1 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :
2006/08/25(金) 00:13:04 ID:BCXzwY+n 満州事変、盧溝橋事件、通州事件、第二次上海事変、南京陥落、徐州作戦、 武漢攻略作戦、重慶空襲、トラウトマン工作、拉孟の玉砕、大陸打通作戦等……。 日中戦争を軍事的に語るスレッド。帝国陸海軍の内情も可。 前スレは「容量オーバー」のため、798でお亡くなりになりました。合掌w。 まだまだ語るべきことは尽きません。引き続きマイペースで進行していきます。
2 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/25(金) 00:13:40 ID:BCXzwY+n
3 :
楽園の最高裁判長 四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/08/25(金) 00:15:19 ID:BCXzwY+n
,r---、. _ソヽ/`、シi. _>=ヘ 山/=<, . ((ん'ノノルレム)) _ソレリ ゚ ヮ゚ノリ(_ 状況開始! ),k'ヲ:::::::::つ (ン::::/:::l::ヽ `~i,ンT,ノ~´.
4 :
楽園の最高裁判長 四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/08/25(金) 00:36:29 ID:BCXzwY+n
>>前スレ771 >>スパイといえば川島芳子は外せませんね。王族の娘で美貌の男装 遥か前のスレで「川島芳子」のことは少し触れましたが、その際に義父の 川島浪速に『肉体関係』を迫られたかどうかが話題に上りました。 その後、複数の書物で芳子の同母兄である「憲立」の証言が挙げられて いますから、おそらくは事実なのでしょう。一説には芳子と浪速は寝室を 共にしていたとあります。また、それが「男装のきっかけ」になったのは 間違いなさそうです。 例えば、『支那派遣軍総司令官 岡村寧次大将』(船木繁著)にも同様の 既述があり、芳子の日記には「家あれど帰るを欲せず、涙あれ泣くところを 得ず」と書かれています。
5 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/25(金) 00:48:33 ID:BCXzwY+n
ド初発から、名前を直すの忘れた……orz.w >>軍司令官として実戦経験もあり、ほとんどアニメの主人公みたいな設定。 まあ、川島芳子としては1933年8月、熱河作戦で『熱河民団連合定国軍総司令』となり、 4万人の民兵を率いたのが「絶頂期」でしょう。その時、何とまだ26歳です。 最近はドラマや小説を読んでいても、ちっとも楽しくありません。何故なら 『事実は小説より奇なり』だからです。実在の人間、歴史ほど面白いものは ないのです。
6 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/25(金) 01:10:56 ID:BCXzwY+n
>>前スレ720 >>番組中で「中国の犠牲者は1000万を越えると言われています」 >>と表現した件につき、 ただ1点注意すべきは「支那の人口」です。当時4億人とも4億5千万人とも 言われていましたが、切りの良いところで4億人として置きましょうか。 仮に支那の犠牲者を1千万人だとすると、総人口に占めるその割合は 2.5%にしかなりません。 逆に太平洋戦争での「日本の犠牲者数」は民間も含めて約300万人です。 当時「一億玉砕」と言われたように日本の総人口は1億人ですから、 その割合は3%と支那以上のパーセンテージになってしまいます。 仮に朝鮮や台湾など諸々の植民地を除くと、日本内地の人口は7千万人に 過ぎませんから、さらに比率は4%以上と高くなります。
7 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/25(金) 01:19:40 ID:BCXzwY+n
いくらアメリカを筆頭に世界中を敵に回して戦争をやったとしても、 一方的に自国を蹂躙され続けた支那の方がパーセンテージが低いのは 感情的に納得しかねるところではあります。 その点、だつお氏が主張する「チンピラゴロツキ3500万人」という 死者は10%近い数字ですから、ある意味妥当と言えるのかもしれませんw。 やはり1千万人では殺し足りなかったのか……w。
8 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/25(金) 01:34:06 ID:BCXzwY+n
>>前スレ770 >>数十年単位どころか、親子代々のスリーパーでさえ、 >>当たり前、ということになるのか、などと。 上原勇作(元帥)が支那の奥地にまで「独自の牒者」を派遣していた事を 鈴木貞一(陸軍中将)が往時を振り返って絶賛していたのは、既スレで 何度も書いてきたことです。 要するに、明治の頃の日本の方が危機感もあり、インドやシベリアなど世界の 僻地にまで人を送り込んで「情報収集」に血眼になっていたという事です。日本は 国際連盟の常任理事国など『1等国』になるに従って、その座に胡坐をかくように なり、却って「情報オンチ」になってしまったことを嘆いた訳です。 親子代々のスリーパーなど、宣教師ぐらいしか考えられません。本人はともかく 家族の問題がありますからね。ただ1つ例外があるとすれば、それは『移民』です。 在日朝鮮人など意識・無意識を問わず、スリーパーに近い存在ではありませんかw。
9 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/25(金) 01:41:58 ID:BCXzwY+n
現代で言うならば、ヨーロッパへの「イスラム系移民」などは スリーパー以外の何物でもありません。いずれ国を乗っ取られる のではないでしょうか?w 第二次世界大戦前夜では、アメリカには「ドイツ系移民」が多いので 米国は参戦しないのではないかと、真剣に議論されたものです。 まあ、後世から見ればどれ程「机上の論理」でも、化けの皮が剥がれる までは『奇妙なリアリティ』があるという典型例ですねw。 日本は満州に対する「移民」でも、ほとんど上手く行きませんでした (特に満州国成立以前)。移民とは「口減らし」の要素を除けば、 ほとんどスリーパー送り込み目的ですが、日本人は全然向いてないです。
10 :
名無し三等兵 :2006/08/25(金) 01:55:18 ID:???
だからそのほとんどが南方でしょうが・・・ シナにおける日本軍の損害は四五十万。 国民党軍戦死三百万民間人が同数としても六百万にしかなりません。 だいたい三八式が主力の日本軍のキルレシオをどんぐらいだと見積もってるのか・・・ いっとくけど独ソ戦でも民間人より兵士の方が多かったんだぞ。
11 :
名無し三等兵 :2006/08/25(金) 01:57:23 ID:???
たった十数年で失敗といわれましても・・・ 南米じゃ大統領まで出したぐらいなんですが。 半世紀も続ければ成功したはず。
12 :
俄将軍 :2006/08/25(金) 02:21:13 ID:???
>>8-9 日本と中国の関係も、清国の時代から、辛亥革命、混乱から、中国統一へ、と
いった流れが、ということになると、中国の中の中の人の優先順位も、変わ
ってくるということになるのか、などと。
スリーパーにしても、一代、ということになるのか、家業と関係してくるとい
うことになると、本邦の政財官暴の中の人を問わずに、親からの繋がりなど、
という当たり前の話になると、国内外を問わないということにもなるのか、
などと。
子供に、本業と裏家業、双方の資質を持ち合わせているのか否や、ということ
はありますが。
13 :
俄将軍 :2006/08/25(金) 02:26:08 ID:???
>>12 対象国の移民に紛れ込んで、活動するにしても、日本人が、白人国家で、とい
うことになると、第二次大戦前の米国など、困難、ということになるのか、
ナチスドイツとの協力体制など、ということもあるのか、などと。
米国で、日本人が活動するにしても、地域に、日本人移民が多ければ多いほど、
溶け込めるということになると、欧米へのイスラム諸国からの移民、日本の
特定在日外国人の中の人など、連想したり、といことになるのか、などと。
本邦の特定在日外国人の場合、不法入国者以外の何者でもありませんが、それ
はそれとして。
14 :
俄将軍 :2006/08/25(金) 02:30:27 ID:???
>>13 スリーパー目的にしても、質と量、ということになると、対象国家で、如何な
る活動を、ということになるだけでありますから。
>>11 北米、中南米での本邦の浸透工作は、米国による日本人移民の一生取締り、収
容所に収容された、ということになると、逆に、浸透していたからこそ、と
いうことになるのか、などと。
国籍を取得して、帰化していた、ということになると、尚更、ということにな
るのか、などと。
コスタリカなど、枢軸に、浸透された懲罰、ということになると、背筋が凍る
ということに。
すばらしい手際だ。心から貴国らのスリの技術に敬意を表するが、ついては東京までの切符を発行して欲しい。 むろん、米国海軍の名誉にかけて、料金は近日中に持参することを約束する
米国海軍は実に頼もしいですね。 さすが、世界最強の海軍です。
17 :
名無し三等兵 :2006/08/25(金) 03:31:21 ID:???
スリーパーは質より数だよ。 北鮮の補助工作員がイイ例。能力なければ本国からある奴手引きして 入れちまえばいい。 日本人にはスリーパーって向いていない。 郷に入れば郷に従えで南米ですら日本語が理解できない 子孫が多くなる有様ではとてもとても無理。 中国人みたいに密入国する位のバイタリティでもって人の移動が 無いと駄目。
18 :
俄将軍 :2006/08/25(金) 08:16:19 ID:???
>>17 ユダヤ人も、イスラエルで、ヘブライ語など、復活させた、ということになる
と、宗教、政治、思想などの連帯など、ということになるのか、などと。
戦前の朝鮮半島、満洲といった中の人も、日本側に協力すると見せかけて、と
いったようなことだけでなく、満洲、朝鮮半島で、教会をベースに、工作活
動など、ということもあるのか。
>中国人みたいに密入国する位のバイタリティでもって人の移動が
>無いと駄目。
蒸気の場合、人の移動にしても、事実上の「侵略」と変わらないのではなかろ
うか、などと。
>>12 「中国の中の中の人の優先順位も、」を「中国の中の人の優先順位も、」に修
正。
19 :
名無し三等兵 :2006/08/25(金) 12:24:45 ID:???
>>18 言葉は重要な要素。英語で通しているユダヤ人とよく判らん約束の土地で
ヘブライ語を話すイスラエル人の間に隙間風が出てくるかも試練。
内ゲバを起こしやすい民族だし。
あざと過ぎる民族はまず身内を出し抜く傾向強し。
中国人も然り。
謀には宗教、結社、商人で鉄のトライアングルを組む傾向あり。
表に出ている協会だけでなく、モグリの教会もあり始末に終えない。
侵略と云うより寄生だ。蚤みたいにぴょんと跳ねて居心地のいい所で
寄生する。宿主の機嫌を損ねて殺戮されてしまう事もある。
母屋をとられるのは己が蚤になってしまった時だ。
蒙古と女真の何処で差が出てしまったかと言えば、蚤と同化したか
しないかだ。女真は弁髪強要した分、満州国で命脈を永らえたに過ぎん。
20 :
俄将軍 :2006/08/25(金) 20:08:00 ID:???
>>19 イスラエル建国によって、出身国の言語、それまでの母国語では、不具合が、
ということになると、イスラエルでの共通語が、ヘブライ語、ということ
になるのか、などと。
ユダヤ人に必須の言語が、ヘブライ語、ということになるのか、ヘブライ語が
喋れないユダヤ人との間で、違いが生じるのか、ということになると、キブ
ツなど、色々、イスラエルの中の人も、ということになるのか、カルトの
強化、ということになるのか。
開戦前の米国の日系人の間でも、日本人会、米国籍を有する二世など、という
ことになると、JACLのマイク・正岡など、日米両国で、日系米国人の取
りこみという面もあるのか、などと。
本邦の特定在日外国人の場合、敗戦後の歴史的な経緯からも、無法な不法滞在
者以外の何者でもなく、日系米国人と、似ても似つかぬものであることは、
指摘するまでもありませんが。
21 :
民間人 :2006/08/25(金) 22:22:28 ID:???
支那事変で質問です。 南京大虐殺は戦時国際法で見る限り問題無しとのプログを目にしますが 実際問題どうなんでしょう。
22 :
名無し三等兵 :2006/08/25(金) 22:31:32 ID:???
■日本軍が集団虐殺した中国軍民の数 ■最大値140,990人 最小値80,830人 出典:南京事件 戦闘詳報(日本軍公式記録)陣中日誌(日本兵記録)などの日本側史料に基づく日本軍が集団虐殺した中国軍民の数 日時 部隊 殺害数 範疇 第16師団 12/13 歩兵36連隊 ■5000〜6000人 長江渡江中殺戮 歩兵33連隊 約 ■2000人 〃 佐々木支隊 ■一万数千人 敗残兵殺戮 〃 ■数千人 投降捕虜殺戮 1中隊 ■1300人 〃 重砲兵第2大隊 ■7000〜8000人 投降捕虜処刑 12/14 佐々木支隊 (■約2万人) 捕虜とする 処刑の記述なし。 歩兵第20連隊 ■800人 装解除して殺害 〃 ■310人 武装解除して銃殺 〃 (■約1800人) 捕虜を連行 処刑の記述なし。 〃 ■150〜160人 敗残兵を連行処刑 〃 ■600人 〃 12/24〜1/5 佐々木支隊 ■数千人 敗残兵狩りで処刑 第13師団 12/14 山田支隊 ■約1000人 敗残兵掃蕩 12/16〜17 〃 ■約2万人 捕虜殺害 下記参照 第9師団 12/13〜24 歩兵7連隊 ■6670人 難民区の敗残兵刺殺 第114師団 12/13 歩兵66連隊 ■1500余人 安全を保障する旨の投降勧告に従った捕虜を殺害
23 :
名無し三等兵 :2006/08/25(金) 22:33:36 ID:???
第6師団 南京攻撃中 (■5500人) 捕虜捕獲 処刑の記述なし。 12/10〜13 (■11000人) 上河鎮下関遺棄死体 処刑の記述なし。 12/12〜13 (■1700人) 城壁遺棄死体 処刑の記述なし。 第5師団 12/13 国崎支隊 (■約5000人) 捕虜の処置軍に委任 処刑の記述なし。 12/14 歩兵41連隊 (■2350人) 捕虜を後刻処置する 処刑の記述なし。 第2碇泊場司令部 12/16 (■約2000人) 下関で敗残兵処刑 目撃記録。 12/17 (■約2000人) 下関で敗残兵処刑 処刑の記述なし。 海軍第11戦隊 12/13 ■約1万人 長江渡江中殺戮 12/14 軍艦「熱海」 (■約700人) 敗残兵武装解除 処刑の記述なし。 12/15 第2号掃海艇 ■約500人 敗残兵殲滅 軍艦「栂」 ■約700人 敗残兵殲滅 12/16前後 ■数千人 八卦洲の敗残兵殺戮 ※「処刑の記述なし」に関しては、前後関係他の資料との比較検討により、処刑された可能性が高い 第2次世界大戦でも、戦闘終了後にこんだけ殺した例は無いんじゃねえの?
24 :
民間人 :2006/08/25(金) 23:48:15 ID:???
>>22-23 便衣兵は戦時国際法違反で重罪だそうでが、
それは便衣兵では無いのですね。
25 :
名無し三等兵 :2006/08/26(土) 00:15:37 ID:???
南京虐殺は他でやれ
26 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/26(土) 00:32:49 ID:fSf5W6lR
>>10 >>国民党軍戦死三百万民間人が同数としても六百万にしかなりません。
>>だいたい三八式が主力の日本軍のキルレシオをどんぐらいだと見積もってるのか・・・
第11軍の「作戦概況」をまとめると以下の通り。便宜上、キルレシオを『K』と表します。
●漢口作戦(1938年)支那軍の遺棄死体:14万3千人、日本軍戦死者:4567=K33
ですが何か?
●南昌作戦(1939年)支那軍の遺棄死体:2万4千人、日本軍戦死者:500人=K48
ですが何か?
●襄東作戦(1939年)支那軍の遺棄死体:1万5千人、日本軍戦死者:650人=K23
ですが何か?
●かん湘作戦(1939年)支那軍の遺棄死体:4万4千人、日本軍戦死者:850人=K51
ですが何か?
27 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/26(土) 00:47:39 ID:fSf5W6lR
●冬季攻勢(1940年)支那軍の遺棄死体:5万1千人、日本軍戦死者:2100人 =K24ですが何か? ●宜昌作戦(1940年)支那軍の遺棄死体:6万3千人、日本軍戦死者:1400人 =K45ですが何か? ●漢水作戦(1940年)支那軍の遺棄死体:6300人、日本軍戦死者:132人 =K47ですが何か? ●第一次長沙作戦(1941年)支那軍の遺棄死体:5万4千人、日本軍戦死者1670人 =K32ですが何か? 他にも北支那方面軍で ●中原会戦(11941年)支那軍の遺棄死体:4万2千人、日本軍戦死者673人 =K62ですが何か?
28 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/26(土) 01:07:32 ID:fSf5W6lR
>>10 >>シナにおける日本軍の損害は四五十万。
ざっと「キルレシオ」を30と仮定しても、45万人×30で支那人を
1500万人は殺ってないとおかしい計算になりますw。50であれば
軽く2000万人をオーバーします(藁)。
もちろん上記は「数字のトリック」があり、前スレでも述べたように日本軍は
支那人の遺棄死体のダブルカウントなどは当たり前(別に日本軍に限った話では
ありませんがw)、さらに戦場では、そもそも遺棄死体をカウントする暇など
ないので、単純に自軍(日本軍)の戦死者数を何倍かして報告するのが通例だった
と言います。
一体どこでこの話を読んだか、ようやく思い出しまして『長沙作戦』(佐々木春隆著、
図書出版社:1988年)でした。この話を横に置いたとしても、上記の支那人の遺棄死体は
かなり水増しされていると考えるべきです。また日本軍は、戦死者の他にも3倍の
負傷者がいます。よって全体の戦死傷者は約4倍と考えてください。
29 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/26(土) 01:22:44 ID:fSf5W6lR
こう考えると、上記のキルレシオの数字は極端に小さくなるでしょうが、 そもそも支那軍は散り散りになって逃げる事が多いですから、負傷兵だけの 統計なんて出しようがないのですw。よって日本の『戦死傷者数』と比べる のはフェアではないでしょう。やはり『遺棄死体』が対象となります。 また支那軍の負傷兵は「医薬品の極端な不足」からそのまま死に至るケースが 多いですし、そのまま原隊に復帰することなく『土匪』となって戦力外になる 場合もあります。大きな戦闘があった付近の都市では「●●部隊の兵員の原隊 復帰は●●の場所で」と立て札が掲げられていたりしますw。 いかに戦場が自国とはいえ「ほほえましい」の一言ですw。
30 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/26(土) 01:52:55 ID:fSf5W6lR
>>10 >>国民党軍戦死三百万民間人が同数としても六百万にしかなりません。
前スレの終わりの方でも述べましたが、徐州作戦での「黄河決壊」による支那人
民衆の死者・行方不明者数は89万人、被災者は125万人に上ります。もちろん
指示したのは当時、漢口にいた蒋介石ですが、これは日中戦争の犠牲者数に
含まれるのでは無いでしょうかね? 先方の理屈ですとw。
ちなみに200万人が家を失っています。
さらに1942年に起きた「河南省」の大飢饉です。前年まで続いていた凶作に
トドメを刺したような惨状で、省人口3千万人の約10%にあたる200万人
から300万人が飢死しています。
これも日中戦争間で起きた出来事ですので、支那人の犠牲者数にカウントするなら
先の「黄河決壊」と合わせて、この2つの出来事だけで400万近くの民間人死者
となります。こう考えていくと、トータルの犠牲者数なんて上限があって無い
ようなものです(藁)。
31 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/26(土) 02:17:47 ID:fSf5W6lR
ちなみに日中戦争における「支那人難民」は先方の主張によると、9千万人以上
とされますw。総人口の4分の1の計算になります(藁)。
>>10 >>だいたい三八式が主力の日本軍のキルレシオ
それは幾らなんでも日本軍を「舐め過ぎ」です。支那事変中、ホワイトという
アメリカ人ジャーナリストが国民党中央宣伝部に勤務していましたが、自身の
戦場体験を次のように書いています。長くなりますが、そのまま引用すると
以下の通り。
32 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/26(土) 02:25:38 ID:fSf5W6lR
「私が目にしたのは、塹壕の中の兵士たちが錆びた機関銃で守備についており、 あるいは旧式の小銃を磨いている図であった。 中国軍の前哨部隊は2、30人で構成され、伝令により営(大隊)の 本部と連絡していた。営の本部と師の本部の間には電話線が引かれていた。 日本の部隊は村落に200人から300人で駐屯しており、野戦砲に支援 されていた。山の上から日本軍を見渡すと、至るところに見ることができたが、 どの場所でも中国側の兵力は日本側の5倍はあった。 しかし日本軍部隊はすべて重機関銃と野戦砲を装備していた。中国側の武装兵が 日本側の1、2キロ以内に接近すると、必ず火力によって撃退された。この火力に 対して中国側はなすすべがなかった――」
33 :
名無し三等兵 :2006/08/26(土) 02:37:27 ID:???
毛沢東が「持久戦論」を発表しなければいけない理由がよくわかりました
34 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/26(土) 02:50:29 ID:fSf5W6lR
>>11 >>たった十数年で失敗といわれましても・・・南米じゃ大統領まで出した
>>ぐらいなんですが。半世紀も続ければ成功したはず。
まあ、ペルーのフジモリ大統領はいましたけどねw。今どうしているんだ?w
南米移民は二世でも『二重国籍』の黙認状態だそうです。要するに、例えば
ボリビアのパスポートと日本のパスポートの両方を持っている人が多い訳です。
アメリカや日本に行くときは「日本のパスポート」を出した方が入管で執拗に
調べられずに済みますし、逆に中南米の隣国に行くときはボリビアのパスポート
の方が便利です。
しかし満州移民については、十数年の歴史では済みません。日露戦争でのポーツマス
条約以降です。
35 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/26(土) 03:02:36 ID:fSf5W6lR
今までのスレで既述ですが、初代満鉄総裁である後藤新平は50万 もしくは100万の日本人を満州に移民させることを主張し、 「多数の日本人を満州に移住させれば、満州は事実上の帝国の領土となり、 後年還付(関東州・満鉄利権を指す)の場合においても我の利益は確定不動」 と述べています。また日露戦争で外相だった小村寿太郎は、1909年2月の帝国議会演説で いわゆる「満韓移民集中論」を述べて注目を集めています。小村は 「日本人移民の送出先が世界各地に分散するのは良くなく、満州と韓国に 集中させるべきだ」という論旨でした。満州移民は日露戦争中も含めて 半世紀近い歴史があるのです。
36 :
俄将軍 :2006/08/26(土) 07:02:18 ID:???
>>34-35 日本人の満洲移民も、単に、中国人に、数の力で、圧倒されただけ、というこ
とになるのか、日本人が、満州国のWASPになる予定が、日米戦争によっ
て、潰えただけ、ということになるのか、などと。
北支侵出も、米国が、メキシコから、テキサスを奪ったような話、ということ
になると、合衆国の歴史は、ダブルスタンダード、ということになるのか、
勝てば官軍といううだけ、ということになるのか。
新渡戸稲造の中の人も、植民政策に、一家言、ということになると、日本の植
民政策とは、如何にあるべきだったのか、ということに。
37 :
俄将軍 :2006/08/26(土) 07:05:50 ID:???
>>31-32 記事の時期、中国側の部隊が、中国軍の内部でも、優良な装備だったのか否か
等々、よくわかりませんが、記事の目的が、蒋介石に、援助を、ということ
になるのか、などと。
中国軍も、迫撃砲など用いた場合、日本軍も、手を焼いたり、ということもあ
り、戦闘の規模によって、双方が投入かのうな兵力、装備などにも、違いが、
ということになるのか、などと。
さて「新スレ」も始まったのですが、最近は筆が荒れてきているのではないか? と自分で反省する時があります。4代目スレも「あんな終わり方」でしたしw、 要するに初期の頃の『丁寧さ』が無くなってきた、という自覚があります。 時々「このスレを定期的に読んでいます」という感想も頂くのですが、カウンターが無いので、 一体どれくらいの人が眺めているのか気になるのが正直なところです。そこで自省も兼ねまして アンケートをお願いしたいのですが、お暇な方は書き込んでやって下さいませ。(複数回答可) @今の方が良い A前の方が良かった Bあまり変わらない C詰まらん、お前の話は詰まらん!w D有害 E最近このスレを見るようになった F最近は見なくなった G調子に乗るな、ウザいw Hその他 I東方のネタが理解できる J東方のネタが分からないw
39 :
名無し三等兵 :2006/08/26(土) 23:44:35 ID:???
11.当方ネタが解らない。葉鍵ネタでやれ。
40 :
名無し三等兵 :2006/08/26(土) 23:45:06 ID:???
6と11
>>29 の補足 >>こう考えると、上記のキルレシオの数字は極端に小さくなるでしょうが、
>>26 >>27 で挙げた数字が「4分の1」になると考えて下さい。そうすると、大体
『K10』となり、その他の文献でもよく見られる数字に似てきます。妥当なところ
ではないでしょうか?
>>支那軍の負傷兵は、そのまま原隊に復帰することなく『土匪』となって戦力外になるケース
また国府軍の敗残兵が「共産軍に吸収される」場合も多く、1937年には4万の兵力に過ぎな
かった『紅軍』が、終戦時の1945年には『100万人』に膨れ上がる大きな要因となります。
>>支那軍の負傷兵は「医薬品の極端な不足」からそのまま死に至るケースが多い
汪兆銘が出奔する以前、日中戦争の先行きに絶望して「どうしてこの戦争を
持ちこたえる事ができようか?」と述べていますが、これは医薬品が無いこと
について語ったものです。
42 :
名無し三等兵 :2006/08/26(土) 23:51:50 ID:???
とりあえず、前の方が良かったですね。
支那軍の「医薬品」のエピソードは、蒋介石夫人の宋美齢にもあります。
開戦劈頭の『上海決戦』(1937年8月〜)で、支那兵が野戦病院で十分な
治療を受けることが出来ずに死亡していく事を批判されて、
「薬を買う方が兵隊を雇うよりも高くつく」
と発言して総スカンを買います。まあ、マリー・アントワネットの「お菓子」は
無知というか無邪気なだけとも取れますが、美齢は「海千山千」の猛女であるだけに
(西安事件で囚われの蒋介石を救出した)、余計にタチが悪いですw。
>>11 .当方ネタが解らない。葉鍵ネタでやれ。>>とりあえず、前の方が良かったですね。
どうもでございます。sage 進行なのに即レスが来てビックリw。残念、自分は
葉鍵ネタが分からないのです。「ひぐらし」はもっと駄目ですか?w う〜む。
前の方が良かったですか……。心を入れ替えて(少しだけw)もう少し真面目にやりまふ。
44 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/27(日) 00:49:52 ID:P7tJuBwA
>>41 の補足。>>汪兆銘が出奔する以前、日中戦争の先行きに絶望して
自分が思うに、汪兆銘はインテリ過ぎました。脆弱とも言えます。前途を
悲観して国民政府を去ってしまいました。汪兆銘の『不安』は開戦当初から
のものであり(1937年)、蒋介石の命を受けて南京を訪れた翌日、李宋仁に
対して『戦局に望みが無い』ことを語っています。
今月末までには『蒋介石日記』を読み終われそう(現在5分の4w)ですが、
蒋のどんなに絶望的な状況下でも「プラス思考」を無理やり成し遂げるのは、
驚異的の一言です。精神的な鍛錬によるものであり、古典に支えられた面が
異様に大きいでしょう(蒋の場合は、王陽明哲学)。だから息子にも強制します。
王陽明哲学のエッセンス(の一部)を端的に述べれば、「自己が思い浮かべた
ことは既に実現している」というものです。極端な話、ビルの屋上から「アイ
キャン フライ」と呟けば空を飛べる訳ですがw、このぐらいの意志力を自己に
課さなければ、抗日戦(その前段階も)を戦い続ける事は不可能だったのです。
45 :
名無し三等兵 :2006/08/27(日) 01:01:43 ID:???
11です。初代スレから見ていますが、最近の路線は???です
46 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/27(日) 01:14:23 ID:P7tJuBwA
『蒋介石日記』の編者は、以下のように述べます。 「ほんの一握りの人しか考えつかないし、蒋介石自身も予想だにして いなかったとしても、満州事変から盧溝橋事件までの抗戦開始の 5年9ヵ月余りが、蒋介石の生涯のうちで最も祖国に貢献した 時期なのである。 貢献の方法とは、戦闘に勝利するのではなく、屈辱に耐え忍んで 重責を果たすことだった。だが、この状況をこれまで明確に理解 している人は少ない――」 まさにその通りでしょう。満州事変(熱河作戦)後の「塘沽停戦協定」 (1933年)に至る対日交渉――蒋介石と実際の交渉を担当した義兄「黄郛」との 電報のやり取りを読むと泣けてきます。
47 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/27(日) 01:27:29 ID:P7tJuBwA
>>45 >>11です。初代スレから見ていますが、最近の路線は???です
どうもでございます。そうすると『東方』が意味不明でスレが「迷走状態」と
受け止められている訳ですね。う〜む、ここまで認知度が低いとは思わなんだ…w。
,r---、.
_ソヽ/`、シi.
_>=ヘ 山/=<,
. ((ん'ノノルレム))
_ソレリ ゚ ヮ゚ノリ(_ 状況開始!
),k'ヲ:::::::::つ
(ン::::/:::l::ヽ
`~i,ンT,ノ~´.
この程度のキャラ使用でも『抵抗』がありますかね? また、話の内容の
レベル自体は昔と比べていかがでしょうか? 分かり易さの度合いなども。
まあ、『東方』の創造主・ZUN氏は、自分にとって「上級大将」レベルの クリエイターなんですが…w。音楽は本当に良いんですよ? 四季さまの テーマ曲『六十年目の東方裁判』は小便を漏らしそうになるぐらい カッコイイですし。ガチでw。
49 :
名無し三等兵 :2006/08/27(日) 01:34:39 ID:???
50 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/27(日) 02:06:05 ID:P7tJuBwA
>>33 >>毛沢東が「持久戦論」を発表しなければいけない理由がよくわかりました
まあ、「北支の治安戦」でも少し触れるでしょうが、毛沢東の著作では
『遊撃戦論』が入手容易で未読の方にお勧めです(中公文庫BIBLIO20世紀)。
その冒頭の一説、「つまり中国は小さい国でもなければ、ソヴィエト連邦のような
強国でもなくて、大きくて弱い国であるということである。この大きくて弱い国が、
小さくて強い(日本)国に攻撃されている」(だから遊撃戦争の戦略問題が生まれる)
というくだりは、初歩的な記述のようで「ハッと」させられる思いがします。
また、収録されている『反攻開始前後の抗日根拠地(1945年)』の図は、北支一帯が
鉄道付近以外、ほとんど共産根拠地で塗り潰されており、気分が激しくブルーに
させられますw。
51 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/27(日) 02:24:47 ID:P7tJuBwA
>>(中公文庫BIBLIO20世紀) 中公文庫は『最終戦争論』『戦争史大観』(石原莞爾)、『岡田啓介回顧録』、 『秘録 東京裁判』(清瀬一郎)、『細川日記』(細川護貞)、『マッカーサー 大戦回顧録』などが手軽に読めて良い仕事をしていますね。 最近の新刊ですと、結城昌治の『軍旗はためく下に』がピカいちです。 北支の治安戦についても少し窺えますが、圧巻は「敵前党与逃亡」の 章でしょう。南方戦線の飢餓の島で、敵前逃亡で処刑されたとされる 兵士の疑惑に迫るものですが、戦後の関係者の証言を並べていくだけ なのに、下手なミステリー小説「顔負け」の面白さです。 要するに、「誰も信じるな(Trust No One)」という事です。
52 :
名無し三等兵 :2006/08/27(日) 02:30:08 ID:???
次の企画はイナゾウ中佐による参謀旅行に決定
53 :
名無し三等兵 :2006/08/27(日) 02:43:16 ID:o1g50R06
>>38 3代目スレから読み始めた者としては Bあまり変わらない です。
東方ネタわからないけど、個人的には時々AA貼ってくれた方が読み易い
54 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/27(日) 02:48:00 ID:P7tJuBwA
>>36 >>日本人の満洲移民も、単に、中国人に、数の力で、圧倒されただけ、
まあ、そういう事です。そして地理的に日本から近過ぎたのもあるでしょう。
一旗挙げるため大きな決心をして満州へ訪れる訳ですが、小金が溜まると
「内地恋しさ」で直ぐに引き揚げてしまいます。
ハワイや南米くらいの最果ての地でしたら、こうはいかないでしょう。
満州への移民は、日露戦争終了後の1906年頃から本格化する訳ですが、1930年
時点の人口調査でも、満州滞在5年未満という日本人層が半分近くを占めます(45.7%)。
>>新渡戸稲造の中の人も、植民政策に、一家言、ということになると、
無い無い(笑)。自分は「戦争の犬」ですので、そんな大それたものは
ありませんw。本当は、民主党スレにも出入りしたいのですが化けの皮が
剥がれるので無理なのですw。
どうもでございます。
>>52 >>次の企画はイナゾウ中佐による参謀旅行に決定
「海の人」に連れて行って貰った方が面白そうですw。
>>53 >>東方ネタわからないけど、個人的には時々AA貼ってくれた方が
>>読み易い
う〜む。自分の書き込みは1つ1つが長いので(しかも省略されないように
意図的にMax16行をフルに使っているw)、そのようなのがズラズラ
並ぶと、読まれる方も辛いと思ってAAを貼っている面もある訳です。
自分では『清涼剤w』の積もりでしたが、どうも戸惑う人の方が多い
みたいでふ。
56 :
元32 :2006/08/27(日) 03:10:49 ID:???
>>55 私も3ですかねえ。
東方ネタはわからないのですが、楽しく読んでいます。
ここは軍板なので戦闘ネタなら詰めて書いてもいいでしょうが、
リース・ロスやライヒマンの話になると、どうしてもわかりにくいので、
適度に脱線するのもひとつのやりかたかと。
57 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/27(日) 03:19:47 ID:P7tJuBwA
>>37 >>記事の時期、中国側の部隊が、中国軍の内部でも、優良な装備だったのか
>>否か等々、よくわかりませんが
時期は不明ですが、武漢攻略以後であることは確かです。装備は言うまでもなく
劣悪ですが、当時の支那軍では『並み』でしょう。
とにかく支那軍と日本軍の戦闘で「風向き」が変わり始めるのは、1943年5月〜の
『鄂西の戦役』(湖北省西部)以降です。この戦いでは、アメリカが支那軍を
監視していました。要するに「対中援助物資」が有効に使われているかどうかの
試金石です。
>>記事の目的が、蒋介石に、援助を
>>32 の記事は「戦後の回想録」で書籍ですから、当時に報道されたものでは
ありません。
58 :
名無し三等兵 :2006/08/27(日) 03:29:38 ID:???
写真が一枚もない新聞紙面は視覚的にパッとしないのと同じ理屈で、
AAを間に挟むという発想は悪くないと思う。他のスレならともかく、ここは独演会状態なんで。
東方ネタは分からず
>>39 氏と同じことを思ったりするけどw まあ布教と思えば。
59 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/27(日) 03:39:36 ID:P7tJuBwA
>>56 >>適度に脱線するのもひとつのやりかたかと。
まいど恐縮でございます。前スレは「悪ノリ」し過ぎでしたので、今後は
控えめにしたいと思いますw。
>>37 >>中国軍も、迫撃砲など用いた場合、日本軍も、手を焼いたり、
支那の「迫撃砲」には苦戦させられましたね。占領地での継続的な討伐では、
少数の部隊が出撃したところを『待ち伏せ』でやられるケースが多発しました。
もちろん、日本軍の「駐屯地」自体に迫撃砲を撃ち込むのもザラでしたが、
この辺はイラクの自衛隊を思い出して貰えばイメージし易いでしょうか。RPG。
しかし、所詮は嫌がらせの域を出ません(運が悪いと死傷者は出ますがw)。
何十発(弾があれば)日本軍の駐屯地に撃ち込んだところで、それだけで陣地を
落とせる訳では無いからです。当然、迫撃砲と同時に支那の歩兵が突撃してくる
ケースもありますが、多くの場合は日本軍に撃退されました。
>>58 >>他のスレならともかく、ここは独演会状態なんで。
スンマソン…orz.w 真面目な書き込みも、もっと増やしまふ。
61 :
名無し三等兵 :2006/08/27(日) 03:47:41 ID:???
過去スレ見てないのですが航空戦の話てまたやる機会ありませんか?
62 :
俄将軍 :2006/08/27(日) 10:12:27 ID:???
>>41 >>43 医薬品となると、魔法の弾丸、ペニシリンなど、連想するわけですが、旧軍で
も、野戦病院が機能しなくなると、志気が低下するだけでなく、命を惜しむ
ような風潮など、といった記述など、ということになるのか、などと。
現在の米軍もそうですが、戦場医療の技術だけでなく、「MASH」OPな、
朝鮮戦争で、ヘリコプターを救急車代わり、ということになると、米国は、
他国と、隔絶しすぎているということに。
>>44 >>46 中国の歴史からすれば、異民族の侵入、長期戦など、というだけでなく、中国
の中の人の反日感情というのは、ということになると、漢奸認定されるのは、
致命的、ということも。
日本と、共産党の何れが、主敵であるかでも、国民党内部で、揉めていた、と
いうことになると。
63 :
俄将軍 :2006/08/27(日) 10:26:47 ID:???
>>50 共産軍の場合、正規戦で、日本軍に対抗するどころか、国民党軍にも、対抗で
きなかった、ということからすれば、ということになるのか、などと。
日本の敗戦後、鉄道など、日本人が、徴用されたように、国共内戦で、重火器
の操作など、共産党に、日本兵の中の人が、徴用されたということになると、
ということに。
国共内戦だけでなく、航空機の操縦法など、旧軍の影響ということになると、
興味深い、ということになるのか、などと。
>>54 アメリカ合衆国に、骨を埋める移民と、インドで、一旗揚げて帰ってくるとい
うのでは、天と地の差が、ということになると、満州国の日本人官僚、軍人、
産業界など、満州国の合衆国化というのは、ということになるのか。
満州国の農業政策も、大規模な機械化と、大量の日本人移民を送り込むのでは、
異なるということに。
64 :
俄将軍 :2006/08/27(日) 10:42:31 ID:???
>>57 国民党軍も、蒋介石直系か否か、何処の派閥に属しているか、兵隊さんの中の
人の素性など、反日的傾向の強弱、時期、戦区といったように、装備だけで
なく、色々と違いが生じてくるということもあるのか、などと。
イラク戦争での従軍記者もそうですが、従軍記者に、何を見せるのか、という
ことになると、第二次上海事変等々、日本軍が苦戦した戦場など、というこ
とに。
蒋介石の中の人も、国共内戦を視野に入れていたことからすれば、国共合作と
は、という落ちにもなりかねず、エドガー・スノーの中の人のように、戦後
になっても、共産党に好意的な記事など、ということになると、何故なの
か、ということなど、記者の中の人にもよるといこともあるのか。
65 :
名無し三等兵 :2006/08/27(日) 11:27:02 ID:???
>>38 スレを改善しようというその意気や良し!で、所感を少々。
イナゾウ中佐の記述は特に解り難いということはないんだけど、
俄将軍の文章は完全無欠のモノローグになってて、凄〜く難解。
自身の見解なのか、疑問なのか、質問なのか、関連する新トピック提示なのか、
述語の省略も烈しくて、どうにも読むのが苦痛。
字面を読んではみても、意図がハッキリ読みきれない。
文章だからどうにかなってるが、口語だったら処置無しだよ、コレは。
イナゾウ中佐、よくレスを返す気になるよなあ。
俄将軍の採用する軍辞的某研主義には遺憾の意を表明せざるを得ない。
改善を烈しく求む!普通に書けや!!
66 :
俄将軍 :2006/08/27(日) 12:54:24 ID:???
>>65 >文章だからどうにかなってるが、口語だったら処置無しだよ、コレは。
口頭で、軍辞的某研主義を選択するほど、強硬派、というわけでもなく。
軍辞的某研主義を採用している独白軍、ということになると、弊害も大きく、
侵略は、線路に沿って、といったような鉄従事章、というわけにもいかない
ということになるのか、などと。
67 :
名無し三等兵 :2006/08/27(日) 15:54:18 ID:???
こんなの見つけた
末期には玉砕もあったと聞くけど
184:名無的発言者2006/08/01(火) 10:21:16
大叔父は若いときに招集されて、中国大陸で戦闘に明け暮れた。
敗戦後、復員し、思い出したように当時のことを話した。
そのひとつ。
功を焦って、無謀な作戦を企てる上官がいると、全滅を恐れる部下が密かに始末した。
そこはよくしたもので、大抵どこの部隊本部にもベテランの事務担当がいて、
てなれたやりかたで、「名誉の戦死」にしたてて、内地へ報告した。
「どこそこの部隊で上官が戦死」といううわさは、展開する各地の部隊にただちに伝わり、
「さては、やられたな」と兵士同士でささやきあうものだった。
軍隊の裏のしきたりをよく知った上官は、無謀な戦闘は極力避けた。
強い敵には、遭遇せぬよう迂回し、
もっぱら、弱い敵だけを襲わせ、後方に戦果を誇大報告した。
中国大陸の戦史で「一部隊全滅(玉砕)」という事例が少ないのはこういう事情による。
日中戦争の実態
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/china/1120722832/184
68 :
俄将軍 :2006/08/27(日) 17:40:29 ID:???
>>67 >軍隊の裏のしきたりをよく知った上官は、無謀な戦闘は極力避けた。
>強い敵には、遭遇せぬよう迂回し、
>もっぱら、弱い敵だけを襲わせ、後方に戦果を誇大報告した。
強い敵だろうが、弱い敵だろうが、迂回して、目的が達せられるのであれば、
特に、問題はないはずでありますから、後方に戦果を過大報告する以外は、
何の問題もないような、などと。
無謀な戦闘にしても、無意味な戦闘なのか否かで、天と地の差が、ということ
になると、死守命令がでていないのであれば、包囲され、包囲網を破ること
が出来なかった、ということになるのか。
上官の人格に問題があるので、「名誉の戦死」ということになると、また別の
話でもあり。
69 :
名無し三等兵 :2006/08/27(日) 17:46:47 ID:???
>>67 牟田口中将や辻政信大佐が全滅を恐れる部下が密かに始末されなかったのは、
日中戦争じゃなく東南アジアで無謀な戦闘をしたから?
70 :
名無し三等兵 :2006/08/27(日) 18:01:52 ID:???
>>69 ×全滅を恐れる部下が密かに始末
○全滅を恐れる部下に密かに始末
71 :
名無し三等兵 :2006/08/27(日) 18:19:47 ID:???
おそらく旅団や大隊のハナシではないでしょうか
72 :
名無し三等兵 :2006/08/27(日) 19:26:22 ID:fNXjWKnk
下記について、どうぞお答えください! @国民党軍の「台湾」逃げ込みは、たとえば日本でいうと本州から佐渡が島へ 逃げ渡るといううような「感覚」だったのでしょうか? (もちろん両軍、島民、大陸人それぞれ思いは違ったでしょうが) A共産党(軍)は、敵の台湾への逃亡を、どれほど「予測」してたのでしょうか? B最後に当時の台湾人(島民)は、国民党・軍を歓迎したのでしょうか? それとも、敗走のすえ、やむなく彼らが「居座った」ということでしょうか? 以上、とても簡単に言えることではないのでしょうが、 個人的推測でもけっこうですから、なにとぞお教えください。
73 :
名無し三等兵 :2006/08/27(日) 21:15:20 ID:???
カイロ宣言で国民政府の台湾の割譲を確認済みなんで重慶陥落以前に台湾への撤退は予測できたとおもう。 蒋介石自身もラジオで「台湾に逃げてでも戦う」と言っていたしな。三、についてだが当初は台湾人たち に歓迎されていた国民党だったが露骨な収賄の要求や徹底した反日教育、秘密警察の横行などで不満がつの り228事件にいたるわけだ。
74 :
名無し三等兵 :2006/08/27(日) 21:19:04 ID:???
意外かも知れないが50年の永きに渡る日本の植民地支配が土着人たち全幅の支持を得ていたわけでは なかったのだが終戦後にやってきた国府軍による台湾統治はあまりにも惨かった。
>>前スレ787 >>関東軍の内蒙政策をお願いします。できれば満州事変前後〜1937年の >>蒙古連盟自治政府の樹立、蒙彊連合委員会の成立まであたりで 一体いくつスレを使えば終わるんでしょうか? そのデカ過ぎるテーマは?w 後で取り上げる予定の「阿片問題から見た支那事変」が相当程度かぶるので、 そちらで勘弁してくださいw。 例えば、関東軍が阿片に手を出す切っ掛けになるのが、満州事変後の「熱河作戦」 における謀略工作の失敗からです。第29軍長の宋哲元を蒋介石から寝返らせる 工作を板垣征四郎(当時・少将、満州国執政顧問)が担当していたのですが、 『機密費の不足』で成りませんでした。 1933年の話ですが、もうこの頃から宋哲元の名前が日本軍の謀略工作の対象として 出てきます。盧溝橋事件だけの人物ではありません。元々は第29軍長であると 同時にチャハル省の主席です。省長と軍長を兼ねるというよくあるケースですね。
76 :
名無し三等兵 :2006/08/27(日) 22:00:26 ID:fNXjWKnk
73、74様 ありがとうございます。 引き続き、どうぞよろしくお願い申しあげます。 (どんなに遅くなっても、このスレッドを見続けて行きます) なお、私くしはこの夏、初めてここを知ったので、 イナゾウ様のアンケートへの回答は...、 E最近このスレを見るようになった Hその他 ...になります。 すなわち、イナゾウさん・偽将軍さま・その他多くの三等兵士の皆様へは、 「その造詣の深さ・鋭さに驚嘆・感慨する」ばかりです。 それでは、今後ともどうぞよろしくお願い申しあげます。
>>61 >>過去スレ見てないのですが航空戦の話てまたやる機会ありませんか?
「重慶爆撃」は過去スレで相当程度やりましたが、まだそのぐらいですかね。支那事変
中盤以降は資料が足りないというか、自分も月並み程度のことしか知りませんので『アレ』
ですが、初期の頃は比較的そろっているので、折を見てやってみましょう。
例えば、1936年には支那で「捐機祝寿」(飛行機を寄付して長寿を祝う)という
運動が行なわれています。これは空軍を建設することで、蒋介石の誕生日を祝おう
とするものです。
日本でも「愛国献納機運動」という類似の『寄付運動』がありますね。これは
陸軍にも海軍にもあって、源田実が献納式で曲芸飛行をやり「源田サーカス」
の異名を取ったのは有名な話です。
話が脱線しますが、当時日本の植民地だった朝鮮でもこの運動は盛んで、何と
「個人で」飛行機を献納できる金持ちが少なからずいたとか…w。
78 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/27(日) 22:26:25 ID:r2uTkcqR
例えば「文明g」という朝鮮人の篤志家は、個人で陸軍に「94式偵察機」、 海軍に「95式艦上戦闘機」をそれぞれプレゼントしています。ちょうど1935年 3月の話なので、先に挙げた支那の『捐機祝寿』運動と時期を同じくしています。 あまり知られていませんが、都道府県別の「国防品献納金額」で朝鮮は、東京・ 大阪・京都に次いで4番目に陸海軍に対する寄付が多かった事実があります。まあ、 朝鮮は元『国』ですから「都道府県と同列に比べる」のはアレなんですがw、現在の 反日ムードから考えると驚く人も多いでしょう。 一応「誰が何を寄付したか」リストは残っているそうですが、公表すると人権侵害が 起こるという危惧から差し控えられています(核藁)。どうしようもない国ですw。 親がやった事と言っても、関係ない子孫も同様に非難されるでしょう。 さて少し脱線しましたが、支那の「捐機祝寿」運動に話を戻しますと〜。
79 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/27(日) 22:45:40 ID:r2uTkcqR
1936年10月24日、支那の「航空委員会」の報告によりますと、民衆からの寄付は 600万元ほど集まったそうです。これに航空委員会からの補助金287万元を 合わせると、1つの『航空機エンジン工場』の建設が可能と試算されました。 そして計画では1938年3月から生産が始まり、以後年間96機分のエンジンが 生産されると言うものです。この計画は蒋介石自身が批准し、工場も湖南省に 建設される予定でしたが、多数の問題が予見されたので「お流れ」になっていますw。 その問題を挙げると以下の通り。 ●材料をどこから持ってくるのか? ●技術者と労働者をどこから集めるのか? ●出来上がったエンジンをどう機体に装着するのか?w ●設計はどうするのか? ●その後の経費はいかに維持されるのか? そして●他工場との連携をどうするのか? という肝心の問題があります。戦争 末期の日本ではありませんが、機体はあってもエンジンがない、機銃がない、 タイヤがない、その他の部品がない、という事態がすぐ頭に浮かんだのですw。
80 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/27(日) 23:05:22 ID:r2uTkcqR
上記は泣きたくなる話ですが、別に支那に限った話ではありません。一国が近代化を
図るうえで、最新鋭の工場を1つ作ったところでどうしようもない、という厳然たる
事実でしょう。つーか、インフラ全般というか、有機的結合というか……w。
支那は戦争末期まで「航空機用の爆弾」でさえ海外から輸入する必要があった国です。
もちろん欧米列強からの『資金・モノ援助』によって急速に改善される訳ですが、
上記
>>78 、
>>79 は、もし支那が「独力」でやっていればこんな感じ、というぐらいに
受け取っておいて下さい。
>>43 >>支那軍の「医薬品」のエピソードは、蒋介石夫人の宋美齢にもあります。
>>「薬を買う方が兵隊を雇うよりも高くつく」
そして、ここでも宋美齢の名前が出てきます。美齢は1936年に航空委員会の秘書長に
なると「支那空軍」の建設に力を注ぎます。外国からの軍用機購入から顧問の招聘、
そしてシェンノートの雇用(1937年)など、戦争末期にいたるまで空軍内部の人事、
調達、訓練などの大権を握り続けていたのです。いやはや猛女にふさわしいでしょうw。
81 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/27(日) 23:30:14 ID:r2uTkcqR
>>62 >>旧軍でも、野戦病院が機能しなくなると、志気が低下するだけでなく、
>>命を惜しむ
まあ「支那戦線」はその点、恵まれていたと言えるでしょう。治安維持目的の
『高度分散配置』でも補給路が寸断されない限り、中隊本部などに後送されて
衛生兵による治療は受けられたと考えるべきです。
少し補足しますと、高度分散配置とは『分隊単位』に部隊をバラして各地に
駐屯すること。主に「北支の治安戦」での話ですね。ヤバイのが共産ゲリラや
それに指導された土民などが、補給路に当たる道路を『破壊』することです。
車(馬類含む)が通れないように木を倒して障害物を設置したり、大穴・溝を
『人海戦術』で掘る訳です。夜間に1万人程度がスコップで道をほじくり返すのを
イメージしてみて下さいw。終戦末期に多発しましたが、これをやられると対抗不能、
中隊本部とも補給・連絡ともに途絶、戦わずして撤退を余儀なくされました。
82 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/27(日) 23:40:49 ID:r2uTkcqR
1冊、支那戦線で衛生兵だった人の手記を持っていますから、それを
タネ本にして『衛生関連』をやっても良いでしょう。
しかし、
>>81 は、あくまで「駐屯任務」での話です。作戦行動中は、進撃部隊に
補給路が追随できていないケースがほとんどであり、負傷しても後送どころか
逆に作戦部隊へ『前送』しなければ治療どころか、置いてきぼりを喰らうことに
なりますw。
>>62 >>旧軍でも、野戦病院が機能しなくなると、志気が低下するだけでなく、
>>命を惜しむ
支那軍だとさらに劣悪で、雑軍あたりだと負傷したらそのまま『棄兵』です。
付近の都市に、手や足を失った捨てられた兵隊がウヨウヨしており、「治療費を
寄こせ!」と集団で騒いでいます。あるいは、上海などの大都市に流れ着いて
スラムを形成することもあります。
83 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/27(日) 23:54:06 ID:r2uTkcqR
それにしても「支那戦線」は、太平洋戦争開始後の「南方戦線」に比べれば 天国のようなものです。主に食料問題によるでしょう。支那戦線でも「飢えた」 という話は幾らでもありますが、『人が人を喰った』というのは聞いた事が ありません。ちなみに人肉で一番美味しいのは、足の裏の肉だそうですw。 末期では野戦病院とは名ばかりで、治療も食料も受けられず、ただ衰弱死するのを 待つしかありません。歩くことも出来ず、部隊に見捨てられるのを怖れながら、 最後に待っているのは「空気注射」か……。負傷して野戦病院にたどり着いてみれば この惨状、自分の末路を想像して「こんな馬鹿な話があるか!」と大勢の見ている前で 手榴弾自決を図ろうとして地面に叩きつけたら、不発。しかも手持ちの2発とも――。 こんな話がゴロゴロしていますw。
84 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/28(月) 00:14:54 ID:nBW6NZvM
>>62 >>漢奸認定されるのは、致命的、ということも。
まあ、共産八路軍が住民を脅すときも「漢奸」という言葉をよく使いましたね。
汪兆銘はインテリ過ぎたゆえに、戦争の前途を『想像』して耐えられなくなり、
とっとと「日本と和平」した方が良いと考えてしまったのです。結果、最悪の『漢奸』です。
しかしこの辺りは、現代を生きる自分たちが偉そうに非難できることではなく、
今にも破産しそうな会社の社長を考えたら、少しは分かるかもしれませんw。
亡国の指導者であるプレッシャーたるや、常人にはとても耐えられないでしょう。
>>63 >>共産軍の場合、正規戦で、日本軍に対抗するどころか、国民党軍にも、対抗で
>>きなかった、ということからすれば、ということになるのか、などと。
抗日戦争中の「共産軍の方針」は明らかです。7割が自己の勢力拡大、2割が
国民党への対抗、1割が抗日です。史実もその通りです。国民党と共産党の衝突は
『新四軍事件』(1941年)など多数ありますが、双方の宣伝合戦により真相は不明ですw。
85 :
名無し三等兵 :2006/08/28(月) 00:31:07 ID:???
イナゾウ中佐に共産勢力の拡大過程を詳しくわかりやすく教えてもらいたい と言ってみるテスト
86 :
名無し三等兵 :2006/08/28(月) 15:24:06 ID:???
日華事変は、なぜ拡大したのか
87 :
名無し三等兵 :2006/08/28(月) 17:57:59 ID:???
>>84 7割が自己の勢力拡大、2割が 国民党への対抗、1割が抗日
というのは張国壽の言葉でしたっけ
>>88 >>最近来た方の為に過去ログうpしました。
過去ログうp キタ━(゚∀゚)━! 謝謝?了!!!!!!!!!!!!!!!!
自分自身はHPどころかブログすら作った経験がないので、どのくらいの
手間とコストが必要になられたのか想像もできないのですが、大変、大変
感謝申し上げます。
こういったネット上ですと、御礼の言葉と「せっかく作って頂いたサイトが決して
無駄にならないように、今まで以上に頑張ります」としかお伝えできないのですが、
その功績により、どうぞこのスレでは『少将』の階級をお名乗り下さい。もちろん
「使徒」にも後の機会にうpさせて頂きます(笑)。
90 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/29(火) 00:17:14 ID:8UePPnvd
スイマセン。謝謝の後の字が「?」となって出ませんでした……w。
>>85 >>イナゾウ中佐に共産勢力の拡大過程を詳しくわかりやすく教えてもらいたい
質問が「漠然」過ぎです。とりあえず「盧溝橋事件」勃発の1937年で共産軍の勢力は
4万5千人。1年後の1938年末(武漢戦後)には5倍の20万人以上に膨れ上がります。
さらに終戦時の1945年には、またまた5倍の100万人となり、国民党軍に十二分に
対抗できる兵力を持つことになりました。
>>87 >>7割が自己の勢力拡大、2割が 国民党への対抗、1割が抗日というのは
>>張国壽の言葉でしたっけ
自分の記憶では、毛沢東が「抗日戦争」開始直後に行なった訓話の中の言葉だと
記憶しています。正確には「7分発展、2分対抗、1分抗日」ですね。まあ、
張国壽も同様のことを言っていたかもしれません。
91 :
名無し三等兵 :2006/08/29(火) 00:25:18 ID:???
>>90 あなたはどのイナゾウ中佐ですか?
金のイナゾウ中佐?
銀のイナゾウ中佐?
それとも普通のイナゾウ中佐ですか?
92 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/29(火) 00:33:20 ID:8UePPnvd
似た内容で記録として正確な電報に残っているのが、1937年9月17日に 毛沢東が朱徳・彭徳懐ならびに各師の正・副長に送ったものです。そこには 「紅軍は現時点においては『支隊の性質』であり、決定的な戦闘を 決定する作用を発揮しない」 とあり、抗日戦は「やる気ナッシング」ですw。八路軍からすれば自分の 準備が整うまで、日本が適当に国民党軍を痛めつけてくれた方がありがたい に決まっています。 唯一、中共軍が国民党政府の下手(弱気)に出てきたのが、独ソ戦で スターリングラードの陥落が近いと危惧された時だけです。もちろん ソ連が逆襲に転じれば、中共は自分のやりたい放題です。 さらにアメリカに対して、国府軍は日本軍と真面目に戦う気が無いと宣伝し、 自分の所に援助物資を回すようアピールするなど、狡猾そのものの所業です。
93 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/29(火) 00:43:03 ID:8UePPnvd
>>国府軍は日本軍と真面目に戦う気が無いと宣伝し、 アメリカは蒋介石が『援助物資』を際限なく要求するにも関わらず、 真面目に日本と戦う気がないとキレていた時期ですから、反作用として 中共に「過大な幻想」を抱いてしまった訳です。 とにかくスティルウェルと蒋介石の「仲の悪さ」は筆舌に尽くし難い ものがあります。スティルウェルは、ルーズベルトに蒋介石がいかに 無責任でどうしようもない人物かを『讒言』し続けます。 長くなるのでこの辺で止めておきますが、まあ人間、Aが×ならもう一方の Bが正解だったのではないかと目移りしてしまいますよね。本当は両方とも 「×」の事が多いのですが。初めから箱の中に正解は無かったのです。
94 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/29(火) 00:53:59 ID:8UePPnvd
>>91 >>あなたはどのイナゾウ中佐ですか? 金のイナゾウ中佐?
>>銀のイナゾウ中佐? それとも普通のイナゾウ中佐ですか?
普通のイナゾウ中佐ですが何か? まあ、『ヘルシング』を何とか
ネタに使えないかと試行錯誤しておりまして、
「自分は金色のトビ、自分は自らの羽を喰らい、飼い慣らされる――」
とか考えたりもするのですがw。もちろん、金色のトビは『金鵄鳥』の
別称です。そのままストレートに「自分は金鵄の鳥」とやった方が
いいかもしれませんがw。
95 :
名無し三等兵 :2006/08/29(火) 01:11:34 ID:EZpIbnNV
八路軍の「八路」というのは (当時は)どのような意味ですか?
96 :
名無し三等兵 :2006/08/29(火) 01:16:20 ID:???
路=番 八路=八番 日本語では「第8軍」じゃなかったっけ?違うの?
97 :
名無し三等兵 :2006/08/29(火) 01:55:58 ID:EZpIbnNV
↑ 96様、ありがとうございました。
98 :
名無し三等兵 :2006/08/29(火) 02:58:44 ID:???
99 :
名無し三等兵 :2006/08/29(火) 05:05:16 ID:???
>末期では野戦病院とは名ばかりで、治療も食料も受けられず、ただ衰弱死するのを >待つしかありません。 人肉食がテーマの映画、野火でも病人はたらい回しにされてた 部隊長 病人は病院へ逝け! 病院 おまえみたいに健康そうなのは部隊へ戻れ! 何のも往復するハメに・・・ 病院は負傷兵で溢れ、重症患者のみ収監、軽症患者は仕方なく周辺で野宿・・・
100 :
名無し三等兵 :2006/08/29(火) 07:16:46 ID:PTprY2vm
100
>>65 >>イナゾウ中佐、よくレスを返す気になるよなあ。
何やかんや言ってCaineにレスを返す、別宮翁に自分は似ているのだろうか、などとw。
まあ、最初はね。「キレそう」になったものですよw。断片的な語り口調と合わせて、
最初から答えを知っていて、わざと『カマかけ』で質問しているのではないかと、
極めて疑わしかった訳です。しかし段々レスを返している内に、どこまで知っていて
どこまでが分かっていないのか相場が掴めましたので、次第に気にならなくなりましたw。
しかし中尉、あるいは「大尉相当」の知識はある方です。棒にも箸にもかからなければ
前スレであれ程、自分がレスを返しているはずがないからです。もし文体が普通であれば
もっと上を狙える方でしょう。何にせよ「階級コテ」を名乗るなら、常時それに見合う力を
自己証明し続けなければならない、というのがモットーですw。
102 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/29(火) 23:49:27 ID:cyT0XK4z
>>95 >>八路軍の「八路」というのは(当時は)どのような意味ですか?
>>96 >>路=番 八路=八番 日本語では「第8軍」じゃなかったっけ?違うの?
