軍隊にとって最も大切なロジスティクスの問題について研究しましょう。 古くはナポレオンのロシア遠征から始まり 第二次大戦時の東部戦線、スターリングラード、北アフリカ戦線とマルタ島の関係 米軍による完全一方通行の道路を作る事による大補給線の確立、 それでも前線に届かない補給物資、そして補給線に発生する渋滞 場所を太平洋に移して帝国海軍による海上護衛戦と米軍潜水艦のよるシーレーン遮断 インパール作戦、ガダルカナル島への駆逐艦によるねずみ輸送 湾岸、イラク戦争における米軍補給線と補給量 等 これら補給戦、海上護衛戦の問題がいかに作戦に影響を与えたかを語り合いましょう そして補給線やシーレーンを防衛するにはどうしたら一番良いかを研究しましょう。 今まで戦略スレや戦術スレ、海上護衛戦スレは数多くありましたが 補給戦をメインとしたスレッドは無かったような気がするので こんなスレを立ててみました。
どうしたらロシアと中国を征服できる補給線を 確保できるか教えてください。
>>2 露中相手じゃ補給線を確保してもそもそも送る物資がたりないんじゃ・・・
>>2 あんな国占領しても、広いし人口多いし、
日本にはとても面倒見切れません。
そこまでのボランティアをする義理はないので、
自分で自分の面倒くらいは見てもらいましょう。
補給戦の失敗の好例
大風呂敷を広げたはいいが、知識不足でスレを維持できないこのスレの
>>1 教訓
もう少し議題を絞ることにより戦線を緊縮し、兵站所要の節約を図るが吉
どこでもドアが有れば補給の問題なんてすぐ解決だよ
>>5 いや・・どれから始めるか悩んでたのだ。
とりあえずロンメルVSモンティの北アフリカ戦線の補給戦から始めてみます。
>>6
断固ネタスレ化は阻止してみせる。w
まあ補給は大事って言うのは簡単お手軽だが、さあ実際にどう大事にすればいいかとなると 誰にも正解は出せない 米軍方式は一つの方法ではあるが、凄まじい無駄を許容する度量が要求される 軍事板では手垢のつきまくった観のあるRMAには そうしたべらぼうな兵站所要の増大への回答という側面も存在している
ちまちま考えなくても政治的に 敵となる国に韓国、イタリアと同盟させ、 アメリカを味方に巻き込む。 これが一番の早道でしょ。
そろそろインパールや餓島や北アフリカなんかはこうやれば勝てたなんて 妄想と現実の区別がつかなくなった火葬戦記太朗が登場する予感。
日通無しでは補給できませんが、何か?
UPSもなー
輸送用潜水艦が沢山有れば勝てた。
>>8 イラク戦だって、あんな兵站出来たのはアメリカ軍の圧倒的な戦力と入念な計算された事前爆撃が
あってのものだしなー。ああいうのとかRMAを今、参考にして日本が兵站を考えると、何だか凄い
勘違いしたものが出来てしまいそうな予感
さてさて、できれば資料として『補給戦』という本があればありがたいのだが 私はそれを保有していないので『補給線』所有者の方は援護してください。 まず北アフリカ戦線会戦の経緯を。 簡単に言うとムッソリーニおじちゃんが「地中海帝国建設」の無謀極まりない野望の元、 埃及に進攻した所から始まります。 10万を越えるイタリア軍は三ヶ月の準備を費やした末に、 四日後、埃及国境から100km進んだシディ・バラーニを占領したところで物資を使い果たし(何に使ったんだよ・・・ 六個師団の重砲や車両、兵士に補給が行き届かなくなり12月までの三ヶ月間 その場に陣地を構築し、再び物資を集積しようとして進攻を停止。 まあそれがイギリス軍の機動戦に敗北する原因だったのだが・・・ まあそれはさておき続き。 三ヶ月後の12月9日、そろそろ進撃しようかとしていたイタリア軍はイギリス軍に叩きのめされます。 オコナー少将率いる総勢2.5師団、わずか三万のイギリス軍が10万以上のイタリア軍は敗北。 イタリア軍→イタ公はその後の戦いで面白いぐらい後退を続け、 2ヵ月後にはもともとの支配地であったリビアの東半分のキレナイカ全土を失い さらにベダ・フォムで退路を防がれ、総計13万の捕虜を出して壊滅。 キレナイカの要衝トルブクがあっけなく陥落した事で驚いたイタ公のトップ、 ムッソリーニおじちゃんは激しく動揺します。 (このままではエル・アゲイラも突破されトリポリも陥落するかもしれない。) (そうしたらイタリア軍は北アフリカから完全に追い出されてしまう) そう考えたムッソリーニおじちゃんはドイツの伍長閣下に泣きつきます。 そろそろバルバロッサを開始しようかと言う時期に足を引っ張られた形になった伍長閣下ですが イタリア軍でも同盟軍には違いないと北アフリカ戦線に部隊を投入する事を決意します。 そしてその指揮官こそが、エルウィン・ロンメル 後にイギリス軍から『砂漠のキツネ』と呼ばれた名戦術家でした。
何で日本がアメリカ参考にして兵站考えなきゃいけないんだよ。
米軍方式は問題点も多いが、現代戦においてほぼ唯一の現実的な兵站スタイルではあるが、 だからといって日本が簡単に真似できる代物ではない しかし、現状の自衛隊の兵站でいいかというと、んなわきゃねえんだよな、これが
陸自は国内で戦う事を前提にしてるから長距離や見知らぬ地での兵站を不得手とするのは仕方ない・・か? そういうものを整備し始めたら、また色々と騒ぐ連中が居るんだろうし。 いっそ、コンビニに任せたら・・・w
離島を含めた日本国内に採算度外視して 20km範囲内事にコンビニを作らせ、 山間部100km事にヘリポートを防衛庁 の予算で作らせたらどうですか? コンビニの通信配達能力は馬鹿に出来ませんよ。
22 :
21 :03/10/13 19:43 ID:???
つーか、銭さえ(無尽蔵に)あれば解決できる程度の問題ではある 確かに何かといちゃもんをつけたがる連中さえクリアできればだが
そもそも、コンビニのPOSシステム自体が米軍の兵站システムの流用だしな。
もりあがらんね。
戦車はイラネとひたすら書きつづけるが由
補給戦は理詰めの世界だから兵器や作戦のように妄想が付け入る余地がほとんど存在しない。 故に軍事板住人にとって最も苦手な分野だと言える。 まあ、「補給は大切」と言っておけば軍事板では一応OKだからな。
最強ノ補給部隊ヲ語レとか
1の今の心境やいかに
誰か北アフリカについて語ってやれよ・・・
つーかスレタイを見ると「補給線を守るための海上護衛戦」を語らねばならないように思える しかし来ると補給全般の話をしろと書いている
さてさて、ロンメルは1941年2月に北アフリカに着任します。 これが「ひまわり作戦」と名付けなれたアフリカ支援作戦の始まりです。 最初の実働部隊である第三捜索大隊と第39装甲猟兵大隊は2月14日にトリポリに上陸。 2月24日には高射砲部隊と各種輸送隊が揚陸されその後三ヶ月いっぱいをかけて 第五軽師団のほぼ全部隊が上陸してきます。 ところでこの頃、伍長閣下は対ロシア戦に夢中でした。 まだ頭がまともだった伍長閣下は北アフリカを戦略的に低い位置に置いていました。 イタ公とイギリスにとっては主戦場であったがドイツにとっては主戦場では無かったからです。 そこで伍長閣下からロンメルに与えられた命令は以下の物でした 『リビアを守り、できるだけ長期間(ソ連降伏まで)地中海をドイツの負担にしない』 と、いうかなり消極的なものでした。 しかしながらロンメルは戦いの主導権を握る為に命令を無視して攻勢に出ます。 しかしロンメルには大規模攻勢作戦を成功させる戦力はありません。 その上、埃及制圧はイタリア軍が行なわないといけないので、 ロンメルは補給を無駄に消費するだけの足手まといでしかないイタリア軍と共に、 伍長閣下の真の意向も知らずに戦わないといけなかったのです。 (埃及を占領できれば中東に対する橋頭堡を得られるし 中東と言わずともスエズを制圧できれば海上補給線を脅かすクレタを無力化できる のでバルバロッサの進路を中東に向けていれば・・・ 後のロシアに対する支援を遮断できるしインドを挟撃する形にもっていけたかも ・・・・もちろんこれはIF以上の妄想なので突っ込まないで下さい)
何日かかる戦争するかによるだろ。 それ以上かかったら撤退するのが一番。
ここは不思議な空気が支配するスレでつね。
>>29 氏
ちょっと悲しい・・・
>>31 氏
いや、どうぞ海上護衛戦について語ってください。それも補給戦の1つですので。
実は海上護衛戦だけだと書評や日本限定の話になりそうなので補給全般に手を伸ばしてみたんですが
拙かったですかね?
1 みんなそんなこと語る気更々ないのに あなたを嬲って弄んでるのに
>>35 補給全般ってそりゃ「戦史について語ろう!」ってスレ建てるようなもんだ。
もうちょい分野絞らないと。シーレーンとかそのあたりは既にスレがあった気がするが。
38 :
名無し三等兵 :03/10/13 20:08 ID:GgirP6yW
「大東亜補給戦」って読んだことある人いる?
じゃあ絞って多号作戦について語るのどう?
ドラえもんの新秘密道具について語りなよ
訂正
>>32 のクレタ島をマルタ島に訂正します・・・すまそ
別に間違いではないんですが、訂正しておきます。
あの島が無ければもう少しロンメルが楽できたんですが・・
丸太の戦闘機乗りの楽園 お互い必死だったようだが
>>38 知り合いが持ってましたけど読んだ事無いです。
今度借りて読んでみます。
>>39 氏
レイテ島への第一師団、第二九師団の輸送作戦ですか?
残念ながら自分の資料の中には多号作戦の資料がありません。すまそ・・・
>>43 敵制空権下の強行輸送作戦の典型だと思ったんですけどねえ
残念だす。
>>44 氏
いや・・確かにその通りなんですがある意味あれはまぐれとも言える胸甲輸送だったはずです。
今から堀氏の情報戦記にその辺のことが書いてあった気がするので開いて調べてみます。
たしか・・あれは何処ぞの航空戦で海軍が空母を全て撃沈したような事を発表したから
現地指揮官の意向を無視して大本営が強行させた作戦だったような。
偵察機の飛行ルートが判明していたのとハルゼーがたまたま南下していたお陰のような強行輸送だった
と記憶しています。
>>45 大岡昇平「レイテ戦記」だと、レイテ湾海戦後の米第3艦隊の一時的な不在のお陰で
第1師団(玉)の輸送・上陸に成功したそうだが。
本の現物が手元に無いんで記憶だけで書いているが。
あった。 台湾沖航空戦の戦果を信じての作戦のはず。 まあ確かにこの戦果を見れば誰でも狂喜乱舞して反攻作戦を行なおうとするはずです。 16日の累計戦果発表。 轟撃沈 空母10 戦艦2 巡洋艦3 駆逐艦1 撃破 空母3 戦艦1 巡洋艦4 艦種不明11 さらにおまけでその後の発表では 撃沈 空母1 撃破 空母3 戦艦もしくは巡洋艦1 と言う大戦果が大本営海軍部発表で流されたんだからなあ・・ 堀参謀や山下大将はこの大本営から電波で届いた戦果発表を信用して居なかったようですが もう少し別の本にも資料が無いか探して見ます
あー拙い・・
>>37 で忠告された如く補給戦について調べれば調べるほど戦史を開いていかないといけない・・
とりあえず米軍側の上陸部隊は4個師団、防衛部隊は第16師団の1個師団だけ。
米軍は一日で10万人以上の兵員と10万トン以上の物資を揚陸。
日本側は第一師団が無傷で上陸に成功した後は殆どの船が撃沈された。
さらに日本側は集積物資の大半をタクロバン周辺で失い、通信網も遮断された。
で決戦兵力と補給物資を送る船舶を運航確保する為、日本軍は敵飛行場へ進攻しようとするが失敗
以後日本軍は撤退を余儀なくされる。
栗田艦隊の動向と第16戦隊の輸送と陸軍の戦況はどうかぶるの?
51 :
「某バニラ娘とその彼氏」の投稿者 :03/10/13 21:50 ID:IUkJp6Va
S:名無し四等兵様。
Y:新スレッド建て、おめでとうございます。
K:「制海権が無ければ輸送船は決して安全に航行できない」
と言うのが前大戦の教訓といえるわね。
投:英国海軍に比べて我が海軍は、どうもそのあたりの認識が欠けていた
ようだな。
>>49 孤島に放り出された挙げ句、後続の輸送船が潜水艦と飛行機であぼん。
孤島に残された部隊は飢えと病気で・・・という日本軍の負けパターンが
ここでも・・・ああ(涙)。
52 :
名無し四等兵 勉強中 :03/10/13 21:57 ID:joT/UyZU
あ、遅れましたが
>>47 さんどうもです。
後でじっくりそのサイト見させてもらいます。
>>某バニラ氏
そうです・・悲しくなるような黄金パターンでの敗北です・・・
とりあえず今後に期待で打ち上げ 北アフリカ戦線の話が途中で終わっているので最後まで完結させてくれ
>1 スレたて乙~ 呼んでくれれば喜び勇んでやってきたのに(笑)
>>38 日中戦争の初年度の陸軍予算の半分がタマ代で吹っ飛んだ話しか覚えてない・・・
補給には強い経済が必要、強い経済を作るには正しい国策が必要、正しい国策を 得るには良い教育が必要。 かったるくてやってられねー
ハルゼーは実戦指揮官としてはハッキリと落第点だけど ガムラン湾に展開していた日本最後の護送船団を全滅させたのだけは 100点マンテンをあげてもヨイヨイ
皆様、ごきげんよう。 >1様、スレ立てお疲れ様でした。
59 :
名無し三等兵 :03/10/14 21:07 ID:yCjLn+SH
軍事板の住人には荷が重過ぎるよう
つーか
>>1 は何を語り合いたいんだ?
後方兵站業務か?
段列か?
輸送業務か?
心意気だけで何となくスレ建てても駄スレを増やすだけだぞ。
61 :
名無し三等兵 :03/10/14 21:43 ID:yCjLn+SH
独ソ戦で鉄道の狭軌(ドイツ?)と広軌(ロシア?)で 補給不足になったてホント??
ここって大井篤スレ?
>>62 自分の場合、確かにミリオタ道入ったのが「海上護衛戦」からなので、
そういった色の強い発言をする事も有りましょうが、基本的には
大井篤に限る話では無いとは思います。
百家争鳴状態(苦笑。 日本の補給戦とかであれば、今読んでる「陸軍船舶戦争」は面白いですよ。 日中戦争、太平洋戦争における陸軍の船舶輸送に関する様々な資料も 出てます。 例えば昭和16年度の海運器材整備報告より。 寝棚材料(130,862坪) 輸送船供与 72,759坪 隷下部隊に支給 19,954坪 宇品等保管 38,149坪 厠材料(3,459棟) 輸送船供与 1,661棟 隷下部隊に支給 1,345棟 宇品等保管 453棟 輸送船旗(1,687流) 輸送船供与 451流 隷下部隊に支給 706流 宇品等保管 479流 赤十字旗(99流) 病院船供与 21流 隷下部隊に支給 22流 宇品等保管 56流 野山砲船載砲架(398架) 輸送船供与 224架 隷下部隊に支給 63架 宇品等保管 111架 高射砲砲架(233架) 輸送船供与 150架 隷下部隊に支給 5架 宇品等保管 78架 小掃海具(87組) 輸送船供与 3組 隷下部隊に支給 45組 宇品等保管 39組
開戦時の日本船腹…681万総トン(うち徴傭対象外104万総トン) 徴傭対象外船舶 → 沿近海定期船:44万総トン 油槽船:36万総トン 官庁船:9万総トン 漁船・作業船 15万総トン 緒戦用の陸軍徴傭船は約215万総トン+海上トラックが1万総トン強で内訳は以下の通り。 軍隊輸送船:240隻 145万217総トン グァム島攻略 7隻 34,417総トン タラカン島攻略 9隻 50,280総トン 比島方面攻略戦 101隻 615,792総トン マレー方面攻略戦 89隻 541,774総トン ミリ攻略 5隻 29,982総トン 全作戦予備船 8隻 53,628総トン 船司直轄船等 21隻 115,344総トン 特殊船(病院船以外) 41隻 約20万総トン (給炭船3隻、給油船6隻、給水船11隻、工作船4隻、救難船3隻、舟艇運搬船10隻) 軍需品輸送船 約50万総トン 冷凍運搬船 6隻 12,000総トン 病院船 14隻 約90,000総トン これに加えて、防空基幹船(八八式七糎高射砲を前後に2組4門、九八式二〇粍高射機関砲を各舷3門、前後に2門程度を装備したもの) が8隻、通信船(強力な通信機が装備されたもの)が2隻あった。 ちなみに、対潜用に三八式野砲を各1門搭載している。 (防空船8隻、高射砲搭載船24隻、軍隊輸送船65隻、軍需品輸送船10隻、特殊船3隻、病院船5隻にも装備された)
おお!いろんな人が集まってきている・・なんか嬉しい・・
とりあえず質問に回答。
>>60 氏
一応それら全部です。補給はそれぞれ1つだけでは語れませんし。
>>61 氏
鉄道に関してはあまり詳しくないですが、それはあんまり関係ないでしょう。
一番の問題は線路と言うよりロシアの道路の方にあると思います。
策源地からどんなに大量の物資を鉄道で前線に程近い最初の集積所に運んだとしても
あの泥将軍と冬将軍によって呪われた未舗装の道路ではまともに物資を運ぶ事は出来なかったのでしょう。
後、北アフリカ戦線の方の話もレイテについて集めた資料を書き込んだら続けさせてもらいます。
それと、レイテ作戦時の多号作戦に関係してですが、作戦時期付近の船舶資料が見つかったので
次のレスから書き込んで見ます。
海上護衛戦より抜粋 昭和19年 レイテ作戦が開始された付近の喪失船舶数
10月の総喪失船舶 134隻 514,945総トン 潜水艦による喪失 68,5隻 328.848総トン
11月の総喪失船舶 97隻 391,408総トン 潜水艦による喪失 53,5隻 220,478総トン
12月の総喪失船舶 45隻 191,876総トン 潜水艦による喪失 18隻 103,836総トン
合計 総喪失船舶 271隻 1,098,229総トン
このうち多号作戦での沈没船舶 24隻(多号作戦全体での沈没数は49)
(暗算で合計したので間違ってるかも。)
多号作戦に使用された船舶は以下のサイトを参照してください
ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~surplus/tokushu.htm 初心者スレで眠い人氏に教えてもらったサイトですが
此処と照らし合わせて見ていただければ日本側の大体の状況がわかると思います。
上まぁ昨日の続き。 日本陸軍の食糧補充体系は以下の通り。 集積倉庫 → 兵站倉庫 → 糧食縦列 → 大行李 → 個人携帯 兵士一名の完全定量は一日分として、 主食 六合四勺(精米四合五勺+挽割麦一合九勺、または乾パン百八十匁) 副食 缶詰肉四十匁、食塩三匁、醤油エキス五匁、野菜、漬物類、調味品 若干。 携帯は、上記の糧食を2~5日分背中に背負うことを言う。 なお、この量は一個師団の一日分ともなると、高さ2.7mに積んで6.1坪、即ち12畳の部屋 一杯に相当する。 この一個師団の糧食を数日分まとめたものが大行李となり、揚陸などで、退避が間に 合わない場合は海岸に埋める形態を取った。
陸軍徴傭船の場合、その手続きに約10日、徴傭地から海運基地(宇品)への回航に 約7日、基地での艤装、兵装、給水、給炭(または給油)、船内糧秣の搭載まで約8日間。 なお、陸軍では、平時から「日本汽船名簿」に基づいて全船の兵馬搭載能力と艤装計画図を準備している。 艤装完了後、実際に乗船地に回航するのに平均8日、部隊、軍需品の搭載に2日、集合地へ回航するのに 2日を見込んでいる。 更に、集合地での陸海軍協定、訓練、何らかの理由での乗船変更などに3日、上陸地点まで約5日と、 戦力化されるまで、約45日、作戦準備に1ヶ月半程度掛かるとすると、優に3ヶ月は必要となる。 艤装は、まず船内の消毒を行ない、船底に山砂利を多数搭載してバラストにすることから始まる。 その上に臨時の馬小屋(馬欄)を建築する。 この上に、寝棚、階段、診療所、馬への給餌用の飼桶、給水、送風、照明などの船内設備の設置、 上甲板上に炊事小屋と便所を仮設、また、船団航行用に信号灯を船尾に設置し、見張り設備、灯火 管制設備、重量デリック増設などを行ない、最後に通信設備、対空・対潜兵装の装備、防雷具の準備、 更に必要に応じて、カムフラージュ塗装と・発煙・防毒などの各措置を講じている。
ついでに、内地からの補給輸送について。 1942年3月当時の南方補給船(陸軍では南方交通船と呼んでいた) 門司~昭南線(航海日数20日) 門司~高雄~比島~西貢~昭南 (北野丸、鹿島丸、三池丸) 門司~西貢線(航海日数10日) 門司~高雄~香港~西貢(諏訪丸、三池丸、三笠丸、摩耶丸) 門司~西貢直行線(航海日数10日) 門司~高雄~西貢(帝洋丸、笹子丸、ありぞな丸、白鹿丸、飯田丸) 香港~比島線(航海日数7日) 香港~高雄~比島(摩耶丸、盛祥丸、黒姫丸) 西貢~ボルネオ線(航海日数3日) 西貢~ミリー(みらん丸、美洋丸、松川丸) 西貢~盤谷線(航海日数3日) 西貢~盤谷(瑞穂丸、西丸) 昭南~バタビア線(航海日数7日) 昭南~パレンバン~バタビア(バンドン丸、しかご丸、西丸) 昭南~西貢線 昭南~西貢(飯田丸、西丸、帝海丸)
>眠い人 おつです~ > なお、陸軍では、平時から「日本汽船名簿」に基づいて全船の兵馬搭載能力と艤装計画図を準備している。 ・・・それに引き替え海軍は・・・_| ̄|○
>72 > > なお、陸軍では、平時から「日本汽船名簿」に基づいて全船の兵馬搭載能力と艤装計画図を準備している。 > ・・・それに引き替え海軍は・・・_| ̄|○ セリフの続き「今と変わらない」 まぁそれはスレ違いなのでおいといて。 >1氏、スレ立てお疲れ様でした。
>>61 本当です。
ソ連は、ドイツ軍に占領される可能性のある地域の輸送機関と電力関係の設備の
破壊を徹底的に行いました。前者には機関車そのものと、機関車修理工場の破壊
が含まれます。
このため、ドイツはソ連の機関車の輸送力をあてにすることができず、自国から
大量の機関車と貨車を動員せざるを得ませんでした。機関車2500両と貨車20万両が
東部戦線のドイツ軍の需要を満たすためだけに拘束されることになりました。
また、これらの機関車は狭軌(というか日本でいうところの標準軌)であったため、ソ連の
広軌規格の線路を改修する必要がありました。ソ連の機関車と貨車が残されていれば、
国境の駅で積み替えを行えばよかったわけですから、大変な労力の無駄です。
以上のような要因が重なった結果、すでに41年8月頃には、ドイツの兵站組織は
限界に達していました。
ああ、そう言えば、独ソ戦におけるドイツ側の三方面軍は、東欧からソ連に伸びる三本の
主要な鉄道幹線に従って進撃した、という話もあります。車両というのはせいぜい作戦
レベルの兵站にしか使用できないものなんでしょうね。
あ、そうそう、せっかく東部戦線に投入したドイツの蒸気機関車ですが、 寒冷地で使うにはボイラーの気密が不足しており、性能の低下を招いたそうです。
>>66 WWⅡ段階では陸上輸送の主役はなんてったって鉄道です。
車両での兵站を担えたのは富豪アメリカだけ。
>>76 それは事前にフランスの鉄道網を予想以上に破壊してしまっていて車両を使う以外に手がなかったからではないか
しかも兵站は一回破綻してドイツに防衛線を固める猶予を与えてしまってるし。
>>77 だから、当初の意図はどうあれ車輌によるサービス継続が曲がりなりもに可能だったのは米国だけ、ってことだろ?
なんでそう枝葉末節にこだわるんだか…
DAKも港からの輸送距離が伸びるにつれて補給困難に 鉄道と違って輸送機関の燃料消費が莫大なために辛いものがありますね ちなみに1995年時点での各交通機関による輸送トン数あたりのCO2排出量の比較(CO2排出量=燃料消費量と近似できます) 鉄道は電化&インバーター化されていることを前提にしているのでいきなり低くなってます ディーゼルだと倍以上燃料を食ったはずです 船舶(近距離): 37t/10^6トンキロ 鉄道: 25t/10^6トンキロ 自動車:312t/10^6トンキロ 航空機:1603t/10^6トンキロ 船舶は高速船では燃料消費が多くなって悪化しますし、タンカーとかバラ積みだと積載効率が上がって良くなります
良スレ下げ
>>72 ,
>>73 揚げ足取りと思われたらスマン
海軍も新造船に関しては出師準備にあわせて改装図面は更新してたと思うが?
浅間丸などの空母予定船だけでなく、台湾航路の砲艦化などは結構有名な話だと思ったんだが…そうでないと、日華事変以後の上海方面の特設砲艦群の配備スピードは説明できないと思うのだがドウよ
74ですが、 手持ちの資料見ていたら、アメリカ軍がまとめたドイツ軍の補給兵站関係の 調査が出てきたので、暇を見て訳してみますかね。 この資料によると、師団レベルまでの兵站は鉄道が担ってたみたいですよ。
「ダンピールの海」読了…虚しい。 >81 一応、陸軍の場合は、100t以上の全艦艇を網羅していた訳ですねん。 若干の例外はありましたが。 一方、海軍の場合は、全艦艇を網羅していた訳ではなく、俗に言う優秀船のみしか 眼中になかったのではないかと思う訳で。 ただ、1937年以後に策定された「優秀船舶助成」は、一方で不経済な面も否めず、 船会社的には迷惑な部分もあったよう。 例えば、うる覚え恐縮ですが、ぶら志る丸は空母に改造するために、最高速度を上げる 必要があり、確か1kt増速するためだけに、エンジンを大きなものに交換しなければなら なかったり、有馬山丸は、海軍の仮装巡洋艦にするために構造を強化していたため、 船体が重く、舵の効きが遅いと言われていたそうな。 で、優秀船舶の配当予定 (海軍) 艦隊付属油槽船8隻、航空母艦改造引当5隻(橿原丸、出雲丸、新田丸、八幡丸、春日丸)、 通商破壊艦引当5隻(あるぜんちな丸、ぶら志る丸、報国丸、愛国丸、護国丸) 砕氷型中型貨客船2隻(高島丸、白陽丸) (陸軍) 司令部船用4隻(三池丸、三島丸、阿波丸、安芸丸)、 高速輸送船型8隻(金華丸、東山丸、九州丸、淡路山丸、宏川丸、佐倉丸、佐渡丸、など)、 舟艇運搬船型10隻(あきつ丸、摩耶山丸、にぎつ丸、吉備津丸、玉津丸、高津丸、日向丸、攝津丸、熊野丸、ときつ丸) 1941年度から、ボルネオからの原油緊急輸入用として、15000重量トン級油槽船10隻、8000重量トン級油槽船15隻 が計画され、鉄鋼大増産のために、北支~八幡航路用鉱石船30隻を計画。 着手は油槽船8隻、鉱石船15隻で残りは戦時標準船となる。
84 :
81 :03/10/17 00:22 ID:???
>>81 (眠い人)へ
こちらもウロ覚えなので、適当に付き合ってもらえたら有難いです。
>海軍の場合は、全艦艇を網羅していた訳ではなく、俗に言う優秀船のみ~
再カキコになっちゃうけど、海軍も基本的に登録船全体を掌握してたんじゃないですかね。
そうじゃないと、特設捕獲網艇やらの漁船連中まで海戦時に準備できないと思うよ <裏付け無し
それに、船籍登録船の場合は定期整備があるから、その報告だの造船所からの船渠利用計画やらを
転用すれば、実情把握もソウ難しくないんじゃないかね。
(NKルールの強制適用以後はもっと楽になったと思う)
>優秀船舶助成
確かに、和辻博士も23ktなんぞ無駄じゃ、どんだけ苦労したか…と憤慨されておられましたなw
(船倉口をエレベーターサイズに合わせろとかも含めて)
ただ、優秀船の場合は建造助成だけでなく、航路助成もあるから一概に迷惑とも言いがたいと思います。
というのも、海軍からの荷物の場合は、品物によって一般運賃の20%増しであるとかの優遇策(個別契約
なのだが)があるので、これを最大限に利用して急成長した会社さえあります。
(今残っているのだと飯野海運なんか)
ただ、それだけ優遇しても、隻数拡大を狙うには、国力(民需)の爆発的伸張が必須なのね。。。
>84 確かにそうですね。 失礼しました。 商船、漁船の場合は逓信省、農林省に毎年所要の報告をしていますので、 それが陸海軍サイドに流れることは十分に有り得ますね。 毎年、出師準備計画として鎮守府、工廠が各船舶の詳細な実船調査を 行なっていたようです。 ただ、何処まで、この調査が真剣に行なわれていたかですね。 確かに、商船だと将来的に何らかの補助的任務に投じる可能性があった ので、これは詳細な調査が毎年行なわれて(浅間丸などはその好例)いた はずですが、漁船はそこまで詳細な調査をしていたのかが気になります。 支那事変の際、陸軍は4000隻の漁船と1000隻の機帆船を徴用しています。 これは1937年10月以後、各県の漁業団体を通じて割当てを行なったものです。 最初は、個々に割り当てていましたが、後に全国機付漁船船主会が設立され、 此処で船体、機関を検査して徴用するようにしています。 ただ、総トン数20t以下の船舶は県の鑑札船と言うことで、税金が安くなるので、 脱税の手段として、大きな船でも20tとして申告するケースもあったようです。 つまり、農林省にも届けられないものもあった訳です。 1944~45年に掛けての本土決戦用調査でもそのような過小登録の漁船、 機帆船が2000隻以上も発見されたそうです。 海軍の敗戦時の軍令部第一部長の言葉に、 「隻数だったよ。個艦の性能は二次的、三次的だったんだ。平時の研究や 図演では強い艦でないと駄目と言うことになった。 実際やってみると、駆逐艦で言えば、最新式の優秀な2000t艦も一隻、 旧式の1200tの風や月型も一隻、どちらも一隻としての戦力となった」 と言うのがありますが、それにどうして気づかなかったのかなとは思いますけど。
そもそも隻数が揃えられないから個鑑の性能に走ったのではないかと
>>85 >それにどうして気づかなかったのかなとは思いますけど。
平時だからだと思う。
平時は見た目の強さだけがよく目立つ。
現代でも・・・(w
88 :
ゆうか ◆9a1boPv5wk :03/10/17 16:45 ID:6S09uVkJ
>>87 もひとつ、高性能=高価な兵器は平時しか求められないという理由もありますね。
89 :
少佐 :03/10/17 16:58 ID:aEZbmmzZ
君達はまた初歩的な間違いを犯しているようだが、補給というのは補給物資や補給手段 さえあればいいというものではない。 補給ルートを完全に制圧してなければ補給ができないという事実を君達は見てないのだ。
そんなこと皆了解している。 せっかくの良スレに茶々いれんでくれ。
>85 2000t型駆逐艦+妄訓練>巡洋艦 という「東郷平八郎の定理」を信じれない奴は 大角人事で、海軍を放り出されたから。 にしても、条約が無ければ対米7割の確保が 可能だと考えた理由が知りたい。 やっぱり、艦艇メーカーから裏金が流れたの かね?
>91 その時期、つまり海軍休日が終わることを海軍が宣言した後にも、 愛知時計電機(後、愛知航空機)は「中京デトロイト計画」(名古屋に自動車産業を作ろうと言うプロジェクト) から降りてませんね。 無制限軍拡はたいして続かない、と見越していたのかも。
93 :
名無し三等兵 :03/10/17 22:09 ID:fHEYCR1g
東部戦線において、ヒトラーがレニングラードを補給の面 からも重視してなあ・・・ モスクワだと鉄道のみ輸送のなるが、レの場合、船舶による 輸送も可能になる。
>>93 オイラもそう思ったよ。パルチザンにおびえる心配もないし、
バルト海はどのみち制海権を確保しなくてはならない。
フィンランドとの関係もある。
多号作戦ネタないの?
96 :
少佐 :03/10/17 23:51 ID:aEZbmmzZ
まあ東部戦線について語っておこうか。 ソ連は偉い人にはキャビアとウオッカがあるが、一般兵は塩とジャガイモだけだ。 ドラム缶に雪、塩、ジャガイモを入れて煮たものが毎日のメニューで、ドラム缶 内にべっとり残っていた油も飲む。 これで働けというのは酷いが、簡単に腐るものじゃないので輸送は容易だ。 またジャガイモが腐っていてもソ連兵は食べる。 対するナチスはメニューこそパン、ハム、ウインナ―、チーズ、キャベツなどと 豊かなものだが、運ぶ途中でほとんど腐り、戦場で食えるのはチーズとチョコレート くらいだ。
>96 ('A`)ノ 質問! ソースは?
船舶事情が逼迫、艦船の損害が増大していき、ラバウルも危なくなってくると、船舶兵団司令部はラバウルから マニラに移っています。(元々、宇品にあり、サイゴンに進出し、ラバウルに移動し、マニラに帰るような状況) この頃の補給幹線、補給補助線は以下の通り(1943.8現在、航空接敵地区対策決定による)。 北方航路 第三船舶団 小樽~幌延 海上輸送大隊一個 幌延~アッツ、幌延~キスカ 南方航路 第四船舶輸送司令部 宇品~パラオ、パラオ~ラバウル、パラオ~ウェワク、パラオ~ソロン、宇品~高雄、高雄~マニラ、マニラ~アンボン 第三船舶輸送司令部 昭南~ペナン、昭南~スラバヤ、スラバヤ~クーパン 海上輸送大隊一個 ペナン~ラングーン、ラングーン~アキャブ、スラバヤ~ クーパン 第二船舶団 ラバウル~ショートランド 第四船舶団 ソロン~ウェワク、ソロン~アンボン、ウェワク~マダン、アンボン~アル、アンボン~カイ、アンボン~タニンバル、 アンボン~デリー、 クーパン~デリー 海上輸送大隊二個 マダン以遠 海上輸送大隊二個 アンボン~アル、アンボン~カイ、アンボン~タニンバル、アンボン~デリー 航路設定の原則は、敵の妨害の激しくない地域は成るべく遠くまで、大型船で輸送。 敵の妨害の激しい地域は、小型船で輸送。 小型船は、船舶団、揚陸隊に配備し、船舶工兵連隊は大小発動艇を装備する。 海上輸送大隊は、海上トラック、機帆船、漁船を使用する。
あのさ~、日本軍って実際部隊にどの位の物資を補給してたのかな? ドイツやアメリカよりは遥かに少ないとは思うけど。 例えばトラック島にはどの程度の物資が本土から送られてたんだろう? あるいは、タイやビルマにいる部隊だったら現地調達も可能だろうから、 ずっと少なくて済んだんだろうか?
さて、荒らそう。 まあ、東部戦線について語っておこうか(藁 標準的な補給列車 ドイツ軍の兵站マニュアルでは、最大で450tの輸送力をもつ標準的な糧秣、弾薬、燃料 補給列車についての概説が行われている。これは、実際の運用から導き出されたもの だが、地域によっては、重連もしくはそれ以上の機関車が例外的に長い燃料列車を牽引 しているところが観察されているし、標準的な糧秣輸送列車が使用されていない地域もある。 標準的な装備補給列車も使用されているが、その積載重量は様々である。しかしながら、 ほとんどの場合に、すべての種類の装備が同じ列車によって運ばれる。 (1)標準的な糧秣補給列車は平均40両の貨車から編成されており、以下のように構成された。 (a)鉄糧食(Iron Ration) 30万食の全量鉄糧食と30万食の半量鉄糧食 442t (b)通常糧食とかいば 18万食の糧食と4万食のかいば 454t 三つに分割されて荷積みされる ことがあり、その場合それぞれの部分が、2万人と4000頭の馬に対する一日分の糧秣と なった。 (c)パンではなく、パン用粉をふくむ通常糧食30万人分 450t (d)粉列車 83万食強のパンに相当 450t (e)カラスムギ列車 9万食分のかいば 450t (f)動物列車 360頭の牛 180t, 1200頭の豚 120tまたは1800頭の羊 72t (2)弾薬補給列車は以下の三種類で、平均して30両の列車からなっていた。 (a)単位積載列車 特定の師団に必要とされる異なる種類の弾薬の比率の従って積載が 行われた列車 (b)口径単位列車 貨車別におよそ15tの特定の口径の弾薬が積載された列車 (c)単一口径列車 特定の口径の弾薬が全貨車に積載された列車
(3)燃料補給列車は以下の二種類が使用された。 (a)20両のガソリンタンク車からなり、340m^3から440m^3の燃料を運搬したもの (b)ガソリンの200リットル缶および20リットル缶を積載した25両の貨車(400m^3)および 5両のその他の石油類を積載した貨車からなる列車 (4)馬運搬列車は55両の貨車からなり、それぞれの貨車には8頭の乗用馬もしくは軽輓馬が積み込まれた。 重輓馬の場合、一両に積み込めるのは4頭になり、超重輓馬の場合、積載できるのは4頭だった。 (5)工兵器材運搬列車は平均40両の貨車からなり、そのうち39両が無蓋車だった。運搬総重量はおよそ 820tだった。 (6)戦車運搬列車は最大25両までの中戦車、もしくは最大8両までの重戦車を運搬した。戦車運搬列車の 貨車数は平均33両であるが、運搬される物資の総量によって大きく増減する。 (7)装備混載列車は、非常に頻繁に運行され、25両から60両までの貨車が連結された。運搬総重量は 最大850tだった。
補給段列(道路上の) ドイツ軍には4種類の補給段列が存在していた。 (1)自動車化段列 自動車化段列は、通常良好な状態の道路で使用され、一日あたり125マイルをカバーできた。段列は 三つの異なる規模で組織されており、それぞれ120t, 60t, 30tの、燃料以外の物資を輸送する ことができた。加えて、山岳師団は、10tの輸送能力を持つ特別な段列を持つことがあった。 燃料は、二種類の異なる規模の段列によって輸送された。重段列は50tの、軽段列は25tの燃料を輸送 することができた。 (2)荷車段列 荷車段列は30tもしくは17tの輸送能力を持っており、山岳師団の荷車段列は15tの輸送能力を持って いた。一般的に、荷車段列は一日に12から15マイルをカバーすることが可能で、良好な条件下では、 翌日一日休みを取るという条件で20マイルをカバーすることができた。ドイツ軍が荷車牽引の段列に 頼る割合は、次第に高まっていった。 (3)荷駄段列 荷駄段列は40頭の馬もしくはロバからなっており、通常は山岳地帯で使用された。荷駄段列は最大 5tの輸送能力を持っていたが、その能力は地勢や高度に左右された。 (4)山岳輸送部隊 荷駄も使えない地域での輸送を担当するために、山岳輸送中隊、もしくは大隊からなる山岳輸送部隊 が使用された。各員が約20kgから約35kgほどの物資を人力で担送した。 以上、"Handbook on German military Forces"(U.S. War Dept.) pp.296-98よりちょー訳。
適当につらつらと書き連ねてみる。 1944年7月~8月にかけて、比島増援部隊が受けた被害。 戦没将兵17,000名、海没兵器等9,000立方メートル、海没軍備品等47,000立方メートル。 余談だが、二次にわたるガ島強行輸送で大破し、ショートランドで横転擱座した日本郵船の佐渡丸は、 船体が水上に半分出ていたので、ショートランドの部隊によって、船体に穴を空けられ、此処から重油 を手作業でドラム缶100本分もくみ出し、これを1945年初頭まで、大発用燃料に使用している。 で、本題。 上記の損害により、比島に派遣できた兵力は3割。残り4割は船舶不足により、台湾、沖縄に留まっている。 米国の上陸部隊は4個師団、輸送船は701隻で、これを戦艦6、重巡5、軽巡6、駆逐艦111、護衛空母18などで 護衛している訳で。 これに対抗せんと、海軍は乾坤一擲のレイテ湾海戦を行ない、自滅。 一方の陸軍は、レイテ島東岸のドラッグに上陸した米軍に対し、レイテ島北端のカリガラに2個師団、西岸のオ ルモック、バイバイに二個師団の他、ドラッグに一個師団を奇襲上陸させる予定だった。 この輸送は第三船舶輸送司令部が担当し、南方軍麾下の大型船10万トンを基幹として輸送を行なう予定だった が、9月21日のマニラ湾空襲で大型船10万トンのうち、半分が失われ、稼働船舶は10隻しかなかった。 このため、輸送船、海軍艦艇、特大汽艇のほか、機帆船までも使用して行なったのが、九次に渡った多号作戦 の実質。 しかし、これらは敵魚雷艇、航空機、駆逐艦などに発見、撃沈され、揚陸部隊は食糧の不足に悩まされ、11月 27日に○ゆ艇2隻がオルモック湾に到着し、17日ぶりの補給として、精米600梱、救急食50梱、バッテリー30梱、 大発修理部品若干を陸揚げし、これにより同地の陸軍部隊は息をついた。
ちなみに、比島戦線発生直前の南方軍司令部は、司令部は正午から1時間の昼食時間の他、更に1時間を午睡 の時間としており、伝令が来ても放っておかれた状況だったそうです。 なお、南方軍は米軍との戦いの最中の11月17日、突如としてサイゴンに移転しています。 同時に第三船舶輸送司令部も一部を除いて移転しました。 このため、指揮系統に混乱が見られ、多号作戦九次のうち何次までが、きちんとした命令系統で動いていたのか 不明であるとか。 また、○ゆ艇の多号作戦参加は直接の指令を受けてのものではないそうです。
多号作戦は駆逐艦を磨り潰しただけだった
開戦時、日本帝国の保有する輸送船は約600万トン 陸海軍、逓信省が算出した国内生産及び民需に必要な船腹量は最低300万トンであった 開戦当初は南方作戦に必要なため、一時的に300万トンを切るものの第一段作戦が終了後は 順次徴用船舶を解傭し民需にあてる方針であった。 実際、昭和17年5月に20万トンの船腹が解傭され、民需分300万トンは確保された。 (開戦よりここまでの船舶損失は約30万トン) しかし、昭和17年8月よりの餓島攻防戦により輸送船の損失は急激に増大をはじめ、18年2月まで に失った船舶は南方方面のみで65万6500トンに及んだ。 陸海軍は手持ち船舶の激減により、89万トン余りの解傭計画を中止し、17年11月には新たに62万トンの 船舶徴用を政府に要求した。 紆余曲折も有り、結局12月までに71万トンの徴用を政府は認め、長期戦に必要とされた300万トンの 最低ラインは崩れ、一気に民需用船舶は242万トンに落ち込んだ。 日本帝国の戦争経済崩壊の第一歩である。
>>106 訂正
>に失った船舶は南方方面のみで65万6500トンに及んだ。
↓
に失った船舶はニューギニア方面のみで65万6500トンに及んだ。
108 :
81 :03/10/18 02:56 ID:???
>85、98、103、104
話題提供乙です~
>>85 >~漁船はそこまで詳細な調査をしていたのかが気になります。
これらの小型船、漁船、機帆船の大量徴傭を意識し始めたのは日華事変以降になると思います。
それこそ釈迦に説法でしょうが、
・上陸時の臨時の艀(大発の代替)
・水路輸送の手段 (トラックとしての利用)
として利用するなら、1個軍(中支派遣軍?)に5000台強のトラックを配備したと考えれば、そう極端な
数でもないでしょう。前線での輸送にも供じた故の消耗、徴傭契約満了による解除などを考慮すると、常時
運行していた隻数は三分の一くらいかもしれませんね。
もっとも、各地漁業団体を通じて徴用した漁船は、中古、故障、やっかいもの(縁起の悪さ、事故履歴、
はては持ち主が村八分(藁 )、いわば「村に居なくても惜しくない」連中が拠出されやすかったために稼
働率は低くなりがちで、これほどの隻数の徴用に至ったのではないかとの指摘さえあります。
割り当てから、全国機付漁船船主会設立後の検査済み船の徴傭に方針変換したのも、優良船の確保を念頭
に置いたための対策なのでしょう。
あと、本土決戦準備での過小登録船は節税対策、庶民の悪あがきって事で(苦笑
閑話休題
話が後先になりますが、日華事変勃発以後、長江流域に投入された漁船群の使い勝手のよさがあって初め
てその準備の必要性を再確認したのだと思います。同時期に、プロペラ艇(≒カロ艇)や大発、小発からヤ
ンマー艇まで集積運用されてますが、所要量全てを賄うには至っていないようで、徴傭船は最後まで多種の
雑務をこなしています。
開戦前に、敷設特務艇(昭15年計画/鋼製鰹鮪漁船型)、駆潜特務艇(昭和14年に試作/木造漁船)
の準備が出来ている事が傍証になるのではないでしょうか。
109 :
81 :03/10/18 02:59 ID:???
うーむ、次スレでは、ドイツ東部戦線(鉄道)と日本海軍(海上護衛)に分化したほうが良いかも
>>98 、103、104
レイテ決戦輸送(多号作戦)ですか。沈没船だけ"多"な作戦…
輸送司令部が無力化(移動)している状態でも、レイテ急行部隊はマニラに滞留していたんで、なし崩し
で船団が編成されたって事なんですかね。
ただ、この多号輸送関連の問題としては、作戦輸送(強行輸送)用の艦船が足りないから、マニラ入港し
た後方輸送用の商船まで投入してしまった点が問題だろうか。
物資還流に必要な船腹を前線で消耗し、以後の物動計画を逼迫させた事は批判されるべき点だと思う。作
戦輸送用の船腹が枯渇した時点でレイテ輸送を停止(結果からすれば、1、2船団少ない程度だが)できな
かった一点だけでも、総力戦の意識欠如が指摘できるのではないでしょうか。
「○ゆ」も、各種の高速艇らも、焼け石に水の感がぬぐえませんな。
>>名無し四等兵さん |ω・`)<反転太郎が心配してましたよ・・・ |彡サッ
太平洋戦争中に連合軍が撃沈した日本の船舶は合計1058万トンで、 そのうち860万トンが500総トン以上の商船、190万トンが海軍の艦艇 であった。 これに対して太平洋戦争中に日本が建造しえたのは336万トンの商船 92万トンの海軍艦艇であり、日本が1トンの船を作る間に3トンの船を 喪失した事になる。 商船喪失の原因のうち潜水艦による被害が半分以上、余談であるが 船員の死亡率は46%で陸海軍の兵士の死亡率を上回った。 終戦時、稼動可能な輸送船はわずか31万トン。開戦時の20分の1に すぎなかった。
112 :
ゆうか ◆9a1boPv5wk :03/10/25 04:46 ID:wjceN/ia
今月、光人社から「輸送船入門」発売。 本スレ愛好者なら是非とも一読するべし。
買ったぜ これから読む
>>112 来月五日に購入を予定。
>○ゆ
基本的に、陸軍が海軍の輸送船護衛能力に対し、いかなる見解を
持っていたかの証左なのでしょうな。
>112 購入シマスタ。 とりあえず、「栄光何するものぞ」の後に読む予定。 >114 「陸軍船舶戦争」に相当海軍に対して含む所がある報告が掲載されていました。 日本海は陸軍が船団護衛を行なうと言う思いがあったようで、日本海の音響伝播 調査は陸軍が海軍より先んじていた様です。
116 :
81 :03/10/25 23:43 ID:???
漏れも「輸送船入門」ゲトー
>>115 >日本海の音響伝播
これって「す号」とか言われたやつですか? 名前は散見するんだけれども、聴音器か探信儀かさえ分からない(漏れが知らないだけかもしれんが
個人的に「陸軍船舶戦争」を読んだ感想は、聞き書き系(通史ではあるが細かい点で?な)な本と思って読んでるので、少し技術的な話になるとアヤフヤな記述になってないか、な思いがありますね。
「輸送船入門」Amazonで注文 「基本造船学〈船体編〉」も送料の都合で同時注文ってこっちのほうが高い(笑) 日本は日露戦争で通商破壊に関しては痛い思いをしてるはず(ウラジオ艦隊にやられてる) でも、正面装備にしか配慮が行かなかったのは余裕が無いからですかね
>>117 その通商破壊に対処したのは主力と準主力のはず
これらは条約で制限されていたし
量産海防艦のような小型艦で太平洋を長躯護衛するなんてのは常識の範囲外
>>117 ちゃんと日本~朝鮮・満州の海上交通路の護衛については研究してますよ。
あと、南方航路の護衛についてもまったく考えてないわけではなかったようです。
>116 「す号」です。 大本営陸軍部第十課の塩見文作技術少佐が、西村式豆潜水艇で、日本近海水深200m までの水中音の音響伝播を研究し、後にそれが「す号」として結実しています。 ちなみに、これは水中聴音機だったようです。 ・米陸軍が1942年9月16日に発表した推算:「時局情報」1942年12月号より 第一次大戦時、米兵1名をフランスへ送るのに食糧の2/3を無効持ちで7.5tの船腹を要した。 今次大戦の渡洋上陸作戦には、兵士1名当たり凡そ14tの物資が必要。 北アフリカ上陸作戦時には、米兵14万人を送り込むのに、500隻の輸送船が必要。 この船舶を1隻平均1万トンとして、1名当たり35t、平均5000tなら18tを要する。 ・米国のゴム事情:1942年5月19日付Manchester Guardian紙より 米国が来るべき2年間に消費するゴムは約250万トンであって、それに対し、手持ちは 生ゴム70万トン、故ゴム(古いもの)100万トン。 差し引き80万トン不足。 ゴムの世界消費量は、1940年108万トン、1941年1~10月で103万トン。 世界生産量は、1940年103万トン、1941年1月~10月で129万トン。 ちなみに、当時英国は、セイロンのゴム生産高を年9万トンと見込んでいる。
不足を補うのは合成ゴムですかね。 アメリカの合成ゴム生産量は1945年で85万トン。 1939から5年の間で約100倍もの増産を成し遂げたとか。 彼等の基礎化学力と生産能力のレベルの高さを思い知りますね。 TBMアベンジャーや、カイザー他の造船でもそうだが、 アメリカ産業界も政府の要請に良く応えると思う。
ゴム、つまりタイヤの消費を抑える目的で、アメリカはガソリンの配給を実施してますね。
・比島の状況(昭和18年に於ける建設状況) 生産計画 生産実績 石炭 23万トン 8,000トン 潤滑油 250トン 100トン 交易物資 5,500万円 500万円 砂糖 50万トン 4万トン コプラ 43万トン 20万トン 麻 64万トン 25万トン(1944年から月産1万トンを割る) 木材 330万石 150万石(主に軍需用) 銅 13万トン 1万トン内外(物動の約1割) クローム - 4万トン(物動の65%) 綿花 150万picul 8,800picul 造船 35万トン 35隻(1隻200t見当) 自動車 戦前の20%しか動いていない。 軍票放出額 8億突破。 現地進出の日本企業は、資材不足、食糧不足、船舶輸送関係の逼迫で頓挫。 しかも、現地はインフレ状態であり、治安は悪化している。 このため、自社の赤字補填と私利を上げるために、軍からの割当て物資を横流し、 また、土地や物資の買いあさり等を行なうブローカーなどに堕し、インフレの波が ますます大きくなった。 軍政当局は、銅、コプラ、マンガン、クローム、麻、ブタノールを六大産業に位置づけ、 産業の再編成を行なう予定であった。 但し、不良企業の放逐は、帝国の政策破綻を敵に知らしめることとなるため、行なわない。
『輸送船入門』は入門としてはよくまとまってますね。結構勉強になります。 ただ、ヘッジホッグをスキッドより進んだ兵器としているなどちょっと「あれ?」と思う部分もあるのですが。
電気溶接のリベットに対する○と× ○リベット締めだとある部分に応力集中しても一部のリベットが切断あるいは緩むだけで破断しない ○重量軽減が可能(重ね継手とかの軽減で全体で15%程度(商船)) ○建造期間の短縮が可能(ブロック建造の適用が容易 結果として建造費低減) ×歪みが生じやすいので正確な船形を作るのが難しい ×溶接による熱変形の残留応力による亀裂の可能性 ×溶接だと、亀裂が止まらない(溶接部を越えて隣接の板に破断が及ぶ) ×溶接部の内部欠陥の検査、発見が難しい ×溶接部材の材質の影響が大きい 溶接部材については、ドイツから技術移転しようとしたという資料を見たこと有りますがうろ覚え 第4艦隊事件がなければ、溶接技術の導入もありえたのかしれません
>125 海軍が溶接を試用したのは1921年のことで、演習中に水雷艇「鴿」、「蒼鷹」が 衝突して「鴿」の艦首が破損し、その破損部分を今日のブロック工法によって陸上 で組立て、溶接を用いて艦首を取り付けたそうです。 これを指揮したのが、後の福田烈海軍技術中将だったとか。 世界最初の全溶接軍艦は、意外にも日本で建造された敷設艦「八重山」で、1931年のこと。 また、日本では、戦車にも溶接を多用し、ソ連、ドイツ、英国など各国戦車の溶接部を 性能試験しましたが、欧米のものと全く劣ることがなかったそうで、ソ連よりも遙かに 優れていたらしいです。 これらの技術が発展しなかったのは、第四艦隊事件があったからですが、特に自動溶接 技術が発展しなかったのが痛かった。 ちなみに、自動アーク溶接機は1930年に芝浦製作所が直流アーク溶接方法の応用として、 製造していますが、売れませんでした。 これは、直流式が裸溶接棒を用いるのに対し、日本では被覆アーク溶接棒を用いることが 主流になったからです。 国産の自動溶接技術の萌芽は、まず1931年、赤崎繁海軍技術大佐が、被覆アーク溶接棒 をV形グループの中に横に寝かせたままで通電すると、被覆のフラックスが絶縁材となって、 溶接棒の先端でアークを発生させると、逐次アークが発生して溶接が進行する自動溶接方法 を開発し、これを赤崎式溶接法と名付けて発表します。 この溶接法は、1942年、溶接棒に沿って鋳物砂を被せる新赤崎式に発展為しますが、これを 陸軍の戦車外板の溶接に用いるため、SUS316鋼溶接棒を使って赤崎式溶接法の実験を行なって います。 しかし、電気抵抗による棒焼け現象があって、1m目標の所、80cmで敗戦となりました。 ちなみに、新赤崎式は、1939年にオーストリアのElin A.G.が発表したE-H法とアイデアは全く同じで、 只、被覆するのが、砂ではなく、銅であるという違いがあっただけでした。 この方法は、1955年に導入されています。
127 :
81 :03/11/04 19:13 ID:???
>>125 四艦隊事件がなくとも、ドイツからの技術輸入は難しいのではないかな?
というのも、ドイツの造船所を外国人(日本人)が見学できるようになったのは、同盟締結後であった気がする。
当時の在ドイツ技術者も、造船所ではなく橋梁工事を盗み見て、溶接技術を探っていた事を考えれば、日本側の意思よりも、ドイツ側の外交政策による所が大と思われる。
無論、海軍が積極的であれば、よりせっついて供与させるだろう推測までは否定しないが。
それよりも、陰に隠れて(?)コソコソと研究しなくて良い環境ができる事の方が、広範囲への使用(試用)に寄与するのではないかな?
129 :
81 :03/11/06 01:17 ID:jZHRXtSZ
>>126 >新赤崎式は、1939年にオーストリアのElin A.G.が発表したE-H法とアイデアは全く同じで、
>只、被覆するのが、砂ではなく、銅であるという違いがあっただけでした。
これは、銅資源節約の観点から、絶縁体を砂にせざるを得なかったというだけで(技術的には)同一のものと見なして良いのかな?
