1 :
世界@名無史さん :
2007/03/16(金) 21:55:59 0 BE:75335292-2BP(4) 日本と欧州・中東の城 主に封建領主の居館を兼ねた防御拠点。 日本は土塁や石垣、欧州・中東は石や煉瓦の城壁で囲われている。 中国・朝鮮の城 都市全体を城壁で囲んだもの。欧州や中東の都市もこの形態。 日本では石積み、煉瓦積みの技術が未発達のため城郭都市は発展しなかった。 このスレは広い意味での「城」を様々な角度から論じるアカデミックなスレッドです。
2 :
世界@名無史さん :2007/03/16(金) 22:01:20 0
2get これはどう見てもおかしいだろ。 まず、主語が2。で動詞がget。 2が単数形だとしたら、getsにしないとおかしい上に、目的語がない。 直訳すると「2が得る」 何を得るんだよ!!!いいかげんにしろ。 それを言うなら I get 2. だろ。しかも現在形だし。 過去形、いや現在完了形ぐらいまともに使ってくれよ。 I've got 2. 少しはましになって来たが、まだ気に入らない。その2だ。 いったいお前は何を手に入れたんだ?2という数字か? 違うだろ、手に入れたのは2番目のレスだろ。 どうも日本人は数詞と序数詞の区別がよく分かっていない節がある。 これらを踏まえて、正しくは I've got the second responce of this thread. ここでtheにも注目してもらいたい。このスレの2ってのは 特定の、このレスだけなんだから。だからaでも無冠詞でも なく、the second responceなんだ。 もう一度おさらいしてやる。 I've got the second responce of this thread.
3 :
世界@名無史さん :2007/03/16(金) 22:14:40 0
124 :2006/04/29(土) 23:56:51.16
古い紙コップ自販機ってコーラとコーヒーが混じってて不味いのが出てくる。
125 :2006/04/30(日) 00:02:55.33
コーヒーの素がきれてたんか知らんが、95%お湯のコーヒーが出てきたことが3回もある。なんで「売り切れ」になってないんだよ
129 :2006/04/30(日) 00:11:49.79
おれはコップもコーヒーも出たけど、コップがさかさまで出てきた事がある。
130 :2006/04/30(日) 00:11:49.82
コップが3つ重なってて、ちょっと得した気分を味わったことならある
139 :2006/04/30(日) 00:30:23.62
>>127 ジュース→コップ→氷の順で出てきたことあるよ
夜で売店閉まってたしサイフ忘れてちょうど100円とカードしか無かったので
氷食って帰った
4 :
世界@名無史さん :2007/03/20(火) 00:04:21 0
石垣って英語でstone wallなのな。 あれを「城壁」と思う日本人はいないだろうが。 土塁の表面に石を積んだだけだし
5 :
世界@名無史さん :2007/03/20(火) 00:30:19 0
>日本では石積み、煉瓦積みの技術が未発達のため城郭都市は発展しなかった。 異民族に攻め込まれる危険が無いから、城壁作る必要がなかっただけの話。
6 :
世界@名無史さん :2007/03/20(火) 11:26:06 0
あと、国内の治安の問題もあるかもね。 中国や欧州のように、都市と都市という点以外は、 全て異世界というような世界じゃね。 個人的に不思議なのは、欧州や中国の城は、 城塞都市から単なる軍事拠点に至るまで、 日本の郭のような縦深性がほとんどないこと。 一点を突破されたら終わりって防御かなり不利じゃない?
7 :
世界@名無史さん :2007/03/20(火) 11:29:16 0
あと、技術が未発達というが、 朝鮮や東欧の当時の技術水準で日本で同じものを作っても、 地震で一撃だと思うよ。 近代建築でも、韓国や東欧の耐震設計は異常に甘い。
8 :
世界@名無史さん :2007/03/20(火) 11:58:31 0
朝鮮征伐の際に日本が築城した俗に言う「倭城」の方が堅固なわけだが?
9 :
世界@名無史さん :2007/03/20(火) 15:37:26 0
>>8 逆に言うと、なんで中国や東欧では、
拠点(郭)を多数配置して縦深性をもたせた築城術が発達しなかったんだろう
縦深性と多数の拠点を用いた要塞は、
近代でその有効性が証明されているよね。
戦国時代 一点を突破されたら、すぐに撤退 これ基本
11 :
世界@名無史さん :2007/03/21(水) 03:10:58 0
遊牧民相手の戦いが多かったことが何か影響しているだろうか?
日本の戦国時代のお城といえば、多くの日本人は 江戸時代の城や、大阪城など例外的な城を思い浮かべる。
13 :
世界@名無史さん :2007/03/21(水) 13:27:15 0
14 :
世界@名無史さん :2007/03/21(水) 18:48:12 0
でも大砲が主力となる時代には耐えられない代物。 もっとも大砲が主力となる時代は、幕末・明治に 持ち越されてしまうが。
ヨーロッパは、都市城壁はあっても堀はあまりないよな。
16 :
世界@名無史さん :2007/03/21(水) 20:13:12 0
確かに、山城は大砲とかに強そうだな。 確かに集大成だが、やはり平和な時代の城なんだろうよ。 まだ戦乱残る安土城なんかは、山城としても特色が、 かなりのこっているよな。
小田原城や大阪城には町を囲む城壁に近いものがあったけどね 秀吉も京都に城壁を作ったらしいし… あと一応、名古屋城あたりは対大砲防御はしている。 一応だけどね
18 :
世界@名無史さん :2007/03/21(水) 21:12:23 0
>>15 城壁都市でも周囲に堀を巡らしているものはあるよ。
あと領主の居館(=城館)には普通に堀がある。
跳ね上げ橋は堀があるから必要だったんだよ。
日本では堀のない城郭はまずないが、逆に言えば
城壁(=土塁・石垣)だけでは攻撃に耐えられなかったということの証拠だろう。
あと、日本ではあんまり跳ね上げ橋ってないね。発明されなかった?
>>18 跳ね上げ橋は江戸城にあるよ。小さいけど
多分、戦国以後に発明されたと思われる
戦国〜江戸初期までの城郭で近代戦でも要塞として機能しまくったのって 熊本城くらいか?加藤清正が偉大ということか
>>20 そのくらいしかまともな近代戦を経験してないだろうが。
幕末の時は大阪城も篭城すれば十分に耐えれたな
23 :
世界@名無史さん :2007/03/22(木) 15:20:47 0
つーか、 日本の城が大砲に弱いというのは、 城壁が垂直方向に聳え立っているという事から来る、 イギリス人のイメージ論なんじゃね? より正確に言うと、垂直に聳え立つ「薄い」城壁が大砲に弱いのであって、 柔軟な土の土台に石垣を敷き詰めた日本式の石垣城が、 大砲に弱いとはちょっと思えない。 実際、砲撃を受けてもせいぜい穴が開くくらいで、 土台が崩壊しましたなんて話、聞いたことない。 勿論、上部構造物は弱いだろうけど。
24 :
世界@名無史さん :2007/03/22(木) 17:58:14 0
会津若松の鶴ヶ城は? 城下は炎上して、誤解した白虎隊が切腹したが、城は落ちていなかった。
25 :
世界@名無史さん :2007/03/22(木) 21:01:11 0
さすがに戦国を経験した奴らの城だから 戦闘に対してはかなり合理的な城だろう
26 :
世界@名無史さん :2007/03/22(木) 22:26:33 0
ヨーロッパの市壁って、防御用以外で、徴税、入市税 目的のものもあるよな。
27 :
世界@名無史さん :2007/03/22(木) 23:29:26 0
>>23 日本の城が砲に強ければ幕末に五稜郭とかの稜堡式城郭作る必要ないだろ。
西洋の城壁は薄いが高い。日本の石垣は分厚いが低い。
攻城戦で郭内にガンガン砲弾撃ち込まれるのは問題だろって事
西洋の城塞といっても、大砲が投入される以前と以後では形状が違うよ 薄くて高い城壁は大砲以前 そういう城壁が大砲に崩されてから、低く厚く傾斜の付いた城塞に変わった 大砲の役目は、普通の力責めでは越えられない城壁を崩すこと そこを突破口として歩兵を侵入させられる 大砲がなければ強化された城門なんかを攻めなければならなかった
29 :
世界@名無史さん :2007/03/23(金) 01:00:40 0
西洋や支那では、街全体を城壁で囲む。 日本の城は権力者の邸宅のみ堀と石垣で囲む。 日本の城では、民衆は小さな小競り合いでも家を焼かれる危険があるが、 逆にどこにでも好きなところへ逃げ失せてしまえる利点がある。 西洋や支那の城は、小さな小競り合いなら絶対安全。 しかし大規模な篭城戦になれば食糧が尽きて餓鬼道に墜ち、陥落すれば 権力者と運命を共にしなければいけない。
30 :
世界@名無史さん :2007/03/23(金) 01:28:27 0
西洋には馬出がないな
31 :
世界@名無史さん :2007/03/23(金) 06:06:12 0
アヘン戦争では清の城壁は大砲でも壊れなかったんじゃないか?
32 :
世界@名無史さん :2007/03/23(金) 07:51:38 0
>>27 >攻城戦で郭内にガンガン砲弾撃ち込まれるのは問題だろって事
それは西洋型の堡塁でも同じなのでは?
33 :
世界@名無史さん :2007/03/23(金) 11:07:22 0
34 :
世界@名無史さん :2007/03/23(金) 15:45:18 0
ん?ちょっとまって。 西洋の要塞は、薄くて高い城壁型の城から、 低くて厚い稜堡型の近代要塞に進化したんだよね? どちらの話をしているの? ちなみに、ヴォーバン式近代要塞の代表例、 ブールタング要塞の上空写真は、堀があって郭があってカクカクしてて、 日本の石垣式平城と雰囲気そっくり。
35 :
世界@名無史さん :2007/03/23(金) 15:49:57 0
>>34 西洋では堀が基本になった近代の城とか要塞とか
でもドイツの電撃戦で要塞自体が時代遅れになった
航空機、戦車、歩兵の立体戦術が基本
36 :
世界@名無史さん :2007/03/23(金) 21:25:39 0
日本の石垣式平城に稜堡は無いんじゃない? まあ馬出がその役目を担ったんだけども。 ただ城 casleという場合、稜堡式要塞はFortressであって ちょっと「城」とは違う気がするな
37 :
世界@名無史さん :2007/03/23(金) 23:18:16 0
巨石がないのが決定的に影響してるだろうな
グスクとチャシについては?
39 :
世界@名無史さん :2007/03/24(土) 22:15:38 0
西洋近代に、防御効果の高い城ってあったけか? リバイバル様式の城とかを除いて
40 :
世界@名無史さん :2007/03/25(日) 09:03:18 0
それは近代というよりルネサンス期に起こった変化では
中世:梯子、攻城塔→城壁で防ごう 近世:鉄砲、大砲→稜堡で防ごう 近代:火力集中、爆撃→コンクリートと穴蔵で要塞化 しかし現代は応急築城材の発達により 築城は再び塁壁に変化しつつあると言う
43 :
世界@名無史さん :2007/03/25(日) 12:15:59 0
お堀が浅いと役にたたない
>>43 堀を浅くして、槍が堀の底に届く距離にするのも手の一つ
45 :
世界@名無史さん :2007/03/26(月) 00:23:03 0
各国語版Wikipedia見れば分かるが、いわゆる英語の"castle"に相当するのって 欧州・中東のほかは日本にしかないのな。 これは封建領主がこれら以外の地域ではいなかったってことなのかな? でも、たとえばムガール帝国には多くの藩王(マハラジャ)がいたみたいだけど彼らは城を 作らんかったのかいな?
インドでは、確か平時用の宮殿と別に、戦時に立てこもる城砦を造ることが 多かったんじゃなかたっけか。 城郭都市の中に築いたか外かは詳しく分からずスマソ・・・
48 :
世界@名無史さん :2007/03/26(月) 07:14:06 0
現代のような空中戦が主体で要塞防御は意義があるんですか?
49 :
世界@名無史さん :2007/03/26(月) 07:27:05 0
例えばスイスのような、国土全体が要塞になってる国では、 航空攻撃どころか、核攻撃にも耐えると聞いているけど。
50 :
世界@名無史さん :2007/03/27(火) 07:35:47 0
スイスを攻める場合はどこから攻めればいいのか?
攻めないで、包囲する。
52 :
世界@名無史さん :2007/03/29(木) 04:36:38 0
>>51 海上封鎖もあまり意味がないと結論が出てるし
スイスを包囲しても効果は薄いだろうな
包囲戦でも殲滅戦でも費用対効果考えたら作戦を実行しにくい。 まして包囲戦なんてww2の独伊のような周り全て敵国でないと不可能で しかも制圧してもアルプスの峠を得られなければ戦略的価値はない。 そうやって「攻め込まれない」工夫がなされているのがスイスの強さだなあ。
ナポレオンに征服されたけどな、スイス。
>>48 イラクの自衛隊やアメリカ軍の駐屯地は一種の要塞かも
56 :
世界@名無史さん :2007/03/31(土) 20:20:08 0
幾何学的な城は、ルネサンス期に登場?
>>57 城塞の形は大砲の発達史と関係が深い。
1453年に世界最大最強といわれたコンスターチノープルの3段の城壁が
オスマン・トルコ軍の大砲で陥落してから、幾何学模様の陸堡が多くなった。
それまでは敵兵が登れないように、城壁は高ければ良かったが、
大砲の登場で高い城壁が絶好の目標物になってしまって、
ぐっと低く、分厚く、堀が深く広く、死角がない幾何学模様の陸堡になった。
垂直から斜めになったというのもある 垂直で薄い壁は衝撃をもろに受けるから
60 :
世界@名無史さん :2007/04/04(水) 03:44:32 0
市街を守る必要がそれ程無かったからじゃないの。 税収はあったにせよ、主な経済資源は鉱山や田畑に依存していた為 消費地に過ぎない城下町その他はそれ程守る必要性が無かったとか。 上で出てるけど、異民族相手じゃない分掠奪やらが少なかったせいもあるかもしれない。 とか言う今即興で考えた意見。
62 :
世界@名無史さん :2007/04/08(日) 16:54:27 0
63 :
世界@名無史さん :2007/04/18(水) 13:32:21 0
>>58 メフメト2世の頃のコンスタンティノープルの城壁って本当に最強なのかね。
建てたのが5世紀だから千年近く前のものだけど。
イスラエルはイスラエル全体を囲うイスラエル要塞を建設中です。
65 :
世界@名無史さん :2007/04/18(水) 21:39:28 0
【三重地震】“江戸時代のは崩れず” 亀山城跡の石垣、崩れたのは昭和47年に修復した部分だけ
1 :ままかりφ ★ :2007/04/17(火) 19:47:25 ID:???0
三重県亀山市で15日に震度5強を観測した地震で、亀山城跡の石垣が
崩れた現場を専門家が調査したところ、30年余り前に比較的小さな石を
使って修復した部分だけが崩れていたことがわかりました。
15日の地震で亀山市では、亀山城跡の石垣が幅2メートル、高さ6メートルに
わたって崩れました。亀山市教育委員会の担当者と専門の業者あわせて4人が
17日、現場を訪れ、原因を調査しました。この石垣は、およそ400年前の
江戸時代に加工していない自然の石を積んで築かれたものですが、調査の結果、
石垣の崩れた部分は、昭和47年に修復した部分だったことがわかりました。
これに対し、400年前に石が積まれたままの場所はまったく壊れていませんでした。
調査の担当者によりますと、修復の際に、江戸時代に築かれたときと比べて
小さな石が使われたため、重さが足りず、土台の盛り土に石がしっかりと
食い込んでいなかったことが原因とみられるということです。
亀山市教育委員会まちなみ・文化財室の嶋村明彦室長は「貴重な文化財なので、
昔の石垣の積み方を踏まえて、工事方法を検討し復元していきたい」と話しています。
http://www.nhk.or.jp/news/2007/04/17/k20070417000116.html http://www.nhk.or.jp/news/2007/04/17/d20070417000116.html
66 :
杜生さん :2007/04/22(日) 21:11:21 0
上の方のスレで日本の城の石垣は砲撃に弱いとか言ってる人がいますが、 日本の城の石垣は砲撃ぐらいじゃビクともしないですよ。 戊辰戦争の時に何百発という砲弾に晒された会津の鶴ヶ城の古写真など見ると 天守や櫓などの木造建造物は崩壊寸前ですけど、石垣は殆ど無傷です。 というか、現存している日本の城で石垣に砲撃による損傷が顕著な城なんて皆無に等しいですよ。 カノン砲の球弾なんかだと跳ね返してしまうぐらいです。 幕末、最新鋭だった薩長のアームストロング砲弾ですら殆ど無力化してしまう防御性能がありました。
というか、石垣を大砲で打つ意味って何? 天守や櫓を崩せばいいんじゃね
68 :
世界@名無史さん :2007/04/23(月) 21:04:12 0
っていうか、大砲を城の中まで打ち込まれるようになったら終わりだろ。
69 :
世界@名無史さん :2007/04/23(月) 21:16:40 0
>>67 戦意喪失が狙いかな
大砲だけで城落とすのは難しい
歩兵による突撃が重要
>>67 天守や櫓なんて城の防御では、補助的な意味しか無いから。
島原の乱で原城が幕府軍の大砲による攻撃に、かなり善戦したことを見ればわかる。
攻略の際に大砲が必要になる城と 大砲が無くても攻略可能な城との間には越えられない壁がある。
>>58 コンスタンティノープル陥落よりも、イタリア戦争のほうが直接的な原因じゃないか
シャルル8世あたりが大砲でイタリアの都市をガンガン落としていったので
それに対抗して土塁で補強していくうちに効果的な築城法を編み出していったという
イタリアで発達したからイタリア式築城術って言われるわけだし
73 :
世界@名無史さん :2007/04/26(木) 07:34:14 0
五稜郭って、19世紀中期なのにルイ14世時代の星型城郭なのは、時代遅れな気がするが。
時代遅れだから函館(と五島)のみ作られた
75 :
世界@名無史さん :2007/04/27(金) 05:42:24 0
>>45 インド西部へ行くと巨大な城がいくつかあるよ。
ジャイサルメールとかジャイプルとか。
76 :
世界@名無史さん :2007/04/27(金) 23:34:28 0
>>75 どちらも「城塞都市」 (walled city)の類で封建領主の城 (castle) じゃないじゃん。
77 :
世界@名無史さん :2007/04/28(土) 09:14:08 0
>>73 ヨーロッパでもルイ14世時代から19世紀後半くらいまでは、
城郭・要塞の設計に大きな変化がなかったとか?
