※ 文県
○ [シ文]縣(文は[シ文]で一字の漢字、シはサン水へん)
馬韓 古蒲國
↓
任那 己文縣
↓
完山州 巨文郡?(新羅時代)
↓
光南道 光?面(高麗末期・李朝初期)
↓
全羅道 光州(李朝中期−後期・総督府時代)
× 馬韓伴跋國
○ 馬韓伴跛國(ハヒ国・
健牟羅城[金村城・金=健[発音チン]牟羅=村]があったという。
中国文献上は、金眞平が楽浪郡公新羅王を名乗った城名というが
金眞平を、金の眞平(今野まひら)と言う人物に当て
任那に渡った[おおむらじ[大いなる村長?]→おおとみ]大伴金村の所領
との説がある。)
弁辰古淳是國 → 任那−卓淳縣[倭館=星州=星山]
弁辰賣盧國 → 任那−沙伐縣[尚州](賣は[シ賣]の一字の略)
弁辰狗邪國 → 帶方郡海冥縣(はいメ)→ 任那日本府(南加耶金官国→[金海(きメ)] )
弁樂奴國 → 樂浪郡樂都縣
穢侯不而 → 樂浪郡不而縣(朝鮮侯の準→韓王の淮[加羅の穢王])
辰韓軍彌國 → 樂浪郡渾彌縣
辰韓冉奚國 → 樂浪郡提奚縣(ていぢ→テェグ[大邱])
辰韓斯盧國 → 樂浪郡屯有縣(眞蕃郡) → 加羅任那−新羅城[慶州] → 新羅國
馬韓伯濟國 → 百濟國−慰礼城[ソウル市←京城←漢城府←漢陽←漢山州]
馬韓狗廬國 → 百濟國−熊津城[公州] (くろ→くまなり)
馬韓辟卑離國 → 百濟國−泗比城[扶余](しひり→しひ)
馬韓牟廬卑離國 → 任那−牟婁ひり縣(上むろ)
馬韓咨離牟廬國 → 任那−しり牟婁縣(下むろ)
馬韓大石索國 → 任那−帯沙縣(たしさ→たさ)
馬韓古蒲國 → 任那−己文縣(こも→こもん)
馬韓古離國 → 任那−多利縣 (こり→たり)
馬韓伴跋國 → 任那−健牟羅城(チンむラ城[金村城])−大伴金村(おおむらじ[大連])
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1132593202/118-179 公孫氏(秦〜後漢〜西晋王朝の時代)
王氏_−高氏_−貊__−扶余(貊)
韓氏_−貊__−貊__−邑婁(貊)
貊__−貊__−貊__−沃阻(貊)
貊__−穢__−穢__−穢
貊__−穢__−穢__−穢(穢王不而[倭王富士]→楽浪郡不而県)
貊__−貊__−穢__−穢(辰韓8ヶ国を中華に編入)
貊__−貊__−貊__−辰(穢)
貊__−貊__−貊穢_−貊(弁樂奴國→樂浪郡樂都縣に編入)
___−___−倭(穢)韓の反乱対応に崎離営・楽浪郡屯有県を設置
___−___(弁辰狗邪国)
辰韓斯廬国・加羅任那の新羅城・加羅国王荷知(韓国王日)
馬韓伴跛国・任那四縣を領有した大伴金村・楽浪郡公新羅王の金眞平(今野真平)
貊−州胡__(馬韓の西海の大島に住む・鮮卑族のような禿で半裸の胡人)
貊−扶余__(高句麗・馬韓の祖)
貊−高句麗
貊−馬韓__(馬韓月支国の酋長は『辰王』)
貊−弁辰__(馬韓東界・鬼神を祀り辰の言葉が通じない小柄の辰と弁別の大柄・弁人)
穢−倭___(馬韓東界・弁人と混在して住む入れ墨の小柄・倭人)
穢−古の辰国(馬韓東界・馬韓の大海の見える東浜に移住・辰人)
?
・・・・・
参鶏湯(さんゲたん・朝鮮人参と鶏肉のチョンゴル[鍋])
補身湯(ぽシンたん・犬肉のチョンゴル[鍋])
チョンかくトゥギ(細切れ大根漬け)
コチュとペチュなどのトンチミ(唐辛子と白菜などの漬物)
ピョントック(コウリャンなどの粉末固めの焼餅)
ビビン飯(びびんパ・ワラビかぶ白菜などの石焼山菜の麦飯)
麦粥・匙作法(ムギかゆ・サジさほう)
メージュ(天日干し塩漬け豆)のジャン(醤)→朝鮮味噌
釜湯(ぷタン?)→食後の釜底お焦げを潤おかした飲み物(そば湯の様な濁り)
生姜湯
・・・・・
?
