☆☆「読書交換日記 《2冊目》〜長文歓迎〜」☆☆

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1吾輩は名無しである

本の読了後の感想、意見などを「読書交換日記ふう」に綴るスレです。
長文歓迎します。
荒らし予防のためにも「sage」進行でお願いします。

【前スレ】
☆☆「読書交換日記〜長文歓迎〜」☆☆
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1119743931/
2 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/02(日) 23:18:02

1です。

前スレで「島尾敏雄全集2」の感想を書きましたが、
改めて気づくことがありましたので、つけ加えます。
(以下、断片的ですが…)

描いている世界は時空間からいえば四次元的な世界であるのに、
人物も場所もすべて二次元の世界、つまり平面の印象が強いのですね。
意図的にリアリズムを避け、意識して夢を作品に織り込もうとしているかの
ように見受けられます。

彼は「夢見る人」でありたかったのでしょうか…。
小説家とは夢を売る商人でありますが、彼の売る夢はわかりやすいばら色の
夢ではありません。
彼だけが見ることのできた白昼夢を描くことでした。
白昼夢とは断片的な場面を次々とカットバックのように見るだけです。


(つづきます)
3 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/02(日) 23:19:37

例えば漱石の「夢十夜」などは物語性のある夢です。
恐怖と幻想とが混ざり合う、いかにも創作された夢らしい夢です。

島尾敏雄が創作として語る夢はそうではありません。
テーマとか、物語性をはるかに凌駕した世界です。
島尾敏雄だけが感じ、視ることのできる研ぎ澄まされた鋭敏な感覚で
語られる超現実的な心象風景は、白昼夢の世界そのものです。

彼の作品を喩えて言うならば、白一色の雪野原の真ん中に突然色鮮やかな
真夏の果実をつけた熱帯樹が出現した瞬間の驚き。
海の真ん中にいきなり砂漠が出現する奇妙な時空のねじれの驚き。
異質なもの、未知のものが突然出現する、一瞬のエア・ポケットの驚き。
そうした摩訶不思議な世界に惹きつけられるように、まるで夢遊病者が
自覚が何もないように、彼も夢に憑かれたように夢の為すままに
筆を執りました。

島尾敏雄の作品の魅力はまさに「夢を紡ぐ人」が自身も夢の行方を
知らされないままに白昼夢を織りつづけたことでした。
4吾輩は名無しである:2006/04/06(木) 16:46:02
前スレは綺麗な終わり方でしたね。
今度もよろしくお願いします。
といっても私は読む一方ですが。
5 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/06(木) 17:22:59

>>4さん

初めての書き込み、とてもうれしいです♪
ありがとうございます!
ROMしてくださる方がいらっしゃると、わたしも励みになります。

このスレもどうぞよろしくお願いいたします。

6吾輩は名無しである:2006/04/07(金) 13:41:56
新スレおめでとうございます。
わたしもROM専門ですが、いつも読む本の参考にしてますよ。

それで、こんなのみつけました。
このスレッドが交換日記の元祖だったんですね。

なぜきみは「吾輩は名無しである」なのか?
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1114165728/
7(OTO):2006/04/07(金) 17:25:13
Cuc乙。前スレに書いて、落ちるとこ見たいような
気もするが、あのラストはほんとキレイだから、
あのまま沈めた方がいいかも知れないなw

なんか読んでくれてる人が祝ってくれるのは
うれしいな。よかったな。
感動だ。
8吾輩は名無しである:2006/04/07(金) 20:03:54
初カキコ。
はやめに20レスつけないと、即死しちゃいますよ。
9(OTO):2006/04/07(金) 20:59:15
>>8
即死判定ですね、どうもありがとう。
だけど20はきついなあwこのスレ的にはww
期限てわかるんですか?
10 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 21:30:29

>>6さん

ありがとうございます!
そのように言っていただけて、とてもうれしいです♪

>なぜきみは「吾輩は名無しである」なのか?
そうです、そうです! 記念すべき「発祥の地」のスレッドです。
そこから感想文の対話が始まりました。
よく、見つけてくださいましたね! 感激です♪

あそこから始まって、もう1年が経つのですね……。
始まりは春、桜の季節。季節は巡ってふたたび春が訪れました。
こちらこそ、これからもよろしくお願いします。
11 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 21:31:18

>>8さん

お気遣い、ありがとうございます!
アドバイスいただけて、うれしいです♪
……実は2ちゃんねるについては、あまりよく知らないもので。。。
即死しないよう、頑張ります。
これからも、よろしくお願いします。
12 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 21:32:07

(OTO)さん

さっそく新スレにいらしていただき、ありがとうです♪

>なんか読んでくれてる人が祝ってくれるのは
>うれしいな。よかったな。
はい、とっても、とてっもうれしいですっっっーーーー!!

皆さまのあたたかいエールに包まれて、新スレはスタートしました。
まだ、船は港を出たばかりです。
これからいろいろな大海を巡り、未知の国へとこころの翼は早くも
羽ばたいてゆこうとしています。
まるで、真新しい制服を初めて着る新入生の気分です


――それぞれの想いと 夢を乗せて 静かに時はゆく
今 船は真白に輝く 帆を高く上げて
あとはただ強い風と 君を待つだけ――「風と君を待つだけ」・小田和正

前スレ同様、どうぞよろしくお願いします。
13 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 21:32:58

(前スレ「C神父」関連より)


バタイユの神への想い、ニーチェのイエスへの想い……。
反逆し、罵倒し、けれども最後までこのふたりの巨人のこころを
とらえて離さなかった「神」というあまりにも大きな存在。

以下は、曽野綾子さんの言葉です。少し長くなりますが引用します。

――「悲しむ人は幸いである。その人は慰められるであろう」(マタイ5.4)
そうだ、私は間違いなく慰められるのだ。
そして、その慰めは私だけに与えられるものなのである。
その時初めて、私は主を独占する。
主は私のためだけにそこにおられ、その手が私一人のために差し出される
のを見る。誤解を恐れずに言えば、その思いはやはり恋に似ている。
人々から捨てられた時にだけ、人間は主の愛を独占する。
そのことをパウロは言いたかったように私は思う……。

しかし、ダマスコの回心の時、パウロは確実に主に出会った。
その時パウロが見たものは幻だった、ということはたやすい。
しかしパウロは、主がそこに来られたことを実感した。
そういう体験を私は否定することができない。
恐らくその時以来再び、牢獄の中で、パウロは主が自分の傍に
来られたのを感じたのだ。
幻としてではなく、実感として来られたのだ。
14 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 21:33:43

私はパウロの体験を貶めるつもりはない。
しかし、人間が惨めさのどん底に突き落とされ、しかしその人が、
自分の心を決して他のいかなる偽者の「主」にも委ねなかった場合、
そこにはパウロならずとも、誰のもとにも必ず、夜の牢獄の床に
音もなくさして来る月光のような慰めが訪れると思うのである。
人は悲しみの中でほんとうに出会うものだ、と私は思う。
人間が神と出会うのも、多くの場合そういう時なのである。
それは、悲しみの中でこそ、人は本来の人間の心に立ち帰るから
なのである。

だから――私たちはもしかすると、悲しさと寂しさの極みまで
落ちなければならないのかもしれない。
その時初めて、私たちは傍らに立つ神と会う。
それが成就なのである――

――『心に迫るパウロの言葉』/悲しさと寂しさの極みの章より抜粋――


(以下は、「島尾敏雄全集3」の感想です)
15(OTO):2006/04/07(金) 21:39:33
お、いたねスレ主w
20までやるか?ww
リアルタイムは久しぶりだなw
たしか哲学板で会った最初の時はリアルタイムに近い
やりとりをした記憶があるなww
16 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 21:41:20

「島尾敏雄全集3」読了しました。

「唐草」では、敏雄少年の夢想の片鱗、鋭敏な感覚の芽生えが語られていますね。
生来の持病である胃弱からくる胃痛、眩暈、そして一瞬のうちに「白い光」の世界
へと飛翔します。
島尾敏雄はその現象を「眼華」という独自の美しい造語を使っていますね。
この「眼華」(白い光)こそが彼の作家の出発点、白昼夢の核を成すものでは
ないでしょうか?

「白い光」といえば、色川武大の「狂人日記」の男も、子供の頃「青空を背景に
白く銀色に光る函」を視ています。(幻視かもしれませんが…)
また、ブランショには文字通り「白日の狂気」という作品もありますし、
「私についてこなかった男」では、ラストは「白日の光のなかへ消えていった」。
バタイユは、神秘的な「内的体験」をしていますが、彼の恍惚体験もまた、
「光のようなもの」として現されるのではないでしょうか?
17 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 21:42:03

(つづきます)


話は逸れますが、NHK教育で放映された吉増剛三の「わたしのこだわり人物伝」
の第2回目「小さな庭からの旅立ち」を見ました。
柳田国男少年は13歳の時に、茨城県布川で開業医をしている兄に引き取られます。
そして、家の近くにある古い祠で《神秘的な体験》をしました。
祠のなかにある玉石を取り出し掌に乗せたのです。
その瞬間、幾十もの星が舞い、辺りが「真っ白な光」で包まれ恍惚状態に
なった、といいます。
あの時、ヒヨドリが鳴かなければ自分は気が狂っていただろう、と述懐しています。
感応力の強い国男少年もまた狂気=白い光の世界を体験したのですね。

国男少年の神秘体験はバタイユの内的体験に通ずるのではないでしょうか。
吉増剛三氏は国男少年の感応力を「命の端っこにあるものであり、それこそが
すべてのものに通じる道」と語っています。
すなわち、時空を超えてあらゆる時代の人たちのこころへと通じる道です。
また、人間のみならず、自然界の被造物――草木、動物、空、風、星、そして
神という存在にも通じている道。


(つづきます)
18 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 21:42:44

感応力、想像力、こころの翼を羽ばたかせるには、
自分を取り巻く環境は小さければ小さいほどいい。

そのほうが、より大きな世界へとこころが飛んでゆくことができるから。
こころの翼とは、想像力。
狂気、それは銀色に輝く翼の舞う光の世界。
「狂気」と「白日の光」は密接な関係にあるのですね。
今までわたしは狂気というものは、深くて暗い闇のような、暗黒の世界で
あるとばかり思い込んでいました。
けれども、最近読んだ一連の作品から鑑みて、狂気とは暗黒の世界ではなく、
白日の光に満ちた世界なのかもしれないと思いを新たにしました。


(以下、抜粋した作品の簡単な感想です)
19 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 21:44:00

「唐草」
作家・島尾敏雄の少年時代の夢想の原点ともなる「眼華」が初めて語られている
記念すべき貴重な作品。回想を元に描かれています。
トシオ少年の持病の発作がもたらす「眼華」、彼だけの特有な世界、別天地へと
いざなう夢想の世界が、性への好奇心と芽生えとともに瑞々しく綴られています。
島尾敏雄の「ヰタ・セクスアリス」ですね。
――自分はまだ恋愛を経験したことはなく、年上の女性に可愛がられるような気が
していた。結婚はおそらく見合いであろうと思われた――
予想が外れたのは、妻ミホとの「恋愛」結婚。当たったのは、結婚後の彼の愛人が
「年上」であったこと。その両方が彼の作品の主軸になりましたね。
(前者は「島の果て」と「ロング・ロング・アゴウ」、後者は「死の棘」)

「鎮魂記」
伸び伸びと想像の世界に遊び、遊びがもたらしたユーモラスな作品。
旅の道中の「私」がふとしたことから桃源村に辿り着き、温泉で混浴します。
混浴は村人のみにしか許されていないことを知らなかったため、裁判にかけられ
ます。妖しげな役人夫人に「自分と旅に出るなら無罪放免よ」と誘惑されます。
夫人が持っていたのは、媚薬の函(浦島太郎の玉手箱のようなもの?)であり、
「私」はただふらふらと従うしかない……。
結婚後、年上の妖艶な女に誘惑されやすかったであろう島尾敏雄の懺悔(?)を
重苦しくならぬようユーモアを込めて語っているように思えました。


(つづきます)
20 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 21:44:45

「ロング・ロング・アゴウ」
「島の果て」がラフなスケッチならば、この作品はスケッチに絵の具をつけて
より濃密に仕上げた作品ですね。
陽子(ミホ)との島での出逢いをロマンス小説ふうに綴っています。
淡々しさのなかにも逼迫した戦争の情景が織り込まれています。
陽子が少尉に初もぎの青柿を渡そうと列車のなかを必死で探し回るシーン。
むせ返るような草いきれの残る夜の小学校でふたりだけの濃密な逢瀬。
ひっそりと静まり返った夜の教室に響き渡るオルガンの清純な音色。
戦中でありながら、いえ、戦中だからこそ高まり寄り添う若いふたりのこころ。
悲劇的結末を予感させる逼迫した一篇の恋愛小説を堪能しました。。。

「夜の匂い」
小学生の女の子が隊長さんに背負われて、担任の女教師を訪問するお話し。
隊長さんは、夜の道を汗をかきかき女の子を背負うのですが、自分の汗の
匂いに成人した男の匂い、オスの匂いを感づかれやしないかと冷や冷やします。
背中の少女はいたって無邪気で、そんな隊長さんの気遣いなど、どこ吹く風。
女教師の家を辞するとき、「少しは遠慮なさい」と言われるも少女は自分が
子供であることを「利用」して甘え、またしても帰り道は背負われたまま。
女教師は少女のなかにすでに女を見たのでしょう。嫉妬が垣間見えます。
隊長さんは帰り道、そんな少女に「女」の匂いを感じてぎくりとします。。。
本能が蠢きだす夜の外気に触れて、剥き出しになる男の欲望と少女に潜む魔性が
次第に目ざめていくさまを妖艶に描いた官能的な作品ですね。


――それでは。
21 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 21:50:40
OTOさん

今晩は。
さっそく、駆けつけてくださってありがとうです♪

>リアルタイムは久しぶりだなw
>たしか哲学板で会った最初の時はリアルタイムに近い
>やりとりをした記憶があるなww
そうですね〜。
今夜は、久々にお話ししましょうか。
22(OTO):2006/04/07(金) 21:55:42
そっかおまい書き貯めたものあるから1人で楽勝だったなw

[なぜきみは「吾輩は名無しである」なのか?]スレは
おれも見てたな。それで、「あれ?これってあいつかなあ」ってww
文学板で再会したのはかなり偶然だったよなw
23 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 22:05:20
いえいえ、楽勝だなんてとんでもないですよ〜。
あなたが駆けつけてくださったので、本当に助かりましたよ♪
ほら、某板でのわたしの性格、よく御存知でせう…?

[なぜきみは「吾輩は名無しである」なのか?]のスレは
わたしにとりましても、思い入れのあるスレです。
文学王さんと初めてバタイユについて対話したスレでした。
哲学板であなたがバタイユの本を紹介していらしたので
読了していたから、語れたスレでしたよ。
感謝感謝です♪♪

そうそう、ゴーダさんという最初のハンドルも「攻殻」を知った今では
笑い話になりますね〜
どちらかといえば、バトーのほうに近いですよね?
24SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/07(金) 22:06:16
前スレに書き込めなかったので、簡単ですがここで一言。

(OTO)さん、そんなにドルチェを観たくさせるとはあなたは罪な人だ。
「テンポはタルコフスキーよりもずっと速い」「徹底的に煮詰めたれた色彩」
うーん、よくわからないながら凄そう。。。

◆Fafd1c3Cucさん、あなたの書き込みから与えられたものは、
おそらく私にとって非常に大きなもの。
いつも変わらない優しい言葉、揺らぐことのない立ち位置、
そして他者に向けて素直にわかりやすく伝えようとするその思慮深さ。
「人間の美質がもたらす抗いがたい力」という高樹のぶ子の言葉そのままに。
25 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 22:24:53
SXY ◆uyLlZvjSXY さん

さっそく新スレにおいでいただき、ありがとうございます!
とてもとてもうれしい言葉です。
……涙がこぼれそうです、、、

SXYさんはいつも落ち着いていらして、ともすれば走りすぎてしまう
わたしをいつも大らかなこころで包み、見守っていてくださいます。

わたしは難解な評論や哲学書は読めないのですが、そうした書物の
要点をきちんきちんと順を追って説明してくださいます。
そうした丁寧かつ謙虚な姿勢、寛容なまなざしに守られてわたしは伸び伸びと
書くことができたのでした。

前スレに辿り着くまで幾つかのスレで対話していただきましたが、
一番うれしかったのは、誘導先に必ず来てくださったことです。
ですから、わたしは安心して前スレを立てることができたのです。
大丈夫、きっとSXYさんは来てくださる!
そうした確信があったからこそ、わたしは書き続けることができたのです。
対話はひとりではできないのですね。

このスレも、どうぞよろしくお願いします。
感激の涙が、、、



26(OTO):2006/04/07(金) 22:32:43
あはは3人揃ったねww
>>23
>バトーのほうに近いですよね?
うーんどうかな?やっぱゴーダかもよwww

>>24
ww「ドルチェ」見たいよ、おれも。
だけど新宿TUTAYAにレンタル無いってことは、リクエストして待つか
買うしかないねえ。買おかなと思ってる。
27SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/07(金) 22:37:32
おやっ? 今日はOTO氏もCucさんも二人ともいた!
それにしても、Cucさんは相変わらず真面目ですね。
真面目の上に何とかが付くくらい。
こういう匿名掲示板ではとても珍しいです。
当方は根がふざけた性格なので、
時々他のスレッドでは遊んでしまうのですが。。。
28 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 22:44:49
(OTO)さん

いえいえ、やっぱりバトーですよ!(きっぱり♪)
あ、イシカワも好きですよ♪ (わたしってば気が多い…)
何たってバトーは、あの素子さんがこころを許したひとですものね♪

「日陽はしづかに発酵し…」というソクーロフのビデオを探したのですが
電車でいける距離のTUTAYA を 2 件回ったのですが、ないのです・・・
新宿のような都心ではないので、無理なのかなあ……。
ネットで検索したら、この作品は筋金入りの映画ファンの間では熱狂的に
支持されているとか。。。

今日「ドルチェー優しく」の本を借りてきましたよ♪
終末にゆっくり読む予定です。
29 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 22:51:59
SXY ◆uyLlZvjSXY さん

>当方は根がふざけた性格なので、
>時々他のスレッドでは遊んでしまうのですが。。。

わたしもけっこうアバウトな性格なんですよ〜。
というか、どこか抜けているらしいです。。。
それと、いきなり突拍子もないことを言い出してしまうみたいです。
本人の自覚がないところが、コワイ・・・

OTOさんは、某板でのわたしのオマヌケぶりをよ〜くご存知なんですよ〜。
30SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/07(金) 22:52:01
哲学板ではOTO氏はCucさんの師匠格だった!?
あっちの板は昔一時期寄ってたことはあるんですが、
哲学は精神力を消耗するので敬遠がち。
去年はレヴィナスを少し読みましたが、今年は読めるかな?
そういえば、OTO氏はナンシーを読んでたみたいだけど、
デリダのナンシー論『触覚、』が出ましたね。
実は今は「のだめカンタービレ」というマンガを読書中!
ソクーロフのビデオは入手がやはり難しそうで。。。
31(OTO):2006/04/07(金) 22:55:53
「ドルチェ」はビデオで撮ってるみたいだから、
映像的にはどうなのかなあ?いまちょうどソクーロフの撮影日記の途中。
台風接近中の奄美海岸でなんかすごく無謀なww撮影をしてる描写がある。

>>27
そうそう、ほんと真面目wwだけどたまーーーーーーーーーーーーに
ギャグかますんだけど、それが結構おれ的には妙なツボにはまるんだよね
wwww

>>28
新宿TUTAYAにはその他4〜5作品あって、けっこう借りられてたな。
32 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 23:02:12
そうです、そうです!
哲学板ではOTOさんが師匠で、文学板ではSXYさんが師匠です!
わたしは、哲学も文学も専門ではなく、
文学は趣味として、また哲学は好奇心から少しかじってみたいなあ、と。

哲学板は、言葉の厳密さ、精密さにおいて群を抜いていますね。
文学は自由に言葉を語れますが、哲学はそうしたことが許されない。
それゆえに、非常にスリリングであり、リスクも大きいです。
でも、真摯に議論している人たちの熱さはとてもいいなあ、と思います。
真理を追究する眼、考察する姿勢はやはり大切ですね。
33(OTO):2006/04/07(金) 23:08:27
>>30
>哲学板ではOTO氏はCucさんの師匠格だった!?

いや昔あるスレに常駐してたらCucがいきなり
詰問してきたんだよwwwww

デリダのナンシー論?読みたいねえww
「のだめカンタービレ」は読んだことないなあ
今度見てみる。
34吾輩は名無しである:2006/04/07(金) 23:10:32
ここに参加してみたいが読んでいる本を逐一報告していたら
個人を特定されそうで怖いのです。
35 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 23:11:12
OTOさん

>新宿TUTAYAにはその他4〜5作品あって
やっぱり、都心のほうはいろいろと種類も多く出ているのですね。
当分は本を読んで想像しましょうかね…

>ギャグかますんだけど、それが結構おれ的には妙なツボにはまるんだよね
おおっっ! ありがとうです♪
この間の、♪うさぎのダンス♪は気に入っていただけましたか〜?
ともだちといる時に、話がわけわからなくなったので
「♪なんでだろ〜、なんでだろ〜♪」と
振りまでつけて歌いだしたら、ぎょっとされました・・・
36SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/07(金) 23:16:39
>>31
Cucさんのかますギャグ、うーん見てみたいような。。。

>>32
師匠だなんてとんでもない! 所詮「文学王」ですから(笑
Cucさんは、そうですねえ、私にとっては、うん、オアシスです。

>>33
「のだめカンタービレ」には野田恵(略してノダメ)が主人公、
音符が読めないくせに妙に心を打つピアノを天衣無縫に弾く、
という他愛もないマンガですが。。。

>>34
そんなの気にしない気にしない。ごく一部だけでいいんですよ。
37 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 23:17:41
OTOさん

>いや昔あるスレに常駐してたらCucがいきなり
>詰問してきたんだよwwwww
そうそう♪ なつかしいですね〜。
確か「あなたに問います!」って延々とミホさんのように(?)
質問しつづけたのですよね〜。

でも、あなたとはちゃんと「対話」が成立したから望外の喜びでしたよ。
だって、あのスレのKさんはジャーゴンが多くて、哲学用語がわからない
わたしはどう対話すればいいのか、途方に暮れましたよ。。。
38(OTO):2006/04/07(金) 23:19:35
>>32
おれだって哲学も文学も専門じゃないよww
ひょっとしたら音楽の方が詳しいかも?
まあいずれにしても偏ってるからなあ、おれ。

>>34
ということは有名な人ですね(ニヤリ
おれらはだいじょぶですけどね。
少しすればもっと下にもぐりますから、
試しに少しどうですか?
39 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 23:23:47
>>34 さん

どうぞ、お気軽にご参加ください。

読了した本のすべてでなくてもいいんですよ〜。
この本の感想をぜひ書きたい! と思われたものをこころのままに
想いのままに力まず書くのが一番いいのではないかと思いますよ。
やっぱり楽しんで書くのがいいですよね。
40(OTO):2006/04/07(金) 23:24:03
お、そろそろ落ちるわ
たまに雑談も楽しいなwwオープニングレセプションだったなww

本スレも2人ともよろしく!んじゃね。
41吾輩は名無しである:2006/04/07(金) 23:26:32
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http://book3.2ch.net/test/read.cgi/books/1116901880/

洋書でマラソン!レッツラゴー!Part4
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/english/1133352487/
42SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/07(金) 23:29:28
>>37
延々とミホさんのように詰問?!
う〜島尾敏雄状態は、こ、怖い。。。

島尾敏雄の短篇についての書き込みは後日ゆっくり拝見しますね。

>>38
>音楽の方が詳しいかも?
ジョン・ケージを聴いてるくらいだから相当なもんです。
あと映画もかなり詳しそう。
それじゃあまた!>>40
43 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 23:32:40
SXYさん

>Cucさんは、そうですねえ、私にとっては、うん、オアシスです。
う、うれしいですっっっっ♪♪♪
身に余る言葉です。

そういえば、昔、大島弓子さんの漫画「すべて緑になる日まで」という
沙漠の王様に嫁ぐ少女の物語が好きでした。
ギャグはねえ、これがなかなか受けないんですよ〜、とほほ、、、
44 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 23:37:42
>>41さん

一般書籍板と英語板とは、これまた実にすごい方がいらしてますね!
リンク先は後ほど読ませていただきますね。
ありがとうございました。
45 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/07(金) 23:43:05
SXYさん、OTOさん、そしてROMされている皆さま

今夜はこの辺でお開きにします。
楽しい対話のひとときをありがとうございました。
読書とは、対話であるかと思います。
作者と、あるいは登場人物たちとの対話、それが読書ですね。

それでは、おやすみなさいませ。
素敵な終末をお過ごしくださいね。
このスレを今後ともよろしくお願いします。 
46SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/07(金) 23:47:49
>>42
大島弓子はたしか「バナナなんとか」というマンガがありましたね。
それにしても今日はCucさんの意外な一面も覗くことができよかったです。
それではまた! おやすみなさい。>>45

――追伸 「週末」の字が2度ほど違ってましたよ(微笑
47SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/09(日) 11:42:46
>>2>>3
>島尾敏雄の作品の魅力はまさに「夢を紡ぐ人」が自身も夢の行方を
>知らされないままに白昼夢を織りつづけたことでした。
たしかに。きっと計算から絶えず逸脱する流れ&動きこそが《夢》なんでしょうね。

島尾敏雄の夢作品にどうしてリアリティを感じてしまうのか、
その謎が解けないままにずっと魅せられ読んできたわけですが、
そのことを改めて考えてみると2つの点に思い当たりました。
ひとつは、島尾の感覚が非常に肉体的なものでもあったんじゃないか、ということ。
もうひとつは、その感覚を言葉に移し変えるのに長けていたんじゃないか、ということ。

島尾にはいくつかの頻繁に使われる独特の語彙がありますね。
とそう書いた途端健忘症が。。。(思い出したらまた書きます)
48SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/09(日) 11:45:48

>>16-18
島尾敏雄、色川武大、ブランショ、バタイユ、柳田国男をつないでの
「狂気=白い光の世界」の書き込みはとても面白く読みましたよ。
まさに「白日の狂気」ですね。ゴダール『気狂いピエロ』もそうかな。
そして、「また見つかった。何が? 海に溶け込む永遠が。」のランボオも。

>>19-18
>むせ返るような草いきれの残る夜の小学校でふたりだけの濃密な逢瀬。
うん、そうそう。この「ロング・ロング・アゴウ」の描写は美しい。やばいくらい。
記憶力の悪い私のような人間でも、非常に印象的で忘れがたく。
49 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/09(日) 20:54:32

SXY ◆uyLlZvjSXY さん

島尾敏雄についての早速のレス、ありがとうございました!
彼の夢作品に関する考察、大変興味深く読ませていただきました。
なかなか鋭いところを突いていらっしゃると思います。

>ひとつは、島尾の感覚が非常に肉体的なものでもあったんじゃないか、ということ。
>もうひとつは、その感覚を言葉に移し変えるのに長けていたんじゃないか、ということ。
わたしは彼の夢作品ではまだ『夢の中での日常』や、『孤島夢』くらいしか
読んでいないのですが、例えば『夢の中での日常』では、「私」が罹病者の感染を
恐れ、何度も執拗に消毒液で《手》を洗う場面が出てきます。
また、皮膚病にかかりかゆさのあまり《頭髪》を掻き毟り、あげく最後には《胃》の
なかに手を突っ込み臓物を掻きだします。
肉体の一部、もしくは身体の一器官が非常に生々しくリアリティを持って迫ってくるの
ですね。


(つづきます)
50 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/09(日) 20:55:18

『孤島夢』では、最後に歯科医が登場しますね。
こんなに文明から遠く離れた島に、いきなりの登場です。
読者としては、歯科医よりも人命を考えれば外科や内科のほうがより重要なのでは?
と茶々を入れたくもなるのですが。。。
歯医者と聞くと、おそらくたいていの人が渋面をつくるのではないでしょうか?
歯を削られる時のキーンというあの金属音、痛み、恐怖、、、
(わたしは歯医者の診察台の椅子に座り、椅子が上に引き上げられるといつも死刑台の
エレベーターに乗っているような恐怖に駆られます……)

『孤島夢』では、歯科医の登場で《歯痛》がまざまざと蘇ってくるのです。
こうした肉体もしくは身体の器官に関する記憶というのは、たとえ夢のなかの
出来事ではあっても痛みや痒さ嘔吐などの感覚器官(嗅覚、痛覚、触覚)の記憶を
リアルタイムで呼び覚ましてしまうのでしょうね。
それが島尾敏雄の夢作品にリアリティを感じてしまう所以なのかもしれません。


(つづきます)
51 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/09(日) 20:56:03

ご指摘のとおり、島尾敏雄はこうした感覚を言葉にすることがなり上手い作家だと
思います。
それはたんなる写実だけに留まらない、もっと克明に記す眼を持っていたということ
ですね。
時として、非情とも思われる眼。
『死の棘』はこうした眼で書かれたからこそ、傑作と謳われました。
彼は子供の頃からよく日記を書いていたそうですが、作家としてもっとも大切な、
冷静に観察する眼を日記をつけることで会得していったのでしょう。
誰に教わるともなく、ほぼ独学で。。。これは、ある意味で最強ですね。
作家になるには師と仰ぐ人に師事するのもひとつの方法ですが、冷静に観察する眼
だけは師さえも授けることができません。その人の資質に関わるものですから。

>島尾にはいくつかの頻繁に使われる独特の語彙がありますね。
>とそう書いた途端健忘症が。。。(思い出したらまた書きます)
どうぞ、ゆっくりと思い出してくださいね。
ここは各駅停車の旅列車、期限はありませんので楽しみにしております! 


(つづきます)
52 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/09(日) 20:56:52

>「狂気=白い光の世界」の書き込みはとても面白く読みましたよ。
ありがとうございます。うれしいです!

>まさに「白日の狂気」ですね。ゴダール『気狂いピエロ』もそうかな。
>そして、「また見つかった。何が? 海に溶け込む永遠が。」のランボオも。
『気狂いピエロ』はかつてビデオで観ました。引用が多かったような……?
観客の思惑などお構いなしの、自滅的はちゃめちゃな男を追うカメラ・アイ。
ゴダール監督に「勝手にしやがれ!」と毒づかれていたような記憶が・・・

>この「ロング・ロング・アゴウ」の描写は美しい
島尾敏雄は、濃密かつそこはかとないエロスの漂う描写が絶品ですね!
夜になっても鎮まらない夏草のむせ返るような青い匂いは、そのまま若い隊長の
男のオスの匂いを思わせますし、陽子が青柿を渡そうと列車が動き出す寸前に汗を
かきながらひたすらに隊長を探して車内を駆け回るときに漂う香りは、まだ熟していない
青くて硬い柿の実の匂い、それは陽子の女の部分が熟す寸前のエロスの香りです。
何かが起りそうな夏の夜の小学校でのふたりだけの逢瀬、オルガンを弾き終えた陽子に
突然の愛の告白。嬉しさと悲しみの混じった陽子の涙の何と甘いこと!

細やかで濃密で、読者を陶然とさせる一級の恋愛小説です。
53 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/09(日) 20:57:39

(追 記)

大島弓子さんの「バナナブレッドのプディング」は好きな作品のひとつです。
自分のなかの女という性を忌避するちょっとアブナイ女の子の話で、精神世界、
それも狂気に近い心情を繊細に描いた作品です。

>「週末」の字が2度ほど違ってましたよ(微笑
「終末」となっていますねえ。。。
バタイユやニーチェ関連で、キリスト教は終末思想という影響ゆえ…?

そうそう、「ロング・ロング・アゴウ」で陽子がオルガンで弾いていた曲、発見です。
この曲、なつかしいなあ。。。
この曲の調べに乗せて、中尉は愛の告白をしたのですねえ……。

「久しき昔」 (原題はロング・ロング・アゴウ) 近藤朔風訳詞・イングランド民謡
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/hisashikimukashi.html


――それでは。
54(OTO):2006/04/10(月) 23:17:42
「バナナブレッド」は、イライラの衣良ちゃんだね、懐かしいwwww
確かにアレは狂気に近い、というか現代的な「玻璃病」のかたち
というか、後に「不思議ちゃん」と呼ばれる深い天然性を持った
少女たちの原型とも言えるキャラだったね。
「いちご物語」も好きだったなwww
この作品だと女の子の「不思議さ」はラップランド人という「民族性」
に還元されてたけどな。

白い光の話はおもしろいね。島尾短編は未読だが
二人の話を聞いていると少し色川と似た明晰夢の傾向があったのかな、とも思う。
その夢の描写がうまいという以前に、彼の夢自体がすごくリアルだった、っていう。

関連でおれが思い出すのはフィリップ・K・ディックかな。
彼の場合薬物使用もあったようだが、光視体験をしてから
それを古代キリスト教とかグノーシス派の考えと結びつけ、
独自のオカルティックな思想を組み立てて、
(どこまでまぢかわかんないけどね、彼の場合w)
ヴァリス三部作を書いたよね。

ちょっと不謹慎かもしれないけど、もしそんな体験が
信心深いキリスト教修道僧とかに起こると「顕神体験」と
いうことになるのかも知れないな、と思った。
55(OTO):2006/04/10(月) 23:18:35
こうやって話し合ってると段々狂気の領域が見えてくる感じが
あるね。なんかもうその領域にあまりネガティブなものは感じないなw

おれ昔から精神疾患の症例を読むのが好きで、ビンスワンガーとか
ラカンとか何冊か読んだことあるんだけど(もう内容はほとんど憶えていないw)
症例を読んで面白いのは、その異常な幻覚や妄想が「少しわかるような気がする」
からで、これは2人が島尾の夢作品に惹かれるのとちょっと近いものがあるのかな、
とも思った。

フーコーの「狂気の歴史」も読んでるな。これもほとんど憶えていないww
これ系で面白かったのは中井久夫「最終講義」みすず書房だな。
日本の分裂病治療の第一人者と呼ばれる著者の、神戸大学医学部での
最後の講義をまとめたもので、全体に非常に平易な口語文体で読みやすい。
この本でビックリしたのは本筋じゃないんだけど、著者と一緒に研究していた
中医学(漢方だね)の人の「分裂病の症状の変化と舌の表面の関係」が
こまかな図入りで紹介されていて、そういうのに出会うとなんか
「小説より奇なり」という言葉を思い出すね。雑感失礼。
56 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/12(水) 21:25:30

(OTO)さん

大島弓子さんについて語れるとは、うれしいです♪

>「バナナブレッド」は、イライラの衣良ちゃんだね、懐かしいwwww
直木賞作家・石田衣良さんのペンネームを見て、大島弓子さんのファンなの
かな? と思いましたよ〜。
「いちご物語」、あの不思議少女、わたしも大好きでしたよ。
冒険家の叔父さんへの片恋、いじらしくてせつなかったなあ、、、
狂気に近い精神世界を扱った作品は他に「F式蘭丸」(フロイトしき・らんまる)
があります。(題名にもろ、フロイトが出ている点に注目!)
「よき子」のボーイフレンド「蘭丸」は彼女が窮地に立つと必ず現れますが、
実は「蘭丸」とは彼女がつくりだした妄想の産物なのです。
つまり彼女は「よき子」と「蘭丸」の二役を演じる二重人格に近い少女。
大島弓子は、こうした外界や異性と接触することを極端におびえる少女を
非常にデリケートに、情感ゆたかに描きます。
「アポストロフィーS」の少女の感性の何と繊細なこと!

>白い光の話はおもしろいね。
ありがとうございます!
たまたまNHK教育で吉増剛造氏が柳田国男を語っていたので、興味深く
拝見したのですが吉増氏は「感応」という言葉を繰り返し使っておいででした。
国男少年は感応力が非常にすぐれていた、ということですね。
これは島尾敏雄にも言えますし、またバタイユにも通じるものがあると思います。
ブランショの場合は、感応より理性のほうが勝った明晰な狂気というか。。。


(つづきます)
57 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/12(水) 21:26:12

>関連でおれが思い出すのはフィリップ・K・ディックかな。
某板で、語り合いましたね〜。
映画「ブレードランナー」(「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」)
の原作者ですよね。
(今も忘れられないあの胸に突き刺さるような、悲痛なラスト・シーン…)
ディックの原作で、わたしが他にも観たビデオは、「トータルリコール」かな。

>信心深いキリスト教修道僧とかに起こると「顕神体験」と
>いうことになるのかも知れないな、と思った。
そうですね、ああしたトランス状態はほぼ狂気、狂気の一歩手前に近いものが
あると思いますね。
バタイユの神秘体験も、言葉に現せない狂気に近いトランスに導かれたもの
だったのではないでしょうか。


(つづきます)
58 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/12(水) 21:26:45

>なんかもうその領域にあまりネガティブなものは感じないなw
そうですね。
わたしは狂気には二種類あるのではないかと思います。
ひとつは何かを造り上げていく、「創造的な狂気」。
もうひとつは存在するものを崩壊させてしまう、「破壊的な狂気」。
これらはひとつの狂気のなかに表裏一体となって現存しているのではないか、と。

作家や芸術家たちが創造するにはこうした「創造的な狂気」が必要です。
何かを造りだすという行為は、度外れた《情熱》や途轍もない《忍耐力》が
必要なのですね。
《情熱》という一過性のもの――飽きやすく醒めやすいものをひとつの作品を
仕上げるために、永きに亘って維持しつづけるには、狂気が必要なのです。
また、《忍耐力》についても然り。誰が好き好んで忍耐など歓迎するでしょうか?
誰しも忍耐などしたくないのが本音でしょう。
歓迎されない忍耐を容易にし、可能たらしめるのが狂気の力なのです。

「破壊的な狂気」については、いうまでもありません。
犯罪、殺人、がその最たるものですね。

あらゆる情熱を司っているのは「狂気」が持っているふたつの顔、
――創造と破壊なのですね。


(つづきます)
59 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/12(水) 21:27:23

>ラカンとか何冊か読んだことあるんだけど(もう内容はほとんど憶えていないw)
おおっっ! ラカンをお読みでしたか。
わたしは1年ちょっと前にラカン関連の本を数冊読みましたが、ラカンは
定評通り(?)難解ですね。。。
詳細はもう覚えてないのですが、ラカンの専門用語として今でも覚えているのは、
対象a、大文字の他者A、鏡像段階、現実界、象徴界、想像界、くらいかなあ……。
あと、結局言いたかったことは「フロイトに還れ」と主張したこと。
それと、鮮烈だったのは「人間の欲望は他者の欲望である」という理論。
殺人者の欲望は「私」の欲望でもある……(!?)

>症例を読んで面白いのは、その異常な幻覚や妄想が「少しわかるような気がする」
ああ、わたしもまったく同感ですね。
異常な幻覚や妄想に自分も同化できてしまいそうな感覚。
これは、まさに「人間の欲望は他者の欲望である」というラカン理論そのもの。
精神病者の欲望は「私」の欲望でもある、ということなのですよね。
う〜ん、ラカン、恐るべし!


(つづきます)
60 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/12(水) 21:28:00

>雑感失礼。
いえいえ、大歓迎です!
ここは、読書感想の発表の場のみに留まらず、読了した本のテーマや、
そこから端を発していろいろな領域を自由に語るスレです。
感想文だけなら一方的な報告になってしまいますが、記されたものについて
思ったことや考えたことなどを自由に語り合う「対話」を大切にするスレです。
一冊の本を読了するにはかなり時間がかかりますし、また読了後の感想を
書くにもそれなりの時間を要しますよね。
それだけではこのスレは滞ってしまいますから……。

ここは「各駅停車の旅列車」であり、ひとつの駅で何時間停車(時間は無期限)
してもいいですし、また、途中下車して見知らぬ町を自由に歩くことも推奨します。
通過してしまえば見えなかったものが、その駅に降り立つことで見えてくることが
あるからです。
途中下車、大歓迎ですよ♪


――それでは。
61 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/12(水) 21:35:12

(追 記)

――今なら、私は人生ですばらしいのは狂気≠セとはっきり言えます。
もちろん狂気にもさまざまありましょう。
お金持ちの商人の家に生まれながら、その身分を捨てて、乞食坊主のような
生涯を送った聖フランシスコのような狂気は最高のものです。

しかし、それほどのことはなくても、マツムシ草を育てるのに夢中になったり、
ぼろつぎの芸術だと言われながらパッチワークでこの次にはどういう作品を
作ろうかと考えるだけで、長生きしたいと思う、というような人に、私はどうしても
親しみを感じてしまうのです――

――『この悲しみの世に』・曽野綾子――
62SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/13(木) 23:24:47
島尾敏雄から始まって、バタイユ、ブランショ、
F・K・ディックにゴダール、ラカン、フーコー、
吉増剛造、柳田国男、曽野綾子、そして大島弓子。
ラカンは食わず嫌いでまともには読んでないのですが、
それにしても非常に豪華かつバラエティに富んだ顔ぶれ。
しかし、「バナナブレッドのプディング」を読んでるとは!
大島弓子で私が唯一読んだマンガでありました。

>段々狂気の領域が見えてくる感じがあるね。
というOTO氏に同感で、
>信心深いキリスト教修道僧とかに起こると「顕神体験」と
>いうことになるのかも知れないな、と思った。
という点もまた。
狂者と聖者の接点は意外に多いかもしれない。
63SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/13(木) 23:26:23
>>49-53でのCucさんの「夢の中での日常」「孤島夢」について文を読んで、
ああやはり島尾には独特の病的なまでの身体感覚があるのだなあと納得。
「子之吉の舌」なんかもまさにそうで、読者も身体で読んでしまう。

そこに感じられるのは神経症的ともいえる敏感さなのですが、
そうした感覚を島尾がリアルに言葉で表現できたのには
>冷静に観察する眼を日記をつけることで会得していったのでしょう。
という視点は深く急所をついていると思いますし、

>>54でOTO氏が色川を引き合いにして書いているように、
>その夢の描写がうまいという以前に、彼の夢自体がすごくリアルだった、
というのも頷ける鋭い示唆ですね。

ごく簡単な書き込みですが、また。  〆
64 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/16(日) 20:57:43

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>それにしても非常に豪華かつバラエティに富んだ顔ぶれ。
そうですね〜。
日本文学、フランス文学、SF、映画、少女漫画、心理学、民俗学、etc…。
さながらクロード・シモンの小説のように、ひとつの文章が発端となり枝分かれし、
奔放な想像力によって時空を超えさまざまな記憶を呼び起こし、いろいろな分野へ
自在に飛翔する、そんなスレでありたいと願います。
ですから、どような「雑感」も「簡単な書き込み」も大いに歓迎いたします。
気負いすぎてしまうと書くことが苦痛になり、楽しさから遠のいてしまいまかすら……。

>大島弓子で私が唯一読んだマンガでありました。
大島弓子さんの漫画は、尾崎翠の世界観を繊細な絵柄と特異なキャラクターで
そのまま現した世界、という印象ですね。


(つづきます)
65 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/16(日) 20:58:27

>ああやはり島尾には独特の病的なまでの身体感覚があるのだなあと納得。
そうですね。
「勾配のあるラビリンス」は題名に夢はついていませんが、夢作品のひとつと
いえると思います。
「私」は夏の夕方、公園を散歩したりあてもなく街中をぶらつくのが好きな男。
汗かきなので風通しのいい羽二重のカッター・シャツを着ている。
その日の夕方はことに蒸し暑く、散歩に出たものの汗がだらだら出て止まらず、
シャツに染み出て、べたついて気持ち悪くて仕方ない。
ひっそりと静まり返った公園には誰もおらず、不気味さが漂う……。
街角で不良に囲まれそうになり、汗をかきながらひたすら逃げる。
あちこちの店を探したがその日に限ってどこも閉まっており、ようやく一軒の
かき氷屋に入りアイスクリームを食べるが、そのあまりのキンキンした冷えぶりに
舌も歯もガチガチになる。。。

べたついて気持ち悪い《汗》という生理現象、《歯》が凍りそうな冷えすぎた
アイスクリーム。
読んでいるわたしたちもいつしか島尾敏雄の世界に入り込み、べとつく《汗》の
匂いや不快感、凍りすぎたアイスクリームに歯が染みてしびれるような《痛み》を
リアルに追体験するのですね。


(つづきます)
66 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/16(日) 20:58:59

以下は、「唐草」の感想についての補足です。

子供の頃から腺病質で、臆病で、学校でも教師や級友たちとはなかなか
打ち解けられないトシオ少年。
唯一の楽しみは物置のような屋根部屋で午後の日差しのなかで
好きな探偵小説を読むこと。
永井荷風もそうでしたが、病弱で内気な本好きの少年というのは
それだけでもう作家の資質を備えているような気がしますね。

ちなみに題名の「唐草」とは、図案化した蔦の模様。蔦花文様、蔦蔓文様、
アラベスクなどとも呼ばれるものです。
複数の曲線や渦巻き模様を組み合わせることで、つるが絡み合う様子を
表します。

唐草模様についてはこちらをご参照↓ 
「唐草図鑑」の黄色い文字の上をクリックしてください。模様が現れます。
http://bymn.pro.tok2.com/karakusa/index.html


(つづきます)
67 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/16(日) 20:59:30

病弱であった島尾敏雄の持病が引き起こす眩暈によってもたらされる「眼華」とは、
この「唐草」模様の美しい渦巻きをいうのですね。
ぐるぐると真っ白な渦が幾重にも絡み合い、その渦は幻視でしか見られない
幻の華のような美しさであったのでしょう。
「唐草」=「眼華」が始まった瞬間に、彼は白昼夢の世界の住人になるので
すね? そして、その世界から紡ぎだされる島尾敏雄独自の作品。
わたしたちも彼の「眼華」の世界に引き込まれ、追体験をします。
それは何と幸福なひとときでしょう!

島尾敏雄の「眼華」と、色川武大の「光の箔」、柳田国男の「真っ白な光」を
読み比べてみるのも面白いですね。

――不意に頭上の青空に本当に空いっぱいに大きく大きく、何かが現れた。
空より少し濃い蒼、それから「銀色」、「陽の輝きのような光」。
「大きい大きい光の箔」――(色川武大・「狂人日記」/前スレ >367参照)

――祠のなかにある玉石を取り出し掌に乗せたのです。
その瞬間、幾十もの星が舞い、辺りが「真っ白な光」で包まれ恍惚状態に
なった、といいます――(柳田国男少年の体験 >>17参照)


(つづきます)
68 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/16(日) 21:00:07

>「子之吉の舌」なんかもまさにそうで、読者も身体で読んでしまう。
「子之吉の舌」は未読ですので、これから順次に読む全集が楽しみですね。
題名に《舌》が入っていますね! ということは、味覚に関する夢……?

>そこに感じられるのは神経症的ともいえる敏感さなのですが、
島尾敏雄は自身の神経症的な資質や夢を作品に生かすのが上手いですね。
彼にとって夢とは睡眠中に飛翔する別世界の現象のみに留まらず、
作品をつくる上でなくてはならないものでありました。
彼は本気で夢に対峙した人であり、夢を記憶することに秀でた人であり、
夢をリアルに具現する達人であり、夢を情熱をもって克明に記せる人であり、
夢の世界を作品上で真剣に語れる人でした。
彼は夢を無意識のうちの願望や、たんなる逃避の手段にはしなかった。
なぜ、そんなにも執拗に夢にこだわったのでしょう?
やはり、子供の頃体験した「眼華」の陶酔感を大人になってからも忘れられず、
甘美な世界にその後もずっととらわれつづけたからではないでしょうか?

島尾敏雄を作家たらしめている理由のひとつに彼固有の体験「眼華」があり
ますが、彼は「眼華」に呑まれ放しにはなりませんでした。
そうした特異な感覚体験を理知の眼でとらえ、冷静な筆致で書き綴れる理性を
持ち合わせていたことが挙げられるのではないかと思います。


――それでは。
69 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/19(水) 21:17:21

「幼年期」(島尾敏雄/著 弓立社 1973.01)読了しました。
とは言っても、巻末の研究論文は未読のまま返却です。。。

尋常小学校時代のものから、学生であった二十代の頃の紀行文、日記、詩、
そして、戦中のミホさんとの復書簡まで、実に彩りのゆたかな作品群ですね。

ここに所収されているなかで、まだ習作の域を出ていないものも幾多ありますが、
作家・島尾敏雄のこころの軌跡や、書くことに少しずつ目が開かれてゆく過程は
読んでいて、大変初々しくまた瑞々しいものを感じます。
まだ、不特定多数の読者の目を意識しておらず、こころのままに、思いのままに
伸び伸びと綴ったであろうトシオ少年の綴り方は読んでいてほほ笑ましいですね。
十代初めまでは、書くこと、表現することのあふれるような喜びが素直に綴られて
おり、十代半ばから後半までは、覚えたての単語、言葉を使うことの充足感を
味わい、また、内面の描写にも少しずつ筆が及んでいきます。
トシオ少年の多感なこころは詩作にも挑戦させたようですね。

父のこと、母のこと、ともだちのこと、学校のこと、身近な人たちを幼い眼で見て
綴るのは最初は楽しかったでしょう。
遠足にいきました、たのしかったです、などの出来事のみの描写のうちは。
けれども、最初はただスケッチすればいいだけに留まっていても、ともだちに対する
劣等感や、対抗意識、父母への不服など、抑えきれない負の感情をどうしても
書かずにはいられなくなる日がやって来ます。


(つづきます)
70 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/19(水) 21:18:04

それは、日記のなかで綴られ、また、習作のなかでも少しずつ綴られていきます。
「日曜学校」の自身の自己顕示欲と同じ教会に通う友達に対する劣等感と対抗意識。
牧師に抱いていた尊敬と憧憬がある日を境に失望へと変わる瞬間。
日頃からあれほど熱心に心酔していたキリスト教の欺瞞を感じとってしまった日。
友達は何の努力もしてないのに、自分より優遇され慕われている現実を
目の当たりにした瞬間の、自分のなかによぎる嫉妬と憎悪というどす黒い感情に
向き合わねばならなかった日。

けれども、トシオ少年はそんな自分を救う方法を見つけたのです。
それは《ユーモア》でした。
卑小な自分を客観視し「あれ? これってよく考えると滑稽なんだよなあ、、、」と
おどけて書くことの術を独習したのでした。
そして、《ユーモア》とは危機的な状況において、人間の感情が暴走し、爆発しない
ように堰き止めるひとつの防波堤であることに気づいたのです。
一例を挙げるならば、あの壮絶な「死の棘」のなかで、ミホの狂乱があくびひとつで
収まってしまう顛末、帰郷しふたりで真剣に死のうとするいきさつの可笑しみと
滑稽さをつけ加えることを決して忘れないサービス精神にも似た筆致。
島尾敏雄の凄さはここからくるのかもしれません。。。


(つづきます)
71 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/19(水) 21:18:46

ついでながらもうひとつ例を挙げるならば、「ロング・ロング・アゴウ」のラスト、
特攻隊長は悲劇的な状況のなかで陽子に愛の告白をします。
ふたりが互いの愛を確認しあった直後、隊長は部隊での訓練時にもそうだった
ように、緊張したあと尿意を覚え、陽子から少し離れた場所で放尿します。
この場面の見事な外し方はどうでしょう!
明日の命がない特攻隊長が島の娘に愛を告白し、悲恋小説の最高潮を迎えた
瞬間の放尿シーン。。。
読者は悲恋の甘やかな陶酔からいきなり現実に引き戻されるのです。

陽子はただただ悲しくて木にもたれて泣いているのですが、そのすぐ隣で先刻、
愛の告白をしたばかりの隊長が勢いよく音を立てて放尿しているとなると、
読者は悲劇に浸るどころではなく、切実ではあっても思わず笑ってしまうのです。
実はその笑いが悲劇的状況を救ってもいるのですが、、、

恋愛小説、しかもクライマックスともいえる愛の告白シーンにこのようなリアリティを
持ち込んでも許される作家、それが島尾敏雄です。
過酷な現実と悲惨な状況のさなかにありながら、どこか飄々としていて、
空気を淀ませない、いつでも風穴を開ける突き抜けた精神がもたらす《ユーモア》。
これこそが、作家・島尾敏雄の真髄であり、他に類を見ない凄さかもしれません。。。


(以下、抜粋した作品の簡単な感想です)
72 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/19(水) 21:19:16

「日曜学校」
「僕」が通う日曜学校での体験が、子供なりの人間観察をとおした眼で描かれます。
牧師の説教を熱心に聴き、イエスに命すら捧げてもいいほどキリスト教に心酔して
いる「僕」。教会に通うもうひとりの少年は「僕」のライバル。良家の少女たちを
ふたりして争うも、負けてしまいます。名誉挽回として臨んだ街角での伝道も
牧師への不信と、自分のしていることは偽善であり、みじめで恥ずかしいだけの結果
に終わります。
信じていた世界がある日を境に揺らぎはじめ、崩壊していく課程を「僕」のこころの
葛藤やキリストの教えの欺瞞を織り込んで描いた作品。

後年、島尾敏雄はカトリックの洗礼を受けますが、かつて教会に通っていた日々を
渦中で思い出したのでしょうか。
「詩の棘」「詩の棘日記」では、彼ら夫妻が洗礼を受けるいきさつについては
ほとんど触れられていませんね……。
妻ミホの狂乱はもはや自分の力や医学ではどうにもならない、救済されるには宗教
にすがるより方法がない、そうした切迫した心情が日記には見当たらないのです。

心身ともに成長していく青春の日々において、彼が夢中になったのは文学であり、
また、戦争下では異国の宗教が禁じられていました。
キリストの教えに心酔していたのは遥か遠い遠い昔のこと。記憶の彼方のこと。
戦争が終わり、平凡な家庭を持ちながら、妻のほかによそに女をこしらえ、結果として
妻が狂い、窮地に追いつめられ、幼い頃通った教会がふいに脳裡をよぎり、郷愁にも
似た想いを寄せたのでしょうか?
……人は苦しくなると、昔日をなつかしく想い、恋うものですね。
島尾敏雄もまた、例外ではありませんでした。


(つづきます)
73 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/19(水) 21:20:02

「浜辺路」
学生の僕こと倫介と友人の久弥のふたり旅。
道中、互いに即興でお話しをつくりますが、倫介より久弥のほうがお話しづくりに
秀でていることに劣等感を抱きます。久弥は何事も率先してやらず、倫介だけが
いつも損な役割。そんな久弥に不服を抱きながらも、面と向かって何もいえない
気弱な倫介。
島尾敏雄は同人誌時代も、仲間に溶け込めずいつも違和感を抱いていたよう
ですが、創作する際の劣等感と疎外感はこの頃から芽生えていたようですね。。。
「気弱」で「優しい」性格の島尾隊長ならではの、旅のエピソードです。

「戦中往復書簡」
島尾隊長とミホさんとの愛の往復書簡、恋文です。
間近に死が確実に迫りつつある日々のなかで、何とふたりは甘く、やさしく
愛の言葉を交していることでしょう。
島尾隊長がミホさんに惹かれたのは、ミホさんのこころが清らかできれいだった
からですね。島で育ったミホさんは都会の塵芥や喧騒を知らず、また、都会の娘
たちにありがちな見栄や気取りもない。
素直なこころと素朴なやさしさを持ち合わせた、野の花のような生まれ放しの
女性だったのですね。
「ミホ、コワイコワイのです」の文面がとても可愛らしいなあ、と思いました。
島尾隊長が七夕に綴った愛の手紙は、読んでいて頬がゆるみますね。


――それでは。

(追 記)
SXYさんが「幼年期」を読了されていらっしゃらない場合は、特に返レスを
求めるものではありませんので、どうぞ、読み放しにしてくださいね。
74SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/20(木) 23:54:25
>>67
「唐草」=「眼華」説についての書き込みと
島尾、色川、柳田を横断する「光」についての文章は、
うーん、非常に示唆的かつ濃厚で面白く読みました。
目の中でガラスが砕けるというブランショの狂気も関係あるかな?

>題名に《舌》が入っていますね! ということは、味覚に関する夢……?
「子之吉の舌」は味覚ではなく、もっと外科的というか内臓的というか、
他の島尾作品同様に視覚的かつ触覚的なイメージですね。
ちょっと、いや、かなりブキミですよ。
75SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/20(木) 23:56:50
>>68
>彼は夢を無意識のうちの願望や、たんなる逃避の手段にはしなかった。
>なぜ、そんなにも執拗に夢にこだわったのでしょう?
これについては、Cucさんがいうように、やはり島尾の執着心には
《子供の頃体験した「眼華」の陶酔感》があるのでしょうね。

島尾の日記には生活をつづったもののほかに夢をつづったものがあり、
前者には『死の棘日記』などが、後者には『夢日記』があります。
島尾の作品化には「日記」→(創作)→「小説」という流れがありますが、
『夢日記』は途中の(創作)をすっとばしてそのまま作品化したものですね。
また、夢の断片をスナップショット風に作品化した『硝子障子のシルエット』、
こちらは掌篇集と命名されていますが、これもユニークな本です。
晩年には「夢屑」というタイトルの短篇も書いていて(美しいタイトル!)、
生涯夢を手放すことのなかった作家だと改めて思います。
76SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/21(金) 00:18:12
>>69-73の『幼年記』についてですが、
当方も少し前に同じ弓立社で読み、短篇すべてと往復書簡は読了しましたよ。
トシオとミホの往復書簡にはやはり胸が打たれます。
ここで読むことができるミホは『海辺の生と死』を書いた人であり、
あの狂気に足を踏み入れつつ夫を苛む妻の姿ではないですね。
>「ミホ、コワイコワイのです」の文面がとても可愛らしいなあ、と思いました。
まったく同感です!  隊長と先生の体温が伝わってくる感じです。

>ここに所収されているなかで、まだ習作の域を出ていないものも幾多ありますが、
>作家・島尾敏雄のこころの軌跡や、書くことに少しずつ目が開かれてゆく過程は
>読んでいて、大変初々しくまた瑞々しいものを感じます。
もちろん島尾が『幼年記』だけを書き残して戦死していたら、
身近な人以外は誰も注意を払うことはなかったでしょうね。
習作集という位置づけが妥当なことには変わりないでしょうが、
それでも時折「島尾作品の萌芽」が感じられる言葉に行き当たりました。
(ほんの2頁ほどの「階段をころげ落ちた事」なんかの心理描写など) 〆
77 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/23(日) 11:58:46

SXY ◆uyLlZvjSXY さん

早速のレス、ありがとうございます!

>目の中でガラスが砕けるというブランショの狂気も関係あるかな?
これはブランショの『白日の狂気』ですね!

――これは死だ。白日の狂気を直視しているのだと確信した。
光は狂ったようになり、明るさはいっさいの良識を失っていた――
――(p20)『白日の狂気』より抜粋

…誰かがいきなり私にガラスをぶつけてきた。目の中でガラスが砕け云々、、、
うろ覚えですが、確かこのような一節がありました。
おそらくは、当時の言論、思想の弾圧に対する比喩だとは思いますが、
それにしても、目の中でガラスが砕け散るという描写には驚きました。
こちらも読んでいるそばから目が痛くなり、失明の恐怖におびえましたね。。。
『白日の狂気』の感想(というよりもレポート?)は保存してあります。
いつか、スレの間隔があいたときにupしますね。

>「子之吉の舌」は味覚ではなく、もっと外科的というか内臓的というか、
>ブキミな感じですか。
幻想小説に近いのかな? 全集5に所収されているようですね。


(つづきます)
78 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/23(日) 12:00:41

『夢日記』、「夢屑」、『硝子障子のシルエット』、、、
ほんとうにタイトルに「夢」がつく作品が多いですね。

島尾敏雄にとって創作のカギを握るのは《夢》であり、《日記》であったのですね。
このふたつは切り離せない関係にあり、夢や日記の内容がどんなに壮絶であり、
また不気味であろうと、彼にとっては書かずにはいられない切実なものであり
ました。
《夢》をつづり《日記》をつづることは、彼にとってはそのまま生きることにつながる
行為だったのでしょう。

「死の棘」に描かれた愛人騒動も、創作する上で渇望したであろうリベラルな
恋愛と、家庭をひとたび持ってしまったがゆえの安定からくる情熱の欠如を
作家として再び求めた結果なのでしょう。良い悪いは別にして。。。
画家が一日たりとも絵筆を持たずにはいられないように、歌手が歌わずには
いられないように、島尾敏雄も作家として夢や日記を書かずにはいられない人
でした。
彼もまた、文学に魅入られたひとりであったのでしょう……。

多大な犠牲を払って書かれた「死の棘」は、日記は淡々とつづられているのに
ひとたび創作という色合いを帯びた途端、俄然濃厚な色彩を纏い、読むものを
いきなり作品世界に引き込むのはなぜでしょう?
わたしはそこに、島尾敏雄という作家の創作の筆力と悪魔に魂を売ってでも
書きとおす覚悟のようなものをみるのです。
狂奔する妻と一緒の入院、すべてを捨てて奄美への移住といい、腹の据わり方が
半端ではないのですね。


(つづきます)
79 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/23(日) 12:02:05

>ここで読むことができるミホは『海辺の生と死』を書いた人であり、
>あの狂気に足を踏み入れつつ夫を苛む妻の姿ではないですね。
そうですね。
素直で純朴、愛を疑うことさえもまだ知らない無垢なひとりの女性の姿です。
恋愛の成就の結果としての結婚、安泰は倦怠を生み、家庭生活に亀裂を
もたらしました。

>それでも時折「島尾作品の萌芽」が感じられる言葉に行き当たりました。
>(ほんの2頁ほどの「階段をころげ落ちた事」なんかの心理描写など)
非常に短い作品ですよね。
「階段をころげ落ちた事」には、確か母親が出てきたような…?

島尾敏雄の心理描写には独特のものがありますね。
観念的な語彙のみで綴られるのではなく、先にご指摘のように必ず身体の
一部分もしくは一器官が出てきます。
子供の頃からずっと胃弱に悩まされ、クラスの皆と比べると貧弱で見劣りする
自分の未発達の身体に対する羞恥心と劣等感。
夢や心理描写に身体にこだわる表現が多いのもこうした根深い劣等意識が
起因しているのかもしれませんね。。。


――それでは。

(今宵、「ドルチェ−優しく」をup予定です)
80SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/23(日) 17:31:03
>>77
『白日の狂気』の感想あるいはレポートぜひ今度upしてください。
当方も再読して何か書いてみたいと思ってます。

「子之吉の舌」は幻想小説に近いですね。
国書刊行会から出てる全33巻の日本幻想文学集成には
種村季弘が編んだ島尾敏雄の幻想小説アンソロジーがあり、
「子之吉の舌」も収載されているのですが、
当方はこれから島尾文学に入りました。

種村季弘には「夢の舌」という島尾論もあり(同題の本所収)。
81SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/23(日) 17:35:18
>>78
>ほんとうにタイトルに「夢」がつく作品が多いですね。
島尾の「夢」ものについては、種村編アンソロジーのあと、
中央大学出版部から上梓された『夢の系列』を手に取りました。
そのあとは選集や全集を図書館から借りてきて読み漁り、
この間読んだ『幼年記』で単行本化された島尾の小説は
おそらくすべて読んだことになると思います。
一人の作家の小説をすべて読むというのは
当方にとって非常に珍しいことでありました。

>日記は淡々とつづられているのにひとたび創作という色合いを帯びた途端、
>俄然濃厚な色彩を纏い、読むものをいきなり作品世界に引き込むのはなぜでしょう?
「死の棘日記」が刊行されたとき、びっくりしてしまいました。
日記魔であるとはいえ、あの死の棘時代によくもまあ日記をつけることができたなあと。
Cucさんがいうように「悪魔に魂を売ってでも書きとおす覚悟のようなもの」が、
たしかにそこには感じられ、そのタフな作家的精神力に脱帽です。
82SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/23(日) 17:49:46
>>79
>「階段をころげ落ちた事」には、確か母親が出てきたような…?
そうですそうです。
母親にかまってもらいたい一心で2階から降りようとあせった少年が
気づいたら階段から転げ落ちていたというただそれだけの小品ですが、
その少年の心理描写がなかなか面白いなあと思いました。
文章はその少年の視点で書かれているわけですが、その少年自身に、
幽体離脱的に自分を客観視しているような視点も併せ持たせていて、
ああこれはもしかして横光利一のいう《四人称》に近いかな、
という気もしたのですが、それより何より、こういう感覚は、
我々が見る夢の中でよく見知っているものですね。

そういえば、トシオがミホに横光の本を借りるという場面が
『幼年記』所収の往復書簡でありましたね。
また、横光利一がいう「自分を見る自分」という《四人称》は、
「純粋小説論」のなかで打ち出したユニークな概念ですが、
ジッドの影響が濃厚で、メタフィクション的視点ともいえますが、
横光自身も《四人称》という言葉を把握しきれてなかったきらいがあります。

追伸 「ドルチェ−優しく」upも楽しみにしています。  〆
83 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/23(日) 20:15:55

SXY ◆uyLlZvjSXY さん

レス、ありがとうございます!
速いですねえ〜〜! !

