■弥生人中国説の容疑を厳しく追及するスレ■

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1出土地不明

江南説にしろ華北説にしろ、弥生人が本当に中国から来たのなら、

何で当時の中国の主流だった灰釉陶や印文硬陶が伝わってないのかね?

最低でも何で粗悪な灰陶くらい伝わっていないのかね?

何で漢字の前身である金石文も伝わっていないのかね?

何で青銅貨などの金属貨幣くらい伝わっていないのかね?

何で木製車輪のような便利な良いものが伝わっていないのかね?

何で当時の中国で主流だった土とん墓が主流にならないのかね?

何で弥生文化は紅陶文化と支石墓文化なのかね?

これらは当時の朝鮮から満州にかけての文化ですよ。
2出土地不明:2006/02/15(水) 22:43:39 ID:nevCGQAC
朝鮮半島に灰陶が入ってきたのはどうもBC2C末に置かれた楽浪郡からの
ようで、漢代の灰陶の流れを汲む楽浪瓦質土器(楽浪土器)というのが
最初らしく、在地土器と共存していた。朝鮮南部での瓦質土器の出現は
BC1C頃で、やはり三韓軟質土器という弥生土器に近い土器と共存していた
らしい。(下のリンク参照)

http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2000a_41.html

日本における最初の灰陶は5Cの須恵器からであり、倭の属国になった
半島の帰化人によってもたらされたのは皆さんよくご存知の通り。
3出土地不明:2006/02/15(水) 22:44:11 ID:nevCGQAC
BC4C末の江南も華北も灰釉陶と印文硬陶が主流。

>「この墓(=土とん墓)から出土する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が
>大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは異なった図文をもって
>おり、銅剣は身柄一鋳のものである」。

http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm

灰釉陶は釉(うわぐすり)で表面にガラス質を出した灰色のb器。
印文硬陶は青灰色・よう黒色を呈する堅く焼締まったb器。

◎中国の陶磁史
http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm
http://www.moco.or.jp/jp/intro/intro_3/intro_3a.html
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu/Jkaisetsu/tojisi2.html
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi3.htm
4出土地不明:2006/02/16(木) 01:00:57 ID:5QkTpkUq
5出土地不明:2006/02/16(木) 20:34:07 ID:T8o9ecOa

http://members2.jcom.home.ne.jp/1228105901/0509jofuku.pdf

↑ここまで深く研究しといて、何で当時の中国の主流文化が全然伝わって
いない事に気が付かないんだろうね?

灰陶、紅陶、土とん墓、金文、青銅貨という用語はもちろん、
最も肝心な支石墓という用語さえ出てこないというお粗末さ。

稲作だけで妄想を膨らませ、その妄想の上に妄想を重ね、
更に妄想を重ねると、果たして人間はここまでメクラになるもの
なんだろうか?

もはや妄想の狂人という言葉しか出てこない。
6出土地不明:2006/02/18(土) 18:19:59 ID:zTrK3mol
そして、同じく小麦の一大産地だった中国黄河流域の河北地方に
生まれた麺である。華北の地に小麦の栽培が伝わったのが
春秋戦国時代。

http://www5c.biglobe.ne.jp/~elspace/sub11.htm

小麦は7000年頃メソポタミアで栽培されていて、中国には2000年
以上前にシルクロードを通って入ってきたといわれている。
しかしそれ以前の紀元前4000年に小麦があったことが判明している。

http://kixsfo.fc2web.com/asia/china.html

周代初期(前1300年頃)には大麦が、春秋戦国時代(前900〜前400年)
になって小麦が伝わったといわれている。

http://www.geocities.jp/tyan91/bun7..html
7出土地不明:2006/02/18(土) 18:27:56 ID:zTrK3mol
中国には遅くともBC5Cまでには間違いなく小麦があった。

日本には弥生時代後期になってから、ようやく小麦と餅類が
伝わったそうだ。

何で弥生人がやって来た時に小麦が入ってこないのかね?
8出土地不明:2006/02/18(土) 18:29:03 ID:3nXzqvv7
★★ 朝鮮民族の先祖はワイ族だった!! ★★

最近、韓国人が宣伝している歴史観は、韓国人=フヨ人説に基づいた『騎馬民族征服論』である。
満州地方に住んでいたフヨ(扶余)民族が、朝鮮半島に侵入し、半島南部に新羅や百済を建国し、
さらに対馬海峡を渡って日本列島の先住民(日本人)を征服して、古代ヤマトを建国したという説。
『2ちゃんねる』の日本史板や考古学板を中心に、この説を宣伝している。
もちろん、すべてデタラメであるが。
朝鮮人はフヨ人ではない。フヨ人の子孫でもない。フヨ人に征服された民族が、朝鮮人である。
高句麗およびその後継国=渤海国はフヨ人の国である。また918年に建国された高麗もフヨ人の国である。
そして、フヨ人とは満州民族であって、朝鮮民族ではないのである。
朝鮮人は、韓人(カラビト=倭人)でもない。
朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。
このワイ族は、現在の韓国の江原道地方(ソウルの東方地域)に住んでいた少数部族であるが、
高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に南下して、日本領=シラキに移住した。
後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪して志良岐を
乗っ取った金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。
おもしろいのは、韓国の歴史学者や政治家たちは、朝鮮民族の先祖について語るとき、フヨ人や韓人に
ついては積極的に語るが、このワイ族については語ろうとしないことである。
おそらく、韓国朝鮮人は、自分たちの先祖がワイ族であることに、うすうす気づいているのだろう。
ワイ族のワイ(穢)には、「汚い」「ケガレている」という意味がある。
このような名前の部族が朝鮮民族の先祖だとは、認めたくないのだろう。

彼らは、楽浪=帯方郡を支配していた中国人から、そのように名付けられた部族なのである。
朝鮮民族は、けしてフヨ人ではないのである。
もちろん、倭人=日本人でもない。

ウィキぺディアなどで、朝鮮人の工作員が、
「ワイ族は扶余族だ。ワイ族が改名して扶余族になった。高句麗人も百済人も、
 みんなワイ族だ!日本人もワイ族だ!」
と、宣伝しているが、大ウソなので、騙されないように。
9出土地不明:2006/02/19(日) 16:04:28 ID:x8srdzfb
これだと小麦はBC1Cに日本に伝わったらしい。
やはり渡来人が来たBC4C末に間に合わない。


中国への伝来は数千年前に北方の新彊、蒙古と、南方のインド、ビルマ
からの二つと推定されており日本へは紀元前1世紀頃と考えられています。

http://www.icon.pref.nagano.jp/cgi-bin/v820/pro1.cgi/usr/shokuhin/org/page.html?9+201
10出土地不明:2006/02/21(火) 22:10:42 ID:XGizvA/b
その木には、
・(おそらくは、たぶのき)・杼(こなら、または、とち)
・豫樟(くすのき)・(ぼけ、あるいは、くさぼけ)・櫪(くぬぎ)
・投(東洋史学者の那珂通世氏は「投」を「被」の誤りとし、「杉」とする。
苅住昇氏は、「かや」とする。あるいは「松」の誤りか)
・橿(かし。苅住昇氏は、「いちいがし」とする)
・烏号(やまぐわ。苅住昇氏は、「はりぐわ」に近い「かかつがゆ」とする)
・楓香(かえで)がある。

その竹には、
・篠(しの。めだけ、ささの類)・やだけ・桃支(がずらだけ。苅住昇氏は、
「しゅろか」とする)がある。

・薑(しょうが)・橘(たちばな。または、こみかん)・椒(さんしょう)
・みょうが

があるが、賞味することをしらない。
11出土地不明:2006/02/21(火) 22:16:02 ID:XGizvA/b
魏志倭人伝(3C)には倭には生姜はあるが、倭人は食べる事を
知らないとあったが、これも伝わってないみたいだね。

中国では、紀元前480年頃にショウガの記録が残っているので、
歴史も非常に古い。日本へも、古くから伝わり「古事記」
「魏志倭人伝」などにも記されている。

http://www.ofukuro-aji.net/syun/etc_shoga.html

面白いのは茗荷で、茗荷は古代中国では食べられていたが、
今では薬用だけで食べないそうだ。

逆に古代日本では茗荷は食べられていなかったと倭人伝にあるが、
今では茗荷を食用に消費しているのは日本だけとの事。

つまり渡来人は茗荷を食べていた古代中国からではないと読み取れる。
12出土地不明:2006/02/23(木) 06:33:08 ID:rT1WyB8H
 黄河文明に滅ぼされた江南文明の戦争難民という
トンでも説はどう思いますか?
13出土地不明:2006/02/23(木) 20:56:18 ID:7iH+sNpC
BC20C頃から日本でも黒陶・灰陶文化が花開いていた事でしょうね。
14出土地不明:2006/02/23(木) 21:49:32 ID:7iH+sNpC
紹興酒も伝わっていない。


紹興酒の歴史は約二千五百年以上前、文字が書き記された頃に始まり、
これは春秋時代の越の国からの計算となり ます。紀元前492年、越は呉に敗れ、
臣下は妻を伴い呉へ労役に行くことになりました。《呉越春秋》には臣下たちが
越を離れる際、酒を酌み交わし別れに涙する句の記述がなされています。
それが古典書に記された紹興酒であるといわれています。1973年、紹興地区に
帰属する"余姚河姆渡"にて、今から7千年以上前の原始氏族社会の遺跡が発掘され、
大量のモミ・陶器・陶片・骨製木製の道具・芸術品などが出土し、当時すでに
醸造の物質的条件を兼ね備えていたことが立証されました。中国建国以来、
紹興各地から、多くが春秋戦国時代の青銅・印紋・陶製の酒器などが出土し、
初期の紹興酒が2500年前から存在していたことが更に立証されています。

http://www.the-best.co.jp/chinese/02.html
15出土地不明:2006/02/23(木) 23:25:34 ID:V0rdSjmd
納豆は重要だと思うが。
糸引き納豆のある場所は、中国雲南と、日本と、インドネシア。
とすれば、日本に渡ってきたのは、中国南方の新モンゴロイド系で、
年代が紀元前1000年にさかのぼるなら、オーストロネシアンの
活動開始時期とも重なる。タロ芋はないが、山芋はあり、かつ、、、
問題は、豚と鳥の問題。ラピタ土器は、昨今の研究から現在の
オーストロネシアンとは、遺伝的にはつながらないことが分かった
ので、これが入ってきてないのは、とくに問題はないだろう。
納豆の納豆菌の遺伝子の分析からすると、日本の納豆と雲南の納豆
は、4000年前に分裂したことが分かっている。まあ1000年
は遺伝子系統分析では誤差の範囲だろう。
中国南方といっても、農耕民の系統は、比較的新モンゴロイドだ。
日本の弥生時代の開始を、オーストロネシアンの太平洋進出と一緒に
考えると、ほぼ謎はとけるのではないか。
16出土地不明:2006/02/24(金) 00:16:13 ID:6Oz+k9E0
縄文人とこんな南方人種が混ざって、今の一重まぶたが約半数を占める
現代日本人になるんかアホ。

リアルアホだろおまえ。一回氏んでこいよ。誰も止めんぞ。



d.パレモンゴリーデ(南蒙古人種)

茶黄色、低身短頭で、顔は丸くやや広鼻。中国南部から東南アジアに
広く分布。 (世界大百科事典/平凡社)


17出土地不明:2006/02/24(金) 04:04:31 ID:A0LFTBEA
色々もっともらしいことが書いてあるけど、
要は見たくない真実から目を背けてるだけなんちゃうかと
18出土地不明:2006/02/24(金) 04:40:59 ID:xl0bLwGY
江南と黄河の文明は違うで良いじゃないの。
黄河文明に敗れた江南文明の戦争難民が日本に来たニダ。
19出土地不明:2006/02/25(土) 17:00:20 ID:IZShPkOJ
>中流域の屈家嶺文化(くつかれいぶんか、紀元前3000年? - 紀元前2500年?)
>・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300年? - 紀元前2200年?)
>の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植
>されている。黄河流域の人々により征服された結果と考えられ、黄帝による
>三苗の征服などの伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いに元があると考えられ、
>三苗はミャオ族の祖と言われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B1%9F%E6%96%87%E6%98%8E


長江文明が黄河流域の人々により征服されたのがBC20C前後だと見られるが、
長江文明側の屈家嶺文化も良渚文化も黒陶文化である。

その頃の黄河文明は龍山文化であり、黒陶文化である事は今さら
説明するまでもないだろう。

いずれの文明人が日本に来ても、BC20C頃から日本でも黒陶・灰陶文化が
展開してしまう。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm
20出土地不明:2006/02/26(日) 05:47:23 ID:4+RE0N8y
 長江文明はBC14CからBC10Cとありますが、BC20C前後の
征服というのは何故でしょうか?
 辺境の逃れた住民が最後に海に逃げたとしたら、日本の
水田がBC10Cからというのにも合うと思います。
 また、多くの者が知っている水田技術ならともかく、
高度な土器は技術者が行かない限り伝わらないのでは。
 それと長江文明もBC22Cまでを最盛期に衰退するので、
技術なども廃れていて日本に来た時は無かったとも考え
られますね。
21出土地不明:2006/02/26(日) 12:30:48 ID:jrZ/kPYh
貨幣の必要性がなかった

中央集権国家ではない
経済規模が小さすぎる
相場自体が存在しないので価値の尺度に問題
金や銀など普遍的価値をなす材料に乏しかった(鉄、青銅、紙切れではダメ)
22出土地不明:2006/02/26(日) 12:34:12 ID:jrZ/kPYh
腕を曲げると前腕部内側、関節の部分から3、4センチのところにの所に横シワが現れる
又は足の小指に第2の爪、子爪がある人
あなたには漢民族(中国)の血が流れている
23出土地不明:2006/02/27(月) 19:46:48 ID:+an+v8lF
↑風説垂れ流し嘘つきチャンコロ
24出土地不明:2006/02/27(月) 20:08:00 ID:+an+v8lF
> 長江文明はBC14CからBC10Cとありますが、


ありません。上記のソース通り長江文明はBC20C以前です。
ところで、どこにそんな事が書いてあるんですか?


>BC20C前後の征服というのは何故でしょうか?


文明の衰退から時代が読み取れるのでしょう。
私が知る限り、BC20C以降の江南の主流文化は華北とほとんど差がない。


>高度な土器は技術者が行かない限り伝わらないのでは。


弥生時代の幕開けから新しい土器技術がちゃんと伝わってますが何か?
25出土地不明:2006/02/27(月) 20:14:31 ID:+an+v8lF
>貨幣の必要性がなかった


青銅器が使われていた頃、貝貨はちゃんとあったんですがね。
それも金文一つ出てきやしない青銅器。

おかしいですねえw
26出土地不明:2006/02/27(月) 20:33:22 ID:+an+v8lF
建築技術も全く伝わっていないようですねw


山東省の曲阜は中国の儒学の創立者、教育家・孔子の古里である。
曲阜の孔廊、孔府と孔林は「三孔」と呼ばれ、 中国の四大古代建築群の
一つである。 孔廊は歴代の孔子の祭祀行事を行う場所である。
紀元前478年に建立された、世界で最も大きい規模の建築群である。

http://www.asicom.co.jp/isan/012.html

紀元前478年に建立された、世界で最も大きい規模の建築群である。
紀元前478年に建立された、世界で最も大きい規模の建築群である。
紀元前478年に建立された、世界で最も大きい規模の建築群である。
紀元前478年に建立された、世界で最も大きい規模の建築群である。
27出土地不明:2006/02/28(火) 03:28:07 ID:cE06y74I
>>24
貴方の紹介した「ウィキペディア」にありましたので。
文字のような記号は紀元前600年までとも書いてありますね。

 弥生式土器は縄文式土器の延長線上にあり縄文式が母体となって
変化、発展した物ではありませんか。
 弥生式土器でもろくろを使っていない。縄文・弥生は硬質の赤焼き
土器で明確に区分できる物ではない。等の理由でそう思いますが、
「弥生時代の幕開けから新しい土器技術」とは何を指すのでしょうか?

 長江文明が次第に征服されていったら少しずつ征服者の文明に
置き換わるでしょう。しかし、だからと言って辺地へと追い出さ
れていく長江文明の人々が黄河文明の技術を手にしたとは言えま
せん。文明が衰退したからといって、そこの人々が絶滅したとも
言えませんしね。

>>26
 紀元前478年前後に山東から人が来たと言っているわけではないから
伝わってなくても問題ないですよね。
28出土地不明:2006/03/01(水) 21:51:39 ID:CECyidSP
弥生土器は朝鮮無文土器を元に生まれた土器。

縄文土器に比べて薄手で堅く、赤褐色を帯び、無地か、模様があっても
幾何学的な簡素なものがほとんどゆえ、縄文土器と明確に区分できるし、
形成もちゃんと轆轤に近いものが使用されている。

http://members.at.infoseek.co.jp/toujiki/jhis/yayoi.htm

黄河文明や商周の文化はシニーデが征服していない華南や内陸地南部にも
深く伝播しているよ。

それに中国はBC11Cの周の時代にはすでに日本の飛鳥時代ほどの高度な
建築技術を持っていた事が分かっているよ。

それらはまたいつか話すとしよう。
29出土地不明:2006/03/04(土) 15:01:13 ID:xrW8naFC
日本に車輪が伝わったのが7C頃。


>車輪が埋まっていた砂層内からは7世紀後半の土器片が出土していることから、
>類例の少ない現存する車輪の内でも最古級である可能性があります。

http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/bunkazai06.html
30出土地不明:2006/03/04(土) 15:05:55 ID:xrW8naFC
↓馬以前に車輪が弥生時代に伝わっていない事に気が付いていない馬鹿学者w



>筑波大学の桃崎祐輔先生の講演でも、馬の存在時期を最初に話題にされました。
>日本列島が縄文時代であった頃、春秋戦国時代の中国においては東中国海を挟んだ
>日本列島の対岸である山東半島には戦車をつけた状態で発掘される屠殺馬が多く
>みられることから、縄文人が馬を入手した可能性は否定できないとも話されました。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kibaminz.htm

31出土地不明:2006/03/08(水) 20:11:46 ID:0fFJIitH

山東半島東端の龍山時代の遺跡からコメが見つかっている事
から、この時期に遼東半島に山東半島経由で入っていた可能性があろう。

http://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/higasiajia.html

龍山文化前期に当たる山東省揚家圏の稲籾(2,440+-130B.C)も水稲として
鑑定され、遼東半島大連市の大嘴子遺跡から出土した炭化米も水稲である
可能性が高い。

http://inoues.net/study/japonica3.html

紀元前2000年ころ(?)とみられる種籾が、漢江の河口に面 する金浦(キムポ)
と一山(イルサン)で発見されました(注)。   

(注)韓炳三『NHK人間大学、韓国の古代文化』日本放送出版協会、1995

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=ffckdcbfma4oi4baqa4aba4imha4bfa4na4aba1a9&sid=1835396&mid=5344
32出土地不明:2006/03/08(水) 22:24:42 ID:0fFJIitH
 中国・朝鮮・日本の水田跡や出土した農耕具にみられる個性、共通性から
稲作伝播の様子を解明したのが愛媛大学の田崎博之教授でした。

 田崎教授は、中国・長江流域(馬家浜文化後期・紀元前約四〇〇〇年前)、
朝鮮半島(無文土器前期・紀元前七〇〇年前後)、日本(縄文晩期終末=
弥生早期・紀元前五〇〇年ころ)の水田跡の形、水利施設の有無、水田が
造られた地形、土壌などを比較しました。

 また、掘り棒やクワ(鍬)、スキ(鋤)などの農耕具の共通性と個性を検討。
弥生時代の農耕具の主役であるクワが、長江中・下流域にはなく、クワの系譜が
山東半島―朝鮮半島―九州であることを調べました。

 「農耕具の流れ・系譜からみて稲作伝播は北回りルートしか考えられません。
そうでないと、日本でのクワの成立はありえません」と同教授はいいます。

http://www.nouminren.ne.jp/dat/200205/2002050621.htm
33出土地不明:2006/03/11(土) 14:21:38 ID:QdYzkH4C
九州北部に水田技術を伝えた場所はどこか?

それは九州北部に農工具を伝えた場所でもある。

九州北部に農工具を伝えた場所。

それは朝鮮半島南部。


>弥生時代を開いた最初の渡来技術は水田稲作農耕でした。
>水田稲作をはじめて受け入れた北部九州のムラからは、朝鮮半島南部
>とそっくりの農工具が出土します。稲作技術はもとより、住居の構造
>やムラのあり方にも彼らの影響が見えます。

http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/data5.html
34出土地不明:2006/03/11(土) 16:39:18 ID:ftrvUQdO
>>32
稲作と最も関係するのは、石包丁であってクワではない。 田崎教授って在日?
北九州出土の石包丁のほぼ全てが半月形外彎刃で、この形式の石包丁は中国では主に長江
下流域で出土し、山東半島では出土しません。つまり、この形式は越や呉からの渡来人に
よってもたらされたと考えるべきです。例として吉野ケ里遺跡の石包丁を下に示しますが、
他の北九州遺跡からのものでも同じです。

吉野ケ里遺跡の石包丁・・殆どが「長江下流出土の石包丁」と同型の「半月形外彎刀」。
http://www3.ktplan.jp/~aki/3travel/saga/yoshinogari.html
35出土地不明:2006/03/11(土) 16:47:17 ID:QdYzkH4C
>山東半島では出土しません。



ほほう、で、そのソースは?w


36出土地不明:2006/03/11(土) 17:24:42 ID:QdYzkH4C
>越や呉からの渡来人によってもたらされた


大爆笑w

では何でそれ以外の弥生文化は当時の越や呉の文化じゃないの?w


37出土地不明:2006/03/12(日) 01:05:44 ID:VnC8yJRV
鍬無しでどうやって耕すのだろうw
それに弥生初期の石包丁は朝鮮半島にも類似形式がありますが何か。
38出土地不明:2006/03/12(日) 18:23:53 ID:5eVC/+ke
ハイ、時間切れ。

結局、半月形の石包丁が華北や山東半島で出ないなんていう
ソースや公表などは一切無い。

よって34の発言は全面的に却下。

弥生文化の農耕具の系譜は長江下流域から伝わったものではなく、
朝鮮半島から伝わったものと言えるだろう。
39出土地不明:2006/03/12(日) 19:05:09 ID:KrF6Fstx
ヒント:唐子・鍵遺跡
40出土地不明:2006/03/12(日) 22:52:09 ID:iZK/lGr6
>>38
悪魔の証明。無いことを証明する事はできない。
否定したかったら出土した事を証明しないといけない。
よって34の発言は復活。
やはり弥生系渡来人は長江下流から来たのだ。

>>37
鍬は縄文時代に石器の鍬がすでにある。
41出土地不明:2006/03/13(月) 02:19:31 ID:W0pj8GGD
縄文石器の鍬は畑作用か芋掘り用。
水田耕起用には不適切で、木器が使われる。それは日韓で一致。
あと弥生初期の石包丁ですが、韓国の無文土器前期に類似先行形式がありますが。山東もネットでなく本でよく調べたら。
あと大陸系磨製石器群って知ってますか?韓国にたくさんありますが。水田含む農耕文化に伴って伝播したのは確実ですが。
42出土地不明:2006/03/13(月) 23:17:21 ID:IQOWro7s BE:243734674-
中国が日本を併合!?
http://www.youtube.com/watch?v=Zk0lXnyVBYI
43出土地不明:2006/03/14(火) 19:14:09 ID:gBZrPmNv
>>40
証明できてるじゃないの。
公表が一切無い時点でアウトだよ。

ゆえにおまえの山東半島では出土しないという発言はただのウソ。

悔しければ何らかの証明をする事だな。

それまではおまえの発言など永久却下w


>やはり弥生系渡来人は長江下流から来たのだ。


石包丁だけ持ってか?

大爆笑だなwwww
44出土地不明:2006/03/16(木) 19:48:33 ID:jTnJycj/
【百済の歴史】

『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。

第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。
45出土地不明:2006/03/16(木) 21:04:15 ID:Iu0rLeZk
こいつ何とかしろ
46出土地不明:2006/03/17(金) 18:11:54 ID:kePkla8Y
>>44
文献的根拠または考古学的根拠あげてみろ。
というか無いよな根拠は。どこの史書にもそんなこと書かれてないし、倭と百済の直接的関係は360年頃以降だし。お前の脳内にはあるかもしれんがw
47出土地不明:2006/03/18(土) 09:25:35 ID:X/HeX8Oz
中国からの医療廃棄物が北部九州〜新潟辺りまでの日本海に流れ着いているの知ってる?
太古から南船は日本に来てたって事!
48出土地不明:2006/03/18(土) 12:59:50 ID:OSAa0EW4
百済の建国に帯方郡の影響はありうるが、3世紀のこと。
ただし帯方郡に対抗して馬韓北部の韓人が結集したもの。
倭との直接関係は文献上360年代以降、考古学的にも同様。
むしろ漢城百済の領域に入らない百済より南の馬韓諸国は3世紀頃から倭と通交。
西新遺跡など博多湾岸で大量の馬韓土器がより近い伽耶土器よりも出てくることが最近分かった。
49出土地不明:2006/03/18(土) 17:08:18 ID:eFeoA8Cn




「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸の言葉は伝わっていない」

http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/mousou.html



50出土地不明:2006/03/18(土) 17:20:09 ID:6AsSJ7Tv
★ 百済は日本人が建国した ★

『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。

第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。

百済を建国したのは日本人であり、そこに住んでいた民族も日本人=倭人であった。
朝鮮人は、半島北部に住んでいたワイ人であり、百済人ではないのだ。
朝鮮人=ワイ人と、百済人を混同してはならない。
51出土地不明:2006/03/18(土) 17:24:22 ID:eFeoA8Cn
>>50
頼むから、このスレを荒らすのだけはやめてくれないか?

お願いします。
52出土地不明:2006/03/18(土) 18:29:03 ID:P1Gkfzak
>>50
文献的根拠または考古学的根拠あげてみろ。
というか無いよな根拠は。どこの史書にもそんなこと書かれてないし、倭と百済の直接的関係は360年頃以降だし。お前の脳内にはあるかもしれんがw
百済の建国に帯方郡の影響はありうるが、3世紀のこと。
ただし帯方郡に対抗して馬韓北部の韓人が結集したもの。
倭との直接関係は文献上360年代以降、考古学的にも同様。
むしろ漢城百済の領域に入らない百済より南の馬韓諸国は3世紀頃から倭と通交。
西新遺跡など博多湾岸で大量の馬韓土器がより近い伽耶土器よりも出てくることが最近分かった。
53出土地不明:2006/03/18(土) 18:35:55 ID:eFeoA8Cn
>>52
おい、相手にすな馬鹿!
54出土地不明:2006/03/19(日) 17:37:18 ID:utvBuzA8




金関  縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと
考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm



55出土地不明:2006/03/22(水) 15:24:51 ID:g6QxQ+em
春秋時代末の中国で最も普及した武器は『弩』(ど、おおゆみ)なのだが、
やはりこれも弥生期の日本に伝わっていない。


>弩は弓の一種で、銃床のような矢を発射する台を取り付けた機械仕掛けの引き金を持ち、
>現代のボーガンに似た武器である。弓と比較して、貫通力・矢の速度・飛距離で上回る。
>一方矢をつがえるのに時間がかかり、速射に難点がある。野戦に不向きで、守備用の武器
>と言える。中国では戦国時代に出現し、辺境防備の武器として普及した。日本では推古朝
>に高句麗から献上されたと「日本書紀」にあるのが文献での初出である。

http://www.mahoron.fks.ed.jp/nenpou/nenpou2001_35.htm
56出土地不明:2006/03/25(土) 19:05:31 ID:/G2kMui3
瓦は約4000年前の中国で誕生し、周に入る頃には既に一般的な建材になって
いた事が分かっているが、日本には6Cになってからようやく百済から仏教と
共に伝来して飛鳥寺で初めて使用され、それ以来徐々に浸透していくのだが、
やはり弥生期の九州北部に中国から伝わるべきものが伝わっていない。


>瓦の歴史はきわめて古く、中国では紀元前2000頃にはすでに瓦が登場している。
>中国4000年の歴史とよく言われるが、瓦も4000年の歴史を持っている。中国語の
>瓦という字は、粘土を焼いたものの総称である。

http://www8.ocn.ne.jp/~kawarak/hana.html
57出土地不明:2006/03/26(日) 16:13:15 ID:8b6QQ0Zc
瓦の歴史はとても古く、メソポタミア、インドなどの諸説がありますが、
すでに紀元前2000年前の中国に瓦が存在していたと言われています。

http://www2.odn.ne.jp/sugimotokawara/KAWARA2.htm
58出土地不明:2006/03/26(日) 21:15:36 ID:W2TXyueX
灰釉陶の伝播ねぇ…

何でシナ後漢時代には既に青磁が焼かれるようになっていたのに
朝鮮半島で青磁が焼かれるようになるのは高麗時代になってからなのかねぇ…
日本ではさらに下って江戸初期なのかのねぇ…

7世紀以上も青磁は伝わらずにシナ北宋時代に急に朝鮮半島に伝わったのかねぇ…

文化の伝わり方って不思議だねぇ…



そうそう、
二世紀後半の伊勢遺跡では「せん」と焼土床を使用しているとされているんだが、
これは朝鮮半島の楽浪郡でも見られるらしいが、
どうして漢代の灰陶の流れを汲む土器の技術が古代日本に伝わっていないのに、
「せん」は古代日本に伝わっているのかねぇ…

文化の伝わり方って不思議だねぇ…
59出土地不明:2006/03/26(日) 23:11:40 ID:wv5g1pz/
>>58
いらんものは、伝わっても、利用されない、ってことじゃないか?
日本に農耕が伝わったときに、水田の作り方から灌漑の方法、そのほか
がきちんとつたわっていて、さらに住居の作り方もかなりつたわっている
のに、土器が伝わっていないのは、日本の縄文土器で十分やっていけたから
だろうな。で、その後、縄文土器のいらん飾りの部分はとりさって弥生土器
になったとかそういう程度のことだろう。
鉄器なんざ、製鉄がはっきりしないうちから、じゃんじゃん利用されている
わけだから、利用価値があれば、必死でなんとかするってことだ。
鉄砲の伝来なんかもすごいよな。信長が5000丁の鉄砲つくって鉄砲隊
を組織したときに、こんなのは世界のどこにもない大規模軍団だったわけ
だが。

弥生時代の始まりを考えるときに、すでに、文化的取捨選択がおこなわれて
いて、いらないものは、導入されず、伝統的なものを利用しているってこと
なら、それこそ、弥生初期に、大量の民族移動があったということを否定する
材料になるだろう。
で、弥生時代がある程度始まった段階で、縄文文化の伝統をもちつつも稲作
が定着すると、大陸や半島の稲作民も、「似たレベルの文化をもった地域」
として、日本に、とくに文化を持ち込まずとも、十分日本で住めるように
なる。それが、現在いくつか発見されている、渡来系と縄文系の混在した
集落なんじゃないか。そうして、交流が盛んになれば、当然渡来系だけの
集落もときにはできるが、かれらも、必要な文化はその段階では日本の内部
のもので十分だったから、なにも、中国の土器やらを持ち込む必要もなかった
ということだ。
60出土地不明:2006/03/27(月) 21:18:04 ID:jlTYtICn
灰釉陶は原始青磁と呼ばれている。
もともと青磁の原型である。原始磁器とも原始瓷器とも言う。
灰釉陶の次に緑釉陶などの鉛釉陶。その次に青磁になる。
総称して施釉陶とか単に釉陶とも言う。

楽浪郡は中国系が直接入植したので施釉陶も灰陶もしっかりと
伝わっているが、半島を通して間接的に日本に帰化した中国系半島人
の秦氏は施釉陶こそ日本に伝える事はできなかったが、灰陶はしっかり
と伝えてくれて須恵器を残している。

確かに人の渡来が無くても文化や技術は緩やかな速度で遠方まで
伝わっていく。

もちろん中には長旅の途中でで変化を受けたり、改良されたり、
淘汰されて消滅してしまう文化や技術も出てくるだろう。

しかし、人の渡来があれば文化や技術は確実に伝わる。

それを秦氏は教えてくれている。

ところが弥生時代の日本に当時の中国の主流文化は何も伝わっていない。
61出土地不明:2006/03/27(月) 23:19:30 ID:T5bF8wdx
>>60
稲作が伝わったんでは?
62出土地不明:2006/03/27(月) 23:26:20 ID:jlTYtICn
すでに6500年以前からあるが。
63出土地不明:2006/03/28(火) 19:17:48 ID:FsjcMv+y
>>62
縄文時代の陸稲の稲作と縄文晩期から弥生時代の水稲の稲作はまったく別のものでしょ。
64出土地不明:2006/03/28(火) 19:37:47 ID:FsjcMv+y
>>60
おかしいな。
「人の渡来があれば文化や技術は確実に伝わる」のだから、
施釉陶も「確実に」伝わっているはず。

なぜ伝わっていないかの考察を抜きにしてしまうと、
秦氏は何一つ教えてくれないと思うが。

>もちろん中には長旅の途中でで変化を受けたり、改良されたり、
>淘汰されて消滅してしまう文化や技術も出てくるだろう。
当然この文章ではなんら免罪符にはならない。



ところで、
>ところが弥生時代の日本に当時の中国の主流文化は何も伝わっていない。
ここで言う「中国」って何?

現在の中華人民共和国の領域でも満州地方は含まれるし、
何より前漢時代であれば当然楽浪郡まで領域に含まれるので、
>>1で書かれている
>当時の朝鮮から満州にかけて
というのは「中国」に他ならないのでは?
65出土地不明:2006/03/29(水) 13:45:51 ID:hhWBihw3
江南説にしろ華北説にしろ、弥生人が本当に中国から来たのなら、

>何で当時の中国の主流だった灰釉陶や印文硬陶が伝わってないのかね?
蛇頭に騙されて日本語学校に留学する表向きで不法就労の中国人だったんじゃないの。
伝わるも何も無いし。

>最低でも何で粗悪な灰陶くらい伝わっていないのかね?
不法就労で技術も無かったから、埴輪を創る技術が限度だったんじゃないの。

>何で漢字の前身である金石文も伝わっていないのかね?
>何で青銅貨などの金属貨幣くらい伝わっていないのかね?
金属作る道具を持参できなかったんですな蛇頭に日本渡航費用で質に取られたから持ってない。

>何で木製車輪のような便利な良いものが伝わっていないのかね?
船に積めなかったんじゃないの積載制限で。

>何で当時の中国で主流だった土とん墓が主流にならないのかね?
死ぬのに拘らなかったんですよ。墓苑利権とか考えず、中国を離れたいばっかりに。

>何で弥生文化は紅陶文化と支石墓文化なのかね?
不法就労中国人が故郷を思い出して見よう見まねで作ったんじゃないの。

>これらは当時の朝鮮から満州にかけての文化ですよ。
朝鮮の楽浪郡で原住民に拿捕され、満州に捕虜にされ、
中国人といっても女真族に拉致られた、徽宗皇帝や秦会なみの中国人だったんですな。
66出土地不明:2006/03/29(水) 13:49:59 ID:hhWBihw3
歴史の後知恵で、歴史の先の前の歴史の作り話。盗んで捏造して後知恵に改ざん。

________箕子朝鮮で中国で殷のチュウ王を叱る偉い人が先祖(四書五経 殷から周へ)
__________朝鮮侯衛満で燕人が女真だし満州だし野蛮(地理 燕地−韓条)
高句麗____故真蕃朝鮮胡国_扶余・・・・・玄菟郡高句麗県(丸都城)
_↓_________↓___↓
高麗_辰韓斯盧国___↓___馬韓伯済国・・楽浪郡朝鮮県(平壌城)・馬韓古蒲国(光州)
_↓__↓______↓___↓
_↓_馬韓月支国辰王−韓王準_↓・・・・・・楽浪郡楽都県(楽奴国)
_↓__↓______↓___任那(伽耶)・弁楽奴国(羅州)・・・・任那巨文県(光州)
_↓_加羅国−韓−辰_↓___↓
_↓__↓______↓___↓
_↓_新羅城は新羅王_↓___百済国・・・(下の羅州・くだる羅・久多良・くだら)
_↓_________↓___↓
高麗藩_金国女真___↓___扶余(吉林平原の原住民[平野の女真])
_↓_________↓___↓
高麗国________↓___↓
高麗王を李成桂は名乗る李氏朝鮮国
_↓_____________↓_騎馬民族は扶余で百済で朝鮮で馬韓で満州領有は正しい
_______________大韓帝国
(扶余は満州で中国で日本で、この全部の上に立つ熊だ。熊は檀君で地球市民的に言って一番偉大)
67出土地不明:2006/03/29(水) 13:52:35 ID:hhWBihw3
>弁辰24国の国名列挙に『弁辰狗邪国』と書いたものを『狗邪韓国』と書き換えたのです。

説明だと本来は『弁倭狗邪国』書くべき・・・馬韓東界に・・・弁と倭人が住み・・・東浜に辰国・・・
国名の紹介では『弁辰狗邪国』とある・・・弁辰涜盧国・弁楽奴国・弁馬延国・・
もし弁韓ならば『弁韓狗邪国』と国名列挙し・・・馬韓(慕韓)・弁韓(任那)・辰韓(秦韓)
なぜか倭条には『狗邪韓国』が朝貢経路の国名・・・・加羅国・任那・新羅城

楽浪郡設置時代に、倭人と弁が住む。→辰国と弁が住むと改ざん、弁辰。
任那が、倭王が任(ニム・長老)。→辰王が弁辰を治める。辰韓。
韓の臣智が楽浪郡太守劉茂の挙兵で滅ぼされる。→加羅国王の荷知(韓国王の日)が滅ぶ。
任那は新羅城に、高句麗も百済も唐の前に滅ぶ→新羅は昔の辰国で辰王で韓王準で朝鮮侯衛と明や清に説明。
しまいには
箕子朝鮮が李氏朝鮮で、殷周交代の殷のチュウ王を叱った箕子という人物が先祖の中国人で
衛氏朝鮮の燕人(北京人)の衛満が先祖の満州人の夷荻と違う。と
明国(中国人王朝)が滅んだ後の 清国時代(満州時代)の李朝書籍で書き広める。
68出土地不明:2006/03/29(水) 13:53:21 ID:hhWBihw3
蒙古が平壌以北を占領支配、東側(日本海側)を東女真の東真国と称した。
泰封国: ケソン周辺(新羅国−漢山州−泰村)
摩震国: ソウル〜鉄原〜忠州〜秋風岑・竹岑・鳥岑(漢江の流域・帯方郡)
斉国: 江華島〜公州(忠清道の大田)〜羅州(楽浪郡楽都県・弁人の楽奴国)
元寇の船の発信地の木浦(モッポ)−順天(李朝の先祖)−巨斉島(晋州の鄭氏が流刑者の見張り)

高麗時代に新羅国新羅城(慶州)の地域(東海岸)の支配を聞かない。

斉国は江華島のチェ氏(催氏)やイム氏(林氏)
多島海の南海岸はイ氏(李氏)
巨済島からプサンの湾岸が晋州のチョン氏(鄭氏→全州[チョンじゅ]は
                 晋州の官奴の支配、鄭氏の官吏の奴婢が支配)

安禄山の慶州
契丹族(遼国)が占領
後高句麗(泰封国)の弓裔(泰村王)が新羅から独立
高麗(摩震国)の王建が高麗王国建国
江華島(かんファど)〜珍島(ちんド)まで、三別抄が蒙古と戦う(斉国)
木浦(モッポ)で元寇の船を造船−−−
−−−−−−−−−李氏朝鮮の先祖(李舜臣も朝鮮出兵軍と戦って、この周辺の人)
−−−−−−−−−−−−高麗王を流刑の巨済島[こジェど]を見張る晋州の鄭氏

つまり。高麗は済州島を支配していない。高麗王を僻地に監禁だが、
洛東江の東側は女真族の領土だったので、流刑に出来なかったのではないか?
女真族の刀伊の日本侵攻(刀伊の入寇)が説明できない。

高麗は東海岸を知らないし、支配していない。日本海は、高麗海と呼べない。

マテオリッチの地図の
太平洋である「小東洋」を「オリエンタル海」ってしたんだろうね。
日本列島を考慮してないじゃん。
69出土地不明:2006/03/29(水) 13:54:33 ID:hhWBihw3
『狼』林山脈(平壌)
弁『楽』奴国(羅州)
 ↓
『楽浪』郡・楽都県(羅州)が郡庁舎(洛都)。

北朝鮮(狼林)
韓国(楽奴)
 ↓
楽浪郡公−新羅王と王様の金真平が唐国に名乗った。
金は『女真族』(女直族・『満州族』)
真は『真蕃』朝鮮胡国で『渤海族』(高句麗)
平は『平州』で熱河〜遼東『奚族』(玄宗皇帝に楊貴妃の時の節度使−安禄山)
 万里の長城手前の「北京周辺(燕地)」の節度使(安禄山[奚族慶州人])は、
 突厥族(蒙古族)や契丹族(遼国)に対応。

女真は、燕人衛満で胡族の朝鮮
朝鮮は、箕子朝鮮で中国人の朝鮮と、中国以外の外国に騙しで説明。
朝鮮は、蒙古や契丹(カラキタイ・西遼)と戦った
タタールのクビキにかかってない と威張った。

突厥−−−−−−−鉄嶺−−−−−扶余族−女真族(渤海郡−マッカツ黒水部)
奚族慶州−契丹−遼河−高句麗(高麗)−渤海族(マッカツ)
熱河___渤海湾__遼東_平壌(狼林)−山(東丹国)
北京__________泰封国−山(東真国)
斉−山東_高麗海___摩震国(高麗藩・楽奴)−太白山(女真族の刀伊が船で日本侵略)
_____黄海______斉国(斉藩・三別抄)−新羅(辰国)→→ ×コレア海(高麗海)○チン海(辰海)
大明海(東シナ海)
70出土地不明:2006/03/29(水) 13:56:42 ID:hhWBihw3
前漢−武帝−天子−劉一族
 (淮=ワイ=[シ歳]=いにしえの辰の邑(古辰国)・
  貊=バク=今は亡き本当に野蛮な朝鮮異民族の邑(故真蕃朝鮮胡国)を滅ぼし
  玄菟郡高句驪県・楽浪郡朝鮮県・楽浪郡帯方県・楽浪郡楽都県などの郡県設置)
西晋−楽浪郡太守−劉茂
 (三国志−魏書−鮮卑烏桓東夷伝−韓条
  楽浪郡遂城県〜楽浪郡海冥県[続漢書(後漢書)]・帯方郡新南県[晋書]
  楽浪郡屯有県の崎離営を攻めた、韓王(加羅王)を僭称する
  韓侯の臣智[辰国(臣国=辰韓)荷知(日=智という韓国王)]を滅ぼす)
六朝−南朝−宋国−劉裕が太祖の国
 (楽浪郡亡命漢人−王仁?の上奏文により
  倭の武王[継体天皇?応神天皇?]を倭国の王に冊封し
  都督・六国諸軍事−安東将軍(海北95国[任那]将軍)に除目)
李唐−楽浪郡遠征−劉将軍(新羅討伐遠征し、新羅城を包囲中に背後の旧百済に倭軍上陸)
 (遠征軍主力は高句麗を滅ぼす。分遣隊の蘇将軍は百済を滅ぼす。)
  劉: 大きい鎌(鎌田)
  鎌: 小さい鎌
藤原鎌足(楽浪郡フジ県−鉄原→藤原・鎌より大きい劉の足下に→鎌足
  白村江で降伏し赦され帰国)
中大兄皇子(那下の大江、楽浪郡楽都県=弁楽奴国(弁辰地域の倭人[辰]が
  混在しない弁人だけ国)=那国=羅州
  羅州の下向(那下)=下羅(くだラ[久多良])=百済・百済の大江=白村江)
下羅=くだラ・あるしラ・洛[楽]で都(奴[那・な・羅(羅州:ナじゅ)]=弁人)
  みまな[任那]おこし[上]タリあがた[多利県] 起きる=あがる[上がる]
  みまな[任那]あるし[下]タリあがた[多利県] 外へ或る=さががる[下がる]
白村江(錦江・帯水[アリ水・漢江])の
  熊津(くまなり・熊=狛=駒の国にある、川の港町[津])=公州=大田(てジョン)[ある歴史書]

鴨緑江→バイ水([シ貝]水)?・馬紫水(バシ水)○
大同江→列水?・バイ水([シ貝]水)?
??→列水?・悪滅山脈のムン山([シ文]山)から流れる長口鎮の手前に河口の川
漢江→帯水?・アリ水(阿利水)○
錦江→白村江○・帯水?
71出土地不明:2006/03/29(水) 13:58:15 ID:hhWBihw3
★鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府
天皇__−将軍−家老
姓名なし−公家−北条一族(執権・連書など: 金沢(元寇国書外交)・赤橋(足利の妻)ほか)
姓名なし−足利−細川・山名・斯波・一色・佐々木(京極)・→南朝:名和・赤松・楠・北畠
姓名なし−徳川−水野・田沼・酒井・久世・保科・柳沢・松平ほか

★崔幕府・斉藩(江華島)
高麗王_−将軍−家老
姓名なし−崔_−林(崔の重臣)・鄭(晋州・全州[晋州官奴])・李(潭陽・光州)・
_____崔_−今(慶尚東北部)・奴(忠州)・亡(公州・熊津)
崔瑩(チェりる: 巫檀[ムーダン]の恨[ハン・すすり泣く負け惜しみ]・オオギ[噛み付く負け惜しみ])
林慶業(イムぎょんオプ: 巫檀・恨・オオギ)
大田(晋州官奴・公州・熊津[くまなり・白村江の戦い]・ワイ侯フジ)

★亡命渤海の王(東丹国前期 926−993・摩震−東丹国・泰村−泰封国・後高句麗国[弓裔・王建は部下])
王建(太祖 918−943 渤海人・東契丹人[東丹人]の棟梁・所領は新羅国漢山州長口鎮[シ文]以南)
★契丹の家臣(東丹国・独立国でない)
王?(成宗 981−997 王旭の子 東丹国後期[993−1018])
★金国の家臣(金国高麗藩・独立国でない 1019 刀伊の入寇)
王?(顕宗 1009−1031 王郁の子 1019 金国に降伏)
王?(睿宗 1105−1122)
王?(仁宗 1122−1146 1126 金国に完全に降伏し藩(属国)になる)
王?(毅宗 1146−1170 鄭仲夫・李義方・チェちゅんホンの斉幕府1170 毅宗を島流しは巨済島[釜山沖])
★金国の家臣(金国高麗藩・斉藩[崔幕府]・独立国でない)
王弟(高宗 1213−1259 1225 チェう分国−斉国の崔幕府[江華島が都邑])
      1258(「チェう」でない)チェうい暗殺(斉国[斉藩−崔幕府の滅亡])
★蒙古の家臣(元国高麗地方・独立国でない)
王世(元宗 1259−1274 1273 崔幕府滅亡(江華島→珍島→三別抄・済州島玉砕)
王椹(王世の子・忠烈王[斉国大長公主(蒙古姫)の夫] 1274−1308)
王?(恭譲王 1389−1392 チェりる73歳・イそんゲ[李桂成・李氏朝鮮太祖]に処刑される)
72出土地不明:2006/03/29(水) 13:58:59 ID:hhWBihw3
中国歴史書の現状情報と過去記録の内容の
ズレ(漢以前→後漢や三国や西晋の時に記載・隋→唐や宋や元の時に記載)

漢以前(漢):淮(倭[シ歳])・貊(弁)
漢武帝(魏):楽浪郡朝鮮県・楽浪郡帯方県・楽浪郡楽都県・玄菟郡高句麗県
三国志(晋):馬韓(月支国)・倭・弁・楽浪郡(楽浪/帯方[遼東−公孫氏])・『辰韓(辰国)』・高句麗
北朝秦(唐):伯済国・倭奴国・狗邪国・楽奴国/伴跛国・楽浪郡・『斯盧国(盧韓[婁寒(桓逃亡地)])』・高句麗(高麗)
南朝宋(梁):加羅国・任那(倭・海北95国)・『新羅城』・高句麗
梁武帝(唐):百済国・任那(倭)・『健牟羅城(慕秦[慕韓・秦韓・秦之空地])』・高句麗
隋文帝(宋):加羅任那諸國樂浪郡公新羅王『金眞平[金国・真蕃朝鮮胡国・平州(燕地)]』

淮南の「宋の時代」には
淮北の金国のジュルチン(女真)族に「高麗」王が『金国の藩』と申し出たから。
・・・高麗王、藩と・・・『金史』

遼(契丹主) ← 東丹国(渤海人が高麗に大量移住)
女真(金主)・蒙古(元主) ← 高麗藩(倭人は淮南と組んでいる淮[ワイ]なんです。
燕王が明主(倭寇時も国外渡航禁止・唐太宗と同策)やっつけましょう。←世子(坩)忠烈王の以降にも)
 ↓ 『防海令』
水滸伝・岳飛−関帝の宋国(淮南) ← 日本は淮・日宋貿易(天台山五大寺・禅宗・味噌・喫茶)
唐太宗と同策: 西遊記の時代設定(国禁をおかし海外へ仏教を[倭人は海外から仏教を中国へ])
明の風俗が絵柄: 三国志演義(関帝の京劇場面・万暦普及版の挿絵)

文字の獄
 北魏−○○(漢化政策と反動の鮮卑族に対する記述の文字の獄)
 明太祖−朱元璋(出生・宗教関係の文字の獄)
 清高宗−雍正帝−愛親覚羅○○(東夷・女真・女直・朝鮮・朝貢関係の文字の獄)

論語 雍也第六 雍也南面(雍や南面せしむべしと[雍は君主にしても良い器カモ?と
      孔子様はいった]・家臣は北面するは礼なり[朝鮮の北面は満洲(清国)])
論語 述而第七 奚ゾ曰ハザル(なんゾいハザル)
73出土地不明:2006/03/29(水) 14:00:21 ID:hhWBihw3
>ナラ−国(グック)と呼べるマウルが一面に広がっている一つ行政区(方面)
> 馬韓伯済国のような広さの地域・
>  現在の安楽面から霊光郡ほどの大きさの地域
>酋長として地元有力者の長老(任[ニム])がいて
> ナラニムならぬナリニム(旦那・主人)として君臨する。

ニム[任(長老)]
てガ[大家(オヤジ・おカミ)]

礼儀(礼学)・忠孝(孝経)→上下関係の朝鮮独特の儒教
血筋血縁の繋がり(族譜[家系図]・譜学)・
風水土葬(門中(一族)の自然地形墳墓)→ 地縁血縁による朝鮮独特の儒教

中国の宦官や畜妾制度がない。
 畜生制度: 正夫人は女達の主人と乳母に実子を育てさせる。
      第一夫人から第3夫人まで旦那だけの下半身の世話をする。
      妾(第一夫人以下[2号さん以下・内縁の妻達])は
      衣食住は保障されるが、正夫人(本妻・正妻)の召使である。
 宦官制度: 後宮で子孫つくりを任せられ
      地方や朝貢の外国に皇帝の代理人として監視に外出する。
      皇帝だけ子孫を後宮で作るために、お手つきないよう
      いわゆる玉無しである。玉は無いがサオはある。
後宮の女性を、皇帝がイキやすい女性を開発し指導する。
(いわゆる、房中術・カーマすーとら)

試し腹:
(家族・親戚・近所で若い男が女が妊娠できるか皆でセックルする。
 一族の男の性処理(下半身の世話)に不満とか問題が無い。
 妊娠できない女は、女としての価値が無い。
 生まれた子は庶子(私生児)なので
 土地の召使・奴婢にして扱き使い早く死なせるか
 西遊記の人参果のような
 木に吊るされた干し肉赤ん坊食い(人肉食い)となる。
 結婚で出来た子は実子で男の子は家継ぎとして育てる。)
74出土地不明:2006/03/29(水) 14:02:38 ID:hhWBihw3
(三国志−魏書−鮮卑烏丸東夷伝−韓条)
公孫氏_−前漢__−朝鮮胡国−扶余 ※今はなき真蕃な朝鮮胡国[続漢書・三国志・晋書]
前漢__−前漢__−貊___−邑婁(句麗胡・下句麗・楽浪郡朝鮮県王倹城[平壌城])
前漢__−貊___−貊___−沃阻
前漢__−淮___−淮___−淮(穢)
馬韓辰王−前漢__−淮侯不而−淮
馬韓__−馬韓東界−前漢__−前漢(辰韓8ヶ国を後漢に編入[魏書])
馬韓__−馬韓東界−前漢__−大海見える東浜(いにしえの辰国・辰韓斯廬国[魏書])
馬韓__−馬韓東界−馬韓東界−馬韓東界(馬韓語通じない鬼神祀る大柄の弁人の弁辰)
____−____−楽浪の南海中に倭人の島(続漢書[後漢書])

樂浪郡襄平縣−玄菟郡高顯縣−玄菟郡上殷台縣〜下殷(扶余・延邊[間嶋])
樂浪郡西安平縣−_貊族__−玄菟郡高句驪縣−邑婁(粛慎・沿海洲)
樂浪郡朝鮮縣−__貊族__−玄菟郡西蓋馬縣−玄菟亭(沃阻・咸鏡道)
帶方郡列口縣−帶方郡含資縣−_淮侯不而_−樂浪郡東施縣(臨屯郡)
帶方郡長岑縣−樂浪郡帶方縣−樂浪郡不而縣−なし(未踏地)[羅州−大邱−古寧[咸昌〜安東]]
樂浪郡シ文縣−樂浪郡樂都縣−帶方郡提奚縣−樂浪郡渾彌縣[弁樂奴國-辰韓冉奚國-辰韓軍彌國]
馬韓伯濟國_−馬韓古蒲國_−馬韓伴跛國_−樂浪郡屯有縣(加羅任那の新羅城[辰韓斯廬國])
帶方郡南新縣−馬韓大石索國−帶方郡海冥縣−樂浪郡遂城縣(崎離營)
(眞蕃郡)_−______−(弁辰狗邪國[狗邪韓国]−金官国[金海])
______−______−倭の對馬國
______−倭の末盧國
______−______−倭伊都國(淮奴国?・倭奴国?→楽浪郡楽都県・弁楽奴国)
______−倭の邪馬壹國
75出土地不明:2006/03/29(水) 14:03:16 ID:hhWBihw3
(秦〜前漢〜新〜後漢〜三国志〜西晋王朝の時代)
王氏_−高氏_−貊__−貊(扶余)
韓氏_−貊__−貊__−貊(邑婁) ※朝鮮侯衛(高句麗・高氏)
貊__−貊__−貊__−貊(沃阻)
貊__−淮__−淮__−淮(穢)
貊__−淮__−淮__−淮
貊__−貊__−淮__−淮
貊__−貊__−貊__−淮(いにしえの辰国・韓王準[韓王淮[魏書]]・韓氏)
貊__−貊__−貊淮_−貊淮(弁辰)
(加羅=貊=弁)−淮(倭・小柄で文身[入れ墨]の倭人は大柄の弁人と半島では雑居混在)
楽浪郡の漢人の韓氏 ※朝鮮侯衛(韓王準[魏書]→韓国王日[加羅国王荷知・南斉書])

(前漢武帝〜三国志の劉玄徳−遼東の公孫氏)『三国志−魏書−東夷伝−朝鮮条』
公孫氏−前漢_−貊__−扶余
前漢_−前漢−朝鮮胡国−邑婁 ※前漢と後漢の間の新の王莽の時に故真蕃朝鮮胡国という
前漢_−貊__−貊__−沃阻  朝鮮胡国は、下句麗と呼び、高句麗の事。
前漢_−淮__−淮__−淮
韓王準−前漢_−淮不而−淮(穢)
韓__−弁__−前漢_−前漢(辰韓8ヶ国を中華に編入)
弁__−弁__−前漢_−辰国(斯廬国)
弁__−弁倭_−弁倭_−弁(韓の反乱対応に漢王朝が楽浪半島に崎離営や屯有県を設置)
___−___(弁辰狗邪国(弁倭狗邪国)・狗邪韓国(狗邪倭国))

弁楽奴国(・楽浪郡楽都県・貊・弁[大柄]の羅の奴国[現在−羅州?])
倭奴国(淮奴国・倭伊都国・淮・辰[小柄]で倭の奴国[現在は遷都先の−奈良?])

