ご苦労様です。
前スレ的には
「織豊以降戦国軍VS帝政ローマ軍」という形になってたみたいだけどそれでいくの?
個人的には、弓が多数用意されている戦国軍相手に、騎馬兵の運用は激しく危険な悪寒。
前スレ現実さん、
イングランドの長弓兵は極めて厳しい鍛錬の末に生まれた特殊な兵科ですよ。
対パルティア戦。
弓だけではローマ軍を壊滅できないと言うお話です。
まあ、壊滅させられちゃった人もいましたがね。
>>6 前スレでは弓の装備率8%(織豊期以前武田軍)なんてレスもありましたが。
どんな物ですかね?
>>6 使いどころを間違わなければ、いかに相手が投射兵器を多数そなえていても
騎兵は決定打になりうる。火器が発達し榴弾や散弾を発射可能になった野砲
前装式ながらライフル銃すら存在したナポレオン戦争のころにだって騎兵が
重要な役割を果たした戦いは多かったし。
ローマ側が内乱期〜帝政初期で
戦国側が鉄砲伝来前と後との二通り想定で
それぞれ話が進んでいたかと
12 :
現実:04/12/13 00:27:27 ID:boebVDTe
そうですね。しかし、信長一派は面制圧のために鉄砲の三段撃ちの予備のために長弓も重要視してますよ。密集隊形で突っ込んでくるローマ軍にはかなり不利ですね。家康は大砲も使うから陣形が引き裂かれたりパニックになりますよ。
弓矢で騎馬隊が無効化できるならそもそも騎馬隊なんて存在しないわな。
>>7 長弓兵が厳しい訓練の賜物なのは同意だが徒歩兵の長弓と騎馬兵の短弓を同列に語って良いものだろうか?
>>12 三段撃ちなんかやってない。
つか織田家の鉄砲装備率はそんなに高いわけではない。
>>11 加えて、兵科分離が起きたのは織豊期以後って話がでて、
戦国側はそれでも場合分けされていたかと。
17 :
272:04/12/13 00:30:10 ID:???
>12
信長の場合は野戦築城との組み合わせじゃないかな?
想定戦場に空掘り、馬防柵なんかを作って防御効果を上げてるし。
19 :
名無し三等兵:04/12/13 00:34:06 ID:boebVDTe
長篠で見つかった塹壕や織田・徳川家の文献では鉄砲を重要視してますよ。ならなんで信長は鉄砲隊に黒幌衆で側近の佐々成政、前田利家を当てたのですか?
20 :
対戦車兵:04/12/13 00:35:22 ID:???
新スレおめでとう
早速反論開始
現実氏の想定クレシーの場合
弓矢の犠牲よりも堅固な戦列を組まなかった事が原因の犠牲者の方が多い
死者の大半は矢傷よりも圧死者の方が多い
(歩道橋事件と同じような現象が矢を避けよとした兵達で発生した
ポワティエの場合、戦列を保ち白兵にまで到達したものの
騎兵に周りこまれた事が敗因
またスイス槍兵達は最後まで戦列を維持している
以上反論終了
>>19 『重視』と『装備率』は別の問題だ。
幾ら重視しても、集まらなければ仕方無いんだから。
それに、他との兼ね合いも有る。
全てを犠牲にして鉄砲買うぞ、って訳でもない。
>>19 別に織田家「だけ」が鉄砲を重要視していた訳じゃない。
織田家だって対本願寺戦ではかえって本願寺鉄砲隊に
苦しめられたわけだし。
>>19 重視してないなんて誰も言ってないでしょ?
しかし、長篠の戦の段階で織田軍の鉄砲の装備率がそれほど高くなかったのは事実だよ。
仮に3,000ってのを信じても1割そこそこなんだから。
まあ、武田軍よりは高かったが。
そうか?
>>24 対戦車兵氏の論の要点は
弓の打撃力ばかりがイングランドの勝因ではない、というところかと
鉄砲だろうが弓だろうが、どれだけバタバタ死んでも
敵の陣地線まで達して槍足軽を蹴散らせればローマ軍の勝ち
どっかでローマ軍を止められれば戦国日本軍の勝ち
つーか、ローマ軍は越えなきゃならないハードルが多いな
28 :
対戦車兵:04/12/13 00:46:19 ID:???
ウム?
詰る所20の反論で長弓に対してでも戦列さえ維持されるならば
被害は極めて限定される事を証明した訳ですが?
反論になってませんか?
>>27 んじゃ騎兵対策は?
正面ではローマ軍を押していたとしても、
側背を騎兵につかれたらその時点で勝負がつくぞ。
>>27 その条件だと、ローマ軍団が勝つのは無理だな。
満期除隊して、ローマ市民権もらうのを期待して志願した連中が、
そこまでやる訳が無い。
31 :
対戦車兵:04/12/13 00:51:41 ID:???
30氏
明らかに軍団兵と補助兵を区別できてませんね・・
>>29 そりゃそうだ
ローマ騎兵が側背を突ければ戦局はローマ軍に有利に推移する
突けなければローマ軍は翼の掩護を失いローマ軍はさらに具合が悪くなる
当たり前だな
ローマのほうが投射兵力に劣るなら戦場での展開をするのを一方的に妨害
できそうだけど。戦国武士団としては投槍で前の組が壊滅しても徒武者が
支えて後退させて、次の組が槍襖を作り支えればいいと思う。
ローマの投槍は一度投げたら、折れ曲がって直ちに再使用はできないはずだし。
次の組に衝突するときは前列の盾によるタックルと短剣による突きのみで槍に
対抗することになるでしょう。
騎兵の回りこみについては騎馬武者が頑張る。
ローマの問題
火力投射を陣形維持して突破出来るか?
戦国側の問題
火力だけで何処まで撃滅出来るか
騎兵対処
側面のローマ軍騎兵に戦国側がどういう対応をとるか、
またそれで予想される結果はどういうものなのかが
前スレで結局出てこなかったからそこを詰めていく必要があるんじゃないかな
>>28 その戦列の維持が弓兵の攻撃によって結果的にできなかったからでしょ
矢傷が少ないからという話ではなく
ポワティエでも弓兵を恐れて騎士を馬から降ろしたから囲まれたわけで
戦線の翼の防護の重要性については古今東西どこでも変わらん
ローマ軍では専ら騎兵がその任務に当たった
日本では翼を堅固に防護したり部隊を雁行配置したりしてる
結局、ここをローマ騎兵が蹴散らせればローマ軍有利
蹴散らせなければ戦国日本軍有利
というかローマの騎兵は長槍を構えて突撃してくる連中じゃないでしょう。
ポーランドの槍騎兵とか中世の騎士とは違う。中世や中世後期の白銀の鎧
はないわけだから迂回してきても、数も少ないわけで(ヌミディア騎兵とか
の同盟軍は別にすると)騎馬武者で対応可能では。
紀元前2世紀頃のローマ騎兵の編制上の比率は5パーセント程度
当然戦時には増強されるだろうが、常に増強がうまくいくとは限らない
カンネーの時のように思うように増強できなかったこともあるからな
おまけにローマ騎兵には鐙が無いしな
つまり、騎兵は確かにローマ軍にとって頼みの綱となりうるが、
それほど太い綱じゃないということだな
東ローマのカタクラフトは甲冑に身を固めた重騎兵だぞ。
東ローマも一応ローマだよな?
>>40 そうそう。馬上で踏ん張る事は無理。
鐙を装着した馬にまたがった武者とやりあったら、間違いなく落馬する。
東ローマのカタ「フ」ラフトは比較的重装備だが基本的に軽騎兵だぞ
ローマ派がなりふり構わなくなってきたな
>42 それをいったらドイツ第三帝国もローマの鷲を掲げてますし。
今のロシア海軍も双頭の鷲だったかな?ともかく神聖ローマとかシャルルマーニュ
とかフェリペ2世のスペインとかも全部ローマですが。
ついでに教皇の軍隊もローマですね。
>>43 数が違う。馬の体格も違う。
騎馬武者は常に見上げるような不利な格好で戦う羽目になるぞ。
48 :
対戦車兵:04/12/13 01:07:31 ID:???
36氏
迂回は翼防御の騎兵を残さなかった王の無能が原因ですが
そもそも王太子を予備として置いておけば
側面の心配などする必要すらありませんでしたし
>>44 カタ「ク」ラフトでの検索結果1540件
カタ「フ」ラフトでの検索結果9件
おい。
>47 ローマの馬ってそんなに大きい必要はないと思いますが。
人のまとう鎧も馬のまとう鎧も大きくなく、戦車を引いているわけでもなく
正面きって突撃するわけでもないので。
大きい馬を育てるのはそれなりに骨では?
>>47 西洋の馬が今みたいにデカくなるのは、近世以降だぞ。
それ以前は、日本の馬とサイズは変わらない。
>49 そこいらの語法はAoEとかの影響なのでネット上の数は意味がないかと。
ビザンツの言葉でK音は発音されるのかどうかあたりが問題なのかな?
原語の綴りは知りませんが。
53 :
51:04/12/13 01:12:54 ID:???
>>50 解説してやると、
>>47は、日本の馬は小さい、西洋の馬は大きいという、
思い込みで書いているんだよ。
古代ローマの頃は、そこまで馬の品種改良は進んでいない。
日本では戦国時代のものと思われる古来の日本馬の骨が出土してるから
分かるけどローマ時代の馬の体格について明確な証拠はあるのかな?
どうでしょうね。ローマ時代の蹄鉄ってあるのかな、或いは鞍とか、絵画とか
から考えるか、馬の骨の出土例があるかな。
まず、ローマ歩兵による正面突撃で、矢の雨の中、敵陣に突入できるか否かだな
歩兵突撃の成功例としては、バノックバーンやスイス槍兵があるな
バノックバーンではスコットランド騎兵がイングランドの長弓を駆逐できたから成功した
しかし、その後のダプリンムーアやハリドンではイングランドが長弓の掩護の処置を
取っていたため大失敗した
スイス槍兵は前衛梯隊に大量の弩兵と銃兵、時には砲兵も混ぜて、
突撃準備射撃を行った後にはじめて突撃している
敵陣を可能な限り火制していたからこそ、一見無謀な正面突撃が成功したと言えるな
スイス槍兵ほど火力に恵まれていないローマのレギオンにはこんな芸当は無理だろう
やはりローマの最後の希望は騎兵か
しかし、鐙ないしなあ・・・
G8警備の際のイタリアの憲兵隊かな?透明盾だけど意匠はローマ軍団の大盾から
とっている気がします。
戦国側が後退しながら長弓攻撃を繰り返せば、ローマ軍は手も足も出ないな。
62 :
対戦車兵:04/12/13 01:42:44 ID:???
和式弓は比較的強弓に位置するがロングボウほどの破壊力と射程あるのか?
射撃開始は300として
歩幅70の分速120歩で分速82m
詰り激突まで約3分半の時間がある
連射力は分速6発だから
一人約21発矢を放つ事に成る訳だ
地獄だなあ
>>61 組織だって後退するのはとても難しい。
下手すりゃそのまま全面敗走だ。
61氏
陣形維持出来ないし陣地から出ないと駄目だし
そのうえ連射出来なくなりますよ
ちなみに書き忘れてましたが62はイングランドの場合です
大きさは歩兵が引く弓の中では最大クラスだけど、威力ではイングランド長弓に若干劣る。
なんせ材料が竹だからなぁ。
66 :
名無し三等兵:04/12/13 02:26:32 ID:o1PQthFx
いつの間にかローマ対イングランドになってるね
全体勝ち目無いって
織豊以前の日本はあれほど集中した火力運用など出来ないだろうに
木製の陣盾で防げる物が同じ木製のローマ軍の盾では
防げ無いと言う話になるのだ
島津に釣野伏せでもやらしたら壊滅しそうだが>ローマ軍
ローマの砲兵はなし?
一個軍団にバリスタと投石器が定数数十基あったはずだが
ないってw
弩マンセー!!
>>38 同盟軍っていうか、属州民による補助兵はローマの重要な戦力、
ローマ軍の一部だよ、それをなしにするのはおかしな話だ。
だいたい騎馬武者が頑張る云々はありえない、
なるほどローマ騎兵には鐙がないが、日本には騎馬隊自体が存在しない、
精々馬廻り衆数十人くらい、1000人単位の騎馬隊の迂回攻撃を阻止するのは不可能だ。
>>65 イングランドの長弓はイチイだよな
竹の弾力と剛性を嘗めちゃいけない
73 :
現実:04/12/13 09:12:51 ID:boebVDTe
日本の弓は竹を張り合わせて作る合成弓ですよ。ちなみに檀之浦の合戦では対岸から平家側にいかけてますよ。日本には騎馬隊はいましたよ。いなければ伊達家がなんで騎馬鉄砲隊を組織したんですかね?信長関係は宣教師のローマ教皇庁宛への書簡できちんと説明されてますよ。
>71
ローマ騎兵部隊を騎馬武者たちだけで押し返すのは確かに不可能。
そもそも日本の軍馬は幕末のころまで去勢せずに使っていたので、集団運用がほぼ不可能。
(どこぞの人曰く、日本人は野獣に乗っている)
ただし、長柄足軽・鉄砲、弓足軽たちで対応可能。
長柄をちゃんとした使い方をすれば十分押し返せる。
石突を地面に立てて低く構え、上下に振る。狙うのは馬。
迂回戦術といってもレギオンの側面に控えてて、様子を見て突撃だから
レギオンクラスの部隊ならば中軍や後詰の指揮官が盆暗でない限りちゃんと対応できる。
前期の戦国軍でも方陣よりは素早く機動できるのだ。
戦国時代の日本で、刀は戦闘で使われなかったとか
騎馬隊は存在しなかったとか言う奴は鈴木信者か?
当時の一次資料を調べれば、刀と騎馬隊が
槍、鉄砲、弓と並んで戦場の主役だったことくらい
すぐ分かると思うが・・・・。
戦国期の足軽−武士の割合は
足軽9〜8割、武士2〜1割。
うち、騎馬武者は100石取り以上(そうでないと経済的に軍馬を準備できなかった)
5000人クラスの戦国軍では、500騎の騎馬武者を準備するのが限界と見なせる。
(10万石で500騎そろえ、20万〜40万石で足軽をそろえる)
ローマ軍だと、共和制のころは300騎。
帝政初期は、800騎弱。
−−
もちろん刀は主役だよ。
すべての足軽に打刀を与えてるしね。もっとも足軽用のは刃のついた鋼の板という代物だけど。
だれだ?使わないとかいった奴は(笑
朝鮮の勤王軍10万を撃破した龍仁戦闘に於いて
一番最初に朝鮮軍の陣営に突入したのは日本の騎馬隊の集団だったと
朝鮮側の記録に出てるよ。
中でも先頭の5騎は、顔には金の仮面、背中には白旗をつけて
白馬に乗り、刀を振りかざして突入してきた様子が記録されている。
日本軍の他の兵種が戦闘に参加したのは
騎馬隊の活躍によって朝鮮の勤王軍が壊走し始めていた時だったから
この勝利は、騎馬隊の働きが大きな比重を占めていると言えるね。
第二次晋州城攻囲戦では、攻撃前日に1000余騎の騎馬隊で
城の周辺を走らせて、日本軍の威勢を見せつけているし
朝鮮の役で日本軍が積極的に騎馬隊を運用した事例は他にもいるよ。
騎馬関連モンゴルネタで申し訳ないが
モンゴル騎馬隊は伏兵も常套手段であったようだか(ソースはNHKスペシャルとか・・・ね
これは衝撃力こそ騎馬隊は持っているが攻城戦や平野での決戦では脆い事を経験上知っていたためではないか?
鐙と弓の無いローマ軍の騎兵なら、日本側の時点で見れば別に脅威にはならないだろう。
長柄や弓を使って進撃速度を鈍らせるだけでいいよ。
後は、抜刀足軽と徒歩武者が始末してくれるよ。
碧蹄館の戦闘では、泥濘に入り込んでしまって機動力を失った明軍騎兵に
刀を持った日本の歩兵が殺到して明軍の騎兵を「処分」している。
あの時、日本軍は長く鋭利な刀をもって明軍の騎兵を人馬もろとも切り捨てたと
記されている。
後方にいた朝鮮軍が、逃げ帰ってくる明軍の惨状を目撃した証言によれば
手や足が無くなってる者、目や顔に怪我をした者が至る所にいたとよ。
目や顔に怪我をしたのは、馬に乗っていた明軍に対して
低い位置から斬りつけた為に切り込みが浅かったから助かったんだろうし
足が無い者は馬に乗っているところを、そのまま斬りつけたからだろう。
そういう所を見れば、日本の騎馬武者の足回りと鐙の形状も理解できるだろうよ。
衝撃力の弱いローマ軍騎兵なら、抜刀足軽の餌食になるのが目に見えている。
>>79 泥沼にはまり込んだ時点でそれは特殊例になっているように思うが
戦国、ローマ双方の部隊の規模を決めてその中で更に騎兵の占める割合が分からないと
どっちが多いから有利なんて言えない
軽騎兵と重騎兵の違い、鐙の有るなし、弓を持っているかなども
日本側だと騎馬の周りに徒歩の郎党が付くしね
>日本側だと騎馬の周りに徒歩の郎党が付くしね
いや、上に上げた龍仁戦闘や他の事例でも
騎馬隊は徒歩兵の随伴無しで戦闘に突入した場合が多いよ。
まわりに徒歩足軽をひきつれて突入してくる少数の騎馬武者も
確認されているが、その場合でも一般に言われているように
徒歩足軽の速度に合わせて前進してくるのではなく
まわりの徒歩兵と離れるのも構わず、全速力で騎馬武者だけで突っ込んでくる
様子が多数確認されているよ。
>泥沼にはまり込んだ時点でそれは特殊例になっているように思うが
上にあげた例以外にも朝鮮軍と明軍の騎兵が、日本軍の部隊に突入して
撃退された例は頻繁にいるよ。
碧蹄館の戦いを例に上げたのは、明軍の精鋭騎兵が日本軍歩兵との
近接戦闘で敗退した代表的な事例だから。(泥濘とはいっても
負傷した身で馬にしがみついたまま逃げ切った兵達がいたんだから
まったく動けなかったということは無いだろう)
一連の戦闘で明軍が学んだことは、日本軍は陣夫を除いた全ての兵種が
騎兵への対抗能力を持っているということと、日本軍の防御陣を騎兵で破るには
全身に鉄甲を纏った鉄騎以外には無いということだな。
ようするに日本の凶悪な徒歩兵達を破るには、軽騎兵では無理で
日本の騎馬武者並みの重装甲じゃないと駄目ということ。
ていうか、ローマの馬は訓練無しで爆音に耐えられるのか?
ローマ兵達は?
>>82 足軽は字のごとく足が命、走れないやつはダメなのね
「ついてまいれ!」ってことか
ここで馬の歴史を読んでいるんだけど
h
ttp://www.imh.org/imh/kyhpl2a.html ローマは敵が騎馬主体となった後半には徒歩から騎馬へと変わったと
書いてあるんだけど。馬の体格については中世になってから育成が始まっている
みたいですね。
馬は乗っている人間が落ち着いていれば大丈夫なのではないかと思う。
ローマ兵については火薬を理解できるかが鍵かな。魔法の筒を向けられると
火の魔法が飛んでくるという感じだとまずいかな。
>53
その頃のローマの馬ってどのくらいの大きさ?
種としては北アフリカ原産のバルブ種ってやつなのかな?
>77
すごいな。木曽馬でよくそこまで…それとも大陸の馬を徴発したんだろうか?
まぁ、朝鮮軍が弱かったのもあるんだろうけど…
>85
馬は臆病で、音にも敏感
銃や火砲があるとそれ以上進めんようだ
>>75 刀を全ての者が持った理由は首を取るためというのが鈴木氏の意見
ですがこの点はいかに?
騎兵がいたかいなかったかではなく、
騎馬隊として組織的に運用されていたかどうかが問題だって。
朝鮮の役の時にだけ騎馬隊の記述があると言われてもね。
>87 いや、それだと砲兵は牛とか騾馬で砲を牽引することになります。
でも実際には騎馬砲兵というのは居たわけですし。
また、ナポレオンの騎兵は銃声、砲声の中を突撃しているわけなので
慣れることが出来ると思います。
実際どうやって慣らすかが問題なのだ
>朝鮮の役の時にだけ騎馬隊の記述があると言われてもね。
鈴木信者は、日本の記録にある騎馬隊に関する記述は
嘘だとして信じようとしないから朝鮮の役の例を上げたまでだよ。
それとも、国内ではできなかった組織的運用が
海外に出た途端、いきなりできるようになるかい?
>91
馬の訓練が必要と言うことを言っておるのです
>92 >94
明治の頃は荒海に面して年中雷がある土地で育てた馬を大砲を曳くのに
つかったそうですが。
そりゃあ、火薬のない時代に、
火薬を想定して馬を訓練することは出来ないわな。
さすがにこの点は考慮から外した方がよくないかね?
だね、ローマの軍馬も訓練されているという前提ではなさないと
戦国側が戦わずして圧勝しちゃう
第一次ポエニ戦争時にローマは軍馬をカルタゴの戦象に慣らす訓練はやってたな。
95氏
武田家なら騎馬突撃の記録は実在しますね
ソースはいくつかあり
まず信長公記、新訂徳川家康文章の研究上巻
ふちょう余録3巻(携帯では変換できませんでした
上は騎馬突撃を示唆、または証明する物です
読んでみた感想『騎兵部隊』としてでは無いようですが
『騎兵』として運用された事は間違いなくあるようです
・・良く考えると戦国側の騎兵戦力の実在を証明したら
自分のローマ有利主張が揺らぐw
>>100 いや、武田家のそれは明らかに寄り親寄り子制に基づいた、
歩騎混合部隊でしょう。
騎兵が存在していたのは間違いないと思いますよ。
問題は騎馬隊として運用されていたかどうかであって。
うーむそれがですね
当方資料(ふちょう余録)によると
西上野の小幡衆が騎馬で敵陣を乗り破り
敵の反撃に対して柵を作った(以上要約
との記述やその後
山縣衆他に続いて再び騎馬のまま突撃した(要約)などとあり
恐らく騎馬歩兵をそのまま騎馬として突撃させたようです
>95
>日本の記録だと例えばどんなのがあるの?
とりあえず、信長公記でも読め。
>88
>刀を全ての者が持った理由は首を取るためというのが鈴木氏の意見
ですがこの点はいかに?
単純に首を取るためなら脇差しで充分です。
刀が戦闘で活発に使われたのは当時の記録を見ても明らかです。
もっとも鈴木氏は、そのような記録は認めようとせず
自分に都合の良い記録だけを引用するんですが・・・。
戦国の合戦と騎馬部隊
ttp://www.sasakijo.com/kiba.htm アレキサンドル、ハンニバル、スキピオ・アフリカヌスの様な
騎馬の機動戦力としての集中運用・歩兵と連動しての包囲等は恐らくやらなかったと思う。
主に小規模の重装長弓騎兵の遊撃戦力として迂回挟撃や追撃に使っていたんでは。
しかし、重装でも長弓でもなく鐙を持たない騎兵が散兵的要素のある足軽相手にどれだけ有効か、疑問ではある。
ちょいと筋外れるが、
>>104のサイトに出てくるフロイスの書簡の一節、
「日本人は戦わねばならぬときには馬から下りる」ってのはゲルマン人の騎兵を連想させるな。
これが編成の判断になるかどうか・・・
関ヶ原の戦いの時、徳川方が島津追撃に騎馬部隊を繰り出している。
本多忠勝・井伊直政隊が騎馬700騎で追撃。
本多忠勝の率いる兵が3000、井伊直政の率いる兵が3600だから、
全部隊の約1割が騎馬部隊だったと考えられる。
戦国後期の同一兵科による集団運用可能時期であれば、
帝政初期ローマ軍の一個レギオンが保有する騎兵とほぼ同数の騎馬武者が運用可能となる。
と、なると鐙があり重武装の騎馬武者対鐙なしのローマ騎兵では、勝負は目に見えている。
おまけに後期なら鉄砲足軽もいるし、長柄足軽もいる(しかも集団運用)
信長登場以前の戦国軍は統制も取れない混成軍で、とてもローマ軍とは戦えないが、
信長秀吉のころになると鉄砲の普及および、それによる中央集権化もあり、
単一兵科による諸科編成軍といえるものに発展し、彼我の戦力関係は逆転する。
同人口での動員可能兵力や、同時指揮可能兵力などでローマ軍制に見るべきものはあるが
火砲によるアドバンテージを覆せるほどではない。
ただ、思考実験として、戦国軍だけが火砲という技術的アドバンテージを持っているのは
不公平であるとし、双方を同時代におき、双方に火砲がある、もしくは双方にないとする状況下では
ローマ側が有利であろう。
って結論でいいのかにゃ
>単一兵科による諸科編成軍
思いっきり矛盾してるんですが
何が何でもローマ軍が勝つってことにしたいという取り乱しっぷりが
滲み出てる文章ですね
>信長登場以前の戦国軍は統制も取れない混成軍で、とてもローマ軍とは戦えないが、
マテ
「いい勝負」と言え。
最小単位の100人隊と組4つ80人からなる部隊とで比べてみりゃーいいがね。
100人隊のほうは10人からなる小隊を縦に8列並べて方陣を組んだ。
30メートルで横2列までが投槍を投擲、正面8人で白兵戦開始。
前列が白兵戦開始時に3列、4列が投槍を投擲、第2列までが崩れた時に正面に出れるように準備、
という流れで戦闘。
いっぽう戦国側。
組は20人ほどからなる混成部隊。でこれが4組(80人)
投射部隊は鉄砲+弓で15パーセントとすると12人ほどか。
まず10人ほどの投射部隊による攻撃が1分ほど続く。
これで相手方の戦力をうまくやれば一割ほど削れる。
(ローマ側第一、第二横列はかなりの損害を受け白兵戦突入前に下がることになる)
次いで長柄足軽隊による攻撃、実際に戦闘するのは最前列の長柄足軽で10人ほどかな?
これでローマ側の第3横列に損害を与える、ローマ側は白兵に持ち込むのは難しいが
第4横列以降の投槍の投擲で長柄足軽を下がらせられるだろう。
残る数名の徒足軽と騎馬武者が側面をつくか、下がる第一組の援護を行う。
ついで第2組が、白兵戦に・・・
という感じ。
鉄砲はともかく、弓隊は第一組戦闘中でも敵後方に対して攻撃可能なので、それによる損害も考えると・・・
もし初期の射撃戦でローマ側が士気崩壊しなければ、指揮官によって勝敗が決まるって感じかも。
まぁ心情的には日本の戦国武者を応援したいが。
ところで資料にあがってる信長公記って信頼性はどの程度と見れますか?
成立が江戸初期で信長の家臣の記したものが元のようですが。
109氏
実は別に矛盾してなかったり
各兵種がまじっただけならただの混合部隊だが
各個の兵種が明確に分けられた上での混合は諸兵科連合と十分呼べます
信長公記は第1級資料ですので信頼に値するかと
信長に都合の悪い事が書かれていなかったりしてますが
基本的な記述は他の資料と比べても矛盾は比較的少ない物です
ちとスレ違いだが戦国騎馬隊は無かった説って、重装騎兵は突撃・中央突破しなければならないって発想に囚われてるよな。
フランス騎士じゃあるまいし、機動力と長弓の射程を兼ね備えた騎馬武者が何で足軽相手に近接戦せにゃならんのだ。
鉄砲普及後の組衆型の備は備単位で諸兵科連合軍
それ以前の旧来型の備は寄子単位の諸兵科連合軍の集合体
統制が取れてないとは断言できないし、単なる混成軍とも言えない
旧来型の備を混成軍と強弁ならば、百人隊の集合体であるレギオンも
単なる混成軍だと言うことになる
ヤン・ジシュカ率いるフス派は鉄砲使ったというけどこいつら相手ならどう?つっても農民とか主体の一揆モドキだけど
ローマ軍が勝てる相手を捜しています
>>118 日本の戦国時代でいうと、
一向一揆に信長並みの発想力と謙信並みの戦術能力を持った指導者がいたら、
というような感じになるか?
>>119 馬鹿言うな、
こっちの方が明らかに勝ち目ねーよ。
下層戦記じゃあるまいし戦争ってのは思いつきだけで
何とかなるようなものではないがな
兵力10万とかの十字軍を5回にわたって撃退してるらしい。鉄砲を活用したり用兵の天才っぽいね
フス派の車両要塞相手ではローマに勝ち目はあるまい。
また火器禁止にするか?
時期的には戦国に近いから武者や足軽達の次の相手はフス派だな
もうローマなんて相手にならないからな
フス派の車両要塞に勝てるか否かは大砲だな
ドイツ農民戦争を見ればわかる
フス派の車両要塞はまともに大砲を持ってない相手には滅法強いが、
相手に有力な砲兵がいれば滅法弱い
結論
時期にもよるが大砲の普及が進んでいた龍造寺や大友辺りの西国大名なら
ガチで勝つ見込みは十分ある
大砲が無ければ話にならん
国崩!芝辻砲!カルバリン砲!セーカー砲!
フス派は強い!悪魔のように強い!
…けどこれって相手が向かって来てくれる場合なんだよな
ウォーワゴンは強いけど攻勢に出るにはそこからでなきゃいけないし、機動力も低い
元が農民なもので攻勢は苦手だと聞いた
だけんど銃砲使ってるから金がかかる、その維持の為に戦争しなきゃならない
じっくり包囲されるとどうだろう?
機動力と言う観点で見れば戦国軍団は当時はもちろん、
その後も南北戦争まで匹敵する軍隊はいないんですよね。
だからその機動力を奪う要素でもない限り、ナポレオン戦争
以前の軍隊は戦国軍隊には勝てないと思う。
まあ、大砲が問題ではあるけど彼らなら無茶苦茶な軽量化
や木砲、更には大鉄砲を駆使して機動力を維持しそうではある。
>>131 オスマン・トルコ軍
グスタフ・アドルフとカール12世のスウェーデン軍
ヴァレンシュタインの皇帝軍
ピョートル1世のロシア軍
ルイ14世のフランスと銃士隊
マールバラ公のイギリス軍
ムガール帝国軍
明軍
清軍
とざっと見ただけで結構な数のライバルがいるけど、どうかな?
日本は16世紀で進歩止めちゃったからなあ。
ホント極端なんだよな。
軍事力やなんかをのばすだけのばしといて
今度は一変して文化をのばしてる。
乱暴すぎるかもしれないが、中国のおかげもあってか2000年間
これといった侵略もなく内乱やらなんやらにあけくれてはいたが
ある意味世界で一番平和だ すきなことやってる
そのツケが後に、のしかかってくるんだよな・・・
いや、今でもマイペース
139 :
現実:04/12/14 00:46:36 ID:nIOadIsG
戦力の差がありすぎるからローマ対唐またはペルシャ、戦国武士団対グスタフ・アドルフ北欧軍だと面白いと思うんだが。
ただでさえ世界史派は日本を軽視する傾向があるからなぁ。なぜか。
そして、それらが日本に対しての知識不足や偏見を生んでる。
もちろんその逆も往々にしてあるのは間違い無い。
一方を重く見て、もう一方を軽んずる。こういう事をなんと言うのかは知らないけど。
真に知ある人は、そんな心に捕らわれることなく、純粋に学ぶ。
また、学ぼうと志すなら、そんなものに固執することがあってはならない。 by
つーか、世界史板には文字通り狂信的なローマ信者がいるからな
オレは日本の南北朝あたりから戦国時代初期までの事に1番興味があるから、
個人的には日本側に勝ってもらいたい。
だが、日本側に火器無しで、ある程度の地形障害しかない、ほとんど平原のような場所で戦ったら、
ローマ側が勝つと思う。
理由は、盾を掲げて戦列を組んだ重装歩兵の衝力。身に付けている鎧は皮鎧だけど、
持ち盾としては比較的大型の盾でシールドウォールを組んで迫ってくるので、弓や投石などの
投射武器を(正面方向からのに限り)かなり無効化できるから。
しかも重装歩兵の数と同数程度かそれ以上の補助兵(弓・投石部隊)が重装歩兵の側面・後方から
攻撃してくるわけだ。
日本側も“かい盾”という下卒のものが持ち運ぶ(または押し運ぶ)大型の盾を陣形の前面において、遠距離攻撃
を防ぐけど、攻撃する者自身が持ち盾で身を守るのと、大型とはいえ他の者が持ち運ぶ盾に頼らなければならない、
という違いは大きいと思う。
あと、戦国時代の鎧である当世具足は、防御力は高いが、動き易くする為、装甲の無い部分・または弱い部分
が結構ある。白兵戦になった場合、重装歩兵側は持ち盾に防御の力点を置き、日本側は鎧自体に力点を置くことになるのだが、
こうなったら持ち盾装備の方が有利。戦国時代の武士・侍は持ち盾装備の相手と戦うときの対処法を知らないので、有利度はさらに
大きくなる。そもそもまともな鎧を着て戦闘に参加できる武士・侍は全体の2〜3割。
日本側が勝つには、強大な衝力を持つ重装歩兵の戦列を、いかに崩すかにかかってくる。で、効果的に崩すには、火器が必要に
なってしまうと。
145 :
507:04/12/14 02:27:15 ID:???
弓や銃なんかの射程を持つ武器を、なんと呼べばいいのか迷います
投射の文字は個々の意味としては実にそれらしいですが、意味を知るものとしては抵抗がありますし。
とはいえ、言葉というのは進化していくもの。既にweb上では投射武器/兵器という使われ方が蔓延しており
それらは社会に浸透するしないに関わらず、問題も無い様なので指摘する意味などないのかもしれませんが
変化していっているというその認識こそが言葉を使っていく上で重要なことなのだと思います。
134 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/12/13 23:07:30 ID:???
>>131 オスマン・トルコ軍○ 戦国× 1916年オスマンVS1600年戦国は虐殺
グスタフ・アドルフとカール12世のスウェーデン軍 戦国
ヴァレンシュタインの皇帝軍 戦国
ピョートル1世のロシア軍 戦国
ルイ14世のフランスと銃士隊 戦国
マールバラ公のイギリス軍 戦国
ムガール帝国軍 戦国
明軍× 戦国○ 実践済み・戦術レベルではこの結果
清軍○ 戦国× 崩壊直前の清軍だと虐殺
なお満州国を清朝と考えると戦国武士団vs関東軍w
とりあえず確実なところを書いておいた。
>>146 >なお満州国を清朝と考えると戦国武士団vs関東軍w
火縄銃で装甲を貫かれる戦車があるという噂が・・・。
>>143 そりゃある程度の地形障害しかない、ほとんど平原のような場所を想定してる時点でローマ有利だろうね
つか平原がスタンダードと考えるのはどうかと
それと長弓ってそんなに無力かね
あと随分、大盾の強さを強調してるけどそんな大きな盾持ってしかも片手で戦うことの不利は考えないの?
戦国側は両手で武器を使うから逆に言えば攻撃力の差は明らか。
おまけに短剣と長柄、薙刀、太刀ではリーチで圧倒的に不利
持ち盾装備の相手と戦うときの対処法を知らないから云々も根拠不明
んなこと言うんだったらローマに鎧の弱い部分を狙う介者剣法なんて有るのかい?
149 :
131:04/12/14 02:39:43 ID:???
>>146 もっと限定して書くべきだったと反省
メフメト2世からスレイマン大帝までのオスマン・トルコ軍
遠征しまくりの乾隆帝の頃の清軍
ならどうだ
150 :
134:04/12/14 02:41:39 ID:???
第一次大戦時のオスマン・トルコ相手では流石に無謀だと思うが
コンスタンティノポリス攻略時や第一次・第二次ウィーン包囲時のトルコ軍ならどうだろう。
動員力こそベラボーだが野戦が余り強い印象が無いなあ、
ハンガリーには勝ってるけどティムールにはタコ殴りにされてるし。
明軍+攻城砲って感じだな。
152 :
翁:04/12/14 03:41:01 ID:nq71Js81
>>131 フリードリヒのプロイセン軍をお忘れではないか?
戦国軍は敗北でござるな。
こいつで>111をちょっと実験君
ttp://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/java/ja350.htm m軍がローマ、n軍が戦国
パラメーターは
ローマ軍、戦闘力1.0、防御力95%、正面隊列数8、1列中央に80人
戦国軍、戦闘力1.2、防御力95%、正面隊列数8、6-9列中央に20人づつ。(入力時は-20で)
表示戦闘頻度を0.01でスタート。
消耗率ローマ100%、戦国77.5パーセントで決着。
パラメーターをいじったり、隊列を変更したりすると結果が変わって面白い。
ローマ側が1ユニットなのに対して、戦国側は4ユニットなので戦術的に幅が出て有利っぽい。
>>148 密集して左右背後の死角をなくし、巨大な盾で半身を守りながら扱いやすい刺突剣を使う。
これだけ特化しているんだから正面からの圧力には強いだろう。
実際長剣を振り回し体格も圧倒的に恵めれていたガリア兵はまともに持ちこたえられなかった。
たまにマケドニアファランクスが引き合いに出されるが、あれはこれ以上に特化してる。
そもそも目的は剣の技巧を駆使して相手を血祭り上げることじゃなく
正面を盾で固めて文字通り押しつぶし敵の戦列を崩すこと。
一対一をやるわけじゃなく、まったく隙間のないスクラムを組んでぶち当たるんだから
相手が太刀を振り回してるから怖いと怖気づいてたら、後ろの味方に踏み潰されるよ。
介者剣法なんぞ三の次。そしてそれがなくても成り立つシステムだ。
ちなみに死人が出るのは完全に包囲されるかもしくは戦列が崩壊して追撃される段階。
別に戦国側が後れを取るというつもりはないがお前の意見には違和感が残る。
銃器に関してはそんなものがあれば頭のいかれた基地外じゃない限り
歩兵の密集体系なんぞ組まないから論外じゃないか?
技術や条件に応じて戦闘隊形は変化するからな。これを言ったら終わりだが。
日本で盾が流行らなかったのは、平野に比べて圧倒的に山地が多いという極端な地形のせいで
死角を隠せないどころかむしろ邪魔になるからじゃないだろうか。
山地がなく平野での戦いが中心となるなら中国のように盾を持つと思われ。
>>131 機動力だけ見れば完全に騎兵化されている遊牧民族の軍隊に勝てるわけない。
それこそ南北戦争なんて言わずに紀元前のスキタイにだって機動力では及ばないよ。
>>134 16-17世紀のポーランド軍も加えていただきたい。
当時のポーランド槍騎兵ってヨーロッパ最強ってうたわれてたし、
1683年の第二次ウィーン包囲における活躍は有名。
中世ヨーロッパでも時代が下るにつれて楯は廃れているな
これも平野に比べて圧倒的に山地が多いという極端な地形のせいかな?
それに中国も時代が下るにつれて楯は廃れているな
これも平野に比べて圧倒的に山地が多いという極端な地形のせいかな?
>銃器に関してはそんなものがあれば頭のいかれた基地外じゃない限り
>歩兵の密集体系なんぞ組まないから論外じゃないか?
ヨーロッパでは18世紀まで歩兵は密集隊形を組んでますが何か?
近世ヨーロッパのパイク兵も密集隊形で戦ってるな
頭がいかれてたから?
もまいら朝から元気ですね
わはははは
織豊以降並みの鉄砲隊の集中運用は、ヨーロッパでは18世紀まで待たねばなりませんよ。
(日本の火縄銃の数、最大時15万挺)
よく、日本の火縄銃とマスケット銃が比べられますが、
日本の火縄銃の進化と運用は世界的に見ても畸形としか言いようがないほど特化してしまっています。
一言でいうと「馬鹿」としか言いようがありません。
例えば、銃の命中精度。
マスケット銃は80メートルほどが有効射程ですが、平均的な足軽筒は200メートルです。
手だれなら100メートルで8割の精度で人を狙撃できたといいます。
島原の乱ではある名手が5町(500メートル強)の距離にいる敵を狙撃したといわれています。
射撃手はもちろんだけど、鉄砲鍛冶もどうかしている。
量産品にもかかわらず、兵器としてではなく一種の工芸品的な気合の入れようだったのだ。
例えば射撃数。
火縄銃は7−8発も打てば普通は射撃不可能になります。
火薬の成分の硫黄が銃身内に張り付いて口径が狭まり、弾丸が装填できなくなるからです。
だが馬鹿は考えた。
「玉が入らなければ、小さい玉を入れればいいじゃん」
弾を撃つごとに徐々に小さい玉に変えて射撃可能数を増やすということをやってのけたわけです。
例えば大口径。
30匁火縄銃というのがある。
口径約3cm、重量112.5グラムの弾を打ち出すこの馬鹿鉄砲。
空砲でも至近距離ならドラム缶に穴を開けるほどの威力。
161 :
現実:04/12/14 08:59:54 ID:nIOadIsG
ナポレオン戦争の頃でさえヨーロッパは密集隊形を組んでたよ。仏側なんかウェリントン公爵に炸裂弾喰らって死傷者続出してるぞ。清まで出てくるなら大砲を野戦で使い始める関ヶ原までに時代設定しないとおかしくないかい?
パーカー先生やハワード先生の議論を吹き飛ばすような議論が展開されてますね。
>>154 >日本で盾が流行らなかったのは、平野に比べて圧倒的に山地が多いという極端な地形のせいで
>死角を隠せないどころかむしろ邪魔になるからじゃないだろうか。
>山地がなく平野での戦いが中心となるなら中国のように盾を持つと思われ。
日本にも大軍を展開できる平野部、盆地はゴロゴロしているぞ。
ただ峻険な地形も多い為、レギオンのような平野部でしか通用しない陣形は生まれなかっただけ。
備は山岳地帯に特化した陣形ではなく、あらゆる地形に対応した万能型の陣形。
>>163 平地じゃ板盾や竹束を用いてましたしね。
欧州軍隊に対しては方陣を採用した軍隊には勝ってしまう気が
中央拘置、側面迂回の黄金パターンで
ギリシアでファランクスが誕生したことを考えると地形上の理由から盾を使う
重装歩兵の密集陣になったわけじゃないと思う
>>143 日本の盾は遠戦防御専用、近接戦闘では盾無しで戦います、かたやローマの盾は遠近両用。
これがどういう事かというと、戦国武士は全リソース近接戦闘に投入できるのに対し、
ローマ側は遠距離用のリソースを抱え込んだまま近接戦闘を行わなければならないのです。
戦国武士は近接戦闘において遠戦防御を切り捨てることにより、
軽量化と両手の解放による機動力と攻撃力を向上させています。
そしてローマのメインウェポンはグラディウスに対し、
戦国武士のメインウェポンは長槍。
防御力とは攻撃力を維持する為に必要なものです。
しかし高い攻撃力を持ち間合いと機動力によって距離を支配している相手には、
その防御力を生かす機会は無いのです。
よーするに機動力と射程と攻撃力にリソースを回している戦国武士を相手にするには、
射程と攻撃力と機動力に回すリソースを防御に回しているローマ兵は絶望的に相性が悪いの、
しかもローマ兵は遠戦防禦のリソースを抱えこんだまま戦わなきゃならない。
しかも戦術的な柔軟性はレギオンより備のほうが上、
どの距離どの地形で戦おうとローマに勝ち目無し。
あと、ローマは鎧が駄目駄目なので防御力は高くないぞ。
>>166 もひとつ、
遠戦両用というのはどうしても無理があるから、
遠戦防御力も専用装備を備えた戦国武士の方が上。
>>160 >マスケット銃は80メートルほどが有効射程ですが
150m程度というのが定説では?