>『白日の狂気』の感想あるいはレポートぜひ今度upしてください。
了解しました!
こちらのほうは近日中にupします。

>>80-82につきましては、後日、ゆっくりと返レスいたしますね。
84 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/23(日) 20:16:54

「ドルチェー優しく」の感想です。

ソクーロフ監督、吉増剛造、島尾ミホ氏の三人による対談、映画の撮影ノート、
そして、シナリオが所収されています。

ソクーロフ監督の日本に対する想い、島尾ミホさんに注がれるまなざしの
何とあたたかくやわらかいことでしょう!
また、詩人吉増剛造氏のソクーロフ監督に対する限りない敬意と、憧憬が
対談のなかで話される言葉ひとつひとつにあふれんばかりです。

島尾ミホさんの挿話としての創作も大変面白く読みました。
ご先祖様を迎える儀式に用意するものや、ご馳走をミホさんの母上が
まだ子供のミホさんに教えながらこしらえる。
ご先祖様の「骨洗い」という儀式、初めて知りました。
日本古来からの伝承はこうして語り継がれ、受け継がれてきたのですね。
(柳田国男の「遠野物語」の語り部も同様です…)

ソクーロフ監督はこうした奄美地方の伝承、伝統に非常に興味を示します。
ミホさんのなかに息づき、根づいている島国の文化、また、異国の宗教である
キリスト教がどのようにとらえられているのか。
キリスト教についてのミホさんの見解は非常に口数が少なく、謙虚であり、
どのようなものなのか、わたしたちはその全貌は伺い知ることはできません。
これについては、島尾敏雄のキリスト教に関する見解に関しても同様に、
詳しくは知らされないのです。


(つづきます)
85 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/23(日) 20:17:33

ソクーロフ監督がミホさんに望んだことは、島尾ミホを演じることでした。
島尾敏雄の作品群、「島の果て」「ロング・ロング・アゴウ」「死の棘」などで
描かれているミホさんではなく、また、島尾敏雄夫人としてでもなく、ミホさんが
本来の自分を取り戻し、見つけ出した時点で世界に向けて自らを発信し、
世界とつながっていく過程を描きたかったのではないでしょうか。

子供の頃の母との死別に始まり、島尾敏雄との出逢い、結婚、懊悩と狂乱、帰郷、
生まれ育った奄美の自然のなかで、どのように癒されていったのか、
また、苦しみぬいた日々とどのようにして折り合いをつけ、夫をいかにして
赦し和解し得たのか、、、
こうした内奥を、限られた場面のなかで表現すること。
映画「死の棘」は決められたセリフもあり、映画らしい映画にするために
他者になりきり演技をすればいいけれども、ソクーロフ監督が望んだことは
他者になりきるのではなく、自分を演じ、自分になりきることでした。
これは、かなり難しい……。人は自分のことは自分が一番知らないのですから。

そこで初めてミホさんは自分の内面と向き合わざるを得なくなる。。。
慎ましく控えめである自分、夫の浮気に狂乱した自分、奄美の風習を大切にし
ご先祖様を「骨洗い」してお守りする一方で、カトリック信者の教えを守る自分、
口の聞けないマヤさんを案じつつも、どこかで頼っている自分、、、


(つづきます)
86 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/23(日) 20:18:09

ミホさんは自分に、あるいは世界に向かって語りかける。繰り返し何度も。
そして、ようやく自分と世界がつながる道を見つけます。
その道とは気づきではないでしょうか……?
眼に見えぬもの、手に触れられずに漂っているもの、声もかたちもないもの、
けれども、気配として確かに存在するもの。そうしたものに気づくこと。
それが自分を演ずることにつながります。そこで初めて創造の道は開かれる。

対談のなかで、ミホさんは巫女としての要素を持った女性であると知りました。
巫女とは神の言葉を聴き伝える者、そのためには「自分」があってはならないの
ですね。自我を解放し、無にしなければ神の言葉は聴くことができないのです。
そんなミホさんに、ソクーロフ監督は「自分を取り戻し演じること」を要求したのでした。
ミホさんは悩み、迷い、考えます。
「自分とは何か?」「わたしはどんな人間であるのか?」
「わたしは自分を見い出し、見つけることができるのだろうか?」
これは、哲学的な問いです。
「そもそも、確固たる自分とは最初から存在するのだろうか?」
自分の根源をミホさんは問いつづけます。
おそらく、明確な答えはでないでしょう。
それでいいのだと思います。


(つづきます)
87 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/23(日) 20:18:51

ソクーロフ監督は答えを見つけるために、この映画を撮ったのではなく、
ミホさんが自分を見い出していく、その過程をこそ撮りたかったのですから。。。
「ドルチェー優しく」――手をとり足をとり導くのもひとつの優しさなら、その人が
懊悩しながらも手探りで答えを見つけていこうとする姿を遠くから見守ってやる
こともまたひとつの優しさなのですね。

――「これを書き残しておかなければ。ただ自分自身のためにね」
これはこの作品の中でとっても重要なことなんです。
なぜかと言うと、これこそ創造の第一歩の作品の始まり、多くの人のために
作品を作るというのは、あまりにも傲慢です。そうじゃない。
最初はやっぱり自分のためなんです。自分のために書いたものこそ、きっと
他の人たちが読みたくなるんです――(p48)

ソクーロフ監督が創造について語った言葉です。
だから、ミホさんは自分のために書き、自分のために島尾ミホを演じることが
ミホさんの創造の始まりであり、ひいては観客たちも見たくなるのですね。


(つづきます)
88 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/23(日) 20:24:45

吉増剛造氏が繰り返しチェホフの言葉を引用されていましたね。

――白樺の若木を自分で植えつけて、それがやがて青々と繁って、風に
揺られているのを見ると、ぼくの胸は思わずふくらむのだ――(p163)

ある種の自己満足、自己陶酔ともとられかねない語句ですが、小説というものは
元来そういうものだと思います。
うろ覚えなのですが、小林秀雄はこのように言っていたような記憶が……。
「小説とは自分の庭で丹精込めて美しく咲かせた花を、道ゆく人、つまり、読者に
無償で披露することだ」

チェホフも小林秀雄も、何よりも大切なことは先ず苗を植え、丹精込めて育てることだ
と言っていますね。


――それでは。
89(OTO):2006/04/25(火) 14:18:16
なんか空前の島尾ブームだね、ここ的にはw
ふたりの島尾の読みはROMするしかないが、とてもおもしろい。

ドルチェDVD買って、観たよ。
またショックうけたwwなんて監督だ、ソクーロフ。
んでまた映画中心で。

90(OTO):2006/04/25(火) 14:20:43
実際の島尾ミホを見てみたい、という好奇心は
あまり褒められたたぐいのものではないのかも知れないが、
小説「死の棘」を読み、あるいは映画を見た者は誰しも思うことでは
無いだろうか。私が「ドルチェ─優しく」の存在を知ったとき、
まず抱いたのはこの好奇心である。

映画「DOLCE(ドルチェ─優しく)」1999年アレクサンドル・ソクーロフ監督。
63分という短さ、ビデオ作品であること、そして先述の好奇心に煽られていたせいもあり、
この作品を観るにあたり、私はかなり油断していたことを認めなくてはならない。
そして、先日同監督の「日陽はしづかに発酵し…」を観たときに勝るとも劣らない
衝撃を受けることになる。

この映画は手放しに人に薦められるものでは無い。疲れているときはやめた方がいいだろう。
気持ちに余裕があるときに出来るだけ先入観を捨てて挑むべき「硬派」な作品だ。

私が受けたこのショックは何に由来するのか。
前スレでもソクーロフ作品を語る難しさは実感してはいたが、
この作品ではそれとは別に、やはり島尾ミホという存在の強烈な個性。
そしてひょっとするとそれを上回る島尾マヤの絶対的な存在感が、
観賞後強く私を支配し、現在もそれは続いている。

ミホ「10歳のときマヤは病気をして、言葉を失った。」
              ─「ドルチェ─優しく」採録台本

91(OTO):2006/04/25(火) 14:21:36
自宅階段下からミホに呼ばれ、少し不自由な脚をかばうように
ゆっくりと階段を下り、フレームに入ってくるマヤ。カメラは遠目の俯瞰で二人を見つめ続ける。
マヤの10代前半にしか見えない姿、服の着こなし。顔は見えない。
語りかけるミホをそっと抱きしめ、髪をなでられると、ミホの髪をそっとなで返す。
それは言葉を聞く、というよりもその言葉を発する以前の、ミホのマヤに対する
気持ちを感じ、それに応えているように見える。
言葉を憶える前のすべての子供が、その母親と交流する時のように。
違うのはそれが「幼稚」ではないという点である。
そう、二人はこの時すでに49年の時をともに過ごしてきているのだ。

その後、長いミホの独白のシーンに、物陰から見つめるマヤの表情がインサートされる。
言葉にならぬ深い感情の移り変わりを、そのまま浮かび上がらせる顔。
それを「障害」と呼ぶのは間違いだろう。
また、それを「動物的」と表現するにしても、それは飽くまで、それを失ってしまっている
我々「観る者」に対する全面的な批判として、である。

ミホ「あなたはいつも助けてくれる。ありがとう!
   私にはたくさんの欠点があるけど、許してね。
   あなたの心はとても温かい」

このセリフを聴いたとき、私にとって島尾マヤは、重い障害を負った女性ではなく、
17代続いた奄美の巫女の家系、その血がめざす方向の、ひとつの純粋な結晶として輝いた、
と言える。

そして島尾マヤ、2002年8月3日、腹膜炎のため死去。合掌。
92(OTO):2006/04/25(火) 14:23:01
この映画は絵も素晴らしい。さすがソクーロフ、徹底的である。
古い山水画と見まごうばかりのタイトルバック。これは大島紬だろう。
嵐の森を真正面からとらえたショット。
室内のミホが少し窓を開けるとそこからゆっくりと忍び込み、壁を伝い、近景まで漂ってくる「靄」など、
日本人カメラマン大津幸四郎の職人技にも何度となく驚かされた。

「ドルチェ─優しく」A.ソクーロフ、島尾ミホ、吉増剛造著、小島宏子訳、2001年岩波書店。
映画では吉増剛造のシーンは惜しくもカットされてしまったようだが、
本のほうは「光の扉」という象徴的なタイトルの、彼の序詩から始まる。
これはこの時期の「吉増剛造的紙面」の完成形といえる。
タイトル・本文・傍注という3つの文字の大きさと、巧みな行換えを駆使した
ビジュアルとしての紙面。しかし、この本のサイズは「吉増剛造的紙面」を展開するには
いささか小さすぎる感があるのは否めない。吉増の詩集はだてにでかいわけではないのだ。

未だに吉増剛造については「系統的な読み」を提示することは出来ないが、
それが出来ないことこそ、彼にとっての「詩」のひとつの要素なのだろうと思い始めている。
(つごういいねw)
断片的な事を少しとりあげると、この時期彼が頻繁に使う言い回しがひとつある。
「○○だったのかも知れなかった」
これはこの時期の彼のリズムを現す好例かも知れない。

○○だった  のかも  知れなかっ  た

恣意的にゆっくりと小さな迂路を周り、着地するといった印象を与えるこの言い回しは
読む者のリズムを制御する。このリズムがこの時期の吉増剛造の基本リズムだ。

吉増が読む者を彼の詩空間に引き込む(詩的トランスを発動する)方法は
多分にこの「リズム」に負っていると思われる。改行、空行、句点、その後の一語。
その一語が読む者の眼に触れ、様々な意味、音の波紋が広がっていく時間。
「吉増剛造的紙面」の各所に現れる「空き」、それが彼の用意してくれた時間であり、
彼の詩空間への入り口であることは確かだろう。(少々つきなみかなw)
93(OTO):2006/04/25(火) 14:23:45
この本の他の部分についてはCucの感想を読むだけにしたいな。
84〜88はとても落ち着いたCucらしいきれいな文章だ。異論無いし、
島尾周辺いっぱい読んでるから、勉強になるねw
>>86
>対談のなかで、ミホさんは巫女としての要素を持った女性であると知りました。

もうこれはちょっと読んだだけで明らかだよねw
ミホが書いた文章を読んでもまさにそう。
ま、一言ミホさんに突っ込ませてもらうとすれば
「インコと一緒にシャワー浴びるのはどーなの?」とww
インコいやがってるじゃないですか、とww

さてこのインコの「クマちゃん」だが、映画にクレジットは
無いものの、ほんの一瞬出演している。物陰からミホの独白を伺うマヤが
その場から立ち去るシーン。その手には「クマちゃん」がとまっているのだww
(閑話休題)
「巫女としての要素」つまり「神懸かり」という点で思い出すのは
先日読了したナンシー「声の分割」だな。ハイデガー批判、プラトン再読解を通して
「解釈」論を進め、「神懸かり」という言葉まで持ち出してしまうのには驚いた。
この領域について哲学が語ったのを見たのは始めてだな。

94 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/26(水) 20:52:18

OTOさん

すばらしい映画のコメントありがとうございます!
わたしは未見ですが、大変深い想いで読ませていただきました。
熱の入り方がすごいですね。細密な描写と濃密な内容に熱が伝わってきます。
OTOさんのマヤさんに対するまなざしが、とてもあたたかくて、
読んでいるこちらも、胸がひたひたとあたたかいもので満たされていくのを
感じました。

>マヤの10代前半にしか見えない姿、服の着こなし。顔は見えない。
なぜ、ソクーロフ監督は49歳のマヤさんに少女の服を着せたのでしょう?
マヤさんは10歳のとき言葉を失くし、それ以来こころも身体も成長を止めた
のですね。
ですからマヤさんのこころも身体も10歳のときのまま。
ソクーロフ監督はマヤさんを撮影する際に、10歳の少女として撮りました。
監督のとらえたマヤさんは、外見は童女のようでありながら、内面は母上を
労われる豊かな母性をもち、ものごとの真偽を見極める澄んだ瞳の持ち主で
ありました。
まさに巫女にふさわしい女性です。


(つづきます)
95 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/26(水) 20:52:57

OTOさんの映画の感想を拝読して、わたしが思い描くマヤさんとは
伝説に出てくる天女、目に見えぬ美しい羽衣をまとった慈母のイメージです。
マヤさんがまとう羽衣とは発語されない美しい《言霊》です。
マヤさんは発語はしないけれども、言霊という羽衣をまといながら舞うの
ですね。
手で、指先で、しぐさで、まばたきで、瞳の色で、微妙に揺れ動く表情で
マヤさんは言霊の羽衣を自在に操る。
わたしたちがそこに見るのは、はるか遠い昔、人が言葉をもつ前の姿。
言葉を持ったために、わたしたちがとうに失ってしまった尊いもの、
――それは、深い静寂のなかにある音を持たない祈りの言霊、美しい魂の言葉。

>私にとって島尾マヤは、重い障害を負った女性ではなく、
>17代続いた奄美の巫女の家系、その血がめざす方向の、
>ひとつの純粋な結晶として輝いた、
巫女は本来自分の言葉を持たないのですね。神が降りてきたときのみ伝えます。
また、伝えられる言葉は声や音に出されるとは限らないのです。
巫女そのものが、その存在自体が神の言葉を具現しているのですから。
彼女は神に選ばれた存在であり、自身の声を神にお捧げしたのですね。


(つづきます)
96 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/26(水) 20:53:29

巫女の使命とは神の言葉を聴き伝えるだけではないのですね。
いついかなるときも祈りつづけること、沈黙のうちに祈りを捧げること、
それが本来の巫女の使命です。
わたしたちが饒舌に意味もなく放出する言葉の群れと、マヤさんが沈黙の
うちに捧げる祈りの言霊とは、両者は何と隔たっていることでしょう……。

>この映画は絵も素晴らしい。さすがソクーロフ、徹底的である。
わたしが漠然と想像するのは、印象派と呼ばれる絵画のような静謐な
画面です。
といっても、お行儀のいい写実一辺倒ではなく、動きや浮遊感もあり、
シュールレアリスムを思わせる画面。
派手などぎつい色彩を徹底的に排除し、カラーでありながらもモノクロで
あるかのような錯覚に陥らせる心象風景のような画面…。

>その一語が読む者の眼に触れ、様々な意味、音の波紋が広がっていく時間。
吉増剛造氏の語りには非常に独特のものがありますね。
わたしはNHK教育で放映された「私のこだわり人物伝・柳田国男」で吉増氏の
語りを初めて聴いたのですが、ああ、これが詩人の語りなのだなあ、と
得心したのでした。


(つづきます)
97 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/26(水) 20:54:13

強調したい言葉や思い入れのある言葉にいきあたると、抑揚の幅がぐんと
広がり、ことさらその言葉に想いのたけを込めて、身振りをつけてゆっくりと
丁寧に全身で話されるのです。
朗読者というよりも、語り部といったほうが似つかわしいと思いました。
上手に朗読された言葉や詩は忘れてしまうけれども、訥々とした語りでは
あっても、その人独自の声音、思い入れを乗せて語られた言葉たちは不思議と
いつまでもこころの片隅に残るのですね。

>84〜88はとても落ち着いたCucらしいきれいな文章だ。
ありがとうございます! とてもとてもうれしいです!!
ミホさんのきれいな言葉遣い、丁寧な話し方、奄美地方の歌うような方言、
日本語は美しいなと改めて思いました。

マヤさんは言葉を発することはできなくても、ミホさんのもとで
祈る言葉や語りかけを子供の頃から耳にして育ったのですね。
娘は母の作品であるとはよく言われますが、
マヤさんのまとう羽衣=言霊が美しいのは、ミホさんからの贈りものなの
ですね。
また、心根がきれいで澄んでいるのも、ミホさん譲りの賜物なのでしょう。
まことに、この母にしてこの娘ありです。一心同体の母娘ですね。


(つづきます)
98 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/26(水) 20:55:02

>「神懸かり」という言葉まで持ち出してしまうのには驚いた。
>この領域について哲学が語ったのを見たのは始めてだな。

哲学は言葉を論理で徹底的に究めていく学問ですよねえ。。。
「神懸かり」は言葉にできない領域ですから、あえて持ち出した勇気に
脱帽ですね!
ところで、バタイユは無神論者ですが彼の神秘体験は「神懸かり」的な
ものだったのでしょうかね…?
トランス状態とは「神懸かり」的な要素があると思うのですね。
そして「神懸かり」は《非―知》、つまり言葉に現せない領域だと思うのですが、
バタイユのことですから、これはある意味、神への挑戦なのでしょうかね…?

インコについては、う〜ん、温水を浴びせすぎないようにしてくださいね〜、
のぼせて湯立っちゃいますよ〜。


――それでは。
99(OTO):2006/04/28(金) 13:51:37
>>96
>吉増剛造氏の語りには非常に独特のものがありますね。
>ああ、これが詩人の語りなのだなあ、と 得心したのでした。

そうそう、だから対談とか面白いよね。
「ドルチェ」以外だと「死の舟」が、対談、旅行記とかが、
詩とともに載っていて、面白かった。

>>97
>ミホさんのきれいな言葉遣い、丁寧な話し方、奄美地方の歌うような方言、
>日本語は美しいなと改めて思いました。

映画でもゆっくりとしたきれいな話し方だったね。
全部ヤマトグチだったけどね。奄美方言も聴きたかったな。
ちょっと歌うシーンあるけど、うまいね。
「死の棘」映画で垣根を板塀にする時に大工が働いてる脇で
松坂慶子が歌うシーンを思い出した。

>>98
>トランス状態とは「神懸かり」的な要素があると思うのですね。
>そして「神懸かり」は《非―知》、つまり言葉に現せない領域だと思うのですが、

その通りだね。トランス、そして狂気について考えていくと、
「神」について、少し見えてくるかも知れないね。
100SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/29(土) 11:36:14
「ドルチェー優しく」、この《映像小説》!について、
>>84以下のCucさんの本についての書き込みと、
>>90以下のOTO氏の映像についての書き込みは、
ソクーロフのいう「新しい映像小説」をあたかもなぞるように
お互いに相互浸透していくみたいにこの作品に随伴しつつも、
それぞれの個性がフォーカスの仕方に現れていて興味深く。
声のパルタージュ(分割)?に絡めてキャスティングを考えると、
Cuc=ミホ、OTO=ソクーロフ、ならば、当方は吉増の立場ですが、
メディア(媒介)に徹しようとするこの詩人の姿勢には共感。

ソクーロフと吉増剛造は、島尾敏雄に関心を抱くのと同様、
島尾ミホという存在に強く惹かれているのが伝わりますね。
「島尾敏雄の妻」であると同時に、むしろそれ以上に、
「作家島尾ミホ」の存在がクローズアップされるのは心地よく。

ミホが書いたものは決して多くないけれど、
敏雄とミホの島尾夫妻は泰淳・百合子の武田ペアに勝るとも劣らない、
日本文学史上最強の文学的カップルと勝手に思ってるのは、
『海辺の生と死』を読んだときに感じた静謐な雰囲気の特異さが
なかなか忘れがたいものだったためで。
101SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/29(土) 12:24:55
>巫女そのものが、その存在自体が神の言葉を具現しているのですから。
というCucさんの言葉自体に、巫女的なオーラの漂いを感じたり、

初期の「!」を多用したリズムからはかなり変化した吉増のリズムを
>恣意的にゆっくりと小さな迂路を周り、着地するといった印象を与えるこの言い回し
と形容するOTO氏の言葉自体のリズムに、ポエジーを感じたりしつつ。

ごく簡単ながら。  〆
102 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/30(日) 21:02:21

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

レス、ありがとうございます。
幻想文学、わたしも好きです。
とはいっても「日本幻想文学集成」のなかで読了した作品の作家は、
33人のなかで、
泉鏡花、夢野久作、宮沢賢治、小川未明、江戸川乱歩、夏目漱石、
芥川龍之介、坂口安吾、室生犀星、そして島尾敏雄の10名のみ・・・
ここで扱われている作品は幅が広いですね!

>「子之吉の舌」も収載されているのですが、
>当方はこれから島尾文学に入りました。
そうでしたか。
わたしは、島尾敏雄についてはまったく何の予備知識もなく、いきなり
「死の棘」から入りました。
哲学板でOTOさんが読む予定と書いていらしたので、わたしも読んで
みたいと思ったのでした。
「死の棘」はかなり重い内容でしたが、最初にここから入ってしまえばあとは
同じ著者のなかにはユーモラスな面があること、幻想作品もあることを知り
多面性を楽しむことができて、むしろよかったように思えますね。


(つづきます)
103 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/30(日) 21:02:58

>この間読んだ『幼年記』で単行本化された島尾の小説は
>おそらくすべて読んだことになると思います。
えっ! もうすべてを読まれたのでか? それはすごいですね!

>一人の作家の小説をすべて読むというのは
>当方にとって非常に珍しいことでありました。
今までわたしが読んだ全集は創樹社から刊行されている「尾崎翠全集」
(全一巻)のみです。。。
尾崎翠は作家として活躍していた期間が非常に短く、書かれた作品数も
とても少ないため、全一巻で読了できたのでした。

>日記魔であるとはいえ、あの死の棘時代によくもまあ日記をつけることが
>できたなあと。そのタフな作家的精神力に脱帽です。
わたしはそこに作家・島尾敏雄の渦中にあろうといかなるときも
決してつむらない、《観察者に徹する非情な眼》を見るのです。
妻の狂奔で生活は壊れ、精神を保つためには書くことで吐き出すしか
なかっただろうとは思いますが、そこには渦中にあろうとも書かずには
いられない作家としての業のようなものを感じるのです。
その業ゆえに、書かずにいればいいものをあえて日記に愛人のことを書き、
それがきっかけとなり、妻の狂乱を呼び起こしたのですから。


(つづきます)
104 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/30(日) 21:03:33

つまり、妻が狂ったのは愛人の存在が日記に記されていたからであり、
その結果、狂った妻をつづった日記は「死の棘」の大元となりました。

島尾敏雄は、どのような事態でも必ず日記を欠かさない、骨の髄までも
物書きなのですね。
これこそが、他の作家には真似できない凄さとでもいいましょうか。。。

>幽体離脱的に自分を客観視しているような視点も併せ持たせていて、
>ああこれはもしかして横光利一のいう《四人称》に近いかな、
とても興味深く読ませていただきました。
横光利一の「蝿」はその観点に近いかもしれませんね。
あの作品のなかでは、作者の眼は淡々と飛ぶ蝿より上にあり、登場人物の
誰かひとりの目線では決して描かれていないのですから。
横光利一のいう「自分を見る自分」・《四人称》とは、創作する際によく言われる、
書き手をさらに上から見ている《神の眼》、《俯瞰した視点》に似ているように
思えました。より客観性が出てくるということなのでしょうか。

>それより何より、こういう感覚は、
>我々が見る夢の中でよく見知っているものですね。
これはよくわかります!
例えば空を飛ぶ夢は、空を飛んでいる自分を、さらに自分が見ているのですよね。


(つづきます)
105 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/30(日) 21:04:10

前スレのバタイユの「C神父」に出てくる娼婦の言葉、
「たとえば、ライオンに食べられながら、その食べてるライオンを見つめてる
ように、あたしはこの耐えきれない苦しみを、いま楽しんでるの」――(p225)
これなど、今まさに災難に遭っている自分を、さらに上から見ているという
幽体離脱の視点です。

島尾敏雄の立場に置き換えるならば、
――妻に狂奔されながら、妻に狂奔されている自分を見つめているように、
耐えきれない苦しみを、いま書いているのだ――
ということでしょうか。
島尾敏雄は、こうした「自分を見る自分」・《四人称》の視点を持っていたが
ゆえにあの壮絶な「死の棘」を書き上げることができたといえるのかも
しれません。。。


(つづきます)
106 ◆Fafd1c3Cuc :2006/04/30(日) 21:05:29

>Cuc=ミホ、OTO=ソクーロフ、ならば、当方は吉増の立場ですが、
>Cucさんの言葉自体に、巫女的なオーラの漂いを感じたり、
わたしがミホさんの立場とは光栄です! ありがとうございます。
かつてわたしは「秋の夜長」スレで
>どうもわたしはひとたび書き始めると、熱に浮かされた状態になるようなのです。
>書いているのは本当に自分の手なのかなあ…?
と書きましたが、ミホさんも書いているとき、何ものかに憑かれたように
自分の手が勝手にするすると動いていくのをどのような想いで眺めていらしたのか、
とても興味がありますね。

>敏雄とミホの島尾夫妻は泰淳・百合子の武田ペアに勝るとも劣らない、
そうですね、あとわたしが知っているのは三浦朱門・曽野綾子さん夫妻ですね。
>OTO氏の言葉自体のリズムに、ポエジーを感じたりしつつ
同感です。OTOさんは根っからの詩人ですね!

SXYさんは、わたしにとりましては「水先案内人」ですね。
舵取り人であり、旅する人にとってとても大切な道標なのです。

連休明けに『白日の狂気』の感想をupする予定です。
その次くらいに『海辺の生と死』の感想をupしようと思います。

――それでは。どうぞ、素敵な連休をお過ごしくださいね!
107SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/07(日) 17:58:01
>>102
「日本幻想文学集成」で島尾のほかに読んだのは、
牧野信一と吉田健一ぐらいかなあ。
豊島与志雄という作家は読んだことがないので
機会があれば読んでみたいと思いつつ未読です。

>>103
尾崎翠はちくま文庫にも入りましたっけ。
こういう作家の作品が絶版にならずに読めるのはうれしいもんです。
そういえば尾崎は「日本幻想文学集成」には入ってなかったですね。
108SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/07(日) 17:59:03
>>104
横光の《四人称》はさておき、島尾の短篇に絡めて
幽体離脱的に自分を見るような夢の中の視点を出したのですが、
つい最近読んだものの中で面白い試みだと思った作品に
阿部和重の『プラスティック・ソウル』がありました。

この小説の主人公(アシダ)はドラッグをやってるジャンキーで、
小説を完成させたことのない作家志望のプータローなんですが、
ある出版社から呼び出しを受けて(彼のほか3人も同様に)、
4人1組でゴーストライターになる企画をもちかけられるという話。
面白いと思ったのは、「アシダは」という三人称で語られていたのが、
突然予告なしに「私は」という一人称に転換されるという点で、
主人公と語り手の視点がくっついたりはなれたりするんです。
それだけにとどまらず、主人公の恋人「ヤマモトフジコ」もまた、
三人称で語られてたり、主人公の「私」の目線で語られつつも、
いきなり「わたしは」と一人称で語り始める始末。
109SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/07(日) 18:02:19
>>105
『C神父』にそんな言葉があったとは!
すっかり失念してました。

>>106
三浦朱門・曽野綾子夫妻はよく知らないのですが、
Cucさんがたびたび曽野綾子の言葉を引用されたりするので
『永遠の手前の一瞬』という文庫を一冊借りてきました。
>SXYさんは、わたしにとりましては「水先案内人」ですね。
とてもとてもうれしい言葉ではあるんですが、
そういわれると、どうも恐縮しちゃいますね。
>連休明けに『白日の狂気』の感想をupする予定です。
とのことなので、『白日の狂気』を再読してみました。
で、当方も何か書いてみたいとは思ったのですが、
これがなかなか難しい。。。でもトライしてみます。
110SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/07(日) 21:20:03
ブランショ『白日の狂気』について

この作品について何を語ればいいのか途方にくれてしまう。
この作品を読めたのか読めなかったのか判然としない感じが抜けない。
読めたというわけではなく読めなかったというわけでもない。
こうした「何々ではなく何々でもない」という二重否定によって
この『白日の狂気』という作品も始められている。
――「わたしは物識りでもなく無知でもない。」――
こうしたどっちつかずのブランショ節は他にも見出せるけれども
それについては後で立ち戻ることにして、まずは全体的な印象から述べるなら、
この作品は最初の出だしからしてあたかも遺書のようなレポートとして感じられる。
――「わたしはさまざまな歓びを知った。」――
第1パラグラフは生と死について語り、語り手はその半生を振り返っているかのようだ。
111SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/07(日) 21:20:59
承前(ブランショ『白日の狂気』について)

この作品は41の断章から成っている。連続したものも不連続なものもある。
第5パラグラフでは、銃殺されかけた自伝的な経験が語られているようだし、
第16、17パラグラフでは乳母車のシーンが「短い幻覚」として語られている。

第18パラグラフは1行だけでこう書かれている。
――「これはすべて実際にあったことだ、そこに注意していただきたい。」――
何とも奇妙なセンテンス。「短い幻覚」が「実際にあったこと」とされる奇妙さよりも、
唐突に読者に向けて注意を促す奇妙さがあるから。

第19パラグラフでは
――「だれかがわたしの眼の上にガラスを押しつぶしたので、わたしは危うく視力を失うところだった。」――
という幻覚とも比喩とも判別できない言葉がある。
ただひとつ言えるのは、この作品は「白日(ジュール)」と「光」をめぐっていて、
視覚がひとつの柱=テーマになっているということだろうと思う。
もちろんもうひとつの柱は「狂気(フォリー)」であろう。
最後から2番目の第40パラグラフでは2人の人間についての言及があり、
それは「視力の技術者」と「精神病の専門家」なのもそれを裏付けてくれるけれども、
本当はもうひとりの人間(「作家」)についても言及されているように、
三番目の柱は「物語(レシ)」になるのだろう。
112SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/07(日) 21:25:12
こうしてとりとめなく書いていくと夜が明けてしまいそうなので
このへんで中断することにします。  〆
113 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/08(月) 22:00:25

SXY ◆uyLlZvjSXY さん

連休最後の夜にさっそくレスをつけていただきまして、ありがとうございます!

>牧野信一と吉田健一ぐらいかなあ。
>豊島与志雄という作家は読んだことがないので
この三人の作家の作品、読んだことないのです。。。
そういえば前に、SXYさんは牧野信一がお好きだと言っていらっしゃいましたね。
牧野信一、読んでみたいなあとずっと思っていました。
検索したら図書館に「日本幻想文学集成15」・牧野信一著・東京国書刊行会より
刊行されているものがありました。
島尾敏雄の次に読んでみたいですね。

>そういえば尾崎は「日本幻想文学集成」には入ってなかったですね。
そうなんですよ。。。どうして入っていないのかなあ? と思いました・・・
残念!!

(つづきます)
114 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/08(月) 22:01:00

>つい最近読んだものの中で面白い試みだと思った作品に
>阿部和重の『プラスティック・ソウル』がありました。
阿部和重さんの作品で読んだのは「ニッポニアニッポン」だけです…。
トキ殺害の動機が純粋というかあまりにもストレートでした。

>「アシダは」という三人称で語られていたのが、
>突然予告なしに「私は」という一人称に転換される
興味深い書き方ですね。
読者は三人称の語りと、一人称の語りに混乱と戸惑いを覚えつつも、
確信犯的な語り手の視点にいつしか乗せられていくのでしょうね。
ゴーストライターは誰かの代わりに書く仕事であり、地の「私」を出してはならない
のですが、書いているうちに「私」が出てきてしまったのか、あるいは意図的に
「私」にしたのか…。「アシダ」も「ヤマモトフジコ」も、「私」であり「わたし」なのだ、と。

>『永遠の手前の一瞬』という文庫を一冊借りてきました。
曽野綾子さんのエッセイを借りていらしたのですね!
初めて読まれる方は曽野さんのカトリックの信仰に基づく辛口の
アフォリズムに戸惑われるかもしれませんね……。
曽野さんのエッセイは「人生哲学」「マイ哲学」を感じさせるものがあります。
人間の真理を深く突いた珠玉の格言集です。


(つづきます)
115 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/08(月) 22:01:35

『白日の狂気』についての感想、ありがとうございます。

>この作品は最初の出だしからしてあたかも遺書のようなレポートとして感じられる。
>第1パラグラフは生と死について語り、語り手はその半生を振り返っているかのよう
そうですそうです!
わたしも同じことを感じながら読みました。
これは「レポート」であり、「半生を振り返っている」かのような書き方ですね。
わたしは、そこに彼の作品の変遷、こころの軌跡を見たのでした。

>連続したものも不連続なものもある。
自伝的な体験、幻想が交互に織り込まれていますね。
それが実際にあったことなのか、幻想なのか、どこまで事実なのか、
読み手は最後まで知らされないまま。。。
こうしたはぐらかすような書き方はブランショのレシに多く見られますね。

>第5パラグラフでは、銃殺されかけた自伝的な経験
>第16、17パラグラフでは乳母車のシーン
>第18パラグラフは1行だけでこう書かれている。
>――「これはすべて実際にあったことだ、そこに注意していただきたい。」――

わたしもちょうどこの場面について取り上げましたよ!!
奇しくも同じところに注目し、それぞれの感想を読めるのはうれしい限りですね!


(つづきます)
116 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/08(月) 22:02:10

>視覚がひとつの柱=テーマになっているということだろうと思う。
>もちろんもうひとつの柱は「狂気(フォリー)」であろう。
ああ、なるほど!
この作品のテーマは「視覚」と「狂気」ということですね?
「狂気」については題名にも入っていますし、また、作中にもかなりの頻度で
登場しますが、「視覚」については指摘されるまで気づきませんでした。
視ること――乳母車の幻覚をみる、狂った世情を視る、銃殺されそうな瞬間の
私を「私」が視る、私はガラスをぶつけられ視ることを奪われそうになる……。
確かにこう列挙していくと、すべてが「視覚」・「視ること」につながっていきますね。

>それは「視力の技術者」と「精神病の専門家」なのもそれを裏付けてくれるけれども
「視力の技術者」=視覚、「精神病の専門家」=狂気、に結びつけられますね!
実に鋭い洞察力です! 読み込みが深いですね。
二人の人物、医師にそうした意味合いが込められていることを、わたしはまったく
気づきませんでした。
となると、ブランショは意識的にこのふたりにテーマを語らせていることになりますね。

>本当はもうひとりの人間(「作家」)についても言及されているように、
>三番目の柱は「物語(レシ)」になるのだろう。
もうひとりの人間(「作家」)=「書く」人、つまり書きたいことだけを書くレシ。
三人の人間は、視覚、狂気、書くことに要約されるのですね。


(つづきます)
117 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/08(月) 22:03:40

今回、この作品のテーマについてSXYさんの鋭い見解を拝読して、思索の
奥行きの深さに触れることができ大変うれしく、深い感慨に耽りました。
また、わたしが見落としていたたくさんの点を掘り下げていただき、感謝です。
対話することで新たなものが見えてくる喜びを改めて感じました。

ふと思ったのですが、ブランショの作品はどれも謎に包まれており、
視界がまったく開けない濃霧に喩えられるのですが、この濃霧というのは
実は狂気と正気の境目なのかもしれませんね。
両者の境目は明確ではなくたいていグレー・ゾーンです。
そう、深い霧がたちこめているのです。
その狂気を帯びた濃霧の世界にどれだけ視覚を凝らし、どこまで書けるか。
書くことはものごとを明確にすることです。
では、言葉にできないものは、はたして現わせるのでしょうか?
狂気という正体不明の霧に包まれた世界を書くことには、霧をはらう光が
必要です。けれども、光そのものが狂っていたらどうすればいいのでしょう?
ブランショがとった方法は、白日の光を直視することでした。
……哀しいかな、人間の瞳孔は眩しすぎる光を直視することはできません。
瞬間的に閉じられてしまうのです。
では、書くことは? 可能です。視なくても感受すれば書けるのです。
ブランショが徹底してこだわったのは視ることより、「書くこと」でしたから。


(以下、『白日の狂気』の感想です)
118 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/08(月) 22:54:50

『白日の狂気』の感想を記します。

先ずお断りしておきますのは、この作品についてはレヴィナスがすでに
哲学的な考察をもとに綿密な試論を記していることです。
おそらくこの作品の背後には当時の政治に関することが、かなり色濃く
比喩を用いて語られているのでしょう。
(カフカの一連の作品群と同じように…)
けれどもわたしは当時の社会事情や思想に疎く、ブランショの意図する政治色
がどのようなものなのか、正確に把握することはできませんでした。
ですから、これからわたしが述べる感想は、あくまでも書かれたテクストを
そのまま言葉通りに読んだ一読者の「素朴な感想」です。

非常に短い作品でありながら、簡単には読めませんでした。。。
この作品は、ブランショの自伝的な要素を踏まえた精神史の物語として、
また、それぞれの作品が生まれた背後の物語として読みました。
いつもの感想文とは違った手法で、ブランショの作品名や作品の引用、影響を
受けたと思われる関連作品を随所に交えて順を追って書いてみました。


(つづきます)
119 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/08(月) 22:55:36

処刑の寸前で発射されなかった銃、その結果として彼は
――最悪の日々に、わたしが完全にあますことなく不幸だと信じている時で
さえも、わたしはやはり、きわめて幸福であることがわかった――(p9-10)
という心境に至ります。これが『死の宣告』を書かせたきっかけでしょうか。

――わたしは他者の裡にあって目立たなかった。無価値でありながら、
わたしは至高者だった――(p14)
『至高者』はまさにこうした意識から生まれた作品だったのでしょう。
ところが、不遜なまでの高い自意識はある日図書館に入り、使用人を前に
してたちまち砕かれます。「彼はあるがままのわたしの姿を見た、一匹の昆虫」
になっていたからです。「わたしはなにものだったのか?」彼は自身に疑問を
投げかけます。この辺はカフカの『変身』をかなり意識していますね。

ある日、「わたし」は外で“幻覚”を視ます。
門に入ろうとしている乳母車を押しているひとりの女とひとりの男がいましたが、
男は後ずさり外に出ました。次には若い女が門に消えていきました。。。
(これもカフカの入れない『門』と辿り着けない『城』を意識していますね)
この“幻覚”を視て「終末が来る」と「わたし」は言います。
『謎の男トマ』の最後「終末に向けて飛び込んだ」はここからきているのでしょう。


(つづきます)
120 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/08(月) 22:56:12

この“幻覚”は『牧歌』でブランショが書きたかったことにも繋がると思いました。
『牧歌』では会話が何ひとつない夫婦の暗黒の祝祭としての結婚生活が
描かれ、異邦人の若い男は命と引き換えの結婚を拒否し死を選びます。
「わたし」が視た“幻覚”の門に入っていったのは《女たちだけ》であること、
男は入りかけたけれども後ずさりして入らなかったということ、門は結婚を
意味しているのではないでしょうか。(レヴィナスのように当時の不安な
政治情勢を見るのが無論一番妥当であるとは思いますが…)
女たちは何の躊躇いもなく門に入れるのに、男はそうではない。
門のぎりぎり手前で踏み留まります。
なぜなら、門の中にあるのは呪われた沈黙の祝祭(=結婚)であることを、
用心深い男たちは知っているから。

「わたし」は誰かにガラスで眼をつぶされそうになります。(おそらく政治絡み…)
手術の結果、視力はわずかに減少したにすぎませんでしたが、
「わたし」は王である医師たちの欺瞞を暴き、法を味方につけ、患者たちを啓蒙
していきます。その結果、法は女に姿を変えて「わたし」の眼前に現れます。
ここで擬人化された法は『至高者』においては看護婦として登場しています。
アンリに「あなたは至高者です」と言いつつ、最後に殺したあの看護婦です。
つまり、アンリは法に殺されたということですね。。。


(つづきます)
121 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/08(月) 22:56:48

「わたし」はガラスを投げつけられた事の顛末を語ったけれども、誰もが
口をそろえて「その発端のあとは」「事実の方に話を進めてもらいたい」
と言うばかり。物語はとうに終っているのに……。

これはまったくカフカの辿り着けない城や門と同じ物語ですね。
堂々巡りです。「わたし」が何回も物語を最初から繰り返しても、人々は納得
しないでしょう。なぜなら、なぜ「わたし」がガラスを投げつけられたのか、
誰が投げつけたかについては、ひとことも語っていないのですから。
この「語らない」「沈黙」の姿勢はブランショの全作品に一貫しています。
わたしたちは、わずかな暗示を元に推測するのみで、真実は永遠に藪の中。

題名の『白日の狂気』はガラスが取り除かれたあとの「わたし」の心境ですね。
――これは死だ。白日の狂気を直視しているのだと確信した。
光は狂ったようになり、明るさはいっさいの良識を失っていた――(p20)
《ガラス》、《白日の光》、ふたつのキイ・ワードは『私についてこなかった男』に
ふんだんに散りばめられています。
ブランショがなぜこのふたつの単語にこだわったのか、『白日の狂気』は明確に
してくれますね。失明の恐怖とはつまり――書かれた言葉が日の光のなかで
消えていってしまうことへの怯え。光はガラスを通して狂気を誘い、言葉を連れ
去っていきます。言葉が消されること、言葉を失うことは発狂寸前の恐怖です。
自分が書いた言葉が自分の意志とは無関係に何者かに無理矢理に連れ去ら
れ、消されてしまう。その狂った役割を担っているのが白日の光なのです。


(つづきます)
122 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/08(月) 22:57:33

人は暗闇のなかでも発狂しますが、白日のなかでも狂うのですね。
闇のなかでは何も見えないように、光だけの世界でも何も映らないの
ですから。
同じように何も見えない世界なのに、ブランショは夜の闇のほうを愛し、
白日の光を恐れます。
生きた地獄よりも、死が安らかに眠る墓所を愛します。
夜の闇(死)のほうが白日の光よりもブランショを安らがせるのですね。

おそらくは、銃殺されそうになったのは白日の光の下、
幻覚を視たのも白日の光ゆえ、そして、ガラスを投げかけられたのも
白日の光のなかにおいてだったからではないでしょうか。
ブランショが喩えた白日の光とは狂った政治家、豚のような衆愚でしょうか?
そして闇とは真実を伝えようとした少数の英雄、革命家、至高者…?

――これはすべて実際にあったことだ、そこに注意していただきたい――(p18)

「作家は事実を事実のままに書くと作り話だと言われ、作り話をすれば事実に
取られる」、曽野綾子さんの言葉です。


――それでは。
123(OTO):2006/05/11(木) 13:11:00
連休前に他板でCucと雑談している時「白日の狂気」の感想を
こっちにアップするという話が出て、おれは思わず「ちょっと待ってくれ」と
言った。この作品について何か書かなくてはならないという
強迫観念を感じ、もう一度読み直そうと思ったのだ。

>この作品を読めたのか読めなかったのか判然としない感じが抜けない。(SXY)

これはおれもまったく同じである。Cucが感想の冒頭で

>これからわたしが述べる感想は、あくまでも書かれたテクストを
>そのまま言葉通りに読んだ一読者の「素朴な感想」です。

と、あえて断るのもこの作品に「隠蔽された何か」を感じるからだろう。
何がそう感じさせるのだろう。文章に見える「隠蔽のしぐさ」は
我々には見つけられない何かを指し示しているのだろうか?
そもそも、ほんとうに何かが「隠蔽」されているのだろうか?
それを探ることは、本当に必要なことだろうか?
124(OTO):2006/05/11(木) 13:13:02
「白日の狂気」田中淳一・若松栄樹訳ポストモダン叢書。

ひとはわたしにたずねていた、いったい「正確なところ」事は
どんなふうにして起こったのかわれわれに話して下さい。
─「白日の狂気」

1948年に雑誌発表されたこの短いレシは、編集者からの依頼によって
書かれたのだろうか?おそらくは彼の半生について書いてくれ、と。

この本に収録されているブランショの「われらの密かな同伴者」という
エッセイに一度だけ現れている語を使うならば、「白日の狂気」は
全編を(おそらくは1箇所のみを除いて)「寓喩(アレゴリー)」に
よって覆われた、ブランショ自身の半生、精神史であろう。

>第1パラグラフは生と死について語り、語り手はその半生を振り返っているかのようだ。(SXY)

>ブランショの自伝的な要素を踏まえた精神史の物語として、
>また、それぞれの作品が生まれた背後の物語として読みました。(Cuc)

それぞれのパラグラフは、すべて
「ブランショにとって、そうとしか言いようの無い出来事」として
実際の事件の存在を感じさせるが、我々が明確に指摘できるのは、
やはり第5パラグラフくらいだろうか。
125(OTO):2006/05/11(木) 13:13:52
一見するとそこで取り挙げられているテーマは秩序なく分散しており、
その配列ないし繋がりは、テクスト内部の区分と音楽的効果とは別に、
特別な分析に値するだろうが、「白日の狂気」はある焦点のようなものを
もっている。それは「白日の狂気」という表題そのものである。
─「『白日の狂気』についての試論」エマニュエル・レヴィナス、同書収録

時に皮肉な笑いさえ誘う、寓喩によって告白された半生。
しかし読んだ者の心を揺さぶり、長く記憶に残る箇所が二つある。
ふたりも取り上げている「乳母車」と「ガラス」である。

私の感想ではこのレシの中で「乳母車」だけは暗喩ではなく、
実際に目撃された出来事と思われる。それがどういう状況下で目撃され、
なぜそれを「短い幻覚」と呼ぶのかは「隠蔽」されてはいるが、
ブランショはそのまったくありふれた日常の一コマによって
「錯乱状態にいたるまで興奮させられた」のである。

西洋の礼儀正しい社会の優雅さのなかでの相互自己満足という
エゴイズムを消滅させるほどに深い他者への「献身」を明らかにすべく、
自己に執着した自我─存在のなかでの執着─企て─が解体されたとしても、
他者のために、他者のなかで苦しむということは非─共同─存在化(脱─関心)に
達することには至らない。利他主義的意識は自らに回帰する。
─「試論」

もう閾をまたいでしまっている脚を引っ込め、乳母車を押す女性に道を譲る男、
その平和さ、無意味さにヨーロッパの伝統、歴史、日常が重々しく覆い被さる瞬間。

「これはすべて実際にあったことだ、そこに注意していただきたい。」
─「白日の狂気」

なぜこれが「幻覚」なのだろうか。レヴィナスが「試論」のなかで
2箇所、麻薬を引き合いにだしていることと関係はあるのだろうか。
この大学時代からの知り合いは、「隠蔽」された何かを知っているのだろうか。
126(OTO):2006/05/11(木) 13:15:49
しかしこの場合も、他の全ての場合と同じく、実のところ隠蔽された「事実」など
ブランショのエクリチュールが用意する重層的な意味─感覚の構築には
何の役にも立ちはしないように思われる。

それでは「ガラス」は?

あなたの顔にガラスを投げつけたのはだれなのか?
この質問はあらゆる質問のなかでたちもどってくるのだった。
─「白日の狂気」

それがだれか、眼の上にガラスを押しつぶしたというのは一体どういうことなのか。
これもまた、我々にとってはどうでもよく、「関係のないこと」なのかも知れない。
我々が受け取るべきは

しまいにわたしは、白日の狂気を直視しているのだと確信した。
─「白日の狂気」

ということだろう。

白日の狂気は、したがって、私達の理性的な行動に隣在する無─意味をかこつために
語られているのでも、存在の有限性によって不意を打たれた人間主義的、男性的な
人類の落胆を展示するために語られているのでもない。(中略)まったく逆に、
静けさのなかでの飛行機の遠い轟音のように、全く異なった狂気が、まさに
よろこびの中心に、昼間の中心に、「白日の狂気」のテクストの第一行が述べている
不動の幸福の中心に、うずくまっているのである。
─「試論」

はたしてそうなのだろうか。レヴィナスは白日の明晰性そのもの(ハイデガー)が
狂気に至ること(ナチスにくみすること)をこのレシを読み、考えはしなかっただろうか。
127(OTO):2006/05/11(木) 13:16:28
この作品を読み、語ること。重層的な意味の広がりからあるひとつの
「自分の読み」をとりだすという行為。
レヴィナスが様々な読みを畳みかけるように展開していくさまを読み、
私が感じたのは、むしろそれ以外、の、様々な読みの可能性が広がる
空間のようなこの作品の構造であった。

私の読みは、

昼の範疇、社会性、理性、明晰性、そして論理(ロゴス)自体が、
狂気と「見える」事態は充分理解できる、ということだ。
動物の本能を奥深く隠し、表面的な感情のうねりに揺らぎながら、
「理性」を必死に保とうとする服を着たけもの、
その頭蓋の中の小さなゼリーの固まりで永遠に論理を追求しようとする姿。
それを狂気と呼ぶことは、もはや必ずしも語の濫用とは思えない。

しかしそれでは「哲学」は?

ヴァレリーは次のように確認することで哲学を困難に陥れると信じていた。
「哲学やその他は語の特殊な使用にすぎない」、あるいはその先で
あらゆる形而上学は語の悪用から生ずる」と。(中略)
つまり重要なのは概念に拘束された体系、あるいは記号法や慣例の
体系が隠蔽している「現実の内的経験」なのだという考え方であり、
こうした体系は「きわめて個別的で個人的な現象」の枠を越えて
自らこの独自の現象を離れた真理あるいは法則の価値を持つかのように
ふるまうというのである。
─「われらの密かな同伴者」ブランショ同書収録

これらが収録されたこの本を、1920年代ストラスブール大学の同期のふたり、
かたやハイデガーを学び、ハイデガーに「裏切られた」ユダヤ人哲学者と、
かたや銃殺されそこなってパリのアンダーグラウンドにもぐった
育ちのいいフランス人文学者との、不思議な友愛に満ちた論戦、と読むことも
できるのかも知れないと、思った。
128(OTO):2006/05/11(木) 19:28:42
SXYの「視覚」「狂気」「物語」というくくり方は
端的で鋭いね。視覚─見ること─理解─明晰性─透明性─ガラス
というような「層」を感じるね。

Cucの他作品やカフカ(!!!)との関係づけもとてもおもしろい!

この作品て、季節はずれの別荘とかホテルとかで(映画でしか見たことないけどねw)
家具にシーツかけてあるでしょ。その中をさまよい歩きながら、
これはソファかな?とシーツをめくるとテーブルとかwwなんかそんな感じだね。
シーツをめくるとまたシーツ、とかww
べつにめくることないのかも知れないけど、ついめくろうとしちゃうんだよねww
129SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/11(木) 23:30:48
>>113-117
いつもながらの丁寧な応答に多謝!
同じだけの質と量で返答ができないのが
いつも心残りではあるんですが、どうかご勘弁を。
阿部和重については次の機会にでも書くことにして――
『白日の狂気』に絞って書きますね。

>>118-122
Cucさん、あなたは何という読み手なのでしょう!
一読者の「素朴な感想」というにはあまりにも豊かな読み!
とても面白く読ませてもらい、またいろいろ示唆を受けました!

>>123-126
OTO氏、あなたもまた何という読者なのでしょうか!
「この作品について何か書かなくてはならないという強迫観念」が
こちらにも伝わってくるかのよう。
130SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/11(木) 23:48:30
>非常に短い作品でありながら、簡単には読めませんでした。。。(by Cuc)
本当にそうですね。読めるのに読めない。何かが容易な読解を拒んでいる。
けれどもあえて秘密めかしてるわけでもなさそうな気もする。

>そもそも、ほんとうに何かが「隠蔽」されているのだろうか? (by OTO)
OTO氏同様に「隠蔽されている何か」を探ることの必要性を問いながら、
それでもなお何かに惹きつけられるようにしてテクストを何度も辿ってしまうのは、
作品の言葉たちがあまりにもあからさまな姿で謎そのものになっている、
そんな感覚があるから。

>自伝的な要素を踏まえた精神史の物語として(by Cuc)
おそらくその企図は非常に豊かな読みをもたらすと思いますし、
『死の宣告』『至高者』『謎の男トマ』『牧歌』『私についてこなかった男』
こうした諸作品へのレファレンスを交えての言葉は、とりわけ有益ですね。
Cucさんならではの視野の広さと落ち着きのある目配りを感じます。
あえて私見を付け加えるならば、1948ー49年という発表年代から考えて、
『死の宣告』と『望みのときに』との関係がとりわけ深いように思います。

>全編を(おそらくは1箇所のみを除いて)「寓喩(アレゴリー)」に
>よって覆われた、ブランショ自身の半生、精神史であろう。(by OTO)
仰るとおり、第5パラグラフを覗きアレゴリーに満ちてますね。
ブランショにおけるメタファーやアレゴリーをどう読むか、
これが他の作家を読むときのようにスムーズにいかないところではありますが。
131SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/12(金) 00:39:04
Cucさんがカフカの名前を出したのは正鵠を射たものに思われました。
特に《乳母車》の“幻覚”のところで、です。
この“幻覚”は確かにカフカの「掟の門」を想起させますね。
つまり、「法」が「視覚」「狂気」「物語」につながる第4のテーマにも思えます。
その意味で、『至高者』をCucさんが参照するのは適切でしょう。
第40パラグラフで「視力の技術者」と「精神病の専門家」について、
「なるほど二人のどちらも警視ではなかった。」と語られているのも、
そういう考え方を促してくれるような誘いにも感じるのですが、
Cucさんほど明確に意味を汲み取れていないのが正直なところです。
132SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/12(金) 00:49:12
>《ガラス》、《白日の光》、ふたつのキイ・ワードは『私についてこなかった男』に
>ふんだんに散りばめられています。(by Cuc)

『私についてこなかった男』の特に最後のほうは、「ジュール(日)」という言葉が
これでもかというぐらいの頻度で出てきますね。
――「日の力のすべてはこの終わりのほうへと向かっていき、(略)」――
                   (『私についてこなかった男』)
そして「日」の消滅とともに物語も終末をむかえます。
「白日」は「物語」とも密接な関係を持つように思います。

《ガラス》については『死の宣告』『望みのときに』にも出てきますが、
それらが同じ意味を担うのかどうかはよくわからないながら、
ガラスが割れることは、視力を「危うく」失うかけるリスクを負いながらも、
「白日」=太陽を直視するために、必要な契機だったのではないでしょうか。
>「白日の狂気を直視しているのだと確信した。」ということだろう。(by OTO)
それが常軌を逸した異様な行為だとしても。
――「異様さということは、前に述べたガラスの現象が、あらゆるものに、
  とりわけある種の関係にある人間や事物に適用されることである。」――
                      (『死の宣告』)

>「作家は事実を事実のままに書くと作り話だと言われ、作り話をすれば事実に
>取られる」、曽野綾子さんの言葉です。(by Cuc)
この言葉は、嘘と真実についてのパラドキシカルな『至高者』のエピグラフを思い起こさせますね。
133SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/12(金) 00:59:39
この『白日の狂気』という作品にはさまざまな読みがあるのでしょう。
レヴィナスやデリダを媒介にした読み、当時の政治的状況を背後に見る読み、
Cucさんが行ったように他のブランショの作品と連結させる読み、などなど。
また、OTO氏がレヴィナスの論を読んで、
>様々な読みの可能性が広がる空間のようなこの作品の構造
に注目したことにも、とても親近感を感じます。

様々な読みはもちろん複合的になされてもいいわけですが、さらにもうひとつ、
あえて『白日の狂気』という作品そのものの中にとどまろうとする読み、
も付け加えることもできるでしょうか。しかし、これは後回しにします。

>>110-111では、パラグラフのカウントの仕方がいい加減だったようです。
この中断した試みをもう少し続けようと思ったのですが、
今日は時間がきてしまいました。今度もう少し続けてみたいと思います。〆
134SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/12(金) 23:05:51
>>110-111の続きとして、パラグラフごとに仮タイトルをつけてみました。

1.回想、生と死  2.回想、貧しさと豊かさ
3.見える白日  4.わたしの狂気、夜と昼
5.世界の狂気、逃れた銃殺  6.不幸と幸福
7.死と生からの逃避  8.女たちと男たち
9.疲労  10.エゴイズム
11.失望  12.ナイフによる出血
13.法への呼びかけ  14.民衆
15.図書館  16.幻覚――乳母車
17.錯乱  18.とほうもない身の丈、冷気
19.「これはすべて実際にあったことだ。」
20.押しつぶされたガラス  21.七つの大光明
22.奇妙な質問  23.回復、狂気の希求
24.薬と毒  25.ポスター  26.荒廃
27.教養と能力  28.医師たち
29.法のシルエット  30.法の言葉、召使女
31.法の言葉、正義  32.法の言葉、同じ眠り
33.壮年の男たちの集団  34.法の批判
35.法との対話、膝  36.法との対話、創傷となった視力
37.立ち戻る問い、真実としての沈黙  38.沈黙と言葉
39.終わっていた物語  40.視力の技術者、精神病の専門家、作家
41.「物語はなしだ、もう二度と決して。」
135SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/12(金) 23:28:08
この『白日の狂気』は発表当初「物語(レシ)」とだけ題されていました。
この点についてはまた立ち返りたいと思いますが、注意をひいたのは、
なぜ四半世紀後の1973年に単行本化されたのかということ、であり、
このタイムラグはブランショにとって何だったのか、ということです。
視覚、狂気、物語、法――これら4つのテーマをこの作品の枠組みと考え、
それらのテーマのつながり具合をはかりながら読んでいくとき、
何かが「見えて」くるでしょうか。――「見る」ことを「読む」可能性。

また、『望みのときに』や他のブランショ作品に対する
前書きや後書や脚注としてこの作品を読めるでしょうか。
【17.錯乱】のところで、「何かが到来するのだ、終末が始まるのだ。」
という言葉は、『望みのときに』にも「引用」されています。
――「さあ起きる、何かが起きる、終末が始まる」――(P123)
終わりが始まる、というこの奇妙な感覚は、「わたし」に歓喜を与えます。
136SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/12(金) 23:42:45
第1パラグラフ冒頭の言葉はこうでした。
――「わたしは物識りでもなく無知でもない。」――
これは最後から3つ目の第39パラグラフにも反復されます。
――「――物語? わたしははじめた。わたしは物識りでもなく無知でもない。」――
しかしこうして「わたし」が語り始め、そっくり語り終えたあと、
人々は「その発端のあと」や「事実」を求めるのですが、
物語のほうは終わっていたのでした。

終わりが始まる、この奇妙な感覚は「物語」と関係があるのでしょうか。

そして、最終パラグラフはこうです。
――「物語? いや、物語はなしだ、もう二度と決して。」――
『白日の狂気』を最後の物語(レシ)とするために
四半世紀というタイムラグがあったのかもしれない―― 。

またもやここで中断することにします。  〆
137 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/14(日) 21:55:41

OTOさん

哲学的な考察を踏まえた感想、ありがとうございます!
すごい・・・!!!!! 哲学されている方特有の精緻な文章、論理の運び方、
ああ、これこそがあなたの文章なのだなあ、と羨望です。
本領を発揮して、勝負に出たなあ、と。
感服して言葉が出ません。。。

>そもそも、ほんとうに何かが「隠蔽」されているのだろうか?
>それを探ることは、本当に必要なことだろうか?
確かにそうですね。
ブランショは当時の、特に狂った政治政策を念頭においてレヴィナスの
指摘するように、世情を風刺する寓話として描いたのでしょうが、
仮にその真相を探り当て解明し得たとしても、それは何になるのだろう? 
という疑問がよぎるのですね。
わたしたちはここに現わされたテクストを、何の先入観も憶測もなしに
読むことが許されていると思うのですね。


(つづきます)
138 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/14(日) 21:56:23

人間世界や世の中を風刺した作品には、例えば芥川の『河童』や
ジョージ・オールウェルの『動物農園』などがあります。
また、風刺というより訓話ならば『イソップ物語』などが挙げられますが、
読み手は作者の背後の事情云々よりも、先ずはそこに書かれていることを
ひとつの物語として純粋にそのまま読むほうが楽しいこともありますね。
研究者や評論家たちは、書かれた時代背景をもとに作者の意図を綿密に考察して
いく必要がありますが、一般の読者は自由な読み方ができるのです。
それは、一般読者の特権といっていいかもしれません。
デリダの言葉を借りるならば、「文学は何でもいうことができる」のですから。

ブランショはこのレシを当時の政治情勢――言論規制、思想の弾圧を受けながら、
“命懸けの跳躍”をして書いたのでしょう。
一政治記者としてストレートに政治批判できないもどかしさもあったのでしょう。
その結果として、通常なら書けることも書けない。ならば寓話として書くしかない。
沈黙の作家ブランショの深い沈黙とは、自らの意思で沈黙するのではなく、
政治的な圧力を受けて沈黙せざるを得なかった沈痛なものが感じられます……。


(つづきます)
139 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/14(日) 21:56:58

>私の感想ではこのレシの中で「乳母車」だけは暗喩ではなく、
>実際に目撃された出来事と思われる。
>もう閾をまたいでしまっている脚を引っ込め、乳母車を押す女性に道を譲る男、

ここを読んでふいにひとつの情景が閃光のようにわたしの脳裏に走りました。
時代的に不安定な政治情勢の世の中。いつ戦争が始まってもおかしくない日々。
ブランショは政治記者として言論・思想の自由を規制されています
この国の将来には暗雲が立ち込めており、日々悪化していく世の中を憂いています。
そんなある日、彼は乳母車を押していく女性を「実際に」見かけます。
こんな不安定な政治情勢の中で、子供を生み、堂々と乳母車を押していく女性に
畏敬の念を抱くとともに、彼女の行為――子供を生み育てることは狂気そのもの
ではないか、と恐怖します。
なぜなら、戦争が勃発すれば母親は我が子を国に差し出し、つまり死なせるために
生んだことに他ならないのですから。
仮に子供が戦争に駆りだされるまで成長していなくても、また、女の子であったと
しても、結果として戦争に巻き込まれることは必然的に避けられないのです。


(つづきます)
140 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/14(日) 21:57:32

>「錯乱状態にいたるまで興奮させられた」のである。
ブランショにとって、乳母車の女性こそが「白日の狂気」そのものに映ったでしょう。
道を譲ったのは礼儀正しさからというよりも、自ら狂気を具現し、そのことにまったく
気づきもしないでいる彼女から瞬時に身を避けたかったから。
女は“生む性”であり、“育む性”といわれますが、ここでは如実にされていますね。
男は来るべき世の中に不安を抱き、日々生きた心地がしないのに、女はそんな
なかでも子供を生み、ひとたび生んだからには育てることに専心します。
もちろん、将来に対する不安はあるのでしょうが、とにかく今、最優先でなすべきこと
にのみこころが向けられるのです。見えない未来より、見ている現在がすべて……。
生きるためには、ある程度の鈍感さが必要ということですね。。。

人は恐ろしい光景を目にしたとき、自分の精神を守るためにそれはなかったことに
するという意識が強くはたらくそうです。
すなわち、あれはすべて夢だったのだ、自分は実際には見てはいないのだ、と。

論理的な思考者であるブランショは、乳母車の女性を“幻覚”としなければ、
自らが発狂してしまう恐怖に怯えたでしょう。
嘘だ! 嘘だ! こんな世の中でみすみす我が子を死なせるためだけに生むなんて、
そんなことがあるはずがない。いや、あってはならない。
私が視たのは幻覚だ。ああ、そうだ。そうに違いない!