>129 考え方自体は、似たようなアプローチを取ったと言うことではないかと思いますね。 一応、新赤崎式は1942年の発明と言うことになっていますが、考え方自体は1940年以前 から試行錯誤を続けていたようです。 新赤崎式になると、アークが安定してビードが非常に美しくなったそうです。 本人曰く、「折角寝付いた所だし、布団を掛けてやったので安眠できたからだろう」とのこと。 閑話休題。 各地の造船所、工廠でも同じように自動溶接方式の導入、研究が多くなされていました。 呉海軍工廠では、1932年に辻影雄技師がWH社、リンカーン社などの米国の溶接現場作業を視察しました。 当時、米国では電気会社が音頭を取って溶接技術が発展していたので、裸溶接棒を直流で使っていましたが、 日本の場合は造船関係の用途が主流だったために、被覆溶接棒を用いた交流溶接が主流となったようです。 自動溶接にするのは、裸溶接棒の直流方式が有利だったのですが、日本の場合は、被覆溶接棒に交流溶接 だったので、相当苦労したようです。 呉工廠の場合は、呉船式溶接法を開発しました。 これは戦後に発達した重力式溶接法の源流と言えるもので、溶接線に対して垂直に鋼管を立て、鋼管を楽に 上下にスライドするカラーをはめ込み、これに溶接棒を斜めに取付、溶接の先端を溶接線の上に置くというもの。 このセットが出来たら通電して、溶接棒の先端でアークを飛ばせば、溶接棒が短くなるに従って、スライドする カラーは重力で下がり、溶接ビードが置かれていくようにしたものです。 一方、三菱長崎造船所は米国のユニオンメルト溶接方法と同じで、ドイツでエリラ法と呼ばれていた、サブマージト・ アーク溶接方法の技術資料を入手し、サイラトロン式ユニオンメルト溶接機の試作を行ないました。 (これが>125で述べられているものだと思いますが) しかし、研究段階で成功したものの、実機製作の段階に入ると、必要な電気弁、真空管が電波兵器とかち合って入手 出来ず、それを入手するまで製作がストップした上、弱電装置部分を三菱電機が試作していたので、更に時間を要し、 実用機の一号機が出来たのが、1944年秋。 ところが、自動ガス切断機の精度が悪く、溶接の準備加工が出来なくて結局戦争には間に合いませんでした。
ちなみに、米国に於いてリバティーなどの戦時標準船、駆逐艦、護衛艦艇の製造には、船体に使う鋼板はセミキルド鋼 が多用され、他にキルド鋼が若干使用されています。 キルド鋼は可成り高価でしたから。 リムド鋼は内部に不純物が固まり易く、低温脆性を起し易い訳で、溶接には不向きでした。 第四艦隊事件などの溶接割れを起こしたのは、この使用鋼材にも原因があったのかも知れません。 あと、ドイツのエリラ溶接法はU-Boatの量産に使用されたそうです。
で、だ、話を本題に戻す。 日本が戦争をするに当って必要だったもの。 これは装備もあるが、欠くべからざるものが人的資源。 戦争末期には水増し師団が多数作られ、1945年8月には陸軍547.2万、海軍169.3万の合計716万人が陸海軍軍人として 在籍した。 村上啓作陸軍中将が1925年に著わした参謀教育用テキストである「戦争要論」を見てみると。 まず、総力戦下に於いて、戦争を勝ち抜く要員としては、「国民の精神力」、即ち戦意を高揚させ戦争協力を引き出すこと、 この実現の為には、戦時教育、メディアを用いた精神動員を図り、「総動員態勢」を構築することが出来るとした。 次いで、「戦争諸資源の質の優勢と数の豊富」、「戦争諸資源統一運用組織の優越」、「外交政策」と続いている。 戦争諸資源というのは、石油、金属、石炭などの物質とそれによって生産されるものの他に、人員も含まれる。 そして、質の高い資源を多く持ち、それらを統一的に運用する必要があるとして、戦時経済計画を運営した企画院、生産を 司った軍需省の他、人の場合は、動員計画、召集延期制度、徴用などの軍需生産工場への人員分配などが統一的に運 営されることが必要とし、全ての国民は戦争遂行の資源として、最大効率を達成することを求めている。 即ち、総動員態勢は軍動員が最優先で、軍の能力を最大限に発揮されるものであり、平時に於いても軍動員を中心に、国家 の政治、経済、教育全ての領域での統一的な運用、具体的には、軍動員、軍需動員、交通動員、食糧燃料動員、金融動員が 想定され、広範囲に渡る軍需品生産、鉄道船舶と言った交通手段の確保、食糧、燃料の確保、経済活動を可能とする金融など を国家が集中的に管理するものとされ、実際に1937年の国家総動員法にてこれが結実している。 そこで、総力戦下での国民の役割分担の限界値は何処かを、件のテキストから拾うと、 「普通の国家では、男子総数の25%を軍兵として出すも、国家の運営、国民生活、軍需品製造には支障がない。 その25%のうち、12%は野戦部隊、残り13%は後方部隊に回す」 としている。 …第一次大戦での各国動員割合としては、フランス27%、ドイツ25%、英国23%、イタリア20%だった。
更に、 「軍需工業動員は、戦場へ委員の二倍を要する。 例え、老幼婦女を使用するにしても、男子20%内外を必要とす。」としており、 「戦時に各種業務に服する男子総数は55%内外なるべし。 戦争二年間の間の絶対的消耗は4:6。理論上は、交戦三年半に及べば、 消耗は全戦場、兵士に達する。」 「大戦末期の鉄の平均使用量は兵員一人に対し、毎日三トン」 「兵員一人の戦費の各国比 英国21円、イタリア5円、枢軸国4円など平均16円」 これらはあくまでも第一次大戦での数字であるけれど、国家の兵士は25%が許容範囲 であり、それ以内なら国民生活と戦争との両立が可能であるとしている。 また一人の兵士を賄う軍需生産の人員は二名であり、100万人の軍隊を作ると、国内の 生産者は200万人になる。 とすると、冒頭の716万人という数字、これには戦没者は含まれないので、これに戦没者 数216万人を加えると、1000万人近くが戦場に居た計算になる。 上の理論計算で行くと、軍需の生産者としては2000万人、つまり、総数3000万人の国民が、 戦争に何らかの関与をしている。 ただ、2000万人は軍需産業の担い手であり、民需とかこれらの人々を食わせるために必要 な人的資源は考慮されていない。 この2000万人を支えるのに一人当たり更に二名が必要とすると、4000万人が必要となる。 これら総合計で7000万人。 これは、当時の日本の内地の総人口に匹敵するものだったりする訳で、日本の人的資源の 破綻っぷりなんか、笑うしかない状態であると言えるのかもしんない。
投:買わなきゃよかった・・・。 Y:投稿者、どうしたんだ? S:今日、本屋さんに行って、以前お話があった「輸送船入門」を買って きたそうですが・・・。 K:あまりに凄惨な光景が続いて鬱になっているみたいね。何しろ魚雷 一発当たったら3000人が海の藻屑だもの。間違っても日本の兵員輸 送船には乗りたくないわね。 Y:船倉の中に居るときに魚雷喰らったら、あれではまず助からん。 脱出ルートは狭く、人は溢れかえらんばかり。しかも魚雷で船内は ずったずた、急激に水が雪崩れ込んで・・・・・・ いかん、俺も想像するだけでダメだ、薄ら寒くなってきた・・・・・・。 S:「移動中の歩兵は棺桶に足を突っ込んでいるようなモノだ」そうですが、 浮かぶ棺桶とは・・・。 Y:敵と渡り合って果てるならば、いつか骨だけでも祖国に帰れるかもしれないが、 敵と渡り合う前に溺死では、骨も祖国に帰れんよ・・・。
>134 まぁ、たとえ運良く逃げ出せたとしても、ところかまわず護衛のフネが落としまくる爆雷の 水中爆発でミンチになるか、拾い上げてくれるフネもなく見渡す限り水(飲めない)なのに 干物になるか・・・。
昨日の続き…。 で、動員に関しては、各年度毎に陸軍動員計画令というので、参謀本部第三課で立案された。 これには、師団毎の「動員管理区分表」、管理区分表に準拠する「応急部隊一覧表」、動員区分、符号表、各種部隊編成表、各種部隊兵器表 から成っている。 動員管理区分表は参謀総長、朝鮮、台湾、関東軍各司令官、全師団長毎に計画されたもので、それぞれの軍・師団でどのような種類の部隊を、 どれだけ用意するかを決定するもので、この表1枚で全陸軍の動員準備が行なわれている。 動員対象は169種類で、表には野戦部隊の他にも、攻城、守備、特殊、留守部隊から航空隊、兵站部隊に至るまでの名前を記入してあり、この 中でいくつの部隊を動員するかを指定している。 一個師団の定員は平時には1万2000、戦時には倍になる上、兵站部隊、特殊部隊に配備などで5万人程度までふくれあがるものであった。 太平洋戦争緒戦のマレー半島上陸作戦の師団構成は以下の通り。 師団司令部 : 人員:330名、馬匹:165頭、自動車:4台 歩兵旅団司令部×2 : 人員:53名、馬匹:16頭 歩兵連隊×2 : 人員:3,525名、馬匹:429頭 騎兵連隊 : 人員:451名、馬匹:431頭 山砲兵連隊 : 人員:2,407名、馬匹:1,402頭、自動車:34台 工兵連隊 : 人員:672名、馬匹:99頭 通信隊 : 人員:246名、馬匹:45頭 輜重兵連隊 : 人員:1,898名、馬匹:1,451頭、自動車:2台 兵器勤務隊 : 人員:121名、馬匹:11頭 衛生隊 : 人員:1,095名、馬匹:128頭 野戦病院×3 : 人員:236名、馬匹:75頭 病馬廠 : 人員:48名、馬匹:5頭 合計/人員:21,710名、馬匹:5,550頭、自動車:50台
歩兵(甲)連隊の編成を取り出すと、連隊本部、大隊本部、歩兵中隊、機関銃中隊、歩兵砲小隊、速射砲中隊、歩兵砲中隊、 輜重中隊、工兵大隊などで構成されている。 例えば、機関銃中隊は戦銃隊と弾薬小隊に分かち、戦銃隊の方はこれを四個小隊に分けて、それぞれ、中尉(または少尉) を隊長とし、更にこれを二分隊に分ける。 一、二等兵のうち2名は喇叭手、10名は瓦斯兵、1名は蹄鉄工兵、一、二等兵のうち4名は銃工兵、縫工、靴工兵各1名を含む。 大隊付の歩兵砲小隊は、戦砲隊と弾薬分隊に区分し、曹長(または伍長)を分隊長とする。 一、二等兵のうち1名は喇叭手、少なくとも4名は通信手、少なくとも3名は観測手、5名は瓦斯兵、一、二等兵のうち少なくとも2名は 銃工兵、縫工、靴工兵少なくとも各1名を含む。 歩兵砲中隊は、戦砲隊と弾薬小隊からなり、別に観測車1台と、観測通信に必要な機器を輸送する人馬を持ち、戦砲隊は 連隊歩兵砲4門と弾薬車8両を有し、これを更に二個小隊に分け、それぞれ小隊長は中尉(または少尉)として、これを更に 軍曹が指揮する二分隊に分ける。 弾薬小隊は弾薬車12両、器材車2両、予備品車1両、予備馬で構成され、小隊長は特務曹長であり、これを上等兵を分隊 長とする五分隊に分割する。 一、二等兵のうち1名は喇叭手、少なくとも6名は通信手、少なくとも6名は観測手、10名は瓦斯兵、蹄鉄工兵が1名、一、二 等兵のうち少なくとも4名は銃工兵、縫工、靴工兵少なくとも各1名を含む。
速射砲中隊は、戦砲隊と弾薬小隊に分け、戦砲隊は37mm対戦車砲4門と弾薬車4両で構成され、それぞれ小隊長は中尉 (または少尉)として、これを更に軍曹(伍長)が指揮する二分隊に分ける。 弾薬小隊は弾薬車4両、器材及び予備品車1両、予備馬で構成され、小隊長は特務曹長であり、これを上等兵を分隊長と する五分隊に分割する。 一、二等兵のうち1名は喇叭手、少なくとも4名は通信手、6名は瓦斯兵、蹄鉄工兵は1名、一、二等兵のうち少なくとも2名は 銃工兵、縫工、靴工兵少なくとも各1名を含む。 連隊本部の上、一、二等兵のうち60名は通信手(うち5名は瓦斯兵を兼ね、別に無線通信手8名)、5名は軍旗衛兵、9名は 伝令とし、輜重兵の上、一、二等兵のうち3名は蹄鉄工兵、輜重兵特務兵のうち少なくとも3名は鞍工兵、鍛工、木工兵各2名、 縫工、靴工各1名を含む。 大隊本部の上、一、二等兵は全員伝令(うち5名は瓦斯兵を兼ねる)、輜重兵の上、一、二等兵のうち少なくとも3名は蹄鉄工兵、 輜重兵特務兵のうち鞍工、鍛工、木工兵少なくとも各2名、縫工、靴工各1名を含む。 中隊の上、一、二等兵のうち42名は軽機関銃手、重擲弾筒手18名、喇叭手4名、瓦斯兵10名、一、二等兵のうち少なくとも3名は 銃工兵で、縫工、靴工各2名を含む。 この編成のうち、喇叭手はラッパを吹く専門兵士、観測手は気象観測を行なう兵士、縫工は軍服の縫製、修繕、靴工は軍靴の 修繕を行なう。 このほか、輜重には自動車手という自動車運転士もいたし、蹄鉄工兵の様に馬の蹄鉄を打つ兵士も居た。
も少し昨日の続き。 動員計画では、以上のような兵員の必要数から必要装備、食糧そして修理部品の螺子に至るまで、その数量を 弾き出し、作戦計画が想定した作戦に合うように、郷土師団の配備地区を設定していく。 例えば、1940年の作戦計画では対ソ戦を目的としており、帝国陸軍区分表によれば、甲師団を総兵力13個、大本営 直轄1個師団を用いるとしており、ウスリー方面へ進軍する第一方面軍は、第三軍として3個師団、第7軍2個師団、 第五軍1個師団を投入する。 第三軍は、戦車連隊5、野戦重砲兵連隊3、迫撃砲大隊4、架橋材料中隊3、渡河材料中隊3、独立輜重兵中隊4、独立 自動車中隊19、野戦作井隊4であり、戦車連隊が多く、架橋材料中隊を持つ三軍は黒竜江を越えて、敵を突破する主力、 第五軍は、戦車連隊3、野戦重砲兵連隊1、迫撃砲大隊2、架橋材料中隊3、渡河材料中隊4、独立輜重兵中隊2、独立 自動車中隊10、水上勤務中隊3、野戦作井隊2であり、第三軍の支援任務を行なう。 第七軍は、戦車連隊2、野戦重砲兵連隊2、迫撃砲大隊2、独立輜重兵中隊1、独立自動車中隊8、野戦作井隊2であり、 陸路を行軍する軽装備の部隊と考えられる。 また、自動車中心か駄馬中心かによって、部隊の性格が違ってくる。 自動車中心の師団は、その機動力を生かして平原戦に投入されるもの、これの支援としては、野砲兵連隊を付ける。 駄馬中心の師団は、満州奥地の山間部から敵中を突破する部隊として使用し、これの支援は当然、山間部で有為な 山砲兵部隊を付ける。 実際の日中戦争に於いては、華中、華南ではクリークが多くて自動車が役立たず、駄馬編成の師団を流用した。 こうした様々なものを勘案して、動員計画で必要な特殊技能者の数を確定し、現役兵と在郷軍人との配分、徴集年度別 構成も参謀本部で指定した後、初めて召集者が決定される。 前者に関しては、その部隊の重要度に応じて配分が決められ、後者に関しても、部隊の任務の内容に応じて決められた。 つまり、現役兵を多く配分し、召集者も若い男子中心の部隊なら実戦力が必要な部隊であり、第一線に回される部隊、 召集者が多く、第二補充兵、比較的高齢の者を選んでいた場合は、守備隊にするというものである。
計画に従って、連隊区司令部で誰を召集するかを決定し、各警察署に職員が召集令状を持参して届けた。 召集令状は、警察の金庫に保管され、動員が下令されると、警察から町村の兵事係に通報があり、兵事係は町村長以下 職員を集めて、動員事務室を設置、召集令状を警察より受け取った後、該当地区に配布する職員を決定し、そこから職員 が該当者の家に出向いて、召集令状を本人もしくは代理の家族に渡した後、受け取りを持ち帰り、初めて動員事務室を撤 去出来る形になっている。 ちなみに、市の場合は、警察を通さず、ダイレクトに市役所に召集令状が届けられていた。 この間は厳密な手順に従って行なわれており、役場にある動員日誌に、動員予告を受けてから実際に該当者に召集令状が 届けられるまで、時間単位で記入が行なわれている。
以上が動員のプロセスだが、実際には日中戦争で死者が多数出る泥沼状態となり、臨時徴兵により人的資源が 枯渇しつつあった。 参謀本部では太平洋戦争に入る前に、兵力計算などシミュレーションを行なったが、陸軍部内で開戦に反対した のは、燃料課と兵備課で、燃料課は油が足りない、兵備課は将校が足りないと言って反対した。 これに対し、東条首相は、油はパレンバンの石油を、人は大学生を徴兵すると言って回答した。 即ち、学徒動員は開戦前に規定の方針として決められていた訳だ。 また、1943年12月に徴兵年齢を45歳まで引き上げたが、この本当の狙いは、医療従事者の確保にあった。 軍医のうち、召集可能者は既に底をついていた為、それ以上の医者を召集する必要があった。 しかし、医者だけ徴兵年齢引き上げとなると抵抗が強いので、全体を45歳に引き上げたのである。 更に元々、陸軍が望んでいなかったのだが、朝鮮人の徴兵は朝鮮人側からの要求で、その代わり、政府が 朝鮮人に参政権を与えると言う引き替え条件として提案されたもの。 朝鮮人に兵役義務を与えたら、今度は台湾人が同じ要求をしたので、政府はこれも呑み、兵役施行が実現 した。 こうしてどんどんと召集者が肥大化していった訳だが、本来、日本軍としての動員限界はどれくらいだったのか と言うと、1940年に決定された「三号軍備計画」に基づき、1944年までに陸軍の戦備を65個師団、300万人と設定 している。 ちなみに、先の軍需動員との比率で行けば、更に軍需動員として600万人の労働力を必要とする。
太平洋戦争勃発時の動員兵力は全体で60個師団220万人(糧食250万人分)、このうち南方作戦に投入したのは、 僅か13個師団30万人(糧食40万人分)。 残りは、満州に24個師団120万人、中国に30個師団65万人に張り付いていた。 以降は以下の通り。 内地 中国 満州 南方 1942年度末 50万人 68万人 70万人 50万人 1943年度末 70万人 68万人 60万人 92万人 1944年度末 121万人 80万人 46万人 163万人 1945年度末 278万人 120万人 78万人 164万人 動員のturning pointは想定戦域がどんどん広がっていったのが破綻した 1943年頃である。 この頃から、年度動員計画に基づく動員ではなく、臨時動員に転換された。 このため、適材適所の召集が出来なくなり、後方部隊の臨時編成の後で 最前線の第一線部隊を編成する場合、齟齬が生じた。 即ち、召集する側は、最初に動員が来た方に優秀なものを回す為、本来なら 一線部隊で活躍させなければならない人材が、後方勤務に回ってしまい、 後方勤務にしか耐えられない人材が、前線に配属される様な形になって、 部隊全体の戦闘能力が格段に落ち、結果として、全滅などの状況に陥りやすく なったケースもあるのかも知れない。
たまにはageて見る。
しかし、補給戦(護衛戦)から、戦時経済論にシフトしつつあるのを良スレと喜べども、微妙に違うかもと悩まざるを得ない。。。
>>141-142 日中戦争の泥沼化によって、充足補充の繰り返しが、理想的な徴兵システムを侵食して行った過程がよく見えました。
ですが、一方で、関特演によって、同システムが瓦解したとの指摘もあるのですが、どうなんでしょう。関特演の動員って、臨時動員扱いでしたっけ?
1943年12月頃の海上護衛用兵力 外洋用護衛艦艇 海防艦18隻 旧式駆逐艦15隻 水雷艇8隻 特設砲艦4隻 掃海艇12隻 哨戒艇4隻 駆潜艇13隻 大型特設掃海艇22隻 計95隻 近海用護衛艦艇 敷設艇25隻 特設掃海艇44隻 計69隻
1944年08月頃の護衛兵力 その1 護衛総司令部直属 護衛空母4隻(海鷹は長期故障中) 練習巡洋艦1隻(香椎) 航空隊3個(第901航空隊のみが実働) 第一海上護衛隊(司令部 高雄) 担当海域 シンガポール~門司 旧式駆逐艦5隻 水雷艇3隻 海防艦36隻 敷設艇1隻 哨戒艇1隻 掃海艇2隻 計48隻 第三海上護衛隊(横須賀鎮守府/司令部 串本) 担当海域 函館~東京湾~大阪、神戸 旧式駆逐艦2隻 海防艦5隻 敷設艇2隻 掃海艇5隻 小艦艇多数
1944年08月頃の護衛兵力 その2 第四海上護衛隊(佐世保鎮守府/司令部 鹿児島) 担当海域 南西諸島~九州西岸 海防艦1隻 水雷艇3隻 掃海艇2隻 小艦艇多数 大湊警備府 担当海域 北海道~千島北端 旧式駆逐艦3隻 海防艦4隻 掃海艇2隻 小艦艇多数 第31戦隊 軽巡洋艦 五十鈴 第30駆逐隊 夕月、秋風、夕凪、卯月、皐月 第43駆逐隊 松、竹、埋め、桃 海防艦 千珠、満珠、笠戸、三宅、第22号
>143 あくまでも補給戦の範疇なので…(;^^)ヘ..。 関特演は最後のだめ押しって所ではないかと思うです。 そもそも、日中戦争など起こす予定ではなかったのに起こってしまいましたから…。 日中戦争の動員で臨時動員が掛かり始めて、日本の徴兵システムが崩壊していった訳で、 最終的なだめ押しで、関特演用に相当数の兵を擁していき、それが通ったが為に、参謀本部 の作戦課の人々に妙な自信を与えたのではないかな、と思いますです。
148 :
名無し三等兵 :03/11/20 04:23 ID:+CGRp5Q9
ここで言っている「補給線」というのは近代戦のことだから、そのすべてを 決定してしまうのは、まず「油」なんだよネ。(電気や、軍艦を動かすのに使うから) それを確保して、日本本土に持ってこれるか、できないか、に勝敗が懸かっていたんだよ。 それができなかったから日本は、負けたんだ、と思う。
出来なかったというか、そもそもやる気があったのかどうかが疑問だ。 あの場合。「やらなかったから負けた」というべきかと。
150 :
少佐 :03/11/20 05:33 ID:R6hbcCSU
日本は最初から油や船が欠乏していた訳ではない。 アメリカの潜水艦など一隻も存在せず、十分安全な補給路が確保されてた時 でも補給をしなかったのだ。 船の数や油がどうしたという問題では無い。 マラリア蚊やアメーバ赤痢まみれの南方戦線を完全に舐めていたのだ。 そうなるのもしょうがない、世界地図を見ながら作戦立案が行われていたのだから。
いかん。 糞スレ警報だ!
>マラリア蚊やアメーバ赤痢まみれの南方戦線を完全に舐めていたのだ。 あのなぁ、日米開戦の一年前まで、帝國陸軍はニューギニアやソロモンでの戦闘を 全く想定してなかったんだよ。 だもんで、情報も研究も致命的に不足した状態で実戦を強いられた・・・ ・・・五十六提督に恨み言をいってもしょうがないんだが、 当初の想定と違った戦争したことが色々な問題の原因になったのは確かだな。
>152 陸軍さんももう少し粘れば良かったんだよ。 大隊、海軍というか、五十六タソが真面目に米豪遮断考えてる かどーかなんて、護衛艦艇の数みりゃ解るだろうに。
実際、対英米戦の教育なんて、1943年にならないと陸軍は行なっていませんからね。 しかも、何をやったらいいのか判らなくて、最初は、「生徒と教官、みんなで考えよう!」状態 だったりする訳で。 全然話が変わるけど。 鉄道車輌なんか、こういう決定がこんな頃に漸く行なわれた訳で。 決戦非常措置要綱ニ基ク地方鉄道軌道鉄道車輌修理ノ確保ニ関スル件 昭和19年3月31日 閣議決定 決戦段階ニ於ケル地方鉄道軌道所属鉄道車輌ノ整備強化ハ戦力増強上喫緊事ナルニ拘ラズ最高四割乃至五割ノ 修理不能ニ基ク休車ヲ生ジ居ル現況ナリ依ツテ速ニ之カ修理補強ヲ確保スベキ緊急強力ナル措置ヲ講ジ以ツテ 現有鉄道車輌ノ最高度活用ヲ目途トシ現下飛躍的ニ増加シツツアル通勤輸送ト重点物資輸送ノ完遂ヲ図ルベク 鉄道車輌修繕能率ノ画期的昂揚ヲ期セントス 一 地方鉄道軌道所属車輌工場ニ対シ工場事業場管理令ニ基キ国家管理ヲ実施ス 二 所要労務ノ緊急充足ヲ図ルタメ徴用制ノ実施並労務監理ノ強化ヲ企図ス 三 修理所要資材(特ニ銅線、マイカ、テープ、絶縁塗料等)ノ最少限度ヲ緊急優先確保ス 四 修繕能力ノ最高度発揮ヲ図ル為運輸通信省ノ技術、経験等ヲ活用シ民間修理工場ノ能率昂上ニ必要ナル措置ヲ講ズ
米国戦略爆撃調査団資料より(日本の戦時経済…食糧供給) 1941年の日本の全食糧供給は、最低生活に必要なカロリー量を僅か6.4%超える程度でしかなかった。 しかも、この供給さえそれを維持するには、国内資源の極度の集約的な使用(日本の1エーカー当り 米の収量は世界一であり、また殆ど全部の耕作地は二毛作が為されていた)、沿岸及び遠洋に於ける 大規模な漁業、全体の15%に達する食料の輸入、肥料を惜しみなく使用すること(そのうち、燐酸とカリは 輸入されていた)などが必要であった。 しかも、正常持越し量を超えるようなストックは持っていなかった。 やっと保っているこの食料のバランスを弱めるような事態が戦争の初期から次々と生じた。 漁船は哨戒や小規模輸送や上陸用として陸海軍方面からの要求で戦争中絶えず徴発され、また重要な 遠洋漁業の基地は米軍の攻撃圏内に入って、放棄せざるを得なくなった。 合成アンモニア工場はその製品のますます多くを爆薬生産に割当て、肥料向けを削減せねばならなかった。 窒素肥料の消費量は1941年と1945年の間では68%も減少した。 この減少の半分は、1944年8月以降に生じたものであった。 農村の労働力は徴発され、これがため、農業労働力の質的低下が生じ、限界耕地の耕作は放棄せざるを得なくなった。 これは、政府の企図した食糧作付面積の増大を帳消しにした上に余りがあった。 これらの結果そのいずれも、連合軍の攻撃に対し、日本を一層危険な地位に立たせることになったのであった。 太平洋戦争に於ける最初の戦略空襲であったナウル島の爆撃により、1943年には燐酸肥料の供給が途絶した。 作戦行動に伴った船舶の喪失から、南方米の輸送を主とする食料の輸入は早くも1943年から減少し始めた。 栄養価が高く且つ入手しやすい満州大豆に切り替えて、米に対する依存を軽減しようとする真剣な努力が、日本には欠けていた。 そして1944年11月まで漫然と米の配給量を据え置いた末、遂にストックは配給操作が出来なくなるまで減少してしまった。 1944年秋に至り南方米の輸入は事実上途絶し、その上国内は不作で44米穀年度の国内食糧供給は1930~40年平均の93%に 過ぎなかった。
その間に漁獲高は大幅に減少した。 それは漁船が海軍と沿岸貨物輸送の為に徴発を受けたこと、漁夫が喪われた汽船乗組員や海軍要員の補充に徴用されたこと、 更に燃料油の欠乏から漁船の活動区域も時間も制限されるなどの事情によるものであった。 1945年には食用としての魚類の消費高は、1939年水準の65%に落ちた。 なお、肥料用としての魚の消費量の低下は、これより20%以上も多かった。 この様な事態の結果、日本は軍需生産の為、原料供給が急速に悪化していたにも拘わらず、1945年4月に至り、大陸から食糧 以外のものの輸入を中止せざるを得ない羽目に陥った。 全計画は、穀類、大豆などを満州と朝鮮から輸送することに切り替えられた。 8月に至り封鎖は殆ど完成し、食糧の輸送さえ、ごく少量が入るに過ぎなくなった。 1945年3月から始まった都市爆撃は日本の主要都市の大半を破壊し、食糧の不足はこれによって更に悪化した。 数千の小売業者の手元にストックされてあった応急米の約4分の1が焼失し、正規の食糧配給は非道く混乱せしめられた。 窒素肥料の生産不足は1945年の夏までは未だ収穫の上に重大な影響を現わしていなかったが、45米穀年度には充分 その危険があった。 連合軍の空軍が南方から接近してきたので、沿岸漁業すら制限されて漁獲高は一層の減少を見た。 例え好天に恵まれ、国内の食糧生産が維持されたとしても、持越し高は非道く少なかったから、飢餓的配給量を続けて いって次年度の米の収穫期まで繋ぐというのが関の山であった。 しかしこの様な便法も、国内の配給機構が維持され流と言う前提の上に立つものであった。 日本人自身でさえ、鉄道に対する爆撃が始まったならそれも駄目になるだろうと覚悟していた。 その鉄道攻撃は、正に敗戦となった日から開始されることになっていたのである。
1941年12月喪失量。 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 7隻 41,487t 17,070,000円 海軍徴傭船 0 0 0 非徴傭船 1 272 162,000 総トン数5000t以上の喪失船舶 三井船舶 熱田山丸(8,661t)、淡路山丸(9,794t)、日本郵船 香取丸(9,849t)、東洋汽船 巴洋丸(5,446t) 1942年1月喪失量。 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 7隻 30,044t 8,108,241円 海軍徴傭船 5 13,064 7,768,400 非徴傭船 3 15,396 8,266,200 総トン数5000t以上の喪失船舶 日本郵船 敦賀丸(6,988t)、辰馬汽船 呉竹丸(5,175t)、日本海汽船 はるぴん丸(5,167t)、 帝國汽船 ドミスラブ号(5,307t)、帝安丸(5.387t) 1942年2月喪失量。 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 4隻 18,703t 8,756,500円 海軍徴傭船 6 19,002 12,026,800 非徴傭船 2 7,924 4,633,000 総トン数5000t以上の喪失船舶 國際汽船 鞍馬丸(6,789t)、三井船舶 多摩川丸(6,441t)、大阪商船 南阿丸(6,757t)、辰馬汽船 辰神丸(7.070t)
1942年3月喪失量。 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 8隻 44,061t 12,867,000円 海軍徴傭船 3 8,476 3,306,000 非徴傭船 1 6,526 4,550,000 総トン数5000t以上の喪失船舶 日本郵船 横浜丸(6,143t)、北野丸(7,951t)、佐倉丸(7,167t)、大阪商船 蓬莱丸(9,192t)、東洋海運 加茂川丸(6,440t)、 川崎汽船 ぼるどう丸(6.526t) 1942年4月喪失量。 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 2隻 11,691t 4,310,000円 海軍徴傭船 6 25,819 15,813,200 非徴傭船 3 17,800 8,301,400 総トン数5000t以上の喪失船舶 國際汽船 八重丸(6,781t)、廣海商事 廣盛丸(6,667t)、日東汽船 海城丸(8,636t)、 橋本汽船 神龍丸(6,243t)、國際汽船 小牧丸(8.524t) 1942年5月喪失量。 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 8隻 31,692t 9,430,900円 海軍徴傭船 8 14,528 8,793,900 非徴傭船 9 47,813 11,897,000 総トン数5000t以上の喪失船舶 川崎汽船 太山丸(5,478t)、日本郵船 甲谷陀丸(5,339t)、辰馬汽船 織殿丸(5,278t)、 太洋海運 大元丸(5,660t)、松岡汽船 松栄丸(5.644t)、川崎汽船 昭南丸(5,356t)、 日本郵船 大洋丸(14,457t)、熱田丸(7,937t)、東亜海運 長崎丸(5,268t)
開戦後6ヶ月の喪失量は83隻、総トン数354,298t、保険金額1億4,606万541円。 月平均5.95万トンを喪失しており、この現状を維持するのならば、1年の喪失量は713,400tとなる。 しかしながら、1915年から1941年までの日本の年次船舶建造量の最大トン数は、1919年の611,000tが最高で、 昭和に入ってからは1937年に441,000tが最大であったに過ぎず、既にこの時点で、損失が勝ってしまっている。 ちなみに、1941年の建造量は231,000t。 全然足りない。
1942年6月喪失量。 (Midway海戦勃発) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 2隻 12,853t 12,867,000円 海軍徴傭船 5 6,199 3,791,400 非徴傭船 4 14,760 5,470,400 総トン数5000t以上の喪失船舶 日本郵船 豊橋丸(7,031t)、山下汽船 興福丸(5.822t) 1942年7月喪失量。 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 3隻 15,785t 8,111,400円 海軍徴傭船 6 26,375 12,411,600 非徴傭船 2 11,473 4,190,000 総トン数5000t以上の喪失船舶 三井船舶 綾戸山丸(9,788t)、日産汽船 日産丸(6.533t)、大阪汽船 もんてびでお丸(7,266t)、日本郵船 函館丸(5,302t)、 日産汽船 日山丸(6,171t) 1942年8月喪失量。 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 3隻 13,204t 6,284,600円 海軍徴傭船 4 17,551 12,275,400 非徴傭船 10 32,163 17,530,000 総トン数5000t以上の喪失船舶 川崎汽船 おはいお丸(5,872t)、東洋汽船 善洋丸(6.441t)、明治海運 明陽丸(5,627t)、日産汽船 日慶丸(5,811t)
1942年9月喪失量。(ぶらじる丸撃沈) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 3隻 11,552t 4,222,500円 海軍徴傭船 6 39,365 28,636,600 非徴傭船 7 20,724 6,833,200 総トン数5000t以上の喪失船舶 日本郵船 野島丸(7,183t)、大阪商船 ぶらじる丸(12.752t)、辰馬汽船 辰鳳丸(6,334t)、原田汽船 関東丸(8,603t)、 山下汽船 会明丸(5,253t) 1942年10月喪失量。 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 8隻 51,051t 23,086,000円 海軍徴傭船 4 20,545 12,053,800 非徴傭船 13 65,364 27,245,000 総トン数5000t以上の喪失船舶 日本郵船 りすぼん丸(7,053t)、笹子丸(9,258t)、大阪商船 春光丸(6.776t)、九州丸(8,666t)、ぼるねお丸(5,863t)、 山下汽船 朝光丸(6,783t)、三井船舶 吾妻山丸(7,622t)、國際汽船 葛城丸(8,033t)、川崎汽船 和蘭丸(5,869t)、 小谷汽船 金開丸(5,852t)、杉本正一 隆南丸(5,106t)、日産汽船 日穂丸(6,363t)、大阪商船 へいぐ丸(5,641t)、 帝國船舶 帝村丸(7,007t)、大阪商船 あふりか丸(9,475t)
1942年11月喪失量。 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 19隻 115,791t 62,485,000円 海軍徴傭船 5 24,749 13,062,700 非徴傭船 4 12,847 5,896,400 総トン数5000t以上の喪失船舶 石原産業 ぼすとん丸(5,477t)、川崎汽船 おれごん丸(5.872t)、宏川丸(6,872t)、靖川丸(6,710t)、 三井船舶 信濃川丸(7,506t)、鬼怒川丸(6,936t)、日本郵船 長良丸(7,148t)、那古丸(7,145t)、 相模丸(7,189t)、佐渡丸(7,180t)、大阪商船 ありぞな丸(9,683t)、ぶりすべん丸(5,425t)、 がんべら丸(6,477t)、はばな丸(5,651t)、山下汽船 山月丸(6,438t)、山浦丸(6,798t)、 三井船舶 箱根山丸(6,673t)、大阪商船 報國丸(10,438t)、川崎汽船べにす丸(6,571t) 開戦後1カ年の喪失量は191隻、総トン数866,649t、保険金額4億300万1,541円。 月平均8.54万トンを喪失しており、半年の平均5.95万トンを大きく上回っている。 1942年の建造量は拡充したとは言え、まだ撃沈量を全く下回っており、その数値は424,000tである。 1942年12月喪失量。 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 8隻 22,082t 6,753,800円 海軍徴傭船 1 550 330,000 非徴傭船 9 36,189 17,915,000 総トン数5000t以上の喪失船舶 日産汽船 日照丸(5,857t)、玉井商船 伊太利丸(5.858t)、大連汽船 朝陽丸(5,388t)、 宮地汽船 玄山丸(5,708t)、帝國船舶 帝福丸(5,198t) 1942年の総喪失量 883,711t 総建造量 424,000t 差し引き▲459,711t。
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>船腹喪失と新規建造の推移 Y:穴の空いたバケツで水くみ出すようなもんだ。早く穴自体を塞がなきゃ。 S:「それよりも手を動かせ」という所でしょうか?当時の判断は。 K:しかも当時の優良船から徴用されては沈んで行くから、後に残るのは・・・ その先は言うに忍びない事よ。 Y:チキンゲームになっちまうぞ? S:あああ、大日本帝国が失血死する姿が・・・。
1943年1月喪失量。 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 16隻 77,613t 30,634,000円 海軍徴傭船 8 17,919 11,599,500 非徴傭船 2 6,872 2,566,000 総トン数5000t以上の喪失船舶 大光汽船 慶福丸(5,833t)、川崎汽船 もんとりいる丸(6.576t)、日産汽船 日龍丸(5,446t)、内外汽船 琴平丸(6,100t)、 辰馬汽船 白羽丸(5,693t)、玉井汽船 武洋丸(5,446t)、山下汽船 智福丸(5,857t) 、明宇丸(8,231t)、 日本郵船 平洋丸(9,815t)、松岡汽船 松安丸(5,624t) 1943年2月喪失量。(海軍徴傭船 龍田丸、北緯34度東経140度で撃沈) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 6隻 24,047t 11,847,400円 海軍徴傭船 7 30,193 21,121,600 非徴傭船 2 16,295 4,109,000 総トン数5000t以上の喪失船舶 三井船舶 浅香山丸(8,709t)、辰馬汽船 染殿丸(5.154t)、山下汽船 桑山丸(5,727t)、北海道炭鉱 かもい丸(5,355t)、 日本郵船 龍田丸(16,975t)、伏見丸(10,935t)、山下汽船 楠山丸(5,360t) 1943年3月喪失量。(台湾連絡船 高千穂丸、北緯25度50分東経122度30分水深115mの海底に撃沈) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 12隻 50670t 25,274,800円 海軍徴傭船 1 1,990 1,437,000 非徴傭船 11 30,672 16,159,800 総トン数5000t以上の喪失船舶 大同海運 旭盛丸(5,493t)、三井船舶 大井川丸(6,493t)、明治海運 明元丸(5.434t)、帝國船舶 帝洋丸(6,801t)、 山下汽船 桃山丸(5,217t)、大阪商船 高千穂丸(8,154t)
1943年4月喪失量。(海軍徴傭船 鎌倉丸南方水域にて撃沈) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 12隻 37,433t 16,438,000円 海軍徴傭船 23 90,939 60,878,000 非徴傭船 6 14,708 9,365,750 総トン数5000t以上の喪失船舶 川崎汽船 いんであ丸(5,872t)、日本郵船 彼南丸(5,214t)、有馬丸(7.386t)、鎌倉丸(17,526t)、 山下汽船 山里丸(6,925t)、日東汽船 東栄丸(10,022t) 、大阪商船 東亜丸(6,732t)、 岡田商船 東園丸(5,232t)、辰馬汽船 辰南丸(6,417t)、山本汽船 勇山丸(6,380t) 1943年5月喪失量。(海軍徴傭船にして日本有数の冷凍船厚生丸、南方水域にて火薬輸送中に喪失) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 8隻 26,614t 10,383,000円 海軍徴傭船 16 70,737 44,337,200 非徴傭船 14 42,217 16,979,250 総トン数5000t以上の喪失船舶 大阪商船 すまとら丸(5,862t)、山下汽船 英蘭丸(5,829t)、飯野海運 東邦丸(9,997t)、 川崎汽船 ふろりだ丸(5,845t)、辰馬汽船 辰武丸(7,068t)、帝國水産統制 厚生丸(8,282t)、 大阪商船 盤谷丸(5,351t)、川崎汽船 神川丸(6,853t)、大連汽船 松江丸(5,385t)、 八馬汽船 第五多聞丸(5,260t) 、多聞丸(8,516t)
開戦後1年半の喪失量は353隻、総トン数1,464,389t、保険金額7億1,113万641円。 月平均9.96万トンを喪失しており、開戦後半年の5.95万トンに比べると実に倍近くなっている。 この頃、漸くにして戦時標準船の建造が本格化し、建造能力は一段と強化されているが、 上記数字に表れない、損傷船舶もまた多数に上り、各船渠は建造に、修理に忙殺され、 船舶の稼働率が著しく低下しつつあった。
1943年6月喪失量。 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 7隻 24,795t 17,999,900円 海軍徴傭船 11 52,132 29,704,300 非徴傭船 10 35,891 20,714,400 総トン数5000t以上の喪失船舶 日本郵船 ぜのあ丸(6,784t)、辰馬汽船 宮殿丸(5,196t)、木原商船 甲南丸(5,226t)、 廣海商事 廣徳丸(6,701t)、日産汽船 日張丸(6,550t)、日本海運 あかつき丸(10,215t)、 日本郵船 相良丸(7,189t)、大光商船 光洋丸(6,300t)、鏑木汽船 常磐丸(6,971t)、 日魯漁業 神武丸(5,236t) 1943年7月喪失量。 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 7隻 25,432t 9,366,600円 海軍徴傭船 11 65,585 34,556,600 非徴傭船 15 52,913 24,954,800 総トン数5000t以上の喪失船舶 川崎汽船 ていむす丸(5,871t)、山下汽船 米山丸(5,274t)、國際汽船 鹿野丸(8,572t)、 三菱汽船 さんくれめん丸(7,354t)、日産汽船 日立丸(6,540t)、大阪商船 畿内丸(8,360t)、 東洋海運 淀川丸(6,441t)、山本汽船 彰山丸(5,859t)、日本郵船 諏訪丸(10,672t)、 東洋海運 最上川丸(7,496t)、大連汽船 黒龍丸(6,112t)、橋本汽船 幸喜丸(5,290t)、 國際汽船 りばぷうる丸(5,866t)、日本郵船 サイパン丸(5,532t)、日産汽船 日久丸(6,537t)、 帝國水産統制 第七播州丸(5,430t)
1943年8月喪失量。 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 8隻 30,263t 12,836,000円 海軍徴傭船 5 13,632 8,499,700 非徴傭船 8 34,355 14,690,000 総トン数5000t以上の喪失船舶 八馬汽船 海祥丸(6,070t)、國際汽船 ぐらすごう丸(5,831t)、宮地汽船 明山丸(5,752t)、 松岡汽船 松東丸(5,291t)、板谷商船 妙高丸(5,086t)、國際汽船 國光丸(5,542t)、 帝國船舶 安宅丸(5,248t)、大洋海運 大文丸(6,581t) 1943年9月喪失量。(1942.11以来の総トン数最高記録更新) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 19隻 65,806t 28,515,300円 海軍徴傭船 7 32,695 26,653,400 非徴傭船 19 76,467 32,891,000 総トン数5000t以上の喪失船舶 原田汽船 関西丸(8,614t)、宮地汽船 喜山丸(5,077t)、日本郵船 長門丸(5,900t)、 南洋海運 前橋丸(7,005t)、極洋捕鯨 極洋丸(17,549t)☆、北海道炭鉱 あかま丸(5,600t)、 日本郵船 大和丸(9,655t)、石原産業 みらん丸(5,467t)、日本郵船 鹿島丸(9,908t)、 日東汽船 陽和丸(6,435t)、大阪商船 あるぐん丸(6,608t)、大岩徳次郎 大神丸(6,877t) ☆極洋丸は、奄美大島名瀬港にて台風のために損傷、廃棄のやむなきに至ったもの。 但し、座礁の直接原因は台風であるが、海軍運航指揮官の重大なる過失による喪失として、 海軍が軍賠償を認めたものであり、敢えて戦争危険による全損船舶として加えている。
1943年10月喪失量。 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 20隻 52,236t 18,888,000円 海軍徴傭船 5 20,248 11,520,200 非徴傭船 10 41,188 32,992,000 総トン数5000t以上の喪失船舶 福洋汽船 加州丸(5,460t)、板谷汽船 大日丸(5,813t)、南洋海運 浄宝縷丸(6,187t)、 大阪商船 志かご丸(5,860t)、大洋海運 大安丸(5,655t)、日本郵船 鳴戸丸(7,148t)、 栃木商事 日出丸(5,256t)、日本郵船 粟田丸(7,397t)、帝國船舶 帝美丸(10,086t)☆、 日本郵船 富士丸(9,130t)、高千穂商船 高瑞丸(7,072t) ☆帝國船舶とは、第二次大戦勃発に伴い日本に避難碇泊していた枢軸国船舶、拿捕船を一括運用 していた会社組織で、30隻、168,737tを保有していた。 1943年11月喪失量。(1943.9以来の総トン数最高記録更新、商船護送司令部設置) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 25隻 90,136t 43,606,400円 海軍徴傭船 29 70,518 44,744,700 非徴傭船 15 69,957 44,625,500 総トン数5000t以上の喪失船舶 日本製鐵 泰南丸(5,407t)、國際汽船 ねいぶる丸(5,824t)、三菱汽船 ころんびあ丸(5,611t)、 大阪商船 ぶえのすあいれす丸(9,625t)、百合丸(6,787t)、山下汽船 旭光丸(6,783t)、北光丸(5,346t)、 大阪商船 ひまらや丸(5,228t)、山下汽船 海南丸(6,550t)、拿捕船 千早丸(7,087t)、 日本郵船 日枝丸(11,621t)、尾上丸(6,667t)、箱根丸(10,420t)、丹後丸(6,893t)、日東汽船 玉栄丸(10,570t)、 大阪商船 志どにい丸(5,425t)、熱河丸(6,783t)、日本水産 図南丸(9,886t)
開戦後2年の喪失量は584隻、総トン数2,318,638t、保険金額11億6,888万441円。 月平均14.23万トンを喪失しており、開戦後半年の5.95万トンに比べると実に2.5倍以上となっている。 前述の通り、船舶建造量は可成り大になり、1943年には112万トンとなっている。 これは、1942年度の2.6倍強になり、月平均建造は93,333tとなるが、この頃の喪失量にはまだ追いつかない。 1943年12月喪失量。(捕鯨母船 第二日新丸の喪失) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 9隻 32,554t 10,712,000円 海軍徴傭船 29 120,957 77,119,100 非徴傭船 16 58,804 32,025,000 総トン数5000t以上の喪失船舶 三井船舶 若津丸(5,123t)、日本郵船 でらごあ丸(7,148t)、大阪商船 あらすか丸(7,378t)、 大連汽船 北江丸(5,384t)、國際汽船 霧島丸(8,267t)、日東汽船 昭洋丸(7,498t)、 日産汽船 日鉱丸(5,949t)、大阪商船 東海丸(8,359t)、岡田商船 万壽丸(5,875t)、 大洋漁業 第二日新丸(17,579t)、拿捕船 建武丸(6,816t)、巨港丸(5,800t)、大光汽船 東福丸(5,957t)、 日本郵船 銀洋丸(8,613t)、日本油槽 一宇丸(5,061t)、東亜海運 玉嶺丸(5,588t)、銀嶺丸(5,949t) 1943年の総喪失量 1,605,483t 総建造量 1,120,000t 差し引き▲485,483t。
1944年1月喪失量。(1943.11以来の記録更新。一心丸、東亜丸他油槽船多数の喪失。) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 30隻 96,711t 53,580,900円 海軍徴傭船 39 137,775 87,327,900 非徴傭船 13 54,312 37,075,800 総トン数5000t以上の喪失船舶 上野商店 隆洋丸(6,707t)、山下汽船 山百合丸(5,028t)、飯野海運 東亜丸(10.052t)、三菱汽船 さんらもん丸(7,309t)、 日産汽船 日威丸(6,542t)、大阪商船 東京丸(6,481t) 、東洋汽船 宇洋丸(6,376t)、南洋海運 名古屋丸(6,072t)、 山下汽船 山彦丸(6,799t)、日本郵船 りをん丸(7,018t)、板谷商船 八海丸(5,114t)、日本郵船 靖國丸(11,933t)、 廣海商事 廣進丸(5,485t)、栗林商船 ぱなま丸(5,287t)、日本製鐵 青南丸(5,401t)、共同企業 八紘丸(6,048t)、 東洋汽船 月洋丸(6,300t)、日本石油 一心丸(10,044t)
1944年2月喪失量。(すぐに記録更新。トラック大空襲による大被害。) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 37隻 133,909t 74,795,600円 海軍徴傭船 35 160,223 99,143,500 非徴傭船 24 85,008 53,799,000 総トン数5000t以上の喪失船舶 三菱汽船 昭浦丸(6,803t)、日本郵船 りま丸(6,989t)、崎戸丸(9,245t)、日産汽船 日愛丸(5.439t)、日紀丸(5,857t)、 名村汽船 第三大源丸(5,255t)、大阪商船 たこま丸(5,772t) 、帝國船舶 帝興丸(15,105t)、拿捕船 伯耆丸(7,112t)、 大阪商船 清澄丸(8,613t)、日本郵船 赤城丸(7,389t)、東洋海運 富士川丸(6,938t)、日本郵船 平安丸(11,614t)、 拿捕船 大瀬丸(7,987t)、浅野物産 一洋丸(5,106t)、飯野海運 丹後丸(6,200t)、石原産業 まるた丸(5,499t)、ありあけ丸(5,149t)、 太平汽船 打出丸(5,266t)、辰馬汽船 辰美丸(5,784t)、拿捕船 暁天丸(6,854t)、五洋商船 照川丸(6,428t)、 日本郵船 龍野丸(6,960t)、吾妻丸(6,645t)、日東汽船 久栄丸(10,171t)、山下汽船 朝風丸(6,517t)、山國丸(6,921t)、 日本水産 第三図南丸(19,209t)、日東汽船 國栄丸(5,154t)、南栄丸(5,019t)、東亜海運 宝嶺丸(5,583t)、大洋海運 大仁丸(5,154t)、 東海運送 遼河丸(5,308t)
1944年3月喪失量。(海軍徴傭船船団の相次ぐ壊滅。油槽船の喪失による日本経済の麻痺。) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 26隻 78,669t 48,299,300円 海軍徴傭船 41 227,573 143,307,000 非徴傭船 8 28,867 20,433,200 総トン数5000t以上の喪失船舶 大連汽船 新京丸(5,139t)、北川産業 北泰丸(5,220t)、日本郵船 弁加拉丸(5,399t)、日産汽船 日泰丸(6.484t)、日連丸(5,460t)、 浅野物産 紀洋丸(7,251t)、飯野海運 君島丸(5,193t) 、南邦丸(10,033t)、富士山丸(9,527t)、興國汽船 健洋丸(10,024t)、 神戸桟橋 神國丸(10,020t)、三井船舶 新夕張丸(5,354t)、日本郵船 興津丸(6,666t)、日東汽船 宝洋丸(8,691t)、 日本石油 第三小倉丸(7,350t)、大阪商船 りおでじゃねいろ丸(9,626t)、愛國丸(10,437t)、昭和タンカー 日章丸(10,526t)、 東洋汽船 総洋丸(6,081t)、山下汽船 日本丸(9,974t)、山霧丸(6,438t)、五洋商船 五洲丸(8,592t)、興國汽船 安山丸(5,493t)、 日産汽船 日鈴丸(5,396t)、日本製鐵 豊國丸(5,792t)、東洋汽船 尋洋丸(5,457t)
1944年4月喪失量。(昨今に比べれば喪失は激減状態。) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 17隻 46,854t 48,299,300円 海軍徴傭船 26 96,874 49,356,400 非徴傭船 12 41,173 21,285,100 総トン数5000t以上の喪失船舶 大阪商船 大壽丸(6,600t)、ろんどん丸(7,190t)、山下汽船 第三山水丸(5,244t)、日本製鐵 鵬南丸(5.401t)、 大連汽船 西江丸(5,385t)、國際汽船 國陽丸(5,250t)、大阪商船 あとらんちっく丸(5,872t) 、亜米利加丸(6,069t)、 東洋汽船 香洋丸(5,471t)、鹿洋丸(5,445t)、山下汽船 桑港丸(5,831t)、日本郵船 松江丸(7,061t)、三池丸(11,738t)、 水戸丸(7,061t)、山下汽船 第一吉田丸(5,425t) 1944年5月喪失量。 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 20隻 79,561t 41,159,500円 海軍徴傭船 19 73,159 52,304,200 非徴傭船 17 75,468 47,840,800 総トン数5000t以上の喪失船舶 川崎汽船 うえるす丸(6,586t)、天平丸(6,094t)、三井船舶 亜丁丸(5,823t)、阿蘇山丸(8.811t)、 日本郵船 但馬丸(6,999t)、東洋汽船 良洋丸(5,973t)、石原産業 あけぼの丸(10,121t) 、あまつ丸(10,100t)、 あさしほ丸(5,141t)、大阪商船 北陸丸(8,359t)、山下汽船 東星丸(5,484t)、大連汽船 昌龍丸(6,475t)、 大同海運 豊日丸(6,436t)、日産汽船 日達丸(6,300t)、西太洋漁業 日新丸(16,801t)、東亜海運 金嶺丸(5,949t)
開戦後2年半の喪失量は1,002隻、総トン数3,946,989t、保険金額21億5,152万1,691円。 開戦後1年半の喪失量は353隻、総トン数1,464,389t、保険金額7億1,113万641円。 月平均27.14万トンを喪失しており、開戦後半年の5.95万トンに比べると実に3倍以上になっている。 日本船舶建造量 1934年 152,000t 1935年 142,000t 1936年 294,000t 1937年 441,000t 1938年 441,000t 1939年 367,000t 1940年 284,000t 1941年 231,000t 1942年 424,000t 1943年 1,120,000t 1934~43年10年間の船舶建造量は、390万6000tに上るが、開戦時から今までの喪失量は395万トン弱であり、10年間の 建造分を食いつぶした上に、まだ5万トン弱が足りない計算である。 現状では全く、海軍護送船団司令部はその職能を果たしていない。
1944年6月喪失量。(マリアナ沖海戦による制空権喪失、潜水艦喪失は過去最高。) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 26隻 100,957t 56,299,100円 海軍徴傭船 32 74,003 49,856,400 非徴傭船 15 55,155 34,740,600 総トン数5000t以上の喪失船舶 大連汽船 雄基丸(5,704t)、三井船舶 富山丸(7,089t)、日本郵船 高島丸(5,633t)、日産汽船 日美丸(5.875t)、 中村汽船 玉鉾丸(6,780t)、山下汽船 山菊丸(5,236t) 、山宮丸(6,440t)、川崎汽船 勝川丸(6,886t)、日本郵船 高岡丸(7,006t)、 大阪商船 はあぶる丸(5,652t)、川崎汽船 秋川丸(5,250t)、南洋海運 ジヨクジヤ丸(6,440t)、東洋汽船 慶洋丸(6,441t)、 大連汽船 浜江丸(5,418t)、三菱汽船 まりふ丸(5,135t)、さんぺとろ丸(7,268t)、さらわく丸(5,135t)、めだん丸(5,135t)、 日本郵船 日邦丸(6,079t)、日産汽船 日錦丸(5,705t)
1944年7月喪失量。 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 16隻 91,603t 56,299,100円 海軍徴傭船 42 136,860 80,135,200 非徴傭船 22 73,430 44,973,600 総トン数5000t以上の喪失船舶 宮地汽船 仁山丸(5,215t)、日本郵船 安藝丸(11,409t)、吉野丸(8,990t)、日産汽船 日秀丸(7.785t)、 南洋海運 日蘭丸(6,503t)、大阪商船 大倫丸(6,300t) 、志あとる丸(5,773t)、東山丸(8,684t)、扶桑丸(8,195t)、 帝國船舶 帝龍丸(6,512t)、大洋海運 大平丸(6,284t)、大連汽船 三江丸(5,461t)、錦州丸(5,591t)、 廣海商事 廣隆丸(6,680t)、三井船舶 昌平丸(7,255t)、日本郵船 白山丸(10,380t)、大阪商船 山陽丸(8,360t)、 三井船舶 飛鳥山丸(6,886t)、白馬山丸(6,641t)、三菱汽船 じやんぴ丸(5,244t)、日本油槽 天心丸(5,061t) 、 山下汽船 山岡丸(6,932t)、日本郵船 加茂丸(7,954t)
ありがたや マジで
書くな、マジで みんな眠い人氏の連載が完結するまでレスを手控えているんだぞ。
適度に合いの手入れてくらはい。 今回のは相当長くなることは確実な状況なので(^_^;。 1944年8月喪失量。(対馬丸の悲劇。捕鯨船第二図南丸・8/22・N20'53"/E129'30"東シナ海にて撃沈) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 20隻 57,525t 36,884,000円 海軍徴傭船 33 93,081 60,518,562 非徴傭船 33 156,430 91,124,600 総トン数5000t以上の喪失船舶 日本郵船 対馬丸(6,754t)、大阪商船 めきしこ丸(5,785t)、玉津丸(9,589t)、拿捕船 南星丸(5.878t)、 浅野物産 玄洋丸(10,018t)、石原産業 あさなぎ丸(5,200t) 、日本郵船 日高丸(5,486t)、山下汽船 満泰丸(5,863t)、 國洋汽船 清洋丸(10,536t)、日東汽船 帝洋丸(9,849t)、川崎汽船 のるほうく丸(6,576t)、栗林商船 瑞祥丸(5,289t)、 三井船舶 武津丸(5,949t)、日本郵船 だあばん丸(7,163t)、武庫丸(6,964t)、日本海洋漁業 第二図南丸(19,262t)、 内外汽船 大國丸(5,633t)、日本製鐵 昭南丸(5,401t)、日本油槽 第二八紘丸(10,000t)、東亜海運 福嶺丸(5,969t)、 山下汽船 山照丸(6,862t)、帝國船舶 帝坤丸(5,113t)、帝亜丸(17,537t)、日本郵船 武豊丸(5,061t)
1944年9月喪失量。 (1944.2.以来の最高喪失記録更新。極東丸、國洋丸、二洋丸といった大型油槽船多数撃沈と共に、 瑞鳳丸、第一小倉丸、第二小倉丸などの中型油槽船の喪失、護衛空母大鷹、雲鷹を始めとする 護衛艦艇のフィリピン近海において相次ぐ喪失。) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 47隻 196,404t 82,250,500円 海軍徴傭船 37 89,006 61,438,900 非徴傭船 45 159,499 89,874,000 総トン数5000t以上の喪失船舶 馬場商事 順洋丸(5,065t)、三井船舶 昭南丸(5,895t)、三菱汽船 おりんぴあ丸(5,618t)、日本郵船 江田島丸(6.700t)、 徳島丸(5,975t)、栄久丸(6,300t) 、だかあ丸(7,169t)、南洋海運 スラカルタ丸(6,862t)、大阪商船 豊橋丸(5,824t)、 うらる丸(6,374t)、瑞穂丸(8,511t)、山下汽船 山吹丸(5,081t)、拿捕船 暁空丸(6,854t)、三菱汽船 さいべりあ丸(5,617t)、 日東汽船 建和丸(6,384t)、大連汽船 龍江丸(5,626t)、飯野海運 極東丸(10,051t)、國洋汽船 國洋丸(10,026t)、 岡田商船 延壽丸(5,374t)、大阪商船 西貢丸(5,350t)、飯野海運 大八州丸(10,051t)、浅野物産 二洋丸(10,022t)、 飯野海運 瑞鳳丸(5,135t)、石原産業 はとぱは丸(5,953t)、北川産業 北喜丸(5,599t)、宮地汽船 慮山丸(6,095t)、 日本郵船 勝鬨丸(10,509t)、日置丸(5,320t)、永知丸(6,968t)、日東汽船 大栄丸(9,927t)、日産汽船 日安丸(6,197t)、 南洋海運 楽洋丸(9,418t)、日本油槽 第一小倉丸(7,270t)、第二小倉丸(7,311t)、大阪商船 國華丸(5,300t)
1944年10月喪失量。 (レイテ沖海戦などによる日本海軍の壊滅。) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 33隻 110,878t 58,506,200円 海軍徴傭船 31 75,248 50,297,800 非徴傭船 61 243,277 144,340,400 総トン数5000t以上の喪失船舶 原商事 第一眞洋丸(5,878t)、板谷商船 御月丸(6,440t)、宮地汽船 旭山丸(6,492t)、日本郵船 江尻丸(6.968t)、 大阪商船 大敏丸(6,600t)、あらびあ丸(9,480t) 、白耳義丸(5,838t)、玉井商船 ぱしふいつく丸(5,872t)、 山下汽船 山萩丸(5,426t)、鏑木汽船 豊岡丸(7,097t)、大阪商船 衣笠丸(8,407t)、帝國船舶 帝祥丸(7,973t)、 橋本汽船 新興丸(6,479t)、東洋汽船 旺洋丸(5,458t)、大同海運 天日丸(6,933t)、石原産業 たかね丸(10,020t)、 あかね丸(10,241t)、三井船舶 阿里山丸(6,600t)、日本郵船 永享丸(6,900t)、日金丸(5,320t)、江原丸(6,959t)、 松本丸(7,024t)、江戸川丸(6,900t)、日和丸(5,320t)、日東汽船 仁栄丸(10,241t)、瑞祥丸(7,385t)、日産汽船 日鉄丸(5,993t)、 日本油槽 橘丸(6,521t)、大阪商船 國星丸(5,396t)、大彰丸(6,886t)、黒龍丸(7,369t)、第一南海丸(8,416t)、 辰馬汽船 白鹿丸(8,152t)、山下汽船 第二山水丸(5,154t)、川崎汽船 利川丸(6,436t)、帝國船舶 浦戸丸(5,903t)
1944年7月以降非徴傭船の喪失が増えてますね。 マリアナ沖海戦の結果と見てよいのでしょうか?
1944年11月喪失量。 (1944.9.以来の総トン数記録更新。海軍徴傭船浅間丸撃沈、マニラ湾空襲による多数の優秀輸送船の喪失。) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 24隻 112,828t 73,693,300円 海軍徴傭船 47 153,159 136,446,900 非徴傭船 51 187,802 109,306,000 総トン数5000t以上の喪失船舶 大連汽船 赤峰丸(5,400t)、石原産業 あきつ丸(9,189t)、三井船舶 摩耶山丸(9,433t)、日本郵船 能登丸(7,184t)、 大阪商船 はんぶるぐ丸(5,219t)、香椎丸(8,407t) 、金華丸(9,305t)、せれべす丸(5,863t)、まにら丸(9,486t)、 帝國船舶 帝雄丸(5,573t)、東洋海運 加古川丸(6,600t)、石原産業 あづさ丸(10,000t)、川崎汽船 興川丸(10,000t)、 日本郵船 能代丸(7,189t)、浅間丸(16,975t)、三井船舶 安土山丸(6,600t)、大阪商船 西阿丸(6,659t)、南海丸(8,416t)、 白陽丸(5,742t)、岡田商船 興業丸(6,353t)、拿捕船 暁山丸(5,698t)、大阪商船 さんとす丸(7,266t)、大同海運 春天丸(5,622t)、 飯野海運 第二日南丸(5,226t)、三井船舶 逢坂山丸(6,600t)、三菱汽船 しもつ丸(7,210t)、日本郵船 日永丸(5,396t)、 永和丸(6,900t)、愛宕丸(7,542t)、江差丸(6,600t)、大阪商船 大徳丸(6,923t)、大明丸(6,923t)、岡田商船 福壽丸(5,293t)、 生和丸(7,210t)、東洋汽船 修洋丸(6,933t)、玉洋丸(5,396t)、山本汽船 第二勇山丸(6,859t)、山下汽船 高津丸(5,656t)、 宝永山丸(6,033t)
>185 マリアナ海戦の様な大きな海戦があれば、暫くは損失は上昇カーブを描き、次の 作戦の前にはそのカーブは、なだらかになるきらいがあるようです。 また、独航船がC船には多かったことも関係するのではないでしょうか。 ちなみに、今、漏れが書いている喪失量の数字は、戦争危険で喪失したと、海軍省 兵備局が認めているものを掲載しています。 一段落付いたら紹介しますが、疑わしいものであっても、海軍としては戦争危険による 船舶喪失を認めたくない為、「遭難原因不詳、戦争事故と認べき資料無し 終」という 一言で片づけられたケースが多数有り、これはこの数字には表れてきません。 開戦後3年の喪失量は1,617隻、総トン数6,113,835t、保険金額34億6,325万7,753円。 月平均36.11万トンを喪失しており、開戦後半年の5.95万トンに比べると実に6倍以上になっている。 しかも、2年半の喪失量に比べ、615隻増、総トン数は2,166,846t一気に増加している。 これを日本船舶建造量に当て嵌めると、 1919年 611,000t 1920年 456,000t 1921年 227,000t 1922年 83,000t 1923年 72,000t 1924年 72,000t 1925年 55,000t 1926年 52,000t 1927年 42,000t 1928年 84,500t 1929年 119,000t 1930年 208,000t 1931年 83,000t 1932年 54,000t 1933年 24,000t 1919~33年15年間の船舶建造量は、224万2500tに上るが、これが漸く半年間の喪失量とバランスする訳で、開戦時から今までの喪失量を 加えると1919~1943年までの建造分を食いつぶしている計算である。
188 :
ゆうか ◆9a1boPv5wk :03/11/29 00:41 ID:ljnzN1Fc
全部終わってからでかまいませんので、船種の別、特にタンカーについてはお願いできますか?