また銃剣を発明できたがどうかがその後の戦術発展に多大な影響を及ぼしているのでは
ないかと考えます。ちとスレ本題からは外れますが。
>>163 >レギオンのような平野部でしか通用しない陣形
「レギオン」はあくまで部隊単位であって固定的な陣形の事では無いんでは。ガリア
辺りでは地形に合わせて器用にマニプレスやコホルト単位で陣形組んだりしてます。
むしろ戦術単位の整備による戦術的柔軟性の獲得こそがレギオン制の利点と見る
べきでは。
>>168 銃剣が発明されたから騎兵の優位が消えたんじゃなくて、騎兵の脅威が減少したから
長槍のかわりに銃剣が出てきたという説もある
>>170 いや、「火器の誕生〜」は私も読みましたが、装甲槍騎兵と歩兵の関係は
騎兵の有効性の低下と歩兵武装の変化の相互作用的な側面も多々ある
と思います。火器の増加は必然的に槍兵の減少をももたらすものですか
ら。
書き込みそのものは間違って無いですね
一応言っておくとローマ軍も全員がグラディウスとピルムだけで
武装してる訳じゃ無いです
ハスターリはピルムの他にもその名が示す用にハスタと呼ばれる白兵用の槍を
装備してます
(ピルムが無いと代わりに投げたりもしたので
ガリアではあまり活躍していません)
トリアーリやプランチベスもこの槍をザマで使用してます
長さは約4m
形状は十字槍の先端に落葉型の穂先を装備
とりあえず、鉄砲を大量で運用する織豊以後の日本軍なら
ローマ軍に勝ち目は無いだろう。
朝鮮征伐では密集隊形で進撃した朝鮮軍が、甲冑を着込んでいたにもかかわらず
弾丸一発で2、3名が同時に貫通されて倒れたこともあったよ。
ローマ軍も同じ目に会うんじゃない?
>>173 >甲冑を着込んでいたにもかかわらず
>弾丸一発で2、3名が同時に貫通
これではローマ軍の鎧などボール紙同然だな。
>>174 そういう景気の良い話は一度裏を取ってみることをお勧めします。
>>165 ギリシャのファランクスは元々アマチュアの市民兵を
まともに戦わせるために生み出された戦法ですからね。
特別な訓練も連携もいらないから、後に市民兵が傭兵
になった後もそのままでした、ここら辺はローマも変
わりませんね。
そこら辺がかなり緩んだ共和制末期から帝政初期の
ローマ軍はかなり柔軟な編成を採れたようですけど。
ああでも、諸兵科連合時のマケドニアファランクスは
意味合いが少し違いますね。
>>134 機動力の面で最大のライバルと思われるマールバラ公の同盟軍
も方陣を組む以上、機動力では勝てますからね。
行軍速度もこちらが上ですから、事前に展開した上で野戦築城
を施して対峙すれば戦列の厚みに対抗できるでしょうし、騎兵
にも対応が可能でしょう。
側面迂回はその機動力から戦国軍団が断然優位ですから、勝て
ると思います。
ただし竜騎兵(馬で行動し、歩いて戦う)で先行された場合、
どうなるかは微妙でしょう。
各個撃破も挟み撃ちも可能性として十分ありえます。
盾は日本の機動隊と同様に攻防に使えると思います。
例えば相手にタックルを仕掛け、上縁で相手の武器を押し上げたり、水平に
構えて喉に突きを入れたり。下縁を相手の足の甲に叩きつけて動きを封じたり。
ただ、盾にもいろいろあって亀甲隊形を組むような角盾の場合は
肘のところまで通す輪を使ってた気もする。これだと自在に盾で攻撃できるかは
不明ですね。長丸の盾だと手だけで持っている。けれどこれだと重量がどの程度
あるか分からないし。
あとファランクスを組む場合は左側の奴の右側面を守るという義務もあるからな。
盾で殴りに行くって訳にはいかないかな。前列全員でやるっていうならありかも
しれませんが。
と、酔っ払いが折りたたみイスを振り回すみたいな話をしてみる。
>>177 戦術機動と作戦機動は区別するべきでは。攻撃隊形で密集隊形組む軍隊も行軍隊形
はその軍隊によって様々です。
また同じく戦術機動における縦隊と横隊の区別はつけるべきでは。一般論として横隊主
体の軍隊が縦隊主体の軍隊より戦術機動力で優越するというのは俄かに信じ難いもの
もありますが。
あ、散兵主体の軍隊ならば密集隊形の軍隊に比べ機動力はあらゆる面で優越する
と思います。
>>甲冑を着込んでいたにもかかわらず
>>弾丸一発で2、3名が同時に貫通
>そういう景気の良い話は一度裏を取ってみることをお勧めします。
これは加藤清正隊が朝鮮北部まで進攻して、朝鮮の北方守備を任務とする
精兵とぶつかった時のことだよ。
彼らは、北方の女真族との武力衝突に絶えず備えている関係で
朝鮮軍の中では、最も練度が高く装備も充実している。
その戦闘で、清正の軍勢は戦闘の最中に周辺の倉庫から米俵を持ち出し
瞬く間に野戦陣地を構築して、そこから射撃を加えている。
その時に密集隊形で進撃する兵達が一発の弾で2、3人が同時に倒れることが
続出して朝鮮軍は後退を余儀なくされている。
>>181 どうなんでしょうかね。
以前行われた国友鉄砲の実射試験では50mの距離で鎧を貫通したようですが、
鉛製の弾丸は体内で変形し、反対側まで貫通した例は無かったと記憶しており
ます。「火器の誕生とヨーロッパの戦争」でも30mの距離から鎧を貫通した中世
火器の弾丸はせいぜい人体に7〜8cm食い込むのがやっとであったとの記述が。
この戦闘の時の射距離が非常な近距離であったという事なのでしょうか。それと
も初速が著しく速いor弾丸材質・形状が特殊なものを使用したということなんでし
ょうか。それともハンドキャノン並の大口径のものを使用したということなんでしょ
うか。
ご存じでしたらお教えいただければ幸いです。
まあ射手なりがなんで弾を追跡・観察できたのかとつっこんでおく
大方みんなで撃ったらバラバラ倒れていったんで
俺一人でニ三人倒せたように見えたってあたりが真相に近いんじゃないかと
火縄銃の銃弾ってストッピングパワーはありそうだけど貫通力はそれ程でもないんじゃ?
密集陣の先頭に当たれば2,3人は巻き込んで吹っ飛ぶかもしれないが。
>>182 >>184 >>181じゃないけど鉄砲の玉は鉛だけじゃないよ
他にも鉄、銅、青銅、錫と銅の合金などがある
近距離で鉄玉だったら考えられないことじゃない
>>184 いわゆる「ストッピングパワー」は相手の活動を停止させる能力でして、相手を吹っ飛ばす
なんていった物理的運動とは基本的に異なります。
いかなる銃も自分の受ける反動以上の力を相手に与える事はできません(除くジャイロジ
ェット等の自己推進弾)。
>>177 砲兵は脅威にならないんでしょうか?
ヨーロッパでは17世紀初頭から榴弾や散弾が用いられるようになっていますし。
下手したら、銃の射程外から一方的に敵砲兵に叩かれることになるかもしれませんよ。
そりゃ鉄、銅、青銅、錫と銅の合金なんかでできた銃弾もあっただろう
仕方なく小石を装填して射撃したケースもあるくらいだからな
しかし、閉じの銃弾の主流は鉛弾だろう
前線の兵士でも簡単な道具で製造可能だからな
こうした鉛弾は軟らかいんで何かに命中すると変形してしまうから、
2、3人まとめて貫通するなんてことはまずありえない
榴弾が実用化して戦場で一般的になるのは19世紀以降
散弾は射程が短いから、撃つ機会なんて突撃してくる歩兵や騎兵への最後の一発だけ
少なくとも銃の射程外から散弾をバンバン撃つなんてことはありえないしやっても無駄
>182
>183
私が読んだのは朝鮮側の記録ですが、どんな種類の鉄砲で
撃たれたかまでは記されていませんでした。
>>189 確かに散弾に関してはおっしゃるとおりです。
ですが、固形弾に比べて使用頻度は低くても、
榴弾はそれなりに結構広くもちいられて筈だったとおもいますけど。
それにどうしてもヨーロッパの砲兵にくらべて日本のそれは質・量ともに劣ると思いますし。
>榴弾はそれなりに結構広くもちいられて筈だったとおもいますけど。
榴弾の発明は1784年
少なくとも17世紀初頭には影も形も無い
>>177 >>131は戦国時代末期の日本軍はナポレオン戦争までのいかなる軍隊と
戦っても勝てるって主張しているんですから、
>>134であがっている諸国の
軍隊の他にフリードリッヒ大王麾下のプロイセン軍とも戦っても勝たなきゃならいんですけど?
フリードリッヒ大王時代のプロイセン軍その後期には兵員240名に対して砲一門を配備して
いるわけですから、火力で絶望的な劣勢を覚悟しなくちゃならないんですけど。
前スレではローマ軍は21世紀の米軍にも勝てると主張してるのもいたな(苦笑
>>192 えっ!確か、16世紀には導火線を用いる原始的な榴弾が
攻城戦用の臼砲で用いられるようになっていますし、
グスタフ・アドルフのスウェーデン軍は木製の信管を
使った改良された榴弾を使用している筈なんですけど…
もし、よろしかったら、その情報に関するソースを提示願えないでしょうか?
日本にも木砲って迫撃砲のご先祖がおるではないか。
>>196 その木砲で、敵砲兵と砲撃戦やって勝てるもんなのでしょうか?
>>193 当時の射撃管制能力を考慮する必要あり。
むしろ方陣相手でなければ有効な打撃を
与えることができない恐れも
あと、ダイレクトサポートに関しては大鉄砲を有する戦国軍団
の優位も考えてみるといいかも(あれって散弾使えましたよね?)
>>198 >>177で
>事前に展開した上で野戦築城 を施して対峙すれば
って前提条件が挙がっているわけですから、それなりに密集しているはずですよね?
第一、隊列を組まないと敵胸甲騎兵や槍騎兵の突撃に対応できませんし。
>>199 ダイレクトサポートに関してはそれなりの効果があるかもしれませんけど、
敵砲兵のアウトレンジに対処するには何の助けにもならないと思うんですが?
それに、フリードリッヒのプロイセン軍にも擲弾筒がありますよ。
それこそ、その名通り榴弾が発射可能な分だけ、
ダイレクトサポートに関しても大鉄砲より有利な気がするんですが…
>>200 前列の帽子を掴める位密集している欧州方陣と
3間半の槍を置ける位の幅を持つ戦国軍団の差
をどの位見るかによって変わりますね。
>>202 砲弾が尽きるまで敵砲兵にほぼ一方的に砲撃されて士気や陣形を維持できるものなのでしょうか?
野戦築城にしたって砲撃を受ければ、かなりの損傷を蒙るでしょうし。
>>195 マール社の「武器」
そちらのソースは?
つーか、戦国日本でも野砲使ってるだろ
>>203 冬の陣を考えれば塹壕でも掘りそうですが>戦国軍団
野戦築城無しでも駆け足で走る足軽のスピードに座標修正
が間に合うとは思えません。
>フリードリッヒのプロイセン軍にも擲弾筒がありますよ。
ないよw
グスタフ・アドフルの戦術ドクトリンの特徴は、やたらと攻撃的な点にある
彼の作戦指導は常に攻撃重視で、防御を選択した時もそれは攻撃準備のためになされた
攻撃が成功すれば大勝利も夢ではないが、一度攻撃が頓挫すれば致命的な大損害を受ける
おかげで彼は幾度も軍事的な栄光を得たが、最後にはこうした彼の戦術指向が彼自身を殺してしまった
ホームランか三振かしかないスラッガーみたいなもんだ
>>204 「ビジュアル博物館-戦闘 古代の戦闘から第一次世界大戦まで」
同朋社、ホームズ・リチャード著ですね。
>>205 使っていますけど、質・量ともに同時代のヨーロッパのそれにかなり劣りますよ。
>>206 >駆け足で走る足軽のスピードに
そんなことしてたら敵騎兵の餌食になっちゃいますよ。
歩兵はどうしたって陣形を組まないと、騎兵には対抗できませんし。
ヨーロッパで密集陣形が発達したのも敵騎兵に対抗するためというのも
理由の一つでしょう?
>>207 ラッパ銃から発達した、手榴弾を発射するための擲弾筒が確かにありましたよ。
取り扱いに危険が伴うために射手には精鋭があてられ
それが精鋭部隊としての「擲弾筒兵」という名称の由来になっているくらいですし。
>>209 擲弾筒は大して有効でなかった為に使われなくなっていった
実際、擲弾筒の具体的な戦果を聞いたことがない
擲弾筒兵の名前は残ったがこれは名前が同じなだけ
手榴弾が戦場で再び活用されるのは日露戦争の日本軍まで待たねばならない
というか普通、擲弾筒を榴弾砲あるいはそれに順ずるものとは言わないだろう
もしや
>>358さんかな?
>>210 知ってて書いてるんですけどね。擲弾筒が廃れた理由くらいは。
ところでフリードリッヒ麾下のプロイセン軍の火力に対抗するための手段は
日本側にはあるのでしょうか、こっちの方が本題の筈ですよ?
212 :
210:04/12/14 20:30:34 ID:???
おっと、そうそう、私は358さんとは違いますよ。
>それが精鋭部隊としての「擲弾筒兵」という名称の由来になっているくらいですし。
嘘言っちゃいけないw
擲弾兵の尊称の由来は爆弾を投擲する兵のことだぞ
>>213 別に嘘なんてついていませんよ?
あなたこそ人をうそつき呼ばわりするに足それなりの根拠が
おありなのでしょうか?
30年戦争の頃にスウェーデン軍が使ったと言われている榴弾は、
実質的には爆裂弾みたいなもんで、端的に言えば爆薬の詰まった樽を
火薬の力で放り投げる代物だった
初速の遅い臼砲でしか射撃できず、しかも装薬の量も加減しなければならない等、
その扱いは慎重を極め、それでもしばしば暴発事故が起こった
このため、やがて誰も使わなくなった
今日的な意味での榴弾とは違い、破片効果も全く期待できない
少なくとも危なかしくって流動的な野戦で使えるようなものではない
現在の榴弾の始祖は1784年にヘンリー・シュラプネルが発明した榴散弾である
まあグスタフ・アドルフは大砲の発明については何かと熱心で、
レザーガンにもなかなかご執心だった
これも失敗作だったがな
>>214 プロシアの擲弾兵の肩掛け鞄の由来は手投げ弾を入れるためのもの
喇叭銃はもともと船上のような狭い場所での使用を目的に散弾を射撃するための銃
このため命中精度は酷く悪い
こんなもので擲弾なんて撃ってもまともに飛ばないし、それ以前に
まず間違いなく暴発する
しかしプロシアの擲弾兵が喇叭銃で擲弾を射つ兵士とは恐れ入った
確かに16世紀頃のドイツには擲弾銃があったが、あれはどう贔屓目に見ても
喇叭銃には見えない
あれも、射程が短すぎて戦場での使用には適していないし、事実ほとんど使われていない
その後も細々と作られ続けてはいたが、所詮はゲテモノ銃
>>215 1784年に発明されたのは着発信管付きの榴弾ですね。
時限信管使用の榴弾はそれ以前からありますし、
特段廃れたってことも無かったはずですよ。
(ソース:平凡社 世界大百科事典)
>>216 あのー別にラッパ銃そのものを手榴弾の発射につかうなんて書いた覚えはないんですけど…
私が言っているのは、あくまでもラッパ銃から発展した擲弾筒です。
>>218 時限信管というと何か上等なもののように聞こえるが、実際は火のついた導火線
爆薬を投げつけるという発想は既に15世紀頃からあり、別段珍しいものではない
ただし、それを大砲で射つなどという乱暴な方法をとる命知らずはほとんどいなかった
当時の大砲はムクの実体弾を射つだけでも暴発事故に気を配らねばならない代物だった
>>220 あのーその導火線を使う榴弾というのは、
16世紀に攻城戦に使われた臼砲用のものじゃなかったですか?
17世紀以降のものはそこまで原始的なものじゃないです。
酒樽の栓に似たものの中に黒色火薬を固めて作った
ペレットが何枚か入っているものですよ。
この改良によって榴弾は17世紀以降、野砲でも発射可能になったはずですけど。
222 :
210:04/12/14 21:29:51 ID:???
>>211 あなたが近接支援の面でプロイセン軍の擲弾筒が戦国側に対して有利と言ったから
それに反論したまでのこと。
擲弾筒が大鉄砲に有利とはいえないと。
224 :
211:04/12/14 21:38:04 ID:???
>>222 確かにそのとおりですね。
ですが、その大鉄砲はプロイセン軍の野砲に対抗可能なんでしょうか?
240人に付き一門の砲ということは仮に5万人いれば
200門以上、総数30万人が勢揃いすれば1400門程度の砲が揃うことになりますよ?
>酒樽の栓に似たものの中に黒色火薬を固めて作った
>ペレットが何枚か入っているものですよ。
原理的には火のついた導火線と全然変わらんのだが。
227 :
211:04/12/14 21:59:11 ID:???
>>226 原理的には変わらなくても安全性や利便性の面で格段の差があるんですけど?
導火線と違って、発射時の炎で点火されるため、火花を上げる導火線が付いた榴弾を
装填するような危険な真似をしなくて済むようになりましたし。
野砲で発射可能っていうのは随分と大きなアドバンテージでしょう?
>発射時の炎で点火されるため、
事実、この時の衝撃で暴発事故が多発した
スウェーデン軍でも問題になり、結局、中の炸薬を抜いて
ムクの実体弾として使う羽目になった
グスタフ・アドフルは大砲に関して様々な発明を試みている
その中には技術水準の問題で実用化には至らなかったものの
後に実用化したような先進的なものも少なくないが、
一方で単に後世の笑いを誘うだけのものもあった
少なくとも、グスタフ・アドフルの軍隊が榴弾砲や擲弾筒を操って
近代初期のような火力戦を演じていたと考えるのは正しくない
近世においてはまだなお砲弾は実体弾が主流だったし、
グレネードランチャーは戦争に使えるような代物ではなかった
>>209 >そんなことしてたら敵騎兵の餌食になっちゃいますよ。
>歩兵はどうしたって陣形を組まないと、騎兵には対抗できませんし。
>ヨーロッパで密集陣形が発達したのも敵騎兵に対抗するためというのも
>理由の一つでしょう?
別に徒競争とは言ってません。
停まって、深呼吸3回で1列横陣組めるぐらいのスピードと言う事です。
それで騎兵を止める事ができるかは解りません。
なぜなら歩兵戦列に向かって騎兵が突っ込んだ例はシン・レッド・ライン
しか私には思いつかないのです。
またヨーロッパで密集陣形が発達した最大の理由が酷い労働条件で騙し
集められた傭兵が主戦力だったからに他なりません。
>なぜなら歩兵戦列に向かって騎兵が突っ込んだ例はシン・レッド・ライン
>しか私には思いつかないのです。
クルトレーとかバノックバーンとかグランソンとかいくらでもあるが・・・
つーか、騎兵が歩兵の密集戦列に突っ込んで粉砕したり返り討ちにあったりとかは
幾らでもあるぞ
>>231 一列横隊なんかで騎兵の突進をくい止めるなんてはっきり言って不可能です。
ワーテルロー会戦で数倍の英軍に突入した、ネイ元帥のフランス軍騎兵隊は
最終的に破れはしたために歩兵の援護をまったく欠いたまま
英軍の13個の方陣のうち7個まで撃破しているんですから。
>最大の理由が酷い労働条件で騙し
>集められた傭兵が主戦力だったからに他なりません。
確かに、最大の理由は兵の逃亡を防ぐためでしょう。
ですが、騎兵の脅威も無視できないと思いますが?
槍隊で跳ね返せませんかね?
どうも正面突撃はあほの同義語としか受け入れらないんですよ。
それにあれは騎兵だけですから、騎兵だけでは敵を蹴散らしても
敗走させる事はできません。
疲れ切った所を後備が殲滅するのが落ちかと。
槍隊の層がどれくらいの厚みを持っているかによるかと
少なくとも二、三列程度では出血を強いることはできても結局は抜かれる
>>235 >騎兵だけでは敵を蹴散らしても
>敗走させる事はできません
騎兵がその衝撃力を維持したまま本陣に突っ込んだりしたらお終いですよ。
それにワーテルローのネイのような戦場神経症の指揮官がいて
かつ、総司令官がそれを抑え切れなければ別ですが、
近世以降のヨーロッパで騎兵が単独で投入されることは普通はありえません。
砲兵による事前の砲撃と後続の歩兵による援護があると見る方が妥当でしょう。
結局、実力的にトントンなライバル軍はドコー?
239 :
210:04/12/14 23:43:53 ID:???
>>224 町筒という大型の鉄砲がある。
銃身長3m、射程数千m、重量100s
もう少しコンパクトなものなら大筒がある。
これは20匁の玉(1匁は3.75g)で抱えて撃てる。
また玉も拡散させて複数の敵の殺傷を狙った二つ玉や三つ玉がある。
確か大坂の陣や島原の乱で使われた砲には砲耳が無く、移動にも不便で
グスタフ・アドルフが改良した野戦用の軽砲に対しては不利だろう。
しかし溜弾や溜散弾でないなら決定的とまでは言えない。
戦闘中に陣地転換ができないのは同じ。
>240人に付き一門の砲ということは仮に5万人いれば
200門以上、総数30万人が勢揃いすれば1400門程度の砲が揃うことになりますよ?
当時のヨーロッパの軍隊は策源地から近距離で、持続時間が数時間以内の戦闘に限られた。
大王のプロイセン陸軍はその時代としては最高の機動力を持つが、連続して前進できるのは
最大限10日、それを過ぎたら停止してパン焼きかまどが追いつくのを待たなければならない。
五万の人員と200門の大砲を抱えていればなおさら遅い。
そして大砲が揃うのを待つ道理は日本側には無い。
まして総数30万人と1400門という数字にいたっては不可能であり、狂気の沙汰。
また、大王の軍隊は強力だが補給を重視している為にオーストリア軍の「クロアチア兵」部隊が
護送馬車隊を攻撃したようにゲリラに弱い側面がある。
>射程数千m
これは流石に無いだろw
有効射程とはちゃいますよ
>>237 その場合、歩兵と連携するには歩兵は最短距離である中央を進み、側面を
騎兵が迂回すると言う方式でなければ時間的な調節が取れません。
また当時の指揮通信能力から言っても騎兵を錐とした穿貫戦法は無理が
あります。
その上、団子状になってしまった場所にさらに兵を注ぎ込む事はどう転ぶか
解らない乱戦を覚悟しなければなりません。
それならば手垢の付いた拘置・迂回戦法のほうが好まれるでしょうがこの場合、
戦国軍は野戦築城でバックボーンを確保し、正面で各隊のウサギ跳び的な前進、
後退運動で拘置し(騎兵・歩兵が突っ込んできたら陣地まで逃げる)、有力支隊で
側面・後方に潜り込むという誘引拘置の戦法が可能かと思います。
小牧・長久手の戦いの戦術迂回バージョンと言った所でしょうか(小牧・長久手は
戦略迂回)?
243 :
210:04/12/15 00:07:18 ID:???
>>240 町筒・大筒の引用元は宇田川武久 著 『鉄砲と戦国合戦』
具体的にどこで使用されたかの記述は無く、無念
最大射程か有効射程かどうかも不明
まぁ話半分以下でも当時の西欧の野砲の射程に劣らない程度はあると考えた
コジツケかもだけど
>>242 ヨーロッパ側(プロイセン軍)砲兵はどう動くとみているんでしょうか?
固形弾のみでの射撃でもかなりの脅威にはなり得ますよ。
野戦築城を行うということは、敵砲兵の展開を許すってことでもありますし。
>有力支隊で 側面・後方に潜り込むという誘引拘置の戦法が可能かと思います。
もし、敵が予備の騎兵を保持していた場合、支隊は行軍中を敵騎兵の襲撃を
受ける羽目になって、著しく不利な戦闘を強いられる羽目になりますよ。
戦国時代の足軽がいかに、高い機動力をもっているとはいっても
流石に騎兵には及ばないでしょうから。
プロイセン軍では全軍の四分の一が騎兵ということですから
一つの戦場に万単位の騎兵がいることを覚悟しなくてはならないですし。
>>224 前方展開時は前述した速歩での前進・後退ですから補足も難しいですし、
後方陣地は相手が大砲持ちなら、それこそ塹壕でも掘るでしょう。
側面迂回に避ける人員数は戦国軍の方が機動力の点からかなり優位に
立つでしょう。
ですから一部の部隊に騎兵の拘置、残りに迂回をさせる事になると思います。
騎兵は襲撃戦をするのは得意ですが、されるのは苦手です。
また迂回を行う地は大抵が遮蔽物の多い場所ですからその点でも騎兵の衝力
は大幅に減衰するでしょう。
前にも張ったリンクですが、
大筒の射程について3900m以上ですね。打ち場が設けられているという記録が
あるようです。
h
ttp://woodone3831.web.infoseek.co.jp/c-1-3-4-6-siro-a.html ただ、4km近くとなるとどの程度の大きさの目標に当てられるのかという
あたりが知りたいですが。大阪城の天守閣を狙うとか、とにかく堀の内側に
弾を落とすというレベルなのか、4km先を行軍している展開前の砲兵隊を狙えるのか。
俵で台座を作って撃つのは車が入り込めないところに陣地を作れる可能性は
あるけど戦場で自在に前進、後退して撃つっていうのは無理そうですね。
騎馬に載せて展開するとかそういうのは実演してないのかな。
247 :
翁:04/12/15 01:28:43 ID:BJmD4Jzk
戦国派の意見を聞いておりますと、かなり楽観的すぎるのではないかと思いまする。
グスタフ以降の西洋の軍隊にはの軍隊には歩・騎・砲の3科を協調させた三兵戦術という
戦術思想がありまするが、戦国側にはありませぬ。まず、騎はまったくありませぬし、
砲も兵器としてはありまするが、西洋ほどには野戦で積極的に活用されておりませぬ。
従って、総合的に連動させたとなると、戦国側が上回っていると考えることはできぬと
思われまする。また、戦国側は散開して戦っていることを強調なされておりまする。確かに、
散開している軍隊は隊列を整えている軍隊よりも機動力はあると思われまする。しかし、
攻撃力の方はどうでしょうか。散開しているだけでは、側面に回れたとしても大きな衝撃を
与えるのは難しいのと思われまする。また、逆に西洋軍の接近攻撃を受けましたらば、
どうなのでしょうか。戦国軍同士の戦いでは、互いに散開しておられるので問題にならないと
思われまするが、隊列を整えた軍隊に対してはどうであるのか、と思ってしまいまする。
しかも、西洋軍は騎兵隊がおりまするゆえ、簡単には側面には回ることはできぬと思いまする。
そもそも、戦国軍は散兵戦術の思想があって、散開しているわけではなく、ただ、バラバラに
戦っているだけでございまする。つまり、散開して戦うことの長所・短所を把握している
のではありませぬ。従って、その長所が生かせる保証はないと思いまする。戦国側は戦術思想
という点でまず、西洋軍に差を付けられておりまする。また、火力の点でも同じように差を
つけられておりまする。これを覆す要素を戦国側が持っているのかというと、苦しいと
言わざるをえませぬ。
拙い文を長々と申し訳ありませぬ。ご参考になれば、これ幸いと思いまする。
>246
>「谷神(こくしん)」(900目玉筒)
>玉径85mm・最大射程3.9キロメートル
これと同等ので抱大筒に全長958mm、口径は86.9mm
使用する弾丸は鉄製で一貫(約3.75kg)というものがあり
これを用いた場合
距離8町で目標が14メートル四方の的の時
命中率は約70%だそうです。ちなみに1町=109メートル。
参考になれば。
>247
今後議論になりそうなので、とりあえず
>戦国軍は散兵戦術の思想があって、散開しているわけではなく、ただ、バラバラに
>戦っているだけでございまする。つまり、散開して戦うことの長所・短所を把握している
>のではありませぬ。
この点についての論を書いておかないと荒れるよ
250 :
名無し三等兵:04/12/15 02:00:34 ID:vJN5d7my
素朴な疑問だが、ローマの騎兵って激しく使い物にならないんじゃないかと。
実際の騎兵部隊はガリアの部族とかがやってたわけで。
古代ローマ軍と言った場合に、ガリアみたいな異民族の騎兵を含めるのは
どうかなと思う。ローマ市民兵は、基本的に重装歩兵にして工兵さんである事を
前提にしないと。
>>246 紹介されていたリンク先に
>関流の火縄銃は独自の仕様で、近江(滋賀県)の国友丹波並びに、
>この技術を受け継いだ鉄砲鍛冶に指名特注されて、
>火薬・操作・照準等すべて伝書、口伝により、
>長年月の修行鍛錬を積み重ね、その命中精度は極めて高かったという。
と言う文章があるのですけど、これではとても戦場で意味のある数を
そろえることなどできないのではないのですか?
>グスタフ以降の西洋の軍隊にはの軍隊には歩・騎・砲の3科を協調させた三兵戦術という
>戦術思想がありまするが、
ないんだな、これが
むしろ、30年戦争の頃からは歩兵特に銃兵への偏重が始まりつつある時期で、
騎兵は独立した戦闘兵科から歩兵の補助兵科となりつつあり、
砲兵は野戦ではあくまでも銃兵の火力を補完する存在であり続ける
この時期は、歩兵が攻防両面において戦術遂行の中核となりつつある時代なんだなこれが
相互に連携していたんじゃなくて、あくまでも戦術遂行の基盤は歩兵にある
そもそも三兵戦術って言葉自体はナポレオン戦争の頃に出てきた言葉で、
本来は歩兵騎兵砲兵の三つの兵科をバランスよく揃えましょうって意味だ
これが、最近はグスタフ・アドフルが三兵戦術を確立したとか言うようになったが、
これって何の影響かね?
>253
うむ。
戦国の武将達も後期になると、馬から下りて戦うようになってくる。
馬に乗っていると鉄砲の良い的になってしまうからなんだなw
騎兵にとって鉄砲は天敵だよ。
島津が徳川の追撃を振り切れたのはここによるところが大きい。
包囲を突破できた兵の数200に対し、追撃してきたのは1000近くの騎馬武者だったのだ。
>249
うむ、確かに荒れそうな感じ。
室町の頃の「武者の一騎打ちを集団でやる」合戦のころの癖が抜けきってない頃ならありがちだけど
戦国の頃は中国の兵法書なんかを元に実践の中、集団戦を行うための陣立てや、兵の集中や機動なんかの
研究が盛んに行われているよ。
いくらなんでもまったく連携を取らなかったとはいえないっす。
連携の度合いは、「兵科の分離と集中」と同じく大名が家臣に対してどれだけ発言力があるか、
どれだけ親密に連絡や軍議を取りあっているかで大きく変化します。
>最近はグスタフ・アドフルが三兵戦術を確立したとか言うようになったが
そりゃロバーツ先生の軍事革命提唱以後では。完全に軍制としての三兵種の統合
運用が実施されるようになったのはグスタフですし。
戦術的な意味での三兵戦術、騎兵・砲兵の集中個別運用はパーカー先生ご指摘の
ように14世紀から徐々に行われ拡大されていってはおりますが。
>252 あともう一つ制約となるのは技術の習得が士分以上でないと
できないというあたりも問題になるかも。
ローマの軍団だったら戦国側が大砲を撃ち出したら投石機やらの
攻城器械で対抗するでしょうね。
>>252 >>256 それは江戸期に入って砲術の需要が激減し、幕府なり各大名家から
扶持を貰って仕えるだけになったから。
家名と技を伝えることのみが目的となって進歩や多くの門人を育てること
砲の大量生産が行われなくなったことの影響がある。
戦時下の状況だと違ってくるだろう
>254
>騎兵にとって鉄砲は天敵だよ。
逆です。
鉄砲の天敵が騎兵ですよ。
野戦築城や長柄と組み合わされた時には、恐るべき威力を発揮しますが
それらの支援の無いまま、野戦で騎兵と激突した場合には
虐殺と呼んでも良いくらいの被害を受けた事例が他国の戦史では
しばしば見られます。
逆に言えば、近世ヨロッパで騎兵が活躍できたのは
歩兵から銃兵以外の兵種が姿を消しつつあったからだとも言えるでしょう。
しかし、鉄砲足軽と共に槍足軽、抜刀足軽、弓足軽を戦闘編制に残し
多数の歩武者を抱える戦国軍団の隊列に近世ヨロッパ騎兵が突入したところで
大打撃を与えることができるかは、甚だ疑問です。
260 :
翁:04/12/15 15:51:36 ID:xKuL1L6I
>>249 ご指摘の方、ありがとうございまする。
ナポレオンの軍隊を見れば分かると思いまするが、散兵とは戦列の前に配置し、戦列兵に
先行して戦うものでありまする。しかし、戦国側がそのような、使用方法をしていたかと
いいますと、しておられぬと思いまする。また、さらに後の時代になりまして、全軍が散開して
戦うようになりまするが、これはもっと火力が発達してからのお話にござりまする。
とどのつまり、戦国軍は散兵戦術である、とされた方がおりましたので、それに対し
戦国軍に「散兵」という概念がそもそもあったのでございましょうか?ということでございまする。
>>253 ご指摘の方、ありがとうございまする。
細部を検討してゆきますると、様々な異論があると思われまする。されど、大きな意味で
考察いたしますると、グスタフ公が三兵戦術に与えた影響は大きいと思われまする。
また、本題として近代西洋軍と戦国軍が比較しましたところ、歩・騎・砲の戦術は近代西洋軍が
上回っていると思われまするがどうでございましょう。
拙者の稚拙な文により混乱を招いた方がおりましたこと、まことに申し訳ありませんでした。
拙者自身は戦国好きなれど、近代西洋軍が相手では、苦戦は免れぬと思いまする。
砲の差はいかんとも埋めがたい、
が、この時代の傭兵は真面目に戦ってくれそうも無いような
>鉄砲足軽と共に槍足軽、抜刀足軽、弓足軽を戦闘編制に残し
>多数の歩武者を抱える戦国軍団の隊列に近世ヨロッパ騎兵が突入したところで
>大打撃を与えることができるかは、甚だ疑問です。
逆に、私には戦国軍団は今まで騎兵の乗馬突撃を受けたことがなく
その彼らが彼らから見れば化け物じみた大きさの馬に
またがった胸甲騎兵を初めとした重騎兵(胸甲騎兵は元は
軽騎兵ですが)の突撃を受けて士気を維持できるもの
なのかという疑問があるのですが?
追撃戦時以外における騎兵による集団乗馬突撃という戦術は
日本には無かったものでこれに対する対処法は日本側には
確立されていないと思うのですけど?
>>261 イタリア戦争初期の頃の傭兵隊長に比べればかなりまともに戦うとは思いますが。
チェレゾーレの戦いなどは涙を誘います。
>>259 >しかし、鉄砲足軽と共に槍足軽、抜刀足軽、弓足軽を戦闘編制に残し
>多数の歩武者を抱える戦国軍団の隊列に近世ヨロッパ騎兵が突入したところで
>大打撃を与えることができるかは、甚だ疑問です
薄かったり混乱したら抜かれるし、十分な縦深性を確保していれば抜かれない、それだ
けの話でしょう。
また「近世騎兵」とはグスタフの騎兵という理解でよろしいんでしょうか?
また私の個人的考えでは、戦国末期の日本軍歩兵は全体的な装備、戦術レベルとして
イタリア戦争中期のスペイン軍と同じようなレベルなのではないかと感じております。火
力密度、決戦兵科としての装甲槍騎兵の不在、前進攻撃兵科としての槍兵を持ってい
ないという点などは特に共通しているのではないでしょうか。
若し日本が戦国末期で戦術的進化を止めなければ、日本でもテルシオやマウリッツ型
の横隊戦術にかわる物が生まれ得たのか、
265 :
264:04/12/15 18:24:18 ID:???
済みません。最後の1行書き損じました。
若し日本が戦国末期で戦術的進化を止めなければ、日本でもテルシオやマウリッツ型
の横隊戦術にかわる物が生まれ得たのか、 興味は尽きません。
>されど、大きな意味で
>考察いたしますると、グスタフ公が三兵戦術に与えた影響は大きいと思われまする。
グスタフ・アドフルの戦術はドイツで流行していたマウリッツスタイルの模倣
マウリッツはアンリ4世の兵制改革に影響を受けている
グスタフ・アドフルではなくアンリ4世の影響と言うべきだろうな
そもそもグスタフ・アドフルのスタイルはアンリ4世のそれを更に尖鋭化したため
問題点も多く、彼の死後は試みられることなく消滅している
ちなみにロバーツ氏の提唱している軍事革命論は、エキサイティングな主張で
軍事技術史に一石を投じたが、決して普遍の定説ではない
騎馬民族征服王朝論みたいなもんだ
>>266 わざとやってるのかもしれないけどグスタフ・アドルフだよな?
>>266 ロバーツ教授の主張をそこまで切って捨てる度胸と知識は私にはありませんが、
ということは貴方はパーカー教授の言う通り近代軍はイタリアルネッサンス期から
存在していた、という主張であると言うことなんでしょうか。
私も個人的にはパーカー教授の意見を支持しておりますが。
ちなみにグスタフ・アドフルがやっていたことは、後れを取っはいたが
当時のどこの国でも行われていた
グスタフ・アドフルは巨大な尿瓶に小便を流し込むように予算を注ぎ込んだおかげで
彼のライバルたちよりも一歩先んじることができたが、
当然の帰結としてスウェーデンの財政は傾きまくり、
ドイツ派遣軍は補給が途絶えて多くの兵が武装難民の一歩手前まで落ちぶれ、
国は破産同然にまで追い込まれている
ただのウォー・モンガーだな、この男は
>わざとやってるのかもしれないけどグスタフ・アドルフだよな?
or2
>ロバーツ教授の主張をそこまで切って捨てる度胸と知識は私にはありませんが、
斬って捨ててるのではなく信者じゃないから全肯定してないだけ
馬鹿だから他人の言うことをそのまま信用できない、とも言うがな
戦国軍隊は大体、1000人の兵力に槍隊、鉄砲隊、弓隊、徒武者、騎馬武者をバランス良く配した集団を
基本単位としてそれを1〜3組合わせたものに武将の直臣を組み込んだのを1つの備にしたもので、その
点、兵力云々を無視すれば一番近いのがWWUのアメリカ軍の歩兵分隊チーム(所謂コンバット)と思い
ます。
これは単一兵科の密集陣に較べ、前線配置兵科の転換が容易であり騎兵の大してもそれに合った兵種
(遠:鉄砲、近:槍)に直ぐ転換できます。
しかし、密集陣ではその様な戦法を採るには前線兵を迂回する必要があり、ここから機動力のある騎兵が
生き残り、銃兵に前を遮られ戦闘に参入できなくなった槍兵が銃剣の発明と共に廃れていったと考えてい
ます。
なお日本で密集陣は流行らないでしょう、密集陣が動き回るには日本は狭すぎます。
テルシオも槍と銃の異兵科混合隊形の密集陣だが、隊列変換は容易だぞ
>>272 >前線配置兵科の転換が容易であり騎兵の大してもそれに合った兵種
>(遠:鉄砲、近:槍)に直ぐ転換できます。
つまり基本的には散兵戦術であるということでしょうか。
>密集陣ではその様な戦法を採るには前線兵を迂回する必要があり、ここから機動力のある騎兵が
>生き残り、銃兵に前を遮られ戦闘に参入できなくなった槍兵が銃剣の発明と共に廃れていったと考えてい
>ます。
テルシオやマウリッツ型オーダーミックスはまさにこのような戦術的要求から生まれた
ものだと思いますが。この結果(そしてカラコール戦術の普及により)決戦兵科としての
装甲槍騎兵の価値が相対的に低下したことにより、初めてパイクの衰退は訪れたので
はないかと思います。
>密集陣が動き回るには日本は狭すぎます
近代的攻撃兵科としてのパイク兵の縦隊戦術がスイスで生まれたことを考えるのなら
ば、地形的制約はこの際あまり関係無いと思います。ここはやはり古代におけるファラ
ンクスの概念があったかどうかの差なのでしょうか。
>マウリッツ型オーダーミックス
マウリッツの隊形もオーダーミックスなのか?
オーダーミックスというのはナポレオン戦争初期のフランス軍に見られた
火力と機動力のバランス隊形のことだろ?
火力重視のマウリッツの隊形をオーダーミックスと呼んでいいのか?
隊列を組まないで戦うスタイルを散兵戦術と呼ぶなら、
戦国期の備は散兵戦術と呼ぶのは不適切ではなかろうか
277 :
274:04/12/15 19:10:58 ID:???
>>275 ご指摘の通り「オーダーミックス」の用語は不適でしたね。とは言えパイク兵と銃兵で「諸兵科
連合」という訳にもいかず・・・。横文字でコンバインドアームズとでも書いとくべきでしょうか(
でもこれじゃ三兵戦術ですね)。
>>276 では横隊戦術と書いておくべきでしょうか。
密集陣でいいんじゃないか?
戦力集中のために隊列を組ませるという発想は
戦国初期の備もテルシオも変わらんと思うが
>>279 縦深性と密集度が大分違うように思われますが。
テルシオは初期で縦深40列、後期で縦深15列だった訳ですが、戦国時代の備の
縦深性(1つの隊形で)はどのぐらいのものなんでしょうか。
密集度が違うのは戦力発揮のスタイルの違い程度の問題でしかない
そんなことを言ってると、フリードリヒ2世の軍隊に比べれば
その他の古今東西全ての戦闘隊形は散兵になってしまうぞ
重要なのは隊列を組んでいるか否かだ
で、戦闘隊形の縦深性って何だ?
もしかして君358?
>>281 >戦力発揮のスタイルの違い程度の問題
この問題は非常に重要だと思いますが。
>フリードリヒ2世の軍隊に比べれば
>その他の古今東西全ての戦闘隊形は散兵になってしまうぞ
テルシオにしろマウリッツ型にしろ、密集度ではむしろ基本的に横隊戦術である
フリードリヒ型には密集度で勝っているとは思いますが。
>重要なのは隊列を組んでいるか否かだ
そのとおりですが、どんな隊列を組んでいるのかがこの際重要な訳で。
>戦闘隊形の縦深性って何だ
密集隊形で言うなら、一義的に一つの隊形の縦列数を挙げれば良いと思います。
>もしかして君358
ちがいます。その方はどのような方でしょうか。
>>274 >近代的攻撃兵科としてのパイク兵の縦隊戦術がスイスで生まれたことを考えるのなら
ば、地形的制約はこの際あまり関係無いと思います。ここはやはり古代におけるファラ
ンクスの概念があったかどうかの差なのでしょうか。
パイク兵部隊がファランクスの概念から発生したなんて聞いたことないよ
後世からだとそう見えるだけでしょ
山がちな地形といってもスイスと日本じゃ違うところも多い
284 :
274:04/12/15 19:37:06 ID:???
>>283 >後世からだとそう見えるだけでしょ
まあそうでしょうね。これは装甲槍騎兵に対抗しつつ機動力を発揮するというスイス傭兵
の戦術的要求から発生したと考えるのがやはり一番妥当でしょうか。
…駄目だ。歴史的な戦術や布陣に造詣深く無いとついていけない
戦国軍隊の配陣に適当な言葉が無いのは欧州にそのような戦術が存在しなかった事を意味します。
おそらく、ナポレオン戦争後にこの様な戦法になっていったと思うのですがライフルと鉄道、電信で一気
に散兵戦術にまで行き着いてしまったのでしょう。
>>274 スペイン軍の戦術に関しては密集陣のまま採用したので陣内運動はともかく、陣自体の機動性は著しく
低下しました。
287 :
274:04/12/15 20:05:44 ID:???
