1 :
世界@名無史さん:
世界史板ならではの知識で書き込もう
追い出さないでね
2 :
世界@名無史さん:2001/03/11(日) 01:14
赤壁の戦は無かったって言う説があるけど、周瑜伝にきっちり
書かれてあったりする
3 :
世界@名無史さん:2001/03/11(日) 01:38
つーか三国志板厨房多すぎ・・・
4 :
高堂隆@名無史さん:2001/03/11(日) 05:12
だいたい堂々たる近時代の歴史書である正史を
1000年あとのくだらない創作ファンタジーと比較するなんて
おかしいよ。
事実認定は正史を基準に話すというルールを広げていかないと
いつまでたってもこの時代ってヲ宅に独占されたまんまだよ!
(実は結構後世に影響があった転換期だったりするのに
「どうせオタクだろ」の一言で研究論文が評価されない…)
5 :
世界@名無史さん:2001/03/11(日) 14:47
曹叡の守役さんですか
三国志板はこの板起源なんだが堂々とネタ板と銘打たれて
笑ってしまう
まあ正史オンリーで語るならこっちの方がいいのか
でも演義はそれなりに人物のセリフとか原典に忠実だったり
するのは評価すべきかも
6 :
世界@名無史さん:2001/03/11(日) 19:35
皆三国板についてどう思ってるんだ?
聞かせてくれ
7 :
世界@名無史さん:2001/03/11(日) 22:36
三国志が日本に渡って来たのはいつだろうね?
日本書紀にも少し記載があるようだけど・・・
昔は漢書・後漢書に比べて注目度が低かったようだが
8 :
世界@名無史さん:2001/03/12(月) 00:03
後漢の献帝・霊帝の子孫って名乗る人物が渡来人に
いたりする
9 :
名無史:2001/03/12(月) 01:54
蒼天航路ってどうなの、
甘寧ってあんなやつなの
10 :
世界@名無史さん:2001/03/12(月) 02:28
演義にもあるように甘寧は元四川の水賊
見通しが利く反面、かっとして人をすぐ殺す性癖が
あったそうだ
宋代に川の神として祀られている
蒼天は李学仁がいた頃はまだ良かったね
特に曹操の若い頃の解釈は斬新だったかも
11 :
世界@名無史さん:2001/03/12(月) 02:51
蒼天航路って正史に基づいてるの?
やっぱり演義なのかな。
12 :
名無しさん@1周年:2001/03/13(火) 00:39
13 :
世界@名無史さん:2001/03/13(火) 02:03
九品中正法とかって魏書に詳細な記述あった?
14 :
世界@名無史さん:2001/03/13(火) 03:56
霊帝時代の三公って地震とか日食とかで辞めさせられてる
やっぱ早めに首にして三公の職を売りに出したかったんだろうね
15 :
世界@名無史さん:2001/03/13(火) 21:42
日本の書物に見える三国志の人物で最古の人は誰でしょう
献帝・霊帝抜きで
16 :
世界@名無史さん:2001/03/13(火) 23:32
鐘ヨウの書は結構有名だったらしい
17 :
世界@名無史さん:2001/03/14(水) 00:24
光明皇后が誰だかの文を写したらしいね
夏侯玄だったかな
18 :
世界@名無史さん:2001/03/14(水) 00:29
>8
それ坂上田村麻呂(間違っても坂上おじゃる丸ではありません)です。
19 :
世界@名無史さん:2001/03/14(水) 18:14
楠木正成が学んだのって諸葛孔明の兵法だったっけ?
非常に嘘臭いけど・・・
今昔とかに三国志の話は載ってないのかな
20 :
世界@名無史さん:2001/03/14(水) 20:24
諸葛亮がもてはやされるようになったのは江戸時代からだろうね
21 :
世界@名無史さん:2001/03/14(水) 21:23
三国時代の美術品ってあんまり見ないんだけど・・・
そう言うのってほとんど残って無いんだろうね
22 :
世界@名無史さん:2001/03/14(水) 23:56
何晏って何進の孫かなんかだっけ?
横死しなければそこそこ歴史に名を残したような・・・
23 :
世界@名無史さん:2001/03/15(木) 02:01
司馬一族は軍事と陰謀以外才のない人間が多かったのかな・・・
24 :
世界@名無史さん:2001/03/15(木) 02:57
馬融が鄭玄を殺そうとした話って知らない?
25 :
世界@名無史さん:2001/03/15(木) 03:00
今孔明って呼ばれてた人っていなかった?
26 :
世界@名無史さん:2001/03/15(木) 13:18
袁術の血統が密かに生き残っているのは内緒だ
27 :
世界@名無史さん:2001/03/15(木) 14:42
独裁がなぜ可能かと考えるかわりに、民主主義はどんな条件の下で可能か、と考えてみるといいよ。
30 :
世界@名無史さん:2001/03/15(木) 20:48
金旋って匈奴の単于の子孫らしいよ
ココだけの話
31 :
世界@名無史さん:2001/03/15(木) 22:11
魏・晋と宦官の弊害が無かったのは後漢の教訓が活かされてるんだね
宦官が再び力を付けるのは唐代に入ってからだっけか?
32 :
世界@名無史さん:2001/03/15(木) 22:15
袁術の玉璽は漢の国璽だから持ってても仕方なかったような・・・
王朝が交代すれば国璽も作り直すんでしょ?
33 :
世界@名無史さん:2001/03/16(金) 00:22
王莽の玉璽も見つかったよね
確か
34 :
世界@名無史さん:2001/03/16(金) 00:37
>32
伝国の玉爾といって代々の王朝に伝えられるもの何ですぞ。
35 :
こるしか島の田舎者:2001/03/16(金) 07:49
age
36 :
世界@名無史さん:2001/03/16(金) 18:46
>>34 そうだねえ
たしかに玉璽に漢の文字はないから袁術が国璽にしても
いいか・・・
でも元々高祖の時代に作られたもんだし、王莽は別に
国璽を作ったみたいだから、魏・その他がそれを使い
続ける必要は無かったんじゃないかな
37 :
世界@名無史さん:2001/03/16(金) 21:16
>>36 玉爾は秦の始皇帝が藍田の名玉から作らせた印章で、帝位の証明とされ
ています。つまり、これを持つ者が正統な中華の支配者と目されたわけ
です。その意味で自前の国璽を作るのと伝国の玉爾をもつのとではその
意味は大きく違うと言えます。
38 :
世界@名無史さん:2001/03/16(金) 23:18
>>37 璽だよね?
でも、始皇帝の時代に作られてたとは知らなかった
玉璽の角が取れてそれを金で補填した話が載ってた
けどいつの時代の事だったかな・・・
39 :
世界@名無史さん:2001/03/16(金) 23:36
で、玉璽は結局魏・晋に伝えられたの?
王朝的にはどの辺まで使ってたか知ってる人いない?
40 :
世界@名無史さん:2001/03/17(土) 01:16
王莽の玉璽って確か北の方で発見されたよね
発見して喜んだ人物も所詮新の不吉な玉璽じゃ
長生きできなかったっていう・・・
誰だったかな
41 :
世界@名無史さん:2001/03/17(土) 01:37
伝国の玉璽は魏・晋・前趙・後趙・東晋と伝えられたみたいね
その後は分りません
42 :
世界@名無史さん:2001/03/17(土) 02:50
劉表のミイラって今でもどっかに埋まってそうだね
43 :
世界@名無史さん:2001/03/17(土) 19:40
弾力性のある漢代の夫人のミイラが発見されたのも旧荊州だったかな
何か○○省よりも荊州とか揚州の方が位置関係が分るんだよね(笑
44 :
RYU:2001/03/17(土) 20:12
出師の表を連発した諸葛亮は血迷ったとしか思えない。(癌細胞を引き継いだキョウイも一緒)
あっさりと無血開城に応じた劉禅の天才に脱帽
45 :
世界@名無史さん:2001/03/17(土) 22:51
>>44 無血開城は天才じゃなくてもできるよ
むしろ天才肌だと余計な工作しちゃうだろうね
出師の表を連発したのも孔明なりの成算があったからだろう
魏を滅ぼせないまでも涼州程度を蜀の物にしておけば
大義名分は果たせるからね
46 :
世界@名無史さん:2001/03/17(土) 23:38
孔明が書いた出師の表は最初のだけ。
いわゆる後出師の表は後世の偽作とされている。
なんにせよ、蜀は「漢」を自称して立国している以上、
魏と戦い続けないと、国の建て前が崩れてしまう。だ
から何度も北伐した。出撃はするが、本気で勝つ気な
ど孔明にはなかったのだろう。なまじ長安なんかとっ
ても維持できない。岐山方面に出撃していたのはその
ためだ。
蜀漢は、無意味な出撃と小競り合いを繰り返さない限
り、国体を維持できない、悲しい国だったのだ。
47 :
世界@名無史さん:2001/03/18(日) 03:12
呉の徐州刺史や蜀の涼州刺史ってのもなんだかだよな・・・
48 :
RYU:2001/03/18(日) 09:59
諸葛亮は率先して魏の蜀併合に尽力するべきだったろうね
ある時点からは。
見切りを誤ってというか、大局観を捨て我を張ってさらに場をかき回したって感じ
劉禅の天才に脱帽
49 :
世界@名無史さん:2001/03/18(日) 14:19
日本の小説やマンガでは、優秀な軍師のイメージのせいで
冷徹な人物として描かれがちだが、
中国のイメージでは孔明はむしろ、人情家。
劉備に蜀漢を託された以上、大局がどうであれ、蜀の国を
明け渡すことなどできなかったのだろう。
50 :
世界@名無史さん:2001/03/18(日) 17:58
>>48 劉璋の天才にも脱帽してそうだな
韓馥の天才ぶりはどうかね?
51 :
あやめ:2001/03/18(日) 20:00
「傳國璽」について少し書くことにします。
傳國璽に関する最も早い記載は後漢末の應劭の「漢官儀」です。ただ同書
は現在では諸書に引用された零句の輯本としてしか見られません。「史記」
の司馬貞の「索隠」に引かれている「漢官儀」には「(秦の)子嬰が始皇帝
の璽を奉ったので(漢の高祖は)これを用い、代代伝授し号して『漢傳國璽』
といった」とあり、また「太平御覧」に引かれたものには「天子には傳國
璽がある、文は『受命于天、既壽且康』と曰い、封には用いないのである」
とあります。現存する成書で傳國璽についての記載のある最古のものとな
ると「漢書」の「元后傳」ですが、これは後で王莽が傳國璽を奪ったいき
さつについて述べる際に触れます。
傳國璽が始皇帝により藍田の玉で作られたという所伝の早い出典は、「後
漢書」の唐の李賢による注に引かれた「玉璽譜」に「傳國璽は始皇が天下
を定めた初年に刻したもので、その玉は藍田山から出たのに丞相の李斯が
書いている、その文は『受命于天、既壽永昌』と曰う」とあって、上記の
「漢官儀」とは印文を異にしています。また「漢官儀」とほぼ同様のこと
が「大唐六典」の注に引かれた「玉璽記」にも見えています。しかし唐の
張守節の「史記正義」に引かれた北魏の崔浩の説には「李斯が和璧を磨し
て作り漢の諸帝は世伝して用い傳國璽と言った」とあって、「和氏之璧」
であるとしていますが特別の根拠はなさそうです。
秦王子嬰が漢の高祖にこれを奉ったということについては「史記」の「高
祖本紀」に「子嬰は素車白馬で首に組(印などのストラップ)を掛け、皇帝
の璽・符・節(いずれも天子の命令権の象徴)を封じてシ(車偏に只)道(長安
付近の地名)の傍らで降伏した」とあり、この璽が傳國璽と理解されてい
るわけです。高祖から代々の皇帝に世伝されたことについては晉の司馬彪
の「續漢書」の「禮儀志」に新帝の即位儀に、「大尉が祚階から(先帝の)
柩の座まで升り、北面して稽首(おじぎ)し策(皇太后が皇太子を新天子とし
て指名する詔書)を代読し、終ると傳國璽と綬を東面して皇太子に授け皇帝
の位に即ける」とあります。
王莽が漢の元后から傳國璽を取り上げる話はまた明日ね。
52 :
世界@名無史さん:2001/03/18(日) 21:03
>>51 きゃあ 遂に登場したね
まあいんだけど・・・
玉璽の話は演義か正史で程普くんが説明してくれていたような?
53 :
RYU:2001/03/18(日) 21:42
>50
劉障と韓ぷくの正史中のエピソードについて知らんので大した事はいえないが
彼らに共通して言える事は国主である限り国家意識に囚われないということだ
国家主義的世界観に凝り固まった孔明のような宰相やキョウイの如くの軍人を遊ばせておいたのは
後の内患となる軍閥・貴族の粛清の手間を省くため、無血開城に向けた実に周到なお膳立てだといえる
そのシナリオ実現に尽力した宦官コウコウの政治的眼力も並々ならぬものがある。
巫女のお告げを真に受けることで、国の癌たるキョウイ軍閥を根絶やしにしたその手腕にも脱帽せざるを得ない
やっぱり劉禅の天才に脱帽
54 :
RYU:2001/03/18(日) 21:44
国の<国民の←修正
55 :
世界@名無史さん:2001/03/18(日) 23:48
>>53 巫女云々の話は正史に無かった気がするぞ?
後主伝を読んでみた上で語った方がいいと思う
56 :
世界@名無史さん:2001/03/18(日) 23:50
>>53 巫女云々の話は正史に無かった気がするぞ?
後主伝を読んでみた上で語った方がいいと思う
57 :
RYU:2001/03/19(月) 00:04
助言感謝する
20mona->55
注:モナーは2chの統一通貨です
58 :
世界@名無史さん:2001/03/19(月) 07:49
晋書 陳寿伝の読めるサイトない?
59 :
世界@名無史さん:2001/03/19(月) 17:03
陳寿の師匠の[言焦]周って根っからの降伏論者だからなあ
陳寿自身も蜀への忠義とか愛着心があまり感じられない気がする
どっちかというと孔明より劉備の方に好感持ってた気がするね
後、武官軽視の傾向もちょっとあり気
60 :
RYU:2001/03/19(月) 19:58
文が武を制するのは当然でしょう>59
特定の国家への愛着心をもって正史をかかれたら困ります
それは単なる小説でござろうよ
陳寿の天才に脱帽
61 :
世界@名無史さん:2001/03/20(火) 00:19
呉が探索して奴隷を連れ帰ったのは台湾だったのかな・・・
中国人の台湾上陸の記録上の初見ってどれなんだろうか?
62 :
院生:2001/03/20(火) 00:27
>>58 『晋書』陳寿伝読めるサイト、もちろんあるよ。
BIG5コード入ってないと文字化けするけど。
台湾のサイトだから。
63 :
どきどき名無しさん:2001/03/20(火) 01:22
64 :
院生:2001/03/20(火) 01:32
65 :
世界@名無史さん:2001/03/20(火) 11:08
横溝正史?
67 :
あやめ:2001/03/20(火) 20:10
前漢末の王氏一族の専権の中核となったのは王禁の娘の政君で元后と呼ば
れている女性です。彼女は皇太子であった元帝の寵愛を受け後の成帝を生
みました。そして元帝が即位すると皇后に冊立され王禁は陽平侯に封ぜら
れました。元帝の崩後は成帝が嗣位し彼女は皇太后とされ漢室の中心人物
となったわけです。そして弟の王鳳を始め7人の兄弟が列侯に封じられる
までに至り、特に王鳳は大司馬大将軍として尚書を管領し国政を掌握する
ことになりました。
こうした外戚王氏の全盛を背景に王莽が台頭してきてのですが、彼の権力
が決定的に確立したのは一時圧迫されて勢力が下降気味であった王氏を、
成帝の次の天子の哀帝の崩の機会に元后と協力して盛り返したことです。
哀帝は最期の際におホモダチとして権力を握っていた董賢に、決して余人
に渡さぬようにと璽綬を授けていましたが、元后は素早く未央宮に入り璽
綬を回収してしまい賢を自殺させる一方で、王莽を大司馬に任じ尚書を管
領させ彼の専権時代を開幕させました。このとき元后が回収した璽綬の中
には当然のこととして傳國璽が含まれていたことでしょう。この後は元后
のバックアップの下で王莽の権力と地位は揺ぎないものとなり、元后の力
では抑えきれないまでになってしまいました。哀帝を継いだ平帝の皇后と
して王莽の娘を立てることとなった際には、元后としては気が進まなかっ
たのですが押し切られてしまいました。
こうして王莽は遂に禅譲の美名の下に漢室を簒奪してしまいました。簒奪
後に彼は腹心の王舜を元后のもとに遣わし傳國璽の引渡しを要求しました。平帝の後嗣とされた嬰は当時まだ幼く皇太子という地位に過ぎないので、
璽は皇太后の宮殿である長楽宮に蔵いこまれていました。元后は舜に向か
い王莽を罵り「自ら金匱符命(後述)で新皇帝になり正朔服色を変えたのな
ら、自ら璽を造り改め万世に伝えたが好かろう、私はこの璽と共に葬られ
ることが願いだがそれも叶わぬか」と泣きました。結局は舜の泣き落とし
に負け傳國璽を取り出し地に投げつけました。「玉璽譜」によるとこの際
に綬を通すつまみの飾のチ(虫偏に離の左部、みずち)の角の片方が欠けて
しまったということです。舜は投げ与えられた傳國璽を収めると王莽に届
けました。莽が大いに悦んだのは言うまでもありません。
68 :
あやめ:2001/03/20(火) 20:13
傳國璽というものは元来が印としての押捺機能を期待して制作されたもの
ではありません。天皇の三種の神器や神聖ローマ皇帝の権標みたいな保持
してること自体が、その王権の正統性を表徴しているという性質のもので
あるわけです。漢代に実用機能を担っていた皇帝の印璽はいわゆる「天子
六璽」です。即ち皇帝行璽・皇帝之璽・皇帝信璽・天子行璽・天子之璽・天子
信璽です。これらはそれぞれ用途を異にしてしているのですが、大雑把に
言って「皇帝」と表示されているのは国内向け「天子」の方は外国や神事
に用いられます。これらも代々の皇帝に受け継がれるものですが朝代を超
えて継承されるのは傳國璽だけです。従って王莽が國璽を独自に制作した
ということはありません。
ただ「漢書」の本傳には王莽が真天子となったきっかけは哀章という者が
献上した「金匱符命」ですが、それは「天帝行璽」と「赤帝行璽」という
ものであったそうです。もちろん怪しげな代物で天帝や漢の高祖と縁のあ
る赤帝を持ち出して簒奪を正当化したに過ぎません。しかしこれは印璽そ
のものではなく璽影が押された文書と思われます。
「漢書」の「王莽傳」や「後漢書」の「劉玄劉盆子傳」によると、王莽が
未央宮の漸臺で乱兵に殺された際には璽綬を身に付けており、杜呉という
者が王莽を殺してこれを奪ったのに大変なお宝ということを知らず、礼官
のキャリアを持っていた公賓就に取り上げられ、就は莽の首と共に上官の
王憲に差出したのに、憲は更に上官に取次がずかってな振舞いに及んでい
て処刑されてしまいました。そこで公賓就は宛(河南)の劉玄の下に首級と
璽綬を持参しました。その後に玄は長安を占領している赤眉に降伏し劉盆
子に璽綬を献じましたが、盆子はまた光武帝に降伏して傳國璽は後漢の帝
室に世伝されることになりました。
漢末の董卓の乱に璽を管掌する者が宮中の井戸に投込んでいたのを孫堅が
発見し、堅の戦死後に袁術が堅の妻から奪っていたのを、術の死後に荊州
刺史の徐キュウ(玉偏に謬の右部)が許昌の獻帝の下に齎して、その後は魏
から晉に伝えられることになりました。
三國志のスレなので一応ここまで、以後の行方は御要望あれば書きます。
69 :
世界@名無史さん:2001/03/20(火) 23:26
BIG5コードが見つかりません
マイクロソフトのHPがかなり変わっているみたいで
場所が・・・
誰か知ってる人教えて下さい
あやめさん、もうちょっと馬鹿にも分かりやすく
長すぎるよ
続編希望。長くて結構
72 :
世界@名無史さん:2001/03/21(水) 03:49
呉で南海探索して書物を書いた人いたよね?
あれってどんな事書いてあったか分る?
73 :
世界@名無史さん:2001/03/21(水) 04:18
要望なし
74 :
あやめ:2001/03/21(水) 11:40
>72
康泰の「扶南土俗傳」と「呉時外國傳」・朱應の「扶南異物志」・沈瑩の
「臨海水土志」・萬震の「南州異物志」といったとこです。どれも成書と
して残っているものはなく断片的引用のみしか存在しません。
>71
これからは細切れで書くね。
>73
一個でも要望あれば書くポリシーなの、あなたは読まないでね。
75 :
世界@名無史さん:2001/03/21(水) 16:13
あやめには楊徳祖のあだ名を与えよう
76 :
世界@名無史さん:2001/03/22(木) 05:17
晋で活躍したのは蜀より圧倒的に呉の遺臣の方が多い
これはやっぱ蜀より呉の方が人材的に優れていた事を示すのかな?
77 :
世界@名無史さん:2001/03/22(木) 10:30
漢・魏の名家の系図が一冊の本になってたりしないの?
78 :
あやめ:2001/03/22(木) 11:37
南北朝から唐までは貴族社会なので系譜学が盛んでした。その集大成が
「元和姓纂」と「新唐書」の「宰相世系表」です。前者については岑仲
勉の後者については趙超の校本があります。どちらも北京の中華書局か
ら出版されています。
79 :
世界@名無史さん:2001/03/22(木) 12:44
何故このスレにだけ現れるのだろう・・・
80 :
院生:2001/03/22(木) 13:36
>>77 あるよ〜。魏晋の名家の系図だけど。本とまではいかず冊子くらいかな。
編著者は「矢野主税」さんですので、あとは探してね〜。(ダメ?)
あやめ、さんだ(爆)。
『元和姓纂』や『新唐書』宰相世系表はほんとの名家しか出てないです
よね。まぁ、ランク付けされてたりしますが。三国板なので三国時代の
有名人の系図を紹介するとすれば、周明泰「三国志世系表」でしょうね。
漏れとかかなりありますけど、ある程度使える工具書でしょうね。
81 :
あやめ:2001/03/22(木) 17:54
矢野さんて「門閥社会成立史」でしたよね。
周明泰の著書って存じませんでした。鉛印の本が出てましたら出版社を
教えてくださいませ。
専門家に脱帽!
82 :
院生:2001/03/22(木) 18:15
周明泰「三国志世系表」は『二十五史補編』開明書局に収録されてます。
またその抜粋である『後漢書三国志補表三十種』(中華書局)にも。
後者は「後漢公卿表」魏・呉・蜀の「将相大臣年表」や「三国職官表」
(筑摩版はこれをもとに官職説明だけ訳出してるけど、本物の方には
在任者リストがある!)などがあり、すごい便利。だいたいのことは
調べがつく(昔はヘビーに使ったなぁ)。最近はとんと本屋で見かけ
ませんねぇ。。。
矢野さんのは『門閥社会成立史』の他に、
『魏晋百官世系表(改訂)』長崎大学史学会(長大史学叢書2)・1971年、
という編纂ものがあるんですよ。冊子ですけど、三国フリーク(おれだ
け?)垂涎ものです。前掲の中国モノの「世系表」と違って、系図にな
っているのですごい見やすいです。奥さんとかも分かるし。
あ、あやめさんに教えてるぅ(喜)。
83 :
あやめ:2001/03/22(木) 19:49
傳國璽の行方その後やっぱり書きますね。「要望なし」のレスの人どっかよそのスレ
でしばらく遊んでてね。
栗原朋信さんは「秦漢史の研究」で傳國璽は後漢になって伝説とともに新たに作られ
たもので、前漢時にはまだ存在せず「元后傳」の話は怪しいと主張してますが、それ
じゃ身も蓋もないからシカトしとくことにします。
さて禅譲ということで傳國璽は晉の帝室に伝えられることになりましたが、永嘉の乱
で漢帝の劉聰は洛陽を陥れ懷帝を捕らえ、傳國六璽とともに本拠地の平陽に連行しま
した。「資治通鑑」には単に「六璽」とのみ記していますが「十六國春秋」には「傳
國六璽」と言っています。これも「六璽」が傳國されていたような表現ですが、その
後の成り行きから傳國璽も含まれていたと解すべきもののようです。聰の死後は太子
の劉粲が嗣ぎましたが外戚のキン(革偏に斤)準に一族皆殺しにされました。準は自ら
漢天王と号し百官を置きましたが、傳國璽を胡嵩という者に渡し「昔から胡人で天子
になった者はおらぬ、お前はこれを晉家に返還しに行ってまいれ」と命じましたが、
嵩はこれを引き受けなかったため準に殺されてしまいました。
今日はここまでね。
84 :
あやめ:2001/03/22(木) 19:53
院生さんありがと、開明の「補編」なら家にあるんだわ、どこにあったっけ
探さなくちゃ。
85 :
あやめ:2001/03/22(木) 19:59
「補表三十種」はめっかりましたー、「二十四史研究資料叢刊」の上下
本ね、これから大いに利用しましょ。
86 :
世界@名無史さん:2001/03/22(木) 20:38
どんどんあやめスレになっていくよ〜
あやめには三国志板100レスの修行を課す
87 :
世界@名無史さん:2001/03/23(金) 01:21
漢から魏へ
魏から晋へ移って変わった物って何?
制度とか官位名とか地名とか
88 :
る:2001/03/23(金) 02:55
見たことも聞いたこともないような本をまるで週刊朝日のように弄ぶこの人たちったら(汗)。
院生「それ、先週のニューズウィークに載っていたよ。AERAにも。」
あやめ「ニューズゥイークなら家にあるんだわ。探さなくちゃ。」
あやめ「AERAめっかりましたー」
89 :
世界@名無史さん:2001/03/23(金) 06:02
あーあ、司馬遷が三国時代まで生きていたらナー。
90 :
世界@名無史さん:2001/03/23(金) 07:40
91 :
院生:2001/03/23(金) 13:12
>>88 「見たことも聞いたこともないような本」
たしかに一般の人にとってそうでしょうね。中国の本だし、
日本で流布してる三国志本の参考文献にもあるかないかの
本だから。ホントの種本なんだけどね。
>>90 苺ちゃんねるものぞいてるけど、他にきちんと答える人い
るので(笑)。最近はあんまり盛んじゃないみたいだし。
92 :
あやめ:2001/03/23(金) 13:25
苺ちゃんねるって2ちゃんねると全然別系統なの?スタイルは一見似てる
けど。
93 :
世界@名無史さん:2001/03/23(金) 15:51
漢と魏の制度上の区別は難しいなあ
官吏選抜の方法が変わったくらいか?
魏の諸王はかなり厳しく監督されていたらしいが
後漢末期の諸王の実体もよく分らない・・・
94 :
世界@名無史さん:2001/03/23(金) 16:30
魏の九品官人法の採用は、後世への影響も大きかったぞ。
95 :
院生:2001/03/23(金) 23:40
漢と魏の制度上の区別は確かに難しいですが、
魏は税制上大きな転換期に位置づけられます。
漢が行っていた人頭税やきめ細かな徭役など
は魏では徴収できなくなっていき、やがては
人ではなく土地に対して課税するとか、生涯
兵役を義務づけられる兵戸などが出てきます。
屯田制(軍屯・民屯)もありますね。
96 :
世界@名無史さん:2001/03/24(土) 02:24
曹叡が長生きしてれば魏は長持ちしただろうな・・・
曹芳と曹爽が二人とも盆暗だったのが痛い
97 :
世界@名無史さん:2001/03/24(土) 02:35
さらに勝手に追加すれば、
魏で行われた有力者に対する刺吏と仮節・斧節都督諸軍事の兼任が
その後、独立性を持った地方の軍事兼行政組織の成立
→後の地方軍閥を導いた、とも言える。
それまでは、(非常時や特殊な例を除き)制度としては軍とシビリアンの区別がなされていたはず…
そう考えれば、ますます罪な時代だ…(笑)
98 :
院生:2001/03/24(土) 11:57
>>90 軽く遊びに行きました。
>>97 軍とシビリアンの区別ができなくなってきたから
刺史と軍権が結びつき、後の状況になったのでは。
いずれにせよ、過渡期ですよね、魏晋期って。
99 :
世界@名無史さん:2001/03/24(土) 21:25
考えてみれば、魏は建国から滅亡までずっと戦いに明け暮れた王朝
だったって事だな・・・
刺史の軍閥化はある意味必然である
100 :
世界@名無史さん:2001/03/24(土) 22:23
考えてみれば、魏は建国から滅亡までずっと戦いに明け暮れた王朝
だったって事だな・・・
刺史の軍閥化はある意味必然である
101 :
る:2001/03/25(日) 00:56
酔っ払ってるから聞いちゃうけど、
魏って、たかだか数十年の王朝だよね。三国志はよく知らないけど、
やはり後代の王朝にも一目おかれているという印象がある。
歴史的に、相当インパクトのある国だったの?その理由は?
(聞き方はぶしつけであるが真摯なしつもんである)
102 :
世界@名無史さん:2001/03/25(日) 04:08
インパクトはあったかな〜
何か簒奪の見本みたいになった王朝という気がするが・・・
そういえば演義で司馬炎が「曹丕ごときが皇帝になったのだ
儂がなれぬはずがない」とか「儂は漢の為に仇を討つのだ」
のセリフを吐いてるけど、これって晋書に書いてある事なの?
104 :
世界@名無史さん:2001/03/25(日) 11:35
>>103 どこがバカなんだか?
演義のセリフの半分近くは正史その他に記述があるセリフだぞ
それはそうと魏が人頭税を徴集できなかったとかって
どこにそんな記述があったの?