>>77 単純にヨーロッパの技術>洋書を輸入>洋学者が習得
って過程のタイムラグじゃね?
>>78 それもあるが、当時フランス人から築城の指導を受けたりもしていた
でもフランスはドイツで生まれた多角形型の要塞を採用するのに抵抗があったから
当時まだ稜堡式使ってたんだよ
普仏戦争でボコボコにされて目覚めるわけだが
81 :
世界@名無史さん :2007/05/20(日) 02:09:55 0
「ベリー公のいとも豪華な時祷書」に描かれているソーミュール城に行ったことある人っています?
82 :
世界@名無史さん :2007/05/20(日) 08:15:45 0
e
ない。ルーヴルとサンジェルマンアンレイとサンクルーとムードンとマルリーには行ったことあるけど
84 :
世界@名無史さん :2007/05/22(火) 08:55:36 0
「ヨーロッパの城と艦隊」って本がフランスの城に詳しいけど 訳が悪いせいか読んでてもさっぱり分からなかったりする。
85 :
世界@名無史さん :2007/06/01(金) 20:36:50 0
86 :
世界@名無史さん :2007/06/03(日) 18:23:20 0
▁ ▂ ▃ ▅ ▆ ▇ 他にネタが無いんでしょう ▇ ▆ ▅ ▃ ▂ ▁
コピペされると困る奴っているんだな。
90 :
世界@名無史さん :2007/06/13(水) 19:41:12 0
昔々、北ヨーロッパの人がアルプスを越えて地中海方面に出ようとすると、必ず通る 要衝の地にお城が3つ並んで建っています。3つ併せて世界遺産に登録されているの で見に行ってきました。それはスイスのイタリア語圏であるティッチーノ地方の都市 ベリンゾーナにあります。ピッコロ城、グランデ城、サッソコルバロ城です。 ひとつひとつはそれほど大したものではありません。姫路城のほうがはるかに規模が 大きい。でも3つ並んで連携プレーをすると(昔はそういう戦い方をしていたそうな)、 たいした威力を発揮したのです。ひとつだけだとしょぼいが(犬山城か松本城程度)、 3つ合わせると素晴らしいという珍しい世界遺産の紹介でした。
91 :
世界@名無史さん :2007/06/13(水) 23:04:43 0
308 名前:名無し三等兵 投稿日:2007/05/30(水) 17:39:41 ??? ぶっちゃけた話、城壁を破壊出来るカタパルトなんて存在しない。 あくまで城内に石やらなんやらを投げ込む為の物。 辛うじて損傷出来るのはトレビュシェット位だ。
>>89 そりゃ困るだろ
コピペだけされても会話にならないんだから
真剣にコメントすれば会話になるけどな。 と、会話されると困る人にマジレス。
>>85-86 >韓国では、熊本城は、加藤清正が朝鮮から連れてきた朝鮮人らに作らせた
これ根拠あんの?
あるなら知りたいんだけど。
俘虜が石を運んだとかそういう話だろう
城郭都市として小田原を復活させて欲しい
98 :
世界@名無史さん :2007/06/17(日) 13:24:18 0
高天原を復活させて欲しい。
北野武監督の「監督・ばんざい!」という映画が公開されてますが、 あの作品に出てくる城はどこの城なんでしょうか。 たけしが忍者役のところです。 ご覧になった方でご存知の方がいらっしゃれば教えて頂きたい。
やっぱたけし城じゃないの? 緑山の。
101 :
世界@名無史さん :2007/07/14(土) 22:47:17 0
築2000年の城壁が倒壊―湖北省襄陽市【写真】
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g9711.html 2007年7月12日、湖北省襄陽市の城壁が倒壊した。
倒壊した城壁は襄陽公園に位置する。倒壊部分は長さ20m、高さ20mにわたる広大なもの。当日、現
地には大雨が降っており、城壁がゆるんだものとみられる。付近の娯楽施設が倒壊した城壁の下敷き
となった。周囲にいた市民の助けで、下敷きになった被害者はすぐに救出されたもよう。
襄陽市の城壁は漢代に築かれ、宋代に改築された長い歴史を誇る。「鉄作りの襄陽」と言われたほど
の強力な城壁として知られていた。しかし1993年以来、城壁は6度にわたり倒壊。2005年から補修工
事が始まっていた。(翻訳・編集/KT)
102 :
世界@名無史さん :2007/07/14(土) 22:51:48 0
>>101 崩れた城壁の写真では、中が版築土塁で表面が煉瓦で覆われた中国式城壁の構造がよく判る。
恐らく漢代では版築土塁のみで、煉瓦で覆われたのは宋代だと思う。
>>104 イメージとして城壁は石だと思ってた
土の壁なのか
詳しいサイトありますか?
ひょっとして建物も土ですか?
107 :
世界@名無史さん :2007/07/23(月) 02:30:30 0
殷の時代に作られた、鄭州の城壁は土を搗き固めたもの。 時代が下って、秦代、漢代の万里の長城は、土を杵でつき固めたものだったんだよ。 さらに時代が下れば、「塼」という、薄いレンガのようなものを積み上げて 城壁を作った。 西洋は石の文化、支那は土の文化、日本は木の文化といわれる所以だ。
109 :
世界@名無史さん :2007/07/23(月) 15:18:32 0
>>107 >>108 ありがとうございます
現代の三国志のイメージだと城は石造で凄い作りですが
実はかなりボロイんですね
>現代の三国志のイメージだと城は石造で凄い作りですが そうじゃなくて、ああいうのは版築の壁にレンガを貼り付けて強化したもの
たとえ表面をレンガで補強したとて、中が土だったら 投石器で石ぶつけられたら崩れるだろーな。
時代や規模にもよるがそうそう簡単には崩れないだろ 分厚く作ってあるからな 場合によっては高さより厚さのほうがあることも 砲弾に対しては、厚い土壁のほうが高い石壁よりはるかに耐久性があるしな
>>109-110 実際の三国時代ではレンガは一般化してなくて、殆ど版築土塁の城壁だったよ。
三国志で城壁がレンガとして描かれてるのは
三国志演技が書かれたのが後のレンガ城壁が一般化した時代だった影響。
目の細かい黄土を使った版築はかなり丈夫だしね。
5世紀の統万城は「蒸土築城(詳細不明)」で、壁に鉄釘が一寸刺さると 職人は死刑になったそうだ。
カクレンボツボツ怖いわー 石灰に水を加えて、そこに土を混ぜ合わせてつき固めたらしいよ 石灰と水が反応して熱がでるから土を蒸すといわれたんじゃないかという 現在は統万城の城壁をくりぬいて住居にしたりしてるらしいね
>>112 アヘン戦争のときのイギリス海軍による広東への艦砲射撃も
まったく効果が無かったしね
そうなん? 清兵がイギリス艦に向けて「陰門陣」をやってたぐらいだから脅威ではあったのでは?
>>111 むしろ土を入れないと崩れるだろ
中の土が衝撃を吸収してくれないからな
121 :
世界@名無史さん :2007/07/29(日) 22:32:39 0
ロシアだと火器の時代になっても木造の要塞を建ててたらしいけど 木造の城壁の内部に土を入れたのが結構砲弾の衝撃を吸収できたとか。
122 :
世界@名無史さん :2007/08/01(水) 21:24:13 0
>>118 北京城や南京城の城壁は厚さ30mだからな。
シナ事変の時の大砲でもびくともしない。
123 :
世界@名無史さん :2007/08/02(木) 22:12:34 0
世界的にみれば日本ほど珍しい城もないんじゃない?
>>123 どういう意味での城?
日本の城郭は
純軍事的な拠点としての「城」
要塞としての「城」
政庁としての「城」
の3つくらいに分類できるが、特に世界的にみても珍しくは無い。
>>124 城の設計(縄張り)という意味でじゃないかな。
複数の曲輪(戦闘区画)からなる日本の城はやはり独特かと。
内城と外城からなるっていう世界の城の基本とはかなり異なると思う。
ヨーロッパの城も曲輪があるぞ。
127 :
世界@名無史さん :2007/08/04(土) 00:05:57 0
>>125 > 内城と外城からなるっていう世界の城
都市と城塞が合体した形態のことを「世界の城」と言われても、
日本にはその種の城塞都市はなかったというだけで、世界の
城の主流がそうだというわけじゃないだろ。
それはキャッスルとウォールドシティーの違いでは 日本やヨーロッパ、中近東に散在する、大小領主の邸宅と軍事拠点が一体になったのがいわゆる城 都市を城壁で囲んで内城をつけたのが城塞都市
困ったことに、漢字の「城」の中国での元の意味は城郭都市なんだな。 いわゆる城は「塞」に近い
「城」は城壁の意味で、それが転じて壁に囲まれた都市になったんじゃないの?
中国の「塞」についての情報ない?
「塞」については前漢時代の長城付近のウ壁の考古学的調査の成果が著しいとか
>>129 でもスレタイは「日本のしろ、世界のしろ」と読むわけで、
「日本のcheng、世界のcheng」と読むわけではないだろうよw
「日本のジョー、世界のジョー」でもない。漫画かサッカー選手じゃないんだからw
両脇のタイトルは、「しろ」も"cheng"も一応含むという意味だろうけどね。
中国語のchengに対応する日本語は、
「惣構」「御土居」「曲輪内」で「しろ」という単語は出てこないからなあ。
他にも用語に混乱があるような気がする。
「外城」という単語も多義的だ。
欧州の外城のような、「惣構の外にはみ出た防御施設」を指すのか、
中国にあるような、はみでた第二市街地そのものを指すのか。
134 :
世界@名無史さん :2007/08/09(木) 02:16:33 0
アヘン戦争の虎門塞ってどんなもん?
ドイツの古城街道とかの映像を見ていると、わずかな間隔であまりに多くの城が出てきて、 この封建体制を打破するのは本当に大変だっただろうなあ、と、ちょっと気が遠くなる思いがした。 戦国時代までの日本も似たようなものだったのだろうな。そこから考えると徳川幕府の一国一城令は偉大だと思った。
近畿地方に藩が200個くらいあったら城がいっぱいあったと思われ
138 :
世界@名無史さん :2007/08/21(火) 20:40:44 0
今話題の南京城の城壁はだれからだれを守るためにあんなに大きい のつくったの?
>>137 江戸期は大名はともかく、小名は城は作れなかったはずだが。
140 :
世界@名無史さん :2007/08/21(火) 21:39:31 0
>>65 江戸城の石垣を修復しているのを見ると怖くなる、
昔の石垣は横から見ると綺麗な放物線なのに、
今修復した結果は中央部が少し膨らんでいる、
修復した箇所は地震で崩れる可能性が高い。
>>140 あれは時間がたつに連れて自重で落ち込むものなのだが。
142 :
世界@名無史さん :2007/09/03(月) 03:08:16 0
ドイツ語では中世の要塞風の城を"Burg"、近世の宮殿風のを"Schloss"というと 手元の独和辞典にあるが、都市の名前についてる「ブルク」はありゃなんなのかね? Burg=城塞都市のことなら中国風に都市名に「〜城」って付くのは理解できるんだけど。
ドイツの城も元々は壁で囲んだだけの場所だったからでは? 後になってベルクフリート(天守閣)などが建てられた。
144 :
世界@名無史さん :2007/09/03(月) 13:14:59 0
英語ではBurgは都市の意味だね。ピッツバーグの「バーグ(burg)」とか。 元々はゲルマン古語で砦の意味だったのが領主の城館を意味するようになり その周囲に町が出来たので城郭都市をも意味するようになった? 英語ではロマンス語のcastleが入ってきて、それが城を意味するようになったので burgが限定的な意味(都市)で使われるようになったんだろう。
広島城の城壁は、原爆でゆがんでしまいました。
374 名前:本当にあった怖い名無し[ sage] 投稿日:2007/09/03(月) 08:56:31 ID:YGyIpqyZ0
寛さん殿下の本にも、
「京の御所には海外の城にあるような塀がない。
民を搾取していないので民から襲撃される恐れがないため、
高い塀は不要。そこが海外の王族と違う」
というようなことが書いてあった。
図書館で読んで手許にないので、うろ覚え。
375 名前:本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2007/09/03(月) 09:45:49 ID:mme81Tvu0
権力をもって民を抑える方式の君主だったら、色んな意味でこれはない
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20070530154918.jpg 権力と権威の区別がつかない奴は
>>373 のようなことを理解する受け皿を
持ってないから、いまいち的外れな天皇批評になっちゃうんだろうね
376 名前:本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2007/09/03(月) 14:28:56 ID:kcVzS0me0
>>374 亡くなられた喜久子妃も同じことを仰っていた。高松宮殿下のお話で、
「京都御所にはお堀がないの。でも1000年も続いたと仰るのよ。」
などと仰った。
Youtubeでこのインタビューを観たので探したが、すでになかった。
異民族とか異教徒がいないってほうが大きいんじゃないかな 話の通じない相手はどうしようもないからなあ
平和ボケと石材不足かねぇ 武家が作った都市も江戸・大阪が建都されるまでは鎌倉みたく天然の要害に建てて 平地に城壁や堀を設ける労を払わなかった(払えなかった)訳だし
149 :
世界@名無史さん :2007/09/04(火) 10:03:16 0
そもそも平安遷都と山背→山城への改称は桓武帝が葛野郡を天下の要害と見たからだろ。 御所が1000年もったのは早々に権威だけの存在になったからかも。
異民族や異教徒がいないにしては、日本の城郭は異常に発展したと思うよ。
城塞都市といえば、日本の城の総構えもシティーウォールと似たようなものではある。 まあ既出だが。
よくシティーウォールは対異民族戦があるから世界で作られて 日本では異民族戦があんまり無かったから発展しなかったっていうけど違う気がする。 中国の城塞都市が、単に対異民族戦のために作られた訳じゃないし 古代ギリシャだって、主にギリシャ人同士の戦争に備えて作られたんじゃないの? ようは戦争が激化して略奪や虐殺なんかの乱暴狼藉行為が横行すると そういった行為から都市や集落の住民の生命と財産を守るためで その乱暴狼藉行為を行うのが異民族か同一民族かはあんまり関係ないんじゃないの? あるていど異民族の場合のほうがより激しくなりやすいかもしれないけど。 日本の場合も中国史書に倭国の大乱とか書かれてる弥生時代の日本の集落も環濠化されてて 吉野ヶ里遺跡が日本100名城の一つとして登録されてるぐらいだしw 中世になって戦いが日常化してくると、また集落が環濠化されるようになる。 京都の町も秀吉の御土居以前から環濠化されてたそうだ。
日本の場合、「城塞都市が無かった」のではなく「城塞都市が発達しなかった」。
既に他の人が言っているように、シティーウォールのようなものは
環濠や総構えなど日本にもある。
しかし日本の場合、平野が少なく地形が起伏に富む自然の地形がそのまま利用できる事、
さらに戦争といっても、当時の日本全体の人口がもともと少なかった為に、
大軍に攻められるという機会自体少なかった為にそれほど発達しなかったんだと思う。
日本の国土自体は回りは海だし、大陸側から攻められた事はほんの数度しかない。
それに対し、平地が多く、しかも他国と陸続きの国では容易に大軍に攻められる
機会も多い国では、自国民、或いは領民を守る為に強固な人工の防壁が必要になる。
日本でもある程度強固な総構えが発達し始めたのも、日本の人口がある程度増え、
大軍に攻められる恐れのあった戦国後期から江戸初期にかけての時期だし。
ところで総構えも城塞都市の形態の一つとすると
東京も城塞都市であるのを知っている人はどれくらいいるんだろう?
