1 :
名無し三等兵 :
2007/02/01(木) 23:04:42 ID:???
2 :
名無し三等兵 :2007/02/01(木) 23:12:40 ID:x/LLqyoO
2
3 :
名無し三等兵 :2007/02/02(金) 00:18:13 ID:???
霧島ネタはこっちの方が良い気がする。
4 :
名無し三等兵 :2007/02/02(金) 08:26:14 ID:???
5 :
抜粋 :2007/02/02(金) 19:53:57 ID:???
>>4 私的にはあれは良い問題提起だと思いましたよ。正解かどうかは別にして。
862 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2007/01/28(日) 22:11:55 ID:???
>859
ワシントン乗り組みの談では、霧島は同艦に対して近弾→遠弾ときていづれも近傍に着弾してるから、
サウスダコタから変更を強いられしかも明らかに撃ち遅れたにしてはイイ線いってる。
あの距離で大和にマージンが無いのは事実だが、米戦艦は大和に対してさらにマージンが無いからねえ。
870 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2007/01/28(日) 22:34:04 ID:???
>>862 それ勘違いくさいけどなあ。
サウスダコダ相手の命中弾が三式弾撃ち終えないと装填できないはずの一式弾だよ?
戦闘してた時間と発射数考えると相当長い間、サウスダコダ相手に撃っている計算になるし、発射間隔考えても一式弾撃ち始めた頃には既にまともな戦闘能力がなくなっていそうな時間。
880 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2007/01/28(日) 23:01:45 ID:???
>>872 いや、サウスダコダに命中したとされる一発がかなり遅い時間(2307頃)なので、ワシントンに打ち返していないんじゃないかと思うのよ。
霧島と砲撃戦時(2300〜)のサウスダコタとワシントンの位置は、当初ワシントンがサウスダコダの後に隠れている形で、
その後2307頃両者の進路が交差する形でワシントンが前に出てきてるから、サウスダコダ狙いの外れ弾を自艦への至近弾と勘違いしてるんじゃないかなと想像してるわけ。
ワシントンが完全に全面へ出てくる頃には、すでに霧島は戦闘不能になりかけてるしさ。
889 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2007/01/29(月) 00:14:07 ID:???
>また別の人が述べている通り、霧島がワシントンに砲火を開いたのは米側の勘違いでも何でもなく、ワシントン砲術管制
>による記録だぬ。
だから、それ自体が誤認・勘違いしていたのでは?といっているのだが。
実際、砲撃開始直後に霧島撃破の誤認をして砲撃を止めたのも同じワシントン砲術管制でしょ。
6 :
抜粋 :2007/02/02(金) 19:55:27 ID:???
898 名前: ドイツ厨 ◆Kmf5mxsjcM [sage] 投稿日: 2007/01/29(月) 00:40:15 ID:???
>>889 おやおや。
今度は米側の記述そのものを「単なる誤認」扱いですか。
( ^ω^)
相手を霧島と認識してるのも米側なら、「沈没」を誤認と認識して射撃を再開し再び霧島を捉えた一連の流れを当事者の
記述として刊行してるのも米側なんだが、それら全部ひっくるめて「ただの勘違い」とするなら、そのソースは?
903 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2007/01/29(月) 01:02:48 ID:???
>>898 ソースはないよ、あくまで想像。
想像の根拠は以下の点。
・サウスダコダへの命中弾が徹甲弾だったこと。
・その命中弾の命中時刻が遅い(2307以降、2310?)こと。
・霧島の発射弾数の内徹甲弾は27発で、その前に三式弾68発、零式弾22発を発射していること。
米軍が言うように霧島がワシントンへ砲撃対象を変更したとすると、
なぜサウスダコダに砲撃戦終了直前に徹甲弾が命中したのか?、というのが疑問の始まり。
もちろん、一度ワシントンへ目標を変更した後、再度サウスダコダに目標を変更した可能性もある。
だけど、それはそれで不自然でしょ?
それなら、終始サウスダコダに射撃を続けていたと考えていたのが自然だと思ったわけ。
909 名前: ドイツ厨 ◆Kmf5mxsjcM [sage] 投稿日: 2007/01/29(月) 01:22:20 ID:???
>>903 S.ダコタが被弾したのは23:45前後から向こう5分程の間の霧島以下日本側の砲撃によるもので、霧島の主砲が唯一記録
した命中1もこの砲撃時ですね。
で、午前零時にはワシントンによる16インチが飛来し、初回夾叉→第二斉射(上構命中)→第三射撃(艦央に火災喚起)
となるです。
光人社「戦艦ワシントン」によるとですが。
7 :
抜粋 :2007/02/02(金) 19:57:23 ID:???
911 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2007/01/29(月) 01:35:57 ID:???
>>909 >S.ダコタが被弾したのは23:45前後から向こう5分程の間の霧島以下日本側の砲撃によるもので、霧島の主砲が唯一記録
>した命中1もこの砲撃時ですね。
その記述こそ確実に間違いじゃないですかね?
日本側の射撃隊の発砲開始は2201。
(※
>>903 で上げている時刻は日本時間なら-1時間、現地時間なら+1時間が正解)
米側の記録でも日本軍射撃隊の照射開始は日本時間で2200ですが。
日本時間で2145、現地時間で2345付近のサウスダコダへの命中弾は日本側前衛の攻撃。
940 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2007/01/29(月) 23:30:08 ID:???
外山三郎の海戦史2巻によると射撃開始は2201
射撃隊の射撃一時中止、転舵は2206
この時点で霧島は脱落、大火災となっている 。
947 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2007/01/30(火) 00:36:23 ID:???
>>946 >恐らく基準としてる現地時間が日米で違うだけの話だぬ。
それは確実に違う。
日本側は日本時間を使用して、米国側は現地時間を使用しており、時差は二時間。
愛宕の照射開始時刻、日本時間で2201は現地時間でいえば0001。
米側が愛宕の照射を認識した時間を0000としているので、誤差はあっても一分程度。
>まあ、霧島がS.ダコタに当ててワシントンに撃ってるのは「米側の刊行物の記載時間」によると2342〜0005、
これを日本時間に直せば、2142〜2205。
日本側の記録でも射撃部隊は2201まで米戦艦に射撃していないので、
2201以前の射撃は前にも述べたが別部隊(第十戦隊指揮下の前衛)。
>0030「までに」キングストン弁を開いた霧島沈没。
これも、霧島艦長の「(前略)〜0125、海中に没せり」と合致しない。
0125を現地時間に直せば、0325になるからね。
8 :
抜粋終了 :2007/02/02(金) 20:02:05 ID:???
983 名前: ドイツ厨 ◆Kmf5mxsjcM [sage] 投稿日: 2007/01/31(水) 00:20:19 ID:???
>>975 三式弾搭載が全砲塔弾庫だったのか、あの時果たして徹甲弾装填が物理的に不可能だったのか、日米の記載時刻の整合が
取れない理由は何なのか。
『史実は果たして事実なのか』と云う着想自体はネタ的に意欲的だとは思うが、不明点の検証も大事かと。
以上抜粋終了
長々と失礼しましたが、キーになりそうな部分を抜粋してみました。
最後の983の書き込みが語っているように不明点について手かがりがあればと思った次第です。
多少ごちゃごちゃはしましたが、この系統の話としては紳士的(比較的)に話が進んでいたと思います。
この話題を続けても良いでしょうし、別な話題もこんな感じを含めて検証できればいいなあという例として挙げてみました。
9 :
名無し三等兵 :2007/02/02(金) 22:48:44 ID:???
>>8 直接の手がかりがないから状況証拠を延々と積み重ねていたわけでw
前スレ
>>983 に対しても、それが分かれば何の苦労もない。
ただ、ある程度は状況証拠から推察出来る。
話を続けるかは別として、
>>983 の問いに関しては、
>三式弾搭載が全砲塔弾庫だったのか
・射撃隊の射撃計画が10/13並びに11/12と同様であること
→大元の第三戦隊の射撃計画では、まず三式弾の斉発を行う事になっており、
実際に10/12ではその計画通りに行われ、11/12にも行われている。
つまり、砲塔毎の搭載数はともかく三式弾搭載は全砲塔弾庫だった可能性は高い。
>徹甲弾装填が物理的に不可能だったのか、
・11/12に霧島が最初は三式弾を使用していたのに後に零式弾・一式弾で砲撃を行っている。
→つまり、弾種変更にどれだけ時間は掛かるかはともかく、物理的には不可能ではない。
ただ、早期に弾種変更が可能だった場合、撃ち始めは三式弾でも戦艦と気付いてから、
徹甲弾に変えた可能性もあるが、そうなると各弾種の発射数からして
相手が新型戦艦と分かっていながら再度徹甲弾から三式弾に弾種変更・砲撃したことになり、
それはそれでおかしい。
>日米の記載時刻の整合が取れない理由は何なのか。
・不明。
→ただし、日本側の探照灯照射を米側も確認している。
日本側の照射時刻と米側のそれを確認した時間をゼロアワーにすれば、
砲戦開始後の両者の行動の時間的整合性はほぼ取れる。
10 :
名無し三等兵 :2007/02/02(金) 23:48:06 ID:???
11 :
名無し三等兵 :2007/02/03(土) 17:07:36 ID:???
他の話もないようなので、もう少し続けますか。
>>10 日米両軍の位置関係は、海戦の航跡図が多くの本に掲載されているから、
それらをみれば時系列と共に大体把握できるはずなんだけどね。
図に補足すれば、11/14の海戦のメインイベント、日米の戦艦同士の砲戦が行われたのは、
現地時間0000/日本時間2201から現地時間0007/日本時間2208まで。
まず両者は、反航しつつほぼ同時に砲撃を開始(0000/2201〜)。
針路としては、日本軍(射撃隊)が南東、米軍(ワシントン、サウスダコダ)は北西。
陣形は双方とも単縦陣が基本。
日本軍は、前から順に射撃隊直衛の朝雲、照月、射撃隊の愛宕、高雄、霧島。
米軍はワシントン、サウスダコダの順だったのが、日本軍前衛との戦闘で陣形が崩れ、
サウスダコダがワシントンの右斜め前(対敵側)に位置する変則的な単横陣状態。
2206から日本軍は米軍と同航戦とする為、
半円を描くように東→北東→北→北西と針路を変更、これに伴い砲撃を中止。
この時点で霧島はかなりの損害を受けており、この運動に追随できておらず、
2206以降あまり位置を変えないまま2230頃には行動不能となっている。
0007にワシントンは目標(霧島)の沈黙を確認し砲撃を中断する。
この時点で実質的な戦艦同士の砲戦は終了。
日本軍の針路変更に対して、米軍の針路は変らず北西方向に移動を継続、
0010/2211にサウスダコダ戦場を離脱する為に南西方向に変針
同じく2210頃に日本軍の進路が北東に一時固定され、
米軍(この時点ではワシントンのみ)と同航戦状態になると。
12 :
名無し三等兵 :2007/02/03(土) 19:55:33 ID:???
>>9 のように徹甲弾を撃った後に三式弾を撃ちだす合理的理由は見当たりませんね。
残る可能性は三式弾と零式弾を撃った後にまだ砲塔内にいくらか三式弾が残っていて、徹甲弾の揚弾が間に合わなくなった時に苦し紛れに使用したとかですかね。
もうひとつの可能性としては、日本艦隊針路変更後に霧島がまだ散発的に発砲していて、改めてサウスダコタに徹甲弾を命中させた場合。
戦史叢書の記述では針路変更後に射撃隊は再び米戦艦を認めたようにとれる記述があります。一時的に見失っていた可能性がわずかに残るかなと。
で、結果的にサウスダコタ→ワシントン→一時見失い→サウスダコタ
の順で砲撃したか。
いずれもワシントンの観測に辻褄を合わせる為だけの創造ですから、可能性としてはサウスダコタの流れ弾観測説より弱くなりますが。特に後者はサウスダコタへの14in弾命中時間がはっきりすると途端に崩れる説に過ぎません。
>>1 これだけは申し上げますが、普通に書けそうでいて書けない「礼節を踏まえたテンプレ」とそれを訴える貴殿の良識に、
なにより感銘を受けました。
お疲れ様です。
アルジェリーがキモイにしてもです。
14 :
名無し三等兵 :2007/02/03(土) 20:57:07 ID:???
>>12 >残る可能性は三式弾と零式弾を撃った後にまだ砲塔内にいくらか三式弾が残っていて、徹甲弾の揚弾が間に合わなくなった時に苦し紛れに使用したとかですかね。
その可能性も否定はできないけど、弾道特性の違う弾種を織り交ぜて使うかどうか。
ただし、だからこそサウスダコダ狙いの外れ弾がワシントンへの至近弾になった可能性も考えられるね。
>もうひとつの可能性としては、日本艦隊針路変更後に霧島がまだ散発的に発砲していて、改めてサウスダコタに徹甲弾を命中させた場合。
命中弾を得たかはともかく、ワシントンの観測とは異なり、
0007以降も霧島が発砲を続けていたことは確かだと思うよ。
砲撃開始から砲撃中断までの(2201から2206)の5分間では、
30秒間隔で斉発を実施しても、117発を発射するのは不可能でしょ。
またワシントンが観測した0007の目標沈黙は、砲撃による成果というより、
直前に日本軍が行った変針と砲撃中止によるものと考えるのが自然だし。
15 :
名無し三等兵 :2007/02/04(日) 18:46:03 ID:???
サウスダコタ、ワシントン、霧島の戦闘詳報が残っていれば良いのですが、仮に残っていても担当者によって簡単だったり詳しかったりするからこの問題に関して参考になるかどうか。 いずれにしても後はサウスダコタの14in被弾とワシントンが撃たれたと観測した正確な時間が最後のキーですね。 「戦艦ワシントン」は所有していないのですが、そのあたりどう記述されているのでしょうか。 一応主たる説であるワシントンの観測も霧島の射撃目標選定を知った上の話ではない訳で確実とは言い切れません。 今のところ流れ弾誤認説は確かに状況証拠に過ぎませんが、無視できない可能性を持っているように思えますね。
16 :
名無し三等兵 :2007/02/04(日) 19:47:53 ID:???
余談ですが、第三次ソロモン海戦について調べていく内に、ワシントンがStable Verticalを装備していることに気がつきました。 脱線して調べていくとMk38に組み込まれ米戦艦、巡洋艦に装備されています。 だいぶ昔戦鳥で取り上げられたことがあったのは知っていたのですが、その時は回頭中の砲戦に使用可能かもしれないが未知数という程度の話だったと記憶しています。 しかし今回調べた結果は予想よりは使えるシステムのようです。 1930年代中頃に装備されるようになり、回頭中の砲撃での精度を大きく向上させているとのこと。 精度が高いといっても比較の問題で、それ以前に比べれば有効性を増したということであって、直進しての砲戦と同等になったわけでもなく戦前150度回頭中の砲撃で偏差212ydを出している艦もあります。 150度というかなり厳しい条件を考えると誉めてよい位かも知れませんが。1945年のノースカロライナは太陽を目標にした観測で自信を深めたようでもあります。 回頭中でもこれだけやれるのですから、回頭後なら早期にロスの少ない高い砲撃を行えることになります。 いずれにしても従来ほどには変針は忌避するべきものではなくなってきていたようですね。 米戦艦の演習が砲戦中の変針や回避行動に力を入れていたり、実戦での巡洋艦以下が回避行動を積極的に行なっていたのはこの装備があったためかもしれません。 逆にいえば砲戦中の運動を重視していたからこそこのような装備を開発したともいえるでしょうか。 「海軍砲術史」等でもこの種の装備を開発しなかったことを悔やむ記述があり残念でなりません。 技術的に困難な装備というわけでもないようで、一部は仮設の器具を作って使用した例はあったそうですが。
17 :
名無し三等兵 :2007/02/04(日) 21:35:49 ID:???
避弾運動にかかわらず弾着がよく追随してくるとは言われていますね。
18 :
名無し三等兵 :2007/02/04(日) 21:49:59 ID:???
>>15 霧島(もしくは第十一戦隊)の戦闘詳報があれば、事足りるはずなんですがね。
叢書を見ていると、第一夜戦も含めて第三次ソロモン海戦についての資料に
霧島と第十一戦隊の戦闘詳報の名がなぜかなく、その行動も一部乗組員の証言を除けば、
推測か他艦の戦闘詳報を元にした記述になっています。
現存しているなら、恵比寿まで調べに行くんですが。
19 :
名無し三等兵 :2007/02/04(日) 22:58:27 ID:???
状況証拠をもう一つ。 霧島と同一行動を取っていた第四戦隊の行動に付いて。 事前の計画によれば、霧島と第四戦隊は一体として行動するとあります。 実際、砲戦開始時点では両者とも同じ目標(サウスダコダ)を砲撃しており、 恐らく終始同じ敵艦を目標として砲撃していたと思われます。 では、第四戦隊は何を目標として砲戦を行っていたのか? 第四戦隊が砲戦を行っていた時間帯は、日本時間で2201〜2206までと、 2220以降の二回に別けられます。 2220以降の砲戦に関しては、両軍の資料から見てもワシントンでほぼ確定です。 2201〜2206に関しては、ワシントンとサウスダコダの両方が候補になりますが、 どちらを砲撃していたかは、明確な資料は見当たりません。
20 :
名無し三等兵 :2007/02/04(日) 23:03:08 ID:???
ただ、サウスダコダへの命中弾は記録されており、 命中した全26発の内、8inと米軍が判定したのは17発となっています。 日本側で8in砲装備は第四戦隊の愛宕と高雄のみですから、 この二艦がサウスダコダへ砲撃できたのは2201〜2206と特定できます。 カタログ通りなら、愛宕と高雄は最大で毎分3発発射できる8in砲20門を有しており、 5分で発射出来る砲弾は300発ですから、命中数17発から導きだせる命中率は5.7%。 この命中率から、第四戦隊は2201〜2206までの間、 終始目標を変更せずサウスダコダを砲撃していたと推測できます。 ワシントンに途中から目標を変更していたとすると、サウスダコダへの命中率が、 近距離とはいえ夜戦ではありえない数字になりますし、 サウスダコダ相手にそれだけの命中率を達成できる技量を持ちながら、 何故かワシントン相手には達成出来なかったという、またおかしな事になります。 正直、他の状況証拠と比較すると推定が多すぎるとは思いますけどね。
21 :
名無し三等兵 :2007/02/04(日) 23:13:40 ID:???
>>20 確かに戦史叢書でも
「一方我が目標でなかった他の敵戦艦は、主・副砲をもって猛攻を加えてきて〜」
とありますね。2005照射中止、2006射撃中止まで目標を変更した形跡は見当たりません。
これ以上の資料は戦闘詳報か「戦艦ワシントン」じゃないと出てこないですかね。
22 :
名無し三等兵 :2007/02/04(日) 23:44:43 ID:???
>>21 いやいや、叢書お持ちの方相手だと話が早いw
ともかく、容易に確認できる範囲の日本側資料では、
霧島を含む射撃隊は米側の言うように現地時間0000から0007までの時間に、
ワシントンを目標に砲撃をしていた形跡が見つけられないということです。
まあ、「戦艦ワシントン」は正直見てもしょうがないとは思います。
これまでの検証らしき行為は、それの記述を確認するのが目的のような物ですから。
しかし内容的には面白そうなので、入手は試みて見ますが。
それよりは、叢書に第二次夜戦の参考資料として名が挙がっていた
「戦訓砲戦」「愛宕戦時日誌」「愛宕戦闘詳報(第三次ソロモン海戦)」
を確認する方が確実だと思いますよ。
23 :
名無し三等兵 :2007/02/05(月) 22:59:20 ID:???
安芸
24 :
名無し三等兵 :2007/02/06(火) 21:07:09 ID:???
霧島がワシントンをSダコタ以外の戦艦だと認識していたのか否かはさておき、米側の記述による 「霧島からのワシントンへの近弾→遠弾と続く斉射」 を単なる流れ弾と断じるのに必死な流れが香ばしいな〜 どこかの常連なんでしょうけど
25 :
名無し三等兵 :2007/02/06(火) 23:56:41 ID:???
時計が2つあると時間がわからなくなるというマーフィの法則は確かに正しいな
26 :
名無し三等兵 :2007/02/07(水) 00:15:38 ID:???
ここに書き込んだつもりが他所のスレに誤爆してた・・・。
>>24 >単なる流れ弾と断じるのに必死な流れが香ばしいな〜
反論するなら具体的にどうぞ。
そもそも、一度足りとも断じた覚えは無いんですがね。
それこそ繰り返し述べている通り、日本側資料(叢書)と付き合わせた場合、
米側の誤認の可能性が高いのでは、と言っているだけで。
実際、あるなら切実に示して欲しいくらいなんだけどさ。
霧島がワシントンを目標として砲撃を行っていたという証拠を。
ちなみに
>霧島がワシントンをSダコタ以外の戦艦だと認識していたのか否かはさておき、
これは照射した時点(2201)で「大型の新式戦艦2隻」と認識してます。
その直前には、見張りからの戦艦発見の報告を受けながら、
目標を巡洋艦と判断していた愛宕座乗の前進部隊指揮官も、
目標は戦艦と判断を改めてますな。
27 :
名無し三等兵 :2007/02/07(水) 01:02:35 ID:???
>>25 今回の場合は日米の時間記録に関しては殆ど一致しているのでのその法則は当てはまらないでしょう。
あとは日本側の記録からは今のところあらわれていない霧島のワシントンへの砲撃の有無が問題かと。
個人的には撃った可能性も残ると思いますが、撃っていない可能性があるという
>>26 氏の問題提起は軽く扱えないものと考えます。
まあそのあたり過去の同種スレと似て非なる検証スレとしてお考えいただければと思います。
28 :
名無し三等兵 :2007/02/07(水) 06:25:55 ID:???
29 :
名無し三等兵 :2007/02/07(水) 19:38:54 ID:???
炎上する駆逐艦を戦闘側へ避けて居場所がばれて撃たれたサウスダコタって、霧島が撃たれる頃には ワシントンよりかなり後落してねーか?
30 :
名無し三等兵 :2007/02/07(水) 20:07:45 ID:???
>>29 航跡図を見るとサウスダコタはワシントンと日本艦隊の間に入ってしまった形で特に後落したようには見えません。
またサウスダコタが撃たれた後直ぐにワシントンは砲撃を開始しているのでサウスダコタが損傷で落伍する暇も無かったように思います。
射撃開始は日本側が2201で、2206に針路変更時点で既に霧島は火災を起こしており続行できなくなっていますからワシントンは間髪いれずに反撃に移ったことになりますね。
31 :
名無し三等兵 :2007/02/07(水) 20:34:56 ID:???
30は戦史叢書の記述を元にしていますが、同じく叢書の「米艦隊の戦闘」によると 「日本軍はサウスダコタに執着していたのでワシントンは反撃を受けずに有効な射撃を行い、霧島は火災を起こして炎上し、舵を破壊されたのが認められた」 とあります。引用元はモリソン戦史でしょう。 ここから私的には霧島がほぼ戦闘能力を失う2206まではワシントンは反撃を受けていないと考えます。 もし「戦艦ワシントン」の記述で撃たれたと観測した砲撃がこの時間帯であれば誤認ということになります。 日本側資料に戻って、この後2212に射撃隊は10kmに再び敵戦艦を発見、魚雷発射の為に回頭中その後方にもう一隻の戦艦を認めています。 2214先頭の戦艦に魚雷発射、2218後方の戦艦に命中(誤認)、直後後方の戦艦は左回頭し見失ってしまいます。 2220から15kmで第四戦隊は短時間射撃を行い魚雷を発射。 航跡図から見た感じだとこの時点(戦艦再接触後)で後方にあったのは退却しつつあったサウスダコタと思われます。確かに左に舵をきって戦場を離脱しています。 すると2220から第四戦隊が砲撃した相手はワシントンになります。霧島については既に落伍して戦史叢書には記述がありませんが、散発的に砲撃していた可能性はあると考えられます。 ただその相手が本当にワシントンだったのかどうかはまだ微妙な感じですね。 ワシントンだったとしても発砲の閃光を目標に撃ってみたという程度かもしれませんが、兎に角ワシントンを少しだけ砲撃した可能性も残っているでしょう。今のところ他の資料から裏付けは取れませんが。
32 :
名無し三等兵 :2007/02/07(水) 21:46:43 ID:JZ9L8fak
>>28 うんうん。巡洋戦艦インビンシブル、いいですねえ。
33 :
名無し三等兵 :2007/02/07(水) 23:24:00 ID:???
正確さと言う点では当てにならないのですが、第三次ソロモン海戦第二夜戦に対する米軍の見解の一つをご紹介しておきましょう。 >戦闘のこの段階【※1】に於ては、全てのわが駆逐艦は勢力を失うに到ったが、ワシントンもサウスダコダも未だ一弾【※2】も受けていなかった。 >この時、ワシントンは新目標(その一は戦艦であった)を発見し、砲火を開いた。 >サウスダコダも亦、探照灯を指向してきた敵艦を砲撃した。 >敵は砲火を返し、サウスダコダに対してこれを集中した。 >本戦闘の結果、サウスダコダは敵の全ての燈火を射ち消し、照明中の一艦を明らかに沈めたが【※3】、サウスダコダ自身も命中弾を受け、相当大なる損害を上部構造物に蒙った。 >ワシントンは一戦艦に砲撃を続け、火災を起こさせ、他の艦にも損害を加え【※4】敵を退却させた。 >この敵戦艦はこの戦闘に於て沈没したと思われた。 ※1:現地時間0000以降の砲戦開始直前。 ※2:実際には、敵弾を受けている(TF64のActionRepotより)。 ※3:照明していたのは愛宕で、被害は12センチ程度の砲弾一発の被弾のみ。 ※4:愛宕に命中弾を与えた艦は不明。 キング元帥報告書より。
34 :
名無し三等兵 :2007/02/08(木) 00:31:30 ID:???
35 :
名無し三等兵 :2007/02/09(金) 20:44:47 ID:???
「戦艦ワシントン」入手。 ざっと見た感想は、色々当てにならない上、読み辛いw 一緒に買った「四本の火柱」の方がましかも。
36 :
名無し三等兵 :2007/02/09(金) 21:19:06 ID:???
37 :
名無し三等兵 :2007/02/09(金) 22:02:56 ID:???
斜め読みした段階なので、精査して読んでいけば正しいのかもしれないが、米軍の報告書(actionreportやdamegereport)と食い違ってる記述がちらほらある。 まあ、「四本の火柱」のほうも、しらっと「SDに14in砲弾が40数発あたったけど、撃沈できなかったのは全部三式弾だったから」、とか書いてあるので、目糞鼻糞ではあるけれど。
38 :
名無し三等兵 :2007/02/09(金) 22:06:45 ID:???
>SDに14in砲弾が40数発あたったけど、撃沈できなかったのは全部三式弾だったから 昔の戦記物なんかにありがちな記述ですね。戦記作家だけならともかく、関係者だった方の著書にもそんな感じの負け惜しみと言うか自己正当化のような記述が見られる場合もあったりします。 それを承知で読めるようになると資料の使い方が出来るようになりますね。
39 :
名無し三等兵 :2007/02/09(金) 23:12:19 ID:???
プリンスオブウエールズが魚雷6本でようやく沈んだ堅艦などと書かれた昔の本と同じ 話が下駄はいてる
40 :
名無し三等兵 :2007/02/10(土) 10:39:47 ID:EBw2Ul/8
>>39 その時代にスクリュー軸が暴れ回って浸水拡大したと言い出したアルザスは電波扱いを受けたが・・・・
本当に彼のレスは後年になって振り返ると驚かされる・・・・
41 :
名無し三等兵 :2007/02/10(土) 10:54:49 ID:???
きっとメタ情報なんだよ…アルザスたんは親指トムのちょwえおまwwgんdsなにすrjふこぇfbdしdあrgfkわぇbきw!!!!
42 :
名無し三等兵 :2007/02/10(土) 11:11:32 ID:???
43 :
名無し三等兵 :2007/02/10(土) 12:25:38 ID:???
他にもポンポン砲は故障兵器だとか13.3cm両用砲は対空砲として落第とか・・・当時は英厨だったら漏れは必死に叩いたものだ・・・・・
今となっちゃ、当時の自分をボッコボッコにしてやりたい位恥ずかしい。
>>42 海外の本を持っているにも関わらず、虚言を巻き散らかした出版社の手先もいたがな。
44 :
名無し三等兵 :2007/02/10(土) 12:35:30 ID:???
>>43 海外の本といってもピンキリだし数も多い。
読んでる本が違えば、主張が違うのも当然。
45 :
名無し三等兵 :2007/02/10(土) 12:50:54 ID:???
真面目に英語勉強しなおそうかしら…
46 :
名無し三等兵 :2007/02/10(土) 13:37:49 ID:???
>>45 マジお薦め。
英文読めれば、洋書もそうだけど、ネット上に上がってる報告書の類いが読めるようになる。
47 :
名無し三等兵 :2007/02/11(日) 11:00:35 ID:???
惜しむらくは洋書が読めて改変せずに2ちゃんねるに流してくれるコテは本業が忙しくて来れなくなった ということだな。 そのためか、最近の海人社の記事は面白い
48 :
名無し三等兵 :2007/02/11(日) 11:33:28 ID:???
何か良い記事紹介していただけませんか。
49 :
名無し三等兵 :2007/02/11(日) 19:27:50 ID:???
>惜しむらくは洋書が読めて改変せずに2ちゃんねるに流してくれるコテは本業が忙しくて来れなくなった 自分で洋書が読めないと、そのコテの言っていることが本当に改変されていない正しいものなのか分からないんだけどな。
50 :
名無し三等兵 :2007/02/11(日) 19:49:30 ID:???
とすると
>>47 は洋書の読めるコテっつー事だな?
紹介ヨロ
51 :
名無し三等兵 :2007/02/12(月) 02:17:15 ID:???
「戦艦ワシントン〜米主力戦艦から見た太平洋戦争〜」読破。 読み物としてはなかなか面白かった。 基本的には、歴代艦長から水兵まで乗組員の手記を中心とした大戦中のワシントン(以下、WI)から見たWWU戦記といった感じ。 個人的には、TF39派遣理由の変遷やウィルコックス少将の遭難話など、英派遣中のWIの行動が結構詳細に記述されてたのが嬉しかったな。 あと、第三次ソロモン海戦が原因で、WIの乗組員からSDが「疫病神」扱いされ、忌み嫌われているてるのに笑った。 44年の年末になってさえ、チン・リー(ウィリス・リーの愛称)が旗艦をWIからSDに移す事に対する乗組員の感想が、 「われわれは面白くなかった〜中略〜あの船(SD)に対するわれわれの感情は、“シッティ・ディック(見下げた野郎)”だ。〜後略〜」とか、「彼をあそこに移すのは、間違いなく何か汚い策謀だ」って、何その嫌いようw
52 :
名無し三等兵 :2007/02/12(月) 21:03:33 ID:???
>>51 お時間のあるときに詳細をお願いできれば幸いです。
53 :
名無し三等兵 :2007/02/12(月) 23:30:23 ID:???
54 :
名無し三等兵 :2007/02/13(火) 00:44:06 ID:???
>>52-53 WIとSD乗組員の反目に関しては、段階がある感じ。
まず、海戦直後にSD艦内で「WIはSDを見棄てて逃げた」という噂が流れて、それが原因となってか上陸の度に両艦の乗組員同士が乱闘を繰り返していた。
これは、チン・リーが両艦の首脳陣を呼び付け事情聴取を行い、上陸許可日を別の日にするよう命令を出すくらい酷かった、とある。
次にSDが修理の為に本土に戻った時、艦長のトーマス・ガッチ大佐が新聞の取材に対して答えた内容が、WI側の怒りを倍増させて、対立を決定的にした感じ。
その内容は、WI乗組みだった士官の言によれば、「彼は戦艦X(SDの事)が何から何までやって、チン・リーはただ逃げて、彼らを置き去りにしたように言ったんだ」とのこと。
逆にWI艦長のグレン・デイビス大佐から言わせると、SDが戦闘中に後退したことに対しては、
「退却だって? 何言ってるんだ。SDは戦闘をしなかっただけだ。われわれにはなにも分からなかった。その日の朝まで、われわれは何も聞いていないし、見てもいない」
となるw
>>54 ワシントンの連中にとってはインディアナやアラバマは他と同じ戦友なんだが、どうもダコタだけは特別なんだよね。
まあレパルスとPOWの反目にも、この米戦艦2に勝るとも劣らないものがあるが。
「サウスダコタ?あれはうすばかだよ。レジの番を頼んでおいたら一時間後にレジごと売ったりするやつがいるだろ。
あれだよ」
とにべもない。
要するに、かなりアテにならないマヌケと云う意味だと思うんだが。
艦隊がN.カロライナを殊更に特別扱いする事に対しても面白くないという意見もあったりで、割と面白い読み物ではあるかと。
( ^ω^)
しかし連中いいもん食ってるねぇ。
56 :
名無し三等兵 :2007/02/13(火) 21:52:33 ID:???
>>55 >まあレパルスとPOWの反目にも・・・
興味本位の虫が疼いてきた。是非その内容教えて頂きたい。
57 :
名無し三等兵 :2007/02/13(火) 23:12:57 ID:???
>どうもダコタだけは特別なんだよね。 「戦艦ワシントン」読んでる限りでは、対立の大元はSDよりもガッチ大佐な気がするんだけどねえ。 いつの間にやら、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとばかりに、憎しみの対象がSDに挿げ変わってるとしか思えない。
58 :
名無し三等兵 :2007/02/14(水) 12:59:28 ID:???
WIとSDのクルー同士の確執の話って始めて聞いたな。
>>56 建造時の数度の事故はもとより「フッドを見捨てて逃げ帰った」というあらぬ評判もあってか、POWはもっぱら艦隊
から疫病神呼ばわりされており、これが乗組には面白くない。
ちなみに同艦は乗組間(特に士官と水兵)の連携や疎通もあまりいい類の艦ではなかったらしい。
(艦によって、乗組がもたらす気風に当たりハズレがある事を匂わせる記述ではある)
老練で鳴らす歴戦のレパルスももちろん「新しいだけのハナタレ」の存在は面白くないが、Z部隊を派手に歓迎する現地
の紙面にレパルスの名が一切ないのは、いよいよ我慢ならない。
(無論その狙いは戦力の秘匿にあるからだが)
で、水兵が陸にあがるやいなや酒の勢いもあって両者激突。
(↑この酒場でのシチュエーションに限っては、ワシントンVSサウスダコタの場合恐らく1ミリも違わないだるぅ)
ちなみに航空隊の最初の一撃を首尾よくかわしたレパルスは、早くも艦尾が水につかり始めているPOWに同情するでも
なく、我が航空隊に怒りをあらわにするでもなく、その多くがPOWの醜態に「がっかりさせられた」と手記に記している。
ハヤカワ書房:「戦艦」―マレー沖海戦― より
>>57 むしろ印象的なのは、アメリカにせよイギリスにせよ、公正な立場から「敵」を理解しようと努める寛容な視点を連中は
確かに持ち合わせている一方で、「敗れた味方」に対してはまったく辛辣だと云う事。
自分が置かれてる立場以外の者に対しては、それが味方であれ基本的に他人事。
あと案外忘れがちだけど、賢明だったワシントンとドジな「戦艦X」には練度と云う決定的な差もあったんじゃないか。
ガ島の時点でワシントンは就役後18ヶ月が経過しているのに対し、ダコタは僅かに6ヶ月。
たとえ経験者が率いるとは云え乗組の連携と習熟に時間を必要とする新艦の場合、実働日数で倍の差は大きいかと。
9ヶ月のビスマルクやKGV、7ヶ月のPOWのハナタレぶりを見よ。
無論、ダコタもハナタレである。
>>58 「戦艦ワシントン」が刊行されたのが確か元年あたりだったから、生存者の証言に基づく取材にしても概ね80年代中盤
以降の筈。
つまり、ワシントン(と世論)VSサウスダコタを、連中は少なくとも40年以上引っ張ってる。
( ^ω^)
御免。 タコダは8ヶ月だぬ。 どっちにしろハナタレである。 ( ^ω^)
61 :
名無し三等兵 :2007/02/15(木) 21:45:04 ID:???
>>59 解説ありがとう。
>Z部隊を派手に歓迎する現地の紙面にレパルスの名が一切ないのは、いよいよ我慢ならない。
思いっきり笑ってしまったWWW
62 :
名無し三等兵 :2007/02/15(木) 23:25:20 ID:???
>>59 あれ読んでもうちょっと大事にしてやれよと思ったw
てか、レパルスのが艦長が有能だった印象も受けた。
63 :
名無し三等兵 :2007/02/15(木) 23:54:08 ID:???
>>59 第三次ソロモンのSDに関しては、錬度はさほど影響してないぞ。
「戦艦ワシントン」しか根拠がないが(SDのダメージリポートにも若干記述があった気がするけど)、艦長の戦術指揮+機関長の規則違反の方がより影響を与えてる。
あと、WI乗組みのSD批判に関しては、ほとんど言い掛かり・難癖レベルになってるけどね。
証言を取ったのが海戦直後ではなく、新聞記事が出て対立が決定的になったあと、40年近く経ち記憶が悪い意味で純化されてしまったあとので、仕方ない面もあるかもしれんが。
64 :
名無し三等兵 :2007/02/16(金) 16:55:17 ID:???
>>62 テナント艦長だが、その後、将官に昇進されて、あちこちに顔出してる。
レパルス沈没後の直近だと、半年後のマルタ島補給のビガラス作戦
(42/6)で、既に少将で巡洋艦戦隊の司令官だぞ?
どこぞの「艦を沈めた艦長は閑職に」な帝国海軍とは大違いだ。
65 :
名無し三等兵 :2007/02/16(金) 21:18:58 ID:???
「戦艦ワシントン」からの新事実とかありますかね?時系列的にとか。
66 :
名無し三等兵 :2007/02/16(金) 22:57:43 ID:???
>>65 時系列的には特に何も。
WI乗組員の証言を除けば、目新しいのは照明弾を撃っていたのが9番両用砲だったくらいかな?
ついでに、「戦艦ワシントン」における第三次ソロモン海戦第二夜戦の記述について。
本文中で霧島からと思われる砲撃を観測したという記述は、何れも乗組員の証言として四箇所。
内訳は、砲撃が近・遠だったという証言が一つ、砲撃が遠・近だったという証言が一つ、
大口径と思われる(貨物列車が頭上を通り過ぎるような)音を聞いたのが二つ。
また、SDの被弾が砲戦開始後5分以内と思わせる記述(167〜168p)がある。
これを日本時間で考えると、砲戦開始が2201なので、砲戦開始後5分以内ということは、
日本側の砲戦を一時中止したとされる2206という時間とだけ見ると矛盾はない。
別に、乗組員の証言としてWI向けと思われる霧島の砲撃は6門だった、という記述がある。
叢書には明確な記述は無いものの、「4本の火柱」によると、
前部主砲が早々に被弾したという記述があり、この点では日米で一致した記述となっている。
(しかし、米側の観測だと現地時間0002 1/2までの砲撃では、霧島の前部には命中弾が出ていない)
ただし、霧島のWI向けと思われる砲撃が開始されたのが、
現地時間で0002 1/2から0004までの間と思わせる記述(170p)もあった。
上の記述と合わせて考えると、、霧島はSD向けの砲撃を日本時間の2201から2203 1/2で切り上げ、
早々に砲撃目標をWIに切り換えたことを意味する。
この記述が正しいとすると、
>>9 で上げた疑問、三式弾から一式弾へ早期に弾種変更できたのなら、
なぜ三式弾をあれだけ射撃したのか?、が再度持ち上がってしまうんだけどさ。
67 :
名無し三等兵 :2007/02/16(金) 23:07:00 ID:???
>>64 うろ覚えだがノルマンディにも顔出してなかったか?
マルタにも絡んでるとは激戦地めぐりな人だ。
68 :
名無し三等兵 :2007/02/16(金) 23:39:27 ID:???
>>66 なる程。戦史叢書やモリソン等とは食い違いがあるようですね。
信憑性としては今ひとつと言うところですか。
残る資料は第十一戦隊や霧島の戦闘詳報ということになりますが、沈没艦の戦闘詳報は残存していたとしても大体が後に記憶で作ったような物が多いですからそれほど詳細には書いていなかったりするんですよね。
69 :
名無し三等兵 :2007/02/17(土) 00:24:36 ID:???
時系列という意味では、今日古本屋で見かけた平成七年発行の丸4月別冊「保存版 太平洋海戦辞典」の第三次ソロモン海戦の頁に気になる記述が。 この本では、霧島の艦内に火災が発生したのは、戦闘開始6分後となっている。 その他、叢書で〜前略とされてる霧島艦長(岩淵大佐)の報告書が原典と思われる霧島の損害状況も書かれた。 叢書を見直したら、GF司令部に提出された霧島艦長の報告書は、 戦藻録が出典のようなので、そっちを当ると色々分かりそうな予感。 ただしこの本、戦闘開始については叢書と同様に2201となっているんだけど、 愛宕の初弾発砲が2203、探照灯照射停止が2204となっていた。 何度か書いている通り叢書では、愛宕の発砲開始は探照灯照射開始とほぼ同時で、 高雄と霧島もこれに続いたとされ、探照灯の照射停止は2205なので、時間にズレがある。 なんでズレてるんだろう、単なる誤記?かとも思ったんだけど、 こちらも叢書を読み直すと、辻褄のあう解釈ができなくはない。 叢書以外の本だと、照射開始が2201になっていて、叢書でも2201に戦闘開始となっているから、 照射開始=2201≒射撃隊発砲開始と自動的に思い込んでいたんだけど、 叢書と「四本の火柱」、「保存版 太平洋海戦辞典」では、2201に雷撃開始したとはあるけど、 砲戦を開始したとは書いてなく、照射と同時に発砲を開始したとだけ書かれているんだよね。 つまり、探照灯の照射開始時刻が2201以降(2203?)な可能性も出てきた感じ。 今までは、探照灯の照射開始を米軍も確認・記録しているので、時間的な誤差は1分だと考えていたけれど、 もしかすると、両軍の砲戦開始は、現地時間0000≒日本時間2203で、誤差は3分近くあるのかもしれない。 ただし、そうだとすると霧島の発砲開始も旗艦愛宕の発砲開始後になるわけで、 砲戦時間の短さ(2203〜2206?)と、SDへの命中弾数を考えると、 より一層砲戦途中にWIへ目標を変更していたとは思えなくなるんだけどさ。
70 :
名無し三等兵 :2007/02/17(土) 19:00:32 ID:???
70ゲット
71 :
名無し三等兵 :2007/02/17(土) 19:12:49 ID:???
>>62 テナント大佐は歴戦の乗組からの信望も篤いが、じゃあリーチ大佐がボンクラだったのかというとさにあらず。
ここは、乗組が経験を積む事によって上官を見る目もまた公正となるべく成長しているとみるのが恐らく正しいだるぅ。
まあPOWはその域に達するにはまだ遠いボンクラのハナタレと云う訳で。
しかし、炸薬の少ない爆弾1でボヤを出したに過ぎず事実上無傷と云っていいレパルスが最初の被雷から11分後には
完全に水中に没すると云うそのボロさも注目に値するが、「総員退艦」の下令から沈没までの僅か7分の間に全乗組の
1309名中実に796名までもが脱出生還しているのは、実に驚異的な練度の高さと云える。
この、徹底的にボロい艦とよく訓練された将兵と云う組み合わせが、最新鋭のPOWに乗るボンクラと云う構図とは全く
対照的なのは印象深い。
>>65 夜間当直の連中が、各々隠し持ってる肉を「調達」してきた電熱コンロで勝手に焼いてニヤニヤしながら食ってます。
補給された食糧も、それらが冷蔵庫に運ばれる間に班長が見てる目の前でどんどん減っていきます。
美談です。
73 :
名無し三等兵 :2007/02/18(日) 02:43:18 ID:???
まあPOWはその域に達するにはまだ遠いボンクラのハナタレと云う訳で。 しかし炸薬の少ない爆弾1でボヤを出したに過ぎず事実上無傷と云っていいレパルスが最初の被雷から 11分後には 完全に水中に没すると云うそのボロさも注目に値するが、 総員退艦の下令から沈没までの僅か7分の間に全乗組の1309名中実に796名までもが脱出生還しているのは、 実に驚異的な練度の高さと云える。 この徹底的にボロい艦とよく訓練された将兵と云う組み合わせが、 最新鋭のPOWに乗るボンクラと云う構図とは全く対照的なのは印象深い。
74 :
名無し三等兵 :2007/02/18(日) 11:08:21 ID:???
ド厨の書き込みも見辛いが、それをまた改行されると余計に見辛いんだが
75 :
名無し三等兵 :2007/02/19(月) 00:16:01 ID:???
携帯厨乙。
76 :
名無し三等兵 :2007/02/21(水) 00:00:16 ID:???
ド厨は三行でまとめろボンクラ
77 :
名無し四等水兵 :2007/02/23(金) 14:23:53 ID:U0jRdLms
すみません。ソロモンネタも峠を越えたようなので質問させてください。 長年の疑問の解消を手伝ってもらえたら幸いでです。 舷側装甲に関してです。 ネルソン以降の戦艦は傾斜装甲が多いようです。(ビスマルクKGV以外) それ以前の戦艦では舷側に厚い垂直装甲、艦内に傾斜部の装甲帯を備えています。 舷側を貫通し傾斜部で食い止められる砲弾はどうなるのでしょうか? (進入角度や距離によるかもしれませんが) 弾頭が砕け散るか爆発するかのどちらが頭に浮かぶのですが… 爆発した場合まわりに張ってあるHTで被害が広がるのを防ぐような構造になっていると想像しています。 この事が頻繁に頭に浮かぶのは長門の改装例を見ているからです。 仮に内部に侵入した砲弾が高い確率で爆発するとして 重要区画の傾斜部に280mmも装甲を張るほどの努力をするならどうして垂直装甲を強化しなかったのか。 垂直装甲の換装が相当な手間である事は理解していますがあちこちいじり回すならそのくらいしてもよかったのではないかと。 舷側装甲換装は単に費用対効果が悪いという事でしょうか? このスレで書き込みしている人にとっては幼稚な質問とは思いますがご意見をお願いします。
78 :
名無し三等兵 :2007/02/23(金) 18:09:39 ID:???