96もチト惜しいのですが、やはり補足して置いた方がいいかもしれません。
まず「師」(日本で言う師団)の上級単位は、言うまでもなく「軍」ですが
支那では国民革命軍の『北伐』(1926年〜1928年)時に生まれました。「師」を
拡充して「軍」とした訳ですね。
そして「路軍」というのは、さらに「軍」の上級単位であり、1930年の中原大戦
時に発生したものです。中原大戦というのは、前スレでも少し触れましたが、
北伐を完成させた蒋介石に対する『旧軍閥』の反蒋クーデターです。
この中原大戦では、軍長の中から6人を抜擢して各「路軍」の『総指揮』に
昇進させています。楊虎城はこの内の1人ですが、後に張学良と共に
「西安事件(1936年)」を引き起こした中心人物です。
103 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/30(水) 00:36:06 ID:+BzU4upD
ギエッ―――!11!!w。
>>101 で偉そうな事を抜かした直後に、
>>102 で大ウソを書いてしましましたorz.w
>>102 は忘れてください(藁)。スマンス。
中原大戦で「軍長」から「路軍(総指揮)」に昇進したくだりは正しいのですが、
「路軍」そのものは北伐時に生まれていました。お詫びして訂正しますw。
そもそも北伐軍(国民革命軍)は「3方向」に分かれて進撃していますから、
『路軍』という名称はその際に発生したようです。すなわち湖南から→長沙→武漢を
攻略した「北伐軍主力」と、湖南から江西省に向かい→南昌を落とした蒋介石自身が
指揮する『中路軍』、そして広州から福建に進んだ『東路軍』(何応金・指揮)です。
北伐時の国民革命軍は、当初に広東を出発したのが8個軍のみであるにも関わらず、
ネズミ算式に増えていきますから(始まって3ヵ月で軍長の階級を持つ者が倍増w)、
もう訳ワカメです(藁)。
104 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/30(水) 00:50:53 ID:+BzU4upD
地図が無いので分かりくいと思いますが、
>>103 は、以下のようになります。
↑武漢 ↑南昌
| |
|長沙 (北伐軍主力) |江西(中路軍・蒋介石)
| | ↑福建(東路軍・何応欽)
湖南――――――――――― |
| |
| |
広州――――――――――――――――――――――――汕頭
105 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/30(水) 01:07:52 ID:+BzU4upD
線が盛大にズレた…orz. 今日はダメです。もう寝ますw。 クソにまみれる日もあるさ…(藁)。 しかし、大体の感じは掴めたと思います。文献で確認できた訳ではない のですが、おそらく『路』の意味の由来は「進撃路」から来ていると思います。 多分……。推測で喋ってますので、間違っていたらご指摘くださいw。 「路軍」は更にややこしくなり、1927年に南京国民政府が誕生すると 何応欽が「第一路軍総指揮」に任命されています。この辺りは、明日に でも補足します。肝心の「八路軍」の「ハの字」も出てきませんが、 明日までに触れられればいいな……w。
106 :
天城 :2006/08/30(水) 20:53:26 ID:AcaC/PDM
中国は自国の近隣諸国を征服した。中国に征服されてない近隣諸国は日本のみ。 蒙古が日本に攻め込んだが、二回とも台風で全滅した。 日清戦争とは、清国を破り、朝鮮を清国の植民地から開放した戦争。 満州事変とは、日本の権益への清国の反撃を阻止した日本の自衛戦争 盧溝橋事変とは、中国共産党の謀略、中国共産党は謀略の実務者は表彰したが、自国民にも戦争に火をつけた責任を謝っていない。 昭和20年にようやくに日本に勝ったが形だけ。 だから、靖国を含むあらゆることで、日本をしれ伏させることを考えている。中国敗北の3000年の歴史にかけて このくらいの事実を読み取らなければ歴史を語る資格はない
三国志にも五路と呼ばれた作戦があったように思う 魏軍、鮮卑軍、羌軍、孟達の上庸の軍、呉軍が五路から蜀に攻めようと
109 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/30(水) 22:50:24 ID:D4IuBe+L
>>105 >>1927 年に南京国民政府が誕生すると何応欽が「第一路軍総指揮」に
>>任命されています。
「毒を喰らわば皿まで」という事で続きですw。1927年に何応欽が「第一路軍総指揮」
に任命されたと同じく、白崇禧もまた「第二路軍総指揮」となります。ここから路軍に
番号が振られ始めたのが分かります。
中原大戦が終わった直後の1930年12月より、息つく暇もなく「第一次掃共戦」が始まり、
「第五次掃共戦」(〜1934年11月)まで続きますが、この時の国府軍の編制単位は「路軍」が
中心となっています。
例えば、第二次掃共戦では『第十九路軍』(蔡廷楷)、『第二十六路軍』(孫連仲)、
『第八路軍』(朱紹良)が国府軍側の主だった戦力です。ここで「八路軍」の名前が
あがりますが、共産党とは全く関係ありませんw。ややこしい…w。
110 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/30(水) 23:15:30 ID:D4IuBe+L
掃共戦の1例として、『第二次』(1931年4月1日〜5月27日)をもう少し詳しく 解説しますと、国府軍側の「総指揮」は何応欽であり、トータルの戦力は15個師・ 総数20万人でした。結果は、紅軍にこれ以上無いくらいボコボコにされていますw。 毛沢東自身の言として、「第一次掃共戦のときと同様、すべて蒋介石の直系ではなく、 蔡廷楷の第十九路軍、孫連仲の第二十六路軍、朱紹良の第八路軍が最強であり、他は 弱かった」と述べています。 また国府軍の掃共戦では「北路軍」「中路軍」「右路軍」「西路軍」「東路軍」など といった戦闘序列・担当戦域の分け方もあります。おおむね、1桁ナンバーの路軍が 主力編制であり、20番台などは予備兵力編制とされました。それら「路軍」の下に 「第一編隊」などの編隊があり、さらに下部組織として「師(師団)」があったようです。 上記のような国府軍の『路軍』編制は、支那事変直前の「西安事件」(1936年末)ごろ までは一般的でありました。第一次上海事変(1932年)の支那側主力は第十九路軍の 蔡廷楷ですね。しかし1937年後半には「路軍」が姿を消して、「戦区」→「集団軍」→ 「軍」→「師」の戦闘序列となっています。
第5次掃共戦まで4回も敗退を繰り返した国府軍に 東北軍と似たようなメンタリティを感じる。やっぱすぐ逃げ出したのだろうか。
112 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/30(水) 23:34:56 ID:D4IuBe+L
話が前後して恐縮ですが、念のため更に「中原大戦」を補足しておきますw。 中原大戦とは、国民革命軍「第一集団軍総司令」であった蒋介石に対して、 ●「第二集団軍総司令」馮玉祥 ●「第三集団軍総司令」閻錫山 ●「第四集団軍総司令」李宋仁 が反蒋クーデターを起こした壮大な内戦ですw。表向きは、蒋介石が「国民革命軍総司令」 と「第一集団軍総司令」を兼任することに反対したとされますが、要は蒋介石が『裁軍』と 呼ばれる「軍の大リストラ」を断行しようとして、自分たちの権力が削がれるのを恐れた ためです。 上記で分かる通り、北伐完了直後には、路軍の上の「集団軍」が戦闘序列の最高単位 だったことになります。もう書いていても訳ワカメです…orzw。
113 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/30(水) 23:57:20 ID:D4IuBe+L
>>95 >>八路軍の「八路」というのは(当時は)どのような意味ですか?
ここまで来て、ようやく中共の『八路軍』の話に辿り着くのですがw、
>>110 >>国府軍の『路軍』編制は、支那事変直前の「西安事件」(1936年末)
>>ごろまでは一般的でありました
で述べたとおり、抗日戦(支那事変)が勃発した頃には『路軍』編制は姿を消して
います。国共合作により1927年以来の『紅軍』は国民革命軍に改編され、その内の
西北主力が『第八路軍』と呼ばれる事になる(1937年8月22日)訳ですが、ちょっと
古臭いおかしな話です。
さらにその後、中共が提出した「国共合作宣言」を国民政府が承諾して、正式に
『抗日民族戦線』がスタートした1937年9月下旬、華北の中共軍は第二戦区(閻錫山・
司令長官)所属の『第十八集団軍』として蒋介石の指揮下に入る事になります。
114 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/31(木) 00:12:52 ID:nOtfX1+b
とにかく1937年後半には、他の国民党系の軍隊を見ても「第●集団軍」という
編制に変わっており、『路軍』の名称は姿を消しているのです。
さらに
>>113 で、
>>国共合作により1927年以来の『紅軍』は国民革命軍に改編され、その内の
>>西北主力が『第八路軍』と呼ばれる事になる(1937年8月22日)訳ですが
と書きましたが、これはいわゆる「一般的な見解」とされるもので、別の資料には
1937年8月20日付の『国民革命軍抗日戦闘序列』の中で既に「第十八集団軍」の
名前がある訳です。要するに、国府政府は最初から「西北の紅軍」を八路軍ではなく
「第十八集団軍」として見なしていたとも考えられます。
気が遠くなる程、ウダウダ書いてきて結局、何が言いたかったといえば、中共の
『八路軍』という名称は「単なる自称」だった可能性がある事です。少なくとも
国共合作の際に自分から「八路軍」の名前を提示して、そのまま使い続けたとw。
115 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/31(木) 00:27:33 ID:nOtfX1+b
支那事変での「中共軍兵士」の写真を見ると、『八路』の袖章が 目に止まる事があります。 これが太平洋戦争以降になると、『18集団軍』の袖章が登場し始め、 末期には『18GA』の英語表記となり、さらに太平洋戦争が終結する 直前になると『八路』が再登場してくるのです。 非常にぶっちゃけて説明しますと、要するに中共軍は蒋介石の『風下』に 立ちたくなかったのであり、本来の「十八集団軍」ではなく時代がかった 『八路軍』の名称を好んで使ったのも、その現われです。 また1937年に紅軍を改編する時も、「国民政府軍に」ではなく、あくまで 『国民革命軍に』であることを強調しているのも同様の理由でしょう。
116 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/31(木) 00:39:59 ID:nOtfX1+b
では何故、八路軍が『十八集団軍』の袖章を使い始めるかと言えば、 太平洋戦争が始まり連合国の援助が始まって以降、国共の対立に 外部から厳しい批判が集まったからです。 あるいは「自分たちは国共合作に協力して、真面目に日本軍と戦って いますよ(悪いのは蒋介石ですよw)」と米国にアピールするために 『十八集団軍』の袖章を用いたのかもしれません。中共は狡猾ですw。 さらに『18GA』に変化したのは、説明するまでも無いでしょう。 毛唐により分かりやすいからです(藁)。 最後に、太平洋戦争末期に『八路』を袖章に復活させたのは、抗日戦後の 『国共対立』に再び備えるためでしょう。ああ、ややこしいw。 そして現代人が『八路軍』の名前は覚えていても、まず『十八集団軍』を 知らないのは、中共の「宣伝戦」と「反日教育」の成果です。抗日戦を 戦い抜いたのは、あくまで『八路軍』だったのです(核藁)。
こんな長ったらしい文章は読んでられねえよ! という人は、 『八路軍』の名称が「妙に古臭い」とだけ覚えて置きましょうw。
118 :
95 :2006/08/31(木) 02:32:23 ID:GToA+x1+
イナゾウ中佐殿、ほんとうにほんとうにありがとうございました。 「八路軍」・「第18集団方面軍」に関する貴詳説、むさぼり読みました。 ほんとうによ〜く理解させていただきました。まさに感激のきわみです。 [支那事変での「中共軍兵士」の写真を見ると、『八路』の袖章が... ]等々、 こんな記事読んだのも初めてでした。嬉しかったです。プリント・アウトして、 明日からまた精読します。72の質問もそのうちいつかよろしくお願い申しあげます。 「八路」の名称、そんなにも複雑なる背景・経緯があるゆえ、一般的戦史・戦記や事典では、 肝心のこと(由来・意味・理由)が書かれてなかったのですね。(多分、ほとんどはそれらの著者の知識不足? なのでしょうが)僕は数年来ずっとこのこと、このほんとうの意味を知りたく、想い続けてました。 今回は心から感謝を申しあげます。...イナゾウ中佐殿に敬礼!
『八路軍』の名称は中共の「宣伝臭い」と覚えておきます。
88D
121 :
ニッポンの夜明け :2006/08/31(木) 21:35:44 ID:TOa3K4DZ
月刊誌【正論】10月号 盧溝橋『当事者』が重大証言!日本軍からの発砲はあり得なかった。【長澤連治】
>>118 >>プリント・アウトして、明日からまた精読します。
あんまり「鵜呑み」にされても恐いんですけど…w。何事もそうですが、基本は
Trust No One. 誰も信じるな――。
です。自分の言う事など以ての外w。必ず他の人が同じ事をどう書いているか
ダブルチェック・トリプルチェックしましょう。みんな微妙にズレているはず
ですし、全く違う事が書かれている場合も多いでしょう。
何が正しいのか、どれも正しくないのか、判断するのは貴方次第です。
>>108 >>三国志にも五路と呼ばれた作戦があったように思う
自分は「近現代史バカ」なので、三国志は詳しくないのですよw。おそらく
世界史板などで聞けば、三国史に限らず、明や清の時代でも「路軍」に近い
言葉が出てくるのではないかと思いますw。
今までの自分の説明は、あくまで「辛亥革命」以降の『国民革命軍』の話だと
思ってくらさい。
学生の頃は、『三国史』を面白がるのは「悪魔に魂を売った連中」と考えていた
のですが、今考えると非常に勿体無かったかもしれませんw。戦史を紐解くに
当たって、まずブチ当たるのが「地名の壁」ですが、『三国史』を読んでいれば
相乗効果で「支那事変」についても理解が早いでしょう。
ですから、学生の身分で時間のある方は、三国史を読んだ方が「急がば回れ」で
逆に良いと思います。コーエー、漫画を問わず。『三国無双』はどうか知りませんがw。
124 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/01(金) 00:22:59 ID:KCA9sREe
>>111 >>第5次掃共戦まで4回も敗退を繰り返した国府軍に東北軍と
>>似たようなメンタリティを感じる。やっぱすぐ逃げ出したのだろうか。
少し詳しく触れても良いのですが、やはり紅軍の「運動と集中」ですね。国府軍は
圧倒的な兵力で『中共根拠地』を包囲するのですが、部隊間の「相互の連携」が
上手く取れておらず「各個撃破」されることが多かったのです。
もちろん国府軍は、蒋介石の命令による「シブシブの戦い」でやる気がありませんが、
紅軍の場合は『その存亡』が掛かっています。死中に生を求めなければならず、その
必死さが違います。
要するに、国府軍の弱点と思われる箇所(部隊)に「紅軍の全戦力」を集中させて
各個撃破・殲滅を繰り返すわけですね。もちろん一撃離脱で、たぐいまれな運動量が
必要とされるのは言うまでもありません。
125 :
:2006/09/01(金) 00:34:25 ID:???
>>38 > 一体どれくらいの人が眺めているのか気になるのが正直なところです。そこで自省も兼ねまして
> アンケートをお願いしたいのですが、お暇な方は書き込んでやって下さいませ。(複数回答可)
> @今の方が良い−− つぅ〜か、以前も今も両方良いと思います。
126 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/01(金) 00:38:02 ID:KCA9sREe
まあ、毛沢東の言葉を引くのが一番理解しやすいでしょう。 「人に対しては、指10本を傷つけるのは、指1本を切断するのに 及ばない。敵に対しては、10個師を撃破するのは、1個師を 殲滅するのに及ばない――」 つまり、国府軍の最も弱いと思われる一部隊を「血祭り」に上げて、 他の部隊が恐れをなして引き揚げるところを追撃し、さらに打撃を 与える訳です。 特に「第二次掃共戦」の紅軍は痛快で、一挙に国府軍の第28師、43師、 27師、8師、5師、そして第8路軍の朱紹良の部隊をも蹴散らしています。
127 :
:2006/09/01(金) 00:51:44 ID:???
>>67 > 功を焦って、無謀な作戦を企てる上官がいると、全滅を恐れる部下が密かに始末した。
−−中支で6年間戦ったわが家の年寄の語った話。
無謀な作戦に限らず、部下に嫌われた上官は、夜戦の時などに、
味方に後ろから撃たれることがあった。
これをわが家の年寄は「後ろ弾(だま)」と、呼んでいた。
上記のような事実が例外的にあったにせよ、全体として
日本軍の軍紀=敵に対する戦闘意欲 は、全期間を通じて
高かったと言っていた。
128 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/01(金) 00:55:07 ID:KCA9sREe
しかし口で言うのは簡単です。 この時の紅軍は、15日間で350キロを走破して、5回の戦闘を 行なっている訳です。1日に直すと約23キロの速さで移動させ続け、 集中した兵力の衝撃力を利用して、国府軍に各個の奇襲をかけたのです。 中共軍は、国府軍の2万余の小銃を鹵獲し、同じく鹵獲した弾薬を 頼りに戦ったとされますw。 「第二次」の国府軍は、紅軍を包囲するため扇状に展開し、一歩一歩 地歩を固める積もりで「攻撃態勢」を取ったのが仇になりました。 第5師長は、負傷して殉職していますw。27師もほぼ壊滅しました。
129 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/01(金) 01:22:20 ID:KCA9sREe
5回にわたる国府軍の「掃共戦」(1930年〜1933年)は、非常にマイナーですがw 基本的な『戦術の題材』としては、非常に良いサンプルだと思います。 全く同じ場所で5回も戦われているのが1つ。国府軍は毎回大敗しますがw、 次回にはその反省を踏まえて展開・作戦を練ってくること、また紅軍もそれに 対応して戦術の幅を広げてくるのが2つ。 ある戦闘の結果と、その「戦訓のフィードバック」が非常に短期間で行なわれ 再試行されているのが3つ。 最終的に「第五次掃共戦」で紅軍は追い詰められて『長征』を強いられる 訳ですが、その理由は国府軍の「トーチカ戦術」によります。徹底的に トーチカを各所で建てまくりw、紅軍の糧道を絶つとともに得意とした 『運動戦・奇襲』が行なえる「地所」を削っていった訳です。 もちろん、他にも「政治的要因」が絡む訳ですが、長くなるのでまたの機会に…w。
>>125 >> @今の方が良い−− つぅ〜か、以前も今も両方良いと思います。
どうもでございます。
所詮「2ch」では、面白くなくなったら、どんなに過去に実績があっても
『ボロ雑巾』のように扱われるものと認識していますので、まあマイペースで
続けていく積もりですw。
131 :
125 :2006/09/01(金) 01:42:28 ID:???
>>130 >
>>125 >> @今の方が良い−− つぅ〜か、以前も今も両方良いと思います。
> どうもでございます。
> 所詮「2ch」では、面白くなくなったら、どんなに過去に実績があっても
> 『ボロ雑巾』のように扱われるものと認識していますので、まあマイペースで
> 続けていく積もりですw。
−−息長く、よろしくお願い致します。
132 :
名無し三等兵 :2006/09/01(金) 15:16:14 ID:uZH48nNs
中国戦線でアメリカって何やってたの? 日本軍どんどん突破してんだけど、やる気あんの?
133 :
ニッポンの夜明け :2006/09/01(金) 20:02:47 ID:Vc+qKxVs
月刊誌【正論】10月号 盧溝橋【当事者】が重大証言! 日本軍からの発砲はあり得なかった。
134 :
名無し三等兵 :2006/09/01(金) 21:03:14 ID:gySPu/pe
>>133 当たり前でしょ。
最近の正論は、沖縄自決の話といい、
後追いというか、焼き直しというか、
安直すぎるわね。
新規の顧客へのリップサービスなんでしょう。
正論の記事は、あまり目新しいものはありませんヨ。
中共の陰謀だとしても 盧溝橋で停戦後、ホイホイ進軍する帝国陸軍は相当アホッ子だなww
八路軍には強姦や略奪は無い 三笠宮ですら絶賛したという
>>134 まあこういうキャンペーンは何回も繰り返さないと浸透しないもんだし。
首相が侵略戦争だった。と認定してる国がキャンペーンもクソもないんだが。
139 :
暫編第一軍 :2006/09/02(土) 21:02:52 ID:???
イナゾウ中佐殿の「路軍」と「第八路軍」に関するレスは非常に良く経緯を説明して おられます。残る疑問点に関して私からも少しだけ補足させて下さい。都合により 時々(本当に時々)しか書き込みできませんが、引き続き宜しくお願い致します 路軍 路軍とは抗日戦争開始以前の中国軍の編成にしばしば登場する、「軍団」や「兵団」 を含めて複雑な中国軍編成単位の一つです。 基本的には数個師からなる「軍」に相当しますが、囲剿戦時には指揮下に数個師 からなる「縦隊」を持つ「集団軍」相当として運用されたこともあります。また中原大戦 時には軍閥側でも複数の「軍」を束ねる「集団軍」相当の規模として用いられています。 当時中国軍(中央側)全軍的に「路軍」が用いられていた訳ではなく、主として中原大戦 以降に中央に帰順した地方軍を「路軍」として収編しています。一部少数の中央直系 部隊を含む例も見られますがこれは督戦目的ではないかと個人的に疑っています。 資料によっては雑牌軍と蔑称?されることもあり当初19個編成された路軍ですが、 最盛期には第二十六路軍まで存在が確認できます。 1938年頃までに「路軍」は廃止され、「集団軍」に置き換えられていったのはイナゾウ 中佐殿のご説明通りです。 「第〇路軍」と番号を振られた「路軍」はそれ以前の右或いは左等を冠した方面や 地域を指した「路軍」とは分けて考える必要があるかと思われます。 尚、中共軍の代名詞ともいえる第八路軍ですが、盧溝橋事件後の1937年7月22日、 軍事委員会から国民革命軍第八路軍総指揮として朱徳が正式に任命されていること から、当初は正式に第八路軍だったとみて間違いありません。 その後9月12日に第八路軍は軍事委員会の命令で第十八集団軍と改称されますが、 中共側は引き続き第八路軍と自称し続けます。この改称は当時の路軍改編の流れに 添ったものでしょう。第十八集団軍への改称時に朱徳の役職も総指揮から総司令に改称されています。
140 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/02(土) 21:39:57 ID:uVxTKJtX
>>132 >>中国戦線でアメリカって何やってたの? 日本軍どんどん
>>突破してんだけど、やる気あんの?
その点は日中戦争を考える上で非常に重要な問題です。いずれ詳しくやるとして、
少しだけ肝心ところに触れておきましょう。キーワードは、『大陸打通作戦』と
『連合軍の北部ビルマ反攻』(第2次ビルマ戦役)です。
この2つの戦いは1944年の「ほぼ同時期」に行なわれており、期間を示すと以下の通り。
●『大陸打通作戦』:1944年4月17日(京漢線打通作戦開始)〜12月10日(南寧
南西で仏印ベトナムへの連絡線を打通、主要作戦終了)
●『第2次ビルマ戦役』:インパール作戦(1944年3月8日〜7月5日)、ミイト
キーナの戦い(1944年5月17日〜8月3日)、フーコンの戦い(1943年10月30日〜
1944年6月下旬)
大陸打通ならスティルウェルの本ですね
142 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/02(土) 21:57:53 ID:uVxTKJtX
もちろん『大陸打通作戦』は日本の大勝利に終わり(戦略目的はともかく としてw)、『第2次ビルマ戦役』は「インパール作戦」の名前を出せば 説明するまでも無いでしょうw。牟田口の大貢献もあってボロボロです。 逆に支那からすれば、裏口に当たる(同時に補給路)ビルマでは圧倒的な 勝利を収めましたが、「玄関」の大陸正面では大惨敗を喫した事になります。 ほとんどの日本人は、1944年に起きた『この2つの戦い』を全く別々の 問題に考えがちですが、それは非常に大きな誤りです。 支那では『東西両戦場』『東西二大戦場』と見なされており、もちろん 「東」が大陸打通作戦に対する支那側の防衛であり、「西」が北部ビルマ 反攻に当たる訳です。 ここで問題になるのが、「東の戦場」を指導していたのが蒋介石であり、 「西の戦場」を指揮していたのがスティルウェルだった事です。
西と東の連携が極悪になって、 ついにスティルウェルが人間不信というか重慶政府不信になっちまった
144 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/02(土) 22:26:19 ID:uVxTKJtX
前にも少し触れましたが、蒋介石とスティルウェルの仲は『極悪』です。 連合国「中国戦区の癌」としか言いようが無いくらいです。 太平洋戦争開始以降〜1944年10月まで、『中国軍の指揮権』をめぐる 蒋介石とスティルウェルの暗闘は、ルーズベルトなど外交ルートも 捲き込みながら「延々と」繰り広げられます。 ここで事情を知らない人のために、幾つか説明が必要でしょう。そもそも 「スティルウェルって誰?w」から簡単に触れておきます。 ジョセフ・スティルウェル(中将)は、『連合国・中国戦区参謀長』ならびに 在中米軍司令官という任務にあります。在支武官を務めた経験をもち、また 蒋介石が『連合国・中国戦区司令官』であるのは言うまでもない事です。 スティルウェルは、一方で蒋介石を補佐する立場にあり、他方で在中米軍の 司令官である訳です。両者が指揮権をめぐって衝突するのは目に見えていますw。
スティルウェルもそうだが支那の米軍司令部ひっくるめて蒋介石不信ですね。 あとシェンノートの空軍との関係も絡んで、グチャグチャ状態。まさに最悪ですね。 それに和をかけるのが彼らと宋美麗との会話。 しかしスティルウェルが解任されたおかげで重慶政府の腐敗が米国本土にも浸透してしまう。
146 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/02(土) 22:49:42 ID:uVxTKJtX
>>144 >>在中米軍司令官という任務にあります。
話をカンタンにするために上記のように書きましたが、正確なスティルウェル
の役職は「中国・ビルマ・インド戦区」の米軍司令官です(プラス、蒋介石の
参謀長)。
頭の回転が早い人は、上記の肩書きに「ビルマ」という文字を見つけて、
「ああ、1944年の『第2次ビルマ戦役』に話が繋がるのだな」と来るの
でしょうが、もちろん「第2次」があれば最初の「第1次」があります。
太平洋戦争開始直後、日本軍によるビルマ攻略戦(1942年1月20日〜5月末)で
スティルウェルは、中国のビルマ遠征軍総指揮という立場にありました。
戦闘の経過はクソ長くなるので省略しますが、史実を見ても分かる通り、
スティルウェル側(連合国)のこれ以上無い『ボロ負け』です。
「第1次ビルマ戦役」でスティルウェルは、シェエボ付近で撤退の決意を しますが、まだ航空機による脱出が可能であったにも関わらず、司令部の メンバーと徒歩でインドに向かう事を選択します。 このエピソードが米陸軍の下士官兵に「英雄」と讃えられ、スティルウェルは 「アンクル・ジョー」の異名を取る訳ですが、これはまた別の話です。 蒋介石とスティルウェルの『確執』は、この「最初のドッ初発」の戦いから 多くの種が蒔かれておりw、簡単にまとめると以下の通り。
148 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/02(土) 23:19:49 ID:uVxTKJtX
●スティルウェルは、蒋介石から「中国・ビルマ遠征軍総指揮」に任じられたが、 蒋はそれとは別に羅卓英を「司令長官」に任命し、羅を通して自分が直接 各軍・師を指揮しようとした。当然、スティルウェルは『騙された!』と叫ぶw。 また「指揮権の分散」が第一次ビルマ戦役の大きな敗因とトラウマのように考えた。 ●日本軍の進撃が続く中、蒋介石は全軍をミイトキーナに退却・集結させて 反撃を行なおうと電文で指示したが、スティルウェルは持ち堪えられない として返信せずに無視。部隊と共にインドに向かう。結果のみ後電。 特に2番目には蒋介石が激怒して、こう述べています。 「これは全軍をミイトキーナの方に集結させようとした余の考えとは、全く 正反対である。スティルウェル氏は戦いに敗れたために、精神不安に陥った のか? 氏はついに我が軍を離れて勝手にインドに向かった。その知らせと してこの電報のみとは、軍紀の何たるかを知らぬのだ」
149 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/02(土) 23:37:52 ID:uVxTKJtX
日本の「インパール作戦」と言えば、『白骨街道・靖国街道』ですが、 緒戦の連合軍のインド撤退も、それに負けず劣らず悲惨なものでした。 撤退が決定された5月は「雨季到来」の時期にあたります。ミイトキーナ からインドのレドまでの距離は250キロ、地図上では僅か5〜6センチに 過ぎません。しかし、シンブヤン付近はジャングル地帯であり、インド・ビルマ 国境地帯は2000m級の山々が続きます。追い討ちに土砂降りの雨季です。 イギリス軍の数字では、3万人がインドへ脱出しようとして2万3千人が 成功して辿り着いたとあります。中国軍の場合は、もっと少ない率でしょう。 また独自の判断で「雲南」へと撤退していった、支那軍の師も多くあります。 スティルウェルが印度から重慶に戻って、蒋介石と対面したとき、蒋はスティル ウェルの責任を追及することなく、意外にも優しく接しました。スティルウェルが 59歳という高齢(蒋より5歳上!)であり、ジャングルを踏破して10キロ近く 体重を落としている理由もあったでしょう。しかし、ビルマは陥落しました。
150 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/02(土) 23:52:07 ID:uVxTKJtX
>>149 >>しかし、ビルマは陥落しました。
「ビルマは陥落しました」で済む話ではありません。ビルマの陥落は
支那全土の『完全封鎖』を意味します。 以後、連合国(アメリカ)による
対中援助物資は「ヒマラヤ超えの空路」に頼らざるを得なくなりますw。
>>145 >>あとシェンノートの空軍との関係も絡んで、グチャグチャ状態。
遠路はるばる空輸された「対中援助物資」は、その大部分をシェンノートの
「空軍部隊」が持っていく事になります。米式装備に訓練された支那の『新軍』
は残りのチンカスのような物資をもとに整備・訓練されていく訳ですが、
トータルの空輸量の積み増し、新軍の指揮権・運用をめぐって蒋介石とスティル
ウェルの確執と憎悪は深まるばかりですw。
勘の良い人は今度こそお気付きでしょう。1944年の『第2次ビルマ戦役』はスティル
ウェルの『復讐戦』です。リベンジです。蒋介石の大陸正面など知ったことか!です。
151 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/03(日) 00:14:16 ID:TKiHNtGR
それで、まあ、予定の話の「3分の1ぐらい」しか来ていませんがw、 明日は朝早くから「都産貿要塞2006」に出撃しますので、そろそろ 寝ますw。ええ、東方ですとも(藁)。続きは今度…。今日はあともう 少しだけ……。月曜は遅い夏休みなので、買う冊数が多い日も安心(核藁)。 さて当初、蒋介石がスティルウェルを「ビルマ遠征軍総指揮」に任命した のは何故だったのでしょう? また宋子文(外交部長・そしてルーズベルトに 対する蒋介石の個人的代表者)は、わざわざ米国の将軍に中国軍の指揮を 取って欲しいなどと、アメリカ側に提案しています。 答えは簡単で、『名目的』にアメリカ人の指揮官を仰ぐことで、イギリスとの 折衝を容易にしようと考えたのです。もちろん、総指揮は「紙切れの肩書き」に 過ぎず、実際の作戦は中国人(蒋介石)が指導する腹積もりで、さらに援助物資も チャッカリ頂こうという魂胆ですが、そうは問屋が下ろしませんでした。つーか、 幾らなんでもアメリカ人を舐め過ぎですw。
152 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/03(日) 00:26:53 ID:TKiHNtGR
明日以降は、スティルウェルの『性格』から触れますが、反論を覚悟して
バッサリ分かり易く評すれば、「米陸軍版・ハルゼー」です。口汚いこと
は全く引けを取りませんw。
>>149 >>スティルウェルが印度から重慶に戻って、蒋介石と対面したとき
スティルウェルは、蒋介石の『詐欺』を忘れも許しもしませんでした。自分の
命令に従わなかった、中国側指揮官の処罰を要求します。支那側の記録では
第5軍長の杜聿明を更迭し、臨時に編制されていた第55師長の陳勉吾を処罰
したとあります。
しかし、スティルウェルがマーシャルに提出した報告書では、陳勉吾以外にも
第6軍長・甘麗初と第96師長・余韶、また急編制された第28師の名前の
分からない師長についても言及して、これら4人を『全員死刑』にするよう
申して立てています。
153 :
118 :2006/09/03(日) 06:24:24 ID:ElINd/b2
139 :暫編第一軍 様! 貴重きわまる補足ご教示をくださり、ほんとうにありがとうございました。 (イナゾウ中佐殿、ほか皆様分も含めて、私くしにとっては何でも貴重ですが) ぼくは(ぼくの周囲の老若を含めて皆)「八路軍」というと、どうしても そのイメージは...大規模ゲリラ戦、便衣隊、モーゼル拳銃、昼農夜兵、 遊撃隊、八路やパーロ軍との蔑称、毛沢東(朱徳や林彪は間違っても出て こない...というか、知らない)、匪賊馬賊...このような講談調、 漫画調の非史実的な話ししか聞かされてなかった(中学生まで!)ので、 その後も、それなりに戦史・戦記を読んでも、今回のように明確にピンとは こなかったのです。おかげさまにてまさしく目からうろこのおもいです。 みなさま、ほんとうにありがとうございました。今後ともどうぞよろしく!
154 :
名無し三等兵 :2006/09/03(日) 20:54:35 ID:TUGxkjKc
イナゾウ@商学徒
155 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/03(日) 23:14:53 ID:PkIJUSZ1
>>139 >>当初は正式に第八路軍だったとみて間違いありません。
暫編第一軍さま。毎度どうもでございます。上記は自分の早とちりというか、
勘ぐり過ぎだったようで……。失礼しました。自分は想像力が逞しい割りにw
「脇が甘い」ので、また補足していただければ幸甚です。
>>154 >>イナゾウ@商学徒
また懐かしい名前をどこから引っ張ってきたのか……w。昔は「経済板」に
生息しておりまして、銅鑼殿やスリランカ殿には大変お世話になりました。
「経済板」と「軍板」の住人はほとんど重ならないでしょうから、どこまで
話が通じるか分かりませんが、「苺」の経済板でご活躍のお二人が2chの
経済板に光臨(絨毯爆撃w)されていた時代があったのです。
今の軍板に喩えるなら「ゆうか氏」と「眠い人氏」クラスの2人だと考えて下さい。
156 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/03(日) 23:33:11 ID:PkIJUSZ1
自分が2ch(経済板)に初めて書き込んだ頃は、銅鑼殿とスリランカ殿から
レスを貰っただけで、ちょうど
>>118 (
>>153 )氏のように、
「ドラエモン先生! スリランカ先生! ご教示いただいて、まことに
ありがとうございます!」
と、同じノリで御礼を述べまして「苦笑い」されたものです(核藁)。
それを考えると『立場は巡る』というか、
まわる、まわるよ 時代はまわる♪ 別れと出会いを繰り返し、
今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって 歩き出すよ♪
と中島みゆきの歌が頭の中に流れてきて、少し感慨深いです。お2人から
「最近、2chの経済板も良くなってきたと思わない? やんばるくいな氏
イナゾウ氏、ご苦労様です」と言われたのは一生涯の思い出です(笑)。
やんばるくいな氏、お元気? 今ごろ何をされているんでしょうかね?
スリランカ殿はまだ現役のようで、自分が学生の頃から『御大』だった訳で 息のすごく長い方です。出来るなら自分もかくあるべし、ぞなもし。 銅鑼殿は一時期、引退騒動がありましたが今は どうされているのかしらん?
158 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/04(月) 00:03:12 ID:PkIJUSZ1
>>145 >>しかしスティルウェルが解任されたおかげで重慶政府の腐敗が
>>米国本土にも浸透してしまう。
いわゆる「スティルウェル・ショック」ですが、戦後の方が深刻かもしれません。
太平洋戦争中の『米中対立』は、中国軍の指揮権をめぐる争いです。アメリカから
すれば膨大な援助(資金・物資)をしている訳ですから、当然口出しする権利が
あると考える訳です。いわんや米式装備(訓練)の『新軍』は、です。
実際、スティルウェルも「中国・ビルマ・インド戦区:米軍司令官」でしたから
「ビルマは中国に含まれない。だから貴方(蒋介石)の指揮を受ける云われは無い」
と言ったとか、言わないとかw。グウの音も出ないとはこの事ですw。
159 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/04(月) 00:19:22 ID:Ees0AgtH
>>152 >>明日以降は、スティルウェルの『性格』から触れますが、
続きですが、何度も繰り返し述べているとおり、蒋介石とスティルウェルの
仲は『極悪』ですw。そして2人とも「性格に難」がありますから、一方だけを
批判すれば、自動的にもう一方を擁護する事になります。
両方とも「公平」に扱えれば、一番良いのはもちろんです。しかし『紙面の都合w』
(文量)という問題がありますから、やむを得ずスティルウェルだけを取り上げます。
蒋介石は「人本主義者」と謳われる事も多いですが、蒋を信望する子飼いの部下からも
「蒋が軍法会議を開かずに、独断で師長などの銃殺を決定するのだけは納得できない」
と批判される点を触れるだけに止めて置きます。あとは察してください。
さて、スティルウェルの日記や手紙などを見ると、その『差別的』表現が多い
ことに驚かされます。蒋介石は『ピーナッツ』などと揶揄されていますw。
160 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/04(月) 00:38:09 ID:Ees0AgtH
自国の大統領であるルーズベルトについては『ゴムの脚』と呼んでいます。 これはもちろん「脊髄灰白髄炎」を患って下半身が不自由だった事を 指しており、ちょっと『身体障害者ネタ』は幾らなんでもヤバイって!w またスティルウェルは太平洋戦争終結時、沖縄の第10軍司令官の職にあり、 戦艦ミズーリ号で日本の降伏調印式に参加した時の感想を妻に送っています。 「イギリス人は『太った赤い団子』であり、オーストラリア人は『くそ桶』、 カナダ人は『ジゴロタイプの老色事師』、フランス人は『きちんとしている方』 だが副官2人は『アパッチ風の汚い面』をしており、オランダ人は『禿のデブ』 ニュージーランド人は『いかにも素人っぽい』と映った。 ジャップの目には、なんというカリカチュア(風刺画・戯画)と見えたこと だろう。人類を代表するとは到底言えない、拙い面ばかりがそろった」
161 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/04(月) 01:11:59 ID:Ees0AgtH
いくら日記や手紙が「フラストレーションの捌け口」になるとはいえ、 これはちょっと頂けません。蒋介石が日記を書くのを「修養の場」と 考えていたのとは大違いです。第一、スティルウェルはこれでも アメリカ陸軍の大将ですw。 また「第三次ワシントン会議」(1943年5月12日〜13日:第3回米英軍事 会議)で、スティルウェルはルーズベルトに「(蒋は)気が変わりやすく 狡猾で、信頼できない老悪党で、話は全く信用できない」と述べていますw。 それにしても、スティルウェルによる蒋介石についての讒言をたびたび耳にして、 当のルーズベルト(米大統領)はどう感じたのでしょうか? 結局、スティルウェル と蒋介石、2人の『生殺与奪の権』を握っているのはルーズベルトだからです。 この答えの1つとして、1943年3月にルーズベルトがマーシャルに送った手紙を 挙げるのが手っ取り早いでしょう。長いですが重要な部分をまとめます。
162 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/04(月) 01:19:32 ID:Ees0AgtH
「君(マーシャル)がアーノルド及びディルの重慶行きについて、スティル ウェルからの2月9日付の手紙の写しを見せてくれたことに感謝する。この 手紙をつぶさに読んだが、まずスティルウェルが蒋委員長に対して全く 誤った接し方をしていると考える。 蒋介石は中国人であり、我々と同じようなやり方、行動を望む事はできない。 スティルウェルの言う、『委員長は実際せっかちで扱いにくく、次々にその 要求を増す』というのは本当であろう。しかしスティルウェルの言う、厳しい 態度で彼に対処することは、やはり間違ったやり方である。 我々は記憶しておかなければならない。委員長は困難な道程を経て4億の人民 が認める指導者になった人物である。各方面の指導的人物――軍人、教育家、 科学者、医療関係者、エンジニア等を何らかのやり方で団結させることは、 極めて膨大な、そして困難な仕事である。誰もが権利や全国的あるいは 地方的な指導力を奪い合っているのだから。
163 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/04(月) 01:25:37 ID:Ees0AgtH
(彼は)短い時間で、我々が2世紀かけて得たような成果を全中国に
打ち立てようとしているのである。
しかも委員長は、必ずその最高の地位を維持し続けなければならない
ことを自覚している。もし我々が彼の立場であれば、やはり彼と同じ
ように行動するだろう。
彼は行政上の首長であるばかりでなく、三軍の最高司令官である。
いかなる人もこのような人物に対して、『相手がモロッコのスルタン』
であるかのように厳しい口調で確実な承諾を求めたりしてはならない」
マーシャルは『モロッコのスルタンw』の箇所を削って、スティルウェルの
参考になるよう転送する事をルーズベルトに求め、許可されました。
>>161 の
第三次ワシントン会議のスティルウェルの発言を見る限り、教訓が生かされた
様子は見られませんw。
164 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/04(月) 01:31:01 ID:Ees0AgtH
スティルウェルの讒言は、ルーズベルトの蒋介石に対する心証を 確実に悪くしていきましたが、同時にスティルウェル自身の心証も 劣化させていきました。まさに『人を呪わば穴2つ』ですw。 そしてルーズベルトは、最後に「蒋介石を取るか? スティルウェルを 取るか?」の選択を迫られますが、上記の経緯もその決定に大きく 影響しているでしょう。
日本もアメリカも陸軍のお偉いさんは糞が多いのかなあ
わけのわかんねえこと抜かしてんじゃねえよ
第五師団は機械化とか、熊本師団は突撃多様するとか、 支那戦線における師団でなんらかの特色というか、個性というか評判みたいなのってなんかありますか? インパールのビラみたいな評判でもいいですし装備等でも
失礼します。 初心者です。 こちらの皆さんは、南京事件(いわゆる大虐殺と称するもの)については、 どのような見解をお持ちなのでしょうか。 冷静、冷徹で明快な見解をお聞かせいただければ幸いです。 どうぞよろしくお願いいたします。
南京事件は荒れるだけだから他で聞け
ここでも荒れますか・・・ 荒れずにお願いしたいのですが
171 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/04(月) 21:28:27 ID:6zNB6uzz
>>165 >>日本もアメリカも陸軍のお偉いさんは糞が多いのかなあ
アメリカ人の美徳に「民主」と「自由」、そして『効率』があります。
スティルウェルもそうですが、人様の国の事情を考えずに『効率』だけを
優先する嫌いがあります。日本の不良債権処理やアジアの金融危機に対する
口の出し方を考えれば、今も昔もそう変わらないでしょうw。
例えば、スティルウェルは中共軍に対してシンパシーを覚えていました。これが
蒋介石との仲が『極悪』になる他方の理由ですが、別に紅軍の革命理論や政治的
思想に賛成していた訳ではありません。
理由は、中共軍が国府軍よりも『効率的』だと感じたからです。後年、スティル
ウェルは自分が尊敬している人物として朱徳(毛沢東ではない)を挙げ、また
軍閥出身で「蒋介石の政敵」であった李宋仁や馮玉祥の名前も賞賛しています。
上記の人物たちは、「誠実で兵士と親しかった」という理由からです。
>>170 >>ここでも荒れますか・・・ 荒れずにお願いしたいのですが
不可能です。南京虐殺は「華麗にスルー」でお願いします。
>>168 「南京事件」とはんなんだ正確に「南京大屠殺」と言え!
では「南京大虐殺」とはなんだったのか検証してみよう。
南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)は、日中戦争(当時は日本側は支那事変と呼んだ)初期の1937年(昭和12年)に日本軍が中華民国の首都 南京市を占領した際、約6週間 - 2ヶ月にわたって多数の中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件。 中国では南京大屠殺と呼び、欧米ではNanking AtrocitiesあるいはRape of Nankingと呼ぶ。日本では単に南京虐殺、南京事件とも呼ばれる。南京事件という呼び方は、不法殺害の他に暴行・略奪・放火も含めて事件全体を論じる場合によく使われる。 なお、この問題は事実存否や規模などを巡って現在でも議論が続けられている(南京大虐殺論争を参照)。
南京攻略戦 1937年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に破れた中国軍は撤退を始め、 当時、中華民国の首都であった南京を中心として防衛線(複郭陣地)を構築し、抗戦する構えを見せた。 日本軍は、撤退する中国軍に対し追及を始めたが、兵站が整わない、多分に無理のある進撃であった。 日本軍は、中国軍の複郭陣地を次々と突破し、12月9日、南京城を包囲し、翌日正午を期限とする投降勧告を行った。 中国軍がこの投降勧告に応じなかったため、12月10日より日本軍の総攻撃が始り、12月13日、南京は陥落した。
残虐行為について 日本軍は、南京への進撃中から諸種の残虐行為を行ったと言われている。 その為、南京周辺の町村において、被害の報告が挙げられている。 また、1937年12月13日の南京陥落の翌日から約6週間にわたって行われた南京城の城内・城外の掃討でも、 大規模な残虐行為が行われたと言われている(城内は主に第16師団(師団長:中島今朝吾)が掃討を行った)。
市民への虐殺 市民への虐殺については、そのことを直接指示する命令書は確認できないが、当時、戦闘に参加した日本軍将兵の多くが、 女性、子供を含めた市民を無差別に殺害するよう指示を受けたことの記録や証言を残している。 被害者側である中国人の証言からも、理由もなく暴行を受けたり、家族や周辺の人々が殺害されたことが多く確認できる。 当時南京に残留して南京国際安全区委員長を務めていたジョン・ラーベは、安全区の警護のために残されていた警察官全員や発電所の技術者が、日本軍によって大量殺害されたことを記録に書き残している。
捕虜・投降兵の虐殺 第16師団長である中島今朝誤中将は、日記において、捕虜を取らず、殺害する方針であることを書いている。この方針に基づいて、 南京城内外での掃討で、多くの捕虜や投降兵が殺害されたのではないかと見られている。 南京の北方に位置する幕府山では、山田支隊(第65連隊基幹、長・山田栴二少将) が捕虜約14,000名を殺害したと言われている。山田少将は、この処置は上部組織からの命令であったことを日記に書いている。 南京北部の下関では、捕虜が収容された後に殺害され長江に捨てられたことが、日本側、中国側、 そして残留外国人の記録や証言に示されている。 第114師団第66連隊第1大隊の戦闘詳報では、旅団命令によって捕虜を殺害したことが記録されている。
スティルウェルは『中共』の運動を、一種の兵隊集めであると考えていました。 「Y部隊」と呼ばれた「中国・雲南遠征軍」で補充兵が足りずに問題になっていた時、 スティルウェルは、中共の兵士20人を、国府軍の「一連(中隊)100人」に補充 しようと考えた事がありますw。 この時は、雲南遠征軍・参謀長である蕭毅粛が「2週間以内に連(中隊)全体が 共産主義に変わってしまうだろう」と反対したため実行に移されていませんw。 スティルウェルの『空恐ろしい考え』は効率のみ最優先で、他国の事情というものが 軽視されています。もしスティルウェルが、中国軍の全般的な指揮権を握ったら…… 中共に対する考え方1つとっても、蒋介石の『悲鳴』が聞こえてきそうです。 「対日戦」という名目で、中共にアメリカ軍の武器物資・援助が開始されれば 国府軍はオシマイです。他国の内乱の火種にガソリンを投げ込むようなものですw。
スティルウェルも軍人とはいえ大将クラスにまで上り詰めるんだから 共産主義に対する危険な認識は普通にあったんだろうと思うな。 でも現場の指揮官としては、それぐらい酷い有様で藁にもすがる思いだったのではないだろうか。 重慶政府の腐敗臭・病魔に脳が侵される寸前に、 本能的に拒否反応を起こすような状況だったのではなかろうかw
182 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/04(月) 22:25:56 ID:6zNB6uzz
この辺り、スティルウェルの後任であるウェデマイヤーは心得たもので、 中共軍から「対日戦で積極的に戦うので武器・物資を援助してくれ」と 要請があっても言下に拒絶しています。 蒋介石とウェデマイヤーの関係は非常に上手くいきましたが、前任のスティル ウェルとの間が『魔女の婆さんの釜』だった理由も大きいでしょうw。 蒋介石もスティルウェルに続いて、ウェデマイヤーとも悶着を起こせば、今度こそ アメリカとの関係が『断絶する』ことが分かっていたでしょうし、ウェデマイヤー 自身も「前任者の失敗」を目にしています。 しかし何より、ウェデマイヤーが「参謀会議」を積極的に開くなど中国側に 配慮したのが大きいでしょう。スティルウェルの時代は、「アンクル・ジョー (スティルウェル)の尻のポケットの中に、作戦会議はあるのさw」などと 揶揄されていました。また重要なのは、蒋とウェデの間で「共産主義に対する 脅威」の認識が一致していたことです。
>>179 >捕虜約14,000名を殺害
具体的にどのように?機銃掃射かなんかで?
184 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/04(月) 22:47:15 ID:6zNB6uzz
>>181 >>でも現場の指揮官としては、それぐらい酷い有様で藁にもすがる思い
>>だったのではないだろうか。重慶政府の腐敗臭・病魔に脳が侵される寸前に
ソ連はともかくとして中共に対する脅威は、アメリカ全体でもほとんど
認識されていませんでしたので、スティルウェルだけを非難するのは
確かに酷かもしれません。
それを言ったら、帝国陸軍でも「中共」に対する専門家は「支那通」に
おいても皆無でしたw。国民党に対する人員は大勢いましたけど。ちなみに
『支那通』を英語で表すと「China Expart」です(藁)。
スティルウェル自身は、中国人を侮蔑していると認めた事はありません。
逆に「イギリス人は種族としての優越感を持っていて、中国人を軽蔑して
いる。いずれ高価な代償を払うことになるだろう」と日記の中で述べて
います(1942年3月13日)。
撲殺とか
186 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/04(月) 22:57:38 ID:6zNB6uzz
>>181 >>重慶政府の腐敗臭・病魔に脳が侵される寸前に、
>>本能的に拒否反応を起こすような状況だったのではなかろうかw
また有名な言葉ですが、スティルウェルは日記の中で「中国の3億
9990万人は助けるに値する」と述べています(1943年1月30日)。
要するに、残りの10万人は全員が汚職官吏であり、よって「中国の
人民は良いが、政府の人間は良くない」と来る訳です。
スティルウェルの「中国キャリア」は長く、在中武官として武漢攻略戦
(1938年末)にも最前線へ観戦に出向き「酷い目」に遭っています。
具体的には屈指の激戦区だった「徳安の戦い」で、下級の将校や兵士は
勇敢に戦うのに――という思いがあったのかもしれません。
それにしても日本の「支那通」も同様ですが、中国でのキャリアを深く
すればする程、絶望や侮りが大きくなるのはどうしてでしょうか?w
中国の民衆・社会も長い歴史の中でそれをカラダで理解しているからこそ 指導者には、まず第一に「徳」を求める。 国共内戦で国民政府を見捨て毛沢東になびいてしまうのも無理はない。といった感じでしょうか。
1銃剣による刺殺 2小銃などによる銃殺 3銃架・混紡などによる撲殺 4竹やり
191 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/04(月) 23:25:26 ID:6zNB6uzz
>>132 >>中国戦線でアメリカって何やってたの? 日本軍どんどん
>>突破してんだけど、やる気あんの?
一般のイメージですと、アメリカは中国に際限なく援助を続けて、そのために
戦争終盤は、日本軍も苦戦を強いられたという捉え方が強いかもしれません。
しかしイギリスと比較すれば「チンカス」のようなものでw、優先順位も相当
低いものでした。例えば、1942年5月にトブルクが陥落して「北アフリカ戦線」が
危機に陥ると、インドに駐留してビルマ・中国で作戦していた『米第10航空隊』
がエジプトの増援に派遣されます。
爆撃機のみならず、全ての輸送機や地上スタッフも根こそぎ持っていかれましたので、
中国への援助物資の空輸に大きく影響しました。また租借法案によって中国に送られる
予定だった航空機も、急にイギリス空軍の手に渡ってしまいますw。
192 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/04(月) 23:35:33 ID:6zNB6uzz
支那事変初期まで「航空委員会・秘書長」だった宋美齢が、 「イギリス軍は敗戦のたびに、我が軍が軍備を奪ったり、我が国に 送られた器材を強奪したりする。こうしたことが続くなら、中国は 何のために抗戦しているか分からない」 と述べていますが、中国戦区の優先順位とはヨーロッパに比べれば やはり『チンカス』のようなものに過ぎないのですw。 また、そもそもマーシャル(陸軍参謀総長)は、中国戦区に米軍を 派兵する積もりが無かっただけでなく、大量の物資を供給する考えも ありませんでした。中国での戦闘には、『内部の資源』を活用すれば 良いという思惑でした(資金援助は別問題として)。
>>186 >それにしても日本の「支那通」も同様ですが、中国でのキャリアを深く
>すればする程、絶望や侮りが大きくなるのはどうしてでしょうか?w
あくまで私見ではありますが
現場で生の目を通してその民度の低さをみてしまうと一種のトラウマになり反動が生じるのかもしれません。
私の知人にマニラで華僑との合弁会社(出資比率5:5w)に勤めていた方がおりまして、
現地の余りのひどさ(職員が道具を盗むなどは当たり前)から
フィリピンの内情に詳しいからこそ「決して彼らを信用するな」とご教授いただいたことがあります。
机上で間接的に理想を述べることは簡単ですが
現場で直接、それを実践することははるかに難しい、ということなのでしょう。
当時の日本人の一般的なシナ観は漢文世界からのものがほとんどだったでしょうから、 ますますトラウマになりそうですねえ。
報道 この事件は主に軍人や外国の情報に触れる事の多かった外交官の間で伝わっており(前者の代表的な例としては陸軍中将 岡村寧次関係の記録が、後者の代表的な例としては外務省欧亜局長 石井猪太郎の日記が、夫々挙げられる)、 日本の民衆の間でも流言蜚語として広まっていた(流言の伝わるルートとしては軍人が戦地から内地に宛てた手紙が挙げられる)。また、日本の外へ目を向けてみると、欧米では『シカゴ・デイリーニューズ』や『ニューヨークタイムズ』、 中国では『大公報』などのマスコミによって“Nanking Massacre Story”,“The Rape of Nanking”,“Nanking Atrocities”として報道されていた。 南京に在留していたジャーナリストは日本軍の南京占領後しばらくして脱出したため、事件の全容が報じられたわけではないが、事件初期における日本軍による殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為がほぼリアルタイムで伝えられていた。 無線が日本軍によって管理されていたため、彼らは南京を脱出して日本軍の占領後に行なわれた略奪や大量殺害を船舶の無線を使って報道した。
被害者数について 被害者数については数千人とする説から、数十万人にのぼるとするものまで様々であり、虐殺事件の存在自体を否定する説もある。 日本の研究者らは数万人程度(うち保守主義者では数百人 - 1万数千人規模説、一部に否定説)と考える人が多く、 海外では数十万と捉える研究者が多い。
事件の背景について 事件の背景として、南京の前にも、日本軍は移動中に上海、蘇州、無錫、嘉興、杭州、紹興、常州のような場所でも捕虜や市民への虐殺・略奪を続けていたとされ、 日本軍兵士・将校の従軍日記や回想録から、進軍中にそれらが常態化していたのではないかと疑われている。否定説では「中国軍が民間人を巻き込むため国際法で禁止されている 便衣戦術(ゲリラ戦術)を採っていたため」などと虐殺の責任を中国側に転嫁する主張がみられる(註)。同様に、中国軍が後退する中で後に来る日本軍に何も与えない為に行った空室清野戦術によると見る向きもある。
虐殺とは抵抗できない弱者に対する殺戮だから卑劣なのであって、その条件さえ満たしていれば相手が成人男性であろうと 女子供であろうと、本質的に卑劣さの度合いは変わらない。男しか殺っていないなどという理由で日本軍を擁護できると 思っているのなら笑止、単なる自己満足でしかないが、現実問題「女子供」に暴力を振るったり殺したりすることは社会的にやはりイメージが悪いだろう。 以上の考察から、「12月16日の便衣兵掃討で女子供を殺した資料があるか」は問題ではなく、「日本軍が女子供を殺した資料があるか」が問題であることになる。 このさい、兵士個人の犯罪については措こう。軍や部隊の行為としてそういうことをした資料があるだろうか。 東京裁判に提出された有名な書証、「南京慈善団体及ビ人民魯甦ノ報告ニ依ル敵人大虐殺」を引用してみよう。 「敵軍入城後、まさに退却せんとする国軍及び難民男女老幼合計五万七千四百十八人を幕府山付近の四、五箇村に閉じ込め、 飲食を断絶す。凍餓し死亡する者頗る多し。 一九三七年十二月十六日の夜間にいたり、生残せる者は鉄線を以て二人を一つに縛り四列に列ばしめ、下関・草鞋峡に追いやる。 しかる後、機銃を以て悉くこれを掃射し、更に又、銃剣にて乱刺し、最後は石油をかけてこれを焼けり。焼却後の残屍は悉く揚子江中に投入せり。・・・・・・ 当時、私は警察署に勤務しあるも、敵市術戦に際し敵砲弾により腿を負傷し、上元門大茅洞に隠れ居り、その惨況を咫尺の目前に見し者なり。故にこの惨劇を証明し得る者なり」(『再審「南京大虐殺」―世界に訴える日本の冤罪』より)
>>194 問題の写真を「捏造写真」と言い切ってしまう論理もよく解りますよ。
まず、本物か偽物か正体不明の写真が「これは本物です」と偽って南京事件本で紹介された。
偽って紹介した人間は「嘘つき」です。
そうすると、写真自体も「嘘の写真(捏造写真)」というそしりを免れられない。
何しろ、先に「これが「本物の(証拠)写真」です」という虚偽申告をしたのは中共が唱える虐殺説を支持する連中なのだから。
「本物の(証拠)写真」という虚偽申告を否定する言葉が「嘘の写真(捏造写真)」になるのは仕方ないことだし、また当然の帰結とも言えます。
つまり、問題の写真を「捏造写真だ」と言う人は、写真が出て来たいきさつを含めたところでそう言っていることに対して
鉄筋君はそういったいきさつと写真を分離して、写真の性質のみに注目して「捏造と断定するには決め手に欠ける」と言っているわけですな。
ただ、そういう連中と議論する場合は、見解の相違で割れてしまうような細かい言葉の定義を
どちらかがどちらかに合わせる必要があります。
なぜならば、そうしないと議論がちっとも前に進まないから。
ということで、便宜上この場では俺は鉄筋君の論法に合わせているが
問題の写真は「捏造写真」と呼ばれても仕方のないものだとも考えています。
誤爆?
202 :
ニッポンの夜明け :2006/09/05(火) 19:58:58 ID:VHp6YM8V
月刊誌【正論】10月号 盧溝橋【当事者】が重大証言! 日本軍からの発砲はあり得なかった。
203 :
名無し三等兵 :2006/09/05(火) 20:16:01 ID:jydSoA8L
南京大虐殺はあったと当事者の重大証言!
昭和12年11月30日の記事 「(常州にて廿九日、浅海、光本、安田特派員発)常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、 常州間をたった三日間で突破した。まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に『百人斬り競争』を企てた二名の青年将校がある。無錫出発後、 早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果したといふ。一人は高山部隊向井敏明少尉(二六)="山口県玖珂郡神代村出身=。 一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)==鹿児島県肝属郡田代村出身=。銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀『関の孫六』を撫でれば、 野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。 無錫進発後、向井少尉は鉄道線路廿六・七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり、 一旦二人は別れ、出発の翌朝、野田少尉は無錫を距る八キロの無錫部落で敵トーチカに突進し、四名の敵を斬って先陣、 名乗りをあげ、これを聞いた向井少尉は奮然起ってその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた。 その後、野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、 向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り、記者が駅に行った時、この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかった。 向井少尉 この分だと、南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう。野田の敗けだ。俺の刀は五十六人斬って刃こぼれが、たった一つしかないぞ。 野田少尉 僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます。僕は○官をやってゐるので成績があがらないが、丹陽までには大記録にしてみせるぞ
205 :
暫編第一軍 :2006/09/05(火) 21:10:24 ID:???
>>155 イナゾウ中佐殿
いえいえ、良い着眼点だと思いますよ。
完備した資料など滅多にありませんから、そういう行間を読む能力が必要とされると思います。
私も勇み足があるかも知れませんのでその都度ご指摘ください
>南京大虐殺
これは言葉の定義から始めなければならないですから、やはり華麗にスルーですね。
別スレでやるというのなら意味もあるのかもしれませんが、ここでは時間を浪費してしまうでしょう。
206 :
名無し三等兵 :2006/09/05(火) 21:10:52 ID:rmr/VDIR
やめえ やめえ 荒らしのキチガイ!!!! よそでやれや!!! イナゾウ中佐のスレを汚すな ボケ!!!
1938年1月8日――今、日本兵は安全地帯における我々の努力を信用せぬよう試みております。 かれらは貧賤な支那人を脅迫して、我々が云った事を否定させようとします。支那人のあるものは容易に掠奪・ 強姦及び焼打ちなどは支那軍がやったので、日本軍がやったのではないと立証すらいたします。 我々は今、狂人や馬鹿者を相手にしているのだと時々考えます。また、我々外国人は全部生きて この厳しい試練を経たのだと不思議と思います。 (洞富雄編『南京大残虐事件資料集(1)極東国際軍事裁判関係資料編』青木書店、1985年、125頁)
208 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/05(火) 22:24:01 ID:ZpUoyoYX
>>192 の続き。
グダグダと長いこと話してきましたが、「中国軍の指揮権」を巡る蒋介石と
スティルウェルの争いは1944年に頂点に達します。というよりも、一方的に
『蒋介石が苦境に立たされた』というのが正解ですが……。
そして、これこそが冒頭の
>>140 で述べました、
>>キーワードは、『大陸打通作戦』と『連合軍の北部ビルマ反攻』(第2次ビルマ戦役)
なのです。当時、ビルマ方面には『X部隊』(中国軍・インド遠征軍)と『Y部隊』
(中国軍・雲南遠征軍)と呼ばれる米式装備(訓練)を含む部隊がありました。この
部隊の運用をめぐって、蒋介石とスティルウェルの意見が衝突します。
もちろん蒋介石の方針は『温存』であり、スティルウェルは『積極運用』です。
209 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/05(火) 22:39:54 ID:ZpUoyoYX
もちろん、スティルウェルは『第一次ビルマ戦役』の復讐を果たしたいという 個人的な思いはありましたが、インドに位置する「X部隊」と雲南に位置する 「Y部隊」を北部ビルマで合流させ、日本軍を挟撃するという方針は純軍事的に 見ても理に叶ったものです。 またスティルウェルは、膨大な資金と物資を投入して作られた『新軍』の成果を 本国に示さなければなりません。その点からも焦っています。その頃の日記には、 「(ビルマ)戦役に関心を持っているものは誰もいやしない」(1944年3月28日) 「ハーン少将(スティルウェルの重慶における参謀長)から無電。『我々にY部隊を 装備・訓練させておいて出撃できないとは信じられない――」(1944年4月10日) 時期的には日本の「インパール作戦」(1944年3月8日開始)の真っ最中であり、 「大陸打通作戦」が始まる直前であることに注意しなければなりません。
210 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/05(火) 22:54:56 ID:ZpUoyoYX
結局、スティルウェルの思惑どおり、X部隊もY部隊も北部ビルマに 投入されて日本軍は総崩れとなる訳ですが、『新軍』の使用に反対して いた「蒋介石の論理」とはどのようなものだったのでしょうか? それは「北部ビルマ反攻」に失敗して1942年のような大惨敗を喫すれば、 昆明の防衛が不可能になるのを怖れたからです。つまり空輸の拠点を すべて失い、外国との路線は今度こそ断絶します。 国内の動揺は計り知れず、アメリカも中国を頼りにならずと侮って 決して援助に力を入れようとしなくなる、イギリスやソ連は言うまでも ありません。たとえ北部ビルマが奪還できなくて『ビルマ・ルート』(陸路) が開通できなかったとしても、蒋介石は最悪の事態をこそ怖れた訳です。 蒋の日記を見ると、さらに生々しいでしょう。要約すると以下の通り。
211 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/05(火) 23:07:30 ID:ZpUoyoYX
「雲南・インド派遣軍、各部隊の人数は、この1年でやっと半分、いまだに 不足分が補えない。もしも再び失敗したら、以後兵を補充するのは前より ずっと難しくなる。 太平洋決戦の時期は、最長でも2年以内だ。その時が来て、もしも中国の 兵が定員に満たず、弱小部隊で決戦に参加するのなら、我が国の地位は無い に等しい! ゆえに現存のわずかの兵力を、決して再び浪費したくない。それなのにイギリスに 欺かれたことで、我が国は巻き返し不可能になった」(1943年12月17日) 蒋介石は「指揮権」のままならない、いわば諸刃の剣でもある『新軍』の 建設に積極的ではありませんでしたが(だから空軍に援助物資を注ぎ込んだ)、 それでも新軍は『虎の子』、手元で一枚きりの『ジャック』に変わりありません。 饅頭を壁に叩きつけるように「新軍」を使い潰すのは止めてくれ、という話ですw。
212 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/05(火) 23:30:07 ID:ZpUoyoYX
「大陸打通作戦」と「北部ビルマ反攻(第二次ビルマ戦役)」――。 1944年のほぼ同時期に行なわれた『東西二大戦場』は、史実のとおり 東で大敗して、西で大勝利を収めます。言うまでもなく、東の戦場の 責任者は蒋介石であり、西はスティルウェルです。 とうに洛陽が陥落して「京漢線」が打通し、大陸打通作戦の後半戦が 始まり、衡陽が日本軍によって包囲されたころ(1944年6月28日)――。 西ではインパール作戦が破滅を迎えていました(1944年7月5日、ビルマ 方面軍の第15軍に対して作戦中止命令)。スティルウェルの大勝利です。 蒋介石にとって更なる追い討ちは、ルーズベルトから一通の電報が送られて 来たことです。それこそが『中国版・ハルノート』とでも言うべきもので、 アメリカからの蒋介石に対する「最後通牒」に近いものでした。
213 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/05(火) 23:38:38 ID:ZpUoyoYX
盧溝橋事件から7周年にあたる1944年7月7日、狙いすましたかのように スティルウェルの助手であるフェリスが、蒋介石に面会を請い、ルーズ ベルトからの電報を手渡します。 そこには1941年11月27日、日本が米国から手渡された「ハルノート」と 同じぐらいの衝撃を蒋介石に与える文章が書かれていました。非常に長く なりますが、要約すると以下の通り。
214 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/05(火) 23:45:09 ID:ZpUoyoYX
「日本軍が華中に侵攻して以来、もたらされた極めて深刻な情勢は、 貴政府にとっての脅威であるばかりでなく、アメリカの中国における 基盤にも影響を与えるものである。 現在の危機的状況においては、中共部隊を含む、中国における全ての 連合軍の軍事的資源を整合する権限を1個人に委譲することが必要と 私は考える。 私は貴下のスティルウェル将軍に対する感情を、完全に理解していると 思うものである。それにも関わらず、現在の中国と我々の日本征服の 総合的計画とを、脅かしている大難を乗り切る能力と決意を持っている 人物を私は他に知らない。
215 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/05(火) 23:51:56 ID:ZpUoyoYX
私はスティルウェルを『陸軍大将』の階級に進めようとしており、貴下に 対し、彼をビルマから呼び戻し、貴下の直属とし、米中両軍の全部隊の 指揮を取らせ、敵の前進を阻止するために必要な作戦を整合し、指導する 責任と権限を彼に付与することを、もっとも緊急に考慮されんことを要請する。 思うに、中国のケースはあまりにも絶望的であり、そのため根本的な、実施の よろしきを得た対策が直ちに実行されないならば、我々共同の大儀は重大な 後退を余儀なくされるであろう」(電文の日時はワシントン時間の7月6日)
216 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/06(水) 00:03:45 ID:F6FpCkkK
長くなりましたので、要点をまとめると以下の通り。 ●スティルウェルが中国の全ての軍隊を指揮する ●全ての援助物資(の配分)がスティルウェルの支配下に置かれる ●共産党の軍隊も上記に含まれる 蒋介石は、頭をハンマーで殴られたかの如く『目の前が真っ暗』に なったでしょう。絶望です。 しかもルーズベルトからです。ソ連のスターリンや英国のチャーチルは 昔から『人でなし』と蒋介石は考えていましたが、ルーズベルトだけは 唯一尊敬に値する人物と見なし、そして頼りにもしていました。 スティルウェルが中共の部隊も含めて全軍を指揮し、援助物資の 配分も思うがまま。国民政府は、これにてオシマイ――w。蒋の 選択肢は、「拒否・受け入れ・引き伸ばし」以外にありません。
217 :
:2006/09/06(水) 00:34:18 ID:???