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E
>>153 >当時の日本全体の人口がもともと少なかった為に、
ヨーロッパの大国より日本のほうが人口多かったけど。
>大軍に攻められるという機会自体少なかった為にそれほど発達しなかったんだと思う。
ヨーロッパの戦争より大軍を動員して戦争が行われてたけど。
>日本の国土自体は回りは海だし
イギリスも回りが海だけど、シティーウォールは作られた。
>大陸側から攻められた事はほんの数度しかない。
大陸側から攻められるか国内の戦争かはあんまり関係ないよ。
>平地が多く、しかも他国と陸続きの国では容易に大軍に攻められる
ヨーロッパは割と山が多いし、中世の戦争の動員兵力は少ない。2,3万も動員されれば多いほう。
それでもシティーウォールは作られた。
>日本でもある程度強固な総構えが発達し始めたのも、日本の人口がある程度増え、
中世の日本ですでに都市や集落が環濠化されてたし、もっと前の弥生時代だって環濠化されてたってば。
日本の城も戦時には周辺住民収容してたし
クレしん映画でもそんな描写があったね アッパレ戦国〜は中々考証ができてる名作だからなあ
159 :
世界@名無史さん :2007/09/28(金) 23:53:50 0
ルクセンブルクは西のジブラルタルと呼ばれるほどの城塞都市だった。 谷に囲まれた天然の要害をいかして要塞化。
160 :
世界@名無史さん :2007/09/29(土) 16:34:55 0
中国の城壁は土製だけど、ああいうのって、雨で侵食されないの? 岡山県の鬼ヶ城の土壁は雨で溶け始めてるように見えたけど。
161 :
世界@名無史さん :2007/09/30(日) 13:44:57 0
戦国時代の秦の首都カンヨウには城壁が無かったよ 関谷狭という天然の要害に守られていたから
162 :
世界@名無史さん :2007/09/30(日) 15:27:44 0
>>160 も指摘しているけど、
日本は都市を防衛するために城壁が発達しなかったのは、
地質によるものだろう。
大陸(中国)の地質は基本的にアルカリ性、
日本の地質は基本的に酸性、
アルカリ性の場合は雨に溶けにくく、雨で侵食はあまりされない。
酸性の場合は、その逆で侵食されやすい。
だから、大陸は版築で土塁を築いて恒久的な城壁にできる。
日本は酸性のために耐久性は低いので、都市を防衛するためには、
堀や濠が合理的になってくる。
結論としては、防衛施設として大陸は城壁、日本は堀や濠ってことだけである。
163 :
世界@名無史さん :2007/09/30(日) 15:39:26 0
また、日本にも版築の土塁があるが、 水城などの古代の土塁はともかくとして、 中世以後の土塁は、大陸(中国)の比して傾斜が緩い、 それは先述の酸性のために侵食されやすいためでもある。 だから、態と芝生をはったりするなど工夫がなされている。 (大陸でも欧州であれば、ローマ時代の土塁は日本の土塁と似たような傾斜で 残っている。) また、中国でも、春秋戦国時代においては、必ずしも版築の土塁の城壁で都市を囲んでいたわけではなく、 その地方の気候風土に合わせて木の柵であったり、堀であったりする場合も多々ある。 諸国が長城を築城をしていたが、そういった木の柵であったり、堀であったりする場合もあるので、 文字通りの城壁ではなかった。 また、都市を城壁で囲むのが広まったのは、明代以後に磚(レンガ)の性能が向上し、 硬く丈夫なものが開発されたためである。
あの有名な後北条氏の小田原城って、城下町まですべてを含んで強固な 城塞だったから「天下の名城」とか言われていた気がするが。
あのさー 釣りかなんか知らないけどさー 版築では雨による侵食で恒久性が無いから 城壁が磚(レンガ)で覆われるよになったわけでねー それにアルカリ性が雨に強く、酸性が雨に弱いってほんとかー ヨーロッパなんかはアルカリ性の大理石の建物や彫刻が酸性雨で溶けて困ってるくらいでね。
>>162 >結論としては、防衛施設として大陸は城壁、日本は堀や濠ってことだけである。
中国だって堀はある。紫禁城の周りも堀で囲まれてたはず。
日本の惣構も堀を掘ったらその土をつき固めて土塁にしてたから、殆どの場合
堀と土塁はセットで存在する。(ただし現存するところは少ない)
167 :
世界@名無史さん :2007/09/30(日) 17:34:51 0
>>162 は「中国に堀はない」「紫禁城の周りは堀で囲まれていない」とは一言も言っていない。
日本でシティーウォールが発達しなかった理由としては、平野が少なく地形が複雑だった事が 大きいのだろうな。ドイツでものライン川沿いのいわゆる古城街道にある城は、みんな言ってみれば日本式だね。 日本でも戦国期の小田原城のほかに、八王子城もいわゆるシティーウォールだったらしい。 広い関東平野故か?
>>167 >>162 は
>>163 で、
>中国でも、春秋戦国時代においては、必ずしも版築の土塁の城壁で都市を囲んでいたわけではなく、
>その地方の気候風土に合わせて木の柵であったり、堀であったりする場合も多々ある。
と述べているしなw
>>166 は日本語読解力無しw
>>168 でも逆に場所によっては京都や鎌倉みたいな天然の要害を見つけやすいって事でもあるからね
平地に城を築く考え方は桃山時代以降でわりと遅いけど、それでさえ城壁ではなく堀だったもんねぇ
>>170 日本は川が多いから、すぐ水の引ける堀を造るほうが簡単で合理的だね。それに
戦国末期には大筒が発展してて、城壁があまり意味を持たなくなったってのもあるのでしょうな。
大阪の陣でも堀ばかり注目されてて、城壁にはほとんど関心が無い。
172 :
世界@名無史さん :2007/09/30(日) 19:12:38 0
>>170-171 それと
>>162 の言うように、日本の風土から
城壁は向かない面もあるだろうね。
ただ近代戦における野砲対策は、五稜郭のように、
土塁で衝撃を吸収する方が効果的なんだが。
(煉瓦や石垣だとすぐに破壊される)
またその場合土塁は壁のように垂直(中国などの城壁も厳密には垂直ではないが)
に近くする必要もない。
>>172 野砲対策は日本の場合、城壁の変わりに石垣がになっていたのでは?
近世に入ると日本の城の石垣は高く、巨大になるね。
>>173 欧州では、石やレンガ造りの城壁は
大砲の出現普及とともに少なくなって、
逆に土塁が増えてきている。
また、幕末に江戸城を見た外国人使節の軍人は、
銃撃対策は万全で効果的だが、大砲対策は全くなされていないと
指摘されている。
175 :
世界@名無史さん :2007/09/30(日) 23:50:06 0
シティウォールってのは基本的には対異民族用だからな。 下手すると皆殺しだが 日本の戦争は権力者と権力者の問題ばっかなので住人はどっちが勝とうとあまり関係ない。
>>174 戦国や江戸初期と幕末じゃ、大砲の性能自体が全然違うだろ。
177 :
世界@名無史さん :2007/10/01(月) 00:07:01 0
大和朝廷の時代に築かれた日本の城は、朝鮮式で、ある部分は石を積上げ、 ある部分は版築で土塁を築いて山の頂をぐるっと囲む形になっていた。 もし、版築が日本で有効だったら、大和朝廷の時代からシティウォールが発展していっただろう。 しかしそうはならなかった。 年数がたつと版築は多雨の日本では溶けてしまって、石積みの部分しか残らなかった。 再建すればいいのだけど、統一政権だった大和朝廷だからできたことであったし、 唐が攻めてくる危機感があったから金と労力かけてやらざるをえなかったのであって、 戦国時代のような内乱状態ではどの豪族も版築をする財力も気力もなかった。 山を削って柵を立てるほうが遥に手軽にできるし、維持費もかからないから みんなその方法で城をつくった。 戦国時代中期になると、六角氏の観音寺城みたいに近江の石積み職人に城の石積みを やらせる体系ができてきた。最初は観音寺城みたいに従来の山城に石垣を埋めるに過ぎなかったが、 織田、豊臣が全国統一すると、全国に平地に石積みの城を作らせた。これは戦争用ではなく あくまで平地の経済拠点において威勢を誇るためのものだから、シティウォールにする 必要がない。 それが今日まで残ってるということではないだろうか。 イギリスも山城から発展したっぽくね?
179 :
世界@名無史さん :2007/10/01(月) 07:45:07 0
>>178 御土居はシティウォールにしては不自然な点がある。
・都市の入り口(京の七口)には虎口など軍事目的の機能が施されていない。(他の総構では入り口に虎口を施すのが普通。)
・土塁の上には竹が植えられ、上部の移動や視界が阻害され武者走りとしての機能が欠落している。
・当時の都市部よりも広い範囲を土塁で囲んであり農村部まで含まれている。
といった点がある。
軍事目的よりも洪水対策の堤防などの目的で築造されたとも考えられる。
180 :
世界@名無史さん :2007/10/01(月) 08:25:50 0
>>174 しかし、幕末から西南戦争にかけても、
砲撃で石垣が破壊されたという話は聞かない。
基本、日本の石垣は土塁構造に表面を石で覆ったものだ。
欧州や中国のような、
表面から構造材まで全て割れやすいレンガや石で造られたものとは、
根本的に違う。
例え鉄甲弾でも表面が貫通して、中の土にのめり込むだけだろう。
勿論、上部構造物は違うよ。
大砲対策は全くなされていないというのは、
石垣ではなく上部構造物の事だろう。
181 :
世界@名無史さん :2007/10/01(月) 08:29:41 0
×鉄甲弾 ○徹甲弾
>>177 源平合戦の時代の阿津賀志山防塁は版築で造られていたよ
>>180 中国の城壁も版築で固めた土の表面をレンガで覆った構造。
だから、明末期の李時成軍は、まず兵士が城壁まで走っていってレンガを引き抜いて帰り、
ある程度の穴があいたらそこから土を掘り出して、最後に中の柱に綱を結び付けて大勢で
引っ張るという方法で、城壁を崩していた。
>>179 それウィキペディアに書いてることだけど
ウィキペディアを読むときは、こうゆう妥当性がない内容は無視したほうがいいよ。
185 :
世界@名無史さん :2007/10/01(月) 17:46:27 0
>>180 砲撃で戊辰戦争でどの城の石垣も破壊されているのだが、
欧州も中国も城壁の内部は土塁。
内部まで煉瓦や石ではない。
あるなしをどうやって判断するんだよw
187 :
世界@名無史さん :2007/10/01(月) 18:04:19 0
というか、日本の石垣は切岸に石で表面を覆って施したものか、 堀の護岸として表面を石で覆って施したものが大半だけどな。 勿論、日本の石垣は土塁に石で表面を覆ったものもあるが、 メインは前者の二つ。 明代の万里の長城も日本でいう切岸にで表面を磚(レンガ)で覆う工法で 築造されたらしいが、一見すると分らない。 (日本の城の場合、城壁の内側は本来の高台のままで同じ高さか、 高低差ある場合は、雁木にしている場合が多い。)
ネタばっかりでなく 真面目に語れよ
189 :
世界@名無史さん :2007/10/01(月) 20:25:17 0
>>184 妥当性がないとする根拠は?
詳細に述べよ。
>御土居の囲む範囲は当時の市街地に比べ極めて広く、西部や北部においては第2次世界大戦後まで農地が広が >っていた場所すらある。このため御土居の全長は長くなり、防衛に必要な兵力が多くなる。 中国の北京城や唐代の長安城の城壁範囲はもっと広いが、城壁が防御目的であったことは確実である。よって北京城より狭い京都御土居の範囲が広いといって防御機能を否定する意見には妥当性がない。 各地の城下町の惣構内部で第2次世界大戦後まで農地が広がっていた例があり、 京都の御土居がそれらの例と同様に農地が広がっていても特に不自然なことではない。 豊臣時代、特に聚楽第が存在した時期は洛中に大量の兵力が存在しており、広い京都の御土居を守備することは可能である。
>御土居の上に竹が植えられていたため視界が遮られ、また兵士が御土居の上を移動することが難しい。通常
>防壁上に作られるような櫓などもない。
雨による侵食から土塁を保護するためには何らかの樹木が茂っているほうが好ましく、実際に各地の城の惣構えや主郭の土塁部分でも各種の樹木が植えられている。
富田林・寺内町の土塁にも竹が植えられていた。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~heritage/sub6.html これは和歌山城の模型だが土塁部分に樹木が植わっているのが判る。
http://www.wakanoura.net/w_right2.htm 京都御土居に竹が植えられていることは何ら不自然ではない。
この時代の竹は様々な形で利用される有用な資源であり、戦時においても伐採して外側に倒せば逆茂木になって敵の侵入を防ぐことに寄与する。
また防弾用の竹束にするなど竹は利用価値が高い。
平時、戦時、共にに利用価値が高い資源を確保するために御土居の空間を利用したとしても何ら不自然ではない。
有事に兵士が移動する最上部だけ竹が生え茂らないように伐採しておけば移動も問題にはならない。
各地の城の惣構の殆どは出入り口の櫓門を除けば櫓は築かれないほうが通例である。京都の御土居でも櫓が築かれていないことは、不自然ではない。むしろ通例通りといえる。
>絵図によれば、御土居の出入口には何の障害物もなく、当時の城郭で用いられたような侵入者を防ぐ構造が >見られない。 京都御土居に関する豊臣時代の絵図は残っておらず、残っているのは江戸時代のものである。政治権力の中核地であった豊臣時代と江戸時代では京都状況は大きく異なっている。江戸時代の絵図をもって創建当初の防御の可否を論じることは適当ではない。 創建当初、京都御土居の意義は、日本の政治権力の中核である京都を守ることであり、また聚楽第の外郭防御線としての役割である。したがって聚楽第が破却された1595年以後になると御土居の防壁としての意義は低下する。 もっとも聚楽第の破却以後も聚楽第に替わって隣接する伏見城が政治権力の中心であった時期はまだ京都の政治的意義は保っていたかもしれない。 しかし特に絵図が描かれた江戸時代には政治権力の中心が江戸の移るとともに、平和な時代であり、京都御土居の存在意義はさらに低下する。その証明として実際に御土居が各所で取り壊されている。 江戸時代の絵図の出入口に侵入者を防ぐ構造が見られなかったとしても、豊臣秀吉による当初の築造の目的が防御であったことを否定することはできない。
194 :
世界@名無史さん :2007/10/02(火) 00:03:10 0
戦国末期以降の日本の城の本質は、堀、土塁と石垣だよ。 木造や漆喰の壁だの矢倉だの天守だのは添え物というか、 防御にあたってのメインの構造物ではない。 堀や石垣の土木工事は城普請で、武士も鍬やモッコを担ぐ が、上部の建築物は作事で職人の仕事になるのが基本。 西南戦争の時点で、熊本城は火災で建築物の大半を失った が、砲を持つ西郷軍の攻撃に耐え、落城しなかった。
江戸時代になると京都に駐留する京都所司代など幕府の兵力規模は僅かなものとなっており、もはや広い御土居を守り切ることはできず御土居は意味を成さなくなった。同様の事は大坂城についても言える。 豊臣時代の大坂城に広い総構えが存在したが、江戸時代の大坂城には総構えが作られなかった。 京都・大坂、共に守る兵力規模が変化し、政治的意義が変化しているのである。 御土居が防御の目的を失ったのは江戸時代か、早くとも聚楽第破却後であり、少なくとも豊臣秀吉による創建当初は防御が主目的であった事は間違いないだろう。
>>185 >欧州も中国も城壁の内部は土塁
コンスタンティノープルの城壁の内部は煉瓦片などを混ぜた石灰モルタルですが。
197 :
世界@名無史さん :2007/10/02(火) 08:32:54 0
>>191 >よって北京城より狭い京都御土居の範囲が広いといって防御機能を否定する意見には妥当性がない。
北京城より狭いかどうかは論点になっていない。
>京都の御土居がそれらの例と同様に農地が広がっていても特に不自然なことではない。
当時の京を考えても農村まで含まれている。
>豊臣時代、特に聚楽第が存在した時期は洛中に大量の兵力が存在しており、広い京都の御土居を守備することは可能である。
聚楽第で集中して防御も出来、洛中の寺院も要塞化しており陣城のように扱える。
わざわ御土居を築造する必要性がない。
>雨による侵食から土塁を保護するためには何らかの樹木が茂っているほうが好ましく、実際に各地の城の惣構えや主郭の土塁部分でも各種の樹木が植えられている。
その場合は、上記で既に指摘されているが、樹木ではなく芝生で表面を保護している。
また、土塁の斜面を滑りやすくするために滑りやすい草を植えたりするのが通常。
また、富田林の土塁に関しては、土塁に竹を植えたとは述べられていない、
土塁と竹と並列して述べられていることから、別の防護の施設と通常読み取られる。
また、逆茂木にするなら、土塁の上部にはしない、土塁の「麓」か斜面にするもの。
>有事に兵士が移動する最上部だけ竹が生え茂らないように伐採しておけば移動も問題にはならない。
京の御土居には上部も竹で覆われており、武者走りが存在しない。
>各地の城の惣構の殆どは出入り口の櫓門を除けば櫓は築かれないほうが通例である。京都の御土居でも櫓が築かれていないことは、不自然ではない。むしろ通例通りといえる。
京の御土居には櫓の遺構がまだ発見されていない。
発見されて無い以上、無いと判断するしかない。
また、御土居の出入り口には総構にもある筈の虎口など防護施設がなされていない。
周辺の総構の山科を囲んだ土塁には、出入り口には必ず虎口などがなされている。
198 :
世界@名無史さん :2007/10/02(火) 08:37:41 0
>江戸時代の絵図の出入口に侵入者を防ぐ構造が見られなかったとしても、豊臣秀吉による当初の築造の目的が防御であったことを否定することはできない。 総構である根拠に全くならない。出入り口の遺構は残っており、 それを考察しても虎口などがなされていない。 そもそもそのような構造がなければ、総構としての機能はなくなり、 そのような大規模な土木工事をするくらになら、既存の寺社を あらためて要塞化をして整理する方が合理的。 >豊臣時代の大坂城に広い総構えが存在したが、江戸時代の大坂城には総構えが作られなかった。 京都・大坂、共に守る兵力規模が変化し、政治的意義が変化しているのである。 江戸時代には変容したところで、豊臣時代の御土居が総構であることの根拠とは全く関係がない。 江戸時代に政治的意義が変化しても、豊臣時代の御土居が総構でなかったとしても全く問題がないからである。
199 :
世界@名無史さん :2007/10/02(火) 17:23:59 0
>>196 ビザンツ帝国の城壁はセメント、コンクリート製の城壁も少なからずあるよ。
しかし、一部の城壁を言っても説得力がない。
ヨーロッパの城壁は基本的に土塁に煉瓦張りが多い。
200 :
世界@名無史さん :2007/10/02(火) 17:41:53 0
200get!
