南宮→古代周王朝の重臣。日本語では「なんてい」と訓ず。ルーツは羌(チベット)系か
皇甫→春秋・宋の公族の裔、つまり商王朝の流れを汲む。
司空→官職を氏にしたものと思われる。司馬とかもそう。
東方→神仙に造詣の深い東方朔なる人物が、漢武帝に仕えた。
諸葛→漢の頃、諸城県(山東)の葛氏が、地名を冠して複姓(二文姓)とする。
独孤→鮮卑の名族。隋文帝の后(煬帝の母)が独孤氏。
鮮宇はよく分からん。
>>117 在日韓国/朝鮮人なんだけど 女真族や契丹族(確か韓国ではヨジン族 コーラン族という言い方)であったなんて チョット興味ありましてね!
121 :
マンセー名無しさん:2006/01/15(日) 06:16:25 ID:4qg0mze4
中華の洛陽−戦国の韓−戦国の燕−遼河の先(遼東)−馬紫水の先(楽浪)− 列水(大同江)−
−帯水の先(中華の帯方)−東夷の韓(馬韓・穢と貊の加羅[倭と馬韓])
韓の地(馬紫水[鴨緑江]の向こうの東夷の辺地・穢と貊の加羅[倭と馬韓])
↓ ↓
韓 韓の東(韓の東界・秦の空き地・楽浪郡南半荒地)を分離し
↓ ↓ 倭人のような身体特徴の辰人を楽浪郡南半の東浜に移住させる。
↓ ↓ 幽州真番郡の漢人の呼ぶ文物の真似読みをし(秦の始皇帝)辰の子孫と自称。
↓ ↓ ↓
馬韓 辰韓の地(馬紫水の向こうに異民族の韓(馬韓・貊韓・貊の加羅・韓人)がおり
↓ ↓ ↓ 韓の東の辺地(東界)を割いて辰韓(辰人・秦韓)と区別して呼ぶ)
↓ ↓ ↓
馬韓 辰韓 鬼神を祀る別民族(弁人)の大柄の原住民を、移住して来た小柄の辰人と弁別する
↓ ↓ ↓
馬韓 辰韓 弁辰の地
↓ ↓ ↓ ↓
馬韓 辰韓 弁辰 任那[海北95国・弁辰]に弁人と一緒にいる小柄で文身(入れ墨)の民族(倭人)
↓ ↓ ↓ ↓
韓人 辰人 弁人 倭人 鮮卑族[慕容部・慕韓]に似た禿頭で半裸の大柄の大島人(済州島・巨文島)
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
伯済 斯廬 狗邪 末廬 州胡(300-900年代・漢人の書き)
加羅 新羅 安羅 末羅 耽羅(1100年代・高麗の書き)
光州 慶州 金海 松浦 済州(1910-2004年・現在の書き)
馬韓伯済国 辰韓斯廬国 弁辰狗邪国[倭王武の海北・任那] 倭人末廬国[南倭] 鮮卑似州胡[北虜]
九州の松浦(まつら)は1290-1400年代の倭寇(大陸に対する海賊)の発生地
123 :
マンセー名無しさん:2006/01/15(日) 06:19:48 ID:qPDClbFU
女真族は朝鮮人とは関係ないでしょ?
>>121 加羅(から[穢・貊の総称]・韓[馬紫水(鴨緑江)−金馬山[馬金邑・金邑城]の馬韓・貊韓]・
___くだら・百済[馬韓伯済国]・馬韓古蒲国→任那己文県→(光郡県)→光州・霊光郡)
↓
馬韓(辰王[馬韓月支国の侯(酋長)]・加羅国[韓国])−
_馬韓の東界(弁辰・辰と弁別[辰語と違う]・弁人[辰人と違う大柄]・慕韓)−
__馬韓の大海が見える東浜(辰韓・辰語[倭語と違う]・辰人[倭人と同じ小柄]・辰国・秦韓)
↓
朝鮮侯否(衛満)の子で王倹城から海から逃れ秦の空き地に住んで僭称した韓王淮(準)【魏 曹丕(三国志)】
不而[楽浪郡不而県・穢侯・淮・倭・帯水[帯方・南漢山・ソウル南半・慰礼城]【西晋(統一王朝)】]
婁寒[盧韓(辰韓斯盧国)【前秦 符堅(北朝)】]
荷知[日 加羅国王(韓国王[馬韓月支国の辰王])【南済 蕭氏(南朝)】]
慕秦[慕韓・秦韓(辰韓)【梁 武帝(南朝)】]
金眞平[健牟羅城(金村城)任那己文県[馬韓古蒲国] 大伴[馬韓伴跋国]【隋 文帝(統一王朝)】]
----------------------------------
真蕃朝鮮(真蕃郡[馬韓伯済国]百家済海(扶余)百済(くだら)加羅(韓)朝鮮侯が王を僭称)
魏満朝鮮(楽浪郡朝鮮県(平壌城[王倹城])・ 衛満朝鮮)
王倹朝鮮(朝鮮侯淮[穢侯不而・淮侯藤[楽浪郡不而県]・侯の位は王に「準」じる)
箕子朝鮮【童蒙先習・三国志魏書東夷伝朝鮮条】
伽耶(任那・加羅)【三国史記・三国遺事】
檀君桓国【三国史記・三国遺事】
李成桂は、蒙古[元王朝]の官職を持った全羅道全州の出身者
穢侯不而(耐[而は寸(チビ)]・樂浪郡不而県・慰礼城・南漢山[ソウルで漢江の南側])→
樓寒(盧韓・樂浪郡帯方県→帯方郡帯方県)→
慕秦の健牟羅城(金村城・馬韓古蒲國・任那己文県)→大伴金村→
大伴(任那北部の己文県−馬韓伴跛国・おお伴)→大友
672 壬申の乱 大海人皇子(おお天[おお阿妹]の大君・天武天皇)と
________ 大友皇子(おお伴[おお伴跛]の大君・弘文天皇)
おお阿妹・穢侯不而(不而は藤や富士)・倭王武・〜仁・〜彦・ワイの読みは穢・淮・倭の3字
おお伴跛・朝鮮侯淮(侯は王に準じる)・韓王準・加羅国王荷知(韓国王日)
建安中、公孫康、屯有県を分かち南の荒れ地を以って帯方郡(楽浪郡南半分)となす。
公孫模・張敞等を遣わし(韓族による襲撃で離散し隠れた帯方郡屯有県)移民を収集し
兵を興し韓(族・カラ族・貊族・バク族と)穢[シ歳](族・ワイ族・倭人)を撃つ。
旧(の楽浪郡屯有県)民やや(身を隠した所より中国兵を見て)出で
この後(弁人と弁辰の)倭(族と馬韓・辰韓の)韓(族・加羅族)ついに帯方(郡)に(所)属す。
景初中、明帝密かに帯方太守(の)劉[日斤]・楽浪太守(の)鮮于嗣を遣わし(公孫氏の太守に替え)
海を越え二郡を定む。部従事(役職)呉林、楽浪(郡)もと韓(族の)国を統べるを以って
辰韓八国を分割し以って楽浪(郡)に与う。
吏訳(中国人の通訳外交員が人事異動で)転じ(翻訳間違いの)異同あり
臣智(が)激し韓(族)忿り(中国の)帯方郡の崎離營を(韓族が略奪襲撃で)攻める。
時の(帯方)太守(の)弓遵・楽浪太守(の)劉茂(が)兵を興し(韓族なる)これを撃ち
樂浪郡屯有県→辰韓斯盧國(馬韓月支國が辰王で辰国王都)→加羅任那の新羅城→
樂浪郡公で新羅王の金眞平(加羅任那諸國を支配 ?新羅は郡王→李氏朝鮮は親王?)