南京事件は、完全スルーでお願いします。
219 :
名無し三等兵 :2006/09/06(水) 00:36:59 ID:QWsfMqXm
175から179!おまいらゴー宣読め
220 :
:2006/09/06(水) 00:49:49 ID:???
221 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/06(水) 23:11:15 ID:lH9XCk2N
>>216 の続き。
1941年12月8日、日本が真珠湾を奇襲攻撃して「太平洋戦争」が勃発。アメリカの
参戦により『対日戦の勝利』が転がり込んで来ることが確定したその日、蒋介石は
日記で以下のように書いています。
「抗戦の政策の成功はここに極まった。ものごとは極点に達すれば必ず
逆の方向に転化する。恐れ警戒しないでいられようか?」(1941年12月8日)
また、カイロ会談(1943年11月)で日本の「無条件降伏」の要求と、対日戦後、
中国に満洲・台湾・澎湖諸島の返還が約束されるという想像以上の収穫を得た時も
「昨日、カイロ会談の宣言が発表されて以降、内外の世論は中国が外交史上
空前の勝利を収めたとして、賞賛しない者はいない。だが我が心には憂いと
恐れがあるのみである」(1943年12月4日)
222 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/06(水) 23:48:59 ID:lH9XCk2N
ものごとが極限まで成功した後には、必ず『反動』がやって来ます。
真珠湾攻撃以降、今まで単独で日本と戦ってきた事により蓄えられてきた
各国からの『中国への好意』は全て吐き出され、更に大きな借りを作る
結果となります。
これ以降は「他力本願」によらざるを得なくなり、蒋介石の一挙一動は
外部からの批判や叱責に晒されます。1937年から1941年まで単独で戦い
抜いた『抗日の英雄』から、次第に人から『軽んじられる存在』へと劣化
していくのでした。
そしてカイロ会談では、イギリスの強硬な要請によって「北部ビルマ反攻」
が不可避となります。蒋介石の腹積もりでは1944年の秋(雨季明け)まで
断固拒否するはずだったのです。ゆえに、
>>211 でこう書いている訳です。
>>ゆえに現存のわずかの兵力を、決して再び浪費したくない。それなのに
>>イギリスに欺かれたことで、我が国は巻き返し不可能になった
223 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/07(木) 00:05:48 ID:MVXQy3mP
>>盧溝橋事件から7周年にあたる1944年7月7日、狙いすましたかのように
>>スティルウェルの助手であるフェリスが、蒋介石に面会を請い、ルーズ
>>ベルトからの電報を手渡します。
>>213 以降の成り行きが「出来過ぎている」と感じた人は勘がよろしい。
蒋介石への「最後通牒」を裏で働きかけたのはスティルウェルに他なりません。
実際にルーズベルトから蒋介石に宛てた電報は、米陸軍省が起草したものであり、
大統領は一字も改めないで発送に回されています。
マーシャル(参謀総長)はスティルウェルを終始擁護しており、マーシャルに
スティルが送った電文には以下のようなものが残されています。
「もし大統領が蒋委員長に厳しいメッセージを送り、中国に対する我々の投資と
関心を指摘し、中国が陸軍を軽視した報いとしての現在の危機を挙げ、非常の
場合には非常の対策が必要であることを強調するならば、彼は私に指揮権を
与えざるを得なくなるかもしれない。中国の軍隊は私を受け入れると思う」
224 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/07(木) 00:16:24 ID:MVXQy3mP
またスティルウェルの日記には、以下のように書かれています。
「ルーズベルトから蒋介石に、ジョージ・マーシャルから私に電文あり。
彼らは蒋介石に向かって、私のことを褒め上げていた(
>>214-215 )。
ルーズベルトは蒋介石に、采配を振る完全な権限を私に与えるように
言った。私は『大将』に昇進する」(1944年7月8日)
そして、もっと露骨なのは「最後通牒」が送られる直前の日記でしょう。
「中国の危機についてジョージ・マーシャルに無電を打つ。
ミイトキーナ異常なし。 雨」(1944年7月3日)
中国軍の指揮権をめぐる暗闘は、対日戦をダシにして行なわれていますw。
225 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/07(木) 22:49:46 ID:9+S+naBy
1944年後半と言えば太平洋戦争も終盤ですが、蒋介石の『抗日戦』のなかで 最も苦しかった時期と言えるでしょう。再び蒋の日記をひも解けば、 「敵軍(日本軍)に深く侵入されているのは、憂慮するほどの事でもないが、 連合軍友好国による圧迫は、まことに忍び難い。 抗戦の情勢ここに至って、アメリカからこのような脅威を受けようとは、全く 夢想だにしない事であった。相手は余にもはや躊躇するひまを与えず、強硬に スティルウェルを『中国戦区の総司令官』として我が国を統治させようとしている。 もしも余がそれに従わなければ、援助を打ち切るか、あるいは空軍および中国 派遣軍の司令部を撤退させて余を孤立させるだけでなく、敵(日本軍)を深く 侵入させるだろう。しかし余は独立自主を保ち得ると自ら信じている。中国は 決してアメリカに屈服しない!」(1944年7月16日)
アイシャルリターン!
227 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/07(木) 23:14:51 ID:9+S+naBy
日本は『日独伊三国同盟』を結んでいましたが、一体どれだけ実際的な 連携が取れていたかというと甚だ疑問です。事実上、日本は孤立無援で 太平洋戦争を戦い抜いたと言って良いでしょう。 中国は形ばかりの『四強の中の一国』として連合国から扱われていましたが、 アメリカを筆頭とする同盟国から「侮られ、蔑まれ、見捨てられ」そうになる 危機にずっとありました(ソ連やイギリスからは言うまでも無いw)。お互いの 労力とコストと「精神的苦痛」を考えれば、日本は孤立無援とは言っても、その ような心労とは無縁で戦うことが出来て、むしろ幸せだったかもしれません。 さて蒋介石です。『東西二大戦場』でスティルウェルが赫々たる大勝利を 北部ビルマ(西)にもたらした以上、蒋も『東の戦場』で一定の戦果を 何としてでも獲得しなければなりません。であればこそ、中国軍の指揮権を 争うスティルウェルにも、2人の「生殺与奪の権利」を握るワシントンの ルーズベルトにも大きな影響――具体的な発言権を得ることが出来るのです。
228 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/07(木) 23:43:26 ID:9+S+naBy
そして『東の戦場』とは「大陸打通作戦の攻坊」であり、 具体的には「衡陽攻略戦」(1944年6月28日〜8月8日)です。 衡陽は、桂林や柳州など広西省(現在の広西チワン族自治区)を つなぐ鉄道と、広東に通じる鉄道を結ぶ、いわば「交通の要衝」です。 軍事的・地理的な重要性もさることながら、「中国の軍隊には果たして 適切な指導者が欠けているのか?」についてワシントンと争っている際に おいては、衡陽をめぐる勝敗が『外交』に致命的な影響を与えます。 支那事変初頭の『上海攻略戦』(1937年)を蒋介石は、「外国に見せる ための戦いだ」とうそぶきました。今回の大陸打通作戦のクライマックス、 衡陽をめぐる決戦は、蒋介石の意図するところとは全く関係無く、強制的に 上海攻略戦と同様の「外国に見せる戦い」となったのです。
229 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/08(金) 00:00:35 ID:9+S+naBy
そして蒋介石は、精神的に追い詰められてきます。日本軍による 『衡陽の攻囲』を解くために増援を検討しているところですが、 「軍事上の心配事は危機というほどのことはない。しかし対米外交の劣勢は、 最大の精神的打撃である。だが、もしも天のご加護が頂けて、軍事上の 勝利を獲得することができれば、外交上の危機も乗り切ることができる。 すべては自らの尽力に懸かっているのである」(1944年7月20日) もはや蒋の敵は、目の前の日本軍なのか?、最大の同盟国であるはずの 米国なのか?、分からなくなってきます。そして「天帝」という言葉が 出てきますが、ますます神に頼むところがエスカレートし続け、 「主よ。何とぞ私に『衡陽の戦役』における勝利をお与えください。南岳山頂に 大きな鉄の十字架を建立して、主の恩に報いますから」(1944年7月25日) ときます。全抗戦期間を通じて、これほど切羽詰った表現は他にありません。
230 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/08(金) 00:22:00 ID:HoRjp39/
『衡陽攻略戦』の内容自体は、話がこれ以上長くなってもアレなのでw 省略します。およそ40日間の戦闘は、大陸打通作戦の中でも 最大の激戦だったことは間違いないでしょう。 さて神に祈った蒋介石ですが、当然のことながら衡陽は陥落しますw。 最後は守備部隊である「第10軍長」の方先覚らの投降によって幕を 閉じますが、方先覚は蒋介石が校長を務めた「黄埔軍官学校」の 第3期生にあたります。 支那側の「第10軍」は「第3師」「第190師」「予備第10師」 「臨時編制の第55師」の4個師でしたが、毎度のごとく定員割れが 激しくw、実質は約2万人の兵力でした。 支那側の記述を見ると「ほぼ全滅状態」ですが、日本側の戦果を見ると 「遺棄死体3100人、捕虜1万3300人(方先覚・軍長含む)」と 一見大したことが無さそうにも見えます。
231 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/08(金) 00:36:39 ID:HoRjp39/
しかし、2万人から上記の1万6400人を引いた残りの4千人弱には、 死体が発見されない行方不明者(逃亡も含む)や、既に戦死して埋葬 された支那兵も多くいるでしょう。また負傷兵が戦死者の3倍はいる だろうと見積もると、やはり全滅状態だったと言えます。 日本側の損害ですが、残念ながら「衡陽戦」単独の数字は不詳とされて 残っておりませんw。参考として第10軍の衡陽戦末期(7月20日)まで の個別の数字(一部の師団のみ)を挙げますと、以下の通りです。 ●第68師団=戦死753人、戦傷1415人、戦病878人の計3045人 (参加人員の25.9パーセント) ●第116師団=戦死833人、戦傷1615人、戦病914人の計3411人 (参加人員の18.6パーセント) *大陸打通作戦・後半戦の総称である『湘桂作戦』開始からの数字ですから、 「衡陽攻略戦」だけのものでは無いことを重ねて注意!
232 :
だつお :2006/09/08(金) 07:47:38 ID:IDk+bNKO
>スティルウェルの日記や手紙などを見ると、その『差別的』表現が多い >ことに驚かされます。蒋介石は『ピーナッツ』などと揶揄されていますw。 チンピラゴロツキをチンピラゴロツキと、事実を事実の通りに表現しただけ。 国民党内部からも汪精衛のような人物が現われて国民党の腐敗を糾弾してる。 反共だからといって貧富格差や汚職が正当化されるわけでは決してない。 まず近代工業国として経済成長するためには、農地改革は避けて通れない。 日本でさえも大土地所有制の解体なしに工業化はありえなかったはず。
233 :
酷使様2 :2006/09/08(金) 18:38:08 ID:???
シナ政府発表の死傷者数が1000万人を突破したのは1950年代か、1960年代だね。 1940年代のシナ政府はまだつつましい方で、死傷者発表も1948年の400万人が最多。 2006年現在だと、死傷者は5000万人で、シナ本土から悪辣な日本兵が奪い去った黄金の量は 課のローマ帝国をもしのぐそうで。
しかもあれだ、1000万人も殺したら死体を埋める場所がない ちなみに逃げ惑う民衆を1人殺すのに必要な弾薬は6発とされる
南京大虐殺で活躍した日本兵が居れば世界制服もできたと思うんだけど、なんでやらなかったんだろ。戦争に飽きたのかね?
VIPからすら逃亡してコピペか…。 惨めだね。 泣きたくなる位惨めだ。
おっここ良スレじゃんw
バカだね。1個歩兵師団が携行する小銃弾は数百万発だ。 1個軍団が1作戦で数回再補給すれば6000万発の小銃弾なんて簡単だ。 1000万人殺す弾が無い?寝ぼけてるんじゃねーよ池沼。 さあ子供は帰った帰ったw
第一次大戦以降は一人の敵兵を倒すのに数百万発撃ってる計算になるんだが。
満州医科大学予科 草また草に 草また草に露しげき 矢島憲志/園山民平 東亜同文書院 長江の水 長江の水天をうち 大矢信彦/(不詳) 哈爾学院 松花の流れ 松花の流れ手に汲みて 中島国雄/(不詳)
>239 いいや、親愛なる博識な>234は”逃げ惑う民衆を1人殺すのに必要な弾薬は6発”と言っている。 >234説に従えば1000万殺すのに6000万発で充分だ。
242 :
だつお :2006/09/08(金) 23:12:08 ID:IDk+bNKO
>また有名な言葉ですが、スティルウェルは日記の中で「中国の3億 >9990万人は助けるに値する」と述べています(1943年1月30日)。 >要するに、残りの10万人は全員が汚職官吏であり、よって「中国の >人民は良いが、政府の人間は良くない」と来る訳です。 チンピラゴロツキに支配されるのもチンピラゴロツキ。 僅か10万人の政府支配層チンピラゴロツキと、そのチンピラゴロツキ の下でコキ使われる3億 9990万人のチンピラゴロツキ。 よって中国人の全員がチンピラゴロツキ。 チンピラゴロツキが沢山沸いてくる場所を指して「中国」、 そのひとつひとつを指して「中国人」とよぶ。
243 :
だつお :2006/09/08(金) 23:25:38 ID:IDk+bNKO
>スティルウェルの日記や手紙などを見ると、その『差別的』表現が多い >ことに驚かされます。蒋介石は『ピーナッツ』などと揶揄されていますw。 差別をしているのではなく、チンピラゴロツキをチンピラゴロツキと、 事実を事実のとおりに表現しただけ。皇軍が大陸打通作戦で南北縦貫 3000キロを進軍できたのは、中国人がチンピラゴロツキだったから。 相手がチンピラゴロツキでない限り、97式中戦車チハで敵地をしかも 米軍飛行場を蹂躙しつつ3000キロ進撃するなんて不可能だ。 それとも皇軍の四式戦疾風はMe262がオモチャにみえるくらいにB29 をバリバリ撃墜して、また皇軍はシュバインフルト防空が児戯に等しく なるくらいに精巧な防空システムを完成させてたとでも言いたいのか? 97式中戦車チハは、中国のチンピラゴロツキ専門の殺戮マシーン としての運用以外に、どんな役割が期待できたんだ?
244 :
だつお :2006/09/08(金) 23:43:19 ID:IDk+bNKO
31回の空中戦で、フライングタイガーの志願者は5機ないし20機の
P-40型戦闘機をもって217機の敵機を撃墜し、みずからの損失はわずか
14機だった。それ以後、「中国空軍所属の中国援助アメリカ志願航空隊」
はフライングタイガーのマークを使い始め、そのサメの頭の形をした
戦闘機も世に名を知られるようになり、「フライングタイガー」という
ニックネームも知られるようになった。抗日戦争が終わるまでに、
フライングタイガーは敵機を2600機撃墜し、積載量223万トン相当の船舶、
軍艦44隻、100トン以下の内陸河川の船1万3000隻を撃沈するかあるいは
大破させた。また日本軍将兵6万6700人を撃ち殺した。フライングタイガー
の隊員のほとんどは中国政府から賞を授与された。10余人の飛行士は
アメリカ、イギリス政府から飛行十字勲章を授与された。
http://www.china.org.cn/japanese/170095.htm 対中援助に寄与したアメリカの「フライングタイガー」
>>239 >第一次大戦以降は一人の敵兵を倒すのに数百万発
マジで?
246 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/09(土) 00:31:48 ID:4OHWcy6V
色々言いたいことはありますが、ここで話が脱線すると二度と戻って来れない
ので最後まで続けますw。
>>231 の続き。とりあえず、だつお氏の書き込みは
いつも同じ話ばかりで『面白くない』ので「使徒」から外します。
衡陽攻略戦の最中に、蒋介石がルーズベルトから「中国軍の指揮権をスティル
ウェルへ渡すように」という電報を受け取っている事に注意して下さい。
そして当然の事ですが、切羽詰った蒋介石は、衡陽・守備部隊の方先覚(第10軍長)
に無線でこと細かく指示を出しています。衡陽の防衛から、日本軍の攻囲突破の試み、
増援部隊の見通しまで、衡陽防衛戦は事実上、蒋介石が指揮していたと言っても過言
ではないでしょう。
しかし、ここで喜劇(悲劇)が起こります。蒋介石がやたらに無線で指示するため
日本軍によって傍受されて解読、作戦内容の相当程度が露呈しますw。
247 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/09(土) 00:54:45 ID:4OHWcy6V
方先覚は1944年7月18日、衡陽の守備部隊の兵がほとんどが死傷して 今は軍佐(軍医・主計のような将校相当官)や雑役が戦っていると 蒋介石に無線で報告しています。 蒋は『戦死傷者数』の大きさに驚きつつも、「いかに兵力が不足しようとも 数個営(大隊)を編制して、日本軍の攻囲を解くために出撃させよ」と再度 無線で方先覚に指示します。なぜなら衡陽の救援におもむいた第62軍が 衡陽の南西7キロ、同じく第79軍が北西8キロにまで近付いていたからです (1944年7月20日)。 あと1日、死力を尽くして東に5キロも進めば、衡陽からの先遣隊と合流して 日本軍の攻囲が解けるだろうという見通しでした。 しかし方先覚はその直後、衡陽から出撃した特務営(大隊)が救援の62軍に 向かう途中に、日本軍の伏兵に遭って全滅したと報告してきたのでした。
248 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/09(土) 01:11:49 ID:4OHWcy6V
上記の無電が日本軍によって傍受、解読されていたという断定は できません。しかしこれ以降の日付ですが、1944年7月23日に 蒋介石が作戦を指揮した「無線の電文」8本の内容を日本軍は 完全に把握していました。 作戦内容ばかりか、各部隊の「攻撃目標・進行方向」についてもです。 7月24日には、日本の第11軍司令部から各部隊に通告されています。 また衡陽からの特務営(大隊)ばかりか、救援に出向いた支那側の62軍や 79軍も、途中で進行ルートを変更したにも関わらず、日本軍に至るところで 『両翼』から挟撃を受けて蹴散らされます。情報がダダ漏れだった訳です。 蒋介石は普段、「無線は機密を保つことが出来ない」と部下に対して厳しく 注意していましたが、この外交的にも『致命的な戦場』で自身が誤りを犯す とは皮肉としか言いようがありません。蒋に限った事ではありませんが 自分たちも「クソにまみれる」時は、こうしたものです。くわばらくわばら。
249 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/09(土) 01:35:17 ID:4OHWcy6V
こうなってくると、蒋介石が衡陽に「無線」で指示を飛ばすのは百害 あって一利無しですw。1944年7月27日、蒋介石は自身で筆を取って 方先覚に半ば「死をもって国に報いる」よう電文を送っています。 「方軍長、衡陽を守る将兵たちの困苦と犠牲の精神を、余は深く理解して いる。今は部隊を率いて死守することを決意し、援軍を待つのみであろう。 援軍を待ち望む君よりもっと切実な気持ちで、余は増援部隊に急ぎ進軍する よう督促している。君はきっとこの気持ちを分かってくれるだろう。 これ以降、情報を敵に漏らさないために、援軍の要求と危機的状態については 止むを得ない状況でなければ、詳しい報告は打電せぬよう。余は必ず君と将兵 全員のために、責任を持って全力で増援し救済するから安心するように。中正記す」 上記から分かるとおり、蒋は方先覚に増援を要請することを禁じてしまいましたw。 さらに8月2日の衡陽陥落直前には、以下のような無電を送っています。情報漏れの 心配はどこに行ったんだ?w 長くなりますが、衡陽戦の深刻さが理解できるでしょう。
250 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/09(土) 01:46:41 ID:4OHWcy6V
「余は衡陽を守る将兵の犠牲と苦痛を思い、迅速に援軍を送って早期に 攻囲を解くための策について考え、心身ともに疲れ果て、眠るときさえ それを忘れてはいない。 だが、常ならぬ事業を成し遂げるためには、必ず常ならぬ鍛錬を経ねば ならず、その上必ず常ならぬ魔力が存在してその妨げとなり、当人の自信と 決意がしっかりと固まっているかどうかを試すものだ。 このたびの衡陽の攻坊には、まことに国家の存亡が懸かっており、一般の 勝敗とはまったく比較にならない。当然予想もできないような危険と犠牲を 経なければならない。このような存亡の大事には自ら天命がある。 我々は、ことが成就しなくとも、正義のために犠牲となり、死をもって国に 報いる決心でそれに立ち向かわなければならない。何者をも恐れなければ、 戦勝という魔力が危機を突破させ、最終的な勝利の偉業を成し遂げさせるのだ」
251 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/09(土) 02:00:33 ID:4OHWcy6V
「神は必ず、我が衡陽防衛軍に勝利と栄光をお導き下さるであろう。 第二次の増援部隊は、今朝予定通り、それぞれ三塘、鶏窩山、水口山、 張家嶺、七里山の各戦線に到達した。余は必ず空軍に援護させてその 猛進を促すつもりだ」 日本軍による衡陽の攻囲が始まってから1ヵ月以上。防衛する第10軍は 8割が死傷したとされ、息も絶え絶えの状態です。もはや増援部隊についての 情報漏れもクソも関係なく、守備部隊が日本軍に降伏してしまわないように 希望を繋がせるのに精一杯なのでしょう。 この電文が打たれたのが上記の通り1944年8月2日です。翌8月3日には 日本側の増援・第58師団も加わり、衡陽に第3次総攻撃が開始されます。
ちなみに衡陽の陥落は、先に書いたとおり1944年8月8日です。最後の日が 分かっていた方が、理解が容易でしょうから。
国民政府軍がボロボロになって衝陽が落ち、 昆明や重慶が危機に陥って、ここでやっとルーズベルトの方針が大きく変わってくるのですね。 でもルーズベルトがしばらくして死んでるんですよね。
>>246 >>だつお氏の書き込みはいつも同じ話ばかりで『面白くない』ので
>>「使徒」から外します。
自分でも少し横暴かと思いましたので取り消します。しかし、コピペ類に
価値を認めないのは変わりません。
なぜなら、必死こいて書いている自分がアホらしくなるからですw。これでも
同じ話は二度しないように気を遣っています(違う切り口は別として)。
255 :
だつお :2006/09/09(土) 08:19:19 ID:UDNwR25O
>だつお氏の書き込みはいつも同じ話ばかりで『面白くない』ので いやその。中国人はチンピラゴロツキ云々ってのは無視でいいからさ、 打通作戦の制空権問題についてはどうお考えなのか、イナゾウ氏の見解を お聞きしたい。自分はよく戦闘機スレにも出没して、それなりの議論は しているつもりであるが。 これについては、たとえ数年遅れのコピーでも一通りの防空システム を開発運用できた日本と、最新式のツールをレンドリースされてもまとも に運用できない中国との、工業技術レベルの差であったと思うがどうか。 (上でもイナゾウ氏は皇軍による中国軍の無線暗号解読を取り上げてるが) 米中側は皇軍とちがって空地の連携プレーができない状態だったし。 (これも上でイナゾウ氏が指摘してる)
256 :
だつお :2006/09/09(土) 10:03:41 ID:UDNwR25O
>コピペ類に価値を認めないのは変わりません。
最新式のツールを供給されてもダメだった中国の工業水準を、
デッドコピーでもまともに運用した皇軍と比較して見るためのコピペ。
白 中国軍はもともと蒋介石の軍隊なんですよ。シナ事変から
終戦まで蒋介石軍と日本のシナ派遣軍が戦ったわけですが、雑軍
も含めて最小限度三百万の蒋介石軍があった。毛沢東の八路軍は
小さいんですよ。砲兵もなくてね。
それが国共内戦で蒋介石が敗れて毛沢東の軍隊になった。
彼らは最小限度十年のプロなんだ。しかも三十個師団ぐらいは
米軍の装備をもっていた。もちろん日本軍のろ獲品もあるし、
蒋介石がつくった兵器もある。蒋介石が台湾に逃げて、
これが中国軍になった。
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2000/ronbun/09-r5.html 韓国将軍が五十年後に明かす朝鮮戦争の真実
257 :
だつお :2006/09/09(土) 10:07:48 ID:UDNwR25O
またコピペですまんが、皇軍の防空システムも米軍公刊戦史からは
それなりの評価を受けてるぞ。いや皇軍兵器そのものがコピペばっか。
補給問題と航空機の事故は未だ戦力の足を引っ張り続けた。逆に、
日本側の防御努力が効果を上げつつあった。11月21日、大村攻撃では
6機のB-29が日本機により撃墜された。12月7日、奉天(訳注:今日の瀋陽)
の満州航空機会社空襲での損失率はそれとほぼ同じであった。事故による、
敵の要撃による、そして成都前進基地への日本軍の空からの攻撃による
B-29の損失はもはや見過ごし得ず、1944年の終りには147機に達した。
1944年の終りまでに、成都の基地から出撃して日本を攻撃するB-29作戦
は人員と資材の面で非常に高価につくので、中止すべきであるということ
が明らかになった。1944年12月、統合参謀本部はマッターホルン作戦を
中止し、第58爆撃団のB-29は中部太平洋のマリアナに新しく確保した
基地に移動させることに決めた。
1945年1月15日、台湾に対して行われたのが支那からの最後の攻撃になった。
第58爆撃団はインドの基地に引き揚げ、2月にマリアナに移動展開した。
マッターホルン作戦では49回の作戦任務を実施し、航空機の出動数は3,058
ソーテイであったが投下した爆弾はただの11,477トンであった。この作戦
に膨大な努力を傾けたわりに、日本の目標に与えた損害は僅かであった。
http://www.ne.jp/asahi/hayashi/love/b29.htm
蒋介石の軍隊っていったって、所詮は食えなくなった賊の集まり。 だから現場は皇軍とは違い雑軍。蒋介石に下った軍閥やら鮮卑どもが郷土で自前の自称軍官学校卒業して 司令官や師団長やってるのが実情。自分の財産と命が危なくなればトンズラする事が意の一番。 こんな有り様だから、蒋介石は新生活運動で近代化を図る事を考え、以下に訓示する。 「朝起きて冷水で顔を洗い、冷や飯をかき込み、突撃を開始する日本軍と、 まずお湯を沸かして顔を洗い、朝食を作り始める中国軍のどちらが強いかは、 言わずとも明らかである。日本軍を見習え」
259 :
えICBM :2006/09/09(土) 11:19:23 ID:???
>>255 >これについては、たとえ数年遅れのコピーでも一通りの防空システム
>を開発運用できた日本と、最新式のツールをレンドリースされてもまとも
>に運用できない中国との、工業技術レベルの差であったと思うがどうか。
大戦中、ドイツから必死こいてイ号で最新のディーゼルエンジンを輸送した。
しかし、どうやって作れば良いかわからなかった日独の工業レベルの差を彷彿とさせますな。
259 :名無し三等兵[sage] :06/09/09 11:21 ID:???
>>258 > 「朝起きて冷水で顔を洗い、冷や飯をかき込み、突撃を開始する日本軍と、
> まずお湯を沸かして顔を洗い、朝食を作り始める中国軍のどちらが強いかは、
> 言わずとも明らかである。日本軍を見習え」
−−この記述、面白い。ワロタ。
261 :
えICBM :2006/09/09(土) 11:30:36 ID:???
まあ、そんな国府軍を降伏に追い詰めれなかったのが皇軍の実体なのだが。 米国参戦以前の段階で重慶攻略をあきらめてるのが皇軍の実体なのだが。 戦争の勝敗は兵の資質でなく、大きな戦略にあるということだろう。 それは対米戦でも如実に現れている。
>>ICBM 何が目的か知らんが煽るなら他所でやってくれ
>>261 > まあ、そんな国府軍を降伏に追い詰めれなかったのが皇軍の実体なのだが。
> 米国参戦以前の段階で重慶攻略をあきらめてるのが皇軍の実体なのだが。
重慶は、山また山の天然の要害。重慶に逃げ込まれた時点で、穴熊が成立。
援蒋ルートが存在する限り、蒋介石はほぼ負けなしの状況。
日本軍は攻勢終末点を超えていた。
重慶を攻略できなかったのは、「蒋介石を相手にせず」と外交手段を放棄して
しまった政治の失敗。
>>ICBM が、煽りとは知らなかった。釣られた私が、悪うございました。
264 :
えICBM :2006/09/09(土) 12:19:48 ID:???
>>262 単純に同様の論法で切り替えしただけで、陳腐でありふれたレスだぞ。
お前はこのスレに何を求めているのだ?
265 :
えICBM :2006/09/09(土) 12:21:00 ID:???
が、だつおにマジスレをしてしまった点で私にミスがある、と言われればそのとおりと言わねばなるまい。 反省。
「だつお」にレスするのも「だつお」だけ
267 :
名無し三等兵 :2006/09/09(土) 17:01:08 ID:+HVEn6uQ
>>44 蒋介石日記読んでみたいんだけどアマゾンで見たらなかった
タイトルと出版社教えてくれ
268 :
だつお :2006/09/09(土) 20:43:35 ID:UDNwR25O
>援蒋ルートが存在する限り、蒋介石はほぼ負けなしの状況。 >日本軍は攻勢終末点を超えていた。 それで穴熊作戦に持ち込めるのだと思ったら実は大間違い。 日本軍が撤退してもそこは全て共産党の支配区になる。 皇軍の大陸打通作戦で都市部の経済基盤を徹底的に壊滅させられて、 ハイパーインフレ起こして轟沈してしまった。 ・・・と書いたが、実のところ蒋介石らの本当の目的は国土と住民 を棄てて金目のものを奪って国外逃亡することであって、抗日戦争が 共産主義がどうのこうのといったことには興味がなかったとも言える。 「抗日戦争」なるものは、チンピラゴロツキが景気づけでアジって みただけの、看板だけの空虚な叫び声にすぎなかったのだ!
269 :
だつお :2006/09/09(土) 20:47:46 ID:UDNwR25O
>そんな国府軍を降伏に追い詰めれなかったのが皇軍の実体
日本側が「先の戦争では申し訳なかった」といった内容のことを述べると、
ケ小平は発言をさえぎるようにして「われわれは日本軍をそんなに悪く思
っていませんよ」と切り出した。あっけにとられた一行を前にしたケ小平
の説明はこうだった。
「あの戦争が始まる前、われわれは井崗山(せいこうざん)から、
長征の途についた。延安にたどりついたときは気息奄々、靴もちびはて、
人数も2万人に減って、全滅寸前でした。ところが日中戦争が始まり、
われわれを包囲していた蒋介石軍は日本軍によって次第に南部に押され
ていく。袋のネズミだったわれわれはそれで息を付くことになり、
日本軍の後ろに回って、着々と工作をしていった。そして戦争終結時
には数百万の正規軍を擁する軍事勢力にのし上がった」
http://www.yorozubp.com/9806/980606.htm 日中戦争のおかげで全滅を免れた中国共産党−ケ小平語録
270 :
酷使さま :2006/09/09(土) 20:50:45 ID:???
271 :
えICBM :2006/09/09(土) 20:53:57 ID:???
>>269 それって、反共を掲げて中国に押入った日本に対する皮肉だろ?
あ、これ、マジスレじゃないよ、煽りだよ。
272 :
だつお :2006/09/09(土) 20:58:10 ID:UDNwR25O
>ドイツから必死こいてイ号で最新のディーゼルエンジンを輸送した。 >しかし、どうやって作れば良いかわからなかった日独の工業レベルの差 ワルタータービンは日本以外の国でも戦後使われた例が確認されないし、 ジェット機についてもアメリカ・ソ連ともMe262の形式を採用していない。 またドイツご自慢のダイムラーベンツ航空エンジンにしても戦後採用 された例はわずかしかない。朝鮮戦争もドイツ技術は出番なし。 (人工衛星スプートニクはドイツからの盗用なんて言いがかりはナシよ)
273 :
えICBM :2006/09/09(土) 21:01:41 ID:???
必死こいてドイツから最新エンジンを持って来てガラクタにする皇軍。 一方、余計なお世話でアメリカが持ってきたシステムを使う気が無くガラクタにした国府。 どっちがマヌケだ? あ、これ、マジスレじゃないよ、煽りだよ。
274 :
77 :2006/09/09(土) 21:27:58 ID:???
>>268 > それで穴熊作戦に持ち込めるのだと思ったら実は大間違い。
> 日本軍が撤退してもそこは全て共産党の支配区になる。
だつおさんにしては、この記述は、おおざっぱ過ぎるような。
日本軍が撤退した後、共産党が支配するのは、大戦中の
話だったら、北支限定の話では。
昭和20年8月15日以降なら、全支那で順次発生したと思うが。
275 :
だつお :2006/09/09(土) 21:40:59 ID:UDNwR25O
>だつおさんにしては、この記述は、おおざっぱ過ぎるような。 >日本軍が撤退した後、共産党が支配するのは、 いやその。史実では撤退ではなく更なる進軍で大陸打通3000キロ じゃなかったっけ? それだけ皇軍にボコにされた後で、抗日戦勝利だなんて国府軍が 重慶から出てきても、信頼を失って誰も相手にしないのは当たり前。 8年も失踪して家に帰って来なかった親父が、後でノコノコ出てきた ところでもうお呼びでないってのと同じ。
276 :
77 :2006/09/09(土) 22:30:18 ID:???
>>275 > それだけ皇軍にボコにされた後で、抗日戦勝利だなんて国府軍が
> 重慶から出てきても、信頼を失って誰も相手にしないのは当たり前。
> 8年も失踪して家に帰って来なかった親父が、後でノコノコ出てきた
> ところでもうお呼びでないってのと同じ。
だつおさんのおっしゃりたいこと、良く分かりました。
私は、だつおさんのファンなので、これからも、よろしく。
いいから蒋介石日記教えれ 買うから
蒋介石秘録ジャネーノ?
>>277 > いいから蒋介石日記教えれ
> 買うから
下記の日記に事を言っているのか。日本ではまだ未公刊のようだが。。。。
http://sakura4987.exblog.jp/3132806/ 2006年 04月 02日
◆蒋介石日記を初公開 米の大学 (産経 06・4・1)
【ワシントン=山本秀也】台湾で一九七五年に死去した故蒋介石元総統の日記の正式公開が、
三十一日(日本時間一日未明)、米カリフォルニア州のスタンフォード大学で始まる。
日記の原本はこれまで公開されておらず、日中戦争や戦後の台湾政治など二十世紀のアジア史研究への新たな史料として、
中国側を含めた関心が高まっている。
この日記は、軍閥割拠の一九一七年から死去直前の七五年までの分とされる。保管にあたった蒋介石の遺族が、
息子で元総統の蒋経国の日記とともに昨年、中国国民党史の研究実績が豊富な同大学に寄託。段階的な公開に向けて、
史料整理が進んでいた。
蒋介石の日記は、これまで生前の本人や国民党のチェックを経た部分的な記述の集成にとどまってきた。
このため、引用された日記の記述に欠落や食い違いがあるほか、未公開の部分が多く、公開に期待が集まっていた。
◆「雪恥」対日戦へ決意の文…蒋介石日記、米大で初公開
(読売 06・3・25)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060325it05.htm 毛沢東と並ぶ現代中国の指導者、蒋介石(1887〜1975)が長年にわたってつづった日記の原本が24日、当地のスタンフォード大フーバー研究所で、初公開された。
むかしサンケイから出てただろ。
アマゾンでもグーグルでも出てこない 本人の降臨を待つか
283 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/10(日) 00:31:40 ID:+ER/RFWy
>>255 >>いやその。中国人はチンピラゴロツキ云々ってのは無視でいいからさ、
>>打通作戦の制空権問題についてはどうお考えなのか、
正直、戦闘機とかの話になると自信がありませんw。下手したら、だつお氏に全く
敵わないかもしれません。いまだ日々勉強中です。長期持久戦こそ自分の信条です。
しかし「衡陽の陥落」間近という1944年8月1日〜2日、第11軍司令官である横山勇
中将一行が軍偵察機3機に分乗、長沙から湘潭、ついで衡陽上空を飛んでいますが
極めて危険な行動とは見なされていません。
また国府軍が「衡陽の攻囲」を何とかして解こうとした末期、日本軍の上空には毎日
十数機の中米空軍が飛来していますが、それで日本の偵察機の行動が制限された
訳ではないのです。
日本軍の戦死傷者の10%がアメリカ軍機によるものとされ、白昼活動できなくなった
部隊もあったのは事実ですが、中米空軍が「制空権を握っていた」とは言えないでしょう。
284 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/10(日) 00:50:36 ID:+ER/RFWy
>>
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4497975347 これか?
>>278 がビンゴです。タイトルが長いので「蒋介石日記」と略称して
いますが、前スレで詳しく書評していますw。あと本の中身が全部、
「蒋介石の日記」だと思わないように! ところどころ引用されている
に過ぎません。
紀伊国屋の新宿本店で1冊は「常備」になっていますから、早い者勝ちで
明日手に入るでしょう。現代人はアマゾンを使うが吉ですw。
自分は電車の移動しか読書時間がありませんから、読むのに1ヵ月以上
かかりました。2段組の細かい字でビッシリなので、450ページ強ですが
普通の本なら1000ページ相当はあるでしょう。
本書に比べれば、慶應義塾大学出版会の『日中戦争の軍事的展開』はサクサク
読めますw。この1週間で半分近くは読めました。
285 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/10(日) 01:18:38 ID:+ER/RFWy
>>280 >>下記の日記に事を言っているのか。日本ではまだ未公刊のようだが。。。。
そんなもの日本で刊行されるのを待っていたら20年は掛かりますw。
とにかく、多方面で記録を重視する中国宮廷の伝統に漏れず、蒋介石も
自己の言動の記録を「パーフェクト」に残そうとしています。
蒋介石は「軍指令書」を自筆することが多々ありましたが、その命令を
受けた人間は読んで書き写すことが許されるだけで、原文は即刻、伝達官
によって「公文書箱」行きです。
さらに蒋介石が呼んだ人間との談話も全て、秘書官や侍従によって記録され、
演説・講演の原稿も完全に保存されています。また部下にも自伝を書くことを
『命令』によって強制し、専門の用紙も侍従室から支給されました。
すなわち『一次資料』だけでも1人の専門家が一生涯をかけても読み切れない
膨大な量(自筆の公文書など含む)があり、二次資料の数は言うまでもありません。
286 :
動かない大図書館 パチュリー・ノーレッジ ◆FU/OcfTlfM :2006/09/10(日) 01:53:31 ID:+ER/RFWy
r,ヘ──-ヘ_ rγー=ー=ノ)yン´ 支那人の「記録(歴史)」に対する執念は、 `i Lノノハノ」_〉 日本人には想像も付かないでしょうね。それで |l |i| ゚ ヮ゚ノi| 蒋介石の日記を元にした資料には、毛思誠が !γリi.ハiリつ 編纂した『民国15年以前之蒋介石先生』が |,( ll」i l i_|」 嚆矢と言えるわ。ちなみに1937年刊で蒋介石が └'i,_ィ_ァ┘ 39歳、北伐開始直後で終わっているわね。 ちなみに8編・全20冊のボリュームだわ。ちなみにスレの少し前にも名前が 挙がっている産経新聞の『蒋介石秘録』(1978年)だけど、編集委員長の古屋 奎二など5人に台湾の国民政府から提供された資料は4千万字分に達するのよ。 他にも『総統蒋公大事長編』(1978年)があるわね。これは国府政府の党史委員会 主任委員・秦孝儀の執筆だけど、長いだけで内容は『蒋介石秘録』とほぼ重複するわ。 『蒋介石秘録』は台湾でも(『蒋総統秘録――中日関係80年之証言』)米国 でも(『蒋介石の生涯とその時代――Chiang' Kai-shek: His Life and Time』) 刊行されているけど、この『蒋介石秘録』が事実上、現段階の一次資料を扱った 最善の資料だと言わざるを得ないわね。 もちろん、私のヴワル魔法図書館に上記の本がすべて揃っているのは、 言うまでもないことよ。
介石は日記の書きすぎで共産党に負けた
288 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/10(日) 02:19:53 ID:+ER/RFWy
>>打通作戦の制空権問題についてはどうお考えなのか、 結局、双方とも制空権を取れていなかったと思います。打通作戦開始前に 日本が見積もっていた戦力は、中米空軍が520機でした(アメリカ機 320機、中米混合部隊100機、重慶空軍80機、B29など含む)。 これに対して日本側の第5航空軍の「出動可能機」が約230機とされ、 半分以下となります。しかし7月11日には「し江」のアメリカ軍基地を 夜襲していますし、7月13日には桂林を爆撃、また初期には長沙や湘潭にも 出撃しています。 何より「打通作戦」終盤には、衡陽の飛行場に日本機が降り立っていますし、 漢口に駐留していた日本機も広州に進出して、桂林や柳州を数回にわたって 攻撃しています。
289 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/10(日) 02:40:06 ID:+ER/RFWy
一方のアメリカ側は、航空機の数で日本軍を圧倒していましたが、 B29の成都基地や大都市、何より「ビルマ方面」も防衛する任務が 与えられていましたから、数のアドバンテージが減殺されます。 何よりアメリカ空軍は、国府軍の地上部隊と緊密な協力が取れていた とは口が裂けても言えませんw。 また「衡陽攻略戦」では、第10軍・防衛部隊に対する空中補給が急務と されましたから、日本軍への地上攻撃に専念できた訳ではないのです。 そして日本軍機も「衡陽の防衛陣地」を爆撃していますから、一方的に やられていた訳でありません。
290 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/10(日) 02:48:48 ID:+ER/RFWy
>>289 >>また「衡陽攻略戦」では、第10軍・防衛部隊に対する空中補給が
>>急務とされましたから、日本軍への地上攻撃に専念できた訳ではないのです。
例えば、『戦史叢書』(一号作戦2:湖南の戦役)によると、こんな
ケースがあります。
「衡陽の重慶軍もぼつぼつ迫撃砲弾が欠乏してきたようで、夜間空輸で
補給し始めた。ところが第二次総攻撃で歩兵第133連隊が重慶軍陣地に
深く楔入しているものを、夜間上空からの判定ができないためか、投下する
ものの相当数が連隊の占領地域内に落下し、将兵を喜ばせた。
当時、マッチが欠乏して煙草の点火にも不自由していたので落下傘の紐が
火縄として代用され、また傘の大きな布は穴居生活をしている将兵のために
格好のシーツの役を果たしてくれた」
まあ、戦場ではよくある事ですw。
291 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/10(日) 02:57:55 ID:+ER/RFWy
また蒋介石とシェンノートは、B29を湖南の戦場(大陸打通作戦への 防衛)に投入する事をホワイトハウスに要請しますが、拒絶されます。 その理由としてヨーロッパの戦訓が挙げられ、空中からの僅かの打撃では 地上部隊の侵攻をそれほど遅らせることはできない、というものでした。 また、ここでもスティルウェルが登場して直ちに返電していますw。 「命令拝受。そちらの意向は私の希望でもあります。ご存知の通り、空中の 軍事力が地上部隊に与える打撃に対して、私は幻想を抱いてはおりません。 前回の電報は、まったく強いられたものです」 確かに、米中空軍の方が日本を圧倒していたかもしれませんが、向こうさんは 内部で『足の引っ張り合い』が多過ぎますw。
292 :
知識と歴史の半獣 上白沢慧音 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/10(日) 03:19:51 ID:+ER/RFWy
>>287 >>介石は日記の書きすぎで共産党に負けた
_、,、,、_
`、r`=Y
, ' `ー '´ヽ
i. ,'ノノ ))) 〉 ノンノン。蒋介石にとって日記は、自己の
| ii;゚ - ゚ノ|! 修養の場だ。言い換えれば、『精神のバランス』
||kリ,_\_リiつ を保つために、とても大事なものだったのさ。
!k'J,、,、>、 もし日記を書く時間が問題になるのであれば、蒋は
´' "i,ンイノ~` 毎日の相当な割合を、聖書の一節を読んだり、神に
祈りを捧げたり、朝の体操に費やしている。
それはどう評価すべきかな? 蒋介石が「真に驚異的」だったのは、抗日8年間で
『精神の安定』を保ち続けたことだよ。国土の縦深がまるで違うけれど、日本が
本土決戦を8年間やっていたらと考えてみてはどうかな? しかも外国の援助を
唯一の頼りとして。さらに同胞にも油断のならない敵ばかりw。普通の人間が
指導者だったら「気が狂う」と思うがね。
「精神の安定」を保つには、毎日それなりの時間と労力とコストが要る訳だよ。
293 :
だつお :2006/09/10(日) 09:08:21 ID:GxJTRU5y
ペンタゴンの軍首脳者たちのかんがえは、総体的に、シェンノートの航空作戦
計画、およびそれをささえるための大量補給の努力は、アメリカの兵力、資材の
浪費であって、ほかの作戦を妨害するものであるということに一致していた。
シェンノートの方針は、中国において実効をあげず、ヨーロッパでの活動に
制約をあたえていた。それは、飛行機やそのほかの装備品を、イタリアから中国
に補給がえをしたためである。
この見解は、一九四四年七月四日にルーズベルト大統領に提出された、中国の
危機にかんする統合参謀本部の公式報告に記述された。この公式報告は、シェン
ノートの作戦原理に反論していて、第二次大戦中に発行された文書のなかでも、
いちばんおかしな内容の文書であった。
スチルウェル支持の統合参謀本部
統合参謀本部は、シェンノートの主張を否決しようとたくらみ、ほかの戦域
の経験を引用して、つぎのようにのべている
「わが軍が航空兵力で断然優勢をたもっている戦場において、ドイツ軍および
日本軍と戦った経験から、航空兵力だけでは、訓練もじゅうぶんで断固とした
決意の地上軍の進撃を阻止できないことが、すでに証明されている。
われわれはイタリアにおいて、強大な航空兵力をもっても、地上軍の進撃を
阻止することができなかったので、シェンノートが、中国にある比較的小さな
航空兵力をもって、日本軍に決定的な打撃をあたえられるとはかんがえられない。
日本軍船舶にたいする爆撃の効果があればあるほど、日本軍の中国での進撃は、
つよくなるであろう」
http://www.tom-jerry.com/tomandjerry%20museum/taisen3.htm 「日中航空決戦」(ロナルド・ハイファーマン サンケイ出版)
294 :
元32 :2006/09/10(日) 12:15:11 ID:???
>>247 >>248 >>249 ごぶさたしております。
衡陽戦でも方先覚の勇戦は日本側にも強い印象を残しました。
捕虜になった後も脱出して帰還するなど、
個人的勇気でもずばぬけた将帥だったとされます。
さて、その方先覚が後に台湾で、
白団のもとで軍事教育を受けることになったとき、
全く専門的な軍事的素養を持っていなかったことに、
日本側の参謀将校たちはびっくりします。
兵の粘りや個人的勇気、戦争末期には装備も充実していても、
軍事技術の面での素養や組織的な戦闘についての知識は、
高級指揮官すらもっていなかった、
というのが中国国民党軍の実情であったようです。
高級指揮官がいないだろ。
そもそも、その「理念」があるという所から慣習は始まるのだから、 双方の国民の中でその理念が常識として信じられてる状態こそ、 国際慣例法としての意味があるのです。実際に守るための行動(作為)が必要だという論は、 明らかに間違い。法を遵守するという状態は、違法行為を行わないという「不作為」でも可能なのですから。いや、そもそも不作為の方が多いでしょう。この不作為自体が国家実行となるんです。 たとえば人を殺してはいけないという慣習法(明文法にあるけど、ここでは慣習だと仮定した場合) を守るには、なにもしないで寝てる状態を指します(これを不作為といいます)。しかしこれだと これは理念だけで行動を伴ってないから駄目だっていうんですね。そんなアホなことはありません。 人を殺さないと言う事を、「実行」してるのが、なにもしないで寝てるという不作為なのです。 基本的に、「作為」と「不作為」、法律上はどっちも同じように扱われます。特定の不作為を禁じる法律もあるのです(保護責任者遺棄など)。 よって、この「人を殺してはならない」という法を守っている状態(不作為)の連続で、この法は慣習法として成立したことになります。 こんなことも分からずに、人に国際法と国内法の区別が付いてないというのだからお笑いです。作為と不作為の違いが分からず、 国家実行は作為でないと成り立たないと思いこんじゃってるのが、法学経験者から見ると痛すぎるんですが…。国内法をある程度勉強して(せめて憲法と刑法総論くらい)、 法律の読み方を理解してから国際法を勉強すべきですね。
十二月七日 《ニューヨーク・タイムズ》特電 F・ティルマン・ダーディン 湯山地区では少年雑役兵が数多くいた。少年たちは年齢十歳から十二歳、軍服姿の正規兵で、伝令、運搬、炊事といった仕事をしている。 『南京事件資料集 アメリカ資料編P388』 中国軍の場合は直接武器を扱う戦闘部隊とは別に、輸送その他支援を行う「雑兵」という兵科があります。 戦闘経験のない臨時兵士は支援部隊に回されたものと思われます。これら少年兵は徴兵されたものではなく志願したものと思いますが、 小学生の力が必要なほど中国軍は切迫していたという状況がわかります。年端もいかない小学生くらいの年代が戦争を支援しているのですから、 学生や若者の中には志願兵が数多くいたものと推定されます。
蒋介石ですら日本で受けた正規の軍事教育は下級将校どまり。
299 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/10(日) 21:47:25 ID:zV1CcpIF
>>257 >>補給問題と航空機の事故は未だ戦力の足を引っ張り続けた。
例えば、緒戦の「上海攻略戦」の時期でも、支那側のエースパイロットであり
空軍英雄だった劉粋剛と高志航が死亡して、蒋介石が日記で悲しんでいます。
双方とも空中戦での戦死ではなく、劉粋剛は「夜間着陸」の設備が基地に無かった
ために建物に接触して墜落死、高志航は「空襲警報」の遅れと3回にわたって
エンジンスタートに失敗して離陸が遅れたため、日本軍機の攻撃で爆死したのです。
蒋介石は、支那事変が起こる前から『空軍の建設』に血道を上げていました。例えば
陸軍予算が1億2千万元であるのに対して、空軍はそれに匹敵する7千万元です
(海軍は229万元w)。
支那兵全体のクオリティが日本兵に劣るのは絶望的ですから、空軍パイロットを
集中的にエリート訓練し、列国から「最新の機体」を輸入して数を揃えれば、
日本軍に十分対抗できると考えた訳です。
300
301 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/10(日) 22:47:31 ID:zV1CcpIF
海軍の建設に比べれば空軍のそれは「即効性」があり、集中の原則にも 叶っています。 1937年度の損失機数(1937年)を比べてみると、日本側が中攻も 含めて160機・支那側が148機で、人員の損耗も日本側が大きいのです。 ちなみに双方が主張する「撃墜数」だと大本営発表で訳が分からなくなりますw。 何にせよ、支那空軍が善戦したのは間違いないでしょう。しかし開戦から 1ヵ月で制空権を失い、夜間爆撃に頼る状況に陥ります。柳粋剛の戦死(事故死) もそのような状況からです。11月末には旧来機の大半を失っています。 後世の史家からすれば、蒋介石が陸戦隊本部や第三艦隊の爆撃に拘ったがために 早期に壊滅してしまい、もっと防空(制空権確保)に専念していれば日本側に 出血を強いられたと非難しますが、それは理屈では正しくとも無茶苦茶でしょうw。 蒋介石が「空軍至上主義者」であったことは間違いありません。それは自国の 軍隊(陸軍)に絶望していたからとも言えます。
じゃあ次は七三一部隊について
303 :
元32 :2006/09/10(日) 22:53:32 ID:???
七三一は日中戦争だろ
305 :
元32 :2006/09/10(日) 23:20:36 ID:???
>>304 七三一は基本的に関東軍の部隊です。
日中戦争スレの範囲に含まれるのは十数回の細菌戦だけなので、
このスレで七三一を語るのは無理ですね。
充分じゃないか(w では折檻作戦と陶器爆弾の話からはじめよう。
まーたプロパガンダか
308 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/10(日) 23:29:48 ID:zV1CcpIF
>>293 >>シェンノートの航空作戦計画、およびそれをささえるための大量補給の努力
具体的に1944年上半期の実績で言いますと、インドから支那に空輸される物資は
毎月1万トンから1万2千トンです(スティルウェルの「北部ビルマ反攻」に
よってかなり減少しますが)
援助物資は中国に到着する前にあらかじめ「配分割合」が決められており、
その大部分である『80%〜90%』がシェンノートの空軍用に回されます
(毎月8500トン程度)
スティルウェルの陸軍向けは『その残りもの』であり、更にその内の数百トンが
弾薬や軽火器の原材料として愈大維の兵器工場に送られ、残りの1千〜3千トン
の全てがY部隊(雲南遠征軍)に渡されていました。
シェンノートは大陸打通作戦の後半戦「衡陽攻略戦」が始まると、地上部隊の
適切な支援のためには「毎月1万トン」の補給が必要であると主張しますw。
>>305 >
>>304 > 七三一は基本的に関東軍の部隊です。
その通り。
731の話は、もうあきた。聞きたくない。
そうやって事実から目をそらすんじゃない!w
311 :
えICBM :2006/09/10(日) 23:32:47 ID:???
初期のB29の対日爆撃は中国の基地から出撃している。 しかし、本拠地はインドのいくつかの基地で、中国の出先。 毎回インドに帰って爆弾を補給して中国の基地に進出し、出撃だったそうだ。 まあ、B29の爆弾を輸送機による空輸で全部賄うのは無理だから当然なのだろ。
312 :
元32 :2006/09/10(日) 23:34:19 ID:???
>>301 1930年代には、ドゥーエ理論の影響力が非常に強いので、
多くの理論家が空軍至上主義に陥りました。
結局、戦略爆撃はしばしば壮大な無駄に終わったわけですが。
第一次世界大戦は「兵器の近代化」を競う戦争でもあった。戦車、飛行機、毒ガスなどヨーロッパ戦線で使用された近代兵器を目のあたりにした日本軍は、兵力のレベルの差に強いショックをうけ、「安価で効果の高い兵器」の開発を急いだ。 1925年、「生物化学兵器禁止ジュネ−ブ議定書」が調印されるが、のちに731部隊の部隊長となる石井四郎はこの条約によって細菌兵器の開発に着眼する。細菌兵器の使用を禁ずる国際条約が皮肉にも日本の細菌兵器の開発を促したわけである。 石井四郎は、陸軍に細菌兵器の開発・研究を提言し、2年間の欧米視察を経て、1932年陸軍軍医学校に防疫研究室を設立する。 表向きの看板は「防疫」であるが、実際は細菌兵器の開発・研究のための機関であった。石井四郎は、東大、京大などの医学部の研究者を募り、細菌兵器開発のための一大ネットワークを作り出した。 これを全面的に支えたのがのちにミドリ十字を創設する内藤良一である。 1932年には、中国東北部のハルビン市郊外の背陰河に731部隊の前身「東郷部隊」を設置し、日本国内では行なうことのできない生体実験を実行した。 しかし、捕虜の脱走により施設の閉鎖をやむな<された。 1938年、ハルビン市郊外の平房区を特別軍事区とし、6キロ平方メートルにわたる広大な施設を建設した。 特別軍事区の上空は、日本軍機の飛行さえ禁じられたきわめて機密性の高いものであった。
731部隊と南京1644部隊は、1940年、浙江省の衢州、寧波、金華に対して、 さらに翌年(1941年)は湖南省常徳に対してペスト菌による細菌戦を行なった。 飛行機から、穀物などにまぜたペストノミを投下させるなどして、人為的にペスト を流行させたわけである。 1942年には、国民党軍飛行場を潰滅させるために、浙江省から江西省にかけ ての浙かん鉄道沿線で、ペスト菌、コレラ菌、チフス菌などによる細菌戦を行なっ た。 これは、細菌を混ぜた餅を住民に配る、井戸に細菌を投げ入れる、米に細菌を つける、細菌を注射したネズミを放つなど謀略的な色彩が強い作戦であった。 この他にも、収容所に入りきれなくなった香港難民にゲルトネル菌を混ぜた湯を 飲ませて虐殺した細菌戦(波8604部隊・広東)、河の堤防を決壊させコレラ菌を流 し汚染区を作り出した山東コレラ作戦(甲1855部隊・北京)などの細菌戦もある。 この他にも多数の細菌戦が行なわれたことを記す中国側の資料がある。 石井四郎がいみじくも言ったように、細菌戦lは「害毒性が人体深く浸透」し、感染 を繰り返しながら被害を拡げていく。一度の攻撃で持続した被害を与えられるという 性格を持つものであった。
1940年10月、浙江省の交通の要衝、衢州市(当時・衢県)に史上はじめて ペストノミの投下攻撃がおこなわれた。 この年の死者は公に確認されているだけで24名。 しかし、翌年から2次感染・3次感染によって市内だけでな<周辺地域に伝 播し、死者の数は増え続けた。 衢州周辺では、1948年までペスト流行が続いた。
衢州市は浙江省の西部に位置し、柯城、衢県、竜游、江山、常山、開化など六つの県 (市、区)に分けられ、あわせて150郷鎮、人口248万人、浙江省、江西省、福建省、安 徽省の四つの省に境を接する地方都市であり、わが国の中でも歴史文化のある名市で ある。1937年から1945年、日本軍国主義者が侵略戦争を発動した期間、衢州人民 は日本軍にほしいままに爆撃され、焼かれ、殺され、強姦され、略奪されるなど、ファシズ ム的暴行を受けた。同時に日本軍の細菌部隊の残酷な襲撃を受け、空前のペストが発 生し、コレラ、チフス、パラチフス、赤痢、炭疸など多くの種類の伝染病が流行した。194 8年衢州に属する各県の、不完全な統計によると、1940年から1948年の8年の間に 上述した伝染病の発病者数は累計で30万人余り、病死者は5万人余りに達した。中国 侵略日本軍は衢州に侵入した間に犯した数々の暴行によって、衢州人民に歴史上いま だかつてない災厄をもたらしたのである。
318 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/10(日) 23:46:26 ID:zV1CcpIF
スティルウェルの陸軍向けから更に削るか、さもなくば全体の空輸量の 『パイ』をもっと増やせという話です。それはスティルウェルとシェン ノートの仲が極悪になるのも当然ですし、本国に讒言合戦を行なうのも 自然でしょうw。 しかしシェンノートは実際に、不足分の1500トン分を成都のB29基地 より爆弾が借りられるよう掛け合っていますから、単なる大陸打通作戦の ドサクサに紛れた『パイの分捕り』という訳でもなさそうです。 事実、毎月8500トン程度の補給では、空軍が大規模な作戦を行なうのに まるで足りなかったのかもしれません。何せ、爆弾から航空燃料まで全てが 外国の援助頼みでしたからw。それらは全部、ヒマラヤ超えの空輸です。 陸軍用の軽火器や弾薬類は支那でも国産できましたので(しかし全然足りないw)、 シェンノートの言い分にも一理があるかもしれません。何にせよ、使用物資の 明細が残っていれば見てみたいものです。
319 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/11(月) 00:04:37 ID:nj5b+LIA
>>294 >>さて、その方先覚が後に台湾で、白団のもとで軍事教育を受けることに
>>なったとき、全く専門的な軍事的素養を持っていなかったことに、日本側の
>>参謀将校たちはびっくりします。
毎度どうもでございます。さて衡陽守備軍の方先覚ですが、少し前に触れたとおり
>>230 >>方先覚は蒋介石が校長を務めた「黄埔軍官学校」の第3期生
にあたります。第3期生というのは1925年7月1日に「黄埔軍官学校」に
入学式を行なって、すぐに沿岸の警備を実地で担当させられます。OJT
(オンザジョブトレーニング)ではありませんがw、その後11月11日に
『黄埔』に戻されまして訓練を再開し、2ヵ月後の1926年1月6日には
『卒業試験』を、そして1月17日には『卒業式』が行なわれています。
たった半年(しかも半分の期間が警備)で卒業させられています。
本当にありがとうございましたw。。
320 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/11(月) 00:16:32 ID:nj5b+LIA
しかし、これには理由があります。方先覚ら第3期生が『黄埔』に入学した 前年の1924年、国民革命軍がようやく掌握した広州政府が「資産税」を課そう としたため、広州市内の商店を中心とする『民団』が付近の市・県と結託して ストライキを始めます。 さらに武装しての抵抗を目論み、香港から「ノルウェー国旗」を掲げた汽船を 仕立て上げ、9千挺あまりの小銃や軽機関銃、モーゼル拳銃を運び込もうとして 国民革命軍に取り押さえられました。恐ろしい話ですw。 このようなキナ臭い『一触即発』の状況の中、黄埔の第1期生は広州市内の 警備と治安維持に駆り出され、教育訓練どころではありません。また校長である 蒋介石自身、「学問と戦争は別々のことだと思っていたら大間違いだ!」という 教育方針でしたのでw、第3期生までそれに準じた扱いだった訳です。 しかし、この頃の「国民革命軍」は何より下級将校の大量育成が求められて いた時期であり、悠長な訓練をほどこしている場合でなかったのも事実です。
321 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/11(月) 00:30:33 ID:nj5b+LIA
実際、ほかの黄埔軍官学校・関係者が「1年間程度の教育を」と話して いる中、蒋介石は「3ヵ月で育成しなければ、国民政府は滅びる」と 断固主張して、結局あいだを取り「約半年」となった経緯があります。 実際、この直後に国民革命軍の「北伐」が始まりましたから、蒋介石の 主張の方が正しかった事になります。 同時に革命軍の「大膨張」時代であり、良く言えば「速成教育」、悪く 言えば将校の「粗製乱造」です。ちなみに第4期生は、1926年秋に卒業して 10名の成績上位者が総司令部勤務に、残りの約2000名が南昌で 蒋介石の点呼と訓話を受け、各部隊に配属されています。 実際、「専門的な軍事的素養」という点から言えば、辛亥革命(1911年) 以前に日本の士官学校などに留学したもっと古い世代の方が余程高いの ではないのでしょうか?w(蒋介石は1909年に高田の砲兵連隊に勤務)。
323 :
名無し三等兵 :2006/09/11(月) 02:04:02 ID:9vWdzCIp
こんにちは。いつも楽しく読ませていただいています。ひとつ質問させてください ある人の日中戦争の見解で 「盧溝橋事件の後、上海の日本人居留民を見殺しにして日本軍が上海の手を出さず 北方から西へ進撃し、西安を落とした後、重慶に進撃してから南京へ 東下すれば、蒋介石と中共両方に甚大なダメージを与えて 逃がすこともなく、有利に講和を結べた可能性がある」 というのを読んだのですがどうでしょうか? その人の見解では蒋介石が上海で事を起こしたのは日本を上海におびき寄せて 欧米の権益と衝突させて日本を追い込み、後背地に回りこまれて(中国は西から東への 進撃に弱いとの事)追い詰められるのを避けるための謀略だったということです どうなんでしょうか?
p
325 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/11(月) 23:15:06 ID:azq+XpPG
>>322 >>名古屋第3師団の兵器の不足は、何故起こってしまったのですが?