>>286 >陣自体の機動性は著しく低下しました
その通りですね。テルシオは基本的に防御的隊形であると思います。ただこれは
テルシオのそもそもの戦術的要望が野戦築城を不要とする野戦戦術の確立な訳
ですから、その欲求は問題なく満たしていると思います。さらにテルシオ間の相互
支援が基本なこと、テルシオが側面・後面攻撃に対し一定の強度を持つ事、テル
シオ間は騎兵によりカバーされること、予備隊としてのテルシオが存在することな
どによりこの問題はさらに小さくなっているのではないでしょうか。それ故テルシオ
は一定期間無敵を誇った訳ですから。
この機動力に劣るというテルシオの弱点を補完したのがマウリッツ型であると思い
ます。
288 :
274:04/12/15 20:10:28 ID:???
>>286 >そのような戦術が存在しなかった事を意味します
この点についてはもっと考察が必要だと思うのですが、日本でいわゆる密集隊形が
ヨーロッパほど普及しなかったのは、決戦兵科としての装甲槍騎兵が日本に居なか
ったのが大きな一因ではないか、と私は考えております。良し悪しではなく、単に戦
術的要求があったか否かの問題なのではないでしょうか。
このあたりもっとじっくり考えてみます。
>おそらく、ナポレオン戦争後にこの様な戦法になっていったと思うのですがライフルと鉄道、電信で一気
>に散兵戦術にまで行き着いてしまったのでしょう。
それって根拠の無い思い込みと言わんか?
つーか何が言いたいの君は?
>密集隊形で言うなら、一義的に一つの隊形の縦列数を挙げれば良いと思います。
これも何が言いたいのかわからん
縦列が何列以上なら密集陣で、何列以下なら密集陣じゃないとでも言いたいのか?
マウリッツも機動力向上のための戦闘隊列じゃないぞ
あれはあくまでもいかに効率よく火力発揮するかという回答の一つに過ぎない
>>284 確かにマウリッツ型は密集陣を採用した軍隊の中で、最も
戦国軍隊に似通っていると思います。
ただそれでも密集陣は1列横隊の集合体である戦国軍隊
には機動性の面で劣るでしょう。
>>289 いや、ナポレオン戦争では横隊と散兵を混用してましたから
両者を統合したらそうなるんではないかと。
>いや、ナポレオン戦争では横隊と散兵を混用してましたから
隊列の前方に散兵が配置されるのはナポレオン戦争に限った話じゃない
むしろ散兵を配してないほうが例外だ
つーか、君のを読んでると、密集陣と横隊は全然違うもののようだな
どう違うんだ?
数字でいいから付けて欲しい
もはやローマが戦国がなどではなく、歴史上の戦術論
や優位性などを語るスレになりつつあるな・・・。
イイヨイイヨ-
図書館へゴー
>>292 ナポレオン戦争時のフランス軍は革命により愛国心が奮い立った
国民軍なので、士官の指揮下に無くても逃げない士気の高い兵で
無ければならない散兵を広く用いる事ができました。
>つーか、君のを読んでると、密集陣と横隊は全然違うもののようだ
>などう違うんだ?
そんな事言っとりません。
>>296 なお、戦国軍団が1列横隊・速足展開という散兵的な運用ができるのは
首取りという高い評価システムがあるからです。
逆に言えば首取り論功勲章が有ったから密集陣や集団騎兵が発展しなかったのかな。
>ナポレオン戦争時のフランス軍は革命により愛国心が奮い立った
>国民軍なので、士官の指揮下に無くても逃げない士気の高い兵で
>無ければならない散兵を広く用いる事ができました。
フランス軍の3分の1は外国人だったんですけど
モスクワ遠征時は2分の1
そもそもナポレオンは散兵の運用を途中でやめるようになるんだが・・・
それにナポレオン戦争時のオーダーミックスは横隊と散兵の組み合わせのことじゃないぞ・・・
>なお、戦国軍団が1列横隊・速足展開という散兵的な運用ができるのは
全然散兵的じゃないじゃん・・・
長柄足軽の槍衾は十分密集陣だと思うが・・・
君の密集陣の定義は?
>>300 いえ、存在しなかったと言うのではなく、ギリシャ・ローマのように密集陣主体、というか密集陣オンリーの運用ではなかったという意味で。
騎兵は存在したが騎兵の集中運用はしなかったのと同様に。
ちなみに、足軽衆は敵の首を獲ってもよっぽどの場合を除けば
論功行賞には入らない
だから、首獲りと戦闘隊形には明確な因果関係など無いぞ
>>299 欧州軍事上例が無い(私は聞いた事が無い)形ですから柔軟性・機動性・
多兵科歩兵戦闘団的運用を考えると散兵が一番近いかと。
戦闘展開時には隊列を崩してますし。
ナポレオン云々は皇帝即位後の展開ではないかと
>>300 戦国軍隊の列に深さはありません。
密集陣は横だけではなく縦方向も無くてはならないと思いますが・・・
>密集陣オンリーの運用
そんなものは状況次第だ
ギリシアのファランクスもローマのレギオンも追撃のような状況では隊列を崩して戦っている
>欧州軍事上例が無い(私は聞いた事が無い)形ですから柔軟性・機動性・
>多兵科歩兵戦闘団的運用を考えると散兵が一番近いかと。
>戦闘展開時には隊列を崩してますし。
何のこっちゃ
オーダーミックスが戦闘展開時に隊列を崩すなんて聞いたことが無いぞ
>戦国軍隊の列に深さはありません。
備は複数の槍と鉄砲の横隊が重畳に配置されてるんだが・・・
戦国日本の備が列を崩して展開するなんて聞いたことが無いぞ
列を崩してどうやって指揮官は部隊を掌握するんだ?
隊列が離合集散するのか?
無線機も無い時代に・・・
>>306 単一兵科の密集陣はありませんでした。
また槍と鉄砲隊の間もそれなりの間隔がありましいた。
ここら辺は以前に触れましたが・・・。
>単一兵科の密集陣はありませんでした。
複数の兵科が重畳に配置されてるのを密集陣とは言わないのか?
>また槍と鉄砲隊の間もそれなりの間隔がありましいた。
それなりって何メートルだ?
槍と鉄砲が相互に連携している以上、密集陣と言えるのでは?
一応確認しておきたいんだが、君の密集陣の定義は?
>>310 言いません。
3間半の槍をお置ける位ですから6mは離れているでしょう。
>>308 欧州的な隊列変えずに軍楽に合わせて歩調を合わせ、
ゆっくりゆっくり前に進むと言う形ではないと言う事なんですが。
これまでの話ちゃんと聞いてます?
>言いません。
>3間半の槍をお置ける位ですから6mは離れているでしょう。
では君の基準では何メートル以下ならば密集陣と呼べるんだ?
>欧州的な隊列変えずに軍楽に合わせて歩調を合わせ、
>ゆっくりゆっくり前に進むと言う形ではないと言う事なんですが。
速足で展開することを列を崩すと言うのか?
列を崩すってことは、隊列を維持しないということだぞ?
隊列を維持したまま速足することくらい小学生でも出来るぞ
>>311 横だけでなく縦にも同一兵科がいて前列の帽子を触れるくらい密集している陣。
>>313 密集陣のままでですか?
それに1列横陣でもそんな事はできません。
運動場で戦争するのではありません。
そもそも戦闘展開の際は、兵はある程度の間隔を保って展開する
そうしないと隊列としての行動に余裕が無くなって誤って味方を殺傷しかねないからな
隣の戦友の振り回す得物が原因で死傷するような事故は珍しくない
戦闘展開の際には槍1本分の間隔をとるのもこうした非戦闘損耗を局限するためだ
ただし、戦闘加入すれば列の間隔は狭くなり、後列は前列の前方に槍先を出す
折角6メートルの槍を持ってるのに前列が戦ってるのを傍観できるほど、
戦国日本の戦闘は悠長ではない
>横だけでなく縦にも同一兵科がいて前列の帽子を触れるくらい密集している陣。
成る程
字義どおりに解釈してるわけだ
では、テルシオは君の定義では密集陣ではないな
槍と鉄砲の混成だからな
で、確認したいのだが、前列の帽子を触れるくらい密集していない隊列は
君の基準だと散兵でいいのか?
あと一つ聞きたいのだが、何故密集陣は同一兵科でなければならないんだ?
君の基準だとレギオンも密集陣ではないな
第3戦列兵は短剣ではなく槍を持ってるから、厳密には単一兵科とは言いがたいからな
>それに1列横陣でもそんな事はできません。
>運動場で戦争するのではありません。
できるさ
ちゃんとペースを守ればな
分隊教練の基本中の基本だな
ちなみにスイス槍兵も密集隊形のまま速足で突撃してるな
スイス槍兵の戦場は運動場じゃあなかったが
上のほうでも言ったが、兵士各人の密度の違いというのは
隊列を組んだ兵士の戦力発揮のスタイルの違いであって、
隊列の戦力発揮という点では君の言ってる「密集陣」も「散兵」も
基本的に変わらんぞ
ええい、議論している当人達以外にはわかりづらくてかなわんなw
誰がどれなのか
密集も散開も、ある尺度上で、大体ここいらへんからとさす記号に過ぎない。
従って、定義する者により違うし、両者にあてはまらぬ中間の領域も存在する。
と思う。そもそも密集する意味は戦闘力を集中させることにあるわけで
散開していても戦闘力を集中させられるならそれはそれでよいはず。
鉄砲隊って敵の戦列の一点を狙って打つのか、それとも敵の横隊全体、
各自の正面の敵を狙って打つのか、そこからの問題かも。
ええい猪口才な。
名を、名を名乗れい!
324 :
274:04/12/16 08:56:04 ID:???
>>289 >>密集隊形で言うなら、一義的に一つの隊形の縦列数を挙げれば良いと思います。
>これも何が言いたいのかわからん
>縦列が何列以上なら密集陣で、何列以下なら密集陣じゃないとでも言いたいのか?
これは私の用語が完全に間違ってましたね。「縦列数」ではなくて「縦深列数」(若しく
は横列数)と書くべきでした。それならば意味が通じると思うのですがいかがでしょう?
「戦闘隊形の縦深性って何だ? 」という問いに対して「戦術的縦深性は隊形の縦深列
数によって定まるのでは」と答えたつもりだったのですが。お詫びして訂正します。
325 :
274:04/12/16 09:11:15 ID:???
>>317 >厳密には単一兵科とは言いがたいからな
好意的に歩兵という同一兵科であると理解されてはいかがでしょう(笑
>>318 >ちゃんとペースを守ればな
>分隊教練の基本中の基本だな
フリードリヒ型の錬度の高い近代軍ならば可能かも知れませんが、中世以前ではなかなか
難しいような気も致します。横隊に対する縦隊の機動的な優位性は一般的であると言って
良いのではないでしょうか。
326 :
274:04/12/16 09:24:01 ID:???
327 :
274:04/12/16 09:25:28 ID:???
328 :
210:04/12/16 10:33:33 ID:???
>>322 戦列の一点を狙うのではなく、横隊全体でもない。
各自の正面とは限らないが各々が目標を選択して狙って撃つ。
まぁ基本的には自分の前だろうね。
一斉射撃ではなく放手の息合に任せた一発必中が重視された。
弾幕をはって敵の行動を阻止という方針じゃない。
火縄式は燧石式より速射に劣るけど命中精度という点で勝っている。
江戸時代にも火縄式以外の鉄砲を知っていたが日本人は火縄式を使い続けている。
各砲術流派の稽古は標的射撃中心であり、砲術流祖の誰もが下げ針を打つほどの
神技を発揮したという。
314
>>315 配置時(所謂陣立状態)では本陣に合わせて槍隊等は2〜3列
(それでも6m間隔)で展開し、展開時には1列になります。
戦闘正面が限定されて無い限り、1列横隊です。
>>316 まさか、テルシオは槍兵の方陣に2列横列の銃兵をはっつけた
密集陣の極致ですよ。
これは1列横隊の多兵科集合体とは対極の存在です。
>>317 遠距離戦用の弓・銃、中近距離戦用の長槍、近距離戦用の手槍
それぞれバランス良く配置し、さらに白兵戦用の刀(護身用レベル
だが)を持たせた戦国軍隊
遠中距離戦用のピルムと近距離戦用の手槍(但し12分の1)と白兵
戦用の刀を全員に持たせたローマが同列ではないかと
>>318 >>319 それはほんとに近距離だからできることです。
スイス槍兵の頃は銃はまだへぼでしたし。
フリードリッヒの場合は十分に訓練された兵だからこそ可能なもので
あり、彼らが消耗してしまってからは防戦一方になってしまいました。
>>329 の317
同列ではないかと
の後に
仰るのですか?
を入れてください。
>>329 >遠距離戦用の弓・銃、中近距離戦用の長槍、近距離戦用の手槍
それぞれバランス良く配置し、さらに白兵戦用の刀(護身用レベル
だが)を持たせた戦国軍隊
戦国期の合戦用のは太刀や野太刀だから護身用とは言い難い、立派に主力だ
護身用や首取り用なら脇差や鎧通しがある
長柄足軽や鉄炮足軽ならそれでもいいけど
朝鮮王朝の文書で「倭軍の環刀と鳥銃には抗すべくもない」という趣旨のものがある
>>331 そうですね、護身レベルは足軽限定にして下さい。
トリップつければ大分分かりやすいんだけど。論点も今ひとつ分からん
話についてけない人は新紀元社刊、市川定春著
武器甲冑図鑑をお勧めします。
欧州限定ですが装備だけでなく簡単な戦術にも
触れているので便利かと
太刀や野太刀が白兵戦用武器として主力だったのは、せいぜい南北朝(〜応仁の乱)あたりまででしょうね。
ところで、今ここで皆さんが述べている戦国武士団は、戦国時代後期のもののようですけど(それだったら
ローマ側より日本側が有利)、初期、中期の武士団だとどなるでしょうかね?
一応、>143のオレの書き込みは、中期頃(火縄銃・長柄足軽の集中運用が一般化する以前)の
戦国武士団を想定していたんですけど。
この頃だと、武家身分でない者の戦力化はあまりされてないし、弓・長柄・鉄砲と兵科ごとに小さい組(10人程度で一組)に分けて
陣内に配置して運用、というのも後期ほどなされてない(ちゃんと陣形はあったし、銃がないだけで、程度問題だが)
相手に火器がないのだから、こちらも火器が一般化する以前の、1500年頃(またはそれ以前)の武士団で考察するのが良いと
思うんだけど。
ちなみに、1500年頃にはすでに大陸経由で伝わってきた、胴銃という、棒の先に前装填式射出器を持つ銃が実戦で使われてたので、
火器が無かった訳ではないんだけどね。
>スイス槍兵の頃は銃はまだへぼでしたし。
何を基準にへぼだと言っているのかよくわからん
どういう点でへぼだったのかな?
あと、銃だけでなく弩や弓、それに野砲もあったことを忘却されては困る
スイス槍兵が活躍したのが14世紀から16世紀
アルベドの戦い(1422年)まではハルドベルド(長さ2.5m)、それ以後は
パイクを主力としています。
そしてスイス軍の無敵時代はマリニャーノの戦い(1515年)で終わりを
迎えます。
この当時の銃は
>>336で挙げられた様な銃(所謂ハンドガン)が主流で
した。
つまりスイス長槍部隊の黄金時代は銃がへぼであった頃だと言えます。
銃だけでなく弩や弓もあったんですが無視ですか?
手銃の構造は基本的に火縄銃と変わらない
何故手銃ならばへぼなのだろう
それに戦場で使われていた飛び道具は銃だけではないのだが
弓はロングボウが思いつきますが長い訓練が必要で、
イングランドでしか部隊編成できませんでした。
クロスボウは発射速度が短く、槍の長槍化に伴い射程
を伸ばすため張力を強力にせざる得ず、そのため矢を
つがえる為に特殊な道具を必要とし、結果として更なる
発射速度の低下と価格の高騰を招いてしまいました。
初期の銃は、新兵器としてではなく、弩の一変種として登場している
その運用は弩や弓と基本的に変わらない
百年戦争のイングランドの長弓を例にあげるまでもなく、
14世紀から16世紀の飛び道具の主力は銃ではない
この時期はまだ銃は発展途上にあり、投射兵器の主力は弩であると言える
>クロスボウは発射速度が短く、
発射速度が短いのならば結構なことではないかw
>>341 おお、間違え
発射速度が長く
に変更よろしく
>槍の長槍化に伴い射程
>を伸ばすため張力を強力にせざる得ず、
槍が長くなることと弩の射程が伸びることとは何の因果関係も無いな
>そのため矢を
>つがえる為に特殊な道具を必要とし、結果として更なる
>発射速度の低下と価格の高騰を招いてしまいました。
城壁の上で使う重弩と野戦用の軽量な弩を混同しているな
それに、サイズにもよるが中世の野戦用の弩は近世の前装銃と
発射速度はそれほど変わらない
まず、スイス槍兵のような歩兵突撃が当時でも類を見ない特殊な戦術であることを認識すべきだ
この時期に歩兵突撃を慣用としている軍隊は他には存在しない
スイス槍兵のようなレアケースをもって当時の火力を過小評価するのは正しくない
また、スイス槍兵も大胆な歩兵突撃のみに頼っていたわけではない
スイス槍兵の突撃は、3個梯隊による相互連携と、
火力と軽歩兵、可能ならば有力な騎兵の掩護下で実施されている
へぼと一言で片付けられるほど、当時の野戦は単純明快ではない
スイスが重槍兵を野戦戦術の中核に据えるようになって以降も、
スイス軍で重槍兵の比率は3割程度で、半数を超えることは無かった
>>340 ハンドガンを「持って」撃つ姿と火縄銃を「構えて」撃つ姿を想像してください。
後、銃身の長さが全然違います。
>>345 クロスボウの良いとこの情報だけを抜き取ってますね。
野戦用のも射程の延長のため滑車、梃子、歯車といった
道具を使わなければならなくなりました。
>ハンドガンを「持って」撃つ姿と火縄銃を「構えて」撃つ姿を想像してください。
手銃と一括りで言っても、その形状は様々で、当然、構え方も様々だ
火縄銃と大差ないものもあるぞ
百年戦争の挿絵には近世の火縄銃とそっくりの銃を担いでいる兵も描かれている
>後、銃身の長さが全然違います。
だから何だ?
火縄銃の銃身の長さだって千差万別
それに初期の火縄銃も射程や命中精度を期待されていた兵器ではない
手銃と火縄銃の技術的な境界線は非常に曖昧だぞ
>野戦用のも射程の延長のため滑車、梃子、歯車といった
>道具を使わなければならなくなりました。
で、発射速度はどれ位なんだ?
現代の実験では、16世紀頃のドイツの鉄製の弓部を備えた弩の
発射速度は毎分1発程度だったそうだぞ
これは当時の火縄銃とたいして変わらないな
「火器の誕生とヨーロッパの戦争」では、弩の発射速度は最大で毎分4発と
記述されているな
当時の火縄銃よりも発射速度は随分と早いぞ
つまり、弩は君が期待しているような鈍重なものではないようだ
銃が発展途上にあった時期においては弩は相当に有力な投射兵器であったことは間違いない
つまり、発展途上にあった銃がへぼだったから突撃は成功したと主張する
君の意見は間違っていると断ぜざるを得ない
まあそもそも弩の滑車、梃子、歯車といったギミックは
発射速度を向上させるという一面もあるんだがな
>>350 銃的な構えをしているハンドガンはありません。
>>351 それ1番簡単な足掛け法の値ですよ。
>>353 それで張力を強くする前より発射速度は速くなるので?
後、当時の(機械式)クロスボウは高価なものでした。
射程も銃の方が発展性が高かったですから。
実際、火縄銃(ハークィバス)は有効射程150〜200m。
マスケットは360〜430mとなってます。
>>354 但し、ハークィバスを扱う熟練者は50mに迫ってから撃ったようです。
ただしマスケットはハークィバスの4.5〜5kgに対し、
6〜8kgあったそうです。
>>336 ローマ側の優位について帝国全体の力や制度を背景として語られることが多い為
織豊期以前の統一されていない日本ではではバランスが取れない。
戦闘面だけに限定するにしても双方の規模と編制や戦術を決めにくい。
もちろん他にも地形や天候などの条件はあるけれど。
純粋に戦闘面のみで比較するのならばローマ側のローマ人以外で構成された異民族の部隊は
除くべきではないかと思う、火器無しで各大名を前提とするならね。
あと
>ちなみに、1500年頃にはすでに大陸経由で伝わってきた、胴銃という、棒の先に前装填式射出器を持つ銃が実戦で使われてたので、
>火器が無かった訳ではないんだけどね。
これのソースを教えて欲しいな。
長沼賢海か洞富雄の説?
>銃的な構えをしているハンドガンはありません。
火縄銃も手銃の一種なんだがな
>それ1番簡単な足掛け法の値ですよ。
だから何?
足掛け式の弩で何か問題が?
野戦用の弩は足掛け式は珍しくないが?
>射程も銃の方が発展性が高かったですから。
ナポレオン戦争の時代ですら「敵兵の白目を狙え」と言われていたのにか?
何度もあれですが上の有効射程は特定の標的を
狙うのでなく弾幕を張るという値です。
狙撃の意味では
>>355の50m(ハークィバス)でしょう。
>>358 ハンドガンには火縄は付きません。
足掛け式は張力が低く射程が伸びません。
>何度もあれですが上の有効射程は特定の標的を
>狙うのでなく弾幕を張るという値です。
弾幕を張るのなら銃じゃなくても弓や弩でも可能だぞ
火縄銃の射程は弩とたいして変わらん
>ハンドガンには火縄は付きません。
オプスレイの「戦場のスイス兵」には火縄のついているハンドガンがあるが?
>足掛け式は張力が低く射程が伸びません。
具体的に足掛け式の射程は何メートルなんだ?
>それ1番簡単な足掛け法の値ですよ。
「火器の誕生とヨーロッパの戦争」にはそんなことは一言も書いてないよ。
ソースは?
なんだかだんたん「あーいえばこーいう」になつてきたな・・・
つーか、
>>360の答えがだんだん苦し紛れの言い訳じみてきてる。
>>361 >弾幕を張るのなら銃じゃなくても弓や弩でも可能だぞ
>火縄銃の射程は弩とたいして変わらん
それだけの機械式ロングボウを揃えられません。
>オプスレイの「戦場のスイス兵」には火縄のついているハンドガンがあるが?
それに関しては訂正させていただきます。
ハンド・カノンは「木製の棒の先に銃砲身を取り付けたもの」とのことです。
by武器甲冑図鑑
銃とは全然違いますね。
>具体的に足掛け式の射程は何メートルなんだ?
この手の値は最も良い値を挙げるでしょうから機械式でしょう。
足掛け式は知りません。
>>362 自分で想像してみれば十分かと。
撃って、降ろして、鐙に足掛け渾身の力で引き、
矢をセットし、構えて、撃つ。
どう考えても15秒はかかるぞ。
つーか、足掛け式でも梃子や滑車を使ったのがあるんんだよね。
マール社の「武器」では弩は発射速度1〜4発で射程は360メートルって書いてあるんだけど。
>自分で想像してみれば十分かと。
それって根拠はありませんって言ってるのと同じでは。
貴様等お願いがある。
番号でも良いからつけてくれ
>>365の口調が混ざってきてるな、どうしたんだろ
>ハンド・カノンは「木製の棒の先に銃砲身を取り付けたもの」とのことです。
すまんが、前出の「戦場のスイス兵」には木製の前床と銃床を備えたハンドガンもあるが?
>それだけの機械式ロングボウを揃えられません。
クーレシーではフランス軍には6000名の弩兵がいたそうだが・・・
つーかマリニャーノ戦でスイス兵の突撃が頓挫したのは
火力のためと言うよりも野戦陣地のせいなんだけどね。
銃や弩がへぼだったってどういう発想なんだろ。
373 :
○V○:04/12/17 00:28:03 ID:???
混乱しそうなので捨てハンつけまつね
スイス兵の槍兵密集陣の盛衰の歴史は、そのまま火力と機動の力関係の歴史でしょう
戦闘力は大別すれば火力と機動で構成されています
乱暴に言えば、戦術とはこの火力と機動力をいかに組み合わせるかで決まります
中世以来のヨーロッパの戦術の進歩の主流は、銃兵や弩兵等の投射兵科と彼らを防護する近接戦闘兵科、
野戦築城をいかに相互に連携させるかという、いわば火力発揮を重視し、そのためのシステムの模索にあります
勿論、反動もありましたが、概ね火力偏重の歴史と言えます
一方、スイス兵の突撃戦術は、こうした火力発揮を重視したシステムを機動力で破壊しようと試みたものです
勿論、スイス兵は単純に大胆な突撃に頼っていたわけではなく、三個梯団の戦闘編成、他兵科による掩護等、
機動力発揮のための様々な工夫がなされていました
対ブルゴーニュ戦以降、スイス兵の機動力発揮を重視した戦術は、火力発揮を重視した欧州で主流の戦術を
圧倒しましたが、やがて火力発揮のシステムが完成度を高めるに伴い、最終的に敗北しました
戦術はソフトとハードで構成されています
ヨーロッパでは投射兵科は逐次増強される傾向にありましたが、マリニャーノ戦の前後で、
火器に革新的な技術進歩があったとか、火器の保有率が劇的に増加したことを示唆するような
史料はありません
スイス兵の突撃戦術の最終的な失敗は、戦術のソフトとハード、特にソフトの進歩にその原因を
見出すことができるでしょう
単純に「それ以前の銃や弩はへぼだった」という単純なハードの問題ではないかと思いますが
そして火力による防御は支配的になり、
20世紀のシュトルゥム=トルッペンまで
待たねばならなかった訳か。
376 :
274:04/12/17 09:31:02 ID:???
>>373 文の大意には賛成なのですが、いくつか意見を。
>マリニャーノ戦の前後で、
>火器に革新的な技術進歩があったとか、火器の保有率が劇的に増加したことを示唆するような
>史料はありません
第1期イタリア戦争は歩兵用火器の装備率増加が顕著な傾向を示していたと思います。特
に野戦使用用のアルケブスは15世紀末から16世紀前半にかけて顕著な増加を示していま
す。チェリニョーラ当時歩兵の1/6程度の装備率であったアルケブスは、その後20年間に全
軍の1/3まで行き渡るようになりました。
>スイス兵の突撃戦術の最終的な失敗は、戦術のソフトとハード、特にソフトの進歩にその原因を
>見出すことができるでしょう
これは全く同意です。グラナダとチェリニョーラの戦訓により、スペイン軍がソフト的な改良
を行い、その改良がラヴェンナを経てフランス軍にも伝播したということなのでしょう。これに
対する対応をスイス傭兵は行わなかった(行えなかった)というのがスイス傭兵衰退の根本
的原因であると思います。
なおスイスパイク戦術の神話崩壊の例としてはとしてはマリニャーノよりもビコッカの例の方
がむしろ適切なのではないでしょうか。マリニョーラもあと1日早く攻撃開始が行われていれ
ばノヴァラの再来となった可能性が高く、そしてマリニョーラの勝利を決定付けたのは結局
装甲槍騎兵であった訳ですから。
どうでもいいが、ハンドガンとハンドカノンを混同するなよ。
379 :
○V○:04/12/17 16:19:01 ID:???
>>376 火力戦闘への傾斜に伴って銃兵の比率が増加していったことは認めますが、
1530年代に全軍の3分の1という数値はなかなか興味深いですね
1543年に編制されたスペインのテルシオは、10個槍兵中隊と2個銃兵中隊で構成されています
テルシオ内の戦闘兵科に銃兵の占める比率は約25%弱、本部要員や段列まで含めると約20%強です
この他にも騎兵や砲兵が存在していますから、全軍における銃兵の比率はもっと低下するでしょう
ほぼ同時期にフランス軍が行った兵制改革では、銃兵の比率は約20%程度です
チェリニョーラ戦当時、6分の1を占めていた銃兵は、増加はしたものの、16世紀中頃においてはまだ5分の1程度です
本当に銃兵の比率が顕著な増加を見せるのは17世紀以降でしょう
イタリア戦争の初期に火力と機動力の相克関係に一応の結論が出たとは思いますが、
私は別にマリニョーラ戦がスイス兵の神話崩壊の例であるとは思っていません(そもそも神話というものがあればですが)
マリニョーラ戦について言及したのは、上のほうでこの戦闘でスイス兵の無敵時代が終わったと主張する人がいたためで、
それ以外に他意はありません
マリニョーラ戦もビコッカ戦も火力が機動力を優越する過程の単なる結節点にしか過ぎません
マリニョーラ戦でスイス兵を撃退したのはスペインの銃兵とランツクネヒトで、フランス騎兵は限定的な機動打撃を行っただけです
戦闘の全期間を通じてスイス兵がなおも組織的戦闘力を維持していたことを考慮すれば、フランス騎兵が勝利に寄与したことは
間違いないでしょうが、勝利に決定的な役割を果たしたとは考えにくいでしょう
ビコッカ戦も、スイス兵の敗北を歩兵突撃戦術の限界のみに帰せられる訳ではありません
ビコッカ戦の敗北は、戦術に求めるよりもむしろ当時のスイスの戦略的敗北に求めることができます
380 :
274:04/12/17 16:37:50 ID:???
まず訂正を。
>>376最後の3行で「マリニャーノ」を間違えて「マリニョーラ」と記述いたしました。
お詫びして訂正させていただきます。
>>379 >1530年代に全軍の3分の1という数値はなかなか興味深いですね
これは全軍では無く、イタリア派遣部隊の数字(それもざっくりとしたもの)ですので、
もしかしたら完全に正確な数では無いかも知れません。ちと文献をあたって見ます。
>マリニョーラ戦もビコッカ戦も火力が機動力を優越する過程の単なる結節点にしか過ぎません
これは大筋同意ですが、機動力に「優越」した訳では無く、「スイスパイク戦術」の有効性
が低下した、というのが正確な表現ではないでしょうか。
>マリニョーラ戦でスイス兵を撃退したのはスペインの銃兵とランツクネヒトで、フランス騎兵
>は限定的な機動打撃を行っただけです
これは誤認があるように思われます。マリニャーノにおけるスイス兵はスペイン側で、これに
側面攻撃を実施し撃退したのがフランス装甲槍騎兵です。
>ビコッカ戦の敗北は、戦術に求めるよりもむしろ当時のスイスの戦略的敗北に求めることが
>できます
銃兵のみによるスイスパイク兵の撃退が最初に行われたのビコッカ戦ですので、この場合
ビコッカの例を出すのが適当ではないかと考えた訳ですが、いかがでしょう。
381 :
○V○:04/12/17 17:42:36 ID:???
>これは誤認があるように思われます。
そうですね
正確には、フランスの銃兵とランツクネヒトです
382 :
○V○:04/12/17 17:56:23 ID:???
>これは大筋同意ですが、機動力に「優越」した訳では無く、「スイスパイク戦術」の有効性
>が低下した、というのが正確な表現ではないでしょうか。
中近世ヨーロッパの野戦戦術の傾向は、火力の機動力への優越です
スイス兵の突撃戦術は、こうした流れに対する非常に有望な反動の一つですが、
最終的に失敗しました
ですから、「火力が機動力を優越する過程」という表現で問題ないと思います
>銃兵のみによるスイスパイク兵の撃退が最初に行われたのビコッカ戦ですので、
ビコッカでもランツクネヒトの逆襲は行われていました
この時期に純粋に火器のみで突撃を撃退したような戦例は無かったと思います
私が使っている「火力」とは、銃や大砲といった狭義の火力だけではなく、
野戦築城や近接戦闘兵科の掩護等を包括する広義の火力という意味ですので
誤解を招いたならばお詫びします
383 :
274:04/12/17 18:14:51 ID:???
>>382 >ですから、「火力が機動力を優越する過程」という表現で問題ないと思います
そういった意味なら了解しました。戦術機動力よりも火力を重視する傾向は確かに
その後一定期間継続したと思います。ちなみに再度戦術機動力が重視されるよう
になったのはいつ頃でとお考えでしょうか。私は30年戦争中期以降であると考えて
いるのですが。
>野戦築城や近接戦闘兵科の掩護等を包括する広義の火力という意味ですので
私の書き方も悪かったですね。「銃兵のみ」では無く「銃兵を含む歩兵」(これも微妙
な表現でしょうか)と書くべきだったでしょうか。私はビコッカにおいて騎兵支援が無く
スイスパイク兵を撃退できた、という事を重視しておりましたので。余り拘るべきでは
無いのかもしれませんが(笑
385 :
○V○:04/12/17 18:58:02 ID:???
私は、地域を純粋に会戦場に限定すれば、火力の機動力への優越は一次大戦まで続いたと考えています
アンリ4世が組織したいわゆるサーベル騎兵、グスタフ・アドルフが試みた漸進斉射戦術、
第2次フランス革命戦争時の縦横列混合隊形等、機動力の発揮によって火力を克服する努力が何度かなされ、
ある程度の成果を収めましたが、結局火力の克服という点では失敗しました
フリードリヒ2世も、当初は機動の発揮によって戦勝を得ることができると信じていましたが、
夥しい損失の末に自らの信念を曲げざるを得ませんでした
>>370 聞いてる内にロングボウが銃に駆逐された理由が解らなくなって来ました。
射程、装填速度、値段どれも同じ
やっぱ、音と煙?
>>386 >>370の引用元のレスは機械式ロングボウという珍妙な兵器の話をしてるんだ
だから気にするな
クロスボウの話なら威力が段違いだからだよ
弩では貫けない鎧も銃なら貫ける
弩で同じ性能を出そうとすると大型化して取り回しも悪いうえに余計に力を使う必要があるからね
388 :
○V○:04/12/17 21:57:01 ID:???
薔薇戦争当時に用いられた一般的な携帯式の弩は、弓を引くために歯板と
クランクで回転する歯車を用いていましたが、
現代の実験では訓練を受けた者ならば毎分3乃至4発射つことができました
弩は有効射程は200メートル程度で、60メートル以上でほとんどの鎧を
貫通することができました
一方、15世紀の一般的な銃は、騎兵の鎧を貫くためには30メートル以下の距離で
射撃しなければなりませんでした
弩が非効率で使い勝手の悪い兵器であるという評判は、いささか誇張されているようです
銃が弩に取って代わったのは、銃が廉価で大量に配備できたためです
当時の前装滑腔銃は進歩の絶頂に達していた弩に比べて、威力、精度、発射速度で劣っていましたが、
弾薬の手当てさえ確立してしまえば、弩に比べて圧倒的に大量に調達することができました
15世紀以降の西欧の封建危機と続く中央集権化により、強力な後方基盤が構築され、
弩の高精度大威力の利点を打ち消す大量の銃と弾薬の供給が可能になったことが、
銃が弩を駆逐した最大の要因と言えます
上の素晴らしい意見に蛇足
弩が廃れた理由には補給上の問題もあります
どうしても矢は弾薬よりもかさばるのです
弾の方が運搬上有利
>>358 ここに「密集陣限定」の文句を加えるかどうかで戦国軍隊と
欧州軍隊間のパワーバランスを決定する一つの指針になる
気がする。
391 :
名無し三等兵:04/12/18 01:36:23 ID:owi40d7E
たまには活性化の為にage
既にローマ軍が蚊帳の外なのにわろた
すべての時代を通して、戦略、戦術、兵器の変遷
を網羅するのか
ヨーロッパの傭兵を雇ってしまえ
古代羅馬は生きているのか死んでいるのか
それともまだまだ大丈夫なのか
ようするにハンドガンは、エボシ御前のところの柿色の服をきた連中が
冒頭で斜面を牛引いて通っていたときに襲撃を掛けられて撃退するのに
使ってた奴ですね。
タタリガミになったイノシシを撃退する回想シーンでは火炎を吐く
奴もありましたが、これは実際に使われたことはあるんだろうか?
ちょっと気になったんだけどここの人たちってどんな書籍読んでるんだろう?
火器の誕生とヨーロッパの戦争って本があったんだけど、読んだことある人いる?
同じように東洋というか日本の戦闘の変遷みたいのも知りたいんだけど
読んだ書籍の中で、ここでも生かせそうなオススメ本があれば知りたいです
1600年限定で日本とオスマントルコどちらが強いですか?
これまでに挙げた戦国日本の戦闘手順はあくまで推論であり、また
歴史資料にもその様な詳細な手順を記したものはありません。
ここに書かれたものは陣立図や陣形が判明している戦闘(姉川、三方
ヶ原、関が原)より推測したものです。
逆に言うと確たる資料が無い事はマニュアルに囚われない柔軟な運用
が行われていた事を示します。
>逆に言うと確たる資料が無い事はマニュアルに囚われない柔軟な運用
>が行われていた事を示します。
資料が無い事が証拠になるかヴォケ!
逆に言うと確たる資料が無い事はマニュアルが必要無いほど硬直した運用
が行われていた事を示します。
ってことも言えるしなー
マニュアルにとらわれない、というよりマニュアル化できなかったといったほうがいいかも。
時代や地域により編成やらなにやら千差万別で規格化不能だし。
国主が変わるとそれまでのやり方ががらりと変わる例も多々あるし。
マニュアルというべきものは兵法書ということになるけど、
現存するものの多くは江戸初期になって兵法家が書いたものだし、
精神論や呪術的なものが前面に出てて実践で役に立たないものが多いし・・・
(孫子のほうが役に立つ)
そもそも日本人て職人気質な傾向があって「学(知識)」より「術(経験)」を重んじるからなぁ・・・
普通は、成文化されてないだけで、ドクトリンは確立していたと考えるのが常識だと思うが・・・
自分の都合のいいように都合のいいように解釈するなよ
昔気質の職人なんて弟子は師からいちいち教わらずに仕事を通じて自ら学ぶもんだし、
師だってわざわざ教科書を作って教えたりはしない。
だからといって、昔気質の職人が柔軟性に富んだ仕事をしてる訳じゃない。
「ヘウレーカ」という漫画を読んだのだが……
ローマ軍はえらく軽装だな。
日本は鉄砲の保有率が世界一だといってもアマルダの戦いで使われた大砲の数を
考えると
補給が尽きれば鉄砲役に立たないからなぁ。
尿とヨモギ焼きで硝石集めるのも限界あるだろうし。
>>400 >>403 そ〜言ってもな〜。
比較するならある程度指針つけなきゃいけね〜だろ。
文句言うなら手前の戦法を示せってんだ。
409 :
名無し三等兵:04/12/20 18:00:17 ID:IjtpGwiv
>>405 アルキメデスの兵器の中で、艦船を焼く兵器は実は
後の時代に(12世紀頃の挿話)付け加えられたもの
だっりする。「ヘウレーカ」では鏡でやってたけど....
>>409 あんなひらひらした服装でヨーロッパ、アフリカ、小アジアを転戦していたのだろうか。
信じられない。
体にぴったりもっこりフィットした服装ならヨーロッパ、アフリカ、小アジアを転戦したことを納得するのか?
それとも黒靴下以外全裸なら納得するのか?
なんかこのスレ一気に廃れたな…戦国武士団VS〜で毎回違うテーマのスレにすればよかったのに。
じゃあ今からそうしようか
廻し
名無し三等兵 04/12/21 16:02:57 ID:kOt6Qgxx
ある人に聞いた話なのだが
1.合戦の陣形・手順が無いのはそんな物が無かったからである。
2.よって、投射兵器を撃ち合いながら先備が適当(隊列・陣形無しの意)に前進する。
3.功名目当てのが先ず飛び出てつられるように他のも飛び出す。
4.大将はやばくなった所に中備、援軍を向ける。
5.で、どちらかが崩れるまで殴り合い。
と言う、ケルトスタイルじゃないかと言う事らしい。
大将が一番気を配るのが初期配置で、武将の持つ部隊ごとに強さの違う戦国時では最も重要だとの事。
但し、ケルト人と較べ戦国軍隊はせこくてずるい(つまり狡猾)うえ農耕民族故持続力が有り、更に同様
のローマ人やギリシャ人以上に横並び精神の持ち主(よって「みんな一緒に精神」を盛り上げる密集陣を
採る必要無し)、更には良くも悪くも小手先の技と現場の独断専行が得意と言う散兵戦術を採るには
最適の軍隊だったりするらしい。
まあ、欧州的な感性から言えば前時代的な軍隊以外の何者でもないんだけどね。
415 :
名無し三等兵:04/12/22 19:40:17 ID:c3ii9PQi
よって欧州軍隊との対峙を考える事は全く異なる戦闘思想のぶつけ合いとなりそうである。
おまえらさ、武田信玄の陣構え絵図見てみ。
整然と長槍・騎馬の横隊が並んで、20数層の構え構成してるから。
まだ散兵戦術とか言ってるのがいるのか
418 :
名無し三等兵:04/12/22 21:54:54 ID:c3ii9PQi
>>416 あれ、中国の兵法書のパクリですって。
公文書にその手の記載があるのを見たことも聞いた事も無いんです。
ほら、動員報告書はくどいほど細かく記載してるにもですよ。
>414
もっと本を読め
>>419 へ〜それじゃ、あなたは各隊が1隊につき何人いてどんな陣形を採って
それが何隊いて、戦闘距離いくらでどの様に戦うかを示した公文書をご存知で?
>420
数字じゃない
422 :
○V○:04/12/22 22:39:49 ID:???
越後兵法では、備の編制定数は550名で、主要な戦闘距離は30間であると記されていますね
>>421 戦闘教本で最も基本的なのは敵をどれだけの「数」でどの様な「編成」で
どの位の「距離」で戦闘を行うかと言う事だと思うんですけどね
>>422 越後兵法がどの様なものか知りませんがそれは公文書として挙げられるものなのでしょうか?
後、備はあくまで1武将が率いる1戦術単位に過ぎません。
1武将には大体これだけ割り当てると言う意ではないでしょうか?
どうしてどの様なものかも知らないのに公文書ではないと言い切れるんだ?
>423
あのね、インターネット検索したり教則本あさるのもいいけど、もっと小説読みなさいって言ってるわけよ。
古代ローマの話でも「ローマ人の物語」とか楽しく読めるし、ハンニバルでもカエサルでも詳しく書いてある
よ。戦国ものならなおさらだ。まず沢山読んでから考えろ。厨房
マニュアルが無いから硬直化云々言ってた人か?
>>425 ほっほ〜小説ですか。
いや〜、小説に書いてあることを無条件に信じられるなんて
なんて無邪気な人でしょう、なあ消防。
冬厨の季節か
429 :
○V○:04/12/22 23:35:09 ID:???
>>423 あなたが越後兵法について知らないのであれば、この場でその軍事技術史としての史料的価値を
議論するのは意味が無いでしょう
>後、備はあくまで1武将が率いる1戦術単位に過ぎません。
>1武将には大体これだけ割り当てると言う意ではないでしょうか?
これも何を言いたいのか意味がよくわかりません
ローマのレギオンやスペインのテルシオも戦術単位という点では備と同列です
何列何隊でどういった配置かは書いてありますか。
レギオン、テルシオは事細かに規定してありましたよ。
431 :
○V○:04/12/22 23:40:23 ID:???
書いてますよ
>>430 是非、一部でも良いので教えていただきたいです。
何せ色々資料を漁ってもお目にした事がなかったもので。
433 :
○V○:04/12/22 23:47:44 ID:???
越後兵法では、備の戦闘隊形の規定や、戦闘の時系列に従って備が相互に連携して運動する要領等が
記されています
戦術教本と言って差し支えない内容でしょう
いえ、教えて欲しいのはその1つの備がどういった兵種がどの様な隊列を持ってるかなのですが。
あと、越後兵法について教えてくれませんか、無知なものでして。
>427
ほんとマニュアルっ子だなー。吉川英治や北方謙三のようにトンデモ小説もあるが(もっとも
北方謙三や田中芳樹が歴史物書いているのも知らないんだろうけど)事実が根底にあるのだよ。
まあ「ローマ人の物語」をただの小説と言ってる時点で問題外なのだが・・・
もっと勉強することだ。
>>435 例を示してくれない?、ダメ例だけ言われてもね〜。
そろそろ"翁"のご意見を聞きたい
ちょっと、双方とも態度が醜いですよ。
恥を知りなさい。
戦国中期以降は密集陣が使われていたことは足軽の兵装の薙刀から長槍への変化から想像付きますが、
それ以前の主な歩兵の戦術は、「○○家」とその門下で編成された散兵的、あるいは、遊撃隊的運用だった、
と、考えて良いでしょうか?