105 :
世界@名無史さん:2001/03/25(日) 11:53
半分はオーバーだったな
でも有名なセリフには実際に記載のある物が多い
>>104・105
なら、試しに演義のセリフで正史にあるものを3つあげてみろよ。
本当に知ってるなら3つぐらい簡単だろ?知ったか厨房くんたち。
107 :
ガージー:2001/03/25(日) 12:53
>101
後の時代に、影響をおよぼした、制度を作ったからじゃないの、屯田制とか、九品中正制とか
>>107 それは現代人の見方だよ。
後代の王朝にとっては、魏の禅定のやり口こそ重要であって、みなそれを真似た。
109 :
世界@名無史さん:2001/03/25(日) 14:59
>>106 髀肉の嘆 水魚の交わり 三顧の礼
の話(正史その他に載る)でのやり取りは演義に引用されているよ
110 :
世界@名無史さん:2001/03/25(日) 15:07
禅定 仏教用語 坐禅で精神を統一して静かに心理を考える境地に入る事
111 :
くたたん:2001/03/25(日) 18:19
√ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
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| / _ _ | | ウンチを喰らう!!
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113 :
くたたん:2001/03/25(日) 18:42
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| ヽ / __\ |.| _ _ 6)
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/《 <_ ミ _ヽ | \ \ | < 敵将山内討ち取ったりぃぃ!!
く く~l | |\|\ \  ̄ ̄ 丿 \
ヽヽ| | |\/~\_―\____/⌒l __ \_________
"'', ー、| |レ'\/ l\_|__|__ レ'~ヾ::::__L||⌒ヽ(、彡)
/ ̄/ ̄| \__|/ / | :~ || ̄~~l| 三|
/ ∧ ヽ \/ | | / ノ _l\_|
/ / ヽ ヽ | |:::j:::/ /\__j |
/ / ヽ ヽ |\ | / / \__|
/ / / / l ̄l ̄~回 ̄|
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/ / |_| /二二:二ニ|
/ ̄/ `ー' |__. || /ヽ
114 :
くたたん:2001/03/25(日) 18:43
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ー― 、 ,―一 ( ● (,ヽ_/_/_/_/;))_/ |:::::::::::::::::::●
___―-`-------ヽ_レ' _,・_/::::::::::::::::::::::::
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● ● |●::::::::::::::,:::::::::::::●::::::::
ぶぶ漬け食うて帰りなはれ
115 :
世界@名無史さん:2001/03/25(日) 20:38
何か変なのが現れたな・・・
魏における許昌と[業里]ってどんな感じだったの?
[業里]は北都的な扱いだったという気がするが・・・
王家の墓とか有ったんだっけ?
116 :
世界@名無史さん:2001/03/26(月) 04:16
日本にも三国時代ってあったかなあ
三政権分立みたいな
やっぱ同時期に三つの国ができてそれぞれ
滅びていったところに物語性があるんだよね
117 :
世界@名無史さん:2001/03/26(月) 06:30
113 114のオッサン誰やねん?
気色悪い・・・
118 :
世界@名無史さん:2001/03/26(月) 06:51
任天堂/山内とソニコン/クタラギ
119 :
世界@名無史さん:2001/03/26(月) 09:54
日本が三つに割れたのは観応の擾乱の時か?
南朝・足利尊氏・足利直義の三者が争った
他にはあったかな・・・
120 :
世界@名無史さん:2001/03/26(月) 10:08
後白河法王政権と鎌倉の源頼朝政権と奥州藤原氏ってのはどうだ?
121 :
世界@名無史さん:2001/03/26(月) 11:07
その時期は
平家と木曽義仲と鎌倉の源頼朝政権と奥州藤原氏
で四大勢力でしょ。
122 :
世界@名無史さん:2001/03/26(月) 15:22
奥州藤原氏は公孫淵チック・・・
123 :
世界@名無史さん:2001/03/26(月) 17:47
呉が三公を置いたのは孫皓の時代から?
124 :
世界@名無史さん:2001/03/26(月) 20:24
呉末期は何気に名臣が多い
孟仁とか陸凱とか華カクとか
125 :
世界@名無史さん:2001/03/27(火) 09:38
蜀は建国の時に三公を置いて、後孔明独裁になったんだっけ?
126 :
世界@名無史さん:2001/03/27(火) 13:39
伝が立ってないのはおかしいって人物いる?
蜀は馬岱と呉懿は立てて欲しかったな
魏は魏諷伝
呉は初代丞相の伝
127 :
世界@名無史さん:2001/03/27(火) 13:48
司馬懿伝は晋書じゃないと読めないのが辛いね
128 :
世界@名無史さん:2001/03/27(火) 13:49
宣帝紀か・・・
129 :
院生:2001/03/27(火) 16:59
ネット上で解體晉書というグループが、『晋書』の
翻訳に挑戦してます。本紀の翻訳もあったように記
憶してますが、宣帝紀かどうかは記憶にありません。
130 :
世界@名無史さん:2001/03/27(火) 20:56
司馬懿の兄の伝は晋書にもあるんだっけ?
解体晋書はあんまり翻訳進んでない感じ
単に公開してないだけかも知れないが
131 :
世界@名無史さん:2001/03/28(水) 00:24
age
132 :
世界@名無史さん:2001/03/28(水) 04:18
133 :
世界@名無史さん:2001/03/29(木) 02:25
晋に入って太守から内史に呼称変更されたんだっけ?
州名も大分変わってるなあ
何で変更されたんだろ?
134 :
世界@名無史さん:2001/03/29(木) 11:35
漢以前から続いている家の人物といえば誰がいる?
135 :
世界@名無史さん:2001/03/29(木) 14:42
>134
孔子の子孫の家は歴代諸王朝に多かれ少なかれ優遇されてきたので
現代まで続いてます。
136 :
世界@名無史さん:2001/03/29(木) 18:02
呉の薛綜は斉の孟嘗君の子孫らしいよ
孫堅が孫子の子孫ってのは詐称っぽい
137 :
世界@名無史さん:2001/03/30(金) 09:23
袁家は元々何者だったの?
曹操が曹参の子孫だってのはどっかで読んだ記憶が・・・
姜維が太公望の子孫だってのと大差ないのかな?
138 :
世界@名無史さん:2001/03/30(金) 12:20
大将軍と大司馬が併置されてる場合があるが
どっちに軍事を統轄する権限が有るんだろ?
139 :
世界@名無史さん:2001/03/30(金) 16:17
>大将軍と大司馬が併置されてる場合があるが
>どっちに軍事を統轄する権限が有るんだろ?
軍令と軍政は別なんじゃないの?
140 :
世界@名無史さん:2001/03/30(金) 17:48
「沈黙は銀 雄弁は銀」の昔の意味を知ってるか?
141 :
世界@名無史さん:2001/03/30(金) 19:19
太尉と大司馬と大将軍ではどのように職掌が違うの?
大司馬にも兵馬の権はありそうだがなあ・・・
>>140 本当にそれでいいのか?
142 :
世界@名無史さん:2001/03/30(金) 21:44
日本で発見された魏鏡については何かいい情報無い?
公孫氏政権から手に入れたもんだろうか?
呉との通交があったなら呉鏡も出土してもおかしくないよな・・・
143 :
世界@名無史さん:2001/03/30(金) 21:55
景初年鏡の事ね
144 :
世界@名無史さん:2001/03/30(金) 23:52
黄忠の息子って確かいたよね?
劉備に仕えた時点でもういい年だったはずだが武功話の欠片もない
勇士の子は勇士って訳じゃないのかねえ
145 :
世界@名無史さん:2001/03/31(土) 02:36
親子二代で勇士って方が少ないな
関興も武勇より人格を評価されてたようだし、
張虎・楽チンなんてその典型だな
まあ正史に弱将を示す記述はないけど
戦国武将もそんな感じかも知れない
146 :
世界@名無史さん:2001/03/31(土) 02:39
そもそも倭国が景初四年鏡を偽造する理由が分らないんだけど・・・
ってこれは日本史板向けだな
147 :
世界@名無史さん:2001/03/31(土) 17:30
三国志研究の第一人者って誰?
案外陳舜臣辺りだったりしてな
148 :
世界@名無史さん:2001/03/31(土) 19:44
魏が安定政権を築けなかったのは三代目が幼君だった事が大きいのかな?
三代目がひ弱いと没落していく家が多いね
足利・徳川幕府が長続きしたのは3代目がしっかりしていた点が大きい
中国でもそう言えるかな?
149 :
世界@名無史さん:2001/03/31(土) 23:20
WWWWW
/W W
/ ∵
/ /――――― |
|∵/ |
|∵ ┗━ ━┛ |
|∵ ⌒ ⌒ |
(6‖ つ |
| \____ノ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| \_/ / < 貴殿の言う通りっス
/| /\ \
150 :
世界@名無史さん:2001/03/31(土) 23:41
曹芳はパチンコで守役の顔面を狙って遊ぶようなヤツだからな・・・
あれじゃ国は保てん
151 :
世界@名無史さん:2001/04/01(日) 07:39
三国時代が起源の物って何かある?
152 :
世界@名無史さん:2001/04/01(日) 10:09
清談くらいじゃないの?
木牛も連弩も戦国時代に有ったんだっけ?
三国志には文学者以外の文化人の伝ってほとんどないよね・・・
153 :
世界@名無史さん:2001/04/01(日) 13:19
三国時代の考古学的遺跡の一覧載ってるサイトある?
154 :
世界@名無史さん:2001/04/01(日) 14:56
秦の兵馬俑などに匹敵する美術品が出土しないのかな・・・
曹操の墓はもう盗掘されたのだろうか?
それともまだ地中に眠ってる?
155 :
院生:2001/04/01(日) 15:38
>>153 「睡人亭」かな。曹操一族の墓とか呉の朱然の墓、
近年出土の呉の走馬楼呉簡の説明があったと思う。
>>154 曹操の墓ってどれか分からないんだよね。薄葬し
ろってのが遺言みたいなものだったから。
156 :
世界@名無史さん:2001/04/01(日) 18:29
演義では七十七の偽の墓を作れって言ってなかった?
それはどっから出たんだろう・・・
チンギスハンか?
157 :
李密:2001/04/01(日) 19:10
>107
屯田制はオリジナルじゃないって、曹操本人が言ってるので。
前漢の武帝を手本としたそうな。
九品官人法については、あれ単体が影響を与えたというより、
制度が発展していく上での途中形態の1つと考えた方がいいんではないでしょうかね。
>141
院生さんやあやめさんほどの資料的土台はないので怪しいですけど。
太尉は軍事における賞罰や人事を掌るというだけで、
太尉の職権のみをもって軍が指揮されたことは(たぶん)なかったと思います。
大司馬と大将軍はようわかりません。
ただ、太尉と違ってこの2つは非常設の官ですから、
この官に付いた人の権力にもよったのではないでしょうか?
宰相格でも補佐役にすぎない人と専横を極めてる人のように個人差がありますし。
併置された場合は職権を分け合ったんでしょうけれど、
職名だけではどっちが統轄していたのかわかりませんね。
158 :
李密:2001/04/01(日) 19:20
>151
「兵は神速を貴ぶ」の言葉では?
あと「偽帝」の存在とか。
159 :
世界@名無史さん:2001/04/01(日) 22:37
曹操一族の墓って曹操含めて?
ちょっと覗きに行ってみようかな・・・
大将軍といえば、孫権が魏初に任命されてるね
ありゃ兵馬の権は無いな
160 :
世界@名無史さん:2001/04/02(月) 19:55
age
161 :
世界@名無史さん:2001/04/02(月) 20:19
呉は左右大司馬・上下大将軍を置いてるね
大司馬の方が官位は上だったかな・・・
自信ない
魏は外戚・宦官に権威を与えず、後漢の轍を踏まない
ようにしたが、幼帝を立てるタブーまでは回避できなかったね
>147
断言しよう。「それだけはない」!!!
数少ないけど魏晋期の研究者はそれなりに活動してますよ。
163 :
世界@名無史さん:2001/04/03(火) 03:49
三国志の研究なんて本場中国でやり尽くされているんじゃないの?
日本人はそれを和訳するのがせいぜいでは・・・
164 :
李密:2001/04/03(火) 03:57
お言葉ながら歴史の研究というものを、
「やり尽くす」というのはほとんど不可能と思われまする。
新たな発掘品も出土してきますし、
宮崎市定先生のように中国だけでなく
アジア全体という別な視点から見ようとされる方もおられるわけで。
まあ飯のタネくらいの部分は残ってるんじゃないでしょうか。
165 :
どきどき名無しさん:2001/04/04(水) 09:14
劉備と関羽が敵味方に分かれるエピソードが史実ってのは
興味深いよな〜
166 :
世界@名無史さん:2001/04/04(水) 18:32
何で蜀志ってあんなに曖昧模糊としてるんだろ・・・
陳寿の亡国の臣は国を語らず精神か?
陳祇伝が読みたいよ
167 :
世界@名無史さん:2001/04/04(水) 18:34
太尉が一時大司馬に呼称変更されたんだよね?
168 :
世界@名無史さん:2001/04/04(水) 19:11
>166
>何で蜀志ってあんなに曖昧模糊としてるんだろ・・・
人材不足の蜀漢朝には史官がいなかったから。
169 :
世界@名無史さん:2001/04/04(水) 19:31
苟も漢の正統を継ごうっていう王朝に記録係がいなかったとは
思えない
そういった記録関係は成都の乱で失われたんじゃないかな・・・
蜀滅亡時の詳細な状況は特に記されてないでしょ?
それに伝なんてその人をよく知る人から聞いて書くものだろうし
陳寿はつまり蜀の旧臣といい関係になかったのではないか?
だから情報が得られなかったと思う
170 :
世界@名無史さん:2001/04/04(水) 20:19
劉備が関羽と上手く合流できたのは何か筋書き通りっぽいよな〜
と陳舜臣が言ってました
171 :
世界@名無史さん:2001/04/05(木) 00:13
蜀志より呉志が詳しいのは納得イカン
後紀伝だけなのに志って呼ばれるのは何で?
172 :
世界@名無史さん:2001/04/05(木) 18:49
曹操が魏王に封じられたのは何で?
生まれ故郷でもないし・・・
単に重要な土地だから?
司馬昭が晋王に封じられたのも
理由が分らない
173 :
世界@名無史さん:2001/04/05(木) 23:01
曹操の曹家は曹参とは関係あるの?
司馬家のルーツは何だっけ?
174 :
世界@名無史さん:2001/04/05(木) 23:53
三国志に訓点施したのは誰?
175 :
>>173:2001/04/05(木) 23:54
漢の丞相曹参の子孫、と武帝紀最初に書いてなかったっけ?
176 :
世界@名無史さん:2001/04/06(金) 23:06
劉備の備って名珍しくないですか?
177 :
世界@名無史さん:2001/04/07(土) 03:23
劉禅の禅もないよね?
曹操の操も珍しい
178 :
院生:2001/04/07(土) 04:23
>177
陳寿の先祖に陳禅がいます。
179 :
世界@名無史さん:2001/04/07(土) 13:30
>>169 政治宣伝でいってたんであって、そのために史官おくほど余裕なかったんとちゃう?
180 :
世界@名無史さん:2001/04/07(土) 21:38
史官くらい財政に関係なくおけるでしょ
劉禅が歴史嫌いじゃなけりゃね
関係ないが、大臣に諡を贈るのは魏が圧倒的に多いね
漢の時は滅多な事じゃ贈らなかった気がする
181 :
世界@名無史さん:2001/04/08(日) 23:28
劉関張は史上最も有名な三兄弟って事でいい?
まあ正史じゃ兄弟と書いてないけど
182 :
世界@名無史さん:2001/04/09(月) 01:38
団子のが有名
183 :
世界@名無史さん:2001/04/09(月) 09:32
桃園の義とかを創作したのは誰?
羅貫中以前の人?
184 :
世界@名無史さん:2001/04/09(月) 17:47
建国の君主の義兄弟の家系が重用された例って他にもある?
185 :
世界@名無史さん:2001/04/09(月) 21:22
低レベルな質問ですまんが、
劉備の手が地につくほどながく、耳が異常にでかいと
記述されてるのは正史?演義?両方?
186 :
世界@名無史さん:2001/04/09(月) 23:14
先主伝に記載ありますよ
身長は七尺五寸です
187 :
世界@名無史さん:2001/04/10(火) 14:01
夏侯覇と夏侯玄ってどんな関係だったっけ?
188 :
世界@名無史さん:2001/04/11(水) 01:19
曹操の後継ぎに曹沖が決まっていたら漢は滅びずに済んだろうか?
189 :
世界@名無史さん:2001/04/11(水) 17:47
夏侯玄は夏侯淵の甥夏侯尚の子
故に夏侯覇からすれば玄は従兄弟の子
190 :
世界@名無史さん:2001/04/11(水) 19:58
254に夏侯玄が殺されて夏侯覇が亡命してからは
曹・夏侯氏の高官は皆無になったんじゃ?
そこで事実上、司馬氏が魏の全権を握る事になったと思う
191 :
世界@名無史さん:2001/04/11(水) 23:05
>188
曹沖って、確か赤壁の年に死んでたんじゃなかったっけ?
彼がもっと長生きしていたらってこと?
192 :
世界@名無史さん:2001/04/12(木) 00:58
193 :
世界@名無史さん:2001/04/12(木) 02:45
華陀(漢字これでいいんだっけ?)を殺してしまったことが
悔やまれる……
こうおっしゃてる方が居るんですが、
そうなんですか?
ギャハハハ!!これで正史を読んだ事がないのがバレバレになったね(藁
正史の記述には、「手は膝に届き、己の目で耳が見える」としか書いてないぞ。
「両耳が肩に付く」という表現は「三国志演義」で初めて登場した時の風貌だよ。
だいたい、立った状態で地面に手がつくほどなんて、勝手に話を作るなよボケ。
195 :
世界@名無史さん:2001/04/12(木) 23:47
ええと、ちくま文庫の『正史三国志』5巻によると確かに
「手を下げると膝にまで届き、ふり返ると自分の耳まで見
ることができた」という表現になってますな。
>>194 口調は厨房だが、書いてる事は間違いないと思うよ。
197 :
世界@名無史さん:2001/04/13(金) 13:12
夏侯覇は曹爽の誅殺後に亡命してるね
郭淮との不仲が大きな原因らしい
覇の弟威の家系は州刺史クラスを歴任して司馬氏の
外戚になっている
198 :
世界@名無史さん:2001/04/13(金) 23:05
華佗とともに有名な張機は正史に記載がない?
199 :
世界@名無史さん:2001/04/14(土) 02:37
三国時代の文化に一番詳しい本て正史以外でどれ?
後漢書て、信憑性高いのかな?
201 :
世界@名無史さん:2001/04/14(土) 13:20
華佗は曹操の侍医になる事を嫌がって捕えられて死んだらしい
その後、曹沖が重病になった際に華佗が生きていれば・・・
と言われた話が載っている事から華佗は208年以前に死んでいる
事になる
方技伝の記述は現代医学からしたら眉唾甚だしいはずだが、
その辺は誰か詳しくないのかなあ
後漢書は特に三国志に劣ることはないですよ
地理・官位などの専門的記述もあるし、三国志より時代が長い分
色んな点で内容が濃いです
202 :
世界@名無史さん:2001/04/14(土) 17:14
moge
203 :
世界@名無史さん:2001/04/15(日) 00:14
何かage荒らしいない?
短時間に下がりすぎなのでage
204 :
世界@名無史さん:2001/04/15(日) 00:19
三国時代当時の世界各国の王を挙げてくれい
日本は卑弥呼
高句麗は山上王・東川王
ローマはコンモズス帝?
205 :
世界@名無史さん:2001/04/15(日) 00:35
ローマはちょうど、アホみたいに皇帝が擁立された時期です。
206 :
世界@名無史さん:2001/04/15(日) 01:02
三世紀最強の軍隊を決めよう
207 :
世界@名無史さん:2001/04/15(日) 15:11
三国志最強の軍隊をまず決めないと・・・
魏・呉・蜀ではどれが強いんだろ
兵の強壮さでは蛮族の兵が強そうだが・・・
最強の軍隊なんて発想が無意味
どういう基準で決めるの。
三国板でやってください。
209 :
R・シュトラウス:2001/04/15(日) 19:06
「ツァラトゥストラはかく語りき」は1896年作曲した。
210 :
マサヒコ:2001/04/15(日) 20:10
魏志倭人伝は12世紀頃に最終的にまとめられたと聞いていますが
すると史実とのずれがあるのではないですか?
211 :
世界@名無史さん:2001/04/15(日) 20:46
16世紀最強の軍隊スレがあったのも知らない方がおいでとは・・・
文句の一つもつける前に何か面白いカキコをして欲しいものよ
212 :
世界@名無史さん:2001/04/15(日) 22:29
武器の発達程度は3世紀頃のローマ・ペルシアと中国ではどちらが
優れてたんだろ?
>175
この当時、姓が一緒ならOOの子孫と称するのがはやっていたそうだ。
OO最強といった類の話は
武道武芸板でも禁止されてる。理由は
結論がでないから。
215 :
名無しさん@1周年:2001/04/16(月) 13:01
大事なのは結論じゃなくて議論の過程なのさ〜
216 :
世界@名無史さん:2001/04/16(月) 19:27
洋弓と中国の弓ではどっちが優れてるんだろうね?
217 :
世界@名無史さん:2001/04/17(火) 01:56
>>211 あなたのカキコも特に面白い内容ではないと思いますが。
>>188 曹操の世継ぎが誰でも恐らく漢の滅亡は避けがたかったのでは。
曹操が死ぬ頃には漢の皇帝は事実上権威のみの存在であったし
曹沖が世継ぎになっても家臣達は帝位につく事を主張したのではないかな。
218 :
世界@名無史さん:2001/04/17(火) 19:52
裴松之と范曄(後漢書編者)は近い関係に有ったらしいが、詳細
知ってる人いない?
219 :
世界@名無史さん:2001/04/17(火) 21:45
最後まで漢の為に働きそうな臣下がいなかったような・・・
楊彪はまだ生きてたみたいだけど、曹操にばりばりマークされて
心身ともにボロボロっぽかったし・・・
荀ケはやっぱり漢の臣である誇りを持っていたのだろうか?
誰か曹丕が帝位についたとき涙を流して咎められてたよね?
220 :
世界@名無史さん:2001/04/18(水) 03:00
大喬・小喬の記述無さ過ぎ
221 :
世界@名無史さん:2001/04/18(水) 19:54
孫策の実子って一人だけ?
大喬は孫策が健在なら皇后として伝が立ったかも知れないのにね・・・
222 :
愚礼:2001/04/18(水) 20:52
>>212さん
攻城戦ならローマ圧勝
ローマの攻城塔と『雲悌』
どっちが優れているかは明らかでしょう。
あと、歩兵もローマが勝つでしょう。
魏の騎馬隊も、ローマの重装歩兵を打ち破る事は出来ないと思います。
で、三国時代にはあぶみはあったのでしょうか?
某モーニングの漫画には、堂々と描いてあったが…。
223 :
世界@名無史さん:2001/04/18(水) 22:43
>222
三国時代にあぶみはありませんでしたよ。
もっとも三国志演義の挿し絵には書いてあったらしいですが(笑)。
ところでローマの時代には魏武注孫子に匹敵するような戦術戦略書は
存在したのでしょうか?というか兵学自体が古代中国の域まで達して
いたのでしょうか?興味あるんですけど。
224 :
世界@名無史さん:2001/04/18(水) 23:19
ローマ軍はパルティアンショットに苦しめられてたんでなかった?
鮮卑賊と戦い馴れた幽州の魏軍は結構手強いかも
後、連弩はどうかね?
225 :
愚礼:2001/04/19(木) 00:17
>>224さん
確かにそうなんです。
まあ、ギボンはローマ軍が堕落していたせいにしているみたいですが…
ローマに連射石弓は無いが(『ど』の字が出ないンです…)
野戦用の投石機や大型のバリスタならありました。
226 :
世界@名無史さん:2001/04/19(木) 00:51
>225
「ちょうどきゅう→超弩級」で出ませんか?
227 :
李密:2001/04/19(木) 01:24
ダメだ、こういう古代中世の軍事関係の話題になると参加したくなる……(死)
>222
攻城戦の技術では「墨家」の存在からもわかるとおり
古代中国に分があります。
水攻めや坑道戦の発想すら持っていた中国のオタッキーな攻城戦術は
ローマに勝るものでしょう。
歩兵の会戦ならローマのものですが、古代中国の軍が会戦に応じるかでしょう。
中国では伏兵などが常套手段のように使われていますから。
また、ローマ軍にはいわゆる弓兵に属する部隊がいないのも泣き所でしょう。
軽歩兵による散発な射撃はありますが、中国のような一斉射撃の概念がありません。
それと、魏の騎馬軍団はあれはれっきとした鮮卑の騎兵ですよ。
曹操は胡や鮮卑を国内に移住させるなどして、
異民族傭兵を戦闘に使用していました。(前漢の武帝も烏桓騎兵を使っていました)
また、公孫サンが1万もの弓騎兵を抱えている事からもわかるとおり、
弓騎兵というものが発達しています。
タキトゥスの「ゲルマニア」にはゲルマン系の民族は手槍などしか使わないという事が書いてあります。
つまり、騎兵だけなら西ローマを崩壊させたゲルマン諸族より強力と言うことです。
東ローマの歩騎混合軍ならいざ知らず、歩兵中心の軍では大量の弓騎兵を抱えた中国軍には勝てないでしょう。
>223
ローマ時代には盛んに兵書が書かれました。
日本でも和訳本が出ているものの中にポリュアイノスの「戦術書(国文社)」がありますし、
フロンティヌスという人物も「戦術論」なる本を書いていたそうです。
紀元前4世紀頃のアエネアス・タクティクスという人物は(後ろのはあだ名でしょうか? マグヌスとかマクシムスというような)
「タクティカ(戦術・用兵の意)」や「ポリオルティカ(攻囲論)」など数冊の軍事書を書いたそうです。
ポリュアイノスの「戦術書」に関しては戦例の引用集であり、
中国の兵書のように理論体系としては整備されていません。
ただ、この訳本の解説によると、フロンティヌスの本はきちんとした理論体系に基づいているそうです。
また、ハンニバルやアレキサンダーやスキピオは
クセノフォンの「アナバシス」を何回も読んだそうで、
おそらくトゥキュディデスのような戦史書も読まれたのではないでしょうか。
全体としては軍制も整い、また陣営の建設法まで整備されていたローマの軍事科学は
古代中国に劣らないものでしょう。
228 :
世界@名無史さん:2001/04/19(木) 01:33
>>227李密氏
>それと、魏の騎馬軍団はあれはれっきとした鮮卑の騎兵ですよ。
鮮卑じゃなくて「匈奴&烏桓」なのでわ。
229 :
李密:2001/04/19(木) 01:34
全体として杓子定規なイメージがあるのがローマの軍事科学です。
一方、型よりも流動的な面を重視しているのが中国の軍事科学です。
真っ向勝負ではローマ、計略・遊撃なら中国軍でしょう。(……八路軍?)
230 :
李密:2001/04/19(木) 01:46
>228
おや?
どっかに鮮卑族を冀州かどこかに移住させた話がありませんでしたっけ?
(烏桓と鮮卑の区別もいまいち曖昧ですけど)
231 :
世界@名無史さん:2001/04/19(木) 01:53
中国でも霹靂車と呼ばれる投石機が官渡攻防戦で使われている
その後使われた記述は見たことないけど
232 :
世界@名無史さん:2001/04/19(木) 02:00
>>230 鮮卑じゃなくて匈奴だろ
後漢末に匈奴が并州に移住させられた
233 :
李密:2001/04/19(木) 02:44
>232
がーん。じゃあ、匈奴だったんだ。
勘違いスマソ。
とりあえず北方異民族を傭兵として使っていた、ということで。
234 :
世界@名無史さん:2001/04/19(木) 03:58
烏桓も忘れんな、烏桓も。
曹操が207年に柳城へ侵攻、白狼山にトウトツを斬り、以後、烏桓騎兵を配下に加えた。
この時、屬では「曹操の兵が北を向いてるうちに攻めよう」という議論がおこったはず。
南匈奴は漢に服属して、長城の南に移住していたが、
216年にコチュウセン単于(匈奴の部衆に叛かれ困窮していた)が曹操に臣属し、
まもなく南匈奴は曹操によって五部に分割された。
甘粛の且渠部やオルドスの鉄佛部は五部に属さず独立を保持。
鮮卑は曹操には叛服つねなき状態で、どっちかっていうと遼東の公孫氏と友好的だった感じだが。
235 :
世界@名無史さん:2001/04/19(木) 04:05
236 :
世界@名無史さん:2001/04/19(木) 14:26
『蒼天航路』の烏桓は笑えた。
237 :
世界@名無史さん:2001/04/19(木) 20:37
238 :
234:2001/04/20(金) 05:20
239 :
李密:2001/04/20(金) 05:39
しかし、異民族傭兵に頼りすぎて、
内部と外部の両方からズタズタにされるってのは晋もローマも一緒ですね。
240 :
世界@名無史さん:2001/04/20(金) 07:16
傭兵なのかな?
傭兵っていうと出身の本国が別にあるみたいだけど、
曹操の兵力の左右の腕ともいうべき匈奴と烏桓は、
もはや魏(つーかまだ漢だけど、漢の中の魏)が祖国という状態なのでわ?
