかな明確さでもって迫ってきますね。
不可解さはありません。ただ、いきなり場面が何の脈略もなく飛躍し飛翔しますが。
ブランショの人物は顔がなく個々の判別がしづらいのに対し、シモンの人物たちは
強い個性を持った人たちばかりです。
頑なに沈黙を守るブランショとは対照的で、シモンは饒舌です。
けれども彼の饒舌は過剰ではあってもくどくはない。それはあちこちの次元へ
自在に飛翔する想像力を書いている本人が心底楽しんでいるからであり、
そうした楽しさは読み手にも確実に伝わるからです。
読書とはまさに書き手の気持ちに感染することです。


(つづきます)
179 ◆Fafd1c3Cuc :2005/10/02(日) 21:40:21

>「読書とは事実おそらくは、隔離された空間での眼に見えない者をパートナーにした
>ひとつのダンス、〈墓石〉との楽しい、熱狂的なダンスなのである」(『文学空間』)。
ブランショは「墓所」がお気に入りですよね。
彼の小説は死を扱っているものがほとんどですから、当然といえば当然なのでしょう。
『謎の男トマ』『至高者』ともに夜の闇に包まれて妖しく輝く墓所の描写は圧巻でした。
〈墓石〉とのダンスは時間を制限されることもなく、また、時代の制約もないのですね。
こころゆくまでいつまでもいつまでも、踊りつづけることが可能です。
なぜなら、相手が生きた人間ならば相手が途中で降りてしまえばそこで終わりですが、
死者は一方的に中断することをしないから。こちらが「もう降りる」と言わない限り…。

デカルトは『方法序説』でこんなふうに述べています。
――すべて良書を読むことは、著者である過去の世紀の一流の人びとと
親しく語り合うようなもの――
過去の世紀の人、つまり「死んだ」人たちとの対話=ダンスなのですね。
対話もダンスも一人ではできないのですよね……。
必ず他者を必要とします。


(つづきます)
180 ◆Fafd1c3Cuc :2005/10/02(日) 21:41:17

>意思疎通がなされるのは、むしろ言葉と言葉の間であり、
>その沈黙のために言葉があるようにさえ思われます。。。
ブランショにとっては沈黙が「主」であり、言葉は「従」であるような印象を受けますね。
――本当に大切なものは目に見えない――『星の王子さま』より
サン・テグジュペリの言葉を本歌取りして書き換えてみるならば、
「真に大切なことは語られない」=「真実は語り得ない」ということでしょうか。
沈黙の中にこそ真実があり、言葉は沈黙の奥に潜む真意(真実)を導くための
前提に過ぎない、、、

>架空のラビたちとの対話を中心に書物を構成したジャベスは、
>詩のようでもあり、アフォリズム集のようでもあり、
旧約聖書の箴言に近いと思いました。
箴言は全編がアフォリズムそのものです。
簡潔で含蓄のある言葉で綴られています。
ジャベスは一見モノログでありながらも対話が成立していますね。
逆に、ブランショは対話しているのにモノログに近い感じがします。
この両者は対照的といえば対照的ですが、対話とモノログの立ち位置を転倒させた
点においては一致しているのではないでしょうか。


(つづきます)
181 ◆Fafd1c3Cuc :2005/10/02(日) 21:41:57

>書くことがミューズの神を降ろすダンスならば、
>ブランショがいうように読むこともダンスかも。
>「名付けえぬもの」を書こうとし、読もうとするダンス。
「書くこと」は神を舞うことであり、そして、その書かれたものを「読むこと」によって
読み手もまた、書き手を通して神と間接的に踊ることになるのですね。
神=言葉であり、神の言葉は巫女によって発話され書かれ、わたしたち読み手は
巫女を媒介にして初めて神の言葉を聴きます。
書き手も読み手も言葉を軽んじてはならないのですね。
言霊を畏怖した時代もかつてはあったのでしょう……。

>『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名付けえぬもの』の三部作を通して、
ベケットは未読ですので、読んでみたい作家です。
今借りているアポリネール短編集とラヴクラフト集を読了したら、読みたいです。


――それでは。
182SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/10/04(火) 01:09:13
>>177-181 (Cucさん)

>頑なに沈黙を守るブランショとは対照的で、シモンは饒舌です。
ベケットもまたシモンとはかなり異なる作風ですが饒舌な作家です。
そして、その饒舌さは沈黙に急いで赴こうとするかのようです。
その点で、
>沈黙が「主」であり、言葉は「従」であるような印象
を持つブランショとは、異なる道筋を辿りながらかなり接近する感じです。

>ブランショは「墓所」がお気に入りですよね。
>彼の小説は死を扱っているものがほとんどですから、当然といえば当然なのでしょう。
これほど「死」を語り続けた人も珍しいかもしれませんね。
バタイユの「死」には肉体的なエロスがつきものですが、
ブランショにはそれが稀薄ですね。
183SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/10/04(火) 01:10:18
(承前)

>ジャベスは一見モノログでありながらも対話が成立していますね。
>逆に、ブランショは対話しているのにモノログに近い感じがします。
慧眼です! ジャベスとブランショは読後感において似ているのですが、
おそらくモノローグとダイアローグの間のヴェクトルが逆なのかもしれないですね。

>ベケットは未読ですので、読んでみたい作家です。
>今借りているアポリネール短編集とラヴクラフト集を読了したら、読みたいです。
アポリネールはチェスタトンなんかとの親近性が感じられる作家だと思います。
アポリネールを少しメルヘン的にするとシュペルヴィエルになるでしょうか。
ラヴクラフトは2〜3の短篇しか読んだことがありませんが、
アーサー・マッケンあたりに似た怪奇性が濃厚な感じでした。  〆
184(OTO):2005/10/04(火) 11:30:53
>――歓喜と苦痛は相互に対立しない対立物である。一つの身体は苦痛の中でも
>同じく享受される――『共同―体(コルプス)』 (p84)
>一見相反するかに見える両者は「対立しない」のですね。
>苦痛は一つの身体において享受される、その転換こそが「内的体験」という
>神秘な語り得ぬ領域なのですね。 (C)

うーむこの部分、ナンシーの読みは同意。
ただそれを「神秘」と言ってしまってはあいまいになってしまう部分が残る。
身体の享受、感覚への全的没頭は我々の言語秩序によって支配された「意識」にとっては
言表不能な領域だが、それこそ動物の基本システムじゃないかな。
現象学を通過した存在論は、常に「その方向」へと考える主体の意識を「還元」しようとしてきた
ような気がする。

>確かにすべての表現者=芸術家(作家、音楽家、宗教家)は
>巫女的な要素を持っていますね。 (C)

そーだな。原始的な集落では、祭祀的イベントの中で宗教、哲学、芸術が
渾然一体となっている。「芸術(art:方法)」という語に「何の」という意味が
抜けていて「何かの方法、術」という呼び方が定着した背景には、やはり
言葉にできないモノがあると見てもいいかも知れない。
185(OTO):2005/10/04(火) 11:31:25
>「無」=「死」とすれば、死の舞踏。。。ブランショにこういう言葉が。
>「読書とは事実おそらくは、隔離された空間での眼に見えない者をパートナーにした
>ひとつのダンス、〈墓石〉との楽しい、熱狂的なダンスなのである」(『文学空間』)。 (S)

>彼の小説は死を扱っているものがほとんどですから、当然といえば当然なのでしょう。 (C)

うむ。おそらく銃殺されかかった経験が影響してるかもな。まさしく間近に肉薄する死とのダンス。
(ジャック・デリダ「滞留」収録ブランショ「私の死の瞬間」)
彼の初期のロマンはまだ読んでいない。「待つこと・忘れること」(期待・忘却の古い翻訳)
が好きだな。「期待・忘却」の訳もクリアでいいんだが、二人の関係をもっと微妙に感じる。


>『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名付けえぬもの』の三部作を通して、
>ベケットの場合は、語り手自身が「名付けえぬもの」になっていく。。。
>あるいは、その前に発表された『ワット』で既にその萌芽があって、
>体の向きと足の向きとが180度異なったままのワット氏の歩行は、
>パントマイムのような奇妙奇天烈なダンスです。(S)

ベケットはセリフの無いダンスみたいなものの脚本も書いてるよな。
(ドゥルーズ「消尽したもの」収録)ベケットの登場人物は死ぬこともできずに
かろうじて生きている感じだ(笑。おれは書肆山田から出てる後期の作品が好きだな。
どんどん「沈黙」に近づいていくような、つぶやきのような作品群。
186 ◆Fafd1c3Cuc :2005/10/09(日) 15:49:14

182-183 SXY ◆uyLlZvjSXY さん

朝から秋雨の休日は読書にはもってこいですね。ひと雨ごとに秋の気配が深まります。

>これほど「死」を語り続けた人も珍しいかもしれませんね。
>バタイユの「死」には肉体的なエロスがつきものですが、
>ブランショにはそれが稀薄ですね。
バタイユとブランショは同じように「死」をテーマにし、扱いながらも、向き合う姿勢が
まったく異なっていますよね。
バタイユには死の瞬間のぎりぎりまでエロスを堪能しようとする強い欲望を感じます。
彼はエロスの恍惚から死へ移行する段階を、恐怖、苦痛、甘美、法悦として「死」への
享受を描きました。
ブランショにはそうした欲望が皆無です。彼はバタイユのように激しい法悦のなかで「死」を
切望するというよりは、静かな諦念のうちに死を迎え入れようとする姿勢を感じます。
彼は生に対しても死に対しても、もはや何も期待しない、それは「断念」に近いのでは
ないでしょうか……?

――人生のかなりの部分を諦めて生きることにしか、やはりどうしても美を感じられない
人間の悲しみがある。それはむしろ、もっと乾いた人間の任務に近い。重く、暗く、苦い
強烈な人間の存在のからくりに身を任せる。そして、その虚しさと途方もなさに、改めて
うちのめされることだ――『幸福という名の不幸』 曽野綾子

――人間にとって死は必要なことです。人間は断念を知る時に、初めて平凡な力でも
本質に立ち戻れるかも知れません。断念は芳香を持っています。哀しさがその香を
強めるのでしょうか。何かを断念して死に至るということは人間の本性によく合って
いるのです――『別れの日まで』 曽野綾子


(つづきます)
187 ◆Fafd1c3Cuc :2005/10/09(日) 15:50:06

>慧眼です! ジャベスとブランショは読後感において似ているのですが、
ありがとうございます! 嬉しいです。わたしは的外れな読み方をすることが多いもので。
(つい最近も某板の某スレでとんちんかんなカキコをしてしまいました……)

>おそらくモノローグとダイアローグの間のヴェクトルが逆なのかもしれないですね。
そうですね。両者のヴェクトルが逆であるがゆえに実は惹き合うのではないでしょうか。
さながら磁石がN同士では引き合わないように。。。

ブランショが哲学的である理由のひとつに、哲学の第一義である懐疑が己に向けられ
ていることが挙げられると思います。そこでは自身との「対話」(内的対話?)が必須です。
それは発話されないがゆえに一見沈黙しているようですが、実は自身との対話が行われ
ているのですね。それが最も顕著なのが『私について来なかった男』ではないでしょうか。
書き手の私と読み手の私との対話、つまり、私と私の対話。

――哲学の基本が「対話」であるとするならば、ブランショは哲学的でありながらも、
あえて意図的な反哲学的とでもいうのでしょうか……?――(>>177) 
これはわたしの早とちりでした。
内側に向けてなされる私との対話、そして、外側に向けて発せられる他者との対話。
哲学するものにとって対話は「他者」と行われることは不可欠ですが、それに先立つ前提
として先ず「自分」に問いかけること、自身との対話がなければならないのですね。
ブランショ特有の「間」、すなわち「沈黙」は自身に向けての対話ではないでしょうか。。。


(つづきます)
188 ◆Fafd1c3Cuc :2005/10/09(日) 15:51:07

>アポリネールはチェスタトンなんかとの親近性が感じられる作家だと思います。
『虐殺された詩人』を読了しました。
冒頭からしておちゃらけた文体、失笑を誘うストーリー展開に先ず驚きました。
全編をこんな軽い調子でいくのかな? と思いきや、さすがは根っからの詩人。
義父がクロニアマンタルを教育する場面の描写は叙情的で大変美しいですね。
(ラストは風刺がかなり感じられましたが…。)

――月明りのこぼれるような五月のある夜、先生が森のはずれの野原につれて
いったことを、クロニアマンタルはけっして忘れなかった。ミルク色の明りに草がキラキラ
光っていた。二人のまわりで、蛍がおののくように光っていた。その燐光のような、
あちこち飛び交う明りが、その光景に奇妙な様相を与えていた――

――五月のある一日、彼は馬で長い遠乗に出かけた。朝だった。自然はまだみずみず
しかった。朝露が茂みの花からしたたり、道の両側にはオリーヴの畑が一面に続き、
その灰色の葉が海から吹き寄せるそよ風にやわらかく揺れ、青い大空と心地よく
融け合っていた――

シモンの自然描写がむせ返るような夏草の匂いや雨や干し草の匂いに象徴される
「骨太な大地の匂い」ならば、アポリネールは五月のかぐわしい若草の香りに象徴される
「薫風、青風」でしょうか。壮年と青年。。。

>アポリネールを少しメルヘン的にするとシュペルヴィエルになるでしょうか。
シュペルヴィエル、初めて知る名前です! この作家も近いうちに読みたいです。
それにしてもSXYさんの読書は多彩に富んでいて、量の多さ幅の広さに毎回驚嘆です!
いつも、新しい扉を開けていただき、ありがとうございます。


――それでは。
189 ◆Fafd1c3Cuc :2005/10/09(日) 15:52:06

>>184-185 (OTO)さん

お名前が漢字表記から英文字になったのですね。

>身体の享受、感覚への全的没頭は我々の言語秩序によって支配された「意識」に
>とっては 言表不能な領域だが、それこそ動物の基本システムじゃないかな。
「なぜ動物には≪痛覚≫が必要なのか? それが最終的には身を守るものであるから」
というようなことを何かで読んだ記憶があります。
例えば炎の中に指を入れたら火傷という≪痛覚≫を覚えるので瞬間的に指を引っ込め
ます。もし≪痛覚≫がなければそのまま指は焼かれ、損傷してしまいます。
また、動物が天敵に襲われた場合も≪痛覚≫がなかったら抵抗することもなく、殺され
てしまいます。≪痛覚≫ゆえに動物たちは何とか逃れようと生存を賭けて闘います。
以上から踏まえて、人間も動物も自らの生存と保身のために苦痛は必要善であり、
それゆえに最終的には身体に享受される、それが「動物の基本システム」なのかな?
と思いました。

>「芸術(art:方法)」という語に「何の」という意味が
>抜けていて「何かの方法、術」という呼び方が定着した背景には、やはり
>言葉にできないモノがあると見てもいいかも知れない。
そうですね。言葉にできないモノを表現するには絵画や音楽などのほうが時として
わかりやすいですね。まだ一度も海を見たことのない人に海の美しさを言葉で
説明することは至難の業ですが、映像や絵画ならば一目瞭然です。
また、こころが浮き立つ状況は音楽ならば長調や和音などで表現されます。
その音楽を聴いて自然とハミングしたり、足取りが軽やかになったりしますね。

文学や哲学は言葉にできないモノをあえて言葉で表現しようとする世界です。
表現者にとって挑戦のし甲斐があるのは確かですが、目指すものが大きすぎて、
また奥が深すぎるゆえに、大変な努力を強いられる世界でもありますね。。。


(つづきます)
190 ◆Fafd1c3Cuc :2005/10/09(日) 15:52:50

>うむ。おそらく銃殺されかかった経験が影響してるかもな。まさしく間近に
>肉薄する死とのダンス。
……そうだったのですか。ブランショにはそんな体験があったのですね。
シモンは戦争体験者であり、同じように死に隣接した体験を持っていますよね。
ブランショとシモンは間一髪のところで死を逃れ生還しましたが、両者の文学における
言葉の表現の手法は対極にありますね。
シモンは明日の命が保証されない戦場で、今この瞬間に連綿と湧きあがる言葉や、
縦横無尽に蘇える夥しい記憶の数々をすべて残らず書き留めたいと切望しました。
それが彼にとっては自身が生存していることの唯一の確かな証しであったからです。

ブランショは銃口を向けられ死を目前にした瞬間、この世のあらゆるものが意味を失い、特に「言葉」は何の意味もなさないことを瞬時に悟ったのではないでしょうか?
発話される言葉の意味を失ったこと、むしろ言葉と言葉の間にひっそりと身を潜めている
沈黙のほうが遥かに深く、重く、大きいものであると知ったのではないでしょうか。

死の寸前まで行ったふたりは同じように文学者、つまり表現者になりました。
ブランショは思考者、つまり哲学により近い独自の「沈黙」の世界を築き、
シモンは奔放な想像力を発揮し、自在に言葉を飛翔させ「饒舌」の文学の新境地を開拓
しました。
死がもたらすもの、――それは沈黙であり、そして饒舌であることを――、この両者から
作品を通してわたしたちは知らされるのですね。。。

『最後の人・期待・忘却』モーリス・ブランショ著/豊崎光一/訳/白水社1980
他館から取り寄せて借りられるかもしれません!

――それでは。
191SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/10/12(水) 00:22:37
>>184-185 (To OTO)
デリダ「滞留」、ドゥルーズ「消尽したもの」を読んでいるとは!
音なしの構えかと思いきや、OTOさんはなかなかあなどれない読み手也。

そういえば、最近『ブランショ小説選』という新刊が出ましたが、
「私の死の瞬間」で書かれている銃殺されかかった経験とともに、
『死の宣告』や『白日の狂気』の中でも、ひとつの死の経験が描かれていて、
ブランショもまたバタイユとは異質ながら、
ベースに《経験》を宿した書き手だと思いますね。

>ベケットはセリフの無いダンスみたいなものの脚本も書いてるよな。
後期の無言劇は、余計なものを削ぎ落とし尽くしたかのような印象があり、
ベケットのストイックな(そしてほんの少しユーモラスな)精神を感じますね。
192SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/10/12(水) 00:23:37
>>186-188 (To Cuc)

>バタイユとブランショは同じように「死」をテーマにし、扱いながらも、
>向き合う姿勢がまったく異なっていますよね。
二人とも特異な《経験》をモチーフに作品を書いている面がありますが、
バタイユの《経験》が、日常の中で一挙に異常が裂け目をつくるのに対して、
ブランショの《経験》は、日常がそのまま静かに異常に転化させる感じがします。

>ブランショには静かな諦念のうちに死を迎え入れようとする姿勢を感じます。
>彼は生に対しても死に対しても、もはや何も期待しない、
>それは「断念」に近いのではないでしょうか……?
それを「諦念」や「断念」と呼ぶことには、少し躊躇いを感じます。
というのは、ブランショの作品で呼びかけられる「来たれ(ヴィアン)」という言葉には、
ある未知のものに対する期待=待機があると思うのです。
そこには「良し(ビアン)」の響きを聴き取る事もできるかもしれません。

曽野綾子は読んだことがありませんでした。
この作家は是非読んでみたい作家の一人です。
引用してもらい、更に興味が掻き立てられました。

>わたしは的外れな読み方をすることが多いもので。
とんでもない! 非常に優れた読み手だと思いますよ。
Cucさんのような感性豊かな読者に恵まれた作家は幸せ者です。
193SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/10/12(水) 00:44:32
(承前)

>どんどん「沈黙」に近づいていくような、つぶやきのような作品群。 (By OTO)
というベケットがモノローグ的であるのに対し、

>それは発話されないがゆえに一見沈黙しているようですが、実は自身との対話が行われ
>ているのですね。それが最も顕著なのが『私について来なかった男』ではないでしょうか。
>書き手の私と読み手の私との対話、つまり、私と私の対話。 (By Cuc)
というブランショはダイアローグ的だといえるでしょう。
ただし、沈黙=間の多い不確かで心許ないダイアローグ。

だから
>ブランショ特有の「間」、すなわち「沈黙」は自身に向けての対話 (By Cuc)
というのは、まさしく正鵠を射てると思います。

一方、バタイユの作品に感じるのは、デスローグ的とでも名づけたくなるような、
言葉を超えた交歓(コミュニカシオン)へと赴こうとする姿勢ですね。

「対話」という面で考えたとき、バタイユとブランショの中間的な場所に
『特性のない男』のロベルト・ムージルを置いてみたくなります。
そこで描かれているウルリヒとアガーテという双子の兄妹の対話は、
官能的でもあり、哲学的でもあるような、刺激的で深みのあるダイアローグです。 〆
194(OTO):2005/10/14(金) 15:24:51
いきなりアレだけどこのスレ来るとほっとするわ、まぢで(笑。
ほんといつもありがとな、Cuc、SXY。

>ブランショは思考者、つまり哲学により近い独自の「沈黙」の世界を築き、
>シモンは奔放な想像力を発揮し、自在に言葉を飛翔させ
>「饒舌」の文学の新境地を開拓 しました。
>死がもたらすもの、――それは沈黙であり、そして饒舌であることを――、
>この両者から 作品を通してわたしたちは知らされるのですね。。。 (C)

ふむ、なるほど。しかしシモンの饒舌は情景の描写に費やされている。
(あの冷徹な性行為の描写!)
そしてブランショは抽象的な領域の記述に徹底的であろうとする…。
その文章表現を別の視点から見ると彼らの「饒舌―沈黙」の対比は
逆転するのかも知れないな。

>そういえば、最近『ブランショ小説選』という新刊が出ましたが、
>「私の死の瞬間」で書かれている銃殺されかかった経験とともに、
>『死の宣告』や『白日の狂気』の中でも、ひとつの死の経験が描かれていて、
>ブランショもまたバタイユとは異質ながら、
>ベースに《経験》を宿した書き手だと思いますね。 (S)

そいつは知らんかった。『死の宣告』は読んでないな。
「白日の狂気」はおもしろかったな。不思議に抽象化された告白、自叙伝。
日常的な些末なできごとによって一挙に崩壊していく価値観。
アンジェイ・ズラウスキの映画を思い出すような。
最後の方ではユーモラスなものまで感じた。
確かにベース経験だよな。政治ルポライター(みたいなもの?)出身だし。
なかなか読む気がでないが「政治論集」もそのうち読んでみたい。
195(OTO):2005/10/14(金) 15:25:40
「白日の狂気」で思い出したが、一時朝日出版社のポストモダン叢書
(全部絶版ね)を古本屋で買いあさっていたことがある。
前にCucに話したデュラスの「死の病」(SXYは読んだことある?)をはじめ、
「明かしえぬ共同体」、デリダ「哲学における最近の黙示録的語調について」
などなど。特にこのデュラスはまぢおすすめ。いま人に貸しっぱで手元に無いんだが、
あったらおまいらに貸してやりたいくらいだ(笑。
「明かしえぬ共同体」の第2部に少し抜粋されてるだろ。

曽野綾子はおれも読んだこと無いんだが、Cucの引用読むと、読みたくなるな。
ロベルト・ムージルも未読。いつまでたっても読みたい本が山積みだ(笑
196 ◆Fafd1c3Cuc :2005/10/15(土) 22:11:08

>>191-193  SXY ◆uyLlZvjSXY さん

>そういえば、最近『ブランショ小説選』という新刊が出ましたが、
そうでしたか。ぜひ読んでみたいですね!
ブランショは作品の数は多くはないですが、一度読むと忘れられない作家ですね。

>ブランショもまたバタイユとは異質ながら、
>ベースに《経験》を宿した書き手だと思いますね。
作家にとって大切なのは《想像力》もさることながら、やはり《経験》は侮れないと
思います。
(特異な経験を持つ者がすべて作家になれるわけではりませんが……)
その《経験》をいかに作品に生かし、掘り下げ、取り組んでいくか、まさに書き手の
腕の見せ所ですね。《経験》についての第一人者といえばやはり森有正でしょうか。

――「経験」というものがその一人の人間を定義するのである。
経験そのものは、自分を含めたものの本当の姿に一歩近づくということ、更に換言
すれば、言葉の深い意味で客観的になることであると思う。文学者や芸術家の
創作活動というものは、こういう意味の経験の極地である。
――『遥かなノートル・ダム』 森有正

――言葉を通して、言葉によって個人の経験が普遍的なものに広がっていく。
経験は、「未来」へ向かって人間の存在が動いていくことです。
一方、体験は「過去」のある一つの特定の時点に凝固してしまうことです。
――『生きることと考えること』 森有正

体験は過去にのみ目が向けられているのに対し、経験はつねに未来に向かって
開かれ、経験を成熟させます。文学も哲学も「経験」の成熟の結果なのですね。


(つづきます)
197 ◆Fafd1c3Cuc :2005/10/15(土) 22:12:39

>それを「諦念」や「断念」と呼ぶことには、少し躊躇いを感じます。
…そうですね、これはわたしもちょっと走りすぎたかなあ、と。。。

>というのは、ブランショの作品で呼びかけられる「来たれ(ヴィアン)」という言葉には、
>ある未知のものに対する期待=待機があると思うのです。
>そこには「良し(ビアン)」の響きを聴き取る事もできるかもしれません。
そのような深い意味が込められていたのですね。
今回、森有正の『遥かなノートル・ダム』を再読しましたら、以下のような言葉が。
――美は、沈黙であり静寂であるほかはない。この静かな成熟過程、すべては
一つの内面的な「促し」から発足する。これを大切にしなければならない――

真善美が人間の最高位であるならば、つまり「良し(ビアン)」=美であるとすれば、
沈黙であるほかはない、ということですね。
ブランショは死を目前にした経験を「沈黙」に置き換え、随所に散りばめています。
死=沈黙、ともとれます。けれども沈黙とは言葉の死ではなく、内面的な促しによる
結果なのですね。「促す」つまりこころが動いている状態、森有正流にいうならば
「未来に向かって開かれている」ということでしょうか。
確かにブランショは沈黙の作家ではあるけれども、彼の目は過去には向いていない。
「死」という「未来」に向けて開かれているのですね。
沈黙とは退行や思考の停止などではなく、経験の成熟の結果なのですね……。


(つづきます)
198 ◆Fafd1c3Cuc :2005/10/15(土) 22:14:01

>Cucさんのような感性豊かな読者に恵まれた作家は幸せ者です。
ありがとうございます。そのように言っていただけて、本当とてもうれしいです!
(わたしは昔から、思い込みの激しい著しく偏った読み方をするもので……)

>一方、バタイユの作品に感じるのは、デスローグ的とでも名づけたくなるような、
>言葉を超えた交歓(コミュニカシオン)へと赴こうとする姿勢ですね。
確かにブランショとバタイユのコミュニケーションの手段は対極にありますね。
ブランショは「対話」とはいえ、発話されない「沈黙」で交流しようとし、
バタイユは相手の身体に触れ、交わるという最も原初的な手段で交歓します。
普遍的な原初の性行為の快楽、言葉に頼りすぎない沈黙という高度な対話、
何だか人類の進化の過程を見ているような気になります……。

>「対話」という面で考えたとき、バタイユとブランショの中間的な場所に
>『特性のない男』のロベルト・ムージルを置いてみたくなります。
初めて聞く作家です!
予定しているベケットの次あたりに読んでみたいですね。

――それでは。

(追 記)
窓越しに雨音が聴こえます。どうやら雨が降り始めたようです。
こんなに静かな夜に秋の雨は大歓迎です。
こころが落ちつきます。。。
199 ◆Fafd1c3Cuc :2005/10/15(土) 22:15:53

194-195  (OTO)さん

>ほんといつもありがとな、Cuc、SXY。
こちらこそありがとうです。このスレは「交換日記」ですので対話が主流です。
おふたりがいなければこのスレは成り立たないのですね。感謝です。

>ふむ、なるほど。しかしシモンの饒舌は情景の描写に費やされている。
>(あの冷徹な性行為の描写!)
ああ、そこには気づきませんでした。
確かにシモンはひとつの情景を延々と繰り返していますね。それも執拗といって
いいくらい、写実という黒子に徹しています。ですから饒舌とはいえ、書き手の私見を
声高に押しつけないという点においては非常に慎みのある作家だと思います。

>そしてブランショは抽象的な領域の記述に徹底的であろうとする…。
>その文章表現を別の視点から見ると彼らの「饒舌―沈黙」の対比は
>逆転するのかも知れないな。
実に斬新なご意見ですね! そうですね、シモンは具体的な情景描写に命を懸け、
ブランショは抽象的な領域を言葉で極めようとしたという点を鑑みるならば、描写する
対象が異なっているだけで両者とも饒舌であり、寡黙な作家ではないといえるのでは
ないでしょうか。
ただ、ブランショにおける「間」が深い沈黙を孕んでいるためにとらえにくく、わたしたち
は彼が語らない作家であると勝手に思い込み、錯覚しているのかもしれません。。。
一方、シモンには「間」というものが皆無です。息を継ぐ間もなく次々と何の脈絡もなく
広がっていく記憶の描写の連続に次ぐ連続。彼は沈黙を非常に恐れているように
見えます。。。ひとたび沈黙したら二度と再び言葉を紡ぎだすことはできない、
そんな切迫感を感じます。ブランショには(本心はともかく)、余裕が感じられます。


(つづきます)
200 ◆Fafd1c3Cuc :2005/10/15(土) 22:17:50

>確かにベース経験だよな。政治ルポライター(みたいなもの?)出身だし。
それは初めて知りました。
随分と乾いた目線で描く作家だなあ、とは思っていましたが……。
作家につきものの感性や特有のウエットさがあまり感じられず、理知のほうが勝って
いる印象を受けました。。。それゆえに、ブランショは哲学的です。
(某板でのわたしのカキコです、以下ご参照)
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1104147021/116

>前にCucに話したデュラスの「死の病」(SXYは読んだことある?)をはじめ、
そこまで言われるとぜひ読んでみたくなりますね。
図書館横断蔵書検索の結果、ようやく他館で探しあてましたよ。
「死の病い・アガタ(ポストモダン叢書 2)」/マルグリット・デュラス著/
小林康夫訳 吉田加南子訳/朝日出版社1984
かなり後になると思いますが、読む予定でおりますので、しばしお待ちを。

>いつまでたっても読みたい本が山積みだ(笑
同感です!
SXYさんや(OTO)さんが紹介してくださる多彩に富んだ作品名を目にするたびに
どんどん図書館で検索する量が増えてゆきます。
読む楽しみが増えてゆきます。好奇心があるということは、こころが動いている証しで
ありますよね。読書は一人で書物に向き合い、対話するという貴重な経験です。
言葉を与えられた人間だけの特権的かつ芳醇なひとときです。


――それでは。
201SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/10/16(日) 22:22:48
>>194-195 …To OTO(&Cuc)

>「白日の狂気」はおもしろかったな。不思議に抽象化された告白、自叙伝。 (By OTO)
ブランショの作品には「自伝的」と形容できる作品もいくつかあり、
「私の死の瞬間」もそうですが、具体的な日付が書かれていることも。
ただ、そうした作品でも全体的な印象が非常に抽象的なのは、
彼の注視が「言葉」や「書くこと」に向かっているためだと思われつつ。

>前にCucに話したデュラスの「死の病」(SXYは読んだことある?)をはじめ、
>「明かしえぬ共同体」、デリダ「哲学における最近の黙示録的語調について」(By OTO)
デュラスの『愛人』『破壊しに、と彼女は言う』『モデラート・カンタービレ』など、
数作は既読ながら、『死の病い・アガタ』は読んだことがないですね。
う〜ん、ポストモダン叢書はレア物が多そうなので、ちょっと入手困難かなぁ。

>いつまでたっても読みたい本が山積みだ(笑 (By OTO)
まさに。。。例えばCucさんが引用した森有正『遥かなノートル・ダム』。
大学の先生に薦められて買ったものの現在行方不明。
ああ、遥かな『遥かなノートル・ダム』。。。
202SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/10/16(日) 22:23:48
>>196-198 …To Cuc(&OTO)

>確かにブランショは沈黙の作家ではあるけれども、彼の目は過去には向いていない。
>「死」という「未来」に向けて開かれているのですね。 (By Cuc)
その通りだと思いますね。彼における「死」は「生」と対立しないのでしょう。
少し視点は違いますが、デリダのブランショ読解もそうした方向性を持ってます。

>予定しているベケットの次あたりに読んでみたいですね。 (By Cuc)
ベケットとシモンは意外にもノーベル賞を受賞した作家で、
この2人を推薦した選考委員には敬意を表したくなります。
ベケットは来年生誕100周年なので、ちょっと盛り上がるかな?
203SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/10/16(日) 22:34:36
(承前)

《饒舌/寡黙》というテーマではやはりベケットが興味深い例でしょう。
初期の饒舌な作品から後期の寡黙な作品には必然性が感じられますが、
ベケットやブランショのような作家においては、
《ウェット=叙情的/ドライ=理知的》という図式が意味を持たない土俵での、
表現することにおける戦いのようなものを感じます。。。

それにしても、お二人とも古今東西の本をよく読まれてますね!
いつも非常に刺激を受けてますよ。  〆
204無名草子さん:2005/10/17(月) 12:15:53
ローマ滅亡
205(OTO):2005/10/18(火) 13:22:53
おい、おまいら今回速杉(笑。
とりあえず「死の病」冒頭の抜粋でお茶をにごして、と(笑。
(前にミクシで紹介した時のが残ってた)

あなたは彼女を識らないのでなければならないだろう。
同時にあらゆるところに彼女を見出したのでなければならないだろう。
あるホテルに、ある街角に、汽車のなかに、バーのなかに、一冊の書物のなかに、
あなた自身のなかに、あなたのなかに、おまえのなかに、その身を置くところ、
その身をいっぱいに満たしている涙をはき出すための場処を呼び求めて
夜にそそりたつおまえのセックスの赴くままに。

いきなり深いところにえぐりこむように語りかけてくるレシ。
206(OTO):2005/10/18(火) 13:23:34
>ブランショにおける「間」が深い沈黙を孕んでいるためにとらえにくく、わたしたちは
>彼が語らない作家であると勝手に思い込み、錯覚しているのかもしれません。。。 (C)

>そうした作品でも全体的な印象が非常に抽象的なのは、
>彼の注視が「言葉」や「書くこと」に向かっているためだと思われつつ。 (S)

それがレシのための視点、少なくとも条件のひとつとも思われる。
その微妙にして厳密な立ち位置が、「ブランショファン」であるデリダをして
「エクリチュール」という概念を生むヒントにさえなったのではないかと
おれは思っているのだが。

SXYの言うとおりブランショ、ベケットの言語表現に対する姿勢には
「戦い」とも呼ぶべき徹底的で熾烈なものを感じるな。
まあ、Cucの言うようにブランショには若干余裕を感じるが。
(育ちがいいというかw)
「以前よりもっとよく、もっと悪く言い間違う」(うろおぼえベケット)
などと「書かれる」と読む方は、びびるよな(笑。
207 ◆Fafd1c3Cuc :2005/10/23(日) 20:37:13

>>201-203 SXY ◆uyLlZvjSXY さん

>ただ、そうした作品でも全体的な印象が非常に抽象的なのは、
>彼の注視が「言葉」や「書くこと」に向かっているためだと思われつつ。
ブランショの作風はストーリーやテーマ云々というよりは、まさしく「書くこと」
あるいは「書く過程」のみに全神経が向けられていますね。
「作者が一番言いたかったことは何か」ということが、よく読書感想などで
取り上げられますが、ブランショにおいては「書くこと」そのものが第一義ですね。

>その通りだと思いますね。彼における「死」は「生」と対立しないのでしょう。
>少し視点は違いますが、デリダのブランショ読解もそうした方向性を持ってます。
生と死、発話と沈黙、光と闇、至高者と権力者、書き手と読み手、ブランショは対立的
なものに優劣をつけず同一線上で語り、対立的なものが等号で結ばれます。
わたしはブランショの作風は「霧」に喩えてきたのですが、霧は水分を多量に含んで
はいますが雨でも雲でもありません。完全な液体でも気体でもない、どっちつかず
曖昧に位置するものです。
ブランショにとって、生と死の境界はつけようもなくわたしたちは霧の世界に住んで
いるようなものです。そしてその「あわい」の世界で何かを鮮明にしようとする段階で、
彼が選び取った手法は「文字として記すこと」、つまり「書くこと」でした。
『至高者』における看護婦のアンリへの執拗かつ異常ともいえる「書くこと」への強い
要求。なぜ、彼はそれほど「書くこと」にこだわったのでしょう?


(つづきます)
208 ◆Fafd1c3Cuc :2005/10/23(日) 20:38:08

政治ルポライターにとって一番大切なもの、それは憶測を交えることなく自らの目で
見たことを書き記すことではないでしょうか。眼前で起っていることに私情をいっさい
交えずに正確に写し取ること。
彼の記事ひとつで反感を買い、失墜する政治家だっているのですから。。。
一時の感情に呑まれない冷徹さと、激情に左右されない冷静さを必要とします。
そうしたまなざしを持つ人にとって人の死ほど最も書きにくいものもなく、同時に最も
激しく興味を掻き立てられるものもないでしょう。
政治ルポライターにとって死者に対する憶測記事はタヴーなのです。
それが許されるはフィクション、創作をする世界においてのみ可能なのです。

創作をする身の上になりながらも、書く過程であれほど言葉と格闘し、やっとの思いで
とらえた言葉たちは、書き終えた瞬間に、白日の光のなかに姿を消してゆきます。
(『私についてこなかった男』)
必死に掴みとり書き記された「言葉」さえも不確実なものなのかもしれません……。
彼の作品の主人公は墓所を好み、死者と沈黙の対話を欲します。
では、一番安定していて確実なのは彼の作品に頻発する「死」なのでしょうか?
いいえ、その「死」さえも彼にあってはやはり曖昧なのです。
トマは生者でもなく死の世界からも押し戻された人間なのですから。(『謎の男トマ』)
では、確実なのは思考=存在でしょうか? 否、それさえもブランショは否定するの
です。言葉も、死も、存在も、彼にとっては曖昧なものでしかない。
ブランショにあっては、この現実界や人間の存在そのものが不確実であるのですね。


(つづきます)
209 ◆Fafd1c3Cuc :2005/10/23(日) 20:38:54

>《ウェット=叙情的/ドライ=理知的》という図式が意味を持たない土俵での、
>表現することにおける戦いのようなものを感じます。。。
ブランショは言葉と格闘する作家ですね。
その過程を小説にしてしまうほどですから、言葉に対する入れ込みを感じます。
今までどちらかというと叙情的な作風の作家にのみ親しんできたわたしにとって、
ブランショの作品は未知との遭遇でした。
キャラクターが際立つというのでもなく、ストーリー展開が云々と論じられる作家
ではないからです。
かと言って哲学論文とも異なります。わたしのなかで位置づけができない作家です。
それがブランショの魅力かもしれません。。。
不可思議でとらえられないものにこそ、人は魅せられるのですから。
そして、ひとたびとらえられたらどんなにあがこうとも虜になったまま、夢遊病者の如く
魂ごと献上せざるを得ないのです。そのふわふわした羽衣を纏っている状態こそが、
ひそやかな歓びをもたらすのです……。秘密の砂上の舞の快楽なのです。
恐るべし、ブランショ! 来たれ、ブランショ!

>いつも非常に刺激を受けてますよ。 
こちらこそです! どきどきしながら読ませていただいております。


――それでは。
210 ◆Fafd1c3Cuc :2005/10/23(日) 20:39:41

>>205-206 (OTO)さん

>おい、おまいら今回速杉(笑。
そんなに急がなくても大丈夫ですよ♪ 気が向いたときに気の向くままにカキコして
いただければ、と思います。
長距離ランナーは飛ばしすぎは禁物ですよね。マイペースでいきましょうね♪

>同時にあらゆるところに彼女を見出したのでなければならないだろう。
「彼女」は遍在するのですね? 
(少佐みたい…、某スレはツワモノ揃いですのでROMに徹していますよ)
一定の形を持たず、個体としての身体を持たずに、浮遊する。汎神論?