1944年12月喪失量。 (比島決戦終了に伴う通商破壊戦は一段落。但し、引き続き油槽船は損失多し。) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 10隻 28,366t 17,019,600円 海軍徴傭船 35 104,725 73,943,100 非徴傭船 23 128,528 85,393,600 総トン数5000t以上の喪失船舶 東洋汽船 福洋丸(5,463t)、飯野海運 旭邦丸(10,059t)、日邦丸(10,000t)、日本海洋漁業 厳島丸(10,006t)、 大阪商船 あとらす丸(7,347t)、辰馬汽船 辰浦丸(6,420t)、玉井商船 新玉丸(6,783t)、川崎汽船 君川丸(6,863t)、 乾汽船 乾城丸(6,933t) 、石原産業 ありた丸(10,238t)、川崎汽船 安藝川丸(10,884t)、三井船舶 音羽山丸(9,204t)、 日本郵船 室蘭丸(5,373t)、南洋海運 はわい丸(9,467t)、日本製鐵 安國丸(5,794t)、日本油槽 八紘丸(10,022t)、 大阪商船 鴨緑丸(7,362t)、大博丸(6,866t)、東洋汽船 仁洋丸(6,866t)、白洋丸(6,481t)、帝國船舶 帝海丸(7,691t)、 日本郵船 日出丸(5,321t) 1944年の総喪失量 3,844,501t 総建造量 1,580,000t 差し引き▲2,264,501t。 喪失量は建造量の2.4倍に上り、累計損失量は、戦前の日本船舶保有量630万トンに匹敵する。 船舶建造量の延びは鈍化し始めている。
うわっ、ま、まぶしい(ぉ。 >188 今使っている資料には、この船がどの船種かと言うのは書かれていません。 一部抜粋的には書けると思いますけど。 会社名くらいからググるしかないでしょうね。
1945年1月喪失量。 (1944.11.以来の喪失記録更新。仏印・馬来~台湾・中国沿岸~本土の補給路遮断、掃討。) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 18隻 57,541t 41,001,000円 海軍徴傭船 42 140,024 98,258,700 非徴傭船 71 289,683 187,811,138
総トン数5000t以上の喪失船舶(今回は試みに喪失水域の併記を実施) 陸軍省 神州丸(8,160t:N22"40'、E119"40')、興國汽船 福山丸(6,040t:高雄港)、川崎汽船 久川丸(6,886t:台湾西岸)、 栃木汽船 仏蘭西丸(5,823t:N9"35'、E106"48')、拿捕船 同生丸(10,892t:香港港内)、南洋海運 くらいど丸(5,497t:N25"20'、E121"06')、 大阪商船 大恭丸(5,244t:N27"25'、E120"16')、飯野海運 雄鳳丸(5,226t:不明) 、三菱汽船 たらかん丸(5,135t:海南島)、 日本郵船 浅香丸(7,398t:不明)、讃岐丸(9,246t:済州島西方)、日東汽船 万栄丸(5,244t:不明)、日榮丸(10,020t:不明)、 大阪商船 護國丸(10,438t:不明)、万壽丸(7,266t:不明)、香久丸(8,417t:不明)、東洋海運 球磨川丸(7,510t:仏印サンジャック泊地)、 三菱汽船 みりい丸(10,568t:高雄港)、八馬汽船 第十五多聞丸(6,925t:仏印沿岸)、飯野海運 海邦丸(10,238t:高雄港)、 石原産業 楡林丸(6,659t:高雄港)、はりま丸(10,045t:海南島楡林港)、極洋捕鯨 極運丸(10,045t:仏印沿岸)、 三井船舶 大津山丸(6,600t:仏印沿岸)、三菱汽船 さんるいす丸(7,268t:仏印沿岸)、日本郵船 永万丸(6,600t:仏印沿岸)、 延喜丸(6,968t:仏印東岸)、日東汽船 天栄丸(10,241t:香港)、日産汽船 第二日祐丸(6,859t:高雄港)、南洋海運 安洋丸(9,256t:台湾西岸)、 西太洋漁業 明石丸(10,100t:サンジャック泊地)、日本油槽 満珠丸(6,515t:台湾西岸)、大阪商船 第一大満丸(6,888t:黄海)、 大越丸(6,890t:仏印沿岸)、大剛丸(5,244t:朝鮮沿岸)、岡田商船 神祇丸(6,888t:仏印沿岸)、昭和タンカー 宗像丸(10,045t:基隆港)、 辰馬汽船 辰鳩丸(5,396t:仏印南西岸)、辰洋丸(6,892t:台湾沿岸)、帝國船舶 帝楓丸(7,110t:高雄港)、東和汽船 新潮丸(5,135t:高雄港)、 黒潮丸(10,518t:高雄港外)、山下汽船 山幸丸(5,948t:香港)、山沢丸(6,888t:高雄港)、予州丸(5,701t:仏印沿岸)、大阪商船 干珠丸(7,266t:仏印西貢)、 日本海洋漁業 松島丸(10,240t:香港港内)、飯野海運 栄邦丸(5,068t:高雄港内)
1945年2月喪失量。 (次作戦準備の為か、喪失数急降下。但し戦略爆撃、機雷投下、艦載機空襲活発) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 6隻 4,126t 2,477,400円 海軍徴傭船 13 26,398 19,851,600 非徴傭船 23 79,417 53,016,000 総トン数5000t以上の喪失船舶 飯野海運 神鳳丸(5,135t)、三井船舶 御室山丸(9,204t)、石原産業 あまと丸(10,238t)、川崎汽船 第二建川丸(10,045t)、 日本郵船 延元丸(6,890t)、日本油槽 永洋丸(8,673t) 、大阪商船 大暁丸(6,892t)、大善丸(5,396t)、山下汽船 山汐丸(10,604t) 1945年3月喪失量。 (先月に隻数で46隻加えるも、トン数は6.8万トン増。既に巨船は欠乏状態) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 18隻 43,792t 26,275,200円 海軍徴傭船 32 60,165 38,301,700 非徴傭船 38 74,729 53,909,500 総トン数5000t以上の喪失船舶 川崎汽船 鳳南丸(5,542t)、日本郵船 筥崎丸(10,413t)、日東汽船 良栄丸(10,000t)、日本油槽 誠心丸(5,239t)、 川崎汽船 阿蘇川丸(6,925t)、三菱汽船 さらわく丸(5,200t) 、ぱれんばん丸(5,236t)、日本郵船 江ノ浦丸(6,600t)、 大阪商船 大愛丸(6,600t)
1945年4月喪失量。 (阿波丸事件。沖縄、硫黄島への連合軍進出による日本近海での喪失と日本海軍の終焉。) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 8隻 12,884t 8,667,400円 海軍徴傭船 9 8,487 4,818,400 非徴傭船 38 92,774 66,200,200 総トン数5000t以上の喪失船舶 飯野海運 永芳丸(5,209t:南方方面)、日本郵船 阿波丸(11,249t:台湾海峡)、 大阪商船 大壌丸(6,866t:朝鮮西南沿岸)、大修丸(5,886t:本州東北岸)、 東亜海運 日光丸(5,057t:山東角)、三井船舶 荒尾山丸(6,886t:不明)
1945年4月喪失量。 (隻数は最高記録更新。しかし、トン数はさにあらず。近海での小型船舶喪失増。) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 13隻 41,628t 21,195,500円 海軍徴傭船 16 25,676 15,839,000 非徴傭船 112 204,224 135,646,700 総トン数5000t以上の喪失船舶 大連汽船 満州丸(5,226t)、大洋興業 ぶらじる丸(5,859t)、日産汽船 日向丸(9,680t)、辰馬汽船 辰和丸(6,335t)、 川崎汽船 國川丸(6,863t)、日本郵船 鳥取丸(5,973t) 、日産汽船 第一日産丸(10,070t)、内外汽船 辰千代丸(6,919t)、 大阪商船 吉林丸(6,783t) 東洋海運 那珂川丸(6,886t)、玉井商船 宮玉丸(6,859t)、山下汽船 智利丸(5,873t)、 山本汽船 第二宏山丸(6,886t)、大阪商船 大楠丸(6,890t) 、帝国船舶 帝香丸(9,009t)、宮地汽船 照山丸(6,890t)、 大連汽船 栄昌丸(6,888t) ☆遭難水域の内訳 南方水域 4隻、朝鮮水域 28隻、日本本土水域 47隻。 日本本土と朝鮮、満州、中部中国との連絡は、船舶連絡が著しく脅威を受け、大陸及朝鮮経由の鉄道 に依存する。 但し、どうしても船舶を運航する場合は、朝鮮を出発地とする場合は朝鮮西岸を南下、南方、中国の場 合は中国沿岸を北上し、山東高角付近から黄海を過ぎり、朝鮮西岸に出て、南下する航路を取っていた。
開戦後3年半の喪失量は2,142隻、総トン数7,537,002t、保険金額44億1,288万3,491円。 月平均23.72万トンの喪失となり、開戦後3年の36.11万トンに比べると一気に減った。 これは即ち日本船舶の減少、つまり、海上補給路の途絶に他ならない。 1945年6月喪失量。(>195は5月の誤り) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 8隻 25,840t 9,129,600円 海軍徴傭船 11 16,100 10,206,600 非徴傭船 111 214,225 142,611,800 総トン数5000t以上の喪失船舶 廣海商事 廣長丸(6,882t)、飯野海運 東邦丸(9,997t)、三井船舶 牝鹿山丸(6,892t)、三菱汽船 さばん丸(10,000t)、 日本郵船 永祚丸(6,880t)、永観丸(6,903t) 、日産汽船 第一日祐丸(6,872t)、大阪商船 大盈丸(6,923t)、 東洋海運 阿武隈川丸(6,888t)
1945年7月喪失量。 (隻数は再び最高記録更新。) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 3隻 11,030t 4,667,800円 海軍徴傭船 5 2,407 1,444,200 非徴傭船 151 326,435 212,364,800 総トン数5000t以上の喪失船舶 日本郵船 鳥羽丸(6,995t)、浅野物産 雄洋丸(10,045t)、大同海運 速日丸(6,919t)、飯野海運 日南丸(5,175t)、 石原産業 しまね丸(10,020t)、興國汽船 祐山丸(6,039t) 、松岡汽船 豊川丸(5,123t)、日本郵船 千曲丸(9,951t)、 日産汽船 第五日祐丸(6,817t) 大阪商船 第一大覇丸(6,300t)、大平汽船 御津丸(5,862t)、山下汽船 山路丸(6,872t)、 三菱汽船 せりあ丸(10,238t)、拿捕船 樽安丸(10,254t) 、辰馬汽船 辰宮丸(6,343t)、三菱汽船 和浦丸(6,804t)、 帝國船舶 帝立丸(9,877t) ☆遭難水域の内訳 本州東北沿岸 6隻、本州日本海沿岸 15隻、九州沿岸 11隻、下関海峡 12隻、瀬戸内海 20隻、朝鮮沿岸 20隻、 北海道沿岸 6隻、台湾沿岸 1隻、海南島沿岸 1隻。 遭難原因は、大部分が触雷、爆撃、潜水艦攻撃であった。
1945年8月15日までの喪失量。 (ソ連軍による拿捕、ソ連軍の拿捕を免れる為の自沈という区分が新たに加わる。船舶掃討戦そして、敗戦。) 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 6隻 25,957t 15,113,400円 海軍徴傭船 6 6,575 3,945,000 非徴傭船 60 125,242 83,321,800 総トン数5000t以上の喪失船舶 日本郵船 吉備津丸(9,575t)、八馬汽船 第十六多聞丸(6,886t)、大連汽船 羅津丸(5,462t)、川崎汽船 阿波川丸(6,925t)、 日本郵船 襟裳丸(8,080t)、延宝丸(6,872t) 、日本海洋漁業 笠戸丸(6,003t)、大阪商船 めるぼるん丸(5,423t)、 大図丸(6,859t)、帝國船舶 帝北丸(5,790t) 1945年8月15日までの総喪失量 1,915,359t 総建造量 251,700t 差し引き▲1,663,659t。 喪失量は建造量の実に6.6倍強に上る。
開戦~敗戦迄の喪失量は2,503隻、総トン数8,290,813t、保険金額48億9,568万8,491円。 □日本が戦争直前に用意した保有量は、約630万トン☆。 □戦時中に建造した船舶建造量は3,337,730t★ □独伊仏など極東水域にあった枢軸国船舶の購入で168,737t(30隻)。 □拿捕船は316,794t(123隻)。 ■総計 10,123,261t 即ち、戦争危険によって喪失した船舶量を除き、敗戦時までに残存した船舶残存量 → 1,832,448t ☆雑誌海運より、1941.12.1現在の日本商船保有量 隻数 5,661隻 総トン数 6,439,297t (うち、総トン数100t以上のもの。 隻数 2,693隻 総トン数 6,300,212t) ☆海事統計より、1941.12末現在の鋼船(総トン数100t以上)保有量 ・貨物船、貨客船、客船、油槽船など 2,221隻 6,191,895t ・漁船 224隻 205,528t ・総数 2,445隻 6,397,423t ★船舶建造量 1942年 424,000t 1943年 1,120,000t 1944年 1,580,000t 1945.8.15まで 213,000t
200 :
ゆうか ◆9a1boPv5wk :03/11/30 01:41 ID:Ab5CouRw
お疲れ様です~
敗戦後、米軍などの機雷による触雷喪失船腹量(1945.8.16~1948.12.31) 隻数計49隻、総トン数86,138t、保険金額62,893,800円となり、>199と併せると、 2,552隻、8,376,951t、保険金額 4,958,582,291円となる。 (触雷損失内訳) 隻数 総トン数 保険金額 1945.8. 21隻 47,199t 31,569,800円 1945.9. 4 5,622 4,772,000 1945.10 13 11,982 10,085,000 1945.11 2 1,718 1,437,000 1945.12 1 834 750,000 1946.1. 2 12,267 6,887,000 1946.3. 2 2,300 2,478,000 1946.5. 1 884 55,000 1947.5. 1 2,097 1,430,000 1947.6 2 834 2,180,000 1948.1. 1 401 1,250,000
また、敗戦後の処理として、各国に接収、消息不明などで、日本に無い徴傭船についても、 第一復員省が、まず1946.5.24付旧陸軍徴傭船16隻を戦争危険による全損確実ということ で保険料支払いを命じ、第二復員省も1946.5.31付旧海軍徴傭船、運輸省海運総局が、 1946.5.22と6.19に同じく非徴傭船舶についての戦争危険による全損として保険料を支払う ことになった。 この傭船料は、1945.8.15時点での全損確実に対して支払われているが、陸海軍傭船については、 傭船料自体、1945.12.31までを在籍期間として支払っている。 こういった船舶の隻数総計57隻、総トン数62,247t、保険金額52,538,000円 この保険金額受け取りに関しては、8.15前後で差があり、8.15以前が事故年月日ならば、全額課税 となるのに対し、後者は終戦後の事故として課税を免れ、保険金全額を受け取ることが出来る。 従って、船主としては、接収、行方不明船舶に関しては終戦後を事故年月日とすべきだと言う主張が あった。 また、確実に英国、オランダ、中国軍に接収された艦船が13隻、総トン数9,768tあったが、こちらは、 戦争危険に有らずとして、戦争保険支払いの対象にならなかった。
最後に、普通海上危険について触れてみる。 戦争危険は、明確に敵からの攻撃による損失を指すが、普通海上危険とは、それ以外の要因。 即ち、衝突、座礁、爆発、浸水…と言った事象を指し、直接戦争とは関係しない。 とは言え、老朽船舶はメンテナンスが満足に行なわれておらず、船渠は資材欠乏、工員不足に悩みながら、 建造、修繕も行なった上、更に損傷船を船渠に入れた後に簡単な堪航性を持たせただけの修復で、稼働率を 上げようとする状況であり、また、船員の質も、相次ぐ撃沈と徴兵によって、未経験者、未訓練者が増加し、 尚かつ、見張りなどの過労が海難事故を多発させている。 それから、灯火管制による無灯航行、船団方式を採用したら採用したで、性能速力の違う船が一団となる 危険性、燈台の消灯と損害を極力避ける意味からも、沿岸航行を余儀なくされているので、相当 困難が生じ、事故率が上がる訳で。 (普通海上危険による喪失船舶量) 隻数 総トン数 保険金額 1941年 4隻 7,760t 2,711,866円 1942年 32 104,985 41,829,389 1943年 49 127,985 49,507,731 1944年 82 144,676 76,239,021 1945年 44 73,445 44,167,300
これまでの数値を加えると以下のようになる。 □日本が戦争直前に用意した保有量は、約630万トン☆。 □戦時中に建造した船舶建造量は3,337,730t★ □独伊仏など極東水域にあった枢軸国船舶の購入で168,737t(30隻)。 □拿捕船は316,794t(123隻)。 ■総計 10,123,261t △戦時中戦争危険による喪失 2,503隻 8,290,813t 4,895,688,491円 △敗戦後触雷による喪失 49隻 86,138t 62,893,800円 △敗戦時消息不明船舶量 57隻 62,247t 52,538,000円 △普通海上危険による喪失 211隻 458,357t 214,455,307円 ▲喪失総計 隻数 2,820隻 総トン数 889万7,555t 保険金額 52億2,557万5,598円 (保険金額には、商船籍の儘、陸海軍が特設艦艇に改造したものも含む) 即ち、敗戦時の日本残存船舶量 122万5,706tとなる。
とりあえず今までの記述、元ネタは妹尾正彦著「日本商船隊の崩壊」(1949年刊)の 総論から抜粋したもの。 妹尾氏は損害保険料率算定会に勤務し、更に陸海軍嘱託として、東京海上の鈴木会長 と共に、陸海軍の海上輸送に伴う厳秘に接する機会も多く、戦後、多くの資料が焼却された 中で、かなりの資料の保管に成功している。 総論の部分では、1945年5月までは、氏が書いた資料を基に、それ以後は彼が根刮ぎ召集 で海軍に一水兵として徴兵された後にこれを引き継いだ人々によって編まれた資料を基に 書いたものである。 そして、これらの資料が多分大井本の元ネタになっている節もある。 今日は紹介しないけど、損害保険算定基準の戦争危険、普通危険の区分とか、各船の損害 に関する報告を抜粋して紹介していく予定(生きてればの話だけど(苦笑)。
普通海上危険認定に関して少しだけ。 >203でも少し触れていますが、損害保険の場合、その要因に依って戦争危険と普通危険とに分かれます。 普通海上危険の場合は、保険者に於いて補填の責に任ぜしむるため、事件の詳細説明は一切避け、元保険者に 保険者有責として算定額を算出し、支払いを行ないます。 一方、戦争危険については、陸海軍と元保険者が協議した後、戦争危険と認定したら、保険者無責として軍からの 賠償を以て保険に代えています。 但し、この戦争危険は徴傭船にのみ適用され、非徴傭船(民間)には適用されていません。 ただ、戦争勃発後は徴傭船の数が少なくなっていったことから、配当せんと呼ばれる制度が起こります。 これは、非徴傭船を、ある航海に限って陸海軍指揮下で運航して徴傭船と見なすもので、徴傭船として行動した 時にのみ、戦争危険認定が為されると言うものです。 徴傭船、配当船には更に、陸軍と海軍に分かれ、商船と一口に言っても、都合五種類に分かれていく訳です。 当初は、戦争危険認定については、徴傭船全船舶が対象になっていますが、1943年4月28日から海軍は、1943年 1月1日に遡及して、普通海上危険、戦争危険共に一切の分損修繕費は海軍が負担し、全損船舶に関してのみ、 普通海上危険に対する場合のみ、保険者が填補する責務を負うとしたのです。 ところが、陸軍は従来通り、普通海上危険は分損であろうと全損であろうと保険者補填とし、戦争危険にのみ軍賠償 を行なうと言う方式を続け、1945年4月に漸く、海軍と足並みを揃えるようになりましたが、既にこの頃、陸海軍徴傭船 は存在し得ず、全船舶は海運総局と船舶運営会の下に一元管理し、運営会が戦争保険契約を行ない、軍賠償は、 戦争保険による填補に移さなければならなくなったりしています。 但し、この移行は、敗戦直前1~2ヶ月前に僅かに実施されたのみで、敗戦に伴う混乱で一片の公文書も無かった ようです。
一昨々日の続き。 例えば、戦争初期のC船(非徴傭船)沈没の報告書は以下の形式であった。 (例1. 第六多聞丸遭難に関する件) 本件に関し、左記の通り通報候。 尚船舶の戦争危険による被害は、軍極秘なるに付事務関係者以外は極秘とせられ度為念。 遭難月日 昭和17年9月28日 遭難場所 北緯44度33分、東経141度52分 遭難程度 沈没 遭難付近の水深 約90米 戦争初期には、遭難場所の緯度、経度をきちんと明示し、遭難の程度と遭難場所の水深を示して 救助の能否を判断できる資料があったため、可成りの正確性が期されていた。 こういった船舶沈没地点の緯度経度開示は、1941年11月5日の気比丸沈没から、1943年11月7日の 第七永田丸まで144隻分が為されている。 これ以後は、「機密保持」上の観点から、東シナ海、黄海というように海域に変更され、沈没地点の 公開が為されず、危険判断に非常に困難を来した。 なお、当時の沈没地点で一番多かったのは、尻屋崎~釜石までの間だったと言う。
で、沈没原因が戦争危険か否かを判断する為に用いたのが、 ・先程の緯度経度開示情報を海図に記入したもの ・行方不明または遭難原因不明船舶の最後の港出帆の日時 ・上記日時から起算して速力を想定 ・天気図を用いて天候を推定。 ・目的港に至る水域で発生した他船撃沈情報 ・海軍兵備局が持っていた詳細敵潜情報 である。 こういった資料を基に想定して戦争危険とした例を挙げてみる。 (事例1:漂流物情報などが無い場合) 巴組汽船所有船舶 玉山丸(1,970t) ・1942年12月12午前7時、釧路向け塩釜出航後行方不明となり、情報、漂流物皆無。 ・当時、塩釜~尻屋崎の水域は、日本近海の最危険水域であり、出港当日の天候は、極めて平穏で他に 遭難の原因を想定する要因無しとして潜水艦による撃沈と判断。 (事例2:漂流物拾得と共に、現場目撃者の届け出が有った場合) 大東商船所有船舶 保山丸(2,260t) ・1943年3月16日、大阪港出航後、太沽向けに航行途中、門司にて石炭補給の後、18日16時 出帆後行方不明となる。 ・1943年4月5日、船名の入ったライフブイ1個と、船名の入った板切れ一枚が、朝鮮鎮南浦南方 九味浦大救駐在所にて取得される。 ・漁船の報告から魚雷爆発音と潜水艦らしきものの目撃情報を得、現場付近を航行中の別の船 の報告から水煙目撃情報を得ていた。 上記の件から見て、雷撃による沈没は動かしがたい事実と判断された。
(事例3:事例1と似ているが、漂流物、情報が無い状況であったにも関わらず、危険水域航行と 敵潜水艦情報から判断) 山下汽船所有船舶 楠山丸(5,306t) ・1943年2月8日、台湾西方北緯22度30分、東経119度3分付近での連絡を最後に行方不明となる。 ・当時、台湾周辺水域は遭難船舶続出の危険水域であり、潜水艦情報も多かった為、潜水艦 による撃沈と判断。 (事例4:船団航行中、消息不明となった事例) 大連汽船所有船舶 松江丸(5,385t) ・1943年○月○○日、○○港出港○○港向け航行中に消息不明。 ・○○港出帆後、船団に参加、僚船と共に護衛艦の護衛を受けて航海中、暗夜何等の航跡を残すことなく、 忽然と消失しており、翌夜明時に僚船、護衛艦が、本船が船団中にないのを知って驚愕捜索したが、 全て無益であり、護衛艦は1943年5月29日夜半、北緯30度0分、東経125度15分付近の東シナ海に於いて、 突如雷撃を受けて沈没せるものと推定すると言う報告を提出し、これに基づき、戦争危険を取った訳である。
閑話休題 「神鷹の最後」 11月12日、出港。私としては第二回目の出撃。既に大鷹、雲鷹がやられ、海鷹は修理中であった。 私が戦死しても整理班が困ることの無いようその点まで配慮して身の回り品を整理した。日本刀も袋だけ除いて別の布で包み、行李に入れた。 基地を出発する際、「帽振れ!」で見送られたが、その時手にしていた刀袋の中身は竹の棒であった。 今回の船団はこれまでにない大掛かりなものであった。9000総トン級が4隻、これらは上陸艇母艦で陸軍のもの。その他10,000トン級タンカー5隻、 一方の護衛陣も強化され、海防艦7隻、空母神鷹とこれを直衛する駆逐艦の樫。 神鷹には定員830名の他に、赴任の便乗者を含め約1200名が乗艦していた。 船団は12ノットで航行。五島列島の西方に出た。翌13日正午近く、突如、船団の1隻に水中が立った。左列後部にいた陸軍の「あきつ丸」である。 2度の衝撃音と共に沈んだ。まさか、敵潜の白昼攻撃に遭おうとは…。 11月17日、朝鮮半島南岸の西端にある珍島をはずれて間もなく、上空に大型機1機の機影を認めた。B24コンソリらしい。神鷹の高角砲が一斉に 唸りを上げた。格納甲板の壁に取り付けてある消化器の鉄板製のバンドがその衝撃で外れ、消化器が床に転がった。敵機は慌てる様子もなく、 ゆっくり旋回して立ち去った。船団の存在は詳細に潜水艦に通報されることであろう。 索敵機の収容が終わったのは夕刻近かった。針路前方左側の空は薄ぼんやりと赤紫色に染まっていた。戦争中でなければ、「明日もお天気かな」 などと長閑な気分に浸れたであろう。走っている甲板上で微風だから、海上は無風に近いようだ。波も静かで各艦、各船とも決められた間隔をおいて 整然と進んでいる。飛行甲板からはパノラマのように見える。昼のB24が大きな不吉な鳥のように思えてそれが脳裏から離れない。 1745、神鷹左舷前方航行中の摩耶山丸に突然水柱が上がった。それから2秒ほどおいて、ズドーンと腹に響く音がした。水柱が薄い煙を残して消えた時、 既にその船影はなかった。雷撃を食らったのだ。大型でも船は脆い。摩耶山丸には2300名近い兵員と軍馬200余頭が満載されていた。この近辺は索敵飛行 の軌跡から外れていたのか、それとも見落としていたのか、残念でならない。
広い海原に対して磁探機の数が確かに少ない。一機の探知能力は半径150mくらいだから、5機編隊横一列に並んでも探知幅は1500m。船団が一 昼夜かかって行く距離は、単純に考えると飛行機では1時間40分位で行けるが、船団も敵潜も双方共に移動しているから敵潜の捕捉に完璧を期す のは難しいのであろう。索敵時、磁探機は海面上150m以下の極めて低い高度での長時間連続飛行となる為、疲労も大きい。しかし数千の兵員、 作戦資材が海の藻屑と消えたことを想うと、ぶっつけようのない悲しみと怒りがこみ上げてくる。 磁探機の発着艦は明るい時間帯に限られている。エンジンの排気が光って見えるため攻撃目標として極めて狙いやすいからだ。夜間、電探の ない神鷹は、専ら艦底に居る水測兵の聴診と、眼による所謂見張りしかない。11月17日夜、明日の早朝攻撃に備えて早く寝る必要があったが、 摩耶山丸の悲運を目前にした興奮がなかなか収まらない。自分の分隊の所に行ってみると彼らとて同じ思いであった。私は明日の為、「早く寝 るよう」促して飛行科事務室に戻った。別に寒くなかったが、母の編んでくれたネービーブルーの毛糸のチョッキを着た。各機の整備記録を 繰返し見ては眠気の来るのを待った。 体を横にして暫し微睡む。突然、「タカタカタッター」と「総員配置に付け!」の喇叭が3分の2位鳴った所で、「ドカン!」と天地をも裂ける様な 大音響と共に爆風が飛び込んできた。体が下から叩き付けられたような感じ、天井と床との間隔が狭くなっている。続いて2発、3発の大爆発音 と衝撃。非常灯も消えたので何も見えない。しかし、火炎が這い回ってきたので、その明かりで、既に熱くなっているラッタルを昇り飛行甲板に 出た。私は、「最後ダナ」と思った。「諦めたらそれこそ終りだ。部下もいる。頑張れ!」と誰かが耳元で怒鳴っている。しかし、それは自分に 言い聞かせている自分の声だった。
空母の弱点は艦の燃料の他に揮発性の高い航空燃料を多量に搭載していることだ。 神鷹には前部と後部2カ所に各々20万リットルのタンクがあった。まだ出航後、日が浅い為、殆ど満タンに近い状況であった。魚雷は運悪く そのタンク付近に命中したため、あっという間に艦の周囲は炎に囲まれ、海は火の地獄と化した。穏やかな凪の海であったが、猛烈な勢い で油は燃焼する。そしてその燃焼に必要な酸素を周囲から呼び込む為、「ゴーゴー」と大きな音を立て、風を起こし、まるで台風の中に居る 様だった。 水面から飛行甲板までは約18m、しかし火柱はそれよりも数メートルも高く上がっていた。甲板より低い位置にある機銃座は火炎に包まれ て弾薬が誘発、それが四方八方に飛び危険極まりない。飛行甲板も熱くなってきたのか、履いている飛行靴の底が何か粘り着く感じ。 火炎で明るいが、熱気と煙で視界が効かない。しかし大勢甲板に出ているようだ。艦は大きな衝撃と火炎の割りには、右傾は少ない。 私は飛行甲板(180m×24m)の中央より前部の方にいた。海に入る前に「熱気か窒息でやられるかも知れない」と思うほど、火勢は猛烈 であった。 私の上着に火が付いているような感じがしたので、上着を脱ごうとしたが、慌てる時は駄目なもので、あの簡単なボタンが外せないの だった。誰かが叩いて消してくれた。 「有り難う」と礼を言おうとしたが、忽ち煙で見えなくなってしまった。お互い助かる望みの殆ど無い中で、この様な親切が出来るなんて 何と素晴らしい人なんだろうと思った。 早朝攻撃に備えて飛行甲板上に数機結束してあったが、この燃料に火が付くことが心配だった。 タイミング良く海にズリ落とすにはどうすればいいか、誰か外す工具を以て来てるのだろうか、そんなことを考えていると、煙の中から 「後部火災前部に行け」の叫び声と共に、人の波が前部の方に押し寄せてきた。前部の比較的端の方にいた数人は押されて下の 甲板に落ちた様子だった。 これは大変と、前部の兵員は、「前部火災後部に行け!」と、人の波は二回ほど揺れた。魚雷は前部にも後部にも命中したのだが、 お互い自分の近くの状況しか判らないのだから無理もない。
堂々たる体躯の石井艦長(予備役少将)が甲板上に姿を現わし、大きな響き渡る声で、「天皇陛下万歳!」と叫び、それに合わせて 甲板上の兵員が天まで届けとばかり三唱した。 続いて艦長は「総員退艦!」の命令を下した。 艦は次第に右傾の度を増しては来たが、まだ艦は火の海に包囲されており、とても海に飛び込める状況ではなかった。 右に傾いたのだから、右舷側から海に入るようにすれば、高所から飛び込む危険は少なくて済むはずなのに、殆どの兵員は左舷 側に寄っていた。20分ほど経過したと思う頃、火の勢いも漸く衰え始め、所々火の幕の切れ目が見えるようになって来た。 自らの意志で飛び込んだのか、押されて落ちたのか、バラバラと海面に小さな波が立った。 私も左舷によって飛び込むチャンスを窺っていた。余り傾斜してから飛び込んだのでは海面に届く前にバルジに激突するし、巨艦 が沈む際、吸い込まれる恐れがある。 少なくとも艦から100mほどは離れる必要がある。 ライフジャケットを着けた状態で100m近く泳ぐには15分以上も掛かるだろう。 艦は後幾分浮いているか判らないが、右舷の角度は大きくなっていた。もう早いほど良いと判断して、まだ15、6mはある飛行甲板 から「エイーッ!」と自分の弱気を吹き消すようにして飛び込んだ。 海面に顔を出したものの、直ぐ目の前で火がチョロチョロと燃えながら揺れていた。 帽子はすっ飛び、片方の飛行靴は脱げていた。鼻や喉がやたらに痛い。重油を呑んだ為か、腹のものは殆ど吐いてしまった。 しかし、ぐずぐずしてはいられない。早く艦から遠ざからなければならない。 私は艦首の更に前の左側に方向を決めて力一杯泳いだ。方向確認の為燃え続けている艦の方に目をやると、まだ飛び込むのを 躊躇っている兵員が大勢居るのが見える。泳いでいるうちに、私より先に海上の人となった集団に会う。水浸しになったボートに 掴まったり、丸太に掴まったりしている。 一本の丸太に大勢向き合って掴まっているため、力関係で丸太がクルクル回り、疲労しきっている様子だった。
私は艦からの距離が充分取れたと思った所で泳ぎを止めた。 少し落ち着いた声で、自分の分隊名を呼んだ。 すると間もなく、「分隊士大丈夫でありますか?」と自分のことより私のことを心配してくれて5、6名集まって来て くれた。艦の燃え盛る炎の明かりがあったが、確認が正確に出来ていたのはお互い名乗り合う声色だけだった。 後から来たものも加えて13、4名ほどになった。 私は彼らを励ましているうちに、私が彼らに励まされている気分になった。 遂に神鷹の最後が来た。 菊の御紋章の付いた艦首を闇夜の大空に突き刺す形で苦悶していたが、やがて、まだ燃え盛る海面にその姿を 没した。 私は思わず、「神鷹万歳!」と叫んだ。 魚雷3発を受け、重油やガソリンの猛火に包まれながら、何とか乗組員が退艦するまで約30分持ち堪え、頑張って くれたことに、悲運は悲運として、ドイツの堅実な造船技術も生きていたであろうことに、涙する思いで感謝した。 (神鷹の乗組員は830名、便乗者も含め1200名乗艦していたが、樫が42名、久米が19名を救助したに過ぎない。 なお、このうち士官は甲板士官の今野少尉、整備士官の江口少尉のみである。 この記述は、江口少尉の回想から抜粋した)
なぜ沈んだんだろう・・ まず、磁探機が夜間飛べない理由を 排気が光って目標になりやすいからと言っているが・・その結果起こった ことを考えれば、磁探機落とされるの覚悟で飛ばすべきだったろう、というより 本当は、夜間離発着が可能な設備と錬度がなかったのではないか? 魚雷を撃たれたということは、10kmくらいまで近寄られていたのは確かだろう ただ、この時代のソナーでは致し方なかったのかもしれない。 ただし、DIESEL潜だから精度のよい水上レーダーがあれば、ここまで好き放題に近寄られは しなかったのではなかろうか。 米空母では、ガソリンタンク室は不活性ガスで即時エアパージできたはずだし、 最悪、注水もできた筈。
運が悪かったというより、装備の欠陥を知りつつ出撃し、その欠陥のために 案の定、大打撃を蒙るという、貧乏国の悪循環・・・ せっかくの解説中失礼しました、続きをよろしくお願いします。
もそっと脱線してみませう。 まず、撃沈した潜水艦「スペードフィッシュ」他2隻は17日1430には黄海上でヒ81を見つけています。 これは、船団中に石炭焚きの輸送船が混じっており、この黒煙が5本遠望できた為と米側報告にあります。 「スペードフィッシュ」艦長は、日没を待って夜間雷撃を敢行することとし、一旦45mに潜航して船団をやり 過ごします(磁探搭載航空機は36mまでなら海面下の潜水艦を発見できたそうです)。 1730に一度潜望鏡深度に浮上して、目標を確認、1830に戦闘配置に付き、浮上して船団を追跡します。 この時、護衛各艦の22号電探を取り扱っていた電測士は、練度が低く(水測士、電測士とも、良い人材は 片端から連合艦隊に取られています)、その浮上潜水艦を発見できませんでした。 2100に神鷹の右舷4,000mで魚雷発射を試みます。 ところが、神鷹は急に外方へのジグザグ運動を実施し、射点を外した為、一旦攻撃を中止しています。 2300に神鷹の右舷3,700mから艦首部の6本の魚雷発射を行ない、まず1本が艦尾に、残り3本が全体 に渡って命中しました。 なお、その際、もう1本、艦尾から魚雷をタンカーに向けて発射していますが、こちらは外れました。 ちなみに、ヒ81は以下の陣形で船団原速12ノット、之字運動Q法を以て航行しています。 ▲対馬 △みりい丸 △ありた丸 △はしだて丸 ▲久米 ▲択捉 △聖川丸 △摩耶山丸 △吉備津丸 ▲神鷹 ▲樫 △音羽山丸 △東亜丸 △あきつ丸 △神州丸 ▲大東 ▲昭南
上の続き… △は輸送船、▲は護衛艦艇です。 この船団は、聖川丸が海軍特設運送艦、あきつ丸、神州丸、摩耶山丸、吉備津丸は陸軍の特殊船、残りが空船のタンカー で構成されています。 陸軍特殊船には第23師団と海上挺身基地大隊、特攻艇が1隻当り100隻程度とその資材、馬匹が搭載されていました。 船団指揮官は佐藤海軍少将で、聖川丸に乗組んでいました。 これらの船は、全船17kt/hの速力が可能でしたが、海防艦の巡航速度に合わせ、先述のように、12ノットを原速としていた ようです。 神鷹の場合、その艦載機は九七式艦攻14機、零戦13機、補用機6機でした。 但し、零戦の搭載は多くなく、船団護衛のついでに南方向けに航空機を搭載していったことが多いようです。 船団護衛時には九七式艦攻は、12機が出撃しています。 船団前方に4機、船団上空警戒に6機、側方と後方に各1機です。 この航空隊は佐伯の航空隊から派遣されたものです。 11月14日、視界は良好で絶好の日和でしたが、モンスーンの為、海面には白波が立ち、目視による見張りは困難を極めて います。(天候晴れ、雲量3、北西の風、気温13度) 各船とも水中聴音機、音波探信儀を装備していましたが、故障がちで、結局双眼鏡によるアイボール監視を強化することで 対応していました。 また、11月14日に伊万里港を出航後すぐに玄界灘に沿って航行、この際に護衛艦が敵潜を探知したため、五島列島に仮泊、 昭南が掃討戦を実施しており、みりい丸無電室では、潜水艦が近距離で発信する電波を傍受しています。 しかし、英米の様な方位測定装置HF/DFが実用化できなかったので、実際の位置追跡は無理だった訳で。
日本には八木アンテナという優秀な指向性アンテナがあったのに、 HF/DF相当の装置が実用化されなかったのはナゼなんでしょうか? 送信と違って受信であれば技術的には可能であったと思われます ドイツもHF/DFの存在に気がついてなかったので、発想の問題かもしれませんが 逆探を実用化していたのですから、製作は可能であったかと ま、後知恵ですけど 調べてもループアンテナしか出てこないです
八木・宇田アンテナだ。 ただただ、優秀なアンテナである事を、戦前に軍部が認識してなかったからだよ。
煙突やマストをカットしても石炭焚きじゃあ意味ねーな 重油専焼化だけでも電波兵器なんかよりよっぽど有効なのによ まあ、重油が足りないから石炭焚きなんだけどさ
>>221 一応は、煙の出ない焚き方(石炭のくべかた)ってのは、海軍から指導員を出したりして、
海員学校みたいなところで訓練はしている。
が、石炭があれだけ悪くなったら意味が無いんだけどね
つか「訓練された船員」なんてかなりのレア資源になってるわけだが>戦争後半。 船員に限らずほとんどの人的資源でそういう状況。
話を戻して…。 普通海上危険か戦争危険かは、軍から賠償が為されるか、それとも保険業者が引っ被らないといけないか、その線引きが難しく、 その適用を巡って、屡々、軍と民との対立が生じる。 >208-209は軍が認めたものであるが、以下は軍が海上危険と認めなかったもの。 ケース1.汽船北安号行方不明事件 本船明細:船種:汽船、船質:鋼、建造年1902年、総トン数3585t 89kg 長さ326ft、幅45ft、深23ft、 重量トン数4813t、機関種類:三連成汽機、燃料一日消費量:28t、航海速力:最高12kt/h、普通10kt/h、 航行区域:近海区域、所有者:北方航業股分有限公司 本船構造:甲板数:2、構関の所在:(船体中央)船倉数5、倉口数5、船底:二重底、無線電信:有、 旅客定員:等外四名なるも特に旅客搭載設備無し、満載平均喫水及び相当乾舷:冬季(喫水20ft56in、 乾舷2ft57in)、夏期(喫水21ft08in、乾舷2ft4in) 船体及機関の状態:最近受けたる検査の種類及びその年月日:定期検査(S.13.12.22(検査地/大連)、 中間検査(S.16.9.22(同))、臨時検査(S.17.8.14(同)) 最近2カ年に船体及び機関に海難以外の原因により故障を生じたること無し。 S.17.9.22中間検査及び、12.21定期検査施行の指定有りたるも、船渠船繰のため、9.17付関東 海務局より指令第458号を以て、12月末までの探機航行を認可されたり。 行方不明となりたる航海の発港地予定寄港地及到達港 発航港:秦皇島 予定寄港地:上海、基隆、香港 到達港:西貢 本船香港発航時に於ける状態 積載貨物:無し、発航時喫水及其相当乾舷:船首9ft9in、船尾15ft7in、乾舷10ft52in、燃料所有高:865t(30日21時間分) 食糧所有高:40日分 船員 船長氏名:略 免状種類:汽船甲種船長 船長年齢52歳 船長の本航路に於ける経験の有無及びその程度: S.14.5.25付北方航業入社後、本船船長として当航路に5回の経験有り入社以前にも数度就航したること有り。 乗組員数:甲板部(19名)、機関部(20名)、事務部(9名)
本船上海発航後に於ける航海並びに気象状態調 (1) 上海~基隆間(空船航海) 上海出港:S.17.10.11.1500 基隆入港:S.17.10.14.1100 航走距離:419哩、平均時速6kt/h 気象状態(航路付近測候所に於ける風向風速) 10.11.0600 北西2m/sec 1800 東南東4m/sec 10.12.0600 北2m/sec 1800 西3m/sec 10.13.0600 東3m/sec 1800 東3m/sec 10.14.0600 東北東5m/sec 1800 東北東6m/sec (2) 基隆~香港間(石炭3550t搭載) 上海出港:S.17.10.18.1000 基隆入港:S.17.10.21.1000 航走距離:475哩、平均時速6.5kt/h 気象状態(航路付近測候所に於ける風向風速) 10.18.0600 東3m/sec 1800 東6m/sec 10.19.0600 北10m/sec 1800 北5m/sec 10.20.0600 東北東3m/sec 1800 東3m/sec 10.21.0600 東3m/sec 1800 北東3m/sec (3) 香港~西貢間(行方不明となりたる空船航海) 香港出港:S.17.10.24.1000以後行方不明となる 西貢入港予定:S.17.10.30頃。 本船行方不明の原因に関する考察。 10月24日西貢向け香港を出港したる以後の航路付近に於ける気象状態については、 目下の所調査の方法無きも、この頃に於ける南シナ海の季節風は其の勢強からず その他本船の普通海上危険による遭難を推定すべき資料無きのみならず、無線電信 に依る遭難通知も接受し居らざる事などを総合考究する時は10月24日より30日頃までの 香港西貢間に於いて敵飛行機又は潜水艦などの襲撃を受け全損となりたるに非ずやとの 疑い極めて濃厚なり。 これに対する海軍省兵備局の返答…「遭難原因不詳、戦争事故と認べき資料無し 終」
う~みゅケース2が書けない。 先週、きちんと人事のファイルを家に送っていれば…(嘆。
ケース2.機帆船第五秋田丸行方不明事件 本船明細:船種:機帆船、船質:木、建造年1940年2月、総トン数170t 94kg 長さ28.15m、幅7.64m、深3.37m、 貨物積載量300t、機関種類:発動機、機関馬力:120馬力、燃料一日消費量:1t、航海速力:満船時6.5kt/h、 空船時7.5kt/h、航行区域:沿岸区域、所有者:個人 本船構造:構関の所在:(船尾)、船倉数1、倉口数1、板屋根式、積頓数:甲板下200t、甲板上100t、 倉口の構造:第三級木船としての構造を有す、防水方法:木船構造規程による防水方法を採用す 船体及機関の状態:検査手帳その他関係書類無き為詳細不明 行方不明となりたる航海の発港地予定寄港地及到達港 発航港:清津 予定寄港地:関門、小倉 到達港:八幡 本船香港発航時に於ける状態 積載貨物の種類及び数量:粉鉱石227t 8kg、無電機1台、ドラム空缶五百缶、貨物積付場所:甲板下 燃料所有高:重油4t(3日20時間分)、飲料水所有高:2t、食糧所有高:10日分 船員 船長氏名:略 免状種類:乙種二等運転士 船長年齢41歳 船長の本航路に於ける経験の有無及びその程度: 清津八幡間航路に二カ年の経験有り 乗組員数:甲板部(5名)、機関部(3名)
本船清津発航後に於ける航海並びに気象状態調 (1) 清津~小倉間(行方不明となりたる航海) 清津出港:S.17.4.10、爾後行方不明となりたる 基隆入港予定:S.17.4.14(平均時速約6kt/hとして想定) 航走距離:480哩 気象状態(航路付近測候所に於ける風向風速) 4.09.0600 北西8m/sec 1800 北北西11m/sec 4.10.0600 北西8m/sec 1800 南4m/sec 4.11.0600 北1m/sec 1800 南南西4m/sec 4.12.0600 北北西1m/sec 1800 西10m/sec 4.13.0600 北西6m/sec 1800 西北西6m/sec 4.14.0600 北北西13m/se 1800 北西1m/sec 4.15.0600 北東3m/sec 1800 東北東5m/sec 4.16.0600 東北東9m/sec 1800 西北西4m/sec 本船行方不明の原因に関する考察。 本船清津発航時に於ける積載貨物の重量合計は240t程度にして略満船(満載重量約260t)に近くその大部分は船倉下部に 積み込まれたり。 従って、清津発航時の乾舷は比較的僅少にして又本船の重心は相当低位に在りたるものと推定するを得べし。 次に本船が4月10日小倉向け清津発航後の気象状況を見るに同月10日より11日までは一般海上平穏の模様なりしも、本船が 対馬海峡に差し掛かりし頃と推定せらるる12日に至り朝鮮西岸及南岸並に対馬海峡は偏南強吹するに至り、同日8時30分第四 地区に対し気象特報発令あり。 同日午後には対馬海峡は偏西の疾風波浪又大となれり、而して13日は天候幾分回復したるも14日午前には更に北北西の雄風 に遭遇したるものと認めらる。 以上の通り、本船は朝鮮海峡以東に於いて4月12日乃至14日の間相当難航したるものと認められ、右海面に浮遊機雷の有無又 は敵潜水艦の出現せるや否やに付知識を有せざるを以て一応本件は普通海上危険に因り発生したるものと思料せらるるもの、 もし、前記水雷又は敵潜水艦による危険の可能性が相当濃厚なりしとせば、右両種の危険による遭難の公算は五分五分と認むる を至当とすべし。 これに対する海軍省兵備局の返答…「当時の状況より判断し、戦争危険に依る事故と推定し得べき資料無し 終」
ちょっと保守しておきますよ。
おつ~ そのうち、何とか資料価値のあるものだけと軍板リファレンスとして抜き出したいもんですな。
ケース3.機帆船第五宇和丸行方不明事件 本船明細:船種:機帆船、船質:木、建造年1939年12月、総トン数291t 長さ105尺、幅26尺、深12尺5寸、 重量トン数470t、機関種類:無注水式発動機、機関馬力:240実馬力、燃料一日消費量:80缶、 航海速力:満船時7kt/h、空船時9kt/h、航行区域:近海区域、所有者:個人 本船構造:機関の所在:船体中央より後部、船倉数1、倉口数1、積頓数:甲板下約350t、甲板上120t、 倉口の構造:不明、防水方法:木船構造規程により所要の防水方法を採用す 満載平均喫水及其相当乾舷:冬期(喫水4m、乾舷67cm)、夏期(喫水4m20cm 、乾舷55cm) 船体及機関の状態:最近受けたる検査の種類及びその年月日:中間検査 1942年1月(検査地:高知) 船体及機関故障の有無:最近二カ年間に故障無し 行方不明となりたる航海の発港地予定寄港地及到達港 発航港:朝鮮興南 予定寄港地:従来済州島に寄港することありたり 到達港:上海 本船興南発航時に於ける状態 積載貨物の種類及び数量:カーバイト/18,356缶(約400t)、貨物積付場所:不明 発航時喫水及其相当乾舷:不明 燃料所有高:重油1,200缶(15日分)、飲料水所有高:5t、食糧所有高:一ヶ月分 船員 船長氏名:略 免状種類:丙種船長 船長年齢65歳 船長の本航路に於ける経験の有無及びその程度: 既往に於て二十回以上も上海に航海したる経験を有す 乗組員数:甲板部(6名)、機関部(4名) 本件処理上特に参考となる事項 本船上海入港予定日(4月5日又は6日頃)後、種々の手段を画し捜索せるも現在迄何ら手掛り無し 現在漂流物無し
本船興南発航後に於ける航海並びに気象状態調 (気象状態は中央気象台天気図による) (1) 朝鮮興南~上海間(行方不明となりたる航海) 興南出港:S.17.4.1、爾後行方不明となりたる 上海入港予定:S.17.4.5.夕方又は4.6朝 航走距離:813哩 気象状態(航路付近測候所に於ける風向風速) 3.31.0600 1800 南4m/sec 4.01.0600 北1m/sec 1800 南西3m/sec 4.02.0600 西3m/sec 1800 西10m/sec 4.03.0600 西1m/sec 1800 南西7m/sec 4.04.0600 南6m/sec 1800 南8m/sec 4.05.0600 北8m/sec 1800 北北西6m/sec 4.06.0600 西2m/sec 1800 北北西2m/sec 本船行方不明の原因に関する考察。 カーバイト18,356缶を搭載し居りたるを以て満船状態にありたり。 4月1日より4日正午頃迄の朝鮮東岸及南岸に於ける天候は概して平穏なり。 その後、済州島/上海間の海上に於いては相当の風(風力5)あり波浪を伴い殊に4日午後済州島西方洋上は荒れ 模様なりき。 以上の通りなるを以て、興南発航後済州島迄は平穏なる航海を続けたるも、其の以西に於いては相当難航したるべく 或いは此の水域に於いて積荷の一部破損漏洩しこれが船底の汚水に混じって大事に至りたるに非ずやとも疑わる。 もし、4月1日より5日に至る間本船針路付近に於いて機雷の浮遊又は敵潜水艦の出没などの危険も亦考えらるるものと せば、普通海上及戦争の両危険に因る公算は五分五分と見るを至当とすべし。 これに対する海軍省兵備局の返答…「当時の状況より判断し、普通海上危険によるものなりや、また戦争危険によるもの なりや、何れとも推定困難なり。 終」
木造船にカーバイト・・・・ 缶の防水が甘かったらビルジ溜まったとたんに轟沈? 戦時中のカーバイドの輸送時の密封ってどうしてたのかちょっと調べてみます 一斗缶のような気もしますけど 現在は一斗缶か茶筒式のブリキ缶+ビニールテープです 東南アジアの方では今でもカーバイトランプは現役です 日本では釣りの人が使うだけですけど
>233 お返事が遅れてしまった。 多分一斗缶だと思いますが、思うにこういう細々した備品類の 資料って無いんですよね。 ということで、こっちも一週間打ち止めです。 昨日、二本立てさえ無きゃ(ry。
>230 いつかはクラウン…じゃないですが、いつかホームページを 立ち上げた時にでも纏めようと思ってますが、いつになること やら…ですね。
落ちないように保守牡蠣子。
いったん上げたほうがいいのだろうかと思いつつ、 最後の保守。 明後日には手をつけられれば良いなぁとおもほゆる。
名スレアゲ
239 :
233 :04/01/04 00:30 ID:???
調べてみたけど、カーバイトの輸送に関しての記述は手元資料には無し 戦前は鉱山とかで使っていたと思うんだけど出てこないです(石炭は別ね) 鉱山のあったとこの図書館いって調べるしかないのか・・・・_| ̄|○
>>223 それどころか戦前の段階から不足してる。
逓信省の出す船員手帳が24万に対し船員は10万未満。
他にも、船舶・機械等の重工業の平均工員充足率は37年の段階ですでに40%切ってる。
ケース4.機帆船第六呉羽丸行方不明事件 本船明細:船種:機帆船、船質:木、建造年1938年4月、総トン数269t6 長さ32.79m、幅7.92m、深3.72m、 重量トン数420t、貨物積載量:450t、機関種類:無注水焼玉発動機、機関馬力:公称170実馬力、 燃料一日消費量:1200l、航海速力:満船時6.5kt/h、空船時7.5kt/h、航行区域:沿海区域、 所有者:日東海運株式会社 本船構造:機関の所在:船尾、船倉数1、倉口数1、板屋根式、積頓数:甲板下約350t、甲板上100t、 倉口の構造:長23尺、幅13尺、防水方法:完全なる防水用覆布二枚を備え、本航海に於いては 二枚の上に古帆布を敷きて上積荷物積載による覆布の摩損を防止し、倉口の周囲は凡て楔を 厳重に嵌め込み発航す。 満載平均喫水及其相当乾舷:4m6に対する相当乾舷 20cm 船体及機関の状態:最近受けたる検査の種類及びその年月日:定期検査 1940年10月25日(検査地:釜山) 船体及機関故障の有無:1940年3月3日、釜山港碇泊中火災の為沈没し、引揚後同地田中造船所に於いて 大修理を施したる結果船体は新船に等しく、殊に手記間は明石市木下鉄工所製にて 優秀なるものなり。 行方不明となりたる航海の発港地予定寄港地及到達港 発航港:東京 予定寄港地:横浜、下田 到達港:大阪 本船下田港発航時に於ける状態 積載貨物の種類及び数量:鉄材長物約298t、貨物積付場所:甲板下(約230t)、甲板上(約58t) 発航時喫水及其相当乾舷:船首(3.8m)、船尾(4m)、乾舷(66cm) 燃料所有高:12t(8日分)、飲料水所有高:6t、食糧所有高:40日分 船員 船長氏名:略 免状種類:丙種運転士 船長年齢42歳 船長の本航路に於ける経験の有無及びその程度: 学校卒業後機帆船に乗組み多年の経験を有し、 1941年海技免状を授与せられ、技術優秀なる趣。 乗組員数:甲板部(4名)、機関部(4名) 確証無きも、本船の漂流物らしきもの1,2件発見せられたり。
本船東京発航後に於ける航海並びに気象状態調 (気象状態は中央気象台天気図による) (1) 東京~下田間 興南出港:S.17.4.9.0600 横浜避泊入出港:日時不明 航走距離:17哩 下田避泊入港:日時不明 航走距離:74哩 気象状態(航路付近測候所に於ける風向風速) 4.09.0600 無風 1800 南南西11m/sec 4.10.0600 南南西9m/sec 1800 北16m/sec 4.11.0600 北3m/sec 1800 西北西3m/sec 下田避泊中気象状態(想定) 4.10.0600 南南西9m/sec 1800 北16m/sec 4.11.0600 北3m/sec 1800 西北西3m/sec 4.12.0600 不定1m/sec 1800 東南東1m/sec 4.06.0600 西2m/sec 1800 北北西2m/sec (2) 下田~大阪間(行方不明となりたる航海) 下田出港:S.17.4.12.0500、下田港出帆以後消息不明となりたる 大阪入港予定:S.17.4.14.0500 航走距離:286哩、平均予定速力: 毎時6ktとす 気象状態(航路付近測候所に於ける風向風速) 4.12.0600 不定1m/sec 1800 南東7m/sec 4.13.0600 西北西5m/sec 1800 西8m/sec 4.14.0600 北東1m/sec 1800 北北東4m/sec 4.15.0600 北北東2m/sec 1800 西4m/sec 本船発航後の動静並びに海上模様に関する他船舶の報告 (1) 明治丸乗組員(第六呉羽丸旧乗組員)の報告 明治丸は4.12.0500下田発航、同日2100四日市に入港せり (イ)12日1700三重県神島東方3哩付近を西航する本船を確認せりという 果して然らば、下田及び前記地点の距離100哩、航海時間11時間半、平均速力毎時8ktとなる。 (ロ)12日1700 南東の疾風、2100 南東の強風、但し航海に支障なし。 (2) 第三東長丸船長の報告 第三東長丸は4.12下田発航、同日2400紀伊勝浦(三重県神島より南方80哩先)に入港せり (イ)12日2200 南西の強風、2400頃 快晴航海に大なる困難無し。 13日朝 西の強風
本船行方不明の原因に関する考察。 4月12日下田港出帆当時搭載し居たる積みには約300t、本船重量トン420tの7割に当るを以て乾舷も相当あり極めて良好 なる航海状態と言うべし。 同日午後より翌13日にかけて紀州沖は南西乃至西の強風と共に相当の波浪ありたり。 本船と前後して下田港を出帆せる他の二船のうち一は同日午後9時頃四日市に、他の一は紀伊勝浦港に無事入港せり。 以上の事実より見て、本船は航途相当難航せるものと認めらるるも未だ之のみを以ては遭難を推認すること能わず故にもし 当時本船針路付近に於いて敵潜水艦出没せる事実ありとせば、普通海上及び戦争両種の危険は半々と認むるを妥当と思料す。 これに対する海軍省兵備局の返答…「当時の状況より判断し、普通海上危険によるものなりや、又は戦争危険によるもの なりや、明確ならざるも、戦争危険による算稍々大なりと推定せらる。 終」
で、長々と四種の事例について書いてきましたが、これで何を言いたいかというと、こういった行方不明船舶に対する危険種別を どうすれば定型的に推量すれば良いのか、と当時の海上保険担当者が知恵を絞った訳です。 それぞれ最後の海軍省兵備局の回答に注目。 1. 「遭難原因不詳、戦争事故と認べき資料無し 終」 (北安号、第五秋田丸) 2. 「当時の状況より判断し、普通海上危険によるものなりや、また戦争危険によるものなりや、 何れとも推定困難なり。 終」 (第五宇和丸) 3. 「当時の状況より判断し、普通海上危険によるものなりや、又は戦争危険によるものなりや、 明確ならざるも、戦争危険による算稍々大なりと推定せらる。 終」(第六呉羽丸) まず、1.については、これは海軍も普通海上危険と認めている(即ち、該当海域に潜水艦無し)として いるので、これは除外し、2.については、海軍自身がそれをFifty-Fiftyとしている訳で、これは、普通 海上保険と戦争保険で折半すべきとし、3.については、戦争保険の範疇を拡大すべしと考えた訳です。 で、2.以降の考え方については、日本には例が無く、英国の文献に範を求め(戦時中であるにも関わらず と言うことに注目)、William D. Winterの"MARINE INSURANCE"から引用したと言うことです。 てな訳で、次回は、この本についてちょこっと。
でもって、William D. Winterの"MARINE INSURANCE"に書いてあったのは、 "Presumption of cause of loss" During the World War,when conditions were such that prudence required that there be no haste in determining the status of a vessel presumed to be lost, the war and marinc underwriters on the risk were usually disposed, each, to settle for 50 per cent of the loss, without prejudice permitting the question of liability to remain open until such time as evidence was forthcoming to preve the cause of loss. It frequently happened, during the World War, that monthsafter a vessel had been reported missing, a belligerent raider would return to its base and report the sinking of vessel. 要は、英国その他の海上保険の慣行では、行方不明船舶の危険種別が何れとも推定困難であると された事例では、戦争保険と普通海上保険の折半負担を行なうと言うものであったとしています。 ただ、日本では、民間船の戦争保険は、国営再保険法に基づき日本政府によって引き受けられています ので、海軍省の調査結果を以て、大蔵省から賠償を得る必要がありました。 1944年2月14日に、日本の海上保険の団体から大蔵大臣に宛てて、この様な船舶行方不明時の保険負担 割合の機械的算定を請願しました。 しかし、省内の意見は纏まらず、特に国庫支出は明瞭な支出であるべし、と言う原則に基づき、こういった 保険負担割合の機械的算定には曖昧な点が多く、この考え方は概念的すぎる、と言う理由で、1944年8月26日、 大蔵省は調査結果のみを算定根拠にして、機械的算定についてはこれを否定しています。 従って、戦時中行方不明の船艇に関しては、本当なら撃沈されたものであっても、単なる、事故、亡失と認定され たものもあった訳です。
さて、海軍徴傭船極洋丸の喪失については、特殊なケースです。 概要は、>170に書かれていますが、喪失の直接原因は台風による座礁であり、普通ならば普通危険となり 軍は何ら関わり有りません。 しかし、当時の護衛船団司令の誤判断によって喪失したとして、判定が覆ったものです。 まず、極洋丸とはどのような船かと言うと、1938年建造の極洋捕鯨が保有していた総トン数17,549tの捕鯨母船です。 当時、世界最大級の民間船として注目されていました。 太平洋戦争勃発後、その大きさに着目した海軍が、運送船として徴用しています。 この船には帝国海上火災保険により、1700万円の船価保険金額の保険が掛けられていました。 ちなみにこの保険金額というのは、あるぜんちな丸、新田丸クラスの客船と同額で、巨額契約の一つとされていました。 この船は、奄美大島の名瀬港で台風により1943.9.19 23:48に座礁全損したのですが、当初、その事故内容、経過について、 海軍から情報がなかなか出ませんでした。 と言うのも、海軍の救助担当部局は船舶応急処理委員会ですが、兵備局将校から民間人に余計な情報を漏らすな、と厳命 されており、なかなか情報が上がってきません。 最終的に情報が開示されたのは、1944.9.の事、「極洋丸名瀬港に於ける遭難報告書」という極秘文書の開示を得た為です。 つまり、極洋丸は1年の間、海軍船舶応急処理委員会の手によって、サルベージの努力が続けられましたが、その努力は 報われなかったと言うことになります。 さて、極洋丸に関する概要については、この辺にして、次回、どのような経過を辿って戦争危険と認定されるに至ったのか、 書いていきましょう。
はい、お願い致します(感謝感謝)
いつも、ご苦労様です。 よろしくお願いします。
さて、こういった座礁などによる海軍徴傭船の喪失の場合、海軍経理局長宛に遭難報告書を提出しなければ なりません。 で、遭難報告書を簡単に要約してみましょう。 極洋丸は、1943.9.14.0530に准士官以上29名、下士官兵301名、工員その他9名の便乗者と、航空機14機と その部品、軍需貨物など181tを搭載して、佐世保軍港を出港します。 目的地は昭南で、航行後3時間して五島列島の中通島と平島の間の相崎瀬戸にて第187船団に合流し、 船団の運航指揮官の下で航行を開始します。 船団は途中、9.15.1130に鹿児島に入港し仮泊、9.17.1500に同港を出港します。 1943.9.18.0650に運航指揮官は、同日0時現在、北緯20度、東経127度に、気圧730mb(当時)、時速20km/h の台風が北西に進行しつつあることを知ります。 そこで、船団司令官は、「台風を避ける為に名瀬に避航。1200より5、6番船以外は増速」という信号を発します。 名瀬入港は、1943.9.18.1835になり、此処で極洋丸は左舷錨を投じます。 その投錨地は、立神燈台から36度の方向、距離730m、水深51m。 ここに錨鎖8節として仮投錨を行ないます。 9.18.1855に「荒天準備を為せ。9節以上の蒸気を保て」という信号を受け、荒天準備を行ない、翌日出港の為、錨鎖 巻上中に9.19.1320出港取止めの命令を受け、錨鎖9節まで再度延ばし、出港を中止します。 この頃より風が強くなり、9.19.1350に指揮官より、「出港取止め当港にて台風通過を待つ。風向北になりたる場合、 各船最善を画し、安全を期せよ」との信号を受信しています。 この時の台風の位置は、同日12時現在、北緯22度42分、東経127度にあり、気圧730mb以下、時速25km/hで、 進行方向は北西又は北北西となっていました。 1300現在、極洋丸の気圧計は746.6mb、風位東南東、風力5でしたが、気圧は暫時下降し、風位は左転し、風力は 増加、雨による視界不良が発生します。 18時現在、この時の台風の位置は、北緯27度、東経130度にあり、気圧735mb以下、時速30~35km/h で、進行方向は北北東となっていました。
1815、風位は北北東に変転し、風力は6乃至7、気圧は733mbとなりました。 このため、機関を使用して右舷錨を投じ、錨鎖を左舷9節半、右舷7節の双錨泊としました。 当時の喫水は、船首5.89m、船尾7.01mですが、船長は風圧を減ずる為、油槽に海水870tを注水し、合計バラストを 5,268tとして、喫水を船首で6.00m、船尾7.50mとします。 2123より機関前進微速として風力に抗し、錨鎖の伸張が大きくならなかったので、2138停止します。 この時、一旦港外に退避しようとしますが、風力は強大、降雨は激しく視界不良状態で、尚かつ港口に碇泊船4隻が あったため、衝突の危険もあった為、港外退避は諦めています。 2200、風位北北西、気圧722.5mbとなり、風力は更に増大した為、2215、再び風力に応じて前進微速、半速、原速を 繰り返し、流されない様にしています。 2245、風力強大、波浪は巨大、雨は豪雨となって視界は妨げられ、舵は効かず、船首を風位に保つことが困難になり ます。 乗組員は必死に操舵し、かつ機関も最大出力を以て守錨しますが、次第に走錨して、2330頃、羊島へ船尾が接近、すぐに 翻弄され、船首を急に左舷に振り、船尾は大熊港方向に変わり、2348に、両舷錨を右舷正横に曳いたまま、大熊港口南岸 に押し流されて、座礁します。 この時、船長はスクリューの破損を恐れて、機関を停止しています。 2356、運航指揮官宛に、「23時48分座礁せり」と打電。 9.20.0時現在、この時の台風の位置は、北緯29度、東経130度30分にあり、時速40km/hで、 進行方向は北北東乃至北となっていました。 9.20.0200頃、風力は漸く衰え、気圧は前日2300の722.5mbを最低として、9.20.0800には750mbに回復、風位北西、風力5となり、 台風は通過しました。 極洋丸の座礁位置は、山羊島から80度の方向に400mの水深2mの海上で、損傷は船首、船尾全部を座礁し、船底大破により、 機関は浸水、発電機運転不能となり、従って主機の運転も不可能と言うことで、自力浮揚は不可能になりました。 また、右舷救命艇の第3号艇は流失、第1号艇は破損、舷梯も流失しました。 幸いなことに、兵器、積荷、人員に影響はありませんでした。
9.20.1030、運航指揮官、海軍運輸部本部長、横鎮参謀長、佐鎮参謀長、佐世保海軍運輸部長宛に、 「19日23時48分、奄美大島名瀬湾大熊港南岸山羊島より80度、400mの地点に、暴風の為座礁せり、 船首方向258度、水深3m以内、底質岩、船底全長に亘り大破、機関室浸水の為発電機使用不能、 現在波浪高く、相当の衝動有り、詳細は調査の上報告す。自力浮揚の見込み無し。人員積荷損傷なし、 便乗者准士官以上29、下士官兵301、工員他9、合計339名、便乗者積荷の移乗、並に本船の救助 手配乞う」 との電文を発信。 さて、この時同時に喪われたのは極洋丸の他以下の各船でした。 海軍徴傭船 長寿山丸(2,131t:座礁後、浮揚)、海軍徴傭船 鵬南丸(5,401t:座礁後、浮揚)、 海軍徴傭船 武豊丸(6,964t:座礁後、浮揚)、海軍徴傭船 富津丸(2,933t:座礁後、浮揚)、 民間船 丹後丸(6,893t:座礁後、浮揚作業中に雷撃を受け全損)、民間船 江南丸(3,178t:座礁後、放棄) 次回はこの事態の何処が不味かったのかを書いてみたいと思います。
hosyu
さて、この事象の何処が問題だったのか。 海図か地図で位置関係をプロットすれば問題がはっきりします。 まず、名瀬に避退することを運航指揮官が決意したのが、19430.9.18.0650のこと。 この時の推定位置は、屋久島南南西方約20海里、北緯30度、東経130度20分です。 しかし、台風の位置は、1943.09.18.0000現在、北緯20度、東経127度、進行方向北西、時速20km/hでしたから、このまま進んだとして、 1943.09.18.0650現在の台風の位置は、北緯21度、東経126度と推定されます。 即ち、未だ台風との距離は約600海里あります。 また、その指令後受領後の船団位置、即ち1943.09.18.1200現在では、北緯29度11分、東経129度54分です。 これを基準に、予定航路をそのまま航行していた場合の24時間後、即ち、1943.09.19.1200現在の推定位置は、沖縄島西方約60海里の 北緯26度15分、東経126度40分になり、台風の北西方向に進み続けた場合の推定位置との距離は約260海里となります。 実際は、台風は北西から北に進路を変更した訳ですが、これとても、1943.09.19.1200現在の位置は、北緯22度42分、東経127度にありま すから、この時点でも、そのまま航行を続けていたとしたら、約220海里の距離があり、直撃は免れた訳です。 ところが、船団は名瀬港に退避します。 1943.09.19.1800現在の台風の位置は、北緯27度、東経130度で奄美大島の南南東80海里に接近し、しかも、1943.09.20.0000には、北緯 29度、東経130度30分、即ち、名瀬港北北東60海里に再接近し、そのエネルギーで、極洋丸の船体を座礁に追い込んだ訳です。 これが、運航指揮官の第一の判断ミス。
次いで、名瀬に退避するの是非です。 この泊地は風浪に対して決して好錨地に非ず、しかも、水深50mで深すぎ、台風で船体が翻弄された際には、走錨の危険性がある港を わざわざ選んで退避港にしてしまった。 水路誌では、名瀬港の錨地について、「この港は偏北風の時は波濤侵入し、好錨地に非ず」としています。 また、水深50mは、極洋丸の錨鎖全長各舷300mから見ると実際の繋留の用を為す部分は、200mであり、それは水深の4倍にしかならない。 これは暴風時に走錨の可能性が極めて高い状況です。 更に台風の進路、風向についても大部分は想定可能で、その場合、偏北風が発生することは容易に推定できる。 しかし、今回の場合、最も不向きな名瀬港を避泊地に選んでしまった。 これが、運航指揮官の第二の判断ミス。 例え、名瀬港に退避したとしても、気圧下降、風力増強、強雨、視界不良などが起こり得た時に、巨船に対し、速やかな港外退避措置を 行なわず、しかも、船長の沖出しの決断をしているにも関わらず、その出港用意を中止させるというのは、合理的な理由が無く、これは 運航指揮官の過失としか言いようがありません。 極洋丸の積荷は殆どが航空機の様な軽いものですから、乾舷は十分で、凌波性は問題なく、沖出しするか避行させれば座礁の危険は 少なくとも去ります。 これが、運航指揮官の第三の判断ミスと言う訳です。
ああ、そう言えば、その後を書いてなかった。 明日、余力が有れば書くとしよう。
おお、お待ちしてますです
さて、これを以て、本件は戦争危険による軍賠償とすることを相当とす、という見解を海軍省並びに大蔵省に提出します。 とは言え、こういった運航指揮官の過失を部外者が指摘することの感情上の問題、運航指揮官の過失が軍機のベールに閉ざされてしまい、 常に明確に過失責任を問えないといった問題、同一船団に陸軍徴傭船、海軍徴傭船、民間船が入り乱れており、同一原因にも関わらず、 保険支払形態が所管諸省により変わるという問題もあり、簡単に損害査定が出来ない状況にあるという苦悩はあります。 このため、海軍当局への請願として、こういったケースの場合の損害補填は、船団喪失船で同時期に喪われたものについては、同一補填 方式を採用すべきであるということが特に強調されました。 この請願と保険支払いに関しては、海軍経理局内部では普通危険として措置すべし、という意見が大勢を占めていましたが、この請願の 内容検討は、経理局だけでは行えず、兵備局、法務官も巻き込んで検討が加えられました。 しかも、この間、極洋捕鯨の上層部が海軍経理局にある種の働きかけを行なったことも明らかになっています。
ここで何故極洋捕鯨が動いたのか? まず、最初に書いたように、極洋丸の保険金額は、1,700万円です。 普通海上危険の場合、保険会社から支払われる保険金額は、全額補償されます。 しかし、軍賠償は、往々にしてこの金額は保険金額より、償却その他要因で減額されることが多い。 (実際、極洋丸の軍賠償額は1,377万3,877円と査定され、1,700万円より少なくなっています。) このため、極洋捕鯨としては、減額される軍賠償額を貰うより、当初から掛けている保険金額を貰う方が有利である為、 この様な不可解な動きをした訳です。 今回の案件では、軍は運航管理者の過失を認め、普通危険に類する案件でも軍賠償を行なっています。 但し、それだけでは保険額と差額が出た為、その損失額を保険にて補填するように、海軍から保険業界に要請が出ています。 とは言え、これは不明瞭な話で、こうなると、幾ら戦争危険で撃沈されても、海軍部に運動すれば普通危険としての認定を受けることに なりかねません。 保険業界としては、これは理不尽な話である訳で、この補填に関しては今回限りとする、また、徴傭船については、軍当局との折衝は 軍嘱託に委託し、他の容喙を許さずとの一筆を、海軍当局と元受保険会社首脳に入れさせています。 ここまでの結論に達するだけで、極洋丸沈没から1年3ヶ月、事が公になってからでも3ヶ月掛かっています。 次回は、心の赴くままに…。
>258 お疲れさまでした。 次回は"Let it be"ですね。
さて、どうするか。 そう言えば、油槽船関係についてはどこかに資料があったような…。 何処に行ったかなぁ。
日本の油槽船について。 海軍の徴用油槽船で、特設艦隊給油艦となったのは以下の通り。 有馬丸(1943.4喪失分)、吾妻丸(1944.2喪失分)、長江丸(1,794総トン/1944.2.25潜水艦Tangの雷撃により喪失)、五洲丸(1944.3喪失分) 昌龍丸(1944.5.喪失分)、高瑞丸(1943.10.喪失分)、松本丸(1944.10.喪失)。 民間分は、また次回。
圧壊深度に近付いているので、偶に上げます。 とりあえず、民間油槽船第一弾。 日本海運 あかつき丸(1943.6.喪失分)、石原産業 あけぼの丸(1944.5.喪失分)、あまつ丸(1944.5.喪失分/1TL)、 Choran(綴り不明)丸(6,000総トン/復員船に使用)、飯野海運 栄邦丸(1945.1.喪失分/1TM)、 江ノ島丸(1,942総トン/旧英国海軍Ebonol、1945年返還)、飯野海運 富士山丸(1944.3.喪失分)、 浅野物産 玄洋丸(1944.8.喪失分)、第二菱丸(856総トン/1944.11.9.USS Haddoによる撃沈)、 日東汽船 宝洋丸(1944.3.喪失分)、日本海洋漁業 厳島丸(1944.12.喪失分)、寿光丸(478総トン/1945.8.9.女川で空爆)、 日東汽船 海城丸(1942.4.喪失分)、日東汽船 第二海城丸(3,270総トン/1943.3.10.Celebesで座礁、空爆後、1945.接収)、 興國汽船 健洋丸(1944.3.喪失分)、金鈴丸(867総トン/1945.3.6.タイ湾でUSS Hammerheadにより撃沈)、 浅野物産 紀洋丸(1944.3.喪失分)、國洋汽船 國洋丸(1944.9喪失分) 以下、次回。
「Choran」は、「朝嵐丸」の事かな? 福井本にある、油が漏れると言っても、ボルネオからシンガポールまでの航海で 前部流れ出すわけではないだろう、と半ば投げやりに復旧された船だと思うが。
>263 フォローアリガトン。 今、参照している資料が英文のものなので、日本語を類推するのが結構大変だったり。 しかも、上に書いたものは撃沈されたものなので、生き残ったり、5000総トン未満のものは、 なかなか資料が無くって(^◇^;)。 ちなみに、英文資料の方に書かれている喪失日付と、上の方で書いた喪失月とは微妙に異なって おり、多分、上の方は、日本海軍の喪失認定だと推定してみたり。 蛟龍丸(820総トン/波﨑燈台で触雷)、東和汽船 黒潮丸(1945.1.喪失分)、共栄丸(602総トン/1944.11.16.ボルネオ島で空爆)、 第二共栄丸(1,192総トン/スル海でUSS Daceにより撃沈)、第三共栄丸(1,189総トン/タイ湾でUSS Bumperにより撃沈/1TS)、 拿捕船 巨港丸(1943.12.喪失分)、飯野海運 極東丸(1944.9.喪失分)、極洋捕鯨 極洋丸(1943.9.喪失分)、日本油槽 満珠丸(1945.1.喪失分)、 三菱汽船 みりい丸(1945.1.喪失分)、日東汽船 日榮丸(1945.1.喪失分)、山下汽船 日本丸(1944.4.喪失分)、日産汽船 日産丸(1942.7.喪失分)、 西太洋漁業 日新丸(1944.5.喪失分)、大洋漁業 第二日新丸(1943.12.喪失分)、昭和タンカー 日章丸(1944.3.喪失分)、 日本油槽 第一小倉丸(1944.9.喪失分)、第二小倉丸(1944.9.喪失分)、第三小倉丸(19443.3.喪失分)、三井船舶 御室山丸(1945.2.喪失分)、 日東汽船 良栄丸(1945.2.喪失分)、三菱汽船 さんくれめん丸(1943.7.喪失分) 今日はここまで。
さて、先日の続き。 三菱汽船 さんじえご丸(7,269総トン/1928年竣工/1944年徴用解除/1961年解体)、三菱汽船 さんるいす丸(1945.1.喪失分)、 三菱汽船 さんぺとろ丸(1944.6.喪失分)、三菱汽船 さんらもん丸(1944.1.喪失分)、三楽丸(3,000総トン/1943.6.15.USS Troutによる雷撃)、 神戸桟橋 神國丸(1944.3.喪失分)、日東汽船 昭洋丸(1943.12.喪失分)、第一鷹取丸(878総トン/1944.7.1.木浦でUSS Tangによる雷撃)、 三菱汽船 たらかん丸(1945.1.喪失分)、日東汽船 帝洋丸(1944.8.喪失分)、日本製鐵 泰南丸(1943.11.喪失分)、 川崎汽船 建川丸(第二建川丸のことか?10,009総トン/1944.3.24.ミンダナオでUSS Gurnardによる雷撃/第二なら1945.2.喪失分)、 五洋商船 照川丸(1944.2.喪失分)、飯野海運 東亜丸(1944.1.喪失分)、日東汽船 東栄丸(1943.4.喪失分)、 岡田商船 東園丸(1943.4.喪失分)、飯野海運 東邦丸(1943.5.喪失分)、日本海洋漁業 第二図南丸(1944.8.喪失分)、 日本水産 第三図南丸(1944.2.喪失分)、山鶴丸(3,651総トン/1938年建造/1944.1.14.紀淡海峡沖でUSS Seawolfによる雷撃)、 飯野海運 雄鳳丸(1945.1.喪失分/1TM) 以上、A船、B船となった海軍徴用油槽船ですた。 次いで、重複になるかも知れないけど、1TL、1TM、1TS、2TL、2TM、2TEdまで詳細が分る限り挙げていきまする。 3TL以降は記録無く不明。
とりあえず、今日は1TLだけ。 ひかし、保守行為が荒らしになるのなら、こういった閑古鳥スレはどうすればいいのやら。 天津丸(竣工1943/1944空襲で沈没)、梓丸(1944竣工/1944潜水艦により沈没)、日本油槽 八紘丸(1944.12.喪失分)、 極邦丸(竣工1944/1944潜水艦により沈没)、日東汽船 久栄丸(1944.2.喪失分)、三菱汽船 みりい丸(1945.1.喪失分)、 飯野海運 南邦丸(1944.3.喪失分)、日張丸(1944竣工/残存?)、飯野海運 日邦丸(1944.12.喪失分)、 大峯山丸(1943年竣工/残存?)、大多喜山丸(未成/特1TL)、日東汽船 良栄丸(1945.3.喪失分)、 國洋汽船 清洋丸(1944.8.喪失分)、石原汽船 しまね丸(1945竣工/特1TL/1945.7.24.空襲により高松近郊で撃沈)、 大鵬山丸(1943年竣工/1944.潜水艦により撃沈)
267 :
263 :04/02/16 23:35 ID:???