241 :
名無しさん@1周年:2001/04/20(金) 14:48
晋における匈奴は傭兵の意味合いもあったかも・・・
匈奴の劉淵は兵を集めてくるからと言って并州の故地に
向い自立を図っている
鮮卑は魏・晋とは大体において敵対関係にあったはず
242 :
世界@名無史さん:2001/04/20(金) 15:25
ローマも漢も唐もそうだが、大帝国が国内の平和を享受すると、民に
せよ貴族にせよ、軍務を嫌がるようになる。嫌がる者に無理矢理武器
を持たせても、たいして役に立つ軍隊にはならない。それよりは、そ
ういう惰弱に陥っていない他民族の兵を使った方が軍としては役に立
つのだ。ただし、その軍に国を覆される危険もある。
243 :
世界@名無史さん:2001/04/20(金) 21:55
鮮卑は領土が広大で東・中・西に分かれたはず
晋の頃には慕容・拓跋・段氏が有力で、慕容氏は
東晋に協力するという名目で後趙と戦っていた
244 :
世界@名無史さん:2001/04/21(土) 13:07
>221
大喬が孫策の正室であった可能性ってかなり低いと思う。
孫堅が死んだのが孫策18の時。
あの当時の風習として家督を継いだら即婚儀だから(もちろんその前に手を
出していた可能性はかなり大きいが)大喬が正室って事はないんじゃないか?(大喬を娶ったのは
孫策24くらいの時だし)
それに孫策って孫紹の他に娘が最低3人はいるんだよな。
孫紹の産みの親ってのは誰なんだろう……。
まぁ孫策生きていれば、その人が皇后になっていたはず。
245 :
李密:2001/04/21(土) 14:44
>240
軍隊の種類は私的にはですね、
1、徴兵制(軍への参加を義務づけて強制で集めてくる)
2、志願兵制(向こうから望んで来る連中だけ)
3、封建制の軍役(恩と奉公のような対等の約束事。言うなれば対等同盟)
4、傭兵制(こちらから依頼したり、金を払って連れてくる。対等同盟ではなく業務契約。)
という何ともいいかげんな分け方であります。
で、曹魏の異民族騎兵隊は1,3じゃあないはずですよね。
軍戸制は少なくとも徴兵制とは違いますから。
で、2か4なんでしょうが、志願兵制というのも少々異なるような気がします。
もっとも、業務契約というのもなんか違うような気がしないでもないです。
他の傭兵の例を見ると、
カルタゴの軍隊は傭兵とされてますよね。
イベリアの原住民の傭兵、とか言われますが、
カルタゴはイベリア半島を植民地にしていたので、
曹魏が異民族騎兵を自軍に組み込んでいたのと同じような状態だと考えました。
で、やっぱり傭兵と言っていいのではなかろうか、と思うのですが
いかがでしょう?
246 :
世界@名無史さん:2001/04/22(日) 00:28
>>244 大喬以外に名が知られていないという事は名族の娘じゃ
なかったんじゃないかな?
孫策の岳父という事で呉で重きをなした人物がいてもいいはずだし
それに美貌こそが女の出世の手段だしね・・・
>>245 護烏丸校尉とか護鮮卑校尉なんぞが傭兵隊長に当たるんだろうかね?
よく分らないけど
247 :
世界@名無史さん:2001/04/22(日) 00:34
日本で見つかった赤烏年鏡は諸葛直・衛温の探索とどのような関係が?
探索後の通交があったという事なのか、魏経由でもたらされたのか・・・
248 :
世界@名無史さん:2001/04/23(月) 00:19
三国志が日本で流行ったのは江戸中期以後のようだね・・・
諸葛孔明を題材にした歌舞伎だか浄瑠璃だかが上演されたのも
その頃
249 :
李密:2001/04/23(月) 14:44
>246
>護烏丸校尉とか護鮮卑校尉なんぞが傭兵隊長に当たるんだろうかね?
彼らは「傭兵隊長」というより「軍監」でしょう。
傭兵隊長は各々の部族の族長がそれにあたるのでしょうか。
250 :
世界@名無史さん:2001/04/25(水) 04:34
羌族の姚弋仲なんかが傭兵隊長と呼べるのかも知れない
いずれにせよ鮮卑は魏にはあんまり懐いてなかった様子
烏丸は三国時代に入るとほとんど名前を聞かなくなる
魏と同化したのかもね
251 :
世界@名無史さん:2001/04/25(水) 06:38
>>250 >烏丸は三国時代に入るとほとんど名前を聞かなくなる 魏と同化したのかもね
遊牧民があっさり中国に同化するというのは神話だよ。
五胡の乱の時、慕容鮮卑の河北進出に伴い、
鮮卑の一部族となったか、鮮卑の部衆に加わったかなんかでしょ。
252 :
世界@名無史さん:2001/04/28(土) 01:05
孔明の被っていた冠は諸葛巾というらしい
あれは頭巾じゃなくて冠だよね?
253 :
アイボン:2001/04/28(土) 03:50
.
.
___ ブリブリ…
ミミミ /川川川\ミミミ
ミミ〇川||/ ヽ|||||〇ミミ
|川メ 卅川 <うんちしているのれす
(|| ・ , ・ ||)
ゝ" D "ノ
/))ヽ----イ( \ 。
/ /( *´ε`* ) ヽ..\ _________
( ξ. ) ミ 彡(./ξ ) / /_|
| |ヽ、______,/ / / ( ̄/ ̄◎ノ
| | 。 , /−/ 。 W ̄ ̄
| ̄ | 。./ ̄ ̄\ ミュミュミュミュミュ
| |\│. *´ 3 `*) 。ο
=( ⌒)=---------
ο ̄ ο。
254 :
世界@名無史さん:2001/04/28(土) 21:25
三国で一番の名儒と言えば誰になるのでしょうか?
255 :
名無史さん:2001/04/29(日) 00:27
王粛などは儒者と呼べるのだろうか?
256 :
Miss名無しさん:2001/04/29(日) 06:05
257 :
世界@名無史さん:2001/04/29(日) 16:39
まあ袁紹がもうちょい長生きして後継ぎをきっちり決めてれば
曹操の華北統一もできなかったかもね
劉表との南北挟撃作戦が今度こそ実行されただろうし
258 :
世界@名無史さん:2001/04/29(日) 18:35
劉表って実戦経験あんの?
259 :
世界@名無史さん:2001/04/29(日) 21:59
う〜ん、孫堅と結構争ってたっぽいが、実際に指揮は執ってない
かも・・・
あの猛将を討ち取ったって事でそれなりに武名も高かったんだろうね
260 :
世界@名無史さん:2001/04/30(月) 03:05
孫堅って袁術の手先となって死んだんだよね
ちと情けない
261 :
世界@名無史さん:2001/04/30(月) 19:42
諸葛直・衛温の探索隊は現地人との戦闘で大分死者を出したらしいね
古事記・日本書紀なんかではそれに匹敵する記述は見あたらないようだが・・・
いずれにしろ赤烏年鏡は山梨と兵庫から見つかってるからどこか経由で
呉と繋がっていたのは間違いないんだが・・・
262 :
世界@名無史さん:2001/04/30(月) 19:51
263 :
世界@名無史さん:2001/04/30(月) 22:45
孔明著の新書って何ですか?
264 :
世界@名無史さん:2001/05/02(水) 01:51
新の正史か?
265 :
世界@名無史さん:2001/05/02(水) 13:05
>>261いずれにしろ赤烏年鏡は山梨と兵庫から見つかってるからどこか経由で
それって国産鏡じゃなかったっけ。
266 :
世界@名無史さん:2001/05/02(水) 15:38
>>265 そうなの?
鏡の文字を読むと呉の貴族のために作られたように見えるけど・・・
魏鏡なら偽造の意味あるけど、呉鏡は偽造する意味がないような?
純粋な国産なら銘文までは彫らないでしょ
267 :
名無しさん@1周年:2001/05/02(水) 20:21
曹丕が賈[言羽]を三公に任命したことを孫権が笑ったらしいけど
孫権に賈[言羽]の何が分ってたのだろう?
268 :
世界@名無史さん:2001/05/03(木) 07:00
269 :
世界@名無史さん:2001/05/03(木) 15:44
>>266純粋な国産なら銘文までは彫らないでしょ
「純粋な国産」って意味わからん。国産に純粋な国産と不純な国産があるの?
それから銘文つきの国産だっていくらでもあるじゃん。
ただし山梨と兵庫の赤烏年鏡は国産だったかどうか、うろ覚えだよ。
たしか国産だったような気がするってだけで。詳しい人からのレスを待とう。
270 :
世界@名無史さん:2001/05/03(木) 19:31
>>269 ああ、何か分りにくいかも・・・・
まあ鏡の原材料を輸入して加工したとか輸入鏡に銘だけ入れたとか
が不純に当たるかも・・・
呉の鏡を偽造して呉の権威を借りる意味は分らないけどそれについて
はどう思うの?
271 :
世界@名無史さん:2001/05/03(木) 21:57
賈[言羽]の曾孫の賈疋は軍略に優れ、永嘉の乱で劉曜を長安で
破ったそうだ。賈氏は賈充の家とともに晋朝で優遇されたらしい。
272 :
世界@名無史さん:2001/05/04(金) 21:42
三国志板署名してくれた人はこの板にはもういないのかな?
273 :
世界@名無史さん:2001/05/04(金) 23:34
おーい(呼んでみる)
274 :
Miss名無しさん:2001/05/05(土) 03:09
岡村『気をつけてくださいねー。合宿ではオナニーできませんよー。』
安部『(テレ笑い)』
飯田『(テレ笑い)』
福田『(余裕の笑い)』
97年アサヤン
275 :
269:2001/05/05(土) 12:44
>>270 呉についてる勢力が倭国の中にいたのかも知れないし、銘文にそもそも深い意味なかったのかも知れないし、
そのほかいろいろ考えられるだろうけど、俺にはこれっていうイチ押し案は無い。
日本史板の邪馬台国スレできいてみればいいのではないかな。
276 :
名無しさん@1周年:2001/05/05(土) 17:49
諸葛亮が王朗を罵った言葉や曹真に送った手紙の文なんかは
正史に見えないけど講釈師が作ったのかな?
それにしては良くできてる
277 :
世界@名無史さん:2001/05/06(日) 03:26
三国志板は人減ったみたいね
278 :
世界@名無史さん:2001/05/06(日) 23:05
禰衡は精神病だって自ら語ってたらしいよ
279 :
世界@名無史さん:2001/05/07(月) 15:32
孫権の大帝って諡はかっこいい割に珍しい
280 :
世界@名無史さん:2001/05/07(月) 19:15
呉鏡が日本に流れてきた経緯で最も考え得るのは
公孫淵救援などで朝鮮半島を訪れた呉の船が馬韓・辰韓などに
立ち寄って鏡を下賜したか、物々交換を行った物が倭に流れて
来たのだろう
しかし、朝鮮での呉鏡出土状況を見てみないと何とも言えない
281 :
名無しさん@1周年:2001/05/09(水) 03:55
晋が異民族に簡単に屈服したのは戦乱により人口が激減していた為、
黄巾以前の漢ならば異民族に屈したりはしなかっただろう
三国の戦乱を導いたのは張角か?董卓か?はたまた曹操か?
282 :
世界@名無史さん:2001/05/09(水) 04:56
その中から強いて選ぶなら、まあ張角だろう。でも張角も時の勢いに乗っただけだろうけど。
283 :
世界@名無史さん:2001/05/09(水) 20:47
結局皆、野心家なんだよな・・・
劉焉・陶謙・公孫サンなんぞも各々私心を抱いていたっぽいし
宗室の為に尽くそうとしていた数少ない皇甫嵩・朱儁・劉虞・張楊なんか
のメンツはそれぞれ不運のうちに死んでいる
運が悪いのか仕方がないのか・・・
284 :
世界@名無史さん:2001/05/10(木) 01:50
285 :
世界@名無史さん:2001/05/11(金) 23:43
三国志の話は多くの日本人を感動させている訳だが、
今の中国人は無礼だとか情け知らずとか言われている
中国人の性格が変わったのっていつ頃だろう?
それとも本質は変わってないのかな?
286 :
名無しさん@1周年:2001/05/12(土) 01:20
>>285 いろんな雑多な人種が流入してるから当時の中国人=現代の中国人とは
言えないんじゃないか?
287 :
世界@名無史さん:2001/05/12(土) 02:07
あの時代の中国人は戦乱飢餓でもうとっくの昔に滅んでると
思うよ。
288 :
世界@名無史さん:2001/05/12(土) 02:18
異民族との絶え間ない争いで
文化的な美徳が滅んでしまったのかな・・・
それで日本のような外敵と余り接触がなかった
国でその美風が生き延びてたと。
289 :
世界@名無史さん:2001/05/12(土) 05:00
わかってない連中だな。
確かに、人種的血統的には大昔から何度か入れ替わってるよ。
でも「民族」ってのは生物学的な遺伝子の問題じゃなくて文化の継承性の問題でしょ。
そういう意味では「三国志」というのは中国人のある意味「元型」だと思うよ。
そりゃ他者をハラの中では人間扱いしてないとか契約を平気で反故にするとかあるけど、
いったん「オレとオマエは義兄弟」となったら、こんなに厚く熱く信用できる相手も
ないんじゃないの。このへんは今の中国人も三国志の中国人もあまりかわらないよ。
290 :
世界@名無史さん:2001/05/16(水) 04:40
阮籍伝やケイ康伝は晋書にあるの?
291 :
名無しさん@1周年:2001/05/16(水) 13:34
292 :
世界@名無史さん:2001/05/16(水) 15:21
儒学が最重要とされていた時代と孔子否定を行う今の中国とでは
人倫の在り方も礼儀・態度もまるで違うと思う
293 :
世界@名無史さん:2001/05/18(金) 20:08
三国志が三国書でなく志と名付けられた事への考察は?
294 :
世界@名無史さん:2001/05/19(土) 00:38
劉jに荊州降伏を勧めた際の傅巽の官位が東曹掾になってるけど
これって中央の官じゃないの?
295 :
世界@名無史さん:2001/05/19(土) 01:05
諸葛亮の著作を全部教えて
296 :
院生:2001/05/19(土) 03:30
>>294 そうですね。丞相に属した官のようです。
ということは、中央からの使者として荊州に
留まっていたと考えられますね。。。
297 :
世界@名無史さん:2001/05/19(土) 22:22
>>295 『三国志』諸葛亮伝の後ろの方に陳寿が目録出してなかったっけ?
298 :
世界@名無史さん:2001/05/20(日) 14:44
age
299 :
世界@名無史さん:2001/05/21(月) 00:58
宮城谷の三国志はどんな感じなの?
300 :
世界@名無史さん:2001/05/22(火) 00:18
300
301 :
世界@名無史さん:2001/05/22(火) 03:14
京兆尹と雍州刺史って併置されるもんなの?
302 :
世界@名無史さん:2001/05/25(金) 20:31
裴松之ってめっちゃ偉そうじゃない?
303 :
世界@名無史さん:2001/05/25(金) 20:37
突っ込み入れまくりだね
304 :
世界@名無史さん:2001/05/26(土) 02:04
あんな感情的な注を施すヤツって他にもいるの?
305 :
世界@名無史さん:2001/05/27(日) 01:17
劉表の荊州はかなり安定していたみたいだね
名士を抱えて文芸を興隆しつつ、十分な兵があった
曹操じゃなく劉表が天下を取るまたは漢朝を復興していたら
ましな世の中になっていた気がする
306 :
世界@名無史さん:2001/05/27(日) 01:21
劉表って、マンガの三国志のイメージだと、ただの前座のイメージしか
無い。(苦笑)
307 :
世界@名無史さん:2001/05/29(火) 23:21
華陽国志の和約ってあるの?
308 :
Cavabien:2001/05/29(火) 23:35
>>307サン
全訳は無いんじゃないでしょうか?
明徳出版社の「中国古典新書続編」シリーズに抄訳が入っています。
ただ、あえて質問の主旨を無視して言わせて貰えば、輸入書籍店で
中国語のを購入した方が早いような気がします。
明徳出版社のは値段の割に本当に一部分だけの抄訳な事が多いので・・。
309 :
世界@名無史さん:2001/05/30(水) 02:19
>>308 情報どうも!
内容はどんな感じでした?
310 :
世界@名無史さん:2001/05/31(木) 02:04
劉表は江東の孫家がいたから曹操に手を出す訳には行かなかったんだね
そもそも孫堅と劉表に恨みは無かったのだが、孫堅が偶然戦死したから
仇敵の間になってしまった
しかし、孫堅が生きていたらいつまで袁術の使いっぱをしていたのか
微妙ですな・・・
まあ帝号を称した時点で見限っていた可能性大だが
311 :
世界@名無史さん:2001/05/31(木) 11:16
鮮卑って2世紀以前は姓が無かったの?
312 :
世界@名無史さん:2001/05/31(木) 23:03
資治通鑑に裴注に載ってないような記載ってある?
313 :
世界@名無史さん:2001/06/01(金) 19:37
劉備が後家を皇后にしたけど、そういう例って他にもある?
曹丕は太子になる前だから例外として・・・
314 :
院生:2001/06/02(土) 00:43
>307
『華陽国志』
現代語訳はたしかに明徳の抄訳しかないが、
全文に訓読を施したものはある(東洋大学の雑誌)。
中国語のは、注釈本は2種類あるけど、両方参考に
した方がいい。劉氏のは平易すぎて深みがなく、任
氏のは、独自すぎて理解しにくい部分あり。
315 :
世界@名無史さん:2001/06/04(月) 03:02
演義だと袁紹は官渡で敗れてから、三子とともに倉亭で曹操と再度決戦して、
程cの十面埋伏の計で敗れてるけど、魏書ではただ曹操が袁紹の駐屯軍を破った
とだけなっている。
何か別史料があるの?
316 :
世界@名無史さん:2001/06/05(火) 23:47
演義創作の戦といえば
南蛮討伐戦
新野攻防戦
とかか・・・
空城の計他の北伐の際の孔明の作戦はほとんど創作だね・・・
史実もある事はあるけど
他にもあるかな?
317 :
世界@名無史さん:2001/06/06(水) 03:29
献帝の献は国を献じた事からそういう諡にされたんだろうけど、
霊帝の霊ってのはどういう風に解釈すべき?
318 :
世界@名無史さん:2001/06/06(水) 03:49
「霊」は、生前の目標が死後に達成されたという意味。
または「励」のツクリの無い字と同じ、民を多く犠牲にした
という意味。
あまりいい意味ではつけない方が多い。
319 :
世界@名無史さん:2001/06/06(水) 12:28
>>318 サンクス
霊には良いとか立派なという意味もあるみたいだけど、
やっぱり否定的な意味もあるのね
どっちでも解釈できるようにしたのかも・・・
霊帝って人間的にはノホホンとしておもろいオッサンだったみたいね
320 :
世界@名無史さん:2001/06/08(金) 14:17
劉備を字で呼ぶ馬超萌え
321 :
世界@名無史さん:2001/06/08(金) 21:46
>316
>演義創作の戦といえば
>南蛮討伐戦
南蛮討伐戦って、孟獲の七縦七禽のこと?
おおもとは漢晋春秋に出てるよね。
ま、へんな南蛮の王とかは創作なんだろうけど。
322 :
世界@名無史さん:2001/06/09(土) 02:01
考えたら董卓って後漢最高というか、中国史上稀にみる逆臣じゃないか?
323 :
世界@名無史さん:2001/06/09(土) 02:29
>321
きっと演義の作者が「なんか話がマンネリになってきたから、ここらで
少し、南国で異国ムードの戦闘場面でも入れよう」とでも思ったのだろ
う。
>322
大逆臣なのは間違いないが、希にみるっていうほどでもない。
中国史にゃ逆臣もいっぱいいるから。
324 :
世界@名無史さん:2001/06/09(土) 06:57
>>323 でもたかが地方軍閥の分際でいきなり帝都に乗り込んで廃立を行って
帝と皇太后をぶっ殺してるよ
安禄山でも弑殺まではやってないしね
反乱者ともまた別だし・・・
ここまで無道な野郎も珍しいと思う
誰か董卓を凌ぐ逆臣野郎を知っているか?
325 :
世界@名無史さん:2001/06/09(土) 07:44
えっと、梁冀なんてどうだ?
326 :
世界@名無史さん:2001/06/09(土) 14:18
>>324 秦の宦官趙高なんかはかなり近いと思うが。
327 :
世界@名無史さん:2001/06/10(日) 04:37
献帝の伯和っていう字は本物?
後漢皇帝の字が記されている物って少ないような・・・
そもそも皇室の直系を字で呼ぶ事って非常に少ない気がする
魏の皇帝は全員字が知られているけど・・・
328 :
世界@名無史さん:2001/06/11(月) 00:49
>>326 確かに馬を鹿という話といい、皇帝弑殺といい逆臣の象徴だよね
でも趙高は始皇帝の信頼厚い臣下だったし、十分時間を掛けて
皇帝のすげ替えをしてる訳だから董卓のいきなり廃立よりまだマシかも・・・
329 :
世界@名無史さん:2001/06/11(月) 00:53
>>325 梁冀は外戚で大将軍の地位にあったから董卓よりは思い切った事がやりやすかった
んじゃない?
一応自分が罵倒されてから殺してるし・・・
董卓は正当な理由のない廃立だからたちが悪い
>>326 確かに馬を鹿という話といい、皇帝弑殺といい逆臣の象徴だよね
でも趙高は始皇帝の信頼厚い臣下だったし、十分時間を掛けて
皇帝のすげ替えをしてる訳だから董卓のいきなり廃立よりまだマシかも・・・
330 :
世界@名無史さん:2001/06/11(月) 04:24
世界史板も人が多くなったのか、下がるスピード早くなったね
331 :
名無しさん@1周年:2001/06/12(火) 01:43
332 :
世界@名無史さん:2001/06/12(火) 14:23
典韋や許チョなんて乱世じゃなきゃただの暴れ者で一生を終わったんだろうね
それにしても魏の猛将の二世はぱっとしないやつ多いな・・・
333 :
世界@名無史さん:2001/06/12(火) 18:36
華[音欠]の正史での扱われ方は演義とは大分違うね・・・
正史と演義で扱いが違うナンバー1に挙げておこう
334 :
世界@名無史さん:2001/06/12(火) 22:53
劉備が伊籍に的盧を人に与えるように勧められて断った話は
実はユ亮の逸話のパクリらしい。
335 :
世界@名無史さん:2001/06/13(水) 00:23
献帝って、無能じゃなかったですよね?
後漢書の和訳って本当にないんですか?
336 :
世界@名無史さん:2001/06/13(水) 00:27
>335
抄訳でよければ漢書と三国志と一緒になったやつが
あったと思うが。あれ出版社どこだったかな?
337 :
世界@名無史さん:2001/06/13(水) 00:29
>336
そんなのあるんですか?
ついでに、献帝関係の文献や論文とかしってたら、おしえてくださーい!!
338 :
336:2001/06/13(水) 00:30
『漢書・後漢書・三国志 列伝選』
とか言うタイトルだったと思う。
339 :
世界@名無史さん:2001/06/13(水) 00:34
ありがとうございまーす。
340 :
世界@名無史さん:2001/06/13(水) 18:12
341 :
世界@名無史さん:2001/06/13(水) 18:53
342 :
世界@名無史さん:2001/06/14(木) 02:55
献帝は慈愛の心の強い人間だったようだ
賈[言羽]が長安時代かなり入れ込んでいた様子
少帝もそんなに暗愚ではなかったようだね・・・
何より宦官が滅ぼされてなかったら献帝がどういう風に
宦官を扱っていたか興味深い
343 :
世界@名無史さん:2001/06/14(木) 03:40
献帝は山陽公に補されて魏の文帝より長生きしたし
「山陽公載記」って本も書いたくらいだから晩年は
権力者たちより幸せだったのでは?
344 :
世界@名無史さん:2001/06/14(木) 03:53
「山陽公載記」って献帝が自分で書いたの?
345 :
世界@名無史さん:2001/06/14(木) 17:07
羊コの父親の名を教えて下さい
webで表示できないのは知っていますが・・・
346 :
世界@名無史さん:2001/06/14(木) 17:14
347 :
世界@名無史さん:2001/06/15(金) 01:56
>>346
「山陽公載記」って、今現在文献として残っているのですか?
内容は、山陽公って言うくらいだから禅譲した後の事が書いてあるのですか?
348 :
世界@名無史さん:2001/06/15(金) 01:58
献帝は、もう少し早く生まれていたら世の中はかわったのかな?
生まれてきた時代が悪かったというか・・・
349 :
世界@名無史さん:2001/06/15(金) 06:38
>>347 裴松之注他に引用されている程度じゃないの?
禅譲した後の事は多分そんなに書いてない、というか書くべき事も
無かったと思う
>>348 献帝の資質は曹叡を上回る物だったような気がする
ただ政治の実権はずっと誰かに握られっぱなしだったけど
350 :
世界@名無史さん:2001/06/15(金) 19:14
>>349 楽資の「山陽公載記」は「献帝春秋」と並んで、裴松之の評価は低いですね。
351 :
世界@名無史さん:2001/06/16(土) 12:42
儒教から老荘に思想が流れていったのが魏・晋期らしい
352 :
世界@名無史さん:2001/06/17(日) 02:08
>>350 孫盛や習鑿歯の方がこっぴどく言われてない?
裴松之は頭ごなしな決め付けが多いから注意が必要かも
でたらめと言われてる話も何か元ネタがあったかも知れないし
353 :
350:2001/06/17(日) 12:06
>>352 そうですね。個人的には、あの頭ごなしな批判の仕方が
面白かったりもしますが(笑)
354 :
世界@名無史さん:2001/06/17(日) 17:00
呉がベトナム・カンボジア
蜀がビルマ辺りまで勢力を拡大したりしたら面白いんだけど・・・
江南政権って何故か南方にはあまり興味を示さないんだよね
それだけ元軍は貪欲だったって事だね
355 :
世界@名無史さん:2001/06/18(月) 16:26
魏諷の乱について詳しい事分る人いる?
356 :
世界@名無史さん:2001/06/19(火) 03:38
王粲の子とかが刑死したんだっけ?
本に後漢名士の最後の反乱とか書いてあったが・・・
357 :
世界@名無史さん:2001/06/20(水) 22:58
何故か364番まで落ちていた・・・
何でこんなに下がったんだろ?
358 :
世界@名無史さん:2001/06/21(木) 00:29
>>357 かなりのスレッドが新旧の順に関係なくずっと下におちてたよ。
どうしたんだろ?
359 :
世界@名無史さん:2001/06/21(木) 00:38
>>354 南の方は山越とかが頑張ってたから
おいそれと本格経営に乗り出す訳にもいかんかったんじゃないかね?
あとそれだけの余力がなかったってのもあるかも知れん(推測)
360 :
世界@名無史さん:2001/06/21(木) 01:55
呉はかなり遠方の国々とも交易してたってきいたけど?
基本的に長江と海の男たちの連合で、内陸経営はいまいちだったのかも。
361 :
世界@名無史さん:2001/06/21(木) 17:39
呉は三国時代当時はそんなに人口が多くなかったから
遠征に兵を割けなかったのかもね
事実東海探索で一万近くの兵を失った将軍は不可抗力とは
いえ、斬首されてるし・・・
やっぱりベトナムなんかは言葉が通じないから攻めて行く
気にもならなかったのかも
362 :
世界@名無史さん:2001/06/21(木) 18:00
昨日のNHKのそのとき歴史が動いた!(だったかな?)
の皆さんの考察はいかがですか?
363 :
世界@名無史さん:2001/06/21(木) 18:58
交州はベトナムに含まれるのでしょうか?
364 :
世界@名無史さん:2001/06/21(木) 21:35
>>362 諸葛亮の過大評価が相変わらずだったからねえ・・・
365 :
世界@名無史さん:2001/06/22(金) 22:11
>>363 交趾はベトナムじゃなかったっけ?
漢代の交趾刺史は鼈甲やらかわせみの羽根やらの珍奇な産物のお陰で
たっぷり私腹を肥やしたらしい
孫権が士氏政権を早めに潰したのもその辺が狙いだったんだろうね
366 :
363:2001/06/23(土) 01:44
>>365 回答ありがとう御座います。
そうすると、士燮の一族などはベトナム人なのでしょうか?
それとも、漢人がベトナムを支配していたのでしょうか?
367 :
世界@名無史さん:2001/06/23(土) 23:23
士燮は漢人。
先祖は元々魯国にいたらしいよ。
春秋左伝の註釈を行うなど文化人です。
洛陽に留学もしてます。
ベトナム人も徴姉妹のように中国風の姓があったみたいだし、
厳密な区分が付けられていたのかはよく分りません。
368 :
363:2001/06/24(日) 02:13
>>367 なるほど〜。勉強になりましたです(__)
369 :
世界@名無史さん:2001/06/25(月) 10:10
しかし、三国時代だけじゃないけどみごとに同姓同士の結婚って
無いねえ・・・
誰か例外とか知らない?
370 :
世界@名無史さん:2001/06/27(水) 12:24
天皇家や藤原氏なんかは同族結婚のオンパレードなんだけどね・・・
他の国でも同姓通婚の禁がある国はあるんだろうか?
371 :
世界@名無史さん:2001/06/27(水) 13:57
韓国・朝鮮は同姓通婚の禁がありましたね。
お隣の国の影響でしょうか。
372 :
世界@名無史さん:2001/06/27(水) 19:36
モンゴル・トルコ系の遊牧民も同姓(同氏族)通婚は禁止。
おかげで君主の氏族は代々妻を迎える氏族が決まっていたりする。
モンゴル帝国のときならコンギラト族、というように。
だから大陸の風習じゃないかなあ、と思う。
373 :
世界@名無史さん:2001/06/27(水) 22:22
韓国・朝鮮って金・李だけでかなりの数がいるだろう
姓の数めっちゃ少ないし・・・
自由恋愛も糞もあったもんじゃねえなあ
ただ皇帝の後宮何千人の宮女に同姓の女が一人もいなかった
とは信じがたい
それとも側室格じゃなけりゃ何でもいいのかな?
374 :
世界@名無史さん:2001/06/27(水) 22:26
曹家は元々夏侯家の養子だけど、夏侯家から嫁取るのは
許されるんだろうか?