>まあ、Cucの言うようにブランショには若干余裕を感じるが。
>(育ちがいいというかw)
そうですね。言葉に対して格闘はするのですが、猪突猛進なところは微塵も見られ
ませんね。何でもかんでも思い浮かんだことを書き留めるというのではなく、非常に
厳密な取捨選択がなされていると思いますね。
そのため、不的確と判断された言葉たちは掬い取ったそばから容赦なく棄てられ
ます。何と、非情な眼!
日の光のなかに消えていく言葉たちの亡霊が残滓として漂っています。。。
……わたしはひとたび探し当て、掬い上げた言葉たちを放棄するのがとても、
怖い…。最終稿としてレスをupするときは、それらの言葉は記されてないけれども、
Wordには初稿のまま消さずに残っています。
そうした意味で、わたしには潔さがないのです。。。


(つづきます)
211 ◆Fafd1c3Cuc :2005/10/23(日) 20:40:54

沈黙は水に似ていますね。

原始地球の創世期から今日に至るまで水はどんなに堅牢なものもゆっくりと時間を
かけて溶かしてきました。自然界の被造物で水に溶けないものはひとつもないそう
です。頑強な岩を丸くし砂に変えます。穏やかに溶かす一方で水は鋭利な刃物にも
なります。静かな湖面にいきなり飛び込んだ人の腹部が水によって切り裂かれること
もあります。また、水は気体に姿を変え、あらゆるものに潜むことが可能なのです。

沈黙はあらゆる対話に潜み、どのような対話者にも「等しく」与えられています。
沈黙を行使できる者、それは権力者ではなく至高者なのかもしれません……。
発話された言葉や書かれた言葉は一瞬で人のこころをとらえることができるでしょう。
けれども時の推移のなかで煌きは薄れいつしか色褪せてしまう言葉の何と多いこと。
時を経てもこころの奥深いところにまで浸透する言葉は本当に少ない。。。
では、沈黙はどうでしょう? 発話された言葉のように即時的な威力はないものの、
気の遠くなるような永い年月をかけて発酵し、無意識のうちに奥深いところに入り
込み、人のこころを掌握していくのではないでしょうか。

高名な学者たちが万の言葉を尽くして饒舌に語りながらも、読み手のこころを
まったく揺さぶらない事実がある一方で、寡黙で無学な人が口にした、たった
ひとつの言葉がこころに深く響くことがあります。それはなぜでしょう?
その人の日々の生活に培われた人生哲学ゆえでしょうか? それもありますが、
やはりそこには永い年月を経て発酵された「沈黙」の力が大きくはたらいていると
思うのです。たったひとつの言葉は永い年月の沈黙の上に成り立っているのです。

ブランショは『至高者』で真実は墓所、黙して語らぬ死者の眠る地にこそある、と
言いました。それゆえに彼は永遠なる沈黙の地、墓所を愛したのです。


――それでは。
212SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/11/03(木) 01:00:56
Cucさん、OTOさん、
ちょっと日本を離れる用事ができ、
ばたばたして書き込みができませんでした。
落ち着いたらまた寄りますが、もう少しかかりそうです。
御容赦ください。。。
213 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/03(木) 18:17:24

SXYさん

お忙しいときに丁寧にありがとうございます。
どうぞ、お仕事に専心なさってください。
ここは速さを競うスレではありませんし、書くことが義務となってしまっては
お互いに負担となってしまいますので、気が向いたときにそれぞれが読了した本の
感想を書きたいときに書いていただければ、と思います。

このスレが発足した当初の春、夏は急ぎ足で駈け抜けられますが、秋、冬はゆったり
と歩む季節です。若芽は急激に伸びますが、一定の時期が来たらゆっくりと実が熟す
のを待つことも必要です。
冬の暖炉の傍らでは誰もがゆったりと過ごすことを願います。

「二月の雪、三月の風、四月の雨が美しき五月をつくる」
わたしの大好きな言葉です。ちなみに五月は四季の中で一番好きな月です。
(カトリックでは五月を聖母月、と呼ぶのだそうです。本で知りました…)
このひと月、わたしの身辺もばたばたと慌ただしい日々でした。
泣きたくなるようなこともいろいろとありました、、、
非情で容赦ないとも思える雪や風や雨は、美しく花咲く五月のためには必要なの
ですね……。こころのなかにいつも「五月の風」を持っていたいと願います。

お時間ができましたら、いつでもお寄りくださいね。
214(OTO):2005/11/04(金) 16:17:15
お、SXY気つけてな。
あ、それからおみやげなw
215 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/06(日) 20:38:07

(OTO)さん
『最後の人・期待・忘却』の「期待・忘却」を読了しました。

ここに登場する男女はひとつ部屋のなかで暮らしながらも、何と遠く隔たって
いることでしょう。
絶えず話しかける彼、話しつづける彼女、いつも彼女を見ている彼、影のように
寄り添う彼女、、、けれどもふたりの会話は永遠に噛み合うことはなく、視線も
交わし合えない、そこにあるのは一方通行のみのモノログと片方のみの視線。

訳者あとがきで、豊崎光一氏は「彼」がオルフェウスの分身であり、「彼女」が
エウリディケーであると評しておられます。
わたしはむしろ「彼」は虚しく自身の言葉を繰り返すしかないエコーであると同時に
彼女を見つめているようでいて、実は自分しか見つめていないナルシスのように
思えました。なるほど、彼はいつも彼女に話しかけてはいますが、それは対話では
ありません。彼女を見つめていますが、彼の目は彼女に向いていないのです。
彼が見ているのは彼女を通り越した美しいまぼろし。
「彼女」とは彼自身が創り出した幻影、虚像なのです。
彼が彼女に「あなたは神秘的だ」というと彼女は「神秘的なものなんかなにもないわ、
なに一つ神秘めかしてはいません」と悲しそうに言うだけ……。(p239)

――彼ら二人のあいだには真の対話はない。期待だけが、二人の言うことのあいだ
に或る種の関係を維持しているのだ、期待するために言われた言(ことば)、
言(ことば)への期待――(p187)


(つづきます)
216 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/06(日) 20:38:56

彼はいったい何を「期待」しているのでしょう?
そして、なぜ「忘却」を求めるのでしょう?
――「期待は慰めをもたらしません」 「期待する人たちはなに一つ慰められる必要は
ありません」――(p186)
――存在というのもなおまた忘却を指す名の一つである――(p203)
何と乾いた視線、そして冷酷な言葉でしょう。。。
(ブランショは激情の人ではないことがこの一文でわかりますね…)
この作品は「期待」と「忘却」についてブランショ自身の思考の断片を綴ったもの
ですね。レシの形を借りたパンセ(「思想」、「思考」)でしょうか。

この作品の題名「期待 忘却」でふと思ったのですが、期待=未来、忘却=過去、
と換言するならば、ブランショの全作品に通じているのは「現在」(〜ing)の作品が
あまり見当たらないようです。いえ、実際には現在生きている人物を登場させては
いるのですが、彼らの意識は常に過去もしくは未来(死)へ向かっているのです。
トマはまぎれもなく死者であり、アンリも激しく死を渇望していますし、「私について
来なかった男」に至っては≪書き手の私≫は少し遅れて来る≪読み手の私≫に
よって、すでに書いたこと(過去)を何回も繰り返し書き直しさせられています。
創作者にとって、書き記すことは書いたこの瞬間から「過去」になります。


(つづきます)
217 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/06(日) 20:39:51

ブランショは「期待」していることや「希望」が叶えられることを本心から願ったことは
あまりないのではないでしょうか? つねに懐疑が先立つ。
というよりも、それらは叶えられてしまったなら「現実」になってしまい、また新たな
別の「期待」や「希望」を作り出していかなければならない。再び一から始めるには
かなり労力を要するでしょう。では、そうしたものを抱かずに生きていけばいいかと
いうと、それもまた困難なのです。なぜなら人間は希望を抱かずにはいられない存在
だから。。。それは生来人が生きるために必要な本能といっていいでしょう。
また、彼は「思い出」(過去)に対しても感傷さは皆無で、「忘却」をひたすら望みます。
彼にとって大切なのは「思考」なのですね。
それ以外はできるだけ排除したいのでしょう。

ところで、この作品の「彼女」が「彼」に寄り添う影ならば、闇のなかでは彼女は消失
してしまうのです。主体である彼がいくら叫んでも彼女の姿は見えない。
そう、彼女は闇=沈黙者として彼を支配していくでしょう。
明るい白日の光のなかでは彼が主、闇のなかでは彼女が主。そうした意味で
互いを「期待」しつつ、「忘却」を望む彼らは一心同体なのかもしれません……。

――かずかずの語(ことば)は言われ、言(ことば)は焼かれてきた。
火をくく゜り抜けてきた沈黙。忘却は最終最高の目標であったろうか?
期待、忘却――(p200)


――それでは。
218 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/06(日) 20:41:11

(追 記)

『最後の人・期待・忘却』の「最後の人」を読了した感想がすでに
書きあがっています。
Wordに保存してあります。
(例のスレで「最後の人」に関する感想は、、、と仰ってましたので、
「期待・忘却」のほうを先にupしましたが、「最後の人」の感想は
どうしようか迷っています。。。)
219(OTO):2005/11/07(月) 18:17:07
SXYがいなくなると寂しいなwおれたち2人だけか。

「期待・忘却」については少し書けそうだが、
もう少しおまいの感想について考えたい。
「最後の人」の感想、迷わずupしてくれ。

ちなみにおれが「期待・忘却」に最初に触れたのは
「待つこと・忘れること」としてだった。
神保町で見つけたその美しい装丁にやられて、
4,000円以上したのだが、つい買ってしまった。
ブランショの研究、翻訳で知られる郷原佳以氏の
「翻訳文献リスト」にさえ漏れていたその本を、
彼に画像付きのメールで知らせたところ、
画像のリンク付きでリストに加えてくれた。
これがその、おれの持っている本だ。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/4761/imageAOcouverture.jpg

きれいだろw
220 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/08(火) 22:08:57

>SXYがいなくなると寂しいなw
そうですね……。ネットは世界中どこからもアクセスできますから、
ROMしていてくださるとうれしいですよね。

>これがその、おれの持っている本だ。
おおっっっ! 美しいですね……(ため息) 
郷原佳以さんの文献リストにさえ漏れていたものを入手されたなんて
すごいですね!
最後の作家ブランショにふさわしい格調高い金色の装丁。
金文字を背にくっきりと浮かび上がる堂々たる黒い文字の題名。
品のいいモスグリーンで記された著者の名前、そして同じ色の枠線。
金色は「白日の光」をイメージさせますね。(光=言葉=書くこと)
この本がそのまま(OTO)さんの部屋の本棚に今も並べられているのですね!
(想像すると、どきどきしますよ…)
221 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/08(火) 22:09:50

『最後の人・期待・忘却』の「最後の人」を読了しました。
以下、断片的ですが感想です。(レスは特に急ぎませんのでゆっくりとお考えください)

「彼は最後の人だった」という冒頭の一文が印象的でした。
権力者ならば時代の変遷とともに変わりその都度登場しますが、
至高者とはただ一人の最初で最後の存在です。彼は「至高者」だったのです。
至高者とは沈黙を行使できる者。真の至高者は「力」を行使しません。
(そこが権力者とは徹底的に異なる点です)
にも拘わらず、彼と接する人の全存在を掌握し、人生そのものを彼のほうへと
向かわせます。
至高者は、誰のものでもあり、同時に誰のものでもありません。
望む人のところへは変幻自在に至高者の思考が舞い降りますが、帰属はしません。
掴みどころがない、あやふやな存在。

『望みのときに』と非常によく似た設定であり、(男一人女二人に対して今回は
男二人女一人)この作品においてもイマージュが大きく位置を占めていますね。
「彼」と「彼女」とそして「私」の療養所での不可思議な関係。


(つづきます)
222 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/08(火) 22:10:27

彼は目立たず慎み深く控えめで沈黙の人でした。彼に対して「私」は友情を抱く一方
で、彼といると私はいつも気づまりであり、重々しさを感じていました。
「彼女」だけが彼のこころの一番近いところにいたのです。彼女は飾り気がなく、
彼の全存在を受け容れた女性だから。
といっても彼と彼女が事実上どうこうというのではなく、ただ互いの存在を認め合い、
微笑するだけの関係です。ふたりは決して前に進もうとはしないのです。
療養所という「死」を目前にした状況もさることながら、彼も彼女も緊密になることを
非常に畏れている。絆というものはひとたび深められたら最後、あとは切れるだけ、
そんな危惧すら感じられます。慎みと遠慮という淡い中間色こそが細く長く関係を
保つには最適なのだ、といわんとしているかのようです。
ブランショの描く人間関係はいつも相手に深く踏み込まない。それゆえに葛藤もなく、
大きな諍いも生じません。淡々としているのです。
冷淡かというとそうでもなく、時折はっとするような挑戦的なまなざしを向けたりも
しますが、それはほんの一瞬でたちまち平静な状態に戻ります。

こうした人物像はおそらくブランショ自身を投影していると推測しますが、彼は人と
深く関わることを非常に畏れている印象を受けるのです。人間嫌いではないにしろ、
自分の思考を妨げる周囲の喧騒から極度に身を退けていたように思えるのです。
世間から隔絶された場所で隠遁生活をする修道僧のイメージがあるのですね。


(つづきます)
223 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/08(火) 22:10:56

このレシは私と彼と彼女の奇妙な療養所における三角関係、とも読めますが、
そうした単純なものではありませんよね。
名前を持たない「彼」「私」「彼女」たちはこれといった各様の人物の特徴がないの
です。つまり、一人で三役を演じていても不思議はないのです。
――彼は私自身にほかならぬのであり、以前からつねに私なき私だったので
あり――(p47) 
これは「私について来なかった男」の≪書き手の私≫=≪読み手の私≫という
関係そのものです。

奇妙な三角関係といえば「望みのときに」も同様でしたが、なぜ、あえて特徴のない
三人を登場させたのでしょう? 三人である必要は果たしてあったのでしょうか? 
「最後の人」の後半のUは一人称で充分機能しています。
わたしはここに、ブランショのレシに対する渇望を見るのですね。
たいていのロマンは人物が一人では成立し得ません。誰かと出会い、友情や恋を
経験し、諍いや裏切りを経た結果和解があり、あるいは放棄して終る、というふうに。
ロマンにおいては主人公は周囲の人間によって思考や生き方が著しく左右される
のです。けれどもレシはそうではありません。人物の相関図という煩わしさから解放
された領域なのです。あくまでも「自分」の思考のみを軸とし、独白ともいえるそれらを
誰にも妨げられず自由に書けるのです。


(つづきます)
224 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/08(火) 23:15:28

ブランショが何よりも大切にしていたのは「思考」そのものです。
――不動の思考よ、ぼくを包み、たぶんぼくを保護してくれる思考、
返事をせずただそこにいるだけの手におえない思考――(p113)
――思考、ごく些細な思考、静寂な思考、苦痛――(p141)
但し、彼に在っては「思考」=「存在」ではありません。
彼の全作品を貫いているのは「私」の「思考」です。それ以外の日常的な身辺雑記
や、生活臭のあるものを自身の作品に持ち込むことは一切嫌いました。
彼特有の美意識がそれを許しませんでした。
それが読者にも気づまりで窮屈な印象を与えることにもなりましたが……。
(対極にあるシモンは農村の生活の匂い、土の湿った匂いや牛糞の匂いなどを
ふんだんに散りばめました)

Uにおいては、全編が「ぼく」が「おまえ」に呼びかける文体です。
死にゆくぼくが呼びかけている「おまえ」とは一体誰なのでしょう?
それは実体を持たない存在、ぼくがイマージュした不特定な誰かに対しての
呼びかけでしょう。

このレシに頻繁に登場する「静寂」と「切っ先」という言葉。
「静寂」はそのまま「沈黙」につながりますが、では「切っ先」とは何を意味する
のでしょう?
おそらくは「静寂」や「言葉」や「思考」を一瞬で切り裂く猥雑なもの。
あるいは、この世とあの世を明確に切り分ける確かな境界。
ブランショはあやうく曖昧な「あわい」の世界を描きましたが、本心はどこかで
一線を画す鋭利なものに憧れ、求めていたのかもしれません……。


――それでは。
225 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/08(火) 23:16:16

(追 記)

ブランショの作品は水墨画の持つ静謐さにも重なります。
墨の濃淡が鮮明ではなく淡い「ぼかし」がそのまま彼の「沈黙」や「間」などに
通じるのではないでしょうか。彼は白黒はっきりしない中間地帯の「あわい」を
何よりも好みましたから。。。
彼が日本の水墨画に惹かれていたかどうかはわかりませんが、寡黙さや、
薄墨の繊細さなど、彼の「沈黙の主張」の世界観と共通するものがあるような
気がしました。

(「シベールの日曜日」は色のない詩的な映像はまるで日本の水墨画の世界を
ほうふつとさせ、ため息が出るほど美しい……)
226(OTO):2005/11/09(水) 12:43:54
「最後の人」についてはおれはおまいの感想
読むだけにするよwあれはめんどくさいからなw
「望みのときに」は何回も手に取ったが、
どうも訳文がなじめなさそうで未読。
「待つこと 忘れること」についてはちょっと書いたよ。
227(OTO):2005/11/09(水) 12:44:53
「待つこと 忘れること」は平井照敏という詩人によって
1966年に翻訳されている。「期待・忘却」のクリアで
厳密な訳と比べると、あいまいさやぎこちない表現も
少なくなく、全体にスモーキーな、独特のムードが漂っている。
それでも私の中で確かなのは「期待・忘却」は、
あと1、2回は読むかも知れないが、「待つこと 忘れること」は
必ず、数年ごとに、読み続けるだろう、ということだ。
窓から射し込む光に鋭角に切り取られた「異常に細長い部屋」。
少し靄のかかったようなこの部屋に私は何度も訪れることだろう。

「待つこと 忘れること」は男女の二者関係についてのレシだ。
つまり、恋愛。我々が恋愛として思い浮かべる感情の盛り上がり、
意識の高揚は、確かに抽象的な「なにかすばらしいものへの期待」
と言えるだろう。しかしその高揚は永遠には続かない。
期待が何か具体的な目標、「結婚」「出産」「安定した生活」その他
を見出す時、期待の高揚は失われていく、感情の盛り上がりは
恋人達の意に反する方向へ、忘却の方向へと進んでいく。
228(OTO):2005/11/09(水) 12:45:38
「待つこと 忘れること」で我々が出会うこの二人は、出会い、
恋愛し、長い間付き合い続け、ざっくばらんに言えば
「倦怠期にさしかかった」恋人達である。
しかし彼らは現代日本の連ドラに見られるように
騒ぎ立てたり、あっさり違う相手を見つけたりは
していない。まだ静かに寄り添い、話しを続けている。

Cucの指摘するように彼らの対話は噛み合っていない。
ときにどちらが喋っているのかもわからなくなるような、
長年付き合ってきた者達が達する不思議な対話。
恋愛の熱情がおさまり、他者との間の越えがたい
空間に気づいたかのように、二人はそれぞれのやりかたで
その間隙をなぞっていく。
229(OTO):2005/11/09(水) 12:46:03
そしておそらく、その時期に至らなければ、
恋愛を「書くこと」などできないのだ。
忘却の淵に落ちるのを徹底的に拒むかのような
出会いのシーンの描写。それさえ感情的な高揚の中では
このように書くことはできなかったろう。

それにしても何故、冒頭で彼は彼女に原稿を見せたのだろう?
それは彼の最後の「期待」だったのだろうか?
それともそれがこの作品を生むきっかけとなった
「恋愛の終わりの始まり」だったのだろうか?
230(OTO):2005/11/09(水) 12:46:43
「期待・忘却」には現在が抜け落ちているとCucは言う。
この作品の「現在」それはブランショが書いている時間だ。
エクリチュールの現在は常に、書かれる時と読まれる時だろう。
あるいは恋愛は常に「現在」の享受であり、書くことと時を
同じくすることはできない、という意味かも知れないな。
231 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/13(日) 21:54:21

(OTO)さん

すばらしいレスをありがとうございます。
繰り返し読ませていただきました。

「期待 忘却」が倦怠期にさしかかった男女のレシであるとのご指摘、深く納得
しました。あきらめという境地でもなく、また、何か新たな未知なるものを期待する
ほどの情熱も持たないふたりの関係。
既出の「牧歌」もまさしく倦怠期の夫婦の物語であったのだな、と改めて思いました。
重い沈黙のみが支配する結婚生活を「祝祭」と呼んだブランショに、わたしはシニカル
な風刺を感じたのですが、そうではないのですね。
倦怠の日々のなかでも続いていくふたりを「惰性」と呼ぶにはあまりにも酷ですよね。
そこにあるのは、何とか維持しようとする意志のちからです。
それは、ある意味「思考」と性質が似ているのかもしれません。


(つづきます)
232 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/13(日) 21:54:58

「思考」するという行為は強い意志のちからを伴うものです。
何も考えない方が楽なのです。にも拘わらず人は思考します。
倦怠に流されるまま日々を送ることも可能です。会話も努力もあらゆるものを放棄
して生きるほうがはるかに楽でしょう。
けれどもこのレシのふたりはそうしない。噛み合わないながらも細々とした会話を
つづけているのです。

>それにしても何故、冒頭で彼は彼女に原稿を見せたのだろう?
彼は「書く」ことで自らの情熱の軌跡を留めようとします。出逢いから現在に至るまで
を書くことで再び情熱を掻き立てようとするかのようです。

遠藤周作氏のこんな言葉があります。
「愛することは対象に飽きても決して棄てないことだ」
ふたりでいても寂しい、一緒にいるのに寂しい、噛み合わない対話。。。
それでも相手を放棄しないこと。
それは静かな受容でしょうか。


(つづきます)
233 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/13(日) 21:55:32

>そしておそらく、その時期に至らなければ、
>恋愛を「書くこと」などできないのだ。

……そうですね、恋愛初期の高揚感やまさに恋愛のさなかにいるときの熱情は
誰もが当たり前に持つものです。また、恋を喪失した直後の痛みの日々においても、
誰もが書きたいと望みます。こころが渇望しているからです。
けれども倦怠は、燃え上がる情熱もなく、喪失の痛みもなく、平穏といえば平穏、
うがった見方をするならばこころが生きていない状態です。

こうした時期にあえて恋愛を書くこと、それはひとつの挑戦かもしれません。
なぜなら、たいていの読み手は恋愛初期のときめき、恋愛中の激しい感情の動き、
別離の悲しみを欲しているのですから。。。


(つづきます)
234 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/13(日) 21:56:03

>「恋愛の終わりの始まり」だったのだろうか?

男女の関係が長くつづいていくには「恋愛感情」とは別に根底に「友情」が育って
いないと途中で切れてしまうのではないでしょうか。
友情には恋愛のような激しさはありません。恋愛が嵐ならば友情は凪です。
情熱が醒めたときでも、友情(同士愛?)が芽生え始めていれば、そのふたりは
何とか関係を修復しながらもつづいていくでしょう。
それはもはや「恋愛」とは呼べないものかもしれません。
友愛です。そして、友愛こそが恋愛を終えた人たちの新しい始まりとして未来に
つづいていくのではないでしょうか。
ブランショの描く男女は激しい恋情よりも平穏な友愛にある人たちです。


(つづきます)
235 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/13(日) 21:56:28

>この作品の「現在」それはブランショが書いている時間だ。
>エクリチュールの現在は常に、書かれる時と読まれる時だろう。

なるほど!
「あなたは今書いていますか?」(「私についてこなかった男」)という
言葉に表されるように、「今」とはブランショが「書いている」この瞬間ですね。
ブランショの描く男女に恋愛のもたらす高揚感が皆無なのは、
恋によってこころが生きている状態、つまり、恋の始まり、さなか、終わりではなく、
「倦怠」の日々にある恋人たちだからなのですね?
「倦怠」それは、誰もが体験する期待と忘却との間に立ち込める霧のようなもの……。


――それでは。
236SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/11/17(木) 00:07:00
To Cuc&OTO

素晴らしく刺激的なレスの数々!
具体的なレスポンスは今は充分にできないけれど、
ROMはしていますよ! 以下断片的に。
(それからいつもながらのお気遣いどうもありがとう)

OTO氏が持っている平井訳の『待つこと・忘れること』!!!
う〜ん、うらやましい!

>ブランショにおいては「書くこと」そのものが第一義ですね。By Cuc
そして、ブランショは至るところで《死》を語っているけれども、
その《死》はほとんど常に「言葉」や「書くこと」や「芸術」に
深く結び付けられているようですね。

>ちなみにおれが「期待・忘却」に最初に触れたのは
>「待つこと・忘れること」としてだった。By OTO
平井訳の『待つこと・忘れること』!!!
う〜ん、欲しい! うらやましい限り。
237SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/11/17(木) 00:08:18
(承前)

>「現在」(〜ing)の作品が あまり見当たらないようです。By Cuc
>この作品の「現在」それはブランショが書いている時間だ。 By OTO
おそらくは、この2つのセンテンスは矛盾しないのでしょう。
というのも、ブランショにおいて「書くこと」は《死》に結び付けられていて、
消え去ってゆく動きの中でしか現れないような微妙さの中に
書くことの本質が求められてるような感じを受けます。

期待(待つこと)――
常に来るべき(ア・ヴニール)ものであるところの未来(アヴニール)。
忘却(忘れること)――
決して現れたことのない、常に既に痕跡でしかない過去。

このあたりは、初期の「差延」から後期の「メシアニスムなきメシア的なもの」を
持ち出したデリダにも大きな影響を与えているのでしょう。 

追伸 今は色川武大を読んでますよ。   〆
238(OTO):2005/11/18(金) 15:15:18
おー!SXY!おまいネット入れるんだったら、
もっとこいよ。短レスでもいーからさ。
急にいなくなるとさびしーじゃんかよw

>OTO氏が持っている平井訳の『待つこと・忘れること』!!!
>う〜ん、うらやましい!

うらやましがりすぎ(舌かむよ)!
239 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/19(土) 23:20:20

SXY ◆uyLlZvjSXY さん

お忙しい日々のさなかにレスをありがとうございます。

>その《死》はほとんど常に「言葉」や「書くこと」や「芸術」に
>深く結び付けられているようですね。
ブランショは宗教者たちがいうように必要以上に死を讃美しませんし、
また、文学者たちのいうところの絶望でもありませんね。
彼にとって死はただ「そこに在るもの」。
特別な意味づけや、境界をいっさいつけません。

人が死ぬ間際に迎えるであろう悟りや、あるいは受諾の境地に、彼はさほど
関心を持たないようです。

誤解を恐れずに言うならば、彼にとって《死》とは「書くこと」や「芸術」、
つまり創作するためのモチベーションでしょうか。
彼の表現者としての出発点は、《死》からすべてが始まるのですね。
彼にとって《死》は決して終わりを意味しません。
誰にとっても生と死は一回限りのものですが、「書くこと」によって死は生に転換
します。白日の光のなかの言葉=《生》、夜の言葉たち=《死》とするならば、こうして
二者は終わりなき「円環」を繰り返していきますね。(「私についてこなかった男」)
(ブランショは「円環」という言葉を好んで使っていますね)

生と死は、永遠につづく円環、終わりなき対話であるようにも思えます……。


(つづきます)
240 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/19(土) 23:21:04

>おそらくは、この2つのセンテンスは矛盾しないのでしょう。
>というのも、ブランショにおいて「書くこと」は《死》に結び付けられていて、

「今」(〜ing)という時間はそれぞれの視点の位置を変えて見るならば、
過去から見れば「未来」であり、
また、「未来」から見れば「過去」の時間なのですね。
「今」は中間に位置するものですが、《死》が介入してくると、
すでに亡くなった人は「過去の忘却者」、これから《死》を迎える人にとっては
「期待すべき未来の者」なのでしょう。
《死》は「書かれること」によって過去、現在、未来を結びつける役割を担うかの
ようであり、《死》だけが時間を超越して自在に行き来できるということでしょうか。

色川武大氏の著作は未読ですが、「狂人日記」あたりでしょうか?
すでに紹介していただいた島尾敏雄氏の「死の棘」もぜひ読んでみたい一冊です。
読みたい本がたくさんあるのは、とてもしあわせなことですよね。

――それでは。

(追 記)
書き込みはお時間のあるときに、ゆったりと書いていただければ、と思います。
241SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/11/21(月) 23:59:52
To OTO

>もっとこいよ。短レスでもいーからさ。
乞御容赦! と短レスでお茶を濁しつつ――

そういえばちくま学芸文庫からバタイユの『ランスの大聖堂』が出ましたね。
デュラスの『死の病い・アガタ』も文庫化されないかな。。。
242SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/11/22(火) 00:00:41
To Cuc

いつも推敲もろくにしない文章を書き込んでしまっているので
WARDに保存してからupしているCucさんには申し訳ないなぁと思ってます。

>《死》だけが時間を超越して自在に行き来できるということでしょうか。
ブランショに時間論と呼べるものがあるとしたら、どういうものですかね。
ただ、ブランショは基本的に断章形式の人で、体系的な思想家ではないので、
定義づけするのは難しいでしょうね。

『最後の人』まではレシ(物語)の体裁をとっていましたが、
『期待 忘却』以降はもはやレシでさえない断章形式になりますね。
特に『デザストル(災厄=墜星)のエクリチュール』ではそれが顕著で、
◆のマークを頭につけた長短様々な断章が並んでいますが、
他の作家からの引用だけで書かれた章もあったりします。
243SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/11/22(火) 00:08:56
(承前)

以下は『デザストル(災厄=墜星)のエクリチュール』からの引用です。

(前略)――そして、「あなたが来るのはいつですか?」という問いに、メシアが、
「今日だ」と答えることがあるとすれば、確かにこの返答は印象深いものである。
したがってそれは、今日なのだ。それは今であり、つねに今なのだ。待つことは
まるで責務のようになっているが、待つ必要はないのである。では今とはいつの
ことなのか?通常の時間には属さず、それを必然的に揺り動かし、維持せずに、
不安定にする今である。とりわけ、テクストの外のこの「今」が、厳密な虚構であ
る物語のこの「今」が、諸々のテクストに送り返し、それらのテクストが再び「今」
を、実現可能―実現不可能な諸条件に依拠させてしまうということを思い起こす
ならば。――
244SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/11/22(火) 00:10:04
(承前)

ブランショがいう「来たれ(ヴィアン)」にはメシア性があるといえます。
(デリダの「メシアニズムなきメシア的なもの(orメシア性)」を想起します)
そして、そこにはブランショの「待つこと」もかかわるでしょう。
(ゴドーを待ち続けるベケットの登場人物たちとも無縁ではないはず―)
しかし一方、ブランショは「今」を語りながら、「待つ必要はない」という。
それは、「今であり、つねに今なのだ」から。
その「今」は、「通常の時間には属さ」ないもの、「不安定にする」ものであり、
ブランショの時間論(?)は非常に特異なもののようです。

現前の形而上学を批判したデリダや永遠回帰を語ったニーチェとともに
ブランショもまた、リニアルな時間とは異なる時間を語っているのでしょう。
到来しない出来事、痕跡としての到来。。。
245SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/11/22(火) 00:22:38
(追記)

色川武大の『狂人日記』はすごい作品です!
魯迅やゴーゴリにも同名の作品がありますが、
これは中国やロシアの名作にも劣らない傑作でしょう。

『明日泣く』『引越貧乏』などの短編集も
地味ながらなかなかの妙味があります。

『麻雀放浪記』などの作品では阿佐田哲也という筆名も持っていますが、
徹夜で麻雀をしたときの「朝だ!徹夜だ!」から採ったとのこと。

今日はこのへんで。   〆
246 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/23(水) 18:59:39

SXY ◆uyLlZvjSXY さん

深い内容のレスをありがとうございます。

>WARDに保存してからupしているCucさんには申し訳ないなぁと思ってます。
いえいえ、とんでもありません! わたしは真っ先に浮かんだことしか書かないので
全体として繋がりを欠く場合が多く、それゆえに後で文章の整理が必要なのです。
整理しながら書けるSXYさんやOTOさんがとてもうらやましいです……。

>『期待 忘却』以降はもはやレシでさえない断章形式になりますね。
まさにパンセ、随想録そのものですよね。小説でもエッセイでも論文でもない。

『デザストル(災厄=墜星)のエクリチュール』からの引用をありがとうございます。
「今」について、「期待」についてしばし考え込んでしまいました。。。

>ブランショがいう「来たれ(ヴィアン)」にはメシア性があるといえます。
>そして、そこにはブランショの「待つこと」もかかわるでしょう。
>しかし一方、ブランショは「今」を語りながら、「待つ必要はない」という。
>それは、「今であり、つねに今なのだ」から。
メシアを待つことが不要なのはすでに「今」メシアが到来しているということなの
ですね。すでに到来しているのであれば、当然「待つ必要はない」。
何かを期待するという時点ですでに期待は叶えられた、ととらえることができそう
ですね。なぜなら「待つこと・期待」とはそのまま「今」なのですから。
メシアを待つ=メシアはすでに到来している。


(つづきます)
247 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/23(水) 19:07:26

少しニュアンスが異なるかもしれませんが、メシアを「待つこと」=「今、到来している」
ことは、そのまま「共にいる」ことにも繋がると思うのです。
以下、詩作品の引用です。


≪神われらと共に≫  ――アデマール・デ・バロス(ブラジルの詩人)――

夢を見た、クリスマスの夜に。浜辺を歩いていた、主と並んで。
砂の上に二人の足が、二人の足跡を残していった。
私のそれと、主のそれとを。
ふと思った――夢の中でのことだ――
この一足一足は、私の生涯の一日一日を示している、と。(中略)
しかし、ひとつのことに気づいた。
所々、二人の足跡ではなく、一人の足跡しかないのだ。
私の生涯が走馬灯のように思い出された。何という驚き。
一人の足跡しかない所は、生涯で一番暗かった日とぴったり合う。
苦悩の日、悪を企んだ日、自分だけが可愛かった日、不機嫌な日、
試練の日、やりきれない日、自分にやりきれなくなった日。
そこで、主の方に向き直って、あえて文句を言った。
「あなたは、日々私達と共にいると約束されたではありませんか?
何故約束を守ってくださらなかったのです?
どうして人生の危機にあった私を、一人で放っておかれたのです?
まさにあなたの存在が必要だったその時に」

ところが主は私に答えて言われた。
「友よ、砂の上に一人の足跡しか見えない日。
私は君を担いで歩いていたのだよ」


(つづきます)
248 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/23(水) 19:08:18

>その「今」は、「通常の時間には属さ」ないもの、「不安定にする」ものであり、
>ブランショの時間論(?)は非常に特異なもののようです。
わたしたちが未来に期待するのは今という現実が不備であり、不満だらけであり、
現在が「不安定」なものであるからかもしれません。
来たるべき未来は、完全なものであり、充足に満ちており、安定したものである、
そうあってほしいと期待された結果の理想郷でしょうか。
わたしたちはいつだって「今」に満足できないのです。
今、持っているものに満足せず、持っていないものについてのみ嘆くのです。

「トマ」がまさしくそうでした。現状に満足せず最上階を目指して悲劇的な結末を迎え
ました。彼は「今」置かれた状況では不満で、もっと最上のものに「期待」し行動しま
した。リュシーの言葉「求めているものはすでにあったのです」。それは「地下へ下る道である」、と。「最上階」=「未来・期待」、「地下」=「忘却・過去」とすれば、過去と
は、忘却とは何と平和で穏やかな境地であることでしょう。。。

トマは「不安定なもの」に我慢ならず、最上階を期待しましたが、待たなくてもいいのだ
ということを知っていれば、「今」がそのまま「期待」したことなのだと気づきさえすれば
あの建物のなかで充足した日々を送れていたのかもしれません。
地下の正門ではアミナダブと呼ばれる男が人々を守っていたのですから。
アミナダブとは「期待」され、すでに「今」到来しているメシアです。
≪青い鳥≫は「期待」するものではなく、「今」まさにそばにいる、ここにあるという、
永遠の真理ともいえる幸福の原点……。


(つづきます)
249 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/23(水) 19:09:12

>色川武大の『狂人日記』はすごい作品です!
>魯迅やゴーゴリにも同名の作品がありますが、
魯迅は「阿Q正伝」が印象に強く残っています。「狂人日記」も所収されていたのかも
しれませんが、、、(記憶の霧の彼方に沈んでいるようです…)
色川武大の『狂人日記』、ぜひ読んでみたいです。

>『麻雀放浪記』などの作品では阿佐田哲也という筆名も持っていますが、
>徹夜で麻雀をしたときの「朝だ!徹夜だ!」から採ったとのこと。
なかなかユーモラスな名前の由来ですね。
そういえばつい最近古本祭りで購入した福永武彦小説全集のなかに一冊だけ
「加田伶太郎全集」があり、これは福永氏が推理小説を書くときのペン・ネーム
でありました。またSF小説は「船田学」のペン・ネーム。

・加田伶太郎(かだれいたろう)→「誰だろうか」(たれだろうか)のアナグラム。
・船田学(ふなだがく)→「福永だ」(ふくながだ)のアナグラム。
(福永氏は、アナグラムを愛好し、純文学以外の分野で作家活動をする際には、
アナグラムによって出来たペンネームを使用したことで知られます)


――それでは。
250 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/23(水) 19:12:06

(追 記)

お忙しい日々、重厚なレスをありがとうございます。
あまりご無理をなさいませんように……。
書きたいときにゆったりと書いていただければと思います。

読了したシモンの「路面電車」「歴史」の感想を日を追って
順次upする予定でおりますが、この二作品については特に返レスを
求めるものではありませんので、
読み放しにしていただければ、と思います。
251 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/23(水) 21:12:47

(OTO)さん

「バタイユの黒い天使」ロール遺稿集を読了しました。

彼女が属していたブルジョア社会や、カトリックの教えを十七歳のロールは
徹底して批判しています。
富裕な財産を武器に貴族と親交を結ぼうとする親族を軽蔑し、司祭を偽善者と
侮蔑します。

ところで、「ある少女の物語」には姉に卑猥な行為をした司祭が、ロールにも
同じことをしかけそうになったことを暴いていますが、これはどこまで事実なの
でしょう? 子供の頃、最愛の父を失くし母親を毛嫌いしていたロールの異性の
年長者に対するエレクトラ・コンプレックスのなせる妄想なのか、あるいは他意は
なくとも子供への愛撫を執拗に嫌っていたロールの潔癖さがこのようなフィクション
を書かせたのでしょうか……。


(つづきます)
252 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/23(水) 21:13:47

バタイユに宛てた手紙のほうが、物語や詩といった創作よりも内容ははるかに
凌いでいますね。
率直な感情、迸る激情、そしてロールだけが獲得できた≪聖なるもの≫。
以下は、ロールについて語ったバタイユの言葉です。

――<聖なるもの>について語っている一文の結びの文章以上にわたしを打ち、
引き裂いたものはなかった。聖なるものとは≪交感≫である、というこの逆説的な
観念を、わたしはそれまでに一度も彼女に表明することができなかった。
ロールの臨終が近づいたことに気づく数分まえ、この観念を書き表わしたまさに
そのときまで、わたしはこの観念にたどりつかなかったのである。
かつて彼女に表明したことのなにひとつとしてこの観念に及ぶことはなかったと
いうことを、わたしはなによりもはっきりと言うことができる――(p305)


(つづきます)
253 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/23(水) 21:14:23

ロールはバタイユの思想に多大な影響を与えました。
放埓な行為が聖なるものに高められる瞬間や、聖なる場所にこそエロスは潜み、
際立つことなど。

ロールが少女時代から死の日々に至るまで、無意識のうちに望んでいたことは、
父親との≪交感=交歓≫だったのではないでしょうか?
彼女の父は少女の頃彼女を田園に連れて行き、自然界の美しさを教えてくれました。
「明るく優し気な青い目ですべてを見守っていた父」を彼女はとても愛していました。
厳格な母親を徹底して忌み嫌っていたのとは対照的です。。。
幼い彼女にとって父は「神」であったのかもしれません。

最愛の父=神が亡くなってから、彼女は糸の切れた凧のようになり、父に代わる
新たな男たちを次々と奔放に求めていきます。
そして、バタイユとの出逢いと破局……。


(つづきます)
254 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/23(水) 21:15:09

ロールは父親を求め、欲望のまま男たちを求め、バタイユを求め続けました。
一方バタイユは神から逃げ、父親から逃げ、そしてロールからも逃げました。

――きみはぼくがもっとも尊敬していた女性だが、いまは最低だ――(p263)
彼のこの言葉は自尊心の高いロールのこころを瞬く間に踏みにじったのです。
ロールは彼と暮らしていた日々、自分の書いたものを彼には一切見せませんでした。
なぜでしょう? おそらくはすでに著作のある彼から自作を貶されるのが怖かった
のではないでしょうか? バタイユに言わせるとロールは「実際と違ってもろさと錯乱
でしかなかった」のですから。自作を貶されることは自身を根こそぎ否定されること、
それはロールの脆弱な精神ではとても耐えられないことだったでしょう。

ところで、ロールは生涯、父の「まなざし」を求め続けはしても、神の「まなざし」からは
自由であり、とうの昔に解放されていました。
反してバタイユは、やはり神の「まなざし」からは生涯逃れられなかったようです。


(つづきます)
255 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/23(水) 21:15:50

――はるかに多く使われたのは「罪」という語でした。この概念はキリスト教が
生まれて以来二十世紀にわたり、西洋世界において不安を養い育ててきました。
結局バタイユは、キリスト教信仰を否定してもなお大部分は罪の不安のとりこで
ありつづける人間性の生きた象徴だったのです。
しかし、ある人においては、不安はときとして創造的なものです――(p292)

神を否定しつつも実は捕われていたバタイユを、ロールは見抜いていたのでは
ないでしょうか? ロールのエロティシズムは他者との交感であるのに対し、
バタイユのエロティシズムは、旧約では原罪の結果神から人に下された罰=死との
交感、それは究極的な至高者との交感を、和解を意味するのではないでしょうか。
死を超越する者とは至高者をおいてほかには存在しないのですから。

かつてカトリックの司祭を目指したバタイユが生涯逃れられなかった神を、ロールは
軽々と棄て去りひとりで飛翔していきました。武装はしていても、内面はもろさと弱さと
を持ち合わせていた彼女になぜそんなことができたのでしょう?