>>439 大半はそうだったかもね。
武田氏の騎馬戦法は平安末期の甲斐源氏の伝統的戦法らしいが。
しかし、
>>416にも書いたが川中島合戦屏風絵の右隻は面白い。
これでもかというくらい陣形が縦に分厚い。
信玄公宝物館館長の野澤公次郎氏によれば、甲陽軍艦や信玄座備之図の記述をもとにしたものらしいが、
最前列の二扇目(扇=中隊に相当?)は長槍の横隊が展開し、背後に短槍の横隊もいる。
長槍の横隊の両翼には鉄砲・弓隊の一扇目が斜めに展開している。
三扇目は側面に長槍と弓の縦隊、侍大将の後ろには鉄砲と弓、更には四扇目の横隊と騎馬が控えていて、
五扇目は騎馬武者と背後に鉄砲・弓。六扇目は長・短槍横隊。七扇目は軽歩兵と鉄砲・弓。
そして最後に信玄の旗本。
一〜四扇目までの四辺形の構えはナポレオンフランス軍のオーダーミックス隊形みたい。
というかそれどころじゃない複雑さなので、かなり誇張が入っているのではないか。
戦闘時にこんな細分化された陣形では、運用もままならず大混乱必至だろう。
鉄砲足軽3人につき、弾丸装填時の援護として弓兵2人の計5人で
必ず1小隊が構成されているのも面白い。長篠の屏風絵と共通するところがある。
鉄砲は分散的に配置されていて、明らかに槍・騎馬の援護という役割で集中運用はされていない。
ところどころに監視・論功行賞の記録の為の目付もいる。
警固与力という遊兵も随所随所に。
槍兵の側面や後ろには、必ず援護の鉄砲と弓が配置されているのは徹底している。
欧州のような単一兵科の部隊編成ではなく、
複数兵科の混成なので、各兵科の特徴を生かした戦術的運用には向かなそうだ。
このような混成軍団同士が戦った場合、
戦術より量で勝負が決することが多くなりそうな。
混戦になったら違う兵科の横隊同士が重なり入り組んで、団子状態になるのも想像に難くない。
全体をみれば、薄い横隊の層が何層も重なっているが、当時の軍記に、
「〜の構えを十何層まで突破した」という記述が見られるのはこれのことなのだろうか。
441 :
440:04/12/23 04:26:03 ID:???
訂正を。扇というのは屏風の折り目でwww、
部隊の単位とは全く関係無かったです。ドジでごめんなさい。
それと、ここしばらく言われている日本馬の体格に関してだが、日本騎兵スレで見たところだと
日清・日露戦争においては、騎兵は国産馬主体で戦って活躍したらしい。
明治期日本人の体格が小さかったもことあり、大した不具合もなく大いに奮戦したそうで。
コサック騎兵数万を撃破したことも。
日本馬の小ささをポニーだと欧米人に笑われたりもしたそうだが。
西洋馬のような突撃による強烈な物理的衝撃力は弱くとも、
戦国時代においても騎馬は大きなメリットはあったのだろうか。
よく言われている、馬から降りて戦ったりというのはどうなの?
明治人は同じ馬で清軍・ロシア軍と騎乗戦闘しているのが気にかかる。
明治は外国産馬の血統を導入して品種改良しているような気がしてましたが。
>>438 同意
ROM専だが、塩婆とか司馬リョーとか歴史小説をソースに出すの止めない?
歴史小説家は色々捏造疑惑(脚色とも言うが)あるわけだしね。
>>442 そりゃまぁ身体が小さければ弾には当たりにくいし、小回りだって利くでしょう。
綱吉公が元禄の頃にフランスから馬を輸入したという話を聞いたことがあるが
>>440 戦国図屏風を参考にするなら、その戦闘(白兵戦)は散兵的に行われたと言えます。
その戦闘は殆ど戦列を作らず、作っても自然的な(睨み合う内に形成される)ものです。
また槍足軽は長槍だけでなく手槍(この場合長槍兵よりも重装)も数多く見られます。
これは前者は防御、後者は攻撃として用いられていた事にならないでしょうか?
>戦闘時にこんな細分化された陣形では、運用もままならず大混乱必至だろう。
明治以降の軍馬とそれ以前の軍馬との違いは大きさのほかには
「去勢しているか、してないか」
がある。
明治以前の軍馬は去勢していない。
外人曰く
「日本人は野獣に乗っている」云々…
別に馬で歩兵に体当たりかましてた訳じゃ無いでしょ
良く言う、騎馬突撃による打撃力、と言うのはランスを持った重装騎兵の話で運用方法が違うんじゃ?
「ランス」を持った「騎士」では隊列など望むべくもないだろうね
重装騎兵だった時代にいわゆる「騎兵」のように厳密に隊列を組んだ例ってあるのかな
騎兵というのは各時代を通じて、運用コストに対してそれほど強力な打撃力を持っていたわけではないです。
騎兵突撃の主要な効果は、機動力を生かして敵兵の士気を挫き陣形を乱すことです。
騎兵にとって足を止められることは、その利点を失うことだったので、密集陣の槍兵部隊は苦手だったわけです。
当然、歩兵の陣へ真正面から突っ込むなどということはありえませんでした。
騎兵は一部の軍隊を除いて単独で使われることはありませんでした。
防御力という点でも歩兵に劣っていたからです。(その分は機動力でカバーした)
大概は味方歩兵が釘付けにしている敵の側面を脅かす形で攻撃を仕掛けます。
ナポレオン時代でも騎兵で単独突撃するの稀で
指揮官に対して「何故歩兵の援護下で使用しなかったのか?」とナポレオンが厳しく注意した例があります。
>436
ダメ例というわけではないので誤解無きよう。取っ掛かりとしては大変面白いのでそこから
始めるもよし。中国物なら宮城谷昌光、陳舜臣まで進むと良いと思う。日本ならやはり池波正太郎
司馬良太郎まで読まなくちゃね。童門冬至二も面白い。結局よぉ、いくらデータだけ知って
いたってそれだけじゃ面白くなし実感もワカねえってこった。逆もまたそうで、戦記物読んで
じゃあ実際どうだったんだって事だよな。
古代ローマ軍でも軍の編成や戦法など型があるが、カエサルが内戦で対したのは同じローマ軍。しかも
相手の方が数が多いが、そこを騎兵の活用(数自体はもちろん少ない)で勝利するわけだ。
こんなのは、マニュアルでなく臨機応変だろ?オレの手元にも戦理に関する本(しかも非売品)
があったりするわけだが、それを元に講釈したりはしないのだよ。もっと本を読め。
明治時代には西洋種や混血の馬がいたが、
戦時には絶対数が足りず大量調達が容易な国産馬が主に使われたそうだ
>>452 御免なさい、もうあなたには付き合いきれないの
サヨナラ
本読むなら有坂純をお勧めする
>452
持ち上げた小説家の名前くらい、間違えるなとおもた。
小説は小説として楽しみましょう。
>454
サラバだ。日本史選択するな
>456
ゲッ、ホントだ
言いたいのは、時代のイメージとか雰囲気を手っ取り早く掴む手段としては、小説も結構良いってことなんだろ。
>>173-175 まあ、当時の火縄銃の弾丸は、柔らかい鉛だから、人体を貫通するのは無理。
だけど、威力が無い訳ではない。
柔らかいから、かえって炸裂して、当たった所の肉が砕け散る。
今では使用が禁止されている、ダムダム弾と同じ。
>>410 ガリア人なんかは、上半身裸なんだが。
ローマより、もっと寒い環境で。
人間というのは、意外に適応性があるよ。
生物学的には現世人類と多少違うのだろうけど、北京原人は全裸で、
北海道より寒い所で生活していた訳だし。
小説は大変結構だが、イメージや雰囲気をもとに議論しちゃいかん気がする。
>>459 当時の欧州って今より暖かかった疑惑。
ほら、つい19世紀ごろまで小氷期だったといいますし。
ギリシャだって今の冬は寒いのに、半裸みたいな格好にマント一枚じゃ厳しいでしょ。
あいつらが金も物も持たなかったって事はないのに。
さてと気分転換して
え〜と、それでヨーロッパや中国の軍隊みたいに1隊の所属兵数や陣形、
更にはそれをどの様な手順で戦わせたかを示した資料はありましたか?
純粋に考えて指揮系統や部隊編成、戦術がしっかりしていた中国が
何故朝鮮征伐で日本軍に敗れたんだろ。
火力?大砲は遥かに明軍のほうが上だった。
三眼銃の性能が悪かったのか。
この厨房まだいたのか
ということで、かの有名な桶狭間の戦いを一つ
今川義元25,000。織田信長3,000。兵力の差は大きかったが300を鳴海に置きけん制する。
今川義元はそれにひっかかり、さらに鷲津方面の戦勝報告で気が緩み本陣が手薄のまま
酒宴となる。その間北方山地を隠蔽しつつ迂回した信長の本隊はおりからの風雨にまぎれ
山上からの鉄砲隊に斉射させ、その援護のなか今川本陣を奇襲攻撃し一挙に勝ちを制した。
>461
オマエほんとにバカ丸出しだな。日本人なのか?一隊の所属兵数って当時の武将がどうやって
兵を集め養いたたかっていたのか本当に知らないの?そりゃ厨房にしても成績悪すぎだろ。
一からやりなおせ。だから本を読めって言ってるんだよ。
464 :
463だが:04/12/24 00:36:30 ID:Odd1/ltI
まず、あやまりますスマソ
こんな書き方したらいけないよな。悪かった。戦国時代の成り立ちなどまた詳しく
話したいと思う。申し訳無い
>>462 鉄砲数では日本軍のほうが優位でした。
その点が野戦では大いに左右したでしょう。
後、碧蹄館や蔚山の戦いを見ると前者は山腹の迂回、後者は山上
からの夜襲という隊列を持たぬが故に可能な戦法を行い勝利しています。
戦国時代の日本では軍制は各国が独自に確立しており、それぞれ共通点も多いですが、
時代や地域によって違いが見られます
日本で軍事が本格的に学問へと昇華したのは江戸幕府成立以降です
それまでは、常に戦争状態にあったため、戦術教義や戦闘技術というものは
わざわざ書き記さなくとも家中の誰もが知っていたいわば常識でした
幕府成立以降、戦争の機会が奪われたことにより、誰もが経験で培ってきた技術が失われたことが、
江戸期の軍学興隆の要因です
その後、時代が下るに従ってその内容も実践から観念へと移行していきますが、
江戸初期に確立した軍学には内容が非常に具体的なものが多く、
確固としたドクトリンに従って戦っていたことがわかります
>>463 お前のいう桶狭間の戦いの様相は、今では全て否定されているのだが。
義元がいたのは谷間ではなく、山の上
信長は迂回奇襲したのではなく、正面から強襲している
桶狭間(田楽狭間)は不期遭遇戦だったという説もありますね
突進力のある敵と遭遇したとき、日本軍は弱いと言うことですかな。
470 :
463だが:04/12/24 01:30:57 ID:Odd1/ltI
>467
それが違うんだね。というか谷間でも山上でもないよ。太子ヶ根の下田楽狭間で、どちらでも
ないよ。それにね、正面といえば正面なんだよ。今川側から言えばね。後方なんて言ってないだろう?
迂回しただけなんだよ。
ちなみに
術を重視するもの・・・奇襲
力を重視するもの・・・強襲
術×力によるもの・・・急襲
教範類でいう奇襲はこの3者の総称です
>>470 ・・・よくもまぁ・・・まあいいけどさ。
どうせなら
>>信長の本隊はおりからの風雨にまぎれ山上からの鉄砲隊に斉射させ
この文についても言い訳してくれ
ローマ服:
作りこそ開放型だが、素材はウールw
開放型って言うと和服も結構キてる(呉服って位で中国南方のスタイル)し、今のスカートやスコットランドのあれとかも。
473 :
463だが:04/12/24 06:34:47 ID:Odd1/ltI
>471
きみが解説すべきだろうね
474 :
名無し三等兵:04/12/24 08:57:08 ID:aeRBqrpO
バリスタやカタパルトなんかはどう考察されたんだ?
なんかスルーされてるようだが。
攻城兵器だからか。
476 :
274:04/12/24 10:31:35 ID:???
>>450 逆です。中世ヨーロッパの装甲槍騎兵こそが極めて密接な横隊隊形を維持する
必要がありました。そうでないと歩兵の槍横隊に対抗できないので。
隊形を維持するため最高戦闘速度は最後の50〜100m程度しか発揮されないの
が通常でした。歩兵が隊列を崩してくれればそこから踊りこむ、隊列を崩さないの
であれば(できるだけ)槍と槍の間に馬ごと乗り入れると言うのが基本です。もっと
も一旦突撃が始まればあまりの密集度のため方向転換もままならない訳ですが。
お互い避ける見込みの無い装甲槍騎兵同士の突撃の場合は、戦場は極めて悲
惨になりました。
477 :
463だが:04/12/24 11:37:47 ID:Odd1/ltI
>495
孫子の兵法なんかも実戦ひ応用など出来ないだろうと云われているしね
478 :
450:04/12/24 12:10:57 ID:???
>>476 つうことはトーナメントで使う「ランス」を持って隊列を組んで突撃したってこと?
ランスを持った騎士に槍持ちの従者とほか数人のユニットだと思ってたんだけど
ドンキホーテとサンチョみたいにさ
戦争のとき使う槍は「ランス」だったのか
あと中世ヨーロッパの装甲槍騎兵の具体的な例はどこかな?
隊列組んでるやつだとポーランドとかか
ナポレオンの騎兵隊は横15cmの間隔で、しかも一列横隊じゃなく何列も重なって突撃した
中世で横隊なのはそれしか陣形の取りようが無かったからではないだろうか
479 :
名無し三等兵:04/12/24 12:34:43 ID:CHsBHTtP
ロシアのコサック槍騎兵は普通の槍だよ。
中世ヨーロッパの騎士たちがまともに隊列組めるとは…
日本の武士は部隊の10パーセントを占めてたけど、中世の騎士は1パーセント足らずなんだよ?
(ヨーロッパの土地はやせてた上に19世紀ごろまで租放農業が主だったのでとてもじゃないが大量の騎士を養う余裕がなかった)
数少ない例が、対モンゴル戦で集まった連中かもしんない。
おらが郷の領主様が
馬にまたがり槍甲冑のいでたちで
手下の徒兵率いて国王様の許へと馳せ参じ…
という感じですかな。
中世はとにかく、ナポレオニックウォー時代は騎兵による中央突破作戦が
多く見られるね。敵隊列のほころびに騎兵を一気に突入させて敵を分断する。
雨が降った場合に至っては、敵が倍いようと騎兵の勝利はほぼ動かない。
って戦国時代とは何の関係もないわけだが
まあ参考にはなるので、どうぞ
485 :
274:04/12/24 14:09:46 ID:???
>>478 >あと中世ヨーロッパの装甲槍騎兵の具体的な例はどこかな
中世のフランス装甲槍騎兵をその典型的モデルとして見ておりました。クルトレーのフランドル
反乱軍に対する突撃、またポワティエにおけるイングランド軍に対する突撃などがその典型例
と見ることができると思います。時代が下ってラヴェンナの両軍装甲槍騎兵の突撃などもこの
典型に加えることができるかも知れません。
>ランスを持った騎士に槍持ちの従者とほか数人のユニット
そのとおりです。そしてそのユニットのことを「ランス」と呼称します。1ランスは騎士1人とそれに
従う1〜3人の従騎士、そして5〜10名前後の従者からなっております。また騎士団には傭兵騎
士も加わり、突撃時には正騎士と従騎士、傭兵騎士で横隊を形成します。この横隊は1列横隊
の場合が殆どで(2列目以降は不名誉になるので)、突撃が失敗した場合には一旦下がり、再度
横隊を形成して繰り返し突撃を実施します(イタリア戦争以前の話)。
>>478 >戦争のとき使う槍は「ランス」だったのか
これはその通りですが、一口に「ランス」と言っても試合用から戦争用のものとは大分違い、
また戦争用のランスも時代を経るに従って細身のものに変わっていったという変遷がありま
す。
>中世で横隊なのはそれしか陣形の取りようが無かったからではないだろうか
これはその通りだと思います。大陸軍の皇帝親衛隊ポーランド槍騎兵連隊の場合、突撃隊
形は大隊辺り2〜3列横隊が基本で、正面は1mあたり0.5〜1人程度の密度ですね。300m
前後も最高戦力速度を維持しなければならないのでそれが限界だと思います。
これに対し中世フランス装甲槍騎兵は最高戦力速度といってもトロットに毛が生えた程度の
もので、しかも隊列維持のため突撃距離を制限しているため、1m辺り概ね1人程度の密度を
487 :
274:04/12/24 14:28:08 ID:???
上
>>486は私の書き込みです。失礼しました。
また最終行訂正。
1m辺り概ね1人程度の密度を保つことができたようです。ウイングフッサーの場合は
もう少し疎らな横隊を組んだようですが。
488 :
274:04/12/24 14:55:55 ID:???
またまた訂正。
>>485 3行目
× ポワティエにおけるイングランド軍に対する突撃
〇 クレーシーにおけるイングランド軍に対する突撃
ミス多いですね。もっと推敲しないといけませんね。失礼しました。
489 :
274:04/12/24 15:16:59 ID:???
>>482 >騎兵による中央突破作戦が多く見られるね
ナポレオン戦争期に見られる騎兵突撃は、攻勢突撃よりも突出した敵部隊に対する防御
突撃の方が圧倒的に多数です。また成功率も前者より後者の方が圧倒的に高いものと
なっています。
アウエルシュタットのプロイセン騎兵、ワーテルローのフランス騎兵、何れも大規模攻勢
騎兵突撃の例ですが悲惨な結果になっていますね。攻勢騎兵突撃は他兵科の十分な支
援が得られない限り、成功する見込みはかなり薄いと思います。
貴重な成功例はアイラウのミュラ位でしょうか。
>>479 ロシアやポーランドの槍騎兵は元が軽騎兵ですから。
その戦術や武装は西欧騎士よりむしろ東方の遊牧民の影響が
強いんじゃあないんですかね?あまり、詳しくないから断定はできませんけど。
>>489 >攻勢突撃よりも突出した敵部隊に対する防御
>突撃の方が圧倒的に多数です。また成功率も前者より後者の方が圧倒的に高いものと
>なっています。
逆に言えば、騎兵の支援を欠いたまま、歩兵のみで攻勢に出たりしたら、
敵騎兵に叩きのめされる可能性が非常に高いってことにはなりませんか?
本題にもどるとしたら、やっぱり騎兵をその編成に欠く日本の戦国軍団では
近世以降のヨーロッパ諸国の軍隊には勝てるとは思えないんですが?
492 :
482:04/12/24 17:40:12 ID:???
>>489 滑空銃スレや騎兵スレであなたと話したことがあったような。
というか私は騎兵の単独攻撃とどこかに書いた事は一度も無いよ。
砲兵や歩兵の支援がない場合、騎兵突撃の実施は多くは見合わされるかと。
歩兵や砲兵が崩した部分を狙って突撃するのが、騎兵攻勢の常識的用兵なわけで、
崩れていない敵に単独突撃するなどまともな司令官なら許可しない。
中央突破においても、
>>482にもあるが、敵陣が崩れかけているのが前提。
騎兵が戦局を決した成功例は結構あるんじゃない。
マレンゴのケレルマンの突撃は、オーストリア軍の側面を衝いてドゥゼの来援と共に逆転勝利を決したし、
イエナではスルトーの増援もあったが、ミュラがホルツェンドルフ軍を撃破して逆転。
ドレスデン会戦ではミュラの騎兵が背後から突撃、
騎兵だけで3万の死傷者を敵に与え、フランス軍に倍する露墺連合軍15万を分断して撃破している。
失敗例としてはワーテルローのネイの大突撃が有名だが、
クリミア戦争のバラクラバ会戦における、カーディガン将軍の突撃も悲惨な失敗に終わっている。
493 :
○V○:04/12/24 17:45:36 ID:???
>逆に言えば、騎兵の支援を欠いたまま、歩兵のみで攻勢に出たりしたら、
>敵騎兵に叩きのめされる可能性が非常に高いってことにはなりませんか?
なりませんね
重要なのは、歩騎に関わらず突撃の要件が十分な掩護にあるということです
掩護を行うのが歩兵であるか騎兵であるかは重要ではありません
494 :
○V○:04/12/24 17:49:27 ID:???
例えばフリードリヒ2世はほとんど騎兵に頼らず、関与した戦闘の大半において
騎兵戦力で劣勢にありましたが、それでも歩兵戦列による突撃を積極的に行っています
勝ったり負けたりですが
ヨーロッパの騎兵は平原戦での包囲・分断に主眼を置いた運用であり、
日本の騎兵は山岳、森林での迂回挟撃・奇襲・追撃に主眼を置いた運用(一ノ谷等)なのでは?
>>492 私はナポレオン戦争の一般論として、騎兵突撃は攻勢突撃よりも防衛突撃の方が
多用され、また成功率も高かった述べただけです。
>>482の書き込みが攻勢突撃
を強調しているように見られたので補足しただけで、他意はありません。
>マレンゴのケレルマンの突撃
不滅の二分間は意見が分かれると思いますが、防衛突撃の一種とみる方が妥当で
あると思います。
>イエナではスルトーの増援もあったが、ミュラがホルツェンドルフ軍を撃破して逆転。
>ドレスデン会戦ではミュラの騎兵が背後から突撃、
イエナはどちらか微妙ですね。ドレスデンは確かに攻勢突撃の成功した典型の一つ
と言えるかも知れません。とは言え連合軍にとっては寝返りみたいなものですが。
497 :
274:04/12/24 17:59:39 ID:???
また名前忘れました。
>>496は私です。失礼しました。
498 :
○V○:04/12/24 18:02:42 ID:???
一ノ谷の逆落としの場所は、鉄拐山説と神戸市北区鵯越説があります
どちらも現地で確認したことがあるのですが、地形はどちらも西に向かって横走しており、
騎兵では平家の本陣ではなく範朝軍の方向に駆け下りてしまうことになります
どちらの場所が正しかったにせよ、義経勢が迂回を行ったとすれば、
それは徒歩で行われた可能性が強いでしょう
499 :
482:04/12/24 18:24:28 ID:???
ナポレオンの戦闘のオーソドックスなパターンは、
まず軍団・師団砲兵により、敵に損害と士気低下をもたらし歩兵攻勢の下ならしをし、
次に散兵によって敵の前進を阻止・混乱せしめ、味方部隊の行進隊形から戦闘隊形への変換を掩護。
敵が攻勢に出たら歩兵と砲兵の掩護を受けた騎兵が翼側攻撃をかける。
前進してくる敵歩兵に方陣など防御陣形を取らせ、敵砲兵にも防御体勢を取らせることにより
敵部隊を拘束、攻勢を中断させることが目的。
そこに乗じて歩兵の攻撃縦隊が騎兵と連携し敵陣の突破を図って攻撃をかける。
成功した場合は即座に軽騎兵と竜騎兵が敵の横隊を四分五裂させ、
退却に移った敵に追撃戦をかける。
ナポレオンは、騎兵を翼側包囲による敵の拘束に使うことを好んだ。
中央突破戦術に騎兵を使用する場合は、砲兵の掩護を受けた騎兵を
敵陣に突撃させ、その後に歩兵縦隊が続き敵陣の分断強要を図った。
同時に翼側包囲も行い、優勢な敵を分断・包囲・各個撃破する。
正面攻撃戦術の場合、敵の片翼もしくは両翼に陽動攻勢をかけ、
敵正面の兵力や予備隊をそちらに転用させ中央部を弱体化させる。
そこに重騎兵と近衛兵を投入、敵陣中央を突破する。
500 :
482:04/12/24 18:36:50 ID:???
>>496 確かにナポレオンは突破など攻勢に騎兵を使うより、
敵兵の拘束など攻勢の掩護や、敵攻勢の頓挫を目的とした防御攻撃に使った場合が多いですね。
マレンゴのケレルマンの突撃に関しては・・・
ナポレオンの秘書ブーリエンヌは「午後一時頃には戦いはフランス軍の敗北と見られていたが、
戦いを勝利に導いたのはケレルマン将軍の即座の閃き(独断で突撃したこと)であった」
というようなことを言っている。
ドゥゼの正面攻撃を掩護する形で、敵正面部隊の側面を衝いたので
突破というかどうかは微妙ですが・・・
一の谷の話はどくから続いているのかな?
それと、中世からそろそろ古代ローマにもどってくれねーかな
質問
陸戦ばかりが出てきたけど水上戦闘についてはどうなりますか?
ローマも戦国もあまり外に出られなさそうなイメージがあるのですが。
神器八咫の鏡にはヘブライ語が書かれてるし
鳥居は古代ユダヤ人の神殿の玄関口と同じ形だし
カタカナと古代ヘブライ文字はほとんど同じ発音・形だし
江戸時代に天皇と謁見した外国人は天皇は中東系の顔をしてるという記録を残してるし
狛犬もユダヤの神殿のライオン像と形も配置もほとんど同じだし
古代ユダヤ人の神官は神道の格好や山伏の特異な格好とまったく同じ格好をしてたらしいし
古代ユダヤ人も日本人もまず身体を洗ってからお風呂に入るし、その他生活習慣も酷似
古代ユダヤ人の特徴が縄文系日本人とほとんど同じだし
フランスの研究では日本人(縄文系?)とオリジナル・ユダヤ人(東洋系ユダヤ人)の染色体の大きさがまったく同じらしいし
天皇家の「16弁の菊花紋」を紋章に使っているのは天皇と古代ユダヤ人だけらしいし
菊は古代ユダヤ人が居た辺りが原産の花だし
古代ユダヤ人の12氏族のうち10氏族が東に向かったといわれてる
そのうちのいくらかがもっとも東の国日本にたどり着いた可能性は高いと思う
西に向かった奴らはロンドンまで達してるしね、日本まで来ない理由が無い
日本人はアジアで唯一ヒゲや体毛が濃い民族だし、(中国朝鮮東南アジアフィリピンすべてうぶ毛かツルツルばっかり)
一定確立でかなり濃い顔が生まれる理由もそこにあるのかもしれない。
>江戸時代に天皇と謁見した外国人は
誰だよその外国人は?
>>503 日本側だと朝鮮に十五万の軍勢が渡海して前後八年間戦っている。
その間海上の補給線は維持されていた。
>503
基本的には陸上の戦闘の延長線上にあるといって良いと思う。あいての船に乗り込み
戦うのが、主なyりかただろう。もちろん風下においつめ、あるいは港に追い込んで
火を放つやり方もあったみたいだけど当時の兵器ではなかなか難しいだろう。
>503
基本的には陸上の戦闘の延長線上にあるといって良いと思う。あいての船に乗り込み
戦うのが、主なyりかただろう。もちろん風下においつめ、あるいは港に追い込んで
火を放つやり方もあったみたいだけど当時の兵器ではなかなか難しいだろう。
>508
基本的には陸上の戦闘の延長線上にあるといって良いと思う。あいての船に乗り込み
戦うのが、主なyりかただろう。もちろん風下においつめ、あるいは港に追い込んで
火を放つやり方もあったみたいだけど当時の兵器ではなかなか難しいだろう。
510 :
名無し三等兵:04/12/25 01:09:10 ID:fljRx5aJ
白村江の戦いでは唐が中央突破をかけた日本を火矢で壊滅してますよ。戦国日本では大砲・鉄砲・弓・焙烙玉で攻撃し近付いたら白兵戦ですよ!ローマ側は油壺を投石機で投げたり弓で攻撃し、近付いたらラムで突撃し白兵戦がパターンですよ!
か・ら・す、か・ら・す、か・ら・す!!
512 :
名無し三等兵:04/12/25 01:47:26 ID:sjn1Sy8P
>>473 横からなんだが、
>風雨にまぎれ・・・鉄砲隊に斉射させ
どう見ても解説するのは君の方だろ・・・
と、ゆうか、このスレのほかの連中は何でこんな電波放って置くんだ?
>512
上からなんだが、それは昔の人間は雨が降れば雨具もつけず、木陰や物陰で雨をさけることもせず、
火薬類は油紙などで大切に包むような保存法を考える事もせず何の工夫もせず何もかも
雨に濡れるに任せ運命をかけた決戦のときにアホズラぶらさげてながめていたと云いたいのかな?
多分、みんなが言いたいのはそんなことじゃあないと思うぞ
それから
>術を重視するもの・・・奇襲
>力を重視するもの・・・強襲
>術×力によるもの・・・急襲
>教範類でいう奇襲はこの3者の総称です
自分で何言ってるのか理解できてるか?
>>514 横からなんだが、
>みんなが言いたいのはそんなことじゃあないと思うぞ
「俺が言いたいのは……」の間違いだろ。何を言いたいのか、他人にも判るように書けよ。
516 :
○V○:04/12/25 09:34:07 ID:???
横からですが、
織田軍の行進経路は熱田神宮〜丹下砦〜善照寺砦〜中島砦〜桶狭間と最短経路をとっており、
敵の物見に見られようがお構いなしの正面対決を企図しているとしか考えられません
少なくとも、迂回を狙った技巧的な運動は見られません
信長の「宵に兵糧つかひて、夜もすがら来たり、大高へ兵糧を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、
辛労してつかれたる武者なり」との言動に依拠すれば、信長の攻撃目標が今川本陣ではなく、
今川軍の前衛である三河勢であったことを示しています
つまり、信長の当初の作戦目的は今川軍の前衛の撃破にあり、今川本陣と接触したのは
信長本人にとっても予期しないものであったと考えられます
これは、桶狭間不期遭遇戦説の根拠の一つにもなっていますね
また、今川軍が酒宴をしていたことを示すような史料は存在しません
旧日本陸軍戦史編纂室が江戸時代の講談本を鵜呑みにして記述したというのが実相です
桶狭間戦といい、楠正成の赤城城塞といい、編纂室にはこうした不手際が散見されますが、
これは、編纂室の主たる目的が戦史を題材にした戦術教育(この場合は奇襲の重視)にあり、
学術的にリアルな戦闘様相の解明が軽視されがちになっていたからかもしれません
ついでながら、信長は鉄砲の装備化に早くから熱心だったと言われていますが、
桶狭間で織田軍が鉄砲を独立的に集中運用したことを示すような史料は存在しません
↑だからこう云う解説をしろっていってんだよ。オレの資料は古いからね。
きちんとだせば、口論になりようが無い。
>514
は、まあ見たことないだろうからしかたが無いか。これはその筋で定義されてることで。
作家とかが書いていることではないのでね。
自分で資料出さずに文句だけ云えばケチつけるだけ。面倒でも書こうね
欧州・中国軍隊は主に平原の戦いを主目的としており、日本は狭隘地の戦いを基本としていた。
よって平原での大会戦なら前者、遭遇戦や後詰め決戦では後者となりイニシアチィブを取った方が勝つであろうが、
この点戦略機動力では戦国軍が上なのでナポレオン以前までは戦国優位と言えるのである。
519 :
○V○:04/12/25 10:38:21 ID:???
ちなみに、奇襲とは敵の予期しない場所と時期に攻撃をかけることを意味し、
攻撃の際の心得の一つのようなもので、強襲や急襲といった攻撃の要領を示す用語とは
同列ではありません
そもそも強襲や急襲といった用語は戦術用語としては普通は使用しません
敢えて区分すれば、強襲は周到に準備された攻撃、急襲は応急的な攻撃と言えるでしょう
状況にもよりますが、後者でポピュラーなのが旧赤軍の無停止突破戦術ですね
普通はどこの軍隊もやりたがりません
↑言いたいことはわかるが、教本に載っているんでね。つまり解説に使うということです。
>510
そういえば、以前観たディスカバリー・チャンネルだったかヒストリー・チャンネルによると、ローマ軍は海戦で(前もって用意していおいた)蜂の巣を敵船に投げ込んだとか。
恐るべき生物兵器だな・・・
微妙に話がかみ合っていないし、あちこちに飛ぶスレなんだよな。。。。
>>521 ワロタ。が、密集陣形にそりゃ幾らなんでも非道いんじゃないかい。
BC条約結ぼうよ。
ローマ兵は臭いことで有名だったそうだ
そう、ニンニクをしこたま食らっていたのだ
>>518 >戦略機動力では戦国軍が上なのでナポレオン以前までは戦国優位と言えるのである
17世紀初頭の段階でほぼ進歩をやめてしまった戦国軍団が、18世紀の欧州諸国の軍隊
に勝てるとは思えないのですが?
この条件でしたらフリードリッヒ大王のプロイセン軍や
スヴォーロフ元帥のロシア軍にも勝たなくちゃならないんですよ。
大体、戦略機動力だけで戦争に勝てるものなら、
その気になれば一日100km以上の移動が可能な
遊牧騎馬民族の軍隊に優るものは無いはずですし。
パルティアの騎兵軍団にも苦戦しそうだ。
パルティア射法で返り討ち。
528 :
526:04/12/25 17:28:14 ID:???
>>527 それは流石にないと思いますけどね。
射程の差で戦国軍団の方が優位ですから。
ローマ軍だってパルティア軍相手におおむね
(クラッススの敗死はあるにしても)優位に
戦っているんですから。
529 :
518:04/12/25 17:38:44 ID:???
>>526 ああ、言い忘れてましたが戦術機動力も戦国軍が上です。
なんせ、戦列組んだ相手は森や尾根を越える事はできませんが、戦列を組まない戦国軍は
容易にそれを行い、それどころか夜襲まで敢行できるからです。
また前進速度も速く、散兵ですから砲撃の効果も少ないでしょう。
騎兵は問題ですが、それなら騎兵が不利な地に誘い込むだけです。
530 :
526:04/12/25 18:12:05 ID:???
>>529 >騎兵は問題ですが、それなら騎兵が不利な地に誘い込むだけです。
そんなに上手くことを運ぶとでも?
スヴォーロフもフリードリッヒも無能とはほど遠いですし。
騎兵の方が機動力では優位な訳ですから
なんだったら、騎兵の一部、とくに竜騎兵あたりを先行させて
緊要地形を先に抑えてしまい遅滞防御をやらせて戦国軍団の
機動力を封じるって手もありなんですよ?
531 :
518:04/12/25 18:29:31 ID:???
>>530 そこら辺まで来ると将の力量のレベルになってしまうのでアレなのですが
一部を先遣させるという事は逆に各個撃破の可能性もあると言う事です。
挟み撃ちか各個撃破かこればっかりは、はっきりとした事は言えません。
襲撃による遅滞防御も場所によって結果も異なりますし・・・
ただ竜騎兵はその騎乗という性格上、継戦能力はある程度割り引いて考えるべきかもしれません。
532 :
526:04/12/25 18:37:06 ID:???
ついでにもう一点。
プロイセン軍にも散兵は存在します。
七年戦争中にオーストリア軍のクロアチア辺境兵に苦しめらたことから
それに刺激される形で編成されたライフル銃を装備した猟兵部隊がそれです。
彼らは戦列歩兵が進軍困難な、森や山岳地帯でも戦闘が可能で
個人の判断で任意の目標に射撃をすることを許可されていました。
任務としては戦列歩兵の援護や狙撃、偵察、撹乱などが揚げられます。
騎兵だけではなく彼ら猟兵部隊もかなりの脅威になると思うのですが?
日本の火縄銃がいくら命中精度に優れるとは言え、
ライフルには及ばないでしょうし。
533 :
名無し三等兵:04/12/25 18:37:09 ID:q6oCxnCc
>>529 行軍隊形と戦闘隊形を混同しているだろ
戦闘隊形で行軍する馬鹿は古今東西居ません(前衛部隊除く)
534 :
名無し三等兵:04/12/25 18:38:51 ID:q6oCxnCc
>>532 ミニエー弾以前のライフルは、発射速度が低いという欠点があるよ
なので、ライフルの命中率が高いことが知られていても、主力兵器ではなかった
535 :
526:04/12/25 18:40:44 ID:???
>>531 各個撃破がそうそう上手く行くとは限りませんよ?
先遣される騎兵の任務はあくまで偵察と遅滞防御であり、
不利になったら優越する機動力を活かして逃げるだけですから。
それでも渡河点などの緊要地形を抑えてしまえば
かなりの時間が稼げるはずです。
軽騎兵の浸透で兵站線をずたずたにされたら、戦国軍もどうしようもない。
有力な敵軍が背後に現れたとなれば、全軍の士気にもかかわってくる。
538 :
526:04/12/25 18:43:51 ID:???
>>534 確かにライフルは猟兵や狙撃兵などの特殊な任務を帯びた特殊な装備ですが、
それがどうかしたのですか?
猟兵がまったく脅威にならないとでもおっしゃるつもりなんですか?
539 :
537:04/12/25 18:44:48 ID:???
540 :
526:04/12/25 18:47:47 ID:???
すいません、
>>538に訂正箇所があります。
>確かにライフルは猟兵や狙撃兵などの特殊な任務を帯びた特殊な装備ですが、
↓
>確かにライフルは猟兵や狙撃兵などの特殊な任務を帯びた部隊に
配備される特殊な装備ですが、
今度からはもっとゆっくり落ち着いて書くことにします。
541 :
名無し三等兵:04/12/25 18:52:02 ID:q6oCxnCc
>>538 二者択一を強要するのは止めて下さい
ライフルは確かに有力な兵器ですが、欠点も数多いと指摘しただけですがなにか?
542 :
518:04/12/25 18:55:05 ID:???
>>533 戦闘機動の事ですよ、私が言ってるのは。
>>535 そこら辺は完全に状況次第ですから明言は避けたいです。
ただ、上手く行く可能性も有りますが行かない可能性も十分有ります。
543 :
526:04/12/25 18:55:07 ID:???
>>541 すいません。これは確かに私の勇み足ですね。
戦場はどこだ?当然日本側がホームだろうな?
戦国時代の日本の諸国軍はそのように編成されているから。
546 :
526:04/12/25 19:08:51 ID:???
>>542 >そこら辺は完全に状況次第ですから明言は避けたいです。
>ただ、上手く行く可能性も有りますが行かない可能性も十分有ります。
状況次第、ってことは戦略的機動力に優る戦国軍団優位って
断言してしまったあなた自身の
>>518のレスと矛盾してしまっていますよ。
それと、プロイセン軍の猟兵の脅威についてはどう思うのですか?
戦列歩兵の前面にはそれを援護する形で
猟兵が配置されていると思われるのですが?
547 :
518:04/12/25 19:19:37 ID:???
>>546 そりゃあなた、この手の優位云々は固定要素ですから、いちいち変数を
計算に入れたらきりがありません。
平原の会戦に乗るようなのが戦国武将にいるとは思えません。
とっとと側面迂回なりして衝くでしょう。
それともその日は後退して夜襲というのもありですね。
548 :
526:04/12/25 20:00:41 ID:???
>>547 >側面迂回なりして衝くでしょう。
プロイセン側に猟兵が存在する時点で
森や山岳を移動したところで一方的な優位はなりたちません。
>その日は後退して夜襲というのもありですね。
敵前から後退するというのはとても難しいです。
上手く後退できる可能性もあることはありますが、
下手をしたら、それこそ抜刀突撃を旨とする胸甲騎兵の出番です。
だんだん不毛な泥仕合じみてきたな
550 :
518:04/12/25 20:15:21 ID:???
>>548 単純な戦力差を勘案してみては?
また近接戦ならライフルの射程も無意味です。
敗走ならともかく、戦力を十分保持したまま後退する敵を騎兵だけで追撃ですか?
結果は火を見るより明らかかと。
それ以前に偵察で敵前よりも離れた場所で後退を決断するでしょう。
551 :
526:04/12/25 20:27:11 ID:???
猟兵はあくまでも戦列歩兵の援護が任務です。
別に猟兵だけで戦うなんて言っていません。
この場合では側面を突こうと移動中の部隊に攻撃をかけて
これを混乱させ、移動を遅らせることが任務です。
そうしている間に戦列歩兵は側面の敵に向きなおることができるわけです。
それに騎兵の件ですけど、あれはあくまでも「下手をしたら」です。
軍隊のあらゆる行動のなかでも、後退はもっとも難しく、計算に基づいた
後退であったはずのものが、しばしば収拾の付かない敗走に
転じてしまうことも古今、多々あります。
ついでに言うと、戦う前から後退しているようでは
兵の士気に関わります。
なるほど、猟兵は槍兵に当たる訳か。
553 :
518:04/12/25 20:54:14 ID:???
>>551 それができるだけの数がそしてその間に戦列を転回させるだけの
時間があるでしょうか?
戦国軍はそれこそ1部隊丸々突っ込んでくるのです。
乱戦は基本的に数で決着するものです。
こちらも夜襲をかければ帳尻は付くでしょう。
それよりも相手の得意とする戦場へ行けと言われる方がよっぽど
士気には影響するかと
>>537 1580年代に至って日本全国の鉄砲保有数は80万丁を超え、
世界の鉄砲の総量の3分の2を占めるに至った。
全てが戦闘用であったわけではないが、
当時の日本全国の動員可能兵員数は、約90万人と言われており
大変な数であったことがうかがえる。
日本の鉄砲は同時代の西洋・トルコの鉄砲と比べ威力が高かった。
欧州の宣教師は威力、命中精度、装填速度など、
日本の鉄砲が欧州製の鉄砲より遥かに優れていると認めている。
有効射程距離は同時代の欧州の銃より長かったらしい。
装填を早める為、火薬と弾を一緒に実包した簡易薬莢の「早合」も生み出され、
装填速度は30秒に一発から15秒に一発と短縮された。
同時代のオランダにおいても簡易薬莢は存在していた。
鉛弾は命中すると大きく変形するため、
戦闘において一般的に使用される口径である中筒でも、
腕に当たれば腕がちぎれ、
首に当たれば首が取れかける程の殺傷力があったそうだ。
日本の火縄銃はエスピンガルダ(鳥銃)であり、
欧州の銃砲のように肩付銃床が付いた銃は遂に普及しなかった。
>こちらも夜襲をかければ帳尻は付くでしょう。
つまり日本側の攻撃は常に奇襲、夜襲が決まるので戦国軍最強!
ってことですね。
プロイセンやその他西洋勢が戦国武士団相手に奇襲、夜襲を掛けることは不可能
その裏を欠いた運用で逆手にとられると。
戦略機動の優秀さだけでそれは全て説明できるという事ですね。
勉強になりました。
戦国時代の鉄砲装備率は、
武田家で全軍の7%(永禄5年〜天正6年軍役伏)、
織田家は長篠の戦いで12%、慶安2年の徳川家で16%であり、
関ヶ原時の東北戦役では伊達家などは全軍の40%が鉄砲を装備していた。
同時代のイギリスでは全国で2千数百丁の鉄砲しか保有していなかった。
>1580年代に至って日本全国の鉄砲保有数は80万丁を超え、
>世界の鉄砲の総量の3分の2を占めるに至った。
>全てが戦闘用であったわけではないが、
>当時の日本全国の動員可能兵員数は、約90万人と言われており
戦闘員ほぼ全てに1丁行き渡りますね。
>>555 言う事はもっともですが、
皮肉っぽい話方はせず、フェアに議論をするべきです。
2ちゃんねるの中でもこのスレはマナーが良い気がするので・・・
2ちゃんでフェアってw
大砲の普及を考えると、火力でヨーロッパに勝っているとはいいきれないのでは?
戦列艦一隻あたり100問だっけ。
>織田家は長篠の戦いで12%、慶安2年の徳川家で16%であり、
>関ヶ原時の東北戦役では伊達家などは全軍の40%が鉄砲を装備していた。
国内に80万丁も鉄砲がある事からすると大名や武家の鉄砲の保有数は寧ろ
少なすぎますね。
朝鮮の役でも明軍の大砲に相当苦戦したみたいだね
九州では仏郎機が国崩しっていわれて大活躍したのに
なんで普及しなかったんだろ
>>563 重い、(国土が)狭い、(炸裂弾がまだ無いので効果が)薄い
攻城戦には使われましたが、野戦で使用するには大幅な軽量化が必要でしょう。
565 :
526:04/12/25 21:52:08 ID:???