そのサイトは、既スレで『上海攻略戦』を取り上げた時に自分も参考に
しましたね。非常に良い仕事をされています。何で話題に上ったのか…?
記憶が少し曖昧ですが、別宮翁の「第一次大戦」で支那事変を扱ったページ
があります。そこの「上海決戦」の記述で日本軍の『浸透戦術』がやたらと
強調されているので、やはり第10軍の「杭州湾上陸」こそが決定的のはず
という論調で書いた覚えがあります。
要するに別宮翁の記述では、杭州湾の上陸がなくても「浸透戦術」による
正面突破で勝てたという話になってしまいます。かなり曲解ではないかとw。
さて第3師団の重火器不足ですが、それまでの日本軍の『兵要地誌』には
「上海付近の地形は、野砲以上の大砲が使用できない」と誤記されていて
そのため重砲を準備していなかった、というのが通説です。
326 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/11(月) 23:49:55 ID:azq+XpPG
しかし、あくまで『通説』であって支那側の戦闘記録を見ると、 「最も恐れられたのは敵(日本軍)の砲弾だった」 「敵は野戦砲の全てをもって歩兵を支援することができた」 とありますように、初期に重火器の不足で多大な犠牲を強いられた (第一陣の第3師団、第11師団)のは事実ですが、ずっとそのまま の状態で上海攻略戦が行なわれた訳ではありません。 1937年9月末から10月初旬にかけて、第9師団、第13師団、第101師団の 増援が送られますが、同時に「重砲兵部隊」も進出しています。重砲とは 155ミリ以上の砲を指し、大場鎮攻略の際には120門以上が用意されて いるのです。弾薬は不十分でしたが、その威力は申し分ありませんでした。 支那の土人兵がこもるコンクリート陣地を次々にフッ飛ばしますw。
327 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/12(火) 00:08:15 ID:YVaaRmfC
第3師団が上陸したのは1937年8月23日です。しかし、それから1週間も 経たない8月29日には、日本軍によって制空権が確保されているのです。 (ただし上海戦の開始は、支那軍による海軍特別陸戦隊の攻撃から:8月13日) 9月以降の支那空軍は「夜間爆撃のみ」に頼ることになります。こうなると 日本軍のやりたい放題になってきます。航空機による爆撃はもちろん、上空に 気球を上げることで砲兵の観測も容易になりますし、海軍艦艇による砲撃も 効果を発揮します。 とくに艦砲の射程内にある支那軍陣地は、部隊丸ごと吹っ飛ばされて 100人単位で全滅するケースが珍しくありませんでした。例えば、 揚子江沿岸の宝山では日本海軍による艦砲射撃で一挙に600人が 戦死ですw。 上海攻略戦の後半は、日本軍が火力で圧倒していたのは事実でしょう。
328 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/12(火) 00:28:49 ID:YVaaRmfC
>>322 >>名古屋第3師団の兵器の不足は、何故起こってしまったのですが?
第一次上海事変(1932年)の際には上海周辺の『兵要地誌』そのものが無く
(その頃の日本軍は中南支に出兵する計画が無かった)、痛い目に遭って
いるのですが、第二次は『兵要地誌』の誤記のために、以下同文――w。
日本軍は「アホの子の集団か?」と思うかもしれませんが、この辺は蒋介石も
同様です。第一次上海事変は結局、七了口への奇襲上陸によって一気に決着が
付きました。蒋介石はこれを悔やんで「七了口に敵を上陸させたのが致命的
だった……」と嘆いています。
第二次上海事変で蒋介石は、「七了口」の陣地防衛は万全を期していましたが、
日本軍に杭州湾へ奇襲上陸されて、以下同文(藁)。
まあ、どこの国でも「前の戦争」を想定して「次の戦争」を戦うものですw。
329 :
77 :2006/09/12(火) 00:59:09 ID:HCEpmdF6
呉淞(ウースン)上陸作戦は、その規模の大きさや悲惨さからもっと、 語られてよいと思うのですが、被害の大きさのためか、 作戦当時から報道管制が引かれたようで、 今に至るまで日本でも知られる事が少ないようです。 できますれば、イナゾウ中佐その他の皆様に、ぜひ、呉淞上陸作戦に ついて語って頂きたいと存じます。 実は、私は名古屋在住で親類の者に呉淞上陸作戦で戦死者がおります。 当の者は第三師団所属中、夜中に非常呼集を受け、名古屋港まで 徒歩行軍の後、輸送船で上海沖まで送られ、上陸直後に戦死した もようです。あまりに急な招集で、家族の者が面会に駆けつける 暇もなかったそうです。
331 :
元32 :2006/09/12(火) 02:53:59 ID:???
>>325 一般に支那通の連中が政治工作に熱中しすぎて、
平時諜報、なかんずく本来の軍事的諜報を軽視したために、
肝心の兵要地誌に問題があった、という指摘があります。
とりわけ上海は、支那通の人々が頻繁に往来していたところなので。
こうしたことを繰り返して、支那通が次第に影響力を失ったともいいます。
332 :
だつお :2006/09/12(火) 06:12:30 ID:GwcuJcYK
>「最も恐れられたのは敵(日本軍)の砲弾だった」 >「敵は野戦砲の全てをもって歩兵を支援することができた」 ところが、ナチズムの権力掌握後、独ソ関係の悪化によりこの軍事協力関係 の維持は不可能となり、ドイツ国防軍がみずからの活力を維持するためには、 あらたな軍事的パートナーを必要とするにいたったのである。この面で ドイツ国防軍、主として陸軍が注目したのは中国であった。・・・中略・・・ また、国防経済という観点からも、ドイツ国防軍が親中路線を採用する理由が 存在した。なぜなら、両国の経済は相互補完的であったからである。ドイツ国防 経済は、ロシアとの関係悪化後、技術刷新の継続のためにも、また付加的な 輸出の拡大のためにも、あらたな市場を求めていた。一方、中国側は、ドイツから の工業製品輸入を天然資源の輸出で相殺することができたし、また一九三五〜三六年 のドイツの武器輸出総額のうち、実に五七・五パーセント(二千万ライヒスマルク) が中国に向けられていたのである。 これに対し日本はその一パーセントにも満たない十七万七千ライヒスマルクであった。 ナチズム極東戦略 日独防共協定を巡る諜報戦 / 田嶋信雄/著
333 :
だつお :2006/09/12(火) 06:29:12 ID:GwcuJcYK
http://p2.chbox.jp/read.php?host=tmp5.2ch.net&bbs=asia&key=1120186708&ls=all 大陸打通作戦〜大地を駆ける3000`の雄叫び
75 :日出づる処の名無し :2005/07/15(金) 14:53:34 (p)ID:fLzsflNl(3)
マッターホーンにより、中国・成都に前線基地が建設されるはこびとなり、
インド・カラグプルにB−29専用基地とその大規模な兵站支援施設が
設置された。米国の膨大な資金と約四〇万の中国人労働者をつぎ込んで、
一九四四年五月までに成都地域の四ヶ所にB−29専用基地が造られる
と共に、爆撃機の飛行場を保護する戦闘機用基地が数箇所に建設された。
それらの基地まで、数千の支援要員となる技術者、兵器係、コック、倉庫
管理係に加え、予備部品(交換用エンジンも含む)、爆弾、食料、燃料を
運ぶ必要があった。中国の基地から一〇〇機のB−29による攻撃を実施
するには、およそ二三〇〇トンの物資を運び入れるほかに、肝心の爆撃機
をインドの後方基地から中国まで飛ばす必要もあった。
<中略>
一九四四年末までに、蒋介石はもはや有力な盟友と見られなくなっていた。
日本軍は中国東部での攻勢でさらに八省を手に入れ、さらに一億人の中国人
が日本の支配下に置かれ、米軍飛行基地は放棄のやむなきにいたり、中国の
東海岸は封鎖された。帰還命令を受ける直前の十月四日、スティルウェル
は日記に書きつけた。「陸軍省が私に味方しているのは明らかだが、この
戦域は無価値とみなされ、われわれは何も期待されていない」
日本殲滅 日本本土侵攻作戦の全貌 / トーマス・アレン/著
ノーマン・ポーマー/著 栗山洋児/訳
334 :
だつお :2006/09/12(火) 06:49:30 ID:GwcuJcYK
中国は米英独ソが何を援助してやっても、如何せん基礎工業力の 水準があまりにも低すぎるのよ。主要兵器や工作機械類の自給率 といった指標は、援助受けても戦争終わってもそんなに変わらない。 >爆弾から航空燃料まで全てが外国の援助頼みでしたからw 援助を受けてもメンテナンスもろくにできないし、最新技術で航空基地 が建設されても航空部隊と地上軍の連携が取れず、それと比べて大した ものでもない日本側の防空戦力を相手にも悪戦苦闘を強いられる。
朝起きたら台所に蒋介石がいた。 蒋介石「お、おはようです」 俺「おはよう、蒋介石。・・・後ろに何持ってんだ?」 蒋介石「え!?な、なんでもないです! あー!勝手に取るなです!!」 俺「おー綺麗にラッピングしてあるなあ。誰かの誕生日プレゼント?」 蒋介石「これは・・・その・・・。・・・この国では、2月14日は誰かにチョコレートを渡す日だとテレビで見たです。 だから、特別に蒋介石が作ったのをヤスヒロにあげるです・・・。」 俺「え!ほんとに!?嬉しいなあ。ありがとう、蒋介石。まあ義理なんだろうけど」 蒋介石「あ、当たり前です!ほんとはヤスヒロには蒋介石手作りのチョコなんてもったいないですけど、 どうせ誰にも貰えないだろうから、哀れなお前に恵んでやるです。もっと感謝しろです。」 俺「ああ、義理でも本当に嬉しいよ蒋介石。じゃ箱開けるね。 おお凄い。チョコレートケーキだ。しかもハート型。義理なのに気合入ってるな。」 蒋介石「さっきから一言一言うるさいです!さっさと食べて感想を述べやがれです!」 俺「そう。じゃ、いただきまーす。・・・・・」 蒋介石「・・・ど、どうですか?」 俺「ちょっと苦いかも。でも美味しいよ」 蒋介石「そりゃあそうです!けどおこちゃまな舌のヤスヒロにはちょっと大人の味だったですかね。 まあでも、蒋介石が愛情込めて作ったのですから美味しくて当然ですけどぉ。」 俺「え?愛情?入ってるの?」 蒋介石「な!な、な、なに言ってやがるですか!そんなもん入ってねーです! 自惚れるなですぅ!と、とにかく!これからは心優しい蒋介石のことをもっと敬いやがれです!」 だって。こんな幸せなバレンタインデーは初めてだよ。 俺は幸せ者だなあ!ハッピーバレンタイン!\(^o^)/
336 :
だつお :2006/09/12(火) 21:30:46 ID:KAyJ66xT
>蒋介石は、支那事変が起こる前から『空軍の建設』に血道を上げていました。例えば >陸軍予算が1億2千万元であるのに対して、空軍はそれに匹敵する7千万元です >(海軍は229万元w)。 だから大陸打通作戦こそ航空戦を大きく語らなければならないんだよな。 人によってはあたかも空軍はどうでもよい戦場であったかのように言うが、 蒋介石がどれだけ空軍に血道をあげてきたかを考えなくてはな。 実際のところ上で米陸空軍公刊戦史も認めているように、日本側の防空 努力は大きな効果をあげ、大陸打通作戦のエアカバーに大きく貢献してた。 B29だけでわずか半年で147機が失われるくらいだから、皇軍の高射砲 や戦闘機それに電波探知装置も大きく貢献したものとみて間違いない。 つーか、航空戦力こそが打通作戦遂行の要石であったはずだ。 どんな最新のツールを供給されても中国人の腐った脳みそでは有効に 活用されないのだということを、打通作戦は教えてくれる。
うるせー東洋鬼子
>>337 > うるせー東洋鬼子
東洋鬼子(トーヤンクイズ)
死ね、チャンコロども!!
東洋鬼子(トーヤンクイズ) チャンコロ(支那畜子)
発音悪いよ東洋鬼子(w ポコペンね
不?本
ペケよペケ(w
>>328 >七了口
これは小畑敏四郎と鈴木率道が暖めていた奥の手でしたね。
344 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/12(火) 23:28:22 ID:ydBafV6G
>>329 >>呉淞(ウースン)上陸作戦は、その規模の大きさや悲惨さからもっと、
>>語られてよいと思うのですが、
自分も第3師団や第11師団の状況を詳しく知りたいのですが、なかなか良い
資料が見当たりません。
>>322 >>すいません、とあるサイトで呉淞上陸作戦のことを知ったのですが、
>>
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta02u8.htm 上記のサイトも「資料の少なさ」を憂いていますが、比較的に入手容易なのが
『上海敵前上陸』(三好捷三著、図書出版社)でしょう。そのサイトの人も
記述の多くについて種本にされていますが、ちなみに自分も所有しています。
文華堂に転がっていたのを以前、入手しました。
しかし、かなり日本軍に『怨みつらみ』がある人で、大正デモクラシー世代というか
戦争が始まる前から軍隊に対して軽蔑に近い感情をもっている人です。
345 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/12(火) 23:47:03 ID:ydBafV6G
早い話、大正軍縮で半ばリストラされて、中学校等に「配属将校」の
憂き目にあった軍人を苛めているような学生です。この著者はw。何か
集団で問題を起こしたり、あるいは配属将校の面子を潰すような事をするぞ、
さもなければこうしろ、と脅したりする訳です。
当然この世は因果応報であり、著者は「軍事教練」の授業評価に『要注意人物』と
書かれため徴兵後にさんざんな目に遭って、上海戦にブチ込まれ――以下同文w。
ですから、『上海敵前上陸』の記述はあまり鵜呑みにできませんw。しかし、
この本ぐらいしか資料として見当たらない訳で、さもなくば
>>322 のサイトの人が
無理して調べているように、第3師団の『師団戦史』などを紐解くしかない訳です。
しかし、「呉淞陸作戦」の記述はたったの1ページだとか(核藁)。
ですから自分は、上海攻略戦全体の話は出来ると思いますが、呉淞上陸作戦
については
>>322 のサイト以上のことは出来ないでしょうw。
図書出版社はやや左よりの本が多いです。 しかし支那戦線の戦記を多く出しています。
347 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/12(火) 23:59:44 ID:ydBafV6G
しかし、『上海敵前上陸』の著者もなかなか興味深いことを書いておりまして 「自分が一番苦しかったのは、上海攻略戦自体ではなく、その後の南京までの 追撃戦――強硬軍だった」 上海から南京までは300キロ弱ですが、その道のりを文字通り 『不眠不休』で行軍する訳です。しかも舗装された状態の良い道路は 車両部隊でひしめき合っています。歩兵部隊の多くが道なき道を踏破 した訳で、その辛さは想像を絶するものがあります。 ちなみに自分は学生の頃、100キロハイクで途中リタイアした経験が(核藁)。 また南京までの猛追撃は「一番乗り」争いというよりも、支那軍が 体勢を整え直すまでに攻め続けないと、防衛陣地に再度こもられて 「上海攻略戦」のような多大な犠牲が強いられるのを恐れた、という この著者の指摘は、さもありなんと言えるでしょう。
>>346 >>図書出版社はやや左よりの本が多いです。しかし支那戦線の
>>戦記を多く出しています。
自分も沢山もっています。文華堂に行けば1000円前後で転がって
いますから、見栄を張って『戦史叢書』など大枚はたいて買って
「机のオブジェ」とするよりも、遥かにコストパフォーマンスが良い
でしょうw。
自分の実力に合った本を読むこと、これは大事ですw。
349 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/13(水) 00:15:02 ID:0XhQQVB3
>>335 >>蒋介石「な!な、な、なに言ってやがるですか!そんなもん入ってねーです!
>>自惚れるなですぅ!と、とにかく!これからは心優しい蒋介石のことをもっと敬いやがれです!」
え、何? 翠星石?
悪いですが、自分は水銀燈――銀ちゃん派ですw。しかし、「この腐れ土人、
首をはねるですぅ」と伝染してよく言っていました。
350 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/13(水) 00:28:35 ID:0XhQQVB3
冗談抜きで「〜ねーです!」言葉は、本当に伝染しました(核藁)。
上司に向かって「そんな事は問題になってねーです!」w
>>331 >>肝心の兵要地誌に問題があった、という指摘があります。
>>とりわけ上海は、支那通の人々が頻繁に往来していたところなので。
まあ、上海だと「言い訳」が効きませんねw。しかし少し弁護をしますと
反日運動が激化してくると、支那軍の陣地の状態を探ることなどは不可能
な訳です。普通に「ヌッ殺され」ます。
例えば、少し前に重慶や上海で反日暴動が起こった時、不振な日本人が
コソコソ動き回っていたらと想像して見て下さい。即リンチでしょうw。
平時にサボっていたツケな訳です(しかし対日感情が良かった時期なんて
無かった事に注意)。
351 :
77 :2006/09/13(水) 00:32:22 ID:???
>>347 > 「自分が一番苦しかったのは、上海攻略戦自体ではなく、その後の南京までの
> 追撃戦――強硬軍だった」
呉淞(ウースン)上陸作戦について、さっそくの書き込みを多数ありがとうございました。
私もこの追撃戦について、多少の感慨めいたものを持っております。
以前入手した資料をさがしてみます。なにか、みなさまのご参考になる
ことを書き込ませて頂けるかも知れません。
352 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/13(水) 00:39:23 ID:0XhQQVB3
あと現代の日本のように、コンビニで地図が買えるようなイメージは キッパリ捨てて下さいw。 当時は支那に限らず、地図は軍事機密であり、詳細なものは非常に 入手困難でした。 例えば、軍閥政権の顧問となっていた「支那通軍人」が、先方の好意で 地図を持ち出すのを見て見ぬふりされたとしましょう。彼は急いで地図を 写真撮影して参謀本部に提出する訳です。 あるいは軍閥同士の争いの最中、作戦指導でこの軍事顧問は地図を入手する 機会があるかもしれません。 当時の支那では「5万分の1」でも珍しかったですが、「2万5千分の1」 の地図を入手したら、多大な報奨金(ボーナス)は約束されたも同然でした。
まあ、その地図が「正確」かどうかは全く別問題ですが。 地図上にはあるはずの道が無かったり、村が無かったりするのは 日常茶飯事ですw。
354 :
えICBM :2006/09/13(水) 02:19:01 ID:???
>>329 の77氏
私の祖父も翌十三年四月にシナ事変で戦死してまして、その当時の戦闘を調べた事があります。
残念ながら山東省南部でローカルな戦闘でしたので、資料は当時の新聞くらいしかありませんでした。
お探しの第三師団についてちょっと図書館で調べてみました。
「戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>」に、第3、第11師団の上陸とその後の戦闘が記述されています。
また、中国側の記録もあり、作戦レベルでの全体像がわかります。
ただ、上陸戦自体の詳細はほとんど無く、苦戦した等の簡単な表現で書かれています。
他のサイトにあるような弾薬不足等の記述もありません。
それでも、約7ページも割き、第3、第11師団の戦闘の様子がわかるのは貴重です。
読んだ私の感想は、海空の援護があるとは言え、たった2個師団で敵大軍の目の前で上陸を決行し、
苦戦しながらも橋頭堡を確保した上に、さらに前進して重要拠点を攻略しているのには驚きです。
そして、上海に極めて近い呉淞付近に上陸し、短期間で呉淞鎮を攻略し占拠した第三師団には脱帽です。
しかもこれは、まるまる一個師団によるものではなく、最初に上陸した先遣隊によるものです。
小さくて見難いですが、叢書と同じ戦闘経過図がネット上にあります。
http://ww1.m78.com/ori-map/shanghai%20map.JPG 河口部に上陸したのが第三師団で海上の点線の下の方です。
第11師団は、もっと北に上陸しており、主力の第三師団の側面を防護した形になってます。
その後、二個師団では無理だという判断で三個師団が増援されてます。
このとき上陸戦をせずに損害が出なかったのは、第3師団の奮戦の賜物です。
叢書は大きな図書館にはあると思いますが、必要ならコピペしましょうか?
>>354 >>322 のリンク先にあるサイトからは、日本軍は無残で悲惨で愚かな戦い方で、
陸軍は「アホの子の集団か?」という印象しか受けなかったのですが…。
よく分からなくなってきます。
356 :
えICBM :2006/09/13(水) 13:33:15 ID:???
>>355 http://ww1.m78.com/ori-map/shanghai%20map.JPG を見てください。
さすがに上海に近い戦場では内陸部への進出は進んでいません。
しかし、それでも海岸部は抑えており、後続の上陸を安全にしています。
第11師団主力と、第3師団主力も、太い矢印でもわかるように沿岸から10キロの敵拠点に迫っています。
共同租界北端、黄浦江沿いの公大飛行場は海軍が整備済みだが、飛行場北部の敵の妨害を受け使用不能でした。
これを排除する為、第三師団の後続部隊である歩兵第18連隊の飯田支隊が到着後、攻撃に当たります。
九月六日から攻撃を開始し、支隊長も戦死するほどでしたが、排除に成功し、8日から飛行が開始されてます。
この飛行場を抑えれたことで、日本軍航空隊の現地戦力が断然上がることとなります。
もっとも、敵が大部隊で構える上海周辺へ二個師団のみでの上陸、攻勢ですから損害はかなり大きいものと思われます。
現場の将兵達にとっては、かなり厳しい戦いを強いられた事になると思いますが、キッチリと戦果をあげています。
上海戦での第3師団は数ある支那戦線でも悲惨の部類に入る 季節も運悪く死体が腐乱し、文字通り地獄だった
358 :
77 :2006/09/13(水) 20:57:01 ID:???
パカね東洋鬼子
360 :
98歳 :2006/09/13(水) 22:02:17 ID:???
当時の日本は、あれこれ手を出しすぎた。 中国のみに火力を集中すれば勝てていたものを………惜しいことをした。 米英を敵に回した時点で我々の命運は尽きていたんだ。 ほんに惜しいことをしたのう……。 大陸の沿岸部を支配した時に進軍を止めて、豊かな治世を行えば状況は変わっていたのに…。
361 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/13(水) 23:15:09 ID:EBUj8MN2
>>358 >>コピーをとのご厚意ですが、まず、図書館に行って叢書を閲覧して
>>こようと思います。
まあ「地図だけ」で良いなら、戦史叢書をほぼトレースした本がありますけどね。
『図説 日中戦争』(太平洋戦争研究会著、ふくろうの本:河出書房新社)には
>>
http://ww1.m78.com/ori-map/shanghai%20map.JPG と全く同じ地図があります。ちゃんと(防衛庁防衛研修所戦史室著、『戦史叢書
支那事変陸軍作戦@』より )と但し書きがありますから、間違いないでしょう。
こっちの方が線などがスッキリしていて理解しやすいかもしれません。同じような
戦場図がゴロゴロしていてお勧めです。大き目の書店に行けば、簡単に入手できる
でしょう。
362 :
えICBM :2006/09/13(水) 23:37:35 ID:???
>>358 の77氏
図書館に行くのなら、その方が属していた連隊などを調べて行くと良いと思います。
地元ならば、師団や連隊関係の書籍が蔵書されていたりしますので。
連隊がわからないときは、イナゾウ氏に相談すれば、出身地等から割り出すと思います。
あと、事前のネット上での蔵書検索も役に立ちます。
>>361 実はその地図、内容は全く叢書と同じだけど、叢書では地名、部隊名が活字だしすっきりしている。
つまり、『図説 日中戦争』と叢書の図は同じもの。
ネット上に叢書の図を丸コピーしたものがなかったのでそれを出した。
しかし、手書きと活字では手書きが先だから、オリジナルはこれかも。
363 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/13(水) 23:41:08 ID:EBUj8MN2
>>352 の補足。>>当時の支那では「5万分の1」でも珍しかったですが、
>>「2万5千分の1」の地図を入手したら、多大な報奨金(ボーナス)
例えば1925年頃の話として、岡村寧次(大将:最後の支那派遣軍総司令官)の
回想があります。簡単にまとめると以下の通り。
その頃の岡村は中佐で支那の軍閥顧問をしていました。そんなある日、部下の
永見少佐が江南地方の地図を入手して来ます。
地図の入手は「支那駐在武官」の重要な任務であり、当時の支那では極秘とされて
市販していませんでした。最も詳細な地図は「5万分の1」と言われていましたが、
永見少佐は「2万5千分の1」のもの、部分的には「2万分の1」まで入手します。
永見は軍閥同士の内紛「蘇浙戦争」で一方に協力したことと、重要人物である
劉光の好意によって取得したものでした。ですから、勝手に持ち出すといった
スパイじみた行為をする必要もなかったのです。
364 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/13(水) 23:57:21 ID:EBUj8MN2
岡村と永見の2人は、現地の「町田写真館」へ極秘裏に地図の撮影を
依頼して、その夜は『灘の生』一本を空けて乾杯しています。
後に永見は上司から多額のボーナスを貰っているのです。
>>331 >>一般に支那通の連中が政治工作に熱中しすぎて、平時諜報、
>>なかんずく本来の軍事的諜報を軽視していた
まあ上記のように、在支武官が『兵要地誌』関連の仕事に精を出す
陸軍全体からのインセンティブ(報奨金)はあった訳です。それにも
関わらず「平時の諜報」が軽視されるようになったのは、軍閥勢力が
一掃された北伐の完成(1928年)以後ではないでしょうか。
地方の軍閥が割拠している時代は、内紛に軍事顧問として介入することで
『兵要地誌』へと繋がる情報収集も比較的容易だったのでしょう。ちなみに
岡村寧次は陸士の区隊長時代の教え子だった孫傳芳(支那留学生)に請われて
顧問になった訳です。蒋介石による「支那統一」以後は、こうは行きませんw。
365 :
77 :2006/09/14(木) 00:06:24 ID:???
>>361 > まあ「地図だけ」で良いなら、戦史叢書をほぼトレースした本がありますけどね。
> 『図説 日中戦争』(太平洋戦争研究会著、ふくろうの本:河出書房新社)には
> >>
http://ww1.m78.com/ori-map/shanghai%20map.JPG > と全く同じ地図があります。ちゃんと(防衛庁防衛研修所戦史室著、『戦史叢書
> 支那事変陸軍作戦@』より )と但し書きがありますから、間違いないでしょう。
>>362 図書館に行くのなら、その方が属していた連隊などを調べて行くと良いと思います。
地元ならば、師団や連隊関係の書籍が蔵書されていたりしますので。
--重ねがさね、ありがとうございます。
366 :
えICBM :2006/09/14(木) 00:07:41 ID:???
まあ、北支に派遣された支那通は、時代遅れの中国感を持っていたようだ。 一方、南京や上海に派遣された支那通は、中国が統一にまい進しているという認識のようだった。
367 :
えICBM :2006/09/14(木) 00:09:40 ID:???
>>365 いえいえ、私も今度祖父の出身地に行く際は、図書館で師団、連隊、大隊史などを調べようと思ってまして。
368 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/14(木) 00:11:39 ID:hHbk38cu
>>362 >>連隊がわからないときは、イナゾウ氏に相談すれば、出身地等
>>から割り出すと思います。
「東京タワー消去」のような『無茶振り』は止めて下さい(藁)。まあ、
別冊歴史読本の『日本陸軍連隊総覧』はもっていますが、
「何県何市の出身者はどこ?」と聞かれても無理ですw。編制時期の問題も
ありますし、上記の本では「編制地:岡山」とぐらいしか書かれていませんw。
せっかくネットというこのような場があるのですから、知っている人がいたらと
広く聞かれてみるのが一番だと思います。文殊の知恵がなんとやらw。
ちなみに『別冊歴史読本』関係は、神保町の「篠山書店」に行くと大体の
本が揃っていて、これから基本資料を自分でも揃えたいという人には、
手っ取り早く重宝するでしょう。その代わりボッタクリに近い価格ですがw。
369 :
77 :2006/09/14(木) 00:17:47 ID:???
370 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/14(木) 00:22:28 ID:hHbk38cu
いわゆる、その辺の古本屋(あるいはブックオフw)で価値も分からず 『捨て値』で売られているというパターンを期待してはいけませんw。 「高くても買う奴がいる」という売れ筋の本は、1冊2〜3千円するのも あります。しかし時は金なり、タイムイズマネーです。自分への投資と 考えて思い切りよく買いましょう。 しかし、自分が読めそうも無い本を買ってはいけません。ちなみに自分は 鉛筆でページが真っ黒になるくらいガンガン書き込みます。本の余白に 簡単な索引を自作します(後でどこのページにあったっけ?と探す時間が 無駄)。 高い本を買ったらその本を「読み終わる」まで次の本を買わない。なるべく 無理せず、長続きするコツは色々ありますw。
371 :
77 :2006/09/14(木) 00:30:32 ID:???
>>368 > せっかくネットというこのような場があるのですから、知っている人がいたらと
> 広く聞かれてみるのが一番だと思います。
−−いつもアドバイスをありがとうございます。
372 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/14(木) 00:41:01 ID:hHbk38cu
>>369 >>先ほど、さっそくアマゾンで『図説 日中戦争』を発注させて頂きました。
ゲゲッ! えらく迅速ですね。上記の本は『ド左翼史観』なので、その辺は
「華麗にスルー」してくださいw。しかし「写真数の多さ」はダンチなので
その点から言ってもお勧めの良書です。
自分もアマゾンは多用しますがユーズドマーケットだけで、新刊書店など
現物が確かめられるときは、可能な限りそうしています。え、
>>370 と
言ってることが違うって?w
それでも『図説 日中戦争』は、極右の自分も必ず推薦図書の1つに挙げる
良本です。自分でもレベルが上がったなと思った時に読み返すと、新たな
発見がある『くさや』のような書籍です。
>>362 >>内容は全く叢書と同じだけど、叢書では地名、部隊名が活字だし
>>すっきりしている。
まあどちらにせよ、日付が8月23日なら「23/8」と表記が逆になっていて
初心者のころは訳ワカメになった覚えがあります(藁)。
戦場図ならPHP文庫の『太平洋戦争主要戦闘事典』(これも著者が同じ
太平洋戦争研究会)が、日中戦争関連の戦場図を多く収録しており、また
入手も容易で非常にお勧めです。文庫にしてはお値段高めですが、手軽な
データブックとしても重宝します。
こちらは同じような図表で「8/23」と微修整されていますね。
>>360 >>大陸の沿岸部を支配した時に進軍を止めて、豊かな治世を行えば
>>状況は変わっていたのに…。
まあ、1939年に中国戦線を縮小する(北支と沿岸部を確保)という話が実現しそう
になったのですが、第二次大戦の勃発でお流れになりましたw。
蒋介石にとっては「内陸に誘い込んで日本軍を消耗させる」という戦略が
破綻する事になり、ある意味これ以上ない『悪夢』ですw。
375 :
77 :2006/09/14(木) 01:29:00 ID:???
>>372 > ゲゲッ! えらく迅速ですね。上記の本は『ド左翼史観』なので、その辺は
> 「華麗にスルー」してくださいw。
−−エエッ この本は『ド左翼史観』なのですか。!!!
驚きました。
しかし、日本近代史の書籍の多くはサヨク学者・団体によって編さんされたものが、
多いので、止むを得ませんね。
先ほど、ネットで拾ったある個人日記のようなものを読んでいました。
それは、中国戦線に従軍した元日本兵士の息子が書いたものです。
その息子は、父が生きている間中、父が中国で行った行為を責め続け、
父が亡くなろうとする病院の枕元で、意識が薄れ行く父に対して、
「中国でいったいどんな残虐行為をしたのだ。死ぬ前に全部告白しろ」と
いって、責め続けたのです。
一部を引用します。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『私は父の死を、個人の、家庭の、どこにでもある死の姿として認めようとはしていない。
父の死に社会性、時代性を見ようとしている。事に臨んで辛辣な私は、
父の枕元、耳元で「中国で女の人、子供、老男、老女、降伏した中国兵など」を殺さなかったか、聞いた。
父は感覚は相当に鈍麻しているが、耳はどうにか聞こえている。意志はかろうじて通じている。
手や足から血の色がなくなってきていて、父は黄泉の国の戦友に片手を握られているのだろう。
首を何回も振って「そんなことはしていない」とも「そんなことを聞かないでくれ」とも言っているようだ。何度聞いても同じである。』
−−とんでもない、バカ左翼息子です。この馬鹿息子のために、父上はどれだけ苦しめられたか。
なぜ、この馬鹿サヨク息子の話を引用させて頂いたのかは、次に書かせて頂きます。
376 :
77 :2006/09/14(木) 01:37:48 ID:???
申し訳ございません。手短に続きを書かせて頂きます。 おそらく世の中にこんな馬鹿サヨクが、たくさんいるためでしょうか。 以前、中国戦線に従軍していたわが家の年寄が亡くなった時、 年寄が文通していた数少ない存命の戦友の方に年寄の従軍した 作戦名を教えてもらおうと手紙を出したのです。 しかし、戦友の方から返事は頂けませんでした。おそらく、私が下らないサヨク史観を 持っていたりすると善意があだになることを恐れていらっしゃったのだろと 勝手に想像しています。 実は、私も昔は人並み以上のサヨク史観の持ち主で、せっかくわが家の年寄が、戦地の話を してくれても、糾弾こそしませんでしたが、まともに耳を傾けなかったのです。 それで、せっかくの貴重な歴史の証言をむざむざ捨てる形になってしまいました。 私のサヨク史観が抜け始めた頃は、年寄のボケが始まってしまいきちんとした話を 聞くことができませんでした。後悔の気持ちがあるところに、前記の馬鹿息子の 書き込みを読んだのでつい前のレスのような事を書き込ませて頂いた次第です。 申し訳ございませんでした。
377 :
77 :2006/09/14(木) 01:42:42 ID:???
>>373 > 戦場図ならPHP文庫の『太平洋戦争主要戦闘事典』(これも著者が同じ
> 太平洋戦争研究会)が、日中戦争関連の戦場図を多く収録しており、また
> 入手も容易で非常にお勧めです。文庫にしてはお値段高めですが、手軽な
> データブックとしても重宝します。
−−『太平洋戦争主要戦闘事典』は、私も手元に置いております。前のレスに
あのような事を突如、書かせていただいたのも、せっかくこういう史料が手元にあっても
わが家の年寄が従軍した作戦名が分からないと史料をたどることが、
できず、残念な思いが、ぬぐえないためです。
それはサヨクというより歴史に「無知」なだけなのでは? ネットで無造作にチョンやらチャンコロなどと叫んでいる「無知」な人間をウヨクと称しているようなものと同じ類なのでは。
私も実は以前このスレの2か3でイナゾウ中佐が薦めておられたので、 件の『ド左翼史観』の本を買ったくちなんですがw 一読してなるほど 節々に(とりわけ初期〜拡大期の記述の中に)左翼らしい旧軍批判が見受けられます。 ただ全体の流れとして 数字や地名、図を多用し、戦史叢書などの文献を挙げながら時系列に支那事変を述べていく形は 非常に読みやすく、また理解しやすいものでもありました。 難点は左翼視点の記述(ただし著者の意見とすぐ分かる書かれ方)と薄すぎることでしょうかね。 私は近所のツタヤ(なぜかミリタリー関係が充実している)で買ったのですが値段以上の価値はあると思いますよ。
私も基本的にロムですけど(軍事関係は素人)支那事変の頃なら 「大陸に渡った円の興亡(下)」多田井 喜生あたりなかなか興味深いですよ。 日本の支那の幣制改革阻止へ横浜正金銀行を通じての為替介入とか、 当時の大陸での米英バックにした蒋介石政権と日本との経済金融戦争がわかりやすく書かれています。
381 :
77 :2006/09/14(木) 02:51:31 ID:???
>>378 > それはサヨクというより歴史に「無知」なだけなのでは?
> ネットで無造作にチョンやらチャンコロなどと叫んでいる「無知」な人間をウヨクと称しているようなものと同じ類なのでは。
>>379 名前:基本的にROM[sage] 投稿日:2006/09/14(木) 01:54:00 ID:???
私も実は以前このスレの2か3でイナゾウ中佐が薦めておられたので、
件の『ド左翼史観』の本を買ったくちなんですがw
>>380 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2006/09/14(木) 02:06:33 ID:???
私も基本的にロムですけど(軍事関係は素人)支那事変の頃なら
「大陸に渡った円の興亡(下)」多田井 喜生あたりなかなか興味深いですよ。
>>378 >>379 >>380 皆様、色々、ご教示ありがとうございました。
382 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/14(木) 23:13:52 ID:Xf7zIMXW
>>379 >>件の『ド左翼史観』の本を買ったくちなんですがw
スイマセン。自分が不用意に「ド左翼史観」なんて言葉を使ったので色々な
誤解を招いてしまったようです。基本的に『図説 日中戦争』(太平洋戦争
研究会著)は自分が初心者に本を薦めるとしたら、必ず挙げる良本です。
『太平洋戦争・主要戦闘事典』もしかりです。
ただ、あまり『ベタ褒め』し過ぎて買った人に後から「左翼史観じゃないか、
買って損した」と言われるとアレなので、事前に釘を刺して置いただけです。
自分は「極右」ですけど、頭の悪いバカ右翼より、頭の良い左翼の方が断然
好きです。ここでいう「頭の良い」とは、自分の頭で考えているか否かです。
あとは真実を曲げないという一抹の良心があるかどうかです。
383 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/14(木) 23:35:28 ID:Xf7zIMXW
自分の「資料一覧」を挙げても良いかもしれませんが、ちなみに黄文雄は
1冊もありませんw。だいたい理由は想像できるでしょうw。
しかし初心者に「これだけは読め」と1冊だけ推薦するならば、『日本と中国は
なぜ戦ったのか』(益井康一著、光人社)になります。さらにもう1冊、同じ著者
同じ出版社で『日本はなぜ戦争を始めたのか』がセットになります。
著者は毎日新聞社で従軍経験のある記者ですが、非常に分かりやすい文章であり、
良い意味で「新聞記者の書く文章とはこういうものか!」と感服させます。自分の
文章のお手本はこの方です。ちなみに1999年に亡くなっています。
>>378 >>それはサヨクというより歴史に「無知」なだけなのでは?
自分が大嫌いなタイプの人間は、自分の頭で考えない奴です。生きてる価値なし。
だから自分は「誰も信じるな――Trust No One」と口を酸っぱくして言う訳ですw。
384 :
えICBM :2006/09/14(木) 23:42:39 ID:???
>>373 叢書はそういう点で敷居が高いのが欠点でしょう。
例えば、しきりに連絡会議なんて出てるので、朝の朝礼みたいなもんか?と思ってると、帝国の
実質最高決定会議だったりする。
難儀でした、一冊読むのに2ヶ月はかかります。
ところで、依然叢書の文語体がイヤ!とおっしゃってましたが、コツがわかりました。
漢字だけを読んで、カナはすっ飛ばして読んでも意味がわかりますし、早いです。
そういう理由で昔は文語体を使ってたのではないか、などと勝手に考察などをさせてくれます。
>図表
叢書は付録に良質な図表がいっぱいおまけで付いてますが、これがでかい。
A2サイズが当たり前だったりします。
それらがコンパクトにまとまってるなら、『太平洋戦争主要戦闘事典』は便利でしょう。
>>376 >>しかし、戦友の方から返事は頂けませんでした。
前スレで映画『蟻の兵隊』の批評をガンガンやりましたが、ラストの方で
主役の奥村が、最大の激戦地だった「太原」で戦った人物に何とかして
部隊の状況を聞こうとするのですが、手紙で断られ、電話で断られ、最後は
自宅に押しかけて尋ねていますが、結局何も聞けずじまいでした。
つーか、奥村の場合は、後ろに映画のカメラマンが付いていますから
追い出されて当然でしょうが(核藁)。
386 :
えICBM :2006/09/14(木) 23:52:43 ID:???
>>375 の77氏
上のレスで連隊史などもあるかもと書きましたが、大きな図書館ならあるとしたら書庫にあると思います。
表には出てないので事前検索が有効です。
大きな図書館なら、戦史叢書も書庫にある可能性が高いです。
>先ほど、ネットで拾ったある個人日記・・・
いやあ、凄まじいですね。
ゆきゆきて神軍の岡崎氏を彷彿とさせます。
私は現役左翼主義者ですが、そこまで身内を責めるのは無理ですね。
出来る範囲は歴史認識の相違に関して議論発、口喧嘩着まで。
ところで、その日記ですが本当ですか?
思想に被れるとある時期、極めて先鋭化してしまう場合が多々あるので、ありえる話ですが。
まあ、長い目で見れば青春の葛藤と言うやつです。
ところで、貴方が左翼を辞めたのは何でです?
ちなみに私は、高校まではバリバリ保守、右翼でしたが大学で左翼に転びました。
387 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/14(木) 23:53:23 ID:Xf7zIMXW
>>384 >>叢書は付録に良質な図表がいっぱいおまけで付いてますが、
>>これがでかい。
全く同感!! ある意味、こっちの方がメインです。知人に叢書を貸して
貰ったことがあるのですが、「図表は絶対に失くすな!」と何度も何度も
クギを刺されましたw。
叢書もボツボツ1、2冊だけでも買って読んでいきたいなあ、と思って
いるのですが「お値段の問題」もありまして頓挫しています。図書館で
コピーという手もあるのでしょうが、付録の図表が完全な形で欲しいと
いう理由もある訳です。
>>それらがコンパクトにまとまってるなら、『太平洋戦争主要戦闘事典』
>>は便利でしょう。
それは無理w。
388 :
えICBM :2006/09/14(木) 23:58:49 ID:???
>>387 私も図書館に返却するときはあらかじめ袋から出し、チェックしやすいように並べてます。
>それは無理w。
無りっすか。
残念。
389 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/15(金) 00:12:17 ID:aOSdGglS
ちなみに自分が今読んでいるのは、『日中戦争の軍事的展開』(慶應義塾 大学出版会)です。お値段的には「叢書」を買うのとほとんど変わらない のですが(本体5800円w)、やはり評判どおりの良本です(1人、どう しようもない筆者あり。つーか、この程度でいいなら自分でも書けますw)。 特に第7章の『華北の対ゲリラ戦、1939−1945 失敗の解析』(山本昌弘著、 ワイオミング大学講師)が抜群に良いです! 血も涙も無いクールな視点に 思わず「股を濡らして」しまいそうです。自分好みの筆者です。 あと、第2章の『中国空軍の対日戦略―日本爆撃計画を中心に』(萩原充著、 釧路公立大学経済学部教授)も大変参考になりました。 つられて第1弾の方の『中国の地域政権と日本の統治』(同じく慶応義塾 大学出版会)も買ってしまいましたが、こちらの内容は読んでみないと 何とも言えませんw。
>>386 >>ちなみに私は、高校まではバリバリ保守、右翼でしたが大学で
>>左翼に転びました。
自分も『極右』を自称していますが、日本軍による虐殺も全然認めていますし、
よそから見れば「左翼」と言えるかもしれませんw。
もういい加減に絶滅したと思いますが、太平洋戦争が「植民地解放戦争」だ
なんて言う人間には(この前の朝生で居たような気がする…orz.)、
『260万英霊に謝れ!』と罵りたくなります。別の意味で侮辱です。
391 :
えICBM :2006/09/15(金) 00:29:32 ID:???
>日本軍による虐殺も全然認めていますし、 よそから見れば「左翼」と言えるかもしれませんw。 ようこそ、左翼の世界へ。 貴方は立派な左翼です。 大丈夫、ゲバ棒と黒塗りヘルメットはいまどき流行らないから安全。 >『260万英霊に謝れ!』と罵りたくなります。別の意味で侮辱です。 私はここぞとばかりに誇張して300万、350万、しかも海外領土全て失陥とたたみかけます。 バカウヨでもこれには反論しません。
>>ようこそ、左翼の世界へ。 たまに「自分が右翼なのか、左翼なのか」悩む時がありますw。それはさて置き、 3連休は法事で帰省するので数日おりません。よろぴく。
393 :
77 :2006/09/15(金) 01:26:06 ID:???
>>386 引き続き,色々ご教示ありがとうございます。
> >先ほど、ネットで拾ったある個人日記・・・
> いやあ、凄まじいですね。
> ところで、その日記ですが本当ですか?
ネットで公開されているので、構わないと思います。
アドレスです。「父 と 戦 争」というタイトルです。
http://www.jca.apc.org/nmnankin/mita1.html > ところで、貴方が左翼を辞めたのは何でです?
> ちなみに私は、高校まではバリバリ保守、右翼でしたが大学で左翼に転びました。
少しずつきっかけがあって薄皮をはぐように洗脳が醒めていった感じです。
何か決定的な事柄があったわけでは、ありません。
一つ一つのきっかけは、濃淡の差はあれ、それぞれの記憶がありますが、
個人的な事で面はゆいばかりです。詳細はご容赦を。
394 :
だつお :2006/09/15(金) 06:14:48 ID:VyFx52Zz
世界の戦場を駆けた「P-51」(渡辺洋二) [対日戦のマーリン・ムスタング] 太平洋戦線で最初にマーリン・ムスタングを装備したのは、中国大陸の第14 航空軍の1隊として、すでにP-51Aで戦っていた第23戦闘グループの第76戦闘 飛行隊。1944年2月からP-51Bへの改変を進め、C型も加わった。9月以降さらに 2個飛行隊が、P-40から切り替えられていく。 同グループの変わり種は、6月に編入の第118戦術偵察飛行隊。偵察機装備が 本来なのに、P-51Cを主装備機とし、戦闘機隊とみなされて作戦した。 第51戦闘グループの3個飛行隊は1944年3月から年末にかけて機種改変。 インド方面の第10航空軍から編入された第311戦闘グループ(旧・戦闘爆撃 グループ)は、P-51B/Cを装備して8月に中国奥地の成都近郊に進出した。 D型とK型の配備は1945年に入ってからである。 逐川、零陵を基地とする第23グループは、10月の香港空襲の掩護、大陸打通作戦 に圧迫される中国地上部隊の支援などを実施。成都防空の第311グループは華北へ作戦 地域をうつし、11月から鉄道施設攻撃のB-25の護衛や漢口、南宛の飛行場を襲った。 雑誌「丸」編集部 P-51ムスタング/P-47サンダーボルト 図解・軍用機シリーズ8
396 :
だつお :2006/09/15(金) 20:00:44 ID:XKq7yiQh
> 太平洋戦線で最初にマーリン・ムスタングを装備したのは、中国大陸の第14 >航空軍の1隊として、すでにP-51Aで戦っていた第23戦闘グループの第76戦闘飛行隊。 大陸打通作戦を迎え撃つ中国側は、最新のツールをもって臨んだことは疑いない。 しかしながらそれはチンパンジーを最新兵器で武装させて人間に対抗させよう という試みと同じで、中国人の絶望的な知能障害を補うものでは決してなかった。 チンピラゴロツキに航空支援で追い風吹かしたつもりが、逆にチンピラゴロツキ を大量殺戮する口実を皇軍に与える結果となってしまった。 チンピラゴロツキに追い風吹かしても、チンピラゴロツキはチンピラゴロツキ。 チンピラゴロツキを激励しても、チンピラゴロツキで何が悪いと居直るだけ。
397 :
だつお :2006/09/15(金) 20:13:27 ID:XKq7yiQh
> 一九四四年末までに、蒋介石はもはや有力な盟友と見られなくなっていた。 >日本軍は中国東部での攻勢でさらに八省を手に入れ、さらに一億人の中国人 >が日本の支配下に置かれ、米軍飛行基地は放棄のやむなきにいたり、中国の >東海岸は封鎖された。帰還命令を受ける直前の十月四日、スティルウェル >は日記に書きつけた。「陸軍省が私に味方しているのは明らかだが、この >戦域は無価値とみなされ、われわれは何も期待されていない」 中国国民党というチンピラゴロツキに支配されるのもチンピラゴロツキ、 だから中国人はみんなチンピラゴロツキ。 チンピラゴロツキが「抗日戦争」なるアジ演説をしてみたところで、 皇軍の大陸打通で化けの皮が剥がれ粉々に叩き潰されてしまった。 皇軍兵士の銃剣突撃で、中国エセ抗日チンピラゴロツキ団はションベン ちびってみんな逃げ出してしまった。
398 :
だつお :2006/09/15(金) 22:13:45 ID:VyFx52Zz
>自分の「資料一覧」を挙げても良いかもしれませんが、 伊藤正徳「帝国陸軍の最後」 児島襄「日中戦争」 野村浩一「蒋介石と毛沢東」 トーマス・アレン&ノーマン・ボーマー「日本殲滅」 ロナルド・ハイファーマン「日中航空決戦」 スターリング・シーグレーブ「宋王朝」 鳥居民「昭和二〇年」 古野直也「張家三代の興亡―孝文・作霖・学良の“見果てぬ夢”」 渡辺洋二「死闘の本土上空」「未知の剣」 ・・・ってどうよ?
399 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/16(土) 01:12:44 ID:OF7/0V4R
>>384 >>ところで、依然叢書の文語体がイヤ!とおっしゃってましたが、
かなり前の話ですが、軍板の書評スレで「旧カナ混じりの文語体を読むのが苦手」と
書き込みましたら、『アホの子』の扱いをされて憤慨したものですw。しかし、昔の
軍人は以下のような手紙を出していた訳でして、皆さんスンナリ読めますでしょうか?
手紙の場面は、支那事変開始後――。参謀本部第一部長を辞任した石原莞爾が関東軍
参謀副長に赴任しますが、参謀長だった東条英機と険悪になります。しかし、その内に
ヒデキが陸軍次官に転出して、カンジが「今度は自分が関東軍参謀長だ!」と内心期待
していたら、ところがドッコイw。磯谷廉介(中将)が上司としてその座に収まる訳です。
カンジは磯谷廉介とも全くそりが合わず激突、ついには「軍人をやめたい」と辞意を
漏らして帰国します。その後は転地療養、舞鶴要塞司令官に飛ばされる訳です。
そんな時、本庄繁(満州事変時の関東軍司令官)が磯谷廉介に手紙を出しています。
400 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/16(土) 01:32:18 ID:OF7/0V4R
1938年8月7日付 手紙(航空便) 「本庄繁・軍事保護院総裁」→「磯谷廉介・関東軍参謀長」 (夜分遅ク認メ乱筆、御判断下度候) 拝啓御着任以来日頃御多忙ト存上候 堵而貴下ト石原ト意見ノ齟齬ヲ来シ石原ヨリ引退帰朝ヲ申出テタリトテ 省部当事者ニ於テ苦慮致居リ、現在ノ如キ内外多事ノ折柄石原ノ満州ヲ 去ル事ハ露国側ニ与フル思惑モ如何カト被存旨申居候、小生モ当初必スヤ 爰ニ至ル可キヲ懸念シ、石原ヲ陸大校長ニ栄転セシム様当事者ニ勧メ申シ 次第ニ候、然ルニ貴下東京出発ノ際石原ヲ使フ旨話サレタリト申候儘、 小生モ遂其儘ニ打チキタル様ノ事情ニ候
401 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/16(土) 01:47:03 ID:OF7/0V4R
漢字の方が圧倒的に多いのですが…orz/. 自分も不明の箇所があるので テキトーに現代語訳すると以下の通りw。 関東軍参謀長に着任して以来、ずっとご多忙のことだと思います。 貴官(磯谷)と石原(莞爾)の意見が衝突して、石原が引退帰国を 申し出た事により陸軍中央では石原の処置を苦慮しております。 現在のように国内外で多くの問題を抱えている時、石原が満州を去る のはソ連側に与える影響も如何なものかと思われます。自分も当初は、 必ずや貴官(磯谷)と石原が衝突するに違いないと心配して、石原を 陸大校長に栄転(避難)させるよう関係者に相談していた次第です。 しかし貴官が東京を出発する際に「石原を上手く使ってみせる」と 仰っていたので、つい自分も事態をそのまま放置してしまった訳です。
機械で起こされた統一されたフォントならまだいいけど 以前に参謀本部がまとめた関ヶ原の役を、国会図書館のwebライブラリーで閲覧した時には 参本の中の人が筆で書き殴った旧書体だったので読むのに嫌気が差した覚えがあいます。
403 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/16(土) 02:06:36 ID:OF7/0V4R
本庄繁は「満州事変」直後の手紙で『石原厄鬼ナリ』と断じて、その欠点を
箇条書きに挙げるような真似もしていましたが、他方で石原の才能を惜しみ、
陸軍がカンジを失うのは大きな損失であると考えていました。
>>401 の手紙では、自分はカンジが磯谷と絶対に衝突すると考えていたので
石原を陸大校長に転出させる事でしばらくホトボリを冷ませようと根回し
していた。しかし、磯谷が東京を出発するとき「自分は絶対に部下として
石原を上手く使ってみせる」と断言するので、自分も「ついそれなら…」と
放って置いてしまった。その結果が、このザマであるw。
自分の見通しの甘さを後悔すると共に、あれほど大言を吐いて置きながら
結局、石原をコントロール出来なかった磯谷を手紙で非難しているのです。
後日(8月31日)、本庄繁は磯谷に再度手紙を送っています。
404 :
えICBM :2006/09/16(土) 02:06:47 ID:???
>>392 >たまに「自分が右翼なのか、左翼なのか」悩む時がありますw。
そうですね、私の場合は立脚点で個人を重視するか、集団を重視するかで判断してます。
勿論すべてのに人間は集団に属して、かつ個人でもありますから両面を持ちます。
だから、片方のみを選択は出来ませんが、どちらかを重視するかとなると、私は個人です。
だから私は自分が左翼だと認識しています。
世間の左翼定義とそれるかもしれませんが。
戦争を例に上げれば、兵、市民、財産等の個人の大事な物を奪うから反対。
しかし軍備は、戦争が事実上ある限り、社会集団が自衛権を持ち兵、市民、財産を守るのは賛成。
と言うところでしょうか。
つまりは厳密なる9条の適用は私にとっては個人を保護する意味で許容範囲となる。
しかし、旧軍の行った中国への侵略や太平洋戦争は個人を軽視しすぎるので範囲外となる。
強い日本を目指すという言葉なんて聞くと、個人のレベルではどうなのか?と真先に考えます。
まあ、線引きはこんなとこです。
405 :
えICBM :2006/09/16(土) 02:07:52 ID:???
>>399 >・・・『アホの子』の扱いをされて憤慨したものです・・・
アホの子はけーーん。
>>400 漢字だけを読んでても十分内容を把握できます。
>堵而貴下○石原○意見○齟齬○来○石原○引退帰朝○申出○
>省部当事者○於○苦慮致居○、現在○如○内外多事○折柄石原○満州○
>去○事○露国側○与○思惑モ如何○被存旨申居候、小生モ当初必○
>爰○至○可○懸念シ、石原○陸大校長○栄転○様当事者○勧○申○
>次第○候、然○ニ貴下東京出発○際石原○使○旨話○申候儘、
>小生○遂其儘○打○様○事情ニ候
もっとも、歴史背景がわからないと困難ですが。
>>401 >自分も不明の箇所があるので・・・
不明の漢字は部首変換で該当の文字を探すと、読みがわかりなんてこと無い読みである場合が多々です。
実は始め、「且」(かつ)や斯かる(かかる)がわからんで苦労しました。
現在使われない漢字については慣れるしかまりませんが。
あと、部首変換は中国の地名を入力するのに便利です。
406 :
えICBM :2006/09/16(土) 02:10:59 ID:???
>>393 なかなか意味が深い日記ですね。
軽々に感想などはかけないので、後日のレスで勘弁をば。
>少しずつきっかけがあって薄皮をはぐように洗脳が醒めていった感じです。
>何か決定的な事柄があったわけでは、ありません。
>一つ一つのきっかけは、濃淡の差はあれ、それぞれの記憶がありますが、
>個人的な事で面はゆいばかりです。詳細はご容赦を。
私がウヨからサヨに転んだものそんな感じです。
人間の思想って環境によるのだとつくづく思いましたよ。
頼りないものです。
407 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/16(土) 02:29:18 ID:OF7/0V4R
拝復御着任後ノ御挨拶添存上候 御着任早々何カト御多用ト存上ゲ候 石原問題ハ定メシ御困却相成候事ト 存シ御同情申上ケ候 小生ハ予メ斯ク成ルヘク予想シ中島部長等ニ懇ニ 貴下着任前ニ陸軍大学ニ転任可然注意致シ次第ニ候 其後多田等ニ会イシ折皆磯谷君ハ石原ヲ使ッテ見ルトノ事ナリシトノ事ニテ 暫ハ是非ナシト存シタル次第ニ候 今日ニテハ大学校ニテモ石原ヲ拒否スル 空気アリ困リ居リ候 併シ何レニシテモ彼丈ケノ人物ヲ失敗セシムル事ハ国軍ノ為メ不利ト存シ 小畑ノニノ舞ヲセシメヌ様祈居リ申候 石原ハ帰来後、多田、板垣、と石原 三人丈ケニテ会食談ヲ交シタルノミ(此時モ多田、板垣ヨリハ何等意見ハ 述ヘサリシ由)トノ事、小生モ亦タ面晤致仕当人両三日前、茨城ノ大洗ヘ参リ 転地療養致居候 国内テハ石原帰京ニ付、多少ノデマモ飛ヒ石原ハ無断ニテ帰朝 セリ杯ノ噂モ出テ軍紀問題云々スルモノ有之 小生ハ左様ノ事ナシト頑張リ居リ候
408 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/16(土) 02:46:25 ID:OF7/0V4R
(テキトー和訳w) 関東軍参謀長に着任以来、何かとご多忙の事だと思います。「石原問題」は そちらでも困った事態となっているようで同情申し上げます。しかし自分は 以前からこのような結末になるだろうと予期して、中島部長(?中島鉄蔵・ 参本総務部長?)などへ盛んに、貴官(磯谷)が関東軍参謀長に着任する前に、 石原を陸軍大学に転任させた方がいいのではないかと注意を喚起してきた訳です。 その後、多田(駿・参謀次長)などに会った時、皆が「磯谷君が石原を部下 として使いこなしてみせる」と言っているのだから、しばらくは様子を見よう という結論になった次第です。ところが今となっては、陸軍大学でも石原が 転任してくるのを拒否する空気となって、非常に困っています。
409 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/16(土) 02:57:40 ID:OF7/0V4R
(テキトー和訳、続き) しかし何れにしても、石原のような才能ある人物を失うのは、国軍にとっても 不利な損失です。石原が小畑(敏四郎・作戦の鬼、皇道派の雄で予備役に)の 二の舞になってしまわないよう祈るばかりです。 石原は内地に帰国後、多田、板垣(征四郎・陸相)の3人で会食談をした だけとの事です(この時も多田や板垣からは、何ら具体的な意見は出なかった 様子です)。自分もまた石原に会いましたが、当人は3日前より茨城の大洗に 行って転地療養となっています。 内地では石原の帰国について、少なからずデマも飛び交っています。石原は 無断で帰国したとの噂も流れて、これを「軍紀問題である」と問題視する 意見も出ています。自分はそのような事実は決してないと頑張っています。
410 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/16(土) 03:11:38 ID:OF7/0V4R
長くなりましたが、上記の手紙で「特筆」すべきは以下の点です。 ●本庄繁(満州事変時の関東軍司令官であり、そのため後のA級戦犯に)が 最後までカンジを擁護し続けたこと。内心は「石原厄鬼ナリ」と思いつつ、 その卓越した才能が散るのを惜しんでいた(複雑な心境でしょうがw)。 ●従来、関東軍参謀長のヒデキが副長のカンジを左遷に追いやったと言われて いましたが、トドメを刺したのは、後任の「磯谷廉介」との衝突だったこと。 ●カンジを関東軍参謀副長から、陸大校長に転出させようという動きがあった こと。実現していれば、史実のようにあれ程早く予備役に追いやられることは なかったかもしれません。まだ1938年の話ですから、その後の展開はどうと でも変わるでしょう。 ●石原と小畑が同一視、ダブって見られていたのは興味深いです。
411 :
えICBM :2006/09/16(土) 03:47:00 ID:???