そんな事言わないでくださいよぉ、レスつけるほどの知識が無いもので
頼ってばっかりなのは悪いと思うのですが…
んじゃ、上記の船名から見る分類と称して(笑
大型タンカー(真珠湾に付いていったようなヤツ)
:飯野海運、石原汽船、日本油槽のような新興中堅海運や石油会社系、三菱汽船、山下、三井のような輸入商社メイン
小型タンカー(近海向け)
:共栄のような石油メーカーや、2ET量産にともない、大手海運の子会社に多い
漁船改装w
:おなじみ図南丸、第二図南丸、第三図南丸、日新丸&第二日新丸、極洋丸といった捕鯨母船
日本水産の厳島丸のような、母船式漁業の洋上補給(給油)船の流用
応急油槽船
:全然知らない会社の船w
>>261 にあるような、修理中に船倉をタンクに改装したものや、ドラム缶輸送にあたったもの(有馬丸など)
建造中のK型(日産系のもの)などを臨時に改装したもの。
あと、大多喜山丸は大滝山丸だと思われ
>267 ありがとぅっ!(谷村風に) 応急油槽船は末期には結構ありそうですね。 「戦時戦没商船の記録」(題名はうろ覚え)という本を買いたいのですが、価格が高くて なかなか手が出せませんで…。 保守ついでに、上でもちょこっと書いてありますが、修理船舶の増加で、ドックがかなり 払底し、定時検査とかが出来なくなっていたので、故障の方も増加しているようで。
今日は1TM。 石原産業 あさなぎ丸(1944.8.喪失分)、あさしほ丸(1944.5.喪失分)、日東汽船 万栄丸(1945.1.喪失分)、墨栄丸(竣工1943/1944座礁)、 飯野海運 栄邦丸(1945.1.喪失分)、第二栄洋丸(1944竣工/1944航空機攻撃により喪失)、緬栄丸(1943年竣工/残存?)、 睦栄丸(1943年竣工/残存)、にちなう丸(1943年竣工/残存)、隆栄丸(1943年竣工/1944潜水艦により喪失)、飯野海運 神鳳丸(1945.2喪失分)、 三菱汽船 たらかん丸(1945.1.喪失分)、天南丸(1943年竣工/1943潜水艦により喪失)、飯野海運 雄鳳丸(1945.1.喪失分) この辺は当て字も多いので、資料的価値は少なし(苦笑。
270 :
263 :04/02/23 23:11 ID:???
>>268 >~ドックがかなり
払底し、定時検査とかが出来なくなっていた
>
この辺は、戦時特例で定期検査の間隔延長を認めたのも一因かと。
もちろん、ドックスケジュールの問題が背景にあるんでしょうが、配船管理が上手く
できなかったのも影響していると思います。
また、この定期検査そのものは、既存造船所だけでなく、新造造船所や中小造船所、
沖仲仕に割り振ろうとした雰囲気も感じられるのですが、これらのリソースが新造船建
造に吸い取られてしまったのが(泣
また、安定運航を行うために適度な休憩(整備)をとることよりも、腹痛(故障)抱
えても走らせ続けるといった経営姿勢も見えなくもないですね。
1)士官、予備士官操縦者 経験4年以上 経験2~4年 経験2年以下 1941年 25% 33% 42% 1942年 22% 36% 42% 1943年 14% 29% 57% 2)特務士官以下 経験4年以上 経験2~4年 経験2年以下 1941年 21.5% 27.5% 51% 1942年 17% 21% 62% 1943年 9% 12% 79% さらに整備能力の低下で稼働率も悪化していたので航空防備も手薄だったと言えるでしょう。 [参考文献]陸戦研究H10年4月号掲載論文「基地航空部隊はなぜ決戦前に敗れ去ったのか -マリアナ諸島防衛の前提となる帝国海軍航空部隊崩壊についての一考察」より
…とりあえず、今日は1TS(判明分)。 第三共栄丸(1,189総トン:1941竣工/1944 潜水艦攻撃により喪失) >270 確かに、走らせれば儲かりますからね(撃沈されない限り)。 ただ結果的には脚を引っ張ったところがあった模様です。 >271 東大出版会の本に戦時経済を論じた本がありましたね。 買おうと思ったけど、日本郵船船舶百年史を買ってしまった。 Veteran士官が払底しているのって、指揮官先頭の影響もあったのでしょうか。 士官以外でも労働人口もぎりぎりだったので、なかなか生産向上に結びつくものは無かった様ですね。
273 :
233 :04/02/29 23:40 ID:???
鉱山関係の文献探しに行ってみましたが、現場末端では一斗缶かもっと小さい缶(今でいう1kg缶)で流通していた模様です が、鉱山の建物の配置図面を見ると、カーバイト倉庫と言う記述もあり、裸積みもあったような・・・・ 鉱山関係の日記的記録にもカーバイトの倉庫に受け取る記述があります (銅鉱山で太平洋戦争時には閉山してたらしいので、参考的なものにしかならんですけど) 鉄道貨車にもカーバイト用バラ積み貨車があるようなので、船舶にはバラ積みしてたのではないかと思われます ガクブルですね 本来は木造船に積むものじゃない・・・
>273 ホント、ポカーンですね。 そう言えば、戦時中金属供出で、エレベータまで撤去した時代、一斗缶とか そう言うドラム缶の様なものは民間に出回っていたのでしょうか。 また分かんないことが出てきたぞ(苦笑。
275 :
693 :04/03/05 22:31 ID:???
確かにドラム缶が前線で足りないといった話はあまり聞きませんね (ガ島輸送でトラック中になるドラム缶をかき集めて洗ったとかいう話はあるが) 一斗缶の場合も同じように、あるところにはあったんじゃ無いでしょうかね。 そこまで品質が問われるものでは無いですから、飛行機工場やらのジュラルミンの 削りカスなどのクズ金原料だったら意外と、枯渇はしそうにないですが。。。 飯盒なんかは、このクズ金が原料だったような、違ったような。。。
保守
保守
う~ん、このまま戦時標準船の船名を書き続けても…どうしようかな。 小艦艇スレで出てきそうだし、何かかち合いそうなので、方向転換しますか。 ドラム缶の話で、石油関係の話に切り替えてみますかね~。
279 :
263 :04/03/13 02:07 ID:???
>>278 それじゃ、とりあえずは石油の話ででも
海上護衛戦と言うよりかは、戦時物流と言った方が適当かも知れませんね(苦笑
ついでに保守age
>279 わはは、確かに戦時物流スレになっちまうか…。 さて、最初に、企画院で試算した検討資料から紹介しますかね。 これは開戦前に人造石油生産に関して作成した資料で、二種類のケースを想定しています。 (ケース1:対英米開戦の場合/単位:万キロリットル) (ケース2:開戦せず臥薪嘗胆した場合) 開戦第一年 開戦第二年 開戦第三年 第一年 第二年 第三年 人造石油 30 40 50 30 40 70 国産石油 25 20 30 36 40 44 蘭印石油 30 200 450 小 計 85 260 530 備 蓄 690 690 残 高 0 255 15 合 計 775 515 545 ---------------------------------------------------------------------------------- 民 需 140 140 140 180 180 180 軍 需 380 360 335 ---------------------------------------------------------------------------------- 合 計 520 500 475 残 高 255 15 70 ちなみに、第二案の軍需は100~140万キロリットルの消費を想定しています。 つまり、臥薪嘗胆のケースでは、石油禁輸が続いた場合、第三年までは辛うじて民需を保ちうる ものとなり、軍需も第三年末には需給困難となる。 更に、人造石油の実用化にはまだ多年を要し、全部の経営資源を人造石油に集中したとしても、 恐らく7年は掛かるだろうと推定しています。
一方、南方原油の生産高は、1940年の産油額で言うと…。 総額:9,969,655トン うち、蘭印:7,939,000トン(79.5%)+ビルマ、北ボルネオなどの英領:2,030,665トン(20.05%) 蘭印の内訳は、スマトラ:5,208,700トン(52.2%)+ジャワ:839,500トン(8.4%)+セヲム:93,250トン(0.9%)+ニューギニア:4,400トン+南ボルネオ:1,793,150トン(18.0%) 英国の内訳は、北ボルネオ:932,481トン(9.3%)+ビルマ:1,098,184トン(11.0%) スマトラは南スマトラ地区:4,287,950トン(43.0%)と北スマトラ地区:920,750トン(9.2%)に分けられ、 南スマトラ地区には、パレンバン:3,077,550トンとジャンビー:1,210,400トンの各油田がありました。 またジャワ地区には、レンバン:688,500トンとスラバヤ:151,000トンの各油田があり、 南ボルネオ地区には、サンガサンガ:983,900トン、タラカン:809,250トンの各油田が、 北ボルネオ地区には、セリヤ:764,006トン、ミリ:168,475トンの各油田がありました。 さて、1941年9月17日、陸軍の辻政信中佐、種村佐孝中佐が軍令部に赴き、「対英米 蘭戦争指導要領」、「占領地行政指導要領案」を説明し、軍令部の神重徳中佐、藤井 茂中佐、小野田捨次郎中佐はこれを承認します。 この時決定された軍政区分は、以下の通りです。 海軍主担当区域(陸軍副担当):蘭領ボルネオ、セレベス、モルッカ群島、小スンダ群島、 ニューギニア、ビスマルク諸島、グアム島 陸軍主担当区域(海軍副担当):香港、比島、英領マレー植民地、スマトラ、ジャワ、 英領ボルネオ 上記の産油量とは偉い違いで、しかも、油槽船保有量たるや、海軍約16万総トン、 対する陸軍は約1.3万トンでしかありません。
軍令部第二部四課が、上記区分を聞いた後、神中佐を突き上げましたが、後の祭り。 交渉すればするほど、陸軍の態度は頑なになりました。 そこで、海軍は裏道を考え、「南方石油開発局設定案」というのを出して骨抜きを狙いますが、 陸軍参謀本部が強硬に反対し、逆に過剰油槽船を吐出せと要求、海軍はFS作戦の遂行を楯に 是を拒否と、1942年4月から5月にかけて泥仕合が続きます。 この争いはその後も尾を引き、1942年度には、スマトラ地区から石油は産出しないと言う前提の 下、タンカーを一切配船しないと言うことも行なわれました。
さて、1942年1月28日、とりあえず、海軍はバリックパパン製油所を占領します。 設備は可成り破壊されていたものの、速やかに復旧され、12月末には製油能力年産140万トンと 戦前の能力を取り戻します。 2月13日、サンガサンガに到着し、復旧作業を開始しました。 3月に第102海軍燃料廠が発足。 5月から復旧作業は本格化し、5月末には蒸留装置1基が復旧しました。 この蒸留装置での製油は、精溜が予想以上に良好で、直接航空ガソリンが製造出来ることが 判明し、サンガサンガ原油の残渣油(含蝋重油)とタラカン原油(重油規格)を混合した製品は、 使用に耐えうるものとして、現地処理を開始し、航空ガソリン、自動車用ガソリン、重油、航空 合成潤滑油、一般潤滑油を供給し、しかも、陸軍地区の余剰原油を用いて陸軍向けの潤滑油、 トランスフォーマー油を供給しています。 しかし、不思議なことに、精油部では常識だったボルネオ原油が航空ガソリンに適していることを 誰も知らないという話もありました。 また、残ったタンク二基には高オクタン価の航空ガソリンがそのまま保管されており、これがその まま珊瑚海海戦の際に用いられたそうです。 陸軍の方は予想に反して油田は破壊されておらず、ミリ・セリヤの各油田はほぼ無傷で手に入りました。 しかし、パレンバンは川を遡行しなければならず、当時のタンカーでも現地に行けないのがネックとなり、 また、貯蔵施設が間に合わず、灯油、自動車用ガソリンは捨てたこともありました。 このため、内地から海軍基地のタンク33~35基を解体、現地に移設することになりましたが、敵潜水艦の 雷撃などで相当数が喪われています。
284 :
263 :04/03/16 23:06 ID:???
>>283 それでは、パレンバンへ行く為、ムシ川を遡行できるように選定されたのがTM型(中型タンカー)、パレンバン~シンガポールをTM型で、
シンガポールからの本土環送を担当するのがTL型といった役割分担を当初は考えていた、、、みたい。。。
さて、本文中にある陸海軍の作戦地域(油田)分担ですが、戦前に海軍の輸入していた地域が、ボルネオ系中心であった事が、スマトラ他の油
田の存在を失念し、すんなり渡してしまったのだろう、といった推測もされていますw
また、「精油部では常識だった~航空ガソリンに適していることを誰も知らない」に関しては、石油技術者は産油地毎の油質を見るのに対し、
一般消費者(これには陸海軍も含みます)は、精製製品、つまり精油地(生産地)を見るといった違いがあります。石油を輸入すると言っても、
原油のみを輸入していたわけでなく、完全な精製後の製品(潤滑油や航空ガソリン)、半製品(粗精製品、ナフサなど)と多種にわたっていたた
め、よほど詳しい人でない限り、輸入品は揚荷地(港の名前)でしか、石油の評価をできなかったのではないかと思います。
>284 レスサンクスコ。 と言うか、さんざ言われていることなのですが、作戦地域の確定には第一課の連中しか関わって おらず、第二部四課の様な縁の下の力持ちが疎外されたことにあるのではないかと思うです。 領土さえあれば、と言う感じではないでしょうか。 ただ、1941年10月29日に企画院、陸海軍共同で、還送見込とかを計算しているのですよね。 この辺謎ではありますね。
286 :
263 :04/03/20 23:55 ID:???
なぜかアク禁が出てレスれなかった。。。 第一課は作戦計画・艦艇整備の大元だったような、、、 領土と言いますか、対米戦に必要な航路も泊地も全部海軍担当だしぃ、今輸入しているボルネオ油田 もあるから、迎撃作戦には無問題アルね ぐらいの間隔で了解しちゃったのかもれないですね。 単に、占領作戦だけ考えていて、行政指導の部分をスッポリ忘れていた可能性も有るけれど <神中佐なら(爆 あと、環送見込みに関しても、海軍としては全然問題無いと考えていたかもしれません。 海軍がタンカー建造・運航に助成をしていても、そのほとんどは艦艇用重油なので、送り先が国内に なるか、トラック環礁になるかの違いで、(戦前では)海軍雇船以外のタンカーだけで民需が一応満た されていた事を見れば、会議の内容も「ははぁ、これだけ石油を(民需用タンカーで)送り届ければ良 いのですな」で納得しちゃうかもしれません。 また、石油環送は海運よりも国内物動として石炭とセットで語られるべき事、海務院が出来た事で民 間海運指導が海軍と二元化するのを避けた節もありますから、担当者としては、危険海域では護衛を出 すように前向きに善処します以上の発言に至らなかった可能性もあります。
1941年10月29日の陸海軍共同研究での、南方石油の還送は以下の通りでした。 第一年目:蘭印(ボルネオ)から30万キロリットル(陸軍側10万、海軍側20万キロリットル) 第二年目:ボルネオから100万キロリットル、スマトラ南部から75万キロリットル、北部から25万キロリットル、合計200万キロリットル。 第三年目:ボルネオから250万キロリットル、スマトラ南部から140万キロリットル、北部から60万キロリットル、合計450万キロリットル。 実際は、1942年2月28日の時点で、タラカン、サンガサンガの海軍油井から、年末まで45万トン、能率を上げれば、60万トンの採油が 可能という報告があり、陸軍の方も、4月20日の時点で、120~170万トン増加で、油槽船不足が問題となっています。 是を受けて、1942年4月の企画院による一カ年見込では、タラカン20、サンガサンガ60、スマトラ200、ジャワ20など合計360万キロリットル に上方修正され、スマトラ地区の復旧が予想以上に進んでいることが判明しましたが、反面、油槽船不足が顕著になっていました。 ちなみに、この時期の民需は140万トンの割当てでしたが、是を受けて、190万トンに変更されました。 実際は、推定が入っていますが、 1942年 1943年 1944年 見 込 量 30 200 450 還送実績 167 231 79 海軍取得量 37 82 58 となっています。
Sir 良スレageであります。 Sir アメリカからの石油禁輸が開戦に至った理由なのに 占領地域の産油状況を全く把握し切れなかった(生かされなかった)のには 開いた口が塞がりません。 国のためという考えが全く欠如しており 所属する組織(陸軍海軍)権益優先というのが 改めて認識させられました。
>288 と言うか、正直予想し切れませんでしたってところでしょうか。 日本の油井は小規模ですし、油井の経営をした訳ではないですので、経験も不足していたでしょう。 正直、どれくらいの産油量なのか、精油したらどれくらい残るかと言うのは想像出来なかったのかも しれません。 と言う訳で、石油の消費はどうなったのかを見てみましょう。(単位は万キロリットル) 1942 1943 1944 1945 ------------------------------------------------- 消費見込量 280 270 250 --- 海軍 消費実績 483 428 317 57 実績/見込量 1.7 1.6 1.3 ---------------------------------------------------- 消費見込量 100 90 95 --- 陸軍 消費実績 92 81 67 15 実績/見込量 0.9 0.9 0.7 ---------------------------------------------------- 消費見込量 140 140 140 --- 民間 消費実績 248 153 84 9 実績/見込量 1.8 1.1 0.6 上記表から言えるのは、海軍の石油消費量の異常なまでの突出です。 陸軍、民間とも、出来るだけ計画値に合わせて来ているにも関わらず、海軍が思いきり石油を消費しています。 当初、海軍の消費見込280万キロリットルの内訳では、重油20万キロリットル/月、航空揮発油2.5万キロリットル/月、 その他諸油0.8万キロリットル/月でした。 この数字の基礎となったのは平時の消費量で、重油消費量は平時の2.5倍、航空揮発油の使用量は平時の4倍で計算 していましたが、実際には、重油消費量は30万キロリットル/月となって平時の4倍、航空揮発油に至っては、6万キロ リットル/月と平時の7~8倍に相当しています。
この原因は、海軍の見通しの甘さにあります。 浪費をしまくっているにも関わらず、1942年上半期には民間に60万キロリットルを支援したり。 流石に、後半期には供出を打ち切っていますが…。 で、この齟齬の原因ですが、この消費量計算をしていた参謀の頭では艦隊運動の何たるかが理解出来ていなかった としか言えません。 即ち、燃料の消費量は速度の二乗三乗に比例すると言うことです。 例えば、原速ならば12ktsで航行するところ、戦闘状態では第四戦速の24ktsと言った速度で航行しているのが常態で あれば、燃料消費量は増えます。 また、巡航タービンの使用せずに航行するのも常態化していたようです。 例えば、金剛の場合、12Ktsで平時の巡航タービン運転で航続距離15,100海里ですが、18Ktsでは9,300海里になり、 全速30ktsでは全主軸4軸運転で3,000海里、ちなみに、巡航タービン運転と全4軸運転では燃料消費量に1:2の差が あります。 この金剛の重油積載量は、6,279tです。 ちなみに、このほかの軍艦では、長良、球磨、加賀が、原速(12kts)との対時間比燃料消費量では、24ktsなら凡そ5倍強、 32Ktsで凡そ17倍に達し、川内では、24ktsなら凡そ5倍弱、32ktsで14.5倍、天龍、赤城、夕張では、24ktsなら凡そ5倍、31ktで 11.5倍、蒼龍では、24ktsで4倍、32ktsで11倍、34ktsで17倍弱に達します。 こういった要因、特にMidway海戦で大量の重油を消費した関係で、実需に見合う形で、1942年度の石油物動計画は修正され ます。 供給力 約910万キロリットル(在庫550+国産60+南方期待300) 需要 約520万キロリットル(陸軍100+海軍280+民需140) 改訂後需要 約720万キロリットル(陸軍130+海軍360+民需230)
ところが、改訂後の石油物動計画でも…。 海軍の重油消費量は25~26万キロリットル/月で計画していましたが、 8~10月の作戦で、30~34万キロリットル/月となり、計画を超過。 このまま推移した場合、民間のみならず、海軍の石油備蓄は枯渇します。 これを補填する為には、南方原油の内地還送量は最低約35万キロリットル/月に しなければならないのですが、現有油槽船を総動員しても20万キロリットル/月しか ならず、1943年度初頭には約20万総トン分の油槽船が必要となり、12万総トン分を 新造し、残り7万総トン分は改造で補うこととすると言う状況になった訳で…。
>>289 >>で、この齟齬の原因ですが、この消費量計算をしていた参謀の頭では艦隊運動の何たるかが理解出来ていなかった
>>としか言えません。
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└-'´ '.-"
月刊モデルグラフィックスという模型雑誌で戦時中の輸送船等を模型で再現するという企画があります。 以下リスト 2001年8月号「宏川丸」「九州丸」「那古丸」「神川丸」、9月号「山陽丸」「神川丸」 2001年10月号「護国丸」「報国丸」、11月号「靖国丸」「照国丸」「日枝丸」 2001年12月号「阿波丸」「新田丸」、1月号「安芸丸」「三池丸」「阿波丸」 2002年3月号「摩耶山丸」、4月号「鬼怒川丸」「最上川丸」 2002年6月号「山月丸」「慶洋丸」、7月号「せりあ丸」「延長丸」 2002年8月号「球磨川丸」「五洋丸」、9月号「香椎丸」「清澄丸」 2002年11月号「金華丸」「聖川丸」 2003年1月号「ぶえのすあいれす丸」「りおでじやねろ丸」、2月号「高栄丸」「新興丸」 2003年3月号「華山丸」「長寿山丸」「北京丸」、8月号「にぎつ丸」「あきつ丸」 2003年9月号「神川丸」「聖川丸」「君川丸」「国川丸」、10月号「長良丸」「能代丸」 2003年11月号「能登丸」、12月号「浅香丸」「粟田丸」 2004年1月号「相良丸」「佐渡丸」、2月号「南海丸」「山陽丸」 2004年3月号「平安丸」「氷川丸」、4月号「雄鳳丸」「ありあけ丸」 2004年5月号「久川丸」「江戸川丸」 保守替わりにでもと…スレ汚し失礼します。
>293 保守サンクスコでつ。 さて、⑤計画について少し述べてみませう。 ⑤計画自体は、本来④計画に次ぐ、1940年実施の年度計画だったのですが、その決定は遅延し、 その間に○臨、○急、○追が1941年に相次いで追加され、更に出師準備、臨戦準備の各計画の 混乱の中で、1942年度計画として承認、後に改⑤、⑥計画が追加、検討されています。 ⑤計画は159隻65万トン(戦闘艦艇94隻、54.1万トン)、⑥計画は197隻80数万トンとなり、1948年3月 までに対米3分の2を実現出来る予定でした。 その⑤計画の燃料⑤計画は1942年7月で、この燃料計画は1946年度末に完了する予定でした。 その目標は、南方油から、原油350万キロリットル、重油300万キロリットルを入手し、缶用重油に原油から 240万キロリットル、重油から260万キロリットルの合計500万キロリットル。 原油残り80万キロリットルから航空揮発油70万キロリットル、重油40万キロリットルから二号重油40万キロ リットル、南方から航空揮発油を25万キロリットル、そのほか、イソオクタン30万キロリットル、メタノール 25万キロリットルから航空揮発油を同量、オイルシェールから二号重油18万キロリットルを確保しようと言う ものです。(なお、南方原油は海軍担当地区から200万トン(原油140万、重油60万)、陸軍担当地区から、 475万トン(原油210万、重油210万、航空揮発油25万)を確保する予定でした。 陸軍、民間を合わせた全体では、2,000万トンの燃料を確保する必要がありました。)
この結果、缶用重油500万キロリットル、二号重油58万キロリットル、航空揮発油150万キロリットルが確保 出来るとされていました。 しかし、内地の海軍の石油精製能力は四日市の第二海軍燃料廠、徳山の第三海軍燃料廠を合わせて140 万~150万キロリットル/年だったため、到底足りません。 そこで、台湾に年産処理能力80万トンの第六海軍燃料廠を建設することになりました。 また、イソオクタン製造工場は12工場を建設、メタノールは9工場を建設、添加用の四エチル鉛生産のために、 4工場を建設、その中間材の臭素生産の為に3工場を新設することで、目標を達成することとしています。 更に、液体燃料貯蔵関連施設として、重油タンク65万トン、揮発油用タンク20万トン、ドラム缶90万個の生産が 計画されています。
そろそろあげた方が良いのかなぁ。 少々お待ち下さい。
Sir! 眠い人殿、乙であります! Sir! なお、保守ついでに敢えて一言カキコさせていただきます!! 「うわ~、すっげー行き当たりばったり」
>297 はい、ホント、行き当たりばったりで…。 ただ、戦況がその計画遂行を妨げたのは事実で、鶏が先か、卵が先かの議論になってしまうですね。 ガ島撤退後、1943年3月に海軍は改⑤計画を策定します。 これには第一案と第二案の二つからなり、前者が現実案、後者が希望案です。 1943年 1944年 1945年(1) 1945年(2) 1946年 1947年 航揮取得見込量(万kl) 54 90 120 180 150 200 稼働機数 5,450 8,100 9,700 14,600 10,100 13,600 航本計画保有機数 7,500 13,100 18,700 18,700 保有機数に対する稼働機数の割合 72.7 61.8 51.9 78.0 要は、航空揮発油が、第一案では120万キロリットルの生産で、それを利用して飛行出来る機体数が9,700機 ある、即ち、全保有機のうち、51.9%が飛行可能であるとしています。 対して、第二案では、1945年度には180万キロリットルの生産として、これによって、稼働機数が14,600機に増え、 全保有機数のうち、78%が飛行可能とすることが出来る、と言うものでした。 ちなみに、航空関係の石油製品は、 1944年度 1945年度(第一案) 1945年度(第二案) 所要量 生産量 充足率 所要量 生産量 充足率 所要量 生産量 充足率 航空揮発油 145 90 62% 230 120 52.2% 230 179 77.9% メタノール 14.5 3.4 23% 23 11.4 49.6% 23.9 16.4 71.3% 航空潤滑油 5.8 2.9 50% 9.2 6.1 66.3% 9.2 7.1 77.1% 耐 爆 剤 0.3 0.2 66% 0.48 0.28 58.3% 0.48 0.4 83.3% となります。
あちゃ、ずれた。 両者を比較して、随分と楽観的な数字になっている訳で、産油については、陸軍担当地区で、 1,305万キロリットル、海軍担当地区で140万キロリットル、国内産55万キロリットルで、外油の 内地還送量は、640万キロリットルになっていました。 ところが、例によって鋼材割当て問題が浮上し、1943年度の普通鋼の見積所要量が18万5,920t に対して、実際の割当は11万3000tしかなく、特殊鋼に至っては、7,450tの所要量に対し、2,089tしか 割当てられていません。 次回は第三段作戦の軍備計画と燃料戦備について。
300 :
297 :04/04/12 11:49 ID:???
眠い人殿 G J !
>>299 >例によって鋼材割当て問題が浮上し
出たぁっ、日本のアキレス腱(鬱
>300読んで、つい心の中で「全身アキレス腱・・・なんか筋肉少女帯とか、そういうのか?」とかつぶやいてしまターリ
良スレDAT寸前につき、保守上げ。
鉄だけじゃない。 アルミも、 マンガンも、 タングステンも、 石炭も、 石油も…全てアキレス腱だな。 でも、一番のアキレス腱は……… 戦争指導者のオツムの中だったのかも。
閑話休題。 今、「日本陸軍「戦訓」の研究」と言う本を読んでいますが、上手く情報を生かし切れてない ところがありますし、結局精神論かよっ!と言う部分が多くて(涙。 本題は少々お待ち下さい。
>>290 官民ともにだが、官僚的組織における計画策定ではとんでもない理不尽が起きる。
私見だが、参謀1人の無知というよりも、平時の250%増しという数字は、
海軍内部での摺り合わせと、陸軍・政府との折衝で決まった可能性もあるのでは?
(参謀がアフォとしても、チェック出来ない組織はもっとダメぽ。)
物理法則的に見て燃料消費が増えるという、それ自体は合理的な事を、
船に無知な陸助や数字合わせに必死な文官に納得させるのはしんどいだろう。
400%増しとすれば相手は「石油欲しさ」のメイキングと見なすだろうし。
「公物と思う心はすでに敵」
戦争指導なき大戦争たる所以かな。
さて、随分間が開いたりしてるけど、今回は第三段作戦に関して。 これは、1943年9月に策定されたものですが、まず、 1. 重油、軽油、灯油、普通揮発油よりも航空揮発油を優先し、航空揮発油のためなら、他の部分が犠牲になっても良い 2. その前提として、昭和18年度物動計画に記された物資の確保 3. 内地外地共に、1943年1,100万キロリットル→1944年1,300万キロリットル→1945年1,500万キロリットルを確保する。 1945年の1,500万キロリットルの内訳は、南方還送原油630万キロリットル、精製済みの石油製品355万キロリットル、その他が 内地産原油や人造石油としていました。 即ち、南方還送石油製品、原油は月平均に均すと約82万キロリットルとなり、これを輸送するにはタンカーが90万総トン必要で あり、そのタンカーを整備する為に、普通鋼材が1943年度285,000t、1944年度301,000tが必要とされています。 本当は航空揮発油180万キロリットルが必要だと言いたかったのですが、流石にそれは我慢したようです。 ところが、戦争は激しさを増し、商船の撃沈は引きも切らず、石油に関してみれば、南方還送実績は約260万キロリットル、つまり、 予定の3分の1強しか入りません。 これでは、航空揮発油150万キロリットルなど、夢の又夢。 それでは、身の丈に合った輸送計画を立てるべぇと、やっと目が覚めたのが、昭和19年度燃料計画。 これは、 1. 夢を見るのを止めましょう。現実に即した数字で計画を立てましょう。 と言う訳で、南方油還送量は、年間300万キロリットル(航空揮発油60万、普通揮発油26万、重油120万、原油94万) とする。 2. 南方で精製した石油製品を極力入手する様にし、原油の入手は二の次とする。 3. 但し、石油製品生産施設は当面、航空揮発油150万キロリットル製造案を踏襲し、その整備については順位付けを 行う。 と言うものです。
先週の続きで、昭和19年度燃料計画について。 年300万キロリットルの石油製品を中心とした南方油還送は、タンカーの被害を月間3万トンと見込み、 その還送油についても、「民需の最低限を確保」をした後、内地での陸海軍の比率を以下のように決めます。 1. 毎四半期75万キロリットル以下の場合は、陸軍:海軍=1:1.2 2. 毎四半期50万キロリットル以下の場合は、別途協議 3. 75万キロリットル以上の場合は、超過量に対し、陸軍:海軍=1:2 4. 日満産油は、海軍に頁岩油を潜水艦用として、年10万キロリットル、民需用約24万キロリットルを確保した後、 陸軍:海軍=2:1.3 ちなみに、南方現地配分では、供給力404.6万キロリットルを陸軍:海軍:民間=1:2.6:1.1としました。 これによって、南方では、海軍は224万キロリットルを確保出来ます。 さて、この計画が如何に砂上の楼閣であったかを1944~45年の実際の還送量で見てみましょう。 1月/22.4万キロリットル 2月/30.2万キロリットル 3月/14.8万キロリットル 4月/22.3万キロリットル 5月/11.9万キロリットル 6月/17.2万キロリットル 7月/8.7万キロリットル 8月/22.0万キロリットル 9月/12.2万キロリットル 10月/3.7万キロリットル 11月/9.3万キロリットル 12月/12.6万キロリットル 1月/0.0万キロリットル 2月/0.0万キロリットル 3月/8.9万キロリットル え~っと(^◇^;)って感じですね。
ちなみに、ケ号作戦後から1年後の1944年2月、海軍の航空燃料保有量は、内地に91,000キロリットル残。 あ号作戦での第一航空艦隊の出撃所要燃料は45,000キロリットルを見込んでいたので、残りが46,000キロリットル。 これで月々の作戦、訓練用に消費する燃料が、20,000キロリットルとすると、計算上、5月、6月には海軍航空機を 動かす燃料無しという状況になります。 そこで、3月初頭、陸軍整備局に対して海軍兵備局は、 1. 陸軍は航空揮発油15,000キロリットルを三月に海軍に融通する。 2. 諸般の情勢により、4月以降15,000キロリットル以内を融通することを考慮する。 と言う申し入れを行いました。 しかし、この融通は海軍側の事情(2~3月の還送実績の好調、消費抑制により、3月の 保有量は64,000キロリットルであったこと)で、Cancelされましたが、6月に、性懲りもなく 再度、15,000キロリットルの融通を申し出ています。 流石に、陸軍はこの要請を蹴っ飛ばしていますが…。 この時期の海軍航空揮発油在庫量は、以下の数値になっています。 2月1日/9.1万キロリットル 3月1日/6.4万キロリットル 4月1日/3.1万キロリットル 5月1日/1.8万キロリットル 6月1日(見通し)/在庫無し 即ち、海軍の南方展開というのは燃料事情からやむを得ない事であったことが分ります。 南方での重油供給は内地の50%増し、航空揮発油供給に至っては内地の倍となっています。
最後に、陸軍の航空揮発油入手状況は以下の通り。 要求量 入手量 充足率(単位 万キロリットル) 1941年 18 23 128% 1942年 22 36 172% 1943年 36 43 119% 1944年 48 36 75% 1945年 48 4 8% 陸軍航空隊の場合、1943年後期から訓練用燃料に支障を来し始め、1945年4月には1ヶ月24時間(実質7~8時間) の飛行時間制限を受け、尚かつ、潤滑油などが不足し、稼働率低下に拍車を掛けています。 次回は、ジリ貧の石油還送と断末魔の状況について…。 上手く行けば、明日、疲れていれば、GW後半に…。 それまでスレがあれば。
311 :
263 :04/04/30 22:52 ID:???
保守作業お疲れ様であります! やっと新入社員研修が終了したので来週ぐらいからお手伝い(揚げ足取り?)が可能であります 圧壊しないように保守age
質問です。 タンカー被害3万トン/月という根拠はそもそもどこから沸いて出たんでしょうか? 随分と楽観的というより希望的観測に思えるのですが? まるで、チョコレートを砂糖水に溶かして、甘い絵を描こうとしているような…? ……まさか、数字合わせのインチキ予想?
>312 ちとこれだという資料が手元に無いのですが…。 タンカー被害月間3万トンというのは、昭和19年度燃料計画に明示されていた数字みたいです。 只、その基礎数値となっていたのは、昭和18年度物動計画が元になっていると思われます。 その物動計画たるや、「最早計画は希望的な数字を基礎にして運営される他無かった」と言わし める程のものであり、数字そのものは海軍の希望的観測という可能性があります。 さて、1944年にはいよいよジリ貧に成っていきます。 8月11日の最高戦争指導会議に於いて報告された「帝国国力の現状」、就中、「物的国力」に関しては、 1. 帝国物的国力は輸送力激減、在庫物資枯渇、民需圧縮の略々限度に達したため、1944年度初頭を 頂点として、爾後低下傾向にあり 2. 1945年度の物的国力は、空襲による影響を考慮外としても、1944年度に比べると更に相当低下する。 3. もし、南方資源の輸送が途絶すれば、国力の低下は加速度的に進行し、特に液体燃料の不足は爾後 戦争遂行に重大影響を及ぼす。 と言う認識をこの段階で、既に示しています。 会議の添付資料でも、結論として、 1. 開戦直前の見通しに対して、敵潜水艦による船舶の被害が予想外に増大し、造船量を遙かに突破して (以前このスレで指摘したように)、保有船腹は大幅に逓減。 2. 徹底的に重点を形成した軍需生産に於いても、1944年度初頭を頂点に爾後は低下傾向であることを 否定せず。 3. 1944年度末には、国力は弾撥性を概ね喪失するであろう。 特に、万一、南方資源還送が停止したならば、液体燃料の不足が輸送生産部門に対して正に致命的 な打撃を与えることになる。 と、南北分断を予期したような報告になっています。
その予想通り、10月には比島決戦に敗北し、10月28日、最高戦争指導会議にて「還送」と「日満支液体燃料生産」を 柱とした、「液体燃料確保対策に関する件」を決定します。 還送に関しては、1944年度下半期を75万キロリットルを努力目標とし、最小限でも、第三四半期を30万キロリットル、 第四四半期に20万キロリットルの確保を目標としています。 これに基づき、11月以降は護衛総隊の直接護衛は、石油還送を最優先とし、護衛艦艇と航空機の充実と、油槽船団 方式の採用に移行し、南方向け油槽船以外の南方向配船は極力圧縮することとなりました。 ちなみに、海軍軍需局の月頭報告の1944.12.8.付では、海軍としては「最低限度毎月重油四万トン、航空揮発油三万 キロリットルの還送油を必要とする」としていますが、11月の還送量は93,414キロリットルで海軍の取り分は5万キロ リットルに過ぎませんでした。 次いで、期待されたのが、日本、満州、支那を結ぶ狭い範囲の線からの燃料供給ルートですが、1944年10月に策定の 日満支液体燃料生産努力目標なる数字があります。 その後、軍需省で改訂された数字と、駄々っ子の様に、海軍軍令部が弄くった数字遊びと、最終的に決まった1945年 3月策定の1945年度液体燃料供給力の数字をも併せて挙げてみましょう。
(単位:キロリットル) 品名 1944年度下期 45年度当初案 同改訂目標 軍令部案 努力目標 確保目標 国産原油 150,000 310,000 375,000 600,000 375,000 330,000 人造石油製品 95,000 270,000 370,000 270,000 230,000 200,000 頁岩油 100,000 280,000 280,000 280,000 250,000 230,000 酒精(日本) 200,000 530,000 530,000 800,000 300,000 300,000 酒精(満州) 30,000 70,000 170,000 含上記 100,000 100,000 メタノール 20,000 50,000 50,000 50,000 60,000 50,000 松根油など低温乾溜製品 60,000 300,000 1,000,000 1,600,000 331,500 226,000 タール製品ピッチオイル 30,000 50,000 50,000 50,000 50,000 50,000 油脂類 40,000 100,000 200,000 200,000 15,000 10,000 軍令部案の焦りというか、希望的数字に頼るしかないというか…もう、泣けてきますね。 ちなみに、軍令部案は提案にすら漕ぎ着けられなかった訳ですが…。
1945年3月末、小沢治三郎海軍軍令部次長と、秦彦三郎陸軍参謀次長との間で、1945年上半期に内地に於いて 航空機燃料30万キロリットル、重油30万キロリットルの確保を図る為に、申し合わせが行われました。 これは以下の通り。 1. 航空機並びに特攻兵器用燃料を最重点とし、その他の燃料は右燃料確保により、支障を来すも之を忍ぶ。 2. 速やかに日満支の自給自足体制を確立する。 3. 支那大陸並びに台湾は内地に依存せず自活を図る。 4. 九月以降は地上施設が殆ど空襲により完全に破壊されることを想定し、空襲に関して最も強靱性のある施設の 完成を期す。 卑近な言葉で言えば、「無い袖は振れぬ。お前ら、適当にやってくれ。」と言う状況でしょうか。 更に下って、1945年6月8日の御前会議での「今後採るべき戦争指導の基本大綱」で、「国力の現状」は、 「戦局の急迫に伴い、陸海交通並に重要生産はますます阻害せられ、食糧の逼迫は深刻を加え、近代的 物的戦力の総合発揮は極めて至難となるべく、民心の動向又深く注意を要するもの有り。従って、これらに 対する諸施設は、正に一瞬を争うべく情勢にあり」 と、燃料よりも、食糧まで逼迫している状況が報告されています。 更に、海軍は沖縄特攻作戦で石油を使い切りました。 そこで、まだ本土決戦で備蓄のあった陸軍に航空揮発油2万キロリットルの譲渡を申し込んでいます。 (何か、こういうの見てると、語弊はあるかも知れないけど、海軍って、徹底的なさげまん女の様な気が してきた(苦笑)。)
海軍自前の燃料確保手段としては、この期に及んで以下のものに期待していました。 1. 撫順のオイルシェールは、1945年4月以降も月産5,000キロリットルを期待。 2. 海軍燃料廠、各軍需部のタンクに残っている油泥処理。 3. 松根油と大豆油。 4. 航空揮発油として、日本窒素の朝鮮興南のイソオクタン(月産1,000キロリットル) 同じく、海軍の取り分である、国産原油800キロリットルから採取。 5. 全国の酒造工場を動員して酒精を製造。 原料は、台湾の砂糖(月額約30,000tの酒精生産)、甘藷(秋には6億トンの実りを期待)、 馬鈴薯、満州雑穀の発酵。(ちなみに、満州雑穀は敗戦後の国民配給物資に使用され ました。) 6. 亜炭の乾溜、魚油から潤滑油の生産を実行。 こういう努力にて、1945年5月の「戦備状況」では、重油5,600tを生産、このほかオイルシェール からの生産と油泥処理とで消費量の80%を充足したが、航空揮発油に関しては生産量僅かに 1,400キロリットルとなっており、これは5月全消費量の7%にしかなりません。 あ、誤植ではなく、「万」という単位に至ってない訳で…。 こうした状況で、1945年6月の燃料保有量概算は…。 1. 航空揮発油:32,250キロリットル 2. 重油:13,000キロリットル 3. 酒精:6,000キロリットル で、需給の均衡は完全に崩れ、しかも、5月に第三海軍燃料廠が空襲で被災、新規生産の可能性無く、 結局は、消費を規制し、燃料を持続することに腐心することになります。 既に、1944年10月の段階で敗戦は決まっていたと言えるのではないでしょうか。
Y:「予想がロクデナシだと、計画がロクデナシになって、結果がロクデナシになる」 物事が巧くいかないときの黄金パターンだわな。 S:『速やかに日満支の自給自足体制を確立する』…… それが出来るなら端から戦争してません。 K:投稿者ってAA嫌いだから描かないそうだけど、「ホムーラン打たれて…」 そのものの気分だそうね。 投:うるせー、どーせ俺、Sより絵下手だよ(いじけっ) >航空燃料も枯渇 かくして、「鳥の詩」状態になるわけね(涙) (♪消える飛行機雲 僕達は見送った♪)
ほしゅ~
石油以前に、日本の食糧自給率が低いのは今に始まったことじゃなし 以下概略の数字 明治25年から国内生産だけでは米が不足し、中国産米を輸入していた 明治30年代の平均値での輸入量が43万トン 大正に入ると朝鮮半島からの移入が86万トン+中国および南方からの輸入が150万トン 昭和に入って輸入は減ったが、それは朝鮮半島と台湾での農業が軌道に乗り、移入なら国内輸送だから あと、この時期に朝鮮人の一人当たりの米消費量は減少し、日本人は増加している(半島の生産量は増えている) 昭和9年の実績値で移入量は朝鮮米150万トン+台湾米67万トン(本土限定のコメ自給率は8割前後) さらに太平洋戦争開始時には南方(タイ)から12万トン程度の輸入を行っていた
さて、前々からも書いていますが、再び船舶喪失について、書いてみましょう。 米国戦略爆撃調査団報告は最近、全部が再刊されたのですが、その中に軍人への尋問調書があります。 そのうち、野村吉三郎海軍大将、豊田副武海軍大将とも、南方からの補給路の問題を敗因として挙げています。 今更の感がありますが、当時は前に述べたように航空機の確保が最優先であり、船舶喪失の重大性の認識が欠けていた訳です。 眞田丈一郎陸軍少将の日記でもこれは述べられています。 彼は1943年3月時点で、補給船舶の沈没115万トン、損傷161万トンで合計277万トンに達していると書き、その2/3が潜水艦、残りが航空機 によって喪われたとしています。 更に、潜水艦による船舶喪失は年間62万トンと予想し、航空機に依る攻撃での喪失を加えると、概算で100万トンが喪われる、としていました。 その100万トンと言う数字は、3、4000名の人員と49万トンの資材が喪われる計算になります。 また、連合軍はHawaii、Sydney、Perthに潜水艦基地を設置し、連合軍基地が前進すると、前線までの距離が半減するので、稼働隻数は 倍増する。 1943年当時、太平洋の米国潜水艦は全部で120隻。 そのうち、前線で活動しているのは、1/3乃至1/4であるから、倍加すればその分前線への脅威が増す、とも書いています。 これを前提に、ガ島補給について次回書いてみましょう。
まず、ガ島の再奪回を目的として、30,000の兵力を投入しました。 しかし、糧食、弾薬とも不十分で、1942年10月と11月に、大型輸送船5乃至6隻を有する船団が組まれ、空海部隊による護衛が行われましたが、 米軍の攻撃により、軍需品80%を亡失する結果となり、糧食の割当ては普通1日6合の米を1合に制限し、陸蟹、椰子実、トカゲ類を食するの止む 無きに至り、それらによる病気の蔓延などで、体力低下を起こし、部隊の戦闘力は50%低下することとなりました。 次いで、駆逐艦による高速輸送が行われますが、これも、航空機と魚雷艇による攻撃を受け、甚大な損害を被って断念。 更に、米、食塩を55ガロンドラム缶に詰めて、50~60本連結して筏とし、これを海岸近くまで駆逐艦で曳航、ロープを切り離して海浜に流すと言う 方法を採用しますが、大部分は周辺の珊瑚礁に漂着してしまい、20万本のドラム缶を使用した割りに、部隊が手に入れたのは僅かに25%と言う 体たらくでした。 遂に万策尽きた海軍は、濃縮食糧60食分をゴム袋に入れ、これを潜水艦に搭載、この袋は水面下で放たれ、これが浮かび上がってきたら泳いで 兵士が回収すると言う方法を採ります。 しかし、この輸送に於いても、潜水艦は敵の攻撃に晒され、潜水艦は20,000tを喪い、結果として補給の途絶えたガ島の将兵30,000のうち、10,000余 名は栄養失調で戦闘出来る状態にありませんでした。 この最初の船団輸送に関しては、現地で陸海軍共同図上演習が行われ、それによると、「現地の要求するだけの航空を出して、制空が出来たとしても、 揚陸に成功するのは2.66割」、しかも、船舶は殆ど磨り潰す、即ち、15隻の船団で11隻は沈没もしくは中破以上の損傷ということになります。
1943年2月のガ島撤退で、参謀本部には、これによる船舶喪失については、異質なものとして、これからは落ち着くと言う話も出ていました。 ところが、この島嶼戦では、補給と撤退時期の問題が浮上します。 玉砕したアッツでは、弾薬、糧秣、衛生材料などの補給が計画通りに行かなかったと言うこともあり、島嶼防衛に際し、どのように対処するか、 即ち、予め、弾薬、糧秣などの物資を十分に補給集積を行って、遅滞戦術を採って、最終的に部隊を玉砕させるべきか、或いはキスカ、ガ島の ように、撤退作戦を発動すべきか、その撤退のタイミングはどのように行うべきか、と言う問題です。 どちらにしても、補給、輸送の問題は発生します。 眞田陸軍少将(当時参謀本部作戦課長)は、以下のように日記に書いています。 「『ムンダ、コロンバンガラ』に来襲セハ基地の守兵ハ最後迄真面目ノ抵抗ヲ為シ既ニ組織アル抵抗不可能 トナレハ最後ノ一兵迄闘フヘク某時期ヲ画シテ後方要線ニ後退セシムルハ採ラサル所ナリ」 「『アッツ』カ敵ニ与ヘツツアル打撃ト『ガ』島ノ成果トヲ勘考シ益々予ノ信念ハ固マレリ」
ガ島上陸後、今度はコロンバンガラ島に米軍が上陸します。 軍令部との会議で、参謀本部は以下の様に海軍に問います。 「一万四千ノ補給ハ如何ナル手段ニテ可能ナリヤ? 糧秣ハアト十七日分アルノミ 飯盒炊サンハ不可能。 米ハ生ノ儘喰ヘテヰル クラ湾ノ制海権ハ斯クノ如シ、如何ニシテ補給ガ出来ルカ? “時間ノ問題ナリ”ト云フコトハ潰レルカ退ケルカノ問題ナリ 見透シナクシテ上級統帥カ潰スト言フコトハ陸軍ノ統帥トシテハ出来ナイ」 また、瀬島龍三は海軍に以下のように迫っています。 「航空作戦デ『ムンダ』『コロンバンガラ』喰ハスコト 即チイクサヲ続ケサスコトカ 出来ルカ? 其ノ確算カ無ケレバ潰スカ退ケルカヲ決メナケレバナラヌ」 これに対し、名前はありませんが、ある軍令部員の発言の骨子は以下のような ものでした。 「一言ニシテ尽セハ『退ケタラ持テル確算アリヤ 勝タナケレバナラヌ 補給ノ 道ガ立タナケレハ其場テ斬リ死ニスルマデダ』ト云フ」 それに怒った、陸軍参謀本部の多数意見は、以下のようなものでありました。 「海軍ハ制空制海ニ尽スベキヲ尽サズ ガダル、アッツ、キスカ等常ニ陸兵ヲ 置キザリニシテ愧ヂズ而カモ陸兵ニ期待スル所ノミ多ク陸兵ノ為ニ尽ス所ナキ ハ何事ゾヤ」 嗚呼。
おつです。 相手方の米軍も、このちょっと前に、揚陸した海兵置き去りにして、とっとと逃げ出すという醜態をさらして ますので、これはもう海軍の宿痾かもしれませぬ。
ただ、日本海軍は、 陸兵だけでなく、 日本商船とその船乗りすら 時には自分たちの犠牲にして顧みなかった 暗黒史がありますから、、、
327 :
名無し三等兵 :04/05/09 16:29 ID:BZDzEpve
作戦目標 1、ポートモレスビー占領 2、ガダルカナル維持 3、ラバウル維持 軍令部長「どうかね、大蔵大臣。私の案に賛成してくれないかね?」 大蔵大臣「悪いが軍令部長の意見には承伏しかねる。」 外務大臣「待ちたまえ。私はその案に賛同しているのだ。勝手に拒否されては困るな」
戦前の陸軍将校なんて世間でどう思われているか、 飲み屋でもてるかもてないかが一番大事でしたとさ。
さて久々に、本筋に戻って、海軍の重油、揮発油消費量について。 海軍の1ヶ月平均重油、揮発油消費量を書いてみましょう。 (単位は万キロリットル) 重油国内消費量 重油南方消費量 重油消費合計 揮発油国内消費量 揮発油南方消費量 揮発油消費合計 1941年度月平均 13.00 0.00 13.00 1.80 0.37 2.17 1942年度月平均 12.60 17.90 30.50 2.37 1.54 3.91 1943年度月平均 11.30 18.00 29.30 2.67 2.67 5.34 1944年度月平均 8.34 14.50 22.84 2.30 2.30 4.60 1945年度月平均 2.44 3.02 5.46 1.70 0.20 1.90 5カ年月平均 11.11 15.27 26.38 2.54 1.99 4.53 1945年1月以降、月10万トンの供給が出来ていません。 これは最盛期の消費、即ち、1942年8~10月の30~35万キロリットルの消費には全く対応出来ないことを意味します。 ちなみに、Midway海戦で60万キロリットル、Mariana沖海戦で35万キロリットル、Leyte沖海戦で20万キロリットルの重油消費 でしたから、そんな海戦は1945年には出来なくなっている訳です。
また、南方油田に対する空襲によっても、その生産は阻害されています。 バリックパパンには、1944年9月30日~10月14日の間に数次の空襲があり、サンガサンガからバリックパパンへの送油は 11月1日まで途絶。 12月中に、サンガサンガが数回空襲を受け、容量3万キロリットルの石油タンクが大中破、また、タラカンへは敵空襲に よって、壊滅的な打撃を受け、生産途絶。 陸軍の南スマトラ燃料工廠は、1944年8月11日に一回目の空襲がプラジュー製油所に、1945年1月24日には二回目の 空襲があり、29日にはスンゲロン製油所初空襲があって、50日生産が途絶、その後、80%復旧するも、油槽船の製品 搬出困難で、生産量を制限する状況、更に北スマトラ燃料工廠でも、1944年11月4日にブランダン製油所が爆撃に遭い、 製油施設が一部破壊され、12月18日の空襲ではペラワン、カランススの貯油タンクが破壊、1945年1月4日には製油所の 施設は3割破壊された上、パンカランススのタンク4基も破壊されました。 こういった施設破壊と、輸送路の途絶により、海軍保有燃料は80%を南方から距離の近い徳山に保有させ、四日市では、 タンク底の油泥を、四日市特産の菜種油を鹸化して添加し、これらを加熱したモノから重油を採取する技術を確立します。 1945年、海軍省軍需局は軍令部に、「北号作戦」の発動を申し入れます。 これは、第四航空戦隊の伊勢にドラム缶4,994本と燃料タンクに航空揮発油100キロリットル、日向にドラム缶5,200本と 燃料タンクに航空揮発油100キロリットル、連合艦隊旗艦の大淀にドラム缶100本と燃料タンクに航空揮発油77キロリット ルを2月8日から3日間で満載にして、2月20日に呉に帰還したものです。 この艦隊(既に商船では還送が覚束なくなっている)には他に、南方のタングステン、錫、ゴム、亜鉛、水銀などの重要 物資を搭載しています。 また、油田開発関係者440名の乗船も特筆すべき事です。
最後に天号作戦について触れておきます。 天号作戦は、大井大佐が強硬に反対した、大和の沖縄突入ですが、この際、軍令部は片道しか燃料を供給出来ない と言う強硬意見を述べ、連合艦隊首脳部もこれを是認します。 実際にはタンク底の重油在庫5万キロリットルを集め、「補給命令では片道分の重油搭載」でありましたが、実際には、 「緊急搭載で積み過ぎた余分を油Bargeに吸い取ろうとしたが、出撃に間に合わずその儘にした」という如何にも、日本 的な臨機応変さ(皮肉な意味での)で、大和に4000キロリットルなど、艦隊全部に1万500キロリットルが余計に搭載され、 大和は重油を満載(6,300t)して出撃しました。 こうして、重油は月頭在庫僅か21.3万トンと言う惨状に陥り、大井大佐が悲憤慷慨した訳です。 再三述べている通り、1945年5月から重油在庫はマイナス、6月から、航空揮発油がマイナスとなる状況に陥り、既に 継戦能力は失われてたりします。 と言う訳で、石油物動に関しては此処まで。 次回からは、鋼材需給と船舶生産に関して…。
>次回からは、鋼材需給と船舶生産に関して…。 はい、宜しくお願いします。(わくわく)
良スレ乙です。 ホンとにためになるな~此処。 最近になって、靖国にお参りに行くたびに、 上級戦争指導者の何人かは祭らなくて良いんじゃないかと 思ったり思ってみなかったり‥‥orz
>333 > 最近になって、靖国にお参りに行くたびに、 > 上級戦争指導者の何人かは祭らなくて良いんじゃないかと > 思ったり思ってみなかったり‥‥orz 正直なところ、無能なる事の責任追及が為される事もありでしょう。 しかしそれをやると無能と無能ならざる者の区別がつきにくいし、 戦争指導を批判すると、いつもの常套句「英霊に申し訳が立たないとは(略)」となります。 しかし、過去と向き合う事は、現在に眼を向け、未来において最善の道を選ぶ助けとなるはずですが、それが出来ないことに問題があるような…?