(つづきます)
141 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/14(日) 21:59:30

>狂気と「見える」事態は充分理解できる、ということだ。
>「理性」を必死に保とうとする服を着たけもの、
まったく同意です!
わたしたちはブランショの視た狂気の恐ろしさ、理性を保つために幻覚を
視たことにすべく、自らを保身しようとした経緯が「わかる」のです。
テクストをそのとおりに読み、たとえ当時の時代背景に疎いとしても何の変哲も
ない乳母車がなぜそんなにも彼を発狂の恐怖に怯えさせたのか、乳母車の暗示
するもの、母と子供、この永遠の絆が戦争によって破壊されることの恐怖。
乳母車の女性が入っていく“門”とは“法”であり、“戦争の扉”でもあるのです。
(国家はひとたび戦争が始まれば、法を行使して子供を戦争に徴収できるのです)
彼女は何の疑問ももたずに門に入っていく、我が子を連れて、、、
白日の狂気とはまさにこうした情景の恐怖です。

>その中をさまよい歩きながら、これはソファかな?とシーツをめくると
>テーブルとかww なんかそんな感じだね。
ああ、実にうまい喩えですねえ!
確かにそうですね。ブランショは謎々の仕掛け人であり、わたしたちはその謎を
ああでもない、こうでもない、と言いながらこうして今日も語り合うのです。
まさにブランショの著作『』終わりなき対話』そのもののように。。。


――それでは。


(※ 以下は、SXYさんへのレスです)
142 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/14(日) 22:25:46

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

ひとつのパラグラフごとの感想、実に深い感銘を受けました!
SXYさんのこの作品に賭ける真摯な情熱を感じます。
特に>>134のパラグラフごとの仮タイトルは非常に的確で、タイトルを
読めばそのまま内容がつかめますね!
仮タイトルどころか、そのものずばりタイトルにしたいほどよく考え抜かれて
いますね。簡潔で大変わかりやすいです。

ブランショの作品は難解さが特徴ですが、こうしたわかりやすいタイトルを
つけてあれば、読者も途中で投げ出すことなく最後までついていくのに、と
思います。たいていの読者は「ブランショについてこなかった人」とされて
しまうのですから。。。

SXYさんのパラグラフごとに分析された緻密な文章を読み、大いに
発奮させられました。
あまりまとまってはいないのですが、中間報告としての感想を綴ってみました。


(以下、徒然なるままの感想です)
143 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/14(日) 22:27:05

>あえて私見を付け加えるならば、1948ー49年という発表年代から考えて、
>『死の宣告』と『望みのときに』との関係がとりわけ深いように思います。
ああ、なるほど!
『死の宣告』については引用しましたが、『望みのときに』はすっぽり落として
いました。指摘されて、『望みのときに』はかなり大きな鍵を握っていることに
初めて気づきました。

>視覚、狂気、物語、法――
>これら4つのテーマをこの作品の枠組みと考え、
>それらのテーマのつながり具合をはかりながら読んでいくとき、
この4つの中で「法」は『望みのときに』において重要な役割をはたして
いますね。

『望みのときに』は一人の病気の男性と彼を看病するふたりの女性の物語です。
当初、わたしはこのふたりの女性の対照的な性格について大変面白く読んだ
のですが、『白日の狂気』を読了した今では「女性」とは擬人化された「法」である
とすれば(『至高者』の看護婦参照)、『望みのときに』の献身的な女性・クローディア
の意味するものは、法は人を助け擁護するものであること、また、もうひとりの
野性的な女性・ジュディエットの意味するものは、その一方で法は人を威圧し、
制裁するものであるということです。


(つづきます)
144 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/14(日) 22:27:36

病気の男性とは、おそらくブランショ自身なのでしょうが、彼は法に保護
(銃殺寸前で放免)され恩恵を受ける一方で、その後もさまざまな監視がつき、
思想・言論の自由を奪われたという苦い体験を持っているのではないでしょうか。

『望みのときに』のジュディエットとクローディアは対照的な性格なのに、
しばしば同一視され、また最後の方では話しているのはどちらの女性なのか
わからなくなります。
「法」が持っているふたつの顔、すなわち、保護と制裁とを鑑みますと、
このふたりの女性は実は一人であり、どちらも同じ「法」の裏と表の顔なのですね。
ですから、最後のほうではふたりの名前がなくなっているのも頷けます。
ふたりは同一人物なのですから。

ブランショの作品には、人物の固有名がないことがしばしばありますが、
実は同一人物である可能性が高いかもしれません……。
例えば『私についてこなかった男』の、私=≪書き手である私≫、
彼=≪読み手である私≫、つまり≪書き手である私≫=≪読み手である私≫
というように。。。


(つづきます)
145 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/14(日) 22:28:12

>終わりが始まる、というこの奇妙な感覚は、「わたし」に歓喜を与えます。
>終わりが始まる、この奇妙な感覚は「物語」と関係があるのでしょうか。

ブランショの作品にはひとつの特徴がありますね。
終わっているところから始まる、あるいは始まったばかりなのに終わりを告げる。
彼は“円環”という言葉を好んで使っています。
『私についてこなかった男』でもラストにかけて“円環”が頻発します。
わたしは未読なのですが“円環”そのものを表す『終わりなき対話』という
著作もあるそうですね。

また、ブランショは“死”を墓所をこよなく愛しました。
“円環”の定義をあてはめるなら、“死”は終わりではなく始まりということですね。
『謎の男トマ』の冒頭で主人公トマは“死の海”から上がり、ひとりの女性を死へと
導きます。
ブランショにとって冒頭の“死の海”はひとつのロマンの始まりであり、そこから
女性との出逢いが生まれ、そして、最後はふたたび死へと回帰します。
死――生(出逢い)――死、と“円環”を繰り返していくのですね。


(つづきます)
146 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/14(日) 22:28:42

これは、『私についてこなかった男』についても、同様です。
冒頭*「もうこれ以上は進めない、自分の資力を枯渇させてしまった」
――私の作家としての限界、書けない=「終わり」を意味します。
最後*「彼を導き、彼のために道を開いて、彼を呼ぶのだ」
――私は物語はとうに書き終えたけれども、私がふたたび書くために彼を呼び
戻すこと、書くこと=「始まり」を意味します。
終わり――始まり、そして、ふたたび「始まり」予感させるラスト。
「彼」は日とともに消えていきますが、「私」がまた限界に挑戦すべく書き始めれば
「彼」は必ず現れるでしょう。

ブランショは自分の作品を決して終わらせず、“円環”を繰り返させます。
たとえ書くことが終わっても、その瞬間からすでに物語が始まっているのですね。
ブランショの作品はたいてい「終わり」から始まることが多いのは、やはり彼が
死の宣告を受け、間一髪で死を免れたという九死に一生を得た体験からきている
のかもしれません。。。
死を意識した瞬間、つまり「終わり」から物語りはいつも始まるのです。
そして、物語は終っても彼はそこからふたたび「始まり」へ、つまり生への帰還を
語ることを止めないでしょう。


――それでは。
147SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/16(火) 23:35:26
>>137でCucさんがOTO氏について書いている、
>哲学されている方特有の精緻な文章、論理の運び方、
>ああ、これこそがあなたの文章なのだなあ、と羨望です。
という言葉は同感ですね。
OTO氏は、映画についてだけでなく小説を対象にしても
映像的に言葉を切り取るのが上手いなあ!と感心してたのですが、
そうした切り取り方(フレーム)に深い洞察に裏打ちされていて、
的確に本質的な部分を掴み取るからなんでしょうね。

Cucさんに対しても以前から羨望は尽きません。
自分の眼で読み、自分の言葉で書くという行為は、
言うは易く行うは難しで、できそうでできないものです。
地に足の着いた常に確かな足取りは感服させられます。
また、さまざまな作品を適切に関連付けられる記憶力も凄い!

優れた読み手であるお二人と対話できることの歓びを噛みしめています。
148SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/16(火) 23:40:05
>>134で仮タイトルをつけたパラグラフを少し括ってみます。

【1.回想、生と死】から【8.女たちと男たち】までは
語り手「わたし」の半生を振り返るようなモノローグ。
物識りと無知、生と死、貧しさと豊かさ、夜と昼、不幸と幸福、女と男、
こうした対比のなかで、Cucさんのいう「グレーゾーン」が現れてます。
あるときは二重否定(黒でもなく白でもない)で記述され、
またあるときは二重肯定的(黒でありやがて白となった)に書かれる。
ブランショお馴染みのエクリチュールです。
しかし、このパートは《歓び》に浸されている感じがします。

【9.疲労】から【15.図書館】にかけてはちょっとトーンが変わり、
疲労や失望や出血などの負のイメージが濃く漂ってる感じです。

【16.幻覚】から【17】【18】のパラフラフは一連のものと読めますが、
【16】が写実的な描写であるのに対し、【18】は幻想的な描写です。
そして【19】では「これはすべて実際にあったことだ。」 という短い文。

【20.押しつぶされたガラス】から【28.医師たち】までを
とりあえず区切ってみることがるできるとすれば、

【29.法のシルエット】から【36.法との対話、創傷となった視力】までは
「法=彼女」との対話が中心になっていますね。――《法》のパート

【37.立ち戻る問い、真実としての沈黙】から【41】の最終パラグラフまでは
さしづめ、《言葉と物語》のパートとでも名づけられるでしょうか。

今日のところは簡単ながらこれにて。  〆
149(OTO):2006/05/17(水) 14:29:51
「白日の狂気」は短いながらその全体像を記憶することさえ
ままならない作品だ。だからSXYの>>111を読んだ時、
「あ、この調子で全パラグラフやってくれないかな」と
思ったんだが、おれの心の声が聞こえたのかw
>>134,135,136,148と続けてくれている。
その整理された考察の跡を追うのは、とても興味深く、楽しい。

>>138,139,140,143,144,145,146のCucも
この作品の持つ多重構造がどんどん展開されていくのを
見ている気がして、とても楽しく読んだ。

>わたしたちはここに現わされたテクストを、何の先入観も憶測もなしに
>読むことが許されていると思うのですね。

まったくその通りだ。


>>135
一点だけ補足だが、ポストモダン叢書解説では、初出時「物語」と題されていた、
となっているが、以前何か(雑誌のブランショ特集かな)で読んだんだが
【物語?】と「冠されていた」と。つまり雑誌で作品タイトルの肩に
【詩】とか【随筆】とかある部分が【物語?】になっていたということだ。

【物語?】
 白日の狂気

こんな感じかな?ここらへん初出雑誌自体あまり残っていないせいか、
情報にばらつきがあるようだな。
150SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/20(土) 01:25:59
>>143-144の《法》についての文章、>>145-146の《円環》についての文章、
Cucさんならではの密度の高い書き込み!

>「女性」とは擬人化された「法」であるとすれば(『至高者』の看護婦参照)、
という部分は『白日の狂気』ではまさにそうだし、医者たちは《法》と関係もありそう。
【28.医師たち】から【29.法のシルエット】への移行の仕方にもそれが窺える。

『至高者』『死の宣告』『望みのときに』『私についてこなかった男』と並べた時、
《法》というテーマではやはり『至高者』のことを思い起こすけれど、
『至高者』の冒頭で語り手が地下鉄の入口で男に殴られ、
警官に「告訴なさいますか?」というシーンがあったと思うけれど、
【22.奇妙な質問】のところでも「告訴なさいますか?」という台詞が出てくる。

>ブランショの作品には、人物の固有名がないことがしばしばありますが、
>実は同一人物である可能性が高いかもしれません……。
確かに。『死の宣告』のJとN、『望みのときに』のクローディアとジュディット。。。
そしてまたブランショの作品には、その逆の可能性も考慮させる厄介な雰囲気も。
――『白日の狂気』の話者である「わたし」とは一体何者なのか?
41のパラグラフの連続性と不連続性が、時折そうした問いを喚起させる。
151SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/20(土) 01:52:18
(承前)

>ブランショは自分の作品を決して終わらせず、“円環”を繰り返させます。
諸作品のタイトルには、《円環》や《永遠》を想起させるものがあるのと同時に、
《最後(デルニエ)》や《死》という言葉やテーマもあって、
こうした時間軸における双方の系列をつなぐのが、「書くこと」であるように思いつつ。

>間一髪で死を免れたという九死に一生を得た体験
実は、島尾敏雄のところでブランショのことを思い出したのは
魚雷艇出撃命令が寸発せられなかった島尾の経験を
銃殺を免れたブランショの経験への横滑りだったのでした。
152SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/20(土) 02:08:38
上の文章がおかしな日本語になってたようで、いやはやです。

 魚雷艇出撃命令が発せられなかった島尾の経験を
 銃殺を免れたブランショの経験へと横滑りさせていたのでした。

と書くべきところでした。

>>149
雑誌初出時のタイトルについてはOTO氏の書いているように
確かそんな感じだったようで。今度当方も確認してみますね。  〆
153 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/20(土) 17:43:47

OTOさん

>この作品の持つ多重構造がどんどん展開されていくのを
>見ている気がして、とても楽しく読んだ。
ありがとうございます!
わたしの見解はその時々の「中間報告」なのですね。
つまり決定稿、最終稿ではない、ということです。
おふたりのレスを読み、対話を重ねていくことで私見を撤回することは
充分にあり得ますし、また、テクストで指摘された箇所を再度読み直す
ことで、今までと意見が一変することもあります。
流動的、変動的ということですね。

ひとつのヒントを提示されますと、シモンほど奔放ではないにしろ、
その拠点からさまざまな方向に想像力を巡らせ、当初まったく思いも
しなかった未知の地に着地するのはなかなか楽しいものであります。


(つづきます)
154 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/20(土) 17:44:55

>初出時「物語」と題されていた、となっているが、以前何か(雑誌のブランショ
>特集かな)で読んだんだが【物語?】と「冠されていた」と。

ブランショの作品はレシとロマンの判別がしにくいものがありますね。
『私についてこなかった男』のように、これはレシだなあ、と即断できるものも
あれば、この『白日の狂気』のようにどちらにもとれるような作品もあります。
わたしとしてはやはり、この作品はレシだと思いますね。
狂気を帯びた法についてのレシである、と。

それにしても『白日の狂気』の世界は謎めいた魔力のようなものがあり、
三人三様で“円環”の迷路を辿っている感じがしますね。
迷路の前にそびえ立つ“門”は、外から見れば入り口ですが、中から見れば
出口です。
つまり、一周すれば出られるはずなのですが、これがなかなか出られない。。。
それは、探検家たちが望んで中から外に出てこないからです。
ミイラ獲りがミイラになる、というあれですね。

ブランショ自身、霧の迷路に深く入り込み、沈黙を守り、出てこようとしなかった
人ですから、読者が作者と同様の状態になることは作者冥利に尽きるのかも
しれません……。


――それでは。
155 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/20(土) 18:16:23

SXY ◆uyLlZvjSXY さん

仮タイトルをつけたパラグラフのさらなる括り、ありがとうございます。
こまやかで、さらに解り易くなっていますね。
今回も実にたくさんの的確なヒントを提示していただきました。感謝です!

もう本は返却してしまったのですが、こうしたパラグラフや、また簡潔な概要を
つけていただくと、おぼろげな記憶も少しずつですが蘇ってくるようです。
また、ひとつのパラグラフのイメージを書いてくださったことで、そこから
端を発していろいろと想像を巡らせることができるのも、うれしいです。
これは対話の醍醐味でしょうね。

>物識りと無知、生と死、貧しさと豊かさ、夜と昼、不幸と幸福、女と男、
>こうした対比のなかで、Cucさんのいう「グレーゾーン」が現れてます。
そうですね。
ブランショは対照的なものを対比させるのですが、その事象は実は対立しない
ことが多いですね。
最終的には等記号で結ばれることを確信していたような気がするのです。
最初から最後まで対立するものならば、そこでぷつりと断裁されてしまいますが、
ブランショの好きな“円環”を引用するならば、等記号で結べば延々とループを
繰り返していけるのですね。


(つづきます)
156 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/20(土) 18:17:11

例えば、夜=昼とするならば、夜とは昼のことですから、夜を語ることはすなわち
昼を語ることであり、両者の判別はつかなくなります。
読んでいる側は、あれ? 今語っているのは昼のこと? 夜のこと?
思考回路は、夜―昼―夜―昼、、、と果てしない“円環”をつづけていくわけですが、
それこそがブランショの狙いであったでしょう。
彼は物語を決して終わらせたくないのですから。

>【16】が写実的な描写であるのに対し、【18】は幻想的な描写です。
>そして【19】では「これはすべて実際にあったことだ。」 という短い文。
【16】写実と【18】幻想、ここでも対照的な描写が対比されていますが、
両者を等記号で結ぶと、乳母車の女性は写実=幻想、ということですね。
つまり、事実であり同時に幻覚であるということです。
追い討ちをかけるように、【19】「これはすべて実際にあったことだ。」は
どういう意味を持つのでしょう?

「法」=「女性」とするならば、乳母車を押す女性は子供を「守る」存在であり、
子供が象徴しているものは、「法」=「女性」に庇護される「無力な存在、弱い者」
ということでしょう。つまり、乳母車の女性が象徴していることは、
「法」とは本来、無力な弱者を守るべく制定されたものだ、ということです。


(つづきます)
157 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/20(土) 18:17:43

ところが、ひとたび“掟の門”を跨いだ瞬間から法は権威と権力を纏うのです。
門を跨ぐ前までは弱者を庇護してくれたのに、門に入るや否や法は権威を
振りかざし圧力をかけて制裁する側に回ります。
そうです、乳母車の女性が消えた“掟の門”とは権力、権威の象徴です。

そして乳母車の女性が門に消えたのは「実際にあったこと」とされるのは、
実は消えたのではなく「別のものに姿を変えた」、つまり「変身」を意味します。
物語の人物を例にするならば乳母車の女性は門をくぐった途端に看護婦に
変身したということです。一瞬前までは庇護する側であった女性=法が、
制裁する側の看護婦=法に「変身」を遂げたということですね。

ブランショがあえて「消えた」としたのは、瞬時に眼前でまったく別の性質のものに
なり変わってしまった女性は、もう以前と同じ女性ではなく別人であり、かつては
「守る」側にいた女性は文字通り「消えた」ことになるのです。
それゆえ、一連の出来事――乳母車の女性が門に消えた――ことはすべて
「実際にあったこと」と念押しされるのですね。


(つづきます)
158 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/20(土) 18:18:20

以下はわたしの憶測なのですが、
「幻覚」とあえて強調したのは、ブランショは法の持つふたつの顔、法を女性に
喩えるならば慈母から鬼女へ、つまり庇護から制裁へと「変身」する瞬間の
恐怖を、何らかの圧力をかけられてストレートに表現できなかったのではないか
と思われます。
「乳母車の女性」、「門」、「消えた」、「発狂の恐怖」、「看護婦」という暗示でしか
語れなかったのではないかと……。

>『至高者』の冒頭で語り手が地下鉄の入口で男に殴られ、
>警官に「告訴なさいますか?」というシーンがあったと思うけれど
>【22.奇妙な質問】のところでも「告訴なさいますか?」という台詞が出てくる。
奇妙なのは被害を受けた側の告訴は通らないだろうと予想されたことでした。
法は無力な者や無実の者を庇護しない、それどころか逆に罪に問われる。
この辺はカフカの『審判』を想起させますね。。。
『至高者』でアンリが子供の頃、妹と墓所に行ったことを回想する場面が
ありました。
――不正の死があったところには、正しい死があるだろう。――(p117〜118)
まさに無実の者が汚名を着せられて葬られた所、それゆえ彼は墓所を愛します。


(つづきます)
159 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/20(土) 18:20:11

>――『白日の狂気』の話者である「わたし」とは一体何者なのか?
ブランショの作品名をそのまま借りるならば、「わたし」とは「最後の人」であり、
「至高者」であるというのがわたしの見解です。
権威や権力を纏った法の執行人よりもはるか高みに立つ者であり、
法の権力の及ばないところにいる最後の人。
誰もが口をそろえて「その発端のあとは」「事実の方に話を進めてもらいたい」
と言っても「物語? いや、物語はなしだ、もう二度と決して。」と「わたし」は
「沈黙」を行使できる最後の人であり、その一方で、「わたし」は「書くこと」で
医師たちの欺瞞を暴き、法を味方につけ、患者たちを啓蒙していくことができる
至高者でもあるのです。

>魚雷艇出撃命令が発せられなかった島尾の経験を
>銃殺を免れたブランショの経験へと横滑りさせていたのでした。
ああ、まさしく両者は重なりますね!!
結果として島尾敏雄は夢作品を多く書き、ブランショは沈黙と死を書きました。
共通点は幻想的な作風ということでしょうか。
やはりひとたび死の恐怖を体験した人は、夢遊病者のようになり、生還しても
狂気の深淵からその後の生涯も逃れることができない、ということでしょうか……。


――それでは。
160SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/21(日) 17:51:39
●『白日の狂気』初版について

まず書誌的なことから。
デリダによると、初出は『エンペードクレス』誌の2号(49年5月)で、
まず表紙には「モーリス・ブランショ 物語?(Un recit?)」とあり、
目次では「?」が抜けて「モーリス・ブランショ 物語(Un recit)」となり、
実際のタイトルとしては下記のようになっているようです。
「物語(Un recit) モーリス・ブランショ作(par Maurice Blanchot)」

雑誌初出時には『白日の狂気』という言葉はなかったみたいですね。

余談ながら、デリダには『白日の狂気』を中心にしたブランショ論があり、
「境界を生きる」「ジャンルの法」の2つはどちらも邦訳はあるのですが、
これがまたアリアドネの糸というよりはミノタウロスの迷宮に誘う糸のようで。
161SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/21(日) 18:42:06
>>155-159
>仮タイトルをつけたパラグラフのさらなる括り、ありがとうございます。
いえいえ。これはOTO氏の「心の声が聞こえた」から書いたので、
というのは冗談で、もっぱら個人的な思考の整理のためですが、
お二人にとって何らかの参考になったなら、嬉しいですね。

Cucさんの「法」=「女性」をめぐる文章に関連してですが、
【29.法のシルエット】から【36.法との対話:創傷となった視力】までは
示唆されたように、彼女=法、わたし=至高者、の対話が中心でしたね。
このパートへの布石としては、すでに【13.法への呼びかけ】のところで、
不用意な呼びかけに法が応えていたら一体どうするつもりだったのか、
という自問もありました。法についてもう少し書いてみます。
162SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/21(日) 18:47:14
●『白日の狂気』における《法》について
医者たちの後に「法=彼女」が姿を(シルエットとして)見せます。
無価値であり至高者である「わたし」は、「法」から「あなた」と呼びかけられ、
「同じ眠り」や「膝」などの、ある種エロティックな言葉も見られますが、
――「ああ、白日が見える。ああ、神よ。」――という言葉に目がいきます。
「日を見る」というのは仏語でも日本語でも「誕生」「出現」を想起させ、
「神」という言葉へと導かれるわけですが、
【21.七つの大光明】でも「七つの日」という『創世記』へのリファレンスがあり、
ここで描かれる世界はとても大きなものになっています。

語り手「わたし」は、体が小さくなったり大きくなったりするアリスさながら、
狂人にナイフで刺されたり、法の膝をさわったり、エレメントを変えているようです。
(【18.とほうもない身の丈、冷気】での頭が空の石となるほどの巨大化。)
163SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/21(日) 18:49:14
●『白日の狂気』における《視覚》について
――「見ることも見ないこともできなかった。見ることは恐怖であるし、
見ないことはわたしを真っ二つに引き裂くことだった」――
ここにはダブルバインドがあります、
視力を失う危険がわかっていながら、それを冒さざるを得ない欲望。

――「わたしは白日に対して水や空気を求めるような欲望を持った。
そして、見ることが火であれば、わたしは火の充溢を求めたし、
見ることが狂気の感染であれば、わたしは狂おしくその狂気を欲した」――
白日(光、太陽)を直視したいという視覚の欲望は、
セイレーンの歌声に惹かれる聴覚の欲望にパラフレーズできそう。
オルフェウスとエウリディケー(視覚)、オデュッセウスとセイレーン(聴覚)、
これらの神話についてブランショは評論でも取り上げています。

白日、そして、狂気は、視覚(見ること)においてつながるわけですが、
法により、視覚(見ること)は物語(語ること)への変換を要請されます。
164SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/21(日) 18:58:02
●『白日の狂気』における《物語》について
――「わたしは物識りでもなく無知でもない。」――
この言葉で『白日の狂気』は始まり、それが第39パラグラフにも反復されていました。
――「――物語? わたしははじめた。わたしは物識りでもなく無知でもない。」――
ここでこの物語は始まりへと回帰しますが(Cucさん指摘の円環運動ですね)、
とすれば、冒頭の言葉は始まりではなかったことになります。
つまり、始まりとは常に既に反復である、という構造が見えてくる。

語り手「わたし」は物語る能力に欠けていることを自覚しつつも、
医者たちの要請を受けて語るわけですが、彼らは満足せずさらに求めます。
第39パラグラフの「物語?」という言葉は最終パラグラフで再び反復されます。
――「物語? いや、物語はなしだ、もう二度と決して。」――
最初の「物語?」には「わたしははじめた。」と応答するのに対し、
二番目の「物語?」には「いや、物語はなしだ、もう二度と決して。」ときます。

「物語?」(これは初出のタイトルでもあったわけですが)という言葉は、
一度目は物語を開始させ(そしてまた反復させ)、二度目は物語を終わらせる。
“終わりが始まる”という言葉(【17.錯乱】の「終末が始まるのだ。」)を
ここに絡めてみたいという気もしますが、これはまだ不定形の思考です。

「見ることも見ないこともできなかった。」という視覚のダブルバインドが、
“語ることも語らないこともできない”というダブルバインドへ移行するような印象。
165SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/21(日) 19:06:48
●『白日の狂気』における《狂気》について
狂気をどうやって語るのか、狂ったような経験をどう語ればいいのか。
狂った世界を、狂った人間を、狂った経験を、どう語ればいいのだろうか。
そして、語ることそのものが狂気じみた行為だとしたら、どうなのか。
狂気を狂気が語る? 
白日という狂気、白日のなかの狂気、
語り手は狂気を語っているのか、それとも、狂人として語っているのか――

ひとつだけいえる。『白日の狂気』においては「物語」は狂っている、と。
これは“狂気の物語”ではなく、少なくともそれだけではなく、
“物語の狂気”が刻まれているのではないだろうか。

確かに語り手は病人であり狂人でもあるかもしれない。
狂った世界を語り、狂った人間を語り、狂った経験を語ろうとも。
しかし、物語ることの不可能性を前にして、どうして狂わずにいられるだろうか。
166SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/21(日) 19:08:49
以上が『白日の狂気』を読んで感じ考えたことです。 〆
167(OTO):2006/05/23(火) 21:24:43
SXY乙!!!
渾身のレス、感動した!やっと「白日の狂気」が少し
「読めた」気分になってきたぞ!wwありがとう!!
異論はまったく無く、全体に漂う熱気に拍手を送るしかないが、
雑感として、そしてなんとか労をねぎらいたい気持ちで、少し。

>>160
書誌的なことはこれでスッキリした。乙。

デリダのブランショ論は読んでみたいね。
「停留」では確かに細かく語ってはいるが、ブランショが語る─用意する以上のことは
語られていなかったような印象を受けたが。まあ、レヴィナスが「試論」で言うとおり
ブランショ以上にブランショを知ることは無理なのかも知れない。

>>163
「引き裂く」という言葉は(翻訳しかわからないが)バタイユもここぞという時に
使う表現だね。ネガティブかポジティブかわからないくらいに強烈な感情表現だ。
思えばここらへんの文章はブランショとしてはかなり「感情的」かも知れないね。

>>164
このレシの円環は、レシが終わる少し前で閉じている。とても不思議な印象だ。
「期待・忘却」では(これは個人的な読みだが)初稿第2部を破棄するシーンで
第1部が始まっている。ブランショ独特の時間の操作は、ひょっとすると
銃殺で終わってしまったかも知れない自身のその後の「時間」をある種ロスタイムのような
感覚で生きていたのかな、と思わせるね。
168(OTO):2006/05/23(火) 21:27:38
>>165
深くえぐりこむような論の閉じ方、すばらしい。
気迫を感じる。ただ拍手、だ。


>>110でSXYが口火を切ってから、ここまで長文55レス。「白日」本文より長いかな?ww
2人のおかげで様々な読みの可能性を俯瞰することができた。
同時に「白日の狂気」というレシの奥深さ、ブランショのすごさ、をまざまざと
「体感」したような気がする。ほんとすごいレシだし、おまいら2人も、
ほんとすごいよ。
169 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/25(木) 21:48:45

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

引き続き、大変熱のこもったパラグラフのまとめと、作品全体の括りを
していただきまして、ありがとうございます!
最終回の今回も濃厚で実にすばらしい内容です! 感激しました!
このように的確に分析し、概要をまとめていただいてブランショも本望で
しょうね。それにしても本当にすごい情熱です! 羨望のため息です。

>雑誌初出時には『白日の狂気』という言葉はなかったみたいですね。
初タイトルにはこの名前がつけられていなかった、、、
ということは、後で何らかの思惑により意図的につけた、ということでしょうか。
「狂気」という言葉は、当初は控えなければならない理由があったのかどうかは
わかりませんが、「物語」よりも格段に内容が具体的に示されているように
思えます。「狂気」は特定人物を指しているのか、世の中そのものを指して
いるのか、あるいはその両方であるのか、ブランショの真意は図りかねますが、
とにかく、ある種の憤りをもって書かれたことは確かです。
けれども、ブランショの憤りはバタイユのように対象をストレートに罵倒するのでは
なく、婉曲な言い回しや比喩が用いられることが多く、つねに冷笑のまなざしが
垣間見えるのです。


(つづきます)
170 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/25(木) 21:49:20

バタイユは短気直情型といいますか、罵倒する対象を渾身の力を込めて
貶めて斬るというやり方ですが、ブランショはそうではありません。
対象を曖昧にし、ぼかし、比喩を多用し、じわじわと斬り込んでいきます。
読み手がようやく正体を掴んだと思った次の瞬間、消えていくのですから…。
沈黙が多い分、冷徹な書き手です。

>【13.法への呼びかけ】のところで、不用意な呼びかけに法が応えていたら
>一体どうするつもりだったのか、という自問もありました。
おそらくは、周到なブランショのことですから、法はいったん応えたと見せかけて
おいて次の瞬間、白日の光のように消えていく、すなわち、たちまち背中を
向けるでしょう。。。
この辺はカフカと共通するものがあり、肩透かしはお手のものだと思います。
(あ、何だか意地悪な書き方ですみません……)
要は、物語を終わらせないための“円環”の手段はいついかなる時点においても
遍在しているということです。
そして、“円環”をどの箇所でどのように使うかは書き手のみぞ知る。
あらゆるロマン、レシにおいて書き手はつねに神=至高者なのですから。


(つづきます)
171 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/25(木) 21:50:48

>医者たちの後に「法=彼女」が姿を(シルエットとして)見せます。
「法=彼女」とするならば、医者たちはさながら「法の執行人」ということでしょうか。
「法=彼女」は「わたし」をさまざまな手法で誘惑しますね。
ここでも注目すべきは、「法」という悪しきもの(?)が女に擬人化されており、
ふたりの医師(視力快復の専門医と精神科医)=男=法の執行人は
法=看護婦=女の支配下にあるということです。
(通常では医師の方が看護婦より上であり、命令する立場なのですが、
ここでは逆転して描かれています。皮肉なのか、風刺なのか・・・)
……バタイユも罵倒する対象としての神を豚のような娼婦=女に見立てました。
男は娼婦=神に誘惑され、罵倒するもあえなく自滅していきます。
ブランショはバタイユのように罵倒とまではいわなくても、法=女を婉曲な
皮肉を込めて語ります。

『窮極の言葉』の裁判官=法の執行人は、ふとしたことで関わりになった
女(=法)の甘言に乗り、ともに塔に登り、最後に塔から落ちていきます。
つまり、女=法によって誘惑され自滅しました。


(つづきます)
172 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/25(木) 21:51:49

また、『アミナダブ』のトマは建物の丸天井まで登りつめた瞬間、落ちていきます。
リュシーという小間使い女=法によって、あるときは惑わされ、誘惑され、
上へいくことを断念するよう説得されますが、それでもトマは上方を目指すことを
やめないと知るや、女は知らんふりを決め込みます。
真実の道は実は地下へと下る道にあり、地下での生活はゆるやかで、
ひとりの男によって守られていることを最後の最後になってようやく明かすという
リュシー=女=法の意地の悪さには舌を巻きます。
法は人が本心から求めるときには沈黙しているものなのですね……。

>ひとつだけいえる。『白日の狂気』においては「物語」は狂っている、と。
>これは“狂気の物語”ではなく、少なくともそれだけではなく、
>“物語の狂気”が刻まれているのではないだろうか。
ブランショの作品においてこれほど狂気を明確に打ち出した作品も珍しい
ですね。
トマ、裁判官などは自ら狂気の世界に近づく人物ですが、『白日の狂気』における
「わたし」、医師、看護婦は、みんな最初から狂気の世界の住人ですね。
ひとつの狂気は別の狂気を呼び、病院は司法の聖地=裁判所であり、医師も
患者も入り混じって狂気の饗宴をしていると思うのはわたしだけでしょうか?


(つづきます)
173 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/25(木) 21:53:09

語り手の「わたし」はこの狂人たちの物語のなかでただひとりの「至高者」です。
そして、至高者とはいつの時代もつねに狂った人たち――政治家、権力者、民衆
たちによって至高者であるがゆえに愚弄され狂人扱いされ悲惨な最期を遂げる
宿命にあります。イエスがまさにそうでしたね。
(「あなたは狂っている」と郷里の村人に言われました)
「わたし」はなぜ「至高者」なのか?
至高者とは、「わたしは初めであり、わたしは終わりである」――(イザヤ44:6)
という絶対者なのです。
『白日の狂気』の「わたし」は“円環”という反復運動を繰り返します。
つまり、時の流れとは無関係にいかなる時代においても遍在するのですね。
余談になりますが、イエスにおける死から生への“円環”とは“復活”でしょうね。
逆説的ですが、至高者には終わりも始まりもない、“円環”として存在しつづける、
それゆえに至高者なのです。

バタイユは性の快楽を描きましたがかなり宗教色が濃く、また、ブランショに
おいても法の横暴さを訴えつつも法より上に君臨するものとして至高者を
描きました。

SXYさんやOTOさんの濃厚なレスを読み、対話を「繰り返す」ことによって、
今回も難解といわれるブランショを深く堪能することができました。
望外の喜びに浸っております。ありがとうございました!!


――それでは。
174SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/28(日) 10:30:54
OTO氏、Cucさん、過分な言葉をどうもありがとう。
ちょっと照れてしまいますが、嬉しいですね。

お二人の存在と読解に促されてこうして書いてきたわけですが、
この『白日の狂気』というごく短い作品について語ることは
当初から、終わりなき対話になりそうな予感を感じていました。
おそらく、語りえないがゆえに語る欲望を掻き立てる作品なのでしょう。
「見ることも見ないこともできなかった。」という
あの語り手のダブルバインドにも似て。
175SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/28(日) 10:40:06
>このレシの円環は、レシが終わる少し前で閉じている。
>ブランショ独特の時間の操作(by OTO)
確かに奇妙な時間です。
『至高者』の最後の言葉「今、今こそ私は語るのだ。」は、
『失われた時を求めて』のように見事な円環を成しており、
>物語を終わらせないための“円環”の手段はいついかなる時点においても
>遍在しているということです。
>書き手はつねに神=至高者なのですから。(by Cuc)
というCucさんの言葉を裏づけてもいるわけですが、
『望みのときに』のラストは『白日の狂気』のラストにも似て、
円環と同時に切断が表現されています。

――「そして、それでいて、円環がすでに私を導いているとはいえ、
また私は永遠に書かねばならなかったとしても、私は永遠を消すために
こう書くであろう。今、終わり、と。」――(『望みのときに』)
176SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/28(日) 10:52:58
>デリダのブランショ論は読んでみたいね。(by OTO)
「境界を生きる」はユリイカのブランショ特集号(1985年4月号)に
「ジャンルの法」はミッチェル『物語について』に所収されていますが、
これらの作品を含む『パラージュ』という本の翻訳が待たれますね。

>ひとつの狂気は別の狂気を呼び、病院は司法の聖地=裁判所であり、医師も患者も
>入り混じって狂気の饗宴をしていると思うのはわたしだけでしょうか?。(by Cuc)
この物語にはさまざまな狂気が描かれていますね。そして物語自体の狂気も。
狂気と物語(文学)というテーマで想起するのはミシェル・フーコーです。
(ちくま学芸文庫でコレクションが刊行され始めましたね。)
ルーセルやアルトーの名前を挙げながら狂気と文学の親近性を語っています。
――「狂気は、その作品がそこから生み出される空虚な形式を指し示す。」――
                     (「狂気、作品の不在」)
177SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/28(日) 11:06:31
「様々な読みの可能性が広がる空間のようなこの作品の構造」
これはOTO氏が以前に書いていたことですが、ここに、
ブランショがいう《文学空間》=文学特有の言葉が生まれる場所を、
また、フーコーがマラルメ以後の言語活動に見出した狂気と文学の接点を、
関係づけてみたい誘惑もありますが、これはまたの機会になるでしょう。

それから、Cucさんが『窮極の言葉』『アミナダブ』について書いている
上昇と下降の運動についてのアレゴリカルな描写もたいへん示唆的ですが、
円環が我々を既に導いているとはいえ、こう書かなければならないでしょう、
今終わりと。  〆
178SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/05/28(日) 11:13:46
追伸

>>114に対して後回しにした阿部和重について、少し。
この作家はデビュー作『アメリカの夜』から結構読んでいて
妄想にとりつかれた男を巧みにしたたかに描く作家ですね。
『ニッポニアニッポン』は大江と三島を意識して書いたようで、
ちょっとベタなテーマですが、ユーモアを感じる作品でもありますね。
『プラスティック・ソウル』でも似たテーマが反復されていて、
東京タワーと皇居を男女の性器になぞらえたりしてます。
この作家は映画にも詳しく、OTO氏も読んでるかな?と思ってるんですが。

それから、Cucさんは『海辺の生と死』を読まれたとのことでしたね。
実はひそかにこの本はCucさんにふさわしいものだと感じていたのでした。

ではまた。  〆
179 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/28(日) 21:54:13

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

『白日の狂気』について、丁寧な締め括りをしていただき、
ありがとうございます。

>円環が我々を既に導いているとはいえ、こう書かなければならないでしょう、
>今終わりと。  〆
締めとして大変ふさわしい言葉です。
これ以上ふさわしい言葉はないでしょうね。
そうですね、ブランショの思惑通りわたしたちはこのレシの感想を
延々と終わりなき対話をつづけてきましたが、今やはり「終わり」と
書かねばならないところに来たようですね。
これで、『白日の狂気』を締めとさせていただきます。
深い学識と分析に富んだ緻密で濃密なレスをありがとうございました。

>それから、Cucさんは『海辺の生と死』を読まれたとのことでしたね。
はい。少し前に読了しました。以下、感想です。
180 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/28(日) 21:55:42

『海辺の生と死』(島尾ミホ・中公文庫)を読了しました。

奄美大島での少女時代から島尾敏雄と出逢った日々までを回想しています。
子供の頃から繰り返し母に語り聞かされたお話や、島における行事、出来事などが
素直な文体で綴られています。
〜でありました、〜でございました、〜でありましょう、という丁寧な話しかけ言葉に
まるで浜田広介の童話を読んでいるような、なつかしい気持ちになりました。
(わたしは、浜田広介は大人になった今でも大好きです)
童話といえば、ミホさんと島尾敏雄の出逢いと恋も、童話のなかの
王子様とお姫様のロマンスをほうふつさせるようなものがありますね。
ただ、戦争が終わり生き延びたふたりが結ばれ、ともに生活していくとなると、
当然「現実」に直面せざるをえなくなり、童話のように「いつまでもふたりは仲良く
暮らしました」とはならなかった、ということなのですが……。

島尾敏雄が子供の頃から克明に日記をつけて小説家としての訓練を無意識の
うちに行っていたのに対し、ミホさんは母親から耳で聞いたお話、伝承を今度は
自分が語り継ぐことで作家として開花したといえましょう。
無論、夫の原稿を清書することで物語の骨格や文章のリズムを学んでいった
ことも大きいと思います。
けれども、やはり礎となっているのは亡き母親からの伝承だと思います。
ちょうど『遠野物語』のように……。


(つづきます)
181 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/28(日) 21:56:32

ふたりの劇的な出逢いと恋を描いた作品には、島尾敏雄には『島の果て』、
『ロング・ロング・アゴウ』があり、ミホさんには『その夜』あります。
島尾敏雄は文学作品(小説)として、ミホさんは回想手記として書き上げました。

ミホさんの文章は語り口調の言葉なのですね。
そこに、わたしはひとりの語り部をみるのです。
これに比して、島尾敏雄は子供の頃から文字で日記を記しました。
母親から耳で聞いた言葉と、日常でこころに感じたことを記す文字。
ミホさんの文章にある種のなつかしさを覚えるのは、まさに母親の語り言葉に
あるのですね。ミホさんは母親から語られたことを終生忘れることはなく、自分の
子供たちにも語って聞かせたと記しています。

赤ん坊が最初に言葉を覚えるのは、母親が語る言葉によってです。
言葉は先ず耳から入ります。
ですから、語り口調というものは誰にとってもなつかしく、母親のやさしい記憶に
彩られているのですね。
さながら古いオルゴールの音色を耳にすると、幼い頃の子守唄を聴いているような、
やすらかな気持ちに還っていくように……。


(つづきます)
182 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/28(日) 21:57:12

――妻はこれまで私にその幼時の思い出をかたってきかせることを断念しよう
とはしなかったが、これから先も変わることはあるまい。
そのかたり口のなかに、対象をどこまでも見つめて厭くことのないひたむきな
目なざしが感じられて、私は思いあたることがすくなくなかった――(序文・冒頭)

島尾敏雄は妻から繰り返し聞かされる思い出、父母のこと、南の離島の生活に
ある種の驚嘆の念を抱いていたようです。
ミホさんは長い患いのあと、夫の勧めもあり書くことつまり、表現すること
で快復の兆しに向かったといいます。(この辺は「ドルチェ−優しく」を参照)
『海辺の生と死』は幾つかの短い物語、回想が寄せ集められています。
会話には島言葉がそのまま記されており、それは日本語ではあっても共通語
とは違い、また異国の言葉でもなく、読んでいて不思議な気分になるのでした。
それはあたかも島尾敏雄の夢作品に出てくる地が、どこか冥府への入り口、
異界のようであり魔境めいているのに、登場人物だけは日本人であると特定される
不思議さに通じているものがあります。

ミホさんはご両親の愛情を一身に受けて、南のゆたかな自然のなかで伸び伸びと
心身ともにすこやかに少女時代を過ごしたのだな、というのが率直な感想です。
島尾敏雄の劣等感の強い少年時代――病弱、臆病、内気とは対照的に。。。


(つづきます)
183 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/28(日) 21:57:54

作品のなかから、いくつかこころに残ったところを述べてみたいと思います。

島には旅人がよく訪れたそうですね。
――旅の人たちはさまざまの思いや翳りを落として去って行きました。
美しい娘には、生涯ひとり身でふしあわせに暮さなければならないような、
悲しい出来事が残されることもありました――(「旅の人たち」 p90)
これは、おそらく島の娘が旅の若者と恋仲になり、契りを結ぶも男はひとりで
旅立ってしまい、ひとり残された娘はもはや生娘ではなく、傷モノゆえにその後、
島の男に嫁ぐことは許されなかった、ということでしょうか。

しあわせについて考えるとき、戦中に劇的な出逢いをして大恋愛の末に
結ばれたふたりがその後の厳しい現実に巻き込まれていく、という状況がはたして
手離しでしあわせと呼んでいいのか、あまりに壮絶な『死の棘』を読んだあと
では戸惑ってしまうのです……。
生涯ひとり身で残された島の娘は、端から見ればふしあわせに映るのでしょうが、
旅の若者との恋は、たとえそれが短い日々であったとしても、娘の胸のなかに生涯
焼きついていたことでしょう。年月が経ても色褪せない永遠の一瞬として。

――たとえその人ともう二度と逢えなくても、その人とこころが通い合った時間が
十分でもいい、いえ数分でもいい、それだけでわたしは前を向いて生きていける
――(映画・『黄泉がえり』の少女のセリフ)


(つづきます)
184 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/28(日) 22:40:27

ミホさんは大変繊細な感受性の持ち主でもありました。
――マベ貝の貝柱の味噌漬には未だ磯の香も残っていて、私は砂浜の渚近くの
岩に腰かけてそれを食べながら、未だ海の中にあった時の姿を思い浮かべて
少しすまない気持になりました――(「旅の人たち」 p128)
この一文は大変深い共感ともに、わたしの胸を大きく打ちました。
(というのは、少女の頃から実はわたしにはかなり感傷癖がありましたので…)

読了後、わたしの大好きな童謡詩人、金子みすずの詩を想起しました。


――「お魚」 金子みすず――

「海の魚はかわいそう。
お米は人につくられる、
牛は牧場で飼われてる、
鯉もお池で麩を貰う。
けれども海のお魚は 
なんにも世話にならないし
いたずら一つしないのに 
こうして私に食べられる。
ほんとに魚はかわいそう」


(つづきます)
185 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/28(日) 22:41:30

また、浜辺で一頭の牛が斧で眉間を割られて(おそらくは食用として)
殺される場面があり、焚き火の前で殺される寸前の牛とミホさんが交わした
まなざしの描写がありました。この場面は淡々と描かれているがゆえに一層、
悲哀を誘います。
わたしが牛の目に見たものは、死にゆくものの哀しみと、諦めと、
そして、このために(人間に食べられるために)自分は生まれてきたのだ、
という悟りにも似た深い慈愛のまなざしです。
ふたたび、金子みすずの詩を引用します。


――「大漁」  金子みすず――

「朝焼小焼だ 大漁だ
大羽鰯の大漁だ
浜は祭りのようだけど
海のなかでは 何万の
鰯のとむらい するだろう」


(つづきます)
186 ◆Fafd1c3Cuc :2006/05/28(日) 22:42:06

ミホさんは戦中のふたりの往復書簡を整理しながら、
あの頃の「隊長さま」は本当に今隣にいる夫なのかしら、
と夫の顔をじっと見つめます。
――無性にその人に逢いたくなってしまいました。
しかしそれは空しい願望でしかありません。
敗戦と同時に彼は何処かへ立ち去って行ってしまったのですから
――(p176)

戦時中は命懸けの熱烈な恋をしたふたり。
そのふたりが、九死に一生を得て奇跡的に生き延び、終戦を迎えて結婚
しましたが、現実という生活のなかで情熱は薄れ、妻は育児と家事に追われ、
いつしか夫のこころはよその女へと向かいます……。
「死の棘」の狂奔時代を経て書かれたこの言葉は、ユーモアのなかにも
幾分棘が含まれているように感じられるのは、わたしの深読みゆえで
しょうか……?


――それでは。
187SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/06/03(土) 11:29:18
>>179-186
島尾ミホ『海辺の生と死』についての書き込み、
興味深く読ませてもらいました。
『海辺の生と死』という本も
ふさわしい読者を得て本望でしょう。
――本の望み、というものがあるとすれば。

浜田広介という作家の名前は初めて目にしたような感じです。
――作品はどこかで気づかずに読んでいるかも知れませんが‥‥

>童話といえば、ミホさんと島尾敏雄の出逢いと恋も、童話のなかの
>王子様とお姫様のロマンスをほうふつさせるようなものがありますね。
まさにそうですね。その感覚はきっと島尾隊長にもあったのでしょう。
ゆえに、「はまべのうた」という童話的な作品ができたのだから。
188SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/06/03(土) 11:30:07
(承前)

「対象をどこまでも見つめて厭くことのないひたむきな目なざしが感じられて」
と島尾が序文に書いているように、「ひたむきさ」はミホのものですね。
島尾敏雄と島尾ミホの「対照」についてはCucさんが書いていますが、
この「ひたむきさ」は島尾敏雄には欠けている。
逆に、少年時代からの身体的かつ精神的なコンプレックスは、
きっと島尾ミホには無縁だったのでしょう。

二人に共通していたものがあるとすれば、繊細な感性なのかもしれませんが、
>>184-185での“感受性”についての書き込みを読んで感じるのは、
男と女で、また環境や境遇の違いで、繊細さのヴェクトルも異なるのかな、
ということでした。

>>183>>186での“しあわせ”については同感です。
ただ、同じ長い年月を共有することによって、
幸不幸とは異なる次元のものが育まれるようにも思います。
――それが幸せ以上のものかどうかは不明ながら。  〆
189 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/04(日) 22:32:59

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

『海辺の生と死』についての感想のレスをありがとうございます。

>ふさわしい読者を得て本望でしょう。
>――本の望み、というものがあるとすれば。
ありがとうございます。とてもとてもうれしいです!
ミホさんの丁寧でやさしい語り口調は叙情ゆたかでなつかしい気持ちに
なりますね。
子供の頃の、まだなにものにも歪められていないまっすぐな想いや、
形のないものにあこがれる気持ちを思い出させてくれるのです。

……例えば野花を摘んで笹舟に入れて川に流し、その笹舟が必ず海に辿り
着くと信じていたことや、空に離した風船が地球の裏側まで行くと思っていた
ことや、そんな他愛もないことが本当にうれしかった日々がふと脳裏に蘇るの
です。


(つづきます)
190 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/04(日) 22:33:34

>浜田広介という作家の名前は初めて目にしたような感じです。
>――作品はどこかで気づかずに読んでいるかも知れませんが‥‥
そうですね、ポピュラーなものでは『泣いた赤おに』、『りゅうの目のなみだ』
でしょうか。(わたしが好きなのは亡き母鳥を慕う哀切極まる『むく鳥のゆめ』や
雪深い小屋のなかで動物たちと身を寄せ合う『黒いきこりと白いきこり』です)

>この「ひたむきさ」は島尾敏雄には欠けている。
やはり代々巫女の血を引くミホさんは、対象に感情移入する度合いも激しく濃く、
また、生来の情熱的な性格もあったのでしょうね。
島尾敏雄は醒めているとまでは言わないまでも、つねに一線を画して対象を
見ている、冷静な観察者の眼を有しています。
つまり、対象に過度にのめり込まない、当事者には決してならない、どこか及び腰
を感じさせるのです。それが一転したのが『死の棘』時代の島尾敏雄です。
家財を売り払い、ミホさんとともに精神病院に入院するその腹の据わり方に
畏敬の念すら覚えます……。


(つづきます)
191 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/04(日) 22:34:12

>少年時代からの身体的かつ精神的なコンプレックスは、
>きっと島尾ミホには無縁だったのでしょう。
ミホさんの少女時代は天真爛漫そのものだったでしょうね。
母上のしつけは厳しかったかもしれませんが、両親から一度も手を上げられた
こともなく、愛情深い家で大切に育てられたのでしょう。
一方、島尾敏雄は病弱ゆえに転地療養として小学校に上るまでの数年間は
母方の郷里で祖母に育てられたといいます。離れて暮らす母親がどれほど
恋しかったことでしょうか。。。

こうした幼年時代を送った彼は、孤独かつ内気で空想癖があり、他人の自分への
評価に非常に敏感でありました。
由緒ある血統ゆえに島民たちから敬意をもって接しられることをごく当たり前の
ようにすんなりと受け容れて育ったミホさんとはあまりにも対照的です。
島尾敏雄はミホさんと出逢った当初、ミホさんにまぶしいものを感じたでしょう。
屈折したコンプレックスや葛藤を抱えている彼にとって、ミホさんは真夏の強い
陽光を浴びながら一歩も退くことなく堂々と顔を上げて咲いている炎天下の
向日葵のような明るさとすこやかさに満ちていたでしょう。
そうした邪心のなさは彼には遠いものであり、羨望であったことでしょう。


(つづきます)
192 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/04(日) 22:34:57

>二人に共通していたものがあるとすれば、繊細な感性なのかもしれませんが、
>男と女で、また環境や境遇の違いで、繊細さのヴェクトルも異なるのかな、
>ということでした。
そうですね。
島尾敏雄の繊細な感性は、自然界のものよりも人間の視線や言葉、
自らがつくりだす幻想の世界、無意識がつくりだす夢の世界に対して非常に
敏感にはたらくようですね。
一方ミホさんは、ゆたかな恵まれた自然のなかで育ったせいもあって、自然界の
被造物や、自然界の摂理である生と死、弱肉強食の結果わたしたちが口にして
いる生きものの命に対して感性が感情移入としてはたらくようです。


(つづきます)
193 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/04(日) 22:35:30

>ただ、同じ長い年月を共有することによって、
>幸不幸とは異なる次元のものが育まれるようにも思います。
>――それが幸せ以上のものかどうかは不明ながら。
“しあわせ”の定義は大変難しいですね。。。
こればかりは端から見ただけでは決められないものがあります。
長い年月を共有することで戦友のような、同士愛のようなものが育まれていく
のかもしれませんね。
そこに至るまでの道のりは決して平坦ではなく、茨の道のりであるかもしれません。
それでも、尚且つともに歩いていこうとすること、そこには意志の力が大きく
はたらいているのでしょう。

――「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでも、
峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づくひとあしずつですから」
燈台守がなぐさめていました。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみも
みんなおぼしめしです」
青年が祈るようにそう答えました。
――『銀河鉄道の夜』 宮沢賢治


――それでは。
194SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/06/08(木) 00:04:25
>>189-193

>屈折したコンプレックスや葛藤を抱えている彼にとって、ミホさんは
>(中略)向日葵のような明るさとすこやかさに満ちていたでしょう。
>そうした邪心のなさは彼には遠いものであり、羨望であったことでしょう。
この敏雄のミホに対する感情にも似たものを、
私もまた時折抱くことがあります。
ひたむきで飾りのない島尾ミホのような文章、
これはなかなか書けそうで書けないですね。
タイプは違いますが武田百合子を読んだ時もそう感じました。
島尾ミホの言葉が純粋無垢だとすれば、
武田百合子の言葉は天真爛漫といえるでしょうか。
195SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/06/08(木) 00:09:04
(承前)

宮沢賢治の言葉を>>193で引用されていますね。
>>184-185の金子みすずの詩もそうだし、
これまでにもいろいろ引用されてますが、
体得という形で言葉を自分のものにしないと
引用というのはなかなか難しいもんですね。
嗚呼、わが記憶力の乏しさよ。。。
っと、そういえば最近読み始めた本に
『ほとんど記憶のない女』というのがありました。
もう少し読んで面白さが続くようなら何か書いてみます。

ほかに最近休み休み読んでいるものは、
吉増剛造の『詩をポケットに』で、
この詩人の独特の語り口に引きこまれます。
ライブラリー版なので鞄にしのばせ、
電車の中でぽつぽつ読んでる今日この頃でした。
196 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/10(土) 11:53:24

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>この敏雄のミホに対する感情にも似たものを、
>私もまた時折抱くことがあります。
おそらくミホさんはミホさんなりにいろいろな悲しみを抱えていたと思うのですね。
私的なことでは子供の頃に母親を亡くしたこと、また当時は戦争中でしたから
先行きの大きな不安を抱えていたでしょう。
そのうえ、愛した人が特攻隊長となれば、生きたままその人と結ばれる
可能性はまったくなかったのですから……。

こうした暗い事情のもとにありながらもミホさんの生来のこころのすこやかさは
少しも損なわれることはありませんでした。
奄美の離島でゆたかな自然に囲まれ愛情深く育ったミホさんは、孤独、裏切り、
嫉妬、そうしたものとは無縁でした。
島尾敏雄が幼少時に病弱ゆえに母方の実家に預けられ、母を慕い、
孤独癖や身体的劣等感を深めていった生い立ちとはあまりにも対照的ですね。

それはやはりミホさんが根本的に「人を信じている」からなのですね。
その信じる度合いは並外れて大きかったといえるでしょう。
だから、夫に裏切られたと知るや、その反動としてこころを病んで
しまいました……。
197 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/10(土) 11:56:28

>タイプは違いますが武田百合子を読んだ時もそう感じました。
武田百合子の短いエッセイを何かで読んだ記憶があります…。
確かこんな内容でした。

「私」は友人と連れ立って高級レストランに入りオムレツを頼みます。
運ばれてきたオムレツは高価そうな大皿に彩りよく配置されています。
「私」はこの盛りつけに感心し、今度自宅でつくったときはこうしよう、と思います。
友人と「私」はさっそくオムレツを食べ始めます。
ふたりともしばし無言。フォークの動きがふたりとも次第にのろのろと鈍くなります。
ややあって友人が顔を上げて「これ、ゲロの味がする」と言い、トイレに走ります。
「私」も実はそう感じていた…

非常に短いものですが、切れのいいリズミカルな文体といい、ストレートな表現
(天衣無縫というのでしょうか…)といい、あまりにも強烈で今でもよく覚えています。
このエッセイを読んでしばらくはオムレツを食べるのが怖くなりましたよ。。。

(食事中の方々、ごめんなさい……)


(つづきます)
198 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/10(土) 11:57:41

>ほかに最近休み休み読んでいるものは、
>吉増剛造の『詩をポケットに』で、
吉増剛造を読んでいらっしゃるのですね!
ちょうどOTOさんも読んでいらっしゃいますよ。
わたしは昨日『牧野信一全集』を借りてきました。
SXYさんが幻想文学集大成を読まれたとき、牧野信一の名前が挙がって
いましたので、わたしも読みたいと思いました。

>『ほとんど記憶のない女』というのがありました。
>もう少し読んで面白さが続くようなら何か書いてみます。
ぜひぜひお願いします!
牧野信一の次に読みたいものが決まりました♪

そうそう、島尾ミホ関連でOTOさんがソクーロフ監督の映画「ドルチェ」の
感想を少し前に書いてくださってますが、今回またソクーロフ監督の
「静かなる一頁」という映画をご覧になられたそうですよ。
近いうちにこちらに感想をupしてくださる予定のようです。
楽しみですね!


――それでは。
199SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/06/11(日) 22:45:24
>>196-198
吉増はOTO氏が年代順プロジェクトで読んでましたね。
『詩をポケットに』は「愛する詩人たちへの旅」というサブタイトルで、
吉増が古今東西の詩人を読んでいく詩論集、というよりも、
詩・歌・句を具体的に読んでいくというその歩行を刻んだ紀行、
となっているかのような案配のものなのですが、
萩原朔太郎に始まる幾人かの紹介される詩人の中には、
啄木や茂吉や与謝野晶子、尾崎放哉や種田山頭火、西脇順三郎のほか、
北島、芒克、戈麦といった未知の中国の詩人もいれば、
韓国の詩人の高銀もいて、イエイツもいるという多彩な顔ぶれで、
さらに、中也、折口信夫や柳田国男、田村隆一や吉岡実もいます。
トリをつとめているのは>>193でCucさんも引用された宮沢賢治ですが、
全22回のうちの3回を伊東静雄にあてているのが印象的でした。
200SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/06/11(日) 22:47:09
(承前)

――敗戦の後の虚脱が全身に侵蝕しはじめ、戦争中の退廃の潜伏が顕れてきたのだ。
  そしてひと月に二度か三度の伊東静雄訪問が私を支えだす。――

という島尾敏雄の言葉を引いて伊東静雄を照射しようとする吉増。

そして、与謝野晶子の章では島尾ミホの言葉を冒頭部に持ってくる吉増。

繊細で丁寧な揺らぎに満ちた吉増の口語体の魅力もさることながら、
島尾敏雄や島尾ミホの言葉をさりげなく引用しながらの吉増の足取りが興味深く。〆
201SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/06/11(日) 23:09:43
(追伸)

武田百合子が書くとゲロネタもさわやかで(笑

そういえば、武田花(娘)も島尾伸三(息子)も
偶然でしょうが、共に写真家ですね。

Cucさんの牧野信一、OTO氏のソクーロフ、楽しみです。

ワールドカップが始まったので読書は停滞しがちです。。。 〆
202(OTO):2006/06/14(水) 13:02:46
ゲロネタワロス
なんでそのオムレツはゲロの味がしたんだ?ww
おれ、けっこうオムレツは得意なんだがwwでかいフォークで混ぜるのがコツで……
閑話休題。

しばらくぼーーーーっとROMしてたよw
未読作品についての二人の対話は、静かで落ち着いた「声」が聞こえてくるようで、
気持ち良かったw ときに黙って頷いてたりねw


島尾ミホは「しあわせ」だったのか?
これは「ドルチェ」でのソクーロフの視点にも存在した「疑問」だ。
しかし様々な「もし○○だったら」という仮定のすべては
「もし戦争がおこらなかったら」という巨大な仮定に飲み込まれるとき、
過去における「仮定」自体の無意味さを露呈する。
すべてはそのように起こり、ミホは生き抜いた。
「ドルチェ」での彼女の「表情」に言葉にならない答えを見た思いがする。
203(OTO):2006/06/14(水) 13:05:38
>>199
吉増剛造年代順計画はいま「The Other Voice」2002途中。
並行して現代詩文庫の寺山修司と白石かずこを読了。
高円寺の古書店で比較的状態のいい平凡社刊「聊斎志異」を購入して
ぽつぽつ読んだりしてました。
「詩をポケットに」は2003年だね。次読むよw
吉増剛造は自分の活動すべてが響きあって、前へ進んでいくようなところがあるから、
詩でも対談でもエッセイでもとにかく年代順に読んでいくと、わかることがある。
それに彼の口語文は詩とはまた違ったリズムがあっておもしろいよね。
「死の舟」の旅行記や対談を読んで思った。

Cucが予告してくれた(w)ソクーロフの感想を書こうと思うのだが、
映画の感想は基本的に板違いと思う部分があり、いままでも飽くまで本との関連で
書いてきたつもりだ。今回見た「静かなる一頁」も、この映画が二人とも
(そしてこのスレROMしてくれてる人たちも)
きっと読んでいる本の「映画化」と言えるものだと思ったので書こうと思った。

その本とは「罪と罰」である。
204(OTO):2006/06/14(水) 13:06:35
「静かなる一頁」1994年A・ソクーロフ監督。
英語タイトル「WHISPERING PAGES」の方がこの映画の表現方法が伝わりやすいだろう。
(19世紀ロシアの散文をモチーフに)とサブタイトルがついているが、
早い話、「罪と罰」のストーリーにそって物語は進行する。
沈鬱で内省的なロシア文学の代表作、その行間に漂い、ページをめくる音のように囁く
或る、暗い「トーン」が見事に映像化されている作品である。
舞台は、常に微かな蒸気が漂う巨大地下運河のような街。
その運河の上を飛ぶ大きな白い水鳥の群。その奇蹟のような美しいショットで映画は始まる。
カメラは移動し、運河のほとり、石段に腰掛け、じっと何かを考え続けている若い男を
遠くから見つめ続ける。
シーンは変わり、若い男は夜の寂れた街をもくもくと歩き続ける。遠くで犬が鳴き続け、
微かな話し声も聞こえるようだ。
この若い男がラスコーリニコフだと我々が気づくのは次のシーンになってからだ。
金貸しの老婆が殺されたといううわさ話をする街角の男達のロングショット。
話し声は断片的にしか聞き取ることができず、やがて男達の間で諍いが起こった時に、
その中にラスコーリニコフもいたことに気づく。
205(OTO):2006/06/14(水) 13:07:46
こういった調子で映像は続いていく。終始沈黙するラスコーリニコフ。
小説「罪と罰」を埋め尽くす彼の内面の葛藤はすべて、湿った暗闇の支配するその街の
「映像」として、そして常に遠くに聞こえる、日々の生活に喘ぐ人々のざわめきとして
表現されているようだ。
急にセリフが響き、驚くのは、父の葬儀へラスコーリニコフを招くために彼の部屋を
訪れるソーニャが登場するシーンだ。当時若干14歳のリザヴェータ・コロリョーヴァの
気弱で病弱そうな姿は、演技では片付けられない鬼気迫るものがある。

「罪と罰」のペトローヴィチ判事がTVドラマ「刑事コロンボ」のキャラクターのモデルになっている
というのは有名な話しだが、この映画でもペトローヴィチ判事は強烈なキャラクターに仕上がっている。
関係のない話しをくどくどと喋りながら、ラスコーリニコフに書類を書かせ続け、
喋りながらいねむりし、別のシーンではいきなりわめきながら登場したりする。
彼はおもしろい。あまり書くとネタバレになるのでこれ以上は書くまい。
(もうかなりネタバレだけどねww)
206(OTO):2006/06/14(水) 13:09:02
圧巻はやはりソーニャがラスコーリニコフに、大地に接吻し、罪を告白せよと迫るシーンの
映像としての説得力だろう。神を信じるソーニャの「眼」は1929年カール・ドライヤー監督の
傑作「裁かれるジャンヌ」さえ思い出させる。
原作の、選択肢のあり得ない結末を残し、映画は幕を閉じる。
見終わった後も、あの不思議な夜の街、微かな蒸気の漂う「幻想されたロシア」は
しばらく心のなかに留まった。

「罪と罰」を読んだのはもうかなり昔だが、読んだ時に感じた重苦しさ、やりきれなさが、
セリフではなく、映像から伝わってくるのはすごいと思ったな。
やはりとてつもなく硬派なソクーロフなのだが、「罪と罰」を読んでいるのなら、
この作品は彼の世界へのわかりやすい入り口になるとも思った。
207 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/17(土) 18:59:11

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>>199

>萩原朔太郎に始まる幾人かの紹介される詩人の中には、
>啄木や茂吉や与謝野晶子、尾崎放哉や種田山頭火、西脇順三郎のほか、
>北島、芒克、戈麦といった未知の中国の詩人もいれば、
実に絢爛豪華な顔ぶれですね!
吉増剛造はこころが始まるところ、すなわち感受性とはすべての道に通じる道
であると「私のこだわり人物伝」(NHK教育・知るを旅する)繰り返し述べて
おいででした。
ここに挙げられた詩人、俳人たちはまさしく「すべての道に通じる道」=「想像力」
が大変ゆたかな人たちですね。
何かで読んだのですが、想像力というものは少なくとも十二歳くらいまでに
鍛えておかないとその後はあまり開花しないそうです・・・
つまり、十二歳くらいまでは皆一様に想像力は持っているのですが、
その期間に鍛えるか鍛えないかでその後が決まってしまう、ということでしょうか。。。


(つづきます)
208 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/17(土) 18:59:45

>>200

>そして、与謝野晶子の章では島尾ミホの言葉を冒頭部に持ってくる吉増。
ああ、なるほどなあ、と思いました。
「みだれ髪」で知られる情熱の歌人与謝野晶子は、巫女的な性格を持つ
島尾ミホと共通するものがあるのでしょう。
それは眼前の対象に瞬時に憑依できる共感力の深さです。
共感力には知識は不要です。
また、“感じる”能力は誰かが強制的に感じなさい、と命令することはできません。
そして、感じたい、と切望してもどうにかなるものでもありません。
その人のこころの一番やわらかなところにある聖地は意志の力でとうにかなる
ものではないのですね。。

風の姿は見えませんがかすかに揺れている若葉を見ることで、風が吹いている
ことを通常は知るのですが、こころの聖地では風の姿が見えるのです。
なぜなら、「ドルチェ」の本でいみじくも吉増がチェホフの言葉を引用したように、
その若葉とは自分が植えた樹であり、若葉は自分自身なのですから。
だから、風が吹いていてもいなくても風の姿が見えるのです。
――風はこころの眼で感じ取るものだから。
それが「創造の道」なのだと思います。


(つづきます)
209 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/17(土) 19:00:34

>>201

>そういえば、武田花(娘)も島尾伸三(息子)も
>偶然でしょうが、共に写真家ですね。
親が創作という「表現者」である場合は、子供は別の手段の「表現の道」を
選ぶのかもしれませんね。
例えば親が「言葉の表現者」であるならば、子供は写真という「映像の表現者」で
あるように。。。
そういえば、遠藤周作の息子の龍之介氏はテレビドラマのプロデューサーであり、
また芥川龍之介の息子也寸志氏は「音の表現者」作曲家ですね。

近日中に『日本幻想文学集成・牧野信一』の感想をupします。


――それでは。
210 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/17(土) 19:08:19

OTOさん

>>202
>なんでそのオムレツはゲロの味がしたんだ?ww
う〜ん、わたしの推察ですが、おそらくは細かく刻んだ高価な輸入タマネギや
高級ベーコン、聞いたこともないような香辛料などが入り混じって
“反乱”を起こしたのではないかと・・・

>おれ、けっこうオムレツは得意なんだがwwでかいフォークで混ぜるのがコツで……
おおっっ! 得意料理でしたか。わたしは長〜い菜箸を使ってますよ♪

>島尾ミホは「しあわせ」だったのか?
……そうですねえ、客観的な事実だけを見れば、子供の頃に母と死別し、
二十代の青春期は戦争を体験し、特攻隊長との命をかけた恋は奇跡的に実るも
夫の浮気が発覚するや否やこころを病み、、、手離しで「しあわせ」とは
言い難いですよね。
仮に戦争が起こらなかったら島尾敏雄と巡りあうことはなく、前から決まっていた
島の許婚の男性と結婚したでしょう。つまり、傑作「死の棘」は書かれることはなく、
また、ミホさん自身も書く喜びに目覚めることはなかったでしょうね。
ミホさんという人は今自分が手にしているもので充分に満足し、限りなく感謝できる
人だったと思うのです。


(つづきます)
211 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/17(土) 19:09:18

――失われたものを嘆くよりは、今自分が持っているものに感謝しなさい――
これはアメリカの作家、フィッツジェラルドの言葉です。
「しあわせ」というものを考えるとき、いつもこの言葉が脳裏をよぎるのです。
ミホさんは戦中であっても命がけの恋をし、こころを病んだおかげでその後一層
夫との絆が強くなったことを感謝したのではないでしょうか。

――幸福になる鍵のひとつには「いつも喜んでいること」と「感謝」が挙げられる。
感謝の人とは最高の姿である。感謝の人はこころが伸びやかでふくよかである。
感謝の人の周りには自然と人が集まり、文句の人からは足が遠のく――
――「こころに迫るパウロの言葉」・曽野綾子
たびたびの引用で恐縮ですが、ミホさんと同じカトリックの信仰を持つ曽野さんの
言葉です。
障害を持ちながらも心根が清らかでやさしい娘のマヤさんと夫の死後、寄り添う
ようにひっそりと暮らしていたこと、ここには世間でよく見られる嫁姑の争いは
ありません。
これも見方によっては、ひとつの「しあわせ」なのではないでしょうか?