――賢者のみが無神論者である資格を有する――(p223)


――それでは。
256(OTO):2005/11/25(金) 14:40:34
>>241
これはほんと個人的な意見だけど、
出版はもっともっと過去の名著の復刊に力入れて欲しいねw

>>243
未読だけどなんて的を得た引用だ。さすがSXY。


ロールについてはCucとダブらない感じで書いたよ。
257(OTO):2005/11/25(金) 14:43:57
「バタイユの黒い天使-ロール遺稿集」佐藤悦子・小林まり訳、リブロポート社
1983年初版発行、現在絶版。最近のバタイユブームもこの本の復刊までには
未だ至ってはいないようだ。確かにロールの文章は発表を前提されたものではなく、
文章自体稚拙ともいえる。翻訳者が再三その苦労をぼやくほどだ。
しかしこの本には、パリの裕福な家庭に生まれ、幼児期にカトリック牧師の性的ないたずらを
経験し、20代半ばでドイツ人医師の「奴隷」として1年間そのベルリンの屋敷からほとんど
1歩も外に出ず、犬用の首輪をつけて過ごし、パリに戻ってからはフランス共産党の
創立者の1人と交際し、その男が彼女に読むことを禁じた「眼球譚」の作者と出会い、恋をし、
その男バタイユに看取られながら35歳の若さで死んでしまった
「美貌」の女性が書いた文章のほとんどすべてが収められている。
258(OTO):2005/11/25(金) 14:44:49
本を開けるとまず写真が。生前の。
めくると裏には死の床の、やすらかな死に顔。
文字通り「眠っているような」写真が、ある。

思想穏健なブルジョワ家庭の不名誉な娘、その作品の出版を拒んだ著作権相続者の
反対を押し切り、ホテルの便せんや引きちぎった新聞紙に走り書きされたものまでかき集め、
ロールの全てを出版しようとした彼女のの甥、ジェローム・ペーニョの近親相姦的とも見える
深い愛情がなければ、我々がこの翻訳を手に取ることもできなかったろう。
259(OTO):2005/11/25(金) 14:45:20

はじめてロールの名を眼にしたのはブランショ「明かしえぬ共同体」の中の1行だ。

その共同体が開示されるのは、それぞれに特異な義理の少ない少数の友人達が、
自分たちの直面しているあるいは自分たちがそこに運命づけられている例外的な出来事を、
はっきり意識しながら分かち合う沈黙の読誦によってそれを構成するときである。
その尺度に見合う何ごとも語ることはできない。それにつけ加える注釈はありえない。
たかだかひとつの合言葉があるだけだが
(地下出版され回し読まれた「聖なるもの」についてのロールの幾ページかのように)
それも、それまで各人が孤独であったかのようにそれぞれに伝えられても、
かつて夢見られた「聖なる陰謀」となることはなく、孤独をうち破ることもなく、
ただ未知の責任(未知の者を前にして)へとさし向けられて、共同で生きられる孤独の中で
その孤立を深めるばかりである。
260(OTO):2005/11/25(金) 14:47:42
この1カ所のみ。原注は無い。ほとんどブランショらしからぬともいえるひとつの
「ほのめかし」。ある女性への注意の喚起。
訳注によってロール(本名コレット・ペーニョ)がアルセファル時代にバタイユと交際し、
グループ・アルセファルが企てた供儀の生け贄として立候補した女性であることを
知った。つまり自分が(当然バタイユによって)殺されることを平然と望んだのだ。
この「聖なる陰謀」は実現しなかった。つまりバタイユはその申し出を受け入れなかったのだ。

私はすでに絶版となっていたこの本を古書の横断検索で探し出し、
あまり知られていないせいか安価で状態の良いものを地方の古書店から取り寄せた。
261(OTO):2005/11/25(金) 14:55:15
大天使か娼婦か
ええ どちらでも
あらゆる役割が
わたしに与えられる
決して予想のつかない人生

自身の詩句そのままの人生を送った女性。彼女の人生を思う時、激しく輝く光は
すぐに消えるという言葉がかならず浮かぶ。
262(OTO):2005/11/25(金) 14:56:13
詩、小説、感情的な論文、バタイユへの手紙の数々。
稚拙な文章からかいま見える、鋭いナイフのような輝きは、
ときにアルトーさえ彷彿させる激しいパワーを感じさせる。
繰り返されるイメージ。繰り返される呪文のような言葉、
「聖なるもの」「交感」
たかだかひとつの合言葉。

この得体の知れぬパワー。これこそブランショが我々にほのめかしたものだろう。

冷たいガラスのかけら。まとまらず、バラバラと指の間から滑り落ちていく美しい
輝きの数々。そんなロールの文章を私は愛し続けるだろう。
263 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/27(日) 20:02:19

(OTO) さん

煌くような言葉の数々、哲学をされている方特有の深い思索に満ちた文章……。
一読して唸ってしまいました。。。
ロールの生涯を簡潔な文章でまとめてくださって、ありがとうございます。
>ロールについてはCucとダブらない感じで書いたよ。
お気遣い、ありがとうです。

>めくると裏には死の床の、やすらかな死に顔。
>グループ・アルセファルが企てた供儀の生け贄として立候補した女性である
そうだったのですか、あの写真はデスマスクだったのですね…。
バタイユに生け贄として捧げられた女性であることを、初めて知りました。

ロールの破滅的ともいえる生涯を思うとき、最愛の父とともに過ごした幼い日々が
彼女にとってもっとも幸福な日々だったのだと、改めて思わずにはいられません。
彼女の手記に記されている、父が彼女に手を取って教えてくれたたくさんの草花の
名前、動物や昆虫の名前。彼女は思い出せる限りそれらの名前をすべてノートに
書き込んでいますね。まるで幸福なかけらをひとつひとつ大切に愛おしむように…。


(つづきます)
264 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/27(日) 20:03:19

(事実か創作かはともかく)カトリック司祭から性的ないたずらをされそうになったこと
や、親族たちが芸術をわかりもしないのにブルジョアに所属している見栄のためだけ
に絵画についての似非談義に興じたことなど、実に冷徹に克明に綴っているなかで、
父と過ごした田園でのひとときだけは大切な宝ものを扱うように、深い愛情を込めて
実に丁寧に丹念に語られています。あの描写はロールのノートのなかでも群を抜いて
瑞々しく、わたしの好きな箇所でもあります。

以下はわたしの勝手な憶測なのですが……、
田園で父とふたりきりでいたとき、当時のロールが性の交わりの意味をまだ知らな
かったとしても、最愛の父と≪交感≫することを無意識に望んでいたのではないで
しょうか。
近親相姦を禁ずる宗教の戒律や道徳的な法についてもまるで無知であり、
その行為をごく自然なこととして、とらえていたのではないでしょうか。
どのような対象であれ愛するものとの≪交感≫は、≪聖なるもの≫なのだ、と。
いえ、聖なるものに高められるのだ、と。
神の掟も法律も「聖なるもの」を教えはしない。「聖なるものとは交感」であると彼女が
会得できたのは、彼女は求めることと、受け容れることを知っていたから。
(旧約聖書でロトのふたりの娘はそれぞれ父と交わり、子孫を残しました…)


(つづきます)
265 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/27(日) 20:04:31

幼いロールの望みが、美しい田園に囲まれて最愛の父と≪交感≫することで
あったとしても、父は実際にはそのような行為をしませんでした。そして、父の死。
落胆と失意の日々を送るロールが代わりの男を求めたのも不思議ではありません。
奴隷のような暮らしも、生け贄の受諾も彼女が「求め、受け容れた」ことです。
バタイユが自分を取り巻くすべてのものから生涯逃亡しつづけたのとは対照的に…。

バタイユが病床のロールのために、朝咲きの一輪の薔薇の花を摘んで届けた描写が
ありましたね。今まで意識が朦朧としていたのにその瞬間、薔薇の匂いを嗅ぎ、一瞬
だけ意識が鮮明になったようだ、と。

あの瞬間ロールの記憶に蘇ったのは、少女の日々に野花を摘み名前をひとつひとつ
教えてくれた最愛の父の面影だったでのではないでしょうか。
一面の田園風景、馥郁たる花の香りに包まれ、空の青さや流れゆく雲の真下で
父のまなざしに守られて幸福だった頃の思い出……。
父はロールを愛し、ロールは父を誰よりも慕い、自然界の被造物たちはふたりを祝福
するかのように輝いていました。。。

ロールの文面から伺えるのは、彼女は感傷的なことがあまり好きではないようですが
臨終の床では隠していた本心が出てしまったような感があるのです。
自作の詩のなかで「神=バタイユ」と賞賛しつつも、結果として彼から手痛い裏切りを
受け、最期に行き着くところはやはり幼い頃から求め、慕いつづけた父。。。


(つづきます)
266 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/27(日) 20:07:00

今際の極みの彼女の目はもうバタイユを見てはいない。
バタイユを通り越し、永遠なるもの、すなわち聖なるものを見ていたでしょう。
あれほど渇望していた父との≪交感≫は命が終えることでようやく叶えられる
のです。
ロールが求めつづけたもの、≪聖なるもの≫、≪交感≫、
これらは≪死≫をもって完成するのです……。

>「聖なるもの」「交感」たかだかひとつの合言葉。
>この得体の知れぬパワー。これこそブランショが我々にほのめかしたものだろう。
ロールは、冷静さや論理性を身に纏っている冷ややかな「傍観者」からはほど遠く、
いつだって「渦中の人」でした。
彼女が生前なし得たものは情熱のありったけを込めて「求めつづける」行為と
盲目的ともいえる「服従」と「受容」の姿勢(奴隷、生け贄の享受)。
それは、まさに狂気すれすれの美しい「命賭けの跳躍」です。
ロールはどのような階級の男性にも真っ向から向き合い、卑俗な欲望を受けとめ、
吸い上げ≪交感≫し(養分とし)、高め、穢れなき花を咲かせました。
泥中に咲いた聖なる蓮の花、――その名はロール。


――それでは。
267 ◆Fafd1c3Cuc :2005/11/27(日) 20:17:31

(追 記)

シモンの「路面電車」「歴史」と永井荷風の「すみだ川」の感想は、
特に返レスを求めるものではありませんので、レスの間隔があいたときに
「箸休め」としてupしようかと思っています。
268 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/01(木) 12:25:23

クロード・シモンの『歴史』の感想を記します。
(特に返レスを求めるものではありませんので、読み放しにして
いただければと思います)

「ぼく」と従姉妹のコリンヌ、ポールの子供時代の回想です。
一枚の絵葉書からさまざまなエピソードが蘇り、当時の出来事が生き生きと
描写されています。

なかでも際立っているのが、コリンヌの存在です。
幼少の頃に母を亡くし周囲から甘やかされて育ったせいか、驕慢そのものの
少女です。小さな女王さま、とでもいうのでしょうか。「ぼく」もポールも彼女の
言いなりです。(三人のなかではどうやらコリンヌが一番年少らしいのですが…)
早熟な彼女は十五の時に床屋の小僧と恋愛沙汰を起こし、周囲を冷や冷やさ
せました。また、バカロレアの受験時期に薬物に手を出し、祖母を悲しませま
す。癇の強い放埓な少女。「ぼく」が当時コリンヌに対して具体的にどのような
感情を抱いていたのか、一切語られていません。通常の小説ならば淡い初恋と
か、仄かな思慕を作品に織り込ませるのが常套手段なのでしょうが、シモンは
ただ出来事を濃密に描写するだけです。。。


(つづきます)
269 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/01(木) 12:26:06

そういえばシモンの小説は心理描写らしきものは、あまり見られませんね…。
写実主義とでもいうのでしょうか。人間の内奥にまでは踏み込まないような印象
を受けます。まあその分、写実と想像力の産物の描写は過剰かつ濃密ですが。

例えば三人でさくらんぼを取るシーンがあります。
――枝々が動いてぼくは彼女の裸の脚を見ることができたが体の他の部分は
こまかく震える木の葉にかくれて見えなかった――(p94)
「ぼく」が初めてコリンヌに性を意識する瞬間です。その瞬間に「ぼく」に過ぎった
感情は省略されています。ニンフのような絵を想起したとだけ語られています。
ここで初めて読み手であるわたしたちは、ニンフの優美な肢体を想像し甘美な
気持ちに浸るのですね。

言葉以外のもの、草花や絵画などに託して心理描写を投影する手法は随所に
見られます。比喩として語られるのですね。
(『アカシア』のラストは、主人公が近いうちに創作するであろうことをアカシアの
葉に託して語られていました)


(つづきます)
270 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/01(木) 12:27:05

この小説はストーリーらしきものはなく、絵葉書や、新聞のニュース、レストランの光景などが、子供の頃の回想に混じって例のごとく自在に語られています。
とりわけ強い印象に残っているのはレストランで遭遇したせむし男の描写です。
――彼はすでに食べ終わっていて新聞を開き(略)小さな四角のなかに暴力的
な絵が描かれているのが見え筋骨隆々たる人物や優にやさしい人物つまり
ヘラクレスのような怪力の持ち主や――(p151)
背中にこぶを持つせむし男と、美丈夫で逞しいヘラクレスの挿絵というあまりに
も対照的な描写。これに先立つ、せむし男の陰鬱な表情に重ね合わせた殉教
者聖ヨハネの苦悩に満ちた顔……。読んでいて、少し胸が痛くなりました…。

シモンの文章は感傷や安易な同情を一切排除していますね。また、弱者を
美化することもしません。ただ淡々と目の前の光景を書き記すだけに留まりま
す。戦争について、性について、「体験」したことを、次々と脳裡をよぎり押し
寄せる映像を濃密に描写することにのみ、こころを砕きました。


(つづきます)
271 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/01(木) 12:27:42

それはまさに睡眠中に人が見ている夢を、忘れないうちにすべて書き留めて
おこうとする膨大な情熱を必要とする作業でしょうか。
(実際、人が睡眠中に見ている夢は2〜3分のものであり、一晩に違う夢を何回
も見るそうです。この夢をすべて書き記すには相当なエネルギーと記憶力を
必要としますね…)

わたしたちがシモンの文章に心地よく酔えるのは、彼の創り出した世界を自らも
追体験しているからかもしれません。

戦争に対するシモンの思惑が伺える箇所があります。
――戦場の写真、大地は牧場や畑や森があのチェス盤のような模様をえがい
ているのではなく、一面にかさぶたか吹き出物が見え、まるで大地自体がたとえ
ば癩病のような病気にかかったみたいで――(p80)
戦争とは、美しく肥沃な大地を感染し病気にしてしまうものなのですね……。


――それでは。
272SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/12/02(金) 00:17:20
『バタイユの黒い天使-ロール遺稿集』。
なんか読みたくなってしまったなあ!
かくして曽野綾子しかりデュラスしかりで
読んでみたい作家・作品が増えてゆくのでありました。

シモン『歴史』は以前に読みはしたのだけれど
ほかの『フランドル』や『アカシア』などに比べると
ちょっと入り込めなかった作品だったので
感想はとても参考になります。

そんなこんなでもう師走か。。。   〆
273 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/03(土) 13:02:22

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

師走に入りましたね。お忙しいさなかのレス、ありがとうございます。
あっという間に月日が流れていくのを感じます。。。

『歴史』は確かに他の二作品と比べると読みにくい作品であり、シモン特有の
奔放な想像力があまり活かされていないように感じられました。

回想が得意なシモンですが、この作品においては回想のみに留まってしまっている。
いえ、幾つかのエピソードの飛躍は見られることは見られるのですが、全体として
窮屈な印象を受けました。いつもの「伸びやかさ」「放埓さ」が感じられませんね。
これは、ヌーヴォー・ロマンの旗手であったシモンがある種の「守り」の態勢に入って
しまったからなのでしょうか……。
確かにいつまでも同じ速度のままで走りつづけていくのは困難なのでしょう、、、
落ち着きや、辻褄が合うように着地すること、こうしたものからはもっとも遠い作家
でしたから。。。


(つづきます)
274 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/03(土) 13:03:15

それでも、たとえ「守り」の態勢に入ったとしても、
初めて『アカシア』を読んだときの眩暈のするような清新な驚きを、
わたしは決して忘れることはないでしょう。

短距離走に懸けるエネルギーを人は生涯持ち続けることはできませんが、
ある地点から長距離走に切り替えたとき、今まで疾走していたときには
見えなかった周囲の景観をゆっくりと味わうこともできるのでしょう。

そうしたこころの変化を静かに受け容れることのできた作家なのだと思います。


(つづきます)
275 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/03(土) 13:04:04

――「頌」――より抜粋  ワーズワース

かつては あれほどに照り輝いた光が
いまや 永久に視界から消え去ったとしても
草に輝きがあり、花に栄光の宿っていたあのときを
呼び戻すことが出来なくとも それが何であろう。
われらはそれを嘆かず、
むしろ後に残ったものに 力を見出そう。


(※ エリア・カザン監督「草原の輝き」にこの詩が引用されています。
この映画はビデオで出ています)


――それでは。
276 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/03(土) 15:35:23

(OTO)さん

永井荷風「すみだ川」の感想です。

大学に通う長吉と幼なじみのお糸との物語。
長じて芸者になる幼なじみの少女と学問を志す青年、樋口一葉の
「たけくらべ」をほうふつさせました。身分違いの恋、というのでしょうか…。

芸者として見習いのために他家にいったお糸は帰ってくるたびに美しくなり、
長吉のこころを悩ますのですが、お糸のほうは彼のこころを知ってか知らずか
淡々と振る舞うのですが、すでに男のあしらい方を身につけているようです。
お糸とも前のように自由に会えなくなり、学業にも興味がなくなり、悶々と失意の
日々を送っていた彼はある日役者になりたいと本気で思い始めます。
当然、母親からは猛反対され、頼みの綱である伯父(放蕩ゆえに勘当された過去
あり)に相談を持ちかけますが、「今は学業に力を入れろ」と逆に諭される始末。
もう死んでしまいたいと薄着のまま出水の混雑を見に行った彼は、腸チフスに罹り
生死をさ迷う……。


(つづきます)
277 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/03(土) 15:36:17

恋に懊悩し、将来の進路に悩む若者というテーマは普遍であり、「青春文学」の
金字塔でありますね。いつの時代でも書かれてきましたし、もっとも読まれてきた
ジャンルではないでしょうか。

恋に憑かれて学業も何もかも手につかない長吉を笑うことなど誰にもできない
でしょう。誰もが一度は通る道であり、通過儀礼なのですから。
あるときは至福に導き、あるときは狂おしくさせ破滅に至らせるのが、恋。
長吉はお糸恋しさに学問を捨て、役者になりたいと切望しますが、伯父に役者に
なることを考え直すよう諭されます。現実の苦悶からひとときでも解放されたのは
本を読んでいる時だけでした。
「梅暦」の悲恋に自らを重ね、恍惚感に浸る描写が好きです。
――止み難い空想に駆られた。空想の翼のひろがるだけ、春の青空が以前よりも
青く広く目に映じる。長吉は今まで胸にわだかまった伯父に対する不満をしばらく
忘れた。現実の苦悶をしばらく忘れた――

小説(読みもの)というものは、たとえその内容が感傷に満ち満ちていても、
また、通俗とされるしろものであっても、いつの時代も悩み苦しむ読者の代弁者で
あり、共犯者であるということですね。


(つづきます)
278 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/03(土) 15:37:28

荷風のこの作品は、四季折々に移りゆく下町の情景が折り込められており、
その移りかわりが初恋の純情さと相まって叙情的に描かれていますね。
(自然描写は藤村は、もっと文学的といいますか、詩情あふれる描写です)
荷風は下町の花柳界の女たちを描くことを得意としていたようですが、この作品では
悲恋を描くにしても、たんなる身分差からくる悲哀にとどまらず、女たちの順応力の
見事さ、逞しさにわたしは注目しました。

芸者見習いのために他家に行くお糸は、めそめそしていません。
長吉とは実に対照的です。
――いつもと変りのない元気のいいはしゃぎ切った様子がこの場合むしろ憎らしく
思われた。遠い下町に行って芸者になってしまうのが少しも悲しくないのかと長吉は
云いたいことも胸一ぱいになって口には出ない――
――長吉は自分とお糸の間にはいつの間にか互いに疎通しない感情の相違の
生じて居ることを明らかに知って、さらに深い悲しみを感じた――

天真爛漫な少女と純情で思いつめやすい青年、男性作家が描く恋愛はこうした
傾向が見られがちですね。(「伊豆の踊り子」、「桜の実の熟する時」)
女性作家が描くと多情で不実な男と一途な女というパターンになりますが……。


(つづきます)
279 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/03(土) 15:38:18

荷風は十六歳のとき流感をこじらせて転地療養していたそうです。
「もし、このことがなかったなら、わたくしは今日のように、老いに至るまで
閑文学を弄ぶがごとき≪遊惰の身≫とはならず、一家の主人ともなり
親ともなって、人間並の一生涯を送ることができたのかもしれない」
――「解説」・河盛好蔵より荷風の言葉――

荷風は他の誇り高き文士たちのように、自らを高みにおくことはしなかった
のですね。。。
閑文学を弄ぶがごとき≪遊惰の身≫、と自らを恥じていた……。
そんな彼の姿勢は、花柳界で身をひさぐ女たちを描くとき、決して高みからでは
なく限りない共感と憐憫を寄せていたのでしょう。

――長吉を役者にしてお糸と添わしてやらねば、親代々の家を潰してこれまでに
浮世の苦労をしたかいがない。通人をもって自任する松風庵羅月宗匠の名に
愧じると思った――
この松風庵羅月の限りないまなざし、これは荷風のまなざしそのものなのでしょう。


――それでは。
280 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/03(土) 15:39:08

(追 記)

話は逸れますが島崎藤村の「桜の実の熟する時」「春」はとても好きな作品です。

同じように恋に苦しみ、将来に悩む青年の物語です。
初恋の初々しさと、人生の入り口にさしかかったばかりの青年が自らの生き方に
真摯に向き合う姿勢は、ある種の熱をもって読者をひたむきな気持ちに誘います。

藤村の作品は青年期特有の感傷も多分に含まれていますが、瑞々しい筆致のなか
にも深い奥行きがあり、悲哀ばかりではなくそこから未来を予感させるような力強さや
一条の光、希望も垣間見ることができます。
荷風の親しみやすい叙情性も好きですが、藤村の詩的な香り高い格調のある文体に
も惹かれます。
青春文学といえば、わたしはやはり藤村を第一に挙げますね。。。
281(OTO):2005/12/06(火) 12:54:09
>>263-266
おまいが「勝手な憶測」と自分で言う部分についても
はげしく同意だwとても参考になる。
女の読みはやっぱ視点違うな、とも思うし、おもしろい。

ただおれの文章をほめ杉だw照れるからw
282(OTO):2005/12/06(火) 12:54:45
>>SXY
>『バタイユの黒い天使-ロール遺稿集』。
>なんか読みたくなってしまったなあ!

だろだろ?ww
師走だねえ。今年はあんま本読んでないよな気がするよ。
ビデオばっか見てたような…ww

SXYは今年一番印象に残った1冊って何だい?
283(OTO):2005/12/06(火) 12:57:00
すみだ川についてちょっと書いたよ。

「すみだ川」初版復刻版。高円寺の古書店で購入。
古い活字は味わいがあっていい。
しかし何故荷風なのだろう?
隅々まで制御された文体、はっきりとした一定のリズム。
瑞々しい女性描写。放蕩のにおい。

それにしても何故荷風が読みたくなるのだろうと
自問しながら読み進めると、次の文に突き当たった。
俳諧師松風庵羅月は常磐津の師匠をする妹、お豐を訪ね、
その稽古をぼんやりと眺めながら昔日を述懐する。
284(OTO):2005/12/06(火) 12:57:27
其の頃は自分も矢張若くて美しくて、女にすかれて、
道楽して、とうとう実家を七生まで勘当されてしまったが、
今になっては其の頃の凡てはどうしても事実ではなくて、
夢としか思はれない。算盤で乃公の頭をなぐった親爺にしろ、
泣いて意見をした白鼠の番頭にしろ、暖簾を分けて貰った
お豐の亭主にしろ、さう云う人達は怒ったり笑ったり、
泣いたり喜んだり、汗をたらして飽きずによく働いてゐたものだが、
死んでしまった今日から見れば、この世の中に生まれて来ても来なくても、
つまる處は同じやうなものだった。まだしも自分とお豐の生きてゐる間は、
其等の人達は両人の記憶の中に残されてゐるものの、やがて自分達も死んで
しまへば、何も彼も烟になって跡形もなく消え失せてしまふのであらう…
285(OTO):2005/12/06(火) 12:57:47
この楽観的なニヒリズムのようなもの。
シンプルでいて徹底的な虚無感を立地点として、荷風は風俗を語り始める。
おそらく私はそれを感じていたのだ。それに共感し、その上で
軽妙洒脱な風俗描写を楽しんでいるのだろう。
放蕩ですぐに思い出すのはこのスレ的にはバタイユだろうか?
荷風にはバタイユの狂気も熱情も極限的な状況も存在しない。
醒めているのだ。それが「粋」なのだと荷風本人はおそらく言いたいのだろう(笑)。
どちらが優れているなどという野暮な話しではない。
ただ、私は荷風を読みたくなる時があるのだ。
286(OTO):2005/12/06(火) 13:57:03
「すみだ川」で圧巻だったのは長吉が見物する浅草の芝居の描写だ。

いやに文字の間をくッ付けて模様のやうに太く書いてある表題の木札を
中央ににして、その左右には恐ろしく顔の小さい、眼の大きい、指先の
肥った人物が、夜具をかついだやうな大きい着物を着て、さまざまな
誇張的の姿勢で活躍して居るさまを描いてある。其の大きい画板を覆う
屋根形の軒には、花車につけるような造り花が美しく飾りつけてあった。

私のような日本の古典芸能にうとい者さえ確実に引っ張っていって
くれる力強い描写が続く。

長吉は観劇に対する此れまでの経験で「夜」と「川端」と云う事から、
きっと殺し場に違ひないと幼い好奇心から丈伸びをして首を伸ばすと、
果たせるかな絶えざる低い大太鼓の音に例のバタバタが聞こえて、
左手の辻番小屋の陰から、中間の野郎と蓙を抱えた女とが大きな声で
争いながら、出て来る。見物人が笑った。
287(OTO):2005/12/06(火) 13:57:34
芝居小屋全体の空気感が伝わってくる。映画やTV、NHKのなにかの番組で
見かけた絵や音で、私でも充分再構成できる描写である。
「例のバタバタ」ね、わかるわかる(笑)という具合だ。


荷風を読むと美しかったであろう日本の下町の風俗、
自分が知らずに、すでに失われつつある様々な美しさに、
郷愁に似た感覚を覚える。
288 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/10(土) 20:55:05

(OTO)さん

江戸の下町情緒をたっぷり織り込んだレス、ありがとうございます。
う〜ん、粋だねえ! 鯔背(いなせ)だねえ!

>ただおれの文章をほめ杉だw照れるからw
(バトーみたい……。彼も、とってもシャイで照れ屋さんです♪)

わたしが読んだのは現代仮名遣いに改められているものなのですが、
こうして古い仮名遣いで読むと、改めて荷風の息遣い、筆遣いが
感じられますね。
小唄や都々逸をほうふつさせるような小粋で洒脱な流れるような
リズミカルな文体。
情緒豊かな江戸の下町の四季や市井に生きる人たちの
生き生きとした描写。


(つづきます)
289 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/10(土) 20:55:44

>この楽観的なニヒリズムのようなもの。

そうですね、荷風なりに切実な現実と向き合ってはいるのでしょうが、
深刻さはなく、どこかその切迫感を楽しんでいる風情があります。
悲哀や懊悩に差しで向き合うというよりは、ひょいと肩の力を
抜いている感じ。
そんなに深刻な顔しなさんな、正面ばかり向いて気を張って歩くのは
しんどいでしょう、ちょいとこちらに首を向けてごらんなさいな。
ほら、世の中にはこんなに面白い芝居もありますよ、
通俗といわれながらもこんなにほろりとさせ、泣かせる読みものも
ありますよ、
どうです? 世の中まだまだ捨てたものじゃないでしょう?
もっと気楽におやりなさいな。

そんな荷風の声が聞こえてくるような気がします。


(つづきます)
290 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/10(土) 20:56:24

>放蕩ですぐに思い出すのはこのスレ的にはバタイユだろうか?
>荷風にはバタイユの狂気も熱情も極限的な状況も存在しない。

なかなか興味深い考察ですね。
両者ともいわゆる世の中に背を向けた落伍者であり、順当に歩んでいれば
片やカトリック司祭として敬意を表され、片や官吏として堅実な道を
歩んでいたことでしょう。

バタイユには反逆すべき明確な存在=神がありましたが、荷風の場合は
世の中に敵対したわけではなく、腺病質ゆえに結果として文学に親しんだ
のですね。
流れるような軽妙洒脱な文体は浮世の上澄みのみをすくい取り、
重いしがらみから自由であることの証しでしょうか。
バタイユは生涯、神からは自由になれなかったような印象を覚えます。。。
秘密結社アセファルの一員としての精力的な活動も、神からの逃亡、
神への反逆が原動力となっていますし、、、
逆説的ですが、彼の党員としての活躍や、創作意欲を掻き立てさせたのは
「神」の存在があったからでしょうね。
(無論、ロールの存在も大きいですが…)


(つづきます)
291 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/10(土) 20:57:10

>ただ、私は荷風を読みたくなる時があるのだ。

荷風はリラックスして読めます。肩の力を抜き、ひと息つきながら
読める作家です。柳に風の如く、気負わずに読めるのです。
わたしたちは何よりも荷風の文体をゆったりと味わい、堪能し、酔うのです。
屋形船の客は行き先がどこかなどと、野暮なことは訊きません。
花見客が桜に酔うように、観客が芝居に酔うように、快いリズムに身を任せて
いればいいのです。
舟は水の流るるままにたゆたい、船客は酒盛りで浮かれ、四季折々の
桜や柳や花火の景観をゆっくりと愛でます。

江戸っ子はお祭り騒ぎが大好きです。ただ騒々しく囃し立てるのではなく、
沈黙のうちに酔うことや、景色をしみじみと味わうことを知っています。
それが「通」なのです。


(つづきます)
292 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/10(土) 20:58:05

>芝居小屋全体の空気感が伝わってくる。
>「例のバタバタ」ね、わかるわかる(笑)という具合だ。

そうそう!
「四谷怪談」などで毎回流れてくるヒュー、ドロドロドロ〜という
あのお馴染みの効果音。
あ、いよいよ(化け物が)来るな、とわかっていても毎回身構えてしまう。
ほどよい緊張感と笑いが絶妙なのですよね。

荷風はいわゆる道楽と呼ばれる類のもの、小唄、三味線、芝居、などに
造詣が深いですね。それも正統派の古典芸能(能生、狂言、歌舞伎)ではなく、
庶民的なお稽古事のほう。気取らず、格式ばらず、気軽に楽しめます。
そんなところが荷風の魅力のひとつかもしれません。
歌舞伎の幕間に高価な塗りのお弁当を食べるよりも、芝居小屋で芝居を
観ながら団子を頬張るほうをきっと好んだのだろうなあ……、
などと楽しい空想(妄想?)をしつつ、今日はこの辺で。


――それでは。
293SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/12/14(水) 23:47:29
>初めて『アカシア』を読んだときの眩暈のするような清新な驚きを、
>わたしは決して忘れることはないでしょう。(by Cuc)

わたしもまた『フランドルへの道』を夢中で読んだことを
あのめくるめく感覚を、きっと忘れないでしょう!
私の場合、これまで《出逢った》と呼べる本は決して多くはなく、
シモンのいくつかの作品は、その数少ない書物群に入りますね。
ブランショやデリダの諸作品もまたそうで、
しかしながら、こうやって名前を挙げていくと、
きっと20人ぐらいの作家に絞られるんじゃないかと。。。
(嗚呼、我が貧しき読書経験!)
2003年にはブランショが、2004年にはデリダが、
今年2005年にはシモンがこの世を去ってしまったけれど。。。
294SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/12/14(水) 23:48:12
>SXYは今年一番印象に残った1冊って何だい?(by OTO)

う〜ん、そうやって改めて聞かれると
今年はあまり読んでないことを白状しなければならなくなってしまう。。。
昔の作家では、去年は横光利一を、今年は椎名麟三を読んだけれど、
最近のものとなると、阿部和重『グランド・フィナーレ』かなあ。
『アメリカの夜』以来、アベカズ作品は結構読んでて
理性と狂気が奏でるユーモラスな不協和音を
毎度毎度心地よく感じてしまうのでありました。

荷風の日記は読もう読もうと思いながら、積読のまま。。。  〆
295吾輩は名無しである:2005/12/15(木) 01:20:58
埋もれた良スレ発見。
296吾輩は名無しである:2005/12/15(木) 22:26:03
おおっ!
297これでも食らえいきなり尻見せ ◆H1YzKOQkuY :2005/12/15(木) 22:28:41
                                            〜@   〜@   〜@
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ヽ::::::     :::..     ノ            ドク ドク ピュッ ピュッ  ドヴァ
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298おさむ ◆hqSRi7RJY2 :2005/12/15(木) 22:31:56
                                              〜@   〜@   〜@
                __( "''''''::::.              〜@   〜@   〜@   〜@
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ヽ::::::     :::..     ノ            ドク ドク ピュッ ピュッ  ドヴァ
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299おさむ ◆hqSRi7RJY2 :2005/12/15(木) 22:37:17
最近私の偽者が現れて書き込みづらいが、いささかでも日記をば。

予定を変更して、先に『わたしについてこなかった男』の感想を述べます。
明るい夏の光のなかで繰り広げられる「私」と「同伴者」の男の物語ですね。
「わたしについてこなかった男」とは一体誰なのか? 読み始めたとき最大の謎でした。
「わたしについてこなかった男」=「同伴者」=「私自身」であると作中でブランショは語って
いますが、これだけでは何だか狐につままれたままのような。。。

――これから何が起こるか、私は知っています。(略) あなたにこれから描写して
あげることにします――(p75)
また、同伴者よりもつねに「私」のほうが時間的には一歩先にあること、彼はわたしを助ける
ことができない存在であり、「私」は彼に対してはいつも主人であること、書かれたものによって
ふたりが結び合わされていること。これらを踏まえた上で、
「わたしについてこなかった男」=「同伴者」とは、≪書き手である私≫の文章を読むもう一人の
≪読み手である私≫なのではないかと思いました。
優れた書き手は同時に優れた読み手でもあるといいます。ブランショは作家であると同時に
批評家でもあったのですね? けれどもその批評は他の作家たちの作品に対してのみでした。
自作の物語の≪書き手である私≫と自作を≪批評する私≫、この両者を融合させることを
試みたのがこの作品だったのではないでしょうか?

この作品はしばしば同じ場面が何回も繰り返し描写されていますね。室内、階段、台所…、
そのたびに私と同伴者の会話がなされます。そして、情景描写もそのたびに詳しく描かれ、
奥行きが広がりを見せてゆきます。

300吾輩は名無しである:2005/12/15(木) 22:37:57
↑間違えました。
美香です。。。。
301吾輩は名無しである:2005/12/15(木) 22:48:02

>ただ、私は荷風を読みたくなる時があるのだ。

荷風はリラックスして読めます。肩の力を抜き、ひと息つきながら
読める作家です。柳に風の如く、気負わずに読めるのです。
わたしたちは何よりも荷風の文体をゆったりと味わい、堪能し、酔うのです。
屋形船の客は行き先がどこかなどと、野暮なことは訊きません。
花見客が桜に酔うように、観客が芝居に酔うように、快いリズムに身を任せて
いればいいのです。
舟は水の流るるままにたゆたい、船客は酒盛りで浮かれ、四季折々の
桜や柳や花火の景観をゆっくりと愛でます。

江戸っ子はお祭り騒ぎが大好きです。ただ騒々しく囃し立てるのではなく、
沈黙のうちに酔うことや、景色をしみじみと味わうことを知っています。
それが「通」なのです
302吾輩は名無しである:2005/12/17(土) 18:04:29
皆さん感受性がとても豊かというか、読みが深いですね
本を骨の髄までフルに楽しめているようでうらやましいです
そこまで行くにはやはりある程度読み込まないと辿り着けないのでしょうかね
そんな風に読めるようになりたい
303(OTO):2005/12/19(月) 13:42:14
>>294
いやおれもパッと思いつかなかったから聞いちゃったんだ(笑
横光利一は「機械」の初版復刻版(こればっかだねw)読んだな。
ピカビアとかエルンストみたいなダダ・スルレアリスムの名作を
見るような気分になる短編群だね。

おれの今年の1冊はジャン・リュック・ナンシー「コルプス」と
言いたいところなんだが、2回半(?)くらい読んでも
「理解しました!」とは言い難い。哲学の基本にある
「厳密な言説」を賭け金にしているとしても、自分的には
「存在論のクリーンヒット」なんだがな(笑

Cucはどうだい?今年一番印象に残った1冊。
304(OTO):2005/12/19(月) 13:51:49
>>295
サンキュ

>>301
同意です。ありがとう。

>>302
骨の髄までとか言われるとうれしいけど、実際自分じゃ
まだまだだと思ってる。それに書くとなると
また話しは別で、言葉に落とすたびに、自分の気持ちと食い違い、
大切な何かがごっそり抜け落ち、といった繰り返しです。
むしろ、そんな話しを真摯に聞いてくれる人間の存在の方が偉大。
おれにとっては、このスレの二人。
そんな人達の言葉はやっぱり真面目に聞いちゃうわけで。
お義理とかじゃなくて「こころから」ね。
1冊の本について話し合える友がいれば、もっとはまれると
思いますよ。
305SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/12/22(木) 00:12:07
訂正。「今年の1冊」をちょっと真面目に考えてみたら、
『私についてこなかった男』が最も印象的だったことになりそう。
この本についてのやや具体的な感想は前に少し書いたけれど
結局のところ、「ああ、これだ。ブランショの世界は。」
という溜息にも似た感嘆を味わいながら読める本であれば良しで。
レシとしては唯一未訳だったこともあり、忘れがたく。

そのほかに読んだものは、
バタイユ『エロティシズム』
デリダ『名を救う』
古井由吉『仮往生伝試文』
後藤明生『壁の中』
島尾敏雄『死の棘日記』
など。
306吾輩は名無しである:2005/12/22(木) 00:20:10
>>305
バタイユは誰の翻訳ですか?
307SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/12/22(木) 00:24:39
>>306
今年はちくま学芸文庫で読みましたよ。
二見書房の版も持っていて、
以前に少し目を通しはしたのですが、
あれは澁澤訳だったかな。
308SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/12/22(木) 00:26:48
ナンシーは最近『訪問』という短いテクストを読了。
昔『無為の共同体』を読んで以来の再会でありました。
「存在論のクリーンヒット」って?>(OTO)

横光利一は「機械」のほかにも優れた短篇が多く、
ヌーヴォーロマン張りの非人称的なカメラアイで描写した「蝿」なんかも
新感覚派の面目躍如たる佳品です。

横光と荷風は時代的に重なってもいるけれど
Cucさんが好きな尾崎翠も新感覚派と名づけてみたい気も。
309SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/12/22(木) 00:34:08
1930年前後といえば夢野久作も活躍してましたが、
(あの『ドグラ・マグラ』をもしバタイユが読んだらどういう感想を述べただろう・・・)
国枝史郎を読んだときははまってしまい、
続けて四、五冊は立て続けに狩猟。
こういう劇画的な(されど気品にもあふれた)大衆文学も結構好きで・・・

と、ここまでとりとめなく書いてたら時間がきてしまったのでこれにて。

今年はこのスレッドのおかげでいろいろ刺激を受けました。
たぶん今年は最後の書き込みになりそうなので、ひとこと。

みなさんの時間が良き流れでありますように!
「わたしは時の黄金を探す」(ブルトンの墓碑銘)  〆
310(OTO):2005/12/22(木) 13:00:43
>>305
未読なんだよなあ「私についてこなかった男」w
「ブランショ小説選」友だちに借りちゃったから、その後かな。
つかまだ「続々吉増剛造詩集」読み終わってなくてww
この前「日欧現代詩フェスティバル」でサインしてもらったw

「死の棘日記」も読みたいなあ。映画は見た?松坂慶子と岸辺一徳。
311(OTO):2005/12/22(木) 13:13:49
>>308
「コルプス」は広義の存在論のカテゴリーに入ると思うんだ。
「在るとは何か」ということね。
おれはそんな哲学読んでないけど、読んだ中では「クリーンヒット」
だって感じるという意味。そのうち感想書くよw
まだまだ書けそうもないけどねw

>>309
夢野久作はフェイバリット!
国枝史郎!おれも何冊か読んだよ。あれはなんかはまるw。


とりあえずメリークリスマス。
312 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/25(日) 17:17:55

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

今年最後の書き込み、ありがとうございます。
ブルトンの墓碑銘もすばらしいですね!

>横光利一は「機械」のほかにも優れた短篇が多く、
>ヌーヴォーロマン張りの非人称的なカメラアイで描写した「蝿」なんかも
>新感覚派の面目躍如たる佳品です。
高校生の頃に「蝿」を読みました。
非情に乾いた目線で描かれた作品という印象が残っています。
人間の引き起こした悲劇(事故)を尻目に悠々と飛び立っていく蝿。
いつもは容赦なく蝿を叩き潰す側である人間の運命と、忌み嫌われ
取るに足らない生き物として叩き潰される側の蝿の運命とが、最後の一瞬で
鮮やかに転倒しています。運命の皮肉とでもいうのでしょうか……。

作者は五人の登場人物の誰にも肩入れすることなく、ただ眼前に繰り広げられて
いる出来事を淡々と描写するに留まります。
息子が危篤であると半狂乱になっている母親、心中しようとしている若い男女…、
それぞれの抱えている諸事情を、作者はただ「写し取る」だけなのですね。
「非人称的なカメラアイ」とは実に鋭いご指摘ですね!
なるほど、カメラアイとは「蝿の眼」のことなのですね?
この物語は蝿が馬糞に止まることから始まり、馬車が墜落する原因となる居眠り
している御者から飛び立つことで終わりを告げています。
つまり、物語の始まり=最初にカメラに映ったもの、物語の終わり=最後にカメラが
とらえたもの、ということでしょうか。


(つづきます)
313 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/25(日) 17:18:58

>Cucさんが好きな尾崎翠も新感覚派と名づけてみたい気も。
そうです、そうです。まさしく彼女は新感覚派ですね!

