1 :
。゚・(ノД`)人(´Д`)人(Д` )・゚。 :
04/03/26 14:02 ID:HUa6tZKD
■1.刑務所の歌姫■ 「皆さん、やっと来ましたのよぉ」 フィリピン・マニラ郊外のモンテンルパ刑務所に、渡辺はま 子の大きな声が響いた。死刑囚の独房の奥のステージは花で飾 られ、「歓迎 渡辺はま子様」と横断幕が掲げられている。 聴衆は戦争犯罪人とされた百数十名の元日本兵たち。昭和2 7年12月24日の事である。12月とは言え、40度を超す 酷暑をものともせず、はま子は振り袖を着て、「荒城の月」や 「浜辺の歌」を歌い続けた。長い間、日本の女性の着物姿など 見たことのない元兵士たちへの心尽しだった。 やがて「あゝモンテンルパの夜は更けて」を歌う時となった。 ここの死刑囚たちが作詞作曲した歌である。「どうすれば泣か ずに歌えるのか」と胸をいっぱいにしながら、はま子は歌い始 めた。聴衆の中から、すすり泣きが聞こえ始めた。この歌が後 に、これらの人々を救い出すことになる。 会が終わりに近づくと、傍らに立っていた元駐日大使デュラ ン議員が、禁じられていた「君が代」をお歌いなさい、と言っ た。「私が責任を持ちます。」 一同起立して祖国の方に向か って歌い始めたが、ある者は泣いて声が出ず、またある者は途 中で座り込んでしまった。 >禁じられていた「君が代」をお歌いなさい、と言っ >た。「私が責任を持ちます。」 一同起立して祖国の方に向か >って歌い始めたが、ある者は泣いて声が出ず、またある者は途 >中で座り込んでしまった。
216 名前:名無しさん@4周年[sage] 投稿日:04/01/28 20:33 ID:8S50Do3g 地元の人はそのままにしてあげて、と言うらしいな うちのじいちゃんは戦争に行って生きて帰ってきたけど 死んだら靖国へ!と生死のギリギリのところでもそう念じていたらしい もちろん生きて帰れるなら家族の下へ、と思うらしんだけど 一蓮托生生死を共にした仲間と死んで会えるのは約束の地、靖国 なんだそうだ・・・でうちのじいちゃんの老衰86でなくなったんだけど 火葬時、死ぬ間際までよく被っていた海軍帽を棺に入れてあげました 本当は形見で取って置きたいと親戚のおじさん(じいちゃんの長男)が 言ったんだけど、ばあちゃんが 「あの世で戦友さんと顔をあわせるとき被ってないとわからんじゃろ? うちのとーちゃん皺くちゃんおじいさんだもん」と言って結局一緒に火葬した
ぼちぼち貼っていきます。。。。。まずは即死ルール回避を目標で。。。
『日の丸ー。最高だ。こんなに美しい国旗、他にないよ。 どんなに苦しくても、膝が痛くても、日の丸をつけていると思うと頑張れる。 本当に不思議。これまで何度もそんなことがあったね。 ユニフォームの日の丸。スタンドで揺れる日の丸。日の丸が目にはいると、 こんなところで諦めていいのかって、また闘志が湧いてくるんだ。 日の丸をつけて、君が代を聞く。最高だ。武者震いがするもの。体中にパワーが みなぎってくる。でも、日本の選手の中にはそうじゃないヤツもいる。不思議でしょうがないよ。 日の丸をつけるって、国を代表するってことだよ。選ばれた選手にしか与えられ ないものじゃない。国を代表して戦うって、スゴイことなんだよ。それを忘れて いるんじゃないかって思う。 ワールドカップを見てみろよ。みんなあんなに必死になって戦うのは、国の代表 だからだろ。国を愛し、家族を愛し、仲間を愛しているからだろ。日本はそこん とこから外国に負けている。自分のためだって? そんなの当たり前じゃない。じゃあなぜ、もっと大きいものを背負わないの? オレ、日の丸背負ってなかったら、あんなに頑張れなかったよ。ドーハの時、 オレは38歳。あのクソ暑い中で、そんなオジサンが全試合、それもほとんど フル出場。練習だって若いヤツらと同じメニューをこなしてたんだ。自分のため だけだったら、とっくに辞めてたよ。』 サッカー元日本代表・ラモス瑠偉
Medal of Honorより抜粋 イタリア戦線の日系人部隊 ……不眠不休の戦いが四日続いた。辺りには仲間の死体と半壊した敵戦車が累々と横たわり、地獄の様相を呈していた。だが戦いは終わらない。 ドイツ軍は尚も戦車を前面に100大隊へと肉薄してくる。 さらに四日が経過した。誰もが体力の限界を越えていた。疲労の極地に達し、眠りに落ちるように倒れたまま二度と起き上がらない者、飢えと渇き で幻覚を視る者、手足を失い吹雪の中で死んでいく者……。誰が生き残っているのかすら分からなかった。 だが八日目の陽が昇る頃、遂にドイツ軍は根をあげた。100大隊は戦いに勝利し、テキサス大隊は救出されたのだ。 救出されたテキサス大隊は100大隊に感謝の言葉を述べた。 「ありがとう!本当にありがとう!フランスの山奥で、まさかジャップに助けられるとは思わなかったよ!」 その言葉を聞いたニセイ達は烈火の如く怒り、彼等の胸倉を掴んでこう言ったという。 「俺達をジャップと呼ぶな!俺達はアメリカ人だ!お前と同じ、アメリカ人なんだっ!」 テキサス大隊は日系兵士達の悲惨な境遇を知らされ、いかに自分達の言葉が日系兵士を傷付けたかを思い知った。 犠牲になった日系兵士の為に皆が泣いた。テキサス大隊の者達は手厚く犠牲者を葬り、100大隊の献身と勇気を生涯忘れないと心に誓った。 ……200名のテキサス大隊を助けるために、100大隊は800名を失っていた。
1945年4月5日。442連隊はゴシックラインに向けて総攻撃を敢行した。丘陵に陣取るドイツ軍に向かって砲兵部隊が10分間の 全力射撃を行った後、歩兵部隊が肉薄するという戦法が取られた。 砲撃によって穴だらけとなった斜面を進むサダオ達。対するドイツ軍は各所に据えた機関銃陣地から激しい銃撃を浴びせて きた。たちまちサダオの前を進む分隊長が撃たれ、周囲の味方は次々と数を減らしていった。 「分隊長がやられた!代わりに俺が指揮を執る!」 二等兵であるサダオに指揮権は無いが、サダオの言葉に異を唱える者などいない。周囲の味方は一斉にサダオの指揮下に 入り、敵の銃撃をかわしながら先へ進んだ。 サダオは分隊を率いて巧みに敵へと肉薄。砲弾で出来た穴に分隊員を隠したサダオは、目前の機関銃陣地を指差し「俺が 潰して来る!」自動小銃を片手にたった一人で突撃した。 味方から悲鳴が上がり、たちまちサダオに銃弾が撃ち込まれた。だがその銃弾の一発もサダオに当たらない。 サダオは自動小銃を乱射し敵二名に重傷を負わせ、三名を射殺した。この機会を見逃す442連隊ではない。たちまち後続の 味方が前進を開始し、敵の防衛線の一角を切り崩し始めた。
「やった!やったぞ!」穴へ駆け戻るサダオに向けて仲間から惜しみない賞賛の言葉が投げかけられる。分隊員達はサダオの奮戦に 大いに勇気付けられ、穴から出て進撃を再開しようとした。だが次の瞬間……。 ゴン、という音と共にサダオのヘルメットに何かが当たった。その何かは穴の中へ転がっていき、シュウシュウと音を立てた。 「手榴弾だ!」誰かが恐慌に満ちた悲鳴を上げた。 穴の底にドイツ軍の柄付き手榴弾が転がっていた。この手榴弾が狭い穴の中で炸裂すれば、分隊員全員が死ぬだろう。慌てて 穴の名から飛び出ていく分隊員達だったが、二名ほど逃げ遅れていた。穴の淵で手榴弾を見つめるサダオ。その目に仲間と手榴弾が映る。 迷いは無い。サダオは穴の中に身を躍らせた。そして肩と頭で抱え込むようにして、手榴弾の上にその身を覆い被せた。 仲間の目が驚愕に歪み――。 直後、サダオの身体の下で、手榴弾が炸裂した。 「サダオー!」穴の中に残っていた二名はサダオに駆け寄った。二名に怪我は無い。手榴弾の爆風も破片も、全てサダオの身体が 吸収したのだ。異変に気付いた周囲の味方が駆け寄り、誰もが驚愕の悲鳴を上げた。
「じょ、冗談だろう!?ここまで、ここまで来たんじゃないか!それなのに、お前がこんな所で」サダオは何も答えない。 仲間に被害が及ばないようにしっかりと手榴弾を抱え込んでいたサダオの身体は、ぼろ切れのようになっていた。衛生兵に診せるまでもない。即死だった。 「そんな馬鹿な……」仲間を率いて勇猛果敢に戦っていたサダオが、一瞬のうちに命を落とした。誰もが信じられなかった。やがて恐慌が過ぎ去ると、 皆が涙を流してサダオの事を想った。「あのサダオが……」皆にとって、サダオは心の支えであり、尊敬すべき戦士であり、何者にも変え難い友だった。 そのサダオが死んだ。誰も現実を受け入れられなかった。 呆然とサダオの遺体を見下ろす仲間達。そんな彼らに向かって後続のニセイ達が声をかける。 「まだ戦闘は終わってないぞ!サダオの死を無駄にするつもりか!」 ハッと、弾かれた様に彼等は顔を上げた。そうだ。こんな所で立ち止まっていてどうする?ここで戦うのを止めたら、仲間を守って死んだサダオに何と 言えばいいのだ。 誰かが叫んだ。「サダオがやられた!代わりに俺が指揮を執る!」ニセイ達は凄まじい勢いで進撃を再開し――。 連合軍が五ヵ月かかって撃破できなかったゴシックラインを、442連隊は32分で攻略した。
サダオの死は部隊全員に伝えられ、その戦いぶりと最後の瞬間は涙と共に語られた。ゴシックライン攻略と共に解放された地元の住民は、 サダオの為に彼の銅像を建立する事を決めた。 やがて彼の死は作戦の立案者であるアイゼンハワーの耳にも届いた。この時点でサダオの死は442連隊のみならず、かつて救出された テキサス大隊や、サダオと行動を共にした友軍の耳にも伝わっており、誰もが深い哀悼の意をサダオに示していたのである。 この勇者の死に対して、アイゼンハワーと合衆国議会は一つの答えを示した。「サダオ・ムネモリに対して合衆国最高の勲章である 議会名誉勲章を授け、彼の功績を永久に讃える」というものである。 一回の作戦につき師団の中から一人にのみ贈られる最高の勲章。弾圧の中にある日系人に対して、それが贈られる事になるとは 誰一人として想像すら出来なかった。 サダオ・ムネモリは自らの勇気と献身によって議会名誉勲章を手にした。その瞬間、日系人と白人の間に垣根は無かった。サダオは 一人の「アメリカ人」として最高の賞を手に入れたのだ。 サダオの死から一ヵ月後の1945年5月7日。ドイツは連合国に無条件降伏し、戦争は終わった。
《Go For Broke》 戦後、日系人達の新たな戦いが始まった。失われた名誉を取り戻すための戦いだ。442連隊に所属した兵士達は故郷に戻り、苦しい生活を送りながらも、 皆の為に地位向上に励んだ。戦場で培った忍耐と努力を武器にアメリカ社会に挑んだ日系人達は、互いに支えあい、貧困と屈辱を跳ね返していった。やがて 彼等の子供達、日系三世が社会に出る頃には、日系人達の地位は完全に元の状態に戻っていたのである。 442連隊に所属した者達はこう言う。「ニセイという言葉は我々に誇りを与えてくれた。すなわち、我々はアメリカの地で産まれたアメリカ人なんだという誇りだ」 2000年6月。442連隊の兵士達19名に議会名誉勲章が贈られた。かつて議会名誉勲章に匹敵する功績をあげていながら、時代の流れの為に受賞を逃した 為である。これだけ多くの者が一度に議会名誉勲章を授けられた事は無かった。アメリカ建国以来、初めての大規模な授与式がホワイトハウスにて執り行われた。 60年の時を経て、サダオとその仲間達は議会名誉勲章を通じて再び結ばれた。差別に勝利し、真のアメリカ人となり、最高の栄誉を手にしたニセイ達は、 今日も変わらず「Go For Broke - 打ち砕け!」の精神と共に生きている。
14 :
陸奥 ◆Mutsu.Oznc :04/03/26 18:37 ID:vooB1dzV
>>1 乙!
極東板に来たのはこのスレがきっかけだったな。
良スレ復活age
15 :
日出づる処の名無し :04/03/26 19:03 ID:Ujsa0T71
陸軍衛生伍長 伊藤 甲子美命 二十六歳 マリアナ島にて戦死 季代子 かう呼びかけるのも最後になりました。短かつたけど優しい妻でした。 有り難く御礼申し上げます。 まこと奇しき縁でしたけど、初めて幸福が訪れた様な気がして嬉しく思つていました。 折角永遠の誓ひを致しながら最後になりますのは、何かしら心残りですけど、 陛下の御盾として果てる事は、私にとりましても光栄と存じます。 短い生活で、もう未亡人と呼ばれる身を偲ぶとき、申し訳なく死に切れない苦しみが致しますが、 すでに覚悟しての事、運命として諦めて頂きたいと思ひます。 若い身空で未亡人として果てる事は、決して幸福ではありませんから佳き同伴者を求めて下さい。 私は唯、幸福な生活をして頂きますれば、どんな方法を選ばれませうとも決して悲しみません。 さやうなら季代子、何一つの取り柄のない夫を持つて、さぞ肩身の狭き思ひで有りませう。 至らない身、お詫びを致します。 何日の日か幸福な妻にさして上げたく思ひ乍ら、その機会もなく心残りでなりません。 どうぞ御健やかに御暮らし下さいます様、お祈り致しています。さやうなら。 昭和十九年五月三日 伊藤 甲子美 季代子様
硫黄島探訪より抜粋 戦後、戦争といえば飢えや空襲など、戦場よりも後方の庶民の悲惨さを強調 する語られ方が一般化しました。(庶民の生活の場がそのまま戦場になった 沖縄戦は別ですが。)そのため硫黄島の攻防戦は東京大空襲などのかげに 隠れています。しかし、硫黄島の日本兵たちが、勝つどころか、生還の望みも ない戦いを最期まで続けたことをもう一度見直してもよいと思います。そして その戦いは、火山ガスと地熱のこもる地下陣地で、食料も水も不十分な状態で 1ヶ月以上にわたるという史上まれにみるものだったのです。彼らをここまで戦 わせたのは「生きて虜囚の辱めを受けず」という東條英機の訓示(「戦陣訓」)だった のでしょうか。私は違うと考えます。硫黄島の日本兵は、自分たちの抵抗が少しでも 本土空襲を妨害し、本土決戦を遅らせることになると信じていたからこそ、あれだけ 苦しい戦いを続けられたのだと思います。少なくとも、アメリカが本土空襲の支援基地 として硫黄島を使うことを1ヶ月近く遅らせたことは確かです。これがもっと早く実現 していれば、東京大空襲などの首都圏への空襲はより激烈に行われ、より多くの 犠牲者を出したでしょう。ですから硫黄島の日本兵は自分たちの生命と引き替えに、 多くの日本国民を空襲から救ったのだと私は信じています。また、栗林中将の判断で、 小笠原・硫黄島の住民が早いうちに、しかも十分な護衛付きで本土に疎開できたこと により、島民が戦禍に巻き込まれることを最小限に抑えられたことも知っておいて 欲しいと思います。(旧硫黄島島民が戦後、帰住を認められていないという問題は ありますが、これはGHQと日本政府の判断によるものであり、栗林兵団の責任では ありません。)ですから、こうした守備兵たちの勇戦を後世に語り伝えることは、 戦争美化や軍国主義とは別の次元のものだと思います。
平成6年小笠原諸島復帰25周年の折に天皇御製のお歌 精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき 慰霊地は今安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲りけむ
<硫黄島玉砕>:栗林中将の訣別電 戦局遂に最期の関頭に直面せり、十七日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち皇国の必勝と 安泰を念願しつつ全員壮烈なる攻撃を敢行する。敵来攻以来、想像に余る物量的優勢を もって陸海空より将兵の勇戦は真に鬼神をも哭かしむるものがあり。 しかれども執拗なる敵の猛攻に将兵相次いで倒れ、ためにご期待に反しこの要地を敵手に 委ねるやむなきに至れるは、誠に恐懼に堪えず幾重にもお詫び申しあぐ。 今や弾丸尽き水枯れ、戦い残るもの全員いよいよ最後の敢闘を行わんとするにあたり、 つくづく皇恩の忝さを思い粉骨砕身また悔ゆるところにあらず。 ここに将兵とともに謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ、永久のお別れを申しあぐ。 防備上に問題があるとすれば、それは米国との物量の絶対的な差で、結局、戦術も対策も 施す余地なかりしことなり。 なお、父島、母島等に就いては同地麾下将兵如何なる敵の攻撃をも断固破砕しうるを確信 するも何卒よろしくお願い申し上げます。終わりに駄作を御笑覧に供す。なにとぞ玉斧をこう。 国のために重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき 仇討たで野辺に朽ちじ吾は又 七たび生まれて矛を報らむぞ 醜草の島にはびこるその時の 国の行く手一途に思う
ガイシュツOKってことなので、某所より「ひうらさんの思い出」を引用します。 大正の末か昭和の初め、蟹工船に乗り込んで北洋漁業に従事していた、 ひうらさんは、突然旧ソ連の警備船艇に拿捕され、乗組員一同、ウラジオストックに連行、抑留されました。 そこでの取り調べは惨たらしいもので、ありもしない犯罪の自白を強要され、 半殺し状態で再び日の目を拝めるかと思った程でした。 次の日、再び鉄格子の中から引き出されました。 いよいよ殺されると半ば覚悟した途端、何故か旧ソ連官憲の態度が 手のひらを返すように豹変し、ロシアンティーまで振る舞われて、にこやかに釈放されるではありませんか。 捜査は打ち切られ、無罪放免となった彼等は施設の外に出ました。 彼等は「ともかく港へ向かおう」とふらつく足を海に向けました。 その瞬間、何故、助かったかが判りました。 (ここからは、本文をそのまま引用します。) 沖には日本海軍の大艦隊が間近く展開し、旗艦たる巡洋艦以下、 各艦砲身を陸に向け、砲門を開き、その強大な攻撃力は毎分幾百幾千發ぞ 陛下の赤子にかすり傷だに負はせなばウラジオストックそのものを消滅させんばかりの 圧倒的武威を以て、ソヴィエト社會主義共和國聯邦を威圧して呉れてゐたのです 旭日の軍艦旗の何と美しく、浮かべる城の何と頼もしかったことでせう 皆、感泣しました 鋼鐵の艦体に頬ずりしたい思ひで‥‥ こうして彼等は無事、日本に帰ることができました。 取るに足らない漁船の、わずかな人数の乗組員の為に、大国相手の戦争も辞さず、 瞬く間に艦隊を繰り出して救出してくれた祖国日本に報いる為、と、その後、ひうらさんは一層仕事に励んだそうです。
23 :
前スレから :04/03/28 19:44 ID:gVZvrly3
>>22 いい話ですよね、これ。
それに比べて今の日本は・・・と嘆かざるを得ません。・゚・(ノД`)・゚・。
共和水産の一件や日本海の韓国密漁船の跳梁を許している日本は一体・・・
876 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/02/18 00:47 ID:???
>>848 混成第2旅団工兵隊小隊長の浅田慎二中尉がスプルアンス提督あてに残した遺書のことか?
(5月13日に摺鉢山の地下壕で数名の部下とともに手榴弾で自決)
『閣下の私等に対する御親切なる御好意誠に感謝感激に堪えません。
閣下より頂きました煙草も肉の缶詰も皆で有難く頂戴いたしました。
御奨めによる降伏の儀は日本武士道のならいとして応ずることはできません。
もはや水も無く食も無ければ13日午前4時を期して全員自決して天国へ参ります。
終りに貴軍の武運長久を祈りて筆を止めます。』
266 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:03/07/04 18:26 軍人はあまり好きになれんが、ニューギニアの18軍司令官だった安達二十三中将は別だな。 厳格だが己にも厳しく、部下思いで苦楽を共にした、キリスト教信者だったという話も・・・。 彼はラバウルの戦犯法廷が終結した後、部下の釈放を見届けると自決を遂げたが遺書が泣かせる。 「小官は皇国興廃の関頭に立ちて、皇国全般作戦寄与の為には、何物をも犠牲にして惜しまざる べきを常の道と信じ、打ち続く作戦に疲憊の極に達せる将兵に対し、更に人として堪ゆる限度を 遼に超越せる克難敢闘を要求致候。之に対し、黙々之を遂行し力尽きて花吹雪の如く散り行く若き 将兵を眺むる時、君国の為とは申しながら、其の断腸の思は唯神のみぞ知ると存候。当時小官の 心中堅く誓いし処は、必ず之等若き将兵と運命を共にし、南海の土となるべく、仮令凱陣の場合と いえどもかわらじとのことに有之候・・・・(以下略)」
27 :
前スレより :04/03/29 12:17 ID:x+4UGkKu
354 名前:日出づる処の名無し[] 投稿日:03/08/12 13:38 ID:AsOqYo2J 母方の実家の仏壇に先祖の名前以外の御位牌がありその理由を尋ねた。 じっちゃんが話してくれた話をかいつまんで書くと・・・・ 徴兵で配属された部隊に同郷の出身者がいて、身の上話をする間柄になってた 戦局も押し迫ったある日、敵の襲撃を受けその部隊は大混乱になり撤退命令が 出たのだが、じっちゃの隊は自軍の速射砲や野砲の破壊破棄を命ぜられ 敵の進撃が間近に迫る中、破壊作業を終えると同時に敵の戦車と兵隊が襲い 襲い掛かってきて、隊はほぼ全滅。残る日本兵を米兵が撃ち殺し始めた。 じっちゃんも戦死を覚悟し、手榴弾で自決攻撃をかけようとした時に 同郷の出身者が、じっちゃんの手から手榴弾をもぎ取り「俺には嫁も子供も 親ももうおらん、俺が突っ込むけん逃げなっせ!」と言い放ち敵軍の中に突っ込み自爆。 敵の一瞬の混乱に乗じて、じっちゃんを含む数名は何とか脱出し、その後終戦で 捕虜収容所から日本に復員し、その同郷の出身者の一族を探したが見つからず じっちゃんの家の仏壇に入っていただいているとの事。 「あんのとき、あの人がおらんやぅたら○○(戦後に生まれた長男)はおらんやったけん ○○はあの人の名前から一字頂戴しとるんよ」この話を聞いた頃はなんとも感じなかった けど、今思い出してちょっと涙が出てきてしもうた。 幸い、当家では父方も母方も戦死した人はいないが、生き残れたのは多くの 戦友の戦死があったからだといい、毎年靖国に参拝していた。 そんなじっちゃんも鬼籍に移ったが、今は孫の漏れが靖国に参拝するようにしている。
457 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:01/12/28 15:43 うちの祖父の話。終戦後日本に引き上げ、その直後病死。 看病していた祖母がふと「この国はどうなっていくんでしょうね」と漏らしたところ、 祖父は咳き込みながらもこう言ったという。 「大丈夫だ。俺は信じているからね。あの子(息子。我が父親)や、多くの子供達が やがて大きくなってこの国を支えてくれる。さらに、その子供達も。 俺は、今いる全ての子供達、孫達を信じている。大丈夫だ、あの子達ならこの国を 立派に背負っていってくれる。だから、俺の仲間達も安心して散っていけたんだ……」 父も、そして今は祖父と同じ墓の下で眠る祖母も、この話をよく聞かせてくれた。 今の自分より若くして逝った祖父よ、今の日本はあなたが望んでいた通りの国だろうか、 とふと思うことがある。祖父が「信じている」と言ってくれた中には自分も含まれている。 そんな祖父や、戦争で亡くなった人々の思いに恥じない生き方をしたいと、改めて思う。
926 名前:バーチャバカ一代[] 投稿日:02/03/08 23:09 この話、既出ですか?出てたらごめんなさい。 命かけ住民守った13秒 なぜ、航空自衛隊のパイロットは「ベイル・アウト(緊急脱出)」を二回叫んだのだろうか。 平成十一年十一月二十二日午後、航空自衛隊入間基地所属のT33ジェット練習機が 埼玉県入間川の河川敷に墜落した際、東京電力の高圧送電線を切断し、東京・埼玉の約八十万世帯で停電と なった事故で死亡した二人の乗員と管制塔との交信記録が示す疑問である。 今年四月、空自の事故調査委員会が発表した調査結果によると、パイロットは「ベイル・アウト」を通報した後、 十三秒後にもう一回、同じ言葉を叫んでいた。 航空自衛隊関係者は「いったん脱出しようとしたが、さらにもうちょっと頑張ろうとしたためではないか」とみる。 事故当時、私立狭山ケ丘高校(埼玉県入間市)の校長、小川義男さん(六七)は、国道16号を車で移動中、突然、 停電で信号機が消え、白バイなどが大急ぎで走り去る中、立ち上る白煙を見た。 その後、校長仲間である私立西武文理高校の佐藤英樹校長が「あのジェット機は私の学校の上を飛んで河川敷に 飛び込んでいった」と小川さんに語った。 おそらく、最初に「ベイル・アウト」を叫んだ後、航空総隊司令部所属、 門屋義広・三等空佐(四八)と航空幕僚監部人事教育部所属、中川尋史・二等空佐(四七) の目に映ったのは、住宅街、さらにはそこに点在する狭山市立柏原小、中学校、西武文理高だったのだろう。 事故機を十三秒間操縦し、住宅地を避けるように東側に進路をとり送電線に接触する直前、緊急脱出した経緯を 事故調査結果はこう記述する。
続き 「継続して操縦し続け、安全な脱出に必要な高度および速度の余裕を失った。 その結果、緊急脱出の際、機体が前のめりになり、適正な脱出姿勢がとれず、首の骨を折った」 墜落現場から住宅街までわずか五十メートル。 小川さんはパイロットの犠牲的精神をたたえずにはいられなかった。 昨年十二月一日号の生徒・父母向けの学校通信『藤棚』に思いをつづった。 「彼らは、助からないことを覚悟した上で高圧線にぶつかるような超低空で河川敷に接近しました。 そうして他人に被害が及ばないことが確実になった段階で、万一の可能性にかけて脱出装置を作動 させたのです。 死の瞬間、彼らの脳裏をよぎったのは、家族の顔でしょうか。それとも民家や学校を巻き添えにせずに すんだという安堵感でしょうか。 他人の命と自分の命の二者択一を迫られたときに、迷わず他人を選ぶこの犠牲的精神のなんと崇高な ことでしょう」 小川さんはさらにこうも訴えた。「愛の対象を家族から友人へ、友人から国家へと拡大していった人を 英雄と呼ぶのです」
30届いたーヽ(´ー`)ノ しかし釣りも煽りもサヨコピペも来ないこの過疎ぶりw
軍板とかぶるからなぁ
保守
ああ、このスレ復活したんだ・・・嬉しいなぁ(ノ∀`)
感動しちゃったYO。・゚・(ノД`)・゚・。ウエエェェン
好スレなのだがさすがにネタ枯れかな?スレ伸びないねぇ
38 :
日出づる処の名無し :04/04/01 20:41 ID:BL9pWZjk
28が特に泣けるね。。。。
ageてしまった
>>15 俺もこの本無くしちゃったんだよなぁ。
古本屋を探しているんだけど見つからない。
俺が好きな(というか胸を締め付けられる)エピソードは、
救出したテキサス大隊の隊長が救出後に「礼を言いたいので
大隊を集合させろ」と命じ、いざ訓示しようとしたら目の前にいる
兵のあまりの少なさに「俺は全員を集合させろと言ったはずだ」と
怒ったら、「目の前にいるのが大隊全員ですサー。残りは戦死
したか、病院におります」と言われたという話だった。
>>29 その話は覚えている。
というかマスゴミと左巻き連中の下劣さの証明の話としてだが・・・
せっかくの良レスを汚すかも知れんが、事件当時マスゴミ連中は
パイロットが自己の命を賭して河川敷まで機体を運んで結局
脱出の機を逸して死亡したというのに、墜落時に機体が高電線を
切断して付近一体が停電になったということを問題視していやがった。
俺はあの事件を忘れん。
42 :
ありんした :04/04/01 21:56 ID:Bp20Rl9d
『鉄十字のエースたち』13章「神々の黄昏」 R・F・トリヴァー、T・J・コンスタブル著 手島尚訳 ―――――先頭に立った指揮官たちはいずれも既に倒れ、あるいは倒れる運命にあった。 ガランドは膝から敵弾の弾片を摘出したばかりで、歩くこともできなかった。彼の弟、ヴルヘルム (少佐、五十五機撃墜)とパウル(少尉、十七機撃墜)は戦死していた。三百一機撃墜のバルクホルンも 重傷で入院していた。不時着の際に風防で首を挟まれるのを危うく免れたのである。シュタインホフは 激しい火傷のために生死の境をさまよい、その後数年間も苦しみ続ける運命にあった。剛直な武人、 リュッツォフは武勲輝く祖先の英雄たちの下に去って行った。 戦績と名声を兼ね備えたメルダース、ヴィック、エーザウ、マイヤー、ノヴォトニー、キッテル、フィリップなどは、 航空戦史に輝く名を残して戦死した。北アフリカの砂漠にはマルセイユが眠っている。彼の簡素な墓標はドイツの 希望が最高水位に高まった点を示しているように思われる。そこから遠くないチュニジアではミュンへベルグが 戦死した地点に葬られている。 これらの英雄たちと並んで、最初の一機を撃墜する前に戦死した大勢の若いパイロットも含めて、 膨大な数の戦闘機パイロットがヴァルハラ(戦死した英雄が呼び集められるといわれる北欧伝説上の神殿) に招かれて行った。 ・・・・・・ドイツ空軍の活躍を支えたものはナチに対する狂信的な支持だと短絡的に考える人も多いが、ドイツの戦闘機 パイロットたちの勇敢な行為はもっと理性的な動機に支えられていたのである。
本土防空戦で戦った戦闘機パイロットたちを支えていた最大の動機は、連合軍の無差別爆撃による ドイツ民間人の大量殺戮を少しでも押さえ、できれば防ぎ切りたいという願いだった。 パイロットたちは地上で惨状を見たために、自分の限界を越えた戦いに繰り返し自分を駆り立てて 行ったのである。著者たちはパイロットに対する調査の結果、この見方に確信を持っている。 ・・・・・・彼らが戦闘機に乗って飛び上がった時に頭に浮かべるのは、ここで自分が爆撃機を 一機撃墜すれば、女性や子供を大勢含んだ数十人の同胞の命を救うことができるのだ、という考え だけだった。この動機は英国空軍の戦闘機パイロットがドイツの爆撃機を迎撃した時の気持ちと何の違いもない。 ・・・・・・ドイツの戦闘機パイロットは、飛行機と燃料と滑走路がある限り、停戦命令が下された日の朝まで戦った。 彼らは長く苦しい大戦の全期間を通じ、勇気と騎士道精神とフェアネスを持って戦った。
・・・・・・ドイツ空軍のエース一族は伝統的な軍人の道徳律を守って戦った。空中であれ、 地上であれ、男と男の間で守り続けるべき仕来りを重んじたのである。 ・・・・・・ドイツのエースたちが騎士道を守っていたという事実について、連合軍パイロットの 証言が数多くある。落下傘降下するパイロットを襲うことは戦闘行為ではなく、単なる殺人である と彼らは考え、この原則から逸脱することはなかった。彼らは戦争には敗れたが、軍人の誇りと魂を失わなかった。 ルドルフ・ジンナー少佐はこの点をはっきりと裏づける考えを書き記している。 《戦いが終わり、おたがいに兜の面頬(ヴァイザー)をはね上げた時、分別をわきまえた尋常な 相手の顔が現れれば、双方とも心が安らぐものだ。もし狂信的な激情に歪んだ顔が現れたとすれば、 彼は猿にも劣る者であり、勝利を誇る資格はない。そして、この一度の戦いに敗れた者は、二重の屈辱感を味わうのだ》
一騎当千の猛者達も衆寡敵せず次々に連合軍の物量に押され散ってゆく最終章に この文があるのだけど漏れ的には名文と感じたもので貼ってみたけど少し極東とは板違いでスマソw
すいません教えて君で申し訳ないのですが、 2ちゃんのどこかのスレで見かけたきりその後検索しても 探せないので、どなたか知っていたら教えてください。 北欧の独立戦争の時に日本の海軍廟で製作された大砲が 非常に活躍して、ロシアとの戦争の際も砲身が熱で歪むまで うちまくって独立後にシンボルになったという話を見かけたんですが、 そのお話が読めるスレかHPを知らないでしょうか? いろんな用語で検索してみたんですが、記憶がウロ覚えなため 引っかかってこないのです。
>>47 フィンランドあたりの話でしょうかね?
その手の話は軍板で聞いたほうが見つかりやすいかと・・
49 :
コヴァ :04/04/03 16:44 ID:AFWDcP1I
そればかりか、38式歩兵銃もたくさん輸出されていて、狙撃銃として大量のソ連兵を血祭りに挙げた。 (驚くべきことに、今でも現役の猟銃として北欧では人気がある) 38は時代遅れどころか、今次大戦でも立派に、しかも地球の裏側で戦っていたのだ。
>>47 第一次ソ連-フィンランド戦争、いわゆる「冬戦争」の
エピソードですね。
「雪中の奇跡」
梅本弘著 大日本絵画
くわしくはこちらをどうぞ。
51 :
日出づる処の名無し :04/04/03 20:32 ID:X2o6Df1H
皆様、 いい話をありがとうございました。 つい最近に、クソサヨクの洗脳から解き放たれまっとうな日本男児になれた漏れです。 がんがれ日本。もっと、意志表示が強くまともに出来る強い国になってほしい。 最近の外交関係のニュースを見ていると情けない。 先人達をもっと見習ってがんがってくれ。 漏れも少しづつできることをやっていく。
>>44 あたりに書かれてる事ってのは神風特攻隊にも共通するね。
ドイツ軍パイロットが戦爆連合数百機の連合軍の大編隊に挑むのも、雲霞の様な直掩機とVT信管
に守られたアメリカ艦隊に突入するのも故郷と愛する人々を守る気概が無くては出来ないよ。
53 :
日出づる処の名無し :04/04/03 21:21 ID:JaefHpAO
俺は硫黄島の島民の子孫なんで、硫黄島のエピソードが読めて嬉しかったです。
俺もせっかくなのでお土産を
鎮魂・南海の「えひめ丸」
ttp://www.mrr.jp/~jf9hjs/ehimemaru4.htm えひめ丸と日米相互理解
船体引き揚げ、遺体捜索、遺留品や船備品の回収作業は終了した。
当初の作業見込み期間を大幅に延長して行わねばならなかった作業だったが、
米海軍を始めとする関係者の真摯な行動が、今回の結果を迎えることができたと考える。
また、日本政府も共同歩調をとり、ことに海上自衛隊や海洋調査船などを派遣して
捜索にあたった事は大きな意義があったと思う。
ことに、引き揚げに関する技術的な困難と、
見積もりよりはるかに超過する経費負担にも拘わらず、
遺族の心情を汲み、
文化の違いから、日米間に「しこり」が残る可能性を理解して、
その課題を払拭された米国政府の姿勢を多とするものだ。
遺体引き揚げでは水口君の遺体が揚がらなかったことは無念であった。 しかし、日米潜水隊員の200回以上にも及ぶ捜索活動は遺族をはじめ、 作業を見守っていた全ての人々に充分な納得のいくものだ。 遺族からも捜索に最大限の努力が払われたことに感謝のコメントがあったことは 現場作業者と潜水隊員にとって苦労が報われたと感じられたことだろう。 えひめ丸はホノルル空港沖の浅瀬から、 南西約30kmの海域(水深およそ1800m)に沈めることになった。(11/25) えひめ丸はアメリカ領海外の南太平洋で、水口君と共に永遠の眠りに就く。 漁業実習船とハワイ諸島との交流は長い。 実習生たちは処女航海で最初の上陸地がホノルルになることが多い。 長い実習航海を終えて、ホノルルの岸壁にあがったときの印象は新鮮だ。 ホノルル滞在中の楽しい記憶と共に永く心に残るものだ。 今回の事件は悲惨な記憶として残ること、本当に残念だ。
しかし、ここにアメリカと日本の異文化部分の障壁を乗り越えて、 新しいモニュメントを建てることになったと解釈すべきでないだろうか。 漁業実習船はこれからもハワイ諸島と交流を深めるだろう。 南太平洋の玄関として、実習生たちに親しまれることを疑う余地はない。 えひめ丸はオアフ島に、 新しい日米文化交流の礎を造ってくれたと確信したい。 折りしも、12月7日は60年前の忌まわしい記憶が蘇る日でもある。 真珠湾攻撃で戦争の火蓋が開き、太平洋が悲惨の極みになり、 原子爆弾で決着がついた記憶は今も胸の奥底に刻み込まれている。 そのオアフ島で、えひめ丸が東西文化交流を促してくれたのだと。 新世紀を迎えたいま、世界各地で紛争が勃発し、宗教・文化の摩擦が絶えない。 同時多発テロが世界を震撼させ、不安な新世紀を予測させるいま、 日米はその不安定要素を解消すべく、障壁を乗り越えて作業を完遂しようとしている。 えひめ丸は日米関係に新たな一頁を加えてくれた。
ブッシュ大統領は真珠湾攻撃60周年のコメントで、以下のように述べている。 Bush praises Japan for war on terrorism President George W. Bush praises Japan's cooperation in the campaign against terrorism, on the 60th anniversary of the Pearl Harbor attack.. (Japan Times 2001/12/09) 南海の海よ、星よ えひめ丸よ、水口君を抱いて眠れ ホノルルは永遠に日米の橋であれ 少年たちよ 海を恐れるな 南天の星雲が君たちを迎えてくれるから
58 :
日出づる処の名無し :04/04/04 19:28 ID:162WbCSc
>>54 ワドル艦長が事故の直後、弁護士に連絡を取ったことが(一部日本側マスコミでは)問題にされていたが、普通のアメリカ人の対応としてては普通の
事だろうと思う。
この前の三菱ふそうのバカ社長に比べれは、ワドル艦長の謝罪は真摯なものを感じられたと俺は思う。
まあ、ワドル艦長には気の毒だとは思ったが、 この事故と韓国船が日本の漁船にぶつかって さらに事故を検証している海保の船に突っ込んできた という事件に対するマスゴミ報道の量や質の違いが 連中の本質を明らかにしてくれたのはありがたかった。 何しろ2ちゃんねらーがTV局に電話して「なぜこの事件をえひめ丸の ように報道しないのか」と尋ねたら「何を報道しようが俺たちの勝手だ」 という答えが返ってきたという話があったし。
26 :名無し三等兵 :02/11/09 10:51 ID:??? 消防のときミリタリーブームでプラモをよく作った。 日本ものでは戦闘機・戦艦をたくさん作りドイツは戦車を棚の上に並べて悦に浸っていた。 ある日遠方から爺さんが来てそれを見て 「おお、戦車好きか。日本のはどれだ?」と聞かれたので松本零士の戦場漫画シリーズから 知った日本戦車の弱さを3分ほど聞かせ「そんなボロいのいらない」と締めくくると 「そうか、そうか」と言いながら笑っていた。 数年後爺さんの葬式の席で戦友だった方から戦車兵だったことを聞き、95式の隣に たたずんでいる爺さんの写真を見たとき戦争に行ってたことすら知らなかった自分の 情けなさに涙が出た。
>60 これ前も見たけどすげー泣いたんだよね。今も…。・゚・(ノД‘)・゚・。 「そうか、そうか」と言いながら笑うお爺様に当時の日本男児の 潔さや強さを感じます。
62 :
日出づる処の名無し :04/04/06 23:44 ID:U9ScE2dg
おお、いつの間にかこのスレ復活してたのか。
遅ればせながら
>>1 乙!