(つづきます)
212 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/17(土) 19:39:12

>>204-206

A・ソクーロフ監督の「静かなる一頁」の感想をありがとうございます。
とても深い想いで読ませていただきました。
映像描写はいつものことながら上手いですね! 
詩的でかつ的確な表現はさすがだなあ、と……。
ラスコーリニコフの葛藤を夜の街や雑踏で表現しているのですね。

>舞台は、常に微かな蒸気が漂う巨大地下運河のような街。
>その運河の上を飛ぶ大きな白い水鳥の群。その奇蹟のような美しいショットで
>映画は始まる
画面一面に水煙が立ち上がり、霧が漂っている、何とも神秘的な映像ですね。。。
湿度の高い画面はラスコーリニコフの湿ってじぐじぐと今にも膿が噴き出しそうな
心理描写でしょうか。

>当時若干14歳のリザヴェータ・コロリョーヴァの
>気弱で病弱そうな姿は、演技では片付けられない鬼気迫るものがある。
ああ、ソーニャのイメージぴったりですね!
そう、ソーニャは原作でも普段はどこかおどおどしていて、気弱で決して
自分を主張しませんね。


(つづきます)
213 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/17(土) 19:40:24

それが、ラスコーリニコフの告白を聞いた瞬間、毅然として「あの」セリフを
言い放つのです。
「大地に接吻しなさい」
この瞬間のソーニャは気弱で臆病なイメージは払拭して、神々しいまでの光を
まとっています。ひれ伏して拝みたくなるほどの眩い光を放っているのですね。

それはこの世ならぬものの姿、神の化身のようにさえ思えます。
そして、ソーニャが具現する神の姿とは、怒り裁く威圧する厳格な神ではなく
限りない慈愛に満ちた赦しの神です。

>神を信じるソーニャの「眼」は1929年カール・ドライヤー監督の
>傑作「裁かれるジャンヌ」さえ思い出させる。
ジャンヌ・ダルクですね。
「裁かれるジャンヌ」は未観ですが、神を信じる「眼」で真っ先に想起するのは
1972年・フランコ・ゼフィレッリ監督の「ブラザーサン・シスタームーン」の
フランチェスコと、1954年・フェリーニ監督の「道」の少し精薄気味の女性、
ジェルソミーナですね。
わたしたちが彼らの眼を通して見るのは“無垢なるもの”です。

「ブラザーサン・シスタームーン」
http://www.aritearu.com/Influence/Francis/PhotoAssisi/Brother.htm


――それでは。
214SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/06/18(日) 14:22:18
レスアンカーなしでお二人に向けて書きますね。

>彼の口語文は詩とはまた違ったリズムがあっておもしろいよね。(by OTO)
そうなんです。吉増の語りの「リズム」が非常に面白い。
実際の生の声を聞いたらもっとその感じが強まるのでしょうが、
書かれた言葉でさえもその息遣い、あるいは「トーン」でしょうか、
それとも「歩行」と呼んでもいいかもしれませんが、
それが伝わってきますね。

『詩をポケットに』――これは、吉増が数々の詩歌をポケットに入れて歩いた紀行、
そんな趣もあるのですが、この本自体が我々のポケットにフィットする体裁と内容で、
歩行を促すような雰囲気を、その「リズム」や「トーン」と共に与えてくれます。

>いま「The Other Voice」2002途中。(by OTO)
とのことで、吉増剛造年代順計画の途上、あるいは「夢の中径」でしょうか、
その歩行に『詩をポケットに』が携えられるのも近いですね。
215SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/06/18(日) 14:23:40
>寺山修司と白石かずこ(by OTO)
当方はルネ・シャールの詩を少しばかり読んで
リディア・デイヴィスという作家(ブランショやミショーの翻訳者でもあります)の
『ほとんど記憶にない女』という小説をこれも少しばかり読んでました。
これは長短さまざまな51の短篇(というよりコントですね)を集めたものですが、
「フーコーとエンピツ」「グレン・グールド」といった題のものがあったり
作品中にビュトールやジョージ・スタイナーといった名前が出てきたりもして、
なかなか知的で洒落ていてソフィストケイトされてもいるのですが、
Cucさんに勧めたいというほどの刺激があったわけでもなかったので、
ひとまずは図書館に返却、文庫化された『フーコー・コレクション2』に乗り換えました。
バタイユ論、ブランショ論、ルーセル論などをはじめ、濃密な作品が目白押しで、
“文芸批評家としてのフーコー”に魅惑されている今日この頃です。
216SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/06/18(日) 14:24:21
>重苦しさ、やりきれなさが、セリフではなく、映像から伝わってくるのはすごい(by OTO)
というソクーロフ監督の「トーン」ですが、これはあるいは「囁き」でしょうか、
映像における「トーン」が、「ページをめくる音のよう」な囁きにも似てくる。。。
あるいはまた、Cucさんによる「風が見える」という表現を受けつつ、言葉を接いでみれば、
>風の姿は見えませんがかすかに揺れている若葉を見ることで、(by Cuc)
というときの「揺れる若葉」で風を見せるのではなく、「風が見える」トーン、
あるいは「セリフ=めくられるページ」抜きの、「囁きが聞こえる」トーン、
こうして風と囁きの連想にさらに脳裏をよぎってくるのは、巫女的な女性のイメージ、
たとえば、「この世ならぬものの姿、神の化身のように」(by Cuc)思えるソーニャ、であり、
また、「眼前の対象に瞬時に憑依できる共感力の深さ」(by Cuc)を持った女性、
――(これは与謝野晶子と島尾ミホについての言葉でしたが)――なのかもしれません。
217SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/06/18(日) 14:27:19
>でもとにかく年代順に読んでいくと、わかることがある。(by OTO)
個々の作品が折り重ってできていく層、層の堆積の変遷が見せる絵模様、
そして層の間から立ち上る「囁き」というものがきっとあるのでしょうね。
「WHISPERING PAGES」あるいは「WHISPERING A MARGIN OF PAGES」でしょうか。

>近日中に『日本幻想文学集成・牧野信一』の感想をupします。(by Cuc)
牧野信一は、私小説(実)と幻想小説(虚)を融合させたというか共存させたというか、
あるいは融合しないままに接合させたというか、その虚実の混ざり具合が面白く、
またその混ざり合わなさ――実から虚への落差・ギャップ――が面白い作家だと思います。
「ゼーロン」は『日本幻想文学集成』には入ってないかもしれませんが、
ギリシア・マキノと呼ばれる作品のいくつかはきっと入ってるでしょうね。  〆
218 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/20(火) 20:25:07

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>文庫化された『フーコー・コレクション2』に乗り換えました。
>バタイユ論、ブランショ論、ルーセル論などをはじめ、濃密な作品が
>目白押しで、“文芸批評家としてのフーコー”に魅惑されている今日この頃
>です。
そうでしたか。『ほとんど記憶にない女』は貸し出し中で予約が何人も入っている
ようです。当分は借りるまでかなり時間がかかりそうです。。。
評論をわたしも読めればいいのですが、いつも途中で挫折してしまいます…。
でも、バタイユやブランショにも触れているとなると興味はありますね。

>牧野信一は、私小説(実)と幻想小説(虚)を融合させたというか
>共存させたというか、
日常のふとした出来事や会話、そうしたありふれたものたちを、牧野信一は
架空の村落に移し変え、セリフを芝居のように大仰に書き換え、人物をこの世
ならぬものたち――鬼や天狗に化身させますね。
彼の作品は自身楽しんで書いただろうと思わされるものがあります。
ひとつの場面描写への熱の入れようは並みではなく、そこに彼特有の
幻想風景や架空の神々たちが舞い降り、「祭」(お祭り騒ぎ)をします。
そこではもはや村はただの寒村ではなく魔境の地と化します。


(つづきます)
219 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/20(火) 20:25:47

>「ゼーロン」は『日本幻想文学集成』には入ってないかもしれませんが、
次回に借りようと思いリクエストしました。

>ギリシア・マキノと呼ばれる作品のいくつかはきっと入ってるでしょうね。
『夜の奇蹟』、『バラルダ物語』あたりでしょうか?
この二作品は幻想的作風と、怪奇ロマン風とに分かれていますが、
奇々怪々な展開と大仰な物言いは共通するものがありますね。

以下、『日本幻想文学集成』の感想です。
220 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/20(火) 20:26:24

『日本幻想文学集成・牧野信一』の感想を記します。

何とも摩訶不思議な幽玄な世界の作品群ですね。
どこか特定の村落なのでしょうが、それがこの世にあるとは思えない。。。
喩えていうならば、月光のもとでのみ光る苔の群れたちが満月の晩に
こっそり小人となって森中を蠢き行進している情景を、こっそり隠れて
覗き見ているような、、、妖しげな月下の一群です。

牧野信一の文章はやや芝居がかって大仰であり、あまりに古色蒼然すぎると
思わないでもありませんが、その大上段に構えた文体が何ともいえず
味わいがありますね。
流れるような滑らかな文体とはほど遠く、ごつごつしていて、読みにくいこと
この上ないのですが、描かれた幻想世界と相まって悪文(失礼!)が逆に
魅力になっています。
そう、牧野信一の世界はすらすらと読めてはならないのです。
一文一行ごとに読む人を立ち止まらせ、ここが現実の世界なのか、
あるいは幻想の世界なのか、しまいには両者の境界をわからなくするのです。

自分だけは大丈夫、こちら側の世界にいる。あちらの世界に呑まれるものか!
そんな決意は読み進むうちにみるみる揺らいできます。。。
この酩酊感は夢野久作と共通するものがあります。


(つづきます)
221 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/20(火) 20:26:58

『風媒結婚』の「僕」は望遠鏡で若い女性の部屋を覗き見する男です。
最初、薄気味悪く思いながらも、いつしかわたしたちはそっくり「僕」の目線で
眺めることを楽しんでいます。
そして、「僕」が女性に恋情を抱くのは望遠鏡で密かに覗き見している時だけ。
実際にその生身の女性とつきあうとたちまち「僕」の恋ごころは醒め、終わりを
告げるのです。同時に読み手のときめきもその瞬間終わるのです。

また、『繰舟で往く家』のかけおちしようとしている青年と娘は間に一本の野川を
挟み、互いに見つめあいながら川の上流を目指して歩きます。
いつまでたっても川幅は狭まらずふたりは平行線のまま・・・
間に川があることでかえって若いふたりの恋情は燃え上がるかのようです。
ええ、そうです。
牧野信一はわざとふたりの恋を成就させないのです。このふたり同様、
読み手も焦れて焦れて、それでもまだあきらめられなくて。。。

実はふたりの間に川など初めから存在しないのではないでしょうか?
川はふたりの意識がつくりだした幻であり、その幻の川ゆえにふたりの想いは
いよいよ高められ燃え上がるのです。
作者もそれを高みから見物して楽しんでいるに違いありません。
つまり、作者と登場人物とは共犯なのですね。
わたしたちはまんまと一杯食わせられているのではないでしょうか……?


(つづきます)
222 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/20(火) 20:27:35

『夜の奇蹟』において、作者の企みはますます顕著です。
雪江の亡き姉に似せられてつくられた人形を熱愛する滝尾という青年。
仮面舞踏会の夜、雪江は人形の衣装を纏い滝尾に迫るも滝尾の
まなざしは決して生身の雪江には向けられない……。
滝尾が見ているのは彼だけが見ることのできる美しい幻影なのですから。

この三篇を読んで思うことは、恋とはすべからく美しい幻想であり、
自分の理想や望ましい恋人のあり方を相手に投影し、勝手に押しつけている
だけなのだ、ということ。。。
つまり、どんなに相愛に見える恋人同士でも、それはひとりよがりの行為なの
ですね。だから、恋から醒めた途端、現実を見て愕然とするのですね……。

――人形の、腕や胴や脚が、バラバラに分解されたまま投げ込んであつた。
衣裳に覆はれる部分の、腕は、胴は、そして脚は、砥の粉も塗つてないただの
棒切れであつた――『夜の奇蹟』
まさに、現実をまざまざと見せつけられた瞬間です。。。
もし、いつまでも現実を見たくないのであれば、
――僕は孤独を愛す。
僕の世界はこの展望の一室だけで永久に事足りるであらう――『風媒結婚』
この青年のように一室に閉じこもりつづけるしかありませぬ、、、


(つづきます)
223 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/20(火) 20:58:32

けれども、牧野信一のまなざしはこうした幻想の世界に生きる青年たちに
微笑みと共感をもって注がれ、彼らを嘲笑したりはしません。
牧野信一はおそらく知っているのです。
過酷な人生やつらい現実に文句ばかり言って生きるよりも、ほんのひとときでも
浮世を忘れていられるような、自らつくりだした夢のような美しい世界に遊び、
呆けているほうがしあわせなこともあるのだ、ということを。

『淡雪』は善玉悪玉がはっきり分かれている物語性に富んだお話し。
善玉の女主人公はあくまでも無抵抗な善良で薄幸な生涯です。
女中上がりで主人をたぶらかし正妻にのし上がった身持ちの悪い悪玉の女は
どこまでもふてぶてしく、好き勝手なことをして人生を送ります。
牧野信一の小説はどんな善良な人間にも邪悪なものが潜んでいることを
暴きません。
また、反対にどんな悪辣な人間でも良心の呵責があることも描きません。
人間の内面に深く向き合うことを徹底して拒み、出来事のみを綴っていきます。
そうした意味で「読みもの作家」としては大変面白い作家ですね。


(つづきます)
224 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/20(火) 20:59:05

同じことが『月あかり』にもいえますね。
この村落では名前を持たずあだ名で呼ばれています。そのあだ名の何と
ユーモラスなこと! (ぶくりん、ぐでりん、トンガラシ、湯上がり…)
男は何とかこの村を脱出しようと試みますが、猛女・かくによって阻止されます。
このかくは中上健治の作品に出てくる「オリュウノオバ」をほうふつとさせます。
結局男はこの村で生きることを余儀なくされるのですが、この村でしか生きられ
ない男の葛藤や懊悩までは中上健治のようには決して踏み込まない。。。
これが牧野信一の手法なのだとは思いますが、わたしたちは物足りないと思う
反面、そうだ、これでいいのだ、ああだこうだとわめいたところでそうそう簡単に
人生は変わるものではない、出来事を面白がり、自分の人生の傍観者になる
という手もあるのだなあ、と納得してしまうのですね。

特定の場所を舞台にする作家は、フォークナーや先に挙げた中上健治が
いますが、彼らがつくりあげた濃密な人間関係が蠢き徘徊するトポスには
遠く及ばないまでも、牧野信一もひとつの村落を設定し、そこで繰り広げられる
人間喜劇(バルザックほど徹底してませんが…)を描きます。
それも独特の摩訶不思議な卓抜した感覚で。


(つづきます)
225 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/20(火) 20:59:47

『鬼涙村』『バラルダ物語』は怪奇ロマンがより濃厚に漂う作品です。
『鬼涙村』の御面師のもとに居候している「私」は次の祭りの晩に担がれる
のは自分らしいとの噂を聞いて青くなります。
訴えるにも担ぎ手は皆お面をつけているので誰が誰だかわからない。
つまり、鬼涙村ではこのリンチは黙認されているのですね。
結局誰が担がれるのか不明なまま物語は終るのですが、結末云々よりも、
朧月夜の晩に天狗や、赤鬼、青鬼の面をつけた男たちがひとりの生贄の男を
宙に高く放り上げながら運んでいる光景は戦慄が走ると同時に、この世のもの
ならぬ人たちの凄みを帯びた妖しい美しさが漂っています。
担ぎ手は、身体は人、顔は鬼というまさにギリシャ神話に出てくる神々を
ほうふつさせるのです。月光の下で凄惨な美しさが一層冴え渡るのですね。

『バラルダ物語』は生活力もなく無力である「私」が祭りのときに一番の名誉と
される大太鼓の撥をとる、というお話しです。
パン、ユターピ、バッカス、エラトー、とギリシャの神々の名前が登場します。
「私」は身にふりかかった災難に、こうした神々の物語に自分をあてはめます。
本来なら夢想をする間に少しでも逃げる算段をしたほうがいいのではないかと
助言したくもなるのですが。。。


(つづきます)
226 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/20(火) 21:02:18

姑息な債権者たちが「私」にあの手この手を使って捺印させようとするも
「私」は空想の世界に浸り、間一髪目覚めて仁王立ちになり彼らを一蹴します。
――気づくと私は、炎々と囲炉裏に燃えさかつていた三尺あまりの隆々逞しい
赤松の薪太棒を振りかぶつて、まんまるな月の光を浴びつつ、芋畑のふちで
鬼と化していたのだ――『バラルダ物語』 (p217)
これなどまさに常日頃は、へなちょこりんの青白いうらなり瓢箪が、
いきなり怪力の持ち主・美丈夫のヘラクレスに変身したかのようですね。。。

牧野信一は自らつくりあげた物語に非常に陶酔する傾向がかなり強い作家
であると思います。これは、うぬぼれとはちょっと違います。
書きながら「私」はいつしか自分の言葉や自分の振る舞いに酔いながら
大立ち廻りを演じます。この大仰な芝居は本人が大真面目であればあるほど
どこか滑稽味を帯び、観客の笑いをより一層買います。
それゆえに、物語自体はかなり深刻なのにちっとも重くないのですね。
そこにわたしは、悲惨な状況に大仰に酔うことは一転して喜劇になる、という
牧野信一の文学の真髄と、過剰ともいえる≪サービス精神≫を見るのです。

――この頃私は「悲劇」「喜劇」の出生とその岐れ道の起因に関して深く感ずる
ところから劇なるものの歴史について遠くその源を原始の仮面時代の空に
さ迷つていたところ――(p228)
と自ら記しているように、「悲劇」と「喜劇」は一瞬の岐路で決まります。


(つづきます)
227 ◆Fafd1c3Cuc :2006/06/20(火) 21:02:59

次の一文は「悲劇」なのにどこか「喜劇」性を帯びていますね。
――あの日、私の妻はアメリカン・ビュウティのスキー・ジャケツに見を固め、
頭には雪のやうに真白なターバン帽子をいただき、ほのぼのとして「春風」に
打ち乗つた。お雪は新しい紺がすりの袷着に赤い帯をしめて脚絆草鞋に
そよそよと、いでたちをととのへ「白雲」に打ち乗つた。(中略)
「春風」も「白雲」も共に労働馬であるが、朝霧のなかにしやんしやんと鈴を
鳴らした――(p211)

これは「私」が債権者の手から妻と世話になっている人の娘の身を守るため
他の村に発たせる描写ですが、悲惨さは不思議なくらい皆無です。
それどころか、寒村の鄙びた貧しい暮らしには不似合いともいえるハイカラな
≪スキー・ジャケツ≫、≪ターバン帽子≫。また≪ほのぼの≫、≪そよそよ≫、
≪しやんしやん≫といったおよそ悲劇からはほど遠い言葉の羅列。
さらに「春風」「白雲」、青雲の志を思わせる労働馬のどこか場違いな名前、、、
毎度の過剰な演出とそれに陶酔している「私」の姿が伺えます。
ふたりの女性は債権者から泣く泣く逃れるというよりは、敵地に赴くような
意気揚々とした溌溂たる凛々しさすら漂わせており、実にアッパレ! です…。

この大上段に構えた可笑しさは牧野信一ならではの得意芸ですね。
前半の幻想的な作品と、後半の物語性の強い作品と、同じ作者の違う面を
楽しめました。牧野信一はひと粒で二倍美味しい作家ですね。


――それでは。
228SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/06/25(日) 17:36:57
>>218-219
Cucさんが言うように、フーコーとブランショの関係は興味深いですね。
バタイユとブランショ、レヴィナスとブランショには相互のオマージュがありましたが、
フーコーとブランショの間にも友愛にあふれた同様の関係があるといえそうです。
フーコーには「外の思考」という優れたブランショ論があり、
ブランショには『ミシェル・フーコー思いに映るまま』という本があります。

牧野信一は作風の変化があったとされていて、
私小説的だった初期から幻想小説的な中期を経て、
後期にはまた私小説的な方向へ回帰していったようです。
個々の作品をどういうふうに分類するかは置いといて、
ギリシア・マキノ物には私小説的かつ幻想小説的な二重性を感じます。
「ゼーロン」のほか、「バラルダ物語」もギリシア・マキノ物ですね。
229SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/06/25(日) 17:43:42
牧野信一についてのリンク

ttp://smakino.sakura.ne.jp/
※牧野信一電子文庫 
↑のアーカイブでは牧野信一のほぼ全ての小説作品が読めます。

ttp://www.aozora.gr.jp/index_pages/person183.html#sakuhin_list_1
※青空文庫(牧野信一)
↑では
熱海線私語 鱗雲 鬼涙村 城ヶ島の春 ゼーロン 痴日 
吊籠と月光と 文学的自叙伝 緑の軍港 余話・秘められた箱
などが読めます。

http://www.connec.co.jp/makinos/news/panfu/panfu1-50.jpg
※筑摩書房版 牧野信一全集の推薦の言葉
↑では
「川村二郎−呪文のひびき」「なだいなだ−牧野 新全集刊行に感動する」
「久世光彦−《夢》という名の娘を連れて」「池内 紀−弱気の虫とハイカラと」
という全集刊行に寄せられた推薦文が読めます。
230SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/06/25(日) 17:52:01
>>220-227
Cucさん、『日本幻想文学集成・牧野信一』の感想ありがとうございました。
「風媒結婚」「繰舟で往く家」「夜の奇蹟」「淡雪」「月あかり」「鬼涙村」「バラルダ物語」
これらの中には読んでない作品も、忘れかけてた作品もあったので、参考になりました。
的確に作品を捉まえた文章の中で共感できた部分は多かったのですが、
特に以下の言葉はその通りだと思います。

>その大上段に構えた文体が何ともいえず味わいがありますね。

>描かれた幻想世界と相まって悪文(失礼!)が逆に魅力になっています。

>牧野信一はおそらく知っているのです。
>過酷な人生やつらい現実に文句ばかり言って生きるよりも、
>自らつくりだした夢のような美しい世界に遊び、
>呆けているほうがしあわせなこともあるのだ、ということを。

>この大仰な芝居は本人が大真面目であればあるほど
>どこか滑稽味を帯び、観客の笑いをより一層買います。
>それゆえに、物語自体はかなり深刻なのにちっとも重くないのですね。
231SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/06/25(日) 23:05:48
牧野信一は神経衰弱だったようで、芥川や太宰などと同じく、
自ら命を絶っています。1936年3月24日、まだ40歳になる前に。

牧野信一が作品を発表していった1920年代から30年代中頃にかけては
プロレタリア文学と横光らの新感覚派の二大潮流がありましたが、
別の視点では、私小説作家と幻想小説作家に分けられる時期でもあり、
Cucさんが酩酊感の共通性で引き合いに出した夢野久作をはじめ、
稲垣足穂、内田百閨A江戸川乱歩、Cucさんが好きな尾崎翠、宮沢賢治、
こうした個性あふれる優れた幻想文学を紡いだ作家が多くいた反面、
宇野浩二、葛西善藏、「業苦」や「崖の下」を書いた嘉村礒多など、
露出症気味に私生活を赤裸々に綴った私小説作家もいましたが、
そうした中で、牧野信一はその両者の特性を併せ持っている点で
とても特異で不思議な作家に感じられました。
嘉村礒多と稲垣足穂が一人の作家の中に同居してるわけですから。
232SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/06/25(日) 23:07:05
これは「ゼーロン」を読んだときに感じたことですが、
牧野信一はやはりセルバンテスを読んでいたようで、
「どこか滑稽味を帯び」た作風の源泉はそのあたりにありそう。
「物語自体はかなり深刻なのにちっとも重くない」のは
私小説の深刻さを幻想小説の軽さで覆ってるからで、あるいは、
幻想性とそれをパロディ化する日常性(オチ)を同じ平面に並べていて、
滑稽さと深刻さを混合した奇妙なマキノ・カクテルになっている感じ。

それはあたかも、牧野信一という作家にとって、
深刻なものを表現するためには滑稽な仮面が必要だったかのようであり、
彼は、「大上段に構えた文体」「大仰な芝居」を用いなければ、
シリアスな現実と向き合えなかったかのように感じられます。
233SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/06/25(日) 23:10:16
個々の作品については読み返さないと具体的なことは書けないのですが、
『日本幻想文学集成』はやはり幻想味豊かな作品が多いようですね。
また、これは以前牧野信一スレッドにも書いたことがあるのですが、
町田康の「くっすん大黒」を読んだとき、デジャヴュを味わったのですが、
牧野の「ゼーロン」がその感覚を与えていたことに気づきました。
町田が牧野を読んでいたかどうか、影響を受けたかどうかは知りませんが。 〆
234 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/01(土) 20:58:03

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>>228-229

牧野信一についての電子文庫の案内を、ありがとうございます!
随分とたくさんの作品を書いていたのですね。
創作意欲の旺盛さと情熱に改めて驚かされました。

>牧野信一は作風の変化があったとされていて、
>私小説的だった初期から幻想小説的な中期を経て、
>後期にはまた私小説的な方向へ回帰していったようです。
>ギリシア・マキノ物には私小説的かつ幻想小説的な二重性を感じます。
そうでしたか。私小説は未読ですが、彼の幻想小説はほとんど私小説の上に
成り立っているのですね。
私小説=私的体験とすれば、幻想小説=読書体験、ということでしょうか。
創作するにはどちらも必要ですが、得手不得手の問題もあり、たいていの作家
はどちらか一方の要素がより濃く出るものですが、牧野信一の場合はどちらの
要素も同等に必要とした印象を受けますね。
架空の物語に入るためには先ず「現実ありき」で、その現実が貧困や、
強迫神経症などの負の要素が強ければ強いほど、逃避の手段として架空の
物語や空想の世界はより一層輝き、甘やかに彼を誘ったことでしょう。


(つづきます)
235 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/01(土) 20:58:51

>>230-231

>的確に作品を捉まえた文章の中で共感できた部分は多かったのですが、
共感していただきまして、とてもうれしいです!
牧野信一は当初戸惑うことが多かったのですが、特有の読みづらい文体も
慣れてくると、なるほどあの作風にはこうした文体がふさわしいのだな、と
納得した次第です。
彼の作品は、ありふれた石ころを光り輝く高貴なダイヤモンドに仕立て上げる
のが目的ですから、麗々しくかつ仰々しく石ころを描く必要がありました。
つまり、あの文体には必然性があったということですね。

>そうした中で、牧野信一はその両者の特性を併せ持っている点で
>とても特異で不思議な作家に感じられました。
確かにどちらか一方に分類できない作家ですね……。
そのどちらからも解放された作家であり、両方を自由に行き来できた稀有な
作家なのではないでしょうか?
つまり、それだけ「こだわり」から解き放たれており、小説とはかくあるべし、
という掟に縛られることのない奔放さを兼ね合わせていた作家なのでしょう。
そうした彼の作風を「斬新」と感じるか、あるいはただ単に「奇想天外で番外な
小説」と感じるかで評価が分かれるのでしょうね。。。


(つづきます)
236 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/01(土) 21:00:01

>>232

>牧野信一はやはりセルバンテスを読んでいたようで、
>「どこか滑稽味を帯び」た作風の源泉はそのあたりにありそう。
「ラ・マンチャの男」で有名な「あの」ドンキホーテですね!
そうですね、物語を読みすぎていつしか現実と架空の世界の区別がつかなく
なってしまう男のお話し、、、
ギリシャ・マキノはまさしくそうですね。
生活に貧しており、現実では無能なのにいつしか自分をバラルダの大太鼓を
敲く勇者になぞらえたり、力持ちの鬼と化したり。

>深刻なものを表現するためには滑稽な仮面が必要だったかのようであり、
>彼は、「大上段に構えた文体」「大仰な芝居」を用いなければ、
>シリアスな現実と向き合えなかったかのように感じられます。
同感です!
現実があまりに深刻すぎて、シラフではとても向き合えないがゆえに
「空想」という美酒を殊のほか必要とした作家ですね。
「空想」がなければ、確実に発狂していたかもしれません、、、
(芥川は一説によると、発狂した実母のように自分もいつか気がふれることを
恐れて自殺したらしいです……)


(つづきます)
237 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/01(土) 21:00:51

>>233

>町田康の「くっすん大黒」を読んだとき、デジャヴュを味わったのですが、
>牧野の「ゼーロン」がその感覚を与えていたことに気づきました。
町田康は「きれぎれ」くらいしか読んでいないのですが、あの滑稽感、
はずし方の絶妙さ、奇天烈な展開は確かに牧野信一と似通ったものが
あるかもしれませんね。
……現代作家ですと、そうですね、わたしは笙野頼子さんの「二百回忌」を
想起しました。
死者と生者が入り混じって奇想天外のドタバタの展開です。
やんや、やんやと喝采を上げたくなりました。

以下、『ゼーロン』『夜見の巻』の感想を記します。
238 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/01(土) 21:02:16

愛馬ゼーロンと「私」が行く道中の抱腹絶倒の物語。
「私」がゼーロンと名づけた馬は飼い主からは能無しと罵られる駄馬なのですが
「私」にとってはペガサスに匹敵するほどの愛しい馬。
その勘違いぶりが大いに笑えますね。
「私」は無一物に等しい身で持ち物を悉く処分するも「マキノ氏像」だけは
どうすることもできず、前より欲しがっていた知人に預けにいくのですが、
ゼーロンは道草を喰ったり、雌馬を見かけると追いかけたり、蜂に刺されたりと
「私」は散々な目に遭うのですが、なぜかこのゼーロン、憎めないのですよね。
「私」は道々ゼーロンのご機嫌を取ろうと詩を詠んだり、歌を歌ったりするのです
が、文字通り馬の耳に念仏、馬耳東風の如し。。。

滑稽で可笑しいことこの上ないのですが、読み終えたあと、胸がしめつけられる
ような泣きたくなるような想いに駆られるのはなぜでしょう?
それは「私」の誇大妄想に近い夢想が哀れだからではなく、また、現実の「私」
の逼迫した赤貧が哀れだからでもありません。
何よりも哀しいのはこの物語を貫いている空想に「私」がずっと浸っていられ
ないこと。「私」がこころから望むことは夢想から醒めないことなのに。。。


(つづきます)
239 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/01(土) 21:34:55

ドンキホーテは永遠に夢から醒めることはありませんが、「私」はふとした瞬間に
現実に引き戻されてしまうのです。
気がついて足元を見れば、梯子はいつしか外されており、「私」は宙ぶらりんの
状態でひとりきり火の見櫓に置き去りにされている……。
降りるにも梯子はとうに無く、天に向かって飛翔するにも翼は折れて力を失って
いる。残された手段はひとつだけ。観念して落下していくしかない、、、
牧野信一が自ら命を絶たねばならなかったのは、地に足をつけて踏ん張れる
脚力もなく、夢を見つづける力も尽きてしまったからではないでしょうか。

私小説に徹した作家ならば、極貧生活を大仰にデフォルメして描くことで
自身の昇華をはかれたでしょう。その結果、図太い神経と居直りの精神を
得られたでしょう。
また、空想物語を本命とする作家ならば、架空の世界に思う存分遊び、
空想の世界に逃避することで強靭な砦をつくり、自分を守ることも可能でしょう。
けれども、牧野信一は私小説と幻想小説の間を行ったり来たりしているうちに
どちらが自分の領分なのか彼自身わからなくなり、混乱してしまったのでは
ないでしょうか。
どちらかに分類されることを厭うのであれば、両方とも自在に行き来できる、
それこそが自分の本領なのだ! と開き直り声高に叫んでもよかったのです。


(つづきます)
240 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/01(土) 21:35:32

彼が夢想したことは、寒村をアルカディアの理想郷に置き換え、そこで
彼はソクラテスのように村の若者たちを集めて教え説くことでした。
夜な夜な酒場で皆と楽しく集って踊り、果てしない夢物語を皆に披瀝する
ことでした。
彼の望みは非常に素朴なものでした。
彼は自分がつくりだした王国でいつまでも子供のように無邪気に無心なままで
遊んでいたかったのですね。
いつしか彼は騎士になり、愛馬ゼーロンを従え、幾千もの山々を越え、
インディアンのように森の精霊と対話し、未知の国へ開拓者精神に燃えて
溌溂と冒険をつづけていたのですね。彼のつくりだした物語のなかで。
ギリシャの神々も、天狗も、鬼も、国籍を問わない彼らは牧野信一の物語に
舞い降り、大活躍してくれました。
けれども、どんな祭りにもいつか終わりを告げるときがきます。
神々は天空に帰り、ペガサスも天高く飛翔していきます。
浦島太郎の玉手箱のようにふたを開けた途端に、白い煙が立ち上りすべては
消え失せ、美しい夢の残骸だけが残されました……。


(つづきます)
241 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/01(土) 21:36:21

彼が必死で作り上げた夢想の世界は、観客にとっては面白いだけで終わって
しまう類のものでした。「ああ、面白かった」と。一過性のものとしてしか読者は
受け取らない。汗を流し、険しい山道を必死で登っているにも拘わらず、彼の
瀕死の叫びを誰も本気で聞こうとしない、、、

――私はいとも痩躯の棒きれのようにか細い腕しか持たぬ貧力者として、
今やこの世に生を享けている夢想家であった。
例えば、一個の文字を運ぶにしてもあたかも巨大な石でも盗むが如くに
あぶら汗を流し、えいやえいやという声をあげ、ややともすれば気絶する
ばかりの極めて無力な屋根裏の文士として命を保ちつつある身の上で
あった――『天狗洞食客記』

牧野信一の望みは、駄馬であるゼーロンを「私」が天空を雄々しく飛翔する
ペガサスであると崇めたように、無力で極貧の自分を偉大な全権の神、
ゼウスの如く讃えてもらうことでした。
役立たずのゼーロンとは牧野信一自身であり、物語の「私」のように
手離しで賛美してくれる誰かを泣きたいほど切望していたのではないで
しょうか。


(つづきます)
242 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/01(土) 21:37:08

『ゼーロン』『夜見の巻』において、≪私≫=≪牧野信一≫ではなく、
実は≪ゼーロン≫=≪牧野信一≫なのではないでしょうか?
飼い主から罵倒され、村人たちから嘲笑され、≪私≫しか賛美しない馬。
物語のなかでゼーロンが≪私≫にだけ賛美されたように、現実の牧野信一も
彼を取り巻くごく少数の者にしか評価されませんでした。。。

フローベルではありませんが、「ゼーロンとはわたしのことなのだ!」と。
「わたしは駄馬ではない、輝ける大いなる翼を持ち夜空を駆ける天馬なのだ、
無力な貧者とは仮の姿なのだ、本当は神々の末裔なのだ、、、」
そんな悲痛な叫び声が聞こえてくるような気がします……。

彼は夢想の人でありましたが、生涯に亘って本気で夢を見つづける方法は
ふたとおり、あります。
ひとつめは、発狂すること。文字通り「あちらの世界」の住人になることです。
ふたつめは、夢を見ている今という時間を「永遠に止めてしまうこと」。
そう、自ら命を絶つことです。
発狂することは、自分の意思のみでは及ばない世界です。
自分の意思の及ぶ領域とは自殺しかありませんでした……。


(つづきます)
243 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/01(土) 21:37:43

――私は人に秘れてこれらの書物を繙く夜々、多少なりともあれらの荒唐無稽
をあり得べき夢として身近に感じたい念願から、身には銀紙を貼った手製の
鎧をつけて燭燈の光を頼りに想いをいとも「花やかなる武士道」の世界に
馳せつづけていた破産者であった――『鬼の門』
……はっと胸をつかれる一文です。
無一文になりながらも空想の世界では華やかなる騎士道物語に自身を重ねる
彼をいったい誰が笑うことができるでしょう?
端からはどんなに愚かしく滑稽に映ることでも本人が真剣勝負で挑み、
心底本気で夢見ている人を笑う権利など誰にもないのですね。
愚かしく滑稽な行為はある瞬間から真実なものへと転倒するのです。
それこそが文学の力なのだと思います。
(余談ですが愚直さから高貴なものへと転倒する小説には、遠藤周作の
『わたしが棄てた女』『おバカさん』などがあります。。。)

――勲を立てた名馬と騎手の銅像だ、と私は唸りじっと空の彼方を望んだ
瞳とゼーロンの首を抱えた腕に底知れぬ陶酔を覚えながら武張った姿勢を
崩さなかった――『夜見の巻』
夢想の世界での陶酔が極まる大変美しい描写です。


――それでは。
244吾輩は名無しである:2006/07/04(火) 16:12:48
保守
245吾輩は名無しである:2006/07/04(火) 16:31:47
?
246吾輩は名無しである:2006/07/04(火) 16:32:28
??
247吾輩は名無しである:2006/07/04(火) 16:33:55
保守
248吾輩は名無しである:2006/07/04(火) 16:36:07
                                     '
249吾輩は名無しである:2006/07/04(火) 16:36:39
250吾輩は名無しである:2006/07/04(火) 16:37:20
????
251吾輩は名無しである:2006/07/04(火) 16:38:44
ほしゅ
252吾輩は名無しである:2006/07/04(火) 16:39:22
sage
253吾輩は名無しである:2006/07/04(火) 16:39:58
保守
254吾輩は名無しである:2006/07/04(火) 16:56:34
255吾輩は名無しである:2006/07/04(火) 18:50:18
? w  ?
256SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/07/05(水) 23:11:55
>>234-243
>彼の作風を「斬新」と感じるか、あるいはただ単に「奇想天外で
>番外な小説」と感じるかで評価が分かれるのでしょうね。。。
そうでしょうね。牧野には大作や名作といえるものはなく
B級作家なのかもしれませんが、その「B級さ」こそが特異であり、
そこにひかれる、ということでしょうか。
独文のパウル・シェーアバルト、仏文のルネ・ドーマルあたりを彷彿。

>あの滑稽感、はずし方の絶妙さ、奇天烈な展開は確かに
>牧野信一と似通ったものがあるかもしれませんね。
牧野作品では“マキノ氏像”の処分に困り主人公は彷徨しますが、
それが町田康ではなんと“大黒様”になります。
町田の主人公もまた“大黒様”を処分するために家を出て。。。
257SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/07/05(水) 23:18:50
(承前)

>笙野頼子さんの「二百回忌」を想起しました。
笙野「二百回忌」は以前読みましたが、忘却の彼方です。
幻想性と私小説性の混合といった趣は彼女にも顕著ですね。
印象だけでいうと、笙野の破天荒さには藤枝静男的なところがあるな、
と感じました。特に『田紳有楽』あたりの雰囲気が。
258SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/07/05(水) 23:20:10
(承前)

>ゼーロンと名づけた馬は飼い主からは能無しと罵られる駄馬なのですが
>「私」にとってはペガサスに匹敵するほどの愛しい馬。
可笑しな「その勘違いぶり」の構図はまた、
牧野文学全体にもあてはまる感じですね。
牧野文学の真髄は、Cucさんの言葉を借りるならば、
「私小説と幻想小説の間を」自在に往来できる柔軟性にあり、
それは、ただの駄馬である“現実”をペガサスたる“幻想”に変える、
そんなギリシア風(?)の似非錬金術なのだと思われました。
あくまでも似非であることを露わにしたB級錬金術です。

>実は≪ゼーロン≫=≪牧野信一≫なのではないでしょうか?
とCucさんが書いていることもその裏づけになってくれそうです。

あっ、
「夜見の巻」にも“ゼーロン”が出てくるのを既に発見されてますね! 〆
259(OTO):2006/07/07(金) 13:20:53
すんごい遅レスだがw
>>214
>吉増の語りの「リズム」が非常に面白い。
>実際の生の声を聞いたらもっとその感じが強まるのでしょうが、
>書かれた言葉でさえもその息遣い、あるいは「トーン」でしょうか、
>それとも「歩行」と呼んでもいいかもしれませんが、
>それが伝わってきますね。

去年末イタリア文化会館「日欧現代詩フェスティバル」で
吉増剛造にサインをもらった時に、
「○○○○さんのご本に。剛ゾ」まで書いてウを書き間違い、
「ごめんごめんwよっぱらっちゃったよww」と言って
ぎざぎざと線を描き、何故か最後に点を加える。
やさしい声だったな。思い起こすとそのぎ・ざ・ぎ・ざ・点と
書くリズムは彼の句点を多用する、あのリズムだった気がする。
「酔っぱらった吉増の失敗したサイン」はおれの宝物だww

あと「石狩シーツ」の朗読CDを1枚聴いたことがある。
いま手元に無くてちょっとぐぐってみたのだが、廃盤らしいな。
やふおくにでてるけどこれとはジャケがちがうな。
http://page8.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h34155043

http://homepage2.nifty.com/tofu-tokiwa/cd-3-2005.html
とか
http://www.netlaputa.ne.jp/~hyama/db/suzuki/subete9702.html
とかにレビューがある。おれ的にはレビュー不可能ww
異界からの囁きだww
260(OTO):2006/07/07(金) 13:22:07
先日二人の話を読んでて「ゼーロン」という言葉の響きに惹かれ、
青空で読んでみたよ。初牧野。
面白かった。モニター見ながら何度も笑ったな。
スラップスティックなギャグがいつの間にか幻想の森の中へ、
こういう現実から空想に流れ込んでいく感じは、なんか親近感を感じるな。
友だちと話してるとよくこんな感じに脱線していくww

>238
>滑稽で可笑しいことこの上ないのですが、読み終えたあと、胸がしめつけられる
>ような泣きたくなるような想いに駆られるのはなぜでしょう?
>それは「私」の誇大妄想に近い夢想が哀れだからではなく、また、現実の「私」
>の逼迫した赤貧が哀れだからでもありません。
>何よりも哀しいのはこの物語を貫いている空想に「私」がずっと浸っていられ
>ないこと。「私」がこころから望むことは夢想から醒めないことなのに。。。

これは「空想」自体の本質を突いてるような気がするな。
牧野本人も夢想から醒めたくはなかっただろうな。
>>242でCucも言うように、彼の自殺は、現実に愛想を尽かして空想の世界に
逝ってしまった、ということだろうか。

それにしてもゼーロンには、まいるww動物描写うまいなあ、
この馬(ロバ?)実在だろ?動きが目に浮かぶものwww
村人、山賊、主人公、森、この物語を構成するすべてに、
素朴な木版画のような「手触り」を感じる。
「嗚呼これが、二人が話していた牧野の文体なんだな」などと
奇妙な感慨を覚えるのは、すでにこの文体の影響を受けているのだろうw
久しぶりに物語を読んで肩の力抜けましたww
短い作品だったがとても楽しい時間を過ごせたなあ。
またきっと、この「B級錬金術」(SXY)に浸りたい、と思う時が
あるだろう、とも思った。現実はいまも様々な過酷さに満ち、
露わなB級は、変わらず我々を微笑ませてくれることだろう。
261(OTO):2006/07/07(金) 13:35:47
ところでバタイユスレ見た?
http://www.at-e.co.jp/maman/
邦題「ママン」は半角で打ってしまいたい誘惑に勝てないww
なんか堂々と「聖なる神」の映画化とか言ってるけど、
だいじょぶなのかなww

最近、レンタルDVDとか見てても「アートシアター系広告」って
どうも鼻につくねww見る気削ぐww
「おまえそれ違うんじゃね?」とか1人で画面指さして言っちゃうよww
262 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/09(日) 19:43:46

SXY ◆uyLlZvjSXY さん

>>256
>牧野には大作や名作といえるものはなく
>B級作家なのかもしれませんが、その「B級さ」こそが特異であり、
そうですね。幻想作家、滑稽小説の名手ではありますが、代表作は
あっても小粒といいますか、、、
ですから、牧野信一という作家は知る人ぞ知る隠れB級ファンたちのみの、
いわば「わたしだけが知っている」作家のひとりなのかもしれませんね。

>独文のパウル・シェーアバルト、仏文のルネ・ドーマルあたりを彷彿。
初めて知る作家たちです!
いつか読んでみたいですね。

>牧野作品では“マキノ氏像”の処分に困り主人公は彷徨しますが、
>それが町田康ではなんと“大黒様”になります。
ぜひとも読んでみたくなり、図書館にリクエストしました。
町田康独特のハチャメチャぶりに期待!
263 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/09(日) 19:44:38

>>257
>印象だけでいうと、笙野の破天荒さには藤枝静男的なところがあるな、
>と感じました。特に『田紳有楽』あたりの雰囲気が。
笙野さんが「極楽」で群像新人賞を受賞したとき、担当編集者の方に
「影響を受けた作家は?」と問われ「藤枝静男」と答えたそうです。
やはり好きな作家の影響はストーリーなどに如実に現れるのでしょうね。
現実と幻想が入り混じり、それを遥か高みから達観したような風刺の
入り混じったまなざしで綴られる作品群は、読んでいて面白いと同時に
時折ひやりとするものを感じます。

藤枝静男の『田紳有楽』も読みたいと思いリクエストしました。
(但し、ただ今貸し出し中、とのことです、、、)
264 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/09(日) 19:45:48

>>258

>そんなギリシア風(?)の似非錬金術なのだと思われました。
>あくまでも似非であることを露わにしたB級錬金術です。
ああ、なるほど。本物の錬金術ではなく似非錬金術なのですね!
確かに、牧野作品にぴったりな表現ですね。
本物の錬金術師は腰を据え、本格的に仕事に臨みますが、牧野の場合は
腹の括り方が弱いといいますか、その辺がB級なのかもしれませんね。
つまり、模倣で終わってしまうという……。別物につくりかえるまではいかない。
ギリシャ物語に題材をとるならば、かなり壮大な物語やスケールの大きな
ものを期待してしまうのですが、彼の場合はこじんまりとした「おらが村」物語に
留めてしまう。。。
いえ、それはそれでなかなか面白いのですが、その小粒さを過剰な
サービス精神で補っているような印象を受けるのですね。

わたしは牧野信一の自分に陶酔した文章がとても好きなのですが、
彼にあっては雑草も百合に見えるでしょうし、朽ちかけた貧相な小屋は
敵の目を誤魔化すためわざと粗末につくりかえた御殿なのでしょう。
森 茉莉 の「贅沢貧乏」をふと想起しました。。。
雑多な部屋のなかは彼女のお気に入りのものだけで埋め尽くされており、
何年も替えてない色褪せたカーテンは「王室調の薔薇色」などと表現されています。
駄馬をペガサスであると讃えた牧野と同様、豊穣な想像力に圧倒されますね。


――それでは。
265 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/09(日) 19:46:49

(OTO)さん

>>259-261

>ぎざぎざと線を描き、何故か最後に点を加える。
>やさしい声だったな。思い起こすとそのぎ・ざ・ぎ・ざ・点と
>書くリズムは彼の句点を多用する、あのリズムだった気がする。
吉増剛造の声はテレビで拝聴しましたが、とてもやさしい声でした。
言葉を舌に乗せて愛おしむように声を出されるのです。
こころの始まり、言葉の始まりを大切にされている方なのだな、と思いましたよ。

>スラップスティックなギャグがいつの間にか幻想の森の中へ、
>友だちと話してるとよくこんな感じに脱線していくww
いきなり脈略もなくまるきり違った方向へ話しが飛ぶのですが、その飛び方が
絶妙ですよね〜。本人は銀に輝く翼で雄々しく飛翔しているつもりでも、
実は継ぎはぎだらけのぼろい布地を纏い、ただ風にはためいたいるだけ、、、
おかしいのになぜか胸がしめつけられるのはそこなんですよね。

>それにしてもゼーロンには、まいるww動物描写うまいなあ、
>この馬(ロバ?)実在だろ?動きが目に浮かぶものwww
本当にあの描写には眼を見張りますね!
蜂に尻を刺されていきなり駆け出す描写とか、馬小屋で目を細めたゼーロンが
「私」にすりすりしてくるところとか、牧野信一のゼーロンへの愛情が並々ならぬ
ものであることを証明してくれてますね。
266 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/09(日) 19:48:19

>現実はいまも様々な過酷さに満ち、
>露わなB級は、変わらず我々を微笑ませてくれることだろう。
そうですね。B級は一流に及ばないにしても一流特有の冷ややかさに
たじろぐことはないですね。B級は気さくで道化精神満載です。
落ち込んだときに一流品はあまりにも自分に遠く、気後れしてしまうところが
あります。そんなとき、B級は気がおけないというか、人のこころを和ませ、
ほっとさせるやわらかなものがありますね。
「B級で悪いか!」牧野信一はもっと開き直ってもよかったのに……。
――小説とは宇宙へ出す恋文だ――
こんな素敵な言葉を、夢想の達人・牧野信一は残しているのです。

>なんか堂々と「聖なる神」の映画化とか言ってるけど、
○ 7/1〜7/14 新宿テアトルタイムズスクエア レイトショー
○ 7/15〜8/11 銀座テアトルシネマ レイトショー
バタイユの作品の映画化とはすごいですね! 絶対に観ますよっっ!
ソクーロフも無論、観ます。なぜかTUTAYAにはソクーロフ作品が1本も
おいてないもので。。。


――それでは。

(追伸)
哲学板のあちらのスレが501KBに達しました。
次スレの誘導リンク貼ってありますので、よろしくです。
267SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/07/10(月) 00:47:36
>>259-261
>「酔っぱらった吉増の失敗したサイン」はおれの宝物だww
ほぉー、それは世界で一冊しかない宝物ですね。

>スラップスティックなギャグがいつの間にか幻想の森の中へ、
そうそう。そしてまた牧野作品には逆のパターンの作品も。
幻想の森の香りを堪能してたと思ったら急にセットがバタバタ倒れ、
いきなり土間から漬物の匂いが漂ってくるような感じ。
えっと、それはどの作品だっけ?。。。失念。。。

>友だちと話してるとよくこんな感じに脱線していくww
なんかそれやばいような。。。

>素朴な木版画のような「手触り」を感じる。
うーん、詩人だなぁ!

>なんか堂々と「聖なる神」の映画化とか言ってるけど、
興味津々。現在『聖なる陰謀』をパラパラと。
268SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/07/10(月) 00:52:19
>>262-264

>町田康独特のハチャメチャぶりに期待!
「くっすん大黒」はもちろんハチャメチャ。
それでいてちょっとリリック。

>「影響を受けた作家は?」と問われ「藤枝静男」と答えたそうです。
ん? そういえばそんなことをどこかで読んだことがあるような。。。
どうもその記憶があったのかもしれないですね。
ただ、作品に感じる独特の気配というか匂いというか、
それが笙野と藤枝の共通点のように感じました。

>藤枝静男の『田紳有楽』も読みたいと思いリクエストしました。
これは町田以上にすごくハチャメチャ。
それでいてなぜか漂う風格。
(これはぜひ読んでいただきたいです。。。)

>森 茉莉 の「贅沢貧乏」をふと想起しました。。。
確かに「牧野と同様」の「豊穣な想像力」ですね!
アン・シャーリーも顔負けでしょう。

追伸 哲学板スレ、一度覗いてみたいのですが、いいですか?
269SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/07/10(月) 00:59:33
(おまけ)

牧野をついB級呼ばわりしてしまいましたが、
それでも当時はかなりのポジションにいたようです。

坂口安吾は
――「彼の生は死の影がすこしも隠されていない明るさのために、
あまりにも激しく死に裏打ちされていた。」――
と語り、

石川淳は
――「氏の棲息していたらしい奇しい光の世界ほど
気がかりなものはなかった。」――
と語っています。  〆
270 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/10(月) 15:44:27

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>ただ、作品に感じる独特の気配というか匂いというか、
>それが笙野と藤枝の共通点のように感じました。
読むのが楽しみです!

>確かに「牧野と同様」の「豊穣な想像力」ですね!
>アン・シャーリーも顔負けでしょう。
そうですね。
森茉莉にかかると枯れてしなびた草花も「ロココ調のドライフラワー」、
着古して色褪せてくすんだ洋服も「深みを帯びた珈琲色のドレス」
とかになりそう・・・。う〜ん、まあそれはそれで楽しそう。。。
271 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/10(月) 15:45:11

>追伸 哲学板スレ、一度覗いてみたいのですが、いいですか?
どうぞ、どうぞ♪ お気軽にごらんになってくださいね。
もし、よろしければご参加ください。
哲学板とはいえ、わたしがカキコできるのは雑談スレくらいしかないもので。。。

「たいがいの本の読了後の感想は」↓
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1108391631/
(すでに501KBに達していますので、近日中に落ちるかも…)

「砂漠と水」↓
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1145023625/
(まだ対話らしいものは始まっていません…)
272 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/10(月) 15:46:15

>牧野をついB級呼ばわりしてしまいましたが、
>それでも当時はかなりのポジションにいたようです。
いえいえ、B級作家とは実は褒め言葉だと思いますよ。
といいますのは、映画でも小説でも「通」の人はなぜかB級崇拝者が
多いのですね。
一流作家は広く皆に認められますが、同時に作品の価値などまったく
わからない有象無象の人たちにも騒がれるということです。
わかりやすくいえば「この作品いいかどうかわからないけれど、
一流作家の書いたものだからいいものなのだろう」と。
作品の真価をまるでわからない人たちにもてはやされても、作家としては
どうでしょう? 漱石や芥川は教科書に載り、知名度も高いですが、
彼らは基礎作家といいますか、日本文学では押えておく必要のある作家で
はありますが、牧野信一のように知る人ぞ知るほんの一部の人間から
マイ・フェイバリッツ作家として熱烈に崇拝されることはないでしょうね。

坂口安吾、石川淳といった新進気鋭の作家から慕われていたという事実は
牧野にとっては勲章以上の喜びでしょう。


――それでは。
273(OTO):2006/07/12(水) 14:43:17
>>38
そんな感激するなよww
いまや2chで普通に対話できる相手を見つけるのはなかなか難しいからなww
おまいは貴重なな友だちだ。

天然が深いと軽く言ったが、この部分はSXYも含めた、我々の関心事のひとつだろ?
島尾ミホという存在を中心に、感情移入、トランス、狂気、そして神。
あのスレをおまいが主宰し、おれやSXYが参加してるというのには、
そういった意味=引力もあるはずだ。

むこうの208を読んで、ナンシー「声の分割」の感想を
そろそろ組み立てたいな、と思った。

>>そして、与謝野晶子の章では島尾ミホの言葉を冒頭部に持ってくる吉増。
>ああ、なるほどなあ、と思いました。
>「みだれ髪」で知られる情熱の歌人与謝野晶子は、巫女的な性格を持つ
>島尾ミホと共通するものがあるのでしょう。
>それは眼前の対象に瞬時に憑依できる共感力の深さです。
>共感力には知識は不要です。
>また、“感じる”能力は誰かが強制的に感じなさい、と命令することはできません。
>そして、感じたい、と切望してもどうにかなるものでもありません。
>その人のこころの一番やわらかなところにある聖地は意志の力でとうにかなる
>ものではないのですね。。

この部分だ。
274(OTO):2006/07/12(水) 14:56:52
こぴぺしてたら誤爆。ごめん。
275 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/13(木) 12:40:17

OTOさん

>>273
>むこうの208を読んで、ナンシー「声の分割」の感想を
>そろそろ組み立てたいな、と思った。
よろしくお願いします。
わたしはナンシーは「共同体―コルプス」しか読んでません、、、

――存在しない山のかたちを想像しながら歩いて行くとき、私は存在しない山の
かたちになって行った―(p79 「共同−体(コルプス」、原典は吉増剛造の「織姫」)
――あらゆる思考が一つの身体である――(p79 「共同−体(コルプス」)
私の思考したものは、私の存在そのものになっていった、ということでしょうか。
思考=身体(存在)なのですね。これは「我思うゆえに我あり」のデカルトを踏まえて
いるのかな、思いました。

>>274
>こぴぺしてたら誤爆。ごめん。
いえいえ、どういたしまして♪
そんなに、気にしなくていいですよ〜。(笑い)
276SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/07/14(金) 23:48:30
>>271
リンクどうもでした。
明日覗いてみますね。
取り急ぎお礼を。 〆
277SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/07/17(月) 16:38:19
>>270>>272
森茉莉も鴎外の娘でなかったとしたら
B級作家となっていたかもしれませんね。
三島は『甘い蜜の部屋』を激賞してたようですが。

島尾ミホ、武田百合子の文学妻に対抗できるのは
幸田文、森茉莉の文学娘でしょうか。
しかし偉大な文学息子となると誰がいるのかな。。。?
278 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/17(月) 18:02:31

>>276-277

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>リンクどうもでした。明日覗いてみますね。
いえいえ、どういたしまして。
さっそくあちらに書いていただきまして、ありがとうございます!
楽しく読ませていただきましたよ♪

>三島は『甘い蜜の部屋』を激賞してたようですが。
三島は本人が絢爛豪華な文体ですので、森茉莉の耽美で濃厚で
煌びやかな文体に同じ匂いを感じていたでしょうね。。。
ふたりとも貧乏くさいものは嫌いでしょうし、、、

>幸田文、森茉莉の文学娘でしょうか。
>しかし偉大な文学息子となると誰がいるのかな。。。?
う〜ん、わたしの知っているのは文学娘ならば太宰治の次女・津島佑子、
文学息子ならば福永武彦の息子・池澤夏樹くらいですねえ。。。

津島佑子↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B3%B6%E4%BD%91%E5%AD%90

池澤夏樹↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E6%BE%A4%E5%A4%8F%E6%A8%B9


以下、『くっすん大黒』の感想です。
279 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/17(月) 18:03:12

町田康『くっすん大黒』の感想を記します。

無職の主人公楠木正行=自立しない大黒という設定なのですね。
SXYさんがご指摘のとおり、楠木がどうにも処分できずに大黒を
捨てにいく道行きは『ゼーロン』そのものですね!
そして、その破天荒ぶり、ハチャメチャな滑稽ぶりも抱腹絶倒のマキノ・タッチ
です。両者とも妻に出て行かれて友人に預けに行くという設定も同じです。
牧野信一のほうがより浪漫的といいますか、詩的かつ感傷的でありますね。
途中でゼーロンのために即興のバラードを捧げたり、貧相な厩舎に差し込む
月光のなかで、自分とゼーロンを勲を立てた名馬と騎士の銅像だ、と夢想して
みたり……。

町田康は≪ご立派な≫人たちは書かない作家ですね。
ぐうたらな日々を送り、へらへらしながらのらりくらりと生きているどうしようも
ない人物を好んで描きます。けれどもなぜか憎めないのですよね。。。
駄洒落に次ぐ駄洒落、饒舌な口語体、過剰な笑いのなかに潜む風刺の棘も
たっぷり持ち合わせた作家です。
そう、侮れない作家です。


(つづきます)
280 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/17(月) 18:03:47

読者は町田の巧みな話術とたっぷりのユーモアに乗せられてげらげらと笑い
転げながら読むのですが、笑いのなかにはたっぷり「風刺」という芥子が含ませ
てあり、それもそれと気づかせずに食べさせられるのです。
その辛さはすぐには利いてこなくても後になってからじわじわと利いてくるの
です。

例えば、楠木がアルバイト先の古着屋で出会うけったいな中年の女店主と
自称ヨーローパ帰りのチャアミイというおよそ勘違いな奇天烈な中年女客。
西洋のブランド信仰に毒されているふたりの滑稽さを町田は皮肉と憐れみの
まなざしをもって、読者にふんだんに笑いを撒きながらあげつらうのです。
偽ブランドも本物も見分けのつかないこのふたりの女は、ブランドと名がつく
だけで群がる今日の日本のある種の人たちの象徴でしょう。
――千円均一の安売りのワゴンの中に入れてあった、ビニールのクロコダイルの型押しバッグを手に持っていた。
「ぅあたしがユオロップにいた頃、皆さん御存知のブランドのビャアーグをよく
見たけどこれは本当に素敵だわ。(中略) ぅあたし、子供の頃からユオロップが
永かったから日本人離れしているのね」――


(つづきます)
281 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/17(月) 18:04:17

脳内妄想の極まった似非帰国子女を気取るチャアミイのこのセリフは滑稽な
ことこの上ないのですが、町田の視線はひとたびチャアミイを貶しながらも、
どこかあたたかい。
――医者へ行け、医者へ。チャアミイがこれまでどんな辛い人生を送ってきた
のか知らぬが、誰が見ても奇矯なチャアミイの言動に、吉田はますますうたれた
様子でチャアミイに訊いた。
「どうしたらあなたのような素敵な人になれるのかしら」――
もうほとんど絶叫もののギャグなのですが、町田はチャアミイの奇天烈さを結構
好きなんじゃないかとさえ思ってしまうのです。

また、上田という似非アーティスト。磔刑の蛸、というわけのわからない作品を
つくり、これもまたわけのわからない一部の女性ファンだけが熱狂的に指示する
も肝心な美術館の学芸員からはまったく相手にされない。。。
しかも、そのファンたるやまるでどこかの新興宗教の教祖様を仰ぐように、完全
にイッてしまっているような常軌を逸した異様なはしゃぎぶり、、、


(つづきます)
282 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/17(月) 18:05:05

――女たちは口々に、「神のような人でした」
「上田先生と出会い、人生が一変しました」
(中略)
「まあ、実際、狂ってると僕なんか思いますよ」
「普通に見えたけどなあ」
「だから狂ってるんですよ」――

芸術は狂気と紙一重といいますが、ゴッホのように狂人になりつつも
観るものを圧倒させる作品群を残す画家もいれば、この上田のように
誇大妄想の自称天才アーチスト、実はただの狂人という人物もいます、、、

町田康はこうした役立たずのどうしようもない人間を風刺を込めて
描き出す一方で、
でもね、人間てそんなにご大層なものじゃないんだよね、
こころのどこかでみんな自分は特別だと思いたい気持ちがあるんだよね。
そうだろ?
ふと、そんなメッセージが伝わってくるような気がしたのでした……。


(つづきます)
283 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/17(月) 18:31:14

そして、ラスト。散々なアルバイトを終えた暁に突然の宣言。
――で、自分は豆屋になろうと考えた。――
偽ブランドを売る古着屋、似非アーティストの取材を経て、
上すべりの浮ついた商売ではなく実直な豆屋という発想。。。
友人の菊池が「あの大黒捨てちゃっていいかなあ」「好きにしろ」という会話が
その前にあるのですが、≪自立しない大黒=自分≫を今度こそ本当に捨てて
もらうことで、まっとうな職を手につけ、真人間になろうと決意したので
しょうかね、、、?

『くっすん大黒』は、SXYさんは牧野信一の『ゼーロン』に、
評論家の三浦雅士は梶井基次郎の『檸檬』に作品を重ねて、
それぞれの想いを託されています。
……そうですね、わたしは庄司薫の『赤頭巾ちゃん 気をつけて』を
想起しました。


(つづきます)
284 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/17(月) 18:32:04
この作品は東大紛争を時代背景に、日比谷高校をこの春卒業したはいい
けれど、東大を受験したいが紛争の煽りを喰らい入試が行われなかった
僕こと薫クン(東京・山の手在住)の1日を描いた作品です。

「僕」は高校生でも浪人生でも社会人でもなくぶらぶらしています。
(楠木大黒と身分はほぼ一緒…)
優秀な兄貴の友だちAの結婚式に友人たちの代理で出席するはめになり、
というのはAはそれまで反体制側だったのに、結婚相手の父上は体制側の
人で、友人たちはそれを裏切りと受け取り、式の出席を拒否し、そのせいで
暇な僕がアルバイトととして出席。
僕は、結婚式で初めて大人の世界、社会というものを垣間見るのです。
出席したAの知人たちは上辺では祝福するも陰では「寝返った」とこそこそ
言っている。。。やりきれなくなった僕はわざと大仰にはしゃぎ、その反動で
疲れて帰宅し、泣きたい想いに駆られる、、、

そして、ラスト。「僕は広い広い海のような男になろう」で終わります。
(『くっすん大黒』では、――自分は豆屋になろうと考えた。)


(つづきます)
285 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/17(月) 18:32:55

この両作品、薫クンは世間知らずの青臭いお坊ちゃん、
楠木は中年のぐうたら無職、と人物設定の差異はありますが、
主人公の饒舌な口語体やラストのもっていき方はよく似ていると思いました。

ちなみに薫クンのマイ哲学とは、
「周囲のどうでもいい問題からは逃げて、逃げて、逃げまくり、本当に重要な
問題にぶつかった時のために力をとっておぐべきだ」。
楠木大黒の一見ぐうたらした生き方と何だか共通するものがあるような・・・

次は藤枝静男の『田紳有楽』を読む予定です。


――それでは。
286SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/07/17(月) 23:40:38
>>278
>わたしの知っているのは文学娘ならば太宰治の次女・津島佑子、
>文学息子ならば福永武彦の息子・池澤夏樹くらいですねえ。。。
津島佑子も池澤夏樹もたぶん1冊ぐらいしか読んでない未知の作家です。
Cucさんはかなりの数の作家を読まれてますね!
287SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/07/17(月) 23:44:29
>>279-285
>楠木がどうにも処分できずに大黒を
>捨てにいく道行きは『ゼーロン』そのものですね!
でしょう!! というわけで「ゼーロン くっすん大黒」で検索してみると
松岡正剛の千夜千冊がひっかかったので(このサイトよくひっかかるんだなぁ)、
なーんだ、みんな牧野と町田を結び付けるのは常套手段かな、と思いきや、
『ゼーロン』評のところで町田康の名前を少し出してるだけ、
しかもそれが書かれたのは「2005年8月24日」で、
牧野スレへの当方の書き込みのほうが2004年で1年早い!
(参考 http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1047020378/92
それに松岡は『くっすん大黒』評では町田に通じる作家として、
>ボリス・ヴィアンの『日々の泡』や『心臓抜き』(第21夜参照)がすぐ思いあわされ、
>ついでチャールズ・ブロウスキーの「くそったれ」もあるなと思ったが(以下略)
というふうに書いているけれども、ブロウスキーはともかく、ヴィアンはないだろう、
などとPCの前でいちゃもんをつけながら、ちょっとニヤリ。
他のところで既に誰かが「牧野と町田」関係で書いている可能性など、
脳天気にも頭の中からすっかり押しやりながら。。。
288SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/07/17(月) 23:59:57
(承前)

>そう、侮れない作家です。
町田康はパンクロッカー町田町蔵でもありますが、
なかなかどうして侮れませんね。

どうして侮れないかといえば
>その辛さはすぐには利いてこなくても後になってからじわじわと利いてくるのです。
とCucさんが書いているように、舌ではなく体で味わえる隠し味があるからで、
ユーモアの陰に隠れた「辛さ」もそうだし、たとえば、
>似非帰国子女を気取るチャアミイのこのセリフは滑稽なことこの上ないのですが、
というところなんかも。それにしてもチャアミイがいい味出してますよね!