まあ、問題は、 ある人の人格、人間的価値、魂、といったものの価値は、 その人の行為によって大きく変わるものなのか? 変わるとして、それはその人の行為の「結果」によるのか? それとも、その人の「努力」によるのか? そして、死は、それをどのように変えるのか? または変えることができないのか? という、宗教的・哲学的問題になってくるわけで、、、
【バーベ級】 原型は米国製の小型給糧艇。同盟各国に供給され、 大きさ、使用燃料の違い等、多数のバリエーションが 存在する。(呼称も使用国によって異なり、様々な呼び方 をされている。例、日本国 ジンギス艦) 4~10名分の野外食事供給能力を持つ。 民明書房 [補給戦]より
鉄の話に入る前に、閑話休題。 今、「大東亜補給戦」と言う本を読んでいるのですが、その中に、高橋実氏の 「日本再興の設計図」という本が取り上げられています。 この本では、戦前の地球上にあるエネルギーの石油、石炭、木材、電力と いったものを全て一つの単位にまとめて、国別にその量を計算する、と言う考え が取り上げられていました。 その単位は、太陽の持つエネルギーが地球上の面積100平方キロメートルに 1年間に吸収される熱量、1.5×10^15キロカロリーを1陽年とするもので、1陽年は、 1,000ミリ陽年となります。 ちなみに、1陽年は標準石炭25億トンのエネルギー、または標準石油15億トンの エネルギー、または20億キロワット年の電力エネルギーに等しいとしています。 これを1940年の地球上のエネルギーに換算して出すと、石炭560ミリ陽年、石油 250ミリ陽年、木材150ミリ陽年、食糧300ミリ陽年、電力10ミリ陽年、その他50ミリ陽年 で、合計1,320ミリ陽年となります。 更にこれを国別に分けると、米国は538ミリ陽年で、全世界の40.8%を占め、次いで ソ連の172ミリ陽年で13.0%、以下、英国89ミリ陽年(6.7%)、中国55ミリ陽年(4.1%)、 印度76ミリ陽年(5.8%)、ドイツ70ミリ陽年(5.3%)、日本29ミリ陽年(2.2%)となります。 日本と米国との差は、1:18、連合国と枢軸国の差は、1:8.5となっていました。
鋼材というのは、エネルギー資源と並んで、産業の米と言われるものです。 ところが、1937年の日中戦争勃発に伴う、米国の屑鉄禁輸と軍需への鋼材供給優先によって、一般産業に回す分が少なくなります。 例えば、1938年度、39年度までは総供給の25%程度が軍需でしたが、41年度には実に半分が軍需となります。 これにより、生産力拡充をしようにも、基幹産業への鋼材供給がままならない状況では、夢の又夢です。 1938年度から8年の予定で、第一次生産力拡充計画に着手しますが、1942年から第二次生産力拡充計画がスタートします。 しかし、基幹産業の一つである石炭産業について見てみると、1940年を100とした場合、 1940 1941 1942 1943 1944 1945 鋼材の配当 100 63 47 40 29 30 爆薬の配当 100 100 98 100 100 74 セメントの配当 100 85 81 63 40 12 坑木の配当 100 98 83 96 94 86 機械故障率 100 230 1,610 石炭生産伸び率 100 95 91 88 83 53 年生産(t)/人 177 167 153 146 122 66 と言う風に下がって来ており、機械の故障率に至っては、部品工業に満足な鋼材供給が出来ないので、 飛躍的に上がっています。 これで、生産増強なぞ出来ようはずがありません。
このほかの産業でも、農業生産に必要な、窯業肥料業界への鋼材割当ては、1940年を100とすると、 1943年に70%、1944年に30%となり、燐肥業界へは、同じく1943年に40%、1944年に60%となっていますし、 爆薬生産の為の工場拡充に必要な鋼材の割当てを最優先に確保したため、セメント業界への鋼材割当ては、 1941年に85%、42年に81%、43年に63%、44年に40%、45年に至っては、12%となっており、足下の鉄鋼業への 鋼材割当ても、同じく1941年に63%、42年に47%、43年に40%、44年に29%、45年に30%となっていました。 その爆薬生産の為の鋼材割当てにしても、45年には74%に落ち込んでいます。 結局、1942年からの第二次生産拡大計画で目標を達成出来たのは、船、特殊鋼、アルミニウムだけでした。
閑話休題。 ちょっと、今の話題を外れてカキコ。 今、「船舶太平洋戦争」という陸軍の船舶運用責任者の人が書いた日記の抜粋を 読んでいるのですが、それによると、制空制海権無き場合の船舶作戦は、 1. 一ヶ月は十五日なり。 → 敵機の為、月明かりの日は輸送に使えない為。 2. 一日は四時間なり。 → 敵機の行動半径外から日没後接近し、日の出前に離脱する為、高速船でも接岸作業は四時間が限度。 3. 一万トンは二四〇トンなり。 → 1万トンの優秀船でも、携行舟艇を沃水し、四時間で作業を終える為には、240t程度しか揚陸出来ない。 と言う状況で作戦を立てなければならなかったそうです。 今日から暫くは2ちゃんの方が不安定になるそうですから、これについて深く追求するのはもう少し先になりそう ですが、海軍よりも陸軍の方が未だ補給についての考え方ははっきりしていた様に思えます。 とは言え、陸の人々にも糞な香具師はおりましたが…。 でことで、鉄の話は脇に置いて、こっちから先に話を進めようかと思います。
1940年12月に大本営が船舶輸送司令官に示した船舶準備について少し。 船舶としては、現在徴用使用中の90万トンの他、新たに145万トンの徴用準備。 艤装材料の準備としての資材調達、これが145万トン分。 この際の搭載容量は、兵士1人につき、5トン、馬1頭につき、10t(熱帯での作戦標準であり、 標準は兵士1人につき、3トン、馬1頭につき、5トンと換算。 これとは別に、自動車、自転車の搭載を考慮する。 兵装準備は、高射砲は2隻に1門、高射機関砲、磁気機雷防雷具など。 舟艇準備としては、大発300、小発300、特大発60、高速艇甲14、同乙15、装甲艇17、船外機付艀舟 その燃料、水の準備と補給設備の準備。 海図、水路図の収集、整備。 MT船(神州丸、龍城丸、秋津丸、饒津丸、吉備津丸、攝津丸、摩耶山丸、玉津丸、日向丸、熊野丸) の完成。 防空船、1万トン級快速船に防空設備を施したもの、の完成(龍城丸、佐倉丸、佐渡丸、宏川丸、熱田山丸、 靖川丸、善洋丸、ありぞな丸)。
で、開戦前の見積としては、 ・保有船舶 → 大型船約600万トン(うち油槽船36万トン)、小型船の稼働率換算で追加すると、663万トン 陸軍徴傭船(A船) 海軍徴傭船(B船) 合計 徴用比率 開戦後第4ヶ月まで 210 180 390 59% 開戦後第5ヶ月まで 170 180 350 53% 開戦後第6ヶ月まで 165 180 345 52% 開戦後第7ヶ月まで 150 180 330 50% 開戦後第8ヶ月以降 100 180 280 42% と言う訳で、物動用民間船(C船)は、開戦8ヶ月以降、経済が持続成長に必要な最低量300万トンに 戻すことが可能であるとされています。 損耗補填に関しては、以下の通りで、 (単位万トン) 喪失 (実際) 建造 第一年 100 90 40 第二年 80 176 60 第三年 80 380 80 合 計 270 646 180 予定損失が合計280万トン、建造トン数が180万トンで何とかC船300万トンの維持は可能で、 平均60万トンの造船所要鋼材割当て量30数万トンは、民需用鋼材260万トンの確保の際、 重点的配当をすれば可能と考えられていました。
しかし、解傭は予定では開戦後第8ヶ月までに110万トンであったのが、実際は、海軍に引きずられた FS作戦、Midway作戦、Aleutian作戦とBurmaでの苦戦などがあって、30万トンしかありませんでした。 逆に損耗は予想を大きく上回り、何度も書いているように最終的には、劣弱船100万トンしか残存しま せんでした。 特にガ島戦は陸軍の知らぬ間に海軍が飛行場を建設し、米軍が上陸して海軍が悲鳴を上げて助けを 求めて初めてその存在が分るという状況だったので、陸軍側に準備無く、兵力の抽出も、ニューギニア 戦線の拡大でままならず、逐次投入という最悪の状況に陥った、正に戦局の分岐点となった訳です。
現在の眠い人さんの話題からちょっとずれてすみません。 太平洋戦争以前で、戦時物流研究を行っているのは、総力戦研究所(1941年~)が有名ですが、陸軍にも秋丸機関(1939年~)というのがあったと聞き及びます。 では、海軍にはそれに相当するような部署があったのでしょうか? それとも企画院に丸投げ? 海軍は仮想敵を英米としていたので、当然この手の研究を深く追求していてしかるべきだと思うですが。
>344 陸軍の場合、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、それに驚くべきことに東条英機までもが、 それぞれ共同で、バーデン・バーデンに於いて国家総力戦の研究をしていますね。 海軍の場合、「参考情報資料」『開戦経緯』4にも、「海陸軍が軍事的に対米戦の能力有りと するも、国力判断に於て到底日本は闘う余力無く、戦えば国家滅亡なり。故に南方作戦は 中止の要あり」と言う報告が1941年春の時点で掲載されています。 部署や機関としてのものは無いにしろ、海軍大学校辺りでそう言ったことは検討されていた様な 感じを受けます。(総力戦研究所で作られた摸擬大学の海軍大臣は、海軍大学の卒論に 「総力戦」を選んだ、海兵55期の志村正海軍少佐ですから。) ただ、表だっての研究は海軍に於いては出来なかったでしょう。 と言うのも、永野修身軍令部総長は、「捨て鉢の戦争をする」と天皇に言われ、その信を喪って いる状況でも尚、海軍統帥部の長に居座っており、その威光を背に海軍内の主戦派中堅幕僚 である、石川信吾らがいた訳で、更に彼等のバックには、対米強硬論者の伏見宮博恭が控えて おり、しかも、彼を統御すべき、及川海軍大臣は、永野の後輩で、常々彼に遠慮することが 多かったことから、思い切ったことが出来ない、と言う状況ですから。 更に、海軍がそのような物動に後ろ向きな考えを示した場合、主戦派の特に陸軍から、海軍 の存在価値に言及され、ドイツ海軍の様な事態を招きかねないと海軍首脳が思っていたこと もあります。 海軍に於いても、まず、組織防衛ありきで、その後の情勢などは政治に任せておけば良い、 と言う感じを受けました。
>>345 故に海軍は井上成美中将の意見を取り上げて時間かせぎをするべきだったとオイラは思うのですよ。
井上中将もはなからそのつもりだったんじゃないかな・・・
348 :
A・マハン :04/06/01 22:53 ID:Af7QDLOC
いや何と真っ当なスレに感激。 物動計画についてはちょっと古いが森本忠夫の「魔性の歴史」が解り易い 定本だと思っていますが。 海軍の「組織防衛」というのは一般にはあまりいわれていない様ですが対陸軍予算確保の 為ならなんでもアリの酷さといっていいのではないでしょうか。 そもそも「対米戦争計画」に成算を全くもてなかったのも、戦力の造成自体を極度にアメリカの 技術・資源に依存しすぎてアメリカなしの戦力維持さえ見通しがたたなかったのが海軍軍人の本音 だと考えられるからです。海軍が仮想敵国を米英においていた、というのも予算確保のためで 本気で対米英戦戦略など考えたとは到底いえないでしょう。政府・陸軍向けにフリだけはしていましたがね。
>>348 日露戦争後は、そうをしないと日本海軍の存在意義がなくなるのですよ。
しかしがながら陸軍と違って予算の獲得がうまいのは海軍(w
よくある仮想戦記の逆で、 日露戦争時、日本がロシア海軍の通商破壊戦でずたぼろになり (非ロシア人をロシアが雇ったとかにして)、 しかしながら、何とか連合艦隊がロシア海軍と差し違え、 どちらの国も海上利用があやしくなって休戦、 という世界のその後の歴史はどうなるか、、、
過ぎた話だが、旧大蔵省の銀行管理をさして「護送船団方式」と呼んで、「護送船団方式だった から悪い」って主張が展開された事にはワロタ。 大型で船足が速い高性能船と波高3m以上だと転覆しかねないボロ船を同じ船団に組み入れた ことは間違っているが、船の性能が用途に見合った形で船団を組み、適切な兵力をもって適切な 用兵が行われていれば、何の問題も生じなかった。 なにより重要な鉄則である、「被弾して船足が遅くなった船は見捨てる」と言った運用上の規定 が守られていなかったのが問題なのであって、「護送船団方式だったから悪い」って事はあり得 ない。(結果的に見捨てることになるが、決断が遅すぎて船団のスピードを落とした間に他の船 も相当損傷を受けることになり、全滅しかねなかった) 護衛する側(旧大蔵省)の戦力・装備(管理要員や法令)や用兵ミス(実際の管理実体)が主因だ ったわけだが、表面的な部分しか焦点を当てずに「護送船団方式」と言うことで全てを片づけてし まうとは、情けない限りだ。 「護送船団方式だったから悪い」」のではなく、「実体に見合わない計画性もない状態の護送船団 方式をとったから悪い」わけだが、新たな仕組みが「護送船団方式」ではないと思ってるのも、お目 出度い(w
さて、少し間が空きましたし、話があっちに飛んでしまったのですが、ガ島輸送の話にまた飛びます。 当初、ガ島に関しての大本営の考えは、「偵察上陸程度」として、本格的反抗であっても奪回は容易、従って、規定方針通りの作戦計画で行くこととしています。 規定方針とは、即ち、Port Moresby攻略作戦です。 さて、1942年8月8日、第一次ソロモン海戦となり、「軍艦」の沈没は多く、泊地にいた輸送船16隻が丸裸であったのに、この攻撃は敵艦載機への恐怖と 魚雷不足から中止します。 これを遺憾とした聯合艦隊では「引き返して船団撃滅」を下令しますが、時既に遅く、結局は輸送船撃滅の機会は失われました。 このため、海軍航空部隊に命じて、攻撃を行いますが、陸攻23機を失い、戦力を喪失。 (ちなみに、8月9日に第11航空艦隊では、攻撃目標を空母か戦艦に変更するよう指示を出します。 これは、輸送船が空船だったら、損害に比して戦果が少ないと考えた訳で。 流石に、大本営、聯合艦隊はそれに反対し、10日の攻撃目標は輸送船に再変更しました。) ところが、泊地には敵艦船が全く見られず(既に上陸した後)、ただ、報告上は過大な戦果を上げていたことになっており、 聯合艦隊はこれを精査することをせず(Midway後の海軍はいつもそうです)、その戦果を鵜呑みにし、大本営海軍部も これを追認、更に真に受けたのが大本営陸軍部で、敵戦力喪失大として、それを前提に奪回作戦を検討しました。 そして、使用兵力、第17軍主体(歩兵13個大隊基幹)で、先遣隊として一木支隊900名が駆逐艦で輸送され、8月18日に ガ島に上陸しました。 各人の携行小銃弾は250発、糧食7日分。 ところが、米軍は既に陣地を構築しており、不用意な攻撃を仕掛けた一木支隊は全滅しています。 21日、ガ島に米軍の小型機が30機進出しました。
このSBD、F4Fを中心とした小型機の活躍により、増援部隊輸送船団が攻撃を受け、損害が 出ます。 当初は川口支隊も、浅香山丸、佐渡丸に乗船してガ島に向かいましたが、25日命令を受けてにRabaul に引き返し、一部は洋上で、第20駆逐隊に移乗してガ島に進みました。 しかし、28日に空襲を受け、所属駆逐艦4隻中、沈没1、大破1、中破1の損害を受けて引き返します。 このため、以後は鼠輸送と称した高速艦艇による輸送に切り替えられ、一木支隊第二梯団は、ショート ランドから第11駆逐隊、第24駆逐隊の駆逐艦により、川口支隊と共に8月29日にガ島に上陸しました。 これに失敗してさえいれば、傷口は深くなくて済んだのですが…。 と言うのも、8月29日の時点で、第17軍ではガ島放棄論が台頭しており、その輸送失敗の場合、放棄する 可能性があった訳です。 ところが、幸か不幸か(不幸でしょうが)、その輸送に成功してしまい、8月31日に川口支隊主力が上陸しま す。 9月4日に青葉支隊第一梯団、7日に野砲中隊が上陸に成功し、此処まで、艦艇延べ50隻で人員5,600名、 各種砲16門、糧秣2週間分が揚陸されました。 この成功は、この時期が航空機、艦艇が相次いでガ島の飛行場を攻撃したことと、月が新月付近だったから に他なりません。 ちなみに、駆逐艦1隻の輸送力は、人員で150名、または軍需品100立方メートルが基準となっており、発動艇 を海岸に偽装隠蔽し、夜間に偽装を解き、揚陸を行う方法が採られました。
眠い人さんのまっとうなカキコが止まっているうちに少し脱線。
ttp://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/034/0522/03403250522002c.html あの辻政信君が参議院でまくし立てております!
○辻政信君 そんなことでは石油に対して関心のないことをあなたは表明しておられる。それは陸海軍の平時の所要量で、戦争になったときの大体の見通しは二年分持っていた。
しかしやってみると足りなかった。政府、民間、軍部を入れて大体二年分のストックを持っておって戦争に踏み切った。ところでやってみると、それは一年くらいで底をついてしまった。
そしてスマトラの油田の開発も、パレンバンも、ボルネオも思うようにやれない。持って来る船はみな潜水艦で参ってしまった。
そこに敗戦の決定的な原因がある。石油さえ確保しておったら負けるいくさでなかった。こうさえ言える。
あ~たね、秋丸機関や総力戦研究所のレポート読まんかったんかい
>354 1942年11月15日、軍司令部に於いて、第11航空艦隊大前参謀、方面軍有末参謀副長、辻中佐、杉田中佐、岩越少佐、第十七軍山本少佐、私、打ち合せを行う。 「今回の輸送の損害は往路四隻大火災(沈没と推定)四隻擱座炎上三隻行方不明なり。 即ち、予が全般計画を立てし時損害十分の六と推定し各方面より損害多きに過ぐと非難せられながら敢えて主張して枉(ま)げざりしも、 実際は更に大にして十分の十となれり。 今回の輸送に於いて四隻が相当有利に揚陸し得たりとするも、先ず二日分の糧秣に過ぎ去るべし。 即ち、船団輸送を以て補給を継続することは不可能なり。 然らば、駆逐艦は如何。一日四隻、一ヶ月百二十隻の所要を思えば、之亦不可能に属す。 茲に於いて大前中佐はガ島の減員を主張せるも、辻中佐之に反対して曰く、 『現在ガ島兵力は約三万中、健康者二万五千、傷病者五千也。傷病者五千中には海軍設営隊 の千五百を含むものとす。 而して、敵は優勢なる火力を持って攻撃し来たるに対し、我は銃剣を以て対抗せらるべからず 故に数を必要とする。 この二万五千は絶対最小限の数也。撤退し得べく且つ希望するは傷病者五千のみと。』 さは言え、この五千の撤退を如何にすべきや。 健康者軽傷者は駆逐艦輸送の際之に便乗して二百、三百と帰還し有るも、重傷者は輸送すること能わず。 五千の為には駆逐艦何隻を要するやこれらを検討すれば、五千の撤退すら危険なり。 戦闘司令所は飛行場制圧の為、「マタニカウ」川左岸高地を占領せんとし、残留せる第三十八師団の二個連隊 を要求し来れり。軍は、これらの要求あるとも今後一兵も増加する意志無きもさりとて撤退は不可能なり。 大前中佐曰く、 『今日までの海軍の損害は対敵一対一なり。飛行機は十一月十日より十四日の間に於いて、陸攻二十、戦闘四十、 計六十を失えり。 此の如くんば陸海共倒れとなり了る處大なり。之が為には根本的に考え直す要あり。 今、ガ島を放棄せば、更に攻撃を開始して奪回する望み無きや』と。
辻中佐曰く、 『今放棄せば、再占領は絶対に不可能なり。 亦、撤退そのものが不可能にして、水際に殲滅せらるべし』と。」(後略) 私はこういう会議の席でいつも感ずるのであるが、派遣幕僚というものである。 大前海軍中佐がガ島の減員を主張したのに対し、辻陸軍中佐が、「二万五千の銃剣は絶対最小限の数である」と 断言し、これに対して一言の異議を差し挟む者もなく、全員これを了承した形になってしまった。 大本営派遣参謀という権威も有ろう、辻中佐の輝かしい経歴の圧力もあろう、自信に溢れた強い調子の物言いも あろう、先入観的諦めというか、反対して怒られたらつまらんと言う打算も有ろう。 しかしこんなことで事を決して良いものであろうか。 此の二万五千は、偶々結果として二万五千になってしまったと言うだけのことで、計画的にそうした訳ではない。 もしこれが三万有ったら三万、二万になっていたら二万が、「絶対最小限」と主張されたに違いない。 何等理論的根拠はないので、多々益々弁ずと言うだけの事である。 この様な一個人の勘がある場面を支配すると言うことは警戒しなければならない。 派遣幕僚というものは、真相を掴みにくい現地の状況を正しく把握して、施策に速やかに反映させるとか、 或いは、下級部隊で出来ない事をお手伝いすると言う意味では必要であり有用であるけれども、現地軍を 「指導」すると言うやり方は一考を要するものであると思う。 統帥は飽くまで、指揮系統を尊重して行われなければならない。 上級司令部の権威を背景にして、下級司令部或いは指揮官の遠慮を良いことに、往々にして専断的な 事が行なわれやすいからである。 そして、それは指導であり、命令ではないから、実施の結果の責任は下級司令部のものとなる。 上級司令部は、下級部隊がやり易い様に、支援し力を与えてやり、至当な任務を与えてやれば良いので、 そう言うことはやらないでおいて、下級部隊のやり方に活を入れると言うのは、極めて安易な方法であろうが、 宜しくない。 私が派遣幕僚になったらそうしよう、と深く諫める所があった。
眠い人さん、レスありがとうございます。 この辻参謀はかなりキてますが、作戦の神様という異名を持ち、またノモンハン敗戦後でも彼をかばう人がいましたよね。 だけどどのような実績があったのかイマイチわかりません。 脳内妄想と大声で会議をリードする人というのはいつの時代でもありえることです。 うまくそのような人物を排除できるかというのが良い組織のあり方と思えます。 すみません、補給からだいぶ脱線してしまいました。
358 :
辻 :04/06/13 09:45 ID:???
だったら、 あなたも、 何万人も殺してから、 参議院議員に、選挙で選ばれて見てご覧なさい。 私には 日本の国民がついています。
日本人の文化だか、国民性だか、 ものの考え方だかにつながってこないわけではない とも言えないことはないわけであろうか、、、 米とか、農業用用水とか、 高速道路とか、神戸空港とか、 日本人は反省していません、、、
363 :
名無し三等兵 :04/06/23 23:50 ID:6WhOB90b
国際情報誌「サピオ」に平松茂雄(杏林大学)教授の分析記事が掲載されています。
>日本側海域の「石油資源」を掠め取る中国海洋戦略の横暴 [P18-19]
中国の民間団体による尖閣諸島への上陸、沖ノ鳥島に関する言いがかり
(中国は「島ではなく岩」として周辺海域が日本の排他的経済水域であることを否定)、
東シナ海日中中間線海域での石油開発、事前通報なしの海洋調査など、
ここ数か月間、日本の領土・領海が脅かされる異常事態が相次いでいる。
「これらの出来事はそれぞれ個別の出来事ではなく、中国の海洋戦略の中で起きている」
----そう喝破する杏林大学の平松茂雄教授が、
領土問題を巡る一連の経緯と最新動向から中国の狙いを分析する。
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いかんなぁ、ガ島戦に関しては別スレがあったわな。 てな訳で、本筋の鉄話と船話に戻りますか。 来週までお待ち下しい。
>>364 急いで待ってます。
ここでネタというか疑問を一つ保守ついでに書いておきます。
日本の粗鋼生産能力、
全体生産量は勿論のことですが、特に品質管理能力が無いと
阪神大震災に例えるなら、どこぞの欠陥コンクリートビル(有塩の砂利使用)みたいに
いざ実戦になったとき、本来許容範囲内の攻撃を食らったのにもかかわらず‥‥。
ていうか、これは既に航空機エンジンで散々問題されてたからな○| ̄|_
>365 舶来物の戦艦はドリルが通らないのに 国産の戦艦はドリルが通ったなんて話が、 小室直樹のどっかの本に載っていたなぁ。 あと、艦底部の鉄材が錆だらけで、ハンマーでどついたらドスっ …というのは坂井三郎だったかな。 たしかその戦艦って金剛級のどれかだったよな…。 zzz……
む~ん、某スレの議論がこっちに飛び火しませんように(ナムナム。
>>16 古いレスですが、
>>16 に書かれた『補給線』と言う本は、これのことですかね。
『補給線』
ナポレオンからパットン将軍まで
M・v・クレヴェルト(Martin van Creveld)著
佐藤佐三郎訳
原書房 ISBN4-562-01089-4 1980年11月30日第1版
帯に書かれた著者紹介
『1946年オランダのロッテルダム生まれ。ユダヤ系出身で1950年3歳の時イスラエルに移民。
1964~69年エルサレムのヘブライ大学に学び、1969~71年ロンドン経済大学に留学、同大学で博士号を受く。現在ヘブライ大学歴史学助教授。
本書は1977年ケンブリッジ大学出版部より発刊され、各方面から絶賛された“Supplying War”の邦訳で、当時クレヴェルトは31歳であった。』
「補給 戦 」ね
>>369 あ……
本のタイトル『補給戦』です。お恥ずかしい。
鉄鋼の話に向かう前に脱線話。 >365-366 14インチ砲の製造技術移転に関してなんですが、比叡以降の戦艦の主砲である14インチ砲 製造は、呉工廠と日本製鋼所室蘭工場(今の新日鐵室蘭工場)で行なわれています。 日本製鋼所は北海道炭礦汽船(実際には裏で日本海軍が動いている)と、Vickers社、 Armstrong社との合弁企業です。 室蘭工場は1911年1月に竣工しましたが、当初は12インチ砲製造体制を整えていました。 しかし、その後は急速に14インチ砲製造工程の整備を行ない、1913年に12インチ砲2門と完成 させた後、1914年4月、5月に14インチ砲は各一門が完成したのを皮切りに、1914年中には12門が 完成しました。 こうして、海軍発注の14インチ砲85門のうち、呉工廠は25門、日本製鋼所は60門となっています。 但し、日本製鋼所の受注分のうち、13門はVickersに製造を委託しています。 ・卯号装甲巡洋艦(比叡)には、呉工廠製が4門、日本製鋼所製が4門。 ・二号装甲巡洋艦(榛名)には、日本製鋼所製が7門、Vickers製が1門。 ・三号装甲巡洋艦(霧島)には、Vickers製が8門。 ・三号甲鉄戦艦(扶桑)には、呉工廠製が4門、日本製鋼所製が8門。 ・第四号戦艦(山城)には、呉工廠製が4門、日本製鋼所製が10門。 ・第五号戦艦(伊勢)には、呉工廠製が12門。 ・第六号戦艦(日向)には、日本製鋼所製が12門。 その他予備砲身として製造されたのが、呉工廠製が1門、日本製鋼所製が6門、Vickers製が4門と なっています。 但し、扶桑と山城の砲門数が違っているように、一応、これは予算措置で配分されたものです。 で、この砲の素材ですが、日本製鋼所製造分で、比叡用4門、榛名用7門、扶桑用3門の砲身素材は Vickersから輸入しています。(ちなみに、12インチ砲については、Armstrongから技術導入してたり)
続き。 日本製の鋼材の質ですが、当時は工場幹部が悉く出資者の英国人が占めていました。 しかし、中には資質を疑われるものも混じっていたようで、1914年7月に赴任したE.L.Robertsonは、その 最たるものでした。 このため、彼は1915年6月に事実上解雇されますが、この間の成績は、鋳造した大型鋼塊(110t及び80t の二種類)28本中、合格見込を含んだ良好とされた鋼塊は僅か5本であり、英国からの鋼塊の輸入と、 替りの技師の派遣は英国自身の大戦への参画からこれを行えず、結局、この鋼塊は、呉工廠から融通 を受けて急場を凌いだそうです。 しかし、製造した14インチ砲47門のうち、海軍納入規格に合致し、製造工程に於いて全く「故障ナキモノ」 は、僅か10門。 残りの37門は、「施條」「地疵」「削損」が累計63カ所に上り、海軍に納入する際、減価処分ヲ受ケシモノ」 は13門に及んでいます。
今週は余裕が有れば…鉄の話のとっぱしでもしたいと思うんですが、 ちょっとムリポ。
>>眠い人殿 素晴らしき脱線話感謝。 ゆっくりしてって下さい。 私達は待つことに慣れました。 なぜならそう(御代に)躾られたから。
>眠い人様 まあ、その、何だ。 未だ書きあがらない外伝とか、名前がころころ変わる覇王伝だの、 発売日が2年ほど延びたあげく、DVDのみで発売された某全年齢対象 恋愛シミュレーションゲームとか……私も待つことに慣れております。 たかだか一、二週間待つことなど、待つ内にも入りませんのでご安心を。 どうぞごゆっくり、いい話まとめて下さい。
376 :
名無し三等兵 :04/07/15 00:18 ID:ZzkyejtU
保守ついでに戦前の本から抜粋 世界の鉄鋼生産量 銑鉄 鋼 1860年 760万トン 30万トン 1880年 1860万トン 430万トン 1913年 7800万トン 7300万トン 1937年 10400万トン 13500万トン 1937年時点での鉄鋼生産量 銑鉄 鋼 (単位:1000トン) ドイツ 15958 19817 ベルギー 3843 3869 フランス 7916 7902 イギリス 8633 13172 イタリア 863 2087 ルクセンブルグ 2518 2511 ポーランド 724 1450 ソビエト 14520 17852 スウェーデン 693 1106 インド 1669 930 カナダ 989 1423 アメリカ 37723 51380
八幡製鉄所標準 満俺鉱(Ferro-Magnaese)の組成(%) Mn 50 SiO2 5.0 Fe 5.0 S 0.1 P 0.1 Cu 0.1 国内産出量は7万トン(昭和10年) 印度、支那、南洋方面より大量に輸入 (銑鉄製造時には脱硫のため必須の材料です) 国内での産出地は 北海道稲倉山、高知穴内、大分千怒 フラックスとしての石灰石は自給可能 引用元は 及川象平 著「金属製錬法」 東京 科学社 初版発行日不明 戦後 昭和21年になって重版されたもの
378 :
377 :04/07/15 22:07 ID:???
引き続き同じ本からの抜粋 アメリカにおける鉛の用途別表(単位:米トン) 蓄電池板 191000 塗料 139500 ケーブル外管 61400 建築用 40000 軍需品 32500 鉛泊 28500 ハンダ 22000 活字合金 17000 軸受合金 16500 メッキ 13500 自動車 13500 鉛板 60200 鋳物 5700 鉄道用 2400 造船用 200 合計:633500 うーむ 蓄電池は激しく鉛を消費するから、潜水艦建造量に効いてくるな アメリカの軍需用の割合の少なさには泣ける
379 :
377 :04/07/15 22:10 ID:???
各国の鉛生産/消費量 1937年 単位1000トン 生産 消費 アメリカ 423.1 494 オーストラリア 228.1 24 メキシコ 225.1 カナダ 181.9 ドイツ 166.1 232 ベルギー 93,8 45 ソビエト 55.0 95 イタリア 39.1 49 イギリス 12.1 337 ポーランド 17.9 アルゼンチン 9.1 フランス 27.5 103 世界合計 生産1670 消費1704 1937年時点で鉛の需要は逼迫してるみたい(使用済み蓄電池からの回収とかは有るでしょうけど) ドイツはベルギーとかを押さえないと、Uボート用の蓄電池の確保できないんじゃないでしょうか イギリスは海上交通押さえられたら、どうやっても潜水艦建造は無理なくらいの値ですね
さて、鋼材の話、何から始めるか。 まずは基本の話から…。 鉄はどうやって作るかと言う話から始めましょうか。 鉄は鉄鉱石とコークスを主原料にして作られます。 この鉄鉱石というのは、酸化鉄の一種で、その成分により、磁鉄鉱、赤鉄鉱、褐鉄鉱の三種類があります。 これから鉄を作る訳ですが、その鉄鉱石の鉄含有量は凡そ40%以上無いと効率よく鉄を作ることが出来ません。 また、古来の蹈鞴製鉄の様に、砂鉄から鉄を作ることは出来ますが、粉末であることと、チタン、ヴァナジウムの 分離がしにくく、鉄を作る原料としては不利になります。 その昔、むつで砂鉄から製鉄する様なプロジェクトが国家単位で企画されたのですが、採算ベースに乗らなかった のは、こういう理由が有った訳です。 ちなみにこういうものは、鉄道車輌から車輪とブレーキとレールとの摩擦にても生じます。 線路脇の石が赤くなっているのは、こういう鉄粉が飛び散ったものが付着して酸化した、一種の赤鉄鉱な訳で、現在の 東京では4,000t/年は出ているそうです。 戦時中、中央線沿線の植木屋が、この資源を活用しない手はない、と当時の運輸省幹部に提言したらしいのですが、 運輸省では検討の結果、貧鉱であって、集める手間と溶解する手間に比べて、生産量が低いと言う理由で、採算割れの ため、実現しませんでした。 さて、この鉄鉱石から銑鉄を造る工程を熔銑と言います。 これは、酸化鉄である鉄鉱石を、高炉に入れ、コークスを燃やした炭酸ガスで還元し、銑鉄を作る物で、出来た銑鉄は炉の下 から取り出します。 こうして出来た銑鉄(熔銑)は、そのまま製鋼工場に流す場合もありますが、大抵は砂型などに注入してPig Ironという塊にする 場合も多く見られます。 ちなみに、銑鉄1tを作るのに必要な資源は、鉄鉱石1.5~1.7t、石炭0.8~1.0t、石灰石0.2~0.3t、電力10~80KWh、水30~60tです。 こうしてみると、如何に鉄を作ると言うのは、資源を使うかがよく分る訳で。 次回ももう少し、Technicalな話で恐縮ですが、製鋼過程についてちょいとばかし。
>380 軍需大臣が、青函連絡船壊滅の報に、真っ青になったのもわかる気がする。 石炭の途絶によって、(どう考えても勝ち目のない)本土決戦に必要な、鉄の 生産が滞るとなったら、どうやって戦争をなんとかしようかと頭抱えるのも 当然さね。
>>381 >どうやって戦争をなんとかしようか
精神力です。
すすめ一億火の玉となって砕け散るのです。
青函連絡船の壊滅って20年7月なんですが、まだ軍需大臣の顔が蒼くなる余裕があったのか…
>383 確かに、蒼白というよりは、ぶち切れたというほうが正確だったかもね。 『兵力温存』とばかりにヒッキー決め込んだ航空隊が、空母部隊の 空襲で連絡船が沈んでいくのを拱手傍観している様子を見て、「重要 生産、輸送機関への攻撃に対しては、兵力の損害を覚悟の上でも断 固たる反撃を加える」よう求めてましたから。 K:お酒の酔いが覚めてから投稿しても良かったんじゃないの? 投:ういっ、俺もそう思う。推敲不足だったような気がするぞ。ひっく。 ?:二日酔に良く効くジャムがありますよ。 投:……(汗)
>>384 揚げ足をとったようになってしまい、スイマセン。
鉄話、夏バテでちょっとお休み。 スマソ。
>>386 存分に休んでください。
スカスカの装甲と滅多にカタログスペックが出そうにも出せない機体で連日連夜戦い、散っていった某皇国航空隊の英霊のようにはならないで下さい。
>386 ハライタ船を無理に海に出してはあかんのと一緒ですな。 どうぞごゆっくり。
保守。 今日は、海上護衛戦とは直接関係無いけれど、NHK総合で「阿波丸撃沈」事件に ついて九時から放送するようですね。
390 :
名無し三等兵 :04/07/31 18:24 ID:66X+a53B
18ノットで速い船かあ。 まあ、当時の戦時急造輸送船や駆潜艇などは 遅かったようだけど…
山本七平氏が乗った輸送船は5ノットだったそうだ。 一畳あたり兵士14人乗せていったんだと。
>>391 そんな、沈めてくださいと言わんばかりの速度だ…
orz
>>391 >一畳あたり兵士14人
そんな、溺死してくださいと言わんばかりの人口密度だ。
ちょっと閑話休題。 PCの中に書きためた物が吹っ飛んだので…。 >392 第二次戦時標準船は、 (1) 急速に大量建造 (2) 資材、工数の徹底的な節約 (3) 輸送力の大きな肥型の船型 (4) 諸設備は必要最小限度に止める (5) 船舶命数に関する考慮を極度に限定 (6) 性能が若干低下するも忍ぶ という設計方針がとられ、これに対して建造についても、鋼船構造規定、船舶安全法を(技術的に自信があれば)無視してもよいという考え。 このため、 (1) 船型は簡易船型を採用 (2) 二重底の廃止 (3) 船尾機関型で中型船以下は船橋も船尾に置く (4) 鋼船構造規定に定むる物より鋼材寸法を減少し、約20%節約 (5) 居住区は大部屋式として艦艇並みにする (6) 諸設備及び装置は極力簡易化する でもって、機関関係も同一趣旨ですが更に、 (1) 取り扱い上不便があっても主機駆動に直接関連しない補助機械は極力装備台数を削減する (2) 外観、体裁は一切考慮しない (3) 将来の修理工事には大なる考慮は払わない (4) 過熱蒸気は一切使用しない (5) 主機はなるべくタービンを採用し、それも単筒タービン都市、蒸気消費量20%増大は忍ぶ (6) 汽罐はなるべく水管缶を採用する という、今さえよけりゃの代物です。
>392-393 ええ?満員電車なみじゃない、それって?
そういや、 信濃は、どれだけの量の燃料を道連れにして沈没したのでしょう? 呉に無事ついても、空母としてちゃんと使う機会があったかどうか考えると、 たとえ沈まなくても相当の燃料の無駄だった気が、、、、
>>395 へ_Oへ_Oへ_O
こんな感じで膝を曲げ寝てたらしい。(頭は相手の足の間に置く
>>391 絶対無理(笑
なんか読み間違えたか著者がボケかましてるか。
「船倉の床面積一畳」に対して14名ならあり得なくもない気がしねえ? バラ積み用の貨物船の中をいわゆる「カイコ棚」にしてあるんだと読んだんだけど、 違うんかいな。頭上の空白は無駄だから天井まで七段重ねで押し込まれてても 不思議はない希ガス。 んで、そんな人口密度に対して非常用のタラップが一本だけさね。 夜中に雷撃受けたら船が沈む前に混乱した船倉内で踏み潰されて死ぬる。
>399 やだ!!オレそんな船乗るのヤダ!やだやだやだやだったらいやだあああぁぁぁ
カイコ棚は三段式が標準だったはず 貨物甲板に中仕切りの甲板を作って上層が兵員、下層が資材 甲板の高さは2.6mなので、各段は70cm強 階段幅は1.8mで傾斜角度は70度前後って階段っていうよりラッタルだな 大西洋の英軍の場合は跳ね上げ式のハンモック 間隔は60~70cmだから日本と変わらないが、一人分ずつの面積は確保されている 日本と違うのはゴムボートの充実 日本はゴムの供給には困ってなかったんだから、装備できたはずなんだが・・・
運んでこれなきゃ無いのと同じです。>コムの供給
ちょいと前の客車3段寝台は幅約50センチに高さ約70センチだったな、確か。 似たようなもんかな、長さと脇との間隔はともかく。
>401 三段だとこんな感じかな? 側面図 一段あたりの平面図 ○II○II ↑ >-+○ ↑ --------- ○+-< 一畳の幅 ○II○II 三段カイコ棚 >-+○ --------- ○+-< ↓ ○II○II ↓ --------- これは一畳に12名の豪華特別仕様なんだが どうだろう、せめて四段にならないか?
JIS規格のテントの一人の床面積が180×55cm 実際のところ装備をすべてテント外に出してもかなり窮屈だが、まあ足を伸ばして寝れる 現在の客船で乗客の詰め込み具合といえば、おがさわら丸 2等船室の一人当たりスペースが55×170cm(だとおもう) 足を伸ばせないのが辛い カイコ棚は一応、床からは切った上で就寝のできるスペースが4段のはずです なので1畳に14名だと一人当たりスペースが176×44cmのはず 日本人の座高だと高さ70cmだと頭がつっかえるのが辛いところ
ごめん、一人当たり176×22cmですね
>>404 氏の図のまま、もう1段追加した形です
やはり階段というかラッタルの貧弱さが攻撃を受けたときの被害を大きくしてるかと
ハッチ開口部一箇所当たり一つの配置です
3000t級の船舶の場合、おおよそ250名に一箇所の階段の配置となります
また、小発や大発は甲板上に積んでるはずですが、デリックを動かさないと水面に下ろせません
ベテランの指揮官だと、ハッチから船倉まで、縄ばしごを垂らしておくと読んだことがある。 ラッタルと違い、衝撃で外れたりしないから。
>407 あ、それで『人間球』になるわけね。 「被雷のサイレンが鳴り響く中、兵士達が次々と縄ばしごに飛びついて球のようになるんだ」 っていう描写が、水木しげるの漫画にあったな・・・。
山本氏の乗っていた輸送船は、一畳じゃなくて一坪当たり14人 ちなみに一坪=二畳 これでも詰め込みすぎで、氏は最初は4人だと思ったらしい
よかった、するとこんなふうだね ○ I I ○ I I ↑ >-+○ ↑ ------------ ○+-< 二畳の幅 ○ II ○ II ○ 三段カイコ棚 >-+○ ------------ ○+-< ↓ ○ II ○ II ○ ↓ >-+○ ------------ ”ぎっちり”が”みっしり”に変わった感じかな
>>406 >一人当たり176×22cmですね
光人社「輸送船入門」によれば、高さ七十~八十センチの「カイコ棚」に詰め込まれた
兵員は、最悪お互いに背中をもたせかけあって寝るんだそうで、要するに横向いて寝ている
同士で背中で支え合うという(わかりにくい表現だな)。つまり一人あたり幅二十二セン
チというのは、ほぼその通りだったと思われます。
装備とかは別置き?
414 :
名無し三等兵 :04/08/13 16:40 ID:kRj6elT7
鎮魂のため、age
21:00~21:58 NHK総合 NHKスペシャル 作家・古山高麗雄が問い続けた戦争 ▽中国・雲南戦線の記録▽元兵士の証言 「一兵卒の戦争」 NHKスペシャル◇第2次世界大戦下、一兵卒として中国の最前線に送り込まれた作家、古山 高麗雄さんの記憶をたどる。今から60年前、中国・雲南省では日本軍と中国軍・米英軍と の間で激烈な戦いが繰り広げられた。拉孟、騰越では日本軍が全滅。そんな中、古山さん はもうひとつの激戦地、龍陵の戦線に送り込まれた。古山さんは戦後、降り注ぐ冷たい雨 に耐え、飛び交う銃弾をかいくぐった自らの戦争体験を死ぬまで書き続けた。生き残った 古山さんがこだわり続けたものは何だったのか。彼と同じ部隊に所属していた元兵士らの 証言を交え、戦争の真実を解き明かす。
>古山 高麗雄 明らかに朝鮮人じゃん。また捏造反日特集か
短絡バカ一人。
>>417 被害担当艦以外のスレでは低脳と遊ぶのはご遠慮ください。
バンドオブブラザーズでE中隊が船に乗って欧州に行く場面。 船内映像を見て唖然とした。 5~6段のカンバスベットの列が3フィート(ぐらいの)間隔でズラーっと並んでる。 多層構造の奴隷船を想像した。 そりゃ大型船なら一個師団相当の兵員を輸送できるわ・・・と思った。 比較的待遇の良かったアメリカでコレなんだから、一銭五厘の兵隊さんなんて言ってた日本なんて・・・
>413 >415 情報ありがとう、415は9時を回ってからだけど録画し始めました。 413も録画予約完了。 せっかく早く帰ってこれた日に2chなんか覗いてないでTV欄くらいチェックしろよ>俺
421 :
413 :04/08/13 22:46 ID:???
>>420 ほい。
もし、しょーもない内容だった時はその時はごめんね。こういうテー
マの番組を製作する人達が、そんなヘンな作りをするとはないと思
ってる(信じてる?)けど。
遺族の話になると辛い
まあ、一兵卒の視点で見たらあんな感じだろ。 大した武器もなく、勝つ見込みもなく突撃だからな。 最も、欧米基準でみたら雲南省の戦線なんて、戦う前に負けなんだが
>413 戦標船なんかに乗りたくないなあ。 どうせ危険を冒さなくてはならないのならもっとマシな船に。。 「海上護衛戦」だったっけ?戦標船のことを沈められるため に作られたような船とかいう文が載っていたのは。
間が開いたけど、>380の続き。 さて、溶鉱炉から出た銑鉄には炭素が3%以上と多く、また硫黄、燐、珪素などの不純物を多く含んでいますので、このままでは脆くなってしまいます。 この不純物除去のために製鋼という過程を経ます。 この製鋼の過程には3つの方法(現在では連続鋳造法を含め4通り)があります。 一つは、戦前の日本でよく用いられていた、「平炉法」と言われるもので、平たい船底形をした反射炉を用い(これを平炉という)、 この炉の中に、銑鉄と屑鉄(Scrap)、石灰石等を入れて燃料で加熱溶解し、発生した酸素や酸化鉄で銑鉄中の炭素、不純物である 硫黄、燐を酸化除去する、この過程を精錬と言います。 更に、その最終過程で、フェロシリコン、フェロマンガン、アルミニウムを添加し、溶鋼中に含まれている酸素、窒素と言ったガスを除去 します。 この過程を脱酸と言い、この段階を完了して鋼となります。 製鋼過程に要する時間は、平炉式では数時間です。 この製鋼過程の材料として、屑鉄が必要であり、米国からの屑鉄輸出禁止で泡を食った訳です。 現在の主流になっているのは、転炉製鋼法で、炉は徳利の様な形をしており、容量は50~170t(最近ではミニ転炉というのもありますが)。 この炉は前後に傾けることが出来る構造になっています。 この中に溶鉱炉で溶かした銑鉄である溶銑を入れ、表面に純度の高い高圧の酸素ガスを吹込むことによって、銑鉄中の炭素、不純物を 酸化燃焼させて除去するものです。 この構造の炉は、戦前には無く、戦後、1957年に初めて日本に導入されました。
転炉は整備コストが高い為、戦前は平炉を中心としていましたが、それに変わる技術として整備コストが更に安く、大企業でなくても整備 出来るものとして登場したのが、電炉製鋼法です。 電炉は戦後、インダクション炉が開発されましたが、戦前主流となっていたのは、アーク式の方でした。 アーク炉製鋼法は、装入した屑鉄を黒鉛電極のアーク熱によって溶解し、これを酸化精錬し、更に還元精錬を行い、脱酸脱硫して鋼を 作るもので、アーク炉の容量は10~80tと平炉に比べ小規模で済み、戦前でも日本製鉄の様な大企業ではなく、小資本の企業が第一次 大戦以後雨後の竹の子の様に乱立しています。 ちなみに、平炉は一般的な鋼の製造に用いられますが、電炉鋼は主として、合金鋼、良質な鋳鋼製造用に特化しています。 どちらにしても、まず、屑鉄ありきなのは否めないわけですが、この打開のため、日本式トーマス製鋼法とか、海綿鉄(日本刀などを作る 玉鋼もこの一種から作られる)を用いた電気製鋼法、更に、日本高周波工業が1935年に高周波電撃製鋼法が開発されています。
眠い人様 >380 >これは、酸化鉄である鉄鉱石を、高炉に入れ、コークスを燃やした炭酸ガスで還元し、 炭酸ガス(CO2)では還元反応ができません。一酸化炭素(CO)の間違いでは?
素晴らしいスレッドですね。 知れば知るほどヘコんでしまいますorz >>石油生産精製輸送の見通しの甘さ ……これでどーやってアメリカに勝てって言うんだよ! 靖国に眠る英霊の皆さん、こんな戦争指導部に指揮されて本当にお疲れ様です。 (今年は御参りにいけませんでつた)
>427 あ、資料には炭酸ガス(一酸化炭素)となってますた。 失礼シマスタ。 >428 上まぁ、中国と戦争をして泥沼になる前とか、1943年のイタリア降伏とか きっかけは色々あったんですけどね。 人間、引き際が肝心ってことで。
平炉にいて屑鉄を用いず銑鉄と鉄鉱石のみを用いる場合の問題点 珪素が多くスラグが増える 鉱石添加で沸騰することで炉の損傷の可能性が高い
>>428 日本の勝ち目のなさを見て凹みたいならコーヘンの戦時戦後の日本経済とかおすすめ。
上下巻あれば一週間は凹めること請け合い。高いし。
名スレ保守・・・だけどsage
さて、夏休みも終わりだし(ぉ。 技術的な所はボロを出す前に本題(苦笑。 開戦当初、鉄鋼生産はある程度過剰能力がありました。 但し、原材料には余力が無く、1941年に1,207,000t、1942年に1,206,000t、それぞれ鉄鉱石のストックに手を付けています。 1943年3月末には、そのストックは2,605,000tとなり、開戦時からは1,399,000t減少しています。 これは、先述の様に、南方からの還送が船腹量逼迫によって上手く回らなくなった為です。 ちなみに、1940年の鉄鉱石供給は300万トン、翻って、1942年のそれは、MalayとPhilippinesで、僅か15万トンしかありません でした。 この原因の一つは、生産水準を引き上げようとしても、一方で操業面で足を引っ張っていたことが挙げられます。 一例を挙げると、この時期であるにも関わらず、鋼材規格が厳重になったため、不合格品が増大し、生産量に反映されなかった と言う話があったりします。 大戦後半にはまず原材料、就中、石炭が手に入りにくくなりました。 まず、中国産無煙炭は1942年の輸入量に比べ、1944年は40%と半分以下に落ち込み、国内低質炭に切り替えられました。 例えば、八幡製鉄所では、1943年の低品位国内炭使用率は58%でしたが、44年度上半期には62%、下半期には68%に上っています。 しかしながら、国産炭の生産を増産しようにも、人は多数投入しているものの、採掘機械は酷使から破損が進むものの、これを修理する資材が 無く、修繕用の部品も手に入らず、政策的にも良質炭が出る坑区への集中投資を行わず、兎に角石炭が出ると判明したら、質も何も見極めず、 兎に角投資をして開発することだけが目的になっていた為、生産性は全然上がりませんでした。 また、既に述べた様に鉄鉱石の供給も滞り始め、1942年度第3四半期には1,356,000tだった輸入量が、44年度第1四半期では 692,000t、第2四半期で458,000t、第3四半期312,000t、第4四半期206,000tと減少の一途を辿ります。 これを補うため、国内鉄鉱石の増産が図られ、44年第2四半期に生産のピークを迎え、また、43年度には国内ストックから40万トン、 44年度からストックから19万トンが引き出されますが需要には焼け石に水でした。 この頃から、尼崎製鋼、中山製鋼などが建設した高炉は、原料不足で閉鎖に追い込まれています。
もう一つの鉄鋼生産の原材料である屑鉄は、1944年までまだ豊富にありました。 このため、各事業者は、戦前より高い屑鉄-銑鉄混合比率を採用していました。 しかし、資材不足により、鋼塊生産は徐々に低下し、1943年度782万トンの生産から44年度には591万トン に急落しています。 そして、そのしわ寄せは下工程の事業者に及び、1944年第2四半期以降、兵器生産、造船量は急落の一途 を辿るのです。 この齟齬は例によって、鋼材割当行政の問題で、楽観的観測に基づく供給量以上の超過発券により、予定 引渡高と実際の生産量が合致しなくなってきます。 その結果、生産現場では混乱が生じ、首無し機が出来たり、マストが無い船舶が造られたりする訳です。 余談ですが、九段にある東京家政学院には、戦時中、北辰電機という会社の工場があったそうです。 此処では、陸軍船舶用の潜水艦探知機、磁気機雷の信管、航空機製造用の温度計などを製造していましたが、 3月10日の東京大空襲、5月26日の再度の空襲で校舎が焼け落ちたものの、その地下室に工作機器を設置し、 工場を復旧させますが、その前に北辰電機本社工場そのものが、焼失し、本社は誰もその分工場の統制を 行っていなかったようです。 それでも、利用の当てもないのに、部品を製作していたりしていたらしいです。
「石油技術者の太平洋戦争」(光人社)には 米戦略爆撃調査団のインタビューに対して 「陸軍は優良油田を押さえて、意図して海軍を燃料不足に陥れた」と答えた海軍士官がいたことが記されていますね。
眠い人さん、乙です。 大井さんの本読みますた。 事実だけ書かれるとへな~んとなるだけですが 筆者の感じた怒り・諦め・投げやりな気分をストレートに書いてあることが なぜか救いになってるように感じますた
すばらしいスレだと感心。 ところで電力はどうでしょう? 鉄に比べ電力不足で操業停止となった軍需産業の話しは聞かないのですが。 電力だけはナントカなったと解釈して宜しいですか。
>437 電力「も」、不足していましたよ。 例えばこれ。 昭和17年度生産拡充計画策定ニ関スル件では以下の様に書かれています。 三 電力 電力ノ需要増大ニ伴ヒ之ガ供給均衡ヲ失スルノ趨勢ニアルニ鑑ミ極力資材ノ増配ニ努メタルモ尚十八、 十九両年度ニ於ケル発電力ノ増加ハ十七年度ノ約七割程度ニ止マル見込ナリ と言うわけで、工場に従業員を輸送していた名古屋市電などは、急行運転をやっています。 これは乗客へのサービスではなく、電停に停止する時の電力消費、電停を発車する時の電力消費量を 極力減らすべく行われた措置で、市電の走っていた都市では日常的に行われていました。 工場への電力供給に関しては、物動計画や生産拡充計画に基づき、優先配分されている業種(例えば、 鉄鋼業、アルミ精錬業、航空機産業、造船業)へは優先的に配電されたものの、その他の部門に対しては、 配電が滞るケースがありました。 このため、出勤はしたものの、工場の機械が動かず、そのまま退業というケースも。 発電については、すったもんだの末、電力統制が行われますが、発電所と言っても、大規模な水力発電所から、 小規模な火力発電所まで種々雑多なもので、その維持が大変だったみたいです。 と言うのも、発電所や送電事業は、各鉄道会社(京王、小田急、京急、京成、山電、京福など)で各々火力発電所を 持っていたのを強制的に接収したりしていたから。 (余談ですが、一般家庭には精々電灯とラジオしかなく、電力消費を拡大させるには、発電会社自らが電気鉄道を 設立して大口電力供給先とするか、蒸気鉄道を買収して電化すると言うケースがありました)
東京地区でも、可成りの数の小規模な火力発電所がありました。 ところが、燃料の供給が滞ったり、発電機(多くは輸入品です)の部品が無くなって発電が停止する事態が発生して います。 また、主力の水力発電は渇水の際には発電が出来ません(実際には1939年に渇水で電力不足を生んでいます)。 更に空襲などで、発電所そのものが破壊されたり、配電設備が切断されると(ry。
437です。 眠い人さん、詳しく教えて下さりサンクス!!です。 私は生涯を電力事業に捧げた松永安左ヱ門を想い起しました。 ご存知ですよね、気骨の実業家で今の九電力を造った方です。 松永に権力与えて電力事業を担当させてたら・・ でも戦時中の日本じゃ松永も辣腕振るえなかったでしょうね・・ 余計なカキコミで済みません。
商船船員をしてる近所のおっちゃんに聞いた話。 1945年に入ってからの話だが。 横浜港・神戸港を国内輸送のために出て行く商船があると、 護衛船(正式な船種はしらん)が出港ラッパを鳴らしてついてきてくれる。 「おお、護衛についてくれるんだ」と思ってたら、 港外に出たところで「ただちに」入港ラッパを鳴らして、入港していく・・・。 当然、商船はその後、目的地まで単独航行。 命からがら、入港できた商船船員が、泥のようにつかれて港町に下りると、 そうやって稼いだ「危険手当」「戦場手当」「出動手当」を懐に、 特配を受けた護衛隊の連中がドンチャン騒ぎ。 現在でも当時のこういった実情は商船の船員の間で、語り継がれ、 海上自衛隊が有事に自分たちを守ってくれるとは期待してない船員が 多いらしい。
辞令 国防大院第1111号 眠い人 命に依り、国防大学校大学院教官を命ず。 なお、身分は 勅任官(将官相当待遇文官)とす。 平成○○年某月某日 日本国 愛子天皇 大学院事務局より 眠い人教官殿 俸給振込先口座を所定の用紙に記入の上、教官室付きの事務官にお渡しください。 服装等につきまして 文官教官各位におかれましては紺の背広服もしくは所定の国防隊員制服のご着用 をお願いしております。 勅任教官におかれましては尉官・佐官待遇文官と違い、制服ズボンの所定位置に赤 いストライプを入れることが服制改正により決まっておりますので、制服のサイズにつき まして御申告をお願い申し上げます。 なお、制服代に関しましては月払いと賞与月一括払いがありますので、院事務官ま でご連絡ください。
>>443 愛子天皇の代だと少なくとも平成ではないのでは?