淮=[シ歳]=穢=読みワイ
76出土地不明:2006/03/29(水) 14:05:10 ID:hhWBihw3
漢書以前:[シ歳]族([シ歳]侯不而・馬韓月支国の辰王が弁辰を治める・秦之空地)
____:貊族(扶余・僭称の韓王淮[準]は朝鮮侯・桓逃亡地)

前漢武帝:漢時樂浪郡之地(楽浪郡不而県[南漢山?]・楽浪郡屯有県[慶州?]など)

三国志魏:魏時新盧國(辰韓斯盧國・秦韓斯盧國)
前秦符堅:秦時に王の樓寒(盧韓)が[シ歳]王不而を改易した旨を伝え朝貢して来た
六朝宋国:宋時曰新羅(加羅任那にある新羅城)
梁武帝_:梁時の普通二年に王姓慕名秦で城曰「健牟羅」(慕韓・秦韓・ちんむら城[新羅城?金村城?])
隋文帝_:隋時に王姓金名眞平(金真平[ちんチンぴん]と言う名の王・金城[ちん城・健牟羅城])
____:朝貢の際に「樂浪郡公、新羅王」と名乗る「加羅任那諸國」を滅ぼし領土世襲

玄菟郡、武帝元封四年開。
高句驪[縣]、莽曰下句驪。屬幽州。【應劭曰:「故眞番、朝鮮胡國。」】
戸四萬五千六、口二十二萬一千八百四十五。
縣三:
高句驪[縣]。遼山、遼水所出、西南至遼隊入大遼水。又有南蘇水。
       西北經塞外。【應劭曰:「故句驪胡。」】
       遼山、遼水出。【山海經曰:「遼水出白平東。」
       郭璞曰:「出塞外衛白平山。遼山、小遼水所出。」】
西蓋馬[縣]・上殷台[縣]

樂浪郡、武帝元封三年開。
莽曰樂鮮。屬幽州。【應劭曰:「故朝鮮國也。」師古曰:「樂音洛。浪音狼。」】
戸六萬二千八百一十二、口四十萬六千七百四十八。有雲seu[扁章旁右郊]。
縣二十五:
朝鮮[縣]【應劭曰:「武王封箕子於朝鮮。」】【周封箕子地。】
列口[縣]・増地[縣]・含資[縣]・
帯方[縣]・不而[縣]・渾彌[縣]・泗望[縣]・海冥[縣]・東施[縣]・
楽都[縣]・長岑[縣]・遂城[縣]・屯有[縣]・・・ect。

77出土地不明:2006/03/29(水) 14:06:51 ID:hhWBihw3
寺院建築が鮮卑族の北魏の雲崗石窟のように石造りの建築: 新羅

庶民や有力者が土盛りに横穴の洞(ドン)の住居: 高麗
(契丹に押され渤海人が大量移住し、女真族や蒙古族に荒らされ
 山間で採集し隠れて暮らす。桑や根類を食べ 攻め込んで来た侵略者に
 焼き払われない雑草に見える焼畑の粟や高粱などを食べる)
セ+マウル(新しい村)運動で、洞(ドン)の住居を日本式民家に高度経済成長。

明朝(中国)軍の救援で中国式の城壁や建物を中国人が建設: 李氏朝鮮
(攻め込んで来た日本人の倭城の石垣・
 駐屯で日本人大工が日本式の屋敷建築が敵産で使用)

マウル−洞(どん)の集落(邑・ムラ)
 桑田や焼畑の土地を測る縦横の長さの単位がマル(畷・条・間)。邑はマウル。
 ↓
ナラ−国(グック)と呼べるマウルが一面に広がっている一つ行政区(方面)
 馬韓伯済国のような広さの地域・
  現在の安楽面から霊光郡ほどの大きさの地域
酋長として地元有力者の長老(任[ニム])がいて
 ナラニムならぬナリニム(旦那・主人)として君臨する。

ニム(長老)なりニム(閣下)
なうりニム(旦那)とーりゃんニム(お坊ちゃん)あっしニム(お嬢様)
ひょんニム(兄上)そんせんニム(先生任・先生様)

ソウルに 明洞(みょんドン)
ソウルに 三田洞(さんじょんドン)
 → 清王朝に攻め込まれ満洲八旗に降伏した三田渡(さんじょんド)が本来地名

明史 列伝
雲南土司三 緬旬(ビルマ・旬の日は田)・二宣慰司 干崖・宣撫 路江(路はサンズイ付き)
      南旬(旬の日は田・ミャンマー?)・二宣慰司 亡市者(亡は草冠付き)
      ・・・
      瓦旬(旬の日は田・カレン族?)促瓦 散金 木邦・孟密安撫司附 孟養 車里 
      ・・・
外国一 朝鮮
外国二 安南(北ベトナム)
外国三 日本
外国四 琉球(沖縄) 呂宋(ルソン島・フィリピン) ・・・
78出土地不明:2006/03/29(水) 14:23:22 ID:hhWBihw3
高麗(12州でなる国、いや12城下と山間ゲリラ農村)は国が無い。
じゃあドウなんだ。
 ↓
ワイ(辰)+バク(弁)
楽浪郡+玄菟郡
任那(馬韓50余国[加羅国も]・弁辰24国・辰韓24国[新羅城も])+高麗(高句麗)
新羅国+渤海国
泰封国+渤海人の民族大移動(ソウルから漢江流域)
摩震国+東丹国(渤海国+女真+契丹)
高麗藩*斉藩+女真族の民族大移動(太白山脈から洛東江地域)
斉国+東真国(渤海国+女真)
高麗国(斉国の李成桂が高麗王を名乗り蒙古派の新羅族に対し反乱する[斥元派]。)
朝鮮国(李成桂が初代で第三代の太宗の時に明国から朝鮮国王に冊封される。
大韓帝国
朝鮮総督府
アメリカ軍政庁+ソビエト朝鮮共産党北4道分局
大韓民国+朝鮮民主主義人民共和国
79出土地不明:2006/03/29(水) 14:27:53 ID:hhWBihw3
80出土地不明:2006/03/29(水) 14:32:27 ID:hhWBihw3
中国: 羅禅(ロシア・羅國)美国(アメリカ)・法国(フランス)・徳国(ドイツ)
日本: 赤蝦夷(露西亜・ロシア・露国)・米国・仏国・独国

朝鮮・韓国は独自表記など無い。
中国側に合わせず日本語表記に準拠で、血迷って
漢字表記を公文書で廃止しハングルとした。

フランス酒を、法酒とも仏酒とも書き記すかはハングルでは区別はつかない。

樂浪郡朝鮮縣は前漢武帝の元封三年に開きたり。
新王朝の王莽に曰く樂鮮とぞ呼びけり。(楽都県[韓国]と朝鮮県[北朝鮮]で楽鮮[楽浪])
屬するは幽州たり。【後世の注釈書たる應劭に曰く:
「故(いにしえの)朝鮮國なる也(や)。」
師(師匠・学者の)古曰く(今は無き説に):
「樂(らく)の音は洛(みやこ・都)なり。浪(ろう)の音は狼(おおかみ)なり。」】
樂浪郡は縣が二十五ある。
後世の注釈によらば、朝鮮は【應劭曰:「武王封箕子於朝鮮。」】【周封箕子地。】

羅尉任?(ナうりニム・旦那さま・国の頭?・閣下)
棟梁任?(トーりゃんニム・お坊ちゃん)
阿親任?(アッしニム・お嬢さま・内親王は姫?)
斌任?(ひょんニム・兄上・お兄さま・文武の先輩?)

大家(たーチィア[北京語]
   テが[朝鮮語・中国語と意味は違う使われ方])
宦官が皇帝を呼ぶ時に使う言葉、オヤジ殿ほどの語感。
81出土地不明:2006/03/29(水) 22:28:38 ID:I85cDnVp
>>64
まずはこれをよく読めよ。



金関  縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと
考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm



82出土地不明:2006/03/29(水) 23:19:42 ID:I85cDnVp
>>64
楽浪郡は中国系が直接入植したので施釉陶も灰陶もしっかりと
伝わっているが、半島を通して間接的に日本に帰化した中国系半島人
の秦氏は施釉陶こそ日本に伝える事はできなかったが、灰陶はしっかり
と伝えてくれて須恵器を残していると私は書いた。

秦氏は中国からの直接渡来ではなく、朝鮮半島に何世紀も留まった末での
間接渡来であったために技術伝達力にも限界があったと思われる。

直接渡来であれば施釉陶が確実に伝わる事は何よりも楽浪郡が
証明している。

それと古代の満州事情だが、戦国時代に燕が満州南岸を侵略して、遼西から
遼東まで長城(燕長城)を築き、北方民族の侵入を防いでいた。
その後、秦がそれを引継ぎ、燕長城は万里の長城の一部に編入され、一時は
朝鮮半島まで及んでいた。今の長城ラインは明代のものである。

燕の時代から今の遼寧省以南までが漢人の領域で、それ以北は漢人の
領域ではなかった。

今の満州は戦後、中国が侵略した結果である。
83出土地不明:2006/03/31(金) 10:08:46 ID:l0wOc+LT
日本陶磁の分類


 大分類・中分類・小分類に区別し、大分類は「産地+窯」または「○○系」と記
入し、○○焼きは使わないことで統一した。大分類の後には「:」をつけた。
   例)瀬戸美濃窯:。備前窯:。珠洲系:。
 中分類は、主として施釉陶について釉の別を把握するのを目的に設けた分類で、
灰釉、鉄釉の区分、または桃山陶では黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部などの区分に用
いた。
 小分類は碗、皿、瓶、甕等の機種名を使い、必要により( )内に文様を記載し
た。
 機種は、原則的に一般に使用されている機種名を記載し、適宜器形の装飾に応じ
た呼称を付加した。
   例)瀬戸美濃窯:灰釉碗(蓮弁文)←瀬戸美濃窯+灰釉+碗(蓮弁文)
     大分類            +中 +小(文用)
   例)備前窯:甕←備前窯+甕
   例)猿投窯:灰釉三耳壷
 列記の方法は、広域流通するものから順に、貿易陶磁にならい記述し、大分類は
「。」で、中分類「・」、小分類「、」でくくる。
   例)瀬戸美濃窯:鉄釉天目茶碗、皿・灰釉碗(蓮弁文)。備前窯:甕。

古代の陶磁に関する大分類と生産地の例示

  灰釉陶磁        緑釉陶器等
   猿投窯         猿投窯
   尾北窯         尾北窯 尾張系
   美濃窯 または東濃系  美濃窯 東濃系
   遠江系         近江系
   駿河系         京都系
   東海系         長門系
   その他         その他

中世・近世初の陶磁に関する大分類と生産地の例示

  施釉陶器        焼き締め陶
   瀬戸窯         常滑窯 丹波窯
   瀬戸美濃窯       渥美窯 備前窯
   初山窯         猿投窯 珠洲窯
   志戸呂窯 遠江系    美濃窯 珠洲系
   越中瀬戸窯       美濃須衛窯 東播系
   唐津窯         湖西窯 亀山系
   その他         越前窯 十瓶山窯
  磁器           新楽窯 瓷器系
   肥前系         伊賀窯 須恵器系
   その他         その他
84出土地不明:2006/03/31(金) 10:13:59 ID:l0wOc+LT
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1994collection1/home.html

●灰陶 かいとう
AD 
還元焔で焼かれた灰色の肌の土器。酸化焔で焼かれると赤い肌の紅陶ができる。
灰陶には,砂まじりの夾砂灰陶と、緻密な泥質灰陶があり,
おおむね炊器には前者が,盛器・飲器には後者が用いられ,
縄セキ※注1※文・刻線文など種々の文様がつけられた。
中国の新石器時代の黄河流域では、仰韶(ヤンシャオ)文化期に紅陶が多く
灰陶は少なかったが、晩期には灰陶が多くなる。山東地域を中心とする
ダイブンコウ※注2※文化期でも同様に,晩期には灰陶が多くなり、
ロクロが用いられた。両文化を継承した竜山文化期では、
灰陶が多く質も向上していく。江漢平原の屈家嶺文化期では,
中期に灰陶が主流を占めてくる。殷代になると土器製作の技術が進み,
窯中の還元焔が制御されて,後期には,器質・色調の優れた細泥灰陶が
土器の大部分を占めるようになる。灰陶は周・漢・六朝でもつくられ,
加彩灰陶も現れる。
85出土地不明:2006/03/31(金) 10:16:40 ID:l0wOc+LT
灰陶_: 周(燕)・漢(楽浪郡)・六朝(南朝)
     楽浪半島経由×

施釉陶: 六朝(南朝)
     中国直輸入○
86出土地不明:2006/03/31(金) 10:27:29 ID:l0wOc+LT
楽浪半島経由なら
313年に楽浪郡滅亡。卑弥呼(3世紀)から倭王武(4世紀)の前までに
北九州で出土が無いといけない。

中国の古代時代(郷挙里選[察挙?]と王侯)


中国直輸入なら
375年以降で、南朝(南中国)から倭国を経て任那に渡ったルートとみなす。
倭王武(4世紀)から隋が南朝を併合し天下統一した聖徳太子(6世紀)までで
古代琉球が隋によって滅ぼされる古代の大海洋時代に渡来した事である。
出土場所は畿内から関東であるはず。

中国の中世時代(魏晋南北朝〜隋唐時代[九品官人法(九品中正)と門閥貴族])
87出土地不明:2006/03/31(金) 11:03:16 ID:ectMBkFM
灰陶_: 周(燕)・漢(楽浪郡)・六朝(南朝)
     楽浪半島経由×

灰陶_: 六朝(南朝・南中国・揚子江以南・倭王武の宋国375年以降)
     中国直輸入○

施釉陶: 南宋王朝(揚子江以南に遷都[杭州・紹興]・天台山5寺の禅宗味噌)
     明王朝(揚子江以南・南中国の寧波[市舶司・勘合貿易])
     瀬戸物(12世紀〜14世紀[1100〜1300年代・平清盛〜元寇])
     桃山文化(15〜16世紀[1400〜1500年代・倭寇〜秀吉出兵])
88出土地不明:2006/03/31(金) 11:10:20 ID:ectMBkFM
中国時代区分
 古代・尭舜ウ〜春秋戦国〜秦漢・王侯(日本の古代)
 中世・魏晋南北朝〜隋唐五代十国・門閥貴族(日本の古代・大化の改新まで)
 近世・宋元〜明清・科挙官僚(日本の中世−近世・律令制度と武士幕藩体制まで)
 近現代・中華民国〜人民中国・革命民生(日本の近現代・明治維新から大戦後まで)
89出土地不明:2006/03/31(金) 11:50:31 ID:yB9DAJ4T
楽浪半島の国や民族の流れ
 ワイ(辰)・バク(高句麗[渤海]・馬韓[プヨ]・弁)
 高句麗・加羅(馬韓)・弁・辰・マッカツ(渤海)・プヨ(平野の女真)
 新羅(辰)・百済(プヨの百家が済[渡]ったのは海から[百家済海])・任那(弁)・高句麗・渤海
 新羅国(楽浪郡)・渤海国(渤海郡)
 斉国(百済)・渤海人移民(高麗)・女真人侵略(新羅)
 斉国・蒙古人国際結婚
 李氏の朝鮮国(斉人[加羅+弁]+渤海人[高麗]+蒙古人)
古代の韓国と現代朝鮮は、民族や血筋が違う。

百済は支配階級(プヨ語・中国語)と
地元の庶民(新羅語・弁語)とで、日常会話の言語が違ったと言う。

百済は、日本と高麗(高句麗)に王子を人質に出し
白村江の戦いの前に日本に居た王子は、戦後に高麗(高句麗)に逃げ、
高麗(高句麗)滅亡と伴に滅んだ。
90出土地不明:2006/03/31(金) 11:51:12 ID:yB9DAJ4T

新羅は滅亡前にソウルを流れる『漢江の流域に大量に渤海人に移住』
され『渤海国(高麗国[高句麗国])』が移って来た感があった。
高麗の中期まで契丹族(遼国)と女真族(金国)に攻められ
藩国『斉国』『高麗藩』となった。それまでは高麗ではなく
『泰封国』とか『摩震国』と国名を呼んでいた。渤海人の移住地は
『東丹国(高麗国)』と呼んだ。

藩国になる前に女真族の大量侵攻があり『刀伊の入寇』といった。
昔の新羅地域は女真族の手に落ちていた。

その後に蒙古族に攻められ『斉国大長公主』を
王妃に迎え『東真国』となった。半島南部の有力者の
崔(江華島〜珍島)・林(忠清)・李(光州〜順天)・鄭(晋州〜南原〜全州)
の4氏の内、李氏が優勢となり李氏朝鮮を創るべく李成桂が『高麗王』を名乗り
謀略で亡くなった2王子を仏教式に葬った。李氏朝鮮の太祖の李成桂は、まだ
『儒教』でもなかったし『朝鮮国王』に明国から任命されたわけではなかった。

第二代の定宗の弟(王弟)の太宗が第3代高麗王となり
この太宗の時に明国から『朝鮮国王』に任命され、この2王子(定宗・太宗)の後に
太宗の子の第4代の世宗が『太宗実録』を書き『李氏朝鮮実録の初刊』を編集させた。

王の歴代記は逐次世代交代ごとに追加で書かれたのではなく、焼失したと言って
後に諸伝承をかき集めて『太宗実録』の記述を真似て、作ったのである。それは
昭和10年まで編纂が続いたので歴史の後知恵が記事に、かなり入っている。
91出土地不明:2006/03/31(金) 12:39:11 ID:Cgdtdvge
>新羅(辰)・百済(プヨの百家が済[渡]ったのは海から[百家済海])・任那(弁)・高句麗・渤海
>百済は支配階級(プヨ語・中国語)と
>地元の庶民(新羅語・弁語)とで、日常会話の言語が違ったと言う。

プヨ語は、馬韓語であり、百済語で、渤海語であり、高句麗語であり、バク族(大柄人)の語。
新羅語は、辰韓語であり、ワイ族(小柄人)の語。
弁語は、バク族(大柄人)の語。

弁人(弁辰人[弁韓人・任那人])と辰人(新羅人)には、馬韓語が通じない。
馬韓の東界に弁人が住み、東界で大海の見える東浜に辰人が住む。

馬韓______=百済(加羅国・古代韓国)=渤海人=高麗国(高句麗)
馬韓の東界___=弁人=任那(バク)
馬韓の東界の東浜=辰人=新羅(ワイ)

馬韓=プヨ(渤海の一部族・渤海という海を渡って来た百の家族[百家済海]が『百済』)

馬韓の王:辰王(馬韓月支国・馬韓語)
庶民__:辰・弁(馬韓語が通じない)

馬韓月支國(加羅国・古代韓国・慰礼城[北漢山城・漢城・北ソウル])が滅び
馬韓伯濟國(百済国・熊津城[公州・大田])に遷都して滅び
馬韓辟卑離國(南扶余国・泗比城[扶余])百済再興の暫定で遷都。百済王室が完全滅亡。
92出土地不明:2006/03/31(金) 12:41:44 ID:Cgdtdvge
 ※ 弁辰(弁韓)12国
弁辰半路國、弁辰彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰彌烏邪馬國、
弁辰狗邪國、弁樂奴國、弁辰古淳是國、弁辰接塗國、弁辰走漕馬國、
弁辰安邪國(弁馬延國)、弁辰甘路國、弁辰涜盧國※涜=toku[偏水旁賣]、

 ※辰韓12国
有已柢國、不斯國、勤耆國、難彌離彌凍國、冉奚國、軍彌國、
如湛國、戸路國、州鮮國(馬延國)、斯盧國、優由國。(古辰國?)
 弁、辰合二十四國、大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸。
其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之、世世相繼。辰王不得自立爲王。

 ※ 馬韓50余国
爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國、大石索國、優休牟[シ豕]國、臣濆沽國、
伯濟國、速廬不斯國、日華國、古誕者國、古離國、怒藍國、臣釁國、支侵國、
月支國、咨離牟廬國、素謂乾國、古爰國、莫廬國、卑離國、占離卑國、
狗廬國、卑彌國、藍奚卑離國、
古蒲國、致利鞠國、冉路國、兒林國、駟廬國、内卑離國、感奚國、萬廬國、
辟卑離國、白斯烏旦國、一離國、不彌國、支半國、狗素國、捷廬國、
牟廬卑離國、臣蘇塗國、莫廬國、古臘國、臨素半國、臣雲新國、如來卑離國、
楚山塗卑離國、一難國、狗奚國、不雲國、不斯濆邪國、爰池國、乾馬國、楚離國、
凡五十餘國あり。(馬韓伴跛國?、馬韓朝鮮國?、故真蕃朝鮮胡國?)
93出土地不明:2006/03/31(金) 12:43:50 ID:Cgdtdvge
94出土地不明:2006/03/31(金) 13:22:46 ID:M8xLqMrS
馬韓伴跛国=弁辰半路国
弁辰安邪國=弁馬延国(弁人)
辰韓州鮮国=辰馬延国(辰人)

____卑離國
__藍奚卑離國
___内卑離國
___辟卑離國
__如來卑離國
_楚山塗卑離國
__牟廬卑離國
咨離牟廬國

小石索國
大石索國


朝鮮国−朝鮮胡国(故真蕃、朝鮮侯−燕人衛満)
月支国(辰王)−ワイ侯フジ
伯済国−古蒲国−古淳是国−軍彌国
駟廬国−楽奴国−伴跛国_−半路国
卑離国−冉路国−州鮮国_−涜盧国−斯盧国
牟廬国−石索国−安邪国_−狗邪国
95出土地不明:2006/03/31(金) 13:26:39 ID:M8xLqMrS
馬韓_−バク
馬韓_−ワイ
馬韓_−馬韓__−馬韓東界−東界
馬韓_−馬韓東界−馬韓__−東界
馬韓_−馬韓__−馬韓東界−東界_−東浜
馬韓_−馬韓__−馬韓東界−東界


楽浪郡朝鮮県−玄菟郡高句麗県
楽浪郡帯方県_−不而県(フジ県・富士県)
長岑県−シ文県−馬韓__−渾彌県
駟望県−楽都県−馬韓__−崎離営−臣智(韓[族]−侯[酋長]・臣=辰・智=日−荷知)
馬韓_−馬韓_−遂城県_−屯有県−古辰国(韓王−準・韓王−淮[ワイ])
新南県−馬韓_−海冥県_−弁


馬韓_−高句麗
加羅国(加羅王−荷知・韓国王−日)
馬韓_−己文県−馬韓__−辰韓
馬韓_−弁__−大伴金村−辰韓
多利県−馬韓_−辰韓__−弁辰_−新羅城
牟婁県−帯沙県−弁___−弁辰


高句麗−高句麗
高句麗
百済国−任那_−馬韓__−任那
馬韓_−任那_−任那__−任那
任那_−馬韓_−任那__−任那_−新羅城
任那_−任那_−任那__−任那
(倭王武・六朝[南朝]宋国へ上奏文・海北95国・都督−六国諸軍事−安東将軍)
96出土地不明:2006/03/31(金) 13:35:20 ID:M8xLqMrS
つまり
『百済』は『馬韓』全土の統一などしてないし、
『新羅』は僻地の『東の浜辺』の『一ヶ城』に過ぎない。
『倭の武王(継体天皇?・応神天皇?・八幡大菩薩?)』には
南中国『宋国』のお墨付き『都督・安東将軍(任那総督)』の肩書きがある。

『楽浪郡』は確かに原住民の『馬韓』を制圧していない。
しかし馬韓は結集して中国人の入植地の郡県や営所を全滅させていない。
『馬韓』とは違って東の界隈『馬韓東界』に
『弁人』や『辰人』の”国”の名の付く『邑(むら・集落)』がある。
97出土地不明:2006/03/31(金) 13:41:15 ID:M8xLqMrS
仮に楽浪半島経由の伝来でも、
中国人からであって原住民には、何ら日本側としては恩義はない。

原住民は、中国人の楽浪郡の住民を、終戦直後の日本人のように襲って
殺して略奪し、敵産として追いはぎ山分け火事場泥棒したに過ぎない。
98出土地不明:2006/03/31(金) 13:45:03 ID:M8xLqMrS
『弁人』は
『辰人』と弁別(別に)された人の意味で「弁」と名づけた。
99出土地不明:2006/03/31(金) 13:51:55 ID:M8xLqMrS
それで『弁辰』という地域名となった。
弁辰という名なのに、弁人は倭人と混在雑住同居している。
本来なら『弁倭』とすべき地域名である。

倭人とは弁別された民といえるから。それを
『弁辰』から『弁”韓”』と地域名を書き換え
『弁辰狗邪国』を『狗邪”韓”国』と書き換えた。
『任那』が『倭人』による支配である事を暗に改ざんする意図がある。

馬韓月支国の王が『辰王』で、新羅の祖先の
辰韓の王が『韓王』であるのも変な記述だ。
馬韓だから『馬王』とか『韓王』であるべきだ。
辰韓こそが『辰王』であるはずなのは
馬韓を辰韓の末裔の新羅が領有したのを正当化したとしか思えない改ざんである。
100出土地不明:2006/03/31(金) 14:04:25 ID:M8xLqMrS
まだある。

新羅最後の王が降伏し国が滅んだのは、王建という人物によるが
この人物の国は、もとは新羅王族の弓裔という人の領地の豪族で
弓裔を下克上して国を乗っ取った所から始まる。

弓裔は『泰村王』で漢山州の領主であったので
新羅の本家王族から、分国する際に国名を『泰封国』と名付けた。
この『泰封国』から『摩震国』の王建が下克上で国獲りするのだが
『後高句麗国(泰封国)』とか『高麗国(摩震国)』は
後世の捏造や造語だとしか思えない。しかも
渤海人が大量に新羅の国へ南下して民族大移動して移動定住しているのを
日本の歴史書には書かかせないし、知らせないようにしているのである。

もし『三国史記』や『高麗史』の名称が正しいなら
新羅の王族が『金』一族なのに
王族の弓裔だけ『弓』一族と別の家名なのだろうか。

これは歴史伝承が混乱しているからであり
事実『三国遺事』という『正伝から外れた伝承集』がある事からも
コジツケが感じられる。
101出土地不明:2006/03/32(土) 16:25:39 ID:EZSxficm
>>83-100
このスレとはほとんど関係の無い内容ばかりのようだが、
貴方の間違いを一つ指摘しておこう。

弥生期に灰陶技術は全く伝わってはいないのだが、灰陶自体の出土は
弥生後期の遺跡でしばしばしている。

楽浪瓦質土器(楽浪土器)と三韓瓦質土器と呼ばれるものである。

日本に灰陶が伝わるのは4C後半。

ご存知、須恵器であり、秦氏の手に因るものである。
102出土地不明:2006/03/32(土) 17:29:07 ID:EZSxficm
それと日本に最初に伝わった施釉陶は緑釉陶と呼ばれる鉛釉陶
であって7C頃であり、日本では瓷器とも呼ばれる。

楽浪郡に伝わっていた施釉陶もこの緑釉陶である。

鉛釉陶は漢代に開発された画期的な発明であり、当時としては
最先端の磁器技術が中原から楽浪郡に移植されていたのである。

ところが、日本にようやく緑釉陶が伝たわった7C、
同じく朝鮮半島でもまだ灰陶と鉛釉陶の時代であったが、
中国ではすでに青磁の時代を過ぎ、白磁が主流の時代に
突入していたのである。
103出土地不明:2006/03/32(土) 23:20:56 ID:Rbl+09TG
ずぶの素人の駄説で済みませんでしたが・・・。

で、正倉院の収蔵品を見たのですが、
遣隋使や遣唐使での輸入なら船での経由ですので
楽浪半島(BC108年〜AD313年に
楽浪郡[楽鮮郡]のあった時期)は意味ないですよね。ガラス製品とかも含みなんで。

貴重品は、国郡の王侯(遼東郡太守・遼東国公[郡(任命役人を
派遣)から国(有力者の世襲)へ、中央政権から自治に])や
郡太守(玄菟郡太守・楽浪郡太守・帯方郡太守)などが所蔵する物だと思います。
原住民(句麗胡[高麗]・ワイ族[帯方−太白]・バク族[狼林]・加羅[帯方−漢山]・
    扶余[百済−熊津]・辰[新羅]・弁[羅州〜星州]・倭人)の酋長(侯)は
中国人の蔵でも襲撃して略奪するか下賜されない限り、持てない物だと思います。

倭王武(410年前後)は
六朝の晋(東晋)・宋時代なので317〜479年でしょうか。
梁の時代から隋までが500年代です。
隋は581〜618年(文帝・煬帝)、唐が618〜907年です。

梁の武帝の510年に
周興嗣が千字文という漢字の手本の詩文を作詞したんです。
呉(三国志)・晋(西晋[統一]・東晋[南朝])・
宋(劉宋)・斉(南斉[蕭斉])・梁(蕭梁)・陳までが南朝で
隋によって陳が滅ぼされるまで南朝の六朝は続きます。

文献的には古事記が「王仁」が千字文を伝来ですが、
高句麗の好太王(高麗の広開土王)の頃と比定で404年ごろです。
作詞される510年より100年前の404年に伝来は、おかしいので
古事記の伝承の時期が誤りなのであって、実際は
遣隋使や遣唐使で入ってきた物と思われます。

石焼ビビン飯(パ)で石器お椀では・・・。陶器で上薬の絵入りは疑問です。
羅州(なジュ)は、西晋陳寿三国志の弁−楽奴国で、
前漢武帝設置の楽浪郡−楽都県だ、と比定しています。
楽浪郡の南部の郡都・洛都だと思っています。
倭奴国に、弁楽奴国です。奴国(なコク)はドッチでも意味が取れるのです。
倭伊都国に、楽都県です。都を奴と卑しむ字に貶めて記載もあるわけです。

楽浪の音は、楽は洛で、浪は狼だという注釈があるようで
楽浪郡が、前漢と後漢の間の新の王莽による註の記事でしょうか
楽鮮郡と呼んでいた事があったようです。
楽は、楽都県(羅州・楽浪南部の都)で、
鮮は、朝鮮県(平壌〜沙里院・楽浪北部の都)で、
北部で狼林山脈のある事から、狼林県とも呼べそうです。
104出土地不明:2006/03/32(土) 23:34:39 ID:Rbl+09TG
別件。

補身湯(ぽシンたん)とは、韓国の民族料理の犬肉鍋だそうですが
「狼林山脈」とか、「楽浪郡」とか、名称があるようでは、本来は
犬肉ではなく、狼肉で
虚弱体質の身を補う為に滋養強壮で食べていた鍋肉ではないかと思われます。

参鶏湯(さんゲたん)は、参が朝鮮人参であって心臓の脈拍を増やします。
やはり滋養強壮の意味だと思います。

匙作法(サジさほう)という祭り行事で食べる料理があるようですが
ヒエ・アワ・鳩麦などの穀物を粉にして豆腐のように四角い箱型に固めて
サジですくって食べる食事があるそうです。

李氏朝鮮時代の料理には、鍋物とかサジ作法とか、そういった風で
硬い食べ物が無く、体質が弱い神経質で
怒りやすい両班(ヤンバン)という貴族が多かったようです。
105出土地不明:2006/03/32(土) 23:38:34 ID:Rbl+09TG
豪族や地元有力者に貴族など王侯の墓の遺体で、歯を調べますが
そういった食文化も
食を盛る食器の陶器や土器などと並行して考えるのも一つと思われます。
穀物を盛るのか、酒やお茶にお湯などの飲み物を入れるものなのか。
106出土地不明:2006/03/32(土) 23:40:55 ID:Rbl+09TG
新撰姓氏録に、「仁徳天皇の御世、127 県の秦氏をもって
諸県に分置し、養蚕・織絹してこれを貢せしむ.
天皇詔して曰く秦王献ずるところの糸・絹・綿.朕服用する柔軟.肌膚を温煖す」
などの記述もあり、秦氏・西文氏・東漢氏がそれぞれの職業的分化をおこない、
名代・子代(王権に従属)・部曲(豪族に従属)として、
下記の職業に従事し古墳時代を代表する副葬品や、
生活具の生産活動に組み入れられていったものと思われる。
以下は工人たちが、組織化され従属した工芸関係の「部」所である。
      衣服関係=織部・服部・綾部・錦部・倭文部・麻部・績部・衣縫部
      染色関係=赤染部・茜部
      金工関係=鍛冶部・鏡造部・金作部
      木漆関係=筥部・漆部
      玉石関係=玉造部・石造部・石部
      武器関係=弓削部・矢作部・鞍作部・刀子部・楯縫部
      土器関係=土師部・須恵部
      美術関係=畫部
16. 仏教の受容−寺院造営に係わる工人たち
  538 年 欽明天皇ののとき
百済より仏像と教典が日本にもたらされた。すなわち仏教公伝である。
『書紀』の「欽明天皇13年」には、
  「百濟の聖明王、・・釋迦佛の金銅像一躯・幡蓋若干・經論若干卷を獻る。・
   ・蘇我大臣宿禰奏して曰さく『西蕃の諸國、一に皆禮ふ。豐秋日本、豈獨り
   背かむや』・・物部大連尾輿・中臣連鎌子・・『我が國家の、天下に王とま
   しますは、恆に天地社稷の百八十神を以て、春夏秋冬、祭拜りたまふことを
   事とす。方に今改めて蕃神を拜みたまはば、恐るらくは國神の怒を致したま
   はむ』  ・・天皇曰はく『情願ふ人稲目宿禰に付けて、試に禮ひ拜ましむ
   べし』・・向原の家を淨め捨ひて寺とす」
と記述している。一説には552 年安閑天皇期に伝えられたとするが、
『書紀』では継体から安閑・宣化・欽明と続くその期間に、王朝交代を窺わせる
大きな政変があったことを推測させる内容の記事を見ることができる。
そうした政情不安を背景にして、仏教が国内にもたらされるのである。
107出土地不明:2006/03/32(土) 23:57:16 ID:Rbl+09TG
中国に『山海経』という古文書がある。
山海経は、中国でもっとも古いとされる地理・博物書であるが、この書物の中に
義和国という国が登場する。

【山海経・義和国の話】
東海の外側に義和国という国がある。その国には女が住んでおり、名を義和(ぎか)という。
義和は今、太陽に水浴びをさせているところである。

古代日本の呼称である「倭国」が「和国」に改号される時、山海経に登場する義和国から、
『和』の字を借りて、和国にしたのかもしれない。
義和国を支配する義和という女神は、日本神話の天照大神にそっくりである。
義和も、天照大神と同じように太陽の女神なのだ。
山海経によると、義和国には扶桑という巨大な神木があり、扶桑の枝には十個の太陽がとまって
いるという。
そして、義和が十個の太陽を支配しているとされているのだ。
日本神話の天照大神の原型は、この義和なのかもしれない。

■『山海経』について■
http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/chubun/ohno/sengai.htm
108出土地不明:2006/04/02(日) 00:00:36 ID:Rbl+09TG
靺鞨ってのは、
もともと邑婁っていうツングース系狩猟民で、高句麗よりずっと北の方にいた。
それが次第に南下して、大小いくつもの部族にわかれて、
高句麗の北に隣接する部族もあり、高句麗国内に住む部族もあり。

その中で、強大なものが早くに「勿吉」と名乗り、
唐に使者を出して、南北から高句麗をはさみうちしようと持ちかけていた。
この「勿吉」が訛って「靺鞨」となったもの。

高句麗末期には、高句麗の中心が本来の満州山岳地帯から
はるか南の平野部の平壌に移ってから久しく、
すっかり農耕民になってしまっており、北方の統治は緩み
靺鞨の諸部族は半独立状態にあったらしい。
高句麗の末期、高句麗の北側には、主な強大な靺鞨は七部族あった。
その中の遠方の三部族は、邑婁そのままのツングース狩猟民であった。
あとの四部族は、文化的にちがいがあったようなので、
高句麗の文化的影響のもと開化したのだろうが、
もしや、昔の夫余の遺民による部族や、あるいは
初期の生活様式のまま取り残された古いタイプの高句麗人の部族なども
あったやも知れぬ。ことに、その四部族の中の白山部は「いにしえの沃沮」
だという。沃沮はツングースでなく夫余系種族であるから
靺鞨はツングースのみならず夫余系種族もいたことがわかる。
もっともこの部分は「いにしえの沃沮の子孫」ではなく
「いにしえの沃沮の地」に住んでいるというだけのことかも知れぬが。
109出土地不明:2006/04/02(日) 00:01:35 ID:54WWuJhg
ともあれ靺鞨は、ツングース族もあれば、夫余系の遺民(高句麗系?)らしきものもあり、
またこの七部族だけでなく高句麗の国内外に、大小さまざま存在したから、
文化的には混成種族であって、全盛期の高句麗の下に支配されていた各種の民族の
総称ぐらいに思ってよいのかも知れない。
この七部族のうちもっとも西南にあった粟末部(粟末靺鞨)から
乞乞仲象というリーダーがでた。
仲象というのは、この2文字で何か固有土着語の音写なのか、
「次男坊で名前が象」という漢人風の字(あざな)なのか、よくわからないが
乞乞という姓は漢民族ではないだろう。
高句麗滅亡後、乞乞仲象は唐の命令により粟末部(粟末靺鞨)を率いて
南満州に移住したが、後に反乱を起こして故郷に帰ろうとした。
この乞乞仲象の二代目が大祚栄(ダイ・ソエイ)で、
靺鞨の大小さまざまな諸部族をとりまとめて大勢力となった。
大祚栄が渤海郡王に叙されていたことから、粟末靺鞨の別名を渤海靺鞨といったが、
他の部族も大きなところは初期は半独立をたもっていた。(幕府と大名みたいなもの)
この渤海郡王、渤海靺鞨からとって「渤海国」という。

しかしもっとも遠方の「黒水部(黒水靺鞨)」だけは渤海国に最後まで抵抗し
のちの女真族となった。
110出土地不明:2006/04/02(日) 00:44:27 ID:wQwWZLB6
★通典の新羅國
前漢____: 樂浪郡の東浜で大海を望む【いにしえの「辰国」】
後漢の明帝_: 楽浪郡太守劉茂が韓族と韓の臣智を滅ぼす。
三国志の魏_: 魏将の毋丘儉が高句麗やワイなどの東夷を討ち
______:  ワイ侯フジ(不而)を従わせる。高句麗の百済王が新羅に逃げ韓王準に。
魏〜南朝の宋: 辰韓−斯盧国【馬韓−月支国が「辰王」で「弁辰」が従う】
北朝前秦符堅: 樓寒王・加羅任那−新羅城【「前秦」に対し辰韓が「秦韓」「慕韓」】
梁の武帝__: 普通二年・慕秦王・健牟羅城・6喙評(6郡−面)52邑勒(52県−里)
隋の文帝__: 楽浪郡公−新羅王・金眞平王 加羅任那諸國を滅ぼす【三韓の地】

★通典の百濟+α
前漢____: 樂浪郡
西晋____: 高麗(高句麗)に滅ぼされた扶余王が
______:  百個の家族を連れて渤海を済る[渡る]【百家済海(百済)】
______:  帯方郡太守を設定した平州遼東国の公孫度の娘を貰い縁戚となる
南北朝___: 馬韓−伯済国・百済国扶余姓・加羅国王荷知
隋唐____: 唐将の劉仁軌・熊津都督の劉仁顔・水師の蘇定方により百済は滅亡。
______:  百済王子は高麗(高句麗)に亡命。高麗の滅亡後に渤海国が成立。
五代十国遼宋: 契丹により渤海が滅亡し、渤海人が新羅国漢山州などへ大量移住。
______:  渤海国は改名され東丹国に。女真族が新羅に大量侵攻。
南宋_金元_: 東丹国は東真国に。新羅国漢山州など旧帯方郡は泰封国に。改名し摩震国に
______:  更に金国へ降伏後は高麗藩となり、元朝で王弟が斉国に。
明_____: 第3代の王弟の高麗王(李朝太宗)が明国太宗より朝鮮国王に冊封される。
111出土地不明:2006/04/02(日) 00:45:08 ID:wQwWZLB6
玄菟郡、武帝元封四年開。高句驪、莽曰下句驪。屬幽州。
 【應劭曰:「故眞番、朝鮮胡國。」】
  戸四萬五千六、口二十二萬一千八百四十五。
 縣三:高句驪。
  遼山、遼水所出、西南至遼隊入大遼水。又有南蘇水。西北經塞外。
 【應劭曰:「故句驪胡。」】
  遼山、遼水出。【山海經曰:「遼水出白平東。」
  郭璞曰:「出塞外衛白平山。遼山、小遼水所出。」】

樂浪郡、武帝元封三年開。莽曰樂鮮。屬幽州。
 【應劭曰:「故朝鮮國也。」師古曰:「樂音洛。浪音狼。」】
  戸六萬二千八百一十二、口四十萬六千七百四十八。有雲seu[扁章旁右郊]。
 縣二十五:朝鮮
 【應劭曰:「武王封箕子於朝鮮。」】【周封箕子地。】

建安中、公孫康(幽州刺史[州知事]や遼東郡太守[郡長]ほどの地方有力者・前漢〜三国志〜西晋)
 帯方郡太守・派遣将軍: 公孫模・張敞等

景初中、明帝(後漢[AD57-75]〜西晋王朝?の皇帝) 海を越え二郡(帯方郡・楽浪郡)を定む
 楽浪郡太守: 鮮于嗣
 帯方郡太守: 劉斤(斤は[日斤]の一字)
部従事: 呉林 楽浪郡は韓族の邑(韓国)を統治するが、特に辰韓八国を楽浪郡の直轄とした。
帯方郡−崎離營: 吏訳転じ異同あり 臣智激し韓忿り(この帯方郡の漢人兵営を韓族が攻撃)
 楽浪郡太守: 劉茂 兵を興し韓を撃ち 遂に韓を滅ぼす(古代韓王は討たれ、古代韓国は滅んだ)
 帯方郡太守: 弓遵 韓を征伐中に戦死

李唐−遣唐使: 蘇定方・劉仁軌(高句麗[滅亡]・百済[滅亡]・新羅[討伐失敗・倭が白村江の戦])
____________________北朝鮮・釜山橋頭[南侵失敗・アメリカ軍の仁川上陸]
112出土地不明:2006/04/02(日) 18:36:38 ID:bYT5KP4g
>>103-111
今日もこのスレとはほとんど関係の無い内容ばかりのようだが、
そんな貴方に一つ提言しておくと、最も重要な事は、
渡来人骨が九州北部で見られるようになるのは弥生前期後半に
なってからという事である。

九州北部で弥生時代が開始するBC10Cから計算すると、だいたい
BC7C頃に渡来人がやって来たと考えられる。

朝鮮半島で言えば無文土器時代後期の頃、中国で言えば
春秋時代真っ只中である。

渡来人の正体を本気で追及したいならば、まずBC7C頃のアジアの
情勢と文化を考えていかねばならない。

申し訳ないが、貴方の好きな楽浪郡時代から、もう5Cほど、
頭の時計の針を過去に巻き戻して戴きたいのである。

http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/shiryo7.pdf
113出土地不明:2006/04/02(日) 18:53:35 ID:SOPH65Ev
男が卵子で女が精子
114出土地不明:2006/04/02(日) 20:17:30 ID:FsIcE+ck
炭素分析法による人骨年代推定なのでしょうか?
ほかの方法とか。
つまり有史と考古学ではなく、考古学一本だという事かと。

それでは文献・古文書の分析は不可能だと。

民族の性質は文化流入や教育のや道徳価値の変化で、変わってしまう。
人骨の遺伝子などは、突然変異とか混血とか食生活とか気候変動の適応などで
変わるのかもしれないが。

照葉樹林帯・衣食住生活・遺伝子等の変化などは詳しくわからない。

陶器と土器が同じかどうかわからない。
雛人形の土器と、瀬戸物の陶器は、ハジとスエの違いか?とか。
埴輪はどうなのかとか。

経由地は半島か、直輸入かとか。

大陸→船_→日本→船(対馬)→楽浪(釜山)
大陸→遼東→楽浪→船(木浦)→日本(対馬)
の区別は
考古学で証明できるのか?とか。
115出土地不明:2006/04/02(日) 20:19:32 ID:FsIcE+ck
百姓
 ひゃくしょう [日本語] 農家
 ひゃくせい [十八史略] 百の苗字・多くの人々・全国の人間・全人民

百家済海
 ↓
百姓渡斉(全人民を連れて、斉という土地から渡って来た)
百姓済度(全人民を救済する、度をなす[説法をする]・縁無き衆生は度し難し)
斉−[シ度]=渡

師古、曰
 唐代の歴史家の人名『唐 顔師古』
  間違い: 師、古曰(先生が言う、今は無き説では)
  間違い: 師古、曰(昔の先生が言うには)
116出土地不明:2006/04/02(日) 20:26:29 ID:FsIcE+ck
粘土・上薬の素材・焼く火力の木炭の作り方・窯(かま)の存在の有無とか

大口面で磁器という韓国は、本当に大口で、
近代磁器製法の磁器を砕いた破片を埋めて
発掘を他の者にさせて、高麗時代に近代磁器が作れた。とか
言わせてみるとか。

紅巾党の乱のはじめが、大運河改修工事の行く先に
あらかじめ天から降ったと言わせて見る
意味不明文字を刻んだ捏造木魚を埋めておいて
そうと知らない作業員が掘り進んで掘り当てた途端に、先導者が何気に登場し
これは天からの勅書。モンゴル人を倒すために立ち上がれと書いてある。など
と先導し、蒙古打倒の反乱(紅巾党の乱)が始まった。とか。

だましの発掘。捏造石器の発見。みたいな
東北文化研究所なみの問題も含みなのではと。
117出土地不明:2006/04/02(日) 20:33:22 ID:bYT5KP4g
土器の様式などで渡来人骨の年代は分かるのである。

もっともっと時間をはるか過去に進めよ。
118出土地不明:2006/04/02(日) 20:38:02 ID:FsIcE+ck
渡来人が、中国人人骨なのか、韓国人人骨か区別がつくのであろうか?

中国人=江南人なのか。
中国人=北京原人系統なのか。
中国人=満州人・女真族なのか。

渡来人を現代韓国人・現代朝鮮人とみなす場合。

高麗時代の、渤海人・契丹人・女真人の人骨の類似なのか。
李氏朝鮮時代の鉄嶺から遼東半島の中国人・朝鮮人の人骨の類似なのか。
では
体型や体質が相当に違ってくる者と思われます。

高句麗が南下し任那の新羅城を解放した頃の高句麗人の人骨と
渤海人が新羅の末期に大量移住してきた時の渤海人(高句麗の遺民)の人骨が同じか
わからない。

紀元前(BC)7世紀は、BC700〜600年代?でしょうから
高句麗人の南下、渤海人の南下による混血の人種の人骨の関係が見えません。

李氏朝鮮の人骨の類似だと、
秀吉の出兵で南中国の広東や福建の中国兵(明国兵)が入って来ていますから、
 江南人=北九州の渡来人は正解であり
高麗の渤海人の人骨と満州女真の人骨の類似だと、
 北京人=北九州の渡来人が正解になります。
119出土地不明:2006/04/02(日) 20:45:39 ID:FsIcE+ck
ラマルクの環境変化が遺伝子に。だって
考慮しないといけないのではないか。と。

南洋とか熱帯性植物の水稲の米を食べている内に、
北京原人系統だが人骨が江南人化したとか。

漢〜魏晋南北朝の記述の『田』は、『粟』の栽培らしく
良田は、良畑あるいは良粟畑です。

水稲策は、淮河(ホワイがわ)以南で、『金史(女真国の歴史書)』でいう
北が麦・粟の栽培食文化、南が水稲米の栽培食文化という事です。

北が饅頭・餃子に焼き栗・高粱飯で、
南が餅・焼き飯・炊き上げご飯の文化という事です。
120出土地不明:2006/04/02(日) 20:46:28 ID:FsIcE+ck
× ラマルクの環境変化が遺伝子に。だって
○ ラマルクの環境適応が遺伝子に。だって
121出土地不明:2006/04/02(日) 20:48:22 ID:bYT5KP4g
渡来人骨の渡来地が明確に分からないからこそ、
その源郷をアジア中の物的遺物やその伝播などから、
あらゆる角度で徹底的に検証しなくてはいけないのである。
122出土地不明:2006/04/02(日) 20:49:24 ID:FsIcE+ck
確かに。
123出土地不明:2006/04/02(日) 20:55:34 ID:bYT5KP4g
稲作は6500年以上前から日本にあるが、水田技術は朝鮮半島南部
から伝わった事が日本最古の水田遺跡から出土する農耕具の系譜や
土器などから分かる。
124出土地不明:2006/04/02(日) 20:58:48 ID:FsIcE+ck
陶磁器: 磁器は造れていない。墳墓にある磁器は中国からの輸入物である。
 陶器を「沙鉢(さバル)」陶器師を「沙器匠人(さギちゃんギン)」と呼ぶ。
 埴輪のように素焼きである。

ハングル: 1800年代前後から北京から西洋学と共に
 カトリック教が朝鮮入りし フランス人神父が
 マリアの祈りを書いて広めた頃から使い始めた。
 フランス人神父がハングル(大きい[ハング]字[うる])と命名したのである。
 キリスト教では聖書などで使われる
 古代ギリシア文字やヘブライ文字(ユダヤの文字)を書いた古写本や
 古文献の文字を活字と違い字が大きく書かれていたから「大字写本」と呼んでいた。
 つまりフランス人が「古い文字」を「大きい字」と呼んだのである。
 1800年ごろに日本に「諺文(おんもん)」という字が
 朝鮮にあると中国から日本の長崎に知られ 中国学問しか文化でないとした
 朝鮮に「朝鮮の国学」があると強弁する日本の学者があらわれた。
 対馬では日本の国学が盛んな頃に「アビル文字」という名でハングル文字を
 描き込んだ古代青銅円盤鏡を持って日本を紹介していた。
 古代文字とは言うが「梵字」にそっくりで
 江戸の国学の秀真伝(ほつまづたえ)「神代文字」なみの捏造と思われる。
125出土地不明:2006/04/02(日) 20:59:04 ID:bYT5KP4g
ただし、その頃はまだ渡来人はやって来ていない。

渡来人骨が全く出土しないからである。
126出土地不明:2006/04/02(日) 20:59:41 ID:FsIcE+ck
バビロンに、シリアのアラム語も楔形で、ヘブライ語もラシ体という文字は楔型が原型です。
ギリシア語のアルファベットは流線型で、エジプトのヒエログリフ(絵文字)とは違いますね。
でもアルファ・ベータはフェニキアの絵文字を楔形にした物が原型と言います。
 字(文字)はフェニキア(レバノン)から
ナイル川の絵文字とチグリス・ユフラテ側のバビロンの楔形に分かれたとも考えられます。
 ひょっとすると神様もカナン(パレスチナ・イスラエル)から
天使とかを神格化してエジプトとバビロンへ分化していったのかもしれませんね。

ギリシア(流線形の線文字)
______↑
フェニキア(楔形の絵文字)→バビロン(楔形の線文字)
______↓
エジプト(流線形の絵文字)

(フェニキア)牛の頭・家の絵・・・
(ギリシア)A(角突き頭)・B(家の屋根がわらでフサフサ[戸口と家壁])・・・

ヘブライ語の文字のラシ体は
アラム−ヘブライ文字でペン字の曲線があり
1世代前に使われたフェニキア−ヘブライ文字は完全な楔形でした。

死海文書という古文書でユダヤ戦争前後の巻物や青銅板書に
文書以外の石碑などに、アラムとフェニキアの両方が使われており
旧約聖書の本文の殆どがアラム文字で「ユダヤの神」の4文字は
古いフェニキア文字を使って有り難味を持たせています。
古い方は母音の記号をつけていないので読めないのです。
読みは口伝と言います。秘密にして伝承していたのでしょう。

私達がカタカナと平仮名と漢字を入り混じりで使う感じです。
先祖の名前や神の名だけ「テン刻」の漢字で書いて偉大に見せるような感覚です。
このテン刻の漢字って[古臭く]達筆です。
なんて書いてあるんですか。[古典的で]重要な気がします。といった
ニュアンスと言って良いでしょうか。
127出土地不明:2006/04/02(日) 21:01:20 ID:FsIcE+ck
BC1000 ヤハウィスト文書・ダビデの賛美歌である詩篇
BC869頃 エロヒスト文書(北イスラエル・悪王アハブ)
BC842頃 ヤーウェ革命(師エリヤ伝・弟子エリシャ語り)
BC722_ サルゴン2世のアッシリアにより北王国イスラエル滅亡・イザヤ伝
BC622頃 申命記文書 南王国ユダ・ヨシア王の申命記改革
BC609_ ファラオ・ネコが勝つ[ハル・マゲドン]メギドの戦い
BC609_ 新バビロンの王ネブカドネザルが勝つカルケミシュの戦い
BC597−582 3次あったバビロン捕囚と哀歌の作詞・祭司文書・第2・3イザヤ書
BC538_ ペルシャ・キュロス王のユダヤ人帰還許可・
BC520−515 ペルシャ・ダリウス1世の時に第2神殿建設
BC458頃 ペルシャ帝国においてユダヤ人エズラの帰還と
       モーセ五書の朗読によるエズラの宗教改革
BC445頃 ペルシャ帝国においてユダヤ人ネヘミヤ知事の就任。ユダヤ教成立。モーセ五書編纂。
BC331_ マケドニア人アレクサンドロス大王のパレスチナ征服
BC302_ エジプト・ギリシャ人プトレマイオス王朝のパレスチナ支配・預言書編集
       ヨブ伝・エステル伝・ソロモン王の箴言・コヘレトの言葉[伝道の書]の編集
       ゼカリア伝の編集
       歴代誌・エズラ伝・ネヘミヤ伝の編集
BC285−246 プトレマイオス2世フィラデル−フォス王の時に
          ユダヤの旧約聖書の伝承をギリシャ語で記す
BC219−217 シリア・ギリシャ人セレウコス王朝のパレスチナ侵攻
       第二旧約のベンシラの知恵・アッシリアの昔のトビト伝
       敬虔主義・ハシディム運動が起こる
BC164_ ハシディムからパリサイ派・エッセネ派が発生・バビロンの昔のダニエル伝
BC160−63 ユダヤ独立・[マカベヤ]祭司王のハスモン王朝
BC63__ ローマ人ポンペイウスのエルサレム占領・ユダヤはシリア州に編入
       百卒長ファウスト・コルネリウスのエルサレム神殿の至聖所1番乗り込み
BC37−BC04 ヘロデ大王・皇帝アウグストゥスの帝政ローマの支配開始
AD18−36 大祭司カイアファ[訛ってカヤパ]の任期
AD26−36 第5代総督ポンティオ・ピラトの任期
AD30或いは33 聖餐の後にイエスをユダヤ王呼ばわりし十字架処刑
        生母マリアと12使徒への聖霊降臨によるキリスト教会の成立
        イタリア隊の百卒長コルネリウスへの聖霊降臨
AD50−58 パウロの書簡の記述
128出土地不明:2006/04/02(日) 21:01:35 ID:bYT5KP4g
>>124
そろそろ関係ない投稿をやめてくれないか。

語るなら弥生人中国説について語ってくれ。
129出土地不明:2006/04/02(日) 21:04:39 ID:bYT5KP4g
朝鮮半島に灰陶が入ってきたのはどうもBC2C末に置かれた楽浪郡からの
ようで、漢代の灰陶の流れを汲む楽浪瓦質土器(楽浪土器)というのが
最初らしく、在地土器と共存していた。朝鮮南部での瓦質土器の出現は
BC1C頃で、やはり三韓軟質土器という弥生土器に近い土器と共存していた
らしい。(下のリンク参照)

http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2000a_41.html

日本における最初の灰陶は5Cの須恵器からであり、倭の属国になった
半島の帰化人によってもたらされたのは皆さんよくご存知の通り。
130出土地不明:2006/04/02(日) 21:04:41 ID:FsIcE+ck
弥生人に関する、中国文化圏以外の参考知識でレスしてみた。

甲骨文字・金石文・石柱の文字なども
オリエントの文字・考古学の
考え方や用例・類似系で考えてみる当てはめてみるのも
一つの試行錯誤ではないかと。
131出土地不明:2006/04/02(日) 21:05:15 ID:bYT5KP4g
BC4C末の江南も華北も灰釉陶と印文硬陶が主流。

>「この墓(=土とん墓)から出土する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が
>大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは異なった図文をもって
>おり、銅剣は身柄一鋳のものである」。

http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm

灰釉陶は釉(うわぐすり)で表面にガラス質を出した灰色のb器。
印文硬陶は青灰色・よう黒色を呈する堅く焼締まったb器。

◎中国の陶磁史
http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm
http://www.moco.or.jp/jp/intro/intro_3/intro_3a.html
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu/Jkaisetsu/tojisi2.html
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi3.htm
132出土地不明:2006/04/02(日) 21:06:53 ID:bYT5KP4g

http://members2.jcom.home.ne.jp/1228105901/0509jofuku.pdf

↑ここまで研究しといて、何で当時の中国の主流文化が全く伝わって
いない事に気が付かないんだろうね?

灰陶、灰釉陶、紅陶、土とん墓、金文、青銅貨という言葉はもちろん、
最も肝心な支石墓という言葉さえも出てこないというお粗末さ。

稲作だけで妄想を膨らませ、更に妄想を重ね続けると、
果たして人間はここまでメクラになるものなんだろうか?

もはや妄想の狂人という言葉しか出てこない。
133出土地不明:2006/04/02(日) 21:08:22 ID:bYT5KP4g
そして、同じく小麦の一大産地だった中国黄河流域の河北地方に
生まれた麺である。華北の地に小麦の栽培が伝わったのが
春秋戦国時代。

http://www5c.biglobe.ne.jp/~elspace/sub11.htm

小麦は7000年頃メソポタミアで栽培されていて、中国には2000年
以上前にシルクロードを通って入ってきたといわれている。
しかしそれ以前の紀元前4000年に小麦があったことが判明している。

http://kixsfo.fc2web.com/asia/china.html

周代初期(前1300年頃)には大麦が、春秋戦国時代(前900〜前400年)
になって小麦が伝わったといわれている。

http://www.geocities.jp/tyan91/bun7..html
134出土地不明:2006/04/02(日) 21:09:22 ID:FsIcE+ck
AD400年代(5世紀)は、
任那時代ではあるが、漢人の技術者の渡来時代といえるのではないだろうか。
王仁キシの来日のように。

文献的には、楽浪郡の漢人が
倭人の任那支配によって保護されていたという見方である。
135出土地不明:2006/04/02(日) 21:11:43 ID:bYT5KP4g
これだと小麦はBC1Cに日本に伝わったらしい。
なぜ渡来時に持ち込んでいないのか?