>>553 時間が無いと言い切れるだけの根拠はあるのでしょうか?
練度が高く散開しながら長射程のライフルで
戦う猟兵を掃討するのにはかなりの時間が必要だと思うのですけど?
近接戦闘に持ち込むのも難しいでしょうし。
>>562 確かに。1560年代半ばの50万丁でもこの装備率は少ないと思う。
兵農分離が進んでいなかったとはいえ、狩猟や農民の保有する鉄砲の量が
全体量にそこまで大きく影響するほど多いとは思えない。
567 :
518:04/12/25 21:54:54 ID:???
>>555 いや、ほれ、だって戦列って会戦に最も適したものですから。
真っ暗な中で戦列組んでしかもそれを崩さず移動させるなんてできませんって。
そんな訳で、負ける事は無いが勝つにも簡単ではないと言う所で落とし所を
戦術面で日本が劣勢なのは否めないような・・・
569 :
518:04/12/25 22:02:47 ID:???
>>565 兵数が足りません。
散兵は士気の高い兵でなければなりませんが、当時のプロイセン軍は殆どが傭兵
しかも兵士狩りとまで言われる様な事までしてかき集められた兵士でした。
(参照:傭兵の二千年史)
そんな軍隊に大量の散兵を配するなんて不可能です。
>いや、ほれ、だって戦列って会戦に最も適したものですから
お互い斥候無しでの条件で、奇襲にも本隊同士の前提ですか?
571 :
○V○:04/12/25 22:11:52 ID:???
50万挺とか80万挺とか景気のいい数字が並びますが、こういった数字はどういう根拠で弾き出されたんでしょうか?
鉄砲に限らず兵器というものは基本的に消耗品です
戦闘や事故による損失や損耗を考慮すれば、使用可能な鉄砲の数は恐らくその何分の1程度ではないでしょうか
銃剣の導入により重槍兵が消滅する以前の17世紀中頃、ルイ14世のフランス軍歩兵大隊において
銃兵の比率は編制で約6割、17世紀末期には7割を超え、編成では8割に達しています
太陽王は約1800万に及ぶ欧州最強の人的資源と強力な産業基盤、豊富な資源を軍備に注ぎ込み、
フランス陸軍は約30万〜40万の兵力を擁していましたが、過剰軍備が問題になっていました
一方、1600年頃の日本の人口は約1200万
当時の日本は内線を期待できるという好条件はありますが、
絶対主義政権の確立していたフランスでさえ動員兵力は2%程度であることを考えれば、
いまだ封建制の根強い日本において、動員可能兵力は希望的に見積もっても
30万を超えることはなかったでしょう
先生、米は麦より多くの人口を養えると聞いておりますが。
食料の生産効率が高ければ、農業に従事する人口の比率が減り、
軍事に回せる人口比率が増すように思います。
573 :
○V○:04/12/25 22:22:01 ID:???
米食ってるからという理由だけで1割近い動員が可能とはとても思えませんね
その代わり、日本の場合、兵農分離は進んで居らず、農繁期には農村に帰らねばなりません。
太陽王のような常備軍となれば、おそらく日本の動員規模は、ご指摘の通りに低くなると思いますが。
戦国時代は全員が散兵だったわけではないのでは。
戦国時代の合戦を書いた屏風は、多くは江戸時代のものであり
周知のように甲冑は実際と違い古風に描かれているし
研究によると、戦国時代の戦闘を忠実には描いていないらしい。
太平記や源平合戦のような個人の活躍を目立たせたものであって、かなりの改謬がされている。
長槍は密集した横隊を数列並べて、槍ぶすまを作るのがよくある隊形であった。
防御時は騎馬の突撃に対処する為に、
槍の尾部の石突という金具を地面に突き刺して、騎馬の勢いで槍が弾かれるのを防いだ。
576 :
○V○:04/12/25 22:41:56 ID:???
「雑兵物語」によれば、備の中には隊列を組んで戦う足軽と個々に戦う侍衆がいたことが
記述されています
そこら辺は公文書にないので解らないのが実際のとこです。
ただ、無い事から考えるとかなり漫然とした運用であるかと思われます。
578 :
526:04/12/25 23:09:54 ID:???
>>569 確かに散兵を大量に揃えることはできません。
ですが、だからこそ戦列歩兵の補助に用いられていた訳ですし。
けれども、時間稼ぎの任には十分堪えられると思うのですが?
579 :
554:04/12/25 23:13:26 ID:???
>>573 欧州のような常備軍と、日本の農兵の多い非常備兵主体の軍の違い。
当時の専業武士・足軽(中〜長期の傭兵)の数が合わせて約90万人ほど、
領内の軍役による徴兵や、農閑期の農民などの臨時傭兵はそれに倍する。
戦国時代の軍団構成は、例えば上杉家では武士1:3農兵であった(上杉家軍役帳)。
薩摩など、郷士により領内の総人口の4分の1以上が武士というところもあるが。
正規軍を維持し遠征軍を組むならば、兵站・輸送からして
無理をしても30万が限度だろうと思う。
全国統一が進むまでは、一毛作であった農民は冬〜夏の口減らしと稼ぎの為、
徴兵とは別に軍役に農民が志願し、それが軍の構成数の主体をなしていた。
戦国時代においては、収穫期前の早春〜初夏にかけては飢饉が多々発生し、
死亡者はその時期に集中していた(田村憲美)。
合戦が農閑期に多く行われたのはそれが理由。
戦場においては、乱取り(人身売買目的の誘拐・牛馬・金品の略奪)・苅田(敵地の作物の略取)
放火が盛んに行われており、農兵にとってはそれは大きな魅力であった。
上杉謙信が1566年に常陸・小国城を陥落させた時には、春じゅうという期間限定で
農兵達が人身売買の乱取りで誘拐した人間達を換金する市場が開かれている。
上杉謙信が、1560〜1561年に11万3000の大軍で小田原を攻めた時も、
秋〜初夏に軍を動かしており、大半が農兵であったことが窺い知れる。
秋〜初夏に兵隊にとられたら田畑は誰が世話するんだ?
女と老人
>>578 しっかりと腰を降ろして待ち伏せしているなら或いは可能かもしれませんが
両者とも移動してぶつかるという遭遇戦の場合、あっという間に突破されてしまうでしょう。
しかし、織豊期には常備軍化が進んでいたのでは?
>当時の専業武士・足軽(中〜長期の傭兵)の数が合わせて約90万人ほど、
農民兵までかき集め90万人の間違い?
585 :
554:04/12/25 23:31:58 ID:???
>>580 向こうから攻めてきたならとにかく、
基本的に農繁期は農兵は少なく、武士団、足軽、軍役兵主体で戦うことになるかと。
糧食を疎かにしては国自体の首を絞めることになるので。
また上杉家で恐縮だが、上杉謙信は遠征戦はほとんど農閑期に行い、
北信濃や北陸の近場の戦いはすぐに帰ってこれる為か、決まったパターンが無い。
織田信長は農兵主体の軍隊を常備軍主体に改めたと見たことがあるが、
そのことについて知っている方はいませんでしょうかね。
>>581 女も農閑期には農兵として戦闘員になる者もいたようで。
防衛線(特に攻城戦)女子供まで戦闘に参加する例は他の国でもありそう。
587 :
○V○:04/12/25 23:47:58 ID:???
戦国末期には兵農分離が進んでいましたが、その完成を見るのは江戸幕府以降のことで、
当時はまだ徹底されていませんね
確かに作戦期間が数日程度ならばかなりの数の動員が見込めたでしょうが、
数週間〜数ヶ月の遠征ともなれば、常備軍の存在は不可欠です
このような作戦では農兵の動員はまず期待できません
確かに幾つか例外は存在しますが、それはあくまでレアケースであって、
時期と地域に関わらず常に期待できるものではありません
織田信長は、甲斐攻略の際に、兵站上の制約から諸将に動員する者を選べと書き送っています
確かに戦利品は魅力的で、それで一山当てた兵もいたでしょうが、
それはあくまでほんの一握りの幸運なケースに過ぎません
「人口から読む日本の歴史」によれば、1600年頃の北陸及び北関東の人口は約150万と推定されています
この数字に依拠すれば、上杉の勢力圏を考慮すれば11万の大軍は恐らく総人口の1割を上回る数字です
11万という数字を信じるならば、上杉家支配下の壮丁の大半は小田原に貼り付けられていたことになります
小田原攻めに際して上杉謙信が兵の動員にかなりの努力を払ったのは事実でしょうが、
11万という数字は信頼性が高いとは言えないと思いますね
588 :
554:04/12/25 23:50:48 ID:???
>>584で言ったのは、
武士・足軽階級の総人口に占める構成数。全員が戦えるわけではないだろうし。
>>554で言った90万人は徴集兵込み。
数冊の本から引用しているので、その辺の数字の食い違いは勘弁を。
589 :
554:04/12/26 00:05:31 ID:???
>>587 当時の記録は確かに誇張が多々あるので、
確かに信用するに足りぬ部分はあります。
極端にいえば、半分であったかもしれない可能性も否定できない。
上杉謙信の12回に渡る北関東遠征は、秋〜初夏に遠征という法則性に加え、
平均して4ヶ月もの滞在をしており、
これは深刻な飢饉に喘いでいた、農閑期の口減らしと、
稼ぎの場を農兵に提供するのが目的であると言われている(栗原修)。
今で言う出稼ぎみたいなものだったようで。
略奪に関しては、組織的かつ大規模に行われており、
農兵にとって従軍の最大目的であった。
590 :
554:04/12/26 00:16:26 ID:???
武田家の甲陽軍艦によると、天文十一年(1541)十月、
信濃に侵攻していた武田軍が7日間の休養をとると、
農兵達は戦場どころか近郊の村まで出かけていって
誘拐略奪・苅田に熱中し、陣中は大騒ぎになったという。
農兵達は戦功をいくら立てようと、武士団のように土地をもらえるわけでもなく、
大名も、このような乱暴狼藉を黙認せざるをえなかったようだ。
万単位で住民が拉致・売買されることもあったという。
つまり、このような軍隊が戦闘に際しまともな戦力になるかというと
首を傾げざるを得ないわけで、
織田・豊臣の常備兵化は当然の成り行きといえる。
その体たらくじゃローマ軍団に対抗出来ないぞ。
すぐ逃げ散っちゃいそう。
592 :
554:04/12/26 00:25:17 ID:???
>>587 >時期と地域に関わらず常に期待できるものではありません
朝鮮の役など外国遠征に至っては、農兵の動員は全く期待できないわけで
農兵は国内・しかも農閑期限定のアルバイトみたいなものですかね。
上洛戦のような長期遠征にも連れていくのは難しいでしょう。
593 :
○V○:04/12/26 01:11:42 ID:???
略奪のような乱暴狼藉は何も戦国日本に限った話ではなく、
古今東西どこにでも見られた当たり前の光景です
勿論、ローマ軍団だって例外ではありません
小田原征伐時には農兵の割合がかなり低くなってたんじゃなかったけ?
国内の労働人口の5パーセントが失われると、社会が崩壊するといわれている。
これを信じれば如何がんばっても総人口の5パーセントまでしか動員できないという計算になる。
1万石で300人動員できるというデータがあるので・・・
当時の日本の総石高は1200万から1700万石。
一人当たりの生産量は1石といわれているから、労働人口は1200〜1700万人と考えられる
で、1万石に付き300人動員できるから・・・39万から51万人というところ。
大体3パーセントといったところ。
実際にここまでやると、経済的に大打撃を受けます。
>これは深刻な飢饉に喘いでいた、農閑期の口減らしと、
>稼ぎの場を農兵に提供するのが目的であると言われている(栗原修)。
>今で言う出稼ぎみたいなものだったようで。
大陸における遊牧民族みたいだな。
>579 小国→小田 だと思う。
この城は面白いことに山城じゃなくて、山のふもとの川沿いの微高地に
作られた館を戦のたびに拡大しているみたいです。それまで堀だったところを
埋めてそのまわりを掘ったり、火事で焼けた瓦礫で堀を埋めて郭を広げたり
してます。平城のほうが山城よりも自在に縄張りを変えられるという点では
有利かもしれません。
ちなみにこの城を見下ろす山にもなんか有ったらしい話はありますが
縄張りに組み込まれているかは不明なんですよね。
奴隷売買の話は藤木久志ちゅう人の本に出てきますね。
598 :
554:04/12/26 12:01:33 ID:???
>>595 全国のそれぞれの大名や豪族の可能動員兵数であって、
全員が一度に動員されるわけではないので。
出兵はそれぞれの都合ですからね。
そして、主力の農兵は(ほとんどの場合)農閑期にのみ兵であって、
農繁期には労働人口に組み込まれるわけで。
兵農分離後になると、動員兵力は大きく減少したと思う。
>>597 その通りだった。訂正します。
>>597 山椒大夫のようなお話は、その頃も現実だったということですかねぇ。
600 :
○V○:04/12/26 18:48:59 ID:???
農閑期といえども、農民の仕事がない訳ではありません
次の耕作のための田畑や水路の整備、農具の手入れもしなければなりません
領土内の労役に駆り出されることもあったでしょう
農閑期とはいえ、大量の余剰労働力が発生したとは考えにくいですね
上杉家と領土を接する武田家では、名主に規定の兵員を提供させるために
苦慮していたことを示す史料もあります
戦国時代の軍役とは、領主が領民に賦課した労働課役です
開墾や堤防、道路等の土木工事やその他の公共事業に従事させる夫役の一種であり、
領民にとって相当な苦役であったことが推測されます
もし、農民が略奪目当てで競って軍役に就いていたのであれば、わざわざ課税対象に
していたとは考えにくいでしょう
収穫期前にしばしば飢餓が発生していたということは、領土の整備が十分でなく、
そして領土整備のために必要な労働力を軍役に駆り出さなければならなかった苦境を示しています
少なくとも、口減らしのために軍事作戦を企画していたとは考えにくいのではないでしょうか
601 :
○V○:04/12/26 19:08:03 ID:???
兵農分離は、農繁期に兵力が動員できないという理由だけではありません
封建軍制の特徴に、時間的空間的制約や、安定性、永続性に欠ける点が挙げられますが、
それ以外にも提供される兵力は常に不十分な傾向にあることを挙げることができます
国土防衛戦のような無条件の根こそぎ動員を除けば、封臣は自らの保有する全兵力を
提供するわけではないので、封主→封臣→陪臣という動員のプロセスを辿ると、
実際に動員された兵力は領土内の全兵力の何割かでしかありませんでした
全兵力に対する実際の動員率は、軍事大権の強弱に左右されますが、
決して常に兵力が潤沢であったとは言えなかったでしょう
これが長期の外征ともなれば、動員率は更に低下したことでしょう
こうなると領主は軍勢の主力を自らの馬廻衆のような直轄兵力に頼らざるを得ず、
その兵力もまた大きな限界を免れ難かったでしょう
兵農分離はこうした当時の封建軍制の限界を打破する目的で推進されたものです
兵農分離の結果、動員兵力は増加しこそすれ減少することはなかったでしょう
>>600 とは言っても農村には食料はないか不十分な状態である以上、食料が実るまで何かで食いつながねばならぬ訳で。
他国に食料があるならそれを刈り取りに行こう、という意味で「口減らし」という言葉を使っているのでは?
603 :
○V○:04/12/26 19:22:48 ID:???
当時の補給は現地調達も重要な地位を占めていましたが、基本的に後方補給です
他国に攻め込んでも、攻め込まれたほうも糧食を城内に運び込んだり、自衛の手段を講じるでしょう
他国に攻め込めば必ず食を得られる保証などどこにもありません
軍事作戦の目的が、口減らしどころか人減らしになりかねません
作戦が自国から離隔すればするほど、長期間になればなるほど、
現地調達に頼り切った軍隊は悲惨な目に遭います
時代は遡りますが、建武四年の北畠勢の上洛戦がよい例ですね
604 :
○V○:04/12/26 19:28:12 ID:???
そもそも、軍事作戦における略奪の目的は、自らの食を得たり戦利品を漁るよりも、
敵の領内の経済を破壊し、治安を動揺させることにより、国力の基盤を破壊することです
足軽たちはその余禄に預かっているに過ぎません
間違っても足軽を喜ばせるために行っていたわけではありません
608 :
○V○:04/12/26 20:08:52 ID:???
>>605 軍役は強制だけど、地下人(土豪・地侍)による動員は、
村の農民を彼等が集めて参陣するもので、自主的に参加する農民も多かった。
611 :
○V○:04/12/26 20:46:14 ID:???
地下人でも封建的主従関係を結んでいれば軍役の義務を果たさなければなりません
封建制は封地を介在する軍事的主従関係の成立を意味します
確かに自主的に参加する農民もいたでしょうが、それが多数派だとはとても思えませんね
常に大量の農民が自主的に参加してくれるのならば、兵農分離の必要性もありません
>600
うむ。
それに戦時に集められた兵士達には給与というか食料が与えられた。
これ目当てで戦に行く奴も少なからずいたという話。
(普段、雑穀のぞうすいしか食べられないのが、戦場では白米が支給される)
えーと、足軽だと1年間の禄にすると1石強。
仮に一年拘束すると、
この一人の足軽が農作業その他で1年間に1石稼ぎ出すのに対して(生産1)
一年間で1石強消費する立場になってしまう。(生産0+消費-1)
つまり、一人動員すると、生産量が2石減ることになる
その人が4ヶ月動員で、残りの8ヶ月の農期に1石稼ぎ出せる優秀な人だとすると
生産力は2/3の低下程度に抑えられるけど…
(つまり4ヶ月遊んでいるより、戦に出たほうがいいやーって人の場合)
それに戦争時は食料だけではなくいろいろと消費するからね。
5パーセント以上動員すると、余剰生産力以上のものを消費することになっちゃうだねぇ…
農閑期の口減らしのために出兵って言ってる人たちは
藤井久志氏の本の中から丸写しっぽいね
口減らしならば、壮丁減らしてどうするさ
普通、口減らし対象になるのは労働力となりにくい老人や女子供が先だろ
藤木久志の説も面白いが他に口減らし云々言ってる人はいたかな?
たしかに藤木本はここ10年の戦国関係の書籍で
もっとも従来の戦国観を覆したもののひとつだけど
学術的な信憑性はどうなんだろう?大学の講義の参考資料には結構でてくるけど
>>590 >>613 永禄十二年の甲斐武田家の軍役状(信濃史料十四巻三三八項)抜粋
知行役の被官のうち、物持ちとか武勇の人を除いて、百姓、職人、神主、
幼弱の者など連れて参陣するのは、持っての他である
とありますね。甲陽軍艦の農兵というのは地侍、郷士といった半農半士では
甲陽軍艦の武田晴信の初陣のエピソードも創作ですし、
天文、永禄年間の甲斐武田家の比較的価値が高い史料としては
妙法寺記、神史御頭日記、高白斎記、などがあります。
田畑を分けて貰えない次男坊、三男坊を指して言ってるんじゃないの? >口減らし
働き手は幾らでも欲しいけれど、土地は限られているもの。
土地を子供全員に等しく分け与える訳にはいかないもの。
そうすると次男坊、三男坊は小作になるか、村を出るしか方法がないよ。
いや、藤木久志が言ってるのはそういう意味での口減らしじゃない
秋から翌年の春にかけて食糧が不足するからその分の人口を兵員として外地に連れていったり
食糧や資源の再生産が外地における定期的な略奪によって賄われていたと主張してる
それを国に持って帰ることによって経済を成り立たせていたと
主に謙信時代の越後を例にしてね
>>621 はぁ、つまりは農民のレイオフですか。
養う見込みの立たない時期は、他国の戦場で食わせるという。
>それを国に持って帰ることによって経済を成り立たせていたと
>主に謙信時代の越後を例にしてね
特殊な例だろ。ゼロサムって言葉しってる?
624 :
○V○:04/12/28 00:50:44 ID:???
どう好意的に考えても、略奪による戦利品程度で外征のための戦費や戦争によって生じる内政的外交的な損失、
兵站への負担、人的資源の損失その他諸々のコストを埋め合わせるだけの利益があるとは思えません
略奪というのは、成果の予測が困難でしかも常に確実な利益も見込めません
普通、略奪行というものは少兵力で小出しにやるもので、堂々と大軍勢を連ねて行うようなものではありません
略奪のみを目的に軍事作戦を行うより、その努力を内政の充実に向けたほうがはるかに合理的です
戦争での略奪は当たり前の光景ですが、それを戦争目的に直結させる見解はいささか乱暴ではないでしょうか
625 :
○V○:04/12/28 01:03:08 ID:???
上杉謙信が何度も外征を行ったという事実は、隣国との対立のために
国内の人的物的資源を戦争に振り向けざるを得なかった上杉家の政治的苦境を
示しているに過ぎません
もし、上杉謙信が領民の口減らしのために意図的に隣国と緊張状態を作為して
戦争を仕掛けていたとすれば、そのやり方はいかにも拙いと言わざるを得ないでしょう
藤木久志vs2ちゃんねらになってきたなw
ロシアの南下政策みたいなもんと違うの?
上杉は南下政策が大前提としてあり、
主として食料生産の限界から農村の余剰人口を消費する必要があり、
人口を失うデメリットより、領国拡張のメリットの方が大きいと判断され、
それで農村の無駄な人口率いて南に出ては戦争してたのと違うの?
南に存在する隣国の感情云々は二の次と違うの?
628 :
名無し三等兵:04/12/28 02:10:29 ID:iPh79+FH
よく余剰人口整理のための戦争なんて言い方をするけど、
そんなのは素人考え。
戦争に頼らなくても、間引き・堕胎による人口調整によって均衡は図られる
629 :
名無し三等兵:04/12/28 02:15:30 ID:/7UJ6kl/
NHKスペシャル見ててローマ時代って相当豊かな時代だと思っていたけど
実は大部分を占める庶民の生活はそれほど楽ではなかったらしいですな.
ただ常に30万人の兵力を保持していたところと,皇帝が元老院や市民に
不評だったらすぐに殺されてしまうところがすごいと思った.
漏れは藤木派
>>624 >内政的外交的な損失・・そこで「大義名分」でつよ。
>兵站への負担・・・・・そこで「現地調達」でつよ。
>人的資源の損失・・・・そこで「戦争の天才」でつよ。
越後の貧しさを舐めてはいかん。
今でも関東に出稼ぎに逝ってるだろうしね。
不作の年は、「関東に出稼ぎ」か「餓死」かの二者択一。
>>628 藤木教授が言っているのは、戦で余剰人口殺すというわけではなく、
食料が不足する時期に兵を他国に駐留させて国の食糧難を解消しようって意味。
収穫の季節には帰ってくるわけだ。
藤木説でも、「定量的な証明」は当時の資料から困難だと思われるが
とかく空想的な従来説の上杉家の戦争目的に、一定の経済的な合理性を
見ることができるのが魅力だよな。
635 :
628:04/12/28 03:14:10 ID:iPh79+FH
じゃあ、日本や中国で平和な時代が続いていた頃はどうやって人口を調整していたの?
江戸時代には「子供は3人まで」という考え方が浸透していたし、開墾や移民も盛んに行われてた
>>635 図らずも藻前が言った通りw。
織豊政権と江戸幕府の成立を経て、貨幣経済や各種技術が全国に普及するに
及び、開墾や手工業によって余剰人口を吸収できるようになった。
室町時代末期では、それが困難だったので、別の「ビジネス」を行う必要が
あった。以上?
>>635 中国の人口調整はさぁ・・・・有名じゃないか?w
陳勝呉広とか、黄巾の乱とか、黄巣の乱とか、紅巾の乱とか、太平天国etc.
殆ど全部が全部、食を求める流民の大移動でつ。
638 :
○V○:04/12/28 06:04:02 ID:???
略奪のために戦争してたという説も十分に空想的だと思いますが
クックック
もめろ もめろ
クックック
だから上杉の例は特殊な例だろ。
戦国武士団の一般的な例とは違うだろ。
>陳勝呉広とか、黄巾の乱とか、黄巣の乱とか、紅巾の乱とか、太平天国etc.
>殆ど全部が全部、食を求める流民の大移動でつ。
国土の荒廃が加速し人口の減少もより進んだけどな。
642 :
○V○:04/12/28 07:51:19 ID:???
>人口を失うデメリットより、領国拡張のメリットの方が大きいと判断され、
略奪分捕で領土が拡張するとは考えにくいですね
藤木説の主張によれば、上杉謙信は食を求めて周辺国を荒廃させてるだけです
国ぐるみで山賊や盗賊をやってるようなもので、国盗りとは程遠い
>江戸時代には「子供は3人まで」という考え方が浸透していたし、開墾や移民も盛んに行われてた
一姫二太郎。女は一人、後継ぎの男子は予備を入れて2人。
>>642 上杉はバトルオブブリテンを戦っていたようなものだろ?
農繁期の縛り・冬季の越境の困難さという二つの障害に妨げられて占領地の維持が出来ず、
結果として無意味な出撃を繰り返すことになってしまったが、
本来なら、百人の兵力損失と引き替えに城一つ獲得、という領国切り取りをやってたんじゃないの?
結果そうなった事と上杉がやろうとしていた事の線引きくらいは引いた方がいいのでは?
646 :
621:04/12/28 12:31:32 ID:???
>>623 藤木久志はこう主張してると言ってるだけだよ
全面的に支持はしてない
だから
>特殊な例だろ。ゼロサムって言葉しってる?
こう言われてもなぁ、藤木久志に言ってくれとしか言えん
最近じゃ藤木説を弥生時代に当てはめようとする人も居るんだよな…
647 :
○V○:04/12/28 16:30:22 ID:???
兵1名の1日当たりの糧食を1kgとすると、兵1000名を1日動かすだけで1トンの糧食が必要です
上のほうで「上杉謙信が、1560〜1561年に11万3000の大軍で小田原を攻めた時も、秋〜初夏に軍を動かしており」
と書かれていますが、上杉勢11万3千を食わせるためには1日で113トン、動員期間を3ヶ月とすると
約1万トンの糧食が必要です
この数字はあくまで希望的観測に基づいた兵站所要であり、戦闘や事故による損失分や
士分の乗る騎馬や荷駄用の駄馬の糧食も含めればもっと多くなるでしょう
このうち一部は領国から携行していたでしょうが、遠征の目的が敵に食を求めている以上、
大部分は敵地で調達しなければなりません
上杉勢は敵軍と戦いながら、これだけの膨大な糧食を探し出し、集めて輸送し(勿論敵地ですから護衛つきで)、
分配しなければなりません
もし必要分の糧食を調達できなければ遠征軍は崩壊してしまうでしょう
上杉謙信が略奪目的に軍を動かしたという主張には無理があると言わざるをえません
戦争には略奪が付き物です
敵地に遠征した軍が全く略奪しなかった事例を探すほうが難しいくらいです
ですから、略奪があったという事象を捉えて、それが戦争の目的だったと主張するのは
いささか無理があります
謙信は遠征で1年近く敵地に滞留することも何度かあったけど、
どうしてそんなに国を空けていたのだろう?
幕府から任命された関東管領という大義名分の為、だと思います
北条氏に追われた関東旧上杉系武将から、依頼があれば冬でも関東まで出兵する
関東出兵は生涯で17回も
戦術では名将でも、政治、戦略的にはどうでしょう
有名無実な関東管領という職が、京に上る唯一の障害だったのではないでしょうか?
>>649 戦術でも名将かな?
第四回川中島なんて、妻女山への布陣はミスだと思う。
茶臼山に信玄が布陣した時点で補給線が断たれる危機に瀕していたし。
ミスしたのは信玄のほうじゃないの?
啄木鳥の戦法とか
何万という単位で「掠奪行」だけを行った例なんて、私も知らない。
一番古いタイプの戦争理由は食料の獲得なんだが、単純な「食料の獲得」ではなく
「食糧を生産・採取できる土地」の獲得なんだわ。
民族の大移動とか言われているのがそれだわな。
別の土地に住んでいた人たちが、何らかの圧力から別の土地に流れていって、
それまでそこに住んでいた人たちを排除して住み着くの。
単なる掠奪だと、悲惨なことになる。
外地でただ掠奪して戻るということをするとだ、
・食料が足りないので隣の土地に掠奪に行く
・食料掠奪。
・その地の備蓄食料がなくなり、その土地に住む人口が低下、もしくは居なくなる(餓死・病疫)
・人がいないので、生産力低下、もしくは0
・次の年、掠奪に言っても去年ほど収穫がない。もしくは0。
・更に人口低下
というスパイラルに落ち込む。
大概のところでは略奪行為は禁止されているはずなんだけどなぁ。
略奪行為=土地の生産力の低下
だから。
為政者にとっては兵士の略奪行為は頭の痛い問題なのよ。
なかったとは言わんよ。 なかったら禁止されるはずないもの。
それに近代まではヨーロッパでの戦略目標の多くは各土地にある穀物備蓄拠点だったからなぁ。
653 :
652:04/12/29 05:10:05 ID:???
>もし必要分の糧食を調達できなければ遠征軍は崩壊してしまうでしょう
これ、ナポレオンタイプの遠征軍だわ。
ナポレオンも消耗品はなるべく持参したけど、進撃速度を維持するために現地調達という手段にでてた。
(現地の穀物貯蔵庫は重要な戦略拠点だった)
これがうまくいかなくなると、軍が一挙に崩壊する。
ロシアでの失敗の大原因となっている。
ただ、これは、進撃速度を維持するためであって、食料目当てで戦争していたわけではないので注意。
元のホラズム討伐 高麗討伐、略奪暴行は酷かったみたいだね。
ホラズム討伐では問題のあったサマルカンドは廃墟、ホラズム王子を追って
アフガニスタン〜インダス河まで各地で蛮行をしたとか
宰相耶律楚材がだいぶ諫めたらしいが
高麗討伐では江華島に逃れた高麗政権は、あまりにも住民が殺されるので
主戦論の崔氏を倒し後の元宗がフビライと直接会って、元に降伏したとか
十八史略に書いてあったな
>654の補足 十八史略によると高麗では住民20万人 蒙古軍に殺されたそうだ
>>650-651 どっちもどうなんだろうね。戦略面だと
山奥で名人戦をやってる間に
織田、徳川といった新興勢力が拡大されたからね。
武田は後に今川を倒し東海道に出てくのがだいぶ遅れたし
上杉は北陸から北に向かう巨大になってしまった
織田と対決しなければならなくなったしね。
657 :
○V○:04/12/29 09:06:02 ID:???
モンゴルの占領政策は抵抗する奴は文字通り皆殺しというシンプルな支配哲学に支えられてましたからね
こんな無茶を慣用的にやってたのはほとんど他に類を見ません
658 :
554:04/12/29 22:36:00 ID:???
寺社や村における禁制・制札は、兵士の乱暴狼藉を防ぐためのものだった。
上野の長年寺では武田信玄の略奪から寺を守るために、
永禄四年と六年の二度に渡って武田家から制札をもらい
箕輪城を攻撃してきた武田軍に対して禁制の札を掲げて狼藉を防いだ(長年寺文書)。
先にあげた永禄九年、上杉謙信の常陸・小田城攻撃時の場合、
城下では謙信の指示で、誘拐してきた人間を
一人当たり二十〜三十文で換金する市場が開かれた(別本和光院和漢合運)。
これは謙信が組織的な人身売買の場を設けていたということである。
彼らの多くは奴隷として売買され、
身寄りがあれば身代金を払って帰されることもあった。
最も悲惨な略奪が行われた地域の一つである九州では、
乱取りされた住民は南蛮人に奴隷として売られることもあったという。
一週間後あたりにまたレスします。
本州で上杉以外の例は無いのか?
織田信長、秀吉に関連したドラマでよく見る
伊勢長島本願寺派の殲滅作戦は?
老人、女、子供が座って手を合わせてお経読んでるのに、
織田兵が平気で火をかけたり、槍で突くシーンドラマでよく見る
これほんとなの?
確かに戦国時代に組織的な奴隷売買があったのは確かだけども…
(海外への奴隷の輸出があまりにもひどすぎたため、秀吉が奴隷制度の廃止を命じている)
ただ、奴隷狩りのために戦争を仕掛けるというのは…
労働力の確保という意味において奴隷狩りというのは古来からありましたが…
えーと、確か古代ローマは
・Aという国を滅ぼしてその国の民を奴隷化。
・Bという国を滅ぼしてその国の民を奴隷化、その後Aの国民を移住させ生産に従事させる。
というのを繰り返して国土の拡大を図っていたという話。
基本的に、労働力とその労働力を使う土地をセットで手に入れないとお話にならん。
というか、奴隷を手に入れてそれを売るにしても買い手は誰?という話になるし…
口減らしに戦争しかけるくらいだから、労働力を手に入れてもそれを養うだけの土地もないだろうし。
他所の国だって似たようなもんだろうしなぁ・・・
>>647 つうか、話が逆だろ。
それだけ膨大な量の物資を、上杉が組織的に越後から運んだソースを、まず示す
べきだろうな。兵站組織が見出せなければ、「現地調達」しか考えられない。
だいたいなぁ。小田原包囲における同盟軍を含めて11万人という数字を
食わせられる食料なんて、そもそも越後本国にないぞ。ざっくり30万石として
春日山と小田原との距離を考えると、3千すら怪しい。
といって、それほど強い影響力を行使できたとも思えない同盟軍・反北条派が、
自領で遠征の物資を負担したとは考えにくい。
関東八州で豊なのは、今も昔も穀倉地帯の武蔵と、海がある相模。
上杉も北条も、ここから徴発しなければ、数万規模の大軍なんて組織できない。
仮に、小田原遠征の兵站が上杉の本国・越後からの「持ち出し」だったとすると、
それほど強力な兵站組織をもつ上杉が、何で北陸や信越方面の作戦では1万未満の
軍団しか動員できなかったのか説明がつかない。
>>652 >何万という単位で「掠奪行」だけを行った例なんて、私も知らない。
中国4千年。枚挙に暇がないけどねぇ?
河南一帯の「官営の穀物倉庫」を争って戦争やってるだろ。
>外地でただ掠奪して戻るということをするとだ、
ローマ史で、無数にあるけどね?
蛮族がドナウ渡河→境界のローマ軍撃破→ギリシア北部で略奪三昧→
略奪物資と奴隷のため行軍速度低下→増援ローマ軍に補足される
→撃破され自らが奴隷に
パターンでしょ?
近代に近くなった神聖ローマ帝国の三十年戦争ですら、各傭兵隊長の「現地調達」
は有名だけどな。
最大の軍団を組織できたヴァレンシュタインの秘密は?
敵領内からの「徴発」。このころは、貨幣経済の発展に伴い少しスマートに
なって、「軍税」という形で徴発してたみたいだけどな。
拒んだ城塞都市については昔ながらのやり方が適用された。
>>661 というか、奴隷を手に入れてそれを売るにしても買い手は誰?という話になるし…
行軍の後に、ゾロゾロ奴隷商人がついてきたらすぃよ。
上杉謙信の11万は、関東の同盟軍と合同しての数字。
関東管領ってまだ威光あったんだよなぁ……。
ただ、位は高くとも、肝心の謙信が、
馬上で迎えた豪族を平手打ちして敵に寝返らせるとか、こらえ性のないとこがあってなぁ…
スレタイ熟読し、本題に戻るべし
スレタイからは外れても、良レスがほとんど
669 :
○V○:04/12/31 09:47:56 ID:???
>兵站組織が見出せなければ、「現地調達」しか考えられない。
備の成員の3割強は段列要員です
戦国時代の軍隊は直接支援型の兵站組織を有しています
>だいたいなぁ。小田原包囲における同盟軍を含めて11万人という数字を
>食わせられる食料なんて、そもそも越後本国にないぞ。
だいたい私は11万なんて数字自体がひどい誇張だと思っていますがね
そんなことをしたら上杉領内の壮丁は払拭してしまいます
11万という数字を挙げたのは上杉謙信が略奪目的で出兵していたと主張している
>>579さんです
670 :
○V○:04/12/31 09:55:04 ID:???
第1次総司令官時代のヴァレンシュタインの軍税は、占領地のみならず
皇帝直轄領を除く帝国領のほとんど全土に及んでいます
つまり、彼が最大10万の野戦軍を維持できたのは、現地調達だけでなく
後方補給も併せて強力かつ組織的に行った結果です
>663
>中国4千年。枚挙に暇がないけどねぇ?
>河南一帯の「官営の穀物倉庫」を争って戦争やってるだろ。
これは中国だけには限らんよ?
近代に至るまで、食料集積地は重要な戦略拠点。
現地調達による軍の維持はもちろんのこと、敵に対して食料を渡さないことが重要な意味を持っていたからね。
だからといって、食料を目的に戦争していたわけではない。
あくまでも自軍の維持と敵軍に対する戦略的圧力をかける手段として行われた。
目的は食料ではなく、あくまでも土地の占領。
>ローマ史で、無数にあるけどね?
あくまでも結果論。
目的は豊かな土地であって、その途上での略奪行為。
指揮官が盆暗すぎると、目的と手段が入れ替わって自分の首を絞める結果になる。
あと、現地調達が掠奪によってのみ行われているような書き方が多い気がするんだけど、
現地調達は、貨幣や貴金属を使った「購入」の方が多い気がするんだけどね。
当時の武家経済は「米本位制」で、収入=米の取れ高だったわけで、これは江戸末期まで続いている。
武士はすべて米の現物支給が給料だったわけ。
で、これでどうやって暮らしていたかというと、自分たちで食べる米以外を
商人に売って現金に替えて各種費用に当てていた。
これは戦国時代も同じで、具足をそろえるにも武器をそろえるにも一旦米を現金化した後、それで購入している。
遠征時は地元からも食料を運ぶけど、現地の購入(当然その土地の米商人)も大きい。
たとえば、食料をはじめとする消耗品は配下の各家(寄親)が各自で準備していたんだけど、
織田信長はそれをやめて、戦を起こすたびに配下から、現金を徴収して、その現金で織田家が一括して消耗品の準備をした。
で、その集まった現金が、消耗品購入額より多かったものだから、戦するたびに金持ちになるという馬鹿なことが発生した。
羽柴秀吉がその経済力を使ってさまざまな計略を行ったのは有名な話。
>>672 購入といえば聞こえはいいけど、ディスカウント要求は厳しかったろうなぁ……。
そういや、領内の米を買い占めて侵攻軍をてんてこまいさせるってやり方した武将が居た気がする。
>>669 >備の成員の3割強は段列要員です
>戦国時代の軍隊は直接支援型の兵站組織を有しています
いわゆる「荷駄役」を「段列」と見なすの?そりゃ大胆すぎる。
戦国時代の軍役は家単位で、鉄砲・騎馬・槍・弓の戦闘要員は、主家の統制を
受けていたけど、荷駄やその他人夫は、各豪族の自主裁量でしょ。
その実態も、物資の連続的な「定数補給」というより、馬車あるいは人力で担げる
量を「携行」するわけで、これを「段列」と呼んで良いもんかね?
敵地に入ってからも、勤めて自前の物資は消耗せず、略奪に努め「利益」をあげる。
戦いに強く、たくさん略奪の機会を与えてくれるのが良い主君。
「信玄公おかげで、略奪により甲斐の家々は豊になった、という記述が甲陽軍鑑
にある」、藤木説はこんな感じでしょ。
NHKの大河ドラマバリの「美しい大義名分」説よりも、藤木説の方が武田軍の士気の
高さの説明として、経済的な合理性があると思うね。
>>670 >つまり、彼が最大10万の野戦軍を維持できたのは、現地調達だけでなく
>後方補給も併せて強力かつ組織的に行った結果です
いや、それは、つまり味方のカトリック勢力の土地にも「勝手に」軍税を
かけたわけで。失脚の一因として有名でしょ。
ヴァレンシュタインの「軍税」を「後方補給」とする分類は、初めて見たw。
>>671 >目的は食料ではなく、あくまでも土地の占領。
程度の問題だけど、中国の各動乱期において、河南が争奪の的になるのは
土地よりも食料そのものが主目的でしょ。
河南も、そこそこ豊な土地だけど、土地からの収穫量では何十万人の軍隊と、
それをささえる何百万人の農民の口を満たすのは無理。
まして、軍靴の交差点だから、動乱の早期に荒廃する。
生産量を重視するなら、もっと南の穀倉地帯を狙うだろ。
それにも関わらず、明朝以前では長江以北からしか統一王朝が誕生していない
のは、兵の精強さに加えて、官営の食料倉庫を押さえることがポイントに
なっているからだよ。実際、史書でも争奪に関する記述があるだろ?
>>671 >目的は豊かな土地であって、その途上での略奪行為
農耕に関心が無い「狩猟民族」や「遊牧民族」の存在を忘れているんじゃないか?
特に原始のゲルマン民族は、農耕に対し嫌悪すら感じていたと「ガリア戦記」にも
あるだろ。そういう連中が、ローマに侵入してくるのは、土地が目的ではない。
>>672 >羽柴秀吉がその経済力を使ってさまざまな計略を行ったのは有名な話。
だから、問題の本質はそこなんだよ。
織豊政権の登場に至って、商権の保護によって、略奪に頼らずとも大規模な戦争を
遂行できる勢力が出現したってこと。織田・羽柴は特殊であり、それが強さでもあった。
「略奪ベンチャー企業」の武田や上杉が消えていったのは、ある種の歴史的必然。
江戸時代の大名家は、すべからく貨幣経済を重視する「織田・羽柴」標準モデルの
大名だったってこと。だから戦争に依存せずとも領国の富強化ができたってこと。
近代的な「補給」が登場するのは、早くてスペイン継承戦争、本格的なのは
ナポレオン革命以降「師団制」が定着してからと見なすのが一般的なんじゃ
ないの?
補給の手順は、
@軍隊の運用を考える A作戦計画の各段階における補給所要を算出
B備蓄すべき物資の量と輸送手段・タイミングを計画する
C補給組織(いわゆる段列?)を編成し、作戦の進展に伴い補給業務を遂行
で、要は一元的な軍隊の編成・作戦が可能な体制でないと無理だってこと。
日本の戦国時代は、軍の編成自体、家単位だし、そもそも自軍の戦力すら
集まってみないと分からないのが実態でしょ。
近代以前では、例外はローマで、かなり計画的な補給をやっていた。
中世以降、それが廃れて歴史の彼方に忘却された。ルネサンス期になって、古典
研究が盛んになり、ローマの軍制が再びスポットを浴び、失われていた概念が
蘇った。そして今日に至る、と。
680 :
679:05/01/01 11:51:33 ID:???
>>679 訂正:「ナポレオン革命」 → 「フランス革命」
アレクサンダー大王の遠征では、本隊に先立って現地勢力と交渉をする部隊が
先発していたという本があったと思う。馬を使って食料を携行しても
続かないから、先発隊が先々の勢力と交渉して食料を確保してから本隊が
動くという話だった。
682 :
○V○:05/01/01 13:34:22 ID:???
>いわゆる「荷駄役」を「段列」と見なすの?そりゃ大胆すぎる。
備の荷駄のみならず、全軍の兵站を統括する荷駄奉行という役職もありますが
荷駄が段列ではないとは大胆ですな
>荷駄やその他人夫は、各豪族の自主裁量でしょ。
上杉では備の荷駄はその備を構成する士分から提供されていますが
>NHKの大河ドラマバリの「美しい大義名分」説よりも、
誰がそんなことを言いました?