真蕃郡樂都県?[真蕃朝鮮] →樂浪郡樂都県→弁辰楽奴国→貊族→高句麗の南侵で満州扶余の
高句麗族が伯済に移住(玄菟郡高句麗県・百家斉海)→馬韓伯済国→韓国王日→南扶余→泗比
樂浪郡朝鮮県→朝鮮侯淮[準王](王倹朝鮮・王倹城[平壌城])→
僭称韓王(加羅国王荷知[韓国王日・加羅国は日王が支配])
ツングース−−−−−ヤクート人−−−−−−−−−−−−−−−−−カムチャッカ人
内蒙古族−−−−−−野人女直族−−−−−沿海州女直族(ギリヤーク人)−アイヌ人
完顔部女真族−−−−建州女直族(満州族)−−−扶余族(百済人[貊])
契丹族(遼)−遼河−海西女直族(海西部女真族)渤海族−−高句麗族(百済人[貊])
宇文部鮮卑族−遼河−慕容部鮮卑族−−−渤海族−高句麗族(高句麗人)
拓跋部鮮卑族−渤海−遼東半島−渤海族−鴨緑江−加羅人(百済人[貊]・扶余族)
烏丸族−熱河−−−−−−−−−−−−−−−−−任那人(弁辰人[貊]・倭人[穢])−辰国人(新羅人[穢])
万里の長城−−山海関
燕地(河北・北京)
黄河−−山東半島
漢
淮河
楚−−−−−−−−−−−−−東海
揚子江
呉(寧波[にんぽー])−−−−−−−−−−−倭人(蓬莱)
越(紹興・天台山・温州[うんしゅう])−−琉球人(沖縄)
福建−−−−−−−−−−−−−−−−−高砂族(台湾島)
広東(南越・南漢)
安南(越南[ベトナム・北ベトナム]・交趾[コーチン])
占城(チャンパー・南ベトナム)−−−−呂宋(ルソン島・タガログ人)
女真族・女直族・満州族: じゅるちん族(吉林・完顔氏、建州女直=延辺[間島]の満洲・愛親覚羅氏)
烏桓・奚・室婁・契丹族: きたい族(遼族・耶律氏、海西女真=遼河の満洲・エホナラ氏[葉氏])
渤海族の渤海国=東丹国(契丹東部: 渤海族が遼東半島−間島地方〜京畿道−江原道に住む)
いわゆる魏志倭人伝の前項の韓条(三国志魏書東夷伝朝鮮条 BC108〜AD313)は
「韓国(ハンぐく)」ではなく「辰国(ちんグク)」
いにしえの辰国[秦の始皇帝がなった時の中国[斉・燕・趙]の亡命人や流民の国・
秦の空き地である楽浪郡南半荒地の東部(東夷韓族の東界)の東浜を辰韓と呼び移住させる]・
辰王[馬韓人の馬韓月支国の酋長が辰王として即位していた]・
辰韓[後に新羅城[金邑城(健牟羅城)現−慶州]になる辰韓斯盧国を含む12国の地区]・
弁辰[小柄の辰人とは別に同じ馬韓東界に生活様式が異なる別の鬼神を祀る大柄の民[弁人]が雑居−雑住する]
■ 前漢後漢〜魏晋〜南北朝(鮮卑族の北魏[拓跋魏・冉魏]・南の六朝)〜隋までの歴史認識の欠落
【 朝鮮半島における歴史地図( 略図 ) 】
楽浪郡−玄菟郡−玄菟郡−玄菟郡高句麗県(玄菟郡[貊]はく族の地BC108〜?)
楽浪郡朝鮮県−−臨屯郡−玄菟郡(【朝鮮の由来】朝貢、鮮[あさ]し=[すくな]し)
楽浪郡−楽浪郡帯方県−−臨屯郡
真番郡−楽浪郡南半荒地−臨屯郡東施県(臨屯郡[穢・シ歳]わい族の地BC108〜BC82)
真番郡−楽浪郡崎離営−−楽浪郡屯有県?(『魏書』新羅、辰韓斯盧國 )
真番郡−楽浪郡海冥県−−楽浪郡遂城県?韓の東浜?(『通典』新羅、兼有漢時樂浪郡之地 )
(楽浪郡BC108〜AD313、後漢時に交易し三国魏時に朝貢し西晋時に弁辰[任那]を倭が支配)
(真番郡BC108〜BC82 前漢時に設置し後漢時に臨屯郡と共に楽浪郡へ併せ2郡は廃止)
『魏書』倭、弁辰在辰韓之南・『魏書』倭、帶方東南大海中・『宋書』海北[任那]95国を倭王武が領有・
『魏書』韓在帶方之南東西以海爲限南與倭接『漢書』樂浪海中有倭人『続漢書』倭國之極南界也)
遼東郡西安平県−玄菟郡高句麗県
楽浪郡朝鮮県_−玄菟郡西蓋馬県−×
楽浪郡列口県_−楽浪郡文山県−−×
楽浪郡資含県_−楽浪郡帯方県−−×
楽浪郡不而県_−韓の東界__−−楽浪郡東施県
任那牟婁県__−楽浪郡崎離営−−楽浪郡屯有県?韓の東浜?
楽浪郡新南県_−楽浪郡海冥県−−楽浪郡遂城県?
−−−−−−−−______−−
−−−−−−−−______−−倭の対馬国(對馬縣[つしまのあがた])
______−−倭の末盧國
______−−______−−倭の伊都国?
______−−倭の邪馬台国?(熊本−菊池郡山門?)−阿蘇(名前の蘇さん・
___________________________阿蒙[呂氏の蒙さん]・
____________________________蘇我[私は蘇さんです]・
______________呉[江南]から呉服を伝えたタク蘇です)
『遼史』契丹主、渤海国を占領→東丹国と名称変更。契丹主の子が東丹王。
『金史』女真は、契丹・渤海・漢(河北・河東[山西])を服属させる。
斉(山東)・夏(陝西)・高麗が朝貢。寿州(安徽−春寿県)・江蘇を占領。
均州(湖北−均県)・越州(浙江−紹興市)が攻められる。
朝貢の際に「高麗王」は自分から金国の「藩」と言う。金国領地の藩鎮としての「高麗藩」となる。
『元朝』時代に平壌を含め開城以北まで蒙古の直轄領。蒙古の臣。
『清朝』時代に李氏朝鮮の最古の旗に、清国「属」高麗と書く。
『金史』女真は、華中・華北・東北部で「粟」飯を食っていた。「粟」が食料庫に
収まっていない。としっだされており民の食糧難の時に「粟」が配給されてない旨の
記述があった。麦飯でも、米飯でもない。高粱飯ですらない!粟飯のジュルチンに
高麗はジュルチンの一藩鎮でございますと高麗王は言いやらかした。おわっている。
かくして人肉を食うわけだな。まじ、おわっている。西晋の恵王(恵帝)だった
と思うが、米が食べられなければお肉を食えば良いではないか。というバカ殿ぶり
だった。暗愚の君主、暗君(明代は昏主と呼んだ。たそがれているのである。)が
いたが 粟がないから人肉食えば良いではないか(開封の篭城での人肉食い)。は
国の破滅だと思った。フランス王妃のマリー・アットワネットの例であるが
バカな下女の パンがなければクッキーを食べれば良いんじゃないの。というボケナス発言で
パリ市民蜂起(バスチーユ監獄襲撃)に繋がったのを上回っている気がした。
王妃様の下女へのシツケとか教育ってどうなさってますの。ほどの意味を超えているのである。
★高麗統一前後の半島での後三国時代★
まず初っ端に新羅[しるラ]真聖女王[ちんソンぬなワン?]時代で末期症状あり。。。
892@[キョンふぉん]が後百済へ分国[あるいは900]
901________B泰村王の弓裔[クンいえ]が
____________漢山州(長口鎮・松岳・漢州・唐恩津)で
____________後高句麗へ分国・都邑を松岳(開城)に
916________●契丹が遼河上流一帯に遼国を興し都邑を臨黄(上京)にす
9??________B契丹の侵攻?松岳が陥落し、漢山州を占領?
____________泰封(摩震)に国名を改名し、都邑を鉄原に遷都
____________牛首州(朔州[鉄原?]・元山)に退却?
918________B王建[ワンごん]が下克上し高麗[コりょ]を起こす
919________B高麗が都邑を鉄原から松岳に遷都
926________●渤海国が契丹(遼国)の侵攻で滅亡す
____________渤海の南京南海府[北青=咸南?]が契丹領に
____________渤海の西京鴨緑府[高句麗好太王碑の城]が契丹領に
____________新羅の河西州(元山より南の東海岸・冥州)契丹範囲に
927/9__A新羅の都邑の金城[慶州]が、後百済キョンフォンの侵攻で陥落
________景哀王[キョンえワン]が自殺を強要され王妃が犯される
934________B西京(平壌)〜河西州元山が契丹の侵攻で陥落か?