>>60 チハ大好きでス。。。・゚・(ノД`)・゚・。
あぼーん
65 :
日出づる処の名無し :04/04/07 00:37 ID:TsFYKQ59
「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は 進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を 忘れていた。 敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずして いつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る、 まさに本望じゃないか」 吉田満著「戦艦大和の最後」より 戦艦大和菊水作戦時乗込士官 臼淵大尉の台詞 今日は戦艦大和の59回目の命日。 沖縄救援に向かう途上で米艦載機の四次の渡る空襲を受け1945年4月7日14時23分2498名の乗員と共に沈没。 東シナ海(九州坊ノ岬沖)水深340m.北緯30度43分.東経128度4分。 ・・・・・・・合掌
66 :
疾風 :04/04/07 00:42 ID:/O1/LPCp
感動しました 良スレだ
67 :
kojimac ◆xYYWnElaTY :04/04/07 01:20 ID:BW8vfNj7
昭和20年6月6日、鹿児島県は薩摩半島の中程、知覧町に ある富屋食堂でのことである。知覧で出撃を待つ特攻隊員たち はこの食堂に出入りし、なにくれと世話をやく女主人鳥浜トメ を母親のように慕っていた。明日は死に行く少年たちのために 出来ることと言ったら、母親代わりになって優しく甘えさせて やるしかない、そう思ったトメは私財をなげうって、特攻隊員 たちに尽くしていた。 その前日、6月6日は宮川三郎軍曹の20歳の誕生日であっ た。トメは心づくしの料理を作って、誕生日を祝うと同時に、 明日に控えた出撃のはなむけとした。途中、空襲警報が鳴って、 みなで防空壕に入る。防空壕の中で、宮川は幽霊のまねをして、 トメの娘礼子たちを怖がらせた。 防空壕を出ると、星のない暗い夜がそこにあった。街の灯り も灯火管制のために消されている。食堂の横には小川が流れ、 藤棚とベンチがしつらえてある。漆黒の闇の中、小川の上を大 きな源氏蛍が飛び交っていた。宮川の声がした。
68 :
kojimac ◆xYYWnElaTY :04/04/07 01:21 ID:BW8vfNj7
小母ちゃん、おれ、心残りのことはなんにもないけれど、 死んだらまた小母ちゃんのところに帰ってきたい。そうだ、 この蛍だ。おれ、この蛍になって帰ってくるよ。 「ああ、帰っていらっしゃい」とトメは言った。そうよ。皆川 さん、蛍のように光輝いて帰ってくるのよ、と心の中で言った。 宮川は懐中電灯で自分の腕時計を照らして言った。 9時だ。じゃあ明日の晩の今頃に帰ってくることにする よ。店の正面の引き戸を少し開けておいてくれよ。 「わかった。そうしておくよ。」とトメが答えた。 おれが帰ってきたら、みんなで「同期の桜」を歌ってく れよ。それじゃ、小母ちゃん。お元気で。 トメには別れの言葉がない。死にに行く人を送る言葉なんて この世にあるのだろうか。宮川軍曹の後ろ姿は暗い夜道に消え ていった。
69 :
kojimac ◆xYYWnElaTY :04/04/07 01:22 ID:BW8vfNj7
翌日 ラジオが9時を告げて、ニュースが始まった。その時、わず かに開いた表戸の隙間から、一匹の大きな源氏蛍が光る尾を引 きながら、すーと店に入ってきたのであった。娘たちはほとん ど同時に気がついた。 お母さーん、宮川さんよ。宮川さんが帰ってきたのよ。 娘たちの叫びに、奥から出てきたトメは娘たちの指さすほう を見た。暗い店の中央の天井。その梁にとまって明るく光を放 っている蛍を見つけた時、トメは息が止まるかと思った。部屋 の隅にいた兵士たちも集まって、蛍を見上げた。「歌おう」と だれかが言った。みな肩を組み、涙でくしゃくしゃになりなが ら、「同期の桜」を歌った。歌はトメの好きな第3連に進んだ。 貴様と俺とは 同期の桜 離れ離れに 散らうとも 花の都の 靖国神社 春の小枝で 咲いて逢うよ
70 :
kojimac ◆xYYWnElaTY :04/04/07 01:26 ID:BW8vfNj7
平成4年4月22日夕刻、トメは90歳直前で一生を終えた。
「特攻の母、鳥浜トメ死す」のニュースは新聞やテレビに流れ、
富屋は弔問客や取材陣でごった返した。通夜の夜、ようやく遺
族が一息入れた所に、一匹の蛍が光る尾を引いてトメの柩のあ
る部屋をスーッと横断していった。
「見たか」「見た」「蛍だったよな」「そうだったよな」
4月の下旬に蛍が飛ぶはずがない。それも部屋を横切ってい
くなんて。しかし、居合わせた人々は確かに見たのである。
それは蛍になった宮川軍曹が「小母ちゃん」を迎えにきた姿
なのだろうか。それともトメ自身が蛍となって、息子のように
可愛がっていた大勢の特攻隊員たちのもとに飛んでいったのだ
ろうか。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog253.html
このスレ好きなんだなぁ。明日靖国行ってくるんだけど、 靖国神社の桜を涙ボロボロ流しながら見つめてしまいそうだ。
あぼーん
あげ
74 :
日出づる処の名無し :04/04/07 23:36 ID:gWYKSTe/
去年の忘年会で行った温泉街のソープのおばちゃん(推定55歳)は、かれこれ30年以上やってるって言ってた。 やはりオマンコは凄い事になってた。しかも上の歯が入れ歯だった。孫もいるんだってさ。 オマンコすっかすかで全然挿入感無いのにトレーシーローズばりの喘ぎ声で、「お兄さん固い!すごく固いよ!当たってるよ!はぁ〜!」 って叫ぶんだけど、全然6分勃ちなわけ。ティンコはどこにも触れてないような感覚。 そうだなぁ〜、例えると350mm缶をくり抜いたのに突っ込んでる感じかな?オマンコなんか全体的に飛び出してて、発情期のサルみたいなワケ。 そんでもって「おっぱい揉んで〜、はぁ〜」とか言ってんだけど、ほぼ棒読み。学芸会のレベル。 で、当然ながら口臭も結構凄いわけよ。ティンコもいい加減にゲンナリしちゃってね〜。 そんな事にはおばちゃんも慣れてるようでね、右手に唾液をたっぷり付けてさ、シゴクんけどさ。 これが逆手なんだ。逆手。シゴクというよりも刃物を突き刺す手つきなわけ。 少しすると唾が乾くでしょ?摩擦で。蒸発して臭いんだ、これが。緑亀の水槽の臭いに近い。 そんでおばちゃんの顔みると、次の唾を口の中で貯めてるわけだ。まだやるかって感じ。 そんな条件なのに、俺のティンコ、また勃ってきてさ。何だろね?自分でもビックリ。 そしたらおばちゃん、大量の唾をティンコにベッタリ塗りたくって。そしてやおらバックスタイルに構えてさ、こう言うわけ。 「お尻の方に入れていいよ〜、お兄ちゃんの、少し大きいけど、早く〜ぅん」言っとくけどココまで生だぜ? で一瞬躊躇してると、おばちゃんテメェの肛門にも唾塗ってるわけ。 で、その指をもう一回自分の口に持ってって唾追加してんの。今度は指入れて中にも唾塗ってさ。 不思議なもんで、俺のティンコ、ギンギンになっちゃってさ。肛門に突き刺したよ。メリメリと。 いや、メリメリではなかったな。スポーンって入った。後はガムシャラに腰振って、振って振りまくった。 そんで射精した。中出し。おばちゃんの絶叫聞きながら果てた。ティンコ抜いたらさ、やっぱ糞がすげえ付着してんだよね。 まだら模様になってんの。で湯気が立ってた。。。 スレに参加するつもりが随分脱線しちゃったなぁ。誰かに話したかったのかな、、フッ、、。
泣ける、とてもいいお話を紹介します 彼から突然の別れを告げられました。お前とはもう付き合えない。もう飽きたし、うざい。他に好きな女ができた。お前も他の男を見つけろよ あまりに一方的な言い草に幻滅し、3年付き合った彼とそれっきりになりました。 それから私は少し焼け気味に、いろいろな男達と戯れていました。その中には彼の親友たちもいました。仕返しのつもりでした。 事の最中に、彼の親友が泣きだしたことがありました。私はどうしたのか分からず、とりあえず理由を尋ねました。 嗚咽交じりに謝りながら、彼が死んだと話してくれました。死因は白血病でした。私と別れた頃から症状がでていたようです。病名は告げていませんでしたが、自分の命が残りわずかであること、彼は自覚していたようです。 私を悲しませないため、わざと嫌われるようなことを言っていたのです。そうとは知らなかったとはいえ、私は自分が最低な女だと、自責心に苛まれました。彼に申し訳なくて、これまでに取った私の行動、感情までも悔やみました。 それから今日までの半年間、毎日欠かさず彼のお墓参りをしています。そのための交通費、お花代などを稼ぐため、今は彼の大好きだった風俗で働いています。
古いコピペだな 下らない荒らし方すんなや
脊髄反射レスしちまった。スマン。お詫びに貼っとくよ。 名前:軍板よりコピペ[sage] 投稿日:03/06/21 21:01 ID:YKMMzffI 最近買ったのですが、土井全次郎ー兵士の沈黙はいいです。 元朝日の記者ってのは 気に入らないが、泣ける話の宝庫ですよ。 ただあまり売ってないし、買えない人の為 要約して書きます、皆さんは陸軍が潜水艦を持っていたのを知ってましたか? 補給用に急造した300トンクラスのものです。 ただ陸軍が海軍に内緒で作った為 司令塔に目立つ日の丸。 昼間堂々と浮上航行し、船尾には日章旗を掲げて、目立つ事 この上なし、米潜がコレを発見して、あまりの無防備ぶりに困惑しとうとう攻撃をしかけ られなかった代物でした、海軍の艦艇から、潜行可能ナリヤとからかわれたり、砲撃されたり と散々でした。 ある日瀬戸内海で訓練航行中に前方より山のような巨大な物が接近してきた 戦艦大和である。 陸兵と言えどもその艦名は知っていた、岡田さんは以前から一度 登舷令をやってみたくてしょうがなかったので、これは良い機会と思い、手空きの者を 総員上甲板にあげて、軍刀を抜き、頭右ーを号令した。 岡田さんはしてやったりと満足だった しかし、大和を見てもっと驚いた、向こうも甲板に100名位が整列して頭右をやっている しかも最上級のラッパの演奏つきである。 高々300トンのオモチャのような潜水艦に7万トンの 巨艦が最上級の令を尽くして去っていた。 岡田も感激のあまりに涙がてできた。 時は昭和20年4月6日。くしく大和最後の出撃の日でもありました。
>79ナケタ…。・゚・(ノД‘)・゚・。
丸輸艇か・・・・・。潜行しようとしたら船尾が浮いたとかそういう話しか思いつかな(ry でも泣けた(ノД`)
ココのスレだったと思うんだけど、自衛隊員の結婚式で 新郎のおじいちゃんが大和の乗組員だったっていうの なかった?
>>82 これですね。
泣ける話ではないかもしれませんが… 私がホテル勤めをしていた頃の話。
ある披露宴、新郎が海自の方でした。同僚上司達は制服で出席。
披露宴も御披楽喜に近づき、新郎のおじいさんの挨拶がありました。
一通りの祝いの言葉の後に、
自分が海軍にいた事。孫が艦に乗っている事を誇りに思う事。
自分達の世代の不甲斐なさのせいで今の海上勤務の方達には苦労を
掛けていると思う事。
たとたどしくですが話されました。
同僚達は知らなかったらしく酔っ払っていたのが、段々背筋が伸びていき
神妙に聞き入っていました。挨拶が終わり高砂の席の一人が「何に乗っておられたのだ」
と尋ねると、新郎は小声で「大和です」
それを聞いた海自組一同すっ転ぶような勢いで立ち上がり直立不動で敬礼を送りました。
おじいさんも見事な答礼を返されました。
私はその後は仕事になりませんでした。
ウェイトレスの女の子達は不思議そうな顔をしておりましたが。
私も探しているのがあります。 兵隊さんが家族にあてた手紙で 「毎日空襲でこわいでしょう/兄さん(父さん?)が敵をとってあげます」 のような文面が含まれているの。 ここでボロボロ泣いたのだが、どなたが書いたものか 失念してしまいました。知ってる方いたらおながいします。
吉田満『戦艦大和ノ最期』より 訓練休憩中、「桜、桜」ト叫ブ声 見レバ三番見張員ナリ 見張用ノ定置双眼鏡ヲ陸岸ニ向ケ、目ヲ当テシママ手ヲ上ゲタリ 早咲キノ花ナラン 先ヲ争ッテ双眼鏡ニ取附キ、コマヤカナル花弁ノ、ヒト片ヒト片ヲ眼底ニ灼キツケントス 霞ム「グラス」ノ視野一杯ニ絶エ間ナク揺レ、ワレヲ誘ウ如キ花影ノ耀キ 桜、内地ノ桜ヨ、サヨウナラ
>>84 新しい歴史教科書に紹介された神風特攻隊隊員の遺書ではないでしょうか。
原文カタカナ表記
ヤスコチャン、トッコウタイノ ニイサンハ シラナイダロウ。ニイサンモ ヤスコチャンハ シラナイヨ。
マイニチ クウシュウデコワイダロウ。
ニイサンガ カタキヲ ウッテヤルカラ デカイボカンニ タイアタリスルヨ。
ソノトキハ フミコチャント ゴウチンゴウチンヲウタッテ
ニイサンヲ ヨロコバセテヨ。
ヤスコちゃん、特攻隊の兄さんは知らないだろう。
兄さんもヤスコちゃんは知らないよ。
毎日空襲で怖いだろう。
兄さんが仇を討ってやるから デカイ母艦に体当たりするよ。
その時は、フミコちゃんと 轟沈轟沈を唄って
兄さんを喜ばせてよ。
(自分の妹に残した手紙、沖縄にて戦死 享年19歳)
「後世の人々よ、分かって欲しい。 誰よりも争いを憎み、平和を愛するが故に、 戦いに身を投じなければならなかった 若者達の悲しさを。」 靖国で読んだ特攻隊員の一文より。(名前など失念)
>83 それです。どうもありがとうございます。 やっぱ泣ける… 知り合いに、舞鶴の海軍学校に行っておいでたお爺さんがいます。 戦争には行っていませんが、今でもそのことを誇りに思っているようです。 その誇りを守れる国にしなければと思いました。 スレ違いスマソ
>>88 馬鹿みて〜w、そんなんで感動すんなよ糞ウヨ。
終戦後。ビキニ環礁での核実験。「長門、沈まず」の報を聞き元艦長の未亡人曰く 「幾万もの英霊たちが水底をささえているのですよ」 核の直撃を受け傾斜したものの未だ浮いている長門に驚嘆した米海軍の被害調査隊の一人は 艦橋にこう書き残したという。 "Old Navy Never Die!(海の古強者は死なず!)"
前スレから見てますがここは極東板の良心とも言えるいいスレですね。 日本人の生き様、死に様を読み有る者は自分の不甲斐なさを恥じ再起を誓い、あるいは人や国を 愛する心を学ぶことが出来る。本来学校教育で教えるべきはこういったことであるべきでしょうね。 増えたレスを見るたびに何度も感動し涙することが出来ます。極東板の皆様に感謝。
92 :
84 :04/04/12 22:17 ID:Gh+IkZr5
>>86 ああ、それですっ!! どうもありがとうございます!
お礼だけではなんなので…
どこかの3バカ&その家族を見て脳裏をよぎった言葉を。
「ソ連はわれわれを人質にしている。(日ソ国交回復交渉で)われわれのために
国策を曲げるようなことは避けて欲しい。われわれは帰国の望みを捨ててでも
日本の国に損害を与えたくない。そう政府に伝えて欲しい」
昭和30年9月、シベリア抑留者の代表による演説です。
感動しますた。・゚・(ノД`)・゚・。ニッポンマンセー!!!!
「夜分、とつぜんにお伺いしまして、恐縮しております。」 流暢な日本語でカウフマン博士は毛皮の外套を脱ぎながら言った。昭和12(1937)年12月、 満州ハルピンの夜は零下30度近くまで下がり、吹雪が続いていた。博士は、 50を超えたばかりの紳士で、ハルピン市内で総合病院を経営し、日本人の間でもたいへん 評判のよい内科医であった。大の親日家であると同時に、ハルピンユダヤ人協会の会長として、 反ナチ派の闘士でもあった。カウフマン博士が訪ねたのは、8月にハルピンに赴任してきたばかりの ハルピン特務機関長・樋口季一郎少将である。満州国の主権を守り、満州人の庇護に極力努めるように 訓示した。カウフマン博士は、その樋口に重大な頼み事を持ってきたのである。 それは、ハルピンで極東ユダヤ人大会を開催するのを許可して欲しいということだった。 ナチス・ドイツのユダヤ人迫害の暴挙を世界の良識に訴えたいというでのある。 樋口はハルピンに来る前にドイツに駐在し、ロシアを旅行して、ユダヤ人達の悲惨な運命をよく知っていた。 樋口は即座に快諾し、博士を励ました。
・・・・第一回の極東ユダヤ人大会終了後、ハルピン駐在の各国特派員や新聞記者達が、いっせいに樋口を包囲した。 イギリス系の記者が、ぐさりと核心をついた質問をしてきた。 ゼネラルの演説は、日独伊の三国の友好関係にあきらかに水をさすような内容である。 そこから波及する結果を承知してして、あのようなことを口にしたのか。樋口はまわりを取り囲んだ十数人の 新聞記者やカメラマンにやわらかい微笑をかえして言った。 日独関係は、あくまでもコミンテルンとの戦いであって、ユダヤ人問題とは切りはなして考えるべきである。 祖国のないユダヤ民族に同情的であるということは、日本人の古来からの精神である。 日本人はむかしから、義をもって、弱きを助ける気質を持っている。 今日、ドイツは血の純血運動ということを叫んでいる。 しかし、それだからといって、ユダヤ人を憎み、迫害することを、容認することはできない。 世界の先進国が祖国のないユダヤ民族の幸福を真剣に考えてやらない限り、この問題は解決しないだろう。 樋口の談話は、それぞれの通信網をへて、各国の新聞に掲載された。関東軍司令部内部からは、特務機関長の 権限から逸脱した言動だとの批判があがったが、懲罰までには至らなかった。 ユダヤ人迫害は人種平等の国是に反するという国家方針に沿ったものであったからであろう。
昭和13(1938)年3月8日、ハルピン特務機関長・樋口少将のもとに重大事件のニュースがもたらされた。 満州国と国境を接したソ連領のオトポールに、ナチスのユダヤ人狩りからのがれてきた約二万人のユダヤ難民が、 吹雪の中で立往生している。これらのユダヤ人は、満州国に助けを求めるために、シべリア鉄道を貨車で ゆられてきたのであるが、満州国が入国を拒否したため、難民は前へ進むこともできず、そうかといって 退くこともできない。食糧はすでにつき、飢餓と寒さのために、凍死者が続出した。彼らは満州国を経由して、 上海へ脱出しようとして、オトポールまでたどりついた所であった。 ハルピンのユダヤ人協会会長・カウフマン博士も飛んできて、樋口に同胞の窮状を訴えた。 しかし、満州国外務部(外務省)を飛び越えて、独断でユダヤ人を受け入れるのは、明らかな職務権限逸脱である。 もし満州国が入国を拒否する場合、彼らの進退は極めて重大と見るべきである。 ポーランドも、ロシアも彼らの通過を許している。然るに「五族協和」をモットーとする、「万民安居楽業」を 呼号する満州国の態度は不可思議千万であった。これは日本の圧迫によるか、ドイツの要求に基づくか、 はたまたそれは滿州国独自の見解でもあるのか。 樋口少将は満州国外交部ハルビン代表部とこの問題に関して種々協議し、これは人道上の問題であることに 意見一致を見たのであった。なぜ外務部は動かないのか。ユダヤ人問題で下手に動いて、ヒットラーから横やりでも 入ったら、関東軍からにらまれるからだろう。 「難民の件は決着した。受け入れの準備にかかって下さい」力強い樋口のことばに、カウフマン博士は歓喜した。 そして樋口はすぐに満鉄本社の松岡総裁を呼び出し、列車の交渉を始めた。しかしこの一件で樋口少将はドイツ政府と 日本外務省、陸軍省に睨まれる事になる。
・・・・樋口のユダヤ難民保護に対して、案の定、ドイツから強硬な抗議が来た。リッべントロップ独外相は、 オットー駐日大使を通じて次のような抗議書を送ってきた。満州国にある貴国のある重要任務にあたる某ゼネラルは、 わがドイツの国策を批判するのみか、ドイツ国家および、ヒトラー総統の計画と理想を、妨害する行為におよんだのである。 かかる要人の行為は、盟邦の誓いもあらたな、日独共同の目的を侵害するばかりか、今後の友好関係に影響をおよぼす こと甚大である。この要人についてすみゃかに、貴国における善処を希望している。 樋口は、関東軍司令部からの出頭命令を受け、参謀長・東条英機(後の首相)に対して「ドイツのユダヤ人迫害は人道上の 敵とも言うべき国策である、それに日本と満州が協力するのは由々しき問題である。日本とドイツの友好親善を望むが、 日本はドイツの属国ではない、また満州も日本の属国ではないと信じて満州国代表部に忠告した。」と述べた。 樋口は、東条の顔を正面から見据えて言った。 「東条参謀長!ヒトラーのおさき棒をかついで、弱い者いじめをすることを、正しいとお思いになりますか」 東条は、ぐっと返事につまり、天井を仰ぐしぐさをしてから、言った。 「樋口君、よく分かった。ちゃんと筋が通っている。私からも中央に対し、この問題は不問に付すように伝えておこう。」
樋口を待っていたのは、「不問」どころか、参謀本部第2部長への栄転だった。 ドイツからの「善処」要求のわずか5ヶ月後に、このような人事を行ったということは、 「人種平等を国是とする我が国はヒトラーのお先棒は担がない」という強烈なメッセージではなかったか。 出発の当日、駅頭は、二千人ちかい見送りの群集で、埋めつくされていた。その人波の中には、数十キロの奥地から、 わざわざ馬車をとばして駆けつけてきた開拓農夫の家族たちなどもまじっ ていた。樋口が土地や住居の世話をしたユダヤ難民たちであった。樋口が駅頭に立つと、いっせいに万歳の声が わきおこった。日の丸と満州国旗とをうちふり、「ゼネラル、ヒグチ!」と、ロ々に連呼しあう。 孫に手をひかれた白髪のユダヤの老婆は、路面にひざまずいて樋口を拝み、涙をながしつつけていた。 待合室に入ると、カウフマン博士が、白系ロシア人の代表者ロザノフとともにやってきた。 ユダヤ人と白系ロシア人は、血なまぐさい暗闘を繰り返していたのだが、樋口が親睦のクラブまで作って、 仲介に努力していたのである。 ロザノフは、カウフマン博士の頬に長い接吻をし、巧みな日本語で言った。 これが閣下に対する餞別です。閣下の言葉を忘れず、これから仲良くやっていきます。 樋口が「あじあ」号の最後尾の展望台に立つと、列車は高らかに警笛を響かせて、ゆっくりと動き出した。 「ヒグチ!」「ヒグチ!」「ヒグチ!」 群衆は堰を切ったように改札口を乗り越え、ホームにあふれ出した。あどけない顔をした少年達は銀髪を振り乱し、 両手を振り上げながら、あじあ号を追って走り続けた。
・・・・・終戦後、ソ連極東軍は、札幌にいた樋口を「戦犯」に指名し、連合軍総司令部に引き渡しを要求が来た。 樋口の危機を聞いて、ニューヨークに総本部を持つ世界ユダヤ協会が動き出した。その幹部の中には、 オトポールで救われた人々もいた。「オトポールの恩を返すのは、いまをおいてない」世界各地に散らばっている ユダヤ人に檄がとび、樋口救出運動が始まった。世界ユダヤ協会は、アメリカの国防総省を通じて働きかけ、 マッカーサー総司令部は、ソ連からの引き渡し要求を拒否し、逆に擁護することを通告したのである。 長い歴史を通じて迫害を受けてきたユダヤ人は、それだけに他人から受けた恩義を簡単には忘れないのだろう。 ユダヤロビーの初期の活動の一つである。 エルサレムの丘に高さ3m、厚さ1m、本を広げた形の黄金の碑が立っている。ユダヤ民族の幸福に 力をかした人々の恩を永久に讃えるために、と世界各国のユダヤ人が金貨や指輪などを送って鋳造したものである モーゼ、メンデルスゾーン、アインシュタインなどの傑出したユダヤの偉人達にまじって、上から4番目に 「偉大なる人道主義者、樋口将軍」 とあり、その次に樋口の部下であった安江仙江大佐の名が刻まれている。樋口季一郎少将−約6千人のユダヤ人を 救ってイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を授けられたた外交官・杉原千畝領事代理とともに、日本人と ユダヤ人との関係を語る上で、不可欠の人物である。エルサレムの丘に立つゴールデン・ブックに刻まれた 「偉大なる人道主義者樋口将軍」の銘はその証明である。
長文コピペスマソ(;´Д`)
昭和二十年八月二十日、日本軍の厳命を受けた真岡電信局(旧樺太)
に勤務する九人の乙女は青酸加里を渡され最後の交換台に向った。
ソ連軍上陸と同時に青酸加里をのみ、最後の力をふりしぼってキー
をたたき
・・・・皆さんさようなら、さようなら、これが最後です・・・・
の言葉を残し、夢多き若い命を自ら絶った。
殉職した九人の乙女
高石ミキ(24)
可香谷シゲ(23)
吉田八重子(21)
志賀晴代(22)
渡辺照(17)
高城淑子(19)
松崎みどり(17)
伊藤千枝(22)
沢田キミ(18)
http://m-take-web.hp.infoseek.co.jp/fujinomiya6.html
ヽ(`Д´)ノ ウワァァン!!感動age!!
105 :
日出づる処の名無し :04/04/13 22:45 ID:mcDLg4Dp
、「悲惨な戦争が終わり、五十七年の月日が流れました。 五十七年前、小笠原村のこの小さな島で、世界の歴史に残る日米両国の 激しい死闘が繰り返されたのであります。私たち小笠原村民は玉砕の島 「硫黄島」を決して忘れてはなりません。悲惨な戦いの果てに、私たちの お父さんやご主人、ご兄弟、諸先輩は戦死されたのであります。 その無念は、この上なき痛恨の極みであったことでしょう。 本当にご苦労様でした。 今こそおいしいお水を沢山飲んでください。 あなたたちの犠牲の上に今の日本の平和、小笠原村の平和があるのです。 本当に有り難うございました。」 平成15年6月21日 硫黄島戦没者追悼慰霊祭式典にて 小笠原在住旧硫黄島民、硫黄島協会 宮川章会長
ひいおじいさんへささげる言葉 小学校六年 間庭 恵美 こんにちは、私は曾孫の恵美と言います。 一度会ってみたいなどと思ってももうおそい、ひいおじいさんはすでに戦争で 亡くなられておりました。 私がひいおじいさんを知ったのは、お寺に行ったときでした。 ひいおじいさんの話をいろいろ聞きました。 ひいおじいさん、私は戦争は知りませんが、戦争を想像することはできます。 私の戦争想像を聞いてください。 私の想像は、とても恐ろしいものでした、そして悲しいものでもありました。 戦争だからといって、妻や子供と別れていかなくてはならないのです。 戦争が激しくなるにつれて、人々は死んで行くのです、死ぬということはとっても恐ろしいこと、 それだけではなく悲しいのです、今の時代は鉄砲を持ってむやみに人を殺す、それは悲しいだけ、 悔しいだけ、けど戦争は違う、悲しみ、悔しさ、それだけではない。 苦しさ、つらさ、そして憎しみをもっている人もいると思う。 死ぬとき、どんな思いで死ぬのか、多分家族や村の人達などを思い出すのではないでしょうか。 子供は、父の顔を知らないのですか、父の姿を想像するでしょうね、父はいっしょうけんめいに 戦ったのですから悔いはないと思います。 けど、家族の夢など見るかもしれませんね、楽しく子供と遊んでいる夢など見て笑いながら天国へ いくのでしょうね。 みんなが待っている家に帰りたかったでしょうね、残念ですね。 ここで、お願いがあります。 ひいおじいさん、そして天国にいる方達へ、地上にいる人達を見守っていてください。 殺し合いなどないように、戦争なんて馬鹿なこと、二度とないように、そして自分のひいまご達を しっかりと見守っていて下さい。
私は、もういらっしゃらない、ひいおじいさんを思い出すと本当に長い間おつかれさまって言いたくなります。 ひいおじいさんが、一生懸命戦ってくれたからこそ、いま私たちも、こんな素晴らしい暮らしが出来るのです。 もし、戦っていなかったらなんて想像したくありません。 私はこの作文を書いていたときに、今にもひいおじいさんがあらわれて、私にやさしく笑顔で声をかけてくれる、 そんな感じがします。本当に生きていればどんなにうれしかったことか。 ひいおじいさん、そしてそのほかの皆さん、本当にお疲れさまでした、本当に本当にお疲れさま。 そして、ありがとうございます、心の奥からありがとうございました。 ゆっくり天国で休んで下さい。 そして、私たちのことを忘れないでください。 ありがとうございます。 この作文を書いて、そして読んでいると涙が止まりません、つぎからつぎへと涙が出てきます、この涙は どんな涙だろう、くやしい、悲しい、うれしい、それとも感謝の涙なのかも知れない。 私は、このテニアンにこられて本当によかったと思います。 また来られたら、お線香をあげたいと思います、こんどは、家族全員で。さようなら、 一九九二年八月 この文章は故テニアン ウ三〇二航空隊上等水兵 間庭 弘「ひいおじいさんへささげる言葉」として 一九九二年八月にテニアン島バンザイ岬の慰霊碑の前にて間庭恵美様が作文風に書いて当日暑い中 読み上げたものにて立ち会った慰霊団全員と在テニアン日系人とチモロの方々が感心し良き日本の 子供の代表宜しく思い皆で顔見合わせたものです。
108 :
コヴァ :04/04/14 00:20 ID:A/vpBIxl
約半世紀ぶりにニューギニアの戦場を訪れた高射砲兵。 かつて自分の属した部隊が戦った陣地には、赤錆びた高射砲が、依然として空に向かって砲身を伸ばしていた。 それを認めた瞬間、老人は砲に抱きつき、「一緒に帰ろう!靖国に、皆のところに行こう」と叫んだ。 そして、その言葉は現実になった。
あぼーん
今年初め、新車を購入するため、6年間乗ったマーチを手放すことになった時、 小1だった長男は声をあげて泣きました。長男は妹と一緒にマーチの中に 「マーチへ。いままでいろんなところにつれていってくれてありがとう。 これからもげんきでね」 と書いた手紙をしのばせ、マーチとお別れしました。 それから9ヶ月余りが過ぎた先日、郵便受けに「マーチより」と書かれた 長男と妹あての手紙が届きました。その手紙には 今マーチは新しいオーナーの赤ちゃんを乗せて毎日元気に走っていること、 その赤ちゃんが手紙をくれた2人のように優しい子になってほしいということが 書かれていました。
俺、小さい頃に母親を亡くしてるんだ。 それで中学生の頃、恥ずかしいくらいにぐれた。 親父の留守中、家に金が無いかタンスの中を探しているとビデオテープがあったんだ。 俺、親父のエロビデオとかかな?なんて思って見てみた。 そしたら・・・ 病室のベットの上にお母さんがうつってた。 『〇〇ちゃん二十歳のお誕生日おめでと。なにも買ってあげれなくてゴメンね。 お母さんがいなくても、〇〇ちゃんは強い子になってるでしょうね。 今頃、大学生になってるのかな?もしかして結婚してたりしてね・・・』 10分くらいのビデオテープだった。 俺、泣いた、本気で泣いた。 次ぎの瞬間、親父の髭剃りでパンチパーマ全部剃った。 みんなにバカにされるくらい勉強した。 俺が一浪だけどマーチに合格した時、 親父、まるで俺が東大にでも受かったかのように泣きながら親戚に電話してた。 そんで、二十歳の誕生日に、案の定、親父が俺にテープを渡してきた。 また、よく見てみたら。 ビデオを撮ってる親父の泣き声が聞こえてた。 お母さんは、笑いながら『情けないわねぇ』なんて言ってるんだ。 俺また泣いちゃったよ。 父親も辛かったんだろうな、 親父にそのこと言ったら、知らねーよなんて言ってたけど、 就職決まった時、 親父が『これでお母さんに怒られなくて済むよ』なんていってた。
俺には、3つ違いの弟がいた。お袋は俺には「お兄ちゃんだから我慢しなさい」なんて一言も言わなかったと思う。 でも、甘えるの我慢してた記憶はたくさんある。3歳ながらに「弟はまだ赤ちゃんなんだから」っておもってたんだよなぁ。 親父は出張が多くてほとんど家にはいなかったな。 俺が小学生なって初めての運動会の朝、お袋は「○○君(俺)がんばってね!お母さん、△△(弟)とお弁当持って見に行くからね!」って 送り出してくれた。 それが、最後の言葉だった。 お袋は自転車の後ろに弟を乗せ、カゴには俺の大好きなものばかり詰まった弁当を乗せて、俺の初めての運動会を見に行く途中 信号無視したトラックにはねられた・・・。 小1の頃の記憶は、ほとんどない。 「お母さん。お母さん。お母さん。お母さん。お母さん。」 もっともっと、甘えればよかった。 弟が乳を飲んでいる時にも、「もう片方のひざはぼくのモノ〜」って甘えればよかった。 もっともっと甘えたかった・・・。 今日の午前2時55分、俺は親父になりました。 ちゃねらー歴はずいぶんだが、初めて来た育児版でふと目に止まったこのスレ。 俺は、嫁と娘を全力で一生守ります。誓います。 お母さん、けんじ、どうか天国で見守っていてください。
「死にざまを見せてやる」伊外相、人質の最期を詳述
フランス公共ラジオによると、イタリアのフラティニ外相は15日、
イラクで「カタイバ・ムジャヒディン(戦士大隊)」と名乗るグループに拉致、
殺害されたファブリッツィオ・クアトロキさんの最期の様子を明らかにした。
外相によると、クアトロキさんは短銃を突きつけられると、
頭にかぶせられた袋を外そうとし「イタリア人の死にざまを見せてやる」と叫んだという。
カタールの衛星テレビ、アルジャジーラに届けられた映像に基づく情報とみられる。
また外相は同日、国営テレビで、残る3人の人質を解放させることは極めて難しいとの認識を示した。
http://www.sankei.co.jp/news/040415/kok096.htm 侍に国境無し・・・・゚・(ノд`)・゚・。
114 :
日出づる処の名無し :04/04/16 00:10 ID:A9csbX+T
小中高、歴史教育の体験 2時間目
http://tmp2.2ch.net/test/read.cgi/asia/1076668881/ より
218 名前: マレーの虎猫 投稿日: 04/02/21 01:00 ID:+yKITbmt
俺の爺さんは支那で野営中にゲリラの襲撃を受け殺されたらしい。
結婚式を済ませると同時に出征。新妻だった婆さんやまだ生まれていないお袋
への思いを綴った手紙が残っている。
戦死したと思われる時間に爺さんの魂が家に戻って来た時の話を婆さんは良く
聞かせてくれる。
真っ白な軍服を来た爺さんが、音もなくスゥっと引き戸を開けて家の中に入っ
て来て労る様な優しい眼差しで、身重の婆さんを見つめていた。
何か言いたそうな雰囲気だったので、婆さんが話しかけると悲しそうな表情と
なり仏壇の中に入っていったそうな。
戦死公報が届いたのはその数日後。爺さんは何を言いたかったのだろうか?