李氏朝鮮では、特別な貴族のほかに中国人の姓名を基本的に使わせない。
鄭声: 「論語」衛霊公篇では「淫靡な音楽、好色物」を意味する → 姓名で「鄭」
尹士: 「孟子」44章 公孫丑編では「士は誠に小人(小人物)と反省した」から取った名。
明王朝の創始者・朱元璋の聞いた張士誠が名付けられた由来 → 姓名で「尹」「張」
曹操: ソウの読みは同じだが「曹」の字の縦一本線を抜いて
「゙」とし中国人と区別した → 姓名で「゙」
新羅: 金城(王都の慶州)を「辰」としシンの読みは同じだが
「辰」を中国の「秦」の始皇帝と区別した。
金城に石像は尭舜ウの洛陽の石像と同じで、辰韓由来の秦の始皇帝の子孫の証拠と
いうのは非常に辻褄が合わない。始皇帝は洛陽ではないし、尭舜ウは秦国ではない。
まして慶州(新羅・辰韓)ではなく、済州島(胡州・巨文・慕韓)が
金城の石像の発祥・本家だと頑張っている。
在日朝鮮の焼肉店や銀座などの美術商店に何故か石像がある。
性格的な遺伝からして、その島は詐欺・窃盗・不倫・強姦の巣窟というべきか。
鮮卑族の
「斐(ぺ)(ハイ?鮮卑名は未調べ)」
「高(こ)[鮮卑名・賀禄渾(がろくこん)]」で漢族では使わせない。
日本だと高師直(こうのモロナオ)鎌倉末期・室町初期の足利尊氏の執事だが
京都の公家の奥方や女官を襲い、塩屋の判官の妻への強姦未遂とか特に問題。
女直族(1200年代)は「金」キン(キム)であって、読みが「コン」ではない。
黄金(おうゴン)・金色堂(コンじきドウ)・砂金(さゴン[御砂金・みさご[ん]])
金剛(コンごう)・金為時(こんのタメトキ・紺野氏の先祖と伝えられる)?は
日本で前九年合戦(1000年代)の人。
日本の大河ドラマでタメトキの娘を瑠璃(るり・宝石)と名づけたのは創作か?
済州島は、不倫・盗みの懲りない人たちを「島・流した」土地である。
「鄭・高・朴」?が「巨文(こもん)の三穴・三姓穴」といって
島人に多いそうである
http://my.2ch2.net/occult/test/read.cgi?bbs=history&key=1124093582&st=401&to=409
葉氏(葉葉奈等?のような当て字−西太后の出身部族・エホナラ族・海西女直族[満洲族])
金氏(愛親覚羅・アイシンギョロ族・建州女直族[満洲族])
★ 満洲八旗(旗人・満洲貴族) ★
黄旗と縁取り旗(皇族・アゴ[皇子]・アイシンギョロ族でも、溥氏)
白旗と縁取り旗(大臣・ベイレ・アイシンギョロ族でも、冬氏)
青旗と縁取り旗(勇者・バートル・アイシンギョロ族でも、董氏)
紅旗と縁取り旗(満洲一般人[でも中国内では貴族]・アイシンギョロ族でも、金氏)
劉氏でも、蒙古の王昭君が匈奴の単于(汗・酋長)に嫁入りしたから
蒙古族でも劉氏を名乗る場合があり
漢族である劉氏か判断に困る。
石氏も北方遊牧民の姓なのに
石氏で中国の庶民の姓であったりする。
異民族か漢民族かが実は、わからない。
みな「祖廟」や祀る先祖の「出身地」や「住み着いたいわく(功績褒章)」に
こだわる。
× 劉氏でも、蒙古の王昭君が匈奴の単于(汗・酋長)に嫁入りしたから
○ 蒙古の劉氏でも、[前漢時代に]王昭君が匈奴の単于(汗・酋長)に嫁入りしたから
>みな「祖廟」や祀る先祖の「出身地」や「住み着いたいわく(功績褒章)」に
日本だと「村の鎮守の神社の神」と死んだら埋葬の墓のある「宗派の菩提寺」で
先祖から受け継がれている家の由緒や住み着き始めたいわくの話が語り継がれる。
家督相続とは
この神社の祭り参加と神札祀り(廃仏毀釈の明治以降は神宮大麻[天照の御札])や
先祖の眠る墓の維持と位牌の維持についた