>まっとうな職を手につけ、真人間になろうと決意したのでしょうかね、、、?
牧野は自分に似つかわしくもないブロンズのマキノ氏像を捨てようとしましたが、
(マキノ氏像は実際に作られてたようですね)
町田は等身大の≪自立しない大黒=自分≫を捨てようとしたわけですから、
これまでのぐうたらへらへらからの脱出を図っているんでしょうが、
そこが町田ワールドなわけで、真人間になってしまっては面白くない。
289SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/07/18(火) 00:07:15
(承前)

>『くっすん大黒』は、SXYさんは牧野信一の『ゼーロン』に、
>評論家の三浦雅士は梶井基次郎の『檸檬』に作品を重ねて、
>それぞれの想いを託されています。
梶井基次郎もヴィアンと同じくらい「町田とはちょっと違うんじゃない?」と
個人的には思うけれども、それはまぁ三浦雅士の自由でしょうね。

>わたしは庄司薫の『赤頭巾ちゃん 気をつけて』を想起しました。
饒舌な口語体の点でなるほどと思いました。
町田は音楽をやってるだけあって、文章に活き活きしたリズムがありますね。 〆
290 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/22(土) 10:26:04

>>286-289

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>津島佑子も池澤夏樹もたぶん1冊ぐらいしか読んでない未知の作家です。
わたしも同じようなものですよ。(池澤夏樹は今、読売新聞の朝刊に連載中)
太宰治と福永武彦が好きなので、解説読んだりネット検索していたら
偶然にも娘、息子が引っかかったのですね。

>松岡正剛の千夜千冊がひっかかったので(このサイトよくひっかかるんだなぁ)、
ああ、わかります。必ず上位に出てくるんですよね・・・

>『ゼーロン』評のところで町田康の名前を少し出してるだけ、
>しかもそれが書かれたのは「2005年8月24日」で、
>牧野スレへの当方の書き込みのほうが2004年で1年早い!
本当ですね! もしかしてSXYさんが書かれたレスを目にしたのちに
書いたのでしょうかね……?


(つづきます)
291 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/22(土) 10:26:47

>ブロウスキーはともかく、ヴィアンはないだろう、
>などとPCの前でいちゃもんをつけながら、ちょっとニヤリ。
この両作家、未読なので何ともいえないのですが、やはり一番近いのは
牧野信一の『ゼーロン』のような気がしますね。
無一物のぐうたらな主人公、抱腹絶倒の滑稽さ、自分の分身=像・大黒を
捨てるという設定。そして何よりも笑いのなかに潜ませた風刺の棘。

>町田康はパンクロッカー町田町蔵でもありますが、
>なかなかどうして侮れませんね。
パンクロッカーについては詳しくは知らないのですが、
やはり詞、言葉については並々ならぬものを感じます。

>それにしてもチャアミイがいい味出してますよね!
そうなんですよね〜。
ぅあたし、ユオロップ、ビャアーグ、といういかにもわざとらしい英国ふうの
聞きかじり似非英語がめちゃくちゃ可笑しい。。。


(つづきます)
292 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/22(土) 10:30:44

>そこが町田ワールドなわけで、真人間になってしまっては面白くない。
確かに。。。
楠木大黒ははたして堅気の豆屋になれるかどうかはわかりませんが、
仮に豆屋になったとしても、一筋縄ではいかないでしょうね。
やっぱり、のらりくらりと例の調子でぐうたらに生きていくような・・・

>饒舌な口語体の点でなるほどと思いました。
「くっすん大黒」、「赤頭巾ちゃん気をつけて」
この両作品は読者の圧倒的な支持を受けたとのこと。
人物設定も物語背景もまったく異なるのですが、薫クンも楠木大黒も
人を押しのけない、ぎらぎらしていない飄々とした可笑しさがあります。
そして、どこか抜けていて、とにかく語り口が抜群に面白い、
自分を道化として見せられるちょっと自虐的なところが人気なのかも
しれませんね。


――それでは。

以下、バタイユ原作「聖なる母」の映画「ママン」の感想です。
293 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/22(土) 10:32:43

ジョルジュ・バタイユ原作「ママン」(監督はクリストフ・オレ)を観てきました。
銀座テアトルシネマにてレイトショーという遅い開始時間帯にも拘らず
休日ということもあり80人くらいの観客がいました。
21時20分〜23時15分(わたしも皆さんも終電ぎりぎりですよ・・・)

バタイユの原作「聖なる母」は未読ですが、ここでも母=女=娼婦、そして
「マダム・エドワルダ」で娼婦が宣言した「あたしは神よ」をそのままこの母に
重ねるのであれば、まさしく自らの性の欲するままにふしだらに奔放に
日々を刹那的に生きる母はバタイユにとって神そのものなのでしょう。
父が事故死したのち、性の快楽と暗い深淵へと手ほどきし誘惑する
「僕の最愛の人、ママン」は僕ことピエールがまだお祈りの習慣や教会へ通うことを
やめられないことに苛立ちます。
「あなたはまだ神を捨てきれていないわ」ママンは何の罪悪感も持たずに、
日々を娼婦まがいの女ともだちと享楽的に生きています。
ママンは享楽の手始めにこの女ともだちにピエールと交わることを命じます。
それも酔漢がたむろする猥雑な街角で、ママンの見ている前で。


(つづきます)
294 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/22(土) 10:33:37

ピエールはママンの眼前でこの娼婦まがいの女と交わり絶頂を迎えるのですが、
(このシーン、「マダム・エドワルダ」、「C神父」をほうふつさせます…)
彼の目は行為の最中にありながらもつねに片時もママンから離れないのです。
そして、ママンも同様に一部始終を目を反らさずに見つめている。
つまり、この母と息子は互いに目で視姦しあっているのですね。

場面描写でもとりわけ顔のアップ、特にピエールの≪まなざし≫のアップが
映画全体のなかでかなりの比重を占めています。
ママンのふしだらさを打ち明けられ、苦悩しながら雨の中を聖書の語句を
唱えながら走るピエールの固く閉じられた≪瞼≫。
砂浜で目を閉じて祈りながら、祈りを終えた瞬間にかっと見開かれる≪瞳≫。
ママンの死体が運ばれる救急車を見送るときの異様に興奮した≪眼≫。
ピエールを演ずるルイ・ガレルの端正な美しさと陰影の深い瞳はそのたびに違った
色合いを帯び、彼の≪まなざし≫が沈黙のうちに語るものは……?


(つづきます)
295 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/22(土) 11:38:50

神の造り給うた被造物――海や砂丘の大自然の壮麗さ、アポロンをほうふつさせる
ピエールの端麗な美しさ、そして同時に被造物――ヒトの猥雑さという真逆なものを
カメラ=神のまなざしはとらえていきます。

バタイユは、呪われた盲目の父のまなざしと、一度は棄てた神のまなざしから
生涯逃れられることはありませんでした。
クリストフ・オレ監督はおそらく「眼球譚」を読んでおり、こうしたバタイユの
父と神の≪まなざし≫への畏怖心をピエールの深く憂いを帯びた瞳に託して
カメラを回したのではないでしょうか?

「どうして母親は息子を神にしたがるのだろう?」
ピエールがひとりで海辺でつぶやくシーンがあります。
かくいうピエールもまたママンを神の如く熱烈に慕っているのですが……。
つまり、この母と息子は互いに相手を神につくりあげようとしているのです。
神は互いにつくり合うものではなく、また、つくられるものでもありません。
ただそこに「在る」ものなのです。
人が決してつくりあげ得ないからこそ、神は神たる存在なのですね。


(つづきます)
296 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/22(土) 11:41:02

バタイユの小説はエロスを扱いながらも非常に宗教的な匂いを纏っている
のですが、エロスにおける聖性、エロスと神の関わりを映像ではどのように
表現するのか観る前から興味がありました。
雨の中を走りながら聖句を唱えるピエールと快楽にふけっているママンが
交互に映し出される映像があります。
また、真っ白な美しい砂丘で神に語りかける茫然自失のピエールと
自ら裸体を年端もゆかない少年にベランダから晒すママンの映像。
聖と俗のカットバックをこうした対照的な映像で表しました。
わたしだったら、どう撮るかな……。
もっとわかりやすく、純潔の象徴である白百合に囲まれた聖母像と、
黒い下着姿で誘うあられもないママンの姿態のカットバック。
天使の歌声の賛美歌と裏町で卑猥な歌を口ずさんでいるママン。
う〜ん、単純すぎるかな・・・


(つづきます)
297 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/22(土) 11:41:33

正確ではないのですが「神に祈る快楽も性の快楽も、さほど違いはないんだ」
というセリフをラスト近くでピエールは放ちます。
まさしく、これはバタイユが神に背信した当時の心境そのものなのでしょう。
司祭を志し生涯を神に捧げることが十七歳のバタイユにとっては最大の喜び、
苦行ではなく快楽であったのはまぎれもない事実でしょう。
なぜなら「人は楽しいから修道院に入るのでしょう? 元来、人は楽しいことを
求めるのが自然の道理です」(曽野綾子)から。。。
そして、ニーチェに傾倒し棄教してのち、性の快楽とは死の瞬間にこそ輝くのだ、
という法悦もまた事実でしょう。

ママンは「性の快楽とは死の瞬間にこそ輝く」ことを知っていたから、
その信念のまま死んでいくのですが、残されたピエールにはまだママンの
真意はわからない……。だからママンの死体を見ながら自慰行為にふけり
快楽を味わうも「いやだ! 僕は死にたくない!」と半狂乱状態になるのです。
死は快楽に一番通じている道なのに。。。
ママンの享楽の真意はピエールには伝わらないまま、映画は幕を閉じます。


――それでは。
298 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/22(土) 11:42:16

☆☆おまけ&雑感☆☆

カナリア諸島のロケ地の映像は息を呑むほど美しいです!
紺碧に輝く海、真白な砂丘、抜けるような高い空の色、一面に降り注ぐ陽光、、、
バカンスにはもってこいの島ですね。

ママン役を演じたイザベル・ユペールはノー・メイクで堂々と素顔を
アップで晒しています。
その風格たるやさすがフランス女優! メイクなしでディオールの
ドレスをエレガントに纏う貫禄にただ、ただ、脱帽です。。。
ピエール役のルイ・ガレルの美貌はどこかで見たことあるな、と思ったら
ミケランジェロの大理石のダビデ像そっくりです!
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/michelangelo_david.html

CMで何とソクーロフ監督の「太陽」が流れましたよ!
イッセー尾形の昭和天皇は驚くほど酷似していて(身のこなし、話し方)
8月5日からの上映がとても楽しみです♪
299SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/07/23(日) 01:46:46
>>290-292
まぁ松岡正剛が牧野スレを見て書いた可能性は低いでしょうが(微笑
両作品を読んだことのある人なら、当然結び付けたくなるでしょうね。
ヴィアンもまた音楽(ジャズトランペット奏者)をやってた作家なので
町田との接点もなきにしもあらずなのかな。
『日々の泡(うたかたの日々)』『心臓抜き』はせつないです。

『くっすん大黒』はぐうたら中年が主人公であるにもかかわらず
Cucさんが『赤頭巾ちゃん気をつけて』を連想したり
松岡がボリス・ヴィアンを持ち出したりするのも
町田のこの作品に青春小説のムードがあるからでしょうか。

映画「ママン」見たんですね。OTO氏も見たかな。
ソクーロフの「太陽」とともに見たいなぁ。。。
300(OTO):2006/07/25(火) 18:25:09
見たよ「ママン」原題は"ma mere"「わが母」だね。
「太陽」の予告にはびっくりしたなw
主演のルイ・ガレルは初めて見たが、父親の監督した映画は2本見たことがある。
親友ジャン・ユスターシュとともにヌーベルヴァーグの最後の世代だな。
http://www.bitters.co.jp/people/p_garrel/prfl.htm
http://cineaste.jp/l/976.htm
http://www.bitters.co.jp/shirotokuro/
つまりおれはニコに興味を持って調べて行って、フィリップ・ガレルを見つけたんだが、
だいたいニコと結婚するなんて正気じゃないww
ジーン・セバーグとも付き合っていたフィリップ・ガレル、それじゃルイの
本当のママンは誰なんだと思って「ルイ・ガレル、スペース、母親」でぐぐったんだが
「ママン」関係のサイトしかかかってこない。そりゃそうだww
なんとか英語のサイトで母親は女優のブリジット・シイという人だとわかった。
画像は探せなかった。フィリップ・ガレルの作品何本かに出演している。

それにしてもルイは父親の若い頃に似ている。鼻とか髪のくるくる具合とかww
http://paris70.free.fr/pgarrel.gif
http://www.sentireascoltare.com/rubriche/cinema/cult/lacicatriceinteriore/007602.jpg
301(OTO):2006/07/25(火) 18:25:51
さて映画だが、
未だフランスの表現者にとってchicでないことは死を意味するとでも言うのだろうか。
どぎついバタイユの原作を押さえた映像表現でなんとか現代的な「リアル」に
落とし込もうとする試みは成功していると思われる。
みごとに「アートシアター系」の範疇におさまっているのだ。
「今夜はちょっと銀座でお食事してからバタイユ原作映画のレイトショーを」
などという話を、もしバタイユが聞いたら、いったいどんな顔をするだろうかww

しかし「ぬるい」というわけでもない。
「すべてをやり尽くした」母親のシニカルな笑みをたたえた表情、そして
「エロチック」を軽く通り越した人間の肌目の生々しさを強調した映像。
暴力的な性描写をぎりぎり断片におさえた演出はむしろ隠されたものの
恐ろしさを際だたせている。

アンシー「お母さんの箱を持ってきて」(映画より)

302(OTO):2006/07/25(火) 18:26:34
「案外素朴だが、はまればはまってしまう現代の若者」として描かれる
ピエールは、バタイユを読み慣れた特に男性には、最初ちょっと違和感があるかも知れない。
男性読者にとってピエールを始めとするバタイユ作品の男性主人公たちは常に
感情移入の対象であるからだ。しかしルイ・ガレルの、もやもやとした内面をもてあまし、
理解不能なものを見つめる眼差しの演技は、見る内に引き込まれる。(>>294

最後のシーン。母親の遺体の前でいきなり自慰を始める息子、という場面は
未刊のバタイユ処女作「WC」にあったとされる場面のようだ。この監督、
ほんとうにバタイユが好きらしいな。

映画館でひとり、白髪の老人がいた。バタイユ研究者だろうか?彼などこの映画をどう
見たのだろうかと、ちょっと声をかけてみたくなったりした。

最後にちょっと気になったのは映画館外壁のウインドウにポスターやチラシが
貼られていたのだが、モーニングショーのこの映画のチラシも同じウインドウに
貼られていたのは、いかがなものか、とwwww
http://www.ntv.co.jp/anpanman/movie2006/index.html
303(OTO):2006/07/25(火) 18:38:36
おれにとっては町田はやっぱ町蔵かなww
リアルタイムで聴いてないけど「メシ喰うな!」は
日本の初期パンクの傑作だと思う。詩いいんだよねww
いまちょっとぐぐってみたら、カラオケあるのでびっくりww
http://dl.rakuten.co.jp/shop/rt/attr/91057287/da30_1/

どうも小説には手がのびないww
304SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/07/28(金) 23:37:33
ようやく長い長い梅雨も明けるかな。
映画と音楽の話題にかけては流石(OTO)氏。任せちゃいます。

しかし二人のレスを読んでると
なんとなく自分も映画を見たような気になるのは不思議。

それにしてもかなりビックリ!
町田町蔵のカラオケがあるとは!  〆
305 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/31(月) 20:35:16

OTOさん

>>300-303

「ママン」の感想、男性側の視点で書かれていて面白かったです。
なるほど、バタイユの作品の男性の主人公は、男性たちにとって
常に「感情移入」の対象なのですね!
確かにバタイユは扇情的ですし、そう思うとピエールはちょっとひ弱といいますか、
ナイーブすぎる感じ。
「ママンは僕だけのものだと思っていたのに、夜な夜なパパ以外の男たちと
享楽にふけっていたなんて・・・」とママンへの愛と性の衝動に悩む
まさに硝子の十代の男の子。
こうした繊細で傷つきやすい青年を描くのはまあ、常套手段といいますか、
わかりやすいといえばわかりやすいですね。
しかし、原作がバタイユということもあり、ただの青春映画にしてしまわないよう
監督は苦心したでしょうね。。。


(つづきます)
306 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/31(月) 20:35:51

主演のルイ・ガレルについての情報、ありがとうございます。
実に詳しいですね! すごい・・・・・!!!
祖父、父親、そして本人と三代続いての俳優一家なのですね。
リンク先の父親の写真を拝見しましたが、本当によく似ていますね!

>ジーン・セバーグとも付き合っていたフィリップ・ガレル
フランソワーズ・サガン原作の映画「悲しみよこんにちは」(1958)のセシル役で
でていましたね。ビデオで観ましたよ。
あのボーイッシュな短髪、スレンダーで中性的、ちょっと小生意気で驕慢な
感じがセシル役にぴったりでした。

>どぎついバタイユの原作を押さえた映像表現でなんとか現代的な「リアル」に
>落とし込もうとする試みは成功していると思われる。
>みごとに「アートシアター系」の範疇におさまっているのだ。
そうですね。エロス全開だとアダルト系映画になってしまうし、かといってまったく
出さないわけにもいかない。何しろ原作が「あの」バタイユですから。。。
アート系に高めつつ、エロスも濃厚に漂わす、、、


(つづきます)
307 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/31(月) 20:36:38

>暴力的な性描写をぎりぎり断片におさえた演出はむしろ隠されたものの
>恐ろしさを際だたせている。
>アンシー「お母さんの箱を持ってきて」(映画より)
あの箱の中身は壮絶な拷問道具が満載でしたね。。。
鎖のついた鉄の首輪、鞭、目隠し、、、
バタイユの当時の恋人、ロールを思い出しましたよ。。。
(ママンはアンシーにサドの要素があることを見抜いたのですね・・・)

>「すべてをやり尽くした」母親のシニカルな笑みをたたえた表情、
ママンの最期の微笑はシニカルでありながらも静謐さをたたえていて、
モナリザをほうふつさせました。
フィナーレが一番美味しい、ママンの女ともだちの言葉どおりの満足げな笑み。

エディット・ピアフの「ばら色の人生〜ラヴィアンローズ」がラスト近くで
流れるのですが、これもある意味、皮肉を込めた選曲ですね。
ばら色の人生とは、いったい誰にとってのばら色なのでしょう?
ピエールでしょうか? それとも死の間際まで背徳的な快楽を味わって
死んでいったママンにとってでしょうか?
やはり、ママンにとっての人生を指すのでしょうね……。
ばら色の人生とは何でしょうか?


(つづきます)
308 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/31(月) 20:37:40

ママンの「死」の直後にこの「ばら色の人生」が流れることに注目。
死とは神の司る領域です。人間ではどうにもできない。ならない。
そして、ママンの求める快楽、法悦も神懸り(OTOさんの言われるトランス状態)
である。つまり、「死」と「快楽」(トランス)はいわば神の領域なのです。
そう、「ばら色の人生」とは神の領域――トランス、死――を体験すること、
まさにこの曲はママンの死の直後に、ふさわしいのでしょう。

>映画館でひとり、白髪の老人がいた。バタイユ研究者だろうか?
ああ、わたしが観にいったときもおふたりほど、見かけましたよ。
最前列で観賞されていました。
どんな感想を持たれたのか、わたしも興味がありますね。


(つづきます)
309 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/31(月) 20:38:13

>映画館外壁のウインドウにポスターやチラシが貼られていたのだが、
あんぱんマンですかあ〜。バタイユが見たら嘆くだろうなあ、、、
文芸系、アート系、エロス系、アダルト指定のバタイユとあんぱんマンが同じ
ウインドウに貼ってあるとはそのセンスたるや、おそるべし。。。
あ、だけどわたしの近くのレンタル・ビデオ店のビデオの配置も同じような
センスかもしれない。文芸映画とアニメが同じ棚に堂々と並べられています。

あんぱんマンは正義の味方、つまり善悪を裁く神様の側であり、
バタイユは神に反逆しながらも、結局は神にとらわれている思想家です。
両者とも「神」に関わっている点では一緒。
また、「あんぱんマン」は子供のためのアニメ、「ママン」はR-18指定(成人映画)
子供―大人、正義―悪、聖―俗、あんぱんマン=無垢、ママン=侵犯といった
相反する二律背反的なものをあえて同じウインドウに飾った……? 
う〜ん、われながら苦しいこじつけ・・・


――それでは。
310 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/31(月) 21:50:24

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>>299

>両作品を読んだことのある人なら、当然結び付けたくなるでしょうね。
そうですね、一番近いのはやはり牧野信一の「ゼーロン」ですからね。。。

>『日々の泡(うたかたの日々)』『心臓抜き』はせつないです。
今度読んでみようと思います。
SXYさんは毎度のことながら、実にたくさんの本をお読みで
いらっしゃいますよね!

>町田のこの作品に青春小説のムードがあるからでしょうか。
青春とは無尽蔵に時間があること、まだ何かに拘束されておらず、
自由であると同時に生き方を求めるもの。。。
ぐうたら中年の楠木は無職ということもあり、社会的な拘束から
解放されていますね。
311 ◆Fafd1c3Cuc :2006/07/31(月) 21:51:15

>>304

>映画と音楽の話題にかけては流石(OTO)氏。任せちゃいます。
そう、(OTO)さんは映画にとても詳しいですよね!
毎回、豊富で詳細な情報にびっくりです!

>しかし二人のレスを読んでると
>なんとなく自分も映画を見たような気になるのは不思議。
映像を文章で表現するのは限界があり困難ではありますが、(百聞は一見に
如かずの諺もあるくらいですし・・・)それでも、語りえぬものについては沈黙
しなければならないのだ、と口を閉ざしてしまえばそれまでです。
かつて桃源郷を訪れた人が口々に絵にも書けない美しさを語ってやまなかった
ように、やはり、人はひとたび感動を体験したなら誰かに伝えたいのですね。
たとえ言葉足らずでも、語彙が少なくても、人間はあらゆる方法を用いて
語りたいのですね。

藤枝静男の「田紳有楽」読了です。
週末には感想をupできると思います。
312 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/05(土) 23:18:31

『田紳有楽』の感想を記します。

この小説の主役級はすべて人間に化身したものたちで、人間はあくまでも
脇役、添え物にすぎないのですね。
これは無生物たちの「変身譚」です。
(解説では“死物”という言葉を使っていますが、わたしはあえて“無生物”
という言葉を使わせていただきます)
美濃生まれのグイ呑み、朝鮮生まれの柿の蔕と呼ばれる人間に変身可能な
抹茶茶碗、丹波生まれの空飛ぶ丼鉢、そして骨董屋に化身した弥勒。
骨董屋・億山は池にそれぞれの陶器を漬けておくのですが、その理由は
「真物に生まれ変わらせて高く売りつけるため」というまことに欲深な動機ゆえ。
およそ弥勒菩薩とは思えぬインチキぶりと吝嗇さ。
億山は弥勒から人間に化身してのち、骨の髄まで人間の強欲が染み込んで
しまったかのよう。。。

池中に沈められたひとつひとつの陶器がそれぞれの身の上話をするの
ですが、これが実に面白い。
金魚とグイ呑みの純情な恋愛劇あり、柿の蔕の賄賂を使っての変身術、
畏れ多くも億山こと弥勒に人世哲理を語るくだり、丼鉢が実は偽ラマ僧
から日本人スパイを経てはるばるチベットから日本に辿り着いた旅程。
これらの陶器はそれぞれ、生き物と恋愛して子供をつくったり、人間に変身
して悪さをしたり、時に説教を垂れたりします。


(つづきます)
313 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/05(土) 23:19:06

丼鉢がサイケン・ラマの手に渡るくだりで、隊商の老婆が亡くなり、遺体を
山まで運び主人と倅が風葬(鳥葬)にする儀式が描かれていました。
ビデオで「楢山節考」を観たせいもあり、姨捨山で悪食のカラスが遺体を啄ばむ
場面と重なり、眩暈がしました。。。
しかも、その描写の克明なこと、、、倅が刀で死骸を切り刻み、肉と骨を
切り分け、最後は大きな岩を頭蓋骨に何回も打ち降ろすという鳥葬。
極めつけは遺体を打ち砕いた際に飛び散った血や肉片のついた丼鉢の
なかに麦焦がし粉とバターを練りうまそうに昼食をとる……。
そして、遺体から切り離された大腿骨がラマ僧の吹く骨笛なのです。。。

――「人間は美味いとみえるね。孔子も食っていた。
うまいけれども自分の子供がどこかで食われると思うと辛いから
今後は食うことをやめる、と論語に書いてある」――
畏れ多くもまことしやかに論語を捏造する罰当たりな図太い神経に脱帽……。
それにしても、もう何だか、ホラーとグロすれすれのような、、、
ついでに、駱駝の糞をつかんだ手で粉をこねる、ぺっぺと唾をかけて
垢だらけの袖口で他人の食べる丼を拭う描写など朝飯前!!
もうここまでいくと気持ち悪さを通り越して滑稽味さえ漂うような。。。
吝嗇で奸智に長けている弥勒や人肉を食らう孔子、卑しい偽ラマ僧、
藤枝静男にとっては、聖者も智者も根底は同じように皆こずるくて
私腹を肥やすことしか考えていない生き物なのですね。


(つづきます)
314 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/05(土) 23:19:52

藤枝静男は、死者の葬儀を淡々とこなしていく生者を冷酷ともいえる
非情な眼でこれでもかと書きつけていきます。
ここでは一切の感傷は排除されているのです。

藤枝静男にとっては、陶器であろうと人間であろうと、また生者であろうと
死者であろうと、万物はみな流転する。ゆえに現世で何が勝っているとか
劣っているとか、そうした勝敗はつけられないということなのですね。
人は死ねば皆悉く土に還り、その土から焼き物の陶器たちは生まれたのです
から生物、無生物の優劣など実はつけられない。これは真理でしょう。

――「弥勒さんよ。人間、虫ケラ、魚、けだもの、草木、土に水に空気、
みんな流れるだけで互いに何の関係もないぞよ。斯くの如きすべての流れを
識るのがお前さまの勤めじゃが。十万億土とは黒い洞窟までの道のり、
真黒々の暗闇が即ち浄土」――
衆愚たちが救済を切望する蓮の花咲く極楽浄土が、実はブラック・ホールとは
何という皮肉! もはや浄土を夢見ることすらままならないのでしょうか……。

最後は、弥勒のもとに集まったそれぞれの陶器たちに身分を明かし、
妙見や大黒たちとともに骨笛を吹いて極楽浄土を詠って幕を閉じます。


(つづきます)
315 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/05(土) 23:20:47

飛躍的な想像力を駆使した作家、牧野信一が彼の地・ギリシャを舞台にして
独自の濃密な思い入れと、感傷たっぷりの浪漫の世界を築き上げたとすれば、
藤枝静男は悠久の地・チベットのラマ僧に軸を据えて、豪華面々の釈迦、弥勒、
妙見といった本来ならば≪真理≫を説くべき聖者たちと、≪偽者≫のインチキ
陶器という無生物たちの織りなすかけひきや人間(?)模様を俯瞰したまなざし
で描きました。
本来、こうした作風は子供向けと一笑されてしまいがちなのですが、
書いている本人はいたって本気、大真面目なのですね。
但し、そのなかに悪臭(糞尿、唾、蚤虱の痛痒)をふんだんに織り込む
ことも忘れません。この辺りはシモンをほうふつさせますね。
彼も牛小屋の糞尿臭を必ず書き込みました。

なぜ藤枝静男は、こうした眉をしかめる描写をあえて克明に綴ったのでしょう?
それは、「生物」とはすべからく食べた以上は必ず排泄をするのです。
食べる―排泄する、どんな生物もこのひと組の行為があって初めて
「生きる」のですね。そう、生きている証といえるでしょう。
どちらか一方だけでは生物は生きてはいけません。


(つづきます)
316 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/05(土) 23:21:29

『田紳有楽』には、食べる行為、排泄行為がたくさん描かれています。
陶器という無生物ですら、そのように描かれるのです。
なぜでしょう? 
無生物を生物として描く以上、食べる―排泄する行為は欠かせない描写
なのです。
他の作家はどうかは知りませんが、藤枝静男にとっては特に。
最初の数ページを読んだとき、ああ、これは仏教訓話系の寓話なのかな、
と思いました。童話には銅像や壁に描かれた絵や石ころなど、無生物たちが
主役で人間のように語り、冒険するお話が少なくありません。
これは大人のために描かれた無生物たちの告白小説なのかな? と。
ところが段々と読み進むうちに、生活臭が濃厚に漂い、強欲や吝嗇さが
人間臭く粘っこく描かれ、無生物たちの物語に収まりきれない人間の業や、
生物と無生物すべて万物流転の思想とが相成って、最後は宇宙規模にまで
広がりを見せていくのです。
壮大なスケールで描く一方で、シニカルな醒めたまなざしも随所に伺えます。

――本当は人間なんかが弥勒に出会おうと出会うまいと、私たち焼きものの
知ったことじゃあないのである。
エーケル、エーケル、これが私の本音である――


――それでは。
317SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/08/06(日) 23:36:37
『田紳有楽』についての豊かな感想、ありがとうございます!

藤枝の多くの作品は私小説と名づけられるものですが、
この『田紳有楽』はちょっと変わっていますね。
いや、ちょっとどころではありませんでした。
とてつもなく奇妙な形容しがたい作品です。

最初は「仏教訓話系の寓話なのかな」と思わせつつも
「人間はあくまでも脇役、添え物」であり、
グイ呑みなどの陶器や弥勒が主役の幻想小説のようで、
と思えば、「ホラーとグロすれすれのような」描写が
ユーモア小説にも感じられるのですが、
なかなかどうして一挙に把握しづらい微妙な色彩を帯びています。

>壮大なスケールで描く一方で、シニカルな醒めたまなざしも随所に伺えます。
とCucさんが見事に看破されているように、
ユーモラスで奇想天外、荒唐無稽で遊び心満載の割には、
読者を愉快な気持ちにさせつつもどこか突き放すような感覚もあり、
畏怖さえ起こさせるような「まなざし」を作品の背後に感じてしまう。

恐るべし作家、藤枝静男です。  〆
318(OTO):2006/08/07(月) 17:29:40
お、またおれの全然知らない作家だが、とてもおもしろそうだな。
これはちょっと読んでみたい。Cucありがと。

また映画の話しなんだが、
土曜日ポレポレ東中野でこれを見た。
http://www.telecomstaff.co.jp/shimanouta/index.html
レイトショー初日で映画の前に監督と吉増と町田登場ww
軽く対談してた。満員。100ちょいかな?
吉増はとてもリラックスしてて、終始デジカメで変な髪した町田やw
監督や、客席を写していた。
町田は映画の中にでてくる沖縄伝承の唄の歌詞について
その完結しない物語性みたいなものに興味を示していた。
吉増の発言はすべて詩だ。身体を揺らし自らの言霊に身をゆだねる感じ、
面白かった。
監督は控えめでほとんど話さなかったが、それにむしろ好感を感じた。

映画はホームページで言われているような「ロードムービー」という
表現はちょっと当てはまらないと思うが、
沖永良部島、加計呂麻島、沖縄本島、奄美大島をめぐる吉増を追う映像だ。
「エミリー」「ごろごろ」「the other voice」などの朗読のシーンもあり、
吉増ファンは必見。島尾ミホも少し出てくる。「ドルチェ」では衣装のせいで
気づかなかったが、いまも喪服で通しているようだ(!)
彼女が島の言葉で語る、加計呂麻に口伝で伝わる昔話は、映画ではその音の
美しさに耳を傾けることしかできないが。映画パンフレットに「やまとことば」の
翻訳が載っていて、その内容には唖然とする。書き写そう。
319(OTO):2006/08/07(月) 17:30:13
「鬼と四人の子ら」

昔、何処かに、母親と四人の子がおったとさ。
そしていつだったか、母親は山畑へ芋採りに行ったとさ。
するとしきりに雨が降って、畑の前の川にかけられていた橋が流れたとさ。
雨は降るし、日は暮れてくるし母親は「如何すればいいかねー」と
泣いていたとさ。
すると山から鬼が降りてきたとさ。

家では母親(の)帰りがあんまり遅いので、
子供たち四人は戸口に座っていて、
「かあさんは今まで帰らないのはなぜかね」と言って待っていたとさ。
すると中の子が「かあさんは鬼に食われたのではないかしら」と言ったとさ。
すると兄さんが「かあさんがどうして鬼に食われたりするものか。
そんなこと言うな」と言ったとさ。
そして小さい坊やが泣きながら「かあさん早く帰ってくださいね」
と言って(また)泣いていたとさ。
すると兄さんが「泣かないで坊や、かあさんはもうすぐいらっしゃるよ可愛い坊や」
と言って唄など歌って聞かせたとさ。


ここで終わりwwこれはどうなんだろ?代々の口伝によって決定的な部分が
欠落したとは考えにくい。つまり大人がこの話しを子供に聞かせたあとで、
大人と子供との対話が始まるという構造になっていると見る方が妥当と思われる。
320(OTO):2006/08/07(月) 17:34:48
この映画パンフレットには吉増の肉筆原稿を縮小サイズで印刷した物がが2枚
はさまっていて、細かな割り注の多い彼の詩が、やはり肉筆でしか創作できないのがわかる。
その他にも彼の詩集でよく見かける、筆文字の輪郭を点でなぞったようなものの画像が、
一体何で、どうやって作られるのかも、この映画で初めてわかったな。




流れ切ってすまんwおれもこれ、急に知って見たもんで、
ちょっと伝えておきたくてな。んじゃ。
321 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/12(土) 12:53:36

>>317

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>藤枝の多くの作品は私小説と名づけられるものですが、
>この『田紳有楽』はちょっと変わっていますね。
本来は私小説作家なのですね?
実は『田紳有楽』ともうひとつ『空気頭』が所収されていたのですが、
半分も読まないうちに返却日がきてしまい、図書館員に延長のお願いを
したのですが、次の予約が入っているため延長は不可といわれ返却したのでした。
『空気頭』はどうやら藤枝静男本来の私小説のようですね。
しかし、食事の前後は読まないほうがいいでしょう……。
何しろ、主役は「人糞」そのものなのですからね、、、

それにしても、牧野信一といい藤枝静男といい、私小説と幻想小説の
両方を巧みに書き分けるとはなかなかの腕の持ち主です。
私小説が苦虫を噛み潰したような顔で青息吐息で書く類のものならば、
幻想小説は思い切り楽しんで伸び伸び書けるところがいいのかもしれません。
これもひとつの息抜きの方法でしょうかね。
322 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/12(土) 12:54:23

ただ、幻想小説とはいえグイ呑みや丼鉢、抹茶茶碗のキャラは実在の人物を
モデルにしている可能性は否めませんね。
みっつの焼き物は妙に人間臭く、三者三様のキャラクターがきっちり書き分け
られています。
純情で臆病なグイ呑み、舌先三寸で世を渡る抹茶茶碗、一見達観して
鷹揚に構えているも実は腹黒く自己顕示欲の強い丼鉢。
藤枝静男の鋭い人間観察の眼が光ります。
あるいは、本当は私小説として人物も実名で書きたかったのかもしれませんが、
何らかの理由により、あえて幻想小説にしたのかもしれません。
人となりはそっくりそれぞれの陶器に託して。。。

>恐るべし作家、藤枝静男です。
発表当時、この小説を読んでひやりとした者がいたのではないでしょうか?
あっ! この陶器の○○は自分のことだ! と、、、
う〜むむむむむ・・・・・エーケル、エーケル、、、合掌。
323 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/12(土) 12:54:58

OTOさん

>>318
「島ノ唄」をご覧になられたのですね。
ドキュメンタリー・フィルムに近い感じなのかな? と思いました。
日に焼けた老人の笑顔、島尾ミホさんの喪服の後姿、波の音……。
カメラ目線は物静かな感じがしますね。

>島尾ミホも少し出てくる。「ドルチェ」では衣装のせいで
>気づかなかったが、いまも喪服で通しているようだ(!)
島尾敏雄の死後以降、ずっと喪服なのですね…。すごいですね、、、
そういえば、「島尾敏雄事典」でマヤさんが「母は死の棘騒動以降、父には
一心に仕え、時化で船が遅れていつ着くかもわからないのに、風雨に
煽られても桟橋から一歩も離れようとしなかった」という趣旨のことが書いて
ありました。

「鬼と四人の子ら」を書き写していただきありがとうございました。
終わりらしい終わり方をしない物語ですか、想像力が掻き立てられますね。

>>319
>つまり大人がこの話しを子供に聞かせたあとで、
>大人と子供との対話が始まるという構造になっていると見る方が妥当と思われる。
そうですね。子供は大人に質問するでしょう。たとえばこんなふうに……


(つづきます)
324 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/12(土) 12:55:28

子供「兄さんが坊やに唄ってあげた唄はどんな唄?」
大人「それはね、こんな唄」(即興で島の唄を唄う)
子供「かあさんは、どうしてこんなに遅いの?」
大人「それはね、鬼が食べものをわけてくれるというので鬼の家まで
ついていったからだよ」
子供「鬼のいえはとおいの?」
大人「そう。山をふたつ越えて、谷をみっつ通り越して、よっつの川を渡った先の
ところにあるからね」
子供「鬼はひとりですんでいるの?」
大人「うん。村の人たちはみんな鬼がこわくて誰も近づかないから、ずっとひとり」
子供「かあさんは鬼をみてこわくなかったの?」
大人「鬼はここの家の子供たちがとてもいい子たちだと、前から知ってたんだよ。
それで、かあさんに子供たちのために食べ物をわけてあげると
いったんだね。かあさんはそれをきいてとてもよろこんでついていったのさ」

こうして、子供が問い大人が答えるという形で物語はどんどん即興でつくられて
いくのでしょうね。
子供の問い方如何によって物語はまったくちがったものになるでしょう。
つまり、子供が問い、それに大人が答えていくという対話形式の物語は
子供の問いの数だけ、そして大人の答えの数だけ物語はつくられていくと
いうことです。それは、ひとつとして同じお話しはないのですね。


(つづきます)
325 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/12(土) 12:56:25
一方が語り、一方は聞くだけという従来の枠に留まらず、
子供と大人が互いに物語をつくっていくという楽しみがあります。
ある意味、真剣勝負の対話といえるのではないでしょうか。

>>320
>この映画パンフレットには吉増の肉筆原稿を縮小サイズで印刷した物がが2枚
>はさまっていて、
現物が見られてよかったですね。
やはり好きな作家の肉筆原稿はたとえそれが印刷されたものであっても
その人の温もりや息づかいを感じます。
思いがけないご褒美をもらったような気分になりますよね。

>流れ切ってすまんwおれもこれ、急に知って見たもんで、
>ちょっと伝えておきたくてな。んじゃ。
いえいえ、大歓迎ですよ!
すべからく物語というものは、先ずはじめに口述ありき。
それが「伝承」という形式で受け継がれてきたのでした。
文字として残るようにしたのはずっとずっと後でしょう。

わたしは読書は対話だと思います。
作者との対話、登場人物たちとの対話。
>>319のお話しはまさしくリアルタイムな対話でつくられていく物語ですね。

次回は、ソクーロフ監督の「太陽」の感想をupする予定です。
――それでは。
326 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/19(土) 22:16:51

アレキサンドル・ソクーロフ監督の「太陽」を観ました。

昭和天皇が現人神から人間宣言をしたこの映画は八月が終戦記念月という
こともあり人々の関心を買っているようです。

終戦間際の朝の朝食シーンからこの映画は始まります。
次々と銀食器に盛りつけられて運ばれてくる洋風の料理。
焼きたてのパンや卵、添えられたソース、英国式のお茶のセット。
フォークにスプーン。
天照大神の天孫である日本の象徴・天皇ヒロヒトは箸を使う和食ではなく洋食を
食べているのです。

戦況が日々悪化していくなか、天皇は淡々と執務をこなしていきます。
午睡のさなか、天皇は東京が空襲で焼かれている悪夢を見てうなされます。
海洋学者であり、海洋生物を愛した彼は、魚たちが魚雷に化身してたちまちの
うちに東京を焼き払う夢に怯えます。。


(つづきます)
327 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/19(土) 22:17:44

誰も彼に本当のことを言わない。畏敬の念は抱けども畏れ多く畏まりすぎて
お使えはするけれども決して近づかない。近づけない。
彼はこの国の神だから、神聖にして侵すべからずの存在だから。
天皇の孤独はまさにそこにあったでしょう。
ドアを自身で開けたこともない、服を自分で着替えたこともない、侍従が何人も
付き従いお世話する。プライベートな書きものをするときも、眠っているときも
つねに護衛の目が注がれている。離れない。
それは彼が生まれたときから決められたことでした。
彼が望んだ運命ではなく、皇室の長子として生まれたときから神として敬われ
侍従たちはいつも腫れ物にさわるように丁重に慇懃にお使えしてきたのです。

例えば、由緒ある家柄の跡取り息子が堅苦しい家を飛び出し絶縁される、
という話は世間にはざらにあります。
けれども、日本国の象徴である天皇には決してそんな行為は許されない。
日本の神であるお上が天皇の地位を放棄してしまったなら、それは日本という
国が成り立たなくなり、崩壊することを意味したのです。


(つづきます)
328 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/19(土) 22:18:34

バタイユは徹底して神を否定し冒涜する作品、論文を残しました。
そして、現に神がいるとすれば豚のような野郎だろうよ、と
「マダム・エドワルダ」で述べています。

では、現に神がいるとすれば、神は苦悩するのでしょうか?
神は苦悩するのです。
神学者・北森嘉蔵氏は「神の痛みの神学」で「神の苦悩は痛みである」
と提唱しました。これは西洋の神学では考えられない観点でした。
また、芥川賞作家・花村萬月氏は「神は何もしてくれない。ただそこに在るだけだ。
それゆえに神なのだ」と述べました。

この両者の発言はまさに天皇にあてはまります。
現人神である天皇は苦悩するのです。
彼は日本国の象徴としてそこに在るだけ、実際に力はないのです、、、
この映画において天皇が苦悩するのは、人間であるのに現人神と奉り上げられる
からではなく、神として民の期待に応えられず、従って民に平和をもたらすことが
できないからでもありません。
天皇の真の苦悩は、民が実は自分に何も求めていないことをとうに知っており、
己が非力であるにも拘わらず民や侍従たちが必要以上に畏まり、敬うことから
くるのです。
わたしは無力だ、民に何ひとつしてやれない、国民が飢えているのに自分は
こうして銀食器に盛られた食事で満腹している、わたしは神ではない、、、


(つづきます)
329 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/19(土) 22:19:07

いつも口をもぐもぐさせて何か言葉にならないことを呟いているイッセー・尾形の
演技は実に見事でした。素朴で純真で、子供がそのまま大人になったような、
純粋培養されたような天皇の人柄をよく掴んでいました。
また、自分の好きな海洋生物の学問への情熱や、極光はどうすれば見られる
のか、と化学研究所の所長に真摯に尋ねる天皇をイッセー・尾形は天皇として
ではなく一人の科学者として演じました。
日本の将来を憂える天皇、自分は神ではなく人間なのだと苦悩する天皇。
家族のアルバムを見ながら頬ずりする天皇。チャップリンやグレタ・ガルボの
ブロマイドに微笑する天皇。
アインシュタインをほうふつさせる好奇心旺盛な一科学者としての天皇。
こうした幾つもの表情を持つ天皇をイッセー・尾形は見事に演じきります。
(皇居の庭に放たれた鶴を米兵たちはなぜかアインシュタインと呼んでいましたね…)


(つづきます)
330 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/19(土) 22:19:51

司令官マッカサーと天皇が一対一で対話する場面で印象に残った場面が
ふたつありました。

ひとつめは、通訳を外した後二人で少し寛いだ対話のなかで「ハバナを吸って
みたかった」と打ち明ける天皇に司令官が火をつけてあげる場面です。
なかなかハマキに火がつかず難儀する天皇に、司令官は自ら吸っている
ハマキの火を移すのですが、この瞬間、ふたりの顔がぐんと接近します。
そのときの天皇の表情は実に風格があり敵国の司令官(彼の一存で天皇の
生死が決まるのです)と堂々と無言のうちに渡り合っているのです。一歩も引かない。
司令官は食事中に足を組んだりしていますが、天皇は慇懃に腰掛け背筋をすっと
伸ばして美しいテーブルマナーで食事をつづけます。
わたしはここに日本の天皇の天皇たる「品格」を見るのです。
それは、敗戦国だから慇懃、戦勝国だから無礼で構わないという単純な図式では
ありません。

天皇はたとえ日本が戦勝し、敗戦国の責任者と相対しても同じように丁重に
振舞うでしょう。それこそが、今日までどのようなことがあっても決して損なわれる
ことのなかった代々引き継がれてきた日本人の天皇としての「品格」なのです。
品格とは佇まいであり、その人の中に流れる血統の歴史を現わすもの。
品格とは昨日、今日で身につくものではありません。長い伝統があるのです。


(つづきます)
331 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/19(土) 22:59:05

ふたつめは、やはり司令官が席を外しているとき、室内をゆっくりと歩きながら
一人で優雅にワルツを踊る場面。
それから、燭台に灯されたロウソクの火を子供のような無邪気な表情で楽しげに
ひとつひとつ踊るような足取りで消していきます。
(皇居内ではロウソクの火ひとつ消すにもすべて侍従がやっていたのです)
敵国の司令官との会見のさなか、つまり、司令官の気持ちひとつで天皇の
生死が決まるというおよそ死刑宣告か否かの判定をしているまさにその渦中に
ありながら、こうしたこころの余裕はどこから来るのでしょう?
わたしはそこにどのような裁定であろうと、天皇として生まれ、天皇として命を
まっとうする運命を受諾したものだけが会得できた何ものにもとらわれない
こころの伸びやかさを見るのです。

明治天皇が見たというあの幻の光、極光をすべてを覚悟した天皇はこの瞬間
見たのではないでしょうか? そして、その光とは新しく昇るきたるべき太陽へと
連なっていくでしょう。太陽、日出る国、日本の再生へと。


(つづきます)
332 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/19(土) 22:59:44

☆☆おまけ☆☆

不謹慎ですが、天皇が悪夢で見た、魚たちが爆撃の火の粉を散らす映像は
幻想的でとても美しいです。
戦争の爆撃映像でこのように夢幻で美しい映像は他に類を見ません。
さすがはソクーロフ! 魚たちの背後にちらちらこぼれる光は爆撃というよりも
極光であると、わたしは思いたいのですが……。

天皇の海洋生物の研究は所長にすべてノートをとらせているのですが、
米軍が皇居に近づき退避壕に避難しながらも「書き続けて」と口述筆記を
命じている場面は印象的でした……。
いついかなるときでも「書くこと」「書き続けること」。
そういえば、この映画の中でも天皇は皇太子に毛筆で手紙をしたため、
和歌をしたため、結構「書く」シーンが出てきます。
あの場面もなかなか興味深かったです。
333 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/19(土) 23:00:23

昭和天皇の口癖である「あっ、そう」が頻出していました。
それが本当にそっくりなんですね。
しかし、午睡するときも白いワイシャツを身につけたまま眠る天皇の生活とは
何と窮屈なのでしょう。。。
薔薇のなかでチャップリンよろしくポーズをとりながら米兵に写真撮影に協力
する場面は、ユーモアたっぷりでなかなか楽しませてくれました。
あの洋館と庭園、旧前田公爵邸によく似ているなあ、と思いました。


――それでは。
334(OTO):2006/08/24(木) 13:32:39
おれも見ましたよ。Cucの>>328,329あたり
神の「痛み」や「無力さ」に関する部分は深いね。
こと「神」に関しては冴えるねww
おれの感想、ちょっとダブる部分もあるけど、
視点少し違うようにも感じるからそのままにしておこう。

銀座シネパトスの動員・興行記録をあっさり塗り替え、
炎天下の中、長蛇の列を連日作り出している「太陽」。
上映館は全国的に拡大されていくようだ。
超硬派な映像作家ソクーロフの作品が、これほど注目されたのは
世界でも類を見ない事態ではないだろうか?
http://www.narinari.com/Nd/2006086348.html
(へんなリンク御免w)

映画を一見して感じるのはソクーロフらしからぬクリアな画面である。
あの、思わず目を凝らしてしまうような極端な画調はここには見られない。
透明感のあるCGで組み立てられた「空襲の悪夢」のシーンなど、
瑞々しく「幻想的」とも言えるものだ。
演出もすっきりとわかりやすく、随所に「笑える」シーンが用意されている。
今まで見たソクーロフ作品のように、始まって少したったあたりで
最初から見直したくなるような濃密な異世界感は感じない。
かろうじて最後の空襲によって瓦礫と化した東京全景が
雲ににじむ陽光に照らされる絵を見て「ああソクーロフだ」と思い出すほどである。
335(OTO):2006/08/24(木) 13:33:37
そう、この映画でのソクーロフのヒロヒトに対する姿勢は
非常にクリアでシンプルなものなのだ。
生まれながらに或る役割を背負わされた1人の孤独な男。
誰も彼と肩を組み、酒を酌み交わすことは無く、
対等の人間として愛することもない。
彼は人間ではなく「人のかたちをした神の末裔」なのだ。
妻と息子にしか心を開くことのできない日常。
自分の神としての役割を果たしながら一国を統治するという仕事。
20代で病弱な父に代わって摂政を勤め、ヨーロッパ各国を訪れた彼にとって
「王」とも「貴族」とも違うこの「神」という役割はひょっとすると
「煉獄」であったかも知れぬ。
平家蟹を見つめながら、大正13年のアメリカ排日移民法成立に、
戦争へと繋がる重要な歴史的ポイントがあったことに気づくシーンは
フィクションとわかっていても「天皇」という立場がリアルに伝わるシーンだ。

「カリフォルニア州で起きた人種差別による事件は、国民の誠実な怒りと
 憤慨の基になった。これらの抗議の波を背景にして軍人たちは立ち上がった…。
 臣民たちが共有する気分を押しとどめるのは不可能だった…」
                       ─採録台本

彼は独裁者ではない。神という役割であるからこそ、不可能なことが存在するのだ。

マッカーサーとのぎこちない対話も印象的なシーンだ。
葉巻の火を移そうと顔を近づけるマッカーサーを不思議なものを見るように
見つめるヒロヒト。この対等な扱いに、一種の喜びにも似た感動をさえ覚えているような
表情をイッセー尾形は控えめに、丁寧に演じている。

ソクーロフはこの会談におけるヒロヒトの選択・判断を非常に高く評価し、
「振り返ると、そのためにこそ天皇制存続の意味があったとさえ言える」というようなことを
対談で述べている。彼の愛する国民を絶望から救い、彼の愛する妻と子供の命を救うこと。
そのために神の座を降りた最初の天皇となること。大戦に敗れたひとつの国を救った、
物静かな、かつて神だった、ひとりの小柄な男。
336(OTO):2006/08/24(木) 13:34:27
疎開から戻った皇后良子とのシーンは愛すべきものだ。
人間宣言をしたと伝えるヒロヒトに「なにか不都合がありましたか?」と尋ねる桃井かおりは
短い出番ながら強い存在感を出している。
もともとイッセー尾形とは長年二人芝居をしてきた経緯もあり、うち解けたムードは観る者さえ
思わずほっとさせる。そしてラスト、人間宣言を録音した技師が自決したと聞き、表情を変える良子。
パンフレットからこのシーン撮影時の、ソクーロフの桃井かおりへの指示を書き写そう。

ソクーロフの力強い声が部屋いっぱいに響き渡った。誰もが息を呑んでそれぞれの仕事に
携わっている静寂の中で、監督の声だけが…
「じっと見つめて。二人(ヒロヒトと侍従)を見つめて!全世界の女性の、母親の名において!
 戦争を、人殺しをなす世界の男たちに怒りを!あたかもそのように二人を見つめてください!
 目を開けたまま、涙は流さないで!涙は流さないで、堪えて、ただじっと見つめて!」
どれだけの時が流れたのだろうか?さらに監督が叫ぶ。
「死の世界から夫を連れ出して!子どもたちの許へ、生の世界へ!」
しっかりと夫の手を握って部屋から連れ出す妻…。
                        ─採録台本

見終わって、
ヒロヒトに対する好意的な解釈もそうだが、ソクーロフは本当に日本人が好きなのだなと思った。
マッカーサーから送られてきたチョコレートを巡る一幕、極光について話を聞くために呼んだ科学者と
ヒロヒトの椅子の譲り合い、なかなか帽子を脱げない良子とヒロヒトのからみなど、日本人監督なら
このテーマの下ではさっさとカットしてしまうようなシーンの「日本人的」やさしさ、ものおじ、
ぎこちなさをフィルムに残すその眼に、
ソクーロフの、我々日本人を見つめる本心からの「優しさ=ドルチェ」を感じた。
傑作、と言うより「ソクーロフ、ありがとう」と言いたい。
337(OTO):2006/08/24(木) 13:42:45
順番逆になっちゃったけど、
>>324、Cucらしいね。おもしろい。
おれはこまっしゃくれたガキだったから、ひょっとすると
こんな質問ができたかも知れない。

「もうひとりの子どもは?」

兄さん、中の子、小さい坊や。なぜ子どもが4人である必要が
この話にあるのだろう?

おもしろいね、この話wwww
338SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/08/26(土) 12:13:32
二人の映画についての書き込みをしばし耽読してしまった。
二人とも読みやすく楽しい文章ですね。

「島ノ唄」も「太陽」も観てないけれども
吉増とソクーロフを通じて島尾敏雄の影を感じますね。
島尾−南島−吉増→「島ノ唄」
島尾−戦争−ソクーロフ→「太陽」
それにしても、吉増と町田のトーク、ちょっと見たかったな。

『フリアとシナリオライター』をなんとか読了。
今度折を見て何か少し書きましょうか(書けるかな?)。
あと最近読んだのは、クロソウスキー『ロベルトは今夜』、
後藤明生『汝の隣人』、クッツェー『夷狄を待ちながら』、
それから『フーコー・コレクション1〜3』あたり。
339 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/27(日) 22:26:10

OTOさん

>>334

>神の「痛み」や「無力さ」に関する部分は深いね。
>こと「神」に関しては冴えるねww
ありがとうございます!
まあ神とはいえ、天皇の場合は目に見えぬ神、姿を見せぬ神ではなくて、
「現人神」ですので、一般的な神の概念からは大幅に隔たっていると
思うのですね。
また、日本人の神学者や作家たちが西洋の神に対する観点とは
異なる独自の視点で神を語っていることに日頃から興味を抱いて
いたのでした。

リンク先、拝読しました。
面白かったですよ。「〜なり」という口調が何ともいえぬ可笑しみを醸し出して
いますね。あれを書かれた方はかなりの映画通の方なのかな? と思いました。

>透明感のあるCGで組み立てられた「空襲の悪夢」のシーンなど、
>瑞々しく「幻想的」とも言えるものだ。
あの爆撃シーンは本当に美しいですね。
トビウオたちが一斉に空を舞い、輝きにも似た光の粒子を振りまくのです。
それは爆撃というよりも、光の祭典、炎の饗宴といったほうがふさわしい
印象を抱きました。


(つづきます)
340 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/27(日) 22:27:22

>演出もすっきりとわかりやすく、随所に「笑える」シーンが用意されている。
そうそう。あまりも気遣いすぎる老侍従のおでこをパチン! と弾いたり
司令官から贈られたハーシーのチョコレートを毒が盛られていると思い
誰も食べないので、科学者に与えます。
(それは、毒味という意味ではなく科学者ならばチョコレートがカカオを原料と
していて無害であることを承知しているだろう、という想定からですが…)
天皇より直々の贈りもの、敵国からの得体の知れないシロモノゆえ断りたいけど
そうもできずに困惑気味のしどろもどろの科学者の表情が可笑しかったですね。

>>335
>彼は人間ではなく「人のかたちをした神の末裔」なのだ。
実に的を射た表現ですね!
日本は古来より「瑞穂の国」と呼ばれ、稲作が豊作でありますようにと
祭りのたびに祈願がかけられてきました。
民が実際にさまざまな祈願をするのは八百万の神(やおよろずのかみ)であり、
天皇では決してないのですね。
では、天皇とはいったい何なのか?
日本創立以来、由緒正しい血統を持つ唯一の一族の人であり、彼はまさしく
象徴以外の何者でもありません。
民はそれだけで安心なのでした。


(つづきます)
341 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/27(日) 22:27:58

>彼は独裁者ではない。神という役割であるからこそ、不可能なことが存在する
>のだ。
そうですね。独裁者は時代の権力者であり、時代とともにどんどん代わるのです。
つまり、そのとき一番力のある者が独裁者になれるのです。独裁者は君臨しますが
天皇はそうではありません。そこに「在る」だけでいいのです。
時代の推移や権力とはいっさい無関係です。
古来よりつづく血統を持つ者のみが天皇になるのです。

>そのために神の座を降りた最初の天皇となること。大戦に敗れたひとつの国を
>救った、物静かな、かつて神だった、ひとりの小柄な男。
これまで神になりたがった多くの有象無象の人間は、皮肉なことに結果として
誰も救わない。
神の座を降りた人(天皇)は、万民を救いました。。。

>>336
>そしてラスト、人間宣言を録音した技師が自決したと聞き、表情を変える良子。
あのシーンの桃井かおりの目の表情は非常に強い印象を受けました……。
皇后は平静はあまり感情を出さず物静かにしているのに、その訃報を聞いた
瞬間、さっと顔色が変わりましたね。
皇后の怒りや哀しみ、批判が込められた強いまなざしは、血の通った「人間らしさ」が
如実に現れていました。


(つづきます)
342 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/27(日) 22:28:38

このラスト・シーンにおける良子皇后は、天皇が現人神の座を降りたと時を同じく
して、現人神の伴侶としてではなく、ひとりの女性、子を持つ母としての怒りを現して
いましたね。怒りを込めた沈黙のまなざし。
沈黙やまなざしは、言葉以上のものを語るのです。すべてを雄弁に……。

>ソクーロフの、我々日本人を見つめる本心からの「優しさ=ドルチェ」を感じた。
>傑作、と言うより「ソクーロフ、ありがとう」と言いたい。
同感ですね!
この映画はたんに異国の監督の日本人贔屓だけに留まらず、日本人を彼なりに
理解しようとこころを砕いた作品でもあるのでしょうね。
それは例えば柳田国男が民話収集のために各地に赴いたときに必ず見る女性
たちの不思議な静かな「微笑み」。彼女たちは悲しみや苦しみの感情を決して
表立って現すことがなかった、といいます。彼女たちは嫁ぐ機会を失い、来客が
あると一家の人たちに混じって顔を出しますが、決して話しに加わることはなく、
いつもひっそりとした静かな「微笑み」を湛えているだけでした……。
こうした日本人の深い内面に少しでも近づきたい、とらえてみたい、その想いが
作品として結実したのではないでしょうか。


――それでは。
343 ◆Fafd1c3Cuc :2006/08/27(日) 22:29:22

SXY ◆uyLlZvjSXY さん
>>338

>二人とも読みやすく楽しい文章ですね。
ありがとうございます。とてもうれしいです。

>島尾−南島−吉増→「島ノ唄」
>島尾−戦争−ソクーロフ→「太陽」
ああ、なるほど!
確かにそう指摘されると、一見無関係な三人、島尾敏雄・吉増剛造・ソクーロフを
結びつけているキイ・ワードがちゃんとあるのですね! 「戦争」、それと「日本人」。
大元の根幹を成しているのが、島尾敏雄なのですね。
何しろ「出発は遂に訪れず」はまさしく終戦前夜の当時の特攻隊長であった彼の
心裡模様を語った小説であり、ソクーロフの「太陽」はその大戦において天皇が
現人神宣言(無条件降伏)をするに至った数日間を描いた映画なのですから。
そして、吉増はこのふたりを結びつける重要な役割をしているのですね。
いわば、歌舞伎の黒子のような役割とでもいうのでしょうか。

>『フリアとシナリオライター』をなんとか読了。
>今度折を見て何か少し書きましょうか(書けるかな?)。
ぜひ、お願いします! わたしの感想もすでに書きあがっています。
最近読まれた小説の幾つかを、わたしも順を追って読んでみたいですね。
次回はボリス・ヴィアン「日々の泡」の感想をupする予定です。


――それでは。
344(OTO):2006/08/30(水) 13:29:44
>>338
>それにしても、吉増と町田のトーク、ちょっと見たかったな。

うんおもしろかったよ。二人とも微妙な違和感をどう扱えばいいか
よくわからないみたいな空気の中、なんとか話をしよう!的な
気持ちが伝わってきてww客も町田目当てと吉増目当てはちょっと違う層だしw
この前は同じ企画で吉増としまおまほが対談してたようだ。
これも聞いてみたかったな。

>>342
>この映画はたんに異国の監督の日本人贔屓だけに留まらず、日本人を彼なりに
>理解しようとこころを砕いた作品でもあるのでしょうね。
>それは例えば柳田国男が民話収集のために各地に赴いたときに必ず見る女性
>たちの不思議な静かな「微笑み」。

そうだね。ソクーロフは日本人の穏やかなところがすごい!って
思ってるんだろうな。
345(OTO):2006/08/30(水) 13:31:08
ちょっとすごかったんで、感想書いたww

「分裂症の少女の手記」セシュエー著、村上仁・平野恵訳、みすず書房。
向精神薬療法が普及する直前の時代、対話による精神療法によって
統合失調が回復した希有な症例の報告として、この分野では古典と
呼ばれている本らしい。だいぶ前に古本市で購入後しばらく積んでいた。
以前から「狂気」には興味があり、症例を読むことは何度かあった。
このスレでも何度か「狂気」については話し合ったことがあったね。
だからこの本の存在は知っていた。(SXYも持ってるんだろw)
しかし何故今まで読もうとしなかったのだろう?と自問してみると、
やはり「怖かった」のだろうと思う。

実際数ページ読んで感じるのはただ、恐怖である。
5歳の時初めて感じた「非現実感」、少女ルネはその不思議な感覚を覚えた状況を
克明に記憶し、描写していく。18歳で分析者セシュエーと出会うまで、
この少女が1人で、しだいに日常を浸食していく「非現実感」と戦っていたのかと
思うと比喩ではなく、鳥肌が立つ。

 人々は薄気味悪く、振りかえり、身振りをし、意味もなく動いていました。
 その人達は無慈悲な電光におしひしがれ、果てしもないプランに従ってぐるぐる
 回転している幽霊のようでした。
                           ─第1部 物語

この本物の狂気にも「光」は重要な要素となっている。


 私にとっては狂気は決して病気を意味するものではありませんでした。
 私は自分が病気だとは信じませんでした。それはむしろ、現実界に対抗する
 一つの世界、無慈悲な、目もくらむ、影になる場所もあたえない光が支配し、
 果てしもない広漠たる空間や、無限に続く、平べったい、鉱物的な、
 冷たい月光に照らされた、北極の荒地のように荒涼としたとした国でした。
346(OTO):2006/08/30(水) 13:31:56
歳を追ってルネは不安に押しつぶされていく。妄想は「組織」という概念を中心に
より強固になり、果てしのない罪悪感と被害感は幻聴・幻視を伴い昼夜彼女を
告発し続ける。そして時に彼女はすべてに屈服してしまったかのようにさえ見える。


 私は一日の大部分を居心地悪く坐って、テーブルの上に落ちたコーヒーの雫を見つめていました。


これは物語ではないのだ。少女の記憶、経験なのである。
では、この手記は文学とは呼べないのだろうか?
読む者の眼前にトランスを伴い、或る世界を展開していく、
その、人を「はめる」力を文学的な力と「解釈」するのならば、
この短い手記は恐るべき力を持った文学と呼べる気がする。

やがて少女は分析者の、素人的には「魔術的」とも見える「抽象的実現」の方法によって
しだいに「社会性」を身につけていく。発作的な妄想は押さえられ、手記のほとんどラスト、
ルネは次のような「謝辞」によって手記を締めくくろうと試みる。

 その方法を推し進めることによって、現実感はさらに現実性に豊かなものになり
 私自身はより社交的で人に依存しないようになりました。
 今や私はセシュエー夫人を正当に理解できるようになりました。
 私は彼女のあるがままの姿を愛するようになり、彼女があたえてくれた、
 現実への復帰と生活の回復という測り知れない贈りものに対して
 永遠に感謝するでしょう。

しかし、彼女が長年戦ってきた道のりを急ぎ足で通過してきた私には、
この「謝辞」がむしろ表面的で平板に聞こえるのはどうしたことだろう。
「社会性」とは一体なんだったのだろう、という意想外の巨大な疑問が
私のなかで膨れあがった。
347(OTO):2006/08/30(水) 13:32:48
この本の第2部では症例ルネの病状の経過について、セシュエー女史の
フロイト用語による単純な自我のダイナミズムに乗っ取った「解釈」が
展開されている。門外漢の私にはこの論文の歴史的位置はわからないが
一点気になるのは「ルネの身体的疾患による激しい腰痛」に対する
幾度ものモルヒネの使用である。

 私は今や注射による安静状態をルネの欲望を満足させるために利用しようと決心した。
                             ─第2部 解釈

向精神薬が未だ普及していない時代。現代の私のような素人が見ても危険な行為と
思われるが、その部分にこそ医学者、精神療法者としての執念を感じた。

様々な意味で、恐ろしい本である。
348(OTO):2006/08/30(水) 13:36:48
そしておれは昨夜、「エミリー・ローズ」という映画を見たのだがw
http://www.sonypictures.jp/movies/theexorcismofemilyrose/site/
不謹慎だが関連性があったので続けて書いてみよう。(ネタばれ注意)
これは1970年代にドイツで、教会認定された悪魔払いの儀式の際に
死亡した少女のために牧師が過失致死で起訴されたという実話を基につくられた
ホラー?法廷サスペンス?である。
http://3ven.blog1.fc2.com/blog-entry-386.html

検察側は少女は分裂症だったと論証しようとするのに対し、
牧師の弁護人は少女は悪魔にとりつかれ、本人同意のもと悪魔払いが行われたことを
証明しようとする。全体にかなりホラー色を押さえた演出と、
主演女優の取り憑かれた演技はよかった。
見ていくと確かに「起こった事実」に対して精神病理学的な「解釈」も
宗教的な「解釈」も可能であり、対等の説得力を持っているように思える。
そして法廷のクライマックス、死んだ少女が神父に宛てた手紙が公開され、
映画は、その審議におけるそれぞれの解釈の可能性よりも、
そのどちらかの解釈を引き受けるということ、
ひとが何かを「信じる」ということには、その実証性を超えた、何か人間としての尊厳に
関わるものがあるのではないか、というところまで考えさせられる領域に達する。


妙なタイミングでこの映画見たんで、
解釈とはいったい何なのか?とか考えてしまったなww
349(OTO):2006/09/01(金) 13:33:48
そして「解釈」に関するハードコアな本がある。ずっと感想を書けなかった
ジャン・リュック・ナンシー「声の分割」である。この妙な勢いで書いてしまおうww

タイトル「声の分割(パルタージュ)」とは我々すべての発言=声=告知するものが
それぞれ「分け前」を「与えられている」、個として分割されているがゆえにその
「本質的な差異」を享受しうる、そのような意味だろう。
この考え方は我々、ここにいる者にはなじみやすい考え方ではないだろうか?
巨大な無記名掲示板上で名も知らぬ者らと意見を交換し、対話を重ねていく。
名無しであろうがコテであろうが、深奥からの発露であろうが悪意のある嘘であろうが
1レスは1レス。大量の言葉の集積の中でそれぞれ「声の分割(パルタージュ)」を
分け与えられている、というわけだ。
350(OTO):2006/09/01(金) 13:34:30
 これは本ではない。   ─前文

というマグリットの絵のタイトルを想起させる言葉で始まるこの小論文は、
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/1175/post9.jpg
ストラスブール大学の解釈学セミナーのために1982年の4月〜5月、
わずか2ヶ月で書き上げられている。しかしその構造は決して単純なものではない。

ナンシーは、主体と意味の間を永遠に循環するしかないハイデガー「解釈学」の批判を縦糸に、
その「言葉についての対話より」という対話論文に登場するプラトン対話篇「イオン」へと
入れ子構造を下降していく。この「解釈」についての最古の哲学的ドキュメントにおける
ギリシャ語「ヘルメーネイア」はいったいどのようなものを現す言葉だったのか。

名詞「ヘルメーネイア」動詞型「ヘルメーネウェイン」は「解釈学」
ドイツ語Hermeneutik、フランス語Hermeneutique(文字記号略失礼)
の語源である。すでに古代ギリシャにおいて、ホメロスの詩やデルフォイの神託、
あるいは夢や占いなどを解釈するための技法が「ヘルメーネウティケー(解釈術)」
と呼ばれていた。
ギリシャ語「ヘルメーネイア」はおよそ3つの意味を持っている。
(1)言表・表現すること(2)説明・解説すること(3)翻訳・通訳すること
である。   ─訳注より
351(OTO):2006/09/01(金) 13:35:18
 以下の仮説が立てられねばならない。(中略)「イオン」の読解のみが、
 ヘルメーネイアの根源的な意味を、循環とは別の仕方で機能させうる、という
 仮説である。この観点からすると、謎とはおそらく、既にプラトンに気づかれなかったような
 聖なる謎ではなく、謎は次のことの内に存することになるだろう。すなわち、
 プラトンについての或る読解─つまり哲学の、哲学の中での或る遍歴でもある─が、
 哲学的解釈からの逸脱を説明し、「告知」としてのヘルメーネイアはこの
 逸脱へと誘うものである、ということに。(中略)「イオン」は告知について
 何を告知しているのだろうか?読み、解釈しよう。(48・49P) 

「イオン」はコンクールで優勝した吟遊詩人イオンとソクラテスとの対話である。
ホメロスの詩に精通し、その朗読によって聴衆を深く感動させる朗読者=詩の解釈者イオン。

 ヘルメーネウェインとは詩人のロゴスを朗読し上演するという意味において
 解釈することである。(50P)

ソクラテスはヘルメーネウェインが特異的な能力であり、テクネー(技術)でも
エピステーメー(学)でもないと宣言する。そして詩人の「ポエジー」は
朗読者のヘルメーネイアを介してこそ聴衆達にとっての「ポエジー」に到達するというのである。
352(OTO):2006/09/01(金) 13:37:06
ソクラテスはこの能力が「磁石のように」人をひきつける「神的な力」であり、
霊感を受けた(神懸かりした)詩人による「ポエジー」を同じく神懸かりの状態の
再構築(朗読)によって聴衆に伝える「憑依-一体化-贈与」という図式を明らかにしていく。
(というナンシーの解釈のおれの解釈であるわけだがwww)

おれは唖然とした。
解釈をめぐる哲学的エクリチュールが「神憑り」という言葉に到達したのだ!
これは確かに「哲学的解釈からの逸脱」、「形而上学の閉域」を循環することしか
できなかった解釈学の突破口と見える。

意味の循環に陥ることなく、個々の特異な「声」の分割=分有としてのヘルメーネイアを
認識すること、他者の特異な「声」、そのユニークネス「本質的な差異」を「贈与」として
受け取ること。人間的な感動さえ呼び起こすこの小論文は、
ナンシーによる「対話」「共同体」に関するヴァリアントのひとつとも言える。
353(OTO):2006/09/01(金) 13:37:58
ふー息切れするなww
長々と失礼。
354SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/09/03(日) 23:42:08
>>343
ヴィアン『日々の泡』読まれたんですね。最初に読んだのは十代の頃。
(ハヤカワ文庫のタイトルは映画や岡崎漫画と同じ『うたかたの日々』)
レーモン・クノーがこの作品を「最も悲痛な恋愛小説」と言ったとか。
でも「悲痛」というより「せつない」という形容のほうが似合う。
(それとも「せつない」にあたるフランス語が「悲痛」なのかな?)