新妻とまだ見ぬ子を残して立たねばならなかった爺さんの胸中を思うと、泣け
てくる。
皆様、マラッカ海峡ってご存知でしょうか? 世界銃にいくつかある国際海峡の一つです。場所はご自分で地図で調べてください。 だいたい、シンガポールからオーストラリアのポートダーウィンに向かって 視線を走らせれば、確実に見つけられると思います。 ここ、国際海峡なため各国の船の通過が自由です。しかも回りの国は政情不安。 ですから、今の時代なのにやたらと海賊船が出没する事で有名です。 その、いまどき珍しい日本船籍の貨物船も運悪く海賊に目を付けられてしまったのです。 気がついたときにはそうとう近づかれてしまっており、もう引き離せません。 無線室が運良く近くを航海中の何処かの国の軍艦と交信でき、 助けを呼ぶ事だけは出来たのですがもはやどうやっても間に合わない、そんな状況でした。 取り敢えず、日本人船員達と外国人船員達があまり効果は無いとはいえ、 何もしないよりはマシと船の後部甲板から高圧の放水を行い、 海賊船を引き離そうとしますが、そこは向こうも慣れた者、やっぱり上手く行きません。 遂に乗り移られるか、と思ったその時、突然海上に威嚇射撃の砲声が響き渡りました。 同時に、海賊船の後方から物凄いスピードで何処かの軍艦が走ってきます。 当然の事ながら海賊線はその場で遁走、貨物船は無事に済みました。 件の黒い船は、見事な操船で貨物船の横から等距離にならぶと、 (偉く古臭いデザインの軍艦だったそうです) サーチライトを使った和文モールスで「無事か?」と聞いてきました。 無論、助けてもらったおかげで被害は一切有りません。 「無事だ」と返信すると、艦橋の上にいた人間が敬礼してきました。 貨物船の艦長、取り敢えず敬礼を返しますが何か変だと言う気分が抜けません。 その船はあっという間に加速すると貨物船を追い越していきました。 ………船尾に旧帝国海軍の軍艦旗である旭日旗をはためかせながら。 何処かの国の軍艦の悪戯だったのでしょうか?それとも………。 でも、前の戦争の英霊達が見るに見かねて助けてくれたと信じたい気がします。
>>113 。゚・(ノД`)人(´Д`)人(Д` )・゚。
・・・・しかし先の大戦でもその気合を見せて欲しかったでつ
117 :
日出づる処の名無し :04/04/20 23:21 ID:tX4UMVEy
・゚・(つД`)・゚・スレが伸びないけど保守
118 :
:04/04/24 14:25 ID:WtL3fi0y
保守させて頂きます。
119 :
日出づる処の名無し :04/04/26 20:48 ID:wWjFG2io
やべー、泣いちゃったよ
このスレいいねぇ。・゚・(ノД`)・゚・。
122 :
日出づる処の名無し :04/04/26 21:53 ID:NBmXhw3w
兄が玉砕したと聞いた時の驚きと悲しみは、私の全身の血を停止させ、足腰の力が急に抜けてしまった 老いた父母になんと報告すべきか? その悲嘆を想像するだけで私は動転した あの頑健な兄が戦死するとは・・・・・ 神仏すら軽蔑したくなる内面の空虚な痛手 これは二百八十万の遺族だけが体験した無残非情な、終生忘れることの出来ない深い心の苦悩であった 父は兄に家業を継がせようと手塩にかけて愛育した 落胆は余りに大きく、急に物言わぬ人に変わった 母は人陰に隠れて泣く事が続いた その年の夏 「陸軍伍長井上総一 昭和19年12月31日、ぺリリュー島○○地点において戦死確認」の公報が届いた 巷間で噂される通りの一枚の紙片であった 遺骨も無く、誰が末期の水を取ってくれたのやら、遺言があったのか 形見の品は遺されていたのか 何でもよい、最期の模様が知りたいのが肉親である やはり戦死した場所を見て、遺骨を拾ってみなければ諦めきれないのだ 戦死の公報受領後、旬日にして芝の増上寺において遺骨の引渡しを受けた 白木の箱に納められた兄の変わり果てた姿を見た父は、嗚咽しながら 「ご苦労さん!お帰り・・・」と白木の箱を撫でた 生きて帰った息子の肩を撫でるように・・・・ 私は翌日、白木の箱をそっと開けてみた 中にはお粗末な位牌が入れてあった 「ぺリリュー島血風録」より
123 :
日出づる処の名無し :04/04/26 22:22 ID:MVd9trQX
>>122 >>神仏すら軽蔑したくなる内面の空虚な痛手
「夏子の酒」という酒造メーカーの漫画の番外編に「奈津の蔵」という
主人公のお祖母さんが若い時の話があるんだけど、酒造りに情熱を
傾けた夫が出生して戦死、その夫が残して言った娘も麻疹に罹り
病院にいったけど(空襲のせいで)治療が間に合わなくて病死して
しまう。
そして戦争が終わったあと蔵の中で神棚の松尾様(酒造りの神様)を
「夫を助けられなかった情けない神だ」と罵るシーンを思い出した。
(その後、我に返って詫びるのだが)
124 :
日出づる処の名無し :04/04/27 00:02 ID:FyNpySrN
627 :名無し三等兵 :04/04/21 20:40 ID:???
>>584 昭和20年7月編成 うちの町の国民義勇隊装備兵器(武装解除記録より)
・30年式 村田式各種教練銃
・ピストル各種(隊員私物)
・スナイドル銃
・エンフィールド(エンピール)銃
・シャスポー銃
・各種火縄銃
・日本刀 槍類
・竹槍
・各種手榴弾 火炎弾(手製含む)
・・・日本は最終的に戊辰戦争の頃まで退化していたようで
つーか、弾薬はどうするつもりだったんだろ?
別の意味で泣けてくるよ・・・・
ウヨの、ウヨによる、ウヨのためのスレッド。 糞スレだな。
126 :
日出づる処の名無し :04/04/27 03:03 ID:irEcdY69
>>125 虫除けのお約束だが、
お前のいう「ウヨ」とやらの定義を語ってみそ?
127 :
日出づる処の名無し :04/04/27 03:16 ID:jJHjBOj1
ウヨ虫どもが必死にマスをかいてる駄スレはここでつか?
引き続き、泣ける話をどうぞ。
バカサヨは2ちゃんで現実逃避
130 :
日出づる処の名無し :04/04/27 19:20 ID:oqDpneyn
良スレ
131 :
日出づる処の名無し :04/04/27 19:31 ID:5dC1UCz4
俺の「ウヨク」定義 ネットでしか発言せず、行動に移せない 犯罪者は兎に角在日、そのソースすら出せない・・・誰か見せてよ。・゚・(ノД`)・゚・ 懐古主義、日本美化、脳内は未だにバブル最盛期、現代日本が抱えている問題を殆ど語らない 左翼=売国奴だと思ってる 731、南京は確証も無いのに無かった 朝鮮半島の歴史をろくに知らないくせに、半島を馬鹿にする まともな人も居るがな
132 :
日出づる処の名無し :04/04/27 19:58 ID:CKg4bJYf
>>131 ほとんど右翼思想と関係ない項目に思えるのだが?
133 :
日出づる処の名無し :04/04/27 20:01 ID:iu2fPKVZ
>>131 なんつーか、批判したりするのは個人の自由だが、
そのための基礎素養というか教養というか、
そういうものが欠如してると、それは単なる煽りですぞ。
見ていて見苦しい。
134 :
日出づる処の名無し :04/04/27 20:23 ID:odaga8KW
南洋のパラオ共和国。 古くから親日国として知られ、国旗は日の丸をモチーフにしたものを 使っているほどである。ただし「白黒にすると本家、日の丸と区別がつかない」 という実に遠慮深い理由により、円は少し中央を外れているが。 島嶼国家ということもあり、この国には真珠のような美しい島がいくつもある。 そんな島々にも戦争中はご多分に漏れず日本軍が進駐していた。 その島に進駐していた海軍の陸戦隊は学徒出身の隊長のもと、住民たちとの 摩擦を避け、作業に住人を駆り出す時も必ず代価を払い、よき隣人として 和気藹々たる戦地生活を送っていた。 中でも住人たちに喜ばれたのは音楽の心得のある兵隊による唱歌の演奏で、 そのうち、島の人々も「ふるさと」「さくら」などの曲を歌えるまでになった。 しかし戦況は刻々と日本に不利な情勢となっていき、この島にも米軍の襲来が 避けられない情勢へと変っていった。 島の若者達は相談して、ある夜、日本軍の守備隊長を訪ねた。どうか我々も仲間として あなたたちと一緒に戦わせて欲しいという志願のためだった。 その話を聞いた隊長は日頃の温顔もどこへやら、みるみる内に怒色を満面に浮かべ 机を蹴り倒して吐き捨てるように言った。 「我ら帝国海軍の軍人が、貴様ら如き未開の土人どもと共に戦えるか! 貴様らなど戦の邪魔だ。3日の猶予を与える。パラオ本島に出て失せろ!」 あれほど日本人は東洋融和の仲間だと言っていたのに見せかけだったのか・・ 島の人々は悔し涙を流した。 いよいよ島を去る日、桟橋にとぼとぼと集まった住民。当然ながら兵隊たちは 誰も見送りになど来ない。 悄然と船に乗り込み、船が陸地を離れたそのとき、どこからともなく砂浜に たくさんの日本兵達が現れた。 「ウサギ追いしかの山!小鮒釣りしかの川!」と歌いながら千切れるほどに戦闘帽を 振る水兵達。そしてその先頭にはあの守備隊長が。満面の笑みで歌いながら帽子を 振っていた。 島の人々はその時に気づいた。あの夜の言葉は自分達を生かすためのものだったのだと。 2週間後、米軍の海兵隊は周辺地域に殺到。224名の日本軍は全滅した。
135 :
日出づる処の名無し :04/04/27 20:27 ID:lSgCy7Ej
>>135 よそでやれ。
以下スルーでお願いしまつ
137 :
日出づる処の名無し :04/04/27 20:43 ID:UF4sZiSR
どれも泣けるが、
>>110 がいちばん泣ける。
ちょっと気恥ずかしい・゚・(つД`)・゚・。
138 :
日出づる処の名無し :04/04/27 21:04 ID:1BqrAa8/
>>134 くそ、涙が出ちゃったじゃないかよ・・・。
>137 どれも感涙ものだけど、アテクシも「マーチより」に・゚・(ノД`)・゚・。 一番身近な話だからだね。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
144 :
日出づる処の名無し :04/04/27 23:51 ID:8v6qGhy/
>TrbWvhfe よそでやれよ、朝鮮人。
145 :
日出づる処の名無し :04/04/28 03:20 ID:lcfpVxMF
1
>>110 が泣ける???
ほのぼのとしたいい話だけど。。
泣ける話ではないかもしれないが、カキコ御免。 昭和30年5月、ソ連のハバロフスク強制労働収容所へ連行され、強制労働させられて いた日本人捕虜達のところに、社会党の野溝某代議士他5名が訪れ、代議士らは彼らに 「諸君らの帰還について、できる限りのことをする。」 と話をした。 それを聞いた日本人捕虜達は 「我々は、帰りたいのは山々だが、北方領土と我々の帰還を交換条件にするような ことだけは、断じてしてくれるな。」 と頼んだという。 「たとえ身は異国の土になろうとも、不正に寸土も奪われてはならない」 これが敗れたりとはいえ、日本人捕虜達の共通の願いであったそうです。 漢たちの意思を無にしてはならない。 竹島しかり、尖閣諸島しかり…。
148 :
日出づる処の名無し :04/04/29 01:03 ID:dtZkERCU
>>417 イラクの三馬鹿(+二人)とはえらい違いですね・・・。
《祖国の為に戦った者の最後の言葉》 「この世に生を享けてからの慈しみは、どんなに感謝してもしすぎることはありません。 その御恩に報いようとする途中、こういう最後となり、先立たねばならなくなったことを 許してください。しかし僕は必ず霊魂となって日本へ帰ります。懐かしい故郷へ、 あなた方のもとへ、きっと帰らずにはおきません。帰ったら、あなたがたや兄・妹たちを 見守り、一所懸命に幸せに導いてあげることができるでしょう。 われわれは立派に戦いました。私は皇国のために日本人の栄光と名誉のために、 軍人としての道を正しく遂行しました。どうぞ御安心ください。私の死 を悲しまないでください。長生きしてください。−略− 最後に私は「天皇陛下万歳」とつけ加えた。この六文字は祀られるための門鑑とも いえただろうし、自分は戦死するんだ自分に言い聞かせることばでもあった」 「ペリリュー島の収容所を離れ、舟艇に乗せられて港を出た時のことを私は忘れない。 はるか去りゆく海上にポツンと見える玉砕の島アンガウル。そこに多くの戦死した戦友を 憶い、敵上陸から単身斬り込みにいたるまでの経過をまざまざと思い浮かべた。 飢渇に悶えながら壮烈な死を遂げた戦友たちに、『必ずもう一度帰ってくる』と約束したのも この時である。同時に、国を守るために死を賭して戦った彼等の心情と、その最後を故国の 人に伝えさせるべく、彼等はその報告者として私を生かしてくれたのだと感じた。自決した者、 殺してくれと哀願した者、自ら戦車の下に跳び込んだ者、・・・・・・彼等は決して一片の 『司令官の感謝状』のために死んでいったのではない。みな故郷を想い、両親・家族の 安全を願って、敢えて死んでいったのである。
繰り返して言おう。戦後、過去の戦争を批難し、軍部の横暴を痛憤し、軍隊生活の 非人道性を暴き、戦死した者は犬死であるかのようにいう論や物語がしきりに出された。 わたしはこの風潮をみながら、心中こみあげてくる怒りをじっと堪えてきた。 やっと今、この記録をだすことができるに当って、私は心の底から訴えたい。 戦死した英霊は決して犬死をしたのではない。純情一途な農村出身の多いわが アンガウル守備隊のごときは真に故国に殉じるその気持ちに嘘はなかった。 彼らは、青春の花を開かせることもなく、穢れのない心と身体を祖国に捧げ、『われわれのこの 死を平和の礎として、日本よ家族よ、幸せであってくれ』と願いながら逝ったのである。 徒らに軍隊を批判し、戦争を非難する者は、『平和の価値』を知らない人である」 船坂弘著「玉砕の島アンガウル島
151 :
日出づる処の名無し :04/04/29 20:45 ID:74/Bc2+j
>>147 かっこよすぎ。ていうか普通?
今のJAPANがおかしい
152 :
日出づる処の名無し :04/04/29 20:53 ID:pasTVwK8
>>151 普通か?
お前、自分が今死ねば竹島返してやるって言われたら死ぬか?
>>152 その比喩は変。
死と引き換えにした訳じゃないし。
154 :
日出づる処の名無し :04/04/29 21:08 ID:pasTVwK8
>>153 じゃあ、シベリアで15年くらい強制労働したら返してやるって言われたら行く?
死ぬかもしれないし、帰ってこられるかもしれない。
まあ、70%くらいは死ぬとしたら行く?
>>154 その喩えも変。
土地の代わりに命 じゃなくて、
命の代わりに土地 の例にしないとな。
>>154 素晴らしい個人主義の持ち主のようですね(プ
157 :
151 :04/04/29 22:43 ID:74/Bc2+j
>>152 捕虜だったら同じ事を言いたい。
同じ境遇にならないと気安い事は言えないが
こう言うべきだと思う。
158 :
日出づる処の名無し :04/04/30 01:04 ID:jdmpy2ka
叱咤されたID:lSgCy7Ejが140から143まで ●を書きまくって暴れたものの、あぼーん処理されてしまったと知った時の 八つ当たりは、一体誰にしたんだろうか、と興味津々な現在。
159 :
日出づる処の名無し :04/04/30 01:10 ID:9uUfUSwI
火病ではないかと思われ。
160 :
名無し :04/04/30 02:51 ID:OMXeUYCg
>>103 俺、稚内にある碑を見たので、この話自体は知ってたんだが、先日靖国の遊就館に初めて
行って、彼女らが軍属として祭られてるのを見て驚いたよ。
遊就館へ行って驚いたのは、若い娘さんが一人で展示物を丹念に 見ていたこと。 逆に朝鮮風の若者が団体でガヤガヤ通り過ぎていったのには閉口した。
163 :
160 :04/04/30 04:09 ID:OMXeUYCg
>>161 俺が行った時は、年齢的に昭和1桁後半生まれと思われる、7、8人の団体が酷かった。
隣の展示室にいる連れを大声で呼んだりして、もう周囲で静かに見ている人からは大顰蹙
を買ってたのに、本人らは我関せず状態・・・。
また、旦那が奥さん説明するんだけど、これがまた滅茶苦茶。いくら戦争経験者とはいえ
終戦当時の子供なんて、戦後生まれよりも知らない事が多いんじゃないかと思ったりする。
>163 終戦当時子どもだった人は、子どもなりに「戦争」を知っているだけで それは仕方ないと思う。 ただ、そういう人たちは「戦時下の悲惨さ」をよく知っている。 ご飯が食べられなくてひもじかったこと、空襲が恐かったこと、学校での 勉強はどんなだったかなどなど… 私は残念ながら遊就館には行ったことがありませんので、展示室にどのような ものが展示されているのか知りませんけど、恐らくそこでは見られない、語られ ないことを教えてくれるのが終戦当時子どもだった人たちだと思います。 まあ見学する態度がなってないのはいただけませんが。 スレ違いスマソ
165 :
日出づる処の名無し :04/04/30 17:29 ID:5UK9bmTE
昭和1桁後半生まれというと モロにバブル期におっさんおばはんだった世代 ウルサイのはまあ、どうしようもねえな
166 :
日出づる処の名無し :04/04/30 19:25 ID:MINmYGe+
>>165 食わせてくれなかった、着飾らせてくれなかった、恋愛させてくれなかった、進学させてくれなかった、
と、ありとあらゆることに不平不満タラタラ。せめて我が子には、と甘やかすだけ甘やかし、バカ餓鬼を
量産した。その餓鬼が所帯持つとなると、アイカタに対して「私の若い頃はそんなこと」とグチグチ垂れる。
ほぼ、人生錯乱状態の「くれない族」
ヒトケタの餓鬼で、祖父母が身近に居なかった奴は、マジで可愛そうだと思う。
167 :
日出づる処の名無し :04/04/30 19:46 ID:uDh26N19
>>166 俺の両親はちょうどその世代だが、田舎のせいか
そんなことはなかったなぁ。
学校で教師に殴り飛ばされ、その後教師の連絡によって
親に殴られるという厨房時代だったが(w
親も教師に「悪さしたら遠慮なくビシビシやってください」と
言っていたくらいだし。
教師に殴られたなんぞ親知られたらその倍は親に殴られた。
体罰とかが問題視されるようになったのはもっと後の世代だと
思っているんだが、これは田舎という事情があるかも知れん。
雑談スレ化してんぞー
/⌒ヽ /。゚´Д`゚)゚。 | / すいません、なきながらとうりますよ | /| | // | | U .U
187 名前:_ 投稿日:02/01/18 09:27 ID:sT4W+oO/ 98仏W杯のクロアチア戦だったと思うが、日本の予選敗退が決まった時、 勝利に喜ぶクロアチアのサポーターに対して、日本のサポーターから 「決勝リーグ進出おめでとう。同じリーグを戦った戦友として、 日本は、クロアチアの今後の健闘を祈ります」 というような英語の横断幕が張られた。 そして、日本側から 「クロアチア・ちゃちゃちゃ クロアチア・ちゃちゃちゃ (拍手)」 というエールが送られた。 期せずして、クロアチア側からも 「ニッポン・ちゃちゃちゃ ニッポン・ちゃちゃちゃ(会場全体が大拍手)」 という状況になった。 自分は当時も今もヨーロッパ在住の身で、ユーロスポーツTV(英語版)で 観戦していたんだが、司会者とコメンテーターが、 「何と感動的なシーンなのでしょうか。長年W杯を観戦していますが、試合後に これほど胸がいっぱいになったのは初めてです!」 「本当にその通りです。試合後に両チームの健闘を称えあう、これこそが、 W杯が目指しているもののハズです。なんて素晴らしい・・・(嗚咽)」 自分もその言葉に泣きました。イタリアやドイツにはクロアチアからの 移民が結構すんでいるんだけども、今だにこのことを覚えてくれている人もいる。 この日本人の潔さというか、清々しさを愛してくれているのは、ポーランド人 だけではないよ。
281 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2000/11/18(土) 02:47 275とは違うが2年前旅行先での駐屯地祭で例によって変な団体が来て私はやーな 気分。 その集団に向かって一人の女子高生とおぼしき少女が向かっていく。 少女「あんたら地元の人間か?」 団体「私達は全国から集まった市民団体で・・・云々」 少女「で、何しにきたんや?」 団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる・・・云々」 少女「私は神戸の人間や。はるばる電車のって何しにここまで来たかわかるか?」 団体「・・・・?」 少女「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や。 寒い中ご飯作ってくれて、風呂も沸かしてくれて 夜は夜で槍持ってパトロールしてくれたのもここの部隊の人や。 私は、その人たちにお礼を言いに来たんや。 あんたらにわかるか? 消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が。 でもここの人らは歩いて来てくれはったんや・・・・」 最初、怒鳴り散らすように話し始めた少女は次第に涙声に変わっていった。 あまりにも印象的だったのではっきり覚えている。 団体は撤退。 彼女は門をくぐった時に守衛さんが彼女に社交辞令の軽い敬礼ではなく直立不動のま ま敬礼していた。
初見だが
>>170 いいねぇ・・・・・。
どこぞの腐れ半島ミンジョクとは出来が違うわ、やっぱ。
帰還船はサルミ沖に停泊して汽笛を鳴らした。夢にまでみていた汽笛を聞いて これは夢ではない、本当であると確認すると、うれしさが体中をかけめぐった。 昭和21年6月4日午前8時。三年間住み慣れた八紘山南麓に決別した。 なだらかな坂をゆっくり下りて、手塩にかけた緑の農場に立つと何十万本と 数知れない芋が私を見つめてほほえんでいるように見える。 「ありがとう。君たちのおかげで、生きて日本に帰れる。ほんとうに有難う」 私は深々と農場の芋に最敬礼した。 悲喜こもごもの心境で海岸に出ると、帰還者はサルミ埠頭へ黙々と前進している。 着のみ着のままの兵隊の脛は細くやせこけて見えるが歩む足どりには力があった。 爆弾で折れた椰子の根本で、今死んだばかりの兵隊がいた。戦友は手で砂を 浅く掘り、横たえた死体に砂をかけている。 「今乗船というのに死ぬ奴があるか。穴掘って埋めるにも今どうにもならないよ。 砂の上でがまんしてよな」戦友の声は悲痛である。今日の日まで戦友同志は同体の 気持ちで生きようとしている。頭はまさにマラリヤでやられていたが、魂は日本に 帰っていると思った。私も静かに合掌した。 検査場に入る前、集まった師団将校は二列横隊に整列して、師団長の決別の挨拶を 受けた。 「・・・戦いが敗れたりと云えども、幸いにして諸官を送還出来ることを喜ぶ。 今後に於いて、日本復興のため生命を捧げてほしい。余は全責任を負ってここに残る。 幾万の死んだ戦友と共に、はるか南溟より諸官の活躍を祈ってやまない。諸官、さらば」 田上師団長、今田参謀長、国分経理勤務部長らは、指定の戦犯要員収容所へ静かに 歩み去って行く。涙でかすんだ私の眼は、その後姿を彼方に消えるまで追っていた。 富谷太一著「ニューギニア最後の死闘」から
この良スレ、あげちゃまずいの?
まずいよ。あげると左巻きから下らない中傷を受けるから、 折角の良スレがあれる。
>>173 切ない・・・・・・゚・(つД`)・゚・
>>170 たしかwcup98では日本がサポーター賞もらったはず。
シュケルが得点王だったから、かなり記憶に残ってる。
アッツ島の山崎部隊玉砕後、北の防衛第一線となったのは千島の最北端、占守(シュムシュ)島と 幌莚(パラムシュル)島には民間人の男女工員1200名がいた。 その占守の国端岬にソ連の歩兵部隊が上陸を開始したのは終戦日後の8月18日未明であった。15日の 玉音放送で、敗戦を知りがっかりもしたが、(玉砕せずに帰れるか)とほっとしたとたんに18日の未明 の上陸である。 幌莚島の司令部では降伏が決まっての後のソ連軍上陸だから、最初は司令部の意見も和戦両様に 分かれていた。しかし、占守島には女子を含む1200名の非戦闘員がいる。降伏となれば、この女子ら に対して、敵兵の暴行が行われることは目にみえていた。これをどうするかとなった時、司令官堤中将の 「兵を千日養うは、一刻の非常に役せんがためで、非戦闘員を保護するのが軍の責任である。」 の一言で、すべてが決まった。 たちまち降伏論はふっとんで「ソ連軍を撃退せよ」の師団作戦命令が全軍にとぶ。占守島中部 丘陵地帯に布陣した野戦重砲部隊は、敵橋頭堡に砲弾を浴びせ、米軍上陸に備えて、島中央部の 洞窟内に隠れていた軽戦車は国端岬へ進撃を開始。司令部も、戦闘指揮所を占守島中央部台地に 進めた。日本軍の猛攻に、重戦車、重火気をもつソ連軍も攻めあぐみ、上陸第一夜は国端岬の 海岸線に圧縮され、海中に追い落とされそうにすらなった。 明くる19日、彼我千名を超える戦死傷に、戦闘はますます惨烈となった。突然、戦闘停止命令 が出たのはその午後。「赤軍と関東軍の間に停戦協定が成立した。北千島部隊も停戦せよ。」と と中央からの指令があったのも事実だが、より以上に大きな理由は。前夜に片岡湾にあったあらゆる 船をかき集めて、1200名の非戦闘員を載せて、北海道根室に出発させたからであった。 非戦闘員保護の使命を、完全に果たしたからである。 続く
続き 「国端岬と片岡湾は、直線距離で20キロ余。敵艦隊は、島の中央部にも砲撃を加えているものか、 いんいんたる砲声が聞こえていました。私たちは、闇の片岡桟橋に整列し、その中には、学徒動員 の女子挺身隊員もいて、ハンケチを顔にあてて泣いています。船は11隻よりなく、私たちをのせて 出してしまえば、兵隊さんは玉砕より道がないのですが、それなのに、まだおさな顔の残る 水兵さんは、きりりと鉢巻をひきしめ、我々の間を駆け回って引き揚げの世話をしてくれました。 私は日本人に生まれた幸福を、この時ほど深く感じたことはありません。(この人たちは、 自らの命を捨てて、私たちを守ってくれるのだ)そう思うだけで、泣けてきましたた。やがて 我々が乗船すると、兵隊さんは桟橋に整列して、いっせいに『ご無事で』と叫び、挙手の礼で 見送ってくれました。舟が桟橋をはなれて、その姿が消えかけたとたん、だれが歌いだしたのか 『蛍の光、窓の雪』哀別の唄が、ひとしお冷たさを増した夜風にのって流れてきて、私たちは いっせいに、わんわんと声をはなって泣き出してしまったのを、昨日のことのように覚えています。」 長文スマソ
>>179 その後玉砕してしまったの?
無知ですまん。
>>175 返事ありがとう。でも、こういうスレが上げられないって、言論弾圧だな。
>>180 いや、
>>178 がその内容なんだが現地軍の将兵は停戦後武装解除、シベリア抑留されてる。
途中で書き込み押してしまった(恥
>>183 アリがd
玉砕はしなかったが抑留されたんだな。
185 :
日出づる処の名無し :04/05/06 19:21 ID:V0GoC0SU
黄金厨も居なくなったとこで保守age
ほ
188 :
泣けるフラッシュ :04/05/12 00:48 ID:dwUel97B
新ネタまだー?チンチン(AA略
「私は情報将校としてこの攻撃を目の当たりにしました。同じ日本人の血が流れている者として突っ込 んでくる勇気に涙しました。特攻を見ての衝撃は私の人生を変えました」by Cappy Harda 水平飛行で突っ込んでくるゼロに浴びせる銃弾はありません。フレンドリーファイヤー(同士討ち)を 引き起こします。もう見守るしかありません。これで終わりかと思ったとき波が翼にかかったのです。 ゼロが波間に横転したのです。 私は死んだであろうパイロットに敬礼しそうになりました。しかし、米軍の将校としてそれは出来ま せんでした。と、双眼鏡を覗く監視員が、パイロットが生きている、というではないですか。私は思わ ず撃つなと叫びました。憎悪と恐怖で撃ってしまうのではないか、と恐れたのです。 でも、それは杞憂に過ぎませんでした。パイロットは沈み行く愛機に乗って、米軍艦に敬礼している というのです。そのパイロットを撃つアメリカ軍人はいません。救助してくれと私は懇願しました。も ちろん米軍はそのつもりでした。しかし、パイロットは愛機とともに運命をともにするつもりでしょう 。時間がない。銃で撃って傷つけてでも救うかという意見が出た。その時、パイロットの意識が切れた のか敬礼しなくなった。ボートが出されパイロットが拾われた。驚いた。少年兵だった。 情報将校である私の前に連れてこられた少年航空兵はしくじったことを泣きました。タバコを与え、 落ち着くのを待ちました。しかし、拳銃を貸せと言いました。どうすると聞くと自決するというのです 。それから号泣しました。翌日の尋問も同じでした。鎮静剤を与えました。 三日目、もう生き残ったのだ。これから生きると言うことを考えたらどうだ、と言いました。すると 、存分に生きた、というではないですか。そして、もう一度、生きるなら飛行機を一機くれ、と私に言 いました。何に使う? もう一度、特攻をかける、そして戦友の後を追う。悠久の大義に生きる、と言 ったのです。私は衝撃に震えました。その日から、私はCappy Haradaから原田恒男に戻ったのです。 続く
戦後、私は東京に進駐しました。そして日本のプロ野球を復興させていただいた。高校野球を復興さ
せてもらいました。戦後初めて、後楽園に日章旗と君が代を甦らせました。私の耳には、もう一機、飛
行機をくれと言ったレイテでの少年兵の声が今もあるのです。
生き残った私はイチローを追い、松井を追いかけています。でも、目をつぶるとこの若者と少年兵が
重なります。カモン・ジャパンボーイ。私の誇りだ。by Cappy Harada.
http://bbs.enjoykorea.naver.co.jp/jaction/read.php?id=enjoyjapan_8&nid=812492 190 :peachboy :04/05/19 02:07 ID:feRUjyhW
ID:5z4wVq2Mさん。よくぞ見つけてくれましたた。Cappy Haradaは日本のプロ野球を復興させた男です。
マッカーサー元帥の側近。現在、83歳。まだ元気。昭和24年に後楽園で初めて日の丸を揚げた男で
もあります。当時の観客はみんな泣きました。
それから巨人軍の監督を長くつとめた水原茂をシベリアから奪還。連れて帰ります。そして、あの感
動的な「水原、ただいま還りました」を現出させます。私の父は号泣しました。
それから書くと約束した「NAVER戦記」、編集者の手に渡りました。みなさんのHN勝手に使わせてもら
ってます。「後楽園に日章旗を揚げた男」と同時発売を希望しています。
それからpeachboyは50代ではなく、60代になりました。長文失礼。
おしまい
194 :
日出づる処の名無し :04/05/19 19:43 ID:oKNivbwd
195 :
日出づる処の名無し :04/05/19 23:47 ID:9pxnBOZI
>188 >189 感動したぞ。
196 :
日出づる処の名無し :04/05/20 00:14 ID:85aWKRK0
17日の産経新聞(4面)の「台湾友情」という記事。 【タイヤル族に嫁ぐ】 それは可愛らしい披露宴だった。十二族を数える台湾先住民のひとつ「タ イヤル族」の伝統衣装を身に纏って満面の笑みを浮かべる山田智美さんを 、いつになく緊張した面持ちの新郎、白志雄氏がぎこちなくエスコート する。台湾東部のタイヤル族の小さな村、武塔社の小学校で開かれた 披露宴。新郎新婦は二人の杯が横につながった「アイノミ(合い飲み)」 で、先住民式の“三三九度”。日本女性が初めて村に嫁いできたと聞き 、村中の人が詰めかけた。数年前のこと。雑誌の仕事でタイヤル族の 生活を取材にきた智美さんに会った白氏は「この人だ!」と確信。 白氏の誠心誠意のアタックに智美さんが心を動かされた。 山口政治氏の著書「東台湾開発史」によると、タイヤル族は古くから 「うそをつかず、しかも自分の思いを明らかにしないと罰を受け、毒蛇 にかまれる」と伝えられてきたという。日本統治時代に教育を受けた 白氏の祖父母の話す日本語はいまも流暢だ。 「私たちの心はいまでも日本人。どうぞご心配なさらないで」。こう語り かけた白氏の祖母の言葉に、東京から参列した智美さんの両親の目から 涙があふれた。日台を結ぶ強い絆がまたひとつ生まれた。(河崎真澄)
197 :
日出づる処の名無し :04/05/20 02:12 ID:XcMNe0Yb
某スレから流れてきたマッサージ師です。
幸いにも、実際に大戦を経験された方々に直接触れ合える仕事に付くことが出来、
貴重な体験をうかがう機会を持てることに感謝しながらマッサージをさせていただいています。
>>188 のフラッシュを見て思い出したのですが、
この前、大戦時に整備兵をしておられた方と戦時中の話になりました。
ご本人(以下、Sさん)は、名機・二式大艇を担当されており、
整備の教官(?)のような仕事で内地を転々とされておられたそうです。
特攻についての現場の方々の意見を伺えればと思ったので、少し聞いてきました。
あとは、天皇陛下についての考え方と、靖国についての考え方を少し。
特攻隊員について
あの人(特攻隊員)たちは違う。特別なんです。
普通の兵隊さんがダメというワケじゃないですけど、
肉体も精神も本当に立派な人たちだった。
逆に言えばそういう人で無いと(特攻なんて)できなかった。
その分、良い物を食べて、良い物を着てましたけど、
みんなそれが当然だと思ってたし、それだけの事をしていましたから。
七生報国って言って、当時は七回生まれ変わっても国のために働くって習いました。
みんなそう気持ちで飛んで行ったんです。
198 :
197の続き :04/05/20 02:15 ID:XcMNe0Yb
天皇陛下について 天皇陛下の為にっていう事ではあったんですけど、 それは天皇陛下だけを守るタメに・・・という意味じゃないんです。 陛下は、みんなの代表・象徴で、 私たちは家族のため、友達のため、子孫のために戦ってました。 そういうのを全部ひっくるめて”天皇陛下”だったんです。 靖国について (上の話の関係で)みんな、お国の為に戦って、あそこに戻ってきてるんです。 戦死したら、魂になって靖国に戻ってくる。 国のタメに散った人たちは、死んでからもみんなあそこでお国を見守っているんです。 家族のため、友達のため、自分たちの子供たちのため、 戦って死んで行った人たちがあそこにいるんですから、 国の代表である総理大臣が行ったらダメなんて、みんなを馬鹿にしている。 私の兄も二人、靖国にいます。みんな、あそこに行ってるんです。 という感じでした。 靖国については何人かに伺いましたが、みなさん、同じような感想でした。 (あそこで仲間がお国を見守ってるんだから・・・)という感じで。 しかし話をしていても、やはり明治・大正生まれは性根が違いますね。 立派なエロジジイになっておられる方も、やはり一味違います。 脈絡のない文章になってしまって申し訳ない。 みなさんよりも、この世代の方に触れ合う機会が多いと思いますので、 今のうちに聞けることはシッカリ意見を伺っておこうと考えています。 もし、何か聞いておいたほうが良いことなどありましたら、教えてください。 返答の確約はできませんが、出来る限り伺って参ります。
199 :
日出づる処の名無し :04/05/20 02:25 ID:uM/lcaqS
大感動しました。涙が溢れて溢れて…一気に読ませて頂きました。2チャンの中にこんな別世界があるなんて知りませんでした。皆さん、有難う御座居ました。
>>197 もし中国に行ってた人がいたら南京での実際のところを知りたいです。
・ナンキン大虐殺って戦後10年くらいたってから言われ出したって本当か?