菩提寺への奉仕・お布施・勉強会参加(江戸時代の宗門改め・寺請制)である。
412 :
マンセー名無しさん:2006/02/05(日) 11:41:56 ID:8/3tssNw
チョッと思った、ジョークスレではないが
国連あたりが、世界平和のために各国の教科書を正しく訂正するようにして
日本が敗戦時に教科書を墨で塗りつぶしたように、現在の韓国教科書を
訂正したら・・・
どうなるのだろう
朝鮮だと「本貫(出身地)」であり「族譜(家系図)」である。
現在は本籍戸籍を生出地制度にしようとしているそうだが
李氏朝鮮以来いや高麗時代から風水墓のある本家筋の出身地(墓地)が
本籍で
家系図(族譜)は別の所に住んでいても墓地がわかる方式の記載である。
祀っているのは
父方の先祖と墓地なのであり、墓地を維持する役人官職や土地証文である。
つまり「儒学的には」在日は、棄民(すてられ人)であり
犯罪者だから罰として、本籍(墓地の所在)を持たない(不明)。という
処遇である。
死んだらドコに葬られる?というのは
朝鮮儒学的には非常に子孫は「必死だな」の努力を要する
こだわりだが
見ての通り在日朝鮮人は勘違いしているので
先祖が偉大な中国人である事に終始している。
蔡家は中国人だが、中国人の代表的で人気な神様の
関帝(関羽雲長という三国志の武将を神の皇帝として祀ってこう呼ぶ)を
祀らない。
ほかの中国人も、それを強要しない。というのは
先祖(蔡家・蔡冒という三国志時代の先祖)を殺した
相手方の姓名の神(関家・関雲将軍が蔡を処刑)を
祖廟に合祀はしないのが「儒教礼儀」である。
儒教礼儀的には
日本兵が中国人を殺したとなれば
殺した日本人と
先祖の中国人の姓名の(たとえ台湾に大日本
帝国の中国兵がいたにせよ?考えられない)人物が
合祀されるのは信じがたい嫌がらせなのである。
それは仲良く。死んだら一緒。とかいう理屈や感情と違う
勘違いなのである。
中国人が受け入れられないのに、もう一つある。
女真族の金国が儒教の北宋国の徽宗皇帝を家臣の秦カイとともに連れ去り
秦カイだけ南宋国に帰し、金国と淮河を挟んで中国二分の平和協定講和をした。
秦カイ夫婦は像を建てられ、民族の裏切り者として
今もってツバを吐き掛けられている。
石敬塘という前王朝が燕雲16州(燕−北京−河北・雲−大同−山西)を
契丹に割譲した事で契丹の兵隊を借りて
五代の一王朝を建て契丹主として中国を隷属させたカドで
石家は恨みの対象である。よって後の王朝が歴史書を歴史の後知恵で書くので
北宋の太祖・趙匡胤から睨まれ
歴史書で悪者になっている。民族の裏切り者である。
秦は秦韓、辰韓・韓国の慶尚道はプサン橋頭堡で頑張り独立を保ち
生き残ったので
北朝鮮が統一できなかった恨みや人民中国に良い顔できないフザケタ奴という事で
唐の新羅討伐の失敗と、明の日本追い出し後の朝鮮を2年半占領後に
中国に併合するのに失敗の恨みと同様に
楽浪半島統一併合の邪魔立ては「辰国・秦韓・新羅・慶尚道人朝鮮官僚や軍人」
という事になってしまっている。
秦姓・石姓は
中国人であっても朝鮮人なら、なお更に「民族の敵」としての扱いである。
秦は自慢の対象ではないのである。
ちなみに「金史」「十八史略」は
モンゴル王朝(蒙古朝・ウゴル朝・ゴール朝・ウラル朝・・・)であるので
異民族の皇帝が主人である。
「契丹主」「金主」という記述になるのである。中国人王朝が歴史書編纂だと
異民族を「××主」とはしないのである。
事実、秦カイが帰国の南宋国は
金を主・宋を臣と臣下の礼を取らされた屈辱があり
歴史書的にも、その非難が明王朝時代(後世の漢民族の王朝)にあったという。
人民中国の後に歴史書が書かれたとする。