>>410 日本の侵略政策の大元の莞爾がA級戦犯容疑者にもならなかったのは、戦時中に東条批判を繰り
返していたからだそう。
つまり、GHQからみれば戦争に反対した善人ということになります。
東京裁判の晴れ舞台で莞爾の弁論を聞きたかったものだ。
意外と私がわるいんです。
吊るしてくださいと素直な態度にでるかも。
石原は時間を遡れば戦犯に指名されたであろうが、 主なA級は支那事変拡大を主導した中心人物まで 支那事変勃発以前は助かったケースが多発している。 満州事変首謀者のうちの1人板垣がA級に指名されたのは、陸相時代のもの 尤も石原の場合は戦時体制が進むにつれ、ハシゴを外されたわけだから、彼の場合はレアなケースといえる。
東条との争いに負けたおかげで助かったのか。皮肉だな。
414 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/16(土) 11:09:22 ID:SCceieCx
>>411 >>東京裁判の晴れ舞台で莞爾の弁論を聞きたかったものだ。
支那事変を誘発する大きな要因となった「綏遠事件」の首謀者・田中隆吉などは
敗戦直後に軍内部の暴露本『日本軍閥暗闘史』を出した事で連合国の検察の目に
止まり、呼び出されて「東京裁判」に証人として出廷となった訳です。恥知らず
のひと言です。
カンジもそのような「暴露本」を直後に出していれば、トンチキな検察によって
東京裁判の本廷に出られたかもしれませんw。ちょっと空想が過ぎますが(藁)。
しかし、カンジが左遷されたのが1938年という早い段階です。カンジが太平洋戦争で
直接部隊を率いていたら…? と考える人は多いでしょうが、どうせ少将の階級で左遷、
窓際に追いやられるなら、師団の旅団長か独立混成旅団長ぐらいで支那事変で戦うところ
を見てみたかったなあ、とも思います。
ほとんど「参謀懸章で首括って死ね」というぐらいの左遷人事ですけどw。
415 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/16(土) 11:20:16 ID:SCceieCx
カンジの立場の難しいところは、作戦部長という立場で「支那事変の拡大」に 一人反対していたので、まさか支那で実戦部隊を率いて戦え、とするには いかない訳です。そうすると、関東軍か朝鮮か、内地の要塞司令官か 果ては陸大校長か、とするしかありません。 省部(陸軍省・参謀本部)の要職から外すとすると、そのぐらいしか 無い訳です。本人の適性やプライドもあるでしょうしw。 これがヒデキだったらどうなるか? 例えば、大ポカをやらかして左遷と なったら、おそらく支那事変で治安師団などを率いるワンノブゼムになって いたのではないでしょうか。 おっと!そろそろ法事で帰省する時間なのでアディオス。乱筆御免w。
陸大校長の職はこのちょっと前まで多田が兼任してたんだけど、 このころには塚田が専任となってた。タイミングが悪かったね。
空中浮遊ネタで必死な工作員は、 第7サティアンがシャブプラントだった事実や、 逃げた実行メンバーが皆創価信者と統一信者だった事実は絶対語らない。 自分が殺されるのが分かってるから。 麻原は弁護団に薬漬けにされ、控訴もさせてもらえず死刑確定。 上祐は今も元信者が真実を語ることのないよう囲って隔離し続けている。 警察は再びテロを起こしかねない上祐グループを何故かスルー。マスコミもスルー。 結局村井や坂本弁護士とかは簡単に殺されてる中で、 未だに上祐も殺されない→命と引き替えに真相をばらせない 未だにオウムも潰されない→創価統一まで辿り着かせない オウムウォッチャーも誰一人殺されずに頑張ってますね。 創価統一に話題が流れないよう必死に逸らしまくってますが。 そういえば、サリンの後に自公連立(統一創価連立)なんてあったね。 政策が180度違う二政党が10年近くも未だに連立してる。 郵政造反組さえ完全に切り捨てた小泉が何故公明を切らなかったのか。 後藤組、野中、亀井、福島県知事と北朝鮮関連に捜査の手がまわり、 北朝鮮に経済制裁まで行うというこの後に及んでも、 北朝鮮宗教そのものであるオウムと創価公明がなぜ潰されないのか。 「即刻死刑にすべき」→「何も喋らせずにシャブ漬けのままはよ殺せ」 まあ麻原に真実を吐かせようとしたらオウム残党(逃げた創価統一信者)が 麻原奪還に見せかけたテロを実施、混乱の中何故か麻原脂肪となる訳だが。 (北朝鮮+韓国)×ユダヤ資本×CIA=創価学会+統一教会 創価信者+統一信者+ロシアユダヤ+麻原=オウム真理教 北朝鮮×後藤組等(在日893)×第7サティアン=シャブ オウム÷真相暴露=村井殺害+坂本弁護士殺害+国松長官銃撃+オウムウォッチャーの不可解な言動 こんな単純な計算もできないなんて、ゆとり教育の成果というべきか・・
オウム事件の時に宗教法人税の改正が話題に出たのを知らないのかな。 まあ、直後の住専問題で誰もオウム、宗教法人税の見直しなんてどうでも良くなっただけだ。 責任があるとしたら大多数の有権者ということになるな、そうやっていつまでも他人のせいにしてろ。
419 :
77 :2006/09/16(土) 14:33:22 ID:???
『図説 日中戦争』(太平洋戦争研究会著)が、先ほど、アマゾンから届き、 読み始めました。イナゾウ中佐が、おっしゃるほど『ド左翼』では、 なさそうです。この程度の左翼臭なら、微臭といってよいかと思います。 以前「日中戦争 目撃者が語る 秘蔵写真多数掲載」(猪瀬直樹監修、高梨正樹編集、新人物往来社)と いうのを買って、その左翼臭にへきえきした経験があります。
ハァ?新人物往来社って極右だろ。
421 :
77 :2006/09/16(土) 15:17:28 ID:???
>>420 > ハァ?新人物往来社って極右だろ。
神田の古本市で買ったもので1989年 11月発行となっています。
新人物往来社が極右だとしても、発行当時の歴史評論界の
潮流の中で編さんされたものなので、今から見れば、
左翼臭ふんぷんたるものに仕上がっているということでは、
ないでしょうか。
422 :
えICBM :2006/09/17(日) 03:05:39 ID:???
>>412 えー、資料を1ヶ月封印してますので、1ヵ月後にあらためてレスをば。
東京裁判の容疑認定は最初は太平洋戦争が中心でした。
しかし、ニュルンベルグ裁判との法的整合性をとるには平和に対する罪の共謀罪が必要になります。
そうなると必然的に満州事変が容疑の期間の最初になりますので、莞爾はもろ引っかかります。
と言うような要旨だったような無かったようなです。
多分、きっと、まさか。
>>414 >田中隆吉
田中隆吉の東京裁判での役割は、キーナンと組んであやふやな証言で陸軍に罪をなすり付けることです。
これは、天皇の責任回避を目論む、GHQ、日本政府、しかも軍人達も第一の望みでした。
けど、やりすぎであるのは事実で、恨まれたようです。
彼のニックネーム人面獣が全てを物語ります。
しかし、彼の本心はどこにあったのでしょうか?
>東京裁判の本廷に出られたかもしれませんw。ちょっと空想が過ぎますが(藁)。
実は出張判事団が病床の莞爾を訪れ、証言を述べさせてますが完全に煙に巻く証言でした。
>>415 莞爾の左遷話は、第三師団に大きく絡むかむので、因果なスレになりつつあります。
423 :
えICBM :2006/09/17(日) 03:15:03 ID:???
>>419 の77氏
今日というか、昨日の朝から野暮用があり名古屋に行ってまいりました。
んで、県立図書館によって資料漁りをし、第三師団関係も見てきました。
ほんでもって、わかったのですが、師団史よりも連体史の方が圧倒的に詳細かつ生々しいです。
やはり連隊を突き止めるのが重要ではないかと。
今回の経験で私が祖父の戦史を調べるのに重要な点がわかり助かりました。
間接的ながらお礼を述べたいと思います。
まあ、戦史を語ると価値観がもろに出ますし、出ないと書籍として面白く無いです。
その点、もっと作戦、戦闘にべったりな師団史、連体史は資料としていいと確認できました。
けど、当時の記録故に日中戦争大肯定ですが。
424 :
77 :2006/09/17(日) 07:29:53 ID:???
>>423 > 今日というか、昨日の朝から野暮用があり名古屋に行ってまいりました。
> んで、県立図書館によって資料漁りをし、第三師団関係も見てきました。
素晴らしい行動力でいらっしゃいますね。
> ほんでもって、わかったのですが、師団史よりも連体史の方が圧倒的に詳細かつ生々しいです。
> やはり連隊を突き止めるのが重要ではないかと。
> 戦闘にべったりな師団史、連隊史は資料としていいと確認できました。
なるほど、師団史、連隊史ですか。私は、まだ生の史料を読みこなせるほどの
知識がありませんので、これから少しずつ勉強して、やがて師団史、連隊史を
ぜひ、読みこなせるようになろうと思います。
ご教示、ありがとうございました。
425 :
だつお :2006/09/17(日) 08:01:58 ID:ZltyFV9+
>続きですが、何度も繰り返し述べているとおり、蒋介石とスティルウェルの >仲は『極悪』ですw。そして2人とも「性格に難」がありますから、一方だけを >批判すれば、自動的にもう一方を擁護する事になります。 蒋介石=足利義昭、スティルウェル=織田信長と考えたらどうだろうか。 実力もないくせに将軍だからというだけで天下に号令しようという人物を、 歴戦の武将がこれに従うだろうか。 中華民国などと国家を自称していても、現実的にそれはマトモな統治 能力をもたない。アメリカが自らの資金で最新のツールでいくつもの 航空基地を建設してやってもそれを維持する力さえもない。
426 :
だつお :2006/09/17(日) 08:36:58 ID:ZltyFV9+
>中国戦区の優先順位とはヨーロッパに比べれば
>やはり『チンカス』のようなものに過ぎないのですw。
アメリカの援助額は総額500億ドルのうち英連邦に300億ドル、
ソ連に100億ドル、中華民国には15億ドルという見積もりがある。
確かにそういう比較ならば中国軍は少ししかもらっていないことになる。
しかしながら中国戦線には第20爆撃兵団や第14航空軍など、
アメリカ陸軍航空隊が直接参戦している。アーノルドやルメイ、
シェンノートの空軍に使った経費は対外援助に含まれない。
(援助が少ないという蒋介石の主張にルーズベルトは対応していた)
アメリカの武器貸与法で計45ヶ国に供与された物品の価値は、510億ドル
とも言われる。ただし、これには輸送途中で失われた財貨、相手国に請求
できなかった物品、アメリカ軍自体が消費した財物、それに管理費が含ま
れているため、若干水増しされているかもしれない。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/5215/war-economy.htm
427 :
だつお :2006/09/17(日) 08:38:54 ID:ZltyFV9+
>アメリカの援助額は総額500億ドルのうち英連邦に300億ドル、
Losses per theater
Theater Dead %
Africa 16.066 0,3 ←北アフリカ大決戦の真実
Balkans 103.693 1,9
North 30.165 0,6
West 339.957 6,4
Italy 150.660 2,8
Eastern Front (- Dec 1944) 2.742.909 51,6
Germany (1945) 1.230.045 23,1
Various 245.561 4,6
Total 4.859.056
http://www.axishistory.com/index.php?id=3612 ドイツ軍戦死者戦線別統計
>北アフリカ大決戦
トーチ作戦前のエルアラメインの兵力は英第8軍が23万。砲装備戦車1440両。
航空機1200機。ロンメル軍が8万以下、うちドイツ兵2万7千。
ドイツ戦車260両。イタリア戦車280両。航空機350機
http://www.oc.jful.jp/~oc429s/newpage22.htm
428 :
77 :2006/09/17(日) 09:22:24 ID:???
>>426 > アメリカの援助額は総額500億ドルのうち英連邦に300億ドル、
> ソ連に100億ドル、中華民国には15億ドルという見積もりがある。
援助額という金額で見ると、また違った光景が見えてくるものですね。
ただ、対日戦線では、米国自身が太平洋側から横綱相撲を仕掛けて
いるわけですから、支那は第2戦線として支那派遣の日本軍を引きつけて
おいてくれれば、よいという考え方だったのでは、ないでしょうか。
もっとも、蒋介石軍がもっと頼りになるならば、強力に支援して
日本を挟み撃ちにできたのだろうと思いますが、、、。
429 :
えICBM :2006/09/17(日) 15:30:25 ID:???
>>424 いえいえ、金があればおねえちゃんとパーっと遊びたいのですが、そうも出来ず、金なし
には、図書館には最高の娯楽です。
コピー代がかかりすぎますが。
それに、他にも大図書館で調べねばいけない事情が多々ありまして。
しかし、大図書館はいいですね。
隣の公園にダンボールで陣を張ってもいいかな?
なんて考えつつ後にしました。
師団史、連隊史は後世に語り継ぐのが目的なのか、普通に口語体です。
叢書のようなカナまじり漢字の文語体では無いので敷居はほぼ無いです。
体験記も全体の半分を占めたりしますし。
あと、師団史でも第三師団衛生隊回顧録、第三師団通信隊史なんてのもあります。
これらは結構戦場の様子が詳細に書かれています。
430 :
えICBM :2006/09/17(日) 15:33:03 ID:???
米英は、対日戦開始前から欧州では攻勢、太平洋では守勢と決めておりました。 対中援助が渋いのもそのためです。 それでも、太平洋では半年で攻勢が頭打ちになった日本軍って・・・なんて事は打通さんには関係なし。
431 :
えICBM :2006/09/17(日) 15:37:10 ID:???
>>428 >いるわけですから、支那は第2戦線として支那派遣の日本軍を引きつけて
>おいてくれれば、よいという考え方だったのでは、ないでしょうか。
おかげで大勢の将兵が太平洋に回され飢え死にせずに済んだ。
ソ連の抑留と言うハプニングもありますが、抑留での死者は1割です。
南方とは比べ物になりません。
私の祖父は、シベリア抑留されましたが生還してます。
体を壊しましたが。
それでも南方で無くて良かったと、最初は思いました。
432 :
77 :2006/09/17(日) 21:06:58 ID:???
>>429 > 師団史、連隊史は後世に語り継ぐのが目的なのか、普通に口語体です。
> 叢書のようなカナまじり漢字の文語体では無いので敷居はほぼ無いです。
> 体験記も全体の半分を占めたりしますし。
なんか、叢書よりは敷居が低そうですね。私も一度、挑戦してみます。
ご教示、ありがとうございました。
433 :
77 :2006/09/17(日) 21:24:12 ID:???
>>431 >
>>428 > >いるわけですから、支那は第2戦線として支那派遣の日本軍を引きつけて
> >おいてくれれば、よいという考え方だったのでは、ないでしょうか。
> おかげで大勢の将兵が太平洋に回され飢え死にせずに済んだ。
日本軍にとって南方の島嶼戦というのは、想定外の戦いだったんでしょうね。
南方に配属された陸軍は、兵たん線を切断されて、飢餓に追い込まれていくわけですが、
欧州戦線でドイツにとって渡洋作戦プラス兵たんの問題が絡んだのは、
わずかに北アフリカ戦線ぐらいでしょうか。
しかし、ドイツは引き際の判断がよかったので、日本軍のように
餓死などという悲惨な状況には追い込まれていませんね。
ソ連領内から潰走するドイツ軍は悲惨だったようですが、
凍死はあっても餓死はさほど深刻ではなかったような。
もっとも、私は東部戦線については、ほとんど
勉強不足なので、私が知らないだけかも知りませんが。
> ソ連の抑留と言うハプニングもありますが、抑留での死者は1割です。
> 南方とは比べ物になりません。
> 私の祖父は、シベリア抑留されましたが生還してます。
> 体を壊しましたが。
> それでも南方で無くて良かったと、最初は思いました。
御祖父様は、シベリアご苦労をされたのですね。
私の近い親類にも存命ですが、抑留された者がおります。
抑留先がシベリアではなく、ウクライナだったので、
寒さはいくらかましかも知れませんが、それでも冬は
相当寒く、それなりに大変だったようです。
434 :
だつお :2006/09/17(日) 21:48:35 ID:ZltyFV9+
>対日戦線では、米国自身が太平洋側から横綱相撲を仕掛けて >いるわけですから、 それだけではなく、中国戦線に直接アメリカ陸空軍が参戦してる。 これは決して義勇軍ではなく、アメリカ陸軍航空の正規部隊が 参戦しているのでありレンドリースどころではない。 打通作戦に呼応してイタリアから航空部隊を引き抜いているのに、 これ以上の中国援助をしろとなると、アメリカは欧州優先戦略を 放棄しなければいけなくなる。
435 :
だつお :2006/09/17(日) 22:06:07 ID:ZltyFV9+
>中国の基地から一〇〇機のB−29による攻撃を実施
時期や資料や見積もりによって若干異なるが、打通作戦が始まった
ころの在支米空軍は第14航空軍と第20爆撃兵団合わせて600機
前後であったとみて間違いない。打通作戦が進行するにつれてこの
数字はさらに大きなものになっていく。性能的にもP-51とかB-29とか、
いずれも最新の機種で構成されている。
これで勝てなければ中国軍は文字通り「チンピラゴロツキ」。
c. Current plans for the air transport route to CHINA con-
template that its present capacity of approximately 3,000
tons per month may be expanded to approximately 10,000 tons
per month by the end of 1943. Due to physical limitations
imposed by the area in which this line operates, it is doubt-
ful whether this latter figure can be exceeded until ANAKIM
or a Revised ANAKIM has been accomplished.
d. The Commanding General, 14th Air Force, estimates that
the forces required to conduct planned combat operations in
CHINA are as follows:
4 Fighter Groups 300 airplanes
2 Medium Bomber Groups 114 "
1 Heavy Bomber Group 35 "
1 Reconn. Squadron 24 "
TOTAL 473 airplanes
http://www.fdrlibrary.marist.edu/psf/box2/t17j06.html
436 :
77 :2006/09/17(日) 23:08:19 ID:???
>>435 > CHINA are as follows:
> 4 Fighter Groups 300 airplanes
> 2 Medium Bomber Groups 114 "
> 1 Heavy Bomber Group 35 "
> 1 Reconn. Squadron 24 "
> TOTAL 473 airplanes
確かに少ない数ではないですね。でも、太平洋戦線はもちろん、
欧州戦線と比べると、当たり前ですが、お茶を濁している印象も
否めません。
でも、大東亜戦争中盤以降の日本の在支陸海軍機にとっては、
脅威である事は間違いない規模ですね。
だつおさんが、おっしゃるように我が皇軍は、よく頑張ったと思います。
437 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/18(月) 00:00:01 ID:b86wvyBX
>>416 >>陸大校長の職はこのちょっと前まで多田が兼任してたんだけど、
>>このころには塚田が専任となってた。タイミングが悪かったね。
カンジは運が悪いのです。支那事変直後でも本来「不拡大派」であるはずの
参謀次長・今井清が病気欠勤中w。次長代行とはいえ、第一部長の立場で
陸相(杉山元)などに立ち向かっていかなくてはなりません。
軍隊といえども(だからこそ)官僚ですから、最後は役職がモノを言う訳です。
え? 肝心の「参謀総長」はどうしたって? 当時の参謀総長は皇族出身の
閑院宮です。単なるお飾り的存在だったとはよく言われますが、その実態は
自分たちの想像を超えていますw。
支那事変勃発時点で72歳でしたが、高齢のために事務の処理はほとんど
次長任せであり、出勤は『毎日1時間程度』だったそうです(核藁)。一応、
ソースは1939〜1940年に参謀次長だった沢田茂の回想録に拠ります。
438 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/18(月) 00:13:08 ID:b86wvyBX
>>437 >>高齢のために事務の処理はほとんど次長任せであり、出勤は
>>『毎日1時間程度』だったそうです
トラウトマン工作の末期(1938年初頭)、支那に対して「国民政府を
対手とせず」の政府声明を出すか否かで、政府側(近衛文麿内閣)と
陸軍参謀本部が争っている時のことです。
このときの参謀次長は多田駿(中将)です。政府が主張する『交渉打ち切り』
に対して多田は「支那側の回答期限」の延長を主張します。さらに「支那側の
最後回答を待たずに、しかも挙国的決意も準備も不十分なまま、長期戦に移る
ことはできない」と事変の拡大に強く反対しているのです。
また閑院宮(参謀総長)も多田と同様に「回答期限」の延長を政府側に
申し入れるのですが、肝心な所でその姿がありませんw。
439 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/18(月) 00:25:09 ID:b86wvyBX
これが最初で最後――。昭和の参謀本部が日本政府に屈服した運命の日、 1938年1月15日。 午前中の大本営・政府連絡会議で、閑院宮(参謀総長)と多田駿(参謀次長)、 そして海軍側の伏見宮(軍令部総長)、古賀峯一(軍令部次長)は政府側の 主張する『交渉打ち切り』に強く反対します。 会議は紛糾して午後に移りますが、この時、閑院宮と伏見宮の姿は何故か 見えませんw。参謀総長と軍令部総長がいないのです。 >>出勤は『毎日1時間程度』だったそうです(核藁)。 伏見宮は別とするも、閑院宮の場合は「日常の延長」の理由だった 気がしますw。
440 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/18(月) 00:44:53 ID:b86wvyBX
もちろん、両総長が出席しない大本営・政府連絡会議で多田は一人 サンドバックのように打ちのめされます。 ●杉山元陸相:「期限までに回答が無いのは、国民政府に和平の誠意が ない証拠だ。蒋介石が屈服するまで戦うべきだ」 ●広田弘毅外相:「私の外交経験から判断すると、中国側には和平解決の 誠意が認められない。交渉は打ち切るべきだ。参謀次長は外務大臣を 信用しないのか?」 ●米内光政海相:「統帥部が外務大臣を信用しないのは、政府不信任だ。 内閣は総辞職のほかはない」 激論はさらに続いて休会、多田は参謀本部の首脳会議を開き、海軍軍令部とも 意見の調整を図ります。そして夜7時半に再開された連絡会議で、ついに多田は 大幅な譲歩を余儀なくされました。この瞬間、『泥沼の長期戦』が始まった訳です。
441 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/18(月) 00:57:36 ID:b86wvyBX
参謀本部が屈服したときの多田の言葉はこうです。
「蒋介石政権否認を本日の会議で決定するのは時期尚早で、統帥部としては
反対であるが、崩壊(内閣総辞職)しては、内外に悪影響を及ぼすので
交渉打ち切りは黙過(見過ごす)し、あえて反対しない」
>>416 >>陸大校長の職はこのちょっと前まで多田が兼任してたんだけど、
>>このころには塚田が専任となってた。タイミングが悪かったね。
話が脱線しましたが、閑院宮といい今井清といい、「日本陸軍には
老人と病人しかいないのか?」と文句の1つも言いたくなりますw。
また当のカンジも、同様に「虚弱体質」でしたね。そして他方のヒデキは
健康そのものです。現代の会社でもそうですが、最後には「健康な奴が勝つ」
というのも1つの真理だと思います。
閑院宮は午前中の会議で、二度ほど 「向こうにこちらの条件がきちんと伝わっているか確認しろ」 と発言するんだけど、そのたびに広田に 「その必要は無い」とはねつけられてる。
あ、ちなみに
>>416 の塚田攻は、支那事変勃発時には「参本第三部長」(運輸)
であり、旗色鮮明な『拡大派』の1人でした。もちろん『不拡大派』のカンジ
とは当時激しくやり合っていたでしょう。
塚田は「陸大校長」の後、「参謀次長」(1940年)、「第11軍司令官」
(1942年)を歴任しますが、最後は中支での飛行機事故によって殉職して
います(死後、大将に)。
塚田、下村は共に一撃論者ではあったが、一応主務部長の石原の意見を尊重していた。 第二部の本間は最初は石原に同調していたが、徐々に強硬論に傾いた。 これには参本の機構改革に絡んだ第二部の石原への悪感情が影響している。 総務部の中島は不拡大派。 石原の後任には第四部の下村が横滑りで来たけど、この人も体が悪く、間もなく参本附となった。 後任は不拡大派の橋本群。恐らく多田・中島ラインの人事。 支那事変初期は確かに妙に要路に病人が多かったけど、一番痛かったのは 田代皖一郎の病気だろう。この人は支那側の信頼も厚かったので、 田代・橋本コンビなら現地で拡大を防げた可能性は、僅かだけど有る。
445 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/18(月) 01:31:18 ID:b86wvyBX
>>442 >>そのたびに広田に「その必要は無い」とはねつけられてる。
やはり広田の「A級戦犯」は仕方ありませんかね?。日本人が裁いてもw。
まあ、A級戦犯の筆頭は、これまで何度も書いている通り、近衛文麿ですが。
>>419 >>この程度の左翼臭なら、微臭といってよいかと思います。
自分は『極右原理主義者』なので、少し表現がオーバーだったかもしれません。
しかし職場で自分は「左翼呼ばわり」された経験があります。恐ろしい事ですw。
>>以前「日中戦争 目撃者が語る 秘蔵写真多数掲載」(猪瀬直樹監修、高梨正樹編集、
>>新人物往来社)というのを買って、その左翼臭にへきえきした経験があります。
自分も先日、文華堂で『論争731部隊』(松村高夫編、晩聲社)を買ってしまいましたw。
いえ、1千円以下の捨て値で安かったのと、秦郁彦証言のところが読みたかっただけです。
ちなみに、サブタイトルが「ふたたび抹殺される悪魔の罪業!」だそうです(藁)。
446 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/18(月) 02:04:34 ID:b86wvyBX
>>444 >>石原の後任には第四部の下村が横滑りで来たけど、
>>この人も体が悪く、間もなく参本附となった。
参本附のあとが「東京湾要塞司令官」(少将ママ)ですから、悪くすれば
そのまま予備役編入の危機ですw。何とか中将に昇進して砲工校長(1940年8月)、
陸大校長(1941年9月)になっていますが。
>>支那事変初期は確かに妙に要路に病人が多かったけど、一番痛かったのは
>>田代皖一郎の病気だろう。
全く同感です。田代の後任が、支那駐屯軍の『兵力増強』を事変直前に発言
していた香月清司となりますからね。しかし、香月の主張は「北支の情勢は
相当逼迫しているように思う」という激化する抗日感情に対する危機感から
のものですから、一概に批判できませんが。
447 :
だつお :2006/09/18(月) 08:33:16 ID:ymDLPx6G
>在支米空軍は第14航空軍と第20爆撃兵団合わせて600機前後 あとちなみにこれとは別にスチルウェル管轄のビルマ戦区第10航空軍 というのも存在する。その正確な数については時期によっても異なるし、 また状況によって転属ということもしばしば。打通作戦に呼応して、 イタリア方面やビルマ方面からもしばしば引き抜きになり第14航空軍 の飛行機は上で示したものよりさらに大きな数になっている。
448 :
だつお :2006/09/18(月) 08:35:00 ID:ymDLPx6G
スリムも飛行機が必要だった。彼の第一四軍は、日量七五〇トンが物質が要る と算出されていたが、メイクテーラ作戦がフル稼働する三月以降は、これが 一二〇〇トンに上る。ある朝、インパールの司令部で上空を飛行機が飛ぶの を聞いたが、これは自分に割り当てられていたダコタ機三個中隊で、急に中国 へ向かうよう命令されたのだと知って仰天した。彼は、手に入る飛行機を全部 使って、日に七千回の出撃が必要なのに、予告なしに七五機を失うのはひどい 痛手だ(Lewin,Slim 217頁)。紛糾のもとは、中国状勢である。シェンノート 航空隊が、やがて日本本土を空襲するはずだ。その中国のアメリカ軍前進基地 に対し、その使用を封殺するために日本の中国派遣軍が一号作戦を発動し、 飛行場群の奪取を狙っているのだ。 それは、一九四四年の時点で日本軍が ともかく成功を収めた作戦の一つであり、今は蒋介石の軍事顧問となった ウェデマイヤーが、スリムに貸与していたダコタ機を使ってビルマの中国軍 師団を空輸し、華中に増援しようとしたのである。スリムは、こう言っている。 「そのエンジンの轟音は、今や我々に襲いかかろうとしている運営上の危機 の最初の暗示だと、第一四軍の誰もが感じた」(Slim,前掲書396頁)。 これにより、メイクテーラについての物資運搬の計算は、もう一度やり 直さなければならなくなった。アラカンの第一五軍への空輸が減少したので、 失った分のある程度の埋め合わせは可能となりはしたが、この遅れにより、 一九四五年のモンスーンの前に任務を達成するには、あまりに時間が なくなってしまったのである。 <ルイ・アレン「ビルマ遠い戦場 ビルマで戦った日本と英国」中巻 291頁>
449 :
だつお :2006/09/18(月) 09:50:55 ID:ymDLPx6G
All Theaters 41,575
European Theater of Operations 17,082
Mediterranean Theater of Operations 10,612
Pacific Ocean Areas 1,394
Far East Air Forces 7,229
China & India-Burma 3,289
Alaska 492
Twentieth Air Force 651
Other Overseas 826
http://www.usaaf.net/digest/t100.htm Table 100 -- Losses of All Types of Airplanes Overseas,
By Theater and By Type of Loss: 1941 to 1945
450 :
だつお :2006/09/18(月) 11:06:02 ID:ymDLPx6G
> それから、第二次大戦の欧州戦線の最後のベルリン陥落(1945年4月)
>でも、始めから、ソビエト軍に、ベルリン攻撃、占領されるように仕組んで、
>アメリカのパットン、クラーク、ブラッドレー将軍の部隊のドイツへの進撃
>を足留めにした。そうやって、戦後の世界体制を、アメリカ中心の
>「自由主義・資本主義」陣営と、ソビエトの「社会主義・独裁主義」
>陣営に分けて争わせ、民衆には核戦争の脅威を与えることで、脅えされて
>従順な労働奴隷にすることで、両勢力を上から操(あやつ)るロック
>フェラー財閥の計画(陰謀)があった。ヨーロッパ諸国は、そのために
>戦後の60年間、ソビエトの威圧を受けて繁栄がなかった。
>
http://snsi-j.jp/boyakif/diary.cgi?start=29&pass= GENERAL MARSHALL said he was not familiar with the Polish issue
and its political aspects. He said from the military point of view
the situation in Europe was secure but that they hoped for Soviet
participation in the war against Japan at a time when it would be
useful to us. The Russians had it within their, power to delay their
entry into the Far Eastern war until we had done all the dirty work.
He said the difficulties with the Russians such as in the case of
CROSSWORD usually straightened out. He was inclined to agree with
Mr. Stimson that possibility of a break with Russia was very serious.
http://teachingamericanhistory.org/library/index.asp?document=909 Memorandum by Mr. Charles E. Bohlen,
Assistant to the Secretary of State, of a Meeting at the White House
April 23, 1945, 2:00pm
451 :
だつお :2006/09/18(月) 11:49:17 ID:ymDLPx6G
上はあまりに米英中の戦力を過大評価しすぎ、逆に独ソ日の戦力を過小評価しすぎ。 ドイツ軍は制空権こそ失われても、地上戦でチンピラゴロツキなみに殲滅された わけではない。例えばバルジの戦いだけで米軍は8万人もの損害を被っている。 なお英連邦は300億ドルの支援を受けたが、ソ連の受けたそれは100億ドル。 さらにドイツ軍戦死者480万人のうち400万くらいが東部戦線による。 皇軍は海戦こそ惨敗しても、陸は大陸打通に加え硫黄島・沖縄で依然として抗戦を続け、 空でも神風特攻だけで500隻近い米英艦艇に損傷を与えていることが確認される。 中国軍に至っては最新のツールを供給されても、飛行場を防衛する能力さえもない。
452 :
えICBM :2006/09/18(月) 16:00:33 ID:???
つまり、欧州の戦いは独ソ戦がメインであり、米英はその補助的役割に過ぎなかったと。 私もそのとおりだと思う。 大戦末期でも、日本軍は米英にとって侮れない存在であったわけだと。 私もそのとおりであったと思う。 中国軍は大陸に日本軍をはりつける役しか演じていないわけだと。 私もそのとおりだと思う。 打通さんは話のわかる男だ。
453 :
名無し三等兵 :2006/09/18(月) 16:25:00 ID:DfV//XzB
イナゾウ中佐さんやえICBMさんは自分のサイトは持っておられないのですか?
455 :
えICBM :2006/09/18(月) 17:38:52 ID:???
バカウヨをロンパーする一方的な一問一答集HPを作りたいが、まんこくさい。
FAQ形式ですか
457 :
えICBM :2006/09/18(月) 19:31:23 ID:???
>>456 バカサヨでも使えるようなFAQ形式が理想だ。
じゃ軍板FAQを真似たらどうです。
459 :
77 :2006/09/18(月) 20:05:35 ID:???
>>452 > つまり、欧州の戦いは独ソ戦がメインであり、米英はその補助的役割に過ぎなかったと。
> 私もそのとおりだと思う。
ルーズベルトは、ドイツを東部線線で消耗させて、西部戦線での米英の消耗を
できるだけ、防ごうという意図があったのでしょうか?
460 :
だつお :2006/09/18(月) 20:21:15 ID:ymDLPx6G
Military Action Hostile Dealths Wounded Non-Hostile Deaths
World War I (1917-18) 53,513 204,002 63,195
World War II (1941-1945)
Total 293,121 670,846 115,185
European Theater 185,179 498,948 66,805
Pacific Theater 107,903 171,898 48,380
Korean War (1950-53) 33,629 103,284 20,617
Vietnam War (1961-75) 47,358 153,303 10,817
http://www.giveshare.org/news/news016.html U.S. Military engagements from 1775 to 1975 numbered sixty-five.
War dead and wounded in the ten major conflicts during this period are:
http://gigablast.com/get?d=242034379666 "NATIONAL, WAR MISFORTUNES
>Korean War (1950-53) 33,629 103,284 20,617
チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍
チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍
チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍
チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍
チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍
チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍
461 :
えICBM :2006/09/18(月) 20:34:08 ID:???
>>458 いや、そんな上品なのではなく、バカサヨがバカウヨを攻撃できるような内容のものを作りたい。
>>459 ルーズベルトは参戦直後からソ連の敗北を恐れ、42年中に欧州に第二戦線を構築する強い意志を持っていた。
しかし、現時的には不可能であり、43年でもできず、44年夏になってやっと第二戦線を構築できた。
その間に東部戦線ではドイツ軍の敗色が濃くなり、ソ連が明らかに優勢な状態が生まれていた。
そして、ドイツを敗北に追いやった主役はソ連となり、スターリンの発言力が非常に拡大した。
この結果、戦後の新たな世界構築の際、ソ連の取り分をより大きくすることとなる。
これは、蒋介石が対日戦線で消極的な役立たず故に、国際的発言力な全然無かったのと逆と言えよう。
462 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/18(月) 22:05:05 ID:3ch4JtMH
>>444 >>支那事変初期は確かに妙に要路に病人が多かったけど、一番痛かったのは
>>田代皖一郎の病気だろう。
今でこそ田代皖一郎はマイナーな人物ですが、『支那通』としては特筆に価する
経歴の持ち主ですので簡単に紹介しておきましょう。
田代は陸大を卒業した後に「参本支那課」に配属され(大尉)、蒙古に1年間潜入し
1923年から漢口に2年間に渡って駐在武官をしていました。その後、参本支那課長を
実に4年も務めています。そして支那公使館付武官として上海へ(1931年)、第一次
上海事変(1932年)では「上海派遣軍・参謀長」として停戦交渉をまとめています。
田代は半生を支那で過ごし、蒋介石とも旧知の間柄で、1936年5月に支那駐屯軍司令官
として天津に着任した訳です。田代が心筋梗塞で倒れたのは、盧溝橋事件が勃発する直前、
1937年6月8日のことでした。
463 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/18(月) 22:21:05 ID:3ch4JtMH
盧溝橋事件が勃発したのが1937年7月7日、田代が病死したのが7月16日です。 翌17日に天津宮島街で葬儀が行なわれますが、事変中にも関わらず、各国外交団、 支那要人、陸軍三長官の花輪で埋まり、渦中の人物である宋哲元も弔問に訪れます。 当時の新聞記事は以下のように報道しています。 「田代将軍の霊前、宋哲元氏泣く。嗚呼、心の友を失った――。葬儀にはまだ 2時間も早い午後1時、憲兵と巡査がずらりと並んだ邸内に、3台の高級車が 滑り込んだ。……橋本群参謀長に出迎えられて先頭の車から降り立った人物 こそ、今世界の注目も集めている冀察政権の宋哲元委員長だ。 続いて陳学生等、政権の幹部がこの上もない深刻な面持ちで邸内に消えていく…。 万感胸にひめた宋氏が雪枝未亡人に会釈し、黙祷しばし咽ぶように追悼の言葉が その口から洩れる。閣下と私は真の朋友でした。北支における日支関係の将来は 閣下に期待するところが多かったのです。私が故郷、楽陵へ帰省中閣下は亡くなられ てしまった……」
464 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/18(月) 22:46:02 ID:3ch4JtMH
宋哲元は日本側との和平を1度は決意しますが、田代の霊前で香煙に包まれた のが効いたのでしょう。もちろん南京政府からは「騙されるな」「一歩の譲歩も 認めぬ」「天津放棄不許」などの指令が電報で送られてきます。 宋哲元は田代の葬儀に出席した翌日(7月17日)、後任の香月司令官を訪問して 「今回の事件は誠に遺憾に存じます」と正式に謝罪します。そして責任者の処罰と 北京から第37師の撤収を約束しました。 香月もこれを了承し、第1次大戦がセルビアの銃声一発で引火した例を挙げて、 今後の挑発的行動を避けてくれるように申し入れます。 結局、南京政府から秘かに参謀次長である熊斌が北京に送り込まれて、宋哲元に 直接「蒋介石の開戦決意」を伝えると、宋は南京政府に再び忠誠を誓ってしまう 訳ですが、田代に纏わるこうしたエピソードを知って置くのも良いでしょう。
465 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/18(月) 22:57:42 ID:3ch4JtMH
>>422 >>(田中隆吉)彼のニックネーム人面獣が全てを物語ります。
>>しかし、彼の本心はどこにあったのでしょうか?
終戦間際に中将への昇進を断っていますから、それなりに目端の利く人物
だったとは思います。しかし、虚偽の証言で武藤を死刑に追いやったのは
頂けませんw。
>>429 >>あと、師団史でも第三師団衛生隊回顧録、第三師団通信隊史なんてのも
>>あります。これらは結構戦場の様子が詳細に書かれています。
うーむ。突き詰めていくと、結局は「図書館通い」は避けられませんかねw。
文華堂に行きますと奥の棚の方に「連隊史」「師団史」が置いてありますが、
恐くて値段を聞く気も起こりません。つーか、店側も半分オブジェの積もりで
陳列しているでしょうw。
466 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/18(月) 23:25:47 ID:3ch4JtMH
>>454 >>イナゾウ中佐さんやえICBMさんは自分のサイトは持って
>>おられないのですか?
持っていません。とどの詰まり、HPやブログを管理する「手間や時間が惜しい」
のですw。2chなら一定の読者が保証されていますし、レスポンスも早いですし
「書き捨て」になりますが、自分の勉強にもちょうど良い訳です。
例えば、
>>442 >>444 の方は「名無し」ですが、自分も認識していなかったような
事実をアッサリと書き込まれると、「嗚呼、まだまだ自分も勉強不足だなあ……」
と思い知らされる訳ですw。
とりあえず、このスレは「次の戦争のために、次の次の戦争のために、戦争の歓喜を
無限に味わうために」やっています。『2典』に載るのが当面の目標です(核藁)。
>>466 ここに関してはログは保存しておくのでご安心を。
レベルの高さに最近はずっとROMだったりします。
アクセス解析の結果、大体7〜10人くらいは見てるっぽいです。
最近「雑談スレ」になりつつありますが、仕事が忙しいので勘弁w。 今月末から更に破綻しそうな予感がプンプンなので、しばらくは この調子で……。幣制改革もどっか逝っちゃったなあ……w。 衡陽の攻略戦の続き(スティルウェルと蒋介石の暗闘)は近いうちに 再開します。肝心なところが書かれてませんのでw。
ue少将閣下、いつも恐縮でございます。「ありがとうございます」と書き込む ぐらいしかお礼ができませんで申し訳ないのですが、多少でもアクセスが増えて 閣下のお役に立てればと考えておりまふ。
もう五スレ目ですし、簡単な目次を作っても良いかもしれませんね。 で、それをテンプレにして初見さんを誘導すると。 最近、重複する質問がちらほら見受けられますので。
>>470 >>もう五スレ目ですし、簡単な目次を作っても良いかもしれませんね。
最近で言うと「幣制改革」「衡陽攻略戦」など長編で書いた話題は、簡単な
目次と誘導ができるかもしれません。つーか、思い切り書き散らしているので、
最初の頃の話は自分も覚えていませんw。まあ、でもワード形式で自分も
デスクトップに全て保存していますので、いずれ時間ができたら作ります。
でも初期の書き込みは、自分でも恥ずかしくて読めないですw。同人誌を
書いている人が、昔の自分の描いた絵を発掘して『死にたくなる』のと同じですw。
つーか、「四季映姫・ヤマザナドゥ」さまの御名を騙って、しばらく書いていた
時期がありますので(核藁)。過去ログを読んでいる人は、トリップを見て判断
してくださいw。
472 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/18(月) 23:59:56 ID:3ch4JtMH
473 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/19(火) 00:07:44 ID:8B8jMBFs
簡単に抜粋すると以下の通り。 ●国民党との戦いで陣没した日本軍将官 林大八,陸軍少将,1932年3月1日,死于上海。 ?永辰治,陸軍少将,1937年8月29日,死于上海?淞。 家?治雄,陸軍少将,1937年10月11日,死于上海。 浅野嘉一,陸軍少将,1937年11月14日, ??致死天津。 加藤仁太郎,海軍少将,1938年7月31日,死于?江下游 。 杵春久藏,陸軍少将,1938年8月2日,死于山西?城。 ?冢国五郎,陸軍少将,1938年9月3日,死于江西コ安。 小笠原数夫,陸航中将,1938年9月4日,坐机于湖北孝感被??。 ?野?十,陸軍少将,1939年3月22日,死于南昌。 山田喜藏,陸軍少将,1939年5月12日,死于湖北大洪山。 田路朝一,陸軍中将,1939年6月17日,死于安徽南部。 小林一男,陸軍少将,1939年12月21日,死于内蒙古安北。
474 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/19(火) 00:10:21 ID:8B8jMBFs
中村正雄,陸軍中将,1939年12月25日,死于广西昆??。 秋山静太郎,陸軍少将,1940年1月23日,死于山?。 左藤?,陸軍少将,1940年3月2日,死于江西??湖。 木谷?俊,陸軍中将,1940年3月20日,死于江西。 水川伊夫,陸軍中将,1940年3月22日,死于内蒙古五原。 前田治,陸軍中将,1940年5月23日,死于山西晋城。 藤堂高英,陸軍中将,1940年6月3日,死于江西瑞昌。 大冢彪雄,陸軍中将,1940年8月5日,死于晋?南。 井山官一,陸軍少将,1940年10月16日,死于湖北宜昌。 大角?生,海軍大将,1941年2月5日,坐机于广?中山被??。 ??彦次郎,海軍中将,1941年2月5日 坐机于广?中山被??。 上田?,陸軍少将,1941年5月13日,死于山西中条山。 山??一,陸軍中将,1941年12月25日,死于安徽。 酒井直次,陸軍中将,1942年5月28日,死于浙江南溪。 冢田攻,陸軍大将, 1942年12月18日,死于安徽太湖。 藤原武,陸軍少将,1942年12月18日,死于安徽太湖。
475 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/19(火) 00:12:05 ID:8B8jMBFs
浅野克己,陸軍少将,1943年5月,死于广??江。 仁科馨,陸軍少将,1943年6月1日,死于湖南。 K川邦?,陸軍少将,1943年6月28日,死于云南。 布上照一,陸軍少将,1943年11月23日,死于湖南常コ。 中??一,陸軍少将,1943年11月25日死于湖南常コ。 下川?忠,陸軍中将, 1944年4月19日,死于湖北?城。 横山武彦,陸軍中将, 1944年6月11日,死于浙江?游。 木村千代太,陸軍中将,1944年6月11日,死于河南。 和?基隆,陸軍少将 , 1944年7月21日,死于湖南衡?。 大?彦四郎,陸軍少将,1944年7月25日,死于湖南?衡会?。 左治直影,陸軍少将,1944年7月27日,死于湖北?州。 志摩源吉,陸軍中将,1944年8月6日,死于湖南衡?。 藏重康美,陸軍少将,1944年8月16日,死于云南?冲。 南野?重,陸軍少将,1944年9月8日,死于云南芒市。 与野山寿,陸軍少将,1945年2月9日,死于?中。 山?正?,海軍大将,1945年3月7日,死于浙江椒江。
476 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/19(火) 00:14:16 ID:8B8jMBFs
●中共との戦いで陣没した日本軍将官 沼田コ重,陸軍中将,1939年8月12日,被八路???死于山?。 阿部?秀,陸軍中将,1939年11月7日,與八路?作戰死于河北?源。 吉川?佐,陸軍少将,1940年5月17日 被共?党?刺?于河南?封。 ?田泰次郎,陸軍中将,1940年11月28日,與八路?作戰死于?北。 吉川?,陸軍少将,1945年5月7日,與八路?作戰死于山?半?。 注:以上全??斗死亡, 不包括病死,自?,?机失事,死于?蒙?、 中美?合航空?和抗日民?之手(无?料分?国共)。
477 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/19(火) 00:20:33 ID:8B8jMBFs
中国語の「簡易字体」が表示されん……orz./ つーか、自分も読めない簡易字がありますが、少しずつ主だった所を 検証していきましょう。以下、後日w。
478 :
名無し三等兵 :2006/09/19(火) 00:40:08 ID:PG+HpmFf
最後関頭一到 我們只有犠牲到底 抗戦到底 初心者です。 上海事変は海軍陸戦隊(と居留民)が危機に陥ったわけで基本的には海軍が喧嘩を売られた戦いですよね。 もっとも、数のわずかな陸戦隊では心もとなく、陸軍になきつくのですが。 ただ海軍の艦隊の動きが今ひとつハッキリしません。 シナ海軍を瞬殺した話題ぐらいしか出ていませんね。 詳しく知りたいのです。 簡単にわかるところでは ☆戦艦 4隻 ○霧島 37.8/20熱田出港後上海への陸兵輸送と陸戦支援に従事 8/24佐世保入港 ○日向 8/14発生した青島事件により 8/19佐世保鎮守府第2、第3特別陸戦隊2ケ大隊約2000名を乗せて佐世保出港 8/21旅順に兵員を揚陸 9/15佐世保出港後華北方面を行動 9/23佐世保帰投 ○長門 37.8/20陸軍第11師団の一部約2000名を乗せて出港/25佐世保帰投 ○陸奥 37.7/7連合艦隊旗艦として伊勢湾寄航中、盧溝橋事件の発生により呉回航 8/11佐世保出港後華北に向かう輸送船団を護衛、朝鮮西方海面を行動8/15佐世保帰投 8/20愛媛県三津浜港より第11師団の一部約2000が乗艦 8/23上海沖に到着し部隊を揚陸 8/24搭載機が上海方面の陸戦に協力 8/25佐世保帰投 ※ 上陸作戦では援護に艦砲射撃もあったのでしょうかね。41cm砲で
479 :
名無し三等兵 :2006/09/19(火) 00:41:34 ID:PG+HpmFf
☆巡洋艦 ○高雄 37.8/20-11/17上海上陸作戦等を支援後旅順を基地に華北方面で行動 ○妙高 37.8/20上海上陸作戦に参加 ○那智 37.8/20上海上陸作戦に参加 ○羽黒 37.8/20以降、日中戦争に従軍し上海上陸作戦等華北沿岸部で作戦 ○足柄 ヨーロッパ訪問1937_3/10~7/5 蘆溝橋事件により横須賀入港の予定を変更して台湾沖で変針7/8佐世保入港 8/19第5戦隊旗艦として中支派遣軍司令部を乗せ熱田名古屋出港 8/22早朝、馬鞍群島入泊後華中方面を行動し8/24-9/4大連寄港後華中方面を行動 8/8-10、16-10/12旅順寄港後華北方面で行動8/17佐世保帰投 8/20新編された支那方面艦隊第4艦隊(司令長官豊田副武中将、参謀長小林仁大佐)第14戦隊に編入され 艦隊旗艦となり佐世保出港8/23豊田司令長官が乗艦8/27佐世保出港 8/28富江出港後杭州上陸作戦を支援 ○青葉 37.8/15警備艦/19(丸46-9)or20-4上海上陸作戦に多度津より第11師団を輸送 ○川内 第1艦隊第1水雷戦隊所属として中国沿岸で作戦し 8/14中国空軍機10数機による上海爆撃時には搭載機が海防艦出雲搭載機とともに2機を撃墜 ○五十鈴 8/20多度津出港後第1艦隊第1潜水戦隊(小松輝久[兵37]少将)旗艦として陸軍第11師団を上海、 川沙鎮に輸送8/25佐世保帰投 ○北上 盧溝橋事件により第3艦隊第3水雷戦隊に編入され旗艦 ○大井 8/20日中戦争により多度津出港後華中方面で作戦
>>473-465 陸軍だけ
名前 死んだときの職、階級
林大八 歩7聯隊長、大佐
倉永辰治 歩6聯隊長、大佐
加納治雄 歩101聯隊長、大佐
浅野嘉一 北支碇泊場監 少将
杵村久藏 20D参謀長 大佐 病死
飯塚国五郎 歩101聯隊長 大佐
小笠原数夫 技本附 中将 病死
飯野賢十 歩103聯隊長 大佐
山田喜藏 歩33聯隊長 大佐
田路朝一 15歩兵団長 少将
小林一男 騎14聯隊長 大佐
中村正雄 歩21旅団長 少将
秋山静太郎 支那事変以前に予備役
佐藤謙 歩214聯隊長 大佐
木谷資俊 野重2旅団長 少将
水川伊夫,陸軍中将,1940年3月22日,死于内蒙古五原。←WHO?
前田治 35D師団長 中将
藤堂高英 14MBs旅団長 少将 病死
大冢彪雄,陸軍中将,1940年8月5日,死于晋?南。←WHO?
井上官一 11A作戦課長 大佐 病死
大角岑生 軍事参議官 海軍大将
須賀彦次郎 海軍少将
上田勝 歩227聯隊長 大佐
山??一,陸軍中将,1941年12月25日,死于安徽。←WHO?
酒井直次 15D師団長 中将
塚田攻 11A司令官 中将
藤原武 11A高級参謀 大佐
>>475-476 浅野克己 23A高級参謀 大佐 病死
仁科馨 歩2356聯隊長 大佐
K川邦輔 56D参謀長 大佐
布上照一 歩109聯隊長 大佐
中畑護一 歩6聯隊長 大佐
下川義忠 第10野戦補充隊長 少将
横山武彦 歩62旅団長 少将
木村千代太 歩59旅団長 少将
和爾基隆 歩120聯隊長 大佐
大橋彦四郎 歩18聯隊長 大佐
佐治直影 39D参謀長 大佐
志摩源吉 歩57旅団長 少将
蔵重康美 歩148聯隊長 大佐
南野?重,陸軍少将,1944年9月8日,死于云南芒市。←WHO?
与野山寿 34A兵器部長 大佐
沼田徳重 114D師団長 中将 病死
阿部規秀 2MBs旅団長 少将
吉川?佐,陸軍少将,1940年5月17日 被共?党?刺?于河南?封。←WHO?
飯田泰次郎 35歩兵旅団長 少将 病死
吉川資 歩53旅団長 少将
>>481 >山??一,陸軍中将,1941年12月25日,死于安徽。←WHO?
これは
山県業一 歩119旅団長 少将
後、アンカー間違えた。
しかし、戦死して将官となった人を戦死した将官扱いするのはいかがなものか。
それから戦病死も戦死もごちゃまぜだし。更に抜けてる人物もいるし。
関根久太郎 歩58旅団長 少将
この人はシコウ作戦失敗のどさくさで戦死している。
後、大岑大将と須賀少将(海軍きっての支那通)や、塚田中将と藤原参謀が
死んだのは飛行機事故。これで死んだ人は多い。大体進級している。
484 :
だつお :2006/09/19(火) 21:16:37 ID:Y6RXLJTv
>欧州の戦いは独ソ戦がメインであり、米英はその補助的役割に過ぎなかった ところが冷戦時代はまだ史料公開が行き届いてなかったこともあって、 ソ連がなんであんなに威張ってるのか理解できない人も多かった。 戦争に参加した当事者であっても、案外そういうことが分からない。 例えば第二次世界大戦といえばバトルオブブリテンとエルアラメイン しか知らないなんてイギリス人も少なくなかったはずだ。 (とはいえ平型関の抗日戦大勝利なんてナンセンスよりは遥かにマシか)
>484 早い話が第二次世界大戦は独ソ戦がメインなのさ。
486 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/19(火) 22:24:41 ID:4yCu0BWZ
>>481-483 さま
お疲れ様です。秋田書店の『歴史と旅 帝国陸軍将軍総覧』とにらめっこしながら
「簡易字」を解読しようと思っていましたので、お陰さまで手間が省けました。
サンクス。自分も中国版ウィキペディアを見た瞬間、「こんなに将官が死んでいる
訳ねえ!w」と違和感を感じ、死後に特進したのがゴチャ混ぜになっているだろうと
当たりを付けていたのですが、やはりそうでしたか……w。
しかし、一覧の最後に「以上戦闘による死亡のみで、病死や自殺は含まない」と
わざわざ但し書きが付いているのは『お粗末』としか言いようがありません。
現代の支那人は、たとえウィキペティアとはいえ、こういうレベルで議論をして
いるのかと思うと、先が思いやられますw。
487 :
えICBM :2006/09/19(火) 22:35:24 ID:???
>>465 師団史、連隊史は敷居も低く詳しく、現場主義で良いのですが、問題は資料の分布の偏りです。
多分どこの図書館も郷土史コーナーにあるので、見たい部隊史は地元に行かなければまず見れない。
ままなりませんなぁ。
488 :
だつお :2006/09/19(火) 22:37:17 ID:Y6RXLJTv
ところでな。WW2で最も対日敵対心が強かったのはアメリカでなくて 中国だったつーことをもっと認識しておいたほうがいいぞ。 米英のカサブランカ会談では、対独7割に対日3割の戦力配分が決定されてる。 (上で示したように人員損害も欧州VS太平洋でだいたいそれくらい) 要するに何がなんでも日本打倒なんてのは世界広しといえども中国だけで、 米英でさえもドイツ打倒が優先であり中国ほどの日本敵視ではなかった。 中国は米英のドイツ打倒優先・オーバーロード作戦決行に強硬に反対し、 アメリカ戦力を極東にひきつけようとあらゆる工作をした。 スチルウェルが蒋介石に反対するのは、欧州優先というアメリカ側の戦略から して理にかなったことであった。打通作戦ではビルマのみならずイタリア からも航空部隊が引き抜きになったという事実も押さえるべき。
489 :
だつお :2006/09/19(火) 22:46:17 ID:Y6RXLJTv
あと蒋介石や汪精衛が親日派というのも、それは単に皇軍が精強 で中国軍が連戦連敗だったからという事情の方が大きいと思う。 なぜなら支那事変では両者とも「最後の関頭演説」で対日焦土 作戦を怒号しているからだ。 皇軍は明治以来、中国軍に対しては連戦連勝の無敵皇軍だった。
490 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/19(火) 22:51:58 ID:4yCu0BWZ
しかし「簡易字体」だけは勉強して覚えないと、どうしようもないので面倒臭いですw。
>>481 >>水川伊夫,陸軍中将,1940年3月22日,死于内蒙古五原。←WHO?
ミイトキーナ(ビルマ戦線)で自決した水上源蔵少将(第56歩兵団長。死後、中将)の
名前がウィキの一覧にありませんので、この人の間違いではないかと思います。しかし、
死んだ場所が蒙古? 時期が1940年3月? もはや訳ワカメですw。
ちなみに水上源蔵少将は、第33軍が「水上少将はミイトキーナを死守すべし」と
名指しで命令してきたため、残った生存者を脱出させて1944年8月4日に自決しました。
>>481 >>大冢彪雄,陸軍中将,1940年8月5日,死于晋?南。←WHO?
多分、大橋熊雄の間違いだと思います。北支那方面軍特務部長で、1944年4月
14日没。死後、少将から中将に。北京で死亡とありますが、特に戦死とは
書かれていませんので病死の可能性が高いでしょう。サスペンスドラマの如く
勘ぐれば、特務部長なので「謀殺された」と考えられなくもありませんがw。
491 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/19(火) 23:10:39 ID:4yCu0BWZ
>>482 >>南野?重,陸軍少将,1944年9月8日,死于云南芒市。←WHO?
それに近い人も発見できずw。大佐が紛れ込んでいるのではないかと思います。
あるいは全くの『架空の人物』かもw。
>>482 >>吉川?佐,陸軍少将,1940年5月17日 被共?党?刺?于河南?封。←WHO?
似ている名前を探したのですが、この人もそれらしい人を発見できず。一体誰?w
南野?重,陸軍少将,1944年9月8日,死于云南芒市。←WHO? これはわかりました。 楠野豊重 歩148聯隊長 大佐
493 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/19(火) 23:29:08 ID:4yCu0BWZ
ウソばかり指摘しても『アレ』なので、実際に支那との戦闘で死亡した人も
検証してみましょう。上から順番に。
>>481 >>林大八 歩7聯隊長、大佐 →死後、少将に
もとは張作霖の顧問も務めた「支那通」軍人。第一次上海事変で歩兵第7連隊長
として出征。敵堡塁攻撃を陣頭指揮中に、敵弾に当たり戦死。息子の林八郎中尉は
2.26事件で首謀者の一人として処刑。つーか、日中戦争の陣没者に「第一次上海
事変」(1932年)のも含むのかよ!(三村風w)
>>481 >>倉永辰治 歩6聯隊長、大佐 →死後、少将に
詳しい事は分からず。しかし、上海事変で呉淞に敵前上陸して全滅状態になった
第3師団の第6連隊長であることは特筆(!)です。倉永は戦死のようです。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/sonota/nakanoin/nakano.html 上記のサイトは名古屋にあります「中之院軍人像」を説明したものですが、
そのものズバリ『第3師団第6連隊』を祀ったものです。物凄い迫力です!
494 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/19(火) 23:42:18 ID:4yCu0BWZ
>>493 で挙げたサイトは、第3師団のことを調べているえICBM氏や
77氏にもぜひ見て欲しいなあ。もうご存知でしたら無視して下さい。
>>楠野豊重 歩148聯隊長 大佐 →死後、少将に
おお、サンクス! ビルマ戦線で、おそらくインドと中国の援助ルートを
寸断するために行なわれた「断作戦」で戦死しているものと思われます。
芒市は地名で重要拠点となった所ですね。
>>481 >>加納治雄 歩101聯隊長、大佐
第二次上海事変で、第101師団・第101連隊長として戦い、1937年10月11日
に戦死しています。
ttp://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/sougou/ sosikizu/D101.htm のサイトで、第101連隊の将校一覧が確認できますが、
その多くが戦死・負傷しています。連隊長である加納の戦死はその代表でしょう。
496 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/20(水) 00:08:30 ID:Q7GHummc
>>481 >>浅野嘉一 北支碇泊場監 少将 1937年11月14日没(天津)
詳しいことは分からず。過去に第一戦車連隊長や歩30旅団長を務めています。
場所と死亡した時期からして、戦死とは考え難いです。ひょっとして、支那で
死んだら、全部が「戦死扱い」になるのか!w
>>481 >>杵村久藏 20D参謀長 大佐 病死 →死後、少将に
詳しい事は分からず。支那事変後、華北戦線に投入されまして中国版ウィキペ
ディアを信用するなら、杵村は山西省で死亡したとのこと。1938年8月2日没。
>>481 >>飯塚国五郎 歩101聯隊長 大佐 →死後、少将に
詳しい事は分からず。
>>494 で挙げた加納治雄と同じく、歩兵101連隊長で
奇妙な一致を果たします。飯塚は南京戦時に交代した連隊長のようです。
飯塚が1938年9月3日、「武漢攻略戦」の最激戦地の1つである「徳安」で
戦死しているのは間違いないようです。呪われているのか? 歩101連隊長w。
497 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/20(水) 00:30:16 ID:Q7GHummc
>>481 >>小笠原数夫 技本附 中将 病死
一貫して航空畑を歩んだ人(関東軍飛行隊長、飛行集団長、航空本部総務部長)ですが、
「技本附」になって、なぜ支那側では戦死になっているか訳ワカメw。1938年9月4日没。
一応、『帝国陸軍将官総覧』では単なる「没」となっています(戦死や自決の場合は
その通り書かれる)。
しかし、ちょっと気になるのですが、中国側のサイトだと小笠原の乗機が
支那空軍に襲われて撃墜(あるいは銃撃死?、もっと好意的に考えれば
その際の負傷がもとで病死?)されたような記述があるのですが、真偽は
不明。資料が少なすぎて分かりません。情報をお持ちの方、プリーズw。
498 :
77 :2006/09/20(水) 00:46:43 ID:???
>>493 >
>>481 >>倉永辰治 歩6聯隊長、大佐 →死後、少将に
> 詳しい事は分からず。しかし、上海事変で呉淞に敵前上陸して全滅状態になった
> 第3師団の第6連隊長であることは特筆(!)です。倉永は戦死のようです。
>
ttp://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/sonota/nakanoin/nakano.html > 上記のサイトは名古屋にあります「中之院軍人像」を説明したものですが、
> そのものズバリ『第3師団第6連隊』を祀ったものです。物凄い迫力です!
−−イナゾウ中佐殿、ご教示ありがとうございます。
この「軍人像」は、現在地に移転する前は、私の家から直線距離で一キロ以内にあり、大きな墓地の一角でしたので、子供の頃の遊び場の圏内でした。
この「軍人像」が、現在地に移され「中之院軍人像」と呼ばれているという事を、上記のサイトで、ごく最近知りました。本当にまだ二、三ヶ月以内の
事です。呉淞(ウースン)をキーワードにしてネットを検索していて上記サイトを発見したのです。わが家の女の年寄にサイトを見せたら、とても懐かしがって
いました。
わが家の近くにあった頃は、「軍人墓地」と呼ばれ、兵士をかたどった墓石の数は、サイトでうかがい知るよりもっと数多くあったような気が致します。
私の記憶にある「軍人墓地」は、戦後の風潮の中で、悪しき軍国主義の遺物扱いで、移転の話が持ち上がった頃の新聞報道も、
邪魔者扱いで、さらには無縁仏として廃棄するのが妥当のような雰囲気でした。「中之院」というお寺が人知れず引き取っていて
下さったのですね。
「軍人墓地」が、撤去された時も、突如、姿が見えなくなったので私は廃棄されたものと思い込んでいました。地元の多くの人は、
墓石がどこに行ったのか知らなかったと思います。
墓地を建立された遺族の方々は、当然、呉淞(ウースン)上陸作戦での犠牲者という事はご存じだったと思いますが、墓地の近所の人の多くは、
呉淞という特定の作戦の犠牲者という知識はなく、単に様々の場所で亡くなられた兵隊さんのお墓−−という程度の認識しかなかったと思います。
499 :
77 :2006/09/20(水) 00:59:03 ID:???
>>495 > >上海事変で呉淞に敵前上陸して全滅状態になった第3師団
> といえばこんな話も有る
> >田上中将は第三十四聯隊長として第二次上海事変に出征したが、
> >聯隊は呉淞上陸戦で大損害を受け、静岡市内は軒並み葬式という惨状を呈した。
> >その一方、補充補充で十幾度の召集が続いた。
> >この、朝に兵を送り夕に遺骨を迎える生活に、はっきりそれとは口にしないが、
> >市民の軍に対する非難は高まった。
> >市民への申し訳なさからか、聯隊長のちよ子夫人は服毒自殺を遂げた。
>
http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/general/yasukuni/tagami.html 第三師団所属で、呉淞(ウースン)で亡くなった私の係累も浜松市郊外の
出身でした。連隊長夫人も、さぞや苦境に立たされたのでしょうね。
玉砕が当たり前のようになった大東亜戦争後期と違い、
呉淞は、支那事変の入り口ですから、郷土師団の地域住民の
動揺も大きかったと思います。
ただ、犠牲者の多さから厳しい箝口令がひかれていたようですから、
一般住民は、実態がよくわからなかったようです。
500 :
名無し三等兵 :2006/09/20(水) 01:04:36 ID:xZps5zIl
500
>>497 普通に考えたら病気が先にあっての参本附、技本附だと思います。
502 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/20(水) 22:50:18 ID:Mgl03d9H
>>498 >>この「軍人像」は、現在地に移転する前は、私の家から直線距離で一キロ
>>以内にあり、大きな墓地の一角でしたので、子供の頃の遊び場の圏内でした。
そんな身近にあったとは驚きました。やはりご縁というものでしょうか。どの程度の
大きさの像なのか写真ではよく分かりませんが、全身をくまなく彫像されており
支那の兵馬俑のような錯覚に陥りました。自分も名古屋とは縁が深いので、立ち寄る
機会がありましたら、ぜひ行って見たいと思います。愛知県には「殉国七士廟」も
ありますしね。
>>501 >>普通に考えたら病気が先にあっての参本附、技本附だと思います。
ですよねえw。なぜ戦死扱いになっているのか?w
503 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/20(水) 23:08:41 ID:Mgl03d9H
>>487 >>師団史、連隊史は敷居も低く詳しく、現場主義で良いのですが、問題は
>>資料の分布の偏りです。多分どこの図書館も郷土史コーナーにあるので、
>>見たい部隊史は地元に行かなければまず見れない。
今現在、自分が読み進めているのが『日中戦争の軍事的展開』(慶應義塾大学
出版会)ですが、仕事が「殺す気か?」というぐらい忙しく(特に来月死亡確定w)
ちっとも読み終わる事が出来ませんw。
それはさて置き、この本を読んで驚いた事が、最新の研究成果であるにも関わらず
重要な論拠として挙げられている資料を自分も結構保有していた事です。別に自慢して
いる訳ではなくw、図書出版社の戦記本など、文華堂に行けば2千円以下で転がって
いるような本です。
特に『華北戦記』(桑島節郎著:図書出版社、文華堂で1千円余りぐらいで買った
覚えアリ)は相当論拠として「第7章:華北の対ゲリラ戦」で使われており、論文が
この本の中でも「ピカイチ」に優れたものだけに意外というか、奇妙に思いました。
504 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/20(水) 23:18:59 ID:Mgl03d9H
要するに「他に資料は無いのか?」という疑問です。 自分も少し前に「第3師団の呉淞上陸戦」を詳しく描いた資料が無くて 困っていると書き込みましたが、地元の図書館に行きましたら師団史や 連隊史など、相当詳しい記述が「郷土史コーナー」にある可能性が高い とのこと。 「新発見」とまではいかなくとも、新しい切り口というのは、まだまだ 大きな余地があると思います。しかし大学の専門研究者でも、時間と手間と コストから考えれば、全国を細かく回るのは不可能に近いですねw。
505 :
77 :2006/09/20(水) 23:33:56 ID:???
>>502 > 全身をくまなく彫像されており 支那の兵馬俑のような錯覚に陥りました。
>自分も名古屋とは縁が深いので、立ち寄る> 機会がありましたら、ぜひ行って見たいと思います。
多くは現役、もしくはそれに近い若い兵士達だったろうと思われます。写真をもとに生前そっくりに
作られた軍人墓には亡くなった兵士の遺族らの悲しみが込められていたのだと思います。
しかるに、何事につけ軍事にまつわる事物をいとう戦後の風潮の中では、生きているような兵士像が林立する軍人墓地は
邪魔者扱いされるだけで、子供の私にもとにかく異様な雰囲気にしか、思えなかったのです。
墓地移転の理由は道路拡張のためだと新聞に載っていましたが、移転後に拡張された道路を見ると、
道路は墓地の用地に掛かっておらず、墓地移転がどうしても必要だったとは思えません。
最近になって知った移転先は、名古屋から遥かに遠い知多半島先端のお寺でした。
遺族が墓参するには、とても不便だと思います。
私は墓の地主(お寺か名古屋市か民間だったのか分かりません)が、とにかく軍人墓地を
撤去したかったのが、大きな理由だったのではないかと、撤去当時から思っていました。
私が子供の頃、支那大陸の戦地から生還したわが家の年寄に連れられてこの軍人墓地の
脇をよく歩きましたが、年寄はこの軍人墓地についてほとんど語ることがありませんでした。
年寄は、戦争が激化した後は、戦死した戦友や部下を荼毘にふすことも、ままならなくなり、遺体の小指や親指を切り取って焼いて骨にし、
遺族のために後送できたものも、あれば、その機会がなく持ち歩いていたもののついに戦地に埋めざるを得なかったものも
多かったと良く語っていました。
余りに多くの死を見てきた中で、軍人墓地のような立派な墓を立ててもらえたような戦死者は、
まだ恵まれていた方だと思っていたのかも、しれません。
506 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/20(水) 23:38:59 ID:Mgl03d9H
「中国版ウィキペディアを検証する」の続きw。日本軍の『将官で戦死』した
ことになっている人たち(核藁)。
>>481 >>飯野賢十 歩113聯隊長 大佐 →戦死、少将に 1939年3月22日
この人は戦死で間違いありません。第106師団所属で、南昌攻略戦の最中に
修水渡河時に戦死したようです。ネットで調べると、『毒ガス撃ち込んだ修水
河攻防ー農村の少年兵を犠牲に』というサイトが見つかりました。
この場合は「くしゃみ性ガス」だったようですが、防毒面を被っての練兵場の
徒歩訓練はキツイとの記述もあります。
>>505 >>邪魔者扱いされるだけで、子供の私にもとにかく異様な
>>雰囲気にしか、思えなかったのです。
言っちゃあ悪いですが、テレビが知ったら格好の『心霊スポット』として
番組に取り上げられそうな悪寒…w。正直、子どもが迷い込んだら多分
泣き叫ぶでしょう。
508 :
77 :2006/09/20(水) 23:44:24 ID:???
>>502 > 愛知県には「殉国七士廟」も> ありますしね。
愛知県は松井石根氏の出身地なので、そのご縁ですよね。
このことも、私は数年前に本で知ったばかりです。
三河湾を見下ろす三ケ根山の頂上にあり、
頂上は自動車道路が通じた展望台になっていますので、
随分昔にドライブに行って、偶然「殉国七士廟」に
お参りした事があります。
その時は、なぜ「殉国七士廟」がここにあるのか、
知りませんでした。もしくは、説明書きを読んでも、
当時は、意味が分からなかったのかも知れません。
509 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/21(木) 00:27:00 ID:PGxU5PEy
>>481 >>山田喜藏 歩33聯隊長 大佐 →戦死、少将に 1939年5月12日
この人も戦死で間違いありません。歩33連隊は三重県の津に所属しており、
所属は第16師団です。連隊は「徐州作戦」や「武漢攻略作戦」にも参加し
1939年の「襄東作戦」あたりで山田連隊長は戦死した模様です。詳細は不明。
>>481 >>田路朝一 15歩兵団長 少将 →戦死、中将に 1939年6月17日
この人も戦死で間違いありません。ようやく「将官」で戦死した人が見つかりました!
良かった、良かった(核藁)。『田路』は「とうじ」と読みます。普通は読めませんw。
戦死した場所ですが、ちょっと調べた限りでは「中支」としか分かりませんでした。
「歩兵団」の数字と「所属師団」の数字は一致しますから、田路の第15歩兵団は
第15師団(名古屋)の所属になります。おおよその見当は付きますが、難しい…w。
510 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/21(木) 23:00:12 ID:UYH/C66s
>>481 >>小林一男 騎14聯隊長 大佐 →戦死、少将に 1939年12月21日
この人も戦死で間違いありません。蒙古で戦死したらしく、支那軍が包頭を
攻撃した際?のようです。資料が少なすぎて『帝国陸軍将官総覧』にも僅か
3行しか履歴がありませんw。支那側のネットを調べますと、小林一男大佐の
記述があるサイトに、前述した詳細不明人物の「水川伊夫中将」の名前も出て
きます。そのサイトによると『日本皇族・水川伊夫中将』なんだとさ(核藁)。
>>481 >>中村正雄 歩21旅団長 少将 →戦死、中将に 1939年12月15日
この人も戦死で間違いありません。将官で戦死はようやく2人目ですw。上級
部隊は第5師団であり、南寧攻略作戦の後に戦死した模様です。この時の第5
師団長はかの今村均です。作戦自体は容易でしたので、日本側の戦死者は僅か
145人、戦傷者は325人に過ぎません。支那側の遺棄死体は6125人です。
>>510 それでわかりました。
北白川宮永久王のことです>水川
512 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/21(木) 23:22:11 ID:UYH/C66s
>>481 >>秋山静太郎 少将 支那事変以前に予備役
この人に至っては死んですらいません。大嘘ですw。1932年8月に長崎要塞
司令官を最後に、1936年8月1日に待命。支那事変が始まる前の1936年8月28日
に予備役編入です。支那側のサイトを調べると、『某旅団』を率いて1940年
1月23日に戦死とあります(核藁)。某って何だ? 某ってw。ちなみに少将と
なったのが待命と同時の1936年8月1日ですから、典型的な『お疲れ様少将』です。
>>481 >>佐藤謙 歩214聯隊長 大佐 →戦死、少将に 1940年3月2日
この人は戦死で間違いありません。資料が少ないので詳細は分かりませんが、
上級部隊は第33師団、連隊の編成地は会津若松です。部隊の動きを追って
いくと、湖北省で支那・冬季攻勢の反撃の最中か、江西省への移駐の間に
佐藤は戦死したようです。支那戦線でも連隊長が結構、戦死するものですw。
513 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/21(木) 23:41:06 ID:UYH/C66s
>>511 >>それでわかりました。北白川宮永久王のことです>水川
おお、サンクス! まさに「文殊の知恵」状態w。確かに1940年9月4日、
張家口での演習中、墜落してきた味方飛行機のプロペラに引っ掛けられて
『事故死』するという壮絶な最期を遂げられています。
しかしこの時、北白川宮永久王は31歳で「砲兵大尉」です。将官とは
程遠い地位にありますし、何より『戦死』ではありません。きっと支那では
事故死も戦死扱いになるのでしょうw。死後、砲兵少佐に特進しています。
余談ですが「北白川宮家」は皇族でありながら呪われた家系であり、初代は
17歳で夭逝。2代目の能久親王は日清戦争で49歳の若さで台湾で戦死。
3代目の成久王は陸軍大学を卒業して「砲兵少佐」になるも、視察で訪れた
パリで自動車事故に遭い死亡。4代目の永久王は上記の通り。
5代目の道久王は終戦後の臣籍降下により「東芝の一社員」として扱われる憂き目にw。
514 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/22(金) 00:08:45 ID:JmeVlXo3
>>481 >>木谷資俊 野重2旅団長 少将 →死後、中将に 1940年3月20日
『陸軍将官総覧』によると単なる「没」とあり、どうも戦死ではないようです。
支那側のサイトによると江西省で「戦死」とありますが、詳細は不明w。資料が
少なすぎます。怪しい。ちなみに名前は「こだにすけとし」と読みますw。
>>481 >>前田治 35D師団長 中将 1940年5月21日
この人も『陸軍将官総覧』では単なる「没」となっています。享年54歳、
場所は北支とあります。ちなみに砲兵畑の人です。編制地は東京、1940年当時は
北支那方面軍所属でした。30番ナンバー師団は、前スレでも述べたように
支那・占領地の「治安維持」が任務で編制されています。前田が最期に長を務めた
第35師団もその1つです。1940年5月という時期から「戦死」は疑わしいです。
中支では「宜昌作戦」という大きな作戦が行なわれていましたが、もちろん第35
師団は参加していませんw。
恐らく 阿部規秀 独混第2旅団長 少将 14年11月22日大行山脈作戦で戦死 この人とごちゃ混ぜにしてるんでしょう>皇族殿下
木谷少将は病死です。 前田師団長も恐らく病死。師団長の戦死ならもう少し日本側の扱いも大きいはず。 一連の戦争で最初の戦死師団長は多分酒井直次中将。
517 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/22(金) 00:24:29 ID:JmeVlXo3
>>481 >>藤堂高英 14MBs旅団長 少将 病死 →死後、中将に 1940年6月13日
この人も『陸軍将官総覧』では単なる「没」とあります。戦死は怪しいw。ちなみに
独立混成第14旅団長が最期の役職です。支那側のサイトによると江西省で戦死した
とのことw。旅団自体は姫路が編制地であり、1940年当時は中支の第11軍の指揮下
でした。やはり「病死」は、「戦死扱い」になっている可能性が高し。
それにしても「藤堂高英」など、現在検証している名前をググると支那側の
サイトにばかり引っかかって、日本のものは全くと言っていいほど無いのは
どういうことかしらん?w
北白川宮殿下は宮川大尉となのっていましたので、水川というのはそれでしょうね。
殿下は低空で突っ込んできた戦闘機の右翼に足を払われ、右足切断、
地面に頭部を叩きつけられその日に薨去せられました。
こういう場合、上司は進退伺いを出すのが通例ですが、岡部中将は出しませんでした。
>>510 小林聯隊長は安北にいたが、包頭の危急を知り、独断一中隊を率いて救援にかけつけ
途中で六百の敵と遭遇。聯隊長が武装解除を申し渡すと、一旦は敵もそれに応じたが
日本軍の微弱なのに気付くと攻撃を再開。聯隊長は腹部貫通銃創で戦死。
519 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/23(土) 23:43:14 ID:/SIYlO4D
>>518 >>北白川宮殿下は宮川大尉となのっていましたので、水川というのは
>>それでしょうね。
おお! 情報サンクス! 点と点が繋がりました。進退伺いを出さなかった件は
『最低』と言いたい所ですが、自分の仕事で考えてみると何とも……。社長の
息子が死んだとか、担任の生徒が死んだ時に「進退伺い」を出すべきなのかw。
>>481 >>井上官一 11A作戦課長 大佐 病死 →死後、少将に 1940年10月16日
スレの人口が激減…。しかし執念深く検証を続けます。あと半分w。この人はほぼ
病死で間違いないでしょう。上記に有るとおり、第11軍の作戦課長の後に1940年
8月24日に『参本附』となって10月に死亡ですから、何か病気なり負傷なり仕事を
続けられない理由があったはずです。
『帝国陸軍将官総覧』では「中央」で没となっています。享年46歳。支那側のサイトを
見ると、宜昌作戦に絡んだ戦傷とされていますが、時期が若干ずれています。
520 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/24(日) 00:05:03 ID:pEtNxtTA
ちなみに中支で行なわれた『宜昌作戦』(当然、第11軍が担当)は非常に
大きな作戦でしたが、1940年5月〜6月末です。井上は8月末に「参本附」と
なっていますので、戦傷に因るものとするには時期が若干離れています。
ちなみに井上官一は、陸軍大将である「井上幾太郎」の息子です。
しかし、仮に「戦傷による病死」だとしても、それを『戦死』と謳うのは
どうかと思いますw。気持ちは分かりますが、その理屈だと日本軍が殺した
支那側の「師長の数」もハネ上がるでしょうw。同じように太平洋戦争中、
日本が殺した「米軍将官」に「戦傷によるその後の病死」も含めるかですw。
>>481 >>上田勝 歩227聯隊長 大佐 →戦死、少将に 1941年5月13日
この人は戦死で間違いありません。ちなみに第227連隊の上級部隊は、
鹿児島の第37師団です。さらに第1軍所属で、上田が戦死した1941年5月は
ちょうど『中原会戦』が行なわれている時期ですから、想像ですがその戦闘の
最中に戦死と考えるのが自然かもしれません。37師団も参加しています。
521 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/24(日) 00:26:27 ID:pEtNxtTA
>>481 >>酒井直次 15D師団長 中将 →戦死 1942年5月28日
この人も戦死で間違いありません。大東亜戦争(日中戦争+太平洋戦争を上手く
表すには、やはりこのタームしかないw)で戦死した「最初の師団長」でしょう。
第15師団の所属は「上海の第13軍」であり、戦死した時期からいって「浙かん
作戦」に参加した最中と考えられます。(ドゥリットル爆撃の対抗措置)
浙かん作戦は、在中米空軍の飛行場潰しを目的とした「大陸打通作戦」の雛形とも
言えます。支那側のサイトによりますと、酒井は地雷に触れて死亡したとありますが
詳細は不明w。ただし、『帝国陸軍将官総覧』にも「戦死」とありますから、戦死
自体は間違いありません。
522 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/24(日) 00:44:31 ID:pEtNxtTA
>>481 >>塚田攻 11A司令官 中将 →戦死、大将に 1942年12月18日
>>藤原武 11A高級参謀 大佐 →戦死、少将に 1942年12月18日
塚田は「参謀次長」を務め、「南方軍総参謀長」を経て「第11軍司令官」
(漢口)に赴任して間もない頃に『飛行機事故』で殉職しています。 藤原
高級参謀も同様です。
しかし墜落の原因が「支那側の銃撃」によるものとの説があり(『日本と
中国はなぜ戦ったのか』益井康一著:筆者は戦時中、毎日新聞の従軍記者)、
どうも戦死(撃墜死)くさいです。暫定ですが、支那事変における日本軍の
最上級戦死者となります。
塚田の「戦死」(撃墜死)の背景は、こうです。当時(1942年末)、重慶
侵攻作戦(五号作戦)が本気で計画されていましたが、ガダルカナル戦の
悪化により、重慶作戦に予定されていた有力師団が次々と太平洋戦線に
引き抜き・転用の憂き目にあい、実行は不可能となります。
523 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/24(日) 00:55:01 ID:pEtNxtTA
ついに大本営が「五号作戦」の中止を決定し(1942年12月10日)、当時の 支那派遣軍総司令官だった畑俊六大将は、南京の総司令部に各軍司令官を 集めました。飛来した『メンバー』は以下の通り。 ●北支那方面軍司令官:岡村寧次 ●第11軍司令官(武漢):塚田攻 ●第13軍司令官(上海):下村定 ●第23軍司令官(広東):酒井隆 この場で各軍司令官へ正式に「五号作戦」の中止が言い渡されました。しかし 問題はこの後です。南京から武漢への帰途、第11軍司令官・塚田中将ら 11人の乗った97式輸送機が安慶を通過後に「行方不明」となったのです。 (1942年12月18日)
524 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/24(日) 01:09:48 ID:pEtNxtTA
直ちに捜索・救難のために『大別山作戦』が実施されて、第11軍と 第13軍の北上部隊が出動し、重慶軍と交戦しながら大別山系を進撃します。 その結果、南京―漢口間の「大別山脈」南部の谷間に97式輸送機が 墜落・大破して、塚田軍司令官以下、全員が惨死しているのが発見され 遺体が回収されました(1942年12月25日)。 大別山脈は天候の悪い難所で、低空飛行している最中に、地上の支那兵から 対空射撃を受けて墜落したのではないかと、益井は疑っていますが詳細は 不明です。単に「視界不良」のために山壁に突っ込んだとも考えられるでしょう。 しかし益井は航空畑を中心に取材していた記者なので(飛行服姿で『鍾馗』 と写っている写真〔1943年9月・天河飛行場〕や同じく漢口の1飛団司令部 〔1944年夏〕の写真がある)、その意見を疑わしいと簡単に切ってしまうのは なかなか難しいです。
525 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/24(日) 01:20:47 ID:pEtNxtTA
あと益井が『毎日新聞記者』だからといって、今のイメージで変に 疑わないようにw。自分が益井の著作を推薦図書としてこのスレでも 挙げているように優秀な部類に入ります。むしろ思想は右に近いです。 日本軍の欠点もバンバン叩きますがw。 塚田らの捜索・救難のために行なわれた「大別山作戦」で、支那側の 遺棄死体は4150人、捕虜は911人でした。日本側の戦死者は 60人、戦傷者179人です。 益井は「軍司令官とはいえ、その遺体収容のために、これだけの尊い 犠牲者を出したことは、なんとしてもやりきれない不合理さがある」と 難じていますが、この辺は意見が別れるところでしょうw。 自分は沢田の出張の目的が目的だけに(五号作戦の中止決定の帰路)仕方が 無いと思いますし、支那側の遺棄死体数を考えれば、悪くない取り引きです (日本側の戦死者60人)。
526 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/24(日) 01:37:55 ID:pEtNxtTA
>>525 >>自分は沢田の出張の目的が目的だけに
沢田じゃねえ、塚田だw。
いずれにしても塚田司令官以下、第11軍の幹部ら・11人(奇妙な
数字の一致w)が殉職しているのですから、捜索・救難がメインの目的
だったとはいえ、結果的に良いウップン晴らしというか、報復になった
ことになります。ちなみに益井の理屈ですと、
戦死者60人・戦傷者179人>>沢田軍司令官以下11人(飛行士含む)
となるでしょう。もう少し付け加えるとするならば、
>>>>>>(越えられない壁)>>>>支那人死体4150人、捕虜911人
となりますw。益井の主張は結果的に戦果も軽視しています。
>>520 "養子井上官一氏は陸大卒業後、参謀本部通信課に勤務し、歩兵出身でありながら
軍事通信界の権威として長く参謀本部部員として活躍した。
昭和十五年漢口第十一軍参謀として勤務中、病のため帰国、日本赤十字社病院にて
手当てをうけたが、同年九月二十五日戦病死した。
井上将軍の悲痛はたとえようもなかったであろう。
当時将軍は満洲国在住の郷軍視察の途に在ったが、にわかの危篤報に接し帰京、
看護に力を尽くしたが、名国手妙薬効もなく、遂に老将軍の期待は裏切られてしまった
のである。特に井上将軍の悲しみを深からしめたのは、未亡人一子さんもさることながら
まだ幼少の域にあった四男二女の行末であった。"
528 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/24(日) 21:24:53 ID:HtjM292p
>>527 情報サンクス。やはり病死でしたか。井上が何の病気に罹患したのか分かりませんが、
例えば支那でもマラリアやコレラは蔓延していました。南方戦線でないからと言って
油断は全くなりません。
特に第11軍が占領していた武漢あたりは、あらゆる「伝染病」の巣窟であり、仮に
地図に各伝染病の危険地域をマーキングすると、武漢周辺は『真っ黒』になったと
言います。
また武漢は「火炉」とも称され、想像を絶する猛暑地域です。当時のホテルでも
扇風機が回っている程度ではマトモに寝られたものではありません。近年だと
2003年に43℃の日が一週間続いたそうです。一歩間違えれば体も壊しますw。
529 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/24(日) 21:36:37 ID:HtjM292p
>>526 >>沢田じゃねえ、塚田だw。
塚田攻は「参謀次長」を務めた割りにマイナーな人物で、知名度も高く
ありません。塚田の前の参謀次長だった「沢田茂」と名前も似通って
いますのでよく間違えられます(藁)。
しかし『大本営機密日誌』を書いた種村佐孝(戦争指導を担当した第20
班員)は沢田を絶賛しており、参考までに紹介しておきましょう。
「塚田参謀次長は、南方軍総参謀長として転出した。北部仏印進駐以来
内外狂乱怒涛に掉さすこと1年有余、総長を助け、逸りがちな(参謀本)
部内を抑え、塚田次長が国策推進に関して尽くした努力は、けだし絶大
なるものがあった。
530 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/24(日) 21:49:52 ID:HtjM292p
塚田次長がその一貫せる統帥思想、不動の信念をもって、押すべきを押し 正すべきを正し堂々機微、部内外に対処したことは、常時直属班員として 勤務した私どもが忘れ得ないところである。 いまやこの次長が陸軍統帥の中枢部を去る。総参謀長として塚田中将を 配する南方軍総司令部の陣容はまことに喜ぶべきであるが、参謀本部と しては、この名次長を失って寂寥の感頓に深いものを感じたのであった。 午後4時、杉山参謀総長は部内全将校に対し訓示して曰く、『本職は老骨 を捧げて国難に殉ぜんとする堅き決意を有す』――と」 最後に杉山の名前を出してくる辺りが言い知れない『不安感』を掻き立てていますw。 しかし自分が職場を去る時は、願わくばこのくらいの事を残った人から言われたい ものです。しかし、そんな「名参謀次長」だった塚田も、その最期は支那の土人兵に よって撃墜死(あるいは事故死)。とかく世の中は、理不尽そのものです。
531 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/24(日) 22:06:59 ID:HtjM292p
>>482 >>浅野克己 23A高級参謀 大佐 病死 →死後、少将に 1943年5月
この人は病死で間違いありません。第23軍(広東)の高級参謀です。例の如く
「浅野克巳」の名前でググると、引っ掛かってくるのは支那側のサイトばかりですw。
>>482 >>仁科馨 歩235聯隊長 大佐 →戦死、少将に 1943年6月1日
この人は戦死で間違いありません。第235連隊(編制地:徳島)の上級部隊は
第40師団です。死亡した時期は「江南殲滅作戦」の期間中にあたり、第40
師団の一部も参加していますが、仁科が部隊を率いていたかどうかは分かりません。
532 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/24(日) 22:33:34 ID:HtjM292p
>>482 >>K川邦輔 56D参謀長 大佐 →戦死、少将に 1943年6月28日
この人も戦死で間違いありません。第56師団の参謀長でした。黒川は陸大を
出ると同時に、東大法学部も卒業しているインテリです。その後の職歴も関東軍
参謀(政務)、関東軍第4課長(満州国の内面指導)、第25軍軍政部附など
大きな特徴があります。
第56師団の上級部隊は「あの」第15軍(ビルマ戦線)であり、牟田口廉也が
軍司令官になったのが1943年3月18日で、黒川が戦死する少し前に辺ります。ある
サイトによれば、1943年6月に第15軍司令部があるメイミョーに後のインパール
作戦を踏まえた「兵棋演習」に参加した際、黒川の乗った輸送機「東亜号」は
ペグー山脈で消息を絶ち戦死してしまいます。
要するに「飛行機事故」であり、戦死とするかは微妙ですが『帝国陸軍将官総覧』
には戦死とありますので暫定で含めます。まあ、「インパール作戦」というのは、
始める前から既に、上記のような事故でケチが付いていたのですw。ちなみに
第18師団(田中新一中将)の参謀長である横山明大佐も同乗して戦死ですw。
>>532 >>第18師団(田中新一中将)の参謀長である横山明大佐も
>>同乗して戦死ですw。
ちなみに黒川と同乗して飛行機事故死(戦死)した横山明大佐も特進して
少将になっていますが、何故か支那側のウィキペディアには名前が載って
いませんw。
534 :
名無し三等兵 :2006/09/24(日) 23:44:43 ID:qThOXIMC
満州を知らずに15年戦争は語れません。
535 :
だつお :2006/09/25(月) 21:44:48 ID:qpiFqdSb
同盟国の間の支援は相互的、双方向のものであり、ある種の一方的な
ものではなかった。中国は世界反ファシズム闘争の主要戦場の一つであった。
中国のこの主要戦場があったが故に、東方における反ファシズムの勝利
があったのである。最も多くの日本軍と交戦したのは中国である。日本軍の
師団編成によって計算すると、盧溝橋事件から一九四五年まで、日本が長年
にわたって中国関内[長城以南]の戦場に投入した陸軍の兵力は、最大の年
が編成中の九〇パーセント、最少の年が三五パーセントであり、八年間の
平均は七六・四パーセントであった。太平洋戦争勃発後も、日本陸軍の
主力は中国戦線に展開していた。中国が殲滅した日本軍の数は最も多い。
満州事変から日本の降服までの期間において、日本軍の外国における戦闘
での傷病戦死者は二八七万四〇〇〇人であるが、その内の八九万人は太平洋
戦争でのものであり、中国戦場での死者は一九八万四〇〇〇人にものぼった。
中国抗日戦争史 中国復興への路 / 劉大年/編 白介夫/編 曽田三郎/[ほか]訳
胡錦涛氏は1枚1枚の写真、1つ1つの文物や復元景観をつぶさ
に見、解説員の説明に真剣に耳を傾けた。1・29運動と西安事変
を示す大きな写真の前、敵後方抗日根拠地の電子見取図の前、
平型関大勝利の復元景観と百団大戦の戦績集計表の前、中国軍が
台児荘の戦いで使った武器装備の前、中国共産党第7回大会会場
の写真の前、ソ連からの志願航空隊と米国空軍特別派遣隊の戦闘
生活を示す写真や実物の前、中国戦区日本軍降伏調印式の再現場面
の前で、胡氏は足を止め、詳しく質問していた。
http://www.fmprc.gov.cn/ce/cejp/jpn/zt/qqq115/t207155.htm 胡錦涛総書記、中国人民抗日戦争勝利60周年記念大型テーマ展を見学
536 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/26(火) 00:05:44 ID:SBqpYpIo
>>482 >>布上照一 歩109聯隊長 大佐 →戦死、少将に 1943年11月23日
この人は戦死で間違いありません。ちなみに名前は「ぬのうえ」と読みます。
第109連隊の上級部隊は116師団(京都)となります。支那事変直後に
新設された特設師団です。
布上は「常徳殲滅作戦」で戦死した模様です。常徳は湖南省にあり、昔から
「湖南実れば四川飢えず」と言われた大穀倉地帯です。よって支那側の防備
も堅く、約30万人の兵力・40個師が存在していました。
当然のことながら激戦となり、支那側の遺棄死体は2万9千人余、捕虜は1万
4千人以上を数えましたが、日本側の戦死者も1300人弱、戦傷者も3千人
近くとなりました。布上もその内の1人でしょう。
537 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/26(火) 00:35:33 ID:SBqpYpIo
>>482 >>中畑護一 歩6聯隊長 大佐 →戦死、少将に 1943年11月25日
この人も戦死で間違いありません。歩兵第6連隊の上級部隊は第3師団(名古屋)
です。中畑も常徳作戦に参加しての戦死です。この人の名前も支那側のサイトに
しか引っかかって来ませんw。
>>493 で挙げました上海事変・呉淞上陸戦で戦死
の倉永辰治も同じ第6連隊長でした。
>>482 >>下川義忠 第10野戦補充隊長 少将 →死後、中将に 1944年4月19日
この人は『帝国陸軍将官総覧』では単なる「没」となっていますから戦死では
ないでしょう。死亡地は「応城」ですが湖北省に位置します。知名度から言えば
下川自身よりも乗馬だった「勝山号」の方が有名でしょう。下川以外にも加納、
飯塚、布施など各部隊長を背にして支那各地を転戦し、加納や飯塚が戦死し、
勝山号も3度重傷を負いますが、奇跡的に回復し軍役に復帰しています。
「勝山号」は畑俊六大将から金鵄勲章に値する「甲功賞」を受けています。
>>529 >しかし『大本営機密日誌』を書いた種村佐孝(戦争指導を担当した第20
>班員)は沢田を絶賛しており、参考までに紹介しておきましょう。
>「塚田参謀次長は、南方軍総参謀長として転出した。北部仏印進駐以来
> 内外狂乱怒涛に掉さすこと1年有余、総長を助け、逸りがちな(参謀本)
> 部内を抑え、塚田次長が国策推進に関して尽くした努力は、けだし絶大
> なるものがあった。
× 沢田を絶賛しており、
○ 塚田を絶賛しており、
細かいですが流石に訂正でも間違われる塚田カワイソスw
まあ、自分も後で「ヤッちゃった」と気付いたんですが、今さら再訂正する のもアレなので華麗にスルーしましたw。
塚田と一緒に死んだ藤原武もその筋wでは有名な人です。
541 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/26(火) 23:15:33 ID:LlMLIkEo
542 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/26(火) 23:44:00 ID:LlMLIkEo
>>482 >>本村千代太 歩59旅団長 少将 【不明】
この人も『帝国陸軍将官総覧』に名前が見つかりません。五十音順で
引っ張っているのですが、特殊な名前の読み方をするのかしらん?w
ttp://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/unit/list4/059b.html こちらの有名サイトでは第59旅団長として本村の名前が確かに
確認できるのですが……。ご存知の方、情報キボンヌw。
>>482 >>和爾基隆 歩120聯隊長 大佐 →戦死、少将に 1944年7月21日
この人は戦死で間違いありません。大陸打通作戦における衡陽攻略戦での死亡です。
第120連隊(福知山)の上級部隊は第116師団(京都)となります。衡陽は
少し前に『蒋介石とスティルウェル』で連載したように「打通作戦」の最激戦区
でした。第116師団は、第68師団とともに衡陽攻略の第一次攻撃から投入されて
います。
543 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/26(火) 23:57:13 ID:LlMLIkEo
ちなみに和爾基隆は、東京都日比谷高等学校の出身者にも名前が
出てきます(ウィキペディア)。
>>483 >>大橋彦四郎 歩18聯隊長 大佐 →戦死、少将に 1944年7月25日
この人も戦死で間違いありません。ただし大橋が死んだのはグアムでの
玉砕戦です(核藁)。中国版のウィキペディアでは、死んだ日付は同じ
7月25日ですが湖南省(おそらく衡陽戦)で戦死した事になっていますw。
何ですか、それ?w ちなみに日本版のウィキペディアでは「軍旗」の
奉焼の項に大橋大佐の名前が出ています。
>>歩兵第18連隊(1944年7月25日夜に奉焼。)昭和19年7月25日夜に
>>グアム島で奉焼。連隊長大橋彦四郎陸軍大佐以下玉砕した。
544 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/27(水) 00:19:02 ID:nIAKSx0q
>>482 >>佐治直影 39D参謀長 大佐 →戦死、少将に 1944年7月27日
この人は戦死で間違いありません。場所もきちんと湖北省ですw。ちなみに
第39師団の編制地は広島です。『帝国陸軍将官総覧』にも記述が僅かで
詳しい戦死の状況は不明ですw。
>>志摩源吉 歩57旅団長 少将 →戦死、中将に 1944年8月7日
この人も戦死で間違いありません。久しぶりに将官できちんと戦死した人ですw。
第57旅団の上級部隊は第68師団、所属は第11軍(当時)となります。第68
師団も
>>542 で述べたとおり衡陽攻略の第一陣に加わっています。おそらく志摩も
その戦闘で戦死したのでしょう。
衡陽の攻略が成った(支那軍の降伏)のが1944年8月8日ですから、志摩は
前日に亡くなったことになります。
545 :
だつお :2006/09/27(水) 05:12:41 ID:RMkvdzyk
十九年春〜二十年初めに実行された一号作戦は、国軍に前例のない大規模 のものであり、陸上戦略指導としては大成功と感じられるものである。しかし B−29の本土空襲は阻止できず、太平洋方面における我が主作戦の敗勢を救う べくもなかった。この間における中國航空作戦は、数質ともに次等の戦力で よく靭軟な奮闘を続けた。中國方面に有力な米陸空軍部隊を吸引牽制し、 しかも彼我主力の決戦方面に対し、その決定的な攻撃威力を及ぼさせなか ったことは、わが中國方面空地作戦の隠れた戦略的成果と評価すべきである。 しかし問題は、中國方面にあった陸軍戦力を、国軍主力の決戦作戦方面に対し、 より有効に直接参加させる戦略方策の有無であり、それは更に深刻な別途の研究 にまたねばならない。 これを要するに、陸軍航空の基本的体質に大きな影響を与えた中國航空作戦は、 支那事変間と大東亞戦争間とにおいて、その様相が著しく変化した。前者は敵が 弱体な中國空軍であり、後者は敵が強力な米陸空軍であり、航空撃滅戦、 制空権の獲得に最大の努力を傾注しなければならなかった。 中国方面陸軍航空作戦 / 防衛庁防衛研修所戦史室‖著 / 朝雲新聞社 , 1974 ( 戦史叢書 ; [74] )
546 :
だつお :2006/09/27(水) 05:32:14 ID:RMkvdzyk
>アメリカの援助額は総額500億ドルのうち英連邦に300億ドル、 >ソ連に100億ドル、中華民国には15億ドルという見積もりがある。 フライングタイガーズは「中国空軍所属の中国援助アメリカ志願航空隊」。 これが解散された後に新設・増強された第14航空軍は、正規のアメリカ 陸軍航空兵団であって、レンドリースや義勇軍の類とは全く違う。 さらに中国方面はこれとは別に第20爆撃兵団のB29が加わる。 ハンプ越えだけで400機も墜落してるのに(梅本弘「ビルマ航空戦」)、 これが15億ドルていどの支援内で済まされたとは到底考えられまい。 アメリカが15億ドルの支援で足りると考えるのならこんなことはしない。 そもそも15億ドルというのは、大戦中の中華民国の全国家予算に匹敵する。 (岡野篤夫「進軍 中国大陸3000キロ」) また抗日戦争終結後もトルーマン政権は援助を続け、トルーマンは蒋介石 への援助は累計38億ドルに達するとの声明を出している。 (S・シーグレーブ「宋王朝」)
547 :
だつお :2006/09/27(水) 05:48:45 ID:RMkvdzyk
>アメリカの援助額は総額500億ドルのうち英連邦に300億ドル、 >ソ連に100億ドル、中華民国には15億ドルという見積もりがある。 そもそも物資援助や義勇部隊だけで足りるのなら、わざわざアメリカ軍 自らが参戦する必要などまったくない。 イギリスには第8航空軍、中国には第14航空軍が創設された。 これに対しソ連に創設された米航空兵団は存在しない。 逆にソ連の基地をアメリカが不時着場として一部借用している。
>>542 芙蓉書房「陸海軍将官人事総覧」では木村となっています。
しかし芙蓉書房「帝国陸軍編制総覧」や秋元書房「陸軍士官学校」では本村となっています。
どっちが正しいのかは分かりません。
>>541 横山は25期で、62Bの前は、東京帝大の配属将校でした。
>>548 >>549 どうもでございます。中国版のウィキペディアでは「木村」に
なっておりましたw。日本の書籍でも2通りあるのですね。編者の単純な
見間違いだと思いますが、こうなって来ると訳がわかりませんw。
551 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/27(水) 23:19:52 ID:0xuQ3PSh
>>482 >>蔵重康美 歩148聯隊長 大佐 →戦死、少将に 1944年9月13日
この人も戦死で間違いありません。第148連隊の上級部隊は第56師団です。
蔵重はかの『騰越の玉砕』の指揮官です。騰越の名前は知らなくても「拉猛」は
戦史を少しでも齧った事のある人ならご存知のはずです。騰越はそのお隣ですねw。
ちなみに騰越はビルマ北部に接する雲南省にあります。蔵重は所属する第56
師団長の松山祐三から死守を命じられて、2000名余りの兵と共に玉砕しました。
攻囲部隊は雲南遠征軍(Y部隊:スティルウェルが絡んでいます)の第20集団軍・
5個師・約4万9千人です。蒋介石は9月18日の国辱記念日(満州事変勃発日)
までに必ず奪回せよ、と軍司令官の衛立煌に厳命しました。また衛立煌は日本の
陸軍士官学校に留学経験があります。
日本側の生存者は50人にも満たなかったそうです。
552 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/27(水) 23:38:29 ID:0xuQ3PSh
>>482 >>与野山寿 34A兵器部長 大佐 →戦死、少将に 1945年2月9日
この人も戦死で間違いありません。しかしネットで名前を検索すると、いつもの
如く「支那側のサイト」にしか引っかかって来ませんw。与野山の経歴を見ます
と近衛工兵連隊長、中支野兵廠附、第19野戦兵器廠長と大きな特徴があります。
どう見ても第一線の前線に立つような人物ではないので、突発的な戦闘にでも
巻き込まれたのでしょうか。一応、第34軍は第6方面軍に属して、北支那方面
軍による「老河口作戦」の支援を行いますが、もう少し時期が後になります。
>>482 >>沼田徳重 114D師団長 中将 病死 1939年8月12日
特に言うことはありません。在職中に病死ですw。一応、第114師団の
上級部隊は第12軍であり司令部は鄭州です。
554 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/27(水) 23:59:08 ID:0xuQ3PSh
ようやく、残りあと2人w。今週中には総括できそうです。一週間以上 かかりました…orz。 それはさて置き、アマゾンで本を探していましたら、また太平洋戦争 研究会で『日中戦争がよくわかる本』(PHP文庫)が10月初めに 新刊で出るそうです。 お値段が600円台半ばですので、このスレで推薦図書に挙げている 「ふくろうの本シリーズ」(河出書房新社)の『図説 日中戦争』 (同じ著者)と同レベルのコンテンツならかなりお買い得でしょう。 まあ文庫の版型ですから、そこまで期待は出来ないでしょうがw。 しかし、700円弱で日中戦争が分かる本というのも貴重ですから 発売されたらレビューしてみましょう。
555 :
名無し三等兵 :2006/09/28(木) 00:51:21 ID:O8z0U3l7
555
556 :
だつお :2006/09/28(木) 20:27:30 ID:yINCNYF8
> これを要するに、陸軍航空の基本的体質に大きな影響を与えた中國航空作戦は、 >支那事変間と大東亞戦争間とにおいて、その様相が著しく変化した。前者は敵が >弱体な中國空軍であり、後者は敵が強力な米陸空軍であり、航空撃滅戦、 >制空権の獲得に最大の努力を傾注しなければならなかった。 小林よしのりはよくフライングタイガーズを取り上げるが、 戦史叢書のここのくだりをよく読んでもらいたいものだな。 あれはただの義勇軍であって、正規の米陸軍航空兵団とは全く違う。 中華民国への支援額は15億ドルにすぎず、英の300億ドルのみ ならずソ連の100億ドルと比べても微々たるものでしかない。 たったの15億ドルていどでは、しょせん義勇空軍が関の山だ。
557 :
えICBM :2006/09/30(土) 10:23:58 ID:???
>小林よしのりはよくフライングタイガーズを取り上げるが、 バカウヨには効かなくなり出したが、バカコヴァにはまだまだ現役で通じる。 打通さんは切って捨てるようだ。
558 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/30(土) 21:28:15 ID:UXaEQLpL
>>482 >>阿部規秀 2MBs旅団長 戦死 中将 1939年11月27日
この人は戦死で間違いありません。また少将から戦死して中将になったのでは
なく「中将で戦死」です。阿部が中将になったのは1939年10月2日です。独立
混成第2旅団(大阪編制)は当時「駐蒙軍」に所属しており、阿部はどうやら
八路軍との戦闘で戦死した模様です(迫撃砲によるもの?)。
昨年2005年に、支那で「抗日戦勝利60周年」を記念して『太行山』という映画
が作成されており、そこに阿部が敵役の親玉として出てきますw。下記参照。
>舞台は日中戦争時の中国・太行山脈。朱徳総司令官が率いる抗日部隊・八路軍は、
>黄河を越え、太行山を抗日活動の拠点とした。やがて山西省に到達した部隊は、
>平型関で日本軍と一戦を交える。圧倒的に弱い兵力、極端に乏しい軍備という
>状況の中、八路軍の兵士たちは、祖国を思う純粋な心と不屈の闘志によって、
>幾度にも及ぶ日本軍の攻撃を退ける。しかし、娘子関での戦闘で将校・?夢齡が
>戦死、片腕の連隊長・賀炳炎が全身血まみれになって闘う中、雁門関にも危機が
>迫る。朱徳は日本空軍の拠点である陽明堡を夜襲して空からの物資供給を絶つ一方、
>雁門関の日本軍にも奇襲をかけた。これに対して日本軍は、阿部規秀中将率いる
>陸軍部隊による地上戦に望みを託した。激烈を極める八路軍と阿部部隊との戦闘の
>中で、自らの身も顧みず、ひたすら日本の「護国の花」として闘い続ける阿部中将は、
>はからずも命を落とす──。
559 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/30(土) 21:37:04 ID:UXaEQLpL
しかし、上記の映画で出てくる「平型関」は1938年の戦いであり、 阿部が戦死した1939年末とは時期がズレていますw。 いずれにしても阿部の死は、大陸戦線での中将級・初の戦死者であり、 明治の建軍以来でも初めてと陸軍省から発表されました。また阿部の 前職は歩兵第1旅団長であり、ここで戦死していなければもっと上を 狙えたかもしれません。
560 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/30(土) 22:12:03 ID:UXaEQLpL
>>482 >>飯田泰次郎 35歩兵旅団長 少将 病死 1940年11月28日
病死です。以上w。河南省で享年50歳でした。『帝国陸軍将官総覧』
でも単なる「没」となっています。支那側のサイトによると、重傷死
ともありますが、場所が山東になっていたりで信用なりませんw。
>>482 >>吉川資 歩53旅団長 少将 →戦死、中将に 1945年5月7日
この人は戦死で間違いありません。山東省です。終戦末期の山東省は
日本軍が中共によってかなり追い込まれていたようですから、戦死も
不思議ではないかもしれません。「太平洋戦争が終わらなくても、
華北はあと1年持たなかった」と回顧される事がありますが、主に
山東省のことを指しています。
手頃な資料だと、『華北戦記』(桑島節郎著、図書出版社)が参考に
なります。
561 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/30(土) 22:19:38 ID:UXaEQLpL
562 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/30(土) 22:33:10 ID:UXaEQLpL
まあ、仕事が現在『破綻』しているのでw、細切れの時間でやるには丁度良い
検証作業だったかもしれません(藁)。総括としましては、
>>483 氏が
>>しかし、戦死して将官となった人を戦死した将官扱いするのはいかがなものか。
>>それから戦病死も戦死もごちゃまぜだし。更に抜けてる人物もいるし。
述べている事に尽きます。自分も全く同意見です。
>>395 は支那側のサイトなど
鵜呑みにしないように。日本軍の将官で戦死したと完全に言い切れるのは、
@>ミイトキーナ(ビルマ戦線)で自決した水上源蔵少将(第56歩兵団長。死後、中将)
A>田路朝一 15歩兵団長 少将 →戦死、中将に 1939年6月17日
B>中村正雄 歩21旅団長 少将 →戦死、中将に 1939年12月15日
C>酒井直次 15D師団長 中将 →戦死 1942年5月28日
D>横山武彦 歩62旅団長 少将 →戦死、中将に 1944年6月
E>志摩源吉 歩57旅団長 少将 →戦死、中将に 1944年8月7日
F>阿部規秀 2MBs旅団長 戦死 中将 1939年11月27日
563 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/30(土) 22:41:01 ID:UXaEQLpL
G>吉川資 歩53旅団長 少将 →戦死、中将に 1945年5月7日 H>関根久太郎 歩58旅団長 少将 この人はシコウ作戦失敗のどさくさで戦死 あと「飛行機事故死」か支那側の対空砲火による「撃墜死」かで意見が分かれる I>塚田攻 11A司令官 中将 →戦死、大将に 1942年12月18日 塚田を「数に入れる」かどうかです。入れるならば、自動的に日中戦争で 戦死した日本側の最高将官となるでしょう。 しかし確定しただけでも戦死した将官は9人…。結構、多いじゃないかって?w でも支那側のサイトだと、軽く『40人以上』日本軍の将官を殺していると 豪語していますからね(核藁)。
別に数が多いぶん誰も困らないだろ? 東洋鬼子ヒヒ
565 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/30(土) 23:17:10 ID:UXaEQLpL
ただフェアさを鑑みて、支那側を少し弁護しておきます。
将官はともかくとして、日本軍の「連隊長クラスの大佐」はゴロゴロ
支那戦線でも戦死しています。むしろ、こちらの方が驚きでしたね。
ひょっとすると、大佐で戦死したにも関わらず少将に進級していない
人の抜けがまだあるかもしれません(大佐に成り立てとか?w)。
また「戦死してからの階級」をゴッチャにしているケースは日本でも
よくある事でしょう。山口多聞がミッドウェーで戦死した時の階級を
「中将」だと誤解している人が偶に見られますw。あと硫黄島の栗林
忠道中将(→死後、大将に)や牛島満中将(→死後、大将に)などw。
しかし、支那側のウィキペディア(
>>395 )は意図的に、死後でなった
将官も含めていますから誠意がまったく感じられません。
566 :
名無し三等兵 :2006/09/30(土) 23:20:35 ID:iEU4YEfR
568 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/30(土) 23:36:47 ID:UXaEQLpL
569 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/30(土) 23:38:25 ID:UXaEQLpL
B級戦犯 三宅光治陸軍中将 満州国共和会中央本部長 20年10月21日ルビアンカで獄死 山下奉文陸軍大将 第14方面軍司令官 21年2月23日マニラで絞首 本間雅晴陸軍中将 フィリピン協会理事長 21年4月3日マニラで銃殺 田島彦太郎陸軍中将 独混第61旅団長 21年4月3日マニラで絞首 佐藤為徳陸軍少将 独混第35旅団長 21年4月6日チャンギーで絞首 鏑木正隆陸軍少将 第55軍参謀長 21年4月22日上海で絞首 福栄真平陸軍中将 第102師団長 21年4月27日チャンギーで銃殺 斎 俊男陸軍少将 独混第36旅団長 21年5月3日チャンギーで銃殺 平野儀一陸軍少将 歩兵第92旅団長 21年5月12日広東で銃殺 原 鼎三海軍中将 第12特別根拠地隊司令官 21年6月18日チャンギーで絞首 藤重正従陸軍少将 歩兵第17聯隊長 21年7月17日マニラで絞首 酒井 隆陸軍中将 特務機関長 21年9月13日南京で銃殺 洪 思翔陸軍中将 第14方面軍兵站監 21年9月26日マニラで絞首 岩切義一陸軍少将 第4野戦輸送司令官 21年10月20日ラバウルで獄死 岡部直三郎陸軍大将 第6方面軍司令官 21年11月28日上海で獄死 左近允尚正海軍中将 支那派遣艦隊参謀長 22年1月21日香港で刑死 田中久一陸軍中将 第23軍司令官兼香港占領地総督 22年3月27日広東で銃殺 河野 毅陸軍中将 歩兵第77旅団長 22年4月24日マニラで絞首
オナニー乙
571 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/30(土) 23:39:07 ID:UXaEQLpL
B級戦犯 谷 寿夫陸軍中将 第59軍司令官 22年4月26日南京で銃殺 原田熊吉陸軍中将 第55軍司令官 22年5月28日チャンギーで絞首 河村参郎陸軍中将 第224師団長 22年6月26日チャンギーで絞首 岸本綾夫陸軍大将 満州製鉄理事長 22年7月中共に抑留され病死 馬場正郎陸軍中将 第37軍司令官 22年8月7日ラバウルで絞首 重藤憲文陸軍少将 南支派遣憲兵隊長 22年8月9日広東で銃殺 立花芳夫陸軍中将 第109師団長 22年9月24日グアムで絞首 近藤新八陸軍中将 第130師団長 22年10月31日広東で銃殺 柳川 悌陸軍中将 第132師団長 23年2月27日上海で獄死 大木 繁陸軍中将 関東憲兵隊司令官 22年4月9日シベリアで病死 阿部孝壮海軍中将 佐世保聯合特陸隊司令官 22年6月19日グアムで絞首 酒井原繁松海軍少将 第65警備隊司令 22年6月19日グアムで絞首 喜多誠一陸軍大将 第1方面軍司令官 22年8月7日シベリアで病死 村上啓作陸軍中将 第3軍司令官 23年9月17日シベリアで病死 岡田為次海軍少将 呉鎮守府参謀副長 22年9月3日ラバウルで銃殺 醍醐忠重海軍中将 第6艦隊司令長官 22年10月6日ホンチャナックで銃殺 鎌田道章海軍中将 第22特別根拠地隊司令官 22年10月18日ホンチャナックで銃殺 田中 透陸軍少将 台湾歩兵第2聯隊長 23年4月7日アンボンで銃殺 佐々 誠陸軍少将 元・泰俘虜収容所所長 23年4月23日オートラムで絞首 大杉守一海軍中将 第23特別根拠地隊司令官 23年8月28日マカッサルで銃殺 田上八郎陸軍中将 第36師団長 23年10月6日ホーランジアで銃殺 浜中匡甫海軍少将 第8警備隊司令 23年10月15日メナドで銃殺
572 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/30(土) 23:40:30 ID:UXaEQLpL
B級戦犯 吉岡安直陸軍中将 満州国皇帝附 24年1月15日モスコーで病死 秋草 俊陸軍少将 関東軍情報部長 24年2月シベリアで病死 河根良賢陸軍少将 北支野戦自動車廠長 24年2月12日巣鴨で絞首 浅野新平海軍少将 第41警備隊司令 24年3月31日グアムで絞首 森 国造海軍中将 父島方面特別根拠地隊司令官 24年4月22日マカッサルで銃殺 安岡正臣陸軍中将 スラバヤ州知事 23年4月12日チビアンで獄死 谷萩那華雄陸軍少将 第25軍参謀長 24年7月8日メダンで銃殺 田辺盛武陸軍中将 第25軍司令官 24年7月11日メナドで銃殺 中島鉄蔵陸軍中将 スマトラ東海岸州知事 24年7月25日バタビアで獄死 岡田 資陸軍中将 第13方面軍司令官 24年9月17日巣鴨で絞首 小林恒一陸軍中将 満州国高等軍事学校長 25年5月9日シベリアで病死 加藤泊治郎陸軍中将 北支那派遣憲兵隊司令官 26年2月19日シベリアで病死 下河辺憲二陸軍少将 独混第23旅団長 26年3月20日巣鴨で獄死 西村琢磨陸軍中将 スマトラ州知事 26年6月11日マヌス島で絞首 内田銀之助陸軍中将 第118師団長 26年6月29日巣鴨で獄死 橋本虎之助陸軍中将 満州国祭祀府総裁 27年1月26日ハルピンで病死 横山 勇陸軍中将 第16方面軍司令官 27年4月21日巣鴨で獄死 柳田元三陸軍中将 関東州防衛司令官 27年10月1日モスコーで病死 福地春男陸軍少将 第23軍参謀副長 28年12月9日巣鴨で獄死 斎藤弥平太陸軍中将 満州拓殖公社総裁 行方不明 28年9月28日戦時死亡宣告 佐々木到一陸軍中将 第149師団長 30年5月30日撫順で獄死
A項「平和に対する罪」((a) Crimes against Peace)に関連する犯罪は、ドイツ-ニュルンベルクの国際軍事裁判所と日本-東京の極東国際軍事裁判所で審理され、 それ以外のB項「通例の戦争犯罪」・C項「人道に対する罪」を主とした犯罪は、各地の連合軍と犯罪が行われた各国において審理された。 B項「通例の戦争犯罪」((b) Conventional War Crimes)とは、戦時国際法における交戦法規違反行為(Namely, violations of the laws or customs of war)を意味する。 C項「人道に対する罪」((c) Crimes against Humanity)とは「国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、 奴隷化、捕虜の虐待、追放その他の非人道的行為」と定義されたが、この法概念に対しては当時から賛否の意見が分かれていた。なお、このC項は、 日本の戦争犯罪とされるものに対しては適用されなかった。
574 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/09/30(土) 23:47:02 ID:UXaEQLpL
上記の「B級戦犯」一覧は、
>>566 氏が挙げています「日本史板」の
『軍人軍閥総合スレ』から引っ張っていますが、 こうして一覧に
まとめて頂ける方がいらっしゃるので大変助かります。
人間みな助け合いのです(藁)。しかし、上記は個別で検証する気には
とてもなりませんw。
一連の検証作業ですが、 まあ、お後がよろしいようで。チャン、チャンw。
中国のウィキの誤りはそのまま放置なのですか?
577 :
えICBM :2006/10/01(日) 01:42:36 ID:???
>>573 B項もC項もニュルンベルグ裁判、東京裁判で起訴されてる。
ただ、東京裁判の場合C項「人道に対する罪」の本来の趣旨では起訴されていない。
578 :
名無し三等兵 :2006/10/01(日) 05:58:42 ID:JZ/mewmZ
■イナゾウの予想に反して大ヒットw■
ttp://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=home&NWID=2006090901002165 「蟻の兵隊」予想外ヒット 新たに10都市で上映へ
1945年8月の終戦後も中国山西省に残留し、中国の内戦に巻き込まれた
元日本兵奥村和一さん(82)=東京都在住=を主人公にした
ドキュメンタリー映画「蟻(アリ)の兵隊」が、7月下旬の公開以来、関係者の予想を超えるヒットを続けている。
最初に公開された東京・渋谷の映画館では、初日から1週間の動員数がこの劇場の新記録を達成。
8月5日に公開された名古屋、大阪でも、大学生や戦争体験者らで連日満席状態が続き、
9月以降も、新たに札幌や京都、那覇など全国10都市での上映が決まった。
新潟県出身の奥村さんは44年11月、20歳で徴兵され山西省へ。現地で終戦を迎えたが、上官に命令され残留。
約2600人の残留部隊は中国国民党系軍閥と結び付き、共産党軍との内戦に巻き込まれた。 (16:37)
まあ、B級戦犯を挙げたのは、支那戦線で戦死(病死、事故死含めて) した将官よりも、戦後に法務死(獄中死なども)した将官の方が余程 多いじゃないか、ということですw。 >>中国のウィキの誤りはそのまま放置なのですか? そんなところまで面倒みてられませんw。Trust No One. 誰も信じるな。 『蟻の兵隊』はヒットしていますよ。自分が見に行った時も、平日の夜で 30人ぐらいいましたから驚きました。逆に言えば、ヒットしていなけりゃ 批評に挙げません。騙される人は、コロッと騙されるだろうなあ、という事で。 おっと、そろそろ時間なので「超ド級要塞」に逝って来ますw。
581 :
えICBM :2006/10/01(日) 14:25:28 ID:???
>>580 違う、
>>573 の
>A項「平和に対する罪」((a) Crimes against Peace)に関連する犯罪は、ドイツ-ニュルンベルクの
>国際軍事裁判所と日本-東京の極東国際軍事裁判所で審理され、 それ以外のB項「通例の戦争
>犯罪」・C項「人道に対する罪」を主とした犯罪は、各地の連合軍と犯罪が行われた各国において
>審理された。
はどう読んでも、国際軍事裁判ではA項のみを起訴としか読めない。
ニュルンベルグではA項とC項がメインであるが、B項も裁かれている。
もしかして、国際軍事裁判ってA項だけしか裁いて無いと考えてんの?
あとC項の人道に対する罪は、ナチスドイツによる戦前も含む自国民、ユダヤ人等の少数民族への虐待、
虐殺に対する罪を裁くためであり、A項よりもかなり前から問題視されている。
というか、これが無ければ国際軍事裁判はなかったかも知れないほど重要なもの。
法的に問題があるとすれば、事後法的、罪刑法定主義の逸脱、国際法で個人を裁くこと等。
戦争が泥沼化した1941年には内地で反戦デモが発生していたって話を聞いたけど 本当?
583 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/01(日) 23:17:04 ID:uBIzIinO
>>582 >>戦争が泥沼化した1941年には内地で反戦デモが発生していたって
>>話を聞いたけど本当?
んな話は聞いた事がありません。支那側が「紙爆弾」を九州に落とした際、
「ビラを拾おうとする住民とそれを止めさせようとする警官隊が衝突した」
云々の『謀略宣伝』をやっていますが、その類の話ではないですかね?
>>495 >田上中将は第三十四聯隊長として第二次上海事変に出征したが、聯隊は呉淞上陸戦で
>大損害を受け、静岡市内は軒並み葬式という惨状を呈した。その一方、補充補充で
>十幾度の召集が続いた。この、朝に兵を送り夕に遺骨を迎える生活に、はっきり
>それとは口にしないが、市民の軍に対する非難は高まった。
>市民への申し訳なさからか、聯隊長のちよ子夫人は服毒自殺を遂げた。
↑を見ても分かるとおり、当時の日本は「反戦デモ」が起きるなんて滅多な
ことでは考えられません。まだ、大正デモクラシー時代の方がアリでしょう。
584 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/01(日) 23:24:07 ID:uBIzIinO
>>578 >>■イナゾウの予想に反して大ヒットw■
グダグダぬかす前に、試しに観に行ってみたらどうですか?
上映が終わって「金返せ」と叫ぶこと間違いなしだからw。
>>564 >>別に数が多いぶん誰も困らないだろ? 東洋鬼子ヒヒ
I中佐「あッはっはッ、はっはっは。あの辻政信<伊達男>がまるでボロ雑巾
じゃないか。やっぱり強いなあ!! あいつは!! べらぼうに強いな!!
存外に強いな!!」
???「もも申し訳、申し訳ありません。やはりやはり私共はまだ、私共は…」
I中佐「否!! 馬鹿を言うな。むしろ大成功に近い。『あの』最悪の土人鬼に
対して、『あれ』は一定の戦果をあげたのだ。『それ』は驚きべき存在
への媒介だ。怪物!! 人外!! 夜族!! 物の怪!! 異形!! それは
もはや人ではない」
?中佐「化け物!! すなわち我々は半世紀の時をかけ、その本懐へと手をかけたのだ。 化物を構築し、化物を兵装し、化物を教導し、化物を編制し、化物を兵站し、 化物を運用し、化物を指揮する。我らこそ、遂に化物すら指揮する我等こそ 『最後の連隊』! 世はまさに新世紀。まさしく新しい千年紀(ミレニアム)だよ。博士。 Welcome to this crazy time ♪ このイカれた時代へようこそ ♪ 君は確実に恐るべき天才だよ。大博士<石井四郎軍医中将>。」 石井四郎軍医中将「感謝の極み!!」
いいなぁ。ヒラコーネタwww
589 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/02(月) 22:24:28 ID:UWpNAfD7
>>しかし、700円弱で日中戦争が分かる本というのも貴重ですから >>発売されたらレビューしてみましょう。 早速、発売された『日中戦争がよくわかる本』を神保町で入手してきました。 ザッと読んでみましたが、なかなかの良本でしたので詳しくレビューして みましょう。著書はこのスレでもお馴染みの太平洋戦争研究会、出版社は PHP文庫です。『太平洋戦争・主要戦闘事典』もこの版元ですね。また、 『図説 日中戦争』(ふくろうの本)も同じ著者です。 まず帯のキャッチコピーですが、「盧溝橋事件から大陸打通作戦までその 実相に迫る!」とあるように、大陸打通作戦を前面に出しているところが かなり好印象ですw。実際に後半の1章を「大陸打通作戦とは、どういう 戦いだったのですか?」とページを大きく割いています(本全体で20問の Q&A形式に構成している)。
590 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/02(月) 22:37:45 ID:UWpNAfD7
また『本の命』であるカバー写真ですが、左隅にある「蒋介石と張学良、 支那の軍人たち」の集合写真が異様にインパクトがあります。メインの 写真は、38式歩兵銃に「銃剣」と「でかい日章旗」を括りつけた戦場 の日本兵たちです。 自分も初見のかなりグッドな写真ですが、肝心の日章旗が「本の帯の下」に 隠れてしまって勿体無いのひと言。ヒヨったか、PHPw。日章旗を抱える 日本兵がまだ20歳そこそこの「あどけない表情」なのが余計に印象的です。 右隅のカット写真は、畑俊六大将(後の支那派遣軍総司令官)と寺内寿一大将 (北支那方面軍司令官)が戦場に設置したテーブルで談笑している場面です。 おそらく「武漢攻略戦」の時でしょうか? 日中戦争を代表する日本人を挙げる のはなかなか難しく(支那側なら蒋介石と毛沢東で鉄板、日本側は指導者が コロコロ変わるw)、この2人(畑・寺内)ならピッタリでは無いにしても 文句もないという所でしょうか。あと強いて他に挙げるなら、岡村寧次か…。
591 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/02(月) 22:50:48 ID:UWpNAfD7
ふくろうの本の『図説 日中戦争』がほとんど「戦闘事典」に近いのに 対して、今回の新刊である『日中戦争がよくわかる本』は戦争の背景に もっと深く突っ込んでいます(その代わり、戦闘の記述は少なめ)。 前半はとくに丁寧なつくりで非常に好印象です。後半が「治安戦」などの 虐殺の話が盛り上がって『アレ』ですが、華麗にスルーしましょうw。 まあ正直、『図説 日中戦争』よりも左翼臭はキツイです(藁)。 それよりも日中戦争が起こる最大の原因である『北支分治工作』について 「これでもか!」と言わんばかりに、詳しく丁寧に地図も絡めて解説している のは特筆に値します。この本の最大の価値は、「北支分治工作」を出来る かぎり分かり易く、初心者に伝えようとしている所にこそあるでしょう。
592 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/02(月) 23:06:47 ID:UWpNAfD7
また写真や図表が多いのも、非常にプラスの評価です。ザッと数えて 見ましたら180点以上ありました。もちろん『図説 日中戦争』とは 版型の違いから比較になりませんが、文庫としては異様に多いでしょう。 とくに特筆すべきは以下の図表です。 ●冒頭の「支那全土図(省一覧)」……これが無いとお話にならない。 ●終戦直前の「日本軍占領地の見取り図」……文庫サイズで超貴重! ●敗戦時の日本軍の司令部一覧……独立混成旅団まで網羅! ●北支5省の全図……3〜4点あり。北支分治工作を語る上で必須。特に 見開き2ページの北支全図は圧巻! ●大陸打通作戦図……見易くて一目瞭然でグッド! 他にも「満州事変図」や「徐州作戦」「洛陽攻略戦」「上海攻略戦」「盧溝橋 付近」「武漢攻略戦」「重慶爆撃と101号作戦」「中原会戦」「長沙作戦」 「香港攻略戦」「江南殲滅作戦」「柳桂攻略戦」「老河口作戦」などの戦場図 も収録されています(但し、『太平洋戦争・主要戦闘事典』と同じもの)
593 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/02(月) 23:19:20 ID:UWpNAfD7
後半は著者が盛り上がって「江北殲滅作戦」や「江南殲滅作戦」、 「常徳殲滅作戦」などの日本軍の蛮行を示唆するのですが、戦場図が 付いているお陰で、読んでいる方も冷静さを取り戻せます。この辺は きっと編集者がブレーキを掛けているのでしょうw。 やはり「戦場図」が付いているのは大事な訳です。 また、この本で何より一回見て欲しいのは『南京市街略図』です。通常の いわゆる「地図らしい地図」(戦史叢書のような)ではありません。何と 言いますか、ポップなイラストと言いますか、稚拙と言えば稚拙な絵ですが とにかく『メチャクチャ』見易くて分かり易いのです。 かなりデフォルメされているのでしょうが、紫金山や中山陵と南京城の位置関係、 また「中華門、光華門、玄武門、通済門、漢西門、中央門」などの各門、揚子江と 下関の場所などが一目瞭然なのです。とにかく見易い!。
594 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/02(月) 23:38:14 ID:UWpNAfD7
また南京城内の、 「国民政府、中央軍官学校、中央医院、飛行場、監察院、司法院、 日本領事館、中央学校、参謀本部、海軍武官、鉄道部、交通部、 海軍部、英国領事館、ソ連大使館、最高法院、大会堂」などの 政府機関のおおよその場所がPOPにつかめる珍しい図です。代わりに 一般的によくみる「安全区」などの表記は削られています。その点を 抜きましてもぜひ目にして欲しい『面白い地図』と評価できます。つーか、 一度立ち読みしなさいw。第9問:P161です。 しかし肝心の南京虐殺の数については、岩波新書の『南京事件』(約20 万人)、秦郁彦氏の『南京事件』(約4万人・中公新書)、『南京戦史』 (偕行社:戦死3万人、撃滅処断数1万6千人)、『本当はこうだった 南京事件』(板倉由明著、1万人〜2万人)などの各諸説を一覧にして 並べているだけの「チキン」ですから、その点は全く期待しないようにw。
595 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/02(月) 23:53:55 ID:UWpNAfD7
あと写真も、ほぼ見開きページに1つはある計算で非常に多いので、 その点も初心者にお勧めです(総ページ360Pで、写真図表が 180点以上)。とくに素晴らしい写真が、 ●南京で会見した際の張学良と蒋介石 ●西安事件から生還した蒋介石を祝う行進(先頭に超デカイ蒋の肖像画!) ●龍王廟占領直後の牟田口大佐 ●日本の支那駐屯軍司令部(天津) ●満州国建国会議後の集合写真(カンジ) ●上海事変冒頭で射殺された大山勇夫海軍中尉の遺体搬送 ●燃える上海市庁舎 ●太原攻略戦と板垣征四郎中将 ●徐州作戦と黄河決壊 ●ビルマルートのサルウィン河にかかる恵通橋 ●アメリカ式訓練を受ける中国兵 ●輸送機から降り立つ米式装備の中国兵 ●大陸打通作戦で日本軍の襲来に列車で逃げ惑う桂林住民 以上、キャプションは一部省略してます。何より秀逸な写真は、支那派遣軍司令官 だった岡村寧次らの集合写真(関東軍時代)でしょう。メチャクチャ、カッコイイ!!
596 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/03(火) 00:06:42 ID:OYp7X/mA
岡村寧次の写真は超ベリーグッド!(最後の第20問)。 「支那通軍人はかくあるべし!」というぐらい迫力があります。岡村は イエローキャブの社長に顔が似ているとも言われますがw、こうした悪役の 滲み出るなんとも言えない雰囲気があるのです。 レビューが長くなりましたが、文庫版で660円という安さを考えれば 日中戦争の入門書(あくまで)としては、これ以上望むのはぜいたくと 言える出来ではないかと思います。図表も、とにかく多いですし。 ただし『図説 日中戦争』を上回る「左翼臭」のキツイのが難点ですw。 その点は「他の本も読め!」としかフォローの言い様がありません。 『図説 日中戦争』が大版型のサイズで1680円ですから、初心者に どちらを勧めるかは難しいところです。
597 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/03(火) 00:13:54 ID:OYp7X/mA
いずれにしても、 ●文庫 ●安い(660円) ●お手軽サイズ ●その割りに写真多め に魅かれた人には、上記の『日中戦争がよくわかる本』をお勧めします。 最後にまとめると、このスレで自分が初心者に入門書として第一に挙げるのが、 ●『日本と中国はなぜ戦ったのか』(益井康一著、光人社、1890円) ●『図説 日中戦争』(太平洋戦争研究会著、ふくろうの本、1680円 ●『日中戦争がよくわかる本』(太平洋戦争研究会著、PHP文庫、660円) の3点となります。あと、『太平洋戦争・主要戦闘事典』ですかね。お金に 余裕のある人は、ぜひ一番上の益井康一氏のを試しに読んでみると、得る所が 多いでしょう。お金をかけたくない人は、一番下の文庫を買ってくらさい。
>>588 最近のバカウヨは
影佐も共産主義者扱いなのかw
599 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/03(火) 00:40:10 ID:OYp7X/mA
>>最近のバカウヨは影佐も共産主義者扱いなのかw 影佐さんは、岡村寧次ほどではありませんが、自分も好きな人物の1人ですよ。 つーか、今の谷垣を見て影佐は「草葉の陰」でどう思っているのか…w。
600 :
名無し三等兵 :2006/10/03(火) 03:34:47 ID:XnZaFKRm
犯人は中国
>>598 それどころか汪兆銘はコミンテルンのスパイで和平を邪魔するために
重慶を脱出したとか言い出す救いようがない馬鹿ウヨもいるぞw
つーか、汪兆銘はあの段階で重慶を脱出するよりも、そのまま居座って もらった方が良かったですね。かえって蒋介石の威信が高まってしまい ました。逆に言えば、大陸打通作戦の末期に汪兆銘が重慶政府にいたら どうなっていたか見ものです。
604 :
だつお :2006/10/04(水) 03:49:17 ID:KFiUH0lT
汪兆銘は皇軍の中国侵略を誘いつつ共産党に寝返っていれば良かった。 蒋介石の威信は皇軍の大陸打通でズタズタになるから、それを見計らって 共産革命を起こせば国家主席にまでなれたはず。
605 :
77 :2006/10/04(水) 22:14:26 ID:???
>>603 > つーか、汪兆銘はあの段階で重慶を脱出するよりも、そのまま居座って
> もらった方が良かったですね。かえって蒋介石の威信が高まってしまい
> ました。逆に言えば、大陸打通作戦の末期に汪兆銘が重慶政府にいたら
> どうなっていたか見ものです。
わが家の別の年寄が、汪兆銘が最後に入院していた名古屋大学医学部付属病院で看護婦を
していました。
蒋介石側の暗殺を恐れていたのか、病室には軍によって
とても厳重な警戒態勢が敷かれていたそうです。
許可された者以外には、病室の近くにも寄れなかったそうです。
結局、日本にいいように利用され、現在でも本国や台湾では 漢奸扱いの汪兆銘カワイソウス( ´・ω・`)
「書評スレ」に長くいて時間が無くなったので、短いコメントで恐縮ですが…。
>>606 >>結局、日本にいいように利用され、現在でも本国や台湾では
>>漢奸扱いの汪兆銘カワイソウス( ´・ω・`)
ともすれば汪兆銘を「100%善人」と捉える向きもありますが(悲劇の
犠牲者として。また他への当て付けとしてw)、決してそうでは無い訳です。
国民革命の初期には、蒋介石を騙して船に乗せてウラジオストック(ソ連)に
連行しようなどという謀略もしている訳です。
自分の今の評価としては、汪兆銘はインテリ過ぎて、下手に先のことが見え過ぎた 訳です。そして理想家肌にも関わらず、そのプレッシャーに耐えられなかったのです。 だから、日本との和平を急いでしまった。汪兆銘の「どうしてこの戦いを続けられる ことが出来ようか」という言葉に全てが込められています。 逆に、蒋介石は中国古典(王陽明哲学)に取り憑かれて、宗教と紙一重の世界の 住人です。しかし信仰に支えられた『強靭な精神力』は、常人なら気が狂うかも しれない恐ろしい重圧にも耐え続け、ついには抗日戦争を全うする結果となりました。 もって他山の石とすべきでしょう。また蒋介石が毎日のお祈りや体操、読書(聖書や 古典など)を規則正しく続けた事が、精神の安定に大きくプラスに働いた事実は もっと注意されても良いことです。 現代人にも参考になりますね。毎日の規則正しい習慣(本当に苦しい時こそ尚更) により自分を律することで、強制的に精神の不安定化を防ぐのです。
>>604 >>蒋介石の威信は皇軍の大陸打通でズタズタになるから、それを見計らって
>>共産革命を起こせば国家主席にまでなれたはず
太平洋戦争後の「第二次国共内戦」末期、広西省のドンである李宋仁が
蒋介石に代わって『代理総統』の地位に付いています。もし汪兆銘が
国民政府に残っていれば、その「血統の良さ」から必ず蒋介石に取って
代わっていたでしょう。真っ先に神輿に担がれるという意味でですが。
ただ汪兆銘自身はロクに軍事力の基盤を持たない事と、暗殺に遭う可能性が
非常に高いのが最大のネックですw。
李宋仁も日中戦争では数々の戦区司令官を兼ねた「別格」の大人物ですけどね。
610 :
だつお :2006/10/05(木) 03:01:08 ID:qqbco3xU
611 :
だつお :2006/10/05(木) 03:10:33 ID:qqbco3xU
612 :
だつお :2006/10/05(木) 03:18:24 ID:qqbco3xU
同胞の皆さん、同志の皆さん、友人の皆さん
人類社会は歴史的規律や法則に則って進んで行くものであります。
中国人民が抗日戦争の勝利を獲得し、立ち遅れた武器や装備をもって
経済力や軍事装備の面でわれわれより強大な侵略者を打ち破ることが
できたのは、決して偶然ではありません。
中国共産党は自分の確固たる意志や模範行動をもって、全民族の抗日戦争
の中で大黒柱の役割を果たしました。毛沢東同志を傑出した代表とする
中国共産党はマルクス・レーニン主義を中国革命の具体的な実情と結び
つけて、毛沢東思想の科学的理論を創立し、発展させ、抗日戦争に対し
重要な思想と戦略的、指導的役割を果たしました。中国共産党は抗戦を
堅持し、妥協に反対し、団結を堅持し、分裂に反対し、進歩を堅持し、
後退に反対し、全民族の抗日戦争を勝利へ導く旗印となりました。
中国共産党は抗日民族統一戦線を積極的に提唱し、成立を促し、
それを保護し、共同抗戦のために全国軍民を最大限に動員し、
全民族の力を結束する卓越な組織者と鼓舞者となりました。中国共産党
は全面的な抗戦路線を堅持し、正しい戦略的策略を定め、人民を動員し、
人民に頼る路線・政策を実施し、持久戦の戦略的ガイドライン及び一連
の人民戦争の戦略と戦術を提起し、敵後方の戦場を広く開拓し、抗日戦争
を堅持する中堅力となりました。中国共産党は自分の最も犠牲精神に富む
愛国主義、流血と犠牲を恐れない模範行動で、全民族が国を救いその存続
をはかる希望を支え、抗戦の勝利を獲得する民族の前衛者となりました。
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanti/60year/text/26.htm 中国人民抗日戦争及び世界反ファシズム戦争勝利60周年
記念大会における胡錦涛主席の講話(要旨)
613 :
だつお :2006/10/05(木) 03:24:01 ID:qqbco3xU
>中国人民抗日戦争は世界反ファシズム戦争の重要な構成部分となっており、 >世界反ファシズム戦争の東方における主要な戦場となっていました。 「フハハハハ!笑止千万!攻撃力や防御力が何だというのだ? チハのその真の実力は機動力にあったのだ!九七式中戦車チハは 中国のチンピラゴロツキ専門の殺戮マシーンとして天命を受けた。 チハは大陸打通作戦で3000キロを駆け抜け、チンピラゴロツキ 3500万を殺戮したのだ!!」 「3500万・・・・・」 「そうだ!他の連合軍には多少性能不足かもしれなかったチハでも、 弱体なシナ兵にとっては最強の戦車たりえた。」 「ところで、旧陸軍が第二次大戦で主流だったガソリンエンジンを 採用せずに、ディーゼルにした最も大きな理由は何だと思いますか?」 「チハは寒冷地仕様に作られたんです。つまり、仮想敵国のソ連を意識して。 そして、出来上がったのがチハです。 内戦ばっかりやってて統制の全くとれていなかった中国兵とは互角に 戦えたというのは結果論に過ぎません。」
614 :
だつお :2006/10/05(木) 03:37:34 ID:qqbco3xU
>内戦ばっかりやってて統制の全くとれていなかった中国兵 そ の チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍 そ の チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍 そ の チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍 そ の チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍 そ の チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍 そ の チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍 そ の チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍 そ の チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍 そ の チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍 そ の チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍 そ の チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍 そ の チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍 そ の チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍 そ の チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍 そ の チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍 そ の チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍 そ の チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍 そ の チ ン ピ ラ ゴ ロ ツ キ も 撃 破 で き な か っ た 痛 い 米 軍
蒋介石が入れ歯だったってマジ?
最近の打通は劣化が禿しいな。 真の打通ならばチハ車などには目もくれず、 皇軍歩兵の昼夜を問わぬ猛進撃にこそ焦点を当てるべきだ。 つか、中国は人民中国になってからも、 住民宣撫とかは兎も角としても、日本軍の戦闘能力(そんなスレあったなw)を 見くびるようなことはまず言ってないぞ。 事実、中国映画やドラマに出てくる日本軍は、昔から死ぬ程強い。
>>616 > 事実、中国映画やドラマに出てくる日本軍は、昔から死ぬ程強い。
素晴らしい。隣国から畏怖される事こそ、最高の安全保障政策につながる。
618 :
77 :2006/10/06(金) 22:16:03 ID:???
本日、●『日中戦争がよくわかる本』(太平洋戦争研究会著、PHP文庫、660円) を 購入しました。 充実した内容の本だと思いますが、「三光作戦」という用語を日本側の言葉として、 注釈もなく使っているので、少し、失望しました。
619 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/06(金) 23:41:34 ID:zzEx8eJR
この3連休(あまり)仕事の事を考えなくて済むとは奇跡だ!w 本来なら
血反吐に浸かっている予定だったのに!(藁)
>>605 >>わが家の別の年寄が、汪兆銘が最後に入院していた名古屋大学医学部
>>付属病院で看護婦をしていました。
汪兆銘関係ですと『日中戦争裏方記』(岡田酉次著、東洋経済)が興味深いでしょう。
岡田は主計少将として、汪兆銘・国民政府の「財政・軍事顧問」を長く務めていました。
一時期、昇進のために部隊勤務を余儀なくされますが(京都師団経理部長)、汪兆銘
政権側から「1年我慢するが、必ず岡田大佐をこちらに戻してくれ」と要請されたほど
の人物です。
また梅機関の長であり、国民政府の最高軍事顧問だった影佐禎昭とは配属以来
朝夕を共にし、岡田は公私にわたって兄事していました。このように、汪兆銘・
国民政府の誕生に尽力し、日中和平を目指した一派のことを『長江派』と呼び、
『長江イデオロギー』とも称されます。
620 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/06(金) 23:52:41 ID:zzEx8eJR
『長江派』や『長江イデオロギー』なんて言葉はほとんど聞いた事が無い でしょうが、これは影佐や岡田の「自称」みたいなものですw。それぐらい 日本陸軍の中ではマイナーな一派と言えるでしょう。 上記の本は文華堂だと3000円ぐらいで売っています。売れてもすぐ補充 されますので「常備」に近い品目でしょう。ネットで少し調べてみましたら、 5千円以上なんてベラボウな値段を付けている古書店もあるみたいですがw。 まあ、上級者向けですが日中戦争を深く知る上で「必須資料」とも言えます。 いずれ自分の参考文献を『ネタ』として一覧にする際は、必ず上位にランク される書籍です。ちなみに前スレの「幣制改革」の話は、この本にかなり基礎 知識を拠っています。
621 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/07(土) 00:06:02 ID:zzEx8eJR
当然、この本では汪兆銘の最期についても詳しく書かれています。汪兆銘は 1935年にテロに遭い、拳銃弾3発を喰らい、その内の1発が背骨近くに 残ったままでした。 重慶を脱出し南京国民政府を樹立した後は、極度の心身疲労が重なります。 汪兆銘は1943年夏ごろから、しきりに背骨の痛みを訴えるようになり、 同年12月19日に紫山下の日本陸軍病院で「体内に残った弾」の摘出手術 を受けました。 その結果、一時は良好となりましたが1944年に入ると下半身に極度の 麻痺が生じ、病床での文書決済も困難となります。そこで名古屋大学に急遽 入院して手術をすることになりましたが、診断は「脊椎骨の圧迫による神経 症状(多発性骨髄種)」でした。 手術中に早くも下半身の温感と触覚が一部回復するという順調ぶりでしたが、 その後の経過が悪化して1944年11月10日に汪兆銘は亡くなります。
622 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/07(土) 00:18:40 ID:eQ6TxuHh
あまり良い話ではありませんが、汪兆銘が名古屋大学病院に入院していた 頃のエピソードを紹介しておくと以下の通り。下記は世話人たちの話の 要約です。当時は内地でも極端に物資が不足していましたので、苦労が 多かったようです。 「汪兆銘が1944年3月3日午後6時頃に名大病院に入院すると、すぐに暖房の 要求が出た。当時は石炭不足で病棟にも暖房が無く、やっと軍の手配で 翌日に石炭が搬入された。 (手術後)やがて初夏になると今度は冷房という具合。また入院の当日 『エビアン』の要求も出たが、エビアンが何であるさえ判らない。勝沼 病院長に相談して初めて分かったが、当時日本中を探しても恐らくあるまい との事で、平野水を代用するような始末だった。
623 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/07(土) 00:33:57 ID:eQ6TxuHh
そのうえ汪兆銘氏の入院については、防諜が殊のほか厳しく、患者の 氏名は『梅号』と呼ぶ事に決められた。梅号病棟に出入りする者は 全て梅のバッジを付け、このバッジの無い者は一切寄せ付けない。 全国の軍警察等の連絡にも一切「梅号」で扱われた。この梅号の暗号は 誰が付けたか判らなかったが、その意味の判ったのは後年の事である。 1944年11月10日に汪先生が逝去された後、侍従の韋東年が後に残って 35日の法要を営まれたが、この法要の後、紅梅3本が汪夫人の意思 だとして病院内に記念植樹される事となった。 この内の2本は今も大きくなって毎年見事な花を付けている。この時 初めて判ったのであるが、汪先生は梅が非常にお好きだったので、 これが梅号と呼んだ由来らしい」
624 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/07(土) 00:48:15 ID:eQ6TxuHh
現代の自分たちは、影佐禎昭の「梅工作」や「梅機関」の名称をよく
知っていますので、入院中の汪兆銘が『梅号』と呼ばれていたことに
何ら違和感を感じないでしょうが、当時、事情もよく知らずに世話を
していた病院側は不思議に思ったことでしょう。
>>618 >>充実した内容の本だと思いますが、「三光作戦」という用語を
>>日本側の言葉として、注釈もなく使っているので、少し、失望しました。
自分は「もう何時ものことw」と軽く流してしまっているので、それは
スマンかった…w。お詫びに次の「中テーマ」として『北支の治安戦』を
取り上げましょう。どのくらい話が広がるかは、やってみないと分かり
ませんが。ひょっとしたら、尻すぼみになる可能性大w。
日本側の用語としては、『三光作戦』ではなく戦史叢書にあるように
『治安戦』こそが本来の趣旨であるはずです。
汪兆銘がなぜ梅が好きだったか云々については、自分では無く後日、 やんごとなき方にご登場賜りましょうw。
626 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/07(土) 01:30:39 ID:eQ6TxuHh
>>615 >>蒋介石が入れ歯だったってマジ?
「蒋介石」と「入れ歯」でググれば直ぐに出てきますw。『西安事件』で寝込みを
襲われたため、ベッドサイドに置いた「入れ歯」を嵌める余裕がなく、窓から逃げ
出したのはよく取り上げられるエピソードです。当然、蒋介石を貶めるためですが。
奇跡的に「生け捕り」となりますが(ドサクサで死んでもちっともおかしくない)、
入れ歯が無いために顔が凹んで、とても見られた顔では無かったようです。また物を
食べることが出来ず、捕虜になった午後にようやく入れ歯を返してもらい、さすがに
小っ恥ずかしかったのか「後ろを向いてモゴモゴ」と嵌めたとされますw。
しかし蒋介石を舐めてはいけません。1936年12月26日に蒋介石は西安から南京に
飛行機で戻りますが、故宮飛行場は蒋の生還を祝う群衆で溢れます。また蒋の
巨大な肖像画を先頭に、生還を祝う民衆の行進も発生しました。くどくなって
恐縮ですがw『日中戦争がよくわかる本』にも写真が載っています。(P55)
627 :
だつお :2006/10/07(土) 05:52:44 ID:uZGy7RQz
>故宮飛行場は蒋の生還を祝う群衆で溢れます。 そんなに敬愛されてた指導者が、どうして共産革命で追い出されたんだ? 何だか文化大革命で毛沢東と4人組が英雄視されたのとよく似てるな。 つーかま、1936年12月26日当時はドイツ軍事顧問の後押しで中国人が 最も抗日戦意に燃えてた時期だったからかもしれんがな。それなら とりあえず蒋介石でも「抗日英雄」に仕立て上げられるのは理解できる。 当時の中共は「最後の5分間」と言われるほどに小さなものだったし。
628 :
だつお :2006/10/07(土) 05:57:07 ID:uZGy7RQz
■南京陥落時の状況
南京は昭和12年(1937年)12月13日に陥落することとなる。南京の人口
は元々100万人を僅かに超えていたが、南京に日本軍が迫るにつれ、
人口は20万へと激減していった。
南京の人々は、日本軍を恐れたのか? 否、支那軍を恐れて、
南京の人々は逃げ出して行ったのであった。南京の人々は、
支那軍の次のような発言を心底恐れていたのだ。
中国人の一人をも、一塊の土をも、灰燼に帰せしめて、
敵の手に渡さぬ決意である。(略)大小都市の論なく、
これを灰燼に帰せしめねばならぬ。
[1, P6]
これは、昭和12年7月末に行われた汪兆銘の「最後の関頭」演説
によるものである。
http://shupla.w-jp.net/datas/Nanking.html 南京大虐殺と情報戦
629 :
だつお :2006/10/07(土) 06:00:00 ID:uZGy7RQz
>しかし蒋介石を舐めてはいけません。 ≪児島襄「参謀(下)」のジョゼフ・スチルウェル編より引用≫ だが、ものの一年間もしないうちに、スチルウェル参謀長は、 その日誌に、自分の予期かった感想を記述することになった。 「“ピーナッツ”は偏屈で恩知らずの小さなガラガラヘビだ・・・・ (中国政府は)自分たちだけのことしか考えないならず者の集団だ。 指導者たちの興味は、ただ金、権力、そして地位だけだ・・・・。 手に入るものには何でも頭を下げ、自分は戦わないように心がける・・・・。 “インテリ”と金持ちは子どもを米国に送り、農民の子どもが戦争に かりだされる。しかも注意も訓練も指示も与えられずに死んでいる。 われわれは、この腐敗した政府を支持し、その偉大なる愛国者兼戦士 “ピーナッツ”に栄光を与えるために、戦おうとしているのだ―おお神よ!!
630 :
だつお :2006/10/07(土) 06:17:52 ID:uZGy7RQz
>中国人の一人をも、一塊の土をも、灰燼に帰せしめて、 >敵の手に渡さぬ決意である。(略)大小都市の論なく、 >これを灰燼に帰せしめねばならぬ。 蒋介石は英雄、汪兆銘は親日主義者と一部で言われているようだが、 こうして見れば中国人はどいつもこいつもチンピラゴロツキばかりで、 チンピラゴロツキがチンピラゴロツキ同士で罵倒し合っているだけだ。 ずっと長い間蒋介石と汪兆銘は二人三脚の盟友同士だった。 チンピラゴロツキがチンピラゴロツキ同士で権力争いをするのは、 なにも国民党政権に限ったことではない。毛沢東と林彪も同じ。
631 :
だつお :2006/10/07(土) 06:22:29 ID:uZGy7RQz
児島襄「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い2」(文春文庫)P11〜14より
1935年の第七回コミンテルンは、各国に反ファシズム人民戦線の結成
を指示した。中国共産党もこの支持にしたがい、国共内戦を中止して
一致して抗日戦争に蹶起すべきだ、と国民党側に働きかけた。
<中略>
ソ連首相スターリンは、十二月十四日、中国共産党指導部にたいして、
蒋介石逮捕は中国が必要とする抗日民族統一戦線結成に逆行する、
蒋介石だけが現在の中国を指導できる、蒋介石と協議して
平和解決に導くべきだ、との指示を打電した。
このスターリン電報は、中国共産党指導部を困惑させた。
『西安事変』は、張学良、楊虎城、中国共産党の結合による画策であり、
蒋介石を逮捕した以上は、この三者で国民党軍もふくめた抗日戦線
の結成と指導をおこなう決意であった。
スターリンの指示に従えば、蒋介石が「復活」するだけでなく、張学良、
楊虎城にたいする報復も予想され、結果は共産党側の分裂と敗北を招来しかねない。
だが、中国共産党指導部はスターリン指示に従うことにして、
代表として周恩来を西安に派遣した。
周恩来は、十二月十七日、西安に着き、そのご張学良、楊虎城の説得、
さらに南京から飛来した蒋介石夫人宋美齢、次いで蒋介石自身と会談した。
周恩来は蒋介石を全中国の指導者として認める、
共産党も従来の考えを捨てて協力する、という二点を軸にして
話し合いを成功させ、蒋介石は十二月二十六日、南京に帰還した。
http://mentai.2ch.net/whis/kako/992/992495223.html 抗日主義者張学良の「抗日戦争」を語る
>>627 > つーかま、1936年12月26日当時はドイツ軍事顧問の後押しで中国人が
> 最も抗日戦意に燃えてた時期だったからかもしれんがな。
だつおさんの書き込み、いつも興味深く拝見させて頂いています。
中国がドイツの支援を得て、上海を予定戦場に日本と一大決戦を計画していた
事実は、日本ではほとんど知られていないような気が致します。
当時、日本はナチスとの同盟を模索していた頃で、
政府もマスコミ(といっても当時はNHKラジヲを除いて新聞しかありませんが、、、)も
中国の背後にドイツがいた事を国民に伏せていたかったのかも知れませんね。
南京戦後、米英両国が援蒋ルートを設けて、国民党政府支援を
始めたことについても、その外交的重要性を日本政府は、的確に
理解していなかったような気が致します。
> とりあえず蒋介石でも「抗日英雄」に仕立て上げられるのは理解できる。
個人主義が強く「砂のようだ」と例えられた中国人のナショナリズムを
かき立て抗日、排日で団結させた中共、国民党の政治的成功なの
でしょうね。
633 :
77 :2006/10/07(土) 08:27:18 ID:???
>>623 > 35日の法要を営まれたが、この法要の後、紅梅3本が汪夫人の意思
> だとして病院内に記念植樹される事となった。
> この内の2本は今も大きくなって毎年見事な花を付けている。
この梅は、私が子供の頃、何度か観た事があります。
当時は汪兆銘氏が入院していた当時のままの建物に囲まれ、
中庭に梅が最初に植えられた状態で植わっていました。
汪兆銘氏ゆかりの梅だと聞かされても、汪兆銘氏がどのような人物か、
当時は、まったく分かりませんでしたが、、、。
現在は、病院すべての建物が改築され、梅のあった場所は病棟となり、
梅はどこへ行ってしまったのか私には分かりません。
いまも、どこかに移植されて植わっているような話も聞いた事がありますが、
冷遇されているような気が致します。
汪は大陸でも台湾でも漢奸だからな。 墓すら暴かれて中身がない!w
635 :
だつお :2006/10/07(土) 23:20:17 ID:uZGy7RQz
>>435-436 しかも終戦間際では在支第14航空軍は700機を超えるまで増強されてる。
フライングタイガーズ義勇軍なんてオモチャみたいなもの。
3. The U. S. Fourteenth Air Force actually possessed the following plane
strength in June 1945: Fighters--483; medium bombers--127; heavy bombers--65;
photo and night-fighter aircraft--48; total--723. USSBS, ibid., p. 67.
http://www.tecom.usmc.mil/utm/kogun.txt
636 :
だつお :2006/10/07(土) 23:44:57 ID:uZGy7RQz
「目下P51を追尾中・・・・・・距離二百五十・・・・・・二百・・・・・・撃てー。<射撃音入る> ・・・・・・敵機、白煙を噴いて降下中・・・・・・発火、分散す・・・・・・。 P40六機、広東に向けて侵入しつつあり。われこれに接敵中・・・・・・反航優位から 反転・・・・・・間もなく射距離にはいり・・・・・・三百・・・・・・二百五十・・・・・・照準・・・・・・ <射撃音>われ撃墜す」 これは若松大尉の余裕ある空戦実況無線放送で、広東地域で実際に傍受したものである。 「撃墜王列伝 大空のエースたちの生涯」(鈴木五郎 光人社)
637 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/07(土) 23:49:27 ID:7FIm+Eeb
>>633 >>この梅は、私が子供の頃、何度か観た事があります。当時は汪兆銘氏が
>>入院していた当時のままの建物に囲まれ、中庭に梅が最初に植えられた状態で
>>植わっていました。
自分は写真でしか見たことが無いのですが、もう現存していませんか。
残念です。梅樹の「立て札」の写真が手元にありますので、参考までに
引用しておきます。
「汪兆銘氏記念の梅 昭和十九年三月三日、南京政府主席・汪兆銘氏
本院に入院。同年十一月十日逝去さる。病名『多発性骨髄種』
右を記念し汪家から梅三本を寄贈されたが一本は枯れ、現在二本だけ
残っている。これがそのうちの二本である」
写真で見る限り、病院の建物のすぐ側の植え込み(小さな林・芝生?)の
中に他の木と混じっているといった感じです。
638 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/08(日) 00:06:17 ID:7FIm+Eeb
写真で見ても「記念樹の扱い」は冷遇されている気がします。
>>634 >>汪は大陸でも台湾でも漢奸だからな。
>>墓すら暴かれて中身がない!w
まあ、汪兆銘の墓は南京郊外の「梅花山」にありました(過去形w)。
1944年後半となると、日本と南京国民政府の『末路』も予想されて
きた頃です。汪夫人の陳壁君は、将来「夫の墓」が暴かれる事がない
ように棺をコンクリートで厳重に固めました。
たしか記憶では単なるコンクリートではなく、鉄粉かガラス繊維か
何かを混ぜた強化コンクリートだったはずです。
しかし戦後、蒋介石によって汪兆銘の墓は爆破されて、遺体は長江に
捨てられています。汪には6人の子供がいましたが、アメリカ・台湾・
香港に散り散りとなりました。夫人の陳壁君は漢奸裁判で獄死です。
639 :
楽園の最高裁判長 四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/10/08(日) 00:28:46 ID:z/05oMzl
>>625 >>汪兆銘がなぜ梅が好きだったか云々については、自分では無く後日、
>>『やんごとなき方』にご登場賜りましょうw。
,r---、.
_ソヽ/`、シi. 汪兆銘は特に『梅』に対して思い入れの深い
_>=ヘ 山/=<, 人物でした。まず基本的なことですが、中国の
. ((ん'ノノルレム)) 国花は「梅の花」ですね。ただし、これは『中華
_ソレリ ゚ ヮ゚ノリ(_ 民国』の話で1929年に国花が梅と定められました。
),k'ヲ:::::::::つ 台湾になってからは、1964年に正式に「梅」と
(ン::::/:::l::ヽ 定められています。ちなみに中共は「牡丹」ですね。
`~i,ンT,ノ~´. 日本人が「桜」に抱く思いを、中国人は「梅」に
抱くのです。まず、この点を押さえておきましょう。
そして汪兆銘の「梅」に対する思いですが、国民政府の顧問である影佐禎昭に贈った
詩を取り上げるのが理解しやすいでしょう。
それはまた違うネ〜 汪兆銘の子供のひとりは日本国籍を取得して小説家になってるw
>>639 中国人は「梅」
パカね東洋鬼子w
アレは柳よww
『梅花絶句』 汪兆銘 梅花有素心 雪月同一色 照徹長夜中 遂令天下白
643 :
77 :2006/10/08(日) 00:39:38 ID:???
>>637 > 自分は写真でしか見たことが無いのですが、もう現存していませんか。
> 残念です。梅樹の「立て札」の写真が手元にありますので、参考までに
> 引用しておきます。
私も汪兆銘氏記念の梅が気になったのでググってみました。
そしたら、名古屋大学史のホームページに次の記述がありました。
「本学大幸地区(名古屋市東区)の大幸医療センター内には、「汪兆銘の梅」と呼ばれる二本の梅の木があります。
これらの梅は、もとは鶴舞地区(名古屋市昭和区)の医学部中庭に植えられていたものですが、医学部建物の改修
工事等の関係で移植されたものです」−−
どうやら昭和区の病院メインキャンパスから東区の分院の庭に移植されて現存しているようです。
ホームページには梅の植えられている場所の地図も書いてあります。分院は拙宅から直線で
1〜2キロの距離です。先日もわが家の年寄を分院の敷地内まで車で送っていきました。
記念梅の数十メートルの距離まで接近したことになりますが、残念ながら梅がこの分院内に
移植されている事を知りませんでしたので、気が付かずに分院を離れてしまいました。
機会がありましたら、梅を観てこようと思います。
ホームページには汪兆銘氏の治療に当たった医師団の名前と肩書きの一覧や治療方法(字が小さくて
判別不能)も出ています。かすかにアイソトープという文字が読めます。
助手団として軍医二名の名前も出ています。
よろしければホームページ
web-honbu.jimu.nagoya-u.ac.jp/fmd/2skikakuka/campustosisetu/image%20campussisetu/tyotto_meidaisi/21no128.pdf
をご覧下さい。
644 :
名無し三等兵 :2006/10/08(日) 00:45:13 ID:j/0fuhu+
軍事創価革命がおこった日本を想像しよう
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1145102597/ 63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/06(金) 03:58:41 ID:???
1940年6月14日、パリ陥落。
鉤十字が凱旋門をくぐり、ナチス・ドイツの暗雲が、フランスを覆った。
しかし、危機と混乱の時代は、英雄を生み出す。
運命の女神は、フランスの歴史に一人の英雄を遣わした。
シャルル・ド・ゴールである。
敗北に打ちのめされたフランス国民に向かい、ド・ゴールは呼びかけた。
「戦いは終わっていない」と。
そして、祖国の名誉と伝統を回復するための軍隊「自由フランス」を結成。
自らの指揮によってドイツ軍を撃破した。
また、彼とともに立ち上がった国民は、秘密警察と強制収容所による抑圧の下、
牢獄と死の恐怖に屈することなく対独レジスタンスを戦い抜いた。
1944年8月25日、パリ解放。
シャンゼリゼ大通りを埋め尽くすパリ市民から溢れんばかりの拍手と喝采が送られるなか、
ド・ゴールはフランスの勝利を高らかに宣言したのであった。
あのナチスによる過酷な支配の下でも、粘り強いレジスタンス運動が繰り広げられたのである。
そして最後に勝利をおさめた。
だから、言っておく。
たとえ日本において創価学会の覇権が絶対的になったとしても、悲観するには及ばない。
日本には波木井坊竜尊がいるからだ。
彼と彼の組織である日蓮宗葵講の闘争を見よ。
それはどんな強大な敵とぶつかっても、臆さず、怯まず、不屈の戦いを遂行している。
君たちは、創価学会による支配が到来することを恐れているのか?
しかし、私は力を込めて言う。
圧制よ、来るならば、来るがいい。
そのとき、波木井坊竜尊は日本のド・ゴールとなるだろう。
645 :
77 :2006/10/08(日) 00:53:36 ID:???
>>637 > 自分は写真でしか見たことが無いのですが、もう現存していませんか。
別のホームページにはこのような記述がありました。
「名古屋大学医学部の庭に植えてあった梅は、現在、名古屋ドームすぐ近くの名古屋大学付属大幸医療センターの裏庭に植えられている」
そうなんですよ。記念梅が植えられている場所は名古屋ドームのすぐ隣でもあるんですよ。
ホームページには移植後の現在の梅の写真も掲載されています。
http://www.bekkoame.ne.jp/~gensei/ten/tyomei.html 「名古屋帝大に運び込まれた患者が汪兆銘であることは、厳重に秘密とされ、関係者以外が三階に出入りすることも禁止された。
4時間の手術の間、簡素な中国服の汪夫人・陳壁君が、ただ一人、室の片隅に佇立していた。
その後病状は一進一退をくりかえし、1944年11月10日に死亡した。汪家より名古屋大学医学部に梅の木が送られた。」
「日本の名古屋病院で病死した汪兆銘の遺体は飛行機で南京に搬送され梅花山に埋葬された。
将来、墓があばかれて夫の遺体が傷つけられるのを案じた未亡人の陳璧君は、
墓に五トンの鉄鋼粉をまぜたコンクリートを流し込み分厚いシェルを造らせた。
しかし抗日戦勝利のあと、国民党政府は汪の墓を爆破した。
1994年国父・孫文の中山陵園管理事務所は観光客に歴史上の事実をしらしめ、
また愛国教育の一環とするために、墓のあった場所に汪兆銘の像を造った。
像は北を向きはるかに中山陵に対しているが、
周囲を柵でかこみ後ろ手にしばられた汪兆銘が跪いた形で座った石像である。」
あちこちにコピペしてんじゃねぇぞ、このフェラティヲ野郎。
647 :
楽園の最高裁判長 四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/10/08(日) 01:01:50 ID:z/05oMzl
,r---、. _ソヽ/`、シi. 汪兆銘から影佐に贈られたこの詩ですが、文字 _>=ヘ 山/=<, 通りに解釈するなら「梅花は清純な心を持って . ((ん'ノノルレム)) いるが、その純潔さは月や雪と同一色で、やがて _ソレリ ゚ ヮ゚ノリ(_ この光が闇夜を照らし、全世界をして光明をもた ),k'ヲ:::::::::つ らす」という意味になるでしょう。もちろん (ン::::/:::l::ヽ 汪兆銘が、自身をこの詩に出てくる梅に重ね合わせ `~i,ンT,ノ~´. ているであろうことは言うまでもありません。 中国人は昔からよく詩をもってその志を表します。特に梅花は「高潔な気質」の 持ち主であるとして尊ばれます。また梅は厳冬の悪環境にも屈せず開花します。 汪兆銘は、暗い環境の中で最善を尽くしたうえ、輝かしい光を放つことにより 再び国家に光明をもたらそうとする決意を強調したのでしょう。
648 :
楽園の最高裁判長 四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/10/08(日) 01:18:22 ID:z/05oMzl
,r---、. _ソヽ/`、シi. また詩の「天下白」ですが、これは中国において _>=ヘ 山/=<, 特別の意味を持つ『雄鶏一声天下白』という詩の . ((ん'ノノルレム)) 一句から取ったものです。「暗闇の中で何人かが _ソレリ ゚ ヮ゚ノリ(_ 雄鶏のように夜明けの一声を発すれば、たちまち ),k'ヲ:::::::::つ 国家全体に光明がもたらされよう」という意味です。 (ン::::/:::l::ヽ 汪兆銘と同様に、毛沢東も中共主席時代に `~i,ンT,ノ~´. 『一唱雄鶏天下白』と使った例もあります。 汪兆銘は「梅の花」を大変に好みましたが、自身を「梅」になぞらえて 暗闇にある祖国を起こして民を救わんとの志を表したのです。汪は死後も その傍らに梅を置くように願い、夫人の陳壁君に「私が死んだら白雲山の 麓に葬り、墓標には『詩人汪兆銘之墓』と刻み、墓の側には梅樹を植える よう」に命じています。史実の汪は「梅花山」に葬られたのは既に述べました。
649 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/08(日) 01:33:10 ID:z/05oMzl
>>645 >>ホームページには移植後の現在の梅の写真も掲載されています。
>>
http://www.bekkoame.ne.jp/~gensei/ten/tyomei.html 自分もググっていましたら、全く同じサイトを見つけて感慨深いです。
ただ「名古屋大学史」の方は初見で、実際に汪兆銘の「梅の花」が
咲きほこっているのがカラーで見れて感激しました。グラシアス。
メチャクチャ綺麗です(泣)。
てっきり一瞬、全てもう枯れ果ててしまっているのではないかと…w。
ちなみに自分は四季映姫さまに仕えているのにも関わらず、花については
まったく無知なのですが、あの梅は柳と言うのですかね?w
650 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/08(日) 01:47:15 ID:z/05oMzl
>>643 >>ホームページには汪兆銘氏の治療に当たった医師団の名前と肩書きの
>>一覧や治療方法(字が小さくて判別不能)も出ています。
前出の『日中戦争裏方記』(岡田酉次著・主計少将、東洋経済)にも汪兆銘の
主治医師団が載っています。1974年の本ですが、当時の肩書きまで付いていて
「別の意味」で興味深いので引用しておきます。【主治医団】
外科:斉藤真 名古屋帝大教授(故人)
整形外科:高木憲治 東京帝大教授(故人)
整形外科:名倉重雄 名古屋帝大教授(東京厚生年金病院長)
内科:黒川利雄 東北帝大教授(ガン研究会病院長)
内科:勝沼精蔵 名古屋帝大教授(故人)
放射線科:田村春吉 名古屋帝大教授(故人)
放射線科:三矢辰雄 名古屋帝大教授(故人)
651 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/08(日) 01:57:57 ID:z/05oMzl
【助手団】 戸田博:名古屋帝大助教授(故人) 上田文雄:名古屋医専教授(名古屋市大教授) 大田元治:記載なし(愛知県医師会副会長) 中沢中也:記載なし(記載なし) 昔の戦記本の「すごいところ」は、著者はともかくとして本文に登場する 『関係者』の住所・連絡先が明記されているケースが多い事です。例えば 同僚だった兵士同士や上官などはザラです。たまに自分でも名前を知って いるような割と有名な将官の連絡先(もちろん当時)が載っていて、 ビックリする事がありますw。 個人情報保護法がキビシイ現代とは、ギャップが有り過ぎて信じ難い のひと言ですw。
652 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/08(日) 02:02:11 ID:z/05oMzl
あと梅についてですが、 >梅を国花とする国 >中華民国(台湾):1964年制定。梅(Prunus mume)の花は牡丹と並び、伝統的に >中国を象徴する花である。1964年6月21日、中華民国政府は梅の花を公式に国花に >定めた。その3本のおしべ(1本は長く、他の2本が短い)は三民主義を表し、5枚の >花弁は五権憲法を象徴する。この決定は1929年の中華民国政府の発表を繰り返した >ものである。台湾では、国民党の旗である12本の光芒をもつ太陽と並んで、梅が >中華民国の国の紋章として使われるようになった。この関係で、チャイナエアライン >(中華航空)の尾翼も梅を意匠としている。 >◆国花 国花は梅。1964年正式に宣布された。梅は3つの蕾と5つの花弁があり、中華 >民国の国是である三民主義と五権憲法と合致している、又 梅は三寒之友といわれ、 >昔から中国では堅忍不屈精神のシンボルとされている。台湾では国花である梅が各所で >使われており、ナショナルフラッグである中華航空は梅をマークに、ホテルも梅の数で >ランク付けされている。
653 :
77 :2006/10/08(日) 08:20:30 ID:???
>>651 > 【助手団】
> 大田元治:記載なし(愛知県医師会副会長)
> 中沢中也:記載なし(記載なし)
この記載無しのお二人は、名古屋大の史料ですと中沢中也氏が陸軍軍医少佐、
大田元治氏が軍医大尉となっており、並び順が逆になっていますね。
土人鬼兵「…な……、……あ、な…何…。な!お!な…ん、ら、なんらぼれわ!! 体が崩れ…こ…、これは…ッ。ぐッ…ぐッぐ…ッ」 土人鬼兵「ぐッ、ぐんッ、軍刀!!」 ボッ!(破裂) ???「おまえは……ッ。参謀本部、イチガリオテ第7課…!!」 土人鬼兵「殺し屋!」「首斬参謀!」「軍人鬼!」「閻魔の錫杖!」「軍刀!」 「支那課 ニトベイナゾウ中佐!!」 川島芳子「ははははッ。如何なされた、イナゾウ中佐殿。我らが辻政信・参謀次長 閣下より仰せつかった御命令は未だ監視のはず」 ???「!!」 梅村淳「ましてや、かの蒋美鈴を助けるとは重大な越命行為ではありませんか」
I中佐「はははははははははッ!!! 聞いたか川島芳子!? 聞いたか梅村淳!? 鼻血を出しながら雲霞のような土人鬼の軍兵を前にして、かかってこい? 戦ってやる? ゲァハハハハハハハッ!! 間違いない! こいつは、この女は、こいつらこそが我々の御敵よ! 我々の宿敵よ! 打ち倒すのは我々だ。打ち倒してよいのは我々だけだ! 誰にも邪魔はさせん! 誰にも渡さん! 誰にも!! 誰にもだ!!!」 土人鬼兵「貴様はイチガリオテ、第7課!! 邪魔立てするか貴様!!」 I中佐「五月蠅(やかまし)い!! 土人が喋るな!!! この私の眼前で、土人が歩き、土人が軍団をなし、戦列を組み前進する! 唯一の理法を外れ、外道の法理をもって通過を企てるものを、われわれ <参謀本部>が、われわれ<第7課>が、この私が許しておけるものか!! 貴様等は震えながらではなく、藁のように死ぬのだ――」
I中佐「我等は己らに問う。汝ら何ぞや!!」 ???「我等は参謀本部、イチガリオテ第7課の『支那通』なり!!」 土人鬼兵「!!」(バッ)(ザザザザザザザザザザザッ) I中佐「ならばイチガリオテよ、汝等に問う。汝等の右手に持つ物は何ぞや!!」 ???「恩賜の軍刀と、毒薬なり!!」(ザンッ) 土人鬼兵「うおおおおッ」(ダッ) I中佐「ならばイチガリオテよ。汝等に問う。汝等の左手に持つ物は何ぞや!!」 川島芳子・梅村淳「感状30と参謀肩章なり!!」
I中佐「ならば!!」(ボッ、斬!) 土人鬼兵「AHッ!!」 I中佐「ならばイチガリオテよ。汝ら何ぞや!! 我ら軍人にして軍人にあらず。将校にして将校にあらず。 参謀にして参謀にあらず。叛徒にして叛徒にあらず。 我ら軍鬼なり。軍鬼の群れなり。ただ伏して聖上陛下に許しを請い、 ただ伏して聖上陛下の敵を打ち倒す者なり。闇夜で軍刀を振るい、 夕餉に毒を盛る者なり。 我ら刺客なり。イチガリオテ<刺客>の『支那通』なり!!」 土人鬼兵:(ドドドドドドドッ)「GA、AAAAAAAAAA!!!」
I中佐「時至らば、我ら感状30靖国に投げ込み、参謀肩章をもって 己の素っ首吊り下げるなり!」 (チキッ、チキッ、チキッ) ???「されば我ら徒党を組んで支那へと下り、隊伍を組みて方陣を布き、 740億5926万の支那の悪鬼と合戦所望するなり」(ボッ!) ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド 「アポカリプス・ナウ<第二次大東亜戦争の日まで>!!」
???「参謀次長、起きて下さい。辻政信中将閣下!」 辻政信「ん?」 部課員「先遣したイナゾウ中佐率いる『武装参謀団』が蒋美鈴を確保。 これを追撃する支那側の土人鬼部隊と戦闘に入りました」 辻政信「チッ、殺人狂め。交戦は控えろと言ったはずだのに。んん〜〜」 オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ 辻政信「ほ〜〜。良く燃えているなあ。まるで煉獄」 部課員「首都北京は、壊滅状態。重慶大空襲以来の大火災は今もって延焼を 続けています。死者の数は見当も付きません。そして一体どれ程が アンデッド<死にぞこない>になっているのかも」
辻政信(参謀次長)「天罰だ――。土人が背伸びして政府開いて、悦に入って いるからこうなるんだ。いい気味だ」 部課員一同「左様で。HAHAHAHAHAHA」 ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ 辻政信「米国は?」 部課員「大混乱です。ホワイトハウスはいまだに炎上していますが、なにせ 大統領以下、閣僚13人が一気に死亡したんで」 辻政信「まあ、議事の最中に大統領補佐官が土人鬼になったら、そーなる だろ――ね―――」
辻政信(参謀次長)「米国支部は?」 部課員「展開済みです。官邸周辺に配置しています」 辻政信「被害が拡大するようなら行動しろ。でなくば、こちらからは手を出すな。 連中の混乱はこっちにも好都合だ。せいぜいダラダラしとけ」 ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ 部課員「ハッ。しかし今の所、連中の活動はそれだけです。その気になれば いくらも出来るでしょうに。何故でしょうか?」 辻政信「興味が無い。邪魔さえされなければ、それで充分い――んだ。中共と 蒋凛国と蒋美鈴以外、興味がないんだ。あの*****は。われわれ 参謀本部すら関心の対象外だ」
辻政信「そうはいくか! 『横合いから思い切り殴りつける』。そうだとも 我々は、支那大陸を中共どもと化物どもから皇国へと奪還するのだ!」 ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ!!!! 「北支那方面軍、総勢8万6千人参陣!!」「駐蒙軍、総勢2万3千600人参陣!!」 「南支那方面軍、総勢4万5千人参陣!!」「中支那方面軍、総勢24万5千人参陣!!」 ザンッ!!! ???「聖上陛下の御命により我ら参陣いたしました。我らの参陣と同時に 辻政信・参謀次長は中将から昇進。辻政信大将になられます。 我ら軍団は、第5次支那派遣軍を編制。総指揮権力を辻政信大将 <支那派遣軍総司令官>閣下に委ねます」
辻政信「たしかに! 全身全霊でお受けする…!! 目標は、中華人民共和国。死都北京!! 第二次大陸打通作戦を 発動する!!」 支那派遣軍「皇国万歳!! 皇国万歳!! 皇国万歳!! 皇国万歳!!」 ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ 辻政信「くッ、くくくッ、くくくッ、くくッ。くくくくくくッ、くくくくくくッ。 くくくくくくくくくくくくくくくッ。 この私が…ッ。この私がッ。鬼子と呼ばれ忌み嫌われた、食いつめ者の 成れの果てが、大将だと。軍団司令官だと!! くくくくくくくくくく」 部課員「参謀次長!!」
辻政信「何事だ」 部課員A「太平洋上の衛星が先ほど捉えたものです。こッ、これを……ッ!」 辻政信「洋上の……米空母か!?」 部課員一同「!!!」 辻政信「これは、まさか…ッ。動いているッ。移…動…!! 航行しているのか!?」 部課員A「速度はわずかに数ノットですが…確実に移動していますッ。ぺッ、北京に!!」 部課員一同「馬鹿をいえ!! あの大火災だぞ!! 航行など出来るはずがあるか!! 甲板に大型ステルス偵察機が突き刺さっているんだ!!」
665 :
悪質な閑話休題 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/09(月) 04:16:51 ID:h8KUzpR0
部課員「***が…、来る……。」 辻政信「構わん!! マスター蒋美鈴は我らの手にある。従僕1人、何のことが ある。中華人民共和国も蒋凛国も蒋美鈴も***も、消えて無くなる!! 全軍進撃!!! 天罰の地上代行の時来たれり!!」 支那派遣軍「皇国万歳! 皇国万歳! 皇国万歳! 皇国万歳! 皇国万歳!」 ギュンギュンギュンギュンギュンギュンギュン、バババババババババババババババ オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ 部課員A「誰も彼も嬉々として、地獄に向かって突撃していく。一体、誰があの中で、 皆殺しの野で生き残るというのだ。きっと誰も彼も嬉々として死んでしまう に違いない。誰彼の中で――」
666 :
ダミアン :2006/10/09(月) 14:08:33 ID:???
666
まあ『黙示録』の666が来て、お後がよろしいという事で……。 前半を読み直して、あまりの『厨度』に吹いた…w。書いた自分がドン引きです(核藁)。 せめて全部「I中佐」にしとけば良かった……orz. でも後半の辻政信うんぬんは 比較的まとまっているかと。推敲の余地ありですがw。
668 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/09(月) 21:27:35 ID:/T5MYa2D
>>67 >功を焦って、無謀な作戦を企てる上官がいると、全滅を恐れる部下が密かに
>始末した。そこはよくしたもので、大抵どこの部隊本部にもベテランの事務担当が
>いて、てなれたやりかたで、「名誉の戦死」にしたてて、内地へ報告した。
>「どこそこの部隊で上官が戦死」といううわさは、展開する各地の部隊にただちに
>伝わり、「さては、やられたな」と兵士同士でささやきあうものだった。
超亀レスですが、ずっと気になっていたので少し検証してみます。上記の話は
要するに『上官殺害』な訳ですが、このような事が常態化していたとは俄かに
信じられません。自分は支那戦線の『戦記本』を少なからず読んでいますが、
たとえ他部隊の伝聞でも、直接の上官殺害の話が出てきた事はほとんど皆無です。
おそらくは「戦場伝説」、あるいは「そうだったらいいのに」という願望が
作り出したデマだと思われます。もちろん皆無ではないでしょうが…w。以降、
ざっくばらんに色々想定されるケースを考えてみましょう。
669 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/09(月) 21:47:00 ID:/T5MYa2D
ちなみに<陸軍刑法>における『上官殺害』の項は、極めて短い文章です。
「第63条の3 上官を殺したる者は死刑に処す」 以上です。
また、このテーマで一般的に極めて入手が容易で、お値段がも安い
古典的名著が『軍旗はためく下に』(結城昌治著、中公文庫:952円)
ですね。この一冊だけでも、日本陸軍の「軍規の相場」がとてもよく
分かるでしょう。
ちなみにタイトルの『軍旗はためく下に』の<軍旗>が「軍紀(軍規)」
を影で表しているのは言うまでも無いことです。ですから、この本は
『軍規はためく下に』という題名にもなる訳です。
徒然なるままに、
>>67 の話に戻りますが、『>>無謀な作戦を企てる
上官がいると、全滅を恐れる部下が密かに始末した』の部分は、まさか
中隊長レベルが対象ではありませんよね?w ちょっと舐め過ぎ(藁)。
>>668 昭和17年2月20日に公布された「陸軍刑法中改正法律」には、
「集団による上官殺害」の項が新たに追加されています。
戦争の長期化の中で、陸軍司法当局が法律改定を必要と考える何か
…それは当局の疑念程度のものだったかもしれませんが…は存在した
かに思われます。
なおこの改正では以下のような項目が追加ないし厳罰化しています。
・詐病・自傷による軍役忌避(厳罰化)
・上官に対する抗命(厳罰化)
・上官への暴行・脅迫(厳罰化)
・陸軍機への破壊行為(厳罰化)
・戦地・占領地での強姦(追加)
671 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/09(月) 22:18:04 ID:/T5MYa2D
まあ、『北支の治安戦』の話にも絡めていきますが、「高度分散配置」 における「中隊長レベル」は極端な話、占領地域の住民の処理も含めて 半ば『封権君主』に近い存在です(←少し言い過ぎw)。また、 >>功を焦って、無謀な作戦を企てる上官がいると、 「大隊討伐」レベルで戦功を上げようと『張り切る』中隊長は幾らでも いましたが、必ず自分の身近に手足となって働く「指揮班」(8人程度) を置いています(班長は軍曹レベルが多い)。 勢いで「殺ってしまう可能性」を考えるのは幾らでもアリですが、どう やって誤魔化すというのでしょうか?w ちなみに中隊長は行軍においては 乗馬です。戦闘のドタバタで殺るのは、ほとんど不可能でしょう。もちろん 『上官殺害』に問われる覚悟なら別ですがw。また人の口に戸板は立てられ ません。
即レス返すなよキモいから。
( ´D`)
674 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/09(月) 22:34:41 ID:/T5MYa2D
>>670 >>戦争の長期化の中で、陸軍司法当局が法律改定を必要と考える何か
>>…それは当局の疑念程度のものだったかもしれませんが…は存在した
>>かに思われます。
もちろん、小隊長・分遣隊長クラスの少尉だったら、部下の兵隊たちに
秘かに殺害される可能性(→戦死として報告)は幾らでも考えられます。
太平洋戦争が後半ともなると、「兵隊の質」が如実に下がっていきました
しね(現役兵の比率低下。正規師団が南方に転出されて、<寄せ集め>の
独立混成旅団や独立警備隊が「穴埋め」に使われる、など)。
まあ、取りあえず順序だてて話を続けていきます。ちなみに典型的な
『中隊討伐』の人員は以下の通りです。
●指揮班(中隊長の側近:8名程度、班長は軍曹クラス)
●機関銃分隊(11名程度:分隊長は軍曹・伍長、あるいは下士勤務の兵長)
●三個小隊(計90名程度)
675 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/09(月) 22:56:32 ID:/T5MYa2D
『中隊討伐』とは言っても、合計100名を少し超える程度の人員です。 駐屯地の警備を「空っぽ」には出来ませんから、この辺りが限界でしょう。 それにしても「中隊長の謀殺」は、ほとんど無理なのが分かるのではない でしょうか。ああ、言い忘れましたが『北支の治安戦』の場合、相手はまず 八路軍です。だいたい「中隊長の戦死」は珍しくはありませんが、それなりの 大事です。その意味でも、戦死状況は詳しく追究されるでしょう。 >>「高度分散配置」 改めて説明する必要もないでしょうが、北支において占領地の『点と線』を 維持するために、分隊レベル(10数人:要所への分遣隊)まで部隊を細かく 分散配置させた対策です。ですから新兵が配属以来、大隊長の顔を最初の1回 しか見たことが無い――、酷いのになると「分遣隊勤務」の島流しに遭って 中隊長を見かけるのも『年に数回』という、凄まじい状況になりますw。
676 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/09(月) 23:12:57 ID:/T5MYa2D
『分遣隊勤務』というのは僻地への島流しであって、娯楽も無ければ 勤務する兵隊の人数も10人余りという『超密室空間』です(但し、 それなりの要地に設置されますから、支那人の村などはあります)。 中隊本部から遠く離れて(4、50キロなどはザラ)、補充物資などの 連絡も1月に1回程度といった具合です。当然、軍紀にも問題が生じて 来ない訳が無いのですが、ちょっと話が先走りですね。もう少し順番に 逝きましょうw。 あと1点だけ、なぜ中隊本部から分遣隊への連絡が月に1回程度という 少ない頻度かと言えば、中共軍が輸送に使われるトラックの襲撃を狙って きますので(実際、被害甚大w)、少なくとも1〜2個小隊程度の護衛が 必要とされたためです。
いちいちageんなよこのヒッキー
( ´D`)
679 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/09(月) 23:28:41 ID:/T5MYa2D
【訂正w】
>>676 ×少なくとも『1〜2個小隊程度』の護衛が必要とされたためです。
◎少なくとも『1〜2個分隊程度』の護衛が必要とされたためです。
>>671 >>「高度分散配置」における「中隊長レベル」は極端な話、
>>占領地域の住民の処理も含めて半ば『封権君主』に近い存在です。
山東半島の「占領地政策」を例に挙げると、一個大隊の兵力で山東半島の
およそ4分の1の地域を警備しています。当然、膨大な面積であり、大隊
本部が『芝罘』にありましたが、所属する中隊本部の位置は以下の通り、
●第1中隊(招遠:芝罘から南西80キロ)
●第2中隊(威海衛:芝罘から東方40キロ)
●第3中隊(黄城集:芝罘から西方60キロ)
●第4中隊(棲霞:芝罘から南西60キロ)
680 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/09(月) 23:41:47 ID:/T5MYa2D
【訂正】が続いて恐縮ですが…w。
>>676 ×中隊本部から遠く離れて(4、50キロなどはザラ)
◎中隊本部から遠く離れて(2、30キロなどはザラ)
スマン。ちょっと幾ら何でも分遣隊が離れ過ぎでしたw。しかし酷い
分遣隊になると40キロは当たらずとも遠からず。あまりに離れている
ので、急病人や重傷者が出ても中隊本部への移送が間に合わないという
理由で、特別に分遣隊に衛生兵が配置されたケースもあります。
何にせよ、1つの中隊が相当広い面積の警備を担当していたのは事実で、
占領地の住民の宣撫や、中共軍ならびに未治安地区の討伐において、警備
部隊の中隊長が握っていた裁量は非常に大きいものがありました。
また、いわゆる「三光作戦」(中共の言う)で日本軍の暴虐がよく取り
上げられますが、これもやるかやらないかは中隊長次第です。
67である。
イナゾウ中佐からレスを頂けるとは長生きするもんじゃのう。
出撃前、徒らに殉死を煽る隊長に対し「戦闘中は前からだけじゃなく後ろからもタマが飛んでくるんですぜ、と隊長をびびらせましたよ」と喋っている戦場帰りの爺さんをTVでみたことはあるが、現スレ探索の途上で見つけた
>>67 コピペの真偽のほどはわからん。
肉弾三勇士や牟田口中佐の影響などでトッカンを叫ぶ士官がいたことは想像に難くないが、上官殺害があったとしたら
>>674 の指摘通り、上官とは小隊長や分隊長のことであろう。
682 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/10(火) 22:21:59 ID:6UACYRkL
>>670 >>戦争の長期化の中で、陸軍司法当局が法律改定を必要と考える何か
陸海軍の「処刑人員」の推移を見ると、1937年が521人、1941年が3304人、
1944年が5586人(全軍将兵の0.136%)となっています。戦争が始まってから
『うなぎ昇り』になるのは当然として、むしろ支那事変初年度(1937年7月〜)で
既に500人以上処刑されているのが驚きです。
太平洋戦争開始以降の数字を見ると、年平均4500人が処刑されています。
あるサイトでは、1943年の軍法会議受理数内訳の一部として「逃亡1023人、
上官殺傷暴行342人、掠奪207人、殺人56人」となっています。
おそらく「この比率」は参考にして良いと思います。まあ、上官の殺害はともかく
傷害・暴行は相当程度あったことになります。
683 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/10(火) 22:42:40 ID:6UACYRkL
>>67 >>功を焦って、無謀な作戦を企てる上官がいると、全滅を恐れる
>>部下が密かに始末した。
前述の『軍旗はためく下に』の冒頭にも似たような話が出てきますが、
この場合は「突撃を主張する上官を見殺しにした」というケースです。
上官の殺害に及ぶ前に、意地でも命令に従わないサボタージュという
手段を下士兵は取れる訳です。
ちょうど舞台も「北支の治安戦」――分遣隊勤務の話なので少し再現
してみましょう。
A分遣隊の任務は、ある重要橋梁の警備と付近一帯の治安維持です。中隊
本部からは16キロ離れていました。支那人の村から少し離れた箇所に望楼
(トーチカ)を築き、八路軍(中共)の襲撃に備えています。
処刑≠死刑ですよね?
685 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/10(火) 23:01:13 ID:6UACYRkL
上記のエピソードを問わず、いわゆる「高度分散配置」の分遣隊の望楼 (トーチカ)というのは、周囲に深い濠を掘り、跳ね橋を使わなければ 中に入れない本格的なものです。まあ、常時10〜20人弱の兵士を駐屯 させますから、当然と言えば当然ですが。半ば八路軍の支配地域ですし。 話を元に戻しますと、このA分遣隊の人員は「坂上少尉」以下19人。 「坂上少尉」は幹部候補生あがりで25歳です。他に分遣隊の中心人物 として「倉田軍曹」という30代半ばの人物が登場します。人格的に多少 問題がありますが百戦錬磨の古兵です。当然、若い上官を疎んでいます。 ぶっちゃけ『軍旗はためく下に』はフィクションの話であり、作家の結城 昌治は元々ミステリー作家です。しかし結城は、1952年のいわゆる『講和 恩赦』(サンフランシスコ平和条約)の際に恩赦事務に携わっており、 膨大な件数の『軍法会議記録』を読むという稀有な体験の持ち主ですから 仮名の地名や人名を用いているにしても、ある程度の信憑性は確保できて いるでしょう。
686 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/10(火) 23:33:41 ID:6UACYRkL
さて、この「A分遣隊」ですが幾つかの特徴があります。まず単純に 19名というのは人数がかなり多いです。普通は10名を少し超える ぐらいです。「分遣隊」とは、ほぼ「一個分隊」と同意義ですからね。 ですから、分遣隊の長が「少尉」というのも珍しいです。通常は軍曹 といった「下士官」が長をつとめるケースが多いです。史実の戦記を 見ると、分遣隊の長を少尉が務めることがない訳ではないですが、中隊 本部から遠く離れた僻地に、将校が1人だけ下士官兵の中にポツンと 孤立しているのはトラブルの元です。実際にロクな事がありませんw。 分遣隊の長に「少尉」を任命するのは(当然中隊長)、余程その分遣隊の 風紀が『びん乱』しており、その引き締めのためといったケースが多いです。 まあ、逆効果ですけどw。「A分遣隊」の場合は、配置人員が多いため 少尉が長を務めていると考えるのが自然な「設定」でしょう。
687 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/10(火) 23:44:33 ID:6UACYRkL
>>684 >>処刑≠死刑ですよね?
『国語辞典』
しょけい【処刑】=刑に処すること。特に、死刑を執行すること。
自分も信じ難い数字だとは思いますが、別宮翁の『WW1』の
「軍法会議」の項ぐらいしか数字が見つかりません。あと別の
サイトで、ほぼ同じ「処刑人員」の数字がありますが、処刑=死刑
なのか言葉の使い方が曖昧ですw。ちなみに別宮翁のサイトでは、
>>第2次大戦の旧日本軍は1941年から1944年まで年平均4500人の
>>主として兵士を軍法によって処刑した。この時日本軍は約400万人を動員
>>しており第2次大戦のイギリス軍の略2倍だった。この大量処刑の原因は奔敵
>>など止むを得ない罪状があげられている。
>>しかし、これが本当に必要なことだったのか、または兵士に通常とかけはなれた
>>規則が課せられていたのか、十分反省の必要がある。関係者は軍律峻厳などと
>>寝言のような回想を残しているが、そのようなものではなかったはずだ。
688 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/11(水) 00:01:52 ID:6UACYRkL
>>この大量処刑の原因は奔敵など止むを得ない罪状があげられている。
>>
ttp://ww1.m78.com/trench/executions.html この書き方だと、「処刑=死刑」としか取れませんw。他にざっと
ネットで調べてみましたが、他になかなか見つかりませんでした。
自分の『大勘違い』でしたらお詫びして訂正します(藁)。
しかし「敵前逃亡」だけでも死刑になることが多かったのは事実です。
戦闘中以外――例えば、貴方が「分遣隊勤務」で近隣の支那人の村に
下番時1人で出かけていったとしましょう。運悪く八路軍の兵士と
鉢合わせて捕虜になってしまいます。
分遣隊の他の仲間は貴方を血眼になって探すでしょうが、このまま3日間
部隊に戻れなければ、自動的に「離隊逃亡」と見なされて「逃亡調書」が
作られます。
689 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/11(水) 00:19:24 ID:PFip+VAA
結果、あなたは『敵前逃亡』の罪に問われます。
>>688 で「戦闘中以外」と書きましたが、『敵前』とは交戦中である
ことを必要としません。敵と対峙している前線は、全て敵前と見なされ
ます。一応、「死刑・無期・もしくは5年以上の懲役または禁固」と
刑量の幅があるのは事実ですが、死刑になるケースが多かったのは
既に述べました。
しかも、貴方は八路軍の捕虜となっていますから、自動的に『奔敵』
とされて(必ず味方の情報を喋ったと見なされる)、生きて戻ってきたと
しても「敵前逃亡」とダブルで死刑になる可能性は極めて高いでしょうw。
690 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/11(水) 00:38:36 ID:PFip+VAA
>>682 で述べた
>>あるサイトでは、1943年の軍法会議受理数内訳の一部として「逃亡1023人、
>>上官殺傷暴行342人、掠奪207人、殺人56人」となっています。
の「逃亡」の人数の多さを改めて見ると、ますます嫌な予想しか
浮かびませんw。
なるほど八路軍の捕虜になって寝返る兵が増えるはずだ。
少なくとも旧陸海軍では 死刑以外の禁固刑などでも 処刑という言葉を使います。
693 :
77 :2006/10/11(水) 07:31:18 ID:???
>>674 > もちろん、小隊長・分遣隊長クラスの少尉だったら、部下の兵隊たちに
> 秘かに殺害される可能性(→戦死として報告)は幾らでも考えられます。
上官が味方に殺されるのは「後ろ弾(だま)」に当たって死ぬという表現で
わが家の年寄に聞いた事があります。
敵に寝返る兵士が多いのは、やはり八路軍と戦った北支の特徴でしょうか。
中支で戦ったわが家の年寄は、そのことについては、
話していませんでした。
南京大虐殺を記録したラーべの日記にも 敵の捕虜になった日本兵をハラキリさせるために探してる! っていう嫌な記述があった・・・
696 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/11(水) 23:17:12 ID:mkjFBIlm
>>692 >>少なくとも旧陸海軍では死刑以外の禁固刑などでも処刑という言葉を使います。
スマン。壮大な勘違いかもしれないので、他で確認が取れるまでちょっと保留に
しておいてくらさい(藁)。嫌な予感がしてきた…w。
>>694 >>軍旗はためく下に これ映画化されてる 監督は深作欣二 ミステリー
>>仕立て?になってて結構面白いよ
映画は見たことがありませんが、原作だと『敵前党与逃亡』の項目が一番近い
お話でしょう。厚生省の『戦没者連名簿』に「敵前逃亡で死刑」と記載がある
のですが、その他に「判決書」などの証拠が残っていないため、遺族が「不服
申立」を行ないます。その兵士の名を『馬渕軍曹』と言いますが、戦友などから
証言を集めて真相に迫っていくというストーリーです。
メチャクチャ面白いです。グイグイ引き込まれていきます。複数の話を集めて
構成されている『軍旗はためく下に』の中でも圧巻の内容です。
697 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/11(水) 23:33:00 ID:mkjFBIlm
舞台はバースランド島という南方戦線です。『食人』や支那の土人に匹敵する 未開の部族などが登場し背筋が寒くなってきます。背景は複雑なのですが、 かいつまんで説明すると以下の通り。 本来、軍法会議で判決を受けると「判決書類」は復員裁判所に引き継がれ、 さらに地方検察庁に回って保管されているはずです(もちろん戦後の話)。 しかし、地検の『判決書綴』をいくら探しても『馬渕軍曹』の判決書は 見つかりません。 また「前科通知」が法令によって並行して回っているはずの本籍地の検察庁や 市役所の「犯罪人名簿」にも登録されていないのです。それでも厚生省が保管 している、馬渕軍曹が所属した部隊が作成した『戦没者連名簿』に「敵前逃亡 により死刑」の記載がある以上、遺族を救済する方法が無いという訳です。 (処刑された兵士の遺族には、遺族年金や弔慰金など『遺族援護法』に該当しない)
698 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/11(水) 23:42:05 ID:mkjFBIlm
こうなってくると、『馬渕軍曹』は本当に敵前逃亡の罪により軍法会議で 処刑されたのか?という疑問も湧いてくる訳です。何かの間違いではない のか? 本当は戦死や事故死が誤って伝えられたのではないか? ひょとする と南方の飢餓事情により、食料の奪い合いで味方に殺されたのではないか? はたまた未開の食人部族に喰われたのではないか? 考えたくも無いが、 喰ったのは同じ日本兵ではないのか? その隠蔽のために「敵前逃亡」と されているのではないか? などと、ひたすら話が続いていく訳です。 馬渕軍曹を知っている関係者にインタビューしていくという半分探偵の ようなストーリー展開ですが、口裏を合わせた訳でも無いのに関係者全員が まったく違うことを述べて、真相はひたすら闇の中に入っていきます。
699 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/11(水) 23:56:16 ID:mkjFBIlm
特に、『馬渕軍曹』の処刑(敵前逃亡?)の真相について 「みんな嘘をついています。裁判官(法務官)の言ったことも嘘です。 嘘をつく理由は分かっていますが、検察官だった横常さんまで憲兵の せいにする口ぶりでは、わたしも黙っていられません。真相はこうです」 とある元憲兵軍曹は、それまでの関係者の証言をバッサリ切り捨てて 皆が隠そうとしている(であろう)真相を暴露し、さらに付け加えて 「不審の点があるようでしたら、憲兵隊長だった服部さんに聞いて ごらんになるといいでしょう。もう60歳を超えていますが、陸士や 陸大出の将校と違って、兵隊から叩き上げの律儀で信頼できる人です。 服部さんなら、知っていることを知らないなんて言いません。遺族に 対する配慮を忘れない人ですが、板橋で小さな印刷工場をやっています」 と他の証人を紹介してくれるのですが――、
700 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/12(木) 00:06:09 ID:1SouKcWC
その紹介された人物(もと陸軍憲兵少佐、憲兵隊長兼囚禁所長)は、
「越智君(
>>699 の元憲兵軍曹)の記憶は、事実を混同しています」
とアッサリ否定してしまいますw。しかし、この憲兵少佐の証言も
何かを喋りたくない、隠そうとしており、続く別の証言者によって
真相がまたもや引っくり返されていきます。以降この繰り返しです。
人間不信に陥るというか(必ずしも証言者は騙そう、誤魔化そうと
している者ばかりではない)「誰も信じるな――Trust No One!」を
如実に感じさせる傑作です。
真相は「読んでのお楽しみ」としますが、「人肉」とだけ欠片を
残しておきましょうw。南方戦線は本当に地獄だぜ――!(核藁)。
701 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/12(木) 00:23:03 ID:1SouKcWC
>>691 >>なるほど八路軍の捕虜になって寝返る兵が増えるはずだ。
前述の『軍旗はためく下に』には、以下の会話が出てきます。
「これはあとで知ったことですが、投降した者はみんな奔敵になる。
敵側に奔ったという意味です。負傷して止むを得ず捕虜になった者でも、
そいつは必ず味方の情報を敵に喋ったとみなされ、やはり奔敵で処罰される。
まったく無茶な話だが、負傷して動けなくなったら自爆する以外になかった。
だからいったん捕虜になった者は、どうせ原隊に戻っても死刑にされるので
敵側(八路軍:中共)について必死に日本軍と戦った者も多いようです」
以上は、かなり極論に入りますが、日本軍の軍紀が非常に厳しかったのは事実です。
戦記を読むと、重傷を負って人事不承となり八路軍の捕虜となった兵隊がいます。
その兵は命からがら逃出して原隊に復帰したのですが、自分の三八式歩兵銃を紛失
したという理由で、傷が癒えてから「20日の重営倉」の刑を受けています。
702 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/12(木) 00:38:50 ID:1SouKcWC
>>701 >>傷が癒えてから「20日の重営倉」の刑を受けています。
このぐらいは「生温い」というか、むしろ「温情措置」でしょうか?w
今までの話の流れですと、いとも簡単に死刑になったと思うでしょうが、
そこは中隊長なども監督者責任が問われます。自分の評価に大きく影響する
訳です。兵の「敵前逃亡」なら小隊長はおろか、中隊長、大隊長に至るまで
責任が問われます。
なるべくなら「臭いものに蓋」ではありませんが、上層部には目立たないよう
穏便に処理したい、という管理する側の思惑もあったはずです。
極論、よほどの問題でなければ、中隊長の胸先三寸、手にするペン次第という
実情がありました。なので刑量はケースバイケースというか、ぶっちゃけ
その兵の幸運・不運にかかっている面もあります。何とか『相場』だけでも
分かるようにしたいのですが、なかなか難しい面がありますw。
ただ色々読んでいますと、話を聞いただけで 「あ、それは無いよね」「まあ、それはあり得る」 と大体の感じが掴めるようにはなってきますw。
》このぐらいは「生温い」というか、むしろ「温情措置」でしょうか?w この間に自決してくれたらなんて思ってないから。 思ってないんだからっ!
なるほど。辻みたいだな。
将校ならともかく、兵隊を自決させたってしょうがないっしょ。
707 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/13(金) 00:07:06 ID:yHxYsPAM
>>706 >>将校ならともかく、兵隊を自決させたってしょうがないっしょ。
ノンノン。兵隊なら「自決」ではなく『自爆』になります。なぜ捕虜になる前に
自爆しなかったと責められるでしょう。
>>704 >>この間に自決してくれたらなんて思ってないから。
>>思ってないんだからっ!
問題になった兵隊に自決してもらった方が『うやむや』になって中隊長などは
助かるでしょうね。もちろん遺書などは偽造されるでしょう。「おめおめと捕虜に
なってしまった生き恥に耐えられず…」ぐらいの文面になると思います。これなら
中隊長の面子も保たれます。
上記に限らず、逆に兵隊が「敵前逃亡」で行方不明になってしまった場合も「書置き」
が誰かの『代筆』によって上級部隊に提出される事が通例でした。
708 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/13(金) 00:19:49 ID:yHxYsPAM
北支の『自爆』の例ですと、中隊本部から「分遣隊」(警備トーチカ)への 連絡部隊(トラック)が八路軍(中共)の待ち伏せに遭って全滅する事が しばしばでした。 少なくとも「一個分隊強」の護衛も付けているのですが、数百人単位の 土民や八路軍の部隊に奇襲されると、散り散りになってしまいます。 特に自動車は格好の標的でした。 ある日トラック部隊が襲撃され救援部隊が到着すると、運転席の辺りに ひときわ状態の酷い遺体が見つかります。内臓が全て露出しているのですが、 手榴弾を腹部で爆発させて「自爆」した兵隊でした。
小説ですと「分遣隊」勤務の兵隊が、近隣の支那人の村に銃ももたずに ブラブラと遊びに行く(女目的)という描写もありますが、この場合も 手榴弾2発は携帯していました。言うまでも無く、1発は敵に向かって 投げるもの。もう1発は自爆用です。実際にこんな兵隊が居たかは、 別問題ですがw。
710 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/13(金) 00:45:14 ID:yHxYsPAM
>>695 >>南京大虐殺を記録したラーべの日記にも敵の捕虜になった日本兵を
>>ハラキリさせるために探してる!っていう嫌な記述があった・・・
逆に北支では、支那人の捕虜を初年兵の「刺殺訓練」に使っていましたけどね。
ハラキリさせるどころの話ではありませんw。
>>693 >>上官が味方に殺されるのは「後ろ弾(だま)」に当たって死ぬという
>>表現でわが家の年寄に聞いた事があります。
初年兵や2年兵ぐらいですと、殺してやりたいのは将校というよりも「古年兵」
でしょうね。いくら戦闘中のドタバタとはいえ、衆人環視のもと上官を撃ち殺す
というのは並大抵の事では無いと思います。全員が口裏を合わせるのか、悪くすれば
実際に撃った兵が全ての責任を負わされて仕舞いです。「俺は知らない」とw。
そうなって来ると、もはや「囚人のジレンマ」です。
>>初年兵や2年兵ぐらいですと、殺してやりたいのは将校というよりも「古年兵」 私的制裁が過ぎる「古年兵」を、戦闘になったら「必ずぶっ殺してやる」と ずっと考えていた兵隊がいました。しかし戦場に出ると、敵中で味方が1人でも 減るのが怖くて、結局撃つことが出来なかったというエピソードがあるのも 参考として付記しておきます。 まあ、でも下級指揮官が味方によく殺されるのは否定しませんがw。
712 :
だつお :2006/10/13(金) 02:12:39 ID:0481TeK7
>1943年の軍法会議受理数内訳の一部として「逃亡1023人、
>上官殺傷暴行342人、掠奪207人、殺人56人」
支那派遣軍百万というマクロでみれば、殆ど取るに足らない数に思えるが。
むしろ打通作戦における中国軍民のほうが圧倒的に皇軍に寝返ってる
>>333 。
個々の戦闘の辛さを取り上げるなら、米軍にだって当てはまることだ。
味方が苦しいときは同時に敵も苦しいのであって、皇軍だけがそうで
あったかのように語るのはおかしい。
自分は打通作戦で敗走する中国軍を「チンピラゴロツキ」と嘲笑するが、
勝ち戦であっても戦場が辛く悲惨なのはことは支那派遣軍とて例外ではない。
逃亡兵に対する処罰の厳しさは、アメリカ軍であっても同じことだ。
713 :
だつお :2006/10/13(金) 02:16:20 ID:0481TeK7
>勝ち戦であっても戦場が辛く悲惨なのは 大統領は直ちに会談するため私を呼んだ。彼はマーシャル将軍とリーヒ提督 を同席させた。このときまで、われわれは激烈な空襲と大部隊の侵攻によって 日本本土を攻撃するという考えを固めていた。まっとうな戦闘においてのみ ならず、あらゆる穴や防空壕においても、サムライの捨身精神で死ぬまで戦う 日本軍の無謀な抵抗のことを、われわれは考えていた。私の心には沖縄の情景 が浮かんでいた。そこでは数千名の日本人が、指揮官たちがハラキリの儀式を 荘重に行った後、降伏を選ばずに一列になって手榴弾で自爆する光景であった。 日本軍の抵抗を一人ずつ押え、その国土を一歩ずつ征服するには、百万のアメリカ 兵の命とその半数のイギリス兵の生命を犠牲にする必要があるかもしれなかった。 もしイギリス兵を上陸させることができても、イギリスの犠牲はもっと多くな るかもしれなかった。なぜなら、われわれは苦悩をともにする覚悟でいたのである。 いまやこの悪魔のような情景はすっかり消えてしまった。それに代わって、一、二 回の激烈な衝撃のうちに全戦争が終結する光景が浮かんだ。それは実際、快く輝か しいものに思われた。私が瞬間に思い浮かべたのは、私が常に勇気に感嘆してきた 日本人が、このほとんど超自然的な兵器の出現のなかに彼らの名誉を救う口実を見 出し、最後の一兵まで戦って戦死するという義務から免れるだろうということだった。 「第二次世界大戦4」 (W・S・チャーチル 佐藤亮一 訳 河出文庫)432頁
714 :
だつお :2006/10/13(金) 02:32:43 ID:0481TeK7
中国の場合は、日中戦争全期を通じて本土決戦だった。 結果として中国国民党政権は崩壊して共産主義国家が建設された。 また皇軍もそれで40万人以上の戦没者を出したと記録される。 >大統領は直ちに会談するため私を呼んだ。 例によってこういう政治家の回想録というのは誇大宣伝や自己正当化 がつきものではあるが、ポツダム会談当時のイギリスはアトリー内閣 であってチャーチルはもはや首相ではなかった。この場合どういう 表現をしたとてチャーチルの政治的立場が脅かされるというわけで はなかったものと自分は考える。 硫黄島・沖縄の攻防戦や、支那派遣軍の存在などを考慮すれば、 上の発言は率直に米英側首脳の認識を語ったものと解釈できる。
>打通作戦で敗走する中国軍を「チンピラゴロツキ」と嘲笑する ことなんかよりも、控えめに言って [ 就職戦線で離隊逃亡するだつおが「ニート」と嘲笑われる ] ことのほうが重要なんジャマイカ??
>>715 だつおさんの個人攻撃はやめた方がいいんジャマイカ?
717 :
だつお :2006/10/13(金) 21:42:35 ID:0481TeK7
耐久度は某研並みだから、そんなのへっちゃらだよ。
そうれすか( ´D`)
>>717 > 耐久度は某研並みだから、そんなのへっちゃらだよ。
「某研」だけは、何とも頂けません。
はっきり言って嫌悪感以外感じない。
そういうものだろうか
満州事変はやらないの? まあ軍事史ってより外交史、政治史になると思うが
>>712 >>支那派遣軍百万というマクロでみれば、殆ど取るに足らない数に思えるが。
>1943年の軍法会議受理数内訳の一部として「逃亡1023人、
>上官殺傷暴行342人、掠奪207人、殺人56人」
↑の数字は「年間平均処刑数」が4500人なのですから明らかに少ないです。
罪状の「種類や傾向」など、あくまで1つの参考として見て下さい。
>>[ 就職戦線で離隊逃亡するだつおが「ニート」と嘲笑われる ]
つーか、今のだつお氏は一体何歳なのだろうか? ちなみに自分は中尉相当。
もうすぐ大尉も見えてきた、という感じです。ところで現在の景気は、戦後
最長と言われますけど、皆さん自分の商売は上手くいっていますか?
>>721 >>満州事変はやらないの? まあ軍事史ってより外交史、政治史に
>>なると思うが
満州事変・満州国関連は既スレでかなりやりましたので、過去ログ参照。
(ue少将閣下作成)
ttp://kamisato2.hp.infoseek.co.jp/china/ 兵頭軍師ではありませんが、同じことを2回書くのは本当に苦痛ですw。これ
ばかりは自分でやってみないと分からないでしょう。しかも、昔の自分の方が
(ある特定の分野)レベルが高かった、という衝撃の事実が発覚することも(核藁)。
切り口が違えばまた別ですので、潮の流れが変わったらやるでしょう。一応、
このスレは、アヘン戦争から朝鮮戦争あたりまではフォローします(現代は微妙)。
捕虜を収容所送りにしたスターリンの方が日本軍より偉かったのか
725 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/14(土) 23:04:19 ID:BvJrGIyk
>>712 >>味方が苦しいときは同時に敵も苦しいのであって、皇軍だけがそうで
>>あったかのように語るのはおかしい。
それでは支那側(国民党軍)が『敵前逃亡』を防ぐために使用していた法律を
取り上げてみましょう。1925年1月6日に制定された『革命連座法』ですが、
日中戦争中も蒋介石によって将兵の懲罰(処刑)の根拠とされていました。
>>「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に
>> 答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」
と説いた日本側の『戦陣訓』(本訓其の2・第8「名を惜しむ」)と比較して
みると面白いでしょう。しかし「戦陣訓」の文量は相当なものです。よく指摘
される事ですが、この「名を惜しむ」の箇所だけが「戦陣訓」の全てのように
言われているのは、いかがなものかと思いますw。
726 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/14(土) 23:13:05 ID:BvJrGIyk
『革命連座法』(1925年1月6日) 【第1条】 本党は国民革命を完成し、三民主義を実行することを目的とする。各官兵は 犠牲的精神を具えるべきである。敵と交戦するときは、いかに危険であろう とも、陣に臨んで『退却』してはならない。 【第2条】本連座法は、戦時に臨んで『退却する』官兵に適用する。 【第3条】連座法の規定は次の通りである。
727 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/14(土) 23:20:37 ID:BvJrGIyk
1.班長(分隊長)が全班(分隊)とともに退けば、班長を殺す。 2.排長(小隊長)が全排(小隊)とともに退けば、排長を殺す。 3.連長(中隊長)が全連(中隊)とともに退けば、連長を殺す。 4.営長(大隊長)が全営(大隊)とともに退けば、営長を殺す。 5.団長(連隊長)が全団(連隊)とともに退けば、団長を殺す。 6.師長(師団長)が全師(師団)とともに退けば、師長を殺す。 7.軍長もまたかくの如し。
728 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/14(土) 23:31:10 ID:BvJrGIyk
以下から『逆パターン』に入ります。 8.軍長が退かず、全軍の官兵がみな退き、それによって軍長が 陣没すれば、軍長に所属する師長を殺す。 9.師長が退かず、全師の官兵がみな退き、それによって師長が 陣没すれば、師長に所属する団長を殺す。 10.団長が退かず、全団の官兵がみな退き、それによって団長が 陣没すれば、団長に所属する営長を殺す。 11.営長が退かず、全営の官兵がみな退き、それによって営長が 陣没すれば、営長に所属する連長を殺す。 12.連長が退かず、全連の官兵がみな退き、それによって連長が 陣没すれば、連長に所属する排長を殺す。
729 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/14(土) 23:36:30 ID:BvJrGIyk
13.排長が退かず、全排の官兵がみな退き、それによって排長が 陣没すれば、排長に所属する班長を殺す。 14.班長が退かず、全班の官兵がみな退き、それによって班長が 陣没すれば、全班の兵卒を殺す。 【第4条】各級の党代表もまた本連座法を適用する。 【第5条】本連座法は公布の日より施行する。
これはいいデイジーチェーンですね(死)
731 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/15(日) 00:01:50 ID:Ur0RBqrB
上記の『革命連座法』は将校を対象としたものであり、僅かに最後の (14)のみが兵士の処罰を定めています。 もちろん「将校に厳しく兵士に甘い」なんて話では全く無く、一人ひとりの 兵士が敵前逃亡や上官に対する反抗を行なった場合、分隊長なり小隊長なりの 指揮官が即座に銃殺してよい(すべきだ)という事は言うまでもありません。 また『連帯責任を問う』というのが支那側の『革命連座法』の大きな特徴です。 この一事をもってしても、いかに全軍が「総崩れ」になるケースが多かったのが 理解できるでしょう。 また支那側の場合、勇敢に前進して奮闘した将校や兵士には「報奨金」を 与えています。しかも戦闘が始まる際に、前もって「賞金があるぞ」と督戦、 志気を鼓舞する徹底振りです。余りにダイレクト過ぎるでしょうw。
バカだねみんな逃げちまうよ
733 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/15(日) 00:31:31 ID:Ur0RBqrB
>>731 >>余りにダイレクト過ぎるでしょうw。
もちろん日本軍にも『報奨金』はあり、例えば武功を立てて金鵄勲章を
貰えれば、功7級でも65円の終身年金が得られました(2等兵の月給が
8円80銭、功1級で900円)。支那事変の拡大により、金鵄勲章受賞
者が激増して国庫を圧迫、1940年に国債の支給に制度変更されますが、
このように勲章という形で「オブラート」に包む訳ですw。
直接兵士に向かって「武功を立てれば報奨金をやる」というのは近代的とは
言えないでしょう。そうです。やはり支那は「前近代」を色濃く引きずって
日本軍と戦ったのであり、分かり易く言えば『三国史』が入っています。
また繰り返しになりますが、『革命連座法』は一見、将校のみに厳しいように
見えますが全くそうではありません。むしろ兵士は完全に『アウトオブ眼中』
であり、何かを期待するだけ無駄と考えていたと見なすべきです。であるから
こそ、将校の監督責任だけを問うている訳です。
734 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/15(日) 00:54:17 ID:Ur0RBqrB
>>732 >>バカだねみんな逃げちまうよ
そうですね。一旦、敗走となれば支那軍は「散り散り」になってしまいます
(自国での戦場だから尚更:敵地だったらそうはいかない)。そして大きな
戦闘があって自軍が崩壊した場合、付近の町や県城に「**の所属部隊兵士は
**の地点で原隊に復帰せよ」と貼紙がされるようなレベルです。
兵士に対して『革命連座法』をとやかく規定して何の意味があるでしょうw。
軍の上級司令官からすれば、兵士に対して直接とやかく言うよりも、下級将校に
兵士の「監督責任」を厳しく迫った方が効果的な訳です。
別の識者は上手い『例え方』をしています。兵士を奴隷に例えて「奴隷が
逃亡した場合、奴隷を監督していた役人を厳しく処罰する」という太古の
法律に倣ったものだと言うのです。もちろん奴隷には「逃げたら殺すぞ!」
とは徹底しますが、一旦逃げられたら探し出すのは困難です。この場合は、
奴隷を管理する役人の処罰を厳しくして、役人を脅した方が良策です。
735 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/15(日) 01:28:08 ID:Ur0RBqrB
同じように、兵士1人ひとりの自覚を促すよりも、将校・各級の指揮官の 責任を厳しく規定しておく方が効果的だったのです。 また蒋介石は「軍人」という言い方を好んで用いましたが、その軍人の中に 実は「一般兵士」が含まれていない事に気が付くでしょう。 >>「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に >> 答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」 ここで『戦陣訓』と比較してみましょう。日本の場合は、兵士1人ひとりの 自覚を(過剰にw)促しています。また「連帯責任」を問うことも無ければ、 兵士を軍人と見なさなかったり、将校の監督責任を厳しく規定することで 全軍を維持する必要もありませんでした。 しかし幾らなんでも『高尚』に過ぎましたねw。兵士に全てを暗唱させる事は 洗脳目的に近いです(それなりの効果はありましたが)。日本軍も別の意味で 兵士に不審感を抱いていたという事でしょうか。
736 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/15(日) 01:41:40 ID:Ur0RBqrB
試しに日本軍で『戦陣訓』の代わりに『革命連座法』が適用されていたら と思考実験してみるのも面白いでしょう(藁)。 何か今、NHKでアフリカの虐殺をテーマにした映画?がやっていましたね。 かなり面白かったです。「さすが劣等民族はやる事が違うな!」という感想です。 支那人を「占領統治」するよりも、アフリカ人相手の方が数倍キツそうですね。 ああいう土民族に対して「宣教師」とか派遣していた欧米諸国は、やはり日本 とは年季が違うなあ、とつくづく思います。
737 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/15(日) 02:10:49 ID:Ur0RBqrB
>>724 >>捕虜を収容所送りにしたスターリンの方が日本軍より偉かったのか
捕虜というのは「労働力」目的でもある訳です。であるからこそ、日本も
収容所を作って泰緬鉄道を作ったり、BC級戦犯で大勢の日本人が処刑
されています。まあ支那戦線でも、捕虜を「即席の苦力」として各部隊で
それぞれ荷物持ちや炊事など雑役の「労働力」として使っているケースも
ありましたが。
戦記を読んでいると、命と食が保証されれば「支那人捕虜の即席苦力」も
日本軍に付いて行ってまんざらでは無かったという記述があります(もちろん
全部がそうではないし、あくまで日本兵から見た感想)。ただ省境を越える
のを異様に怖がって(例えば広西省の人間はよそ者を皆殺しにする)、他省に
入る直前に全員逃げてしまったというエピソードも……。
>>724 の
>捕虜を収容所送りにしたスターリンの方が日本軍より偉かったのか
これは、一度でもドイツ軍の捕虜になってたソ連兵は、例え脱走して
帰って来た場合でもスターリンはそのまま収容所送りにしたと言うこと
でしょ。捕虜は必ず洗脳されたり、工作員にされているに違いないと
疑ってた。ソ連も同じことやってたからね。
739 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/15(日) 22:39:20 ID:OkdcQ9zx
>>738 >>これは、一度でもドイツ軍の捕虜になってたソ連兵は、例え脱走して
>>帰って来た場合でもスターリンはそのまま収容所送りにしたと
あ、そういう意味ですね。取り違えていましたw。まあソ連の場合、独ソ戦冒頭の
惨敗に驚いて、1941年8月16日にスターリンが「自軍の将兵が捕虜になったら
どうなるか」についての通達を発します。
「捕虜になった将兵は祖国の裏切り者と見なし、その家族は逮捕し、国家の保護と
援助を停止する。脱走者や投降者は見つけ次第、その場で銃殺せよ」
ところが当のスターリンの長男、ヤコフ砲兵中尉がドイツ軍の捕虜になって
しまいますw。親父のスターリンは、「捕虜となった赤軍兵士には裏切り者
しかいない。私にはヤコフという息子はいない」と見捨てる発言をしました。
それを伝え聞いたヤコフは、1943年に捕虜収容所で見張りの兵士の指示に
逆らって射殺されてしまいますが、これは有名なエピソードですね。
うん、有名。
741 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/15(日) 22:59:41 ID:OkdcQ9zx
まあ、家族にまで『累が及ぶ』という点では、ソ連の方が支那や日本よりも 強烈でしょうかw。日本も捕虜(敵前逃亡)になった兵士の実家は、周りから 白い目で見られて半ば村八分になりました。 しかし兵士が出征すると、日本の村などでは『出征兵士の家』という かなりデカイ旗が玄関先に「札」と共に掲げられるなど、一方では 名誉であることが非常に強調されていましたから、その反動でしょう。 まあ、上げて落とすと(藁)。 ちなみに兵士の家族が、玄関先に掲げられた「出征兵士の家」の旗の 写真を戦地に送ると、非常に喜ばれたそうです。 支那の場合、戸籍制度もあやしいので「家族に累を及ぼす」というのは 困難でしょうw。保甲制度はありましたが。
フジテレビを見ていたら、「池上彰の北朝鮮リポート」をやっていて 池上GJ! ちょっと認識を新たにしました。 「この日本人の名前はなんていうんだ?」と先方から聞かれるのは なかなか出来る事ではありませんw。ただ膝を組むのはあまり良くない と思いますw。
キモッ
文革で自己破壊に耽ってる期間は、深刻にヤバかったみたいだよ、 支那人民の昔の経歴暴き。
745 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/15(日) 23:29:38 ID:OkdcQ9zx
さて支那(革命連座法)と日本(戦陣訓)の比較ですが、
>>「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に
>> 答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」
ここで兵頭軍師の言葉を思い出します。「今も昔も、日本の指導者層というのは
国民全てを納得させることができる(納得させなければならない)とアプリオリ
(先天的)に思い込んでいるという事です。
その結果、兵士1人ひとりに『戦陣訓』を暗唱させるような脳内コントロールに
しゃかりきになったのではないかと思いますw。
>>736 >>試しに日本軍で『戦陣訓』の代わりに『革命連座法』が適用されて
>>いたらと思考実験してみるのも面白いでしょう(藁)。
実際に作ってみた方が早いですw。という訳で以下の通り。
746 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/15(日) 23:42:25 ID:OkdcQ9zx
『皇軍連座法』(1941年1月8日) 【第1条】 皇軍は聖戦を完遂し、我が肇国の理想たる八紘一宇の精神を四海に光被せしめる ことを目的とする。皇国軍人は犠牲的精神を具えるべきである。敵と交戦するときは、 いかに危険であろうとも、陣に臨んで『退却』してはならない。 【第2条】皇軍連座法は、戦時に臨んで『退却する』将兵に適用する。 【第3条】皇軍連座法の規定は次の通りである
747 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/15(日) 23:47:40 ID:OkdcQ9zx
1.分隊長が分隊とともに退けば、分隊長を殺す。 2.小隊長が小隊とともに退けば、小隊長を殺す。 3.中隊長が中隊とともに退けば、中隊長を殺す。 4.大隊長が大隊とともに退けば、大隊長を殺す。 5.連隊長が連隊とともに退けば、連隊長を殺す。 6.師団長が師団とともに退けば、師団長を殺す。 7.軍司令官もまたかくの如し。
748 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/15(日) 23:53:59 ID:OkdcQ9zx
8.軍司令官が退かず、全軍の将兵がみな退き、それによって軍司令官が 戦死すれば、軍司令官に所属する師団長を殺す。 9.師団長が退かず、全師団の将兵がみな退き、それによって師団長が 戦死すれば、師団長に所属する連隊長を殺す。 10.連隊長が退かず、全連隊の将兵がみな退き、それによって連隊長が 戦死すれば、連隊長に所属する大隊長を殺す。 11.大隊長が退かず、全大隊の将兵がみな退き、それによって大隊長が 戦死すれば、大隊長に所属する中隊長を殺す。 12.中隊長が退かず、全中隊の将兵がみな退き、それによって中隊長が 戦死すれば、中隊長に所属する小隊長を殺す。
749 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/15(日) 23:58:05 ID:OkdcQ9zx
13.小隊長が退かず、全小隊の下士卒がみな退き、それによって小隊長が 戦死すれば、小隊長に所属する分隊長を殺す。 14.分隊長が退かず、全分隊の兵卒がみな退き、それによって分隊長が 戦死すれば、全分隊の兵卒を殺す。 【第4条】各級の将校相当官、軍属もまた皇軍連座法を適用する。 【第5条】皇軍連座法は公布の日より施行する。
色んな意味で「こんな皇軍イヤだ!」と感じますが、 『戦陣訓』と『皇軍連座法』で好きな方を選んで下さいw。
751 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/16(月) 00:22:00 ID:JN12Z3ut
>>744 >>文革で自己破壊に耽ってる期間は、深刻にヤバかったみたいだよ、
>>支那人民の昔の経歴暴き。
韓国でも親日行為についてありましたが、昔の経歴暴露というのは中共だから
やるのか、儒教も関係あるのか、日本も「共産国家」になっていたら当然
同じ事をやっていたのか、などと思いますw。
>>支那の場合、戸籍制度もあやしいので「家族に累を及ぼす」というのは
>>困難でしょうw。保甲制度はありましたが。
あくまで「戦時の話」という事にしておいて下さい。だいたい支那では
徴兵の身代わりを「金で雇って差し出す」という行為も頻発してましたしw。
752 :
元32 :2006/10/16(月) 00:54:18 ID:???
>>750 基本戦略としては後退再展開を愛用する東條のもとで、
退却禁止というのはちょっと考えにくいですね。
753 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/16(月) 22:15:12 ID:jgjvc5vj
>>752 >>基本戦略としては後退再展開を愛用する東條のもとで、
>>退却禁止というのはちょっと考えにくいですね。
>>『皇軍連座法』(1941年1月8日)
まあ、1941年1月8日の日付はヒデキが『戦陣訓』を自身で録音した日に
合わせていますが、あくまでシャレです。シャレw。
ヒデキについては、『大本営機密日誌』の種村佐孝が1945年2月16日に
用賀の自宅を訪れて話を聞いていますから、参考までに触れておきましょう。
以下、ヒデキが首相在職中を振り返っての反省です。
「食料事情が逼迫し国民大衆の戦意が低下していること、知識階層の敗戦必至感は
まことに憂慮すべきものがある。4月以降ソ連の動向は注意を要する。殊に敵が
本土に上陸したならば、ソ連の対日参戦は必至である。
754 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/16(月) 22:29:00 ID:jgjvc5vj
開戦の可否に関しては、今でも日本はあれより外に進む途が無かったと 信じている。しかし、その後の戦争指導に関しては、大いに反省しなけ ればならぬ点が多い。 私は開戦前、わが海軍の実力に関する判断を誤った。しかも緒戦後、 海軍に引きずられてしまった。一方、わが攻勢の終末を誤った。緒戦後の わが攻勢はインド洋に方向を採るべきであった。 また石油に関する観察も誤った。日満支の燃料施設を、全部南方に送って しまったのは誤りであった。さらに独ソ戦の推移に関する判断を誤った。 独ソ和平斡旋のチャンスもあったのに惜しいことをした。三国同盟の功罪は 今日自分からは何とも言えぬが、単独不講和の条約は帝国の戦争終末施策を 束縛したことは事実である」 海軍に文句ブー垂れているのはともかく、石油の燃料施設の件は興味深いです。 まあ、しかし開戦後は海軍に引きずられていった点は間違い無いでしょうw。
755 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/16(月) 22:39:48 ID:jgjvc5vj
開戦後、ヒデキの海軍に対する気の遣い様は尋常ではありませんでした。 「ご機嫌取り」に終始したと言って良いでしょう。 ヒデキ自身「日本の戦争指導の危機は、陸海軍が分裂した時とソ連が対日 参戦した時に存する」と繰り返し述べており、陸軍省の幹部は、陸海軍で 話がもつれた時にヒデキ(陸相)の下に話を持って行くのを極端に嫌って いました。 ヒデキの所へ行けば、文句無しに『陸軍の負け』となるからです。1944年 春にも、軍艦の沈没が多くて海軍が意気消沈しているというのでヒデキは陸軍 配当の鉄2万トンをお見舞いとして海軍に回していますが、これも一向に海軍 から感謝されなかった、という話があります(前述の種村佐孝・談)
756 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/16(月) 23:15:26 ID:jgjvc5vj
>>話を元に戻しますと、このA分遣隊の人員は「坂上少尉」以下19人。
>>「坂上少尉」は幹部候補生あがりで25歳です。他に分遣隊の中心人物
>>として「倉田軍曹」という30代半ばの人物が登場します。人格的に多少
>>問題がありますが百戦錬磨の古兵です。当然、若い上官を疎んでいます。
>>685 の続き。北支の治安戦(警備任務)に付いていた『ある分遣隊』のお話です。
「上官殺害」のイグザンプルです。
いつもの如く『中隊討伐』(八路軍討伐)に応じて出動したA分遣隊は異常に
気が付きます。自分たちより先行している中隊本部と尖兵小隊からの信号弾の
連絡がちっとも来ないのです。「これはおかしい」と倉田軍曹は呟きます。
「斥候を出してみるか?」と分隊長である坂上少尉は聞きますが、倉田軍曹は
「いや」と首を振りました。とその時、銃声が前方から鳴り響き、大地に響く
ような重機の音が続きます。八路軍の待ち伏せに遭ったのでした。
757 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/16(月) 23:27:33 ID:jgjvc5vj
倉田軍曹は「東の方角だ。尖兵隊がやられている」と落ち着き払った 声でした。中隊本部からの信号弾は依然として上がりません。銃声は ますます激しくなります。 「救援に行こう!」坂上少尉の眼が血走るように光ります。興奮して いることは声でも分かりました。しかし「駄目だ」と倉田軍曹は きっぱり否定します。 「敵は1個小隊どころじゃない。ちゃんと情報を掴んでいて先制攻撃を かけている。今飛び出したら俺たちも全滅だ。敵はこっちにも重機を 向けているに違いない」 「どうしてそれが分かる?」と坂上少尉。「それくらい分からなくて どうする?」と倉田軍曹。
758 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/16(月) 23:42:04 ID:jgjvc5vj
「しかし友軍がやられている」 「ボヤボヤしているからやられるんだ。討伐はピクニックじゃない」 「見殺しにするのか?」「止むを得ない」――倉田軍曹は銃声に耳を 傾ける表情で前方に視線を凝らし、少しも動じませんでした。 「小松伍長――」坂上少尉は、倉田軍曹から向きを変えて声をかけます。 しかし小松伍長は銃を抱くようにかかえ、うずくまるような姿勢のまま 顔を上げません。「小松伍長――」坂上少尉はまた呼びかけますが、小松 伍長は返事をしませんでした。 業を煮やした坂上少尉は、苛立った、そして上擦った声で「みんなよく聞け、 友軍はいま敵の攻撃を受けて苦戦している。わが隊はこれから敵陣に突っ込む。 敵の背後を突くのだ。絶対に遅れを取ってはならん!」と檄を飛ばします。
759 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/16(月) 23:49:28 ID:jgjvc5vj
「馬鹿を言うな! 貴様には八路の戦法が分かっていない」と倉田軍曹が すぐさま反駁します。「なに――」坂上少尉は当然いきり立ちます。 坂上少尉はまだ25歳で、倉田軍曹との間には10歳以上の年齢差があり ました。もちろん実戦経験も乏しかった訳ですが、彼は倉田の上官でした。 「貴様は上官の命令が聞けないのか?」「上官なら上官らしい事を言え」 「叩っ斬るぞ!」「勝手にしろ。貴様なんぞに斬られやしない」 「よし、後で叩っ斬ってやる。さもなければ軍法会議だ。他の者は俺を 信じて付いて来い!」 「皆ここにじっとしていろ。隊長の命令を聞いたら犬死だぞ!」 倉田軍曹もさすがに緊張した声で、怒鳴るように言いました。
760 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/17(火) 00:00:23 ID:jgjvc5vj
坂上少尉は倉田軍曹を無視して、軍刀を抜きました。血気に逸っていたという 事があるかもしれません。しかし、それよりも指揮官としての実力を部下に示し、 倉田軍曹の勝手を抑えたい気持ちが強く働いていたに違いないでしょう。 もちろん坂上少尉も、若輩で実戦の経験は倉田軍曹に劣っていても、彼なりに 情勢判断には自信があったでしょう。一途な性格で倉田軍曹にも一目置く様子 でしたが、決して臆病な男ではありませんでした。 「突撃――」坂上少尉は攻撃目標を示すと、軍刀を振りかざして躍り出ました。 しかし後に続く者はだれも無く、坂上少尉はたちまち一斉射撃を受けて斃れました。 A分遣隊は、崖の斜面の岩陰に伏せっている格好でしたが、やはり崖上の八路軍 から重機で狙われていたのでした――。分遣隊長の坂上少尉を見殺しにした格好 ですが、倉田軍曹らも危機から逃れられた訳ではありません。このまま谷間に退却 しようとしても、同じく崖上の八路軍から狙い撃たれて全滅でしょう。
761 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/17(火) 00:11:08 ID:WiLrOnJl
しかし、倉田軍曹らも軽機を2挺(うち1挺はチェコ軽機)を岩陰で 構えています。仮に八路軍が崖上から突撃してきたとしても充分に 迎え撃てるでしょう。全員が着剣して白兵戦を覚悟しますが、基本的 には日没待ちです。闇夜に紛れるしか不利な戦闘を避ける方法はあり ません。 そうこうしている内に「尖兵隊」の方向から聞こえてきた銃声は止み 「全滅かな」と軽機を抱える倉田軍曹は不機嫌そうに呟きました。 夕方近くになっても八路軍の斥候がちょくちょく様子を窺いに来て、なか なか身動きが取れません。夜を迎えて隙を見て、坂上少尉の遺体を回収し 担いで引き揚げましたが、胸に2発、喉にも1発が貫通していました。 結局、この時の中隊討伐で尖兵隊は全滅、中隊長も戦死しています。 中隊長は大隊長からハッパをかけられて功を焦っていた様です――。
762 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/17(火) 00:29:03 ID:WiLrOnJl
このエピソードは命令不服従、『小隊長を見殺しにする』典型的なパターンです。 もっと酷いのだと、飛び出した小隊長を、八路軍が崖上から撃つよりも先に 後ろから「味方がズドン」でしょう(藁)。 しかし、あくまで一例です。他の戦例ですと、小隊長に全く突撃の意気地がなく、 古参の下士官から銃剣で「早よ突撃せい」と尻をつつかれるケースもありますw。 また小隊長が完全に自信が無いからといって指揮権を放棄し、「軍曹(伍長)、 あとは君に任せた」と後方に下がってしまう例もあることを付記しておきます。
763 :
元32 :2006/10/17(火) 01:21:13 ID:???
>>754 石油の件については、南方の油田確保・掘削は成功して、
日本の戦争遂行に必要なだけの膨大な石油を入手することに成功するのですが、
水上交通の途絶と油槽船の不足により運べなくなるのです。
おかげであまった石油は海に捨てたり、ゴムの袋につめて放流していました。
というわけで、もういちど本土・半島・大陸で石油掘削を試みようと思うのですが、
設備も技術者もみんな南方に送ってしまったわけで。
ですから、これも貴重な油槽船を乱用して、海上護衛を放り出した海軍批判の一環かと。
>>762 この種類の話、とても勉強になります。
続きを期待します。
しかし、末期に近づくにつれ、護衛をつけても護衛艦ごとボコボコ沈められていた例が多いですよ。 まっこと残念無念。
765 :
だつお :2006/10/18(水) 08:21:33 ID:Ahwbvf+t
>緒戦後のわが攻勢はインド洋に方向を採るべきであった。 インド洋からスエズ運河が陥落すればイギリスは戦線離脱となるが、 代わりにアメリカ太平洋艦隊がインド洋に現われたであろう。 (これは米英でもそういう計画だったそうだ) 太平洋で攻勢するよりは、ガッチリ大陸打通が最高であった。 イギリスと中華民国を先に戦線離脱させればアメリカもそれ以上 は手が出せなくなる。史実よりも講和条約が早くなっていたかも。 インドと中国が米英に牙を向けば、米英は日本と講和するしかない。 東条英機が死刑になったのに対し、岸信介が総理大臣に復帰したのは、 単に講和条約の時期がズレただけのことだったはずだ。二キ三スケと してまったく同じことをやって一方が戦犯で一方が総理復帰だから。
766 :
だつお :2006/10/18(水) 08:32:00 ID:Ahwbvf+t
http://www.yorozubp.com/9806/980606.htm 日中戦争のおかげで全滅を免れた中国共産党−ケ小平語録
戦時においては「敵の敵は味方」が鉄則。
よって米英と中華民国の敵である中国共産党こそ皇軍にとって
最高の味方であって、中国共産革命こそが朝鮮特需と日米講和
の決定的引き金であったといえる。
インドも徹底的に攻略してボースに指揮させれば、インドと中国の
両方を米英と戦わせることができて、講和条約は早まり東条英機も
死刑にならずにすんだはずだ。
海戦こそ敗れても、わが帝国陸軍の戦闘能力は偉大。
767 :
だつお :2006/10/18(水) 08:38:18 ID:Ahwbvf+t
中国の共産革命は、敵にとっての痛撃であって日本への害ではない。 共産主義が嫌いだからといって、中共勝利を安易に否定すべきではない。 中共勝利・米中決裂がもっと早ければ東京裁判もなかったのにと、 これはもっとそういう意味で悔やまれるべきであろう。 日中戦争で皇軍が中国人を虫けら同様に大量殺戮したというのは、 あくまで敵に与えた損害が甚大であったということでありそれは 皇軍の偉大な戦果であったと記憶すべきことだ。
>>766 > インドも徹底的に攻略してボースに指揮させれば、インドと中国の
> 両方を米英と戦わせることができて、講和条約は早まり東条英機も
> 死刑にならずにすんだはずだ。
なるほど!!
そろそろ、このスレもご臨終の時期(500KB)を迎えましたので総括に
入ります。2ヵ月弱で1スレ消費したのは最短でしょう。つーか、コピペ
多過ぎですw。思えば「初代スレ」で、
>>20 名前:イナゾウ中佐 :2005/10/08(土) 00:05:56 ID:???
>>ではスレの番号も若いことですし、自分が頂きましょう。
>>ただ今現時刻を持ちまして、このスレは『被害担当艦』になりますw。
としたのが始まりですから、もう1年間が経ってしまいました。まあ、どこまで
続くか分かりませんがコツコツと積み上げて行きましょう。きっと最期はプッツリと
音信不通になってサドンデスですw。それとも「おめでとう!」「おめでとう!」と
どこかで見たような拍手が連呼されて終わるのでしょうか(藁)。それはさて置き、
>>89 >>その功績により、どうぞこのスレでは『少将』の階級をお名乗り下さい。
>>もちろん「使徒」にも後の機会にうpさせて頂きます(笑)。
とこのスレの最初の方で書き込みましたので、1年間を振り返る意味も込めまして
「使徒一覧」をまとめさせて頂きます。このスレを訪れた主だった人は以下の通り。
第1使徒「32」さま(この人が最初に相手してくれなかったらスレは無かったかもしれません) 第2使徒「俄将軍」(初代スレを確認したら2番目の登場。幣制改革は二度とやりませんw) 第3使徒「だつお」(この人も早い登場でした。コピペ多過ぎ、要考慮KBw) 第4使徒「名無しロサ・カニーナ 」 (懐かしい名前です。確か樋口季一郎中将の話でした) 第5使徒「唯」(台湾の人。英語と中国語だけの書き込みで対処不能に。自分の語学 コンプレックスを程良く刺激w) 第6使徒「えICBM」(こうしなければ降格だ!と自分に格下げを迫る恐い人w) 第7使徒「暫編第一軍」(汪政権軍を皮切りに支那軍隊の編成に激詳しい方。他の 話題は不明ですが、前者のみで言えば少なくとも大佐クラス) 第8使徒「ue少将閣下」(初出は、田中上奏文の記述についてだった記憶が……。 このスレの過去ログを作って下さったエロイ、もとい偉い人。 経済・政治史についても詳しい方です:高橋是清財政等) 第9使徒「四季映姫・ヤマザナドゥ様」(楽園の最高裁判長の二つ名を持つ地獄の閻魔様、 このスレにたびたび光臨されますw。御髪は深緑色)
四季映姫さまは冗談が過ぎましたw。また恐れ多いので取り消します(藁)。 第9使徒「579(4代目スレ)」(山西残留兵問題で、蒙を啓いて頂きました。 あの時の自分は明らかに勉強不足でした) 加えて多くの「名無し」の皆様方――。単発で鋭いツッコミを入れて下さった方も 大勢いらっしゃいましたが、識別困難なので割愛させて頂きました。スマソ。 あと8KB。まだ1日2日は持つでしょうから、感想・苦情・要望などございましたら 恒例でどうぞ。スレの冒頭で大テーマを幾つかやると(阿片問題等)偉そうな事を抜かして おりましたが、ほとんど雑談レベルで終わってしまいました。正直仕事の方がキツイので、 次スレでもしばらくこの調子で逝かせて下さいw。
773 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/18(水) 23:26:51 ID:eGkq0bjr
>>763 >>日本の戦争遂行に必要なだけの膨大な石油を入手することに成功する
>>のですが、水上交通の途絶と油槽船の不足により運べなくなるのです。
種村佐孝の『大本営機密日誌』を見ますと、1942年5月13日の日付で
既にタンカーが足りないとぼやいています。南方作戦で陸軍はスマトラ島の
パレンバン油田、海軍はボルネオの油田を確保していました。
ところが陸軍のパレンバン油田では予想以上の石油が採れるのですが、これを
運ぶタンカーがありません。開戦当初の日本のタンカーは海軍が8割を握って
いましたが、ボルネオから出る石油の量は微々たるものです。パレンバンの比
ではなかったのです。
陸海軍の「保有タンカー比率」は1941年9月末の連絡会議で決められて
いましたが、これは不用意であったと陸軍は嘆きますが後の祭りですw。
774 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/18(水) 23:41:55 ID:eGkq0bjr
海軍からは「陸海軍共同でパレンバン製油所の運営をやろう」という意見が 出ましたが、これには陸軍が反対します。逆に陸軍からは「海軍からタンカー (8割を占める)を吐き出させろ」と主張しますが、もちろん海軍が反対します。 陸海軍がお互いの既得権益を守ろうとして一歩も譲りませんから、話がちっとも まとまりません。1942年5月の段階でこれですw。 南方総軍総司令官の寺内寿一から、総理大臣のヒデキ宛に「陸海軍のタンカー問題 を一刻も早く解決されたい」と意見具申が送られるなど、中央の面子は丸潰れと なりましたw。結局、海軍が保有タンカーを融通することで、パレンバンの 石油は上手く流れることになります。 以前、別スレで日本の継戦能力を奪ったのは『戦略爆撃』か『潜水艦作戦』かで 揉めていた記憶がありますが、『大本営機密日誌』を読む限り、ひたすら 「船が足りない、船が足りない」と船舶問題しか書かれていませんw。
775 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/18(水) 23:57:46 ID:eGkq0bjr
「船舶問題」は作戦行動に直結しますから深刻です。 また1942年6月5日の日記に、陸軍省の岡田菊三郎・戦備課長が 本年度の石油配分について、田中新一作戦部長に「陸軍100万トン、 海軍270万トン、民需250万トン」の案を説明しています。 これを聞いた田中新一は、怒髪天をつくような大声で「これで作戦が できるか!!」と戦備課長を叱咤しました。岡田は悄然として部屋を去った と言います。 ちなみに岡田菊三郎は、開戦前にヒデキと武藤から命じられて『日米戦力比』を 作成した陸軍屈指の合理主義者と呼ばれた人物ですw。それにしても配分案を 見るかぎり、「陸軍省」側はかなり海軍に遠慮していると言えないでしょうか。 ヒデキによる海軍へのご機嫌取りの部分もあったかもしれません。
776 :
元32 :2006/10/19(木) 00:07:30 ID:???
>>774 とにかく船ですね。
海軍の場合、艦隊の補給用にも油槽船は必要なので、余計深刻です。
後知恵で考えれば、ミッドウェイなどしないで、
その分の油槽船で石油を運んでいればどれほどよかったか、ということになります。
それでも昭和17年はいいのです。
昭和18年以降になると、
生産量の大半が米潜水艦により沈められることになります。
>>水上交通の途絶と油槽船の不足により運べなくなるのです。 まあ、本土決戦が始まっていれば、支那戦線の100万の日本軍が完全に 『遊軍』と化した訳ですから、やらなくて正解だったかもしれませんw。 海軍の大和が残置されている(もしくは港湾で大破)のに匹敵します。 支那から移動する輸送船も無ければ、強硬したところで米軍機に片端から 沈められるでしょう。 >>この種類の話、続きを期待します。 治安戦は「次スレ」にも引き続きまふ。
778 :
元32 :2006/10/19(木) 00:15:25 ID:???
>>775 海軍はそれでも作戦を掣肘されたと怒りまくります。
でも、あおりを食らったのはむしろ民需のほうで。
本当に昭和17年に、第2段作戦などするのは無意味なことでした。
当初に石油を運んでおけば、機械も動かせるので船も造れます。
そうすれば、もっと石油を運べるのです。
>>777 次スレでもよろしくお願いします。
777getですね。
タンカー不足など、精神力でどうにかするのが皇軍というものだ。 貴様等は非国民だ。
>>779 するってーと、
存在しない大勝利の栄光を、精神力wで無限コピペする
だつおみたいなのが理想の皇国臣民だと、
そーゆーことですか、そーですか。
782 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/19(木) 22:33:14 ID:n/8PrrgE
>>778 >>でも、あおりを食らったのはむしろ民需のほうで。
>>本当に昭和17年に、第2段作戦などするのは無意味なことでした。
「船舶問題」と言えば、ガダルカナル攻坊戦が大きな端緒です。
1942(昭和17)年11月16日に、陸軍参謀本部が「船舶37万トン」の増徴を
要求して、企画院も止むを得ないとして政府側の同意を得ようとしている最中に、
海軍側が「船舶25万トン」の増徴を新しく申し出て来てオジャンになりますw。
国力(民需)の充実を優先させる「陸軍省」側は、参謀本部の要求に否定的でした。
「船をもっと貰わなければガ島の戦闘は負ける」と主張する作戦部に対して、当時
軍務局長だった佐藤賢了はこう反論しています。
「来年度の物動で鉄350万トンは絶対に確保する必要がある。この確保が困難に
なるような作戦は御免こうむる。両統帥部の要求を呑んだら民需に向ける船舶は
減少するから、鉄200万トン以下になる」(1942年11月30日)
783 :
名無し三等兵 :2006/10/19(木) 22:38:52 ID:np1D56ZC
開戦時の年産60万トンを最終的に年産170万トンへ 引き上げられただけでも軍需省は十分がんばったと思ふ。
ッ-ヘ。__。ヘ ./ー- 、 レ, '´゚ `,〉 /==ヽ i ハ)))ハ))ノ) ム, |/ 唐突だけど、スレの寿命が尽きたんで イオi ゚ ヮ゚ノヘ / あの世に持って逝くよー。 ,ぐ`i盃、ツつr'ソ ,メ∪イ-i、ゝ ゙'ーi_'ォ_ァ"
まだ1kもアナルじゃないか
787 :
三途の水先案内人 小野塚小町 ◆FU/OcfTlfM :
2006/10/19(木) 23:09:57 ID:n/8PrrgE >>784 >>開戦時の年産60万トンを最終的に年産170万トンへ
>>引き上げられただけでも軍需省は十分がんばったと思ふ。
ッ-ヘ。__。ヘ ./ー- 、
レ, '´゚ `,〉 /==ヽ
i ハ)))ハ))ノ) ム, |/ あれ? フライング? じゃあ、代わりに
イオi ゚ ヮ゚ノヘ / 潰しておくよ。1942年末の段階でもう既に
,ぐ`i盃、ツつr'ソ 「船だ、造船だけが国を救う――」という
,メ∪イ-i、ゝ 雰囲気だったのさ。「川南式簡易造船方式」
゙'ーi_'ォ_ァ" の採用がやかましく言われるようになったのも
この頃さ。当時、首相だった東條英機は川南
造船所のことを聞くと、直ぐに飛行機で九州に飛んで、川南造船所を視察しているね。
(1942年12月1日)もともとフットワークが軽い方だけど、熱意だけは
買ってやったら?w