375 :
世界@名無史さん:2001/06/27(水) 22:31
夏侯・・・
一文字じゃないところをみると、遊牧民系だったんですかね。
中学生の頃からの疑問。(つまりゲームやってての疑問)
376 :
世界@名無史さん:2001/06/27(水) 23:16
王莽以前の中国には二字の姓ってのは別に珍しくなかったとか
まあ陳舜臣の十八史略にあったことだから本当かどうか知らんが・・・
378 :
名無しさんの主張:2001/06/28(木) 00:19
諸葛亮も姓二文字だから
きっと遊牧民の家系なんだろう
379 :
その論法だと:2001/06/28(木) 00:23
司馬懿も遊牧民の家系?
380 :
世界@名無史さん:2001/06/28(木) 01:44
>>375 二字姓って、遊牧民系なんですか?
夏侯、諸葛、司馬の他には…公孫は遊牧民っぽいし…。
郭攸之、武安国は二字姓?姓+字かな??
後は鍾離とか?
>>380 諸葛は「諸県」から来た”葛”さんということで区別するべくして
作った名前と何かで読んだ。
377氏の指摘のとおり、王莽が二字姓を禁止したのでそれ以降は激
減したと思われ。
382 :
世界@名無史さん:2001/06/28(木) 18:25
王莽は二名の禁じゃなかったか?
二字姓は腐るほどあるよ
夏侯
司馬
諸葛
公孫
仲長
公仇
第五
淳于
鐘離
邯鄲
秦宜
カン丘
胡母
とか
まだまだある
383 :
世界@名無史さん:2001/06/29(金) 12:55
孫登が長生きしてたら陸遜も憤死せず、諸葛恪もまともに
一生を過ごして、孫皓も即位せずに、呉はまだまだ保てたかもね〜
劉備が天下を統一したらと同じレベル?
384 :
世界@名無史さん:2001/06/29(金) 14:13
>>375 司馬なんてのは、役職が姓になった例だね。馬を司る、つまり軍務大臣
の家系ってところ。
公孫は、読んで字のごとく、公の子孫の姓。
少なくとも戦国時代にはこれらの姓の人物は中原にいるよ。
必ずしも、二字姓は異民族系ってわけじゃない。
385 :
世界@名無史さん:2001/06/29(金) 14:15
>>383 保てていたならば、その後の中国史を大きく変えてそうだね。(あたり前か)
どうせ魏なんてすぐばらばらになっただろうし。
386 :
375:2001/06/29(金) 14:17
みなさん、レスどうもです。
なるほど、二文字だからって遊牧形とは限らずに、
古い時代にはわりと漢人でもいたんですね。
387 :
名無しさんの主張:2001/06/29(金) 16:39
孫皓はでたらめな王様のように書かれているけど
皇帝としての中央集権力を強めようとして
在地有力豪族と対立して粛正を繰り返したんだね。
中国史では中央集権を強める君主は何故か皆悪人にされてしまうね。
まあ粛正される方からしたらたまったもんじゃないが。
388 :
世界@名無史さん:2001/06/29(金) 20:45
広い中国 三つくらいに分かれてた方がちょうど良かったんじゃない?
三者仲良くしてれば独自の文化が熟成されて、素晴らしい大陸になれた
気がする・・・
389 :
斉藤:2001/06/30(土) 00:29
390 :
世界@名無史さん:2001/06/30(土) 22:59
>>387 どうかな〜?
殺害の理由を読むとかなり恣意的に殺害してるよ。
同族殺しまくって外藩を潰したってのは中央集権かも知れない。
ところで孫皓に畏怖された范慎ってすごいね。
391 :
世界@名無史さん:2001/06/30(土) 23:15
>>389 ここは人少ないから三国板でやった方が・・・
ってもう行ってそうだな
392 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 08:48
>>391 三国志板はもう死んだ様なもの。
人を募集するなら逆説的だけど人のいない、
いちごちゃんの三国志板のほうがいいのかもしれない。
そのうちこの世界史板も
日本史板、中国史板、三国志板のように終わりがくるのかな・・・
にちゃん中の各板においてその兆候は、見えているような気がする。
ニュース速報板のラウンジ化など、板違いのスレの乱立、
二周波已死・・
次に立ち上がるのはどこだろう・・・鬱だ
じゃあ、あんだけ大騒ぎして正統派三国志系の生き残りって
結局世界史板にあるってことなのか。
あの大混乱をしってるだけに少々鬱。
394 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 16:42
三国板は李カク・郭に荒らされた長安みたいなもんだな・・・
献帝一行が細々と洛陽に帰ってきたのがこのスレ(笑
396 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 21:25
黄巾が天下を支配していたらっていうifは面白そうだなあ
誰か語らない?
397 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 22:21
五斗米道が東洋のキリスト教になる?
398 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 22:49
五斗米道と太平道はまた違うんじゃ?
399 :
世界@名無史さん:2001/07/02(月) 01:45
へんな格好の集団?
400 :
世界@名無史さん:2001/07/02(月) 18:31
黄巾軍は最初は盧植や朱儁を破り、皇甫嵩を苦しめたのに
最後はあっけないよね・・・
張角が死んだ辺りでかなり戦闘力が落ちていたと思われ・・・
つーか、いいとこでいきなり教祖が病死すんなって感じだね
401 :
世界@名無史さん:2001/07/02(月) 21:51
張角は天子ではなくあくまでも将軍と称している
士大夫の解放をスローガンにした事からも
自分が帝に取って代わる事までは考えていなかった?
でも蒼天が既に死んでいたらやっぱ自分が立つしかないか・・・
勢いが衰えると正規軍には勝てぬか・・・。
宦官らによる政治腐敗が乱世の引き金であったわけで、清流派が軍事行動に
出て朝廷の宦官勢力を一気に片付けてしまえば黄巾も出番がなかったかも。
時期が近いが、清流派は黄巾を軍力としては用いなかったと思われるので、
黄巾が士大夫を利用するは無理かも。
403 :
世界@名無史さん:2001/07/03(火) 15:00
張角は宦官と結託してどうさせようとしてたんだろう?
軍費を削ったり、無能な将軍を任命させようとしてたんだろうか・・・
すると、何進が大将軍になったのも張角の思うつぼだったのかもな〜
しかし、張角と結ぶ宦官のメリットって何ぞや?
404 :
世界@名無史さん:2001/07/03(火) 15:58
>張角と結ぶ宦官のメリット
短期的には、目先の賄賂。
長期的には、漢に変わる王朝が出来た場合の自分の地位の安泰。自分た
ちが憎まれてることぐらいは知ってたろうからね。
405 :
世界@名無史さん:2001/07/03(火) 18:50
どうだろう?
皇帝がいなくなれば宦官は何もできなくなるだろうし・・・
張角を単なる有力な宗教指導者としか見てなかったんだろうね
洛陽にも太平道信者がいっぱいいたようだし
406 :
ぷく:2001/07/04(水) 02:56
>>394たん。
んじゃ三国志板つくったけど、けっきょく、だれも来なくなった15chは
劉虞たんを新帝にたてようとした袁紹たんみたいなものかも。
408 :
ぷく:2001/07/06(金) 01:55
>>407 いやそれは例え悪い。
袁紹の下心ありありの擁立じゃあな・・・
リアル厨房だったころ、例に洩れず横山三国志に燃えて、
高校に入って世界史の教科書をみたら、
三国時代より太平道の方が扱いが大きくて目から鱗が落ちた、
というのは俺だけかな。
抗菌効果
士大夫層の職業軍人から軍事教練を受けつつ、知識人を迎えて清流派との
脈を保っていればもう少し天地を揺るがせた可能性はあると思う。
411 :
世界@名無史さん:2001/07/08(日) 00:45
曹操やら司馬懿やらの人物画が載っている三才図絵ってどこで買えるの?
日本版三才図絵なら何かいっぱいあるみたいだけど・・・
412 :
世界@名無史さん:2001/07/08(日) 00:45
413 :
院生:2001/07/08(日) 02:08
>411
中国書籍専門店で買えるよ。
有名どころは東方・内山・朋友書店・琳瑯閣など。
でも『三才図絵』は高いと思うな。上の書店では
今はだいたい3割前後の安くなる毎年恒例のサマ
ーセールやってるけどね。
414 :
世界@名無史さん:2001/07/09(月) 23:02
楊貴妃の本籍は弘農郡らしいが、これって楊彪・楊脩の楊家の子孫という
事なのかな?
だとしたら南北朝時代を通して本籍はずっと弘農のままだったのだろうか・・・
415 :
ぷく:2001/07/10(火) 02:03
楊って日本でいうところの鈴木佐藤だよ。
しかも超名門。
事実関係はわからないが
416 :
世界@名無史さん:2001/07/10(火) 23:45
>>412 ここには出張できる程人いないんですって・・・
むしろこっちに出て来て欲しいくらいかも。
>>415 弘農の楊氏といえば、誰しも真っ先に楊彪の家系が思い浮かぶはず。
実際系図とかもあると思うんだが、多分大学図書館とか行かないと
見られないんだろうな・・・
417 :
世界@名無史さん:2001/07/11(水) 19:38
韓暹は白波賊の親分から大将軍に任命された破格の出世人だ
盗賊の大将軍袴垂保輔もびっくりだろう
ハカマダレヤススケ?誰?
419 :
世界@名無史さん:2001/07/11(水) 23:44
本朝の大盗賊はかまだれ
今昔物語に出てくるよ
モデルの藤原保輔には盗跖と柳下恵(やぎしためぐみじゃなくて)の兄弟?
みたいに立派な兄がいる
15chってどこにあるの2chみたいなものなの?
421 :
世界@名無史さん:2001/07/11(水) 23:56
422 :
世界@名無史さん:2001/07/12(木) 00:47
423 :
世界@名無史さん:2001/07/12(木) 00:56
>>419 さんくす。名前は知らんかったけど、なんとなく話は知ってたわ。
424 :
世界@名無史さん:2001/07/12(木) 00:57
>>422 歴史板関係はやっぱここがネットではメインなんかな。
あんまし他知らないんだけど。
425 :
世界@名無史さん:2001/07/12(木) 23:12
>>424 カキコの量ならここが一番じゃないの?
あめぞうにも歴史板ありそうだけど・・・
三国志の濃い話題やってるページは他にいっぱいあるよ
とにかく2chは厨房多いからねえ
426 :
世界@名無史さん:2001/07/13(金) 00:19
結局張角が天下を取ったら、農民中心の道教国家が建設されたって
事でいいですか?
427 :
世界@名無史さん:2001/07/13(金) 02:04
日本史で言えば一向宗みたいな感じなんかな。
428 :
世界@名無史さん:2001/07/13(金) 02:05
>>425 やっぱそうか・・・どっかいいところあったらそっちに引っ越そうかな
と思ったんだが。(苦笑)そろそろ夏休みだし・・・・
みなさん、覚悟の程はよろしいですね?
>>428 ・・Yahooの板(ボソ
あめぞうタイプじゃないと嫌か?スマソ
431 :
世界@名無史さん:2001/07/13(金) 10:47
黄巾が天下を取っても、董卓やら孫堅やら曹操が大人しく
その国家に仕えるとは思えないよな・・・
農民革命軍が長期政権を築いた試しはないだろう
明はある意味農民軍だった気もするが
432 :
世界@名無史さん:2001/07/13(金) 10:47
>>429あめぞうタイプじゃないと嫌か?
いえいえ、特段そういうわけでもないんですが。でも確かに、2chは使いやすい。
>>430 15ch面白いですね!さんくすです。15chはかつての2編?
433 :
世界@名無史さん:2001/07/13(金) 20:25
張角+董卓=麻原彰晃
434 :
世界@名無史さん:2001/07/13(金) 21:31
黄巾の乱は張角の死が早すぎて研究のしようがないよねえ
残党には太平道もくそもないようだし・・・
ところで黄巾出身の武将って誰がいたっけ?
435 :
世界@名無史さん:2001/07/14(土) 11:35
曹操が袁紹に勝つことができたのは偶然が大きかった気がする
まず、曹操が徐州を討った際、袁紹の子が病気で出征できなかった事
田豊・沮授らの的確な意見を述べた参謀が揃って遠ざけられた事
関羽が曹操陣営に加わっていて顔良を斬ってくれた事
孫策が偶然横死した事
劉表・馬騰が兵を動かさなかった事
など
どれも袁紹陣営に不利に働いた
436 :
世界@名無史さん:2001/07/14(土) 12:55
>>435 確か、裴松之が兵の数からしておかしいと疑問を出してたような気がする。
記述自体の信憑性から論ずる必要があるのでは?
437 :
正夢:2001/07/15(日) 16:43
438 :
世界@名無史さん:2001/07/15(日) 17:10
>>436 具体的にどうおかしかったの?戦死者の数?
>>437 434へのレスでしょ?
黄巾からどこか他の群雄に仕えた武将を挙げてよ
439 :
世界@名無史さん:2001/07/15(日) 17:19
森首相 董卓
小泉首相 王允
440 :
世界@名無史さん:2001/07/15(日) 18:55
>>435 出征できなかった、ではなく、出征しなかった、でしょ。袁紹が曹操を甘く見て、子供が病気だという私事で計略を誤ったのは袁紹の責任。
田豊・沮授の件も、袁紹の判断であり、袁紹の責任。
>関羽が曹操陣営に加わっていて顔良を斬ってくれた事
って演義の話じゃなかった?正史では、太祖(曹操)が顔良の軍を破り顔良を斬った、としかないよ。
孫策は袁術との関係があってそうそう動けなった。たとえ死ななくてもね。
劉表は袁紹に請われて軍を動かしたが、曹操領には実際攻め込まなかった。かいえつなどの有力な臣下は曹操優勢とすでに見ていて、曹操との和睦を進言している。
袁紹の能力的問題と、戦略戦術家としての曹操の能力。実際は袁紹軍に比べて曹操軍はそんなに少なくはなかったこと。
とても曹操の勝利は偶然とはいえない。
441 :
世界@名無史さん:2001/07/15(日) 19:59
>>440 顔良を斬った記述は正史にもある。文醜を斬ったのは演義で
だけだけど。
>孫策は袁術との関係があってそうそう動けなった。
たとえ死ななくてもね
官渡の戦いのかなり前に袁術は死亡しているから、この記述は誤り。
ただし揚州の豪族との関係がきわめて悪かったから、動けないあるいは
動いても全兵力と対曹操戦線に投入できないのは事実。
ただ文章の本筋には同意。
442 :
世界@名無史さん:2001/07/15(日) 22:05
>>440 もう少し正史を読んでから反論してちょうだいね
実際、劉表が許をつくだけで曹操はかなりピンチに陥ったと思うし
曹操は兵糧が尽きて一か八かの烏巣襲撃を余儀なくされていたはず
ところで何晏(何進の孫)の父って誰か分る人いますか?
何晏は190年に生まれてるから霊帝死後の混乱の際に殺されてる
とも考えられるけど・・・
何かの資料に載ってないのかな・・・
443 :
世界@名無史さん:2001/07/15(日) 23:32
>>438 >具体的にどうおかしかったの?戦死者の数?
裴注ぐらい読んでよ。ここ、正史のスレでしょ?
>>442 劉表が許を衝く可能性は少なかった。
「桓階伝」からするとそのころ長沙で張羨が桓階を参謀にして劉表に抵抗、
曹操を意志を通じているからだ。
また同時期、交州刺史張津も零陵・桂陽の支配を認めると言う
夏候惇からの手紙を受け取っているから彼もこの長沙の劉表に対する抵抗
に関与していた可能性がある。
劉表は南方に兵を向け、長沙を攻略し、その後、荊州の強大を讚えられる
ようになるのだから劉表が許を衝く可能性は少ないな。
445 :
世界@名無史さん:2001/07/16(月) 00:49
>>442 しっかいや!そんなこと!と駄洒落。
中央研究院サイトより
新校本三國志/魏書/卷九 魏書九/曹真/何晏 ケ? 丁謐 畢軌 李勝 桓範
- 292 -
晏 , 何 進 孫 也 . 母 尹 氏 , 為 太 祖 夫 人 . 晏 長 于 宮
省 , 又 尚 公 主 , 少 以 才 秀 知 名 , 好 老 莊 言 , 作 道
コ 論 及 諸 文 賦 著 述 凡 數 十 篇 .[一]
[一] 晏 字 平 叔 . 魏 略 曰 : 「 太 祖 為 司 空 時 , 納 晏
母 并 收 養 晏 , 其 時 秦 宜 祿 兒 阿 蘇 亦 隨 母 在 公 家 ,
並 見 寵 如 公 子 . 蘇 即 朗 也 . 蘇 性 謹 慎 , 而 晏 無 所
顧 憚 , 服 飾 擬 於 太 子 , 故 文 帝 特 憎 之 , ? 不 呼 其
姓 字 , 嘗 謂 之 為 「 假 子 」 . 晏 尚 主 , 又 好 色 , 故
? 初 時 無 所 事 任 . 及 明 帝 立 , 頗 為 冗 官 . 至 正 始
初 , 曲 合 于 曹 爽 , 亦 以 才 能 , 故 爽 用 為 散 騎 侍 郎 ,
遷 侍 中 尚 書 . 晏 前 以 尚 主 , 得 賜 爵 為 列 侯 , 又 其
母 在 ? , 晏 性 自 喜 , 動 靜 粉 白 不 去 手 , 行 ? 顧 影 .
晏 為 尚 書 , 主 選 舉 , 其 宿 與 之 有 舊 者 , 多 被 拔 擢 .
魏 末 傳 曰 : 晏 婦 金 ? 公 主 , 即 晏 同 母 妹 . 公 主 賢 ,
謂 其 母 沛 王 太 妃 曰 : 「 晏 為 惡 日 甚 , 將 何 保 身 ? 」
母 笑 曰 : 「 汝 得 無 ? 晏 邪 ! 」 俄 而 晏 死 . 有 一 男 ,
年 五 六 ? , 宣 王 遣 人 ? 之 . 晏 母 歸 藏 其 子 王 宮 中 ,
向 使 者 搏 ? , 乞 白 活 之 , 使 者 具 以 白 宣 王 . 宣 王
亦 聞 晏 婦 有 先 見 之 言 , 心 常 嘉 之 ; 且 為 沛 王 故 ,
特 原 不 殺 .
書いてねえ。二十四史のなかの一番まともな部分でも。
>>443 そうだな。台湾サイトめちゃめちゃいいよ。
446 :
世界@名無史さん:2001/07/16(月) 02:21
>>444 でも劉備は劉表の説得の意味もあって袁紹の元を離れたはず
可能性はあくまで可能性であり、劉表が100%許を突かない
という保証はない
実際袁紹と劉表は同盟を結んでたから、袁紹からの出動要請で
動かないのはある意味背信に当る訳だが・・・
それに南方なんぞより許を取った方が何倍もおいしいしね
いずれにしろ劉表にとってもったいない好機ではあったはず
>>445 サンクス でもオヤジの名は書いてないよね?
尹は母親の姓だね 中国は結婚しても姓は替わらないから
何進の娘ではないはず
447 :
世界@名無史さん:2001/07/16(月) 19:17
何晏って貴公子のイメージがあったから若いのかと思ってたけど
殺された時は還暦間近だったんだね・・・
もう容貌も枯れてたんだろうな〜
448 :
440:2001/07/16(月) 20:05
>>447 わたしは只のガリ勉のイメージ・・・
『論語集解』で苦労したから。
450 :
世界@名無史さん:2001/07/16(月) 21:22
451 :
世界@名無史さん:2001/07/16(月) 23:42
何晏の生年のソース希望・・・
論語集解かな?
何か三国志ではかなり評判悪いけど著作は読むべきところが
あるんでしょうか?
まあ資料としては一級だと思うけど思想の中身はどうなんだろう
452 :
世界@名無史さん:2001/07/17(火) 00:05
郷侯と侯の違いって何?
453 :
441:2001/07/17(火) 02:19
>>438 周倉は正史だといないから却下として,蜀の寥化(少し漢字違うけど)は
黄巾党出身じゃなかったっけ.
(といっても寥化複数人説を取らないと年齢的に無理だけどね)
あとは黒山賊は黄巾党の流れを組んでいたと思ったから,
その場合張燕はそうなるね.
454 :
世界@名無史さん:2001/07/17(火) 22:36
>>453 リョウ化が黄巾出身とは蜀志には書いてなかったと思う
黄巾出身って意外にいないもんだね・・・
455 :
世界@名無史さん:2001/07/18(水) 18:31
劉協の字が伯和ってのは演義のみの設定じゃない?
456 :
世界@名無史さん:2001/07/18(水) 18:36
何か帝王紀に伯和ってあるみたいだね・・・
すまそ
457 :
世界@名無史さん:2001/07/18(水) 18:49
井波律子・今鷹真ってかなり昔の人だね
458 :
世界@名無史さん:2001/07/19(木) 23:50
後漢書で泰の字が太になってるのは誰かの諱を避けてるの?
459 :
世界@名無史さん:2001/07/20(金) 21:29
黄巾の乱の起こった年に巴で五斗米道の張脩も反乱を起こしている。
黄巾との繋がりは不明だけどこれって張魯の父?
460 :
世界@名無史さん:2001/07/20(金) 21:41
「官渡の戦い」の方が「赤壁の戦い」より意義があると思うが、教科書に載っているのは後者だけなのは何故?三国鼎立の発端の戦いだから?
>>459 張魯の親父は張衛では?
>>460 漢文の教科書にも赤壁を歌った詩が出ているということで
462 :
441:2001/07/21(土) 01:00
>>461 おいおい,張衛は張魯の弟でしょ.たしか459の記述は正しい.
ちと調べたので魏書2から引用してみます
祖父を張陵は蜀に身を寄せ〜略〜張陵が死ぬと息子の張衡がその道術を行った。
張衡が死ぬと、張魯がまたこれを行った。
益州の牧劉焉は張魯を督義司馬に任命し、別部司馬の張脩とともに軍隊をひき
いて漢中太守の蘇固を攻撃した。張魯は張脩を襲撃して殺害し、その軍勢を奪っ
た。
あれ?けっきょく張脩って誰だか解らない・・・
464 :
世界@名無史さん:2001/07/21(土) 12:18
五斗米道を行っている事は事実だから張魯の叔父かなんかでしょう。
465 :
441:2001/07/21(土) 16:25
そうだったのか。どうも引用ありがとう。
466 :
世界@名無史さん:2001/07/22(日) 22:32
霊帝の兄弟や献帝の兄弟っているの?(少帝以外)
呉漢末にもいろいろ諸王が立てられてたみたいだけど
いまいち血縁がわからん・・・
468 :
世界@名無史さん:2001/07/23(月) 18:07
>>446 >いずれにしろ劉表にとってもったいない好機ではあったはず
うーん。これは後付けの理由っぽく見えるんだけど。
確かに劉表が許都を絶対衝かないとは言えるわけないが。
しかし劉表にとって許都の攻略価値がどれ位あったかと言う点を見ないとな。
ほんと、桓階伝を読んでみるといいよ。
劉表伝では「曹操と袁紹が官渡で対峙している間、劉表は袁紹の救援要請に対して
承知しながら動こうとせず、だからといって曹操に味方することもなく・・・」と
書かれているけど、桓階伝にそこら辺の経緯が載ってるから。
桓階伝から判るのは、曹操・袁紹が官渡で対峙しているときに袁紹からの救援要請
が来て、その救援要請を承知したこと。そしてそれにたいし、桓階が長沙太守張羨
に、義は曹操にありとして長沙叛乱を太守に奨め、それを受けて太守張羨は長沙と
隣接する3郡をもって叛乱、同時に曹操へ救援要請を行ったこと。曹操側は官渡で
対峙しているから救援出来ず、結局叛乱は鎮圧されてしまったこと、叛乱の鎮圧は
簡単にはいかず、結局張羨の病死で叛乱側のモチベーションが保てずに鎮圧されて
しまったこと、だ。
この経緯から言うと袁紹への救援を承知した後に長沙方面で叛乱が生じ、それに対
処しなければならなくなって結局救援しなかったことが判るだろう。とするなら、
「袁紹からの出動要請で動かないのはある意味背信に当る訳だが・・・ 」
と言うのは言うは尤もだが実際救援を承知したあと後背で叛乱が起き、それが
曹操と手を結んだとあっては救援を出している余裕などないだろう。
叛乱の鎮圧が簡単にいかなかった事はそれが劉表にとってかなりの脅威(可能性)
であったことを示唆しているのではないか。としたら、許を襲撃すると言う行動よ
り叛乱鎮圧の方が優先されるのは当然だろう。劉表が許を襲撃しなかったのは残念
だと言う(劉表への批難を含んだ)言葉は歴史の別の可能性を見たいと言う感情に
おいては真であっても、当時の状況を鑑みた上ではまったく無茶な発言と見るしか
ないのではないか。
更に劉表弁護を試みよう。
曹操もまた劉表のように、突如徐州で劉備に叛かれている。ほとんど同じ状況なの
に、曹操の場合は先に劉備を討って素早く軍を返して袁紹と対峙したことを評価さ
れ、劉表の場合はそれを批難される、と言うのは劉表勢力の伸長を見た場合、やは
り正しくないと思われる。長沙他3郡の叛乱を鎮圧し、そこに劉磐と黄忠を派遣し
た劉表はやがて荊南の(それなりの)安定を確保し、武装兵十万、金城湯池の荊州
を謳われるようになる。長沙方面から予章方面への劉表勢力の伸長に対処するため
に、孫権勢力が其処に太史慈を派遣し、その勢力拡張を阻止しなければならなかっ
たのは、太史慈伝に描かれる通りである。
確かに、三国志時代を遥かに過ぎた我々から見たら、劉表の行動は優柔不断で将来
を配慮しない行動に見えるのだが、当時の明日も知れない急転する状況下でその進
退を図ると言うことになったとすれば、劉表の行動にはその緊急性も必要性も必然
性もある、それは確かに理があると言うことで、それを後から歴史を知った我々の
判断で劉表を論難するのは、少なくともこの官渡の戦い近辺に関しての彼の行動に
ついて論難するのは、無理がある、そう思えるのだが。どうよ?
最後に。
亀レスな上、長文でスマソ
468=444ってことで。
470 :
世界@名無史さん:2001/07/23(月) 18:19
>>467 知ってるなら答えてみなよ。
そのリンクじゃどこ見ればいいのかわからんし。
そこに載ってたとしても厨房と言うほどの事ではないだろ。
471 :
世界@名無史さん:2001/07/23(月) 19:53
>>469 長沙三郡の反乱の規模が分らないし、劉表が苦戦したという記述
もないんじゃ?
許の攻略価値というより曹操を倒しておいた方が目の上のこぶが
除かれて楽になるのだから許を落して曹操を追いつめるのは当然
の戦略。
劉表自身は献帝を奪い返して皇室を補佐しようという気持ちは
薄かったようだが。
それと、江東の孫家と仇敵の間柄だから大軍を動員する訳には行か
ないのは事実。
でも、別将一人なりとも派遣すれば、それなりの効果もあっただろう
し、それすらしなかった劉表はやはり機会を上手く活かせなかった
というべきだろう。
袁兄弟が仲間割れした時も一緒に兵を出して曹操を討とうとは
言ってないし、あまり曹操と事を構えたくなかったのかも。
劉表伝に
「長沙太守の張羨が劉表に叛旗をひるがえした。劉表はこれを包囲したが
何年にも幾年も陥落させられなかった。張羨が病死すると長沙ではその
子の張懌を立てた。劉表ではそのまま攻撃を続けて張懌を併合した。
南は零陵・桂陽を手中におさめ、北は漢川を抑え、その領地は数千里、
武装兵は十万以上に及んだ。」
(ちくま文庫版正史三国志)
とある。
ちゃんと苦戦していると思うのだが?
叛乱の規模は、一応、長沙郡とそれに隣接する3郡ということで出てると思うが?
劉表の視点からすると曹操がそれほど強大だとは思えなかった、
そこらへんが曹操への対処の甘さにつながってるのではないかな?
劉表が機会を生かせなかったと言うなら、
寧ろ曹操が遥か北方に袁尚らを追って烏丸らとどがちゃがやってる時を
嘆くべきだと思う。
そこに関してなら、漏れも別に劉表を擁護しようとは思わんよ。
474 :
世界@名無史さん:2001/07/23(月) 22:11
>>470 ・・・?知るわけねえじゃん。興味ねーもん。
まあ『後漢書』巻8・9あたり探せばわかるんじゃねーの?
よく知らないけどさ。
まあ王侯列伝がない『後漢書』じゃこういうのは調べにくいけどね。
『二十五史補編』あたりを図書館で探すと調べやすいかもな。
この程度のことを『後漢書』で調べずに質問してる態度が
厨房だと言いたいんじゃねえの?
つうか
>そのリンクじゃどこ見ればいいのかわからんし。
わかるだろ???
わからないならこのスレ来るなよ。スレの名前よく見な。
何かい?中華書局本二十五史全巻持ってるの?
『四庫全書』全部持ってるとか?(藁
あ、二十五史の意味がわからないのかな?
いわゆる正史(二十四史)+『清史稿』ね。
とりあえず二十五史から入ってごらん。
一番読みやすい環境の『三国志』へのリンクを
持ってきたヤツへの態度とは思えないね。
検索もできる超優良サイトなのにさ。
夏休みだね。
475 :
世界@名無史さん:2001/07/23(月) 23:16
>>472 そうか・・・桓階伝では簡単に鎮圧されたみたいな書き方だった
から劉表伝読み直さなかった・・・
反乱の規模とは大体兵力何万かって事
そもそも劉評伝に陳寿がはっきり形成観望したって書いてるんだけど
それについてはどう?