・従軍慰安婦問題をどう思うか(出稼ぎ娼婦だったのではないか?)
・戦後の日本で、反体制的なことを言うとGHQにこっそりつれていかれた
というのは本当か
201 :
198 :04/05/22 00:37 ID:ZxjdaKCT
>>200 これも患者さんで、南京で衛生兵してた人がいたよ。
その質問に関しての答えじゃないけど、
「南京、虐殺とかあったって言われてますけど、大丈夫でした?」
「うん、全然平和」
「へ、平和ですか?」
「楽しかったよ」
とのこと(w
唯一の心配は便衣兵のゲリラ活動だったそうで、
「あいつらはイカン」とご立腹でした。
ちなみに病院自体は
前線より負傷兵が送られてくるので大変だったそうです。
202 :
197=198 :04/05/22 00:46 ID:ZxjdaKCT
>>200 えっと、追加。
南京大虐殺に関しては、特に何もなし。
てか、上記のとおりです。
「何をいってんだろ、こいつらは」という感じを持たれている印象。
従軍慰安婦に関しては詳しく聞いたことはないですが、
そういう慰安所があったことは確かだし、確かに本土からの女性だけでなく
外地の女性もおったような事は言ってました。
ただ、万が一、世間で言われているように無理矢理つれて来たとしても、
現場の人には知る由もないように思います。
(私たちが、ソープ嬢に入店の理由を聞いても仕方ないように。
うそつく場合もあるし、本当でも証明する手段はないし。)
GHQに関しては、無いんじゃないですかね。普通に考えて。
よほど公職の良い位置におられれば別かもしれませんが、
市会議員程度のレベル(前述の衛生兵さんは市会議員もされておられた)では
そのようなことは無かったようですが。
>>200 蒋介石も否定してるぐらいだからなぁ…歴史的にはまずあり得ないです。
うちの弟が去年出張で南京に滞在していたのだが、 休みの日に南京大虐殺記念館?みたいなところに 行った際に、一つだけ疑問が生じたそうです。 当時の新聞が展示されていたけど、簡体字だったんだって。 まだ簡体字無かったよねぇ。 で、繁体字だと、今の中国人が読めないから簡体字にした 復刻版なのかな?とも思ったらしいんだけど、それにしては いかにも戦争中の新聞って感じに古ぼけていて。 どうにもこうにも、生暖かい気持ちがぬぐえなかったそうです。 どなたか真相をご存じありませんか?
205 :
204 :04/05/22 01:11 ID:wW8C/LW9
あと、赤十字に報告されない「大虐殺」もおかしい、と申しておりました。 お恥ずかしい話ですが、私はそのあたりのことが全然分かりません。 そーゆーものなのでしょうか<赤十字に報告
>>200 ナンキンは、戦後10年というよりも、東京裁判の時に出てきた。
なんせ、ふつうに裁判をやると、広島長崎で30万人殺したアメリカの
方が悪いことになってしまうからね。
>>204 共産党中国建国後は一緒に写真に映っていた人が
いつの間にかその写真から消えている事がよくある
南京大虐殺はホンカツの「中国の旅」以降だよ。1971年の本だっけ? それまでは問題にされたことは無い。 東京裁判でさえ証拠不十分だった。
>>204 俺はその頃の支那に新聞があったことが意外だ(w
最初から一気に読んでしまった。どれもいい話だ。 ・・・けど目が腫れてしまった。これから出掛けるのになぁ(w
なんとなくスレ違いなような気がしないでもないが、とりあえず投下させていただきまつ。 新政府軍が一挙に会津藩の鶴ヶ城を奪取しようと直進を続けた。 その最先頭を走っていたのが、土州藩士中島信行率いる一隊であった。中島信行、のちの初代衆議院議長・ 男爵である。逸りに逸っていた。(中略) 会津藩の弾丸を避けるために、城の前面にある広壮な邸宅を利用しようと考えるのは自然の理である。 「おい、この屋敷に鉄砲をぶちこんでみろ」 中島が隊員に命じた。隊員が5,6発打ち込んでみたが、何の反応もなかった。 「なんだ、空家か」 中島を先頭に、全員がその屋敷に飛び込んだ。人の気配はなかった。広い屋敷だけに、かえって無気味であった。 入ったところがずうっと長廊下になっている。それをどんどん進んでゆくと、奥の間らしいところにぶつかった。 そこの襖を開いたとき、さすがの中島も、 「あッ」 と、息をのんだ。 「隊長、どうしました?」 隊員たちが駆け寄って来たが、かれらもその部屋をのぞくと、そのまま絶句した。 死装束をまとった女が十人ほど、血の海にうつ伏しているのであった。それぞれの黒髪が苦悶の名残のように 長々と畳を這っている。 「他の部屋も調べてみよ」 中島の命令で、兵隊たちは屋敷の中に散った。 続く
中島がそこに倒れている婦人たちを、一人一人顔を起こして、検視して行った。全員見事にこときれていた。 ふと、白い指の動くのを感じた。その方向に眼をやると、年の頃17、8歳の女が、何かを求めるらしく、からだを 少し起こして、手をこちらに差出しているのであった。 (のちに中島はこのときの目撃談を旧会津藩士中林包明に語り、それを西郷頼母は「栖雲記」に書き留めた。) その女性の、血のこびりついた腕の白さが眼にしみた。咽喉に刺した短刀を横にはねたが、頚動脈をはずれたのか、 まだ絶息にいたってなかったのである。中島の足音に意識をとりもどしたか、眼は朦朧として焦点があわないらしい。 微かな声で、 「味方ですか、敵ですか?」 と聞いてきた。咽喉から血の泡が溢れ出てきた。 「見方だ。安心しなさい。」 と、中島が答えた。(本当は中島は敵である)女に安堵の表情が浮んだ。そして指先を這わせて身辺を探り、短刀を 取り出した。短刀の柄に九曜の紋がついていた。中島ははじめてその家が会津藩家老西郷頼母の屋敷であることに気 づいた。 それではこの女は西郷の息女であり、ここに倒れているのは、その母や姉妹たちであろうか。女の傍には七十ばかりの 老武士が、いとも見事に腹を切って倒れ伏している。 女の意思はもう言葉にならぬらしかった。その短刀で自分の首を斬ってほしいというらしいしぐさを、指先だけの 小さな動きでしらせていた。しぐさ完結を現わすたびに、手を合わせる格好をするのがいじらしかった。 中島は奥歯を噛みしめると、その女の短刀を取って、一と思いに首を落としてやった。血がほとばしった。中島は 隊員を集めると、そのまま邸外へ出た。 続く
のちにその女性は西郷頼母の長女細布子(16歳)であることがわかった。そこに死んでいたのは母律子(58歳)以下 西郷家の全女性と一門の家族、総員21人であった。 頼母の妻千重子は、頼母が入城したのち、長男吉十郎(11歳)だけを入城させ、下男下女を諭して避難させると、 母律子の部屋に入って最後の用意を促した。入城して殿様と運命を共にするのは有難いが、幼子をつれてかえって足手 まといになることが心配だから、むしろ自刃して国難に殉じよう、と話し合いができていた。 千重子はやがて自分の部屋に入り、2歳の嬰児季子を抱き、義妹二人とわが子の長女と二女とで水盃を挙げ、時世を 書き残してから、まず三女田鶴子(9歳)を刺した。田鶴子はおとなしく死んだ。しかし四女常磐子(4歳)は本能的に 恐怖を感じたのか、急に泣き叫んで逃げだそうとした。千重子は「あなたも武士の娘でしょう」と抑えて、胸を刺した。 千重子が季子の顔をのぞきこんだとき、このみどり子は、どうしたことか、つぶらな瞳で母をじっと見てから、ニッコリ と笑ったのである。千重子の短刀を握る手がふるえた。 季子を刺すと、長女細布子と二女たき子(13歳)の自害を検分し、それからおもむろに自分に刃を向けた。子供たち に詫びる思いが両腕の力となって、胸深く貫いて前へ伏せた。刃の先が背中に突き出ていた。 義妹の眉寿子(26歳)と由布子(23歳)が後に続いた。 母の律子は隣室で自害した。(中略) この他に西郷邸で自刃した者は西郷家一族の西郷鉄之助(67歳)妻きく子(59歳)、小森駿馬の祖母ひで子(77歳) 妻みわ子(24歳)長男千代吉(5歳)妹つち子(10歳)妹みつ子(2歳)、軍事奉行町田伝八(50歳)妻ふさ子(59歳) 姉浦路(65歳)、朱雀三番隊半隊頭浅井信次郎妻たつ子(24歳)長男彦(2歳)であった。 この後新政府軍は、かれらが飛び込んでゆく武家屋敷のほとんどが、婦女子や老人たちの自刃の場であり、それぞれの 家風による違いはあれ、静寂の中に凛呼とした気魄を漂わせつつ鮮血の海に倒れ付している死装束の群れに遭遇するこ ととなる。 おしまい 『戊辰落日』より引用させていただきますた。長文スマソ
214 :
泣ける大和撫子の言葉 :04/05/22 22:31 ID:ODysfjbE
曽我さんの会見 今日はこういう結果になりましたけれど、とにかく地村さんと蓮池さんにはこれから家族そろって幸せに暮らして欲しいと思っています。 もちろん今日はイロイロ考えましたけど、私の場合も一生会えないというわけではないので、どこかで近いうちに家族に必ず会えると思うのでその日のために一生懸命頑張ろうと思います。 小泉総理をはじめ政府の方々には、夫の難しい問題もこれからも対処して頂いてよい方向むけて頂きたいと思います。 総理の会見は最初から最後まで見ました。 総理がわざわざ行って会ってくれて、説得してくださったことを本当に心からありがたく思ってます。 今日のこの日をまた新しい出発としてこれから一生懸命やりたいと思います。 どんなに時間がかかっても最後には4人で日本で暮らしたいと思っています。 やはり、父親が向こうに残っていますし20年間向こうで育ったわけですから、地村さんや蓮池さんのように日本に両親がいるというわけではないので、(娘二人は)お父さんを一人残してはいけないという考えだったと思います。
215 :
コヴァ :04/05/22 22:53 ID:bevP8KeI
>>213 何の皮肉か、西郷頼母自身は藩主の命により孝明天皇からの御親翰を携えて城を脱出し、落ち延びる。
日光東照宮の宮司を勤め、明治末に天命を全うした。
216 :
200 :04/05/23 18:11 ID:SUMUvz/y
>>201 ありがとうございます。
やっぱり南京大虐殺ってうそなんですね…
<丶`∀´>これが東京ニダか・・・ (´・ω・`)もうその仮面は外して良いんだよ <丶`д´>えっ!? ・・・ (´・ω・`)おかえり・・・ (´;ω;`)・・・た・・だ・・いっ・・・ま・・・に・・・ほ・・ん・・・
>217 。・゚・(ノД`)・゚・。 オカエリー
219 :
日出づる処の名無し :04/05/24 03:28 ID:iVrHh0nk
>>216 そもそも何か中国が非難されるような出来事が
あるたびに南京の犠牲者(と主張される)が100万
単位で増えていくのをおかしいと思わないと(w
別に新たに何か証拠が見つかったというわけでも
ないのに被害者だけが凄い勢いで増えていく。
個人が激情に駆られれれば10数人を殺せるだろう。
軍隊が狂気に犯されれば数千人は殺せるかも知れない。
だけど数百万単位の人間を殺そうと思えば、激情や狂気
では処理することはできない。
それに必要なのは冷血とも言えるほどの合理主義に
裏打ちされた官僚的システムでなければ適切に処理
することはできないんだよ。
そのためには予算を組み、計画を立て全てを無駄なく
処理しなければならない。
例えば君が南京の司令官だったとして仮に大本営から
南京市民数百万を抹殺せよと指令がきたと想像してみよう。
君の部下も物資も限られているとした場合、君はどうする?
恐ろしくシステマチックに処理しなければ到底任務を遂行
することができないという結論に達するだろう。
たとえ処理する相手が家畜だったとしても数百万を処理する
のは大変であることは容易に想像できるだろう?
ましてや相手は意思をもった人間だ。その遂行にはどれほどの
物資や人員が必要だったか・・・・・・・・
そしてその物資も人員も当時の南京にはなかった。
220 :
日出づる処の名無し :04/05/24 03:35 ID:3FpFOK9R
>>216 南京虐殺は東京裁判で既に出てるだろ
・ナンキン大虐殺って戦後10年くらいたってから言われ出したって本当か?
221 :
泣ける大和撫子の言葉 :04/05/25 01:03 ID:o9I9L/XT
南京つながりで
人物探訪:松井石根大将 〜大アジア主義の悲劇〜
昭和12年8月、第2次上海事変が起きた。上海の難民区で30
万人のシナ人を保護していたフランスのジャキノー神父は、東京日
々新聞に次のように語った。
日本軍は人道上の誓約を守り通して、一発の砲弾も打ち込ま
なかったため、抗日的態度をとるものもなかった。私の永い支
那生活中、今度くらい日本軍が正義の軍であることを痛感した
ことはありません。食料があと二、三日分しかなく、心配して
いたところ、松井大将が一万円を寄贈して下され、非常に感謝
しているところです。[1]
この「松井大将」とは、この後の南京攻略の際に、20万人以上
を組織的に虐殺した責任を問われ、東京裁判で死刑に処せられた上
海派遣軍司令官・松井石根(いわね)大将である。上海で神父に称
えられた人が、続く南京では「20万人以上もの組織的虐殺をした
悪魔」となるなどという事がありうるのだろうか。まさに歴史ミス
テリーである。
松井大将とは本当はどのような人なのか、実際にどのような行動
をとったのか、その足跡をたどってみよう。
ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog081.html
222 :
日出づる処の名無し :04/05/25 10:40 ID:X671GxXb
泣ける話? 家族会を叩く今の日本だ
>>222 家族会を叩いてるのは、例の人質家族を養護していた人達と同じ人達だと思われ。
人質家族養護派の人は、
人質家族批判の件で議論してると、かならず拉致家族会の話を引き合いにだして
そちらを批判するように誘導していたことからも、そうだと思う。
よほど家族会が邪魔なんじゃない?
家族会が邪魔っていうと、限られた人達だよね。
おそらく北朝鮮系の民族団体の人達が集団で書き込んでると思われ。
224 :
日出づる処の名無し :04/05/25 20:35 ID:To3PBGjP
昭和20年11月26日 帝国議会において、冒頭質問から「戦争責任」が採り上げられた。 28日 進歩党の代議士が質問にたった。 昭和15年2月2日に支那事変に対する政府の無策を批判する演説により除名処分を受けた斎藤隆夫である。 昭和6年の満州事変から、軍人が政治に干渉し、その弊害留まるところなく今日の悲運を招いた軍部大臣と 合いまみゆることは陸海軍省廃止と決まった今日、これが最後と思われた。それゆえ、あえてこの機会に、 なぜこのような事態を招いたのか大臣の所見をお聞きしたい…と。 この質問に対し、最後の陸軍大臣・下村定陸軍大将が答弁にたつ。 戦後はじめて、自らが犯した歴史的罪業について、当事者たる陸相が説明するのである。 それこそ満場水をうったように静まったという。 「いわゆる軍国主義の発生につきましては、陸軍内の者が軍人としての正しきものの考え方を誤ったこと、 とくに指導の地位にあります者がやり方が悪かったことと、これが根本であると信じます。 このことが内外のいろいろな情勢と、複雑な因果関係を生じまして、ある者は軍の力を背景とし、 ある者は勢いに乗じましていわゆる軍国主義の発生につきましては、陸軍内の者が軍人としての 正しきものの考え方を誤ったこと、とくに指導の地位にあります者がいわゆる独善的な、横暴な措置を とった者があると信じます。ことに許すべからざることは、軍の不当なる政治干渉であります。 かようなことが、重大な原因となりまして、今回のごとき悲痛な状態を、国家にもたらしましたことは、 何とも申し訳がありませぬ。」 そういって陸相は深く頭を下げた。
225 :
日出づる処の名無し :04/05/25 20:36 ID:To3PBGjP
このあまりに率直な詫びように、議場内には勃然として大きな拍手が沸き起こった。 「私は陸軍の最後にあたりまして、議会を通じてこの点につき、全国民諸君に衷心からお詫びを申し上げます。 陸軍は解体を致します。過去の罪責に対しまして今後、事実をもってお詫び申し上げること、 事実をもって罪をつぐなうことは出来ませぬ。まことに残念でありますが、 どうか従来からの国民各位のご同情に訴えまして、この陸軍の過去における罪悪のために、 純忠なる軍人の功績を抹消し去らないこと、ことに幾多戦没の英霊にたいして、深きご同情を賜らんことを この際切にお願いいたします。」 声涙下る陸相の「過去の陸軍を代表して率直にその過誤を陳謝された名演説」は多くの議員を感動せしめ 粛然となった議場より、もう良い、とやさしく陸相の発言を止めようとする声もあがったという。 2日後の11月30日 内地復員を終えた陸海軍省が廃止、 残務整理と外地からの復員業務のための復員省ができる。 この日下村陸相は宮中に参内、復員が順調に進んでいることと、改めて敗戦のお詫びを奏上した。 8月15日以来背広姿であられる天皇は、この日、久しぶりに大元帥服をお召しになった。 ほんとうにご苦労であった。 と大元帥陛下は勅語を賜り、最後の儀式は終わった。 ただちに天皇は軍服を背広にお召し代えになった。大日本帝国陸海軍は永遠に姿を消した。
226 :
ウォッチャー :04/05/25 21:18 ID:y9Dd+CWi
>>223 >>家族会を叩いてるのは、例の人質家族を養護していた人達と同じ人達だと思われ。
あとアレな、「北朝鮮による拉致は無い→拉致事件は日本の責任、強制連行の補償を!」
と叫んでいた連中な。
政府と世論と家族会を分断して一番喜ぶのはあの連中!
今回の訪朝結果を連立与党は当然としても、共産・社民までもが「評価する」と言っている
のがいい証拠。
勿論民主のナンデモ批判・否定もよくないが。
でも、今の世論とか見てると、大筋の方向性は家族会に対して同情しつつ、小泉支持、という方向で 落ち着きそうな気がする。 これで交渉すべてが打ち切りというわけでなし、最悪よりもマシな結果を引き出している以上、案外 「まとも」な世論は家族会叩きとは方向性が違う、と思う。 むしろ、小泉下ろしの道具としてプロ市民に入り込まれて、同化してしまいかねない状況を危惧したり。 ……で、泣けること? 国際法というか条約を遵守したら、自らの領域さえ守れないわが国の国際的な立場、でしょうか。 旧敵国条項がある現状では、それこそ中国がEEZどころか領海まで調査されても、それに何らかの 実力行使をこちらがしたら、「侵略的(以下略)」という名目で中国の武力恫喝を受けかねない、そして 最悪の場合、あくまで国際条約がバックにあるが故に米国も下手をすると強く出られない可能性が。 ああもちろん、核武装などした日にはやっぱり「侵略的」とされて三発目の核が日本のどこかに落ちる でしょう。
このスレ見てると自分もまだ頑張れると思える。 挫折や蹉跌があってもこの国に生まれて必死で生きていることすら幸せに感じるなぁ。
>227 旧敵国条項って、北朝鮮以外に廃止に反対してる国がいくつあると? あと、国連憲章なんてシロモノは(現状)アメの都合に沿わないときは なんら強制力を持たない空証文だから、そんな気にすることは無い。 ぶっちゃけ日米安保のほうが国連憲章の百倍「重い」。 なんせ国連憲章は背いたところで誰も困りはしないけど、 日米安保に米が背いたら、米は自動的に超大国の地位を失うことになるからね。 核武装などする必要はない。 毅然として実効支配を続ければいいだけの話だ。 政府が強い姿勢に出ないのは、ひとえに票にならないから、に尽きる。
230 :
日出づる処の名無し :04/05/27 06:39 ID:zhKU/Bsj
涙、涙、涙 このスレのPart1とPart2のログ持ってる方どなたかいらっしゃいませんか。 教材に使いたいのです。
>229 ああ、確かに、「重い」。 すべてがすべて「アメリカ様のおかげ」という積もりは無いけれども、日米安保、否、もはや日 米同盟と言い換えてもいいくらいのこの日米関係があってこそ、日本はアジア・太平洋地域にお いて政治・軍事・外交的なフリーハンドを得られていると思っている(そりゃ、確かに日米とい う大枠はあるにせよ)。 ただ、それが無ければ中共あたりが自らの政治的意思を強制するための錦の御旗として、旧敵国 条項を持ち出す可能性もある、と私は思っているし、確か条項の中に、「あらゆる決議に優先す る」という文言が入っており(まあ、United Nationsを「連合国」と訳せばある意味当然ではあ るが)、どんな決議があったところで、実際に削除されない限りはカードとしての有効性は失わ れていない、と思う。 だからこそ、やはり日米安保は大切といえるわけで、貴方の意見には全然同意するわけだが。
>232 どうだろう? 国連は国連自体の武力組織を持たない。 中国は確かに安保理常任理事国の一角ではあるが、 だからといって他国連加盟国の軍隊の指揮権を持っているワケでは、ない。 中国が旧敵国条項を持ち出して日本を恫喝したところで、突っぱねればいいだけの話だ。 「じゃあその論で日本への武力制裁に同意してくれる国がいくつあるのですか?」と返事すれば、 あちらはそれ以上の手は打てない。 なんせ日本の報復力を肩代わりすることになってるアメリカは、 国連憲章無視の常習犯だからね(分担金すら払わねーし…)。 中国の武力恫喝に米が手助けしないとなれば、日本国内では安保破棄と核武装が政治のタイムテーブルに載らざるをえなくなる。 そうなったあとの日本が、アメリカへの失望から中国ブロックに与することは予想に難くない。 なんせ日本は「敵」だったアメリカよりも「裏切り者」だったソ連をより憎むという習性があるワケだし… そうなればアメリカのアジア権益はWW2以前の状態まで逆戻り、ということになりかねない。 総合的に考えて、 旧敵国条項の行使は「カード」としてはもはや有効性を失ってると考えるのが妥当じゃないかな。 廃止はカードになりうるだろうが……。
234 :
232 :04/05/27 13:32 ID:DJ2Ukik9
ええ、大筋では同意です。 ただ、ある意味恐れているのは国連という錦の御旗を得た恫喝を前に、日本政府がチキンゲームを続けられるのか どうか、という点だったり。 そして、そのときまかり間違って韓国のような政局だった時には、と思っただけで。 あと、多分国際連合が続いている間は、日本は永劫敵国のままではないかと思っていたり。
235 :
230 :04/05/27 16:20 ID:zhKU/Bsj
>>231 ありがとうございますm(__)m
私は中学校で国語の教員をやっています。
担任しているクラスで、LHRの時間にプリントアウトしたログを読んでもらって
生徒に感想を書いてもらおうと思ってます。
>>235 GJ!!
と、言いたいけど大丈夫?
どこからともなくその授業を聞きつけた朝目とか朝目とかT豚Sが、歪んだ解釈して晒されてしまうんで
ないかと、老婆心してみる。
237 :
230 :04/05/27 17:40 ID:zhKU/Bsj
>>236 上等です。
教頭はうるさい方ですが、校長はワリと理解があります。
ココを教えてくれた社会科の先生と共同で話としたいと思っています。
ウチにもいわゆるアカの教員はいますが、干渉するなら受けて立ちます。
238 :
日出づる処の名無し :04/05/27 17:53 ID:2S/omwpu
>>20 行幸啓以前は、幽霊騒ぎとかいろいろ怪現象あったらしいけど、
以後はそういう現象はなくなったってね。
>>237 その意気や良し。ちょっと感動した。
子供はまだいないが、正直今の教育に関して大きな不安を感じている。
何も出来ないけれど、心から応援しています。
あなたのような、安心して子供を預けられる先生が増えてくれるのを期待しています。
スレ違いsage。
240 :
日出づる処の名無し :04/05/27 18:05 ID:bRnSo5oQ
>>237 頑張ってください。日本の未来のために。応援しています。
>>237 小学校、中学校、高校とモロに日教組漬けだった俺。
極東板に来て日本人としての誇りを復活させた俺。
がんばれ237先生!俺もあなたの授業を受けたかったよ。
>234 旧敵国条項の削除は、日独の常任理事国入りの前提条件であることは既に国際的理解を得てます。 で、この両国に「拒否権のない常任理事国」の地位を与えることも、 すでに(ぶっちゃけ北朝鮮以外の)加盟国間の共通理解は得られている状況。 この問題が長引いてるのは、「第三世界からも一国入れろ」という要求をどうするか、という点でもめてるんで……
で、ふと思ったこと。 度を越さなければ(というか、家庭でのバックアップは必須だが)、日教組の教育というのはそれはそれで有用なのかも しれない、と。もちろん、指導要綱を逸脱しないレベルでの話だが。 結局、下手に廻りが保守だと、結局団塊世代の二の舞になりかねないわけで。 むしろ、そういう意味では、自分で、自分が納得できるものを見つけ出さないと意味がない、のではないかと。
えーと、ここのスレの方なら知ってるかな。 昔TVで硫黄島の戦いのドキュメンタリーみたいなのやってたんです。 その時、日本人みんなで、潜んでいた洞くつの壁やらに「伝染病発生」みたいな落書きをしまくったという話があったんですが。 日本軍全滅後、上陸した米軍さんたちがそれ見て大騒ぎになったとかなんとか…。 調べたけどよくわからなくて。 硫黄島じゃないのかな。 それとも私の夢? こんな話、御存じの方いませんか?
>244 硫黄島じゃなくキスカ島の話じゃなかったかな。 アリューシャンの島のひとつで、隣のアッツ島守備隊の全滅後 圧倒的な戦力の米海上戦力の隙を見事に突くかたちで撤退作戦が行われ、 二ヶ月後にもぬけの空であることすら知らずに上陸した米軍は同士討ちばっか。 で、病院施設跡に「赤痢患者収容施設」と書いといたもんだから 上陸した米軍ガタガタブルブル……ってぇ話、だったかと。 この撤退を指揮した木村昌福少将、海軍兵学校ではどん尻に近い成績で海軍大学校も出ていない。 平時じゃ将官にあがるなんて夢のまた夢、という経歴だった。 現場の船乗りとして将官にはなれたものの、エリートとはほど遠い立場で このキスカ撤収作戦も半ば「死んでこい」といわんばかりの命令ではあった。 現場叩き上げらしく同僚部下には慕われた木村少将だが、 家庭では「髭が自慢で酒ばっか飲んでる出世下手親父」で通しており 戦後になってこの話が有名になったときに、一番驚いたのは家族だったとか。
246 :
第六天魔王 ◆ODA7WdIm6U :04/05/27 22:13 ID:2jI3lMQp
小笠原と言えば…ブッシュの親父には昔、父島で俺の親戚が痛い目に合わされたな… さーて、近いうちに小笠原に墓参りだ。。
>>245 どうもありがと〜。
硫黄島じゃなかったのね。なんか、どっかと間違えてるな〜と思ってたんですが。
謎が解けてすっきりしました。
「死ぬか生きるかって時に冗談かますのね、日本の軍人さんて」と呆れながらちょっと泣いたんですよ。この話聞いた時。
あげ
戦後のアラビア石油の利権のドラマはいろいろなメディアにとりあげられていますが、その中で山下太郎氏を 取材した記事を投下しまつ。 後のアラビア石油の設立者、山下太郎は1958年アラビアに一大海底油田の発掘権を得て、『あらびあ太郎』の 異名で呼ばれる時代の寵児となった。その山下が、元外相岡崎勝男(後国連大使)と共に、油田の利権を得る ためサウジアラビアのイブソ・サウド王を訪れると『日本はわれわれと同じ東洋人で、東洋の盟主だから』と、 サウド王は利権の供与を約束したのである。 しかし、その油田は、アラビアだけのものではない。クエ−トとサウジアラビアは、国境を接していて、 所有権は、サウジ・アラビアとクエ−トの両国に半々ずつあるから、山下はさらにクエート側の承諾をも得な ければならなかった。 ところがひとたびサウジアラビア側で、山下に利権譲渡の内諾を与えた噂が伝わると、全世界の石油業界は 湧きたった。ロックフェラーと肩をならべる米富豪のハントはみずからのりこんで来たし、スタンダード系の パン・アメリカンの社長も来た。ミノイル(アメリカン・インデペンデント石油会社)フィリップス、バーン ウェル等の米国一流の石油会社にまじって、英蘭系のシェルまでがクエートに代表者を送りこみ、金にものい わせての利権争奪戦が始ったのである。 「なにせ世界一流の大金持ばかりだし、当時はこちらは外貨の枠がきめられていて、宿代を支払えば、運動 費をつかう余地などまったくない。ところが向うでは、それぞれ夫人を連れてのりこんで来ていて、連日王族 の夫人たちを高級車でオアシス(緑地)へ連れて行き、金に糸目をつけぬ贈り物とご馳走ぜめです。ことにク エートは英国の保護領だから、英財閥のシェルの割込みは我々を悩まし、いよいよ明日、十人の王族会議で、 利権をどこに与えるかがきまるとなった晩のときは、岡崎君と顔見合せ、出るものは吐息ばかりでした」 と山下は、当時の苦労を語った。 つづく
さて翌日、まったく望みを失って、うちひしがれた思いの山下太郎を、石油局長が訪れたのである。そして、
「今きまった。おめでとう」
いきなりそう言われても、山下はわが耳を信ずることができなかった。かさねて、
「日本にきまったよ。おめでとう」
局長はそういって彼に抱きつくと、キスの雨を浴せたのである。
日本に数倍する札束を積んでの英米財閥の交渉があったのに、なぜクエートが日本に利権を与えたか? も
ちろん裏には、サウジアラビア王の厚意あるとりなしもあったろうが、より以上に十人の王族の心をゆさぶっ
たものは、スエズ問題以来、とくに高揚された民族意識であった。
「日本はわれわれと同じ東洋人で、顔も肌の色も同じである。日露戦争では大国ロシアを負かしたし、三年間
も世界相手に、立派な戦いをしたでぱないか。われわれは今まで、英米から奴隷扱いをうけたが、今後は日本
を盟主と仰いで手をつなぎ、起ちあがらなければならないから、利権は日本へ」
と、十人の王族が十人とも同じ意見で、満場一致、日本と決ったと聞かされた時、山下の頬をとめどなく涙が
濡らした。いや、山下ばかりではない。岡崎勝男も、同行の日本人たちも、手をとり、抱き合って、声を殺して
泣いていた。
「私は祖国の偉大さと、日露戦争ならびに第二次大戦で斃れた多くの同胞の死が、いかに価値あるものかを、
この時ほどはっきり知らされたことぱありません。アラビアの利権は、一山下に与えられたらのではなく、
神が私を通じて日本国民全体に与えたものだから、私はどんな困難をのり越えてでも、立派に完成してみせます」
と、山下太郎は、感激の血の色を頬に浮べて筆者に語ったのである。
蛇足
http://homepage2.nifty.com/bet-aramaye/politica/yamasita.html こんなのもある。
31 名前:美麗島の名無桑 投稿日:04/03/23 04:31 オレじゃなくて、いやね、ウチの母親なんですよ。母親が台湾に旅行するってんで、お守り持たせた訳ですわ。 母親の入ってる団体の慰安旅行だから別にそんな危ないわけじゃないんですけど、ウチの母親飛行機乗ったことない イナカモンなんで、怖がったから持たせたんです。 お守りっていっても、翡翠の玉(漏れが山で拾ってきて磨いてキーホルダーに加工したやつ)なんですけどね。 で、無事帰ってきたおかんがなんか暗い顔してんの。どうしたの、楽しくなかったのか?ってきくと 「財布落とした」って。台北かどっかのタクシーの車内にうっかり忘れてきたみたいだ、って言うんですよ。 財布はともかく、漏れに貰った翡翠の玉を入れてたのが申し訳ない、ってなんかもう死にそうな顔で あほだなあ、おかんが無事で帰ってきたんだからじゅうぶんなんだっつーの、って言ってもまだ立ち直れないの。 んで、そんなことがあって帰国から10日くらいたった日にね、国際郵便が届いたんですわ。 差出人は台湾のヒト。なんじゃこりゃ、とおもって母親が開けると、そこには落とした財布が入ってたのね。 ついてた手紙には「私はタクシーの運転手だが、台北の駅であなたたちを降ろしたあとに財布を見つけた。 追いかけて返そうと思ったが、もう見つからなかったので失礼と思ったが財布の中身を見させてもらった。 運転免許証を見つけたのでその住所にこの財布を送ります。私は日本語が読めないが、祖父が日本語の 読み書きが出来るので代筆してもらいました」とかあったんですよ。 もうね、アホかと。行きずりの外国人のサイフですよ?ネコババしてもばれないのに、律儀に送り返すって、 どういう人たちなのかと。おまけに、入れてたNT$も全額そのまま。
253 :
252 :04/05/31 00:13 ID:IDDfXXL2
で、封筒には別の包みも入ってて、それには「財布を落としてしまってはお土産が買えなかったのではないか。 とても美しい翡翠の玉が入っていたのであなたは石が好きな人なのだろう。お土産代わりにこれを贈ります。 どうか台湾にまたいらしてください」とかいう手紙と翡翠のブレスレットが入ってたんですよ。 もうね、なんつー人かと。ちょっと書いてて涙出てきちゃうくらい、イイ人じゃないかと。 こんないい香具師がいる国だったらこんどは漏れも行ってみたいなと思ったわけでした。 #で、なんかこの方にお礼をお贈りしたいとおもうのですが、どんなものがいいんでしょうね? #台湾の方(けっこう若かったそうです。30代前半くらい?)に喜ばれるものって何か教えてください。
>>252-253 ・゚・(ノД`)・゚・。
自分も台湾言ったことあります。
道に迷って地図広げてたらおじいさんがかならず声かけてくるんですよ。日本語で。
物売りというわけでもなく。んで台北を案内してもらいました。
「私は日本と中国(国共内戦時)の兵隊に行きました」って言ってましたです。
お土産・・・日本独特の食べ物とかかな?
知り合いの台湾人留学生はハーゲンダッツの抹茶味が好きでしたが。
確か日本オリジナルの味だったはず。
>>252-253 ・゚・(ノД`)・゚・。
>>254 日本オリジナルだと届けるまでに溶けるんじゃ?w
なんか宝石類で返すとか。花言葉みたいに石にも意味があるんじゃなかったっけ?