――私はひとつ、人間の第七官にひびくような詩を書いてやりましょう。
私は人間の第七官というのがどんな形のものかすこしも知らなかったので
ある。それで私が詩を書くのには、まず第七官というものの定義をみつけ
なければならい次第であった――(尾崎翠・『第七官界彷徨』より)

『第七官界彷徨』について作家の加藤幸子氏は以下のように語ります。
――第七官界に漂う霧の正体はエロスの霧だ。コケというもっとも原初的な
生物の恋愛を描くことによって尾崎翠は人間も含めた普遍のエロスを描いた
ということになる――(『尾崎翠の感覚世界』より)

エロスの霧という掴み所のないものを描くには凝り固まった旧来の感覚や手法では
不可能であり、新しい感覚を持つ書き手でなければ書けなかったでしょうね。


(つづきます)
314 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/25(日) 17:21:10

>1930年前後といえば夢野久作も活躍してましたが、

夢野久作、大好きです! 一時期はまって読みました。
『ドグラ・マグラ』を初め『瓶詰めの地獄』『押し絵の奇蹟』『あやかしの太鼓』などなど。
『ドグラ・マグラ』を初めて読んだときの驚きを今でもよく覚えています。
ミステリでもなく、幻想小説でもなく、何と名づけていいかわからない摩訶不思議な
狐につままれたような妖しい世界を堪能した、という酔い心地の気分でした、
読了後は「胎児の夢」からなかなか醒めきることができませんでした。。。

>(あの『ドグラ・マグラ』をもしバタイユが読んだらどういう感想を述べただろう・・・)

なかなか興味深いですね。
バタイユが描くエロスは禁忌を破る、良識を穢す、つまり神のまなざしという
揺るぎない一定の枠があると思うのです。神への反逆が軸となっています。
死も快楽も神のまなざしのもとにおいてでしか、エロスは成立し得ない。
神のまなざしは遠くまで見通し、冷厳なものを感じます。

夢野久作の描くエロスは湿り気を帯びた狭い場所で濃厚に発揮されます。
神のまなざしの及ばぬ世界です。
梅雨の晴れ間に一斉に湧きあがる水溜りのぼうふらの繁殖や蠢き、
襖を締め切ったままの蒸し蒸しするような湿気、まだ青い草が水に浸りすぎて
じくじくと腐臭を放ち始める、それが彼の醸し出すエロスの世界です。


(つづきます)
315 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/25(日) 17:22:07

夢野久作はバタイユのように直截的な言葉は使いません。
神や教会のない世界で、めくるめくような濃密なエロスの世界を描きました。
バタイユが生命の誕生、生殖(性交)の源を原初の海に見ていたのなら、
夢野久作は喩えるならば、湿気の多い森の暗い影のような沼や陰鬱として陽光の
射さない泥地のなかに隠微なエロスを見出ししたのではないでしょうか。


今年はわたしもこのスレで大変刺激を受けました。
未読の書物の紹介、深い知識に基づいた意見、広い視点からの感想、、、
本当にありがとうございました。

少し早いですが、どうぞ良いお年をお迎え下さい。
来年もよろしくお願いいたします。
316 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/25(日) 17:23:43

(OTO)さん

>Cucはどうだい?今年一番印象に残った1冊。
そうですねえ……。
わたしの場合は、このスレで紹介していただいた本がほぼそのまま今年読んだ
本なのですが、そのなかであえて一冊を挙げるとすれば、
シモンの『アカシア』でしょうか。
旧来の小説ルールを無視した奔放な想像力の連写に継ぐ連写、
ひとつの文章が途切れなくどこまでも自由に伸びていくさまは、
読んでいて新鮮な驚きと解放感がありましたね。

創作教室ならば、間違いなく全文朱を入れられそうですが。。。
というよりは、論外という判断がなされるのでしょうか。
「新しい」ということはいつの時代も反感と賛同とが同時に
なされるのですね。
317 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/25(日) 18:58:13

「死の病」の感想です。
名前を持たない男女の会話。ブランショをほうふつさせますね。

夜を買われた若い女と「死の病」にとり憑かれている男の数日間の話。
(どこかで目にした文章だなあ、と思っていたら「明かしえぬ共同体」のなかで
ブランショが引用し取り上げていた作品であると判明しました…)

夜を買われた女は「娼婦ではない」と言います。
娼婦でもないのに男に声をかけられ、申し出を受け容れたのはなぜでしょう?
女は男が「死の病」にかかっていることをひと目で見抜き、それゆえに
承諾したのでした。
憐憫でしょうか? 同情でしょうか? それとも博愛でしょうか?
いいえ、女は男に「死の病」という言葉を告げるために、自ら使者として
夜を買われたのです。

――死の病が醸成されるのはそこ、つまり彼女のなかだということ――(p33)
女は自分のなかに黒い夜、つまり死を内包していることをすでに知っているの
です。男がとり憑かれた「死の病」を、女は内奥にひそかに隠し持っています。
生と死を自在に往き来できる女は、黄泉の国からの使者なのでしょうか。

女はすべからく<誘惑者>なのです。死への誘惑、そして、生(性交・生殖)
への導きも、然り。そのどちらにも快楽が伴うのですね。


(つづきます)
318 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/25(日) 18:59:09

人間がエデンの園から追放され、罰として土に還ること、つまり死を余儀なく
されたきっかけはイヴのアダムへの<誘惑>でした。
禁断の木の実を食べた彼らは神の怒りに触れ、もう不死の身ではなく、
再び土に還ることを強いられました。人間が滅びてしまわないように、
イヴは子孫を残すためふたたびアダムを快楽をもって誘惑しなければ
なりませんでした。
死へ誘惑したのも女なら、生への希望として子孫を残すために誘うのも女。

この作品は海の近くの部屋が舞台ですね。
海――、バタイユのあの美しい詩的な「太陽肛門」によれば、原初の海では
雲=女が、波=男を誘惑し、結果として律動=生殖行動が行われ、
すべての生命はそこから誕生しました。海は女性の象徴なのです。
(中上健次氏の「岬」にも同様の記述がありましたね)

「黒い夜」とは窮極の快楽であり、エロスは死を意味します。
バタイユによればエロスと死は密接な関係にあり、窮極のエロスとはつねに
死を伴うものであります。女陰は男をエロスの快楽に導き、その先にある
甘美な死へと誘います。けれども、死すれすれの法悦を体験してもなお厳然と
残るもの、「死の病」とは窮極のエロスによっても崩せない絶壁として聳え立つ
覚醒した虚無の意識。


(つづきます)
319 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/25(日) 18:59:53

部屋のなかで交わされる男と女の会話。

――彼女は尋ねる、「あなたは一度も女を愛したことがないの?」
あなたは言う、いや、一度も、と。
彼女は尋ねる、「あなたは一度も女を欲したことがないの?」
あなたは言う、いや、一度も、と。
彼女は尋ねる、「あなたは一度も女を見つめたことがないの?」
あなたは言う、いや、一度も、と。
彼女は言う、「奇妙だわね、死んでいる人って」――(p30)

ブランショの「謎の男トマ」のトマと同じで、肉体は生きているけれども、
精神は生きながらにして死んでいる人。
この男は誰も愛さない、欲しない、見つめない、すなわちすべてにおいて
冷ややかで醒めているのですね。
(キルケゴールによれば「死に至る病」とは絶望のことですが…)



(つづきます)
320 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/25(日) 19:00:30

――愛するという感情はどのように訪れるのだろうかとあなたは尋ねる。
彼女はあなたに答える、「おそらく宇宙の論理の突然の裂け目から」
(略)「自己自身から、突然に、どうしてだかわからずに」――(p45)

女は愛することを本能として知っていますが、男はそうではありません。
ですから、愛することにおいては女のほうがつねに先導者であり、
巧みな誘惑者なのです。
名づけようのない不可思議な情動から愛は生まれるのであり、
それは決して論理からではないのですね。
論理や思考が言葉によってなされるのであれば、愛することは言葉を超越
したものなのです。言葉よりも感情が、行動が常に一歩先んじるのです。
女は生まれながらにして、学習しなくても愛する能力を与えられています。

――彼女はあなたに海の色を尋ねる。あなたは言う、「黒だ」と。
彼女は、海はけっして黒いことはない、あなたが間違っているにちがいない
と答える――(p40)

この男にとって海=女は黒い世界なのですね。つまり闇の世界、死の世界。
けれども、この男は忘れている。
母親の胎内にいたときの、羊水に包まれていたときの海の色を。
たぎり立つ生命の色、鮮烈な血の色であったことを。真昼の太陽の世界、
生の世界の色を。
だから、男はふたたび女によって生の世界を取り戻さなければなりません。


(つづきます)
321 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/25(日) 19:01:10

「死に至る病」が<絶望>ならば、「生に導く欲望」は<希望>でしょうか?
絶望も希望もすべての鍵はイヴの末裔である女が握っているのでしょうか?

女が去ってから男はあるバーで女のことを物語ります。
いつでも物語るのは男。女は物語の提供者。女は与え男は言葉で組み立てる。
男は女を知る前はあらゆるところに彼女を見出すことができたのに、
彼女を知った今ではどこにも彼女を見出せません。
男は彼女が去って初めて眼前にいない彼女を永遠に愛しつづけることが
できるのです。
そうです。彼女は「預言者」であると同時に「愛の女性」でもあるのです。
※ (預言とは神や死霊の意志を媒介し、人々に伝えること。)

「愛の女性」について、リルケの『マルテの手記』を想起しました。

――彼女は新しい未来を開く「愛の女性」である。
愛する人間はもはや誰の疑いも許さない。すでにわれとわが身に裏切りを
許さぬのだ。愛する人間の心には清らかな神秘がある。
夜鶯のように彼らは千万無量のものをただひと声に鳴く。
彼らはすでに失ったものを必死に追いすがるのかもしれぬ。
しかし、彼らは最初の数歩でやすやすとそれを追い抜いてしまうのだ。
彼らの前にはもう神があるばかりだ――


――それでは。
322(OTO):2005/12/27(火) 16:40:05
Cuc、力強いレスだ。感動した。


私にとってデュラスとは「死の病い」であり「アガタ」であり「ヒロシマ」であった。
私がこの短いレシを何度となく読むことができるのは何故だろう。

この謎めいた題にひかれて本を読み始めたとき、私はそのことを知らなかった。
そして幸いなことに今もそれはわからないと言うことができる。
そのおかげで私は初めてであるかのように再読し注釈することができる。
─「明かしえぬ共同体」

そしてこの「明かしえぬ共同体」という、このレシについて書かれた最良のエッセイが
存在するというのに、私はいまさら何を書き足せるというのだろう。
323(OTO):2005/12/27(火) 16:40:43
(それだけで充足している、ということは完全であり、つまりは出口がない)
とブランショに評されたこのレシは、読む私に「あなた」と呼びかけてくる。

あなたは泣く。─「死の病い」

読者が男性の場合、それは心の奥に潜んでいるのかもしれない「病い」を探り当て、
告発する。読者が女性の場合はどのように機能するのだろうかと思っていたのだが、
Cucのレスを読んで納得することがあった。女性にとってこのレシは「よびかける側」
への移入。「あなたは」と宣言する超越的な存在と共犯関係を結ぶように機能するのだ。
324(OTO):2005/12/27(火) 16:42:25
「死の病い」とはどんな病いだろう。

あなたは尋ねる、「どんな病いか」と。─「死の病い」

それはあまねく女性を性的欲望の対象(オブジェ)として、
その「フォルム」の中へ押し込めようとする、男性が長年にわたって遂行してきた
陰謀の歴史だろうか(誰は誰より胸が大きい、誰は誰より脚がキレイ)

それとも出産機能を持たず、産まれてから死ぬまでを「孤独」に過ごさざるを得ない
男という性がその根元に抱える「痛み」だろうか。
愛することを無言で信じることができず、言葉をうずたかく積み上げ、
それを取り引きや契約や制度におとしめてしまった男達の。



愛とは決して確かなものではないうえに、愛の要請は、愛への執着が愛することの
不可能性というという形態をとるにいたるような円環として課せられることもあるからである。
愛することの不可能性、あるいは「愛の秘訣」(ダンテ)を失ってなお、いかなる生ける
情熱をもってしても近づきようのない孤立した存在者たちに向かって身をさしのべたいと
望む人びとの、不確かなそれと感じられることもない痛みとでも言おうか。
─「明かしえぬ共同体」

あなたが涙したとき、それはあなたひとりのためにであって、あなたを分け隔てている
違いを通して彼女に達することのこの素晴らしい不可能性のためにではなかった。
─「死の病い」
325(OTO):2005/12/27(火) 16:42:58
やはり出口はない。
私は再びこのレシにはまりこんでしまっただけのようだ。
ジョセフ・コーネルの小さな箱のように、
このレシは開かれていながら、様々な暗がり、様々な
「決して解けぬ謎」を宿し続けている。
326(OTO):2005/12/27(火) 16:43:32
さて、ふたりとも今年はどうもありがとう。
Cucの変わらぬ素直できまじめな言葉に感謝。
SXYの幅広い知識と平衡感覚に感謝。

「他人はつねに、私よりもなお神の間近にいる」
 ─ブランショから孫引きしたレヴィナス

よいお年を。
327 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/29(木) 01:45:13

(OTO)さん

とてもすばらしいレスをありがとうございます。
貪るように一気に読ませていただきました。熱を感じます。
要所要所のブランショの引用の正確さ、実に見事です!

>そしてこの「明かしえぬ共同体」という、このレシについて書かれた最良の
>エッセイが存在するというのに、私はいまさら何を書き足せるというのだろう。

そうですね、わたしもブランショがこのデュラスの作品をほぼ全編にわたって
引用し、優れた解説をしているのに、あえて自分が何を書くというのだろう…?
と読了直後は躊躇しました。
ためらいながらもパソコンに向かったとき、ふいに福永武彦氏の次の言葉が
脳裏をよぎったのです。
「小説とはどのように書いてもいい。各人が好きなように自由に書けばいいのだ」
そうか、それならば一篇の小説の感想も思いのままに書いても許されるのでは
ないか、と単純に解釈したのでした……。

半年前、わたしは「明かしえぬ共同体」を読解できぬままに返却してしまいました…。
ですから断片的な記憶しか残っておりません。その事実をこれ幸い(?)と、
ブランショに捉われることも縛られることもなく、わたしが感じたままにこころのままに
書くことができたのです。(十人いれば十通りの読み方が許されるのですね…)


(つづきます)
328 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/29(木) 01:45:54

>女性にとってこのレシは「よびかける側」への移入。「あなたは」と宣言する超越的
>な存在と共犯関係を結ぶように機能するのだ。

わたしの場合は感化されやすく、思い込みが激しいといいますか、
この作品は感情移入しやすかったですね。
ここにでてくる「女」はすべての女たちの代弁者ではありませんし、彼女に感情移入
してわたしが書き記したことについてもそれは同様です。
書き手が巫女ならば、読み手にも巫女の思考が憑依し、超越者から託された「預言」
はあたかもすべての女たちの代弁であるかのようにわたしの指を走らせます。
書かれた言葉たちは、ほんとうにわたしの意思で書かれたものなのでしょうか?
後で読み返すたびにいつもそう思います。。。

書き手と読み手が共犯関係になったとき、そこにはひとつの強い絆が結ばれます。
書き手が故人であろうが、言葉を通して結ばれた絆は確固たるちからを発揮します。
もしかして、わたしが本を読むのは書き手との絆を求めているからかもしれません。


(つづきます)
329 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/29(木) 01:46:37

>愛することを無言で信じることができず、言葉をうずたかく積み上げ、
>それを取り引きや契約や制度におとしめてしまった男達の。

女にとって愛する男は全世界に匹敵し、神にも等しい存在なのです。
ええ、女は愛する男のなかにひとりの神を見るのです。
ロールは、バタイユ=神、と謳いました。
それは、たとえ愚かしい行為ではあっても、ある地点から崇高さへと転倒します。
聖なるものとは交感ならば、愛することは交感そのものなのですから。

愛する男を盲目的に信じ崇拝する、これは女に与えられた特権のひとつといっても
いいでしょう。(歓喜と苦痛が表裏一体になっていることは否めませんが…)
そこには理屈も論理もありません。それらを遥かに凌駕した聖なる領域なのです。
女たちは男が躊躇して飛び越えられない断崖を、「盲信」という翼で楽々と飛び越え
天を目指して高く飛翔してゆきます。男たちはただ唖然と見送るばかり…。

話は逸れますが、チェホフの『可愛い女』のオーレンカにとって、愛する男は
まさに彼女の全宇宙であり命そのものでした。
ある種の女たちには反感を買いそうですが、わたしはオーレンカが大好きです。


(つづきます)
330 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/29(木) 01:47:36

>やはり出口はない。
>このレシは開かれていながら、様々な暗がり、様々な
>「決して解けぬ謎」を宿し続けている。

愛することは「命懸けの跳躍」です。
男と女は永遠にわかり得ぬ存在、謎であり、絶望も深いですが、
それゆえに、求めあい、語りあい、互いに寄り添おうとするものなのかも
しれません。

――わたしたちには決して触れることができないものがある。
忘れないで。本当の秘密は、永遠に秘密のまま――
五十嵐大介・『SPINDLE』より

……謎は解こうとしてはならないのかもしれませんね。
謎は永遠に謎のままに、、、
未だかつて神を見たものが誰ひとりとしていないように、
愛もまた、確実に見たものは誰もいないのですから。。。


(つづきます)
331 ◆Fafd1c3Cuc :2005/12/29(木) 01:48:10

このスレに書くのは今年はこれが最後です。

途中から参加してくださり、エールを贈っていただきまして
ほんとうにありがとうございました。
真摯でありながらも、ときには軽妙に、ときには熱っぽく語られるレスに
大いに触発されました! 感謝いっぱいです。

あらゆる学問の大元である哲学の開祖ソクラテスは、何よりも「対話」を
重視しました。
このスレで対話できたこと、とてもうれしいです。

どうぞ、よいお年を。
来年もよろしくお願いします。
332 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/01(日) 00:38:40

SXYさん
(OTO)さん

あけましておめでとうございます。

昨年はおふたりとこのスレで対話できて、ほんとうにうれしい日々でした。
未読の小説の紹介もうれしかったです。
一篇の小説を通して感想を語り合えるのは、まことにしあわせですね。
単なる読了報告ではなく、「対話」という相互のやりとりは一見古風な
「交換日記」でこそ可能なのだと思いました。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。
333 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/03(火) 12:58:19

(OTO)さん

『アガタ』の感想を記します。

ここに出てくる男女は兄と妹(アガタ)なのですね?
最初恋人同士の男女が別れ話をしているのかと思いました。
デュラスはあえて途中まで二人の関係を伏せていたのですね。
何のために?
おそらくは、いい意味で読者を裏切りたかったのと、今まで普通の男女の
会話だと思い込んでいたのが、突然兄と妹であると知らされることで、
その瞬間からこのふたりの関係は近親相姦という一触即発的なニュアンスを
帯び、読者の緊張感を引き出す効果を狙ったのではないでしょうか?
事実、わたしはこのふたりが兄と妹と知った瞬間から俄然、今までより熱を
持って読み出しましたから。

同じ親から生まれ、一番似ていて最も近い異性であるけれども、決して関係を
結べない。つねにそばにいて暮らし、一番わかり合えるのに、一番遠い存在。
それが兄と妹。兄にとって妹は自分のかたわれ、分身。
ふたりでひとり。妹にとってもそれは然り。


(つづきます)
334 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/03(火) 12:59:03

このふたりは近親相姦の罪を犯し破壊する情熱もなく、だらだらと別れ話に
時間を費やしています。妹のアガタのほうが別離に対しては潔いですね。
兄のほうは何とか引きとめ、留まらせようと必死です。。。
ところで、このふたりの母親は近日亡くなったという設定ですが、父親はとうの
昔に亡くなったのでしょうか? あるいは別れたのでしょうか?
一度も会話のなかに出てきません…。
それほどにして薄い父親の存在と、会話のなかに繰り返し出てくる母親。
母親は「決してふたりは離れてはいけない」と言い残します。

デュラスはこの作品のテーマは「幸福」であると語っています。
愛し合いながらも男女の関係にはなれず、それでもつねに一緒にいたいと
望むこと、それは何と残酷な関係でしょう。
それは懊悩と痛みとを伴った「幸福」です。
愛したのが他人であるならば、ひとつの別離は新たな出逢いへの扉となり
得ます。なぜなら、この世に血の繋がらない人間は兄妹よりも遥かに多く、
そのなかからふたたび愛し合える人を見つければいいのですから。
けれども、兄と妹の関係は限られた人間です。


(つづきます)
335 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/03(火) 13:00:25

まして、このふたりのように肌の色、指のかたちが酷似していることなど、
それが惹かれあう理由のすべてではないにしても、身体の一部の酷似に
わが身を重ねて見ているのであれば、その悲劇性は一層高まります。
自分と思考が似ている他人はいても、身体が酷似している他人は皆無です。

けれども、よくよく考えてみれば人間が今日まで繁栄できたその大元には
近親相姦があったからなのですね。
ヒトの祖先が地上に生まれ進化し、初めて男女の区別がついた彼らは
交接して子供を生んだでしょう。その子供が仮にふたりの男と女だったと仮定
します。順番として親が先に亡くなれば、ふたりの子供は子孫を残すために
近親相姦するしかありません。その子供同士でまた次の子孫を……、
このようにしてひとつの種族の始まりと繁栄のためには今でこそタヴーとされて
いる近親相姦が実に大きくはたらいているのですね。

原初の世界では生き残ること、子孫を残すことがすべての使命でしたから
そこでは近親相姦云々どころではなかったでしょうね。
毎日がとにかく生き残ることの闘いで明け暮れたでしょう。
本能だけの世界、それも見方によっては「幸福」のひとつの形かもしれません。
また、ここでデュラスが描く、結ばれたくても結ばれない兄と妹の関係も実は、
選ばれた甘美な痛みを伴った贅沢な「幸福」のひとつの形なのでしょう……。


(つづきます)
336 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/03(火) 13:01:20

幸福とは何でしょう?
幸福とは掴み取るものではなく、気がついたら手にしていた、
そういうものではないでしょうか? 
このふたりが兄と妹として生まれ合わせたこと、それ自体がすでに幸福であり、
その関係を維持していくためには、離れていかなければならないのです。
なぜなら、子供がいつしか親から旅立つように、今の世の中においては、
よほどの事情がない限り兄妹ともいつまでは一緒にいられないのですから。
それぞれの伴侶を得て、親族に新しい血を入れていくこと、人がこの世に誕生
した瞬間からの義務づけられた宿命なのでしょう。
その宿命が嫌なら、近親相姦の罪にに堕ちるか、死ぬしかありません。

互いに遠く離れて愛し合うこと、想い合うこと、現実には肉体的な結びつきは
持たない男女の関係。いつまで経っても平行線の関係。色褪せない永遠の絆。
それは考えようによっては究極の男女関係、すなわち至高の幸福といえる
のではないでしょうか?

現実の男女関係は、喜びや快楽と同時に涙や嫉妬の懊悩があり、いつしか
それさえも時の流れのなかで色褪せ、果ては倦怠へと堕ちていってしまうもの
なのですから。。。


(つづきます)
337 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/03(火) 13:02:07

兄と別れてからもアガタは今までもそうであったように、おそらく兄以外の異性
から「アガタ」と呼ばれることを決して許さないでしょう。
それがアガタの兄への愛の証しであり、アガタの矜持なのです。
(哲学板の某スレでも書きましたが、恋する女にとって名前は大変重要な意味
を持ちます。好きな人にしかおしえない、呼ばせないのですね…)
アガタは兄よりもはるかに愛においては強靭です。

愛を永遠にするものは何でしょう?
既出ですが曽野綾子さんによれば「愛は温暖な状況のもとでは腐敗も一段と
早く進む」ものであり「去っていくことによって、愛は素晴らしい根を張る」
ものであります。
別離が愛を永続させるのであれば、永遠の愛の最たるものは「死」をおいて
他にないでしょう。

フランスの諺によれば「別れは小さな死である」そうです。
アガタと兄の別離が小さな死であるならば、死を媒介にしてこそふたりの愛は
永遠性を帯びるでしょう。
逆説的ですが、別離という小さな死をもって初めてふたりの愛はこの世で成就
するのですね。遠く離れてこの世に命ある限り想い合うこと、それがデュラスの
男女間の愛のあり方の「幸福」。。。


――それでは。
338SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/01/07(土) 01:21:23
「死の病」「アガタ」についての
お二人の濃厚な言葉を読みながら、
新しい西暦を迎えたこの時に、
「死の病」「アガタ」が未読であることのもどかしさと
ある種の幸福(未知なるものへの期待)をかみしめながら
この《交換日記》という場所のことをしばし考えました。

ブランショ、バタイユ、デュラス、ナンシーらの星たちが
(あるいはレヴィナス、デリダ、ジャベスなどなど……)
それぞれの間に隔たりを持つにもかかわらず、
《明かしえぬ共同体》と呼びたくなるような星座を成し、
闇に彷徨する我々の道先案内人になるのにも似て、
お二人の輝きある言葉は何かの合図のようにも感じられたのでした。

そして、そこではまた、ブランショがバタイユ論で使った、
あの《友愛》という言葉を想起せずにはいられないのでした。
339SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/01/07(土) 01:24:41
(承前)

しかし、その友愛とは、OTO氏の引用をさらに引用するならば、

――愛とは決して確かなものではないうえに、愛の要請は、
愛への執着が愛することの 不可能性というという形態をとるにいたるような
円環として課せられることもあるからである。――

といわれるようなパラドキシカルなものであってみれば、
この《交換日記》という場所は、交換することの不可能性こそが
交換することの欲望を掻き立てるような場所でもあるのでしょうか。

だから、その《対話》は対話不可能性を母胎にしていて、
それゆえに《終わりなき対話》という性質を帯びるのかもしれない。
340SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/01/07(土) 01:41:05
(承前)

>>323でOTO氏が
>女性にとってこのレシは「よびかける側」への移入
と書いたのは卓見であり、まったくの同感。
Cuc氏のレスに常に感じられたのは《呼びかけ》の力でしたからね。

>>325での
>ジョセフ・コーネルの小さな箱のように
というさりげなくも心憎い言葉にもニヤニヤ。

しかし、お二人にあまり不用意に近寄らないことにしましょう。
というのも、離れていることが接近を可能にするのだから。

いみじくも>>336でCuc氏が
>このふたりが兄と妹として生まれ合わせたこと、それ自体がすでに幸福であり、
>その関係を維持していくためには、離れていかなければならないのです。
と書かれていることが頭をよぎるから。
341SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/01/07(土) 01:42:31
追伸 今年も宜しくお願いします。
いま レヴィナス『全体性と無限』を読んでますが、
これについて感想を書くのはどうも無理なようです。。。    〆
342 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/08(日) 23:49:13

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

今年もよろしくお願いします。
新春にふさわしいロマンあふれる香り高いレスをありがとうございます!
わたし、星空を観るのが大好きなのです。(某板でのハンドルは冬の星座名)

>それぞれの間に隔たりを持つにもかかわらず、
>《明かしえぬ共同体》と呼びたくなるような星座を成し、
>闇に彷徨する我々の道先案内人になるのにも似て、

そうですね。ひとつひとつの星は何億光年もの距離で隔たっているのに、
地球という離れたところから観ることによって初めて星座は共同体として
意味をもつのですね。

大昔、砂漠や海を旅する人たちにとって星は食糧や水の次に大切でした。
今のように正確なコンパスもなかった時代、旅人たちは夜空の星を見ることで
自分の今いる地点や目的地を測ることができたのです。
また、星たちは孤独な旅人のこころを慰める唯一のものでした。
ラジオもMDもない時代、そんなとき、夜空の星たちはいろいろなことを
ささやきかけたでしょう。旅人も毎晩語りかけてくる星たちと対話することで
闇の恐怖から解放され、こころが慰められたことでしょう。
過酷な旅に疲れ、嘆きながら星を仰ぐ旅人たちは人間がとてもちっぽけであること、
過信してはならないことを星空はおしえてくれたのでしょうね……。


(つづきます)
343 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/08(日) 23:49:54

>だから、その《対話》は対話不可能性を母胎にしていて、
>それゆえに《終わりなき対話》という性質を帯びるのかもしれない。

なるほど! 《終わりなき対話》が継続性を帯びるためには、その前提として
対話不可能性がなければならないということですね。
もし仮に一回の対話ですべてが通じ合えたならば、それ以降の対話は不要ですね。
なぜなら、わたしたちは完璧な答えが出てしまったことに対しては、それ以上は
興味を抱くこともなく、情熱も掻き立てられないから。。。

そういえば哲学は真理を追究する学問ですが、歴代の哲学者たちがさまざまな
真理を説いているにも拘わらず、完璧な真理というものは今日に至っても究める
ことができない。哲学の命ともいえる真理を究めるための対話、弁証法。
これらは《終わりなき対話》としてその不可能性ゆえにつづいていくのでしょうね。


(つづきます)
344 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/08(日) 23:51:08

>Cuc氏のレスに常に感じられたのは《呼びかけ》の力でしたからね。
…実はわたしはネットというところがどういうところなのか、まったく知らなかった
のですね。漠然と思っていたことは、自由な時間帯で対話をする場所なのだろう
なあ、、、と。

最初の頃、某板を覗いたとき対話があまり成立していないことに驚きました。
いえ、成立しているところも幾つかありましたがとても少なかったと思います。
ほとんどが一方的に書き込み、せっかくレスがついても数回で対話が終わって
いましたから。。。
なぜ、皆さんは継続的に対話しないのだろう? 素朴な疑問でした。
確かに必要以上の馴れ合いはどこのサイトでも禁止されていますし、身辺雑記
だけならばすぐ飽きてしまうでしょう。
けれども、一篇の小説、映画、美術展などの感想ならばつづくのではないか、
そう考えました。なぜなら、感想も人さまざまであり答えが出ないからです。
結論が出ないからこそ、継続していくのですね。
そのためにはつねに相手に呼びかけなければなりません。
もちろん、呼びかけても相手はつねに応えてくれるとは限りません。
けれども、対話するためには無視されることを覚悟の上で、呼びかけることが、
呼びかけつづけることが大前提なのですね。

このスレでSXYさんや(OTO)さんという最良かつ最高の対話相手に
恵まれたことを本当に感謝しています。望外の喜びです。
わたしにとってこの「交換日記」は交感であり、交歓でもあるのです。


――それでは。
345(OTO):2006/01/11(水) 15:00:44
あけましておめでとう!二人とも、今年もよろしく!

>>338,339,340
素敵なエッセイになってるね。今年の、このスレの「序文」だな。
実際、「明かしえぬ共同体」によれば、バタイユは我々のような共同体を
望んでいた部分もあるだろうな。エクリチュールによる交感(交歓)に
よって繋がった見知らぬ他者の集合。

>>341
おれは正月休みにがんばって「ブランショ小説選」、吉増剛造「死の舟」読了。
今はナンシーの「声の分割」読み始めたが、これも感想は無理っぽい(笑
346(OTO):2006/01/11(水) 15:01:48
「アガタ」についてはCucがほとんど汲み尽くしている。
愛し合う兄妹の別れ。妹の出発によって到来する或る「幸せ」。
永遠に変わらぬ「愛」の出現。この点に関して「アガタ」には
「死の病い」のような「解けぬ謎」は無い。

マルグリット・デュラスがこの「兄」のモデルとなった下の兄Paulを
失ったのは1943年、彼女の最初の本「あつかましき人々」が出版された年
のようだ。ベトナムに残っていた彼は、薬品が手に入らず、肺炎で死んでいる。
18でフランスに戻り、すでに結婚していたデュラスは28〜29歳。
前年には最初の子を死産。翌44年には2冊目の「静かな生活」が出版されたが
夫がゲシュタポに拘束、収容所に送られ、彼女は共産党に入党。
この時デュラスは「もう書くまい」とこころに決めたという。

次の作品「太平洋の防波堤」は1950年出版。
347(OTO):2006/01/11(水) 15:04:11
「アガタ」(1981)の二人は30代。もはや全てを達観しているかのような妹と、
あたかも青春のまま時間が止まっているかのような純粋な兄。
Paulを失ってから何度と無く考え続けられていただろう「もしPaulが生きていたら」
という幻想が40年近い時間を経て1幕の戯曲に結実した。

全てはもう決まってしまっている。二人は別れなければならない。
そして残された時間はわずかでありながら、二人きりの冬の別荘という、
その「舞台」はその「全て」を覆し、破壊するだけの凶暴な可能性を用意している。
そして、現れる言葉。思い出。幾度となくデュラスの頭の中で繰り返され、
沸点に達しているかのようなやりとり。

「そうよ。わたしたちの約束、わたしたちの掟をもっと危うい、
 もっと恐ろしいものにするために、もっと不可解な、もっと呪われた、
 もっと気狂いじみた、とても耐えられないものにするために。
 あたう限り耐えがたくして、あたう限り愛に近づけるために」
 ─「アガタ」

「アガタ」では、或る「あり得べき」幸せが、
デュラスの「執念」によって結論に導かれた、と言えるだろう。
348(OTO):2006/01/11(水) 15:05:14
年号等を調べる課程で発見があった。デュラスが監督し、ヤン・アンドレアとデュラスが
脚本を朗読する、映画「アガタ」。音楽は無論ブラームスのピアノ曲だ。
http://www.jvd.ne.jp/cine/agatha/about_agatha.html
349 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/15(日) 22:25:17

(OTO) さん

>「アガタ」についてはCucがほとんど汲み尽くしている。

そのように言っていただけて大変うれしいです!
ありがとうございます。
(勢いのみで書いたものです。ちなみに初稿のままです…)

「アガタ」が書かれるに至ったデュラスの自伝的な背景、初めて知りました。
それと、映画「アガタ」のサイト、感謝です。
…そうですか、亡くなった最愛の兄Paulへの思慕がこの作品を書かせた
のですね、、、
そしてまた、男女の「幸福」のあり方をこの作品で問い、デュラスなりの
結論が出されたのですね。
「別離」、それは「幸福」の扉を開ける鍵。


(つづきます)
350 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/15(日) 22:25:53

>もはや全てを達観しているかのような妹と、
>あたかも青春のまま時間が止まっているかのような純粋な兄。

そうですね。女は愛を求める度合いも激しい分、別離に際しては
見事なまでに潔い。
それは今までの情熱が冷めたのではなく、愛する情熱をそっくりそのまま
別離の情熱に向けられるからです。情熱の方向が異なっただけで、愛は
なおもつづいているのです。
男は女ほど愛についての免疫はないから、ひとつの愛に固執するあまり
自身の時の流れを止めてしまいます。

女が男より愛することにおいて強靭なのは、「受け容れる」性であり、
「赦す」性であるからではないでしょうか。
男は外敵と闘い新境地を拓き領域を広げていく性。女は男によって
開拓された地を受け容れ、順応することで身を守るのです。

「赦し」が「愛」そのものならば、女は愛においては男の比ではありません。


(つづきます)
351 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/15(日) 22:26:30

赦しについて、わたしはこう捉えています。
懇願する側の地点に自ら降りていき、相手と同じ目線で向き合い、
手を差し伸べること、それが赦しである、と。
高みから居丈高に声をかける、それは赦しとはいわないのです。
それは命令です。

赦すことに論理的な思考は必要としません。
いえ、むしろ論理や思考は邪魔になります。
赦すことは信じることと等しいのです。ですから、生来男よりも盲信することを
すでに会得している女のほうが、いとも簡単にやってのけられるでしょう。
赦すこと、愛すること、信じることは理屈抜きの行為です。
頭を使って熟考した結果ではない、ということですね。


(つづきます)
352 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/15(日) 22:27:15

>「アガタ」では、或る「あり得べき」幸せが、
>デュラスの「執念」によって結論に導かれた、と言えるだろう。

デュラスは最愛の人と兄妹としてこの世に生まれあわせた運命を
呪うのではなく、それをひとつの幸福のあり方として受け容れたのですね。
運命を赦し、運命と和解したのですね。

赦すことによって人は呪縛から解放されます。
デュラスは運命を赦すことで解放され、むしろ自分の置かれた運命こそが
幸福なのだという結論に達しました。
悲劇のヒロインには決してならない、悲劇こそが幸福への鍵であるという
逆転勝利の視点の転倒。
デュラスは「やわ」な作家ではありませんね。


(つづきます)
353 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/15(日) 22:27:57

蛇足ですが、先人の言葉です。


――あらゆる幸福感のなかで最も美しい瞬間は、所有の瞬間ではなくて、
それに先立つ瞬間、すなわち、願望の実現が近づいて、すでに確実に
見えはじめる時である」――ヒルティ・「眠られぬ夜のために」より

期待と高揚、あらゆる喜びが自分の欲しいものを入手する直前に集結して
幸福の最高峰を成すのですね。
例えば、ほしかった本が発売され、売り場の棚の前に立った瞬間。
例えば、春を待ち望んでいる人が雪解け水の音を聞いて、早春の声を耳に
した瞬間。。。

――世に幸福はあるが、われらはそれを知らぬ。
知っていても重んじない――ゲーテ・「タッソー」より


――それでは。
354SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/01/17(火) 00:22:09
>「ブランショ小説選」、吉増剛造「死の舟」読了
>今はナンシーの「声の分割」
OTO氏の趣味は高尚だなあ。
どんな本が並んでいるのか書架を覗いてみたくなる。

>星空を観るのが大好きなのです。
最も明るい青白き恒星シリウスたるCucさんは本当に星が好きなんだなあ。
「私は祈りたい すべての星のうちのひとつは まだほんとうに存在するに違いない」
と別の場所でリルケの詩句を引用してましたが、
そういえばリルケという名もCucさんの書き込みでよく見かける固有名詞ですね。

リルケといえば、最近読んだ『青の美術史』という本からの孫引きなのですが、
クララ宛の書簡で「青の歴史を書く人がいるかもしれない」と書いています。
ちなみに『青の美術史』の著者の小林康夫はデュラス『死の病・アガタ』の訳者ですね。

お二人の今年の読書計画はどうでしょうか?
355SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/01/18(水) 00:10:16
354の続きを少し。(――昨夜は尻切れトンボになってしまったので)

小林康夫『青の美術史』によると、
青というのは人類がなかなか入手できなかった色とのことで、
それゆえに宗教画からイヴ・クラインのIKBまで、
「聖なる色」「神秘の色」として使われてきた歴史がある模様。

実は、『青の美術史』のことをここに書いてみる気にさせたのは
ちょっとした訳があるんですが、
ちくま文庫から「ノヴァーリス作品集」全三巻が刊行され始めて、
(ノヴァーリスといえばあの幻想性豊かな『青い花』ですが)
《青の文学史》というテーマもちょっと面白いかな、と考えた次第。
ちなみにレイモン・クノーにもノヴァーリスと同名の『青い花』という作品があり、
バタイユの『空の青』とともに思い起こされるのですが、
セザンヌ、マティス、ゴッホなどなど、《青》に特徴がある画家たちほどには
文学者においては《青》のテーマは見出しにくいのかも知れないけれど、
メーテルリンクの『青い鳥』は『赤い鳥』では駄目なのであって、
《青》というのは絵画のみならず、やはり文学においても
なかなか得がたい神秘的なものという象徴性を担った面があるのかな、と。
356SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/01/18(水) 00:19:21
今年の読書計画としては、ベケットの未読作品をすべて読む予定。
レヴィナス『全体性と無限』を読んでいることは前に書きましたが、
実はレヴィナスとベケットは同じ1906年の生まれで、
ともに今年は生誕100周年にあたります。
ちなみに日本ではたしか坂口安吾がそうですね。
それから島尾敏雄も今年は未読の小説作品を読了する予定です。  〆
357 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/18(水) 22:35:57

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

レスありがとうございます。お仕事のほうはいかがでしょうか?
ここはゆったりと書き込むスレですので、どうぞあまりご無理はなさいませんように。

>最も明るい青白き恒星シリウスたるCucさんは本当に星が好きなんだなあ。
はい、星や雨や風が大好きです。自然界の被造物は本当に美しいですね。
昨年、ずっと欲しかった「HOME STAR」(家庭用プラネタリウム)を購入しました。
最初レンズキャップを外すの忘れて、ちっとも映らないので泣きそうになりました。。。
初めて部屋の天井に映し出された満天の星空は、本物とはまた別の感動がありま
した。BGMは大好きなパッヘルベルの「カノン」。

なぜわたしはこんなにも、星や雨や風や虹に惹かれるのだろう?
……多分「好き」な気持ちに理由などないのですね。


(つづきます)
358 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/18(水) 22:36:36

>そういえばリルケという名もCucさんの書き込みでよく見かける固有名詞ですね。

――愛されることは、ただ燃え尽きることだ。
愛することは、長い夜にともされた美しいランプの光だ。
愛されることは消えること。そして、愛することは、長い持続だ――「マルテの手記」
十代の頃初めてリルケを読んだとき、この一節に激しくこころが揺さぶられました。
「愛は美しいランプの光」、わたしのこころに深く刻まれた言葉です。。。

>お二人の今年の読書計画はどうでしょうか?
そうですね、昨年古本祭りで「福永武彦小説全集・11巻」と森有正全集のうち、
三冊ほどを購入しましたが積んどくままになっていますので、ここでSXYさんや
OTOさんが紹介してくださる本の合間を縫って少しずつ読み進んでいければ
いいかなあ、と。


