ていうか、
>>224のリンク先を読むかぎりでは、『人間イエス』自体が
田川氏の『イエスという男』のパチもん?
それもパクり元の『イエスという男』をあらかじめ読んでいないと
わかりにくい――って、ランディのパクりと似たような感じですな。
さぞかしランディと気が合うことでしょう。
で、その『人間イエス』を、さらにランディが『参考』にして何かを
書いたとしたら、壮絶に意味不明な文章が出力されそうで、ある意味楽しみ。
>>229 んと、田川氏をクリスチャンと書いている人はいなかったようですけど。
私が『イエスという男』を読んだ印象では、田川氏はクリスチャンでもあり、
自身が信仰をもっている人と思いました。
巻末の著者紹介によると「大阪女子大学英文科教員(宗教学、西洋古典学)」で、
ネットの検索で見つかる文章では、肩書きは「聖書学者」「宗教学者」「新約聖書学者」。
ところで、『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』のあとがきには、このようなことが。
>ほぼ一世紀もの間、世界中で、「イエス」は小型新書判という「常識」がまかり通って
>きたのだから、資本の論理が書物の質を規定する力の大きさを改めて感じさせる。
>「イエス」は気軽に読めて、定価が安く、ポケットにはいる程度ならば、商業的に必ず
>成功する。実際、そのようにして世界中に数知れぬほど書かれて売られた同工異曲の
>新書判イエスは、まずはたいてい商業的に成功している。そのせいで、気軽に易しく
>うすっぺらに、という要請にあわせて、安直にうすっぺらなイエス像が提供され続けた。
>もしも本気になってイエスの全容を描いてくれと言われれば躊躇するに違いない数多く
>の著者までも、ほんの半年か一年足らずの期限つきで書き上げる薄っぺらな新書判なら
>何とかやれるというわけで、次から次へと書きなぐられてきた。ドイツ語の書物を
>そのまま訳したり、適当に要約したりしたものを自分の文章であるかの如く見せかけて、
>その間に、行きあたりばったりの思いつきを配置しただけの盗作まがいの新書判などは
>論外だが、名著と呼ばれうるものの多くも新書判程度の大きさにまとめられてしまって
>いるのは残念である。
さて『人間イエス』は、ドイツ語の書物ならぬ『イエスという男』を「適当に要約したり
したものを自分の文章であるかの如く見せかけて、その間に、行きあたりばったりの思い
つきを配置しただけの盗作まがいの新書判」なのかどうかは、滝澤氏の本を読んでみないと
わかりませんが、「適当に要約」「自分の文章であるかの如く見せかけ」「その間に、
行きあたりばったりの思いつきを配置しただけ」というのは、ランディの文章生成方法
そのままじゃんと思ったので、つい引用してしまいました。