>>473 袁紹を破り、袁譚を殺して冀州を奪った曹操はその時点で既に
劉表の手に負えなくなってたんだろう
476 :
世界@名無史さん:2001/07/24(火) 00:04
ハァ?
二十四史+新元史で二十五史だぞ。
厨房相手に生講釈垂れるな。
477 :
世界@名無史さん:2001/07/24(火) 02:12
つーか質問に答えられもしないのに人を厨房扱いする474って・・・
霊帝の兄弟やら献帝の兄弟なんて帝紀には記されてないって
>>476も厨房とか決めつけないように
478 :
世界@名無史さん:2001/07/24(火) 02:31
>>476 >厨房相手に生講釈垂れるな。
それはあなたです
二十四史+『清史稿』でも正解なのです
例えば中華書局本二十五史は『新元史』がなくて『清史稿』がある
久々に爆笑させてもらいました
>>477 誰に王号を与えたという記述もないの?
王侯伝がないのにそりゃないよ・・・マジ?
ちょっくら見てくる
479 :
世界@名無史さん:2001/07/24(火) 19:45
>>478 そんな事で爆笑すんな
スレが寒くなる ただでさえ、あんまり上がらないのに・・・
ところで、司馬懿が王リョウが枕元に立つ悪夢を見て病死した話や
陸遜が孫権と揉めて憤死した話は何故演義に載せられなかったんだろう?
>>467 シニカへのリンクをh抜きのttpリンクにする
メールに余計な事を書く
そんな467のほうがよっぽど厨房らしいとおもうが・・
2chも煽りしか能のない低能が増えたな
481 :
世界@名無史さん:2001/07/25(水) 03:50
張羨の乱は198年に起きてるね
200年には鎮圧されていたような気もする・・・
482 :
世界@名無史さん:2001/07/25(水) 23:01
水戸黄門の黄門は黄門侍郎から来てるんだろうけど
黄門って宦官の意味もあるよね?
両者の共通点って何?
483 :
世界@名無史さん:2001/07/26(木) 04:17
age
>>480 激しく同意。
ネオ麦事件から1年以上経ったわけだが、この1年で2chのレベル
は、以前とは比べものにならないほどくらいに落ちたな。
スレ名と無関係なんでsage
485 :
世界@名無史さん:2001/07/26(木) 14:29
律儀にsageるのってやっぱ昔からの2chネラーなの?
486 :
アマノウヅメ:2001/07/26(木) 14:44
私新参ですけどやってますよ・
初心者板に行って習ってきた。
487 :
世界@名無史さん:2001/07/26(木) 16:26
488 :
世界@名無史さん:2001/07/26(木) 22:41
孝廉の制度っていいよね
試験なんぞで登用するより善行によって登用された
官吏の方が善政を施しそう
現代でも復活させられんか?
489 :
世界@名無史さん:2001/07/26(木) 22:56
>>488 で、王莽みたいなのがのさばる世になる、と。
あやめお姉たんの漢字いっぱいの長文カキコは、
俺みたいなカタカナも満足につかえない
ドキュソにとって、うざい。
言うまでもなく当然のことだ。
だが、もし、あやめお姉たんの正体が
アマノウヅメたんだったらどうだろう。
アマノウヅメたんが、いま高天原で遊んでいて、
2ch世界史板で1時間以内に漢字○千字以上の内容のある
書き込みができなかったら、その場にいるみんな(男子もいる)に
ホトを見せ、ネットに自分のホト画像をアプしなければならない
という罰ゲームをする決まりになっているとしたらどうだろう。
トレードマークの長い黒髪をホトにうちつけながら小さい手で
必死に漢籍からの引用を続けるあやめお姉たんがんばれ! 長文カキコがんばれ!!
でもホト画像はアプしてください。ハァハァ
>>487たん。
ていうか、ちがうんじゃない?
408 ぷくたん。
(ノ_・、)いいんだもん。ひとりで北面してくるんだもん。
#つーか15chの三国志板は本格的にひとがいません。
#さびしいです…スンスン。(TT)
491 :
世界@名無史さん:2001/07/27(金) 13:08
崔州平のその後はどうなったんだ〜
492 :
世界@名無史さん:2001/07/28(土) 18:12
夏休みだね〜
こんなに下がっちゃった・・・
>>488 それがそうでもないんだな。
例えば
親孝行の場合は、いかに大きな墓をつくったかとか、
いかに金がかかった贈り物をしたか、とかでしか測れなかったので、
結局、地方豪族などの富裕層の貴族化となったと、
以前大学の授業や論文で知りました。
494 :
世界@名無史さん:2001/07/29(日) 01:52
>>493 とかでしかは言い過ぎだろう。
史書に伝の立ってる人物にはそれなりの善行を
行った後に孝廉に挙げられた人物が多いよ。
>>494 その善行を行ったりアピールしたりするためにはそれなりの金を使えないとね。
純粋な貧乏人で孝廉に挙げられた人物はそういない。
496 :
世界@名無史さん:2001/07/29(日) 18:42
曹操は鴆毒を入れた酒を多少飲む事ができたらしい。
つーか飲むなよ・・・
497 :
世界@名無史さん:2001/07/29(日) 22:22
>>493 何故sageいれんの?
日本史板の三角縁神獣鏡スレはなんかマニアックだな〜
498 :
世界@名無史さん:2001/07/31(火) 03:12
>>495 三国志の時代だと孝廉に推挙されるのって、
それなりの出自である程度裕福じゃないと難しくて、
農民出なんかは稀…ってな事を、何かで読んだことあります。
呉の[門敢]沢なんかが農民出で孝廉に推挙された例かな?
499 :
世界@名無史さん:2001/07/31(火) 20:20
七歩の詩って正史にあったっけ?
無かったら何の本が初出?
500 :
世界@名無史さん:2001/08/01(水) 00:08
祝500!
501 :
世界@名無史さん:2001/08/01(水) 10:24
502 :
世界@名無史さん:2001/08/01(水) 21:35
>>501 サンキュ
でも、裴松之注に載ってない事からも史実ではないと聞いたような・・・
余談だが源平盛衰記に七歩の詩の話が載っている
503 :
世界@名無史さん:2001/08/02(木) 20:14
七歩の詩って文選に載ってるんだっけ?
504 :
世界@名無史さん:2001/08/03(金) 05:44
七歩の詩は幼稚すぎて曹植の色とは違いすぎる。
505 :
世界@名無史さん:2001/08/03(金) 05:46
>>504 曹植の作では無いと聞いたことはあるのだが、
どのあたりが幼稚なのか、文学に疎い自分には分からないので、
解説お願いします。
506 :
世界@名無史さん:2001/08/04(土) 17:53
曹操が殺した徐州の民って二十万という話だが、それって結構ひどくないか?
項羽が敵兵を全て生き埋めにしたのも酷いと思ったが、一般人をここまで
殺したのは曹操が最初ではないのかな・・・
あんまり詳しくないけど
507 :
世界@名無史さん:2001/08/05(日) 06:52
>>506 家畜や植物までも根絶やしにしたらしいからね…。
凶暴さも並みじゃないぜ!
508 :
世界@名無史さん:2001/08/05(日) 21:45
>>507 植物までは根絶やしにできんと思う
よくあれから徐州で反乱が起きなかったなあ・・・
509 :
世界@名無史さん:2001/08/05(日) 23:21
>>508 反乱を起こす人がいなかったからじゃないかなぁ?(皆死んだから(藁))
510 :
世界@名無史さん:2001/08/06(月) 20:43
劉備って一番最初に呂布に城取られた時、曹操のとこに逃げ込んだって
書いてあるね(魏志武帝紀)
他の資料だと直接呂布に降伏したっぽいけど・・・
まさか曹操に徐州牧のお墨付きをもらって呂布のとこにのこのこ戻っていった
んだろうか?
511 :
世界@名無史さん:2001/08/07(火) 00:48
今、現在東京に中華書局本おいてる本屋ある?(後漢書・三国志・晋書)
512 :
世界@名無史さん:2001/08/07(火) 01:21
内山・東方・海風(以上神保町、あと海風の近くにある裏道の店!)
琳狼閣(本郷)になかったの?
他はどこにあっけ・・・?
台湾サイトで一応十分かとは思うけど・・・。
研究しているとすれば、環境によって出ない字もありますからね。
513 :
世界@名無史さん:2001/08/07(火) 01:39
>>512 >海風の近くにある裏道の店!
リョウ(火ヘンに僚のツクリ)原書店ね。
都内にないか〜。通販だな。
514 :
世界@名無史さん:2001/08/07(火) 23:56
誰か華陽国志に載っている面白い話を教えてくれ
515 :
院生:2001/08/08(水) 01:36
>513
電話かけて在庫聞けばいいんじゃない?
新しい本なら「書虫」(ネット通販)が上記書店より断然安いよ。
516 :
曹操:2001/08/11(土) 18:05
徐州大虐殺は無かった!
517 :
曹操:2001/08/12(日) 12:41
ついでに赤壁の戦いも無かった!
518 :
世界@名無史さん:2001/08/13(月) 02:19
顔良と文醜って素性も分らず武勇の程度も分らないよね?
何の根拠であんなに演義では猛将扱いされてるんだろ
キク義の方が武勇伝は圧倒的に多い・・・
519 :
世界@名無史さん:2001/08/13(月) 02:29
>何の根拠であんなに演義では猛将扱いされてるんだろ
演義としては、関羽の超人的な強さを強調するため。
「勧められた酒が冷える前に華雄の首を持ってきた」
ってあたりの話もそう。
8/22(水)ヨル08:00〜NHK総合「その時歴史は動いた」
三国志SPやるよん!
「知ってるつもり」よりはマシなもん出せよNHK!
取り合えず“〜であると伝えられる”・・・と言う話は
“〜だった”と言う口調で喋んないでね!
521 :
世界@名無史さん:2001/08/13(月) 18:19
袁紹が曹操を滅ぼしていれば顔良・文醜も典韋・許チョみたいに
伝が立っていたかもね
歴史は敗者には薄情だ・・・
522 :
世界@名無史さん:2001/08/13(月) 19:40
523 :
アキレサンドル・デマ:2001/08/13(月) 20:13
>>522 まったいらサンがそう言うとったんよ
(確かに私が言うとマユツバに聞こえるか。おぉモン・デュゥ!)
524 :
世界@名無史さん:2001/08/14(火) 19:16
劉曄が発狂した話を初めて読んだ時はショックを受けた・・・
525 :
世界@名無史さん:2001/08/14(火) 20:33
顔良も文醜もしょせんは荀攸の手のひらの上で踊る猿
526 :
世界@名無史さん:2001/08/15(水) 00:11
『新元史』も『清史稿』も中華民国政府発令だっけな
そういや『清史稿』は正史になったんだろうか。。。
まぁ、両方合わせれば二十六史だな
527 :
世界@名無史さん:2001/08/15(水) 13:38
孟獲を英雄視している民族って何族だっけ?
528 :
あやめ:2001/08/15(水) 15:58
「新元史」は大総統令により正史に列せられています。「清史稿」は
あくまで稿本ですから正史ではなく、完成の暁には正史となるべき者に
過ぎません。
台湾では「清史稿」に基づいて「清史」を完成したとして、30年くらい
以前だかに総統令を発して正史に列しました。もちろん北京ではこれを
認めず目下編纂作業中のようです。
529 :
世界@名無史さん:2001/08/15(水) 20:29
530 :
世界@名無史さん:2001/08/15(水) 21:04
わりぃ
531 :
世界@名無史さん:2001/08/16(木) 18:11
契丹は魏に殺害された軻比能の子孫を称しているらしい。
532 :
世界@名無史さん:2001/08/17(金) 03:34
すごい落ちるの早・・・ 世界史板こんなに人多かったか?
533 :
世界@名無史さん:2001/08/17(金) 05:15
呂布が丁原斬ったときの詳細書いているの無いかな
裴注に丁原はかなりの武力馬鹿とかかれているから、
呂布が一方的に斬っておしまいとは思えない
534 :
世界@名無史さん:2001/08/17(金) 07:28
>>533 ダメだ。「蒼天航路」読んで以来、丁原の殺され方があれ以外には
想像できんようになってしまった。(汗
535 :
世界@名無史さん:2001/08/18(土) 11:27
寝返りの代償に赤兎馬を与えたっていう記述もないよね
演義作者の偉大な想像力ってとこか?
だとしたらホントすごいよね
536 :
世界@名無史さん:2001/08/18(土) 16:37
孫策>>>>劉備を論じよう
単なる袁術の一部将から二十歳そこそこで江東を制覇
張昭らの能臣や太史慈らの猛将を続々と配下に加えた孫策
方や三十越えて徐州を治めながら孫乾や糜竺とかの地味な文官
しか味方に付けられず、居候生活を繰り返した劉備
器量はやはり孫策が格段上かな・・・
537 :
世界@名無史さん:2001/08/18(土) 17:10
>>536 財産も縁者もない、裸一貫からスタートした劉備と
当時最大の実力者の一人だった袁術というバックホーンがいた
孫策は同じ土俵で比べることはできないでしょう。
孫策の快進撃は、彼自身の実力もあるけど最大の要因は
「袁術の配下が攻めてきた!」ってことに敵が震え上がった
のではないだろうか。
戦術(戦略ではない)は孫策のほうが上なのは間違いないが。
538 :
世界@名無史さん:2001/08/18(土) 20:53
>>537 その通りですね.孫策の場合は一族が郡太守とかになっているし
あと地元の有力名士の息子である周喩と兄弟同然だったし.
でも一応劉備も徐州を統治する以前は,当時河北で袁紹以上に勢力のあった
公ソンサンの部下だったんですよね.
スタートが遅いのは仕方ないけど,もう少しうまく状況を利用できなかったかな?
孫策もそうだけど,結局地元の豪族達(例えば陳一族)との関係も
それほど親密なものではないようだし.
539 :
世界@名無史さん:2001/08/19(日) 00:24
そもそも劉備の場合、出自を考えると歴史に名前を残しただけで
奇跡に近い英雄だと思うが。
540 :
538:2001/08/19(日) 02:19
>>539 劉備の生家は豊かではありませんでしたが,一族にはそこそこ裕福なひとはいたようで,
伯父の出資でロシュク先生の所に遊学しています.公孫サンと知り合ったのも,確かそこですし.
まああまり真面目には勉強しなかったようですが...
もっと奇跡に近い連中は他にもいそうですね.
541 :
世界@名無史さん:2001/08/19(日) 03:15
正史ほかを読むと、劉備が人徳ばかりを売りにしてたとは考えにくいね。
関羽・張飛をはじめとした無骨者にも限りなく慕われてるあたり、
実際は仁者というよりむしろ「俺について来い!」って感じの
親分肌の存在だったんじゃないだろうか。
(劉備が任侠道上がりなのは前提として)
542 :
世界@名無史さん:2001/08/19(日) 03:25
>>541 うん。そういった意味じゃ、演義型の「仁者としての劉備」はもう
解釈としては古いのかも。最近の三国志関係の本は、漫画や小説に
限らずおしなべて「任侠型の劉備」になってきてるよね。
543 :
世界@名無史さん:2001/08/19(日) 13:00
実際には、いくら親分的統率力があってもカリスマがないと
あそこまでついてくる人は多くないな。
この辺が「人徳」として評価されるようになったんだろう。
・・・あれ、これって劉邦のことじゃん(w
血は争えないってか?
544 :
あやめ:2001/08/19(日) 14:11
内藤湖南の「支那上古史」には劉備を劉邦と比較して、劉備の方は
「負け惜しみのところがある」と評していたように記憶しますが、
確かに劉備の方がカッコつけの気味があって、劉邦のように素直に
自分をさらけだすとこが欠けてる、ってとこが両者の違いでしょうか。
545 :
世界@名無史さん:2001/08/19(日) 19:03
徐州牧になった時点で孫策の持ってた好条件とほぼ同ラインのはずだが?
孫策は袁術にないがしろにされてそんなに兵を与えられていなかったはず。
何にしろ、劉備はあまり名士を登用できなかった。
元々学問を軽んじていたから諸葛亮のような無名で無頼な青二才くらい
がちょうど良かったんだろう。
かなり晩年まで学者タイプは冷遇していた嫌いがある。
その辺が孫策との違い。
546 :
世界@名無史さん:2001/08/19(日) 21:48
陳群と徐庶は、劉備のアホさに嫌気がさして曹操のもとに赴いたっつうくらいだしね。
547 :
538:2001/08/20(月) 05:47
>>546 徐庶については初耳です.陳群はその通りですけど.
>かなり晩年まで学者タイプは冷遇していた嫌いがある。
>その辺が孫策との違い。
馬ショクが嫌いで,お気に入りが魏延や馬忠ってのはその通りですね.
でも孫策は江北の名士層(二張など)は味方に出来ても,江南の豪族との
関係は朱氏を除けば最悪でしたけどなぜだろう.
(陸氏との関係が悪かったのは,しかたがなかったのでしょうけど)
>諸葛亮のような無名で無頼な青二才
うーん.あんまりだ(苦笑).
とりあえず荊州名士の一員として認められており,劉表死後荊州名士層を
陣営に引き入れた立役者と思うんですけど...
(最大の理由はもちろん劉キ君擁立ですけどね)
548 :
世界@名無史さん:2001/08/20(月) 11:50
>>547 そら、切り取り勝手の孫策坊主が豪族から嫌われるのは当然っしょ
後、最悪って程仲悪くもなかったような・・・
549 :
世界@名無史さん:2001/08/21(火) 21:47
8/22(水)ヨル08:00〜NHK総合「その時歴史は動いた」
三国志SPやるよん!
再掲
550 :
世界@名無史さん:2001/08/22(水) 20:21
>>549 只今NHKで「知ってるつもり!?三国志SP」やってるよ!
爆笑モノです。
ハァ?「内容は視聴者のレベルに合わせました」…なるほど
551 :
世界@名無史さん:2001/08/22(水) 20:33
一応正史も引いてるじゃないの
しゃべる陳舜臣みたの初めてだ・・・
ちなみに知ってるつもりではないよ
552 :
世界@名無史さん:2001/08/22(水) 21:38
ここまでくだらないとさすがに腹立つ。
民衆のための政治?パリ.コミューンじゃないんだから。
553 :
世界@名無史さん:2001/08/22(水) 21:41
蜀書に孟獲の七禽なんて出ていたか!?
「演義」の火炎放射器と違って史実はこうだっていう口調だったぞ。
554 :
世界@名無史さん:2001/08/22(水) 21:44
孔明様、ここは馬しょくを斬って民衆に正義をPRしては如何?
なろほど…。しかしこのような策を考えるとはそちもなかなかワルじゃのう。
孔明の子孫がいたとはしらなんだ
結局魏は悪者扱いですか・・・
こういうノリいいかげんに止めて欲しいな
人形劇の頃から進歩しとらんな。NHKの三国志観。
558 :
モリース・ド・セックス将軍:2001/08/22(水) 22:24
後漢後期(西暦153年)の益州の人口、約700万。
蜀漢滅亡時(西暦264年)の益州の人口(漢中郡除く)、約90万
これが「民衆のための政治」の総決算である。嗚呼兵は凶事なる哉。
559 :
世界@名無史さん:2001/08/22(水) 22:55
ひどいねえ。史実の歪曲が。
諸葛霞タン‥‥ハァハァ
561 :
世界@名無史さん:2001/08/23(木) 00:56
律儀にsage入れるのやめれ
562 :
世界@名無史さん:2001/08/23(木) 01:49
漢民族同士で殺しあって国力が減退したから、五代十国・五湖十六国時代になっちゃった?
563 :
世界@名無史さん:2001/08/23(木) 02:31
異民族傭兵も使ってるけどね。
564 :
世界@名無史さん:2001/08/23(木) 04:47
高島俊男がちくま文庫「三国志 きらめく群像」で正史三国志キャラの解釈・評価してるけど、それについてはここに来てる人はどう思いますか?
565 :
世界@名無史さん:2001/08/23(木) 21:56
諸葛霞タン‥‥ハァハァ
566 :
世界@名無史さん:2001/08/23(木) 22:35
>>555 今後「○○の子孫」「××の一族」は続々と出て来ると思われ。
特にそれが観光資源になる場合は特に。
そういう人たちがデッチアゲするつもりは無くとも、そんな言い伝え、
伝説は捜せばいくらでもあるはず。(真偽はこの場合問題ではない)
まぁそのあたりは日本でもよくある話
ことさらに「シナはすぐこれだ…」などと貶すベカラズ。
私としては“諸葛孔明の子孫の村、諸葛鎮半日観光(昼食付)”ってのが
いつパックツアーの日程表に載るかが楽しみ。
567 :
世界@名無史さん:2001/08/23(木) 23:26
町が八陣図の形になってるんだよね
568 :
世界@名無史さん:2001/08/23(木) 23:39
八門遁甲の計に巻き込まれ、日本人観光客3人行方不明
569 :
世界@名無史さん:2001/08/24(金) 00:25
八陣ってホントに敵を迷わせられるモンなのか?
そういえば奇門遁甲を研究してる本があったなあ
570 :
世界@名無史さん:2001/08/24(金) 03:19
そういえば、諸葛亮以外に子孫が存在してる
(とりあえず○○の子孫、として有名であることがここでは認定の条件)
三国時代の武将っているのかな?
571 :
あやめ:2001/08/24(金) 09:37
張魯の子孫は江西省で張天師の子孫ということで現存してます
572 :
世界@名無史さん:2001/08/24(金) 09:59
孔融の子孫も現存。
孔子の子孫は諸王朝から優遇されたから、血統は確かだぞ。たぶん。
573 :
あやめ:2001/08/24(金) 23:02
孔子の子孫が現存してるのは確かですが、孔融の系統ではないと思います。
574 :
世界@名無史さん:2001/08/25(土) 00:43
文革で名家の子孫は大分やり玉に挙げられたの?
575 :
世界@名無史さん:2001/08/25(土) 01:30
孔融は孔子の直系の子孫じゃないよ。孔子の直系の子孫がいるのは確か。
孔子から数えて155代目くらいだったと思う。
576 :
世界@名無史さん:2001/08/25(土) 03:03
孔子の子孫が、うちの県にきてなんか書き残していったらしいよ。
577 :
世界@名無史さん:2001/08/25(土) 08:01
かなり古いけど、岩波新書からでてる「諸葛孔明」(立間祥介著)読んだ人いる?
孔明の親父さんの話とか三顧の礼は本当はなかったとか正史に拠って書かれてて
面白いよ。
578 :
あやめ:2001/08/25(土) 12:26
孔子と張魯の子孫の話は昨年9月「いまだに続いている家系は?」と
いうスレッドに詳細にレスしました。興味のある方は過去ログ倉庫に
行って探してみてください。
579 :
あやめ:2001/08/25(土) 15:31
<孔融は孔子の直系の子孫じゃない>ということもありません。
孔丘=孔子から孔融までの系譜はこんな感じです。
丘-鯉-キュウ(人偏に及)-白-求-○-○-○-允-鮒
|
-騰-忠-武-安國
|
-延年-覇(次行に続く)
覇-光-○-収-均-志
|
-○-○-○-○-○-宙-融
孔子の9代の子孫であった孔鮒はあの陳勝の博士でした。その弟の孔騰は
漢の恵帝の博士で、その曾孫の孔安國が武帝の博士で古文経学の祖とされ
る人です。安國の弟の延年の子の孔覇は元帝から関内侯に封じられており、
曾孫の孔均は漢の朝廷から「褒聖侯」に封ぜられ、以来歴代朝廷から特別
の崇敬を受け、孔子の祭祀を曲阜の孔府で継承して現代に及んでるのです。
孔融はこの孔覇の子孫ですから筋目はしっかりしています。しかし彼が曹
操に殺された際に「妻子は皆な誅せらる」と「後漢書」の本傳に明記され
ていますので、孔融の後裔が現存しているはずがありません。
580 :
あやめ:2001/08/25(土) 15:40
系図がずれちゃいました。
丘-鯉-キュウ(人偏に及)-白-求-○-○-○-允-鮒
|
-騰-忠-武-安國
|
-延年-覇(次行に続く)
覇-光-○-収-均-志
|
-○-○-○-○-○-宙-融
これでどうかな。
581 :
がいじんさんの:2001/08/25(土) 15:44
582 :
あやめ:2001/08/25(土) 15:47
また失敗
騰を鮒と同列に、延年を安國と同列に並べてください。
583 :
世界@名無史さん:2001/08/25(土) 16:05
あやめの発作が・・・
584 :
あやめ:2001/08/25(土) 16:29
ホッサマグナで日本もずれた。
アスキーアートをずれないようにコピペしてる人なんて、どういう
テク使ってんのかな?オセーテ (-人-)
585 :
あやめ:2001/08/25(土) 18:32
丘 覇 これだったらどうかな(執念モード)
│ ┌┤
鯉 ○光
│ ││
キュウ(人偏に及)○○
│ ││
白 ○収
│ ││
求 ○均
│ ││
○ ○志
│ │
○ 宙
│ │
○ 融
│
允
┌┤
騰鮒
│
忠
│
武
┌┤
延安
年國
│
覇(次行に続く)
586 :
世界@名無史さん:2001/08/25(土) 18:40
587 :
575:2001/08/26 08:01
>>579-585
日本生まれの中国人、陳さんがこういってます。
---
姓は孔、名は融、あざなは文挙。後漢の永興元年(一五三)に生まれた。孔子二十世の孫
であるという。子孫といっても、孔子の嫡系ではない。
動乱が多く、王朝がしばしば交替した中国では、名家が長く続く例はまれである。孔子の
家系は例外的に続き、現在は嫡系が七十七世の孔徳成で、台湾に住んでいる。孔子の子孫と
称する人は数十万にのぼるであろう。戦時中、国民政府の行政院長(首相)をつとめた孔祥
煕も、非嫡系ながら孔子七十五世の孫と称していた。曲阜市(孔子の出身地)の人口の半ば
は孔姓で、みな孔子の末裔といわれている。在日華僑のなかにも、孔子の子孫がいるほどで、
あまり多くて、その人にとって、とくにメリットとはいえない。二世紀の後漢末期にあって
も、ほぼおなじであろう。ちなみに、孔子嫡系二十世は孔完という人物であった。
---
孔完が直系で、孔融は傍系。
http://shopping.yahoo.co.jp/shop?d=jb&id=09191662
588 :
世界@名無史さん:01/08/26 11:25
洛陽って夏はあまり雨が降らないもんなの?
誰か知らない?
589 :
世界@名無史さん:01/08/26 15:05
>>566 次は曹操村だそうだ。金さえ出せばいくらでも見つかるとか。
590 :
あやめ:01/08/27 00:15 ID:mHy/JEWk
591 :
>>あやめ:01/08/27 00:38 ID:dOeS7lis
><孔融は孔子の直系の子孫じゃない>ということもありません。
>>579 >孔完が直系で、孔融は傍系。
>>587 についてはどう思われますか?
592 :
世界@名無史さん:01/08/27 00:59 ID:mJZBxj0A
年は甲子にあり・・・って何気なく見過ごしてたが、甲子・辛酉は革命の
年なんだってね
593 :
世界@名無史さん:01/08/28 20:00 ID:z5DzgZ0M
劉備は田豫や袁渙といった名士を登用してるな・・・
徐州から逃亡したときは妻も置き去りにしたくらいだから
やっぱそれらの人物を連れていく事は無理だったんだろう
陳羣父子も劉備に身を寄せていたようだし
594 :
世界@名無史さん:01/08/29 03:10 ID:djD3EBIA
三国史上最大の水上戦って何?
やっぱ赤壁なのかにゃ?
他にはあったっけ・・・
595 :
世界@名無史さん:01/08/29 03:51 ID:aKMQQ/q6
_______________
|
|★★諸葛亮は持久戦が一番キライ!★★
|
|●出陣してきたらには陣地を貼って持久戦!
| ウザイと思ったらそのまま放置!
|
|▲持久戦に持ち込まれた諸葛亮は煽りや自作自演であなたの出陣を誘います!
| ノセられて出陣したらその時点であなたの負け!
|
|■反撃は諸葛亮の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです
| 諸葛亮にエサを与えないで下さい
|
|☆過労死するまで孤独に暴れさせておいて
| 兵糧がなくったら追撃が一番です
|
| 。
. Λ Λ /
(,,゚Д゚)⊃ ジュウヨウ!ソシテシュウリョウ!
〜/U /
. U U  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
596 :
程c食人 ◆QaokVnQg :01/08/29 04:45 ID:ao5rMgB.
世界史板には はじめてきました
597 :
世界@名無史さん:01/08/29 11:54 ID:Ds.m.k1o
>>594 赤壁は、正史には記述が少なく、本当に一大水上決戦があったのかどうか
あやしいです。
曹操側の軍に病気が流行したため、若干の小規模な戦いをしただけで曹操
が軍をひいた、といったところが真相ではないでしょうか。
598 :
世界@名無史さん:01/08/29 12:06 ID:PqEET68c
劉備の若い頃「犬・馬・音楽を楽しんだ」
とありますが、犬って何ですか。
闘犬?
599 :
世界@名無史さん:01/08/29 12:06 ID:lmnCP7Xg
晋と呉の最終決戦は水上線だっけか?
600 :
世界@名無史さん:01/08/29 15:05 ID:S3nF5JRs
601 :
世界@名無史さん:01/08/29 15:39 ID:wKYkXCdg
>劉備の若い頃「犬・馬・音楽を楽しんだ」
むろん、犬鍋(ポシンタン)に馬刺のことです。
602 :
世界@名無史さん:01/08/29 15:53 ID:IlYPnWOY
>>598 火攻めによる水上戦があったのじゃ間違いないんじゃない?
あと戦死者の数じゃなく、対陣した人間の数を考えると大規模な戦かと思われ。
>>599 どうなんだろね。益州から船団が長江を下って攻め込んだって話だけど。
建業のあった地勢を考えると、水上戦があってもおかしくない。
603 :
世界@名無史さん:01/08/29 16:17 ID:mo4i2KRo
598
>>602 >火攻めによる水上戦があったのじゃ間違いないんじゃない?