中国への伝来は数千年前に北方の新彊、蒙古と、南方のインド、ビルマ
からの二つと推定されており日本へは紀元前1世紀頃と考えられています。

http://www.icon.pref.nagano.jp/cgi-bin/v820/pro1.cgi/usr/shokuhin/org/page.html?9+201
136出土地不明:2006/04/02(日) 21:12:56 ID:bYT5KP4g
その木には、
・(おそらくは、たぶのき)・杼(こなら、または、とち)
・豫樟(くすのき)・(ぼけ、あるいは、くさぼけ)・櫪(くぬぎ)
・投(東洋史学者の那珂通世氏は「投」を「被」の誤りとし、「杉」とする。
苅住昇氏は、「かや」とする。あるいは「松」の誤りか)
・橿(かし。苅住昇氏は、「いちいがし」とする)
・烏号(やまぐわ。苅住昇氏は、「はりぐわ」に近い「かかつがゆ」とする)
・楓香(かえで)がある。

その竹には、
・篠(しの。めだけ、ささの類)・やだけ・桃支(がずらだけ。苅住昇氏は、
「しゅろか」とする)がある。

・薑(しょうが)・橘(たちばな。または、こみかん)・椒(さんしょう)
・みょうが

があるが、賞味することをしらない。
137出土地不明:2006/04/02(日) 21:13:29 ID:bYT5KP4g
魏志倭人伝(3C)には倭には生姜はあるが、倭人は食べる事を
知らないとあったが、これも伝わってないみたいだね。

中国では、紀元前480年頃にショウガの記録が残っているので、
歴史も非常に古い。日本へも、古くから伝わり「古事記」
「魏志倭人伝」などにも記されている。

http://www.ofukuro-aji.net/syun/etc_shoga.html

面白いのは茗荷で、茗荷は古代中国では食べられていたが、
今では薬用だけで食べないそうだ。

逆に古代日本では茗荷は食べられていなかったと倭人伝にあるが、
今では茗荷を食用に消費しているのは日本だけとの事。

つまり渡来人は茗荷を食べていた古代中国からではないと読み取れる。
138出土地不明:2006/04/02(日) 21:15:31 ID:bYT5KP4g
↓馬以前に車輪が弥生時代に伝わっていない事に気が付いていない馬鹿学者w



>筑波大学の桃崎祐輔先生の講演でも、馬の存在時期を最初に話題にされました。
>日本列島が縄文時代であった頃、春秋戦国時代の中国においては東中国海を挟んだ
>日本列島の対岸である山東半島には戦車をつけた状態で発掘される屠殺馬が多く
>みられることから、縄文人が馬を入手した可能性は否定できないとも話されました。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kibaminz.htm




139出土地不明:2006/04/02(日) 21:17:03 ID:FsIcE+ck
日本人は小麦を食べるのはウドンの文化から始まったのではないかと思える。

器具は、食文化と別に入ってくると思える。
入ってくるのと創れるのも違うと思う。栽培もおなじで。

緑茶の栽培は、宇治茶が始めであるが、
江南の天台山に禅宗留学した臨済宗の栄西が
江南の茶苗を持ち込んで宇治に植えたのが始まりという。
しかし緑茶は既に輸入によって飲まれている。

ウドンは倭寇の時に王直なる漢人倭寇のような中国人が
五島列島に手伸べウドンとして生成法とウドン小麦の栽培と伴に入って来たという。
米以外だと、蕎麦飯・蕎麦掻が唐招提寺の鑑真和尚による伝来という。
蕎麦の植生自体は日本列島にもあったが、栽培して料理して食べられる所までは
ソバが存在する=ソバという食べ物を作れる。の一致の確認が取れない。
140出土地不明:2006/04/02(日) 21:20:26 ID:bYT5KP4g


◎弥生土器の技術の伝播

 紀元前1000年紀には、無文土器が主流となった。この時代は、朝鮮半島における
青銅器時代とほぼ一致する。文様がないか、あるいはあってもごく少ない赤褐色の
平底の土器である。成形にはまだ轆轤の使用は見られず、手捏ねか輪積みによるもの
がほとんどである。分布は、中国の東北地方、西は遼河から東は黒龍江・松花江に
またがる地方と深いつながりを持ち、櫛目文土器文化とは違った文化圏が形成されて
いたことがわかる。そしてこの無文土器は、さらに東に伝わり、わが国の弥生土器の
母胎ともなった。

http://www.moco.or.jp/jp/intro/intro_3/intro_3b.html

141出土地不明:2006/04/02(日) 21:21:47 ID:FsIcE+ck
縄文の土器とは違うということなのですね。
142出土地不明:2006/04/02(日) 21:22:58 ID:FsIcE+ck
車輪つきの埴輪(はにわ)は存在しないのでしょうか?
143出土地不明:2006/04/02(日) 21:27:03 ID:bYT5KP4g
縄文晩期土器から遠賀川式土器への移行期の状態が典型的に現れ、これは本来広く
環瀬戸内で生起した現象と考えられ、当該地域の縄文文化が朝鮮無文土器文化と接触し
弥生文化を生成する過程として理解することができる。 

北部九州では突帯文系統の土器の中に朝鮮半島無文土器の影響による異系統の土器が
出現し、それが板付T式段階には遠賀川系土器の基本形の壷と甕となる。

遠賀川系の甕の形は北部九州において突帯文期の無文土器系深鉢から板付祖形甕をへて
完成するが、半島の無文土器の容量組成は遠賀川系がもっとも類似する。

その結果、畿内第T様式新段階〜第U様式の時期にも、朝鮮半島南部の無文土器文化の
影響が間接的にせよおよんでいる蓋然性が指摘できた。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~thropus/yoshida.htm
144出土地不明:2006/04/02(日) 21:28:49 ID:bYT5KP4g


◎遠賀川式土器とは?

 遠賀川(おんががわ)とは九州の福岡県を流れる川のことで、
この川の河口付近からたくさんの「弥生式時代前期」の土器が
発見されており、そのことから、前期の弥生式土器の総称を
「遠賀川式土器」とするようになったのである。

http://www2.inetpia.ne.jp/shimasyo/syokai/tiiki/rekisi/ongagawa.htm


145出土地不明:2006/04/02(日) 21:31:00 ID:FsIcE+ck
なるほど。無文土器がキーワードだったのですね。
弥生文化との接点が、今までの教科書的知識と違う事が判りました。
146出土地不明:2006/04/02(日) 21:31:45 ID:bYT5KP4g
車輪は7Cの飛鳥時代頃。牛車があったのかさえ分からず。


>車輪が埋まっていた砂層内からは7世紀後半の土器片が出土していることから、
>類例の少ない現存する車輪の内でも最古級である可能性があります。

http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/bunkazai06.html
147出土地不明:2006/04/02(日) 21:41:11 ID:bYT5KP4g
渡来人骨の持ち主が現れるのがBC7C頃のため、
その無文土器も対馬の海洋民が持ち込んだり、半島南部と
交易していた九州北部の縄文人が持ち込んだり、
技術輸入していたと見られている。

それと同時に水田技術や農耕具なども輸入された。

要するに弥生時代開始の主体は縄文人自身の手に因ってなのである。
148出土地不明:2006/04/03(月) 06:48:43 ID:WzNxQ1iV
>何で当時の中国の主流だった灰釉陶や印文硬陶が伝わってないのかね?
>最低でも何で粗悪な灰陶くらい伝わっていないのかね?
・技術者が渡来していない、もしくは渡来したが材料を得られなかった。

>何で漢字の前身である金石文も伝わっていないのかね?
>何で木製車輪のような便利な良いものが伝わっていないのかね?
・江南説なので、中国と入っても文化圏が違う。

>何で青銅貨などの金属貨幣くらい伝わっていないのかね?
・後年、和銅開寶が流通しなかったように、
 貨幣を必要とする段階にない。

>何で当時の中国で主流だった土とん墓が主流にならないのかね?
・吉野ヶ里は土とん墓

>何で弥生文化は紅陶文化と支石墓文化なのかね?
・支石墓文化については、これは調査の必要がある。

一方、山東省の人骨と北九州弥生人の人骨の類似、
現代日本人と中国少数民族の類似、
米の品種の類似、
古代中国人が、倭国を呉の末裔と考えていたこと、
以上を考えても倭族が渡来して倭国を建設したと考えるのが
妥当だと思う。
149出土地不明:2006/04/03(月) 21:06:24 ID:mWrGcBpF
>・技術者が渡来していない、もしくは渡来したが材料を得られなかった。


渡来人はたった一人の漂流民なのかね?激笑

渡来人は最低でも数百人以上は来ているのだから、粗悪な灰陶くらい
伝わっていない方がおかしい。

それに印文硬陶が幾何印文土器とも言われるように、
印文硬陶の器全体に施された20種以上の独特の幾何学文様さえ
全く伝わっていない。

しかも、鬲、鼎などの三足土器や爵、尊、觚などの酒器など、
中国独特の器形さえ全く伝わっていない。

これらは灰陶を伝える以前の問題である。
150出土地不明:2006/04/03(月) 21:45:18 ID:3uuacP8s
日本列島に渡来系がやってきても、日本列島にそもそも存在していた文化、
技術はそのまま利用している、というのが考古学的にわかることだ。
中国の土器が発見されていないのは、日本に縄文土器という中国の土器以上
に古いかもしれない伝統的で完成されたものがあったからだろう。素材となる
土の問題もあったかもしれないが。
151出土地不明:2006/04/03(月) 22:40:28 ID:mWrGcBpF
>・江南説なので、中国と入っても文化圏が違う。


江南にはBC6C以前から戦車があるようだがw


景公 〜B600〜B581
 諱は拠。成公の子。当時ようやく六卿の勢力が強くなり、B597年に
六卿の一人の先穀の独走によって[必β]で楚に大敗し、B589年にも半ば
郤克の私怨に報ずる形で鞍で斉と対陣した。はじめて六軍を編成し、
楚から巫臣を迎えて呉に戦車戦を教授させるなどし、また卿族に
対抗させる為に側近を重用したが、B583年に趙氏の族滅を招いた。

呉に戦車戦を教授させる
呉に戦車戦を教授させる
呉に戦車戦を教授させる
呉に戦車戦を教授させる

http://www.h5.dion.ne.jp/~liyca/page012.html
152出土地不明:2006/04/03(月) 23:05:32 ID:mPbmbUrQ
>>151
ただ、日本に来た渡来人がどこから来たか別にして、なんつうか、かなり
へんぴなド田舎から来たことは事実だ。ようするに、中華文明の主流にいた
連中が、わざわざ日本くんだりまできて、ってことはありえねーだろ。
広い中国。都市があっても、そこからかなり離れたところでは、そうとうな
原始的な生活している山の民やら海の民もいてだな、一応農業はやっている
ものの、っていう程度の連中であれば、中華の主流の文明が日本にこなかった
のも頷ける。まあ、だからこそ、日本は中華化されなかったわけだが。
153出土地不明:2006/04/03(月) 23:34:14 ID:8tAa85I+
君達は全く考古学の歴史が解っとらん!!日本は何万年以上から存在する世界最古の国であり、
諸国は天皇の下に統一されていた。だが、そんなことを認めたくないために
歴史を捏造している。日本の覇権がだんだん弱くなるにつれて、歴史の改竄はあらゆる
国でおこっている。
竹内文書を読んでみたまえ!先入観なしに読めば、その驚愕の事実に日本人に生まれて
きたことの喜びを感じる筈だ。
154出土地不明:2006/04/03(月) 23:40:54 ID:mWrGcBpF
>貨幣を必要とする段階にない。


弥生人は琉球まで渡って宝貝を土器や金属器と交換に買い付けていた。
貝が貨幣の代わりにもなったからね。


>・吉野ヶ里は土とん墓


はぁ????

学会認定のソースを出しなさい。

なお、チャン・ミンとかタン・ショウウとかいうチャンコロに
ほだされて、吉野ヶ里墳丘墓を土トン墓だとか言っている鬼塚克忠
とかいう佐賀大学のキチガイ学者の仮説論など要りません。
155出土地不明:2006/04/03(月) 23:48:40 ID:Et7aAlia
> 弥生人は琉球まで渡って宝貝を土器や金属器と交換に買い付けていた。
> 貝が貨幣の代わりにもなったからね。
でも、もっと後の時代になっても銅貨の導入には手間取ってたよね。
156出土地不明:2006/04/03(月) 23:53:26 ID:mWrGcBpF
>・支石墓文化については、これは調査の必要がある。


今さら、何を調査するのか?
支石墓が遼東から満州南部が起源なのは学会認定。


>一方、山東省の人骨と北九州弥生人の人骨の類似、


北方アジア抜きのインチキ調査でなw


>現代日本人と中国少数民族の類似、


人間である以上、何かは類似するわなw
ただし物的文化がさっぱり違うがな。
157出土地不明:2006/04/03(月) 23:57:52 ID:mPbmbUrQ
>>155
でも、縄文時代に、戦国時代とかの刀銭が日本に来ているわけだ。
158出土地不明:2006/04/04(火) 00:03:38 ID:mWrGcBpF
>米の品種の類似、


中世以降に入ってきた稲ではないという証拠は?w


>古代中国人が、倭国を呉の末裔と考えていたこと、


ところで、当時の華北人のどれくらいの人が呉に行った事がある訳?w
邪馬台国を訪れた華北人は呉にも行ってる訳?w


>以上を考えても倭族が渡来して倭国を建設したと考えるのが
>妥当だと思う。


北方アジアから倭族が朝鮮半島を定着せずに短期で突き抜けて
九州北部まで渡来して倭国を建設したのには同意w

159出土地不明:2006/04/04(火) 00:10:36 ID:ebDm1bsp
>でも、縄文時代に、戦国時代とかの刀銭が日本に来ているわけだ。


中国の戦国時代の刀銭がどうやって縄文時代に出るんだよw

大爆笑w


http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/shiryo7.pdf
160出土地不明:2006/04/04(火) 00:41:23 ID:3keKj0VL
少し>148に補足しておくと、
私は、弥生人の主流は江南の倭族で、
殷末から周初期にかけて呉国が形成される段階で
逃げ出してきた人たちが主流だと考えている。
それにより、江南の倭族は少数民族化したのではないかとも、
考えている。

後になって、長江下流が遠祖の地であるという伝承がある
=呉の民の末裔と思われたのではないか?

>149
弥生期の渡来人が技術者を連れて行かなきゃいけないという考え方が
よくわからん。

と、いうより、そもそも本拠を追い出された人々であって
呉を建国した民族からは賎民と見られている民族であって、
技術レベルが高いとは思っていない。
倭という言葉自体、従順な民ということなんだし。

>151
BC6Cだと、少し遅すぎるんじゃないか?
まぁ、仮に戦車があったとしても、それをもてるほどの身分の
人々ではなかったと思うが。

>154
逆に、金属貨幣では交換が不能だったと考えられないか?
あと、すまんね。鬼塚の仮説論で話していた。

>156
起源については認めるが、支石墓が小型化し、
すぐに廃れている理由とか、俺にはわからんことの方が多い。
これの調査というのは、渡来の主流の倭族系の弥生人と、
後に大和国家を形成してゆく支配階級が果たして本当に
同じ民族だったのだろうか、という疑問点があるんだ。

やや、タイムラグがある形で別個の民族が北九州で
文化を形成していった可能性を考えてる。
吉野ヶ里は、十分紛争を考慮した造りになっているし。
161出土地不明:2006/04/04(火) 00:43:58 ID:3keKj0VL
一部修正
× 別個の民族が北九州で
○ 別個の民族が北九州で同化して
162出土地不明:2006/04/04(火) 00:54:36 ID:3keKj0VL
>156
鳥越の倭族と少数民族の文化の類似についての説は
認めるに足る説得力jがあると思う。
163出土地不明:2006/04/04(火) 01:09:10 ID:ebDm1bsp
知能障害のキチガイへ

華中は殷末から周初期にはすでに灰釉陶や印文硬陶のメッカだがな。

その頃の日本には別の土器技術が伝わっているがね。

渡来人骨は弥生前期後半からしか見られない。

灰陶など技術者でなくても伝わる。単に焼成温度を変えるだけ。

当時の倭人は楽浪遺物の金属貨幣を貴重なものと有難がっていたがなw

弥生時代前期が終わるまでに500年はあるんだがな。
支石墓文化はかなり長く続いてるよ。

渡来人種も支配層も同じツンギーデだよ。

江南のシニーデとパレモンゴリーデの中間の南方人種など日本にいない。
164ad:2006/04/04(火) 01:16:12 ID:NjI5AWe2
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165出土地不明:2006/04/04(火) 05:01:04 ID:Dlx7nZDa
山東省の瑯牙郡?だかから諸葛氏など
西晋(統一王朝)から東晋(南朝)へ移動したという。
華北の門閥貴族が、揚子江へ五胡十六国の戦乱を避け移動。

民国時代に山東省の農民が、満州の奉天(瀋陽)へ入植。

女直族が満州族と改め明を攻撃、揚子江を超え南京福王を滅ぼし
(北から南へ)満州八旗・蒙古八旗が、華南(南明・三藩)を攻撃し定住。

明王朝の時に
広西省の苗族や広東・福建・四川の兵が外洋船(亀甲船)で朝鮮南岸へ
四川の都督の劉艇は、満州で女直族と戦闘。

黄河洛陽崇山少林寺の僧侶が、
福建の少林寺や、(福建移民からなる)台湾の少林寺へ。北から南へ。

女真族の金国が北宋を攻撃、皇帝家の趙氏ほか科挙官僚が江南に避難。
(北から南へ)女真族が揚子江を超え、杭州・紹興を攻撃。

遣唐使で日本天台宗第4代座主の円仁(栃木人)が
揚子江北岸の楊州城から
山東省の赤山法華院から黄河を経て河北に入り
(北から南へ)山西省の五台山へ密入国の留学をし、長安を経て
淮河の近辺の港から日本へ帰国。

唐時代に白村江の戦いの際に蘇定方?の水軍の船が
斉(山東省)から派遣(海から満州を経ず)
熊津[くまなり・シェンシン]を急襲し百済王を捕縛連行。
熊津都督の劉仁顔が百済を占領。

達磨大師は(南朝)梁の武帝と公案問答・禅問答の末に
(北朝)魏に渡り面壁九年。石の上にも三年。
洛陽伽藍記にみる禅林(禅宗僧の集団や禅寺の立ち並ぶ)を実現。

南の人が北に渡るも、北の人が南に渡るもある。西の人が東に渡る。
166出土地不明:2006/04/04(火) 05:08:09 ID:Dlx7nZDa
日本から朝鮮へ
【唐辛子】
唐辛子は秀吉の朝鮮出兵の際に、日本の足軽が持ち込んだ。
中央アメリカ原産で南蛮渡来。李氏朝鮮後期の書物に
倭芥子として紹介されている。

日本から朝鮮へ
【火縄銃】ポルトガル銃・鳥銃と呼ぶ。
【さつま芋】
【砂糖】
【焼酎・泡盛】
【ガラス】
【刃物・のこぎり】
車輪類と籠(かご)は、李氏朝鮮で禁止、
お神輿(担架タイプ)を使用。
167出土地不明:2006/04/04(火) 05:14:05 ID:Dlx7nZDa
金石文

金文と石文、つまり、鼎(かなえ)・鐘・石碑・仏像等、
金属・岩石・木版(つまり紙以外の材料)等に
刻された文字・文章・銘文の総称。
文字が陰刻されたものは「款」、陽刻されたものは「識」と呼ばれる。
又、彫刻に依る事が多い為、独特な字体(金石文)を生んだ。
168出土地不明:2006/04/04(火) 05:20:06 ID:Dlx7nZDa
<古墳時代の金石文>
 次の文章を読み、下記の問1〜9に答えよ。
問1〜7については、それぞれの解答を選び、記号をマークせよ。
問8・9については、それぞれの解答を記入せよ。
 古墳時代の日本列島には、紙以外の素材に文字を記したものが少なくない。
かつて( 1 )氏が祭祀を司った石上神宮には、
( 2 )王が倭王のためにつくった「( 3 )」であることをa表裏に
わたって記した鉄製の片刃の剣が伝えられている。また、
( 4 )古墳出土の鉄製太刀と、( 5 )古墳出土の鉄剣には、
ともに( 6 )天皇をさす可能性が高い「b大王」に仕えたことが記されていた。
とくに、( 5 )古墳出土の鉄剣には、その「大王」が「c斯鬼宮」にいたとある。
このように、「宮」の存在が具体的に分かることは貴重であり、
さらに、「d意柴沙加宮」が設けられていたことを示した人物画像鏡も伝えられている。
 問1.空欄1に該当するものはどれか。
ア.蘇我  イ.中臣  ウ.忌部  エ.大神  オ.物部
 問2.空欄2に該当するものはどれか。
ア.任那  イ.宋  ウ.百済  エ.新羅  オ.高句麗
 問3.空欄3に該当するものはどれか。
ア.百練利刀  イ.杖刀  ウ.四尺廷刀  エ.七支刀  オ.六枝刀
 問4.下線部分aに誤りがあれば、次の中から正しいものを選び、
もし誤りがなければカをマークせよ。
ア.一面にのみに記した鉄製の両刃の剣
イ.表裏にわたって記した鉄製の両刃の剣
ウ.表裏にわたって記した銅製の両刃の剣
エ.一面にのみに記した銅製の片刃の刀
オ.表裏にわたって記した銅製の片刃の刀
 問5.空欄4と5に該当するものはどれか。
ア.大山  イ.江田船山  ウ.高松塚  エ.稲荷山  オ.隅田八幡   カ.稲荷台
 問6.空欄6に該当するものはどれか。
ア.景行  イ.崇神  ウ.継体  エ.允恭  オ.雄略
 問7.下線部分bにあたる人物の呼び名はどれか。
ア.セイ  イ.オオサザキ  ウ.ワカタケル  エ.シマ   オ.ウジノワキイラツコ
 問8.下線部分cの読み方をひらがなで記せ。
 問9.下線部分dの読み方をひらがなで記せ。
(早稲田大学 教育学部 98年)
169出土地不明:2006/04/04(火) 05:24:21 ID:Dlx7nZDa
熊津[くまなり・シェンチン]を急襲し百済王を捕縛連行。
でも?

天津(テン シン)
熊猫(シェン マオ)
マオと鳴く猫(白猫)、泣かぬ猫(黒猫)。
(黒だろうが白だろうが)ねずみを取る猫が、良い猫。
170出土地不明:2006/04/04(火) 05:28:17 ID:Dlx7nZDa
饅頭も天津甘栗も、小麦や栗のあった日本には、
日清戦争後でないと知られないよね。
なぜなんだろう。

広東とつながりのある五目ソバと長崎チャンポンは
麺(小麦)が、支那ソバとウドンの違いがあるのに、
野菜類の餡かけ煮込みが同じ。
なぜなんだろう。

紺地金字という青い紙に金の字を書く仏教のお経がある。
金石文より
こちらあるのはなぜ?
171出土地不明:2006/04/04(火) 05:30:26 ID:Dlx7nZDa
× 紺地金字
○ 紺紙金字
172出土地不明:2006/04/04(火) 05:36:55 ID:Dlx7nZDa
日本は、紙があり・石文が少ない。
朝鮮は、書物を焼き・首の無い石の像が多い。

李氏朝鮮は、盗賊が貴族の屋敷を襲撃すると
書類は焼く性質がある。李朝実録は秀吉の出兵の際に
春秋館(歴史館)の歴史書を平気で焼いている。
5箇所の歴史館中、全州一箇所だけ残るという。

捏造が多いので、石文しか残らない。しかも
「貨幣」は「金」も「銀」も「モンゴル紙幣」も使用を禁止され
「中国鋳造」の「銅銭しか」使えない
日本は「中国銅銭」でしか朝鮮で商売できなかった。
イギリス・フランスの攻撃とアメリカの通商修好の条約以降で無いと。
173出土地不明:2006/04/04(火) 11:02:45 ID:sI6KFJDm
弥生人の来た数はどれくらい?
少なければ伝わった文化も少ないだろうし・・・
174出土地不明:2006/04/04(火) 12:45:53 ID:Bqif3dvr

ハングル文字解読乙!

基本形

「O」→数字のゼロ

「ト」→カタカナのと

「T」→英語のてぃ

「一」→漢字のいち
175出土地不明:2006/04/04(火) 12:58:00 ID:8SOGVoO+
埴原によると100万人。
176出土地不明:2006/04/04(火) 22:08:14 ID:0SeWNA1/
Q.>>172

A.>>124
177出土地不明:2006/04/05(水) 04:52:16 ID:SD7382M5
新羅九州(現在の京畿道以北なし)
 漢山州(漢州_唐恩津_泰村=泰封)_京畿道・忠清道
 牛首州(朔州)___________忠清道・江原道内陸部
 河西州(冥州)___________江原道海岸部
 軟良州(金城=慶州_華厳経と仏国寺)慶尚道東部
 沙伐州(尚州)___________慶尚道西北部
 菁州(康州)____________慶尚道西南部
 熊州(熊州)____________全羅道北部
 完山州(全州)___________全羅道中部
 武珍州(武州)___________全羅道南部


高麗十二州(現在の黄海道以北なし)
 黄州 海州
 楊州       ※北漢山(京城[きょんソン]・ソウル漢江以北)
 広州       ※南漢山(漢陽[はにやん]・漢城[ハンそん]・ソウル漢江以南)
 忠州 清州 公州 ※公州は昔の百済の熊津(熊川・くまなり)で今の大田[てジョン]
 尚州 晋州 昇州 ※昇州は半島南岸多島海地方で今の順天[すんテン]〜麗水[ヨす]あたり
 全州 羅州    ※全州[ちょんジュ]は鄭氏[ちょんシ]の晋州官奴[チンじゅカンの]の所領
高麗4都(契丹族の東丹国と摩震国・女真族金国の高麗藩と斉国・蒙古王朝の東真国と斉国)
 西京(平壌:東丹国=東契丹=遼東・高麗西界→高麗北界が咸鏡道)
 開京(開城:高麗藩・斉国)
 南京(楊州・漢陽:摩震国・渤海族の大量移住、一部族に女真族を含む)
 東京(慶州:遼西奚族慶州・東真国=東女真・女真族の刀伊・高麗東界→高麗北界が平安道)
178出土地不明:2006/04/05(水) 05:02:38 ID:SD7382M5
【 朝鮮−韓国(李朝〜現在)】
永吉道(1413-1416)→咸吉道(1416-1470)→永安道(1470-1509)→咸鏡道(1509〜)
豊海道 → 黄海道
江原道 → 江襄道 → 江原道
公清道 → 公洪道 → 忠清道
全南道 → 光南道 → 全羅道

【 監司(観察使) 】
府使 → 府史・府尹(倭寇の長興府史の戦死・虜乱の義州府尹の林慶業[イムぎょんオプ])
牧使 → 牧史・牧尹(倭乱の晋州牧史の戦死)
郡守 → 太守
県令 → 県監(尹令?→尹士)

[りちょうじつろく] http://www.tabiken.com/history/doc/T/T075C100.HTM
春秋館(王宮−漢城)・忠州(漢江上流)・全州・星州(慶尚道で旧地名が倭館)の
4史庫に1部ずつ分蔵した。
1592年の(秀吉の朝鮮出兵)壬辰倭乱により,全州史庫以外の3史庫の実録は焼失。
(王宮−漢城)春秋館・(江華島の)摩尼山(のちに鼎足山)・
(平安道東部山間の)妙香山(のちに赤裳山)・
(慶尚道側江原道南部の)太白山・(黄海道側江原道北部の)五台山の
5史庫に1部ずつ収蔵
春秋館の実録は兵火により焼失,摩尼山史庫の実録も戦禍により破損された
太白山史庫と鼎足山史庫の実録は,ソウル大学中央図書館に保管されている。

高麗(高句麗)→新羅国→泰封国(弓裔)→摩震国(王建)
→高麗藩(王弟)→斉国(忠烈王)
→高麗国
 初代の高麗王・李朝太祖・李成桂(いソンげ)
 2代目高麗王・李朝定宗(太宗の兄)
 3代目高麗王・李朝太宗(王弟)・明国より朝鮮国王に封じられる。
 朝鮮国王・4代目の世宗・倭寇は和服を着た本国人(朝鮮人)だと実録に記載。
 朝鮮国王・10代目の燕山君(よんサンぐん)が、倭寇弾圧で倭服と倭文字と倭楽器を焚書坑儒。
179出土地不明:2006/04/05(水) 05:15:36 ID:SD7382M5
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1112370869/804-805

新羅九州(現在の京畿道以北なし)
 軟良州(金城=慶州_華厳経と仏国寺)慶尚道東部

高麗十二州(現在の黄海道以北なし)
 全州 羅州    ※全州[ちょんジュ]は鄭氏[ちょんシ]の晋州官奴[チンじゅカンの]の所領

高麗4都(契丹族の東丹国と摩震国・女真族金国の高麗藩と斉国・蒙古王朝の東真国と斉国)
 西京(平壌:東丹国=東契丹=遼東・高麗西界→高麗北界が咸鏡道)
 東京(慶州:遼西奚族慶州・東真国=東女真・女真族の刀伊・高麗東界→高麗北界が平安道)
180出土地不明:2006/04/05(水) 05:17:20 ID:SD7382M5
ビルシャナ仏
 華厳経: 新羅から(奈良南都六宗の縁起にあり)

ビルシャナ仏
 大日経: 真言宗の空海が唐は長安留学で恵果アジャリから伝授。
釈迦仏
 法華経: 唐の江南の天台山から(断片はともかく、法華三部は天台宗の最澄の遣唐使の結果)

釈迦仏
 禅宗(南宗禅・広東人禅宗六祖慧能): 天台宗葉上派(臨済宗)による
                    唐の江南の天台山から
                    緑茶栽培喫茶養生・味噌醤油豆腐の菜食主義

北朝鮮の米食は、日本の支配、朝鮮総督府から。
北朝鮮での水稲の栽培の為の本格的な品種改良は、昭和初期から。
北朝鮮では北海道より米作は出来ないとの事。

満州: 高粱
河北: 粟・小麦(饅頭・ペーパーブレッド[紙状パン])
華中: 小麦(焼餅・饅頭)・米
江南: 米・緑茶喫茶・味噌
華南: 米・小麦(餃子)・緑茶喫茶・味噌
181出土地不明:2006/04/05(水) 05:41:49 ID:SD7382M5
高麗は、桑と柴と粟で、焼畑の文化。
田柴科制という腐葉土や薪に山菜採り山獣狩りをする領地を与える。
この中に山焼きの権利がある。
山の朝鮮人参や生姜、大根、狼(犬)肉、粟や桑の栽培も含む。
そこの洞(ドン)に住む奴婢(のび)の使役権も含む。
一つの行政区がドン(洞)でありイ(里)であり、その一帯をミョン(面)といい。
栽培等の土地を図るマルという度量衡と
その集落がマウル(邑であり、洞[ドン])で
マウルをまとめた
ナラ(国・その地方の面[ミョン])の長老や国主をニム(任)と呼んだ。
ナウリニム[閣下]は、その土地の旦那であり主人であり長老である。

朴正熙(パクちょんヒ)大統領の時も、焼畑の保護策が出ていたと思ったのだが。
パク大統領はナウリニム(閣下)なの。

ジュンク堂の商品棚にあったね。今はドウか判らないが。
韓国?焼畑の研究だか、軍事政権の農業政策だか?題名を、よく覚えていない。。。
182出土地不明:2006/04/05(水) 05:53:07 ID:uAxc+YUj
ドン(洞)の住居は、土盛りで横穴の住居であり
女真族や蒙古族の侵略に対し、どこに住んでいるか判らない
ゲリラ戦に適していた為に
腹を立てた蒙古族は、住民を引きずり出し見せしめの大虐殺を行った。

この原始的なドンを無くし
セ・マウル(新しい邑)運動を、全斗煥(ちょんドふぁん)大統領の時に行った。

光州事件の全羅道の連中は
ヤクザ組(契[ゲ])のチゲ(荷背負い人夫・人足)のような暴動を起こし
徴兵制を悪用した武器庫襲撃と演習的に国内で戦争を起こした。

日本の嘲笑を無くす為の経済発展を遅らせ、政治的民主主義なるものを優先させ
カトリック教会や学校や喫茶店を、都市部でヤクザのアジト化させた。

大阪の警察官を襲って拳銃を盗んだ、在日朝鮮人が韓国に密入国し
大統領を狙撃して問題になった時
社会党や民社党や共産党が犯人の取り締まりを先の戦争に反省が無いといて妨害し
公明党は韓国人の出稼ぎの為の日本入国の緩和を望んだ。

セ・マウル運動を遅らせた。
183出土地不明:2006/04/05(水) 06:17:29 ID:uAxc+YUj
http://food6.2ch.net/test/read.cgi/food/1073012800/497n-500

>404年 高句麗の南侵・王仁キシ渡来し習字の千字文一巻と論語十巻きを伝える(古事記・奈良の伝)
>510年 中国南朝・六朝梁国の周興嗣が習字の千字文を作詞する(遣唐使・平安仏教の伝)
 夫朝鮮 狡黠多詐 利之所在 不顧信義 蓋穢貊之俗 天性固然(新井白石 「国書復号紀事」)
  朝鮮人つうのは狡くて人を騙す、利があれば信義なんか顧り見ない連中だ。
  しょせん、わい ばく なんつう野蛮人だし、天性としてこういう性格に凝り固まってる。
> ______サイパン陥落1944/07。> 徴用令の朝鮮への適用開始1944/09。
> 結論サイパンに朝鮮人の徴用者などいない。(テレビのニュースで朝鮮人が謝罪と賠償金を要求)
>鉄砲伝来1543年
>ザビエルが日本へ1549年8月14日
>島原の乱1637年
>チポンユソル(芝峰類説1700年代・李朝書籍)に倭芥子(うぇケじゃ・唐辛子)が記載
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・・・満州王朝(清国)ホンタイジ時代だと思うが・・・
中国の属邦の中でも朝鮮の地位は最も低く、下国のなかの下国であった。
天朝の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し
朝鮮の使臣だけは異色の丸首の衣である。また、琉球の使臣は籠に乗って宮廷に入るのに対し
朝鮮の使臣は籠に乗ることを禁じられていたこと「渓陰漫筆」に書かれている。
 明国皇帝の子孫(位:親王)
朝鮮国王(位:親王)仁祖(明朝の時の扱い、清朝太宗の時に三田渡で受降壇の扱いに下落)
日本国王(位:親王)源道義(日本名・地位:足利義満・征夷大将軍)
日本国王(位:郡王)平秀吉(日本名・地位:豊臣秀吉−木下藤吉郎・天下人−関白−太閤殿下)
琉球国王(位:郡王)尚豊王(清朝になって王冠が12の垂れのある宝石をふんだんに使った物)
184出土地不明:2006/04/05(水) 06:59:28 ID:3UehTyRW
勘合貿易  明国は日本とは
 寧波(明州)で『市舶司』を置き朝貢貿易(10年に一貢、船隻3、人300人)の制限
 日本国王は源道義(室町幕府・征夷大将軍の足利義満)の許可印
 幕府将軍一族(足利・細川など)と
 豪族寺院(安国寺・相国寺など)が明国と儲け
地方豪族(松浦など)と大名商人(大友など)は私貿易で倭寇(南倭)を働いた。
1548年 私貿易弾圧・中国貿易業者と日本西国大名が報復反抗した。
1553年以降に江蘇・浙江の沿岸は倭寇の大規模な被害を受けた。
1560年ごろになると福建・広東に私貿易が移動し、中国人倭寇が横行した。
萬暦帝の時にマカオを経由してポルトガルの軍事力下に私貿易が横行し倭寇が減った。

朱印状貿易  朝鮮出兵後に講和で勘合貿易に変え
 秀吉の死後に豊臣の家臣たち(徳川など?)と結んだ貿易。
 満洲の中国侵略と支配(清朝[満洲王朝]に王朝の姓易革命)により
 「中国人豪族の私貿易」と「日本の幕府の公貿易」の形に変容した。

市舶司○(貿易ありを知っている)・明国業者(司から許可有・明州)・西国業者・室町幕府
満洲総督×(貿易ありを知らない)・漢人業者(吏から無許可・広州)・出島業者・江戸幕府
185出土地不明:2006/04/05(水) 07:00:08 ID:3UehTyRW
李氏朝鮮
 明国は第3代李氏朝鮮王の
 太宗から始めて朝鮮国王に冊封し、明末まで朝貢関係を強いた。
 朝貢は3年に一度。国王交替時に挨拶。国王に封じる勅を貰う。
1.太祖 1392−1398 二人の王子を殺され仏教式に埋葬。
2.定宗 1398−1400
3.太宗 1400−1418 朝鮮国王に封じられる。彼から明末の16代の仁祖まで明に朝貢。
4.世宗 1418−1450 陰陽合体の性理説儒教を国教とし仏教を徹底弾圧し寺院を18院に減らす。
10.燕山君 1494−1506 和服・倭文字を使う朝鮮人を焚書坑儒。
11.中宗 1506−1544 三浦の乱・日本と結託する仏教徒や貿易者を大量殺戮。貿易禁止。
12.仁宗
13.明宗
14.宣祖 1567−1608(1592−1607 文禄慶長の役・明軍の保障占領と撤退)
15.光海君 1608−1623 日本軍の捕虜だった2王子の一人?。
16.仁祖 1623−1649 三田渡で満洲八旗に降伏し明国(南学)と関係を断ち
                         満洲(清国・北学)に朝貢。
186出土地不明:2006/04/05(水) 07:00:39 ID:3UehTyRW
安重根は、家族親戚の安一族から嫌われていた。
安一族は、日本の警察、朝鮮人警察官の監視下に置かれ、重根を恨んでいた。
フランス人神父は洗礼も授けないのにカトリック教徒といっては日本人官憲を困らせ
同じ朝鮮人同士からは東学を守らない不埒なヤツと敬遠されていた。
そこにロシアのスパイが話を持ちかけてピストルを渡した。
伊藤は日本で占い師に将来を占って貰って満州に行けば死ぬでしょうとお告げで
その時に、維新の勤皇の志士が
学校教育普及担当の森有礼など人格者も含め全て暗殺や戦死を遂げて
私一人となった今、運命が怖くて死ぬのを逃げて、生き恥をさらしたくないといっている。
志士達に申し訳ないし会いに行きたいといったと言って
暗殺を励ましたと言う。
図に乗ってハルピンで殺害した。
伊藤公は喫茶店で安重根がくつろぎピストルを確認したのを日本官憲が目撃したのを聞いており
ロシア兵達が日露会談の護衛で、駅構内を散開して警戒していたと現地の人は証言している。
ロシア兵はあえて安重根を暗殺間際に射殺処刑するのをせず、
むしろ何気に伊藤公と安重根の前に立ちふさがるような形成で
ロシア側にも日本側にも、朝鮮人の跳ね上がり者がロシア兵や日本要人に向って発砲した。
と言いがかる口実を狙っていたと言う。
187出土地不明:2006/04/05(水) 07:02:28 ID:3UehTyRW
中国から金九(1948年?9月9日に暗殺)という人が帰ってきた。
この人が、中国>朝鮮という形式からして統一朝鮮大統領の選挙での
当選候補だったんだが、
軍隊は、ソ連軍について回った「朝鮮共産党北四道分局」の「金日成」と
アメリカ軍と一緒に来た「李承晩」に味方し、彼等が実際の権力者だった。
ソウルには「朝鮮共産党の書記長」の「朴憲永(パクこにょ)」がいたが
一度出されたものの、引き戻され、引き続き「監獄」の中だった。

つまり
ポツダム宣言の「イギリス・アメリカ・蒋介石中国」では、李と金しか選挙の候補には考えていなかった。
金を暗殺し、共産党を弾圧し済州島に逃げた共産党と地元住民を虐殺したため
日本に逃げて来た朝鮮共産党は、日本共産党から分派した朝鮮人の闘志とともに
占領軍のアメリカ兵と日本の警察に対し、殺害や放火で攻撃を仕掛けてきた。
社会党も日本共産党の軍事部門の日本赤軍も、北4道分局の金日成とソ連軍の指揮下で
インターナショナル共産主義を実現すべく、テロ活動に励んだ。

アメリカ軍は刑務所から共産党員と朝鮮人を解放して
農地改革で農民が、選挙による民主勢力として都市民が
アメリカ兵に味方してくれると期待したが、相反してアメリカ兵に
投石や火炎瓶に鉄パイプなどで、殺害を挑んできた。
アメリカ兵自身が傷つくのを恐れ、
極東軍事裁判で刑務所に入れた右翼や旧軍部を警察やスパイとして
共産主義や新興宗教に信者として潜入させ、刑務所から釈放し
アメリカ兵が神社の境内に集めて警察官や消防団の妻や娘をレイプした
にもかかわらず、そのサーベルにピストルどころか、警棒も持たせなかった
警察官達を再武装させ
在日の朝鮮人と日本赤軍に対して再武装日本警察に発砲させた。
アメリカ兵とアメリカ民間人はいい子になった。
そこから、朝鮮戦争の南侵の口実は出来上がっていった。
188出土地不明:2006/04/05(水) 08:49:30 ID:GotMNpsd
>>177-187
何で必死に荒らしてるの?
189出土地不明:2006/04/05(水) 15:32:21 ID:GotMNpsd
法律も漢字の原型の篆書も伝わっていない。


Q:殷・周の時代、法律はすでに存在していたのですか。

A:慣習法としてはすでに存在しています。春秋時代の鄭の国の大臣・子産が、
初めての成文刑法を作りました。BC536年のことです。

Q:春秋・戦国時代のころは、どんな文字を使っていたのですか。

A:篆書、正確には小篆です。

http://www.hyogo-c.ed.jp/~mikihigashi-hs/maekawa/02-05.htm
190出土地不明:2006/04/05(水) 18:04:38 ID:XpJ7VU58
倭王武の上奏があった南朝・六朝の宋の頃(4世紀・300年代)は
 何の書体の漢字を使ってたのですか?
 明朝体でしょうか。
 おおよそ明は15世紀〜17世紀(1400〜1600年代)です。

梁の武帝の頃(6世紀・500年代)に達磨大師がいましたが
 漢字の教本の千字文はこの頃の作です。
 高句麗の好太王の時代(4世紀・300年代)に、まだありません。
 臨済宗が伝わったのは北宋時代(12世紀・1100年代)でした。

緑茶の喫茶が本格化したのは、
 茶経の著述がある?顔真卿の頃(唐・9世紀・800年代)でしょうか?

元寇のあった頃の半島西南部の木浦(もっぽ)ではウンコ漬け朝鮮エイがあり
 醤というヒシオで、穀物(たとえば大豆)による味噌がありません。

南漢(広東)曹渓山が由来の南宗禅は、六祖慧能より臨済宗・曹洞宗と別れ
 2代流派です。味噌や豆腐を作り緑茶を飲みます。喫茶去の字義です。
韓国の茶飲みは日本による総督府支配からです。

納豆は、日本独特で味噌ではなく、前九年の役に源義家の父が
 陸奥に遠征の際に、大豆が藁にくるまれていた時に
 醗酵して糸を張っていたのを発見して、食べて害がなく
 人工的に作れるか後世に工夫した所から始まったと言います。水戸納豆です。

醤油はタマリといって日本独特で、本来は中国のXO醤とは違う製造法です。
 北関東に多く、タマリを人工的に大量製造する技術は
 江戸の中期(17世紀後半)に、なってからと言います。

朝鮮とは鎖国ですから伝わっているハズがありません。
 対馬の宗氏からの書簡のやり取りでも、第8代将軍吉宗の漢方生薬の
問い合わせに不真面目で、日本の漢方の用語を始めて知って
漏洩で朝鮮に伝わり得意がり、朝鮮には産出しないし輸出できない旨を伝え
日本側を怒らせています。朝鮮にあっても物惜しみで貿易しなく
日本にある漢方をタダ同様で欲しがる始末です。

唐辛子・薩摩芋・カボチャ・じゃがたら芋・鉄砲・砂糖・
 漆和器・南洋や広東からの漢方生薬は
 日本の対馬宗氏からの輸入や倭寇や秀吉の出兵の置き土産でした。
191出土地不明:2006/04/05(水) 18:22:49 ID:XpJ7VU58
茶でも烏龍茶は19世紀だと言います。
紅茶は、緑茶が船で運んでいた際に醗酵して、イギリスで荷卸の際に
紅茶になっていたのを、インド現地で作るようになってからです。
この醗酵の技術を烏龍茶に生かしたのではないかと思われます。

カーシュナッツはブラジルが原産で、ポルトガル人が
東アフリカ(モザンビークやマダガスカルか?)や
東南アジア(東チモール・インドネシアなどか?)や
インド(ゴアなどか?)で
防風林として植えたのが始まりと
ショップ99や百円ダイソーの商品袋のウンチクにあります。

インドは豆文化でイスラムは豚肉をヒンドゥーは牛肉を食べません
タンドリーチキンに豆の粉で香辛料を混ぜるカレーの食事で
宗教的に多様で菜食主義があります。

インド洋から東南アジアを経て広東にくると
アーモンドが杏仁と漢字の杏仁豆腐があり、大豆の豆腐とまた違いますが
コロイドや寒天生成法などを使った食材があります。

穀物の食材や調理法は「食は広東にあり」からあるように
国際貿易港で、世界の食材や生成法があって
手に入るからこそ出来る料理。と言えます。

油料理で油を採るのは手間で創るのが面倒くさく
チャーハンがピラフは中国からヨーロッパでしょうし
日本へはテンプラ料理として伝わり
徳川家康がタイのテンプラで食中り(しょくあたり)が有名です。

唐酒がどういうものかわかりませんが、泡盛のように度数の高い酒でしょう。
広東の焼酎は、乾式白酒であり白乾児(パイカル)と言い35度です。
「白酒」ではなく「乾式」が蒸留酒・焼酎である部分です。
14〜15度前後の紹興酒(中国酒)や清酒(日本酒)のような
醸造酒ではありません。
192出土地不明:2006/04/05(水) 18:27:17 ID:XpJ7VU58
安藤美姫?さんが青森で縄文顔なのでしょうか?
村主(すぐり)さん?が弥生顔なのでしょうか?
やばい例を何気に出してしまいますた。
193出土地不明:2006/04/05(水) 18:41:21 ID:XpJ7VU58
東北は縄文顔も弥生顔もある。
 現地の蝦夷の人
 奈良時代の屯田の関東人の農民・蝦夷征伐の上役で関西人
 平安時代の後三年・前九年の役・奥州藤原で関東武士・婚姻で関西公家
 鎌倉時代の平泉監視で、関東武士と家人
 室町時代に南北朝の武士抗争で、関東の公方(くぼう)武家と家人・
                近畿東海の宮方(みやかた)武家と家人
 江戸時代の藩への出仕で異動・国替えで武士の異動。
 明治時代の四民平等で、引越し居住の自由が出始める。
 戦後高度経済成長時代の首都圏関西圏への出稼ぎや引越しや地方に工場など引越し。

南東北は、ほぼ平民関東・支配者関西のような、日本人度数の高い土地。

関東地名の苗字は鎌倉武士に多い。
 千葉(千葉県)・葛西(地下鉄東西線)・
 大崎(山手線)・目黒・渋谷・
 豊島(池袋から東京の大手町あたり)・三浦(三浦半島)・
 菊田(千葉の習志野の津田沼の地を久久田[菊田]と言った)・
 相馬(茨城の取手周辺の利根川の両岸の地域)・・・。

江戸の伊達藩(仙台様)への出仕
 林(林子平・学者)
 川村(川村孫兵衛・毛利家の河川土木の技術者・品井沼干拓・
    北上川の石巻港への掘削工事・貞山堀・荒町堀など)
194出土地不明:2006/04/05(水) 18:53:29 ID:XpJ7VU58
奈良時代から平安時代
 征夷大将軍は、坂上田村麻呂・父が刈田麻呂。
 鎮守府関連は、小野タカムラ。
 秋田の反乱を対話で鎮めた小野春風。うねめ?に小野小町。
 藤原経清から藤原清衡〜秀衡など。
 藤原分家が青森津軽の安東福島城で安藤氏に。
 鎌倉以降は藤原の名ではなく安藤氏。
 清原・阿倍・金(こん)など。

平家や源氏は本家が滅びているので分家名が由緒になる。
明治維新まえ。住んでいる場所の菩提寺(仏教)・神社名(神道)がわかる。
 平家: 北条・金沢・石田・秩父・相馬・千葉・三浦・・・
 源氏: 足利・今川・佐竹・武田・南部・徳川・新田・・・
 藤原: 近衛・三条・西園寺・鷹司・・・
195出土地不明:2006/04/05(水) 18:59:20 ID:XpJ7VU58
津田沼の地名は、昭和戦後の後世のつくり
  ↓
_谷津
久久田[菊田]
_鷺沼
で、津田沼と町名を創った。
こんなヌマだとか田舎な名前にしたのは、行政の責任。
総武快速線で何でヌマなのや田舎くさいドンくさい。ヤメい。とか
愚痴の対象になっている。千葉がなめられているいわれである。

習志野丘陵にちなんで津田沼を止めて習志野にした。でも。
習志野市津田沼○丁目○蕃○号の地名は残っている。
196出土地不明:2006/04/05(水) 19:01:09 ID:XpJ7VU58
ヌマがつく人々が、弥生人か、どうかは判らない。
197出土地不明:2006/04/05(水) 19:08:05 ID:XpJ7VU58
ソバが岡山に移ったのは
織田信長の小姓だった
森蘭丸の兄弟だかが長野信州の領地の殿様だったのが始まり。

江戸時代になってお国替えで岡山の美作国のお殿様になった。
信州ソバが食べたくてソバの栽培と料理人を召抱え
岡山にも日本ソバが作られるようになった。
198出土地不明:2006/04/05(水) 19:11:24 ID:XpJ7VU58
森蘭丸は朝鮮出兵と関係ない。

漢人倭寇の王直の五島列島のウドンも中国に関係あるが朝鮮とは関係が無い。
群馬の揖保の糸も
宮城の白石温麺も関係ない。
199出土地不明:2006/04/05(水) 19:17:48 ID:FpOEyq6s
朝鮮半島に灰陶が入ってきたのはどうもBC2C末に置かれた楽浪郡からの
ようで、漢代の灰陶の流れを汲む楽浪瓦質土器(楽浪土器)というのが
最初らしく、在地土器と共存していた。朝鮮南部での瓦質土器の出現は
BC1C頃で、やはり三韓軟質土器という弥生土器に近い土器と共存していた
らしい。(下のリンク参照)

http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2000a_41.html

日本における最初の灰陶は5Cの須恵器からであり、倭の属国になった
半島の帰化人によってもたらされたのは皆さんよくご存知の通り。
200出土地不明:2006/04/05(水) 19:21:23 ID:FpOEyq6s

http://members2.jcom.home.ne.jp/1228105901/0509jofuku.pdf

↑ここまで研究しといて、何で当時の中国の主流文化が全く伝わって
いない事に気が付かないんだろうね?

灰陶、灰釉陶、紅陶、土とん墓、金文、青銅貨という言葉はもちろん、
最も肝心な支石墓という言葉さえも出てこないというお粗末さ。

稲作だけで妄想を膨らませ、更に妄想を重ね続けると、
果たして人間はここまでメクラになるものなんだろうか?

もはや妄想の狂人という言葉しか出てこない。
201出土地不明:2006/04/05(水) 19:23:44 ID:FpOEyq6s
B.C.800〜500年(西周〜春秋時代)、江南も華北も灰釉陶と印文硬陶が主流。

>「この墓(=土とん墓)から出土する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が
>大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは異なった図文をもって
>おり、銅剣は身柄一鋳のものである」。

http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm

灰釉陶は釉(うわぐすり)で表面にガラス質を出した灰色のb器。
印文硬陶は青灰色・よう黒色を呈する堅く焼締まったb器。

◎中国の陶磁史
http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm
http://www.moco.or.jp/jp/intro/intro_3/intro_3a.html
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu/Jkaisetsu/tojisi2.html
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi3.htm
202出土地不明:2006/04/05(水) 19:24:26 ID:FpOEyq6s
紹興酒も伝わっていない。


紹興酒の歴史は約二千五百年以上前、文字が書き記された頃に始まり、
これは春秋時代の越の国からの計算となり ます。紀元前492年、越は呉に敗れ、
臣下は妻を伴い呉へ労役に行くことになりました。《呉越春秋》には臣下たちが
越を離れる際、酒を酌み交わし別れに涙する句の記述がなされています。
それが古典書に記された紹興酒であるといわれています。1973年、紹興地区に
帰属する"余姚河姆渡"にて、今から7千年以上前の原始氏族社会の遺跡が発掘され、
大量のモミ・陶器・陶片・骨製木製の道具・芸術品などが出土し、当時すでに
醸造の物質的条件を兼ね備えていたことが立証されました。中国建国以来、
紹興各地から、多くが春秋戦国時代の青銅・印紋・陶製の酒器などが出土し、
初期の紹興酒が2500年前から存在していたことが更に立証されています。

http://www.the-best.co.jp/chinese/02.html
203出土地不明:2006/04/05(水) 19:25:38 ID:FpOEyq6s
建築技術も全く伝わっていない。


山東省の曲阜は中国の儒学の創立者、教育家・孔子の古里である。
曲阜の孔廊、孔府と孔林は「三孔」と呼ばれ、 中国の四大古代建築群の
一つである。 孔廊は歴代の孔子の祭祀行事を行う場所である。
紀元前478年に建立された、世界で最も大きい規模の建築群である。

http://www.asicom.co.jp/isan/012.html

紀元前478年に建立された、世界で最も大きい規模の建築群である。
紀元前478年に建立された、世界で最も大きい規模の建築群である。
紀元前478年に建立された、世界で最も大きい規模の建築群である。
紀元前478年に建立された、世界で最も大きい規模の建築群である。
204出土地不明:2006/04/05(水) 19:28:01 ID:FpOEyq6s
日本に車輪が伝わったのが7C頃。


>車輪が埋まっていた砂層内からは7世紀後半の土器片が出土していることから、
>類例の少ない現存する車輪の内でも最古級である可能性があります。
http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/bunkazai06.html



↓馬以前に車輪が弥生時代に伝わっていない事に気が付いていない馬鹿学者w


>筑波大学の桃崎祐輔先生の講演でも、馬の存在時期を最初に話題にされました。
>日本列島が縄文時代であった頃、春秋戦国時代の中国においては東中国海を挟んだ
>日本列島の対岸である山東半島には戦車をつけた状態で発掘される屠殺馬が多く
>みられることから、縄文人が馬を入手した可能性は否定できないとも話されました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kibaminz.htm
205出土地不明:2006/04/05(水) 19:29:04 ID:FpOEyq6s




「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸の言葉は伝わっていない」

http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/mousou.html



206出土地不明:2006/04/05(水) 19:30:25 ID:FpOEyq6s




金関  縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと
考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm



207出土地不明:2006/04/05(水) 19:32:17 ID:FpOEyq6s
春秋時代末の中国で最も普及した武器は『弩』(ど、おおゆみ)なのだが、
やはりこれも弥生期の日本に伝わっていない。


>弩は弓の一種で、銃床のような矢を発射する台を取り付けた機械仕掛けの引き金を持ち、
>現代のボーガンに似た武器である。弓と比較して、貫通力・矢の速度・飛距離で上回る。
>一方矢をつがえるのに時間がかかり、速射に難点がある。野戦に不向きで、守備用の武器
>と言える。中国では戦国時代に出現し、辺境防備の武器として普及した。日本では推古朝
>に高句麗から献上されたと「日本書紀」にあるのが文献での初出である。

http://www.mahoron.fks.ed.jp/nenpou/nenpou2001_35.htm
208出土地不明:2006/04/05(水) 19:33:09 ID:FpOEyq6s
瓦は約4000年前の中国で誕生し、周に入る頃には既に一般的な建材になって
いた事が分かっているが、日本には6Cになってからようやく百済から仏教と
共に伝来して飛鳥寺で初めて使用され、それ以来徐々に浸透していくのだが、
やはり弥生期の九州北部に中国から伝わるべきものが伝わっていない。


>瓦の歴史はきわめて古く、中国では紀元前2000頃にはすでに瓦が登場している。
>中国4000年の歴史とよく言われるが、瓦も4000年の歴史を持っている。中国語の
>瓦という字は、粘土を焼いたものの総称である。

http://www8.ocn.ne.jp/~kawarak/hana.html


瓦の歴史はとても古く、メソポタミア、インドなどの諸説がありますが、
すでに紀元前2000年前の中国に瓦が存在していたと言われています。

http://www2.odn.ne.jp/sugimotokawara/KAWARA2.htm
209出土地不明:2006/04/05(水) 19:49:36 ID:2ZFQUuP1
>平家や源氏は本家が滅びているので分家名が由緒になる。

必ず由緒には、分家に至った事件や領地替えの昔話が伝承される。
それには神社や寺に関する話や主君や家来の伝説がついている。

たとえば、相馬氏だと、血は千葉一族になるが平将門の話がついてくる。
その後、関東から福島浜通りに移った源頼朝に従軍し領地を頂いた話が出てくる。
この相馬のお殿様の姫様の話が、明治以降の仙台に出てきた事の経緯が出てくる。
だから、必ず繋がりに関する昔話が、まともな家柄で、殺して成りすます事が
基本的に出来ない。ようになっている。

奈良屋の暗い話がある。江戸の材木屋の金持ちを
幕府の公儀で落とし入れ(材木の入札のスキャンダル)小笠原流しにし
金持ちの屋敷や問屋倉の競売を代官に申し出て騙し取って
江戸に住み着いたのである。このやばい奈良家は
紀伊国屋文左衛門の作り話・昔話を生んだと言う。
紀文の明るい面や大雑把な性格の「反対が」材木問屋奈良屋の性格だという。

伊達家も竹に雀の家紋で上杉家に家紋は頂いたが
養子縁組が破談になった話が出てくる。
最上家との由緒で母の菩提寺など禅宗寺とか宗教がらみの話も出てくる。
東照宮は徳川家康にちなんでの由緒とかなど。
210出土地不明:2006/04/05(水) 19:52:33 ID:2ZFQUuP1
御霊鎮めだと神田明神が平将門で、北野天満宮が菅原道真で
法隆寺が聖徳太子の、出雲大社が大国主尊の関係で。
みな政敵に暗殺や謀殺で祟った為に神に祀り上げられたからと言う。

諏訪大明神がある。諏訪も武田も家の神にしていたが
血肉を好む神で、普通は血肉は神社境内では持込やトサツ禁止だが
なぜがOKなのだったそうだ。江戸・明治以降は殺生は禁止なので
このような不気味なシャーマンはしない。
元の神田明神の平将門の首塚のある大手町は
アメリカ軍のブルドーザーが横転を繰り返し死傷者を出したので
首塚をそのままにした話が残る。
命令したアメリカ将校がベトナム戦争での、その後の話を聞かない。

さて、山梨の武田氏から北岩手と東青森の南部氏が派出し
南部氏流武田から朝鮮総督を2期勤めた斎藤実が出る。

斎藤氏の先祖は南部武田より伊達家に従事し、明治維新で海軍に従事し
斎藤実氏の時に総督にまでなった。
昭和初期で退任後に内大臣になったが
法華経気違い青年将校に226事件で暗殺された。

神道系新興宗教と法華経系新興宗教が軍の中枢にはびこり
近衛文麿のソ連スターリン的な国家総動員方式を採用するにいたり
アメリカに対し自滅的な大戦争を行うにいたった。
211出土地不明:2006/04/05(水) 19:53:24 ID:2ZFQUuP1
ソ連に対しシベリア出兵での駆け引きでアメリカと協調路線をとれば
北樺太は日本領に編入で、南洋は信託統治領続行で安全だった。

が、アメリカに反発して協調を捨て
大正デモクラシーを否定し、英米系キリスト教徒弾圧に転じ
無神論的国家統制による経済で精神を国家神道に集中させ
ソ連方式(ロシア正教の弾圧と無神論・女性性を否定して総労働者とし
偶像崇拝否定で国民の財産をとり上げ収奪の共産主義・国民総兵隊化)をとった。

挙句に、南洋諸島に軍事基地を作り始め、フィリピン・グアムを包囲し
カルフォルニアやハワイの日系人を見捨てる政策をとった為に
あのような大戦争をするハメに陥った。

ご真影・満州開拓団・国民服・女性の挺身隊(工場労働に従事)は
その一環だった。
仏教やキリスト教の否定・在住中国人の排除・国民皆兵・労働力総動員の
方向へと行った。
212出土地不明:2006/04/05(水) 19:54:42 ID:FpOEyq6s
>>209
おい、荒らし!