>>197 >北京城より狭いかどうかは論点になっていない。
? 御土居が広すぎるって理由で防御目的じゃないって言ってるんだから
それならもっと広い北京城の城壁は防御目的あってはいけないって事になるじゃないか。
>当時の京を考えても農村まで含まれている。
それがどうした? 他の総構えでも農村含んでる場合もあるぞ。
農村含んだ総構えは防御目的じゃないってか?
>聚楽第で集中して防御も出来、洛中の寺院も要塞化しており陣城のように扱える。
わざわ御土居を築造する必要性がない。
総構えの存在意義そのもを否定する理屈だな。
その理屈だと他の城でも総構えは存在しないってことになるぞ。
それじゃ戦いが起こると権力者や侍が生き残っても町が破壊されるじゃないか。
>>197 >その場合は、上記で既に指摘されているが、樹木ではなく芝生で表面を保護している。
>また、土塁の斜面を滑りやすくするために滑りやすい草を植えたりするのが通常。
>また、富田林の土塁に関しては、土塁に竹を植えたとは述べられていない、
>土塁と竹と並列して述べられていることから、別の防護の施設と通常読み取られる。
>また、逆茂木にするなら、土塁の上部にはしない、土塁の「麓」か斜面にするもの。
お前は土塁を知らなさすぎ。富田林の竹が土塁と別だなんて苦し紛れなこと言いすぎ。
例に挙げた2点はほんの一例に過ぎない。お前は今から城巡りの旅に出るべきだ。
近世の石垣の城でも土塁部分がある所も多い。そこを見て来い。
和歌山や富田林と同様に多くの場合樹木が植わってるから。
もう一点だけ例示。土塁部分を良く見てね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Aizu_Wakamatsu_Castle_air.jpg
>>197 >京の御土居には上部も竹で覆われており、武者走りが存在しない。
竹の凄まじい増殖力をお前は知らなさすぎ。
環境問題にも関心を持つべきだ。竹の増殖・侵食が環境問題になってるくらいだから。
土塁の「上部」に植えようが「麓」に植えようが、竹ってのはすぐに増殖して生えてなかった部分にも進出するんだよ。
人の通行が出来ないほど密生してるなら、有事に備えて事前に伐採するか、有事になってから伐採するか、どちらかになるだろう。
>京の御土居には櫓の遺構がまだ発見されていない。
>発見されて無い以上、無いと判断するしかない。
だから何? 他の城の総構えでも櫓は殆ど無いと既に述べているが?
他の城の総構えも櫓がないから防御目的じゃないってか?
>>197 >また、御土居の出入り口には総構にもある筈の虎口など防護施設がなされていない。
>周辺の総構の山科を囲んだ土塁には、出入り口には必ず虎口などがなされている。
>>198 >総構である根拠に全くならない。出入り口の遺構は残っており、
>それを考察しても虎口などがなされていない。
>そもそもそのような構造がなければ、総構としての機能はなくなり、
虎口っていうのを桝形や馬出しのようなものが備わった堅固な物をいってるのかな。
でも総構えの出入り口は割と簡単な門だけで済ませてるところも多いよ。
それに江戸の総構えだって殆ど軍事的な用をなさず、単なる出入り口にすぎないところもある。でも江戸の総構えが防御目的じゃなったなんて言ったら笑われるよ。
>そのような大規模な土木工事をするくらになら、既存の寺社を
>あらためて要塞化をして整理する方が合理的。
応仁の乱の被害を少しは考えてみてください。
町衆のことも少しは考えてあげてください。
>>198 >江戸時代には変容したところで、豊臣時代の御土居が総構であることの根拠とは全く関係がない。
>江戸時代に政治的意義が変化しても、豊臣時代の御土居が総構でなかったとしても全く問題がないからである。
豊臣時代の御土居が町を守る施設でないなら一体何?
単なる水害対策の堤防?
同時代の小田原や大坂や伏見などの状況をみると
この時代は町を堀と塁壁で防御するのが流行りとなっている。
その流れからして防御目的じゃないなんていうのは不自然すぎる。
>>197 ちょっと横レス。
横レスになるので、
>>191 からの議論とは完全にはかみ合わないが。
まず、シティーウォールの中にかなり広大な田畑・農村部が含まれるのは、
世界中でごくありふれたこと。というのは、城壁は簡単には伸縮不可能だが、
都市は、社会情勢により、そんなことはおかまいなく急激に膨張したりするので、
計画的な都市壁建設の場合、大抵はかなりの余裕を持って建設される。
台湾の台北の都市壁など、市街地で一杯になったのは蒋介石統治下。
それから、見逃されがちだが、織豊政権期の京都では、
戦国時代に築かれた上京・下京の、真正のシティーウォールといえる惣構が
統一政権により破却されるようになっていた。
その機能的代替として、御土居が建設されたと考えるのはごく自然なこと。
上京、下京、禁裏前町などからなるモザイク状の中世都市が、
統一された「都市・京都」に統合されるのだという、秀吉の都市計画を
誰の目にも明らかに示すための建築物として「統一惣構」が造られたのだと考えられる。
シンボル的な意義もあるが、あくまで惣構は惣構。つまりシティーウォール。
西欧の都市壁にしても、とりわけ首都のそれは多分に象徴的な意義がある。
付け足すと、戦国時代、土一揆やら武将の軍勢やらに頻繁に晒されて、
自らの力で惣構を建設した特に下京の町衆にとっては、
統一政権が出てきて、
「おまえら、今日から惣構破却汁」と言われても、普通は納得できない。
いくら「刀狩をしたから大丈夫」「俺が守る。寺を塞にするから無問題」と言われても
富を握る都市民として、防御本能が働いて心理的に抵抗するのは当然のこと。
その状況で、京都を改造するという政策意志を持った秀吉が、
巨大な「京都統一惣構」を築くことは、まったく当然のことだろう。
江戸の御朱引のような抽象的な線引きだけで、
俺は江戸っ子だとホルホルできるような天下泰平の社会状況ではない。
>>205 それは実は微妙だよね。織田豊臣徳川(および彼らの家臣)の、
便宜的に「愛知系武将」と呼ぶことにするが、彼らは、惣構に関しては、
城の縄張りに際して微妙な中間的な立場だからね。
信長は、全面惣構は嫌がる傾向がある。
家康や譜代は、武家地だけ厳密に囲み、町方地域は外に出すのが基本。
秀吉は、微妙にふらふらしていて、囲む場合もあれば、
重要な家臣居住域だけしか囲まない場合(秀吉期の大坂など)もある。
208 :
世界@名無史さん :2007/10/03(水) 08:49:25 0
>>201 >それならもっと広い北京城の城壁は防御目的あってはいけないって事になるじゃないか。
?。広いかどうかの論点は、当時の都市部だけでなく農村部も含まれているかどうかどうかの点だ。
ただの「広さ」を論点にしていない。
>農村含んだ総構えは防御目的じゃないってか?
農村部を含んだ総構はない。
>それじゃ戦いが起こると権力者や侍が生き残っても町が破壊されるじゃないか。
時と場合と状況で、総構にして面で防御した方が良いか、寺院を要塞化して点で防御した方が良いが分かれる。
当時から洛中の寺院は要塞化しており、そのまま点で防御した方が効率的。
必ずしも総構が効率的な状況とは限らない。
寺院を要塞化をしたわけではないが、近江は総構にせずに、各地に砦を築き点で防御している。
>お前は土塁を知らなさすぎ。富田林の竹が土塁と別だなんて苦し紛れなこと言いすぎ。
土塁と樹木と一緒だと、苦し紛れなこと言いすぎ。
土塁のことを全く理解してはいない。
また現在ある復元土塁や残存土塁や模型も考証がしっかりしたものとは限らない。
土塁は多くの場合、表面を防護するために芝生など草を貼るが、樹木は植えない。
残存土塁が樹木が生い茂っているのは、管理されず放置されていたから。
残存土塁が当時を伺わせるとは限らない。
209 :
世界@名無史さん :2007/10/03(水) 08:56:08 0
>土塁の「上部」に植えようが「麓」に植えようが、竹ってのはすぐに増殖して生えてなかった部分にも進出するんだよ。 だから、土塁に竹なんて植えないのが普通。 せめて麓に植えて、繁殖したら伐採するかのどちら。 そもそもそれくらいのことは池沼でなければ分るものであり、 説明はわざわざしない。 >他の城の総構えも櫓がないから防御目的じゃないってか? 櫓がある場合が多い。また櫓がなくても、出入り口に虎口など施されているのが通常。 >でも総構えの出入り口は割と簡単な門だけで済ませてるところも多いよ。 そんなところはない。虎口の代わりに総構の水堀に出入り口のところの橋を 木製にして有事に簡単に焼き払われるようにしている。 寄せ手を守り手側が意図した侵攻路に誘導するように縄張りを張るのが通常。 意図した侵攻路以外は侵攻できないように木製にして焼き払えるようにするのが普通。 >応仁の乱の被害を少しは考えてみてください。 町衆のことも少しは考えてあげてください。 軍事面と費用対効果面を少しは考えてみてください。
210 :
世界@名無史さん :2007/10/03(水) 08:59:02 0
>豊臣時代の御土居が町を守る施設でないなら一体何? 不明。当時の総構からして先述の通り構造が不自然。 物流の統制目的で、出入り口を限定したかもしれないし、 洪水対策かもしれない。 もっとも、今後の発掘如何で櫓の遺構が現れたり、虎口の遺構が現れたりすれば、 総構説も裏打ちはされるだろうが、現時点では仮説は立てられてもなんとも言えない。
211 :
世界@名無史さん :2007/10/03(水) 09:09:20 0
>>206 実際には農村部は含まれないのが現状。
そんな実例は僅か。
そもそも城壁を移動、修築するのは高コストであり、
都市域を制限する意味が合いもあるので、
特に欧州では余程の軍事上要衝で都市城壁が要求される場合でなければ、
城壁は廃れて行ったりしている。
秀吉の都市計画と総構との関連性は全くない。
当時として象徴として考えられていた傾向を示すものもない。
軍事上要衝であれば、洛中では寺院を要塞化すれば済むもので、
大坂など台地など高台を利用して総構を建造したり、
東京のように川や運河を利用して堀で総構を建造できる余地は少ない。
事実、江戸時代の二条城もさほど軍事面を考慮した縄張りになっていない。
>富を握る都市民として、防御本能が働いて心理的に抵抗するのは当然のこと。
都市民が防御本能働いたからといって、総構とはならない。
堺のように環濠が施されていて総構にはなっているが、
補助的なもので、軍事的な後ろ盾を常に考えておかなければならない。
堺ならば、三好氏など。
都市民の真骨頂はそういった後ろ盾を財力を駆使して生き延びた権謀術数。
和歌山城の総構は、主な防御機能の施設は川を利用した堀だろう。 土塁は内側で補助的なものだろうな。 そもそも復元模型も江戸時代のものを想定しているならば、 太平の世なので管理せずに荒れるに任せて木が生い茂っただけかもしれない。 実際そのような土塁も多いし。 幾年か経てば潅木くらいは荒地で生い茂るし。 もっとも、総構の土塁を臨戦態勢で常に維持管理すると莫大なコストが掛かるだろうし。
御土居が防御目的じゃないって言ってる人は釣り師、ネタ師の類で、 本人もホントは防御のためと思ってるだろ。 まぁ適当に釣られてあげてもいいけど。
御土居が防御目的だって言ってる人は釣り師、ネタ師の類で、 本人もホントは防御のためと思っていないだろ。 まぁ適当に釣られてあげてもいいけど。
まあ確かに、今時御土居が防御目的だなんて言っている奴初めてみたよw
>>211 おまえ、実際のヨーロッパの城壁都市の古地図や絵図を見たこと無いだろw
日本の社会科地図帳にのっているストラスブールのような、特殊な例しか頭に無いようだなw
1576年のアーヘン、1538年のバーゼル、1567年のブリュッセル、1571年のケルン、
そして極めつけは1569年のローマ。どれもこれも都市城壁の中にかなり広大な農地がある。
ローマに至っては、城壁の中で市街地は半分にも満たない。
さすがに欧州の都市でもローマは特殊だが、まさに当時の京都と
比較するにふさわしいのが当時のローマといえるだろう。
古代の都市領域の記憶が残っていて、それをなぞるように市域が区切られている。
御土居も、平安京左京の記憶と、室町時代の北辺に伸びる上京の意識が、
さらに大きく囲われる形で御土居の区画となっている。
それに、おまえは寺寺寺寺寺寺寺寺言っているが、 武家にとっての砦としての寺と、中世町衆にとっての寺は意義が全く違うんだが。 武家にとって守るべきものは城の本丸。極端な話、ここさえ守れればいい。 だから、寺や町家や武家屋敷でさえ、極論すれば塹壕のようなもので、 敵にとって少しでも邪魔になればいい。邪魔物は重層的なほうが効果的なので、 一点で破られれば終わる壁や堀よりも、寺の敷地のほうが有効だ。 だが、 町衆にとって、守られるべきは、まず各々の自宅と倉と財産。 しかも町衆は一人ではないし、下々が犠牲になれば済むピラミッド組織でもない。 惣構の中にある寺社は、寺内町でなく京都であっても、例えば革堂や六角堂のように 有事の際に集まり、軍議や抵抗の拠点となる最終防衛拠点。 仮に寺だけ守られても、肝心の町家群がアボンしてしまっては、町衆にとっては全く無意味。 だから、「寺を沢山まわりに配置したので、柔構造で守られますよ」と言われても、 「守る」という定義が武将と町衆で異なるのだから、安心などできるはずがない。
難攻不落すぎる城郭模型
リアルすぎる模型で定評のある小林工芸から、9月下旬に発売予定なのがこちらの「姫路城」。
部品の総点数は約1864点。
木製・金属製部品を合わせた総重量は実に約9キロ! 完成までの参考時間が約250〜300時間というのもうなずける重厚さです。
石垣には「木質粘土」、屋根瓦には「神代タモ材」を使用。
よく分からないですが、すくなくとも住んでいる部屋で使われている素材よりも高級な気がします。
気になるお値段は、13万6500円です。姫路城の他にも、金閣寺や平等院鳳凰堂なども。
内部に安置されている仏像まで、ちゃんと入っていますよ。
http://www.gizmodo.jp/2007/09/post_2306.html http://www.xn--yetq6bz6p0j2a.com/home/image2/himeji.jpg ■ 1/100 姫路城
・木製部品 約1700点
・金属部品 ソフトメタル 71点
・エッチング(銅板) 93点
・総点数 約1,864点
・重さ 約9kg
・特徴
・一番の特徴は石垣の質感を「木質粘土」で表現し、子供から大人まで誰でも簡単に、
楽しんで石垣を積み上げる事が出来ます。(昔の職人が築いた石垣を想像しながら築いて下さい。)