>>77 ワシントン、ロンドンの両軍縮条約の内容を調べましょう。
79 :
名無し四等水兵 :2007/02/23(金) 18:47:01 ID:U0jRdLms
>>77 書き込みありがとうございます。
垂直装甲を強化する事が禁止されている事をさしていると思うのですが、
長門の改装時期は昭和9年から11年ですので既に条約を脱退しています。
そのため3000トンを超える改装をしています。
条約の効力は11年末までありますが、脱退しても効力を守らなければならないのか、
日本海軍に守る意思があったのかは不勉強なのかわかりません。
(妙高などかわいい方で最上、蒼龍、千鳥などいくつも例がありますので)
80 :
名無し三等兵 :2007/02/23(金) 21:21:46 ID:???
>>79 いちいちageないで欲しいんだが。
それに日本は34年にワシントン条約の廃止を通告しただけで、条約自体は規定どおりに36年末まで有効であり、長門の改装期間は条約の有効期限内。
81 :
名無し三等兵 :2007/02/24(土) 01:57:12 ID:???
>>79 ってかそもそも条約期間中に違反ばれそうな事なんてできないんじゃないの?
ばれないところではいろいろしてるわけだし
82 :
名無し三等兵 :2007/02/24(土) 18:37:40 ID:???
>>81 >>79 が上げてる事例は、結果的に計画排水量がオーバーしてしまった事例と、条約切れを見越して意図的に他国へ通知する排水量を誤魔化した事例が一緒くたになっているからね。
日本に関しては、36年12月31日で期限の切れたワシントン条約、翌37年1月15日に脱退したロンドン条約ともに、条約の有効期限内に竣工・改装の終わる艦について、意図的な条約違反はほとんどしてない。
条約に違反しそうなのは、「友鶴事件」後に改装された友鶴型(排水量オーバー)くらいで、これもロンドン条約規定のの駆逐艦枠に編入したのであれば、違反にはならない。
83 :
名無し三等兵 :2007/02/24(土) 18:44:09 ID:???
大和型戦艦は世界戦艦常識協約の明確な違反
84 :
名無し三等兵 :2007/02/24(土) 19:57:21 ID:???
排水量は多少のごまかしが効きますが、舷側装甲の交換増厚は外から観察すればわかりますからね。 福井静夫氏の著書では、バーベットの増厚は甲鈑製造能力と他国を刺激しない配慮から後日とされたことが既述されています。舷側装甲だつたとしてもやはり刺激するでしょう。 まあ氏の著作がいつも正確かというと自身ありませんが。
>>80 その通りかもしれませんね。
外から見れば改装で3000トン増えたのか6000トン増えたのかは判断つかないでしょうが、
装甲の張替えは一目瞭然でしょう。
>>82 ありがとうございます。
確かに最上、友鶴と蒼龍は分けるべきものでした。
その点アメリカなんかはやけに律儀ですね。
ヨークタウン型2隻の排水量を正しく申告し余った分でワスプを建造しています。
日本なら余った排水量を3で割って同型艦を3隻つくりそうな気がします。
意図的な条約違反はほとんどしてない。>
疑問なのですが妙高型はこれに当たるのでしょうか?
妙高型は平賀氏の設計の時点で9982トンで設計されており、
その後平賀氏外遊中に雷装を強化するように設計を変え完成しています。
工作精度の不備、重量軽減の不備などで10901トンで完成していますが雷装の時点で1万トンを超えている筈です。
86 :
名無し三等兵 :2007/02/24(土) 21:23:09 ID:???
>雷装の時点で1万トンを超えている筈です。 多分超過することは承知していたのでしょうね。 工作精度の不備とかは自己正当化の為に戦後そう言っているだけに思えますよ。 まあドイツとかもやっているので日本だけを悪く言えませんけど。
87 :
名無し三等兵 :2007/02/25(日) 01:28:54 ID:???
>>85 平賀案から実際の妙高の設計図がどれだけ変更されてるか次第でしょ。
平賀案に魚雷発射管が単純に追加されただけなのか、それとも代償重量を下ろす等の措置を取ったのか否か?
さすがにこのスレで語るにはいい加減スレ違いなので真面目には調べないけど、
妙高に装備された三連装魚雷発射管(12年式?)4基なら50〜60トン程度の重量で済む。
平賀案へ単純に追加しただけなら、条約制限1万トンから30〜40トン超過する程度、
本来居住区であったであろう中甲板の設備を撤去して発射管を装備しているので、
その分若干の重量的余裕も得られる。
建造時に実現出来るかは別として、机上での設計だけで見た場合、
発射管追加しても1万トン以内に収める設計に変更するのはそう難しくないとも思うけどな。
>>86 >工作精度の不備とかは自己正当化の為に戦後そう言っているだけに思えますよ。
条約前、条約期間中、条約廃棄後の状況を見る限り、それはかなりの邪推だと思うぞ。
もちろん、実現できない精度の設計に基づく計画排水量としりつつ、
それを条約加盟各国に通知していた可能性を否定はしないけど、
最上・利根の設計などを見る限り、設計段階ではかなり真面目に排水量制限を守っているでしょ。
88 :
名無し三等兵 :2007/02/25(日) 01:37:33 ID:???
当時巡洋艦には予備魚雷は搭載されてなかったの?
89 :
名無し三等兵 :2007/02/25(日) 01:42:33 ID:???
90 :
名無し三等兵 :2007/02/25(日) 10:52:15 ID:???
乗組員、弾薬などを搭載するが、水・燃料などを搭載しない状態の排水量。
91 :
名無し三等兵 :2007/02/25(日) 11:23:59 ID:???
乗組員の体重は子供計算で宜しいんですか?
92 :
名無し三等兵 :2007/02/25(日) 11:57:37 ID:???
93 :
名無し三等兵 :2007/02/25(日) 21:28:34 ID:???
>>92 >戦艦に関連する話題なら他の艦種も排除しない方向で。
94 :
名無し三等兵 :2007/02/25(日) 22:13:43 ID:???
>>92 ご意見もっともです。でもすぐ終わりますからごめんなさい。
>>87 「日本巡洋艦物語」福井静夫によれば妙高に8門の発射管搭載で135t、また発射管支基などの構造重量も増加。
続いて12門に要求が増しこれで更に70t。
居住区が狭くなった上多数の水雷科員が定数増しとなつたので上甲板に構造物として兵員室を増設し船殻、儀装重量が増加。
その為に高角砲をその上部構造物に上げることになり更に増加。
艦橋構造物も大きくなり、高角砲に楯がつく。また高角砲指揮塔を艦橋の両側につけた。
これだけの重量増加をきたしてします。
その他によく言う施工上の重量増がかなりあるが、これは全体的にいえばほんの一部であるとしています。
そういうわけで魚雷搭載に伴う重量増加で1万tを超えることは承知していたとみます。
もっともソースが福井静夫氏ですから、全面的に信じてよいかと問われれば若干の不安も覚えるのですが。
次に最上型ですが、8500tで設計を始めた時点では主砲塔4基搭載を前提としていて、後に完成が条約明けになる見込みにより制限を外し主砲塔を1基増しています。
1基増やした時点で8500tに収める気はなかったといえます。
こんなんでどうでしょう?
95 :
名無し三等兵 :2007/02/25(日) 23:32:01 ID:???
>>94 ご苦労さんです。
この件に関しては、まともに調べてもないし、このスレで反論する気もないのでこの辺でお終いにしておきましょう。
暇があれば、ちょいと調べてみたくもありますが、今はソロモンの件で手一杯なもんで。
96 :
名無し三等兵 :2007/02/25(日) 23:33:45 ID:???
で、ソロモンネタに戻りますが「戦藻録」入手。
>>69 で触れた「南東方面海軍作戦<2>」で戦藻録が出典とされた霧島艦長の報告書は、霧島の戦闘概報だった事が判明。
しかし、この戦闘概報がまた当てにならない事この上なくて…orz
特に記されてる時間に関しては、同じ日本軍の資料とも辻褄があいません。
ただし、ある程度辻褄合わせは可能です。
霧島の発砲開始時間については、「4Sに続航、2121愛宕の照射開始と同時に敵戦艦に対して砲撃開始距離約10000〜(後略)」とありますので、記載された時間のズレはともかく、愛宕や米側資料と付き合わせる限り、2201頃と判断して間違いないでしょう。
97 :
名無し三等兵 :2007/02/25(日) 23:44:28 ID:???
>>95 了解です。新たな資料が出たらまたということにしましょう。私も福井静夫氏資料だけで強弁するのはちと心苦しいですし。(ファンの方失礼)
こんな感じでお付き合いください。
ソロモンの件、続けて期待しております。また他の方からの別な話題の問題提起や考察もお待ちしております。
98 :
名無し三等兵 :2007/02/26(月) 01:54:42 ID:???
>>97 こちらこそ、よろしくお願いします。
引き続き「戦藻録」霧島戦闘概報より。
「我 敵戦艦二隻の集中砲火を受け、命中弾多数(六発以上) 艦内各部に火災を生じ、前部電信室全滅 三、四番砲塔水圧停止、舵機故障等相次ぎ攻撃も思うに委せず」
「一方、亦敵戦艦二隻も主副砲共に初弾命中 主砲に於ては二弾命中、一弾は艦橋を吹き飛ばし 次で殆ど全弾夾叉命中弾最小限一〇発以上(相応の水中弾あり)ありしも、止めを差すに到らず、2249敵と稍隔離するに至れり」
とあります。
まあ、色々と興味深い内容ではあります。
米側の記録もそうですが、自軍の損害はともかく、敵軍へ与えた損害となると、これっぽっちもあてにはなりませんね。
>>100 は柏原芳恵とセックスできる。
>100は競泳水着姿の柏原芳恵とセックスできる。
>100はメイドさんの柏原芳恵とセックスできる。
>100は秘書スーツ姿の柏原芳恵とセックスできる。
>100はブルマー姿の今の柏原芳恵とセックスできる。
>100はスクール水着姿の今の柏原芳恵とセックスできる。
>100は亞里亞のコスプレをした今の柏原芳恵とセックスできる。
>100はバニーのコスプレをした柏原芳恵とセックスできる。
>100はハイレグレオタード姿の柏原芳恵とセックスできる。
>100は真宮寺さくらのコスプレをした柏原芳恵とセックスできる。
>100は長門有希のコスプレをした柏原芳恵とセックスできる。
>100はセーラ服のコスプレをした今の柏原芳恵とセックスできる。
>100は水銀燈のコスプレをした今の柏原芳恵とセックスできる。
>100はミニスカポリスのコスプレをした柏原芳恵とセックスできる。
>100はスチュワーデスのコスプレをした柏原芳恵とセックスできる。
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>100はコギャル姿の柏原芳恵が俺のアナルを舐め、乳首を刺激しながらローション付きで手コキしてもらえる。
>100は攻殻機動隊の草薙素子のコスプレをしペニバンを装着した柏原芳恵にアナルを調教してもらえる。
>100はヴァリスの優子のコスプレをした今の柏原芳恵が立ちバックでセックスできる。
>100は戦国ブレード暴れん坊巫女のこよりのコスプレをした危険日の柏原芳恵が種付けセックスさせてくれる。
>100は遠坂凛のコスプレをした柏原芳恵が触手プレイさせてくれる。
>>100 は柏原芳恵と結婚してしてもらえて、四六時中、淫らなセックスで御奉仕してもらえる。
そして
>>100 の遺伝子で柏原芳恵が孕んでくれる!
※拒否や無効化はできません。
100 :
あぼーん :2007/02/26(月) 12:34:14 ID:???
なぜ水中弾があると思ったんでしょうね
>>101 わかりません。
恐らく何らかの観測結果からそう判断したのでしょうが、現実はご存知の通り、艦橋への命中弾ともども誤認ですね。
まあ、「艦橋を吹き飛ばし〜」の命中弾は、SDの艦橋基部に米軍判定で8inが一発当っているので、
4Sの命中弾を自艦の命中弾と誤認した、または三式弾我命中したが米軍は命中痕から8inと誤認した可能性も無きにしも非ずといったところでしょうか?
>>102 水中弾は昔言われていたよりも近距離で発生を期待している節がありますから、夾叉した(と誤認)すれば当ったと考えても不思議ではないかもしれませんね。
そもそも深夜、暗闇の中だし命中したかどうかなんて正確に判るわけない
日本海軍の御家芸>>>夜戦の戦果誤認〜敵艦の発砲炎は自艦の命中弾、希望的観測に依る戦果報告、拡大解釈・・・ そんな記録が某の参考になるのか?台湾沖航空戦がその最たるものだが。
米側の資料を参照できる今、誰も参考にしてないと思うけど。
>>104 暗闇じゃあないよ。
SDに関しては探照灯の照明下で、霧島は照明弾の照明下。
>>105 記録をきちんと切り分ければ十分参考になりますけど?
そもそも、その精度を上げるために両軍の資料を付き合わせてるわけですから。
また、戦闘記録の中で戦果に関して誤認が多発するのは日本軍に限らない話。
例えば、第三次ソロモン海戦第二夜戦の米軍側の戦果判定は次の通り。
撃沈
戦艦:1
重巡:1
軽巡:1
駆逐艦:2
撃破
戦艦:1
重巡:1
軽巡:1
駆逐艦:3
問題なのは、戦闘に直接参加してた部隊が作成した精度に欠ける戦闘記録・報告よりも、それを提出された司令部が内容を精査せずに受け入れてしまう場合。
>>107 でも、ゼロたんは最後…
>>104 昼間だからと言って正確に判るわけでもない。
>>107 とりあえず「定められた場所以外での『不衛生な行為』により」艦内での簡易裁判では被告席に立たされ(座らされ)
営倉入りもくらったゼロだったが、米本土寄港時に行方不明になってしまった。
新聞の「訪ね人」欄にも捜索願を載せたんだが、ついに見つからなかったんだぬ。
( ^ω^)
第三次ソロモンの続きは98氏の更なる検証を待って再開と。 我々も別なネタを考えていかねばなりませんね。
112 :
98 :2007/02/28(水) 23:56:21 ID:???
>>111 とりあえず、愛宕の戦闘詳報待ち状態なんですよね。
それが揃うと、霧島の2201から2206までの行動がかなり特定できそうですので。
それとは別に、
>>98 で上げた霧島の戦闘概報について少々考察してみましょう。。
戦闘概報を信じるなら、霧島は2249に敵と距離が離れたため戦闘を終了し、0125に沈没したことになります。
ただし、
>>96 でも述べたとおり砲撃開始を2112(※
>>98 の2121は間違い)としているので、この戦闘概報に記された時間は鵜呑みには出来ません。
まず、敵と距離が離れた時間ですが、WIが魚雷回避を兼ねて日本軍と距離を取る針路変更を行ったのが現地時間0044、4Sが敵戦艦(WI)の針路変更したのを確認したのは日本時間で2245です。
探照灯の照射開始時間に続き、ここでも愛宕とWIの記録は一分差でほぼ一致しています。
ここだけ見ると、霧島の戦闘概報記載の時間も四分ほどズレているだけにも思えます。
しかし、この頃すでに舵機故障で行動不能となっていた霧島の推定位置からすると、海戦当夜の視界が約10キロなのに対して、WIが転舵した位置までの距離が概ね10〜12哩(=16〜19.2キロ)、霧島から観測できたかどうかは微妙なところです。
霧島の沈没時間に関しては、戦闘概報の0125以外に、戦藻録記載の0135と、米側記録の現地時間0030の三つがあります。
米側記録の霧島沈没時間は、朝雲と照月が日本時間の2343に霧島との合同に成功して救助活動を開始していますので、まず間違い確定です。
戦藻録記載の0135という時間については、元ネタがわかりません。
沈没時間と沈没地点、救助人数が戦闘概報と異なっていて、戦闘概報を入手前日(11/15)に戦藻録に記載されていますので、恐らく前進部隊からの速報の内のどれかと思われますが、確証はありません。
前進部隊からの速報とすれば、時間は愛宕の記録とほぼ一致していますので、霧島は0130前後に沈没したと判断しても良いと思われます。
保守
では98氏の応援を兼ねた第三次ソロモンネタを私の方でも一つ。 戦史叢書によれば霧島及び第四戦隊が米戦艦と戦闘を開始したのが約6千m。 史実では我が36cm砲は徹甲弾1発しか命中しませんでした。より多数の砲弾を当てることが出来たとしてどの位の威力が期待できたか。 6千m付近での36cm砲の落角を5°弱、撃速は約632mps程度と推定する。 41cm砲弾対VC甲鈑の場合、同落角のFMは曲線からの読み取りで不確実ではあるが約1.05〜106。 de marreで計算すると垂直甲鈑に対し703〜712mmの貫通力を期待できます。 但しこの公式の原型は600mpsまでによく対応しているとのことであり、また36cmではなく41cm砲弾のFM曲線を使用しているから誤差は生じていると思われます。
一方サウスダコタの舷側主要部は1.25in/0°+12.2in+0.875in/19°なので41cm砲弾FM曲線や米式の多重装甲公式を組み合わせて概算すると垂直一枚板換算17.9in=454mm class A相当の防御力。 計算上はサウスダコタの舷側主要部を容易に貫通できることになります。class AとVCの対弾性能差を考慮しても余裕があるでしょう。。 では相手がワシントンだったらどうでしょうか?同艦の舷側主要部は12in+0.75in/15°で垂直換算15.7in=399mm class A相当。 これも当然貫通が期待できます。 しかし真横から撃てるとは限りませんから、条件はより難度を増すでしょう。 ここで一つ問題があります。F-FORMULAという米海軍の公式で修整値を使用しないで計算すると36cm砲の貫通力は20.5in=521mmとなります。 これでも貫通には充分な威力ですがde marreとは大差がつく数値です。 de marreの方は実験した撃速や甲鈑厚が極端に違う場合は誤差が大きくなる欠点があります。戦艦主砲といえども700mm以上の甲鈑を実射した訳も無く、FMだけ流用しても到底正確な貫通力は求められないと考えられます。 F-FORMULAは多くの実射データから作られた基本式なので汎用性はありますが、反面各砲弾や甲鈑による修整値を適用しないとこれまた誤差が大きくなります。 ここでで砲口貫通力を試算してみましょう。撃速775mps 撃角0°として。 de marreの場合FM0なので計算上の貫通力は839mm。 F-FORMULAの場合修整値を使用しなければ26.1in=663mm。 後者の場合、日本製砲弾には大抵プラス修整(同じ甲鈑に対する必要な撃速が大きくなる)がつきますから本来はもう少し低くなるでしょう。 みなさんどんな印象をもたれたでしょうか?
ちょっと訂正 >de marreの場合FM0なので計算上の貫通力は839mm FM1.0なので
ナニ言ってるのか判りません。
118 :
98 :2007/03/04(日) 11:37:21 ID:???
>しかし真横から撃てるとは限りませんから、条件はより難度を増すでしょう。 砲戦開始時点の状況はこんな感じです。 双方の真方位は日本軍が130°、米軍(WI)が340°で、日本時間の2206までこの針路をほぼ維持しています。 ほぼ平行した針路の反航戦といった所。 相対方位でいうと、日本軍は敵を約10°方向と観測していますが、 米軍(WI)は敵をほぼ真横と観測していて、何故か一致しません。 速力は日本軍が27〜24ノットの間、米軍が26ノットでこちらもほぼ固定。 距離は、日本軍観測で4S→SDが6000m、霧島→SDが10000m、 射撃隊の前方にいた朝雲→WI・SDからで方位角80°距離3500m。 対する米側観測では、WI→霧島が8400yd(約7700m)、SD→探照灯照射艦(愛宕)まで5800yd(約5300m)としており、 現地時間0004頃になると、WI→霧島を右舷後方11000yd(約10000m)になります。 距離・方位に関しては、日米で差がでていますが、命中弾の状況を考えると、4S→SD、WI→霧島の数値が正しいのでしょう。 状況的に真横から撃てる瞬間は合ったでしょうが、対敵姿勢は防御側有利な感じじゃないでしょうか?
当たったのは丸いバーベットだから、対敵姿勢でどうこう言うのは違うでしょ
>>119 そういうことを言ってるわけではないんですが。
あくまで
>>115 で書かれている「舷側主要部」への命中が、海戦の状況から正撃にならず斜撃になってしまい、貫徹できる条件が増す可能性が高いと指摘してるだけですので。
史実の話ではなく、仮定の話だったのね。
火葬物は検証スレッドに相応しくないと思われ
仮想ではなくて仮定でしょう
>>123 仮定というより、第三次ソロモン海戦で霧島の砲弾がWI・SDに史実以上に命中した場合、両艦の装甲を貫通できたか?、という検証ですね。
そして海戦時の距離ならば、もっとも厚い舷側主要部の装甲さえも貫通しえた可能性は高い、ということです。
残念ながら史実では、霧島は早期にWIからの砲撃により戦闘能力の過半を失い、敵戦艦(SD)への命中弾は一発のみ(それも不発)という結果になってしまっていますが。
ついでに
>>120 を訂正
×貫徹できる条件が増す
〇貫徹できない条件が増す
>>124 解説いただいてありがとうございます。当方毎日チェックできる訳ではないので助かります。
また他の皆様、誤字脱字が多くなったことをお詫びいたします。読み難いですよね。
まあそういうわけで、あくまで計算上の話ですが我が36cm砲弾でも6千mであれば米新戦艦の舷側主要部装甲を貫通できた可能性が極めて高いと思われます。
その観点からあの海戦は霧島の代わりに他の戦艦が出ていても戦いの帰趨は大きくは変わらなかったであろうと考えられます。
尚、史実でバーベットに命中した1発についてはまだ曲面に対する命中効果について不勉強なので考察は見送りました。
興味持てなかった方には申し訳ない内容になったでしょうか。他の皆さんも色々な考察をぜひお聞かせください。
WIだとウィスコンシンに思える件について。
つか大逆転第三次ソロモン夜戦を語りたいんだったら魚雷の深度・信管調整したら済む話。
128 :
名無し三等兵 :2007/03/06(火) 17:35:57 ID:AqiyanEQ
魚雷3発がダコタの至近距離で爆発して水柱が降りかかり煙突から水が入ったって本当?
本当らしい。缶の火が一時消えたって。
>魚雷の深度・信管調整を した結果、また自爆したわけですが。
戦艦用に深度を深く調整したら良いじゃないか。
深度調整せず発射した魚雷だけでなく、わざわざ戦艦用に深度調整して再発射した魚雷がまで自爆してるわけですが。
どうなんだろう? 「ソロモン海戦」朝日ソノラマ文庫 には巡洋艦用に深度を3メートルの 浅い深度で発射したから敵戦艦の艦首波の影響で自爆したと書いてある。
>>133 どうもこうも、愛宕の戦闘記録に記載されてることですから。
その辺の検証不足な戦記物を鵜呑みにするのが間違い。
>>134 そうか、じゃ信管の方も調整しないとだめか。
>>133 戦史叢書の記述でも
>>134 氏の言われる通り、対戦艦用の深度でも自爆しています。
第四戦隊最初の雷撃2201は調整が間に合わず対巡洋艦用の深度3mでした。
2214には対戦艦用に深度7mで発射し命中を観測。2220にも深度の記載が無い発射をし命中の水柱を観測していますが当然7mだったでしょう。
今では第二次、第三次の命中も誤認であったことがわかっていますから対戦艦深度でも自爆することが明らかとなっています。
各種戦記物は勿論ながら、入手可能な資料中では権威と言われる「海軍水雷史」でもこのあたりの記述は間違っている訳ですから我々がミスリードされてしまうのも止むを得ない部分はあります。
誤解を招きそうなので補足。
愛宕の戦闘記録に記載があるのは、発射した魚雷の深度についてで、魚雷の自爆については、米側資料及び前進部隊の戦闘概報で、愛宕の発射魚雷中6本の自爆を確認したとある。
また
>>136 の補足にもなるけど、海戦中の愛宕の魚雷発射数は、現地時間2201に8本(深度3m)、2214に8本(深度7m)、2220に3本(深度不明)、の計19本。
この内、2201の発射数で3〜5本が命中し、数本(3〜5本?)が近距離で自爆した、と戦史叢書に記載有り。
つまり、複数の深度で魚雷が自爆しており、それを日本軍自身も確認しているということ。
もちろん、魚雷の命中状況に関しては米側資料を見れば一目瞭然で、米戦艦相手には1本もなし。
さらに駆逐艦群も戦艦相手に雷撃を繰り返しているけど、こちらもご存知の通り命中はなし。
目標を明確に戦艦と確認してから雷撃しているのは、まず2203に朝雲が4本(深度不明)で雷撃し、4分後に2本の命中を確認。
この後、2225に前進部隊指揮官から「水雷戦隊突撃せよ」と「極力敵主力艦を襲撃せよ」との命令が出る。
これを受けて、2239に親潮が、2345(2245?)に五月雨が、何れも本数・深度不明で雷撃し、命中・命中音を確認している。
これらの雷撃は何れも深度を戦艦用に調整していたと思われるが、全て命中せず。
単純に目標を捕らえ損ねた可能性もあるが、米側記録で時間が若干前後する物の親潮の発射したと思われる魚雷(4〜5本)が、艦の至近で自爆しているのが目撃されている。
第三次ソロモン海戦の状況を見る限り、大型艦用に深度を調整した場合、巡洋艦以下用に深度を調整するよりも自爆が多く発生する可能性がありそな感じ。
>>137 米軍や前進部隊の観測したという、6本の自爆魚雷というのが2214に発射した魚雷ですか?
139 :
136 :2007/03/07(水) 00:25:08 ID:???
>>137 >第三次ソロモン海戦の状況を見る限り、大型艦用に深度を調整した場合、巡洋艦以下用に深度を調整するよりも自爆が多く発生する可能性がありそな感じ。
私もそのような印象を受けていました。
そもそも浅深度で自爆が起きるとされたのは戦時中の原因究明の際の話で、その時点では米戦艦に対して深度を深くした魚雷は命中したと考えられていた為そのような結論に至ったのではないかと。
戦史叢書にも前進部隊指揮官の19日付報告で戦艦(サウスダコタ型)1隻撃沈、戦艦(ワシントン型)1隻中破、他に1隻(艦型不祥)大破後沈没略確実とされています。
「大逆転」の為には魚雷の信管調整がミソだな。
参加兵力から見れば日本がかなり有利な筈でしたからね。 ただ信管の調整はその場では難しいようですし、そもそもスラバヤの戦訓から第一次鈍化対策は行っていたのでまさかあんなことになるとは思わなかったのでしょう。 逆に考えると米軍はよく少数の護衛のみで新型戦艦2隻を危険な戦場に送り出してきたものですよね。
自爆問題は信管より魚雷の頭部を変えた方が良いらしい
> 浅深度での自爆問題はスラバヤの戦訓から問題視され、爆発尖の感度を鈍くする対策が採られたのですが、
> その原因は魚雷頭部が球形に近い形状のためにキャビテーションを生じ、浅い深度において特に強い振動を
> 発生する為と分析され、頭部を尖鋭化するなどの対策が採られた様です。
> BUN
ttp://www.warbirds.jp/ansq/2/B2000308.html
>>138 すまん、より誤解を招く書き方をしてた。
米側資料に書かれているのは、日本軍の魚雷の自爆を観測してるだけで、愛宕の発射魚雷の内、6本の自爆を確認したのは前進部隊の戦闘概報のみ。
ちなみに米側資料では、現地時間0002〜0004までに19〜32発(4S+朝雲?)、0033〜0035に4〜5発(4S、または親潮?)、0044〜45に17発(五月雨?)の魚雷の爆発音や水柱を確認したとある。
確認している本数が日本側の発射本数に対して過大なので、誤認がかなり含まれているとは思うけれど、時間的には概ね日本側の雷撃と符合するっぽい。
>>142 尖頭化しても深度に関わらず自爆しまくってるのが、第三次ソロモン海戦第二夜戦。
昭和17年度中に魚雷の頭部の尖頭化終了してたっけ?
愛宕については2214以降に発射した魚雷については命中・自爆は確認されてないのでは?
>>145 その点については私から
2214の魚雷発射後、2218には後方の戦艦に命中するのを認めています。
2220の発射についても2228敵戦艦命中したらしい水柱を観測。
しずれも戦史叢書かより。
>>143 「海軍水雷史」によれば尖頭化は43年に入ってからのようです。
結局自爆は防ぎようがなかったんだなあ
>>144 終わっていたと思っていたが、ソースがないのと、
>>147 のレスがあるので、
>>143 の後段は撤回しとく。
>>145 前進部隊の戦闘概報に「九三魚雷の自爆多数(愛宕のもの6本確認)」とあり、此れとは別に愛宕の戦闘詳報で2201に愛宕が発射した8本のうち、一部が近距離で自爆したが3〜5本が敵戦艦に命中した、と確認されている。
2201に発射した魚雷の内、何本が自爆したの記録はないが、3〜5本を命中させたと確認している以上、このときの自爆数は5本以下にしかならない。
つまり、愛宕が2201以降に発射した11本中、命中と観測した魚雷以外に1本以上の自爆を確認したということ。
命中したと観測した魚雷は敵艦の船体ギリギリの位置で自爆したってことか。
>>147 いや海軍水雷史P30によると、昭和15年末から酸素魚雷の頭部突鋭化品の
量産が始まっているとある。だからこの新品を使えば自爆は起きない。
>>151 追加すると、新型頭部の魚雷は開戦当初一部の艦艇だけにしか配備されてなかった。> 海軍水雷史
>>150 そういうこと。
敵艦の至近で上った水柱を観測して、命中したと判断(確認)してる。
海戦後に魚雷の改善要求が出されてるぐらいだから、命中(誤認)したもの以外に、命中とは誤認出来ないような位置で余程多くの自爆による水柱が観測されたということでもある。
アメリカ側の記録にも魚雷が自爆してくれたおかげで助かったって証言あるの?
劣悪な日本製と違ってアメリカ製品は高品質だから、魚雷の自爆なんかほとんど起きないよ。
その米軍だって不発に悩んでんだから、魚雷は難しい
>>155 直前の海戦で米駆逐艦が不発魚雷を多数出してますが何か?
高級なアメリカ製品にも少しは不良が有ったのだろうけど、大部分不良品の 性能劣悪な日本の魚雷とは比較にならないよ。
米軍の魚雷が本当に高級なら、輸送船団の壊滅は一年早かったです><
ネタだろ? 本当は米軍の魚雷の方が品質・性能ともずっと酷かった
戦争の前半と後半の米海軍魚雷をひとつにして語っちゃだめですよ。両者は真逆です。
開戦当初の米軍の魚雷がそんなに素晴らしい代物だとは知りませんでした。いやぁ、感謝感謝w
>だからこの新品を使えば自爆は起きない そこまで言い切る根拠は?
>>151 失礼しました。完了したのがというべきでしたね。
しかし新品を使うだけでは駄目だと思いますよ。
尖頭化に加えて第一次、第二次鈍化対策をあわせた結果ようやく自爆問題を解決したので。
解決といっても機械の事ですから完全ということはないでしょうけど。
>>164 海軍水雷史に尖頭化した93式酸素魚雷の17年中の配備状況と18年のいつに配備完了した、とか記載あります?
18年に入って行き渡ったとか16年頃実験したとかの記述はありますが具体数は見当たらないようです。
>>166 なるほど。
ということは、第三次ソロモン海戦などの状況からして、17年中には水雷戦隊にほとんど配備できなかったか、配備され使用もされたが、それでも自爆が発生してしまった、と解釈せざるを得ませんな。
それは解釈というのではなく、「不明」と言うのでは?
といいますか、尖頭魚雷の装備を進めつつも鈍化対策を2回も行っている点には注目しておきたいと思います。 尖頭魚雷によって解決できるキャビテーションだけが自爆の原因ではなかったのではないかと。
>>167 実戦で自魚雷の爆問題が発覚したのは昭和17年2月だけど、日本の魚雷の生産力では
ソロモン海戦までに全艦艇への更新が間に合わなかったんだろうな
>>170 それだけじゃないようですよ。
スラバヤの戦訓で自爆が確認された後、第一次鈍化対策がなされて解決したものと思われていました。
ところが第三次ソロモンでも自爆して第二次鈍化対策を実施する羽目になっています。
もちろん尖頭の生産の問題もありますが、鈍化対策は尖頭魚雷にも適用されているようですから。
>>168 言わない。
>>171 度々で申し訳ないけど、二度目の鈍化対策っていつしてます?
某書のとある記述と時期的に17年度中には間に合ってないと思うんだけど。
「昭和17年から昭和18年にかけ、魚雷実験部も呉廠水雷部と協力して対策に努力し昭和18年に入ってからは上記の如く爆発尖の感度を鈍くした事と魚雷頭部の形状を改める事により一応自爆は解決し得たものと考える。」 『海軍水雷史』 とありますから、第二次鈍化対策は第三次ソロモン後に着手し43年前半に解決と解釈しております。
ありがと。
「海軍水雷史」にも書かれてるかもしれんが、魚雷による戦果が目立つルンガ沖夜戦でも魚雷の自爆が発生してて、
「戦藻録」でもルンガ沖夜戦の戦況報告を受けて「夜戦ごとに魚雷の自爆問題起き黒潮にて3本ありたりと云う。九三魚雷の欠陥か、爆発尖の感度依然鋭敏に(?)するか。」と書かれてる。
やはり、17年度中の酸素魚雷は当てになりそうもないね。
>>137 でも書いたけど、特に戦艦相手に発射した場合は、浅深度でも深深度でもほとんど自爆しちゃってるし。
この状況じゃあ、以前某太郎君が主張していた、17年度中に艦隊決戦を行えば大勝利、なんて夢のまた夢だね。
いい加減魚雷の話はスレ違いな気もするけど、他に戦艦関連の検証話のネタもないので、も少し続ける。 結局、自爆の原因は何だったんだろうね? 三次ソロモン以外に大型艦相手に九三魚雷で雷撃している例があれば…と悩んでたら、何気に3例あったのを思い出した。 ミッドウェイでの赤城・飛龍、南太平洋でのホーネットと何れも命中させてるよね。 これら3隻の共通点と、三次ソロモンでの2隻との差は、空母と戦艦であることと、航行しているか否かの2点。 第一夜戦や第二夜戦の前半では、同じ魚雷で巡洋艦・駆逐艦には命中させてるわけだし、自爆はやっぱり大型艦の艦首波などのある程度強い波≒爆発尖の感度が原因?
結局高速戦艦の強い艦首波で魚雷の自爆が起きるんでしょ? 命中したのは高速戦艦が低速で航行中の場合。旧式の低速戦艦にも命中するだろうけど すると魚雷の信管の感度を、もっと思い切って鈍くするしか無いか。
↑の例はノースカロライナに命中した酸素魚雷の話。
>>176-177 それは、水上艦用の九三式魚雷ではなく潜水艦用の九五式酸素魚雷でしょ。
その上ノースカロライナは被雷時に結構な速力(24〜26ノット)出してる。
>>176 そうでもないようなんです。
確かに艦首波や航跡の中で自爆する例も報告されているんですが、敵艦から離れたところでの自爆も観測されているんですよ。
原因は色々なんでしょう。
>>175 上にも176氏宛で書いたように自爆の状況も一つではないようですし、全部が自爆する訳じゃないというだけかと。
『海軍水雷史』を見ると潜水艦の魚雷も多く自爆している例が挙げられていますが、だからといって全部自爆している訳でもないんですし。
>>174 『海軍水雷史』には水上艦用酸素魚雷についてはスラバヤと第三次ソロモンの例しか挙げられていません。
この本では浅深度でだけ自爆するとやや楽観的な見方の部分もある一方、他の海戦でも未確認の自爆が発生している疑いは多分にあるという見方も示していたりします。
> 敵艦から離れたところでの自爆も観測されているんですよ。 スラバヤ沖海戦で起きたね。
>>175 まあ中期の戦艦には魚雷が普通に装備されていましたからねえ・・
魚雷は戦艦に対して使用されることがある以上スレ違いでもないでしょう。
>>181-182 それじゃあ、もう少し続けますか。
>>179 三次ソロモンに限った話になるけど、軽く原因を考えてみる。
この海戦で自爆が起きた状況は、
A:浅深度:早爆(4Sの2201発射分)
B:浅深度:自爆(4Sの2201発射分)
C:深深度:早爆(4Sの2214発射分、2220発射分)
D:深深度:自爆(4Sの2214発射分、2220発射分。親潮の2239発射分、五月雨の2345発射分)
の4パターン。
このうち、AとCは日本海軍でも観測できているが、BとDは恐らく未観測。
使用された可能性がある九三式酸素魚雷は、
1:尖頭化せず+第一次鈍化未対策
2:尖頭化せず+第一次鈍化対策済み
3:尖頭化済み+第一次鈍化未対策
4:尖頭化済み+第一次鈍化対策済み
のこれまた4パターン。
対策の内容は
・尖頭化:浅深度の振動・自爆への対策で戦前から開始。
・第一次鈍化対策:スラバヤ沖海戦を受けて爆発尖の感度を鈍化。
・第二次鈍化対策:第三次ソロモン海戦を受けて爆発尖の感度をさらに鈍化。
(で、いいんだよね?)
ここまで考えてふと気付いたんだけど、第一次鈍化対策って、何の為の対策?
スラバヤ沖海戦における魚雷の早爆(自爆)の状況からすれば、戦前の想定通りに頭部の未尖頭化が第一の原因となるはず。
つまり、尖頭化した魚雷を艦隊に行き渡らせれば解決できる問題。
それなのに別途鈍化対策を行ったと言う事は、尖頭化だけでは対策が不十分と判断した結果?
それとも尖頭化魚雷が行き渡るまでの未尖頭化魚雷への暫定対策?
184 :
名無し三等兵 :2007/03/12(月) 18:36:14 ID:NoYL01vJ
>>183 尖頭魚雷はキャビテーションの影響による高速発揮への障害を取り除くのが本来の目的です。結果的に魚雷推進に関する他の誤動作も軽減できました。
自爆への対応ではないのですよ。
ただキャビテーション対策ですから自爆への対策としての効果も後付ですがあったと思われます。
しかし仰るように尖頭魚雷に対しても鈍化対策がなされているようなので、それだけでは解決にはならなかったのでしょう。
上げてしまいました。ごめん。
>>184 なるほど、といいたいところなのだが、上で同じ「海軍水雷史」を元にして別の見解を示されている方がいる。
どちらが正しいのだろうか?
>>169 >>171 のことでしたら私184と同一人物です。誤解を招く書き方だとしたらお詫びします。
尖頭は本来は自爆対策で開発されたものではありません。
ただキャビテーションの解決により、自爆原因の少なくともひとつに対してもある程度の効果はあったのではないかと。
『海軍水雷史』でも自爆原因はそんなにはっきり解明出来ていないのです。
デカイ魚にでも当たったんだろ?
マグロ?
>>190 そうでしたか。『海軍水雷史』には尖頭化だけで解決できるという記述はありません。
>>173 に引用した記述から対策の一環として捉えることは出来ますが、自爆問題が戦前から持ち上がっていたという事実はありません。
本来は高速発揮の為の対策で、確かイタリアあたりの魚雷を参考にしていたかと。
ただ高速発揮の障害キャビテーションは自爆原因のひとつとして上げられているのである程度効果が有ったかと思います。
>>188 当時クジラに当たったと証言している人も実際に居るんだよなぁ(;´Д`)
確認しようがないけど
>>192 意外と多いらしい自爆の中には鯨原因も混じっている可能性はゼロではないでしょう。
ただ毎回鯨が居合わせたとは流石に…
食うとうまいので渋谷か浅草にでも食べにいきますか?
とりあえず第三次ソロモンネタや派生した魚雷ネタも終息でしょうか。 次は何に取り組みましょう? スリガオ海峡夜戦、サマール沖海戦、普通に戦艦性能比較、落ち着いて取り組めばやりがいのあるネタはまだある筈。
予想される展開 スリガオ海峡 兵力の格差が大きすぎ。負けて当然。兵力自乗の法則をしらんのか!! 等々 サマール 煙幕・スコールで手こずるのは当然。百数十機もの空襲を受けながら正常な砲戦は不可能。 追撃戦に時間が掛かるのは海戦の常識。不利な条件の中で日本艦隊は懸命に戦った。 戦艦性能比較 日本戦艦命中率3倍。米戦艦レーダー射撃。等々
>>195 まあ戦艦系スレは伝統的にそんな感じですかね。
ただ勝ち負けだけにこだわることなくやりたいものですね。
スリガオ海峡で無駄死にする運命なら、出さなきゃ良かった扶桑・山城。 西村司令官の道連れにされた艦隊将兵こそいい迷惑。 死に場所求めての決死行なら、西村一人で行かせりゃ良かった。
まあマジレスするのもなんなんですが、そういう命令だから西村中将個人の意思とは関係無いでしょう。
いいえ、全滅して来いなんて命令されたわけじゃ有りません。 最後はバンザイ突撃で全滅、しか能のなかった陸軍の低脳部隊長のレベルですよ。 管理職やってみりゃ解りますよ。部下が可愛くない人は別ですがね。
栗田乙
>>199 何時から軍隊は抗命が許されるようになったんだ?
上級司令部からの命令は当初の予定通りレイテ湾へ突入せよで、全軍突撃命令まで重ねて出されている状況。
その辺の似非管理職ならいざしらず、本職の軍人がとるべき行動は決まってるね。
扶桑山城が低速艦扱いされた、ってのはよく聞くけど、 「何が」「どう」まずかったのか、ってことを運用側が根拠として 扱っていたのか、意外と聞かない。 根拠情報持っている人います? 改装後の公試では24.7ktとかで僅かに25ノットに届かなかったことを 鬼の首でもとったようにあげつらったのか、それとも巡航速度での 航続距離とか何かに致命的な問題でもあったのか。
まずは改装から何年も経っているので、 44年ではかなり老朽化が進んでいることは容易に想像できる。
>>202 確かに低速が致命的問題とされたソースは少なくとも正式な資料を元にした話としては知りませんね。
もし敵戦艦部隊との単純な対決を目的にしていれば第三戦隊も主力部隊に含めた方が有利だったでしょう。色々不具合もあるにせよ火力面では侮れません。
しかし敵制空権下でのレイテ湾内への突入と船団撃滅を目的と考えれば有力な一部を分派したのも当然の判断です。
有力艦が一度に全部発見されたり、空襲で一網打尽にされる危険性。
そして妨害する敵艦隊との戦いで果たして「確実に」勝利し湾内に突入できるのか。
分派しておけば一方が発見されないとまではいかなくても発見が遅れて対応を難しく出来る可能性があり、本来の計画通り同時突入を行えるのなら敵側の対応を混乱させたりどちらか片方だけでも突破できる可能性を残せるかもしれません。
そう考えれば有力部隊の分派には合理的理由があり、比較的低速な扶桑型がその対象にされたというだけなのかも知れません。
しかし史実では逆に突入時間に大きな差が開いてしまい、みすみす各個撃破されることになったわけですが。
レイテ沖海戦は純粋な水上部隊の決戦という意味では異質なものですが、艦隊決戦というものの本質を突いているような気がします。
武道の試合のような単純な決闘は有り得ない。双方に作戦目的や思惑があり、その達成や阻止に必要が生じて決戦が生起する。
艦隊決戦は目的ではなく手段なので、作戦目的の達成は決戦の勝敗より優先するのでしょう。勿論決戦で勝利した上で作戦目的を達成するのが一番ですが。
>第三戦隊も主力部隊に含めた方が有利だったでしょう。 意地悪く聞くけど、2Sもしくは1YB第三部隊のことだよね? ちなみに9月中旬に軍令部が2Sに長門を編入しようとしてたりする。 さらに9/10付けで一時解隊されていた2Sが復活するけど、当初の予定では2YB指揮下(他に3Sf、4Sf)で、捷号作戦においてはKdBと共に北方からの牽制に当る計画になっていたとある。 最終的な部隊区分とは異なってるけど、軍令部が扶桑・山城をどう見ていたかの傍証にはなるね。 台湾沖航空戦からレイテ海戦に到るまでの2YBの
>>205 ごめんなさい。そうです。
第二戦隊と第三部隊がごっちゃに…
保守
当時の山城・扶桑は老巧化が激しく、24ノットどころか、20ノットの発揮にも機関科全員を配置に付けなければならない程の状況だった。 酷な言い方だが結局は史実の使い方しかなかったのでは。
艦長たちの太平洋戦争の扶桑艦長よろしく、実際に乗っていた人は
速度の問題じゃないという、片や機関ボロだからまずい、みたいな
>>208 みたいな話もある。
そういった話は傍証にはなるんだろうけれども、
>>205 のように
軍令部や連合艦隊がどう実務上取り扱っていたか、の際に、判断材料と
していたズバリの公的な根拠またはそれに近い定説となる情報の存在を
聞かないんですよ。だから「そういうのが存在するのか?中身は?」、と。
まあ、燃料は他にまわさないと足りないわ、第一艦隊解散以後、中途半端に
あまっていたので、第二戦隊再編まで適当に扱われていたのは、扶桑級に
対する取り扱いの「程度」としては伺えるんだけどね。
それと、スリガオ海峡への囮としては、相応の部隊をあててやらないと、
(スケジュール上は)本隊の支援や敵の分散にもならんが。
ただ、後の議論として、「遅い」ってことばかりがずっと話の前面に出てきて
語られ続けているのが不可解、ってわけなんですよ。
>>209 1YBの参謀長だった小柳少将は、「劣速にして航続力のない支隊は、西村中将指揮下に第四航路を〜」とは自著で言ってるけどね。
ただ、かなり後付けくさいというか、1YB第三部隊の分進案自体が出撃直前に決まった形跡があるので、鵜呑みには出来ないんだけれど。
あと速力に関しては、山城と扶桑、それに2S、それぞれ別個にして考えた方が良いかも。
扶桑が遅い以前に主砲配置の悪さで射撃に悪影響が出るというのが駄目にスパートをかけているのではないかと
扶桑も改装後は問題ないって > 主砲の爆風
213 :
名無し三等兵 :2007/03/25(日) 23:35:39 ID:9Hq0iIvJ
スペシャリティー フォース レンジャー パイロット 一般部隊 戦闘職 後方支援部隊 整備補給技術 水部隊 衛生 音楽 ヘリコプターパイロット
スリガオといえば西村艦隊で詳しい記録を残した艦はあるんでしょうか。 最上だと公式といってよいか微妙ですが戦闘記録のようなものがあるにはありますが。
>>214 唯一の生き残りが記録残し取りますがな。
ダニガンの本では、戦没したにもかかわらず、雪風よりも幸運艦扱いされていたな、時雨。 とりあえず、米軍レーダーの山城撃沈時のプロットを見る限り、単縦陣の戦闘詳報よりも、 時雨艦長の3列縦隊説をとりたくなる。
あ、戦闘詳報じゃなくって戦史叢書か。
>>216 西野中佐の証言にも振れがあるので、いまいち信頼しきれないけどね。
フィールドJR相手に、「米駆逐艦から雷撃を受けたのは接敵序列から戦闘序列へ移行中で、東北に艦首を向けていたから」と言ってるし。
426 :名無し三等兵 :2007/03/29(木) 19:57:20 ID:??? ちょっといいか 今日図書館で原勝洋の「決戦戦艦大和の全貌」っての読んできた そこでサマール沖海戦についてこんな風に書いてあった 米護衛空母の空色白色黒色の3色の偽装迷彩は「射撃指揮上何等影響ナク」 煙幕の中では逆にはっきり目立ち「照準を容易ナラシメタ」 と「逆効果」だったとしている この種のスレで言われ続けた 「煙幕のため有効な射撃の機会は少なかった」のまさに正反対で 終始補足し続け有効な観測ができてたってことらすい
レンジファインダーだから、明確な縞模様がある方が合わせ易いんだな。 カメラだって、のっぺりした淡色の壁なんかだと、AF迷うものな。
まさか戦艦に撃たれることなんか考えてもいなかったってことか
そりゃそうだろうねえ、対潜か対空だろうから。<米護衛空母迷彩 しかし、迷彩といえば、帝国海軍の水上艦艇はどうだったんだ? 末期の本土繋留の時期は論外として、捷一号の頃とか。 空母では迷彩を塗っていたのは、信濃とかそれなりに知られて いるけど、水上戦闘艦艇のほうはどうだったんだ? 米艦はガ島の頃には既に塗ったくっていたわけだが。
あの時、希望通り神大佐に戦艦山城与えてサイパンに突っ込ませたら・・・ 山城乗員にとってはすげー迷惑な話だろうが
>>222 有名どころだと、右舷前方から撮った迷彩姿の妙高の写真はあるね。
>>222 軍艦色は迷彩塗装の一種だよ
日本近海でしか役にたてないけど
>>224 あれはセレター軍港に繋留状態になってからでは?