____________渤海の旧領から高麗に大量の亡命移民あり
935/10_A新羅の敬順王[キョンすんワン]が高麗に降伏し王位を禅譲
936@高麗が侵攻し全州が陥落させ後百済滅亡し後三国を統一
−83年間−______・・・
1019_______●刀伊の入寇で河西州は生女真(三姓女真)の占領下に?
____________契丹(遼国)配下に熟女真(海西女真)生女真(野人女真)
1115_______●完顔部が女真[熟女真・生女真・契丹・渤海]を統一し金国を興す
★−−−−−−−−−−−−−−−−★
【竹島】韓国政府「独島:6世紀から大韓民国の領土」なる英文冊子で海外広報[050718]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1121668416/431 431 : :2005/07/19(火) 09:00:28 ID:tLzls8VH
344 名前: 投稿日:2005/06/25(土) 18:46:14 ID:/5iruOIw
『三国史記』(1145年)の編集者金富軾は
国内及び中国の中国の歴史書を多く参考にして『三国史記』を作ったが
その際、故意に朝鮮の古代王朝成立の時期を遡らせる工作をしたことは
歴史学者の間では常識となっている。
簡単に説明すると
韓国最古の歴史書『三国史記』「百済本紀」に天文観測の記述が有って
それを良く良く調べると中国の「晋書天文志」の内容を
王朝名と年号だけ変えてパクってんの・・・これ以外も多数。
しかもその元ネタ自体が間違ってたらしく
せっかく作った唯一の正史書『三国史記』が偽書扱い・・・
昔からやってる事が変わらんネ
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>512年 任那北部の[馬韓]伴跛国が己文[県]を奪取<百済本紀>
真蕃郡 蕃夷? 伴跛?
[馬韓]伴跛国? 大伴? 大伴金村? 金村? 金牟羅? 健牟羅?
偽書からの引用 by.教科書が教えない朝鮮の歴史
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「桓檀古記」とは、
桂延寿が1911年に「三聖記」「檀君世紀」「北扶余紀」「太白逸史」という
4冊の歴史書をまとめて
写したものであるが原本は残っておらず後に写本として印刷されたものが現存しています。
その文献の謎は・・・・
1.他の文献からの引用がない
桓檀古記の凡例には朝鮮時代前期以前に編纂されたと書いてありますが、
その証拠が全くない。
通常、古い書物なら、それ以降に発行された文献に引用元として記述されるものですが
それも無い。
2.当時は存在しない地名が使われる
(1)「檀君世紀」「北扶余紀」「太白逸史」に「寧古塔」という地名が出てくるが
これは清の始祖伝説に由来する
地名であり、編纂された時代には存在しない。
(2)「檀君世紀」「太白逸史」「朱家城子」に「長春」という地名が出てくるが、
これも清の嘉慶年間(1796-1820)に使われ始めた地名である。
3.当時存在しない語彙が使われる
なぜか、「文化」「原始国家」というような「チョッパリ開発の言葉」が使われている。
4.偽書からの引用がある
不思議なことに、檀君世紀の序文に韓国通史(1915年)からの引用がある。
既に偽書であることが確定されている檀奇古史(1949年)からの引用もある。
■王仁博士は百済人ではなくて、漢人である
続日本紀(桓武天皇)に漢の高帝の子孫と記されている。
現ソウル・平壌を含む半島の中央部はB.C.108〜A.D.313まで、400年間も
漢人の植民地だったのだ。(楽浪郡・帯方郡)
そして、支配階級姓氏の主流が王氏と韓氏。
この植民地が高句麗に滅ぼされて、漢人たちが南下して百済・新羅に
漢流文化を授けたのである。
百済は近肖古王の時まで漢文を体系的にはもってなかった。
近肖古王の時に「高興」という中国人がきて
はじめて百済には「書き記すということ」が始ったという。これは三国史記に書いてある。
「王仁」が百済から派遣されてきたのもこの近肖古王の時。
ということは、高興博士と王仁博士は同じ楽浪系の中国人で
百済にきたばかりの同僚だった可能性が高いだろう。
>404 高句麗の南侵・王仁キシ渡来し習字の千字文一巻と論語十巻きを伝える(古事記・奈良の伝[稗田のアレ]神懸りのアレです)
>510 中国南朝・六朝梁国の周興嗣が習字の千字文を作詞する(遣唐使・平安仏教の伝[弘法大師ほか])
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・・・満州王朝(清国)ホンタイジ(太宗)時代だと思うが・・・
・・・1636年?・朝鮮王仁祖が清朝太宗に対し三田渡の受降壇で九拝三叩の礼?・・・
中国の属邦の中でも朝鮮の地位は最も低く、下国のなかの下国であった。
天朝の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し
朝鮮の使臣だけは異色の丸首の衣である。
また、琉球の使臣は籠に乗って宮廷に入るのに対し
朝鮮の使臣は籠に乗ることを禁じられていたこと「渓陰漫筆」に書かれている。
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夫朝鮮 狡黠多詐 利之所在 不顧信義 蓋穢貊之俗 天性固然(新井白石 「国書復号紀事」)
朝鮮人つうのは狡くて人を騙す、利があれば信義なんか顧り見ない連中だ。
しょせん、わい ばく なんつう野蛮人だし、天性としてこういう性格に凝り固まってる。
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明国皇帝の子孫(位:親王)
朝鮮国王(位:親王)仁祖(明朝の時の扱い、清朝太宗の時に三田渡で受降壇の扱いに下落)
日本国王(位:親王)源道義(日本名・地位:足利義満・征夷大将軍)
日本国王(位:郡王)平秀吉(日本名・地位:豊臣秀吉−木下藤吉郎・天下人−関白−太閤殿下)
琉球国王(位:郡王)尚豊王(清朝になって王冠が12の垂れのある宝石をふんだんに使った物)
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>鉄砲伝来1543年
>ザビエルが日本へ1549年8月14日
>関が原戦1600年
>島原の乱1637年
>チポンユソル(芝峰類説1700年代・李朝書籍)に倭芥子(うぇケじゃ・唐辛子)が記載
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> ______サイパン陥落1944/07。
> 徴用令の朝鮮への適用開始1944/09。
> 結論サイパンに朝鮮人の徴用者などいない。(テレビのニュースで朝鮮人が謝罪と賠償金を要求)
朝鮮と清(中国)がどの程度の従属関係だったか。
朝鮮が中国からどれほど低い扱いを受けていたかを見ればわかる。