ところが、その「火攻め」について正史で言及しているのは、黄蓋の
ところぐらい。
曹操をはじめ、赤壁にいたはずの人たちのどの伝を見ても、火攻めで
ひどい目にあったなどの記述はないのです。
そもそも、本当に、巷説のような大決戦で曹操軍が負けたのなら、曹
操軍の幹部級の武将たちが何人も赤壁で戦死したり捕らえられたり負
傷したりしていなければ不自然でしょう。しかし、私の知る限り、そ
れもありません。
黄蓋の火攻めはあったにしても、ごく小規模なものにすぎなかったと
思わざるをえません。
赤壁は基本的には、曹操伝の記載のように、軍に病気が流行したので
撤退したもので、そこに至るまでの対峙中、あるいは孫権軍の追撃で
小規模な戦闘はあり、その時に黄蓋の火攻めもあったという程度で
しょう。
604 :
世界@名無史さん:01/08/29 18:34 ID:7Hpz9Kf6
失礼、603は、598ではなく、597でした。
605 :
世界@名無史さん:01/08/29 22:10 ID:q7bfiLZw
中国史上最大の海戦といえば、元寇とガイ山の戦い?でいいのかな・・・
鄭成功とかとも海戦してるっけ?
606 :
世界@名無史さん:01/08/30 01:19 ID:GUllBnWg
疑問なんだが、演義で劉備が黄巾の乱の際に旗揚げした時、
二十八才って書いてなかった?
すると劉備は157年生まれって事になる
で、223年に死んだ時には63才って書いてある
つまり161年生まれって事だね
これって俺の持ってる本だけ?
607 :
世界@名無史さん:01/08/30 03:04 ID:yyDLh6Cs
劉備の母ですが、何か?
608 :
世界@名無史さん:01/08/30 04:01 ID:rCuAsCB6
>>606 演義ではどこでも28歳みたいな気がする…
なぜそんな年齢詐称をしなきゃいけないかわからないけど
609 :
世界@名無史さん:01/08/30 04:33 ID:nYEyqnj.
>>606 ウチのも28歳だった。生年も161年のはず。
610 :
世界@名無史さん:01/08/30 04:41 ID:Z5TSZkIU
>>608 桃園の誓いで劉備を長兄にするためじゃないかな
611 :
世界@名無史さん:01/08/30 15:50 ID:Yje6udaY
>>610 関羽も張飛も(余談だが趙雲も)生年は不明だからねぇ。
その為に長兄である劉備の年齢を、適当にでっち上げたのかも。
612 :
世界@名無史さん:01/08/30 20:29 ID:8HXDbEDw
二十四だと若僧って感じだからじゃないの?
ある程度落ち着きを備えた年齢に設定したかったのかと・・・
それにしても主人公の年齢をボケるとはいい根性しとる
613 :
世界@名無史さん:01/08/31 07:22 ID:6OJ2qTMs
五虎将軍で生年が分かっているのは馬超だけか・・・
さすがに名門?
五虎将軍ってのは演義オリジナルの呼称だっけ?
614 :
あやめ:01/08/31 19:03 ID:pMEazaSY
>>591 最後の部分は「省略されました」に没入するかも
直系と傍系の解釈については現行民法の親族編の規定によりました。
つまり孔子にとって直系の子孫とは彼の子息の子孫のことで、孔完も孔融も該当します。
孔子にとって傍系とは彼の兄弟や伯叔父や従兄弟の子孫です。そのような人物は文献上
見当たりません。下記は漢一代の間の孔氏の系図です。
┌────────────┬─┐
騰[子襄](漢の恵帝の博士) 樹 鮒
|
忠[子貞](博士)
|
武
├─────────────────┐
延年(大将軍、太傅) 安國(武帝の博士、臨淮太守)
| │
覇[次孺](給事中、高密の相、褒成君) コウ{仰から人偏を省く}
├─────┬─┬─┐ │
福(関内侯) 振 喜 光 驩
|
房
|
均[莽、長平](尚書郎、褒成侯)
|
志(大司馬、元成侯、褒成侯)
|
損(褒亭侯)
| (以下は魯國の孔氏、宙は覇の6世の遠孫)
曜(褒亭侯) 宙(太山都尉)
├─┐ │
? 完(褒亭侯) 融[文擧](太中大夫)
│
この後裔が現在に継続する孔氏の正嫡の家系です。
615 :
あやめ:01/08/31 19:20 ID:pMEazaSY
どうしてもズレちゃう(>へ<)
"安國(武帝の博士、臨淮太守)"、"コウ{仰から人偏を省く}"、"驩"の列を右寄せし、
安國―コウ―驩 と繋げ、
"(以下は魯國の孔氏、宙は覇の6世の遠孫)"、"宙(太山都尉)"の列を右寄せし、
宙―融 と繋げてください。
616 :
あやめ:01/08/31 19:29 ID:pMEazaSY
Tabキーを使えばいいのかな?
617 :
世界@名無史さん:01/08/31 19:59 ID:oruXsWtM
まだやってるのか・・・あやめ・・・
>>616 あやめたん。
メモ帳などで下書きする場合はフォントを
「MS Pゴシック」に設定してみてください。
MS Pゴシックでズレないように整形してから投稿すれば、
たぶん、ずれません。
あとあと1byteのスペースは二つ以上連続で続くと、
一つに、まとめられちゃうので注意してください。
(整形には2byte文字のスペースをつかうといいかも)
#マッキントッシュなどウインドウズ以外の機種や、
#IE以外のブラウザで、どんなふうに表示されるかは、しらないけど。
┌────────────┬─┐
騰[子襄](漢の恵帝の博士) 樹 鮒
│
忠[子貞](博士)
│
武
├───────────────┐
延年(大将軍、太傅) 安國(武帝の博士、臨淮太守)
│ │
覇[次孺](給事中、高密の相、褒成君) コウ{仰から人偏を省く}
├─────┬─┬─┐ │
福(関内侯) 振 喜 光 驩
│
房
│
均[莽、長平](尚書郎、褒成侯)
│
志(大司馬、元成侯、褒成侯)
│
損(褒亭侯)
│ (以下は魯國の孔氏、宙は覇の6世の遠孫)
曜(褒亭侯) 宙(太山都尉)
├─┐ │
? 完(褒亭侯) 融[文擧](太中大夫)
│
この後裔が現在に継続する孔氏の正嫡の家系です。
#さて、うまくいくかな。。。
おっと失礼。こういうことね。
では
>>619の訂正。
┌────────────┬─┐
騰[子襄](漢の恵帝の博士) 樹 鮒
│
忠[子貞](博士)
│
武
├───────────────┐
延年(大将軍、太傅) 安國(武帝の博士、臨淮太守)
│ │
覇[次孺](給事中、高密の相、褒成君) コウ{仰から人偏を省く}
├─────┬─┬─┐ │
福(関内侯) 振 喜 光 驩
│
房
│
均[莽、長平](尚書郎、褒成侯)
│
志(大司馬、元成侯、褒成侯)
│
損(褒亭侯)
│ (以下は魯國の孔氏、宙は覇の6世の遠孫)
曜(褒亭侯) 宙(太山都尉)
├─┐ │
? 完(褒亭侯) 融[文擧](太中大夫)
│
この後裔が現在に継続する孔氏の正嫡の家系です。
621 :
世界@名無史さん:01/09/01 05:33 ID:WupRenr6
ごくろうさま。>あやめさん、がばろんさん
622 :
あやめ:01/09/01 07:26 ID:sQCiOsOs
いつもながらありがとうございます、がばろんたんちゅきちゅき、ちゅっ
623 :
世界@名無史さん:01/09/03 02:36 ID:Shar1sY6
劉備が献帝の叔父だと呼ばれるのに常々疑問を感じていたが、
この間の三国志スペシャルを見て気付いた
劉備は献帝より一世代上なんだね、きっと
蜀志には記されてないが、先祖の名をちゃんと伝えていたんだろう
まあ少し怪しいけど
624 :
世界@名無史さん:01/09/03 03:50 ID:/BjXNHFI
>>623 この場合の「叔父」とは、血筋上の叔父ではなく、自分より年上の者の事を指す。
それと、“少し怪しい”じゃなくて、限りなく怪しいの間違いでしょ。
全く可能性が無い訳じゃないけど、劉備の場合、血筋の重要性は感じられない。
なにしろ、劉備の先祖・中山靖王劉勝は120人以上の子供がいたんだから。
先祖の名前とか、そういう次元の話じゃないよ。
625 :
世界@名無史さん:01/09/03 04:05 ID:5zXrItnE
でも諸葛鎮では年下でも叔父扱いしてたよ
626 :
世界@名無史さん:01/09/03 04:21 ID:B0fQcdrY
年下でも代が上なら目上らしいね
627 :
世界@名無史さん:01/09/03 09:22 ID:h1rjFLr.
孔明の神格化ってどこあたりからだろうね。
少なくとも裴松之の時代には神格化しているみたいだけれども
628 :
専門は中哲。:01/09/03 10:43 ID:2ouKPFQM
例えば光武帝の場合、前漢高祖から数えれば十二代皇帝ですが、
世代では第九世代に当たるので、第八世代の八代元帝を父と称し、
第十世代の九代成帝・十代平帝・十一代哀帝を甥として扱います。
年齢・時代の前後上下は関係ありません。
後漢の学者応劭の『漢官儀』、蔡ヨウの『独断』に見えます。
同様に考えるなら、偽造にしろ何にしろ、
劉備の家系が献帝より一世代上だとされていたことは
623さんの指摘の通りでありましょう。
test
630 :
アマノウヅメ:01/09/03 21:38 ID:IphY6L9E
近代までの中国では、親族は年上か年下かではなく
世代によって上下関係が決まってました。
血筋が少しでも繋がっていれば、年に関係無く、都合によって
目上扱いできるでしょう。
631 :
世界@名無史さん:01/09/03 21:47 ID:HDHnRNW2
ちなみに、伯父は父親の兄(兄系で一世代上)、叔父は父親の弟(弟系で一世代上)
632 :
世界@名無史さん:01/09/04 19:33 ID:mqpVtMy.
史実では董卓入京後、曹操が洛陽を脱出したのはいつ?
曹操と董卓って面識あったんだろうか?
633 :
世界@名無史さん:01/09/04 23:32 ID:rCxlpmtA
三国時代に始められた物や作られた物って何?
饅頭?
634 :
世界@名無史さん:01/09/05 03:09 ID:iNok3F6Y
>>633 孔明が発明した、木牛流馬はどうよ。
あと、魏の馬釣が発明した、竜骨車とか。
635 :
世界@名無史さん:01/09/05 06:30 ID:KlxbZptA
>630
今でも地方によっては世代を重視してるよね?
636 :
世界@名無史さん:01/09/06 03:32 ID:vFKkHph6
荀ケと荀攸は荀攸の方が年上だけど従子だから荀ケに従ってるね
>>634 木牛とかは現存してないからねえ・・・
三国じゃないが華陀の麻酔治療とかかねえ?
三国志は文化面の記載に乏しい
安定した時代じゃなかったからだろうけど
637 :
世界@名無史さん:01/09/06 19:58 ID:WOHlW6CI
霹靂車って漢以前からあったの?
軍事面で三国時代オリジナルってのは何?
屯田制とかはそうらしいけど・・・
638 :
世界@名無史さん:01/09/07 23:51
横光三国志を初めて読んだが、宦官に髭があったのは驚いた
639 :
世界@名無史さん:01/09/08 00:02
ツケひげかも>?
640 :
アマノウヅメ:01/09/08 00:21
宦官には髭はありませんよ。
男性ホルモンで無いから。
政変で宮中に押し入って大物の女官や宦官を皆殺しにすることは
ありますが、髭のある人は官吏とみなされて無事だったようです。
れっきとした役人でも髭のうすい人は宦官と間違えられて
殺されたとか。
641 :
世界@名無史さん:01/09/08 00:25
年老いて宦官になる(去勢する)ば、
髭は残っているんじゃないの?
年老いてればちん○が無いだけでは無いの?
声色や容貌の変化は無いらしいけど
642 :
アマノウヅメ:01/09/08 00:41
>>641 髭もなくなるそうですよ。
男性ホルモンの供給がなくなると。
白人女性で中年過ぎてひげのある人がいますが、女性ホルモンが
出なくなるからとのことです。
643 :
世界@名無史さん:01/09/10 00:35
複数の皇帝が立った初めての時代?
644 :
世界@名無史さん:01/09/10 11:03
新と後漢の間の混乱期にも複数の(自称の)皇帝がいましたよ。
645 :
世界@名無史さん:01/09/10 11:07
蜀に入った劉備の軍隊と地元の人達との間で
トラブルとかなかったのかな?
今の台湾の外省人と内省人の対立みたいなの。
646 :
世界@名無史さん:01/09/11 14:37
中国人って今でも親の名前って口にしないの?
あれって変な風習だよね?
口にするだけでなく、文字にもしない・・・
親の名前がメジャーな字だったら不便だろうに
647 :
世界@名無史さん:01/09/11 15:43
三国志にでてくる、「武都」と「陰平」の風景の写真をさがしているのですが、
ご存知のかたいませんか?
いってみたいのですが、行ったことある方いますか?
648 :
@名無しさん:01/09/11 17:36
呉の女性は呉服を着てたのでしょうか?
649 :
世界@名無史さん:01/09/11 19:21
>>645 益州の土着豪族は劉焉に殺されまくり、劉璋が後を継いだ際にも
殺しまくられた。
劉備の入蜀の際の劉璋の重臣たちは益州以外の出身者がかなり多い。
よって反発などは無かったと思われ。
650 :
世界@名無史さん:01/09/12 20:49
私家版の史書は編者の親の名は避けられているようだが、
三国志などの国家の命で編纂された史書はそういう事は
ないのだろうか?
故意に避けられている字で陳寿の父の名とか分からないかな?
651 :
世界@名無史さん:01/09/12 21:58
>>649 じゃあ劉焉に土台をつくってもらったようなもんだ。
悪すぎた政治家の後は楽だよね。
652 :
世界@名無史さん:01/09/13 16:54
↑初平二年(一九一)劉焉の態度は一変し、己の益州に於ける支配権の
貫徹を図るべく、強引な武力行使を以て益州人士に臨み出す。先ず彼は、
祖父陵の代より蜀に居住し五斗米道なる宗教教団を率い、一定の社会勢
力を持っていた沛国出身の張魯を督義司馬に任じて漢中に派遣し、太守
の蘇固を攻撃させて中原との要路である閣道を焼き払い、漢朝の使者を
殺害させると、自らは「米賊が道路を遮断したため都への連絡は不可能
となりました」と上奏して漢朝からの半独立的体制を取り、一方では威刑
を立てると称して他事に託つけ、州内の土着豪族である巴郡太守の王咸
や、梓潼郡の大姓で臨キョウ長の李権ら十数人を殺害した。これに対しケ
ン爲郡太守の任岐や劉焉の入蜀を手助けした賈龍ら土着豪族が反劉焉
の兵を挙げるが、逆に劉焉の家兵集団である東州兵に制圧され、ここに
劉焉の益州支配が確立した。
コピペです。
653 :
世界@名無史さん:01/09/13 17:33
劉焉ってけっこうワルだね。
654 :
世界@名無史さん:01/09/13 19:31
演義では何故か幽州刺史になっている
黄巾の乱の際の実際の幽州刺史は誰なんだ?
655 :
( ´D`)ノ:01/09/13 19:56
>>654 最初の頃(劉備が挙兵して官軍の義勇兵に志願した頃)は、
まだ幽州刺史だったはずなのれす。のちに霊帝に上奏して
任地を変更させてもらってたような・・・。(確かそのときに
「刺史」という語が廃されて「牧」になったはずれす。)
「益州に天子の気あり」という予言があったためだとも。
野心満々だったのれすね。(藁
656 :
世界@名無史さん:01/09/13 21:08
>>655 だから、それは「演義」での話ですね。正史とごっちゃにしないように。
あと、「牧」が廃止されたのは魏においてのみ。
ありゃりゃ。お恥ずかしいのれす・・・。(汗
658 :
世界@名無史さん:01/09/13 23:05
法正って蜀のジモピーだっけ?
659 :
世界@名無史さん:01/09/13 23:30
660 :
スノーボール:01/09/14 00:27
661 :
世界@名無史さん:01/09/14 09:41
蜀のジモピー官僚っていなかったのかな?
662 :
世界@名無史さん:01/09/14 20:40
黄権が巴西郡
王累が広漢郡
他にもいるとは思うけど・・・
荊州出身者が意外に多い
後、張魯は沛国の人と書いてあるがただの本籍のようだ
〜の人というのは生地とはまた別物だね
663 :
世界@名無史さん:01/09/15 03:25
周の王家の子孫って三国時代もまだいたの?
664 :
専門は中哲。:01/09/15 16:25
>>657 656さんはあなたの言うことを全否定しているわけではありません。
董扶の「益州分野に天子の氣有り」という言を信じ益州牧を望んだこと、
刺史の廃止、州牧の設置を奏上したことは正史にあります。
なお、後漢の刺史は監察官が行政権限を兼ね備える様になったものですが、
州牧は最初から行政権を握っており、実務権限は州牧の方が断然上です。
劉焉、バリバリの野心家ですな。
665 :
世界@名無史さん:01/09/15 19:10
軍事権もね
666 :
世界@名無史さん:01/09/16 16:09
>>654 確かに劉虞は黄巾の乱勃発時には幽州刺史だったみたいだが
まもなく幽州刺史から甘陵国の相に転じている。
その後任と思われる郭勳が黄巾賊に殺されている。
667 :
世界@名無史さん:01/09/16 20:16
劉虞は公事により官(幽州刺史)を去ったと書かれているよ
黄巾の乱の勃発の時には刺史ではなかったんじゃ?
甘陵相にされたのは生き残りの民を安んじる為だそうな
668 :
世界@名無史さん:01/09/21 09:36
長安と咸陽って位置的にどれくらい離れてたの?
669 :
世界@名無史さん:01/09/22 20:32
>>668 直線距離だと、大体30Kmってところじゃないかな。
試しに「咸陽・長安」で検索かけてみ。いっぱい出てくるから。
670 :
世界@名無史さん:01/09/23 04:55
何かこの板全般的に東洋史色が薄くない?
寂しい・・・
671 :
世界@名無史さん:01/09/24 01:22
張角に太平道の書を与えた南華老仙って荘子?
672 :
世界@名無史さん:01/09/24 02:15
学問の師弟関係や同門の関係があるけど、
実際どのような教育がされてたの?
学閥で出世できたり、就職できたりしてたの?
673 :
世界@名無史さん:01/09/24 15:11
>>672 就職に関しては、廬植の弟子だと有利そうな気がする。
674 :
世界@名無史さん:01/09/24 21:22
諸子百家の時代を終わらせ、学問・文化の停滞を決定づけたのは漢王朝?
戦国の世が続いていた方が中国はすごい国になったかもね
675 :
世界@名無史さん:01/09/24 21:29
>>672 皆ほとんど儒学を学んだんだよ。
私塾と公立の学校があったんじゃないかな?
中央には太学があって学生がいっぱいいた。
師弟関係が出世に影響するかどうかは一言ではいえんなあ・・・
676 :
世界@名無史さん:01/09/25 12:42
>>671 知識を記した巻物を山で不思議な老人から授けられるってのが、伝承の一つの
パターンだよね。当時はそう称するとハクがついたので、適当な人名を使った
のでは。
孔明も東南の風を呼んだ術を異人から授けられたと称してる(もちろん演義で
の話ね)し、張良も似たシチュエーションで兵法を授かってる。
677 :
世界@名無史さん:01/09/25 14:53
三国志、できれば孫堅で卒論書きたいんだけど
なんかいい題材ないかねー?
678 :
世界@名無史さん:01/09/25 17:09
孫堅で書くとは勇気があるなあ
三国志呉書・後漢書・東漢観記あたりくらいしか思い当たらないが・・・
結構あの時代では破格の出世をした人ではあるね。
679 :
世界@名無史さん:01/09/25 17:13
>>677 悪いことは言わない。やめとけ。史料なさ過ぎ。
先行研究を衝く方法論があるなら別だが。
蜀もオススメできないね。
やるなら魏でしょうな。
曹氏の墓誌などの出土文書が近年出て研究されていますよ。
狙い目です。
680 :
世界@名無史さん:01/09/25 18:04
↑そうかあ。。ありがとう。孫堅、孫策、
不十分なら孫権まで・・と思ってたけど
難しいかな。。
さすが世界史板、ためになりますなあ。。。
681 :
世界@名無史さん:01/09/25 20:40
>>680 その当時の江南文化の考察から見れば面白いと思うけど。
どうやって地元の集団になじんでいったのかとか・・。
682 :
世界@名無史さん:01/09/26 01:41
地元ってどこの?
孫堅は呉郡の出身だけど・・・
涼州辺りまで羌討伐に行ったりして戦歴はかなり輝かしいもんがあるような・・・
683 :
世界@名無史さん :01/09/26 01:52
そうひょうラブ
684 :
世界@名無史さん:01/09/26 09:30
山越がらみは?
685 :
世界@名無史さん:01/09/27 00:33
陶謙の実体を探るのも面白いかも・・・
暴君のようなそうでないような・・・
張昭にその死を惜しまれてたりするおかしな人物だ。
686 :
世界@名無史さん:01/09/27 21:47
陶謙は高祖のように嫁のオヤジに見込まれて援助を受けて出世したらしい
元は無頼漢だった
687 :
世界@名無史さん:01/09/29 22:01
左慈って実在の人物のようだけど、実際の所どんな
人物だったんだろう?
マリックやカパフィールドみたいなもの?
688 :
世界@名無史さん:01/10/01 01:27
実際の所どの程度の幻術が使えたんだろうね?
正史の記述のままだとトンでもない妖怪ジジイなんだが
689 :
世界@名無史さん:01/10/01 04:16
孫策は于吉だけでなく左慈までも斬ろうとしたらしい
馬の前を歩く左慈を後ろからぶっすりやるつもりが
いつまでも追いつけず諦めたとか
よっぽど仙人の類が嫌いだったんだね
690 :
世界@名無史さん:01/10/02 21:32
仙人がやたら多いのは漢代までのような・・・
691 :
世界@名無史さん:01/10/02 23:42
>690
自信もって言えよ!
692 :
世界@名無史さん:01/10/02 23:46
戦国には商人?奇禍の人が出てくるけど、
三国志にはでてこないの?
693 :
世界@名無史さん:01/10/03 00:33
>692
漢代、三国期には商業活動自体が発展したので、かえって史書に商人の
名前が残るようなことが減ったのでは。大商人ぐらい珍しくなくなった
し、その活動も堅実になり、「奇貨おくべし」の呂不韋みたいな冒険的
な投機はあまりする必用がなくなって、史書に記されるような商人のエ
ピソードもあまりなかったのでしょう。
694 :
世界@名無史さん:01/10/03 07:35
今度 家族が「三国志の旅」みたいなツアーに参加することになったそうだ。
6回シリーズで、今回は西安近傍らしい。
ツアーはともかく、実際の現場で面白いポイント、見逃しちゃいけないもの、
等教えてくだされ。>行った方
>692
漢代は商人の身分が低かったて聞いたことがあるが。
漢書貨殖伝なんて犯罪者扱いだし。
696 :
世界@名無史さん:01/10/03 20:39
商業は門閥の副業の一面もあるのだ・・・
697 :
世界@名無史さん:01/10/04 23:18
陳羣の詳しい経歴を知りたい
教えてください。
698 :
世界@名無史さん:01/10/05 01:00
>>694 海外旅行板で聞くのが早いのでは?
このスレは人気ないので
でも間違っても三国板には行かないようにな(笑
699 :
世界@名無史さん:01/10/05 09:28
>>694 碑林は必ずいきなはれ。
なんかよくわからんが面白い。
700 :
世界@名無史さん:01/10/06 07:41
帝号がかぶったのって曹操が最初?
かぶった?どういう意味。
ちなみに漢の武帝は正式には孝武帝だよ。
702 :
世界@名無史さん:01/10/07 02:33
>>701 孝は尊称的意味合いでは?
つーかわざわざsageないでくれ・・・
まあ春秋の諡号はかぶりまくってるけど
って春秋の諸国家の公号は諡じゃないのかも・・・
703 :
世界@名無史さん:01/10/07 12:53
>>702 いや、漢の皇帝は劉邦と劉秀(と劉備)以外全員、孝〜皇帝なの。
略して文帝とか武帝とか呼ぶ。
704 :
世界@名無史さん:01/10/07 15:45
魏の皇帝は孝はつかんの?
705 :
世界@名無史さん:01/10/07 16:05
つかない。
が、理由は知らない。
706 :
世界@名無史さん:01/10/07 18:13
太祖と最初に呼ばれたのが曹操
707 :
世界@名無史さん:01/10/08 00:00
>>706 漢の高祖劉邦は、正確には太祖らしいよ。
708 :
世界@名無史さん:01/10/08 00:44
劉邦は太祖高皇帝だっけ?
曹操は太祖武皇帝だよね。
709 :
世界@名無史さん:01/10/08 00:52
>>708 そのとおりです。
ほかの王朝で「高」と諡された皇帝がいるのは南斉ぐらいか。
曹騰が追尊されて「高皇帝」だったね。
皇帝じゃないけど…
>>709 清のヌルハチがたしか太祖高皇帝だったと思います。
明の太祖洪武帝も諡号は高皇帝みたいですね。
唐以降の一般に廟号(「●宗」)で知られている皇帝には
結構いるのでは?<諡号「高」
713 :
世界@名無史さん:01/10/08 01:20
前秦の五代皇帝、苻登の諡号も高帝みたいだ。
714 :
世界@名無史さん:01/10/08 21:43
左慈は魏志では特に大したことはしてないね
房中術に通じている以外特に怪しいことはできなかったと言われてる
演義に言う宮殿の中で鱸を釣り上げた話とかは後漢書に記されているけど、
やっぱり時代が下っているから伝説が混じったんだろうね
諡号が「高」の皇帝は結構いるな〜
>>712 唐以降は諡号が何文字も続く皇帝が多く、
長ったらしいので廟号で呼ぶようになったのではないでしょうか?
>>713 苻登の諡号が「高」なのは納得がいかない。
716 :
世界@名無史さん:01/10/10 15:32
つか、改めて調べてみたら、謚法解に「高」って無いのな。
劉邦が「功績が最も高いから」ってつけられたのが初出で。
意外と由緒のない謚でやんの。
で、普通はその王朝の建国に一番功績のあった人物、
廟号「太祖」に当たる人物への謚が「高」のようだ。
曹騰は当てはまらないんだが。
715さん、漏れは苻登の謚が「高」でもかまわんと思うがどうよ?
717 :
世界@名無史さん:01/10/10 21:30
サク融の作った寺って坊さんいたんだろうか?
718 :
世界@名無史さん:01/10/10 23:29
清流派ているじゃん
曹操陣営での清流派て、ジュンイクの他どういったメンツがいるの?
あと、曹操陣営以外にもいたんすか?
719 :
世界@名無史さん:01/10/11 00:47
陳羣くらいじゃないの?
清流派って党錮の頃の人間を言うんじゃないの?
清がいるからには濁がいる訳で・・・
魏の濁って誰なの?
720 :
世界@名無史さん:01/10/11 01:03
>>718 後漢末期の士大夫は宦官勢力とそれに与する者達を
「濁流」と呼んで軽蔑し、
自分たちを「清流」と称したそうです。
三国は後漢の反省から原則(蜀の末期を除いて)宦官を重用しなかったので
濁がなければ清を強調する必要もないということです。
721 :
世界@名無史さん:01/10/11 01:26
>>716 >715さん、漏れは苻登の謚が「高」でもかまわんと思うがどうよ?
苻登の功績は苻堅の遺徳があってこそ、と思うわけで「高」という諡号はどうかなと。
せめて「元」ぐらいだったら納得がいくんだけど。
>>718 劉表も清流派でならしてたような。
723 :
世界@名無史さん :01/10/11 03:52
>>633 思いっきり遅レスだけど初めてここにきたので勘弁して下さい。
三国時代に作られた物に笑話集があります。
但し正史には編集者のカンタン淳、魏志の王サン伝におまけとして
書かれてる人なんですが曹植がおしろい塗って肌をあらわにして
踊ったのにビックリした人とくらいしか書かれてないです。
三国時代に作られた物とか探すなら正史だけでなく
他の書物も参考にした方が良いと思います。
人名の漢字全然出なくてちょっと鬱
724 :
世界@名無史さん:01/10/11 20:45
>>717 月氏や康居出身の僧侶は、
その頃から中国での布教をはじめてたらしいよ
725 :
世界@名無史さん:01/10/12 04:10
高僧伝とか読めばサク融の名も見つかるのかな?
726 :
世界@名無史さん:01/10/13 23:43
>>723 笑林だね。図書館で見つけて読んでみた。
十分くらいで全部読めちゃったけど元はもっとあったのだろうか?
孫に腹に果物を詰められた男の話とかが笑えた・・・
727 :
世界@名無史さん:01/10/14 02:55
>>723 中央研究院のサイトにあった。
726のレス読んだら面白そうにおもったんで、
辞書片手に読んでみるよ。
正史系の人から見て、「蒼天航路(漫画)」の董卓の解釈、っていうか
評価ってどうなの?
あれは演義的、なのかな?