そもそも、上杉家が略奪目的で小田原攻めに11万3千の兵力を動員したと主張しているのはそちらです
そちらこそ、膨大な兵站物資を現地調達のみで賄っていたというソースを示すべきでしょうね
現地調達を行った兵站組織が見出せなければ、「現地調達」とは考えられないでしょう
それと、士気高揚のために略奪を行うことと、略奪のみで軍隊を維持することとは全くの別次元です
683 :
○V○:05/01/01 13:40:03 ID:???
>いや、それは、つまり味方のカトリック勢力の土地にも「勝手に」軍税を
>かけたわけで。失脚の一因として有名でしょ。
皇帝の許可を受けて行っていたことを「勝手に」とは言わないと思いますよ
また、それが第一次総司令官時代の失脚の一因とはとても思えませんがね
彼が失脚した最大の理由は皇帝の絶対主義政権の確立とそれに抵抗する
領封諸侯の軋轢の結果です
>ヴァレンシュタインの「軍税」を「後方補給」とする分類は、初めて見たw。
軍隊の作戦地域外の、しかも占領地や敵地ではなく自領からの補給が「後方補給」ではないという意見は
私も始めて見ました
684 :
○V○:05/01/01 13:47:48 ID:???
>特に原始のゲルマン民族は、農耕に対し嫌悪すら感じていたと「ガリア戦記」にも
>あるだろ。
古代ゲルマン民族には農耕共同体の概念や農耕儀礼が見られることから、
最近ではゲルマン民族は農耕民族であったとする説が主流ですが
>677
>農耕に関心が無い「狩猟民族」や「遊牧民族」の存在を忘れているんじゃないか?
モンゴルやイスラーム圏の軍隊はいわゆる「遊牧民族」だけど
農耕にまったく関心がなかったわけではない。
農地とそこから発展する都市からは莫大な富が徴収できる。
(掠奪ではなくて税として徴収する)
だから、ただ掠奪に走るようなことはしない。
一時的な収入より長期的に安定した収入があったほうが良いに決まってる。
略奪行為に走る場合は、何らかの事情で土地の占領が不可能な場合に限る。
可能な限り農民や市民を保護するものだよ。
(特に最古の都市・商業文化圏の継承者であるイスラームにはその傾向がある。都市・商業文明を支えたのが高度に発達した農業だったからだ)
抵抗する場合は容赦ないけど。
もし、掠奪によって国が収益を上げた場合は、その記録が残っているはずだよね。
最低でも軍を起こして戦して国許に帰還するまでに費やした費用以上の収益がなければ
戦によって収益を上げていたということは言えないわけだし。
どーも、将兵レベルでの利益の話と国レベルでの利益の話がごっちゃになっているような気がする。
兵卒達は戦に出れば美味しい思いができるのは確かなんだ。
戦の間は米の飯が食べれるし、うまくすれば金がもらえたりする。(武田では足軽にも粒金が支給されたはず)
出先でいい思いも出来るかもしれない(掠奪等で)
少なくとも家で糊のようなものを食べているよりはずっとマシな生活が出来る。
でも国レベルではどうなんだろう?
兵(民衆)の取り分(略奪)が多くなれば、国の取り分(収税)が少なくなるのは目に見えております。
なによりその地の住民に敵愾心を生じさせますから、全うに考えれば略奪は良くない。
大名なら誰しもその程度は分かっていたと思います。
ただ、国が兵をきちんと統制できておれば兵に略奪などさせず、切り取った敵の領地から税収を上げ
効率的に運営していくでしょうが、
国が兵を統制できておらず、「今から隣国を攻めるので、おのおの方、ご協力くだされい」と、
国内の武装勢力を呼び集め、寄り合い所帯のような格好で攻めていく場合、兵の統率は為されず
(というか他人の兵なので強く統制できない)、部隊によっては略奪は頻々と起こるでありましょうし、
略奪目当てで戦争に参加したとうそぶく将も居ることでしょう。
まず、日本の武家の出自を考えてみるべきじゃろ。
武士の起こりは兵(つわもの)で、彼らは武装した開拓農民であり公家同士の争いが起こると、彼らの力になるべく集まった。
そうすることで自分たちが開墾した土地の所有を協力した公家に保障してもらえたわけだ。
やがて、武士たちが力を持ち始めると、その力に危機感を抱いた公家達が武士同士を同士討ちさせようと画策し始める。
源平合戦の始まりじゃな。
これは武家同士の土地争いなんかも入っていていろいろと複雑なんじゃが…
それ以降、武士たちは自分たちの所有する土地をめぐっての争いに終始し始める。
自分の土地を安堵もしくは増やしてくれる有力な武家に仕えるようになるんだね。
鎌倉幕府が傾いた1つの原因に元寇があるけど、
あれは戦で戦功を上げたのにもかかわらず所領が増えなかったというのが大きな原因になっている。
このように武士の戦いは土地をめぐる戦いであって掠奪が主であることなんてなかったわけだ。
だって彼らは基本的に武装農民なんだもの。土地が欲しいんだよ。
それが崩れるのが織豊時代なんだけども、それでも掠奪なんてしないよ。
下の兵卒に関してはその限りではない。
彼らは自分たちの土地なんて持ってないし(基本的に農奴)
戦で得しようと思ったら戦功を上げるか掠奪しかないもの。
>>687 治安を乱すのは、
昔:土地無し
今:職無し
ってことか……。
一方で掠奪しまくった人たちもいる。
「雇い足軽」という人たちで戦を求めて放浪し、お金で雇われて戦するという人々である。
これは室町の頃からいた。(いわゆる傭兵)
この人たち古今東西の傭兵達の分にたがわず、報酬次第でどちらにでもつき、
戦に負けそうになるととっとと逃げ出し(守るべき土地なんてないからね)
戦が無いと山賊と化して近隣の村々を襲い掠奪陵辱し放題の物騒な奴らで
武士たちもこいつらの扱いには苦慮していた。
>607のリンク先を読んだんだが、国家レベルで掠奪を敢行していたわけではないみたいだね。
むしろ禁止している。
掠奪はあくまでも雑兵レベルであって国主や配下の武将達によって行われていたわけではないみたい。
食い物を求めて兵卒になり、それでもたりなきゃ掠奪だという>689タイプだなぁ。
そもそも上杉家は奥州藤原氏縁の金山をいくつも抱えていて軍資金には事欠かなかったわけで
掠奪のようなわざわざ周りに敵を作るような真似をしなくても大丈夫なんだわ。
何回か官職をもらったときに京に上り天皇家、将軍家、公家、寺院に大量の金品を寄付しているし、
そのときは総勢3000人の家来を引き連れていっている。
夜盗まがいのことをしなければ国を運営できないところができることではないわいな。
>だから、問題の本質はそこなんだよ。
>織豊政権の登場に至って、商権の保護によって、略奪に頼らずとも大規模な戦争を
>遂行できる勢力が出現したってこと。織田・羽柴は特殊であり、それが強さでもあった。
これも、商業保護政策はどこの大名もやってるよ。
大量の物資や金銀を集めるにはどうしても必要だもの。
戦国期は商業が飛躍的に発展した時期でもあるんだよ。
それは別に織田や豊臣のおかげではなく、長期の戦争による消費社会のおかげなんだわ。
織田やそれに続く豊臣がずば抜けていたのは、中央集権化によるさまざまなリソースの集中運用化によるものなのよ。
>戦国期は商業が飛躍的に発展した時期でもあるんだよ。
> それは別に織田や豊臣のおかげではなく、長期の戦争による消費社会のおかげなんだわ。
農業技術の飛躍的発展というのも入れてください。
商業は大抵農業と二人三脚で発展します。
>>690 >上杉家は奥州藤原氏縁の金山をいくつも抱えていて軍資金には事欠かなかった
越後に奥州藤原氏の勢力が及んでいたのかと(ry
っていうか藤原氏の金生産なんて砂金掬いなんじゃないのかと(ry
>>691 生産量という面から見た場合、戦国期ってそんな伸びあったっけ?
694 :
名無し三等兵:05/01/05 21:28:16 ID:dQBjws/t
農業生産力の向上は
1に、駄獣の利用、2に気候にあった農作物の生産だな
武田信玄の河川治水工事ってのは話に聞くほど生産力の向上には
役立ってないんだろうか。
それに三木城の包囲で織田軍のみせた堤防工事などもやはり
治水技術の向上だという話だったような。
実は人海戦術ができるようになった、つまり、権力の集中の現れに
過ぎず農業用水には繋がらない話だったのかな。
>692
越後の金山は鳴海金山、佐渡金山じゃな。
鳴海金山のほうは807年に、出羽の国の住人、相之俣弥三郎によって発見され、その子孫が相ついで採掘していたと伝えられておる。
これが「奥州藤原氏縁の金山」じゃろう。
あくまで「縁」であって藤原氏の勢力が及んでいたわけではなかろうよ。
佐渡の金山の開発が本格的に行われるようになったのは江戸期からだから、上杉家の金山は鳴海金山のほうじゃろ。
この金山、戦国期では当時の日本の金の産出量の1/3を占めていたといわれている。
(当時の日本は世界的にも金と銀の産出量はトップクラスだったので、事実上世界一の産出量を誇る金山だったわけだ)
現在では採算性が取れないので廃坑になってるけど、下流域では現在でも砂金が採取できるそうな。
>っていうか藤原氏の金生産なんて砂金掬いなんじゃないのかと(ry
そりゃそうだ。現在でも基本はそうだもの。
でも、平安時代と戦国期の金山衆とでは技術力や知識は桁違いだよ?
697 :
名無し三等兵:05/01/06 04:48:21 ID:/u7NohFh
>695
越後は今でこそ米どころとして有名だけど、戦国初期は氾濫源となる河川や湖沼が多数存在していて
それほど豊かな土地ではなかったんだな。
生産量が上がるようになったのは戦国中期から江戸期にかけて。
越中なんて明治期にならないと治水できないほどひどい河川がたくさんあったせいで、農生産力は絶望的だったし。
そのせいで売薬業を推奨して藩主自ら薬の宣伝するようなことまでやっている。
治水工事によって確実に生産量は上がるよ。
田植えした後の田に雨ごとに大量の土砂が流れ込んでみなさいな。
それがなくなるだけでぐんと上がるよ。
武士は基本的に農民だからね。
生産力=国力の上昇だから、治水や開拓は積極的にやったよ。
>692
それに土木技術の発達と耕地面積あたりの人手の数。
1は鎌倉時代から発達、2は室町時代。
鉄器の農具の普及も室町の頃。
肥料は青草を刈って鋤き込む草肥は鎌倉から、下肥も鎌倉から。これは耕地面積語りの人手の数に左右される。
ヨーロッパは19世紀ごろまで粗放農業が主だった。
(春に畑を耕して、種を撒き、後は実るまでほっておく。
農地は水平ではなく灌漑設備もなく畑に畝を作る訳でもなく、種は籠からばら撒きされる)
収穫倍率は数倍程度で2倍前後が当たり前という有様。
一方、紀元前5000年ほど前のエジプトや中東では、灌漑・集約農業が行われ収穫倍率は20世紀ごろとほとんど変わらなかった。
(倍率、数十倍、良い時は100倍に達した)
エジプトや中東の灌漑・集約農業はそれの維持にマンパワーを必要としていてそれに奴隷が使われたわけだけど
日本では普通にこれが行われた。
治水技術が未発達な時代では田畑は小川の流れる丘陵地に作られていた。
そのため耕作面積がか限られ必然的にマンパワーが上昇する。
(頻繁に灌漑やら肥料の投下、間引き、除草等が行われることになり収量が増加する結果となる)
治水技術が発達すると、平野部に農地が広がり更に収量が増加ということになった。
−−
日本の穀物の収穫倍率が他の国と比べて格段に高いのは(米は140倍とか馬鹿な倍率を達成している)
手間隙をかけるのが習慣化しているせいだという話。
中世ヨーロッパでも何かの拍子に耕地面積あたりのマンパワーが上昇すると収穫倍率が10を超えることがあったりした。
米が麦よりはるかに面積効率が高いのは現在でもかわらないのだが。
技術の差以上に米と麦の生物学的な物だが(生育に適した環境条件も含む)
ご飯は水で炊くため体積が膨らむので、より少ない量で満腹感を得られるという利点もあるにゃ!
そのかわり、食事毎に飯盒炊飯をするので水と薪に炊き上げる時間が必要となります。
乾パンを齧って水で流し込むだけとは手間が違います。
ほしいい(糒?)はあるでしょうけど、戦国時代でどれだけ使っていたのだろう。
んで
どっちが強いの?
小麦粉はもたないのでいちいち挽いて焼く手間を考えたら大して変わらない
糒も乾パンもそう何日も食い続けられない
今みたいな乾パンはいつ頃できたのか?
>699
そりゃそうだ。
でも現在の日本とアメリカとの「米」の収穫倍率を比べると日本のほうが優れている。
日本は少ない耕地面積でいかに収量をあげるかを追求したのに対して
(これは税が収量ではなく耕地面積で決定されたから。1反から取れる米が1石とされていたため、税は4斗となる。収量が上がれば農家の取り分は多くなる)
一方ヨーロッパはいかに楽して食い扶持を稼ぐかのほうに行ってて、一年暮らせるだけの収量があればいいやという感じだったらしい。
(コスト重視といえる)
日本とヨーロッパの差は、米と麦以上に文化の差が大きいといえる。
江戸期の麦の収量は、同時期のヨーロッパを上回っていたんだよん。
手間のかけ方が段違いだからねぇ…
−−
おかげで収穫倍率は大きいが、コストも跳ね上がり世界的な競争力が皆無だったり。日本の穀物。
>703
乾パン、いわゆるビスケット(二度焼きパン)は大航海時代に日持ちする口糧として作られた、という説がある。
ローマ時代は、宿営地の近くの町から小麦粉を運んできて宿営地で焼いて配給した。
戦闘にでる場合は数日分のパンを持参。
戦闘が長引く場合は、宿営地からパンを運んだ。
パン以外だと、豆のスープかな?たしか10人ごとに鍋や調理道具を持った人がついていたはず。
同じ分隊の人たちは「同じ鍋のスープを食べる人」だったわけ。
戦国時代のほうは、戦場に向かう際は普通に飯を炊いて、握り飯を配給。
戦地につくと、数日分の干し飯と梅干、芋のツタを縄にした奴に味噌をすり込んだものを配給。
余裕のない場合は、水と干し飯で。
余裕があると陣笠を鍋代わりに干し飯と味噌縄を一緒に煮込んで雑炊にして食べた。
日本は水も燃料も豊富だから煮炊きにそれほど不自由することはないなぁ。
まあ、近代に入るまでは兵糧は似たり寄ったりだな。
706 :
554:05/01/07 07:11:51 ID:???
スレの流れが既に変わっているようですがレスを。
私は、大名まで略奪のみが目的で出兵したとは言っていません。
上杉謙信にしても、当然政治目的を達成すると共に農兵に出稼ぎさせようとしているわけで、
略奪だけの為だけだったら、わざわざリスクの大きい小田原城を攻める必要は全くない。
人取りは当時全国で広く行われていたようである。藤木氏から引用すると、
南肥後の相良氏においては
「敵千余人打取り、いけ捕り惣じて二千人に及ぶ(天文9年=1540年3月)」(八代日記)
和泉国守護と紀伊根来寺の争いにおいては
「国(守護細川氏)より押し寄せられ候て、大名を召し取り、宅を焼き、資材・雑具・牛馬など、
ことごとく濫妨し候・・・(文亀元年=1501年8月)」
「(根来寺)宗兵衛衆ら、なおもって出張、吉見・海生寺・シンケ・佐野らの地下人、
男女をいわず生捕りおわんぬ(文亀2年9月)」(政基公旅引付)
遠江の今川氏と斯波氏の争いでは
「つゐに敵城せめおとされ、生捕かれこれ千余人とぞ聞こえし(永正14年=1517年)」(宗長手記)
707 :
554:05/01/07 07:12:42 ID:???
東北の伊達氏においても
「くび三百あまり御前へ参り候、いけどり、きりすて、そのほか数は知れ申さず候(天正16年4月)」
「首さいげんなく・・・きりすて、そのほか、いけどり、さいげん御座なく候(天正17年5月)」(伊達天正日記)
天正3年、信長が越前一向一揆を制圧したときは、処刑された人数は1万2250人余り、
「その他、国々へ奪い取り来る男女、その数を知らず、」
「生捕りと誅されたる分、合わせて三、四万にも及ぶべく候か」(信長公記)といわれ、
二、三万が諸将の国元に奪い連れ去られたと。
武田氏の甲斐や信濃でも
「相模の青根の郷を散らしめされ、足弱(女・老人・童)を百人ばかり御取り候(天文5年=1536年)」
「世間ことごとく餓死致し候て、言説に及ばず、・・・男女を生け取りになされ候て、
ことごとく甲州へ引越し申し候(天文15年)」
「さるほどに打ち取るその数五千ばかり、男女生け取り数を知らず、(天文17年)」
「信州へ御動き候、・・・要害をおとし召され候、打ち取る頭五百余人、
足弱取ること数を知らず候(天文21年=1552年)」(勝山記、妙法寺記)
とある。各地で人取りの禁止令が出されているのは、
それだけ人取りが横行していたからなのではないかと。
708 :
554:05/01/07 07:13:12 ID:???
天正14年、上井覚兼は大友氏との戦場から肥後を通り帰国する島津兵について、
「路次すがら、手負い(負傷兵)などに行き合い候、そのほか濫妨(らんぼう)人など、
女・童数十人引き連れ、かえり候に、道も去り合えず候」(上井覚兼日記)
と、負傷者と濫妨人の引き連れた婦女子でごったがえしていたと書き留めている。
天正10年、覚兼が龍造寺氏の千々石城を落城させたときには、
「敵二、三百討ち捕る」「執る人などは数を知らず」「分捕りあまた」(上井覚兼日記)
と記し、ルイス・フロイスもこの戦いについて、
「彼らは大勢の敵兵を殺し、捕虜にし、その地を蹂躙して掠奪した。」(フロイス日本史)
と述べている。
フロイスは、島津の大友領への侵攻を、
「敵は眼前にあるものすべてを掠奪し、破壊し、焼却しながら、緩慢に前進していた」
「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々は、肥後の国に連行されて売却された。
その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態であったから、
買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らをまるで家畜のように、高来(島原半島)に連れて行って、売り渡した」
「薩摩や肥後に連行された後、羊の群れのように、市場を(廻り)歩かされ(たあげく)、売られていった。
彼等の多くは一、二文(トストン)の(安)価で売却された。」
と記している。また、
「(薩摩軍)が実におびただしい数の人質、とりわけ婦人・少年・少女たちを拉致するのが目撃された」
「敵は臼杵地方からだけで、婦女子を含めて、三千の捕虜を連行したらしい」
「国内で敵が荒らしまくっており、すべてが焼き払われ、婦女子の大群が各地から捕虜となって
拉致されて行くのを毎日耳にした」(フロイス日本史)
709 :
554:05/01/07 07:15:58 ID:???
略奪による国土の荒廃を何としても止めさせたかった秀吉は、
九州仕置の後、新たに移封された肥後の加藤清正ら九州の諸大名に対し、
「豊後国の百姓、そのほか上下を限らず、男・女・童を近年売買せしめ、肥後国にこれある者の事、
申しつけ、きっと返付すべく候」(下川文書)
と、人返令を出している。しかし、ここにおける人身売買された者たちは島津軍ばかりではなく、
秀吉軍の乱妨によるものも含まれていた。フロイスも、
「豊後の国に跳梁していた最悪の海賊や盗賊は、とりわけこれら仙石(権兵衛)の
家来や兵士たちにほかならなかった」
「彼らはなんら恥とか慈悲といった人間的感情を持ち合わせていない輩であり、当不当を問わず、
できうる限り盗み取る事以外に目がなかった」と記している。
天正16年に佐々成政が肥後を没収された時も、秀吉軍は検地を行い、
年貢を支払えない者に虐待と略奪を行った。フロイス曰く、
「彼らの家屋は掠奪されたり蹂躙され、女子供たちは捕虜とされたからである。
己を売る者、息子や娘を売る者は数限りなく・・・彼らは集団となって、
雄雌の牛よりはるかに安い値段で身を売り歩いていた」
文禄2年に大友氏から豊後を接収に来た秀吉軍も、
「見つけ次第にことごとくを、己の物として没収してしまう。それがために、
(豊後の)人々の間で惹起された混乱と暴動は、地獄さながらの観を呈した」(フロイス日本史)
フロイスがキリシタン大名の大友氏を贔屓する部分はあるにしても、
何が起こっていたかの参考にはなると思う。
710 :
554:05/01/07 07:16:42 ID:???
秀吉は戦争奴隷の廃止を東国の大名にも命令し、小田原攻めのときに上杉景勝に宛て、
「@国々の地下人、百姓ら、小田原町中の外、ことごとく還住の事、仰せ付けられ候条、その意をなすべく候、
A然るところ、人を商売仕り候由に候、言悟(語)同(道)断、是非なき次第に候、
売る者といい、買う者といい、共にもって罪科軽からず候、
Bしょせん、買い置きたる輩は、早々本の在所へ返し付くべく候、自今以後においては、堅く停止・・・」(上杉家文書)
といった朱印状を出し、信濃の真田昌幸にも、
「@在々所々の土民百姓ども、還住の儀仰せ出だされ候、そこもと堅く申触れべく候、
A東国の習いに、女・童部をとらえ、売買仕る族候わば、後日なり共、
聞召し付けられ次第、御成敗を加えらるべく候
Bもしこれを捕え置く輩これあれば、早々本の在所に返し置くべく候、」(真田家文書)
と同様の命令を出している。
しかし、朝鮮征伐では、国内の比ではない人取りが行われたし、
大坂の陣でも「将軍、昨日、伏見城へ御入りと云々、女・童部ども取りて陣衆帰る、あさまし」(義演准后日記)
とあり、元和元年に大坂方残党を追及する目的で出した「落人改」で
「今度、男女濫妨、大坂より外の者をば、異議なく返せ」という命令で戦場以外の人取りを改めて禁止した。
これは、戦場である大坂(さきの小田原の書状では小田原)での人取りは認めるということでもあるが。
蜂須賀軍はこの命を受け、直ちに「大坂濫妨人改め」を行った。
幕府に提出した調書では、濫妨人の数は表向きの数字ではあるが男38人、女68人、子供64人(高木昭作)であり、
過半数は町人とその家族、武家の奉公人がそれに次ぐ。
幕府方全軍ではどれ程の数字になったのかはわからない。
>554殿
私も日本に奴隷制はなかったとは言いませんよ。
というか戦国期は1つの商売になるくらい売買がされていたわけで。
おまけに再三禁止されている。
ただ、領民の農閑期の収入源として「人取り」を積極的に行わせていたとなるとなんとも…
日本の奴隷は、
犯罪奴隷(本来死刑となるべき人間を奴隷とする)、
飢餓奴隷(飢餓の時に養ったものを奴隷とする)
戦争奴隷(戦争で本来死ぬべき人間を奴隷とする)
の3種であり、日本の奴隷制度の根幹に在るのは「本来失われるべき命を助ける」と言う意義というか
建前の上で行われていたわけで、はなからお金儲けで、となると引っかかってしまうわけです。
(助ける余禄で金儲け、というところが実情かと思われる)
それに専門の業者がいる領域に素人農民が付け入る隙があるのかという問題もあるしなぁ…
712 :
711:05/01/07 08:13:34 ID:???
どうも戦争奴隷はそれを売って利益を得るよりも、それを手に入れることによって得られる労働力のほうが優先のようですね。
奴隷商人の取引先(売り先)は大名や豪族連中みたいですから。
んー、結局のところ、越後上杉(というか戦国武将)は戦のついでに労働力の確保に走っていて
奴隷をかき集めるのに駄賃を与えて足軽たちを使っていた、といったほうが良いと思います。
(使い場所は金山、当時の麻布のシェアを占めてた「青苧(あおそ)」の収穫等)
足軽たちにお金を払っていたのは実質的には上の武将達ですね。
これならば納得できる。
奴隷商人たちは、いわば専業の業者で大名達に奴隷を買ってもらう目的で(なおかつ奴隷を集める目的で)
戦についていった模様。
奴隷商人たちは仕入れは自力ですな(笑
>私は、大名まで略奪のみが目的で出兵したとは言っていません。
君、
>>589で
>上杉謙信の12回に渡る北関東遠征は、秋〜初夏に遠征という法則性に加え、
>平均して4ヶ月もの滞在をしており、
>これは深刻な飢饉に喘いでいた、農閑期の口減らしと、
>稼ぎの場を農兵に提供するのが目的であると言われている(栗原修)。
>今で言う出稼ぎみたいなものだったようで。
と、略奪目的で出兵したって言ってるじゃんw
どっちだよ?
それとも、農兵が略奪のために4ヶ月も滞在して、
上杉謙信は仕方なくそれに付き合ってたのか?
占領地の安定化のために4ヶ月滞在してたんでしょ。
残る8ヶ月ですぐ巻き返されるけど。
554くんによれば、出稼ぎだそうだぞ。
占領地の安定化なんて眼中に無かったようだな。
永禄三年の関東は、連年の飢饉で餓死者が出るほどだったので、出稼ぎには
不向きだったのではないかと。北条氏政も徳政で飢饉に対処しているし。
>>715 安定化しようとしたけど上野の豪族の寝返りっぷりがあまりに非道いので、
自棄になって略奪するに任せた、もしくは下の不満が抑えきれなくなり
略奪を許さざるを得なくなった、というならまだ分かるんだけど。
つーか、土地を占領かして安定化するんなら人心の掌握や土地のインフラ保護のためにも
足軽の略奪なんて絶対禁止だろ
でも
>>554によれば上杉謙信は4ヶ月も居座って世紀末救世主伝説みたいに略奪を繰り広げてるんだよな
それでマジで占領地が安定するって思ってたなら上杉謙信頭悪杉
いや、頭悪いのは上杉ではなくて、(ry
>>718 >世紀末救世主伝説
想像したらゲロワロタ
正確に言うと右隻三扇。
鉄砲隊や槍隊が駆けながら交戦している。
>>723 右隻の武者たちは概ね方形陣を取りつつ、馬なども数騎が轡を並べて横一線に走っているようですが?
まあこの辺は絵画的な誇張もありそうだけど。
>>723 鉄砲も槍も本来駆けながら使えるような武器ではないんだけどな。
白兵戦用の持ち槍を除いては。
726 :
554:05/01/08 02:03:24 ID:???
>>713 農兵の出稼ぎが謙信関東出兵の主目的の一つとは言いましたが、
同時に他大名の出兵要請を受けての出兵でもあるわけで、
政治的な目的達成ももう一つの主目的ではないかと。
乱取りは平安以前からあった風習らしく、
年貢の軽減や米などの褒美、身分を百姓から中間に引き上げるといった恩賞が十分に出せなければ、
苅田・狼藉を認めないと動員に差し支える。大名も苦慮していたのでは。
濫妨は、雑兵達の稼ぎであって、武士の手柄として評価はされない。
捕らえられた人々は
>>712氏のいうように、
下人となって労働力となるか、身内が売買相場の2〜3倍近い身代金を払って解放するか、
>>708のように売られていったのかと。
>捕らえられた人々は
>>712氏のいうように、
>下人となって労働力となるか、
口減らしを主目的に出兵してるのに、奴隷とはいえ頭数増やして国に帰るのって矛盾してないか?
農閑期には餓死者続出なんだろ?
更に国内の飢餓を加速させるだけだぞ
728 :
554:05/01/08 02:46:06 ID:???
>>727 上杉家に限った話ではないので。
>>708の
「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々は、肥後の国に連行されて売却された。
その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態であったから、
買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らをまるで家畜のように、高来(島原半島)に連れて行って、売り渡した」
ように、養えない場合は売るしかないのでは?
729 :
711:05/01/08 05:12:09 ID:???
>727
そこなんだよな、問題は。
必要のない労働力は無駄口の増加でしかないわけで、人取りなんかしない。
奴隷の売値なんてたいしたもんじゃないので、はっきり言って売るために人取りをするなんてコストに合わんのだよ。
(戦の結果、人取りが行われて、それを売る、ならよい。事のついでだから)
当時の農民の多くは武装していて、無抵抗な存在ではないのだ。
戦のどさくさにまぎれてちょっとした小遣い稼ぎ、でもないかぎりリスクが大きすぎる。
ましてや、自分の土地になるかもしれないところで人取りなんてちと考えられない。
私的には口減らし対策は「農民の立場」から見た話で、国主から見たら話は変わってくると思う。
国主からすれば民をただ養うためだけならば、蔵から米を出せばいいだけの話だからね。
当時の農生産量は日本国民全員養えてお釣りが出るくらいだもの。
ちなみに食えないくらい搾り取ると、一揆というか内乱が発生しますぞ戦国時代だと。
江戸時代と比べるとはるかに農民に力があったからね。
私は人取りは農民の副収入のためではなく、純粋に国内労働力の確保のために行われたと考えます。
>728の例は、たまたま旱魃か何かで不作に見舞われ、養えなくなったのでうっぱらっただけだと。
(養えてなおかつ利益がでるから買うわけで、養えないものを買うようなことはしない)
>554
> 養えない場合は売るしかないのでは?
もしくは遺棄ですな。
奴隷として使われ、土地もなく、手に技術もない者がそのようなことになると夜盗になるか足軽になるかしかないわけで、更にそいつらが人取りをするという悪循環に。
多くの大名が人取りを禁止したのはこのため。民は土地についてた方が制御しやすい。
すでにこのようになってしまった流民達の働き先のためにに大規模な土木工事なんかしたりしてますな、 秀吉や徳川幕府は。
現在の内需拡大のための土木工事みたいなもんじゃな(ゼネコンのはしりかも)
これで元手を手に入れて、土地を買ったり、店を買って商売を始めたりした人たちも多かったみたいですよ。
730 :
554:05/01/08 08:04:06 ID:???
ちょっと人取りを強調しすぎたかな?
農兵にとっては、人取りよりも苅田や物取りによる食糧・家財・牛馬の略奪の方が
大きなウエイトを占めていたように思える。
藤木氏によると、苅田や略奪は敵の国力を疲弊させる戦法でもあったらしい。
毛利元就の戦法を伝えたとされる「永禄伝記」攻城の条では、
「春は、苗代草を返して、田畠を荒らし、夏は、麦作を刈り、植田を混じうに民を労し、
秋は、畑作を取り、刈田をして、年貢を障(さわ)り、冬は、倉廩(りん)を破り、
民屋を焼き、飢凍に至らしむる・・・」
とあり、3〜5月には、実った麦を狙う「麦薙ぎ」、
7〜9月には実った稲を狙う「稲薙ぎ」が集中したという。
東国方言で記された「雑兵物語」によると、
敵地で苅田をするときは、手あたりしだい稲を根こそぎ掘り取って、
煮てやわらかくして、馬に食わせるがいい。
だが「味方の地を掘りたらば、来年の田作がちがうべい程に、必々掘らない物だぞ。
敵地ならば、見つけ次第ほぢくるべいぞ」と、
味方の地でそれをやると土地が痩せて来年の実りが悪くなるからしてはならない、と。
731 :
554:05/01/08 08:05:21 ID:???
山本浩樹氏によると、作薙ぎの目的は、
@麦や稲を奪い取るというより、敵を兵粮攻めにするためで、
A敵地の村を襲ったのは、敵地の村を脅かし味方につけるためで、
Bその作戦を担ったのは、正規軍とそれに率いられた土豪や百姓であった
という。藤木氏はこれに、@に掠奪の狙いはなかったか、
Bに乱取りのプロの活躍はなかったか、と疑問を付しているが。
大名は乱取りを作戦として行ったとあるが、戦功としての評価は非常に低かった。
戦功として特筆されるのは敵を何人打ち取り、頸をいくつとったかであった。
これらは草の根の雑兵達の手柄とされ、名誉ある武士の戦功とは全く別の世界に属していた、と。
放火・苅田・乱取りの3点セットを作戦として行っているというのはどうなのだろう。
いくつかのレスにあるように、占領後の領地経営や民心の乖離を考えると
リスクがあまりにも大きすぎはしまいか。
それとも、占領目的ではない出兵においての敵国疲弊を狙ってのものなのか?
732 :
554:05/01/08 08:07:07 ID:???
生捕りになった人々がどうなったかというのは、
侍や百姓の下人、奴隷商人への転売、妾、売春、身代金による解放など様々だが、その割合がわからない・・・
九州ではポルトガル・シャム・カンボジア商人に転売されてマカオやインド等に売られるものも多かった。
藤木氏はポルトガルの日本貿易において、奴隷の輸出は日葡貿易の最初から
東南アジアへの主力商品であった形跡があるという。
マカオのパードレ・カルネイロは、多くの日本人が、
大きな利潤と女奴隷を目当てとするポルトガル商人の手で、マカオに輸入されていると報じている。
海外の日本人傭兵の中には、生捕りされた兵士、戦争奴隷が転売されたものも多かったという。
人取りには身代金目当てという線もあるらしい。1546年に武田軍が相模の村を襲撃した時は
「男女生捕り成され候て、ことごとく甲州に引越し申し候。
さるほどに、二貫、三貫、五貫、十貫にても、身類(親類)ある人は承け(買戻し)候」(妙法寺記)
と、
「小田開城、カゲトラ(謙信)ヨリ、御意ヲモツテ、春中、人ヲ売買事、二十銭、三十(銭)程致シ候」(別本和光院和漢合運)
という戦場で人買い商人に売るよりも、身代金は相場が高かった。
買い戻せた者は一部であったろう。
生捕りされた家族を解放するために自分を売り渡し、その金で支払おうとした者もある。
>731
1の掠奪狙いは雑兵レベルでなら確実にあると思われます。
いわゆる「雇足軽」のような傭兵的な足軽達にとっては副収入として役得な仕事となります。
組織的な掠奪ならそれらを集め数え再分配するための役職が存在するはずです。
それらの資料はありますか?
3.も1の雇い足軽達の副収入源として存在します。
戦場では第三者的な浪人や傭兵が勝手に参戦して、味方した国主に報酬や仕官を要求する場合がありました。
このような類の者達による掠奪や人取りは十分考えられます。
>放火・苅田・乱取りの3点セットを作戦として行っているというのはどうなのだろう。
うーん。少数の戦力で多数の戦力を相手にする場合のゲリラ戦術の一種としてなら…
ただ、これらが東国武将達の伝統的な戦略だと考えると我々の一般常識をそこに投入するのも問題かもしれず。
東国武将達が独立の気風が強いのは、辺境で外敵(山賊や他の勢力の侍達)を防ぎながら田畑を開墾してきたというところが大きいので、ありえないことではないような気も。
伝統的な戦略なら、やられるほうもやられて当然と考えるだろうから、それほどショッキングではないのかもしれない。
うー、これって平安中期から鎌倉時代にも行われていたんだろうか?
734 :
○V○:05/01/08 09:18:39 ID:???
本旨に戻りましょうか
戦場での略奪や人取り等の乱暴狼藉はあくまで足軽への褒美として行われたものであり、
領内の口減らしのために出兵するようなことはありえません
作戦目的として略奪を行うことがあったでしょうが、その意図するところは奪うことよりも
むしろ失わせることにあり、そのような場合には作戦の規模も期間も小規模なものになるのが
通例で、少なくとも最大11万の軍勢を動かして数ヶ月も継続して行うようなものではありません
勿論その過程で足軽たちが余禄に預かったでしょうが、それは本来の目的ではありません
しかも、占領地と維持、経営のためにも略奪を禁じた事例は珍しくありません
すなわち
>>589にあるような、略奪目的で外征を行い敵地に4ヶ月も滞在したという主張には無理があります
上杉謙信が農閑期に外征を行ったのは、あくまで兵農分離が進んでいなかった北陸・北関東地方の
根強い封建制によるものです
735 :
○V○:05/01/08 09:19:18 ID:???
本来、封建軍制は安定性や継続性に欠ける脆弱なシステムで、距離的時間的な制約も大きく、
野戦軍を編成するための動員兵力は常に不足する傾向にあります
国土防衛戦のような根こそぎ動員の場合を除けば、封建的主従関係にあるとはいえ、封臣が
その持てる全ての戦争資源を封主に提供するわけではないからです
例えば、11世紀封建軍制下のフランスで最も有力な聖界軍事力の一つであるバイユー司教は、
その隷下に装甲槍騎兵100名(この数字は随伴兵や段列等を除きます)を抱えていましたが、
司教の封主であるノルマンディー公の提供することになっていたのは僅かに20名、
更に公が彼の封主であるフランス国王に提供することになっていたのはその内の10名のみです
この比率は封主の軍事統帥権の強弱によって上下するでしょうが、こうして形成された軍隊は、
局地戦ならばともかく、大規模な総力戦を戦おうと決心した戦国大名にとって、慣習上、
または契約上、余りにも大きな制約を内包していました
そして、このような制約の多いシステムの克服こそが、戦国大名にとって克服すべき重要な課題の
一つでした
736 :
○V○:05/01/08 09:20:24 ID:???
織田信長に代表されるように、貨幣収入の増加によって自らの強化を図った戦国大名が、
一方で封建軍の現実の出陣を無用とし、他方で貨幣の力によって思うままに運用し得る軍隊、
すなわち兵農分離された常備軍を自らの権力の基盤に据えようとしたのもある意味で自然の
成り行きです
戦国期に大量に出現した傭兵たちは、こうした動きの中で過渡的に発生したものです
もっとも、織田信長であってもこの新しいシステムを完全に機能させるには至りませんでしたし、
江戸幕府成立によって結局このシステムが完成されることはありませんでしたが、
兵農分離された常備軍が兵農未分離の封建軍に対して動員兵力で下回るようなことは、
国土防衛戦のような極端な場合を除けばまずありえません
737 :
554:05/01/08 10:24:39 ID:???
>>733 役職があったというのは私は知りません。どうなんでしょうね?
また引用ですが、北条攻めの家康が自軍に出した下知
「下知なくして男女を乱取りすべからずもしこれを取り、陣屋に隠し置かば、
きっとその者の主これを改むべし」
加藤清正の軍法
「一、陣取りにおいて小屋具乱妨とり、御意なき以前、遣わすまじき事」
などを見れば、許可が下りれば大名は掠奪を黙認していたことは分かりますが、
どうも分配というよりは、命が下れば後は野放しのようにも思えます。
かと思えば
>>730の「永禄伝記」のような、軍事作戦の一環としての掠奪もあり、
大名が軍事命令として掠奪させていた例もあるかと。
戦国時代は掠奪を受けたら「取り返し(仕返し)」「質取り」といった、
復讐による苅田、物取り、人質取りが村同士でも行われていたので、
習俗と化していたようです。
古くは将門の乱があります。
承平7年(937年)、平良兼が平将門の館を攻めた時には
「のこるところの民家は、仇のために皆ことごとく焼かれ亡びぬ。
郡の中の稼稷(作物)・人馬共に損害せられぬ」
将門の妻子も資材も奪い去られ、
住民たちも「夫兵のために、ことごとく虜領せられた」
また、「つねに人民の財(宝)を掠(かす)めて従類の栄とす」
将門は、「女人の流浪するを属に返すべきは、法式の例なり」と宣言し、
この時代にすでに戦場の人の掠奪も人返しも、「法式の例」、
もとは国法にはじまり戦後処理の習俗ともなっていた、と藤木氏の本にはある。
さらに遡って朝廷が進めていた、関東・北陸・東北の異民族との戦争でも、
毛人や蝦夷が奴隷とされ京など連れて行かれた、という記述が見受けられるが、
これは民族戦争でもあり、微妙ではあるが。
738 :
554:05/01/08 11:49:23 ID:???
>>734 そうではなく、
>>706>>726で繰り返し言ったとおり、謙信の北関東出兵には政治目的の達成と、
農兵に出稼ぎの場を与えるという2つの主目的があると言いました。
藤木氏の出稼ぎ説では、戦争の時だけに必要な傭兵を
できるだけ大勢集めるには農閑期や、食糧の乏しくなる端境期の
口減らしの意味があったと言っている。
農民にとっては、冬場の働き口などどこにもなく、飢餓・凶作の続いた時代にあって、
農閑期・端境期の戦場はたった一つの口減らしの場だったのではないかと。
「収穫を終えたばかりの雪のない北関東で食いつなぎ
戦いに勝てば、戦場の乱取りは思いのままであったし、
こうして、短いときは正月まで、長いときは越後の雪が消えるまで関東で食いつなぎ、
なにがしかの乱取りの稼ぎを手に国へ帰る。」
度々禁じられているにもかかわらず、江戸期の村人にとっても戦場は魅力的な稼ぎ場で、
慶長19年、大坂の陣では都近くの村々から百姓が殺到したという。
傭兵の手配師が敵の徳川方の村にまで入り込んで、あまりに村から出て行くものが多いので、
大名が侍衆に監視させるほどであった。
「百姓なども、来年のいつころ迄と約束候て、山越えにて籠城」(吉川家文書)
農閑期の間だけ籠城し、春先には帰る、という約束に違いない、と藤木氏は述べている。
「口減らし」「出稼ぎの場」という表現が悪いのかも知れず。
農民にとっては国主が雇い主であるわけで、戦に参加することが副収入に準じたということだと思う。
実際は国内の臨時的雇用に助けられた、もしくは戦に参加することで年貢の払い戻しを受ける、という感じだと思う。
現在の我々の感覚の口減らし、出稼ぎというと収入を国外に求めるために出かけるというイメージがあるので、
誤解の元になっているとおもわれ。
−−
>戦国期に大量に出現した傭兵たちは、こうした動きの中で過渡的に発生したものです 。
私の見聞きした話だと、臨時雇いの傭兵たちは室町のころに出現したようです。
足軽の出現は室町の頃になりますが、戦国期のように常に雑兵を必要としていたわけではないので、常に臨時雇い。
で、このような募集に応じた人たちは、夜盗や山賊崩れのような人たちが多く、戦の無いときは治安の点で常に頭の痛い存在であったようです。
戦場での信頼度も低く(常に強いほう、報酬の多いほうにつき、負けるとなると直ぐに逃走・寝返りを行う)
戦国武将たちはこのようなものたちをなるべく排除したいと考えていましたが、農兵分離ができていない頃はそういうわけにも行かず仕方なく雇っていたようです。
実際こういった人たちを排除できるようになったのが、織田信長でお金や扶持米で常に拘束ししっかり支配下に入れることでコントロールをしようとしたのです。
信長が農兵分離を行い、常雇いの足軽を大量雇用するようになったのは、尾張の兵が弱すぎたという点にあります。
士気や団結力に乏しく、常に裏切り強いほうに付くというロクデナシどもで他国の兵と比べると質的に劣っていたのです。
(いわゆる一所懸命さに欠けるきらいがあった。京に近く古くから開発されてきた土地柄でがんばらなくてもそこそこ食っていけたというところが大きいのかも)
常に兵力として雇い、訓練を行い、兵種ごとの編制を行い、戦力の集中運用をはじめたのはこの欠点を克服するためでした。
6メートルにも及ぶ長柄や鉄砲の導入も兵の弱さを克服するためだったといいます。
中央集権化も、言うことを聞かなさすぎた尾張の豪族達に業を煮やした信長の思い切った解決策、と取ることも出来ます。
740 :
○V○:05/01/08 13:00:14 ID:???
>謙信の北関東出兵には政治目的の達成と、
>農兵に出稼ぎの場を与えるという2つの主目的があると言いました。
関東管領上杉憲政の要請を名目とする関東進出と、関東を自国農民の草刈場にすることは両立しません
上杉謙信は、関東に勢力圏を拡大するために軍を起こしたのであり、貧窮に喘ぐ領民を助けるために
関東を荒らしに行ったのではありません
少なくとも関東で略奪を行ったことは出兵の目的ではなく、遠征によって生じた結果の一つに過ぎません
農民たちにとって戦利品は従軍の大きな動機の一つにはなったでしょうが、
上杉謙信が自国の農民の口に糊するために敢えて出兵したわけではありません
農閑期に出兵しているのは、その時期でなければ大規模な外征軍を編成できなかったためです
農繁期に大規模な外征作戦を強行しようとすれば、彼は領民のみならず配下の領主たちの支持すら失い
彼を政治的に支えていた封建的紐帯は破綻してしまうでしょう
また、この時期の農民はほぼ例外なく武装しており、戦時に従軍することは当たり前でした
中近世欧州の封建危機から絶対主義政権確立までの過渡期に大量に発生した傭兵も大半が農民階層出身者です
農民が大量に従軍し、時に戦利品を漁って暴虐を尽くす光景は洋の東西を問わず別段珍しいものではありません
しかし、これと大名が軍事作戦を行うこととは全くの別次元です
741 :
○V○:05/01/08 13:16:55 ID:???