・屋根瓦は「神代タモ材」を使用し「神代」のいぶし銀の様な色が瓦の重量感を醸し出しています。
・大天守閣、渡櫓、西・乾・東の小天守閣、水の一門〜六門、「へ」の門、台所、地階まで忠実に再現しています。
小林工芸
http://www.xn--yetq6bz6p0j2a.com/
御土居が広すぎるから防御目的じゃないって? 高天神城攻防戦において、徳川方の付け城に対して、武田方が総攻撃をかけ玉砕している。 この時、徳川方の付け城は堀と土塁で築かれており、土塁1間 (1.8メートル)につき侍一人づつ配備されていた。『三河物語』 つまり土塁1間につき侍一人で防御可能なのである。 京都御土居の総延長は22.5km。 計算では12500人あれば防御可能となる。 豊臣政権の聚楽第存在期間、京都は強大な統一政権の中枢であり、 市中には12500人を軽く超える何倍もの駐留兵力が存在し、 御土居は十分に防御可能だった。 御土居が広すぎて守れないなどということは、少なくとも聚楽第 存在期間(つまり御土居建設期)ではあり得ないことだ。
竹が植わってるから防御目的じゃないって? 城郭関連の本を読むと「蔀」と呼ばれて城外から城内を見通され るのを防ぐために樹木が植えられていたとある。 当時、攻城戦では攻撃側が高楼を築いたり土を盛って築山を築いて、 高所から城内を掃射し、無力化して突入する方法がよく取られていた。 竹木による「蔀」はこうした攻城戦法を防ぐ有効な手段となる。 実際に竹林や森林に入って外を見てみると判る。外からは竹林や森林 の内部は極めて見えにくい。しかし、意外と竹林や森林の中から外は 見えてしまうのだ。 最近の戦争のおけるゲリラ戦でも、ゲリラが森に潜んで待ち伏せし、 外に接近した敵部隊に打撃を与えるといった戦法がしばしば取られている。 こうした戦法が成功するのは、外からは竹林や森林の内部は極めて見 えにくい。しかし、意外と竹林や森林の中から外は見えてしまう という性質のためである。 竹木の植樹による「蔀」は城内側から城外側を見通す妨げとなるよりも、 むしろ城外側から城内側を見通す妨げとなるのだ。 竹木の土塁への植樹は、土塁を森林化するものであり、これは土塁に 拠って守備する側にメリットをもたらすものとなる。
例えば郡山城総構西部の土塁には松が植えられ並木を形成していた。
44 大織冠馬場筋【武家地 8】
http://www4.kcn.ne.jp/~suizan21/page022.html#lcn009 ◆御土居(おどえ/訛)の松
図中に見える御土居には城郭西部総構の植え物として“御土居の松”
が植えられていた。郡山のシンボルとして歴史上や景 観・風致の上か
ら総構を取り巻く松の木は広く市民に愛されていたのである。
48 大織冠馬場通【武家地 12】
http://www4.kcn.ne.jp/~suizan21/page022.html#lcn012 往時の外堀は幅7間から13間、土 居の高さは3間から3間半で、また
、延宝の図(前出/1678-9)に見る大織冠地区の土居一帯には松の木が
植栽されて並木 を形成していた。「大和名所図会」(寛政3年(1791)刊)
に紹介されている“大織冠松”はこの辺りにあった名所と推察され、郡 山
城総構のなかでも大織冠丘陵と松並木の景観はことに雄大無比を誇っていた
のである。
たとえ自然発生により木が生え始めたケースがあるとしても、
それはなにも怠慢で伐採しなかったのではなく、意図的に残されたのだ。
京都の御土居に竹が植えられたことは防御側を有利にするものであり、
御土居の目的が防御でることを否定する理由には全くなら無い。
御土居は費用対効果が悪いとか、寺社を拠点化したほうがいいとか言うが 本当にそうなら秀吉はそうしただろう。でもそんな風にはしなかったね。 費用対効果が悪いもなにも御土居を実際につくちゃった訳だし。 寺社は防御拠点化するどころか解体・移転して鴨川御土居沿いにズラーと壁状に並べたよな。(寺町) だいたい、秀吉は高松城や太田城のような攻城戦のたびに水攻め用の 堤防を築いたり、小牧のような野戦で大規模な長塁を築いたりしている。 秀吉は攻城戦や野戦といった一時的な意味しか持たないものに莫大な予算を費やしている。 それを考えると、一度作れば恒久的な効果が見込める御土居の建設がそれほど費用対効果が悪いとは思えない。
224 :
世界@名無史さん :2007/10/04(木) 04:29:17 0
225 :
世界@名無史さん :2007/10/04(木) 09:05:22 0
>>216 それらの地域は都市部だけ。
農村部はごく僅か。
>>217 まったく軍事上の考察が分ってないようだ。
寺に立て篭もってれば済む話だ。
そもそも拠点防護の戦術をお前は分っていない。
他は焼き払われようが関係がない。
守る定義も、基本的に武将と町衆と同じ。
>>219 >御土居が広すぎるから防御目的じゃないって?
誰もそんなことを言っていない。
農村部まで含まれているという指摘はあっても。
>竹が植わってるから防御目的じゃないって?
土塁でも、衾土塁というものがある。
しかし、これは虎口などに使用されたり、主郭にもちいられるなど限定的である。
そもそも、総構には衾土塁は必要がないし、そのような目的の土塁は使用されていない。
>例えば郡山城総構西部の土塁には松が植えられ並木を形成していた。
自然発生のものであったり、
>>212 氏の理由(コスト面)であったりもする。
しかも、郡山城総構は基本的に水堀で囲んでいるもので、
土塁は補助的なものである。
226 :
世界@名無史さん :2007/10/04(木) 09:08:07 0
>櫓がないから防御目的じゃないって?
>>209 参照。櫓がなければ他の施設がある。
>一度作れば恒久的な効果が見込める御土居の建設がそれほど費用対効果が悪いとは思えない
日本の土塁は風雨に荒らされやすい。
また、芝生など貼ればある程度防護できるが、木が生えたりなど
維持するためのコストがある。
高松城や太田城のような攻城戦で応急的一時的に作るものであれば、
維持や補修のコストは度外視してもさほど関係がないだろう。
恒久的な総構にするならば、比べ物にならない維持補修コストがかかる。
>>224 誰も、すべての出入り口が完全に発掘検証済みとは言っていない。
>>210 参照。
そもそも史学で「ない」を証明する必要がないわけだから、
出入り口に虎口など防護施設が「ある」というのならば、
発掘等で証明する必要がある。
御土居防御機能肯定厨には、歴史や軍事の知識以前に 日本語の読解力が無いと思われる。
端からみてると何か水掛け論になってますよ。 そもそも御土居の建造理由は色々あったんでしょ。 その理由の一つに防御目的はあったかもしれないし無かったかもしれない。 現時点で資料が十分に発見されてない以上、全く「防御目的は無い」とも言い切れないし、 「防御目的(のみ)だ」とも言い切れない、というのは双方分かってて議論してるんだろうけど。 正直、昔から議論されているような「熊本城や姫路城のような複雑な縄張りと、 名古屋城のような単純だけれども大軍が篭れる縄張りとどちらが防御能力が高い?」という 机上の議論を見ているよう。
>>228 そうかもね。ただ防御目的肯定厨の方は、
江戸時代以後の総構の状況を例等に出しているから、
根拠にもなっていないとは思うがな。
江戸時代なら、
>>212 さんの言うように荒れるに任せたりすることもあって、
樹木など生えていても不思議じゃないし、
景観のために並木を植えたりすることもあったろう。
まあ、だから直接の遺構発掘など史料が出てこない限り意味が無いと思う。
>「熊本城や姫路城のような複雑な縄張りと、
名古屋城のような単純だけれども大軍が篭れる縄張りとどちらが防御能力が高い?」
前者だろうな。効率的に篭城出来、敵を消耗させていくにはその方が城として妥当。
ただ、大軍があって篭城が出来ればいいものではない。
少数の動員で篭城できれば、それに越したことはない。
>>229 >前者だろうな。効率的に篭城出来、敵を消耗させていくにはその方が城として妥当。
江戸時代の軍学者はそう見ていたらしいが、近年の研究ではそうも言い切れないらしい。
そもそも当時の設計者が想定した攻城戦の形態や防御思想の違いが縄張りに現れているんだろうけれど。
>>230 欧州でも基本的に、江戸時代の軍学者と同じ様な縄張り思想だったが。
しかし、欧州では野砲の脅威への対策は考えられてあるが。
名古屋城は中核の、予定されていた総構え建造が豊臣氏の滅亡により中止された、言わば「未完成の城」だから、 総構えとして完成された姫路城より大軍も篭れないような気が・・・
>>225 厳密に言うと、衾土塁と言う表現じゃなく蔀土塁だけどな。
確かに、周囲を囲む土塁に蔀土塁としての機能があり、
肝心の出入り口を虎口にして蔀土塁の要素をも含む土塁がなければ本末転倒だが。
(蔀土塁にしたところで、武者走があるのは常だから、
蔀土塁だから木が生い茂って武者走がなくてもよいということにはならないが。)
234 :
230 :2007/10/04(木) 21:13:27 0
>>231-232 wikipediaよりコピペ
名古屋城の縄張は、それぞれの郭が長方形で直線の城壁が多く、角が直角で単純なつくりである。
したがって、姫路城のような複雑かつ屈曲の多い構造を好む江戸時代の軍学者には好まれず、
ある軍学者は実際に「縄張宜しからず」と酷評した。
しかし、現代の城郭研究者からは、次のような意見がみられる。
すなわち、名古屋城が築城された江戸時代初期は攻城戦術・技術が成熟しきっていた時期である。
その時点で、徳川氏が大坂方面に対する東海道防衛の最大拠点として位置づけられる名古屋城を、
あえてこのような縄張にしたことを考慮すべきである。
当時の名古屋城の築城思想が、篭城戦時の防衛の戦略・戦術をどのように企図し、
あるべき篭城戦をどのようにとらえていたかを分析し、判断の材料に加えなければ、
縄張の良否を簡単に断言することはできない、という。
235 :
230 :2007/10/04(木) 21:15:07 0
構造は典型的な梯郭式平城で、本丸を中心として南東を二の丸、南西を西丸(にしのまる)、 北西を御深井丸(おふけまる)が取り囲んでいる。さらに南から東にかけて三の丸が囲む。 本丸の三つの虎口のうち南の大手口と二の丸側の搦手口の2箇所には、 堀の内側に二重の城門で構成される桝形があり、堀の外側に大きな馬出しがあって入口を二重に固めていた。 桝形内では通路を屈曲させ、周りを多聞櫓で囲んで通過を困難にしている。 外の郭から土橋を通って馬出しに入る通路には障害となる直線状の小石垣があり、 本丸に背を向けないと通れないようになっていた(西丸側の小石垣は撤去され堀も埋められている)。 馬出しの配置も巧みであって、一部の郭を占領されても本丸には容易に進入できない優れた構造になっている。 また、ある虎口を攻めようとすると、別の虎口から出撃して撃退できるようになっている。 西と北は水堀(現存)及び低湿地によって防御された。南と東は広大な三の丸が二の丸と西丸を取り巻き、 その外側の幅の広い空堀(一部現存)や水堀に守られた外郭を構成した。 さらにその外側には、総構え(そうがまえ)または総曲輪と呼ばれる城と城下町を包み込んでしまう郭も計画されていた。 西は今の枇杷島橋(名古屋市西区枇杷島付近)、南は古渡旧城下(名古屋市中区橘付近)、 東は今の矢田川橋(名古屋市東区矢田町付近)に及ぶ広大な面積をもつはずだったが、 大坂夏の陣が終わると建設は中止になった。これは名古屋築城の目的を如実に物語っている。 まあ実際どうなのかは軍事ヲタじゃないから知らんが。
>>225 秀吉が集めた東京極(現寺町)にずらりと並ぶ寺に、町衆が立て篭もって、
四条室町や新町方面の旧下京を守れるとでも?
後から回りこまれて終わりだw
城と言う「点」を守るためならば、都市壁は実は必ずしも要らないというのが、
織田信長以来の、上で言う「愛知系武将」の考え方。
徳川家康などは、名古屋城の「幻の惣構」などという話を除けば
江戸にしても基本的には、町方は構の外に出してしまっている。
秀吉も、大坂城惣構では平野町は当初から構の外だ。
だが、町という「面」を防衛する必要がある中世町衆にとっては、
防御線としての「囲み」は極めて重要。
だから、下京にしても寺内町にしても、堀や塁でぐるりと囲まれることになった。
御土居の目的は聚楽第や禁裏防衛というより、京都市域の防衛と考えるのが妥当。
市域の防衛である以上、むしろ逆に純然たるシティーウォールということになる。
まあ1580年代には、多分にシンボル的な意義になっていただろうけどな。
237 :
世界@名無史さん :2007/10/05(金) 07:43:23 0
>>236 まったく防護というものを理解していないな。
後から回りこまれても問題ない。
町衆本人達が助かればいいこと。
そもそも町衆は、権謀術数を第一に防護を考えるもので、
環濠や土塁などはその補助的機能にしかならない。
四条室町や新町方面はほったらかしにしても、
一時的に町衆当人が立て篭もって助かればいいこと。
面で防護するか点で防護するから、地形・情勢など相応に
比較して判断するもの。適当な要塞として使える寺院があればそれで
点で防護するれば済む話。
238 :
世界@名無史さん :2007/10/05(金) 07:47:51 0
>>234-235 名古屋城は総構などは未完成のまま放棄されれいるので、
なんとも言えないが。
名古屋城そのものは、横矢など射掛ける構造にはあまりなっていないのが気がかりだ。
しかし、
>>234-235 にあるように詳細に検討すれば複雑な縄張りにもなっているので、
効率的な篭城を考慮に入れていたものであると考えられる。
>>237 秀吉は寺に軍事的要素を持たせたくないから寺院を強制移転させたのではなかったか?
>>239 全てというわけではないだろう。
事実全て移転は無理だろうし。
浄土真宗の庇護とかあるから、
勢力としては、寺院も手向かわない限りは認めたのでは?
本能寺は意外と防御能力があったというのが最近発見されたな
>>241 確か、以前に室町(戦国以後)の公家の邸宅が城塞化していたというような論文を
読んだ気がする。(日本歴史だったかな?雑誌は。)
だから、わざわざ御土居なんてつくる必要があったかどうか疑問だが。
243 :
世界@名無史さん :2007/10/14(日) 11:24:15 0
御土居はどちらかというと「上京と下京に別れた京の町さえも統一した」という、 豊臣秀吉の天下統一の象徴、或いは力の誇示の為に作られたのが本当の目的のような気がするが。 「防御」や「堤防」の意味合いは、あったとしても「ついで」じゃない?