史料じゃなくて読み物とかの作品として、蒼天航路の初期〜中期って、
かなり斬新かつ解釈にも結構キレがあって良いと思うんだけどー
729 :
世界@名無史さん:01/10/16 01:18
「蒼天航路(漫画)」にはまって今、徳間書店の「正史」の抄訳(?)読んでる。
董卓については、当然、可皇后をバックでせめたて首折るとかしてないから(爆)
だけど、私もあの漫画の視点とか本当に斬新だと思う。結局、文人(儒者)の視点
でしか語られなかった要素を違う視点でうまく表現してる。(ちょいヤンキー入ってるけど)
例えば、穏健にみられる劉表も荊州赴任の当初地元の有力者55人ぶったぎったり
してて、やはり当時を動かしたのは荒ぶる暴と「大義」かと思うと楽しいよね。
あの漫画って、曹操をスーパーマンにしてるからちょっと引いちゃいがち
なんだけど、他の人間の評価とか解釈がすごくいい感じだと思うんだよ
ねー。袁紹、劉備、董卓、あと袁術とか呂布も!特に袁紹の書き方が、
最後すごく抽象的な存在みたくなっちゃったけど、今まで読んだ演義系
ストーリーの中で、一番官渡という戦の意味を理解させてくれてたと思う。
731 :
世界@名無史さん:01/10/16 03:36
蒼天公路は作者が死んでからは糞マンガになったなあ・・・
黄巾以前の時代を描いているところは評価できるが
732 :
世界@名無史さん:01/10/16 10:34
黄巾以前の曹操関連の史料ってけっこうあるんでしょうか?
「正史」の曹操伝はあっさりしてた。「正史」の注でとりあげられた
いがいに「曹瞞伝」ではいろいろあるのかな?
「蒼天」初期、どれぐらい実際のエピソードを含むのか。。けっこう実際の
エピソード使いつつも前後いれかえたり大分加工してるみたいなんだけど。
733 :
世界@名無史さん:01/10/16 12:49
徐栄をあれだけ活躍させといて、
あっさり呂布に殺させたのは、後漢書を読んでないのか、
それともわざと無視したのか…
後漢書では徐栄は李カク達と戦って死ぬんだが…
734 :
世界@名無史さん:01/10/16 23:36
曹操の若き日のエピソードはいっぱいあるよ
乱世の梟雄と言われた話や橋玄に親しくされた話とか
てんかんのエピソードもそうだし
張譲の屋敷に忍び込んで暴れたりとか
曹操の青年時代を調べてみるのも面白そうだ
735 :
世界@名無史さん:01/10/17 02:32
董卓の嗜虐趣味って軍人時代からあったのかなあ?
一応部下には信望があったみたいだし、羌族相手に残虐な事を
行っていたとは思えない。
権力の座に着いてからふつふつと殺人欲が沸き起こってきたのだろうか?
それとも後世の捏造?
736 :
世界@名無史さん:01/10/17 18:02
中国の姓の由来をまとめた本ってないの?
737 :
世界@名無史さん:01/10/17 19:11
>>736 「中国姓氏考」 −そのルーツをさぐる−
王泉根 著 林雅子 訳 第一書房 刊
ってのがあるよ。
738 :
世界@名無史さん:01/10/17 21:39
739 :
世界@名無史さん:01/10/20 01:33
上げておこう
740 :
世界@名無史さん:01/10/20 04:19
孔明が魏に与えた損害って張コウを討ち取った事くらい?
孟達を寝返らせたのもそうか・・・
741 :
世界@名無史さん:01/10/21 03:05
三国志の名将を十人選ぶとしたら?
742 :
世界@名無史さん:01/10/21 18:31
皇甫嵩
盧植
曹操
孫堅
孫策
陸遜
諸葛亮
司馬懿
陸抗
ケ艾
かなあ・・・
743 :
世界@名無史さん:01/10/21 19:53
>>742 悪いけど、諸葛亮だけ納得いかない。代わりに張遼を推す。
744 :
世界@名無史さん:01/10/21 21:19
諸葛亮は楽毅を理想としていたのだから兵法に深く通じていたはず。
直接指揮した戦闘ではほとんど負けてないし。
相手の魏が強すぎなんだよ。
745 :
世界@名無史さん:01/10/21 21:31
張遼は甘寧などと同じく局地戦に優れていただけでは?
>>744 なるほど、確かに負けてはいないけど、代わりに勝ってもいない。
少なくとも、一軍の将として結果を残したとは言い難い。
それから“名将”とは、彼我の優劣によって決まるものではないと思う。
魏が強かったとか、蜀が弱かったとか、そういう議論は無意味。
>745
確かに彼の受け持った働き場所と言えば、局地戦しかありません。
ですが、戦略的に、呉に与えた影響を一考して頂きたい。
まぁひとくちに名将と言っても、なかなか定義が難しい…
一応、自分の考えを書いてはみたけど、何かしら異論はあるでしょうね。
747 :
世界@名無史さん:01/10/21 22:59
>>746 とりあえず743の十将を知りたい。
でもこの手の話題は三国板向きだと思う。
三国板はねえ(w
749 :
世界@名無史さん:01/10/21 23:49
皇甫嵩、朱儁、孫堅、曹操、孫策
周瑜、関羽、陸遜、司馬懿、ケ艾
ちょっと無難すぎるか…(関羽は変更可)
750 :
世界@名無史さん:01/10/21 23:59
皇甫嵩ってそんなに名将なの?
751 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/10/22 00:00
董太子と飛将軍は外せないだろう
752 :
世界@名無史さん:01/10/22 00:45
>>751 三国板行ってくれ
>>750 皇甫嵩は黄巾の乱を鎮定した武功が光る
兵法にも通じていたようだし
兵法では
盧植>皇甫嵩>朱儁
の順かなあ
張角を討つ事ができたのは盧植のやり方に従った
からだと皇甫嵩は言っている
董太子と飛将軍の軍功を認めないのー?
それは変だと思うなー
754 :
世界@名無史さん:01/10/22 00:53
>>752 でも盧植は皇甫嵩朱儁に比べると実際の武功が少ないように思う。
むしろ儒者として名高かったような。
弓腰姫について載ってる本とか知らない?
彼女についてなんでもいいから教えて。
756 :
世界@名無史さん:01/10/22 00:56
757 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/10/22 01:03
758 :
世界@名無史さん:01/10/22 02:52
>>756 757
「太師」「太子」、どっちもあるみたいですね。
詳しい事情は知らないから、発言はこれだけ(w
759 :
世界@名無史さん:01/10/22 03:04
弓腰姫?
横山or吉川のオリキャラでは?
多分演義にもいない
弓のような腰ってどんな腰だろ
腰にいつも弓をつけてるようなオテンバさん♪の意だと思われ
>>759
761 :
世界@名無史さん:01/10/22 03:30
>>759 弓腰姫って言ったら、孫夫人の事だと思われ。
確か、光○の三国志2(だったと思う)でそういう風に紹介されてた。
それにしても、どの文献がソースなんだろうねぇ。
762 :
世界@名無史さん:01/10/22 04:23
某三国志・戦国板で正史を名乗るクソスレから飛んできました。
きちんと正史を話し合ってるスレがあったなんて……感激ッス!
好きな武将は皇甫嵩、孫堅、周听(w
>>750 皇甫嵩は黄巾で武功第一とされて領冀州牧に。
名声は天子をも凌ぐ勢いだったらしく、閻忠に革命を進言されたことも。
その後、坂道コロコロだけど(w
三国志というか、後漢最後の名将です。
763 :
世界@名無史さん:01/10/22 04:42
>>741 不動の名将というと
皇甫嵩=黄巾戦功第一
孫堅=反乱鎮定のスペシャリスト
曹操=中原最強の歩兵師団
周瑜=孫策を助け、曹操を退ける知謀
諸葛亮=絶対的劣勢にあっても魏を退ける戦略
司馬懿=百戦不敗の戦略
ケ艾=蜀の険阻を攻略した知恵と実行力
あとは盧植、馬超、関羽、陸遜、陸抗、張遼…
決めかねるなぁ。
>>755 真三國無双2で「弓腰姫の名は伊達じゃないわよ」と言ってる孫尚香のことか。
孫堅の娘、孫策・権の妹。呉蜀同盟時に劉備へ嫁いだ。
のちに同盟破綻、離縁し呉に帰った。おわり。
>>763 > 周瑜=孫策を助け、曹操を退ける知謀
って、曹操退けたのは周瑜の功績じゃないか…逝ってきます。
766 :
世界@名無史さん:01/10/23 19:58
董卓も確かに強いよね
羌族相手に手腕を示し、連合軍を退けている・・・
まともな大敗ってそんなにないし
でも、降伏した兵士を簀巻きにして焼くようなヤツは
名将とは呼びたくないなあ
767 :
世界@名無史さん:01/10/23 20:16
>>766 対羌族は八百長くさいし、
孫堅のでばなを挫いたり、曹操を蹴散らしたのは部下の徐栄だしね。
768 :
世界@名無史さん:01/10/24 00:31
三国志を含め中国の歴史物って欧米ではどういう評価なの?
官職とかはそのままの音で載せてるんだろうか?
769 :
世界@名無史さん:01/10/24 04:16
とりあえず三国志は英語で何て言うの?
検索してみるっす
770 :
世界@名無史さん:01/10/24 05:15
「演義」は"Romance of Three Kingdoms"だと思う。
771 :
世界@名無史さん:01/10/25 02:05
772 :
世界@名無史さん:01/10/25 02:07
>>765 うんにゃ.周瑜の手柄でいいとおもうよ.
呉書の記述を信用すれば,数倍の敵に対する完全勝利だから(しかも相手は曹操)
すごいと思うよ.
>>772 同感。
防衛戦なんだから、相手(曹操)が撤退するまで持ちこたえれば、
紛れもない勝利。それで十分だよ。
しかも、孫権のおざなり・ご都合人事で、
犬猿の仲の程普が周瑜と同格の指揮官になるという、
無茶苦茶な状況だったんだし。
774 :
世界@名無史さん:01/10/25 20:53
とりあえず英語の演義のサイトは発見
中国語の読み方が良く分かるなあ・・・
諸葛亮はツーケリャン?
775 :
世界@名無史さん:01/10/26 01:37
呉の成立までのことを考えれば考えるほど、
孫策たちの武勇と残忍さが浮き彫りになり、
それを補ってあまりある周瑜の才知に感嘆する今日この頃。
周瑜は、才覚あふれる人物として紹介されることが多いが、
個人的には才覚以上に、人柄が優れていたように思う。
穏やかで度量が広い周瑜は、「大人(たいじん)」と呼ぶに相応しい。
777 :
世界@名無史さん:01/10/26 20:57
周瑜は南郡で曹仁に負けなかったか?
>>777 苦戦はしたが,結局南郡(というか江陵か)の城を陥落させ,
荊州の長江沿岸を曹操から奪取している.
この間に荊州南部を劉備に奪われたのは残念だが.
負けたってのは演義の創作だな.
779 :
世界@名無史さん:01/10/27 08:14
南郡で矢に当たってその傷が元で死んだんじゃないの?
曹仁は負けたんじゃなくて撤退だし
まあ、孫堅も最後はつまらん者にやられたんだけど
>>779 守備隊が撤退させられたら、敗北以外の何物でもないじゃないか。
曹仁は演義などでは端役に過ぎないが、
史実的には曹操を除いた曹・夏侯一族の中では、随一の将軍だ。
(夏侯惇は将軍としては平凡、夏侯淵は拙速に過ぎる)
だからこそ、曹操は重要拠点である南郡を任せた。
周瑜がこの戦いで負傷したことは間違いなく、
しばらく後に亡くなっているので、矢傷が元だと言われているが、
正史の記録上は病とされているので、断定できるものではない。
戦死にせよ、病死にせよ、老衰にせよ、人はいつかは死なねばならないもの。
「どう死んだか」よりも、「どう生きたか」がはるかに重要だと思うのだがいかがか?
781 :
世界@名無史さん:01/10/27 21:33
周瑜の蜀攻略が成功してれば文句無く名将の仲間入りなんだが・・・
赤壁は疫病で兵を退いた説が根強いからねえ
782 :
世界@名無史さん:01/10/27 23:01
>>763 > 諸葛亮=絶対的劣勢にあっても魏を退ける戦略
諸葛亮って魏を退けたことありましったけ?
一方的に北伐に失敗してた様な印象があるんですが。
>>782 っていうか、諸葛亮には本気で魏に勝つ気なんてさらさらなかったん
じゃない?
下手に勝ってしまっても、その後、蜀漢の国力と輸送の困難のために
戦線を維持できないことはあまりにも明白。
しかし、自分をとりたててくれた先帝への手前もあるので、魏との
戦闘はせねばならず、形だけの出兵を繰り返してお茶を濁した。
本気で魏に勝つつもりだったなら、わざわざ遠回りのギ山方面ルート
を使うのは合点がいかない。
>>783 戦術的攻勢=戦略的守勢、だね。
積極的に出陣し機先を制すことで相手に攻めさせない。
漏れも勝つ気はなかったと思う。
あの地は長安とその関を押さえてこそ守れるし意味がある。(除く騎馬民族)
北伐でマジ勝つ気あったのは、魏延の長安急襲策だけじゃないか?
785 :
世界@名無史さん:01/10/28 04:41
本気で魏に勝てるとは思ってなかっただろうね。
ただ、ポーズだけでも蜀漢が正当な王朝であることを示すためにも、
魏にちょっかいを出すほか無かった。
魏延はマジで勝つ気でいたんだろうなぁ。それだけに、諸葛亮からすれば
ウザかったんだろうなぁ(w
最近、三国板化が著しい
787 :
世界@名無史さん:01/10/28 13:58
>>784 >戦術的攻勢=戦略的守勢
この場合当てはまらないと思います。
これは蜀の国力が魏に匹敵していて、相手の国力を疲弊させ、魏の侵攻を防ぐなら政治的にも、その後の攻勢を考えた場合にも戦略的意味は大きいと思います。
しかし蜀と魏の国力差は歴然としていて、蜀の出兵くらいで魏は子揺るぎもしないと思います。
長い目で見れば、勝つ気の無い出兵で、自国の国力を疲弊させるだけの出兵に戦略的価値など無いと思います。
魏にもこの時期蜀に対して全面侵攻しようなんて気は無かったのですから、
結果的に「戦術的攻勢=戦略的守勢」に見えただけだと思います。
>>783 >>785 本気で魏に勝とうと諸葛亮は考えていたんじゃないかと思います。
正当王朝であることを証明するためだけに魏へ出兵するくらいなら、
孫権の即位を認めたこと自体が自らの正当性を大声で否定しているようなものではないでしょうか?
しかし、戦略的には平凡、戦術的にはそれ以下の将才しかない諸葛亮にはあれが精一杯だったと思います。
ただ、あの蜀を持って4度も北伐を敢行した手腕はさすが名宰相だと思いました。
788 :
世界@名無史さん:01/10/28 16:10
>>787 公孫淵や軻比能が魏の北方で勢力を維持できたのは
諸葛亮の北伐が魏を牽制していたからだと思うよ。
(孔明死後、一年で軻比能暗殺、二年目に高句麗入朝、三年後に公孫淵討伐)
全土を(一応)制していた後漢でさえ羌族の反乱討伐には
莫大な戦費を費やしていたわけだし、
揺るぎもしないというのは魏を過大評価しすぎだろう。
実際、皇族以外の将軍が軍権を握り、後に簒奪の憂き目に遭うわけだし
789 :
世界@名無史さん:01/10/29 02:43
司馬懿だって馬謖にしか勝ってないんだよね
公孫淵討伐ぐらいなら孔明でも余裕っしょ
>>783 >しかし、自分をとりたててくれた先帝への手前もあるので、魏との
>戦闘はせねばならず、形だけの出兵を繰り返してお茶を濁した。
この手のこと言う人多いんだけど、仮にそうだったとすれば、『自分の保
身の為に、本来する必要のない戦争を行い、無駄に人材を損失し、国庫
を窮乏させた駄宰相』という評価になると思うが。。。
791 :
世界@名無史さん:01/10/29 06:39
783
>>790 >仮にそうだったとすれば、『自分の保
>身の為に、本来する必要のない戦争を行い、無駄に人材を損失し、国庫
>を窮乏させた駄宰相』という評価になると思うが。。。
私は諸葛亮に対して、そういう評価をしてます。
そう評価をしちゃいけない理由でもあるんですか?
792 :
世界@名無史さん:01/10/29 06:46
三国はどれも国力が疲弊してて、為政者が主観的にどう望むかにかかわらず、
やっとこさっとこだっての。
だから鼎立が続いたし、実際にどうにか統一してもすぐつぶれた。
三国志板化していくよ〜。
専門的に勉強してる方々戻ってきてよ〜。
794 :
世界@名無史さん:01/10/29 17:41
蜀に史官がいなかった理由を考えよう
1実際は置かれていたが、記録が残らなかった
2史書の編纂まで頭が回らなかった
3書くような事が無かった
4誰かが廃止した
795 :
世界@名無史さん:01/10/29 18:46
>794
5あまりにドキュソな記述ばかりだったので蜀漢の名誉を守るため廃棄
>>791 自分はどっちかっつーと、史書研究の成果、とかよりも民衆の口の端を
通して伝わってきたところこそ紛うことなき真実、だと思う。
何故劉備兄弟は愛されてきたのか、関羽は神になったのか、諸葛亮は
名宰相と呼ばれつづけてきたのか。いかなる研究よりも、このように伝
わってきたことこそ、真実だと思います。元々中国って、史書の改竄と
かも多いらしいし。。。
仮に、劉備兄弟は愛されていたが、その後を駄宰相が国を疲弊させた
だけで勝てない戦争をやってた、ってことなら民の非難の方が強く残る
、或いは宰相としての評価が残ってなかったはず、だと思う。
797 :
世界@名無史さん:01/10/29 20:42
791
>>796 民衆による評価なんて、改竄された史書以上にあてにならんよ。
民衆の手にかかれば、赤穂のドキュソ殿様が明君に、
テロの被害者のはずの吉良の明君は悪役にされてしまう。
>>798 別にいいじゃん、三国志正史スレッドでやってることなんだから。
つーかね、俺は諸葛亮と喋ってきたよ、って奴とかじゃなきゃ真実はわ
からんと思うがどうよ?
つーか、俺様は研究家なんだよ!トーシロの分際で2ちゃん掲示板と
いう高尚な場所で書き込んでんじゃねーよ、ってわけ?やーな感じ(藁
800 :
世界@名無史さん:01/10/29 21:13
801 :
世界@名無史さん:01/10/29 21:14
>>797 あれは半ば、幕府によるプロパガンダ。その正体は「マゾ喜劇」。
真の敵は吉良などではなく、「お取り潰し」を決めた幕府のはず。
だから実際に「赤穂城に立て篭もり、幕府と一戦構えるべし」
という主戦論を唱える家臣もいた。
そこに「浅野家への忠義」と「ドキュソの私憤」を取り違えた大石の
アホが、「吉良を討ち、主君の恨みを晴らそう」などと頓珍漢なこと
を抜かし、それに一同丸め込まれる始末。これを持って、
「マゾ喜劇」は幕を開けたのだ。
それを悟った幕府側は、柳沢吉保の「赤穂浪士打ち首案」を退けて、
名誉ある死である「切腹」を認め、浪士たちを「義士」として葬った。
浪士たちを打ち首にしてしまえば、真の敵が誰であったかわかって
しまうからだ。それを庶民も「仇討ち」という私情に幻惑されて、
ヤンヤヤンヤと大喝采している始末なのだから、本当にアホとしか
言いようがない。
802 :
世界@名無史さん:01/10/29 21:16
↑これが三国志正史スレッドのやることか…
803 :
世界@名無史さん:01/10/30 00:40
漢王朝でも史官が置かれたのは建国から少し立ってからでは?
蜀でも記録文書の類はいっぱいあっただろうね
呉書が作られたのも孫皓の時代みたいだし
もうちょい蜀が続いてれば史書は編纂されたかもね
[言焦]周あたりが作ってて亡国とともにボツったのが真相かも・・・
それなら陳寿が記すか・・・
804 :
世界@名無史さん:01/10/30 06:26
親が丸坊主にされた事が記されていた為、陳寿が闇に葬った
805 :
世界@名無史さん:01/10/30 10:17
陶謙ってどうよ?
出身地、経歴からしてかなりの武闘派のはずなんだが、
徐州に来てから静かすぎねーか?
806 :
世界@名無史さん:01/10/30 11:25
>>805 後漢書、朱儁伝には袁紹のソレとは別口で、
陶謙中心の反董連合が組織されたという記述がある。
結局盟主に推戴した朱儁が長安に帰順したため計画は流れたが
その後、陶謙が徐州牧、栗陽侯に封じられたのは
陶謙を懐柔しようとしたものと思われる。
三国志には記述がないけどね。
陳寿は晋に仕えながら巧妙に蜀を正統とするように三国志を書いてるね。
それが後々の劉備=善玉、曹操=悪玉につながったのかな?
それともやっぱ劉備の人徳の勝利?
808 :
世界@名無史さん:01/10/30 13:03
判官贔屓ってやつでしょ。>劉備=善玉
809 :
世界@名無史さん:01/10/30 22:29
>>806 なんかおもしろそう。陶謙興味あるなあ・・。
810 :
世界@名無史さん:01/10/31 07:56
>>806 袁紹の反献帝連合の諸侯よりもさらに東南地域、
青州、徐州、揚州が動こうとしたようだね。
孔融や鄭玄の名前が見えたりするし。
袁家を中心とするバックボーンとは別に存在した、、
朱儁や陶謙あたりの名士バックボーンつながりで決起したけれど、
袁紹に相当する(?)朱儁が長安に行ってしまい、解散。かな。
となるとその後の非戦方針も納得。
どことも敵対する理由なかったんだね。
811 :
世界@名無史さん:01/10/31 12:58
812 :
世界@名無史さん:01/10/31 16:04
>>811 袁紹は献帝の即位を認めず、幽州の劉虞を皇帝に擁立しようとしてたんだよ。
劉虞が固辞したので流れたけど…
>>812 サンクス。そういう意味なら理解できます。
劉虞云々の話は知ってるけど、反献帝連合って呼び方を聞いたのは初めてだったから。
814 :
世界@名無史さん:01/11/02 20:39
曹丕はあちらではツァオピーと発音するらしい
かわいいかも・・・
815 :
世界@名無史さん:01/11/05 01:29
陶謙いいね
偽帝を擁立したと思ったら自分で殺したりと、なかなかのサクセスストーリー!
なかなかの文官が配下に揃ってるだけにそれなりの人物だったんだろうが・・・
詳しく調べようとすると、俺の持ってる資料だとどうも劉備の影がちらつく。くそw
816 :
世界@名無史さん:01/11/05 04:18
陶謙がなぜ劉備に徐州を託したかは正史に記載が無かったような・・・
後、陶謙はしょうもない人物ばかりを信任したと結構手厳しい評価
されてますよ
それでも、陳珪父子や麋竺なんかは使いこなしていたようですが
後、陶謙の二人の息子は徐州が曹操に落とされた時、どうしたんでしょうか?
そのままいたら仇の子として確実に殺されていたような・・・
817 :
世界@名無史さん:01/11/05 17:33
後漢末劉氏の系譜
劉焉 景帝の子劉餘の子孫
劉表 景帝の子劉餘の子孫
劉ヨウ・劉岱 高祖の子劉肥の子孫
劉虞 光武帝の子劉彊の子孫
劉備 景帝の子の劉勝の子孫
劉表と劉備は同じ景帝系だったんだね
劉璋が劉備を信用したのもこの辺に理由があったか?
このスレおもしろいのはいいが、
何かあるごとに三国志板行けとうるさいな。
所詮一部の住民以外ちくまのやつからまんま引用してるだけじゃん。
それに三国志板は、あくまで日本での娯楽としての三国志、小説、ゲームだし
かぶらないさ。
ほそぼそと続けてて下さい。
演義には演義のおもしろさがあるんだしね。
819 :
世界@名無史さん:01/11/05 23:49
そう、なんか凄い深い話題で話してる、ってんなら素人の僕は楽しんで
見て勉強させてもらうよ。
たまに出てきて三国板逝けとか言われるのはなんかなー
どの話題が三国板向きか、世界史板向きか…
どの程度の話が深くて、浅いのかはわからないけど
とりあえず愚痴を書き込むスレじゃないと思うよ。
822 :
世界@名無史さん:01/11/06 11:39
>>816 実際は陶謙下の実力者同意の上で乗っ取りだろう。
二子は才能なくて故郷帰ったんやなぁ。集解注もないし。
死後、曹操に急接近するためには、陶謙子飼いの将だとウザいし。
陳や糜以外にも王朗、趙イクら徐揚の名士・豪族の多くは、
陶謙に使えていましたよ。使いこなしたかはともかく。
823 :
世界@名無史さん:01/11/06 12:55
陳蘭も袁術に仕えていた、と言えば言えるが・・・。
臧覇などは↑こんなもんだろ?
825 :
世界@名無史さん:01/11/08 01:47
以後、中華書局の評点本を基本テキストとします。
826 :
世界@名無史さん:01/11/08 09:21
827 :
世界@名無史さん:01/11/10 12:53
この話題が続くと、マニアックな版本自慢とかになりそうだな。
828 :
世界@名無史さん:01/11/11 11:56
正史が読まれ始めたのっていつくらいからだろう?
漢書・後漢書はメジャーだったらしいが三国志はどうも
軽視されていたらしい。
橋本左内が十歳で三国志を愛読していたらしいが、演義の方かなあ?
829 :
世界@名無史さん:01/11/11 17:25
ずばりログインの英傑群像からです。アレで三国志オタに正史が知られるようになった
830 :
世界@名無史さん:01/11/11 22:32
>>829 ちくま正史がまず訳されている事が前提だろ・・・
>>829 現代ではなく歴史的にってことだろ。
何時代ごろから読まれはじめたのかな?って言いたいんだと思うよ828は
>>830 筑摩書房から1982、1989年に訳本が出てますがなにか?
>>828 十才のガキに白話小説が読めるわけないだろ。
正史にきまってるわ。
834 :
世界@名無史さん:01/11/16 10:31
>>833 滝沢馬琴とかが三国志演義書いてなかったか?
江戸時代に一般に読まれていた「三國志演義」は湖南文山訳と題された
「通俗三國志」で元禄二年に刊行されました。実際の訳者は天龍寺の僧
義轍とその弟子の月堂だそうです。その翻訳底本は弘治刊本で現在の通
行本である毛宗崗本より古い系統のものです。ただ高島俊男さんは誤訳
だらけだと言っています。
ともかくこの本はコーエーのゲーム以上に大ブレークし、亜流が沢山に
出現しましたし日本の通俗文芸に与えた影響も甚大です。例えば近松門
左衛門の「信州川中島合戦」という浄瑠璃には、徐庶の母が曹操の厚遇
をはねつける話が翻案して取り入れられていますが、現在も上演される
ことのある「本朝二十四孝」の「輝虎配膳」の段は、この近松の浄瑠璃
から発展した作品です。
戦前に新聞連載され今でも文庫本になっている吉川英治の作品も、最初
の部分(玄徳が買ってきた茶を母親が川に投げちゃうとか)を除いて全面
的に湖南文山訳をトレースしたもので、オリジンが犯した勘違いをその
まま踏襲したりしています。
「通俗三國志」の方なら「十才のガキ」でも十分読めるとは思いますが、
「稚心を去れ」と説教していた橋本左内が読んでひけらかしてたとも思
えず、やっぱり当時の武士の子弟の常識として正史の方でしょう。
なお馬琴が訳したのは「水滸傳」の最初の部分です。
836 :
世界@名無史さん:01/11/18 22:54
関ヶ原で西軍が・・・ではないが、官渡で袁紹が勝っていたら
どうなったか?
曹操は滅亡か?
袁紹の寿命は延びていたか?
御家争いはどうなった?
など
ちょっと論じてみよう
837 :
世界@名無史さん:01/11/19 00:22
曹操が負けたら劉表出兵で許都陥落は確実だな
袁紹・劉表が三公に?
838 :
世界@名無史さん:01/11/19 00:52
劉邦の時代と三国志の時代では時代背景がまるで違う。
劉邦と張良は始皇帝後の混乱の僅か数年の戦いで勝ち抜いただけなのに対して
諸葛亮とその後継者は魏と比べて1/10の国力の蜀漢を数十年に渡って存続させた。
軍師としての功績、能力を考えると諸葛亮の方が上じゃないかな?
839 :
世界@名無史さん:01/11/19 00:53
いや、劉備を忘れちゃいかんよ。汝南から許昌襲撃で献帝ゲット。
それで怒り狂った袁紹にメッタ打ち。結局、負け犬人生は変わらず(w
劉表はそこまで積極攻勢に出るかな? かなり疑問だけど…
840 :
世界@名無史さん:01/11/19 01:19
劉表は袁紹と同盟してたよ
結局は様子見だったけど曹操が負けたら
出兵していた可能性大
確かに劉備の方が足が速いけど許都防衛隊にすら
勝てないだろう
袁紹と劉表が組めば孫権は降伏するしかないし
天下はとりあえず一つになっただろう
841 :
世界@名無史さん:01/11/19 12:48
833はいいこと言った。
日本人にとって、演義の方が正史より読みにくいという事実は重要。
旧白話ムズイっす
842 :
世界@名無史さん:01/11/19 12:49
836-840あたりはどうもコーエーノリだな。
板違いぽさ。
843 :
世界@名無史さん:01/11/19 13:38
つーかナポレオンとかナチスレとかもコーエーのりだろ
844 :
世界@名無史さん:01/11/19 13:40
>>841 833は三国志演義が和訳されていた事も知らない厨房かと・・・
845 :
世界@名無史さん:01/11/19 16:05
しかし、曹操は後顧の憂いありまくりだな・・・
袁紹は烏丸・鮮卑もよく抑えていた
>>841 >844
「三國志演義」の原文は「水滸傳」のようなモロ白話文というわけでは
ありません。一応でも漢文の素養のある人なら十分に読みこなせます。
見本に關羽が拙者が華雄を討ち取って見せますと名乗り出る箇所を示し
ます。
「階下一人大呼出曰:小將願往、斬華雄頭獻於帳下、衆視之、見其人身
長九尺五寸、髯長一尺八寸、丹鳳眼、面如重棗、聲似巨鐘、立於帳前、
紹問何人、公孫サン(玉偏に賛)曰:此劉玄徳之弟關某也、紹問見居何職、
サン曰:跟隨劉玄徳、充馬弓手、帳上袁術大喝曰:汝欺吾衆諸侯無大將耶、
量一弓手、安敢亂言、與我亂棒打出、曹操急止之曰:公路息怒、此人既
出大言、必有廣學、試教出馬、如其不勝、誅亦未遲」
いかがですか? 読み下しが出来ない方でも字面を順に眺めるだけで、
凡そどんなことが書かれているのか話の筋は見当が付くと思いますけど。
「亂棒打出」みたいな講談口調も混じりますし、「欺」が「だます」の
意味でなく「ばかにする」の意味に使われてるとか、「重棗」って何の
こと?とかいった部分は有りますが、全体として漢文体で書かれてるこ
とは了解できたんじゃないかしら。
847 :
世界@名無史さん:01/11/20 21:37
烏丸・鮮卑が大人しく従ったのは異民族の恩人劉虞の仇を
袁紹が晴らしたからかな?