・朝鮮国王は清の皇帝によって任命される。
・朝鮮国内の事件は全て皇帝に報告しなければならない。
・朝鮮国王は清の使節をソウル城門まで出迎えなければならない。
・朝鮮国王の地位は、清国の廷臣よりも下。
・朝鮮政府には、貨幣の鋳造権すら与えられてない。
・朝鮮政府には清国への食糧、兵士提供の要求権もない。
・朝鮮は清国に細かく定められた貢品を出す以外に、毎年、牛3000頭、
馬3000頭、各地の美女3000人を選り抜いて貢がなければならない。
朝鮮国王が宗主国の清国皇帝に奉呈した貢文に気に入らない言葉が
一つあっただけで、朝鮮国王は銀1万両を罰金として払った上に、
年貢への見返りを3年間停止する処罰を受けている。
現在ソウルの城門のあった場所には「独立門」というものが建てられたが、
昔その場所には『迎恩門』という門があり、それは「朝鮮王が9回頭を
地面に叩きつけて擦りつけ、ひれ伏して清の使者を迎える」という
屈辱的な隷属の象徴の門だった。この迎恩門で『朝鮮の国王』が
土下座して出迎えたのは、中国の「王」ではなく中国の『使者』である。
朝鮮はそれほどまでに国家として“下”にみられていたのだ。
この1000年に渡る奴隷のごとき低い扱いは、
彼ら朝鮮民族の『民族気質』に深刻な影響を与えることになる。
李朝実録ほか
林慶業[イムぎょんオプ]・字は英伯・号は孤松・(現在のソウルの一区画?)平沢の人
1592 壬辰倭乱(太閤秀吉の朝鮮出兵・文禄の役が始まる)
1593 (忠清道)忠州に生まれる
1618 武科(武班)
1624 李造の変の平定で、勲一等
1631 (満州)牛家庄を平定(漢人・孔明徳の反乱)
明王朝から總兵官・李朝から義州府尹と微事の官職(14年間)
1634 丙子虜乱(丙子胡乱)で『斥清派』として征伐に参加(白馬山城抗争)
1635 安州(平壌の北)で平安兵使
1636 江華島逃亡・南漢山城で45日篭城・三田渡の受降檀で清王朝に降伏
1638 清兵の(熱河)錦州征伐に参加(明王朝に内応)
1640 錦州陥落で内通が露見
逮捕護送の途上の金郊駅で逃げ、天宝山で姓名を変え僧侶になる
妻の李氏が奉天(瀋陽)に送られて自殺したと知らされ
明の(山東省)登州の都督の黄竜と中軍の馬登紅ら(南京・南軍)とともに戦う
清軍(北京・北軍)に敗戦し降伏し北京の牢獄に繋がれる
仁祖(朝鮮王)の懇請により朝鮮に送還され再び牢獄に繋がれる
1646 亡命入明の罪状にて(斥明派)金自テンに謀られ掠殺される(53歳)
新羅: 華厳(ビルシャナ仏)・三論(唯識)・成実
高麗: 弥勒仏・風水土葬・護国鎮護法要の仏教・竜退治の一遍唱え陀羅尼の僧
李朝: 科挙試験で役人になる儒教勉強(性理説・礼学・譜学・孝経・小学・童蒙先習)・
★儒教は陽明学とする日本人が故事を学び中国人が朱子学に詩賦を歌うのと違い
朝鮮は論語を中心に礼学・譜学を学ぶべしと長老から注意される★
マッコリ(朝鮮屠蘇)を使い緑茶は使わない茶進という名の先祖供養・
弥勒仏に焼香し拉致誘拐輪姦するヒャンドゲ(香徒契)というヤクザ−朝鮮紅巾党・
ムーダン(巫檀)のクッ(祀り)で赤墳墓[赤塚]となったチェリル(崔瑩)将軍と
奉天で李夫人自害から亡命入明し掠殺されたイムギョンオプ(林慶業)将軍のハン(恨)・
儒仙仏によって「斥倭洋 昌義」を行う東学党(天道教)・
ハングル(大きい字)によってマリアの祈りを広めた北京のフランス−カトリック
日帝: 松岳山神(高麗の王都−開城[ケソン]の山の神)・
檀君(三国遺事に登場の朝岡・小山・熊谷[アサダル]にいた伝説の人物)
教禅二宗(高麗天台宗の華厳経・曹渓宗[チョゲじょ]の朝鮮禅)
韓国: 捕虜になった仲間の救出に行かず倭船に放火しまくるイスンシン(李舜臣)・
この時期に何故か大量の古文書が見つかる捏造のセジョワン(世宗王)・
統一協会のムンソンミョン(文鮮明)・プロテスタント系−男女問題・
大韓創価学会(大韓毎日新聞)・大韓法華宗
前漢武帝:漢時樂浪郡之地(楽浪郡不而県)BC108年
____:馬韓[辰王]・弁辰[雑居倭人]・辰韓[辰人]と雑住する漢人屯田県の4郡(楽浪・真番)
三国志魏:魏時新盧國(辰韓斯盧國)280年ごろ
____:穢侯不而[ふじ・藤]・穢(wai[偏水旁歳])之地・楽浪郡帯方県を帯方郡帯方県に変更
____:穢族は帯方郡太守弓遵[準]を戦死させた韓[加羅・から]の地313年ごろ
前秦符堅:[秦]時、王[の]樓寒(盧韓)[が
____:穢王不而(倭王富士)の姓名を改易した旨を伝え朝貢して来た]351〜394年ごろ
六朝宋国:宋時曰、新羅(初曰新盧、或曰斯羅、[高句麗好太王の碑文にいう倭支配の加羅である
____:任那にある秦韓新羅城]・倭王武が六国諸軍事で海北95国を支配)396〜410年
梁武帝_:[梁時]普通二年、王姓慕名秦、城曰「健牟羅(チンむラ)」512年
____:城いわく「金村(チンむら・健牟羅)」任那北部の馬韓伴跛国が己文県を奪取<百済本紀>
____:王の名は慕秦[慕韓・秦韓]・城の名は健牟羅[チンムラ・大伴金村:オオトモのカナムラ]
____:510年に千字文を南朝(六朝)梁国の[周興嗣]が作詞・王仁の100年後に出来た文
隋文帝_:[隋]時、王姓金名眞平(金真平[コンのマヒラ(今野麻比良?)]と言う名の王・
____:慶州は金城[金村城・新羅城])
____:[朝貢の際に]樂浪郡公新羅王[と名乗り]加羅任那諸國[を滅ぼし領土世襲した] 612年ごろ
聖徳太子(小徳阿輩台[聖徳阿仁・阿彦(我孫子)・太子彦・
倭王の姓名は阿妹(あまイ・アマ・天・アマのミナカヌシ・アマてらすオオミ神)]・
倭王武〜推古天皇)・漢直(アヤのアタイ)・
柴(司馬氏)・菅(ス我)−蘇我(蘇氏)・小野・物部の[本家筋の]滅亡
http://my.2ch2.net/occult/test/read.cgi?bbs=history&key=1119060431&st=117&to=124
節度使=外鎮軍(辺境の傭兵軍団)の総司令官
↓
藩鎮(行政区の「道」)の観察使(科挙で地方官・節度使なしの道もある)と主領節度使(地方軍閥)
↓
皇帝直属の禁軍(皇帝諮問の枢密院)と
節度使の廂軍(地方の人夫群に等しい)の都督(武官)の称号か府州の格式で節度使を使用
↓
節度使=引退の宰相の名誉称号と成り果てる
転運使(知事・知府・路=道)朝廷直属の科挙文官 ← 節度使( 藩鎮=突厥や契丹対応の辺境の道
と使衙(節度使の務める州役所)を守る
「牙軍」(皇帝が兵権を取り上げ禁軍に吸収) )
________________________使宅(節度使の邸宅)を守る
「後院軍」(皇帝が禁止し解体)
通判(知事・州=道)朝廷に直属の科挙文官 ← 会府(州都)の「州刺使」(州=中原や江南の道)
兵馬財政・地方租税・行政区「路」の民政を「節度使・州刺史に交代して」行う 皇帝直属文官の長官
↓
巡属(藩鎮の下位の行政区)の使牙(衙門・役所)を守備する「牙軍」(衙軍・節度使の軍)
支郡(州の下位の行政区)の「支郡刺使」