先の大戦の満州事変からソ連の満洲侵攻の15年戦争を
日本の天皇を「日本主」と書く事になるだろうと思われる。
創価学会の池田大作が帰化人や在日朝鮮人を駆使して人民中国を乗っ取れば
「創価主」「朝鮮主」と書かれる事になる。
ただ今後に、蒙古人や満洲人という異民族支配が中国大陸全般であったように
人民中国が朝鮮人に支配されればという前提や予測での
歴史記述の法則を述べたまでである。
皇帝が完全に鮮卑族の北魏国や
皇帝が完全に女真族の金国の中国の北半分支配どころか
燕雲16州だけでも異民族の契丹族が「契丹主」に記述されるほどである。
予断は許されないように思われる。
>>412 そう「教科書の都合の悪い所の塗りつぶし」の嫌がらせを
アメリカ人が共産党と朝鮮人と一緒にしていたね。
アメリカ(金持ち)=共産党(創価)=北朝鮮(在日・社会党)→ ←日本人一般
1900〜1905 満洲・モンゴル〜オルドス〜万里の長城以北をロシア領(ロシア占領)
(日露戦争後 13年間)
1918〜1925 北樺太を日本領(日本占領)
(シベリア撤兵後 6年間)
1931〜1945 満洲を日本の関東軍領
(ポツダム宣言受諾後 60年間 在日朝鮮人が日本に居住し分離独立の選挙行動)
12州:_高麗藩_黄州・海州・楊州(南京)・広州・忠州・尚州[・晋州]・
_____斉藩__清州[・公州]・全州・羅州・昇州
4都_:_西京(平壌・西界)・開京(開城・高麗)・楊州(南京)・東京(慶州・東界)
_892_完山州に後百済国をキョンフォンが分国
_896_松岳の王建が泰村王の弓裔の武将として帰服
_901_漢山州の泰封に後高句麗国を弓裔が分国(長口鎮・[シ文]山の線以南)
_911_後高句麗国から泰封国に国名変更
_919_泰封国を下克上で滅ぼし高麗を王建が建国
_926_契丹が渤海国を滅ぼし東丹国と国名変更
_935_高麗に新羅王が降伏
_935_高麗が後百済のキョンフォンを滅ぼす(高麗の三国統一)
_993_契丹が侵略(第1次)
1009_政変
1018_契丹が侵略(第3次)
1019_女真族の刀伊が侵略(亀州で契丹に高麗が勝つ)
1107_女真族を高麗が攻撃
1115_完顔部のアグダが女真族の金国を建国
1126_金国に降伏・高麗は金国の藩となる(西夏藩・高麗藩・斉藩[後々百済])
1127_北宋国滅び金国の湖北均州(襄陽近辺)〜淮河の線で南宋国との国境とする
1135_金国の平壌(高麗藩の西京)で妙清の乱
1138_金国により南宋国の臨安(杭州)紹興〜明州(寧波)が陥落
1157_金国が燕京へ会寧から遷都(1161_開封へ・1185_燕京へ)
1229_蒙古族が侵略・楊州〜忠州〜光州(斉藩[後々百済])を戦場とし引き上げる
1231_蒙古族が侵略(義州〜開城を占領)
1232年6月に江華島へ遷都し武臣崔氏が王弟を擁立し武臣政権
1234_蒙古族により金国が滅ぶ
1258_江華島の武臣崔氏が滅ぶ
1270_蒙古族に高麗王が降伏し開城に戻るが江華島の武臣の三別抄が蒙古軍を攻撃
1271_蒙古族が元国を建て、高麗は元国の属となる。
1273_三別抄が(斉藩[後々百済])珍島〜済州島まで逃げるも元国により殲滅
1274_元寇・文永の役(1281_元寇・弘安の役)
1304_安[王向](アンこう)の国学(高麗の儒学派[李朝の国教]の始まり)
1356_反元運動(反蒙古運動)
1359〜1361_紅巾党(明国の宗教団)が高麗を侵略(平壌〜開城が陥落)
1388_高麗の武臣の李成桂が元国を助けず鴨緑江の中洲の威化島で回軍(帰国)
1392_李成桂が朝鮮王に即位(1393_和寧国より朝鮮国の名が明国より選ばれる)