>444 確かに、愛子タンだと年号違うね。 眠い人のシラバスは 戦時経済特論か軍事史特論になるのだろうか? もし本当に開講されたら派遣学生として勤務先から行かしてほすい~ つか技官だからむりかにゃ~
>443 アヒャ、コッパズカシイデスル。 また、横にずれていくのですが、初心者スレで造機能力の話が出ていましたので、 これについて少し。 実は、機関製造関係の資料は散逸して余り良い資料が無かったりします。 さて、計画造船に際し、主機、汽罐の入手は、該当船進水一ヶ月前に納品されなければなりません。 この納品の輸送期間を考慮すると、主機、汽罐の造機工場での完成は、進水前二ヶ月を目標に行われました。 但し、造機工場の生産工程と、船体の工事状況を勘案して、若干の融通を行っています。 また、続行船に関しては、量産効果を期待するため、造船所側にてまとめて手配することになっていました。 戦時標準船設計時の総トン当りの機関馬力は、平均して0.5~0.8でした。 従って、機関生産馬力は、船舶完成期日から逆算して見当していました。 但し、修繕船の発生、ストック生産品の活用、海軍用品の振替、建造取止船の残品充当などで、若干の改変が 行われました。 ちなみに、計画造船に於いての機関製造施設能力目標は総トン当り1馬力としていました。 戦時標準型機関の生産については、1941年度、1942年度はゼロ、1943年度565基/656,940馬力、 1944年度678基/929,680馬力、1945年度20基/19,300馬力となっています。
なお、1944年12月末における主機関、汽罐の工場別生産能力は以下の通り。 (汽罐) 21号水管缶(192基/年) 川崎艦船(36)、播磨造船(60)、三菱長崎(96) 22号水管缶(348基/年) 日立助川(108)、田熊汽罐(108)、三菱神戸(24)、三菱広島(108)、石川島(製造能力有) 2号円缶(170基/年) 函館船渠(8)、東北船渠(6)、日鋼鶴見(24)、三菱横浜(30)、浦賀船渠(12)、 名村造船(4)、三井玉野(48)、日立笠戸(24)、大連船渠(6)、江南船渠(8) 浪速船渠、播磨造船、汽車会社岡山、川南香焼島(製造能力有) 5号円缶(696基/年) 石川島(36)、日立神奈川(36)、三菱横浜(60)、日鋼鶴見(24)、日立桜島(24)、日本車輌(24)、 汽車会社(30)、大阪ボイラー(36)、今泉工作(36)、平野鉄工(60)、日本機械(36)、日本汽罐(12)、 平和工作(12)、川崎艦船(30)、播磨造船(60)、汽車会社岡山(48)、日立因島(36)、川南香焼島(96) 7号円缶(0基/年) 日本車輌、大阪ボイラー、汽車会社、今泉工作、平野鉄工、日本機械(製造能力有)
(主機) 乙100型(66基/年) 三菱長崎(48)、川崎艦船(18) 甲50型(180基/年) 日立助川(120)、三菱広島(60)、石川島、三菱神戸(製造能力有) 甲25型(96基/年) 石川島(60)、三菱長崎(24)、川南香焼島(12)、日立助川(製造能力有) 甲12型(125基/年) 日立助川(65)、三菱神戸(60)、浦賀船渠(製造能力有) ARS(0基/年) 川南香焼島(製造能力有) CRS(0基/年) 阪口機械、大阪製鎖(製造能力有) レンツ8(0基/年) 三菱横浜(製造能力有) DRS(76基/年) 函館船渠(8)、日鋼鶴見(12)、浅野船渠(5)、大阪製鎖(6)、名村造船(4)、 大阪造船(6)、佐野安船渠(6)、中山製鋼(6)、日立因島(3)、日立向島(4)、 大連船渠(6)、江南船渠(8)、朝鮮重工(2)、横山工業、寿重工、浪速船渠、 播磨造船、宇部興産(製造能力有) ERS(550基/年) 日鋼鶴見(24)、横山工業(24)、荏原製作(50)、きしろ製作(18)、日本車輌(26)、 汽車会社(36)、宮崎鉄工(24)、川崎車輌(36)、國弊機械(24)、九州造船(60)、 宮原製作(6)、中村造船(6)、早川鉄工(18)、北川鉄工(24)、藤岡鉄工(12)、 鐘紡神戸(42)、鐘紡高砂(24)、中田正(12)、寿重工(12)、川南香焼島(72)、 渡辺製鋼(製造能力有) F6 Diesel(240基/年) 新潟鉄工(60)、鐘紡隅田(60)、鐘紡高砂(24)、鐘紡神戸(6)、神戸発動機神戸(12)、 神戸発動機京都(24)、東燃(6)、サクションガス(24)、日本曹達(24) EHI380焼玉(60基/年) 松江鉄工(12)、北川鉄工(12)、林兼重工(6)、木下鉄工(24)、神戸発動機(6)
三カ年の生産数は以下の通りです。 '43年度 '44年度 ’45年度 タービン汽機 複汽筒(衝動式) TLT(8,000shp) 17基 -- -- TMT(3,000shp) 26基 -- -- TST(900shp) 6基 -- -- BT(2,000shp) 16基 -- -- CT(1,400shp) 7基 -- -- KT(1,400shp) 6基 -- -- 単汽筒(衝動式) 甲50の1(5,000shp) 4基 29基 -- 甲50の2(5,000shp) -- 20基 1基 甲25(2,500shp) 36基 96基 3基 甲12(1,200shp) 24基 28基 -- 乙100(10,000shp) -- 4基 -- 乙105(10,500shp) -- 9基 --
三連成往復動汽機 ARS(1,700shp) 19基 -- -- ARS(1,530shp) 12基 -- -- ARS(2,400shp) -- 11基 -- CRS(1,530shp) 30基 -- -- CRS(1,750shp) -- 8基 -- DRS( 850shp) 25基 -- -- DRS( 950shp) -- 62基 -- DRSレンツ(950shp) -- 4基 -- KRS(1,530shp) 12基 -- -- KRDT(1,400shp) 4基 -- -- TSRS( 810shp) -- -- -- DRSC( 850shp) 2基 -- -- ERS( 340shp) 140基 109基 16基 ERS( 425shp) 5基 -- --
ディーゼル機関(四サイクル単動式) ED( 710shp) 15基 -- -- ED( 860shp) 2基 -- -- ED( 520shp) 30基 -- -- ED( 570shp) 2基 -- -- F5( 410shp) 50基 51基 -- F6( 520shp) -- 150基 -- F6過給器付(710shp)-- 3基 -- F6過給器付(760shp)-- 4基 -- ED1( 335shp) 13基 -- -- EDN( 360shp) 20基 -- -- 焼玉機関 EH380( 360shp) 42基 -- -- EHI380( 360shp) -- 91基 -- なお、この生産数は、戦時標準機関のものであり、軍艦用は含まれていません。
新潟在住なのだが、「戦時徴用船遭難の記録画展」というのをやっていたので見に行ってきた。
これは船舶画家であった故大久保一郎氏が戦時中大阪商船社長岡田永太郎氏の依頼を受け、戦没した大阪商船所属の徴用船の最後の有様を描いたものである。
戦後長いあいだ所在が不明だったが10年ほど前に発見され、修復後日本殉職船員顕彰会が各地で展覧会を開いている。
その一点は過日NHKで放映された「船の棺」に出てくる、沈み行く船のブリッジで万歳をする船長を描いたものである。
展示されていたのは30点ほどだが、棒立ちになり沈みゆく船、ブリッジで炎に巻かれる船員、漂流中の鮫との戦いなど戦時中に描かれたと思えないほど凄惨なものが多い。
なお製作にあたって大久保画伯は生存者から詳しく状況を聞き、それを元に絵にしているそうである。
数年前から順次国内を巡っているようなので、もし近くにきたらぜひ見に行くことをお勧めする。
・・・昼間にニュースでやってたんで見に行ったんだがお客はお年よりばっかりなんだよなあ。
若い人に見てほしいんだけどね。
それと会場で「大日本帝国のアキレス腱」をヴィデオ上映していた。
大井氏の生前の姿を見られてうれしかったけど、何度見てもあの番組はへこむなあ。
ついでに日本殉職船員顕彰会のサイト
ttp://www.kenshoukai.jp ここに統計データが載ってるが、約6万名の殉職船員の約三分の一が未成年。
14~15歳だけで3,852名が亡くなっている。
これだけ見てもあの戦争では、船だけではなく人的資源を恐ろしい勢いですり減らしていったことがわかるなあ。
軍属扱いだった人以外は靖国神社に入っていないんだよね? 靖国神社に入れて上げる事が本人や遺族にとって幸福かどうかは 判らんが、国家として顕彰する意志が無いってコトだよな、今の靖 国神社の在り方から行けばさ、それ。 靖国厨の意見を聞いてみたいものだ。
今、国家が彼らを顕彰したらまたゴタゴタ起きるし。
>>453 つーか、靖国は考えかたが、前線と銃後の区別がついていた、限定戦争の日露戦争で止まっているから。
今日はお休み…って夏から全然進んでないような気がする。 うん、少々お待ちください。 >452 人的資源についても、そのうち取り上げようかと思ってみたりするのですが…いつになるやら。 うちの曾爺様みたいな、退役寸前のロートルまで船に乗っけてるんですからね。
まぁ、まったりとよろしくお願いしますです 密かな楽しみですので
改E型戦標船について、本スレも見つけられずに、質問スレに書いた粗忽者です。 改Eの大量産は、やはり結果的には失策と思えるのですが、いかが? こちらの機関生産量を見ると、改E系の相当数が焼玉機関のようですが、 焼玉型は速力6~7ノット、腹痛頻発云々考えると、 無理をしないで機関生産が間に合う範囲にとどめた方が良かったように思えてきます。 船体建造のペースを落とせば、工作精度が上がって、 ザル船問題もいくらかましになるようにはならないでしょうか? 資材も船員も限られるわけですし……と、素人考え。 まあ、生産能力の正確な把握が出来ないと、無理な相談かもしれませんが。 ところで、第二次E型の採用にあたって、設計した川南工業側がかなり強引だったという記述を読んだ事が、 あったのですが、これは事実なんですか?事実だとしたら、具体的にはどのようなことがあったんですか? (質問スレでいただいた回答での、設計者の口ぶりを見る限り、事実のような感じがしますがw) 質問ばかりすみません。
>458 まぁ、量産体制の確立とノウハウの蓄積と言った意味に於いては、意義のあった計画 でしょうし、ザル船問題は、一部の造船所(川南とか川南とか川南とか)の話で、播磨 とか、三菱などの工場では、結構良い成績を収めています。 E型簡易造船所の成績で優劣を付けると、関係者曰く、播磨松浦>三菱若松>川南 深掘>東京造船だったそうです。 実際、二次標準船について見れば、機関供給力によって建造量が決められました。 この原因は、このスレで散々言い尽くされていますが、海軍軍務局兵備局の要望でした。 即ち、どんな無理をしても、今さえ凌げる船腹量があれば良いと…。 もう一つ、これらの標準船が建造された理由は、軍令部と海上護衛総隊司令部が、護衛艦の 大幅増によって、南シナ海、東シナ海、日本近海での制海権を握ることが出来ると言明していた ことです。 制海権がこちらにあれば、重量貨物運搬をする限りに於いては、重量トン型の方が誰が考えても 有利で、しかも、戦時中の国家統制で、海運業界も商業上の競争が無く、積荷はいつも満船で計算 しますから、こういった結論が出た訳ですね。 ついでに、戦時標準船に船尾機関が多いのも、鍛造能力の問題から、推進軸が作れないのが原因で、 船尾に機関を持ってくると推進軸が短くて済むと言うのが第一義の理由だったりします。 で、この劣悪な二次標準船を止めて、三次船が竣工し出すのは1944年末で、実際に二次船を止める選択を していたのが、1943年秋です。 つまり、切り替えに1年掛かっていた訳で、この点ははっきり、当事者の無能というべきでしょう。
で、E型船については、1942年11月頃に提唱されました。 このスレを見ていくとお分りの通り、この頃から、船腹損失量は増大の一途を辿り始めます。 しかし、当時の標準船は、平時標準船の焼き直しで、量産に不適、甲造船能力は80万トン/年、 1945年を目標に、210万総トンの建造を目標に施設整備をしていたものの、造船所の建設地はまだ海だったりして、はかばかしくありませんでした。 で、1942年12月に引かれた、甲造船計画改五線表の1943年度85万総トンの建造とは別に、建造能力を別途に捻出するもので、計画の大要としては、 (1) 造船施設は簡易造船所を新設する。 (2) 造船技術者、熟練工員は少なく、労務員の主力は囚人労務者で充足する。 このために、設計、工作は考慮するものとする。 (3) 厚鋼板供給能力が不足しているので、使用鋼板の規格、寸法を低下させ、吾嬬製鋼(東京)、日鉄大阪製鉄所、中山製鋼(大阪)などの工場で 生産されたものを活用する。 (4) 機関不足については、中小工場を活用し、機関種類として、レシプロ、ディーゼル、焼玉など、 入手可能なものは何でも利用する。 と言ったものでした。 で、1943年度20万総トンの建造を行うために、先述の4造船所を新設する、1943年4月策定の改六 線表が正式に登場しました。 こうして、東京造船所が石川島重工業を技術指導者とし、宮地鉄工、松尾橋梁、横河橋梁、汽車 会社などが参加し、砂町に工場を建設、鉄鋼は吾嬬製鋼に依存して建設が始まります。 生産能力は、年間80隻、製造開始1943年4月で工員2,500名。 播磨造船は、単独で相生湾の奥に工場を建設、鉄鋼は日鉄広畑と中山製鋼など大阪の鉄鋼メーカー に依存し、生産能力は年間70隻、製造開始同じく1943年4月で所用工員3,000名。 三菱重工は日鉄八幡製鉄所の鉄鋼を用い、その貯鉱払底で空き地となった、若松港地先に工場を 建設し、生産能力は年間70隻、製造開始同じく1943年4月で所用工員5,000名。
そして、川南工業では、川南豊作氏が300隻/年を生産するとぶちあげた責任上、長崎港外の香焼島 深掘地先に工場が建設されました。 製造開始は1943年6月で、所用工員9,000名(ぉです。 当然、こんないい加減な数字が通るはずもなく、計画具体化につれて、年間100隻竣工、所用工員 3,000名と下方修正されています。 工事建設は、川南以外は官設を希望し、海軍施設本部直営の工事として為されています。 これらの造船所のうち、東京造船は資本金18万のダミーの合資会社で、設備は官有のまま、関係会社 五社の共同統治が取られますが、技術面は海軍管理官が管理しています。 播磨造船はこの施設の自己所有買受を希望し、三菱は産業設備営団所有を希望し、後に自己所有に 変わっています。 川南は当初から自己保有を貫いています。 さて、この船は、石炭、鉱石、鋼材輸送用の近海向け貨物船です。 でもって、その建造方針は、 (1)急速大量建造 (2)資材、工数の節約を徹底的に行う。 (3)戦時応急と割り切り、船舶の命数は概ね10年ととし、航海保安運航能率の低下を忍ぶ。 (4)搭載重量大なることを主眼とし、優速船主義は取らない。 (5)艤装その他は最低限度で忍ぶ。 と言うものです。
更に、考慮された点は、 (1)船体用厚板は、標準的な長さ10m、幅1.6m乃至2mのものは使用せず、割当工場で製造できる最大寸法の 長さ6m、幅1.4mとし、規格も正規のSS41Xは製造困難なので、無規格材のSSOOXとする。 (2)ブロック工作法の活用し、ブロック長さは6mに計画、船全体を輪切りにし、その接手は外板でも甲板でも接手 板を付けて鋲接とする。 (3)撓鉄工事を極力少なく、直線形箱形とする。 (4)構造様式は鉸鋲、熔接どちらも可とする設計とし、建造方式は各造船所で、図面は都合の良い方式に任す。 これにより、播磨、三菱、川南は、ブロック接手を鋲接にした他は全熔接の船となった。 (5)治具工作の容易にするため、材料寸法、構造を極力単一化する。 (6)機関は入手できるのは何でも使う。 差し当りは400馬力前後で忍ぶが、漸次500乃至750馬力のものを使用する様想定するので、 船型もこれを考慮する。(2Eの次の3Eは本来のE型船です) (7)設計は艦政本部牧野技術大佐の指導の下、浦賀船渠の村田義鑑、小田千馬木の両氏が担当し、 三菱若松へは三菱長崎が、播磨松浦へは播磨本社がそれぞれ元図を基に、別に設計を起こす。 さて、E型船は1943年3月を目標に川南以外、各工場の親工場(東京造船は石川島重工、播磨松浦は、 播磨造船本工場、三菱若松は三菱長崎で、川南については仮工場)で試作船が建造された後、量産 を開始しますが、播磨は1943年3月に竣工した以外は、三菱が4月、石川島、川南が6月竣工となりました。 ちなみに、これらの試作船は、名目上、量産の資料を得ると言うことでしたが、その実、造船所の所有船 として、資材輸送用に使用するために建造したものでした。
でもって、川南の試作船ですが、艦政本部の計画に先立って、我流の船型を作り、これを試作船として 完成させています。 この船型は、戦艦のように幅が広く、喫水が浅く、外板、肋骨などは曲面、或は曲線を持っており、量産性 に考慮が払われていないばかりか、構造は頗る粗雑で、耐波性、凌波性も思わしくなく、竣工後試運転の 際には、機関を後進に掛けても船は回るが後進しない、更に電灯もないほどに艤装や装備が簡略化され ていると言う、造船規程、船舶安全法を無視した代物で、艦政本部で調査の結果、航海性能不十分とされ た船で、結局、川南氏はこれを研究船と称し、量産方式で建造した艦本設計船を試作船として、9月に竣工 しています。 ちなみに、川南氏だけではなく、海軍省軍務局で軍備、戦備全般関係と計画造船の基本方針を所掌していた 吉田英三大佐がこの艦形の量産化を主張していました。 建造期間が短く、鋼材の戦力化が早く、軍備と競合する面が少なく、小型で数が多く、比較的気軽に何所でも 使えると言うのは、軍備計画を管理していた人にとって見れば、魅力的に映ったのでしょうね。
おぉっE型船!標準船の華! 眠い人殿、いつもながら、実に分かりやすいです。 ちょっと便乗質問。 >さて、この船は、石炭、鉱石、鋼材輸送用の近海向け貨物船です。 造船計画をみていて思ったのですが、E型船ばかりこんなに量産して、一体何に使う気だったのかなと。 単に内地近海の船腹需要の増大への対処ならば話は早いのですが。 TEの航続力が4000海里と比較的大きいのは、南方資源還送用を視野に入れてとして、 貨物型各種の2000海里強というのは、やはり局地輸送用の性能。 基地間の輸送用としては、さすがに性能不足とも見えますし、 近海航路に残る優秀船を転用するための、穴埋めという意味でもあったんでしょうか? どうも、とりあえず作れる分だけ作っておこうという答のような気もしてきましたがw
>464 日本の商船の戦時建造計画というのは、実際には1942年4月の改4線表からスタートします。 それ以前の改1線表~4線表は内部の研究ベースであり、実際に発表されたのがこれからになります。 以後、改5(1942.12~1943.3)、改6(1943.3~1943.12)、改7(1944.1~1944.4)、改8(1944.4~1944.9)、 改9(1944.9~11)、改10(1944.11~1945.1)、改11(1945.1~3)、改12(1945.4~8)、G型船計画(立案中) と進んでいく訳ですが、改4線表はまだ平時の香りが漂っていました。 ところが、Guadalcanalでの船腹喪失が尾を引き、改5線表の設定に暗雲を投げかけます。 と言う訳で月産2~3万総トン、将来的に7~8万総トンまで引き上げる等という悠長な事を言っていられなく なり、月産10数万総トンの建造能力が必要となってきました。 これは、続行船、第一次標準船と言った生温いやり方では達成できません。 艦政本部の意見としては、造機能力が劣る以上、これを急造することは困難で、強いて量を求めるならば、 勢い劣速の船で我慢しなさいと言うものでした。 これを受けて、軍務局、兵備局で、如何にしたらジリ貧状況から脱出できるかを検討した結果、劣質の標準船を 多数量産することについて、軍事上特別な考慮を払う必要があると言う結論に達しました。 これによれば、日本が日本近海、東シナ海、南シナ海等の海面に於いて制海権維持に必要な物資を輸送するため、 とりあえず劣速ではあるが搭載量の多い船を沢山早く造り、日本の国力が増大した時に改めて考えようと言う例に よってお得意の結論先送りの考えです。 即ち、 (1) 材料供給力から見て極度の節約をしなければならない。 (2) 船舶の被害率が高いので、船舶命数に対する観念を改めなければならない。 (3) 戦局の前途は極めて重大で、最早戦後経営という甘い夢を抱いて施策を行っている余裕はなく、 全精力を戦争目的に傾注し、戦局が有利に展開した後で改めて最適な計画を立てるべきである。 と言う考えで生まれたのが、第二次戦時標準船です。
当時の海運界の状況は、石油を除く物動物資輸送量は年間約6,000万トンで、これに要する船腹量は 300万総トンと見積もられていました。 しかし、今まで見たように、喪失と徴用によって、これに用いられる貨物船は160万総トンしかありません。 また、南方石油の還送量は、既に見たように、年間500万竏とすれば、所要油槽船は30万総トンとなり、 喪失量80万総トン/年とすれば、必要船腹量は250万総トンとなりますが、この数字は、当時の日本では 非現実的すぎ、実行目標は100乃至120万総トンに置かざるを得ず、これの実現のためには、船型を制限 して量産を図ることとされました。 第二次戦時標準船の設計方針は、 (1) 早期に完成し、かつ量産に適すること。 (2) 載貨量の大なること。 (3) 資材、工数の節約 (4) 船舶命数の短縮容認 (5) 使用目的は物動物資輸送 (6) 航続距離は、大型船なら南方占領地と往復可能、中型船は片道可能、小型船は日本近海用とする。 (7) 速力は軍部の要望もあり最低8ノットとし、海上輸送力の主力を為すA型は船団速力を8ノットとするため、 個船は10ノットとする。 (8) TL型は14ノットを希望するが、及ばなければやむを得ず忍ぶ。 (9) 小型船も8ノットを希望するが、7ノットもやむを得ず、寧ろ量産を希望する。 (10)船舶命数は、250万総トン/年の建造可能なら1年で良いが、114万総トン/年より出来ない場合は、5年とし、 100万総トン/年に及ばない時は、その交代に10年を要するから、10年くらいまでは容認する。 (11)戦後のことは別に考えるとして、技術的に許しうる限り資材の節約を行うものとし、従来の経験から、新造時に 於ける各部寸法を、従来の船が竣工後20年を経たのと同じ程度に低下させる。 こうすることで、船体用鋼材の使用量は20~25%節約になる、と言うものでした。 上まぁ、みんなビンボが悪いんやってことで。
467 :
名無し三等兵 :04/09/15 03:45:21 ID:V14XPzWJ
>戦後のことは別に考えるとして どうせろくな考えにならんのに…
>>466 >みんなビンボが悪いんや
ゆうか氏だけでなく、眠い人も使うようになったかw
遅きに失したと言うところだな。
まさに貧すれば窮す
>>みんなビンボが悪いんや ……果たして大日本帝国の指導者階級にどれほど日本がビンボ(アメリカとの相対的国力から見たビンボ)な状態で戦争をやるはめになったのか考えているだろうか? それとも逆かな? ビンボだったからこそ(アメリカにとっての)戦争をやらされる破目になったと考えればいいのか? ビンボだったからこそ金に変えられないメンタリティ的なものに縋わらざるを得なかったと考えるべきなのか? あ~考えれば考えるほど、持てる者持てない者という地政学的運命論に陥ってしまうという罠orz まぁ漏れが軍オタになる決定的だったのが新巻鮭の艦隊シリーズとの出会いだからな~(汗 孫子やクラヴゼェリッツを始めて知ったのが↑のおかげだからな~(滅
473 :
名無し三等兵 :04/09/15 21:22:08 ID:Ck4UJIaw
良スレですね。 戦時標準船に興味があるのですが、入門的な書籍で お勧めなものがあればご伝授くださいませ。
>>472 満州からの撤兵を要求されてヤケになったのでしょう。
ハルノートを承認すれば大日本帝国は確実に経済崩壊の危機に陥っただろう
>473 出来ればこのスレ自体はsage進行とさせていただきたいのですが…。 入門的な書籍なら、光人社NF文庫に「輸送船入門」というのがあります。 後、歴史群像のシリーズで、「帝国陸海軍補助艦艇」とか。 この辺り、戦時標準船について結構詳しく書かれていますね。
>>474 当時において満州に対する貿易額なんて全体の2割程度だろ?
それに比べれば英米に対する貿易額は8割近い。
満州のために英米と関係悪化するってのはどう考えても本末転倒だろ。
>>473 ありがとうございます。
今後は敵潜に発見されないようsage進行します。
478 :
473 :04/09/15 21:43:54 ID:???
嶋田さんって立派な方だったんですね。 部下が上げた船舶建造予測を、ロマンチストだねぬるぽガッてな勢いで一蹴したとか。 で、その場で、ささっとその部下よりも正確な予測を出したとか。
>474 ハル・ノートのChinaが満州を含んでいるかどうかは、現在学会で論争状態。 軍板では含んでいないのではないか、と言う論があった。 >128で上げられている過去スレの何処かにあった。 面白い話だから読んでみるべし。 ま、南部仏印進駐なんてやる羽目になって、その結果がアレだった…で御仕 舞いなような気もするがw
やっぱこちらから戦争ふっかけないで、南方物資とそのルートをがっちり守ってればよかったんでしょうか。
満州をえさにして対米融和策をとるしかあるまい。 どうせ、当時の米は自由貿易派で帝国にとっても都合がよい。 満州死守したって帝国の利益にならんし、実際ならなかった。
何かをえさにして別の利益を確保するのは日本国民に評判が悪いからな。 沖縄返還交渉すら「糸で縄を買った茶番」呼ばわりした新聞もあったくらいで。 外交とは国益をチップとして勝負するパワーゲームでもあるという認識が無いと 一方的に相手の要求を呑むか相手の言い分を無視して日本の正義を押し付ける 二者択一になり硬直化するんだが。
今日は趣を変えて、と言うか閑話休題(本題を進めろと言う声は脇に置いて)。 ある不沈船の話なんぞ…。 本土から南に下り、大隅諸島、奄美諸島に挟まれたところにトカラ列島という島々があります。 第二次大戦中、この辺りは米軍による通商破壊活動の中心地の一つであり、小は5トンの漁船から、大は1万7000総トンの捕鯨母船まで、 40隻以上の船が、潜水艦、或いは、艦載機の攻撃でこの海域に沈んでいきました。 有名な「対馬丸」もその一つですね。 さて、今回の取り上げる不沈船は、金十丸という小さな船です。 この船は、鹿児島~琉球諸島間の連絡航路から外れがちなトカラ列島の島々と本土を結ぶ連絡船 として建造されました。 当時、この地域最大の村だった十島村の村長が、鹿児島県、国中央に陳情を繰り返し、1933年、155tの 十島丸が建造され、鹿児島~トカラ~名瀬の連絡航路を開設、以前から権益を握りながら、サービスが 悪かった大阪商船(大洋商船)を淘汰してしまったのです。 初代船長は、前村与市氏、彼は7年7ヶ月の間、この難所を少なくとも350回、往復している。 しかし、如何せん、小型船一隻では利益も上がらず、更に大型の船を建造し、採算性の高い本土~名瀬連絡線 にこれを投入、小型船は島内航路に特化させようと、再び陳情を繰り返し、補助を得て建造したのが金十丸でした。 建造所は駆逐艦の建造で有名な藤永田造船所、その船体は、先述のようにトカラの難所に合った二重底とされ、 外板はリベット止めだったが、藤永田造船所のリベット止め技術は繋ぎ目を隙間無く打ち込み、見るからに強固な 作りとなったと言います。 これがため、建造中には海軍に目を付けられ、徴用(500t級ならそれなりに使いでのある特設艦船になった)され かけたが、当時、未だ権勢を誇っていた運輸族議員の実力者の支持のお陰で徴用されることなく、C船区分で竣工 したのです。
ちなみに、金十丸の「十」は十島村の「十」、「金」はその国会議員の名字を拝借したとか。 さて、この船、就航後、周辺海域が可成り物騒になってきたにも関わらず、相変わらず 無事に航行を続けており、戦争末期には、名瀬にこの船が姿を現す度に、桟橋には疎開 希望者が押しかけて大変な騒ぎになりました。 何しろ、この船は、「不沈船」ですから、乗客定員170名のところ、2倍、3倍の人を乗せて 鹿児島に運びました。 何故、不沈船に成り得たのか、それは運もありますが、船長の前村氏がその海域を知り 尽くしていたこと、そして、この船の設計段階から携わっていたため、この船のことを知り 尽くしていたこと、また、船長の卓越した指揮能力もあったのでしょう。 - この船長の場合、夜目が利いていたようで、誰も気がつかないのに灯火を見つけ、2,30分 後に漸く見つけたりするような事がしばしば有ったようです。 このため、敵潜水艦の航跡、艦載機来襲を素早く察知出来、応戦体制を取ることが出来た とか。 ちなみに、この船の武装は、船首に木製の三八式野砲の偽砲、対空機関銃、防空凧、打上 筒…これらが成功した試しは無かったらしいが…25mm機関砲2門をブリッジに搭載していま した。 また、この船は1945年3月24日の最後の本土行き航海の時にB24爆撃機2機に襲撃されて います。 この時は爆撃機は北から襲撃してきたので、友軍機と勘違いし、機銃掃射があって初めて 戦闘態勢に入り、ジグザグ航行をします。 少なくとも2名が銃撃で死亡、船長、通信長始め多数のけが人を出しましたが、孔だらけに 成りながらも、何とか鹿児島に到着したそうです。
それまで、魚雷攻撃を受けたことも度々ありましたが、そもそも喫水が他の船に比べて浅かったことも 幸いしていたそうで、魚雷の調定深度が深く、船底を潜り抜けてしまうと言う…。 しかも、金十丸の前村船長は、様々な方法を駆使して、襲撃を免れています。 この船はディーゼル推進で、加減速が容易なことから、航行中は常に之の字運動を絶やさず、また14ノットの 高速を利して、相手の追撃を振り切ったり、勝手知ったる地元の海という点を利用して、珊瑚礁の岩場の切れ目 をぬって島影に潜り込んでみたり、鹿児島湾を出たら、市販の海軍旗を艦尾に掲げて、軍艦を装ってみたりまで しています。 (金十丸は、藤永田造船所製だけあって、シルエットは駆逐艦や海防艦に似ていたらしい) また、生き残りの要諦として、彼が絶対にしなかったのは、常に単独航海で航行し、船団に入るのを拒み通したことです。 と言うのも、当時の船艇の多くはレシプロなどの蒸気機関で煙を吐く、とすれば、その煙で待ち伏せに逢いやすい、その点、 金十丸はディーゼルですから煙を吐かない。 しかも、船団の中に大型低速船が有った場合、小回りの効かない船が多く、E法、F法と言った思い切った之の字運動が 出来ず、結果的にA法、B法と言った襲撃側にも簡単に予測のつく方法を採用せざるを得なかった訳で。 更に、護衛船艇もボロ船が多く、金十丸より速度の遅い船であり、逃げるのに足手まといになる、と。 ついでに、これらの船団は夜間航行が多かったのですが、夜間、優秀なレーダーを持つ米潜水艦には 余り意味無く、反って損害を増しています。 金十丸は、彼らの思考の逆を行き、日中に航行し、夜間は島影で停泊すると言う航海を行なっていました。 当時、鹿児島港から出港する船団は、西部軍管区司令官付南九州船舶隊長の指揮で編成します。 船団が編成される際には、軍関係者、護衛艦艇の各艦長、輸送船の各船長と機関長が出席した船団会議が 開かれ、ここで航行方法について詳細な内容が詰められます。 船団の隊形、針路、原速の保持、非常時の緊急措置…。 これらを決めるのに煩瑣な手続きを経てやっと船団が組まれます。 しかし、船団を組んでも、前述のような理由で、なかなか効果が上がらなかったりした訳です。
話を元に戻して…。 鹿児島に戻った金十丸は、修理を終えると、4月から船舶戦時海運管理令によって、国家管理 となり、種子島に布陣した第158連隊の支援輸送を行ないますが、愈々、油が無くなってくると、 竜ヶ水の海岸に金十丸を避難させ、島津家の所有山林を勝手に伐り出して、島に擬装してしまう と言うとんでもない手で、何とか空襲を乗り切っています。 戦後、トカラ列島は北緯30度線以南を米軍施政下に置くというGHQの「日本の領域に関する指令」 により、口之島以南が軍政下に置かれ、十島村は10の島のうち、3つが日本領、7つが米軍施政下 となる、分断の悲劇が暫く続きます。 ちなみに、金十丸は臨時北部南西諸島政庁米国軍政本部に接収されますが、沖縄の中城湾に回航 した時、米軍の将校たちは、この船の強運を知っていて、可成りの敬意を払ってくれたそうです。 余談ながら、1948年10月、金十丸は神戸での改修を終え、軍政部海運部長の査閲を受けます。 その夜、正に、金十丸は最大瞬間風速46.9m、総降水量283.7mmを記録し、死者20名、負傷者24名、 全壊家屋9,941戸、半壊11,536戸という未曾有の被害をもたらした「リビー台風」に襲撃されます。 この時、中城湾内にあった、軍艦、輸送船のうち、軍艦以外では、金十丸のみ生き残り、新たな不沈船 伝説を打ち立てています。 (ちなみに、この台風では、DEが3隻座礁し、他に10数隻の米軍船が座礁したり、陸上に乗り上げたり しています。) そして、その金十丸ですが、その後、沖縄に売られ、琉球~台湾航路に就航していましたが、1963年、 中心気圧925HP、最大瞬間風速は60mという猛烈な台風14号に巻き込まれ、西表島の船浮湾で座礁 しています。 しかし、その後、離礁したとか、解体されたと言う最後の模様がよく分からなくなっており、今では伝説 だけが残っているそうです。
>>眠い人GJ!! なんか「船一隻に歴史あり」っていう感じですな……
さて、支那事変中期から戦力増強のための物資動員計画が政府によって策定され、重要物資は政府統制下に置かれます。 当初、造船業は逓信大臣の管轄であり、生産力拡充部門に於いて一つの独立部門(C2部門)として取り扱われます。 しかし、太平洋戦争勃発後、業務の大部分は海軍省所管となり、資材配当権限も一部が逓信大臣から海軍大臣に移管されます。 即ち、C2部門のうち、長さ50m以上の鋼船に関する部分についてはBx部門として独立し、物動上の地位も民間から軍需へと、優先度が向上した のです。 造船計画は他部門の生産計画と共に総合計画の一環として、軍作戦と国家輸送計画に関連して決定されました。 そして、造船計画と表裏一体の関係となったのが物動計画であり、両者は同時に成立するように取り計らわれました。 造船計画の基本作業は、企画院(後に軍需省総動員局)が主となり、これに陸軍省(軍務局、参謀本部、戦備局)、海軍省(軍務局、 兵備局)、運輸省(企画局)等が絡んでおり、海軍では艦政本部、造船業の集まりである、造船統制会は直接には参画していません。 ただ、造船作業実施、所要資材に関する資料調製は艦政本部であり、造船計画、物動計画については艦政本部への根回しが必要 となります。 と言う訳で、表に出ないものの、艦政本部の意見が重視されています。 このBxの物動は、新造船用、修繕船用、施設用の三者に分かれていました。 但し、大半は新造船用であり、造船量と物動計画の関係は、主に圧延鋼材を基準にして論議されています。 Bx部門の分離当初は、造船能力<物動だった関係上、物動は造船能力で決定されました。 しかしながら、標準船の製造能力が向上していくと、造船能力>物動となり、しかも、物動の方が縮小形態 となっていったため、資材をどれだけ造船に配分できるかで、造船量を決めるようになっています。
物動計画策定後、計画経済体制で各産業が運営された状況では、資材は国家総動員法に基づく物資統制令で統制されています。 これは、生産材は勿論、二次製品、諸機械などの製品も含み、国の物的資源をほぼ全て網羅していました。 但し、造船に関しては艦政本部という、造船と修繕を行なっていた機関が同時に統制を行なっていたため、他の産業と若干趣を異にしています。 さて、資材統制はどのように行なっていたか、と言うと、一般にクーポン制を取っていました。 これは全体枠を艦政本部が管理し、資材需要に関しては、各造船所、製作所が命令された生産計画に応じて各資材の時期的需要量明細を提出 する方式で、艦政本部が認めると、その需要に応じたクーポン券が発券される方式でした。 発券された券を以て、製造者と折衝し(すぐに供給される訳ではない)、両者の合意によって初めて入手できるものです。 また、電力は大枠を中央で決定し、実施細目は造船所と各地方軍需監理部との折衝に依って行ない、塗料、工具については、艦艇関係の統制機関 である海軍工業会を利用して折衝を行なっています。 で、本題の鋼材ですが、「産業の米」ですからその需要は極めて旺盛で、絶対量が常に不足していました。 これを回避して、造船量を維持、増強するには、総トン当りの鋼材量を節約した船を造る必要がありました。 このため、標準船は先述のように、耐用年限を短縮を忍んで軽構造としたり、上部構造物を木製化、第二甲板を 木製化するなど、鋼材でなくても済ませられる部分の木材等への代替が行なわれています。 更に、厚板の不足に対処するためには、厚板部位の形鋼、棒鋼への仕様変更を行ない、鋼管は使用を節約して 大径管は鋼板の張り曲げ、デリックブームは形鋼の組立式にするなど、涙ぐましい努力を行なっています。
このほか、需給逼迫品としては、鋼材も含め以下のものになります。 鍛鋼品(軍需品と競合) → 使用節約、鋼板熔接や鋳鋼品に転換 鋳鋼品(軍需品と競合) → 鋼板熔接品の採用 特殊鋼(航空機と競合) → 使用制限し、かつ、使用品は13クロムの類とする 水銀(雷管起爆剤) → 含水銀船底塗料の使用取止め 亜鉛(軍需品と競合) → 亜鉛鍍部分はほぼ全廃 銅(軍需品と競合) → 電線は単線として使用量節約、弁コック類は鋳鉄品に変更、金具、管は鉄製品に取換え 球軸受(航空機と競合) → 使用節約 セメント(陣地構築、建設、産業一般用) → 使用節約 なお、木材は統制が不十分で、一時的に極めて入手が困難となり、動力燃料関係、特に液体燃料関係は絶対的な不足 であり、コークス、石炭、カーバイド、酸素、電力は常に不足気味でした。 次回は、一旦ageた方がよかんべな。
すみません。 一旦ageます。 >493 阿波丸より引上げんならん船が沢山あると思いますけどね。
495 :
名無し三等兵 :04/10/14 09:22:49 ID:CFzi2Woj
大体乗組員の骸骨もあろうに
>阿波丸 どうにも政治的な意図を感じるなぁ。 生ゴムやらインゴットやら晒し挙げて 『やはり日本は緑十字船で軍需物資を運んでいたのだ』 なんてやられるんじゃないのか?
497 :
名無し三等兵 :04/10/21 05:56:32 ID:9U+Tp1bJ
>>496 別に今更言う事でもないので大丈夫でしょう。
今週、物動計画に触れようと思ったけど、ちょっと時間がないので、次週までお休み。 そう言えば、昨日本屋で、元就書房と言うところから出版されていた、「戦時艦船喪失史」 と言うのを買ったのですが、監修者が余りにも余りにもな人なので、折角の資料が死んで いるなぁと思ったり。 これは、個人的思いではありますけどね。
499 :
名無し三等兵 :04/10/28 04:27:11 ID:rqiPZtz8
引き上げ
500 :
名無し三等兵 :04/10/28 17:10:00 ID:uaEhAin+
ロジェスティクスって語はいつから使われたんだろう?
「海の昭和史」という本を買いました。 眠い人さんが語る予定の物動計画にも関係大ありかも。 さして博学でもないので単純に 世界の海を又にかけていたのは海軍じゃなくて 海運業者だったのかなと思いました。
>>500 我が日本の軍事分野にそんなまどろっこしいものは存在しな(殴)
米軍は使ってたんじゃない?
さて、造船鋼材関係のお話。 様々なレスでも鋼材関係についてちょこちょこ触れてきましたが、造船材は鋼船構造規程などで、日本の工業製品にしては珍しく規格が定められており、 製鋼所の生産設備、技術がそれなりに整っていませんといけませんし、製品検査も同様に特別の取り扱いが必要です。 この規格を満たす鋼材を供給する会社は限定され、造船用鋼材を供給するメーカーとしては、管財を除く各種鋼材の供給が可能な 日鉄八幡、鋼板の供給が可能な日鋼鶴見、川崎重工製鈑、これに少し規模が小さな鋼板供給メーカーとして、大和製鋼、尼崎製鋼、 鋼板と型鋼の供給が可能な日鉄兼二浦、鋼管に関しては、住友金属尼崎と日本鋼管川崎が主要メーカーとして造船所と取引しており、 他の有象無象の鉄鋼会社、電炉メーカーは蚊帳の外に置かれていました。 また、造船材の70%は厚板、つまり鋼板です。 即ち、国家全体の品種別需要とは別に造船用鋼材を増すと言うことは、厚板工場が過負荷となります。 ちなみに、質を下げて納品することは出来ません。 と言うのも、貨物船の船価の3割弱が鋼材の費用で、工作上の歩留まりは80%以上、このため、造船所の 方も鋼材の知識は生半可なものではなく、造船所の要望に対して、鋼材メーカーが駆け引きする余地は ありません。
では、全体の鋼材供給量に対し、造船部門に配当した量はいかほどになるか見てみましょう。 年度 国内生産 全供給量(含輸入) 造船部門配当 比率(単位1,000t) 1935 3,737 4,043 321 8.0% 1936 4,264 4,551 567 12.5 1937 4,673 5,374 755 14.1 1938 4,871 5,060 355 6.9 1939 4,609 4,674 199 4.3 1940 4,522 4,718 285 6.1 1941 4,184 4,236 275 6.5 1942 4,031 4,037 550 13.6 1943 4,124 4,124 1,135 27.6 1944 2,607 2,607 1,204 46.3 1945 460 460 19 4.1 これに1940~44年度の普通鋼造船割当実績を配しますと、 日本全体の 造船部門配当 日本全体の 日本全体の 造船部門 造船部門の 年度 配当全量 (予定量) 配当実績 達成率 配当実績 配当達成率 1940 4,681 285 3,820 83.5% 196 69.0% 1941 4,653 275 4,084 87.8 276 100.0 1942 4,051 550 3,527 87.0 363 66.0 1943 4,698 1,135 4,519 96.4 986 87.0 1944 3,862 1,204 2,648 68.7 940 78.0
甲造船の鋼材は、建造計画から算出した量を海軍省から提出し、国家物動計画で検討を加え、数量を決定し、最終的な建造量を 修正すると言うプロセスで行なわれました。 艦政本部にしては珍しく、このプロセスは堅持され、資材の裏打ちがない計画を引き受けることはありませんでした。 上記表からも言えるように、全鋼材に占める造船材の割合は、支那事変で10%前後で、1938~39年は兵器生産を優先する為に造船 への割当が控えられています。 しかし、計画造船が決まった1942年からは割当は増やされ、1944年度第1四半期の50万トン配当の時は実に国家が生産する鋼材 の43%が造船用に振り向けられましたが、空襲、通商破壊の影響で、鋼材の生産量が減少し、1945年度計画では万トンに満たない 僅か7,500tにしか過ぎず、造船はおろか、造修も出来ない体たらくに追い込まれていきます。 と言う訳でまだ続くけど、今日はここまで。
次に、海軍艦艇と商船の鋼材配当に関して書いていきます。 年度 艦艇建造 商船建造 艦艇修繕改造 商船修繕 施設拡充・補充(単位千トン、括弧内は実績) 1942 254(270) 490(320) 50(54) 50(30) 艦艇6(6)/商船10(6) 1943 205(183) 1,015(927) 40(42) 100(36) 艦艇5(5)/商船20(15) 1944 90(142) 1,085(895) 45(43) 100(30) 艦艇5(5)/商船20(15) 1945 6(5) 14(14) 4(5) 5(5) 艦艇0(0)/商船0(0) 1943年度に俄然商船の建造要求量が増し、艦艇のそれを大幅に上回るのが分かります。 反面、修繕に関しては艦艇が優先され、商船が後回しになっており、損傷船舶の修繕が 進んでいない状況が見て取れます。 商船建造に際して、物動計画が見込んだ鋼材所要量は、総トン当り0.685tとしています。 この数値には何ら根拠が無く、第一次戦時標準船建造に際しては、設計見積の段階で、 1Kの0.602から、1Fの0.847まで様々で、平均的には0.70近辺になっていたようです。 しかし、第二次戦時標準船建造に際しては、この数値に検討が加えられ、物動計画上の 数値は0.58にまで下がりました。 実際、1Aが0.743だったのが2Aでは0.508にまで下がっています。 この対策としては、第一に生産現場の効率化として、戦時規格の制定(鋼材規格の低下)、 鋼材寸法の統一、それによる計画生産の実施を行なって、製鉄所の能力資産を有効活用する。 第二に流通過程の効率化として、計画配給の実施、輸送距離の逓減、手持ち材の相互融通、 造船所内の鋼材整理方法の改善、造船所在庫量圧縮が行なわれました。 第三に無駄な鋼材の使用排除として、設計を鋼材寸法に合わせ、歩留向上を図る、代用寸法材 を大幅に使用すると言うことも行なわれています。
その在庫管理にしても、従来は一船毎に鋼材整理を行ない、置場も別々でしたが、鋼材は寸法別 に一括管理し、在庫量を正確に把握し、鋼材置場面積の有効活用の為に、鋼材準備一覧表を準備 する。 鋼材置場も、機械、即ち起重機を水切場、置場に設置して、大量に、かつ円滑に移動出来る様にし、 更に使用頻度の高いものは罫書場の近くに置いて運搬距離を短縮する。 鋼材使用後の残材は、伸鉄作業や打抜を実施して、フランジなどの小部品を作成するのに使い、 無駄なものを残さないことを徹底することで、鋼材の活用を図っていました。 次回は鋼材の生産状況について述べていこうかと。
さて、大型船を建造するに当たって、最大の使用資材は勿論、厚板です。 前述のように、戦前は全体の10%を造船用に使用していましたが、戦争勃発後は増大の一途を辿り、25%程度まで拡大、更に1944年度に至っては 45%程度が造船用厚板になっていました。 これだけ造船用厚板の生産が大きく占めると、品種別製造分野に大きな影響を与えます。 影響が出ないのは、軌条(レール)、薄板、線材、棒鋼のみでした。 また、地理的分布についても、生産地と消費地が必ずしも一致している訳でなく、その供給に 問題が生じる可能性を秘めていました。 造船生産力の地理的分布としては、 1943年 1944年 地区 竣工トン数(万トン) 地域比率 竣工トン数(万トン) 地域比率 関東 28 25 27 17 関西 32 28 49 31 中国 17 15 27 17 九州 33 30 50 32 外地 2 2 5 3 このうち、関東には北海道、東北、東海、北陸を含みますが大部分は東京湾、中国は四国を含みます。 また、九州は北九州が若干で大部分は長崎、外地には釜山、大連、上海、香港が含まれていました。
次に、厚板生産用の設備はと言うと、造船材が生産可能な工場としては、以下のものがありました。 ●吾嬬製鋼(現在のトーアスチール/所在:東京/製造能力:31,600t/年) 規格造船材のSS41は製造不可能だが、SSOO材は製造可能であり、改E型船にのみ使用可能。 寸度1400×6000mm、厚さ6~12mmを適当とする。 ●日本鋼管鶴見(現在のJFEスチール京浜/所在:鶴見/製造能力:338,500t/年) 造船材専門工場で、各種板の供給可能であるが、計画造船最大膨張時には関東以北の供給 が不安であり、不足の場合、日鉄広畑から供給。 ●中山製鋼(現在も同じ/所在:大阪/製造能力:108,000t/年) 吾嬬製鋼と同じ経過。 ●日本製鉄大阪(現在は廃止/所在:大阪/製造能力:70,000t/年) 同上 ●大和製鋼(現在の大阪製鐵/所在:大阪/製造能力:97,200t/年) 厚さ8mm以上の鋼板を供給可能 ●尼崎製鋼(倒産、一応、神戸製鋼所の子会社ではある/所在:尼崎/製造能力:88,800t/年) 造船用の厚さ8~12mmの板を供給。 ●川崎重工(現在は廃止、旧川崎製鐵神戸/所在:神戸/製造能力:200,600t/年) 造船用厚板はもとより、薄板の供給能力の方も高い。 ●日本製鐵広畑(現在の新日鐵広畑/所在:姫路/製造能力:360,000t/年) 1943年から操業開始した厚板専門工場で、厚さ10mm以上の1,400mm幅を得意とする。 但し、1,600mm幅の材を生産する場合は、厚さが8mm以下となるのに注意を要する。 製品自体は極めて優秀。 ●徳山製鈑(不明、住友金属か?/所在:徳山/製造能力:32,000t/年) 薄板中心で本格的造船材の供給は困難。設備、技術の関係上、計画造船末期に使用。 ●日本製鐵八幡(現在の新日鐵八幡/所在:八幡/製造能力:496,000t/年) 各種厚板の供給が可能だが、特に軍艦用の鋼材製造が主で、特殊なもの、九州地方以外の 民需向け供給は無し。 ●東海鋼業八幡(現在も同じ/所在:八幡/製造能力:43,000t/年) 中厚物を生産。但し、日鉄八幡の下請工場と言う位置づけ。 ●日本製鐵兼二浦(接収され、現在、黄海製鉄所/所在:兼二浦/製造能力:85,000t/年) 能力は大和製鋼と同等だが、冬季結氷の為、輸送困難であり、逼迫時の利用に難あり。
これらの生産能力合計は約200万トンですが、実績は日鉄八幡以外は操業率が半分または それ以下であったそうです。 設備面では、鶴見、大和、川崎重工、八幡、兼二浦の圧延機は輸入品で、しかも、同一能力の もので、これが計画生産に威力を発揮しています。 こうして、関東以北は鶴見が鋼材供給の主体となり、吾嬬製鋼は東京造船に全量を向け、不足 分は広畑から供給を受けることになります。 また、戦争末期には大型軍艦建造を打ち切った為、日本製鐵室蘭の製造設備が遊休化し、 これを用いて18mm以上の船体用厚板を製造していますが、その数量は微々たる物でした。 関西、中国地方については、広畑を主にして概ね自給が可能でしたし、九州は八幡が主力 でしたが、艦艇用鋼材の割当が八幡に割り当てられると、広畑から供給を受けています。 なお、兼二浦のものは、長崎で消費していました。 外地造船所向け厚板については、大連は関西から、朝鮮、上海は九州地方から、香港は 中国地方からそれぞれ供給を受けています。 次回は、形鋼生産について。
型鋼生産についてですが、その型鋼生産のうち、中型、大型のものは殆ど日本製鐵八幡で生産していました。 これは全型鋼の半分に当り、乙型、球山型、I型は八幡が独占しています。 また、大型のものも釜石、日本鋼管川崎、兼二浦で特定寸法のものを生産する以外は全部が八幡での生産となっています。 つまり、八幡が空襲を受けて、生産設備が破壊された場合、型鋼生産は滞る訳です。 こういう状況を受けて、造船材の確保を目的に需要家、製鉄所、造船統制会、鉄鋼統制会、鉄鋼販売統制会社と艦政本部が、 毎四半期毎に鋼材会議を開催することとなります。 この会議では、艦政本部が計画造船の大勢、製鉄所の稼働状況、物動計画の動向を推察して、造船所に線表で具体的建造 計画を提示し、修繕用鋼材保有枠と施設用鋼材枠を指示します。 但し、物動計画共々、戦況の推移が全くその計画性を阻害したため、方向と方針を誤らない様にすべきことが求められました。 造船所は、艦政本部の計画に基づいて需要量調書を作成します。 新造船の場合は、起工三ヶ月前から進水三ヶ月前までに入手する鋼材を按配し、その所要量は標準表から割り出します。 そして、所要量-手持材料分の差が、新規要望量となりますが、差が残り有る場合とか使用目的に合わない手持ち材は、譲渡 可能材として、融通用にプールします。 修繕船の場合は、過去三ヶ月の実績に基づいて、一番優先すべき寸土のものを補充します。 こうして、半年分の手持ち材があるように差配しますが、実際には新造船用のものと互いに融通していたようです。 施設用材は、要望枠を決定して需要家に通知し、その枠内で申請を行ないます。 これら需要家の要望を元に、製鉄所では材を生産することになりますが、設備の状況によってはそれは左右されます。 そう言う時は、他造船所と用材を融通し合うこととなります。 太平洋戦争中、用材割当に関しては比較的円滑に進んだのですが、他方、ネックとなったのは、運輸の逼迫と問屋の 利用度低下という流通の問題が発生しており、これが部材の流通を阻害しました。
運輸の逼迫に関しては今まで見てきた通りですが、大口需要家と中小の需要家を一緒くたにして、群小の需要家も製 鉄所と直接交渉を行なわせたのは失敗でした。 元々、大口需要家に関しては、製鉄所は特定の岸壁を使わせ、鋼材の配給も製鉄所直送体制を確立していたのに対し、 群小の需要家は鉄鋼問屋を通して、鋼材を仕入れることにしていたからです。 問屋を通すことが、需給直結となると考えたのでしょうが、餅は餅屋、逆に製鉄所も群小需要家も事務手間が掛かって 効率が悪くなっていました。 このため、群小需要家は同じ種類、地域の需要家で集団を作り、製鉄所は大口需要家とだけ取引し、群小の需要家へは、 大口需要家が代表して鋼材を取得、保管し、必要に応じて配給する制度を確立したので、若干の改善は見られることとなり ました。 次回は、鋼材寸法の話をちょっぴり。 次週は上げた方がよかべえか。
514 :
名無し三等兵 :04/11/29 19:21:00 ID:+rJF6kn/
興味深いスレage
実にすばらしい
ほ
護衛空母や戦艦(対空艦改造)が護衛してたら.....
>>517 護衛空母はともかく…
戦艦を護衛に使ったりしたら干上がるのが早くなるだけだw
護衛空母にしたところで「あったほうがいい」程度であって、まずは基本を押さえてからでしょ。
520 :
名無し三等兵 :04/12/05 19:40:08 ID:qoTq/nb9
第二次世界大戦の対ソ連戦でドイツが補給切れで攻勢ができなかったり 自滅したりの話は有名だよねえ? 学研シリーズの「バルバロッサ作戦」で補給の問題が特集されていたから久しぶりに 読んだのだけど、鉄道の問題やら道路の問題やら様々な問題と膨大な物質の量の データーに戦争とはまさに破壊と消費のカタルシスなんだなあとシミジミ思った。 まあ、それはさておき、ドイツの補給の問題は詳しすぎるほど研究されているような 気がするが、逆の立場から見るとソ連はドイツどころじゃない物量でベルリンまで進撃 したわけで、当然、補給の問題はドイツどころじゃなかった筈なんだけど、それについては 誰も余り問題にしないんじゃないのかなと。 泥沼の道路が云々というのなら、それはソ連軍も同じ事で、物量で遥かに上回ると 言っても鉄道はドイツが押さえている範囲は結局はドイツ規格だし・・・・トラック輸送に 頼らざるを得ない部分の方が遥かに多かったと思うけど、こちらは見事にやってるしなあ。 何気に、ソ連って補給戦の達人?
単純にアメリカの援助があったからじゃないのか?
>>521 まあ、それを言ったら見も蓋も無いが、確かにトラック生産数は糞みたいにあるから
ソ連流物量作戦なんだろうけど。
しかし、あの泥濘の大地で、トラックでやれたというのも不思議といえば不思議。
しかし、ソ連の補給戦について詳しい奴なんて居ないだろう、このスレ。
何気にソ連って名将が多いのに不当評価される面もあるしね。
何か野蛮人の体力と、安い命の大量投入でゴリ押しで勝ったみたいな悔し紛れな
評価が多いし。
523 :
名無し三等兵 :04/12/05 21:27:23 ID:4A9BmeAA
>安い命の大量投入でゴリ押しで勝つ ソ連側プレイヤーの醍醐味ですが
ソ連は冷戦の関係で基本的に資料が不足しているから研究者も少ないのよ。 何しろ公式発表の戦死者の数だって何千万人も食い違う国だったんだから・・・・ それでも戦闘そのものは対戦したドイツ側からの資料と付き合わせていけば ある程度は正確な数字が出るからいいけど、後方支援の方は闇の中で しょうよ。そもそもちゃんと記録が残っているのかすら怪しいし、レンドリース の支払いをゴネて踏み倒した関係もあって、そもそも援助が届いていない フリをして記録を改竄したりで、メチャクチャだし・・・ まあ、確かに。 ちゃんと破綻無く補給を続けていたという意味では、それなりの実力があったとは 思う。そもそもスターリンは実務型で、こういうのが本来一番得意って・・・・よく考えたら 革命の時ってスターリンは補給業務とかの担当じゃん。 うっかりしてた。 スターリン著・「補給戦」とかあったら買うのにw
>スターリン著・「補給戦」 うわ、欲しい(w
526 :
名無し三等兵 :04/12/05 22:50:02 ID:zj+IRJ/Y
実際のところ、スターリンの補給能力?というか実務能力は凄かったと思う。 ヒトラーに比べて。 物量に物を言わせて、と簡単に言うけれど、当時のドイツ人口が7000万程度、フランスが 3600万?イギリスが4600万位、ソ連が1億8000万?なわけだから、3倍までの開きは 無い。 緒戦の奇襲攻撃で戦車と航空機を2/3以上失った後、持ち返したのは流石というべき でしょう。レンドリースも確かに重要だけど、どう考えたってソ連国内での生産数の 方が圧倒的に多いんだし。 生産工場を爆撃機の行動範囲外に疎開させ、資源地帯を奪われて乏しい資源状況 をやりくりし、国中から戦闘兵力を集めて再編成し、再配分する。 戦場の前面での戦術とは別に、気が遠くなるような実務をこなして成功させたスターリン は確かに英雄かと。 少なくともドイツはそれを出来なかったのだしね。
527 :
名無し三等兵 :04/12/05 22:54:40 ID:zj+IRJ/Y
革命前のロシアは巨大な農業国だったのに、それをアメリカに匹敵する工業国 に曲がりなりにも転換させた手腕はたいした者だし、まあ、侮れないよね。 人口が10倍も違ったというわけじゃないんだし。 まさにスターリンこそ「生産・補給」というものを一番良く分かっている人間だったと思う。 マンシュタインは戦術の天才だったかもしれないが、スターリンは補給の天才だったと 思う。 補給王・スターリンだね。
528 :
名無し三等兵 :04/12/05 22:56:53 ID:zj+IRJ/Y
補給戦の覇者・スターリン、とか。もっとかっこいい渾名をつけてあげるべき。
このスレの住人のような補給マニアの人達、資源を統制し、割り当てて生産し、 人員を集め、編成し再分配する。 5ヵ年計画とかにハアハアする。人民は消耗品である。 というような人にとっては、スターリンこそが究極の目標ではないかと。 憧れの人、スターリン。 補給神・スターリン。オブイエークト。
ソ連のロジスティックスに見るべきものがあったのも確かだけど、比較の対象であるドイツのロジスティックスが貧弱に過ぎる、というのもあるかと。 ドイツ軍の一番目立つ特徴は「バランスの悪さ」に尽きる(汗)
>>530 ドイツはリソースの配分が上手くいってない感じなんだよねえ。
三軍で資源は奪い合うし、トップはアレだし。
>>531 スターリンよりも伍長殿のほうが「民主的」なんだろう。
ドイツ敗北の原因はそこかもな。
533 :
名無し三等兵 :04/12/06 01:18:33 ID:/EIxjK04
マンシュタインは確かに偉大だったけど、彼の回想録とか読むと、人に責任を押し付ける スタイルも目立つ。 曰く、ヒトラーの無理解が無ければ・・・ 曰く、補給さえ間に合えば・・・・ 曰く、兵器の生産がもっと・・・ 曰く、天候が・・・泥濘が・・・ロシア兵の蛮人じみた抵抗が ダンケルクの時もそうなんだけど、他の資料とか見ると、マンシュタイン本人も泥濘地で あったダンケルクで戦車を消耗するのを恐れて装甲師団の停止には理解を示していたのに 戦後の回想録では「あの時攻めていれば・・・」とか平気で書いているし。 全体的に人のせいにし過ぎ。
534 :
名無し三等兵 :04/12/06 01:22:38 ID:/EIxjK04
そもそも、軍事責任者は与えられたリソースの中で最善の戦術を運用するのが 仕事であって、自分の思うままに条件が揃わなければ俺の責任じゃないよ、みたいなのは どんなものかと。 補給が追いつくかどうかも考えずにバカみたいに前進して、挙句の果てに進撃がストップした のを補給部隊の責任にして見たり、そりゃあ無いってもんだろうと思った。 俺は装甲師団だから補給とは関係御座いません、あいつらが自己の責任を果たせない 無能野郎なんです、みたいな書かれ方しているのを読むとムカツク。 こいつ、補給の何たるかを分かってねーなと。
おまいらマンシュタインに説教しやがりますかw
スターリンって粛清の天才と思ってた・・・・
537 :
名無し三等兵 :04/12/06 12:09:37 ID:d8P2UC3J
マンシュタインに限らず、ドイツ軍人の回想録とか読んでると全般的に そういう印象を受けるな。 どこを読んでも自分の責任だとか、ミスだという話が一切出てこないw
538 :
名無し三等兵 :04/12/06 12:25:49 ID:veDmh57B
官僚にとって、自分の権限外の責任までしょいこんで悪びれるのは 権限外のことに口だして混乱招くのとまったく一緒。 日本人はどうも、「官僚」と「侍」の区別がつかないようね。
まあ確かに責任の区分から言えば補給の責任は直接には無いのだけど こういう官僚臭さがプンプンするのもどういうものかと。 思うに、ドイツの場合だと、この思考方法が変わらない限り何回戦争やっても 結局は負けるパターンになるような気がする。 マンシュタイン自身がドイツ参謀本部の貴族性の壁で苦労しているのに、自分 も結局その独善的なスタイルから抜け出せていないんじゃないかと。
何でも良いけど、皆sageて頂戴。
541 :
名無し三等兵 :04/12/06 12:49:22 ID:tvtyQNky
>>539 とかく参謀本部の優秀性が喧伝されるけど、結局2回も世界大戦でボロ負け
しているわけで・・・・・
最終的に負けてればダメじゃんとか思ってしまうけど。
ソ連の戦力を過小評価したり、補給の計画が杜撰だったりというのは別にヒトラーだけ
の問題ではなく参謀本部全体の責任なんだし・・・・
その点を故意にヒトラーに擦り付けている気がしてやなものはあるんだよね。
戦術はあっても戦略が無い軍隊。
>>541 戦力の過小評価と言えば、バルバロッサの前にソ連の使節団にドイツ国内の軍需工場
や部隊を視察させてⅣ号戦車を最新鋭の戦車として紹介したら、「こんな貧弱な戦車が
最新鋭だなんて嘘だ、総統は我々には飽くまでも新鋭戦車は見せないつもりだ」と言われた
とか・・・・
いや、そもそもフランス戦でもドイツの対戦車砲はマチルダとかルノーを撃破出来なかった
わけで、初めから情報収集や戦力評価が杜撰な軍隊という印象を受ける。
BT戦車位にしか通用しない戦車って・・・・・
当時はチハたんといい勝負だよな。
自惚れが強く、自己の評価と他者の評価をプライドを差し引いて見る事が出来なかった
という悪弊はあったと思う
543 :
名無し三等兵 :04/12/06 13:21:54 ID:tvtyQNky
そもそも、ソ連に攻め込んでみたら予想以上に寒かったので凍死してしまいました とか・・・ 冬が来る前に終わらせるつもりだったから耐寒装備はありませんとか・・・・ 鉄道車両は鹵獲したものを使うから無問題とか・・・・・・ ガキですか?みたいな戦略以前の段階の幼稚さが一杯ありすぎて理解の限度を 超えるものがあるよ。 侵攻する側だっていうのにこの始末。補給の意味が分かっているのかと小1時間・・
冬が来る前に終わらせるつもりでも、終わらなかったらどうする?という事を 考えるのは普通に常識だと思う。 アルツハイマーじゃあるまいし。
でも「出来ませんから政治決定を曲げてください」は 現場担当者としては絶対に口に出来ない発言よ。 そんなのが通るなら、職業軍人はいらない。 全ドイツ軍人が辞表だしてまで諫めなきゃならんほど(目に見える)状況が絶望的ではなかったんだし、 あまりあとづけで非難するのは見苦しいぞ、と。
後出しジャンケンなら、なんとでも言えるワナw
>>542 ドイツが遅れていたというよりソ連がずば抜けていたという方が正解・・・
ソ連以外の国の戦車開発が低調過ぎたともいうが
でもなあ・・・・実際西部戦で対戦車砲が時代遅れというのは分かっていたのに・・・
>>546 いや、ドイツでも職業軍人はヒトラーの戦争指導にあれこれと
苦情はつけているぞ。
バトルオブブリテンでも軍人は空港などの防衛設備攻撃を主張したのに
ヒトラーはロンドン空襲を強行して勝機を逸しているし。ソ連侵攻でも
モスクワ直撃を主張する軍人を無視してカフカスの油田地帯にこだわっている。
末期にはついに軍人達も我慢できなくなって暗殺計画すら実行した。
何もかもヒトラーの失敗、と言うか、ヒトラーが戦争指導で的中させたのは
空軍の採用くらいなもののような気がするけど、あれもまぐれ当たりみたいな
ものだしな……。空軍を偏重したのは旧来の陸海軍が自分の言うことを
聞かないのでそれに代わる自分の子飼いの軍隊を養成したかっただけだし。
しかもその空軍の総帥がこれがまた文字通り無駄飯食い。w
ソ連が撤退する時に鉄道設備を破壊していく事すら考え付かないで、「鉄道車両は鹵獲 車両を確保出来ますので鉄道輸送は問題ありません」とやったのも参謀本部。 ヒトラーよりも軍部の馬鹿が際立つと俺は思った。 小学生でもそんな計画立てないぞと。
あの時点でモスクワ直撃は無理だろ。 伸びた側面を突かれてひどい目にあう。そもそも補給線細りすぎだし。 大体ドイツの農業生産が不作のせいで食糧事情は危機的だし、ウクライナを優先するのは 政治家であるヒトラーには当然の判断。手柄をあせる将軍には不評だろうが。 レニングラードに突入しなかったのも300万の人口を養うことができなかったことや、 時限爆弾や地区ごとの爆破などでの損害を恐れたから。 ダンケルクへの突入を渋ったのもレッドプランに支障をきたさないため。 前は私もヒトラーの戦争指導はおかしいと思っていたんだけれども、 今ではヒトラーのほうが正しかったのではないかという考えに傾いているな。
>>552 スターリングラード死守命令やそもそもの二正面作戦も?