それとも捷一号の頃にそんな塗装?
>>225 問題はそこ。日本近海基準を昭和19年まで続けていたのかと。
多摩の有名な写真もあるけど、あっさりやめたらしいし。
まして、「戦艦」クラスはどうだったのかと。
欧米じゃ、独すらバルティックスキーム、英米はもっと徹底してる。
仏伊もそれなりにやってる。
まあ、レーダー相手にどこまで役に立つかという問題はあるけど、
潜望鏡とかでの咄嗟判断で迷わせる、とかって科学的な考察から
実験をやった話を聞かないからなあ。
イタリアも画家を招いて研究させたっていうからな
>>219 煙幕に隠れる事が多く射撃が出来なかった。
煙幕に隠れていないときはそのおかげで有効な照準が出来た、だろ。
「煙幕内でもよく見えた」だから長年信じられてきた事と逆なんだな 太平洋戦争中で最良の条件だったとは
それであの命中率と。 リンガでの3ヶ月近い猛訓練はなんだったんだ?
相手が自由回避を行うとすればあんなものではないでしょうか。本当は相手方も風向きを考えて逃走中なので完全に自由でもないんですか。 他の海戦もそうなんですが、お互いに行動の自由があると命中率は良く言われる演習値より下がって当然です。
戦前の戦艦の砲撃命中率って敵艦との同航砲戦を想定した訓練の数値っしょ
>>232 正確には色んな条件での演習がありまして、戦後の資料で平均として取り上げられることが多いのがお説の低速での同航状態(基本は等速等運動)。
海軍は戦時には演習より1/2〜1/3位になると予想していたので、まあ史実と比較すれば甘い予想とはいえますが単純に演習値を発揮できるなんてお気楽には考えていませんでした。
それなりに慎重な判断もしていたということで。
流れ無視で申し訳ないんですが大戦末期の艦底が緑だったって話を 聞いたのですが大和が緑だったということはあり得ないのですか?
>>235 分からない。隼鷹みたいにドッグ入りしたときの写真が有るわけでもないし、
信濃みたいに「赤だった」という証言が有るわけでもないし。
>>235 >>大戦末期の艦底が緑
これは福井静夫氏の生前の発言が元になっているのですが、これを裏付ける資料
などは今のところ無いですし、艦艇模型の世界でも、終始赤色だったというのが定説
のようです。
238 :
235 :2007/04/09(月) 22:16:38 ID:???
>>236 、237
ありがとうございます。
緑説には根拠となる資料が無かったんですね。
>>237 >これを裏付ける資料
>>236 で書いた1944年末の入渠中の隼鷹の写真では船体と艦底が同色に見えるけどどうかな?
モノクロ写真のためはっきりとは言えないけど少なくとも赤には見えない。
艦によっては緑に塗られていたのもあったんではなかろうか。
赤は目立つ
1980年代って赤色の軽カーが溢れ返っていた。何でこんなに赤色ばかりが多いのか不思議だったが とある筋に聞いてみたところ、ウソかほんとか知らないが、あらゆる塗料の中で赤色が一番安いんだと。 言われてみりゃ成る程そうかも知れないと思った。 多分、艦船の艦底色とは無関係だと思うが。
242 :
名無し三等兵 :2007/04/15(日) 03:50:34 ID:O1+GJUvD
戦艦「陸奥」や「武蔵」の生存者の話では、いずれも艦底は赤かったという 証言ばかりだね。 戦艦に関しては、水面下が緑色だっていう証言はないようだ。
ウォーターラインのネルソン/ロドニー、フッドは底が黒色だったが外国艦は黒色に塗られてるフネがあったのかな?
>>241 塗料の値段は知らんけど、白でも赤でも値段は変わらんよ。
オプション扱いで金を取る塗色とかもあるだろうけどさ。
>>243 あれは喫水線付近が黒塗装なだけでして、そっから下は赤色です
海自の護衛艦も同様な塗装ですね
保守
247 :
名無し三等兵 :2007/04/19(木) 21:28:10 ID:AUKT8HYU
もう出てる話かもしれないが、「扶桑型」や「伊勢型」の3番砲塔を撤去して機関を増設し、 高速戦艦化したらもっと役に立ったんじゃあないかね? 14インチ8門艦の「金剛型」があれだけ活躍したんだから、10門艦となればかなりの 価値があったのでは?
>>247 日本軍に史実以上の数の大型艦を積極的に動かすだけの油がない。
また、改装で有力艦となればなるほど、大和型や長門型のように主力として温存されてしまうだけ。
金剛型が活躍出来たのは、速力だけがファクターじゃないのよ。
さらに言えば、史実以上に大規模な改装を施そうとすると、その他大型艦の改装・建艦計画が滞ることになるから。
金剛型の第二次改装を行わず、その工数・資材で伊勢型・扶桑型の高速戦艦化するのなら可能かもしれないが、
その場合、中速・弱装甲の金剛型4隻と中速の長門型と艦隊を組む事になるんだが、それが史実の艦隊編成よりマシとは思えないな。
日本艦の話は結局は「みんな貧乏が悪いんや」となってしまうw
もっとも油田地帯を確保したら済む話
そしたら今度はタンカーが足りませんでした
満州で石油の調査をしたが、731部隊の実験場で調査ができなかった所に油田があった。 NF文庫の陸軍燃料廠の井戸掘りの話でも似たような話があるが別の件か?
満洲の大慶油田が、当時見つかっていれば世界史は変わってたよな
>>252 『陸軍燃料敞』では当時の地質学的には石油が出ないと判断、という話だったような
>>253 覇者の戦塵か!
>>253 日本が豊かな産油国になったら、そら変わるだろ。
256 :
名無し三等兵 :2007/04/21(土) 08:46:09 ID:/2gFFndo
>>253 大慶は重油質らしく航空機燃料等には不向きの様なので、主に改善するのは艦艇の燃料事情だね。
あと0から構築となると結構手間が掛かるようだから、影響の度合いは見つかる時期に因るかも。
1920年代中頃の発見でも、北樺太石油コンセッション程度の規模に止まる様な気もするけど。
歴史が変わる可能性については、蘭領コロニアル石油会社の日石への身売り話を成立させた方が高いかも。
同件が公に動き出したのは1919年末で、蘭領コロニアル石油会社が、同社の全ての石油掘削権と設備の売却を日石に打診
これに対して日石・宝田石油の陣営は将来性が十分在ると分析し、共同でコロニアルの買収・経営を行う方針を固めました。
ただ、1700万円・5年据置き20年償還の低利融資を大蔵省が認めず、事態が進展しない最中、
スマトラ島パレンバン州タラン・アカル油田で豊富な油層が発見され、コロニアルの売値が高騰、そして交渉決裂となりました。
ちなみに、この時発見された油層が例の大油田となり、交渉決裂から約20年後に戦争してまで日本が取りに行く事になります。
保守
イタリアの植民地リビアに油田が発見されれば、歴史は変わった。 オスマントルコ帝国植民地の中東に多くの油田が発見されれば歴史は変わった。 by独逸第二帝国陸軍&帝国海軍大海艦隊&帝国空軍
愛宕その他の戦闘詳報を読んで来た。 内容的には、若干戦史叢書と食い違う部分もあったけれど、概ね一緒。 読んで一番ビックリしたのは、海戦中に愛宕が消費した弾数。 8inの徹甲弾55発、通常弾6発ってマジですか? 叢書の「第四戦隊も零式弾を多く使用したのではないかと推定されるが資料がない」という記述との食い違いはともかく、恐ろしく高い命中率のような…。 仮に高雄の消費弾数が愛宕と同数だとすると、4Sの発射した約120発中17発がSDに命中した計算になり命中率14%。 高雄がSD相手に射撃出来た時間内にカタログデータ通りの発射速度で砲撃したとしても、約200発中17発命中で命中率8.5%。 霧島が117発消費だから、霧島の砲戦技量がよほど悪かったのでもなければ、やはり霧島が砲戦開始早々に砲戦指揮能力を失っていたってことなのかな? その後のワシントンへの砲撃を見ていると、4Sの砲戦技量が超優秀ってこともなさそうだし。
>>262 14%にしろ8.5%にしろ反撃を受けない状態での砲撃なので高い命中率を出したのかも知れません。
ワシントンが殆ど間髪いれずに霧島に砲撃していることはこれまでの検証から確実なので、霧島の射撃指揮機能が早期に失われたのか、或は被弾しつつの砲撃で充分な観測・修整が行えなかったのか。
もう1つ愛宕の通常弾6発は零式か三式のどちらか片方しかカウントしていないという可能性も残るかも知れません。残るもう片方がもう少し撃っているとか。
まあこれは何の証拠も無い憶測ですが。
いずれにしても愛宕の計61発は射撃時間を考えても少ないですよね。ノックアウトされた霧島の主砲でさえもっと撃っています。何らかの錯誤が生じたのか。
>>263 >反撃を受けない状態での砲撃なので高い命中率を出したのかも知れません。
少なくとも愛宕は一応反撃を受けてるから、その可能性は低いかなと。
叢書にも出ている通り、愛宕は数斉射の近弾と遠弾を観測してるし、一発とはいえ被弾もして(戦闘詳報だと、さらにもう一発の至近弾で若干の浸水)損害が出てる。
米側記録でも、戦闘の第一段階(2200〜2206)にSDの副砲とワシントンの副砲の一部は日本軍の重巡を砲撃していたとされてるからね。
ただ、海戦を無傷で乗り切った高雄には、当てはまるかも。
>もう1つ愛宕の通常弾6発は零式か三式のどちらか片方しかカウントしていないという可能性も残るかも知れません。残るもう片方がもう少し撃っているとか。
その可能性はあるというか、射撃隊は直前まで飛行場砲撃の用意をしていたわけで。
その割には通常弾の発射数が少ないなあとは確かに思うんだよね。
ただし、主砲の消耗弾数を戦闘詳報通りとするなら、愛宕は敵が戦艦と判明した時点で通常弾から徹甲弾へ切り替えをしたから、消耗弾数がアレだけの数だったのかなあ、とも思うんだけど。
愛宕の被弾は5in砲弾でしたね。確かに一応の反撃は受けていますか。
保守
ちょいと話題を変えて
>>219 で出されたサマール沖海戦における煙幕の影響について。
大和の戦訓所見(サマール沖海戦時)も読んできた。
結論から言うと、煙幕によってかなり砲戦に悪影響を受けているとしか思えないな。
以下、戦訓所見の砲戦に関する部分を抜粋
・咄嗟砲戦について
敵 煙幕展張前 更に有効なる初撃を加えるを得たるべし
・目標選定について
自艦の副砲や他の小艦艇の射撃で煙幕展張艦を撃破するを得ば
主砲の砲戦上極めて有益なりものと認む
・観測機活用について
敵の避弾運動 煙幕展張を無効ならしむる為には
観測機使用が極めて有効
「決戦戦艦大和の全貌」での書かれようも確認しないといけないけれど、
戦訓所見を読む限りは
>>228 の指摘どおりとしか思えないな。
268 :
名無し三等兵 :2007/05/08(火) 14:32:15 ID:kDv68irO
サマールは煙幕超えでレーダー照準で撃ってなかなかの精度を出したという話はどうなるんだろ?
「決戦戦艦 大和の全貌」入手。 P55より > また、米護衛空母群が施した空色と白色、黒色の偽装 >迷彩色は「照準発射並に射撃指揮上、何等影響なく、却 >て煙幕中に於て白色を帯ひたる一部の色彩は視認を容易 >にし照準を容易ならしめた」と偽装迷彩が逆効果であっ >たことを明らかにした。 とは書いてあるけど、どこにも >「煙幕のため有効な射撃の機会は少なかった」のまさに正反対で >終始補足し続け有効な観測ができてたってことらすい というようなことは書かれてないね。 逆に大和のサマール沖での時間毎の砲戦状況が記されているけど、 見る限り何度も煙幕やスコールに逃げ込まれて射撃を中止したりしてる。 また昭和19年11月作成の『比島沖海戦並びに其の前後に於ける砲戦戦訓速報・水上の部』からの転載で、 >「〜(前略)一度会敵するや敵の徹底する煙幕の利用と避弾運動とにあい、遂に存分の戦果を上げなかったのは、一 >に我が電測能力貧弱の虚に乗じられたものである」 とか、電探の能力に対して >「今次戦闘に於て視界不良なると共に空母の艦型よりして測的困難にして射撃効果の発揮困難なしり」 とか、測距儀について >「敵の積極的煙幕利用のため合致式測距儀の精度著しく低下せり。倒像遠近式もの最小限一基を装備するを要す」 と書かれているわけで。 どう読んでも、煙幕に苦しめられてたとしか思えない内容でした。
戦力的には圧倒的でしたがやり難い相手だったんでしょう。米軍は夜戦にまで煙幕を使用しますから。
そりゃ、正規空母だと思い込んでるんだから、 空母の艦型よりして測的困難だろうなあ。
>>269 最初の転載部分だけ見ると
「迷彩のせいで煙幕が効果をなさず逆に発見・照準されやすくなった」と見える
>>219 そもそもそれは中・近距離まで接近して発砲した巡洋艦の話し。状況を無視して
ワケも分からず無意味な「評価」をするのはやめよう。
いい機会だからこのままサマール沖海戦の話を進めましょうか。
条約脱退以後だと、改装にかかる時間や艦齢を考えたら新造したほうがマシ とか言ってはダメなのかな?
しまった誤爆した
>>274 良いと思いますよ。
こちらもサマール関係の資料をちょろちょろ集めてますんで、多少はお付き合いできますし。
とりあえず小ネタを一つ。
サマール沖での迷彩の効果については、「決戦戦艦 大和の全貌」とは逆の証言もあります。
歴史群像の「アメリカの空母」には、日本側見張り員の証言として、「識別きわめて困難にして、迷彩のため遠距離にては駆逐艦、巡洋艦を誤認することあり」と報告していた、とありますな。
ちなみに同じ「アメリカの空母」を読む限り、サマール沖海戦時の護衛空母群の迷彩塗装はメジャー32/33のようです。
どちらも、「目標の識別と針路および速度の判定を困難とすること」が主目的で、対空・対水上の視認率低下は二の次(0ではない)。
ということで、そもそも「偽装迷彩が逆効果で照準を容易にした」という日本軍の報告(+
>>219 の指摘)はある意味的外れなんですな。
それどころか、使用されていた迷彩の本来の目的からすれば、日本軍が低速の護衛空母を高速の正規空母と誤認しまくったということは、逆効果どころか極めて効果的だったということでしょう。
>低速の護衛空母を高速の正規空母と誤認し それ、砲戦とは全然関係ないよ。
艦型の誤認か的速の誤認かによりますね。>迷彩の効果については。 艦型間違えたから、速度見積もりが違ったか、 速度(針路)間違えたから、艦型まで誤認したか、 両方とも間違えていたか・・・
だからぁ〜的速は的速。艦種の識別は艦種の識別なの。 それともアレか? 高速艦が低速で走っていたら、どこの海軍でも必ず的速を誤認するのか? もうアホかバカかと
>>278 >低速の護衛空母を高速の正規空母と誤認し
サマール沖に関しては、その誤認が思い切り戦術に影響与えてますから。
砲戦状況からして的速はそれなりに正確に測定できてるけど、
高速を出しうる正規空母群と艦型誤認してしまったが為に、追撃に失敗したわけで。
>>279 日本側の記録を見る限り、艦型の誤認が主でしょうな。
初っ端で、護衛空母群を「空母6乃至7隻、巡洋艦及駆逐艦多数を伴う大機動部隊」と誤認した為、
「先ず、敵空母の飛行機発着艦能力を封殺」する為に風上を押さえてから、
「次で敵機動部隊を殲滅する」としてしまったせいで、あの体たらく。
>>281 まあ「誤認」は砲戦指揮とは関係なく艦隊運動・戦術上の話しと言うわけだ。
もともと砲戦の話をしてたところへ
>>277 が意味も分からず横レスしてきたと。
>>285 その「結論」のところで砲戦の話と戦術の話しを混同してるんだな。だいたい見張り員が的速求めている訳じゃ無いのに。
決戦に書いてあった「かえって照準が容易」ってのは本当なのかな
本当
>>287 視認自体はかえってし易いんじゃないですかね。
>>280 そういえば我が海軍の演習でも普段艦隊で見かけない艦を対象にすると的針の誤差が大きくなるようです。
>>219 > 米護衛空母の空色白色黒色の3色の偽装迷彩は「射撃指揮上何等影響ナク」
> 煙幕の中では逆にはっきり目立ち「照準を容易ナラシメタ」 と「逆効果」だったとしている
当事者が射撃指揮に何の影響も無かったと言ってるなら、そうなんじゃない?
>>290 同書は手元に無いのですが、それは大和の話なんでしょうか?それとも肉薄した重巡の話なんでしょうか?
戦闘詳報
>290 米艦の迷彩の効果は、全くと言って良いほど無かったらしい。 >中距離射撃では「測的比較的に容易となる」 > >「決戦戦艦 大和の全貌」
296 :
291 :2007/05/14(月) 22:10:33 ID:???
>>292 遅くなりましたがありがとうございます。戦闘詳報など手元資料を掘り出してみます。
やっと、命名基準の謎が解けたよ
保守
霧島は5インチ弾を40発ぐらい浴びたけど これの被害はどの程度だったのかな 水線下にも何発か命中して浸水したのかな
300 :
名無し三等兵 :2007/05/20(日) 02:40:03 ID:n5rja3W9
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保守
とりあえずスリガオ希望。
このスレかなり下のほうに来てますけどあえて上げたほうがいいんですかね? なんかこのままだと忘れ去られそうで…
>>305 残念ながら、霧島の戦闘詳報には損傷の状況は記されているが、サウスダコタのように被弾箇所と命中弾のサイズ・種類などは記されてない。
霧島に5inが40発が命中したとされているのは、あくまでワシントン側の観測であって、具体的に何発被弾したかは不明。
水線下に被弾したか否かは不明だけど、舵機故障→舵取機室満水と戦闘詳報には書かれているので、
舵機室近辺に被弾して浸水していたのは、ほぼ確定。
また、傾斜復旧が目的と思われる注水も行っていて、最終的に左舷側に転覆して沈んでいるところから、
結構な量の浸水があった模様。
霧島の被弾は最低16in6発、16in9発に5in40発、16in十数発ととどれが本当やら。 3万t以上の巨艦が短時間で沈んでいることから10発はあたってたのかも(根拠なし)。
上のサイト他にも レーダー射撃 レイテ戦全般 米魚雷 あたり読み応えあるのでじっくり読んでみる
>>305 を訂正。
戦闘詳報→戦闘概報ね。
ついでに、別スレで出ていた質問も引き受け。
>三時間もワシントンを砲撃してたの?
霧島の発射した117発に関しては、砲戦開始(2201)から転覆・沈没するまで(0125)に撃った数、とまでしか絞り込めないというのが正解。
海戦に参加した主要艦艇、ワシントンや愛宕・高雄などは、割と詳細な戦闘詳報や戦闘記録が複数残っているんだけど、
霧島の戦闘中の状況に関しては、内容的にちょっと微妙な「霧島戦闘概報」くらいしか残ってないんだよね。
一応、戦闘概報には「2249敵と稍隔離するに至れり」とあるので、霧島が117発を発射していたのは、2201から2249までの間に限定できる可能性もある。
ただし、当日の視界が20キロ未満なこと、霧島よりSDに近い位置にいた4Sが2218以降にSDを見失っていること、さらに航跡図における両軍の位置から考えると、
砲戦開始直後に行動不能に陥った霧島が本当にSDを2249まで補足し続けられたかは、かなり疑問の残るところ。
合わせて、日本側記録でも二基、米側記録なら三基の主砲塔が早期に沈黙・使用不能となっている霧島には、例えカタログどおりの発射速度を維持できたとしても、
ワシントンが75発を発射したのと同じ時間内に117発を発射することは物理的に不可能だからね。
三時間はおおげさとしても、117発を発射したのは射撃開始してから概報で敵を見失ったとされる2249までと見るべきかな。
>>309 >霧島の被弾は最低16in6発、16in9発に5in40発、16in十数発ととどれが本当やら。
16in6発命中は日本側記録で、16in9発に5in40発命中は米国側記録、16in十数発はしらん。
一番信憑性のありそうな霧島の戦闘概報では、「命中弾多数(6発以上)」となっている。
まあ、艦がちゃっちゃと沈んでしまった為、正確な被弾数を確認できなかったちゅうこと。
生き残っていれば、SDみたいに被弾箇所や命中した弾の口径まで記録に残せたんだろうけどさ。
そんなわけで正確な数字が出せない為、一般には日米の公式記録を付きあわせた16inが6〜9発が霧島への命中弾とされてるわけ。
>>16 in6発命中は日本側記録で、16in9発に5in40発命中は米国側記録、16in十数発はしらん
16in十数発が日本側の記録じゃなかったっけ?
16in6発命中は確か米軍が確認した確実に命中した数だったと思う。
>>313 取りあえず違う。
>>312 でも書いたとおり、6発以上命中としているが被弾した側の霧島の記録で、9発命中が発射した側であるワシントンの記録。
後は海底調査待ちか。
>>308 逃げ惑う高速軍艦を砲撃だけでしとめるのは至難の業
仏英も地中海で逃げ惑うオーストリア軽巡を弾薬庫がカラになるまで撃っても取り逃がした罠
ま、それよりも進化した射撃管制装置を持ち、相手とそうは変わらないアシをもって
この体たらくでは南雲さんも失望しきりだるう
>霧島よりSDに近い位置にいた4Sが2218以降にSDを見失っている するとやはり霧島の射撃時間は最大十数分程度だな。至近距離での水平射撃なら府仰角の手間も無く 発射速度は最大になるから、仮に発射速度30秒毎だったとして10分で8門×20斉射=160発撃てる計算。
空気読まずに聞きたいんですが スリガオにおける山城と最上の被弾状況はどのようなものだったのでしょうか?
319 :
名無し三等兵 :2007/06/10(日) 22:13:22 ID:m/bYpQuD
木俣滋郎の撃沈戦記では闇夜2万mもの距離から mk8レーダーを持つウェストバージニアは初弾命中、カリフォルニアも第二射で命中したと書かれてた。 まっすぐ進んでくる絶好の目標とはいえ本当なら恐ろしい精度だ。
>>317 その計算は×。
状況を無視してカタログデータだけで語っても、現実からかけ離れた机上の計算にしかならんよ。
霧島は2206までに3・4番砲塔水圧停止、舵機故障で操舵不能、右舷に傾斜した状態。
主砲8門での全力射撃が可能だったのはどんなに甘く見ても2206まで、他艦からの観測状況からするともっと早期に斉発不能に陥っている。
また、ほとんど反撃を受けずにほぼ一方的に霧島を撃っていたワシントンならともかく、
命中弾を多数受けて傾斜して操舵不能な霧島がカタログデータ通りに射撃を長時間続けていられた可能性はきわめて低いし、
ワシントンが75発を撃ったのと同じ時間帯(日本時間で2201〜2206)に霧島がそれ以上の主砲弾を撃てた可能性は皆無といっていい。
合わせて、戦闘概報で2249に敵を見失うまで戦闘を継続していたが、敵の撃沈を確認を出来なかったとされてる。
最後までSDを正しく捕捉して有効な射撃を続けていられたかはともかく、2249まではほぼ確実に使用可能な砲で何かを撃ってる。
それなんですがワシントンもカタログで30秒に1発のはずが この場合は12秒か13秒に1発で撃てたみたいな話を幾つか見ました 霧島も最初の数分なら馬鹿みたいに撃てたのでは?
>この場合は12秒か13秒に1発で撃てたみたいな話を幾つか見ました 米側の記録を見る限り、第三次ソロモン海戦時のワシントンでそんなレートで砲撃はしてませんな。 25秒で斉発した例はあるけど、概ねカタログどおり(それでもかなり凄いんだけれど)。 >霧島も最初の数分なら馬鹿みたいに撃てたのでは? 可能性として0ではないかもしれないが、それを成し遂げたという証拠はないし、出来たとも思えんね。 それこそハイペースでカタログデータ以上のペースで撃てていたとしても、 このスレや前スレで何度も出てきている日本海軍の砲戦技量に関わる別の疑問が出てくる。 何で117発も撃って命中弾が一弾のみなの?とか、なんで戦艦と気付いたのに消費弾は3式弾が大半なの?とか。
>321 そのカタログは「最大仰角時」のものなので、 零距離だと砲身上げ下げの時間が不要な分早い。 零距離だと大和でさえ30秒をきる。
ワシントンが数分間とはいえカタログ値に近い速度でどんどん撃ってるってことは ほとんど修正することなく照準は正確にあってたんだよね。
>>320 >カタログデータだけで語っても、現実からかけ離れた机上の計算にしかならんよ。
だから現実に霧島は、たったの117発しか撃てなかったんでしょ? 計算上はもっと沢山撃てるはずでも。
それにダコダとワシントンを見失った時点で霧島は主砲を撃つ必要は無いし、ワシントンの砲弾で大破してるから
その後は、そもそも撃てる状態じゃ無いし
>>324 上に零距離射撃だって。まあ高速で相対位置が変化しているが。
16in砲は不発弾が多かったらしいが、それでも上構は反対舷までランチが通れる
穴が空いたと。
不発弾多かったのか
距離が近すぎると炸裂する前に抜けちゃったりする頻度が上がるのかな?
>>325 >ワシントンの砲弾で大破してるから
>その後は、そもそも撃てる状態じゃ無いし
まともに命中を狙える状態かはともかく、そのワシントンの砲弾で大破してからも撃ってるんだが。
いい加減、思い込みで書き込むの止めてくれる?
>>327-328 一応、3次ソロモン関連の公式な記録では霧島に命中した16inに関して不発弾の有無は確認できないけどな。
愛宕に命中した5inが不発だったり、ダコタに命中した日本軍の砲弾は不発が多かった、という記録はあるけど。
> まともに命中を狙える状態かはともかく、そのワシントンの砲弾で大破してからも撃ってるんだが。 ワシントンの戦闘報告だと、砲撃を受けた霧島の主砲は徐々に沈黙し最後に発砲停止してるんだが。
射撃時間からみても霧島の発砲数の多さと命中率の低さは疑問ありまくり。 前日の第一夜戦では的にされた比叡の後ろから主砲57発、副砲313発撃って結構中てているようだが。
命中した砲弾の種類を判定間違うことは有り得る。駆逐艦と巡洋艦クラスの砲だと実例もあるし。 ただ戦艦クラスと巡洋艦クラスを間違うかどうかとなると可能性は低いから霧島は早期に有効な戦闘能力を喪失したと考えられる。 ワシントンが霧島沈黙と判断した後、それも恐らく米側が霧島を見失った後で効果の無い砲撃を再開したのではないか?
スペックでは30秒に1発だっけ 至近距離だと1分につき3発撃てるとして 1分に24発で3分で72発 それから砲数が半減した状態でワシントンに撃ち返してる (このスレではダコタに対して) から、沈黙までに90発は撃てるかな 実際は1分に3発は困難みたいだが
>>330 >ワシントンの戦闘報告だと、砲撃を受けた霧島の主砲は徐々に沈黙し最後に発砲停止してるんだが。
あくまでワシントンがそういう風に「観測」しただけ。
日本側の観測に従うなら、霧島の砲撃目標となった敵戦艦は、主砲弾を10発以上喰らって艦橋を吹き飛ばされてるよ。
それこそ、日米の戦闘報告の観測・戦果確認のあやふやさは、このスレで散々指摘済みなんだがな。
だから双方の複数の記録をつき合わせて検証してるわけで。
335 :
333 :2007/06/13(水) 00:23:40 ID:???
うは、ということは砲撃で霧島は後部主砲が使えなくなった というのもワシントンにはそう見えただけか
>>335 いや、だってワシントンの観測だと真っ先に使用不能になってたのって「前部」の主砲で、最後まで撃ち続けていたのは「後部」の主砲になってるでしょ?
対して霧島の戦闘概報だとまず使用不能になってるのは後部の三番、四番砲塔。
>>333 そういえば古い話題を蒸し返すようですがワシントンが撃たれたとした砲弾、サウスダコタへの流れ弾説の他に、もっと素直に第四戦隊かもしれませんね。
>>336 しかし、目標が540度回転してるとも言わなかったか?
相対的な前後部だったりして。
>>338 自分に近いほうを「前」、反対側を「後」と呼んでたとか?
霧島の乗員の証言でも米戦艦を見失った後は全然大砲撃ってないし。
>>340 「見失った」違いでしょう。流石に全くいい加減に撃ったわけも無いでしょうから。
実際にはもう有効な射撃管制能力を喪失していて、しかも舵が効かずに砲撃精度を維持できない状態だったわけですが、それでも距離の離れた敵艦が見えていて(誤認かどうかは別として)結果的に有効でない砲撃をしたのではないかと。
他氏も過去に書かれていましたが、実質的な戦艦同士の対決は6分程ですから、カタログ値で全砲門が撃てても117発は撃てない。
近距離戦闘ですからカタログ値よりも単純な装填速度は上げ得るのも事実ですが揚弾速度には限界があるので117発発射は困難ですし、間髪入れずに反撃したことがわかっているワシントンによって1〜2基の砲塔は使用不能になっているので尚更ではないかと。
見失ったのは既に霧島を沈黙させたと(誤認)考えた米艦隊側に当てはまるように思われます。
これも本当に見失ったというより脅威ではなくなったと認識し主たる興味を別に移したというべきかも知れませんが。
思いこみでレスするのも大概にしたら? 検証スレなんだから資料を持って語らないと
戦藻録など日本側の記録では霧島は最終的に魚雷艇の雷撃で沈んだ。
真面目な話をすると日本側の公的な資料からは霧島の最後の射撃時間はわからないのですよ。 ワシントンが霧島沈黙と観測した時点で使用不能が確認されるのは後部主砲塔。前部砲塔2基は使用可能であったと考えられます。 するとこの「沈黙」は米側の誤認で無かったとしても、霧島が機械的な意味で完全に射撃不能に陥ったということにはならないわけです。一時的に射撃不能の可能性は残りますが。 霧島は2206には既に大損害を受けていますが、前進部隊指揮官が霧島に避退を命じたのは2245になってから。 また霧島側の記録だと敵と離隔したのは2249頃であるとしています。この時点で火災も一時下火になっています。 霧島の状況はその後再び悪化し、前部火薬庫に注水したのはこの後になります。 当日の視界は20qだったそうですが、合戦図によると霧島の最終位置から2245頃の米戦艦の位置を見るとワシントンはまだ辛うじて視界内に存在します。 避退したサウスダコタは不明瞭ですが、少なくとも2215頃はまだこの距離内に位置しています。 霧島が本当に2206以降も撃ったのか、撃ったとして何を撃ったのか(誤認した可能性も含めて)は可能性の問題です。 しかし消耗弾数から2206までの消費が難しいこと、前部主砲が使用可能であったこと、2206以降も暫くの間敵艦が射程内に存在したことは事実です。 ある時点まで何れかの目標に散発的な砲撃を行った可能性は無視し得ないと考えるのです。 まあ言い出したの私ではないので偉そうに書いてしまって少々恥ずかしいのですが。
>>344 おまとめご苦労さん。
一点だけ指摘すると、日本側の記録(愛宕と五月雨の戦闘詳報)だと射撃隊の砲戦開始時の視界は10キロ。
その直前までは各艦が12〜20キロ程度で敵艦や友隊を確認しているけど、視界が悪くなりつつあったみたい。
ちなみに20キロというのは、米側の記録(ワシントン)だけど、これが砲戦中のものかどうかは不明。
同じ夜の同じ戦いでも視界が常に同じ訳も無いですね。 一例として2220第四戦隊は目測距離15qでワシントンを短時間射撃していますが、最初の米戦艦と射撃隊の接触時には多分もっと近かった。(2201射撃開始時6q、その2分前に確認)
そういうことだね。 叢書にも「当時の天候は、夜に入って暫時雲量を増し、時々スコールがあり視界が一定せず〜」とあるし。 一応各艦の記録を見る限り、砲戦中は概ね10キロ程度の視界はあったのかな、とも思うけど。
霧島の場合、舵を壊されて早い段階で主砲が撃てなくなっているから 相当の高発射速度で撃ったはずだけど20秒〜30秒位か?
確かに舵が使用不能になると有効な砲戦は望めませんね。 しかし撃てなくなるわけでもないので、舵故障後の比叡も効果は無かったにしろ米巡を撃っています。
それで米戦艦は撃たれているのかどうかが問題なんだが、まあ、夜戦では可能な限り速い発射速度で 撃つのが基本。だが撃てない場合は撃てないし、撃てるときは撃てる。 霧島も射撃可能な状況では、目一杯速い速度で大砲を撃ったんだろう。
351 :
名無し三等兵 :2007/06/18(月) 23:44:08 ID:qDE/TxcG
金剛級乗員の話は残ってないのか 主砲の装填に関して
>>351 金剛型に限った話ではないのですがS14年の演習では
斉発間隔は揚弾速度の関係から30秒前後が精一杯であること。
30秒間隔で発砲を続ける為には平均して5〜6秒、最大で17〜18秒装填速度を縮める必要があること。
実際には最初の10発でさえ平均50秒近くを要する艦があること。
長門の第三砲塔のように41発目以降100秒を超える艦があること。
が、挙げられています。
近距離だと装填だけなら早くできるので砲塔内にある即用弾は速いペースで撃てますが、後は揚弾速度に縛られるので思うように早く出来ないことがわかります。
保守
hosyu
戦艦大和の小説、新刊発見!7月5日発売で 『群光〜父と子の戦艦大和〜』(新風舎文庫) 大和特攻を指揮した第二艦隊司令長官 伊藤整一中将と、息子の叡中尉を扱った作品らしい。 詳細入り次第また載せます。
どうも、wikiの「リシュリュー級戦艦」の項目を根拠として、『未完成状態のジャン・バールがマサチューセッツに4発の命中弾を与えて中破させた』とする説を最近見かける。
一々反論するのも面倒なので、ここにその反証を上げておく。
ttp://www.uploda.org/uporg881500.pdf.html ものは、8Dec41-Dec42の期間中の米海軍のDamageReportの概報一覧。
損傷艦のマサチューセッツの欄(P25)を参照。
マサチューセッツへの命中弾は3発で、それもジャン・バールのものではなく一緒に砲撃していた沿岸砲台のものであり、損害判定も小破。
>>356 ファイルがないのは米国厨房の虚言かね?
359 :
名無し三等兵 :2007/07/01(日) 01:24:39 ID:pYRGt0zN
>>359 それ単品は、630KBのPDF。
大本のページ自体はググれば一番上に出てくるけど、キャッシュは見れても普通に繋ごうとすれば弾かれるはず。
俺も自宅PCからでは繋がらないもん。
だから、わざわざ弾かれる人向けに別の場所から落としてきてローダーに上げたわけ。
403 TOPからお入りください 見れんぞーw
そこまで面倒見切れるかい。 アドレスで、ローダが苺であること、ファイル名がxs3054であることまでわかるのにたどり着けないなら、見る資格なし。 半年ROMれ。
普通に見れたぞ
>>米厨 >半年ROMれ。 やなこった。
>>358 おいおいダコタは中央部に集中して喰らっているなw
よく副砲弾薬庫に被弾してアボーンしなかったもんだw
>>366 あれは副砲弾庫であって火薬庫は防御甲板下にあるようですね。
弾庫は火薬庫よりは安全とはいえ大胆な配置です。
ところで思うのですが、SD級の両用砲弾薬は1門あたり450発。
SDで16門、他の姉妹艦で20門ですから7,200発〜9,000発もの砲弾をあのスペースに収められるとは考え難い。
手元図面で見ることの出来ない位置にも副砲弾庫があるのではないかと疑われますね。
>>356 計227mmの水平防御を撃ち抜いて炸裂する16インチHSH萌え♥
保守
戦艦関係スレッド多すぎw
保守
保守
「旧式戦艦 扶桑山城伊勢日向 ポンコツ2斉射目」スレにおいて光学兵器に
ついての面白い話題が出たのですが、手元資料から幾つか興味深い事実が
出てきたので訂正と補足を含めてこちらに纏めます。
この検証スレは議論スレではありませんので、情報の1つとしてお読みいただければ幸いです。
まずきっかけを作ってくれたあちらのスレ252氏の発言を感謝しつつ転載。
252 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2007/07/21(土) 12:42:56 ID:???
>>244 本スレは扶桑(およびライバル戦艦)を語るスレだけど。大和とかワシントンとかならともかく
扶桑のライバルのアリゾナなどは合致式だったはずだけど?
もっとも測距儀の大きさだけでなく質も相当格差が有る。戦前アメリカから輸入した測距儀は
レンズがぼやけてて実際に使用した人の話だが酷い性能だったらしい。
日本の高品質でクリアな測距儀を使うと比較にならないほど。(「艦砲射撃の歴史」の記事)
以上転載終了。
内容には大変興味深い論点が幾つも挙げられています。このレスに対して私が
あちらに書いた内容にも若干の勘違いと説明不足がありました。項目別に触れていきます。
1,米旧式戦艦の測距儀は合致式か? 旧式戦艦も既にステレオ式を主としています。 戦前に大改装の機会を得られなった(小規模な改装はしている)ビッグ5でさえ、 1939〜40年頃方位盤用の主測距儀は4.57mのステレオ式。砲塔用には約10mの 合致式装備です。 それ以前の戦艦は戦前に大改装され、例えば二ューメキシコ級はMk31射撃 指揮装置に換装されています。改装艦は測距儀を大型に換装しているそうですが (6m級とも)正確な基線長は勉強不足でわかりません。写真で見る限り副砲用 射撃指揮装置の4.57mより大型になっています。 ステレオ式が測距精度面で合致式より理論上2倍、実用上1.6倍精度が高いこと は日本海軍も認識していました。また遠距離で目標の一部しか捉えられない場合 や、近距離で高機動する目標に対してもステレオ式が有利です。合致式も天候と 視界の条件によっては有利な面があるそうですが一般にステレオ式の優位は認められています。 それでも合致式10mの日本戦艦は大改装が遅れていたステレオ式4.57mの ビッグ5より測距精度だけならやや有利でしょう。より大型恐らく6m級のステレオ式 をトップに搭載したニューメキシコ以前の大改装艦との優劣はなんとも言えません。 余談ですが方位盤のスタビライズ機構であるStable VerticalはMk31以前の 射撃指揮装置にも装備されています。戦術運動中の砲戦に資する部分は無視出来ないかと思われます。
2,「戦前アメリカから輸入した測距儀はレンズがぼやけてて実際に使用した人の話だが酷い性能だったらしい」について これは大正6年から輸入された6mの波式測距儀で砲塔に装備されたもの。 確かに戦前には違いありませんが開戦24年も前でWWUを計るには些か苦しい 時期です。 また日本では日本光学の成立後は同社が事実上一手(小型測距儀は東京光学 や横須賀工廠も作っている)に海軍用測距儀を生産しましたが、米国ではかなら ずしもボシュロム社のみがメーカーではなかったようです。 この波式6m測距儀は「艦砲射撃の歴史」によると視野が暗く2万mでは濛気が無 くても薄ぼんやりしていたといわれています。事実大したものでは無かったと言って良いでしょう。 ただ比較対象がトップに装備された七年式10m測距儀であり、当時としては遠 距離であった2万mの測的で基線長と装備位置の両面で明らかに有利です。 例えば濛気が無くても装備位置の低い測距儀で遠距離目標を見れば海面上の 僅かな水蒸気や飛沫の影響を受けやすくなるのは常識です。また基線長が大きい 場合、恐らくレンズ口径も大きいと考えられますから同じ工作精度でも明るく見えるはずです。 どちらの工作精度が優れているかは後に回しますが、ここでわかるのは大正 6年時点での米国製品のボシュロム製は大したことは無いということだけです。
次に時期の問題に触れます。波式を輸入開始した大正6年といえば日本光学が ようやく成立した年。まだ生産技術が伴わず測距儀の生産に苦労していた時期です。 四年式1.5m、五年式4.5m、2.5mを受注したものの不良品の山を築いたことは 社史により明らかです。 これらをようやく各1本納入できたのが大正9年12月。七年式10m測距儀に至って は大正10年4月なのです。日本がまともに国産出来なかった時期にボシュロムは 既に輸出していた事実を認めないわけにもいかないと思います。 少なくとも大正6年以前から実用生産できていた波式と大正10年に入ってやっと 最初の生産品が出来上がった七年式を同列に比較するのはどうかと感じます。 波式輸入時点で日本光学の製品はまともに形にさえなっていなかったのです。 しかも七年式測距儀について「艦砲射撃の歴史」以外の資料を見ていくと興味深い事実が明らかになってきますが後述します。 尚、WWT前の光学レンズの最大手はドイツのショット社でした。詳細は不明ですが米国も苦労したことでしよう。
3,「日本の高品質でクリアな測距儀を使うと比較にならないほど」だったか。 「艦砲射撃の歴史」を見れば、波式6m測距儀と七年式10m測距儀の比較につ いて「比ぶべくもない」としていますが、高品質でクリアなどという表現はありま せん。波式より優れているとしているだけです。 この測距儀は日本には珍しく双眼合致式と言われるもので従来日本が採用して きた単眼合致式より優れた形式だったと考えられます。しかし残念ながら日本海軍 で同型式は直ぐに廃れ単眼合致式に戻ってしまいます。 さてこの七年式10m測距儀のレンズですが、本当に高品質だったのでしょうか。他ならぬ黛氏がこう述べています。 「10m測距儀は和製にしては明るいレンズだったが、第1次大戦中ドイツの ガラスが輸入されなくなってラムネ・ビンのガラスのようなレンズを使った 海軍造兵廠製の大型観測鏡は色収差が強かった。」 で、大型観測鏡のせいで結局同氏は乱視になってしまったそうです。(海軍砲術史) まず測距儀の方のレンズですが、和製にしては明るいとしていますので日本 製品としては優れていると言う印象を受けたのでしょう。しかし他国製品と比較して 高品質でクリアという話ではありません。ボシュロムの6mよりは良かった可能性は大きいでしょうが。 しかも大型観測鏡の方はラムネビン状態でお世辞にも優れているとはいえません。何故なのでしょう。
4,七年式10m測距儀のレンズは本当に国産品だったのか? 「海軍砲術史」の方で黛氏は同測距儀のレンズを和製=国産としています。 確かに同測距儀は間違いなく国産品です。しかしレンズは輸入品だったのです。 WWTによりドイツからの光学ガラスやイギリスからの測距儀の輸入が途絶えた 為米仏英などから手当たり次第に購入すると共に国産化が望まれ日本光学で研究が始まりました。 「当社は大正7年に光学ガラスの研究を始めたが、技術的な困難を克服できず一時中止し、ドイツのショット社製を使用していた。(中略)10年9月頃から再開を企図し(後略)」(社史) この時期国産できずにいる内、大戦が終了し輸入が再開されたわけです。つまり 和製にしては明るいと評された大正10年4月装備の日本光学製七年式10m測距 儀のレンズはドイツ製品だったことになります。 それ以前にも藤井ガラスや東京計器で小型の測距儀などを受注していますが レンズはドイツ製だったようで、戦争中の不足から市販の大型望遠鏡を買い集め るなど苦労を重ねた上、大正6年頃両社は日本光学に合併されます。 日本光学はその後もドイツからの技術者招聘により技術を向上させ、大正12年 6月には光学ガラスの初窯出し、昭和2年には外国製に劣らない光学ガラスの 製造が可能になりました。昭和5年米国からの電気炉導入により良質な製品の 量産体制も整い、昭和8年には自社需要の8割を自給できるようになります。 その後、支那事変などによる増産により光学ガラス生産は不足気味になります が、戦後にショット社製のレンズ在庫があったといいますからドイツからの輸入も 継続していた可能性は大きいようです。 ではラムネビン状態の海軍造兵廠製大型観測鏡は? 「一方海軍でも大正4年以来光学ガラスの製造研究を続けていたが、12年4月 に東京造兵廠が海軍技術研究所に改組されて6月には築地の工場も閉鎖された 為、当社が海軍技術研究所の光学ガラス研究部門をそっくり引き継ぐこととなり(後略)」 大正12年4月までは海軍造兵廠で国産レンズを製造していたことがわかります。 残念ながら同時期の日本光学同様、まだ技術が伴わず品質がアレだったということになります。
手元の資料からわかった範囲は以上です。 米戦艦の使用していたステレオ式の精度が如何ほどであったのかは資料が少なく判断を保留中。 一応1つだけデータらしき物は入手しているのですが、まだチェックが出来ていないので半信半疑といったところです。 ステレオ式は同程度の合致式に対し1.6倍乃至2倍の精度とはいいますが、転載元の扶桑スレ252氏の言われるようにレンズの品質も関係します。 またレンズの倍率や動揺に対する補正も関係してきます。 このレンズ倍率については難しいようで、計算上は高倍率ほど精度が高くなる反面、視野が狭くなり実用的には使いにくくなります。 スレの保守がてらの長文失礼しました。
乙乙
314 名前:名無し三等兵 投稿日:2007/07/24(火) 23:07:38 ID:??? なんでアッチこっちのスレに話を飛ばすんだろうね。分かりにくい。 一応、判明したのは”ラムネのビン”は測距儀の事ではなく別の急造大型眼鏡と分かったのと、”レンズに気泡”は捏造だったこと。
>ラムネのビン”は測距儀の事ではなく別の急造大型眼鏡と分かったのと もっと酷いです。大型観測鏡は駄目なりにレンズを作りましたが、測距儀のレンズは作ることさえ出来なかったということですから。 それに急造なんかじゃないですよ。歴とした制式兵器です。これで的針などの測的や弾着の観測も行うわけです。 砲戦は測距儀だけで行うものではないのです。 あわてて国産化しようとしたという意味では急造ですけど。 >”レンズに気泡”は捏造だったこと。 測距儀のほうではなかったという点において私にも若干勘違いがあったことは認めます。しかし捏造ではないですね。 光学ガラスと一般ガラスの違いとして泡、歪み、異物、脈理がなく均一であることが挙げられますが、日本光学は当時これを作ることが出来ませんでした。 そして海軍造兵廠の方もラムネビン状態=これらの条件を満たせなかったということです。 結果、黛氏は乱視に。
318 名前:名無し三等兵 投稿日:2007/07/24(火) 23:28:10 ID:??? >社史 ”日本光学工業” によると、独逸から技術者呼んで来て指導を受け、大正七年頃には 独逸製のレンズに匹敵すると言う試験結果が得られている。 こうしたレンズが優秀な日本戦艦に搭載された測距儀に使われていた。 320 名前:名無し三等兵 投稿日:2007/07/24(火) 23:30:20 ID:??? ドイツ人技師を大勢雇えたのは、敗戦で高度な技術を持つドイツ人技師が 大勢失業してたから格安で日本に呼べた。
>>378 >>383 社史って、40年史やニコンになってからの社史もあるけど、「日本光学工業五十年史」だよね?