スレと全然関係ねえだろ。

このキチガイ!
213出土地不明:2006/04/05(水) 19:57:22 ID:FpOEyq6s
いい加減にしろよ、おまえ。
214出土地不明:2006/04/05(水) 20:01:57 ID:FpOEyq6s
おまえがそのつもりなら、俺も全面的に死闘する決心がある。

それを覚悟の上なら、やりなさい。
215出土地不明:2006/04/05(水) 20:07:23 ID:2ZFQUuP1
明国の地図・歴史書だと、倭寇からして、満州→朝鮮→日本にはならないですよ。

福建→台湾(福建移民)→琉球(福建36姓名)→日本
セッコウ・福建・広東(倭寇)→舟山列島(倭寇根拠地)→五島列島(日本)
ですね。

マッコリ(朝鮮屠蘇)は紹興酒にはなりませんし、
清酒にザラアメのごまかしのようにいきません。

ウンコ漬けの朝鮮エイは日本人は食べません。

ブタ肉食が弥生人にあったとか聞きません。

だいたい
弥生人とか縄文人と言う用語自体が李氏朝鮮で流通していたと思えません。
燕人衛満とか箕子朝鮮の話につながる帰化人を知りませんし。

車は李氏朝鮮でも高麗でも使ってませんよ。
江戸時代に大八車でエロ浮世絵の押収をした記事は知ってますが。
李氏朝鮮は生のオナゴを犯すけど、エロ絵は書かないです。
ロシア人は死体のオンナまでセックルするし、今現在もパーです。
216出土地不明:2006/04/05(水) 20:10:01 ID:FpOEyq6s
>>215
殺すぞ、おまえ。
217出土地不明:2006/04/05(水) 20:11:51 ID:FpOEyq6s
キチガイのふりをして荒らしてスレ進行を
故意に妨げているだけじゃねえか。
218出土地不明:2006/04/05(水) 20:17:15 ID:FpOEyq6s
とにかく、荒らしのおまえは二度と来ないでくれ。

つか、来るな。

219出土地不明:2006/04/05(水) 20:18:29 ID:9V2cuaLN
辰国の話も聞かないです。新羅の元なのにですよ。
新羅は華厳経ぐらいです。

竜神の話を特に帰化人は話すようですが、
李氏朝鮮では竜神の話が残っていないですよね。
晋の重耳という王様の王子様時代の流浪話から帰国後の話は美化が多く
竜と蛇4匹の面当て話が十八史略にありました。
王様が竜で家臣が蛇で、家臣のモモを食べて餓えを
しのいだ話で食われた家臣が帰国後でも褒美がなく
山に逃げ隠れたら焼き払われて焼き殺されたのです。
王様がモモを食った家臣が採用されずヒモジイとの悪い噂を気にして
山狩りで拷問殺しをしようとしたのでしょう。山を出て都に出たら死刑だと思い
焼け死ぬ方を選んだのです。民衆は可愛そうに思い
流浪したくせに下の者を憐れまないバカ殿として
毎年、焼いた時期に冷めた食べ物を食べ、悪い王様の時代にならないようにと
子孫に行事を伝え、良い王様であるように願い伝えたというのです。

竜は評判悪いです。劉は大鎌で竜でないです。

北九州での岩井の反乱はあまり有名でないです。
でも弥生時代の最後期だから一応、弥生時代ですよね。
大弓を使う戦争・戦車を使う戦争を日本でする事は疑問です。
壬申の乱も大乱ですが、戦車戦ではないですしね。
でも帰化人関連です。
220出土地不明:2006/04/05(水) 20:19:34 ID:FpOEyq6s
だから、スレと関係ねえだろ、このキチガイ!
221出土地不明:2006/04/05(水) 20:21:39 ID:9V2cuaLN
朝鮮や満州の出土の例を聞きたい。
222出土地不明:2006/04/05(水) 20:23:49 ID:9V2cuaLN
晋の春秋戦国の話を知っていれば
戦車戦のあったこの時期の民衆の話だって伝わるでしょう。
223出土地不明:2006/04/05(水) 20:25:25 ID:FpOEyq6s
断っておくが、ここは弥生人中国説のスレです。

弥生人中国説の真偽を徹底追及するスレです。

関係ないレスは全て削除です。
224出土地不明:2006/04/05(水) 20:26:40 ID:FpOEyq6s
>>222
掃き溜めに鶴とは貴方の事か?
225出土地不明:2006/04/05(水) 20:28:43 ID:9V2cuaLN
ようは、民衆と支配者の文化は同じだとは言えないし
昔話など知らなくても
食べ物を作り家を作り、年中行事に通過儀礼に冠婚葬祭をしていれば
その民族や人種は受け継がれるのです。

陶器が必ず無ければならないとか、墓がこうでないといけない。というのは
ドウなのでしょうか。

物的だと
墓なら得意の前円後方墳(古墳)の話がないし、
土器なら埴輪の話が無いし。

精神的だと
水稲作とその昔話の共通項や
照葉樹林(ツバキ?とか)関連の昔話も聞きません。
渡り鳥やその他、為政者の昔話も。
226出土地不明:2006/04/05(水) 20:31:48 ID:FpOEyq6s
弥生時代に前方後円墳も埴輪も無いわけだが。
227出土地不明:2006/04/05(水) 20:37:40 ID:9V2cuaLN
中国・黄河→燕人→遼東半島→楽浪郡西海岸→楽浪郡南岸→弥生人

中国・揚子江→呉人→舟山列島→五島列島・天草−長崎→九州本島→弥生人

中国・福建→越人→台湾→琉球→隼人・熊襲(南九州)→九州本島→弥生人

満州・吉林→渤海・扶余→高句麗・蓋馬高原→遼東半島・楽浪郡西海岸・・・。

このどれかって事ですかね。
228出土地不明:2006/04/05(水) 20:38:55 ID:YfZB46K2
ちょっと思ったんだけど、中国のものが伝わってないからといって朝鮮経由ってのがわからない。
朝鮮に中国から伝わってないものがあるなら、日本に中国から伝わっていないものがあっても
おかしくないし、むしろ海路な分、朝鮮より伝わらないものが多くて当然なのでは?
229出土地不明:2006/04/05(水) 20:40:07 ID:FpOEyq6s
BC14C頃の殷には既に馬車がある。
BC12〜13C頃には江南にも馬車が伝わっているだろう。


◎3300年前の馬車・銅剣が出土 商の遺跡・殷墟付近

河南省安陽市にある商(または殷、紀元前1600年ごろ〜紀元前1046年)の
遺跡・殷墟の宮殿宗廟跡から西へ約3千メートルの場所でこのほど、今から
3300年以上前に当たる商代後期のものとされる車馬坑(馬車や馬を埋葬した
穴)7つが見つかった。考古学研究者が5カ月間にわたる発掘調査により発見だ。

車馬坑7つのうち、5つは1列に並んでおり、貴族のために殉葬したものとみられる。
遺跡からは青銅製の両刃の短剣も発見された。これら出土品は、100年を超える
殷墟の発掘史の中でも初めての発見だ。専門家は車馬坑の発見について、商代の
馬車の形状や構造、用途、馬車に関する制度の研究にとって重要な意義があると
している。(編集NK)

「人民網日本語版」2005年5月27日

http://www.people.ne.jp/2005/05/27/jp20050527_50407.html
230出土地不明:2006/04/05(水) 20:48:05 ID:FpOEyq6s
違う。



シルカ・アルグン川周辺→遼河北部→朝鮮半島南岸→九州北部



この経路でBC7C頃に単種の北方モンゴロイドが渡来したんだよ。
231出土地不明:2006/04/05(水) 21:07:24 ID:9V2cuaLN
旧石器時代/縄文時代/弥生時代/古墳時代/飛鳥時代/奈良時代/平安時代

旧石器時代 2万数千年前
狩猟・採集の生活

縄文時代 1万2千年前〜紀元前3世紀
竪穴住居での定着生活が始まる 初めて土器を使用する(縄文土器)

弥生時代 紀元前3世紀頃〜3世紀頃
稲作が始まる 金属器が伝わる 弥生時代の琴が見つかる

古墳時代 4世紀頃〜7世紀頃
前方後方墳・前方後円墳・円墳・方墳等の古墳が造られる 水辺での祭りが行われる

飛鳥時代 645年(大化1) 大化の改新が起こる 三重の采女 古代人と馬の信仰
 672年 壬申の乱が起こる
 694年(持統8) 夏見廃寺仏断片に「甲午年」の銘。この頃か。
 701年(大宝1) 大宝律令が制定される

奈良時代 710年(和銅3) 平城京に都をうつす 御食つ国(みけつくに)奈良時代の道路
 752年(天平勝宝4) 東大寺大仏が完成する

平安時代 794年(延暦13) 都が平安京にうつされる 荘園・古代の仏像
 9世紀〜11世紀
232出土地不明:2006/04/05(水) 21:08:02 ID:9V2cuaLN
奈良平安時代
--------------------------------------------------------------------------------
奈良時代:
我が国の焼き物は奈良朝に至って初めて釉薬をかけた。中国の
唐文化の波及により、軟釉陶のものが出現し、奈良の正倉院には
これらの遺品が六十八点収蔵されています。北倉に十点、中倉に一点、南倉に五十七点あり、
北倉の品は薬壷、薬皿の類で、みな薄灰色の焼締った須恵機に似たものです。
(参照:奈良三彩と唐三彩)

平安時代:
平安朝の時代に入る頃には、
施彩陶の輸入も増加し、その上中国よりこれらの新技術も導入されて、
須恵機系の工人達がこの製作方法を伝習して、国内で
日本人自身の手によって、出来るようになりました。
平安初期頃までは鉛釉陶がつくられ、平安朝になって
有彩の硬釉陶が新たに製作されて
灰釉陶が焼かれ、後世のいわゆる本格的な陶器の最初のもの
として意味深いものとなりました。

http://members.at.infoseek.co.jp/toujiki/jhis/muromachi.htm
http://choushi.iwamura.org/chapter004.htm
http://www.begin.or.jp/sakura/iseki/isakm1.htm
http://www.gunmaibun.org/guide/3/3-3-3-4.htm
233出土地不明:2006/04/05(水) 21:08:41 ID:9V2cuaLN
須恵器時代(古墳時代)
--------------------------------------------------------------------------------
須恵器土器:
我が国の古墳は世界でもその比を見ない程多くあり、当時の人の権力と富を象徴しています。
また、世界最大である仁徳天皇の古墳をはじめ、これと前後し大小幾千以上の古墳が造られています。
須恵器が最初につくられた時代は四世紀頃と考えられています。
日本書紀の雄略天皇に関するところでは、
朝鮮の百済から同七年(四六二)新漢陶部(イナキノアヤノスエツクリベ)の高貴などが
大和国真神原に来たと記載されています。
また正倉院の文書に陶の文字を須恵と書いた箇所もあります。
縄文式土器や弥生式土器が、野天や平地窯で焼かれたのに対し、
須恵器土器は山の傾斜を利用した登り窯に似た方式によって焼成されているので、
硬く、比較的破損しにくく、色は灰鼠色をしていて、なんの文様もない無釉の陶器ですが、
時には窯中で高温のため灰がとけて暗緑色、または黄緑色を呈した状態が壷の肩や、
胴の所にあるものもありますが、これは釉薬をかけたものではありません。
須恵器は、全国各地や各時代で広く焼かれ、明治・大正時代では
「祝部・陶質土器」とも称される、素焼きの焼き物です。
234出土地不明:2006/04/05(水) 21:09:14 ID:9V2cuaLN
弥生式土器:
弥生式土器は、明治十七年に東京都文京区本郷
弥生町で、最初に発見され町名にちなんで名づけられる。
紀元前三世紀から、紀元後四世紀の六、七百年の間に作られた土器を指します。
また水利のよい土地に集落を作り、農耕を主として物資の貯蔵を初め、
衣食住の安定した時代です。
縄文土器と同じく低火度、無釉で軟質の土器。
色は赤褐色を呈し、しかも柔かい紅色を帯びた発色。
成型技術が進歩し轆轤(ロクロ)に近いものを使用したものが多い。
作柄は生活様式の安定から来る非常に明るい温和な女性的美を多分に含んでいて、
均衡のとれた簡素美を表現している。

縄文時代
--------------------------------------------------------------------------------
縄文式土器:
縄文式土器の呼び名は明治十九年エドワード・モース博士が、東京の
大森貝塚で初めて発見し名づけた。紀元前三世紀ごろから次の
弥生式土器が出現するまでの数千年以上の間、
土器に縄目やむしろ目の凸文様があるのが特徴で、多くは
縄文文化の遺跡である貝塚・墓地・住居地域から発掘される。この時代の
原始人は農耕作業を知らず、天然の産物である木の実や貝類、或いは
動物を捕らえて(狩猟)、その日暮らしの生活をしていた。
縄文式土器は手造りであり、焼成方法は、まだ
焼成窯がなく、野天に積み重ねた成形品の周辺に薪木を積み重ね火を付け、
低火度に焼成した軟らかい土器で、黒褐色を呈し、縄文が表面に施されいています。
縄文式土器の中で最も多いものは、煮炊き用のかまや鉢類、それに高杯、徳利などがある。
235出土地不明:2006/04/05(水) 21:10:08 ID:9V2cuaLN
2 土師器と須恵器
 古墳時代は土器型式からいえば縄文式、弥生式に次ぐ土師器及び須恵器の時代である。
当地方に於ても弥生土器に比してすこぶる豊富に出土し
この期に於て繁栄して来たことを思わしめる、土師器は弥生土器の系統をうけた赤焼の土器で
日本在来の伝統の上に立つものであるが、須恵器は朝鮮土器といわれるように
朝鮮を経て大陸より伝来した鼠色をした堅い焼の土器である。
この二つの焼物が古墳時代に行なわれ、最初に土師器が出で後期に須恵器が表われ
後期には必ずといつてよいほど副葬品として出土している。
そこでこれらについて少し考察して見たいと思う。

3 土師器
 土師器をハジキと読み土師部ハジツクリベの人々のつくる所である。
土師部というのは陶部と共に延喜式に記載されているが垂仁帝の時野見宿弥を祖とした
職業団体であつた。これは弥生土器の系統の酸化焔焼成の土器で
三世紀古項の出現の頃から行なわれたものである。これは須恵器が
古墳時代の後期に出現して後も併行して行なわれ長く存続して今日なお混炉等が作られている。
さて古墳時代の土師器を偏年して、和泉式、鬼高式、真間式、国分式の四型を設定している。
 和泉式では弥生式後期をつぐもので、四世紀頃のもの
鬼高式は古墳後期の六世紀、真間式は七世紀、国分式はそれ以後の時期に設定されている。

4 須恵器
 土師器より後れ六世紀頃朝鮮を通ず大陸から輸入された焼物で、鼠色をした堅い土器である。
横穴式古墳の副葬品として数多く出土するものである。
横穴式石室は当時死者の霊の安息所として生前に等しい生活を営むところと考えられ、
彼等の日常の容器であつた須恵器を収めたのである。
 須恵器を製作した人々は陶部という集団をなし、
日常什器として当時の豪族間にもてはやされやがて墳墓にも持込まれるようになつた。
236出土地不明:2006/04/05(水) 21:26:08 ID:FpOEyq6s
>>228
ところが華北人が直接植民した楽浪郡以降の朝鮮半島には
当時の中国の主流だった文化が一気に伝わっているんだよ。

それまでは水田技術や農耕具などの低次元な中国文化が断片的に
朝鮮半島に伝わっているのみで、当時の中国で主流だった高次元な
文化はやはり何も伝わっていない。

これは移民や植民によらない間接的な文化伝播だったからだろう。

むしろ海路移民の方が文化が直接伝わる。

ピューリタンが移民したアメリカや英国船団が入植した
オーストラリアやニュージーランドや南アフリカなど、
どれも一気に西洋文化が流入している。

もちろん戦後の日本も在日米軍から色んなアメリカ文化が
伝わり、短期間で経済復興したのはご存知の通り。
237出土地不明:2006/04/05(水) 21:35:47 ID:FpOEyq6s
その通り。

日本も朝鮮も鉛釉陶の方が先で灰釉陶の方が後。

中国とは逆になっている。

これは楽浪郡時代、当時、鉛釉陶が漢の最先端の技術だったから。
238出土地不明:2006/04/05(水) 21:39:37 ID:2FcXj/1V
埴輪(はにわ)とは、日本の古墳時代に特有の素焼の焼き物。

古墳上に並べ立てられた。日本各地の古墳に分布している。
大きく円筒埴輪と形象埴輪の2種類に区分される。

埴輪からは、古墳時代
当時の衣服・髪型・武具・農具・建築様式などの復元が可能であり、
貴重な史料でもある。
239出土地不明:2006/04/05(水) 21:42:38 ID:FpOEyq6s
それと、このスレは貴方だけのものではない。

みんなのものである。

一日に何十という狂ったような貴方ばかりのレス攻め
というのはみんなのためにやめてもらいたい。

みんなの迷惑である。
240出土地不明:2006/04/05(水) 21:45:27 ID:FpOEyq6s
>>238
弥生時代の話をしろ馬鹿。
241出土地不明:2006/04/05(水) 21:47:12 ID:FpOEyq6s
出来れば、あなたのこのスレの参加を心よりお断りしたい。

迷惑だからもう来ないでくれ。
242出土地不明:2006/04/05(水) 21:47:57 ID:2FcXj/1V
弥生時代 楽浪郡 鉛うわぐすり陶器

古墳時代 任那 素焼き(埴輪)

奈良時代 新羅 灰うわぐすり陶器・色つき陶器
243出土地不明:2006/04/05(水) 21:50:21 ID:FpOEyq6s
あなたのこのスレの参加を心よりお断りしたい。

迷惑だからもう来ないでくれ。
244出土地不明:2006/04/05(水) 21:52:14 ID:2FcXj/1V
たった、これだけの話だよね。

弥生時代 ワイ・バク

古墳時代 高句麗・加羅(馬韓)・任那・倭・新羅城(辰韓)

ワイ・バクの文化ではなく、楽浪郡の中国人の文化ですよね。

新羅は、古墳末期か奈良時代です。
高句麗は313年(4世紀)の楽浪郡を滅ぼして以降です。
弥生とは関係ないわけです。
245出土地不明:2006/04/05(水) 21:52:50 ID:FpOEyq6s
あなたのこのスレの参加を心よりお断りしたい。

迷惑だからもう来ないでくれ。
246出土地不明:2006/04/05(水) 21:55:26 ID:2FcXj/1V
古墳時代 北魏の仏教 石碑の石文 銅銭や鏡に金属像の金文 高句麗の支石墓
247出土地不明:2006/04/05(水) 22:01:07 ID:2FcXj/1V
縄文式土器や
弥生式土器が、野天や平地窯で焼かれた
弥生式土器: うわぐすり無し 軟質の土器 赤褐色 柔かい紅色

紅陶?

須恵器土器: 四世紀頃 硬く灰鼠色 うわぐすり無し陶器 暗緑色 黄緑色
須恵器土器は山の傾斜を利用した登り窯に似た方式によって焼成
248出土地不明:2006/04/05(水) 22:01:45 ID:FpOEyq6s
法律も漢字の原型の篆書も伝わっていない。


Q:殷・周の時代、法律はすでに存在していたのですか。

A:慣習法としてはすでに存在しています。春秋時代の鄭の国の大臣・子産が、
初めての成文刑法を作りました。BC536年のことです。

Q:春秋・戦国時代のころは、どんな文字を使っていたのですか。

A:篆書、正確には小篆です。

http://www.hyogo-c.ed.jp/~mikihigashi-hs/maekawa/02-05.htm
249出土地不明:2006/04/05(水) 22:03:04 ID:FpOEyq6s
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。

「チャイナネット」2003年3月31日
250出土地不明:2006/04/05(水) 22:03:43 ID:2FcXj/1V
弥生
古墳
奈良 を超え
平安時代でしょうか 木製車輪(牛車の?) 土とん墓(土葬?)
251出土地不明:2006/04/05(水) 22:04:25 ID:FpOEyq6s
>石戈、石矛、石鋳などの石器と圏足(足が輪のようになった)器、
>環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、 上薬のついた陶器、
>硬質陶器など


BC16C頃の華南の出土物も日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり。
252出土地不明:2006/04/05(水) 22:05:28 ID:FpOEyq6s
BC20Cの二里頭文化では、すでに原始磁器(灰釉陶)が焼かれ、
建築技術も壁、軒などをもつ現代の物とさほど変わらない。


BC1900頃

鄭州市付近に二里頭文化。宮殿とされる大きな遺跡があるが盗掘されたようである。
(殷墟は鄭州市の150キロほどの北にある)
青銅器の本格的な使用が始まっている。
出土物から四川省や甘粛省などとも広く交流している。
宮殿は壁、軒などをもつ現代の物とさほど変わらない物になっているようである。
土器は高温で焼成され、当地では原始磁器と呼んでいる。後期には登り窯が発見
されており最古とされる。

http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kodai_old/kks-koga.htm
253出土地不明:2006/04/05(水) 22:06:29 ID:FpOEyq6s
最古の施釉陶は約4200年前。



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm



254出土地不明:2006/04/05(水) 22:06:34 ID:2FcXj/1V
古墳と 土とん墓 の違いがわからない。 土とん墓が判らんから。

楽浪郡の中国知識人の亡命では、青銅貨幣とか車は無いと思うが。
255出土地不明:2006/04/05(水) 22:07:12 ID:FpOEyq6s
灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。

http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。殷代中期の二里崗文化には,灰白色の
胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,硬度が高く鋭い音色を出し,水の
しみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,浙江・江蘇・江西・安徽・
山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。器形には,尊・壺・豆・
鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,改良が加えられていく。
土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,後漢時代に青磁となる。

http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM
256出土地不明:2006/04/05(水) 22:07:48 ID:FpOEyq6s
漢代における画期的な発明となったのが「鉛釉陶」の開発である。鉛釉は「鉛」を
媒熔剤とした低火度釉である。鉛釉のなかに微量の酸化銅を加え、酸化炎で焼成する
と、釉は美しい緑色に発色する。またこの鉛釉のなかに微量の酸化鉄を加え、同じく
酸化炎で焼成すると釉調は褐色に発色する。すなわち緑釉陶と褐釉陶である。この鉛
釉技法を基盤として、後の唐三彩や清時代の釉上彩(ゆうじょうさい)が生み出され
ていくのである。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
257出土地不明:2006/04/05(水) 22:08:59 ID:FpOEyq6s
青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・銅鐸[どうたく]・
銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する輸入品が実用的であり、瀬戸内海に
分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている
銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が
次第に権威の象徴になっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本
中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本遺跡や佐賀県の安永田
遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県の荒神谷遺跡[こうじんだにいせき]が発掘
されたため、疑問視されている。

http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html
258出土地不明:2006/04/05(水) 22:09:31 ID:FpOEyq6s
簒、鼎、爵、尊など、中国の青銅器の様式が日本には全く伝わっていない。


青銅器はその用途により、食器、酒器、水器、楽器のほぼ4種類に分けることが
できる。各種類ごとにそれぞれ品目も複雑で数多く、形も非常に変化に富んでいて、
中国人の豊かな想像力と創作力を反映している。たとえば、黍稷(モチキビ)を
盛っておく「簒」。これは現代のご飯茶碗に相当する。その形は非常に変化に富み、
円脚に丸い胴のものもあれば、円脚の下にさらに四角い台座を加えて重しとしている
ものもあり、四角と円形との対象が美しい。また炊事用として使う「鼎」は、縁に
一対の耳を付け、下げるのに便利なようにしてある。丸い胴の下には三つの脚が
つけられ、獣の肉を煮込む火が燃えやすいようになっている。ほかには「爵」や
「尊」なとがある。「爵」は酒を飲んだり温めたりする食器で、縁の形は酒が口の
方へ流れやすいようになっており、脇に持ちやすいように把手がある。胴の部分の
下には酒を温めるため3本の脚がついている。「尊」は大事な酒器で、丸い形の
ものや四角形、および四角い脚に丸い口をしたものなどがある。このように、
青銅器の基本的な形は、バランスの取れた対称形がほとんどで、荘厳で落ち着いた
雰囲気が特色である。

http://www.roc-taiwan.or.jp/culture/culture19.html
259出土地不明:2006/04/05(水) 22:13:16 ID:2FcXj/1V
自分が、文化と人種と民族をごっちゃにしていたが。。。

弥生人は、南方ぽいけれど、中国人の文化そのものでないし
ワイ・バク・高句麗・渤海・扶余・女真族とも違うのではないか?と思う
漠然とだが。

気候は植生と食文化に影響だが、陶器とか車輪とかは技術なんで
同じシナ系統だって、タイ(シャム)・チベットは、技術文化が違うと思う。
言語的に語順とか変化形はシナとチベット・タイは似ているそうだ。
しかし、ゾウ乗りやラマ教、あるいはボン教は、中国と類似と思えない。
260出土地不明:2006/04/05(水) 22:13:20 ID:FpOEyq6s
楽浪郡には馬車があったがな。


また、紀元前一〜紀元二世紀(弥生時代中〜後期)の土器溜からは、青
銅製の車軸頭と考えられる馬車具の一部らしき物が出土しました。これは
中国の漢代(紀元前二0二〜紀元二二0)の楽浪郡(現在の朝鮮民主主義
人民共和国の平壌市付近)でつくられたもので、大きさは高さ二・一セン
チ、胴最大径三・七センチ、現存重量二十四グラムのミニチュアの馬車の
車軸頭(日本で初例)と考えられることから、宝器として使用されたもの
と思われます。

http://homepage1.nifty.com/HAKUSEN/hara4/hara4.htm
261出土地不明:2006/04/05(水) 22:19:11 ID:FpOEyq6s
>>259
青銅器や土器の模様や器形が技術か馬鹿。
262出土地不明:2006/04/05(水) 22:19:57 ID:2FcXj/1V
烏桓・鮮卑族、奚・契丹族、渤海黒水部・女真族などの
文化とかも知らないし。

鮮卑は北魏〜隋唐を生み、奚は安禄山、契丹は耶律素材、女真は満州族を生んだ。
烏桓は三国志魏の曹操の雇い兵の騎馬隊であった。
馬車とかの御者をしてたかは判らないが、技術者でない遊牧民なだけと思う。
ジプシーみたいに馬車とかイメージにない。
263出土地不明:2006/04/05(水) 22:21:33 ID:2FcXj/1V
いや、原始人には画期的だ。肖像権?だかあるんじゃないか???
264出土地不明:2006/04/05(水) 22:24:08 ID:2FcXj/1V
女真族がブタを飼いながら馬車で移動とかイメージにない。
265出土地不明:2006/04/05(水) 22:24:57 ID:2FcXj/1V
ブタに真珠は聞くが、ブタに青銅器とか車輪とか組み合わせがピンとこない。
266出土地不明:2006/04/05(水) 22:30:16 ID:FpOEyq6s
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。

「チャイナネット」2003年3月31日
267出土地不明:2006/04/05(水) 22:30:59 ID:FpOEyq6s
BC20Cの二里頭文化では、すでに原始磁器(灰釉陶)が焼かれ、
建築技術も壁、軒などをもつ現代の物とさほど変わらない。


BC1900頃

鄭州市付近に二里頭文化。宮殿とされる大きな遺跡があるが盗掘されたようである。
(殷墟は鄭州市の150キロほどの北にある)
青銅器の本格的な使用が始まっている。
出土物から四川省や甘粛省などとも広く交流している。
宮殿は壁、軒などをもつ現代の物とさほど変わらない物になっているようである。
土器は高温で焼成され、当地では原始磁器と呼んでいる。後期には登り窯が発見
されており最古とされる。

http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kodai_old/kks-koga.htm
268出土地不明:2006/04/05(水) 22:32:25 ID:FpOEyq6s
>石戈、石矛、石鋳などの石器と圏足(足が輪のようになった)器、
>環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、 上薬のついた陶器、
>硬質陶器など


BC16C頃の華南の出土物も日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり。
269出土地不明:2006/04/05(水) 22:33:17 ID:FpOEyq6s
最古の施釉陶は約4200年前。



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm



270出土地不明:2006/04/05(水) 22:33:56 ID:FpOEyq6s
灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。

http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。殷代中期の二里崗文化には,灰白色の
胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,硬度が高く鋭い音色を出し,水の
しみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,浙江・江蘇・江西・安徽・
山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。器形には,尊・壺・豆・
鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,改良が加えられていく。
土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,後漢時代に青磁となる。

http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM
271出土地不明:2006/04/05(水) 22:35:12 ID:FpOEyq6s
漢代における画期的な発明となったのが「鉛釉陶」の開発である。鉛釉は「鉛」を
媒熔剤とした低火度釉である。鉛釉のなかに微量の酸化銅を加え、酸化炎で焼成する
と、釉は美しい緑色に発色する。またこの鉛釉のなかに微量の酸化鉄を加え、同じく
酸化炎で焼成すると釉調は褐色に発色する。すなわち緑釉陶と褐釉陶である。この鉛
釉技法を基盤として、後の唐三彩や清時代の釉上彩(ゆうじょうさい)が生み出され
ていくのである。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
272出土地不明:2006/04/05(水) 22:35:21 ID:2FcXj/1V
ツングース−−−−−ヤクート人−−−−−−−−−−−−−−−−−カムチャッカ人
内蒙古族−−−渤海黒水部−−野人女直族−沿海州女直族(ギリヤーク人)−アイヌ人
完顔部女真族−−−−海西女直族−−建州女直族(満州族)−扶余族(百済人[貊])
奚族−契丹族遼国−遼河−海西部女真族−−渤海族−−高句麗族(百済人[貊]・百の家族が済[わた]った海を)
宇文部鮮卑族−遼河−慕容部鮮卑族−−渤海族−−−高句麗族(高句麗人)
拓跋部鮮卑族−渤海−遼東半島−渤海族−鴨緑江−加羅人(百済人[貊]・扶余族)
烏丸族−熱河−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−辰国人(新羅人[穢])
万里の長城−−山海関−−−−−−−−−−−−−任那人(弁辰人[貊]・倭人[穢])
燕地(河北・北京)
黄河−−山東半島

淮河
楚−−−−−−−−−−−−−東海
揚子江
呉(寧波[にんぽー])−−−−−−−−−−−倭人(蓬莱)
越(紹興・天台山・温州[うんしゅう])−−琉球人(沖縄)
福建−−−−−−−−−−−−−−−−−高砂族(台湾島)
広東(南越・南漢)
安南(越南[ベトナム・北ベトナム]・交趾[コーチン])
占城(チャンパー・南ベトナム)−−−−呂宋(ルソン島・タガログ人)

女真族・女直族・満州族: じゅるちん族(吉林・完顔氏、建州女直=延辺[間島]の満洲・愛親覚羅氏)
烏桓・奚・室婁・契丹族: きたい族(遼族・耶律氏、海西女真=遼河の満洲・エホナラ氏[葉氏]奚族慶州)
渤海族の渤海国=東丹国(契丹東部: 渤海族が遼東半島−間島地方〜京畿道−江原道に住む)
273出土地不明:2006/04/05(水) 22:39:45 ID:FpOEyq6s
日本の青銅器は銅剣・銅戈・銅鉾・銅鐸・銅鏡・銅鏃などが
あるが、中国の篆書金文が伝わっていないだけではなく・・・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・銅鐸[どうたく]・
銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する輸入品が実用的であり、瀬戸内海に
分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている
銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が
次第に権威の象徴になっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本
中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本遺跡や佐賀県の安永田
遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県の荒神谷遺跡[こうじんだにいせき]が発掘
されたため、疑問視されている。

http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html
274出土地不明:2006/04/05(水) 22:41:04 ID:FpOEyq6s
簒、鼎、爵、尊など、中国の青銅器の器形が日本に全く伝わっていない!


青銅器はその用途により、食器、酒器、水器、楽器のほぼ4種類に分けることが
できる。各種類ごとにそれぞれ品目も複雑で数多く、形も非常に変化に富んでいて、
中国人の豊かな想像力と創作力を反映している。たとえば、黍稷(モチキビ)を
盛っておく「簒」。これは現代のご飯茶碗に相当する。その形は非常に変化に富み、
円脚に丸い胴のものもあれば、円脚の下にさらに四角い台座を加えて重しとしている
ものもあり、四角と円形との対象が美しい。また炊事用として使う「鼎」は、縁に
一対の耳を付け、下げるのに便利なようにしてある。丸い胴の下には三つの脚が
つけられ、獣の肉を煮込む火が燃えやすいようになっている。ほかには「爵」や
「尊」なとがある。「爵」は酒を飲んだり温めたりする食器で、縁の形は酒が口の
方へ流れやすいようになっており、脇に持ちやすいように把手がある。胴の部分の
下には酒を温めるため3本の脚がついている。「尊」は大事な酒器で、丸い形の
ものや四角形、および四角い脚に丸い口をしたものなどがある。このように、
青銅器の基本的な形は、バランスの取れた対称形がほとんどで、荘厳で落ち着いた
雰囲気が特色である。

http://www.roc-taiwan.or.jp/culture/culture19.html
275出土地不明:2006/04/05(水) 22:42:36 ID:2FcXj/1V
琉球や台湾や福建の山岳に無ければ、無しも、説として、やむおえないと。
276出土地不明:2006/04/05(水) 22:46:18 ID:2FcXj/1V
日本独特だと、楽浪郡も江南も関係なくなる。

つまり日本列島の弥生時代的な支配階級は
技術者を雇ったり、中国物を買い入れたり出来る状態に無かった。

古墳時代からしか交流が無いから、前時代の弥生時代には交流なく
単に自然植生や気候風土的に南洋的な衣食住に過ぎなかったと。
277出土地不明:2006/04/05(水) 22:50:14 ID:FpOEyq6s
↑虚しいねえwwww
278出土地不明:2006/04/05(水) 22:53:01 ID:2FcXj/1V
人種というか遺伝子が中国人的でも
物を作って使う文化が同じでないと(文化が違うと)
埋葬されるべき物もないし、ないから出土する事もないと思う。

広東と北ベトナムも同じ民族的だそうだが
中国人とベトナム人の諸族意識に区別があり
日本人も大和民族と東北の蝦夷は
遺伝子とか顔立ち特徴が違うと思うが、衣食住が同じになっている。
沖縄やアイヌも近くなって来ている。
279出土地不明:2006/04/05(水) 22:53:44 ID:FpOEyq6s
縄文土器の影響を受けた朝鮮の櫛目文土器文化圏は、BC13C頃、満州(中国東北部)や
アムールなど、北方アジアの無文土器文化圏へと急激に変化していく。


 紀元前1000年紀には、無文土器が主流となった。この時代は、朝鮮半島における青銅器時代とほぼ一致する。
文様がないか、あるいはあってもごく少ない赤褐色の平底の土器である。成形にはまだ轆轤の使用は見られず、
手捏ねか輪積みによるものがほとんどである。分布は、中国の東北地方、西は遼河から東は黒龍江・松花江に
またがる地方と深いつながりを持ち、櫛目文土器文化とは違った文化圏が形成されていたことがわかる。そして
この無文土器は、さらに東に伝わり、わが国の弥生土器の母胎ともなった。

http://www.moco.or.jp/jp/intro/intro_3/intro_3b.html

注目に値するのは,アムールの早期鉄器時代の土器が,日本の弥生文化の土器
と類似していることである。学者たちは,大陸と日本列島の間に交流が存在した
と見なしている。

http://www.geocities.jp/putniki/amur/zatsugaku/archeology.htm
280出土地不明:2006/04/05(水) 22:56:47 ID:FpOEyq6s
日本や朝鮮の青銅器も無文土器も弥生土器も北方アジアの文化の影響である。


韓国の青銅器時代はおおよそ紀元前10世紀ごろに中国東北、シベリア地方などから
北方文化の影響によって始まり、本格的な農耕と牧畜による生産力の増加は階層の
分化をもたらし、しだいに身分的な差として発展するようになる。

彼らがのこした遺跡としては住居跡・貝塚および墳墓などがあり、遺物としては
さまざまな種類の磨製石器と無文土器、そして各種の青銅器がある。

http://daegu.museum.go.kr/museum/japanese/body_02/body2_1_03.html
281出土地不明:2006/04/05(水) 22:57:35 ID:FpOEyq6s
支石墓は満州南部から遼東あたりで発生して北方や朝鮮半島に広がっていった。


東北アジアでの最初の支石墓は、中国東北地方の遼東半島(現在の遼寧省)
から吉林省の南部で建築されたと考えられています。

遼東半島付近から現在の吉林省南部にかけての地域でテーブル形が発生し、
朝鮮半島へと伝播していきます。

http://www.nara.accu.or.jp/about/symposium/symposium.pdf#search='謾ッ遏ウ蠅・驕シ譚ア蜊雁ウカ'
282出土地不明:2006/04/05(水) 22:57:51 ID:2FcXj/1V
思うんだが、中国人説を勝手に持ち上げる側についてしまったが
弥生人って中国だと言うのは定説なの?

米を食べる文化だけ似ている。ぐらいにしか思ってないが。
味噌は平安時代末期だか鎌倉時代に臨済宗の留学僧が伝えたような感じで
緑茶も臨済宗の栄西から苗から輸入し育てて使うようになった。
気候風土が似ているが、
照葉樹林だし発酵食品文化といっても時代が新しかったりする。
つまり現在はあっても、弥生時代の渡来でない。

283出土地不明:2006/04/05(水) 22:58:35 ID:FpOEyq6s
>>278
それはお目出度いwwww
284出土地不明:2006/04/05(水) 23:03:10 ID:2FcXj/1V
いや
グエンさんとかチンさんは
北ベトナムの名前だって知らなかった。香港映画でも出て来るんでね。
コーチン・シナなんだと判った。同じシナなんだと。所属意識が違うんだが。

ベトナム南部は北ベトナムと違う
カンボジアやフィリピンな顔のオネーチャンなんだな。
でも同じベトナムとして生活している。
285出土地不明:2006/04/05(水) 23:06:11 ID:FpOEyq6s
弥生人の定説は戦前から北方アジアだよ。

韓国の著名な学者も倭人はモンゴル方面から朝鮮半島を通過して
日本に渡っていった北方系の部族だと明言している。

弥生人を中国とか朝鮮とか言っている奴は知能程度の低い馬鹿や
稲作馬鹿の老人、それと在日チョン&在日チャンコロくらい。
286出土地不明:2006/04/05(水) 23:06:50 ID:2FcXj/1V
チャムパー(占城)とか林邑とか言うんだよね。南ベトナム。
チャム族は、北ベトナムの京族と違うと言う。

弥生時代の頃のベトナム北部とベトナム南部にも
陶器や車輪や墓に青銅に石文の文化が同じ物があるんだろうか
287出土地不明:2006/04/05(水) 23:13:43 ID:FpOEyq6s
>>282
ようやく分かってきたか。

少しは見直したぞ。

在日チョン&チャンコロや稲作馬鹿に刷り込み洗脳されない様に
今後は気を付けろ。
288出土地不明:2006/04/05(水) 23:15:39 ID:2FcXj/1V
うーむ。考えてみる。
289出土地不明:2006/04/05(水) 23:20:26 ID:FpOEyq6s
倭人はモンゴル方面から朝鮮半島を通過して日本に渡っていった
北方系の部族だと発表していた韓国の著名な学者は10年以上前に
日本経済新聞に取り上げられて有名になったのだが名前を
忘れてしまった。

俺は在日チョンなんか本当に大嫌いなんだが、チョンでもやはり
上級学者は違うんだなと思ったものです。
290出土地不明:2006/04/06(木) 10:39:48 ID:kC2Tb1lU
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。

「チャイナネット」2003年3月31日

http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
291出土地不明:2006/04/06(木) 10:41:15 ID:kC2Tb1lU
>石戈、石矛、石鋳などの石器と圏足(足が輪のようになった)器、
>環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、 上薬のついた陶器、
>硬質陶器など


BC16C頃の華南の出土物も日本の弥生遺跡では出土しないものばーっかり。
292出土地不明:2006/04/06(木) 17:17:46 ID:UEf4IS6z
中国といっても華北と華中と華南では古代ほど
文化が異なるので「中国人説」なんていう大雑把な表現は学問的でない。
また中国といっても民族交代の激しい地域だから
時代も特定せず地域も特定せずただ「中国人だ」といっても
弥生人は「古代人だ」というのと同じで意味がない。

たとえば華北(河北・山東)説と華中(江南)説では
中身の議論がまったく異なり、これを「中国説」と一括するのは
学問的にはデタラメに近い暴論。

ついでに華南説というのは2chのドキュンの脳内にしか存在しない。
293出土地不明:2006/04/06(木) 20:52:30 ID:sSMykC8C
残念ながら当時の華北も華中も遺物的な主要文化では
ほとんど差が無い。

華南でさえも器形や灰陶や施釉陶では華北とほとんど差が無い。

ところが日本にはそれらが全く伝わっていない。
294出土地不明:2006/04/06(木) 23:20:50 ID:JULMHPCw
>>293
日本の弥生時代の始まりをみてみれば、そんなの当然だよ。
それに現在の(っていうか、奈良時代ごろのっていうことでもあるけれど)
日本を考えてみれば、さらに当然なことだ。
1)言語 邪馬台国の時代からずっと日本語
2)土器 水田農耕が始まった縄文終末期は縄文土器。
弥生土器に「そこそこ似た土器」は日本周辺で出ているという話はある
けれど、基本的に、土器も独自に発達したと考えたほうがよい。
3)風習 抜歯の風習などは完全に縄文式のものが弥生前期まで残る。
4)水田農耕 人間が移住する速度より早く、ざざざっと東北地方まで伝搬。

ってことだから、日本の縄文人がまさに、技術だけ大陸からもってきて、
それで、弥生時代が始まったわけだ。広範囲に中国の土器が作られるなんて
ことになったら、日本語は中国語になっていたよ。
ただ、あきらかにのっぺり顔の渡来系がきたことは事実。で、その系統は、
初期は、縄文人の集落に一緒に混在していて、その後、渡来系だけの集落も
弥生中期から始まる、とかいうことなら、それは大陸のどこかからつれて
こられたんだろうし、来た人もいるだろう。けれど、あるものは日本にす
べてインフラがあったから、大陸の故郷の土器などもってくる必要もなか
ったんだよ。  

295出土地不明:2006/04/06(木) 23:42:57 ID:sSMykC8C
リアル君とはもうお話しする気にもならんよw

これからは全部ソースで撃ち落としていくのでよろしく。
296出土地不明:2006/04/06(木) 23:59:32 ID:sSMykC8C
BC20Cの二里頭文化では、すでに原始磁器(灰釉陶)が焼かれ、
建築技術も壁、軒などをもつ現代の物とさほど変わらない。


BC1900頃

鄭州市付近に二里頭文化。宮殿とされる大きな遺跡があるが盗掘されたようである。
(殷墟は鄭州市の150キロほどの北にある)
青銅器の本格的な使用が始まっている。
出土物から四川省や甘粛省などとも広く交流している。
宮殿は壁、軒などをもつ現代の物とさほど変わらない物になっているようである。
土器は高温で焼成され、当地では原始磁器と呼んでいる。後期には登り窯が発見
されており最古とされる。

http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kodai_old/kks-koga.htm
297出土地不明:2006/04/07(金) 09:40:19 ID:GxR65/YZ
天照大神(高千穂[九州・熊本阿蘇])対馬壱岐・ソトの島[沙都島=巨済島]・志良岐(新羅)
オオクニ主の尊(出雲[山陰・島根])子の国・隠岐
吉備津神?(吉備[山陽・岡山])

宇佐(大分)・伊予(四国)・土佐・阿波(四国)・淡路・摂津(大阪)・那智(紀伊)
ニニギの尊(河内[畿内・大阪])
ヤマト武の尊(飛鳥?[畿内・奈良])

越の国、北陸(佐渡(サドが島=ソトが島)・子津が関(鼠ヶ関)・
       越前[若狭・加賀・能登に分国])
毛の国、両毛−北関東(上:こうづけ[群馬、牧場]・
           下:しもづけ[栃木]・那須・白河の関)
東海(伊勢[みけつけ[稲荷]・御み御付け、三重]・
   津・尾張・設楽・伊那・諏訪・千曲(毛と越へ)・直江津・
   遠江・焼津・富士・走り海の吾妻(東)・安房・常陸(日立)・那珂・勿来)
会う津、南東北(福島の会津・越と毛が合流、
   越後の分郡の出羽[羽黒・庄内・飽田・仙北三郡・津軽が「東の果ては」外が浜]、
   越後の分国の越中[富山])
毛人=蝦夷=俘囚(陸奥=道の奥[東海道の奥]・奥六郡、北東北)

那:那珂(勿来)・那須・伊那・那智・任那(日本人、那[な]とか直[なお]の名づけ得意)
津:唐津・津山・摂津・津・焼津・国府津・木更津・会津・津軽(日本人、津[つ]も得意)
298出土地不明:2006/04/07(金) 10:05:37 ID:GxR65/YZ
佐久軽井沢、白樺の林あり。
栃木、白樺の林あり。
樺太、白樺が多い。

樺太はカバフト=コバド(庫葉島[漢籍])=クイ(苦夷[漢籍])=クリール(千島)

クイ=骨○という元寇モンゴルの時代の黒龍江から北樺太のアイヌの一種族。

サハリャン(黒龍江・黒水部)=サガリン=サハリン(樺太)

ニブヒ(ギリヤーク)・オロチョン
クイ(樺太あいぬ)・ナナイ
北海道あいぬ(あいの[人間]・ウタリ[仲間])

「あいの」はカムチャック族と仲が悪く混血しないが、
釣り針など鉄製品の交易を、日本人→あいの(クイ)→カムチャック族と伝播。

「あいの」のロシア側をウルップ島とし、エトロプ島を日本側の
アイノ交易の限界とした。で、国境線に先に入植の先住権を問わず
領土分割点とした。

これが
樺太島日露雑居開発(樺太島は日本領だがロシア人の流入許可移住権を認め)
千島はウルップ島以北をロシア領としてエトロプに先に入植のロシア人を引き上げ
四島はエトロプ島以南を日本領とし日本人とアイノの占有居住とした。

アメリカが真珠湾攻撃の海軍をエトロフ島の占冠湾?から出発させて
アメリカ領に出来ず、ソ連領にした。

トルーマンが真珠湾の仕返しなので、アメリカ軍の航空基地を千島に作らせろと
スターリンに言ったら怒り出し、
八つ当たりなことに毛沢東のモスクワ訪問で毛を監禁し、北満州割譲の脅迫をし
満州や朝鮮に樺太千島の日本人をシベリア労働に強制労働させる。と怒り
既に占領した先からシベリア送り(約65万人・約200万在満邦人)に
していたのを正当化した。

周恩来などが慌てて北満州も毛沢東も取り戻した。
朝鮮の動乱の兆しがあったから。ソ連軍を投入したくなかったらしい。
299出土地不明:2006/04/07(金) 10:13:03 ID:GxR65/YZ
1918−1920年 アメリカ・イギリス・
           フランス・日本のシベリア出兵(チタまで)

1918−1922年 沿海州に日本軍が単独進駐(浦塩[ウラジオストク])。
                 [ウラジミール(征服)・ボストーク(東を)]

1918−1925年 北樺太に日本軍が進駐(7年間)。

共産主義の暴力革命やデモクラシーによる下克上に恐怖

1925年 治安維持法、共産主義労働運動家と英米キリスト教徒教師を投獄。

1926年、大正天皇崩御、
      皇太子が執政(大正関東大震災時の実質天皇)から親政へ、昭和時代。
300出土地不明:2006/04/07(金) 10:16:33 ID:GxR65/YZ
× [ウラジミール(征服)・ボストーク(東を)]
○ [ウラジミール(東を)・ボストーク(征服)]
301出土地不明:2006/04/07(金) 10:22:43 ID:GxR65/YZ
ニブヒ(ギリヤーク・沿海州や満州のオロチョン・沿海州から北樺太に強制移住)
ウィルタ(オロッコ・黒龍江下流から北樺太北緯50度に強制移住)
ナナイ
クイ(北樺太あいぬ、北緯50度以南に強制移住の上、ロシアと朝鮮が日本人扱いで虐待)
___南樺太アイヌ
北海道アイヌ(阿寒・日高ほか)
千島アイヌ
302出土地不明:2006/04/07(金) 15:36:44 ID:ObBQE54/
最古の施釉陶は約4200年前。



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm



303出土地不明:2006/04/08(土) 17:49:10 ID:GR+O/oUa
灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。

http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。殷代中期の二里崗文化には,灰白色の
胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,硬度が高く鋭い音色を出し,水の
しみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,浙江・江蘇・江西・安徽・
山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。器形には,尊・壺・豆・
鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,改良が加えられていく。
土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,後漢時代に青磁となる。

http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM
304出土地不明:2006/04/08(土) 17:50:40 ID:GR+O/oUa
漢代における画期的な発明となったのが「鉛釉陶」の開発である。鉛釉は「鉛」を
媒熔剤とした低火度釉である。鉛釉のなかに微量の酸化銅を加え、酸化炎で焼成する
と、釉は美しい緑色に発色する。またこの鉛釉のなかに微量の酸化鉄を加え、同じく
酸化炎で焼成すると釉調は褐色に発色する。すなわち緑釉陶と褐釉陶である。この鉛
釉技法を基盤として、後の唐三彩や清時代の釉上彩(ゆうじょうさい)が生み出され
ていくのである。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
305出土地不明:2006/04/09(日) 13:24:08 ID:vxg6pNgy
弥生期の青銅器には銅剣・銅戈・銅鉾・銅鐸・銅鏡・銅鏃などが
あるが、中国の篆書の金文が伝わっていないだけではなく・・・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本
中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本
遺跡や佐賀県の安永田 遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県
の荒神谷遺跡[こうじんだにいせき]が発掘 されたため、疑問視されている。

http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html
306出土地不明:2006/04/09(日) 13:34:54 ID:vxg6pNgy
鼎、爵などの三足器など、中国の青銅器の器形が全く伝わっていないっ!


青銅器はその用途により、食器、酒器、水器、楽器のほぼ4種類に分けることが
できる。各種類ごとにそれぞれ品目も複雑で数多く、形も非常に変化に富んでいて、
中国人の豊かな想像力と創作力を反映している。たとえば、黍稷(モチキビ)を
盛っておく「簒」。これは現代のご飯茶碗に相当する。その形は非常に変化に富み、
円脚に丸い胴のものもあれば、円脚の下にさらに四角い台座を加えて重しとしている
ものもあり、四角と円形との対象が美しい。また炊事用として使う「鼎」は、縁に
一対の耳を付け、下げるのに便利なようにしてある。丸い胴の下には三つの脚が
つけられ、獣の肉を煮込む火が燃えやすいようになっている。ほかには「爵」や
「尊」なとがある。「爵」は酒を飲んだり温めたりする食器で、縁の形は酒が口の
方へ流れやすいようになっており、脇に持ちやすいように把手がある。胴の部分の
下には酒を温めるため3本の脚がついている。「尊」は大事な酒器で、丸い形の
ものや四角形、および四角い脚に丸い口をしたものなどがある。このように、
青銅器の基本的な形は、バランスの取れた対称形がほとんどで、荘厳で落ち着いた
雰囲気が特色である。

http://www.roc-taiwan.or.jp/culture/culture19.html
307出土地不明:2006/04/09(日) 13:46:01 ID:vxg6pNgy
ご覧下さい!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっておりません。
その代表である三足器さえも伝わっていないのです。




◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html



308出土地不明:2006/04/11(火) 10:01:58 ID:5R9EgE+t
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!


●印文土器 いんもんどき

アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。

http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
309出土地不明:2006/04/11(火) 20:29:27 ID:xly6ZANm
くぅちゃんの○っぱい♪

http://www.d1.i-friends.st/index.php?in=xyz46496
310出土地不明:2006/04/13(木) 15:16:18 ID:PKkgLZT1
「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm

印文土器(いんもんどき) 【意味】

(1)中国南東部で新石器時代から漢代に使われた土器。幾何学文様の
あるスタンプを打った灰色の壺などで、軟陶と硬陶の別がある。
http://www.makurada.com/cgi-bin/dic/html/
311出土地不明:2006/04/13(木) 18:52:59 ID:6ipdgGRA
明 洪武帝 朱元璋や清の雍正帝が有名ですが
朱元璋は 臣下の徐一キが「光天の下、天は聖人を生み 世のために則を作る」
と書いたとき「生は僧、光はわしの禿げていること、則は賊の音と同じ」
と激怒した(おそらくその後殺された)と伝えられています。
なんとなく出来過ぎた話のような気も。朱元璋は字謎が趣味なのか。
避諱 三跪九叩頭
僧は朱元璋が昔 托鉢僧(というかひらたくいえば乞食坊主)であったことから
「僧」と音の通ずる「生」の字を嫌った 賊は、朱元璋が紅[巾]軍の兵で 彼らは
元朝の政府や官僚、地主たちから「紅[巾]賊」と呼ばれていて かって
韓林児のもとで戦ったものは「賊」とののしられることを嫌ったことから
「賊」と音の通ずる「則」の字を嫌ったということです。それから名前に関することでいえば
洪武3年(1370)に 庶民は名前に・天・国・君・聖・神・堯・舜・ウ(夏の初代)・湯・
・文・武・周・秦・漢・晋等の文字を使うことを禁止され さらに
洪武26年(1393)には・太祖・聖孫・龍孫・黄孫・太叔・太兄・太弟・太師・
・太傳・太保・大夫・待詔・博士・太医・太監・大官・郎中の
文字を使うことが禁止されたそうです。
八 最後の決戦  朱呉国と張呉国 ・・・張士誠・・・
※ 士誠は小人なり(孟子)。とは「文字の獄」のいわれ。
征伐した張士誠は陛下と周りにおだてられ得意であったが 南人の文人達が陰では
表向き誉めて贈った称号は 陰では笑いや嘲笑の命名だったという事を 後に朱元璋が
聞いて文人(儒家・科挙教養人)への 不信感や憎悪をあらわにしたした事だった。
鄭声: 「論語」衛霊公篇では「淫靡な音楽 好色物」を意味する → 姓名で「鄭」
尹士: 「孟子」44章 公孫丑編では「士は誠に小人(小人物)と反省した」から取った名。
 明王朝の創始者・朱元璋の聞いた張士誠が名付けられた由来 → 姓名で「尹」「張」
曹操: ソウの読みは同じだが「曹」の字の縦一本線を抜いて「゙」とし中国人と区別した → 姓名で「゙」
312出土地不明:2006/04/15(土) 13:56:27 ID:xna01pKR
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
最も代表的な器形である鬲、鼎などの三足土器さえ伝わっていないっ!