話をぶった切って悪いが、欧州の大陸の古い町に行くと(特に北イタリアとか)、 現代の近代的な町を歩いていても昔の城郭都市時代が想像できて楽しい ごちゃごちゃしてた町並みが大きな道を横切るといきなり綺麗な近代的な 区画になると、「ああ、今の道が昔の城壁跡地か」とか、鉄道とかバスの ターミナルが明らかに昔の門と付属する要塞後に作られていたり。 地図見ているだけでも結構浮かんでくるので楽しい。歩くともっと面白いけど。 城塞とか言っても、そういうので現在の区画にも残っているようなのは 中世じゃなくて砲戦が主体になって以降の要塞都市のものだけど 逆に古い町でそういう痕跡(円環道路とそれに付随する大きな広場)がないと、 ああ中世以降は完全に没落したんだなとか 日本でも現在の大きな国道の横を走るやけに由緒ありげな家が並ぶ 細い道とか(昔の本街道)、そういうのに気がつくと妙に嬉しい
う〜ん、東京で江戸城総構跡沿いに張り巡らされた首都高や通りを走っている時に 見附跡などの石垣や土塁を見つけた時のような感覚?
飯田橋の端の横にある石垣は当時のもの? いやに綺麗な石組みだが。
247 :
世界@名無史さん :2007/10/16(火) 00:30:54 0
>>246 江戸城牛込見附跡の事?
補修はしてあるかも知れないが、
一応は当時のもののようだけど・・・。
>>247 なんと!
江戸城を再現してみると、東京はものすごくかっこよくなるかもしれない・・・
>>248 東京駅八重洲口あたり?の堀も埋め立てられているから完全復活はどうかね・・・
再現しなくても見附跡の石垣は他にも結構残ってるね。 見附以外はほとんど土塁だったんだろうから 飯田橋や四谷周辺は意外と当時の面影が残ってるかも。
最も面影が残ってないのは 南の幸橋御門から虎ノ門通って溜池まで辺りかな。 今は全て埋め立てられてしまってる。 この辺りは石垣だったんだけど。 石垣にしたのは地形が平坦で高低差が少なくて防御が弱かったから、その分 石垣で固めて堅固にしたんどろうけど。
江戸城の天守閣ってのはとても美しかったそうだね。家光のころの江戸っ子は それはそれは自慢にしたとか。
誰に? 外部の人間との交流が盛んだったのか?
255 :
世界@名無史さん :2007/10/29(月) 17:01:07 0
上方衆にじゃない? ところで江戸城外郭は確かにすばらしい縄張りだが 19世紀に来日した英外交官のオールコックが「大君の都」で記すところでは 英国の軍人が江戸を観察したところ、3日もあれば占領できる、と答えたそうな。 やはり260年も同じ国防体制じゃ刃が立つわけ無いわね
むしろ3日も持つのに驚き
>>255 外郭については同じく惣構えのある会津若松城も戊辰戦争の際
まだ近代戦に慣れているとは言えない新政府軍に簡単に突破されてるな。
江戸城程の巨大城郭だと守る側の兵力にもよるだろうけど、
当時の海外の勢力に攻められれば、近代戦に対する対策のされていない
外郭はあの当時でも簡単に突破されてしまっただろう事は間違いない。
じゃあ函館の五稜郭は簡単に突破できる?
>>258 五稜郭は外郭ないじゃん。
ていうのは置いといてもあの当時既に時代遅れ。
よく考えたら五稜郭より会津若松城のほうが長く持ちこたえたんだな。
会津若松城の場合、降伏せざるを得なかった大きな理由が兵糧不足、 トイレ不足、戦死者の処理だったらしいしね。 開城直前は城内の衛生状態が相当悪かったらしい。 考えてみると、日本の城って長期篭城には向いていないかもしれないかな? 城塞都市の場合、城の敷地の中に田畑を含める事で兵糧の心配も少なくなる? 日本の場合総構えを持っている城でも外郭は内郭である本城と比較すると守りが薄く、 例え外郭の中に田畑があってもそれは攻城側に簡単に占領されてしまい、 兵糧の問題が発生しやすい?
262 :
世界@名無史さん :2007/10/29(月) 23:04:41 0
1人が1年間籠城するとして必要な米は1石。 1石の米を作るのに1反(991.74平米)必要だから1万の将兵が籠城するのに 必要な耕地面積は991.74×10,000=9,917,400平米 すなわち東京ドーム763個分。 小田原城外郭が9kmあったということで郭内の想定面積は6,449,044平米だから 城内すべてを耕地にまわしても城兵を養うのは困難と言うことになる。 実際には城兵以外の住民もいるから1万人ではきかないだろう。 そもそも耕地があっても戦時下ではまともに耕作できる保証はないし、 耕作できても収穫が年1回だからそれまでに飢えてしまっては元も子もない。 結論としては中国でも日本でも籠城するときは穀物倉などが確保できた状態 じゃないととても長期の籠城には耐えられなかっただろう。 付け加えれば平安城内部には耕地があったが、近世城郭の外郭は 家臣団と都市防備が主目的であり、耕地はないか、あっても雀の涙。
>>261 会津若松城降伏の最大の理由は、他の奥羽諸藩が降伏して孤立無援となってしまって
勝利の可能性がなくなったから。
そのうえ先に降伏した奥羽諸藩が逆に降伏の説得に来たりしてたくらい。
援軍の見込みの無い籠城戦なんか無意味だからな。 そこが西南戦争で攻囲戦を耐え抜いた熊本城との違い。
265 :
世界@名無史さん :2007/11/05(月) 02:03:05 0
城の写真ではなく城の模型を集めたサイトか本はりますか?
266 :
世界@名無史さん :2007/11/05(月) 08:12:00 O
はってください
267 :
世界@名無史さん :2007/11/05(月) 08:46:12 0
城好きならドイツのザクセン州にあるケーニッヒシュタイン城と、 ポーランドのポモージェ州にあるマルボルク城を見て来い。行って損はしない。
269 :
世界@名無史さん :2007/11/05(月) 09:40:12 0
五稜郭って西洋式の城郭って点ばかりが強調されてるけど、 ああいう星型の要塞って、ルイ14世時代からあったんでしょ。 19世紀中頃では思い切り時代遅れのようでは・・・
>>267 文禄・慶長の役で明軍は大量の火器を朝鮮に持ち込んだけど、日本式の城を攻め落とす
ことはできなかったよ。
>>269 五稜郭のデザインは接近戦を想定していたらしい。
同時期に函館湾の守りとして弁天台場も建設されてるけど、こちらは同じ西洋式の城郭
でも多角形デザインの要塞。
品川の御台場とかと同じタイプ。
271 :
世界@名無史さん :2007/11/05(月) 15:31:03 0
>>270 大量じゃないよ。当時の大砲やカチューシャ型ロケットランチャーなどは動かすのが大変だからそんなに持ってこない。
>>271 それじゃあ戦争で役に立たないじゃん・・・
>>267 >>257-264 で思い出したけど、
戊辰の会津戦争ではアームストロング砲ばかりではなく
「焼玉」と呼ばれる一種の焼夷弾のようなものが多量に打ち込まれ、
城内では消火に必死だったらしい。
>>267 戦国時代に大火矢という噴射式のロケット武器があったけど
信管がない時代だから、ロケット花火のように飛ぶだけ。
心理的な意味しかなかった。
蒙古の「てっほう」は手榴弾だから、大した距離は飛ばないし、
投げかえされる事もある。攻城にさほどの威力はない。
手榴弾のような迫撃砲系の武器は、
平地での歩兵戦・騎兵戦に威力を発揮する。
>>274 >信管がない時代だから、ロケット花火のように飛ぶだけ。
>心理的な意味しかなかった。
でも槍をロケット花火にしたものじゃなかったっけ?
運が悪いと串刺しにはなるよ
石炭違法採掘で「万里の長城」崩れる 4人逮捕
2007/11/08(木) 14:11:02更新
内モンゴル自治区の警察当局はこのほど、同自治区・清水河県で石炭の違法採掘を行っていた4人を逮捕した。主犯格の男は「採掘作業の途中で機械の操作を誤り、『万里の長城』の一部を壊してしまった」と供述している。7日付で新華社が伝えた。
調べによると、現場では高さが約10メートルある壁が約23メートルにわたって崩れたという。現地の専門家は「崩壊箇所は泥で出来ており、壊れやすかったようだ」と分析した。
「万里の長城」は1987年にユネスコの世界遺産に登録され、中国政府は2006年に「万里の長城」の破壊などを禁じる保護条例を施行した。しかし全体の9割は適切に保護されていないとされる。(編集担当:菅原大輔)
ttp://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2007&d=1108&f=national_1108_001.shtml
フィールドの端の見えない壁が壊れたのかと思った
278 :
世界@名無史さん :2007/11/09(金) 22:00:14 0
>>263 官軍の急追を予想もしていなかったため、兵糧の搬入は確かに遅れていた。
ゆくゆくは開城の原因になったかと。
兵糧搬入は士気の低下につながる、という精神論が仇になった。
>>278 兵糧搬入が士気低下に繋がると考えていたという事は
籠城戦は想定外だったのだろうか。
籠城戦ならかえって兵糧が沢山城内に備蓄されていたほうが
士気が下がりにくいと思うが。
スレ内容から脱線してすまん。
>>279 会津藩どころか、帝国陸軍でも過剰な装備や物資は士気低下につながる
と考えられていた。命を惜しむ事につながる、とね。
現在でも北朝鮮軍では行われていて「餓えた狼は、満腹の豚に勝つ」
と教えられて、兵士は腹一杯食わせてもらえない。
苦し紛れにしか聞えないのは根性が無いせいか。 当時、本気でそう考えていたならビックリだお。
282 :
世界@名無史さん :2007/11/11(日) 18:32:45 0
>>280 ヨーロッパ等ではどうだったのだろう?
同じように「過剰な装備や物資は士気低下につながる」と
考えていた指揮官などはいたのだろうか?
283 :
世界@名無史さん :2007/11/11(日) 20:22:46 0
単に貧乏なだけだろ。 過剰な装備や物資の米軍に、飢えた日本兵は惨敗したわけでw
284 :
世界@名無史さん :2007/11/11(日) 20:36:46 0
ヨーロッパは大砲が発達した17cにはもう築城なんて行われていなかった 野戦築城 土塀や塹壕を用いた要塞建築が主流。同時代の日本の城と比べる ならば大砲の存在をなによりも考慮しなければならない。西欧において火砲 の装備の過剰、銃器の過剰供給などは寧ろ好都合。火砲の多い軍が圧倒的 に優位だった。大阪の陣でも もはや 築城による篭城戦法は時代遅れと あきらかだった。がこれを最期に日本は260年の江戸幕府が開かれ、 ヨーロッパのような要塞建築の技術が進歩しなかった。 何世紀も前に作られた城にこもって火砲をあびながら戦った明治時代に ヨーロッパの野戦築城があれば、戦況も変わっただろう。五稜郭はナポレオ ンよりまえにフランスいた要塞建築家ウォーパンが考案した ウォーパン式築城 星型や二重壁を用いた要塞であるが、どちらにしろ時代遅れの 産物だった。ちなみにこのウォーパン式築城はフランスのいたるところに つくられマリーアントワネットの無駄遣いなど、遥かに及ばぬ多額の負債を フランスにもたらした。
285 :
世界@名無史さん :2007/11/11(日) 20:37:18 0
↑続き この要塞郡の建設がフランスを傾け また フラン ス国民を苦しめた。南にイスパニア 北にハプスブルク これらを敵にした フランスは大砲 銃器 あらゆる兵器による攻城を防ぐために考案された 要塞建築それがウォーパン建築である。しかも この建築家ウォーパンは、 攻城戦の指揮官として幾十の城を陥落させた。攻城のエキスパートであっ た。彼は大砲の弾道計算、さらには兆弾の計算までして、壁に着弾させた 大砲の弾をはねかえさせ目標に当てるという、当時神がかり的な指揮をし ていた。
>>284 >>285 ならば、なぜ欧州の都市は17世紀以降も
城郭都市の形に執着し続けたんだろうな?
兵器の発達と言う同様の理由で、
日本でも江戸初期に入ると実践の戦闘に備えた都市でも
囲んで守る・耐え切るという都市壁的発想は確実に消えていっている。
戦国城郭・城下町の最終世代にあたるのが、名古屋と仙台になるんだが
どちらも惣構の発想とはほぼ無縁。
名古屋には一応未完の構想だけはあったが、
仙台の場合は縦深構造で野戦・塹壕戦をやることが前提で
都市を囲む壁またはその等価物という発想そのものがない。
こんなことを言うと城壁厨と罵られかねないかw
いや、ウォーパンってだれだよ・・・
288 :
世界@名無史さん :2007/11/11(日) 22:54:11 0
>>286 青葉城が街外れの小高い(といっても結構険しい)丘にあるのは、そういうこと
なのか。広瀬川を堀にしてか。
>>287 それはさすがに揚足取りだろうw
ヴォーバンと読み替えるのが妥当だな。
だが、
>>284 >>285 は、少々おかしいのではないか?
17世紀に築城が行われなくなったとか、要塞建築が主流とか城と要塞の定義が独自の概念に拠っているようだ。
それに、ヴォーバンの築城は多額の費用が掛かるが、計画的に防衛ラインを構築しただけで不経済と断じるのも不当かと。
ヴォーバンの攻城術についても専門家として高い技能を持ってはいたが、ナポレオンに代表されるような神懸りタイプとも思えない。
ヴォーバンの功績は既存の技術の体系化と多少の発展ではないかと思う。
まあ、最もおかしいのは行間を開けて二倍のスペースを取っているところだが。
290 :
世界@名無史さん :2007/11/11(日) 23:26:16 0
ナポレオンと比べれば確かに天才とはいえないが ウォーパンは
その時代において天才といっても間違いない人材だった。
フランスの財政に影響を与えたのは事実 WIKIにもこうある
ヴォーバン以降のフランスでの要塞築城は必要性に基づいて進め
られたものであるが、国家財政にとっては重い負担となった。
負担は国民が背負わされ、やがてフランス革命につながっていく。
だが皮肉なことにフランス革命戦争では、これらの要塞は旧式化
しつつも、国境の防衛に改めて効果を発揮した。
参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC%E 3%83%90%E3%83%B3
291 :
世界@名無史さん :2007/11/11(日) 23:28:34 0
鎌倉は城塞都市と言えないでしょうか? 「守りやすそうで守りにくい」とは言われていますが…
鎌倉は天嶮の要害だが、それが城塞だと言えば語弊があるだろ。
>>290 ヴォーバンの築城に費用が掛かったのは事実だが、財政を圧迫したのは世界規模で軍事行動を起こしていたのが圧倒的に主だろうな。
そこで「山城の国」 ありゃ京都か
294 :
世界@名無史さん :2007/11/30(金) 06:18:10 0
荒らしとかじゃないけど 多賀城の模型を見ると、しょぼいというか こんなんで防御は大丈夫なのかと思う 塀は家の塀と同じような作りに見えますが
295 :
世界@名無史さん :2007/11/30(金) 18:27:52 0
なんであんなに防御力低いのかな。 水城や朝鮮式山城が作られた時代より後だから そうした技術が転用されてもいいと思うんだけど。 あ、別に煽りじゃないよw
>>293 奈良時代までは「山背」と表記したが、平安京遷都の時に山城に変わったんだから、城郭云々はあまり関係ないのでは?
297 :
世界@名無史さん :2007/12/10(月) 21:38:36 0
>>295 城とは言っても政庁で、何かこう、ほかの防御施設があったのでは?