>>383 それ情報が古いのではないでしょうか。
こちらの社史は現在の所最新版の平成5年刊行のものです。
繰り返しになりますが大正7年にはまだ光学ガラスの研究を始めたばかりで直ぐに一時断念し輸入に戻ります。
それにドイツからの技術者招聘は大正8年から準備をはじめ、実際に技術者が来日したのは大正10年1月から6月です。
大体大正7年はWWTの最終年であって、ドイツ人技術者の招聘なんか出来ないと気付くと思うのですが。
大正7年にはドイツに匹敵するどころか技術者の招聘も光学ガラスの自社生産も出来ていません。
光学ガラスの実地研究用の設備が大井第二工場内に出来たのが大正12年3月。
溶解試験開始が同年5月で、初窯出しが6月となっています。
当然大正7年にはこの設備もありませんでした。
しかも大正12年9月には大震災で工場に被害が出て研究中断。
再開は大正13年2月で、品質的に外国製品に劣らないとされたのが昭和2年で、それを機会として7月に陸海軍政府関係者や大学の専門家を招待しています。
>>384 75年史です。これ当時関係者の間で噂になり期待を集めていたといいますね。
以前の資料の中には大和の15.5m測距儀を日本光学の独自設計であるかのように書いてしまったものもあると聞きますが、75年史ではきちんと海軍の設計で製作は日本光学と正しく書いています。
ドイツ人技術者の招聘時期や工場整備の建設時期からみて、75年史の記述の方が整合性があります。
でも古い記述も面白いので興味がありますね。
スレ違いになりかねないので触れるだけに止めますが、潜望鏡の開発経緯も興味深いものです。 或は潜水艦関係のスレでどなたか詳しい方がやられているかも知れませんね。
>>386 ありがとう。
会社の図書館にあると楽なんだけど、都立図書館にあるのは確認したので暇を見つけて読んでくるよ。
ちなみに、戦前の国産光学ガラスの性能をどうやって検査して、国外産光学ガラスと比較したかってなことは社史には書かれてないよね?
仕事柄、H社の非球面レンズを弄ってるんだけど、当時の技術でどれだけ厳密に性能を調べられたのか、個人的に興味がでてきた。
いま気付いたのですが、
>>383 氏が提供してくれた情報がもし古い社史の記述そのものだとしたら間違いなら間違いなりの理由がある筈ですね。
大正7年に海軍造兵廠の方で最初の試験用クラウンガラスを製造したのが2月です。
これと、大正10年以降の技術者招聘の話が古い社史でごっちゃにされている可能性があるということでしょうか。
或は75年史資料集の光学ガラスの年表では技術確立は昭和7年とされています。大正7年と昭和7年の誤植かも知れませんね。
潜望鏡の方だとドイツ製を凌ぐとされたのが昭和13年。比較対象のドイツ製品は大正10年に海軍が入手したツァイス社製品らしい節がありますが。
ではまた違う話題のときにでも。
>>388 いえいえ。この世界はお互い様ですから。
詳しい検査方法については書いてありません。面白い情報がわかったら教えてください。
ただ比較対象は上に書いたように潜望鏡に関してはWWTのツァイス社製品のようで、日本がドイツ並になったというのはWWTのドイツ製品並ということかもしれません。
測距儀については特に書いていないようです。
もっともレンズ自体の基礎技術はそう違うわけでもないのでしょうが。
>>390 どうも。
ついでにお尋ねしますが、測距儀に用いられた日本光学/ショットの光学ガラスの硝種名やアッベ数は社史に載っていますか?
それが分かると、その光学ガラスの性能がある程度推測できるんですが。
測距儀に何を使ったかは書いていないですね。 ただ参考になりそうなのは 大正12年8月までに試験溶解したものとして4硝種 BK7 硼珪酸クラウン F2 F3 フリント BaLK3 軽バリウムクラウン その他11硝種。(記載なし) 昭和10年までに溶解したのは BK1 BK7 硼珪酸クラウン BaLK3 軽バリウムクラウン K3 クラウン BaK4 バリウムクラウン SK3 SK4 SK5 重バリウムクラウン BaLF4 軽バリウムクラウン LLF2 特軽フリント F1 F2 F3 F5 フリント SF2 重フリント 記号はショット記号 あまりお力にはなれないようで済みません。 ではおやすみなさい。
>>374 > 旧式戦艦も既にステレオ式を主としています。
こっちの方のソースは? 書籍ならタイトルだけで良いんだけれど
>393 アマゾネス愚連隊
>日本の高品質でクリアな測距儀を使うと比較にならないほど。(「艦砲射撃の歴史」の記事)
>>377 >「艦砲射撃の歴史」を見れば、波式6m測距儀と七年式10m測距儀の比較につ
>いて「比ぶべくもない」としていますが、高品質でクリアなどという表現はありま
>せん。波式より優れているとしているだけです。
なんかさ、上の奴は捏造発言ばかりしてるように見えるんだけど
同様に戦後の関係者発言の大半も怪しいものが多いっと見ていいのかもな
うろ覚えによるいい加減な記述とか捏造発言は双方とも有るな。
>>383 > 独逸から技術者呼んで来て指導を受け、大正七年頃には
これは間違い。大正七年頃のは日本人のみで作った純国産品。
日本工学工業社の創立以前から研究を進めていた築地の造兵廠におけるレンズ製造試験所で
製作されたレンズ。
艦製本部の安東中佐指揮による研究の結果、優良なレンズが製作され、その性能も
長岡半太郎博士等が光学試験を行った結果、独逸製レンズに匹敵する性能が証明された。
> ラムネ 大正3年、第一次世界大戦勃発により戦艦に装備すべき測距儀や眼鏡の輸入が途絶し 急遽代用の眼鏡を、同年、藤井レンズ製作所で作成して搭載したものだが成績は不良だった。 恐らくコレだろう。独逸製に匹敵する海軍造兵廠の高性能レンズは、ずっと後の大正7年。
日本光学工業社の生産実績だが、当初は輸入ガラスを使って各種光学機器の製造を行っていった。 大正10年〜11年頃は、海軍から測距儀や潜望鏡の受注が累積し、技術も暫時向上して行き、納品成績も すこぶる良好な状態で順調だった。 レンズの研磨作業などは多忙を極めたが技術は向上し、むしろ金属部の作業の方が伴わず製品の組立調整に遅延が見られた。 (測距儀の受注一時停止) ところが大正12年になると、測距儀に対する海軍の要求水準が上がり、当社(日本光学工業社)の技術水準では 要求に応えることが出来なくなった。 その為、検査合格率が低くなり、生産途中の製品の停滞が夥しく、新規注文をストップする事態へと進む。潜望鏡他は順調。 しかし、軍縮により海軍の注文は激減し、操業は次第に困難となっていった。陸軍製品なども生産したが軍縮の影響は免れず。 そのうえ関東大震災に遭遇し工場は大損害を蒙り、会社は未曾有の不成績に陥った。 (技術の向上により受注再開) 大正12年11月〜13年4月頃になると測距儀は同社技術の進歩向上により海軍への納品の数も、ようやく増加していった。 「日本光学工業史」
>>399 「日本光学工業史」 という本は存在しないと思うのだけれど。
ニコン/日本光学工業の社史なら年度別のが複数存在するので、いつの年度の社史か示してほしいな。
それともニコンではなく光学工業史編集会の「兵器を中心とした日本の光学工業史」 ?
> 50年史
>>376 > 四年式1.5m、五年式4.5m、2.5mを受注したものの不良品
細かいことだが、それは日本光学工業社ではなく、藤井レンズ製作所で急遽製造したやつ。
>>378 > 確かに同測距儀は間違いなく国産品です。しかしレンズは輸入品だったのです。
正しくはレンズの原料の硝子は輸入して仕入れた物だった。レンズは国産品
全体に原料である硝子とレンズ作りを混同してる。
>>375 >ビッグ5でさえ、 1939〜40年頃方位盤用の主測距儀は4.57mのステレオ式。
日本海軍では九四式・九八式4.5mステレオ測距儀を主として高角砲用として使っていたのだが
米海軍では戦艦主砲用の測距儀として使っていたのか。
これも米戦艦が遠距離射撃を重視していなかったことの傍証になる。中近距離砲戦指向なのだろう。
>>393 Norman Friedman 「US BATTLESHIPS」です。
少し訂正があります。同書を読み直してみたら1940年頃、Wヴァージニア等に20フィート約6.1mステレオ式測距儀が装備されていました。
この時点で15フィート約4.57mステレオ式は副砲用となっています。
どうも旧式戦艦は皆、開戦前に6.1mステレオ式を主測距儀に改めていたようですね。
他にもネット上などでちらほらソースがあると思います。(以前落としたページにも記載あり。そちらは39〜40年頃4.57mステレオ式)
>>391 少し気付いた本を捲ってみたら良さそうな物が。
「レンズの設計と測定」蘆田静馬 河出書房
茶色い表紙の数式中心の本ですが、著者は日本光学の方です。
直接測距儀の検査についての本ではありませんが、取り寄せ可能なら参考になるかと。
>>397 横レスですが、東京造兵廠での光学ガラス研究は大正4年からですが、るつぼ
が溶け出すなどの失敗が続き、初めてクラウンガラスの製造に成功したのが
大正7年2月です。
この大正7年時点でドイツ製品に匹敵したとは考え難いのでは無いでしょうか。
もちろんお手元の社史(50年史ですか?)にそう書いてあるの
かもしれませんが、その後になって造兵廠で生産された大型観測鏡の
出来具合を考えるとちょっと整合しないのではないかと。
ただ「レンズの設計と測定」を読んでみると光学検査なるものも多くの検査が
ありますから、特定のある検査においてはドイツ製品に匹敵した可能性もあるかもしれませんね。
七年式10mについては、同時期の各種海軍大型測距儀が日本光学の製造
(設計は海軍)であること、同じ双眼合致式を製造していることの2点から私は
日本光学製と判断しましたが、手元の75年史に七年式についての明記はあり
ませんから造兵廠が作っていた可能性も完全には否定しません。
75年史と海軍砲術史などを読み合わせると、当時測距儀の設計は海軍で
行い、生産を日本光学に委ねています。
造兵廠で試作測距儀を作った場合、生産に先立って試験的に搭載する可能性もありますよね。
>>398 黛氏は同大型観測鏡を「海軍造兵廠」製であると明言しています。
ただ藤井ガラスでもZ型照準望遠鏡というものを作っていますから黛氏の記憶違いであった可能性もゼロでは無いかもしれませんね。
他に東京計器でも照準望遠鏡を作った記録があります。
>>398 追加です。黛氏の配属を考えればわかりますよ。
黛氏が長門で大型観測鏡を扱ったのは大正9年8月からの約1年間です。
大正7年はそれより前になります。
>>400 >>399 氏ではありませんが、「日本の光学工業史」という題名なら昭和30年頃出版されている筈です。
私は未見ですが黛氏が著作の中で言及していますから存在していることは確かでしょう。
>>402 細かいことですが測距儀は東京計器の方です。藤井レンズはZ型照準望遠鏡です。わかりやすく日本光学製と書かせていたたきましたが、それには以下の理由があります。
東京計器が不具合に苦しみながら改良を重ね1.5m測距儀を完成させたのが大正5年6月。
しかし直ぐに大正6年、日本光学に合併され工場施設ごと1.5m、2.5mの製造は引き継がれます。
そして日本光学から2.5mと4.5mが海軍に納入されたのが大正9年12月です。
1.5mの納入時期は明記されていませんが、2.5mは製造開始から納入まで3年かかっています。
75年史に不良品と半製品の山を築き経営を圧迫したと書かれていますので、製造設備ごと引き継いだものの、まだ克服しなければならない問題が多かったと言うことでしょう。
この時期、75年史によればせショット社のレンズを使用していることになります。
>>402 >正しくはレンズの原料の硝子は輸入して仕入れた物だった。レンズは国産品
全体に原料である硝子とレンズ作りを混同してる
混同していませんよ。
75年史の記述で光学ガラス製造研究の時期はわかっていますから。
原料も輸入していた物もあったでしょうが、苦労したのは光学ガラスの製造です。
ただそれ以前から輸入されたレンズをカットしたり研磨することはしていました。
藤井レンズが大型望遠鏡を買い集めた背景には、1からの製造は充分に出来なくても、適当なレンズがあれば加工する技術は身に付けていたということになるかと。
大体こんな感じですね。 WWT開戦後 藤井レンズは東京電気にフリントガラス試験製作依頼 大正3年 岩城硝子光学ガラス製造研究開始 大正4年 岩城硝子反射鏡試作成功 東京造兵廠研究開始 大正6年 東京造兵廠溶解試験開始 日本光学創立(藤井レンズ、岩城硝子反射鏡部門、東京計器光学部門買収) 大正7年 東京造兵廠クラウンガラス製造成功 日本光学研究開始 その後中断し輸入に 大正10年 日本光学研究再開 大正12年 日本光学初窯出し 海軍造兵廠光学部門日本光学へ合流 日本光学は正に官民の光学ガラス技術を結集して出来た会社です。
>>407 >>400 で上げた光学工業史編集会の「兵器を中心とした日本の光学工業史」なら1955年に出てますが、
「日本の光学工業史」というタイトルの本は少なくとも国会図書館には収蔵されておりません。
また、
>>392 で上げられてるショット記号というのは、ご存知かもしれませんがショット社の光学ガラスの硝種名です。
溶解試験をしているところを見る限り、大正12年の段階では名前の上げられている硝種名と同グレードの光学ガラスの作成には苦労してたんでしょう。
そして、BK7やF2の溶解試験までやっているあたり、より屈折率の高いレンズの作成には梃子摺ってるように見受けられます。
>>409 ちなみに、造兵廠でも日本光学工業でもいいのですが、フリントガラスの制作に成功したのがいつか分かりますか?
大正7年に東京造兵廠が製造に成功したのがクラウンガラスということは、その時点ではまだ充分な精度の国産レンズを使用した測距儀が出来ていたとは思えんのですが。
>溶出試験 専門家でいらっしゃるので私も用語を整えます。 大正12年8月に名前が挙がっている4硝種は350sるつぼで大溶解8回。 名前が挙がっていない11硝種は7〜20sのるつぼで溶出試験22回。 初めての窯だしは同年6月ですからいずれも試験の域を出ていなかったのでしょうね。 9月に大震災があり、再建された13年2月以降、昭和2年までに大溶解約70回、試験溶解220回。 いずれも品質向上と量産技術確立の研究であったとされます。 年表の方では昭和7年に光学ガラス製造技術確立(各種のクラウン、フリント)という記載あり。 試験的な成功時期は書いていないようです。確立したのが昭和7年というだけで。 尚、BaF10 バリウムフリント溶解は昭和23年 LaF ランタンフリト溶解は昭和30年 特重フリント製造、LaSF重ランタンフリント溶解は昭和35年 重バリウムクラウン 昭和36年 だそうです。ショット記号は昭和44年まで使っていたとか。
>>411 専門家などと言うのもおこがましい、単なる門前の小僧でございます。
で、硝種名からして戦後に溶解してるのは、新種ガラスですな。
ランタン系はWWUの開戦直前(39年)にアメリカで開発された高屈折な光学ガラスですが、
そのアメリカですら実質的な生産開始は大戦後半になってからなので、
日本で終戦後に溶解しているのは、ある意味当然だったりしますね。
ちなみに、ランタン系はともかくトリウム系の光学ガラスの溶解試験をしてたりしますか?
日本でも作ってたとかいう話を聞いたことがあるのですが。
413 :
412 :2007/07/27(金) 00:55:41 ID:???
あと、レスを読み返していてちょいと気付きました。 >「10m測距儀は和製にしては明るいレンズだったが、第1次大戦中ドイツの > ガラスが輸入されなくなってラムネ・ビンのガラスのようなレンズを使った > 海軍造兵廠製の大型観測鏡は色収差が強かった。」 色収差を補正できてないということは、その時点で屈折率の高い光学ガラスを充分な量国産化できていなかった事を意味してますな。 測距儀の方は、東京造兵廠でクラウンガラスの試験生産は出来てるようですから、 国産のクラウンガラス+輸入品のフリントガラスを加工・研磨し組み合わせて作ったのかもしれません。 >艦製本部の安東中佐指揮による研究の結果、優良なレンズが製作され、その性能も >長岡半太郎博士等が光学試験を行った結果、独逸製レンズに匹敵する性能が証明された。 つまり、クラウンガラスを用いて作る屈折率の低いレンズに関してはドイツ製と同等の品質の物が作れてたということでしょう。
> 戦争で精良な光学ガラスの輸入が不可能となり,国産のラムネビンのような緑がかったガラスを用いた,色収差の強い双眼望遠鏡で 「艦砲射撃の歴史」 「緑がかった〜」とあるから、再生ガラスかな? 戦争で輸入の途絶した中では非常な苦労が有ったのだろう
創成期には大変な苦労は有ったが、その後の日本海軍の光学兵器が各国を 断然凌ぐ優秀なものと成ったのは昭和7年頃から。 ”光学工業史”
>その後の日本海軍の光学兵器が各国を >断然凌ぐ優秀なものと成ったのは昭和7年頃から。 どうやって他国の光学兵器と比べたのやら?
>>416 敗戦で日本は軍事関連の産業・技術は禁止され、光学機器は市販のカメラや双眼鏡などを製造販売していたが
それらが朝鮮戦争で使用されたところドイツ製の物より優秀と判明。
ライフ社でも、日本製のカメラとレンズを専門家に委嘱して徹底的に試験をし、結果、非常に優れていることが認められた。
『ニューヨーク・タイムズ』1950年12月10日号 の記事「日本のカメラ」
もちろん市販の小型カメラが優秀と言っても、巨費を投じて開発し戦艦大和などに搭載した超高性能レンズには遠く
及ばないだろうが、戦前の高度な技術の名残。
>>308 一応、検証
730 名前:名無し三等兵 投稿日:2007/06/12(火) 17:53:00 ID:???
砲術は「算術」と良く言われるけれど試しに計算してみよう。
全長220m幅30m喫水10m程度の中型戦艦と、撃沈された駆逐艦エドソール(全長95.8m幅9.4m喫水3m)を
比べてみると
上面積比 = (220m * 30m) / (95.8m * 9.4m) = 7.329 倍
加えて船体の深さの差も考慮すると、戦艦と駆逐艦の被弾率は10倍以上違ってくる。
更に細長い船を後方から撃つ場合、被弾率は大体半分以下に低下する。
遠距離射撃演習時に平均7%程の命中率を発揮していた戦艦の
駆逐艦に対する命中率はだいたい20分の1に低下する計算になる
命中率 = 7% / 20 = 0.35%
更に高速駆逐艦の回避能力は、鈍重な戦艦とは比較にならない。これも考慮すれば命中率は
単純に大きさのみを比べた、この計算値よりも一層低くなる。ろくに当たらなくて当然。
霧島って最も水上戦闘が多かった割に 戦績はいまいちなんだよね。他がいいってわけではないが。 それにしても当たらないのがわかってて 戦艦2隻も派遣ってのはえらい砲弾の浪費だ。
それは目標を巡洋艦と誤認していたため > 日本海軍随一の砲術の権威者、黛治夫氏に「なぜ〜一駆逐艦の攻撃のため、弾庫が空になるほど主砲弾を浴びせたのですか?」 > と質問したことがある。 > その答えは「この場合、目標艦が一隻で、比較する他の艦種がいなかったから、駆逐艦でなく巡洋艦と勘違いしていたのだ。 > しかし艦隊決戦の時は、大小さまざまの艦が混在しているから、大きさの違いが判断の目途となり、駆逐艦を巡洋艦と見間 > 違えることは、決してない」という意味のものであった。 > > 「巡洋艦戦隊」遠藤昭著 朝日ソノラマ 文庫 P254
随所で誤認しまくりだったような
そういえば日本戦艦が大戦中、敵艦に命中弾出したのって 第三次ソロモン海戦とサマール沖海戦以外に何かあったっけ?
駆逐艦をより大きい巡洋艦と誤認したからといって照準が正確に合わないものか?
>>413 仕事の関係で遅くなりました。
>国産のクラウンガラス+輸入品のフリントガラスを加工・研磨し組み合わせて作ったのかもしれません
もし国産品を使っていたとするならば間違いなく輸入品との組み合わせだと思います。
レンズと言うと全て同じに考える向きもありますが、種類によってかなりの違いがあるようですね。
>>413 氏は当然ご存知のようですが、測距儀のレンズと言っても多くの光学ガラスの組み合わせです。
光学ガラスとしては比較的初歩のクラウンガラスのみで作り上げることは困難でしょう。無理に作っても性能的には信頼できなさそうです。
しかも日本光学には大正12年になって海軍造兵廠の光学部門の人員と技術も合流しますが、その後も世界水準に追いつくのに時間がかかっています。
>>416 「光学工業史」読んでみたいですね。取り寄せを検討する価値はあるでしょうか?
ここ数日で「50年の歩み」も取り寄せました。「75年史」と比較すると光学兵器関連の内容が少なくスレ的には少し物足りないのですが、それでも色々と興味深いものですね。
さて
>>416 氏や
>>418 氏が言及する日本光学ガラス品質の優秀性ですが
昭和6年(1931年) テッサーと同等のアニターが完成。(75年史)
但しテッサーは1902年に登場したものなので、ようやく追いついてきたというレベルと言うのが本当のところでしょう。
昭和12年(1937年)に完成したニッコールのF2とF3.5は優秀で、ツァイス社のゾナーを使っていると噂されるほどでした。(明るい暗箱)
しかしゾナーも1929年登場のレンズです。
またBaF10やSK10等は戦前に作ることが出来ず輸入に頼っており(うろ覚えながら戦争末期に少し作ったと何かで読んだ記憶あり)、終戦後に生産したカメラ用レンズにもショット社製の輸入在庫を使用していました。
残念ながら他国を断然凌ぐとまではいきませんが、公平に言って戦前の日本光学の技術は部分的には1929年のドイツレベルに達しつつあったと言えるでしょう。
続き
>>418 氏の言われる戦後の高評価は事実です。
昭和25年ダンカン記者が来日の折、ニッコールレンズを気に入り愛用。
その後ニューヨークタイムス誌にニッコールレンズの優秀さが紹介されます。
同年ストックホルムで行われたライツ社、ツァイス社との比較(ゾナー)でも優秀であると評価されています。
この頃には戦前に作ることが出来なかったBaF10も昭和23年から製造可能となり、ショット社製の在庫が尽きていた日本のレンズ生産を支えています。
戦前の時点で一部の書物が言うような世界最優秀とまではいかなくとも、後に発達するだけの基礎は充分出来つつあったと言えそうです。
>>418 >>426-427 の捕捉になりますが、この時ライフ社で比較されたの日本光学工業が1950年に販売を始めた「NIKKOR-S・C 5cm F1.4」と
カール・ツァイスが1930年代以前に開発されていた「Sonnar f/1.5」ですから、20年近い年月をかけてようやくドイツの技術を追い越したわけです。
また、ライフで比較試験を行った写真研究室長が
「50mm f/1.4 は Sonnar f/1.5 より鮮明だ。過去の日本製カメラは、外観のみ美しく、内部を調べると粗末で性能が悪くて工作の劣る点が目についたが、Nikon は精密で仕上げも美しい」
と言っています。
つまり、高評価をえているのは日本光学工業が戦後に作れるようになったカメラ/レンズであって、
それ以前のものについては酷評に近い評価を得ているわけです。
これは戦前からの技術の積み重ねがあって、戦後にその成果が認められたことを意味してはいますが、
=世界水準を超えるような高度な技術が戦前からあったという結論に繋がるものではありませんね。
>>425 どうも。
戦前に国産化できていた光学ガラスの一覧と、測距儀に使われていた硝種が分かれば早いのですがね。
三次ソロモンの時と同様に直接的な資料がないせいで、外堀から埋めていくしかない状況ですが、
ニコンなどの資料を見る限り、世界水準に追いついたのは戦後になってからということなのでしょう。
>>428 技術移転は戦後になってからだから、戦前の世界トップクラスの光学技術と民生品は関係ないな。
>>431 当時自国の最新式の光学兵器を日本に輸出してる国ってあったの?
>>432 >>418 は戦後の話だから問題ないでしょ? 戦前は軍用光学機器を製造していたニコンが
戦後は民生用品を製造販売して、あの通り世界最高水準のレンズを製造できたと。
>>430 だから「戦前の世界トップクラスの光学技術」の根拠は?
戦前の日本光学工業が世界トップクラスの光学技術を持っていなかった根拠なら、ありますな。 @戦前の段階で100種類以上あった光学ガラスの硝種で、日本光学工業が生産出来ていたのは終戦直前でも約40種類のみ。 A大口径レンズを作るために必要な光学ガラスは、戦前には溶解試験さえ行われておらず、試験に成功する昭和23年夏までは輸入品頼み。 光学兵器の基礎の基礎となる光学ガラスですら、ものによっては国産化できず輸入品に頼っている国や企業の光学技術が、 「戦前の世界トップクラス」というのは、言いすぎでしょう。
>>436 実は大正9年頃、既に「(ニコンの)光学系はドイツ製に対し優るとの判定」が為されている。
日本光学工業 社史より
>>428 >戦後 >それ以前のもの
戦前のニコンの生産品は軍需がメインで、輸出品は皆無に近い状況で、
民間用機器を製造し海外に多く輸出するようになったのは戦後のこと。
>>437 >大口径レンズを作るために必要な光学ガラス
軍艦用の大型測距儀などにつかわれる大口径レンズやプリズムなどの生産にも力を入れて研究開発され優良で均質な硝子が製造されている。
(戦艦大和に使われた世界最大の15メートル測距儀のレンズなども)
日本光学工業 社史より
>>438 実際に光学技術全体が優れていたならば、翌大正10年にドイツから技術者を呼ぶ必要はないんですがね。
そもそも、日本光学工業で光学ガラスの溶解試験が始められたのが大正11年のことであり、
それに他の方が指摘されているように、75年史ではその時期のレンズ自体はドイツ製となっていますし、
昭和10年の時点で溶解試験に成功している硝種は10種程度で、必要とされるフリントガラスの多くは輸入品に頼っており、
戦後にニコンカメラを作る際もその在庫量のせいで設計変更を余儀なくされています。
実績を見る限り、光学系の設計とレンズの加工・研磨技術に関しては、
戦前の時点でもドイツに優るとも劣らぬ部分があったことは事実でしょう。
しかし、
>>426 でも指摘されているとおりに戦前のカメラレンズは、ツァイスのそれと10年近い技術の差があり、
戦後に評価されたレンズも比較対照は戦前に設計されていたレンズですから、
戦前の時点で明らかに劣っている部分も存在しているわけです。
そして何度も繰り返しますが、基礎中の基礎たる光学ガラスの生産(ついでに開発も)に関しては、
独はおろか米に対しても劣っています。
>>428 またまた間が空いてしまいました。業務多忙でして。
しかし1950年ストックホルムでの比較対象に関しては驚きました。相手は30年代の製品だったのですか。
>>430 少々違います。
日本光学自身が軍需を主にしていたのはお説の通りです。
しかし戦前からカメラ用レンズにドイツ人技術者を投入するなど努力しています。この結果が初期のニッコールレンズになるわけです。
技術移転といいますが、実は日本光学のレンズ自体は戦前から軍需も民生品もあまり関係無く力を注いでいるのです。
>>426 でも書きましたが、BaF10やSK10は戦前に作ることが出来ず輸入に頼っていました。
戦後に高評価を得たレンズも昭和23年=1948年になってやっと作れるようになったBaF10で作られたものです。
>>437 氏も書かれている大口径レンズに必要な光学ガラスとはこのBaF10なのです。同様に戦前に作れた光学ガラスの種類も比較的少ないものでした。
>>438 「50年の歩み」と「75年史」にはそんな記述は無く、むしろ苦労の連続だったことが明らかにされています。
>>440 氏ご指摘にもあるように、大正9年にはまだ日本光学は光学ガラスの溶解も行っていません。当時使用していたのはショット社製品であると社史にあります。
「75年史」「50年の歩み」双方から日本光学の光学ガラス製造開始時期ははっきりしていまして。
※ そう言えば海軍はwwT中にもフランス製の光学ガラスを買い付けています。
お話の「日本光学工業史」はもしや「日本の光学工業史」ではないでしょうか?これ社史ではありませんよ。
同書の編集会が纏めた昭和30年の業界紙に近い意味合いの資料です。黛氏の著作や、日本光学の「75年史」にも参考として使われています。
ただそれを参考資料として使用しながら、現在もっとも新しい社史「75年史」とその前の社史「50年の歩み」が光学ガラス製造の歴史について「日本の光学工業史」と異なる資料や証言を具体的に挙げていることに重きを置く必要があるのではないでしょうか。
とはいえ、同書はまだ未見なので是非読んでみたいと思っています。光学ガラス製造や品質が追いついた時期については誤りがあるとしても、光学兵器の歴史を纏めた稀有な資料としての価値は大きなものでしょうから。
>>433 氏の疑問にはもっともな部分がありますね。
私も他の方も言及しているように戦前の日本では作れない光学ガラスがまだ多数あり、重要な硝種でショット社からの輸入に頼っている物もありました。
しかし他の製品については良くわかりません。
「75年史」によれば、潜望鏡については大正8年に作ったT型は不出来で10本ほどで製造中止となりました。
大正10年には海軍が入手したwwTツァイス製品を実質コピーしようとしたU型を作りましたがこれも問題作。
大正11年に完成したV型は招聘したドイツ人技術者を投入しまずまず優秀な物で後の基本になりました。
昭和5年には三型=攻撃型と四型=夜間型を製作。
昭和13年になってドイツのものを凌駕する潜望鏡を完成したとされますが、具体的に何時入手した物かは明記されていません。wwT後に海軍が入手したツァイス社製との比較である可能性が高そうです。
レンズの明るさを増す増透処理(フッ化物蒸着)を施したタイプは昭和19年10月に試験成功。
一方米国は1936年(昭和11年)に成功させています。
日本でも酸処理法は昭和19年2月に成功していますが時期的にはあまり変らない感じですし潜傷の問題があったそうです。
他の製品比較についてもしご存知の方がおられればご教示ください。
訂正 フッ化物蒸着は日本でも研究されましたが成功しませんでした。 昭和19年10月に成功したのは氷晶石蒸着です。 追加 社史には記載がありませんが、「ガラスの技術史」によれば戦後ドイツショット社の技術資料PBレポートが公開され各社が専心学び、その後の発展の基礎としたといいます。 BaF10などが戦後になって成功したことに影響があるかもしれませんね。 そう言えばこの「ガラスの技術史」にはWWT頃、岩城硝子や東京電気がクラウン、フリントを少数製造して納入したとかかれています。 詳細は不明ですが、岩城硝子の反射鏡部門や、東京電気に光学ガラス試作を依頼していた藤井レンズは共に日本光学に吸収されます。 その技術と人員設備を手に入れた日本光学が大正12年頃まで製造を行っていないということは、在庫品の研磨やカットなどの加工を勘違いしたものか、或は試作レベル製造があったという話が大きくなったのかもしれません。
>>441 少なくとも、「明るい暗箱」に記載のあるストックホルムでNIKKOR 5センチF2と比較されたSonnar 5センチF2に関しては、
レンズ自体の設計は戦前で、生産された時期は製造番号からして39〜40年あたりですね。
LIFE 社の写真研究室長が比較しているNIKKOR 5センチF1.4と比較されたSonnar 5センチF1.5については、製造番号がわからないので不明です。
こちらも戦前・戦中のものの可能性が高いのですが、ちょうど50年から販売が再開されていますので、そちらが使われた可能性もあります。
ただ戦後生産品だとすれば、ドイツ敗戦の影響でツァイス社も東西に分裂してしまった直後で、
Sonnar F1.5は西側のツァイス・オプトン社が生産したものになり、技術者不足で品質にばらつきが時期の製品です。
比較に使われたSonnar 5センチF1.5が戦前・戦中の生産品であれば、Sonnar 5センチF2と同様に比較対象が最低でも5年以上前のものということになりますし、
戦後の生産品であってもSonnar 5センチF1.5の中では品質の悪い部類に入るレンズだった可能性もあります。
「明るい暗箱」にも「ドイツ製レンズに比較してみると、品質の均一性という点でもよりすぐれている」とあるので、戦後生産品だったとすれば辻褄はあいますね。
>441 > お話の「日本光学工業史」は 50年史
>>444 なるほど。書籍ではさらりと書いていますが、少し興味を持って調べると色々あるものですね。
>>445 「50年史」は「50年の歩み」ですよね。当方も数日前に取り寄せましたが、
>>438 氏の書かれたような大正9年にドイツ製品に優ったとは書かれていないようですが。
「50年の歩み」は後の「70年史」に比べるとかなり簡単な記述で済ませています。
それでも大正7年4月に試験炉を作ったが直ぐに研究を中止したこと
大正10年にドイツ人技術者を招聘したこと
溶解は大正15年以降は順調にいき光学的性質は解決したと考えられてこと
大正13年頃はまだショット社の輸入品が大きな塊で驚愕したこと
同じ頃、レンズの形だけは真似たが焼鈍がうまくいかず失透や曲がりが発生したこと
その後焼鈍はドイツの方式を真似たこと
が書かれています。 大正9年には作れていません。
「75年史」では昭和6年にテッサー、昭和12年にゾナーに匹敵するレンズの製作に成功していますから、昭和の間違いではないでしょうか?
>大正9年にドイツ製品に優ったとは書かれていないようですが。 書かれてあるよ〜
>>447 何ページですか?探してみます。
同じ「50年の歩み」の
>>446 の部分は63〜65ページです。
>>404 > Norman Friedman 「US BATTLESHIPS」です。
この本の何ページ?
>>448 「日本光学工業五十年史 第二巻」 P17
ちなみに検索してみると二種類あるらしい。
「日本光学工業五十年史 (1977年)」
「50年の歩み (1967年) 日本光学工業株式会社」
>>448 日本光学工業50年史というのは、
>内容:VOL.1:『日本光学工業二十五年史』 昭和17年刊の複製, VOL.2:『本光学工業四十年史』 昭和35年刊と『五十年の歩み』 昭和42年刊の合本複製
ということらしいですよ。
その第2巻に書かれていて「50年の歩み」に記載がないってことは、「40年史」の内容ということになりますな。
>>450 ありがとうございます。
「50年の歩み」「70年史」とは全く異なった記述ですね。
もし
>>451 氏の読み通り「40年史」或はそれ以前「25年史」の記述だとすれば今では覆された説ということになるのでしょう。
「50年の歩み」を読み直していたら、戦時中に国産できない種類の光学ガラスを潜水艦で輸入する件が書いてあって、涙ぐましい努力に頭が下がりました。
>>449 一番明快なのはP8ですね。
About1940,Mark 19s in the fleet were enclosed in small armored boxes and
provided with stereoscopic range-finders. It is these enclosed directors that
appear in photographs of the battleships at Pearl Harbor. Note also the wiring
connecting the roof of the 20-foot range-finder atop the pilot house to the
foremast itself,with its rang clock ,for communicating the range to other ships
ネット上でも探すと同じような話が出てくると思います。.
>>450 そうだ。ついでで申し訳ないのですが、もし第一巻の方もお手元にあるようでしたら「25年史」該当部分もご紹介いただけませんか?
今までのところ
「兵器を中心とした日本の光学工業史」 1955年 ※社史に非ず。
「40年史」 1957年
この2つでは日本光学最高説
「50年の歩み」1967年
「明るい暗箱」 1975年 ※社史に非ず
「75年史」 1993年
この3つではまだまだ不充分だった説
時代が進むに連れて内容が変った気もしますね。
>453 >「50年の歩み」「70年史」とは全く異なった記述ですね。 異なるわけではなく「50年の歩み」では、単に省略されてるエピソードですよ。 また「70年史」は持っていませんが、「50年の歩み」「40年史」、「25年史」、それぞれの特徴は 「50年の歩み」 − パンフレット的、一般向けの社史、写真が多く記事も簡単で読みやすいが資料としての分量は少ない。全212ページ 「40年史」 − 戦後作成の社史、技術資料や戦中・戦後のエピソードが豊富、全748ページ 「25年史」 − 昭和17年作成の社史、戦前のエピソードが豊富、戦前の欧米諸国の光学工業の様子有り、技術情報は軍事機密のため少ない。全428ページ
>>454 > 「25年史」該当部分もご紹介いただけませんか?
そっちの方には該当記事無し。「40年史」のみ
> 当初の計画に従って工場設備は現在地の大井と定め,「東京計器」の設備を移転して第一工場として測距儀の製作に当て,「岩城硝子」の設備を
> 移転し第二工場として,反射鏡の製作に当て,新に機械を購入し,そのうち機械の一部はドイツから購入して,第三工場として潜望鏡の製作を行なった。
>
> 芝区三田豊岡町にあった「藤井レンズ」は,工場をも含めて全設備を買収したので,これを東京支店として,従来通り双眼鏡類の製造を行なった。
>
> 測距儀に対する海軍の需要は極めて盛んで注文は多量にあり,これを引受けたのであるが,生産並に技術はこれに伴わず,徒らに不良成品半成品が
> 山積するばかり,軍も会社も大いに苦心したが,これが解決には時を持つ以外になかった。
> 大正9年の終り頃になって技術も次第に進み,それからは多量の注文に対し,納品成績も極めて良好であったが,次第に海軍の規格が難しくなって,再び
> 技術がこれに追つかず,検査不合格品の増大,半成品の増加に苦しむようになった。
>
> これに反して探照灯用反射鏡は当初から生産が極めて順調であって,需要もまた多かったので第二工場のみでは不足となり,第三工場の中に反射鏡の
> 仕上工場を増設してこれに応じたが,生産能力が増加するにつれて大正11年頃には生産過剰を見るに至った。
>
> > 潜望鏡は全く新規の製品ではあり,その構造上,製作は極めて難しいものであるから,技術陣の非常な努力にも拘らず,製作はなかなかはかどらなかった。 > そのうち海軍から精度に関する要求が次第に高められ,それを追いかけるという状態で成績は上らなかったが,それも大正9年の末頃漸く完成して納入出来た。 > > 光学系はドイツ製品に比して優るとの判定で合格したが,いよいよ潜水艇に取付け潜水試験して見ると,僅か5分か10分で,硝子全面に曇を生じ,使いもの > にならないと云うこともあった。 > > 大井の本社工場は測距儀等製品が難かしかった為に,当初の成績は余りよくなかったが,これに引替え,既述の様に芝工場は「藤井レンズ」を > そのまま継承した事と,その製品が双眼鏡・望遠鏡の類という比較的容易な仕事であったので,営業開始の時から製品も出るという利点があり,大井工場の > 赤字を補って,なお若干の利益を挙げることが出来た。特に,大正10年には,ドイツ人技師の指導によって,レンズ研磨技術がとみに向上し,またドイツか > ら輸入した新しい機械と,ドイツ式工員による新生産方式は,生産能力を急激に増進し,双眼鏡の大量生産を可能としたので,陸・海軍軍需のほか,外国にも > 輸出することが出来た。 > > 「40年史」P17
↑ と同時期の「25年史」の記事 > (大正11年11月〜12年3月)に至り、大井本社に於ける測距儀は、當社技術の進歩程度では、未だに海軍省の要求に添ふことが出来なかった為め、 > 検査合格率が大いに不良であったばかりでなく、牛製品の停滞するものが夥しく、従って新注文を引受くるに至らなかった。 > > 潜望鏡は輸入硝子の故障に拘はらず、之が完成に努め相當の結果をあげた一方、新設計品の試作にも従ったのである。尚ほ探照燈用反射鏡は、 > 本期も亦製造高需要に超過し、依然貯減品増加の状況であった。 > > 他方、東京支店に於ける本期間の各種注文品の製造は、概ね順調に経過し規定の納期に完納し得た > > (中略、海軍の軍縮と陸軍製品の生産の話) > > (大正12年5月〜11月)に入るや、大井本社に於ける測距儀の製造技能が、末だ猶ほ海軍の要求と甚しき懸隔を生じ、依然として検査合格率は > 不良なため、海軍所要の数量を製造納付することが出来なかった。 > > 潜望鏡の製造は、比較的順調であり、新設計品の試作も相常の成績をあげ、且つ近く新規注文に接せんとする好調に氣をよくしたが、之に反して > 探照燈用反射鏡は、需要が減少し、貯蔵品が増加するばからであったので、自然製造高を制限するの止むを得ざるに至った。 「25年史」 P134
>>455-457 >異なるわけではなく「50年の歩み」では、単に省略されてるエピソードですよ。
もう〜
>>438 だけを読むとそうはとれないじゃないですか。お人が悪い。
とはいえ重ね重ねありがとうございます。
「75年史」の方は当時話題になった様に光学兵器について多くの分量を裂いていますので機会があればご覧頂いて損は無いと思います。
確かに引用して頂いた内容を拝見する限り、特に「50年史」や「75年史」と大きく矛盾する部分はないようですね。あとは読み方かと思われます。
岩城硝子が反射鏡生産で成功していたことは「75年史」にも記述があります。
東京計器が受注し、新生の日本光学が納入した測距儀(1.5mの初期は東京計器で納入が始まる)については既に書きましたように、大正9年末になってようやく納入されました。ここも大きく矛盾はありません。
日本光学の光学ガラス製造研究は大正7年に開始後直ぐに中止。ショット社よりの輸入品を使用。
大正10年9月から研究を再開し、ドイツ人技術者の力もあって大正11年5月頃から溶解を開始し6月に350sるつぼで初窯出し。
「50年史」を見ると加工面でも焼鈍技術に苦しんでいた時期に当ります。
すると大正9年末から納入の測距儀や潜望鏡、それ以前のものもショット社製光学ガラス使用ということになりますが、「40年史」でもこれを否定はしていないようですね。作っていない物は輸入しかないわけで。
「光学系はドイツ製に優る」というのも(引用を読めば条件付のようですが)、実際にはドイツ製光学ガラスを使用した「製品」全体に対する評価と考えればそれほどおかしくありません。
大口径レンズに必要なBaF10等を終戦まで作ることが出来ず、戦時中もこれらをドイツからの輸入に頼っていたことは「50年史」「75年史」「明るい暗箱」でも明らかなのですが、これも特に否定する記述ではないようです。
やはり大正9年というのは製造開始時期がはっきりしている光学ガラス自製の話ではないようですね。
ただ海軍造兵廠が大正7年2月にクラウンガラスの製造に初めて成功しています。 クラウンガラスは屈折率が低くレンズとしては物足りない反面、科学的に安定している為外気と接する部分への使用に向いているとされます。 他氏も書かれていましたが大正7年以降、海軍造兵廠が部品として供給すれば、測距儀にせよ潜望鏡にせよ、使用する多くの光学ガラスの一部として使い得たと考えられます。 興味深い内容を長く引用して頂きまして、手間と好意に感謝します。
>>458 いま気付きました。「25年史」興味深いです。
こういう時代特有の書き方というか雰囲気が伝わってきます。
>末だ猶ほ海軍の要求と甚しき懸隔を生じ
わかる気がしますね。最初に発注された内四年式1.5mはとりあえず東京計器時代に納入しているのに対し、2.5mと4.5mには日本光学になってからも大正9年末まで手間取っています。
その後四年式改良の1.5mを初め、6m、8m、果ては10mまで要求されているのですから苦労もする筈。
ユトランド海戦時ドイツ巡戦が既に6mステレオ式を装備し、輸入艦金剛も4.5mを装備して回航されたのですから海軍の要求が、最初の1.5mから短期間に増大する筈です。
>>457 >>459 >> 光学系はドイツ製品に比して優るとの判定で合格したが,
光学屋が言うところの光学系というのは、潜望鏡内の光路の設計やレンズ・プリズムなどの選定・配置についてであって、
メカとしての潜望鏡の設計や潜望鏡の組み立て精度とは別物です。
>>いよいよ潜水艇に取付け潜水試験して見ると,僅か5分か10分で,硝子全面に曇を生じ,
>>使いものにならないと云うこともあった。
とあるように、光学製品の光学系以外の部分では、かなり致命的な問題が出ているわけで、
ドイツ製光学ガラスを使用した「製品」全体に対する評価と考えた場合でも、
「ドイツ製に優る」と言えるような記述ではないですよ。
463 :
459 :2007/08/06(月) 21:42:56 ID:???