この小説は何もかも美しい。
コランとクロエという主人公たちの名前も、
独特の形容詞で陳列されるオブジェたちも。
鮫皮のサンダル、淡褐色のキャラマンコ羅紗のジャケット、
それぞれの音符にリキュールや香料などを対応させたカクテルピアノ。
ジャン=ポール・サルトルがジャン=ソオル・パルトルという名で登場。
そんなユーモアも兼ね備えたこの作品だけで(『心臓抜き』もいいけど)、
40前に死んだヴィアンという作家名を忘れがたいものにさせてくれます。

ジャズをやってるだけあって物語のリズム感も心地よく。
各文章に色彩やテイストを対応させたカクテル小説と呼びたいほど。
355SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/09/03(日) 23:50:03
>>345-353
この「妙な勢い」で書かれた言葉にどう反応したらいいんだろう?
と、考えあぐねつつも、狂気(トランス)と解釈をめぐっての
『分裂症の少女の手記』『声のパルタージュ』についての書き込みを拝読。
うーん、しかし本当に「妙な」勢いだなあ!

>5歳の時初めて感じた「非現実感」
これは何かわかる気がする(微笑)

>冷たい月光に照らされた、北極の荒地のように荒涼としたとした国
こうした非常に詩的な言葉を読んで次のように感じたのでした。

ルネが「克明に記憶し、描写していく」ところの「少女の記憶、経験」を
分析者セシュエーが読み、解釈する。そして我々もまたそれを読み、解釈する。
しかし、その前に少女ルネ自身が自分の記憶や経験を解釈しているのだろうし、
この手記がフィクションではないとしても、ストーリーではあるのでしょう。
それゆえにこれは文学と「解釈」できるのだし、
「恐るべき力を持った」文学と呼べるのでしょう。
356SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/09/04(月) 00:02:58
(承前)
>個として分割されているがゆえにその「本質的な差異」を享受しうる
ところの分割であり共有でもあるナンシーの「パルタージュ(分有)」。
たしかに、「共同体に関するヴァリアントのひとつ」ともいえますね。

さまざまな言葉や意見をOTO氏やCucさんと分け持ちつつ、
分かち合えないものさえもそのものとして分かち合いながら――。
日本語の「分かる」にも、「細かく分けて把握する」という意味のほかに
そうした「パルタージュ」へとつながる意味合いが含まれているのかもしれない。
それから、「自分」や「気分」といった言葉にも。

当然ながら、「解釈」という言葉もまた解釈されますね。
ソクラテスが、ナンシーが、OTO氏が「解釈=翻訳」する「ヘルメーネイア」。
(ところで、このギリシア語はヘルメスとも関係があるのかな?)
「(1)言表・表現(2)説明・解説(3)翻訳・通訳」という3つの意味の中で
「翻訳(トランスレーション)」という言葉に焦点をあててみると、
そこには、「トランス」があり、OTO氏が書いていることに共鳴するかのよう。
「霊感を受けた(神懸かりした)」詩人の「ポエジー」につながる「ヘルメーネイア」。
357SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/09/04(月) 00:09:27
『フリアとシナリオライター』についてはまた改めて。〆
358 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/05(火) 21:40:07

OTOさん

>>344

>この前は同じ企画で吉増としまおまほが対談してたようだ。
>これも聞いてみたかったな。
ああ、そういえば貼りつけていただいたサイトに対談予定が書いて
ありましたね。わたしも聞いてみたかったな。

>そうだね。ソクーロフは日本人の穏やかなところがすごい!って
>思ってるんだろうな。
異国人にとって、日本人女性は一見穏やかで手弱女(たおやめ)に
映るのでしょうが、実は内々に秘められた情念がすごい!(笑い)
静御前、与謝野晶子、岡本かの子…、普段は穏やかなのにいざとなると
自らの情熱の赴くまま行動しますね。。。


(つづきます)
359 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/05(火) 21:40:45

>>345-347

「分裂症の少女の手記」の感想、ありがとうございす。
感想にただ、ただ、圧倒されています。よくぞ書ききっていただきました。
何だかものすごい手記のようですね、、、

>私にとっては狂気は決して病気を意味するものではありませんでした。
>私は自分が病気だとは信じませんでした。それはむしろ、現実界に対抗する
>一つの世界
この部分に深く共感しました。わたしはすべての狂気が病気だとは思えないのです。
人は過酷な現実から己を守る手段として、別な世界をこころのなかにつくりあげること
があります。その世界のなかでは安らげ、外部から受けたこころの傷を癒していく
のです。自己防衛のための世界は虚構であり、現実逃避と呼ばれますが、
こころを防御し保護するためには必要な世界であると考えています。
けれど、犯罪に至るほどの度を越した狂気は精神障害者として治癒されるべきです。
また、その世界が当人を苦しめ、癒しや悦楽をもたらさない場合も同様です。

>この本物の狂気にも「光」は重要な要素となっている。
>無慈悲な電光、無慈悲な、目もくらむ、影になる場所もあたえない光が支配、
>冷たい月光
狂気は「光」と実に密接な関係にありますね。
光は聖書によれば、神であり、善であり、正であり、希望の象徴です。
一方、闇は悪魔であり、悪であり、負であり、絶望を意味します。
病的な狂人にとっては光は恐怖にしか映らず、強い拒否の態度を示すようですね。


(つづきます)
360 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/05(火) 21:42:08

わたしたちは病気になると安静を強いられ、回復を静かに待ちます。
たいてい窓のカーテンは閉められ、安眠のため光が入らないようにします。
身体やこころが弱った病人にとって光は強すぎ、時として害になるからです。
つまり、こころや身体を病んでいる人が求めるのは闇であり光ではないのですね。

この少女にとって光は恐怖と絶望しか与えない凶器であったようですね。
なぜ、善であるはずの光は少女に愉悦をもたらさなのでしょう?
(キリスト教は愛の宗教であり、また光の宗教であるといわれていますが…)
おそらく彼女は潜在意識のなかで「光あふれる外の世界」、すなわち「現実界」を
極度に恐れていたのではないでしょうか? はっきりいえば現実に「復帰したくない」。
それゆえに、光は彼女のなかで意図的に歪められ、邪悪なものにしか映らない。
自分を苦しめる病状から解放されたいと望む一方で、本心はこちらの世界にこのまま
留まっていたい、なぜなら現実界は過酷でもっともっと彼女を苦しめるから。。。
つまり、彼女を脅かす幻視の光は本人によって無意識のうちに召喚されていたと
いえるのではないでしょうか? 
それは例えば水を極端に恐れる人が、気がつくといつも水のあるところ、川や湖、
池、海辺に立っているという無意識の領域がなせる心理行動かもしれません。


(つづきます)
361 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/05(火) 21:42:45

>では、この手記は文学とは呼べないのだろうか?
>読む者の眼前にトランスを伴い、或る世界を展開していく、
確かに「狂人日記」には文学と呼べるものがいつくかありますね。
ただの手記と文学との差異はまさしく読み手を「トランス」に導くか否かです。

>今や私はセシュエー夫人を正当に理解できるようになりました。
>私は彼女のあるがままの姿を愛するようになり、
>この「謝辞」がむしろ表面的で平板に聞こえるのはどうしたことだろう。
この謝辞はよそよそしく、本心が巧妙に隠された感があり、どこか無理がありますね。
というのは、どんな正常者でも本来人は他者を「正当に理解する」ことは不可能で
あり、それゆえに他者の「あるがままの姿を愛する」ことも実は不可能なのです。
わたしたちが他者をとらえるとき、他者は自身の投影であり、他者を愛することは
自分がつくりあげた幻想を愛することに他ならないのですね。

>「社会性」とは一体なんだったのだろう
本心を押し隠し、外の世界とうまく折り合いがつけられる能力、といったら
言いすぎでしょうか。。。
この少女の回復、すなわち「社会性」が均されることだとしたら、精神疾患を
患う以前からあった彼女の本来の個性も喪失してしまったのでしょうか……。


以下、「声の分割」の感想のコメントです。
362 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/05(火) 21:44:36

>>349-352

ジャン・リュック・ナンシー「声の分割」の感想、読ませていただきました。
本文の引用と、OTOさんなりの丁寧な解説、ありがとうございます。
ナンシーのOTOさんの解釈、実に斬新かつ興味深いものがありました。

わたしたちはネット上で発言するという「分け前」を各々「与えられている」
ということに先ず驚きました。
うまく言えないのですが、ネット上での発言は発言者が読む人に何かしら
の形で「分け前」を「与えている」側であると思っていたのです。
例えばそれは、多岐にわたる情報、深い知識、あるいは感動などなど。
ところが、それは実は発信者が何か発信する以前にすでに各々の技量に
応じて何らかの「分け前」を「与えられている」のですね?
「分け前」とはわかりやすくいえば、才能、もしくは能力、賜物でしょうか?

>ギリシャ語「ヘルメーネイア」はおよそ3つの意味を持っている。
>(1)言表・表現すること(2)説明・解説すること(3)翻訳・通訳すること
SXYさんも>>356で指摘されておいでですが、わたしもこのなかで
「神懸かり」にもっとも近いのは、(3)翻訳・通訳することだと思います。

>ホメロスの詩に精通し、その朗読によって聴衆を深く感動させる朗読者=詩の
>解釈者イオン。
朗読者イオンは詩人ホメロスの魂に深く共鳴し、彼の魂を聴衆に誰よりも
共感をもって伝える代弁者、つまり使者です。
使者とはふたつの異なる世界を自在に往き来できる「選ばれし者」なのですね。


(つづきます)
363 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/05(火) 22:32:09

翻訳とはあちら側の岸とこちら側の岸の「橋渡し」をすること。それもただ橋を
架ければいいというものではなく、両岸に深く通じていなければなりません。
片方にのみ精通しているだけでは、優れた翻訳はできないのですね。
橋渡しをするには、かつて詩人が受けたトランスを自らも追体験しなければならない。
まさしく「選ばれた者」にだけしかトランスは訪れないでしょう。
そして、その特異な能力とは技術でもなく、学でもないという。。。

詩人と朗読者のみに限らず、作曲家と演奏者、戯曲家と演技者の関係も然り。
作曲家が譜面を書いただけでは聴衆には音楽は伝わりません。
演奏者が奏でることによって初めて譜面は楽曲として実体をもちます。
同様に戯曲家が戯曲を書いただけでは観客はどんなものかわかりません。
舞台で演技者に演じられて初めて演劇として立ち上がるのです。
朗読者、演奏者、演技者、彼らはすべからく創作者と同様に預言者――
《神の言葉を伝える者》であり、神の木偶として優れた能力の持ち主です。

観衆は朗読者や演奏家という翻訳を媒介してのみ創作者の魂、ひいては
神の声を聴くことができるということですね。
それは同様に、創作者と翻訳者も直では繋がれないということを意味します。
両者は互いに「神の声」、「神懸かり」による体験を通して初めて一体化します。


(つづきます)
364 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/05(火) 22:33:01

>ソクラテスはこの能力が「磁石のように」人をひきつける「神的な力」であり、
>霊感を受けた(神懸かりした)詩人による「ポエジー」を同じく神懸かりの状態の
>再構築(朗読)によって聴衆に伝える「憑依-一体化-贈与」という図式を明らかに
>していく。 (というナンシーの解釈のおれの解釈であるわけだがwww)
深く同意します。なるほど、と唸ってしまいました…。
哲学の開祖ソクラテスは偉大な哲学者であると同時に宗教的神秘家でもあり
ました。
彼自身が告白しているように、しばしばダイモニオン(神霊)を受けていたのです。
つまり、神霊の声を聴き、神霊と対話していたのです。
対話による哲学を編み出すきっかけは神霊のささやく「声」によってでした。
それゆえに、ソクラテスは「神の声」を何よりも尊重し、故人となった詩人の魂を
そのまま具現できる朗読者=詩人の魂・神の声を聴ける者として賞賛したのですね。

ところで、なぜ「声」なのでしょうか?
「声」とは人が文字を学ぶずっと以前に自然と耳にはいってくるものです。
まだ目の開かない赤ん坊は真っ先に「声」を聞き分け、誰が自分に授乳して
くれる人なのかを鋭敏に聞き分けるでしょう。自分を保護してくれる人が誰かを
聞き分けるのはそれが死活問題だからです。生存のための本能です。
憑依資質というものがもし仮にあるとすれば、生まれたての赤ん坊の如く、
生存に関わる原始の「声」を正確に聞き取れる人なのかもしれません。
赤ん坊に何よりも必要なのは技術より、学より、「声」を聞く能力なのですから。


(つづきます)
365 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/05(火) 22:33:35

あらゆる芸術家(詩人・作曲家・作家・画家・哲人)たちは、ミューズの神に愛され、
選ばれたものたちですから、彼らの作品を解釈して翻訳・再構築するためには
やはり同じようにミューズの神に選ばれたもののみしか使者としての橋渡しの
役割は果たせないのですね。

吉増剛造は柳田国男を語るとき、「感応」という言葉を意識的に使っていました。
そして、この「感応」こそが時空を超えて遙か古(いにしえ)の人々や、優れた
先達との交流を果たせる唯一の手法である、と述べていました。
柳田国男は優れた感応力で古人の言葉を解釈し、民俗学として定着させたのです。

そうです。「感応」とはソクラテスのというところの「ヘルメーネウェイン」であり、
ナンシーの提唱する「神懸かり」と同じものではないでしょうか?
また、神=聖とするならば、あのロールの言葉に思い至るでしょう。
「聖なるものとは交感です」。つまり、神懸かりとは感応です。
交感の真の意味は実際に肉体的な性的結合をするだけに留まらず、すでに故人と
なった優れた先達たちとの霊的交感、魂の交流をも指すのではないでしょうか?
バタイユはたまたま交感のもっともわかりやすい手段として性的結合を選んだに
すぎないということです。
バタイユが決して導き得なかったロールの「聖なるものとは交感です」。
ではなぜバタイユが到達できずにいたこの結論をロールはいとも簡単に導き出す
ことが可能だったのでしょう?
ロールはバタイユより遥かに「感応力」に優れていたからですね。
技術でもなく、学でもない、神懸かり的な「感応」。
ロールが誰よりも「交感」したかったのは、バタイユではなく故人となった父。
いまは亡き父と交感するには「感応」こそが残された唯一の手段だったのです。


(つづきます)
366 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/05(火) 22:34:15

では、自身の思考法をデカルトの「方法序説」に倣って秩序立てて組み立て、
ヴィトゲンシュタインの提唱する論考、「技法」として鍛錬し、あらゆる文献から「知識」
を得、真理を見つけ出そうと邁進する哲学者は、故人の遺した優れた著書を正しく
「解釈」することは不可能なのでしょうか?
絶え間ない思考の訓練も、夥しい読書も「神懸かり」「感応」といった資質を備えて
いない限り、水泡に帰してしまうのでしょうか?
もし、そうならば学問研究者のしていることはすべて無に等しくなってしまいます。
わたしはそうは思わないのですね。
確かに「感応力」に優れた「選ばれたもの」は、そうでない人よりより速くかつ正確に
目的地に到達することができるでしょう。
彼らは何の努力もせずに、いとも簡単に目的地に着くのです。
それも一瞬の飛翔で……。ある意味で無敵です。
けれども、優れた感応力を持たないものでも、こうした瞬間は訪れるのです。
それは、閃き、啓示と呼ばれます。


(つづきます)
367 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/05(火) 22:34:53

ちょっと逸脱しますが、アインシュタインは決して天才肌ではなく、日々思考の訓練
をしていました。子供の頃に光に興味を持って以来、毎日毎日そのことばかり
ひたすら考え、図書館でたくさんの文献を読み漁ったといいます。
彼の思考法は仮説1、仮説2、仮説3…、と思いつく限りの仮説を先ず立てます。
夥しい仮説についてひとつひとつ熟考し、考察し、何百回も数式を組み立て、
計算し直します。書いては捨て、また新しく思考し、数式を立て直す、こうしたことが
延々と繰り返されていきました。

そして、ある瞬間今までの仮説とはまったく異なる大文字の「仮設A」がふいに
閃き、舞い降りてくるのです。(ラカンの「大文字の他者A」を真似てみましたよ…)
彼はこれを「思考の飛翔」と呼びました。通常は「啓示」と呼ばれますね。
彼が導き出した宇宙万物の法則、燦然と輝く揺るぎない数式はあらゆる仮説と
思考の繰り返しを礎に長い時間をかけて築かれたものだったのです。

ですから、思考の飛翔、啓示はいわゆる憑依者だけに訪れるのではなく、
時間をかけ、学ぶ―理解―懐疑という思考法を繰り返す哲学する人にも、
本人もまったく予期しない瞬間に訪れるのではないかと思うのですが……。


――それでは。
368(OTO):2006/09/07(木) 20:31:23
>>354
これ読んで確かぴったりのCDがあったはずだと思って部屋のCDひっくり返して
見つけましたww
「jazz a saint germain」1997年のコンピ。
タワーで検索してみたが廃盤にはなっていないようだ。
http://www.towerrecords.co.jp/sitemap/CSfCardMain.jsp?GOODS_NO=176804&GOODS_SORT_CD=101

ジャズの名曲をロック、ポップスのシンガーがカバーしてる、おしゃれで聴きやすいアルバムだ。
ちょっと名前をみてもジェーン・バーキン、ブリジット・フォンテーン、イギー・ポップ(?)、
デボラ・ハリーとビッグネームが並んでいる。そしてアルバムを締めくくるのは
ボリス・ヴィアンの「j'suis snob」1分たらずの録音でオフテイクらしくリリースされていない。
おれが好きなのは1曲目のアンジェリーク・キッドジョーが歌う「summertime」、
すごい声だ。これはおすすめできるCDだな。

>>355
>うーん、しかし本当に「妙な」勢いだなあ!
だろ?ww自分で読み返してもおかしいものww

>>356
>(ところで、このギリシア語はヘルメスとも関係があるのかな?)
そのようだね。神の言葉を人間に伝えるヘルメスが語源のようだ。

「分かる」「自分」「気分」はその通りだと思うな。同意・納得。
369(OTO):2006/09/07(木) 20:59:36
>>359
>わたしはすべての狂気が病気だとは思えないのです。

同感だね。「狂気」という「診断」には属するコミュニティからの逸脱というか、
「社会的」な判断が含まれているはずだ。まあルネの場合、実際に外界が
ギラギラと光って見えるという感覚異常があったように読めるが。

>>360,361
光に神的な恍惚を見るか、恐怖を見るか。
ひょっとすると病のためにその受け取り方が違うというよりも
その受け取り方=解釈そのものが「病」なのかも知れないとも思う。
光と闇、善と悪、根源的な肯定(ポジティビティ)と否定(ネガティビティ)の混乱、逆転。
単純な二元構造であるがゆえ、それが転倒する可能性を容易に見ることができる。
それに対する不安。ルネの場合、ヒトが最初に出会うはずの母親からの肯定的な感情に
出会えなかったために、混乱が始まったのかもしれないな。
370(OTO):2006/09/07(木) 21:36:07
>>362,363,364,365
すごい迫力だな。特にロールに対する言及以降はおまいじゃなきゃ書けない展開で
まぢで感動した。
>>208を読んだ時に「声の分割」の感想を書かなきゃな、と思ったが
ここまで展開してくれるとうれしいねww

おれは特にこのスレに対しては「パルタージュ」を感じるよ。
>>356でSXYも言ってるように、それぞれの固有の「声」を分有し、
受け取り、重ねていく感じ。

なぜ「声」か?それは「声」が個人の固有のものだからかも知れないね。
こうやって書かれてしまえば平坦な文字列でも、その意見・解釈はいつも
固有のものである限り、「声」と呼ぶことができる=解釈できる。

誰かがこう言った、誰かがこう解釈した、という伝聞や引用にも引用者の「声」は
潜んでいるのだろうが、Cucが「素朴な感想」とよく自分で言うように
CucやSXYがどう読んだか、どう感じたかという「声」が聴こえるのが
おれ的には面白いんだよねww

んじゃふたりのリョサ、楽しみにしてるよ。
371 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/11(月) 23:04:11

OTOさん

>>368-370

丁寧な感想文を、ありがとうございます。
それと、ロールに関するわたしのコメント褒めていただき、とてもうれしいです! 
ロールの著書を読んだ当初、あれだけ博識かつ偉大な思想家であるはずの
バタイユが出し得なかった答えを、彼よりも学や技術に長けているとは思えない
ロールがさほど苦もなく導き出せたのはなぜだろう? と疑問に思っていたのでした。
それが今回、「声の分割」の感想をあなたが書いてくださったおかげで、
「ヘルメーネウェイン」「神懸かり」という新たな世界を知り、ロールへの疑問が
解けたのです。改めて感謝します。

「彼女は放埒な人生を送ったが、その美しさはそれを見抜く者にしか分からなかった。
彼女のように一徹で純粋な女性はいなかった」とバタイユ自身が評しているように
一徹・純粋とは別の見方をするならば、この世のものではない何かに憑かれたような
印象を受けます。彼女はまさしく憑依、つまり感応力に優れていたということですね。

>神の言葉を人間に伝えるヘルメスが語源のようだ。
まさしく「預言者」(神の言葉を伝える者)そのものですね!

>「狂気」という「診断」には属するコミュニティからの逸脱というか、
>「社会的」な判断が含まれているはずだ。
そうですね。ここで重要なのは精神科医がその「社会的」な判断基準をどこに置くか
ということです。狂気かそうでないかの境界は実は非常に曖昧です。
精神科医とは裁判官のようでもあります。あらゆる症例(判例)を調べ、逸脱度合い
がどれくらいかを臨床し(裁判なら周囲の証言)、そして、診断(判決)を下す。。。


(つづきます)
372 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/11(月) 23:04:46

>その受け取り方=解釈そのものが「病」なのかも知れないとも思う。
ああ、なるほど。例えば強迫神経症の人は爽やかな鳥の囀りが罵声に聞こえたり、
清々しい杉木立が巨大な鋭利な刃物の群れのように見えたりするのでしょうね。
これらは肯定ではなく否定です。つまり自分を取り巻く世界の拒絶ですね。

>それは「声」が個人の固有のものだからかも知れないね。
確かに。声はその人の根源的なもの、魂と深く関わっていると思いますね。
だから、ひとつとして同じものはない。
そして、声(=魂)は発せられた瞬間から分かち合われ、さまざまな解釈をされる。

>「jazz a saint germain」1997年のコンピ。
リンク、ありがとうです。「summertime」聴きましたよ♪ 
夏――弾け飛ぶ光、溌剌とした海、若い季節、灼熱の太陽。
題名から受ける印象とは異なりますね。
どこかもの悲しい調べと、訴えかけるような声。
これは逝く夏を惜しみ、ひと夏だけの短い恋の終わりを悲しむ歌なのでしょうか…?
夏の終わりの今の季節にぴったりな選曲ですね。

ボリス・ヴィアンの「j'suis snob」は録音時の会話がそのまま録音されている
のですね。『日々の泡』の作者の声と演奏を聴けるとは、何て貴重でしょう!!
感謝感謝です♪


――それでは。
373 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/11(月) 23:05:17

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

ヴィアン『日々の泡』の感想をありがとうございました。
>>354
>でも「悲痛」というより「せつない」という形容のほうが似合う。
>(それとも「せつない」にあたるフランス語が「悲痛」なのかな?)
実に鋭いご指摘ですね! 言葉に対する感覚が素晴らしいです……。
「せつない」という言葉は英語やフランス語にぴったり該当する単語は
なかなかないようですね。日本人特有の繊細で豊かな感性が生んだ上質な
言葉といえるのではないでしょうか。

山田詠美編集「せつない話」はせつなさがテーマの短編小説集です。
編纂した山田詠美氏はこのように書いています。
――せつなさとは、人生の機微を知った大人にのみ許される贅沢で甘美で
刹那な感覚である。
「せつない」という言葉は、実は多くの人々がしまったまま忘れた心の内の
宝箱を開ける鍵になり得るのではないか(略)。そうであれば、それはまさに、
言葉の鍵、キーワードである。(略)鍵になる言葉は、いつだっていとおしい
不意打ちを私たちに与えるものだ。(山田詠美「心の鍵穴」より)――


(つづきます)
374 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/11(月) 23:07:04

>この小説は何もかも美しい。
色彩、音、すべてが夢のような非日常的な世界を醸し出し、読むものを
別世界へと誘いますね。

>各文章に色彩やテイストを対応させたカクテル小説と呼びたいほど。
とても素敵な表現ですね!
そうですね、きれいな朝露の雫、それも上澄みだけを集めてつくられた極上の
飲み物を思わせる小説です。
持ち物や調度品に贅沢にふんだんにお金はかけられていても、それが
少しも嫌味に映らないのは恋の一途さ、純粋さ、友情の厚さ、こうした無垢な
若さ、傷つきやすい翼をそれぞれの人物たちが纏っているからでしょうね。

以下は、『日々の泡』のわたしなりの感想です。
375 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/11(月) 23:07:50

ボリス・ヴィアン『日々の泡』の感想を記します。

三組の若い男女の恋愛のこれはボーイズ・ミーツ・ガールの物語です。
三組の男女はそれぞれの場所で相手にめぐり逢い、恋をし、ある者は
結婚し、ある者は同棲し、ある者は互いの家を行き来して恋を育てます。

青春小説、恋愛小説、こうした呼び名がふさわしいのでしょう。
わたしはこの小説を≪残酷な純愛メルヘン≫として読みました。
たとえば、コランとクロエの出逢い、結婚、クロエの病気、そして死。
ふたりのこんな初デートの描写があります。
――小さな薔薇いろの雲が空中からおりてきて二人の傍に寄ってきた。
「行っていいかい」と雲が申し出た。その雲がふたりを包みこんだ。
内部は暖かくて肉桂入りの砂糖の匂いがした――

いきなりメルヘンの世界に入り込んだかのようです。童話とは現実感や生々しさが
あってはならないのですね。
コランとクロエの恋物語はまさにそうでした。肺を病み、胸に大きな睡蓮の花を
咲かせ、病室はいつもたくさんの花で溢れかえっており、クロエは美しいままで
短い生涯を終えます。資産家だったコランがクロエの治療代がかさんだため
必死に職探しをしたり、家財を手離す描写でさえメルヘンチックなのです。
たとえば、お金を得るため手離したカクテル・ピアノ。演奏する曲目によってその
都度違った味のカクテルが出てくる飲み物製造ピアノとはなんとロマンティック
であることでしょう! (こんな魔法のようなピアノがあったら欲しい……)
ふたりのままごとのような結婚生活はクロエの死によって幕を降ろします……。


(つづきます)
376 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/11(月) 23:37:06

二組目の恋人たち、シックとアリーズ。
コランとクロエの愛の終局がメルヘンのような死ならば、このふたりは対極で、
生活することの煩雑さと、互いの価値観のずれによって破局に向かいました。
シックとアリーズの破局はあらゆる恋愛の破局、結婚生活の破綻の典型とも
いえるのではないでしょうか。
男と女が一緒に暮らしだすと、男は従来と何も変わらぬ生活態度を続ける
のに対し、女は従来の生活には見向きもしなくなり、目の前にある現実の
ほうにのみ目が向けられるということです。

シックはパルトル(=サルトル)という思想家にのめり込んでおり、定職に
就かないまま、彼の新刊が出るたびになけなしのお金をはたいて買い、
古本屋で法外な値段の彼の著作を見つけると借金をしてでも買ってしまいます。
一緒に暮らし始めた頃はシックとともに熱くパルトルを語っていたアリーズは今では
まったく口にしなくなりました。
彼女はシックのことばかり考えるようになっていたからです。

――待つことで満足し、ぼくと一緒にいることで満足していたんだ。
ほくだって彼女を愛しているじゃないか。だからといってぼくの時間を彼女に
むだにされてはならないんだ。彼女がもうパルトルに興味をもたなくなった
以上はだ。 (中略) アリーズはちっとも勉強しないでいたのだ。
彼女はシックのこまごました身の回りのこと、食事をさせるとかネクタイに
アイロンをかけるとかに、かまけすぎていた――


(つづきます)
377 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/11(月) 23:38:22

シックが好きだったアリーズは、生活のこまごましたことのみで頭が占められて
いる彼女ではなく、自分と同じように熱くパルトルを語れる彼女でした。
けれども、今目の前にいる彼女はもうかつて愛した彼女ではない……。

アリーズの恋の悲劇は、シックが定職に就こうとしない、すなわち彼に
結婚の意志がないから起ったからではありません。
また、アリーズがシックの日常の世話をやきすぎたあまり、重くなりシックが
彼女にいや気がさしたからでもありません。
アリーズがシックのため、彼によかれと思ってしている行為とは実は彼のため
ではなく、本当はアリーズの自己満足にすぎないのに彼女自身そのことに
まったく無頓着でいすぎたことから生じた悲劇でした。
彼のため、という言葉は一見無償の行為のように聞こえがちですが、
穿った見方をするならば束縛や脅迫に近いのではないでしょうか?
シックと対等にパルトルを語れるほどの聡明な頭脳を持つアリーズでさえも
ひとたび恋に落ちたら、ただの女なのです。。。

アリーズだけが例外ではなく、恋する女たちは似たり寄ったりでしょう。
それが、女の可愛らしさであり、同時に愚かしさでもあるのでしょうが……。
おそらく、ほとんどの女性読者はアリーズの行為を他人事とは思えず
いたたまれない気持ちに駆られることでしょう。。。


(つづきます)
378 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/11(月) 23:38:56

シックの犯した罪は、アリーズはアリーズ以外の何者でもないのに、
彼女にサルトルの恋人ヴォーヴォワールを重ねたことでした。
ヴォーヴォワールはサルトルと恋に落ちても、哲学や創作に懸ける情熱を
決して失うことはありませんでした。恋は恋、学問は学問と両立できたのです。
シックが夢見た理想の二人の恋愛と現実とでは大きく隔たってしまい、
彼がその現実を受け容れようとしなかったことに悲劇がありました。

男と女の考え方の相違、恋愛の悲劇はまさにここにあります。
仕事、あるいは趣味に打ち込んでいるきらきらと輝いている彼女が好きだった
のに、いざ恋愛関係になると仕事も趣味も放り投げて、朝も昼も夜も相手の
ことで頭がいっぱいになってしまう。
男はそんな彼女に興ざめし、やがて別離が訪れます。。。

アリーズも例外ではありませんでした。シックの敬愛するパルトルを殺してしまう
のです。パルトルだけでなく、シックがお金を使いそうな書店、古本屋の店主を
も殺し、火を放ちます。シックを破産させないために。シックを救うために。
ええ、まさに狂気の愛、です。
けれども、アリーズを哀れな狂女と笑うことなど誰もできないのですね。
誰かを愛し始めた瞬間から人はすでに正気を失っているのですから。
でなければ、人はどうして愛のために身をもって死ねたりするのでしょう?
愛に関して自分だけは大丈夫、そんな保証はこの世にどこにもないのです。
愛することは死と狂気すれすれの深淵を目隠ししたままで歩いていくことです。
それは誰かに強制されたからではなく、自らの意志で歩くのです。
愛の怖さと強さはまさにここにあります。


(つづきます)
379 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/11(月) 23:39:31

ニコラとイジスはもっとも安定した恋人同士でしょうか。

ふたりの関係は恋人というよりも兄と妹に近い感じがします。
互いを過大評価しすぎることもなく、従って恋に溺れすぎることもなく、
ほほ笑ましい関係です。
ニコラは友情に厚く、またこのなかで年長ということもあり社会に対する目が
開けています。
料理人としての腕前は確かであり、礼儀正しい一方ユーモアもあります。
三組の恋人たちのなかで、平穏無事なハッピー・エンドが迎えられるのは
ニコラとイジスだけです。
ニコラもイジスも脇役に徹しているからです。物語の中で主役級の恋人たちは
古今東西波乱万丈な生涯と悲劇的な結末を迎えなければならないのです。


(つづきます)
380 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/11(月) 23:40:08

この小説は幻想的な描写が随所にあり、重々しいシリアスな場面が続いたと
思った途端にいきなりファンタジーの空間に放り出されます。
読んでいる側からすれば茶々を入れられたような、目潰しを食わされたような
戸惑いが走るのです。
また一方で、非現実的な残酷な描写も随所に出てきます。
コランとクロエと結婚式の最中に指揮者がぺちゃんこの死体になったり、
アリーズがパルトルの心臓を突いて心臓鋏でつかみ出したり、
クロエの葬儀にお金がかけられないため、葬儀屋が窓から棺を放り投げ
たためクロエの死体が潰れてしまったり、、、
この小説では安易に人が死に、いとも簡単に殺されるのです。
作者はまるで何かに憑かれて復讐しているかのような印象を受けました。
あえて言うならば、この世の美しくないものすべてを抹殺しているような。。。

「ただ二つのものだけがある。どんな流儀でもいいが恋愛というもの、
かわいい少女たちとの恋愛、それとニューオリンズのつまりデューク・エリントン
の音楽。ほかのものは消え失せたっていい、醜いんだから」――まえがきより


――それでは。
381SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/09/14(木) 20:56:16
>>345-353 のOTO氏に続き、>>358-367 のCucさんの書き込みもまた、
鬼気迫る、というわけではないけれど、深さと強さを感じますね。
柳田国男、吉増剛造、バタイユ、ロール、なんかの絡め方も面白い。

>>368
OTO氏「Jazz A Saint-Germain」のリンクありがとう。
うー、これはいいね! 「I'll Be Seeing You」でのイギーの声もよかった。
「Lover Man」もサラ・ヴォーンやビリー・ホリデイ↓とはまた一味違っていい。
http://www.towerrecords.co.jp/sitemap/CSfCardMain.jsp?GOODS_NO=529702&GOODS_SORT_CD=101

ヴィアンの「j'suis snob」を耳に残しつつ、
『日々の泡』についての書き込み(>>375-380)を拝読。
再読する予定で本箱を漁ってみたんだけど見つからず
そこで見つけたブローティガンをついつい読んでしまったていたらく。
しかしながら、Cucさんの文章を読んで結構記憶が蘇ってきましたよ。
ただ、ニコラとイジスのカップルについては完全に忘却してました。
382SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/09/14(木) 20:57:05
(承前)

>幻想的な描写が随所にあり、重々しいシリアスな場面が続いたと
>思った途端にいきなりファンタジーの空間に放り出されます。
Cucさんが「メルヘンチック」「ロマンティック」とも形容してるように
ヴィアンの作品には人を浮遊させてくれる独特の色彩とリズムがありますね。
ホフマンやブレンターノらのドイツロマン派ほど牧歌的ではなく
アポリネールほどの影もなく、シュペルヴィエルほど甘くもなく、
尾崎翠ほど静かでも、稲垣足穂ほど空想的でもなく、
早い話が(ぜんぜん早くないですね。。。)ヴィアン的としかいえないわけで、
沈んでいくかと思えば浮き上がってくるジャズのリズムのごとく
シリアスかつユーモラスなヴィアン・ワールドがそこにはあります。

>ほとんどの女性読者はアリーズの行為を他人事とは思えず
>いたたまれない気持ちに駆られることでしょう。。。
なるほど。そういう視点は気づきませんでしたが、
示唆されてみれば確かにアリーズ的感情に思い当たる節も。

>また一方で、非現実的な残酷な描写も随所に出てきます。
>作者はまるで何かに憑かれて復讐しているかのような印象を受けました。
きっと残酷さがあるからこそ、美しさが際立つのでしょうね。
せつなさやはかなさを通して――。
クロエが胸に花を咲かせてあっけなく死んでしまうからこそ、
我々読者はクロエの可憐さが脳裏に刻まれてしまうのだし、
同様に39歳という若さで心臓発作(心臓抜き!)で倒れたヴィアンを
『日々の泡』という作品とともに忘れないのでしょう。
383SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/09/14(木) 20:59:17
マリオ・バルガス=リョサ『フリアとシナリオライター』についての雑感。

バルガス=リョサは19才の時にバツイチの義理の叔母フリアと結婚。
『フリアとシナリオライター』はなんとほとんどそのままの設定で、
主人公マリオが叔母フリアと結婚するという自伝的要素が濃厚な作品。
表題にもある通り、この作品のキーパーソンは叔母フリアと作家ペドロの2人。
南米らしい情熱的な女性らしさを感じさせる10歳以上歳の離れた叔母フリアと
かなり偏屈で変わり者ながら、ラジオドラマでヒットを飛ばす鬼才ペドロ。
ラジオ局でニュース担当の仕事をする学生マリオの視点から、
この2人との絡み合いが主要なプロットを構成している小説でした。

主人公マリオは読者が感情移入しやすいキャラクターということと、
全体のタッチの軽さも手伝い、結構ぶあつい本だけれどもわりと読みやすかった。
ディケンズやフィールディングの小説の主人公にもつながるかな。
G=マルケスらの南米マジックリアリズムとは異なる正統的小説という印象。
384SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/09/14(木) 21:10:04
(承前)

とはいえ、この小説の最大のユニークさはその構成で、
2つの物語が章ごとに交互に分配されている対位法が採られてます。
奇数章のメインセリーは主人公マリオのBildungsroman(教養小説)。
(※余談ながらこの「教養小説」という訳語はいただけないなあ)
偶数章のサブセリーはペドロのラジオドラマを短篇にした一話完結もの。
いわば、長篇(メインセリー)と短篇集(サブセリー)を合体させた小説で、
一冊で二冊分おいしい本。

2つのセリーはところどころで継ぎ目をつくり、ウィンクし合いながら進行。
ただし、マリオがフリアと付き合い始める中盤あたりからサブセリーがおかしくなり、
メインセリーのほうでもペドロの狂気が進行し始めたことが徐々にわかってくる。

サブセリーの最初のほうは、小気味良いテンポと引き締まったプロットだったのが、
最後に近づくにつれ、前のドラマの登場人物が再登場するだけならまだしも、
途中で役柄や名前を変えたり、過去のドラマがいろいろ混じり合ってもうハチャメチャ。
挙句の果てには、一度死んだはずの人物が平気で蘇ってしまう始末。

総じて、結構エンターテイメント性のある小説でした。  〆
385吾輩は名無しである:2006/09/16(土) 12:45:35
保守
386 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/18(月) 18:02:33

>>381-384

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>>358-367の感想、ありがとうございます。
深く読んでくださって、うれしいです。
どうもわたしは書いているうちに意識があちこちにいきなり飛んでしまう傾向が
あるようです……。それは時として制御不能だったりします、、、

それにしても、ブローティガン、ホフマンやブレンターノらのドイツロマン派、
アポリネール、シュペルヴィエル、尾崎翠、稲垣足穂、とヴィアンの作品ひとつで
これだけ多くの作家たちを想起するとはかなりの読書家でいらっしゃいますね! 

>沈んでいくかと思えば浮き上がってくるジャズのリズムのごとく
>シリアスかつユーモラスなヴィアン・ワールドがそこにはあります。
そうですね、アップダウンが激しいというか、読者は慣れない波乗りをしている
ような気分にさせられますね。浮上、いきなり撃沈、ふたたび浮上、というふうに。

>きっと残酷さがあるからこそ、美しさが際立つのでしょうね。
的を射てますね! 美は、残酷、醜悪、汚泥、憎悪、苦悩、悲哀を礎にし、
濾過されて成り立つものです。美は負のものを突き抜け最後に君臨するもの
であり、あらゆるものの頂点に立つとはこうした意味なのでしょう。
ヴィアンは美醜に関しては鋭敏かつ実に繊細な感覚の持ち主だったのでしょうね。
387 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/18(月) 18:03:09

『フリアとシナリオライター』についての感想、ありがとうございました。

>ディケンズやフィールディングの小説の主人公にもつながるかな。
>G=マルケスらの南米マジックリアリズムとは異なる正統的小説という印象。
すらすらと3人の作家名が出てくるなんて、うらやましいです!
この中でわたしが知っているのはディケンズだけです…。

>主人公マリオのBildungsroman(教養小説)。
>(※余談ながらこの「教養小説」という訳語はいただけないなあ)
そうですね、Bildungsromanは「成長物語」などとも訳されますが、
わたしはこの小説は自伝であるとともに、作家修業の物語として
読みました。

>いわば、長篇(メインセリー)と短篇集(サブセリー)を合体させた小説で、
>一冊で二冊分おいしい本。
ああ、鋭い着眼ですね! 指摘されてみると確かにそうですね。
長編のなかに短編が挿話として組み込まれており、その短編は長編を引き立て、
飽きさせないためのスパイスであり、タペストリーのひとつひとつの模様ですね。

>マリオがフリアと付き合い始める中盤あたりからサブセリーがおかしくなり、
>メインセリーのほうでもペドロの狂気が進行し始めたことが徐々にわかってくる。
後半のペドロのシナリオはマリオの駆け落ち騒動とリンクしたかのような破天荒ぶり。
つまり、マリオの常軌を逸した恋愛はそのままペドロの狂気に繋がるのですね。
恋愛も、創作も熱に浮かされた状態で生まれ、正気の沙汰では成し得ないと
いうことなのでしょうか……?

以下、わたしの感想です。
388 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/18(月) 18:03:52

マリオ・バルガス=リョサ『フリアとシナリオライター』の感想を記します。

大学で法学を学びながらラジオ局でアルバイトをしている18歳の僕ことマリオと
離婚したての32歳のフリア叔母さんとの恋物語。
この小説は青春小説であり、自伝小説でもあります。
読み終えてほろ苦い気持ちになりました……。

ありきたりな青春小説と異なっているのは、僕がアルバイトをしているラジオ局に
彗星の如く現われた天才シナリオ・ライターのペドロ・カマーチョのドタバタ劇が
挿話としてふんだんに使われていることです。
辻褄の合わないストーリー、奇想天外な展開、毎回リスナーに気を持たせるような
白黒のはっきりつかない終わりのない終わり方、ラジオ劇のなかでは人がいとも
簡単に殺され血を流し、そのブラック・ユーモアのような残酷な描写は延々とつづく
のです。
こうした破天荒な物語展開でペドロは確実に視聴者のこころをとらえていきます。
10本以上のドラマをすさまじいスピードで書き上げていく彼。
彼は意欲的に夥しい作品を書き、彼が書けば必ず当たるのです。

僕は彼に羨望を抱き、そんな彼を横目で見ながら、作家になるためこつこつと作品を
書いているのです。そう、これは僕の作家修業の物語でもあるのですね。
半自伝、作家修業の小説で真っ先に想起するのは「青春時代」「郷愁」で知られる
ヘッセです。
けれど、リョサのこの小説にはヘッセのような高邁な思想や高い精神性はなく、
従って青春期特有の苦悩もさほど深刻には描かれておりません。


(つづきます)
389 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/18(月) 18:04:33

僕が若い日に実際に体験したことはかなり悲惨で悲痛であるにも拘らずドタバタ
喜劇の手法で描かれているため、読者はさほど青春の感傷を感じずに、時として
笑いながら読み進めていくのです。
ところが、お気楽な気持ちは最後の数ページで一瞬にして覆されるのです……。
僕は周囲の親戚の猛反対を押し切ってフリア叔母さんと結婚し、パリに住み、
念願通りに作家になるのですが、そこでかつて敬愛していたペドロに偶然にも
再開するのです。
(ペドロは当時精神に異常を来たして病院送りになったのでした)
ぼろぼろの靴、何日も洗っていない着たきり雀の汚れた服、丸刈りの髪、、、
その輝かしい才能にかつてあれほど羨望し、嫉妬し、あこがれていた僕は
彼の変わり果てた姿に茫然となります。
――「お元気ですか、ペドロ。僕のこと、覚えていませんか」
彼は生まれて初めて会ったかのように驚いた様子で、目を細め、顔を近づけて
僕を上から下までしげしげと眺めた。
「初めまして、ペドロ・カマーチョです」――

そう、彼は僕のことをまったく覚えていなかったのです。
それは、彼が今の境遇を恥じて嘘をついているのではなく、本当に覚えていない
のでした。僕にとって彼は数年間同じラジオ局で顔を合わせ、お茶を飲み、僕の
恋物語の相談相手であり、創作意欲旺盛な敬愛すべき大先輩であったけれど、
彼にとってみれば僕の存在など取るに足らないものなのでした。


(つづきます)
390 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/18(月) 18:05:11

そして、僕自身もあの頃の自分とはずい分と変わったのです。
作家として成功を収めた僕は、かつて鬼才と謳われたペドロと立場が転倒し、
彼を目の前にしても、もはや羨望も嫉妬も沸き起こることはないのでした。
僕はもうあの頃の僕ではないのです。
あれほど周囲をはらはらさせ、気を揉ませたフリア叔母さんとの結婚は8年で
終わりを告げました。。。
驚くべきことは、僕の結婚生活は破綻したのにペドロは今年銀婚式を迎えると
いうのです。
彼の妻とは、醜く太っていて周囲の嘲笑を買う存在なのです。
売春婦まがいのストリッパーをしながら、彼の日々の生活を支えているのです。
死ぬの生きるのと言って駆け落ちまでしながら、数年後に別れてしまった僕と
フリア叔母さん。片や、一度は別れてもペドロが精神病院入りすると戻ってきて
たとえそれがいかがわしい商売だとしても献身的に彼に尽くす妻。

「すこやかなるときも、病めるときも愛する事を誓います」
僕とフリア叔母さんは、かつて教会で神の前でそう誓いました。
同じようにペドロと彼の妻もかつて誓いました。
時は流れ、僕は成功したのち妻と別れ、ペドロは精神を病んで失業しても
妻と別れることはありませんでした。
この両者の隔たりは何でしょう?
僕の未熟さのせいでしょうか? ふたりの年齢差のせいでしょうか?


(つづきます)
391 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/18(月) 18:41:02

ペドロの妻はなぜ彼が精神を病んだ状態でよりを戻したのでしょう?
妻にとって何のメリットもないのに。
そこにあるのは損得を度外視したまぎれもない「愛」なのですね。

そう、僕とフリア叔母さんは熱烈な恋はしたけれども、ふたりとも「愛」にまで
高めることができなかったのです。
恋は一過性の「感情」であり、その感情を永く繋ぎとめておくのは不可能です。
流れゆく時を誰も止めることができないように、変わっていくこころ模様を
止めることもできません。
愛には強靭な「意志」が必要なのです。
ペドロ夫妻の結婚生活は端から見たら悲惨で噴飯ものでしょう。
今にも潰れそうな怪しげな雑誌社で、文章が書けるにも拘らずわずかな賃金で
使い走りをしているペドロ。彼の妻は彼の給料を凌ぐお金を売春婦まがいの
仕事で稼いで生計を立てています。
ペドロは卑屈になるでもなく、妻に感謝し、妻は妻でペドロに献身的なのです。

このふたりの結婚生活を軽蔑し嘲笑する権利は、誰にもないのではないでしょうか?
落ちぶれた今のペドロは、もしかすると今までの日々のなかで一番充足している
のかもしれません。


(つづきます)
392 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/18(月) 18:41:37

経済的に困窮であり、かつてのように次々と意欲作を発表することはなくても
使い走りでわずかな小遣い銭を稼ぎ、妻とふたりで寄り添って暮らしていくことは
彼にとって黄金の日々なのでしょう。。。
――すばらしい妻です。あんなに献身的でよくできた女は他にはいない。
事情があって離れて暮らしていたのですが、私に助けが必要になったとき
戻ってきて支えになってくれました。アーチスト、それも外国人アーチストなのです」
――(p465)

わたしはここを読んだとき、はっと胸をつかれました。
ペドロは醜く太ったストリッパーの妻をこう紹介するのです。それも本心の言葉で。
こころからうれしそうに、誇らしげに。。。
無垢な愚直さはある一瞬から尊さへと転倒しますね。
作家として成功した僕は引き換えに愛を失くし、精神を病んで人気絶頂の
シナリオ・ライターから転落したペドロは引き換えに愛を手に入れました。

これは典型的な青春小説、将来の夢を叶えるための僕の作家修業の物語。
偉大なる先輩、友情、恋。あれから月日は流れ、かつて偉大だと思っていたもの
たちは今目にするとそれほどではないと知るのです。それは自分が成長したから
なのでしょうか……。


(つづきます)
393 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/18(月) 18:42:38

わたしたちは年少の頃、両親や教師、周りの人たちが随分と大人に見えました。
彼らは良きお手本であり、人生の指南者でした。
反発を覚える一方で敬服し、自分の幼さや未熟さを痛感させられたものでした。
喩えてみれば、彼らは大きな樹木のような存在でした。
いきなり雨に打たれたときは広げた枝々で雨宿りをさせてくれ、猛暑の日には
緑陰で憩わせ、木の葉が美しく色づく頃には読書の場を提供し、凍てつく冬には
見ているだけで勇気を与えられました。

いつしか時は流れ、かつて年少だったものがふたたびその樹を眼前にしたとき、
当時思っていたほど樹が大きくないことに気づいて愕然とするのです。
何と小さいのだろう……、これが本当にあの樹なのだろうか、と。
今、僕が眼前にしているペドロはかつての輝きはとうに失われ、何と小さく
哀れに映ることでしょう……。

あんなに燃えていた僕とフリアの愛の破綻、敬愛していたペドロは今は見る影も
ない……。
青春とは過ぎ去ってから初めて、ほろ苦い気持ちで回顧するものですね。
わたしたちはそこに青春の光と影と、ある種のなつかしさを見るのです。
将来の夢や恋に揺れる思春期。少年から大人へと変わる、そんな多感に時期に
僕はフリア叔母さんに恋をしラジオ局で働きながら作家修業に励み、
そこで出逢った神のような天才シナリオライター、ペドロに多大な影響を受けました。


(つづきます)
394 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/18(月) 18:43:27

そして、時は流れかつてのペドロより成功を収めた僕ことマリオ。
子供の頃大樹だと思っていた木より背丈が伸びて大きくなった僕。
そして、僕とフリア叔母さんとの愛の日々もいつしか遠くなり、記憶の彼方へと
葬り去られようとしている。
フリオ叔母さんと僕のこころは、もう通い合うことはない。
あの頃の輝くような愛は、もう、ふたたび戻ってくることはない。
それは、僕が大人になってしまったからでしょうか……?

――それでは。

(追 記)
思春期にラジオから流れた曲を聴きながら、あなたは何を想っていたでしょう?
思春期の真只中にある人、また、過ぎてしまった人たちすべてにこの曲を贈ります。

「壊れかけのRadio」  作詞作曲・唄 徳永英明 ↓
http://www.youtube.com/watch?v=-QH9LRgYNpc&eurl=

ちなみに、バルガス・リョサ=マリオがペドロに影響されラジオ局で働きながら
書いた短編が彼にとっての作家の原点であるように、徳永英明さんもラジオから
流れてくる曲を聴きながら自身で作曲を始めたのが彼にとってミュージシャンの
原点でありました。共通のキイ・ワードは「ラジオ」。
♪〜思春期に少年から大人に変わる/星を眺めていた 汚れもないままに〜♪
このフレーズが大好きです。星を眺めていた頃を思い甘酸っぱい気持ちになります。
395 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/18(月) 18:52:19

☆☆おまけ☆☆


「壊れかけのRadio」  作詞作曲・唄 徳永英明

何も聴こえない 何も聴かせてくれない
僕の身体が昔より 大人になったからなのか
ベッドに置いていた 初めて買った黒いラジオ
いくつものメロディーが いくつもの時代を作った
思春期に少年から大人に変わる 道を探していた 汚れもないままに
飾られた行き場のない押し寄せる人波に 本当の幸せ教えてよ壊れかけのRadio

いつも聴こえていた いつも聴かせてくれてた
窓ごしに空を見たら かすかな勇気が生まれた
ラジオは知っていた僕の心をノックした
恋に破れそうな胸 やさしい風が手を振った
華やいだ祭りの後静まる街を背に星を眺めていた 汚れもないままに
遠ざかる故郷の空帰れない人波に 本当の幸せ教えてよ壊れかけのRadio

ギターを弾いていた 次のコードも判らずに
迷子になりそうな夢 素敵な歌が導いた
思春期に少年から大人に変わる 道を探していた 汚れもないままに
飾られた行き場のない押し寄せる人波に 本当の幸せ教えてよ 壊れかけのRadio

華やいだ祭りの後 静まる街を背に 星を眺めていた 汚れもないままに
遠ざかる故郷の空 帰れない人波に 本当の幸せ教えてよ 壊れかけのRadio
遠ざかる溢れた夢 帰れない人波に 本当の幸せ教えてよ 壊れかけのRadio
396 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/19(火) 12:44:44
追 記

「壊れかけのRadio」を直リンクできない場合は、マウスを右クリックしてURLを
コピーし、改めてアドレス欄に貼り付けてみて下さい。

ついでに違うバージョンも♪
http://www.youtube.com/watch?v=Pid4ZsIk7DA
397SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/09/20(水) 23:57:08
>>386-387

シュペルヴィエルはしばらく文庫が絶版のままでしたが、
光文社古典新訳文庫から永田千奈訳「海に住む少女」が
来月出るとのことで久しぶりの新刊。

Bildungsromanの主人公として思い出したのが
ディケンズ「デヴィッド・コパフィールド」や
フィールディング「トム・ジョウンズ」でした。
ゲーテ「ヴィルヘルム・マイスター」を思い浮かべる人も多いかな。
Cucさんはヘッセを思い浮かべたようですね。

G=マルケスには『百年の孤独』という傑作があります。
マコンドという村を舞台にブエンディーア一族の百年の盛衰史を綴りながら、
奇想などをふんだんに盛り込んだ神話的叙事詩ともいえる小説で、
南米マジックリアリズムの代表的な作品といえるでしょうが、
レイナルド・アレナスの『めくるめく世界』もそれに勝るとも劣らない、
まさに《めくるめき》小説だった印象が残っています。
『夜明け前のセレスティーノ』『夜になる前に』は読んでませんが。
398SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/09/20(水) 23:59:48
>>388-396

『フリアとシナリオライター』の感想を読みました。
ラストの捉え方は流石Cucさんらしい鋭い視点ですね!
なるほど、対照的なマリオとペドロですが、
社会的な成功と没落の背後には、恋の破局と成就がある、と。
「本当の幸せ」はどちらにあるとは言えないわけですが、この小説では、
「書くこと」と「恋すること」は相容れない関係になってますね。

バルガス=リョサの『フリアとシナリオライター』のように
2つの物語が章ごとに交互に分配されている構成のものとして
解説ではフォークナー『野生の棕櫚』が挙がってましたが、
最近手に取ったクンデラの『不滅』にも同じ手法が見られましたよ。
ゲーテとヘミングウェイが対話なんかしちゃったりも。
バルガス=リョサの影響を受けて書かれた可能性はありそう。

それにしても、徳永英明の曲は結構耳に残りますね。
今度カラオケに挑戦してみようかな(微笑 〆
399 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/24(日) 21:02:12

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>>397-398

>光文社古典新訳文庫から永田千奈訳「海に住む少女」が
>来月出るとのことで久しぶりの新刊。
そうでしたか。シュペルヴィエルは未読の作家ですのでわたしも
読んでみたいですね。

>ゲーテ「ヴィルヘルム・マイスター」を思い浮かべる人も多いかな。
そうですね、定番中の定番かもしれませんね。
あとやはりマンの「魔の山」あたりですかね…?
リョサはもっと砕けていて、はちゃめちゃぶりが楽しいですね。

>『夜明け前のセレスティーノ』『夜になる前に』は読んでませんが。
『夜になる前に』は本とDVDの両方を観賞しました。
アレナスは言葉が無尽蔵に出てくる作家だと思いましたね。
400 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/24(日) 21:04:35

>「本当の幸せ」はどちらにあるとは言えないわけですが、
幸福の第一義はやはり本人が満たされているかどうかでしょうね。
周囲から見たら悲惨な状況でも当人がそれを良しとしているのであれば
それは「幸せ」なのでしょう…。
マリオは転落したペドロに対しては具体的な感情は記してはいないですね…。

創作するものにとって最大の敵は何でしょう?
自分より才能に秀でたライバルでしょうか? 未知の新人でしょうか?
いいえ、そうではありません。
一番の敵は自身の「慢心」と「侮蔑・嘲笑」です。
創作するものにとって、最も恐いのは感受性の鈍磨と欠如なのですね。
「慢心」と「侮蔑」はまさに感受性の鈍磨と欠如の度合いを示すのです。
致命傷となるからです。
感受性が鈍磨し欠如した結果の「慢心」「嘲笑」からは人のこころを打つ
作品は生み出せないのです。自戒を忘れてはならないのですね。
401 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/24(日) 21:05:54

>最近手に取ったクンデラの『不滅』にも同じ手法が見られましたよ。
>ゲーテとヘミングウェイが対話なんかしちゃったりも。
すごい内容ですね! ふたりの文豪が時空を超えて対話ですか。
その辺は書き手の想像力がうんと刺激される部分だと思いますね。
思い切り楽しんで書いているのでしょうね。

>それにしても、徳永英明の曲は結構耳に残りますね。
「壊れかけのRadio」は徳永英明さんのアーティストとしての原点だそうです。
わたしもとても好きな曲です♪ 胸に沁み入る名曲です。

>今度カラオケに挑戦してみようかな(微笑 〆
ああ、いいですね〜♪ 徳永さんの歌は女性受けすると思いますよ。
徳永さんはバラードの名手なのですね。
作詞家の麻生圭子さんが「彼の歌は、女の子にいい意味で甘い涙を
流させる希少な歌い手」と評しておいででした。

そうそう、クロソウスキー『ロベルトは今夜』の感想も書きあがりましたよ。
以下、レイナルド・アレナス『夜になるまえに』の感想です。
SXYさんは未読とのことですので、ROMしていただければと思います。
402 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/24(日) 21:06:37

レイナルド・アレナス『夜になるまえに』の感想を記します。

貧困、革命、独裁制への反逆、同性愛、投獄、亡命、そしてエイズ。
この本はレイナルド・アレナスの波乱万丈な半生を自伝的に語ったものです。
この世に天性の作家がいるとしたら、まさしくレイナルド・アレナスはその一人
でしょう。
彼の言葉を借りていうならば「書くことは職業ではなく呪いみたいなものだ」。
呪いはひとたびかけられたら最後、死ぬまで解けることはありません。
憑かれたように書いて書いて命が尽きるまで書き続ける宿命にあります。
太宰治ではありませんがまさしく「選ばれしことの恍惚と不安」です。

彼自身が語っているように彼の一番実り豊かな創作時期は幼年期だった、
といいます。
祖母は出戻りの娘たちであふれかえる家の台所を切り盛りし、いつも神と
対話していました。アレナスの豊かな独創性は祖母による影響がかなり
大きいといえるでしょう。森や川、畑、彼は野生児のように野を駈け回り、
水遊びをし、木に登り、家を抜け出して一晩中月の光を浴び夢想にふけりました。
幼年期というものは、その人を取り巻く環境がどんなに悲惨なものであっても、
原風景として深くこころに刻まれ、なつかしく愛おしく回想されるものなのですね。
たとえそれが空腹で家畜小屋の土を食べていた日々であったとしてもです…。


(つづきます)
403 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/24(日) 21:07:09

独裁制は今も昔も権力のもとに人を社会的、経済的に、そしてこころをも支配しようと
しますが、こと芸術家たちを支配下に置くのは至難の技でした。

――美はそれ自体、どんな独裁にとっても危険なもの、闘争的なものだ。
独裁が人々に課している制限を超えていくような世界を含んでいるのだから。
それは政治警察のおよばない領域である。したがって誰にも統治されることが
ない。だからこそ独裁者たちは苛立ち、なんとかして破壊しようとする。
どんな独裁もそれ自体、見苦しい醜悪なものなのだから――(p134)

アレナスは政府奨学金の大学に受かり、図書館で膨大な読書に耽ります。
読書、創作と図書館勤務の日々は黄金の日々でした。
応募作『夜明け前のセレスティーノ』が選ばれ、作家としての第一歩が開けた
のもこの頃です。
同時期の作家や詩人、画家たちとの交流が始まり、豊かな影響を受けます。
けれども、カストロ政権の下で反カストロ派の詩人や作家たちが次々と投獄され、
ある者は自殺し、ある者は寝返ってカストロ賞賛の詩を書き始めました。
詩の朗読会の秘密裏のメンバーの何人かは仲間を売り、裏切り行為に走ります。
アレナスにはたくさんの友――画家、詩人、作家がいましたが秘密で書き続けた
原稿は誰を信じて誰に託せばいいのか混乱を来たすほどでした。
昨日の友は今日の敵、それは日常茶飯事のこととして横行していたのですから。


(つづきます)
404 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/24(日) 22:07:31

アレナスにとって「書くこと」は生きることそのもので、どのような状況下でも
書かずにはいられませんでした。
言論統制が厳しいさなか、獄中で、逃亡中の森のなかで月の光やライターの火を
頼りに、まるで書くことが生きている証しであるかのように書きつづけるのです。
おそらく、彼は書かなかったら、自殺したか発狂したかどちらかだったでしょう。
書くことでかろうじて生のこちら側の世界に踏みとどまっていたのですね。

彼の著作はキューバで出版されることはなく、フランスで出版されました。
海外での評価は高く、出版社は彼に亡命の手助けを申し出ます。
そして、ようやく念願叶ってアメリカに亡命するも、皮肉なことに自由の国では
彼の反カストロ思想は受け入れてはもらえませんでした。
彼の作品が評価されたのは彼が「キューバ在住の作家」だったからこそでした。
国を失った作家の言論は戯言としか映らず、彼は二重の苦痛を味わいます。

――追放者が生きられる場所はどこにもない。そんな場所は存在しないことが
分かっている。なぜならぼくたちが夢を見た場所はぼくたちが風景を眺めたり
初めて本を読んだり、最初に恋をした場所は夢に見る世界でありつづける
からだ。亡命地では人は幽霊にすぎない。自分の完全な現実には決して
到達することのない誰かの影に過ぎないのだ――(p378)


(つづきます)
405 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/24(日) 22:08:09

どこにも居場所がないと嘆く彼に、祖国を追い出されあちこち放浪するユダヤの民を
重ねるのはわたしだけでしょうか?
彼らはいつも何かと闘わねばならず、結果として周囲との軋轢を引き起こします。
「選ばれしもの」たちは、この地上のどこにも安住する場所がないのです。

彼の生涯は「闘争」に明け暮れた一生でした。
頻発する病気、貧困との闘い、独裁制との闘い、同性愛者に対する周囲の偏見との
闘い、亡命を求めるための闘い、そして、最後には治癒不能のエイズとの闘い、、、
人はひとたびこの世に生を受けたからには、生きていくために闘わねばなりません。
けれども、レイナルド・アレナスほど凄まじい闘争に次ぐ闘争の人生を送った作家も
稀有なのではないでしょうか。
それは彼が独裁国に生まれたこと、同性愛者の資質を有していたこと、
書く才能を持ち合わせていたことによるものですが、これは彼が望んだことでは
ありませんでした。わたしたちは生まれる国も、時代も、性別も、資質も、そして
才能さえも、何ひとつ自分の意志では選べないのです。
運命に絶望して、ある者は神を呪い、また別のある者は人生を放棄します。
逆説的ですが、レイナルド・アレナスはこうした過酷な運命に翻弄されたがゆえに、
作家として選ばれ、地位を確立できたのでした。無論、自由で豊かな国で生を受けた
としても彼は作家になれたでしょうが、はたしてこれほどに詩や小説を渇望し、創作
する情熱を持ち得たでしょうか……。
自由国家では、文学作品はいつでもどこでも手に入り飢餓感は希薄なのですから。


(つづきます)
406 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/24(日) 22:08:40

――初めて海を前にしたときのことをどう言ったらいいのだろう。その瞬間を
描くことは不可能かもしれない。海、という言葉にしかならない――

あとがきで翻訳者の安藤哲行氏が彼がこよなく愛した海について、
「これまでにいったいどれほどの詩人が、作家が海を歌い、語ったことだろう。
アレナスもまた、海に魅せられた作家だった」と述べています。

この世には山に惹かれる人間と、海に魅せられる人間の二種類があります。
両者とも英語での代名詞は女性名詞“she”で現わされますね。
海も山も“母なるもの”なのですね。ヒトの祖先は海から生まれ、そしてこの世での
生を終えたとき、土(=山)に還ります。
アレナスは幼年期は山で囲まれた土の匂いのする寒村で育ち、そこでは母の強い
監視下にありました。成長して母の元を離れ海のある町で暮らし始めます。
その町で作家としての土台を築き、芸術家たちと交友を深め、同性愛者たちとの
恋愛を堪能します。青春時代を過ごした海はさまざまな有形無形のものを
無償で彼に贈り、与えてくれました。
けれども、島国から脱出を願う彼にとって海は出国を阻む存在でもあったのです。
こうして、海はある時は希望、別の時は絶望と、ころころその姿を変えるのでした。
まるで、当時の彼の友人たちのように……。

二歳で土の味を知り、土の匂いのする寒村で育った彼は、なぜこんなにも
激しく海に惹かれたのでしょう。海は自由の象徴そのものだったのですね。


(つづきます)
407 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/24(日) 22:09:15

土着という言葉が示すように土は彼を縛りつけるものであり、海は解放でした。
海にあこがれ、海で死にたいと願った彼にとって、亡命先・自由の国アメリカ
では故郷の土はとうに遠いものであり、忘れ去られたものだったのでしょうか。
いいえ、彼は土の匂いをかたときも忘れることはありませんでした。
故郷の土の味、土の香りを忘れないために海を選んだのです。
陽のぬくもりの残る土の匂いは、潮風や磯の香りのなかでこそ鮮明になるのです。
それが幽かであればあるほど、記憶は強く呼び覚まされ原風景として蘇るのでした。
海ではなく山を選んだとしたら、土の匂いはごくありふれたあたりまえのものとして
埋もれてしまったでしょう。彼が恐れたのはまさにその点でした。
なぜなら、土に囲まれて過ごした幼年期は彼の一番実り豊かな創作の原点であり、
宝庫であり、そこから離れては何ひとつとして生み出せなかったでしょうから。
土の匂いが創造の世界を育んでくれた偉大な祖母ならば、海は孤独な亡命者である
彼を慰めてくれる唯一の母なるものでありした。

彼は海をとおして故郷の寒村を恋い、潮の香りに土の匂いを感じていたのです。
土の匂いは彼の創作の原点を呼び起こし、潮の香りは生への意欲を掻き立てて
くれました。……そして、エイズを発症して死を決意した彼の目に最後に映った海は
闘いを鼓舞する海でした。

――ぼくのメッセージは敗北のメッセージではない。闘いと希望のメッセージ
なのだ。キューバは自由になる。ぼくはもう自由だ。  レイナルド・アレナス――


――それでは。
408 ◆Fafd1c3Cuc :2006/09/24(日) 22:09:51

☆おまけ☆☆

「海よ」 中島みゆき

海よ おまえが泣いてる夜は 遠い故郷の歌を歌おう
海よ おまえが呼んでる夜は 遠い舟乗りの歌を歌おう
時は今 錨(いかり)をあげて 青い馬に揺れるように
心の荷物たちを 捨てにゆこうね

海よ わたしが泣いてる夜は 遠い故郷へ舟を運べよ
海よ おまえは覚えているか 若い舟乗りの夢の行方を
海よ おまえは覚えているか そして 帰らない小舟の数を

この歌は 舟乗りの歌 若い舟乗りの歌
故郷の島を離れ 今日もさまよう
海よ わたしを愛するならば 今宵 故郷へ舟を運べよ
海よ わたしを愛するならば 今宵 故郷へ舟を運べよ


「海よ」 中島みゆき(5番目です。冒頭だけ無料で試聴できます♪) ↓
http://mysound.jp/music_detail/index.php?src_no=tT8C1

「海よ」 (BGMとしてのピアノ・バージョンとバイオリン・バージョン) ↓
http://www.h2.dion.ne.jp/~mtmamiri/umiyo.htm
http://homepage2.nifty.com/d-music/mid/umiyo.html
409SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/09/28(木) 23:43:40
>シュペルヴィエルは未読の作家ですので
堀口大學がかなり訳している作家兼詩人です。
『シュペルヴィエル抄』というのが小沢書店から出てました。
独特の透明感のあるファンタジーの世界を持っている作家ですね。

>『ロベルトは今夜』の感想も書きあがりましたよ。
もう読了ですか! かなり難解な作家だといわれてますが、
Cucさんがクロソウスキーをどう読んだのか、気になりますね。
『歓待の掟』は3部作で、河出文庫『ロベルトは今夜』には
その1部と2部がまとめられています。
3部「プロンプター」は実はまだ読みかけなんですが、
いろいろと筋が錯綜していて、かなり手強い曲者です。。。

レイナルド・アレナス『夜になるまえに』は未読なので
週末にでもゆっくりROMさせてもらいます。 〆
410 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/01(日) 23:15:57

SXY ◆uyLlZvjSXY さん

>『歓待の掟』は3部作で、河出文庫『ロベルトは今夜』には
>その1部と2部がまとめられています。
わたしが読んだのはまさに河出文庫版です。
3部作のうちの1部と2部のみなのですね?