>私の見聞きした話だと、臨時雇いの傭兵たちは室町のころに出現したようです。
空間的時間的制約が大きく、かつ兵力不足の傾向が強い封建軍にかわって、
金銭で雇用でき、かつ用が済めば惜しげもなく解雇できる傭兵に頼るようになるのは
ごく自然なことです
14世紀ドイツのrittergesellschaft、百年戦争期のフランスのcompagnie、
15世紀イタリアのcompagnie di ventura等、欧州でもこの手の集団は珍しくありません
日本でも鎌倉後期には既にこうした集団が出現しはじめています
彼らは戦時には雇用されて従軍し、平時には(時には戦時でも)野盗や山賊のように振る舞い、
権力者たちにとって頼りになる戦力であったと同時に治安を脅かす頭の痛い存在でもありました
これらの傭兵集団は、当初は封建軍制に対する対抗装置として機能し、
やがて絶対主義政権確立に伴って権力機構により吸収または排除されています
日本においても、兵農分離までのつなぎとしての傭兵の歴史的意義は大きいと思います
742 :
711:05/01/08 13:25:31 ID:???
つまり554氏というか彼が引用している藤木氏の論は言ってる事は間違いではないが、
本末が転倒している、ということですな。
OVO氏の話の方がすんなり納得できるんだよなぁ。
743 :
○V○:05/01/08 13:30:10 ID:???
よく尾張兵が弱兵だったと当時の伝承からも言われていますが、私はあまり説得力のある根拠を
目にしたことがありません
戦国時代では、強いほうにつくことも、寝返りを打つことも、別に尾張に限った話ではありません
少なくとも兵農分離の大きな動機になったとは考えにくいですね
兵農分離は伝統的な封建軍制の疲弊による当然の帰結です
織田家が他国に先駆けて農兵分離を推進できたのは、織田信長が慧眼だったからではなく、
彼が畿内と東海道を掌握して強力な経済的基盤を掌握できたからに他なりません
スレッド的には古代ローマ軍の事も書かねばなるまい。
つーか、古代ローマ派は衰退の一途をたどってるなぁ…
ローマ軍もポエニ戦争の頃までは、小さな土地を所有していた自由農民が中核となっていた。
(武装は全部自前でそろえないといけなかったため、ある程度懐に余裕が無いといけなかった)
当然戦闘や訓練は農閑期に行われていたが、ポエニ戦争の頃から様子がおかしくなってくる。
自由農民は度重なる戦争のおかげで自分の農地の面倒を見ることが出来なくなり、自分の土地を売りに出すものが続出し始め
また属州から安価な穀物が入ってくるようになって没落していくことになる。
自由農民から土地を買った裕福層はエジプトや中東で行われていた奴隷を利用した集約農業をはじめ
属州からの穀物に対して競争力をつけ富の集中化を促進した。
土地を手放した自由農民は専業軍人になっていく。ローマ軍の常備兵化であるが、これがトラブルの元となっていく。
彼らに給料を払うのは裕福貴族で、かれらの一族はレギオンの指揮官でもあったため
軍が貴族の私兵と化していく事になる。
このためローマ共和国末期は貴族同士の勢力争いの内乱に突入していくことになる。
戦国合戦の真相スレが落ちたので次スレから統合して軍板戦国総合スレにするっていうのはどう?
結構住人も被ってるように思えるけど。
スレの本来のテーマの方にはあんまり需要がなさそうだしなあ。
上杉謙信にとって関東管領の重みはあるにせよ、国内紛争予防戦争みたいな側面も
あるのでは。越後の国人の間で権威を確立するには山の向こうで
戦を起こして指揮を通じて自分の権威を浸透させていくという手は使える
と思います。
国人の地盤から切り離した関東で勝てる範囲に戦を留めては切り上げて
また翌年進出してはすこしずつ地歩を固めて、山の向こうからの干渉を
予防し、国内の権力を固め、大名として他国に劣らぬ存在に家を育て
あげていくには関東出兵は魅力だと思います。
上杉が織田のように貨幣経済により、自分の家の兵隊を持っていたかは
知らぬのですが、軍事道路を作り、武将を街道を守る城に配置して辺境を
固めて内部を封じるのは、国人を睨み、外との交流を遮断し、商業を盛んに
しつつ自分で統制するのにもいいでしょうし。
ええと、上でも他の方が書いてましたが、
上杉謙信の関東出兵の折に11万人を動員したというのは、別に越後から全員ゾロゾロ引き連れてきたわけではなくて、
関東管領の号令の下、関東の殆どの豪族らが寄り集まって構成されたものであって、別に全ての軍勢の兵糧を上杉軍が
賄ってたわけではないです。当たり前ですが謙信直属の手勢は主力ではあっても、それら軍勢の中の一部に過ぎません、念の為。
そりゃそうだ。
兵糧なんかは基本的に各寄親の自己負担のはずだよ。
それはそうと、古代ローマ兵の賃金はいくらくらいだったんだろ?
日本の足軽だと最低賃金は1人扶持(1日五合の米)、銭に換算すると・・・1日15文?
このタイプだと具足と武装は借り物だね。
十石取り(年30俵、金だと30両、銭だと30貫。土地持ちだと30石)だと具足や武器は自前のはず。
750 :
554:05/01/09 08:06:21 ID:???
>>740 >農閑期に出兵しているのは、その時期でなければ大規模な外征軍を編成できなかったためです
それはその通りですが、
北信濃へはほぼ収穫期に出兵し、北陸出兵も不定期に出兵しているのに、
何故関東出兵だけ収穫後の長期越冬出兵が多いのか、というのはどのような理由なのでしょう?
信玄相手の北信濃に対しても、大規模な出兵をしても良さそうなものを。
降雪も関係している。私も雪国に住んでいますが、
冬に北信越の峠を越えるなど、当時の道路事情からしたら狂気の沙汰です。
峠はメートル単位の降雪で閉ざされ、本国からのまともな補給など不可能です。
北信越への出兵は、それゆえ冬の到来の前に切り上げるしかなかったのかも。
751 :
○V○:05/01/09 09:01:11 ID:???
>北信濃へはほぼ収穫期に出兵し、北陸出兵も不定期に出兵しているのに、
>何故関東出兵だけ収穫後の長期越冬出兵が多いのか、というのはどのような理由なのでしょう?
これこそまさに上杉勢が兵農未分離の封建軍であったことの証明です
上でも書きましたが、封建軍には常に空間的時間的制約がつきまといます
遠隔地である関東への出兵、特に1561年のような特に小田原攻略のような大規模な攻城戦を考慮すれば、
作戦期間も長期にわたります
農繁期にこのような作戦を行えば上杉謙信を支える封建的主従関係は崩壊しかねません
軍の主力を農民が占めていた上杉勢が関東遠征の作戦期間を農閑期に設定せざるを得なかったのはこれが最大の理由です
一方、信濃や北陸への出兵は関東に比べれば距離も短く、またそのため作戦期間も比較的短期間ですむため、
軍の動員も関東出兵に比べれば容易です
ですから、こうした比較的小規模な軍事行動ならば、農繁期であっても軍の動員は可能であったと言えます
もっとも、だからと言って上杉家の封建的軍事大権を超える過大な動員は本末転倒です
>信玄相手の北信濃に対しても、大規模な出兵をしても良さそうなものを。
これは単に仮定の問題でしかありません
封建軍の空間的時間的制約を無視した疑問と言えるでしょう
封建軍の抱える先天的な性質としか表現しようがありませんね
そもそも、時には万を超える野戦軍が大規模でないとは言えないでしょう
>749
ローマ兵の最低賃金は一日銀貨一枚(1デナリ)でした。
これは農園で労働者が一日働いた時の給金と同じ額です。
1デナリで小麦1リットル、大麦3リットル購入できたという話ですから、
小麦換算だと大体五合ということになります。
給金的には戦国も古代ローマも似たようなものですね。
近衛軍団兵だと給金は倍に跳ね上がります。
あと、20年勤めて3000デナリの退職金をもらえたそうです。
近衛軍団兵は16年勤めて5000デナリ
この辺は戦国負けてるかも。
>>751 ああ、だから川中島で長期のにらみ合い状態に陥ったとき、第三者に調停を頼まざるを得なかった訳だな。
>日本の足軽だと最低賃金は1人扶持(1日五合の米)、銭に換算すると・・・1日15文?
一両=4貫文(4000文)で、一両で1俵(3斗5升)だから大体一日60文(57文)やね。
江戸期の民衆の年収が5〜6両(24貫文)だから、平民の一般的な平均収入を貰っていたことになります。
>>751 だとすると永禄四年は家臣達は不満たらたらだったろうな。謙信が小田原攻めを
終えて春日山に帰ったのが6月28日、一月半後の8月14日には川中島へ向けて
出陣、1ヶ月の対陣を経て第四次川中島合戦だもんな。
たしかに不満はたらたらだったろうけど、直接言えない苦しさも(笑
1556年に家臣のあまりの言うこと聞かなさに家督を捨てて比叡山に出家すると言い出して、
それをみんなで必死で止めたという経緯もあるし。
(その前後の第2次川中島やら、何人もの家臣や豪族の反乱でぶち切れたらしい)
戦しても所領が増えないという点で多くの家臣が不満を持っていたらしいが、
独立心旺盛な豪族達を押さえ込める者が謙信以外見当たらなかったということもあって
ぐっ、とこらえてた点もあるらしい。
あの時代に分裂していたら周りの大名に各個撃破されるのは目に見えていたからなぁ…
しかし、調べてみると兵農分離していない大名にしては信じられないほど東奔西走の日々をすごしているんだよな。
家臣も畑仕事と戦の両立で頭を痛めてたろうなぁ。
封建といってもいろいろありまして・・・といっても封建制度が存在したのはヨーロッパと日本ぐらいだったんだけど。
ヨーロッパタイプは、領主がいてその領主が上位の領主と契約を交わすタイプ。
上位の領主は会の領主の領土を保障し、下位の領主は上位の領主の求めに応じて税や兵力の提供を行うというもの。
領民は基本的に領主の持ち物(農奴)であり、移動や職業選択の自由がなかった。
日本タイプも似てはいるが微妙に違う。
下位の領主が上位の領主の門下に入るというもの。
いわば家族になるようなもので、契約によるつながりではなく血縁同士の相互互助というものに近い。
領民も奴隷階級を除けば領主の一族郎党で構成されていて、農民であると当時に戦士でもあるというもの。
ヨーロッパタイプでは戦士階級と農民とでは明確な区分があるけど、日本タイプだと兵農分離が行われるまで明確な区分がなかったといえる。
青そ貿易と金山でなまじ軍資金があったばっかりに…
>>752 余談だけどカエサルは兵士11万人を丸一年雇えるぐらいの額の借金を個人でしてたそうだ。
>余談だけどカエサルは兵士11万人を丸一年雇えるぐらいの額の借金を個人でしてたそうだ。
およそ3000万デナリか。
1タラント6000デナリだから5000タラントだ。大借金皇帝だな(笑
たしか、国家予算の10パーセントを超える借金をしていなかったっけ。大馬鹿野郎だな(笑
30台にして1300タラントの借金をしていて、属州総督としてスペインに行く時、借金取りが出発を妨害したとか言う話がある。
−−
以下のデータは紀元79年頃のポンペイのデータですが。
元老院議員の年収が25万デナリ、中流家庭の年収が600〜1000デナリ
パン一日分が2アス(1デナリ=16アス)、居酒屋でワイン1杯1〜4アス
公衆浴場 1/4アス。
娼館で楽しむ場合は2アス〜8アス
普通の奴隷 500〜1500デナリ
熟練農園師(奴隷) 2000デナリ
きれいな女性(奴隷) 2000〜6000デナリ
>754
そりゃ江戸期だなぁ。
戦国期は戦や飢饉で相場が変動することがあったけど1石辺り1貫ぐらいが相場だよ。
高い時は5貫、安いときは500文を割ることがあった。
だから米1合あたり1文だなぁ。
一人扶持だと大体5文から6文ほど。
ただ、人夫一人の賃金が10文という話もあるので、足軽一人当たり銭にして10文前後もらっていたのかもしれません。
762 :
○V○:05/01/10 08:58:41 ID:???
欧州の封建制も地域と時代によって様々です
古代ゲルマン諸部族の軍制は部族単位で様々ですが、一般に戦士階級と非戦士階級は
明確に区分されていました
しかし、ここで言う戦士階級とは主に武装や従軍費用の自弁が可能な土地所有者であり、
中小自作農民が軍勢の中核をなしていました
欧州で純粋な意味での戦士階級は、9世紀中頃の司教直属兵である「カサティ」に端を発します
彼らは自ら居住する住居を除けば土地をほとんど持たず、土地の受領は将来の夢で、
当面は武具や金銭の給付に預かるにとどまる比較的貧しい者たちでした
彼らは経済的にも軍事的にも比較的小規模で取るに足らない勢力でしたが、
教会は、土地所有ではなく金銭を受け取って戦うカサティによる戦力の保持を理由に
教会の富を正当化しました
土地を介した封建軍制にかえて、教会領主によって維持され、これに緊密に帰属する
独自の兵力としてカサティの意義は大きく、やがて彼らは伯や司教、修道院長の封臣、
王の封臣や家士へと発展していきます
763 :
○V○:05/01/10 08:59:35 ID:???
一方でフランクのサリカ、リプアリア、カマヴィ・フランクの三法典には、自作農や
その奴隷、従属民の従軍が明記されています
グレゴリウスの「歴史十巻」によれば、6世紀中頃まで貧民はほとんど召集されませんでしたが、
それ以降、軍勢の中に「強壮な兵士」や騎兵の他に、「下層の者」や「弱者や貧者」が
歩兵として見出されるようになります
特に、行政管区伯や大公が召集する軍勢では、こうした下層階層の従軍は不可欠となっていました
10世紀頃に戦場に復活し十字軍以降その戦術的地位を急速に向上していった弩兵は、
主にイタリアやドイツの農民や都市民で占められていました
12世紀末以降、対スコットランド戦や百年戦争で猛威を振るったイングランドの
長弓兵の多くは貧しい農村部から供給されていました
13世紀頃には、騎兵ですら貴族階級の占有兵科ではなくなり、傭兵、奴隷、農民、
都市民たちが、高価な武装と優れた軍馬を与えられ、騎士と並んで戦っています
14世紀以降、農民の武装化は強化される傾向にあり、これは農村部の下層民が容易に
従軍できたことを意味しています
この時期のテリトリウム国家の成立はこの動きを更に加速させ、同一家系の出身で
ありながら、ある者は騎士として生活していながら、他の親戚は農村や都市で労働に
従事しているような例さえ珍しくなくなっています
>>760 借金皇帝というか、まだ一元老院議員に過ぎない頃に作った借金だけどね。
その借金は、女性への贈り物などにも使ったが、大半は道路工事や市民のための
大剣闘大会のプロデュースなどに費やされたそうだ。そうやって市民の人気をガッチリ
つかんでいったんだな。
スペイン行きの前に借金取りに妨害されたときは、最大の債権者であるクラッススが
他の債権者の債権を買い取ってやる形で事なきを得た。クラッススは貸した金があまりに
大きく、カエサルの破滅は自分の破滅も意味するから支援せざるを得なかったようだね。
以上、最近読んだ塩野七生の本より受け売り。
借金なら護民官マリオの方が凄い
約6000タレントとか
アァ、現代の知識を持参金代わりにして古代ローマに飛び、
年に100タラントほどの年金貰ってのんびり暮らしてェなぁ。
きれいな女性(奴隷) 2000〜6000デナリ を100人ほど買ってハアハア暮らしてェなぁ。
それだけ資産があれば確実に軍からお呼びがかかるなあ
お前さんたち、まずラテン語の読み書きと会話をみっちりやらないと。
そうでないとバルバロイ(蛮族)扱いされて、たちまち奴隷商人に狩られちまうぞ?
まあ、特殊技能を持った奴隷だと、並みの自由民よりいい生活が出来たって話だからそっちでもいいかもな。
俺は紀州あたりで1000石ぐらいの捨て扶持もらってのんびりするよ。
1000石のどこが捨扶持だよ
奴隷から剣闘士になったら、いい暮らしは出来ても
寿命は短そうだな
>>770 前田慶次よりは、という意味と思われ。いや、何となく。
アァ、ローマに時間旅行してそのまま隠棲してぇなぁ。
でも多分科学文明があんまりなことに苛立って、
技術指導しまくるうちに過労で死んじゃうんだろうなぁ。
天然ペニシリンと、
釜焚き石けんと、
輪作技術と、
高炉と、
光学レンズと、
綿織機と、
計算尺と、
旋盤くらいはのこしてェなァ。
>770
捨て扶持って言うのは一代限で相続性を持たない禄の事だよ。
ぶっちゃけると、役立たずにやる扶持のことだね。
福島正則が改易後、信州で捨て扶持四万五千石を貰ってた。
本多正純が宇都宮の釣り天井事件で改易させられ、それに不服を唱えたもんだから
1000石の捨扶持をあてがわれることになった。
高いか安いかはその人物の位や経歴によるなぁ。
1000石って言うのは捨て扶持にしては高いほうだけど100タラントよりははるかに安い。
現在の日本円に換算すれば100タラントの1/100ほどになる。
一石=143kgで今の米だと10kgで4,500円ぐらいだから一石=65,000ほど。
1000石で6,500万か。
>776
で、四公六民だから6500×0.4で2600万。
>お前さんたち、まずラテン語の読み書きと会話をみっちりやらないと。
読み書きならともかくラテン語の会話ってどこで習うんだ?
まずはラテン語の賛美歌を歌い込むしかあるまい。
カトリック圏に留学でも良いが。
俺は芸無し能無しだから兵隊でいいよ。
一日1デナリもらって、パンとワイン食って、週に一度は肉食って女抱いて
20年勤めて3000デナリもらったらそれで居酒屋でも開いて細々暮らすよ。
ああ、小市民。
>>781 クラッススの軍団に編入され、砂漠をさまよった挙句パルティア軍になぶり殺しにされる。
急にレベル下がったね
てゆーか悪貨は良貨を駆逐する?
鐚銭は逆に駆逐されたけどなー
撰銭令じゃ。
786 :
名無し三等兵:05/01/17 22:44:12 ID:Ee2HiaE2
ようやっと、雑兵物語を入手したので読んでみる。
確かに長槍は穂先をそろえ拍子を合わせて叩くべきと書いて
あるが、槍数が多くそろったときと書いてある。
他にも一人二人のときはとの記述もあるし、隊列を常時維持し
ていたとは考えにくい。
また銃二挺の間に弓一張とも書いてある。
ここら辺を考えると、
武将→侍衆→槍隊
→侍衆→弓隊
→侍衆→鉄砲隊
→侍衆→徒歩衆
ではなく
武将→侍衆→槍隊
→弓隊
→鉄砲隊
→徒歩衆
→侍衆→(上と同じ編成)
と考えられないだろうか?
ただし武将直属としての単一兵科集団は考慮する必要はあるが。
787 :
名無し三等兵:05/01/17 22:46:48 ID:Ee2HiaE2
>>786 訂正
下段、系統図の徒歩衆は侍衆の隷下と考えてください。
>>768 帝政ローマなら大丈夫だろ
>>771 ただ、「○○(剣闘士の名前)様愛してます」って落書きがあったり、
例の火山の跡から、剣闘士の部屋で死んでる貴婦人が見つかったり…
と、その面では美味しいかも。命の代償だろうが
>>788 剣闘士は奴隷とはいえ、現代のスポーツ選手みたいなもんだったろうからなあ。
強くてかっこよければさぞかしもてただろう。
790 :
786:05/01/18 14:13:17 ID:I6QZEbys
後、槍は一町(109メートル)以上の追撃を禁じたり旗や馬印を守るべきとの記述を
見ると、槍足軽は敵陣への攻撃を禁じたり(鉄砲の射程が一町)本陣の守備をすべき
(旗や馬印がある所は本陣)と言った点から、長槍足軽の任務は防御中心つまりは
移動鹿砦と言うべきものではないのだろうか?
>>790 それはあるかもな。どうみても積極的に前に前に出て攻撃するのには
向かない武器だ。
ヨーロッパでもスイス傭兵やランツクネヒトが出てくる前は
槍部隊は防御用じゃなかったっけ。
793 :
274:05/01/18 17:05:48 ID:???
>>792 バノックバーン以降のスコットランド槍兵によるスキルトロームの攻撃的使用の
例もありますね。
もっともこれは例外的な話で、基本は防御戦術であったと思います。
長槍隊は陣形維持のための防衛用だよ。
古代から中世にかけては、「陣形が崩れる=負け」なので重要な役目だったのだ。
さらに戦場での運動能力も低く側面や後方からの攻撃に極端に弱かったので攻撃にはあまり向いてない。
方陣隊形は前方に戦力を集中させるために特化した隊形なので更にこの欠点が強調されてしまう。
ローマではこの欠点を補うために単一大方陣(ファランクス)から、3種類の単位集団からなる陣形に改良され、
側面援護のために本格的な騎兵部隊の編成が成されました。
共和制時代の中隊によって編制されるレギオンです。
(こういった編成が出来るという事は当時のローマの教育水準が高かったことを意味します。
指揮官は読み書きと人々を指揮するための高い知識と技術を必要としました。
それを大量に準備できるがゆえ可能となった編制です)
第一列はハスタティ。若年者や新参兵によって構成された中隊による戦列です。主武器は長槍。
ハスタティには大抵軽装歩兵が組み込まれていました。
第2列はプリンキペス。戦闘に熟練したもので構成された中隊による戦列です。主武器は投槍とグラディウス。
第3列はトリアティ。古参の兵によって構成された中隊からなる戦列です。彼らはよほどのことが無いと戦闘には参加しませんでした。
最後の守り手ですね。
隊列はこのようになります(クインカンクス隊列)
T T T T
P P P
H H H H
ハスタティが槍をつけ、押されたら後退しプリンキペスと交代します。
後退したハスタティはトリアティの後方で体勢を立て直し、プリンキペスの後退に備えます。
とはいえ、防御以外にもその重厚な圧力からくる、攻勢衝力も
無視できないところですね、長槍をもった重装歩兵隊は。
796 :
786:05/01/18 21:58:11 ID:???
ちなみに私は武将の直属部隊以外には単一兵科集団はいないと考えています。
理由は軍役で余程の小身(徒武者)でない限り、動員する足軽は全兵科を揃えています。
もし、全軍が単一兵科部隊で構成されていたならば軍役は兵科を各々統一させていたでしょう。
797 :
○V○:05/01/18 22:04:42 ID:???
側背が弱いのはローマのレギオンも同様です
ローマがファランクス戦術からマニプルス戦術に転換した直接の動機は、ケルトの軽歩兵の脅威に対抗するためです
共和制から帝政を通じてローマの最大の仮想敵がケルトやガリアの軽歩兵であったことは、ローマの戦術を考察する上で
非常に重要です
ファランクスは純粋に攻撃兵器であり、紀元前390年のアリア河戦のような状況では機能しませんでした
ファランクス戦術からマニプルス戦術への転換は、改革や進化ではなく変容と呼ぶべきものです
最初期のレギオンの第一戦列兵、第二戦列兵、第三戦列兵の主武装がいずれも片手槍だったのはこうした事情によるものです
第一戦列兵と第二戦列兵が槍を片手剣に持ち替えるようになるのは紀元前3世紀以降です
初期のレギオンの翼側掩護は主に軽装歩兵と騎兵の任務でしたが、これらはいずれも軍団直轄で、軽装歩兵は戦闘時には
各中隊を直接支援しましたが、配属されることはまずありませんでした
紀元前2世紀頃にはローマは軽装歩兵と騎兵を同盟軍からの供給に頼るようになります
マリウス以降、軽装歩兵は兵科表からも消滅し、その任務の一部は第一戦列兵に吸収されました
実際のところ、レギオンはファランクスに比べて攻防両面に対応できる柔軟性は備えていますが、
代償にファランクスのような攻撃衝力は持っていません
3線の戦列を備えているものの、各戦列はほとんど線のようなもので、戦力の縦深性は期待できません
更に主武装がリーチの短い片手剣であることとあいまって、重歩兵同士のぶつかり合いに
適している隊形とは言えません
端的に言ってしまえば、レギオンとは体格や技量に優れるケルトの部族戦士の集団を組織的に効率よく殺戮する挽肉機なのです
798 :
名無し三等兵:05/01/18 23:33:05 ID:cU6TKjzo
799 :
名無し三等兵:05/01/18 23:37:24 ID:cU6TKjzo
書き忘れたけど、スレの400くらいから登場しているよ。
>>794 ローマの正規軍は全員一定以上の財産を持つローマ市民だもんな。教育水準という意味では、
現代のほとんどの国の軍隊をも下手すりゃ上回るかもしれん(w
ローマ人のことを調べると、古代人というよりも、
「火薬を知らなかっただけの近代人」
のような気がしてくる。
>>797 マケドニア戦争でファランクス主体のマケドニア軍に完勝してるようですが、
このときはローマ軍はどういう戦術をとったんでしょうか?
武器はヤリとか剣とか、同じようなものなのに、
周辺の民族の軍隊と比べて、ローマ軍が圧倒的に強かったのはなんでだろ?
ほんと、今の米軍とイラク軍くらい戦闘力が隔絶しているように思う。
陣形がどうこう、というのももちろんあるんだろうけど、ただの陣形だけだったら
見りゃあ、誰だってマネできる。
その陣形や、陣形を使った戦法を支えている、何か「目に見えない強み」
・・・これがあるような気がするのだが、いくら本を読んでも分からないんだ。
>>803 古参-中堅-新米 で並んでるんだろ。
この隊列だと、後ろから経験者の声が飛んでくるから、
戦ってる連中は次にやることがすぐ分かったんじゃないの。
2列目以降は兵士であると同時に全員が下士官のような指揮能力を
自然発生的に持っていたんじゃないの。
見りゃ誰だってマネできるものじゃないから強かったんだろ
>>803 豪族の手兵の寄せ集めではなく、合理的な指揮系統を持つ市民軍だったというのは
大きいんじゃないだろうか。
戦況に応じてある軍団から大隊をいくつか引き抜いて他の軍団に入れるとか、純粋に
軍事的能力を重視して指揮官を決められるとか、現代では常識ではあるが当時の
ほとんどの国では不可能に近かったことが比較的容易にできた、
>>803 装備の互換性の高さ…も結構重要か?あと、ALL職業軍人だから訓練も
行き届いてる。土木工事をよくやってるから築城が巧い速い。道がイイから行軍が速い
領土が広いからいい馬や騎手が手に入る…
>802
これはローマ軍の編制による勝利です。
ローマ軍の方陣は各縦列の幅が3フィートと広く、また基本的に中隊または大隊ごとで運用することが可能だったので
戦場における運動能力が高く、指揮官次第であらゆる状況に対応できました。
ローマのレギオンが中隊が100人隊2つ前後、大隊が100人隊4つ前後の組み合わせで構成されていたのに対して、
一方マケドニアファランクスは16×16の256人からなる隊(シンクダグマ)2つが基本戦闘単位で、各縦列の幅は戦闘時は0.5メートル。
(1シンクダグマは8×8のファランクス4つからなる)
真正面からぶつかり合えばレギオンには勝ち目はありません。
が、運動能力ではローマ側のほうが優れており、ローマ側が勝利する場合はその運動能力を生かした包囲や
迂回による側面攻撃が行われました。
先に陣形を崩した方が勝利を握れたので、包囲したり側面をついたほうが圧倒的に有利なのです。
昔も今も戦いの基本的な考え方は
「敵のやりたい事をさせずに、自分のやりたい事を行う」
ことなので、その点でローマ側が優れていたのです。
武田軍の槍隊は攻撃のときには槍の穂先を揃えて、
掛け声をかけながら「エイ、エイ、エーイ」と一斉に突き出したそうだ
810 :
○V○:05/01/19 06:37:27 ID:???
>>802 翼を防護する騎兵戦力で優越していたからです
決して戦術が優越していたからではありません
811 :
喪ナー:05/01/19 09:36:03 ID:???
もっと単純に行こうぜ。
ルキウス・カエサル率いるローマ軍五万と武田率いる武士五万。
平原で合戦したらどっち勝つかだ。
確か日本のこの時代の奴は土着馬だっけ?
これって西洋の馬と比べると性能はどんなもんなの?
812 :
786:05/01/19 09:40:50 ID:???
>>786 >>796 その様な部隊編成ですから、戦闘時もこれら兵科混在部隊を横に並べる事で前線を形成
したのではないでしょうか?
ここら辺が私が唱え続けた(兵科別)隊列無しの基本的な考えです。
言ってる事が違うと言う人もいるかもしれませんが一応はこういう考えです。
但し、特科部隊としての武将直属単一兵科部隊(特に鉄砲隊)の投入は十分ありえたでしょう。
813 :
274:05/01/19 10:45:30 ID:???
>>802 上の方でも解説がでていますが、補足ということで。
ファランクス戦術は攻撃に純化した戦術であり、その突撃衝力は緊密な隊形と前進速度
に依存します。逆に言えば、ファランクスは防勢にまわったとき脆さを露呈することが度々
あります。ローマはギリシャ兵との戦いでこれを学び、エピロスやカルタゴとの戦いでマニ
プレス戦術を確立します。
マニプレス戦術の利点は柔軟性があること、複線式部隊配備のため後列の素速い増援
と消耗した前列の速やかな後退・再編成が可能であること、そしてその結果として継戦能
力が著しく向上したことです。この継戦能力の向上が戦術面におけるローマ軍の最大の
強みだと思います。
ご指摘のピュドナの戦いにおけるローマ軍の戦術ですが、典型的なマニプレス戦術を採
用しております。両軍騎兵、軽歩兵による小競り合いの後両軍主力、マケドニアファラン
クス(といっての大王のそれとは別物ですが)とレギオンが前進し衝突した訳ですが、衝
突前にローマの放ったピルムによりファランクスは混乱します。それでもファランクスです
から前進を続け、レギオンにある程度食い込むところまで行きましたが、隊形が崩れてい
たためファランクス内にローマ兵に侵入され、翼側の騎兵同士の戦いの決着がつく前に
ファランクスが脆くも潰走を始めます。まあこの時はマケドニア側の指揮や錬度にも問題
があったと思われますが。
>>803 兵が文明人であったこと、指揮系統・組織が極めて整備されていたこと等々、古代世界に
おける「近代軍」であったことが主因ではないかと愚考します。またしばしば言われること
ですが、ローマ人の強さの秘訣は「決して負けを認めないこと」なのではないでしょうか。
スレタイの戦国武士団vs古代ローマ軍団だが、鉄砲の存在を考慮に入れても
やはり最終的にはローマ軍が勝ちそうな気がする。組織としての合理性に差が
ありすぎる。
>ローマ人の強さの秘訣は「決して負けを認めないこと」なのではないでしょうか。
おまけにその「負けを認めないこと」を支えてしまう、圧倒的な数の予備兵員数も考慮に入れるべきだと思います。
(つまりちょっとやそっと負けても、直ちに軍団を再編制してしまえる力を国自体が持っていたわけです)
ポエニ戦争時で予備兵員数は30万、その1世代後では75万人にも及んでいたといいます。
816 :
274:05/01/19 12:30:15 ID:???
>815
>圧倒的な数の予備兵員数も考慮に入れるべきだと思います
そうですね。私も「負けを負けと認めなくて済む体力がある」という意味も含めて書いたの
ですが、ちょっと言葉が足りなかったようです。
>796
織豊以前は寄親−寄子を基本単位とした豪族の連合軍というのが戦国大名の軍隊の実態ですから単一兵科ごとの編制は事実上不可能です。
織豊以降も完全に崩すことは結局のところ不可能でした。
せいぜい隊列をいじって何とか同一兵科をまとめて、なおかつ各兵科ごとの指揮官をあてがうことで、何とか同一兵科の集中運用を行っていたのです。
あとは、大名直属の部隊で単一部隊(主に鉄砲隊)を編制するぐらいでしょう。
でもその程度でも当時としては銃を装備した歩兵運用では世界最強であるという評価をされているわけですから、
当時の世界的な軍隊のレベルがどれだけ低かったかがうかがい知れます。
>817
他国の軍隊を不当に貶めるのは、どうかと思いますが。
>796
単一兵科で軍役を与えることが如何に危険なことか、考えたことありますか?
820 :
274:05/01/19 14:02:12 ID:???
>>817 >でもその程度でも当時としては銃を装備した歩兵運用では世界最強であるという評価をされているわけですから、
>当時の世界的な軍隊のレベルがどれだけ低かったかがうかがい知れます。
上記評価はどのような文献でなされている評価でしょうか。16世紀前半と言えばヨーロッパでも
チェリニョーラ、ラヴェンナ、ビコッカ、セジア、パヴィア、チェレソーレなどの一連の会戦を経て
火器普及率・戦術が飛躍的に向上する時代ですが、当時の日本はこれらに対して戦術的に優
位にあった、ということでしょうか。
因みに鉄砲伝来の1543年はスペインでテルシオ戦術が創始された年でもあります。スペインは
すでに野戦築城に頼らない火力発揮という戦術的な新しいエポックへと進んでいたと思うのです
が。
江戸時代の軍備に対する史料があるので
張っておきます。
これは、朝鮮の申維翰という人が通信使一行の製述官として
日本に来た時に見聞したことを記録した「海遊録」という本に
書いてある文ですが、申維翰が日本に来たのは
1719年ですから戦国時代からは、まだ百年そこそこしか離れていませんね。
軍兵試藝。毎月六次。
水有舟師。陸有歩軍。皆以砲手爲上。
而甲斐騎兵。薩摩劍士。最稱饒勇難敵云。
其爲兵器。劍銃最精。佩劍者必以長短雙帶。
長者用以撃刺。短者投而中之。出人不意。無不立死者。
銃則有大中小三制。
小者爲行用。中者其體稍大。載於轆轤而行。大者長可一丈。
大如我國天字銃。只用於守城。
823 :
786:05/01/19 15:35:16 ID:???
はたして一般部隊での兵科分離は行われていたのか?
私はそれ程行われていたのではないと考えています。
例えば何番組といった組単位や、直臣と陪臣間の単位といった程度で
足軽の兵科毎の集成が行われていたのではと考えています。
常時、顔を合わせて訓練ができたのはこの単位が限界でしょう。
そしてこの状態でも足軽とそれを供出した士分はある程度の関係を保って
いたのではないでしょうか?
>822
>軍兵試藝。毎月六次。
これは毎月、六度の武芸テストが行われるという意味ですね。
>水有舟師。陸有歩軍。皆以砲手爲上。
これは、陸軍水軍共に砲手を一番の戦力と位置づけているということです。
>而甲斐騎兵。薩摩劍士。最稱饒勇難敵云。
これは、甲斐騎兵と薩摩剣士に対する日本内の評価です。
>短者投而中之。出人不意。無不立死者
これは、脇差しを使った投剣術のことですね。
>銃則有大中小三制。
これは、鉄砲、大鉄砲、大筒のことdeすね。
>只用於守城。
日本の城にも大砲が備え付けられていたということです。
825 :
802:05/01/19 17:36:44 ID:???
>>808>>810>>813 ご丁寧にどうも。レギオンがファランクスに対して不利ならばザマの戦いよろしく
騎兵の優越による包囲戦術で勝ったのかと思いましたが、
>>813氏の解説によると
編成の柔軟さと有機性による勝利だったようですね。
やはり柔軟性とそれを活かせる指揮能力をもった組織は強いですね。
しかしこれでは戦国武士団は勝てそうもないような気がしますな。
火器の優越以外に勝っているところってあるんでしょうか・・・。
オスマントルコは15世紀ですでに万単位の鉄砲を運用してる
827 :
○V○:05/01/19 19:12:39 ID:???
上でローマのレギオンは攻撃一本槍のファランクスに比べて攻防両面に対応できる柔軟性があると書きましたが、
それ以外の点で柔軟性があるとはとても思えません
柔軟性があると主張されている方は、どういった点で柔軟性があると主張されているのでしょうか?
私はマニプルス戦術は混戦に近い白兵戦に特化した非常に硬直した戦術であると思います
このためレギオンの主要な交戦距離が著しく小さく、しかも近接戦闘では大型の楯を持っているため
リーチの短い片手剣しかありません
また、実質的に下士官である百人隊長に統率を大きく依存していたため、戦況全般を掌握する軍団長と、
最前線で兵を率いる百人隊長の間の指揮ラインは戦闘中は断線しているに等しく、
作戦会議で予想されなかったような突発的な状況には即応できません
一応、大隊長のポストはありましたが、戦闘指揮官ではなく実質的にS1とS4を担任していたに過ぎません
組頭や侍大将等、指揮系統が確立していた戦国時代の日本の備のほうが柔軟性は高いと言えるでしょう
更に、ローマ軍はポエニ戦争以前では軍司令官である執政官の指揮権が毎日交代するという
信じ難いシステムを採用していました
これはとても組織としての合理性があるとは言えないでしょう
828 :
○V○:05/01/19 19:17:32 ID:???
>火器の優越以外に勝っているところってあるんでしょうか・・・。
それ以前にローマのレギオンは火力で優越している敵に対しては致命的に不利です
829 :
○V○:05/01/19 19:33:31 ID:???
中世ヨーロッパでローマのマニプルス戦術の優位性を信じて疑わなかったのが
マキャヴェリです
彼は、16世紀のヨーロッパで自国民から徴発された兵こそが最良の兵士だと主張しそして実践したほとんど唯一の人間です
彼の一連の軍事的著作の内容はローマの軍事制度の解説書といっても過言ではありません
彼の意図するところは、16世紀にローマ軍を蘇らせることにありました
彼は、古代ローマの軍団兵のように楯と短剣を装備したスペイン歩兵を高く評価していました
既にスペインですら時代遅れと認めていたにもかかわらずです
彼はフィレンツェ民兵隊に同様の装備を与え、レギオンを範として部隊を三単位制に改編しました
更に、マニプルス戦術と同じように戦列を三線配置とし、この三線配置こそが戦力に縦深性と靱強性を
与えることが出来ると主張していました
また、このスレでローマの優位を主張している人たちと同じく、白兵の火力への優越を信じて疑いませんでした
現実には、1512年、メディチ家復権を要求してフィレンツェに迫る皇帝軍をプラトーの街道上で迎撃したフィレンツェ市民軍は
皇帝軍砲兵の最初の斉射で壊乱し、潰走の途中で4000名以上が虐殺されました
これ以降、マキャヴェリは実際の政治の舞台から姿を消し、以後その活動範囲を思索の場にとどめることになりました
勿論、古代ローマの軍団兵と16世紀のフィレンツェの市民兵を全く同一に論じることはできません
しかし、ローマ軍団兵が火器による圧倒的な火制下で隊列を維持できるとはとても思えません
一時期白兵によって火力の優位を覆したスイス重槍兵密集陣も、大胆な重槍兵の突撃衝力に頼っていたわけではなく、
局地的であっても相対的な火力優位の確保に努力を怠っていません
>>827 一寸マテ
>ポエニ戦争以前では軍司令官である執政官の指揮権が毎日交代
神君の登場以降(まあ例外としてはポエニ中から)、これは解決されてるだろ。態々発展途上の段階の例を
持ち出すのはどうかと思うぞ
832 :
名無し三等兵:05/01/19 20:38:02 ID:npqb9aoc
戦国って、いつぐらいの段階を想定してるんだろ?
安土桃山時代の一つ前という意味で戦国なら、火縄銃の数も運用術も大したことはない。
833 :
786:05/01/19 20:49:04 ID:???
>>823 ここで注目するべき点が一隊の構成が諸兵科連合で形成されている点です。
ここら辺、単一兵科部隊のみで構成された欧州とは一線を画していると思います。
この諸兵科連合部隊の場合、トップの武将が意のままに隊を指揮するのではなく、前線部隊の
独断専行がある程度許されていたでしょう。
しかしその分、釣り込まれやすくなっておりその対処の為に2番手3番手を配した縦に厚い布陣を
したのではないでしょうか?
834 :
○V○:05/01/19 20:51:52 ID:???
同時期のテルシオは銃兵と重槍兵の諸兵連合ですが・・・
ああ、失礼。火器を持たないローマ軍団が火器の充実した戦国武士団に勝てるとは思ってません。
誤解を招く書き方で申し訳ない。
ローマ軍団が火器の運用を可能になれば、組織の完成度から戦国武士団は勝てないかな、
と思ったのですが(勿論対火器用にある程度の修正が必要でしょうが)、
○V○氏の解説もなるほどと思ってしまいました。
意外と柔軟性に欠ける組織形態だったという見解も説得力あるなあ。
837 :
786:05/01/19 21:42:31 ID:???
>>834 テルシオは大部隊単位(3000人)の諸兵科連合です。
一方、戦国は小部隊単位の諸兵科連合です。
独立部隊の最小単位である一万石の元和2年の軍役は 馬上14騎、鉄砲20挺、弓10張、槍50本、旗3本
の合計97名 騎馬の供を一騎5名としても戦闘人員167名になります。
また井伊軍の先鋒、木俣隊の戦闘人員は285名。
実際はこれらも更に小部隊に分かれていると考えられます。
838 :
○V○:05/01/19 21:56:34 ID:???
テルシオの槍兵中隊は重槍兵219名の銃兵20名の諸兵連合ですが・・・
単一兵科部隊なのは銃兵中隊で、これもアルケブスとマスケットの混合編成です
しかもテルシオには槍兵中隊が10個だったのに対し、銃兵中隊は2個しかありません
同時期の欧州でも単一兵科部隊は少数派です
>>821 火器を運用する戦術思想とそれを可能にする補給
つまりローマに無いもの
合理性に多少の優越があっても火器の優位を覆すことはできない
840 :
786:05/01/19 22:22:16 ID:???
>>838 テルシオは槍兵中隊10個と銃兵中隊2個で300名のテルシオを形成し
これを1単位として戦います。
戦国の場合、1万石167名や木俣隊285名が1独立部隊です。
841 :
786:05/01/19 22:38:45 ID:???
842 :
○V○:05/01/19 22:53:13 ID:???
>>840 それはその通りなんですが・・・
テルシオは諸兵科連合部隊です
>>833の
>ここら辺、単一兵科部隊のみで構成された欧州とは一線を画していると思います。
という前提とは矛盾していますよ
843 :
名無し三等兵:05/01/19 23:15:04 ID:npqb9aoc
>>839 戦国期の日本人の補給能力って高かったっけ?
844 :
786:05/01/19 23:17:24 ID:???
>>842 私にとっての諸兵科連合部隊は小部隊によるチーム戦闘を行うものと
考えていますので・・・
そうなると大部隊編成かつ固定配置で戦うテルシオは諸兵科連合なのか・・・
私の個人的な考えですとあれは槍方陣に銃隊列を貼り付けたものですから。
機敏に各兵科を交代させるというイメージには適さないかと。
>>832 このスレの流れ的には関が原〜大坂の陣ぐらいまでの時代を考えてるっぽい。
細かいことを言うなら「近世日本武士団 vs 古代ローマ軍団」ってことになるかな。
ローマ側も共和制期なのか帝政期なのか
またその中で更に前期なのか後期なのかははっきりしてないな
>>846 ざっくり「カエサルの全盛期あたり」にするのはどうか。なんとなくだけど。
848 :
○V○:05/01/19 23:46:20 ID:???