>>462 なある。
この話ここまでになりそうですね。
もう少し資料があれば続けてもよいのですが、おおよその所は見えてきたようで。
各氏の協力と時間があればここまで迫れるという良い経験でした。
じゃあスリガオ
>>464 このスレは、流れを見れば分かるとおりに検証したいと思った人間が検証を行い発表する場所。
スリガオを検証したいのなら、まずご自分でどうぞ。
>>462 > 光学系というのは、潜望鏡内の光路の設計やレンズ・プリズムなど
そうした光学系はドイツ製に優るものの、開発を始めたばかりの頃は工作の不具合などで色々と問題も生じた。
しかし後に解決し良好な製品が納品されるようになった。
原料の光学ガラスの国産化については昭和2年頃に
「外国製光学ガラスと品質的に劣らない製品を作ることが可能となった」
そして、昭和8年頃には
「各研究が大きな成果をあげ、国産で優良な光学ガラスを大量に生産することが可能となった」
「ニコン75年史」P45 P47
>>466 あくまで戦前の段階で100種類以上あった光学ガラスの硝種のうちの一部についてですよ。
>>392 や
>>411 、
>>426-428 、
>>437 を見れば分かるとおり、必要な光学ガラスの一部は終戦まで生産できていません。
戦前に生産出来るようになっていた光学ガラスについても、技術が確立されたのは昭和7年であり、
日本光学工業で昭和10年の段階でも溶解を行った光学ガラスは13〜15硝種程度でしかなく、
昭和20年になっても生産できるようになっていたのは40硝種でしかありません。
>原料の光学ガラスの国産化については昭和2年頃に
>「外国製光学ガラスと品質的に劣らない製品を作ることが可能となった」
>そして、昭和8年頃には
>「各研究が大きな成果をあげ、国産で優良な光学ガラスを大量に生産することが可能となった」
この記述を見ても、前年の技術確立を受けてようやく昭和8年に光学ガラスが量産できるようになったのであり、
昭和2年の段階で外国産と同等の品質と言われた光学ガラスは、技術確立と量産化に5年以上要している所から見ても、
実験室におけるサンプル程度のものでしかなかった事を意味していますね。
> 「ニコン75年史」 ところで、この本は戦後のニコンの発展状況がメインで、戦前、戦中に関する記事の分量は少な目。 しかし写真が多くて文章も読みやすい。「50年の歩み」の続編のような。 本スレで対象としてる戦前、戦中に関する話しは「25年史」や「40年史」の方が詳しい
戦前の日本が輸入した測距儀はドイツ、イギリス、アメリカ、イタリア製のものが有る。その比較 英国、バー・エンド・スラウド社の測距儀の特徴は、リベット止めで全体に非常に重く、日本や(独)ツァイス社製に比べ 像が著しく不鮮明で、使用しているガラスも良くなく、設計も劣っていた。長所は構造が簡単で修理も容易なこと。 全体にバー社の光学機器に関する技術の進歩状況は極めて緩慢だった。 アメリカ、バウシュロム社の測距儀は、使ってみると英国製くらいの精度だったが、すぐに調整が狂ったり、曇ったりして 精度不良となり使えなくなって、しかも修理が極めて困難。技術は何の参考にもならなかった。 イタリア、サンジョルジュン社の測距儀は、光学的諸性能が劣り、振動にも弱く、気密不良、熱の影響に弱い。 しかし日本で調整すると普通に使えるようになった。 ドイツ、ツァイス社製測距儀は良質ガラスを使い、設計も極めて優秀、像も鮮明。反面、技巧に走りすぎる傾向有り (大戦前の日本光学工業製測距儀の水準は、英国以下、列強の技術を大きく引き離す。) 「日本の光学工業史」
>>467 民間の小型カメラの方が種類や用途も多岐に渡り、ガラスの種類も大量に有ったのだろう。
もちろん世界中で製造されているガラスの種類が全部で100有ったとして、しかし日本一国で
数十種類も生産していたのは、むしろ立派なものだと思う。
アメリカ製の光学硝子について 第一次大戦勃発以前のアメリカに光学硝子製造事業は、ほぼ皆無と言って良い状況だった。しかし開戦後は諸外国から光学兵器の注文が殺到。 アメリカの光学機械メーカーはドイツショット社の硝子を使用して注文に応じていた。ところが戦争によりショット社製硝子の輸入が途絶し 国内市場の硝子材料が消費し尽くされてしまう状況のため、光学硝子の生産事業を立ち上げることとなった。 官民共同で研究を進めた結果1917年に若干の光学硝子を実験的に製造できた(ただし結果は思わしくなく技術的困難が次から次へと続出した。) 社史「25年史」より 日本も大正7年頃に光学硝子の製造に成功しているから日米のスタートラインは、ほぼ同じ。
>>469 その比較対照の製品が何年製のものかが問題となるわけです。
米国バウシュロム社=ボシュロム社からの大型測距儀輸入はわかっている限り大正で終わっている筈なので、比較対象は大正の製品だと言うことになります。また英国製バー・エンド・スラウド社の測距儀についても同様です。
英国製のそれがツァイス社に及ばなかったのは知られていますし、光学ガラスの本格製造直後のボシュロムが大したことがなかったことも理解できます。
ショット社製レンズをを基幹部分に使用し大正10年製造の測距儀と比較するなら、大正6年のボシュロム製品の方が劣っていて当然ではないかと思いますね。もし比較対象の測距儀の制式名や製造年が判明しているのならご教示ください。
但しイタリア製についてはWWU前に小基線長のステレオ式対空測距儀を輸入していた経緯があります。
戦中になっても大口径レンズ用の光学ガラスを輸入に頼っていたことや相変わらず焼鈍に苦労していたことがわかっていますから、「日本の光学工業史」の記述
(大戦前の日本光学工業製測距儀の水準は、英国以下、列強の技術を大きく引き離す。)
は少々筆が滑っていると言えます。
しかし、ショット社の光学ガラスを使用した結果、優れた測距儀を作り得たとは言えるのではないでしょうか。
もっとも米国が既にステレオ式を主測距儀に使用しているのに対し、日本は一部対空用を除けば大和まで実現できなかったこと、増透処理でも独米に8年の遅れをとったことから考えると、総合的にこれら2国より優れていたとは言いかねるでしょう。
英伊は詳しく知りませんのでご存知の方にお任せします。
>472
> 戦中になっても大口径レンズ用の光学ガラスを輸入に頼っていた
国産してるけど?
>>439 と言うか大戦中、ドイツから原料の輸入はできないし。
>>469 例えば「戦前」と言っても、時期によって日本の光学技術のレベルは全然違いますし、これは他国も同様です。
ボシュロム社の測距儀が酷評されているアメリカでさえ、1930年代後半になると光学技術は向上してきており、
レンズのコーティング技術の開発(36年)やランタン系ガラスの開発(39年)と、
分野によっては日本はおろかドイツと同等以上の光学技術を身に付けています。
また比較が昭和8年以前に行われたのであれば、光学系の設計はともかく、
性能に直結する光学ガラス(下手をするとレンズすらも)は、
他国が曲がりなりにも輸出品に使える程度に量産できていたのに対して
日本で量産化できていませんし、かといって昭和10年以降に英米のまともな測距儀を入手できたとも思えませんしね。
>>470 >>473 ドイツ(というかショット社)はその100種以上の硝種全てを生産できてるから硝種名をつけているんですよ。
そもそも、何れの年代の社史でも書かれている硝種は、生産可能/不能を問わず全てショット社の硝種(ショット記号)であり、
今にいたっても、それを元に自社の硝種名をつけている会社も多々あり、ニコンもその一つでして。
そして、光学兵器製造の為に光学ガラスを40種類程度まで生産出来るよう状況になっても、
まだ輸入品のストック頼み硝種があったという事実もあるわけで。
「大井硝子製造所」 > 当社製造の光学兵器に大型の物が多かった為、それに要するプリズム・レンズ等の大塊のもっとも最高の品質を持つ光学硝子が多量に要求されたが、 > よく生産供給することができた。 > > 特に泡や脈理のないことを必須条件とされる測距儀用の端反射5角プリズム、同中央プリズム、潜望鏡の下部プリズム等に用いる硝子の溶解と、硝子を > 光学的に均質にする焼鈍作業の研究については多大の辛苦をして、充分の成果を上げることができた。 > > > 「50年史」
>光学兵器に大型の物が多かった 戦前のニコンは小型のカメラの生産に関しては限られた物で限定的だった。 その小型カメラでドイツを抜くのは戦後、と言っても終戦後のホンの三年後。
>>473 戦時中でも輸入しています。日本光学の記録にあるわけですから。
戦前は普通に船舶で輸入していたのでしょうが、戦時中は潜水艦によって輸入していたそうです。
戦後になっても一部在庫が残っていて、当初生産したカメラレンズに使用されました。
ところがこの在庫も尽きた為、カメラの規格の変更を強いられています。
で、BaF10等の製造に始めて成功したのが昭和23年。
>>475 「50年史」の中でも「40年史」の部分でしょうか。
そこでもショット社のガラスを基幹部品に使用していたことは否定されていません。
ショット社から輸入されていたのは光学ガラスの塊(それも大型の)で、加工は日本光学で行っています。
その点でも特に矛盾はありません。
また光学ガラス中でも40種弱は自製できますから、いくつかのレンズには自社ガラスを使用できた筈です。
焼鈍についても「50年の歩み」でも、未焼鈍の物だった為に苦労したと書かれていますから整合しますね。
>>477 いや、大戦直前の特に戦艦大和の大型測距儀とかを作る段になると
輸入しておいたショット社の在庫は使い尽くされていて、国産品以外に
無かった。(社史より)
もちろん小型カメラに使うような小さいのは在庫も有ったのだろうが、海軍兵器用の大型のは輸入品の在庫無しと言う状況
因みに、米国が光学ガラスをWWT参戦前まで多くショット社からの輸入に頼っていたのは本当で、「25年史」の記述とこの点では大きな矛盾はありません。
但し、参戦前から既に将来を見越してクラウン〜重フリントやバリウム系6種の研究を始めており1915年には機械攪拌を導入。
1918年にはイタリアへの供給を開始し、戦争末期には英仏への依存から脱却しています。
ですから、「25年史」の記述である1917年にいくつかの試験製造という域は越えてしまっています。
実際に1917年には日本も輸入しています。
多分幾つもの光学ガラス製造を連続して研究していますから、1917年にも試験製造されたばかりの硝種があったのでしょう。
ただそれが全体を指していないだけのようです。
また
>>474 氏の言われるように「新種ガラス」と言われる光学ガラス類を戦前の段階で開発成功し、フリントガラスの品質向上のため上下攪拌を導入、大量生産技術としてシート状にローリングする技術も実用化されています。
「25年史」は古いのでそのあたり詳しいことはわからなかったか書けなかったのかもしれません。
※「75年史」が出版された当時、敗戦が無ければここまで書けなかったであろうと言った人もいましたね。
>>479 >もちろん小型カメラに使うような小さいのは在庫も有ったのだろうが、海軍兵器用の大型のは輸入品の在庫無しと言う状況
その根拠やいかに。
つうかですね、光学ガラスというものを誤解しておられませんか?
光学ガラスは性質毎に硝種が分けられており、その用途にあったものを使うのは確かですが、
別に小型カメラ用とか海軍兵器用などと言うように硝種が分かれているわけではありません。
ガラス塊のことだとしても、同じ硝種であれば、大型のガラス塊が量産できるなら、小型のガラス塊を作るのも簡単です。
>>480 >大量生産技術としてシート状にローリングする技術も実用化されています。
コーニングの光学ガラス連続溶解法というやつですね。
>>478 >>479 在庫も何も戦時中も輸入を続けていますよ。
といいますか、最新の社史を含む各資料からBaF10などが製造できなかったとわかっているのですから、大和建造時点で在庫が無かったとしたらその測距儀は見掛け倒しになってしまいます。
普通に資料を読めば、ショット社製ガラスをも使用して相応の精度を持つ測距儀を搭載したと考える方が間違いないでしょう。
1941年に大宮市に土地を購入して大井工場を越える製造能力を持つ製造能力を持つ工場を建設開始し、1943年には主原料の採掘権を得、焼鈍炉の進歩があったとした上で、
「質的にも大型軍用品製品の製造が可能となったが、それでもなお、軍の要求には質・量共に応ずることが出来ず、ドイツのショット社から大型ガラスを中心としてガラス素材を輸入しつづけた。」
と「50年の歩み」にもあり、「明るい暗箱」等にも戦時中の輸入について記述があります。
質的にもそれなりのものが作れるようになったが、軍の要求には及ばず輸入を続けていたわけです。特に大型ガラスは。
そちらの社史の正確な書名と引用をいただければ幸いです。BaF10を自製できていたとしたら業界でも新発見ということになりますので、必要があれば取り寄せます。
尚、BaF10等は昭和10年までの硝種に入っていないのは勿論、製造ガラスを網羅した日本光学の資料「レンズの設計と測定」昭和15年の付表にも記載がありません。作れなかったことは当時の資料でも裏付けられるわけです。
>>481 ここ数日他氏のご好意で「40年史」「25年史」の記述を引用して頂いた結果なのですが、どうも記述自体には「50年の歩み」や「75年史」と大きく矛盾する話はあまり無いように感じます。
優れた(少なくともそう考えられるだけの精度は持っていた)光学兵器を作っていたことはある程度確かでしょうし、それにショット社からの輸入品が使われていたこと自体も否定していません。
研磨やカット、焼鈍は苦しみながらも自社で行えるようになっていたことも25〜40年史と50〜75年史に食い違いは見られません。
やはり資料の読み方の話に過ぎないのではないでしょうか。
普通に考えれば同じ社史なら新しい物が正しい。但し最新版に書かれていない逸話が古い版に書かれていることもあるので検討の必要はある。
しかしここまで見ると古い社史の記述も新しい社史のそれを否定していないですね。
他国より優れていたという点は、必ずしも比較対照が他国の最新式とは限らず測距儀や潜望鏡に関しては過去に入手したものより優れているといったところですが、後発国として追う立場の我が国としては過去のサンプルに追いつき追い越しただけでも素晴らしい成果です。
その当たり、開発経緯や事情を知って読むのと知らずに読むのとでは受け取り方が違ってしまうのも止むを得ない気がします。
1917年4月〜1918年11月までの18ヶ月間の米国の生産量は295t以上で月平均16.4t以上。
WWT最後の6ヶ月では月平均22tです。
これは日本が終戦までに達成した最高値S19年度277t、月平均23tと殆ど同じ量です。
勿論同時期の日本光学は製造できておらず、海軍でさえようやくクラウンの試験製造に成功した頃。
WWT時は流石の米国も質的にはショット社にまだまだ及ばなかったでしょうが、1917年4月の時点月平均1.4t程度から急速に力を伸ばしてきたことがわかります。
>>483 >その当たり、開発経緯や事情を知って読むのと知らずに読むのとでは受け取り方が違ってしまうのも止むを得ない気がします。
社史という性格上、どこの会社もそうですが、自社に都合の良いことばかり書く傾向がありますからね。
まったくの虚偽の内容が書かれることは少ないのですが、予備知識のある無しで読み取れる内容に差が出てしまうのは間違いありません。
今回の場合なら、ニコン製品と比較された他社製品がいつの時期のものか知っていると知っていないとでは、受ける印象が大違いでしょうし。
話は変わりますが、手元にある「カメラと戦争」に「海軍砲術史」を出典とする
・1933年ころ日本光学の八木技師がツァイスに行き、ステレオ式の測距儀は分像合致式の1.6倍の性能と報告。
・これを受けて青木少佐がドイツに派遣され、6m測距儀を4本購入し1936年3月に日本に到着した。
・このうち、1本を日本光学に貸与して構造調査、研究を行わしめた。
という記述があります。
また、著者が青木少佐から戦後に直接聞いたと思われる記述として
「(理論的には良いはずのステレオ式について)現場で実験した艦本から疑念が出され、従来からの英国式(分像合致式)の方が信頼性が高いという横槍が入った」
とあり、それを受けた青木少佐は
「折衷案として英式2本に独式1本と双方の形式を組み込んだ〜」
と語っています。
この測距儀が
>>496 の「日本の光学工業史」で比較対照になったものかもしれませんが、
青木少佐が語っている艦本が下した評価とは異なっています。
実物を貸与され研究を行った日本光学でも、間違いなく評価・比較をしているはずですが(少なくとも八木技師は行っている)、
社史でこのツァイス製6m測距儀に関する記述があったりしませんか?
>>484 「50年の歩み」の方に、八木貫之氏が1931年11月〜33年8月まで独英仏墺チェコ蘭へ注文測距儀に関する設計、製造、検査、光学兵器の調査、光学器械製造工場における諸設備と作業方法の調査、光学硝子の研究を目的として視察を行ったとのみ言及があります。
ざっと見た感じなので見落としもあるかもしれませんが。
「40年史」をお持ちの方なら何かご存知かも知れませんね。
「海軍砲術史」の方は所有していますし、「カメラと戦争」も以前読んだことがありますが、ドイツの6m測距儀の購入は別として、英国の測距儀をこの時購入できたのかどうか、出来たとしてどの形式かなど情報がないのです。
英米は射撃指揮装置関連で情報交換をしていたようですが、WWUまで合致式測距儀を使用していたのかさえ良くわかりません。
フッドが主測距儀に9.15mの基線長を装備していたのに対し、より新しいネルソン級の主測距儀は4.58m。
この点だけ考えるとステレオ式への移行も疑えますが、現在の所根拠の無い憶測止まりです。
>>484 「40年史」「25年史」(復刻の50年史の方)と「兵器を中心とした日本の光学工業史」の取り寄せ手続きをしてきました。
まだ返事待ちですが、運良く見つかっても2〜3週間は覚悟しないといけないでしょう。
長文を抜粋して下さった方のご好意のおかげで取り寄せる価値ありと判断しまして。
社史については確かに一般的に自画自賛傾向はありますね。
私が昔勤めていたある一部上場企業のそれもそうでした。
ただ日本光学の「50年の歩み」「75年史」は多少はそのような傾向があるにしても、光学ガラス製造の長期間の苦労など社史としては相当真摯に書いているように感じます。
>>485 そうですか。
穿った見方過ぎるのかもしれませんが、調査をしたのに詳細がかかれていないということは、
書かなかった理由(或いは、書けなかった理由)があるのかも、と考えてしまいます。
ついでに会社で見つけて借りてきた「ガラスの技術史」の記述を少し。
英もWWTの勃発で独からの光学ガラスの供給を絶たれ、自国での生産を増大させます。
チャンス・ブラザーズ社が戦前から光学ガラス生産の実験をしていて、1915年の春に設立された軍需省に
光学ガラスとガラスに関する部門を設置して、チャンス社に資金的援助などの支援を始めます。
これによって、チャンス社単独の1914年上半期における光学ガラスの生産量が2,600ポンド(1.1t)だったものが、
1918年上半期には92,000ポンド(41.7t)と40倍以上なっています。
チャンス社以外にどこで光学ガラスを生産していたかは不明ですが、
大戦後半に米の光学ガラス生産が軌道にのるまでは、仏と共に米へ光学ガラスを供給していたそうですので、
英としては自国で使用する以上の光学ガラスを生産できていたのは確かですね。
また、硝種についても日本が戦後に生産できるようになった重バリウムクラウンを1914年の時点で生産しているようです。
日本については、軍と日本光学のラインとは別に農商務省所管の大阪工業試験所で
1921年(大正10年)から光学ガラスの試験・研究が開始されて、
太平洋戦争末期には45種の光学ガラスを製造できるようになっていたそうです。
同時期の日本光学が生産できていた硝種が37種とのことなので、
量産技術はともかく製造技術は日本光学よりも上だったようですね。
>>487 「ガラスの技術史」もわかり易くていい本ですね。
大阪工業試験所については硝種名がわからないと何ともいえないのですが、その可能性はあるかもしれません。
日本光学の場合、単に光学ガラスの製造だけでなく、それを使用した光学兵器のノウハウを持っているので単純比較できる性格ではないのでしょうが。
日本でのBaF10は昭和23年の成功ですが、「50年の歩み」によるとバリウムフリント系で最初の成功はS19年のようです。
「ガラスの技術史」によれば米国は1937年の段階で炭酸バリウムから水酸化バリウムへの置き換えなど実施しているところをみると、それ以前からバリウムフリント系の製造に成功していることになりますね。
そういえば光学式測距儀は日本が15m測距儀を最高峰として、それに次ぐのが以外にもフランスの13.5m測距儀、次いでドイツの10.5m測距儀で アメリカやイギリスやイタリアのはしょっぱい
>>476 >その小型カメラでドイツを抜くのは戦後、と言っても終戦後のホンの三年後。
これは戦前に生産できなかった硝種の光学ガラスが生産できるようになったおかげでだというのは、社史その他にも明記されています。
では、なぜ戦後に戦前生産できなかった硝種が急に生産できるようになったのか?
これは、「ガラスの技術史」によれば戦後公開されたPBレポート(アメリカ技術調査団報告)を利用したおかげなようです。
この中に、ショット社の詳細な技術情報が詳細に書かれたレポートもあり、
日本の光学ガラス製造各社はこれを参考にして技術進展の基礎としたとのこと。
戦前からの技術の積み重ねがあったとしても、PBリポートの公開・利用なくして、
1950年のライフ社に絶賛されたカメラとレンズ(とその基となる光学ガラス)を作り得たのか否かは、かなり疑問ですね。
>>488 どうも、バリウム系の硝材確保にはどこも苦労しているようですね。
英は一大産地であるインドを確保している為もあってかWWT中に炭酸バリウムへの精製の目途をつけてますが、
米でもWWUの直前ですし。
英米でもこの状況だとすると、以前からもしかしたらとは思っていたのですが、
日本が輸入に頼っていた光学ガラスの中にBAK4がありそうな悪寒がしてきました。
戦中の双眼鏡などにBAK4ではなくBK7が使われていたりするので、国産化の有無はともかく、
そもそもバリウム系光学ガラスを作る為のバリウム系硝材を確保できなかったのかもしれません。
だとすると、戦時中にわざわざ潜水艦を使ってまで光学ガラスを輸入しようとした件についても納得がいきます。
>>489 大和の15.5m測距儀はステレオ式1組と合致式2組なので、ステレオ式を充分使いこなせる域に達していたら艦載の光学測距儀として世界最高の精度を持っていた可能性がありますね。
ドイツや米国の測距儀はステレオ式なので見た目の基線長で考える以上の精度を持ちます。
フランス、イタリアがステレオ式なのかどうかは判りません。
英国はフッド〜ネルソンの基線長の変化からステレオ式の搭載が疑われなくも無いですが証拠は全くありません。
このあたりは何か資料があればご紹介いただければと思います。
>>490 バリウム系硝材の入手ですか。
研究はしているようですが、入手量となると全くわかりません。別な角度から資料を探す必要がありそうですね。
>>482 > 在庫も何も戦時中も輸入を続けていますよ。
もちろん戦時中も可能な限り輸入を続けていたし国産も続けていたのだが、ドイツから潜水艦で持ち込めるのは
限られているし、途中で撃沈される事も有る。いずれにしても大和の大型測距儀を作っていた頃には輸入品の
在庫が全然無かった頃。
当時は国産品でも優れた品質の物が生産できていたから大丈夫だったにせよ、物不足には大変苦労している。
>>492 まず硝子生産開始当初の頃はドイツからの輸入にも頼っていた。
> (昭和初年頃)には一部の硝子をドイツのSchott 社から三菱商事を通じて輸入せざるを得なかった。
> しかし、それすらも当方の要求に合致する良質の物を入手すること困難な状況にあった
> 40年史 P141
つづいて
>>466 ドイツと同等の良質な光学硝子が生産できるようになってから、国内で使用する硝子は自家製のもので充足。
> 光学硝子については、当社はその使用量のほとんどを自家製造の物で充足していた
しかし戦争によって物不足始まる。
> が、生産の増強されるにつれて光学硝子の需要も急に増加し、概存の設備を持ってしては、もはや消化しきれなくなった。
> (中略)
> 戦争が烈しくなってからは、軍の援助で共栄圏及びドイツより潜水艦による輸入が行われたが、その量も限られた物であった。
>
> 結局、日華事変から太平洋戦争終結までの全期間を通じ、光学硝子の供給不足を克服することは出来なかった
>
> 40年史 P144
昭和一三年頃、厳しい物不足のなかで戦艦大和の大型測距儀製造
> 光三九金物(大和用15メートル測距儀)及び光四三金物(同10メートル測距儀)の製作
>
> 光学系の研究と大塊の光学硝子の入手に多大の努力を払わなければならなかった
> (ドイツSchott 社から輸入していた光学硝子は当時すでに使い果たしていた)
>
> 40年史 P125
大体これが一連の流れ。
>>476 >小型カメラでドイツを抜くのは戦後、と言っても終戦後のホンの三年後。
と言っても終戦後の約2年間は硝子製造工場が停止していたのだから、小型カメラでドイツを抜くのは実は一年しか掛からなかったとも言える。
>ショット社の詳細な技術情報
もちろん小型カメラに関しては戦前ドイツが優っていたにせよ、海軍用大型光学兵器に関しては日本が優っていた。
ニコンが本格的にカメラ作りを本格的に始めたのが、そもそも戦後になってからだから。戦前・戦中は兵器作りで手一杯の状況だったのは上記の通り
>ステレオ式(立像式) ところで立像式と合致式は、それぞれ一長一短が有って、必ずしもどちらか片方が、どんな場合でも優るとは言えない。 比較的低速目標なら操作も簡単で確実に測定できる合致式が便利で良いし、高速目標が相手の対空用には立像式が良い。 日本海軍は高角砲用には4.5m立像式測距儀を採用したが、別な表現をすれば米英戦艦は日本海軍の高角砲レベルの測距儀 しか搭載していないとも言える。 それに合致式は二重にすることで測距精度が1.5倍に向上するから、戦艦長門以下が搭載する10メートル二重測距儀は 実は一五メートル測距儀に相当する優れもの。
>>493 ()内の文章って原典からの引用?それともあなたのつけた注釈?
ttp://www.nikon.co.jp/main/jpn/profile/about/history/d-archives/camera/history.htm#1 写真レンズは、まず昭和20(1945)年12月に35ミリカメラ用標準レンズ 50mm F3.5(商品名は「NIKKOR-Q・C 5cm
F3.5」)(ライカスクリューマウント)の製造から再開した。
21(1946)年に入って、標準レンズ(焦点距離 50mm)として 50mm F3.5 のほか、F2、F1.5 の生産計画を打ち出し、
22(1947)年には 50mm F2(商品名は「NIKKOR-H・C 5cm F2」)の生産を開始したが、途中で光学ガラスの在庫が
なくなり、やむをえず他のガラスで設計をし直すこともあった。
22年に大井本社工場の硝子製造部において光学ガラスの熔解を再開するとガラスの種類もしだいに増加し、
必要な硝種も比較的早く得られるようになった。【 とくに23(1948)年6月のバリウムフリントガラス(高屈折率低分散
ガラスの一種)BaF10 の熔解成功 】により、5cm F2 の性能は安定し、ついで25(1950)年1月には F1.5 を発売した。
(引用者注 : 製造を「再開」されてるのが
>>497 のハンザ・キヤノン等に使われてたレンズ。【】は引用者がつけた)
>>496 これ? ↓ ()内も含めて原文そのまま
> 光学系の研究と大塊の光学硝子の入手に多大の努力を払わなければならなかった
> (ドイツSchott 社から輸入していた光学硝子は当時すでに使い果たしていた)
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>硝種 > 終戦までに大量に溶解した硝子の種類を列挙すると、次の通りである。 > > FKl,FK4,BK5,BK7,BaKl,BaK4,K3,ZK2,ZK5,SK1,SK3,SK4,SK5,SK7, > > SK9,SK1O,SK14,SK16,F1,F2,F3,F4,F5,LF1,LF4,LF5,LF7,KF2, > > KF4,SF2,SF3,SF4,SF5,BaF3,BaF1O,BaSF1,BaLF4. > > 終戦後は経済界混乱のためと,戦時中の貯蔵品の仕末とで,大熔解は行われなかったが, > 昭和23年より再開された。 ”日本の光学工業史” P449
> 大阪工業試験所 > 昭和20年までに大阪工業試験所に於いて,試験完了した光学ガラスの種類は大略次の通り。 > > FK5;BK1,7;BaLK3;K2,3;ZK3;BaK1,4,6;T1;SK1,3,4,5,6,7,10,11,12,13,14,16;T4; > KF1,2,3,4,5;BaLF4;SSK1,5;LLF2,3,7;BaF4,7; > LF1,2,4,5,6,7;T2;F1,2,3,4,5,8;BaSF1,2,;SF1,2,3,4,5;KzF2,3,6;T3. > > 茲にT1,T2,T3,T4はツァイス・テッサー写真レンズの光学ガラス。 > ”日本の光学工業史” P451
確かに潜水艦で輸入できた量には限界があるでしょうが、それでも輸入は続いていますし元々光学ガラスは月の生産が最大だったS19年でも20t前後。 1回の大溶解に相当する数百sを運ぶのには1隻で充分です。 特に大和建造時点ではまだ日本は開戦前なので普通に船舶で輸入できますから在庫が底をついていたという記述には疑問が残りますね。 より新しい資料「50年の歩み」(日本の光学工業史はS30年と結構古い)でも質量共に及ばない為ショット社から製造できない硝種の輸入を続けていることはわかっているので、在庫ゼロの記述は些か勇み足でしょう。 ただ、在庫があっても敢えて大和の測距儀には国産品だけを使った可能性は残りますね。 ただその場合、使える硝種がアレでは他の硝種を使用出来る測距儀と比較して大きさの割に…という品質になってしまいます。 そのあたり日本がどう考えていたのか興味が出てきます。 それとも元々やや物足りない硝種で従来型の10m測距儀を作っていたので、比較上あまり心配しなかったとかでしょうか?
ここは検証スレなので、想像のみを語るのはどうかと
>>501 氏の抜粋に感謝しつつ、少し補足をさせていただきます。
FKl,FK4は弗珪クラウン系で屈折率は低い。FK1については「75年史」で昭和23年、BaF10より後に成功したことが判明していますので間違いです。
BK5,BK7硼珪クラウンで屈折率が低い物。
K3はクラウン系でこれも屈折率低し。
ZK2,ZK5は亜鉛クラウン系で屈折率は手元に見当たりません。想像では余り高くはなさそうな感触ですが今後調べておきます。
SK1,SK3,SK4,SK5,SK7, SK9,SK1O,SK14,SK16は重クラウン系。屈折率はやや高めで期待できるのですが重フリント系やバリウムフリント系には敵いません。
「50年の歩みによればこの系の最初の成功はS19年頃です。
因みにSK3、SK4、SK5はS10年までに成功していますが、SK16は戦後昭和23年の成功ですから間違いです。(75年史)
F1,F2,F3,F4,F5はフリント系。屈折理ははやや高めですが重フリント系やバリウムフリント系には敵いません。F4以外はS10年までに成功しています。
LF1,LF4,LF5,LF7は軽フリント系で屈折率は低し。
KF2,KF4はクラウンフリント系。屈折率低め。
SF2,SF3,SF4,SF5は重フリント系。屈折率がやや高いのですが、この系の最初の成功がS18年であることがニコンへの問い合わせで判明してますから大和には無理です。
但し社史では量産品向けのSF2はS10年までに成功していますが屈性率はこの系としては低めです。食い違いは問い合わせでは特殊品を主にした為と思われます。
BaF3,BaF1Oはバリウムフリント系。BaF10は社史を含む各資料からS23年の成功と判明していますから間違いです。但し戦時中から研究はしていました。
また「50年の歩み」によればバリウムフリント系最初の成功はS19年頃。BaF3がこれに当ると思われます。
BaSF1は重バリウムフリント系。屈折率はやや高め。BaSF8は戦後に富士フィルムが国策的分担で開発にあたりましたが、BaSF1の成功時期は不明です。S10年の硝種には入っていませんのでその後ですね。
BaLF4は軽バリウムフリント系。S10年までの硝種に入っています。屈折率はやや低め。
補足の補足
量産品向けのSF2ですが、この系としては屈性率は低めです。
BaSF系は「50年の歩み」では戦後に成功とあります。これはるつぼの材質変更によって可能になったとされますがSF系最初の成功がS18年なので判断は保留中です。
BaKl,BaK4はバリウムクラウン系。BaK4はS10年までの成功硝種に入っています。どちらも屈折率は低めです。
>>504 想像ではなく、むしろ「日本の光学工業史」の記述に少し間違いがあるのではないかということです。
私は各種資料から常識的に判断し、輸入品と国産品の組み合わせでそれなりの精度の測距儀を搭載したのだろうと考えています。
>>505 からの続きですが、抜粋して頂いた内容の中に戦後に成功した硝種が含まれています。
研究中の硝種と成功した硝種が混じっているようです。
但し硝種の数が38種というのは「50年の歩み」や37種としている「ガラスの技術史」と数だけは一致します。
社史や問い合わせの結果S10年までに成功が確認された硝種の内、「日本の光学工業史」ではBK1,BaLK3,BaK3or4,LLF2が欠けています。
もしかしたらFKについてはBKの誤植なのかもしれませんが、幾つか成功した硝種を外し、成功しなかった硝種を入れてしまっている訳です。
>SK1,SK3,SK4,SK5,SK7, SK9,SK1O,SK14,SK16は重クラウン系。屈折率はやや高めで期待できるのですが重フリント系やバリウムフリント系には敵いません。 「50年の歩み」によればこの系の最初の成功はS19年頃です。 因みにSK3、SK4、SK5はS10年までに成功していますが、SK16は戦後昭和23年の成功ですから間違いです。(75年史) 上記の「75年史」と「50年の歩み」の微妙な食い違いは 「SK,BaFなど高屈折ガラスの溶解も可能となり」(50年の歩み) に対し、S10年までに成功したSK系のSK4,とSK5は屈折率がやや低め(SK3は手元資料に見当たらず)なのに対し、SK10,SK14,SK16はやや高め(SK7は手元に見当たらず)であることの違いのようです。 同系統の内、高屈折グループの成功がS19年頃と見えます。 因みにBaF系でもS23年のBaF10は高屈折率ですが、BaF3はSK4,SK5と同程度です。
因みに「75年史」では戦後の溶解再開は本社工場と統合した大井工場がS22年8月で「日本の光学工業史」の記述S23年よりやや早いです。 S23年再開は塩尻工場となっています。 硝種については他に詳しい方がおられるので更なる補足を期待して落ちます。
>>503 >>505-508 取り合えず、光学工業史で「大量に溶解した」「試験完了した」としか記述していないのがポイントだと思いますよ。
引用箇所に限るなら、溶解が成功したとも、試験結果の内容にも触れていないわけですし。
近年出されている資料から日本光学工業と大阪工業試験所で戦前に製造に成功していた硝種数と
戦後に製造できるようになった硝種は判明しているわけですから、
>>501-502 で示されている硝種は、
あくまで戦前に「溶解を試した」「試験を実施」した硝種であり、
戦前に「溶解に成功した」「製造・生産できるようになった」硝種だけを示した物ではない、ということでしょう。
この辺、社史と同様ですが嘘を付かず自国の技術を誇示するという意味では、
実に「上手い」書き方だと思いますよ。
各硝種の性質については、夜に出来るかな?
>>509 いや終戦までに日本が製造した硝子37種と言うのは、大量に製造した物が37種と言う意味で
大阪で製造試験を実施した物も含めると当時の日本は100種くらい作れると。
> 輸入硝子
大正13年頃、ワシントン会議に於ける軍縮、関東大震災の後遺症、などで非常に苦労していたニコンは
「光学硝子の供給はほとんど全部、ドイツのショット社に仰いでいた」状況だった。
「50年の歩み」P64
昭和に入ってドイツと同等の優良な硝子が製造できるようになり〜この後は、
>>492-493
小原光学硝子製造所 昭和19年度 140.0屯 製造 > 而して是等の硝種は次の51種類である。 > > BK1,BKT,BaLK3,K3,K7,BaK1,BaKも BaK2,SK2,SK3,SK4,SK5,SK6, > > SK7,SK9,SK10,SK11,SK14,SK17,ZK1,ZK5,BaK6,KF2,BaLF4,BaLF6, > > SSK1,SSK5,LLF2,LLF3,LLF6,LLF7,BaF1,BaF3,BaF10,LF4,LF5,LF6, > > LF7,Fl,F2,F3,F5,F8,F11,BaSF15,BaSF2,SF2,SF3,SFも SF5,KEF2. ”日本の光学工業史” P451
>>506 > 私は各種資料から常識的に判断し、輸入品と国産品の組み合わせでそれなりの精度の測距儀を搭載したのだろうと考えています。
いや、自分個人の「常識」で勝手に決めるのは良くありませんよ。資料も出てるわけだし。
大阪工業試験所 大正10年〜15年にかけて クラウン、棚珪クラウン、フリント、重フリントなどの光学硝子を生産 富士写真フィルム 株式会社 昭和12年末ごろ、バリウムクラウン他 13種の硝子を熔解し、月産八百sの生産 東京第一陸軍造兵廠池田工場 (生産は軍用中心) BK7;F1,2;BaK1,4;SF2,5;SK5;BaSF1 他 小西六写真工業株式会社 K3,BK1,BK7,LF4,LF5,LF7,F2,F5,SF2,SF5,LLF2,KF2,KF4,SK4, SK5,SK7,SK9,SK10,SK11,SK16,その他
>>510 >いや終戦までに日本が製造した硝子37種と言うのは、大量に製造した物が37種と言う意味で
>大阪で製造試験を実施した物も含めると当時の日本は100種くらい作れると。
違いますよ。
37種というのは日本光学工業が作りえた硝種でしかありません。
>>501 で上げられている硝種の内、BAF10を始めとする複数の硝種については、
最新の社史やHPなどでニコン自身が戦後に溶解に成功したといっていますから、
37種=大量に製造した硝種ではないといえます。
また、日本光学工業以外では小原光学硝子、富士写真フィルム、千代田光学などが戦前から戦中にかけて光学ガラスの生産を手がけていますが、
これらは何れも大阪工業試験所の技術指導を受けて研究と製造を開始しており、作れた硝種は大阪工業試験所で製造できたものに限られています。
それに
>>502 で上げられている大阪工業試験所で試験を行ったという硝種の多くが、
>>501 で上げられている日本光学で溶解を行った硝種と重なっていますので、
日本全体で作れた硝種は100種どころか80種にもいかず、良くて50〜60種でしょう。
>>503 >ただその場合、使える硝種がアレでは他の硝種を使用出来る測距儀と比較して大きさの割に…という品質になってしまいます。
>そのあたり日本がどう考えていたのか興味が出てきます。
光三九金物に関しては、ざっと光学配置図を見る限り、ベストと言い難い箇所があります。
本来、プリズムを使うべきところで反射鏡を使っている箇所です。
光路の角度を変える時、精度を求めるなら通常は全反射するプリズムを用います。
もちろん、銀メッキなりアルミメッキなりをした反射鏡でも角度を変えることはできますが、
現在の技術を使っても反射鏡の反射率は100%になりませんから、一回反射させるだけで数パーセントの光のロスが発生してしまいます。
であるのに、反射鏡を使いプリズムが使われていないということは、
そのプリズムを作成するために必要な光学ガラスが用意できなかった事を意味しています。
通常、光路の角度を変えるプリズムに使われる硝種はBK7かBaK4です。
BK7は安くて硬度もあり使いやすいのですが、屈折率が低い関係で視野周辺に「ケラレ」が発生しますから、
ここでも精度を求めるなら、屈折率が高く「ケラレ」の発生しないBaK4を使用することになります。
光の角度を変えるのに光のロスが発生する反射鏡を使用するのと、
「ケラレ」が発生するBK7製プリズムを使用するのと、どちらが良いのかはケースバイケースなので判断できませんが、
その両者よりもBaK4製のプリズムを使用した方が性能が良くなるのは間違いありません。
BaK4自体は昭和10年以降作れるようになっているのに、光三九金物に使っていないということは、
小さなガラス塊は作れたが大きなガラス塊は昭和14〜16頃になっても作れなかったということなのでしょう。
だから、ベストではないことをしりつつ光路の角度を変えるのに反射鏡を使ったと。
516 :
515 :2007/08/15(水) 00:21:44 ID:???
訂正 ×小さなガラス塊は作れたが大きなガラス塊は昭和14〜16頃になっても作れなかったということなのでしょう。 ○15m測距儀に見合う大きさのプリズムを作れる大きなガラス塊は昭和14〜16年頃になっても作れなかったということなのでしょう。
>>475 コピペに抜け有り
「大井硝子製造所」
> 当社製造の光学兵器に大型の物が多かった為、それに要するプリズム・レンズ等の大塊のもっとも最高の品質を持つ光学硝子が多量に要求されたが、
> 研究の結果、方位盤や15米・10米の大型測距儀に使用する大型硝子をも、よく生産供給する事が出来た。
>
> 特に泡や脈理のないことを必須条件とされる測距儀用の端反射5角プリズム、同中央プリズム、潜望鏡の下部プリズム等に用いる硝子の溶解と、硝子を
> 光学的に均質にする焼鈍作業の研究については多大の辛苦をして、充分の成果を上げることができた。
>
> 「40年史」
> (ニコンは)終戦時には次に挙げる約40種類の光学硝子を溶解していた。 > > FK1,FK4,BK5,BK7,BaK1,BaK4,K3,ZK2,ZK5, > > SK1,SK3,SK4,SK5,SK7,SK9,SK10,SK14,SK16, > > F1, F2, F3, F4, F5, LF1, LF4, LF5, LF7, > > KF2, KF4, SF2, SF3, SF4, SF5, BaF3, BaF10, BaSF1, BaLF4 > > そして、これら硝子の溶解量も次表に示すとおり逐年増加 (40年史)
日本の光学硝子について全体の流れ 大正時代 主にショット社からの輸入品に頼る 昭和初年度頃 ドイツに劣らぬ優良な光学ガラスを生産可能となる。しかし光学硝子の一部はドイツのSchott 社から輸入。 昭和8年以降 優良な光学ガラスを大量に生産可能となる。国内で使用する硝子は自国製の物で充足 昭和12年頃 日華事変勃発、光学硝子の供給不足始まる。以後終戦まで不足状況が続く 昭和13年頃、厳しい物不足のなかで戦艦大和の大型測距儀製造(Schott 社から輸入品は既に使い切っていた) その後の状況 > 軍の援助で共栄圏及びドイツより潜水艦による輸入が行われたが、その量も限られた物であった。
今日、「兵器を中心とした日本の光学工業史」「25年史」「40年史」が手元に届きました。思ったより早かった。 抜粋して下さった方々ありがとうございます。 既に手元にある「50年の歩み」「75年史」その他と読み合わせてみますね。
他氏が既にご指摘ですが、日本光学におけるBaF10、FK1、SK16の製造成功に
ついては、より新しい社史である「75年史」(これには「兵器を中心とする〜」も
参考資料として使用)で戦時中は研究していたが作れなかったこと、戦後に
なって成功したことが明言されています。
「昭和23年6月,戦時中から目標としてきたバリウムフリントガラスBaF10の
溶解に成功した。のちにわが国のカメラが世界の注目を浴びたのはレンズの
優秀性にあり、その優秀性を発揮するのに役立ったガラスがバリウムフリント
ガラスであった。続いてFK1とSK16の溶解にも成功し(後略)」
また少し古いですが、と言っても「50年の歩み」より新しい「明るい暗箱」でも
同様の経緯が記述されています。
また戦時中の製造硝種についてはニコンからもほぼ同様の回答を頂いて
おりますので「40年史」や「兵器を中心とした日本の光学工業史」で製造して
いたと記述している内容は現在では訂正が必要となっているといえます。
何故記述が誤ってしまったのかは不明ですが、
>>501 氏ご提供の
「兵器を中心とした日本の光学工業史」の内容をニコンの資料と比較すると
>>505-508 にありますように既に製造している硝種が幾つか抜けており、
その分研究中の硝種が混じっていることがわかります。
>>515 ボールを投げっぱなしにして済みません。
他の方が「大きな塊を造れる」と主張されているのは大きいか小さいかというファジーな表現の話ですからどちらも誤りではないでしょう。硝種も特定していない記述ですし。
ところで確かに三九のプリズムの件、不思議ですね。
光学系の概念図を確認しましたが本来は五角プリズムを使用するべきところに反射鏡5枚を組んでいます。
ずっと小型の前系、後系プリズムはちゃんとプリズムを使用しているのにです。
それでよく見ていくと、窓ガラスの直ぐ内側の反射鏡、4枚組のものとは別のそれの横に小さな5角プリズムらしき図があります。
今日届いた「兵器を中心とした日本の光学工業史」にも小五角プリズムを使用したこと、前後の端反射に別々の光路をとる余地がなく、1組の小五角プリズムを兼用していたことが記述されています。
10mもほぼ同様の構造(但し五角プリズムを兼用していないらしい)であることも書いてありますが、他の測距儀を見ても6m位になると大きなプリズムを使用せずに反射鏡と小プリズム。
3m位だとプリズム使用と反射鏡と小プリズム組の両方があるようです。
まあ、そもそもドイツの方が多くの硝子種を生産していたことは知られているんだし問題ないでしょ。 問題なのは日本の光学兵器が昭和7年頃から世界水準を断然追い抜いていると言うこと。 ドイツに対しても少々上、英国以下は圧倒的に抜き去って・・・・
比較するなら戦前日本が輸入したり調べたりした海外の光学兵器の調査結果が要るな。
「40年史」の記述にも気になる点が出てきました。
>>519 氏が抜粋して下さっている内容特にBaF10、FK1、SK16についてです。
他氏が既に指摘し、私も
>>522 において、新しい「75年史」やニコンの回答により、「40年史」の記述は現在では間違いであると指摘しました。
今日届いた「40年史」にも
>>519 氏が抜粋された内容が確かに記述されているのですが、同じ「40年史」でも別の部分に全く異なった記述がありました。
「昭和23年6月10日には、遂に待望のBaF10の溶解に成功した。これは、戦時中から戦後の混乱期にも、一貫してルツボの改良と試験溶解に努力を続けてきた賜物であって、これを機として引き続きFK1・SK16の溶解にも成功し(後略)」
「75年史」やニコンの見解を待つまでもなく、成功していなくても研究中の硝種を一部含めてしまうというミスが生じているようです。
確かに一覧には「溶解した」とは書いてあっても「成功した」とは書いていないのですが、既に製造している硝種を除いて総数を合わせてしまっている点はうがった見方をされる方がでるのもやむを得ません。
もっともあの時点でこれら数硝種について誤魔化すメリットがあるとは考え難いですから、単純な編集ミスではないかと思いますが。
>>524 ことはそう単純ではないのですよ。
造れなかった硝種が屈折率データ的に重要なもので、しかも独だけでなく、米英も製造している硝種なんです。
それ故に両派ともに協力して資料を提供し合っているわけで。
>>525 お説の通りです。わかる範囲で調べてみます。
そりゃそうだろう、Nikon,Cannon、ミノルタ、ペンタックス 見てりゃわかんべ
>>527 日本と比較するなら、例えば米英仏伊の生産可能な硝子種の数でも比べたら?