>かなり難解な作家だといわれてますが、
確かに。。。ブランショもかくや、と思わせられる作家です。
思想家が書いた小説はロマンというよりはレシに近くなるようですね。
一応、全体のストーリーはあってもストーリーそのものよりも、作中人物に
言わせている哲学的なセリフの数々のほうがメインとなっていますから。
ただ、ブランショのときもそうでしたが、「哲学的小説」と銘打ってあったとしても
哲学云々を意識して読まなくてもいいのではないかな、と。
小説は論文ではありませんし、正確に論旨を汲み取らなければならないという
強迫観念からは解放された自由なジャンルだと思うのですね。
ですから、今現在でのわたしなりの中間報告、あくまでもそれがわたしの
感想文です。
411 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/01(日) 23:17:29

以下、『ロベルトは今夜』の感想文です。

ピエール・クロソウスキー『ロベルトは今夜』とこれに先立つ『ナントの勅令破棄』
を読みました。

『ナントの勅令破棄』は妻ロベルトの日記と、夫・神学者であるオクターヴが著名な
画家の絵画を鑑賞しながら自説を語るという交互の独白手法がとられています。
『ロベルトは今夜』においては両者の対話形式で語られています。
これらの作品はひとことで言えば、無神論者である妻ロベルトと、
有神論者である夫オクターヴとの神をめぐっての論議であります。
オクターヴは妻ロベルトに原罪の意識を味わわせたくて、客人に妻と交わることを
提唱するのです。それも自分の家で、見え隠れしながら審判する自分の監視下で。
結果、ロベルトは何の罪の意識も呼び起こされず、それどころか夫の許可のもと、
嬉々として快楽を貪り、肉欲に溺れていくのでした。
貞淑な妻がさまざまな客人たちからあられもない姿で陵辱を受けているのを物陰から
眺める夫オクターヴもまた、法悦を味わっていたのです。

両者が快楽、法悦の境地に至るには「第三者のまなざし」を必要としています。
妻ロベルトはつねに≪夫オクターヴの監視≫、審判のもとにあって初めて夫以外
の男との快楽を貪ることができるのですね。
また、夫オクターヴは他ならぬ夫である自分が妻を陵辱させているという背徳の
喜びを、≪神のまなざし≫を浴びながら感じているのです。
つまり、この両者とも何かしらの形で禁忌を侵犯しているという意識がない限り、
法悦には至らない。無神論者を自認しているロベルトにおいてさえも、です。


(つづきます)
412 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/01(日) 23:18:06

そして、皮肉なことに無神論者のロベルトは実は夫の眼を通して最終的には
神のまなざしを意識せざるを得ないのです。
といいますのは、客人に妻ロベルトと交わることを勧めた夫オクターヴは、
神を背徳するにしろ、冒涜するにしろ彼の意識はつねに神の手中にあるのです。
そして、ロベルトはオクターヴの監視下にあってこそ、より淫乱に貪欲に性の快楽に
ふけることができる。つまり、神のまなざしは先ずオクターヴに注がれ、オクターヴの
まなざしはロベルトに注がれるという一連の図式が出来上がり、ロベルトは
オクターヴを媒介にして神のまなざしに晒される、ということです。

オクターヴの策略に乗ったふりをしながら、罪の意識などこれっぽちも味わうことなく
性の快楽に浸るロベルトは自分の方が優勢であると自認していました。
ところが、自分はオクターヴの監視無しでは快楽を得られないことに気づいたので
す。その上、こともあろうに彼女が否定している神のまなざしはオクターヴの眼を
通して彼と一体化しているのです。
そう、ロベルトは今や神と一体化したオクターヴの眼、すなわち神のまなざしを
誰よりも欲していることに愕然となります。
わたしは誰の支配も受けない、すべて自分の意志で決められる。
そう誇っていた彼女の信念はぐらつき、逆転して今やオクターヴが優勢な
地位を占めます。そして、それは多分この先も揺らぐことはない……。


(つづきます)
413 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/01(日) 23:19:22

彼女がオクターヴを毒殺したのはまさにこうした動機からでした。
けれども、死はオクターヴの審判から解放してくれることはありませんでした。
――わたしが至高の審判者の存在を信ずるにいたらなければ、オクターヴの
死はなおさら信じにくいものとなります。彼は墓の下からわたしを監視している
のかもしれません。わたしは永久に彼のロボットなのでしょうか?
わたしの人生に向けられていたあの恐ろしいまなざしは、今後も依然として
恐るべきものです――(p129)

「至高の審判者」とは誰なのでしょう? それは絶対的存在・神を指すのでは
ないでしょうか?
あれほどに否定し、否認していた神という存在から、毒殺した夫の眼をとおして
彼女は永遠に逃れられないのです。

――啓示された真理なんてないわ。そして神が真理を啓示してくれない以上、
現代人は独力で自分の真理をつくりあげざるをえないでしょう――(p248)
これは理性によって緻密な思考をする学問・哲学とそうではない神秘な領域を
研究する宗教学・神学の対立をほうふつさせるようで、なかなか興味深いセリフ
ですね。


(つづきます)
414 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/01(日) 23:20:22

ところで近代哲学の父デカルトは『方法序説』でこのように語っています。
ちょっと長いですが、引用します。

――神があり、神が存在すること、神が完全な存在者であること、われわれの
うちにあるすべては神に由来すること。その結果として、われわれの観念や
概念は、明晰かつ判明であるすべてにおいて実存であり、神に由来するもので
あり、その点において、真でしかありえないことになる。
理性は、われわれがこのように見たり想像したりするものが真であるとは、
決して教えていないからである。しかし、理性は、われわれのすべての観念
または概念は、何か真理の基礎を持っているはずだと教える。
まったく完全でまったく真である神が、真理の基礎なしにそれらをわれわれの
うちに配備したということはありえないからである――

デカルトは真理を導く理性が「まったく完全でまったく真である神」から来た
ものであると提唱しているのです。


(つづきます)
415 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/01(日) 23:48:06

ところで、なぜオクターヴは歓待の掟を見知らぬ客人に提供したのでしょう?
――遠くのほうに客人の姿が見えると、いちはやく主人は彼に大声で呼びかける。
「はやくお入りください。ぼくは自分の幸福がこわいんです」――(p169)
幸福がこわい……、人は通常幸福を求め、幸福を得るためにあらゆる努力をし、
辛苦に耐えます。そしてひとたび手にしたからには離すまいと必死になります。
もしくは、幸福が壊れるのが怖くて自ら手離す人もいます。
喩えてみれば、ギャンブルなどで一気に思いも寄らぬ大金を手にした人は
その大金を瞬く間にめちゃめちゃな使い方をしてわざと失ってしまうように。
彼らは総じて自分が幸福な人間であることに値しない、と思っているかのようです。
誰でも幸福になる権利があるのに、自らその座にふさわしくないと降りてしまう。
彼らはむしろ不幸であることで安心できるのです。不幸であることが安住なのです。

オクターヴもそうした人間の一人なのでしょう。
オクターヴは自分の信奉している存在に多大な犠牲を払うことに喜びを見出します。
すなわち、美しく貞潔な最愛の妻を燔祭として捧げること、です。


(つづきます)
416 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/01(日) 23:48:38

『バビロンの処女市』(曽野綾子)という作品で知ったのですが、結婚前日の処女は
街に出て体を売るそうです。相手は誰でもよいらしく、彼女の足元に最初にお金を
置いた男がその晩の相手になるらしく、そのお金を神様に献上することによって
彼女は神聖なものになるそうです。こうして新郎は間接的に神に処女を捧げた
新婦と交わることで神と一体化するのですね。

『ロベルトは今夜』において、結婚前日の処女とはロベルトに該当するのだろうと
当初は思いながら読んでいったのですが、途中で考えが変わりました。
なぜならロベルトは無神論者であり、自分を犠牲として捧げているという思考は
皆無なのですから。
むしろ、最愛の妻を捧げることで犠牲を払っているのは夫のオクターヴのほうです。
そして、燔祭として妻を捧げることで彼こそが神と一体化するのです。
それこそが、彼にとって最大の法悦でしょう。


(つづきます)
417 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/01(日) 23:49:09

最後に、作者のピエール・クロソウスキーについてふれてみたいと思います。
遠藤周作氏との会見や、翻訳者・若林真氏の解説で彼が若き日に聖職者を
志したけれどもニーチェ思想への傾倒で、聖職者としての道を放棄したことを
知りました。
これはまさしくバタイユと同じ軌跡ですね。
また、バタイユ、クロソウスキー両者を転向させたニーチェ本人もかつては
牧師の息子であり、熱心なキリスト者であったのです。。。
三者は棄教しながらも、その後生涯神から逃れることはできなかったようです。
『ツァラトゥストラ』『眼球譚』そして『ロベルトは今夜』すべてが、神を否定しながらも
神から片時も離れては生きていけない著者たちです。
彼らは神に対して徹底した無関心のこころ持ちにはなれませんでした。
神を否定か、神への冒涜、、、著書を著せば、すべてが神に対する侵犯が原動力
となったものばかり。

より高く跳ぶためには、より低く屈まなければならない。
彼らは神という最高位に挑むためには、より低いもの――偽イエス(ツァラトゥストラ)、
娼婦、歓待の掟、などを提唱しなければなりませんでした。


(つづきます)
418 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/01(日) 23:50:56

バタイユは『眼球譚』において≪眼球≫に執拗にこだわったのは、眼球(球体群)が
神のまなざし、呪われた父のまなざしの象徴であるからでした。
バタイユにあって眼球とは逃れられない神の支配を意味しました。

クロソウスキーが『ロベルトは今夜』でこだわりを見せたのは≪手≫でした。
手はロベルトの本性を現すものとしてさまざまなポーズのなかでオクターヴに
よって仔細に観察されています。
ふいに客人に襲われたとき、ロベルトの手は客人から身を護ろうと試みては
いるものの、実は誘惑、媚態、歓迎のポーズに他ならないのです。
つまり、≪手≫は罪の象徴として描かれているということですね。
アダムを誘惑したイヴ同様、ロベルトは罪の手を持つ女であり、彼女の手は罪を
嬉々として招き入れるのです。
それも当人は罪悪感のひとかけらも抱かぬままに……。

かつて司祭職を志したふたりの作家。
ひとりは≪眼球≫に神のまなざしを見て、神の支配に怯え生涯逃げ続けました。
ひとりは女性の≪手≫に原罪を見て、生涯神の審判に囚われ続けました。
ついぞ神から自由になれなかったふたりの作家。
神の道を放棄したふたりが、結果として神の傀儡として使われたのはいかなる運命の
皮肉なのでしょうか……。


――それでは。

追記
あちらの板のスレ、クロソウスキー関連の絵画のサイト、ありがとうございました。
419SXY#:2006/10/04(水) 00:50:16
>>410
>わたしが読んだのはまさに河出文庫版です。
実は『歓待の掟』はずっと積読のままで、
何度か読みかけては放棄するという繰り返しだったんですよ。
小さな活字の二段組で読みづらかったことも一因でしたが、
今年刊行された文庫版で再びトライしてみたところ、
結構スムーズに読み進められたというわけです。

ところが、文庫本のほうは惜しいことに
『ロベルト』と『ナント』しか収めてなかったので、
つい最近単行本のほうで三作目『プロンプター』を読んだのですが、
この三作目にはちょっと驚いてしまいました。
詳しくは週末あたりに書いてみようと思いますが、
かなり錯綜したストーリーながら面白かったです。
『ロベルトは今夜』を書いた人間が主人公として登場し、
その妻がロベルトなんですが、ロベルトと瓜二つの女性を
Kという人物が妻にしていて。。。。
420SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/10/04(水) 00:56:06
(承前)

>作中人物に言わせている哲学的なセリフの数々のほうがメイン
このあたりは確かにブランショとの共通点ですね。
強いて喩えれば、ブランショとバタイユの中間的なところに
クロソウスキーの作品があるような感じもします。

>「哲学的小説」と銘打ってあったとしても
>哲学云々を意識して読まなくてもいいのではないかな、と。
確かにそうですね。『ロベルト』はポルノグラフィーとしても読めるし
それはバタイユにもサドにも沼正三にもいえますね。
『ツァラトゥストラ』を物語として読んでも全然OKです。
そういえば、クロソウスキーはニーチェを仏語に訳しているほか、
『ニーチェと悪循環』という大部なニーチェ論も物していて、
ヘルダーリンやヴィトゲンシュタインの翻訳も手がけていたり。

>>411以降は週末にゆっくり読ませてもらい、
『歓待の掟』について少し何か書いてみたいと思ってます。
(419の書き込みで名前をミスりました) 〆
421SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/10/07(土) 22:41:23
>>411-418
『ロベルトは今夜』と『ナントの勅令破棄』についての感想、
とても興味深く読みました。いつもながらのCucさんの深い読解。
神というテーマがかかわるときには特にそれが深まるかのようです。

>両者が快楽、法悦の境地に至るには「第三者のまなざし」を必要としています。
夫オクターヴは妻ロベルトをゲストに供するわけですが、夫は神のまなざしを、
妻は夫のまなざしを(背後の神とともに)感じているわけですね。
そして、このロベルト三部作全体に必要とされているのは、
きっと我々読者=観客のまなざしでもあるのでしょう。
『歓待の掟』の名のもとにまとめられたこれらの作品は
絵画的かつ演劇的なシチュエーションをモチーフにしているようです。
422SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/10/07(土) 22:41:58
(承前)

絵画については、クロソウスキー自身かなり詳しいわけですが、
オクターヴとロベルトの日記が交互に配された『ナントの勅令破棄』では
オクターヴは絵画について碩学的な持論を書き綴っていますね。
またクロソウスキーは70年代にロベルトのモチーフを
色鉛筆のスケッチによって再構成し、シリーズ制作しています。

演劇については、『ロベルトは今夜』のT部・V部に見られるように
台詞のみで構成される演劇的な章がメインプロットになっています。
そして、クロソウスキーは「ロベルト」「禁じられたロベルト」の題で、
70年代後半にピエール・ズッカと共に映画化しているのですが、
オクターヴ役を自ら演じ、ロベルト役をクロソウスキー夫人が演じるという、
作品を現実化するような倒錯的な再構成を試みています。
423SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/10/07(土) 22:45:09
(承前)

有神論と無神論、カトリシズムとカルヴィニズム、ロゴスとパトス、
あるいは精神と肉体といった古典的で紋切型の対立図式が、
オクターヴとロベルトとの対比でも現れてきます。
「神が真理を啓示してくれない以上自分の真理をつくりあげざるをえない」
と語るロベルトの言葉はニーチェ的でもありますが、
ロゴス(理性)に真理の基盤をおくデカルトとは異なり、
肉体と結びつくパトス(感性)に重点がおかれている視点は
バタイユの作品にも共通して見られるところのものでしょう。

ちなみにクロソウスキーはバタイユと親交があり、
バタイユ、カイヨワ、レリスらと社会学研究会を結成してますね。
424SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/10/07(土) 22:46:12
(承前)

ここで『ロベルトは今夜』について少し見てみます。
まずプロローグは、甥アントワーヌの一人称で語られます。
T部では、アントワーヌとオクターヴの対話劇がとられ、
U部では、語り手は背後に隠れるナラティヴとなり、
U部の終わりに幕間劇としてオクターヴの視点で語られた後、
V部では、ロベルト、オクターヴ、アントワーヌの三人の対話劇に戻ります。
V部終わりは大男ヴィクトールとロベルトの猥褻な諍いの場面が展開する――
いえ、そのシーンは展開せずに静止して1枚のタブローとなります。

――「こうして彼らは、それぞれ何か宙に迷ったような位置から
動きそうに見えなかった」――

これは演劇であり、しかも活人画に収束する絵画的な演劇です。

活人画のモチーフは『ナントの勅令破棄』でも見られます。
オクターヴはロベルトをトネール描くところの「ルクレティア」になぞらえ、
活人画を描くための演出として歓待の掟を実践してるかのようです。
425SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/10/07(土) 23:09:12
418
>クロソウスキーが『ロベルトは今夜』でこだわりを見せたのは≪手≫でした。
鋭い! 
確かに手はロベルトのさまざまなポーズのなかでフォーカスされていますね。
拒絶と媚態を同時に表現した手は、罪の象徴として描かれていると同時に、
クロソウスキー的ディレンマの象徴でもあるかのようです。

オクターヴは妻を享受しようとすれば、ゲストに提供せねばならず、
ロベルトは夫に忠実な妻であろうとすれば、夫を裏切らざるを得ない。

オクターヴは決して一夫一婦制を認めていないわけではなく、
それを守りながら、それを歓待の掟によって侵犯してみせる。
一夫一婦制を認めないとすれば、《歓待》の意味はなくなってしまうから。

今日はこのあたりで。「プロンプター」については改めて。 〆
426SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/10/09(月) 17:24:25
もう少し続けます。

『ナント』『ロベルト』はポルノグラフィーとして読めましたが、
三作目『プロンプター』は推理小説仕立ての作品といえるでしょう。

前二作でも『ロベルトは今夜』という書物が作品内で言及され、
それはオクターヴによって書かれたものとされていましたが、
三作目『プロンプター』ではオクターヴは消えてしまいます。

セルバンテスを想起させる作品内での当該作品の自己言及は、
それ自体メタフィクション的なわけですが、『プロンプター』は、
『ナント』『ロベルト』に対してメタ次元に位置することになり、
前二作で語られたことすべてをフィクションの枠に収めたところから
この作品は開始されていることになります。

オクターヴの消滅により、夫が妻ロベルトを歓待の掟に供したことも、
淫らな数々のシーンも、リアリティを失ってしまったわけです。
427SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/10/09(月) 17:28:06
(承前)

『プロンプター』ではオクターヴの代わりにテオドールが登場します。
彼は『ロベルト』を書いた作家として一人称で語りますが、
テオドールの妻はもちろんロベルトという名前です。

テオドールはヴァランチーヌという救世軍の女史官と出会いますが、
ヴァランチーヌはロベルトと瓜二つで見分けがつきません。
あたかもドッペルゲンガーのように彼女たちは謎めいています。
この二人の関係の謎をめぐってテオドールは探求し、
ミステリータッチでストーリーは進んでいきます。

ところが、医師の登場によりテオドールが狂人であることもわかり、
ヴァランチーヌとロベルトという存在の二重性も不確かになります。
「これはあなたが仕組んだ劇なんだろ」というような台詞を
登場人物たちはテオドールに対して時折投げつけていますが、
こうして露にされる演劇的な装置によっても、ますます筋は錯綜します。
最後になってテオドールはヴァランチーヌの夫Kとして目覚め、
ヴァランチーヌとロベルト、Kとテオドールが同一人物であったことが
われわれ読者に知らされるというわけです。
428SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/10/09(月) 17:54:03
ちょっと連投になってしまいましたね。

『プロンプター』に出てくる主人公の分身Kは、
クロソウスキーの頭文字ではないかと思わせる記号ですね。
クロソウスキーは三部作を通じてロベルトのテーマを反復していますが、
視点も構造も転移させながら、の反復です。そうした「転移」は、
すでに『ロベルトは今夜』の中で原型としてあったといえるでしょう。
語り手の人称は、アントワーヌの一人称から非人称へと転移し、
語りの形式も、語り手の叙述から語り手のいない対話劇に転移していました。

クロソウスキーはさらにロベルトのテーマを転移しながら反復します。
まずは、色鉛筆で書かれたタブローにおいて(絵画)。
そして、夫妻自らが出演するフィルムにおいて(映画)。
同一のテーマをここまで飽くことなく繰り返すというのは
やはりクロソウスキーは変態というか常同症なのかもしれません。
オクターヴ=テオドールの倒錯性はクロソウスキーのものでもあります。
ちなみに、映画化する以前にも自宅でロベルト劇を試みていたこともあり、
そのときはやがてヌーヴォーロマン作家になる若きミシェル・ビュトールを
甥アントワーヌ役に見立てていたようです。
429SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/10/09(月) 18:20:40
とめどなくなってしまいましたが、最後に。

ヴァランチーヌとロベルト、Kとテオドールという二重性によって、
『プロンプター』では同一性(アイデンティティ)が崩されていました。
それ以前にも既に、貞淑な妻とふしだらな妻というディレンマにおいて、
『ナント』や『ロベルト』でロベルトの人格は分裂していました。

「シミュラクル(模造)」という言葉をクロソウスキーはよく使います。
これは独自性(オリジナリティ)と対立する概念ですが、
同一性(アイデンティティ)とも決別する概念になるのでしょう。

アイデンティティを保証するのは神という視点であるとすれば、
神なき世界は、クロソウスキー的シミュラクルになってしまうのか。

神学とポルノグラフィーを統合させたかのような『歓待の掟』は、
その倒錯性において、同一性の世界をダブルバインドにかけ、
宙吊りにして固まらせてしまうかのようです。
1枚のタブローのように。  〆
430 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/09(月) 22:46:51

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

『歓待の掟』とそれにつづく『プロンプター』の感想、ありがとうございました。
物語の構造分析、絵画と演劇、クロソウスキーとバタイユの交友関係に
ついての詳細、感謝します。
SXYさんは作者や作品の背後のことなど、毎回ながら詳しいですよね!
今回もクロソウスキーと彼の弟の絵のサイトをご紹介いただき感謝です。
どのような事情のもとで作品が創作されたのか、いつも参考になります。
作品の背景がわかると、作者の人となりもおぼろげながら浮かび上がって
きますよね。

>>420
>強いて喩えれば、ブランショとバタイユの中間的なところに
>クロソウスキーの作品があるような感じもします。
ああ、確かにそういわれてみるとそうですね!
ブランショの独白のようなレシのなかにおける哲学的な思想、神とエロスに
徹底してこだわりつづけたバタイユ。
クロソウスキーは哲学(神学)と神・エロスをうまく混在させていますね。


(つづきます)
431 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/09(月) 22:47:43

>『ロベルト』はポルノグラフィーとしても読めるし
>それはバタイユにもサドにも沼正三にもいえますね。
沼正三の名前は初めてです。検索したらSM小説『家畜人ヤプー』の作者とのこと。
戦後最大の問題作とのことですが、何だかすごそうですね!
サドやマゾの上をいく小説なのですかね…? 但し、日本人には侵犯する神の
意識が希薄というよりも皆無だから、どこまで両巨匠に迫れるかですね。

>そういえば、クロソウスキーはニーチェを仏語に訳しているほか、
>『ニーチェと悪循環』という大部なニーチェ論も物していて、
ああ、なるほど! かなりニーチェに傾倒していたのですね。
ニーチェは司祭職を志す当時の敬虔な青年たちを棄教させた反逆児、危険な
思想家としてとらえられがちですが、実は当時すでに薄れつつあった神に対する
認識を逆に強く植えつけた思想家だと思いますね。
眠っている子供をあえて起こしてしまったのですね。
そして、結果的に「神」という存在を逆により強く意識させるに至ったのでした。
逆説的ですが、ある意味キリスト教に貢献したのではないでしょうか…?


(つづきます)
432 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/09(月) 22:48:46

>>421-425
>とても興味深く読みました。いつもながらのCucさんの深い読解。
ありがとうございます! とてもうれしいです!

>そして、このロベルト三部作全体に必要とされているのは、
>きっと我々読者=観客のまなざしでもあるのでしょう。
斬新な視点ですね!
なるほど、作者、登場人物、そして第三者のまなざしとしての我々読者ですね!
つまり、作者クロソウスキーはわたしたち読者(客人)にオクターヴ夫妻を
提供しているのですね。わたしたち客人は夫妻を好き放題にできる!
何だかすごい作家ですね……。

>オクターヴとロベルトの日記が交互に配された『ナントの勅令破棄』では
>オクターヴは絵画について碩学的な持論を書き綴っていますね。
美術評論家顔負けの迫力ですね。いったいあの情熱はどこからくるのでしょう?
おそらく彼は小説に欠けているものを絵画で表現したかったのだろうと思います。
例えばロベルトが客人を拒否しながらも歓待している痴態を文章で延々と
綴るよりは自ら挿絵を描いてみせたほうが一目瞭然です。
一種のサービス精神というか、まさに百聞は一見に如かず、ということですね。


(つづきます)
433 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/09(月) 22:49:18

>演劇については、『ロベルトは今夜』のT部・V部に見られるように
>台詞のみで構成される演劇的な章がメインプロットになっています。
ここでは心理描写は独白による台詞がメインになっていますが、小説の地の
文章としてロベルトがどのような描写をされるのか、興味がありますね。

>オクターヴ役を自ら演じ、ロベルト役をクロソウスキー夫人が演じるという、
クロソウスキーは小説のなかで客人=第三者のまなざしを必要とし、
この夫妻は映画にあっても観客のまなざしを必要としているのですね……。
つねに観られていたい、観られることに快感を覚える人たち。。。
バタイユのまなざし忌避とは真逆ですね。真逆な人たちの交友、、、

>これは演劇であり、しかも活人画に収束する絵画的な演劇です。
演劇と活人画の融合を試みた作品。かなり実験的な小説ですね。

>一夫一婦制を認めないとすれば、《歓待》の意味はなくなってしまうから。
まさしくそのとおりですね。性の解放は侵犯の快楽をもたらさないのです。
それも最高位の審判の存在があって初めて真の悦楽が得られるということですね。


(つづきます)
434 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/09(月) 22:49:56

>確かに手はロベルトのさまざまなポーズのなかでフォーカスされていますね。
『ナントの勅令破棄』で手に対する執着と観察が異様に仔細で驚きました。
手フェチなのかなあ、と。とにかく女性が描かれていれば、手についてほぼ
文章が費やされていましたから。
別スレでクロソウスキーがリルケの隠し子という説を知り、なるほどなあと。
リルケは『マルテの手記』のなかで子供の頃、見知らぬ手が突然壁のなかから
出てきて目の前で蠢くのを目撃しています。恐怖のあまり動けませんでした。
また後年、自分の手が切り離されて書けと手に命じれば、自分の考えもしない
ような言葉を手が勝手に書き出すだろうと恐れています。
リルケの≪手≫に対する異様な体験と恐怖は、クロソウスキーがリルケの隠し子
云々の真偽はともかく、幼い頃可愛がってもらったリルケから散々聞かされて
いたのかもしれませんね。
≪手≫は、自分のこころを裏切り、こころとは無関係に動くものであると。
そう、手は勝手に文章を書くものであり、また、拒否していると見せかけ実は歓待の
愛撫をするのが手なのでね。


(つづきます)
435 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/09(月) 23:27:54

>>426-429

『プロンプター』の感想、ありがとうございます。
リクエストしたのですが、まだ届いていないのです。。。
同時期にリクエストしたバタイユの『不可能なもの』はとうに届き、本日
読了しました。抽象的でブランショふうだな、というのが第一印象です。

>最後になってテオドールはヴァランチーヌの夫Kとして目覚め、
>ヴァランチーヌとロベルト、Kとテオドールが同一人物であったことが
>われわれ読者に知らされるというわけです。
かなり入り組んでいて、読者は一杯食わされた、という感じですね。
読者はテオドールの目を通して読んでいったはいいけれど、肝心の
テオドールが狂人とあっては、彼の言動は曖昧さを帯び、読者は誰の言葉を
信じていいのかわからなくなりそう、、、
もっとも読者を攪乱するのが最初からクロソウスキーの意図であったとすれば、
まんまと乗せられたわけですが……。
そういえば『ロベルトは今夜』でもロベルトのかつての恋人として家庭教師、
それも、尋常ではない家庭教師が登場していましたね。


(つづきます)
436 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/09(月) 23:28:57

>クロソウスキーは三部作を通じてロベルトのテーマを反復していますが、
>視点も構造も転移させながら、の反復です。そうした「転移」は、(略)
なるほど! アントワーヌの一人称や非人称、いろいろな人称、語り手を
変えてはいてもすべてはクロソウスキーのロベルト・オンリーに向けての
視点ですね。ある意味、執着がすごい・・・
たいていは、作者の視点は登場人物それぞれに振り分けられて語られる
ものですが、ことクロソウスキーに至っては一人の人物にしか向けられない
というのは病的なまでの愛着なのか、あるいはアブナイ人なのか、、、

>まずは、色鉛筆で書かれたタブローにおいて(絵画)。
>そして、夫妻自らが出演するフィルムにおいて(映画)。
>同一のテーマをここまで飽くことなく繰り返すというのは
>やはりクロソウスキーは変態というか常同症なのかもしれません。
ここまで固執するということは、かなり病的な傾向を帯びているのかもしれません。


(つづきます)
437 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/09(月) 23:30:03

あるいは、ロベルトという架空の女性に仮託した彼なりの何かがあるのかも
しれません。司祭職を放棄するに至ったイヴ的な女性の存在とか、
あるいはロベルトはたんなる代名詞にすぎず、男たちを罪に引きずり降ろす
女たちの内奥にある娼婦性、それを具現化したのがロベルト。
作家は創作する際にモチーフを持っていますが、クロソウスキーの場合、
モチーフが強すぎて託する人物を描き分けるまでには至っていないのかも
しれません。ひとつのテーマでいくつもの作品を書き、当然、作中人物も名前も
異ならせるのが通常ですが、彼の場合は女性ならばロベルト一人で強引に
押し通してしまう。女性の書き分けにはあまり器用ではないというか。。。
女とは悉くロベルトを代表して原罪を導くものである、と。

>神なき世界は、クロソウスキー的シミュラクルになってしまうのか。
そうですね。模造はいつまで経っても模造でしかありえない。
おそらく神なき世界ではロベルトのふしだらさは際立たないでしょうね。
性の解放が叫ばれて以来、若者たちは結婚せずとも自由に性を楽しめる
ようになりました。また、法律で一夫一婦制が定められてはいても、
法というものは人が制定したものである以上、今後自由に変えられる可能性が
あります。解放されればされるほど人々は真の性の悦楽から遠ざかるでしょう。
人がどうこうできない絶対者の審判のもとにしか真の悦楽は存在しないのですね。
438 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/09(月) 23:31:28

緻密な物語の構造分析、視点や構造の転移の解説、感謝です。
わたしは物語の骨格や組み立てについては極端に弱くて、、、
とにかく勢いで読んでいく読書なのですよ。。。冷静さが皆無です。
『プロンプター』を読むのが楽しみです。

次はクッツェー『夷狄を待ちながら』の感想をupの予定です。
来週末くらい。
それと、前にブローティガン(>>381)をお読みとのことでしたね?
わたしは『西瓜糖の日々』を読みました。感想書きあがっておりますが、
upするかどうかはまだ未定です。


――それでは。
439 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/15(日) 18:14:39

クッツェー『夷狄を待ちながら』、読了しました。

とある入植地で民政官を長年勤めている老年の男による独白小説。
帝国は入植地を支配し、支配に従わない夷狄(いてき)と呼ばれる遊牧民たちを
異様に恐れ、入植地の原住民が少しでも不穏な動きを見せると彼らを捕らえて
拷問にかけます。たとえそれが鶏一羽を盗んだだけでも、です。
帝国の目的は姿を現さない夷狄の情報を得ること。
部族は何人くらいか、どこで見かけたか、何でもいい、とにかく夷狄の動きが
知りたいのです。そのためには軍の命令でどんな手段を使うことも許されて
いるのです。

どんなに非道な命令でも帝国側に完全に従うジョル大佐と、あくまで中立的で
穏健な立場をとる「私」。
物語はこのふたりの対立を軸に据えて進んでいきます。
「私」はジョル大佐が拷問にかけて殺した男と、彼の娘(今は物乞いをしている)と
ふとしたきっかけで知り合いになります。
娘に厨房の仕事を与え、夜は「私」と同衾する夷狄の娘。
彼女は拷問の結果、足が不具になり半盲です。


(つづきます)
440 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/15(日) 18:15:24

「私」は娘に罪悪感からくる同情のような奇妙な愛情を抱くのですが、
娘はなかなか「私」にこころを開きません。
充分な食べ物やあたたかい寝床を与え、折れた娘の足を丁寧に洗ってやっても
感情をまったく映し出さない半盲のガラス玉のような瞳で「私」を見るだけ。
それは、「私」の所属している世界が父を拷問にかけて殺した帝国側であることが
大きな理由でありますが、一番の理由は「私」の真意が娘には図れないから。
おそらく、「私」という人間は無表情なまま拷問を与え続けるジョル大佐と同様、
いえ、彼よりももっと非情なものを持ち合わせている人間であると、娘は本能的に
見抜いているのです。
娘にとって「私」はあくまでも「遠来の客」であり、いつかは本国へ還っていく人間
なのです。
「私」の娘に対する愛情はよその国での戯れのもの、良心の呵責に蓋をしたい
だけのもの、一時的な情けであることを誰よりも娘は知っているのです。
それゆえに、「私」が凍るような寒風のなか、隊列を組んで娘をわざわざ夷狄の
もとに返してあげるという敢行に及んでも、娘のこころは閉ざされたまま……。


(つづきます)
441 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/15(日) 18:15:56

夷狄の娘は「私」が思っていた以上に聡明で、「私」の本質を見抜いていました。
「私」は娘を侮っていたことに、後半になってやっと気づくのですが、時すでに遅し。

「私」が初めて娘と睦みあったとき、睡魔に襲われました。
それから、毎夜娘を抱くたびに「私」は深い睡魔に誘い込まれていきました。
老いからくる疲労でしょうか? それとも帝国側に反発しながらも力を行使できない
自分に対する葛藤ゆえでしょうか?
それらは表面的な理由に過ぎないのです。
「私」が娘と同衾するたびに熟睡できたのは、ひとえに娘の母性からくる憐れみゆえ
でした。
一見すると「私」が娘に同情しているように見えて、実は逆なのですね。
異郷の入植地でこころを許せる友達も伴侶もいない孤独な老人である「私」。
彼を慰め癒しているのは夷狄の若い娘のほうなのです。
娘は片言しかしゃべらず、両眼の視力もほとんど失われており、踝から折れた足を
引きずって、ただ「私」の眼前にいるだけです。娘はいるだけで彼を慰謝する存在。
一方、「私」は乞食をしていた娘に衣食住を与え、やさしい「言葉」をかけ、
娘の肉体を喜ばせようと愛撫します。「私」の懸命な努力も虚しく、娘は最後まで
「私」にこころをひらかない。なぜなら、「私」は娘の名前すら尋ねることはないの
ですから。名前を尋ねる、それはひとりの人間の存在を認める最初の愛情告白。


(つづきます)
442 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/15(日) 18:17:06

娘をたとえ夷狄のもとに返してあげたとしても、失明し足が不自由でかつ白人の
慰み者となった娘はもう部族の男たちからはまともに相手にされないでしょう。
ですから、娘を返してあげても娘は救われないのです。
かつて娘の名前を愛情を込めて呼んでくれた父は、拷問されて死にました。
部族に戻ってももう娘の名を愛おしげに呼んでくれる男はひとりもいないのです。
それならば、父と同じように年長者である民政官が父に代わって彼女の名を
呼んであげるべきでした。
たかが名前、と思われるでしょうか? いいえ、されど名前、なのです。
人が暮らすのに最低限必要な衣食住、それさえ与えてやれば確かに生きる
ことは可能でしょう。
まして、支配する側の人間が隷属側の物乞いをしていた人間にこれだけの
ことを施してあげたのですから、ありがたいと思わなければ罰があたりそうです…。
事実、民政官の心情としては「これだけのことをしてあげたのに、、、」と
憤懣やる方ないのが垣間見えます。

ああ、どうして男たちはわからないのだろう……?
父を失った娘の悲しみを、男たちはもう誰ひとりとして愛おしさを込めて娘の名を
呼んでくれない、それがうら若い娘にとってどんなに悲しいことなのかを。。。
たったひとことでいい、娘の名前を呼んであげることになぜ気づかないのでしょう?


(つづきます)
443 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/15(日) 18:18:13

この物語は帝国の軍隊と姿の見えない夷狄との戦いの物語であると同時に、
男と女の愛をめぐる心理劇の物語でもあるのですね。
男は女のこころを何とかひらこうと必死になって物質を提供し、挙句の果てには
ひとりの娘のために砂漠を遠征して夷狄の元へ返すという危険まで冒しています。
結果、民政官の男は独房に入れられ、拷問まで受けるはめになります。
……それでも、娘のこころは動かない。

支配する男、隷属する女、このふたりの関係はそこに「愛」が入り込むと
とたんに立場が逆転します。
初めは娘を支配する位置にあった民政官は途中から娘にこころをとらわれ、
愛を乞う立場になります。その瞬間から娘の立ち位置は一気に彼より上になり
彼を「愛」においては支配する立場に変わるのです。
今まで優位に立っていた男と支配下に置かれていた女、支配/隷属が
一気に転倒する物語でわたしが想起するのはデュラス『死の病い』です。
あの物語は、夜を買われた若い女とすべてに絶望している男の物語でしたね。
買う(支配する)、買われる(支配される)関係がある瞬間から逆になる。
『死の病い』の男と『夷狄を待ちながら』の老いた民政官に共通しているのは
孤独と絶望。
殺伐とした沙漠のようなこころで日々彷徨う男たちはひとりの女にオアシスを
求めます。すなわち、愛を。けれども、男たちは愛の与え方を知らない。
それゆえ、女にいくら愛を求めても、多大な犠牲を払いながらも愛されない。


(つづきます)
444 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/15(日) 18:55:33

彼の人生は何と茫漠としたものであることか。
おそらくこの民政官は、ありふれた幸福を自らあきらめてしまった人なのでしょう。
それは別に悲しいことではなく、入植地で孤独を満喫していたでしょう。
娘に逢わなければ、彼の人生は何事もなく静かに過ぎていったのでしょう。
任期が終われば退任して、本国に還り、穏やかな余生を送れたことでしょう。
ひとりの娘との出逢いは彼の人生を嵐に巻き込み、肉体的にも精神的にも
深い傷を負わせました。
ある意味において、非常にドラマティックな物語です。


最後に夷狄と帝国の意味不明な闘いについて。
いったい夷狄とは本当に存在するのでしょうか?
帝国軍によれば、夷狄とは入植地に入ることや、帝国の支配下に置かれる
ことを徹底的に拒否した部族です。
彼らは定住せずに遊牧民として砂漠を絶えず移動する。
しかし、実際に彼らが攻めてきたことはこれまで一度もなく、未だかつて彼らの姿を
見たことものはひとりもいないのです。
領地が荒らされた、それは夷狄の仕業だ。人が殺された、夷狄がやった。
帝国側は都合の悪いことはすべて架空の存在である夷狄のせいにします。
そのほうが入植地の民を統率しやすいからです。
姿の見えない敵の不穏な噂をほんの少しばら撒くだけで、人々は恐怖に慄き
一致団結しようとします。


(つづきます)
445 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/15(日) 18:56:06

恐怖で煽られた人間のこころは脆く、心理操作は何と簡単であることか……。
(何だか隣国の北○○をほうふつさせますね……)
帝国側はそうした民の心理を巧みに利用しました。
ありもしない敵をつくりだし、捏造し、事実を隠蔽して情報操作をすることで
かろうじて入植地の平和を保ってきたのでした。

帝国側が一番怖いのは狡猾で野蛮な夷狄ではなく、「正確な情報」です。
曰く、夷狄は存在しない。
曰く、帝国は自分に都合の悪いことは全部夷狄のせいにする。
曰く、入植地に争いが絶えないのは帝国側の管理能力がないから。
こうした真実を隠蔽するためにありもしない夷狄をつくりだし、遠征まで
させて多大な死者と負傷者を出している、それが帝国なのです。
これが帝国の真の姿です。入植者に気づかれたら帝国は壊滅するしかない
のです。

彼らがいくら夷狄を待っても、夷狄はこの先も決して現れないでしょう。
夷狄が現れるとすれば、帝国が崩壊し、人々がひとり残らず立ち去ったあとです。
なぜなら、彼らは無用な殺戮を好まない誇り高き最後の部族なのですから。

最後に、「夷狄」、すなわち蛮人、未開人とは残虐な拷問、無駄な殺戮を続けている
他ならぬ帝国の人間のことを指すのです。


――それでは。
446SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/10/23(月) 00:25:13
>>430-438
>勢いで読んでいく読書なのですよ。。。冷静さが皆無です。
Cucさんの読み方を読んでいつも感じることは、
恐れることなく自分の足で作品の中を突き進み
自分の目や手でしっかりと作品の肉を掴んでくる、
というパワーですね。なかなか真似できません。
そういう肉=内容を捉まえる読み方がなければ、
読書に意味はないですからね。

そしてその「読み」を的確にわかりやすく表現できるのは、
きっとどこかで訓練されたものなのかな、と思いますが、
肉がうまく消化され、つまり言葉がこなれていて、
こういう読み方ができたらなあと思うことしばしば。
当方のほうはメモをとることもせず読みっぱなしなんですよ。
447SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/10/23(月) 00:30:30
>沼正三の名前は初めてです。
沼正三『家畜人ヤプー』は日本が生んだ世界的奇作(!?)で
スウィフトやサドの作品に目配せしながらも
SM的であると同時にSF的な面もあったり。
ヤプーというのは日本人のことですが、
これを読むと自虐的になること請合いです。
どちらかというとOTO氏好みかもしれないけど(微笑

>『プロンプター』を読むのが楽しみです。
『ロベルト』とはまた変わったテイストがあると思います。

今週は海外出張があったりでバタバタしてましたので、
>>439-445のクッツェー『夷狄を待ちながら』については
>>430-438とあわせ、来週ゆっくり読ませてもらいます。 〆
448SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/10/27(金) 00:12:41
>>439-445のクッツェー『夷狄を待ちながら』について。
いつもながらの丁寧で豊かな感想ですね!
もし時間がたってもこの書き込みを読めば
作品の内容が一気に蘇ってきそう。

これは、帝国の民政官の一人称で語られた物語ですが、
もし夷狄の娘の視点で語られたとしたら、
一体どんな物語になってたんだろう、と読後に思いました。
きっと『帝国に囚われて』という題になるでしょう。

>「私」の娘に対する愛情はよその国での戯れのもの、良心の呵責に蓋をしたい
>だけのもの、一時的な情けであることを誰よりも娘は知っているのです。
民政官がいくら任務に忠実でないとしても、外から見ればやはり帝国側の人間です。
娘を夷狄のもとに返してあげるという苦労をしても、夷狄の娘が心を開くはずはなく、
そういう期待を抱くのはおこがましいことなのでしょう。
449SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/10/27(金) 00:13:26
(承前)

>「私」は娘の名前すら尋ねることはないのですから。
鋭い指摘です。ここに「帝国側の人間」の証があるかもしれませんね。

>いったい夷狄とは本当に存在するのでしょうか?
夷狄の存在は不確かなもので、その存在(存在感というか存在性というか)は
帝国側によって作られるものなのでしょう。
『夷狄を待ちながら』の原題はWaiting for the Barbariansで、
クッツェーが若い頃にベケットを研究してたことを考えると、
『ゴドーを待ちながら』を想起したりもするのですが、
夷狄もゴドーの存在と同様に不確か。
このベケットの劇作品は、二人組がひたすらゴドーを待つだけ、
というストーリーなきストーリーです。

あとは解説にも書名があがってたと思いますが、
イタリアのブッツァーティ『タタール人の砂漠』を想起しました。
この作品でもタタール人という存在は茫漠としていて
結構『夷狄を待ちながら』との接点があります。
ちなみにブッツァーティはイタリアのカフカと呼ばれていて
カルヴィーノと並んで好きなイタリア作家です。  〆
450 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/29(日) 21:51:15

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>>446
うれしい言葉をありがとうございます! 
繰り返し何度も読ませていただきました。
そのように丁寧な深い想いで読んでくださって本当に感激です!!

実はわたしは読書をする際、ほとんど何も考えずに読んでいるのですよ〜。
ただ、難解な文章に突き当たった場合は無意識のうちに自分なりにわかりやすい
言葉に変換して読んでいるようなところがあります。。。
それもひとりよがりの好き勝手な言葉で、、、
それでも、どうしても変換不能な場合は飛ばして読みます。
考えて立ち止まると先へなかなか進まないので・・・・・

>当方のほうはメモをとることもせず読みっぱなしなんですよ。
わたしもほとんどメモをとることはないです(笑い)。
このスレで対話するようになって初めて少しメモをとるようになりましたよ。
でも内容によってはとらないまま読了することもありますね。


(つづきます)
451 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/29(日) 21:52:16

>>447
>沼正三『家畜人ヤプー』は日本が生んだ世界的奇作(!?)で
>ヤプーというのは日本人のことですが、
>これを読むと自虐的になること請合いです。
そうなのですか? ぜひとも読んでみたいですね!
何だか題名から推すとジョージ・オーウェルの『動物農場』(動物が擬人化
されている)を想起したのですが、内容はまったく異なるようですね。

>>448-449
>もし夷狄の娘の視点で語られたとしたら、
>一体どんな物語になってたんだろう、と読後に思いました。
>きっと『帝国に囚われて』という題になるでしょう。
毎回ながら、鋭い冴えのある着眼点はさすがですね!
なるほど、娘の立場で語るとなるとまるで違った物語になったでしょうね。
生きるため物乞いでも何でもした娘は、中途半端に情けをかけられるのを
最も嫌ったでしょうから、娘にとって民政官は偽善者と映ったかもしれませんね。。。


(つづきます)
452 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/29(日) 21:53:02

>民政官がいくら任務に忠実でないとしても、外から見ればやはり帝国側の
>人間です。
そうですね。たとえ彼が民政官という役職を完全に放棄したとしても、
娘にとって彼は帝国側の人間であることにこの先も変わりはないのです。
異なる民族同士が和解するには気の遠くなるような時間を要するのです。

>ここに「帝国側の人間」の証があるかもしれませんね。
はい。同時に男と女の差異をつくづく思いました。
男は「○○大佐」「○○民政官」など、名前の上に役職をつけて呼ばれることを
好みますが、女はストレートに名前を呼ばれるほうを好みます。

ベケットは名前が挙がるたびにいつかは本腰を入れて読みたいと思いつつも、
なぜかそのままになってしまっている作家です。。。

>イタリアのブッツァーティ『タタール人の砂漠』を想起しました。
というわけで、砂漠関連で今回も『タタール人の砂漠』のほうをリクエストして
しまったのでした……。

以下、『プロンプター』の感想です。
453 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/29(日) 21:53:45

『プロンプター』の感想を記します。
あらすじと構成、詳細については、SXYさんが>>426-429で述べて下って
いますね。

先ず初めに題名の≪プロンプター≫とは何を意味するのでしょう?
訳者の若林真氏はこの物語のプロンプターは≪神≫であると指摘します。
――プロンプターとは舞台の陰でこっそりと俳優に台詞を教えてやる人。
台詞をつけるプロンプター、あるいは彼を背後から操っている演出家に
「神」という名を与えたくならないだろうか――(p364-365)

わたしは当初プロンプターとはテオドールの似非友人のギイだと思いつつ
読んでいきました。というのは、テオドールが医師の診察を受けたとき、
医師が「それはギイがあなたに言ったことであり、あなたは現場を見ては
いないのですね?」と何度も確認する台詞が登場したからです。
テオドールの狂気と妄想を利用して彼を混乱させ、攪乱させ、情報を操作し
陰で哄笑している、それがギイであると。
ところが読み進めていくうちに、プロンプターとは実はこの物語の作者Kこそが
真のプロンプターなのではないかと思いました。


(つづきます)
454 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/29(日) 21:54:26

最終ページで作者Kは自身の分身である狂人のテオドールを殺します。
また、Kは一度は死んだはずのロダン博士(=オクターヴ)をこの『プロンプター』
で再び生かして登場させています。
つまり、作者Kはこの物語の全権を委ねられた人物であり、物語における
人物の生死を自由に決められる唯一の人間なのです。
――プロンプターを意味する原題のフランス語は≪息≫を語源としており、
≪息を吹き込む人≫の意味である――といみじくも若林真氏が述べているように
物語の人物に息を吹き込めるのは作者しかいないのですね。
では、若林氏の指摘する≪神≫はどこにいるのか?
物語を司る存在=作者=神とするならば、真の神はこれらを超えたもの、
バタイユの言葉に倣うならば≪超・神≫は物語の外にいるのです。
遥か高みから人間の悲喜劇をただ「見ている」のです。
神はそこに「在る」だけ。それゆえに神なのです。
神は人間のこまごまとしたことに関知しない、意識を操作もしない。
泰然としており、鷹揚に構えている、それゆえに神なのです。


(つづきます)
455 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/29(日) 22:36:03

偽の情報を流して人のこころを操作し攪乱するのは友人づらした人間。
親身になっているふうを装い、実は陰で嘲笑しているのが人間。
神はそんな人間たちを遥かから「見ている」のです。
但し、決して自ら手を下しはしない。鷹揚で冷酷で、それゆえに神なのです。

テオドールについて少し述べてみたいと思います。
彼はロベルトの前夫オクターヴの『歓待の掟』に倣い、妻ロベルトを客人に
提供することを続けようとするのですが、しっぺ返しを受けます。
なぜなら、オクターヴには『歓待の掟』を提唱する確固とした理由がありましたが、
テオドールにはそれが皆無なのです。
ただ、オクターヴに倣って自分も負けじと躍起になっただけでは、『歓待の掟』の
真の意味、法悦も訪れることはないでしょう。
テオドールはオクターヴのたんなる模倣に過ぎないのです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
その証拠に前二作における神への反逆ともいえる一夫一婦制への侵犯と性の
悦楽、ロベルトの恍惚な輝くような描写はここでは見られません。


(つづきます)
456 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/29(日) 22:36:46

そう、『歓待の掟』の実践はテオドールではだめなのです。手に余るのですね。
『歓待の掟』の実践の結果として、ロベルトは父親不明の子供を生み育てていま
すが、テオドールはジェロームと名づけられたその子供に何の愛情も抱きません。
『歓待の掟』の真の理解者ならば、ジェロームに対して我が子のような愛情を抱くで
しょう。客人に進んで妻を提供して法悦に浸るのは他ならぬ本人なのですから。

『プロンプター』においては、神のまなざしも、従って法悦もまったく存在しません。
その理由はテオドールは神に対して無関心だからです。
慕うことも、反逆すらもしない、はっきり言ってどうでもいい存在。
肯定も否定もない。
それゆえに、この作品においては侵犯からもたらされるエロスすら漂わない。
『歓待の掟』の真の継承者は有神論者であれ、無神論者であれ、神に対して
高い関心を抱いているものでなければ掟の意味が生きてこないのです。
事実、この章においてわたしたち読者はふたりのロベルトのうちどちらが本物か、とか
テオドールとKの関係はいかなるものなのか、謎解きのほうにのみ関心が向けられる
筋書きとなっています。
あの前二作の濃密な性描写、迸るような侵犯の数々はテオドールが主人公では
成立しないのです。


(つづきます)
457 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/29(日) 22:37:21

神に対して徹底して無関心で冷淡であること。
このテオドールの境地は作者クロソウスキー、そしてバタイユが聖職を
棄教した後、最も欲しかった心境でしょう。
この両者は生涯を通して神への反逆と侵犯を試みた、いわば愛情の裏返し的な
熱烈な神の信奉者ですから……。

テオドールを主人公に据えることで、クロソウスキーも神から逃れて心身ともに
楽に自由になりたかったのかもしれません。
神なしでも、僕はこんなに自由に『歓待の掟』を語れるのだよ、と誇示したがって
いるように思えるのはわたしだけでしょうか……。
その上、神への侵犯抜きの作品は、残念ながら気の抜けたコーラのような
味わいなのです。。。

――きみはわしの女を自分のものにする言い張るだけの力も持っていない。
ましてや、女を与えるなどということもできまい。きみは貧しいから寛大に
なれないのだ、テオドール――
そう、テオドールは『歓待の掟』を演じるふりをしていただけ、うわべだけのお芝居を
していたために、こころが破綻してしまったのですね。


(つづきます)
458 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/29(日) 22:38:28

テオドールは本心ではロベルトを客人に提供したくないのです。
監視し、独占したくてたまらないのに、わざと鷹揚なふりをしていたから、
本心と偽りとが混乱を来たし、精神が破滅しました。
自分の本心に目を向けるのが怖かった彼は妄想のなかでふたりのロベルトを
つくりだしたのです。いえ、つくり出さざるを得なかったのです。
貞潔なロベルトは、彼の妄想のなかでこそ完全に手に入るのですから。。。

『歓待の掟』をこころから受け入れられる人間はどれだけいるのでしょう?
よほどの倦怠期にある夫婦か、最初から愛情が皆無な夫婦でしょうか。
あるいは、オクターヴのように幸せが怖い人間でしょうか。
けれども、それでは『歓待の掟』の条件から外れます。
『歓待の掟』が実施されるには、夫が妻を愛していること、貞淑な妻であることが
第一条件なのですから。。。
『歓待の掟』とは現実には実践されるのが困難であるがゆえに、燦然と輝くもの
なのですね。


(つづきます)
459 ◆Fafd1c3Cuc :2006/10/29(日) 22:39:06

クロソウスキーは『わが隣人サド』を著していますね。
そういえば以前、サド侯爵の晩年を描いた映画「クイルズ〜羽根ペン〜」を
レンタルして観たことがあります。

小間使いのマドレーヌ役はケイト・ウィンスレット(「タイタニック」の主演女優)でした。
猥褻文書を書くサド侯爵は異常者として収容所に入れられますが、小間使いの娘が
彼の獄中で書かれた文書を持ち出し出版されます。
それを嗅ぎつけた神父が娘に問いただすシーンが印象的でした。
「君のような清純な娘がどうして彼のような男の手助けをするのだ?」
「猥褻なものを読むことによって、正気な世界に踏みとどまっていられるのです。
読むことで想像するから、実際に手を下さないでいられるのですわ」
誰もが持っている悪徳の芽は本で書かれることによって、各人のなかにどうにか
収まっていられるということですね。
つまり、猥褻文書反対運動はかつての禁酒法のように禁じられたものを
逆にはびこらせてしまうということですね。。。
『歓待の掟』も読むことのみで踏みとどまるのが理想で、実践すればテオドールの
ように狂人になってしまうということなのでしょうか。
これはクロソウスキーの警鐘なのでしょうか?

「クイルズ」↓
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B0007WZTV6


――それでは。
460SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/11/06(月) 22:01:43
>>450-452
沼正三『家畜人ヤプー』はオーウェル『動物農場』とは逆で
ある種の人間が家畜化されているという内容なのですが、
ペットというより奴隷、奴隷というより物にされている感じで、
人間が便器になってしまうというエログロナンセンスな世界...