時代は下るが、八幡太郎を大いに苦戦させた安倍氏の「柵」のようなものが。
相手が蝦夷ならあれくらいで十分だったんだろうか。 いやでも多賀城、蝦夷に落城させれれてるしな・・・・うーん
日本人ならではの先天的な軍事忌避(ここでは軍事費用をケチる事)が強かったりして 戦国時代でも城下町をシティウォールで囲うなんて労を惜しんで、 鎌倉や一の谷みたいな天然の要害で安く済ませたがるし
大坂城でも姫路城でも街全体を幅20mくらいの外堀で囲んでいたのはスルーなのか?? 姫路城なんかはまだ一部に外堀が残っているぞ。 萩なんか、山に囲まれた中州で、街全体が山−川−堤防兼土塁で囲まれているからパリ よりずっと防御力が高いぞ。 そのせいで、線路が迂回しているから寂れてしまったがなー。
ああ、壁(凸)の代わりの堀(凹)って方向性か しかしこれも戦国後期になってからだよな この考え方によって江戸や大阪といった交通の要衝(代わりに敵からも攻められやすい)での街の建設が進んだし
近代要塞のつもり=五稜郭
>>304 ヨーロッパでは17〜18世紀くらいでブームの過ぎた時代遅れの要塞建築だっけ?
306 :
世界@名無史さん :2007/12/22(土) 18:11:52 0
ヨーロッパの城を図説してるような面白いサイトあったら教えてください。 巨大な城よりできればこじんまりしたのがあればうれしいです。
307 :
世界@名無史さん :2007/12/22(土) 18:24:46 0
関係ないけど ストロング ホールドって城つくって守るゲーム あったけど、あれ今2万するんだよな。。。
2年前に中古で買ったが3000円だった。 めちゃくちゃ運が良かった。
古いけどランパートって大砲でがんがん砲撃する洋ゲームもあったな
タイトル忘れたけど 城を輪切りにして解説している本は面白かったな
水城って、湿度が上がったりしないのだろうか、または、逆に夏涼しい?
水城ってなんだ?水堀のことか? それとも平城? もしかして福岡のあれ?
313 :
世界@名無史さん :2008/01/12(土) 06:03:26 0
あそらくは“福岡のあれ”の事かと? 今じゃ木の生い茂った小さな丘になってて気持ちの善い所だよ。
314 :
世界@名無史さん :2008/01/13(日) 21:46:01 0
315 :
世界@名無史さん :2008/01/18(金) 05:07:29 0
そんなw見も蓋もない云い方しなくても…
316 :
世界@名無史さん :2008/01/18(金) 15:36:30 O
>>301 福岡城も川を堀に見立ててるから
俯瞰して見ると巨大な城。
>>301 大坂城総構の外堀は徳川によって埋め立てられてるけどね。
一番総構の遺構が残っているのは江戸城かもしれない。
318 :
世界@名無史さん :2008/01/19(土) 08:01:02 0
古代エジプトは、城壁でぐるっと囲った都市がなかったというけど、 なんか日本と共通点あるのかね。
320 :
世界@名無史さん :2008/01/19(土) 17:45:08 0
わかってる役所とわかってない役所の差が大きすぎるな
323 :
世界@名無史さん :2008/02/06(水) 20:57:48 0
>>321 つーか役人の立場から言うと、もっと地元住民とか郷土史家がガンガン言って
くれないと困るんだよね。役所とか土建屋のオサーンには、遺構の価値なんて
まるっきりわからないから。
でも地元住民もゴミ捨てたりしてんだよなー。
無知ゆえに価値がわからないんだよな。 岡崎なんか貴重な石垣壊しておいて、捏造整備しようとしている。
325 :
世界@名無史さん :2008/02/08(金) 21:27:51 0
>>324 いや、例え知識があってもかえって
「そんな古いもん、やっぱ壊して然るべき」
となりそうなんだよ…これはもう、歴史への敬意とかセンスとかの問題なんだな。
遺構のある田舎ほど、人心がまた荒れまくってるのがなんともはや。
自然の海岸より人工海岸の方がきれいと答えてしまう 日本人がいるぐらいだからな
湘南なんざ砂浜が暗〜い灰色だもんな。汚い。
海も汚いよ 川なんか泡立ってるし、あそこで泳ぐのは田舎者 侵食されて砂浜減ってるけどな
人混みの中で汚い海水浴するきれい好きな民族
峻険な山の峰にも長城を築いているけど、あれは不要なのでは
331 :
世界@名無史さん :2008/03/01(土) 17:06:52 0
>>331 宮殿部分の大きさ比較について、二の丸も三の丸も西の丸etcもあるわけだから
江戸城の本丸だけを比較対象にするのはどうかと思うが。
城郭都市としての比較は、そもそも日本国内でも江戸城総構は周囲16kmだから
周囲22.5km京都御土居のほうが大きいしな。
その京都御土居よりも北京城の外城壁のほうが大きいことは既に
>>191 で指摘してるとおり。
日本の城館なんて火矢の斉射で全焼しそうなんすけど
湖上の島で、複数の堤道で陸地と繋がってる都市、テノチティトラン かなり堅そうだけど、案外あっさり落ちたんだよな
335 :
うう :2008/03/02(日) 13:45:32 0
御土居は防御目的ではないからな。上で充分論証されているけど。
戦う前に、木造の建築物は、水をかけておくの?
木造の建築物って意外と火が付きにくかったりする場合もある。 大径の木材などは燃やすのは困難。外壁が漆喰大壁ならなおさら。 そのかわり建物の内側や屋根など、比較的小さな木材が 使用されている個所に一旦火が付くと大変。 外側が漆喰壁だとモロ「焼却炉」状態だし。
339 :
世界@名無史さん :2008/03/06(木) 21:03:34 0
>>326 福岡市は比較的最近(80年代)まで市街地近くに砂浜が残っていたが、
都市化につれ悪臭がひどくなり、海水浴場には適さなくなってきた。
80年代、その一帯を埋め立てて、埋立地の海岸に人工ビーチを作った。
それが福岡ドームの周辺の海岸だ。
>>334 アステカは近隣部族を殺しまくって領土拡大してたから
コルテスが侵入したときとかも「復讐したいから手伝わせてくれ」って奴が沢山いたし、
原住民の持ってた「湖上都市を上手く攻めるコツ」がスペイン人に伝わってたんじゃね?
>>340 アステカは内部崩壊したようなもんだよ
親スペイン人の国王が生贄を禁止したら殺されて
スペイン人が持ち込んだ天然痘が流行って次の国王も死んだから
内政はガタガタで勇猛な兵士も病死したりしてた最悪な状態。
そこにアステカのライバルであるトラスカラと組んだスペイン人が来襲。勝てるはずがない。
342 :
世界@名無史さん :2008/03/08(土) 08:47:40 0
>>332 江戸は城郭都市なのだろうか?都市全体一蓮托生で攻防する、という発想がそもそも無いような。
城の陥落は無数にあるが、「都市が」陥落て日本の戦にはないだろう。
ローマ、十字軍、モンゴルのような残虐酷烈な敵に常時さらされていたら、上下も武士も平民もなく抵抗する習慣ができたのだろうけど。
>>342 戦国期初の総構えの城をもつ小田原はある意味都市全体一蓮托生で豊臣軍に対抗してなかったか?
もっとも日本の場合支配者さえ責任をとりさえすれば、住民には基本的に危害をくわえないのが習わしだったが。
秀吉の文禄慶長の朝鮮出兵でも、結局は大陸での異民族同士の戦争と同じ様相にはなってしまったが、
始めはそのつもりだったらしい。
小田原での経験ももちろんの事だが、引き続いて朝鮮半島でも城郭都市の効果と大砲の威力を目の当たりにしたことが、
日本でもさらに総構えの城を増やす原因にもなったのではないか?と俺は妄想しているのだが・・・。
まして、ヨーロッパ諸国による日本侵略の噂も流れていた時勢だし、そういった「異民族による日本侵略」が
家光の時代まで続いていた江戸城城造りの際に全く考慮されていなかったとは思えない。
344 :
343 :2008/03/08(土) 13:50:34 0
ついでに言えば、それまで鉄砲は使われていても大砲はほとんど使われなかった (大砲についてはあまり広く知られていなかった?)日本の戦で、 初めて大砲が戦術として使われだしたのが関ヶ原の戦い。 その後の大坂の役の準備段階では家康は大砲を多量に作らせたばかりか、 イギリスやオランダからも輸入している。 豊臣を滅ぼした後も、家康はヨーロッパからの諸技術の導入に積極的だったらしいし、 それは大砲についても同様だった。 そういった情報が城造りにも活かされていたと思う。
江戸城って、城郭都市としてみると、北側と海側の守りが手薄じゃない?
>>344 いや、家康が技術革新に熱心だったとは思えんが
輸入したカルバリン砲やセーカー砲を国産化しようとしてないし
もっとも、そうする前に寿命が尽きてしまったのかもしれないが
輸入量も少なすぎだな
日本の城の城壁って銃撃戦は想定した構造にはなってるけど、 砲撃戦を想定した構造にはなってないところが多くない? 銃撃の為の銃眼「狭間」は準備されているけれど、 大砲を並べて撃てるようにはなってない。 まあ土塀を撤去すれば、石垣や土塁の上に並べられるだろうけれど。
大砲が本格導入される前に、江戸時代になってそのまま。 幕府は外国から侵略される可能性とかは考えなかったのか?
江戸初期、外国の力はどの程度と認識されていたんだろうか
>>351 かつて元の侵略を阻止した民族と言う自負心と、
日本ともゆかりの深い鄭芝竜、鄭成功親子の対オランダ戦
勝利の噂も幕府の耳に入っていただろうから、
ナメてかかっていた可能性はある。
形としては江戸初期の時期に西欧諸国に近づいた軍事技術が
幕末の頃にはまた大きく開いてしまった、というところか。
セーカーとかはともかく、カルバリンって フランス語のクルヴリーヌと同義の「大砲」っしょ? 何を基準に区別してるんだろ
ヨーロッパとは地形が違うから、大砲そのものの重要性が薄いんだろ 平原と疎林が基本で、鉄が豊富なため大量の大砲が作れる欧州と 山地と密林が基本で、鉄に乏しい日本では勝手が違う 平原に威風堂々と鎮座まします人間要塞テルシオを突き崩したり 分厚い横隊を組んで直線的に背面行進するマウリッツを吹き飛ばす事は出来ても 起伏の激しい土地に攻め寄せる足軽や騎馬武者を相手にするには大砲は不便だし。
まあそうだな。 まあそれはともかく大坂冬の陣で家康が豊臣方を交渉の場に引っ張りだせたのも、 戊辰戦争で官軍が勝利できたのも、ある意味その当時の日本国内で最新の大砲が 一躍を担たからだけどな。
>>353 それをいったらカノン(キャノン、cannon)も「大砲」って意味で使われる事多くない?
オールコックが見た「城塞都市」江戸 大君(タイクーン)の城をとり巻くひろい濠と濠のあいだいったいにある大名(ダイミョー)の 邸宅付近にゆけば、なおさらのことである。ここは幅が五○フィート以上もあるような土手道ないし 斜堤のあるひろびろとした場所であって、一方の側には、大名(ダイミョー)や政府の高官連の 邸宅の外側の建て物や大きくてどっしりした門が建ち並んでおり、その反対側には、いくつかの 支流が流れこんでいる大きなふかい濠がある。 ……濠の堤は、斜堤の役をする土手道と同じように、道路から五○フィートあまり下の水面まで、 傾斜をなしている。その一部はしっかりした城壁で、他の部分は芝生におおわれている。 ……稜堡・塁壁・濠というこの三重の線は、一見強固でほとんど難攻不落のようだが、これらは 砲撃にたいする防御にかんして、築城家が第一に考えるべきさまざまな原則のあるものを知らぬまま に建造されたことは、明らかだ。しかし、奇妙なことには、防備のためにこのような多額の費用を かけて築造されたことが明白であるにもかかわらず、官庁街には一門の砲も見うけられない。
358 :
世界@名無史さん :2008/03/15(土) 09:37:33 0
>>357 将軍慶喜もこういう「先進的な」意見に影響されて腰抜けになったのかも。
身内の旗本より外国人を信用しそうだしな。
大阪城と江戸城が無意味に終わったことは、幕府のために残念なことだった。
いや、名古屋城でも甲府城でも、大井川、箱根足柄でも、機会はいくらでもあったのに…
>>358 まあ、オールコックさんが
>>357 で言いたい事を要約すれば、
なんで江戸城の外郭の土塁や堀が大砲防御を考慮したヨーロッパのような
幾何学式のレイアウトを採ってないのか?
まあそれはおいといて、なんでこれだけ立派な防御線がありながら防御の為の大砲が見当たらないの?
って事で、まあ、そんな事言われても江戸城が建造されたのはヴォーバン式の城塞が発明されるより以前であり、
また国内の敵対勢力が反乱を仕掛けられないような政策をとってきた事で平和だったし、
確かに19世紀に入って周辺がキナ臭くなってきた事はごく一部の幕府要人は気がついていたけれど、
トップの人間たちが無能で「金がない」「必要ない」「まだ大丈夫」という危機感の全くない状態では
防御線の再構築はおろか大砲も揃えられない始末・・・。
ある意味江戸の新たな防御線として築いた台場でさえ、それが原因で大幅な着工遅れと規模縮小により、
欧米列強に「台場?全然怖くないw」と笑われる始末・・・。
江戸城のでっかさって「御威光」の政治学に基づくものでもあるわけだから。 19世紀の英人がひたすらプラグマティックな軍事技術的観点から眺めているみたいなのは興味深い。
361 :
世界@名無史さん :2008/03/15(土) 16:29:15 0
ともすれば「江戸占領」も念頭において 幕府と付き合っていた当時の英国の外交官が そういった目で江戸の町と江戸城の防備体制を 観察していても全然おかしくは無いだろう。
>>357 オールコックの話は話半分程度に聞いた方がいいんじゃないかな
日本の城は火砲攻撃に弱そうだと言われることが多いけど
実際の戦闘では火砲に対して極めて強靭な耐久力を見せた訳だしね
実際、文禄・慶長の役で明軍が平壌城(伝統的な大陸様式)を
攻略した時は大量の火砲を使って1日で外城を破ったけど
倭城の攻略にとりかかると自慢の火砲がほとんど威力を発揮できなかった
明軍の火砲が威力を発揮できなかった理由に対して明軍自身は、 ここで言われているように石垣や土塁に対しては いくら砲弾を打ち込んでも効果がなく、 塀とかは面積が小さすぎて狙いがつけられなくて 狙いがつけられる距離まで接近したら日本軍の火器射程圏に入ってしまう 門とかは火砲の死角に位置していて遠距離から火砲で破壊することができない だいたい、上のような感じで報告をしている
オールコックの言いたいのは日本の城の石垣や土塁が砲撃に弱いと言うことじゃ無いと思うけど? (ヨーロッパ人が)砲台として効率的なレイアウト(縄張り)になっていないと言う事じゃないの? 日本の城の場合、内郭こそ銃撃戦を想定した複雑な構えになっているものの、 総構えの城の場合外郭は城門を除いて実に単純な造り。 しかも砲撃隊に包囲された場合を想定すると辛いものがある。 ましてやその外郭に砲台がほとんど無かったとしたら・・・。 下手をすればやられっぱなしで反撃出来ない・・・。 土塁や石垣は大丈夫でも、その中は・・・。 そこがヨーロッパ人から見れば、「この都市を占領するのは容易い」と思われてしまう所以じゃないか? だいたいヨーロッパでも砲撃戦主体となった頃のシティーウォールのレイアウトは ヴォーバン式城塞をでっかくしたような格好になってるだけで、 主体となる「城壁」は低く厚くなり、結果日本の平城の土塁や石垣とたいして変わらないし。
そもそもオールコックって外科医あがりの外交官だしな。 どれほどテクニカルな議論が出来たかって点については、 若干疑問の余地があるな。 >築城家が第一に考えるべきさまざまな原則のあるものを知らぬまま ここで言ってる「原則」って言うのも、 当時の一般常識の範囲を超えるものであったかどうか。
>>364 上でオールコックは砲台の不備とは切り離して江戸城の砲撃防御に
問題があると指摘してるんだけどね
それと上であげた倭城の例だが当時の明軍の大砲が効かなかったのは
総構えにぶつかった段階からだよ
倭城の戦闘事例は総構えの存在が多量の火砲を保有した軍隊の
攻撃に対して極めて効果的だったことを証明する事例でもあるんだ
オールコックの話は後日、日本陸軍を見学したロシアの関係者が日本軍など
ロシア陸軍とは比較にもならない弱兵にすぎないから陸戦になっても楽勝だと
たかをくくったのと同類の話だろ
>>366 >総構えにぶつかった段階からだよ
日本が朝鮮半島に築いた倭城って、総構えだったっけか?