↓
県令(県知事・知県)
都防禦使と経略使など(朝廷の)
↓
親軍(親衛隊・禁衛軍・近衛隊・近衛軍)
↓
禁軍という皇帝直属軍(直軍・禁衛軍)と殿前都点検(禁軍の長・近衛隊長・親衛隊長)
↓
枢密院を皇帝が諮問(参謀本部・大本営)と
禁軍(牙軍を吸収した地方にいる中央軍・直軍)節度使の兵権取り上げで通判に交代する暫定の
廂軍(地方の人夫群に等しい兵・節度使の退任まで持てる暫定の兵隊)
科挙試験(公務員試験)で採用された官僚による
皇帝の命令下の中央集権(科挙官僚[儒学の文官]に兵隊を持たせ出征させる統治方式
文民統制「シビリアン・コントロール」の民政と兵権)の時代が北宋時代。
宋代・王安石(新法党文官・変法のうち保馬法「兵馬養成の法律」)・司馬光(旧法党文官・資治通鑑)
明代・袁了凡(字で袁黄・文官・萬暦の逆[文禄−慶長の役]で兵を預けられ朝鮮へ出征する・勧善書の陰シツ録の筆者)
十八史略(明治書院の新書版で無く・分冊版には有る)
下篇 五代・宋(北宋)・南宋
〔一〕太祖創業
(一)陳橋之変 宋の太祖 姓は趙氏 名は匡胤 周の世宗の時
軍政を掌ること凡そ六年
時に主少くして国危うし。中外始めて推戴の議あり
大軍既に出づ 夕に陳橋駅に次す。軍士聚議す。
先づ[殿前都]点検([禁軍−親衛]隊長)を立てて天子と為し
然る後に北征せんと。 国号を宋と曰う。
(三)諸侯勢軽、禍難不作 五代以来、藩鎮(節度使の牙軍が駐留する道州)強盛なり
帝漸を以て之を削る(牙軍[私軍]の兵力を削減し 禁軍〔公軍〕駐屯に吸収)。
諸の節鎮(節度使と牙軍の道州)を罷め(廃止し)
専ら儒臣(科挙試験採用文官)を用ひて 郡国を分理せしめ
以て節鎮の横を革む(横行を改革す)又諸州に通判を置き
以て刺史の権を分つ(刺史〔州知事〕の権限を通判に分け与える)
是れより諸侯勢軽く 禍難作らず』専ら民力を愛養するを務め
貢献(私縁賄賂〔献〕による贔屓にて公務流用〔貢〕)を罷め却け
羹余を進むることを禁じ 常に幹濯の衣を衣 寝殿は青布もて
葦簾に縁せり(衣類を洗濯して使い・青いカーテンや敷き布に
アシのスダレで囲うなど質素倹約の生活を心がけていた[清廉])
〔五〕南宋滅亡
(四)豈天意耶 世傑将に安南に趣かんとす 宋亡ぶ
十八史略(明治書院の新書版で無い箇所があり・分冊版には有る)
中篇 秦・漢・南北朝[・隋・唐] 下篇 [隋・唐・]五代・宋・南宋
唐
〔五〕安史之乱
(一)禄山有反相 河東節度使(雲州・大同)・河北節度使(燕州・北京)の
(さんズイなし)渓族・契丹族の異民族の兵を連れ
騙し取った唐皇帝の衣を証拠として密命と偽り長安の都を攻める
(五)曾無一人義士邪 朝廷を守ろうと挙兵した顔真卿の従兄弟が破れ天津橋で卒す
(七)張巡守垂?陽
〔六〕唐の衰運
(五)黄巣之乱
下篇 五代・宋(北宋)・南宋
〔一〕契丹勃興
(一)燕雲十六州 後晋の石敬塘が契丹(のちの遼)に割譲
契丹というのは満州族(女直族)の部族名で
耶律阿保機(契丹の太祖)という者が 君長となると
室韋(しつい)女真(じゅるちん)などの諸部族を統一して
自ら皇帝と称し遼河の上流のシラムレン河の附近の臨黄に都を定めた
西はウイグルの領土(トルキスタン)を併合し
東は渤海国(後の李朝の黄海道まで)を掌中に収めた(AD926)
太祖の子の太宗が五代の後晋の建国に兵を貸して
その代償として 燕雲十六州(大同・北京)を領土とした。
(?)???? 太祖の妃はジュツリツ太后(皇后)。太祖没後に
太祖の棺に右腕を納め、子の東丹王(渤海国→東丹国)を擁立し
太宗と継承戦争する。皇后は戦い敗れるが
太宗の母でもあるので太祖の墓所に幽遷させ、皇后はそこで没す。
〔一〕太祖創業
(一)陳橋之変 宋の太祖 姓は趙氏 名は匡胤 周の世宗の時
>>118 >>126 鮮宇→帯方郡の太守。匈奴・烏丸・鮮卑の人の可能性はある。
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建安中、公孫康(幽州刺史[州知事]・遼東郡太守[郡長])
帯方郡太守・派遣将軍: 公孫模・張敞等
景初中、明帝(後漢王朝の皇帝) 海を越え二郡(帯方郡・楽浪郡)を定む
帯方郡太守: 劉斤(斤は[日斤]の一字)
楽浪郡太守: 鮮于嗣
部従事: 呉林 楽浪郡は韓族の邑(韓国)を統治するが、特に辰韓八国を楽浪郡の直轄とした。
帯方郡崎離營: 吏訳転じ異同あり 臣智激し韓忿り この帯方郡の軍営を韓族が攻撃
帯方郡太守: 弓遵
楽浪郡太守: 劉茂 兵を興し韓を撃ち 遂に韓を滅ぼす(韓王は討たれ、韓国は滅んだ)
? 明帝(後漢王朝の皇帝)
? 明帝(三国魏王朝の皇帝? 統一西晋王朝の皇帝?)
「藩」藩鎮(土侯国・藩国)
[満洲皇帝配下のラマの内モンゴルとチベット国・
ムガール皇帝配下のマハ−ラジャ諸国])
「属」属州(自治区・属国)
[満洲皇帝配下の朝鮮国(楽浪郡)・安南国(交趾省)・琉球国(福建省)]
という事なので・・・中国「領土」の一部。
蒙古・ウイグルの諸族は、満洲皇帝の同盟。
「盟」藩鎮(遊牧民の同盟国・満洲皇帝を汗と扱うが、自分達の中にも汗がいる。)
[満洲とは別国で、外モンゴル・東トルキスタンは外国、日本は完全に外国。
ムガール皇帝配下のマラータ同盟諸国、最南端タミールとスリランカは完全に外国]
・・・中国「勢力範囲」の一部。
烏桓・貊・扶余(匈奴の東)→高句麗→奚・契丹・渤海(渤海国)→渤海・契丹(東丹国と遼国)
室偉・女真・渤海・契丹(東丹国と遼国)→女真(金国)→女直(後金国)→満洲(清国)→× 朝鮮族が占領
穢・辰韓→新羅城→後高句麗国[泰封国(松岳=開城→鉄原)]→摩震国→高麗(鉄原→開城)
貊・馬韓→加羅任那→百済(公州)→後百済(全州)→李氏朝鮮(全州→開城→漢陽[漢城・京城・ソウル])
州胡・慕韓→耽羅(済州)
倭の對馬島(日本)
高句麗(貊→扶余→高句麗→渤海→東丹→女真→蒙古→明王朝の漢→女直→満洲)
百済(貊→馬韓→慕韓→加羅→扶余→百済→渤海→蒙古→李氏朝鮮→日本→満洲→日本)
任那(貊→弁辰→弁韓→新羅 ・ 穢→倭人→日本)
新羅(穢→辰韓→秦韓→新羅→高麗→渤海→蒙古→日本)
新羅初中期に「高句麗人(渤海人)」の南侵での混血
高麗初期に「渤海人(東丹人)」の移民での混血
高麗中後期に「蒙古人」の王族の結婚での混血
高麗後期や李朝初期に「遼東の中国人」との混血や帰化
(李朝後期は「蒙古人」と「満洲人」との結婚は禁止で混血なし、女真族を虐殺)
李朝中期と日帝時代と国交回復後に「日本人」の混血(日本人や混血を虐殺もある)
>>118 族譜ではこう称してます。南宮以外は1万にも満たない姓ばかり・・。
南宮:
咸ス南宮氏 始祖南宮元清。周文王の時の南宮适の後裔と称す。 18,703
高麗時代の991年南宮元清が大将軍となり、功を為し、咸悦に封ぜられた。
皇甫:
永川皇甫氏 始祖、皇甫鏡。高麗建国の功臣皇甫能長を祖とする。 8,877
李朝初期の領議政皇甫仁を一世祖としている。その後政変でバラバラになり、290年後に名誉回復し復帰している。