256 :
252 :04/05/31 01:51 ID:bvQ8JQjO
64 名前:31です。 投稿日:04/04/05 02:17 タクシーの運転手さんに国際便で財布を届けてもらった母親の息子の31です。 どうも、皆様、教えていただいてありがとうございました。 いろいろ母と相談した結果、 ・地元名産の扇子 ・石細工の香炉(うちのじさまがこれの職人なので、事情を話したら一番いいヤツをタダでくれました・・・汗) を、贈る事にしました。あと、中国語でのお礼状。(おかんが辞書と教科書首っ引きで書いてました) 日台の友好がさらに深まってくれれば(すくなくとも我が家ではだいぶ深まった)よいとおもいました。 それでは。
257 :
日出づる処の名無し :04/05/31 11:33 ID:Yvw6E6Gh
本当に泣けます。
>>237 カコイイなー。
地村さんの手記も、機会があれば是非お願い致します。
時事ですし、入りやすいかと思います。今の喜びの影にはこんな歴史があるのだと
あと余計なお世話かもしれませんが、一応全ての出典元を確認してください。 私が高校の時は、なぜか「若貴兄弟の確執」のネット議論の内容について 小論文書かされました。先生、相撲好きだったのかなぁ? こういう授業もアリですね
>>237 「奪還」「家族」を読むことをおすすめします。
現在の日本の病理を理解することができます。
それとあまり戦争賛美にならないように
思想の押し付けと感じただけで拒否反応示す生徒もいるので、
あまり強烈だと逆効果です。
授業中に日本軍はこう言われてきたけど、こんな話もあった、
これも一面では事実です。
というふうにさらっと触れるだけでも、心に残るものは多いと
思うのです。
私の場合徹底した左翼教育を受けてきましたが、
学校で習った南京大虐殺で60万人殺したって話を父にしたとき、
「勝てば官軍ってやつで、なんでも勝った方の言い分が通るんだよ」
とひとこと父が言った言葉、それだけでこれまでの教育の矛盾に
はっと気がついた、という思い出があります。
くれぐれも、生徒に押し付けず、自分で考える機会を与える、
という形が望ましいかと思います。
この話は既出?
台湾の2・28事件のとき、どさくさまぎれに金を掠め取った外省人が、台湾南部へ逃れてくる。それを待ち構えていた本省人が
駅で待ち構えていてそいつをとっつかまえる。その後の話です。
http://www.wufi.org.tw/jpn/yinming228.htm 今はもう、そうでも無くなったのですが、あの頃は一目見れば此れは台湾人か中国人か判る時代なのです。それで改札口を出た
途端に、ウワァーッと皆が襲い掛かった。そうしたらそいつは必死になって逃げた。只そのジュラルミンの箱だけは放さないのですよ。
随分重たそうなやつをですね、駅前広場を一生懸命逃げて、とうとう追い詰められて、殴られて、其処でへたばって仕舞ったのですが、
へたばった其奴に群衆が「そのトランク開けてみろ!」と言うのです。私は皆と輪になって見ていたら、何と、そのジュラルミンのトランク
ぱっと開けたら、それこそあの映画でやっている、あれと同じですよ。銀行強盗の手の切れる様な札束、ずらっーと並んでいる。あんな
光景本当に実物として初めて見たのですがね、其れを、其のトランクを全部ひっくり返して、そうしたら札束が山積みになったところで、
「よし!火を点けろ!焼いちゃえ」と言って誰かがマッチを擦って燃え始めた。
私ね、私の家、貧乏でねぇ「勿体無いなぁ…」と思ったけれど、さすがに同じ様に思った人も居たのですね多分、囲んでいた人や
燃やしていた人にもね、其処で其の人が何と言ったかと言うと、「ここに誰か乞食は居るか?、乞食なら取っても良いぞ…乞食は
居るか?」いや実は、当時台湾は本当に疲弊していまして、街に乞食が沢山居たのです
「乞食は取ってもいいぞ…」そしたらですね、あれだけ沢山居た人の誰一人として手を出さない、誰も手を出さないのですよ。皆そこで、
じーっと燃えて行くのをね、灰になるのを見ていた。私は大分大きくなってから「あれは立派なシーンだったなぁ」と思いました。本当にもう、
あの中のお札の一枚か二枚でも有れば、本当にもう一週間ぐらい何か食えると云う様な、そんな人も沢山居た筈なのに、誰一人手を
出さない。やはり一つのプライドですね、「自分達はそんな泥棒・強盗のたぐいじゃないのだ…と、自分達は大義の為にやっているのだ。」
とそう云うプライドが、その人達には漲っていたと云う感じでした。
台湾つながりでもういっちょ
http://www.geocities.jp/taiwan_assoc/bs02315.html 1、台北市にある「2.28事件記念館」には、戦前の日本による台湾統治が実に素晴らしい善政であり、
それに対して戦後の国民党の支配が非常に残虐なものであったことが、写真等によって対比される形で
展示されているそうです。
廖氏の弁によれば、日本の植民地統治を「善政」として、元植民地だった国が展示しているのは、世界
でもこの「2.28事件記念館」だけだそうです。また、この記念館を作ったのは李登輝時代の国民党政府
ですが、同じ政党が過去に行った圧政を自己批判する展示を行っているのも、世界中でこの記念館だけ
とのことです。日本の台湾統治は善政であった、という”正しい歴史認識”を肌で体感するためにも、是非
とも、この「2.28事件記念館」を見学する必要があると思いました。
2、国民党政府は李登輝総統時代に「2.28事件」の全貌を調査し、事実を国民(台湾人)に発表し、国民
に対して謝罪を行いました。それは実に立派なことなのですが、その後、台湾人はその謝罪によって
「2.28事件」の恨みをすっかり水に流してしまい、国民党政府が謝罪のみ行い、2.28事件の責任者を
一切処罰していないにも拘らず、最近では、「2.28事件」の責任追及といった世論は殆どないそうです。
国民党による謝罪の結果、国民党と台湾人が完全に仲直りした格好となり、台湾独立運動家にとっては、
反国民党の世論が弱まり、実に「拍子抜け」した状況になっているとのことです。商売や金儲けには抜け目
のない台湾人が、以外にも、政治的には、実に”人の良い”面を見せていることに驚きを感じました。
263 :
日出づる処の名無し :04/06/01 02:46 ID:cvFCjxbH
>>261 >やはり一つのプライドですね、「自分達はそんな泥棒・強盗のたぐいじゃないのだ…と、自分達は大義の為に
>やっているのだ。」 とそう云うプライドが、その人達には漲っていたと云う感じでした。
別に日本マンセーするつもりはないが、こういうのが台湾人のいうところ日本精神(ジップンチェンシン)
というものなんでしょうねぇ。
>>223 「富士山麓で鳴く鳥」の名前は?と聞いてみればいい。
これは朝鮮学校では教えてないだろうから。
ちなみにグーグル検索してみても、(この語句では)載ってなかったのが意外。
>>230 >>235 あなたはよい先生だ…!
>>253 これは泣ける。うん。
265 :
日出づる処の名無し :04/06/01 20:09 ID:3XhUonRR
泣けるのか、笑えるのか判断しづらい話ですが 保守ageをかねて・・・・ 南方に従軍していた祖父から中学生の頃聞いた話です。 祖父たちは戦後何度も遺骨収集のために元戦地に出かける申請を出していましたが 治安状況が悪いという事で、許可が出ず(この辺の詳細は失念しました)昭和50年代に 入り、やっと戦友会の仲間と遺骨収集に向かったところ戦争中、多くの兵士が果てた場所 からは全く遺骨が収集できず全て土に還ったか、場所が違うのかと頭を悩ませていると 日本人が来た事を聞きつけた村の人達が押しかけてきて「何某さんは無事か?」「何某大尉 はどうした」と日本語で質問攻めにあったそうです。 戦友会で用意してきた戦没者名簿で、質問された名前を調べ安否情報を伝えると、戦死者 や故人には涙を流してくれ、生存者には安堵し喜んでくれるという状態になったそうです。 その際、祖父たちがその村に遺骨収集に来たが、遺骨が全く収集できないと伝えたところ、 村の人は「日本軍がいなくなってから何度も部族紛争が起きたが神様がこの村を守ってくれた。 神様は日本兵士の魂に違いない。」と一箇所に集め祀られていたそうです。 祖父たちは日本にご遺骨を持ち帰るべきか悩んだそうですが、その事を村の人に告げると 「神様がいなくなるのは困る。日本軍は来てくれるのか?」と逆に問われ、悩んだ挙句「ここまで 大事にされているなら日本に連れ帰るより良いのではないか」と考え、帰国の途についたのですが、 その後は度々その島を訪ね、その度に「連れ帰りたい」「それは困る、なら日本軍は(ry」の押し問答で 「神様になっちゃうと厄介だ」と愚痴をこぼしていました。 その後自分も実家を離れ生活を始めたためこの件の顛末は聞かずじまいのうちに祖父も鬼籍に 移ってしまいましたので、消化不良ではありますが・・・・・・・・
>>265 それは、場所はどこかわかりますか?
なんだか調べてみたくなりました。
>>265 ↓こんなの発見した。もしかして神様になった遺骨というのは、パラオのことか?
ttp://www.jyma.net/imananiwokataran/text/169plu.html パラオの人々が日本を、日本人を同胞とみなし、
英霊を「その土地を守る為に死んだ者は、その土地の神様である」とし、
州法で遺骨の持ち出しを禁じている事情も肯んじるに難く無い。
しかし、過去にも分骨という民俗信仰に配慮した方途と、外交手段による特例により、
ご英霊を祖国にお迎えしている。情報の多寡や現地との外交交渉を疎む事なく、
焦眉の急として収集団を派遣するべきである。
なき昭和帝が大御心を砕かれたご英霊達へ、感謝の誠を尽くす為にも、
そして、その歴史に連なる現在のパラオの人々と私達の未来の為にも。
268 :
265 :04/06/02 10:15 ID:9nXrfKUH
>>266-267 実家を漁れば戦友会名簿はあるかも知れませんが
なにせ聞いたのが20年ぐらい前の話なんで詳細は
全くおぼえてません。スマソ
269 :
日出づる処の名無し :04/06/02 11:52 ID:vGPhfq1P
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。 「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」 沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。 太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。 老人は村の若者達と共にその作業に参加した。 日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。 やがて戦況は日本に不利となり、 いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。 仲間達と話し合った彼は代表数人と共に 日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。 それを聞くなり隊長は激高し叫んだという 「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」 日本人は仲間だと思っていたのに…みせかけだったのか 裏切られた想いで、みな悔し涙を流した… 船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。 村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。 しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。 そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。 先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。その瞬間、彼は悟ったという。 あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・
270 :
違う意味で泣ける :04/06/02 12:18 ID:TyntKLmO
>>270 その時の日本の捕虜収容所の国際的評価が非常に高かったこととかは全く載っていないのなw
泣けるな。 こういう側面でしか素人さん向けの歴史が語られないようでは、「国家間の同盟」というものがどういうものなのか、 わからなくなるに違いない。 その結果、右は隷属といい、左は徒党を組んで以下略といい。
>>65 > 沖縄救援に向かう途上で米艦載機の四次の渡る空襲を受け1945年4月7日14時23分2498名の乗員と共に沈没。
> 東シナ海(九州坊ノ岬沖)水深340m.北緯30度43分.東経128度4分。
> ・・・・・・・合掌
沖縄を救おうとして散った大和や多くの特攻隊の人々が居なければ
我々は本土の捨石となった沖縄の人達にあわせる顔が無かったかも知れませんね。
大和の犠牲も特攻も決して無駄ではなかったと信じたいです・・・。
>273 軍事板の同趣旨スレの過去ログからの転載。 「今日われ生きてあり」は、平成3年、平成4年、そして平成7年に演劇として上演されていた。 原作者の神坂次郎氏にとって印象深かったのは沖縄の公演であった。 以下にその部分を参考文献より引用する。 公演で印象ぶかかったのは、四月の沖縄であった。 五十年前の沖縄戦で約二十三万人の犠牲者を出したこの地では、 住民に集団自殺を強制したと伝えられる旧軍への憎しみは深い。 その沖縄で旧軍の特攻のドラマがどう迎えられるのか、一抹の不安があった。 しかし、沖縄島を救うため死の飛行を断行した特攻兵たちに、沖縄の人びとの眼はあたたかい。 那覇から沖縄市へとつづいた公演は、全席売り切れという大成功であった。 その沖縄公演で、うれしい言葉をきいた。 当時、高女生であったというその女性は、 「特攻隊の突入のおかげで救われました」 という。 鉄の暴風と称われた米軍の間断ない艦砲射撃も、 特攻突入のその時だけは、砲撃はすべて特攻機に向けられる。 女学生たちは、その隙を狙って洞窟から飛びだし、いのちの水を汲みに走った。 「いまでも、特攻の人たちには感謝しています」 と、その老女は涙をにじませる。 沖縄まできて、よかった。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
275 :
273 :04/06/03 06:09 ID:Xpmqv8/0
>>274 ありがとうございます・・・・っていうか更に泣けますよ、これ・・・・(;´Д⊂)
>>258 >>260 思想を押し付けるつもりは毛頭ありません。
今の教育において、事実を伝え「考えさせる」ことが大事だと思っています。
特攻隊員の方々が「遺書」の形で残した偽らざる気持、アジア各国の方が
戦後語った我が国への思い。ソレを伝え、生徒に考えて欲しいと思っています。
生徒が「やっぱり戦争は悲惨だ、どんな形でも絶対にダメだ」と思っても、
それを否定するつもりはありません。
「幾年後の春を思えば」と残された気持を伝えたい、今の繁栄の礎に何があったのかを
知ってもらいたいと思っています。
よい話が沢山あって、なかなか纏めが進みませんが、許可は出たので
(担任の自由裁量の時間ですからワリとあっさりと)
来週のLHRで実施したいと思ってます。
※地村さんのお話は校長先生が訓話で話されたことがあります。
家族の絆と言うようなお話でしたが。
277 :
230 :04/06/03 18:46 ID:Wp5/RiAd
名前にレス番号忘れてました。
>>276 は 230です
第二次上海事変時の津田部隊の第三大隊第十二中隊のある上等兵の談話 ある意味泣けるw `‘ 「大場鎮攻撃の最中、自分は炊事方をひきうけた。幸い米はあったが、おかずがない。戦場に捨野犬がうろつ いて敵味方の死骸を食い荒している。なんとか、栄養たっぷりな、元気のつく食物をと考えていたところへや って来たのが皮膚病で毛もはげちょろけた一匹の野犬。死骸の御馳走で、からだだけはまるまると太っている から、こいつを撃ち殺して皮をはぎ、肉をこまかにきざんだ。ごぼうをむいて肉とまぜ合せ、粉醤油で味をつ けると肉飯ができ上った。皮膚病の犬でも、肉の味には変りがないから、いかにもうまそうな匂いがする。し かし、これを遅ぶ容器がないので、砲弾に崩れ残った中国学屋へはいって捜し回ると、うるし塗りの立派な桶 がみつかった。中まで、朱できれいに塗りあげてあるから (・∀・)コレダ!! というのでこれへ詰めた。 さっそく部隊の進撃の後を追尾したが、行けども行けども追いつかない。自分の部隊に行き当らないのだ。 ひょっとしたら自分が見落したかな。と思ってたら、もう上海の入口。 続く
(引返してみようか)とさまよっていたところへ『おい、貴様なにをしている』と呼びかけたのが、同じ大隊 の上等兵です。『飯を運んで来たんだ』というと『そりゃァ有難い。こっちだこっちだ』と、部隊が小休止し ている場所に案内する。『飯だ、飯だ』というんで、みんな駆け寄った。 『おい、肉がはいってるぞ。貴様、一体なんの肉だ?どうも牛ではないな』 『なんでもいいじゃないか。食 ってみればわかる』 『牛でないとすると馬か。馬なら上等だ』と、兵たちが飯を鷲づかみにしてパクついてい るところへ、連絡兵が帰って来た。『おい、俺にも食わせろ』と、パクついている兵隊の中へ割りこんで、二 口三口夢中で食ったが『あれれ』と言いだした。『どうした?』 『貴様、この飯を、それに入れて連ん で来たのか』と、うるし塗りの容器を指す。『ああ、立派なものだろう。中まで塗ってある』と、自分が自慢 すると『ゲェ!!』といってその兵、手にもった握りめしを放り出すと『貴様、それがなんだか知ってい のか』と叫んだ。自分が『さァ、なんだろぅな。随分、立派なものじゃァないか。多分、骨董品かなんかだろ う』といぅと『馬鹿野郎、そりゃァ、中国人が寝室へもちこむ便器だ』とたんに、みんな『ゲェゲェやりだ したが、腹の中へ入ったものは、どうにもならない。すると『この肉もあやしいぞ』となった。『実は犬だ』 と白状すると『畜生ッ、やったな』と、またしても『ゲェゲェ』が始まる。」 おしまい
当人からしてみたら、昔やった馬鹿話って感じに笑ってもらえれば…ってとこだろうけどね。
>>278 うちの爺さん津田部隊でした。
この話はじめて聞いた。ありがとう!
最初の方から読んで一番泣きそうになった >217 略 ワロタ話 >278 いい話は幾つもあるが 何故か217はくるんだよなぁ…
230先生来てたんだねー。 でも生徒の父兄とかも結構サヨ居たりするから気をつけてね。 陰ながら応援してますよ。
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2003/0308/message1.html 天国のあなたへ 柳原タケ
娘を背に日の丸の小旗をふって、あなたを見送ってから、もう半世紀がすぎてしまいました。
たくましいあなたの腕に抱かれたのは、ほんのつかの間でした。
三二歳で英霊となって天国に行ってしまったあなたは、今どうしていますか。
私も宇宙船に乗ってあなたのおそばに行きたい。
あなたは三二歳の青年、私は傘寿を迎える年です。
おそばに行った時、おまえはどこの人だ、なんて言わないでね。
よく来たと言って、あの頃のように寄り添って座らせて下さいね。
お逢いしたら娘夫婦のこと、孫のこと、また、すぎし日のあれこれを話し、思いっきり甘えてみたい。
あなたは優しく、そうかそうかとうなづきながら、慰め、よくがんばったねとほめて下さいね。
そして、そちらの「きみまち坂」につれて行ってもらいたい。
春、あでやかな桜花
夏、なまめかしい新緑
秋、ようえんなもみじ
冬、清らかな雪模様
など四季のうつろいの中を二人手をつないで歩いてみたい。
私はお別れしてからずっとあなたを思いつづけ、愛情を支えにして生きて参りました。
もう一度あなたの腕に抱かれ、ねむりたいものです。
力いっぱい抱きしめて絶対にはなさないで下さいね。
287 :
日出づる処の名無し :04/06/06 19:41 ID:n5iLhwWf
あげとこっろ
《英米諸国人に告げる》 今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。この深刻な事実は私も固より、 これを認めるにやぶさかではない。しかし、諸君の勝利は力による勝利であって、 正理公道による勝利ではない。私は今ここに、諸君に向かって事実を列挙していく 時間はない。しかし諸君がもし、虚心坦懐で公平な眼差しをもって最近の 歴史的推移を観察するなら、その思い半ばを過ぎるものがあるのではないだろうか。 我れ等はただ微力であったために正理公道を蹂躙されたのであると 痛嘆するだけである。いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、 原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人もしくは数十万人を一挙に殺戮するような ことを敢えて行ったことに対して、あまりにも暴虐非道であると 言わなければならない。 もし諸般の行いを最後に終えることがなければ、世界はさらに第三第四第五 といった世界戦争を引き起こし、人類を絶滅に至らしめることなければ止む ことがなくなるであろう。 諸君はすべからく一大猛省し、自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう 努めよ。
《日本同胞国民諸君》2-1 今はただ、承詔必謹する〔伴注:終戦の詔を何があっても大切に受け止める〕だけである。 私も何も言う言葉がない。 ただ、大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、私は国家の生存と国民の自衛のため、 止むを得ず受けてたっただけのことである。 この経緯は昭和十六年十二月八日の宣戦の大詔に特筆大書されているとおりであり、 太陽の輝きのように明白である。 ゆえにもし、世界の世論が、戦争責任者を追及しようとするならば、 その責任者は我が国にいるのではなく彼の国にいるということは、 彼の国の人間の中にもそのように明言する者がいるとおりである。 不幸にして我が国は力不足のために彼の国に敗けたけれども、 正理公議は厳として我が国あるということは動かすことのできないことである。
《日本同胞国民諸君》2-2 力の強弱を、正邪善悪の基準にしては絶対にいけない。 人が多ければ天に勝ち、天が定まれば人を破るということは、天道の法則である。 諸君にあっては、大国民であるという誇りを持ち、天が定まる日を待ちつづけていただきたい。 日本は神国である。永久不滅の国家である。 皇祖皇宗の神霊は畏れ多くも我々を照らし出して見ておられるのである。 諸君、願わくば、自暴自棄となることなく、喪神落胆することなく、 皇国の命運を確信し、精進努力することによってこの一大困難を克服し、 もって天日復明の時が来ることを待たれんことを。
《日本青年諸君に告げる。》
《日本青年諸君各位》
我が日本は神国である。この国の最後の望みはただ諸君一人一人の頭上にある。
私は諸君が隠忍自重し、どのような努力をも怠らずに気を養い、胆を練り、
現在の状況に対処することを祈ってやまない。
現在、皇国は不幸にして悲嘆の底に陥っている。
しかしこれは力の多少や強弱の問題であって、
正義公道は始終一貫して我が国にあるということは少しも疑いを入れない。
また、幾百万の同胞がこの戦争のために国家に殉じたが、
彼らの英魂毅魄〔伴注:美しく強い魂魄〕は、
必ず永遠にこの国家の鎮護となることであろう。
殉国の烈士は、決して犬死したものではない。
諸君、ねがわくば大和民族たる自信と誇りをしっかり持ち、
日本三千年来の国史の導きに従い、また忠勇義烈なる先輩の遺旨を追い、
もって皇運をいつまでも扶翼せんことを。これこそがまことに私の最後の願いである。
思うに、今後は、強者に拝跪し、世間におもねり、おかしな理屈や邪説におもねり、
雷同する者どもが少なからず発生するであろう。
しかし諸君にあっては日本男児の真骨頂を堅持していただきたい。
真骨頂とは何か。忠君愛国の日本精神。これだけである。
>>288-291 遺書 東条英機
2003 08 13 編集手帳 「君の出征に臨んで言って置く」という言葉で、手紙は始まる。二十四歳の 海軍主計中尉、小泉信吉は一九四一年(昭和十六年)十二月に出征した。 慶応義塾大学の塾長をつとめた父・信三が、わが子にあてた手紙である ◆信三は書く。「僕は若(も)し生れ替って妻を択(えら)べといわれたら、 幾度でも君のお母様を択ぶ。同様に、若しもわが子を択ぶということが出来る ものなら、吾々(われわれ)二人は必ず君を択ぶ」…◆翌年、信吉は戦死する。 父は息子をしのぶ文章をつづり、手紙も収めた限定本として身近な人に贈った。 熱心に請われても一般向けの出版は拒み続け、世に知られるようになるのは 信三の没後のことである◆作家の半藤一利氏も編集者のころ、「駄目です」と 断られている。信三のたたずまいと表情は、その話題を続けることが 憚(はばか)られるほど厳しいものであったと、半藤氏は著書 「手紙のなかの日本人」(文春新書)にしるしている◆国に殉ずる行為が、 戦後の精神風土のなかで否定されるようになったことへの割り切れない思いを、 信三は氏に語ったという。出版を拒みつづけた理由であったろう ◆「これでは祖国のために散華していった人たちの魂は永遠に癒やされない。 鎮魂はならないのではないか。そうとは思わぬかね、半藤君」と。 今年もまた、八月十五日がめぐってくる。
東条英機の遺書はどっちかというと泣けると言うより粛然とするかな・・・・。
ほしゅ
ほしゅっとく
296 :
日出づる処の名無し :04/06/09 19:02 ID:CF/LSfGX
>>296 激しくガイシュツな話だがAAになるとまた泣けるじゃねーか( TДT)ゴルァ
6月9日 産経抄 帰国した陸上自衛隊第一次イラク復興の番匠幸一郎支援群長(一等陸佐)が 本紙のインタビューで語ったが、宿営地近くに迫撃砲弾が落ちた時も「予定通り 任務を完全遂行していた」と。「活動は一日も休まなかった」そうである。 ▼情勢が緊迫するや、自衛隊は業務を中断して“穴ごもり”をしたごとく 伝えられていたが、その一部報道は「全く事実に反する」。“籠城(ろうじょう)” などは一日もしておらず給水活動も続けていた。いくら説明しても誤報が 流れ「心外で、悔しかった」という。だれが誤りを伝えたのか、おかしいことだった。 ▼番匠群長らは武士道とともにGNNをモットーにして活動したというのが 愉快だ。GNNとは義理と人情と浪花節だとか。『上を向いて歩こう』など 日本の歌をバンドを組んで流し、ユーフラテス川上空に鯉(こい)のぼりの 大群をあげたという。 ▼そもそも水の中に棲(す)む魚を中空高く泳がせる。日本人の卓抜な奇想は、 イラク人を文字通り仰天させたに違いない。「郷に入れば郷に従え」はもちろん 移住の基本だが、相手も最古の文明を生んだ地の人間である。以心伝心 ということもあるはずだ。 ▼イラク派遣の当初は「イラク人を敵に回すことになる」などと不安をあおる マスコミや評論家が少なからずあった。しかし日本人人質事件後の世論調査では、 日本政府の対応を支持する人が68%になり、自衛隊派遣の容認がついに 過半数を占めた。 ▼五月下旬、サマワがあるムサンナ県のシーア派宗教指導者アルワエリ師ら 要人が来日し、小泉首相と会談して要求したことは「自衛隊の撤退ではなく、 逆に増派してほしい」ということだった。 ごくろうさまでした。 自衛隊の奮闘はみごとにサマワの信頼と友情をかちえたのである。
299 :
日出づる処の名無し :04/06/09 23:44 ID:hMuSUgE+
そしてウンコが止まらなくなったとさ
300 :
日出づる処の名無し :04/06/10 00:10 ID:tz60eYNa
>>296 だめだ涙が止まらん・・・・・・(つД`)・゚・
301 :
日出づる処の名無し :04/06/10 00:13 ID:tz60eYNa
>>298 も泣けるんだけど・・・
▼情勢が緊迫するや、自衛隊は業務を中断して“穴ごもり”をしたごとく
伝えられていたが、その一部報道は「全く事実に反する」。“籠城(ろうじょう)”
などは一日もしておらず給水活動も続けていた。いくら説明しても誤報が
流れ「心外で、悔しかった」という。だれが誤りを伝えたのか、おかしいことだった。
い く ら 説 明 し て も 誤 報 が 流 れ
だ れ が 誤 り を 伝 え た の か
だ れ が 誤 り を 伝 え た の か
だ れ が 誤 り を 伝 え た の か
誰ですか〜〜〜w
303 :
コピペ :04/06/10 01:26 ID:tjqej6FL
5月12日の米軍アッツ島上陸以来、昭和帝は同地の守備隊の模様をいたく気にかけられ、毎日のように戦況を御下問されていた。 5月29日夕刻、守備隊から最後の電報が発せられる。 「機密書類全部焼却。是レニテ無線機破壊処分ス」 陸軍大臣は直ちに参内し、アッツ玉砕を天皇に奏上した。天皇は大臣の報告を黙って聞いておられたが、報告が終わるとひと言、 「アッツ島守備隊はまことに良くやってくれた。そのことを伝えよ」 とおっしゃった。大臣が 「しかし陛下、彼らは無線機を既に破壊しており、勅語をお伝えする手段がございません」 と申上げると、天皇は、 「それでも構わぬから、兎に角そういう電報を発してやれ」 直ちにアッツ守備隊に向け電報が放たれたが、もはや返信がかえってくることはなかった。
304 :
日出づる処の名無し :04/06/10 14:15 ID:nRVpwl7Q
>>286 を読んで私もうちの祖母から聞いた話を思い出しました。
昭和の終わりと共に逝った祖母から聞いた話ですが南方で戦死した祖父の話。
出征(出撃?)の前日一晩中祖母と語り明かしたそうです。
子供たちのこれからのこと、結婚してからずっと幸せだったこと、日本が負けると
いうこと、おそらく自分も死ぬということ・・・・。
そして出発の朝家の敷居を跨いだ瞬間夫から一兵士の顔になって祖母に敬礼し、
「後は頼みます、行って参ります」と爽やかに微笑んだそうです。
そのときの死にゆく者とは思えない最後に見せた笑顔を鮮明に覚えてると。
私の祖父に関する記憶は法事の際見る遺影と実家の仏間にある小さい勲章と軍服で
馬に乗った写真だけで会ったことも無いのですから殆ど数代前のご先祖様のような
感覚だったのでこのスレを読んで今更ながら戦争を生き抜いた人達の偉大さを思い
「ああ、祖父のことをもっとよく聞いておけばよかったな」と思いました。
今度実家に帰ったら父にも聞いてみようかな・・・・。
306 :
日出づる処の名無し :04/06/11 00:13 ID:q1A+L1bd
好スレ・・・・。・゚・(ノД`)・゚・。
308 :
日出づる処の名無し :04/06/11 21:04 ID:l+94CLNQ
>>286 >>305 この二つを読んで思い出した事があるのだが、
仕事場でつけているラジオ放送で鈴木宗男の証人喚問を聞いた日の話
あの喚問の放送は確か午前中で、その午後にNHK第一放送で年金に
関してのリスナーからの電話相談のQ&Aを放送していた。
その時出ていた1人に新婚2ヶ月で旦那さんが戦死してずっと一人でいた
という御婆ちゃんが遺族年金の相談を話していた。その会話の中で、
アナウンサーが「お子さんは何人いらっしゃいますか?」と聞いた質問に
「いぇ・・・2ヶ月で夫が戦死したのでいません・・・・」と消え入るように
答えていたのが可哀想だった。(相談の最初に言ったのに覚えとけよ)
たった2ヵ月の夫婦生活・・・いや出征してすぐに戦死したわけではないかも
知れないから1ヵ月もなかったかもしれない。
この御婆ちゃんが今生きているなら楽しい余生を、もし亡くなっているなら
50年以上会えなかった旦那さんと一緒ならいいのだが・・・・。
>>65 戦艦大和の最後って4月7日だったんですね。
俺の誕生日と同じだ・・・
よく出来てる。大和の力強くも悲壮な美しさ・・・・・いい・・・・。・゚・(ノД`)・゚・。
>>311
>>312 ありがd
実はこれyamatoをイメージでググって見つけたpngをサイズ変更、勘亭流フォントで文字突っ込んでブルーリボンつけただけの簡素な作りなんだけどね
gif変換したら砂嵐になって鬱になった所をとりあえずうpしてみたら職人のイピョウ氏がセピア変換で砂嵐誤魔化してくれたのよね
そうしたら文字もセピアになって古臭い感じになっていい感じになったタナボタ作品でもある(w
>313 素晴らしい。大和は美しい船ですね、やっぱり。 でも一つだけ気になることが。 大和の哨戒長の名前は「白淵大尉」じゃあなくて「臼淵大尉」なんじゃないのかな。僕は本でそう読みましたが・・・
|ω・) 保守。。。。
泣ける話じゃないかもしれないけど。。 日本の生物学者が台湾に行った時の話。 --- それから私たちは村に到着し、とある商店に向かいました。すると、店の中から白い半袖の シャツを着て眼鏡を掛けた叔父さんがニコニコしながら出てきました。小さい頃、学校の帰りがけに よく見かけた自転車の荷台にお菓子を積んで売っているやさしい叔父さんと同じ目をしていました。 学者達はアイスボックスを覗いて、二言、三言、言葉を交わして何を買うか選んでいました (このとき学者たちは当然日本語を使っていました)。学者たちが買うものが決まったので、 私は幾らですかと北京語で尋ねました。何故なら、この叔父さんの部族が日常的に用いている 言葉がわかりませんでしたし、もし仮にわかったとしても私はその言葉を喋ることができなかったからです。 すると、店の叔父さんは「1つ5円、2つで10円でございます。」とニコニコしながら背骨をまっすぐに 伸ばして日本語で答えたのでした。私はそのこと自体に驚きましたが、そのあとの学者たちの態度を 見てさらに驚きました。まるで天皇陛下から勲章を受け取る時のように、直角に礼をしてアイスを 受け取っていたのです。 「あ、ありがとうございます。」 学者たちはそのように言い、私がお金を支払うまでその姿勢を崩しませんでした。
店を出て、道を歩きながらモナカアイスを食べている学者たちに私はさきほどのことについて
尋ねてみました。すると、学者たちは「日本で10円でございますなんて、いまどき聞けない、
10円のように安いものなんか絶対、10円、としか言わない。10円です。とも言わない」
「美しい言葉だ、美しい習慣だ」「まさか台湾の山奥にきて日本語を聞けるとは思わなかったし、
それにこんなに美しい日本語を聞けるとは思わなかった、タイムスリップしたような気になる。」
と感動した様子で口々に言いました。
学者たちの感動は続いたようで、そのあとの採集の時、何回か「10円でございます」と神妙に
つぶやいていました。
・・・
帰り道、学者たちは採集したイシザキギセルを見ながら「10円でございます」とつぶやいて
いました。もし、今回の採集で新種が発見されたならきっと美しい新種のカタツムリは
ジュウエンマイマイと命名されるに違いありません。
http://homepage1.nifty.com/MYO/sub16/sub16.htm
学者たん可愛いな
319 :
日出づる処の名無し :04/06/16 18:49 ID:OuO73wtF
三期十八年の参院議員生活を終える西川きよしが本日、各党へ挨拶回りを行うこととなった。 その一環として、【宜しければ総理にご挨拶を】と官邸にも連絡をしたという。 その返事は、本日は国会最終日で時間はとれないとのつれない返事。 無所属議員の引退など総理に取っては眼中にないのも仕方ないと肩を落とした西川議員だったのだ。 が、小半時もしない内に総理官邸から西川に電話が入る 【総理が明日、食事でもいかがですかと仰有っています】 たった一人で十八年、無所属で頑張ってきた西川に、ささやかな食事の席を設けたいという。 西川の議員生活最後の総理質問が予定されていたのが年金法案採決日のことである。 が、血相変えた与野党の暴力沙汰が西川の最終総理質疑を幻のものにした。 その埋め合わせに、たっぷりと西川の話を聞こうという小泉の思いもある。 西川の議員生活の大団円としては過不足のない舞台装置が整えられたと言うべきだろう。
320 :
日出づる処の名無し :04/06/16 19:31 ID:1A/PGQgX
>>319 ・゚・(つД`)・゚・ 小泉さすが。みずぽとはえらい違いだ。
>>320 >
>>319 > ・゚・(つД`)・゚・ 小泉さすが。みずぽとはえらい違いだ。
西川もまともな質問を用意していたんだろうな?
無駄に時間だけ食ったのでは無かろうか…。
忙しい、総理を煩わすな!
http://news13.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1087263561/l50 ●世界の感動を呼んだ潜水艇乗組員たち その1
1910年(明治43年)4月15日、広島湾沖で潜水訓練中の潜水艦が遭難する事故が起きました。
海水が潜水艦の内部に入り込み、後ろに大きく傾き海底に沈んでしまったのです。
艇長の佐久間勉と乗組員13人は、艇を浮上させようと排水などの手段を尽くしましたが、成功しません。
やがて、乗組員全員が呼吸困難のため窒息死するという痛ましい事故でした。
日本海軍が初めて潜水艇を保有したのは、日露戦争が終わった1905年(明治38年)秋の事でした。
潜水艇とは潜水艦の小さなものでした。六号艇とも呼ばれていた佐久間艇は全長22mで、
世界最小のものでした。この頃の潜水艇は、構造的にも不備なところが多く、
技術においても未熟な点があったのでしょう。
数日後、佐久間艇は引き上げられました。潜水艇の遭難事故はヨーロッパでも度々起きていました。
そのとき、引き揚げられた艇の扉を開けると、そこに多くの乗組員の遺体が群がり、
乱闘のあとさえあったということです。何とかして助からんために、水明かりのするハッチに殺到していたのでしょうか。
ですから、関係者たちの間では佐久間艇もそのような状況かもしれないと、思われていました。
ところがハッチを開けると、艦長の佐久間は司令塔で指揮をとるままに息絶え、舵取はハンドルを握ったまま、
各々自分の持ち場を離れずに絶命していて、とりわけ取り乱した様子が無かったというのです。
●世界の感動を呼んだ潜水艇乗組員たち その2 さらに、佐久間は苦しい息の中で遺書を書き残していました。その遺書には、部下を死なせてしまった罪を謝り、 部下が最後まで沈着に任務を尽くしたこと。また、この事故が将来、潜水艇の発展の妨げにならないこと、 さらに沈没の原因とその後の処置について書き、最後に明治天皇に対し、 部下の遺族の生活が困窮しないように懇願していました。死の直前に、取り乱さないばかりか、 後世のために遺書を記していたことは驚きでした。 国内のみならず欧米各国においても、この事件について新聞や雑誌が大きく取り上げました。 イギリスの新聞『グローブ』紙は「この事件で分かることは、日本人は体力上勇敢であるばかりか道徳上、 精神上にもまた勇敢であることを証明している。今にも昔にもこのようなことは世界に例がない」と驚嘆しました。 また、各国の駐在武官は、詳細な報告を本国に伝えるとともに、海軍省を訪れて弔意を表明しました。 これらは通常の外交儀礼をはるかに超えたものと言われます。 明治の詩人である与謝野晶子は、佐久間を悼んだ短歌十二首を歌いました。 ・瓦斯に酔ひ息ぐるしくとも記おく沈みし艇(ふね)の司令塔にて ・武人(もののふ)のこころ放たず海底の船にありても事とりて死ぬ 明治天皇からは、遺族にお見舞い金を届けるという特別のはからいがとられました。 佐久間の遺書に応えたことになります。また、海軍省と朝日新聞によって義援金の募集が行われ、 現在の価格では億単位になる56,000円のお金が全国から寄せられました。 この事件は、今では語られることはなく、佐久間勉の名前を知る人は殆どいません。 しかし、当時は国内のみならず、世界の人々に感動を与えたのでした。
324 :
日出づる処の名無し :04/06/17 13:58 ID:bLCSdLF5
325 :
日出づる処の名無し :04/06/18 05:11 ID:PPag9NSQ
>322 水を差すつもりはないけれどサー、 たかが海面下30メートルそこそこからのダシュツ が出来なかったんだろー?。 それを感動物語に仕立て上げるのはどうかと思うがいかが?。 ダシュツ(何故か変換出き無い)を許さない空気や倫理 が有ったとすればそれも問題ではないのか。 今の基準で昔の人を批判するつもりは無いが、 今に生きている奴があの事を「感動物語」として 受け取っている事は問題だと思う。
>>325 脱出出来ればしてただろ。
ていうか潜水艦の知識がないんだったら黙ってろよ。
>>325 おまいさんは、いつ2〜3年前に起こった潜水艦沈没のことすら忘れてるの?