(つづきます)
359 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/18(水) 22:37:22

>ちなみにレイモン・クノーにもノヴァーリスと同名の『青い花』という作品があり、
ノヴァーリスの『青い花』は読んだことがあります。
一人の青年詩人が旅をし、旅の途上で恋人を得たのに彼女は死んでしまい、
彼が詩を詠むとそこから青い花が咲く…、確かこんな内容だったと思います。
全編をとおして物語のなかに詩がふんだんに散りばめられており、幻想的な作風と
相まってこの世ならぬ幽玄で優美な世界に浸りました。古典的浪漫の世界だなあ、
と。夢見詩人という形容がぴったりな作家ですね。(立原道造も夢見詩人ですが、
ノヴァーリスのほうが道造より遠大な夢を見ている感じです…)

レイモン・クノーの『青い花』は未読ですが、『文体練習』は読みました。
ひとつの情景を例にして、幾通りもの書き方が書かれています。
その手法の富んでいることと、多岐にわたる描写の量に、ただただ圧倒され
ました…。言葉の可能性、表現の多様性に驚くばかりです。。。


(つづきます)
360 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/18(水) 22:38:01

「青」で真っ先に想起したのはピカソの「青の時代」でした。
「色の中の色、青の中で最も青い色、おまえこそこの世にある最も優れたものだ」
当時二十歳のピカソの言葉です。

小説では「天上の青」(曽野綾子)をかつて読んだことがあります
題名は青い朝顔、ヘヴンリー・ブルー(天上の青)からきています。
連続女性殺人犯の男と、彼が唯一こころをひらいた女性とのこころの交流を
描いた静謐な作品です。
これがヘヴンリー・ブルー(天上の青)の朝顔です。↓
http://kazenopage.web.infoseek.co.jp/heaven/open.html

(スライドです)
http://webryalbum.biglobe.ne.jp/myalbum/1002099006258c7933541535442ffab118c63f430/10452347843234211

今回サイトでヘヴンリー・ブルーの朝顔を初めて目にしました。
目に痛いほどの鮮やかな濃い哀しみの色と、こころの奥にまで沁みとおるような
深い透徹した赦しの色に、言葉を失うのみです……。

(追記)
近日中に「狂人日記」(色川武大) の感想をupする予定です。


――それでは。
361(OTO):2006/01/19(木) 14:40:24
>OTO氏の趣味は高尚だなあ。
>どんな本が並んでいるのか書架を覗いてみたくなる。
ぜんぜん高尚なんかじゃないよww
マンガも読むからね。ブランショとバタイユの間に
「きょうの猫村さん」があったり、ナンシーのとなりに
「烏丸響子の事件簿」があったり、めちゃめちゃだw
あと英語をほんのちょっと読めるから古いキングとか
ウィリアム・ギブソンのペーパーバック。アメリカの
マンガでダニエル・クロウズやエイドリアン・トミネ。
そこに蜻蛉日記がはさまってたりねww

それにおれの読書はなんていうか
「ど真ん中」がごっそり抜け落ちてるんだよ。
極端なものばっかで、決して褒められたもんじゃないww
362(OTO):2006/01/19(木) 15:00:44
今年の読書計画はあんま立ててないなあ。
吉増剛造を手に入る限り「年代順に」読んでいく。
白石かずこももっと読みたいなあ。
あとナンシーかな。難しくてなかなか進まないが
いますごく惹かれてるな。

島尾敏雄も興味あるな。「死の棘」しか読んでないけど。
いまはナンシー中断して色川武大「狂人日記」読んでるよ。
これは3人で感想並べられるかな?
「狂気」については昔から興味あって、症例とか
読むの好きだったんだ。

ベケットは書肆山田から出てるやつは全部読んでるよ。
「ゴドー」は読んでないけどw(ほら抜けてるだろw)
あれらはとっても自分にとって大事な本だ。
363(OTO):2006/01/19(木) 15:15:42
「青」というとおれがすぐ思い浮かぶのは
デレク・ジャーマン「BLUE」かな。
364 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/20(金) 23:14:31

「狂人日記」の感想です。

正常と異常、正気と狂気の両方をほとんどの人は抱えて生きているのでしょう。
それも正気と狂気の境目を自覚し、意識することすらなく。
異常であるとは他人が決め判断することだから。当人の預かり知らぬところで。
この男が繰り返し見る幻視、幻覚、幻聴――猿、蛇、虫、和太鼓の音、死人、、
常人とは異なる感覚を有している人たちは、芸術家か狂人のどちらかに分類
されるようです。ゴッホ、ニーチェ、ドストエフスキー然り、、、
事実、この男は飾職人であります。(芸術家ですね…)

この男がいかなる経緯で精神を病んだのか、詳しくは記されていませんね。
子供の頃の一家離散という悲惨な記憶、ものごころついたときから対人関係が
苦手であったことなどが断片的に語られているのみです。
そうした体験は手がかりにはなっても、直接的な原因ではありません。
男のこころのなかを垣間見たいならば、書かれている心象風景を男と同じ視線
で捉え、男のこころの軌跡を辿るしかありません。


(つづきます)
365 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/20(金) 23:15:14

――何にでもなれる、その可能性があるような気がしていた時代、何になるか
は自分の選択だと思っていた時代、時がたってみると、ただそこに追い込まれ
て、こうしているほかはない自分――

この覚醒した意識。静かな諦念にも似た境地。彼は本当に狂人なのでしょう
か? たいていの人はこうした夢想を「青春時代の夢」と早々に見切りをつけ、
現実社会に不本意ながらも適応していく術を身につけていきます。
生きるために、生活するために。
けれども、こころのどこかではあきらめきれないもうひとりの自分がいて、
なりたかった自分が暴れだすのです。こんなはずじゃない!
これは自分ではない! と。暴れるもうひとりの自分は、眠っているときに唸り
叫び周囲を困惑させます。

圭子というひとりの女性の献身もこの男には届かない。
なぜなら、彼女は回復期にあり、健常者へと戻りつつある人だから。
男の妄想がひどくなり、急速に病状が悪化しつつあるのとは逆に……。
かつては同じ地点にいた圭子と男は、今は何と遠く隔たっていることでしょう。
最初の頃、圭子は同じ患者として男の側であったのに、回復し始めた時点で
健常者の側へひとりで渡ってしまいます。


(つづきます)
366 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/20(金) 23:16:06

もう彼女の目は男だけを見てはいない。眼前には無限に広がる自由な世界が
あるのですから。
哀しいのは、圭子が男を見捨てたことではなく、かつては男と同じ目線で世界を
見て呼吸していたのに、もう外界を知ってしまった彼女は男にこころを残しなが
らも以前と同じようには世界を捉えることができなくなってしまったこと。
もはやふたりには共通のカードがない。

一緒に暮らし始めた頃は圭子の愛情のほうが勝っていて、男はただ彼女が
惜しみなく差し出してくれる愛に安穏と浸っているだけでよかったのです。
少しずつ彼女が快方へと向かうにつれてふたりの間に暗雲がたちこめ、
亀裂が生じ始めたのは仕方ないのかもしれません。。。
ふたりの立ち位置が逆転した瞬間、男は生きる意味を、望みを失います。

男は世の中に絶望したのでもありません。
自分の病に絶望したのでもありません。
圭子のこころ変わりに絶望したのでもありません。
何をどうやっても変えることのできない自分自身に絶望したのです。


(つづきます)
367 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/20(金) 23:16:51

――自分は人生のはじめの頃から、誰か他者を信じることができなかった。
自分は愛し、愛されるという実感を得たことがない。自分は誰かを愛せるだろう
か。誰かに愛されるだろうか。自分はわがままで身勝手で、病者というより
欠陥者だ――

これほど明晰、怜悧に自己分析できる人間が狂人であり欠陥者であるというの
なら、世の中には二種類の人間がいるのではないでしょうか。
自分の鬱憤を自身で解消することができず立場を利用して他人に当り散らし、
他人のこころを病いへと追い込む厚顔無恥かつ鈍感な「正常」な人間と、
自分のことはほとんど自分で解決をつけ、他人に頼らない分、こころのひずみ
が出てしまい、結果として自分のこころが病んでしまう鋭敏で繊細な「狂人」と。この小説の男はまぎれもなく後者です。

男は子供の頃、恍惚感(内的体験?)を体験します。
――不意に頭上の青空に本当に空いっぱいに大きく大きく、何かが現れた。
空より少し濃い蒼、それから銀色、陽の輝きのような光。大きい大きい光の箔。
級友たちの前で、あのとき見たもののことを口にしてみた。
しかし、誰の感興も呼ばなかった――

他人には見えず男だけが見えていたもの。
おそらくは、誰もがそうした自分だけの内的体験というものがあり、
大切にこころの奥にしまわれているのではないでしょうか。
わたしはそれを狂気とはいわず「聖域」と呼びたい。


(つづきます)
368 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/20(金) 23:18:16

外部からどのような圧力がかけられてもわたしを守ってくれるもの、
わたし以外の侵入者を決して許さない聖地。
そこに行けば限りない慰めと癒しが与えられる、わたしの核となる場所。
わたしがわたしであるための最後の砦――それが聖域です。

男は自分のなかにしまわれた「大きい光の箔」ともっと真摯に向き合うべき
でした。それは今後の彼の指針、光となる可能性もありえたのですから。

――責任がどこかにあるとすれば、それはあの蒼と銀色に光る箔だ。それを
見たことを打ち消せない自分だ。その経験で自足を感じてしまったことだ――
自足とはその場で自分を閉じてしまうこと。打ち消す必要などなかったのに。
つねに開き、求めつづけることによって「聖域」はより堅牢になるのです。
自身を守るとはそういうことです。

この世に第七官が発達している種族がいるとすれば、彼らは地底に住んでいる
のかもしれません。彼らは光も音も届かない地底でわずかな地下水を糧にして
ひっそりと生息しています。彼らは視力も聴力も退化し、とうの昔に失われて
いるでしょう。けれども外敵に対しては、彼らは地上に住むものよりいち速く察知
するのです。
第七官とは彼らを外敵から守るもの、選ばれた種族にのみ与えられた聖なる
器官、正常者はそれを狂気と呼ぶ……。


――それでは。
369SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/01/22(日) 01:34:46
>ここはゆったりと書き込むスレですので、どうぞあまりご無理はなさいませんように。
お気遣いありがとう。うれしい言葉です。

>ノヴァーリスの『青い花』は読んだことがあります。
フランスにネルヴァルがいたように、ドイツにはノヴァーリスがいた。
そんなふうにこの二人がいつも並んで思い浮かびます。
ホフマン、ティーク、ブレンターノあたりのドイツロマン派を一時期読みましたが、
その中でも『青い花』は夢と現実の境界が曖昧な、最も幻想的な作品に思えました。

>レイモン・クノーの『青い花』は未読ですが、『文体練習』は読みました。
『文体練習』は奇書ですね。イヨネスコ『禿の女歌手』も系列といえるかな?
これは言葉遊びを作品のテーマにしたものです(禿の女歌手など一瞬も現れない!)。

青い朝顔のことは「ヘヴンリー・ブルー」というんですね。
青はやはり、見果てぬ夢、天上、理想、つまりユートピアと関係がありそうです。
370SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/01/22(日) 01:39:36
>島尾敏雄も興味あるな。「死の棘」しか読んでないけど。
島尾敏雄は『死の棘』が有名ですが、病妻モノのほかに戦争モノと夢モノがあり、
またタイプの境界に位置する作品もあります(病妻=夢モノ、戦争=夢モノなど)。
特に初期の短篇には、――「夢の中での日常」「摩天楼」「むかで」などなど――
カフカに通底するような幻想性豊かな優れた短篇が数多くあって、
夢の感覚を描かせたら島尾の右に出る者はいないんじゃないかと思わせるほど。
ネルヴァルやノヴァーリスとは作風が異なるけれど、とても好きな作家です。

>ベケットは書肆山田から出てるやつは全部読んでるよ。
書肆山田のやつは後期の作品ですね。ベケットは『ゴドー』が有名だけど、
カフカでいえば『変身』にあたる感じで、『審判』や『城』にあたるのが
『モロイ』以下の小説三部作になると思ってます。
これらを読んだとき、完全にノックアウトされてしまった。

>「青」というとおれがすぐ思い浮かぶのはデレク・ジャーマン「BLUE」かな。
『DEEP BLUE』かと思いきや、デレク・ジャーマンとはOTO氏らしい。
『ヴィトゲンシュタイン』という映画も撮っていた監督だと思うけれど
コミック、シネマ、アート、音楽と守備範囲が広いなあ!
371SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/01/22(日) 02:03:49
『狂人日記』の細部はあまり覚えていないのですが、
Cucさんの書き込みを読んで、少し記憶がよみがえってきました。

全体的に感じられたのは、優しさと哀しさです。
なぜか『アルジャーノンに花束を』を思い浮かべてしまうのはわたしだけでしょうか。

>圭子というひとりの女性の献身もこの男には届かない。
>なぜなら、彼女は回復期にあり、健常者へと戻りつつある人だから。
島尾『死の棘』では、正気を失い狂気へと傾斜していく妻ミホと夫との関係であったのが、
色川『狂人日記』では、語り手である主人公が狂気へと傾斜していき、圭子は回復に向かう。

幻覚や幻聴に悩まされながらも、主人公は冷静に分析したり思考したりもしている。
圭子のことを思いやりもするし、自分の立場や状況もわかってすらいる。
Cucさんが書いているように、まるで「静かな諦念にも似た境地」にあるようです。
しかし彼は、諦めつつも、もがく。諦めるのが理性なのか、もがくのが狂気なのか、
それとも、狂気のために諦め、理性のためにもがくのか、あるいは――
――あるいは、理性と狂気を併せ持つがゆえに、諦めつつもがくのかも知れない。 〆
372 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/25(水) 15:13:30

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

早々のレス、ありがとうございます。うれしく読ませていただきました。
OTOさんもかつて言われてましたが、ここにくるとほっとします。
外界の喧騒とは無縁のやさしい時間が流れています。
おふたりの力は大きいです。

>ホフマン、ティーク、ブレンターノあたりのドイツロマン派を一時期読みましたが、
このなかでわたしが知っているのはホフマンだけです。
それも名前だけです。。。「砂男」、読んでみたいと思いつつ、未だ未読です…。
あとの作家もいつか読んでみたいですね。
ドイツの作家ではヘッセの他にはシュトルム(「みずうみ」)が好きでした。

>青はやはり、見果てぬ夢、天上、理想、つまりユートピアと関係がありそうです。
そうですね。空の青はそのまま天上の色であり、地上にいるわたしたちが
「仰ぐ色」、「讃える色」なのでしょうね。
この世のどこにもない理想郷の色であると同時に、大いなるものの象徴でも
あるのでしょうか。


(つづきます)
373 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/25(水) 15:14:31

>なぜか『アルジャーノンに花束を』を思い浮かべてしまうのはわたしだけでしょうか
この作品は忘れられない一冊です。。。映画のほうもビデオで観ました。
そうですね、チャーリーは脳の手術の結果人並み以上の頭脳を得ましたが、
常人では考えもしないようなさまざまなことを考え、先々のことまでもが
見えてしまう。それは彼を絶望へと導きました。
「狂人日記」の男は、高いIQを得たのちのチャーリーと重なりますね。
感じなくてもいいものを感じ、自らの行く末が見えすぎてしまうことの恐怖。
恐怖の結果として現れる幻覚や幻聴は日に日に強くなり、彼を苦しめます。
正常者でいるには、ある程度の鈍感さと楽観さを必要とするようです。

>――あるいは、理性と狂気を併せ持つがゆえに、諦めつつもがくのかも知れない。 
自分がもがいていることを認識しているうちは、まだ大丈夫なのかもしれません。
真の狂気は、自分がもがいていることの自覚すら皆無なのではないでしょうか?
わたしは想像と妄想の差異について、ときどき考えます。
どちらも「あり得ない」ことを思い描くという点ではかわりないのですが、
例えば創作する人たちは「想像」しながら作っている自分を、自ら認識しています。
けれども「妄想」する人は、その認識や自覚がはたらかないのではないでしょうか。


(つづきます)
374 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/25(水) 15:15:18

「狂人日記」の男は、幻覚を視ながらもそれが幻覚であることを「認識」しています。
ところが、眠っているときはそうではない。発作にも似た唸り声に周囲の人間は
怯えます。
この男がもっとも怯えていることは「自覚」や「認識」すらなくなり、完全に狂気の
世界に呑み込まれてしまうことであったのでしょう。
それはもはや男が自分の力では止めようもない異界のはたらきかけです。
もはや理性の力でもがけなくなったとき、それは完全なる狂者へと変身する
瞬間でしょうか。
その瞬間によぎるのは、どのような光景であり、どのような感情なのでしょうね…。


――それでは。
375 ◆Fafd1c3Cuc :2006/01/25(水) 15:16:11

(追 記)

島尾敏雄は近日読む予定でおります。(初めて読む作家です…)

「青」のつく小説でもうひとつ思い出したのが「あの夏、ブルー・リヴァーで」。
 (原題、″Blue River ″・イーサン・ケイニン/著 雨沢泰/訳)

現代アメリカ文学を読んだことがあります。それほど集中的に読んだわけでは
ありませんが、なかでもケイニンは優等生を主人公にして描くのを得意としました。
アウトローがもてはやされるなかで、ケイニンの描く青年たちは内省的でおとなしく
繊細なこころを持ち合わせています。短編集「エンペラー・オブ・ジ・エア」に所収
されている「スター・フード」は大好きで、忘れられない佳品です。。。

ケイニンと同世代の作家ではデヴィッド・アップダイク(ジョン・アップダイクの息子)
が好きでした。短編集「カプチーノを二つ」に収められている「夏」「冬」は
初々しい繊細な筆致で綴られており、特に好きな作品群です。
376(OTO):2006/01/26(木) 11:51:10
「狂人日記」読了。色川武大はこれがはじめてだ。
講談社文芸文庫版巻末の自作年譜によると、ナルコレプシーによる
幻視・幻覚とかなり長い間つきあっていたらしく、
作中の幻覚描写の迫力もなるほどと頷ける。
しかし読後感を支配するのはSXYの言うとおり「優しさと哀しさ」だ。
(確かに「アルジャーノン」思い出すねw)
寺西圭子と暮らすアパート、山中の一軒家でのシーンの数々は
いま、思い出しても胸に迫る。これはひとつには

どんな値打ちのない生き方にもそれ相応にある重みのようなものを、
わかって貰いたいのだが

という主人公の独白に露出している作者の思いによるものだろう。
377(OTO):2006/01/26(木) 11:51:52
そしてもうひとつ、主人公の狂気が幻覚と、その幻覚に対する反応
(例えば息を吹きかけて幻覚を消そうとする)に限られていることだ。
ここには「死の棘」に見られる「狂奔する妄想」は存在しない。
幻覚の発作時以外は、この主人公は「いたってまとも」なのである。
>>367でCucが指摘している通り。
むしろ退院後主人公を迎え、必死に生活を組み上げようとする
寺西圭子の方にこそ「関係妄想」を感じてしまうほどだ。

この小説は「創作された狂気」という例外的な状況における
極めて「正常な」愛の物語ではないだろうか。
378(OTO):2006/01/26(木) 11:53:53
3人の感想並ぶとなんか楽しいねw
Cucの>>367,368あたりの読みは深いね。おもしろい。
「第七官」ていうのは尾崎翠だね。未読。

>『ヴィトゲンシュタイン』という映画も撮っていた監督だと思うけれど
デレク・ジャーマン数本しか見てないけど『ヴィトゲンシュタイン』1番好きだね。
笑えるし、簡素で美しいセットは印象的だったね。

島尾敏雄「死の棘」以外に短いエッセイひとつ読んでたな。
「妻への祈り」作品社 日本の名随筆45「狂」収録
この本面白いよ。巻頭の中也の詩を書き写しておく。
379(OTO):2006/01/26(木) 11:55:08
狂氣の手紙

袖の振合ひ多生の縁
僕事、氣違ひには御座候へども
格別害も致し申さず候間
切角(せっかく)御一興とは思召され候て
何卒氣の違った所なぞ
御高覧の程伏而懇願仕候(ふしてこんぐわんつかまつりさふらふ)

陳述(のぶれば)此度は氣がフーツと致し
キンポーゲとこそ相成(あいなり)候
野邊の草穂と春の空
何仔細あるわけにも無之(これなく)候處
タンポポや、煙の族とは相成候間
一筆御知らせ申上候

猶、また近日日陰なぞ見申し候節は
早速参上、羅宇換へや紙芝居のことなぞ
詳しく御話申上候
お葱や鹽(しお)のことにても相當お話申上候
否、地球のことにてもメリーゴーランドのことにても
お鉢のことにても火箸のことにても何にても御話申上可(もうしあぐべく)候匆々
380SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/01/29(日) 20:16:54
>ドイツの作家ではヘッセの他にはシュトルム(「みずうみ」)が好きでした。
Cucさんらしい嗜好ですね。ホフマンらのドイツロマン派のほかでは、
シュニッツラー(シュニッツレル)という作家に一時期夢中になったのですが、
この作家は心理描写にとても長けていて(特に女性の)、なかなか読ませてくれます。
森鴎外が訳したものがあり(医者兼作家は両者共通)、『輪舞』『恋愛三昧』のほか、
キューブリック&トム・クルーズが『アイズワイドシャット』の題で映画化した、
『夢がたり/夢小説』は、日常の中に潜む嫉妬や妄想の複雑な交錯を描いたもので、
個人的には島尾敏雄にも通じるものを感じます。

前に名前をあげた島尾敏雄の短篇でいくつか作品名を出そうと思ったのですが、
孤島夢、石像歩き出す、摩天楼、単独旅行者、島の果て、夢の中での日常、徳之島航海記
勾配のあるラビリンス、格子の眼、ロング・ロング・アゴウ、宿定め、夜の匂い、兆、
亀甲の裂け目、大鋏、月暈、死人の訪れ、子之吉の舌、春の日のかげり、帰巣者の憂鬱、
鬼剥げ、むかで、冬の宿り――などなどなど、1940年代後半から1950年代前半発表のものは、
どれここれも捨てがたい佳品ばかりで、結局2〜3に絞ることができないのでありました。
381SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/01/29(日) 20:17:43
>正常者でいるには、ある程度の鈍感さと楽観さを必要とするようです。
その通りで、正常を保つということは切り捨て方を知っているのだと思います。
これは『狂人日記』の主人公のみならず、色川武大にもいえると思いますが、
切り捨て方を知らないために、過剰に感じてしまう鋭敏な感覚(第七官界?)と
とてもピュアな精神を持っていると思うんですね。
色川のナルコレプシーもある種の防衛本能にも似たものだったかも、と思うのですが、
『狂人日記』の主人公には、そうした防衛本能が崩れゆく危うさ――言い換えると、
>>374での「自分の力では止めようもない異界のはたらきかけ」(by Cuc)でもありますが――
が感じられてしまうのは、この作品が出た年に色川が亡くなっていることを知ってるためかどうか。。。

主人公=作者のものとしてOTO氏が
「どんな値打ちのない生き方にもそれ相応にある重みのようなもの」を感じるのは同感で、
決して言葉数の多くない主人公のほうへと読み手の気持ちが寄っていくのは、
その「重み」を『狂人日記』の行間に自然と感じてしまうためだと思われたのでした。
382SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/01/29(日) 20:18:30
Cucさんは現代アメリカ文学も読まれてるんですね!
イーサン・ケイニン、デヴィッド・アップダイクは初めて目にする名前ですが、
機会があれば、ぜひ「スター・フード」を読んでみたくなりました。
当方は現代アメリカ文学は疎く、あまりよく知らないんですよ。
すぐに名前が思い浮かぶ作家は、ブローティガン、バーセルミくらいかなぁ。
OTO氏は現代アメリカ文学ではどうです?

作品社の「日本の名随筆」シリーズはいいアンソロジーですね。
「狂」の巻は未読ですが、他の巻は多少目を通したことがありますよ。
>>379の「地球のことにてもメリーゴーランドのことにても」というフレーズが
いかにも中也らしく面白い。
383(OTO):2006/01/31(火) 14:07:34
おれ高校の時、1年で何冊本読めるだろうとか思って、
「薄い」文庫本まとめ買いして読んだりしたことがあってw
その中にシュトルム「みずうみ」あったなあww
もう内容憶えてないww
実はバタイユ「眼球譚」も「薄かった」んだwww

島尾敏雄、タイトル見ただけでもおもしろそうだなw
ちょっと探してみるよ。

そいえば昨日「4人の食卓」っていう韓国ホラー映画見たんだけど
(あまりおすすめはしない。ちょっとショックな映像が多いからな)
ナルコレプシーの霊能者が出てきて、何処でもばたって倒れちゃうんだよww
それで、はっきりした映像の夢を見るのはナルコレプシーの特徴らしい。
そして夢か現実の記憶か混乱するようだ。すごい病気だな。
384(OTO):2006/01/31(火) 14:32:41
現代アメリカかあ。ヘミングウェイは現代?
「エデンの園」はすごく好きで、翻訳読んでから
2度ほど原文に眼を通したことがある。あとは短編しか読んでないが。

ブレット・イーストン・エリスは好きで翻訳は全部読んでるかな。
未訳の「GLAMORAMA」も読んでる。

あとバロウズだな。「裸のランチ」と「ゴースト」が好きだ。
カットアップやフォールディングが多用されてそうな作品は
読んでいない。ギンズバーグの詩も好きだな。

あとはポール・オースターを何冊か、くらいかな。
385 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/03(金) 11:50:31

(OTO)さん

この作品が描かれた背景、色川武大の病についての記述、ありがとうございました。
やはり、実体験を踏まえているのですね。

>どんな値打ちのない生き方にもそれ相応にある重みのようなものを、
>わかって貰いたいのだが
この引用を読んでふたたび「道」(フェリーニ)のジェルソミーナを思いました。
ジェルソミーナは「白痴に近い」女性で、自分が世の中で何の役にも立たない
存在なのかと激しく悩みます。そんな彼女に綱渡り芸人が言葉をかけます。
『全てのものは夜空の星のように価値がある。この道端の小石でさえも』
荒くれ男のザンパノは彼女がいなければ生きていけない男なのでした。

「狂人日記」の主人公は当初、圭子にとってはなくてはならない人でした。
では、圭子が快復へ向かったあと、この男の存在意義は何でしょう?
作品では詳しくは描かれてはいませんが、例えば山村のなかで暮らす人たちに
とって、男は荒れた庭に野菜を植え寂れた屋敷を手入れして廃屋を守る人で
あったのではないでしょうか?


(つづきます)
386 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/03(金) 11:51:17

眠っているときの発作は隣家と隣家が遠い距離にある人里離れた山中では
さほど問題にはならなかったでしょう。
閉鎖的な村の暮らし、そこに住む人たちはさまざまな鬱憤を溜め込んでいる
ことでしょう。村人たちが欲しているのは黙ったまま愚痴や文句を聞いてくれる
辛抱強い口外しない「聞き手」です。もとより無口であり人づきあいが下手な男は
ぴったりの役割かもしれません。ですから、あのまま生活していれば、村人たちの
こころの拠り所になりえたのではないでしょうか?

>この小説は「創作された狂気」という例外的な状況における
>極めて「正常な」愛の物語ではないだろうか。
ああ、そう言われてみると確かにそのようにも読めますね。
男女間の愛の物語。思いがけない指摘は楽しい驚きです。
これが「対話」の醍醐味なのでしょうね。

真っ先に想起したのは高村光太郎の「智恵子抄」でした。
「智恵子抄」より抜粋です。↓
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1065794750/305-306


(つづきます)
387 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/03(金) 11:51:56

>「妻への祈り」作品社 日本の名随筆45「狂」収録
あ、このシリーズ知っています!
確か一文字と二文字の特集をしていましたよね。
わたしがかつて購入したのは二文字特集の「恋心」でした。
(探せば、おそらく本棚のどこかにあると思います…)
「恋心」はいろいろな作家の競作でした。印象に残っているのは、
林真理子さんの「桜の木の下の初恋」です。
中学に入った頃の作者の初恋の体験が瑞々しく綴られています。
(林さん特有のいつもの辛辣さはここでは見られません…)

「狂」も読んでみたくなりました。

>「薄い」文庫本まとめ買いして読んだりしたことがあってw
あ、その気持ちわかりますわかります♪ わたしも古書店で薄〜い文庫本、
買ったことがあります。「林檎の木」(ゴールズワージー)という題名に惹かれて
買いました。過ぎ去りし青春の日々を回想し、痛恨の想いに浸る中年男性。
ヘッセやシュトルムをほうふつとさせる作風に、わたしもまた浸りました。。。


(つづきます)
388 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/03(金) 11:53:47

>それで、はっきりした映像の夢を見るのはナルコレプシーの特徴らしい。
「マイ・プライベート・アイダホ」(故リヴァー・フェニックス主演)をビデオで観たことが
あります。主人公の青年の持病がナルコレプシーでした。突然睡眠の発作に
駆られてどこでも寝てしまうという奇病。
「スタンド・バイ・ミー」(キング原作)をビデオで観て以来、リヴァー・フェニックスの
主演作品群ばかり観た時期がありました。この作品は原作も映画も文句なく
すばらしい! キャッスルロックという架空の町の雄大な自然の美しいこと!
キングはホラーというか、キワモノっぽい作家ですが、こんなに瑞々しい作品も
書いていたのですね。。。

>現代アメリカかあ。ヘミングウェイは現代?
う〜ん、実はわたしもどこから「現代」なのかはよくわからないんですね。
「ニューヨーカー」という短編ばかりを掲載した雑誌があるのだそうです。
そこに掲載されている作家の短編集(翻訳されているもの)をふとしたきっかけで
読んだのでした。
レイモンド・カーヴァー、エイミー・タン、アン・ビーティー、アリス・ウォーカー、
アン・タイラー、イーサン・ケイニン、デヴィッド・アップダイク、などなど。
ちなみに現代アメリカ文学の作家たちの多くが大学で創作専攻クラス出身であり、
短編の名手と謳われているレイモンド・カーヴァーをお手本にしているとか。
ポール・オースターはわたしも何冊か読みましたが、叙情性を一切排除したシティ派
の作家だなあ、と。(あまり記憶に残っていない…)

近日中に「ヒロシマ、私の恋人」の感想をupする予定です。

――それでは。
389 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/03(金) 12:25:32

SXY ◆uyLlZvjSXY さん
丁寧なレスをありがとうございます。

>森鴎外が訳したものがあり(医者兼作家は両者共通)、『輪舞』『恋愛三昧』のほか、
イーサン・ケイニンも医者であり作家です。何だかうれしい発見ですね。
けれどもケイニンはあまり女性心理に長けておらず、どちらかといえば奥手で
シャイな印象を受けました。

>キューブリック&トム・クルーズが『アイズワイドシャット』の題で映画化した、
>『夢がたり/夢小説』は、
『アイズワイドシャット』はビデオで観ました。原作があったのですね。
かなり際どい画面描写が話題になりましたね。。。
確かにあの映画は夢と現実の境目があやふやで、観終えたあともなかなか
現実に戻れませんでした……。

島尾敏雄の短篇のご紹介、ありがとうございます。
ずい分たくさん読んでいらっしゃるのですね。わたしも少しずつ読んでいきたいです。


(つづきます)
390 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/03(金) 12:26:18

>これは『狂人日記』の主人公のみならず、色川武大にもいえると思いますが、
>切り捨て方を知らないために、過剰に感じてしまう鋭敏な感覚(第七官界?)と
>とてもピュアな精神を持っていると思うんですね。
そうですね。常人より鋭敏な感覚を持ち合わせている人は、生きにくいのですね。
些細な他人の言動がものすごく大きく感じられ、傷ついてしまう。。。
悲しいことに、これはその人のもって生まれた資質であり、変えようがないのです。
ですから、自身のこころを守るためにはその人だけが立ち入ることのできる
場所をこころに確保しておかなければならないのですね。
その領域は他者が土足で入り込みことは厳禁であり、つねに自分を全肯定
してくれることが大前提です。

作家や芸術家たちは作品を創り上げることで、狂気のぎりぎり一歩手前に踏み
留まることができます。
では、そうではない人たち、作品として昇華することもできない、一般の感じやすい
人々はどうすればいいのでしょう?


(つづきます)
391 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/03(金) 12:27:13

やはり、自分なりの何らかの世界を築く必要があるのですね。
過剰な外部からの雑音を切り捨てるためには、それに匹敵するくらい情熱を
傾けられる何かが必要です。
その「何か」とはこれもまたひとりひとり各自で見つけていくしかないのですね。
見つけるためにもがくこと、この辺が実に難しい…。

>すぐに名前が思い浮かぶ作家は、ブローティガン、バーセルミくらいかなぁ。
両者とも初めて目にする作家です…。
検索しましたら、バーセルミは「世界一あやしい作家」といわれているそうですね。
いつか読んでみたいですね。


――それでは。
392 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/05(日) 11:50:09

『ヒロシマ 私の恋人』の感想を記します。

人は愛のために死ななければならないのでしょうか?
また、死ななければそれは愛とは呼べないものなのでしょうか?
巷で言われているように、真の愛が愛する人のために死ぬことだとしたら、
では、死なないで生き延びた人たちは愛を知らない人、と断定されてしまうので
しょうか?
もしそうならば、十五歳の初恋真っ只中の少女も、成人した女性も「死なない」
ことで自分は愛することに真摯ではない、と後ろめたい思いに苛まれて生涯を
生きなければなりません。
人は誰かを愛するたびに死ななければならないとすれば、幾つ命があっても
足りません。生き延びた人に価値はないのでしょうか?
……読み終えたあと、ふとそんな疑問が脳裏をよぎりました……。

――彼女の人生を特徴づけているものは、髪を刈られて辱かしめられた
という事実ではない。それは、問題としている失敗、つまり、1994年8月2日に、
ロワール河岸で、愛のために死ななかったということでなのである――

ドイツ兵である恋人と結婚の約束をしたリヴァは、彼が殺されたとき、半狂乱に
なりながらも死ねませんでした。
「死の勝利。完成。私は信じているの。あなたの死んだあと、生き残ることは
できないって」。いつも彼に微笑みながら口癖のように語っていた彼女は、
結果として、死なずに生き延びてしまったのです。


(つづきます)
393 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/05(日) 11:50:56

彼女がヒロシマという地名を初めて目にしたのは、刈られた髪がようやく伸び、
地下室から地上に出た日のこと。号外には「ヒロシマ」と記されていました。
恋人を亡くし、生き延びてしまった空疎な彼女にとって、ヒロシマという地名
はひとつの啓示のように映ったでしょう。
ヒロシマに行かなければならない、この目でヒロシマを見てこなければ
ならない。なぜ? 恋人が死んだのに生き延びた自分の贖罪のため?
いいえ、そこにはきっと彼の死によってあのとき失われた自分がいるから。
失われた自分に逢うために、もう一度取り戻すためにそこに行かなければ
ならない。

ヒロシマで彼女はひとりの日本人の男に出逢い、愛欲に溺れます。
出逢いの偶然は、短い逢瀬のうちに必然へとかわっていきます。
なぜ、彼でなければならなかったのでしょう?
「ヒロシマ」という地で出逢ったこと、理由はそれだけで充分です。
「ヌヴェール」「ヒロシマ」はふたりにとって愛と悲しみの地名。
ふたりは「ヌヴェール」「ヒロシマ」と互いを呼び合います。何のために?
悲しみを決して忘れないために、悲惨な記憶を生涯胸に留めておくために。
まるで罰を与え合うかのように、愛の絶頂においてもその名を呼び合うことで、
ふたりは陶酔から覚醒へと引き戻されます。
いえ、愛に惑溺しないために、愛から覚醒させるために互いに地名を呼び合う、
といったほうが正確かもしれませんね。
ふたつの地名はふたりの愛の枷。生涯手放してはならぬもの。。。


(つづきます)
394 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/05(日) 11:51:33

「きみはヒロシマで何も見なかった、何も」。繰り返される男のセリフ。
それに対して、またしても繰り返される女の延々とつづくセリフ。
「わたしは確かに見たわ。資料館で、広島広場で、病院で、人々のまなざしの
なかで……」
このやりとりは、当事者以外のものが惨劇を安易に語ることへの非難とも
とれます。実際に体験していないものは口を噤め、軽々しく語るな、と。
デュラスは作品を書いた自身についても自己批判し言及しているのですね。
ここで、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という
ヴィトゲンシュタインの言葉を想起したりもするのですが。。。

「あなたは私を殺すのね。あなたは私に幸福をあたえるわ」
リヴァはかつてドイツ兵の恋人の死を目の前にした時、死にたいと願いました。
また、「ヒロシマ」と呼ばれた日本人の男と刹那的な愛欲に溺れているさなかに
さえも彼に殺されることを、愛の最高峰としての幸福な死を願います。

――愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません
愛するものが死んだ時には、それより他に、方法がない――
中原中也・「春日狂想」より
――接吻の後に 「眠りたまふや。」 「否」といふ。
皐月、花さく、日なかごろ。 湖べの草に、日の下に、
「眼閉ぢ死なむ。」と君こたふ――三木露風・「廃園」より

愛と死は密接な関係にありますが、前詩は愛の悲劇に遭遇したとき自分も
死にたいと願い、後詩は幸福な愛の絶頂にいるときさえも死を望むのですね。


(つづきます)
395 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/05(日) 11:52:06

「どうして私はこの町が愛のかたちにぴったりと合うようにできているなんて
思いもしたのかしら?」
ヒロシマという地名は人々にどのような感情を思い起こさせるでしょうか?
戦禍の町、平和を祈る町、二度と戦争を繰り返すなという反戦の町、、、
ヒロシマは男女の愛を語る地名の象徴ではなく、恋人同士のロマンスから最も
遠い地といえるのではないでしょうか。
こうした悲惨なイメージのなかで、男女の愛というものに強引に結びつけると
すれば、それは個人的な体験と、その人の思い込みによる理由としか考えられ
ません。
最愛の兄を戦争で亡くしたデュラスにとって、戦禍の地名とは兄への愛と反戦
思想が同時に語られるところでもあったのでしょう。

リヴァにとってヌヴェールは恋人が射殺された地、男にとってヒロシマは
自分が戦争に行っている間に家族が戦禍に遭った町。
それぞれの抱えている悲劇の記憶がふたつの地名であり、ここ「ヒロシマ」で
呼応し合うのですね。それゆえに、ふたりがヒロシマで出逢い、愛し合うことは
必然性を帯びるのです。


(つづきます)
396 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/05(日) 11:52:41

この作品は映画のシナリオのように語られ、補足として断片的な覚書が
添えられています。対話をするのはふたりだけ。一人の男と一人の女。
――彼らは視つめあっているがお互いを見ているのではない。いつまでも――
男女の愛の不可能性、不確実性がここにも現れています……。

デュラスは戦争の悲惨さよりも、戦争そのものについて人々が無関心に
なることに恐怖を感じていたようです。
リヴァの言葉がデュラスの反戦思想を物語っていますね。
彼「フランスではきみにとって、ヒロシマは何だったの?」
彼女「つまり、戦争の終わりよ、完全に。茫然としたわ……。
さらにそのあとは無関心、そしてまた無関心であることについての恐怖……」

「ヒロシマ、私の恋人」の題名は、かつて愛した人の名を生涯忘れてはならない
ように「ヒロシマ」という地名も決して忘れてはならない、時の流れのなかに
風化させてはならないというデュラスの戦争に対する静かな怒りなのですね。


――それでは。
397名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/02/07(火) 13:12:35
保守
398(OTO):2006/02/09(木) 20:39:50
映画「HIROSIMA、 MON AMOUR」(邦題「二十四時間の情事」)1959年。
当初45分程度の反核ドキュメンタリーとして企画されていたというこの映画は、
公開されるやいなやヌーベルバーグの代表的な傑作と評価されたようだ。
アラン・レネの長編第1作である。
当初の企画(おそらく反戦映画は資金的な援助があったのだろう)が
どういういきさつで変貌をとげたのかはわからないが、
レネとデュラスという類まれな才能の出会いがいかに濃密な空気を
作りだしていたかはこの映画を見、そして翌1960年ガリマール社から出版された
「ヒロシマ私の恋人」を読めばわかる。

恐怖によって恐怖を描写するということは日本人たち自身によって行われていることなので、
そういったことはやめてしまい、そのかわり、その恐怖を、ひとつの恋愛、
それも不可避的に異常で《感嘆させる》ものとなるだろうひとつの恋愛のうちに
刻みこませることによって、それをその灰の中から蘇らせることこそ、
この映画の重大な意図の一つとなるのである。
─「ヒロシマ私の恋人」
399(OTO):2006/02/09(木) 20:40:53
舞台は原爆投下からちょうど14年後、1959年8月6日の広島である。
反戦映画撮影のため広島にやってきたフランス人女優と日本人の建築家との
24時間の情事。テクストでよりも映画において効果的なメタ構造
(反戦映画の中の反戦映画)とともに、
ここでは「アガタ」と同じ人物の構図が見られる。
帰国しなければならない女と残される男。
すでに決定されている離別に向かって物語は緊張を高めていく。

イルミネーションがやわらかににじむ夜の広島市街、
ナイトクラブ、カフェ。美しくエキゾチックな映像の中、
デュラス独特のヒプノティックな朗詠が続く。

女優によってヒロシマとは別の、もうひとつの「戦争の悲惨」が語られる。
或る狂気の記憶。8ヶ月の地下室での生活。
常に狂気はあいまいな「社会」という概念との対比の上で「発見」される。
出会った男と恋に落ちた少女の髪を切り、地下室に閉じこめること。
その男を殺すこと。それは「戦争」である。
この挿話とヒロシマの対比はその規模の大小を超え、
人間の日常生活をただ殲滅する「戦争」の存在を糾弾する。
デュラスには糾弾する権利がある。彼女は経験している。
彼女は自覚している。
400(OTO):2006/02/09(木) 20:41:42
少女の狂気は「戦争」によって引き起こされた錯乱であるが、
それは原子爆弾に「リトルボーイ」などという愛称をつけるたぐいの
錯乱=自明性の喪失とはまた違う種類のものだろう。
それは少女の髪を切り、地下室に閉じこめた側の錯乱に近い。
戦争は常にあらゆる価値観を転倒させ、あらゆる意味を錯乱させる。

彼女─私はあなたのことを忘れるようになるわ!もう忘れるわよ!
   見てよ、ほんとに忘れるんだから!私を見てよ!