●三足器 さんそくき 

中国における3本の足をもつ土器・青銅器の総称。三足器には,食物を煮るまたは
盛る鼎(てい),中空の袋状三足に水を入れて煮沸し,その上の「甑(そう)」
(こしき)にのせた穀物を蒸す鬲(れき),鬲と甑が結合して一体となったゲン
※注1※,酒器のカ※注2※,燗酒をつくるキ※注3※・カ※注4※・爵(しゃく)
などがある。しかし新石器時代の原始的土器には,水や酒を入れる壺(こ)や,
食物を盛る豆(とう)などにも三足のついたものがあり,器形も未分化・不定形
であった。たとえば,磁山・斐李崗(はいりこう)文化の三足つき壺・鉢形鼎,
仰韶(ぎょうしょう)文化の種々の形鼎,大ブン※注5※)口文化の三足つき
釜形鼎・鉢年鼎・觚(こ)形器,取手・三足つき鉢形細柄豆など種々ある。
また大ブン※注5※口文化において三足土器が,実足から空足,さらに袋状と変化
し,同時に器身も注ぎ口なども変化し,中空三足・注ぎ口・取手つきの大型キ
※注3※が成長した例もある。良渚(しょ)文化や典型竜山文化には,種々の
三足土器が多くなり,河南や陝西の竜山文化にも種々の三足土器が現れ,しだい
に器形がととのっていく。殷代には三足土器もつくられたが,これらの器形を
模した青銅器が鋳造され,また新しい器形の三足青銅器もつくられて,重要な
祭器となり,豪壮な造形と華麗な文様の芸術品に発展し,周代に継承されていく。
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H176R200.HTM
313出土地不明:2006/04/16(日) 16:27:08 ID:HQWsv9Lv
遺伝子的には中国南部が多いらしいけどな。
しゃべってる言葉は北方系、風呂に入る習慣は南方系。
日本の成り立ちはなぞが多い。
314出土地不明:2006/04/17(月) 10:11:42 ID:9C7MsqQq
4000年以前の東南アジアの遺跡でも三足土器が一般的なところから
南方に起源を求める事も不可能。


新石器時代:約4,000年以前
出土した土器は、26種の様式をもっていたが、その中でもっとも目立ったものは
三足の鼎であって、先史時代の中国の『鬲(れき)』に似ており、年代を調べた
ところ、これらは約4,000年以前に作られたことが判明した。
カオサムルナム洞窟でも、バン・カオ遺跡出土の土器と似ている同年代の物が出土した。

http://www.toros8.com/ban/his1.html
315出土地不明:2006/04/18(火) 15:40:54 ID:UGmdOnNG
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
316出土地不明:2006/04/19(水) 02:10:40 ID:jxgwaX7a
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      ,'/    / .ハ ヽ ヽ:.:.:.:. ヽ::.. ヽヽ :.
     :. |i .i i  .i /  ヽ ト 、 \、:.:.:. ',:.',:.:.lヽ}
       |i .i l  :N_, -弋 \弌弋ナ:}:.:}
    :. |i∧ ', :{ ,ィjモト \  イjミトイイV :.  な…
       .|  :メヽ.', `ozZ}      izN。ハ::{     なんなんですか?
      :. |  :ヾ_! ゝ "゙゙    '  `゙ ハ.:', :.   ここ、どこですか?
      |  :.:_イ .:.ヽ.   (二フ , イ :.:.:!:.ヽ     なんであたし
   :.  / rィイ | :.:.ヽ: >r/`<ノ .:.::.}ヽ、\:.   貼られたんですか?
      / ∧l;l ! :.:.:.://{二 ̄ .} ..:..::リ//ハ.:\
 :.  / .{. ',ヾ、ヽi .:.:.{ /(^`  |.:.:.:.//: : :.}: . ヽ.:.
   / /  ) ヽ ヾ、ヽ:.ハ ヤ{   ∧/.-‐'": : |:.:. i ',
  ./ .,イ .:..} : :\ヾレ'ハ ∧__ノノハヾ、  : : : l:.:.: .ハ ',
  { /| .:.:ハ : : :i Y {ヾ`Yヽニン'ノ}: : } : : : :/:.:.:/ }:.}
  V | .:.:/:.:|_,ィ' ̄  ヽ三{ `ー-ノ : イ : : :/:.:i.:{  リ
    ヽ:.:{、.:.V     : : ヘ     : : {: : :/:.::∧|
     ヽ! )人    : : :人      : : : / \! :.
      "  ヽ : : : : :/イ{     :.ノ: : : :.\ :.
       :.  \__///: :\______/: : : : : : : ヽ
           / //: : :|;|: : : : : : i: : : __: : : : ',
       :.     / 、 {;{   |;|   . : i/. : : : : : :|
          / `Y;{. . . .|;|. : : : /i: : : : : : : : :l
317出土地不明:2006/04/19(水) 14:00:39 ID:7aw5fqLj
黄河の麦・粟の文化での土器と石造りの靴と土間形式の文化と
江南の水稲作の文化の土器や漆塗り木製の器に床板畳に高床式の生活では
文化圏が違うと思います。

土足生活でも、畳生活でも、机はあります。畳文化は椅子が無いのです。
野外のアウトドアですと
戦国時代の野外の合戦での陣立てのように折りたたみ椅子は存在します。

このように器具や道具に建物に小物一つとっても
必要とする物と。必要でないので伝わらないものがあります。
宦官の制度と試し腹の文化に風水の多くは、楽浪郡や遣唐使以前でも存在したのに
日本に伝わらなかったというか
情報は伝わっても、制度や習慣として実施しないし伝承しないのです。
風水は、藤原不比ト(檀山神社?)と弘法大師(高野山)と
    武田信玄(?)と徳川家康(静岡久能山・日光東照宮)しか
なかったと言います。
星にまつわる話・星座や御伽噺もスバルと北斗に北辰(北極星)ぐらいで
妙見菩薩(北斗妙見・北辰妙見・花園妙見・稲荷の妙見)は
熊本地域の亀蛇船に亀甲萬と
千葉の日蓮宗と平将門にまつわる関東の旧跡と
東北の円仁にまつわる天台宗ぐらいしか伝承されていません。

このようにキリシタンや日蓮宗弾圧で、全国一辺倒の絶滅策が一時期に起ると
かつてあっても消滅したが為に伝わってないようにみえる場合が起るのです。
318出土地不明:2006/04/19(水) 14:39:09 ID:U+Fa/OX+
商の都のあった河南省鄭州市で商代の原始青磁が確認されたことから、
この地区から研究はスタートした。その後、長江中・下流域で商代から
戦国期に亘って連綿と原始青磁が、古墓や城跡を中心に相次ぎ発見された。
その生産と消費の中心地が華南地域であることは、ほぼ動かしがたい状況となっている。

釉色は青緑色、青黄色を呈し、器の内面は全て施釉し、外面は底部近くには施釉
していない。大部分の器物の底部にはヘラ書き符号が認められると言う。
時代としては、春秋時代早期に比定されている。こうしたヘラ書き符号を有した
印紋陶器や原始青磁は、広東地区の春秋戦国時代の古墓からもよく発見されると言う。

福建省でも同地特有の原始青磁が確認されているが、その窯跡の確認は未だ
されていない。しかし西周時代にはすでに現地生産がされ出していたと予測されている。

今までに窯跡本体の確認された原始青磁を焼成した窯は、華南地域に限られている。
商代でも浙江省上虞市百官鎮2号窯跡の例の様に明らかな龍窯が確認されている。
http://www.sg-r.co.jp/web/kouko/genshi_seiji.html
319出土地不明:2006/04/19(水) 15:36:05 ID:U+Fa/OX+
原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。殷代中期の二里崗文化には,灰白色の
胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,硬度が高く鋭い音色を出し,水の
しみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,浙江・江蘇・江西・安徽・
山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。器形には,尊・壺・豆・
鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,改良が加えられていく。
土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,後漢時代に青磁となる。

http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM

灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。

http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html
320出土地不明:2006/04/19(水) 16:13:17 ID:pJnzwAw+
支配者の使う陶器が庶民も使えるように成るには
大量生産が出来て、安物にならないと広まらないんだよ。
中国王朝と交流のある
周辺民族のお偉いさん酋長レベルの人しか使えないんだよ。

殷の時代に、日本列島との酋長レベルの交流はないから
いくら紀元前7世紀を、紀元前3000年ごろに渡来移住と同じに扱っても
遺伝子は同じかもしれんが、文化は伝播しないのだから
出土なんかあるはずがない。
321出土地不明:2006/04/19(水) 16:23:45 ID:pJnzwAw+
百済の庶民は、生活習慣や会話語が
渤海と新羅になって百済の習慣は絶滅したという。

焼肉や鍋料理は
オンドルと豚飼いの女真や
ジンギスカン鍋の羊飼いの蒙古の習慣と言う。
渤海と女真と蒙古は
中国(漢人)と関係ない。

高麗は、ジンギスカン焼肉に仮定だがインドのチャイのようなお茶だろう。
女が女真や蒙古に盗られて見送っていく従軍慰安婦だとか運動起こす
嘆く恨みのハン文化に、ワビ・サビもねーだろう。

韓国の負け惜しみって「オオギ」って言葉で表現するんだよね。

支配者の使う陶器が庶民も使えるように成るには
大量生産が出来て、安物にならないと広まらないんだよ。
中国王朝と交流のある
周辺民族のお偉いさん酋長レベルの人しか使えないんだよ。
山東や呉越から海を渡るか
熱河や遼東に楽浪郡を陸伝いに伝播できる状況がなければ
伝わらんだろう。

北千島の占守島や幌筵島のアイヌと
カムチャダールに「シン」という釣り針の鉄が出土し
シベリアのエヴェンキ族や
オーストラリアのアボリジニだかの酋長の墓から「寛永通宝」が出土し
樺太のクウィ(クヴェイ)という樺太アイヌから
鎌倉時代の武士の具足が発見されれば
そりゃ交易や文化の伝播が、あるいはあったといえる。

が、アボリジニやエヴェンキに伝わっているのに
単にコンパス的な同心円の縁の物理的距離からいって
チベットやインドやイランにロシアに何で伝わらないのとなるだろう。
真ん中の広大な範囲に中国文明があり中国銅銭や中国の釣り針が存在する。

殷の時代に、日本列島との酋長レベルの交流はないから
いくら紀元前600年代を、紀元前3000年ごろに渡来移住と同じに扱っても
遺伝子は同じかもしれんが、文化は伝播しないのだから
出土なんかあるはずがない。
322出土地不明:2006/04/19(水) 16:46:48 ID:U+Fa/OX+
↑説得力ゼロ
323出土地不明:2006/04/19(水) 17:26:17 ID:U+Fa/OX+
6000年前から日本に無いものばーっかり。


1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
324出土地不明:2006/04/19(水) 17:32:07 ID:U+Fa/OX+
約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な土器
土器はもちろん日常生活用品
約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な土器
土器はもちろん日常生活用品
約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な土器
土器はもちろん日常生活用品
約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な土器
土器はもちろん日常生活用品
約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な土器
土器はもちろん日常生活用品
約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な土器
土器はもちろん日常生活用品
約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な土器
土器はもちろん日常生活用品
約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な土器
土器はもちろん日常生活用品
325出土地不明:2006/04/19(水) 18:23:13 ID:geQ6+JLh
6000年前は、日本に中国人が渡来したんでしょうか?
弥生時代が古墳時代の前(BC600〜AD600年の前)であるとすれば
持込で考えれば、確かに三足土器が主流で無いと、いけないでしょう。
実際にはそうでないし、日本場合は有史前です。

しかし黄河流域の土器作成が江南や遼東に伝播したのであれば
中国人かどうかではなく 中国人で無くとも
異民族でも黄河からの交易やカマド創りの職人の移住や伝授が問題で
日本はその範疇に無かったといえるのではないでしょうか。

遺伝子の分布を調べているチームがあるようです。沖縄人だけに特有の遺伝子、
沖縄人と日本人に多い遺伝子で、モンゴル人と韓国人に少なく
モンゴル人と日本人に多い遺伝子で、韓国人と沖縄人に少なく
韓国人と日本人に多い遺伝子で、モンゴル人と沖縄人に少ないものとがあって
確かに江南人と華北人と満州人との共通で頻度の高い遺伝子が無いとの事です。

頻度は無いですが、遣唐使や天台山の禅僧の留学に
秀吉の出兵の戦後処理から江戸幕府の出島や薩摩からの中国文化流入があります。
逆に、同じ遺伝子の多さで共通でも、モンゴルと同じでない文化だってあります。

仮に中国[大陸]説か中国[人]説で弥生人が決められるでも
土器から見た大陸の文化とは、同じではないでしょう。

気候に適応で同じ衣食住習慣があれば、照葉樹林は中国なので弥生人中国説が
正解だとしても問題ないようなきがします。
漢民族=中国遺伝子≠弥生人
照葉樹林の少数民族=中国=弥生人、であったとしても問題ない気がします。

DNAの中の遺伝子の特色からは漢民族=中国=弥生人には問題がありそうです。
中国南部の気候風土の適応生活=中国=弥生人には大体、許容範囲と思われます。

調べていないでなんですが、木の器も奈良時代以降の気がします。
326出土地不明:2006/04/19(水) 18:32:40 ID:geQ6+JLh
高麗人参茶とか名称を打ってはあるが
顆粒状であって、やはり粉にしてお湯を注ぐタイプですね。それは湯です。
韓国の言う「湯(タン)」は「鍋物(チョンゴル)」です。

日本で茶といえば、緑茶や緑茶の醗酵の紅茶や烏龍茶を指します。
粉にするより葉っぱを煎じたり乾燥させ揉んで丸めたり醗酵させ、それを
袋詰めにして売るので、イメージが異なります。

茶は緑茶の葉であって、生姜や人参を乾燥させた粉ではないです。
生姜湯やポンカン湯は、日本では茶ではないです。
日本の湯は、韓国の茶
日本の鍋は、韓国の湯
という翻訳の漢字とか熟語の意味の差異ですね。
葛根湯なんかもそうです。韓国だと
葛根茶なんて言いそうですよね。
葛根お栽培する事を茶を栽培している。という事を指しているのであれば
笑えない翻訳ミスです。
327出土地不明:2006/04/19(水) 21:37:35 ID:peU+rfEb
>支配者の使う陶器が庶民も使えるように成るには
>大量生産が出来て、安物にならないと広まらないんだよ。


無知だなwwww

貴族は青銅器を使って、庶民こそ灰陶と灰釉陶を使ったんだよ。
328出土地不明:2006/04/20(木) 00:56:12 ID:sXFiq0vW
銅のチョッカラ(箸)の王宮と、灰色の素焼きにウワグスリの焼物なら
李氏朝鮮なんかそうだね。石焼ビビンバの石ウツワもあるけど。

日本は重いものより木製の器に漆塗りのお椀とか
軽いヤツだね。そう塗り物。高ツキや三宝なんか木製だね。
金属性とか土器とか石器とか焼物は重たいから。

鉄柱の鳥居なんて戦前だし、木製が多い文化だね。
瓢箪(ひょうたん)や竹筒の水入れとか、
徳利のような土器は中々後世でないと出ない。

大正時代の脚色の神社の神具は別としても。
金属って神鏡くらいじゃない。ほかロウソク立て。
箪笥(たんす)の止め具のような飾りの金属ぐらい。使用ですぐ思い浮かぶのは。
それって弥生時代ではない。
329出土地不明:2006/04/20(木) 01:06:02 ID:sXFiq0vW
緑青(ろくしょう)?でしょうか
銅が錆びると出る腐食を指して言うには、その色が。
毒々しく思われるんですよね。鉛の杯に昔の地中海のワインなんかで
鉛の毒素が溶け出てワインと一緒に飲んで
ローマ皇帝が狂ったんだ。とかいうやつ。ジンクスか医学的に
そうなのか判らないんだけど。

丹生(にう)でしょうか水銀が堕胎薬だかですが、金属・冶金の世界は
あまり弥生時期には見られないですよね。というかない気がする輸入品ですよね。
金石は当然無いです。意思を細かく彫る彫刻刀が出来ないから石文も無理で。

私も弥生人は遺伝子のHPを見て中国では無いと思ったけど
気候が中国南方的という根拠を見出すんでしょうね。
人種では×ですね中国人説は。遺伝子が物語っている。
気候的には○と思います。緑茶に味噌に清酒に梅干が作れますから。
330出土地不明:2006/04/20(木) 01:10:04 ID:sXFiq0vW
高ツキは腰が高いから倒れるし重石がないといけないよね。
なぜか木製を思い浮かべる。土器の高ツキが思い浮かばないんだな。

土器だとそれ自体が重いので倒れを気にせず、重石を必要としないんだが。

木の加工が出来る程度の刃物冶金はあったようだが。
石彫りは硬度がないと冶金は、いけないと思う。
331出土地不明:2006/04/20(木) 01:22:19 ID:M05lJQKY
一重まぶたが少ないんだよ。中国人は。

日本人は一重が半分くらいだろ。

だから中国人が弥生人だと日本人に一重まぶたが
ほんのわずかになってしまう。
332出土地不明:2006/04/20(木) 01:24:38 ID:sXFiq0vW
木の彫るのも奈良時代頃のような気もするが。
金属を加工し刃物を作る技術だね。弥生時代時期にはない。貨幣の鋳造もそうだね。

中国貨幣ではなく和銅開宝だかですよね。
李氏朝鮮は鋳造権がなく、中国銅銭のみです。宋銭の話題はよく判りません。

シベリアのエヴェンキだかユカギル族の墳墓には寛永通宝が出土ですが
シベリアのツングース系民族が寛永通宝を鋳造するはずはないです。
オーストラリアのアボリジナルにまで出土するようでは、すごい流通性といえます。
直接貿易はないですから間接で行き渡っているのは驚きです。
南蛮船大航海時代の後ですから、船の移動に交易は広さがあります。

やはり弥生時代の交易の広がりには移動力や流通性に限界があったようです。
流通性は、竹についてでビルマの竹を雲南で発見し
ビルマ雲南ルートが中国とインドの間で出来た事です。
シルクロード経由・チベット経由・ベトナム−タイ経由の他の、別ルートです。

しかし、ビルマ竹は見かけても、その方面での中国の陶器が流通していたかは
勉強してないので、例を知りません。
333出土地不明:2006/04/20(木) 01:27:13 ID:sXFiq0vW
これでしょうか?
 ↓
@ハプロタイプHLA−A24−B52−DR15(DRB1*1502)
◎HLA遺伝子 B52-DR15(B52-DR2)の頻度
西日本人_10,0%、
本土日本人 8,6%、中国朝鮮族 2,2%、モンゴル人 5,9%
沖縄人__ 1,5%、韓国人__ 1,4%、アイヌ人_ 1,0%
山東省以北 1,0%くらい
山東省以南 ほとんど見られない
334出土地不明:2006/04/20(木) 01:31:24 ID:sXFiq0vW
JHLAーA2−B35−DRB1*1501(DR15)
 本土日本人 0,4% 沖縄人 4,9% アイヌ人 1,0% 北部漢族 1,0%

KHLAーA24−B59−DRB1*0405(DR4)
 本土日本人 0,8% 沖縄人 4,1% 中国朝鮮族 0,7% 中国満族 0,6%

AHLAーA33−B44−DRB1*1302(DR13)
 本土日本人 4,8% 韓国人 5,1% 中国朝鮮族 3,5% 中国北部漢族 2,0%

BHLAーA24−B7−DRB1*0101(DR1)
 本土日本人 4,0% 沖縄人__ 1,8% アイヌ人 1,0%
 韓国人__ 3,2% 中国朝鮮族 1,7%
安本美典氏の説く日本語・朝鮮語・アイヌ語の共通の基層と考えられる「古極東アジア語」も 
ほぼ金芳漢氏らの「ギリヤーク語類似の古アジア語」と類似の概念だと思われますが
現実に存在するニヴフ(ギリヤーク)族のハプロタイプが不明ですので
これが当を得たものかは わかりませんが何れにしろ半島〜列島に分布した集団で前二者と類似した かつ
異なった分布域を示すことから 北方系の集団の一つであったことは 間違いありません。

CHLAーA24−B54−DRB1*0405(DR4)
 本土日本人 3,1% 沖縄人 6,1% 韓国人 1,2% 中国朝鮮族 0,9%
 中国満族_ 1,2% シベリア・ブリアート人_ 1,3%

○A30−Cw6−B13−DR7−DQw2
 満州族__5,0% モンゴル人4,0% 韓国人3,2%
 スペイン人1,3% イタリア人1,1%
335出土地不明:2006/04/20(木) 09:04:54 ID:7wefNkJm
アイヌ−モンゴル−満族−中国朝鮮−韓国−日本−沖縄−江南−雲南

アイヌ−−−−−−−−−−−−−−韓国−−−−沖縄(日本の周辺に特徴的言語・蝸牛考な縄文人型の言語の仮説)
−−−−−−−−−−−−−−−−−韓国−日本−−−(日本と韓国に特有の言語・古墳式の古極東アジア語の仮説)
−−−−−−−−−−−−中国朝鮮−韓国−日本−−−(韓国の両隣に影響している言語・支石墓のモデル型)
−−−−モンゴル−−−−中国朝鮮−−−−日本−−−(モンゴルの飛び地的な遺伝子・騎馬民族渡来説のモデル型)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−日本−沖縄(島伝いに特有の遺伝子・南洋から米と高床式住居が渡来した仮説)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−日本−−−−江南−雲南(照葉樹林に特有の遺伝子・発酵食品の渡来のモデル型)

基礎の文法___: 古極東アジア語
最古層の流入__: ミクロネシア・ポリネシア系の語彙(パラオ・ハワイ・マリアナ)
古い層の流入__: 漢字系の語彙
比較的新しい流入: モンゴル・中国朝鮮族系の語彙
新しい流入___: 江南・雲南・ブータン系の語彙
極最近の流入__: 韓国系の語彙

なんか、こんな言語成立における語彙の流入モデルを
安本先生あたりが立てていた気がした。子音の組み合わせや使用頻度や
変化形というのでしょうか訛り方だかで調べたんだと思った。
RとNが入れ替わる。とかFとPが入れ替わる。とかMとNの区別をつけない。とか。
最後の音がUが多く、IとかEには成らない。とか先頭にはRの語は来ないとか、
何か基準があったようですよ。
基本語彙は身体・親族呼称・方位・数え方・衣食住の文物の呼称とか
本当に基本の語で調査。

それが弥生時代(???)なのか
前後に縄文時代(アイヌ・沖縄共通)とか
古墳時代(任那・光州付近に古墳があったそうだ)や
飛鳥奈良時代(支石墓だと思うが百済・扶余)とか
鎌倉時代(唐音・禅宗の影響で江南の醗酵食品)に設定するか、わからない。

ヨーロッパの諸語の語彙みたいに分岐が極最近というほどでなく
たとえば、ラテン系のイタリア語とスペイン語の類似
ゲルマン系のドイツ語と英語の類似のようなもので
ゲルマン人の大移動がAD500頃だから、すごく近い過去の分岐なんですよ。
有史以降なので判り易い。
で、日本語は、かなり古い層で分岐があって
前後関係をドウ考えたら良いか判らないものがあるようですよ。
336出土地不明:2006/04/20(木) 09:18:48 ID:7wefNkJm
沖縄は、台風があるから高床式では危険で無理があるんだよね。
石垣を積んで、凹んだ所に家を建てる。吹き飛ばされないように。

ところが
南洋諸島だとパプアニューギニアもそうなんだけど高床式なんだよね。

大正時代に国家神道化したので、後世の後知恵で正倉院を高床式に創った。という
歴史捏造も変で、伊勢神宮の式年遷宮の際の基礎や建物の創りも そんな
歴史捏造と思えないんでね。いつ流入か設定が困るよね。弥生時代でいいのか。

高床式(南洋)なのに古墳(百済)だとか
ねずみ返しの石を基礎の柱においての建物(江南)なのに支石墓(高句麗)があるとか。
その組み合わせの説明に困るんだよね。

それでいてハワイとか遠い島に、南洋と同じポリネシア人がいて
昔にカヌーでの大航海時代があって、ハワイ移住をするグループとかいた。とかね。
現に住んでいるハワイ人がどこから来て、どんな船での航海か。
海流とかを考えて、エスキモー(イヌイット)でなく、
ビキニ島やトラック島にグリニッジ島と同じ系統のポリネシア系だと言うのでね。
337出土地不明:2006/04/20(木) 09:27:53 ID:7wefNkJm
縄文だと、ポリナシアのラインだそうですよ。弥生時代と別内容になるけど。

海進があって、関東の内陸部が海岸線で、沖縄と同じ系統の土器が出るそうですが
無紋だか細文の土器もあって
ブナ林やナラ林の樹林帯の土器と
別のグループの縄文人というヤツですよね。こちらはアイヌ説。
いわゆる弥生時代に半島を突き抜けて移住のグループがいて
韓国・沖縄・アイヌに共通する語と違って、差異のある日本語語彙が多くなってしまったというもの。
バカ・アホ呼び文化の蝸牛考の民俗学的説明のモデルですよね。
中心から新しく、周辺は古い語彙を使うというもの。
関西と言う中心にアホ・オメコ文化圏があり
九州や関東にバカ・マンコ文化圏があると言うもの。
もともと関西もバカ文化圏であったが、
罵りの語彙が新しく発生し、古い呼称を捨てた。
周辺に広まったバカ呼称はそのまま残りドーナッツ状に分布すると言うもの。
調査した時にドーナッツ型を発見した時に
中心点を求めるの。これって結構判り易いし研究が楽しい。
338出土地不明:2006/04/20(木) 09:43:17 ID:jUA43nI3
o-me-ko   お_メコ[関西弁]
o-ma-nn-ko お_マンコ[標準語]
__bo-zi    ボジ[韓国語]

e→a や a→o とか m→b は互換性あるが
o や nn が抜けるのも或る程度は問題ないが
k→z や o→i は互換性がないので別言語と判定

ボジマラという「見るな」が語源と言うので
意味の派生の面からいっても、別系統の言語と判定。
339出土地不明:2006/04/20(木) 09:46:26 ID:jUA43nI3
文字文化がないと
出土品の石文とか金文 あるいは竹簡に羊皮紙巻物やパピルス冊子の類の
古文書のようなのが発生しないから 判定が出来ないので
発音云々の仮説モデルが何型とかの話は、考古学と別分野の話ではあるが。
340出土地不明:2006/04/20(木) 09:55:04 ID:jUA43nI3
K→Zの互換性は、全然ない訳でないんだけど。
というのは、歯を狭めて使う音で共通なんだろうけど
金:キン(KIN)は:ヂン(JIN[チン]あるいはZIN)であるらしい。

歴史的例だと、同じ発音だか字を変える例として
満州族の建国がある。
女真族は金国を建てたので、先祖に真似て
後金国と言う名で女直族の酋長ヌルハチは国を建てたが
子のホンタイジは蒙古の玉爾を手に入れて皇帝となった時に
国名と民族名を改め
金(チン)と同じ清(チン)が字面(じづら)が良い印象なので
後金国を改め清国と名乗り、女直族を改めて満州族としたそうだ。
341出土地不明:2006/04/20(木) 10:22:07 ID:jUA43nI3
あと出土品関係でなくて済まないが
会話言語と食品摂取の体質に関して言えば

日本語を生活会話語(両親や近所の人と喋る)として
幼児期に覚えた人々は、虫の声を雑音ではなく
人の声や音楽のように感じる音感を身に付けており
青年期以降に日本語を覚えた人達には、雑音にしか聞こえないという。

またチーズを食べると満腹感を覚える民族と
ご飯を食べないと満腹感を覚えない民族があり
ご飯系統の満腹感を持つ民族は
往々にしてチーズを食べすぎ 胃腸に負担をかけて 下痢やおならが
チーズで満腹感を覚える人より
多く起こりやすいと言う。特に胃腸ガンの発生率が高いと言う。

ご飯系統は、乳製品の組み合わせがほぼ無く、おならが少なく
チーズ系統は 野菜類の摂取が必須で 腸内の活性化で おならが出やすいと言う。
野菜摂取を多くしないタイプに胃腸ガンが多いそうである。

だから人骨に胃腸は付いてはいないけれども、死因の特定などで食文化などが
中国人の発音を多く用いると頬骨が出て口元の肉がそげてやせている傾向があり
頭蓋骨のアゴ骨と上あご骨の部分に特徴が出ると言うもの。
生きている人の顔を見ると
実際に中国語会話の人は、頬骨のしたのホホ肉は太ってない。痩せこけている。
それはサシス・ザジズ・ジャヂジュの摩擦音を異言語より多く使うからと言う。
人骨の判定の場合は、これは本当かドウかはわからない。
342出土地不明:2006/04/20(木) 10:25:11 ID:jUA43nI3
だから人骨に胃腸は付いてはいないけれども、死因の特定などで食文化などが
 ↓
だから人骨に胃腸は付いてはいないけれども、死因の特定などで食文化など
                        判定するのも一つと思われる
343出土地不明:2006/04/20(木) 10:27:27 ID:jUA43nI3
ラマルクの適応もあるしね。
遺伝子がすべてでもないし 出土品の判定を、ドウ解釈するかだね。
344出土地不明:2006/04/20(木) 15:17:14 ID:HFvvH19Q
篆書の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='髱帝喝蝎ィ%20譁・ァ・豬∵ーエ譁・
345出土地不明:2006/04/20(木) 15:17:56 ID:HFvvH19Q
饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html

殷の時代に生み出された灰釉陶は、西周時代から春秋戦国時代(B.C770〜 221)にかけて
熟成の時代を迎えることになるが、なお中国工芸の中心は依然として青銅器であった。
祭器としての青銅器から日常生活具としての青銅器へ変化する過程で、文様も饕餮文
(とうてつもん)・〓龍文(きりゅうもん)・〓鳳文(きほうもん)などの神秘的・
宗教的・観念的なもから動物や植物がリアルに写される写実的な文様へ変化していった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
346出土地不明:2006/04/20(木) 17:29:16 ID:aat53K6p
古浦砂丘遺跡。ここは、弥生前期から奈良時代にかけての遺跡だが
六〇体近い弥生前期の人骨が発掘された。
九州大学の医学部教授らの精緻な計測・分析をした結果
朝鮮半島から新たに渡来してきた人々の流れを汲むという。
上半身がひどく発達していて「日ごろ猛烈に舟を漕ぐ人々」との推測を下した。

完全に海人族じゃん、つか倭人じゃん

五人の男性が、額のところに銅の青サビらしきものがあり、頭骨に五センチほどの
幅でハチマキをまいたようにヘコミがあったことだ。
生前長い間、額に銅の丸い飾りをつけたハチマキをつけていた呪師たちではないかと
考えられている。

もろシャーマンじゃん

古浦遺跡の小児骨は、頭蓋骨が極度に肥厚していて
強い貧血の症状を示している。このような強い骨変化を伴う貧血は
サラセミアという遺伝病の可能性が高いと報告されている。
この病気は、アジアでは「広東や香港」を発生の中心としており
稲作とともに伝わってきた可能性を秘めている。

江南でイイじゃんw
347出土地不明:2006/04/20(木) 18:00:51 ID:aat53K6p
>>346
古浦遺跡でググッてみた
上顎の犬歯を対象とした抜歯風習が盛んでだったらしい
これっていわゆる南方系の風習だおね?
土井ケ浜の弥生人とも類似していたところをみると、朝鮮辺りで遺伝的影響を受けた
南海の民ってことで私的見解はほぼ確定しました。
348出土地不明:2006/04/22(土) 14:15:20 ID:nsxfn2Jj
日本に来た渡来系には、大きく2種類あったと思われる

縄文人が日本を占拠していた時期に、朝鮮半島から
渡来したもの。B52−DR2、弥生人である。
特徴として、頬骨が発達している

すでに、弥生人が西日本を占拠していたころに
朝鮮北部から、瀬戸内海を渡り、西日本を素通りして、新しく関西周辺に入ってきた渡来人
B44−DR13である。
顔の特徴は頬骨が前者の弥生人程発達してなく、蚕型の輪郭をしている
関西周辺から入り、秋田方面、東海方面へと広がっていった
やはり西日本は弥生人がすでに占拠していたため、
西日本にはあまり入りこめず西に行くほど頻度は低くなる


現代朝鮮人・関西周辺人・中国地方人は同じ新モンゴロイド系だが、
関西周辺人だけ、ぶっちぎりで現代朝鮮人に近い、
現代朝鮮人と同一の血を持つ集団が、弥生時代から古墳時代頃に関西周辺にだけ土着したという証拠である。

手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との距離
朝鮮 0
近畿 0.007←関西はここ。ぶっちぎりで朝鮮人に近い。
中部 0.012←関西のとなりの濃尾平野はここ。
中国 0.035
九州 0.035
四国 0.038
東京 0.048←関東はここ。
東北 0.068←東北はここ。
南西諸島 0.092
アイヌ 0.118
山口敏「日本人の顔と身体」より

「B44ーDR13」は関東で5,7%、
韓国は7,0%で北陸7,2%から秋田に多く、近畿6,6%、
東海10,7%でも頻度が高い。日本中央部に多いタイプ。
349出土地不明:2006/04/22(土) 14:16:09 ID:nsxfn2Jj
日韓同祖論

亜種を含めたら数倍になる、朝鮮人の最多ハプロタイプ・B44−DR13は、縄文人のHLAの1つではなく、
渡来人のHLAの1つ。

もし、亜種を含めたら数倍になる、朝鮮人の最多ハプロタイプ・B44−DR13が、縄文人のHLAの1つなら、
朝鮮人は、沖縄人やアイヌ人と同じ縄文系という事になるが、
朝鮮人に縄文顔の人は、10人に、1人か2人しかいなく、非常にマイナーな存在。

「B44ーDR13」は関東で5,7%、
韓国は7,0%で北陸7,2%から秋田に多く、近畿6,6%、
東海10,7%でも頻度が高い。日本中央部に多いタイプ。


日本人と朝鮮人は、同一の血を持つ民族である。
350出土地不明:2006/04/22(土) 14:19:31 ID:nsxfn2Jj
朝鮮系の子孫は、関西を中心にドーナツ状に分布しています。

手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との距離

朝鮮 0
近畿 0.007←関西はここ。いうまでもなく、まんま朝鮮。
中部 0.012←平均的な甲信越を含みながら、この値は驚き!愛知県は朝鮮。
中国 0.035←日本文化の本流。平均的。
九州 0.035←日本文化の本流。平均的。
四国 0.038←日本文化の本流。平均的。
東京 0.048←日本文化の本流。名古屋〜大阪(バカ発生地帯)とは別世界。
東北 0.068←日本文化の本流。名古屋〜大阪(バカ発生地帯)とは別世界。
南西諸島 0.092
アイヌ 0.118
山口敏「日本人の顔と身体」より
351出土地不明:2006/04/22(土) 14:20:02 ID:KpMIOzpA


抜歯は縄文時代前期に於いても稀に見られますが、中期の終わり頃、
東北地方に出現し、後期前葉までには関東地方にも広がります。
後期中葉頃になると、九州以外の西日本でも普遍的になり、
晩期には北海道、九州へも広がっていきます。

http://www.mars.dti.ne.jp/~takiura/Jyoumon_Fukusyoku.html
352出土地不明:2006/04/22(土) 14:26:25 ID:nsxfn2Jj
>古墳時代から鎌倉時代に、日本人が長頭になったんじゃなくて、
>長頭の縄文系日本人が、渡来式の埋葬をするようになっただけ。

>つまり、縄文時代や弥生時代には、長頭の縄文人の埋葬方法が粗雑で、
>遺骨が、後の時代に残りにくい為、貝塚などのCaに富んだ土壌でのみ発見される。

>しかし、古墳時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・室町時代ともなると埋葬方法も、ちゃんと墓穴を掘って遺体を埋めるようになってきたため、
>後の時代に遺骨が発見される数が飛躍的に増えた。

>それと、弥生時代の骨の調査で、渡来人が居住した地帯からの骨ばかりカウントすりゃ、
>あたかも、その時代の日本人が中頭だったかのような誤解を招く。

>弥生時代だって、日本列島に居住してる人の大部分は、縄文系日本人なのであって、
>埋葬が粗雑だったがために遺骨が残ってないだけのこと。

>それと考古学的関心が持たれる遺跡(集落とかクニとか鏡・剣・勾玉なんかが出る)ばかり掘るので、
>そこから出る骨は渡来系が多いのは当たり前。


>鎌倉時代には、まだ縄文人の系統が、鎌倉周辺ではマジョリティーだったんだよ。
>関東の武士団は、土着の地方豪族たちで、
>土着の地方豪族たちは、土着の農民らを兵としていたから、関東武士の骨が、縄文人の骨と区別が、つきがたいほど似ていた、
>ということは彼らが居住していたであろう鎌倉周辺は、14世紀になっても縄文人系が多かった。


>しかし、北部九州や畿内や山陰の古墳に埋葬されてる骨の多くは、短頭から中頭。それは何故か解るだろ?
>朝鮮半島や中国からの渡来人だからさ。
353出土地不明:2006/04/22(土) 14:28:09 ID:nsxfn2Jj
>78 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/27 23:20:26 ID:Uf/Cayc+
>>77
>え?基本的には縄文人は長頭だと思うが。
>短頭に近づくのは、弥生期初期ではないか。
>ただし、鹿児島人は、最初っから「著しい短頭」なのだ。
>たんなる「短頭」ではない。
>これはもう、絶壁とかいうレベルでもなく、えぐれている
>のではないかと思うほどなのだ。

>ソースは、
>池田なにがしの古人骨の本(講談社新書か、中公新書か、岩波新書)
>だったと思うが。
354出土地不明:2006/04/22(土) 14:50:24 ID:KpMIOzpA
日本に来た渡来系は1種類であったと思われる。

縄文人が日本を占拠していた時期に、北方アジアから朝鮮半島に
定着せずに短期間で突き抜けて渡来したもの。B52−DR2、
弥生人である。特徴として、扁平な頭蓋で北方モンゴロイドの特徴を持つ。

約15000年前、まだ朝鮮半島と陸続きであった頃に東海〜近畿地方辺りから
西日本一帯はもちろん、今の朝鮮半島まで広がっていた古モンゴロイドがいた。
B44−DR13である。顔の特徴は縄文人の頭蓋そのものである。
東海〜近畿地方あたりから発生し、東日本一帯や西日本一帯はもちろん、
朝鮮半島まで広がっていった。

現代朝鮮人は中央モンゴロイドと北方モンゴロイドの中間的な様相を
帯びており、西日本人は古モンゴロイドと北方モンゴロイドの中間的な様相
を帯びるが、関西周辺人だけ、ぶっちぎりでモンゴル人に近い。
モンゴル人を構成した同一の血を持つ集団が、弥生時代前期中頃に
九州北部に侵入し、のちに近畿付近に東遷した証拠である。

◎手掌紋D線3型出現率から求めたモンゴル人との距離

モンゴル 0
満州族 0
ブリアート 0
ツングース 0
オロチョン 0
ダフール 0
エヴェンキ 0
ヤクート 0
朝鮮 0
近畿 0.007←関西はここ。ぶっちぎりでモンゴル人に近い。
中部 0.012←関西のとなりの濃尾平野はここ。
中国 0.035
九州 0.035
四国 0.038
東京 0.048←関東はここ。
東北 0.068←東北はここ。
南西諸島 0.092
アイヌ 0.118
山口敏「日本人の顔と身体」より

「B44ーDR13」は関東で5,7%、
韓国は5,1%で北陸7,2%から秋田に多く、近畿6,6%、
東海10,7%でも頻度が高い。日本中央部に多いタイプ。
355出土地不明:2006/04/22(土) 15:21:18 ID:KpMIOzpA
日韓同祖論

亜種を含めたら数倍になる、朝鮮人の最多ハプロタイプ・B44−DR13は、
本州縄文人のHLAの1つである。

朝鮮人の最多ハプロタイプ・B44−DR13は、もともとは
本州縄文人のHLAで、約15000年以前に陸伝いで朝鮮半島まで
広がっており、沖縄人やアイヌ人とは別系統の縄文人である。
朝鮮人に縄文顔の人は、10人に、1人か2人しかいなく、非常に
マイナーな存在であるのは、日本列島と切り離された後、
古モンゴロイドから中央モンゴロイドに変化し、その上に
北方モンゴロイドや華北シニーデと濃厚に混成したからである。

「B44ーDR13」は関東で5,7%とさほど多くない。
韓国は5,1%で北陸7,2%から秋田に多く、近畿6,6%、
東海は10,7%と世界一頻度が高い。日本中央部に多いタイプ。


日本人と朝鮮人は、本州にいた同一の古モンゴロイドから分かれている。
356出土地不明:2006/04/22(土) 15:21:54 ID:KpMIOzpA
モンゴル系の子孫は、関西を中心にドーナツ状に分布しています。

◎手掌紋D線3型出現率から求めたモンゴル人との距離

モンゴル 0
満州族 0
ブリアート 0
ツングース 0
オロチョン 0
ダフール 0
エヴェンキ 0
ヤクート 0
朝鮮 0
近畿 0.007←関西はここ。いうまでもなく、まんまモンゴル。
中部 0.012←平均的な甲信越を含みながら、この値は驚き!愛知県はモンゴル。
中国 0.035←日本文化の本流。平均的。
九州 0.035←日本文化の本流。平均的。
四国 0.038←日本文化の本流。平均的。
東京 0.048←日本文化の本流。名古屋〜大阪(バカ発生地帯)とは別世界。
東北 0.068←日本文化の本流。名古屋〜大阪(バカ発生地帯)とは別世界。
南西諸島 0.092
アイヌ 0.118
山口敏「日本人の顔と身体」より
357出土地不明:2006/04/22(土) 15:37:39 ID:Ge4AC77G
コピペばかりの脳タリンばっかでツマラン
358出土地不明:2006/04/22(土) 16:34:00 ID:KpMIOzpA
篆書の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='髱帝喝蝎ィ%20譁・ァ・豬∵ーエ譁
359出土地不明:2006/04/22(土) 16:41:10 ID:KpMIOzpA
饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html

殷の時代に生み出された灰釉陶は、西周時代から春秋戦国時代(B.C770〜 221)にかけて
熟成の時代を迎えることになるが、なお中国工芸の中心は依然として青銅器であった。
祭器としての青銅器から日常生活具としての青銅器へ変化する過程で、文様も饕餮文
(とうてつもん)・〓龍文(きりゅうもん)・〓鳳文(きほうもん)などの神秘的・
宗教的・観念的なもから動物や植物がリアルに写される写実的な文様へ変化していった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
360出土地不明:2006/04/22(土) 18:03:54 ID:Ge4AC77G
そして糞スレは消え行くのみ
361出土地不明:2006/04/24(月) 07:51:34 ID:hJDdI4ci
日本に来た渡来系には、大きく2種類あったと思われる

縄文人が日本を占拠していた時期に、朝鮮半島から
渡来したもの。B52−DR2、弥生人である。
特徴として、頬骨が発達している

すでに、弥生人が西日本を占拠していたころに
朝鮮北部から、瀬戸内海を渡り、西日本を素通りして、新しく関西周辺に入ってきた渡来人
B44−DR13である。
顔の特徴は頬骨が前者の弥生人程発達してなく、蚕型の輪郭をしている
関西周辺から入り、秋田方面、東海方面へと広がっていった
やはり西日本は弥生人がすでに占拠していたため、
西日本にはあまり入りこめず西に行くほど頻度は低くなる


現代朝鮮人・関西周辺人・中国地方人は同じ新モンゴロイド系だが、
関西周辺人だけ、ぶっちぎりで現代朝鮮人に近い、
現代朝鮮人と同一の血を持つ集団が、弥生時代から古墳時代頃に関西周辺にだけ土着したという証拠である。

手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との距離
朝鮮 0
近畿 0.007←関西はここ。ぶっちぎりで朝鮮人に近い。
中部 0.012←関西のとなりの濃尾平野はここ。
中国 0.035
九州 0.035
四国 0.038
東京 0.048←関東はここ。
東北 0.068←東北はここ。
南西諸島 0.092
アイヌ 0.118
山口敏「日本人の顔と身体」より

「B44ーDR13」は関東で5,7%、
韓国は7,0%で北陸7,2%から秋田に多く、近畿6,6%、
東海10,7%でも頻度が高い。日本中央部に多いタイプ。
362出土地不明:2006/04/24(月) 07:56:51 ID:hJDdI4ci
日韓同祖論

亜種を含めたら数倍になる、朝鮮人の最多ハプロタイプ・B44−DR13は、縄文人のHLAの1つではなく、
渡来人のHLAの1つ。

もし、亜種を含めたら数倍になる、朝鮮人の最多ハプロタイプ・B44−DR13が、縄文人のHLAの1つなら、
朝鮮人は、沖縄人やアイヌ人と同じ縄文系という事になるが、
朝鮮人に縄文顔の人は、10人に、1人か2人しかいなく、非常にマイナーな存在。

「B44ーDR13」は関東で5,7%、
韓国は7,0%で北陸7,2%から秋田に多く、近畿6,6%、
東海10,7%でも頻度が高い。日本中央部に多いタイプ。


日本人と朝鮮人は、同一の血を持つ民族である。
363出土地不明:2006/04/24(月) 08:00:38 ID:hJDdI4ci
北九州地域の異なる2つのタイプの渡来系弥生人 / 中国東北部起源と長江流域起源
--------------------------------------------------------------------------------

最近では、北部九州の渡来系弥生人と、中国大陸の同時代人骨との比較研究も進んでいる。

ミトコンドリアのDNA分析などから、
山東半島や江南地域の出土人骨とは高い親縁性のある事が指摘されて始めている。

渡来系弥生人は同じ北部九州でも長身で顔が細く華奢な「北九州」タイプと、
やや横幅が張った彫りの深い「西北九州」タイプに分かれる。

前者は山東、朝鮮半島から中国東北部起源、
後者は山東、朝鮮半島から長江流域起源
の可能性か高いという。


和佐野喜久生氏(佐賀大学農学部)は、
日中韓の炭化米を調査した結果、同じ短粒米でも、
玄界灘沿岸地域のものが丸く小さいのに対して、
有明海沿岸地域のそれは、やや長めで大きい事を突き止めた。

前者は同時代の半島のモノに近く、
後者は中国の長江や淮河流域のモノに近いという。


この結果は期せずして、人骨の二つのタイプと一致している。

--------------------------------------------------------------------------------

日本の歴史02 王権の誕生 寺沢 薫著 講談社より

http://toron.pepper.jp/jp/kodai/roots/roots2.html

日本人のルーツ

http://toron.pepper.jp/jp/kodai/roots/index.html
364出土地不明:2006/04/24(月) 08:09:57 ID:hJDdI4ci
ぼくらも天皇も、韓国や北朝鮮の人とはみんな混血なんだ、
素晴らしいことじゃないか。

初めて渡来人がやって来たのは紀元前300年ごろのことだ。
日本人の3分の1から半分が、朝鮮人と血縁関係にあると指摘する学者もいる。
朝鮮人が建てた神社は、今も日本全国に数多くある。

日本の明仁天皇が昨年12月の68歳の誕生日に、半島との混血をカミングアウト。
「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、
韓国とのゆかりを感じています、皇太子の顔をよく見てください。」という驚くべき発言をしたのだ、しかも突然に。
 皇室が韓国とのゆかりを公に認めたことは明治以降なかった。

だが、W杯を控えたこの時期に天皇が発言したことは偶然ではない。
過激な右翼的言動や、たとえば『新しい歴史教科書』を編纂したような考えをもつ人たちに
自制を促すための発言だった、と皇室事情に詳しい人物は言う。
 明仁天皇は、音楽、儒教、仏教という韓国が日本にもたらした三つの影響にも言及した。
その背景には、日本の植民地支配で韓国が受けた苦々しい記憶を和らげようという意図が感じられる。
 「会見でのご発言は、天皇ご自身のお考えをきちんと述べたものだと思う。
365出土地不明:2006/04/24(月) 08:29:54 ID:epCiZjD7
↑朝鮮総連の寄り目工作員(嘲笑

はよ北に帰れやw
366出土地不明:2006/04/24(月) 09:00:22 ID:hJDdI4ci
亜種を含めたら数倍になる、
朝鮮人の最多ハプロタイプで、本土日本人全般の準最多ハプロタイプ・B44−DR13は、
縄文人のHLAの1つではなく、
渡来人のHLAの1つ。

もし、亜種を含めたら数倍になる、
朝鮮人の最多ハプロタイプで、本土日本人全般の準最多ハプロタイプ・B44−DR13が、
縄文人のHLAの1つなら、

朝鮮人・本土日本人全般は、沖縄人・アイヌ人と同じ縄文系という事になるが、
朝鮮人に縄文顔の人は、10人に2人位、
本土日本人全般に縄文顔の人は、10人に3人位しかいなく、マイナーな存在。


朝鮮人・本土日本人全般が縄文系に見える、思えるというならば、
あんた、精神病院に行ったほうがいいよ。


「B44ーDR13」は関東で5,7%とさほど多くない。
韓国は7,0%で北陸7,2%から秋田に多く、近畿6,6%、
東海10,7%でも頻度が高い。日本中央部に多いタイプ。


朝鮮系の子孫は、関西を中心にドーナツ状に分布しています。

手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との距離

朝鮮 0
近畿 0.007←関西はここ。いうまでもなく、まんま朝鮮。
中部 0.012←平均的な甲信越を含みながら、この値は驚き!関西のとなりの濃尾平野は朝鮮。
中国 0.035←日本文化の本流。平均的。
九州 0.035←日本文化の本流。平均的。
四国 0.038←日本文化の本流。平均的。
東京 0.048←日本文化の本流。名古屋〜大阪(バカ発生地帯)とは別世界。
東北 0.068←日本文化の本流。名古屋〜大阪(バカ発生地帯)とは別世界。
南西諸島 0.092
アイヌ 0.118
山口敏「日本人の顔と身体」より
367出土地不明:2006/04/24(月) 09:11:14 ID:hJDdI4ci
日韓同祖論

亜種を含めたら数倍になる、
朝鮮人の最多ハプロタイプで、本土日本人全般の準最多ハプロタイプ・B44−DR13は、
縄文人のHLAの1つではなく、
渡来人のHLAの1つ。

もし、亜種を含めたら数倍になる、
朝鮮人の最多ハプロタイプで、本土日本人全般の準最多ハプロタイプ・B44−DR13が、
縄文人のHLAの1つなら、

朝鮮人・本土日本人全般は、沖縄人・アイヌ人と同じ縄文系という事になるが、
朝鮮人に縄文顔の人は、10人に2人位、
本土日本人全般に縄文顔の人は、10人に3人位しかいなく、マイナーな存在。


朝鮮人・本土日本人全般が縄文系に見える、思えるというならば、
あんた、精神病院に行ったほうがいいよ。


「B44ーDR13」は関東で5,7%とさほど多くない。
韓国は7,0%で北陸7,2%から秋田に多く、近畿6,6%、
東海10,7%でも頻度が高い。日本中央部に多いタイプ。


日本人と朝鮮人は、同一の血を持つ民族である。
368出土地不明:2006/04/24(月) 09:18:47 ID:epCiZjD7



こうした研究成果から想像をたくましくすれば、同じ人種の海洋民が朝
鮮南部沿岸と対馬、西北九州一帯に住んでいたとも考えられます。実際これを
裏付けるかのように、韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が
発掘されたと、釜山大学・鹿児島大学の共同作業チームが報告しています。
http://www.han.org/a/half-moon/hm009.html

韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された



369出土地不明:2006/04/24(月) 09:21:59 ID:epCiZjD7


●従来の日韓同祖論


×朝鮮半島から弥生人がやって来て、日本の縄文人を征服して滅ぼした。


●日韓同祖論の真相


○弥生人は北方アジアから朝鮮半島を短期間で突き抜けて九州北部に
渡ってきた北方系の種族で、朝鮮半島には縄文人に似た土着の種族がいた。


370出土地不明:2006/04/24(月) 10:59:11 ID:hJDdI4ci
B52−DR2は、韓国で最低3%、華北でも最低3%は検出される。


それに、<関西周辺+中国地方+北九州>と、
朝鮮半島・華北では、人口が全く違う。

朝鮮半島・華北の人口は、<関西周辺+中国地方+北九州>と比べて、かなり多い。

従って、%が低くても、
B52−DR2の人は、朝鮮半島・華北に、かなりいる。

さらに華北で、弥生時代の、渡来系弥生人の骨が見つかっている。

しかし、朝鮮半島で、満州人による高句麗=高麗の建国などがあった為、
朝鮮半島・華北などでは満州人との混血が起こり、
現在の朝鮮半島・華北などでは、B52−DR2の人は全盛時よりは減ってしまった。


弥生系日本人=弥生系朝鮮人=弥生系華北人


関西周辺・中国地方・北九州や、
朝鮮半島・華北で、
%ではなく数が多い遺伝子は、B52−DR2。

つまり、弥生系日本人・弥生系朝鮮人・弥生系華北人は、同一の血を持つ民族である。


まゆ毛から、あご下までが長い瓜実形の顔・
短頭か中頭・せまいひたい・目と離れたまゆ毛・一重まぶた・細く小さい目・浅い彫り・低い鼻・
蒙古ひだ・大きい歯・薄い体毛・短い手足などの特徴が完全に一致する。
371出土地不明:2006/04/24(月) 12:53:58 ID:epCiZjD7



こうした研究成果から想像をたくましくすれば、同じ人種の海洋民が朝
鮮南部沿岸と対馬、西北九州一帯に住んでいたとも考えられます。実際これを
裏付けるかのように、韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が
発掘されたと、釜山大学・鹿児島大学の共同作業チームが報告しています。
http://www.han.org/a/half-moon/hm009.html

韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された


372出土地不明:2006/04/24(月) 12:55:33 ID:epCiZjD7


●従来の日韓同祖論


×朝鮮半島から弥生人がやって来て、日本の縄文人を征服して滅ぼした。


●日韓同祖論の真相


○弥生人は北方アジアから朝鮮半島を短期間で突き抜けて九州北部に
渡ってきた北方系の種族で、朝鮮半島には縄文人に似た土着の種族がいた。

373出土地不明:2006/04/24(月) 22:03:18 ID:4OMCuWHL
日本に来た渡来系は1種類だけである。

縄文人が日本を占拠していた時期に、北方アジアから朝鮮半島に
定着せずに短期間で突き抜けて渡来したもの。B52−DR2、
弥生人である。特徴として、扁平な頭蓋で北方モンゴロイドの特徴を持つ。

約15000年前、まだ朝鮮半島と陸続きであった頃に東海〜近畿地方辺りから
西日本一帯はもちろん、今の朝鮮半島まで広がっていた古モンゴロイドがいた。
B44−DR13である。顔の特徴は縄文人の頭蓋そのものである。
東海〜近畿地方あたりから発生し、東日本一帯や西日本一帯はもちろん、
朝鮮半島まで広がっていった。

現代朝鮮人は中央モンゴロイドと北方モンゴロイドの中間的な様相を
帯びており、西日本人は古モンゴロイドと北方モンゴロイドの中間的な様相
を帯びるが、関西周辺人だけ、ぶっちぎりでモンゴル人に近い。
モンゴル人を構成した複数の集団の中の一集団が、弥生時代前期中頃に朝鮮半島に
定着せずに九州北部に侵入し、のちに近畿付近に東遷した証拠である。

◎手掌紋D線3型出現率から求めたモンゴル人との距離

モンゴル 0以下
満州族 0以下
ブリアート 0以下
ツングース 0以下
オロチョン 0以下
ダフール 0以下
エヴェンキ 0以下
ヤクート 0以下
朝鮮 0
近畿 0.007←関西はここ。ぶっちぎりでモンゴル人に近い。
中部 0.012←関西のとなりの濃尾平野はここ。
中国 0.035
九州 0.035
四国 0.038
東京 0.048←関東はここ。
東北 0.068←東北はここ。
南西諸島 0.092
アイヌ 0.118
山口敏「日本人の顔と身体」より

「B44ーDR13」は関東で5,7%、
韓国は5,1%で、北陸7,2%から秋田に多く、近畿6,6%、
東海は10,7%で世界一頻度が高い。日本中央部に多いタイプ。
374出土地不明:2006/04/24(月) 22:04:30 ID:4OMCuWHL
日韓同祖論

亜種を含めたら数倍になる、朝鮮人の最多ハプロタイプ・B44−DR13は、
本州縄文人のHLAの1つである。

朝鮮人の最多ハプロタイプ・B44−DR13は、もともとは
本州縄文人のHLAで、約15000年以前に陸伝いで朝鮮半島まで
広がっており、本州縄文人は沖縄人やアイヌ人とは別系統である。
朝鮮人に縄文顔の人は、10人に2〜3人しかいなく、非常にマイナー
な存在であるのは、朝鮮半島が日本列島と切り離された後、朝鮮半島の
古モンゴロイドが中央モンゴロイドに変化し、その上に数々の
北方モンゴロイドの種族や華北シニーデと濃厚に混成したからである。

「B44ーDR13」は関東で5,7%とさほど多くない。
韓国は5,1%で、北陸7,2%から秋田に多く、近畿6,6%、
東海は10,7%と世界一頻度が高い。日本中央部に多いタイプ。


日本人と朝鮮人は、本州にいた同一の古モンゴロイドから分かれている。
375出土地不明:2006/04/24(月) 22:05:04 ID:4OMCuWHL
モンゴル系の子孫は、関西を中心にドーナツ状に分布しています。

◎手掌紋D線3型出現率から求めたモンゴル人との距離

モンゴル 0以下
満州族 0以下
ブリアート 0以下
ツングース 0以下
オロチョン 0以下
ダフール 0以下
エヴェンキ 0以下
ヤクート 0以下
朝鮮 0
近畿 0.007←関西はここ。いうまでもなく、まんまモンゴル。
中部 0.012←平均的な甲信越を含みながら、この値は驚き!愛知県はモンゴル。
中国 0.035←日本文化の本流。平均的。
九州 0.035←日本文化の本流。平均的。
四国 0.038←日本文化の本流。平均的。
東京 0.048←日本文化の本流。名古屋〜大阪とは別世界。
東北 0.068←日本文化の本流。名古屋〜大阪とは別世界。
南西諸島 0.092
アイヌ 0.118
山口敏「日本人の顔と身体」より
376出土地不明:2006/04/24(月) 22:06:20 ID:4OMCuWHL
B52−DR2は、韓国で1.4%、華北でも1〜2%ほど検出される。


<関西周辺+中国地方+北九州> は朝鮮半島よりやや少ない人口だが、
華北とは人口が全く違う。

華北の人口は<関西周辺+中国地方+北九州>と比べてかなり多い。

従って、B52−DR2の人口は華北にはかなりいるが、やはり%が優先される。

華北で漢代の渡来系弥生人骨に似た骨が見つかっているがやはり別種であろう。

また、朝鮮半島で満州人による高句麗=高麗の建国などがあって、朝鮮半島・華北
などでは満州人との混血が起こっているが、西日本人の14%という頻度から
考えても、もとの朝鮮半島・華北人が9割も入れ替わったとは到底考えられない。