司空:
孝令司空氏 始祖、司空圖。晋の官僚を祖。唐代に新羅に渡来したとするが詳細不明。 2,664
高麗時代に官僚を排出している。
獨孤:
南原獨孤氏 始祖獨孤信 中国河南から高麗に渡来した学者の末裔。 452
東方:
晋州東方氏 中国系詳細不明。 98
済南東方氏 中国系詳細不明。 176
西門:
安陰西門氏 始祖西門橝。中国梁の出身。元代に高麗恭愍王妃と共に高麗に来た。 1,852
鮮于:
太原鮮于氏 箕子朝鮮時代にさかのぼり朝鮮の鮮と于山国の于を取って鮮于としたとあるが疑わしい。 3,547
鮮于仲の孫、高麗文宗期の中書注書鮮于靖を始祖とする。
諸葛:
南陽諸葛氏 始祖諸葛珪(諸葛亮の父)とする。 4,374
新羅13代味鄒尼叱今(262-284)の時代に五世孫が朝鮮に渡来したとし、漆原諸氏、南陽葛氏はここから別れたとする。
>>149 追記:皇甫氏は唐代に中国から来た渡来系。
>>149,151
『先祖が支那の方から来ました』という嘘も、
古色を帯びればそれなりに真実っぽくみえる、って月並みな感想というか……
……創氏・改名許可のときも、ノリノリだったに違いない、と改めて確信したよ。
153 :
マンセー名無しさん:2006/01/15(日) 15:00:38 ID:qq549OVL
遼東郡西安平県−高句麗の国内城
高句麗の王倹城−×____−×
百済国慰礼城_−×____−×
百済国熊津城−帯方郡帯方県−×
任那上多利県−任那己文県−任那伴跋県−任那安東県
任那牟婁県_−任那沙陀県−任那居施県−辰韓斯廬国の新羅城
任那下多利県−任那帯沙県−任那安羅_−任那日本府(金官国の伽耶)
−−−−−−−−______−−
−−−−−−−−______−−倭の対馬国(對馬縣[つしまのあがた])
______−−倭の末盧國
______−−______−−倭の伊都国
______−−倭の邪馬台国
154 :
マンセー名無しさん:2006/01/15(日) 15:26:09 ID:qq549OVL
遼東郡平城県_−貊______−扶余(延辺[間島])
遼東郡西安平県−玄菟郡高句麗県−邑婁(沿海州)
楽浪郡朝鮮県_−貊______−沃阻(咸鏡道)
楽浪郡不而県_−穢王不而___−穢
貊______−楽浪郡帯方県_−楽浪郡東施県
馬韓月支国−馬韓古蒲国−馬韓伴跋国−辰韓(楽浪郡に編入8国)
馬韓___−弁辰___−弁辰賣廬国−辰韓斯廬国
弁辰___−弁辰と倭_−弁辰と倭_−弁辰狗邪国(狗邪韓国)
−−−−−−−−______−−
−−−−−−−−______−−倭の対馬国
______−−倭の末盧國
______−−______−−倭の伊都国
______−−倭の邪馬台国
遼東郡平城県_−貊______−扶余(延辺[間島])
遼東郡西安平県−貊______−邑婁(沿海州)
楽浪郡朝鮮県_−貊______−沃阻(咸鏡道)
穢______−穢______−穢
貊______−穢______−穢
貊____−貊____−穢__−穢
貊____−貊____−貊__−東浜に移住の辰人(秦の空き地・楽浪郡南半荒地)
貊____−貊と穢__−貊と穢−穢
−−−−−−−−______−−
−−−−−−−−______−−倭の対馬(倭[ワ]=穢[ワイ])
______−−倭
______−−______−−倭
______−−倭の邪馬台国
遼東郡平城県_−加羅の扶余__−扶余(延辺[間島])
遼東郡西安平県−高句麗____−邑婁(沿海州)
楽浪郡朝鮮県_−加羅の扶余__−沃阻(咸鏡道)
加羅の扶余__−穢______−穢
貊の加羅___−穢______−穢(加羅国王は荷知[韓国王は日])
貊の加羅_−加羅任那_−健牟羅城−任那(健牟羅城−大伴金村・金の真平)
加羅任那_−加羅任那_−任那__−新羅城(王の名が慕秦[慕韓−秦韓]・婁寒[廬韓])
任那___−任那___−任那__−任那(倭王武が海北95国支配=任那)
−−−−−−−−______−−
−−−−−−−−______−−倭の対馬(倭[ワ]は任那[ミマナ]を支配)
______−−倭
______−−______−−倭の奴国(倭のナ国)
______−−倭の邪馬台国
貊の加羅[馬韓]−穢______−穢(馬韓月支国の王は、何故か弁辰[弁韓]を治める「辰王」)
貊____−貊____−穢__−穢
貊____−貊____−貊__−東浜に移住の辰人([辰韓]秦の空き地・楽浪郡南半荒地)
貊____−貊と穢__−貊と穢−穢
−−−−−−−−______−−
−−−−−−−−______−−倭の対馬(倭[ワ]=穢[ワイ])
______−−倭
______−−______−−倭
______−−倭の邪馬台国
遼東郡平城県_−加羅の扶余__−扶余(延辺[間島])
遼東郡西安平県−高句麗____−邑婁(沿海州)
楽浪郡朝鮮県_−加羅の扶余__−沃阻(咸鏡道)
加羅の扶余__−穢______−穢(穢王は不而[倭王は富士(藤)])
遼寧省____−吉林省____−延辺[間島]
遼寧省____−吉林省____−沿海州
平安道____−咸鏡道____−咸鏡道
黄海道____−江原道____−咸鏡道
京畿道____−京畿道____−江原道
忠清道__−忠清道__−慶尚道_−江原道
全羅道__−全羅道__−慶尚道_−慶尚道
全羅道__−全羅道__−慶尚道_−慶尚道(嶺南地方)
(湖南地方)−−(星湖地方)−−
−−−−−−−−______−−対馬
______−−松浦
____長崎−−佐賀____−−博多
______−−熊本
遼寧省(鉄嶺)−吉林省(建州女直)−延辺[間島]
遼寧省(渤海)−白馬山(四郡)−沿海州(渤海)
義州(東丹)_−妙香山____−咸鏡道(六鎮)
西北地方___−五台山____−金剛山
江華島_済物浦−畿湖地方___−太白山脈
湖西右道_−湖西左道_−嶺南右道−太白山
湖南地方_−知異山__−星湖地方−嶺南左道
湖南右道_−湖南左道_−星湖地方−東莱城(三浦[済浦・富山浦・塩浦])
−−−−−−−−______−−
−−−−−−−−______−−対馬
______−−松浦
____長崎−−佐賀____−−博多
______−−熊本
永吉道(1413-1416)→ 咸吉道(1416-1470)→ 永安道(1470-1509)→ 咸鏡道
豊海道 → 黄海道
江原道 → 江襄道 → 江原道
公清道 → 公洪道 → 忠清道
全南道 → 光南道 → 全羅道
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
【 高麗時代の行政区域 】
咸鏡北道○女真族
咸鏡南道の北半分○女真族
咸鏡南道の南半分○東界(千里長城1033−1044)
平安道○北界(千里長城1033−1044)
黄海道○西海道
江原道○交州道・東界
京畿道○揚広道・京畿道(王都−開城の周辺)
忠清道○揚広道
全羅道○全羅道
慶尚道○慶尚道
済州道○耽羅(半独立)
何?この変な漢字レスは。ファビョッたの?