>私にとっての諸兵科連合部隊は小部隊によるチーム戦闘を行うものと
>考えていますので・・・
それは単なる貴方の勝手な解釈にすぎません
隊列なかった太郎から諸兵科連合太郎にクラスチェンジしたのかな。
850 :
○V○:05/01/19 23:53:47 ID:???
確かに自分勝手に用語の定義を捻じ曲げる人が散見されますね
同一人物でしょうか?
>>850 あなたも少し感情を抑えて話すべきです。
軍制がどうとか言ってたのも用語の定義が独特だったな
つーか用語の定義を俺様ルールで歪曲して挙句に珍説押し付けられたら普通は怒るだろ。
854 :
名無し三等兵:05/01/20 01:03:03 ID:XODTThBh
>>827 ローマ軍の剣が短かった、というのは何でだろ?
体格の違いというのもあるが、それを考えてもあまりにも短い。
しかし、そのことについて、簡単にネガティブな評価をしてよいものだろうか?
ローマ人の工業技術なら、ガリア人やゲルマン人の剣を上回る長さの剣を、
いくらでも大量生産できたはず。
剣だけ見てると「あんな短い剣で不利じゃなかったのだろうか?」
と思うけど、近接戦闘の前に投げる投げ槍(穂先がわざと柔く作ってあり、
ささると穂先が曲がって、敵は投げ返せない)、規格化された大型の盾、
常日頃からの集団戦闘の訓練、こういうものが相まって、
「ガリア人の使うような長い剣などいくらでも製造できるのだが、
戦術上あえて短い剣にしている、いやむしろ短い方が有利」
なのではないだろうか?
843 名前:名無し三等兵[] 投稿日:05/01/19 23:15:04 ID:npqb9aoc
>>839 戦国期の日本人の補給能力って高かったっけ?
>>843 何回も何回も書かれてるけど
10万人の軍隊を世界的にみても荒海と言える海峡を渡海させ他国を侵略し
数年にわたって兵站を維持できるレベル。
補給とはあまり関係のないところで敵の水軍が多少暴れてた事もあったけど
補給線は一度たりとも途切れることなく終始維持できた。
>>827 >また、実質的に下士官である百人隊長に統率を大きく依存していたため、戦況全般を掌握する軍団長と、
>最前線で兵を率いる百人隊長の間の指揮ラインは戦闘中は断線しているに等しく、
>作戦会議で予想されなかったような突発的な状況には即応できません
・・・もしそうであれば、ローマはハンニバル戦争で滅んでいたのでは?
例えば、10万人の兵隊を平原に展開させて、指揮官は真ん中。
そして、軍勢の1番端っこの部隊に、
「前進せよ」「後退せよ」「迂回せよ」「包囲せよ」などの、色々な命令を出す。
いちばん速く、キビキビ運動させた者が勝ち、というゲームをしたとする。
・・・これは、現代人である我々でも、訓練やノウハウを蓄積しなければ、かなり難しいだろうが、
準近代人である上に、このようなノウハウを数百年にわたって体系的に蓄積したローマ軍は、
他の「本物の古代人たち」よりもはるかに上手に、こういうことができたのではないか。
いわば、大砲から撃つタマの威力には大差はないが、IT化された米軍と、イラク軍との間に、
途方もない戦闘力の隔絶が存在するようなもの。
>>854 >ローマ人の工業技術なら、ガリア人やゲルマン人の剣を上回る長さの剣を、
>いくらでも大量生産できたはず。
その優れた工業技術とそれが長剣製作に使えたという具体例を示してもらわないことには
仮定、推論にもならない只の願望だと思うんだけど
>「ガリア人の使うような長い剣などいくらでも製造できるのだが、
> 戦術上あえて短い剣にしている、いやむしろ短い方が有利」
>なのではないだろうか?
これも仮定のうえに仮定を積み重ねてるよ
>>857 乱戦になった場合にさほどのリーチが必要なのかという点や、
隊列を組みながら剣を抜くというシチュエーションを想定したなら
あまりに長ったらしい得物はむしろ邪魔っけなんじゃないかと思うけどな。
まあ推測の域を出ないけど。
でかくて重い盾を持った上に武器まで長くて重かったら疲れて仕方ないだろうな。
ローマ人ってガリア人やゲルマン人よりは小柄だし。
よくわからないけど、日本の合戦で刀があくまでも補助的な武器に過ぎなかったのと同じく、
ローマ人のグラディウスも補助武器だったってことはないの?
そもそも歩兵が長い剣を持つのにあまり意味があるとも思えん。リーチが欲しいなら槍の方が
いいわけだし。
>>855 「前野家文書」によると、補給の総責任者であった石田三成は戦のかなり早い段階からこの大軍を
維持するだけの兵站を保つのは不可能、早期講和しないと「日本は無人国になり候」と語っている。
実際、慶長の役では進撃しながらも補給ができないという理由でやむを得ず引き返したという例は
多いよ。「補給線は一度たりとも途切れることなく終始維持できた。 」はいくらなんでも大げさ。
長剣より小剣の法が扱いやすいからです。
長剣と言うのは製造もだけど扱いも熟練を要する武器なんだそうな。
武士なんて元服前から英才教育で教え込むくらいだしね。
あと、隊列組んで扱う武器としては振り回す長剣より突くことを主とした小剣の方が具合が良かった。
(ローマ兵は相手の腹を突くように訓練したそうな。胸は大抵装甲があるし、天然の装甲である肋骨が邪魔をして致命傷を負わせられないから、腹を狙うように訓練を施したそうな)
隊列を組んで長剣を振りまわす場合、ある程度隣との間隔をあけねばならないのに対して、
グラディウスの場合、極端な話をすると隣と肩が触れ合うほど密集していても扱うことができる。
これで隊列の密度を上げて方陣の正面攻撃力を上げることが可能だったわけです。
(つまり、1対1で戦うところを密度を上げることで1対1.5ないし1対2にすることが出来た)
まぁ、状況をみずにこれをやって包囲されてしまった例もあるのでアレですが。
うまく使えば大変具合がよかった。
>上でローマのレギオンは攻撃一本槍のファランクスに比べて攻防両面に対応できる柔軟性があると書きましたが、
>それ以外の点で柔軟性があるとはとても思えません
>柔軟性があると主張されている方は、どういった点で柔軟性があると主張されているのでしょうか?
はい。現代の我々の視点から見れば、古代から中世にかけての軍隊がすべからくもつ欠点である
「情報伝達系の稚拙さ」
から古代ローマ軍が免れているとはとてもいえません。
この場合の柔軟性は同時代の軍隊、例えばカルタゴやマケドニアの軍隊と比べてどうか、ということです。
ローマ軍は100人隊長の能力に依存することで補っていたものと思います。
百人隊と入っても本当に100人いるわけではなく実質は60人くらいでした。
これは現代でも知られている「一人の指揮官が直接把握し指揮できる人間の上限は50人前後」にほぼ一致します。
これがかなりの優位を引き出せたことが予測できます。
また、中世ヨーロッパに古代ローマ軍をよみがえらせてもとても叶わないでしょう。
古今東西あらゆる軍隊はその事態と地域性に基づいて編制されているものです。
土地や時代が変われば武器や防具も変わり、適切な編制や戦術も変化します。
戦争というのは生き物のように変化するものですから、硬直した戦術を取っているようでは、敗北します。
最も強い軍隊とは時代や世代に合わせて変化していく軍隊なのです。
その点から言えば、古代ローマ軍はあの頃は強かったんです。
負ければそれを戦訓にして同じ失敗を繰り返さないだけの知恵を保持していました。
−−
戦国時の日本の軍隊は古代ローマ軍とはまた別の解決手段をとっていたと思います。
戦国軍と古代ローマ軍では出自が異なるので、欠点の補い方も異なってきます。
864 :
786:05/01/20 07:30:36 ID:???
>>848 欧州の古代・近世軍隊の三兵戦法の意である諸兵科連合ではなく、近代軍隊で多用された
一部隊で独立戦闘ができる諸兵科連合(増強歩兵中隊や戦闘団、歩兵分隊)とお考えください。
865 :
274:05/01/20 09:31:50 ID:???
>>827 >このためレギオンの主要な交戦距離が著しく小さく、しかも近接戦闘では大型の楯を持っているため
>リーチの短い片手剣しかありません
レギオンが大型の盾を装備するようになったのは帝政中期以降です。それまでは両手に2本のピレム
を持つほうがむしろ一般的でした。
>作戦会議で予想されなかったような突発的な状況には即応できません
これは同時代の他国に比べればかなりマシだったと思われるのですが。ローマ軍の指揮系統の優位
性は軍団司令部というものを設置し、そこにスタッフを常駐させ、基本的に軍団長及びそのスタッフは
戦闘加入しないというシステムを確立したことにあると考えます。これは指揮官が軍の先頭に立つこと
がむしろ美徳と考えられていた同時代において画期的なことであったのではないでしょうか。
866 :
274:05/01/20 09:56:22 ID:???
ローマ兵がなぜ短剣を愛用したかという話ですが、これは白兵戦における密集度重視という
一般的に言われる説の他に、マニプレス戦術が創始された当時のローマの製鉄技術が拙か
ったためであるとする説も存在します。つまり耐久力のある長剣を製造できなかったために、
自然短剣に依存せざるを得なかったと。恐らく真実はこの両説の中間辺りにあるのではない
でしょうか。
ローマ軍が鋼鉄製のグラディウスを装備するようになるのは、スペインの統治が安定しその
製鋼技術が普及した後の話になります。
>>861 福岡〜釜山間の補給線は終始維持されていたよ
進撃しながらも引き返したというのは半島西部の制海権を李舜臣に握られていた為
海上部隊が追従できず、朝鮮の貧弱な道路を使わざるを得なかったから。
そもそも、ローマ軍団が劣勢なのは火器だけじゃないだろう。
戦国時代の日本兵の近接戦闘能力は、正に化け物レベル。
白兵戦に持ち込んだところで、ローマ軍に勝ち目があるとは思えないな。
ローマ優勢論者は、ケルト人やゲルマン人を虐殺したように
日本軍を仕留めることができると思うだろうが、日本軍は
彼らと違って陣形戦闘を習熟しているから同じ手は通用しない。
>戦国時代の日本兵の近接戦闘能力は、正に化け物レベル。
根拠は?
>869
>根拠は?
16世紀末に日本と戦った国々の人達の経験談。
871 :
名無し三等兵:05/01/20 12:26:27 ID:XY7dkQEm
>871
アケメネス朝ペルシアの軍隊よりは強い。
長剣で戦うのは技術がいるよ。ゲルマンやケルトの戦士階層は貴族や武士・騎士に相当する戦闘の申し子。
もっとも集団戦に疎いし、動員力に限りあるけど
相手が戦国武士団じゃ不確定要素多すぎ。
大阪城 VS 古代ローマ軍団
にしようぜ。工兵と築城技術にも光を当ててくれ。
>>867 例えばローマ人の場合、侵攻した先によい道路がなければ速攻で整備する
習慣があった。道路が貧弱だったからという理由で補給が滞るのはちょっと
減点材料ではあるまいか。
>>875 書き忘れたが道路事情プラス義兵や現地住民による妨害が大きかった
義兵といっても全部が農民じゃなくて指揮官が武官でないというだけだが
ローマもアルミニウスに同じような方法でやられてるでしょ
カバーしきれない後方の補給部隊が真っ先に食われた
朝鮮の倭城は港を囲んでガッチリ守られていたので李舜臣も手を出せなかった
初期には民衆も日本軍を歓迎していたのだがそれを保てなかったのが敗因かな
ゲルマンやガリアと違ってあちらには文明国で兄の国であるという自負もあるから
ローマのように文化で上流階級を同化、懐柔も難しい
>877
>義兵
朝鮮は16歳以上60歳以下の良民は、すべて軍役の義務がある国民皆兵制だからな。
義兵と言っても、まったくの軍経験無しという訳じゃない。
>>877 補給力ってのは、補給部隊のカバーを含めての能力を言うんじゃないのか?
880 :
○V○:05/01/20 18:57:20 ID:???
>>864 >欧州の古代・近世軍隊の三兵戦法の意である諸兵科連合ではなく、近代軍隊で多用された
>一部隊で独立戦闘ができる諸兵科連合(増強歩兵中隊や戦闘団、歩兵分隊)とお考えください。
これも貴方の勝手な解釈にすぎません
どちらも諸兵科連合という点では同じです
そもそも三兵戦術とは第2次フランス独立戦争の頃に使われだした言葉で、
その意味も歩騎砲をバランスよく整備するというもので、具体的な戦術ドクトリンではありません
それ以前に古代には砲兵は存在しませんが・・・
881 :
○V○:05/01/20 19:06:14 ID:???
>>865 >レギオンが大型の盾を装備するようになったのは帝政中期以降です。それまでは両手に2本のピレム
>を持つほうがむしろ一般的でした。
紀元前2世紀頃に書かれたポリュビオスの「歴史」には共和制ローマ軍の兵士が大型の楯を装備していたと記されているんですが・・・
それ以前に、投槍は楯や短剣とともにローマ戦列兵の標準装備でしたが、帝政中期まで投槍2本だけで
楯も短剣も持ってなかったというのは大間違いです
>863
同時代の軍の中で士官や下士官等の指揮官の数の多さ(指揮官一人当たりが指揮する兵の数の少なさ)ではローマは際立っています。
軍隊の柔軟性、咄嗟の対応能力、という点でこれは重要な要素となります。
これは近代〜現代の軍にも言えることです。「兵は拙速を尊ぶ」のは古今東西変わりが無い。
指揮官は上官の命令に従いつつ、その命令を遂行するために如何に独自の判断を下すかが肝であり、そういった判断がこなせるものが指揮官となります。
ローマはその点で優秀だったのです。
やはり教育度の差が出ていると思いますよ。
883 :
○V○:05/01/20 19:18:24 ID:???
>これは同時代の他国に比べればかなりマシだったと思われるのですが。
具体的のどうマシなのでしょうか?
戦闘中のローマの執政官や軍団長の指揮は極めて限られています
この点では中近世の欧州や日本の軍隊に比べて劣っているのは当然ですし、
同時期の他国の軍隊と比較してもたいして変わりません
執政官や軍団長の仕事の大半は戦闘前にほとんど終わっていると言えます
スキピオが古代ローマ史上最も優れた戦術指揮官であると評されている理由は、
戦闘開始前の作戦指導に卓越していたからです
884 :
○V○:05/01/20 19:30:24 ID:???
ローマのマニプルス戦術は、ケルトやガリアの軽歩兵相手の白兵戦闘では優れていますが、
重歩兵同士の衝突に別段優れていたわけではありません
厳密な編制を保持していた点は評価できますが、戦闘距離が短く、
執政官の指揮権が毎日交代したり(これは流石に改善されましたが)、
中級指揮官が不在である等、重歩兵を擁した敵と戦う際には問題点も少なくありません
野戦戦術の完成度はマケドニアの東征軍に比べてかなり見劣りするものです
ローマ軍の強みは戦術の巧みさではなく、むしろ同時期の他国に抜きん出た人的物的な戦争資源に
あったと言えるでしょう
OVO殿
言葉は生き物であり、使う人が異なれば同じ言葉でもそれに乗せる意味が異なってきます。
よって相手に自分の意見を伝えたい場合は、一般的に使われている意味を乗せるか、自分が乗せている意味を説明した上で言葉を使うかの二通りです。
この点では>274氏はセオリーを守っている。
一方、相手の意見を聞き理解する場合は、相手がいかなる意味を載せているのか必ず確認する必要性があります。
これを行わず、一般的に使われている意味ではないからというだけでただ拒絶するは、相手の話を聞くつもりが無いと見なされます。
聞くつもりが無いのであれば、レスしなければ良いだけの話です。それだけで自分の意は通せる。
相手が間違っているのであれば、沈黙することで相手に損害を与えられるし、相手が正しいのであれば沈黙することで肯定したことになる。
ある言葉や対象がたった一つの意味しか持たないと断ずるのは議論する上で問題となります。
例えば、レギオン陣形は散兵陣形とは普通見なされません。
しかし、レギオン陣形は、ファランクス陣形と比べれは散兵的陣形と見なされます。
相手がどういう意図で言葉を使用しているのか理解しているのであれば、それに乗って議論してこそ面白みがあるというものです。
もし相手の意見を訂正する意図があるのであれば、相手のやり方で訂正してこそ、相手も納得するというものです。
886 :
885:05/01/20 19:44:20 ID:???
失礼
×>274
○>786
887 :
○V○:05/01/20 19:47:43 ID:???
>>885 申し訳ありませんが、どう好意的に解釈してもテルシオが単一兵科部隊であるとは思えませんね
つーか、一般的に使われている意味ではないと議論なんて成り立たないだろ。
まあ単に突っ込まれて言い訳してるようにしか見えないがね。
889 :
885:05/01/20 20:29:07 ID:???
ええっ?誰ですカ?テルシオが単一兵科部隊っていっている人は?
すいません。「テルシオ」で絞込検索したんですが、そういっている人が見つからない…
もしこれが本当ならぜひ根拠を知りたい。
いや、煽りでなくて知的好奇心から。
>>889 つまり君はスレをろくに読みもせずに偉そうに説教しているわけだね。
892 :
786:05/01/20 20:55:50 ID:???
>>885氏は私とは別人です。
ただし、発言の内容には賛同します。
欧州近世軍隊の諸兵科連合が千単位(マウリッツは五百単位だが)でしか達成されていないのに対して
戦国の諸兵科連合は百人(もしくはそれ以下、十名単位も考えられる)レベルで行われていたと考えています。
これ程の差がある場合、前線での戦闘能力には雲泥の差が生じます。
実際の近代軍隊でも師団より連隊戦闘団さらには増強中隊を頻繁に用いてますし、歩兵分隊は諸兵科連合を
常態としています。
後、どちらも同じなんて言わない方が良いですよ、笑われますから。
893 :
○V○:05/01/20 21:04:37 ID:???
用語を自分勝手な定義で用いられても何が言いたいのか理解できませんね
まず貴方の用語の定義を述べてくれなければコメントできません
貴方が
>>885と別人でその発言に賛同していればですが
つーか、歩兵分隊は諸兵科連合を常態ってはじめて聞いた。
他のスレで言わないほうが良いぞ、笑われるから。
895 :
885:05/01/20 21:14:21 ID:N35RT/Kn
んーこれかな?
>833
>ここら辺、単一兵科部隊のみで構成された欧州とは一線を画していると思います。
>834
>同時期のテルシオは銃兵と重槍兵の諸兵連合ですが・・・
別に786氏はテルシオが単一兵科部隊である、とは言ってませんよね?
読み替えれば「欧州の部隊は単一兵科部隊が一般的」ということになります。
それに対してOVO殿は
「同じ鉄砲を使うテルシオは単一兵科部隊ではないよ」といっているわけです。
よね?
ならば、やるべきことは「欧州のマスケット銃装備部隊は単一兵科部隊が一般的ではない」ということを示さねばなりますまい。
−−
テルシオは16世紀前半にスペインで生み出された陣形です。
横に100列、縦に12列から15列の槍兵による密集方陣を組み、その四方に2列程度の小銃兵を配備。
更にこの方陣の四隅に5×5の小銃兵による方陣を配置したものが基本的なテルシオの単位です。
これを数個で1つのグループを作りひし形や松葉型に並べて運用します。
欠点としてはこの陣形を組むのに時間がかかること、戦場での軌道が極めて困難なこと、
小銃兵が四方に分散してしまっているため火力の集中が困難なことが挙げられます。
利点としては騎兵の攻撃などに対する防御力に優れていた点です。
かなり欠点が目立ちますが17世紀前半までこの陣形以外有効な陣形が無かったためヨーロッパ各国で小銃部隊の最強の陣形として取り入れられ普及します。
17世紀前半以降は小銃兵で槍兵を囲むのではなく、槍兵の両翼に小銃兵を配置するようになります。
これでようやく小銃の集中運用が出来るようになります。
896 :
第三者:05/01/20 21:15:04 ID:???
>837 :786:05/01/19 21:42:31 ID:???
>
>>834 >テルシオは大部隊単位(3000人)の諸兵科連合です。
>一方、戦国は小部隊単位の諸兵科連合です。
>840 :786:05/01/19 22:22:16 ID:???
>
>>838 >テルシオは槍兵中隊10個と銃兵中隊2個で300名のテルシオを形成し
>これを1単位として戦います。
>戦国の場合、1万石167名や木俣隊285名が1独立部隊です。
>>786さんは、日本は部隊の最小単位において諸兵科がミックスされていると言っているよ。
そして欧州の場合は小隊・中隊においては単一兵科、ということ。
テルシオは複数の単一兵科部隊をミックスさせた諸兵科連合であると言っている。
テルシオが単一兵科部隊であるとは誰も言っていない。
完全な受け手の誤認ですな。
>>885さんの言うように、相手の話の意味を理解しようとしなかった為に、誤認してしまったわけ。
さあ双方感情の渦に巻き込まれてきました。
>>838では
>同時期の欧州でも単一兵科部隊は少数派です
と指摘されているが見事に無視してるな。
899 :
786:05/01/20 21:19:50 ID:???
編制単位である師団etcと、編成単位である戦闘団etcは同じ諸兵科連合部隊であるにせよ
その受け取られ方には大きな差があります。
>>894 小銃、手榴弾と分隊支援火器。
小隊なら更に機関銃に迫撃砲。
小銃も機関銃も歩兵の装備だぞ
901 :
786:05/01/20 21:21:44 ID:???
>896
相手の話を理解どころか相手の説読んで無いじゃん。
すぐ前の>838なのに。そんなのが三人も現れるもんかねえ
903 :
786:05/01/20 21:23:10 ID:???
904 :
○V○:05/01/20 21:23:51 ID:???
>ならば、やるべきことは「欧州のマスケット銃装備部隊は単一兵科部隊が一般的ではない」ということを示さねばなりますまい。
>>838で示しましたが何か?
自演がひどいな
906 :
○V○:05/01/20 21:29:29 ID:???
弓鉄砲は投射兵器、槍は近接戦闘兵器
小銃と機関銃の違いとは意味合いが全然違います
907 :
786:05/01/20 21:39:02 ID:???
>>906 兵器の特性云々言うつもりはありません。
お互いの欠点を補い、総合的な戦闘力を向上させる
諸兵科連合の意には沿うかと。
908 :
○V○:05/01/20 21:41:55 ID:???
>>907 それならばテルシオの銃兵中隊も諸兵科連合ですよ
アルケブスとマスケットの混合装備ですから
909 :
○V○:05/01/20 21:46:46 ID:???
ついでながら、厳密には兵器の特性=兵科の特性ではありません
910 :
第三者:05/01/20 21:46:57 ID:???
>>908 テルシオは中隊で諸兵科だというのはわかりました。
小隊だと諸兵科?単一兵科?
>>907 兵器の種類まで含めてなんですか?
911 :
786:05/01/20 22:55:58 ID:???
>>908 それはテルシオを編制するユニット単位です。
それに中隊で1戦術単位ではありません。
それらが多数集まって形成したテルシオが1戦術単位です。
>>910 欠点を補うものが兵科か装備の違いで本質は
>>907で変わらないでしょう。
912 :
○V○:05/01/20 23:20:26 ID:???
>それらが多数集まって形成したテルシオが1戦術単位です。
テルシオも諸兵科連合部隊です
貴方の主張している欧州の単一兵科部隊とは何なのですか?
戦国武士軍団 VS 古代ローマ軍団
(1年目)
戦国武士軍団の鉄砲の威力に、古代ローマ軍団驚愕し、壊走。
→戦国武士軍団の勝ち。
(2年目)
古代ローマ軍団、車輪のついた巨大な移動式盾を準備。鉄砲を防ぎつつ、
白兵戦に持ち込む。
→引き分け。
(3年目以降)
古代ローマ軍団、捕虜の尋問と、鹵獲した火縄銃の分析から、
火縄銃の製造に成功。さらなる改良と大量生産始まる。
→古代ローマ軍団の最終的な勝利。
・・・こんな感じかな?と想像。
二年目は眉唾っぽいな
三年目に至っては逆立ちしても無理だ
>>863 ローマ軍が、カルタゴやマケドニアや中世ヨーロッパの軍隊に、
柔軟性で劣ってたとは、とても思えないけどなぁ・・・。
東西を問わず、鉄砲や大砲が出現するまでとても敵わんでしょ、ローマ軍には。
>>913 2年目の状態で泥沼にしておいて数十年の間に開発→最終的にはローマが勝ってるということならありえるかも
>>913 その理屈でいくと、
現代アメリカ軍 VS 古代ローマ軍団
(1年目)
現代アメリカ軍のハイテク兵器の威力に、古代ローマ軍団驚愕し、壊走。
→現代アメリカ軍の勝ち。
(2年目)
古代ローマ軍団、車輪のついた巨大な移動式盾を準備。ハイテク兵器を防ぎつつ、
白兵戦に持ち込む。
→引き分け。
(3年目以降)
古代ローマ軍団、捕虜の尋問と、鹵獲したハイテク兵器の分析から、
ハイテク兵器の量産に成功。さらなる改良と大量生産始まる。
→古代ローマ軍団の最終的な勝利。
・・・こんな感じかな?
世界最強どころか宇宙最強だな、古代ローマ軍
つーか、車輪のついた巨大な移動式盾という時点で噴飯ものだがな
920 :
786:05/01/21 08:24:33 ID:???
>>833 欧州でこの様な小部隊諸兵科連合用法が近代になるまで試みられなかったのは、
統率上の問題にあるでしょう。
つまり王権の絶対性を維持するために貴族やその他の勢力が独立して戦闘できる
部隊を運用する事を嫌ったからでしょう。
921 :
274:05/01/21 09:38:10 ID:???
>>881 >ポリュビオスの「歴史」には共和制ローマ軍の兵士が大型の楯を装備していたと記されているんですが・・・
これは私と貴方の「大型の盾」に対する認識の違いですね。確かに古代ローマ軍は一貫して盾を
標準装備としておりますが、初期においてこれは腕から肘にかけて固定できるサイズのものでした。
この盾は時代を経るに従い大型化し、帝政中期以降はからだをすっぽり覆い隠せる程度の大きさ
まで発展します(このため左手は完全に盾に占有されることになります)。
つまり帝政中期以前のローマ兵の持つ盾は貴方が
>しかも近接戦闘では大型の楯を持っているためリーチの短い片手剣しかありません
と書かれたほど「大型の盾」では無く、スペインの剣盾兵並みの大きさであったと考えられておりま
す。
>それ以前に、投槍は楯や短剣とともにローマ戦列兵の標準装備でしたが、帝政中期まで投槍2本だけで
>楯も短剣も持ってなかったというのは大間違いです
これは貴方の誤読だと思います。私は両手に槍を持つとは書きましたが、盾も短剣も装備していな
いなどとは一言も書いておりません。帝政中期以前のローマ兵は両手に槍を持ち、左腕に固定され
た盾を持ち、そして腰に短剣を吊っていた訳です。もしこの辺の説明が丁寧でなかったということなら
お詫びいたします。
>>883 >戦闘中のローマの執政官や軍団長の指揮は極めて限られています
戦闘中の指揮が限られるのはローマに限ったことではありませんが、上で述べた通り
ローマは司令部機能が戦闘部隊から独立しており、かつ固定のスタッフがおり、その
指揮を伝達するシステムが(他国に比べて)発展していたという意味において「マシ」で
あったと記述いたしました。
>中近世の欧州や日本の軍隊に比べて劣っているのは当然ですし
劣っていた可能性があるというのは同意なのですが、具体的にどのような面でこれら
の軍はローマ軍の指揮系統に優越していたとお考えですか?
>中級指揮官が不在である等、重歩兵を擁した敵と戦う際には問題点も少なくありません
ローマの指揮システムは他国に比べれば比較的整備されていたと考えますが。
帝政初期の話で言いますと、レギオン司令官である上級執政武官の下には副司令官で
ある下級執政武官が5名おり、さらにその下には首席百人隊長1名と上級百人隊長十数
名が在籍します(彼等は良く千人隊長と通称されます)。この首席ならびに上級百人隊長
は大隊長に相当し、やはり連隊長に相当する下級執政武官(実際の役職名は軍司令官
ですが)に指揮されます。
レギオンの作戦会議に参加し意見を言うことを認められていたのは上級百人隊長以上で
あり、この点で彼らがS3にも加わっていることは明らかで、単なる管理指揮系統ではなく
作戦指揮系統にも属していたと考えるべきではないでしょうか。
923 :
274:05/01/21 10:10:10 ID:???
上私の書き込みです。失礼しました。
>上級百人隊長
いわゆる米陸軍が採用している、最上級先任曹長のようなもんだろ
作戦会議では、指揮官のアドバイザーとして助言する立場
S−3とかの一般幕僚や特別幕僚とはやや違う
925 :
274:05/01/21 11:21:11 ID:???
>>924 >最上級先任曹長のようなもんだろ
違います。上級百人隊長は他の百人隊長に対する明確な指揮権を持ち、共和制帝政を通じて
士官であり、退役後は騎士階級を保証されておりました。これはマリウスの軍制改革で下士官
から士官になった百人隊長とは違います。
また最上級先任曹長に当たるのはマリウス以前は百人隊長、以降はプリンキパレスがこれに
相当すると思います。
>>925 戦場での上級百人隊長が、他の百人隊に対する指揮権を持っていても、使えないと思うんだが
管理上の指揮権(行軍、野営、訓練)と戦闘上の指揮権どちらの話でしょうか?
管理上の話であれば、中隊の先任准尉が営内班長を指揮するみたいな話だし
>>913 数十年単位の長期にわたって戦ってたらローマ軍が火縄銃等の製法を知って
自力で製造できるようになるなんてこともあるかもしれんが、2、3年じゃ
いくらなんでも無理だべ。
火縄銃に対するちょっとした対抗策(日本でいうところの竹束の盾程度の
もの)ならすぐに思いつくだろうが、そんなもんで戦況が大きく変わるもの
でもないだろうし。
928 :
274:05/01/21 12:34:39 ID:???
>>926 私の方にも用語の混乱がありましたので、もう一度説明させていただきます。
レギオンは10個の大隊よりなりますが、この大隊毎に1人ずつ最先任の百人隊長である
上級先任百人隊長が存在します。共和制時代はやはり士官であるトリブヌス(騎士階級)
がおり、名目上はこれが大隊長でしたが、戦闘指揮は上級先任百人隊長が行っておりま
した(管理指揮をトリブヌス、戦闘指揮を上級先任百人隊長が行っておりました)。また第
1大隊上級先任百人隊長は首席百人隊長と呼ばれ、この首席百人隊長、上級先任百人
隊長、および第1大隊の他の5名の百人隊長を併せて「上級百人隊長」と呼びました。
帝政期以降はトリブヌスが廃止され、首席百人隊長及び上級先任百人隊長が名実共に
大隊長になります。
>戦場での上級百人隊長が、他の百人隊に対する指揮権を持っていても、使えないと思う
上級百人隊長はマニプルス戦術においては3列目、コホルト戦術においても大隊後方に
位置し、テッセラリウスを介して命令を各百人隊長に伝えておりました。
929 :
274:05/01/21 16:45:30 ID:???
>>921 自己レス&訂正を。
私は
>>865で「両手に2本のピレム」と書きましたが、その後資料をあたりましたら「ピレとピルムを
1本ずつ持っていた」が正しかったようです。お詫びして訂正いたします。
また盾の大型化の話ですが、重装化に伴い帝政後期以降盾が大型化したとの資料がある一方
で、末期になるに従って盾が小型化したとの資料もあります。正直私にはどちらが正しいのか良
くわかりません。この点断言調で書いたのは良くなかったですね。この点もお詫び致します。
930 :
○V○:05/01/21 20:47:39 ID:???
首席百人隊長と上級百人隊長を混同しているようですね
戦闘展開した中隊の右側の百人隊を指揮するのが首席百人隊長centurio prior、
左側の百人隊を指揮するのが次席百人隊長centurio posteriorです
首席百人隊長のほうが先任で、中隊の先任指揮官と言えますが、首席百人隊長と次席百人隊長の指揮権は独立しており、
首席百人隊長には中隊の左側に並ぶ百人隊を直接指揮する権限も、次席百人隊長を指揮する権限もありません
作戦会議への参加資格があった上級百人隊長primi ordinisは、各中隊の首席百人隊長+第1大隊の各次席百人隊長を
示すとされていますが、これには諸説あり、各大隊の最先任の首席百人隊長+第1大隊の各次席百人隊長という説もあります
第1大隊の百人隊長は他の大隊の百人隊長よりも格上だったことは間違いないようですね
ただし、だからと言って他の百人隊を指揮できる権限はありません
他にも再任首席百人隊長primus pilus iterumがいました
彼らは退役後再び現役復帰した元百人隊長で、指揮すべき百人隊を持たず、実質的には軍団長のスタッフです
当然、百人隊を指揮する権限はありません
プリンキパレスprincipalesは百人隊の管理要員です
現代風に言えば中隊本部要員といったところで、この中から次の百人隊長が選出されることはありましたが、
基本的に戦闘には参加せず、当然ながら指揮権もありません
931 :
○V○:05/01/21 21:00:46 ID:???
大隊という単位が登場したのはポエニ戦争以降です
大隊の最先任の百人隊長が大隊を指揮したことを示唆する史料を私は知りません
現代では、大隊は戦術的な編制単位というよりも、軍団を管理する上での便宜的な区分であったとする
説が有力です
ただし、暫定的に分派された集団を大隊と呼称する事例もあります
932 :
○V○:05/01/21 21:24:50 ID:???
そもそも、マニプルス戦術の最大の特徴は、中級指揮官を必要としない程に
厳格にマニュアル化されている点にあります
これは、突発的な状況に対応できないという問題点があり、しばしば敗北の一因となりましたが、
一方で部隊の戦力化には極めて大きな利益をもたらしました
そして、ローマには幾つかの軍団が文字通り全滅しても早期に戦力回復可能な
強力な人的物的資源基盤を備えていました
マニプルス戦術には利点もあれば当然欠点もあります
決して全肯定できる戦術ドクトリンではありません
欠点のためにしばしば悲惨な事態を引き起こすこともありましたが、
ローマにはそれを打ち消すだけの国力があったのです
そもそもマニプルス戦術は、祖父が昔戦場で上げた首級を玄関の飾付に使う家庭に生まれ、父親が敵を殺した時の様子を子守唄に育ち、
バールのような長剣を振り回し、頭髪を石灰で固め、肉体を染料や刺青で彩り、半裸時には全裸のマッチョな部族戦士の集団を
効率的に膾にしていくために確立した戦術ドクトリンです
むしろ、こうした状況では、硬直していても堅固で断固とした戦力発揮のほうが
柔軟性の発揮より重視すべきだったと言えます
古代マケドニアや中近世欧州、戦国日本のような、重歩兵同士の衝突を想定して
練り上げられた戦術ではありません
分が悪いのは当たり前と言えるでしょう
>>932 >半裸時には全裸のマッチョな部族戦士の集団
よくわからんが笑い転げた!
膾にするってどういう意味?
広辞苑にも膾に叩く=人を酷い目に遭わせるとしかみつからんかった。
あ、野蛮人をズタズタにするってことか。
ユーモアがあって面白い表現だ
>>934 人口に膾炙す、の語源を調べてみたまえ。
あとゲルマン人は戦の最中興奮すると、着ている鎧を脱ぎだして戦う癖があったらしい。
エドワード3世の率いる中世イギリス軍と、ローマ軍団ではどうだろう?
フランス軍やスコットランド軍と同じように敗北するだろうか
937 :
274:05/01/21 22:33:16 ID:???
>>930 >首席百人隊長と上級百人隊長を混同しているようですね
恐らく貴方と私で訳語が食い違っているのだと思います。貴方はcenturio prior
を「首席百人隊長」と訳しておられるようですが、私はprimus pilusを「上級先
任百人隊長」と呼び、centurio priorを「先任百人隊長」と呼んでおります。そ
して第1大隊のprimus pilusを私は「首席百人隊長」と記述しました。貴方は
primus pilusを何と訳されるのでしょうか?primus pilus iterumを再任首席百人
隊長と呼ぶならば、primus pilusは少なくとも首席百人隊長と呼ばれるべきでは
ないでしょうか(私は前述の通り上級先任百人隊長と呼びますが)。また貴方の
資料にもprimus pilusはcohors(大隊)の最上位と書かれておりますよね?
>上級百人隊長primi ordinisは、各中隊の首席百人隊長+第1大隊の各次席百人隊
>長を 示すとされていますが、これには諸説あり、各大隊の最先任の首席百人隊
>長+第1大隊の各次席百人隊長という説もあります
私の読んだ資料(マイヤーの例のやつだったと思います)では大隊最先任のprimus
pilusと第1大隊の他の百人隊長がprimi ordinis(上級百人隊長)であり、作戦会
議への参加メンバーはprimi ordinisに限られたと思います。またprimi ordinisが
共和制帝政を通し士官であったということは、恐らく貴方の資料にも書かれている
のではないでしょうか。またcenturio priorは(共和制においては)centurio
posteriorと同じく下士官であり、当然作戦会議への参加資格はありません。
すみません。長いので続きます。
938 :
274:05/01/21 22:35:28 ID:???
>>930 >基本的に戦闘には参加せず、当然ながら指揮権もありません
プリンキパレスがスタッフであるというのには同意です。
>大隊の最先任の百人隊長が大隊を指揮したことを示唆する史料を私は知りません
前述のマイヤーの書籍にこの旨記述があったと思います。後で私も資料を漁り確認
します。
>現代では、大隊は戦術的な編制単位というよりも、軍団を管理する上での便宜的な
>区分であったとする説が有力です
少なくともmanipulus廃止以降の帝政期においてはcohorsは部隊の編成単位であった
ことは間違いなく、この指揮官はprimus pilusであったという説が一般的であると
思います。共和制においてもレギオンには10名のtribunusがいたことからも10個大隊
編成であったことは一般的に言われていることだと思いますが、ここはもう一度資料
を掘り返して調べなおしてみます。
939 :
○V○:05/01/21 22:50:48 ID:???
大隊は編制単位ですが、独立的な戦術単位ではありません
戦闘は基本的に軍団単位で行われ、大隊が独立的に行動するのは皆無ではありませんが非常に稀です
軍団が戦闘している状況では、大隊長が戦闘指揮をとる必要性がほとんどなかったのが
マニプルス戦術の特徴の一つです
ローマ軍団の強さは、百人隊長がある程度の指揮権を持っており
マケドニアファランクスなどの密集隊形を相手にする場合、正面から拘束しつつ
時期を見て百人隊長が部隊を側面に機動させ、包囲して勝利するのがパターンだと聞いたけど
戦術単位が軍団ってのは、大味な正面攻撃しかできないし
1個軍団だけでも戦闘できないのでは?
単位部隊が1個だけではかなり困ると思う
この調子だとじきに1000いくな
次スレについて方々の意見を伺いたく
自分としては
>>745に書いた通り
942 :
○V○:05/01/21 23:10:54 ID:???
百人隊長は指揮官ですが、その領分は基本的にコマンダーよりもリーダーです
彼らには自分の目の前の状況しかわからず、戦場全般の状況を掌握することはできませんし、
高度に戦術的な判断は求められていません
最前線に立って率先垂範して兵を率いることが百人隊長に求められていた最大の資質です
当時の戦闘では、側面を防護する部隊を排除された側が、
側面をそのまま圧迫されて包囲されることがほとんどです
これは、包囲する側が包囲を狙ってわざわざ戦列の一部を分派して迂回機動したというより、
単純に押し合う集団の間で発生した力学的な結果に過ぎません
マグネシアでマケドニア軍の側面が圧迫されたのも同じケースです
そもそも、レギオンは常に包囲を狙うようなテクニカルな戦闘隊形ではありません
戦術というのは基本的にシンプルなもので、大味でも何の問題もありません
943 :
○V○:05/01/21 23:13:09 ID:???
少し訂正しますね
「当時の戦闘では、側面を防護する部隊を排除された側が、
側面をそのまま圧迫されて包囲されることがほとんどです」
ではなく
「当時の戦闘で包囲が成立したケースは、側面を防護する部隊を排除された側が、
側面をそのまま圧迫されて包囲されることがほとんどです」
です
>>942 しかし、マケドニアファランクスは横方向への戦場機動がほぼ不可能なのに対し
マニプレスならば、比較的簡単に延翼できるはず。
1,2列目が敵を拘束している時に、3列目の予備戦力が、敵の側面警戒部隊を駆逐して
包囲機動を行えば圧倒的に優位に立てるでしょう。
カンネ会戦なんかもそうだけど、延翼されて味方の翼側が敗北することが
包囲殲滅に直結するわけで
945 :
○V○:05/01/21 23:23:49 ID:???
>マニプレスならば、比較的簡単に延翼できるはず。
第2、第3戦列が横方向に延伸して包囲を行ったという事例を私は知りません
どういった戦闘ですか?
>1,2列目が敵を拘束している時に、3列目の予備戦力が、敵の側面警戒部隊を駆逐して
>包囲機動を行えば圧倒的に優位に立てるでしょう。
これも私は知りません
どの戦闘ですか?
>カンネ会戦なんかもそうだけど、延翼されて味方の翼側が敗北することが
>包囲殲滅に直結するわけで
カンネーで翼に配置されたカルタゴ歩兵は横方向に延翼していません
ローマ軍中央を誘引することによって、自然に包囲の態勢になっただけです
戦闘前の戦闘展開の段階で包囲の態勢はほぼ完成していたと言えます
スキピオやハンニバルの優れていた点は、戦闘展開の段階でこうした作戦指導を
適切に行うことができた点にあります
946 :
○V○:05/01/21 23:41:39 ID:???
少なくとも、最初から包囲を狙って側面攻撃を慣用としていた軍隊は、
ペロポネソス戦争時のスパルタ軍と七年戦争時のプロシア軍くらいです
包囲は戦術行動の中でも要件の難しいものの一つです
圧倒的な戦力比があればともかく、両軍の戦力が拮抗している状況では
そう簡単に包囲は成立しません
>>919 >つーか、車輪のついた巨大な移動式盾という時点で噴飯ものだがな
そうだね。ローマ人だったらもっと洗練されて、効果的なものを
考え出すだろう。1年もかからないかも知れない。
>>829 例えば、徳川時代末期の武士が、「甲州流軍学」をどれだけ「本で勉強」しても、
戦国期の武田家のいくさを再現できるわけがない。
これは分かるよね?とても簡単だよね?
あなたの言う、マキャベリのフィレンツェ市民軍もこれと同じ。
ローマ軍の「さるまね」のフィレンツェ市民軍が、銃火に壊乱したとしても、
そんなものはローマ軍の評価には何の関係もない。
これも、分かるよね?大丈夫だよね?
>>927 かつてインカ人は、馬に乗ったスペイン人の侵略者を見て、
「化け物がやってきた」
と驚愕し、壊乱し、敗北した。
さて、古代ローマ人が、銃火に曝されたらどうか?
初めての遭遇ではおそらく、銃火の前に、死傷し、壊乱するだろう。
しかし古代ローマ人ならば、その兵器を見て
「何らかの激しい燃え方をする物質の力により、金属の玉を高速で打ち出す兵器」
であると、容易に想像できよう。そして彼らは、その兵器を鹵獲したり、
対抗策を考えたり、仕組みを分析したり、複製したり、そういうことを考え、
実行にうつすと考えられる。
種子島の鍛冶屋に、ローマの科学者や工房の工人たちが、それほど劣っていたとは
考え難い。もし1丁でも火縄銃を鹵獲できれば、1〜2年で複製できるのではないか?
>>「何らかの激しい燃え方をする物質の力により、金属の玉を高速で打ち出す兵器」
であると、容易に想像できよう。