彼女─ヒ・ロ・シ・マ。それがあなたの名前よ。
─「ヒロシマ私の恋人」

戦争という錯乱。そしてそれを忘れてしまうことの恐怖。
あるいはそれを常に蘇らせることにたいする怯え…。
「ヒロシマ私の恋人」は徹底的な反戦への意思表明であり、
「忘却」についての物語である。
401(OTO):2006/02/09(木) 20:42:32
最後に映画邦題について考えてみたのだが、
「二十四時間の情事」という過度に「扇情的」な邦題は、
興行的効果を狙ったとしても違和感をぬぐえない。
この映画は日仏合作だったはずだ。
むしろ初公開時、このタイトルに惹かれて映画を見た人々が
思いもよらず広島原爆資料館の展示物、記録映像を眼にしてしまうことを
考えると、反戦運動的な「戦略」さえ感じる。

調べていてこんなの見つけた。ベアトリス・ダル好きだから、
探して見てみようかなw
http://www.bigtimeweb.jp/catalog/detail_hstory.html
402SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/02/11(土) 22:59:14
>>384 (To OTO)
ヘミングウェイ。
あぁヘミングウェイの短篇はとても好きですね。
頻繁にさりげなく挿入されるアペリチフを飲む描写がかっこいい。

ブレット・イーストン・エリス。
この作家についてはまったく知りませんでした。

バロウズ、ギンズバーグ。
このあたりはOTO氏らしい嗜好かな。

ポール・オースター。
最近のものはあまり読んでいないけれど、
カフカ、ベケット好きの当方は必然的に
ニューヨーク三部作ほかは読みましたよ。
403SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/02/11(土) 22:59:52
>>389 (To Cuc)
イーサン・ケイニン。
この作家も医者兼作家なんですね!
そういえば藤枝静男も眼科医だったはず。

バーセルミ。
「世界一あやしい作家」といわれていることは知りませんでしたが、
捉えどころのない作家ではあります。
404SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/02/11(土) 23:01:46
『ヒロシマ 私の恋人』については
お二人の濃厚な感想をただ拝読するしかないのですが、
『破壊しに』や『モデラート』などを読んで感じるもの、
――デュラス的雰囲気とでも名づけられるような、
静謐さと激しさが同居した時空――
それが『ヒロシマ 私の恋人』にもありそうに思われつつ。

アラン・レネの映画もぜひ見てみたい!
反復をテーマにしたロブ=グリエの『去年マリエンバートで』は見ましたが。

簡単ながらこれで。 〆
405 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/12(日) 23:02:09

(OTO)さん

映画「HIROSIMA、 MON AMOUR」(邦題「二十四時間の情事」)の詳細と
感想をありがとうございます。「二十四時間の情事」のリメイクの「H story」の
サイトのご紹介も感謝です。
「HIROSIMA、 MON AMOUR」観てないのですが、とても興味深く読ませて
いただきました。
わたしが読んだ本にも数枚ほど映画のモノクロの場面描写が挿入されて
いました。「ヌヴェール」「ヒロシマ」と呼び合う男女に、ふたりの映画俳優の
顔をそのまま重ねて読んでいきました。

>ここでは「アガタ」と同じ人物の構図が見られる。
>帰国しなければならない女と残される男。
そうですね、わたしも同じことを思いました。未練を残しつつも帰国の意志を
決して翻さない女と、縋る男。おそらく恋を仕掛けたのは女のほう(女はつねに
誘惑者です)、そして女の情熱に引きずられるように一時の情事にのめり込んで
いった男。
先に恋を仕掛けたのも女なら、想いを残しつつ断ち切るように帰国するのも女。


(つづきます)
406 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/12(日) 23:02:48

デュラスの描く恋愛は、恋の始まりも終わりも女性が主導権を握っている
のですね。
男たちはまるで女に操られる木偶のよう……。
いつの時代でもどんな場所でもつねに誰かを愛さずにはいられない女たちと、
愛というものの本質から遠く、欲望(肉体衝動)でしか動けない男たち。
男は女から別離の苦悩を与えられることで初めて愛の本質を知ります。
恋の始まりからすでに愛の何たるかを知っている女たちとは実に対照的です。

リヴァが男に別離の苦悩を与えたのは、戦争の悲惨さを決して忘れさせない
ため。風化させないため。
ヌヴェールとヒロシマの惨劇を二度と繰り返させないため。
だから、彼女はあえて戦禍を受けた地名で男を呼ぶ。


(つづきます)
407 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/12(日) 23:03:52

>「ヒロシマ私の恋人」は徹底的な反戦への意思表明であり、
>「忘却」についての物語である。

「忘却」それは精神の死、魂の永遠の休息の場所。
恋愛が男女の闘争ならば、忘却は恋愛の死を意味するでしょう。
戦争の風化、戦禍の記憶の忘却は人をふたたび戦争へと誘うでしょう。
デュラスはそうした世相を危惧し、断固として闘います。
それゆえに、デュラスの描く男女の恋愛は決してハッピー・エンドには
ならない。魂は安らぐことはなく、愛は眠らない。
恋愛という闘争を、戦争を忘却の彼方に葬り去らないこと、つねに覚醒させて
おくこと、そのためだけにデュラスは筆を執るといっても過言ではないでしょう。


――それでは。
408 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/12(日) 23:04:26

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

今「死の棘」を読んでいます。
何とも凄まじい妻の狂奔ぶりに、読むほうもエネルギーをかなり消耗します…。
これもひとつの「文学の力」のあり方なのでしょう。。。

これを読了しましたら、次は島尾敏雄の短編集もいくつか読みたいと思います。
図書館で検索しましたら島尾敏雄全集が出ていて、初期短編もかなり
所収されているようですね。
その合間にホフマンの「砂男」や、バーセルミなども読んでみたいです。
ドイツ・ロマン派はほとんど未読ですが、とても興味があります。


(つづきます)
409 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/12(日) 23:05:09

>『破壊しに』や『モデラート』などを読んで感じるもの、
>――デュラス的雰囲気とでも名づけられるような、
>静謐さと激しさが同居した時空――
>それが『ヒロシマ 私の恋人』にもありそうに思われつつ。

両作品は未読なのですが、確かにデュラスは「静謐さと激しさ」とが同居した
作家ですね。
彼女の描く男女の「幸福」も、遠く離れたところ想い合うという一見静かな愛の
ように見えますが、その胸のうちはつねに炎が燃えているのですね。
とはいっても、激しすぎる炎はすぐに燃え尽きてしまいます。
チロチロと長い時間をかけて静かに燃える炎なのですすね。
それは炎でも激しいものではなく、ランプの灯に近いものかもしれません。

「ヒロシマ、私の恋人」では刹那的に燃え上がり、求め合う男女の情事が描かれて
いますが、どこか覚醒しているのです。その覚醒には静謐さすら漂います。
酔いながらもつねに醒めていること、デュラスの筆は恋に惑溺させないのです。
デュラスのあとで「死の棘」を読むと、愛に惑溺した結果の危うさや脆さが一層
際立って、痛々しく胸に突き刺さるようです。。。


――それでは。
410SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/02/13(月) 23:21:46
>今「死の棘」を読んでいます。
>何とも凄まじい妻の狂奔ぶりに、読むほうもエネルギーをかなり消耗します…。
確かにかなりエネルギーを使う読書ですね。
わたしも一気には読めず、幾度か中断しながら読み終えたと思います。
是非Cucさんの感想を読ませてください。

>「ヒロシマ、私の恋人」では刹那的に燃え上がり、求め合う男女の情事が描かれて
>いますが、どこか覚醒しているのです。
『破壊しに』や『モデラート』を読んでも、また『愛人』でもそうですが、
感情が抑えられたデュラスの文体のためか、
確かに情事は陶酔に向かいながらも覚醒してゆくような感じを受けましたね。

『ランスの大聖堂』をもうすぐ読み終えるので感想を今度書いてみようかと思います。 〆
411(OTO):2006/02/14(火) 13:49:57
いやほんと「死の棘」は疲れるよねw

>あぁヘミングウェイの短篇はとても好きですね。
>頻繁にさりげなく挿入されるアペリチフを飲む描写がかっこいい。
そうそう。うまそうに書くよねえ。
本人はでかめのゴブレットにクラッシュドアイスをしきつめた
ダイキリが好きだったと何かで読んだな。それを朝からやってたみたいだよw

エリスはここ何年かでどんどん映画化されてるね。
「アメリカンサイコ」はアメリカ都市部住人の精神的な崩壊をいち早く
とらえた名作だと思う。物事の表面を執拗に追う主人公の視点からの描写は
出版当時は「悪文」と評されたこともあるらしいが、いま思うと早すぎたんだろうね。

>ポール・オースター。
>最近のものはあまり読んでいないけれど、
>カフカ、ベケット好きの当方は必然的に
>ニューヨーク三部作ほかは読みましたよ。

それそれ、おれもそれw
412(OTO):2006/02/14(火) 14:17:16
>>404
「去年マリエンバートで」は「破壊しに」といろんなところで似てるよね。
そうあの「雰囲気」だよ。
映像美とヒプノティックな朗詠の組み合わせは
「ヒロシマ」で始まり、「マリエンバート」で完成したって感じかな。

>>406
デュラスは恋愛について「こう思う」じゃないんだよね。
「知っている」んだよね。深いところまでね。
それってすごいよなあw

>>409
>デュラスのあとで「死の棘」を読むと、愛に惑溺した結果の危うさや脆さが一層
>際立って、痛々しく胸に突き刺さるようです。。。

それ、やられそうだなあ。最近けっこうハードなもの続いてるかもな。
たまにやわらかいものもはさんだほうがいいぞw

おれはいま何故か「五輪書」。60過ぎた天然剣豪宮本武蔵が自分にとっての
「兵法」を語る。平和が続き芸能と化した武道全般を一喝し、
細かな武器の扱いに関してまで具体的に言及している、
よくできた「実用書」だ。まだ途中だが読んでてなんかスカッとするなw
413SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/02/16(木) 23:14:04
以下、バタイユ『ランスの大聖堂』についての簡単な雑感です。

この文庫本(ちくま学芸文庫)には邦訳で10頁前後の長短さまざまな小論が収められている。
ゴッホ、アンドレ・マッソン、シュルレアリスムについて書かれたものも興味深いけれども、
個人的には、《神》について書かれた「神の不在」「神話の不在」が印象に残った。

小論・小品というべきものばかりながら、この本からは紛れもなくバタイユの匂いが漂う。
いや、漂うというほど穏やかなものではなく、その匂いは突き刺さる。

慎重な推論があるかと思えばドグマティックで粗雑な断定がくる。
明晰さを感じさせる論理的な叙述のすぐあとで、
曖昧で謎めいたフレーズ、逆説的な表現がきたりもする。
「ああ、これはバタイユのものだ」と思う。

例えば――
414SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/02/16(木) 23:15:08
(承前)

例えば、

――「私が真理として持っているのは沈黙だけなのいだ。
沈黙の名のもとに私は語っている。」――(「神の不在」)

――「神の不在は、神よりも大きく、神よりも神的だ。」――
                   (「神話の不在」)

――「信仰の決定的な欠如は、確固たる信仰である。」――
                   (「神話の不在」)

バタイユにとっての信仰とは無信仰と離反しない。というよりも、
無信仰を通してしかバタイユ的信仰の境地には届かないようだ。
しかし冒頭に置かれた1918年発表の「ランスのノートルダム大聖堂」では、
非常に敬虔な若き信仰者ジョルジュがいて、転向という言葉がよぎるけれども、
やはりそれもバタイユのものであって、方向は違えどトーンは変わらない。
椎名麟三がバタイユを読んでいたら、という仮定が頭をよぎる。
415SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/02/16(木) 23:16:40
(承前)

――「限界のないどんなものにも覚醒しているこの眠りは、
不在でも、無でもなく、怒りに満ちた混乱だった。」――(「神の不在」)

バタイユのテクストに見られる逆説的表現はブランショのそれとは近くて遠い。
ブランショの言葉は、存在と不在の境界を彷徨するように感じられるのに対し、
バタイユの言葉は、存在と不在をそれぞれの臨界で融合させようとするかのよう。

時々バタイユの作品を読みたくなるのは、
沈黙に近づきたがってうずうずしている言葉が
そこにうごめいているから。
416SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/02/16(木) 23:22:58
>>412
「五輪書」とはまたシブイ。
エリスは「レス・ザン・ゼロ」の人でしたっけ?

ロルカの悲劇を読んでちょっとブレイクを入れたあと、
島尾敏雄の未読作品を少し読む予定です。  〆
417 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/18(土) 01:46:37

(OTO)さん

>デュラスは恋愛について「こう思う」じゃないんだよね。
>「知っている」んだよね。深いところまでね。

そうですね。フランス文学は心理小説(主に恋愛小説)の名作が多いよう
ですが、デュラスは恋愛を机上の論理ではなく、全身で体得していると
いう印象を受けますね。
18歳で老いた少女は、15歳の時貧しさゆえに資産家の男性に身を投げ
出しましたが、お金で買われた関係を「対等」であろうとします。
相手を愛するか愛さないかの主導権はつねに少女が握っているのです。
恋を始めるのも少女ならば、終わりにするのも少女の意思次第。
お金を提供する側の男と、受ける側の少女の立ち位置は恋愛が絡むことに
よって転倒します。
買う、買われるという関係を恋愛に高めることによって、少女は優位に
立つのです。
(「死の病い」で夜を買われた若い女も然り。男は女が去ったあと初めて愛を
知ります。そして彼女の面影を求めて今日も街中を彷徨うのです)
わたしはそこにデュラスの恋愛観の原点を見るのです。


(つづきます)
418 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/18(土) 01:47:25

>たまにやわらかいものもはさんだほうがいいぞw

そうですね。
こころのリハビリ(!)として、わたしが枕辺の書として読むのは
『銀河鉄道の夜』や『ごんぎつね』などを繰り返し読みます。
尾崎翠の『花束』や『歩行』なども何回も繰り返して読みますね。
あとは『新古今和歌集』とか。

宮本武蔵の『五輪書』ですか。二刀流って武蔵でいいのかな?
確か山奥に潜んで独自に編み出した手法とか。。。


――それでは。
419 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/18(土) 01:48:07

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

『ランスの大聖堂』の感想、ありがとうございます。
とても興味深く読ませていただきました。
そういえば、評論以外のブランショの小説は難解だとか何だかんだ言い
ながらも図書館で取り寄せて読んでいるのに、バタイユのほうはあれから
すっかりごぶさたです。。。
今年はバタイユの未読の小説も読んでみようかな、と思います。

>――「私が真理として持っているのは沈黙だけなのいだ。
>沈黙の名のもとに私は語っている。」――(「神の不在」)
遠藤周作の『沈黙』を想起しました。
「主よ、なぜあなたは沈黙しているのか?」 今まさに踏み絵を踏もうとしている
司祭フェレイラは最大の疑問を神に投げかけます。
「わたしはただ沈黙していたのではない。あなたたちが苦しんでいたとき、
わたしも一緒に苦しんでいた。……踏むがいい。あなたの足は今、痛いだろう。
その足の痛さだけでもう充分だ。わたしはそのためにいるのだから」
ここでいう主とはイエスのことであり、イコール神であります。
父(=神)と子(=イエス)と聖霊は三位一体なのです。
(ちなみにこの小説は当時のカトリック関係者たちから激しく糾弾されたそうです。
イエスがそんなことを言うはずがない、と……)


(つづきます)
420 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/18(土) 01:48:42

>――「神の不在は、神よりも大きく、神よりも神的だ。」――(「神話の不在」)
花村萬月氏は『王国記』のなかで、
「神は何もしてくれない。ただそこに在るだけなのだ。それゆえに神なのだ」と
語っています。
神の存在と不在について、おそらく確固たる結論は出ないのでしょう……。

>――「信仰の決定的な欠如は、確固たる信仰である。」――(「神話の不在」)
的を射ていますね。
キルケゴールは当時、教会を社交の場とし、ミサに通うのをたんなる慣習にして
いる信者たちに「確固たる信仰心」が欠如していることを激しく糾弾しました。

>バタイユにとっての信仰とは無信仰と離反しない。というよりも、
>無信仰を通してしかバタイユ的信仰の境地には届かないようだ。
>非常に敬虔な若き信仰者ジョルジュがいて、転向という言葉がよぎるけれども、
バタイユの『宗教の理論』を読んだことがありました。
図書館に返却したので今は手元にないのですが、おぼろげに覚えているのは
宗教の歴史(始まり)、意義、供物、祝祭、啓示など実に多岐にわたって
仔細かつ綿密に語られていました。
若き日にカトリック司祭を志したバタイユならではの熱心な姿勢が伺えます。
バタイユがとった行為は「転向」なのですね。
つまり、「存在する神を信じない」のではなく「神の不在を信じる」ということです。


(つづきます)
421 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/18(土) 01:49:18

なぜ彼は司祭になることを放棄したのでしょう?
梅毒の結果盲目になり下半身が不随になった彼の父親をみて、神が下した
罰に恐怖と怒りを覚えたことでしょう。
父が神に呪われたように自分もいつか呪われるのではないか、敬虔な信者で
あった彼にとって、神は畏怖そのものでした。

呪われた父を棄て、逃げ続けても盲目の父のまなざしは生涯彼から離れることは
ありませんでした。罰を受けた父のまなざしはそのまま神の怒りのまなざしでした。
「眼球譚」は父と神のまなざしから逃れたいがゆえに、あらゆるものが眼球に
見立てられ、穢されます。
彼が囚われているまなざしを破壊することで、父と神から自由になりたかったのです。
神の存在を否定することで神の呪いから解放されたかったのでしょう。
真に解放されたいのであれば、アセファルを結成する必要などなかったのです。
神の存在を否定すればするほど強くとらわれている証拠なのですから。
ただ「無関心」になりさえすればよかったのです。

徒党など組まずとも彼ひとりのこころのなかで無関心を決め込めば済んだのです。
おそらく一度は司祭を志した彼の真摯な情熱は行き場を失い、結果その情熱を
「神の否定」に注ぐことでようやく折り合いがつけられたのではないでしょうか?
司祭職への情熱も並外れていますが、転向し神を否定する情熱も並外れています。

近日中に『死の棘』の感想をupします。

――それでは。
422SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/02/19(日) 01:45:32
>>419-421
応答に感謝です。
そういえば、Cucさんが引き合いに出した遠藤周作もそうですが、
今読まれている島尾敏雄もキリスト教の洗礼を受けてますね。

バタイユは「神の死」を語ったニーチェからかなり影響を受けていますが、
常に変わらず神を意識し、神という言葉にとらわれていました。
彼は神というものに無関心になれず、激烈に完全に否定することもしていませんね。
むしろ彼は《非知(ノンサヴォワール)》や《内的体験》という概念で、
シュルレアリストが「超現実」を希求したのにも似て、
「超神」「超信仰」を求め続けたといえるのではないだろうか、
と考えているのですが、バタイユと神との関係を語るのは難しいので、
もうすぐ読み終える小説作品『C神父』を後日経由してみたいと思います。
(長い間積読してあったものですが、確かCucさんは読まれてましたね。) 〆
423 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/19(日) 21:09:13

SXY ◆uyLlZvjSXY さん

こちらこそ早速のレス、ありがとうございます。

>椎名麟三がバタイユを読んでいたら、という仮定が頭をよぎる。(>>414)
>バタイユは「神の死」を語ったニーチェからかなり影響を受けていますが、(>>422)
>常に変わらず神を意識し、神という言葉にとらわれていました。
さすがに着眼点が鋭いですね!
確かに両者の思想を転向させたのはニーチェですね。
椎名麟三は獄中でニーチェを読み共感し、ニーチェが自著のなかでキリストを
罵倒しているのを知り、こんなに彼を憤慨させるキリストとは何者なのだろう? 
と疑問を抱き、それから初めて聖書を読み、結果、キリスト信者になりました。
敬虔な信者であったバタイユはニーチェの影響を受けて、棄教するに至りました。

つまり、両者は同じようにニーチェを媒介としながらもまったく逆の方向に「転向」して
しまったのですね。
椎名麟三がバタイユを読んでいたら、転向したバタイユにかつて若き日に共産主義
運動に没頭していた頃の自分の姿を重ねたかもしれません。
彼の脳裏をよぎるのは、まだ青いバタイユの情熱への羨望ともう二度と彼の
ような情熱を持てない自分への苦笑と過ぎ去った日々へのなつかしさでしょうか。


(つづきます)
424 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/19(日) 21:09:54

椎名麟三にとってキリスト教は、獄中生活、出獄してからの困窮の日々という
紆余曲折を経てようやく最後に捨て身の思いで辿り着いた宗教でした。
半端な信者ではないのですね。生き方も考え方も帰依の仕方も筋金入りなのです。
ちょっとやそっと突ついても揺らぐことはないのです。

片やバタイユは幼児洗礼を受けており、幼い頃から敬虔な信者でありました。
純粋培養に近い信仰は、ひとたび父親が放蕩の結果梅毒を患い盲目になり
半身不随になった事実を目の当たりにしてたちまち揺らいだことでしょう。
ニーチェはそんな彼を「転向」させる格好な役割を果たしました。

バタイユの小説には眼球への極度の拒否と忌避、そしてタヴーとされている
あらゆるエロスが登場します。
盲目になり半身不随になった(おそらく男性機能が失われているか、あるいは
男性機能はそのままであってももはや従来のように快楽を求めることは不可能…)
父に代わって怨念をはらすべく神に復讐するかのような冒涜作品が多いです。
結局バタイユは父親や神から逃げ続けながらも、作品は父や神の影響下に
あるものばかりでした。(父と神のまなざし=眼球譚、神への反逆とも言える
猥雑なエロスに満ちた作品群)


(つづきます)
425 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/19(日) 21:11:48

椎名麟三はニーチェを読んで以来、キリストや神に対して強い関心を抱きました。
バタイユはニーチェの影響を受けて転向しながらも、とうとう神に対して最後まで
無関心の境地には達しませんでした。

>「超神」「超信仰」を求め続けたといえるのではないだろうか、
バタイユは無信仰者ではなく「超信仰」者だったのかもしれませんね。。。
それは、父を罰し呪いをかけた人間を支配する神ではなく、
神として存在はするけれども、人間を支配しない神なのかもしれません。
内的体験としてでしか語られない、言葉にできない大いなる存在。
喜ばしくて、まばゆい光のような存在。
それは喩えてみるならば、「狂人日記」の主人公が子供の頃体験したことと
少し似ているのかもしれません……。

――不意に頭上の青空に本当に空いっぱいに大きく大きく、何かが現れた。
空より少し濃い蒼、それから銀色、陽の輝きのような光。大きい大きい光の箔。
→ (>>367)


(つづきます)
426 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/19(日) 21:12:36

バタイユは既成の宗教や神ではなく、自分だけの内的体験を大切にしました。
けれども、内的体験をしたからといって自分が神にはなれないことも知って
いました。
内的体験をもたらした大いなる存在があることを認めているのです。
その存在は既成の枠で計れる神ではないことも……。

『C神父』はむごたらしさのあまり最後まで読まないまま、
途中で放棄し、返却してしまいました。。。


以下、「死の棘」の感想です。
427 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/19(日) 21:42:12

「死の棘」の感想です。

夫の浮気に狂う妻と、妻に負けじと暴れる夫の壮絶な愛の物語ですね。

この作品を語る上で、島尾敏雄という作家が元特攻隊長であったことは
無視できない要素です。
妻の狂気はかつての島尾氏の狂気そのものなのですから。
無辜の若い命を死出の旅に送り出す行為はまともな神経の持ち主では
できません。国の、軍の命令の下にという大義名分があろうとも、やはり
どこかで神経を麻痺させなければ、命令は遂行できなかったでしょう。
人としての感情を一切排除すること、何も考えないこと、意図して鈍感に
なること、そうでもしなければ特攻隊長など務まるはずはないのですから。

死の出向を命じるには一切の感情を断ち切るか、もしくは逆に狂気の情熱を
もって命令するか、そのどちらかでなくては任務は遂行されないのです。
彼は妻が狂えば狂うほど、そこにかつての己の姿を、あるいは、恐怖のあまり
出撃寸前で発狂した若き特攻隊員の姿を重ねて見たでしょう。

それゆえに、島尾氏は決して妻を棄てることはできない。
なぜなら、妻を見捨てることは、かつての狂気の沙汰の自分と、そんな自分に
従った隊員たちを棄てることに他ならないのですから。


(つづきます)
428 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/19(日) 21:42:43

穿った見方をするならば、明日の生が保証されない元特攻隊長という経歴の
持ち主が、平和で満ち足りた家庭に安穏としていられるわけがないのですね。
つねに死と差しで向き合っていた緊迫感、発狂すれすれのぎりぎりで踏み
留まる精神力の強さ、こうした日常を送っていた人は、戦争が終わったとき
どのような感情に襲われるのでしょう?
安堵、解放感、それは最初のうちだけで日を追うにつれて大きくこころを占める
のはとうとう出撃できなかったという「空疎な失望感」「落胆」であったでしょう。
彼は、ふたたび熱狂できるものを求めずにはいられなかったでしょう。

結果としてその緊迫感を与えてくれたのは、愛人ではなく狂奔する妻だった
とは、何という皮肉でしょう。
島尾氏は妻の狂乱に端からは辟易し手を焼いているように見えますが、
本心はこころのどこかで欲していたのではないでしょうか。
特攻隊での死と狂気とが隣り合う死の出撃命令を待っていた日々、確かに
彼は「生」そのものの日々を生きていたでしょう。
恐怖のなかにありながらも切迫した甘美な高揚感をひそかに味わっていた
はずです。そうでなければ特攻隊長など務まるはずがないのですから。


(つづきます)
429 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/19(日) 21:43:53

ひとつだけ確実に言えることは、「死の棘」は妻の狂乱がなければ決して
書かれることはなかった、ということです。
妻が狂乱したからこそ、この作品は誕生しえたのです。

妻が狂えば狂うほど、作品は壮絶さを増すと同時に深みをも増していきます。
妻の錯乱を目の当たりにしながら少しも怯むことなく、作品を克明に書き上げた
島尾氏は骨の髄から徹底した「作家」です。
観察者として、非情な作家の目を持ち合わせています。

自業自得とはいえ、これだけ妻に狂乱されて妻とともに病院にいき、そこで
生活をともにし、果ては妻の郷里に移住することのできる島尾敏雄は、
やはり並外れた人だと思います。

妻ミホがあれだけ見事な狂いっぷりを見せられるのも、ひとつには相手が
島尾敏雄だからです。妻がどんなに狂っても彼は奥深いところでは、受け止め
てくれる度量のある男だからですね。
腹の据わり方が抜きん出ているのですね。
だから、ミホは入院しても、転地しても治らない。
完全治癒してしまえば、島尾の関心はたちまちミホから離れてしまうから。
ミホが狂乱している間は確実に島尾の関心はミホだけに向けられているから。


(つづきます)
430 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/19(日) 21:44:43

ミホの狂気の原因は島尾の不貞にあることは周知の事実ですが、それとは
別に彼のなかの秘められた狂気が十年という歳月をかけて、妻であるミホを
ゆっくりと蝕んでいったのではないでしょうか?
島尾敏雄という作家の秘められた狂気にあてられた人は、もはや平常心では
いられない。
この作品では彼の特攻体験がその後の彼の人生に及ぼした影響(後遺症)に
ついては語られてはいませんが、心身に変調をきたすほどかなり大きなもの
だったと思います。
死の出撃を命じる特攻隊長――彼の奥深いところに秘められた狂気の芽は
鎮めようとすればするほど育ち、蔦のように触手を伸ばし、いつしか彼だけで
なく彼のもっとも身近な人間、妻をもからめとっていったのです。

妻の狂奔ぶりも凄まじいですが、妻の狂気を受けとめ、それを遥かに上回る
底知れぬ深淵な闇を特攻時代から冷酷に見つめつづけ、ひとつの作品に
仕上げた島尾敏雄には、畏敬の念さえ覚えます。。。

島尾氏が妻ミホとふたりの子供を引き連れて一家総勢で各出版社に
原稿を届けたり、原稿依頼を引き受けに回る光景は壮絶であると同時に
どこかしら滑稽味が漂うのは否めませんね。。。


(つづきます)
431 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/19(日) 21:45:44

またある時は、妻がわめき散らしたあと今度は夫が自棄になり自殺行為に
及び、それを止める妻、騒ぎが一層大きくなるさなか妻の「あくび」で一件落着してしまう顛末も読んでいる側としては拍子抜けしてしまうのでした。。。

「死の棘」が妻の狂乱という凄惨な日々を綴りながらも、読む者を惹きつけて
やまないのは、作者と狂奔する妻ががっぷりと四肢を駆使して「対等」に闘争
するからかもしれません。
作者に非があるとはいえ、妻とともに入院したり、移住したり、カトリックの洗礼
を受けたりと最後迄妻に付き添う作者の姿勢には度外れた「度量」を感じます。
毎朝決まった時間にふたりして聖書を読み、祈る。
けれども彼らの祈りは届かない。。。ミホの狂気は治っても一時的なもので
しかない。祈りは「言葉」でなされるもの、言葉は神にもミホにも届かない……。

――言葉はこころを超えない こころを超えるのは人間だけ――(谷川俊太郎)
言葉を命とする詩人でさえも、言葉は人間に及ばないと謳います。
「島尾敏雄」という人間によってでしか、ミホの病は癒えない。
妻ミホにとっては医学も、文学も、信仰も、彼の存在の前では遠く及ばない。

この小説は、夫婦の壮絶な愛の闘争劇でありますが、闘争の結果もたらされた
血みどろの「人間賛歌」の物語でもあるのですね。


――それでは。
432(OTO):2006/02/24(金) 17:49:14
「ランスの大聖堂」はあんまり読もうと思ってなかったけど
SXYの感想読むとめちゃめちゃ読みたくなるねw
ゴッホについてなんて言ってるかとかも知りたいな。
「バタイユの匂い」ってあるよなあ、確かにあれは匂いだ。

Cucの「死の棘」感想にはおおむね同意だな。
おれは周辺読んでないし、映画についても少し交えて書いてみたよ。
433(OTO):2006/02/24(金) 17:50:16
「死の棘」。狂気を描いているという点に興味を持ち、
まず映画を見た。「これは本物だ」と思った。
ドーパミンの極端な増加に伴う強度の嫉妬妄想。
狂気とは素朴に「論理の破綻」と見えがちだが、その実
病者の内面では徹底的な内的論理にしたがってすべての事象を
関連づけようとする「努力」である。
一点の空隙さえ「処理不能」として留保することは
病者の存在自体を揺るがす恐怖を呼び寄せる。

映画「死の棘」康平監督1990年。カンヌではパルム・ドールは惜しくも逃したものの
(デビッド・リンチの「ワイルド・アット・ハート」が受賞)
審査員特別グランプリ・国際映画批評家連盟賞を受賞している。
大島渚による映画化の誘いさえ断った島尾敏雄が、
小栗の監督デビュー作「泥の河」を気に入り、映画化の運びとなったようだ。

スタンリー・キューブリック「シャイニング」をさえ思い出させる(w)
徹底的に垂直、水平に組み立てられた画面構成は、彩度を落とした
沈鬱な色調と相まって見る者にじわじわと緊張を強いていく。

立ちつくす人物の背後に開け放たれた縁側のむこうには、荒れ果てた建仁寺垣。
その上辺に迫る低い雲に覆われた空は暗い灰色であり、かけらの青みも無い。

ノーメイクの松坂慶子演ずるミホの鬼気迫る眼差し、
悩み、うろたえる岸部一徳のトシオのキャスティングは、
俳優のキャラがどうしても優先してしまい、賛否両論はあるかも知れないが、
たとえば、発作中のミホが虚ろな顔で
「わたしも一生に一度でいいから、そんな色とりどりのパンティーをはいてみたい」
と言うシーンや、トシオが必死に首をくくろうとするシーンなどを見ると、
「思わず笑ってしまう場面」という、この原作作品の微妙でありながら、
重要な要素が見事に演じられているのがわかる。
434(OTO):2006/02/24(金) 17:51:03
小説「死の棘」。これほど重苦しい作品の随所に見られる「思わず笑ってしまう場面」は
非常に気にかかる。何故我々は「笑ってしまう」のか。
それはおそらく、我々には「関係のない」狂気がそこにあるからだろう。
確かにこの二人の主人公にあまり感情移入はできない。我々は彼らをただ見守ることしか
できないのだ。強いて言えば、二人の子供に感情移入できるかも知れないが。

それでも我々は、実のところ狂気と無関係であることを保障されている訳ではない。
我々がこの作品の中でつい笑ってしまうのは我々が「安全圏」にいると
思いこむ油断だろう。しかし「死の棘」は思いも寄らぬ場所に潜み、
我々が不用意にのばした手を刺す。

ミホは何故狂ったのだろう?夫の浮気が引き金になったのは確かだろうが、
むしろ当時の沖縄と東京の生活環境の差が基本的に問題だったのではないだろうか?
暖かな光溢れる島に育った娘。精霊の跋扈する森の国から来た娘の、
東京近郊での10年間の暮らしは、彼女の内部に眼に見えぬ澱のようなものを
積もらせていったのではないだろうか。
映画での、重苦しい街の風景を見て、そんな気がした。
「死の棘」それは元々、荒んだ都市生活のディテールに潜んでいたのかも知れない。
435(OTO):2006/02/24(金) 17:52:10
それにしても、この物語で驚嘆すべきは、やはりトシオの妻に対する一貫した姿勢であろう。
妻の発作に何昼夜も付き合い、自ら狂気の淵を覗きこもうとする夫。
妻の言葉を「狂人の戯言」としてではなく、
その根底に存在する妻の内的論理を「真実」として理解しようと試みる。
そして妻の狂気も、常に夫に向けられている。
演劇的な発作は、そこに夫がいるからであり、
彼女の叫びは夫に救済を求めているのだ。
錯乱した意識の深奥で未だ求め合い、繋がり続けるふたり。
我々が彼らのドタバタを笑うとき、
おそらく彼らの方が人間関係の核に近い場所にいることを
我々は気づくべきだろう。
436(OTO):2006/02/24(金) 17:57:43
>>416
>エリスは「レス・ザン・ゼロ」の人でしたっけ?

そうそう。1985年、21歳カレッジ在学中に出版された処女作だね。
若手作家ブームだったみたいだね。
437 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/25(土) 20:54:03

(OTO)さん

深い考察に基づいた緻密なレス、ありがとうございます!
映画についての感想は、わたしが見過ごしていた箇所が実に丹念に語られており、
その奥行きの深さに唸ってしまいました。本当にすばらしいです!!

>スタンリー・キューブリック「シャイニング」をさえ思い出させる(w)
以前ビデオで観ました。ジャック・ニコルソンの発狂ぶりは鬼気迫るものがあり、
迫真の演技でしたね。
冬の山荘にこもった作家が発狂し、妻子を殺そうと追いつめていく……。

>これほど重苦しい作品の随所に見られる「思わず笑ってしまう場面」は
>非常に気にかかる。何故我々は「笑ってしまう」のか。
>それはおそらく、我々には「関係のない」狂気がそこにあるからだろう。
わたしもミホのあのせりふには「思わず笑ってしまった」一人なのですが、
それはわたしが部外者であり、対岸の火事を見ている立場にあるからなのですね?
悲劇と喜劇は紙一重と言われますが、「当事者」にとっては悲劇でも「部外者」からは
喜劇と映るのですね。
(喜劇王チャップリンはその辺をよく理解していましたね)


(つづきます)
438 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/25(土) 20:55:02

>暖かな光溢れる島に育った娘。精霊の跋扈する森の国から来た娘の、
>東京近郊での10年間の暮らしは、彼女の内部に眼に見えぬ澱のようなものを
>積もらせていったのではないだろうか。
ああ、なるほど! 確かにミホは環境不適応者とまでは言わないけれども、
奄美で島民たちから崇められる尊い血筋をもって生まれた一族の娘として
自由に伸び伸びと何の苦労もなく育てられました。
またミホは娘時代から予知夢というか正夢をよく見る人で、例えば島尾敏雄率いる
特攻隊員たちが奄美にやって来る前に、名前も顔も知らぬ隊長から愛の告白を
される夢をすでに見ていたようですね。
予知能力、霊感が人並以上に発達していたのでしょうね。

東京での貧しい日々の暮らしもさることながら、殺伐とした環境になかなかなじめ
なかった素朴な「島育ちの娘」に、ゲーテの「野ばら」を想起してしまいました。
ひとりの男が野辺の薔薇の美しさにみとれて薔薇を摘んで家に帰りました。
けれどもひとたび摘まれ、花瓶に飾られた薔薇は野辺で咲いていたほど美しくは
ありませんでした。……薔薇はいつしか萎れてしまいました。
野に咲く花は野に咲いているからこそ美しいのだ、というアフォリズムでもあるので
しょうか……。


(つづきます)
439 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/25(土) 20:56:20

「野中の薔薇」  (原詩)ゲーテ  (訳)近藤 朔風

童(わらべ)はみたり 野なかの薔薇
清らに咲ける その色愛でつ 飽かずながむ 
紅におう 野なかの薔薇

手折りて往かん 野なかの薔薇
手折らば手折れ 思い出ぐさに 君を刺さん
紅におう 野なかの薔薇

童は折りぬ 野なかの薔薇
折られてあわれ 清らの色香 永久(とわ)にあせぬ 
紅におう 野なかの薔薇

ゲーテは20歳の頃、当時フランス領だったシュトラスブルグの大学で学び、
そこで素朴でつつましい田舎娘フリーデリーケと恋に落ちますが、結局ゲーテは
彼女のもとを去ってしまいます。
しかし、その時の良心の呵責の念はいつまでも消えず、「野ばら」の詩には、
その影響が深く出ているのだそうです。


(つづきます)
440 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/25(土) 20:57:23

以下、「野ばら」になぞらえて。

――清らに咲ける その色愛でつ
飽かずながむ 紅におう野なかの薔薇――
島尾敏雄は奄美で「野ばら」の詩さながらに島娘ミホと出逢い恋に落ちました。
戦争が終わりふたりは結婚します。けれども敏雄はやがて他の女性にこころを
移していきます。

――手折りて往かん 野なかの薔薇
手折らば手折れ 思い出ぐさに君を刺さん――
ミホは敏雄によって手折られることには抵抗はありませんでした。
ミホが敏雄を刺したのは彼が他の女性にこころを奪われたからでした。
ミホが刺した「棘」は嫉妬であり、同時に手折ったときの約束を破った敏雄への
「罰」でもありました。

――折られてあわれ 清らの色香
永久にあせぬ 紅におう野なかの薔薇――
嫉妬に狂うミホが敏雄にはあわれでありました。
野辺に咲いていたのを自分が手折ってしまったがために……。
狂乱する妻は島にいた頃のような野生を再び取り戻し、それは不思議と敏雄の
眠っていた作家としての創作意欲を掻き立て、呼び起こしたのです。
敏雄はミホの狂奔を描くことで、作家としての確立とミホへの愛を不朽にしたのです。


(つづきます)
441 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/25(土) 20:58:44

>我々が彼らのドタバタを笑うとき、
>おそらく彼らの方が人間関係の核に近い場所にいることを
>我々は気づくべきだろう。
壮絶でこれほど剥き出しな濃厚な人間関係は、時として人を息苦しくさせますが、
冷え切って深い溝だけの関係よりも、はるかに血の通ったものを感じますね。
ミホの狂気をこころから笑い飛ばせないのは、彼女のなかにある真摯な叫び、
「愛する人から愛されたい」という実に素朴でひたむきな情熱が読むものに
迫ってくるからですね。
それはひとたび誰かを愛したら誰もが望むことなのですから。
けれども、自分の愛する分量と相手から愛される分量がまったく同じでは
ありません。現実には不可能なのです。
たいていの人はその愛の不均衡に気づき、早々に愛をあきらめてしまうか、
あるいは気づかないふりをして表面上は波風の立たない日々を送ろうとします。

愛という不安定で実体の掴めない不確実なものを、島尾ミホという人間は
剥き出しの素手で茨に刺されながらも、真剣に求めました。
それは「狂気」という世界でのみ可能なことでした……。

島尾敏雄の凄さは必死にしがみついてくるミホの手を、彼女に打ち込まれた
「狂気」という棘の痛さに耐えながら、最後まで離さなかったことでした。


――それでは。
442SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/02/26(日) 23:23:15
>>423-426
Cucさん、バタイユについてのニーチェと椎名との関係における文章、
いつもながらの丁寧で明晰な応答、ありがとうございます!
>>419-421にはやや異論のある部分もあったのですが、
今回はここに付け加えるべき私見は何もありません。

>『C神父』はむごたらしさのあまり最後まで読まないまま、
>途中で放棄し、返却してしまいました。。。
そうでしたか。確かにCucさんには合わない作品ですね。
それに『C神父』は『眼球譚』『空の青み』に比べて
作品としての面白みにもまとまりにも欠ける作品でした。
それはともかく、バタイユにおける「神」を語るには
参照するところのある作品とも思われました。
が、『C神父』については後日の機会に回すとして――

それより何より>>427-431の『死の棘』についての文章に感銘を受けましたよ!
とてもよく消化されて出てきた、美しく無駄なく地に足のついたこれらの言葉に
ここでも蛇足以外に付け加えることは特にないのですが、少々コメントを。
443SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/02/26(日) 23:26:06
(承前)

>妻の錯乱を目の当たりにしながら少しも怯むことなく、作品を克明に書き上げた
>島尾氏は骨の髄から徹底した「作家」です。
>妻の狂奔ぶりも凄まじいですが、妻の狂気を受けとめ、それを遥かに上回る
>底知れぬ深淵な闇を特攻時代から冷酷に見つめつづけ、ひとつの作品に
>仕上げた島尾敏雄には、畏敬の念さえ覚えます。。。
島尾敏雄には弱さとともに強さを感じますが、
人間の弱さや脆さ、そして精神の深淵を怯まずに覗き込む忍耐力は
やはり「強い作家」だからなんでしょうね。
シマオタイチョウは普通の男であり、カテイノジジョウは珍しくないメロドラマですが、
それを『死の棘』として作品にできる人間は特別な存在なのでしょう。
今、その島尾の原質をとらえたく、戦前に出版された『幼年記』を読もうかと思ってます。

>それとは別に彼のなかの秘められた狂気が十年という歳月をかけて、妻であるミホを
>ゆっくりと蝕んでいったのではないでしょうか?
運命的な出会いをしたトシオとミホ。隊長から作家へ、戦争から平和へ、死から生への転換。
しかし、別の《死》がひたひたと二人を襲ってきていたのでしょうね。
「死の棘日記」では54年9月30日〜55年の年末までが死の棘時代となっていますが、
50年代前半の島尾作品には研ぎ澄まされた感性によって紡ぎ出された優れた作品が多く、
特に「夢」から着想された作品には、精神の「ゆがみ」が興味深く記述されていて、
「ゆがんでいるところが皆に認められているのにミホが直してふつうのものになって
しまうのではないかというミホの心配」というメモを見ると(十一月十四日の日記)
精神的な危機ゆえに書くことができた作品もあったのかもしれない、とも思いつつ。
444SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/02/26(日) 23:45:43
(承前)

>>433-435
>映画「死の棘」康平監督1990年
「泥の河」を観てから、ぜひ観たいと思っているんですが、
近くのビデオ屋にはVHSはあるもののDVDがないため、未だ叶わず。。。
ソクーロフ監督の「ドルチエ〜優しく〜」、これも観たい!
ソクーロフ、島尾ミホ、吉増剛造著の同名の本は岩波から。

>これほど重苦しい作品の随所に見られる「思わず笑ってしまう場面」は非常に気にかかる。
重苦しさがあればあるほど何ともいえない可笑しみもまた浮き立ってくるのでしょうか。
カフカの作品におけるユーモアにも通じるところがあるかもしれない。

>「死の棘」それは元々、荒んだ都市生活のディテールに潜んでいたのかも知れない。
加計呂麻島では輝きを帯びたはずの色彩が、
東京の下町では異なった様相を呈してしまっているのかも。
中上の紀州の路地や大江の四国の森と同じくらい、あるいはそれ以上に、
島尾にとって「南島」は重要なトポスとなっているのでしょうが、
のある短篇では「NAGANSUKU」(かな?)という異国情緒あふれる港町がそうだったり
「死の棘」においては下町の小岩であったかもしれないですね。
445 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/27(月) 22:46:53

SXY ◆uyLlZvjSXY さん

うれしい言葉をありがとうございます! 繰り返し読ませていただきました。
『死の棘』の感想と島尾敏雄の初期の短編についての丁寧な解説を、
ありがとうございます! とても参考になります。
いつものことながらとても冷静にかつ深く読まれておいでですね。
(わたしは想像力や感情が先走り、呑まれてしまう傾向がとても強いのです…)

先ずは、途中で挫折した「C神父」、どこで放棄したか、おぼろげな記憶を頼りに
書いてみますね。 (>>442)

双子の兄弟がいて兄は敬虔なカトリック司祭、弟は兄とは対照的な悪徳の
限りを尽くす放蕩息子です。
弟は兄の偽善を暴き、堕落させてやろうと懇意の娼婦と手を組んで
あらゆる手を使い、挑発し誘惑します。
教会に呼び出し、兄を陥落させようと目論んだ弟と娼婦は兄を殺して
しまいます。
兄を殺す寸前に娼婦は彼に跨り背徳の喜びにふけりました。
それから、娼婦は生きたままの動物(牛だったと思います…)の眼球を
繰りぬいて女陰に入れて恍惚となります。


(つづきます)
446 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/27(月) 22:47:44

ここまで読んで挫折してしまいました。
「生きたまま」ナイフで眼球を繰り抜かれる牛の断末魔の悲鳴、、、
まだ温もりの残る血まみれの眼球を嬉々として性器に入れて法悦に
浸る娼婦。。。
あまりのむごたらしさに、ここから先を読み進める勇気はありませんでした。

ここでも「眼球」はバタイユをとらえて離さないのですね。
そして、教会、司祭という「神」を想起させるものたちも同様。。。

本心では神に「愛されたいのに愛されな」いゆえの懊悩からくる反逆の
ようにも思えるのです。
「死の棘」を読んだあとでは、特にそう思えてならないのですね……。
人間の行動の動機となるものには愛憎がかなり大きな比重を占める
のではないでしょうか…?