スターリングラードはゲーリングが安受けあいしたのが悪いのでは。 当時空軍についてゲーリングを信用していけない理由はないでしょう。 前回は空中補給はうまく言ったわけだし。 陸軍の方針についてはルントシュテットの意見をよく取り入れたし シュペーアの回想録読んでも、ヒトラーは専門家の意見は尊重するし さまざまの意見の要点をまとめる能力は優れていたと書かれてる。 その後の死守命令も政治的失点が重なってハンガリーやルーマニアが枢軸から離れたら それこそ枢軸もナチス党も一気に崩壊するからそのことへの恐怖はわかるし、 ソ連に対して先手を打ったことへの批評もそれこそ後知恵になるな。 真珠湾の後ドイツがアメリカに宣戦布告したのも日本が動かずにドイツだけで アメリカと戦わなければならない恐怖から開放されたから。 当時すべての他国の情報が現在みたいにある程度でもわかっていたわけではないのだから 疑心暗鬼に陥った政策指導者を非難する気にはなれないな。 現にドイツはスイスや共産主義者のスパイでいっぱいだったし。
アメリカとかからの視点だと気に入らない結果だろうけど、結局ドイツは民主国家だった んだよね。 グデーリアンとかマンシュタインとか、その他の将軍も辞表出したり、罷免させられたり しても又復帰とかあるし結構言いたい放題ヒトラーに言っている。 最終的な決断の権限はヒトラーにあるのも当り前だし、それが自分が気に入らない 結果であっても受け入れるというのも同じ。 ソ連だったら即銃殺だもの。 反対意見を述べる自由はちゃんとあったし、軍部内での抗争もあったし、ヒトラーも 押し付けばかりではなく、なだめたり、ご機嫌とったり、いろいろと忙しいしね。 苦労したと思われる。
>>554 >当時空軍についてゲーリングを信用していけない理由はないでしょう。
BoB。
ついでに、スターリングラードを死守する必要性がない。
>ソ連に対して先手を打ったことへの批評もそれこそ後知恵になるな。
二正面作戦やっちゃいけないというのは軍事学上の常識ですが、何か?
WW1の教訓としても。
マンシュタインなんか露骨なんだけど、自分の受け持ち以外の事には一切関係 ありませんという態度で、自分のみの視点だけで堂々と自己正当化を図るから 勢い伝記とかでも他人が皆悪かったという話になる。 結局、ドイツの軍事貴族の特権意識の空気にもろに影響されているところがあって 何だかなあと。 日本でも自己正当化する奴が居ないわけじゃないけど、振り返って日本全体で何が いけなかったのだろうか?とか、こっちの部署は部署で実はこんな苦労があって 仕方なかったんだよなあ・・・とか、全体的な視野があるし、どちらかというと反省的な ものが多い気がする。 ドイツのって、あれだけこっぴどく国が滅んだのに、悪いのは皆ナススのせいで軍部も 俺もミスなど一つも無かった!ばっかしでなあ・・・・・・ まあ、向こうは基本的に謝ったら負けという文化の土壌はあるとはいえ・・・・・ 間違いなく、この先何度でも失敗を繰り返しそうな気がする。 だって失敗の根本を自分で見つめないわけだから。
>>554 なんつーかね、先ず結論ありきのように見えるのさ
自分の”再評価”に自縄自縛になってない?
必要以上に政治が軍事に介入したら勝てる物も勝てないというのは原則だし、
伍長殿が終戦へのビジョンを持ってなかったのも指導者としてはマズいでしょ
イギリスが頑張ってるのに対ソ戦始めるというのはどう考えても自殺行為だと思うけどなあ
まあ、二正面作戦なんて言っても、当時はそんな意識は無かったでしょう。 イギリスは大陸から完全に追い払われていたし、そもそもソ連戦が始まってかなり 経ってからようやく大陸に上陸できたわけで。 フランス戦が一ヶ月程度しか掛からなかったこと、先の冬戦争でソ連のダメ加減が 世界中に知られた事で、当時はアメリカやイギリスの新聞もソ連は一月も持たない だろうと悲観的なニュースばかりになっている。 現代から見ると何で?なんだけど、当時の人間にとってはソ連があんなに強いし粘るなんて 夢にも思わなかったのだから。 問題はドイツまでその程度の認識だったということだが。 どちらにしても、イギリスは半分リタイヤ同然だったから、ちょいと捻る程度の気分だった から二正面作戦とすら誰も思っていなかったと思うけどね。
>538 ちと待って。「明らかに自分の職責上のミスをも認めない」って話じゃないのかい
>>559 >どちらにしても、イギリスは半分リタイヤ同然だったから、
>ちょいと捻る程度の気分だったから二正面作戦とすら誰も思っていなかったと思うけどね。
それがそもそも認識の甘さじゃないの?
敵を舐めて戦争を落としました、ってことだから。
あの状況で認識の甘さを責められるのは酷ってもんだと思うがな。 得られる情報はすべてその方向を指し示していたんだし。 ソ連の内情なんて、当時最も得がたい代物だったしな。
>>562 兵は国の大事にして、死生の地、存亡の道なり。 察せざるべからず。
”最も得がたい代物”なのに”得られる情報はすべてその方向を指し示していた”
だけで開戦するというのは問題だと思わないんですか?
戦争というものを軽く考えすぎていませんか?
564 :
名無し三等兵 :04/12/06 19:55:09 ID:vqiFNTgb
海上護衛戦の話はどうなったんでしょうか……と流れを無視してみる。
だってさ、イギリスが死に体とかいっても降伏したわけじゃなし 死に体のイギリスも降伏させられないのに敵を増やしてどうするのさ? イギリス降伏させてから、とか考えない? 素人でもさ
まああれだ、ずばっと言ってしまうと、もしそんなに二正面作戦が問題なのなら そんな作戦を立てたドイツ軍部はやっぱり無能でしょう。 イギリスも無能だよね、アメリカも、だって二正面作戦してるものw 用は最終的に勝てば文句言われないだけだと。
>>566 各国の宣戦布告の経緯も知らないのかね?
イギリスは降伏したわけでは無いけど、かといってイギリスも大陸に上陸は 出来ない状態なら、とりあえず放置でも間違いではないよね。 そもそもソ連が降伏してしまえばイギリスは完全に大陸に足がかりを失って しまうわけで、それが原因で講和するかもしれないんだし。 そういう意味でドイツの判断にも理はあるよね。
レンドリースなんかやって挑発して戦争にしたがっていたという経緯なら 知ってるよ。
>>568 対ソ戦での消耗は無視ですか?
早く戦争を終わらせないと国庫が空になって自滅するんですが。
>そもそもソ連が降伏してしまえばイギリスは完全に大陸に足がかりを失って
>しまうわけで、それが原因で講和するかもしれないんだし。
楽観的な見通しだけで戦争に突入するから判断が甘いと言われるんだよ。
>>569 それしか知らないんだ。もっと調べてから書き込もうね。
ヒトラーの目的はイギリスの降伏ではなくイギリスとの講和。 独ソ戦はその材料といった側面を無視しないでくれ。 ただでさえイギリスが屈服すると考える高官が多かったのだから ドイツがフランスに次いでソ連を倒したらアメリカも静観するだろうし、 そうなったらチャーチルも講和しかない。 わざわざ海渡ってブリテン島に攻め込むよりソ連倒すほうが楽だと考えたんだろ。 ヒトラーの判断は何でも正しいというつもりはないが、戦後非難されている いくつかのヒトラーの決断の裏にはそれなりの納得できるだけの理由があったんだなと。 たしかに思い込みもあるかもな。主観を排除しきれないのは誰だろうと同じ。 また何冊か読んだら意見変えるかもしれないけどね。
>>571 当スレの趣旨からズレちゃイカンけど一つだけ
俺が思うにドイツの諜報能力に問題があったんじゃないかと
英米ソにゾルゲ並のスパイをドイツは潜り込ませていないと記憶してるんだが
あんなスパイが連合国最高首脳部の側近にいたらどうなっていたかなぁ
まぁ正確な情報を入手しても親分が信用しないんじゃ宝の持ち腐れとなるけどね
それとヒトラーは諜報の重要性をどれだけ認識してたのか疑問に感じるんだが
>>571 同意。戦争って別に相手国を占領して降伏させる必要は別に無いわけだからね。
というか第一次世界大戦でもそこまで行っていない。
第二次世界大戦があらゆる意味で特殊なだけ。
まあ無理やり補給の話しに戻すと、個人的には補給と生産は切り離して考えられない と思うが皆はどうだろうか? 単純に、物資をA地点からB地点へと移動させる事のみが補給ではなく、生産の時点での 資源の割り当てとか、効率よい作り方とか、戦地でのメンテのしやすさとか・・・・ そこまで行くと話しが膨らみすぎか? 例えば名機と呼ばれるメーサーシュミットのシリーズは、元々会社自体が小規模工場 だったので分割してパーツ毎に狭い家屋みたいな所でも作ることが出来るように設計に 工夫が凝らされていて、その為にドイツが戦略爆撃をあれだけ受けても生産力が殆ど 落ちなかったとか。 こういう話も補給なんじゃないかなと。
例えば戦地での代用部品なり代用燃料、粗悪燃料何かでも充分動く機構にするとか、 そうすると本国から莫大な距離を無駄なエネルギーと時間を掛けて補給する必要も 少なくなり、引いては全体の補給業務自体がコンパクトになる。 これもある意味立派な兵站思想だと思う。 というか現代兵器の思想は基本的にはこれに近いとは思う、少なくとも燃料に関しては。 後、7.62ミリ弾の規格化みたいに、弾薬の統一というのも補給だよね。
576 :
名無し三等兵 :04/12/06 22:31:21 ID:Yt9tWLpp
>>574 >例えば名機と呼ばれるメーサーシュミットのシリーズは、元々会社自体が小規模工場
>だったので分割してパーツ毎に狭い家屋みたいな所でも作ることが出来るように設計に
>工夫が凝らされていて、その為にドイツが戦略爆撃をあれだけ受けても生産力が殆ど
>落ちなかったとか。
あっそれ聞いた事があるw
そういう話も萌えるんだよねえ。
>>575 戦車のディーゼルタービン何かがそれではないかと。
補給物品としては、まず食料、燃料、弾薬、兵器というところが主要な内訳なわけ
だが、その内の嵩張る代表の燃料と食料が現地調達できるのなら補給担当官として
は凄く助かるわけで・・・・まあ、それは昔からやっていると言えばそうなんだけど。
ドイツみたいにガソリン戦車で攻め込んだら相手はディーゼルだったから燃料の
互換性が無かったというのもあるしな。
でも、良く考えてみると、イギリスやアメリカからのレンドリースの兵器はガソリン車
の筈だから、当然その分の備蓄は無ければ変なんだけどねw
まあ、その辺の研究も以外に誰もしてないよね。
578 :
名無し三等兵 :04/12/07 02:30:32 ID:jaHwDwoj
うーむ、燃料や食料という点では相手国のを分捕るとか、近隣諸国から購入するとか の手段は取れるし、なるべくそうするべきなんだろうね、補給の負担を軽減するには。 それに中立国は交戦国に武器の輸出をしてはいけないという規定にもこの範囲なら 引っ掛からないから合法的っていうか第二次世界大戦でもこれは頻繁にあったよ。 だから問題はやっぱり武器弾薬、それと兵器の消耗品、整備部品だろう。 これをいかに少なくするか、そして効率よくするか。 故障してばかりの兵器じゃそもそもダメという問題はさておき。
579 :
名無し三等兵 :04/12/07 02:35:19 ID:jaHwDwoj
よく引き合いに出されるアメリカの航空機の整備方法で、向こうは消耗品の 類は、その部品が劣化していようがいまいが、規定の使用時間が来たらとっかえて 新しい部品にしてしまうというやつ。 プラグとか、安い部品ならともかく、現代戦では消耗品っていっても何百万円単位だし、 交換サイクルも短いし・・・と言っても兵器自体が比べ物にならないほど高価になっちゃった から、整備をおろそかにして墜落なんて事態も洒落にならないし・・・・ 整備する場所もチャチなところじゃいけないとなると・・・・ やっぱ空母?
>>579 >向こうは
いまどきはどこの国でも同じですよ(笑
>やっぱ空母?
本末転倒。
空母の整備能力が優れているのは、優れていないとあっという間に消耗し果てる苛酷な環境だからです。
581 :
名無し三等兵 :04/12/07 02:49:49 ID:jaHwDwoj
>>580 金持っている国ならどこでも同じではあるさ。でも、アフリカ諸国やトルコとかの軍事
事情とか読むと、交換期限を4倍位に延長して運用しているけど現実には問題ない
という話もチラホラあるからね。
空母がいいなと思ったのは、もっとバカでかくして補給艦としても使える運用形態
がとれれば兵站というものももっと変わるかな?と思ったから。
現状では基本的に戦闘艦艇は必要最低限の分量以外は補給にはリソースを割かずに
補給は補給艦から受けるという考え方で作られているけど、もっと個別の艦が単独行動
を続けられる期間が長くなるような設計思想はどんなものかと。
今の軍艦って昔と違って装甲とかに力を注がないから対艦ミサイル一発がいいとこに当たれば 沈んじゃうしねえ。 フォークランド紛争でもやられたし、中途戦争でもあったよね? それもどんなものかと思うのよ。 どんなに警戒していても、確立上何割かは防げない以上は一発や2発の命中弾で撃沈 されるのはあまりにも割が合わないでしょ。 それを考えれば初めから余剰スペース兼ダメコン用装甲としてでかいスペースを作って 置くのもいいんじゃないかなあと妄想してみる。 普段は水でも入れておくかw 大は小を兼ねるという事で一つw 燃費が悪くなるなんてヤボは言わずに、沈んだら燃費どころじゃないんだし。
そこでパイクリート空母ですよ。
>>583 バイアグラ?不能の爺も立派に起つとか?
>>582 それ、俺も思った。対艦ミサイルの弾頭なんて、せいぜい数百キロなんだから昔の
魚雷とか急降下爆撃でボカスカやられても簡単に沈まなかった軍艦と比べると
著しく弱体化したなあと。
基本的に爆弾そのものの爆発では今も昔も軍艦なんて沈まないんだよね。
結局、燃料なり弾薬に引火して爆沈するのが大半で、フォークランドはそれだった。
確か機関部に直撃し、火が廻って燃料に引火、爆沈。
こういうのも、ダメコン用装甲スペースとかがあれば防げたんじゃないのかなあと?縦横
上下に10メートル位づつ補給兼防御用のスペースで設計すればみんな戦艦並みの大きさ
でかっこいいのに。
>>585 んなことしたらトップヘビーになって嵐が来たらひっくり返るな
ついでに敵のレーダーに引っかかりやすくなる
だいたい直接的な装甲が無意味になってきたからこそ、電波妨害などで身を守るようになってきたわけで
正直その案は時代に逆行していると思う
>>586 何でトップヘビーになるのだろうか?基本的には機関部と弾薬庫を集中的に守れば
いいだけのような気がするが・・・・・・
後は穴が空いても、そんなに簡単に沈むものでもないでしょう。区画防御すれば。
それに電子防御マンセーの考え方は、美少女の合気道の達人なんかみたいなもので、
そういうキャラは決まって何かの拍子で一撃食らってしまうと途端に謀議力が無くなって
後は嬲り者にされてしまうというパターンかと。
理論上、当たらなければ装甲なんていらないという理屈にもなるが、問題は完璧に
当たらなくするなんて事は不可能だという事だよね。
必ず当たることもアルという前提で、当たったらどうする?どう対処するという考え方
じゃないと困るのではないかと。
神に守られてますから絶対敵弾に当たりません!当たる何て言う奴は不敬罪です、じゃあ
宗教だし。
そもそも電波妨害程度で対艦ミサイルが防げるのなら意味ないじゃん。 敵だって同じ事考えるし。
む~、どっかにチラシの裏にするスレは無いかなぁ(ボソ。
障害物無しだと地平線までの距離が40キロ程度だっけ?それ以上になるとレーダー の範囲外になるという。ちょうどこの距離が大和の主砲の射程とほぼ同じだという。 だからこそ、哨戒機を飛ばして敵を発見して、遠距離から対艦ミサイルで撃破するという スタイルが広まると、見つかりさえしなければ攻撃を受ける確立は限りなくゼロに近づく から装甲なんていらないという理屈が出来たのだと思う。 まあ、それはそれで正しいわけだが。 でも戦術の正しさというものは結局はその時の技術では、という但し書きの上での話し で、時代が変わって技術が進化すると自ずと正しいものも間違っているという変化は あると思うよ。 この場合だと、対艦ミサイルの技術が防御側より進化した場合、つまり、矛の方にシーソーが 傾くと弱装甲が仇になる日が来るというわけだろうね。 気が遠くなるほどの高価なものだという事を考えると、簡単に沈んでしまっては困ると思うが。
>>590 水平線までの距離ってそんなに短かったっけ?
>>591 高さ15メートルでの水平線距離で約15キロじゃなかったかな?細かい公式は忘れた
けど。
で、当時の大和のレーダーの位置がその位。
>>592 超水平線レーダーなら別に水平線の向こうでも探知できるわけだが・・・・
第二次世界大戦の時は同だったんだっけ?日本は開発に失敗していたと思ったが
アメはどうだったか忘れた。
596 :
名無し三等兵 :04/12/07 17:04:28 ID:UMBYNmBx
仮装戦記とかだと潜水艦で輸送とかあるよね。戦車とか航空機まで輸送しちゃうのw だけど真剣に考えてみると輸送専用の超大型潜水艦というのも、これからの補給には いいかもしれない。
>>597 確かに効率は悪いけど、戦略的に見ると隠匿性があるから少し欲しいな。
だけど港湾の水深の問題と、そもそもどうやって揚陸させるんだ?という根本的な
問題をどうにかしろよと。
まあ、航空機での哨戒で見つかりにくいというのは評価出来なくも無いが。
潜水艦で運べる程度の量の物資を奇襲上陸させたところで 大勢に影響は無いだろう。南鳥島争奪戦とかでもないかきり。
商業輸送における潜水艦の活用の研究は20年ほど前にちょっとしたブームになってたような。 潜水艦というよりは海面下を航行するタンカーや貨物船。 水面下なら海上航行におけるトラブルの大多数は無視できるものになるし、造波抵抗なども処理が楽になる。 みたいな感じで。 まー「夢の21世紀予想図」みたいなものですぐに廃れちゃったけどねー。
>>600 よくは分からないけど燃費とかすごく悪くならない? その案って。
基本的に潜水艦は燃費いいですよ。 とはいえ当時の案では動力が原子力でした(笑 つまりはそういう時代(汗
>>599 それはそうなんだけど、輸送機の積載荷重だって、せいぜい30トン程度でしょ?
じゃあ航空機による輸送は意味が無いかというと、そういうわけでもないわけで。
つまり、全部の輸送を潜水艦でやれという話ではなく、選択肢の一つとして大規模
輸送潜水艦というのも悪くはないかと。
つまりいろいろな戦局を想定してという意味で。
>>600 台風とかの影響を受けないとかやってたね。
まあ、大きさ的にタイフーン級の奴を低コストで作れるという前提で割りと未来には ありそうw アメリカみたいに陸海空全ての装備がトップレベルで揃っている国なんて普通は 無いわけで、対潜部隊はあっても数量的にカバー出来ない国家が当り前な事を 考えると意外に潜水輸送というのも虚を突けるのかもしれない。 つまり大量に運用できれば、相手が非常にカバーしづらい。物量的にも金銭的にも。
潜輸型 まるゆ艇
運んでる最中はとにかく荷揚げの途中で攻撃されて積み荷もろともあぼーんの予感
とりあえず物動の話と鋼材の話は落ち着いてからするとして…。 上で出てたけど、ソ連のトラック生産は、1928年の五カ年計画で5万台、続く第二次五カ年計画で、20万台 に達する。 1937年には生産量のうち、10分の1が乗用車、それ以外がトラックという構成で、ソ連時代は75%がトラック 生産構成だったりする。 1941年6月~45年6月まで米、カナダ、英国からの武器貸与を受けるが、米国からは、トラック40万台以上、 数千台のトラクタ、トレーラー、偵察車、ハーフトラックなどが含まれている。 トラックの4分の1は、2-1/2トン6×4か6×6のスチュードベーカー、残りはダッヂのウェポンキャリア、各種 ジープ2万台、シボレー、ダッヂの1-1/2トン4×4、GMC、MACの大型トラック。 これらの車輌は主にペルシャ湾に完全ノックダウン形式で到着し、ペルシャのコーラムシャールで組立て られ、ペルシャを縦断してソ連に入って戦場その他必要とされる場所に送られた。 ちなみに、これらの車輌に使用するタイヤについては、米国が1942年10月にフォードのタイヤ工場を丸ごと 買収、全設備をソ連に移送し、其処でタイヤを生産している。 で、この工場のタイヤ生産量は実に年産100万本だったそうな。 英国からは、アルビオン、オースチン、ベッドフォード、英国フォードのトラック、それとBSA、マチレス、ベロセット などのMotorcycleが供給されている。 赤軍のMotorcycleは、BMWR71を手本にしたM-72を使用しているが、それ以外は米国より英国のものが多用され たらしい。 それから鹵獲車輌も多かったり。 一時期は前線のある区域での赤軍の補給の半分は、こうした武器貸与、鹵獲したトラックだったりする。
ちなみに、ソ連最初のトラックはFiatをモデルにしたもので、1924年に登場。 そのトラックを製作したAMO工場がStalinの名を取って、Zavod Imeny Stalin(ZIS)となり、1956年には Stalin批判によって、ZILに変更された。 ZIS-5は第二次大戦中10万5000台が生産されたが、設計そのものは米国のオートカー製。 一方、GAZと言うのは、Zavod Imeny Molotov(ZIM)が前身で、ゴーリキーに米国の援助で建設された。 工作機械はドイツ・フォードのModelA生産ラインがModelBに切り替わる時に入手したもので、生産立ち上げに 際しては、米国フォードの技師が援助した。 このため、初期のGAZ-Aトラックは、フォードA型、GAZ-AAトラックはフォードAA型トラックそっくりであり、以後もフォードの型落ち品 そのままの金型が用いられている。 こんな状態なので、戦後のソ連軍の車輌には米国とドイツの影響が色濃く残っており、GAZ-67はフォードA型のエンジンを搭載した ジープもどきだし、GAZ-63はウェポンキャリア擬き、ZIS-157はスチュードベーカーのトラックそのまま。 先述のM72Motorcycleだって、BMWそのまま(ほんの数年前までこれは中国が金型を貰って生産していた。)だし、GAZ-69Aは ドイツ国防軍のキューベルワーゲン(VW製じゃなく)とそっくりなレイアウトだったりする。 あと、高級幹部用乗用車のZISなんてのは、「Rooseveltの贈り物」と迄言われ、その三角のテールランプまでパッカードそっくりだったし、 その後に登場したChaika、ZIL111なんてのも、1955年型パッカードそのままのマスクだった。 余談ながら、戦後、BMW工場をそれこそネジ一本に至るまで接収し、Moscowに工場を建設した自動車工場からは、戦前製Opel Kadett そのままのモスクヴィッチ400が生産されていた訳で。
>>607-608 続きを楽しみにしてました。これからも無理せずマターリと続けていって下さいな。
>>611 それは無理だろ。モスクワ攻防が終わってからリースが始まったんだし。
あそこで攻めきれないドイツが簡単に勝てるとはとても思えない。
というか、物量の点ではソ連はドイツよりよっぽど工業国だったんだし。
613 :
名無し三等兵 :04/12/08 02:29:30 ID:/F1fhr1y
ソ連では「砲兵は戦場の神」だから、重砲化して人力や馬匹で動かせなくなった 時代にまず整備したのは牽引用のトラックなんだよね。 まあ、産業的に内陸の農産物の流通とかその他の面で鉄道だけでは効率が 悪すぎたというのも大きな要因だとは思うけど。 だからソ連の対戦車砲なんて野砲と区別つかないようなものばっかしじゃん。 人力で陣地変換も出来ないような大型化したのばっか。 だから必然的に何をおいてもトラックは必要だったから、補給の面でもそれが功をそうした んじゃないかなと。 いわば必要経費としてトラックは産業の米扱いで作るのは当り前という観念があったと いうことで。
614 :
名無し三等兵 :04/12/08 02:43:31 ID:/F1fhr1y
生産という意味で考えると、国内で年間に何万台も生産しているという事は、例え それが技術的に稚拙なトラックであってもその生産のノウハウというものは大変貴重 だと思われるんだよね。 トラックを生産するといっても、単に一部の工場で最初から最後まで完結するわけ ではなくて、原料の調達から工場の設備稼働のノウハウまで何百という関連企業 が仕事のノウハウを学べるわけで、そういう点でトラックなり、戦車なり、とりあえず内燃機関 の工業製品を作るシステムというものが国内に育ったというのは日本と比べて大きかったなと。 生産台数がやたらと多かったから、長い期間その製造に関わる人間が大量に育成されたし 国内での資材の調達ルートとか製造の工夫とか、こなれた面がある。 だからこそ、最初はコピーでも、エンジンにしても航空機にしても素晴らしい設計が出来る 技術力が育ったわけで、あながち共産主義というのも社会資本が未熟な状態の国家では 非常に魅力的なシステムでもあったよね。 現実問題として失敗も多かったけど、成功も素晴らしかった。
>>614 特にソ連の場合は国家規模でそれをやったから、国家が充分ノウハウを学んだ
からねえ・・・・
日本のように熟練工が徴兵されたらガタ落ちとかいう事にはならないし・・・・
まあ、航空機の部品を作るのにバカ棒(規格ゲージ)すら作らなかったレベルの
日本は問題外だったと思うが・・・・熟練とかどうこういう以前の問題だよ。
補給という観点から見ると、連合国側のドイツへの戦略爆撃はどれ位成果を 上げたのだろうか?というのがあるよね。 戦後の調査では余り効果が無かったみたいだけど・・・・ 個人的には合成石油のプラントなどを壊滅状態にしたのは大きな功績だと思うけど その他はどんなものかと。 鉄道関係への爆撃は戦争末期だし、そもそも末期にはドイツは後退を続けていて 結果として鉄道輸送の重要性が薄れていたという事もあって効果があったかどうか が判断しにくいということもある。 実際、兵器の生産実績は終戦まで続くわけだし。 効果が無いわけではないけど、掛けた費用分の効果は無かったという気がする。 つまり、その分のリソース、資材、燃料、人員を通常の戦闘に注力した方がはるかに 効率が良かったのではなかろうか?
ドイツ軍は、40万頭弱の軍馬を擁して開戦し、ポーランドとフランスから膨大な数の軍馬を接収 して、ソビエト侵攻のために60万頭から70万頭の軍馬を用意するまでになっていたという。丹念 に当時の戦闘記録を読み漁り、ドイツ軍と馬に関するエピソードや断片的な数字をひたすらひ たすら積み重ねた労作である。スターリングラードで包囲されたドイツ軍から1日当たり22トンの がった(実際に馬草が空輸された形跡はない)とか、ノルマンディーのファレーズ・ポケットで18 00頭の馬が包囲されたとか、ドイツ軍=装甲軍団というイメージが強い我々にとっては、そういう 事実も良く認識しておくべきことかもしれない。 何てね、まあ100万頭もいれば有効利用しようと考えるのは当然の話で、単に遅れていた とかそういう単純な話でも無いと思うが・・・・・ 干草食うのと、ガソリン食うのはどっちが負担?という話だね。 当時のヨーロッパでは地形的に干草に困らなかっただろうから、馬匹の利用というのも 補給が現地調達できるという点で優れた戦略品だったかもしれない。 だから補給ってややこしいんだよね。
ドイツ軍の糧食基準については、日本語の文献でもよく見かけるようになったが、 多くはU.S.War Dept.[1990](書誌情報は「ドイツ軍の小編成」#1参照)を典拠とし ている。 この資料の各種の配給量で目を引くのは、脂肪分の多さである。最も配給量の多い Ration Iではじつに1日の配給量は60グラムである。給食用のマーガリン12個分を1日 で食べてしまうというからすごい。もちろんこの物凄い量の脂肪をパンにだけつけて 食べるわけではなく、フィールドキッチンの大釜で煮物を作って食べるわけである。 ちなみに、ドイツ人がよく食べるソーセージは、普通の肉に比べてかなり高い割合で 脂肪を含んでいる。 個人的に、あるいは分隊レベルで揚げ物や炒め物も行われていたようである。 ミュンヒ[2000]には、1941年7月に書かれた突撃砲隊員の日記がある。「多分糧食 にはしばらくありつけそうにない。我らが戦闘部隊は輜重隊の遥か前方を…」という 記述があった翌日、「休憩して、日曜の朝食を自分たちで作る。フライド・レバーに スクランブル・エッグと、まずまずのメニューだ」と書いている(p.22)。たぶん 「糧食」というのはフィールドキッチンで作られる食事のことで、レバーや卵は現地 でソビエトの村落などから手に入れた食料品であろう。別の日には「豚を一匹殺し、 きわめて原始的な方法を用いて屋外でそれを焼く」と書いている(p.23)。かまどを 掘ってありあわせの燃えるもので調理したのであろう。 まあ、寒い地方だから、脂肪は欠かせないんでしょうな。 肥満する現代日本人から見れば戦争は格好のダイエットですなw 食べても食べても太ら ないという環境はある意味天国? 死んでも天国だしちょうどいいか。
ソビエト占領地では、食料の徴発や購入は住民の協力を得ることが難しかった。 Averbeckの隊の兵士(「我等はみんな生きている」で性病の懲罰を免れたのと同一 人物)は歌と手品がうまく、村で歌と手品の催しを開いて、入場料として生鮮食料 品を集めてきた。(Folkstead[2000],pp.23-24) 退却命令の出る前の週には、たいていチョコレート、タバコ、ウォッカの配給 があったので、兵士たちは移動を予期できた。(Folkstead[2000],p.53) 北アフリカのドイツ軍は、薪がないためにフィールド・キッチンが使えず、カ ビが生えるからという理由で普通のパンやジャガイモが支給されなかったので、 黒パン、イタリア軍の肉缶詰、乾燥野菜、わずかなオリーブ油といった単調な食 物に頼る羽目になった。ビタミンCの不足が壊血病などの問題を起こしたこともあ り、イギリス軍の食料は熱望され珍重された。 イタリア軍の肉缶詰はAMというスタンプがあったので、「Alter Mann」「Alter Maulesel」(老人、老いたラバ)などと呼ばれた。(Hartら[2000],p.115) やっぱり補給は食い物の話が一番楽しいと思うがどうであろうか? それにつけても次に戦争をやる時は腹いっぱい食いたいものである。
620 :
名無し三等兵 :04/12/08 14:53:06 ID:qdP8S/80
ドイツの黒パンってもさもさして美味くないんだよね。酸っぱいし。 あんなの食って戦闘する位ならご飯の方がいいよ。 実際、イギリスやアメリカの食料奪った日本軍も副食は有りがたがったけどパンは見向きも しなかったという記録があるし。
>616 クマー(AA略 戦略爆撃で無駄と言われるのは英国重爆隊がやった夜間都市爆撃の事だよ。 昼間空爆しなきゃ月産500輌の突撃砲、月産400輌のパンタ-、月産1000機の新型戦闘機が まるまるドイツ軍に補充されるだぞ。 量だけでなく兵器開発も空爆で大幅な遅延をもたらしたんだし。
銀シャリが珍しい環境で暮らしていた地方出身の日本兵が集まる部隊なんじゃ ねえの? 単にパンの味を知らなかったとか。 神戸あたりだとドイツ流の固くてもっさりしたパンの方が普通に出回っていたしね。 黒パンはレバーペーストかムースをつけて、黒ビールでザワークラフトと一緒に流し込むと めちゃくちゃ美味い。 ジャガイモのスープに浸して食べるともっと美味い。 米だけ食ってもさほど嬉しくないように、食い方の問題かと。
623 :
名無し三等兵 :04/12/08 18:48:21 ID:f5d9DYjz
>>621 と主張して昼間の精密爆撃を行ったアメリカはドイツ空軍のカモになって大損害
を出して、耐えられなくなったアメリカは夜間爆撃に切り替えたわけだが・・・・・
>>622 いや、普通に不味いぞ黒パン。昔どころか現代でもw
パン屋で売れないパンのNo.1だから。皆珍しいから試しに一度は買うのだけど
あまりの落差に二度と買わなくなってしまう。
俺は好きなんだけど、ビールに合うし。
だけど行き着けのパン屋でも、あんまり売れないから直ぐに販売中止になってしまって
いつも新規開拓をしている。
ライ麦パンとか黒パンは日本で作ると高くつく上に、リピーターが極端に少ないから
鬼門みたいだよ。
同時に、戦時のパンは固くて水分が少なくて日持ちがするように焼いてあるから余計に
不味かったのだろうと思う。
大体、当のドイツやイギリス人が不味いと不満を述べているしw
まあドイツ人に敗戦というか敗北感与えるには役立ってんじゃない? 戦争は頭つぶせば勝利というセオリーだけとはいかないし 日本の継戦能力は船がどしどし沈められたことで失われたけどそれ以上に都市空襲は国民に敗北感与えたと思うし。
黒パンは・・・・「西部戦線異状なし」とかロシア文学とか読んだ奴が一度は 食ってみたいと憧れるパンだね。 で、自分の馬鹿さ加減を思いっきり悔い改めると。
黒パンって、昔給食に出てきた「黒糖パン」みたいなもんだと思ってたよ。 ・・・・違うのな。
>>625 普通に考えたらそうなるはずなんだけど
爆撃そのものでは住民の戦意はあまり落ちずむしろ高まったみたいな
話もあってよくわからん…
>連合国側のドイツへの戦略爆撃はどれ位成果を上げたのだろうか? オーバーロード作戦成功の鍵は制空権であったと、P・カレルも言ってる。 制空権が完全に連合軍側にあったから、ドイツ側は戦車も飛行機も出せなく なったのだと。生産施設は防空壕を掘れば何とかなるが、飛行場や交通施設 は使えなくなる。それでも塹壕を掘れば歩兵の抵抗は続行できる。 なお、英空軍の夜間爆撃は戦局に決定的な影響を及ぼしたとは言いがたい。 例えば「ドレスデン大空襲」は如何ほどの変化をもたらしたろうか。
まあ、戦略爆撃は効果があったのは確かだけど、よく言われているような絶大な効果 というのは言い過ぎでしょう。日本ですら東京大空襲を受けても生産に致命的な 打撃は受けなかった事が分かっているんだし・・・ 原爆でも使えば別だけど所詮は爆弾といっても一発辺りは何百キロという単位であって 戦車とか歩兵にとっては脅威そのものだが地域辺りにバラ蒔くという話になると それほどの意味は無いのではないかと・・・・ アメリカの戦略爆撃機でも終戦間近になってようやく10トンの積載量だし、10トンって 現実的には殆どどうでもいいようなレベルだし・・・・ そもそも航空機で重量物を運搬するという事自体が非効率の塊のような気がする
また、戦略爆撃する側の人的損害も、 パイロットの教育等にかかる経費はもとより、 もともと教育水準の高い人が多いことを考えると、 数字以上の、社会的ダメージがあるようにおもいます。
黒パンについては、あれは唾液の多いシロンボが食べるものなので、イエローモンキーが食べると
>>620 のようにもさもさして不味いのだと聞いたことがある。
>>632 いや、そもそも当の白人が不味い大麦系のパンを嫌って「いつかは白いパンを食いたい」
とやったから今では白パンが全盛なわけで・・・・
向こうでも黒パン食べる人は日本の玄米食の人みたいな位置づけみたいだよ。
だってパン屋に並んでいるの圧倒的に白パンだもの。
634 :
632 :04/12/09 00:40:35 ID:???
なるほど、そりゃ知らんかった 指摘サンクス
『ハイジ』に登場する、ペーターのおばあさん。貧しい生活を送る彼女のささやかな夢は 、固くて噛めない黒パンではなくやわらかい白パンを食べることだった・・・ さて、時は流れてン年。スイスに行ける御身分になって、ついに知ったスイスの黒パン というのは・・・ 「おせんべいではなくゴムぞうり。茶色ではなく灰色」 そういう物体であった。 「ゴムぞうり」は「おせんべい」より悪質な固さである。噛んでも噛んでも噛みきれな い。歯のあまり丈夫でない筆者の父は、生まれて初めてスイスを旅行したときに、かよう な黒パンのサンドイッチをなんとか食いちぎろうと格闘した揚げ句、前歯を1本折ってし まった(なにせサンドイッチではちぎって食べる、と言うわけにはいかないので)。 きっとペーターのおばあさんもそうやって苦労したのだろう
ヨーロッパの山村は(日本でもそうだが)基本的に近代以前は貧しさの象徴 だったから、パンなんか年に何回も焼かなかったそうだよ。 纏めて焼いて、それを氷室みたいなとこで貯蔵して少しずつ少しずつ食べていたみたい。 気候が乾燥しているのと、寒冷地であるという事の二つの条件で腐らなかったらしいが 当然、石の様に硬くなって食えるような代物ではなかったらしい。 (食べてたけど) 現代の黒パンはバターや塩もたっぷり入っているし、何より出来たてを食べるわけで そこまで不味いわけではないけどね。
http://www.aeroflot.ru/avrora/2004summer/goods.html ロシアでは、大切なお客を迎える時に、黒パンにひとつまみの塩を
添えて歓迎するという習慣がある。ロシアの大地で育ったライ麦か
ら作る黒パンは、手にとるとずしりと重く、口に入れるとしっかりとした
歯ごたえだ。まさに、土と太陽の恵みそのものという感がある。他の
パンにはないビタミンB群をはじめ、食物繊維やカルシウムなどの栄
養素も多く含まれている。
「バターを塗った黒パンときゅうりのピクルスとウォッカがあれば最高」とロシア人は言う。
まずは、噛みしめて、味わって、ロシアの大地の香りをどうぞ!
・・・・・・・いや、紹介者に悪気は無いと思うが、その写真は逆効果だと思う。
俺が兵士だったら戦う気力が無くなる。
ライ麦は小麦に比べて寒冷地でも育つ品種だったから、北方のドイツ、北欧、ロシアでは
大量に栽培されてきたという理由もあると思うよ。
でも不味い。
戦前のレシピで作った漬け物やみそ汁、煮物が今の日本人の舌には辛すぎる
ように、今と昔では味が段違いなのは時代の違いだからねえ。
だから今の黒パンが不味いというのは、慣れと食習慣の問題で
絶対的に食えないシロモノというのは言い過ぎかと。
フランスはさすがに安物のパンでも美味しいと思うけど、イギリスの
白いパンは安いのはあんまりなお味だよ。あれだったら美味い黒パンがいい。
>>624 同志! おいしい黒パンを日本でも手軽に!!
黒パンというかライ麦パンは・・・・・・あの酸味がダメだな。 つまみとして食べるのならともかくとして、日常的に主食として食べるのだとすると拷問 に近いものがアル。 パン屋に聞いてみたら、種(酵母)の種類によって酸味が殆ど感じられない種類の黒パン もヨーロッパでは食べられているけど日本でそれを売っても、何の特徴も無いけど ボソボソで不味いだけのパンになってしまうので売らないのだとさ。 黒パンブランド?というか黒パンとはこういうものだ、というイメージが日本人の場合は 小説とかの文学作品を通してのものが圧倒的だから酸っぱくない黒パンなんて只の 不味いパンだとなってしまうみたい。 どうせ不味いのなら、小説の世界に浸れるようなマズさが良いらしい。 青汁のコマーシャルみたいに「うーん不味い」と言って喜ぶような心理。 酸味が日本人に受けないという面もあるけど、ライ麦特有のボソボソ感が一番ネック になってるらしい。これは麦の外皮も一緒に磨り潰して焼くせいなんだけど、これが ひたすら貧乏臭いというか、安物の味を醸し出しているけで、正直、小説とかの幻想 が無ければ全く売れないのではないかという事。 日本人で買う人は、珍味として、又はファンタジーの小道具として買うのであって 美味いから買うわけではないそうな。
ドイツは昔から小麦が取れる土地と、ライ麦しか取れない土地があって、パンも 昔から両方あった。 で、小麦の白パンは金持ちが、黒パンは貧乏な労働者階級が食べた。 だから白パンへの憧れというのは結構強かったみたい。
俺の場合黒パンの酸味とボソボソ感はチーズ(クリームチーズ)と組み合わせることで「何とか食える」を通り越して「結構うまい」に辿り着く。 とはいえ毎日食え!といわれれば暴動起こしますが(誰に
食い物話は他所でやってくれ
まあ黒パン食ってるドイツ軍はパスタ食いのイタリア軍より兵員一人当たりの水補給量が少なくて済んだらしいし。
おお 久しぶりに軍板っぽくなってるな
>642 腹が減っては戦が出来ぬのがこのスレの主題
そもそも補給の話で食い物が出てこないほうが不自然。 まあそれはともかく、ナポレオン戦争の頃は補給物質の7割が食料と干草、それが第一次 世界大戦になると7割が武器弾薬になったとさ。 大量消費の戦闘形態になったという事がまざまざと分かる。 そして同時に相対的に食料の重要性が少なくなったという事も。 現地での徴発に頼っていたナポレオンの時代に7割だった事を考えれば、いかに 昔は補給というものが軽視されていたというか、重要性が薄かったかという事がわかって 面白い。
そして食べ物の話をしたばっかりに軍板名物「信じられないが」の糞厨が移動してくることになるんだね。
648 :
名無し三等兵 :04/12/10 02:34:55 ID:y2miO9hr
補給の話で食い物が出てこないほうが不自然
食料の補給は大事だが黒パンが美味いか不味いかを長々と語るのはスレ違い
食べ物総合スレまた誰か立てろひょ ここで食べ物の話すんなヴォケ
同意。
野菜は兵士の健康維持に欠かさないので 陣中を菜園にして補充していた。
653 :
名無し三等兵 :04/12/10 16:16:42 ID:ZTELvLeF
黒パンって不味いよね。
同意
戦争は銃でする物であって、パンでする物ではない 不味くても腐りにくい、不味いので多少変な物が混じっていてもわからない、 黒パンのおかげでどれだけ補給の手間が省けるか 不味いという人は、そのことをよく考えて欲しい。 シベリアに行けばそれですら贅沢だ。 ソーセージと黒パンとウオッカだけで補給が済む分 補給の手間も、物流の手間も省けるのだから、文句をいうな なお、野菜その他は司令部より現地調達を認められている。各自で行え。 黒パンの件に関して、これ以上議論する物はタンクデザントに転属させる ソビエト軍補給部隊より
豆は土地を選ばず生育が早かったので陣中によく植えられていた。 豆のどこを食うのか?であるが実は葉っぱを食すのである。 野菜としてはやや繊維が硬く生では流石に食えないがスープや炒め物の具にするには充分である。 陣中で不足がちなビタミンを補う上で重要な作物であろう。
それ、ロシア軍の旅順要塞に対する皮肉か?
食い物の話はあいかわらず盛り上がるw
食べ物の話して 「盛り上がる」とか「軍板の花」って言って無理に 食べ物の話に持ち込もうとする香具師 は同一人物な希ガス。
そんな事は無い、少なくとも俺を入れて二人はいる。
リベット構造に対する溶接構造の優位性 ・重量軽減 継手およびリベット頭材が不要なため重量が軽減される(%) 溶接比率 20 40 60 80 100 重量軽減効果 2.5 7 10 14 17 欠点として亀裂が発生した場合に伸展が止めにくい点があります リバティー級戦時急造船は北洋航路で鋼材の品質の問題もあって船体破断事故を起こしています ハッチ周りに亀裂が生じて引き返して難を逃れた話は複数あり
チハタンの好きな黒パンはリベット打ちだったから重量軽減が出来たんだよ。
>657 古代、春秋戦国時代より将兵への青モノの供給は重要視されていた。 古代人はビタミンの存在は知らなかったが経験則で野菜は必需品と認識していたようである。 火力に乏しい時代、攻城戦中心だったこともあって布陣は長期間にわたるケースが多く野菜不足は深刻な問題だった。 このため陣中に生育の早く土地を選ばない豆・蕪の種を蒔き、その葉等を食することでカバーしていた。 余談ではあるが「三国志演義」のヒーローである諸葛亮は蕪の種を蒔かせていたが その事もあって今でも四川省では蕪のことを諸葛菜と称し食しているそうだ。
665 :
名無し三等兵 :04/12/11 18:10:40 ID:bOSYoMbp
余談ではあるが今でも四川省では諸葛亮のことを蕪と称し食しているそうだ。
666 :
名無し三等兵 :04/12/11 23:07:28 ID:O510WOFj
やはり近代戦に置いては諸葛亮の補給が大事なのではなかろうか? 冷凍設備の発達していない時代は諸葛亮不足で度々戦局の判断に重大な狂いが 生じたというし。
薬である程度補充できる けど、ちゃんとくいてーな
とりあえず、流れを読まずにカキコ。 >513の続きで…。 艦船を製造する為に必要な鋼材の効率的な使用を行なう為に行なわれたのが、鋼材の標準寸法の整理です。 これには、製鉄所の作業能率向上(基本的に鋼材は受注生産です)、量と質の両面からの造船材の確保、 手持ち材の圧縮の際に作業に影響が出ることを極力抑える、製鉄所、造船所間の融通を可能にする、製鉄所、 荷捌所、造船所鋼材置場の整理容易、帳簿上の整理容易を目的としていました。 その第一次整理は、1942年夏に行なわれました。 この時に採った手法は、 1. 標準寸法を設定し、極力これに準じて発注させる。 2. 従来建造してきた船の続行船に関しては、やむを得ないスケッチプレートは認めるが、その他は標準寸法制を励行する。 3. 民間船用、艦艇用共、鋼材を同一寸法に規格化する。 4. 施設、補機、部品などの用材についても、いずれも造船造機用を主体とした標準寸法に合わせて設計を行ない、特殊な 寸度のものは製造しない。 としたものでした。 その後、第二次戦時標準船の設計に呼応して、標準寸法を再整理します。 厚板は凡そ日本で製造した鋼板で、標準寸度の採れるものは全て造船材に回し、その他の部門用は、 造船材に回せない半端材、小寸法で我慢して貰うことになりました。 また、造船材についても、標準寸法品は造船所で裁断することなく、そのまま建造船に取付けられるように 船体寸法、構造を改め、寸法種類は従来の半分程度にすることとしました。
整理方法は、厚板に於いては、 1. 船体用に使用する大寸法の板は補機、施設などの業者の発注を抑え、これらの業者には1500×3000mmの GD寸法のものを使用させる。 2. 造船所は小寸法の板は、1500×6000mmのGE寸法で発注するが、受取りは乱尺で差し支えないものとする。 3. 製造が困難な、幅が狭く長さの長い寸法の板、1800mm以上の幅の板は極力廃止するか、使用制限を行なう。 4. 吾嬬製鋼、大阪製鉄、中山製鋼で製造するE型船用の1400×6000mm寸法のGF寸法を新たに規格制定する。 また、型鋼については、 1. 乙型鋼は極力使用せず、I型鋼も特殊用途に使用する一寸法のみに限定する。 2. 他の用途で使用しない球山型鋼も成る可く種類を減らし、不足分には溝型鋼を充てる。 3. 平鋼、半丸鋼も極力使用しないようにする。 となっています。 ところが、これにより乱尺(要はきっちり寸法が合って無くても良い)製品が激増し、そのフォロー のために、造船作業に混乱を来しつつあったのと、1944年度に大量の造船を実行することになった ために、1944年4月に第三次整理を実施しました。 この中で一番大きな作業は、艦艇用鋼材の寸法を商船用鋼材の寸法と全く規格統一し、そのために 必要とあらば、艦艇にも設計変更を行なわせた点です。
厚板寸法に関しては以下のことが行なわれました。 1. 幅2000mm板は日本の圧延機では大量生産が困難なので、極力使用しない。 2. 最も手頃な板の幅は1400mm、1600mmとして整備する。 3. 長さが幅の8倍程度になると製作困難である為、幅の狭いものを極力使用しない。 4. 厚さは10mm乃至12mmとし、8mm以下のものは製作上別の段階となる。 5. 日本で最も有力、かつ能率的な圧延ロールは日鐵広畑のものであるが、これは1400mmを最適とし、 1800mmについては製作が可能であるが強制しない方が望ましい。 6. 板の長さは10m程度とする。艦艇用は11.3mであるが、設計上は楽でも実用上は不便である為。 7. 1枚3トン超の板は製作困難、2.5トン程度の板を発注すべし。 8. 日本鋼管鶴見の第一、第五圧延工場、大和製鋼、川崎重工製鈑工場、日鐵八幡の第一圧延工場、 兼二浦は同一能力の圧延機であり、日本の主力となっている。 9. 日鐵広畑のロールは、他工場に比べれば遙かに精密であり、許容公差の最低を狙って圧延した場合は 標準厚さより薄くなるので注意、なお、切断寸法は真直かつ精密で、耳を取らずにそのまま使用可能である。 10. 中山、吾嬬、大阪製鉄ではSS41規格品は製作困難であり、6乃至10mm厚のもので、1500×6000mmのものを 発注すべし。 また、事此処に至ってやっと戦時規格が策定され、規格を低下させた代わりに、今まで造船材を製造していなかった 工場にも生産を行なうこととしました。 ちなみに、価格は質が落ちれば下がるのが自明ではありますが、表面上の規格を在来のままとすることで、価格の 逓減を避けています。 これらの規格材は、従来のものと区別する為、末尾に“X”を付けることになっていました。 また、船体への使用制限を緩和して、E型船では無規格材でも差し支えないものとし、D型船以上は、重要縦強力材を SS41Xとしますが、その他は無規格材でOKとしていました。 で、更に流れを断ち切って、次は甲造船の計画と実績について。
ageてる椰子はほっとけ この当時SS41というJIS規格に通じる鋼材の仕様ができたということなんですがこの当時もSS41Xと表示呼称されてたんですか? また、SS41Xと振られて価格据置品質低下では設計上の配慮が必要ですがどんな点が従来のSS41と異なったんですかね? またSS41相当の構造材料は欧米では一般的なもんだったんですかね?
Mr”眠い人”乙! 多分既出だと思いますが鋼材の組成や強度も掲示していただけるとありがたいです。
>694 大正年代にJES(日本標準規格)というのがあって、これは圧延鋼材を、用途により構造用(狭量、建築など)(本来のSS材)、 造船用(SM材)、缶(ボイラ)用(SB材)、鉄道車輌用(SR材)に区分し、これらを形状により、鋼板、形鋼、平鋼、棒鋼、鋲鋼に分けて いました。 しかし、SSにもSRにも同じ規格のものがあって、ただ強度が違うのみ。 ならば、これを簡略化して生産現場の効率を上げよう、ということで、臨時JES(臨時日本標準規格)が1942年に誕生し、同じ引張り 強さのものを統合し、SS34/41/50の三種に分かれました。 SS34はSR34を包含し、SR39/44とSS39を包含してSS41に、SR50をSS50にしました。 これらは一応表面上は、規格許容範囲内としていた訳ですが、寸法などは公差無視のものが多く、生産現場では混乱を来していた 様です。 SS41の引張り強さは、σB>41kgf/mm^2~σB<50kgf/mm^2の範囲のものを指します。 「X」が付いたのは、その規格に入っているものの、公差が平時よりもルーズになったものを便宜的に呼んでいたようです。 後、明確な無規格材は、SS00としていますが、これはσB>43kgf/mm^2~σB<50kgf/mm^2の範囲のものですが、これは 多分寸度の問題であろうと思います。 設計上の配慮としては、所謂コロージョンマージンを削除して、鋼材の寸度を平時船が20年経過した状況にしています。 更に船体構造もその規格に合わせています。 これは鋼船規程に定める寸法よりも著しく小になっても差し支えないとして、肋骨心距の拡大、接手のシフト規程の緩和、 鋲心距の拡大を行っており、また、量産性もあって、上甲板部は縦肋骨構造を採用し、油槽船では無肘板式縦肋骨式を 採用しています。 更に、鋼材配置は型材への代替を企図し、幅、深さ、第二甲板高、肋骨高、艙口の大きさを鋼材のそれに合わせていく 方式がとられています。 欧米、というか米英の場合は、引張り強度σB>60000lb/mm^2の材を使っていたのではないか、と思います。 これが、大体σB>42kg/mm^2になります。 Libertyクラスの貨物船関係の資料が手元にないので、本当にこれを使っていたかは不明ですが…。
つまり軟鋼を延ばしたってことか。ナルホロ。
∧_∧ ( ´・ω・) みなさん、お茶が入りましたよ・・・・。 ( つ旦O と_)_) 旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦 >>眠い人氏 乙 続き、ネガイマス
677 :
694 :04/12/14 02:31:51 ID:???
>>705 眠い人氏頓楠
SS41Xは寸法公差がいい加減なものをさしていたわけで、
別段SS41よりも引っ張り強さが弱いというわけでもないわけですね。
コロージョンマージンが何なのか分からんかったのでぐぐったところ、
「長期間の使用後の腐食などにより部材の厚みが薄くなる割合」とのことでした。
コロージョンマージンを削除したわけじゃなく、低く見積もったか寿命を短く見積もったか
と解釈してよいでしょうか。本当に削除したんですか?
まあ鋲打ちをケチったり、接ぎ手シフト規定緩和とか、大幅に安全率が下がりそうなこと
やってますから本当にゼロと見積もったのかも。
>>706 軟鋼まで分かってるあたり釣りだな。
鉄鉱石から高炉で銑鉄をつくりさらに転炉で精錬して鋼にして、それを1000℃くらいで
熱間圧延工程をして・・・というのを現代で流れ作業でやってますけど、
当時の平炉式では流れ作業では出来ないし圧延作業も熱を保ったまま均質圧延していく
施設が日本にそうあったわけじゃなかった。八幡くらいじゃないだろうか。
手持ちの本からJIS規格の抜粋 用途 種類の一例 C Mn Si P S 引張り強さ 一般構造用 SS41 - - - ≦0.06 ≦0.06 41-50 溶接構造用 SM41 - - - ≦0.04 ≦0.05 41-50 溶接構造用 SM41W Mn/C ≧2.5 - ≦0.04 ≦0.05 41-50 リベット用 SV39 - - - ≦0.06 ≦0.06 39-46 ボイラー用 SB42B <0.27 <0.80 0.15-0.30 <0.035 <0.04 42-50 それぞれの含有率が鋼材の性質に与える影響は基本的に以下の通り 炭素:多いと引張り強さが増すが延性が減り溶接性が悪化する (船体に用いられるのは分類的には軟鋼に当たる) マンガン:硬さとと引張り強さを増し、延性を減らし溶接性を悪化させる 珪素:硬さと引張り強さを増す 燐:硬さと引っ張り強さを増すが延性は減る 硫黄:延性と鋼性を減らし溶接性を悪くする 他に脱酸素具合によって鋼材の性質は変わる 酸素含有率の少ない鋼材は強度に優れるが加工しにくい(溶接性はあまり変わらない) ただし、脱酸素程度が少ないと低温暴露時に脆性破壊しやすい 北洋航路のリバティ船は低品質鋼材が原因の船体破断事故をおこしてます 現在は脱酸素程度の低い鋼材の主要構造部分への使用は禁止されています
珪素といえば重戦車マウスの装甲材を鹵獲したソ連軍が調査したところ、 珪素の含有率が高く品質が低いと評していたそうだが、 案外、NiやCr不足を補いつつ性能の維持のために意図的に行ったのかもしれん。
ケイ素が多いと粘性が高まるんだっけ?
八幡製鉄所標準 満俺鉱(Ferro-Magnaese)の組成(%) Mn 50 SiO2 5.0 Fe 5.0 S 0.1 P 0.1 Cu 0.1 国内産出量は7万トン(昭和10年) 印度、支那、南洋方面より大量に輸入 (銑鉄製造時には脱硫のため必須の材料です) 国内での産出地は 北海道稲倉山、高知穴内、大分千怒 フラックスとしての石灰石は自給可能 引用元は 及川象平 著「金属製錬法」 東京 科学社 初版発行日不明 戦後 昭和21年になって重版されたもの
引き続き同じ本からの抜粋 アメリカにおける鉛の用途別表(単位:米トン) 蓄電池板 191000 塗料 139500 ケーブル外管 61400 建築用 40000 軍需品 32500 鉛泊 28500 ハンダ 22000 活字合金 17000 軸受合金 16500 メッキ 13500 自動車 13500 鉛板 60200 鋳物 5700 鉄道用 2400 造船用 200 合計:633500 うーむ 蓄電池は激しく鉛を消費するから、潜水艦建造量に効いてくるな アメリカの軍需用の割合の少なさには泣ける
>>眠い人殿 素晴らしき脱線話感謝。 ゆっくりしてって下さい。 私達は待つことに慣れました。 なぜならそう(御代に)躾られたから。
14インチ砲の製造技術移転に関してなんですが、比叡以降の戦艦の主砲である14インチ砲 製造は、呉工廠と日本製鋼所室蘭工場(今の新日鐵室蘭工場)で行なわれています。 日本製鋼所は北海道炭礦汽船(実際には裏で日本海軍が動いている)と、Vickers社、 Armstrong社との合弁企業です。 室蘭工場は1911年1月に竣工しましたが、当初は12インチ砲製造体制を整えていました。 しかし、その後は急速に14インチ砲製造工程の整備を行ない、1913年に12インチ砲2門と完成 させた後、1914年4月、5月に14インチ砲は各一門が完成したのを皮切りに、1914年中には12門が 完成しました。 こうして、海軍発注の14インチ砲85門のうち、呉工廠は25門、日本製鋼所は60門となっています。 但し、日本製鋼所の受注分のうち、13門はVickersに製造を委託しています。 ・卯号装甲巡洋艦(比叡)には、呉工廠製が4門、日本製鋼所製が4門。 ・二号装甲巡洋艦(榛名)には、日本製鋼所製が7門、Vickers製が1門。 ・三号装甲巡洋艦(霧島)には、Vickers製が8門。 ・三号甲鉄戦艦(扶桑)には、呉工廠製が4門、日本製鋼所製が8門。 ・第四号戦艦(山城)には、呉工廠製が4門、日本製鋼所製が10門。 ・第五号戦艦(伊勢)には、呉工廠製が12門。 ・第六号戦艦(日向)には、日本製鋼所製が12門。 その他予備砲身として製造されたのが、呉工廠製が1門、日本製鋼所製が6門、Vickers製が4門と なっています。 但し、扶桑と山城の砲門数が違っているように、一応、これは予算措置で配分されたものです。 で、この砲の素材ですが、日本製鋼所製造分で、比叡用4門、榛名用7門、扶桑用3門の砲身素材は Vickersから輸入しています。(ちなみに、12インチ砲については、Armstrongから技術導入してたり
辻中佐曰く、 『今放棄せば、再占領は絶対に不可能なり。 亦、撤退そのものが不可能にして、水際に殲滅せらるべし』と。」(後略) 私はこういう会議の席でいつも感ずるのであるが、派遣幕僚というものである。 大前海軍中佐がガ島の減員を主張したのに対し、辻陸軍中佐が、「二万五千の銃剣は絶対最小限の数である」と 断言し、これに対して一言の異議を差し挟む者もなく、全員これを了承した形になってしまった。 大本営派遣参謀という権威も有ろう、辻中佐の輝かしい経歴の圧力もあろう、自信に溢れた強い調子の物言いも あろう、先入観的諦めというか、反対して怒られたらつまらんと言う打算も有ろう。 しかしこんなことで事を決して良いものであろうか。 此の二万五千は、偶々結果として二万五千になってしまったと言うだけのことで、計画的にそうした訳ではない。 もしこれが三万有ったら三万、二万になっていたら二万が、「絶対最小限」と主張されたに違いない。 何等理論的根拠はないので、多々益々弁ずと言うだけの事である。 この様な一個人の勘がある場面を支配すると言うことは警戒しなければならない。 派遣幕僚というものは、真相を掴みにくい現地の状況を正しく把握して、施策に速やかに反映させるとか、 或いは、下級部隊で出来ない事をお手伝いすると言う意味では必要であり有用であるけれども、現地軍を 「指導」すると言うやり方は一考を要するものであると思う。 統帥は飽くまで、指揮系統を尊重して行われなければならない。 上級司令部の権威を背景にして、下級司令部或いは指揮官の遠慮を良いことに、往々にして専断的な 事が行なわれやすいからである。 そして、それは指導であり、命令ではないから、実施の結果の責任は下級司令部のものとなる。 上級司令部は、下級部隊がやり易い様に、支援し力を与えてやり、至当な任務を与えてやれば良いので、 そう言うことはやらないでおいて、下級部隊のやり方に活を入れると言うのは、極めて安易な方法であろうが、 宜しくない。 私が派遣幕僚になったらそうしよう、と深く諫める所があった。
1942年11月15日、軍司令部に於いて、第11航空艦隊大前参謀、方面軍有末参謀副長、辻中佐、杉田中佐、岩越少佐、第十七軍山本少佐、私、打ち合せを行う。 「今回の輸送の損害は往路四隻大火災(沈没と推定)四隻擱座炎上三隻行方不明なり。 即ち、予が全般計画を立てし時損害十分の六と推定し各方面より損害多きに過ぐと非難せられながら敢えて主張して枉(ま)げざりしも、 実際は更に大にして十分の十となれり。 今回の輸送に於いて四隻が相当有利に揚陸し得たりとするも、先ず二日分の糧秣に過ぎ去るべし。 即ち、船団輸送を以て補給を継続することは不可能なり。 然らば、駆逐艦は如何。一日四隻、一ヶ月百二十隻の所要を思えば、之亦不可能に属す。 茲に於いて大前中佐はガ島の減員を主張せるも、辻中佐之に反対して曰く、 『現在ガ島兵力は約三万中、健康者二万五千、傷病者五千也。傷病者五千中には海軍設営隊 の千五百を含むものとす。 而して、敵は優勢なる火力を持って攻撃し来たるに対し、我は銃剣を以て対抗せらるべからず 故に数を必要とする。 この二万五千は絶対最小限の数也。撤退し得べく且つ希望するは傷病者五千のみと。』 さは言え、この五千の撤退を如何にすべきや。 健康者軽傷者は駆逐艦輸送の際之に便乗して二百、三百と帰還し有るも、重傷者は輸送すること能わず。 五千の為には駆逐艦何隻を要するやこれらを検討すれば、五千の撤退すら危険なり。 戦闘司令所は飛行場制圧の為、「マタニカウ」川左岸高地を占領せんとし、残留せる第三十八師団の二個連隊 を要求し来れり。軍は、これらの要求あるとも今後一兵も増加する意志無きもさりとて撤退は不可能なり。 大前中佐曰く、 『今日までの海軍の損害は対敵一対一なり。飛行機は十一月十日より十四日の間に於いて、陸攻二十、戦闘四十、 計六十を失えり。 此の如くんば陸海共倒れとなり了る處大なり。之が為には根本的に考え直す要あり。 今、ガ島を放棄せば、更に攻撃を開始して奪回する望み無きや』と。
さて、少し間が空きましたし、話があっちに飛んでしまったのですが、ガ島輸送の話にまた飛びます。 当初、ガ島に関しての大本営の考えは、「偵察上陸程度」として、本格的反抗であっても奪回は容易、従って、規定方針通りの作戦計画で行くこととしています。 規定方針とは、即ち、Port Moresby攻略作戦です。 さて、1942年8月8日、第一次ソロモン海戦となり、「軍艦」の沈没は多く、泊地にいた輸送船16隻が丸裸であったのに、この攻撃は敵艦載機への恐怖と 魚雷不足から中止します。 これを遺憾とした聯合艦隊では「引き返して船団撃滅」を下令しますが、時既に遅く、結局は輸送船撃滅の機会は失われました。 このため、海軍航空部隊に命じて、攻撃を行いますが、陸攻23機を失い、戦力を喪失。 (ちなみに、8月9日に第11航空艦隊では、攻撃目標を空母か戦艦に変更するよう指示を出します。 これは、輸送船が空船だったら、損害に比して戦果が少ないと考えた訳で。 流石に、大本営、聯合艦隊はそれに反対し、10日の攻撃目標は輸送船に再変更しました。) ところが、泊地には敵艦船が全く見られず(既に上陸した後)、ただ、報告上は過大な戦果を上げていたことになっており、 聯合艦隊はこれを精査することをせず(Midway後の海軍はいつもそうです)、その戦果を鵜呑みにし、大本営海軍部も これを追認、更に真に受けたのが大本営陸軍部で、敵戦力喪失大として、それを前提に奪回作戦を検討しました。 そして、使用兵力、第17軍主体(歩兵13個大隊基幹)で、先遣隊として一木支隊900名が駆逐艦で輸送され、8月18日に ガ島に上陸しました。 各人の携行小銃弾は250発、糧食7日分。 ところが、米軍は既に陣地を構築しており、不用意な攻撃を仕掛けた一木支隊は全滅しています。 21日、ガ島に米軍の小型機が30機進出しました。
過ぎた話だが、旧大蔵省の銀行管理をさして「護送船団方式」と呼んで、「護送船団方式だった から悪い」って主張が展開された事にはワロタ。 大型で船足が速い高性能船と波高3m以上だと転覆しかねないボロ船を同じ船団に組み入れた ことは間違っているが、船の性能が用途に見合った形で船団を組み、適切な兵力をもって適切な 用兵が行われていれば、何の問題も生じなかった。 なにより重要な鉄則である、「被弾して船足が遅くなった船は見捨てる」と言った運用上の規定 が守られていなかったのが問題なのであって、「護送船団方式だったから悪い」って事はあり得 ない。(結果的に見捨てることになるが、決断が遅すぎて船団のスピードを落とした間に他の船 も相当損傷を受けることになり、全滅しかねなかった) 護衛する側(旧大蔵省)の戦力・装備(管理要員や法令)や用兵ミス(実際の管理実体)が主因だ ったわけだが、表面的な部分しか焦点を当てずに「護送船団方式」と言うことで全てを片づけてし まうとは、情けない限りだ。 「護送船団方式だったから悪い」」のではなく、「実体に見合わない計画性もない状態の護送船団 方式をとったから悪い」わけだが、新たな仕組みが「護送船団方式」ではないと思ってるのも、お目 出度い(w
陸軍の場合、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、それに驚くべきことに東条英機までもが、 それぞれ共同で、バーデン・バーデンに於いて国家総力戦の研究をしていますね。 海軍の場合、「参考情報資料」『開戦経緯』4にも、「海陸軍が軍事的に対米戦の能力有りと するも、国力判断に於て到底日本は闘う余力無く、戦えば国家滅亡なり。故に南方作戦は 中止の要あり」と言う報告が1941年春の時点で掲載されています。 部署や機関としてのものは無いにしろ、海軍大学校辺りでそう言ったことは検討されていた様な 感じを受けます。(総力戦研究所で作られた摸擬大学の海軍大臣は、海軍大学の卒論に 「総力戦」を選んだ、海兵55期の志村正海軍少佐ですから。) ただ、表だっての研究は海軍に於いては出来なかったでしょう。 と言うのも、永野修身軍令部総長は、「捨て鉢の戦争をする」と天皇に言われ、その信を喪って いる状況でも尚、海軍統帥部の長に居座っており、その威光を背に海軍内の主戦派中堅幕僚 である、石川信吾らがいた訳で、更に彼等のバックには、対米強硬論者の伏見宮博恭が控えて おり、しかも、彼を統御すべき、及川海軍大臣は、永野の後輩で、常々彼に遠慮することが 多かったことから、思い切ったことが出来ない、と言う状況ですから。 更に、海軍がそのような物動に後ろ向きな考えを示した場合、主戦派の特に陸軍から、海軍 の存在価値に言及され、ドイツ海軍の様な事態を招きかねないと海軍首脳が思っていたこと もあります。 海軍に於いても、まず、組織防衛ありきで、その後の情勢などは政治に任せておけば良い、 と言う感じを受けました。
>688 当たり前です。 旧大蔵省の銀行管理を叩いていたのは、 いわゆる「小さな政府論」をとる連中ですから。 彼らにとっては叩ければなんでもいいんですよ。 その内実がどうであろうが、そんなの愚民どもにはわかりゃしません。 いまの日本の政治とは要するにレッテルの張り合いであり、 中身をレッテルから推測するのは筋違いの愚行でしかありません。 そしてうわっつらだけ綺麗なレッテルの張られた瓶の中には、 百害あって一利なし、の腐敗品がたっぷり溜まっていて それが「改革を求める民意の反映」として各家庭に配布されるシステム。
閑話休題。 ちょっと、今の話題を外れてカキコ。 今、「船舶太平洋戦争」という陸軍の船舶運用責任者の人が書いた日記の抜粋を 読んでいるのですが、それによると、制空制海権無き場合の船舶作戦は、 1. 一ヶ月は十五日なり。 → 敵機の為、月明かりの日は輸送に使えない為。 2. 一日は四時間なり。 → 敵機の行動半径外から日没後接近し、日の出前に離脱する為、高速船でも接岸作業は四時間が限度。 3. 一万トンは二四〇トンなり。 → 1万トンの優秀船でも、携行舟艇を沃水し、四時間で作業を終える為には、240t程度しか揚陸出来ない。 と言う状況で作戦を立てなければならなかったそうです。 今日から暫くは2ちゃんの方が不安定になるそうですから、これについて深く追求するのはもう少し先になりそう ですが、海軍よりも陸軍の方が未だ補給についての考え方ははっきりしていた様に思えます。 とは言え、陸の人々にも糞な香具師はおりましたが…。 でことで、鉄の話は脇に置いて、こっちから先に話を進めようかと思います。
鋼材というのは、エネルギー資源と並んで、産業の米と言われるものです。 ところが、1937年の日中戦争勃発に伴う、米国の屑鉄禁輸と軍需への鋼材供給優先によって、一般産業に回す分が少なくなります。 例えば、1938年度、39年度までは総供給の25%程度が軍需でしたが、41年度には実に半分が軍需となります。 これにより、生産力拡充をしようにも、基幹産業への鋼材供給がままならない状況では、夢の又夢です。 1938年度から8年の予定で、第一次生産力拡充計画に着手しますが、1942年から第二次生産力拡充計画がスタートします。 しかし、基幹産業の一つである石炭産業について見てみると、1940年を100とした場合、 1940 1941 1942 1943 1944 1945 鋼材の配当 100 63 47 40 29 30 爆薬の配当 100 100 98 100 100 74 セメントの配当 100 85 81 63 40 12 坑木の配当 100 98 83 96 94 86 機械故障率 100 230 1,610 石炭生産伸び率 100 95 91 88 83 53 年生産(t)/人 177 167 153 146 122 66 と言う風に下がって来ており、機械の故障率に至っては、部品工業に満足な鋼材供給が出来ないので、 飛躍的に上がっています。 これで、生産増強なぞ出来ようはずがありません。
最後に天号作戦について触れておきます。 天号作戦は、大井大佐が強硬に反対した、大和の沖縄突入ですが、この際、軍令部は片道しか燃料を供給出来ない と言う強硬意見を述べ、連合艦隊首脳部もこれを是認します。 実際にはタンク底の重油在庫5万キロリットルを集め、「補給命令では片道分の重油搭載」でありましたが、実際には、 「緊急搭載で積み過ぎた余分を油Bargeに吸い取ろうとしたが、出撃に間に合わずその儘にした」という如何にも、日本 的な臨機応変さ(皮肉な意味での)で、大和に4000キロリットルなど、艦隊全部に1万500キロリットルが余計に搭載され、 大和は重油を満載(6,300t)して出撃しました。 こうして、重油は月頭在庫僅か21.3万トンと言う惨状に陥り、大井大佐が悲憤慷慨した訳です。 再三述べている通り、1945年5月から重油在庫はマイナス、6月から、航空揮発油がマイナスとなる状況に陥り、既に 継戦能力は失われてたりします。 と言う訳で、石油物動に関しては此処まで。 次回からは、鋼材需給と船舶生産に関して…。
>次回からは、鋼材需給と船舶生産に関して…。 はい、宜しくお願いします。(わくわく)
> 最近になって、靖国にお参りに行くたびに、 > 上級戦争指導者の何人かは祭らなくて良いんじゃないかと > 思ったり思ってみなかったり‥‥orz 正直なところ、無能なる事の責任追及が為される事もありでしょう。 しかしそれをやると無能と無能ならざる者の区別がつきにくいし、 戦争指導を批判すると、いつもの常套句「英霊に申し訳が立たないとは(略)」となります。 しかし、過去と向き合う事は、現在に眼を向け、未来において最善の道を選ぶ助けとなるはずですが、それが出来ないことに問題があるような…?