トウ頓とかの忠誠にはそれ以上の物も感じるが・・・
袁紹が死んだ時、河北の民が親を亡くしたように嘆き悲しんだのは
有名だよね
848 :
世界@名無史さん:01/11/21 00:31
いずれが あやめ か かきつばた
849 :
世界@名無史さん:01/11/21 14:41
幽州を任されていた袁煕は密かに優秀だったのかも・・・
異民族統治はむずいよ
850 :
世界@名無史さん:01/11/21 20:51
曹叡って袁煕の子かもっていう説あったな
851 :
世界@名無史さん:01/11/22 02:48
曹叡が袁煕の子なら袁氏の天下が実現した事になるな
曹叡は自分の血統を知っていたから養子に後を嗣がせたと・・・
852 :
世界@名無史さん:01/11/22 16:18
袁術は孫堅を使いっぱにしていたが、自分の息子が
孫権の臣下になるとは因果なもんだよな・・・
853 :
世界@名無史さん:01/11/22 22:10
袁紹の重臣は父親の名が分かる人間がほとんどいないな・・・
854 :
世界@名無史さん:01/11/22 22:18
>>852 呉帝の縁戚にもなったから、待遇は良かったろう。
家柄目当てだが。
>>853 それが敗者ってもんよ・・・
855 :
世界@名無史さん:01/11/23 02:28
最近世界史板の過疎化が激しいな・・・
>>854 つか、荀ケとか陳羣といったような名士層があまり付いていかなかった
のは何故?
軍師クラスは軒並み韓馥からの引き抜きだし
856 :
世界@名無史さん:01/11/23 13:26
袁紹は広辞苑にも載っている(w
857 :
世界@名無史さん:01/11/23 19:42
袁紹は宦官誅滅まではいい人
858 :
世界@名無史さん:01/11/23 21:09
三国志集解の陶謙のところを読んでるのだけど、
「郡國志○州〜」とか「郡國志○郡〜」とはじまる表現をよく見ます。
どういう意味ですか?
質問のみですいません。
董卓の名台詞を教えてよ
860 :
世界@名無史さん:01/11/23 21:25
「おれの名前は董卓。童貞じゃない」
>>858 後漢書の志に郡國志というものがあるんですね、今調べました。
勉強不足でした。
862 :
世界@名無史さん:01/11/23 23:38
863 :
世界@名無史さん:01/11/24 00:17
864 :
世界@名無史さん:01/11/24 00:19
>>859 寵愛していた胡人を殺されて一言
「わが愛犬であってさえ、他人に叱責されたくないものだ。ましてや人間なんだ」
865 :
世界@名無史さん:01/11/24 11:42
韓馥って何か董卓政権で抜擢されて尚書から冀州刺史になった
っぽいんだけど・・・
韓馥に仕えてた田豊・審配・沮授・キク義・張コウなんかは
元々都にいたのだろうか?
866 :
世界@名無史さん:01/11/24 23:45
袁紹の都落ちに従ったのは逢紀・郭図・許攸だけかな・・・
陳琳とか淳于瓊もそうかもしれん
867 :
世界@名無史さん:01/11/25 17:35
袁術の子孫は残ったが、袁紹の子孫は残らなかったのは因果だなあ
でも娘は生き残ったかも・・・
868 :
世界@名無史さん :01/11/25 20:30
董卓の義理の息子・呂布の人気はどうなの?一番好きなんだけど。
869 :
世界@名無史さん:01/11/25 23:23
人気とかは三国板がふさわしいな
呂布はアホなので、意外に中国人にも親しみもたれてるかな
つーか縛り首で殺したのは何の為だろうか?
870 :
世界@名無史さん:01/11/26 00:35
↑何となく遊牧民の「貴人は血を流さずに殺す」って風習をイメージしたな。
なんか関係あるんだろうか。
871 :
世界@名無史さん:01/11/26 21:39
ジャムカ?
872 :
世界@名無史さん:01/11/27 21:52
陶謙みたいに、正史と演義でイメージが全く異なる人物って誰かいますか?
↑公孫サン、華キン、曹真など
874 :
世界@名無史さん:01/11/27 22:53
>>872 演義での献帝禅譲劇に活躍した、魏の華キンが有名でしょう。
(キン=「音欠」と書く)
875 :
世界@名無史さん:01/11/28 00:45
>>872 諸葛亮はどうかな。演義じゃ神の如くだけど、正史になると実に素っ気無い。
876 :
世界@名無史さん:01/11/28 19:35
>>872 孫策も正史じゃ残虐だよ。騙し討ちを多用してるし。
袁術軍だからね。彼も。
877 :
世界@名無史さん:01/11/29 19:21
劉禅はバカ殿ぶりが強調されている
878 :
世界@名無史さん:01/11/30 10:47
後漢書の陶謙伝の最後に
「徐方殲耗實謙為梗」
とあるが、この場合の「梗」はどういう風に解釈したらよいのだろう?
岳麓書社の「後漢書今注今釈」の現代語訳では「徐州一帯遭到毀滅、実在
是陶謙種下的禍根」となっています。彼が部下の任用において宜しきを得
なかったため、統制が弛緩していて曹嵩を殺してしまったことから曹操の
恨みを買い、大殺戮を呼んで民衆に多大の惨禍を齎すことになったことを
批判しているのでしょう。
880 :
世界@名無史さん:01/11/30 21:52
陶謙の頑迷さと解釈するのが良いかも
あやめさん、880さんありがとうございます。
質問ばかりになってしまうけど、
その前の方の文に「虞好無終」とありますが、
虞は劉虞のことですよね?
ここもどのように解釈したら良いのかわからないのですが・・。
882 :
世界@名無史さん:01/11/30 23:53
劉虞の友好も長くは続かずか?
883 :
世界@名無史さん:01/11/30 23:57
劉虞の好意も実を結ばずかな・・・
884 :
世界@名無史さん:01/12/02 15:37
三国志の英雄って全員が面識あった訳じゃないよね?
実際、曹操と董卓が近い距離であったかどうかも分からない。
曹操と劉表や公孫サンや陶謙なんかはお互い顔も知らなかったかも。
>>880 確かに「梗」の字義に着するとそのような解釈は当然あり得ます、ただ「後漢書」の
本傳の記事からは陶謙が性格が頑固だったとか行動に柔軟性が欠けてたという形跡は
みられません。もっとも「三國志」の本傳の裴注に引かれた「呉書」には「謙性剛直」
として、彼が上司で父の友人であった張磐が親しく遇してくれるのを却って恥辱とし、
磐が酒席で舞ってくれるよう頼んだのに素直に舞わず、遂に仲違いしてしまったとか、
司空の張温の参軍であったとき温をばかにしていて宴席で辱めたため、怒った温に辺
地に左遷されそうになり或る人に諌められた温が思い直して許してくれたのに、その
人から「足下は軽率にも三公を辱め自分から罪を得てしまったのを、今回は赦しても
らったので非常な厚意によるものなんだから、辞を低くして謝意を表明しなくてはい
かんよ」と諭され承知したので、その人は温に「彼は自責しており考えも変ったよう
です、天子に謝恩した後で必ず公の許に伺いますので、お会いくださって慰めてやっ
て戴きたい」と頼んでおいたところが、謙は宮門上にいた温を見上げて「謙は自ら朝
廷に謝したのであって、公のためではござらん」と言ったということで、それでも温
は「恭祖(謙の字)はまだコケが治っとらんようだな」と言って、一席設けてくれた上
に以前のように接遇してくれたという逸話を伝えており、彼が相当に意固地な性格で
あったことは事実のようです。しかし徐州が禍乱に遭ったことと直接に結びつくもの
ではないようです。ただ陶謙と曹操の抗争について罷戦を命じた詔書に対して上書し
て拒否した事実はありますが、これは一方的に曹操を利する結果になるわけで無理か
らぬものであったと思います。
>>881 また「今注今釈」の現代語訳を引用しときますと「劉虞雖然美好、却没有
好的結局」となっています。「好」は彼の漢室や民衆に対する善意と解釈
するのが適切かと考えます。
888 :
世界@名無史さん:01/12/02 20:00
劉備って実はほとんどの群雄に会ってるよね
公孫サンを初めとして陶謙・曹操・呂布・袁紹・袁術(おそらく戦場で)
・劉表・孫権(演義だけ?)・劉璋・・・
こんだけの群雄と交わった彼が三国志演義の主人公たるのは当然だね
889 :
878sage:01/12/02 22:05
あやめさん、みなさん、どうもです。
徐州は過去に劉虞が善政をしいたり公孫サンが勇猛で名を馳せたりした所だけど、
例の惨劇はやっぱ陶謙のせい ってとこでしょうか??
「後漢書今注今釈」探してみたいと思います。
陶謙に興味を持って、色々調べてみたいのですが
「三国志」「三国志集解」「後漢書」「後漢書集解」
「全上古三代秦漢三国六朝文」のほかに、
何かいい史料はありますか?
教えてクンですいません。。
890 :
世界@名無史さん:01/12/02 23:14
名僧伝なんかも関係あるかもな
891 :
世界@名無史さん:01/12/03 07:35
劉備の御母堂のことは正史にも記述されてますか?
劉備が漢中王になった頃はどうしていたんでしょうか?
892 :
世界@名無史さん:01/12/03 19:48
英雄の母は記載が無いことが多いよ
目立つのは孫権ママくらいじゃないの?
でも、董卓ママにはセリフもあったな・・・
893 :
世界@名無史さん:01/12/03 21:48
漢の時代に項姓ってどういう扱いを受けたのかな・・・
三国志にはほとんど登場しないけど、呉に項峻っていう人物がいるね
子孫って訳じゃないだろうけど
894 :
世界@名無史さん:01/12/04 19:21
三国の英雄で誰が天下を取れば一番上手く天下を治めたと思う?
895 :
世界@名無史さん:01/12/05 00:20
ヤオイ女は王衍とかには萌えないのかなあ
896 :
世界@名無史さん:01/12/05 02:04
ヤオイは孫策・周瑜コンビ以外はあまりないのか?
897 :
世界@名無史さん:01/12/05 12:43
白馬寺のなかの人形には笑った。
898 :
世界@名無史さん:01/12/05 21:14
>896
コミケに行って、歴史系サークルの三国志関係同人誌を探してみなされ。
孫策・周瑜以外にも、三国志ヤオイものの同人誌はきっとある。
899 :
世界@名無史さん:01/12/06 13:58
晋の時代最も羽振りが良かった諸葛一族は誕系らしい・・・
ってか孔明も瑾兄も子孫が絶えたのか
900 :
世界@名無史さん:01/12/06 16:50
>>899 呉の諸葛家は、瑾の長男・諸葛恪の暗殺に伴い、一家皆殺しになったとある。
ただ、亮の元に養子に行っていた次男の喬の子二人は難を逃れ、のち呉に帰り
家の再興を目指すが、一人は早世、もう一人は東晋の時代、どこかの刺史に
なったらしい。
一方、蜀の諸葛家は亮の孫・諸葛京が晋の江州刺史まで昇ったという記述が
手元の資料にある。
まぁ三国統一後も、どちらもしばらくは生き残ってたみたいね。
諸葛謹の子の恪は中書令・領荊州牧・督中外諸軍事と呉の重権を掌握して
いたのですが、新城の攻囲に失敗し侍中の孫峻に図られて殺され、弟で
奮威将軍・公安督の融も自害しました。恪の長子の綽は恪に毒殺されて
おり、次子で長水校尉の竦と三子で歩兵校尉の建は父の死後ただちに魏
に逃亡を図ったのですが、及ばずして斬られ恪の三族は皆な刑されました。
恪のすぐ下の弟の喬はまだ子を得ていなかった諸葛亮の養子となり、
フ(馬偏に付)馬都尉を拝しました(ということは蜀の皇女を娶ったわけ
です)が養父に先立って卒し、その子の攀が継ぎ翊武将軍に至りましたが
やはり早く卒しました。なお恪の一族が亡び謹の後を継ぐものが無くなり、
一方で亮の実子が出来ましたので攀は謹の祭祀を継ぐことになりました。
亮の実子の瞻も皇女を娶り輔國大将軍・平尚書事となりましたが、蜀が
滅んだ際に長子の尚と共に戦死しました。その後に攀の子の顯と瞻の次
子の京は魏の河東に移住しました。京は晉に仕えて江州刺史となりました。
その後の謹・亮兄弟の後裔の消息ははっきりしません。
謹・亮の族弟とされる諸葛誕は魏の大司徒・驃騎將軍・青州牧として呉と
対峙中に淮南に拠って反し、司馬昭に征討されて敗亡しました。彼の子の
セイ(青偏に見)は呉に逃れて大司馬となりましたが、呉が亡びると晉の
武帝の懇請にも係らず仕官せず終りました。その子の恢は東晉の元帝の
重臣として尚書令・常侍に至っています。
その外にも南北朝時代には諸葛氏の著名人は多く、晉の諸葛長民や梁の
諸葛キョ(據の手偏を玉偏に入替)などが知られています。恐らく恢の子孫
でしょう。
902 :
889です。:01/12/06 19:03
889です。
あやめさん、889にある質問に答えていただければ幸いです。
どうかお願いします。
903 :
世界@名無史さん:01/12/06 20:08
はっきり言って、かなり読みにくいぞ。>あやめ
それに、もう少し文章を簡潔にする努力をしろ。今回のは詳しいっていう
限度をはるかに超えてる。
905 :
世界@名無史さん:01/12/07 03:06
>その後の謹・亮兄弟の後裔の消息ははっきりしません。
この間NHKで観た人もたくさんいると思うけど、諸カツ(草かんむりに曷)亮の末裔の村
が見つかったよね。あの家系図はもう一般に公開されているのかな?見たいなぁ〜。
906 :
世界@名無史さん:01/12/07 14:38
長安と太陽、どちらが遠い?
>>889 うっかりしてて御免なさい
歴代正史の参考書としては「二十五史補編」(開明書店刊)・「二十五史三編」(岳麓
書社刊)・「二十四史訂補」(書目文献出版社刊)などに大量に収載されています。
これらの中で「後漢書」と「三國志」の参考書としては「補編」に47種「三編」に
34種「訂補」に38種が入っています。しかし大部の叢刊なので値段も張れば場所も
取ります。「後漢書」と「三國志」だけのものとしては「後漢書三國志補表三十種」
(中華書局刊)が頃合でしょう。これは東漢と三國の職官を時系列で整理した諸表を
中心としたものです。例えば萬斯同の「漢季方鎮年表」は年別に各地の群雄が一覧
でき、「三國志世系表」は名士の親族関係が表示されており便利です。
校訂考釈書としては両方とも「集解」をお持ちなら一応それで十分でしょう。まあ
一応は一つづつを挙げれば戴蕃豫「稿本後漢書疏記」(書目文献出版社刊)と梁章鉅
「三國志旁證」(福建人民出版社刊)が入手し易いです。「三國志」については「集
解」の外に易培基「三國志補注」(藝文印書館刊)張元濟「三國志校勘記」が評価が
高いようです。最近に出たものでは呉金華「三國志叢考」(上海古籍出版社刊)など
があります。
この時期を対象とする史書には汪文臺「七家後漢書輯本」(今みつからなくって出版
社が不明)呉樹平「東観漢記校注」(中州古籍出版社刊)周天游「後漢紀校注」(天津
古籍出版社刊)などがあります。この時期の著述は「漢魏叢書」に重要なものは網羅
されてます。これは色んな版があると思いますが拙宅にあるのは中文出版社のもの
です。
厳可均の「全歴代文」も持ってらっしゃるのね、スゴイナ。「全上古三代秦漢三國
六朝文篇名目録及作者索引」(中華書局刊)はインデクスとして便利ですよ。
それから前に引用した「後漢書今注今釈」はそれほど学術的な水準の高いものでも
ないです。ただ現代語訳が付いてるので論賛のような文意晦渋な部分で利用してます。
あとまた何か気が付いたらその都度カキコします。
「稿本後漢書疏記」と「三國志旁證」両書から
>>885の陶謙の故事に関連する箇所を
引用して見ましょう。
「張磐が酒席で舞ってくれるよう頼んだのに素直に舞わず」と書いた部分は章懐注に
引かれた「呉書」の原文は「嘗って舞を謙に屬す、謙は為に起たず、固く之を強ひて
乃はち舞ふ、舞へども又た轉せず、磐は曰く『當さに轉すべからざる邪』と、曰く
『轉す可からず、轉すれば則なはち人に勝さらん』と」とあり、裴注では「嘗」は
「常」に「舞を謙に屬す」は「舞を以て謙に屬す」に「乃はち舞ふ、舞へども又た
轉せず」は「舞ふに及び又た轉せず」に作る箇所が異なっています。
ところでこの「轉」の意味が具体的に判りかねるのですが、「旁證」には「通典」の
「前代の宴楽には必ず舞ふ、魏晉以来は尤も舞を以て相ひ屬するを重んず、謝安の
以て桓嗣に屬する是れ也」や「後漢書」の「蔡ヨウ(邑の頭に毛が三本)傳」の「朔方
に徙され赦されて還る、太守の王智は之を餞し、起舞をヨウに属す、ヨウは為に報
ぜず、智は之を銜む」を引いて、当時はこうした風習が賓主歓洽の常態であったと
背景を説き、その上で「淮南子」の「齊俗訓」の「古へは歌楽して轉ぜず」同じく
「修務訓」の「今の鼓舞する者は身を繞らすこと環の若し」からこれが所謂「轉」
であると指摘し、「漢書」の注に長沙定王が来朝した折に詔して歌舞を命じたが、
王はただ袖を張って小さく手を舞わしただけなので帝が怪しむと、「臣の国は小さく
地も狭いので回旋するには不足してるんです」と答えた話を挙げて、具体的な理解に
導いています。
また「司空の張温の参軍であったとき」と書いた部分の「後漢書」の「陶謙傳」の
原文は「四遷して車騎將軍張温の司馬と為る」とあるのですが、「四遷」について
「疏記」には「魏志」に拠って「茂才に挙げられ盧の令に除せられ、幽州の刺史に
遷り、徴せられて郎に拝せられ、車騎将軍の張温の軍事に参す」と解説しています。
>>908 あやめたん。
どうでもいいことなのですが「蔡ヨウ(邑の頭に毛が三本)」
毛が三本といのうが、おばQみたいで、かわいい。
# 蔡?って書けるかな。
蔡? (蔡&#37013;の場合)
蔡邕 (蔡&amp;#37013;の場合)
蔡&#37013; (蔡&amp#37013;の場合)
# さて、どれか一つくらいは、うまくいくだろうか。。。
>>905 諸葛氏の後裔は随分と後まで知られています。唐以後について少し挙げときます。
名諱、朝代、本貫、略歴
殷、唐、不明、方士として唐末に嶺南の軍閥でカルト好きの高駢に取り
入り、流毒至らざるなしという悪業の末に畢師鐸のために捕らえられ、
晒し者にされ民衆に唾を吐き掛けられたり髯や髪をすっかり抜かれて
しまったり、二度も首吊り自殺を図ってやっと絶命、人々が瓦礫を投げ
忽ち塚を成したとか
爽、唐、博昌、唐末のホウ(麻垂の中に龍)の乱に参加していたが帰順
し黄巣の乱では僖宗の蒙塵を護衛した、官は検校司空に至る
填、宋、丹陽、孝子として知られる
説、宋、永嘉、進士に及第したが親を養うため退官し学問に勉めた
廷瑞、宋、南安、弔祭使として金に遣わされた際に礼を争い、抜き身を
差しつけられて脅迫されたが、遂に譲歩せず使命を全うした、吏部侍郎
に至る
興、宋、會稽、奉化の縣丞に至る、文人として「會稽九頌」で知名
高、宋、宣城、製筆の名工で長く使用しても力が衰えず文人間に好評
泰、元、晋江、儒者で汀州路明渓巡検となったが退官して学問に勉めた
晉、元、潁上、福建中書省検校のとき元末の乱に遭ったが、尤渓縣の境
内を守って治安を保った、元が亡びると仕官せずに終る
伯衡、明、太平、洪武時期の循吏
平、明、陽朔、洪武時期の循吏
元聲、明、會稽、「両朝平攘録」など明代の征伐に関する著書が多い
應科、明、晋江、孝廉に挙げられ湖口の令となったが上官に逆らい左遷
され間もなく退官
清代の例が見当たらなかったけど、かなり後世まで子孫が活躍してたん
です
なお江戸時代に諸葛琴台という儒者がいますが血縁はないでしょう
912 :
世界@名無史さん:01/12/07 18:54
あやめの発作がまた始まった・・・
少し他のカキコとのバランスを考えよ
心配しないで
年末多忙のため明けるまでカキコはお休みします
914 :
世界@名無史さん:01/12/07 19:49
あやめタンハァハァ
915 :
世界@名無史さん:01/12/07 21:21
カキコの頻度よりカキコの行数が問題なのに・・・
>>あやめ
明けても戻ってこなくていいよ。
それよりアンタは、学習能力とか、人の話を聞く気はないのか?
あやめたん叩いているのは一人が自作自演でやってるわけ?
あの程度の文章も満足に読み解けないのなら世界史板に来なくていいよ。
どうか三国志板にでも逝ってらっしゃいませ。
ここ来るの久しぶりだ。
900突破してるねぇ……。
新しいのっていつ頃建てるべきなのやら。
>>917 信じてもらえんだろうが、他のヤツは知らん。
あやめの悪癖は今に始まった事じゃないが、いい加減にしてもらいたいだけだよ。
大体、内容の事を言ってるんじゃない。書き込みの長さの事を言ってるんだろうが?
世界史板だったら長文は許されるのか? そんな理屈は通らんと思うがな。
(話題として、長文に向くか向かないかは別問題って事)
921 :
889です。:01/12/08 00:52
>>907 889です。
あやめさん、質問に丁寧に答えていただき、本当に感謝してます。
たくさんの情報や解説、いつもとても参考になります。
「後漢書今注今釈」もなかなか見つからないぐらいなので
難しいとは思うけど、これらの史料出来るだけ探してみます。
多忙な中ホントありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。
ちなみに「全歴代文」やその索引などの史料は大学にあったものなので、
自分は全然すごくないです。。
あやめたんは、人の意見を聞かないとかじゃなくて、
空行や改行をいれると長文になり一般的なブラウザでは省略されてしまうのを
嫌ってるだけじゃないかな。
省略されると自分みたいに読まない人間もいるし。
あやめたんのレスを読むと歴史資料に基づく知識が得られるので
読む人によってはスレの価値を高めていると思いますよ。
924 :
世界@名無史さん:01/12/08 07:52
あやめと916どっちがこのスレにとって必要な人材か?
言われなければわからないというなら、歴史を学ぶ以前に学ぶべき事がたくさんあるぞ。
916よ。
925 :
世界@名無史さん:01/12/08 11:23
1行レスをするあやめハァハァ
おれは、2chとして必要なのは
>>916だと思うぞ。
あやめさんは2chには不必要。どうぞ別のとこで頑張ってください。
おサルとアマノウヅメのヒステリック泥プロレス ハァハァ
928 :
世界@名無史さん:01/12/08 13:18
喧嘩すると無意味なまでにレスが伸びるなあ
ところで、三国志の英雄で誰が天下を取ってればベスト
だったと思う?
>>928がばろんにはわるいが、それこそ三国志板向きの話題だとおもう
if が絡む話題だし
こうなったら、最後まで付き合ってやる。
>>924 ほぅ。そこまで私の人間性を疑うんなら、何が足りないのか言ってみればいい。
私が書いた文章の、どの部分からそう思ったか、きちんと論理立ててな。
それが的の外れた意見なら無視するが、そうでなれけば、私も受け入れよう。
>>926 支持どうも。話が分かる人も居て良かったよ。
931 :
世界@名無史さん:01/12/08 14:56
ifネタは別に三国板向きって訳じゃないだろ
レスの質にもよる
つーか、ネタをふる人間があんまいないんだよな
ところで、呉の二代皇帝孫亮は蜀の諸葛亮を意識して
付けられた名と解釈して宜しいかな?
933 :
世界@名無史さん:01/12/08 16:36
あやめの文章は目に優しくないからな・・・
漢字が密集してると、目がチカチカするんだよ
>>932 >>このスレッドのテーマである三国志に関する内容が全くないがゆえに
それを分かった上で書き続けてるんだよ。だが、話には流れってものがあるだろ?
いきなり「あやめは消えろ」とか書いたら、そう非難されても仕方ないがね。
話の流れを無視して、論点をすりかえるのはいかがなものか。
ともかく私は、あやめの見づらい&読みづらい長文を何とかしてくれと言ってるんだよ。
ここまで言っても、このスレには全然関係ないのか?
…適当な仲裁も入った事だし、私が文句垂れるのはここまでにしておく。
まぁ924が何かレス書いたら、それに対しては何か反応するかも知れないが。
↑なんだ、おれの書いたことに怒ってたのか。
だったら謝るよ。確かに言い過ぎだった。
頼むから、残り少ないスレをヘンテコな論争で浪費しないでくれよ。
あやめの繁雑な文章と、お前の自己主張。どっちがこのスレに相応しいか考えてみてくれ。
>>924 OK、この話は終わりにする。
言われるまでもなく、どっちがスレとして相応しいかぐらい、分かってるよ。
ただ、これだけ言っても分からなかったら、あやめはおかしいと判断するぞ。
>>924 悪いな、訳の分からないヤツが出てきたから弁護させてもらう。
>>936よ、どこをどう見たら916=924になるんだ?
過去の荒らしの名前を引っ張ってきて、変に煽らないように。
939 :
世界@名無史さん:01/12/08 18:44
てか、いつから長文が駄目になったの?
雑談系の板、例えばラウンジなら誰も読まないだろうが、世界史板なら許されます。
いいんだよ、916みたいなのとあやめみたいなのが両方居て
けんかしてるのが2chなんだから。
940 :
世界@名無史さん:01/12/08 19:01
>>936 >あなたはかつて日本史板と三国志板を荒らした
>アズマ(野望100)の残党ですか?
ヒィー(((゚Д゚)))ガクガクブルブル
三国・戦国板の住民としては、「野望100」と「あは」と
「松永久秀」の名は、聞くだけであの悪夢が甦るよ・・・。
941 :
世界@名無史さん:01/12/08 19:11
まあ、あやめさんはこの件をご参考にってことかな。
で、新スレはどうする?
俺としては、いっそ1に「長文歓迎!」など
の文を入れてしまえば、そもそも無駄な論争
も起こらなくて良いとおもう訳なのだろうか。
>>916 古典的な荒しの手口の一つとして、自作自演
で論争を行い、スレの流れを関係のない方向
に持って行こうとするやつだと
>>936に解釈
された訳なのだろうか。
もちろん、あの偽野望100に、そんな高度
な手口が取れるとも思えない訳だろうか。
まあいくら長文歓迎といっても、某研究者の
ような文体での長文は、ちょっと困るという
事なのだろうが。
943 :
世界@名無史さん:01/12/14 14:50
誰もageないのね・・・
とりあえず、もうちょいで使い切れるので
何か語ろうよ
944 :
世界@名無史さん:01/12/14 16:04
最近の魏贔屓の風潮をどう思う?
945 :
世界@名無史さん:01/12/14 17:47
うーん、今は実力重視&優先の世の中だから?
きれい事だけじゃ生きてけないよ。というわけ・・。
でも一番初めに先入観なしで演義を読んだとき、
なんで劉備にみんないれあげるかわからんかった。。
やっぱ時代や国、思想、倫理もろもろの違いなのかなーと思った。
946 :
世界@名無史さん:01/12/14 20:07
↑それもそうなんだが、最近魏を知りもせず魏を褒めるヤツが増えたように思う。
諸葛亮の北伐が蜀を疲弊させて云々。
なんて言うヤツに限って蜀滅亡の二年後に魏も滅びたって事には触れないし。
947 :
世界@名無史さん:01/12/14 20:20
魏は簒奪王朝なので、日本のような天皇家がずっと続いてる国
の人間からしたらあまりいいイメージないっしょ
948 :
世界@名無史さん:01/12/15 01:38
ageてみるか
もうみんなで三国志板に帰らない?
今は三国志板の動乱も去ったし。
950 :
世界@名無史さん:01/12/15 13:35
世界史板でやる事に意味があるのだよ
中国史の面から語る場合、三国板では
専門の人間少ないからね
951 :
世界@名無史さん:01/12/15 16:26
↑では950の君、新スレは任せたよ。
952 :
世界@名無史さん:01/12/15 20:27