若い日に神の道を歩みながらも離れていき、ひとたび離れると
無神論に爆走した彼の神への激しい愛憎をみる思いがしました……。


(つづきます)
447 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/27(月) 22:48:20

――誰よりも十戒を守つた君は 誰よりも十戒を破つた君だ。
誰よりも民衆を愛した君は 誰よりも民衆を軽蔑した君だ
誰よりも理想に燃え上つた君は 誰よりも現実を知つてゐた君だ
君は僕等の東洋が生んだ 草花の匂のする電気機関車だ――
――(芥川龍之介『或る阿呆の一生』中の「三十三 英雄」より)

誰よりも神を愛したバタイユは、誰よりも神を憎みました。
誰よりも神を求めたバタイユは、誰よりも神を冒涜しました。
誰よりも盲目の父の呪われたまなざしを恐れたバタイユは、
誰よりも「眼球」というまなざしに執拗にこだわり続けました。
誰よりもロールを崇拝していたバタイユは、誰よりもロールを
軽蔑しました。
誰よりも「太陽肛門」で美しい韻文を書いたバタイユは、
誰よりも猥雑で汚濁に満ちた残虐な散文を書きました。

愛憎の温度が高い人なのですね。表現の仕方もストレートです。
ブランショの低温、遠まわしな表現法とは対照的ですね。。。


(以下、島尾敏雄作品についてのレスです)
448 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/27(月) 22:48:57

>島尾敏雄には弱さとともに強さを感じますが、
>人間の弱さや脆さ、そして精神の深淵を怯まずに覗き込む忍耐力は
>やはり「強い作家」だからなんでしょうね。
そうです、そうです! わたしもまったく同感です!
――わたしは弱いときにこそ強い――(第2コリント書・12章)
パウロの言葉です。
作家という人たちは非常に繊細ではあるけれども、必ずこころのどこかに
「鋭利な凶器」を隠し持っており、筆舌し難いことも切り取って原稿用紙に
書きつけるという蛮行ができなければならないのですね。
「書く」ということ自体、やわな精神では続かないのですから。

「島尾敏雄全集2」は八割がた読み終えました。あと数編を残すのみです。
「幼年期」を読まれる予定なのですね? 検索しましたら他地区図書館に
ありました。読んでみたいです。


(つづきます)
449 ◆Fafd1c3Cuc :2006/02/27(月) 22:49:44

>特に「夢」から着想された作品には、精神の「ゆがみ」が興味深く記述されていて、
>精神的な危機ゆえに書くことができた作品もあったのかもしれない、とも思いつつ。
的確な表現ですね!
後ほど全般の感想を書く予定ですが、全集2に所収されている「夢の中の日常」や
「勾配のあるラビリンス」などはまさしくそうですね。
島尾敏雄の周辺だけ、時空がゆがんでいるのです。
その「ゆがみ」を発しているのはまさしく彼自身に他ならないのですが、
彼の磁力は「ゆがみ」を作ってしまう、あるいは引き寄せてしまうのですね。
幻想的というよりも、シュール・レアリスムのような作風です。

反して「死の棘」は私小説ですね。
「夢の中の日常」や「勾配のあるラビリンス」に漂っている空疎な浮遊感は皆無で、
壮絶で重苦しい「現実」に目をそらすことなく、島尾お得意の「夢」の片鱗すら
入れずに描き切りました。
満身創痍で書き上げた敢闘作品です。

「C神父」は、「島尾敏雄全集2」と「マダム・エドワルダ」を読了しましたら
再度挑戦してみようかな、と考えています。
どこまで感想を書けるかわかりませんが、今度は腹を決めて読もうと思います…。


――それでは。
450吾輩は名無しである:2006/03/01(水) 20:37:36
たまにはageてくださいな
451吾輩は名無しである:2006/03/02(木) 01:59:57
>450
本人以外は誰も読まない稚拙感想文スレ。

自演でageる必要まったく無しw
452吾輩は名無しである:2006/03/03(金) 05:13:39
わたしはレスしたことないけど、このスレのファンです。
頑張って下さいませ
453SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/03/06(月) 00:02:24
>>445-449
『C神父』ははっきり言って個人的には失敗作だと思っています。
ただ少し変わった小説の構造に関しては興味深い点はあるな、と。
ロベール・Cのメモ(第4部)の前にシャルル・Cの物語(第2・3部)があり、
それを刊行者の序文(第1部)と後書(第5部)が包み込んでいますが、
こうした多重性において神秘性を高めようとしたのでしょう。

しかし、バタイユはいかがわしい作家です。
そのいかがわしさが魅力ではあるのですが。

「再度挑戦してみようかな」とのことですが
ただ、感覚的に一度放棄したものを
無理に読む必要はないと思いますよ。
Cucさんの選別は適切なものだったかもしれない。
454SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/03/06(月) 00:14:41
(承前)

>全集2に所収されている「夢の中の日常」や 「勾配のあるラビリンス」など
全集版を読んでいるのですね。当方の場合は晶文社の選集で読みました。
函の装丁がイマイチで気に入らないのですが。

>島尾敏雄の周辺だけ、時空がゆがんでいるのです。
>その「ゆがみ」を発しているのはまさしく彼自身に他ならないのですが、
>彼の磁力は「ゆがみ」を作ってしまう、あるいは引き寄せてしまうのですね。
大江は『同時代としての戦後』の中で島尾について書いていますが
確か「崩れ」という言葉を使っていたと思います(記憶によれば)。
Cucさんが書かれている通り、
自身から発した「ゆがみ」や「崩れ」にとらえられ
その「ゆがみ」や「崩れ」を描く島尾ですが、
単に対象としてそれがリアリスティックに描かれているだけでなく、
描き方、言葉の選び方、表現するスタイルから
そのリアリティがにじんでくるように感じられました。  〆
455(OTO):2006/03/06(月) 17:31:44
>>444
「ドルチエ〜優しく〜」は初耳、これはどうにかして
見たいね。本も読みたい。吉増年代順計画は、いま
「雪の島」あるいは「エミリーの幽霊」1998まで来てて
「花火の家の入口で」2001も購入済みだからタイミングは
ぴったりだなw

「C神父」は読んだ気してたが、未読だなw
小説は全部読んだと思ってたんだが。
>>445とか読むとそこで読むのやめちゃうのは
なんかCucらしいというかww
SXYの言うとおり、んな無理して読まなくてもなww
456(OTO):2006/03/06(月) 18:09:33
>>450,452
さんきゅ。スレ主びびりなもんでww
落ちなけりゃ下層の方が落ち着くみたいなんだ。
これからもよろしく。
457 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/08(水) 21:21:53

>>450>>452さん

ありがとうございます。
読んでいただけて、とてもうれしいです。
これからもひっそりと続けていきたいと思います。
458 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/08(水) 21:22:59

SXY ◆uyLlZvjSXY さん

『C神父』と島尾敏雄の初期作品に関するコメント、ありがとうございます。

>しかし、バタイユはいかがわしい作家です。
>そのいかがわしさが魅力ではあるのですが
バタイユのいかがわしさはポルノ作家のいかがわしさとは異なりますね。
ポルノ作家たちは読み手の劣情をいかに誘うかにこころを砕きますが、
バタイユは劣情云々よりももっと宗教的なもの「神」に対する冒涜がつねに
先立っていますね。
いかがわしい行為そのものが、神を穢すことであり、神に対する反逆が
彼の生涯の課題でありました。
ですから、猥雑な作品を描きながらも宗教性が漂うのですね。
「マダム・エドワルダ」に所収されていたバタイユの講演によれば、
「肉体の結合は太古においては生贄の儀式の趣きをそなえている」そうです。
男女の性行為は宗教的な生贄の儀式のひとつなのですね。


(つづきます)
459 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/08(水) 21:24:23

>ただ、感覚的に一度放棄したものを
>無理に読む必要はないと思いますよ。

お気遣い、ありがとうございます。
そうですね。当時はバタイユのこと何も知らないまま読んでいたにすぎないの
ですが、今はSXYさんやOTOさんのおかげで少しは周辺を知ることが
できました。
ニーチェへの傾倒、棄教、ロールとの出逢い、アセファル結成などなど。。。
急がずに、わたしなりに無理しない程度に読めたらいいなあ、と。

抽象的で難解な作風のブランショは、バタイユのどんなところに惹かれたのか、
興味はありますね。
ブランショの描写はバタイユほど直截的でもありませんし、際どさからは最も
遠い筆致です。
共通なキイ・ワードは「死」と「沈黙」。
460 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/08(水) 21:25:43

>当方の場合は晶文社の選集で読みました
わたしも同じです! 図書館で借りたものなのですが。
「島尾敏雄全集 第2巻 島尾敏雄/著 東京 晶文社 1980.5」

>その「ゆがみ」や「崩れ」を描く島尾ですが、
>描き方、言葉の選び方、表現するスタイルから
>そのリアリティがにじんでくるように感じられました。
島尾敏雄は自身のねじれた世界に「入り込んで」描く作家ですよね。
彼に限らず大抵の作家は自分の創り出した世界に没頭する傾向が
ありますが、島尾敏雄の場合はねじれた世界を創り出すというよりも
あちらのほうで近づいてくるといいますか、彼自身がねじれの根源であり、
引き寄せてしまうのでしょうね。
無理やり創り出さずとも、彼はただその世界を描写すればいいのですね。

同じように「白昼の狂気」を描いた芥川は発狂の恐怖におびえる不安定な世界を
遺稿として描きました。ある日彼はぼろぼろの虫食いの白鳥の剥製を見つけ、
そこに己の姿を見てしまいます。
島尾敏雄には芥川のような緊迫した深刻さ、絶望はあまり見られません。
ところどころ滑稽味が散りばめられており、余裕さえ感じるのです。
(「死の棘」は確かに絶望的な作品ですが、滑稽さがときおり漂うのが救いですね)


――それでは。
461 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/08(水) 21:27:13

(OTO)さん

いろいろとお気遣い、ありがとうございます。

>なんかCucらしいというかww
>SXYの言うとおり、んな無理して読まなくてもなww
……そうですね。
まあ、初めてバタイユを読んだ頃に比べて、少しくらいは免疫が
できたかなあ、と。
わたしの場合凄惨な場面描写には人の何倍も反応してしまうようです。
文字の力、言葉の威力は今更ながらすごいと思います。。。

動物が虐待されたり、嬲り殺される描写は全身で拒否してしまうのです。
動物たちは人間のように伝える言葉を持ちません……。

それでもバタイユに惹かれるのは簡潔で美しい佳品「太陽肛門」ゆえ。
「太陽肛門」も「C神父」も同じ作者の手によるものなのに、この落差!
両作品は雲泥の差がありますが、目指すものは同じなのでしょう。
つまり、聖性=俗性、崇高=汚泥、相反するものの一体化ですね。
聖と俗の融合は彼の内的体験の産物なのでしょうか。。。
462 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/12(日) 21:24:39

「島尾敏雄全集2」を読了しました。

メルヘンを思わせる「島の果て」、幻想的な「孤島夢」「石像歩き出す」、
シュール・レアリスムふうの「夢の中での日常」「勾配のあるラビリンス」
など多様性に富んだ作品集です。
「石像歩き出す」はなかなかユーモアに満ちた作品ですね。
壮絶な「死の棘」とはまったく別の顔をもった島尾敏雄を見る思いがしました。

「夢のなかでの日常」「勾配のあるラビリンス」は白昼夢の世界です。
ふと、ブランショのいう「白日の狂気」、「冥府への入り口」とはこのようにありふれた
光景のなかに死角のように点在しているのではないかと思いました。
彼にとって「死」や「狂気」は手を伸ばせばいつでも触れられるところにありました。
死のなかに生があったといっても過言ではないでしょう。
戦争が終わっても、死はいつも彼の周辺にあたりまえのように落ちていました。
街角、公園の片隅、廃墟の階段、石像の後ろ、薔薇の茂みのなか……。
死は彼自身が引き寄せていたのです。

「どんなにつくろっても、お前はやっぱり特攻崩れだよ」
「死の棘」の映画のなかでトシオはかつての友人に指摘されて、愕然となります…。


(つづきます)
463 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/12(日) 21:25:32

――それは恐ろしいことでした。どんなことにも感動しなくなっていたのです。
そして思い出したように血が狂うのです。血の狂う日は心の中に雨ぐもが
低く低くたれこめていました――「島の果て」より

彼のなかにある「特攻崩れ」は、狂気をおびき寄せてしまうのですね。
だから彼の周囲だけ時空にゆがみが生じてしまうのです。

狂気は作品のなかでオブラートに包まれた白昼夢として登場します。
島尾敏雄が作品のなかで語る夢はテーマとか、物語性をはるかに凌駕した
世界です。整合性は皆無です。
島尾敏雄だけが感じ、視ることのできる研ぎ澄まされた鋭敏な感覚で
語られる超現実的な心象風景、それが彼独自の白昼夢の世界なのです。

島尾敏雄の文学の核となっているものは「狂気」ではないでしょうか?
それは色川武大の「狂人日記」に見られるような先天的、病的な狂気ではなく、
戦争、特攻という非常事態がもたらした「人為的」に植えつけられた狂気です。
彼は創作する際、特攻の後遺症ともいえる、普段は眠っている狂気を覚ますため
「意図的」に意識をオンにして白昼夢の世界へ入っていったのではないでしょうか?


(つづきます)
464 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/12(日) 21:26:25

つまり、彼は小説を書くうえで狂気を必要とした、ということですね。
あの独自な危うい世界、読むものを陶然とさせる不思議な浮遊感のある世界。
危うげななかにもユーモアとペーソスの漂う、白日の光に満ちた世界。
その世界を描くには意識して夢の世界に入り込み、狂気を呼び寄せる必要が
あったのでしょう。
彼の創作上の狂気は確信犯的でありました。(但し、「死の棘」は別です)

ところが、ある日を堺に妻が狂いだしてから、彼は正気に戻らざるを得なくなりました。
何しろ妻の狂乱ぶりは、彼が創作上必要とした狂気など比べ物にならないほど
度を超えたものだったのですから。
妻の狂奔は、彼が得意とした狂気が醸し出す白昼夢の世界を悉くあざ笑うかのような
凄まじいものがあり、現実の妻の狂乱の前では自分の狂気など足元にも到底及ばな
いと苦笑したことでしょう。。。

初期の作品群は、特攻崩れという彼自身の狂気を糧として描いたものであり、
「死の棘」は、妻ミホの狂気をリアルに描いたものでした。
自身の狂気を作品に織り込んで描くと浮遊感や夢幻の美しさが漂うのに、
妻の狂気を作品に描くと重苦しく壮絶なものになってしまうのはなぜでしょう?
自分の狂気、白昼夢に心酔することでひそやかな快楽を味わうことはできても、
妻の凄まじい現実の狂気に酔うことはできないのですね。
なぜなら、彼の狂気は創作という世界で昇華され高みへと導きますが、妻の狂気は
彼や家族を事実上崩壊させてしまう種類のものでしたから。


(以下、抜粋した作品の簡単な感想です)
465 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/12(日) 21:27:08

「摩天楼」
摩天楼で夜なかに遭遇した恐ろしい魔物たちは、昼間は市場で実直に働く市井の
人たちであったというお話。
夜と昼、ふたつの顔を持つ人物という設定は実は彼自身にもあてはまるのですね。
白昼夢をみているときの作家の彼と、夢から覚めて勤労している生活者の彼と。
魔物の自分と無名の市井の一人にすぎない自分、両方の顔を持つ自分をこの作品
で描いたのではないでしょうか。

「勾配のあるラビリンス」。
作者が迷路を彷徨するお話です。
いつも散歩する公園に来るもその日の夕方に限って誰もいない。
町なかの音も絶え、人の声も人影も見当たらない公園はその瞬間から不気味な
場所、逢う魔が時になります。
やっと一人の浮浪者を見つけるも、彼のそばを通り抜ける勇気もない……。
黄昏時の人影の絶えた公園はこの上なく薄気味悪く、得体の知れぬ浮浪者も
ぞっとさせます。いつもは見慣れている風景が、ふとした瞬間からまったく見知らぬ地
に成り変わってしまう恐怖を鬼気迫る筆致で描いています。
読んでいるものも作者に同化して、迷路を追いかけられる恐怖を体験します。
迫真の恐怖は錯覚とは思えない読後感です。


(つづきます)
466 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/12(日) 21:28:20

「夢の中での日常」
ひとりの作家があちこちを彷徨する話ですが、話のネタ探しに出かけた集会所で
昔の顔見知り(レプラ罹病者)に逢い、あわてて集会所から逃げ出した彼は、
今度は夢にいつも出てくる町に行き、父母に会います。
父が母を折檻するのでそこも逃げ出し、次にたどり着いたのは女の家。
疾患にかかっていることを指摘された彼は身体中を掻き毟り、ついには胃のなかに
手を突っ込んで内臓を口からすべて掻き出す、、、(このラスト、笙野頼子氏の作品をほうふつとさせます…)
場所と場所の関連性はなく、人物も何の脈略なしにいきなり登場します。
この整合性のなさ、辻褄の合わなさこそが島尾文学の特徴なのですね?
煙に巻かれるというのでもない、狐につままれるというのでもない、
理由なしに好きなように飛び、着地する場所は作者のその日の気分次第。。。
飄々としたつかみどころのなさが魅力といえば魅力です。

「島の果て」
特攻隊にいたときの体験と、妻ミホとの出逢いをメルヘン調に描いた作品。
日に日に逼迫する戦況とは対照的にトエと中尉の周りだけは時間がゆるやかに
おだやかに流れていきます。ラスト、殉教を覚悟し短剣を胸に海に入っていくトエ。
わたしがトエに見たのは、そこにいるのはもはやかつての恋を夢見る少女ではなく、
命を賭して愛することを知ったひとりの成熟した女性の姿でした。


――それでは。
467SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/03/13(月) 00:10:05
ごく簡単な応答ですいません。

>>455
吉増年代順プロジェクトは素晴らしい!
吉増剛造についての読みを機会があればちょっとご披露ください。

>>458-459
>男女の性行為は宗教的な生贄の儀式のひとつなのですね。
性的な行為と宗教的な行為が結びつくのがバタイユですね。

>ニーチェへの傾倒、棄教、ロールとの出逢い、アセファル結成などなど。。。
来月ちくま学芸文庫からアセファル資料集が出ますね。

>>460
>島尾敏雄は自身のねじれた世界に「入り込んで」描く作家ですよね。
確かに!

>>462以下は確定申告が終わったら後日ゆっくり読ませていただきます。〆
468 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/13(月) 20:56:50

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

お忙しいさなかにレス、ありがとうございます!
どうぞ、あまりご無理なさいませんように。

書くことが負担にならない程度に、お時間のある時にゆったりと
書き込んでいただければと思います。
文学板を含む学問板は他板とは違って、レス間隔が2〜3週間ほど開いても
落ちないようですよ。

>来月ちくま学芸文庫からアセファル資料集が出ますね。
情報、ありがとうございます。
そういえば、バタイユの著書って一冊も持っていないのです。
これを機に買おうかと思います。

「C神父」再読しました。今回は完読です。
ちょうど約1年前、途中まで読んで放棄したままでした。
読み違いや読み落としていた箇所が多々あり、また、新たな発見もありましたので、
今回、再読してよかったです。
469(OTO):2006/03/14(火) 13:04:04
>>462
>「死の棘」の映画のなかで

ミホの発作がおさまり、やっと出版社に出かけた
トシオが友人に誘われ、飲みながら、
友人「胃下垂の調子はどうだ?まだ自転車のチューブ
   巻いているのか?ああいうのを見ると、おまえは
   やっぱり特攻あがりだなあと思うよ。
   どこかに崩れが残る…」

このシーンかな?印象的なセリフなんでなんとなく憶えている。

>>462,463,464,465
勉強になるなあ。短編おもしろそうだなあw

>>467
>吉増剛造についての読みを機会があればちょっとご披露ください。

おれも年代順プロジェクト始めたときは、少し読んだら
ここになんか書こうと思ってたんだよwところがさ、
書けないんだよねww難しくてさw
ナンシー、吉増についてはそのうち必ず書くよ。
470(OTO):2006/03/14(火) 13:25:33
Cuc「C神父」読んだんだw
>>461
>動物が虐待されたり、嬲り殺される描写は全身で拒否してしまうのです。

Cuc的には動物ってのがネックだったんだな。「眼球譚」にも闘牛シーンあるけど、
そんな細かい描写は無かったしな。
以前ヘミングウェイの「午後の死」を原書で読もうとして挫折したことが
ある。スペイン語以外で書かれた闘牛解説書として最高の一冊と言われているそうだ。
文学というよりも綿密なルポだな。読んだ部分で印象的だったのは、
「はじめて見る人は前列ではなく中程の列で(少し距離を持って)
 見た方がいい」というようなことを書いているところだな。
戦争体験のあるヘミングウェイが「戦争以外でこれほど間近に死を感じる
(考えさせる)出来事はない」とか「観光的なイベントとして見ると
かなりショックを受けてしまうことがある」とかいう旨を書いていた。

おれ的にはむちゃくちゃ見たくなったわけだがww

たしかロールも闘牛見て感動したとか手紙に書いてなかったかな(未確認)

脱線したなw失礼。
471 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/16(木) 20:46:27

(OTO)さん

>ああいうのを見ると、おまえはやっぱり特攻あがりだなあと思うよ。
>どこかに崩れが残る…

そうです、そうです、そのシーンです!!
正確に描写していただき、ありがとうございます。
わたしもこのセリフ、とても印象に残りました。
映画全体のなかではさほど重要なシーンでもなく、さらりと言っているにも
拘わらず、トシオのゆがみや崩れを実に的確に言い当てたセリフでしたよね。
このセリフには「ああ、やっぱり…」と思わさられるものがありました。

>Cuc的には動物ってのがネックだったんだな。
…はい。動物が好きという単純な理由からでもあるのですが、、、
誤解を恐れずに言うならば、小説における殺人シーンは比較的受け容れられます。
けれども、対象が動物となると想像力が過剰にはたらいてしまい、言葉を持たない
彼らの悲痛な叫びはわたしの脳裏を縦横無尽に駆け巡るのです……。


(つづきます)
472 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/16(木) 20:47:23

>「眼球譚」にも闘牛シーンあるけど、そんな細かい描写は無かったしな。
……実は、わたしの大いなる読み間違えであることが判明しました。
(経緯は後ほどupします「C神父」の感想でお読みいただければと思います)

前後の一連の描写から、わたしのなかで勝手にシーンが作られてしまい、
その描写を実際の描写であると思い込んでいたのでした、、、
わたしの脳内で、
バタイユ→眼球にこだわり穢す作家→闘牛→牛の眼球をくりぬいて女陰で穢す
という図式が瞬時のうちに出来上がってしまっていたようです。。。
(作者にとってはこのうえない迷惑ですよね…)

ヘミングウェイですか。
そういえば中学の頃、読書感想文の宿題が出て(課題図書は特に指定なし)
「老人と海」を読み始めたのですが途中で挫折。。。
即、芥川の「河童」に変更したらすらすら読み進めたので、感想文は「河童」で
書いた記憶があります。人間社会への風刺や皮肉、発狂した友人、くらくらするような
刺激を受けましたね……。


――それでは。
473SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/03/18(土) 16:43:22
>>462-466
島尾敏雄についてのとても見事なレクチュールですね!
Cucさんのように相手に的確に物事を伝える努力と学習を怠ってきたので、
こんなふうに書けたらいいな、と思うことしばしば。

>島尾敏雄だけが感じ、視ることのできる研ぎ澄まされた鋭敏な感覚で
>語られる超現実的な心象風景、それが彼独自の白昼夢の世界なのです。
この「研ぎ澄まされた鋭敏な感覚」はもしかしたら誰もが子供時代に持ってるものかも、
という気がするんですね。ただ、それをずっと持ち続けている人は少ないな、と。

>あの独自な危うい世界、読むものを陶然とさせる不思議な浮遊感のある世界。
この不思議さは何でしょうね。不思議でいてどこか懐かしさが感じられるのは
我々に遠い記憶(無意識に近いところで刻まれた幼年の記憶)があるためでしょうか。
島尾は感覚の幼児性みたいなものを持ち続けた作家に思えます。とすると、

>戦争、特攻という非常事態がもたらした「人為的」に植えつけられた狂気です。
という部分には半分は同意ながら、半分は留保をつけたくもなるのですが、
というのも、戦前に出版された『幼年記』の短篇を少し読み始めてみると、
ここに島尾敏雄的感覚の萌芽が見られるように感じられたからです。

>いつもは見慣れている風景が、ふとした瞬間からまったく見知らぬ地
>に成り変わってしまう恐怖を鬼気迫る筆致で描いています。
「勾配のあるラビリンス」はまさにそうですね! Cucさんが書いている通り、
「鬼気迫る」感覚が与えられるのは島尾の「筆致」ゆえなのでしょう。

>この整合性のなさ、辻褄の合わなさこそが島尾文学の特徴なのですね?
「夢の中での日常」というタイトルに集約されている感じがします。
我々が見る夢では「整合性のなさ」は問題にならずにリアリティを感じてしまいます。
島尾作品に見られる「整合性のなさ」は、夢のリアリティを与えてくれる。
カフカの作品にも同じような肌触りを感じます。
474SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/03/18(土) 16:47:56
>>469
吉増剛造について無謀なリクエストをしてしまいまして。。。

吉増剛造は多少かじったぐらいしかないので
どう読み、どう語るか、がわからないまま今日に至っているわけでして、
OTO氏の意見を参考にしようかなあと野心を抱いたわけでした。
この野心は素直な「野」の「心」でもあるのですが。
475SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/03/18(土) 17:00:09
バタイユ『C神父』についても少し。

少し前にバタイユは「いかがわしい作家」だと書きました。
ただ、その「いかがわしさ」というのは
性的なものと宗教的なものを結びつけているためじゃなく、
確信犯的なところとでもいうのでしょうか、そういうところなのでした。

うまく表現できませんが、それはこういうことです――。
バタイユによれば《非知》は無知ではなく知を超越したものとなる。
知が言葉である以上、《非知》を言葉で表現することは不可能です。
バタイユはそんなふうに書き記しながら《非知》を表現し続けるわけですね。

『C神父』のなかでもシャルル・Cは、
「この物語の主眼は、〈精神の面に〉表現できないものといえる」
と語っています。

C神父=ロベール・Cの手記の前にシャルル・Cの物語を置き、
それを刊行者の序文と後書ではさんだ入子構造には、
《非知》を表現しようと画策するバタイユの手つきが見えます。〆
476 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/19(日) 21:13:11

SXY ◆uyLlZvjSXY さん

レス、ありがとうございます。
大変うれしく読ませていただきました!!
実はわたしは書く訓練は専門的に受けたことはありませんので、思いつくまま、
こころの赴くままに書き散らかしているだけなのですね。それゆえに感情に流され、
走ってしまう傾向が非常に大きいのですね。(専攻は文学ではありませんでした…)
SXYさんのようにつねに客観性と冷静さとをもって書けたらいいなあ、と思います。

>この「研ぎ澄まされた鋭敏な感覚」はもしかしたら誰もが子供時代に持ってるものかも、
>という気がするんですね。ただ、それをずっと持ち続けている人は少ないな、と。
その通りです! まったく同感ですね!
ものごころついた頃に自分を取り巻く世界に初めて興味を持った瞬間の好奇心や
ときめき、外界から受ける刺激に対する新鮮な驚き、知的なものへの剥き出しの
素朴な疑問、こうした子供特有のくもりのない目を、大人になってからも持ち続けて
いられる人は、自分の世界を創作(創造)できますね。
それは、芸術と呼ばれるジャンル――小説家、音楽家、芸術家たちにとっては
必須のものなのかもしれません。
477 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/19(日) 21:13:56

――だれでも一度は、この子のように美しい透明なひとみをしている時期がある
ものだ。五つ六つころから十六七時代までの目の美しさ、その澄みわたった
透明さは、まるで、その精神のきれいさをそっくり現わしているものだ。
すこしも他からそこなわれない美だ。内の内な生命のむき出しにされた輝きだ。
それがだんだんに、さながら、世間の生活に染みてゆくように、すこしずつ濁ってゆき、
疲れを感じるようになり、ねむれなくなってゆくのであった――
――「或る少女の死まで」・室生犀星

外界に対してこころがひらかれていく子供特有の鋭敏な感性は、やわらかく
傷つきやすく、時として持て余してしまうのですね。
感じすぎることは、人一倍痛みを伴うことでもるあるのですから。
だから、たていての人は大人になる過程で早々と捨て去り、忘れていくのです。
生きる上では、そのほうがはるかに楽であり、ひとつの処世術だから……。


(つづきます)
478 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/19(日) 21:15:04

>戦前に出版された『幼年記』の短篇を少し読み始めてみると、
>ここに島尾敏雄的感覚の萌芽が見られるように感じられたからです。
的を射ています! 私見を撤回しますね。
今「島尾敏雄全集3」を読んでいるのですが、「唐草」は少年期を回想した物語です。
持病の発作を彼は「眼華」と名づけていますね。発作が始まると彼は白昼夢の世界に
入ってしまいます。島尾文学の萌芽がここですでに兆していますね!
生来的に持ち合わせた「眼華」という危うげな白昼夢は、特攻体験を経て白日の狂気へと
変貌を遂げたのですね。

>島尾作品に見られる「整合性のなさ」は、夢のリアリティを与えてくれる。
>カフカの作品にも同じような肌触りを感じます。
ああ、なるほど!
逆説的ですが整合性のなさゆえに、かえってリアリティを醸し出しているということですね。
夢という非現実の世界は夢であるがゆえに、現実色が濃厚です。
非現実的なカフカの世界に抱く不条理、苛立ちはまぎれもなく現実の感情なのですから。


(つづきます)
479 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/19(日) 21:15:48

>バタイユによれば《非知》は無知ではなく知を超越したものとなる。
>知が言葉である以上、《非知》を言葉で表現することは不可能です。
>バタイユはそんなふうに書き記しながら《非知》を表現し続けるわけですね。

バタイユの描こうとした《非知》が「言葉で表現することは不可能」な領域や体験で
あるとすれば、彼が語り続けたことはやはり《神》、そして神秘である《内的体験》で
しょうか。あるいはまた、彼が好んで描いた《窮極のエロス》。
こうした抽象的な存在や言葉に置き換えられない特異な体験、《非知》を言葉で表現する
ことは無謀な試みであると百も承知の上で、あえて語り続けたこと、それがバタイユの
確信犯的な「いかがわしさ」なのでしょうか。。。

>「この物語の主眼は、〈精神の面に〉表現できないものといえる」
「C神父」には各人物の内面的な描写(懊悩や葛藤)があまりみられませんね。
わたしたち読者は彼らがとった行動を辿るのみです。
読者は、手がかりとして与えられた彼らの行動やセリフに《非知》を読みとる努力を
強いられるわけですが、この辺はブランショにも通じるものがありますね。


――それでは。
480 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/19(日) 22:12:00

「マダム・エドワルダ」の感想です。(以下、断片的ですが…)

自ら神と名乗る娼婦と彼女を買った男の一夜の物語。
真っ先に想起したのはデュラスの「死の病い」でした。
「死の病い」も夜を買われた若い女と、彼女を幾夜も買った男の物語でしたね。

マダム・エドワルダは女陰を見せながら「あたしは神よ」と言います。
――おれは知っていたのだ、知りたがっていたのだ、
彼女のなかに死が君臨していることを片時も疑わず、彼女の秘密に餓えて――
男は彼女のなかに死に至る「沈黙」と「死」が君臨していることを確信します。
バタイユにとって神とは死の君臨者であり、死の前提には「沈黙」が鎮座している
のですね。

>――死の病が醸成されるのはそこ、つまり彼女のなかだということ――(p33)
>女は自分のなかに黒い夜、つまり死を内包していることをすでに知っているの
>です。男がとり憑かれた「死の病」を、女は内奥にひそかに隠し持っています。
→(>>317・デュラス「死の病い」の感想を参照)


(つづきます)
481 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/19(日) 22:12:44

デュラスの見解とバタイユの見解はほぼ同じとみていいでしょうね。
つまり、両者とも娼婦(女)のなかには「死が内包されている」、ということです。
マダム・エドワルダは自らを「神」と名乗りますが、デュラスの女はそうではない。
なぜなら、デュラスはバタイユほど深く神にとらわれていないのですから。
同じように《娼婦・女・エロス・死》を描きながらも両者がこだわったのはまったく
異なったものでした。
デュラスが描いたのは二度と逢えない黄泉の国からの使者である女を慕う男の
「愛」、バタイユが描いたのは豚のように冒涜される「神」。

>――彼女は尋ねる、「あなたは一度も女を愛したことがないの?」
>あなたは言う、いや、一度も、と。
>彼女は言う、「奇妙だわね、死んでいる人って」――(p30)
→(>>319・デュラス「死の病い」の感想を参照)

〜両者の描く男たちについて〜
「死の病い」においては、男は誰をも愛さず、すでに「死んでいる」のです。
「マダム・エドワルダ」においては、男は神を愛さず、「死」を恐れます。
デュラスの描く男は「死者」であり、バタイユの描く男は死を恐れる「生者」。


(つづきます)
482 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/19(日) 22:13:22

〜両者の描く女たちについて〜
「死の病い」においては、女は愛の会得者であるゆえに「愛を恐れません」。
「マダム・エドワルダ」においては、女は死の君臨者であるゆえに「死を恐れません」。
両者の言わんとしていることは、男は愛を恐れ死を恐れる存在であるということ。
愛も死も言葉や思考のみでは論理づけられない領域ですね。
女は論理づけられない領域に関しては、理由づけせずに盲目的に受け容れる
ことができます。生来的な資質といってもいいでしょう。

ところでなぜマダム・エドワルダは神なのでしょう?
バタイユによれば、「神は豚にも等しい野郎であろう」とのことです。
娼婦でありながら聖性を持つ女性といえば「罪と罰」のソーニャですが、
マダム・エドワルダはソーニャのような敬虔さを持ち合わせてはいません。
むしろ己の快楽にあきれるほどに貪欲であり、自分の欲望に忠実であります。
けれども彼女は「知っている」のですね。
彼女の快楽は自分のなかに死が君臨しているからこそ、窮極のものになるのだ
ということを。
それゆえに、彼女は行為の最中においてさえ深い「沈黙」に閉じこもってしまう。

――最も痛ましいのは、マダム・エドワルダがそのなかに閉じこもった沈黙だった。
彼女の苦悩とは、もはや通じ合う途はなかった(中略)
敵意をひそめた心の夜のなかへ、おれは吸い込まれるのだった――


(つづきます)
483 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/19(日) 22:14:01

マダム・エドワルダはエロスの絶頂に上りつめた瞬間、覚醒してしまうのです。
忘我の境地は短く、沈黙=死はいついかなる時も、片時も彼女をとらえて離さない。
何と恐ろしいことでしょう。そして、何と不幸なことでしょう。
(デュラスの「ヒロシマ」の女も然り。愛欲のさなかにおいてさえ覚醒していました…)

神が豚のような存在ならば、自ら神と名乗るマダム・エドワルダは文字通り豚であり、
同時に豚であるがゆえに男たちから崇められるのです。
神とは高みにいるのではなく、汚泥のなかにいなくてはならないのですね。
貶められ、穢され、あらゆる冒涜を甘受するとき、初めて聖性を獲得するのでしょう。
あらゆる男たちと交わったロールが、「聖なるものとは交感です」と結論したように。
神とは貶められるがゆえに崇めることができる存在。
バタイユにとって、崇高さと卑俗さとは相容れないものではなく等価の意味を持つの
ですね。すなわち、汚泥にまみれていないものは神ではない、ということです。
ということは、あらゆるものが神になり得ることが可能ということですが……。
いえ、汚泥にまみれていさえすれば神になれるのではなく、己のなかに死という
沈黙を深く内在させており、死に支配されるのではなく死を超えて支配できるもの、
死をも君臨させ得る覚醒した意識をつねに内包させているもの、それこそが神なの
だ、というべきでしょうか……。


(つづきます)
484 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/19(日) 22:14:39

繰り返しますが、バタイユがマダム・エドワルダに神と名乗らせたのは、彼女のなかに
死が君臨していることを自覚しているから、そしてもうひとつは神は豚のような存在で
あることを彼女自らに明言させたかったからなのですね?

