「風にのる智恵子」 高村光太郎 (『智恵子抄』より)
狂った智恵子は口をきかない
ただ尾長や千鳥と相図する
防風林の丘つづき
いちめんの松の花粉は黄いろく流れ
五月晴れの風に九十九里の浜はけむる
智恵子の浴衣が松にかくれ又あらはれ
白い砂には松露がある
わたしは松露をひろひながら
ゆつくり智恵子のあとをおふ
尾長や千鳥が智恵子の友だち
もう人間であることをやめた智恵子に
恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
智恵子飛ぶ
「千鳥と遊ぶ智恵子」 高村光太郎 (『智恵子抄』より)
人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわつて智恵子は遊ぶ
無数の友だちが智恵子の名を呼ぶ
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい、――
砂に小さな足跡をつけて
千鳥が智恵子に寄つてくる
口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
両手をあげてよびかへす
ちい、ちい、ちい、――
両手の貝を千鳥がねだる
智恵子はそれをぱらぱら投げる
群れ立つ千鳥が智恵子を呼ぶ
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい、――
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽くす