★中華民国期の革命勢力★

このエントリーをはてなブックマークに追加
1靡莫
中華民国期に活動した各種革命勢力について語るスレッドです。

国民党や共産党のみならず、その内部の派閥や中間派(民主党派)、
財閥、幇、地下組織など、この時期の中国に出現した各種勢力なら
何でもOKです。

ただし、軍閥や親日政府、あるいはそれに関連した組織の場合は、
こちらのスレッドでお願いします。

「中華民国期の軍閥を語ろう!」
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1004108800/
「民国期親日政府スレッド」
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1010761288/
2世界@名無史さん:02/03/24 12:37
2ダ!
3中国共産党:02/03/24 18:59
1921年7月、上海・北京・済南・武漢・長沙・広州・東京等の地の
共産主義小組が上海の地に代表を派遣して、第一回全国代表大会を開き
成立(湖南省代表は毛沢東)。党綱領を採択し、陳独秀を党中央書記に
選出。22年7月に第二次全国代表大会を挙行し、反封建的民主主義革命
綱領を提出、第三インターに加入。23年6月、第三次全国代表大会を
開催。革命統一戦線を建設し国共合作を実現する政策を制定。共産党の
政治的・組織的独立性を保持を前提の上で、共産党員が個人の身分で
中国国民党に加入することを決定した。国民党改組の後、労働・農民運動の
組織化に尽力を尽くしたが、27年4月の蒋介石反共クーデターののち、
7月にかけて国民党右派の背反にあい、国共合作が破綻。27年8月から各地で
先後して武装蜂起(南昌起義)するも失敗。28年6月、モスクワで第6回全国
代表大会を開催。中国革命の性質・任務・路線問題の統一を行い、工農紅軍を
建設して革命根拠地をつくり、工農民主政権の建設と土地革命を実行して、
逐次農村より都市を包囲してゆく路線に着手。31年11月には中華ソビエト共和国
臨時中央政府を建設し、4度渡る国民党の包囲掃討戦を撃破。しかし、王明・博古
らの左傾機会主義が党を掌握した結果、革命根拠地は第五次包囲掃討戦下、
つぎつぎと失われ、34年10月から長征へ。35年1月遵義会議により毛沢東の
指導権が確立する。長征の途上、35年8月「抗日民族統一戦線」の建設を呼びかける。
36年12月、西安事件の和平解決をおこない、中国国民党に抗日民族統一戦線の
結成を促し、第二次国共合作が成立。日中戦争勃発後、国共合作宣言を公布、
紅軍と南方遊撃軍をそれぞれ国民革命軍第八路軍・新編第四軍と改称する。
37年8月、洛川会議で敵の後方で遊撃戦を展開することを決定し、華北・華東・
華中・華南各地で抗日根拠地を建設。38年10月以降、国民党の親日派の離脱、
国共間の軍事摩擦の中抗戦を堅持。41年〜42年の整風運動をへて、45年4月
延安で第7次全国代表大会を開催。党の指導下、日本軍国主義を打倒し全国の
人民を解放して新民主主義中国の建設を行なう政治路線を採択するとともに、
マルクス・レーニン主義と並んで毛沢東思想が問うの指導思想として規定される。
45年8月国民党と重慶談判を行い、双十協定が締結されて46年1月には
政治協商会議に代表を派遣、和平建国方針を確定するも、国共双方の軍事的衝突
が日増しに高まる中、46年6月ついに全面内戦に突入。人民解放軍は戦略防御・
戦略攻勢・3大戦役を経て国民党軍をおいつめ、49年4月南京を陥落させる。
49年9月に新政治協商会議をひらいて後、10月1日北京において
中華人民共和国中央人民政府の建設を宣言。以後政権をにないつづけて今に至る
4中国国民党 <前編>:02/03/25 00:48
中国同盟会(1905)→国民党(1912.8)→中華革命党(1914.7)という
流れの後、中華革命党の改組により成立した政党。
孫中山(中山は日本時代の仮名中山樵から)の手により1919年10月10日に発足。
≪中国国民党規約≫を発表するとともに、≪三民主義≫を宗旨として出発。
その組織は総経理を1人おき、党務を総覧するという形式をとった。
本部を上海に設け総務・党務・財務など各部を設置。1922年6月広東軍閥陳炯明
の反乱により広東を離れ上海に赴き、コミンテルンと中国共産党との協議を行い
国民党改組を決定する。1923年11月6日≪中国国民党改組宣言≫と党綱領・規約
草案を公布、1924年1月20日には広州で中国国民党第一回全国代表大会を開催。
そこで≪中国国民党章程≫と≪宣言≫を採択し、≪聯ソ・容共・扶助農工≫
の3大政策と新≪三民主義≫が打ち出され、国共合作の政治的基礎となった。
大会の後、黄埔に陸軍軍官学校を設立し党軍の建設に着手するも、
国民会議に参加のため病をおして北京に出向いた孫中山は、
1925年3月12日北京西山にて、「未だ革命ならず」の言葉を残し逝去する。

孫中山の死後、3大政策に反対する国民党右派は≪西山会議派≫を結成。
1926年1月広州で第二次代表大会を開催。
6月4日第二届中央執行委員会臨時全体会議において≪迅行出師北伐案≫が通過。
1926年7月国民革命軍が北伐を開始。呉佩孚・孫伝芳を打ち破り長江中下流へ
進出するとともに、26年11月に国民党中央政治会議が武漢遷都を決定する。
1927年3月国民党第二届三中全会が武漢で開かれ、国共合作強化決議などが通過
するも、国民革命軍総司令の蒋介石は27年4月12日に反共クーデターを断行。
4月18日に南京に国民政府成立を宣言し、武漢国民政府と対立することになる。
その後7月15日、汪兆銘は国共合作解消を宣言し武漢・南京両国民政府が合流。



5中国国民党を書いた人:02/03/25 00:55
中編は誰か書いてくれ。
軍閥と蒋介石の対決は分かりにくくて俺には無理だ〜
6世界@名無史さん:02/03/26 15:42
【宋教仁】

湖南省桃源県の人。1882年生まれ。地主階級の子弟として生まれ、若きより
教育を受け1902年の外遊ののち、1903年民主革命家として知られる黄興とともに
長沙で華興会を結成する。1904年武昌で科学補習所を組織する傍ら、
華興会は、11月16日(旧暦10月10日)の西太后の喜寿(70)の日に、
長沙蜂起を行なうことを決定。常徳にて宋教仁は工作に当るも計画は露見し、
日本へ脱出することになる。1905年与田桐らと雑誌『二十世紀の支那』を創刊。
ならびに中国同盟会を組織し、『民報』において革命の宣伝に努める。
1907年以降南方起義工作を展開し、1911年上海に帰り『民立報』を創刊。
ならびに同盟会中部総会を組織し、以後長江流域での武装蜂起を模索する。

1912年の南京臨時政府成立に際し法制局長に就任。北遷後は農林総長の職に。
中国における議会政治の実現に傾注し、議会政治に関する研究をおこなった
宋教仁は、袁世凱の独裁権力の掣肘のため、責任内閣制の実現を狙い、
弱小諸党派をも糾合して、1912年8月国民党を結成し、翌年2月の国会選挙で
国民党に共和・民主・統一各党を合わせた数より多い絶対多数の勝利をもたらす
ことに成功する。しかしながら1913年3月上海から北京に向かおうとする途中
上海駅で袁世凱の手のものに暗殺されることになる
7世界@名無史さん:02/03/27 19:21
【杜月笙】
1888年上海川沙県に生まれる。幼くして父母をなくし、1901年より上海へ。
果物屋に奉公する傍ら、漕運の水夫人組織に起源を持つ秘密結社≪青幇≫
の頭目の一人、陳福生の元に身を寄せ、その後上海で賭博場・売春宿・アヘン窟
を営み、幇会中最大の勢力の一つ、青幇の大頭目・黄金栄の腹心として台頭する。
黄の下、1918年上海でアヘン運搬組織「小八股党」を結成し、アヘン商と租界・
軍閥と連携し、アヘン流通を掌握。1927年3月、中華共進会を結成し、4月12日の
蒋介石反共クーデターの際に、上海市総工会委員長汪寿華を殺害し、配下の青幇
を使い工人糾察隊を鎮圧。南京政府成立後は、軍事委員会参議、陸海空軍総司令
顧問、行政院高級参議に任命され、また上海地方協会会長などを歴任する。
経済活動でも裏ばかりではなく、中匯銀行を創設するなど、70以上もの商工業
絡みで運営に携わる。抗日戦勃発後、上海で抗日活動を行い、陥落後は香港で、
1941年以後は重慶でアヘン流通に携わりつづける。抗日戦勝利後、
一時上海市参議会副議長になるも、1949年4月香港へ脱出。51年8月病没する