バタイユは生と死を司るのは神であること「認めて」いるのです。
(ニーチェは著作のなかで、あなたの死にたいときに死ぬがよい、と言ってますが
バタイユはどうもこれにはあまり賛同していないような…)
生も死も人間ではどうにもならないもの、人智を超えた存在が深く関わっている
のです。

バタイユは無神論者でありながらも、神は豚のような野郎であると、ある種の情熱を
もって痛烈に神を罵倒しています。
神=豚のような存在であることを「想定」している、つまり神の存在を否定している
のではない、ということになりますね。
(かといって、肯定ということにもなりませんが…)

バタイユは神に対して反逆しながらも、完全に否定しきれない。
晩年の講演で「はるかに多く使われたのは罪という言葉だった」(→ロール後半参照)
という証言から踏まえてみても、やはり彼にとって「神=罪を裁くもの」という意識は
生涯彼から離れなかったと思われます。
彼が神から解放され得るのは唯一内的体験という神秘体験のなかでだけ。
彼は神秘体験のなかでのみ神から解放され、あれほど逃げ続けた神と初めて
顔を上げて対等に向き合うことができたのかもしれません……。


――それでは。
485(OTO):2006/03/23(木) 16:24:48
>>474
>どう読み、どう語るか、がわからないまま今日に至っているわけでして、

おれも同じ状況だねwまだ。
現代詩文庫で手に入る初期の作品はほとんど、他への参照を必要としない
独立した詩として普通に読めるが、「石の神」あたりから
自分が今まで書いた言葉、読んだ言葉、対話した人と、
書く現在が共鳴を始める。たとえば今読んでる「雪の島」あるいは「エミリーの幽霊」で
島尾ミホさんに呼びかけるような詩が一編あって、これなんか「ドルチェ」を見たり、
読んだりしてからの方が「わかる」んだろうなと思わせる。
それもこの前調度SXYが「ドルチェ」のこと教えてくれたからであって、
それがなかったら「なんか付き合いあったんだ?」みたいな印象にしかならないと思うし。
「死の舟」の表題作は荒木陽子さんに捧げられていて、「雪の島」には陽子さんが
逝ってしまった後の荒木経惟の歩き方が「傾いている」という表現が出てきたり、ね。
486(OTO):2006/03/23(木) 16:25:32
>>480-484
デュラスとの対比は思いもよらなかったな。おもしろい!
特に>>484は「証拠発見!」だなwバタイユは無神論者では無く、
毒づく対象として「神を必要としていた」というわけかww
しかしこの部分はバタイユが自身どうにもできなかった部分、
オブセッションだったんじゃないかな。
「神の遍在」を信じていたと言えちゃうねw
>>475でSXYがバタイユの確信犯的な部分と
「性的なものと宗教的なものを結びつけている」部分を区別したのも、
この意味でおれは納得。バタイユ自身「涜神的」であることが
「萌え」であったと思われ。
487(OTO):2006/03/23(木) 16:26:30
さて、1941年ピエール・アンジェリック(天使のごときピエール?)という筆名によって
オルレアン図書館長ジョルジュ・バタイユが出版した(私家版50部)「マダム・エドワルダ」は
死後発見されたメモによって「聖なる神」という書名によって「わが母」(未完)
「シャルロット・ダンジェルビル(天使村のシャルロット?)」(中絶)という連作小説と
「エロティシズムに関する逆説」と題された論文をまとめた
1冊の書物として構想されていたようだ。二見書房刊バタイユ著作集「聖なる神」は
このメモに従って生田耕作が編集したものである。
本を開くと、まず「聖なる神」というタイトルが1ページ。
めくると「マダム・エドワルダ」。
めくると「序」。この巻頭にはあつらえたようなヘーゲルの引用が1文ある。

〈死とはこの上もなく恐るべきものであり、
 死の作業を継続することは最大の力を必要とすることである〉

そしてエロティック小説らしからぬ序文が始まる。

「マダム・エドワルダ」の著者はこの作品の深刻さについて自ら注意を促している。
けれども、性生活を主題とする作品を軽く取り扱う風習から考えて、この点をあらためて
強調しておくことも無駄ではないように思われる。それを変更する希望を ─或いは意図を─
すこしでも抱いているわけではない。ただ快楽(性の遊戯のなかで最高度に達する)、
および苦痛(死によって、なるほど鎮められはするが、はじめに最悪の状態へ持ち込まれる)
にたいする伝統的態度について、序文の読者につかの間の反省を求めたいからである。

この序文にのみジョルジュ・バタイユの署名がある。
別ペルソナによる序文、すでに「マダム・エドワルダ」は始まっている。
確信犯バタイユの作戦領域に、我々はすでに足を踏み込んでしまっている。
488(OTO):2006/03/23(木) 16:27:26
「マダム・エドワルダ」自体は非常に短い作品だ。この、自分の「ぼろきれ」を
主人公に見せつけながらオルガスムスをむかえる娼婦が「神」であることを
われわれに信じさせるのに、さほどページ数は必要ないとバタイユは考えたようだ。
娼館での一幕、サン・ドニ門、タクシー。
バタイユ作品ではおなじみのアッパーで前のめりな主人公。
そしてそれをはるかに上回る女主人公、マダム・エドワルダ。
徹底的に涜神的であり、エロであること。バタイユが常に
「女性のキャラクター」に負わせるこの負荷は、わたしが読んだ中では、やはり
「マダム・エドワルダ」が最高であり、あまりに徹底的であるがゆえに、
かなり非現実な領域に達していると思われる。
存在感を犠牲にしてまでも概念性を体現したキャラクターと言えるのではないだろうか。
個人的にはロールがモデルとも言われる(年代未確認)「青空」のダーティや
「聖女」の名脇役テレザあたりが好きだが(脱線)

しかし、徹底的であるからこそ、この短い作品は未だにギラギラと輝き続けているのだろう。
路地裏に捨てられた血まみれのナイフのような輝き。
「あの」ブランショをして「20世紀の最も美しい物語」と言わしめたのも
あながち「リアル友だち持ち上げすぎ」とは言えないだろう。
489(OTO):2006/03/23(木) 16:28:16
「聖なる神」の企画はその後の遺稿整理によってより明らかになっている。
「聖女たち」吉田裕訳、書肆山田には「エロチスムに関する逆説」草稿
(これは本当に覚書らしく文体にバタイユ臭が少ない)をはじめ、
サルベージされた「シャルロット・ダンジェルビル」、
翻訳者の詳細な解説、調査、分析がまとめられ、
この未完成の怪物の輪郭をかいま見ることができる。
490SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/03/26(日) 23:57:21
>>476-479
>こうした子供特有のくもりのない目を、大人になってからも持ち続けて
>いられる人は、自分の世界を創作(創造)できますね。
島尾敏雄が自分の最初の作品を『幼年記』と名づけたのも
島尾自身にそういう意識があったからかも。

>《非知》を言葉で表現することは無謀な試みであると百も承知の上で、あえて語り続けたこと、
>それがバタイユの 確信犯的な「いかがわしさ」なのでしょうか。。。
まさにそういうニュアンスです! 
「確信犯的ないかがわしさ」という言葉が適切かどうかはわかりませんが。。。
491SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/03/26(日) 23:58:26
>>485-489
>島尾ミホさんに呼びかけるような詩が一編あって、
島尾ミホは島尾敏雄の妻であるだけでなく
非常に美しい言葉を紡ぐ天衣無縫の書き手であることは
『海辺の生と死』(中公文庫)を読んでもわかりますが、
吉増剛造に語りかけさせるだけのものをやはり持っていたのでしょう。
吉増剛造が何人かの詩人について語った『詩をポケットに』では
伊東静雄(http://www11.ocn.ne.jp/~kamimura/)にからめて島尾敏雄への言及があり
吉増の島尾に対する熱い眼差しが窺われます。

>個人的にはロールがモデルとも言われる(年代未確認)「青空」のダーティや
>「聖女」の名脇役テレザあたりが好きだが(脱線)
当方もバタイユの中で好きな作品を1作を挙げよといわれれば、
おそらく「青空(空の青み)」を挙げるでしょうね。
492SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/03/27(月) 00:02:22
>徹底的であるからこそ、この短い作品は未だにギラギラと輝き続けているのだろう。
>路地裏に捨てられた血まみれのナイフのような輝き。
『マダム・エドワルダ』についてのこの詩的な表現はOTO氏らしい!
簡潔で的確に形容するには、こうした映像的表現に勝るものなし。

Cucさんのバタイユ『マダム・エドワルダ』についての文章(>>480-484)もまた
デュラスを傍らに置いた非常に密度の高い的確な文章で、
バタイユが「神」という言葉について語った文章をもじれば、
お二人のこれらの文章は匿名掲示板という枠を超絶していますね。 〆
493 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/29(水) 21:31:29

(OTO)さん

すばらしいレスをありがとうございます!
わたしの感想は毎回「感想文」の域を出ないのですが、(OTO)さんやSXYさんの
書き込みは大変クオリティが高いです。スレが一気にグレード・アップしますね!
おふたりに感謝です。

>バタイユは無神論者では無く、毒づく対象として「神を必要としていた」というわけか
そうです、そうです!
(OTO)さんの言葉をお借りして言うならば、バタイユにとって神とは罵倒する対象と
しての「萌え」であったと思われます。
根っからの無神論者であるならば、全情熱を傾けてまで神をこきおろす必要はない
のですね。真の無神論者は不在の対象を罵倒するなど思いつきもしないでしょう
から。なぜなら、最初から「存在しない・無い」ものに対しては罵倒しようがないの
ですから。。。
罵倒するには、対象が「存在する・在る」ことが前提条件(必要条件)になるのですね。
そうした意味合いにおいては、ニーチェも然りでしょう。
あの有名な「神は死んだ」は、かつて神が「存在した」ことが前提になります。
初めから無いものに対しては、「死んだ」とは言いません。
「ツァラトゥストラ」の全編に亘るイエスと神への強い否定の姿勢。
「無いもの」を否定することは無意味です。
神を「在る」と想定しているゆえに「否定」の意味が生じるのですね。


(つづきます)
494 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/29(水) 21:32:39

先ず神の存在を想定し、次に激しく罵倒する、冒涜する。
バタイユはニーチェの後継者であると謳われているそうですが、両者とも深く
「神にとらわれている」点に関しては相似しています。
しかし、この両者、人間の真理を突いていますね。

人は特定の対象を永きに亘って讃美しつづけることは困難です。
すぐ飽きてしまうからです。
(恋人たちが夫婦になった途端、厭気がさして別れることの何と多いこと!)
反して、特定の対象を貶め、罵倒する情熱はなぜか永くつづきます。(嫁と姑!)
水が低きに流れるように、人のこころも低きに流れるのですね。
讃美も罵倒も同じようにエネルギーを使いますが、讃美しつづけることよりも、
貶めるほうがはるかに楽なのです。

誤解を恐れずに言うならば、罵倒はひとつの快楽です。
まして罵倒の対象が神であるなら、侵犯がもたらす快楽の度合いはかなり大きい
のでしょう。
快楽は何もエロス体験だけとは限りませんし……。


(つづきます)
495 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/29(水) 21:33:23

>しかしこの部分はバタイユが自身どうにもできなかった部分、
>オブセッションだったんじゃないかな。
そうですね、逃れようと意識すればするほどますます対象に深くとらわれてしまう
ことをバタイユ自身、一番よく熟知していたでしょうね。
けれども、彼のそうしたオブセッションゆえに「無神論大全」をはじめ、論文、小説
など大変意味のある資料が遺されたわけですから、後世に学ぶわたしたちとしては
感謝する反面、彼の複雑な胸中を思うと果たして手離しで喜んでいいのかどうか、
迷うところですね。。。

>「神の遍在」を信じていたと言えちゃうねw
たとえば娼婦、もしくはすべての女が持っている「誘惑する性」という娼婦性。
松毬、卵、太陽、などの球体群のなかに見る神のまなざし。
神に無関心な人たちは、こうしたもののなかに「神」を見い出すことはしませんね。
神にからめとられてがんじがらめになっているバタイユであればこそ、見い出す
ことができたのでしょう。
バタイユは神の傀儡であったのかもしれません。(例えばユダのように、、、)
なぜなら、本来神に無関心な人でも彼の著作を読むことで、結果として神に強い
関心を持つ可能性があるからです。ニーチェについても、この点は同じです。
事実、椎名麟三氏はニーチェを読んで神に帰依しましたし。。。
神にとってはまことに好都合。
(…無論、バタイユは不服でしょうが……)


(つづきます)
496 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/29(水) 21:34:14

>徹底的に涜神的であり、エロであること。バタイユが常に
>「女性のキャラクター」に負わせるこの負荷は、わたしが読んだ中では、やはり
>「マダム・エドワルダ」が最高であり、
バタイユの作品には必ずといっていいほど娼婦が出てきますね。
マダム・エドワルダがそのなかでも群を抜いて際立っているのはやはり「あの」
セリフに尽きます。
――「あたしは神よ」――
いきなりの発言。何の脈絡も説明も説得もない。
神は神であるがゆえに、何の理由づけもいらない。されてはならない。
イエスが「わたしは天におられる神を、わが父と呼ぶ」と宣言したことに
何の理由もいらないように。イエスは神の子だから、神を父と呼ぶ。
マダム・エドワルダは神だから、自らを神と呼ぶ。

男はマダム・エドワルダのこの宣言で即、神とは豚のような野郎だ、と認めます。
何の疑いもなく。それは、男がマダム・エドワルダを神であると「信じた」からであり、
その結果として神=豚野郎という結論に達しました。
読者にとってはあまりにも短絡的な男の思考に面食らってしまうわけですが、
けれども、信仰とはもともと素朴なものであり、ある人が何かを信じさえすれば
その時点で信仰は成立するのですね。
理由づけや、説明といった論理は「信じる」人にとっては不要です。


(つづきます)
497 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/29(水) 21:34:57

>存在感を犠牲にしてまでも概念性を体現したキャラクターと言えるのではないだ
>ろうか。
娼婦マダム・エドワルダは非常に怜悧なキャラクターですよね。
自身も快楽を貪りますが、決して快楽に呑まれない確固たるものを持っています。
彼女のなかに君臨する死が彼女を沈黙させ、その深い沈黙は男たちを圧倒します。
彼女はどんな男と交わっても、自身のなかにある死の意識から片時も逃れることは
できないのです。
あたかも、バタイユが生涯父と神のまなざしから逃れられなかったように……。

そして、彼女と交わった男たちにも「死」の意識を呼び覚ましてしまうのです。
それは絶頂の快楽のさなかから、いきなり地獄に突き落とされる恐怖で
あるのでしょう。
マダム・エドワルダの絶望、無音の沈痛な叫びは、そのままバタイユの恐怖であり、
悲鳴でした……。


――それでは。
498 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/29(水) 22:36:39

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

丁寧なレスをありがとうございます。
とてもうれしく読ませていただきました!

>島尾敏雄が自分の最初の作品を『幼年記』と名づけたのも
>島尾自身にそういう意識があったからかも。

おそらくそうでしょうね。
戦時中も片時もこの習作ノートを手離さなかったようですし。
出撃が間近に迫った夜に、ミホさんにノートを託した事実から鑑みますと、
自分の遺書として後に世に出してほしかったのでしょうね。。。
自分の書いたものを人に読んでほしい、小説家になりたい、という意識は
書くことの喜びを覚えた頃から目覚めつつあったのかもしれません。


(つづきます)
499 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/29(水) 22:37:20

伊東静雄の詩のリンク先を貼りつけていただき、感謝です。
伊東静雄は昭和21年9月に林富士馬、庄野潤三、島尾敏雄らとともに
同人誌「光耀」を創刊したのですね。
戦争が終わった翌年ですね。
言論の自由が謳われ、戦争中に抑圧されていた表現することへの渇望が
当時の文学青年たちのこころに渦巻いていたのでしょう。

>吉増の島尾に対する熱い眼差しが窺われます。
詩人吉増剛三は島尾敏雄の「幼年期」に収められている詩作品をどのような想いで
読んだのでしょうね?

島尾敏雄の詩が上手いのかどうか、正直いってわたしにはよくわかりません……。
奇をてらわない素直な表現法であり、技巧もほとんど凝らさないこころに浮かぶまま
に詠んだ詩であるかと思います。
ほほ笑ましさと初々しさを感じさせます。
彼の詩はさながら、「幼年期」の前半に収められている、綴り方を覚えたての
「くもりのないまっさらな眼」で綴られたこころ模様であります。


(つづきます)
500 ◆Fafd1c3Cuc :2006/03/29(水) 22:38:34

>当方もバタイユの中で好きな作品を1作を挙げよといわれれば、
>おそらく「青空(空の青み)」を挙げるでしょうね。
それぞれのバタイユのお気に入り作品、おふたりは「眼球譚」、「青空(空の青み)」
なのですね。
わたしはやっぱり「太陽肛門」ですね。
全編、詩のように美しい選び抜かれた卓抜した言葉で描かれ、比喩の斬新さと
驚きとが相まって、清冽な読後感でした。
これが「あの」バタイユによって書かれたのか……、感慨もひとしおでした。

>デュラスを傍らに置いた非常に密度の高い的確な文章で、
ありがとうございます! とてもうれしいです!!
少し前に偶然にもデュラスを読みましたので、作品内容がまだ脳裡に鮮明に
残っておりました。
このようなうれしい偶然は、何か目に見えない大いなるものの力がはたらいて
いるのかなあ? などとバタイユの神秘体験に想いを馳せたりもします。。。
偶然とは善き賜物、とでもいうのでしょうか……。


――それでは。
501SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/02(日) 11:41:41
>>498-500
早いもので500レスまできたんですね。
Cucさんはもう島尾『幼年期』の詩を読まれたとのことで
私のほうは初期短篇の途中まででひと休みのまま、詩は未読です。
遅々として進まない私ののろまさがいやになってくるのですが、
もし同じペースで読めたらどんなにいいだろうと思うことしばしば。

『幼年記』は文字通り幼年時代の習作といえる文章を収めているだけでなく
また作家としてのスタートとしてそう名づけたばかりでもなく、
人が幼年期にしか持ち得ない原初的な繊細で鋭い感受性というモチーフを
島尾はこのタイトルに込めたんじゃないかと勝手に想像しているのですが、
おそらくはそうした感受性というのは普段は無意識のほうへと追いやられ、
時折夢の中でだけ顔を覗かせるように思います。
島尾が初期から晩年の『夢屑』に至るまで、
夢を拠り所に書いてきたのも当然のことなのでしょう。

>偶然とは善き賜物、とでもいうのでしょうか……。
OTO氏が読んだ吉増剛造とCucさんが読んだ島尾敏雄とに関係があること、
それもまた、偶然の粋な計らいにも感じつつ。 〆 
502吾輩は名無しである:2006/04/02(日) 19:06:25
半分のレス数ですが既に479KBです。
503 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/02(日) 21:17:23

>>502さん

お気遣い、ありがとうございます。
確か500KBで圧縮されて、落ちてしまうのですよね…?
495KBに達しましたら、次スレを立てる予定です。
504 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/02(日) 21:18:12

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>早いもので500レスまできたんですね。
そうですね。おふたりが熱意を込めて書いてくださるおかげで
当初の「各駅停車の旅列車」はここまで来ました。。。
おふたりに感謝です。

>Cucさんはもう島尾『幼年期』の詩を読まれたとのことで
>私のほうは初期短篇の途中まででひと休みのまま、詩は未読です。
いえ、実は告白すると前半までの短編以降、なかなか遅々として
読み進めずにいましたので、いきなりページを飛ばして、著者の「あとがき」を
読んだのですね。そして、以下の一文を見つけたのです。

――もともと「ものをかく」ことに近づいたのは、「詩もどき」とでもいうべきかたちに
おいてであった。(中略) 幼虫のすがたをもう一度あらわにすることに加担する気に
なった今でもなお、さなぎの時期をそうすることにはためらいがはたらく。
そのとき詩なら書けるなどと思っていた気配のあったことが、そこをかくしておこうと
かりたてるのかもしれない――(p627)『幼年期』・島尾敏雄・弓立社
島尾敏雄に創作の意志が芽生えた当初、最初に試みたのが詩であったことを
発見したのです。
それで、短編を幾つか飛ばして詩を読んでみたのでした。


(つづきます)
505 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/02(日) 21:18:50

「思 ひ 出」  島尾敏雄
思ひ出!
美しいそして人なつこい姿で 訪れてくる思ひ出!
僕は幼い時の写真を見た
妙見山の頂上で のどかな汽笛を聞き乍ら
田を耕す村人を いつまでもいつまでも
見てた時の 純真な姿を思ひつつ

>人が幼年期にしか持ち得ない原初的な繊細で鋭い感受性というモチーフを
>島尾はこのタイトルに込めたんじゃないかと勝手に想像しているのですが、
上の詩には、まさにSXYさんの読みのとおり、「幼年期にしか持ち得ない原初的な
繊細で鋭い感受性」が込められていると思います。
幼年期特有の「純真な姿」が描かれています。
時を忘れて、野ではたらく人たちを飽かずながめていたトシオ少年。
野で働く人の苦しみやつらさを、まだ何も知らずにいた、無垢な少年時代。

島尾敏雄は、幼年期という二度と帰らぬ日々、思い出に回帰したかったのではなく
ものごころがついた当初の、世界に眼が向けられていく過程や、人々や自然へと
こころが伸びていき、何らかの形でそうしたものたちとこころが結びつけられていく
瞬間の煌きを後々まで大切にしたかったのかもしれませんね……。


(つづきます)
506 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/02(日) 21:19:28

>おそらくはそうした感受性というのは普段は無意識のほうへと追いやられ、
>時折夢の中でだけ顔を覗かせるように思います。
ああ、なるほど!
『夢屑』は未読ですが、『夢の中での日常』も夢を題材にした作品でしたね。
また、今読んでいる『幼年期』でも、島尾は見た夢を克明に日記に記しています。
異性への淡い恋ごころ、怖い夢、願望などささやかなものから濃厚なものまで
実に多岐に亘っています。
こうした普段は眠っている意識が感受性を呼び覚まして夢に現れ、それが
彼の作品にそのまま生かされているのですね。
彼にとって「夢」とは、鋭敏な幼年期の感受性をふたたび呼び戻してくれる貴重な
世界であり、作品の宝庫でもあったのでしょうか。


(以下、「C神父」の感想です)
507 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/02(日) 21:55:39

「C神父」再読しました。 (訳/若林真 二見書房/1971年)

再読してよかったです! というのは、わたしは神父が殺されるシーンで
勝手に「眼球譚」のなかの≪闘牛士の眼≫と≪蝿の足≫の章をこの作品に混入して
読んでいました。「眼球譚」でも若い僧侶が殺される場面があり、どうやらその描写が
脳裏から離れずに「C神父」と混同していたようです。

この作品はバタイユの痛切な「信仰告白」の書ではないでしょうか。
無論、彼は神の死を提唱したニーチェの後継者であり、自ら無神論者であると
公言していますが、あらゆる思想家、思索する人、哲学者にとっては「懐疑」が
第一義であるかと思うのですね。
それゆえに、若き日のバタイユは司祭職を志しながらもつねに神に対する懐疑が
こころを捉えていたことでしょう。

そんな矢先に「神の死=神の不在」を叫んだニーチェの思想に触れ、我が意を得たり
と快哉を叫びました。その後の棄教、アセファルの結成、冒涜的な作品の数々。。。
無神論思想に精力的に活動している間は酩酊状態で幸福でありますが、
ひとたび酔いから醒めた瞬間、またもやあの「懐疑」がふたたび彼を襲ったのでは
ないでしょうか。
すなわち、「神は本当に死んだのだろうか? 神の不在は果たして真実なのか?」と。
なぜなら彼は「思索する人」でありつづけた以上、「懐疑」からは逃れ得ないのです。


(つづきます)
508 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/02(日) 21:56:23

ニーチェに心酔しながら、ニーチェの思想を疑う自分をバタイユは自嘲したことで
しょうね。司祭職を投げ打ってまで傾倒したニーチェ。
偉大なその師とも仰ぐ人の思想を懐疑せざるを得ない自分……。

――僕はただの一瞬も、神を離れた人間を想像できない。
なぜなら、目の開いた人間には神は見えるが、テーブルも窓も見えはしない。(中略)
神は絶えず人間が自分に似るように仕向けている。だからこそ、神は人間を侮蔑し、
神を侮蔑することを人間に教えるのだ。(中略)
神が僕の正体を見抜くとき、神の姿は増大する――(p208〜209)

これは神が存在することを前提にして書かれた文章です。
人間は神の似姿であり、それゆえにひとときも神を離れてはいかなる人間も
この世に存在しない。これに先立つものとして、

――常軌を逸するほどぼくは悩んでいた。神を失った兄貴に代わって、
ぼくが神のみもとに戻らなければならなかったのだ、悔恨が心を蝕んでいた。
ぼくは信仰にどんな救いも求めなかった。しかし贖罪の時は来ていた――(p156)

この一文は晩年のバタイユの神に対する真情の吐露ではないでしょうか。
すなわち、「神の死を唱え、神を失ったニーチェという師に代わって、彼の継承者で
ある自分こそがふたたび神のみもとに帰らなければならない」のだと。


(つづきます)
509 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/02(日) 21:57:03

この作品には他の作品には見られない単語、≪悔恨≫、≪贖罪≫、≪罪荷≫、
≪反省≫、などが登場します。
「無神学大全」を著したバタイユからは到底想像もつかない言葉の群れ……。
わたしはこれらの言葉に、聖書のなかの放蕩息子の姿を見る思いがしました。
若い日に家出をしてあちこちで放蕩し、散々父を困らせた息子が、後年父が恋しくて
改心し、ふたたび家に帰ってくるお話しです。

「マダム・エドワルダ」同様、この作品にも三人の娼婦が出てきます。
バタイユの言葉を借りて言うなら、豚のように蔑まされる存在=神、すなわち、
娼婦=神、ということになります。
彼の作品の一連には必ず娼婦、もしくは娼婦のような女が登場しますね。
そして、ありとあらゆる肉欲の快楽を味わい、法悦に身を任せます。
神は我々人間と同じように快楽の果てに排泄行為をし、その汚物にまみれてこそ
神なのだ、と言わんばかりです。
毎回の娼婦(=神)の登場と猥褻な性行為、やはりバタイユは生涯神から逃れること
は不可能だったのですね。。。

――あたしを見つめてちょうだい。あたしは明晰なのよ。見透してるのよ。
見つめてちょうだい。あたしは幸福で震えてるわ。
知ろうとするから、淫らになるのね。知ろうとするから、幸福なのね。
――(p218〜220)
娼婦に託されたバタイユの率直な叫びですね。


(つづきます)
510 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/02(日) 21:57:46

かつては「眼球譚」であらゆる球体群を眼球に見立てて穢し、父や神の「まなざし」を
嫌悪し恐れ忌避していたのに、ここでは一転して「見てほしい」と懇願します。
なぜなら、彼もまた他の人々と同様、神に見られ神を知ろうとすることで、誰よりも
幸福になりたかった一人なのですから。
彼は神から逃れたいのではなく、誰よりも神に「見つめてほしかった」。
彼は神を知ろうとするばするほど、神を冒涜する淫らな作品を書きました。
なぜ人は信仰を求め、宗教に帰依するのでしょう?
おそらくは、こころの平安や拠り所を得たい、病苦死の恐怖から逃れたい、、、
これらは、煎じ詰めるならば「幸福」になりたいからではないでしょうか?

――幸福感に苦しむほど、幸福なのよ。たとえば、ライオンに食べられながら、
その食べてるライオンを見つめてるように、あたしはこの耐えきれない苦しみを、
いま楽しんでるの――(p225)

この比喩のライオンとは「神」のことでしょうね。
神より高い位置に視点を据え、神に跳梁される自分を見下ろすことで快楽を得る。

幸福とは苦しみを楽しみ享受すること。すなわち「受諾」。
バタイユの幸福は神への反逆どころか、あらゆる宗教の根幹を成すものです。
若い日の神への背信、後年悔恨と贖罪という痛恨の思いを味わいながら、自分を
弄ぶような神の仕打ちをはるか高みから見つめ、耐え切れない恥辱をこころから
楽しみ、ひそかに幸福を味わっていた、おそらくは内的体験のなかで。
バタイユの独創的な「内的体験」、超・神性、超・宗教がここに明確に現れています。


(つづきます)
511 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/02(日) 21:58:37

訳者の若林真氏があとがきのなかでこのようなことを述べておられます。

――要するに彼らは、生きながら死に、目をさましていながら眠っている。
あるいは逆に言ってもよかろう、彼らは死んでるように生き、眠ってるように
目ざめているのだ。
彼らが体得しようと望んでいるものは、狂気の明晰さ、または明晰な狂気である
――(p257)

まさに日頃ブランショの作品に対して抱いていたわたしの私見とぴったり一致
します! (なんて言うと、ちょっと生意気かなあ……?)
「謎の男トマ」然り、「至高者」然り。
バタイユがブランショに抱きつづけた友愛は、表現の方法は異なりつつも、
問題提起が同じであること――神を超越した《至高者》by(ブランショ)、
《超・神》by(バタイユ)――、人物の死生観、そして共通する明晰な狂気が
表現者として互いのこころを深くとらえたのですね。

やはり、再読してよかったとこころから思います。
このような機会がなかったら、放棄して未読のままだったと思います。
再読の機会を与えて下さって、ありがとうございました。


――それでは。
512吾輩は名無しである:2006/04/02(日) 22:07:12
◆Fafd1c3Cucsさん
>>503以降、独力で10KB消費して現在489KBです!
495KBだと遅いような気がします……
過疎板だからすんなり新スレッドが立つのかも知れませんが。
513 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/02(日) 23:03:33
>>512さん
いろいろと、ありがとうございます!
アドバイスいただけてうれしいです。感謝です。

次スレ立てました。誘導します。

☆☆「読書交換日記 《2冊目》〜長文歓迎〜」☆☆
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1143986357/
514SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/02(日) 23:22:57
Cucさん、島尾敏雄についての早速のレスありがとうございました。
ところで、スレッドに容量のリミットなんてあるんですね。
はじめて知りましたよ。ここではどこまで書けるのでしょうか?
515 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/02(日) 23:47:49

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>島尾敏雄についての早速のレスありがとうございました。
いえいえ、どういたしまして!
早速、次スレに少しつけ加えて書きました…。

>ここではどこまで書けるのでしょうか?
わたしも実は詳しくは知らないのですが、おそらく500KB?
くらいではないでしょうかね……?
圧縮されるまでの間、あまり堅苦しくならずに少し文学から外れた話題などで
楽しむのも一興かもしれませんね。
516(OTO):2006/04/03(月) 13:39:41
いま490.8kだな。確か512kとか515kで落ちるんじゃなかったかな?
AAスレとか700くらいで「埋め」始めるけどな。
おれも落ちる瞬間は見たことないなww
にしてもまだ500超えたばかりだからなww
すごいスレだよwスレ主乙。

「C神父」は未読だけど感想おもしろいよww
あれだな、バタイユはキリスト教的な「パッション」(受苦)
の作家と言えるのかも知れないな。
ニーチェは、都市生活を温床として様々に分化を繰り広げる
人間の創り出した思想、価値観を俯瞰して、それが最早「神」という
中心概念を必要としていない状況を「神は死んだ」と表現した、とも
言えると思うが、バタイユは「聖なるもの」の存在、宗教的(そして性的)
トランスを実感として持っていた分、神も、エロも手放すことはしなかったの
だろう。
517(OTO):2006/04/03(月) 13:51:22
この前「ドルチェ─優しく」(本)を購入して、
いま読んでる。感想は読了後少し書こうと思っているが、
映画の方は新宿ツタヤでも置いてなくて、
とりあえず「日陽はしづかに発酵し…」というソクーロフの
他作品を借りてきて見たんだが…

正直かなりショックを受けた。なんかすごい監督だこの人ww
見れるものは全部チェックしようと心に決めましたw
518 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/04(火) 13:22:38

(OTO)さん

さっそくのカキコ、ありがとうです!
このスレは落ちるまで「対話」で埋めることにしようかと思います。
(新しい感想文は次スレで順次upしていく予定です)

>おれも落ちる瞬間は見たことないなww
わたしもです。落ちるのを見るのは今回初めてです。
>「C神父」は未読だけど感想おもしろいよww
ありがとうございます♪
……毎度のことながら、思い込みの激しい(!)感想文なのもので。。。
519 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/04(火) 13:23:27

>ニーチェは、都市生活を温床として様々に分化を繰り広げる(以下略)
そうですね。
人々はかつてのように共同体のなかでの帰属意識や、ムラ意識を
持つことはなくなりました。
文明の発達とともに、集団で神に祈願をしたりする必要性は減っていった
でしょうね。
また、科学の進歩により、病気治癒の祈願も以前ほどではなくなったので
しょう。
このような状況下においては、人はもはや神を顧みることはせず、
神は不要なもの、もしくは無用の長物となっていったでしょう。
人は安逸な日々のなかでは神を求めることはしないのですね。
そう、「神は死んだ」のです。。。
520 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/04(火) 13:24:25

>バタイユは「聖なるもの」の存在、宗教的(そして性的)
>トランスを実感として持っていた分、神も、エロも手放すことはしなかったの
>だろう。
「エロティシズムについては、それが死にまで至る生の称揚だと言うことができる」
バタイユはエロティシズムについてこのように言及しています。

彼はエロティシズムを考える際、どうしても「死」を外すことが
できないのですね。
また、いくら文明や科学が進んでも、「死」から逃れることはできません。
死は究極の君臨者です。
その「死」を司っている超・存在。(超・神?)
トランスに導かれるとは生きたまま死に近づくこと、超・存在を「知る」こと。
《非―知》についてバタイユはこだわりにこだわりました。
神秘体験、恍惚体験は、はたして《知》なのだろうか?
《知》ならば、どのように表現できるのだろうか…?
521 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/04(火) 13:25:03

>この前「ドルチェ─優しく」(本)を購入して、
>いま読んでる。感想は読了後少し書こうと思っているが、
今、図書館にリクエストして他地区から取り寄せてもらっているところです。
早く読んでみたいなあ……。
そしたら、また次スレで意見交換ができますね!
楽しみです♪

>正直かなりショックを受けた。なんかすごい監督だこの人ww
えっ! いったいどのような衝撃を受けられたのでしょう?
522 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/04(火) 13:31:04
〜おまけ〜

以下は、以前保存しておいた映画『死の棘』の感想です。

松坂慶子の抑えた演技、いいですね。
狂奔する妻の役というと、たいていは髪振り乱し、般若の形相、乱れた衣服、
ヒステリックに大声で罵詈雑言を浴びせる、、、
こうした大仰なわかりやすい演技ではなく、うちに秘めた狂気を押さえた声で
表現し(ドスの効いた低い声)、座った目で執拗に責め抜くという高度な演技力。
静かであればあるほど、かえって不気味さが漂います。。。

ときおり挿話のように映し出される奄美大島の海と空の青さ、濃い緑の
鮮やかな映像は実に見事ですね!
南国の島特有ののどかさと、色彩ゆたかな自然。
東京の片隅でのせわしない暮らしと、殺風景な四季の映像。
奄美にいた頃と今の妻のこころのなかが映像で対比されているのですね。
523(OTO):2006/04/05(水) 14:04:05
>>521
>えっ! いったいどのような衝撃を受けられたのでしょう?

やっぱそう来るよなあww
なんつんだろ、「ズラウスキーの映画を初めて見た時のような衝撃」ww
これじゃわかんないなww

まだよく調べていないんだけどソクーロフはタルコフスキー
の弟子らしく、映像を積み上げていくだけで観る者をトランスに
もっていく感じは多少似ているとも言えるが、テンポはタルコフスキー
よりもずっと速い(つかタルコフスキーはゆっくりすぎるw)

撮影現地で取材した実際その街で生活する人々の映像、その
言葉にならない感情の動きを絶妙に編集しながら、そこで
演じられるドラマの流れと同期させていく手法には唖然としたな。

この街は何処なんだろう?ロシアの辺境地帯、様々な人種、言葉、
脅威的な自然、風景。徹底的に煮詰めたれた色彩。

あはは、何言ってるかわかんないなwwww
そのくらい衝撃的だったんだよ、見てみww

524(OTO):2006/04/05(水) 14:18:15
ドルチェ(本)の撮影日記とか読むと
ほんと優しい普通のおじさんなんだけどなソクーロフw
だけど1本観ただけでおれの中の「監督ベスト5」くらいに
食い込んできたなあww

>>552
>松坂慶子の抑えた演技

ミホさんはすごい厳しいしつけで育てられたらしい(「ドルチェ」対談参照)
女は笑うときに歯を見せてはならない、とか。すごいよねww
そう思うとあの狂いっぷりも、さらにすごく感じるww
525 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/06(木) 12:30:22

(OTO)さん

スレ埋めにご協力ありがとうです♪
(いったい何KBくらいで落ちるのでしょうかね? う〜ん、目が離せません…♪)

>「ズラウスキーの映画を初めて見た時のような衝撃」ww
この監督の作品、まだ一度も観たことがないのです……。

>ソクーロフはタルコフスキーの弟子らしく、
「惑星ソラリス」はビデオで観て、「僕の村は戦場だった」のほうは、
テレビの深夜劇場の時間帯に観ました。

「惑星ソラリス」はそれまで観たSF映画とは明らかに質を異にしていました。
SF映画というと娯楽的な要素が強いのですが、この作品は人間の潜在意識、
深層心理をテーマにしており、不気味な怖さが漂う作品でした……。
ソラリスの“海”は人間のこころを読み取り、意のままに操作します。
未知の生命体“海”は非常に高い能力を持っています。
静かであるけれども正体不明ゆえに、不気味さが一層際立つ。。。
526 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/06(木) 12:31:05

正体不明といえば、ブランショの作品も全体が“濃霧”で包まれていますね。
“濃霧”のなかには何が潜んでいるのか、読者には最後まで明かされることは
ありません。人物たちは沈黙しつづけ、会話をしないのですから。。。
“濃霧”はソラリスの“海”同様、言葉を持たないゆえに、接するものたちを
困惑させ、謎や神秘は強まるばかり、、、

“濃霧”=ソラリスの“海”=「沈黙」。
対話不能なものたちに対しては、わたしたちは口を閉ざすしか術が
ありません。
「沈黙」とは、言葉を与えられた人間たちが慢心し饒舌すぎることへの警鐘、
戒めなのでしょうか……?
527 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/06(木) 12:31:53

「僕の村は戦場だった」は、少年の眼をとおして描かれるモノクロの映像が美しい!
詩情ゆたかな映像は、「シベールの日曜日」(セルジュ・ブールギニョン監督)に
通じるものがあり、モノクロゆえの美しさが際立っています。

そういえば、この二作品とも静かな反戦映画ですが、子供が主役であり、
戦闘シーンはあまり出てきませんでしたが、子供の眼をとおして描くことで
戦争の悲惨さは一層鮮明です。

>そのくらい衝撃的だったんだよ、見てみww
そうですね。週末にTUTAYAに問い合わせてみます。
528 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/06(木) 12:32:31

>ミホさんはすごい厳しいしつけで育てられたらしい(「ドルチェ」対談参照)
>女は笑うときに歯を見せてはならない、とか。すごいよねww
ええっっっーーーーーー!!!!!!!!
すごいですね……。

ミホさんは生まれた島では王族の高貴な血を引く一族のひとり娘として
大切に育てられたそうですが、その分しつけも厳しかったのですね。。。
高貴な一族の末裔として、島民ばかりでなくどこに出しても恥ずかしくないように
厳格に育てられたのでしょう。
「死の棘日記」に掲載されている島尾敏雄と知り合った頃の娘時代のミホさんの
写真を拝見しました。
整ったはっきりした目鼻立ち――南国の島特有の情熱的な黒い瞳、一途さを
思わせる濃い眉、娘らしいふっくらとした頬、きりりと結ばれた聡明な唇。

ミホさんの写真の隣には海軍の制服姿の島尾隊長の写真。
特攻隊長のイメージから程遠い優美な立ち姿――ごつさのない長身痩躯、
温和なまなざし、微笑しているような口元。

戦争、特攻が引き合わせたこのふたりは千載一遇の出逢いでした。
奇跡のような、特攻出撃寸前での終戦。
数奇な運命に導かれたふたりは極北の文学と後世で謳われる「死の棘」を
生むに至りました。
あの作品はミホさんと出逢わなければ書かれることは決してなかったのでしょう…。
529 ◆Fafd1c3Cuc

いよいよ501KBです。(まだ書けるのかな…?)

このスレに書き込んでくださったSXYさん、OTOさん、
本当にありがとうございました。
おふたりのおかげでこんなにも良いスレッドに成長することができました。
感涙です……。
また、名無しでエールを送ってくださった方々、
ROMしてくださっている皆さま、感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございました。
皆さまに支えられて、このスレも幕を閉じようとしています。
今度皆さまにお目にかかるのは、次スレですね。

別板でOTOさんはすでに既読ですが、わたしの好きな作家の言葉を
記します。

――人間が人間に及ぼす影響のなかで、もっとも深い部分を揺り動かすものは
何だろうと考えてみるとき、友情や信頼、無償無私の行為といった、人間の美質が
もたらす抗いがたい力を、思わないではいられません。
作品の上で実現することの困難さ、未熟な者が希うことの無謀さを思い知る一方で、
そこから目を離しては書く意味も無くなる、と遠い声がします――

――高樹のぶ子『その細き道』あとがきより――


ありがとうございました。
――スレ主こと ◆Fafd1c3Cuc