保守
自己レスです。
>>523 で書いた反射鏡横の小型プリズムらしきものですが、いくつか調べていたら「自調系反射鏡」だそうで。
小五角プリズムは別にあるのでしょう。
ソ連の光学機器はまさかレンズが曇ったり、歪んだりで質が悪そうだな。
印象と実態が違う事もあるのが歴史だろう。 分からないものはとりあえず判断保留がベスト。
だが昭和に入っても英国の光学兵器は硝子の質・設計とも酷い性能だったのは事実だし、それが開戦直前になって 突然高性能になるとは考えにくい。やはり日独にくらべ遙かに劣っていたと見るべき。
米英の光学兵器に付いて、米戦艦の光学兵器の設置位置・高さから、米戦艦の有効射程距離は艦上観測時・二万五千メートルと 判断されていた。 「戦史叢書 海軍戦軍備(1)」より 理由は、地球は丸いため遠くの敵を測距・照準するためには高い位置から狙う必要がある。しかし低い位置に設置してある 米戦艦は物理的に遠距離射撃が不可能。これにより米戦艦の外見から有効射程距離の上限が割り出されている。 対する日本戦艦は橋楼の高い位置に機材を設置していて有効射程距離三万メートル。米戦艦に比べ約五千メートルほど優越している。 米英戦艦では日本戦艦のような長大な遠距離射撃は始めから無理だったのだが、これは光学機器に質の良い物が無かったため 諦めていたとも考えられる。
逆に言うと、日本戦艦のパコダマストと頂部の測距儀も それ見ただけで向こうの専門家には分かっちゃうよね。 地球の丸さに着目した計算式なんて 地理通信関係の資格ではよく出てくる知識だし。 パコダ化の傾向は昭和5〜10年前後には分かっていたにも関わらず それへの対抗策をどう考えていたのかは疑問。 レーダーはその回答足りうるが、時期が後にずれ込んでる支那
アメリカでも新型艦は高所に置いてないか?>測距・射撃装置
ヘタリアのリットリオ級もパコダマストだ。
>>537 戦史叢書の記事は戦前の調査だから、旧式戦艦の話ね。
合致式とステレオ式の性能差の件がうやむやになってないかい? パゴダの件はアメちゃんは小改装の度に増えていく艤装に耐えかねて 三脚楼になったりしてる(アリゾナ)し、ステレオ式で充分補えたと考えられね? 英は用兵側も20,000以内に飛び込んで一撃必殺がお好みのようだから あまり遠距離射撃に積極的でなかった状況証拠。(北海仕様ともいう)
旧式艦では3万なんて距離で撃ち合いすることはそもそも考えてなかったんじゃ
ないかな。砲の性能とか用兵思想的に。
米英の旧式艦の光学兵器の設置位置が日本の艦より低かったことから
>>535 みたいな
結論を導き出すのはいささか牽強付会の観がある。
>>543 だから日本の戦艦は高いところに観測機器を設置し、米英艦はそれより低いところに
設置してたってだけの話でしょ。光学兵器の性能云々とはまた別の話。
>>535 光学機器だけの問題でもないんじゃなかろうか?
方位盤射撃で交戦距離が伸びたとはいえ初速780m程度では
距離3万で40秒近くかかるわけで。
砲そのものの精密化には限度があって「初弾があたるのはまぐれ。
修正しないと大砲は当たらない。」が常識だった。
すぐに修正射撃しても40秒あれば5ノットでも目標は100m移動できるし、
転進もありうる。射撃側も陸地と違って波の動揺がある。
結局、命中率は初弾とかわらんから意味がない。ってことになるのでは?
で、日本がその意味のない距離での交戦のためにひたすら光学系に注力
してお化けみたいな巨大測距儀作っている間に、アメリカでは測距儀に
ジャイロ仕込んだり自動計算機組み込んだりして転進中だろうが波が
高かろうが安定した射撃ができる方向に注力していたと。
これにレーダーによるデータが加わって42年下半期以降は夜間や雨にも
対応できる全天候型の兵器になっていたわけでどっちが兵器として
より現実的な方向だったかはいうまでもない。
>>543 扶桑山城は前楼の動揺が最期まで修正できなかったと記憶する。
そんなんで光学系だけ性能がよくても結局正確なデータは取れないのでは?
>>544 機材の設置位置からみて米戦艦の有効射程の物理的上限は判るが少なくとも傍証にはなる。
それに光学兵器の性能に関しては海外に出て調査した結果や輸入機材などから判断して
イギリスなどに比べ日本が遙かに優ると判明してるし、ドイツに対してさえもやや優越。
>>545 > ジャイロ仕込んだり自動計算機組み込んだりして転進中だろうが波が
> 高かろうが安定した射撃ができる方向に注力していたと。
これは日本海軍も同じだし他のどの国の戦艦も同様。近代戦艦は全てそう。
射撃システムにジャイロを組み込み、また射撃用コンピューターなどを設置して対応している。
レーダーの研究には国ごとで進捗状況に差があったけれど。
>>546 扶桑は新造当時に射撃時の爆風の影響などが指摘されたが、改装後は問題なし。
(ソース「艦長たちの太平洋戦争」扶桑艦長談)
また実際の射撃でも極めて優秀な成績を残している。正確なデーターが取れなくては精密射撃などできない
別スレより
> 129 名前:名無し三等兵 投稿日:2007/07/12(木) 19:27:20 ID:???
> 戦艦・扶桑・・・・猪口敏平艦長時代、距離30000メートルもの長距離乙種戦闘射撃で命中率14.5パーセントを達成!!
>>547 >これは日本海軍も同じだし他のどの国の戦艦も同様。近代戦艦は全てそう。
再審査を要求する。日米の間にはこの辺の装備に世代が違うぐらいの差がある。
なんでもアメリカの物は優秀に決まってると言う先入観があるからな〜
>射撃用コンピューター 日本海軍では射撃盤と呼んでいたのだが、艦の中枢部に設置されて 200人もの人間が操作していたとか。非常に高度で精密な機密兵器
いつもの火病が始まったなw
>>549 Mk48付きMk38のことかと思う。
垂直方向の動揺をジャイロで自動補正。相対運動にあわせて方位盤も自動で旋回。
人間は微修正にだけ専念すればいい。
日本はこの辺、全部手動。データの受け渡しも伝言ゲームの部分が相対的に多い。
ただし、意外と成果としての命中率は日米あまり差がないのは日本をほめるべきなのか?
>>553 米は素人でも運用できるシステム作りを目指し、日本は徹底した玄人の育成を
目指してたという違いではなかろうか。
>553 > ただし、意外と成果としての命中率は日米あまり差がないのは日本をほめるべきなのか? 実戦でのその辺の数字ある? 命中弾数 / 発射弾数と、時間当たり命中数。 米軍のこの辺の思想は射撃中断時間を減らして数撃つ式だから、前者が同程度なら 実戦では後者において勝る可能性があると思われ。
94式高射装置の開発の時に、本来かなり自動化できる部分を装置が複雑になるとか、故障したら困るとかいって わざわざ手動にして操作人数増やしたのと似たような発想の結果もしれませんね。
>>555 昼間砲戦としてはアッツ沖やスラバヤ沖海戦だが、概して日本側の命中率は
数倍以上に達している。発射弾数は日米同じくらい。
>>553 >伝言ゲーム
これは測距データーの受け渡しだろうがアメリカも同じ「伝言ゲーム」。
言葉でデーターを伝えるから。レーダーでも測距儀でも。
>>544 いずれにせよ日本並の遠距離射撃が不可能なのは事実
560 :
553 :2007/08/21(火) 18:55:46 ID:???
>>555 ごめん。ここにさっと挙げれるようなもんはない。
砲戦自体がさほど多くないのに歯がゆい。
同程度っていうのは命中弾数/発射弾数の何かの統計を見た印象。
単位時間あたりっていう発想はなかったわ。
参考にスリガオで扶桑、山城がフクロにされたときのデータ。終了時刻時刻はデータなし。
艦名 使用弾数 砲門数 斉射回数 挟叉回数 命中弾数 射撃開始時刻 射撃開始距離(ヤード)
ウェストバージニア 93 08 13 13 03 3:53 22800
テネシー 69 12 13 12 01 3:56 20500
カリフォルニア 63 12 09 09 03 3:55 20400
ただし沈んだフネを引き上げてまで弾着の調査したわけじゃないので
実際は不明というオチがつく。
艦砲は不発が多いので3倍くらい当たってるかもしれないし
他艦の命中弾を自艦の命中にカウントしていて実際は数分の1かもしれない。
293 名前:名無し三等兵 投稿日:2007/07/22(日) 13:42:21 ID:??? スリガオ 米戦艦六隻 vs 戦艦山城(雷撃で損傷、戦力半減) 実質12対1 兵力自乗の法則に基づけば、12*12 = 144 対 1 命中率3倍を考慮すれば 144 対 3 ・・・・勝てそうに無いな。 ランチェスターの法則通り。
このスレに比叡とか霧島とかも出てるではないか
ところで光学兵器の話は日本が圧倒するでFA?
光学機器は日本が圧倒的に優り、レーダーに関しては米が優る
圧倒は一人が大げさに言ってるだけでは
検証スレなんだから資料を持って語れ
>>540 光学実験部がツアイスの6M倒分像ステレオ式測距儀を実験した結果、
>>484 の八木氏の報告(ステレオ式の測距儀は分像合致式の1.6倍の性能)が確認されたということだが。
>>545 >アメリカでは測距儀に ジャイロ仕込んだり
他は知らないけど、光三九金物にはジャイロ利用の安定装置が組み込まれているよ。
ジャイロに関しては 米のMk38に組み込まれてるものは単なるジャイロとは別物だよね
いろいろな計測データのアウトプットの表示針に追随するために人間が
ハンドルを回し続けるのが日本式。
メリケンはその辺の作業は自動。
戦車でいうと74式戦車が停車しないとまともな砲撃できないのに対し
90式は走行中に砲撃可能だけどそれぐらいのテクノロジー格差がある。
>>558 はそのへんの理屈がわかってないから同等だと誤解していると思われる。
一回の伝言で関係者に瞬時に同じデータが伝わるシステムと
何回も復唱を繰り返す方式とでは作業効率がずいぶん違う。
そのかわりダコタのように電気が落ちると万事休す。
また、初期のコンピュータにソロバンが勝っていたような部分が
あることは否定しない。
>560 うーん、艦隊同士による実際の砲戦がほとんどないですから、やっぱり検証に 堪えるほどの数値はありませんよねぇ。 >単位時間あたりっていう発想はなかったわ。 砲戦がスポーツなら命中率だけ競ってもいいのかもしれないけど、第一目的は命中率を 競うことじゃなくて相手の継戦能力を奪うことですから、実際に何発当たるかが重要 ですし。公算射撃が確率をベースにするなら、命中率を上げる方法でも、くじを引く 回数を増やすでもどっちでもOK。要は相手にダメージを与えればいい。 まぁ、人と資源の両方に乏しい日本が職人芸と精神論に傾倒したってのは、 他に手があった訳でもなし、いいとも悪いとも言えない話ですね。 (開戦に至る経緯の話は別として)
>>569 伝わらない、伝わらないよ>米戦艦
Mk38も測距儀の測定距離は距離表示器に打ち出されるだけで
手動で各システムに再入力が必要
ジャイロによる垂直安定義も信頼性と精度が低く
海面状態によっては手動操作の方が精度が高いと酷評
内線電話により何回も復唱を繰り返す方式な為言い間違いや
取り違えによる出弾率低下が起きている
これらが自動入力されるようになったのは戦後の話だ
米側の評価だと、日本戦艦の射撃方位盤のように
わざわざ手動にして操作人数を増した方が被弾時等の
継戦能力維持に寄与するとして教訓を取り込んでいる
>>571 >継戦能力維持に寄与するとして教訓を取り込んでいる
具体例ありますでしょうか?
>>572 戦後すぐのミッチャー級に搭載されたMk67
戦艦や巡洋艦等と言うよりもむしろ嚮導駆逐艦
(後に巡洋艦扱いとなった米の大型フリゲート)に導入された
ただ技術進歩ですぐ無人化省力化されていくので
戦後すぐの時期から50年代にかけての徒花に終わっている
80年代に事務に電卓が入り始めた頃に「ソロバンの方が電卓より信頼できる」って 頑張ってたおじさんたちみたいな話だね。 そういえば過渡期にはソロバンの横に電卓がくっついたのもあったっけ。電卓の 検算がソロバンでできますってさ。案の定、あっという間に消えたけどね。 ソロバン派の出してくる有利な例ってのが、ソロバン検定何段みたいな人と 普通の人で帳簿の検算させるとかの競争でソロバンの法が早いっての定番だったな。 もっとも、そういう有段者は、帳簿くらいの数字の足し引き算位は暗算で やってのける人達ばかりな訳だが。 問題は、事務にそういう人をいつでも必要なだけ揃えられるかってゆーか、 電卓は誰でもすぐある程度の事務計算ができるようになるのが強み。 ま、結局は80年代後半から90年代初めにかけて、修正まで含めて大量に こなせるコンピュータが出回ってソロバンはどっかいっちゃったというオチ。
電卓つきソロバンの電卓は検算とかじゃなくて、足し算引き算はソロバン、掛け算割り算は 電卓でみたいな使い方をしてたと思う。 足し算引き算だけなら、桁が大きい場合などソロバンの方が電卓より早い(それほどの 熟練者じゃなくても)から。
要するに1945年の時点では>>569が主張する程の差はないということだな。
45年の時点なら、既にレーダーのデータも入ってきているから 差はあるだろ。
578 :
569 :2007/08/22(水) 14:30:04 ID:???
前の方で指摘のあるとおり、命中率という結果でみるかぎり 大したことない。 テクノロジーに差があることを指摘しただけ。 初期の蒸気船より帆船が有用だったり、自動車より 馬車が有用だったりするのと同じ。 逆に言うと同じぐらいまで達したから採用したという言い方もできる。 また、重巡とか激しい回避機動を行っているわりには高いといえるかもしれない。
で、結局、製造能力は 独>>その他 だけど、採用された光学兵器としては 日>独>米>英 という理解で良いのか? その理由は日本以外の他国は30,000mの精密射撃を本気で企図しなかったから?
たしかに。 ただ、今はレーダー以外の話じゃないか?
>転進中だろうが波が高かろうが安定した射撃ができる方向 波の動揺はどっかで見た覚えがあるが、転進中に米並に配慮した仕様なんて 日本の射撃盤に組み込まれてるの?
>>581 数、信頼性、システム思想?
戦艦に関しては艦隊決戦用の道具だからシステム的には
そこまで顕著な思想の差は出ていない気もするが。
>580 目的は当てることなんだから、他によい代替手段があれば旧来のシステムの更新は 進まなくなるもんですよ。そういう意味で、厳密に分けて扱うことはできないよ。 極端な話、ミサイルに世代交代してからというもの、戦艦級の主砲の進化は停まっている。 というか、既に殆どロストテクノロジーになっちゃってる。
>>569 と
>>571 のやりとりを見たかぎり
(光学であれ電波機器で得られたデータであれ、)射撃データ入力が自動か手動かその優劣のはなしだよね?
>>585 いや
>>545 が
>>535 に反論したのが脱線して大きく膨らんでるけど
元はといえば日帝時代の光学兵器は諸外国に勝っていたかの検証中
だったと思ふ。
ニコンの社史等を検証し終えてレンズ用ガラスの製造能力がなかったことは
判明。
ガラスはmade in japanじゃないけどレンズ磨いて光学兵器に仕立てる
部分ではどうだろう?という流れ。
射撃管制全体の話も好きだけど光学兵器の件の結論がうやむやになるのも
もったいなくね?
今のところ他国の光学兵器に関するデータがほとんど出てないので比較しようにも しようがないって感じかな。
>>584 >他によい代替手段があれば旧来のシステムの更新は進まなくなるもんですよ。
これが至言のような気がする。
レーダーの出現で興味の中心はレーダー等電波兵器に移り
測距儀の更新も止まったので大型測距儀の能力に関する資料や証言は少ない。
少なくとも米戦艦の本はレーダーの性能の記述にはスペースを割いても
測距儀そのものの記述は少ない。
>>418 初めて出したニコンT型は昭和23年のマージャラム・レポートで「レンズの描写力が
低い」と酷評されてる。BaF10の熔解成功やフッ化マグネシウムコーティングの実施
などをスタートしたのが同じ昭和23年で、品質の高さを認められたのはその二年後。
戦前から培った技術力は確かに高かったんだろうが、戦後の技術革新が寄与した部分も
大きい。だから昭和25年時点のニッコールF2〜1.5の成功をもって戦前からの日本の
光学技術の他国に対する優越性の証拠にすることは出来ないと思う。
>>586 >ニコンの社史等を検証し終えてレンズ用ガラスの製造能力がなかったことは 判明。
大正時代ならそうだけど、昭和に入ってからは自給できたと書いてあるよ(ニコン社史)
>>589 民間用カメラはスレ違い。そもそもニコンが本格的にカメラを作り始めたのは戦後になってから
だから比較対象外。戦前戦中は光学兵器作りで手一杯だったから。
>>586 >ガラスはmade in japanじゃないけどレンズ磨いて光学兵器に仕立てる
>部分ではどうだろう?という流れ。
これに関しては、大正9年の段階で既に「(ニコンの)光学系はドイツ製に対し優るとの判定」が為されている。(社史)
他の部分は未熟だったけれども、創成期頃としては上等。
ダコタの甲板と垂直の装甲何センチか教えておくれ
初心者質問スレの方へ
>>594 九二式は転進には対応してないと記憶しているのだが・・・
自分の切った舵で自艦がどんなカーブを描くか把握してればやれるかな?
>>590 >>591 老婆心ながら指摘すると
自給できないガラス種があったし、比較対象が年式が古く適正か疑問ありという結論。
じゃあ二次大戦時の実際の測距儀を比較できないか?ってこと。
米はなんとなく盛り上がってるから英独の測距儀事情御存知の方はいないかな?
英なんかそろそろ反論しないと日露あたりから進歩がなかった呼ばわりされそうなんだけど。
測距儀の日米英仏伊独露墺の測距儀の性能差を知りたいな、第一次大戦時代から。
>>596 >自給できないガラス種
海軍光学兵器に必要な硝子種は自給できた(社史より)。(戦前、民生品のカメラはドイツの方が優る。併せて生産ガラスの種類も)
ただし、戦時下に於いて過大な軍需に対応しきれず生産量は戦争中を通じて不足していた。
そのため可能な限りドイツから輸入して凌いでいる。(同じく社史から)
>>595 刻々と変化する自針自速に対応してない射撃盤なんて無いでしょ。もちろん誤差無しとはいかないにせよ。
久しぶりに戻ってきました。
>>590 取り合えずニコンの社史は25,40,50,75年史に目を通しましたが、昭和になって随分硝種を増やしてはいますが、未だ重要な硝種で作れないものがあり、反面独米英ではそれを作っていたりします。
>>598 出来ていません。社史に全て出来たと記述されているのでしたら引用をお願いできればと思います。
現に高屈折率の硝種に苦労していますよ。これら高屈折率硝種を使用しなくても測距儀は造れますが、性能的には劣ったものになるのは説明の必要も無いでしょう。
故に日本でも必要とあれば輸入しています。
もちろんドイツからの輸入には生産量を補う為という理由もありますが、BaF10,FK1,FK16等が造れなかったことは各社史やニコンの回答で明らかですし、それを輸入していたことは「明るい暗箱」にも言及されていますし社史にもそれとなく示唆されています。
因みに社史以外の資料をあたると面白いものが見つかることがあります。 昭和6年に海軍技研がドイツからの輸入を申請して認められた硝種について、「本規格の光学硝子は目下生産せず」としています。 この時輸入された中には後に製造可能となったものもありますが、終戦までに日本光学ではBaK2,SK11,BaF4,は遂に製造に成功しませんでした。 日本光学と肩を並べ得る可能性を持った小原光学でも、BaF4は終戦まで造れなかった硝種に入りますし、そもそも小原は設立が遅く、戦艦用に光学硝子を供給する機会は無かったようです。 他に昭和9年にも技研は多数の光学硝子を輸入申請して認可されてしますが、ここでも 「日本光学において数種製造中なるも現状にては自給自足の域に達しざるをもって」 としています。 中には既に造れていると推定される硝種もありますが、日本光学でもBaSF1,BaSF2が当時作れませんでしたし特に後者は終戦まで成功しませんでした。(小原は作れるようになったそうですが既に遅し) またこれら輸入記録を見ると、造れた硝種に入るBK7でも、大口径レンズ輸入の場合は作れないとしている場合があり、反面小口径レンズを含む請求の場合造っているとすることがあります。 これは硝種としては作れていても、大口径レンズを加工するに足る大型優良な塊はまだ物にしていなかったことがわかります。 因みにこれら輸入光学硝子は出師準備に使用すると目的を明言しているものもあり、当時進行中の各艦艇の改装等に使用されたことがうかがえます。
あと「40年史」から1つ話題があります。 大和の15.5m測距儀の光学硝子について、全て国産であるという説の理由に挙げられる部分です。 「光学系の研究と大塊の光学硝子の入手に多大の努力を払わなければならなかった。(ドイツschott社から輸入していた光学硝子は当時すでに使い果たしていた)」 なるほど、国産品で造ったとは書いていないものの、ショット社の硝子がつきていたという表現は国産硝子のみでの製造を想像させると言えます。 反面、入手に苦労したのであって、製造できたとも書いていないのも見逃せません。 実際、測距儀に使用される多種の光学硝子の中にかなりの国産品を使用していたことは確かと思われます。 硝種で見てみましょう。昭和10年までに溶解した(溶解ですから必ずしも生産とは限らないですが)硝種は BK1,BK7,BaLK3,BaK4,SK3,SK4,SK5,BaLF4,LLF2,F1,F2,F3,F5,SF2ですが、この中で最大の屈折率を持つSF2でも1.647程度です。 BaF10は1.670で敵わないのです。また分散もBaF10の方が小さく光学兵器に使いやすいことでしょう。 昭和18〜19年頃成功したSF4は屈折率1.7台に突入し、この点だけならBaF10に優るのですが、反面分散が大きく使い難い面がある。 戦後になっても大口径レンズにBaF10が必須とされた理由がこのあたりにあるのかもしれません。 SF系は黄色があるというのも理由かも知れませんが、もっと詳しい方にお任せすることとしましょう。
昭和10年としたのは大和用の三九が設計開始されたのが昭和9年、設計完了が12年であることからです。 仮にその後の硝種を含めても昭和18〜19年にならないとSF系の残りが出来ないので大差は無いのですが。 尚、「光学系」とは他氏からも御教示がありましたが、レンズの製造技術のことではなく、各種光学硝子を組み合わせて収差等を補い合い長所を生かす組み方の設計を指します。 ここを勘違いしていると私も含めて指摘されたことは記憶に新しいことです。 本当にショット社の硝子が無かったのかどうかは別な資料からある程度裏付けが取れます。 昭和14年度の物動計画にもドイツからの硝子輸入は相当あって、大和用の三九金物が設計開始される昭和9年どころか製造開始13年頃も相当量の硝子輸入が続いていたことは間違いないのです。 ではなぜ「40年史」では在庫が尽きていたとしたのか。 上で書いたように出師準備用等にドイツ製硝子素材や製品を昭和6〜10年頃に輸入し(昭和7年の請求分だけでレンズ1705枚と素材180キロ)艦艇の改装などに使用していたわけですが、これの在庫が尽きていたということでしょう。 そうでなければ現に輸入している硝子を「無い」とする理由が見つかりません。 好意的に考えれば一時的に在庫が無い状態だったと考えられます。 後の「75年史」ではそのあたりを慎重な記述に変更し、資材の入手が困難で外筒材は直接担当者が八幡に出向いて入手した話を載せるにとどめ、硝子に関しては一応触れるのを避けています。 「40年史」でも、その後太平洋戦争突入後海軍の斡旋で潜水艦輸入のドイツ製硝子を入手していたことに触れられており、「50年の歩み」でも質量ともに要求に応じることができずと理由を述べています。 他の資料17年度の輸入計画でもドイツ製硝子の輸入はそこそこ計画されていますが、こちらは潜水艦や柳船による比較的少量の輸入にとどまったと考えられます。
上で少し話題になっていましたが、米旧式戦艦が比較的低い位置に測距儀を装備している件。 ステレオ式の場合、目標の垂直部分が短くても測距精度が高いことが関係していると考えられます。 つまり高い位置の有利さは相手の檣楼の垂直高さを大きく観測出来ることであって、位置が少し低めでも垂直部分の高さが合致式ほど必要とされないステレオ式の場合は許容される範囲なのでしょう。別に極端に低いわけでもないですし。 日本ほど遠距離指向ではないのも一因でしょうが、米国海軍も列強中では割と遠距離指向の方に入ります。 この点については我国の実験でも確かめられています。 勿論ステレオ式であっても高い位置に越したことは無いのですが、それには構造強化による重量増加など弊害もあります。 ただ改装艦は日本ほどではないにしても高位置に改める努力はしていますね。 あと当時二重式というのは割とポピュラーだったようで、古い話ですが昭和2年に輸入した英国製も性能は良くないものの二重式でした。 またツァイスをはじめステレオ式は一重構造の二重式ですので、ステレオ式搭載艦は最低二重式相当のステレオ式と考えてよいようです。 大和の場合は三重構造の四重式とのことですから、ステレオ式を有効に運用できていれば期待できるでしょう。
>古い話ですが昭和2年に輸入した英国製 訂正 昭和3年頃でした。 輸入測距儀の話が出てきたついでに以前話題になった比較対象の外国品についての記述を見付ました。 とりあえず最後に輸入した物についてです。(兵器を中心とした〜より) 英国 昭和3年頃、8m、6m二重式 大したものではなかったようで、もっと古い大正9年輸入の英国製より光学的に劣っていたという。 独国 昭和8年の八木技師の報告により昭和11年に輸入した6mステレオ式。 日本光学の試験では測距精度は優れていたが、海軍側では多く計り難い物も相当あった。 理由として架台が震動に弱く、上下差修正法ものみ込めず使い慣れていない者が多かったという。 陸上用の架台だった。 米国 大正5年頃(別資料では6年とも)に輸入した6m。 内外筒の構造など理由が良くわからない点があった。 最初は武式位の精度があったらしいが、その内調整が狂ったり曇ったりして3〜4年で下した。 伊国 昭和13年頃到着した3m半、4mのステレオ遊標式対空用。 全般的に日本光学のものと大差なく、国産品より光学的性能は良好でなかった。 これも陸上用であった。 因みに他の資料では日本光学は海軍より自社製作の対空測距儀の参考として武式4.5m対空測距儀を再三(昭和3〜8年)に渡って見本として貸与を許されています。 同様に、潜望鏡に関しては昭和2年にツァイス7m潜望鏡を貸与されています。 これを参考に昭和5年頃独自設計の八八式三型が完成、更に改良し昭和13年にはドイツ製を遂に超えた。(75年史) 「兵器を中心とした〜」によれば、この貸与潜望鏡は昭和2年に輸入したツァイス製8mとしていますが、元資料では海軍、日本光学共に7m三型であるとしています。
フランスの光学機器の性能がわからないけど、機銃がフランスのをライセンス国産なのに。 ロシアの国産光学機器の性能はレンズが曇ったり歪んだりで列強最低と想定出来るが。
>>599 そうだったらみんな苦労しないんだよね。
ン秒後に主砲発射と決めて的測→未来位置予測→照準→発射
の間は転進できないし、弾着を見て修正射撃する場合、
発射後の転進にもナーバスにならざるを得ないのが当時の水準。
(転進しちゃうと精度が初弾と変わらなくなる。)
わが海軍も米重巡の頻繁な転進には手を焼いている。
>>607 日本の重巡も頻繁に転進してるからお互い様。
>>604 >米旧式戦艦が比較的低い位置に測距儀を装備している件。
比較的低い位置に機材を設置してる米戦艦でも3万メートル近くの測距は可能だと思うよ。でも有効射程は、また別の話。
> 257 名前:名無し三等兵 投稿日:2007/07/21(土) 13:27:01 ID:???
>
> 戦艦「山城」型では、三万七〇〇〇メートルぐらいから敵艦の橋楼の上部が見えはじめて、測距が可能となり、三万メートルぐらいで
> 上甲板が見え出して、そのころになってはじめて艦からの弾着観測ができた
> そのため、橋上の測距儀がとくに重要視されていた。ドイツでは早くから、この橋上に大基線の測距儀をのせていたが、英米では
> ほとんど搭載していないというのが実情であった。
>
> 『戦艦「大和」開発物語』 海軍技術大佐 北川茂春 P209 光人社NF文庫
>日独では早くから扶桑始め各戦艦に高精度の大型測距儀を搭載し遠距離射撃での高い命中率に寄与していたが、アメリカやイギリスは
>ろくなのを搭載していなかった。
測距自体は日本の旧式戦艦でも4万メートル近い距離で可能だったのだが、有効射程は3万メートル程度。米戦艦はもっと下。
>>609 その後もちゃんと読めば作れていないことが判るはず。
dat落ちした過去スレならともかく同じ発言繰り返すなよ。
作れなかったもんは作れなかったんだ。それで良いじゃないか。
射撃方位盤まわりの件もそう。対応できてないもんはできてない。
その条件の中で先人たちがどんな努力をしてきたか検証してこそ
先人の偉業を称えることになる。
等動物のジャップが優秀な機材を作れるわけねぇ w
劣等スラブ民族のイワンや黄色い猿のジャップに優秀な機械が造れるわけねーww
煽り禁止
なんか三倍太郎みたいなのが涌いているような。 煽りも困るが、こういうスレに三倍太郎はもっと困る。
煽り禁止
>硝種で作れないものがあり 生産可能なガラス種がドイツより少なかったのは分かるが、それだけで測距儀が国産出来なかったと 主張するのは無理がある。
>>618 命題は国産云々ではなく、
・他国との性能比較
・保守部品も含めた供給体制の実態
だと思うが。<測距儀
日本戦艦の運用関連で質問です。 陸奥が第二次ソロモン海戦に 2F基幹の前進部隊として参加してますが、 中速艦である同艦が1隻のみで同部隊に配属された 経緯が知りたいです。 僚艦の長門は、軍隊区分上1F基幹の主力部隊として 内地に残留してますが、 陸奥は単純に第三戦隊(金剛、榛名)の 一時的な代替なんでしょうか? 市販の書籍等では、同海戦における陸奥の存在自体に 触れていないことが多いもので。
>>541 > 旧式艦では3万なんて距離で撃ち合いすることはそもそも考えてなかったんじゃ
> ないかな。砲の性能とか用兵思想的に。
> 米英の旧式艦の光学兵器の設置位置が日本の艦より低かったこと
二万メートルくらいの中距離砲戦になったら日本戦艦の水中弾で命中率5倍。フクロ叩き
>>619 性能比較としては
ガラス・レンズ一般の技術水準
ドイツ > 日本 > イギリス 他
海軍・戦艦用大型光学兵器限定
日本 > ドイツ > > > > イギリス 他
生産力は?
> 大和の場合は三重構造の四重式 いや大和のは普通三重式と説明されます。話がややこしくなるので従来の説明を踏襲しましょう。 ちなみに合致式15m二重測距儀部分は22.5m測距儀に相当し、立像式部分は24m測距儀に相当するそうです。
まあ、高性能レーダー開発してたらよかったのにね で、終わる話だな
つまり高性能レーダーは英米だけ、ドイツは軍備制限や敗戦のハンデで技術停滞が祟り歪な技術でレーダー発展が失敗。 日本、フランス、イタリアは、基礎技術の不足でレーダーが低性能。 ロシアはレーダーも無しか。
>>609 >>618 (まとめてしまった済みません)
現に造れなかった硝種を輸入に頼っていた資料が幾つも出ていますよ。
既に提示した断片的な海軍の輸入に関する公文書でも昭和初年頃どころか、昭和6年でも作れない光学硝子を測距儀用と明記して9硝種を輸入しています。
この内7硝種は「75年史」やニコンの回答で当時溶解さえ出来なかったもの2硝種は溶解できていたはずですが大口径の為製造が出来なかったと考えられるもの
尚、輸入された内3硝種は遂に終戦まで作れなかったものです。
同じく昭和7年末では出師準備用に11硝種、23種の硝子を輸入していますが、この内少なくとも2硝種(多分もっと多い)は当時造れなかったもので、内1硝種は終戦まで造れませんでした。
また前年同様BK7でも大口径のものがありますからこちらも製造が出来ないか困難だったことは前年資料と比較して容易に推定できます。比較的小口径のものは造れたでしょう。(比較的小口径といっても90oですから充分大きい方ですが)
昭和9年でも6硝種、13種類を輸入。やはり少なくとも2硝種は当時作れず、内1硝種は終戦まで作れませんでした。
昭和10年には既に米国で光学硝子製造に使用し優秀な成績を持つ電気炉の輸入を行います。
その他、社史の方で見ても同じ「40年史」で 「昭和23年6月10日には、遂に待望のBaF10の溶解に成功した。これは、戦時中から戦後の混乱期にも、一貫してルツボの改良と試験溶解に努力を続けてきた賜物であって、これを機として引き続きFK1・SK16の溶解にも成功し(後略)」 「75年史」でも 「昭和23年6月,戦時中から目標としてきたバリウムフリントガラスBaF10の溶解に成功した。」 とあり、「明るい案箱」でも戦時中に輸入していたこと、戦後の民需転換でも使用したこと、在庫が尽きて苦労したことが述べられています。 このBaF10は高屈折率、低分散の硝種で、望遠鏡や大型測距儀のような大口径レンズに使用されます。カメラのレンズとしても優秀ですが、カメラ向け限定硝種ではありません。 大体戦時中にわざわざ苦労して輸入したくらいです。データを持たないとしても、優秀さはおわかりかと思います。 もちろんBaF10やその他の輸入硝種を使用せずに測距儀を造ることも出来ますが、高屈折率、低分散のこれらを使用しないと大きさの割に性能の劣ったものになります。 しかし我が海軍が戦争突入後は兎も角、戦前の製品である大型艦用の主測距儀にそんな妥協をするとは思えません。 精度を維持するためにやはり輸入硝種を国産品と合わせて使用したことでしょう。 というわけで、他の資料や同じ社史とつき合わせしてみると、自社製品だけで充足できていなかつたことは明白なのです。 但し造れている硝種も結構ありますから、全てではないにしてもかなりの部品を国産品で賄うことも出来たでしょう。
>626-627 > 輸入硝種を使用せずに測距儀を造ることも出来ます はあ、だから社史に基づくならば国産品で造ったのでしょうと。 >とは思えません。 誰かの「思える」とか「思えません」とかは関係ないわけで、資料に基づき 事実はどうなのかを調査する。それが検証と言うものですよ。 その結果が国産だったら国産、輸入なら輸入。都合が悪いからと言って 結果を印象操作でねじ曲げてはダメです。
>>628 社史ではなく、海軍の資料で測距儀用、出師準備用等と明記して輸入していると申し上げた筈ですが。
また海軍側資料でも社史でも輸入に頼った硝種があったこと、造れなかった重要硝種があったことはきちんと調べれば出ていますよ。
思える思えないの件は、上記資料を元にした話ですから印象操作ではないです。
>海軍の資料で ソースは閲覧可能?
ところで上の方で”ステレオ式〜”の事を延々解説してる人が居るけど、こう言うのはダメだよ。 2ちゃんで長いレスをしても見づらくなるだけだし、よっぽどの世間知らずでもない限り「名無し」の 技術解説なんか信用できないわけ。 内容を読んでみると、これは”戦艦「大和」開発物語」(光人社NF文庫)の記事の引き写しと判る。 だったらソースを明記して、詳細はこちらへ、と説明した方がレスも短くて済むし、興味のある人は この文庫本を読んで理解を深めることも出来るし、結果、返ってレスの信頼性も高くなる。
>>630 労力を厭わなければ。時間と手間をかければもっと色々出てくるでしょう。
>>632 別に思わせぶりな説明が欲しかったわけではないのだが。w
簡単に調べられるなら調べるし、難しかったら諦めるだけだから。
>>633 思わせぶりですみません。
多分ご想像の通りの場所ですが、以前他所で書い人が「掲示板に書くな」とか「迷惑だ」とか言われているのを見ているもので表現がああなりました。
もちろん他の資料とのつき合わせ作業も必要ですが。
>>634 ok。人に迷惑をかけるようなら、書く必要は有りません。
後は日米英独仏伊、各国が戦艦の測距儀に使ったガラスの種類は何か? だが判らないだろうな〜
おいおい、戦艦「大和」開発物語(光人社NF文庫)持っているけど今の目で見てそんなに大した資料ではないぞ。もちろん無価値じゃないが。
次は電探の話しようぜ
>>624 その高性能レーダーが
大和の合致式15m二重測距儀を凌いだのはいつ?
>>636 そうですね。
わかっている範囲では、日本が苦労していた(終戦までに造れた物もあるが)バリウム系硝種の製造に少なくとも独米英は既に成功していたこと。
その他の硝種でも造れなかった輸入硝種は少なくともドイツでは作れていたこと。
同じく苦労していた焼鈍は米国で使用し好成績を挙げた電気炉を輸入して改善に努めたこと。(日本光学は昭和5年頃、海軍では10年頃)
独米は日本が昭和26〜28年にPBレポートを元に製造に成功した新種硝子の開発に成功していたこと。
位ですからね。引き続き調べてみますが英語資料しかないでしょう。
日本の輸入硝種にしても、輸入したことが判明しているものが幾つか資料でわかったものの、他にあるかどうかは未だわからない部分です。こちらも少しずつ当っていければと考えています。
因みに昭和15年の日本光学蘆田氏の著作では、当時光学硝子でもっとも名高いのは独schott&Gen社のエナ硝子、これに継ぐものが仏Parra-Mantois社、英ChanceBrothers社、米Baush&Lomb社であるとし、わが国でも日本光学で工業的に製造していると紹介しています。
仏英もなかなか高評価しているようです。
>374 >(米戦艦の)方位盤用の主測距儀は4.57mのステレオ式。 > 方位盤のスタビライズ機構であるStable VerticalはMk31以前の射撃指揮装置にも装備されています。 日本で4.5mステレオ式測距儀と言うと九四式高射装置だが、これも測距儀と照準装置が一まとめになっている装置で自動的に スタビライズされ艦の動揺に影響されず敵を正確に狙える構造になっている。軽量小型と言うことも有るのだろうが。 >553 > 相対運動にあわせて方位盤も自動で旋回。 人間は微修正にだけ専念すればいい。 これって方位盤としては普通の話。日本も橋楼トップの方位照準装置で、船体内部の発令所・射撃盤で計算された数値を 射距離・描頭データーとして受信し照準機に調定され敵艦を照準するものだから。
>604 > またツァイスをはじめステレオ式は一重構造の二重式ですので、ステレオ式搭載艦は最低二重式相当のステレオ式と考えてよいようです。 > 大和の場合は三重構造の四重式とのことですから、ステレオ式を有効に運用できていれば期待できるでしょう。 それは全部誤解でツァイスなどステレオ式は一重構造。大和の測距儀を設計する段階で、より高精度なステレオ式二重測距儀が考案される (海軍技術大佐 北川茂春) 実際の大和の測距儀は安全策を採りステレオ二重式を止めて、合致式二重+ステレオ式の三重式。 『戦艦「大和」開発物語』光人社NF文庫 より
>>641 >これって方位盤としては普通の話。
日本艦も同じ事をしてるけど手動だっていう指摘だったと思うんだけど違うの?
>>635 やはり昨日は不親切すぎましたのでお詫びを兼ねて。
某研究所にて「外国品購入の件」に類する文書を丹念に当っていただければ。
私も時間の関係でいくつか見つけただけですが、じっくり探せばもっと色々出てくるかもしれません。
では多忙故これにて。その内また来ます。
>以前他所で書い人が「掲示板に書くな」とか「迷惑だ」とか言われている 俺も資料漁りに某所に詣でるけど説教したのは傲慢な奴だな。 別にプロのライターにカネ稼がせる必要なし。 「迷惑」の本質なんてそんなものでしかない。
上矢張り「某研究所」には某研究者がいるのだろうか
> (ドイツから光学ガラスを)海軍の資料で測距儀用、出師準備用等と明記して輸入している ニコンの社史にも輸入したと書いてある。太平洋戦争中は特に対空戦が重要だったから 数多く製造された対空射撃用測距儀の中にはドイツ製のガラスを使ったものも有ると思う。 ただし特定の測距儀が輸入ガラスを使っていたと断定する根拠にはならない。
断定する根拠にはならないがより製造難易度の低い小口径のレンズに輸入品の光学ガラスを 使って大口径の戦艦用には国産のガラスを使うというのも不自然な気がする。
>553 > 日本はこの辺、全部手動。データの受け渡しも伝言ゲームの部分が相対的に多い。 >556 > 94式高射装置の開発の時に、本来かなり自動化できる部分を装置が複雑になるとか、故障したら困るとかいって > わざわざ手動にして操作人数増やした >569 > いろいろな計測データのアウトプットの表示針に追随するために人間が > ハンドルを回し続けるのが日本式。 メリケンはその辺の作業は自動。 >643 > 日本艦も同じ事をしてるけど手動だっていう指摘だったと思うんだけど違うの? 全部勘違い。九四式高射装置などの方位射撃盤は、アナログコンピューターからのデーターが、口頭でのやり取りではなく電気で伝達されている。 またデーター表示も、針と針とを人が見て手で調整してるのでは無くセンシルモーターを利用し自動で調整している。 そのうえ機材の損傷他の理由で自動追従装置が使えなくなった場合も想定して手動での操作も可能としている。 これは「わざわざ手動にして操作人数増やした」のでは無くダメコンの一環。
>>648 と言うか、当のニコン社史で国産ガラスを15m測距儀に使ってると明記しているのだし、それに付け加えることなど無いのだが。
15m測距儀を搭載したのと言えばアノ艦以外に無いし。
その頃は外国産(ドイツ製)と同等の品質の光学ガラスが生産できたと社史にも明記されているのだから何ら問題は無い。
>>649 これは ↓ より。 この本には戦艦大和に搭載された「光コンピュータ」に関する記述有り
> 「計算機屋かく戦えり」アスキー出版 遠藤 諭 著
>
> 世界に先駆けて基本回路の理論を提案した人物、いち早く二進法による計算機を考案した伝説の男など、当事者25人が初めて語りつくした、
> 日本コンピュータ秘史の決定版。
>
> 日本の「計算機屋」たちは、いかに戦い、いかに巨大なコンピュータを手作りしたか。知られざる日本のコンピュータ史を、当事者25人が
> 初めて語り尽くしたインタビュー集。
>
> アマゾン
自動追従装置は外したで良かったと思うけど・・・確認してくる。
>>652 外したのは資材、時間、作業員不足のため、簡略化が要求された大戦末期の話しね。
日米の魚雷の炸薬について検証
> 1251
> Q.九三式酸素魚雷の炸薬には何が使われたのでしょうか。
> A.日本の魚雷に用いられたのは 下瀬火薬、94式、97式、98式です
> なお94式はRDXとTNAからなっており、どこぞのトルペックスと同じぐらいの性能
>
ttp://www.warbirds.jp/ansq/41/D2001251.html 日本海軍の94式炸薬は、米軍が大戦後期に使用したトルペックス炸薬とほぼ同等の威力のものらしい。
参考資料
爆発力TNT比 1.22 ;アマトール(硝酸50%、TNT50%)WW2当時のドイツ軍が主として使用
爆発力TNT比 1.34 ;トルペックス(RDX40%,TNT38%,AL17%,WAX5%)
爆発力TNT比 1.50 ;RDX(フォルムアルデヒト、アンモニア、硝酸)
「武器と爆薬」小林源文 著 P132
水中爆発力_下瀬火薬比 1.30 ;94式爆薬(TNT60%,RDX40%)
水中爆発力_下瀬火薬比 1.08 ;97式爆薬(TNT60%,HNDA40%)
水中爆発力_下瀬火薬比 1.07 ;98式爆薬(TNA60%,HNDA40%)
日本海軍の炸薬
>>649 へー高射砲の方位盤ってそんなにすごかったの。
主砲の方位盤はもっとすごかったの?