弥生系日本人≠朝鮮人≠華北人


関西周辺・中国地方・北九州や、
朝鮮半島・華北での
B52−DR2の%がやはり全てである。

つまり、弥生系日本人・朝鮮人・華北人は、わずかに同じ血も持つが、別の民族である。


弥生系日本人の顔面は扁平で頬骨が出ず、つり上がらない切れ長の一重瞼の目を持つ。
朝鮮人は弥生系よりも扁平さが弱いが頬骨が出ていて、目がやや小さくつり上がり気味。
華北人は弥生系よりも扁平さが弱いが頬骨が出ず、目が二重瞼でつり上がっている。
377出土地不明:2006/04/25(火) 06:09:02 ID:cyHVlJF0
日韓同祖論

亜種を含めたら数倍になる、
朝鮮人の最多ハプロタイプで、本土日本人全般の準最多ハプロタイプで、
関西人の準最多ハプロタイプ・B44−DR13は、
縄文人のHLAの1つではなく、
渡来人のHLAの1つ。

もし、
亜種を含めたら数倍になる、
朝鮮人の最多ハプロタイプで、本土日本人全般の準最多ハプロタイプで、
関西人の準最多ハプロタイプ・B44−DR13が、
縄文人のHLAの1つなら、

朝鮮人・本土日本人全般・関西人は、アイヌ人・沖縄人と同じ縄文系という事になるが、
朝鮮人に縄文顔の人は、10人に2人位、
本土日本人全般に縄文顔の人は、10人に3人位、
関西人に縄文顔の人は、10人に1人位しかいなく、
マイナーな存在。


朝鮮人・本土日本人全般・近畿人が縄文系に見える、思えるというならば、
精神病院に行ったほうがいいよ。


「B44ーDR13」は関東で5,7%とさほど多くない。
韓国は7,0%で北陸7,2%から秋田に多く、関西6,6%、
東海10,7%でも頻度が高い。日本中央部に多いタイプ。

縄文人のmtDNAは、琉球人=沖縄人によく見られるタイプのmtDNAとして現れるが、
意外な事に、韓国人の方が縄文人のmtDNAが本州日本人より僅かに多い。
その分、本州日本人(伊東市)にはアイヌのmtDNAが入ってくる。
アイヌは東日本までは確実に南下したようだ。

http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm

東京大学名誉教授の埴原さんの分析では、縄文人と渡来系朝鮮人の混血率は、
近畿地方は渡来系朝鮮人9に対し縄文人1の割合だった。
全国の大学に保管してある現代人の頭骨を調査して統計処理してみると、
日本人全体からみれば近畿人の骨が異質な形態をしていた。
渡来系朝鮮人の影響が近畿では濃厚なのである。


日本人と朝鮮人は、同一の血を持つ民族である。
378出土地不明:2006/04/25(火) 06:10:51 ID:cyHVlJF0
日本に来た渡来系には、大きく2種類あったと思われる

縄文人が日本を占拠していた時期に、朝鮮半島から
渡来したもの。B52−DR2、弥生人である。
特徴として、頬骨が発達している

すでに、弥生人が西日本を占拠していたころに
朝鮮北部から、瀬戸内海を渡り、西日本を素通りして、新しく関西周辺に入ってきた渡来人
B44−DR13である。
顔の特徴は頬骨が前者の弥生人程発達してなく、蚕型の輪郭をしている
関西周辺から入り、秋田方面、東海方面へと広がっていった
やはり西日本は弥生人がすでに占拠していたため、
西日本にはあまり入りこめず西に行くほど頻度は低くなる


現代朝鮮人・関西周辺人・中国地方人は同じ新モンゴロイド系だが、
関西周辺人だけ、ぶっちぎりで現代朝鮮人に近い、
現代朝鮮人と同一の血を持つ集団が、弥生時代から古墳時代頃に関西周辺にだけ土着したという証拠である。

手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との距離
朝鮮 0
近畿 0.007←関西はここ。ぶっちぎりで朝鮮人に近い。
中部 0.012←関西のとなりの濃尾平野はここ。
中国 0.035
九州 0.035
四国 0.038
東京 0.048←関東はここ。
東北 0.068←東北はここ。
南西諸島 0.092
アイヌ 0.118
山口敏「日本人の顔と身体」より

「B44ーDR13」は関東で5,7%、
韓国は7,0%で北陸7,2%から秋田に多く、関西6,6%、
東海10,7%でも頻度が高い。日本中央部に多いタイプ。
379出土地不明:2006/04/25(火) 06:18:30 ID:cyHVlJF0
モンゴルも朝鮮も中国も同じだし、どれも、キモイし、おぞましい。

関西人が、他の日本地域と異なる人種集団である以上は、
日本人とは別の人種であることは明らかなわけで。

関西人=渡来人ではない、
日本土着であり、モンゴルや朝鮮や中国は関西人の支流であるという考え方もできますが、
発掘結果はそうではない。

日本人とは別の人種=ビビンバ・ニダー

それと関西人が現実問題、
縄文系の強い東国・九州・アイヌ・沖縄や、
白人・コーカソイドなどより人種的にかっこよければ無問題ですが、
細くて一重の目、頬が突き出て平べったい顔、絶壁頭などなど、はっきりいって醜い。
日本社会には不要な民族なのですよ。

必死になってモンゴルだと主張しても、日本には関西人=ブサイク・ビビンバ・ニダーは不要。

祖国モンゴルなり、朝鮮なり、中国なりに帰っていただきたい。
380出土地不明:2006/04/25(火) 06:21:36 ID:cyHVlJF0
B52−DR2は、韓国で最低3%、華北でも最低3%は検出される。


それに、<関西周辺+中国地方+北九州>と、
朝鮮半島・華北では、人口が全く違う。

朝鮮半島・華北の人口は、<関西周辺+中国地方+北九州>と比べて、かなり多い。

従って、%が低くても、
B52−DR2の人は、朝鮮半島・華北に、かなりいる。

さらに華北で、弥生時代の、渡来系弥生人の骨が見つかっている。

しかし、朝鮮半島で、満州人による高句麗=高麗の建国などがあった為、
朝鮮半島・華北などでは満州人との混血が起こり、
現在の朝鮮半島・華北などでは、B52−DR2の人は全盛時よりは減ってしまった。


弥生系日本人=弥生系朝鮮人=弥生系華北人


関西周辺・中国地方・北九州や、
朝鮮半島・華北で、
%ではなく数が多い遺伝子は、B52−DR2。

つまり、弥生系日本人・弥生系朝鮮人・弥生系華北人は、同一の血を持つ民族である。


まゆ毛から、あご下までが長い瓜実形の顔・
短頭か中頭・せまいひたい・目と離れたまゆ毛・一重まぶた・細く小さい目・浅い彫り・低い鼻・
蒙古ひだ・大きい歯・薄い体毛・短い手足などの特徴が完全に一致する。
381出土地不明:2006/04/25(火) 09:04:50 ID:KECvfaOW



こうした研究成果から想像をたくましくすれば、同じ人種の海洋民が朝
鮮南部沿岸と対馬、西北九州一帯に住んでいたとも考えられます。実際これを
裏付けるかのように、韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が
発掘されたと、釜山大学・鹿児島大学の共同作業チームが報告しています。
http://www.han.org/a/half-moon/hm009.html

韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された


382出土地不明:2006/04/25(火) 09:07:07 ID:KECvfaOW


●従来の日韓同祖論


×朝鮮半島から弥生人がやって来て、日本の縄文人を征服して滅ぼした。


●日韓同祖論の真相


○弥生人は北方アジアから朝鮮半島を短期間で突き抜けて九州北部に
渡ってきた北方系の種族で、朝鮮半島には縄文人に似た土着の種族がいた。

383出土地不明:2006/04/25(火) 09:08:59 ID:KECvfaOW
日本に来た渡来系は1種類だけである。

縄文人が日本を占拠していた時期に、北方アジアから朝鮮半島に
定着せずに短期間で突き抜けて渡来したもの。B52−DR2、
弥生人である。特徴として、扁平な頭蓋で北方モンゴロイドの特徴を持つ。

約15000年前、まだ朝鮮半島と陸続きであった頃に東海〜近畿地方辺りから
西日本一帯はもちろん、今の朝鮮半島まで広がっていた古モンゴロイドがいた。
B44−DR13である。顔の特徴は縄文人の頭蓋そのものである。
東海〜近畿地方あたりから発生し、東日本一帯や西日本一帯はもちろん、
朝鮮半島まで広がっていった。

現代朝鮮人は中央モンゴロイドと北方モンゴロイドの中間的な様相を
帯びており、西日本人は古モンゴロイドと北方モンゴロイドの中間的な様相
を帯びるが、関西周辺人だけ、ぶっちぎりでモンゴル人に近い。
モンゴル人を構成した複数の集団の中の一集団が、弥生時代前期中頃に朝鮮半島に
定着せずに九州北部に侵入し、のちに近畿付近に東遷した証拠である。

◎手掌紋D線3型出現率から求めたモンゴル人との距離

モンゴル 0以下
満州族 0以下
ブリアート 0以下
ツングース 0以下
オロチョン 0以下
ダフール 0以下
エヴェンキ 0以下
ヤクート 0以下
朝鮮 0
近畿 0.007←関西はここ。ぶっちぎりでモンゴル人に近い。
中部 0.012←関西のとなりの濃尾平野はここ。
中国 0.035
九州 0.035
四国 0.038
東京 0.048←関東はここ。
東北 0.068←東北はここ。
南西諸島 0.092
アイヌ 0.118
山口敏「日本人の顔と身体」より

「B44ーDR13」は関東で5,7%、
韓国は5,1%で、北陸7,2%から秋田に多く、近畿6,6%、
東海は10,7%で世界一頻度が高い。日本中央部に多いタイプ。
384出土地不明:2006/04/25(火) 09:09:30 ID:KECvfaOW
日韓同祖論

亜種を含めたら数倍になる、朝鮮人の最多ハプロタイプ・B44−DR13は、
本州縄文人のHLAの1つである。

朝鮮人の最多ハプロタイプ・B44−DR13は、もともとは
本州縄文人のHLAで、約15000年以前に陸伝いで朝鮮半島まで
広がっており、本州縄文人は沖縄人やアイヌ人とは別系統である。
朝鮮人に縄文顔の人は、10人に2〜3人しかいなく、非常にマイナー
な存在であるのは、朝鮮半島が日本列島と切り離された後、朝鮮半島の
古モンゴロイドが中央モンゴロイドに変化し、その上に数々の
北方モンゴロイドの種族や華北シニーデと濃厚に混成したからである。

「B44ーDR13」は関東で5,7%とさほど多くない。
韓国は5,1%で、北陸7,2%から秋田に多く、近畿6,6%、
東海は10,7%と世界一頻度が高い。日本中央部に多いタイプ。


日本人と朝鮮人は、本州にいた同一の古モンゴロイドから分かれている。
385出土地不明:2006/04/25(火) 09:11:46 ID:KECvfaOW
モンゴル系の子孫は、関西を中心にドーナツ状に分布しています。

◎手掌紋D線3型出現率から求めたモンゴル人との距離

モンゴル 0以下
満州族 0以下
ブリアート 0以下
ツングース 0以下
オロチョン 0以下
ダフール 0以下
エヴェンキ 0以下
ヤクート 0以下
朝鮮 0
近畿 0.007←関西はここ。いうまでもなく、まんまモンゴル。
中部 0.012←平均的な甲信越を含みながら、この値は驚き!愛知県はモンゴル。
中国 0.035←日本文化の本流。平均的。
九州 0.035←日本文化の本流。平均的。
四国 0.038←日本文化の本流。平均的。
東京 0.048←日本文化の本流。名古屋〜大阪とは別世界。
東北 0.068←日本文化の本流。名古屋〜大阪とは別世界。
南西諸島 0.092
アイヌ 0.118
山口敏「日本人の顔と身体」より
386出土地不明:2006/04/25(火) 09:12:18 ID:KECvfaOW
B52−DR2は、韓国で1.4%、華北でも1〜2%ほど検出される。


<関西周辺+中国地方+北九州> は朝鮮半島よりやや少ない人口だが、
華北とは人口が全く違う。

華北の人口は<関西周辺+中国地方+北九州>と比べてかなり多い。

従って、B52−DR2の人口は華北にはかなりいるが、やはり%が優先される。

華北で漢代の渡来系弥生人骨に似た骨が見つかっているがやはり別種であろう。

また、朝鮮半島で満州人による高句麗=高麗の建国などがあって、朝鮮半島・華北
などでは満州人との混血が起こっているが、西日本人の14%という頻度から
考えても、もとの朝鮮半島・華北人が9割も入れ替わったとは到底考えられない。


弥生系日本人≠朝鮮人≠華北人


関西周辺・中国地方・北九州や、
朝鮮半島・華北での
B52−DR2の%がやはり全てである。

つまり、弥生系日本人・朝鮮人・華北人は、わずかながら同じ血も持つが別の民族である。


弥生系日本人の顔面は扁平で頬骨が出ず、つり上がらない切れ長の一重瞼の目を持つ。
朝鮮人は弥生系よりも扁平さが弱いが頬骨が出ていて、目がやや小さくつり上がり気味。
華北人は弥生系よりも扁平さが弱いが頬骨が出ず、エラが張り、目が二重瞼でつり上がっている。
387出土地不明:2006/04/27(木) 20:03:06 ID:pNUPTw7z
BC14C頃の殷には既に馬車がある。
BC12〜13C頃には華中まで伝わっているだろう。


◎3300年前の馬車・銅剣が出土 商の遺跡・殷墟付近

河南省安陽市にある商(または殷、紀元前1600年ごろ〜紀元前1046年)の
遺跡・殷墟の宮殿宗廟跡から西へ約3千メートルの場所でこのほど、今から
3300年以上前に当たる商代後期のものとされる車馬坑(馬車や馬を埋葬した
穴)7つが見つかった。考古学研究者が5カ月間にわたる発掘調査により発見だ。

車馬坑7つのうち、5つは1列に並んでおり、貴族のために殉葬したものとみられる。
遺跡からは青銅製の両刃の短剣も発見された。これら出土品は、100年を超える
殷墟の発掘史の中でも初めての発見だ。専門家は車馬坑の発見について、商代の
馬車の形状や構造、用途、馬車に関する制度の研究にとって重要な意義があると
している。(編集NK)

「人民網日本語版」2005年5月27日

http://www.people.ne.jp/2005/05/27/jp20050527_50407.html
388出土地不明:2006/04/28(金) 12:19:16 ID:Ye6qY03t
日本に車輪が伝わったのが7C頃。


>車輪が埋まっていた砂層内からは7世紀後半の土器片が出土していることから、
>類例の少ない現存する車輪の内でも最古級である可能性があります。
http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/bunkazai06.html


↓馬以前に車輪が弥生時代に伝わっていない事に気が付いていない馬鹿学者(嘲笑


>筑波大学の桃崎祐輔先生の講演でも、馬の存在時期を最初に話題にされました。
>日本列島が縄文時代であった頃、春秋戦国時代の中国においては東中国海を挟んだ
>日本列島の対岸である山東半島には戦車をつけた状態で発掘される屠殺馬が多く
>みられることから、縄文人が馬を入手した可能性は否定できないとも話されました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kibaminz.htm
389出土地不明:2006/04/28(金) 13:00:35 ID:hk95OMlO
縄文人のmtDNAは、琉球人=沖縄人=琉球系縄文人によく見られるタイプのmtDNAとして現れるが、
意外な事に、韓国人の方が、琉球人=沖縄人=琉球系縄文人のmtDNAが本州日本人より僅かに多い。
その分、本州日本人(伊東市)には、アイヌ人=アイヌ系縄文人のmtDNAが入ってくる。
アイヌ人=アイヌ系縄文人は東日本までは確実に南下した。

http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm


亜種を含めたら数倍になる、
朝鮮人の最多ハプロタイプで、関西人の準最多ハプロタイプ・B44−DR13は、
縄文人のHLAの1つではなく、
渡来人のHLAの1つ。

もし、
亜種を含めたら数倍になる、
朝鮮人の最多ハプロタイプで、関西人の準最多ハプロタイプ・B44−DR13が、
縄文人のHLAの1つなら、

朝鮮人・関西人は、アイヌ人・沖縄人と同じ縄文系という事になるが、
朝鮮人に縄文顔の人は、10人に2人位、
関西人に縄文顔の人は、10人に1人位しかいなく、
非常にマイナーな存在。

朝鮮人の最多ハプロタイプで、関西人の準最多ハプロタイプが縄文人のものなら、
朝鮮人・関西人の大半は、朝鮮顔にはならず、アイヌ人・沖縄人みたいな縄文顔になる。


朝鮮人・関西人が縄文系に見える、思えるというならば、 精神病院に行ったほうがいいぜ。


東京大学名誉教授の埴原さんの分析では、縄文人と渡来系朝鮮人の混血率は、
近畿地方は渡来系朝鮮人9に対し縄文人1の割合だった。
全国の大学に保管してある現代人の頭骨を調査して統計処理してみると、
日本人全体からみれば近畿人の骨が異質な形態をしていた。
渡来系朝鮮人の影響が近畿では濃厚なのである。


「B44ーDR13」は関東で5,7%とさほど多くない。
韓国は7,0%で北陸7,2%から秋田に多く、関西6,6%、
東海10,7%でも頻度が高い。濃尾平野以西に多いタイプ。
390出土地不明:2006/04/28(金) 13:52:17 ID:Ye6qY03t
>>389
スレ違いだろが。

この大バカ鮮人!
391出土地不明:2006/04/29(土) 14:44:07 ID:Xzf8ngTP


「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸の言葉は伝わっていない」

http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/mousou.html


金関  縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと
考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm

392出土地不明:2006/04/30(日) 17:16:33 ID:l8XDf9Ts
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。

「チャイナネット」2003年3月31日

http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
393出土地不明:2006/04/30(日) 17:18:33 ID:l8XDf9Ts
>石戈、石矛、石鋳などの石器と圏足(足が輪のようになった)器、
>環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、
>硬質陶器など



BC16Cの華南の出土物も日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑


394出土地不明:2006/05/01(月) 01:38:41 ID:G9/6Jp5T
で?
395A REAL CHINA:2006/05/01(月) 05:41:21 ID:if5unQ5w
396出土地不明:2006/05/01(月) 12:19:42 ID:AvbfPrJz
周に入る頃には既に一般的な建材だった瓦さえ伝わっていないっ!


瓦の歴史はきわめて古く、中国では紀元前2000頃にはすでに瓦が登場している。
中国4000年の歴史とよく言われるが、瓦も4000年の歴史を持っている。中国語の
瓦という字は、粘土を焼いたものの総称である。

http://www8.ocn.ne.jp/~kawarak/hana.html

瓦の歴史はとても古く、メソポタミア、インドなどの諸説がありますが、
すでに紀元前2000年前の中国に瓦が存在していたと言われています。

http://www2.odn.ne.jp/sugimotokawara/KAWARA2.htm
397出土地不明:2006/05/02(火) 07:55:43 ID:8/oPTc24

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060209-00000148-kyodo-ent
398出土地不明:2006/05/02(火) 07:58:44 ID:8/oPTc24
>青磁器の鐸がこのほど出土した
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった




青磁が伝わってない事には一切触れない南京博物院のすっとぼけぶり(嘲笑



399出土地不明:2006/05/02(火) 13:28:42 ID:llWVnxDv
青磁は
宋王朝時代(10世紀以降)で
弥生時代(紀元前3世紀以前)でありません。

蒙古王朝時代の楽浪半島の磁器は中国からの輸入品が
墳墓にあるだけです。

女真族(金国)の宋王朝からの略奪品を
楽浪半島に埋葬で使い
楽浪半島の住民のほとんどは
渤海人(旧百済・高句麗西側・帯方郡王扶余一族の人民・泰村王弓裔に亡命して来た移住民)と
女真族(旧新羅・高句麗東側・刀伊の来寇の前後に移住してきた者達)
の居住で、わずか
半島南岸からの山間地と慶州周辺しか原住民は住んでいませんでした。

弥生時代の楽浪半島の原住民のワイ・バク(焼物埋葬の墳墓の文化が無い)とは
民族の種類的・血筋的・文化的に
現在の渤海人と女真の血の入った朝鮮人とは関係が有りません。
400出土地不明:2006/05/02(火) 15:41:31 ID:Sp0Uy1of
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401出土地不明:2006/05/03(水) 12:40:05 ID:hxHFe51P
>>399
春秋戦国時代(紀元前770−同221年)と書かれてあるだろ。

その青磁というのは原始青磁(灰釉陶)の事だ。

BC2C頃の前漢時代に原始青磁から鉛釉陶が開発され、
青磁が完成したのは1C頃の後漢時代である。

楽浪郡では既に緑釉陶や褐釉陶などの鉛釉陶が焼かれていたが、
日本に鉛釉陶が入るのが7C後半で、これが日本で初めての
施釉陶であり、8Cに猿投で灰釉陶が開発され、中国とは逆の
展開となっているところが興味深い。

それと朝鮮半島の原住民は陸分岐で縄文人から別れたのち、
古モンゴロイドから変化していった中央モンゴロイドだよ。

ワイもハクも紀元前後に満州東部あたりから朝鮮半島に侵入した
北方モンゴロイドである。
402出土地不明:2006/05/03(水) 12:42:54 ID:hxHFe51P

http://members2.jcom.home.ne.jp/1228105901/0509jofuku.pdf

↑ここまで研究しといて、何で当時の中国の主流文化が全く伝わって
いない事に気が付かないんだろうね?

灰陶、灰釉陶、紅陶、土とん墓、金文、青銅貨という言葉はもちろん、
最も肝心な支石墓という言葉さえも出てこないというお粗末さ。

稲作だけで妄想を膨らませ、更に妄想を重ね続けると、
果たして人間はここまでメクラになるものなんだろうか?

もはや妄想の狂人という言葉しか出てこない。
403出土地不明:2006/05/05(金) 00:17:18 ID:xoDn3Hwq
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
404出土地不明:2006/05/05(金) 14:04:27 ID:xoDn3Hwq
BC20C頃の二里頭文化では、すでに建築技術は壁、軒などをもつ現代の物と
さほど変わらず、原始磁器(灰釉陶)が焼かれていた。



BC1900頃

鄭州市付近に二里頭文化。宮殿とされる大きな遺跡があるが盗掘されたようである。
(殷墟は鄭州市の150キロほどの北にある)
青銅器の本格的な使用が始まっている。
出土物から四川省や甘粛省などとも広く交流している。
宮殿は壁、軒などをもつ現代の物とさほど変わらない物になっているようである。
土器は高温で焼成され、当地では原始磁器と呼んでいる。後期には登り窯が発見
されており最古とされる。

http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kodai_old/kks-koga.htm
405出土地不明:2006/05/06(土) 15:02:12 ID:DpEAs2rz
灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。

http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。殷代中期の二里崗文化には,灰白色の
胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,硬度が高く鋭い音色を出し,水の
しみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,浙江・江蘇・江西・安徽・
山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。器形には,尊・壺・豆・
鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,改良が加えられていく。
土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,後漢時代に青磁となる。

http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM
406出土地不明:2006/05/07(日) 20:13:46 ID:a28r5tFi
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!


●印文土器 いんもんどき アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。

http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
407出土地不明:2006/05/08(月) 10:19:50 ID:cGOAn1Yd
「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm

印文土器(いんもんどき) 【意味】

(1)中国南東部で新石器時代から漢代に使われた土器。幾何学文様の
あるスタンプを打った灰色の壺などで、軟陶と硬陶の別がある。
http://www.makurada.com/cgi-bin/dic/html/
408出土地不明:2006/05/09(火) 11:56:46 ID:FuXwIe/g
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
最も代表的な器形である鬲、鼎などの三足土器さえ伝わっていないっ!


●三足器 さんそくき 

中国における3本の足をもつ土器・青銅器の総称。三足器には,食物を煮るまたは
盛る鼎(てい),中空の袋状三足に水を入れて煮沸し,その上の「甑(そう)」
(こしき)にのせた穀物を蒸す鬲(れき),鬲と甑が結合して一体となったゲン
※注1※,酒器のカ※注2※,燗酒をつくるキ※注3※・カ※注4※・爵(しゃく)
などがある。しかし新石器時代の原始的土器には,水や酒を入れる壺(こ)や,
食物を盛る豆(とう)などにも三足のついたものがあり,器形も未分化・不定形
であった。たとえば,磁山・斐李崗(はいりこう)文化の三足つき壺・鉢形鼎,
仰韶(ぎょうしょう)文化の種々の形鼎,大ブン※注5※)口文化の三足つき
釜形鼎・鉢年鼎・觚(こ)形器,取手・三足つき鉢形細柄豆など種々ある。
また大ブン※注5※口文化において三足土器が,実足から空足,さらに袋状と変化
し,同時に器身も注ぎ口なども変化し,中空三足・注ぎ口・取手つきの大型キ
※注3※が成長した例もある。良渚(しょ)文化や典型竜山文化には,種々の
三足土器が多くなり,河南や陝西の竜山文化にも種々の三足土器が現れ,しだい
に器形がととのっていく。殷代には三足土器もつくられたが,これらの器形を
模した青銅器が鋳造され,また新しい器形の三足青銅器もつくられて,重要な
祭器となり,豪壮な造形と華麗な文様の芸術品に発展し,周代に継承されていく。
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H176R200.HTM
409出土地不明:2006/05/09(火) 11:57:24 ID:FuXwIe/g
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
410出土地不明:2006/05/10(水) 20:11:57 ID:LXnCYn9r
411出土地不明:2006/05/11(木) 17:07:41 ID:wUQ4Dl0T
篆書の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='髱帝喝蝎ィ%20譁・ァ・豬∵ーエ譁・
412出土地不明:2006/05/11(木) 17:08:17 ID:wUQ4Dl0T
饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html

殷の時代に生み出された灰釉陶は、西周時代から春秋戦国時代(B.C770〜 221)にかけて
熟成の時代を迎えることになるが、なお中国工芸の中心は依然として青銅器であった。
祭器としての青銅器から日常生活具としての青銅器へ変化する過程で、文様も饕餮文
(とうてつもん)・〓龍文(きりゅうもん)・〓鳳文(きほうもん)などの神秘的・
宗教的・観念的なもから動物や植物がリアルに写される写実的な文様へ変化していった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
413出土地不明:2006/05/12(金) 11:49:50 ID:hUoIJdgg
中国の篆書の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅剣・銅戈・銅鉾・銅鐸・銅鏡・銅鏃などがあるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本
中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本
遺跡や佐賀県の安永田 遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県
の荒神谷遺跡[こうじんだにいせき]が発掘 されたため、疑問視されている。

http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html
414出土地不明:2006/05/12(金) 11:50:56 ID:hUoIJdgg
鼎、爵などの三足器など、中国の青銅器の器形が全く伝わっていないっ!


青銅器はその用途により、食器、酒器、水器、楽器のほぼ4種類に分けることが
できる。各種類ごとにそれぞれ品目も複雑で数多く、形も非常に変化に富んでいて、
中国人の豊かな想像力と創作力を反映している。たとえば、黍稷(モチキビ)を
盛っておく「簒」。これは現代のご飯茶碗に相当する。その形は非常に変化に富み、
円脚に丸い胴のものもあれば、円脚の下にさらに四角い台座を加えて重しとしている
ものもあり、四角と円形との対象が美しい。また炊事用として使う「鼎」は、縁に
一対の耳を付け、下げるのに便利なようにしてある。丸い胴の下には三つの脚が
つけられ、獣の肉を煮込む火が燃えやすいようになっている。ほかには「爵」や
「尊」なとがある。「爵」は酒を飲んだり温めたりする食器で、縁の形は酒が口の
方へ流れやすいようになっており、脇に持ちやすいように把手がある。胴の部分の
下には酒を温めるため3本の脚がついている。「尊」は大事な酒器で、丸い形の
ものや四角形、および四角い脚に丸い口をしたものなどがある。このように、
青銅器の基本的な形は、バランスの取れた対称形がほとんどで、荘厳で落ち着いた
雰囲気が特色である。

http://www.roc-taiwan.or.jp/culture/culture19.html
415出土地不明:2006/05/13(土) 14:28:18 ID:snXThr/B
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっていない。
その代表である三足器形さえも伝わっていない。




◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html




416出土地不明:2006/05/14(日) 04:40:01 ID:fEDy1Gpk
         l;;llllll||lll从从WWWl||ll,,ツ从ツツノlイノ'彡ヽ
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        }ミミ;;;} :::  {:: ゙:::::、:::    :::ィ ,,:::: };;;;イ;;l
        jミミ;;;;} :::  ヽ::::ミヽ::  |  ノ  W::  |;;;;彡:|
          }ミ;;;;;;} ::: ヾ {:::::ミ ヽ j イ|从 ":::: };;;;;;彡{
         iミ゙;;;ノ::::::  \'、 }}: l||イ /,ィ;;、、-ーーヾ'ァ;;イ、
        {;;;;リ:レ彡"三三ミヽ,,リ{{,,ノ;;;;ィ≦==ミ'" |;;〉l.|
        l"';;;l ゙'''<<~(::) >>::)-ら::ィ'ー゙-゙,,彡゙  .:|;l"lリ
          |l ';;', ::: ー` ̄:::::::ミ}゙'~}彡ィ""´   .:::lリノ/
         l'、〈;', :::    :::::::t、,j iノ:::、::..    ..::::lー'/
   ,、,,,/|  ヽヽ,,', ::.、    :::::(゙゙(  ),、)、ヽ::.  イ ::::l_ノ
)ヽ"´   ''''"レl_ヽ,,,', ヾ'ー、:::;r'"`' ゙'';;""  ゙l|  ::j ::: |: l,,,,
         ゙''(,l ', l| リ {"ィr''''' ーー''ijツヽ  l| :" l  |',`ヽ,
   き 利    (l :'、 `',. 'l| |;;゙゙゙゙"""´ー、;;| ノ:  / /リヽ \
.    く  い    Z::::ヽ '、 ゙'t;ヽ ` ´ ノ;;リ   ,r' //  |
   な. た     >; :::ヽ  ::ヽミニニニ彡'"  , '::::://  |
   ┃ ふ     フヽ ::\ : ミー―― "ノ , ':::: //:   |
   ┃ う      }ヽヽ :::::\::( ̄ ̄ ̄ /:::://:    |
   ┃ な     }| ヽヽ :::::`'-、竺;;ニィ'::://    |    l
   // 口    (: |  ヽ ヽ :::: ::::::...  :://     |    |
)  ・・.  を    (  |  ヽ ヽ::  ::::::... //      リ.    |
つ、       r、{  |   ヽ ヽ   //      /     |
  ヽ      '´    |   ヽ  ヽ //      /     |


417出土地不明:2006/05/14(日) 17:08:26 ID:G2dj4wQR
商の都のあった河南省鄭州市で商代の原始青磁が確認されたことから、
この地区から研究はスタートした。その後、長江中・下流域で商代から
戦国期に亘って連綿と原始青磁が、古墓や城跡を中心に相次ぎ発見された。
その生産と消費の中心地が華南地域であることは、ほぼ動かしがたい状況となっている。

釉色は青緑色、青黄色を呈し、器の内面は全て施釉し、外面は底部近くには施釉
していない。大部分の器物の底部にはヘラ書き符号が認められると言う。
時代としては、春秋時代早期に比定されている。こうしたヘラ書き符号を有した
印紋陶器や原始青磁は、広東地区の春秋戦国時代の古墓からもよく発見されると言う。

福建省でも同地特有の原始青磁が確認されているが、その窯跡の確認は未だ
されていない。しかし西周時代にはすでに現地生産がされ出していたと予測されている。

今までに窯跡本体の確認された原始青磁を焼成した窯は、華南地域に限られている。
商代でも浙江省上虞市百官鎮2号窯跡の例の様に明らかな龍窯が確認されている。
http://www.sg-r.co.jp/web/kouko/genshi_seiji.html
418出土地不明:2006/05/15(月) 12:13:20 ID:73O5/Ktc
4000年以前の東南アジア周辺の遺跡でも三足土器が一般的なところから
南方に起源を求める事も不可能。


新石器時代:約4,000年以前
出土した土器は、26種の様式をもっていたが、その中でもっとも目立ったものは
三足の鼎であって、先史時代の中国の『鬲(れき)』に似ており、年代を調べた
ところ、これらは約4,000年以前に作られたことが判明した。
カオサムルナム洞窟でも、バン・カオ遺跡出土の土器と似ている同年代の物が出土した。

http://www.toros8.com/ban/his1.html
419出土地不明:2006/05/16(火) 16:42:52 ID:VeI6H912
BC14C頃の殷には既に馬車がある。
BC12〜13C頃には華中まで伝わっているだろう。


◎3300年前の馬車・銅剣が出土 商の遺跡・殷墟付近

河南省安陽市にある商(または殷、紀元前1600年ごろ〜紀元前1046年)の
遺跡・殷墟の宮殿宗廟跡から西へ約3千メートルの場所でこのほど、今から
3300年以上前に当たる商代後期のものとされる車馬坑(馬車や馬を埋葬した
穴)7つが見つかった。考古学研究者が5カ月間にわたる発掘調査により発見だ。

車馬坑7つのうち、5つは1列に並んでおり、貴族のために殉葬したものとみられる。
遺跡からは青銅製の両刃の短剣も発見された。これら出土品は、100年を超える
殷墟の発掘史の中でも初めての発見だ。専門家は車馬坑の発見について、商代の
馬車の形状や構造、用途、馬車に関する制度の研究にとって重要な意義があると
している。(編集NK)

「人民網日本語版」2005年5月27日

http://www.people.ne.jp/2005/05/27/jp20050527_50407.html
420出土地不明:2006/05/16(火) 16:43:28 ID:VeI6H912
日本に車輪が伝わったのが7C頃。


>車輪が埋まっていた砂層内からは7世紀後半の土器片が出土していることから、
>類例の少ない現存する車輪の内でも最古級である可能性があります。
http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/bunkazai06.html


↓馬以前に車輪が弥生時代に伝わっていない事に気が付いていない馬鹿学者(嘲笑


>筑波大学の桃崎祐輔先生の講演でも、馬の存在時期を最初に話題にされました。
>日本列島が縄文時代であった頃、春秋戦国時代の中国においては東中国海を挟んだ
>日本列島の対岸である山東半島には戦車をつけた状態で発掘される屠殺馬が多く
>みられることから、縄文人が馬を入手した可能性は否定できないとも話されました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kibaminz.htm
421出土地不明:2006/05/16(火) 21:02:19 ID:XfYZbsZH
★★韓国人は腐儒である★★

韓国の「儒教」は「腐儒」なのです。同じ「儒教圏」でも中国の本質は韓非子系の「法家」です。
中国はご都合主義ですが、二、三百年もすればかなり公平かつ正確な「正史」が編纂されます。
現在の「反日」なんぞはご都合主義による「卑史」による物で、中国人自身も本心から信じているとは
限りません。
従って、中国では、子孫は和解するのが普通です。我々日本人からすればあまりにも長い時間がかかりますが、
今でも会津の老人が薩長の人が嫌いだったりするのを思えば理解の範疇です。
が、「腐儒」は違います。韓国には千年以上前の先祖の名誉回復運動をしている人もいます。
何千年たってもしつこく蒸し返し、差別されるからです。そんな「腐儒」社会に韓国人自身も嫌になり、
「儒教」を捨てて改宗する者が相次いだため、今では世界有数のキリスト教国になっています。
また、韓国の若い層にも、このままでは北朝鮮共々韓国は世界の孤児になる、と憂いている者が
少なくありません。
それから、(マンガ『嫌韓流』が)韓国には誇れる文化が無い、というのは反日韓国人や腐れ左翼の日本人に
反日主義の口実を与えるだけの、間違った記述です。世界最初の金属活字、世界最初の床暖房(オンドル)、
極東最高の磁器などがあります。
まず、日本、中国、高麗はみな違うという事をきちんと認識しておく必要があります。成田から北京に飛ぶ機中から
窓の下を見れば朝鮮半島が見えます。緑の少ない、赤茶けた大地です。かつては緑だったが、製鉄業のため
木々が伐採された結果だと云われています。
日本人は、鉄器文明を発展させ、世界最高の刃物「日本刀」を作りました。
環境が違えば文化も違う。環境が違えば生活風習が違うのは当然です。従って気質や考え方にも違いが出てきます。
違って当然、と考えれば適度な距離を持てます。中国十三億人がとにもかくにも一つの文化圏でいられるのは、
地方毎に気質が違う、と自分達で理解している事が大切な要因の一つになっています。
日本の失敗は、朝鮮が「腐儒」社会であることを理解しないまま同化しようとした事が根にあるのではないでしょうか。
韓国人は、大正天皇陛下が朝鮮語を得意とし、漢詩を愛した事など知らないでしょう。
この事実を知ったら、彼らはどんな顔をするのでしょうか。
422出土地不明:2006/05/17(水) 12:08:32 ID:H/M6qgb3



「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸の言葉は伝わっていない」

http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/mousou.html


金関  縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと
考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm

423出土地不明:2006/05/18(木) 15:09:30 ID:HcR86wT7
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。

「チャイナネット」2003年3月31日

http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
424出土地不明:2006/05/18(木) 15:10:22 ID:HcR86wT7
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など



BC16Cの華南の出土物も日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑




425出土地不明:2006/05/19(金) 01:12:09 ID:KqUiL2IC
参考スレッド
■弥生人中国説の容疑を激しく追求するスレ■
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1140010231/
426出土地不明:2006/05/19(金) 04:49:17 ID:B066sGBy
>>292-294で終わってるだろ

長江流域のことを華南だと思ってる白痴とか
コピペ既知外とかが
いくらソースと称してデータ並べてもまともな
解釈ができてるとは思えない。
427出土地不明:2006/05/19(金) 10:43:33 ID:sY2zasTP
↑何で華南のソースを出しているのか分からない知障(ウルトラ嘲笑)
428出土地不明:2006/05/19(金) 11:12:00 ID:ozSW7sKI
コピペ厨が懸命に貼り付けている物の無意味さを考えれば
彼の痴性の程も分かると思われw
429出土地不明:2006/05/19(金) 12:05:27 ID:sY2zasTP
>>428
そんな負け惜しみは犬も食わんよ。

悔しければ、オマエもソースで正々堂々と戦いな。

話はそれだけだ。
430出土地不明:2006/05/19(金) 12:17:03 ID:sY2zasTP
周に入る頃には既に一般的な建材だった瓦さえ伝わっていないっ!


瓦の歴史はきわめて古く、中国では紀元前2000頃にはすでに瓦が登場している。
中国4000年の歴史とよく言われるが、瓦も4000年の歴史を持っている。中国語の
瓦という字は、粘土を焼いたものの総称である。

http://www8.ocn.ne.jp/~kawarak/hana.html

瓦の歴史はとても古く、メソポタミア、インドなどの諸説がありますが、
すでに紀元前2000年前の中国に瓦が存在していたと言われています。

http://www2.odn.ne.jp/sugimotokawara/KAWARA2.htm
431出土地不明:2006/05/19(金) 12:59:32 ID:xMwlJKKp
>>429
戦うも何もお前が貼ってるコピペは無意味じゃねーかww
笑いものにするだけで十分だろwwwww
432出土地不明:2006/05/19(金) 13:35:29 ID:sY2zasTP
↑もう白旗の負け犬、負け男wwww
433出土地不明:2006/05/20(土) 14:33:06 ID:AIz6+wKQ

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060209-00000148-kyodo-ent
434出土地不明:2006/05/20(土) 14:35:00 ID:AIz6+wKQ
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘




原始青磁が伝わってない事には一切触れない南京博物院のすっとぼけぶり(嘲笑)




435出土地不明:2006/05/20(土) 18:00:58 ID:Ovq1zKcP
何で当時の中国の主流だった「灰釉陶や印文硬陶(遣唐使の奈良以降)」が
伝わ「ると思えない」ね? 
中国人がいた匈奴とか西域や雲南ビルマ印度ルートにも無いと思うが。。。

最低でも何で粗悪な「あかい陶(素焼き)があるんじゃろう・
黒い重い土器の焼き物とかなん」かね? 文化圏が「朝鮮とも違う」みたい。

何「というか」漢字の前身である「金文(ローマ貨幣)」「石文(顔家廟碑文)」
「は」伝わ「るはずはない」ね? 紙で書いて「表」「上奏」しか普通しないから。

何で青銅「鐸(たく)」などの金属「器」くらい伝わって「なかった」かね?
「古墳」時代かもしれないが「鉄器」で枝の出た刀など朝鮮にあったのかね?

何で木製「鋤(すき)」のような便利な良いものが伝わっていないのかね?
車輪って遣唐使以降の牛車などでしょうか?伝わったのって?古墳時代?

何で当時の「渤海」で主流だった土とん墓が主流に「なっただろう」かね?

何で「古墳」文化は紅陶文化と支石墓文化「だろうか」?

これらは当時の「渤海」から
「黒龍江」にかけての「弥生−古墳の両」文化「じゃない」ですよ。
436出土地不明:2006/05/21(日) 19:02:57 ID:Ys2WTgYV
↑知的障害者が書いた文章のようですねw
437出土地不明:2006/05/21(日) 19:05:43 ID:Ys2WTgYV
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
438出土地不明:2006/05/22(月) 12:06:11 ID:lklG2pJF
BC20C頃の二里頭文化では、すでに建築技術は壁、軒などをもつ現代の物と
さほど変わらず、原始磁器(灰釉陶)が焼かれていた。



BC1900頃

鄭州市付近に二里頭文化。宮殿とされる大きな遺跡があるが盗掘されたようである。
(殷墟は鄭州市の150キロほどの北にある)
青銅器の本格的な使用が始まっている。
出土物から四川省や甘粛省などとも広く交流している。
宮殿は壁、軒などをもつ現代の物とさほど変わらない物になっているようである。
土器は高温で焼成され、当地では原始磁器と呼んでいる。後期には登り窯が発見
されており最古とされる。

http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kodai_old/kks-koga.htm
439出土地不明:2006/05/23(火) 15:43:46 ID:wNORgoHe
灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。

http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。殷代中期の二里崗文化には,灰白色の
胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,硬度が高く鋭い音色を出し,水の
しみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,浙江・江蘇・江西・安徽・
山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。器形には,尊・壺・豆・
鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,改良が加えられていく。
土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,後漢時代に青磁となる。

http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM
440出土地不明:2006/05/24(水) 15:12:01 ID:KyFtdqql
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!


●印文土器 いんもんどき アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。

http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
441出土地不明:2006/05/24(水) 15:14:05 ID:KyFtdqql
「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm

印文土器(いんもんどき) 【意味】

(1)中国南東部で新石器時代から漢代に使われた土器。幾何学文様の
あるスタンプを打った灰色の壺などで、軟陶と硬陶の別がある。
http://www.makurada.com/cgi-bin/dic/html/
442出土地不明:2006/05/25(木) 13:25:50 ID:zYVpsXgj
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
最も代表的な器形である鬲、鼎などの三足土器さえ伝わっていないっ!


●三足器 さんそくき 

中国における3本の足をもつ土器・青銅器の総称。三足器には,食物を煮るまたは
盛る鼎(てい),中空の袋状三足に水を入れて煮沸し,その上の「甑(そう)」
(こしき)にのせた穀物を蒸す鬲(れき),鬲と甑が結合して一体となったゲン
※注1※,酒器のカ※注2※,燗酒をつくるキ※注3※・カ※注4※・爵(しゃく)
などがある。しかし新石器時代の原始的土器には,水や酒を入れる壺(こ)や,
食物を盛る豆(とう)などにも三足のついたものがあり,器形も未分化・不定形
であった。たとえば,磁山・斐李崗(はいりこう)文化の三足つき壺・鉢形鼎,
仰韶(ぎょうしょう)文化の種々の形鼎,大ブン※注5※)口文化の三足つき
釜形鼎・鉢年鼎・觚(こ)形器,取手・三足つき鉢形細柄豆など種々ある。
また大ブン※注5※口文化において三足土器が,実足から空足,さらに袋状と変化
し,同時に器身も注ぎ口なども変化し,中空三足・注ぎ口・取手つきの大型キ
※注3※が成長した例もある。良渚(しょ)文化や典型竜山文化には,種々の
三足土器が多くなり,河南や陝西の竜山文化にも種々の三足土器が現れ,しだい
に器形がととのっていく。殷代には三足土器もつくられたが,これらの器形を
模した青銅器が鋳造され,また新しい器形の三足青銅器もつくられて,重要な
祭器となり,豪壮な造形と華麗な文様の芸術品に発展し,周代に継承されていく。
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H176R200.HTM
443出土地不明:2006/05/25(木) 13:28:10 ID:zYVpsXgj
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
444出土地不明:2006/05/26(金) 11:08:09 ID:VvrWO96P
445出土地不明:2006/05/26(金) 16:13:46 ID:xlmmsDG3
ど素人です。
弥生時代開始BC10に引かれて考古学雑誌の特集を買って読んだのですが、その中に、
今までは朝鮮半島南部から九州北部への稲作伝播しか考えていなかったが、
これからは朝鮮半島南部と九州北部に同時に稲作が伝わった、
あるいは九州北部が先で朝鮮半島南部へ伝わった可能性も考えなければならないと書いてありました。(うろ覚えの記述です)
この辺りは如何でしょうか?
446出土地不明:2006/05/26(金) 16:40:03 ID:VvrWO96P
スレ違い。
こちらでどうぞ。

【まだまだ】弥生時代は紀元前10世紀から【遡る】

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1071936994/
447出土地不明:2006/05/26(金) 16:41:38 ID:xlmmsDG3
>446
そちらへ移ります。ありがとう。
448出土地不明:2006/05/27(土) 02:39:35 ID:YXJOcv4/
素人です。
琉球人は本土人に比べて縄文人に近いと書いてありました。
琉球語は日本語の方言と言ってよいくらいに日本語に近いと聞きます。
大勢の非日本語民族、つまり中国人などが日本に来て、縄文人を駆逐して弥生人になったとすれば
現代の日本語は琉球語と遠く離れた言語に成っていなくてはおかしい、と思うのですが、どうなんでしょう?
ここが気になって、弥生人=渡来人説の本を素直に読めなくて困ってます。
449出土地不明:2006/05/27(土) 07:47:31 ID:pYu8pjD7
前漢武帝時代に楽浪郡と玄菟郡を設置した。前漢を滅ぼした前漢の外戚だった
新国の王莽は高句麗を討伐し 高句麗王を下句麗侯として滅ぼした際に
ワイ侯は服属した、その時に前漢がワイ侯に与えた「ワイ王の印」か???
後漢初期に玄菟郡と楽浪郡は原住民が強くなって縮小した。
後漢末期に公孫度が楽浪郡から楽浪国として自立し胡服(中国服でなく現地人服)をきて
海東(遼東半島から朝鮮半島や満州や沿海州)に覇を張った。
公孫度の時に楽浪郡を分割し帯水流域から南に帯方郡を分設し
                    帯方郡を娘婿のプヨ王の尉キュウダイに与える。
公孫度は高句麗と鮮卑の間にあったプヨ族の王の尉キュウダイに娘を嫁にやった。
三国志魏の明帝の時に公孫度の子孫の公孫淵が自立をすすめて
遼東国から燕帝国などと かたり燕皇帝と自称したが
ブキュウケンに討伐され討たれた。ブキュウケンはワイ侯フジを服属させた。???
しかしワイ侯フジが「ワイ王の印」を魏から貰った話は無い。
ヨクソの地に燕亡人衛満王がいて孫の右渠が前漢武帝に討たれ玄菟郡を設置されるが
ワイの地にヨクソの衛満が来て前漢武帝の2代前のジイサンの時代に王となった説話と
ワイの地に衛満の孫の右渠の時代に箕子40余世代にあたる朝鮮侯準がいて
                          侯から王を僭称した説話がある
ブキュウケンが討伐した時には既に
玄菟郡の宝庫にあった「ワイ王の印」は尉キュウダイからケイやサンが王の数世代の間
プヨの宝庫に眠っていた???
ブキュウケンの討伐と共に、楽浪郡太守劉茂と帯方郡太守弓遵は古代韓国を討伐し滅ぼす。
西晋時代に陳寿が三国志魏書を編集する。
西晋のあった313年に楽浪郡の郡役所の城市が高句麗により滅ぶ。
(残念ながら 進駐軍[アメリカ軍]の教科書墨塗りによって
 戦後はココから半島と日本の歴史の説明が始まる。 中国歴史書という観点だと
 前漢の半島南部の矮人(小ビトと倭人)と 後漢の倭奴国の朝貢から、実は始まっている。)

http://www.megabbs.com/cgi-bin/readres.cgi?bo=philosophy&vi=1076414723&rs=229&re=234&fi=no
450出土地不明:2006/05/27(土) 18:50:50 ID:JrYE9qhG
篆書の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='髱帝喝蝎ィ%20譁・ァ・豬∵ーエ譁・
451出土地不明:2006/05/27(土) 18:51:33 ID:JrYE9qhG
饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html

殷の時代に生み出された灰釉陶は、西周時代から春秋戦国時代(B.C770〜 221)にかけて
熟成の時代を迎えることになるが、なお中国工芸の中心は依然として青銅器であった。
祭器としての青銅器から日常生活具としての青銅器へ変化する過程で、文様も饕餮文
(とうてつもん)・〓龍文(きりゅうもん)・〓鳳文(きほうもん)などの神秘的・
宗教的・観念的なもから動物や植物がリアルに写される写実的な文様へ変化していった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
452出土地不明:2006/05/28(日) 17:41:57 ID:lsEkQX4W
中国の篆書の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅剣・銅戈・銅鉾・銅鐸・銅鏡・銅鏃などがあるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本
中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本
遺跡や佐賀県の安永田 遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県
の荒神谷遺跡[こうじんだにいせき]が発掘 されたため、疑問視されている。

http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html
453出土地不明:2006/05/28(日) 17:42:46 ID:lsEkQX4W
鼎、爵などの三足器など、中国の青銅器の器形が全く伝わっていないっ!


青銅器はその用途により、食器、酒器、水器、楽器のほぼ4種類に分けることが
できる。各種類ごとにそれぞれ品目も複雑で数多く、形も非常に変化に富んでいて、
中国人の豊かな想像力と創作力を反映している。たとえば、黍稷(モチキビ)を
盛っておく「簒」。これは現代のご飯茶碗に相当する。その形は非常に変化に富み、
円脚に丸い胴のものもあれば、円脚の下にさらに四角い台座を加えて重しとしている
ものもあり、四角と円形との対象が美しい。また炊事用として使う「鼎」は、縁に
一対の耳を付け、下げるのに便利なようにしてある。丸い胴の下には三つの脚が
つけられ、獣の肉を煮込む火が燃えやすいようになっている。ほかには「爵」や
「尊」なとがある。「爵」は酒を飲んだり温めたりする食器で、縁の形は酒が口の
方へ流れやすいようになっており、脇に持ちやすいように把手がある。胴の部分の
下には酒を温めるため3本の脚がついている。「尊」は大事な酒器で、丸い形の
ものや四角形、および四角い脚に丸い口をしたものなどがある。このように、
青銅器の基本的な形は、バランスの取れた対称形がほとんどで、荘厳で落ち着いた
雰囲気が特色である。
http://www.roc-taiwan.or.jp/culture/culture19.html
454出土地不明:2006/05/29(月) 13:12:15 ID:3otxVPIb
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっていない。
その代表である三足器形さえも伝わっていない。




◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html




455出土地不明:2006/05/30(火) 12:14:43 ID:fm2sOfPZ
商の都のあった河南省鄭州市で商代の原始青磁が確認されたことから、
この地区から研究はスタートした。その後、長江中・下流域で商代から
戦国期に亘って連綿と原始青磁が、古墓や城跡を中心に相次ぎ発見された。
その生産と消費の中心地が華南地域であることは、ほぼ動かしがたい状況となっている。

釉色は青緑色、青黄色を呈し、器の内面は全て施釉し、外面は底部近くには施釉
していない。大部分の器物の底部にはヘラ書き符号が認められると言う。
時代としては、春秋時代早期に比定されている。こうしたヘラ書き符号を有した
印紋陶器や原始青磁は、広東地区の春秋戦国時代の古墓からもよく発見されると言う。

福建省でも同地特有の原始青磁が確認されているが、その窯跡の確認は未だ
されていない。しかし西周時代にはすでに現地生産がされ出していたと予測されている。

今までに窯跡本体の確認された原始青磁を焼成した窯は、華南地域に限られている。
商代でも浙江省上虞市百官鎮2号窯跡の例の様に明らかな龍窯が確認されている。
http://www.sg-r.co.jp/web/kouko/genshi_seiji.html
456出土地不明:2006/05/31(水) 14:10:41 ID:82fqRb2O
4000年以上前の東南アジア周辺の遺跡でも三足土器が一般的。


新石器時代:約4,000年以前
出土した土器は、26種の様式をもっていたが、その中でもっとも目立ったものは
三足の鼎であって、先史時代の中国の『鬲(れき)』に似ており、年代を調べた
ところ、これらは約4,000年以前に作られたことが判明した。
カオサムルナム洞窟でも、バン・カオ遺跡出土の土器と似ている同年代の物が出土した。

http://www.toros8.com/ban/his1.html
457出土地不明:2006/06/01(木) 14:11:13 ID:epteWOI5
BC14C頃の殷には既に馬車がある。
華中にもやや遅れて伝わっている。


◎3300年前の馬車・銅剣が出土 商の遺跡・殷墟付近

河南省安陽市にある商(または殷、紀元前1600年ごろ〜紀元前1046年)の
遺跡・殷墟の宮殿宗廟跡から西へ約3千メートルの場所でこのほど、今から
3300年以上前に当たる商代後期のものとされる車馬坑(馬車や馬を埋葬した
穴)7つが見つかった。考古学研究者が5カ月間にわたる発掘調査により発見だ。

車馬坑7つのうち、5つは1列に並んでおり、貴族のために殉葬したものとみられる。
遺跡からは青銅製の両刃の短剣も発見された。これら出土品は、100年を超える
殷墟の発掘史の中でも初めての発見だ。専門家は車馬坑の発見について、商代の
馬車の形状や構造、用途、馬車に関する制度の研究にとって重要な意義があると
している。(編集NK)

「人民網日本語版」2005年5月27日

http://www.people.ne.jp/2005/05/27/jp20050527_50407.html
458出土地不明:2006/06/01(木) 14:12:06 ID:epteWOI5
日本に車輪が伝わったのが7C頃。


>車輪が埋まっていた砂層内からは7世紀後半の土器片が出土していることから、
>類例の少ない現存する車輪の内でも最古級である可能性があります。
http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/bunkazai06.html


↓馬以前に車輪が弥生時代に伝わっていない事に気が付いていない馬鹿学者(嘲笑


>筑波大学の桃崎祐輔先生の講演でも、馬の存在時期を最初に話題にされました。
>日本列島が縄文時代であった頃、春秋戦国時代の中国においては東中国海を挟んだ
>日本列島の対岸である山東半島には戦車をつけた状態で発掘される屠殺馬が多く
>みられることから、縄文人が馬を入手した可能性は否定できないとも話されました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kibaminz.htm
459出土地不明:2006/06/02(金) 09:18:43 ID:CWlS9PpD
人類学的なパースペクティブを簡単に説明。

縄文人はバイカル湖周辺に発生した旧モンゴロイドで、シベリア、サハリンを経て日本列島に渡来。
弥生人は長江の流域から渡来。民族的には楚、呉、越で江南系。しかし江北との地理的なせめぎ合いの中で北方系
民族との混血がある程度進んでいたものと見られる。
即ち弥生人は旧モンゴロイド(江南)と新モンゴロイド(江北)の混血。

朝鮮半島にもともと定住していたのは日本列島から渡った縄文人。
その後弥生人が、長江の流域から北九州一円(半島南部含む)へ渡来。
このことから、古代の北九州一円(半島南部含む)における定住者の間に、大きな人種的差異はなかったものと考えられる。

現在ある日本人と朝鮮人との間の人種的な差異は、その後の半島におけるツングース系民族の侵入、移入による混血が原因。

即ち、

日本人=縄文人+弥生人
朝鮮人=縄文人+弥生人+ツングース系
460出土地不明:2006/06/02(金) 15:32:31 ID:5YWkntmz
今さら言うまでも無いが、BC15〜BC11C頃の華中の長江流域はこの有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
461広開土王碑:2006/06/03(土) 11:31:52 ID:4T41H4uq
 
【韓国】日本の植民地統治は韓国の経済発展に貢献したの?[06/03]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1149297784/

―植民地工業化は韓国の経済発展に貢献したのか?

「経済計画と統制をはじめとした日帝時代末期の雰囲気を受け継いだのは、むしろ北朝鮮
の経済政策であった。経済発展は工業化の遺産に後押しされたという見解は憶測に過ぎない」
(鄭在貞・ソウル市立大教授)

ク・ナンフィ、延敏洙(ヨン・ミンス)、尹明(ユン・ミョンチョル)、ユン・ユスク、孫承(ソン・スンチョル)、
李仁哲(イ・インチョル)など、現在の韓国学界を代表する54人の学者らがこの問題に深みのある分
析と解答を提示している。広開土王碑の「ねつ造」が既に石碑を建立した当時から行なわれていた
など、興味深い内容が多い。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/06/03/20060603000014.html

>広開土王碑の「ねつ造」が既に石碑を建立した当時から行なわれていたなど、興味深い内容が多い。
>広開土王碑の「ねつ造」が既に石碑を建立した当時から行なわれていたなど、興味深い内容が多い。
>広開土王碑の「ねつ造」が既に石碑を建立した当時から行なわれていたなど、興味深い内容が多い。
462出土地不明:2006/06/03(土) 15:06:10 ID:YzxMRJVi



「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸の言葉は伝わっていない」

http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/mousou.html


金関  縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと
考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm


463出土地不明:2006/06/04(日) 14:43:29 ID:3sWBFBGR
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。

「チャイナネット」2003年3月31日

http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
464出土地不明:2006/06/04(日) 14:44:19 ID:3sWBFBGR
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など




BC16Cの華南の出土物さえ日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑





465出土地不明:2006/06/04(日) 19:25:24 ID:7z1AmPhQ
からみずらい
466出土地不明:2006/06/05(月) 12:31:14 ID:H13+XsiY
周に入る頃には既に一般的な建材だった瓦さえ伝わっていないっ!