>>322 のどこをどう読んだらそんな感想をもてるのか、マジで教えて欲しい。
意味無くageてるし、ひょっとして池沼の人?
>>325 水圧のかかっている潜水艦のハッチをどうやって開ければいい?
今は何か方法があるのかもしれないが、潜水艦の技術が確立されて
いない当時じゃ無理なんじゃない?
>>325 もうちょっと潜水艦、潜水艇の構造をググッてみたら?
水圧が高くてハッチなんか開けられるわけ無いだろう。
車だって海に落ちたらドア開かないのに。
でも車の場合はだんだん水が入ってきて内側と外側の圧力が均衡するだろうから
その時に開閉は可能かも知れない。
潜水艇の場合は、気密が高いから無理だろう。
330 :
日出づる処の名無し :04/06/18 12:38 ID:b/jhjDA4
だからさー ダシュツ設備も無いお船に乗って死んだからって、 それが「感動」の対象になるの?。 殉職した人が勇敢だったと言うのなら、 なおさらダシュツ設備の不備を問題にしなければならないのに こう言うことが起こってもすぐ「美談」にしてけりをつける 日本の文化って言うか、、そういう物が激しく馬鹿らしいのね。 潜水艦の構造は良く知らないけれど、昔それなりに調べたのだが、 (本で)誰も責任とった様子も無いし、、、。 砲力の不備と補給の軽視をして置いて「肉弾」を賛美した当時の 陸軍と同じいやらしさを感じるのはおれだけ?。
>>330 国語力が足りなくて、文章が読めない低偏差値の馬鹿ですか。
そういう船で人が死んだとき、普通は…って説明があるでしょ?
>潜水艇の遭難事故はヨーロッパでも度々起きていました。
>そのとき、引き揚げられた艇の扉を開けると、そこに多くの乗組員の遺体が群がり、
>乱闘のあとさえあったということです。
>何とかして助からんために、水明かりのするハッチに殺到していたのでしょうか。
332 :
日出づる処の名無し :04/06/18 12:54 ID:b/jhjDA4
ああー、もう一つ書き忘れたけれど、 322の文章っておかしくない?。 「潜水艇の遭難事故はヨーロッパでも度々起きていました。 そのとき、引き揚げられた艇の扉を開けると、 そこに多くの乗組員の遺体が群がり、 乱闘のあとさえあったということです。何とかして助からんために、 水明かりのするハッチに殺到していたのでしょうか。」 って書いて有るけれど、ハッチにガラス窓ついてるの?。 割ったら?。耐圧ガラスでも衝撃に強いとは限らんでしょう。 水圧がかかっているはずのハッチに生存者が群がる?。 それとも水圧がかかっていても開くハッチなのか?。 >326から>329どうよ?。 あんたら潜水艦の構造に詳しいんだろ(w 誰が書いたコピペか知らないけれど、 よーく読んでみたら矛盾点があるでないの?。
>>330 > ダシュツ設備も無いお船に乗って死んだからって、
潜水艦に脱出装備があるのなら、教えてちょうだい。
21世紀になっても、そんなものを装備している潜水艦を寡聞にして知らない。
おつむの悪い人の書き込みってのは、人間ってものの限界、あるいは既知外ってのを感じられて頭が痛くなるね。
どうして、君はそんなに馬鹿なの。
厨房ってやつですか?
高校くらいは出てた方が良いんじゃないかな?
>>332 パニック状態では、出口に群がるものだよ。
火事場では、よく起きる事態です。
開かないハッチと知っていても、そこに殺到するのが人間の心理ってもんだ。
で、計算くらいしたらどうだ?
直径80cmの潜水艦のハッチにかかる重量は、簡単に計算で出るぞ。
ぞれが人間で開けられるものかどうか、考察してみたら。
ま、わからんだろうがな。
335 :
日出づる処の名無し :04/06/18 13:01 ID:b/jhjDA4
>333 お前馬鹿? いまどき脱出設備の無い潜水艦があるかよー。 専門家気取りで低能発言するんじゃねーよ。
336 :
ん? :04/06/18 13:03 ID:I8/lhchB
このスレには、左利きの粘着スライムが寄生してるんですか?
*水圧=深さ(cm)×1g重/1平方cm だから水深30メートルで3kg重/1平方cm 1平方メートル当たりに30dの水圧がかかる。
>>335 > いまどき脱出設備の無い潜水艦があるかよー。
じゃ、出して見ろ。
で、計算は出来たかな?
>>337 に、回答があるがな。
339 :
日出づる処の名無し :04/06/18 13:06 ID:b/jhjDA4
>334 だからダシュツできるかどうかなんて問題にして無いだろー。 ダシュツ設備の不備か、ダシュツをするのが卑怯あるいは無責任 と取る、「空気」や「文化」が問題だっていってるんだよ。 事件や事故が起こったときに、冷静に教訓を読み取ろうと しないことがおかしいといってるんだよー。
>>339 おつむが悪い奴だなあ。
脱出装置のあるやなしやと言ったのは、
> ダシュツ設備も無いお船に乗って死んだからって
と、自分で言っていることだろ?
議論の論点をずらすなよ。
341 :
日出づる処の名無し :04/06/18 13:11 ID:b/jhjDA4
>338 >340 レスキューチェンバーってどこの国のSUBでも 装備されているのは常識だとおもっていたが。 ここの住人はグ具っても見ないのか?。
>>339 本当に、おかしな奴だな。
脱出装置なんて、飛行機にパラシュートしか付いていない時代だぞ。
射出座席なんて、夢のまた夢。
潜水艦における脱出装置なんて、今だにない。
・ロシアの原潜での事故を知らないのか?
・米軍は潜水艦専用のレスキューチームがあるが、それは全世界で2チームしかいない。
で、空気だとか文化だとか、何を言っているんだ?
具体的に言って見ろ、そんな抽象的な表現ではなく、論理的に。
でなければ、まさに批判するためのこじつけで揚げ足取りとしか思えない。
冷静に教訓を読みとろうとか、前向きな意見を言っているようだが。
現実に対しての認識が、実に乏しい。それ故、ただの妄言にしかなっていない。
そして、スレ違いのレス。
君は本物の馬鹿だね。
>>341 > >338 >340
> レスキューチェンバーってどこの国のSUBでも
> 装備されているのは常識だとおもっていたが。
> ここの住人はグ具っても見ないのか?。
はあ…。
レスキューチャンバーって潜水艦に装備されているものかね?
ぐぐっても、知識がないから読めないんだろうね…。
>>343 > レスキューチャンバーって潜水艦に装備されているものかね?
> ぐぐっても、知識がないから読めないんだろうね…。
自己レス。
アルファ級には装備してましたな。
一本とられたよ。
>>341 レスキューチェンバーが何時発明されたかわかって言ってるのか?
346 :
日出づる処の名無し :04/06/18 13:19 ID:b/jhjDA4
>342 本物の馬鹿?。 「潜水艦における脱出装置なんて、今だにない」
>>346 > >342
> 本物の馬鹿?。
> 「潜水艦における脱出装置なんて、今だにない」
未だには、筆の誤りだね。
間違いだ。
一部の原潜に、レスキューチャンバーを装備している潜水艦がある。
大多数の潜水艦には、脱出装置はなく、海難救助船からのレスキューをまつことになる。
ですね。
>>346 > >342
> 本物の馬鹿?。
> 「潜水艦における脱出装置なんて、今だにない」
で、本文におけるミスを認めたわけだが。
貴殿は、なんと答えてくれるのだろうか?
馬鹿でなければ、さぞやすばらしい回答が聞けるはずである。
楽しみだな。
349 :
日出づる処の名無し :04/06/18 13:37 ID:b/jhjDA4
いや、俺は佐久間艇長を批判するつもりは無いんだ。 最初にこの話を知ったのは「日本海軍史」だったか?、 実際感動して、その後の話を調べたことがあったのだが、 乗組員の勇気や義務心を褒め称える記事は山の様にあったが、 艦制本部(当時はなまえが違ったか?)や海軍当局がその後 どんな事故予防措置をとったか、機材を開発したか(金を出したか) というはなしはサッパリ見つけられなかったんだ。 (当時の新聞も図書館に行って調べた。) で、日本人は失敗から教訓を学ぶのが下手な人達ではないかと 思うようになった次第。 今、あの事故がまだなすべきことをしなかったがゆえの「失敗」 としてではなく、「美談」にされていると思うと寒気がして 来るのさ。
>>349 俺は美談であることに腹を立てているぞ!っていうとんちんかんな貴殿の思いは判った。
> 今、あの事故がまだなすべきことをしなかったがゆえの「失敗」
> としてではなく、「美談」にされていると思うと寒気がして
> 来るのさ。
なすべき事って、なによ?
寒気って、なんだ?
主観に寄るところが多いね。
問題とすべき事は、貴殿自身に内包しているのではないのかね?
このスレで言うべき事では、まったくないな。
351 :
日出づる処の名無し :04/06/18 13:57 ID:qmXIAs59
赤い人・ある種経験者は軍国美談が嫌いなのよ。 潜水艇を引き揚げたら「バカヤロウ、早く引き揚げろ」 の、落書きがあった。という話もある。 349、はまだまし
352 :
日出づる処の名無し :04/06/18 14:08 ID:b/jhjDA4
だから、あれがなんで「美談」 なんだよ?。 誰か説明してくれ。
353 :
日出づる処の名無し :04/06/18 14:12 ID:b/jhjDA4
軍国美談は好きなんだが、 ついでに、心情的右翼でもあるのだが、 日露戦争とうじの「肉弾賛歌」 と、この話だけはどうして美談になるのか わからないんだよー。
354 :
日出づる処の名無し :04/06/18 14:46 ID:xlERxa5p
>>ID:b/jhjDA4 佐久間艇長の話は兵器の性能や脱出装置の有無より死生観の問題においての 感動を呼ぶ話ということではないだろうか? つまり死に直面した時の人間の行動において、潔いか否かの問題になってくると 思う。これは特攻作戦は確かに統率の外道であったかもしれないが、その特攻隊の 精神性は否定できないという話と同じではなかろうか? この前のイラクの武装組織に捕まったイタリア人の射殺される間際の「イタリア人の 死に様を見せてやる」という言葉にはかの国の人も大いに感銘したようだし。 「死が避けられない場合、ジタバタしない」というのは戦死や事故死という突発的・ 突然訪れるものから、生まれた瞬間から死に向って生きるという人としての運命に どう向き合うかという美学の問題だと思う。 佐久間艇長の遺書は事故の様子から考えられる原因(機械的な欠陥、運用面の 問題など)を出来るだけ記録し、自分達と同じ目に後進達が会わないためと この事故が原因で兵器としての開発が阻害されないようとの願い、そして乗組員達の 残された家族への手厚い保護など、未来への問題を少しでも残さないための 彼等の心が感動を呼ぶのだと思う。
355 :
日出づる処の名無し :04/06/18 15:08 ID:7KJDrYi5
泣ける話に水を差さないでほしい。 自分は冷静に分析しているつもりでも、少なくとも俺から見れば目障り。 ほかにスレたてて反論してくれ。 >322 みたいな奴はでしゃばるな。
356 :
日出づる処の名無し :04/06/18 15:10 ID:7KJDrYi5
>>322 さんすみません。 >>325じゃま
357 :
日出づる処の名無し :04/06/18 15:18 ID:b/jhjDA4
それは解るんだ、 解るんだが、しかし、 事故の後、ホーランド型(だったね?。)を 一斉に運行禁止にして点検を行ったとか、 事故の原因は忘れたけれど、「何何を改良したから もう安心!」とかの記事とか記録が無いの。 かなり突っ込んで調べたつもりだが、もちろん僕は 素人なので防衛庁まで足を運んでいない。 そういう事があったら誰かが書き残しているはずだ。 と言う程度ですが、 しかし、美談の後日談として「その後こういう風に 成りました」という話しが無ければ無意味だと思うの。 肉弾三勇士の話でも 後日工兵教育の場所で「じつは導火線の長さが足りず、、、 お前たちは手順をしっかり守れ、、、。」 と教訓として活かされているのを見ても、 この話の「美談」の部分だけが未だに語られ続いてる のが不思議なの。
358 :
日出づる処の名無し :04/06/18 15:19 ID:b/jhjDA4
>356 もうやめます。
此処も、もう駄目だな…。
思考停止して結論ありきで感情に流されるなら サヨと変わらないってこった。 劣化ウラン→放射能→危ない みたいな。
>>360 >>劣化ウラン→放射能→危ない
今井君とかミズポちゃんの思考回路ですなあ。
わかりやすい。
>357 現代の潜水艦ですら、ほんのちょっとの操舵ミスで浮上不能になる危険と隣り合わせのシロモノです。 せんだっての原潜クルスクの事故をごらんなさい、 一国の科学技術の粋を凝らして建造された最新鋭の原潜が、 最大潜行深度の数分の一という浅い海からすらあっさり帰ってこれなくなる。 それが、「潜水艦」という乗り物の宿命。 存在自体にもともと無理があるのを科学の力で無理矢理帳尻あわせてるに過ぎません。 あなたが考えるような「対策」があるとしたら、 それは潜水艦自体を全廃する以外の方法は存在しません。 まして当時の科学技術のレベルで、 エンジンが出港から寄港まで無事に動き続けることを期待すること自体がそもそも間違っているのです。 当時の潜水艦とは、そういうシロモノです。 >肉弾3勇士 そもそもアレは美談として語られた内容と現実とが完全に乖離したシロモノですから…
>>359 そんな事言うな。
ダメなのはID:b/jhjDA4だけなんだから。
>349 状況証拠なら十分あると思うが。 海上自衛隊のHPに行って、主要装備のページ見て来い。 あるいは、日本海軍のことを扱ってるページでもいい。 そこには、少なからぬ数の潜水艦が在るはずだ。それも、おそらく大半は国産だ。 ある意味それで十分だと思うがなあ。
>>325 みたいな奴は豪雨で車が水没したら、自分の言ったこと忘れて
パニック状態になるんだろうな。
俺? 愛車にはハンマー代りの大型マグライト常備してますよ。
ID:b/jhjDA4が湧いてからスレが活性化されたなぁ
>>330 美意識の違いだね。
倫理観の違いというか。
潜水艦の脱出設備の不備とかはまた別の問題だよ。
だって事故なんだから。
それとも事故の検証以外の
人間の背景について語ってはいけないわけ?
この人達の責任感、立派だと思う。
うーんと、たとえば 火事がおこったとき、消防士には命の危険があるわけで。 実際職務の遂行中に殉職する消防士もいるわけで。 そういうとき、その消防士の勇気と責任感を讃えるのは 火事の原因と対策の議論のあとじゃないといけないかっていうと、 全然別問題だと思うんですよ。 原因の分析と対策はそれはそれですればいいけど、 職務の為に命を投げ出した人を讃えるのは普通にいいと思う。 それを人命軽視とかいわれちゃ 死んだ人もうかばれないよ。
名前: 日出づる処の名無し E-mail: sage 内容: 299 名前:日出づる処の名無し[] 投稿日:03/07/30 17:56 ID:v8mmyzEk なんでだろう。 感動して泣くのは久しぶりな気がします。 私的な事だけど、 受験失敗して、滑り止めの学校通って なんか将来もはっきりしない中で、 今を生きる俺等の為に自分の人生投げ出して、 国や故郷、そして愛する人々のために闘った方々の 話を聞くと(読むと)俺も頑張りたくなってきました。 今の社会の風潮から見ると、「日本軍」なんてタブー扱いで、 左翼の方々は自衛隊の派遣だけでも抗議するけれど、 それはただ現実から逃げてるだけにしか見えないです。 たしかに正義からそれた人々がいたかもしれませんが、 現実には義を貫いた人達が沢山いますよね。 それは軍隊にも言えることであり、一昔騒ぎになった警察にも、 そしてどっかの国家にも言える事ではないでしょうか。 今、我々日本人がすべきことは ただ無責任に反対するより、 先の大戦で亡くなられた方々のためにも、 自分のすべき事を精一杯やって、 国際社会における「日本」の立場、役割を 考えるべきではないでしょうか? 乱文、乱筆申し訳ありませんでした。 齢十五の俺がこんなこと偉そうに言える 立場じゃないですよね。 失礼しました。
・・・・前スレに書かれた感想。このスレで枝葉末節をあげつらう様な書き込みと比べて欲しい。 大事なのはこのスレから何かを学ぶということ。 人間として大事なことがこのスレにはたくさん散りばめられてると思う。 それを感じ取れないことを哀れむつもりも強制するつもりもないがこの感想を比べて何と幼稚 なことか。
ただ単に話題が旧軍人の賞賛だから、 どんな揚げ足とってでも賞賛を止めさせたい、という心理が働いているんでねぇか、とも思う。 自問自答なされよ。
泣ける話を酔っていると揶揄するより、 泣ける話で泣ける人間になりたいものだ。 遥か前、どこかの泣ける話スレで見た。 至言だ。
>>357 ほんとに突っ込んで調べたのかね。。。
この沈没した第6潜水艇はホーランド型の設計図を使い、
我が国が初めて自力建造した2隻の内の1隻。
沈没という事故はあったが、造艦、運用、乗組員の育成まで
様々なノウハウの端緒となった潜水艇だよ。
この尊い犠牲もあって、自力建造の難しさを知り、英国や仏国の
潜水艇を購入し、さらなるノウハウの蓄積をしたりするわけだが。
(ホーランド型は上記2隻以後採用されてない)
なお、この沈没した6号艇は、その後海中から引き上げられ、
佐久間艦長の遺した言葉の下、改良が加えられて再使用。
のち大正9年まで立派に現役をつとめている。
さらに引退後には、日本の潜水艦運用の礎となった艇として、
呉の潜水学校内に6号艇神社として祀られ、記念艦として保存まで
されている(戦後、進駐軍により解体)。
そして現在でも、慰霊碑のある呉の鯛乃宮神社や佐久間艦長の生地、
福井にある佐久間記念館では、海自協力による追悼式が毎年4月15日に
行われているんだけどね。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/heiki4/sennsui/sennsui.html ちなみに今年も当然行われている↓
ttp://www.kurecci.or.jp/event/6sen.html なにをもって後日談が無いと言えるのか。。。
当時の新聞まで調べたとかいうわりには、知識がとんちんかんだしなあ。
(レスキューチャンバーってもっと後、1930年代以降出てきた技術でしょ)
と、後日談もなかなか泣けるのであえてレスしてみました。
「進め!人力潜水艦ハンレー号」って映画を見た。 タイトルからすると、戦場どたばたコメディみたいだと思うでしょ? 私もそう思ってたんだけど。 見たら、内容が南北戦争時代の潜水艦の開発秘話だった。 南北戦争の頃のアメリカで、南軍が潜水艦(人力の)を開発していた。 でも昔のことだしはじめてだから、 やっぱり事故があって開発者と乗組員全員死亡した。 その潜水艦、沈んでたやつ引き上げるでしょ、 で、中あけて死体とりだして、 また乗組員入れて沈めるんだyo。 すごいヒドイ話だなーと思った。 このころはほんとに体当たりで開発してたんだなあ。
追記すると、そういう歴史を知れば、どういう思いで、 >部下が最後まで沈着に任務を尽くしたこと >この事故が将来、潜水艇の発展の妨げにならないこと >沈没の原因とその後の処置について を書き残したかが分かると思う。 佐久間艦長以下14名が日本最初の”サブマリナー”として、 いかに強烈な自負と使命感を持って、この海軍の新兵器に 搭乗していたかが。 そして彼らの最期の有り様が、後々の日本の潜水艦乗りに どれほどの影響を及ぼしたかことか。
>>375 そうだね。
あの艦長の態度、そして書き残した内容、
泣いた。
要するにこいつはレスキューチャンバーの 発明以降は潜水艦の沈没事故はなくなった と主張したいのかな? そうでなければここまで言い切る根拠がわからん。
379 :
日出づる処の名無し :04/06/19 01:17 ID:z/ki8LiR
荒らしはスルーで、お願い。この良スレを守ってください。 2chでそれなりに有名な、「詭弁の特徴15条」でもどうぞ。 ( ̄ー ̄)ニヤリッ 馬鹿サヨ詭弁の特徴15条 1.事実に対して仮定を持ち出す 「犬は子供を産むが、もし卵を生む犬がいたらどうだろうか?」 2.ごくまれな反例をとりあげる 「だが、時として尻尾が2本ある犬が生まれることもある」 3.自分に有利な将来像を予想する 「何年か後、犬に羽が生えないという保証は誰にもできない」 4.主観で決め付ける 「犬自身が哺乳類であることを望むわけがない」 5.資料を示さず自論が支持されていると思わせる 「世界では、犬は哺乳類ではないという見方が一般的だ」 6.一見関係ありそうで関係ない話を始める 「ところで、カモノハシが卵を産むのは知っているか?」 7.陰謀であると力説する 「それは、犬を哺乳類と認めると都合の良いアメリカが画策した陰謀だ」 8.知能障害を起こす 「何、犬ごときにマジになってやんの、バーカバーカ」 9.自分の見解を述べずに人格批判をする 「犬が哺乳類なんて言う奴は、社会に出てない証拠。現実をみてみろよ」 10.ありえない解決策を図る 「結局、犬が卵を産めるようになれば良いって事だよね」
>>379 11.レッテル貼りをする
「犬が哺乳類だなんて過去の概念にしがみつく右翼はイタイね」
12.決着した話を経緯を無視して蒸し返す
「ところで、犬がどうやったら哺乳類の条件をみたすんだ?」
13.勝利宣言をする
「犬が哺乳類だという論はすでに何年も前に論破されてる事なのだが」
14.細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる
「犬って言っても大型犬から小型犬までいる。もっと勉強しろよ」
15.新しい概念が全て正しいのだとミスリードする
「犬が哺乳類ではないと認めない限り生物学に進歩はない」
>>322-323 ええ話ですなぁ。(ノд・、)
>322ー323また、各国の駐在武官は、詳細な報告を本国に伝えるとともに、海軍省を訪れて弔意を表明しました。
特に同じ軍人だからこそ、なおさら感じ入るところがあったんでしょうねぇ。
442連隊の話しってもう出た? 第二次世界大戦における最強部隊の話し。
佐久間艇長のような人間がいたのに、 なぜ帝国海軍では艦艇沈没時に艦長も運命を共にする、 等という愚行がなされたのかが判らない。
>>383 それは同感。その人の生き方、美学があるのだろうけども、
国家として、組織として考えると、人材の育成にはもの凄いお金と時間を
掛けているわけだから、生きて最後まで戦った方がいいと思う。
2航戦の山口多聞司令と加来止男艦長とかも、ミッドウェーで艦と運命を共にせず、
最後まで頑張って欲しかった。(ノд・、)
イギリス海軍からの悪しき伝統ですな。
>383-385 WW2当時の日本においては、 ヒトは余っていましたが兵器は足りませんでした。 艦艇の責任者である艦長が、その貴重な船を失っておいて おめおめと帰ってこれるか、という空気は、 上層部の中だけでなく当の佐官クラスでも常識だったのです。 むしろ、現場を経験した人間にこそそういった空気は強かったようにも思います。 軍艦乗りにとって艦艇とは、生活の場であり、仲間と共に戦った舞台であり 戦時においては上官が、同僚が、部下が、それを命すら投げ出して守った、 ただの鉄の塊や兵器ではない、ある種の超自然的な存在でもあったワケで。 そんなかけがえのないモノの運命は、艦長ひとりの指揮にすべてが委ねられています。 自らの指揮の結果、建造以来何千人ものひとたちの人生が染みこんだモノである乗艦を失ったとあっては 生きて帰ることすら罪、……と、ひとりの「職人」として思ったとしてもそれを何故責められましょう? そうして死に急ぐ部下を「貴様の命、俺が預かった」と押しとどめるのが、 上司の役目というモノではありますが。 海軍上層部の行動には弁護の余地はありません。 合理的、唯物論な視点からは「モノ」としか見えないものに 非合理なほどの思い入れと犠牲をささげたがり、それを美学とするのは日本人の習性のようです。 廃墟と化した日本がわずか数十年で戦前をはるかにしのぐ経済大国になった裏には、 サラリーマンや家族たちのそうした非合理的な献身があったことは、言うまでもないでしょうが。
>382 マイノリティーが平等な処遇をもとめての戦い、という言い方をすれば、 戦中戦後の沖縄の歴史と相似形になる物語ですね。 違うのは、物語がハッピーエンドになったかどうか。 祖国への貢献が平等な処遇をもたらしてくれると信じて戦火に身を投じたマイノリティーに対し、 アメリカは長い年月をかけてその貢献を認めていったが 日本はまったく逆に、今この瞬間ですら不平等としか言いようがない扱いを続けている…
>>382 さん
最初のほうに出てたきがする。
10〜15番くらいだったかな?
ご参考までに
389 :
日出づる処の名無し :04/06/19 13:40 ID:ZtpunGon
>>388 ごめん見落としてた。ありがとうございます。
>>382 一桁ぐらいの頃に出てるYO
誰かが書いてたけど、爆弾三勇士の方は確かに美談にゃなんない。
担当将校が計算間違えで導火線の長さを半分にしちゃったんだから・・・
同じ作戦を遂行したもう1チームは無事に帰還できてるのにねぇ
もっともその将校は厳罰を与えられてるし、歩兵以上に工兵は弾に身を
晒す危険な任務である事は間違いない。
>生きて帰ることすら罪、……と、ひとりの「職人」として思ったとしてもそれを何故責められましょう? 少なくとも将官はその責任がある。 一人の艦長を育てるために日本が費やしたリソースは極めて多大なもので、 簡単に死んで貰っては困る。 どんな苦境からも生きて帰り、他人からの責めにも耐えて己の本分を尽くすことが 帝国軍人としてやるべきことでしょう。 先の例でいえば、山口提督などは当時の日本では極めて貴重な航空戦の知識を持つ 指揮官であり、その価値は一隻の空母以上です。 艦はまた建造すれば良い、だが、人間の育成はそう簡単じゃない。
392 :
日出づる処の名無し :04/06/19 17:12 ID:LIf2HHEh
>>382 半村良(だったと思う)の「442部隊」という小説で存在を知り、
その本の中で「Go for Broke」という映画の存在を知っていた
私は、秋葉でこの映画のDVDを見かけた時に即買いして
しまいました。普段はそんなことしないんですよ。DVDの定価は
ボッタくりという考えている私は「廉価版」が出るまでは絶対に
買わないというポリシーを持っているんですが、この映画は
絶対に廉価版にはならない&ヘタしたら即廃盤という危機感で
定価で購入してしまいました。
今も売っているかなぁ?
393 :
第六天魔王 ◆ODA7WdIm6U :04/06/19 17:29 ID:ZtpunGon
>>392 「442連隊戦闘団」は、半村良氏ではなく矢野徹氏。
同じSF作家だけどね。
>391 えっと、「艦長」が将官であることはまずありませんが。 戦艦の艦長ですら、ふつうは大佐が務めるもの、です。 提督と艦長との置かれた責任の差を知ってください。 当時の軍制に対する基礎的な知識もなしに批判されても、苦笑いするしかないです… >艦はまた建造すれば良い それはアメリカの発想ですよ。 日本においては人間は個々の努力で育成できるものでしたが、 艦艇は失ったらほんとうに取り返しのつかない貴重なモノ、だったのです。
>>391 >>395 個人的にはどちらも違和感がある。
なんというか、艦長や船長が船や艦と最後を供にするっていうのは、
艦が大事か人間が大事かとかいう問題じゃなくて、
自分の責任を果たすことへの究極の形としての美学とか
人生観とかそういうことなんじゃないかなあと思う。
戦国時代の日本で、敗軍の将が城を最後まで守り、
責め滅ぼされる時は城を捨てて逃げずに最後を城と供にする、とか
そういうのを美しいとする昔からの日本人的武士の価値観が
日本軍の考え方に生き残っていたのではないかと推察する。
滅びの時、どのように滅ぶか、どのように死ぬか、
そういう美学。
どんな汚いことをしようとも責任を投げ出そうとも自分の命が大事
いかにして生き延びるか自分だけ助かるかという価値観は
中国的だと思う。だから悪いとか良いとかいうんじゃなくて
単にそうなんだと思う。
>395 艦も人も両方失うのと、 艦だけ失うのどっちがいい? 死んでなんになるんだ?
>396 だからこそ、日本軍は戦争のアマチュアだったんだとおもう。 プロだったら敵に最大の打撃を与える方法をとるでしょ。生き残ってまた攻撃できる機会を待つとか。 自分の美意識を満足させるために自分にたいして注がれた教育リソースをぜんぶドブに捨てるのはプロの やることじゃないでそ。
399 :
第六天魔王 ◆ODA7WdIm6U :04/06/19 19:27 ID:ZtpunGon
>399 だからこそ日本は戦争に負けたんです。 戦争は感性ではなく理性によって行わなければいけないものなんです。 「進歩のない者は決して勝たない。 負けて目覚めることが最上の道だ。 日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。 私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた」 396みたいな精神性から離れられないということは、そもそも日本人は近代戦争に向いていないのかもしれないですね。
401 :
第六天魔王 ◆ODA7WdIm6U :04/06/19 20:14 ID:ZtpunGon
>>400 ちょっと違う。。かな?
日本人は戦闘は得意なんだが、戦略とかは苦手。
で、アングロサクソンは戦略は得意だったが、戦闘は苦手だった。
戦略が非常に重要となる近代戦で日本は負けるのは当然だったともいえるかもしれない。
>401 過度な単純化ですな。アングロサクソンが戦闘が苦手? まるで戦時中の 「白人はデカイから狭い戦闘機のコクピットに我慢できないので弱い」 みたいな妄言みたいだね。
>>398 日本軍は戦争強かったけど。
それは、根底にあったこのような使命感が
絶対に関係していると思う。
戦争のプロとかアマチュアなんていう意見に持ち込むのはナンセンス。
どんな策を使っても、どんな合理的な理論で戦争しても、
かならず事故は起こる。
この話は、教育を生かすかどうかって話じゃなく、
不測の事態が起こったその時、どう行動するか?
という問題で、
事故が起こったことの反省とか原因とかそういうのは
また別な次元で語るべき話。
>403 ていうか、ハードウェア重視のあまりソフトを無視したから負けた、って事。 事故が起こったときに 「陛下からお預かりした兵器を無駄にしたのは耐えがたい恥である」とか言って 死ぬよか、 「この事故の原因を解明し、爾後同様の事故が起こらないように生きて教訓を伝えるのが義務である」 と生き延びる方が、結果として総合的に被害は少なくなるわけで。 日本人の情緒的に前者を好むのはわかるんだけど、後者のようなより合理的な思考ができない時点で 日本は負けてたのかな、と思う。 まあ佐久間艇長の話は抜きにして、ね。漏れも彼らは立派だと思うけど、海軍の後の潜水艦運用を知るかぎりでは あまり潜水艦を理解していたとは思えないし。
>>400 日本が戦争に負けたのは、圧倒的な物量の差。
もともと日露戦争でぼろぼろになってたとこへ
アメリカの兵糧攻め。
そら勝てんわ。
体格・財力・資源も欧米列強には劣る日本人。
精神論が重要になるのは当然の帰結。
それがあったからこそアジアの国の中で唯一先進国になれた。
精神論で合理性が無かったから負けたわけじゃない。
合理性の上に精神論をくっつけがんばってたわけ。
もともと格上の相手と喧嘩するんだからね。
当時の日本軍に関する記録調べると、
驚く程合理的・戦略的に考えていたのがわかる。
負けたのは時の運っつーか、
もとから無理だったけどやるしかなかったっつーか、
アメリカと戦争始める時、
戦力から考えておそらく勝てないかも知れないが
だまって死を待つわけにはいかない
と考えていた模様。もう、それしかなかったっつーか
そうじゃなかったら日本も植民地になってた。
かくすればかくなるものと知りながら
やむにやまれぬ大和魂
なわけよ
ループネタ ループするとは知りながら やむにやまれぬ2ちゃん魂
>>404 このような精神性は、
イギリス海軍とかにもドイツ海軍とかにも
多分ロシア海軍とかにもあるよ。
船を最後を供にする船長 って美談は、
日本だけのことじゃない。
ただ根底にあるのが日本の場合は武士道がルーツだってだけ。
軍人は皆究極は似たようなことを理想にする。
だから日本が負けた原因にするのはへんですね。
そういう精神性はむしろ強さの源です。
そういうとこが全く無い中国の軍隊は日清戦争でぼろ負けですから。
>405 つーか、負ける戦争をおっぱじめたからには、もうなにを言っても言い訳に過ぎないわけで。 交渉のテーブルを蹴ったのは日本であり、他策はいくらでもあったでしょ。 その上で、「日本は最善の戦い方をしただろうか?」ってことを考えるとどうもそうではない。 情報戦、兵站戦略、経験を生かすシステム、総合的にみて日本軍は劣っていた。 海軍の暗号は米軍に筒抜け。 海上護衛についての艦船は、開戦時にはまったくなかった。 ノモンハンで得た戦訓はどこにも伝わらず。 これで戦争を仕様ってほうがムチャだ。
409 :
日出づる処の名無し :04/06/19 21:09 ID:702+jj1B
>>400 艦長が艦と最後を供にするというのは396が言うように
自分の責任を果たすことへの究極の形としての美学であって
これ以上進歩も糞もないだろ。
ましてや責任をスルーして逃げ出すのを真の進歩だとも思わない。
>>408 そうかあ?
戦争始めたっていう点では他の国も同罪でしょ。
別に言い訳じゃなくて単なる事実。
>>409 責任をスルーする軍人がいっぱいいるような国の軍隊は
弱そうだよな。
>409 氏ぬのが責任のとり方なの? 武人としてはそれでいいかもしんないけどね。軍人としてはどうなん? それは組織としてどうよ。 破れて負けたらその経験をフィードバックして次は負けないようにすることができるだろ。生きて帰りさえすれば。 氏んだらそれでオシマイ。同じ失敗を何度も繰り返すハメに。 美学よりも勝利でしょ。軍人の仕事は。仕事を途中で投げ出すな。 >410 開戦前から負けることがわかってる戦争ですよ。 >412 すくなくとも米英軍は、戦って負けて生きて帰ってきた士官に自決を強要したりはしてませんが。
潜水艦での事故は生き延びる道なんてなかったと思うんだけど。 最後まで責任を果たしたから死んでしまったんじゃないのか?
少なくとも先進国では、 自分の使命を最後まで責任持って遂行する、たとえ自分を犠牲にしても。 っていうのは特に軍隊においては大事にされてんの。 そのまた責任者だともっと重要なの。 別にそれは日本だけではないし、むしろ標準なの。 軍隊というのはそういう性格をもったものなの。 軍人が個人の判断で職務放棄して逃げたら非難されるのが軍隊なの。 中国や朝鮮半島では違うようだし、命が大事だから逃げちゃえ、っていうのも アリみたいな考えが主流の人達みたいだけど、 むしろそっちの方が例外的な考え方なの。
もう粘着にレスすんのやめた。 泣ける話のつづき に戻ります。
417 :
日出づる処の名無し :04/06/19 21:31 ID:702+jj1B
>>413 俺からすれば、責任をスルーして生き延びるってのが
軍人としてどうかな?って感じだよ。
ましてや、艦と供に死なずに生きて教訓を伝えようという
教訓が軍の教訓となってしまったら組織としてどうかな?