輪舞曲〜ロンド〜ご覧になりました? シンヒョンジュンってなんかペルシャ人の武将のように私には見えるような 慶州の石像の様な
金達寿ネタはいい加減にしてくれよ。
遼東郡平城県_−玄菟郡高顯県_−扶余(延辺[間島])
遼東郡西安平県−玄菟郡高句麗県−邑婁(沿海州)
楽浪郡朝鮮県_−貊______−沃阻(咸鏡道)
楽浪郡不而県_−穢王不而___−穢
馬韓月支国−楽浪郡帯方県_−楽浪郡東施県(辰韓冉奚國→楽浪郡提奚県 編入)
馬韓狗廬國−馬韓古蒲国−馬韓伴跋国(辰韓軍彌國→楽浪郡渾彌県 など編入が8ヶ国)
馬韓伯済国−弁楽奴国_−弁辰賣廬国−辰韓斯廬国(弁樂奴國→樂浪郡樂都縣 編入)
馬韓大石索國−弁と倭−弁辰古淳是國(弁辰狗邪国[狗邪韓国]→帯方郡海冥県 編入)
−−−−−−−−______−−
−−−−−−−−______−−倭の対馬国
______−−倭の末盧國
______−−______−−倭の伊都国
______−−倭の邪馬台国
弁樂奴國 → 樂浪郡樂都縣
弁辰賣盧國 → 任那−沙伐県[尚州](賣は[シ賣]の一字の略)
弁辰古淳是國 → 任那−卓淳県[倭館=星州=星山]
弁辰狗邪國 → 帯方郡海冥県(はいメ)→ 任那日本府 → 南加耶金官国(きメ[金海])
辰韓軍彌國 → 楽浪郡渾彌県
辰韓冉奚國 → 楽浪郡提奚県(ていぢ→テェグ[大邱])
辰韓斯盧國 → 眞蕃郡 → 樂浪郡屯有縣 → 加羅任那−新羅城[慶州] → 新羅国
馬韓伯濟國 → 百濟國
馬韓狗廬國 → 百済国−熊津城[公州] (くろ→くまなり)
馬韓辟卑離國 → 百済国−泗比城[扶余](しひり→しひ)
馬韓古蒲國 → 任那−己文県(こも→こもん)
馬韓牟廬卑離國 → 任那−牟婁ひり県(上むろ)
馬韓咨離牟廬國 → 任那−しり牟婁県(下むろ)
馬韓古離國 → 任那−多利県 (とり→たり)
馬韓大石索國 → 任那−帯沙県(たしさ→たさ)
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樂浪郡8県−襄平県・文県・居就県・樂就県・安市県・西安平県・新昌県・力城県(文は[シ文]の一字の略)
玄菟郡3県−高句麗県・望平県・高顯県
帶方郡7県−帶方県・列口県・南新県・長岑県・提奚県・含資県・海冥県
穢侯不而 → 穢王不而[倭王藤] → 楽浪郡不而県 → 眞蕃郡 → 加羅国王荷知[韓国王日]
朝鮮侯否[王倹朝鮮] → 韓王淮[眞蕃朝鮮] 淮→準(侯は王に準ず)韓王準
衛満朝鮮[魏満朝鮮] → 箕子朝鮮[李氏朝鮮]
魏曹操の子は丕・丕→否で衛侯→朝鮮侯否→朝鮮侯=満洲侯[魏満朝鮮]→朝鮮王>満洲侯
帯方郡太守の弓遵→弓裔(弓遵の末裔)は新羅王族漢山州泰村王(泰封国王)→
(泰封国王)→後高句麗の王(摩震国の王)−[下克上]→高麗王の王建(王国を建国)
楽浪郡の韓氏(加羅氏→唐氏→辛子→辛さん→新山[シンさん])
楽浪郡の王氏→王仁其斯(わに博士)
楽浪郡の高氏→高興博士
---------------------------------------------------------------------
魏曹操の子は丕・丕→否で衛侯 → 朝鮮侯否[魏満朝鮮 朝鮮王>満洲侯]
弓遵→弓裔 漢山州泰村王(泰封国王)
高麗王の王建(王国を建国)
遼東_−高顯県−貊__−扶余
西安平−高句麗−貊__−邑婁
朝鮮県−貊__−貊__−沃阻
不而県−穢__−穢__−穢
馬韓_−帯方県−穢__−東施県
伯濟国−馬韓_−伴跛国−渾彌県
馬韓_−弁__−弁辰_−斯廬国(弁樂奴國→樂浪郡樂都縣に編入)
馬韓_−弁__−弁と倭−弁辰
中華_−中華_−貊__−扶余
中華_−中華_−貊__−邑婁
中華_−貊__−貊__−沃阻
中華_−穢__−穢__−穢
韓__−中華_−穢__−穢
韓__−韓__−中華_−中華(辰韓8ヶ国を中華に編入)
韓__−弁__−弁__−辰国(斯廬国)
韓__−弁__−弁と倭−弁(韓の反乱対応に崎離営・屯有県を設置)
___−___(狗邪国)
(秦〜後漢〜西晋王朝の時代)
公孫氏
王氏_−高氏_−貊__−扶余(貊)
韓氏_−貊__−貊__−邑婁(貊)
貊__−貊__−貊__−沃阻(貊)
貊__−穢__−穢__−穢
貊__−穢__−穢__−穢
貊__−貊__−穢__−穢
貊__−貊__−貊__−辰(穢)
貊__−貊__−貊と倭−貊
___−___−__倭(穢)
貊−州胡(馬韓の西海の大島に住む)
貊−扶余(高句麗・馬韓の祖)
貊−高句麗
貊−馬韓
貊−弁辰(馬韓東界)
穢−倭人(馬韓東界・弁人と混在して住む)
穢−辰国(馬韓東界・馬韓の大海の見える東浜)
楽浪郡の中国人入植農民と中国人役人に出くわした(BC108 前漢武帝の時代)
原住民(ワイ族[小柄]・バク族[大柄])が、中国人を殺害した。
中国人の持ち物を置き引き追いはぎし、呼び方(発音)をまねた。
鮮卑族の中で、カモミドリ河ぞいの山岳民が中国人を度々襲った。
半島の中国人はワイ・バクの原住民にホロコーストされ消されてしまった。
遼東の中国人が、楽浪郡の行政区を遼東に逼迫移動させていたが
たまたま鮮卑族を破り、半島に帯方郡を設置できた。
帯方郡には中国の呼び方をし中国人の文物を持つ原住民ワイ・バクがいた。
原住民には中国語は通じないのに、中国人だと言い張る。
文物の単語だけを中国語っぽくしゃべっている。
中国人は燕出身だと言うと、燕の亡人(亡命人)だと自分たちを説明する。
中国人は可笑しいと思って、いつの話だと聞く。大昔と漠然と言うだけ。
リュウって知っているか。と聞いた。原住民はリュウ知っているという。
説明できず発音だけジイサンから伝承されたという。
中国人がシンってっ知っているか?原住民は知っているという。
説明できず発音だけジイサンから伝承されたという。
シンてリュウなんだぞ。判るか。中国人が原住民に言った。
原住民は三国志演義の人形の目玉のようにキョロキョロ左右上下に動かし
得意になってシンはリュウだって最初から知っていたが
お前を試していただけだと粋がった。
俺たち原住民が偉いのが中国人は判らないバカだとたかをくくった。
では文字というのを知っているか書いてみろ。と中国人が原住民に言った。
中国人を殺して得た文物に描かれた「絵」の方を中国人は指差したが
たまたま絵でなく文字の方の事だと当て推量が上手くいって
土瓶の十二支の絵の横に漢字が描かれて「辰」を「リュウ」と発音してみた。
中国人は驚いた。(実際は、辰の竜はロンで、漢の劉はリュウである。)
うーむ。「リュウ」って人間か動物か判るか。と聞けば、動物だ。といった。
中国人は原住民の答えにびっくりした。
あやや(アイヤー)。ではリュウ(辰)なる動物は
いつ頃から知ってたかといえば、文物の文字の「韓」を でたらめに指した。
絵には秦・周・韓・趙・燕・斉が描かれていて、幸い漢や楚が書かれてなかった。
シン「辰」と、この文字「韓」と どっちが先にあったか。と聞いた。
原住民の後から取ってつけた でたらめ歴史がばれた。
シンが先で韓は後だ。と原住民はいい。辰の時代に来て韓の国から来た。といった。
王様の国の名前は?と聞くと この字「韓」だ。と得意になった。
(周国を取り巻く韓国は始皇帝の秦国より先に成立。秦を辰に 漢を韓に 劉を竜に 勘違い。)
バカ丸出しなので、中国人は(いにしえの辰国なる新羅城の人が)自分でいうのだから
この連中を辰韓と呼ぶ事にした。(AD280頃 三国志を編纂した西晋の陳寿の時代)
数百年たって同じ事が起こった、少し知恵がついて シン−カラ(新羅城)の住民は
辰は「秦」で、韓は「漢」 で竜は漢の劉と違い辰 だというのが判って悔しくなった。
こんどは慎重に中国人を騙して殺して盗みまくって成りすましてやろうと
ワイの隣のバクと住む倭人を騙して、小手先練習した。
「カラ」と発音して「加羅」と「韓」と「唐」の漢字を並べて混乱させて
倭人を原住民(シン−カラ)は馬鹿にした。倭人の王様の武は怒って
中国人に仕返し方法を尋ねた。カモミドリの山奥の鮮卑族に襲わせたら
倭人は仕返しできるでしょうと。むちゃくちゃなアドバイスをした。
遠く海から渡って来て呉服(くれハトリ)を伝えた割りに見返りが少なかった。
倭王武は激怒して兵隊を大量に送り込み
海北(任那)はアッというまに95国が倭王の物となった。しかし
シン−カラの中国人殺しの原住民は
カモミドリの鮮卑族(高句麗)が襲来して来て助かると信じて
必死に嘘とドロボウの日々で逃げ回った。
(AD404頃 六朝の東晋〜劉宋・倭王武・北朝の符秦〜拓跋魏・高句麗『好太王』時代)
逃げ回っているうちにカモミドリの鮮卑族が南侵して来て
倭人を蹴散らして シン−カラのシラギ城を解放した。シラギの人は恩を仇で返し
鮮卑族を殺して文物を奪い 高句麗から来た子孫だと
倭人と中国人に相手に またウソ歴史の作り話を自慢して説明した。
かくしてシラギに 高句麗説(扶余説)と中国人説(亡命人説)の
矛盾する歴史話が [『李太王』の前後に]出来上がった。
李太王(李氏朝鮮の高宗)は
ジイサンの『大院君』にイジメられ
ヨメの『ミン妃』にイバられ
アメリカ人には珍しい飲み物コーヒーを献上されて飲んでみると毒が入っていて
犯人探しをしても見つからないし
日本人には「王」より点が付いている分だけ「玉」が偉く(「大」より「太」が偉く)
「宇宙の玉者」よろしく「太王」は「大王や皇帝」より偉い(好太王ほどに偉い)と
バカにされて名づけられ呼ばれる始末である。
王位も国も失って、キサキはポジ丸出しだし。ジジーはロシア人を引き込んで
わがまま放題で国を乱したまんまシんだ。残されたのは 日本の兵隊に囲まれ
賄賂を貰う朝鮮人貴族の両班だけが側近の人生であった。
アーコ(アーク)阿哥: おにーさん
アーメイ(アマイ)阿妹: おねーさん?(あま?)
★★日本語[上段]と韓国語[下段]の単語発音の違い基本語彙が違うから、全然、別系統の言語。
朝鮮・韓国出身の人間が言う、同祖・同根は、話し言葉上は真っ赤なウソ。
外来語(借用語?)の発音が似ているのは当たり前。
漢字は中国語(一(いー)[漢]・いち[日]・いる[韓])・
キリスト教用語も英語(クライスト[英]・キリスト[日]・キリスド[韓])などの外来語。
★身体
かお___め__みみ__くち_はな_した_て__あし_あたま
おるぐる_ぬん_くうぃ_いぷ_こっ_ひょ_そん_ぱる_もり
☆親族
おとうさん_おかあさん(かーちゃん)_おじいさん_あに(おにーさん)__おねーさん(あねっこ)
あぼじ___おもに(おんま)_____はらぼぢ__ひょんにむ(おっぱ)_おんに(あがし)
★動物
きつね_たぬき_きじ__にわとり_くま_いぬ_ねこ___かえる
よう__のぐり_くぉん_たく___こむ_けー_こやんい_けぐり
★日の数え
ついたち_ふつか__みっか
はる___いとぅる_さふる
★数かぞえ
ひとつ_ふたつ_みっつ_よっつ
はな__とぅる_せー__ねー
★食べ物 その1
くり_ねぎ_きゅうり_もも____みかん_ごぼう_たまねぎ_とうがらし_なす
ぱむ_ぱ__おい___ぽくすんあ_きゅる_うぉん_やんぱ__こちゅ___かぢ
★食べ物 その2
にら__そらまめ_しょうが_だいこん_いちご
ぷちゅ_わんどぅ_せんがん_むー___たるぎ
★テニヲハの文法や変化形についても同様。
〜の[日] 〜ご[韓] は必ずといえない。
チマ・パラム(スカート・風)ではなく「スカート”の”風」 助詞「の」が無い
〜は[日] 〜ぬん[韓] も使うニュアンスが違う
トクトぬんウリたん(独島は我が領土 と訳しているが意訳は 竹島ったら我らのモノ)
ちょぬん(チョンは小さい ヌンは強調や物の意味ミリミリとウニョウニョと小さい物)
チョン・かく・トゥギ(小さい・大根・漬け)チョンは小さいというか細かいって言う意味だが。
>>1 :マンセー名無しさん :2005/11/22(火) 02:13:22 ID:jTiLFg9v
[渤海]人・[辰国]人・[馬韓伯済]人・[洛東江流域]人・[耽羅]島など
実は朝鮮人というのは単一民族ではなく
それぞれにつき容姿や性格に違いがあると
いったようなことはないんでしょうか?
それとも全員同じ民族?
時々[我が国]マトリックスに気付く[ニュータイプ]のような人物も出てきますよね。
[韓国先生or在日先生]とか。
こういう人は、出身地的にどこが多いとか
どこの血筋だとかいうことはないのでしょうか?
たとえば[洛東江流域]地方や[湖南]地方の出身者は
比較的朝鮮人の中ではまともで温厚だが、
[嶺南地方]人は気性が激しくすぐ[逆切れ]るといった具合に・・・
そういった出身地ごとの気質とか顔つきとかの
違いというのはありますか?
慶尚道人[嶺南]の方が怒らないように自制が強く
中国史実に忠実にし日本の文物を取り入れようとする傾向があり
(終戦直後の日本人惨殺も多いけどな・パク_チョンヒ大統領)
全羅道人[湖南]の方がヤクザやアガシ[売春婦]が多く体臭がクソ臭く切れ易く
盗んだものを改変して作り話とか捏造アリバイを証拠と言うのが得意な傾向だが
(ヒャンドゲ[香徒契]というヤクザの拉致レイプ殺人強盗・
ホンタク[洪濁]という朝鮮エイの切り身を人糞漬け食い・ノ_ムヒョン大統領)
___済物浦__西人(北京から流入[湾商−義州・柳商−平壌・松商−開城=松岳])
______己文_星山_東人の北人
__百済_済浦_富山浦_東人の南人(対馬から流入[莱商−富山=釜山])
済州_巨文_巨済
(学や文の無い西南方面は「済」 倭人に対し「巨」 昔から地名にまで侮日行為だな。)
鉄嶺: 兄の李如松・弟の李如梅(朝鮮人から中国人に帰化)が豊臣秀吉の倭乱の征東将軍で有名
畿湖地方: 李氏朝鮮の両班の派閥、西人という派閥で有名・アリランは李朝の景福宮造営の時の歌
湖南左道: 南原(なも)の民芸歌謡のパンソリで有名
嶺南地方: 李氏朝鮮の両班の派閥、東人(更に北人と南人に分派)という派閥で有名
星湖地方: 朝鮮儒教の実学から西学と天主教を学びに北京留学を排出で有名「親日派」の元祖
東莱城: プサンポ(富山浦→釜山浦→プサン港)は東莱城に属し、浦のチゲ組合「莱商」で有名
沃祖人→玄菟郡高句麗縣人→渤海國人→東丹國人→遼河中流域の鉄嶺地方人=遼東地方の中国人に帰化
穢貊人→樂浪郡不而縣人→穢王不而の民→畿湖地方→ソウルの京畿道人
扶余人→馬韓伯國人→加羅任那人→百済人→湖南地方人→全羅道人
辰国人→辰韓斯廬國人→新羅人→嶺南地方人→慶州の慶尚道人
弁辰人1→樂浪郡樂都縣人→弁樂奴國人→海北九十五國=任那人→星湖地方人→洛東江流域の慶尚道人
弁辰人2→帯方郡海冥縣人→弁辰狗邪國人→任那日本府人→南加耶金官國人→東莱城富山浦人→釜山人
思ったんだがな。兄の李如松・弟の李如梅って
松竹梅じゃない。兄の妹で、弟の姉に李竹玉って居たんじゃないかってね。
昔は女性って家系図に名前が乗らないし。李の娘って感じじゃないですか。
★家系図(族譜)想定図
父−李如桂?
↓−−−−−↓−−−↓
↓_____↓___↓
兄−李如松_女___弟−李如梅
戦死____金夫人_↓
__________子−李如瓶(正夫人−西門氏[慶州出身])
松竹梅とめでたく、金瓶梅の西門慶と言う事で。。。
李竹玉でなくて、李竹淑や李竹姫でも、朝鮮風で良いと思う。