瓦の歴史はきわめて古く、中国では紀元前2000頃にはすでに瓦が登場している。
中国4000年の歴史とよく言われるが、瓦も4000年の歴史を持っている。中国語の
瓦という字は、粘土を焼いたものの総称である。

http://www8.ocn.ne.jp/~kawarak/hana.html

瓦の歴史はとても古く、メソポタミア、インドなどの諸説がありますが、
すでに紀元前2000年前の中国に瓦が存在していたと言われています。

http://www2.odn.ne.jp/sugimotokawara/KAWARA2.htm
467出土地不明:2006/06/06(火) 10:41:08 ID:y/F8aZgA

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060209-00000148-kyodo-ent
468出土地不明:2006/06/06(火) 10:41:51 ID:y/F8aZgA
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘




原始青磁が伝わってない事には一切触れない南京博物院のすっとぼけぶり(嘲笑)




469出土地不明:2006/06/07(水) 09:14:47 ID:r4J3BtVa
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
470出土地不明:2006/06/07(水) 11:13:23 ID:cFyf6nOS
別に中国人が来たからって何でもかんでも
伝わるってわけじゃないだろうし・・・
471出土地不明:2006/06/08(木) 12:37:20 ID:O7suvsvR
BC20C頃の二里頭文化では、すでに建築技術は壁、軒などをもつ現代の物と
さほど変わらず、原始磁器(灰釉陶)が焼かれていた。



BC1900頃

鄭州市付近に二里頭文化。宮殿とされる大きな遺跡があるが盗掘されたようである。
(殷墟は鄭州市の150キロほどの北にある)
青銅器の本格的な使用が始まっている。
出土物から四川省や甘粛省などとも広く交流している。
宮殿は壁、軒などをもつ現代の物とさほど変わらない物になっているようである。
土器は高温で焼成され、当地では原始磁器と呼んでいる。後期には登り窯が発見
されており最古とされる。

http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kodai_old/kks-koga.htm
472出土地不明:2006/06/08(木) 21:18:24 ID:WqT1BapE
あれ?日本史版にも似たようなスレがあったが、内容も殆ど同じ
コピペ天国になっている。
473出土地不明:2006/06/09(金) 15:15:55 ID:7QqeB7Th
灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。

http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。殷代中期の二里崗文化には,灰白色の
胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,硬度が高く鋭い音色を出し,水の
しみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,浙江・江蘇・江西・安徽・
山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。器形には,尊・壺・豆・
鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,改良が加えられていく。
土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,後漢時代に青磁となる。

http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM
474出土地不明:2006/06/09(金) 23:00:47 ID:LvZqIXKW
>>1
山東省では紅陶と灰陶の境は紀元前2500年よって弥生人は龍山文化におわれた中国人。
475出土地不明:2006/06/10(土) 13:23:31 ID:ctoEvCGi
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!


●印文土器 いんもんどき アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。

http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
476出土地不明:2006/06/10(土) 13:25:26 ID:ctoEvCGi
「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm

印文土器(いんもんどき) 【意味】

(1)中国南東部で新石器時代から漢代に使われた土器。幾何学文様の
あるスタンプを打った灰色の壺などで、軟陶と硬陶の別がある。
http://www.makurada.com/cgi-bin/dic/html/
477出土地不明:2006/06/10(土) 14:17:26 ID:5ViUEL+w
おいおいウリナラ起源に悩まされたあとは中華起源かよ。
478出土地不明:2006/06/11(日) 19:09:05 ID:KL2TE+zK
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
最も代表的な器形である鬲、鼎などの三足土器さえ伝わっていないっ!


●三足器 さんそくき 

中国における3本の足をもつ土器・青銅器の総称。三足器には,食物を煮るまたは
盛る鼎(てい),中空の袋状三足に水を入れて煮沸し,その上の「甑(そう)」
(こしき)にのせた穀物を蒸す鬲(れき),鬲と甑が結合して一体となったゲン
※注1※,酒器のカ※注2※,燗酒をつくるキ※注3※・カ※注4※・爵(しゃく)
などがある。しかし新石器時代の原始的土器には,水や酒を入れる壺(こ)や,
食物を盛る豆(とう)などにも三足のついたものがあり,器形も未分化・不定形
であった。たとえば,磁山・斐李崗(はいりこう)文化の三足つき壺・鉢形鼎,
仰韶(ぎょうしょう)文化の種々の形鼎,大ブン※注5※)口文化の三足つき
釜形鼎・鉢年鼎・觚(こ)形器,取手・三足つき鉢形細柄豆など種々ある。
また大ブン※注5※口文化において三足土器が,実足から空足,さらに袋状と変化
し,同時に器身も注ぎ口なども変化し,中空三足・注ぎ口・取手つきの大型キ
※注3※が成長した例もある。良渚(しょ)文化や典型竜山文化には,種々の
三足土器が多くなり,河南や陝西の竜山文化にも種々の三足土器が現れ,しだい
に器形がととのっていく。殷代には三足土器もつくられたが,これらの器形を
模した青銅器が鋳造され,また新しい器形の三足青銅器もつくられて,重要な
祭器となり,豪壮な造形と華麗な文様の芸術品に発展し,周代に継承されていく。
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H176R200.HTM
479出土地不明:2006/06/11(日) 19:09:36 ID:KL2TE+zK
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
480出土地不明:2006/06/12(月) 12:39:20 ID:8gj5H8ya
481出土地不明:2006/06/13(火) 10:04:22 ID:L/JqaXqO
>>459
日本人の50%位が持っていて、アイヌ人の90%位が持っている、
縄文人の固有遺伝子である「YAP+」を、朝鮮人は、1%位しか持っていない。

従って、朝鮮人は、縄文人の血を、ほとんど、ひいていない。


朝鮮半島の縄文人に似た人種は、縄文人ではなく、縄文人に似た南方モンゴロイド。

縄文人は、「YAP+」を持っており、長頭から中頭で、非絶壁頭。

南方モンゴロイドは、「YAP+」を持っておらず、短頭で、絶壁頭。


遺跡の分布の研究から、縄文人の90%近くが東海・北陸以東の東日本に住んでいた事が判明している。

西日本の縄文人遺伝子は、
鎌倉時代、江戸幕府樹立時等に、関東武士・東日本武士の一部が、西日本に移り住み、持ち込まれたもの。
482出土地不明:2006/06/13(火) 10:05:43 ID:L/JqaXqO
282 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/13(火) 09:06:33 ID:96vKkHup
鎌倉・由比が浜で見つかった、多数の関東武士の頭骨を調べたら、長頭で彫りが深かった。


ブレイス博士の武士=縄文系の視点はなかなか興味深いものです。
鎌倉時代に由比ガ浜だったですか、大量の関東武士の骨が出てきて
学者が調べると、現代日本人と頭骨が著しく異なることがわかりました。
つまり、現代人が中頭〜短頭なのに、これらの武士は長頭だったのです。
いままで、日本人の小進化だと思ってましたが、これが縄文系だとすると
合点がいきます。

武士道とは弓馬の道で、弓の技術が尊ばれ、刀が武士の命となったのは、江戸時代
でした。弓といえばアイヌが弓の名手として有名です。

幕末から明治にかけて来日した欧米人が日本人には2種類の人々がいて、武士階級
は名誉を重んじ、威風堂々として礼儀正しい人々だと書き残している。
また、一般の人々とは容姿も異なり、武士は背が高く、中高の精悍な顔をしている
と言っている。
絵巻物を見ても騎馬武者と兵卒では容姿が異なっている。

縄文人が、実は武士団に血統を色濃く残していたと
考えると、ブレイス博士の言ってることは、新鮮で興味深い。


283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/13(火) 09:07:22 ID:96vKkHup
>鎌倉武士はアイヌと近縁である


>アメリカから見た鎌倉:ブレイスのアイヌ−サムライ説


>1989年に、ミシガン大のローリング・ブレイス教授らは「Reflections on the Face of Japan」という論文をAmerican Journal of Physical Anthropologyに発表した。

>この論文で、ブレイスらは、鎌倉の材木座・極楽寺付近から出土した1333年の鎌倉攻めの犠牲者人骨の歯のサイズと頭蓋骨計測データを用いて、
>鎌倉武士はアイヌと近縁であるという説を唱え、アメリカで注目を集めた。

>今回、ブレイスの頭蓋骨計測データを新しい統計処理法を使って再分析した。

>また、歯の計測データに関しては、ブレイスらは歯の合計面積の平均値のみを使って集団間の血縁関係を議論したが、
>今回は、個々の歯のサイズのデータを用いて多変量解析を行い、それらの結果を報告する。
483出土地不明:2006/06/13(火) 12:57:10 ID:37ywFJTR
篆書の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='髱帝喝蝎ィ%20譁・ァ・豬∵ーエ譁・
484出土地不明:2006/06/13(火) 12:58:16 ID:37ywFJTR
饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html

殷の時代に生み出された灰釉陶は、西周時代から春秋戦国時代(B.C770〜 221)にかけて
熟成の時代を迎えることになるが、なお中国工芸の中心は依然として青銅器であった。
祭器としての青銅器から日常生活具としての青銅器へ変化する過程で、文様も饕餮文
(とうてつもん)・〓龍文(きりゅうもん)・〓鳳文(きほうもん)などの神秘的・
宗教的・観念的なもから動物や植物がリアルに写される写実的な文様へ変化していった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
485出土地不明:2006/06/13(火) 14:10:08 ID:6Rq5LRwm
>【ネット】 2chにコピペされてる"「中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!」迷言"、ねつ造?★28

>さて、2ちゃんねるに以前から、「中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!」 というテキストが
>あちこちのスレッドにコピペされていた。
>筆者が、弥生人中国説はダメだと完全に見切ってしまったきっかけのひとつになっているテキストだった
>んだけれど、これがねつ造ではないかという指摘があって、現在、猛烈にドキドキしているところなのだ。
>もちろん、2ちゃんねらーの皆さんはいま、この発言について調査しているのだけれど、2日たった今、
>確証はまだ得られていない。
486出土地不明:2006/06/14(水) 14:01:14 ID:zDmTdZpR
中国の篆書の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅剣・銅戈・銅鉾・銅鐸・銅鏡・銅鏃などがあるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本
中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本
遺跡や佐賀県の安永田 遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県
の荒神谷遺跡[こうじんだにいせき]が発掘 されたため、疑問視されている。

http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html
487出土地不明:2006/06/14(水) 14:02:12 ID:zDmTdZpR
鼎、爵などの三足器など、中国の青銅器の器形が全く伝わっていないっ!


青銅器はその用途により、食器、酒器、水器、楽器のほぼ4種類に分けることが
できる。各種類ごとにそれぞれ品目も複雑で数多く、形も非常に変化に富んでいて、
中国人の豊かな想像力と創作力を反映している。たとえば、黍稷(モチキビ)を
盛っておく「簒」。これは現代のご飯茶碗に相当する。その形は非常に変化に富み、
円脚に丸い胴のものもあれば、円脚の下にさらに四角い台座を加えて重しとしている
ものもあり、四角と円形との対象が美しい。また炊事用として使う「鼎」は、縁に
一対の耳を付け、下げるのに便利なようにしてある。丸い胴の下には三つの脚が
つけられ、獣の肉を煮込む火が燃えやすいようになっている。ほかには「爵」や
「尊」なとがある。「爵」は酒を飲んだり温めたりする食器で、縁の形は酒が口の
方へ流れやすいようになっており、脇に持ちやすいように把手がある。胴の部分の
下には酒を温めるため3本の脚がついている。「尊」は大事な酒器で、丸い形の
ものや四角形、および四角い脚に丸い口をしたものなどがある。このように、
青銅器の基本的な形は、バランスの取れた対称形がほとんどで、荘厳で落ち着いた
雰囲気が特色である。
http://www.roc-taiwan.or.jp/culture/culture19.html
488出土地不明:2006/06/15(木) 12:11:33 ID:8oVdXk/X
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっていない。
その代表である三足器形さえも伝わっていない。



◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html




489出土地不明:2006/06/16(金) 14:59:12 ID:URuUNpEo
商の都のあった河南省鄭州市で商代の原始青磁が確認されたことから、
この地区から研究はスタートした。その後、長江中・下流域で商代から
戦国期に亘って連綿と原始青磁が、古墓や城跡を中心に相次ぎ発見された。
その生産と消費の中心地が華南地域であることは、ほぼ動かしがたい状況となっている。

釉色は青緑色、青黄色を呈し、器の内面は全て施釉し、外面は底部近くには施釉
していない。大部分の器物の底部にはヘラ書き符号が認められると言う。
時代としては、春秋時代早期に比定されている。こうしたヘラ書き符号を有した
印紋陶器や原始青磁は、広東地区の春秋戦国時代の古墓からもよく発見されると言う。

福建省でも同地特有の原始青磁が確認されているが、その窯跡の確認は未だ
されていない。しかし西周時代にはすでに現地生産がされ出していたと予測されている。

今までに窯跡本体の確認された原始青磁を焼成した窯は、華南地域に限られている。
商代でも浙江省上虞市百官鎮2号窯跡の例の様に明らかな龍窯が確認されている。
http://www.sg-r.co.jp/web/kouko/genshi_seiji.html
490出土地不明:2006/06/17(土) 16:16:28 ID:0c1w8nSq
4000年以上前の東南アジア周辺の遺跡でも三足土器が一般的。


新石器時代:約4,000年以前
出土した土器は、26種の様式をもっていたが、その中でもっとも目立ったものは
三足の鼎であって、先史時代の中国の『鬲(れき)』に似ており、年代を調べた
ところ、これらは約4,000年以前に作られたことが判明した。
カオサムルナム洞窟でも、バン・カオ遺跡出土の土器と似ている同年代の物が出土した。

http://www.toros8.com/ban/his1.html
491出土地不明:2006/06/18(日) 13:09:39 ID:72eqZoeW
BC15〜BC11C頃の華中の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。

http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
492出土地不明:2006/06/18(日) 13:11:37 ID:72eqZoeW
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術




BC15〜BC11C頃の華中の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で
出土しないものばーっかり(嘲笑



493出土地不明:2006/06/19(月) 16:39:43 ID:p+gI7PgM


「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸の言葉は伝わっていない」

http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/mousou.html


金関  縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと
考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm

494出土地不明:2006/06/20(火) 12:59:11 ID:jZMmu7dk
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。

「チャイナネット」2003年3月31日

http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
495出土地不明:2006/06/20(火) 12:59:57 ID:jZMmu7dk
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など




BC16Cの華南の出土物さえ日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑




496出土地不明:2006/06/21(水) 17:57:42 ID:CKcgiuJU
周に入る頃には既に一般的な建材だった瓦さえ伝わっていないっ!


瓦の歴史はきわめて古く、中国では紀元前2000頃にはすでに瓦が登場している。
中国4000年の歴史とよく言われるが、瓦も4000年の歴史を持っている。中国語の
瓦という字は、粘土を焼いたものの総称である。

http://www8.ocn.ne.jp/~kawarak/hana.html

瓦の歴史はとても古く、メソポタミア、インドなどの諸説がありますが、
すでに紀元前2000年前の中国に瓦が存在していたと言われています。

http://www2.odn.ne.jp/sugimotokawara/KAWARA2.htm
497出土地不明:2006/06/22(木) 15:13:50 ID:YBUnh4Al

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060209-00000148-kyodo-ent
498出土地不明:2006/06/22(木) 15:14:40 ID:YBUnh4Al
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった




青磁が伝わってない事には一切触れない南京博物院のすっとぼけぶり(嘲笑




499出土地不明:2006/06/22(木) 15:49:53 ID:W+ZiCd+C




http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1150942840/290


↑とりあえずこれヤバイと思うんだけど、どう?
500出土地不明:2006/06/23(金) 13:11:09 ID:EcCQxU6o
朝鮮と山東省の骨だけで中国と決め付ける低脳骨屋の馬鹿馬鹿しさ(嘲笑



「土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったのです。」

http://sakezo.com/shumi/rekisi/keta1.html
501出土地不明:2006/06/23(金) 23:12:55 ID:xYJNPL1u
高床式住居、甕棺墓(土器棺墓)が日本に出現するのが縄文前期中頃の
BC35C頃だが、既に長江流域にある水田技術、農工具、甑、石包丁、灰陶、
三足土器などがやはり伝わっていない。


高床式倉庫群、竪穴式住居群、千五百年の営みを積み重ねて来た遺跡、
建物跡ひとつをとっても同じ場所に何度も建て替えられている。
三内丸山に集落があったのは縄文時代前期半ばから中期末までの一五〇〇年間
も古い前期半ばは紀元前三五〇〇年頃、いまからおよそ五五〇〇年前だ。
http://www.d1.dion.ne.jp/~zpmasasi/sannai.html

青森県内の縄文時代早期から中期後葉の墓を集成し、埋葬方法の種類と
移り変わり、配置についての基礎的な分析を行った。青森県内の埋葬方法は、
早期後半に大半が出そろい、前期中葉に土器棺墓、前期末葉にフラスコ形
土坑が出現して副葬品の量にも差が生まれる。
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/special/koubo_sha.html
502出土地不明:2006/06/24(土) 19:53:44 ID:5cwS7FwK
BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・?・鉢などの器形が縄文時代に全く伝わっていないっ!


浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の
東部地区に分布している。河姆渡遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と
類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上の両層
よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,
低温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,
土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,
第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優勢となる。第4層の土器の主な
ものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と
装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。第3層
出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,
東アジアに特徴的な穀物を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,
濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。遺跡層が地下水面下にあったため,
多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,
組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。
http://www.tabiken.com/history/doc/D/D276R100.HTM
503出土地不明:2006/06/24(土) 20:06:01 ID:5cwS7FwK
見よ!

BC50C頃の河姆渡遺跡にある骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代にさーっぱり伝わっていない。



◎河姆渡遺跡

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonG.html


504出土地不明:2006/06/25(日) 18:12:45 ID:kNJsakRU
中国の骨だけで中国だと決め付ける低脳骨屋の馬鹿馬鹿しさ(嘲笑)


渡来系弥生人は大陸のどこからやって来たのでしょうか。最近の調査により、
水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。
黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人に
よく似た人骨があいついで見つかっています。この時代の中国は、政治的に
動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。日本にやって
来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-14.html
505出土地不明:2006/06/26(月) 15:34:06 ID:LKqjHTwK
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
506出土地不明:2006/06/27(火) 17:49:52 ID:0TXje/g3
BC20C頃の二里頭文化では、すでに建築技術は壁、軒などをもつ現代の物と
さほど変わらず、原始磁器(灰釉陶)が焼かれていた。



BC1900頃

鄭州市付近に二里頭文化。宮殿とされる大きな遺跡があるが盗掘されたようである。
(殷墟は鄭州市の150キロほどの北にある)
青銅器の本格的な使用が始まっている。
出土物から四川省や甘粛省などとも広く交流している。
宮殿は壁、軒などをもつ現代の物とさほど変わらない物になっているようである。
土器は高温で焼成され、当地では原始磁器と呼んでいる。後期には登り窯が発見
されており最古とされる。

http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kodai_old/kks-koga.htm
507出土地不明:2006/06/27(火) 22:28:57 ID:4nutgyCq
774LQ81AHw <= #|#bDXV$G
7749MYF8fc <= #c#bH2[bM
774koQtdIo <= #r#bq{hIl
774Az6fEyY <= #@#bwm6WK
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508出土地不明:2006/06/28(水) 13:17:35 ID:81UG5rpO
灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。

http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。殷代中期の二里崗文化には,灰白色の
胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,硬度が高く鋭い音色を出し,水の
しみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,浙江・江蘇・江西・安徽・
山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。器形には,尊・壺・豆・
鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,改良が加えられていく。
土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,後漢時代に青磁となる。

http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM
509出土地不明:2006/06/29(木) 15:39:47 ID:e8RaYMpl
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!


●印文土器 いんもんどき アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。

http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
510出土地不明:2006/06/29(木) 15:46:49 ID:e8RaYMpl
西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、福建省などの中国東南部では
印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋時代(B.C.770年〜476年)
華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
511出土地不明:2006/06/30(金) 12:40:31 ID:7u4AaXky
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
最も代表的な器形である鬲、鼎などの三足土器さえ伝わっていないっ!


●三足器 さんそくき 

中国における3本の足をもつ土器・青銅器の総称。三足器には,食物を煮るまたは
盛る鼎(てい),中空の袋状三足に水を入れて煮沸し,その上の「甑(そう)」
(こしき)にのせた穀物を蒸す鬲(れき),鬲と甑が結合して一体となったゲン
※注1※,酒器のカ※注2※,燗酒をつくるキ※注3※・カ※注4※・爵(しゃく)
などがある。しかし新石器時代の原始的土器には,水や酒を入れる壺(こ)や,
食物を盛る豆(とう)などにも三足のついたものがあり,器形も未分化・不定形
であった。たとえば,磁山・斐李崗(はいりこう)文化の三足つき壺・鉢形鼎,
仰韶(ぎょうしょう)文化の種々の形鼎,大ブン※注5※)口文化の三足つき
釜形鼎・鉢年鼎・觚(こ)形器,取手・三足つき鉢形細柄豆など種々ある。
また大ブン※注5※口文化において三足土器が,実足から空足,さらに袋状と変化
し,同時に器身も注ぎ口なども変化し,中空三足・注ぎ口・取手つきの大型キ
※注3※が成長した例もある。良渚(しょ)文化や典型竜山文化には,種々の
三足土器が多くなり,河南や陝西の竜山文化にも種々の三足土器が現れ,しだい
に器形がととのっていく。殷代には三足土器もつくられたが,これらの器形を
模した青銅器が鋳造され,また新しい器形の三足青銅器もつくられて,重要な
祭器となり,豪壮な造形と華麗な文様の芸術品に発展し,周代に継承されていく。
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H176R200.HTM
512出土地不明:2006/06/30(金) 12:45:25 ID:7u4AaXky
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
513出土地不明:2006/07/01(土) 12:00:38 ID:sMutfoGu
514出土地不明:2006/07/01(土) 21:33:12 ID:3HPCGX7S
515出土地不明:2006/07/02(日) 19:34:57 ID:KR1LIgWM
篆書などの原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='
516出土地不明:2006/07/02(日) 19:35:49 ID:KR1LIgWM
饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html

殷の時代に生み出された灰釉陶は、西周時代から春秋戦国時代(B.C770〜 221)にかけて
熟成の時代を迎えることになるが、なお中国工芸の中心は依然として青銅器であった。
祭器としての青銅器から日常生活具としての青銅器へ変化する過程で、文様も饕餮文
(とうてつもん)・〓龍文(きりゅうもん)・〓鳳文(きほうもん)などの神秘的・
宗教的・観念的なもから動物や植物がリアルに写される写実的な文様へ変化していった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
517出土地不明:2006/07/03(月) 10:28:13 ID:4+Khc4uP
マダガスカルの例を研究すればいいんでないかい。

少数の渡来者が、どのくらいの速度で増加して、どのくらいマレー文化
が継承されているか。
518出土地不明:2006/07/03(月) 15:18:35 ID:2x7Rk6r5
篆書など原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅剣・銅戈・銅鉾・銅鐸・銅鏡・銅鏃などがあるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本
中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本
遺跡や佐賀県の安永田 遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県
の荒神谷遺跡[こうじんだにいせき]が発掘 されたため、疑問視されている。

http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html
519出土地不明:2006/07/03(月) 15:25:11 ID:2x7Rk6r5
鼎、爵などの三足器、尊などの酒器など、中国の青銅器の器形が全く伝わっていないっ!


青銅器はその用途により、食器、酒器、水器、楽器のほぼ4種類に分けることが
できる。各種類ごとにそれぞれ品目も複雑で数多く、形も非常に変化に富んでいて、
中国人の豊かな想像力と創作力を反映している。たとえば、黍稷(モチキビ)を
盛っておく「簒」。これは現代のご飯茶碗に相当する。その形は非常に変化に富み、
円脚に丸い胴のものもあれば、円脚の下にさらに四角い台座を加えて重しとしている
ものもあり、四角と円形との対象が美しい。また炊事用として使う「鼎」は、縁に
一対の耳を付け、下げるのに便利なようにしてある。丸い胴の下には三つの脚が
つけられ、獣の肉を煮込む火が燃えやすいようになっている。ほかには「爵」や
「尊」なとがある。「爵」は酒を飲んだり温めたりする食器で、縁の形は酒が口の
方へ流れやすいようになっており、脇に持ちやすいように把手がある。胴の部分の
下には酒を温めるため3本の脚がついている。「尊」は大事な酒器で、丸い形の
ものや四角形、および四角い脚に丸い口をしたものなどがある。このように、
青銅器の基本的な形は、バランスの取れた対称形がほとんどで、荘厳で落ち着いた
雰囲気が特色である。
http://www.roc-taiwan.or.jp/culture/culture19.html
520出土地不明:2006/07/04(火) 17:22:07 ID:m1LK/t/N
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっていない。
その代表である三足器形さえも伝わっていない。



◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html




521出土地不明:2006/07/05(水) 15:12:11 ID:NFvXZXgk
BC15〜BC11C頃の華中の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。

http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
522出土地不明:2006/07/05(水) 15:14:15 ID:NFvXZXgk
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術




印文陶、釉陶、原始磁器、鼎、尊・・・

BC15〜BC11C頃の華中の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で
出土しないものばーっかり(嘲笑



523出土地不明:2006/07/06(木) 00:38:49 ID:Nw7CBrp6
,k,k
524出土地不明:2006/07/06(木) 17:38:52 ID:ZzJxsXIS
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土?墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土?墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土?墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土?墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土?墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土?墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土?墓の盛土は版築ではなく一つの土?墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土?墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm
525出土地不明:2006/07/06(木) 17:39:53 ID:ZzJxsXIS
>この墓から出土する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、




印文硬陶と原始施釉陶が伝わっていない事には一切触れない低脳学者のすっとぼけぶり(嘲笑)



526出土地不明:2006/07/07(金) 12:24:00 ID:O9Juc31g

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060209-00000148-kyodo-ent
527出土地不明:2006/07/07(金) 12:24:29 ID:O9Juc31g
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった




原始青磁が伝わってない事には一切触れない南京博物院のすっとぼけぶり(嘲笑




528出土地不明:2006/07/08(土) 01:21:35 ID:nt1uTaSv
ほほう、正統な学術で殺すとアク禁になるのか。

それを楽しみにしておこうw

まあ、当面は適当にやってやるつもりですよ。

それからですよ。

俺が弥生人中国説を半殺しにするのは。


972 :日本@名無史さん :2006/07/07(金) 22:21:45
荒らし行為はアク禁になるんだよ。


529出土地不明:2006/07/08(土) 01:23:10 ID:nt1uTaSv
こわれてる   ほほう、正統な学術で殺すとアク禁になるのか。
こわれてる   それを楽しみにしておこうw
こわれてる   まあ、当面は適当にやってやるつもりですよ。
こわれてる   それからですよ。
こわれてる   俺が弥生人中国説を半殺しにするのは。
530出土地不明:2006/07/08(土) 01:26:15 ID:v2Cy3WqS
こわれてる   ほほう、正統な学術で殺すとアク禁になるのか。

こわれてる   それを楽しみにしておこうw

こわれてる   まあ、当面は適当にやってやるつもりですよ。

こわれてる   それからですよ。

こわれてる   俺が弥生人中国説を半殺しにするのは。
531出土地不明:2006/07/08(土) 19:37:50 ID:+J3VoruC
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。

「チャイナネット」2003年3月31日

http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
532出土地不明:2006/07/08(土) 19:38:29 ID:+J3VoruC
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など




BC16Cの華南の出土物さえ日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑)





533出土地不明:2006/07/09(日) 02:32:04 ID:B68l+mwP
  /\_,,  -―――--  _
             | ∧       ___      `ヽ
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            | /_ノl   斗-ハl l/リ/ハ`刈  l |
            〃 /  ハ i|八 ィfテト  イr'ハトj イ /
            /  /ハ从ハハ い}    ゞ-'〃/l/    は、はわわ、ご主人様、敵が来ちゃいました!
              / /l  トi i}込 " '- "//斗
           /  |  !.N f´ _`≧ェイ「ニニ人___
           〆    , /   /  て)(_) `ヽ   \
       //      V   / / /Y´l|    〉    \
      /  ′       ∧  ∨イ シ弋‖    l / ̄个/
.     /   ,        〈 \ ./ {{‐‐-  ミ、 /l く/-=ミ /
     /   ,       \ \j´ ̄` `ヾ `> 、__|`i   i___
.    /    ,          \イ´ ̄`ヽ z \}‐<´| \ハ    /
   /    i         /´7´ ̄`^ーへ_シ}=-  ! ` ー} /
   ,′   l        / 〃 ノ  イ     \  |    V 〉
  ,  (l i ノ)      /          i      \!    V
  ! ,人ノ`ヽ    /   /       |i      l    i      \
  !     ト\ /   〃     |l    !      l       \
  , /    |  /イ    夾      夾   i     ハ     /j >
.  V イ\ ∧/. !  // \    /ハ     夾 〈 ∧__,  ´ /Lニ}
   \l   \7/ .l/ /   /\/ / l\   /  \   lト、___/」´_ニア
        /ム/厶/、_ ,厶_/ム/ーzj L\/   |  \」|  V`Y´
         くヘ´ ̄`   ̄` l     ̄「ハ¬---Lz __∧    \


534出土地不明:2006/07/09(日) 16:44:30 ID:c+sWxvd0
商の都のあった河南省鄭州市で商代の原始青磁が確認されたことから、
この地区から研究はスタートした。その後、長江中・下流域で商代から
戦国期に亘って連綿と原始青磁が、古墓や城跡を中心に相次ぎ発見された。
その生産と消費の中心地が華南地域であることは、ほぼ動かしがたい状況となっている。

釉色は青緑色、青黄色を呈し、器の内面は全て施釉し、外面は底部近くには施釉
していない。大部分の器物の底部にはヘラ書き符号が認められると言う。
時代としては、春秋時代早期に比定されている。こうしたヘラ書き符号を有した
印紋陶器や原始青磁は、広東地区の春秋戦国時代の古墓からもよく発見されると言う。

福建省でも同地特有の原始青磁が確認されているが、その窯跡の確認は未だ
されていない。しかし西周時代にはすでに現地生産がされ出していたと予測されている。

今までに窯跡本体の確認された原始青磁を焼成した窯は、華南地域に限られている。
商代でも浙江省上虞市百官鎮2号窯跡の例の様に明らかな龍窯が確認されている。
http://www.sg-r.co.jp/web/kouko/genshi_seiji.html
535出土地不明:2006/07/09(日) 16:46:00 ID:c+sWxvd0
4000年以上前の東南アジア周辺の遺跡でも三足土器が一般的。


新石器時代:約4,000年以前
出土した土器は、26種の様式をもっていたが、その中でもっとも目立ったものは
三足の鼎であって、先史時代の中国の『鬲(れき)』に似ており、年代を調べた
ところ、これらは約4,000年以前に作られたことが判明した。
カオサムルナム洞窟でも、バン・カオ遺跡出土の土器と似ている同年代の物が出土した。

http://www.toros8.com/ban/his1.html
536出土地不明:2006/07/10(月) 00:15:32 ID:VksJH3ZE
弥生系って食い物が変わった事からできあがったんじゃないか?
537出土地不明:2006/07/10(月) 15:25:40 ID:Z2ok+Evq
周に入る頃には既に一般的な建材だった瓦さえ伝わっていないっ!


瓦の歴史はきわめて古く、中国では紀元前2000頃にはすでに瓦が登場している。
中国4000年の歴史とよく言われるが、瓦も4000年の歴史を持っている。中国語の
瓦という字は、粘土を焼いたものの総称である。

http://www8.ocn.ne.jp/~kawarak/hana.html

瓦の歴史はとても古く、メソポタミア、インドなどの諸説がありますが、
すでに紀元前2000年前の中国に瓦が存在していたと言われています。

http://www2.odn.ne.jp/sugimotokawara/KAWARA2.htm
538出土地不明:2006/07/10(月) 15:27:07 ID:Z2ok+Evq


「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸の言葉は伝わっていない」

http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/mousou.html


金関  縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと
考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm

539出土地不明:2006/07/11(火) 12:35:07 ID:s9I/SSjF
 中国・朝鮮・日本の水田跡や出土した農耕具にみられる個性、共通性から
稲作伝播の様子を解明したのが愛媛大学の田崎博之教授でした。

 田崎教授は、中国・長江流域(馬家浜文化後期・紀元前約四〇〇〇年前)、
朝鮮半島(無文土器前期・紀元前七〇〇年前後)、日本(縄文晩期終末=
弥生早期・紀元前五〇〇年ころ)の水田跡の形、水利施設の有無、水田が
造られた地形、土壌などを比較しました。

 また、掘り棒やクワ(鍬)、スキ(鋤)などの農耕具の共通性と個性を検討。
弥生時代の農耕具の主役であるクワが、長江中・下流域にはなく、クワの系譜が
山東半島―朝鮮半島―九州であることを調べました。

 「農耕具の流れ・系譜からみて稲作伝播は北回りルートしか考えられません。
そうでないと、日本でのクワの成立はありえません」と同教授はいいます。

http://www.nouminren.ne.jp/dat/200205/2002050621.htm
540出土地不明:2006/07/11(火) 23:32:20 ID:vZZhfbOk
>>539
山東半島は満州、朝鮮にあったのか。
541出土地不明:2006/07/12(水) 16:28:23 ID:6QF8GAty
BC35C頃に高床式住居、甕棺墓(土器棺墓)が日本に出現するが・・・・・


高床式倉庫群、竪穴式住居群、千五百年の営みを積み重ねて来た遺跡、
建物跡ひとつをとっても同じ場所に何度も建て替えられている。
三内丸山に集落があったのは縄文時代前期半ばから中期末までの一五〇〇年間
も古い前期半ばは紀元前三五〇〇年頃、いまからおよそ五五〇〇年前だ。
http://www.d1.dion.ne.jp/~zpmasasi/sannai.html

青森県内の縄文時代早期から中期後葉の墓を集成し、埋葬方法の種類と
移り変わり、配置についての基礎的な分析を行った。青森県内の埋葬方法は、
早期後半に大半が出そろい、前期中葉に土器棺墓、前期末葉にフラスコ形
土坑が出現して副葬品の量にも差が生まれる。
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/special/koubo_sha.html
542出土地不明:2006/07/12(水) 16:29:22 ID:6QF8GAty
BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代に全く伝わっていないっ!


浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の
東部地区に分布している。河姆渡遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と
類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上の両層
よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,
低温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,
土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,
第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優勢となる。第4層の土器の主な
ものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と
装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。第3層
出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,
東アジアに特徴的な穀物を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,
濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。遺跡層が地下水面下にあったため,
多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,
組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。
http://www.tabiken.com/history/doc/D/D276R100.HTM
543出土地不明:2006/07/12(水) 16:30:19 ID:6QF8GAty
見よ!

BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代にさーっぱり伝わっていない。



◎河姆渡遺跡

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonG.html



544出土地不明:2006/07/13(木) 17:14:47 ID:z/OqS5IH
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


渡来系弥生人は大陸のどこからやって来たのでしょうか。最近の調査により、
水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。
黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人に
よく似た人骨があいついで見つかっています。この時代の中国は、政治的に
動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。日本にやって
来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-14.html
545出土地不明:2006/07/13(木) 17:15:26 ID:z/OqS5IH
朝鮮と山東省の骨だけで中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


「土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったのです。」

http://sakezo.com/shumi/rekisi/keta1.html
546出土地不明:2006/07/13(木) 17:20:19 ID:z/OqS5IH
篆書などの原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='
547出土地不明:2006/07/14(金) 15:17:14 ID:ElTDAp38
北方アジアは一切抜きの偏向調査で作為的に中国・朝鮮に誘致していた
スットボケ遺伝学者(嘲笑)


宝来センセイによると、韓国や中国にはそれぞれドミナントなミトコンドリアDNAがあるのに、
日本本土では、とくにドミナントなものがない。つまり系統的にさまざまな人たちから成り立って
いるのである。また、これまで、大陸から渡来した弥生人によって分断され、北に追いやられたのが
アイヌ、南に追いやられたのが琉球人といわれてきた。しかし、アイヌと琉球は少なくとも1万2000年
以上まえに分岐しており、紀元前3世紀以降に渡来してきた弥生人によって分断されたんではないという。
1万2000年前にそれぞれ日本に住み着いたアイヌと琉球人。そこへ紀元前3世紀以降になって渡来し、
稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたちなのだ。
それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝のころの、徐福たちじゃない?
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm
548出土地不明:2006/07/14(金) 15:17:49 ID:ElTDAp38
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋と低脳遺伝学者の
偏向調査のコラボレーション。いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


一九九四年一月二六日ニュース報道。山口県豊北町の土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸館長(形質人類学)らが、
山東省文物考古研究所を訪問。同省の遺跡から出土した前漢時代の古人骨約七十体について、顔の長さ、幅などを計測し、
北部九州や山口県で発掘された渡来系弥生人骨と比較したところ、八割以上で顔の長さ、ほお骨の厚さなど主要な値が一致。
骨から推定した平均身長も渡来系弥生人(男性一六三センチ、女性一五〇センチ)とほぼ一致した。
 一九九六年一〇月一九日、日本人類学会・日本民族学会連合大会発表。東大理学部の植田信太郎助教授(人類学)らは、
約二千年前の中国・山東省臨錙の遺跡から出土した人骨と、同時期の詫田西分遺跡から出土した人骨のDNAを分析し、
遺伝子の配列が特定の部分で同じ人がいることを確認した。
 一九九九年三月一九日ニュース報道。江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立科学博物館名誉研究員が団長)は、
江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、
歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。
結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の
人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。
http://www.asahi-net.or.jp/~CY1N-STU/kodaishi/yayoi.htm
549出土地不明:2006/07/14(金) 20:13:07 ID:nlPrkltD
550出土地不明:2006/07/15(土) 15:00:17 ID:eetvvvql
>>548
山東半島と朝鮮半島と日本の縄文系ってのは、どれもぱっと見では同じ
系統のmtDNAをもつわけなんだけれど、細かく調べると朝鮮半島系と
日本列島系は同じだけど、中国系は若干違うんだよな。
ただ、山東半島のものはもしかしたら、日本系なのかどうなのか、とくに
古い時代はわからない。いずれにせよ、mtDNAの分布からは、日本は、
確実に、アジアの吹き溜まりにすぎず、北方系も南方系もふくめたいろ
いろなものがごっちゃに混ざっている。縄文系といえども、北方系を
かなり含む。で、これらの構成比率は、アメリカのネイティブアメリカン
と近いものもあるから、結局、mtDNAで、弥生系と縄文系を区別するのは
無理だってことにもなるだろう。
551出土地不明:2006/07/15(土) 16:32:04 ID:gTIYpWk7
>>550
遺伝子屋が低脳過ぎて解釈がダメなだけ。
特にmtとY系は全然ダメダメ。カスばっか。
考古学者に錯誤と勘違いを引き起こすだけの諸悪の根源になっている。
今までよくこんな低脳がまかり通ってきたと最近つくづくそう思うね。
これは理科学者だけでやってるところがガンなんだよ。
解釈には史学者や考古学者が深く介入していかないともう本当にアカンだろう。
という訳で、


物証>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>骨屋・遺伝子屋

552出土地不明:2006/07/15(土) 18:37:20 ID:gTIYpWk7
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
553出土地不明:2006/07/15(土) 18:43:46 ID:gTIYpWk7
灰陶(かいとう)

中国、殷代以前に始まる陶質土器。
焼成の最終段階で、空気をあまり送らず窯の中を還元状態にするため灰青色を呈する。
殷・周代を中心に漢・唐の頃まで日常の容器として広く使われた。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/195.html

●灰陶 かいとう

中国の新石器時代の黄河流域では、仰韶(ヤンシャオ)文化期に紅陶が多く灰陶は少なかったが、
晩期には灰陶が多くなる。山東地域を中心とするダイブンコウ※注2※文化期でも同様に,
晩期には灰陶が多くなり、ロクロが用いられた。両文化を継承した竜山文化期では、灰陶が
多く質も向上していく。江漢平原の屈家嶺文化期では,中期に灰陶が主流を占めてくる。
殷代になると土器製作の技術が進み,窯中の還元焔が制御されて,後期には,器質・色調の
優れた細泥灰陶が土器の大部分を占めるようになる。灰陶は周・漢・六朝でもつくられ,
加彩灰陶も現れる。http://www.tabiken.com/history/doc/D/D056R100.HTM
554出土地不明:2006/07/15(土) 22:55:38 ID:YpwjHJCr
刺身が大好物、地球上ではめったにいない。細いあごで醤油顔で眉間から鼻の付け根が陥没していない。
お隣の国とは大違い。木彫りの顔が埴輪の兵隊にそっくり。
文法も日本語と同じ。ナナイ族
http://bekkoame.ne.jp/ro/gobi/eurasianclub/charity_2006/images/charity06.jpg
http://akabori.web.infoseek.co.jp/617.nanai%20dance.jpg
555出土地不明:2006/07/16(日) 17:22:59 ID:Fkfc1Qyo
●原始磁器 げんしじき(=灰釉陶、原始青磁)

中国古代の釉(うわぐすり)をかけた硬陶。3%以下の鉄分を含む胎土でつくられ,その上に
土灰釉(どかいゆう)を意識的にかけ,セ氏1,200度前後で焼成されたもので,灰釉陶,釉陶
ともいわれ,日本では灰釉と呼ばれている。3%以上の鉄分を含む胎土でつくられ,釉薬を
かけないで焼成された吸水率の高い灰陶とは異なる。また,焼成過程で降灰が器面でとけて
ガラス状になった自然釉とも区別される。原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。
殷代中期の二里崗文化には,灰白色の胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,
硬度が高く鋭い音色を出し,水のしみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,
浙江・江蘇・江西・安徽・山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。
器形には,尊・壺・豆・鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,
改良が加えられていく。土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,
後漢時代に青磁となる。http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM

灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html
556出土地不明:2006/07/16(日) 17:25:42 ID:Fkfc1Qyo
商の都のあった河南省鄭州市で商代の原始青磁が確認されたことから、
この地区から研究はスタートした。その後、長江中・下流域で商代から
戦国期に亘って連綿と原始青磁が、古墓や城跡を中心に相次ぎ発見された。
その生産と消費の中心地が華南地域であることは、ほぼ動かしがたい状況となっている。

釉色は青緑色、青黄色を呈し、器の内面は全て施釉し、外面は底部近くには施釉
していない。大部分の器物の底部にはヘラ書き符号が認められると言う。
時代としては、春秋時代早期に比定されている。こうしたヘラ書き符号を有した
印紋陶器や原始青磁は、広東地区の春秋戦国時代の古墓からもよく発見されると言う。

福建省でも同地特有の原始青磁が確認されているが、その窯跡の確認は未だ
されていない。しかし西周時代にはすでに現地生産がされ出していたと予測されている。

今までに窯跡本体の確認された原始青磁を焼成した窯は、華南地域に限られている。
商代でも浙江省上虞市百官鎮2号窯跡の例の様に明らかな龍窯が確認されている。
http://www.sg-r.co.jp/web/kouko/genshi_seiji.html
557出土地不明:2006/07/17(月) 00:06:58 ID:YSPzaZBJ

【 ☆ 決定 ☆ 朝鮮族の母体はエベンキ系「沃沮、?狛」人  】

(イルクーツク=連合ニュース) 金兵曹記者 ="バイカル湖隣近の少数民族
エベンキ族'は現在までアリラン'と `スリーと'という単語を使っています"
アリランは迎える、スリーは感じて分かる『アリランスリー』と'は
古代北方シャマニズムの葬礼文化で 「魂を迎えて別離の悲しみをたえる」と言う
今は朝鮮族も忘れてしまった、意味だったことに推定される"と強調した。
エベンキ族の祖先は「熊と人間の女との間に生まれた」と檀君神話と同じで有る。
沃沮人はオンドルの発明者、虎が好きで体を浮かす様な舞をする、ソッテも大事。
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&page=2&nid=1661088&st=writer_id&sw=wakatakeru

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1553866
558出土地不明:2006/07/17(月) 16:47:33 ID:zRuCtkKF
BC20C頃の二里頭文化では、すでに建築技術は壁、軒などをもつ現代の物と
さほど変わらず、原始磁器(灰釉陶)が焼かれていた。



BC1900頃

鄭州市付近に二里頭文化。宮殿とされる大きな遺跡があるが盗掘されたようである。
(殷墟は鄭州市の150キロほどの北にある)
青銅器の本格的な使用が始まっている。
出土物から四川省や甘粛省などとも広く交流している。
宮殿は壁、軒などをもつ現代の物とさほど変わらない物になっているようである。
土器は高温で焼成され、当地では原始磁器と呼んでいる。後期には登り窯が発見
されており最古とされる。

http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kodai_old/kks-koga.htm
559出土地不明:2006/07/17(月) 16:49:07 ID:zRuCtkKF
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!


●印文土器 いんもんどき アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。
http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
560出土地不明:2006/07/17(月) 16:49:40 ID:zRuCtkKF
西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、福建省などの中国東南部では
印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋時代(B.C.770年〜476年)
華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
561出土地不明:2006/07/18(火) 12:09:01 ID:ZaS36+p6
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
最も代表的な器形である、鬲、鼎などの三足土器さえ伝わっていないっ!


●三足器 さんそくき 

中国における3本の足をもつ土器・青銅器の総称。三足器には,食物を煮るまたは
盛る鼎(てい),中空の袋状三足に水を入れて煮沸し,その上の「甑(そう)」
(こしき)にのせた穀物を蒸す鬲(れき),鬲と甑が結合して一体となったゲン
※注1※,酒器のカ※注2※,燗酒をつくるキ※注3※・カ※注4※・爵(しゃく)
などがある。しかし新石器時代の原始的土器には,水や酒を入れる壺(こ)や,
食物を盛る豆(とう)などにも三足のついたものがあり,器形も未分化・不定形
であった。たとえば,磁山・斐李崗(はいりこう)文化の三足つき壺・鉢形鼎,
仰韶(ぎょうしょう)文化の種々の形鼎,大ブン※注5※)口文化の三足つき
釜形鼎・鉢年鼎・觚(こ)形器,取手・三足つき鉢形細柄豆など種々ある。
また大ブン※注5※口文化において三足土器が,実足から空足,さらに袋状と変化
し,同時に器身も注ぎ口なども変化し,中空三足・注ぎ口・取手つきの大型キ
※注3※が成長した例もある。良渚(しょ)文化や典型竜山文化には,種々の
三足土器が多くなり,河南や陝西の竜山文化にも種々の三足土器が現れ,しだい
に器形がととのっていく。殷代には三足土器もつくられたが,これらの器形を
模した青銅器が鋳造され,また新しい器形の三足青銅器もつくられて,重要な
祭器となり,豪壮な造形と華麗な文様の芸術品に発展し,周代に継承されていく。
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H176R200.HTM
562出土地不明:2006/07/18(火) 12:09:45 ID:ZaS36+p6
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
563出土地不明:2006/07/18(火) 12:10:20 ID:ZaS36+p6
564日本@名無史さん:2006/07/19(水) 08:57:02 ID:dLQDqoU6
年代算出の根拠、何年何月、どこそこの、何々大学、何々研究所、C14とか何々社製
測定装置によるという情報がないということは、恣意的なSpeculationによる発表であり、
意味がない。年代を推定するにしても国際的調査団による根幹的発見物の科学的年代
決定を経た後に年代発表したほうがいいのでは。現状では相対的な年代順序しか
出せないのでは。
565出土地不明:2006/07/19(水) 15:38:49 ID:tgvUNfWW
篆書などの原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='
566出土地不明:2006/07/19(水) 15:39:42 ID:tgvUNfWW
饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html

殷の時代に生み出された灰釉陶は、西周時代から春秋戦国時代(B.C770〜 221)にかけて
熟成の時代を迎えることになるが、なお中国工芸の中心は依然として青銅器であった。
祭器としての青銅器から日常生活具としての青銅器へ変化する過程で、文様も饕餮文
(とうてつもん)・〓龍文(きりゅうもん)・〓鳳文(きほうもん)などの神秘的・
宗教的・観念的なもから動物や植物がリアルに写される写実的な文様へ変化していった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
567出土地不明:2006/07/19(水) 18:03:50 ID:0gtykdX0

*奈良時代に唐三彩(正倉院に有)、白磁、青磁、が有る事を知りながら作れなかった
作ろうとしなかった700年〜800年も、(唐三彩は製作した様だが)。どうして?
【答え=必要なかった】鋳造技術が有ったので温度管理は出来る、縄文土器も有るしね。

*鉄砲は1543年、種子島に入り数年足らずで境、雑賀、根来、国友衆に広まった
1600年には30万丁、世界最大の保有数だった様で有る。どうして?
【答え=必要だったから】

*古代弥生人、倭人達は船が主要交通手段、焼き物は重いし転がり割れるし沈む財産パー
地震でも割れる。*木竹製品はその点、軽いし転がっても割れないし沈まず浮くので便利
日本には縄文時代より漆器類や樽、桶などの木製品が無数に有り竹製品のザル類なども。
568出土地不明:2006/07/19(水) 18:05:30 ID:ijfcAGfh

*奈良時代に唐三彩(正倉院に有)、白磁、青磁、が有る事を知りながら作れなかった
作ろうとしなかった700年〜800年も、(唐三彩は製作した様だが)。どうして?
【答え=必要なかった】鋳造技術が有ったので温度管理は出来る、縄文土器も有るしね。

*鉄砲は1543年、種子島に入り数年足らずで境、雑賀、根来、国友衆に広まった
1600年には30万丁、世界最大の保有数だった様で有る。どうして?
【答え=必要だったから】

*古代弥生人、倭人達は船が主要交通手段、焼き物は重いし転がり割れるし沈む財産パー
地震でも割れる。*木竹製品はその点、軽いし転がっても割れないし沈まず浮くので便利
日本には縄文時代より漆器類や樽、桶などの木製品が無数に有り竹製品のザル類なども。
569出土地不明:2006/07/19(水) 18:06:54 ID:0eGrxpcs

*奈良時代に唐三彩(正倉院に有)、白磁、青磁、が有る事を知りながら作れなかった
作ろうとしなかった700年〜800年も、(唐三彩は製作した様だが)。どうして?
【答え=必要なかった】鋳造技術が有ったので温度管理は出来る、縄文土器も有るしね。

*鉄砲は1543年、種子島に入り数年足らずで境、雑賀、根来、国友衆に広まった
1600年には30万丁、世界最大の保有数だった様で有る。どうして?
【答え=必要だったから】

*古代弥生人、倭人達は船が主要交通手段、焼き物は重いし転がり割れるし沈む財産パー
地震でも割れる。*木竹製品はその点、軽いし転がっても割れないし沈まず浮くので便利
日本には縄文時代より漆器類や樽、桶などの木製品が無数に有り竹製品のザル類なども。
570出土地不明:2006/07/20(木) 12:23:52 ID:X1TYnKJq
>>567-569
無駄な足掻きだな。


*奈良時代に唐三彩(正倉院に有)、白磁、青磁、が有る事を知りながら作れなかった
作ろうとしなかった700年〜800年も、(唐三彩は製作した様だが)。どうして?

【正解=奈良時代の青磁・白磁は単なる輸入舶来品であり、中国から人間集団の
渡来があった訳ではないので焼成技術は伝わっていないが、鉛釉陶の焼成技術が
7Cに半島帰化人を通して伝わっていたので唐三彩を模した奈良三彩を焼成する事が
できたのである。】

571出土地不明:2006/07/20(木) 15:59:21 ID:GfaIuCks

ふ〜ん中国から渡来人が来なかったんで、白磁、青磁が出来なかったんか
奈良三彩は半島帰化人のお陰で出来た、と言う事は戦国時代に大量の
鉄砲が出来たのはヨーロッパ人の渡来、移民が有ったからか何千、何万と
じゃ今の日本人は相当、混血してるな!
572出土地不明:2006/07/20(木) 16:37:12 ID:X1TYnKJq
事実、南蛮人の集団渡来、および長期滞在などがありましたが何か?
573出土地不明:2006/07/20(木) 17:31:56 ID:X1TYnKJq
篆書など原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅剣・銅戈・銅鉾・銅鐸・銅鏡・銅鏃などがあるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本
中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本
遺跡や佐賀県の安永田 遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県
の荒神谷遺跡[こうじんだにいせき]が発掘 されたため、疑問視されている。

http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html
574出土地不明:2006/07/20(木) 17:32:55 ID:X1TYnKJq
鼎、爵などの三足器、尊などの酒器など、中国の青銅器の器形が全く伝わっていないっ!