まあ、問題は、 ある人の人格、人間的価値、魂、といったものの価値は、 その人の行為によって大きく変わるものなのか? 変わるとして、それはその人の行為の「結果」によるのか? それとも、その人の「努力」によるのか? そして、死は、それをどのように変えるのか? または変えることができないのか? という、宗教的・哲学的問題になってくるわけで、、、
>>693 もう戦争はやめにしよう、という体勢に反抗していたのが大井大佐なわけね。
この人がこだわってるのは「継戦能力の確保」だから。
最後に天号作戦について触れておきます。 天号作戦は、大井大佐が強硬に反対した、大和の沖縄突入ですが、この際、軍令部は片道しか燃料を供給出来ない と言う強硬意見を述べ、連合艦隊首脳部もこれを是認します。 実際にはタンク底の重油在庫5万キロリットルを集め、「補給命令では片道分の重油搭載」でありましたが、実際には、 「緊急搭載で積み過ぎた余分を油Bargeに吸い取ろうとしたが、出撃に間に合わずその儘にした」という如何にも、日本 的な臨機応変さ(皮肉な意味での)で、大和に4000キロリットルなど、艦隊全部に1万500キロリットルが余計に搭載され、 大和は重油を満載(6,300t)して出撃しました。 こうして、重油は月頭在庫僅か21.3万トンと言う惨状に陥り、大井大佐が悲憤慷慨した訳です。 再三述べている通り、1945年5月から重油在庫はマイナス、6月から、航空揮発油がマイナスとなる状況に陥り、既に 継戦能力は失われてたりします。 と言う訳で、石油物動に関しては此処まで。 次回からは、鋼材需給と船舶生産に関して…。
また、南方油田に対する空襲によっても、その生産は阻害されています。 バリックパパンには、1944年9月30日~10月14日の間に数次の空襲があり、サンガサンガからバリックパパンへの送油は 11月1日まで途絶。 12月中に、サンガサンガが数回空襲を受け、容量3万キロリットルの石油タンクが大中破、また、タラカンへは敵空襲に よって、壊滅的な打撃を受け、生産途絶。 陸軍の南スマトラ燃料工廠は、1944年8月11日に一回目の空襲がプラジュー製油所に、1945年1月24日には二回目の 空襲があり、29日にはスンゲロン製油所初空襲があって、50日生産が途絶、その後、80%復旧するも、油槽船の製品 搬出困難で、生産量を制限する状況、更に北スマトラ燃料工廠でも、1944年11月4日にブランダン製油所が爆撃に遭い、 製油施設が一部破壊され、12月18日の空襲ではペラワン、カランススの貯油タンクが破壊、1945年1月4日には製油所の 施設は3割破壊された上、パンカランススのタンク4基も破壊されました。 こういった施設破壊と、輸送路の途絶により、海軍保有燃料は80%を南方から距離の近い徳山に保有させ、四日市では、 タンク底の油泥を、四日市特産の菜種油を鹸化して添加し、これらを加熱したモノから重油を採取する技術を確立します。 1945年、海軍省軍需局は軍令部に、「北号作戦」の発動を申し入れます。 これは、第四航空戦隊の伊勢にドラム缶4,994本と燃料タンクに航空揮発油100キロリットル、日向にドラム缶5,200本と 燃料タンクに航空揮発油100キロリットル、連合艦隊旗艦の大淀にドラム缶100本と燃料タンクに航空揮発油77キロリット ルを2月8日から3日間で満載にして、2月20日に呉に帰還したものです。 この艦隊(既に商船では還送が覚束なくなっている)には他に、南方のタングステン、錫、ゴム、亜鉛、水銀などの重要 物資を搭載しています。 また、油田開発関係者440名の乗船も特筆すべき事です。
さて久々に、本筋に戻って、海軍の重油、揮発油消費量について。 海軍の1ヶ月平均重油、揮発油消費量を書いてみましょう。 (単位は万キロリットル) 重油国内消費量 重油南方消費量 重油消費合計 揮発油国内消費量 揮発油南方消費量 揮発油消費合計 1941年度月平均 13.00 0.00 13.00 1.80 0.37 2.17 1942年度月平均 12.60 17.90 30.50 2.37 1.54 3.91 1943年度月平均 11.30 18.00 29.30 2.67 2.67 5.34 1944年度月平均 8.34 14.50 22.84 2.30 2.30 4.60 1945年度月平均 2.44 3.02 5.46 1.70 0.20 1.90 5カ年月平均 11.11 15.27 26.38 2.54 1.99 4.53 1945年1月以降、月10万トンの供給が出来ていません。 これは最盛期の消費、即ち、1942年8~10月の30~35万キロリットルの消費には全く対応出来ないことを意味します。 ちなみに、Midway海戦で60万キロリットル、Mariana沖海戦で35万キロリットル、Leyte沖海戦で20万キロリットルの重油消費 でしたから、そんな海戦は1945年には出来なくなっている訳です。
まず、ガ島の再奪回を目的として、30,000の兵力を投入しました。 しかし、糧食、弾薬とも不十分で、1942年10月と11月に、大型輸送船5乃至6隻を有する船団が組まれ、空海部隊による護衛が行われましたが、 米軍の攻撃により、軍需品80%を亡失する結果となり、糧食の割当ては普通1日6合の米を1合に制限し、陸蟹、椰子実、トカゲ類を食するの止む 無きに至り、それらによる病気の蔓延などで、体力低下を起こし、部隊の戦闘力は50%低下することとなりました。 次いで、駆逐艦による高速輸送が行われますが、これも、航空機と魚雷艇による攻撃を受け、甚大な損害を被って断念。 更に、米、食塩を55ガロンドラム缶に詰めて、50~60本連結して筏とし、これを海岸近くまで駆逐艦で曳航、ロープを切り離して海浜に流すと言う 方法を採用しますが、大部分は周辺の珊瑚礁に漂着してしまい、20万本のドラム缶を使用した割りに、部隊が手に入れたのは僅かに25%と言う 体たらくでした。 遂に万策尽きた海軍は、濃縮食糧60食分をゴム袋に入れ、これを潜水艦に搭載、この袋は水面下で放たれ、これが浮かび上がってきたら泳いで 兵士が回収すると言う方法を採ります。 しかし、この輸送に於いても、潜水艦は敵の攻撃に晒され、潜水艦は20,000tを喪い、結果として補給の途絶えたガ島の将兵30,000のうち、10,000余 名は栄養失調で戦闘出来る状態にありませんでした。 この最初の船団輸送に関しては、現地で陸海軍共同図上演習が行われ、それによると、「現地の要求するだけの航空を出して、制空が出来たとしても、 揚陸に成功するのは2.66割」、しかも、船舶は殆ど磨り潰す、即ち、15隻の船団で11隻は沈没もしくは中破以上の損傷ということになります。
>697 大和特攻が「戦争をやめにしよう」という作戦だ、というのは あまりにも神に好意的すぎるモノの見方……はっきりいえば「ためにする」発言ですな。
さて、⑤計画について少し述べてみませう。 ⑤計画自体は、本来④計画に次ぐ、1940年実施の年度計画だったのですが、その決定は遅延し、 その間に○臨、○急、○追が1941年に相次いで追加され、更に出師準備、臨戦準備の各計画の 混乱の中で、1942年度計画として承認、後に改⑤、⑥計画が追加、検討されています。 ⑤計画は159隻65万トン(戦闘艦艇94隻、54.1万トン)、⑥計画は197隻80数万トンとなり、1948年3月 までに対米3分の2を実現出来る予定でした。 その⑤計画の燃料⑤計画は1942年7月で、この燃料計画は1946年度末に完了する予定でした。 その目標は、南方油から、原油350万キロリットル、重油300万キロリットルを入手し、缶用重油に原油から 240万キロリットル、重油から260万キロリットルの合計500万キロリットル。 原油残り80万キロリットルから航空揮発油70万キロリットル、重油40万キロリットルから二号重油40万キロ リットル、南方から航空揮発油を25万キロリットル、そのほか、イソオクタン30万キロリットル、メタノール 25万キロリットルから航空揮発油を同量、オイルシェールから二号重油18万キロリットルを確保しようと言う ものです。(なお、南方原油は海軍担当地区から200万トン(原油140万、重油60万)、陸軍担当地区から、 475万トン(原油210万、重油210万、航空揮発油25万)を確保する予定でした。 陸軍、民間を合わせた全体では、2,000万トンの燃料を確保する必要がありました。)
月刊モデルグラフィックスという模型雑誌で戦時中の輸送船等を模型で再現するという企画があります。 以下リスト 2001年8月号「宏川丸」「九州丸」「那古丸」「神川丸」、9月号「山陽丸」「神川丸」 2001年10月号「護国丸」「報国丸」、11月号「靖国丸」「照国丸」「日枝丸」 2001年12月号「阿波丸」「新田丸」、1月号「安芸丸」「三池丸」「阿波丸」 2002年3月号「摩耶山丸」、4月号「鬼怒川丸」「最上川丸」 2002年6月号「山月丸」「慶洋丸」、7月号「せりあ丸」「延長丸」 2002年8月号「球磨川丸」「五洋丸」、9月号「香椎丸」「清澄丸」 2002年11月号「金華丸」「聖川丸」 2003年1月号「ぶえのすあいれす丸」「りおでじやねろ丸」、2月号「高栄丸」「新興丸」 2003年3月号「華山丸」「長寿山丸」「北京丸」、8月号「にぎつ丸」「あきつ丸」 2003年9月号「神川丸」「聖川丸」「君川丸」「国川丸」、10月号「長良丸」「能代丸」 2003年11月号「能登丸」、12月号「浅香丸」「粟田丸」 2004年1月号「相良丸」「佐渡丸」、2月号「南海丸」「山陽丸」 2004年3月号「平安丸」「氷川丸」、4月号「雄鳳丸」「ありあけ丸」 2004年5月号「久川丸」「江戸川丸」
この原因は、海軍の見通しの甘さにあります。 浪費をしまくっているにも関わらず、1942年上半期には民間に60万キロリットルを支援したり。 流石に、後半期には供出を打ち切っていますが…。 で、この齟齬の原因ですが、この消費量計算をしていた参謀の頭では艦隊運動の何たるかが理解出来ていなかった としか言えません。 即ち、燃料の消費量は速度の二乗三乗に比例すると言うことです。 例えば、原速ならば12ktsで航行するところ、戦闘状態では第四戦速の24ktsと言った速度で航行しているのが常態で あれば、燃料消費量は増えます。 また、巡航タービンの使用せずに航行するのも常態化していたようです。 例えば、金剛の場合、12Ktsで平時の巡航タービン運転で航続距離15,100海里ですが、18Ktsでは9,300海里になり、 全速30ktsでは全主軸4軸運転で3,000海里、ちなみに、巡航タービン運転と全4軸運転では燃料消費量に1:2の差が あります。 この金剛の重油積載量は、6,279tです。 ちなみに、このほかの軍艦では、長良、球磨、加賀が、原速(12kts)との対時間比燃料消費量では、24ktsなら凡そ5倍強、 32Ktsで凡そ17倍に達し、川内では、24ktsなら凡そ5倍弱、32ktsで14.5倍、天龍、赤城、夕張では、24ktsなら凡そ5倍、31ktで 11.5倍、蒼龍では、24ktsで4倍、32ktsで11倍、34ktsで17倍弱に達します。 こういった要因、特にMidway海戦で大量の重油を消費した関係で、実需に見合う形で、1942年度の石油物動計画は修正され ます。 供給力 約910万キロリットル(在庫550+国産60+南方期待300) 需要 約520万キロリットル(陸軍100+海軍280+民需140) 改訂後需要 約720万キロリットル(陸軍130+海軍360+民需230)
と言うか、正直予想し切れませんでしたってところでしょうか。 日本の油井は小規模ですし、油井の経営をした訳ではないですので、経験も不足していたでしょう。 正直、どれくらいの産油量なのか、精油したらどれくらい残るかと言うのは想像出来なかったのかも しれません。 と言う訳で、石油の消費はどうなったのかを見てみましょう。(単位は万キロリットル) 1942 1943 1944 1945 ------------------------------------------------- 消費見込量 280 270 250 --- 海軍 消費実績 483 428 317 57 実績/見込量 1.7 1.6 1.3 ---------------------------------------------------- 消費見込量 100 90 95 --- 陸軍 消費実績 92 81 67 15 実績/見込量 0.9 0.9 0.7 ---------------------------------------------------- 消費見込量 140 140 140 --- 民間 消費実績 248 153 84 9 実績/見込量 1.8 1.1 0.6 上記表から言えるのは、海軍の石油消費量の異常なまでの突出です。 陸軍、民間とも、出来るだけ計画値に合わせて来ているにも関わらず、海軍が思いきり石油を消費しています。 当初、海軍の消費見込280万キロリットルの内訳では、重油20万キロリットル/月、航空揮発油2.5万キロリットル/月、 その他諸油0.8万キロリットル/月でした。 この数字の基礎となったのは平時の消費量で、重油消費量は平時の2.5倍、航空揮発油の使用量は平時の4倍で計算 していましたが、実際には、重油消費量は30万キロリットル/月となって平時の4倍、航空揮発油に至っては
Sir 良スレageであります。 Sir アメリカからの石油禁輸が開戦に至った理由なのに 占領地域の産油状況を全く把握し切れなかった(生かされなかった)のには 開いた口が塞がりません。 国のためという考えが全く欠如しており 所属する組織(陸軍海軍)権益優先というのが 改めて認識させられました。
1941年10月29日の陸海軍共同研究での、南方石油の還送は以下の通りでした。 第一年目:蘭印(ボルネオ)から30万キロリットル(陸軍側10万、海軍側20万キロリットル) 第二年目:ボルネオから100万キロリットル、スマトラ南部から75万キロリットル、北部から25万キロリットル、合計200万キロリットル。 第三年目:ボルネオから250万キロリットル、スマトラ南部から140万キロリットル、北部から60万キロリットル、合計450万キロリットル。 実際は、1942年2月28日の時点で、タラカン、サンガサンガの海軍油井から、年末まで45万トン、能率を上げれば、60万トンの採油が 可能という報告があり、陸軍の方も、4月20日の時点で、120~170万トン増加で、油槽船不足が問題となっています。 是を受けて、1942年4月の企画院による一カ年見込では、タラカン20、サンガサンガ60、スマトラ200、ジャワ20など合計360万キロリットル に上方修正され、スマトラ地区の復旧が予想以上に進んでいることが判明しましたが、反面、油槽船不足が顕著になっていました。 ちなみに、この時期の民需は140万トンの割当てでしたが、是を受けて、190万トンに変更されました。 実際は、推定が入っていますが、 1942年 1943年 1944年 見 込 量 30 200 450 還送実績 167 231 79 海軍取得量 37 82 58 となっています。
>>708 そもそも当てるだけのタンカーがないのに油を求めて南方作戦…
計画大破綻ですね。
これに対して陸軍が資源輸入のための船腹の増加を要望し
海軍は作戦用船腹の増加を要望したため、非常に揉めたと言う話を聞きます。
私は陸軍の言い分がもっともだと思うのですが。
>708より前に延々と、このスレの>200前後のレスをコピペし続けている人。 乙です。 レス削除が為されたので今度は方針転換ですかね。
>>710 あーあ、せっかく必死でレス返していた人がいたのに、あなたって残酷w
笑ってみていたのにw それにしても文体にしろ内容にしろ全く気がつかないレベルのバカだったと いう事が分かって面白かった。 一月程前の文章でも丸々忘れる程度なんだから、毎回同じものを読んでも新鮮 でいいんじゃね? 非難される筋合いじゃないよね。
716 :
名無し三等兵 :04/12/16 23:16:42 ID:WPM86dk7
なるほど。南方での石油生産は予想以上に回復したのに、 輸送が出来なかったんですね。 無念。。。
>>716 商船の保護を軽視した事が、
決戦兵力の構築に必要な、国力増強に必要な資源の搬入を難しくし、
タンカーの大量喪失が、決戦兵力の初期配置を拙いものにし、
戦力増強の要たる航空部隊の錬度強化に重大な影響を齎し、
さらに決戦において、決戦兵力の根幹たる空母戦力に致命的損害を被り、
決戦の敗北が制海権の維持に決定的な被害を齎したわけで、
通商破壊戦という戦術は、日本という国家に対し、致命的な影響を齎した
といえます。
ま、ロイヤル・ネイヴィーの形“だけ”真似た規模の大きい“だけ”の沿岸海軍に、
通商保護という魂が欠片も存在していなかった以上、日本という国家にたいする
こういう形の破滅は避けられないものだったのかもしれませんが。
>717 WW1の経験がありながら、大西洋であれだけの大損害出した英国海軍に はたして日本を笑う権利ありや、否や。
>>718 「目くそ鼻くそ、そして大便」的な比較にならんか?
そして、
最終的な勝敗の差は決定的と思われ。
・・・日本もアメリカが味方だったら戦争に勝ってたさ。
日本帝国海軍が、 「米国相手に戦争やっても、勝てません。 一、二年以上戦うことになったら、まけます」 と素直に発言し、 「あばれてみせる」みたいなことを言わなかったら、 米国との戦争になっていなかったたかもしれない。 ただ、「暴れてみせる」と言った香具師は、 補給戦でダメになる、という認識はあったのだろうか?
「補給云々とか細かいことをいうまでもなく駄目に決まってんだろ」という認識はあった。
>721 「一・二年は暴れて見せます」の後に「ですがその後のことは責任持てません」って言った事実を何故無視するの?
724 :
721 :04/12/20 00:34:53 ID:???
>>723 漏れが、なぜ、
「ですがその後のことは責任持てません」に触れなかったか。
海軍をこれ以上批判したくなかったからだ。しょうがない、愚痴るか。
「ですがその後のことは責任持てません」と言ったわけで、
「ですがその後は負けます。」とは言わなかったわけですな。
対米戦になれば、海軍が主役になることは明白、
開戦にあたり、その海軍の意見を聞かずばなるまいとの質問に、
「責任持てません」?
「わからない」だったような気もするが、どちらにせよ、
文字通り、「無責任」。
「その後は負けるから、早めに講話ができるよう、 政府・陸軍覚悟を決めて協力してもらいたい。 もちろん海軍は最後の一隻・一機・一兵まで 奮闘、日本の滅亡に殉ずる覚悟はできている。」 くらい言って、 講話のための準備ぐらいあらかじめ覚悟させておいても よかったんではないかと思うが、 何故そうせず、言葉を濁しておしまいにしたのか。
>責任持てません どう考えても「勝てません」といっているように聴こえます
当時の陸軍は、チャイナで、 「責任もてない」状況になっていたわけで、 この状況下、海軍の台詞は、「負けない」、 「決定的に勝つことは困難」という程度の意味に 解釈される可能性がある言い回しだったと思いますが。 数年戦う戦争になれば、「勝てない」のではなく、 負けることはわかっていたわけですから、 変に言葉を飾ったり、ごまかそうとせず、 「負ける」と明確に言えば、、、 一国とその国民の運命に大きく左右する場で、 責任のある立場の物が、曖昧な点のない、 明快な言葉を使うことができなかったのは何故なのか。
>721氏は日露戦争時の山県の発言聞いたら目ぇ回すこと疑いない。 このときの山県の発言に比べたら、山本は百倍以上率直に軍の限界を語ってるんだよ…… そもそも「一二年は戦ってみせます、がその後は責任持てません」 こう聞いて何故「勝てる」という読解をしてしまう、その思考回路自体を問題にしないのか、が疑問だな。 WW2時の軍はあくまでも軍でしかなく、制度上政府はきっちり機能していた。 その政府が山本発言をここまで曲解して聞きたがるような状況では、 山本が何を言おうが……握りつぶされて終わるだけ、とも考えられるんだしね。
>>728 開戦して一二年が勝負、というはずの計画が
たった半年後にミッドウェーだろ。
いくらなんでも、政府はそこまでは考えてないよ。
一二年の間にどれだけ資源を獲得できるか、
あるいは講和のための条件を導き出せるか、
くらいの戦争方針はあったんじゃないの?>海軍の言うことを真に受ければ
でも、半年後には大敗北じゃどうしようもないわな。
補給と全く関係がないな 陸軍は電撃戦のドイツを過信してあと一年二年でイギリスも屈服してしまうと信じていた。 いづれ1、2年でイギリスが降伏するならそれ以上米が戦争を継続するか微妙である。 イギリスを倒し中国戦線にカタをつけるためにもビルマルートを遮断したい。 海軍が一年二年は大丈夫といってる。 陸軍も三年も先の作戦計画などないし三年先なら大勢は決まっているはず。 要は言葉尻を勝手に互いに都合のいいように解釈してその言葉の真意を問いたださなかったせいでは。 陸海の意思統一とか現在での統合軍制とかが希薄でしっちゃかめっちゃかやって現場に苦労がなすりつけられたんだろうなあ
山本が言ったのは「半年や一年暴れてみせる」。「一年や二年」じゃないよ。
商船の保護を軽視した事が、 決戦兵力の構築に必要な、国力増強に必要な資源の搬入を難しくし、 タンカーの大量喪失が、決戦兵力の初期配置を拙いものにし、 戦力増強の要たる航空部隊の錬度強化に重大な影響を齎し、 さらに決戦において、決戦兵力の根幹たる空母戦力に致命的損害を被り、 決戦の敗北が制海権の維持に決定的な被害を齎したわけで、 通商破壊戦という戦術は、日本という国家に対し、致命的な影響を齎した といえます。 ま、ロイヤル・ネイヴィーの形“だけ”真似た規模の大きい“だけ”の沿岸海軍に、 通商保護という魂が欠片も存在していなかった以上、日本という国家にたいする こういう形の破滅は避けられないものだったのかもしれませんが
開戦して一二年が勝負、というはずの計画が たった半年後にミッドウェーだろ。 いくらなんでも、政府はそこまでは考えてないよ。 一二年の間にどれだけ資源を獲得できるか、 あるいは講和のための条件を導き出せるか、 くらいの戦争方針はあったんじゃないの?>海軍の言うことを真に受ければ でも、半年後には大敗北じゃどうしようもないわな。
速射砲中隊は、戦砲隊と弾薬小隊に分け、戦砲隊は37mm対戦車砲4門と弾薬車4両で構成され、それぞれ小隊長は中尉 (または少尉)として、これを更に軍曹(伍長)が指揮する二分隊に分ける。 弾薬小隊は弾薬車4両、器材及び予備品車1両、予備馬で構成され、小隊長は特務曹長であり、これを上等兵を分隊長と する五分隊に分割する。 一、二等兵のうち1名は喇叭手、少なくとも4名は通信手、6名は瓦斯兵、蹄鉄工兵は1名、一、二等兵のうち少なくとも2名は 銃工兵、縫工、靴工兵少なくとも各1名を含む。 連隊本部の上、一、二等兵のうち60名は通信手(うち5名は瓦斯兵を兼ね、別に無線通信手8名)、5名は軍旗衛兵、9名は 伝令とし、輜重兵の上、一、二等兵のうち3名は蹄鉄工兵、輜重兵特務兵のうち少なくとも3名は鞍工兵、鍛工、木工兵各2名、 縫工、靴工各1名を含む。 大隊本部の上、一、二等兵は全員伝令(うち5名は瓦斯兵を兼ねる)、輜重兵の上、一、二等兵のうち少なくとも3名は蹄鉄工兵、 輜重兵特務兵のうち鞍工、鍛工、木工兵少なくとも各2名、縫工、靴工各1名を含む。 中隊の上、一、二等兵のうち42名は軽機関銃手、重擲弾筒手18名、喇叭手4名、瓦斯兵10名、一、二等兵のうち少なくとも3名は 銃工兵で、縫工、靴工各2名を含む。 この編成のうち、喇叭手はラッパを吹く専門兵士、観測手は気象観測を行なう兵士、縫工は軍服の縫製、修繕、靴工は軍靴の 修繕を行なう。 このほか、輜重には自動車手という自動車運転士もいたし、蹄鉄工兵の様に馬の蹄鉄を打つ兵士も居た
・比島の状況(昭和18年に於ける建設状況) 生産計画 生産実績 石炭 23万トン 8,000トン 潤滑油 250トン 100トン 交易物資 5,500万円 500万円 砂糖 50万トン 4万トン コプラ 43万トン 20万トン 麻 64万トン 25万トン(1944年から月産1万トンを割る) 木材 330万石 150万石(主に軍需用) 銅 13万トン 1万トン内外(物動の約1割) クローム - 4万トン(物動の65%) 綿花 150万picul 8,800picul 造船 35万トン 35隻(1隻200t見当) 自動車 戦前の20%しか動いていない。 軍票放出額 8億突破。
>あくまでも閉鎖的な社会 隣人の顔も知らない世の中にありがちな犯罪が最近増えましたね。 >人種差別がまだ実際にある 外国人犯罪も増えましたね。 … サヨってんじゃないよw なんでもかんでも開かれてりゃいいってもんじゃないんだよ世の中は。
イスラム教「人間は弱い・・強いのは紙切れに書き記された概念や道具なのである・・・。 紙切れに書き記すのも、紙とペンと紙やインクの材料が無ければ出来ないであろう・・・。 それらが無くなれば、あっという間に火も扱えぬ扱えない大きめの猿へと戻るのである・・・。大きめの猿・・氷河期・・大きめの象マンモス・・大きめの虎サーベルタイガー・・・。ゴリラは160cm以上は無いだろう・・・?」 俺?佐々木に佐々木敏に飼われているんだよ・・・マインドコントロールされている・・・。
739 :
「某バニラ娘とその彼氏」の投稿者 :04/12/20 21:10:35 ID:ccm2ZqOw
かちゅーしゃのログが壊れていたかと心配だったがそういうことも ないようだ。 >732-735 さすがに昨日おととい自分で書いた物位は覚えてるがね。 無作為に過去ログコピペしているだけか? ふざけた真似はやめてもらおう。
なんか粘着あらししている人がいるみたいだから相手せずに削除依頼だけだしときなさいな
>>740 Sir! Yes Sir!!
どうも漏れって舌禍事件起こしがちだなぁ・・・。
>>738 それなら日本はイラクじゃなくてサウジと当てるんじゃないか?
明らかにサウジのほうが弱そうなんだし。
韓国の市場は日本より明らかに小さいよ。
それにしてもまるで悪の枢軸リーグだな
ホームページランキングで、来た客のドメイン名とか言わない方が良くね? 本人は、由緒ある組織の人たちが見てますって言いたいんだろうけど、 逆に言えば、その組織内で(暗に就業時間とかに)見てるってばらしてる訳で。 客の氏素性を、その客の了解も得ずにばらすって、あんまり感心出来ないんだけど。 内容は面白かったんだけどね。
手持ちの本から抜粋 アルミニウム地金の生産高(単位:1000t) 昭和12年 昭和19年 終戦時 日本曹達 0.7 11 12 日本軽金属 - 47 54 昭和電工 9 28 34 東北振興 - 3 3 住友アルミ 1 19 25 ---------------------------------- 内地合計 11 109 129 日本窒素 - 4 6 朝鮮軽金属 - 3 4 三井軽金属 - 8 20 ---------------------------------- 朝鮮合計 - 15 24 台湾 日本アルミ 2 11 24 全合計 13 136 183 問題は昭和20年3月以降はのボーキサイト輸入量が0ってこと それまでの輸入量は 12年 10万トン 18年 80万トン ボーキサイトの中のアルミナの比率は50~60% アルミナ中のアルミは35% 表層部はスラグとなるから歩留まりは8割くらいだったかな(スラグも製鉄で脱酸素に使われるらしいです) ってことで、終戦時にあった施設がフル稼働するとき、必要なボーキサイトの量は130万トン前後 ダメダメだ・・・
ささきょんは、綿密な資料集めが必要な国際情勢物はやめて、 国際スポーツを舞台にした八百長と審判買収を、 状況設定を変えながらシリーズ化したほうが楽して小説が書けると思う。 そのほうが的中率高いし。
明日、先生がこのスレにやってくると予想。
ドンキホーテの放火は某国のテロとは考え過ぎかな? タイミングからしてあやしいと思うのは私だけでしょうか。
閑話休題。 今月の光文社NF文庫から「海軍病院船はなぜ沈められたか -第二氷川丸の航跡-」という本が出ていますね。 さて、艦艇、海兵団、航空隊、商船、大型漁船、水産学校、商船学校など、凡そ海に関係するところが必ず保有している船が、カッターと呼ばれる船です。 このうち、軍向けカッターの生産は、墨田川造船、横浜ヨット、木材工作所などで行っていましたが、此処は軍事用で手一杯であり、民間向けのカッターを 制作する余裕がありませんでした。 民間向け、特に商船向けのそれは、大日本救命艇という会社で一手に引き受けていました。 この会社は意外に歴史が浅く、量産に不安があったので、三菱長崎など、短艇製造設備のある企業は自社内生産に切り替え、また、当時、生産資材が 無くなりつつあった鉄道車輌工場を転用することとなり、神戸の川崎車輌(現在の川崎重工神戸工場)を使用することになりました。 その後、大日本救命艇の立ち上がりも順調になり、生産が予定通り行われていったのですが、生産品の輸送には汽車便が使えず、自家機帆船を用いて 配送作業を進めたこともあったようです。 ちなみに、川崎車輌の製品の生産も順調だったのですが、大日本救命艇の製品よりも原価が二倍近くなり、費用補填に困難が伴った 様です。 敗戦時、川南工業は川内工場を建設して、川南系の自給を計画し、三菱長崎は自給、大日本救命艇は民需をすべて賄い、軍需を主に していた墨田川造船、横浜ヨット、木村工作などは、震洋などの特攻兵器生産、魚雷艇生産などに傾注しており、カッターなどの短艇は 二の次になっていました。
大日本救命艇の月産能力は、1943年6月で大阪工場70隻、横浜工場17隻の月産87隻、その後拡充して、大阪100隻、横浜30隻の月産 130隻にまで達しており、また、名古屋と琵琶湖に新設工場を設ける計画がありましたが、これは艦本からは特に要望していませんでした。 短艇は船舶安全法で搭載していましたが、対空砲、対潜要員などの軍人を乗せると足りなくなりました。 基本的に標準船では短艇2隻(6~9m)、伝馬船1隻(4.5~5.5m)が搭載されていましたが、新たに短艇を搭載するスペースが無く、救命筏を 搭載するケースが出てきました。 ちなみに、2E型では6m短艇1隻、筏1個宛となっていました。 生産については、銅釘を亜鉛鍍釘に変更したりしたくらいですが、生木を乾かさずに使ったり、造舟工 不足のための技倆低下で、引き渡し後の製品が水漏れするとか言う苦情が寄せられていたそうです。 ところで、人のレスコピペしまくって面白い? ログ堀されてみる?
つまり子は・・親よりも先生よりも社会よりも・・・大人は上司よりも総理大臣よりも大統領よりも・・・帝の言う事を優先的に聞き聴き従えと言う事なのかもしれない・・・。 そう言う事なのかもしれない・・・。 此の世の人間界の最高権力者・・・それが皇帝の意味するところ
>>752 イギリス・・選挙や議会政治はあっても、華族社会の旧民法の近世封建制度のままなんでしょうよ・・・。
ロシアもそうなんだろうけど・・・。
では何で一体どうして何故枢軸国側が負けたのかって・・・?
それは、イギリスとロシアに負けたのではなくて、アメリカ合衆国に負けたんでしょうよ・・・。
真の騎士や侍や武士や爵位を持った王侯貴族は、自ら自ずから封建制社会を壊し破壊し、近代現代への扉を自ら開く・・・と。
>>753 では何で一体どうしてロシアやイギリスがそうなのか・・・?
それはロシアの皇帝は討たれたのと、「イギリスは卑屈で卑小で無理だ無理だ無理だ僕私には出来ないんだ・・・。」
だからEmperorやEmpressではなくてKingやQueenでありUnitedKingdomなんだ・・・って感じで。
連合帝国は・・ちょっと意味が違うので・・・。
話は変わるがモンゴル人の視力は2,0以上あるらしい・・・、日本人の視力は最大で1,5である・・・平均値はおそらくは0,8くらいであろう・・・。 だからこそ、某相撲選手が朝青○(朝○龍)があそこまで強いのだろう・・・。 人間の視力は訓練次第で、3,0くらいにまで出来ると言う話があるのだが・・・サッカー選手や野球選手には視力は大事な要素なのだろう・・・。 鷹の視力と鷲の視力は、どちらの方が高いのだろうか・・・? また猫の様に、暗視能力は暗視機能は付いているのだろうか・・・? 動体視力とか・・・超超高速で動いている物体を、まるで止まっているかの様に捉える事が出来たりとか・・・。 遠視と近視、拡大機能と縮小機能・・・。
>752-755 ここはお前の日記帳じゃねえんだ チラシの裏にでも書いてろ な! (AA略)
>>755 犬や猫の嗅覚や聴覚の様に、壁の向こう側や建物の向こう側にある物体や生物の、大きさや形を三次元的に捉える事が出来る・・・と。
人間は五感の内、触覚が優れているのかな・・・?
人間が計り知る事の出来ない第六感と言うものが、あるのだろうか・・・?
>>757 ゴキブリは身体を半分にされても出血死しない・・勿論何時かは死ぬのだが、一体どうやって死ぬのかと言うと、
消化器官が臓器が無くなって餓死するのである・・・。
>>756 確かにそうですね。
失礼しました。
商船、漁船の場合は逓信省、農林省に毎年所要の報告をしていますので、
それが陸海軍サイドに流れることは十分に有り得ますね。
毎年、出師準備計画として鎮守府、工廠が各船舶の詳細な実船調査を
行なっていたようです。
ただ、何処まで、この調査が真剣に行なわれていたかですね。
確かに、商船だと将来的に何らかの補助的任務に投じる可能性があった
ので、これは詳細な調査が毎年行なわれて(浅間丸などはその好例)いた
はずですが、漁船はそこまで詳細な調査をしていたのかが気になります。
支那事変の際、陸軍は4000隻の漁船と1000隻の機帆船を徴用しています。
これは1937年10月以後、各県の漁業団体を通じて割当てを行なったものです。
最初は、個々に割り当てていましたが、後に全国機付漁船船主会が設立され、
此処で船体、機関を検査して徴用するようにしています。
ただ、総トン数20t以下の船舶は県の鑑札船と言うことで、税金が安くなるので、
脱税の手段として、大きな船でも20tとして申告するケースもあったようです。
つまり、農林省にも届けられないものもあった訳です。
1944~45年に掛けての本土決戦用調査でもそのような過小登録の漁船、
機帆船が2000隻以上も発見されたそうです。
海軍の敗戦時の軍令部第一部長の言葉に、
「隻数だったよ。個艦の性能は二次的、三次的だったんだ。平時の研究や
図演では強い艦でないと駄目と言うことになった。
実際やってみると、駆逐艦で言えば、最新式の優秀な2000t艦も一隻、
旧式の1200tの風や月型も一隻、どちらも一隻としての戦力となった」
と言うのがありますが、それにどうして気づかなかったのかなとは思いますけど。
760 :
764 :04/12/21 00:26:55 ID:???
>>759 >>85 ミスタイプしたので修正(算数合わん)
アルミニウム地金の生産高(単位:1000t)
昭和12年 昭和19年 終戦時
日本曹達 0.7 11 12
日本軽金属 - 47 54
昭和電工 9 28 34
東北振興 - 3 3
住友アルミ 1 19 25
----------------------------------
内地合計 11 109 129
日本窒素 - 4 6
朝鮮軽金属 - 3 4
三井軽金属 - 8 20
----------------------------------
朝鮮合計 - 15 30
台湾
日本アルミ 2 11 24
全合計 13 136 183
原典は住友金属の社史らしいです
読みたいけど・・・・
761 :
721 :04/12/21 00:40:40 ID:???
>>728 恥ずかしながら、その発言、わかりませんし、
おそまつながら、私の検索能力では発見できませんでした。
私が見つけたのは以下の文です。
>征韓論論議の翌年、明治7(1874)年に行われた台湾出兵の際、
>静観すると日本側が観測していた清が予想に反し強硬な姿勢を取って、
>再び日本政府内に対清開戦論が出てくるのであるが、
>大久保利通内務卿に戦争準備を求められた陸軍卿の山県有朋は、
>目下の陸軍の状態から考えて遂行できる自信がない
>――要するに不可能である――と、返答している。)
日露開戦時、伊藤博文に言ったという「美談」
>敗北の場合には帝国の将来は言うに忍びない困難に遭遇するであろう。
>その場合には軍人たるわれわれは生きていないはずである。
>将来のことは専ら貴下の努力にまつ他はない。
>そのときの貴下の苦慮は死に勝ること幾層倍であろう
721 氏の念頭に置かれている文、ご教授頂ければ幸いです。
762 :
721 :04/12/21 00:43:44 ID:???
スレに関係ある話を。 日本海軍が、開戦時、英米不可分論をとり、 英米ほぼ同時に攻撃を仕掛ける作戦を主張したのは、 日本と南方との補給線に対して、 フィリピン・グアム等の米軍による奇襲に始まる攻撃を心配したためだ、 と友人に教えてもらったのですが、本当でしょうか?
また引っ掛かったw
>762 >英米不可分論 実際に鉄砲撃ってないだけで、武器弾薬を輸出したり、 ビスマルクの位置を英国に垂れ込んだりと、まあ、海の 向こうじゃドイツ相手にロコツな戦争行為やらかしている訳で。 実際に砲火を交えるのは米国の国内事情からできないにしても、 たとえばスービックを英国の潜水艦に提供したり、 南方への輸送船団の位置や進路を垂れ込むくらいは平気でしょう。 そして日本側が怒って手をだせば、大義名分振りかざして 開戦しかねない、考えたくもないバッドエンドへのフラグ発生でしょうな。
一応、陸軍の場合は、100t以上の全艦艇を網羅していた訳ですねん。 若干の例外はありましたが。 一方、海軍の場合は、全艦艇を網羅していた訳ではなく、俗に言う優秀船のみしか 眼中になかったのではないかと思う訳で。 ただ、1937年以後に策定された「優秀船舶助成」は、一方で不経済な面も否めず、 船会社的には迷惑な部分もあったよう。 例えば、うる覚え恐縮ですが、ぶら志る丸は空母に改造するために、最高速度を上げる 必要があり、確か1kt増速するためだけに、エンジンを大きなものに交換しなければなら なかったり、有馬山丸は、海軍の仮装巡洋艦にするために構造を強化していたため、 船体が重く、舵の効きが遅いと言われていたそうな。 で、優秀船舶の配当予定 (海軍) 艦隊付属油槽船8隻、航空母艦改造引当5隻(橿原丸、出雲丸、新田丸、八幡丸、春日丸)、 通商破壊艦引当5隻(あるぜんちな丸、ぶら志る丸、報国丸、愛国丸、護国丸) 砕氷型中型貨客船2隻(高島丸、白陽丸) (陸軍) 司令部船用4隻(三池丸、三島丸、阿波丸、安芸丸)、 高速輸送船型8隻(金華丸、東山丸、九州丸、淡路山丸、宏川丸、佐倉丸、佐渡丸、など)、 舟艇運搬船型10隻(あきつ丸、摩耶山丸、にぎつ丸、吉備津丸、玉津丸、高津丸、日向丸、攝津丸、熊野丸、ときつ丸)
それに、船籍登録船の場合は定期整備があるから、その報告だの造船所からの船渠利用計画やらを 転用すれば、実情把握もソウ難しくないんじゃないかね。 (NKルールの強制適用以後はもっと楽になったと思う) >優秀船舶助成 確かに、和辻博士も23ktなんぞ無駄じゃ、どんだけ苦労したか…と憤慨されておられましたなw (船倉口をエレベーターサイズに合わせろとかも含めて) ただ、優秀船の場合は建造助成だけでなく、航路助成もあるから一概に迷惑とも言いがたいと思います。 というのも、海軍からの荷物の場合は、品物によって一般運賃の20%増しであるとかの優遇策(個別契約 なのだが)があるので、これを最大限に利用して急成長した会社さえあります。 (今残っているのだと飯野海運なんか) ただ、それだけ優遇しても、隻数拡大を狙うには、国力(民需)の爆発的伸張が必須なのね。。。
日本の補給戦とかであれば、今読んでる「陸軍船舶戦争」は面白いですよ。 日中戦争、太平洋戦争における陸軍の船舶輸送に関する様々な資料も 出てます。 例えば昭和16年度の海運器材整備報告より。 寝棚材料(130,862坪) 輸送船供与 72,759坪 隷下部隊に支給 19,954坪 宇品等保管 38,149坪 厠材料(3,459棟) 輸送船供与 1,661棟 隷下部隊に支給 1,345棟 宇品等保管 453棟 輸送船旗(1,687流) 輸送船供与 451流 隷下部隊に支給 706流 宇品等保管 479流 赤十字旗(99流) 病院船供与 21流 隷下部隊に支給 22流 宇品等保管 56流 野山砲船載砲架(398架) 輸送船供与 224架 隷下部隊に支給 63架 宇品等保管 111架 高射砲砲架(233架) 輸送船供与 150架 隷下部隊に支給 5架 宇品等保管 78架 小掃海具(87組) 輸送船供与 3組 隷下部隊に支給 45組 宇品等保管 39組
今日も元気だあんたも暇ねぇ。
>>766 つまり、日本海軍は、
ヒトラーとその海軍ほど我慢強くなく、
戦略的見地は忘却して、
作戦上の見地から米国との開戦を主張したということ?
>772 「国家としての」戦略的見地なんか、 当 時 の 日 本 の 誰 が 見 て い た と ?
潜水艦なんて必要ないわ
>>772 あと、組織防衛もあったのではないかと・・・orz
陸軍は日中戦争の失敗を糊塗するために対米開戦を叫び、
海軍は対米国を声高に言い立てて軍拡してきた過去があるので
開戦を叫び、
政府は頓珍漢な外交のツケを解決するために開戦を叫び、
国民は懐具合が厳しくなった原因と思える相手に向けた開戦を叫んだ
わけで、
日本の中の人は、現実と願望の差を、
総力戦研究所のシミュレートの結果から目をそむけ、
国力数倍の国家に勝った過去の栄光にすがり、
現実を無視する事で解決した訳です。
>>773 そこまで言っては可哀想ですよ・・・事実で、全く同意しますけど。
>>774 どっかの音波だしまくりな「原子力潜水艦の形をした何か」の醜態だけ
見て、そんな事言う人嫌いです。
776 :
772 :04/12/24 01:27:42 ID:???
>>775 ご教授、ご指摘に感謝。
あなたに、メリークリスマス。
日本の補給戦とかであれば、今読んでる「陸軍船舶戦争」は面白いですよ。 日中戦争、太平洋戦争における陸軍の船舶輸送に関する様々な資料も 出てます。 例えば昭和16年度の海運器材整備報告より。 寝棚材料(130,862坪) 輸送船供与 72,759坪 隷下部隊に支給 19,954坪 宇品等保管 38,149坪 厠材料(3,459棟) 輸送船供与 1,661棟 隷下部隊に支給 1,345棟 宇品等保管 453棟 輸送船旗(1,687流) 輸送船供与 451流 隷下部隊に支給 706流 宇品等保管 479流 赤十字旗(99流) 病院船供与 21流 隷下部隊に支給 22流 宇品等保管 56流 野山砲船載砲架(398架) 輸送船供与 224架 隷下部隊に支給 63架 宇品等保管 111架 高射砲砲架(233架) 輸送船供与 150架 隷下部隊に支給 5架 宇品等保管 78架 小掃海具(87組) 輸送船供与 3組 隷下部隊に支給 45組 宇品等保管 39組
さてさて、ロンメルは1941年2月に北アフリカに着任します。 これが「ひまわり作戦」と名付けなれたアフリカ支援作戦の始まりです。 最初の実働部隊である第三捜索大隊と第39装甲猟兵大隊は2月14日にトリポリに上陸。 2月24日には高射砲部隊と各種輸送隊が揚陸されその後三ヶ月いっぱいをかけて 第五軽師団のほぼ全部隊が上陸してきます。 ところでこの頃、伍長閣下は対ロシア戦に夢中でした。 まだ頭がまともだった伍長閣下は北アフリカを戦略的に低い位置に置いていました。 イタ公とイギリスにとっては主戦場であったがドイツにとっては主戦場では無かったからです。 そこで伍長閣下からロンメルに与えられた命令は以下の物でした 『リビアを守り、できるだけ長期間(ソ連降伏まで)地中海をドイツの負担にしない』 と、いうかなり消極的なものでした。 しかしながらロンメルは戦いの主導権を握る為に命令を無視して攻勢に出ます。 しかしロンメルには大規模攻勢作戦を成功させる戦力はありません。 その上、埃及制圧はイタリア軍が行なわないといけないので、 ロンメルは補給を無駄に消費するだけの足手まといでしかないイタリア軍と共に、 伍長閣下の真の意向も知らずに戦わないといけなかったのです。 (埃及を占領できれば中東に対する橋頭堡を得られるし 中東と言わずともスエズを制圧できれば海上補給線を脅かすクレタを無力化できる のでバルバロッサの進路を中東に向けていれば・・・ 後のロシアに対する支援を遮断できるしインドを挟撃する形にもっていけたかも ・・・・もちろんこれはIF以上の妄想なので突っ込まないで下さい)
百家争鳴状態(苦笑。 日本の補給戦とかであれば、今読んでる「陸軍船舶戦争」は面白いですよ。 日中戦争、太平洋戦争における陸軍の船舶輸送に関する様々な資料も 出てます。 例えば昭和16年度の海運器材整備報告より。 寝棚材料(130,862坪) 輸送船供与 72,759坪 隷下部隊に支給 19,954坪 宇品等保管 38,149坪 厠材料(3,459棟) 輸送船供与 1,661棟 隷下部隊に支給 1,345棟 宇品等保管 453棟 輸送船旗(1,687流) 輸送船供与 451流 隷下部隊に支給 706流 宇品等保管 479流 赤十字旗(99流) 病院船供与 21流 隷下部隊に支給 22流 宇品等保管 56流 野山砲船載砲架(398架) 輸送船供与 224架 隷下部隊に支給 63架 宇品等保管 111架 高射砲砲架(233架) 輸送船供与 150架 隷下部隊に支給 5架 宇品等保管 78架 小掃海具(87組) 輸送船供与 3組 隷下部隊に支給 45組 宇品等保管 39組
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄」
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>>779  ̄ ̄ ̄ ̄' ̄ ̄ ̄ ̄ |
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コピペ野郎はチネ
>766 アメのナチへの挑発はそれだけじゃない。 正式参戦する数ヶ月前に米国海軍はUボートを撃沈しているぞ。
>>781 ヒトラーとドイツ海軍って、我慢強いんですね。
しかし、どうして、
日本につきあって参戦したんです?
1943年6月喪失量。 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 7隻 24,795t 17,999,900円 海軍徴傭船 11 52,132 29,704,300 非徴傭船 10 35,891 20,714,400 総トン数5000t以上の喪失船舶 日本郵船 ぜのあ丸(6,784t)、辰馬汽船 宮殿丸(5,196t)、木原商船 甲南丸(5,226t)、 廣海商事 廣徳丸(6,701t)、日産汽船 日張丸(6,550t)、日本海運 あかつき丸(10,215t)、 日本郵船 相良丸(7,189t)、大光商船 光洋丸(6,300t)、鏑木汽船 常磐丸(6,971t)、 日魯漁業 神武丸(5,236t) 1943年7月喪失量。 隻数 総トン数 保険金額 陸軍徴傭船 7隻 25,432t 9,366,600円 海軍徴傭船 11 65,585 34,556,600 非徴傭船 15 52,913 24,954,800 総トン数5000t以上の喪失船舶 川崎汽船 ていむす丸(5,871t)、山下汽船 米山丸(5,274t)、國際汽船 鹿野丸(8,572t)、 三菱汽船 さんくれめん丸(7,354t)、日産汽船 日立丸(6,540t)、大阪商船 畿内丸(8,360t)、 東洋海運 淀川丸(6,441t)、山本汽船 彰山丸(5,859t)、日本郵船 諏訪丸(10,672t)、 東洋海運 最上川丸(7,496t)、大連汽船 黒龍丸(6,112t)、橋本汽船 幸喜丸(5,290t)、 國際汽船 りばぷうる丸(5,866t)、日本郵船 サイパン丸(5,532t)、日産汽船 日久丸(6,537t)、 帝國水産統制 第七播州丸(5,430t)
投:買わなきゃよかった・・・。 Y:投稿者、どうしたんだ? S:今日、本屋さんに行って、以前お話があった「輸送船入門」を買って きたそうですが・・・。 K:あまりに凄惨な光景が続いて鬱になっているみたいね。何しろ魚雷 一発当たったら3000人が海の藻屑だもの。間違っても日本の兵員輸 送船には乗りたくないわね。 Y:船倉の中に居るときに魚雷喰らったら、あれではまず助からん。 脱出ルートは狭く、人は溢れかえらんばかり。しかも魚雷で船内は ずったずた、急激に水が雪崩れ込んで・・・・・・ いかん、俺も想像するだけでダメだ、薄ら寒くなってきた・・・・・・。 S:「移動中の歩兵は棺桶に足を突っ込んでいるようなモノだ」そうですが、 浮かぶ棺桶とは・・・。 Y:敵と渡り合って果てるならば、いつか骨だけでも祖国に帰れるかもしれないが、 敵と渡り合う前に溺死では、骨も祖国に帰れんよ・・・。
過去ログコピペ不要 邪魔
角川文庫 太平洋戦争日本の敗因1 (日米開戦勝算無し。)P.192より抜粋 昭和18年9月30日の御前会議と、これに先立つ連絡会議では船舶損耗対策も重要議題として検討された。 席上、海軍の伊藤整一軍令部次長は、以下のような対策を述べている。 「船舶損耗防止の成否は、一にかかって護衛艦艇,航空機等所望護衛兵力の急速整備にあり。 (中略)潜水艦による損耗を月平均三万トン程度に抑止するためには、概ね護衛艦艇三六〇隻、 対潜飛行機二〇〇〇機程度を常時整備保有しおく要あり。」 角川文庫 太平洋戦争日本の敗因1 (日米開戦勝算無し。)P.85-86より抜粋 『海上護衛作戦』の著者で海上護衛総司令部部の作戦参謀であった元海軍大佐大井篤さん(90歳)の話である。 「連合艦隊が非協力的なんだ。軍令部の計算では南方航路を守るには最低水雷戦隊が三隊は必要と考えたのだが、 連合艦隊に交渉してみると、まだまだ作戦地域を広げて侵攻作戦を計画していて、あくまで作戦優先。 護衛なんかてんで頭にない。一隻の駆逐艦も出さないというんだ。 しかたがないので、鎮守府とか警備府などから老朽のいわば『お婆さん』の旧式駆逐艦や水雷艇を掻き集めて ようやく作ったというのが実情。しかもその数たるや、シンガポールから門司までの二五〇〇海里(約四六〇〇キロ) のシーレーンを守る第一海上護衛艦隊が、旧式駆逐艦一〇、水雷艇二、商船を改装した特設砲艦五だけ。 横須賀からラバウルまでの二〇〇〇海里(約三七〇〇キロ)を守る第二海上護衛隊が旧式駆逐艦四、水雷艇二、特設砲艦一だけ。 守るべき輸送船は三〇〇〇隻以上もあるんですよ。こんなわずかな船でいったい何ができるというんです。 なさけないというほかない」
投:買わなきゃよかった・・・。 Y:投稿者、どうしたんだ? S:今日、本屋さんに行って、以前お話があった「輸送船入門」を買って きたそうですが・・・。 K:あまりに凄惨な光景が続いて鬱になっているみたいね。何しろ魚雷 一発当たったら3000人が海の藻屑だもの。間違っても日本の兵員輸 送船には乗りたくないわね。 Y:船倉の中に居るときに魚雷喰らったら、あれではまず助からん。 脱出ルートは狭く、人は溢れかえらんばかり。しかも魚雷で船内は ずったずた、急激に水が雪崩れ込んで・・・・・・ いかん、俺も想像するだけでダメだ、薄ら寒くなってきた・・・・・・。 S:「移動中の歩兵は棺桶に足を突っ込んでいるようなモノだ」そうですが、 浮かぶ棺桶とは・・・。 Y:敵と渡り合って果てるならば、いつか骨だけでも祖国に帰れるかもしれないが、 敵と渡り合う前に溺死では、骨も祖国に帰れんよ・・・。
更に、 「軍需工業動員は、戦場へ委員の二倍を要する。 例え、老幼婦女を使用するにしても、男子20%内外を必要とす。」としており、 「戦時に各種業務に服する男子総数は55%内外なるべし。 戦争二年間の間の絶対的消耗は4:6。理論上は、交戦三年半に及べば、 消耗は全戦場、兵士に達する。」 「大戦末期の鉄の平均使用量は兵員一人に対し、毎日三トン」 「兵員一人の戦費の各国比 英国21円、イタリア5円、枢軸国4円など平均16円」 これらはあくまでも第一次大戦での数字であるけれど、国家の兵士は25%が許容範囲 であり、それ以内なら国民生活と戦争との両立が可能であるとしている。 また一人の兵士を賄う軍需生産の人員は二名であり、100万人の軍隊を作ると、国内の 生産者は200万人になる。 とすると、冒頭の716万人という数字、これには戦没者は含まれないので、これに戦没者 数216万人を加えると、1000万人近くが戦場に居た計算になる。 上の理論計算で行くと、軍需の生産者としては2000万人、つまり、総数3000万人の国民が、 戦争に何らかの関与をしている。 ただ、2000万人は軍需産業の担い手であり、民需とかこれらの人々を食わせるために必要 な人的資源は考慮されていない。 この2000万人を支えるのに一人当たり更に二名が必要とすると、4000万人が必要となる。 これら総合計で7000万人。
コピペでスレを埋めるつもりかい、粘着君?
話は変わるがモンゴル人の視力は2,0以上あるらしい・・・、日本人の視力は最大で1,5である・・・平均値はおそらくは0,8くらいであろう・・・。 だからこそ、某相撲選手が朝青○(朝○龍)があそこまで強いのだろう・・・。 人間の視力は訓練次第で、3,0くらいにまで出来ると言う話があるのだが・・・サッカー選手や野球選手には視力は大事な要素なのだろう・・・。 鷹の視力と鷲の視力は、どちらの方が高いのだろうか・・・? また猫の様に、暗視能力は暗視機能は付いているのだろうか・・・? 動体視力とか・・・超超高速で動いている物体を、まるで止まっているかの様に捉える事が出来たりとか・・・。 遠視と近視、拡大機能と縮小機能・・・。
792 :
名無し三等兵 :04/12/28 16:40:27 ID:p9HQ2Iqz
------------------------------------------------- 消費見込量 280 270 250 --- 海軍 消費実績 483 428 317 57 実績/見込量 1.7 1.6 1.3 ---------------------------------------------------- 消費見込量 100 90 95 --- 陸軍 消費実績 92 81 67 15 実績/見込量 0.9 0.9 0.7 ---------------------------------------------------- 消費見込量 140 140 140 --- 民間 消費実績 248 153 84 9 実績/見込量 1.8 1.1 0.6
793 :
名無し三等兵 :04/12/28 16:41:37 ID:p9HQ2Iqz
1944年08月頃の護衛兵力 その1 護衛総司令部直属 護衛空母4隻(海鷹は長期故障中) 練習巡洋艦1隻(香椎) 航空隊3個(第901航空隊のみが実働) 第一海上護衛隊(司令部 高雄) 担当海域 シンガポール~門司 旧式駆逐艦5隻 水雷艇3隻 海防艦36隻 敷設艇1隻 哨戒艇1隻 掃海艇2隻
794 :
名無し三等兵 :04/12/29 01:40:30 ID:ahdxW5mT
ししし
795 :
名無し三等兵 :04/12/29 01:45:26 ID:ahdxW5mT
ははは
796 :
名無し三等兵 :04/12/29 01:49:37 ID:Y1UDXrDS
れれれ
797 :
名無し三等兵 :04/12/29 02:10:45 ID:ahdxW5mT
xxx
798 :
名無し三等兵 :
04/12/29 02:33:02 ID:ei8DamkV