>655 手計算としてはマジスゴ。 アイオワの原始コンピューターと並んで射撃システム発達の一方の極を占めている。 発展性ではもちろんアイオワに軍配が上がるが、登場時点でのシステムとしての機能だと どちらが上、とはちょっと言い切れない。
>>655 何万もの精密部品の塊で、そうとう大掛かりな機械式アナログコンピューターだったって。>九四式高射装置
>>654 大和の水中防御は九四式炸薬やトーペックス炸薬約350kgに耐えるが、TNT炸薬換算でなら約450kg分の水中爆発に耐える。
大和は耐TNT350kgじゃないの? 654もそうだけどtorpexのTNT比が資料によって違うからよくわからない… 50%増しってのが比較的よく見るけど、1.25とか1.64とかもあって謎。条件によって変わるのかな。
荒らし禁止
>>659 > 大和は耐TNT350kgじゃないの?
市販の書籍の中にはいい加減なのがあるから。日本海軍では下瀬火薬を基準にしてるので、まず「耐TNT」って段階でおかしい。
原資料(海軍造船技術概要)では”大和ノ「バイタルパート」水中部ハ350s炸薬ノ爆発力ノ艦内侵入ヲ充分阻止シ得ル計算デアツタ。”
で炸薬の種類については記載無し。これに誰かが勝手に”TNT”を追加しただけだろう。
終戦後、米軍が調査したところによると(米海軍技術調査団報告)、日本海軍は戦艦大和の水中防御システムについて、本物の大和と
同じ構造の舷側部分を作り実際に炸薬を爆発させて実験していた。
使用炸薬はトリニトロトルエン(TNT)60パーセント、ヘキサトリニトロジフェンオラミン(Hex,RDX)40パーセントを含むものと
報告されているがこれは九四式炸薬と全く同じ成分。
一九三九年初頭に実施された上記の要領での実験では九四式炸薬400kgを舷側水線下に装着し爆発させている。その結果、内部の隔壁に
亀裂が生じなかったことが確認されている。
結論として「大和の(水中防御)システムは四〇〇キログラムの(九四式)爆薬に耐えるように設計されていた」(米海軍技術調査団報告)
> torpexのTNT比が資料によって違うからよくわからない… 50%増しってのが比較的よく見るけど
これもRDXの爆発力と混同してるのでは無いかと考えられる。RDXは爆発力が大きいが不安定で危険なので普通単体では使用されない。
トルペックスにはRDXが含まれているので、単純にRDXの爆発力(TNT比50%増し)を載せたのだろう。実際には他の成分を混ぜて安定化させて使用する。
> 「大和の(水中防御)システムは四〇〇キログラムの(九四式)爆薬に耐えるように設計されていた」(米海軍技術調査団報告) TNT炸薬に換算すると「「大和の(水中防御)システムは520キログラムの(TNT)爆薬に耐えるように設計されていた」となる。
>657 >655 >九四式高射装置 これは部品数三万八〇〇〇点もの当時としては超精密機械。ただし地球の自転の影響まで計算に入れている 戦艦用の方位射撃盤に比べたら簡易なモノ。 何万メートルも先を撃つ主砲と違い、高角砲ではそこまで精密に計算する必要は無いので簡略化して省いてる。
>>650 そもそも同じ社史「40年史」でも違う部分では違うことを書いていますよ。別の部分でBaF10など造れなかったと明記しているでしょう。
更に後の社史「50年の歩み」「75年史」でも同様の記述がありますし、特に後者では昭和10年時点での溶解硝種についての資料も出ています。
それに大型測距儀の大型プリズムの件にしても、実際に光学系の概念図を見ると造れていません。反射鏡の組み合わせです。
これは「75年史」によれば、4.5m基線長以上の場合大型のプリズムを造ることが出来なかったことによるとわかります。
実際にはいくつかの光学系図を見ていくと4.5m未満でも反射鏡式とプリズム式の両方があり、4.5mというのは当時の限界値付近とわかります。
私としてはより大型のものは他国でも難しかったのではないかと想像(憶測に過ぎませんが)していますが、このあたりも社史中の一部記述が一字一句全てが正確ではないことの一例です。(75年史にも誤植あり)
そもそも同じ社史中でも少し違っているわけですから。
自社だけで作れたという記述の裏を取ろうとしたところ、海軍が輸入した硝種に中に当時作れなかったものが含まれているだけでなく、終戦までとうとう溶解できなかったものまで含んでいます。
しかも小型の測距儀用の輸入があっただけでなく、出師準備用に輸入したレンズには100〜160oといった大型がかなり含まれています。
資料を比較すると造れる硝種に含まれるBK7でさえ、120o径以上になると製造が困難だったようです。
大和型の三九金物設計時点で溶解できた硝種の中で屈折率で最も有望なのはSF2ですが、BaF10より屈折率でやや劣る上分散がかなり大きい為、国産品だけで作った場合輸入硝種をも使用した場合と比較し大きな期待が出来ないものになってしまう。
しかも同時期、造れない必要な硝種を依然としてかなり輸入している以上、わざわざパッとしない品質を作る理由など無いわけです。
そしてこの三九金物も大型プリズム式ではなく、反射鏡使用による測距儀です。
まあ光学系はこんなところでしょう。おかげで手元に新しい資料が集まってきて楽しかったです。
水中防御の対象炸薬量については諸氏のご高説を期待しております。
>>662 torpexのTNT比は1.5〜2倍と幅をもって記されることがありますね。
>社史中の一部記述が一字一句全てが正確ではない
蛇足ですが日本は駄目と決め付けられないよう社史の名誉の為に
>>665 へ自己レス。
記述が厳密に正確かどうかもさることながら、読み手側の問題を提起して終わりとしたいと思います。
☆1,
「40年史」
「光学硝子については、当社はその使用量の殆どを自家製造のもので充足していたが」
「光学系の研究と大塊の光学硝子の入手に多大の努力を払わねばならなかった(ドイツSchott社から輸入していた光学硝子は当時すでに使い果たしていた)」
「50年の歩み」
「質的にも大型軍用製品の製造が可能となったが、それでもなお、軍の要求には質・量ともに応ずることが出来ず、ドイツのショット社から大型ガラスを中心としてガラス素材を輸入しつづけた」
「40年史」の前者で使用量の殆どを製造していたとしていますが全てとはしていません。ある意味含みを持たせた表現です。
同後者ではもう少し詳しく、当時輸入硝子を使い果たしていたと書いていますが国産で全て賄ったとも書いていません。『入手』に努力を払わねばならなかったとしているだけです。
そして当時未だドイツからの輸入が続いていたことは「50年の歩み」や他の資料でわかっています。
当時(の少なくとも一時期)、以前に輸入した硝子(海軍輸入を供給された物と自社輸入のもの)を使い果たしていた(全てか大半かは別として不足していた)ことを一応信用するとして、その後の輸入硝材の『入手』について否定も肯定もしていません。
よって社史の記述を安易に「間違い」と断定するべきではないかもしれません。他社も含めて社史を読んでいる方なら当然ご承知の社史らしい表現です。
☆2, 「40年史」 「終戦時には次に挙げる約40種類の光学硝子を溶解していた。(注,このリスト中にBaF10,FK1,SK16等を含む」 「昭和23年6月10日には、遂に待望のBaF10の溶解に成功した。これは、戦時中から戦後の混乱期にも、一貫してルツボの改良と試験溶解に努力を続けてきた賜物であって、これを機として引き続きFK1・SK16の溶解にも成功し(後略)」 これなどは同じ「40年史」中でも真っ向から記述が相反しているように読めます。しかし前者では『溶解』した硝種として挙げており、後者は『成功』した時期を明言しています。 編集ミスでないとするならば、『溶解』と『成功』が違うということになります。 『成功』はしなかったものの、試験溶解していたことは後者にも記述がありますから、ここも読み手側の問題で誤解してしまうだけで社史の間違いと言い切れない面があります。 尚、より新しい「50年の歩み」「75年史」は後者とほぼ同義の記述です。
☆3, 「40年史」 「研究の結果、方位盤や15米、10米の大型測距儀に使用する大型硝子をも、よく生産供給することができた。 特に泡や脈理のないことを必須要件とされる測距儀用の端5角プリズム、同中央 プリズム、潜望鏡の下部プリズム等に用いる硝子の溶解と、硝子を光学的に均質 にする焼鈍作業の研究については多大の辛苦をして、充分の成果をあげることができた。」 「75年史」 「(15m測距儀について)測距儀の精度を左右するものは、端反射鏡と呼ばれる 測距儀本体の両端についている反射鏡(2枚組立)または五角プリズムである。 反射鏡は五角プリズムに比べて狂いやすく、反射面の曇りや熱、震動などの 影響を受けやすかったが、基線長が4.5mを超えると、プリズムでは必要とする 硝材が大きくなり入手できなかったため、組立反射鏡を用いることが多く、 15m測距儀もこれによった。」 関連する☆1と合わせて読むと理解し易いですが「40年史」でも「全て」生産したとは書いていません。 同測距儀設計時、既に日本光学でも15硝種を溶解し、内4硝種は量産に漕ぎ着けています。 大型測距儀に使用する硝子の内、止むを得ない輸入品を除き、造れるものについては国産品をかなり使用していたのではないかと考えられます。 そう考えれば「40年史」も触れなかった部分があるというだけのことで間違いとも言い切れません。 端プリズムについてはもっと記述に差があり、「40年史」と「75年史」の間では15m測距儀について全く異なるように採りかねない部分が存在します。 図面を見ると誰にでも解るように15m測距儀(三九,四八)は「75年史」の説明通り、大型プリズムを断念し反射鏡の組み合わせ方式を採っています。 しかし「40年史」でも15米,10米の話に続けて書いているのでそう採りかねないだけで、直接的に明言しているわけでもないと弁護できます。 「40年史」も一般論として昭和初年頃は輸入に頼っていたプリズムを製造できるようになってきたという意味に採れば間違いでもないわけです。 実際、比較的小型の測距儀には端プリズム方式もありますから、それらは国産品で賄えていたのでしょう。 蛇足終了。
>別の部分でBaF10など造れなかったと明記しているでしょう。 製造出来るガラス種がドイツより少ないのは分かっているけど、それだけでは何とも言えない
>>662 >ヘキサトリニトロジフェンオラミン
これは…なに?米海軍技術調査団報告にはどういう綴りで書いてあるの?
著者がHexanitrodiphenylamineを誤読しているような。
それなら九七式爆薬と同じになるけど。
>単純にRDXの爆発力(TNT比50%増し)を載せたのだろう。
そう単純ではなくて地上爆発と水中爆発との差もあるみたいなんだよ。
>>670 何度も同じカキコを続けるところを見ると
15m測距儀にBaF10を使用していないという主張だろうか?
>>672 測距儀に使うガラスの種類はBaF10なの?
>669 >(15m測距儀他大型測距儀用のプリズムは)硝材が大きくなり入手できなかったため、組立反射鏡を用いることが多く、 輸入品を使ってないことが明記されてる。
>>671 > 九七式爆薬と同じになるけど。
ゴメン。調べ直したら彼方の言うとおり。
>>654 でのHNDAはヘキサニトロヂフエニルアミンの略号とされている
(「機密兵器の全貌」の注釈)。これが米軍報告の”ヘキサトリニトロジフェンオラミン”
よって大和の実験に使用された炸薬は97式爆薬でした。威力はTNT炸薬より幾分大きいが殆ど同じくらい。
だから、正しくは「大和の(水中防御)システムは四〇〇キログラムの(九七式≒TNT)爆薬に耐えるように設計されていた」
(米海軍技術調査団報告)となる。
これをTNTの1.3倍位の威力を持つ94式炸薬やトルペックスに換算し直してみると、400kg/1.3倍 = 約300kg になる。
大戦後期の米軍魚雷の炸薬はトルペックス約300kgだったから、大和の防御力でちょうど釣り合うくらい。
> 大和の防御力でちょうど釣り合うくらい 信濃が一撃で防御層抜かれて、中央隔壁まで浸水したとかしないとか。 S事件の報告書どこかにないかなぁ?
トルペックスが94式とほぼ同じ威力だったんだ 大和は10本の魚雷で沈んだが 日本の魚雷なら実質15本から20本に相当する みたいな議論が過去の戦艦スレで多かったが このへんも再度語る必要があるな
航空魚雷と潜水艦魚雷が一緒のやつがおるな 出入り禁止やろう
>>674 要は国産のガラスでは大型プリズムは作れず、輸入品も使えず(在庫を使い果たして
たんだっけ?)、やむなく性能の落ちる反射鏡式を採用したってことでしょ。
>>679 とすると、性能に疑問符がつくわけだw
検証しようがないけど、世界一の性能に違いはないけど
15mもある割には・・・って話だったのかも。
>>674 明記になりませんよ。組立反射鏡方式であったというだけです。大型プリズムは他国でも難しく接着プリズムの使用例もあります。
※「兵器を中心とした〜」を読んでいくと接着プリズムに作れないが故のマイナスイメージを持ちますが、外国では敢えて複数の硝種を接着する方法で光学設計に生かす例がある。
大型プリズムが作れなかったか入手できなかったとしても、反射鏡が国産硝子だけで作られていたかどうかもよくわかりません。
それに上で書いたように、測距儀には思っている以上に多くの硝種を使用しておりその中に少なからず溶解できなかった硝種が含まれているので反射鏡だけで全てを語れません。
反射鏡はただ「40年史」の記述が必ずしも15m用の大型プリズムを作っていたことを指していない例に挙げたまでです。
ただここで
>>679 氏や
>>680 氏の疑問が出てきます。
当時まだ輸入していたことは海軍資料や「50年の歩み」「明るい暗箱」その他の資料でも出ているのに何故使い果たしていたと書いたのかです。
多少?見劣りする面があることには目をつぶって国産硝種だけで設計したか、本当はその後輸入した外国製の高性能硝子を使用したか。
このあたりは当時の海軍の立場になって考えるしかないですね。
まあ昭和6年申請の硝種でも7種が昭和10年になっても溶解できていなかった実状に鑑み、新たに入手した輸入硝材を使用したと考えるのが無難の様に思われます。
それに古い資料を見ていくと、素材が輸入品であっても国内で加工してレンズを製造した場合、「国産レンズ」として言及するのが普通だったようです。
皆さんもう硝子の話にも飽き飽きでしょう。 最後に他国の製造硝種の資料を一部紹介して終わりにしたいと思います。(前にも書いたようなフレーズですが) 1938年のある日本商社のリストですがショット社154種、英国36種、仏国18種。 但しこれは輸入カタログなので、その国が作れた硝子の全てではなくあくまでその商社が輸入できるものに限られます。 ほぼ同時期1935年の日本光学でも溶解15硝種、量産化4硝種です。 米国についてはリストにありません。 他の資料から断片的に拾うと航空写真用として1943年にSK19,SF1相当(米英仏は別の記号を使う)を量産していたことが「光学機器大全」にあります。 どちらも日本光学では終戦までに溶解出来なかった硝種です。(特にSF1は小原光学、大阪工業試験所でも終戦まで溶解できず) 米国については今後ものんびり調査を続けます。 水雷防御の話は面白いですね。皆さん詳しいので勉強になります。 特に海軍が行った実物大の試験について、水線下どの位に対して対何百kgかご存知の方が居られればご教示ください。 米国側の攻撃資料を見ると魚雷深度が雷撃効果に大きく影響しているようです。
>>682 自己レス
「上で書いたように」としましたが、ミスで書き込めなかったようです。誤爆したか?
要約すると、昭和6年に比較的小型の測距儀用として以下の8硝種を国産品が無いとして輸入申請して認められました。
BK7,F3,BaK2,SK7,SK10,SK11,BaF4,LF7,SF3
この他に国産品も組み合わせていたかもしれませんが、比較的小型の測距儀でさえかなり多くの硝種が必要とわかります。
この内BK7を除く7硝種は昭和10年(15.5m測距儀設計は昭和9年から)でも溶解さえ出来ていませんでした。(75年史)当然量産出来た硝種にも入っていません。
BK7は昭和6年でも製造出来ていたと思われますが、120oという大口径なので作れなかったのでしょう。
SF3は対物レンズ用と明記していますが、屈折率ではBaF10を上回るものの分散が遥かに大きい硝種で、当時の資料からSF系の常として黄色があると予想されます。
或はこのSF3を日本は測距儀の基幹部品として他の製品にも使用していたのかもしれません。全体的な品質は別として倍率を上げるだけには便利な筈です。
しかしSF3も国産品は「75年史」等から恐らく昭和18〜19年頃の溶解。
昭和10年頃量産可能だったSF系はSF2のみですが、これは屈折率でもBaF10にやや劣り分散はかなり大きく黄色ありです。
そしてこの内BaF4,BaK2,SK11の3硝種は終戦までの日本光学溶解硝種にも入ってきません。
失礼しました。
>>684 GJ!ありがとうございました。
日本製でないと許せない粘着さんの出現で話が何回も巻き戻り
大変だったと思います。全員に誠実に対応される姿に感銘を受けました。
また新事実等発見されましたらぜひ発表してください。
ちなみに誤爆先は「戦艦スレ」の990番台で直後dat落ちしましたよ。
>682 > 反射鏡が国産硝子だけで作られていたかどうかもよくわかりません。 はあ、判らないのではなんとも言えませんね。15m測距儀は国産ガラスを使用してると明記してある 資料しか有りませんので。 >684 輸入ガラスが有るのは分かっていますが、それらを羅列しても印象操作以上の意味は無さそうですね。
>>679-680 > やむなく性能の落ちる反射鏡式を採用したってことでしょ。
それは短絡的で、つまり「端反射鏡と呼ばれる 測距儀本体の両端についている反射鏡(2枚組立)または五角プリズム」
の話しなんだけど、ドイツ・ツァイスの6mステレオ測距儀も端反射鏡方式なのだよ。プリズムを採用しなかったのは日独共同じ。
以前、元ニコン技術者で後に社長になった人の回想を読んだことがあるけど、現代の市販の天体望遠鏡のレンズは質が劣ると言う話し。
戦艦大和の物凄い超高性能レンズに比べたらの話だそうだけど、大和のレンズは大変な苦労をして作ったと言う回想。莫大な資金を
投じて開発できる軍用品と民間用のとでは比較にならないにせよ。
ところで戦艦大和の測距儀に使われたガラスだが、これも資料に基づく限り答えは出てる。国産品。ニコンの社史
>>518 に国産と
明記してあるし ↓ も。
> 同社(ニコン)製造の光学機械は大型であり(略)その質も最高を要求されたが、世界最大の測距儀、方位盤に
> 使用された硝子が供給できたのは、同社25年間の進歩を示す明らかな証拠である。
>
> (日本の光学工業史)
>>686 これだね。拾ってきたよ。ガラスの人はお疲れ様でした。
文字数の関係で2分割
>992 :名無し三等兵:2007/09/03(月) 22:25:32 ID:???
>
>>673 > 日本が使っていたかどうかは別として、BaF10は測距儀、望遠鏡、双眼鏡、大口径写真レンズに当時の有望な硝種ですね。
> それ故に戦時中から「目標」「待望」等として製造研究していたのでしょう。
> ただBaF10,FK1,SK16は各資料に言及されていてわかりやすい例なので挙げましたが、他にも色々な硝種が必要のようです。
>
> 測距儀について詳しい方の資料といってよい「兵器を中心とした日本の光学工業史」でも各測距儀のパーツごとの硝種は明記されていません。 > 但し他の資料から極一部はわかっています。海軍が国産品が無い為と明言し昭和6年に比較的小型の測距儀用として珍しく特定して輸入申請した硝種は > BK7,BK2,SK7,SK10,SK11,BaF4,LF7,SF3の8硝種 > 「75年史」によればこの内BK7を除く全てが昭和10年(つまり三九,四八設計時)になっても溶解した硝種にも入っていません。当然量産できた硝種にもはいっていません。 > 本当はBK7のみは昭和6年時点でも溶解製造出来ていたと考えられますが、120oという大口径の為に製造できなかったのでしょう。 > 「40年史」には終戦時に溶解していた(製造できたと同義ではない)硝種がありますが > BK2,SK11,BaF4,の3硝種は依然として溶解リストにも入ってきません。他にも溶解リストには載っていても製造は出来ないものもあるかもしれません。 > しかしこの8硝種だけで作っていたとは限りません。他に国産できる光学硝子を組み合わせていた可能性は大です。 > 因みにSF3については対物鏡と明言しています。これは分散がかなり大きいという難点もありますが、屈折率だけならBaF10を上回るので全体的な品質を別にして倍率だけなら上げやすいと想像されます。 > SF系は黄色ありと当時の資料にあるのも気になりますが、もしかしたら他の測距儀にもSF3を基幹部品として使用していた可能性があるかもしれません。 > 勿論SF3も昭和10年までの溶解硝種に入っていませんので、各社史の記述等から昭和18〜19年頃の溶解硝種に入ることになります。 > 当時国産できていたSF系はSF2だけなのですが、分散が大きい上屈折率でもBaF10にやや劣ります。
海戦の検証の話が光学兵器のガラスの話になって以降ついていけないな。
粘着と荒らしはスルーが大人のマナー。
>>639 単純な測距だけなら結構早かったんじゃない?光学式測距の誤差は距離の自乗に
比例するけど、レーダー測距は距離に比例、つまり距離が大きくなればなるほど
レーダー式の方が有利。
距離の算定は早いが、逆に測角が甘いとはよく言われるところ。 WW2レベルではその弱点を完全に克服することは出来なかったはず。 逆に日本はというとサマール沖の射撃成績から、照準は正確だが修正が下手という評価が米側から下されている。
>>695 >逆に日本はというとサマール沖の射撃成績から、照準は正確だが修正が下手という評価が米側から下されている。
これは水柱を有効に捕捉できない和製レーダーの限界。
横軸が距離、縦軸が反応の大きさっていう表示部で
アメちゃんみたいに左右のぶれなんかは測定不能なのが痛かった。
レーダーで煙幕越え、スコール越えで射撃できても
結局、修正は観測機か目視でないとできない罠。
ところで、どうしても”日本製の測距儀など光学兵器には輸入品のガラスを使っている”、”日本製のガラスでは
実用的な光学兵器は作れない”、と言い張る人は ↓ 辺りから影響されてるのでは?
戦鳥
ttp://www.warbirds.jp/ansq/2/B2000261.html > WW1で光学ガラスの輸入の途絶えた状況下で建造された長門型等は通常の測距儀ですら「ラムネの瓶」のようなガラスで」
これは大正時代の話でこの頃は輸入頼り。それと当時の長門の測距儀はドイツから輸入したガラスを使っていて当時としては優良な性能だったのに・・・・
> ビッグ7の他艦と戦闘する能力など無かった長門型
上と同じ人物の証言では米国製の測距儀は長門の測距儀より、ずっと酷かったと回想されてる。
> 純国産の光学器機を搭載した大和型(略)ニコンの歴史を描いた「明るい暗箱」に潜水艦の潜望鏡が開戦で輸入が途絶えた後、戦争末期に
> 到るまで実用になる潜望鏡の生産が出来なかったことがはっきりと記されています。大和のあの「イロハ金物」についても誇りと共に記されてはいますが・・・。
大和の光学機械が純国産なのは確かだが、「明るい暗箱」に日本は実用的な潜望鏡が作れなかった何て事は書いてない。だからコレは嘘。
>>667 > 「40年史」の前者で使用量の殆どを製造していたとしています
> そして当時未だドイツからの輸入が続いていたことは「50年の歩み」や他の資料でわかっています。
これは矛盾してるように見えるけど、単に時代によって状況が変化していると言うこと。光学兵器用のガラスのほとんどを
ニコンが自家製で充足できていたのは昭和初期の頃で、戦争が始まってからは不足するようになり輸入を再開している。
その流れを簡単にまとめたのが
>>520 記事は「40年史」の方が詳しく、自給できていた時期や、再び輸入を再開した時期などについての記事がある。
反面「50年の歩み」の方は内容が簡略化されているので、単純に”輸入した”でまとめているだけ。
>684
> 比較的小型の測距儀用として以下の8硝種を
いろいろ輸入しているのは判っているけど、結局
>>647 以上の話にはならない。
>ニコンが自家製で充足できていたのは昭和初期の頃で、戦争が始まってからは不足するようになり輸入を再開している。
何度も具体的にお話しましたが間違いですね。昭和10年になっても溶解できた硝種が15種類で内量産は4硝種。
しかも測距儀に使う硝種としてわかっている少なくとも8硝種の内7硝種は当時作れなかったのですから。
この件はニコン側の公表している昭和10年までに溶解した硝種一覧で明白なんですよ。
比較的作りやすいBK7などで小口径のレンズや小塊のものは相当に作っていたでしょうから、重量比で言えば作っていた重量はかなりだと思いますけどね。
そして
>>688 氏の件も解釈が正しくないという件は同様の理由でご指摘していますが、作れた硝種のデータを調べて頂ければ国産硝子だけで作る結果がどうなるかわかろうというものです。
そして当時、輸入硝子素材を国内で加工してレンズにした場合「国産レンズ」と読んで差し支えなかったこともわかってきましたから、社史らしい表現をしたというだけのことです。
既に説明したことを何度も繰り返すのも他の方々にご迷惑でしょう。
こちらは具体的に刊行済みの全ての社史と若干の補足資料に基づいて硝種まで挙げているのですから、かなりファジーな表現を資料に反した解釈しようといるのは如何かと思いますね。
水雷防御の方の方の邪魔になりますから具体的新資料が出てくるまでこれ以上続ける必要性も無いでしょう。
因みに
>>698 氏ご紹介の部分はここまで具体的なデータは提示していないようですね。
あっそうそう。大型の測距儀の場合、端五角プリズムの製造は他国でも難しいと私も思います。この点は同意見ですね。 今調査中ですが、昭和3年に輸入した武式6m、8mは五角プリズム式、大正時代のものは組立反射鏡方式です。 大正から昭和初め頃の英国は6〜8mあたりが組立反射鏡と五角プリズムの分かれ目のようです。 もっともこの昭和の奴は光学的に大した物ではなく大正自体のものが優れていたとのこと。 実際当時英国でも艦艇用には採用されなかったタイプですね。
>>701 それは或る測距儀では何種類かの輸入硝子を使っていた、と言う以上の話しにはならないと思うが?
結局、昭和初期に硝子のほとんどを自給・生産できたとはニコンの社史には書いてあるが、全ての光学機器が 国産を使用してるとは言い切れないので、「ほとんど」と言う表現に留めたのだろう。 また使用硝子について意見はいろいろ有るだろうし、当時は輸入硝子も多く使っていることも事実。 戦艦用の大型測距儀用硝子は国産としている資料はニコン・社史及び日本光学工業史だが他の意見も個人の自由ではある。 日本海軍の光学兵器は昭和七年頃を境に世界列強を大幅に凌ぐ水準に達したと評価されたが、他の振動対策などでも 研究が進んでいた。 当時日本海軍からの要求で特に防震対策を施していたはずのイギリス製測距儀は振動に対し弱く性能劣悪で高速艦での 使用に耐えなかった。そのため特別に光学兵器防震装置研究委員会まで設立し北川茂春。安部末吉氏らの共同研究に より防震対策が進められほぼ解決するに至った。こうした研究成果も高い命中率に寄与することとなる。
>>702 いや大型プリズムを作ることはできるけど、使わない理由は別の要因で、つまり簡易なプリズム形式は対空用4.5m測距儀など
小型のものには多く使われる方が、プリズムが大型化すると光の吸収も多くなるので戦艦用の大型測距儀は硝子の反射鏡を
使うことが多い。
>>511 追加 書き足し
戦後、工場移転、昭和21年6月、硝子生産の再開
> 新たに次の15種を加え、総数66種となった。
>
> BK3, FK5, SK11, SK16, SK18KF1, KF3, KF4, KF6, BaLF6, bASF6, SF1, SF8, SF13, LaK2.
>
”日本の光学工業史” P452
この会社の生産硝子種は戦前からニコンより多いのが特徴
ガラスの高屈折率の話しが出てるが、別に低い屈折率のガラスが低性能と言うことではなく機器の構成の中での 役割や用途によって何が有用なガラスかが決まる。役割によっては低い屈折率のガラスが有効な場合も多い。 屈折率は光学レンズの質の優劣を表すものでもなくガラスの性質の一つに過ぎない。 たとえば高い屈折率を持つが曇っているガラスなどでは話にならない。 また高屈折率のガラスは焦点距離などが短くなるので、コンパクトさの要求される製品などでは有用ではあるが 海軍用大型光学機器に関してはそれほど制限が無く設計次第で解決できる問題でもある。
大正時代に戦艦長門に搭載した五年式と同型式の七年式10m測距儀は、当時の低い性能のアメリカ製測距儀と比べ 格段に優秀なのは概出だが、イギリス製の測距儀とも比較されている。 五年式・七年式双眼合致式測距儀は日本独自の設計で、当時のイギリスの像が波形になる双眼合致式測距儀と 比べると比較にならないほどシャープな像で測距も容易だった。 実際に比較実験を行ったところ、やはり日本海軍の五年式測距儀の方が測距精度も良好であった。 従って大正時代に於いて世界的海軍国・イギリスの測距儀の水準を日本は追い抜き、日本より上はドイツだけ と言う状況。第一次大戦後はイギリスも戦争の痛手と財政難に苦しみ一流海軍の座から転落しつつあった。 そして海軍用大型光学機器の水準がドイツと並び、一部の機材に関して追い抜いたのが昭和初期。
ガラスの生産状況について、大正時代は輸入に依存していた当時の日本だが光学ガラスの自給を目指し 昭和に入って一時的に自給自足に成功したこともある。 光学ガラスの生産は、昭和初頭は「日本光学」「小原光学」が中心で年産30トン程度だった。ところが大陸で 事変が勃発し光学兵器の増産が要求された。必要な光学ガラスは100トン以上と見込まれた。 「日本光学」「小原光学」の増産は50トンが限界で、大阪工業試験所からの20トンを加えても、30トンが不足する。 そこで光学ガラスの不足分30トンを補うために、工場・生産設備拡充し最低30トン以上の生産能力を確保する計画を立てた。 増産態勢が実現するまでの間、不足分の30トンは外国(ドイツ他)からの輸入で補うこととされた。 大陸での戦争は、その後、対米戦へと雪崩れ込みガラス生産は年産100トンでも足りない状況となり増産につぐ増産で そのまま終戦へと至る。
>>708 比較の対象となった外国の測距儀って何?
>>710 大正時代に比較したのはイギリスのバー・エンド・スラウド社とクック社の測距儀。クック社のは日本の(大正)五年式測距儀と同じく
双眼合致式だが像が波形に見えるなどしてシャープな像の五年式に比べ構造的に劣り測距精度も低い。
バー社の単眼測距儀との比較では五年式測距儀の方が設計上二倍の測距精度を持つとされ、実際に比較しても二倍までには
ならなかったが五年式測距儀の精度が優ると判明している。
五年式測距儀(製品出荷は大正六年)は世界最高水準の性能を目指して開発されたもので、その性能は当時の英国製測距儀を大幅に凌ぐ。
同時期の大正六年に輸入したアメリカのバウシュロム社の測距儀は性能不良のため使い物にならず使用中止。
昭和に入ってから輸入したバー社の測距儀は、無理に二重測距儀にしているが大正時代のバー製品に比べて逆に光学的に劣り、日本の
一三式二重測距儀(大正15年完成)に比べ全ての性能面で劣っていた。日本海軍はイギリスから昭和12年頃まで各種測距儀を輸入している。
世界帝国イギリスの頂点は第一次世界大戦頃だろう。その後は経済の悪化に苦しみ凋落する一方。
光学機器の性能不良も結局は軍備に割く研究開発費の不足とその結果。
それぞれの年度に生産していた最新のを輸入
>>715 たぶん新品なんだろうけど、最上位モデルだったかは疑問。
逆に比較した日本光学の測距儀は外国の軍隊は購入できたんだろうか?
イタリア、フランス当たりかな、ソ連は勝手にコピーした可能性有り。
久しぶりですが幾つか新事実が出てきました。元は戦後の調査団資料のようでまだリスト位しか確認していませんが、その範囲では「75年史」等の記述と符合します。
>>684 で測距儀用として当時製造できなかったと明記して昭和6年申請で輸入した硝種9種を明らかにしました。(8硝種と書いたのは間違いでした)
BK7,F3,BaK2,SK7,SK10,SK11,BaF4,LF7,SF3
これらの内、15.5m測距儀設計開始以降の昭和10年になってもBK7以外の8硝種は溶解さえできていなかったことも既出です。
今回はその後の昭和16年に日本光学が製造していた硝種が判明しました。
昭和10年に溶解していた15硝種から16年には19硝種溶解に増えています。
しかし上記の輸入硝種の内,BaK2,SK10,SK11,BaF4,LF7,SF3の6硝種はこの時点でも作れていません。
製造時期も各硝種ごとにわかりました。
これらの内BaF4は僅か供給4kgながら1944年、SK11は1942年、SF3は1943年(但し供給は44年)、SK7は1945年(但し供給に至らず)、SK10は1944年(但し供給に至らず)開始。
輸入リストの中には昭和16年になっても作れなかった硝種が目白押しです。
溶解したリストには終戦までに41硝種が並んでいるのは今までに出た資料と同様です。
小原光学については後に日本光学に並ぶほどに成長しますが設立は昭和10年と遅く、最初の製品出荷は昭和12年、海軍の指定を受けられるようになったのが昭和13年。 残念ながら戦艦級の主測距儀に硝子を供給するチャンスはありません。15.5mでさえ昭和9年の設計開始です。 もっとも同社は日本光学以外の自社硝子製造が出来ない工場へ供給しているので役割も自ずと違っているようです。 大阪工業試験所についても技術的には見るべきものがあるのですが、昭和8年時点では海軍への供給は出来ませんでした。 当時の輸入申請書にも「「我が国に於ける光学硝子製造所は日本光学工業株式会社のみにして大阪工業試験所に於ても製造し居るも未だ光学兵器に使用し居らず。」 とあります。 実際、試験所が硝子の払い下げを開始したのは昭和10年。 その後設備を拡張し軍への供給も開始しますが、やはり戦艦の主測距儀に硝子を供給することは時期的に無理です。
国産硝子だけで作ったという記述はそもそも「40年史」にすらありません。 「研究の結果、方位盤や15米、10米の大型測距儀に使用する大型硝子をも、よく生産供給することができた。 」 測距儀に何種類も使用される多数の硝子の内、国産で供給できた物がある程度あることがわかるだけのことです。 「光学系の研究と大塊の光学硝子の入手に多大の努力を払わねばならなかった(ドイツSchott社から輸入していた光学硝子は当時すでに使い果たしていた)」 これでさえ、入手に苦労したことがわかるだけでその後の輸入について否定しているわけではありませんし、自分で全て作ったなどと言っていませんね。 もし国産できる硝種だけで作ったとお考えならば、戦前の時点で作れた硝種がどんな性能のものか調べてみれば宜しいのです。 国産だけで作った可能性も少しは残ると思います。しかし作れた硝種の性能を調べてみれば国産に拘る必然性や合理性は無いことに気付かされます。 尚、 >また高屈折率のガラスは焦点距離などが短くなるので、コンパクトさの要求される製品などでは有用ではあるが 海軍用大型光学機器に関してはそれほど制限が無く設計次第で解決できる問題でもある。 この件、設計次第と軽く言いますが、確かに屈折率の低めの硝子でも高倍率レンズは作れます。 しかし日本が作れた中では高屈折率のSF2は高分散の上、色付です。 それは良いとして、同じSF系で輸入使用していたSFより屈折率でかなり劣りますし、バリウムフリント系と比べれば屈折、分散両面で劣ります。 高倍率化すればそれが更に助長されることになりますからフォローには他の硝子との組み合わせがシビアに必要ですが、その他の硝子も作れない硝種が目白押しです。 他の性能明るさや解像度、収差の修整などにしわ寄せがいきます。 あとプリズムについては私も他国でも大型の物は難しかっただろうと思いますが、大きいから光学的にロスがあるのではなく、製造技術が低いと大きいものは品質的に問題になるのです。 高品質で大型の物が作れるのならいいわけです。 勿論方向性としては硝子は大きい程良い物を得るのが難しいのですから間違いでもないのですが、単純に反射鏡が優れていると決め付けるべきではありません。 反射鏡のロスを調べればよく理解できます。
輸入した測距儀について前にも書きましたが、 戦艦用としては米は大正時代の波式、英は昭和3年頃輸入したものが最後です。 米のものが不評であった真の理由もわかってきましたが古すぎるので割愛します。 英にしても昭和3年では正直古いものですし不思議なことに大正9年にに輸入した英国製品より劣っていたともいいます。 理由は大体わかっています。 「兵器を中心とした日本の光学工業史」では全くスルーしていますが、武社は英海軍からの圧力で方針を変更し最新兵器の輸出を独自の判断で行えなくなったのです。 詳しく言うと1924年協定というものが締結され、海軍に供給した最新技術について機密の厳守と外国に提供した兵器性能の通知、輸出に対する海軍の許可制が取り決められました。 1924年といえば大正13年。 昭和3年のアレはWWUを図るには些か古い上、英国の機密に触れるものは含まれていなかったと見て良いでしょう。 協定以前は割と自由に新型でも輸出していたので「兵器を中心とした〜」の執筆者は協定の事実を知らなかった可能性もあります。 尚、日本光学は自社開発の参考に対空用の英国製測距儀を昭和の初めから昭和8年まで本当に繰り返し貸与を受けています。 ここまで具体的に硝種や実例を挙げても納得されないのでしたらそれは信仰の域ですから他人がとやかく言う筋合いのことではないのかも知れません。 私はあまりマメには2ちゃんに来ませんが、まだ色々資料を物色中ですから何時か何処かで機会があれば…ですね。 それより水中防御の方々のお邪魔になったのではないかと心配です。 では失礼致しました。
誤解を招きそうなので注釈
新資料は
>>718 のみ。
>>719 以降は既出の「兵器を中心とした日本の光学工業史」「40年史」「50年の歩み」「75年史」等からのものです。
他にも新資料もありますが未チェックなので。
>720 > プリズムについては(略) 高品質で大型の物が作れるのならいいわけです。 いや、そう単純ではない。軍用大型測距儀に使うとなると、プリズムも大きなガラスブロックになってしまい 熱による膨張などで狂い測距誤差が生じやすくなる。その為、プリズムの代わりに反射鏡を使うことも多い。 戦艦用の大型測距儀、特に日本海軍で採用したような世界最大級の測距儀となると端反射鏡を使った方が良い。 > 「光学系の研究と大塊の光学硝子の入手に多大の努力を払わねばならなかった(ドイツSchott社から輸入していた光学硝子は当時すでに使い果たしていた)」 > これでさえ、入手に苦労したことがわかるだけ 光学ガラスの「入手に苦労」していたのは、特定の日時限定の話ではなく戦争全期間を通じての話し。終戦まで不足に苦労していた。 そして戦艦大和の測距儀を作る頃は、輸入品は全くなしと特に明記してあるだけ。
煽り禁止
測距儀スレ上げ
当時他国の最新兵器ってほいほい手に入るもんだったの?
あの程度で「長すぎて読みづらい」ってのは、信じがたいな。
>720 > 収差 は補正。
戦前の日本が(もちろん許可を得て)輸入した英国・バー社の測距儀だが、明治時代から昭和12年頃まで輸入を継続している。 製品については「光学工業史」などで幾つかピックアップされているが、同社の製品は全体的に見て像が不鮮明。 設計やレンズの質が劣るためと考えられている。また使っている間に狂いが生じやすいことなどが指摘されている。 英国が測距儀の技術水準で日本に抜かれたのは大正5〜6年頃。 第一次大戦直後のドイツは兵器生産に付いて非常に厳しい制限が課せられたため測距儀の輸出はできなかった 昭和8年頃ニコンの技師がツァイスを見学し測距儀について報告してきた。同社の6m測距儀購入を計画するが 生産して日本に到着するまで二年も掛かる。そこで日本独自の技術で15mステレオ測距儀の開発を進めることになった。 昭和11年ごろ日本に到着したツァイス測距儀を調査したところ、日本でも同等の測距儀の製作が可能と判明。 (日独の測距儀の水準はほぼ同等。樹脂の接着技術だけはドイツが優る) しかし小型の6m測距儀の構造は15m測距儀にそのまま使えず、15m測距儀の開発は日本独自設計で進めることとなる。
>最新兵器 最先端の軍用機器だけの話しでは無く、普通の双眼鏡でもイギリス・バー社の製品は鮮明度や視界の良さなど非常に劣り 第一次大戦後は、日独の光学技術の水準から遠く引き離されていたのが実状
>>721 がニコンの社史や光学工業史の記述の検証をしているのに対し
>>733 は社史や工業史に書いてあることの再主張を繰り返すのみ。
いい加減にしてほすい。
>721 >「兵器を中心とした〜」の執筆者は協定の事実を知らなかった可能性もあります。 これって検証かな? 具体的な事実が指摘されてるわけでもないし、そう思っただけでしょ
同じ本
741 :
739 :2007/09/18(火) 10:22:45 ID:???
「出典」ってのは
>>605 で書かれてる、各国ごとの最後に輸入したものの話について
の出典という意味ね。念のため。
イギリスからは昭和12年頃まで測距儀の輸入を継続 (兵器を中心とした〜より)
>>712 >世界帝国イギリスの頂点は第一次世界大戦頃だろう。その後は経済の悪化に苦しみ凋落する一方。
>光学機器の性能不良も結局は軍備に割く研究開発費の不足とその結果。
これって検証かな? 具体的な事実が指摘されてるわけでもないし、そう思っただけでしょ
>744 具体的な事実なら、第一次大戦後の経済の悪化状況に関する資料が要る?
> (経済不況と軍備)
> イギリスは、第一次世界大戦には勝利したものの、人的、経済的損失は膨大なもので、戦前のイギリスの国際的な優位(パックス・ブリタニカ)は失われ、
> 膨大な戦時債務の山だけが残った。1920年代には、国債償還のための予算が年間予算の半数、GNP7%という膨大なものになり、財政的硬直化が顕著であった。
> また、衰退傾向にあった伝統的輸出産業の繊維、鉄鋼、石炭、造船産業の国際競争力の弱体化による恒常的な不景気は、大量の失業者を生み、経済再建は
> 遅々として進まず、1929年の世界大恐慌の決定的な追い打ちを食らうのである。このため、大戦間は、財政再建のために思い切った軍縮に迫られた。
衰退しつつある老大国〜
ttp://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/country/britain.html
>>746 それでも軍事費は日本の倍以上じゃなかったっけ?
単純に国内の経済状況の悪化を語るなら、日本だって1920年代は関東大震災や世界恐慌の
影響で悲惨の一言だったわけだし。
結局 >712 は事実だと
>>748 なんでそういう結論になるのか説明してほしい。
>>745 必要な「具体的な事実」は「英国経済の衰退」ではなく、「軍備に割く研究開発費の
不足」に関するものだな。
なにしろ経済状況の悲惨さに関しては日本の方がひどかった(英国が急激に衰退したと
いっても元の規模が段違い)わけだし。
>>749 何処が違うのか指摘が無いと検証にならないわけだが。
>>750 でもイギリスは不況下でも軍事費がふんだんに使えたと言う根拠の方が不足してないか?
アメリカに借りれるからな
>射撃指揮装置 大戦中、米戦艦から駆逐艦まで幅広い艦艇に搭載され活躍した射撃指揮装置Mk37だが、戦後、米軍から供与されて海上自衛隊の護衛艦として使用された ”あさかぜ、はたかぜ、ありあけ、ゆうぐれ”などにも搭載されていた。搭載測距儀は15ft(4.5m)の小型のものだが天井にレーダーが搭載されている。 調べてみると元々測距儀を使って使用する射撃指揮装置に無理矢理レーダー及び関連装置を後付した状態なのが、ありありと分かったそうです。 よく”米英戦艦の測距儀が小さいのはレーダーの進歩を想定したものだ”などと空想する人もいるが間違い。アメリカ・イギリス人だからと言って 当然ながら未来が予測できるわけでは無かった。
大戦前の光学機器一般の技術水準 (双眼鏡等) 独 > 日 > 英 艦載大型測距儀限定の比較 日 ≧ 独 > 英
> 軍用 日本軍 高射砲 照準 望遠鏡 太平洋戦争 日本光学 (終了日時:2007年 5月 24日 23時 5分) > >コメント : 早速のぞいてみました。ド迫力の画像が飛び込んできました。これなら高々度の敵機も乗組員の顔まで見えそうです。 >戦艦大和と戦艦武蔵の測距儀も当時軍需企業であった日本光学(ニコン)と知ってその技術に納得しました。戦前光学の逸品。 ヤフーオークション 出品 高射砲照準眼鏡
>665
> 大型測距儀の大型プリズムの件にしても、実際に光学系の概念図を見ると造れていません。反射鏡の組み合わせです。
>669
> 図面を見ると誰にでも解るように15m測距儀(三九,四八)は「75年史」の説明通り、大型プリズムを断念し反射鏡の組み合わせ方式を採っています。
>682
>「40年史」の記述が必ずしも15m用の大型プリズムを作っていたことを指していない例に挙げたまでです。
これらは全部勘違い。図面を見れば分かるが日本海軍の15m大型測距儀にプリズムは使っている。ただ単に特定の箇所で反射鏡を使っているだけ。
だから「40年史」の
>>518 の記事通り、ニコンが15m用の大型プリズムを作っていたことは確かで何ら問題はない。
いつまでこのネタつづくんかね
みんなで「日本の光学兵器は世界一。15メートル測距儀はガラス材料も含めて全て日本製品。」って言ってあげたら納得するんじゃね?