青銅器はその用途により、食器、酒器、水器、楽器のほぼ4種類に分けることが
できる。各種類ごとにそれぞれ品目も複雑で数多く、形も非常に変化に富んでいて、
中国人の豊かな想像力と創作力を反映している。たとえば、黍稷(モチキビ)を
盛っておく「簒」。これは現代のご飯茶碗に相当する。その形は非常に変化に富み、
円脚に丸い胴のものもあれば、円脚の下にさらに四角い台座を加えて重しとしている
ものもあり、四角と円形との対象が美しい。また炊事用として使う「鼎」は、縁に
一対の耳を付け、下げるのに便利なようにしてある。丸い胴の下には三つの脚が
つけられ、獣の肉を煮込む火が燃えやすいようになっている。ほかには「爵」や
「尊」なとがある。「爵」は酒を飲んだり温めたりする食器で、縁の形は酒が口の
方へ流れやすいようになっており、脇に持ちやすいように把手がある。胴の部分の
下には酒を温めるため3本の脚がついている。「尊」は大事な酒器で、丸い形の
ものや四角形、および四角い脚に丸い口をしたものなどがある。このように、
青銅器の基本的な形は、バランスの取れた対称形がほとんどで、荘厳で落ち着いた
雰囲気が特色である。
http://www.roc-taiwan.or.jp/culture/culture19.html
575出土地不明:2006/07/20(木) 17:36:00 ID:X1TYnKJq
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっていない。
その代表である三足器形さえも伝わっていない。



◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html


576出土地不明:2006/07/20(木) 18:37:48 ID:loRJDEiw

【 ☆ 決定 ☆ 朝鮮族の母体はエベンキ系「沃沮、?狛」人  】

(イルクーツク=連合ニュース) 金兵曹記者 ="バイカル湖隣近の少数民族
エベンキ族'は現在までアリラン'と `スリーと'という単語を使っています"
アリランは迎える、スリーは感じて分かる『アリランスリー』と'は
古代北方シャマニズムの葬礼文化で 「魂を迎えて別離の悲しみをたえる」と言う
今は朝鮮族も忘れてしまった、意味だったことに推定される"と強調した。
エベンキ族の祖先は「熊と人間の女との間に生まれた」と檀君神話と同じで有る。
沃沮人はオンドルの発明者、虎が好きで体を浮かす様な舞をする、ソッテも大事。
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&page=2&nid=1661088&st=writer_id&sw=wakatakeru

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1553866
577出土地不明:2006/07/20(木) 18:39:22 ID:vWfGDAjH

【 ☆ 決定 ☆ 朝鮮族の母体はエベンキ系「沃沮、?狛」人  】

その風俗は山川が重なり、山川には各部族がおり、みだりに干渉することはできない。
同姓は婚姻できない。多くの忌諱があり、(家族が)疾病で死んだときは、すぐに旧宅を
廃棄し、更(通典では夏)に新居を建てる。麻布があり、蚕糸で絹を作る。 夜明けの星宿
(二十八宿の占い)から、その歳の作物の豊穣を予想する。珠玉を宝としない。
 常用十月の節句(重陽の節句。旧暦9月9日)に天を祭り、昼夜に酒を飲み、歌い踊る、
これを「舞天」 という。また虎を神として祭る。その邑落は互いに侵犯するが、刑罰とし
て相手に生口(せいこう=奴婢) と牛馬を差し出す、これを「責禍」という。人を殺した
者は死をもって贖(あがな)う。強盗は少ない。・・・・『三国志、魏書、?伝』・・・
578出土地不明:2006/07/21(金) 15:18:39 ID:KJEhbxlh
BC11C頃の華中の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。

http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
579出土地不明:2006/07/21(金) 15:19:50 ID:KJEhbxlh
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術




印文陶、釉陶、原始磁器、鼎、尊・・・

BC11C頃の華中の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で
出土しないものばーっかり(嘲笑



580出土地不明:2006/07/21(金) 23:56:53 ID:Wn+h/PPH




















581出土地不明:2006/07/21(金) 23:58:35 ID:Wn+h/PPH




















582出土地不明:2006/07/21(金) 23:59:54 ID:asYL6b2P




















583出土地不明:2006/07/22(土) 00:00:30 ID:asYL6b2P




















584出土地不明:2006/07/22(土) 00:01:47 ID:bJ4Ov4ys




















585出土地不明:2006/07/22(土) 00:02:20 ID:ZrcAwp1D




















586出土地不明:2006/07/22(土) 00:03:35 ID:dXDtdXE0

























587出土地不明:2006/07/22(土) 00:04:13 ID:dXDtdXE0




















588出土地不明:2006/07/22(土) 00:05:32 ID:Yt7jVb+f




















589出土地不明:2006/07/22(土) 00:06:05 ID:Yt7jVb+f




















590出土地不明:2006/07/22(土) 13:21:05 ID:X8DPZYHR
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土?墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土?墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土?墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土?墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土?墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土?墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土?墓の盛土は版築ではなく一つの土?墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土?墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm
591出土地不明:2006/07/22(土) 13:22:07 ID:X8DPZYHR
>この墓から出土する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、





印文硬陶と原始施釉陶が伝わっていない事には一切触れない低脳学者のすっとぼけぶり(嘲笑)





592出土地不明:2006/07/22(土) 15:19:20 ID:TgjAk/TF
雲南あたりから揚子江を経て北九州〜朝鮮半島南あたりへ進出したのが
倭人なんだよ。元々の揚子江文明を担う人々じゃないからしょうがない。
593出土地不明:2006/07/22(土) 16:17:59 ID:Dlj5wjnb
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土トン墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土トン墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土トン墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土トン墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土?墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土トン墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土トン墓の盛土は版築ではなく一つの土トン墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土トン墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、埴輪と銅鏡が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
594出土地不明:2006/07/22(土) 16:26:13 ID:BgsygSNC

>この墓から出土する遺物は、埴輪と銅鏡が大半であり、





埴輪と銅鏡が伝わっている事には一切触れない有脳学者のうっかりぶり
595出土地不明:2006/07/22(土) 16:28:01 ID:BgsygSNC
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土トン墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土トン墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土トン墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土トン墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土?墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土トン墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土トン墓の盛土は版築ではなく一つの土トン墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土トン墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、埴輪と銅鏡が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
596出土地不明:2006/07/22(土) 16:29:36 ID:BgsygSNC











>この墓から出土する遺物は、埴輪と銅鏡が大半であり、





埴輪と銅鏡が伝わっている事には一切触れない有脳学者のうっかりぶり
597出土地不明:2006/07/22(土) 16:32:05 ID:Bo8L9Uts
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土トン墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土トン墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土トン墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土トン墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土?墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土トン墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土トン墓の盛土は版築ではなく一つの土トン墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土トン墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、埴輪と銅鏡が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
598出土地不明:2006/07/22(土) 16:33:11 ID:Bo8L9Uts











>この墓から出土する遺物は、埴輪と銅鏡が大半であり、





埴輪と銅鏡が伝わっている事には一切触れない有脳学者のうっかりぶり
599出土地不明:2006/07/22(土) 16:35:35 ID:fJ0PRQeM
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土トン墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土トン墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土トン墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土トン墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土?墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土トン墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土トン墓の盛土は版築ではなく一つの土トン墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土トン墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、埴輪と銅鏡が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
600出土地不明:2006/07/22(土) 16:37:03 ID:fJ0PRQeM





>この墓から出土する遺物は、埴輪と銅鏡が大半であり、





埴輪と銅鏡が伝わっている事には一切触れない有脳学者のうっかりぶり
601出土地不明:2006/07/22(土) 16:39:07 ID:x6XwHFjw
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土トン墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土トン墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土トン墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土トン墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土?墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土トン墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土トン墓の盛土は版築ではなく一つの土トン墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土トン墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、埴輪と銅鏡が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
602出土地不明:2006/07/23(日) 20:59:01 ID:3xbkO9Yd

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060209-00000148-kyodo-ent
603出土地不明:2006/07/23(日) 21:00:05 ID:3xbkO9Yd
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった





原始青磁が伝わってない事には一切触れない南京博物院のすっとぼけぶり(嘲笑)



604出土地不明:2006/07/24(月) 09:38:14 ID:ailtqBTE
もうコピペはいいよw
605出土地不明:2006/07/24(月) 12:51:35 ID:pv6FSUUj
【福建】3500年前の商周の時期の文物を発見

しょう(さんずいに章)州=竜岩高速道路沿線の南靖、豊田、天宝などの区間で、先般、
3500年前の商周の時期の石器、陶磁器などの文物が約500点発見された。このように商周の
時期の文物がたくさん出土したことは福建省できわめて稀なことである。

福建省の考古学調査班は昨年しょう州=竜岩高速道路沿線の南靖、らん城の区間に赴き、
商周の時期の文物の緊急救出の発掘に取り組み、今月中旬頃に3500年前の商周の時期の文物が
発見された。

考古学調査班副班長の鄭輝氏によると、今回の発見の状況から見て、狗頭山遺跡には商周の
時期の古墳、民家遺跡が埋まっており、今回出土したもの中には石戈、石矛、石鋳などの石器
と圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、砂の入った灰色陶器、
上薬のついた陶器、硬質陶器などがたくさんあった。

現地のメディアによると、しょう州市は商周の時期の文化は非常に発達をとげた地域で、1950年代
と1970、1980年代に、福建省としょう州市の考古文化部門は南靖などで古文化遺跡をたくさん発見した。
特に1956年には南靖県の県政府所在地付近の浮山地区で数多くの商周の時期の典型的な陶器、石器が
出土し、その後福建省の考古学界ではそれを「浮山類型」と呼ぶことにした。今回発掘された狗頭山
古文化遺跡も「浮山類型」に属するもの。現在、高速道路建設部門はすでに工事を一時停止し、文化部門
に積極的に協力して緊急救出のための発掘を行っている。

しょう州市におけるこれらの文物の出土は、しょう州市ひいては福建省のその時期の歴史、文化の研究
にとって学術面と考古学の面で重要な価値を持っている。

「チャイナネット」2003年3月31日
http://j.peopledaily.com.cn/2003/03/31/jp20030331_27523.html
606出土地不明:2006/07/24(月) 12:52:17 ID:pv6FSUUj
>圏足(足が輪のようになった)器、環足(足が環状になった)杯、
>砂の入った灰色陶器、上薬のついた陶器、硬質陶器など





BC16Cの華南の出土物さえ日本の弥生遺跡で出土しないものばーっかり(嘲笑)




607出土地不明:2006/07/25(火) 15:14:23 ID:TQobAZ/g
BC11C頃の華中の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。

http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
608出土地不明:2006/07/25(火) 15:15:45 ID:TQobAZ/g
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術




印文陶、釉陶、原始磁器、鼎、尊・・・

BC11C頃の華中の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で
出土しないものばーっかり(嘲笑)


609出土地不明:2006/07/25(火) 15:16:33 ID:TQobAZ/g
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土?墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土?墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土?墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土?墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土?墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土?墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土?墓の盛土は版築ではなく一つの土?墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土?墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm
610出土地不明:2006/07/25(火) 15:17:13 ID:TQobAZ/g
>この墓から出土する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、





印文硬陶と原始施釉陶が伝わっていない事には一切触れない低脳学者のすっとぼけぶり(嘲笑)




611出土地不明:2006/07/25(火) 19:21:20 ID:B6My8EpB
頭のおかしな人には気をつけましょう

利用者が増えるに従って、頭のおかしな人もそれなりに出没するようになって
来ています。頭のおかしな人に関わるとなにかと面倒なことが起こる可能性が
あるので、注意しましょう。頭のおかしな人の判定基準
・「みんなの意見」「他の人もそう思ってる」など、自分の意見なのに他人もそう
思ってると力説する人
 他人が自分とは違うという事実が受け入れられない人です。自分の意見が通らな
いとコピペや荒らしなど
 無茶をし始めるので見かけたら放置してください。
・根拠もなく、他人を見下したり、差別したりする人、自分で自分を褒める人
 他人を見下すことで自分を慰めようとする人です。実生活で他人に褒めてもらう機
会がないが
 プライドだけは高いとか、匿名の掲示板しか話し相手のいない人です。可哀想なの
で放置してください。
・自分の感情だけ書く人
「〜〜がムカツク」とか自分の感情を掲示板に書くことに意味があると思っている人
です。
何がどのようにムカツクのか論理的に書いてあれば、他人が読んでも意味のある文
章になりますが、
そういった論理的思考の出来ない人です。もうちょっと賢くなるまでは放置してあげて
ください。
612出土地不明:2006/07/25(火) 19:22:23 ID:B6My8EpB
頭のおかしな人には気をつけましょう

利用者が増えるに従って、頭のおかしな人もそれなりに出没するようになって
来ています。頭のおかしな人に関わるとなにかと面倒なことが起こる可能性が
あるので、注意しましょう。頭のおかしな人の判定基準
・「みんなの意見」「他の人もそう思ってる」など、自分の意見なのに他人もそう
思ってると力説する人
 他人が自分とは違うという事実が受け入れられない人です。自分の意見が通らな
いとコピペや荒らしなど
 無茶をし始めるので見かけたら放置してください。
・根拠もなく、他人を見下したり、差別したりする人、自分で自分を褒める人
 他人を見下すことで自分を慰めようとする人です。実生活で他人に褒めてもらう機
会がないが
 プライドだけは高いとか、匿名の掲示板しか話し相手のいない人です。可哀想なの
で放置してください。
・自分の感情だけ書く人
「〜〜がムカツク」とか自分の感情を掲示板に書くことに意味があると思っている人
です。
何がどのようにムカツクのか論理的に書いてあれば、他人が読んでも意味のある文
章になりますが、
そういった論理的思考の出来ない人です。もうちょっと賢くなるまでは放置してあげて
ください。
613出土地不明:2006/07/25(火) 19:23:36 ID:bPae16+u
頭のおかしな人には気をつけましょう

利用者が増えるに従って、頭のおかしな人もそれなりに出没するようになって
来ています。頭のおかしな人に関わるとなにかと面倒なことが起こる可能性が
あるので、注意しましょう。頭のおかしな人の判定基準
・「みんなの意見」「他の人もそう思ってる」など、自分の意見なのに他人もそう
思ってると力説する人
 他人が自分とは違うという事実が受け入れられない人です。自分の意見が通らな
いとコピペや荒らしなど
 無茶をし始めるので見かけたら放置してください。
・根拠もなく、他人を見下したり、差別したりする人、自分で自分を褒める人
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会がないが
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・自分の感情だけ書く人
「〜〜がムカツク」とか自分の感情を掲示板に書くことに意味があると思っている人
です。
何がどのようにムカツクのか論理的に書いてあれば、他人が読んでも意味のある文
章になりますが、
そういった論理的思考の出来ない人です。もうちょっと賢くなるまでは放置してあげて
ください。
614出土地不明:2006/07/25(火) 19:25:14 ID:YfEvYRgx
頭のおかしな人には気をつけましょう

利用者が増えるに従って、頭のおかしな人もそれなりに出没するようになって
来ています。頭のおかしな人に関わるとなにかと面倒なことが起こる可能性が
あるので、注意しましょう。頭のおかしな人の判定基準
・「みんなの意見」「他の人もそう思ってる」など、自分の意見なのに他人もそう
思ってると力説する人
 他人が自分とは違うという事実が受け入れられない人です。自分の意見が通らな
いとコピペや荒らしなど
 無茶をし始めるので見かけたら放置してください。
・根拠もなく、他人を見下したり、差別したりする人、自分で自分を褒める人
 他人を見下すことで自分を慰めようとする人です。実生活で他人に褒めてもらう機
会がないが
 プライドだけは高いとか、匿名の掲示板しか話し相手のいない人です。可哀想なの
で放置してください。
・自分の感情だけ書く人
「〜〜がムカツク」とか自分の感情を掲示板に書くことに意味があると思っている人
です。
何がどのようにムカツクのか論理的に書いてあれば、他人が読んでも意味のある文
章になりますが、
そういった論理的思考の出来ない人です。もうちょっと賢くなるまでは放置してあげて
ください。
615出土地不明:2006/07/25(火) 19:25:55 ID:YfEvYRgx
頭のおかしな人には気をつけましょう

利用者が増えるに従って、頭のおかしな人もそれなりに出没するようになって
来ています。頭のおかしな人に関わるとなにかと面倒なことが起こる可能性が
あるので、注意しましょう。頭のおかしな人の判定基準
・「みんなの意見」「他の人もそう思ってる」など、自分の意見なのに他人もそう
思ってると力説する人
 他人が自分とは違うという事実が受け入れられない人です。自分の意見が通らな
いとコピペや荒らしなど
 無茶をし始めるので見かけたら放置してください。
・根拠もなく、他人を見下したり、差別したりする人、自分で自分を褒める人
 他人を見下すことで自分を慰めようとする人です。実生活で他人に褒めてもらう機
会がないが
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で放置してください。
・自分の感情だけ書く人
「〜〜がムカツク」とか自分の感情を掲示板に書くことに意味があると思っている人
です。
何がどのようにムカツクのか論理的に書いてあれば、他人が読んでも意味のある文
章になりますが、
そういった論理的思考の出来ない人です。もうちょっと賢くなるまでは放置してあげて
ください。
616出土地不明:2006/07/25(火) 19:27:12 ID:Zx5eWma6
頭のおかしな人には気をつけましょう

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来ています。頭のおかしな人に関わるとなにかと面倒なことが起こる可能性が
あるので、注意しましょう。頭のおかしな人の判定基準
・「みんなの意見」「他の人もそう思ってる」など、自分の意見なのに他人もそう
思ってると力説する人
 他人が自分とは違うという事実が受け入れられない人です。自分の意見が通らな
いとコピペや荒らしなど
 無茶をし始めるので見かけたら放置してください。
・根拠もなく、他人を見下したり、差別したりする人、自分で自分を褒める人
 他人を見下すことで自分を慰めようとする人です。実生活で他人に褒めてもらう機
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で放置してください。
・自分の感情だけ書く人
「〜〜がムカツク」とか自分の感情を掲示板に書くことに意味があると思っている人
です。
何がどのようにムカツクのか論理的に書いてあれば、他人が読んでも意味のある文
章になりますが、
そういった論理的思考の出来ない人です。もうちょっと賢くなるまでは放置してあげて
ください。
617出土地不明:2006/07/25(火) 19:27:51 ID:Zx5eWma6
頭のおかしな人には気をつけましょう

利用者が増えるに従って、頭のおかしな人もそれなりに出没するようになって
来ています。頭のおかしな人に関わるとなにかと面倒なことが起こる可能性が
あるので、注意しましょう。頭のおかしな人の判定基準
・「みんなの意見」「他の人もそう思ってる」など、自分の意見なのに他人もそう
思ってると力説する人
 他人が自分とは違うという事実が受け入れられない人です。自分の意見が通らな
いとコピペや荒らしなど
 無茶をし始めるので見かけたら放置してください。
・根拠もなく、他人を見下したり、差別したりする人、自分で自分を褒める人
 他人を見下すことで自分を慰めようとする人です。実生活で他人に褒めてもらう機
会がないが
 プライドだけは高いとか、匿名の掲示板しか話し相手のいない人です。可哀想なの
で放置してください。
・自分の感情だけ書く人
「〜〜がムカツク」とか自分の感情を掲示板に書くことに意味があると思っている人
です。
何がどのようにムカツクのか論理的に書いてあれば、他人が読んでも意味のある文
章になりますが、
そういった論理的思考の出来ない人です。もうちょっと賢くなるまでは放置してあげて
ください。
618出土地不明:2006/07/25(火) 19:29:08 ID:uqrmzKkG
頭のおかしな人には気をつけましょう

利用者が増えるに従って、頭のおかしな人もそれなりに出没するようになって
来ています。頭のおかしな人に関わるとなにかと面倒なことが起こる可能性が
あるので、注意しましょう。頭のおかしな人の判定基準
・「みんなの意見」「他の人もそう思ってる」など、自分の意見なのに他人もそう
思ってると力説する人
 他人が自分とは違うという事実が受け入れられない人です。自分の意見が通らな
いとコピペや荒らしなど
 無茶をし始めるので見かけたら放置してください。
・根拠もなく、他人を見下したり、差別したりする人、自分で自分を褒める人
 他人を見下すことで自分を慰めようとする人です。実生活で他人に褒めてもらう機
会がないが
 プライドだけは高いとか、匿名の掲示板しか話し相手のいない人です。可哀想なの
で放置してください。
・自分の感情だけ書く人
「〜〜がムカツク」とか自分の感情を掲示板に書くことに意味があると思っている人
です。
何がどのようにムカツクのか論理的に書いてあれば、他人が読んでも意味のある文
章になりますが、
そういった論理的思考の出来ない人です。もうちょっと賢くなるまでは放置してあげて
ください。
619出土地不明:2006/07/25(火) 19:29:46 ID:uqrmzKkG
頭のおかしな人には気をつけましょう

利用者が増えるに従って、頭のおかしな人もそれなりに出没するようになって
来ています。頭のおかしな人に関わるとなにかと面倒なことが起こる可能性が
あるので、注意しましょう。頭のおかしな人の判定基準
・「みんなの意見」「他の人もそう思ってる」など、自分の意見なのに他人もそう
思ってると力説する人
 他人が自分とは違うという事実が受け入れられない人です。自分の意見が通らな
いとコピペや荒らしなど
 無茶をし始めるので見かけたら放置してください。
・根拠もなく、他人を見下したり、差別したりする人、自分で自分を褒める人
 他人を見下すことで自分を慰めようとする人です。実生活で他人に褒めてもらう機
会がないが
 プライドだけは高いとか、匿名の掲示板しか話し相手のいない人です。可哀想なの
で放置してください。
・自分の感情だけ書く人
「〜〜がムカツク」とか自分の感情を掲示板に書くことに意味があると思っている人
です。
何がどのようにムカツクのか論理的に書いてあれば、他人が読んでも意味のある文
章になりますが、
そういった論理的思考の出来ない人です。もうちょっと賢くなるまでは放置してあげて
ください。
620出土地不明:2006/07/25(火) 19:31:09 ID:MEbPiSNk
頭のおかしな人には気をつけましょう

利用者が増えるに従って、頭のおかしな人もそれなりに出没するようになって
来ています。頭のおかしな人に関わるとなにかと面倒なことが起こる可能性が
あるので、注意しましょう。頭のおかしな人の判定基準
・「みんなの意見」「他の人もそう思ってる」など、自分の意見なのに他人もそう
思ってると力説する人
 他人が自分とは違うという事実が受け入れられない人です。自分の意見が通らな
いとコピペや荒らしなど
 無茶をし始めるので見かけたら放置してください。
・根拠もなく、他人を見下したり、差別したりする人、自分で自分を褒める人
 他人を見下すことで自分を慰めようとする人です。実生活で他人に褒めてもらう機
会がないが
 プライドだけは高いとか、匿名の掲示板しか話し相手のいない人です。可哀想なの
で放置してください。
・自分の感情だけ書く人
「〜〜がムカツク」とか自分の感情を掲示板に書くことに意味があると思っている人
です。
何がどのようにムカツクのか論理的に書いてあれば、他人が読んでも意味のある文
章になりますが、
そういった論理的思考の出来ない人です。もうちょっと賢くなるまでは放置してあげて
ください。
621出土地不明:2006/07/25(火) 19:35:39 ID:4YGkLyKJ
非常に糞スレの為
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■■■■氏■■■■■氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■氏氏■■■■■氏■■■■■■■ねねねねねねねねねねねね■■
■■氏氏■■■■■氏氏氏氏氏氏■■■■■■■■■■■■■ねね■■
■氏氏■■氏■■■氏■■■■氏■■■■■■■■■■■■ねね■■■
■■氏■氏氏■■氏氏氏■■氏氏■■■■■■■■■■■ねね■■■■
■■■氏氏■■氏氏■氏氏氏氏■■■■■■■■■■■ねね■■■■■
■■氏氏■■■■■■■氏氏■■■■■■■■■■■ねね■■■■■■
■■氏■■■氏■■■氏氏氏氏■■■■■■■■■■ね■■■■■■■
■氏氏氏氏氏氏■■氏氏■■氏氏■■■■■■■■■ね■■■■■■■
■■■■氏■■■氏氏■■■■氏氏■■■■■■■■ね■■■■■■■
■■氏■氏■氏■■■■氏氏■■■■■■■■■■■ね■■■■■■■
■■氏■氏■氏■■■■■氏氏■■■■■■■■■■ね■■■■■■■
■氏氏■氏■氏■■■■■■■■■■■■■■ねね■ね■■■■■■■
■氏■■氏■■■■氏氏氏■■■■■■■■■■ねねね■■■■■■■
■■■■氏■■■■■■氏氏氏■■■■■■■■■ねね■■■■■■■
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無事に終了しました。皆様ご愛顧有難う御座いました
622出土地不明:2006/07/26(水) 08:56:31 ID:UxCKJmir
BC11C頃の華中の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。

http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
623出土地不明:2006/07/26(水) 08:57:42 ID:UxCKJmir
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術




印文陶、釉陶、原始磁器、鼎、尊・・・

BC11C頃の華中の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で
出土しないものばーっかり(嘲笑)



624出土地不明:2006/07/26(水) 08:58:41 ID:UxCKJmir
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土?墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土?墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土?墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土?墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土?墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土?墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土?墓の盛土は版築ではなく一つの土?墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土?墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm
625出土地不明:2006/07/26(水) 09:00:08 ID:UxCKJmir
>この墓から出土する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、





印文硬陶と原始施釉陶が伝わっていない事には一切触れない低脳学者のすっとぼけぶり(嘲笑)





626出土地不明:2006/07/27(木) 17:36:15 ID:3RHcpl/+
商の都のあった河南省鄭州市で商代の原始青磁が確認されたことから、
この地区から研究はスタートした。その後、長江中・下流域で商代から
戦国期に亘って連綿と原始青磁が、古墓や城跡を中心に相次ぎ発見された。
その生産と消費の中心地が華南地域であることは、ほぼ動かしがたい状況となっている。

釉色は青緑色、青黄色を呈し、器の内面は全て施釉し、外面は底部近くには施釉
していない。大部分の器物の底部にはヘラ書き符号が認められると言う。
時代としては、春秋時代早期に比定されている。こうしたヘラ書き符号を有した
印紋陶器や原始青磁は、広東地区の春秋戦国時代の古墓からもよく発見されると言う。

福建省でも同地特有の原始青磁が確認されているが、その窯跡の確認は未だ
されていない。しかし西周時代にはすでに現地生産がされ出していたと予測されている。

今までに窯跡本体の確認された原始青磁を焼成した窯は、華南地域に限られている。
商代でも浙江省上虞市百官鎮2号窯跡の例の様に明らかな龍窯が確認されている。
http://www.sg-r.co.jp/web/kouko/genshi_seiji.html
627出土地不明:2006/07/27(木) 17:37:37 ID:3RHcpl/+
4000年以上前の東南アジア周辺の遺跡でも三足土器が一般的。


新石器時代:約4,000年以前
出土した土器は、26種の様式をもっていたが、その中でもっとも目立ったものは
三足の鼎であって、先史時代の中国の『鬲(れき)』に似ており、年代を調べた
ところ、これらは約4,000年以前に作られたことが判明した。
カオサムルナム洞窟でも、バン・カオ遺跡出土の土器と似ている同年代の物が出土した。

http://www.toros8.com/ban/his1.html
628出土地不明:2006/07/28(金) 11:52:08 ID:vUv0eN2w
周に入る頃には既に一般的な建材だった瓦さえ伝わっていないっ!


瓦の歴史はきわめて古く、中国では紀元前2000頃にはすでに瓦が登場している。
中国4000年の歴史とよく言われるが、瓦も4000年の歴史を持っている。中国語の
瓦という字は、粘土を焼いたものの総称である。

http://www8.ocn.ne.jp/~kawarak/hana.html

瓦の歴史はとても古く、メソポタミア、インドなどの諸説がありますが、
すでに紀元前2000年前の中国に瓦が存在していたと言われています。

http://www2.odn.ne.jp/sugimotokawara/KAWARA2.htm
629出土地不明:2006/07/28(金) 11:52:55 ID:vUv0eN2w


「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する
中国大陸の言葉は伝わっていない」

http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/mousou.html


金関  縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと
考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm

630出土地不明:2006/07/28(金) 19:38:38 ID:GoyJqIR4

【黒色磨研土器】 縄文後期(BC11C〜13C)

 縄文土器のうち、表面をヘラなどでみがきあげた土器を磨研土器といいます。この種の
土器ははじめ赤褐色であったが、後期ごろから黒色化する傾向をしめし、ことに九州を
中心に後期後半ごろから、器面が黒色の光沢をもちロクロを使用したと思われる、
黒色磨研土器が普及します。この土器は、縄文文化独自の形成とみるべきではなく、
江南の各遺跡から多量に出土している黒陶の関係をかんがえなければなりません。
**鴨緑江流域一帯の積石塚からは褐色磨研土器、黒色磨土器、灰色土器などの土器類と
環頭大刀、合口、槍、鉄斧などの鉄製武器、銅鐸、透彫り文装飾、小釘打ち薄銅版の青銅器
と装飾品が出土し、褐色磨研土器と黒色磨土器は紀元前3世紀の遺物として認められている
http://www.himawari.ed.jp/nuki_e/nukigawaiseki.htm
http://www.e-obs.com/rekisi/kodai/sousetu/sousetu1-1.htm
http://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/category/hakubutsu/kouko2.html
http://www.vill.tsumagoi.gunma.jp/siryoukan/kannai.htm
631出土地不明:2006/07/28(金) 19:39:17 ID:GoyJqIR4

【黒色磨研土器】 縄文後期(BC11C〜13C)

 縄文土器のうち、表面をヘラなどでみがきあげた土器を磨研土器といいます。この種の
土器ははじめ赤褐色であったが、後期ごろから黒色化する傾向をしめし、ことに九州を
中心に後期後半ごろから、器面が黒色の光沢をもちロクロを使用したと思われる、
黒色磨研土器が普及します。この土器は、縄文文化独自の形成とみるべきではなく、
江南の各遺跡から多量に出土している黒陶の関係をかんがえなければなりません。
**鴨緑江流域一帯の積石塚からは褐色磨研土器、黒色磨土器、灰色土器などの土器類と
環頭大刀、合口、槍、鉄斧などの鉄製武器、銅鐸、透彫り文装飾、小釘打ち薄銅版の青銅器
と装飾品が出土し、褐色磨研土器と黒色磨土器は紀元前3世紀の遺物として認められている
http://www.himawari.ed.jp/nuki_e/nukigawaiseki.htm
http://www.e-obs.com/rekisi/kodai/sousetu/sousetu1-1.htm
http://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/category/hakubutsu/kouko2.html
http://www.vill.tsumagoi.gunma.jp/siryoukan/kannai.htm
632出土地不明:2006/07/28(金) 22:25:33 ID:qZRAorVf
17番の「陶釜」なんて雰囲気がよく似ているんではないかい?
他にも色々あったが、面倒なので一個だけにする。



http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
633出土地不明:2006/07/29(土) 13:15:17 ID:GnTRc67g
縄文後期中頃に伝わった遼東・朝鮮経由の黒陶擬似の黒色磨研土器ね。

朝鮮半島の無文土器の遺跡では黒色磨研土器や丹塗磨研土器もよく出土する。

なぜ朝鮮経由なのかと言うと、黒色磨研土器が伝わった縄文後期中頃(BC15C前後)
の中国では既に原始磁器時代に入り、主流が灰陶であったのと、
やはり中国土器の代表器形である三足器形が無いからである。

それに甑や豆などの器形も無い。

また縄文後期(BC20C)と河姆渡文化時代(BC50C)では時代が3000年ほど
違う事もお忘れなく。
634出土地不明:2006/07/29(土) 13:20:31 ID:GnTRc67g
縄文後期中頃に伝わった遼東・朝鮮経由の黒陶擬似の黒色磨研土器ね。

朝鮮半島の無文土器の遺跡では黒色磨研土器や丹塗磨研土器もよく出土する。

なぜ朝鮮経由なのかと言うと、黒色磨研土器が伝わった縄文後期中頃(BC15C前後)
の中国では既に原始磁器時代に入り、主流が灰陶であったのと、
やはり中国土器の代表器形である三足器形が無いからである。

それに甑や豆などの器形も無い。

また縄文後期(BC20C)と河姆渡文化時代(BC50C)では時代が3000年ほども
違う事もお忘れなく。
635出土地不明:2006/07/29(土) 13:29:36 ID:GnTRc67g
BC35C頃に高床式住居、甕棺墓(土器棺墓)が日本に出現するが・・・・・


高床式倉庫群、竪穴式住居群、千五百年の営みを積み重ねて来た遺跡、
建物跡ひとつをとっても同じ場所に何度も建て替えられている。
三内丸山に集落があったのは縄文時代前期半ばから中期末までの一五〇〇年間
も古い前期半ばは紀元前三五〇〇年頃、いまからおよそ五五〇〇年前だ。
http://www.d1.dion.ne.jp/~zpmasasi/sannai.html

青森県内の縄文時代早期から中期後葉の墓を集成し、埋葬方法の種類と
移り変わり、配置についての基礎的な分析を行った。青森県内の埋葬方法は、
早期後半に大半が出そろい、前期中葉に土器棺墓、前期末葉にフラスコ形
土坑が出現して副葬品の量にも差が生まれる。
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/special/koubo_sha.html
636出土地不明:2006/07/29(土) 13:30:33 ID:GnTRc67g
BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代に全く伝わっていないっ!


浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の
東部地区に分布している。河姆渡遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と
類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上の両層
よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,
低温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,
土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,
第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優勢となる。第4層の土器の主な
ものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と
装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。第3層
出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,
東アジアに特徴的な穀物を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,
濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。遺跡層が地下水面下にあったため,
多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,
組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。
http://www.tabiken.com/history/doc/D/D276R100.HTM
637出土地不明:2006/07/29(土) 13:31:16 ID:GnTRc67g
見よ!

BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代にさーっぱり伝わっていない。



◎河姆渡遺跡

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonG.html



638出土地不明:2006/07/29(土) 16:24:12 ID:Zjc49qbh
>>633
朝鮮半島の無文土器の遺跡では黒色磨研土器や丹塗磨研土器もよく出土する。


朝鮮半島からのは新しすぎないか、(上に有るけどBC3C)半島から来たとは
言いにくいな、ロクロも定説と違うな(定説ではAD4C)学会大変だな。
639出土地不明:2006/07/29(土) 17:18:22 ID:CMAusgSE
あっ み〜つけたあ〜

黒陶、灰陶、工作員は半島自慢してるって事は半島人か、在日か、
あちこちでコピペしてるな、毎日毎日ごくろうさんです、暑いけどがんばれ。
一日50ヶ所位コピペしてるん、儲け過ぎだよ少し回してくれよ!
640出土地不明:2006/07/30(日) 20:45:14 ID:vgG9BuUW
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


渡来系弥生人は大陸のどこからやって来たのでしょうか。最近の調査により、
水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。
黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人に
よく似た人骨があいついで見つかっています。この時代の中国は、政治的に
動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。日本にやって
来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-14.html
641出土地不明:2006/07/30(日) 20:45:54 ID:vgG9BuUW
朝鮮と山東省の骨だけで中国だと決め付ける低脳骨屋の偏向調査(嘲笑)
いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


「土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、
細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系
「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、
中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の
人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極め
てよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国
だったのです。」

http://sakezo.com/shumi/rekisi/keta1.html
642出土地不明:2006/07/30(日) 22:10:22 ID:reO8/TUF
あっ 鬼さんみ〜つけたあ〜

黒陶灰陶工作員は何者かな、もしかして PU それとも がいやまん ?
あちこちでコピペしてるな、毎日毎日ごくろうさんです、暑いけどがんばれ。
一日50ヶ所位コピペしてるん、儲け過ぎだよ少し回してくれよ!
643出土地不明:2006/07/31(月) 10:54:54 ID:BaGOmtvq
中国説と半島説はスレを分けた方が良いな・・・
644出土地不明:2006/07/31(月) 12:18:36 ID:ZDzqzFPC
北方アジアは一切抜きの偏向調査で作為的に中国・朝鮮に誘致していた
スットボケ遺伝学者(嘲笑)


宝来センセイによると、韓国や中国にはそれぞれドミナントなミトコンドリアDNAがあるのに、
日本本土では、とくにドミナントなものがない。つまり系統的にさまざまな人たちから成り立って
いるのである。また、これまで、大陸から渡来した弥生人によって分断され、北に追いやられたのが
アイヌ、南に追いやられたのが琉球人といわれてきた。しかし、アイヌと琉球は少なくとも1万2000年
以上まえに分岐しており、紀元前3世紀以降に渡来してきた弥生人によって分断されたんではないという。
1万2000年前にそれぞれ日本に住み着いたアイヌと琉球人。そこへ紀元前3世紀以降になって渡来し、
稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたちなのだ。
それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝のころの、徐福たちじゃない?
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm
645出土地不明:2006/07/31(月) 12:19:30 ID:ZDzqzFPC
中国の骨しか調べずに中国だと決め付ける低脳骨屋と低脳遺伝学者の
偏向調査のコラボレーション。いつも必ず北方アジアは抜き(嘲笑)


一九九四年一月二六日ニュース報道。山口県豊北町の土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸館長(形質人類学)らが、
山東省文物考古研究所を訪問。同省の遺跡から出土した前漢時代の古人骨約七十体について、顔の長さ、幅などを計測し、
北部九州や山口県で発掘された渡来系弥生人骨と比較したところ、八割以上で顔の長さ、ほお骨の厚さなど主要な値が一致。
骨から推定した平均身長も渡来系弥生人(男性一六三センチ、女性一五〇センチ)とほぼ一致した。
 一九九六年一〇月一九日、日本人類学会・日本民族学会連合大会発表。東大理学部の植田信太郎助教授(人類学)らは、
約二千年前の中国・山東省臨錙の遺跡から出土した人骨と、同時期の詫田西分遺跡から出土した人骨のDNAを分析し、
遺伝子の配列が特定の部分で同じ人がいることを確認した。
 一九九九年三月一九日ニュース報道。江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立科学博物館名誉研究員が団長)は、
江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、
歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。
結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の
人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。
http://www.asahi-net.or.jp/~CY1N-STU/kodaishi/yayoi.htm
646出土地不明:2006/08/01(火) 00:09:04 ID:6WxrMVxk
>>644
何年前のデータを出しているんだ?日本には、北方系も南方系も両方ある。
ただし、その北方系がいつごろ入ってきたかは、議論がわかれる。アイヌ
もかなり北方要素があるし、その北方要素の多くは、アメリカ大陸にも
つながる。だから、日本に北方要素が入ってきたのは、氷河時代末期から
その後という可能性が高い。それ以前は、南方的な人々が多かったんだろう。
1万年以上前の話だ。2000年から3000年前に入ってきた弥生人と
いうのが、どの系統なのかを、はっきりと調べるのは、難しい。mtDNAでは
そこまでの精度はでてこないからな。
>>645
この研究結果は否定されているぞ。日本人に多いmtDNA ハプログループMは、
M7a で、中国に多いM7b や東南アジアのM7c とは違う。ただし、朝鮮半島
とは共通だ。起源は3万年前。後期旧石器時代から半島と日本列島に住んでいた
人々の子孫がいまでも半島と列島にいるということだ。
昨今mtDNAの全長解析でかなり話は違ってきた。最新のデータにあたるべし。
647出土地不明:2006/08/01(火) 15:36:25 ID:AJeusyr+
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
648出土地不明:2006/08/01(火) 15:37:27 ID:AJeusyr+
●灰陶 かいとう

中国の新石器時代の黄河流域では、仰韶(ヤンシャオ)文化期に紅陶が多く灰陶は少なかったが、
晩期には灰陶が多くなる。山東地域を中心とするダイブンコウ※注2※文化期でも同様に,
晩期には灰陶が多くなり、ロクロが用いられた。両文化を継承した竜山文化期では、灰陶が
多く質も向上していく。江漢平原の屈家嶺文化期では,中期に灰陶が主流を占めてくる。
殷代になると土器製作の技術が進み,窯中の還元焔が制御されて,後期には,器質・色調の
優れた細泥灰陶が土器の大部分を占めるようになる。灰陶は周・漢・六朝でもつくられ,
加彩灰陶も現れる。http://www.tabiken.com/history/doc/D/D056R100.HTM

灰陶(かいとう)

中国、殷代以前に始まる陶質土器。
焼成の最終段階で、空気をあまり送らず窯の中を還元状態にするため灰青色を呈する。
殷・周代を中心に漢・唐の頃まで日常の容器として広く使われた。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/195.html
649出土地不明:2006/08/01(火) 15:38:35 ID:AJeusyr+
●原始磁器 げんしじき(=灰釉陶、原始青磁)

中国古代の釉(うわぐすり)をかけた硬陶。3%以下の鉄分を含む胎土でつくられ,その上に
土灰釉(どかいゆう)を意識的にかけ,セ氏1,200度前後で焼成されたもので,灰釉陶,釉陶
ともいわれ,日本では灰釉と呼ばれている。3%以上の鉄分を含む胎土でつくられ,釉薬を
かけないで焼成された吸水率の高い灰陶とは異なる。また,焼成過程で降灰が器面でとけて
ガラス状になった自然釉とも区別される。原始磁器は,揚子江下流地域に源流があるといわれる。
殷代中期の二里崗文化には,灰白色の胎土でつくられ,器の内外に光沢のある薄い釉がかかり,
硬度が高く鋭い音色を出し,水のしみこまない原始磁器が出土している。殷代後期から西周時代には,
浙江・江蘇・江西・安徽・山東・河南・河北・陝西などの各省の遺跡から,原始磁器が出土する。
器形には,尊・壺・豆・鼎・杯などがある。春秋戦国時代には,揚子江以南で多くつくられ,
改良が加えられていく。土灰釉による褐・緑色の原始磁器は,その後しだいに発達して,
後漢時代に青磁となる。http://www.tabiken.com/history/doc/F/F303L100.HTM

灰釉陶は中国全土で焼成されつづけるが西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、
福建省などの中国東南部では印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋
時代(B.C.770年〜476年)華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。戦国時代
(B.C.476年〜B.C.221年)に入ると灰陶が主流になるが、目を見張る立派な黒陶も出土して
いる。鉛釉陶の走りもこの頃から見られるようになる。
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html
650出土地不明:2006/08/01(火) 16:09:26 ID:ezrrrXWV
土偶ってあるじゃん、発掘される土偶
これって実は、大昔のオタクが集めてたフィギュアなんですよ。
例えばこれ
ttp://botamoti.lolipop.jp/puttima/11-07.jpg

これは大昔、丁度縄文時代末期に流行った「ハートちゃん」なんです。
オタクの間で超スゴイ人気で、他にも多くのシリーズが土偶化されました。
昔のオタクはみんなこの子でオナニーしました。

それなのに…現代の研究家はこれらを発見して
「土偶は神を模り崇拝するためのアイテム」だなんて言われてますけど
違うんです。単なるキャラクターなんです。真実を知ってください。
651出土地不明:2006/08/01(火) 22:12:07 ID:mja/vsWV
>>650
そういう方向に対する考察も、最近はずいぶんとちゃんとやっている研究者
が多いので、まあ、そんなに心配しなくてよろしい。
652出土地不明:2006/08/02(水) 00:16:12 ID:Qjv8BZ1D
何故今のエロ本がつまらないのか?
簡単にいうとそれは日本が村社会だから。
エロ業界もまた同じである。
読者の支持はどうでもよく、表紙で売れるから関係ない。
村のルールが最優先されるからだ。

昔、ビニ本が大流行したのは透けて見えたからだけではない。
そもそも初期のビニ本は透けも大したものではなかったが
それでも売れていた。
客が見たいと思うエロ本を初めて作った自主制作本の裏流通
がカギだったように思えるな。

おそらく今後も大手の出版社がいいエロ本を作ってくれることは
永遠に無いと断言してもいいだろう。
653出土地不明:2006/08/02(水) 17:38:35 ID:NyYwUi9U
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
型押の幾何学文様(印文)の一つさえも伝わっていないっ!


●印文土器 いんもんどき アジア 中華人民共和国 AD 

中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・灰・
灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているものがある。
印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,出土地域が
広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。
http://www.tabiken.com/history/doc/B/B263C100.HTM
654出土地不明:2006/08/02(水) 17:40:10 ID:NyYwUi9U
西周時代(B.C.1000年〜770年)、浙江省、江蘇省、福建省などの中国東南部では
印紋陶の焼成が盛んになり越州窯の誕生にもなっていき、春秋時代(B.C.770年〜476年)
華北地方では灰陶加彩が焼成されるようになる。
http://www.angel.ne.jp/~mandai-museum/m.museum/Syu-daini/kaisetsu/tojisi2.html

「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
655出土地不明:2006/08/03(木) 12:10:35 ID:5I++yvvL
灰陶・灰釉陶が伝わっていないだけではない。
最も代表的な器形である、鬲、鼎などの三足土器さえ伝わっていないっ!


●三足器 さんそくき 

中国における3本の足をもつ土器・青銅器の総称。三足器には,食物を煮るまたは
盛る鼎(てい),中空の袋状三足に水を入れて煮沸し,その上の「甑(そう)」
(こしき)にのせた穀物を蒸す鬲(れき),鬲と甑が結合して一体となったゲン
※注1※,酒器のカ※注2※,燗酒をつくるキ※注3※・カ※注4※・爵(しゃく)
などがある。しかし新石器時代の原始的土器には,水や酒を入れる壺(こ)や,
食物を盛る豆(とう)などにも三足のついたものがあり,器形も未分化・不定形
であった。たとえば,磁山・斐李崗(はいりこう)文化の三足つき壺・鉢形鼎,
仰韶(ぎょうしょう)文化の種々の形鼎,大ブン※注5※)口文化の三足つき
釜形鼎・鉢年鼎・觚(こ)形器,取手・三足つき鉢形細柄豆など種々ある。
また大ブン※注5※口文化において三足土器が,実足から空足,さらに袋状と変化
し,同時に器身も注ぎ口なども変化し,中空三足・注ぎ口・取手つきの大型キ
※注3※が成長した例もある。良渚(しょ)文化や典型竜山文化には,種々の
三足土器が多くなり,河南や陝西の竜山文化にも種々の三足土器が現れ,しだい
に器形がととのっていく。殷代には三足土器もつくられたが,これらの器形を
模した青銅器が鋳造され,また新しい器形の三足青銅器もつくられて,重要な
祭器となり,豪壮な造形と華麗な文様の芸術品に発展し,周代に継承されていく。
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H176R200.HTM
656出土地不明:2006/08/03(木) 12:11:14 ID:5I++yvvL
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

 これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域
で形や種類、技法、文様などがかなり異なります。 また、農業の発達によって土器
づくりの技術も発達し、約6000年前には三足土器が登場。 中国の漢時代まで代表的な
土器の一つとなりました。土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連
したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
657出土地不明:2006/08/03(木) 12:11:54 ID:5I++yvvL
658出土地不明:2006/08/03(木) 22:21:11 ID:mj9cbZmp
このスレっていつ読んでも同じことしか書いていないようだが、、
そういうスレなのか?それも、内容がやけに古いし。
659出土地不明:2006/08/03(木) 22:53:30 ID:Wf8kD+St
諸角はやく死ね
660出土地不明:2006/08/03(木) 23:00:16 ID:S+j7i7Hb
上の人って古い資料ばっかり読んでるから、最新情報はいってないね
もっと新しい本買って読めばいいのに、頭が固いからしょうがないか
661出土地不明:2006/08/04(金) 13:56:16 ID:+3k8acNH

●金文

金文(きんぶん)とは青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字の
こと(「金」はこの場合青銅の意味)。中国の殷・周のものが有名。年代的
には甲骨文字の後にあたる。殷は青銅器文化が非常に発達した時代であり、
この文字を器の表面に鋳込む技術は門外不出となっていた。

金文は『史記』のような後世になって書かれた資料とは違い、完全な同時代
資料であるためこの時代を研究する上で非常に貴重な資料となっている。
しかし殷代の青銅器は古美術としてもきわめて高い価値があるため収集家など
がこれを所持することで一貫した研究が出来ないと言うことも起きている。

なお石などに刻まれた文章は石文と呼ばれ、一緒にして金石文と呼ばれる。
またこれらの研究者は金石家と呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%96%87
662出土地不明:2006/08/04(金) 14:56:50 ID:+3k8acNH
篆書などの原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅鐸に流水文・袈裟襷文・横帯文などの文様があるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html

鐸身全体は,横帯文や流水文で水平に分割するか,袈裟襷文で縦横に分割し4乃至6個の左
右対称の小区画を作り出すもので,横帯文系・流水文系・袈裟襷文系の三つの系統に大別され
る(図4)(図3)(図5)。横帯文系の横帯には,斜格子文のほかに綾杉文・鋸歯文・連続
渦文など各種の幾何学文が充?される。
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf#search='
663出土地不明:2006/08/04(金) 14:58:18 ID:+3k8acNH
饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文など、中国の青銅器の文様が全く伝わっていないっ!


「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、「龍文」
「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されていました。
古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する技巧の確かさが伝わってきます。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html

殷の時代に生み出された灰釉陶は、西周時代から春秋戦国時代(B.C770〜 221)にかけて
熟成の時代を迎えることになるが、なお中国工芸の中心は依然として青銅器であった。
祭器としての青銅器から日常生活具としての青銅器へ変化する過程で、文様も饕餮文
(とうてつもん)・〓龍文(きりゅうもん)・〓鳳文(きほうもん)などの神秘的・
宗教的・観念的なもから動物や植物がリアルに写される写実的な文様へ変化していった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
664出土地不明:2006/08/05(土) 19:28:04 ID:8cy9GJLN
篆書など原始漢字の金文が伝わっていないだけではない。
弥生期の青銅器には銅剣・銅戈・銅鉾・銅鐸・銅鏡・銅鏃などがあるが・・・


青銅器には銅剣・銅戈[どうか](刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾[どうほこ]・
銅鐸[どうたく]・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する
輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や
袈裟襷文様[けさだすきもんよう]などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や
家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴に
なっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本
中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本
遺跡や佐賀県の安永田 遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県
の荒神谷遺跡[こうじんだにいせき]が発掘 されたため、疑問視されている。

http://masmas.jp/kkks/Chapter2.html
665出土地不明:2006/08/05(土) 19:28:39 ID:8cy9GJLN
鼎、爵などの三足器、尊などの酒器など、中国の青銅器の器形が全く伝わっていないっ!


青銅器はその用途により、食器、酒器、水器、楽器のほぼ4種類に分けることが
できる。各種類ごとにそれぞれ品目も複雑で数多く、形も非常に変化に富んでいて、
中国人の豊かな想像力と創作力を反映している。たとえば、黍稷(モチキビ)を
盛っておく「簒」。これは現代のご飯茶碗に相当する。その形は非常に変化に富み、
円脚に丸い胴のものもあれば、円脚の下にさらに四角い台座を加えて重しとしている
ものもあり、四角と円形との対象が美しい。また炊事用として使う「鼎」は、縁に
一対の耳を付け、下げるのに便利なようにしてある。丸い胴の下には三つの脚が
つけられ、獣の肉を煮込む火が燃えやすいようになっている。ほかには「爵」や
「尊」なとがある。「爵」は酒を飲んだり温めたりする食器で、縁の形は酒が口の
方へ流れやすいようになっており、脇に持ちやすいように把手がある。胴の部分の
下には酒を温めるため3本の脚がついている。「尊」は大事な酒器で、丸い形の
ものや四角形、および四角い脚に丸い口をしたものなどがある。このように、
青銅器の基本的な形は、バランスの取れた対称形がほとんどで、荘厳で落ち着いた
雰囲気が特色である。
http://www.roc-taiwan.or.jp/culture/culture19.html
666出土地不明:2006/08/05(土) 19:30:03 ID:8cy9GJLN
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっていない。
その代表である三足器形さえも伝わっていない。



◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html



667出土地不明:2006/08/06(日) 18:18:57 ID:67DYMhRW
BC11C頃の華中の長江流域はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html
668出土地不明:2006/08/06(日) 18:19:34 ID:67DYMhRW
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術




印文陶、釉陶、原始磁器、鼎、尊・・・

BC11C頃の華中の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で
出土しないものばーっかり(嘲笑)



669出土地不明:2006/08/07(月) 17:43:35 ID:yRq4kgoV
吉野ヶ里墳丘墓のルーツはどこなのか。中国・長江下流域の江南に多く見かけられる
土?墓(どとんぼ)(B.C.800〜500)ではないかといわれている。(中略)
同じく「土?墓が墳丘墓の源流ではないか」という樋口隆康氏(参考文献5)が江南の
土?墓について書いている。少し長いが紹介したい。[江南の土?墓とは盛土墳で、
地上に埋葬したものである。中原の殷・周時代の墳墓は地下深く抗を掘って埋葬してあり、
墳丘を持たないのが通例である。墳丘は秦代以降に出現したとされるので、江南の土?墓
は中国における墳丘初現の例になるかもしれない]。「この土?墓は長江下流、特に
江蘇省南部の太湖周辺から浙江省杭州や安徽省屯渓までに分布している。すなわち呉越の地
である。丘陵から平野にかけて径15〜30m、高さ2〜3mほどの大小の塚が群在している」。
「この土?墓の盛土は版築ではなく一つの土?墓の中に数個の埋葬がなされている。それらは
地面に礫石を敷いたり、紅焼土を詰めたりして棺床としている。石を遺体のまわりに並べて
囲ったり、あるいは石室を築いたりしている。その石室も竪穴式と横穴式のタイプがある。
これらの土?墓はだいたい西周時代から春秋時代にかけてのものである」。「この墓から出土
する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、また青銅器も出るが、中原の文物とは
異なった図文をもっており、銅剣は身柄一鋳のものである」。
http://www2.saganet.ne.jp/niesu/zyofuku/dotonbo.htm
670出土地不明:2006/08/07(月) 17:44:14 ID:yRq4kgoV
>この墓から出土する遺物は、印文硬陶と原始施釉陶が大半であり、





印文硬陶と原始施釉陶が伝わっていない事には一切触れない低脳学者のすっとぼけぶり(嘲笑)




671出土地不明:2006/08/08(火) 15:20:00 ID:5oDVSUTW

◎日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土

【上海9日共同】中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)
の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の
鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日まで
に明らかにした。

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが
定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる
今後の議論が注目される。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060209-00000148-kyodo-ent
672出土地不明:2006/08/08(火) 15:20:44 ID:5oDVSUTW
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった




原始青磁が伝わってない事には一切触れない南京博物院のすっとぼけぶり(嘲笑)




673ひみつの検閲さん:2024/11/21(木) 01:06:00 ID:MarkedRes
このレスは権利侵害の申し立てや違法もしくはその疑いにて不可視または削除されました。
削除日時:2013-09-19 20:19:12
https://mimizun.com/delete.html
674ひみつの検閲さん:2024/11/21(木) 01:06:00 ID:MarkedRes
このレスは権利侵害の申し立てや違法もしくはその疑いにて不可視または削除されました。
削除日時:2013-09-19 20:19:12
https://mimizun.com/delete.html
675出土地不明:2006/08/08(火) 20:25:53 ID:rRiBGfiQ
      ↑
陶器オタクさん、こんばんは、いそがしそうね。いたずらしたらPUするよ。
676陶器オタクです:2006/08/08(火) 21:03:46 ID:sviDRask
No5:弥生人の話(2)



さて帯方郡から狗邪韓国まで七千余里を陸行したのか水行したのかという問題で
すが、韓地を陸行して狗邪韓国に至ったのであれば、弁辰涜廬(とくろ)国と狗邪韓
国が界を接していることはすぐに分かりますが、全行程を水行したとすれば狗邪韓
国が倭の北岸であることは分かっても、弁辰涜廬国と界を接しているところまで分か
ったか、ということにつきましては疑問とせざるを得ません。
677陶器オタクです:2006/08/08(火) 21:05:26 ID:sviDRask
甕棺で見える韓半島西南部及び南部の状況

実は韓伝では半島の中央部及び東南部については今まで見てきましたようにかな
り詳しい記述があるのですが、西南部については見るべき記述がありません。その
一帯を含めて馬韓であると思われるかも知れませんが、馬韓は半島の西側中央部
付近にあったと考えられており、南に下がってくるのは後の百済の時代に高句麗に
圧迫されるようになってからであります。当時はまだ西南部までは勢力は及んでいな
かったと考えられます。



では西南部はどうなっていたかということですが、倭人が居たと考えるのがすんな
りと説明できるように思います。根拠の一つは甕(かめ)棺墓です。ご承知のように甕
棺墓は日本では弥生時代の北部九州を中心に発達した独特の墓制で(他の地域で
は見られない)、素焼きの大型の甕棺に死者を葬るものです。同じような甕棺墓が韓
半島西南部を流れて木浦にそそぐ栄山江の流域を初めとして韓半島の西南部及び
南部一帯から沢山発掘されています。
678陶器オタクです:2006/08/08(火) 21:06:36 ID:sviDRask
甕棺の源流は中国に見られます。中国では甕棺に子供を葬る風習が全土に広ま
りましたがその年代は放射性炭素(「はじめに」参照)による測定の結果紀元前4000
年ごろと考えられます。同2500年ごろには子供だけでなく、成人も甕棺に葬るところ
もでてきました。このころのものは形(合わせ甕棺)が北部九州のものとそっくりのも
のもあります。大きさは子供用のものは全長80センチほど、成人用のものは180セン
チくらいのもあります。中国全土ではその後、この風習は消滅するようです。その理
由としては時代と共に北方系の木槨・石槨・石室等の墓制が浸透したことによる影
響だと考えられます。これまでにわかっている限りでは、最後まで(戦国時代終わり
ごろまで)甕棺の風習が残っていたのは長江河口地域です。



長江河口地域での甕棺の風習が見られなくなる頃から北部九州で甕棺の風習が
始まったと考えられます。それから遅れて韓半島南部でも甕棺の風習が始まること
を発掘結果は示しております。残念なことに現段階では日本と同様に韓国でも土器
編年が主流で放射性炭素による年代測定は殆んど行われておりませんので甕棺の
風習がはじまる正確な年代はわかっておりません。一応、北部九州では紀元前2世
紀末ごろ、韓半島南部では4世紀ないし5世紀とされておりますが正確な測定が行
われれば今少し古いことが明確になると考えられます。(一部ですがそれを裏付ける
データも得られております
679陶器オタクです:2006/08/08(火) 21:08:18 ID:sai9Hhtm
韓半島の北部からは甕棺墓は全く見つかっておりません。このことから考えて韓
半島南部の甕棺の風習が、古代中国から韓半島の北部を経由して伝わった風習が
時間を経て残ったものである、とは考えにくいようです。また、長江河口地域から直
接伝わった可能性も考えなければなりませんが、北部九州に比べて時間的にかなり
差があることからそれも考えにくいようです(長江河口地域で風習がなくなって何百
年も後に伝わるとは考えにくい)。尤も、北部九州と韓半島南西部及び南部の甕棺
は多少形が異なっていますがこれは甕棺の作り手の違いとして理解できる範囲だと
考えられます。以上のことから甕棺墓は長江河口地域→北部九州→韓半島南部へ
と伝わったと考えるのが一番理解し易いのではないでしょうか。
680陶器オタクです:2006/08/08(火) 21:10:30 ID:sai9Hhtm
従来、東アジアの文化伝播ルートとしては、中国→韓半島→日本、或は、中国→
日本というような線は考えられても、日本→韓半島という線はあまり考えられてこな
かったようです。少なくとも甕棺に関しては日本→韓半島という流れを考える必要が
あるように思います。



ここで少し考えて頂きたいことは、墓制というものがそれだけで単独に伝わるもの
なのか、ということです。ごくわずかの例外もないとまでは申しませんが、墓制を守る
人々の移住に伴って伝わるものであると言うことに異論は挟みにくいのではないでし
ょうか。しかも長江河口地域と北部九州との間には広い海が横たわっています。そ
の海を隔てて単に墓制だけが伝わったとは考えられません。必ず人の移住があった
はずです。そうだとすれば、長江河口地域から北部九州へ甕棺文化を伝えた人々の
移住の痕跡があるはずです。
681陶器オタクです:2006/08/08(火) 21:16:06 ID:/AgDr5BV
長江河口付近から日本への人々の移住

 中国の周代の後半(東周時代:春秋戦国時代=BC771〜BC256)には中国各地に
封ぜられた周王室の王や各地の豪族が独立し、互いに争いを繰り返し次々に淘汰
されていきました。負けた国の王やその一族は、殺されたり奴隷にされたり、あるい
は新天地を求めて韓半島さらには日本まで渡ってきたと言われております。そのよう
な中、春秋時代の末期に長江河口付近では呉と越が争い、越に滅ぼされた呉王夫
差の親類縁者は海に逃げて日本に漂着したと伝えられます。紀元前473年のことで
す。晋書などに「倭人自ら(我々は周の王族で呉国の創始者である)太伯の後(子
孫)であると謂う」とありますが、倭人の伝承を書きとめたものと考えられます。「資治
通鑑」(1084年成立)という中国の史書には、「周の元王3年(BC473)、越は呉を亡ぼ
し、その庶(親族)共に海に入りて倭となる」という記載があるようです。また日本側に
も「新撰姓氏録」の記載など呉から日本への移住を裏づける文献も豊富です。以上
から北部九州の甕棺文化は長江河口地域を追われた呉の人々によってもたらされ
たと考えれば、すんなり理解できるように思います。
682陶器オタクです:2006/08/08(火) 21:17:11 ID:/AgDr5BV
同様に、韓半島南西部及び南部の甕棺墓は彼の地に進出した(或は元からいた)
倭人の葬祭様式であると考えざるを得ないように思われます。が、残念ながら北部
九州から韓半島南部一帯への倭人の移住は、史料も乏しく呉から北部九州への
人々の移住ほど明確ではありません。その理由としては二つのことが考えられると
思います。一つは元々対馬海峡を挟んで両側に倭人が居たので特に移住の史料等
はないというもので、今ひとつは移住の史料はあったが長い年月のうちに失われてし
まった、というものです。いずれにせよ、当時、半島の西南部や南部に倭人が居たこ
とは以下の二つの史料からも窺うことが出来ます。
683出土地不明
>ご承知のように甕棺墓は日本では弥生時代の北部九州を中心に発達した
>独特の墓制で(他の地域では見られない)


日本の甕棺墓

日本では縄文時代以降、甕棺墓が見られる。縄文後期・晩期の遺跡からは、
日本各地(東北〜近畿〜九州)で甕棺墓の風習があったことが判っている。
その後、弥生時代前期〜中期の北部九州において最盛期を迎える。
弥生時代の甕棺墓の特徴は、成人専用の甕棺が作られた点、銅剣や銅鏡などの
副葬品が見られる点にある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%95%E6%A3%BA%E5%A2%93