精神的にかなり退廃するような気がするがな。
>>413 回避不能な絶体絶命の状態でどうするか?
という美学の問題。勝ち負け関係ない
戦争はじめたという点では他国も同罪
負けたかどうかは関係ない。はじめたことが同罪
自決の強要→船と最後を供にする船長の話と関係ない
>414 潜水艦の場合は別です。ありゃどうあがいても助からなかったもの。 >415 >中国や朝鮮半島 そういうレベルの低い軍隊についての話はしてないよ。 任務達成のためには死ぬのは構いません。軍はそういう組織です。 しかし、最初から自己犠牲を前提にしていたり、生還を期さない作戦なんてのはもってのほか。 で、任務達成が不可能な場合において、責任者が現地で死ぬことと、生還して作戦の不備について 議論するの、どっちがイイでしょうか? 先進国の軍隊ではおおむね後者が推奨されているようですが。 >軍人が個人の判断で職務放棄して逃げたら非難されるのが軍隊なの。 いや、そう単純でもない。 士官には「抗命義務」ってのがあるんです。間違った命令には抗う義務。 上官の命令よりも自分の判断が正しいと思われた場合、それに反して行動する義務が。 (兵には認められていません)
>409 それが「私的な潔癖や徳義にこだわって」なわけですよ。 臼淵大尉もそりゃ、怒るっちゅーねん。
>>419 船と最後を供にするのは、日本だけじゃない
という答えでは何故ダメなのか理解できない。
どうしても日本海軍だけ特殊にしたいわけか。
日本が物量において圧倒的に不利だったという点以外、
なにも違いは無い。
人命軽視というのは確かに「現代の目で見たらあった」
けれど、当時、そんだけ必死にやらなきゃできない戦争だった。
自分の国を失うかどうかの時に、
命の心配してもしかたないと思う人が多かったってことだ。
「日本人に世話になったお返しだ」
ttp://www.nikkansports.com/news2/soccer2/wcup_countdown/0101/wc-010302.html 開幕戦取材の時、用意された席はスタンドにありました。
グラウンドで写真を撮らせてくれないんです。われわれはずっと、その状態でした。
グラウンドわきで取材できるカメラマンの数は限られています。まずは開催国、
APやロイターなど通信社が優先。残りを試合の当該国、
さらに大会出場国のカメラマンたちで分けます。そうなると、残りはわずか。
欧州のカメラマンなどが入ると、われわれにはもう残っていない。
日本人など相手にされないんです。
とにかく粘りました。実際の話、取材登録をしながら来ないカメラマンがいるんです。
遅れるカメラマンもいます。1人か2人の空きを狙う。
<略>ある時、カメラマンを割り振る責任者が「日本からか? よく来たね」
と話しかけてきてくれた。
そして、驚いたことに帰り際に濠に入る取材切符を3枚くれたんです。
その責任者は、東京オリンピックを取材したというんですね。
「日本人に世話になったお返しだ」と言われました。それで、
運良く取材できたわけです。すごくうれしかったですね。
満州開拓団の惨 1 食事を終えて、遠く西の地平線に沈もうとしている巨大な朱色の夕日を眺めて いるとき、あの夕日の彼方で突然起きた一年前の惨劇を、陽に焼けたシワだら けの顔を涙でクシャクシャにしながら語っていた開拓団生き残りの老人が思い 出されます。 「満州移民はゼッタイに侵略などではない!!・・・そんなことを言ったら、 、、現地で無残に死んでいった妻子たちがうかばれない........。 ....犬死になってしまうじゃないか....。」 たしかに一時期は、辺境の居留民や開拓団も「優越民族」としての生活を国境 に近い町や村で享受したことでしょう。それも関東軍の威力を背景にしてのこ とで、関東軍の敗走が始まり、見捨てられて放り出された居留民、開拓団は、 それぞれの判断で日本軍の保護を求め、最悪の道程をさ迷い歩かなければなら なくなったのです。
満州開拓団の惨 2 ソ連軍が急追してくる。さらに現地人たちが匪賊のように襲ってくる。 軍の根こそぎ動員によって屈強の者がいないと分かると、それまで親しんでき た満人の友さえも加わり、暴徒となって日本人難民に波状攻撃をかけてくる。 屈強の男無く武器も無い開拓団は、それでも、レンガや鍋、釜を割っては投げ つけ応戦する。十五、六歳の少年達までが斬り込み隊となって戦い、最後には 全員が自決した。 この老人のグループは、祖国日本は降伏したに違いないとの考えに至る。その ことがいっそう絶望的な気分を蔓延させ、誰もが無慈悲になり、疲労困憊した 者や負傷者を置き去りにするようになっていく。 取り残された場合には、やがてソ連軍の攻撃や現地の暴民によって皆殺しにさ れることを知って、逃れようと皆は必死の思いで歩き続ける。 何度も何度も暴民や武装匪賊の襲撃に遭遇し、すべてを奪われ乞食以下となっ た日本人の行列に、中国人が「子供を売ってくれ、女の子は500円、男の子 は300円でどうだ」と声をかけてくる。それは執拗そのものだったという。 そして、最も悲惨だったのは子供たちだ。多くの子供が力尽きて野垂れ死して いった。こうして疲れ果て、絶望した開拓団の集団自決が、8月20日を過ぎ た頃から始まる。
満州開拓団の惨 3 守ってくれるべき軍隊もなく、包囲されて脱出の望みを絶たれた人々にとって は、最後に残された選択肢は死だけとなる。人は忍耐の限度を越えると、生き ていることも苦痛になるのでしょう。 8月25日午前4時過ぎ、満州東部のある開拓団では、夜明けの空を震わせて 自決の銃声が響き渡る。一足お先に・・・・と、子を両手に抱え、または胸に 抱きして、涙で顔をグシャグシャにしながら引き金が引かれていく。 妻を、子を、親を、知人を。 火葬場と決められた馬小屋は、絶え間なく銃声が続き屍が折り重なってゆく。 読経が低く流れるなか、泣き叫ぶ子を抱き抱えた母親も、目を血走らせて銃声 の中へと消えていく。 27日には、この場所に集結していた別の三組の開拓団千数百人が、ソ連軍の 包囲攻撃を受けてほとんど全滅した。 ソ連軍の攻撃は徹頭徹尾苛烈で、弾雨のなかで青酸カリ自決をする人、ちっぽ けな武器ともいえないようなものを手に突撃して果てる人、砲弾にやられ木っ 端微塵になって散る人。どうにかして生き延びることはできないものかと空し くも願いつつ、曠野の土くれと化していった。 8月15日に日本は無条件降伏しているのに、ソ連軍は何故無抵抗な民間人を 殺戮しなければならなかったのだ! ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 「満州開拓史」によると、全滅、あるいは自決した者一万一千五百名。帰国ま での病没と行方不明者を合わせると、開拓団の人々の死亡は七万八千五百名で 全開拓団の三人に一人が死んでいます。 国から捨て去られた満州での開拓団の悲劇は、残留孤児、残留婦人問題として 今だに続いています。
幼き頃、母よりよく聞かされました。 満州の開拓団にいた事、敗戦になって毎日毎日歩き続けた事、そのとき2人の 兄(当時3歳と5歳)が亡くなった事、現地の人に子供を預けた人もいた事、連 れて行くのも地獄、預けるも地獄だった事、父がシベリアに抑留された事、黒 龍江省や大連の地名を聞かされていた事、舞鶴港に着いた事。 父は、母は、歴史を生き抜いてきた。 父は言う、 ――俺はシベリアから生きて帰ってきた―― と。 その父も肺ガンで他界しました。23年前の8月15日に。 今日は父の命日です。 「お父さん、お疲れ様でした、ゆっくり休んで下さい」
物量で劣る日本は他国より一層物と人を大事にしなければならない。 佐久間艇長は死の間際になってまで、戦訓が残るよう努力していた。 佐久間艇長を尊敬するのならば当然汚辱にまみれても生き抜いて 改善を図るべきであろう。 美学や精神やらで貴重な経験を失うのは帝国にとって失点以外の 何者でもないし、陛下も喜ばれないことであろう。
続けるなよ('A`)
参考図書 「対戦秘史・リーツェンの桜〜敗戦の地ドイツでチフスと闘い、散った日本人医博・肥沼信次〜」 舘澤貢次 著 ぱる出版 9年前、新聞の尋ね人欄に小さな記事が掲載された。 ドイツのリーツェンという町の人々が身元を探す、コエヌマ・ノブツグ医師。 この小さな記事から一つの奇跡は起きた。 昭和12年(1937年)、横浜港から一人の日本人青年が旅立とうとしていた。 彼の名は肥沼信次(当時27才)。医者の長男に生まれた彼は医学部を卒業後、 当時医学の最先端だったドイツでさらに研究をしようとしていた。 肥沼さんは、母ハツさん(当時61才)と弟栄治さん(当時24才)に見送られ、ドイツへ向かった。 ベルリン大学医学部で研究に没頭していた肥沼さん。 しかし間もなく第2次世界大戦が勃発、1945年にはソ連軍がドイツ国内に侵入し、 ベルリンでは日本人全員に避難命令が出された。 大学での研究を続けるという彼の夢も、打ち砕かれてしまったのである。 ところが避難のための集合の日、肥沼さんは大使館に現れなかった。 誰にも告げずドイツに残り、医学の研究を続ける決意をしていたのだ。 彼が現れたのはベルリンから遠く離れたリーツェンという小さな町だった。 この町は当時、伝染病指定地域で、発疹チフスが猛威をふるい、死の町と化しつつあった。 肥沼さんが帰国の道を捨てて選んだのは、そんな土地で医療を続けることだった。 1945年9月、彼はリーツェン伝染病医療センター長に就任した。 彼がここで目にした光景は、まさに戦場だった。 発疹チフスとは、赤い発疹と高熱に襲われ、15日程で死に至る伝染病だ。 現在では治療法が確立しているが、当時は恐ろしい病だったのだ。 しらみを媒介とするため、患者との接触は常に感染の危険を意味していた。
当時の看護婦、ヨハンナさんは、あまりに悲惨な状況で、 部屋に入ることができなかったと当時を振り返る。 だが、一緒にいた肥沼さんはためらうことなく部屋に入った。 そして、感染に怯える様子もなく、患者一人一人の手をとり優しく声をかけた。 医療器具も薬も、そして食料もないような状況で、治療は不可能に思えた。 それでも肥沼さんは患者を励ました。 ヨハンナさんには、肥沼さんが勇敢な戦士に見えたという。 まず肥沼さんは患者の服を脱がせ、感染の原因であるしらみの排除により衛生状態の 改善に力を入れた。小さな工夫の数々は最悪の状況の中、少なからず効果を上げた。 また、彼の治療はセンター内だけに留まらず、往診をしたり薬を調達に出かけたりもした。 自宅にも診療所を設け、睡眠時間は1日2時間という状態で治療を続けたのだ。 ある日の往診で、彼はギゼラという5才の少女を診た。 彼女は末期症状で薬なくしては助からなかった。 「薬があれば・・」という肥沼さんの言葉に、ギゼラの母親は 「夫が以前働いていた野戦病院で薬を分けてもらえるかもしれない」と言った。
肥沼さんは早速、列車で2時間、そこから歩いてさらに2日かけてその病院へ行った。 そして断られながらも辛抱強く頼み込み、薬を手に入れた。 抱えられるだけの薬を持ち、彼は歩いた。ギゼラは薬のおかげで9日目、 ようやく目を覚ました。肥沼さんは、治療費のことを口にすることがなかったという。 んな彼も、不眠不休の治療で体力も限界に来ていた。 当時家政婦をしていたイムガルトさんは 「青い顔で痩せこけていたのに、患者さんにはいつも親切に笑顔を絶やしませんでした」と思い出す。 そしてとうとう、肥沼さんにもチフスが襲った。 日頃は患者の前でも日本に帰りたいとは決して言わなかったという彼が、最後、「桜が見たい」と言った。 1946年3月8日、肥沼さんは37才の若さでこの世を去った。 当時は毎日のように多くの人が死んでゆき、どうすることもできなかったリーツェンの町。 町の人々は肥沼さんの立派な墓をたて、花を絶やすことはなかった。 そしてついに9年前、尋ね人の欄に記事を出したことによって弟の栄治さんが町を訪ねることとなった。 栄治さんは当時の兄を知る人々の話から最後の言葉を知り、町に100本の桜を送った。 リーツェンの人々の感謝の気持ちが、48年ぶりに肥沼さんの夢を叶えたのであった。
では話を変えて。 台湾沖航空戦の大本営発表(轟撃沈 航空母艦10隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦1隻)を 聞いて、連合艦載情報参謀の言葉。 「作戦課の連中がけしからんよ、国民と天皇陛下とを欺して自分達の功ををみせびらかそうとしている。 アメリカの機動部隊が潰走したなどとはきちがいの言うことだ。そのきちがいがノサバっているから 手がつけられないんだ。今しがた軍令部の副官から電話がきてね。今晩、軍令部総長の招待で、 水交社で祝杯をあげるから出席してくれというんだよ。まったく馬鹿にしているよ。 誰がそんな馬鹿騒ぎに出るもんか。ボイコットだ。」
牟田口「藤原、これだけ多くの部下を殺し、多くの兵器を失った事は、司令官として の責任上、私は腹を切ってお詫びしなければ、上御一人や、将兵の霊に相済まん と思っているのだが、貴官の腹蔵ない意見を聞きたい」 藤原「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。司令官としての責任 を真実感じておられるのなら黙って腹を切ってください。誰も止めたりは致しません。 心置きなく腹を切ってください」
「天長節までにインパールを攻略せよ」 帝国陸軍ビルマ方面軍第15軍司令官 牟田口廉也 (享年77歳) インパール作戦の参加将兵総数 約10万 そのうち戦死者 約3万、傷痍者 約5万
437 :
359 :04/06/20 01:26 ID:Ma2wQDkS
ほらな、塵レスばっかりになった…
このスレ
>>320 あたりまでいい感じだったのになぁ・・・・。
何で軍ヲタって空気読めないんだろうな?誘導貼ってあるのにさぁ・・・。
大人しく隔離スレに帰ってくれよな・・・・。
全然泣ける話じゃないな。 議論がしたい糞どもはどこか他所でやれや。真の感動の前では人は思考停止になるもんだ。 それなのに、やれ脱出できたなど、死ぬのは逃げだの。馬鹿か。今更、そんなこといっていみねーんだよ。 戦争を教訓にすることと、戦争から悼むことは全く別。それすらもわからねーで、混同しているごみくずはきえろ。
その煽りレスもまた同様にスレの穢れ。
>>441 おまえもな。くず
>>444 生きていてくれたか…
・゚・(ノД`)・゚・
>>444 今時奇特なわんこや〜・゚・(つД`)・゚・
>>431-
>>433 いい・・・・。・゚・(ノД`)・゚・。
>>444 よかった生きてたのか〜・・・゚・(つД`)・゚・
何かよくわかりませんが ティッシュ置いときますね _,,..i'"':, |\`、: i'、 .\\`_',..-i .\|_,..-┘
450 :
日出づる処の名無し :04/06/23 19:49 ID:Rcl9FP+V
72 :名無しさん@5周年 :04/06/22 05:18 ID:1lJMuaZZ 特攻隊員の遺書で、一番泣けたのがこれです。 素子、素子は私の顔を見てよく笑ひましたよ 私の腕の中で眠りもしたし またお風呂に入つたこともありました 素子が大きくなつて私のことが知りたいときは お前のお母さん 佳代叔母様に私の事をよくお聴きなさい 私の写真帳もお前の為に家に残してあります 素子という名前は私がつけたのです 素直な、心の優しい、思ひやりの深い人になるやうにと思つて、お父様が考へたのです 私は、お前が大きくなって 立派な花嫁さんになつて 仕合わせになつたのを見届けたい のですが 若しお前が私を見知らぬまま死んで しまつても 決して悲しんではなりません お前が大きくなつて父に会ひたい時は九段へいらつしゃい そして心に深く念ずれば 必ずお父様の顔がお前の心の中に浮かびますよ 父はお前は幸福者と思ひます。生まれながらにして父に生きうつしだし 他の人々も素子ちゃんを見ると真久さんに会つている様な気がするとよく申されていた またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一の希望にしてお前を可愛がつて下さるし お母さんも亦、ご自身の生涯をかけて只々素子の幸福のみを念じて生き抜いて 下さるのです 必ず私に万一のことがあつても親なし児などと思つてはなりません 父は常に素子の身辺を護って居ります 優しくて人に可愛がられる人になつて下さい お前が大きくなつて私の事を考へ始めたときに この手紙を読んで貰ひなさい 昭和十九年○月吉日 植村素子へ 追伸、素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は お父さんが頂いて自分の飛行機に お守りにしております だから素子はお父さんと一緒にいたわけです 素子が知らずにいると困りますから教へてあげます 植村 眞久 25才 最後の3行でホロッときた
451 :
日出づる処の名無し :04/06/23 22:27 ID:rHxQ80SM
この素子さん 後に靖國で奉納の舞を踊ったんじゃなかったっけ?
452 :
日出づる処の名無し :04/06/23 22:34 ID:IKzAIwnq
今日は沖縄戦終結の日age
453 :
日出づる処の名無し :04/06/23 22:51 ID:rHxQ80SM
… 沖縄県民かく闘へり … 格別のご配慮を …
>453 これですね。 (第062016番電) 左ノ電ヲ次官ニ御通報方取計ヲ得度 沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ 通信力ナク第三十二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ 之ニ代ッテ緊急御通知申上グ沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ 然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ 家屋ト財産ノ全部ヲ焼却セラレ 僅ニ身ヲ以ッテ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 尚 砲爆撃下○○○(注、原文不明)風雨ニ曝サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ 而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護炊事婦ハモトヨリ 砲弾運ビ 挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ 所詮 敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク 婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラレルベシトテ 親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ 看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ 身寄無キ重傷者ヲ助ケテ○○(注、原文不明) 真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ 更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ自給自足夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住民地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スアリ 之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来終始一貫勤労奉仕 物資節約ヲ強要セラレテ 御奉公ノ○○ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ○○(原文数字不明)コトナクシテ 本戦闘ノ末期ト沖縄島実情形○○(原文数字不明)一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ 沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
その電文からわずか8年後、 ときの吉田内閣は沖縄の人々の嘆願を無視し 日本の独立のために沖縄を「売った」…… そして 人権も民主主義も無視した米民政府の統治が それから20年の間、沖縄の空を覆う……
456 :
453 :04/06/23 23:30 ID:rHxQ80SM
>>454 サンクスです
実は453に書き込んだ部分だけしか
覚えてなくて(うろ覚え…)
ホントは全部入れるとこなんだけど
457 :
453 :04/06/23 23:32 ID:rHxQ80SM
しかもぜんぜん違う… 俺が泣きたくなってきた 回線(ry
>>457 いいんだよ、大事なのは大切なものを伝えようという心だ。
>>408 交渉のテーブルを蹴ったのは日本であり、他策はいくらでもあったでしょ。
例えば?
満州共同経営案を呑んで利益体制を共有する。 ドイツなんてほうっておいて米英との融和を計る。 満州を自由経済地域として列強に開放、満鉄と関東軍に よる治安維持で利益体制を強要する。 ま、中国利権の独占を目的に中国に派兵とかしてるようじゃ 他国ににらまれるのは当たり前だね。
当時の政治情勢の解らんクズは黙ってろ
>>460 こういうレスを見るにつけて泣けてくるよ
>462 必要なのは泣く事じゃなくて、どうすれば戦争を回避できたかという方法論だ。 それが判ってから好きなだけ泣いてろよ。
>>273 > 沖縄を救おうとして散った大和や多くの特攻隊の人々が居なければ
> 我々は本土の捨石となった沖縄の人達にあわせる顔が無かったかも知れませんね。
> 大和の犠牲も特攻も決して無駄ではなかったと信じたいです・・・。
昔読んだ戦記で満身創痍の大和で少年兵が「・・・沖縄はまだですか・・・・沖縄は・・・」
と言いながら息絶えるシーンを思い出して泣けたよ。
>273 問題なのは「救おうとしたかどうか」じゃなくて「救えたかどうか」なんじゃないの。 実際の菊水一号作戦は沖縄到着どころか、大和は中途で沈没。他艦艇も沈没や本土帰還がやっと。 貴重な艦船と乗組員と燃料の無駄になったわけです。 どっちにしろ、沖縄の人達に合わせる顔がないのはまぎれもない事実です。
唯の独り言だから、気にしないで。 スレ違いの投稿は完全無視が好いな。
469 :
359 :04/06/24 18:48 ID:4G/VfxY2
こうやって1も読めない糞と 糞に反応する塵が学習していく… ワケネーダロ、オメデテーナァ どうせなら見るに堪えない所までスレ汚して 次スレの教訓にしたらどうですかキサマラ?
>>467 あえてレスするけど、君は例えば可愛い犬が居てみんなが「可愛いね」とか
言ってる場で誰も聞いてないのに「この犬何とかって種類なんだぜー」って
物知り顔で得意になって語ってる痛い人間そのものなんだよ。
戦争で戦略や戦術の過誤から人命を浪費する愚なぞ枚挙に暇がないし少し戦史を
学べばどこの国も失策を犯してることはいくらでも出てくる。
そんなことを訳知り顔で結果論を得意になって語っているみたいだがわざとかね?
知識をひけらかしたければ軍板に行けばいいし論議したければ旧軍総合スレでも
いいだろう。
君が真性の厨でなければこのスレの空気を読んで欲しいものだね。
>>469 > どうせなら見るに堪えない所までスレ汚して
> 次スレの教訓にしたらどうですかキサマラ?
このスレを見てたらみんなが色んな話を持ち寄って好スレに育てようとしてきている
のが見て取れるだけにね、立て直して欲しいよ。
そういう俺もこの辺にしとこう。スマンかった。
太田少将の電文にはもう1つ話があって、沖縄関係の優遇予算を 打ち切ろうか、というのが話し合われたとき、出席者の一人が、 この電文を見せて「これを知っている人がいる限り、沖縄には 配慮するべきだ」と言ったところ、予算は継続することになった、 という話をどこかで見かけた。
>旅順口砲台、弾薬庫、万忠墓と見学したところで昼食。日本人だけ皆が昼食を >している間、昼食抜きで203高地に登る。海抜203メートルのなんの変哲 >もない丘。乃木大将が名付けて「爾霊山」(にれいさん)。 >この丘の中腹の小さな谷を、日本軍一万の将兵の屍が埋めたのだ。 >万忠墓に「歴史に学び、後の人の教訓にしょう」と、横断幕のスローガンが掛 >かっている。ここは日清戦争(1894〜1895中国でいう甲午戦争)のとき >の中国側戦死者を祭ったところ。碑によると、日本軍が虐殺した清兵の死体を >焼き、その上に花を飾って"欺瞞"したとある。 >これはどうしても事実とは思えない。ここで戦いがあり、日本軍が中国将兵を >殺しその死体を焼いたのは事実だろう。しかし虐殺をし、それを隠蔽するため >死体を焼き、さらに花を飾って欺瞞したという点が事実を歪めていると、私は >言いたいのだ。 >勇敢に戦った相手将兵の亡骸を犬等に荒らされないように焼いて丁重に弔い、 >それに花を奉げるのは武士道である。これは本来美談なのだ。確かに私はその >場に居たわけではない。然し彼等の血を引き継いだ日本人として主張する。 >この碑文は、「歴史が意図的に歪められた事実」として後の人の教訓となるだ >ろうと。
474 :
日出づる処の名無し :04/06/25 21:27 ID:pXLJVT12
この板向けじゃないかもしれないけど 156 名前:名無しさん@どーでもいいことだが。 投稿日:04/06/22 00:09 hRCUpMmU 文通か…学生だった頃は結構な人数とやってたなー 手紙が待ち遠しくて何度もポストを見に行ったりしてた。 今はメールでのやり取りオンリーになった。 メールも面白いけど、直筆の手紙程の嬉しさや、温かさはないよね。 凄く温かい気持ちになった私の文通話。 2年程前に音信不通になられたお嬢さんからポツリと手紙が来た。 「今頃どうしたんだろう?」と思いつつ手紙を読みました。 なんとそこには、重い病気を患ってしまい、海外に入院していたと書かれていました。 すでに2ヶ月前に帰国していたのですが、その間ずっと私の事が忘れられず、 駄目元で文通再開希望の手紙を書いたと書いてありました。 しかも、海外に入院にいった時は私が送った手紙を読み返すと 勇気が出るからと全て持っていったと書いてありました。 なんの力もない一般人の私が書いた手紙が彼女の勇気になったと思うと嬉しくて仕方がありません。 文通再開の件ももちろんOKしました。 数年ぶりの文通ですが、やはりメールじゃ伝わりきれない気持ちや、文字の温かさが嬉しくて 彼女からの手紙を、学生だった頃のように心待ちにしています。
>>472 ええ話や。死して尚沖縄の護りとなった太田少将・・・。
476 :
abc :04/06/26 07:12 ID:Th/I8jpH
>>357 美談の後日談として「その後こういう風に成りました」という話しが無ければ無意味だと思うの
平和呆け出現。軍事機密をホイホイ漏らしたら銃殺ものですぞ。
今日の朝生の伊勢神宮の話は良かった。 最後のアメリカの話は要らんけど。
>>477 どんな話?
伊勢っつーたら
30年おきに毎回新しいの建てて古いの壊してってのを
2千年くらいくり返してるってとこだっけ?
>>478 大体↓みたいな感じかな?もっと良い事言ってるから動画見てみな。
伊勢神宮では、毎日、天照大神他に、ご飯(お供え物)をあげている。
火を起こす所から始めて。それを伊勢神宮が出来てから延々と毎日続けている。
ご飯なんて食べられない人が多かった、太古の昔から。
「ご飯を毎朝食べられる」
ただそれだけのことをお祭りであると尊び、習しとする文化が日本にはある。
このような無私の感覚、公の感覚、畏怖の念、感謝の念…これこそが合理主義、近代主義に邁進した結果、おごりたかぶった日本人が忘れかけているものである。
そして、この感覚を有する 貴重な存在が皇室であり、天皇である。
それらは、日本人が忘れようとしている感覚を守る 歯止めとして機能している。
故に天皇、皇室の存在は現在においても有意義な存在である。
あとさ、日本人が有してきた貴重な感覚を忘れてアメリカに追従する政治家どもに
伝統を守ってきた天皇や皇室を議論する資格なぞない。
動画
http://read.kir.jp/file/read0096.zip
http://www.mil-box.com/news/2004/20040615_10.html 元気に頑張っていますか?あなたが東ティモールへ出発してから4ヶ月が
過ぎました。あっという間の4ヶ月のような気もしますが、やっぱり長い
4ヶ月ですね。
日本は、ここ南国宮崎でも雪が降るぐらい寒い日が続いていましたが、
最近は梅の花のつぼみも膨らみ始め、春を迎えたんだなあという気持ちに
なります。でもそちらは相変わらず暑い毎日なんでしょうね。日本では
考えられないような過酷な日々を送っているのではないでしょうか?
電話での様子は日本にいる頃と変わらないような感じですが、やっぱり
心配です。体には十分注意して、怪我等しない様に気を付けて下さい。
大翔も大きくなりました。あなたが出発する頃はつたい歩きしか
できなかったのに、今ではもう走り回るようになりました。毎日元気に
保育園に行っています。
手遊びも上手にできるようになりました。一番大好きなのは『むすんで・
ひらいて』みたいで歌ってあげると元気に歌いながら(歌っているつもり
みたいです、本人は)むすんで・ひらいてをやります。言葉もだいぶ
出るようになりました。『じぃじ、ばぁば、しぇんしぇい(先生)、ちゃちゃ
(お茶)、しゃーい(いってらっしゃい)ばぁーい(ばいばい)、しー(おいしい)、
した(靴下)などなど。書ききれないぐらいの言葉を話すようになりました。
中でもあなたに伝えたいのは、あなたの写真を見て「パパ」と言えること。
でもたまに「アンパン」になることも…。(どうもアンパンマンとごっちゃに
なっているようです。)
>>481 続き
いつもあなたの写真を見せて「大翔のパパだよ。」と教えていたせいか
「パパはどこ?」って聞くと、写真を指差します。実物を見てパパだと理解
できるかどうか分からないけれど、こんなに小さい大翔でもあなたのことを
忘れてはいないから安心してね。
3月末の感動の再会ツアーでは、5ヶ月振りに会う大翔を見て、ビックリ
すると思います。大翔も写真の中のパパが目の前にいて、きっとビックリ
すると思うけど…。
久しぶりの家族3人水いらず。一緒にいることが当り前なんだけれど、
一緒にいられる時間っていうのがどれだけ大切なのか。お互い再認識
するにはいいきっかけだったのかも知れないね。今回のPK0派遣は。
以前からもあなたや大翔のことは、とても大切な存在ではあったけれど、
今回のPKO派遣で離れて生活してみて、改めて私にとってあなたも大翔も
心から大切にしたいかけがえのない存在だということが身に染みて
分かりました。
あなたが遠く東ティモールの地で、現地の人々のために頑張っている
ことを家族としてとても誇りに思います。あなたの傍で、あなたのことを
支えてあげられないけれど、日本から少しでも心の支えになって
あげられるように、毎日あなたの無事と任務達成を心から祈っています。
残り約3ヶ月間、まだまだ大変な思いをして勤務につかなくては
いけないでしょうが、体には十分気を付けて、元気に頑張って下さい。
私もあなたの不在の間、父となり母となり、荒牧家を守って仕事に
家事に全力を尽くしたいと思います。大翔と二人、大好きなパパの帰りを
首を長くして待っています。元気な笑顔で再会できるように家族3人で
頑張っていこうね。
>>478 >>480 宮大工の技術継承のスパンでしょうね。
>20年間隔
ちなみにこれ、設計図なんてものは当然なくて、
『お手本』である先代の社などを参考にして
仕上げるのだそうな。
ほしゅー
ここまで読んだ、大淵の亜フォ
保守しまっしょ
487 :
日出づる処の名無し :04/07/04 00:01 ID:G2uyY9GZ
移転age
保守しまそ
489 :
日出づる処の名無し :04/07/06 12:54 ID:vdpfnMCo
数年前の沖縄出張にて 泉崎のとある居酒屋で、僕らの熊本弁を聞きつけた沖縄の御仁が、話しかけてきました。 『僕は小学生のころ、戦争がひどくなって来たから熊本に疎開してたサー。 当時の国民学校は午前中は熊本の子供、午後は沖縄の子供で、一つの教室で 授業が行なわれてたサネー。 国民、みんなひもじかった時。。。ましてや疎開先で満足に食べる事も出来ない。。。 ある日学校に行くと、引出しの中に、蒸かしたお芋と手紙が入ってた。 その手紙には、「お腹すいているでしょ。良かったら食べてください。」と。 泣きながらそれを食べたサー。』 『熊本の人にあったら是非そのときの恩返しをしなければとずっと思ってた。』 そういって、泡盛のボトルを1本下さいました。 50年を超えた仁義と、郷土の先人の優しさに感動しました。 熊本で沖縄の人にあったら、その話をして、その恩返しに、 球磨焼酎を1本差し上げようと思い飲み歩いていますが未だ会えません。
490 :
:04/07/07 09:53 ID:pq6MC3+S
エエハナシヤ
491 :
日出づる処の名無し :04/07/08 00:40 ID:PBy1ZfoP
激しく弾雨が降り注ぎ オレンジ浜を血で染めた 強兵たちはみな散って ペ島は総て墓地となる 小さな異国のこの島を 死んでも守ると誓いつつ 山なす敵を迎え撃ち 弾射ち尽くし食糧もない 将兵は”桜”を叫びつつ これが最期の伝えごと 父母よ祖国よ妻や子よ 別れの”桜"に意味深し 日本の”桜"は春いちど 見事に咲いて明日は散る ペ島の”桜"は散り散りに 玉砕れども勲功は永久に 今守備勇士の姿なく 残りし洞窟の夢の跡 古いペ島の習慣で 我等勇士の霊魂守る 平和と自由の尊さを 身を鴻にしてこの島に 教えて散りし"桜花" 今では平和が甦る どうぞ再びペリリューヘ 時なし桜花の花びらは 椰子の木陰で待ち佗し あつい涙がこみあげる 戦友遺族の皆さまに 永遠までもかわりなく 必ず我等は待ち望む 桜とともに皆さまを 保守ageですタイ。
492 :
冬のオイラ :04/07/08 03:48 ID:jSKtwq6t
へーへーへー
保守
かつて、軍事板ウォーターラインシリーズスレッドに、こんな投稿があった。 388 名前: 名無し三等兵 投稿日:2001/06/19(火) 01:37 靖国神社遊就館でWLの完成品を見てきたよ。グレーの部分は未塗装、甲板の部 分だけ塗ってある。しかも、継ぎ目は消してないし、接着剤はみ出しまくり。でも、 「戦友へ」「奉納品」と書かれてるのを見て、ぐっと来たね。かつての戦士たちが、 老眼などの肉体的なハンデと戦いながら、散っていった戦友のために一生懸命作っ たわけだ。魂がこもっているよ。 それに比べりゃ自分の完成品は、娯楽の産物。背負ってるものが違うんで、迫力 が出ない。いくら技術的には上でも、完全な敗北だわ。 ちなみに遊就館だけど、他にも色んな模型があったよ。1/200のニチモの大 和とか。プラモ以外では、1/50の翔鶴が凄かった。甲板の上にタミヤやフジミ の零戦や艦爆が並んでるのは爽快だったね。 この「奉納品」は、現在は観ることができない。 2002年7月に終了した遊就館の改装で大幅に展示内容が変更、 展示する価値無しと判断されたのか、真新しくなった展示室からは姿を消した。 スペースが無いワケではないのだ。 もともと80p四方程度のサイズに充分収まっていた品なのだから。 改装後の遊就館は、「新自由主義史観」論者の主張に沿うような歴史掲示を中心とした展示内容となり 売店には彼らの本が溢れている。 これが靖国のすることか。 こんな仕打ちのどこに、英霊をとむらう心があるのか。 情けなや。 嗚呼情けなや。 涙がこぼれて仕方がなかった。
495 :
日出づる処の名無し :04/07/12 12:48 ID:iF85r3J8
>>494 なんとも…泣くに泣けないブラックジョークだすな
靖國靖國云ってる連中のおかげで桜花となった戦友への奉納品が撤去されるとは…
496 :
日出づる処の名無し :04/07/15 22:40 ID:v/bGN16e
保守しとこ
>>「新自由主義史観」論者の主張に沿うような歴史掲示を中心とした展示内容 そうか?売店はその手の本は売っているが、 偏った展示のしかたではないと思ったがなあ。 他の資料館やら記念館やらがが偏り杉だから、 そう見えなくもないがナ。
>497 それはあなたが新自由史観論者の主張と同じことを思ってるだけでは。 >494が「涙がこぼれて仕方がなかった」と言ってるのは 新自由史観論者の主張が誤っているから、じゃあ無いと思うぞ。
新自由史観論者の主張と同じわけではないが 俺は別に偏った博物館?ではないと思うまでの話。 >>「涙がこぼれて仕方がなかった」と言ってるのは 新自由史観論者の主張が誤っているから、じゃあ無いと思うぞ えっ?なんで俺にそれを言うのか意味不明なんですが そんな事くらい読めばわかりますよ。 まあ擦違いなので続きどーぞ。
ほしゅ
保守をしておく (^^)
「本当の戦争の話というのは全然教訓的ではない。それは人間の徳性を良い方向に 導かないし、高めもしない。かくあるべしという行動規範を示唆したりもしない。 また人がそれまでやってきた行いをやめさせたりするようなこともない。 もし教訓的に思える戦争の話があったら、それは信じないほうがいい。 もしその話が終わったときに君の気分が高揚していたり、廃物の山の中からちょっとした まっとうな部品を拾ったような気がしたりしたら、君は昔からあいも変わらず繰り返されている 酷い大嘘の犠牲者になっているのである」 ――『本当の戦争の話をしよう』ティム・オブライエン(文春文庫)
>>502 この文章の本意が何処にあるのか、俺は馬鹿だから未だに判らないけど
結局俺は昔からあいも変わらず繰り返されている酷い大嘘の犠牲者に
なったままってことでいいんかね?
504 :
日出づる処の名無し :04/07/24 03:00 ID:sMpViq1F
>>502 教訓的な戦争の話よりも「教訓的な話」の方が
はるかに多いはずなんだが、それによって
>それは人間の徳性を良い方向に
>導かないし、高めもしない。かくあるべしという行動規範を示唆したりもしない。
>また人がそれまでやってきた行いをやめさせたりするようなこともない。
↑のようなことが達成されているとしたならば争いなんぞは起こらんだろう。
要するにこの著者は
>もし教訓的に思える戦争の話があったら、それは信じないほうがいい。
ではなくて
>もし教訓的に思える話があったら、それは信じないほうがいい。
というべきだな。まず最初に「聖書」にでもその言葉を投げかけて
やれと言いたいわ。
,r::::::::::::::::::::、:、 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|:::∧_∧::::::::|:::| |
⊂(@∀@)つ|:::| <
>>1 クズ・・・っ!ゴミ・・・っ!