大人な方が我慢しる。
おおむね結論が出たな。
>685 > >威力はTNT炸薬より幾分大きいが殆ど同じくらい。 >下瀬火薬とTNTとの水中爆発力を比べてみないと 水中威力比は下瀬火薬:TNTで 1.00:1.03 、下瀬火薬:97式爆薬で 1.00:1.08 (機密兵器の全貌)だから 97式爆薬の威力はTNT炸薬より幾分大きいが殆ど同じくらい。
今日職場の先輩との雑談中に興味深い話が聞けた。 先輩が若い頃、米軍との訓練の際ニュージャージの艦砲射撃を見る機会に恵まれたそうだ。 その先輩は決してミリヲタと言うわけではないが、戦艦の凄まじい砲撃に目を奪われたそうだ。 ゆっくり進みながらニュージャージが発砲した瞬間艦が横にグッと押されて針路が変わったように見えたらしい。
>イギリスからは昭和12年頃まで測距儀の輸入を継続 これ以後は、民間人でも自由に輸入できたバー・エンド・スラウド社の双眼鏡で、この会社の 技術水準が評価できるだろう。 輸入した同社の双眼鏡はニコンやツァイスの双眼鏡に比べ不鮮明で視界など著しく劣ったモノだった。 (日本光学工業史) 旧ソ連の民間用電子機器は質の悪い物だったが、機密扱いの軍用電子機器も日米に比べて劣っていた。 バー社の双眼鏡の質が日独に比べ劣るなら、より高度な技術の要求される軍用測距儀の性能も・・・・・
例えば戦後最初に発売されたニコンのカメラレンズは酷評されているが、それを根拠に日本光学の技術は 劣ってると断言できるものでもあるまい。
つーか、バー・エンド・スラウド社の製品がひどかったと主張すればするほど 太郎が言いたいであろう「それに勝ってた日本の光学機器すごい」というのがどんどん 大したことなくなってしまうような気がするんだが……
量産物はたいした物じゃなくても、少ロットや一品物ならいいものが出来たのかも。 職人技で。
>>766 どうでもいいが「2ちゃんの名無し様、真理教」に陥ってないか?
>>768 その言葉がどういう意味なのかわからんが、すさまじく語呂が悪いな。もうちょっと気の効いた
言い回しはなかったのか?
保守って置こう
光学機器に関しては結論でてるから、別の検証ネタに転進しよう
91式徹甲弾の水中弾効果!
米国SHS徹甲弾の破壊力
ただ重いだけの砲弾じゃ検証するまでもない。
霧島引き上げればSHSの方はデータ出そうだなぁ。 水中弾は一発ぐらいデータないのかな?レイテとかであってもよさそうに思うんだけど。
俺様が777
水中弾の実験データって検証できるようなまとまったものってあるの?
差し当たり、関連記事 「九一式徹甲弾を使用すると、水中に入った砲弾の直進距離が長いため、米国の徹甲弾よりも命中率が約八十パーセント高くなる。」 「砲術艦長 黛治夫」 光人社NF文庫
ただし海軍の演習では水中弾効果は無視されて通常弾と同じ条件での命中判定が 為されている。機密保持のためらしい
話豚切りスマソ どの本か忘れたが、大和の主砲塔は(反動?)3門の斉射撃は出来ない、と書かれてた 事実かな?
>>782 嘘。サマールなどでも実際に斉射してるから。
ちょっとだけ時間ずらしてるんじゃなかったっけ 空力の関係で、散布界が広がるとか
>>782 事実かどうかはそれなりの方がそれなりの計算をすればわかるかと。
ただ、ほんとに同時に撃つと互いの衝撃波が干渉してションベン弾が
発生するので斉射といっても遅延装置等利用してタイミングを0.03秒
程度ずらしてた。(正確なタイミングについては不明。)
よって3門分の強度を取る必要はない。
そういえば武蔵は主砲が打てなくなったんじなかったっけ 斉射して
>>787 浸水が進み、大傾斜するまで射撃は可能だった。
被爆の衝撃でメインの方位盤が壊れたが後部艦橋の副方位盤が生きていて、俗に言われる斉射不能にはなっていない。
そっちよりもさ、復座機の水圧ポンプの出力の問題で一斉射やると 砲身がなかなか元位置に戻らなくなるから実戦ではできない、 つー話なんじゃないの? それって。
ソレコソ ドッカノデンパガトバシタ タダノデマ。
アニメみたいなペースの連射は無理だっていう意味なら正解。 アイオワ級の発砲みてもわかるとおり、発射後数秒〜10秒程度は砲身がブラブラしている。 動揺が収まり装填角に固定できてから装填作業開始。完了後、発射角に砲身を上げる。 1門あたり1〜2分/発ってのは当時の戦艦としては当たり前。
発射速度が同じくらいなら命中率3倍が効果を発揮するな。
保守
霧島と同一行動を取っていた第四戦隊の行動に付いて。 事前の計画によれば、霧島と第四戦隊は一体として行動するとあります。 実際、砲戦開始時点では両者とも同じ目標(サウスダコダ)を砲撃しており、 恐らく終始同じ敵艦を目標として砲撃していたと思われます。
>>779 遅レスですが、水中弾に関しては陸海軍共に研究していたので色々と資料は残っています。
市販された範囲だと陸軍の研究成果を纏めた「水中弾道の研究」に詳しく出ています。
海軍の方では上記ほど特化した書籍はないのですが、「昭和造船史」や「軍艦基本計画資料」「戦艦大和設計と建造」に入っている金剛代艦の資料に色々出ていますね。
他に市販されていませんが閲覧可能な資料として海軍の水中弾に関する資料がいくつか残されています。
武蔵みたいに戦闘中自爆起こしちゃう艦もあるんだし。
>>791 実際の射撃速度はそんなもんだけど、頑張った場合でも機構上40秒/発のkGvは新型艦としては普通に遅い
>796
主砲が自爆したのはリシュリューでしょ
武蔵も自爆していますね。多分良く知られていると思うのですが、意外と2chでは語られませんよね。
主砲の事故は多いよね。
800
>>798 ??
レイテのことだとすると自爆ではない。
軍艦武蔵下巻(太田出版刊 手塚正巳)では、中砲の砲弾がきちんと装填されず装填系の機械を破損して右砲左砲も使用不能となった。
砲弾自体は不発(というか信管欠落)。そりゃ1.5トンが中で転がったら爆発しなくても大惨事だ罠。
>>801 そのような話も聞いた事があったのですがソースを教えて頂いてありがとうございます。
しかし自爆にもソースがあるのです。
武蔵の栗田長官に対する1314の被害報告の抜粋ですが
「二 一番砲塔中三式弾自爆により使用不能」
とありまして。戦史叢書該当巻や「最後の連合艦隊」福田幸弘等で言及があります。
どちらの情報が正しいにしても戦闘中にかなりいただけない話ではあります。
>>802 砲口から機銃弾が飛び込んで砲弾の信管が作動して損傷したらしい
>>802 それなんだけど、
>>801 が真相では?って話。
本当に自爆すると砲塔が吹き飛ぶか筒内でも砲身が折れたりハゼたりしてえらいことになる。
しかし、そんな話はいくら生存者が少ないといっても出てこないところをあわせて考えるとたしかに
>>801 が妥当。
>>803 は「本当に自爆したんなら、これくらいしか原因は考えられない」ってレベルの話かと思われる。
装填し損ねた原因としても可能性ゼロではない。
>>804 そういう見方も充分に「あり」だと思います。が私は判断を保留ですね。
どちらにしても苦い現実には違いありません。
生存者の証言を読んだことが有るけど信管が作動しただけらしい。砲弾が爆発していたら 砲員は全員戦死してしまうが作動したのは弾頭信管だけだった。それで砲員等は助かっている。
どっち道ほとんど フィルピンで殺されたんだろう
とう発でも全員死ぬとは限らんのですなこれが。
アイオワ級も砲塔内爆発事故何度かやらかしてるよな。
ちゅーことは死亡率高いんですね
率としては低くは無いんじゃないかな。 ある艦の例だと1/3位生残っている例もあるけど、死亡率で言えば60〜70%になるから。
金剛級すげーよ。143000馬力もある。どうりで速かったわけだ。 だいたい馬力でこれを上回ったのは大和武蔵アイオワ級だけじゃないか。 長門陸奥も高速化すべきだったな。20万馬力にすれば33ノットは出ただろう
しょぼい釣り餌だな。
巡洋艦のほうがパワーなくないか
保守
保守
次の話題に備えて維持すべし
資料スレ保守
>>812 亀レスだが、長門級の改装の際は、他の伊勢級などとの統一行動を考慮してあえて、主機の換装は見送られている。
33ktは技術的に無理だけど、長門級が大和級と戦隊を組むなら、28ktくらいは目指すこともあり得るでしょう。
長門級の一世代後の土佐級の空母に改装された加賀が長門級とほぼ同じ機関部面積で91000馬力、近代化改装で同じ面積で127400馬力を達成してる。
加賀の方が、全長が長いんで若干速力が出るだろうけど、28kt前後は可能でしょうね。
そうすると
30kt 金剛 比叡 榛名 霧島
27kt 大和 武蔵 長門 陸奥 (大和も公試で27.7ktを出してます)
25kt 伊勢 日向 扶桑 山城 (扶桑級は24.7kt程度ですが)
と3グループに分かれる。
運用面を考えると悪くない改装計画になりますが、当時の日本を悩ましていたドック不足面はどうでしょうか?
主缶の交換に加えて主機の交換も加わるとかなり改装機関が伸びそうですね。
日本の場合、速力が足りないんじゃなくて、重油が足りなかっただけだと思うんだが……新型の大和級の2倍超燃費が良い機関を開発しない限り抜本的な解決にならないと思うよ・・・・
>>820 日本の旧式戦艦群はアメリカの旧式戦艦群に比べて3kt程度のアドバンテージを持っています。
低速と揶揄される大和級にしても、米英の条約開け戦艦のノースカロライナ級、キングジョージ五世級に比べて特に低速という訳ではありません。
アイオワ級が早すぎるのです。あれは運用思想的には巡洋戦艦ですから。
ただ、主機・主缶を交換すると燃費は向上しますよ。日本の戦艦群の改装前後の航続力を比較してみてください。
重油が足りないですが、燃料が足りないから軍艦の機関を低速に設定する理由はないでしょう?
>820が言いたかったのは日本の戦艦が不活発だったのは 速力の問題じゃなくて重油不足が原因だったんじゃないの? ってことだろう
>>819 実際長門は29ノットに改装可能でそういう案もあったらしい。
ただ大和が30ノットを諦めた時点で同一戦隊を組むはずだった長門型の高速化も中止となりああなったそうだ。
おいおい 長門の改装をいつやるつもりなんだよw
825 :
820 :2007/12/08(土) 00:25:54 ID:???
>>774 マサチューセッツvsジャン・バールの時に、計227mmの水平防御を打ち抜いて内部で起爆したそうな。
射距離は知らん。
150mm+77mmの装甲と227mmの一枚装甲だと結果も違ってくると思いますが・・・
>>826 18,000mから26,000mを遊弋しながら砲撃。一説にはジャンバールへの命中は23,000mでのスコアとのことです。
はっきりした貫入経路は不勉強で知りませんが、弾火薬庫内に突入するには以下の経路が推定されます。
1,副砲上面70mm→防御甲板100mm→下甲板40m〜50mmmの計210〜220mm。
2,副砲前楯115mm→防御甲板100mm→下甲板40mm〜50mmの計255〜265mm。
3,舷側上部の外板(厚み不明多分0.5in〜1in程度)→防御甲板100mm→下甲板40mm〜50mmの計140〜150mm+α。
昔詳しいサイトがあったんですが保存しなかったので本当のところは?
22,860mでのMk6は落角25.4°で水平貫通力が146mmですから短遅動信管でも意外と有効に機能したようです。
大和の装甲を確実に貫通破壊する砲弾の最低条件はどんなものでしょうか? 仮想戦記描くときに参考にしたいので・・・
>>830 あんまり信用できないじゃんそれ・・・・
>>931 まあ、やや情報が古かったり、過大・過小評価の部分、恣意的な解釈もあるけど
資料的価値のある文章ではないって本人が言ってるんだから、読み手が判断すればいいこと
それが見抜けないようならまだ未熟なんだろうね
それがタイトル(「〜大人になってから」)の意味だろうと思ってるよ
やっぱりドイツは敗戦&ヴェルサイユ条約で技術停滞&技術喪失のハンデが大き過ぎて埋められないよウワーン!、やっぱりビスマルクは旧式な防御にザルな水中防御の欠陥品見掛け倒しヘッポコ戦艦だよ、誰か哀れなドイツに戦艦建造技術や新型防御などを教えてクレクレ!。
うるせえ!
保守
>>832 正直、それを知りながら掲載しちゃう辺りに、書き手のメンタル面の未熟さが出てる。
真実のお通りだとか言ってるのの知り合いでしょ。真実じゃないのに。
>>836 書かれた時代を考えればいい線行っているでしょう。
色々問題はあっても大筋では外してはいないし。
あれより遥かに杜撰なサイトは他に幾らでもある。そして残念なことに今でも生み出されつつある。
下がりすぎなのだがそろそろageたほうがいいだろうか?
浮上
打方用意
>836-837 掲載された時期考えれば真っ当だってばよ。 アレを今やられたら困る点多々あるけどな。 一度掲載したコンテンツを消すのは結構しんどいし(特にアレには相当ファンがついてるから文句あがるだろ)
>>837 まあイギリス戦艦の水中防御を脳内妄想ソースで絶賛したまではいいが、世艦に大筋で秒殺されてるな
>>842 読み直して見ても水中防御を絶賛しているようには見えませんが
単に装甲配置を佳作であると評価しているだけで水中防御まで踏み込んでないね
842がどの部分をもって絶賛と言うのかは知らんが、その読力じゃ その世艦の文もアテにならん気が
狭い艦幅と広い機関区(=狭い水中防御)のKG5を誉めてた先生がいたな確か。 結構なミスリードだったが。
>>846 それ話題の「魚雷〜」じゃないですな。「魚雷〜」が誉めているのは装甲配置と必要最低限の性能を必要なときに必要な数だけ揃えられたというだけのことですから。
各国の主力艦を、それぞれ最も新しいやつ4隻づつあげてみやう 日 大和型2+長門型2 米 アイオワ級4 独 ビスマルク級2+シャルンホルスト級2 仏 リシュリュー級2+ダンケルク級2 伊 リットリオ級3+やられメカ1 英 kgv級4
>>837 >>841 自己弁護おつ。
>>848 しかしKGVのアドバンテージって、よそのに比べると何にもないな。
まあ、そうは言っても「燃料・弾なし&やる気なし」のフランスがいるからな。
下には下がいるもんだ。
あの国力で重巡を建造するよりか効率的だったんじゃない?>KG5
>849 同型艦が一番多い>KGV しかも42年秋には全部就役させている、竣工も早い
何かこの良スレにそぐわない内容の話が続いていますな。保守として役には立っているが。
>851 じきに計4隻になったけどな。 しかも残りの4隻の中身も全然たいした事ないという事実を、2番艦が暴露しながら沈んじゃった。
たいした事ないどころか、問題大アリだろ。 主砲…門数に見合った額面通りの投射弾量もおぼつかず 両用砲…実質、人力装填の対水上用 ポムポム砲…ここ一番という時に弾詰まり頻発 水中防御…実質、耐115kg〜150kg(公称は耐500kg防御) ダメコン…機能しておらず、そもそもその概念がない さすがは戦勝国ならではの自称不沈戦艦。(笑 わが航空隊の敵ではない。
>853 アンソンとハウはPoW戦没後の完成ですが、何か戦訓は取り入れられたのでしょうか?
>主砲…門数に見合った額面通りの投射弾量もおぼつかず これはその通り。ただ初期故障の対策後はまずまずに。 長時間砲戦で7割発揮はそんなに悪い数字ではないし。 主砲って演習でも故障するものだから実戦なら尚更。 >両用砲…実質、人力装填の対水上用 対水上用と言い切るのはアレだが確かに発射速度で問題が大きい。 >ポムポム砲…ここ一番という時に弾詰まり頻発 これもそうですな。 実績からするとPoWの対空砲火はわが方に多くの命中弾を与えていて精度自体は高かったが故障もあったろう。 >水中防御…実質、耐115kg〜150kg(公称は耐500kg防御) これも実験上は公称を裏付けたんだろうが実戦でアレでは。ただ当たり所の問題もある。 わが海軍の公称値でも額面通りにならなかったものもあるし、公称というものは当たり所でもかわるから。 もちろんKGXには問題あり。 >ダメコン…機能しておらず、そもそもその概念がない PoWについていうのなら正解。 エグセターとか空母とか軽巡陣のダメコン実績はむしろ優れている。 PoWは錬度不足が大きい。 総じてKGXは新戦艦としては大した戦艦では無い。
>>849 やる気がなけりゃ、植民地防衛のために英米艦隊と戦ったりしませんて(爆笑
燃料も弾薬もまだまだあるが、本国民を人質にとられた状態でどう戦う?
せいぜいDQNに歓待渡さないようにするのが精一杯
それが解らないゆとりは困るねぇチミィ
>>856 8門なら稼働門数最大で4+4、9門なら5+4なんだけど、kgVはよくて4+3がせいぜいって事でそ
余計な砲積み杉ですな
余計に積もうとして余計な4連装なんぞにするから壊れる
根本的な解決は無理だったとする文献もあるしな
>>857 全門数斉射しか出来ない弾数しか用意出来ずに尻に帆かけてアフリカくんだりまで逃げたはいいが、仮に
国民が人質にとられてなくともそれで何が出来るのかね?チミィ
在日ドイツ厨の百回バカコーナー
862 :
861だよ :2007/12/29(土) 13:52:38 ID:???
>>858 おおぅ、規制解除されていたのか僥倖、僥倖
>全門数斉射しか出来ない弾数しか用意出来ずに尻に帆かけてアフリカくんだりまで逃げたはいいが、仮に
国民が人質にとられてなくともそれで何が出来るのかね?チミィ
おかしいな、ダンケルク級2隻とプロバンス級2隻の砲弾は万全だったはず、それに
リシュリューとジャン・バールも弾薬庫を半分満たすだけの弾薬はあった筈。
未完成でなければもっと斉射数は多かったはず。
持って追ったぞ
>>862 大あわてで国を脱出したリシュリューが積んでた38cm砲弾は48発だ。
いったいぜんたい何をやっとるのかねフランスは。
(´・ω・`)
>>855 戦訓という点では、デンキ。
いざという時に、艦の前後へ供給出来るような回路構成になった。
アンソンとハウにはあらかじめこの改正がなされており、KGVとDOYは後日この改正がなされた。
まあ、エレキの容量不足は英戦艦の泣きどころだけどぬ。
( ^ω^)
>>852 まあ、戦艦系または独英系で傍迷惑にも
百年戦争やってるいつものメンツだろう。
もう休みだしな。
>863 「ドイツとマジノ線を挟んだ長期戦」という前提条件で全ての戦略を組み立てていた だからそれが崩れた途端に全てが崩壊。 ・・・「艦隊決戦」が前提条件の某日本海軍は、このフランスを笑うことはできない
>867 フランスの長期戦戦略には英国他の援軍の裏付けがあったけど、某帝国海軍の 艦隊決戦主義は「一回の決戦で相手を撃滅するが、自らの艦隊の決戦能力も ほぼ喪失する」のに、周りに援軍を作る外交なんかまるでしていなかったという 点で、よりファンタジー度合いが高いという……。
日本海海戦と云うファンタジックなリアルが悪いのです。
>867-869 第1次大戦もどきの要塞戦なんぞを妄想して艦隊の整備や航空兵力の保全を最初から軽視したフランスと違って、日本は 開戦早々に相手に寝首をかかれるような間抜けな失態は犯していませんが? 日本人になりすまして得意気に日本を叩いてるところ邪魔して悪いけど。 薄汚い三国人さん。
>867 相手が全て歩兵と砲兵であるという前提に、せっせとマジノ線構築。その他戦術戦略いっさいなし。 ↓ 機会化師団に迂回されてアウト。 ↑ 普通に爆笑ですが何か? その戦術のご都合主義という点では、ダンケルクやらリシュリューは確かにマジノ線的自己満足の産物ではあるな。
正面から堂々と来い!! と言う男らしい態度。 あ!後ろは駄目やめて〜
>>870 横レスだけど、この良スレをそんなつまらないレスで汚さないでくれ。
それはそれとして、
>>867-868 氏の話について。
日本海軍の決戦思想と日本帝国の国家戦略が別物だからだろう。
海軍の決戦思想は単に米海軍を仮想敵としていた為に自軍の戦力で少しでも勝算がある手段を模索した結果。
あれだけの規模の海軍兵力の整備を行うには米国海軍を仮想敵にする以外に理由付けが出来ない。英国は遠すぎるし他の国は遠い上に戦力的に劣る。
ある意味自分達の存在意義を米国海軍に求めたとも言える。
実際には戦争になれば米海軍相手に勝ち目なんか無いのだけれど、ただ1回の決戦なら全く勝算が無いわけでもないし。
一方日本帝国としての戦略は本来必ずしも米国との衝突を求めていたわけでも不可避でもなかった。
支那事変の拡大と独との同盟が無ければ対米戦争は無かった可能性も大きい。
米国にとっても日本は楽勝できる相手ではなかったし、予想される損害をペイできるほど魅力的な利益もなかった。
>>869 清に続いてロシアにもたてついた挙げ句に艦隊戦で勝利した事で、欧米だけでなく世界の目が
極東の日本に向けられる契機になった
それが世界にとってどれだけオドロキだったかっつーと、例えばあのエンツォフェラーリですら
少年期にそのニュースにおったまげ、60年代に日本の部品メーカーが訪問した折りにはアドミラル・トーゴーの偉業を
語り草に「ヤポネーゼの車はいずれグランプリで必ず勝つ」などと檄をくれてたりする
(その数年後に本田宗一郎率いるホンダF1が初優勝してたりしますが)
さすがに極東の「自称偉大な民族」のいる小汚い半島にまでは世界の目は向かなかったけど
またフランスの戦略について
>>871 氏にも勘違いがある。
フランス陸軍の戦力整備と国家戦略には日本と異なり共通した目的や思想はある。
フランスはWWUで何もマジノ線に閉じこもる気は無い。というかそんなことは出来ない。
スレ違いになるがマジノ線をより北部まで延長する案はベルギーを見捨てる形になることや自国の工業地帯を戦場付近に抱えてしまう不利から断念されている。
よってフランスはドイツとの中南部国境はマジノ線で固め、浮いた戦力を北部に集中し英国からの援軍と共にベルギーへ前進し前進防御策と攻撃を主軸とすることになっていた。
実際にはベルギーが早期の連合軍受け入れに難色を示したことから想定より遅れる形となり、その上よく知られるアルデンヌからのドイツ機械化部隊の侵入によりかえって主力部隊を主戦場から遠ざける形となってしまった。
結果的にフランスの戦略は当てが外れたというか裏をかかれたわけだし間抜けではあるんだが、国家と軍が戦略目的で一致していたことは我が国とは異なる点ではある。
>873 要するに、戦争は外務に属するもののひとつに過ぎないという大原則を サクっと逸脱して、別個の意思を持つかのように動いたことの当然の結果と いう話です。 日露戦争における日本海海戦もある意味ファンタジーだが、あれはファンタジー なりに上記の点について打てる手は打ちまくった出来のよいファンタジーだけど、 対米戦は周りに敵を作りまくってこれ以上はないというタイミングで始めて いて、ジャンプなら10週待たずに打ち切りが決定される類のファンタジー。 それにしても、独逸がソ連に進攻を開始した時点で日本にとって三国同盟の 意義は殆ど消えていたし、対ソ戦で負けた時点で完全に負債にしかなって なかったのになんであそこまで固執したのか…。
例えば、「竹島は朝鮮民族のものだ」という類の低級なファンタジーをよりどころにしている朝鮮人が、 事実としての日本海海戦を必死にファンタジー扱いしているとしたら、これはまた見苦しい構図ですね。
>>877 あまり政治の話に深入りするのもスレ的にどうかと思うが、統帥権の独立に問題があるのだろう。
軍隊も一つの官庁であって、日本に限らず自己の利権や組織の維持・拡大を求めるのは当然の帰結。
それを難しいなりに国家戦略に組み込んでコントロールするのが本来のあり方なんだが、統帥権の独立を楯に取られると難しいことになる。
日本海海戦は確かに一つの神話になり得る勝利ではあったけど、冷静に考察すると戦力的にもコンディション面でも日本の勝利は当然だといえるほどの状況が出来上がっていた。
残る問題はウラジオ入港前に捕捉できるか、勝利は動かないにしても自軍の損害はどうかというだけ。この2点はうまくやってのけた。
下級指揮官や水兵、一般大衆なら未だしも昭和の海軍上層部にそれがわかっていなかったとは考え難い。
日本海海戦の神話は海軍戦略の理由付けや根拠に使われただけで、決戦戦略の根本は組織としての海軍の有り様から出ている匂いが濃厚かと。
>>875 要するに、フランスは国家と軍の読みが「揃ってピントがズレてた」訳で、
それ故に速攻で白旗だったんですね。
なりすまし日本人の>882がえらく必死なのが滑稽
朝鮮人の脳内 日本や日本人を罵倒する→良スレ認定 それを指摘されたり非難される→「スレ違い」などと火病
>>881 フランスの戦略は途中までは合っていたとも言える。
フランスは常備兵力こそ大きかったものの、少子化により動員可能兵力では既にドイツが上回っていた状況で、戦争自体を不可避と考えるのならマジノ線構築は別に悪くない。
要塞線は必ずしも突破不能では無いが、それを突破するには要塞側より多くの戦力と覚悟を必要とする。
逆にマジノ線が無ければ動員余力の少ないフランスは広正面で数的に優勢なドイツ軍に直面することになる。
だから可能な地域に要塞線を構築し、浮かせた兵力を他の地域の防衛や攻撃に用いる戦略は悪いものではない。
ただベルギーに前進するタイミングの遅れとドイツの突破地点や進撃速度を見誤ったことで全てを台無しにした。
史実ではアルデンヌがフランスの防衛線上の弱点になったが、もしマジノ線が無ければ独仏国境には無数のアルデンヌが出現しかねないわけ。
フランス「軍」のピント外れは要塞云々とは別に、軍組織内部の命令伝達速度や行軍速度の緩慢さといった戦略というよりも軍隊の「神経」に関する部分が大きいと思う。
陸軍の兵力数ではフランスが断然上回ってなかったっけ?
ドラゴソあたりがマジノ線を1/35で出してくれれば独英厨も黙るだろうて。
>>887 それは常備兵力。動員可能人口ではかなり下回っていた。
>880 統帥権は本質的な問題かというと、日露戦争はその反証でもあるわけだから判断が 分かれる点でもある。根本的には政治がコントロールできなかったという意味で 同じ結果なわけだけれども。 日露戦争では日本海海戦の勝利が高く評価されすぎてる感があるが、日露戦争の 帰趨について言うなら一番働いたのは陸軍であって、どちらか片方だけではあの 戦争で勝つことは出来なかった。 翻って太平洋戦争ではどうかというと、仮に艦隊決戦が行われて勝ったとしても 日露戦争の時の陸軍の担った役割に倣って米国本土に対する制圧戦が出来るかと いわれれば、そんな装備は全然ない。仮に海戦で勝てても、結局は再度装備を 整えてリベンジに来られて負けるのは最初から判っていた話で、一体戦端を開いて 何をしたかったのか、真に理解していた人がどれだけいたのかよく判らん。
>>890 スレ違いだからこれで終わりにするけど、「うまくいくことがある」からといって統帥権の独立はやはり間違いと思う。
安全装置の無い軍事機構はやはり安全性が低い。
文民統制は確かに軍事的知識や専門性に疑問のある文官や政治家の下でしばしば軍事的に問題のある対応を行ってしまう。
だからといって軍事機構自身の理性と知性だけに国防を任せるべきではないと思うね。
少し大袈裟すぎる例だけど、優秀で理性的な独裁者は良い政治を行うかも知れないが、独裁者が全て優秀で理性的であると期待することは出来ない。
>一体戦端を開いて
何をしたかったのか、真に理解していた人がどれだけいたのかよく判らん。
これについては、帝国海軍は米海軍を対象という名目で整備されていたけど、元々本気で勝てると思ってはいなかったんだろう。自分達の存在理由として米国海軍を対象にしていただけ。
帝国政府としても、本来なら戦いたくない相手であって、支那事変や三国同盟が原因で引くに引けなくなっただけという感が強い。
つーか、ロシア海軍ひいては帝政ロシアのダメさ加減を必死に持ち上げたところで 旧海軍の成果には何の影響もありませんが
>>889 クレマンソーが「ドイツなど工業を解体して農業国にしろ」などと息まいたところで、そのザマですか。
さすがは戦勝国(笑)ですねぇ。
>>892 必死に日本を叩いてるのは、例の自称戦勝国民なんじゃない?
実際は単なる万年属国民族なんだけど。
フムフム 大清属国民族の脳内では、日本海海戦での日本海軍の勝利は「単なるファンタジーです」と 自己発展したためしのない民族の能書きというのは、見てて無様ですね
戦艦関係検証のスレなんだからそれくらいにしとけ
>893,894 民族バカは板違い。 巣に戻れよ。
ところでデ・ロイテル巡洋戦艦説の元ネタを知っている人いますか?
自爆した日本軍の魚雷を敵戦艦の大口径弾によるものと勘違いした。 (日本艦隊はABDA艦隊には戦艦がいると一時待避したはず) プラス オランダの計画していた巡洋戦艦の話
別〇氏だっけか?それだけでそう思い込んだのか?
>>871 >その戦術のご都合主義という点では、ダンケルクやらリシュリューは確かにマジノ線的自己満足の産物ではあるな。
しかし、エゲレスには速い足を持った通商破壊艦に対して有効な対抗手段を持ち得なかったのも事実。だからメルセルケビルやダカールで躍起にフランス艦隊潰しに走った訳であるしw
>>872 力抜けよ
>>897 「デロイテル」「巡洋戦艦」のキーワードでググると幸せになれます。
>>900 幸せになれました。
ところであれは本気で言っているのかネタなのか判断に迷いますね。
903 :
900 :2007/12/31(月) 16:58:28 ID:???
>>902 掲示板のログを見る限りじゃ本人は信じこんじゃっているフシが
904 :
名無し三等兵 :2007/12/31(月) 16:59:09 ID:Ui/tT2xH
デ・ロイテルはポケット戦艦そっくりなシルエットだな。
そもそもドイツ人が設計したんだし>デ・ロイテル
仮想サイトの設定で例えばアメリカ戦艦が30000mからの遠距離からレーダー管制射撃と書いたりしていたけど。 実際米戦艦で30000mからの遠距離からレーダー射撃なんて可能性有りかな。
>>907 レーダー射撃という定義によるでしょうね。レーダーのみに依存して砲撃するのかレーダーを併用するのか。
Mk8やMk13なら30q以上から大型艦に対するレーダー測距や弾着観測能力を持ちます。その意味ではレーダーのみに依存しての砲撃も可能ではあります。
ですからレーダーで測距しつつ目視でも的針や的速の観測が行えるのなら撃ってくるでしょう。見える状態なら相手も撃ってくるわけですから。
ただ暗夜のように目視での観測を併用できない場合、測距や弾着観測は出来ても的針、的速については精度が落ちると考えられます。
また当然遠距離では砲側の精度に基づく命中率低下も考えられます。
もし敵艦が暗夜で遠距離射撃をしてくる能力が無いのならもう少し接近してから正確な砲撃で決定的打撃を与える方を選ぶでしょう。
遠距離から精度の低い砲撃をして自軍の存在や布陣を教えてやる必要は無いですし、敵に軽傷のまま離脱されてしまう恐れも高くなります。
スリガオでもMk8搭載艦は30q以上から西村艦隊を捕捉しているようですが、砲撃開始は20q強。
日本側に有効なレーダー射撃能力が無かった以上、正しい選択だったでしょう。
撃ち合いにおいてアイオワが大和よりまさっているのは逃げ足だけか まあ、断面が3万5千tのままだからな所詮
>>909 アイオワの優位点は速度、レーダー、戦術運動中の砲撃精度の3点ですね。
火力と装甲は大和が優勢。
相手を目視で観測出来る状況でなら苦戦は強いられるにしても大和の勝率が高いでしょう。
アイオワならドイツの旧式防御の欠陥品見掛け倒しデカブツのH級粗大ゴミならアイオワで勝てそうな希ガス。
やはりヤマトとの殴り合いには最低モンタナ級が必要な希ガス。
>>910 戦術運動中の射撃制度といっても、船体のプラットホームとしての安定度が
モロに効いてくると思うんですが
46サンチ3連装を搭載するのに充分な体躯の大和や、搭載口径に対しては
オツリがくる艦幅のビスマルク、ふた昔前の砲に対しては艦幅充分な先兵ら
に比べると、アイオワやリシュリューやKGVらのプラットホームとしての
安定性は、いささか苦しいかと
>>911 そろそろ日本語で頼む
お互いに接近しようとするから距離が三万で固定するなんてあり得ないだろ、距離が縮まる時間を考えたら三万で射撃を開始しないと後手を踏みそうだし。
アイオワはちょっと波が出ると頭っからザブザブ被るわ
前後左右への動揺が大きいからなぁ
>>913 ビスも艦舷低くてフレア形状が悪くすぐ頭から突っ込んで波被って射撃しにくい艦ですよ
>>913 プラットホームとしての安定性は船体の大きな大和のような艦がより安定しているでしょうが、射撃指揮装置や砲安定装置などによる戦術運動中の砲撃精度の改善は米戦艦に見られる特徴です。
大しけとかでなければアイオワでも問題無いでしょうし、大しけならそもそも視界が悪くなりがちで光学頼りでは観測がおぼつきません。
アイオワは見た目に細く感じるので特に不安定なイメージがありますが、船体幅の絶対値で言えば比較的広い方に入りますから。
長さの割には細いといえますから横方向の揺れには比較的弱いでしょうが、伝えられる砲撃精度で言えば特に良いわけではないにしろまずまずな成績です。
>長さの割には細いといえますから横方向の揺れには比較的弱いでしょうが 横からの大波に対してと言う意味で。この場合縦横比が大きく関係するので。 自身の運動や発砲の衝撃に対しては縦横比より船体幅や排水量の絶対値が主に影響すると考えられます。
じゃあ長門VSアイオワならどうよ?
>>915 そのようにソースも無い妄言を吐く奴に限って「KGVの凌波性は多少悪いだけですよ」
などと低級な電波を垂れ流している時代があったな。
船体が細すぎて荒天下ではすぐに突っ込んで回復が遅れるシャルンホルストやアイオワ
じゃあるまいし。
まあKGVの凌波性の悪さやリシュリューの動揺周期の短さに至っては、もはや欠陥と
しか言いようが無いけど。
>916 大時化の撃ち合いで、先に撃ったレナウンはあとから撃ったグナイゼナウに先に当てられてますね
>ビスも艦舷低くてフレア形状が悪くすぐ頭から突っ込んで波被って射撃しにくい艦ですよ ↑ 電波飛ばす前に日本語と漢字を覚えるのが先じゃね?
いずれにしろそんな大時化の状態じゃ、大和であれアイオワであれ海戦に ならんと思われ。
唯一ヴァンガードがすんなり通りすぎるのみ、か ところでKGXとフッドって、どっちが主砲の飛距離あるん? 色々と意見が割れてよくわからん
>唯一ヴァンガードがすんなり通りすぎるのみ 大和にやられる前にビスマルクにやられて終わりですな >ところでKGXとフッドって、どっちが主砲の飛距離あるん? 他スレでバカが回答してたような
>>919 >まあKGVの凌波性の悪さやリシュリューの動揺周期の短さに至っては、もはや欠陥と
まあ砲塔内にいるにも拘らず雨合羽必須のビスマルクやKG5波の凌波性のイタリア・ソ連戦艦
25ノットを超えると貧乏ゆすりを始める米新戦艦もな(笑
バカってどの馬鹿だよ?
大和は条約によるサイズ制限がないために余裕を持って作られてそうだが 凌波性や高速航行時の安定性は新戦艦の中でもトップなの?
砲搭って普通に水入ってくるけど、kGvはその排水すらおいつかない程の海水をかぶるような 凌波性の悪さだからなあ
>>929 その手の単純なスペック見ただけではわからないような事柄でも各国戦艦の比較データって出てる
もんなのかな?
>>920 その後でレナから倍返し喰らってますがw
シャル級って、射撃実績自体はそう悪くないんですよね。
北岬でも、当てようがなさそうな悪条件下で命中弾出してますし。
>>931 基本は射撃訓練の成績比較で済ますようだね。+フネとしての評判で微調整。
プラットフォームとしてのの安定性≒射撃成績の安定性、みたいなもんで。
天候ファクターって、特定日時のその時々で違うんで。
NAVAL INSTITUTEの英仏編な
ビスマルクを撃ってる時のkGvもそうだったな。
戦艦同士が砲戦やってるときって、基本的に砲塔は横の方を向いているから、 凌波性で問題になる船首からかぶる波がそんなに砲塔内に入ってくるかな。
>>936 戦場に辿り着くまでに大浸水じゃいかに薬莢式のドイツ砲弾でもヤバかろう
大和もそうだったが、航海中は覆いをつけてるでしょ。
>>935 戦場に辿り着く前から波被ってるし、砲の故障だけじゃなくその修理も波によって邪魔される程
の劣悪な凌波性ですからねぇ。PoWは。
かたやビスマルクは艦首に浸水しても普通に撃ててるのに。
>937 例のよく壊れるkGvの主砲って、薬嚢じゃなかったっけ?
艦首に浸水するぐらいならKGXでも撃てるだろ、ビスマルクはそんなことしか自慢にならんのか
荒天時での射撃すらままならないKGVは論外として、まともな砲弾さえ供給出来ない フランスのリシュリューはどうなの?
KG5やヴァンガードやリシュリューあたりになると、自慢出来る点が皆無だからねぇ。 3万m以上での砲撃といった類の脳内妄想くらいしか。
>943 そもそも30,000mも飛ばないし。ヴァンガードのリサイクル砲は。
>>941 何もしなくてもA砲が波を被るKGVの場合、艦首に浸水するとちゃんと撃てるようになるんですか?
>942 そんな戦艦に犯られたシャルや不発弾で無価値になったビスの立場は無いな。
>>943 実際に「無価値」だったけどね
フランスにとっての新戦艦は
>945 そもそも4基を使っての斉射を最初から考慮してないでしょ>ヴァンガード 後部のXとY砲の揚弾機は掛け持ちだし。 >948 第1次大戦レベルの陸軍国だから仕方が無いんじゃない?
このスレまで100回バカに侵食されたか。
流れにワロスwwwwwww
>>952 こんな所だが… 785 名無し三等兵 sage 2008/01/01(火) 17:19:59 ID:??? KGXの主砲ととフッドの主砲、どっちの方が飛距離長いの? どこいっても意見が割れてわぁらん 786 ドイツ厨 ◆Kmf5mxsjcM sage 2008/01/01(火) 20:36:35 ID:??? そういう時は調べてみる。(^ω^ ) ――表示できません―― 787 名無し三等兵 sage 2008/01/01(火) 21:10:17 ID:??? よくわかった。ありがとう 誰だよ、フッドのほうが射程長いって言った奴 788 名無し三等兵 sage 2008/01/03(木) 13:54:41 ID:??? 角度が重要なのか、角度がw 789 名無し三等兵 sage 2008/01/03(木) 20:55:38 ID:??? 仰角だな 790 名無し三等兵 sage 2008/01/03(木) 23:05:13 ID:??? ボクのアソコも仰角になりそうです!!
>>943 >まともな砲弾さえ供給出来ないフランスのリシュリューはどうなの?
その砲弾を48発しか持ち出せなかったフランスに砲弾を恵んでやる替わりに、砲身を1mm削らせるとかボケな
提案をしたイギリスはどうなの?
>>948 いや、価値はあったぞ。少なくとも米英にはその存在が枢軸に渡ってほしくはないから艦隊を遣して潰しに掛かった
わけだし、何に価値を見出すかは立場によって異なる。
無力な存在ならばメルセルケビルもダカール沖もなかった。
>948 安心しろ、無価値どころか笑いのタネにすらならないイタリア新戦艦に比べれば
運用を含めて物笑いになってる大和を抱える日本もあまり他所のことは いえないけどさ。
最悪だよヴェルサイユ条約のハンデでまともな艦隊が不可能なドイツが一番悲惨だよ、第一次大戦でドイツ戦艦と水上艦隊は終わったよウワーン!酷いよ。
>>956-957 君の祖国の大清属国が今も物笑いになってるからといって、八つ当たりは良くないな
同情はしないけど
>>956 いや、大和は使える機会が無かったからまだマシだろ。評価的には。
最悪なのは使える機会があったのに使えないのw
嘆かわしい流れで。
>使える機会があったのに使えないの んじゃあ、アンソンとハウとリシュリューとローマで金網デスマッチな。 実況:古舘伊知郎 解説:山本小鉄
962 :
名無し三等兵 :2008/01/04(金) 21:46:58 ID:FyVr4FuS
AnsonとHoweはきっちり北極海航路の護衛に投入されているはずだが? Howeなんぞ、KGV共々太平洋にまで回航されていたはず。
R級程度には余ってた訳か アンソンとハウは
大和型には使い道も時間も充分ありましたよ。使い潰す覚悟が無かっただけで。 戦艦数で劣勢なので覚悟が無いことを一概に非難も出来ませんけどね。
ローマは就役した時ほとんど燃料がなくて、浮き砲台にしか使えなかったが (沈没までの航海時間は僅かに133時間)
>964 潰す覚悟がなくては戦艦の運用なんか出来ないんだから、 それはつまり運用がダメだったということの単なる言い換えですな。
>>964 マリアナなんかでは有効に使ってるよ
結果だけ見れば直接砲火を交えてはないけど、
出撃して敵味方の戦術行動に影響を与えているから十分存在意義がある
レイテなんかではもっと積極的に自らの存在によって艦隊を動かしてるしね
>964 使い潰す覚悟どころか、相手を一方的に撃破するなどと鼻息も荒い「自称不沈戦艦」が魚雷1本で 戦闘不能に陥ってすぐに沈んでるね マレー沖で
>>961 どれも弱すぎるから全艦リングアウトでドローの茶番だろ。
そのくせ、低脳な解説がやたらと「最強」「大和より強い」を連呼するのな。
もちろん、放送は在日テレ朝か在日TBS。
だが断る
途中から急激にスレが厨化してて笑える。
そして冬休み終了と同時に過疎ってるのもわかりやすい。 OCN規制とかがとれてみんなうれしかったんじゃないかな?
974 :
名無し三等兵 :2008/01/08(火) 20:07:26 ID:qF/umWOm
旧電電公社、第二電電組が全滅じゃ、過疎って当然。(苦笑
ありゃ、一難さってまた一難ですか。 一説によるとサーバーの負荷を減らすための運営側の意図的な規制らしい。とか言ってみる(悪)
保守
977 :
名無し三等兵 :2008/01/26(土) 15:02:50 ID:IfrgLsLM
フランスのアルザス級戦艦の計画スペックを教えてください
それも学研の世界の戦艦か光栄の未完成艦船に載ってる 優しい人がまた貼ってくれるかもしれんが、こんな基本的なところ甘やかすのもどうかな。 本買って読んだ方がよほどわかりやすくて理解できるし。 ググって調べるくらいは誰でもできるはずだし。 安直に教えてもらうより自分で調べた事の方が身につくよ。 もっともミリオタ知識なんて身につけても何の役にも立たないしそんな事に自分の時間はさけないとか言われたらお手上げだけど。
>>977 長276m 幅36m 6万1千トン 42cm砲×9門 33kt 最大装甲380mm ソースは俺もしくはブルドック
>>980 タコの入ってないたこ焼きなみな嘘つきめ!
いやいや、わかってやってるとは思うが。
しかし42cmを本気で検討してたのは帝制ドイツくらいか。
イギリスもちらっと考えはしたが。
42cm砲とアメリカの16inMk.1の威力の差ってあるのかな?
983 :
名無し三等兵 :2008/02/02(土) 10:38:31 ID:R9keTbjb
>>982 異なる国の異なる砲だから、威力の差はあると愚考いたしますが。
どのぐらいかってことだよ
1.2倍くらいじゃ?
そんなにあるか?
出血大サービス三割引
うめ
合流すべきなんだろうけどあの流れじゃあ。
うめ
うめ
このスレは戦艦系には久しぶりとなる名スレだけどそれだけに維持は難しいんだよね。 よい話題ができた時や他のスレがグダグダになった時に再建すればいいかも。
お
わ
999 :
名無し三等兵 :2008/02/05(火) 00:24:48 ID:3EGsi8F7
り
1000 :
名無し三等兵 :2008/02/05(火) 00:25:45 ID:3EGsi8F7
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