ブッツァーティ『タタール人の砂漠』をリクエストされたとのこと、
こちらのほうは沼正三とちがって安心して読めると思います(微笑
ブッツァーティの短篇に「七階」というのがあり(『七人の使者』所収)、
曖昧な記憶を頼りにプロットを適当に綴ってみると、こんな感じです。

ある専門の医師に診察をしてもらうため、主人公はとある病院を訪れるのですが、
この病院では病の重さで階が分けられていて、七階は症状の軽い患者のフロア、
階下へ降りるごとに重くなり、一階では手遅れの重病人ばかりという構造。
軽い気持ちで七階に診察を受けに来た主人公は、やがて六階、さらには……
と、不可抗力的な見えないシステムに操られて悪夢の深みにはまっていく、
そんなカフカ的なアレゴリーを感じさせる短篇があります。
461SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/11/06(月) 22:05:27
>>453-459
まずは感謝を。
ひとつの作品をほぼ同じ時期に読み、
感想を伝え合えるという幸福のために――。
でも、暇がもっとあればよかったなあと。

>この物語の作者Kこそが真のプロンプターなのではないかと思いました。
わたしもまたこのタイトルに暗示されている存在は、
作者K、さらにいえばクロソウスキー自身ではないかと睨んでいました。
前二作に対して舞台裏であった次元を舞台にのせるような構造において、
そのように読んでいたわけですが、冒頭からしてその匂いがありました。
確かミュージックホールで主人公が劇を見ているシーンだったはず。

>ロベルトの恍惚な輝くような描写はここでは見られません。
前二作のエロスにあふれた描写をおそらくはあえて消したのでしょう。
ではこの変化はなぜか?(ポルノグラフィーからミステリーへ?)
作者クロソウスキーの意図をはかることは難しいのですが、
前二作における貞淑な妻と淫らな妻というロベルトの両面性は
ここではドッペルゲンガーという存在の二重性に変質しています。
そして随所で主人公に対しても我々読者に対しても
演劇的な舞台装置があえてほのめかされているような感じで、それが
>神に対して徹底して無関心で冷淡であること。
というCucさんの印象につながるような気もします。
462SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/11/06(月) 22:28:18
(承前)

>神への侵犯抜きの作品は、残念ながら気の抜けたコーラのような(略)
クロソウスキーはバタイユ論の中で(『かくも不吉な欲望』かな?)
無神論を口にすることは神の空位の座にこだわることだ、
というようなことを書いていました(うろ覚えですが)。
クロソウスキーが『歓待の掟』三部作を通じて描いたのは
神によって保証されるところの同一性という概念の侵犯であり、
神という存在そのものに対する反逆というよりは、
神という後見人のいない世界での人間の不安定感の露出であり、
バタイユとは接点を多く持ちつつも異なる点があるとすれば、
同一性なきシミュラクルの世界の提示なのでしょう。

>『歓待の掟』が実施されるには、夫が妻を愛していること、
>貞淑な妻であることが第一条件なのですから。。。
クロソウスキーが重きを置いていたと思われるのは、
《歓待の掟》によって露わになってくるところのロベルトの裂け目、
貞淑でありながら淫らでなければならないというダブルバインド、
この両義的なポーズ、引き裂かれたアイデンティティのイメージを
活人画としてのタブローにおさめることだったのではないでしょうか。

>クロソウスキーは『わが隣人サド』を著していますね。
バタイユ、クロソウスキーにとって(ブランショにとっても)
サドという存在はニーチェとと同じほど大きいでしょうね。
彼らは現実の行為の予習や代償として書いたわけではなく
《書く》という行為そのものの特異性を認識していたと思います。〆
463 ◆Fafd1c3Cuc :2006/11/12(日) 21:30:20

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>>460
>沼正三『家畜人ヤプー』はオーウェル『動物農場』とは逆で
>人間が便器になってしまうというエログロナンセンスな世界...
むむむ・・・・・そ、それはまた何かすごそうですね。

>ブッツァーティ『タタール人の砂漠』をリクエストされたとのこと、
読了しました。幻想的な作品と解説にはありましたが、わたしは社会とりわけ
組織で働く人間の生涯を寓話という形式で実にリアルに描いた作品であると
思いました。そこにはさまざまな悲哀があり、運不運に左右されるのです。
人間はひとつの組織に己をひとたび委ねた以上、なかなか逃れられないものなの
ですね。。。そこには人智を超えた何ものかの力がはたらいているかのようです。

>ブッツァーティの短篇に「七階」というのがあり(『七人の使者』所収)
さっそくリクエストしました。今から読むのが楽しみです。

>>461
>わたしもまたこのタイトルに暗示されている存在は、
>作者K、さらにいえばクロソウスキー自身ではないかと睨んでいました。
やはりそうでしたか!
訳者は《プロンプター=神》ではないかと解説で述べていますが、
前二作と比較すると第三部において神の気配はかなり希薄ですよね。


(つづきます)
464 ◆Fafd1c3Cuc :2006/11/12(日) 21:31:00

>前二作における貞淑な妻と淫らな妻というロベルトの両面性は
>ここではドッペルゲンガーという存在の二重性に変質しています。
ここで時間、時代を考慮するならば、前二作が神のまなざしがまだ濃厚に
人々のなかに根付いていた時代と設定します。
ロベルトが背徳行為に及ぶとき、理性では拒否しつつ本能では歓迎するといった
アンビバレンツがつねにありました。そうした正反対の感情に翻弄されつつも、
ロベルトの身体は「ひとつ」でした。
第三部を神の死後(ニーチェ)、すなわち現代とすれば、ロベルトの身体は理性と本能
の両方に見事なまでに分裂し、身体がふたつに分かれた以上アンビバレンツな感情
に支配されることもありません。
そして注目すべきはドッペルゲンガー現象はロベルトだけでなく、何と夫である
テオドール=作者Kにも及んでいるのです!
貞操観念のない奔放なヴァランチーヌ=貞淑な妻の顔をしたロベルト。
嫉妬深く妻を絶えず監視せずにはいられない狂人の夫テオドール=冷静な作者K。
クロソウスキーは前二作において神への侵犯を語るとき、理性と本能が葛藤する
ためには身体が「ひとつ」であることが絶対必要条件であると考えたのではないで
しょうか。


(つづきます)
465 ◆Fafd1c3Cuc :2006/11/12(日) 21:31:33

この三作目において、ひとたび身体が分裂してしまうと禁忌も消滅し、それぞれの
身体が各自分担して歓待の掟はさながら安請合いの「仕事」のようになってしまって
います。忘れてはならないことは、歓待の掟とは商売人である娼婦に提供されるの
ではなく、あくまでも貞淑な妻に提供されて初めて意味を持つということです。
ここではヴァランチーヌは娼婦としてしか描かれない。

>>462
>神という存在そのものに対する反逆というよりは、
>神という後見人のいない世界での人間の不安定感の露出であり、
>同一性なきシミュラクルの世界の提示なのでしょう。
ああ、なるほど。クロソウスキーが描こうとしたのは神に対する意識が希薄な結果
もたらされる不安、空虚、こうしたものだったのですね。
神に対する反逆とは神を認めていることが前提ですから、畢竟内容も真剣かつ
濃密になります。ところが神なき世界にあっては反逆する神がとうに失われており、
そこでは人々は神に真正面から対峙することもできず、「気の抜けたコーラ」のように
腑抜けるしか術がないのですね。

>サドという存在はニーチェとと同じほど大きいでしょうね。
>彼らは現実の行為の予習や代償として書いたわけではなく
>《書く》という行為そのものの特異性を認識していたと思います。〆
かの反逆的な二大巨匠は《書く》という行為で自らの思想を表明したという
ことですね。それは実際に背徳行為に及ばないための安全弁というよりも、
神への苛立ちや言葉にしえない想いをあえて書くことで確認し、自らを昇華させた
かったのかもしれません。そこにあるのは神と対峙しようとする真摯な情熱です。

以下、シュペルヴィエル『海の上の少女』の感想です。
466 ◆Fafd1c3Cuc :2006/11/12(日) 21:32:07
シュペルヴィエル『海の上の少女』の感想を記します。

波の間に間にたゆたっている小舟に乗っているような印象の作品群。
表題の『海の上の少女』は特にその印象が強いです。
海の上に村があり、少女はその村の唯一の住人。
食糧は日々補充され、学校に行けば教科書もある。誰もいないのにです。
少女はこの村で宛名のない手紙を書いては海に捨てます。
ある日船が通りかかり、少女は助けを乞いますが船は素通りします。
波は少女を哀れに思い死の世界に旅立たせてやろうとしますが、、、
実は少女はある水夫が娘を亡くした結果、悲しみのあまりつくりだした妄想の
産物なのでした。
船乗りが娘への想いにしずむ限り、少女は海の上の村から出ることは
決してないでしょう。少女はセイレーンのように何度でも生まれ変わり、
あるときは若い水夫を惑わし海に転覆させるかもしれません。
父親が寂しさのあまり、海の上の少女を妄想でつくりだしたように、娘もまた
寂しさのあまり、海の男たちを誘惑し波の底に引きずり込むしかないのです。
父と娘の悲しみの連鎖は止むことなく、今日も海の上で悲劇は繰り返される……。


(つづきます)
467 ◆Fafd1c3Cuc :2006/11/12(日) 21:33:53

一見童話のように思えるのに、全体に漂う深い絶望感、透徹した悲しみは
いったいどこからくるのでしょう?
作者シュペルヴィエルは幼くして両親を亡くし、幼少期は伯父の家で実の子供同様に
育てられましたが、九歳の時に自分が養子であることを知ったといいます。
感受性の強い少年にとって、実の両親が他界していること、父親と思っていた人が
実は伯父であったという事実はかなり大きい衝撃だったでしょう。
シュペルヴィエルはこうした現実を認めたくなくて、両親はどこかここではない
自分の知らない地、別の世界で生きていると思いたかったでしょうね。
たとえ現実には伯父の愛情がどんなに深く、また生活が豊かであったとしてもです。
深い悲しみゆえに架空の世界へ逃避し、架空の世界を自らつくりだすこと、
シュペルヴィエルの生い立ちを鑑みれば納得がいきます。
代表作『海の上の少女』の少女の死を悲しむ船乗りとは実はシュペルヴィエル本人を
指すのですね。彼は両親の死をなかなか受け容れられずに、創作(妄想とはあえて
呼ばない…)のなかで海の上の村に少女=両親を住まわせたのでした。
彼の悲しみがつくりだした美しい産物、それが『海の上の少女』なのです。
彼が死者である両親に逢えるのは唯一創作のなかでだけなのですから……。
両親の魂を永遠に眠らせないために彼は書く。生後八ヶ月で両親を亡くした
彼はおそらく両親の顔すら覚えていないでしょう。唯一両親に逢える方法、そう、
創作することで彼は両親を甦らせたのです。

(つづきます)
468 ◆Fafd1c3Cuc :2006/11/12(日) 22:26:34

『海の上の少女』に収められている作品のいくつかは、現状になじめず脱出を
はかろうとする物語がありますね。
表題そのものの『海の上の少女』。食糧も本も物資もすべてがそろっている島から
少女は脱出しようとしますが失敗に終わります。
『セーヌから来た名なし嬢』も然り。溺死して深海にある世界に連れて行かれた
少女は皆から親切にされ精悍な若者からも好意を寄せられても、そこに馴染めず
ある日とうとう鎖を切って海面へと上がっていきます。今度こそ「本当に死ぬ」ために。

この二少女たちは現状に安住せずに、もっと広い世界を求めて旅立とうとする
少女たちです。
それも希望を求めるというよりも、確実な「死」を求めての脱出です。
どうもシュペルヴィエルは曖昧さを良しとしない傾向があるのか、生きるなら
徹底して生きている実感の世界を、そうでないならば確実な死を願っていたような
ふしが伺えます。。。『海の上の少女』の永遠に死ねない絶望的な悲しみは読む
ものの胸を打ちます。
あわあわとした幻想的な作品の特徴とは対照的ですね。


(つづきます)
469 ◆Fafd1c3Cuc :2006/11/12(日) 22:27:04

また、彼は新約聖書、旧約聖書のお話しを子供向けにアレンジして創作することも
得意としました。
『秣桶(まぐさおけ)の牛と驢馬』『ノアの方舟』がそうですね。
この両方の物語には言葉を話す動物たちが登場しますが、いずれの動物も
聖なるものを前にして自らの存在を恥じ入っているのが特徴です。
『秣桶の牛と驢馬』の牛は誕生したばかりのイエスを前にして畏まり、息が強く
かからぬよう、涎が耳に入らぬよう、自分の巨体で踏み潰さぬよう細心の注意を
払っています。自分よりもイエスを愛しているくらいです。
『ノアの方舟』においては方舟の中で食糧が乏しくなるにつれてライオンが自らの
肉食を恥じ入ります。できればこんなふうに生まれつきたくはなかった、草を食べて
生きられたらよかったのにと。
巨体動物の牛や百獣の王のライオンが恥じ入る。それも自分より強いものを前にして
ではなく、イエスや神の使いという聖なるものを前にして。
牛やライオンの繊細な心持ちを丁寧に描いており、子供たちのクリスマスのお話しに
うってつけですね。


(つづきます)
470 ◆Fafd1c3Cuc :2006/11/12(日) 22:27:34

ギリシャ神話をモチーフにした作品はなかなか機知に飛んでいてユーモラス。
大人の男女の機微をさり気なく織り込んでいて、たんなる童話とは呼べない域の
作品もあります。
たとえば『エウロペの誘拐』。全能の神ゼウスは嫉妬深い妻ヘラの目をかすめて
あの手この手を使って若い娘を誘惑します。
白鳥になったり、牡牛に変身したりして。ところがそのたびに妻ヘラに発見され
お仕置きされます。終いには逆切れして「ゼウスたるこの俺がなぜ妻に気を使わねば
ならないんだ。何をしようと俺の勝手だ」と喚きながらも、この先は妻よりもっと
狡猾になり、いかにして妻を出し抜こうと新たな戦略を立てているのが現実。
つまり、浮気するにあたって先ず妻を念頭に置いているわけですよ。
まるで世の夫たちのつぶやきがそのまま聞こえてきそうではありませんか…。合掌。

お釈迦様の掌で孫悟空が転がされていたように、全能の神たるゼウスでさえも、
神である前にひとりの夫なのですね。妻ヘラの掌で転がされているのです。
妻ヘラは嫉妬するふりをしながらお灸を据えてほくそ笑んでいることでしょう。
「さあて、今回の浮気の代償に何をねだろうかしら」と。さっそく頭のなかで、
こっそり欲しい品物に考えをめぐらしているのです。…これってわたしの妄想?
そして、ゼウスはゼウスで嫉妬深い妻のご機嫌を取り、やれやれと言いながらも
どこか嬉しそうだなあ、と感じるのはわたしだけでしょうかね……?


(つづきます)
471 ◆Fafd1c3Cuc :2006/11/12(日) 22:28:11

今までのどの分類にも該当しない作品があります。
『ラニ』は、酋長になるため熱心に断食修業をつづけ、空腹のあまり火床に倒れこみ
顔を骨まで焼かれたインディアンの男の物語。その顔のせいで婚約者にも去られ、
部族の皆から背を向けられた男は悪意の化身となり一族に復讐します。
一族を制覇した孤独な爛れ顔の男に付き添っているのは死を準備している蛇だけ。
まったく救いのない物語で、絶望と背信、憎悪が渦巻いている残酷な作品です。

『牛乳のお椀』は病気の母に毎朝牛乳を運ぶ青年の物語。
彼は母親が死んでしまってからも毎朝のこの習慣を決して止めません。
いままで通りに牛乳を運び、台所に流して捨てるのです。

ラニといい牛乳を運ぶ青年といい、なぜこうまでして悲痛に残酷に描かれなければ
ならないのでしょう? この二青年は当初は純朴で善良な青年でした。
シュペルヴィエルはたんなる童話作家ではなくこの世の不条理を描く作家でもある
のです。すなわち、努力や善意は報われない。
童話と思わせながらその奥に潜む一本の鋭く太い針。
この針は何を意味するのでしょう?


(つづきます)
472 ◆Fafd1c3Cuc :2006/11/12(日) 22:28:51

シュペルヴィエルにとって人生とはものごころつくかつかない矢先に予期せぬ
出来事、すなわち両親の急死で一変せざるを得ないものでした。
伯父に養子として育てられたこと、実の両親の死を九歳まで知らなかったこと、
後々も彼を悩ますこととなった持病、幼年期に過ごした南米を生涯こころの故郷
とするもヨーロッパ人によって南米は征服されてしまう、、、
彼の意志とは無関係に彼の知らないところで人生の歯車は回りつづけました。
美しい南米の大自然のもとで何不自由なく豊かに暮らしながらも、どこか陰が
あり、孤独癖のある少年時代を過ごしたであろうことは、想像に難くないです。
人生とは自分の意のままはならないのだ。九歳の日にそう思い知らされたのです。

『羊をつれた寡婦』『この世の権勢家』の最後の残酷さはどうでしょう。
ブラック・ユーモアの先駆者「サキ短編集」を読んでいるような気分でした。
まるで、作者の絶望を作者に代わって作品のなかで復讐しているかのようです。
シュペルヴィエルの作品はファンタジー仕立ての妖精の国のお話しだけでは
ないのです。人間の強欲さ、残酷さを童話の形式を借りて暴き立てるのです。
読者は童話だと思いつつ読んでいくと最後には冷水を浴びせられてぎょっとします。
本当はとてもとても怖い作家なのかもしれません……。

【ご参考】 サキ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AD


――それでは。
473SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/11/23(木) 21:02:14
久しぶりのしつこい風邪にしばらくやれらてました。

>>463-465
クロソウスキー『歓待の掟』について
まだ触れていなかったことがありました。
三部作としてまとめられる際に加えられた
プロローグとエピローグです。
が、特にエピローグはヘーゲルも真っ青の
哲学書のような難解さで手が出ない。。。
474SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/11/23(木) 21:04:21
>>466-472
>波の間に間にたゆたっている小舟に乗っているような印象の作品群。
>一見童話のように思えるのに、全体に漂う深い絶望感、透徹した悲しみ

シュペルヴィエルに対する鋭い確かな視線ですね。
「沖の小娘(海の中の少女)」や「セーヌ川の名無し女」をはじめ、
彼の作品たちには「死」と「不在」が感じられることが多いのですが、
作品の色調は暗いわけではなくて、むしろ色で言うと「白」のイメージ。
明るい悲しみ、光にあふれたむなしさ、あきらめのやさしさ、
そういう不思議な境地からの視点を感じさせる作家・詩人です。

が、サキのようなブラック・ユーモアを感じる作品があることは
Cucさんの指摘を読むまで、まったく失念していました。

OTO氏のブランショについての書き込みが楽しみですね。  〆
475 ◆Fafd1c3Cuc :2006/11/26(日) 20:23:29

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

その後、風邪の具合はいかがでしょうか? 急に寒くなりましたね。
どうぞ、お大事に。

>>473
>特にエピローグはヘーゲルも真っ青の哲学書のような難解さで手が出ない。。。
クロソウスキーについては、神学者や文学者のみならず哲学者たちをも悩ませたで
あろうなあ、と想像に難くないです、、、
作者の偏向性が作品のここかしこに現れていて、ところどころ破綻していますし。。。
まあ、そこが興味深くもあるのですが。

>>474
>彼の作品たちには「死」と「不在」が感じられることが多いのですが、
指摘されてみますと、確かにそうですね。
彼の描く世界は独特の浮遊感、透明感が漂っており、あわあわとしていて
まるでこの世のものとは思えない幻想的な空間をつくりだしています。
少しでも力を込めて歩いたなら、たちまち消滅してしまいそうな危うい世界。
476 ◆Fafd1c3Cuc :2006/11/26(日) 20:24:21

>作品の色調は暗いわけではなくて、むしろ色で言うと「白」のイメージ。
>明るい悲しみ、光にあふれたむなしさ、あきらめのやさしさ、
ああ、とても綺麗な表現ですね!
SXYさんのこの感想を読んで、尾崎翠の印象とどこか共通するものがあるなあ、
と思いました。両者の作品はかなり異なりますが。。。
逞しさや、力強さや、強引さからは遥かに遠い世界。
あきらめることを人生の課題にしているような深い悲しみに満ちてはいても、
それは決して投げやりなものではなく、静かな受容として描かれているのです。
作品全体に降り注いでいる透明なあかるい光は絶望を通り越した、ろ過された
光であり、それゆえに読むもののこころをとらえてやまないのでしょうね。

――ある頃の私のたどったように、幼いから若いからと言ってそれに長い楽しい
生を求めることは不可能なことであった。死を悲しむ後に見出す生のかがやき。
それを得ようと私は一歩ごとの歩みをつづけて行かなければならない。
けれども、ともすると私は淡い心に遠くから死をながめては、何故私たちの
ゆくてに死がよこたわっているのかが分からないことがあった――
――創樹社刊・尾崎翠全集「悲しみを求める心」より抜粋(p417〜p418)


以下、『タタール人の砂漠』の感想です。
477 ◆Fafd1c3Cuc :2006/11/26(日) 20:25:34

ディーノ・ブッツァーティ『タタール人の砂漠』の感想を記します。

士官学校を卒業したての一人の青年将校がとある砦に駐屯し、
生涯に亘ってついぞそこから離れることができなかった物語。
全編に渡って透徹した静かな悲しみと深いあきらめが漂っています
人生とはままならないものであり、しばしば希望は打ち砕かれるものなのだ、
そんなドローゴの悲痛な叫び声が聞こえてきそうです……。

この物語の主人公ドローゴは士官学校を出たばかりで若者らしい野心を抱き、
手柄を立てて出世することを夢見ながら砦に駐屯します。
その砦は軍の中でも忘れられた地、見捨てられた地です。
遥か彼方には砂漠が広がり、そこからいつかタタール人が攻めてくるという伝説に
縋って日々生きている兵士たちの吹き溜まりの場所。
実際にはタタール人が攻めてきたことなど一度もなく、砂漠は無用の荒野に
すぎない。この砦で手柄を立てようにも敵がいない以上、戦は起りうるはずもなく、
兵士たちは軍の規律に従って見張りはするもののそれは惰性にすぎず、
誰ひとりとして情熱を持って砦を守ろうとする者はいない。
その上、ひとたびここに駐屯した兵士たちは病気にでもならない限り転任許可は
与えられず、従って人生のほとんどをこの砦で送ることになるのです。
何事も起らず、日々同じことの繰り返し、単調で気の遠くなるような退屈な
毎日を。。。そこにあるのは孤独と虚しさだけ。


(つづきます)
478 ◆Fafd1c3Cuc :2006/11/26(日) 20:27:18

ドローゴも例外ではありませんでした。
彼は生涯のほとんどをこの砦で送り、家庭も持たず、かつての友人たちからも
遠のき、病気になり強制送還の道中の旅籠でたったひとりで誰にも見送られずに
ひっそりと静かに死んでいきます。
かつて若き日に夢見たような華々しい手柄を何ひとつ立てることもなく……。
ドローゴが送還されるまさにその朝、にわかに砦は活気づき他から兵士たちは
増員され確実に戦が始まろうとしていました。
病床にあったドローゴは「今こそ私が指揮を執らねば!」と己を鼓舞するのですが
病に蝕まれた身体はいうことをきかず、かつての同僚も彼をお荷物扱いし、転地療養
とは名ばかりで実は厄介払いするいい口実なのでした。

ドローゴはこの砦に駐屯していた時、二回転任するチャンスがありました。
一回目は赴任したばかりの時。失望している彼を思いやって上官は軍医にこっそり
依頼して健康状態が思わしくなく高地に耐えられない、という偽の診断書を書いて
もらうよう手配してくれました。
ところが、軍医がペンを執ろうとしたその瞬間彼は断ったのです。
彼の目は窓越しの眼下に広がる砂漠に釘付けになっていたのです。
まさに、この瞬間ドローゴは砂漠に「魅入られ」、「囚われ」たのでした。


(つづきます)
479 ◆Fafd1c3Cuc :2006/11/26(日) 20:29:11

――「あの男も司令官の大佐どのもそのほかの大勢の連中も、死ぬまでここに残る
でしょう。一種の病気みたいなものですな、あなたもお気をつけになった方が
いいですよ。まだ間に合ううちにお気をつけになることですな……」――(p59)
そう、仕立て屋の予言どおりにドローゴの運命はこの砦に縛りつけられたのです。

二回目の脱出のチャンスは四年砦で駐屯した後、数ヶ月の休暇をもらい郷里に
帰った時でした。かつての友人たちはそれなりの地位を築き、なつかしく思っては
くれても彼らと話しが合うこともなく、許婚だったマリアに求婚もせず、彼のこころは
砦のことばかり追っているのでした。
休暇を終えた後、彼の転任願いは却下されます。まだ25歳の彼は士官を辞めて
他の職業に転身することもできたはずなのに、辞めることもなくそのまま砦勤務を
つづけます……。
彼は今や砦なしでは生きられなくなっているのでした。砦は彼の全てなのです。

最初の軍医との面談のとき、なぜ彼は診断書を破棄するよう頼んだのでしょう?
あの時ならまだ充分引き返せたはずなのに。
生涯に亘って砂漠に魅入られ、囚われる人とはどんな人なのでしょう?
出世、名誉欲が強い人。野心に燃えている人。伝説を信じる人。
いえ、一番の理由は、この世には砂漠でしか生きられない人、砂漠にしか居場所が
ない人を砂漠は知っているのです。そういう人は砂漠に「選ばれた」人たちなのです。アラビアのロレンスもそのひとりでした。
砂漠はある時には砂丘に美しい模様を描き彼らを虜にし、またある時には砂嵐や
流砂でもって彼らを恐慌に陥れ、その恐怖でもって彼らのこころを縛りつけるのです。


(つづきます)
480 ◆Fafd1c3Cuc :2006/11/26(日) 21:15:15

砂漠の持つ美しさと恐怖に、身もこころも完全に砂漠に絡めとられた人間は
もはやそこから逃れ出ることはできません。
もし仮に砦から出なければならないとしたら、その時は発狂か死か、どちらか
しかないでしょう。かつてあれほどここから出たいと願ったドローゴは今や砦を
離れては一日と生きていられない人間になってしまったのでした。

訳者あとがきで、脇功氏は「砦は人々の人生を納めた入れ物であり、タタール人の
襲来という幻想は人々が人生で抱く期待や不安の象徴である」と述べておられます。
この小説はひとりの男の単調で退屈な凡庸な人生を寓意的に描いた物語なのです
ね。
学校を卒業して初めて社会に出たとき、若者は希望に燃え、これから未知の素晴ら
しい出来事が起きるに違いないと期待します。ところが年月が経っても一向に
「素晴らしい何か」は起きる気配はない。ある者は転職し、ある者は自分で何かを
始めます。
組織に残った者は、去っていく彼らを半ば羨みながらもまだ「素晴らしい出来事」が
起ることを期待している。本心ではそれが幻想であると知りつつも。。。
そして、彼の人生には劇的なことがひとつも起らないまま定年退職の日が来る。


(つづきます)
481 ◆Fafd1c3Cuc :2006/11/26(日) 21:16:11

人は生きたように死ぬものでありますね。
そして、また、人は自分が生きられなかった別の人生を思いながら、日々
生きるものなのですね。

ドローゴの人生にとっての怠慢は、彼が赴任先でささやかでもいいから彼だけの
楽しみ、満足を積極的に見つけ出さないことにありました。
それはたとえば、仲間たちとポーカーに興じることでもいいし、夜眠る前に日記を
つけることから発展して詩作、創作、絵を描く楽しみに浸ることでもいい。
あるいは、春先には砂漠においてさえも一斉に芽吹きが始まるのだから野原を
馬で駆け回り自然を満喫することでもいい、ミレーの「晩鐘」の農夫たちのように
何事も起らなかった一日を感謝して祈りを捧げる喜びでもいい、どのような単調な
日々のなかにも何らかのささやかな喜びはあるのです。
彼の駐屯した砦はいわば安全地帯で、兵士たちは戦で命を落とすことは先ず
ありえない地です。(同僚の一人が無理な観測に赴いて凍死しましたが、あれは
戦死とはいわず、自殺行為です)
ドローゴは手柄を立てたくて、いつしか砂漠からタタール人が攻めてくることを期待
していますが、平和であることは実は喜ばしいことなのではないでしょうか?
現実として敵が攻めてこないことは国家にとって良いことではないでしょうか?


(つづきます)
482 ◆Fafd1c3Cuc :2006/11/26(日) 21:16:58

無論、士官学校を卒業して軍人を目指したからには大敵を前にして軍の指揮を執り、
華々しい戦死は名誉の死なのでしょうが、果たして彼の望む「戦」「戦死」は本当に
栄えある行為なのでしょうか?
世の多くの母親、妻、恋人ならこういうでしょう。
「軍の指揮や名誉の戦死よりも、生きて平凡かつ平和な人生を全うしてほしい」と。
繰り返し言います。人は生きたように死ぬものです。
彼の人生には大きな出来事は何ひとつ起らず、その死もまた凡庸なものでした。
砦勤務に生涯を捧げながらも誰からも評価されず、賞賛もされず、彼の死後同僚の
誰ひとりとして彼のことを思い出して悼むことはないでしょう。
あれほど膨大な時間を砦に捧げたのに、です。

人生の岐路に立ち向かったとき、人はどちらかを選択します。
選択するということは、もう一方の道を捨てるということです。
たいていの人は途中まで歩んできた時必ず選ばなかった生き方のほうに思いを
馳せるものです。あのとき、あちらの道を選んでいたら、と。
けれども、あのとき違う道を選んだ人もまた同じような思いにとらわれているのです。


(つづきます)
483 ◆Fafd1c3Cuc :2006/11/26(日) 21:17:51

ドローゴの人生はなるほど退屈で単調極まりないものでしたでしょう。
病気で退官せざるをえない日に戦が始まるも、自分は戦力から外されている。
そして、家庭を持つこともせず、孤独のうちに死を迎えます。

けれども見方を変えるならば、彼ほど恵まれ穏やかな人生を送ることができたのは
幸せだったのではないでしょうか? 皆が皆劇的な人生を送っているわけではない
のです。劇的な人生を送るのは選ばれたほんの一握りの人たちだけなのです。

士官でありながら、生涯負傷もせず従って不具者にもならず、平和な日々が過ぎて
いく、それは果たして嘆くべきことなのでしょうか? 
多くの若者が無辜の命を落とす戦が始まるまさにその日に退官できたのは幸運なの
ではないでしょうか? 
彼は死を前にして、これまでの不毛な人生を思い、初めて自ら人生に立ち向かおうと
します。なぜなら、いつか襲撃してくるタタール人という幻影ではなく、死は確実に
彼の目の前にやって来ているからでした。
――誰もお前に賛辞を捧げはしないだろうし、誰もお前を英雄とか、あるいはそれに
類した名で呼びはしないだろうが、しかし、だからこそ価値があるのだ――(p250)
彼はようやく最後に理不尽な人生と和解したのです。
それゆえ、「闇の中で誰ひとり見ている者もいないのにかすかに笑みを浮かべ」
たのでした。


(つづきます)
484 ◆Fafd1c3Cuc :2006/11/26(日) 21:18:54

誰もが人生の一歩を踏み出した時は、何かしらの期待をします。
成功して一目置かれることやわくわくすることが起るのではないか、と。
ところが実際は、単調に退屈に繰り返される凡庸な毎日です。
こんなはずじゃなかった、わたしが望み夢見ていたものはこんなものではない!
嘆き、もがき、悶々としながらも組織=砦に囚われた人間はそこから外に踏み出す
ことはできないのです。砦に囚われ砦を呪う人間は、実は自分が砦に守られている
事実にえてして気づかないものなのです。

波乱万丈な人生を送る人は凡庸な人生を送る人を羨み、凡庸な人生を送る人は
劇的な人生を送る人にあこがれます。
けれども、本当のところ人生はどちらに転んでも大差はないのです。
劇的であろうが凡庸であろうが、最後にはプラスマイナスゼロになるのですから。

万葉集には、無名の防人(さきもり)たちの歌があります。
彼らは自分の意志とは無関係に国を守るよう任務に遣わされました。
郷里を離れ、家族とも離れ国務に忠実に従った無名の彼らの歌はこころに沁みます。
彼らは名誉を望むことさえなく、黙々と任務を実直に遂行して人生を終えたのでした。

「国々の防人集ひ船乗りて 別るを見ればいともすべなし」 巻二十・4831
「防人に行くは誰が背と問ふ人を 見るが羨(とも)しさ物思ひもせず」 巻二十・4425


――それでは。
485(OTO):2006/12/01(金) 16:43:11
こっちはひさしぶりだなww

ふたりの対話を聴きながら、静かに眠りに落ちていくような、
ROMの快楽。

486(OTO):2006/12/01(金) 16:44:00
バタイユ「不可能なもの」生田耕作訳。

 諸存在の総括的動きを司る一種の痙攣を私は見晴かしている。それは死による消滅から
 おそらくは消滅の意味である肉感的熱狂へと向かっている。

 消滅を受け入れることによってしか私たちが到達しえない、かの〈不可能なもの〉
                                 ─新版への序

あいかわらずバタイユは、言語表現どころか生それ自体が達し得ない或るポイントを
見つめ続けている。死者の日記という体裁をとった第一部「鼠の話」は鼠の赤い尻尾を
ビジュアル的なシンボルとして、おなじみのアッパーでヒポコンデリックな主人公が、
ほとんど起こってもいない恋愛事件に関して、おのが熱狂を断片的になぐり書きしつづける。
彼が握りしめるペン、乱雑な筆致を感じる程の断片化と描写の欠如。

そして司祭の覚え書という体裁の第二部「ディアヌス」では、対照的に大仰な言い回しによって、
第一部の主人公の死、そして第二のヒロインが、そのあからさまな最終行に向かってのろのろと
描写されていく。そして第三部「オレスティア」アイスキュロスの三部作悲劇のタイトルを冠された、
幾つかの詩と詩論。ここに至りバタイユらしからぬ「まどろっこしさ」を感じるのは私だけだろうか?

 仏訳で、私は「大鴉」を読んだ。感染して私は立ち上がった。私は立ち上がった、そして
 紙を取り上げた。机にたどりついたときの熱に浮かされたような気ぜわしさを思い出す。
 そのくせ私は冷静だった。
 私は書いた。                            ─第三部

しかし一群の詩は、詩という形式に対するバタイユ自身の妙なこだわりのようなものを
感じさせるばかりである。バタイユのポエジー、それは雷鳴の響く夜中の癲狂院の鉄格子に
しがみつく全裸の少女であり、笑いながら尿をたれ流す泥酔した美女であったはずだ。
487(OTO):2006/12/01(金) 16:45:50
あとがきを読んだ私はこの本の初版、「詩への憎しみ」の構成(オレスティア→鼠の話→ディアヌス)
頭の中で組み立ててみた。まず読者はギリシャ悲劇のタイトルを持つ不穏な詩に眼を通していく。

 薄暗がりに餓えた心臓
 愛撫を出し惜しむ下腹
 偽りの太陽 偽りの眼
 疫病をくばる言葉                      ─オレスティア

そして詩論「オレステス存在」読者はここで「詩への憎しみ」というタイトルを理解する。

 私は詩に近づく。ただしそれにとらわれないために。

 詩はいうなれば未知なるもののちからを啓示する。しかしそれが欲望の対象でなければ、
 未知なるものは無意味な空っぽにすぎない。詩は媒概念であり、未知のものの中に既知のものを
 包み隠している。それは目をくらませる色彩と太陽の外見で飾られた未知なるものである。

 だが夜の中で欲望は偽る。そうすることで、夜はその対象として現れることをやめる。
 《夜の中で》私が送る生活は、愛する存在の死にさいしての恋人の生活、ヘルミオネの自殺を
 知ったオレステスの生活に似ている。夜という種別のうちにそれは《己が待ち望んでいたもの》
 を見わけることができない。                 ─「オレステス存在」文末

そして「鼠の話」が始まる。

 かつてない神経状態、名づけようのない苛立ち。これほどまでに恋いこがれるのは病気だ(そして私は病むのが好きだ)。
                                       ─「鼠の話」冒頭

私には「不可能なもの」よりも「詩への憎しみ」の構成の方が、ずっとバタイユらしいように思えた。
引用した詩論部分で、バタイユは端的にポエジーを「目をくらませる色彩と太陽の外見で飾られた未知なるもの」とし
、言語表現を常に逃れていく欲望の対象の所在を「夜」としている。
「太陽=昼」と「夜」の概念はブランショと共有していたかに見えるが、若干意味合いや、
それに対する姿勢において違いが感じられる。二人はペルノーでもあおりながら、そんな話をしていたのだろうか。
488(OTO):2006/12/01(金) 16:46:58
一方ブランショは詩を憎んではいないようだ。

 まちがいない。これもまた日の微笑みであり、そして、それによって日はいっそう美しくなっていく。
 この微笑みのうちでは、日を保護している皮膜が溶けはじめていくのであり、そしてこの溶解のうちに、
 私にいっそう近い光、よりいっそう人間的な光がしみこんでいくのだと言えるのかもしれない。
 たぶん死んでいくものはみな、たとえそれが日であったとしても、人間に近づいていくのであり、
 死ぬことの秘密を人間にたずねるのである。(234P)

ブランショ「私についてこなかった男」谷口博史訳
前スレ巻頭を飾った1冊を、私はやっと読み終わったというわけだ。

>静かな共感と親密な友情でもって≪書き手である私≫を見つめていてくれる「同伴者」。
>彼とともにあって初めて≪私≫は萎縮することなく、≪私≫独自の作品世界を構築できるのですね。
>作中の言葉を借りるならば、「夏の光」のなかの「自由な空間」で、「必ずやらねばならない」こと、
>「至高な出来事」はその瞬間にこそ可能となる。 (前スレC)

>同伴者が現れるのは書いている間だけです。
>しかしその同伴の仕方にはつかずはなれずといった微妙さがあります。
>書くことは、特に、書くことに自覚的に書くことは、
>私という存在を二重にするようなところがあるのでしょう。 (前スレS)

巻頭数ページで我々はこの「ふたり」が書く主体と行動する主体に分離した
一人の男・作家であると読みとるだろう。しかしこの作品を書き続ける「わたし」が
その存在する領域を徹底的に厳密化していく内に、ふたりの関係は思ったよりも
複雑であることに気づき始める。

 私はますます外部に触れつつあった。それと同時に、私が彼に触れることは少なくなっていた。
 私は部屋を見つめたが、それはかなり遠くに広がっているいるように思えた。
 私には部屋の境界がはっきりとは見えなかったのだ。むしろ私は空間を思い出していたのである。(42P)
489(OTO):2006/12/01(金) 16:48:19
書く主体、それは言語秩序の枠内でひたすら言葉を紡ぎ続けることによってしか、存在しえない。
「わたし」は「彼」としか話すことはできず、少しでも行動したり、感覚に気をとられ、
言語による思考がとぎれると、そこには「彼」しかいなくなってしまうというわけである。
「わたし」は「水が飲みたい」「ベッドに横になりたい」というところまでは考えられるのだが、
実際の冷たい水の旨さ、ベッドで身体を伸ばす爽快感をリアルタイムで受け取るのは
行動する主体=「彼」である。その感覚を反芻し、言表するのが「わたし」だとしても。
そしてついに、「わたし」は「彼」との境界そのもの、「わたし」のいない「彼」を目撃する。

 大きな窓の方を眺めると─窓は三枚あった─、向こうのほうに誰かが立っているのが見えた。
 私がその人に気づくと、ただちにその人はガラスのほうに向き直り、そして、私に目を止めることなく、
 激しく、部屋の広がりのすべてと奥行きを凝視した。(46P)

作家はおそらくその庭に出てみたのだろう。外の空気、風、踊る光と影、匂いにしばし
「言葉を失って」没頭し、そして振り返って部屋の中を眺めたのではあるまいか。
部屋に戻った作家に言語による思考が戻り、「わたし」は直前のふと言葉を失っていた「彼」が
部屋の中を見ていたことを想起する=見る。

これほどに厳密な、ふたりを隔てる「境界線」。
物語は書くことの限界を求めて「彼」に近づこうと「私」が考えたポイントで始まり、
ここにおいて「わたし」は「彼」をほとんど追いこそうとしている。

 すぐさま私ははっきりとこう感じた。私のすぐそば─この近さは常軌を逸していた、
 というのも私の手はほとんど動かなくても、それに触れることできたはずだから─、
 そのそばにある肘掛け椅子には誰かが座っている、と。(中略)
 私にはその形がじかに見えていたわけではない。というのも、その形は私よりも少しばかり
 後ろのほうにいたからである。(78P)

我々はあいかわらずブランショの叙述について、それが寓喩なのか、現実なのかと翻弄されているようだ。
それにしても私が彼に「近づく」とは、どういうことなのだろう?
490(OTO):2006/12/01(金) 17:56:29
 「この方向」が示していたのは、おそらく私にとっては、彼がいる方向のことだった。
 それは終わりなきものであり、そこでは瞬間の数々が私を不確定性と不毛性の地点まで連れもどすのだった。(104P)

常に言表は再認である。様々な感覚、経験、感情を言語表現の秩序にしたがって構築すること、
その構築自体、再構成と呼ばざるを得ない。つまり私が彼に近づき、追い越そうという「方向」とは、
言語秩序による再構成が、永遠に先送りされ続ける「現在」を追うということのように思われる。

中盤以降、込み入った思考の果てに「進むべき方向」だけははっきりした(?)「私」は、
もはや「彼」を置き去りにしたかのように独走を続ける。

 ひとが格闘するとすれば、それはある形の厳密さを維持し、日との接触を維持するため以外では
 ありえない。高いところへ向けて進むこと、低いところへ向けて進むこと、たとえそれが闇のなかで
 あったとしても可能なかぎり遠くへ進むこと、透明性のために戦うこと、やらねばならないこととは、
 これだったのだ。(108P)

 こうして私は、なぜ書くということがこのようなものであるのかを、いっそうよく理解するように
 なった。つまり、私はそれを理解していたのだ。言いかえるなら、書くという語句はまったく
 別のものになっていたのであり、私が以前に思っていたよりもはるかに多くのことを要求していたのだった。
 (中略)それは私にとっては何も可能では「いまこの時」に向けて呼びかけていたのであり、─
 それゆえに、私には、書くことはすなわち、私がこの時に向けて近づいていくことであらねばならないと
 思えたのである。(180P)

言語秩序にのっとった思考が現在「いまこの時」に近づくとは、いかなることだろうか?この感想文をいま
タイプしている私は、この文章を、思考し、頭のなかで文章に組み立てた上でタイプし、それを読み直し、
またタイプする、というのを繰り返している。これではかなり「いまこの時」には遠いはずだ。
ひょっとするとそれは「対話」に近いのではないだろうか?
491(OTO):2006/12/01(金) 17:57:23
 なにゆえに、書くかわりに話すのか?思考を直接的に巻き込んでしまうようにして話をするときに成就され
 あるいは取り逃されてしまうあの要請によって、何が思考に訪れるのか?
                       ─ブランショ「思考の賭け」現代思想1982特集=バタイユ

しかしそれでは「ある形の厳密さを維持」すること、「日」の明晰性・透明性を維持することなど
不可能に思われる。舞台は進行中の対話ではなく、それの記録でもなく、一個の思弁的テキストなのだ。

 言葉たちの現前にたいして誠実にふるまうこと。このとき誠実とは、言葉たちに法を与えないということであり、
 私自身この現前にたいして、それが法であるかのようには関わらないということであり─そして、たぶん
 言葉たちを尊重しないということなのである。(194P)

もはや我々はブランショの用意したひとつの思考迷路、その段々細くなっていく通路をただひたすら歩き続けるしか
なすすべもないようだ。

 たぶん私はすでに遠方を呼んでしまっていたのだ。たぶん遅すぎたのだ。こうした直感のようなものが
 私の時間を死んだ時間(タイムアウト)にしてしまい、その死んだ時間の中で、すでに起こってしまった何かと、
 無益にも私は格闘しているように思えていたのだが、それでもなお確実なことが私には残されていた。
 すなわち、私は屈したりしない、ということだ。

「現在」に近づこうとするその危険な思考の過程で、「時間の外」とでも言うべき不思議な時間が展開される。
終盤、ブランショらしからぬ異常な熱に満ちた数ページの後、私の思考は突然消え失せる。「日とともに」。
それはあたかも現在、「いまこの時」に向かってのばした思考の突端が、やっとその瞬間に触れたかのような、
そして触れた瞬間にその「日」の光とともに消え失せてしまったかのような印象を与える。
しかし、実のところ、一体何が思考されていたのか、を端的に言うことは私には不可能だ。
連綿と、そしてページを追うごとに加速するその思考は、「読んでいるその時」、その流れを追うことは
できても、それを再認し、私の言葉によって再構成することは不可能であるばかりか、
この本の趣旨に逆らうことでもあるのかも知れない。
492(OTO):2006/12/01(金) 17:57:59
何か言えることがあるとすれば、この本の2年後に出版された「文学空間」、そして部分引用した、
話者としてのバタイユを回想する「思考の賭け」を再読し、「日=昼」の範疇、そしてエクリチュールと
「対話」の差異について少し考えたいと思った、ということくらいであろうか。
「私についてこなかった男」本を閉じてタイトルを眺め、はたして自分はついていけただろうか?
などとぼんやりと思った。
493SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/12/04(月) 00:48:58
>>477-484
ブッツァーティの『タタール人の砂漠』についての
丁寧で豊かな感想を読ませてもらいました。
『タタール人の砂漠』はクッツェー『夷狄を待ちながら』によって
同じテーマで変奏されたと思うのですが、
この同じ砂漠を舞台にした2つの作品に
安部公房の『砂の女』を混ぜてみたくなったのは
下記のようなCucさんの感想を読んだからでした。

>身もこころも完全に砂漠に絡めとられた人間は
>もはやそこから逃れ出ることはできません。
>この小説はひとりの男の単調で退屈な凡庸な人生を
>寓意的に描いた物語なのですね。

人生とは砂漠であり、人は砂漠からの脱出を試みながらも
そこに囚われ、魅せられ、人はそれぞれの砂漠を生きていく。。。
『砂の女』では砂丘の村に調査でやってきた主人公が
アリ地獄のような穴の中に女といっしょにずるずると入り
そこからどうにも抜け出せなくなるというストーリーですが、
この作品からも「囚われ」という主題とともに
人生の寓意が読み取れます。
494SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/12/04(月) 00:49:47
>>488-492
ブランショ『私についてこなかった男」についての書き込み、
このやけに気合の入った言葉から放たれる熱に対して
すぐに応答する姿勢がとれなくなってしまったのは
《書くということ》を主題にしたこのレシの難解さであるよりも
そのレシを読み、それについて語ろうとするOTO氏の果敢な姿勢ゆえ。

「書くという語句はまったく別のものになっていた」と書くブランショ。
ブランショにとって「書くこと」は一体どういうものだったのだろうか、
という問いを前にして、
>もはや我々はブランショの用意したひとつの思考迷路、
>その段々細くなっていく通路をただひたすら歩き続けるしか
>なすすべもないようだ。
というその彷徨の足取りにかかる負荷には、無意識のうちにも、
「私が以前に思っていたよりもはるかに多くのことを要求していた」
というブランショがほのめかす要求が浸透しているのかもしれませんね。〆
495 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 00:33:52

☆☆お知らせ☆☆

このスレもまもなく500KBに達しようとしていますね。
次スレ立てました。

☆☆「読書交換日記 《3冊目》〜長文歓迎〜」☆☆
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1165671140/
496 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 18:23:59

SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>>493

>人生とは砂漠であり、人は砂漠からの脱出を試みながらも
>そこに囚われ、魅せられ、人はそれぞれの砂漠を生きていく。。。
安部公房の『砂の女』はずい分前に読んだのですが、今回指摘されるまでまったく
失念していました。。。
本当に設定がよく似ていますね! 鋭いご指摘です!
人は自分の意志とは無関係に与えられた境遇に最初の頃は不満いっぱいで
いつかここを脱出してやる、と思いつつも気がつくと今の境遇にすっかり馴らされ、
ある日この境遇に甘んじている自分を発見して愕然となります。
わたしはそれはさほど悪いことではないと思うのですね。
むしろ、人間の順応力に拍手をおくりたいとさえ思うのです。

「人間いたるところに青山あり」という言葉があります。
人間とは人生あるいはこの世の中を意味し、青山とは墓場のことですが、
意味するところは、人間、地球上のどこにあっても、人生をそれなりに全うできる、
ということです。
その人の人生が失敗であったか成功であったか、実は判定は誰も下せないの
ですね。


(つづきます)
497 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 18:24:46

世間一般から見たら成功であっても、内情は悲惨で敵の多い人生だったり。。。

「何がしあわせかわからないです。本当にどんなつらいことでも、それが正しい
道を進む中でのできごとなら、峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく
ひとあしずつですから」――『銀河鉄道の夜』宮沢賢治

生きることに貪欲であるのは悪いことではありませんが、得られない願望に
対してはあきらめることが時には必要です。
あきらめるということは執着から解き放たれること。
そのとき、人は初めて自由を手にするのかもしれません。。。
誰からも愛される人は、誰からも愛されていないように、
すべてを手に入れた人は、何も手に入れてない人。
わたしたちは人生に対して謙虚にならなければいけないのかもしれません……。
498 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 18:25:34

(OTO)さん

すばらしくちからのこもった感想、ありがとうございました!
渾身のレスですね! 緻密な思考とよく整理された文章、本当に素晴らしいです!
特にバタイユ「不可能なもの」の最後の詩論について詳しくまとめていただき、
感謝です。わたしは詩論については、どうにも書けなくて……。

>>486
>あいかわらずバタイユは、言語表現どころか生それ自体が達し得ない或るポイント
>を見つめ続けている。
そうですね。この本の題名が示す「不可能なもの」とはまさしく「語りえぬもの」ですね。
消滅すなわち死を受け入れて初めて到達できるもの、それは生=性であるのでね。
バタイユの作品には生、死、エロスが登場します。
今回は珍しく性に先立つ前提として愛が加わわっています。。
バタイユはこの作品で、とりわけ愛を「不可能なもの」としています。


(つづきます)
499 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 18:26:14

>幾つかの詩と詩論。ここに至りバタイユらしからぬ「まどろっこしさ」を感じるのは
>私だけだろうか?
確かにそういわれてみるといつものバタイユ調、つまり神聖なものを罵倒し、暴走
する勢いがここでは見られませんね。歯切れが悪い、思い切りの悪さのような
ものを感じます。何かに躊躇し踏み留まっている印象があります。
バタイユは詩を憎みはしても、あくまでも「憎しみ」の範囲内で留まれる度合いです。
神への冒涜、聖なるものへの侵犯の過剰さには及ばないということでしょうか。
なぜなら、神は生涯に亘って彼を捕らえて片時も離さなかったけれども、
詩はそうではないから。
神VS詩では、バタイユの情熱の傾斜の度合い、温度が異なるということでしょうか。
それが読むものに「まどろっこしさ」を感じさせるのかもしれません……。

>しかし一群の詩は、詩という形式に対するバタイユ自身の妙なこだわりのようなも
>のを感じさせるばかりである。
こだわる、ということは彼は「詩の形式」に劣等感を抱いていたことの表明でしょうか。


(つづきます)
500 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 18:26:48

わたしはこの作品に収められた詩よりも「太陽肛門」のほうがはるかに詩的で
美しいと思います。この作品に収められた詩は無理して詩的表現をしようとしている、
そんな印象を受けました。
「太陽肛門」は詩的表現にまったくこだわらないのに、結果として詩になっている。
独創的であり、簡潔な表現であり、読むものを異世界へと誘うちからを持っています。

>バタイユのポエジー、それは雷鳴の響く夜中の癲狂院の鉄格子にしがみつく
>全裸の少女であり、笑いながら尿をたれ流す泥酔した美女であったはずだ。
凄みのある美しい表現ですね! 圧倒されます……。

>>487
>詩はいうなれば未知なるもののちからを啓示する。しかしそれが欲望の対象で
>なければ、未知なるものは無意味な空っぽにすぎない。
未知なるもの=語りえぬことを、語りたいと欲望しなければ詩は生まれない。
欲望されないものをだらだらと書き連ねてもそれは詩ではない、ということですね?
これは詩のみに限らずあらゆる芸術表現にいえますね。
音楽、絵画、小説。これらを表現するには何をおいてもも先ず「欲望」されなければ
ならない。


(つづきます)
501 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 19:01:14

>引用した詩論部分で、バタイユは端的にポエジーを「目をくらませる色彩と太陽の
>外見で飾られた未知なるもの」とし、言語表現を常に逃れていく欲望の対象の所在
>を「夜」としている。
バタイユにとって詩とは欲望する対象の外観を鮮やかな色彩でとらえただけの
ものであり、その欲望が逃れていくところが「夜」。
つまり、夜においては言語表現は欲望されず、闇のなかでは本能が蠢き出し、
性が欲望される? 闇=死とするならば、死が欲望されるのはエロスのさなかに
おいてということでしょうか。

>「太陽=昼」と「夜」の概念はブランショと共有していたかに見えるが、若干意味合い
>や、それに対する姿勢において違いが感じられる。
バタイユが「真夜中もまた正午である」というニーチェの承継者であるならば、
本来、詩(=言語表現)は昼夜の境なく欲望されなければならないはずなのに、
ここでは、夜は言語表現を常に逃れていく欲望の対象の所在としてとらえています。
ブランショにあっては、彼は詩を憎みもしなければ、夜であっても言語表現は欲望され
るのです。彼は日の微笑みを愛し、夜の闇を安息の時として受け入れるのです。


(つづきます)
502 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 19:03:28

>>489
>書く主体、それは言語秩序の枠内でひたすら言葉を紡ぎ続けることによってしか、
>存在しえない。
>「わたし」は「彼」としか話すことはできず、少しでも行動したり、感覚に気をとられ、
>言語による思考がとぎれると、そこには「彼」しかいなくなってしまうというわけで
>ある。
ここを読んで「謎の男トマ」の一節が脳裏をよぎりました。
「我思う ゆえに我なし」。
思考するのは「彼」であり、言葉を紡いで書くのは「わたし」。「彼」は考えたり感じたり
はできても、実体を持たない。すなわち、「書く」ことができない。
一方「わたし」には実体はあるけれども、「彼」のように思考しアドバイスすることは
できない。できるのは「書く」ことだけ。
「彼」がいなくなったしまったら、「わたし」は書きつづけることができない。
「書く」という行為は、それに先立って思考する「彼」がいることが大前提であり、
「わたし」は書くための道具、いわば「彼」の傀儡にすぎない。
そして、「わたし」と「彼」のどちらかがいなくなってしまえば書く行為は不可能になる。


(つづきます)
503 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 19:04:59

>>490
>それにしても私が彼に「近づく」とは、どういうことなのだろう?
>常に言表は再認である。様々な感覚、経験、感情を言語表現の秩序にしたがって
>構築すること、
ああ、なるほど! 毎度ながら実に鋭い指摘ですね!
わたしが書くことを欲望するとき、つねに先立つ感覚、経験、感情があり、
そうしたものを再構築し、再認しながら書くのですね?
このレシにあてはめてみるならば、書くのは作家である「わたし」、
そして、感覚、経験、感情を体験し、思考するのが「彼」ということでしょうか。

う〜ん、ここで疑問が。「彼」が「わたし」より先立つ存在ならば、なぜ「彼」は
「わたし」よりつねに一歩遅れるのか?
「わたし」は次に書くことを知っているのに、なぜ「彼」は書かれるまで知らないのか?
――これから何が起こるか、私は知っています。(略) あなたにこれから描写して
あげることにします――(p75)

思うに「彼」とは、「わたし」に先立って感覚、経験、感情を体験する人。
そして、「わたし」が書いたものを一歩遅れて後から読む人。
つまり、未来と過去が「彼」の時間割であり、今書いているのが「わたし」の時間割。


(つづきます)
504 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 19:06:25

>中盤以降、込み入った思考の果てに「進むべき方向」だけははっきりした(?)
>「私」はもはや「彼」を置き去りにしたかのように独走を続ける。
そうですね。「わたし」は「彼」なしでも書けるんだ! 必死になって訴えてでも
いるかのような暴走。。。
「彼」は感覚、思考、感情を先んじることはできても、「わたし」はそれらすべて書く
わけではありません。「彼」の思考を取捨選択するのは「わたし」なのです。
「彼」は忠告はしても命令することができない。書くことができるのは「わたし」だから。

>>491
>連綿と、そしてページを追うごとに加速するその思考は、「読んでいるその時」、
>その流れを追うことはできても、それを再認し、私の言葉によって再構成することは
>不可能である
同意です。
自分以外の人が書いた文章を再認し、自身の言葉で再構築する行為とは、
結局は読み手であるわたしの一方的な思い込みや誤読に過ぎないものかもしれず、
また、再構築された言葉とは自分の世界でしか通じないものなのかもしれません。
なぜなら、作家がとらえた世界・それを構築した言葉と、それを読んでわたしが感じ、
とらえた世界とでは当然ながら差異が生じるからです。


以下、わたしの『不可能なもの』の感想です。
505 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 19:07:03

バタイユ『不可能なもの』読了しました。
今までのバタイユとは異なり、感想をまとめるのが大変でした。。。

【第一部 鼠の話】
ひとりの男「私」と、ひとりの修道士A、そしてひとりの女Bの三人の物語。
これは男女の愛の不可能性を描いた作品です。
このレシは思想小説(哲学小説と呼びたくないので…)であり、どこかブランショ
を意識させるものがあります。

物語を読み進めていくと、Bは私の情婦であり同時にAの愛人です。
そして私がBに惹かれているのは、彼女と私の前にある、虚空にも似た深淵な
≪不可能なもの≫ゆえ。つまり、さまざまな障害、死の脅威、苦悶に悩まされた
い欲望、などなど、願わしくないものが≪不可能なもの≫なのですね。
私とBの交際を反対するBの父親の存在ゆえに私のこころは燃え立つのです
が、実は私が愛していたのはBではなく、苦悩であると最後に知るのです。

――実際のところ、この芝居気たっぷりな男はBのことなど気にかけては
いなかったのだ。彼女を愛していたとさえ正確には言いきれない。
彼が自分で口にしていた愛はそこから引き出せる苦悩以外に意味を
持たなかった。彼が愛していたもの、それは暗闇だったのだ――(p81−82)


(つづきます)
506 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 19:38:51

「私」は芝居気が多い食わせ者の男で、なかなかの思索家でもあります。
男女間の愛の根底にあるのは苦悩であり、その苦悩ゆえに惹かれあうことは
認めます。
けれども、最初からその苦悩を欲し、進んで享受する人間はどれだけ
いるのでしょう。
たとえば「私」が苦悩を愛するのは苦悩=歓喜であるからだ、と主張します。
なるほど、苦悩がそのまま歓喜の意味を持つのであれば、誰もが苦悩を愛し、
欲するでしょう。けれども実際のところ、苦悩をこころから欲する人は存在する
のでしょうか? かなりのマゾヒストを除いて皆無に近いのではないでしょうか? 
信仰は苦悩ゆえに篤くなりますが、あのイエスでさえ、苦悩に満ちたこの世を
耐えよ、受け容れよ、とは説いても「苦悩を望みなさい、艱難を愛しなさい」と
までは言及しませんでした。

人が神を求め信仰にすがるのは、苦悩から解放されたい、
平穏無事で過ごしたい、日々の生活苦から逃れたい、たいていは
このような理由からでしょう。つまり、大多数の人間は願わしくないものを
忌避するのです。ところが、この小説の私は苦悩を自ら欲する人間なのです。


(つづきます)
507 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 19:39:35

――Bの裸体よ、そちたちは私を苦悩から解放してくれるのか?
私にさらに「苦悩を与えよ」……――(p49)
――己の気違いじみた苦悩について考えるとき、不安におののき、(中略)
飢えと寒さに震えることを「渇望した」私の祖先である百姓たちの戦慄が
ありありと目に浮かぶ。どれほど彼らは息苦しい思いを味わうことを、
不安に打ち震える頑丈な悦びを「願った」ことか――(p53-54)

「私」が苦悩を願望するのは、私のなかに流れる祖先と同じ血のせいだと
主張とますが、通常のまともな神経の持ち主なら決して持ち得ない願望です。

バタイユの傾倒したニーチェによれば、真夜中=正午であり、相反するふたつ
のものは等号で結ばれます。
つまり、この作品でいうならば苦悩=悦楽・歓喜ということですね。
ならば、≪不可能なもの≫=≪可能なもの≫という解釈になります。

私とBを隔てている≪不可能なもの≫=深淵とは、裏を返せば私とBを結ぶ
揺るぎない絆であり、深淵(苦悩)ゆえに私とBはより深く結びつけられて
いるということになります。なぜなら私にとって苦悩とはすなわち歓喜に他なら
ないのですから。
物語はいたって単純で、私とBの交際に反対していた父があっけなく死んだ
ところで話しはいきなり収束に向います。
そして、私はその瞬間、今まで芝居をしていたことに気づくのです。


(つづきます)
508 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 19:40:04

――いままで私は自分の芝居をこれほどはっきりと自覚したことはなかった。
今の境地まで、次のように名乗れるくらい演技が完璧で真に迫った境地まで
到達するために私が示した好奇心。「わたしは芝居である」――(p157)

女が不在のため懊悩した夜も、死ぬほどの狂気も、すべては芝居である、と。
つまりは、「私」は女を愛するふりをしていた、ということですね。
慟哭の涙や、死ぬの生きるのと喚いた熱病の陰で哄笑していたのです。
読者は拍子抜けし、怒りさえ覚えます。最後に彼は、嘯く(うそぶく)のです。。。
――私の在り方が神の永遠の不在のなかで、宇宙全体を越えるとしても、
もはや私にとってはどうでもいいことだ……。――(p156)

ニーチェが超・イエス、超・神を試みて新約聖書の全編パロディーともいえる
「ツァラトゥストラ」を著したように、バタイユも超・イエスを意識して、愛の
不可能性を彼なりの思想、「苦悩を愛せよ、苦悩は歓喜である」を作品で
提示したかったようですが、最後は「芝居」に逃げてしまい、上手く活かせな
かった印象があります。


(つづきます)
509 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 19:41:47

【第二部 ディアヌス】
ここでの語り手は神父です。前章のAに該当する人物です。
神父の友人Dが死に、彼の恋人Eも悲しみのあまり自殺しそうなところから
物語は始まります。神父はかつて兄の死を経験しました。
この章でのテーマは「死」です。
「死」とは、「甘美な苦悩」、「恐怖につきまとう陶酔」、ここでも相反するもの
が結ばれます。
死の恐怖を取り除く鍵は苦悩を帯びたエロティシズムであるとバタイユは
提言します。そして、このエロティシズムこそがあらゆる苦悩の扉を解放し、
歓喜へ導くものであると。
E(Dの恋人)は死者Dが眠る隣の部屋で、神父である私に性交渉を迫ります。
この辺は「C神父」「死者」と同じ流れですね。
バタイユにとってエロスはつねに死と隣り合わせでなければならない。

――死と手を握り合った共犯の親密の瞬間。深淵の際での軽薄の瞬間。
希望も抜け道もない瞬間――(p191)
つまり、死とエロスは忍び笑いをしながら互いに手を組んでおり、両者が一体化
したとき初めて最初で最期の恍惚の瞬間が訪れるのです。


(つづきます)
510 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 19:42:44

ところで、神父は苦悩にさいなまれつつ森へ出かけて行き、そこで一羽の
小鳥を見出します。派手な羽毛で飾られた、すばらしい鳴き声の小鳥を。
そして再び、神父は不可能な光の中にひたったまま、家路を辿るのでした。
何ゆえに小鳥なのでしょうか? この小鳥は何を意味するのでしょう?
死という静寂とモノクロームの世界が、鮮やかな羽毛の色と響き渡る囀りの
小鳥の出現でいきなりカラーになったかのようです。
小鳥とは生きているものたちの世界、躍動し、鮮やかな色彩を纏うものたちの
世界なのですね。
鮮やかな生の世界においては、死の色は薄れ、当然エロスも希薄になります。
そこでなされるエロスとは「健全」なありきたりなものにしかならない。
すなわち、快楽云々よりも生殖のための実質的なもの。
暗闇を愛する神父は太陽の下で躍動する小鳥を見て思ったことでしょう。
自分の住む世界とは何て異なっているのだろう!
陰りのない囀り、生き生きした羽音、まるで別世界の生きものだ、と。

――最高の幸福はそれが永続することを私が疑う瞬間にしか可能では
ない――(p214)
神父は今や、こうした懐疑の境地でしか幸福を享受できないのです……。


(つづきます)
511 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 20:09:41

【第三部 オレスティア】
自作の詩と詩論。
――人間であることは法則の前に屈しないこと。
真の詩は法則の外にある――(p269)

これまで多くの詩人たちにとってそうであったように、バタイユにとっても
詩とは反逆であります。
バタイユは、神、愛、詩、すべてに対して反逆します。
ものごとを肯定することと、否定することではいったいどちらが楽なので
しょうね?
否定するには膨大なエネルギーが要りますが、肯定しつづけることもまた
同じくらいのエネルギーを必要とするのですね。
たとえば教会は神の存在を強制的に肯定しようとすれば、反撃に遭います。
また、神の存在を否定しようと反逆を試みても反撃に遭います。
肯定も否定も強制的にするのではなく、あくまでも当人の自由意志で
ひっそりとすればいいと思うのですが、どうも人間は自分の意見を周囲に啓蒙
したがる傾向があります。自分を取り巻く周囲の世界と繋がっていたいから。
周囲と断絶したければ狂人になるしかないのですね。。。

――私はただし己れの内部で狂人になった。私は夜を体験したのだ――(p280)


――それでは。
512 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 20:10:21

交換日記2冊目のこのスレもいよいよ満容量に達し、終わろうとしています。
SXYさん、OTOさん、今回も選りすぐりの幅広い本の紹介、
ありがとうございます。
おふたりの深い知識と幅広く膨大な読書量に毎回目を見張ることしばしば。
大変な感銘を受けました。
また、このスレをずっと見守りROMされている皆さま、あたたかいエールを
ほんとうにありがとうございました。
たとえカキコされなくても、皆さまのまなざしはここを開くたびにいつも感じて
おりました。こころから感謝しています。

世界にはたくさんの未読の書物があふれており、ひとりの人間が死ぬまで
読む本の量はごくごく限られたものです。
平日の夜眠る間際にわずかな数ページ、あるいは週末、時間を気にすること
なく一気に読みふける、どちらもわたしにとっては至福の時間です。
513 ◆Fafd1c3Cuc :2006/12/10(日) 20:11:19

「人生とは旅であり、旅は人生である」――中田英寿引退の言葉・冒頭より

なぜ、人は本を読むのでしょう?
わたしにとって読書とは異界に旅をすることであります。
子供の頃の絵本から始まり、童話、児童文学、そして成長するに従い
少女小説、青春小説へ。そして、思春期に差しかかったあたりから大人の文学へ。

わたしたちは誰か他の人の人生を生きることはできません。
どんなに他人の人生を羨んでも、自分の人生を生きるしかありません。
本のなかの人物たちは、わたしが生きられなかった別の人生を生きています。
わたしたちは読むことで彼らの人生を追体験するのです。
涙、笑い、怒り、さまざまな感情のうねりとともに。
そして、感想を書くことで本に描かれた世界に今度はより濃厚に再び旅する
ことができるのですね。

ありがとうございました。皆さま、新スレでまたお逢いしましょう。
     ――スレ主こと ◆Fafd1c3Cuc
514 ◆Fafd1c3Cuc

以下、美智子皇后様が子供時代の読書の思い出を語られた『虹を架ける』の
抜粋です。

――だ小さな子供であった時に一匹のでんでん虫の話を聞かせてもらったことが
ありました。不確かな記憶ですので今恐らくはそのお話の元はこれではないかと
思われる新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」にそってお話いたします。

でんでん虫はある日突然自分の背中の殻に悲しみが一杯つまっていることに
気付き友達を訪ねもう生きていけないのではないかと自分の背負っている不幸を
話します。友達のでんでん虫はそれはあなただけではない、私の背中の殻にも
悲しみは一杯つまっていると答えます。
小さなでんでん虫は別の友達、又別の友達と訪ねて行き同じことを話すのですが、
どの友達からも返って来る答は同じでした。そして、でんでん虫はやっと悲しみは
誰でも持っているのだということに気付きます。
自分だけではないのだ。私は私の悲しみをこらえていかなければならない。

この話はこのでんでん虫がもうなげくのをやめたところで終っています。
あの頃私は幾つくらいだったのでしょう。母や母の父である祖父、叔父や叔母たち
が本を読んだりお話をしてくれたのは私が小学校の2年くらいまででしたから、
4歳から7歳くらいまでの間であったと思います。
その頃私はまだ大きな悲しみというものを知りませんでした。


(つづきます)