//(手 塚)//::::!
|:::|/とヽ ♂ θ|:::| :::/
/ ̄ ̄旦 ̄ ̄ ̄/|
/______/ | |
| |-----------| |
_
/ /|)
| ̄|
/ /
506 :
日出づる処の名無し :04/07/24 11:02 ID:KbMg8q+v
昭和20年11月26日 帝国議会において、冒頭質問から「戦争責任」が採り上げられた。 28日 進歩党の代議士が質問にたった。 昭和15年2月2日に支那事変に対する政府の無策を批判する演説により除名処分を受けた斎藤隆夫である。 昭和6年の満州事変から、軍人が政治に干渉し、その弊害留まるところなく今日の悲運を招いた軍部大臣と 合いまみゆることは陸海軍省廃止と決まった今日、これが最後と思われた。それゆえ、あえてこの機会に、 なぜこのような事態を招いたのか大臣の所見をお聞きしたい…と。 この質問に対し、最後の陸軍大臣・下村定陸軍大将が答弁にたつ。 戦後はじめて、自らが犯した歴史的罪業について、当事者たる陸相が説明するのである。 それこそ満場水をうったように静まったという。 「いわゆる軍国主義の発生につきましては、陸軍内の者が軍人としての正しきものの考え方を誤ったこと、 とくに指導の地位にあります者がやり方が悪かったことと、これが根本であると信じます。 このことが内外のいろいろな情勢と、複雑な因果関係を生じまして、ある者は軍の力を背景とし、 ある者は勢いに乗じましていわゆる軍国主義の発生につきましては、陸軍内の者が軍人としての 正しきものの考え方を誤ったこと、とくに指導の地位にあります者がいわゆる独善的な、横暴な措置を とった者があると信じます。ことに許すべからざることは、軍の不当なる政治干渉であります。 かようなことが、重大な原因となりまして、今回のごとき悲痛な状態を、国家にもたらしましたことは、 何とも申し訳がありませぬ。」 そういって陸相は深く頭を下げた。 このあまりに率直な詫びように、議場内には勃然として大きな拍手が沸き起こった。
507 :
日出づる処の名無し :04/07/24 11:05 ID:KbMg8q+v
「私は陸軍の最後にあたりまして、議会を通じてこの点につき、全国民諸君に衷心からお詫びを申し上げます。 陸軍は解体を致します。過去の罪責に対しまして今後、事実をもってお詫び申し上げること、 事実をもって罪をつぐなうことは出来ませぬ。まことに残念でありますが、 どうか従来からの国民各位のご同情に訴えまして、この陸軍の過去における罪悪のために、 純忠なる軍人の功績を抹消し去らないこと、ことに幾多戦没の英霊にたいして、深きご同情を賜らんことを この際切にお願いいたします。」 声涙下る陸相の「過去の陸軍を代表して率直にその過誤を陳謝された名演説」は多くの議員を感動せしめ 粛然となった議場より、もう良い、とやさしく陸相の発言を止めようとする声もあがったという。 2日後の11月30日 内地復員を終えた陸海軍省が廃止、 残務整理と外地からの復員業務のための復員省ができる。 この日下村陸相は宮中に参内、復員が順調に進んでいることと、改めて敗戦のお詫びを奏上した。 8月15日以来背広姿であられる天皇は、この日、久しぶりに大元帥服をお召しになった。 今までほんとうにご苦労であった。 と大元帥陛下は勅語を賜り、最後の儀式は終わった。 ただちに天皇は軍服を背広にお召し代えになった。 この日、大日本帝国陸海軍は永遠に姿を消した。
>503 だいたいそんなところかと。 >504 >教訓的な戦争の話よりも「教訓的な話」の方がはるかに多いはずなんだが、それによって ただの「教訓的な話」なら積極的に宣伝する香具師はいねーでしょ。 ところが、「戦争にからんだ教訓的な話」となるとこれはもう、スポンサーはいっぱい居るわけであり、 その話についても敏腕の脚本家や演出家が手直ししてくれるわけであり、やっぱ信じないほうが 健康的っしょ。
オブライエン厨が来たか…進歩の無いヤツ。 このスレはじめからもう一遍読み直せ。 そしてその上でなおオブライエンの言葉をここに貼ることに おまえさんが何の理性の咎めも覚えないんなら、 それはお前さんが馬鹿サヨでしかないってことだからもう手遅れなんで何も言わない。 オブライエンが「戦争の話は…」って言ったときの批判対象は 戦争の話そのもののことじゃなくて、それを利用したメディアシステムの振る舞い、だろ。 このスレ読んで「あぁ戦争って素晴らしい」もしくは「ああ戦争ってそんな悪いものじゃない」と、 そういう風に思えるのならお前さんの行為は間違ってないのかもしれんが。 オブライエンの言う「戦争の話」が戦争に関わるあらゆる回想を指す、ってわけじゃないだろうに。 お前さんオブライエンに百回死んで詫びてこい。 お前のせいでひとりの善良な文学者がバカサヨと同類の扱いをうけるんだから。
442連隊の話、漫画になってなかったっけ?
511 :
日出づる処の名無し :04/07/24 13:57 ID:Xad/45OK
>>508 ん?具体的にはどういうものを指しているの?
そんな話聞いたことはないが。
>>508 >ただの「教訓的な話」なら積極的に宣伝する香具師はいねーでしょ。
君は町にでないから知らないのかも知れないんだが、
世の中には「教会」というものがあったりして、毎週のように
教訓的なお話を「宣伝」してくれていますよ。
特に欧州ではマスゴミの登場よりはるかに歴史的に
古いんですけどね(w
どーでもいいから全員>1読み返して来い
餓鬼は黙ってろ
510さん 望月三起也の漫画でありましたよね。 確か文庫本サイズで再販されていたような
518 :
510 :04/07/26 23:14 ID:HlqFM4ND
>517 やっぱりあったんですね。 昔読んだきりなので記憶があやふやだったのですが。 文庫が出ているのなら、探してみます。 ありがとうございました。
ものすごくない勢いで保守
んじゃものすごい勢いで保守
522 :
日出づる処の名無し :04/07/31 07:25 ID:+Fp988CC
>>513 なんで508ような連中ってのは「具体的に」と聞くと
判で押したようにトンズラするんだろうか?
未だに508が言っているような「戦争にからんだ教訓的な話
(スポンサー付き、脚本家&演出家総動員)」ってのが何を
指しているのかさっぱり見当がつかないんだけど。
523 :
日出づる処の名無し :04/07/31 17:37 ID:/UdJaCDo
「死んでもラッパを離しませんでした」 「杉野杉野、杉野はいずこ?」 とかじゃないの?
>523 話の内容的に言うなら、 前者はまさにその通りだが、後者は全然違うと思うんだがねぇ。 戦場でたまたま人間性が発露されたってことを伝えるだけでも 「戦争賛美」だ、って言うんだったら それは逆に「戦争とは鬼畜によって行われるモノである」という ひとつの硬直しきったドグマから生まれた思想的奇形だよ…
>>502 どうあがいても、最終的には欧米諸国からなぶり殺しにされる戦争を受けた側に
とっては、確かに戦争の話なんざ教訓にはならんわな。
戦争はどう解釈しても殺し合いの場に過ぎん。でも、もしそこで教訓的な話が
いくつも見られるとしたら、どんな状況でも輝くだけの資質を持った人々が
生死の間で追い詰められても、せめて後世に語られて恥ずかしくない生き方
もしくは死に方をしようとしたということだ。
…時代の不幸を敏感に感じとるあまり、おのれの命さえ捨てて かえり見ない(原文ママ)この青年たちのことを、気の触れた人間と 言うのでなければ、せいぜいよくて人の言いなりになるロボットだと、 われわれは考えてきた…(中略)…しかし実際には、無と同じほどに 透明であるがゆえに人の眼には見えない、水晶のごとき自己放棄の 精神をそこに見るべきであったのだ… …生きていることが美しかるべき年頃に、立派に死ぬことにこれらの 若者達は皆、心を用いた、そのために彼らは人に誤解された。 彼らにふさわしい賞賛と共感を彼らに与えようではないか。 彼らはたしかに日本のために死んだ。 だが彼らを理解するのに日本人である必要はない。死を背負った 人間であるだけでよい…(中略)…決死の戦いのさなかに 心の深い平穏を見出すことができるのは、ただよき意志においてだけ なのである。 --------------------------- 神風特別攻撃隊について、フランスの比較文学者、 モーリス・パンゲが著した「自死の日本史」第十二章 奈落の底まで より引用
私の大叔父は戦地で餓死した。 部隊をまとめる立場だった彼は、とっくに食糧が底をつき たまに食べられるものが手に入っても自分は一口も食べず すべて「命令だ」と言って部下に食べさせて死んでいったらしい。 という話を、大叔父の部下で生きて帰ってこられた方から聞いた。 スポンサーだ?脚本家だ?演出家だ?寝言は寝て言え。
しかし、定期的に昔のことを今の価値観で語って批判する馬鹿が出るのはなぜだろう?
そいつらに共通するのは自分があたかも優秀な戦略家にでもなったつもりで 日本軍のミスを指摘し悦に浸っているということかな やってることが後出しジャンケンそのもの
>527 指揮官の仕事は兵隊にメシ食わせることだから。自分が食わないで部下に食わせるのは美談じゃなくて あたりまえのことだから。 しかもなおも大多数の部下を餓えさせている時点で士官失格だから。
>530 指揮官の仕事に「兵隊に飯を食わせること」は入ってません。 なんのために輜重部門があると思ってるんですか、なんのために軍官僚が居ると思ってるんですか。
>>530 あなたは絶対にやらないで、自分だけ食べて憎まれるだろうね。うん。
>531 陛下の赤子をお預かりしてるんだから、それを餓えさせるのは論外だろう。 指揮官(まとめる立場、ってのが具体的にどの階級かわからないけど)ならば 兵に100%の力を発揮させるための努力は当然すべきでしょ。 ・・・・ま、日本軍のことだから補給がアレなのはしょうがないけどさ。
その補給がアレな作戦を立てた、まさに日本人にとっての戦犯の瀬島参謀は、 極東軍事裁判で戦犯としてもあげられずのうのうと生き延びてるんだよな。 まあ、アメリカにとって、日本軍弱体化の功労者だから仕方ないか。
536 :
日出づる処の名無し :04/08/07 23:46 ID:rPglgA/2
ほしゅ
537 :
日出づる処の名無し :04/08/08 00:11 ID:BLD3NK72
>>534 瀬島龍三はシベリアで強制労働5年の刑を終えて来てるんだが?
しかも裁判なしの強制連行。サヨクの君が一番嫌いな言葉だろ?
まして彼の担当は満州方面。満州は食料も充分で一番平和な部隊だった。
そのせいで精鋭部隊は次々と南方に引き抜かれ、後に残されたのは予備召集された
ロートルやら成績不良の弱兵ばかり。
しかし関東軍の場合は、ソ連参戦のその日まで満州は本土より遙かに平穏。
関東軍の殆どの人員にとって中立国ソ連の参戦は寝耳に水の事態だった。
そして当時の関東軍には、侵攻してきたソ連軍が、広範囲な暴行、略奪を
行うとの認識は薄かった。
そこで当時たかが少佐だった瀬島を捕まえて戦犯といわれても実感ねえな。
辻あたりならわからんでもないが。
「厳として山頂に愛機と共に在ります」
昭和20年8月18日。終戦の三日後祖国の再起を信じて
愛機(飛燕)と浅間山に自爆した特攻隊長がいました。
岩村田出身の西川俊彦中尉は自宅(上ノ城)や母校・野沢中学
両親故郷等の上空を旋回後浅間山に突入しました。
自宅近くの岩村田国民学校に投下した通信筒には遺書が
入っていました。
http://www.komoro.or.jp/nisikawa.html
>>537 > 瀬島龍三はシベリアで強制労働5年の刑を終えて来てるんだが?
は?
シベリア強制労働の刑で「罪」を償っただろ?とでも言いたいのか?
じゃあ他の抑留者も「罪」を償ったんだ。w
何の罪だ?平和に対する罪か?人道に対する罪か?
それに、瀬島は関東軍の平和な部隊に居ただけじゃないことをなぜ隠す?
大本営参謀として南方の作戦も担当してるだろうが。
サヨはおまえだ。
ああそうそう、言っとくが。極東軍事裁判で戦犯としてあげられず、というのは
皮肉で言ってるだけだ。他の抑留者の命と引き換えに自分はさっさと帰って
来やがって。本来日本人の手で裁くべきだった。
昨晩のうるるん滞在記(だっけ?)をちらっと見たのだけど、ラバウルの なんとか族にタレントが行くんだけど、戦中、日本軍と親しかった人たちが 多くて、今でも日本人をすごく好いてくれている。 日本人の教わった事、「約束を守ること」、「嘘をつかないこと」は今でも 心に残っているみたいだった。 そして日本の歌をたくさん知っていて、タレントが帰るときに「海ゆかば」を 歌っていた。スタジオの清水圭が「この人は海ゆかばを歌って日本人を送り 出すのはきっと二度目なんでしょうね」という言葉に泣けた。
「この人は海ゆかばを歌って日本人を送り 出すのはきっと二度目なんでしょうね」 圭いいやつだな。 TBSだからあえて見なかったが 見れば良かったな。
>>540 日本軍のことを、「テイコクリクグン」と言ってたのが印象的だった。
543 :
日出づる処の名無し :04/08/09 22:41 ID:CJC7bopA
>>539 あの〜瀬島氏は11年のシベリア重労働を終えて帰ってるんですが・・・。
南方の作戦も担当したが「ガダルカナル島撤収作戦」ですが・・・。
満州方面では参謀としては下位だったためソ連との降伏交渉に捨石として送られ、
結局捕まってしまったんですが・・・。
帰ってこれたのはほとんど奇跡といわれたほどで、その帰国順番も真ん中よりもはるかに
後方の序列だったんですが・・・。
瀬島が戦犯の名に値するという、確かな事例をいくつか挙げてもらえませんか?
「沈黙のファイル」を文字通り盲信して瀬島批判をする人間が多いが、 あの本は徹頭徹尾瀬島を貶めるために書かれているってことは一目瞭然。 俺は瀬島マンセーとは思わんが、あの本は本来是々非々であるべき人物評価を 全て非なるものとして書いていて、きわめて不自然。 「大本営のエリート参謀がいかに同室の虜囚とはいえ一兵士が死んだのを 悲しんでいたかどうか疑問である」 というような書き方は悪意以外の何者でもない。
ウルルンといえば以前、同じく南太平洋の島に行って、 戦時中日本兵と交流のあった人の家にホームステイをするという話をやっていた。 ホームシックにかかって「日焼けが痛い」と泣く男優を、 現地の人が赤とんぼを歌いながら(確か別の場面では東京音頭も歌っていた) 慰める姿は正直複雑な気分だったが・・・
546 :
第六天魔王 ◆ODA7WdIm6U :04/08/09 23:53 ID:5FbYctsF
>>542 あのお爺さん最後敬礼して見送ってたよ。
何でこう日本だけが戦後から未だに目覚められてないのだろうか…orz
547 :
日出づる処の名無し :04/08/10 00:08 ID:A6psohoZ
すみません、サッカーイラン代表アリ・ダエイの話どっかにありませんか?
>545 >ホームシックにかかって「日焼けが痛い」と泣く男優 あれって3,4日現地に行くだけじゃなかったけ?
549 :
539 :04/08/10 00:33 ID:gJOfL8vg
>>543 はああああ!!???
じゃあ、
俺は騙された訳だ。_| ̄|○
すまん
「今から10年前、広島で開催されたアジア大会に参加した私は負傷したため 入院することになった。たしか広島大学病院という名前だった。 最初は落ち込んでいたけど、手術を担当をしてくれた医師や看護婦、 お見舞いに来てくれたファンの方々には本当に親切にしてもらい、 当時は心から感激したものさ。いつかその病院を訪問できればと思っている。 この場を借りて改めて感謝したい。 でもサッカーとなると話は別だよ。アジアカップの決勝は十中八九 「イラン-日本」で決まりだけど、チャンピオンの称号を得るのは我々イランだ。 私は日本のサッカーが好きだし、日本人を心の底から尊敬してる。 だからこそ、日本に勝ちたい気持ちがひと一倍強いんだ」 アリ・ダエイ 週間サッカーダイジェストNo.738
>>544 >「大本営のエリート参謀がいかに同室の虜囚とはいえ一兵士が死んだのを
>悲しんでいたかどうか疑問である」
「沈黙のファイル」も瀬島氏も両方知らない第三者からすると
上記のような表現をする著者の品性の下劣さが際立っている
といわざるをえないのだが。
>550 さすがはイランの国民的英雄。スポーツマンですなぁ、武人ですなぁ。
>>171 今更だがこれ何べん読んでも泣ける。
なんか誇らしくなるっていうか…上手く言えないけど
ここ1週間半、俺は田舎のじいちゃんから送られてきたスイカのみで生活している じいちゃんは2次ん時に満州に行ってたらしい そこで二人の弟を亡くしてる(二人とも軍人、もちろんじいちゃんも) もう90超えてるけどボケないで元気だ じいちゃん・・・オイラ・・・スイカよりお金欲しいなぁ
90歳越えてる爺ちゃんがいるくらいの年だったら、 一日陽の下で汗水たらして働けば自分のメシくらい稼げるってんだ。 自分の力でメシを食うこと、それは他のあらゆるコトより大事なこと。 そこが判らんようなのが子孫だっていうんでは、死んでいった先達がうかばれんぞ。
じいちゃん・・・オイラ・・・かわいい女の子とオマンコしたいよ〜
558 :
日出づる処の名無し :04/08/15 08:33 ID:vrJOX9lr
終戦記念age
もう駄目もう読めない...。
ニホンちゃんには親戚のおじさんがいます。サヨックおじさんです。 サヨックおじさんはもうすっかり大人なのですが、普通の大人の人と比べて少し頭が弱いのです。 サヨックおじさんはこれといって仕事をしていません。することといえばニホンちゃんについてまわって観察することです。 観察しているだけならそれはしょうがない事なのですが、サヨックおじさんは少し他の人と比べて頭が弱いのです。 なんとニホンちゃんがちょっとでもカンコ君とチューゴ君を怒らせるような事をするとすぐに訳もなく土下座してしまうのです。 それに前に謝ったことをすぐに忘れてしまうので同じことで何度も何度も謝ってしまいます。 サヨックおじさんは人の顔の判別があまりつかないのでたまにタイワンちゃんやインドネシアちゃんにも謝ってしまい 彼女達を困らせます。 ただカンコ君とチューゴ君は顔があまりにも醜いのでさすがのサヨックおじさんでもすぐに分かります。 今日もサヨックおじさんはカンコ君に何度も何度も土下座をしています。 「ごめんなさい、ニホンちゃんと親戚なのが本当に恥ずかしい。本当にごめんなさい」 「なかなかいい土下座っぷりニダ!だがまだまだ謝罪が足りないニダ!」 カンコ君にとってみれば謝ってもらうのが面白くてたまりません。 あまりに土下座をするので、ついにサヨックおじさんの毛はなくなってしまいました。 これを読んでる良い子のみんなはサヨックおじさんのことをけっして嫌いになったりしないで下さい。 何度も言いますがほんの少しだけ他の人と比べて頭が弱いだけなのです。
>>560 頭が悪いというだけなら生暖かく見守る
こともできるんだが、サヨックおじさんって
自分だけが頭がいいと信じきって人を
指導しようとするからなぁ。
大迷惑なのでお仕置きするしかないんですよ(w
562 :
日出づる処の名無し :04/08/16 22:57 ID:qKZ724qE
人によってはある意味「泣ける」っていうのかな・・・ この板のスレにたびたびかきこしているスーパーのバイトです。 いま、系列店の本屋で韓国フェアやってるんです。 たぶん本屋があるとこ全部だとおもいます。「本部通達」みたいなのが来たといわれました。 私はこの板にきてまだ日が浅いのですが、たくさんのレスやFLASHなどをみていて だんだん棚を占拠してゆくハンディカムの人(伏字)に嫌気がさし、それが日に日に増していたときでした。 商品がなければ、そしてなかなか入らなければフェアをやめることが出来るとおもい、 買っていくお客さんがいても挟まっていたスリップを捨てて注文できないようにしていました。 フェアが始まったのは6月中旬か下旬くらいだったと思います。 はじめのころは毎日冬ソナ本が売れ1週間しないうちに再入荷ってかんじだったし、 立ち読みのオバサンが何人もいるときがあり、小さい子どもも覗き込むという状態でしたが、 8月の始めにはかなり商品が減ってきていましたし、立ち読みしていくオバサンも減ったように思われました。 がんばった甲斐がある、そう思っていました。 お盆の時期は忙しいほかの場所にまわされていて、本屋のレジはしませんでした。 8月14日の閉店後、商品出しとかしなきゃ、とおもい本屋に行きました。 新しく公開する映画のノベライズとか山のように積まれておりました。(ノД`) 目標は、8月15日だったのに。いろいろ意味を込めて。 新刊や直接電話・FAX注文してる奴はどうにもならないです(ノД`)
>商品がなければ、そしてなかなか入らなければフェアをやめることが出来るとおもい、 >買っていくお客さんがいても挟まっていたスリップを捨てて注文できないようにしていました。 職業倫理の欠片も無い香具師だな。 配達したくないからといって郵便物を捨てる郵便局員と同じ種類のDQNだ。
>>562 心配しなくても、みんなすぐに飽きるよ。
どう見ても今の韓国ブームは、ブームだから。
元クルガ兵(ネパール人)の証言。 我々は世界最強の傭兵だ。 第二次大戦で英軍の傭兵の時、マレー軍を3時間で撃破した。 インド軍は1日で降参させた。 だが、日本の正規軍との戦いは過酷で一週間不眠不休で戦わされ、我々も 半数以上が戦死した。 これだけの死闘は初めてで、勇敢な敵軍を尊敬したのはこの時だけだった。 玉砕した日本軍の所に行ってさらに驚いた、日本軍は貧弱な武器なうえ 食料も、わずかな米しかなく、日本軍の死体はみんなやせ細っていた。 戦友が死んだ時には泣かなかったが、敵である死んだ日本人を見て皆泣いた。
>565 グルカ兵だろ。
今日の体操団体の実況は泣けた。 「新月面の描く放物線は栄光への架け橋だ!」
栄誉一師団師長 李密の訓示 (1944年9月8日) 「私は軍人として、この得がたい相手と戦い得たことを誇りにも思い、武人として幸せ であったと思う。 彼らは精魂を尽くして戦った。美しい魂だけで、ここを120余日も支えた。この 将兵たちの父兄は、わが国父孫文先生を暖かく庇護し、わが中華民国の革命を達成さ せてくれた同じ日本人である。今日、その同じ日本人とこのような戦いを交えるとい うことを、私は不思議にさえ思う。この美しい魂を、兵を、このような愚かな戦いに 駆り立てているものが、同じ日本人とは、私には思われない。 私は総統に、この戦場の姿をありのままにお伝えしたいと思う。 わが軍の将兵はもとより、戦った日本人たちを丁寧に葬ることを命ずる」 蒋介石の騰越攻撃部隊への訓示 (1944年9月9日) 「松山陣地(拉孟)は9月7日、我が軍において攻占するところとなり、欣快に堪えず。 ・・・戦局の全般は我に有利に進展しつつあるも、前途なお遼遠なり・・・ 諸子はビルマの日本軍を模範とせよ。拉孟において、騰越において、ミイトキーナに おいて、日本軍の発揚せる忠勇と猛闘を省みれば、我が軍の及ばざること甚だ遠し」 東南アジア地域連合軍総司令官 マウントバッテン (著書より) 「かつて不敗を誇った日本軍も、半年の死闘に服も靴もボロボロとなり、支えるものは 不屈の精神力だけだった。指揮の崩壊と飢餓に追い詰められたとき、前途に横たわる のは生地獄だった。日本軍は、インパールにおいて、全ビルマにおいて敗れるべくし てついに敗れた。兵理である。しかし、そこには何かが残った」
75 名前: UMIBOUZU予備三曹 投稿日: 2001/04/25(水) 21:59 私も元自衛官です 硫黄島に行って来た先輩から聞いたお話ですが 島内は島全体が日米両軍の戦死者(英霊)がいまだ眠っているので 現場の自衛官は厳しく、野糞、立ち小便を禁じています。 洞窟や壕の中には今でも当時の防毒面や銃弾などが(もちろんこれらの 品々をお土産にするような不心得な自衛官はいない、)大量に残っている そうです、今から二十年以上前ですが、工事の為に穴を掘ったところ トンネル壕が発見され病院だったその壕からは生き埋めになったミイラ化した軍医のご遺体が軍刀を 握りしめ胸を張り三十年後の自衛官を迎えた、現場に立ち会った自衛官の目には 涙、なみだ。 。・゚・(ノД`)・゚・。
「本当の戦争の話というのは全然教訓的ではない。それは人間の徳性を良い方向に 導かないし、高めもしない。かくあるべしという行動規範を示唆したりもしない。 また人がそれまでやってきた行いをやめさせたりするようなこともない。 もし教訓的に思える戦争の話があったら、それは信じないほうがいい。 もしその話が終わったときに君の気分が高揚していたり、廃物の山の中からちょっとした まっとうな部品を拾ったような気がしたりしたら、君は昔からあいも変わらず繰り返されている 酷い大嘘の犠牲者になっているのである」 ――『本当の戦争の話をしよう』ティム・オブライエン(文春文庫)
硫黄島戦資料他
<ある兵士の手紙から>
ttp://www.iwojima.jp/data/letter.html 戦地から出す手紙には、部隊の居場所や行動などを推測させるような事を書くことを
禁止されていた。これはサイパン島での例であるが、
「島特有の植物、気候、風土についてふれるべからず。甘蔗、パパイヤ等すべて不可」
「"南十字星輝くところ"のごときものは不可。ただ"南方戦場"は可」
といった内容の2頁にわたる注意書きが将兵に示されたという。
このため、将兵は自分の居場所を正確に伝えることは出来ず、
家族は戦死の公報を受け取って初めてその赴任地を知ることが多かった。
<中略>
一方、兵士たちが戦地で手紙を受け取った場合はどうであったか。
それについてはこんな話がある。
米軍がある日本兵の戦死体から軍隊手帳を回収した。
その手帳には持ち主の兵士が受け取った多くの手紙が書き写されており、
さらにその後に感想などが書き綴られていた。手紙が全て転記されていたわけではなく、
場合によっては急に字が乱れたり、途中で終わっていることもあったが、
逆に言えばこれは手紙を書き写すには空襲や作業のわずかな合間しかなかったため、
走り書きになったり転記が途中で中止されたからと想像される。
(なお、この手帳は戦後12年目に遺族に返還された。)
もちろん、全ての兵士が手紙を自分の手帳に書き写していたわけではないが、
そういった実例があるほど手紙は将兵たちにとって大切なものであった。
戦後、戦争といえば飢えや空襲など、 戦場よりも後方の庶民の悲惨さを強調する語られ方が一般化しました。 (庶民の生活の場がそのまま戦場になった沖縄戦は別ですが。) そのため硫黄島の攻防戦は東京大空襲などのかげに隠れています。 しかし、硫黄島の日本兵たちが、勝つどころか、生還の望みもない戦いを 最期まで続けたことをもう一度見直してもよいと思います。そしてその戦いは、 火山ガスと地熱のこもる地下陣地で、 食料も水も不十分な状態で1ヶ月以上にわたるという史上まれにみるものだったのです。 彼らをここまで戦わせたのは「生きて虜囚の辱めを受けず」 という東條英機の訓示(「戦陣訓」)だったのでしょうか。私は違うと考えます。 硫黄島の日本兵は、自分たちの抵抗が少しでも本土空襲を妨害し、 本土決戦を遅らせることになると信じていたからこそ、 あれだけ苦しい戦いを続けられたのだと思います。少なくとも、 アメリカが本土空襲の支援基地として硫黄島を使うことを1ヶ月近く遅らせたことは確かです。 これがもっと早く実現していれば、東京大空襲などの首都圏への空襲はより激烈に行われ、 より多くの犠牲者を出したでしょう。
>573 コピペにレスすんのも何なんだけど、 東京は45年の6月までに米軍の攻撃目標から外されてる。 もはや破壊すべき目標は存在しない、という理由で。 硫黄島守備隊の献身を疑う意図は毛頭ないが、 事実と異なる論を並べることはその献身をも愚弄する行為だろうと信じるがゆえに、 あえてツッコミいれさせてもらう。
>>574 >東京は45年の6月までに米軍の攻撃目標から外されてる。
>もはや破壊すべき目標は存在しない、という理由で。
しかし、それは現代だから言えることでは?
当時の日本軍がそれを把握できたとは思えない。
硫黄島は米軍にとっても苦しい戦いだったし、
損害は甚大だった。日本もだけど。
それが何の効果ももたらさなかったとはやはり思わない。
少なくとも、
「こりゃ勝ってもそう簡単には占領できないかな」ぐらいの
覚悟はさせただろうし、
戦後の占領政策にも影響与えたと思うよ。
でもコロネット作戦とかオリンピック作戦の作戦概要を見る限り、 米軍はやる気満々だったのは確かだねぃ。 戦意は高いわ、補給は十分だわ、これほど敵にしたくない軍はいないですよ。
>>576 参謀とかトップと、実際の現場の志気ってのは違うこと多いよ。
ベトナム戦争なんか見てもね。
実際当事者だった米軍人にとっての硫黄島なんて、
とても苦しくてつらい記憶であることがいろんなサイトで紹介されてる。
ちょっとぐぐればざくざく出てくるよ。
>575 >これがもっと早く実現していれば、東京大空襲などの首都圏への空襲はより激烈に行われ、 >より多くの犠牲者を出したでしょう。 この最後の二行が、事実に反するただの妄想である、という指摘をしたまでですが? >577 米軍は「兵の投票で作戦行動決める組織」じゃないでしょ。 「米軍」という組織は日本を徹底的に破壊しつくすつもりだったことは歴然とした事実で、 兵の機嫌なんか知ったこっちゃ無い、のよ。 「泣ける話」スレだからといって、あまりにも情緒的な反応はちぃと精神年齢疑われても仕方ないぞ、と。
>>578 泣ける話スレとしては、そちらのこだわりのほうがよほど
スレ違いですが。
現場の兵士の志気が、 戦況に影響しないわけないだろうと。
>「米軍」という組織は日本を徹底的に破壊しつくすつもりだったことは >歴然とした事実で、 >兵の機嫌なんか知ったこっちゃ無い、のよ。 現実にはそうならなかったという点では事実に反するね。 ライシャワーの自伝でも戦後の占領統治の方針からも そのような考えが米軍にあったとは感じられない。 そもそも完全に破壊しつくすつもりなら原爆2つじゃすまないだろう。 >これがもっと早く実現していれば、 >東京大空襲などの首都圏への空襲はより激烈に行われ、 >より多くの犠牲者を出したでしょう。 これは誰の文章かしらないが、 別にこれは個人の考えなんだからいいんじゃないの。 この人は、こう思ったんだなということで。 こうだったならこうなったかもしれない と考えるのは自由なことだ。 仮定の話にしつこく食い下がっても無意味なこと。
>>574 日本の都市は東京だけではないですよ。
硫黄島は、アメリカの日本本土への爆撃という点で非常に重要だったので、
ここを死守するために必死だったのは無意味なことでは無いです。
硫黄島守備隊は陸軍中将・栗林忠道小笠原方面兵団長指揮のもと、 海軍少将・市丸利之助第27航空戦隊司令官と陸軍少将・千田貞季混成第2旅団長は 共同して見事な持久戦を展開し、 圧倒的な兵力を有する米軍上陸部隊に多大な損害を与えた。 しかし、米軍上陸約一ヵ月後の3月17日、壮絶な戦闘を続けてきた 日本軍は、栗林中将から大本営に訣別の電文を打電し、 総攻撃を最後に日本軍の組織的な戦闘は終わるが、 その後、6月末まで日本軍による奮戦は続いた。生還者は僅か1,023名だった。 硫黄島の壮絶な戦いは、米軍28, 686名の戦死傷者と日本軍21,900名の戦死者を数え、 今なお多くの人々の心に癒しきれない悲しみを刻んでいます。
ソース無いけど、広島、長崎以外にもう一つ原爆落とそうとしてたんじゃなかったっけ?
>>584 赤羽あたりに落とそうとB-29が終戦間際に単機で出撃したと読んだことがあるが、
その本には明確なソースはなかった。
ただ、大和田で広島・長崎と同じような無線のパターンを傍受し、単機のB-29だったからかなり軍があわてふためいたと。
>>584 ライシャワーの本には、京都も最初ターゲットだったというのは読んだことある。
しかし計画段階で、文化財に対する恐ろしい破壊だということで、
ライシャワーをはじめとして強く反対する意見が出たのでやめたというようなことが
書いてあった。他にもターゲットがあったと思うが、忘れた。
もしやってたら、京都の文化は消滅してたね。
どのみち長崎にもかなりの歴史的遺産があったはずなのだけど。
(江戸時代の外国との窓口だったし)
今や、どこになにがあったかさえわからないね。
>586 んなこといったら「歴史遺産が存在しない街」なんて存在しないから、 どこにも爆撃は出来んコトになる。 いま現在の当の交戦国に「文化遺産」の存在を認め、 その保護を主張する人がアメリカにもいた、っていうのはそのままいい話でないかい。 この板の多くの住人が言うような 「当時は人種差別思想がまかり通っていた」という世界観が真実なのなら、 なおさらそうした配慮を出来る人間が居たというのはいいことではないかな。 …まぁ、モンテ・カッシーノのような事例も存在するし 「勝者の余裕だ」と切り捨ててしまうのならそこまでの話だけど。
>>587 一応文化的な教育を受けた人間なら、
たとえ敵国でも数千年の歴史の資産を破壊するのは
かなーり野蛮なことだと理解できるのだろうね。
理解できなさそうな国もあるが。
ライシャワーはもともと日本通だったので、
特に京都には外人受けするエキゾチックなものがごろごろあったし、
そういうことも関係してるのかも。
これはなんというか、日本版の「パリは燃えているか」みたいな話だね。
しかしながら、
一方では米軍が人種差別意識まるだしのやり方していたのも事実。
軍隊は教養の無い人も多かったし、多くのアメリカ人は敵国日本への強烈な
憎しみを植え付けられていた。日本もだけどね。
南方の戦線では、死んだ日本兵の頭骸骨を記念に持ち帰ったり、
日本兵の耳を切り取ってコレクションしたり、
なんてことがされていたし、捕虜をとらない方針で
投降してきた日本兵を皆殺しにしたりした戦線もあった。
当時のアメリカの報道なんかからもわかるし、
今日本で手に入る戦争関係の手記なんか読んでもよく出てくる。
>586 それはGHQが戦後流した誤情報。 そもそも京都もちゃんと爆撃してるし。 たまたま文化財の被害が少なかったのでGHQの好感度を上げるためにそういった噂を流したわけです。
>>589 ライシャワーは日本駐在大使だったので、
その可能性はあるけど、しっかり自分の本に回顧録として
書いてあったしなあ。
もしそれが本当なら、
かなり意図的に嘘を書いたということになる。
嘘っぱちという根拠はある?
はっきり嘘だとわかるようなソースとか。
GHQの内部文書でもあったの?
>>590 なるほどー
>「別命あるまでいかなる部隊も京都・小倉・広島・新潟を爆撃してはならない」という
>命令を出しています。でも何のために?
>この都市名を見て気づく方もいるかもしれません。京都は原爆投下目標に上げられていたのです。
これ見て思い出した。ライシャワーの本にも書いてあったよ。
京都は原爆の投下予定があったって。
でもやめるよう進言したと(彼の進言が効果があったわけではないらしいが)
それなら京都が残ったのは、終戦を決定した昭和天皇のおかげだね。
当時最後まで本土決戦するという意見も強かったのが、
天皇が敗戦を受け入れて終戦を早めたのだから。
>590 「モンテ・カッシーノ」ってわざわざ書いてるのを理解できなかった?
ごめん、全部読んでなかった(謝
ν極でこんな素直なひとをはじめてみた。 居直り・コピペ・ループのバカの壁フル出力状態の奴ばかりと思っていたので、 ついついこちらも煽り口調で指摘してしまった。 無礼をお許しあれ。
>>587 「当時は人種差別思想がまかり通っていた」という世界観が真実なのなら、
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