>>368 倭城は朝鮮半島に上陸した日本軍の出兵拠点としての役割があったから
兵力の受容や補給品の貯蔵のために総構え造りになってるのが多い
もちろん、そうでないのも多いけどね
369 :
世界@名無史さん :2008/03/17(月) 14:05:11 0
東京と大阪、ヨーロッパや中国の城塞都市との比較
「生成する都市 東京凸凹紀行」
ttp://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/sato/index.html オールコックはこうも言っている。
「将軍の都は心を奪われるほど美しい。冬でさえも。
都は広大な谷の間に、危険を避けて身をかがめるように横たわっている。
波を打つような丘陵を背景にした緑の森に囲まれ、
丘陵は湾へとゆるやかに傾斜している。
その湾の奥深くに、太平洋が磯に砕け散る激しい波を
注ぎ込むことはできない。
というのは、湾の入り口のおよそ二十マイル前方に、
火山岩が自然の防波堤を積み上げ、入り口の両側は
緑の丘になっているからである。
また湾全体は自然の浅瀬で、船底が二十フィートの水深を
必要とする戦艦では、砲撃に不可欠な二十海里の近さまで
都に接近するのは、困難だと思われる。
世界の港都の中で江戸のように海側から攻撃するのが難しい都市は少ない。」
「ヨーロッパには、江戸のように沢山の素晴らしい特質を備えている都はない。
また、町のたたずまいと周囲の風景のこのような美しさを誇れる都もない。
そして江戸ほど征服し占領するのが難しい都も、他には見あたらない。
ペルシャ王クセルクセスの軍隊のような強力な大軍を編成すれば別だが。
将軍の居城のある町の中心部の官庁街は、重要な区域であるが、
ここはあまりにも広大な地域であるから、仮に占領はできでも、
その後、安全に確保し続けることはできないだろう。
ヨーロッパの指揮官は、誰も江戸のような町を襲撃して占領するだけの
自信がないだろう。敵対心を持った住民のもとでは、
町は軍事的に持ちこたえられないだろう。
たとえ一つか二つ橋頭堕を築くことができて、
そこから町を容易に破壊することができたとしでも」
>>355-356 幕末に幕府に不法入国で拘束されたロシアの海軍軍人ゴロヴニンも
松前城を見て「われわれの見ることを得た日本の要塞や砲台は、全くでたらめな構造で、
(この構築者たちは経験とか築城学の法則はおろか、常識さえ守つてないぞ)
と考えるほど滑稽にできていた。」とか言ってるな。
まあ松前城は戊辰戦争のおり旧幕府軍の攻撃でたった数時間で落ちる程の脆い縄張りだったが。
371 :
世界@名無史さん :2008/03/17(月) 17:26:16 0
江戸や大阪、また会津若松城は、やっぱり天下普請の特別な城な訳で。 そうでもない城だと結構簡単に落ちている。 長岡城なんて、官軍長岡軍両者の落としあいになっている。 天下普請以外の群小の城では、防禦機能は期待できなかったということだろうか?
>>371 熊本城も西南戦争での砲撃戦で本領を発揮したわけだし、
それこそ戦国の世や文禄・慶長の役の記憶生々しい江戸幕府開府
前後の時期に
>>370 のいう「経験」に基づいて建てられた城と
平安な世になってから机上の空論によって建てられた城との
違いではなかろうか?
373 :
世界@名無史さん :2008/03/17(月) 19:23:17 0
>>371 姫路城は砲弾三発で落城しましたが何か?
>>373 その時は守城側にまともに守る気がなかったじゃん
375 :
世界@名無史さん :2008/03/17(月) 20:21:46 0
>>374 形だけ籠城で即降服だし…
実戦で実力が証明された熊本城とは偉い違いだ
もっとも熊本城はどういうわけかニダーさん方に好かれているのがよくわからん
376 :
世界@名無史さん :2008/03/17(月) 21:14:28 0
>>373 当時の領主は二十万石にもならない酒井氏だし、姫路城を満たす兵はとてもない。
大体城郭の保守点検だけでも大負担で、代々の領主はその捻出に困っていたほど。
天下普請の城だけに、小田原城のようにぶっ壊す訳にもいかず…
377 :
世界@名無史さん :2008/03/17(月) 22:26:36 0
>>376 天下普請じゃなく西国探題を自認してた池田氏の居城だった。
その後増築もされてるけど…
大阪城につぐ西国第二位の要塞だったのは間違いないけどな。
>>370 蝦夷地の城はアイヌを仮想敵として作られていたんじゃまいか。
城塞都市にしても総構えの城にしても、 城塞の規模に応じた兵力がなければ守りきれないんじゃないか? 兵力が少なければどうしても守りが手薄になる箇所が生じるだろうから、 少なすぎる兵力ではでかい城はお荷物になる。
会津なんてその典型だな 兵力が足りず、総構を放棄して守るしかなかった
幕末の戦争って戦国期に比べると大幅に兵数が少ないよね。 何で? 大量動員のノウハウが忘れられてた?
383 :
世界@名無史さん :2008/03/18(火) 20:22:17 0
>>382 戦いは武士だけの義務で特権、という思想が徹底していたからかと。
>>381 甲賀口(郭門)など一応守るには守ってたんだけどな。
餓鬼と老人どもが槍と刀と火縄銃や旧式の先込銃や畳+人間胸壁で。
蒸し返してすまん。 オールコックが言う「砲撃にたいする防御にかんして、 築城家が第一に考えるべきさまざまな原則」 ゴロヴニンが言う「築城学の法則」「常識」 これ即ち、大砲をやたらと設置しなくても 死角が出来にくい「大砲設置に効果的な」構造の事ではないか? もっとも築城にあたって、敵から何を守るかの考え方が 日本とヨーロッパとでは違っていたのは当時のヨーロッパ人には 全く解らなかっただろうな。 江戸城の場合、ヨーロッパでは守る対象である市街地自体を 濠や石垣、土塁と同じ「防御帯」と認識していた、 なんて当時のヨーロッパ人に説明したら、 恐らくジョークかアホぐらいに思われたかもしれない。
388 :
世界@名無史さん :2008/04/26(土) 19:29:36 0
英語に詳しい人、教えてくらはい Palaceは 宮殿、 Castleは 城(天守閣付き?) Fortは 砦 KeepとかWatch って日本語で表現すればどうゆうのが相応しいですかね?
>>388 keep : the innermost and strongest structure or central tower of a medieval castle
serving as a last defence; a stronghold, a donjon.
watchだけで城の構造物を指す用法があるのか
この辞書では分からなかった
390 :
世界@名無史さん :2008/04/26(土) 21:02:01 0
>>389 サンクス!! 速いですなw
KeepというのはCastleの中心的な部分という感じですかね?
Watchは見張り塔とかなのかもしれないなぁ・・・
>>390 Keepは天守閣でいいんじゃないか?Castleはアバウトに城全般でいいかも
392 :
世界@名無史さん :2008/04/26(土) 23:06:51 0
>>391 騎士クラスや下級領主の居城って、英語では何に相当しますかね?
Fortがそれに当たるのかな。
Castleって、上級貴族や王族の住まいに限定されるんじゃないかと思うんですが・・・
絵で引く英和大図鑑「ワーズ・ワード」(同朋社)によると keepは「主塔」 だいぶ古いOxford-Duden Pictorial Japanese & English Dictionary によるとknight's catsle(騎士の城)という項目がある keepは「望楼・天守」 イラストによると一番高いがかなりしょぼい塔(主観) 城壁にwatchtowerというのがあって、これも「望楼」となっている
394 :
世界@名無史さん :2008/04/26(土) 23:51:57 0
>>392 小領主でである上級騎士の城館で城ぽいのはcastleで良いと思う。
もっと小規模の館はイギリスならmanor houseかな?フランスだとそういうのもChâteauに含まれるみたいだが。
Fortは普段は居住しない防衛専用の施設だと思う。
マナーハウスも城っぽく建て替えることがあったり まあそれでもマナーハウスなんだろうが
396 :
388 :2008/04/27(日) 00:13:34 0
watchtowerは見張り塔と脳内変換していたが望楼のほうが中世っぽいかもね。
見張りの役割を果たしていた砦や塔(Watching Fort, Watchtower)が単に"Watch"と 呼ばれていたのかもしれないね。 例えば、我々日本人だって、自動車のことを「車」「クルマ」と言うことが多いし。
schlossと城は似ている・・・ これもノストラティック超語族?
そもそも戦国時代からこっち日本は基本的に治安良かったから 町を囲む城壁とか不経済なものはあまりイランかったって事情もあると思う 戦争も軍同士の戦闘で農民が見物に行ったなんて話もあるし
>>397 watchtower=櫓、見附
っていう認識はダメ?
このスレの皆さんのお力を拝借したいです。 大体13〜4世紀ごろのヨーロッパの攻城戦について調べているのですが 関連する資料や書籍の多い攻城戦というと、主にどういったものがありますでしょうか
第4回十字軍のコンスタンティノープル征服・・・は関連本は割と多いけど あまり普通の攻城戦とはいえないかも。
>>403 レスありがとうございます。
参考にさせていただきます。
405 :
世界@名無史さん :2008/06/06(金) 19:58:40 0
>>402 ちょっと東だけど、ロシアに関しては沢山ありますよ。
蒙古軍がガンガン襲ってますから。
13世紀はモンゴル軍の金、南宋攻略と イスラム軍vsテンプル騎士団のアッコン攻防戦。 どちらもイスラム製巨大投石器が活躍した。 14世紀は大砲の登場で攻城という概念が終わりつつあったかもね 実際の戦闘が城で行われても、それは兵舎と政治中枢を攻撃しているのであって 城壁の防御能力が極めて薄れた。 後にマキャベリが大砲って凄杉なんですけどwwww城壁厨涙目wwww と「戦術論」で書いてるし。
スッ
コンスタンティノープル攻略の時にオスマン帝国側が使った「ウルバンの巨砲」って実際効果あったんかね? 威力はすごいが、装填に3時間かかったり精度が悪かったりしたけど。
城壁そのものへの決め手とはならなかったようだが 守備側を疲労させる効果はあったろうね
>>402 遅レスだけど、その時代のヨーロッパの攻城戦について知りたいのならアルビジョア十字軍なんてどう?
ベジエ攻囲、カルカッソンヌ攻囲、ミネルヴ攻囲、テルム攻囲、トゥールーズ攻囲、モンセギュール攻囲など
南仏の攻城戦の宝庫。
十字軍や異端カタリ派についての書籍を探せば、参考になりそうなのもかなり見つかる。
オスプレイ社からCather Castles(カタリ派の城)ってのが出てた
カタリ カタリ 優しいあの言葉思い 胸痛まぬ時はなしカタリ 楽しきあの日 忘れじカタリ 忘れじカタリ カタリ 君はわれを 早 忘れたまいしや 嘆けども君は知らじ 悲しみも知り給うまじ ああ つれなくも いとおしの瞳よ 我を思い給わぬ ああ つれなくも いとおしの瞳よ 我を思い給わぬ
413 :
世界@名無史さん :2008/07/06(日) 23:23:22 0
414 :
世界@名無史さん :2008/08/07(木) 08:38:58 0
★肆【祈願スレ】★【極東神宮】★【神道系】肆★
ν速報発生の極東板総鎮守
国を憂うそんな時代だからこそ。
人集まるところに神社あり、祭りあり。
日本の心がここにある。
「^ヽ,ry'^i ))
(( ゝ"´ ⌒`ヽ. /[]
くi Lノノハノ)」 / []] 〜 少 女 祈 祷 中 〜
λ.[i ゚ ヮ゚ノi! / [] []
(( ⊂レ',ヘ.i`ム'」つ/ [] [][]
,メ-"イ-i/つ ))
゙'ーl_7''"^
★参拝方法、二礼ニ拍手一礼と御記入後、祈願文を御記入ください。
http://tmp7.2ch.net/test/read.cgi/asia/1217327056/ ※極東神宮へもお参りください。
415 :
世界@名無史さん :2008/09/01(月) 20:39:19 0
>>354 当時の大砲の材料でもっとも望ましいものは青銅。
鉄で作るのはどっちかというと邪道。
>>388 CitadelとかStrongholdとかの言い方もあるよね
418 :
世界@名無史さん :2008/10/03(金) 23:18:42 0
ハザマJVが104億円で落札 名古屋城本丸御殿復元
名古屋市が2008年度から始める名古屋城本丸御殿の復元工事の一般競争入札が3日行われ、
ハザマと松井建設(ともに東京)、八神建築(名古屋市)の3社でつくる共同事業体(JV)が104億
5000万円で落札した。
公表された予定価格は117億5000万円余で、落札率は88・8%。入札には竹中工務店(大阪)
などでつくるJVと合わせ2者が参加した。外部の専門家も含む市の技術評価は同点だったが、入札額
に3億5000万円の差があった。
入札は尾張藩の御用林だった岐阜県中津川市周辺の「木曽ヒノキ」の使用などが条件とされ、ハザマ
などのJVは「匠(たくみ)の技」を誇る地元、東海3県の職人の活用と後継者育成、施工の様子を市民が
映像、体験できるセンターの設置などを提案した。
工期は完了予定の18年3月までを3期に分け、13年3月までの第1期で玄関・表書院などを、
16年3月までの第2期で対面所などを、第3期で上洛殿などを復元する。市議会11月定例会での議決を経て、
12月に本契約を結ぶ。
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2008100302000241.html
歴史ロマンもジャンボ級/小田原城、最大規模の堀見つかる
県立小田原高校(小田原市城山三丁目)旧校舎跡地で、戦国時代に北条氏が造成したとみられる
小田原城最大級の堀「西曲輪西堀(にしぐるわにしぼり)」の一部が発見され、十一日に一般公開された。
かながわ考古学財団(横浜市南区)の発掘調査で見つかったもの。同財団によると、掘は、
幅約二十三メートル、深さ約七メートル。小田原城を描いた江戸時代初期の絵図に記されており、
全長は約百六十メートルあったとみられる。これまで確認できている堀の中で最大規模という。
堀底には、水がないときに敵の侵入を防ぐために、土で盛った仕切り「障子堀(しょうじぼり)」
(幅約四メートル)が施されていた。この堀は、北条氏の城郭の特徴で、はっきりと確認できたのは
今回が初めてという。
このほか、「堀」と「本曲輪北堀」の一部も新たに見つり、同財団がこれまでに確認した小田原城の
堀は計六つとなった。
北条氏五代が居城とした小田原城は、天守閣を中心に直径約二キロの範囲に堀が何重にも
張り巡らされ、豊臣秀吉も城攻めをあきらめたほどの難攻不落として知られた。同財団の
研究員・吉田智哉さんは「文献資料でしか分からなかった堀であり、城郭構造の解明に向けて
一歩前進した」と話している。
同財団は一九八〇年から、同校の建設工事に伴い、周辺を「小田原城跡八幡山遺構群」として
計三回、発掘調査を実施してきた。今回の調査は、グラウンド整備工事のため、ことし五月に
始まったという。
堀は、今月下旬にも工事のため埋め戻される予定で、同財団はそれまでに見学会を検討している。
問い合わせは、同財団電話045(252)8689。
http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryxiiioct0810308/ http://www.kanaloco.jp/images/uploads/IMAG2008101148812_imh_01.jpg 発見された西曲輪西掘の一部。底の土盛りが障子堀=小田原市城山、県立小田原高校旧校舎跡地
420 :
世界@名無史さん :2008/10/21(火) 21:14:01 0
> 堀底には、水がないときに敵の侵入を防ぐために、土で盛った仕切り「障子堀(しょうじぼり)」 > (幅約四メートル)が施されていた。 そういえば、西洋や他の地域の城には、こう言う障子彫りのような巧緻な堀はあったんだろうか?
421 :
世界@名無史さん :2008/10/29(水) 03:30:31 0
422 :
世界@名無史さん :2008/12/23(火) 16:36:24 0
城郭に限らず一般的に世界の標準よりは日本のものの方が優れている傾向があるね。
424 :
世界@名無史さん :2008/12/24(水) 20:59:37 0
海外のは大抵民衆ごと守らないと殺されるからな。 日本のは戦闘員だけ守ればいいから緻密さが違う。
426 :
世界@名無史さん :2008/12/24(水) 21:20:12 O
>>425 戦国時代の城はそういう性格強いようだね
敵が攻めてきた時の避難所として、義務兼権利として、半ば自発的に築城に参加したのだとか まあ、砦クラスだけど
西洋では風車小屋が同様の機能を果たしたとか
おいおい、民衆を護らないと逃げられるか裏切られるぞ
個人的には戦国時代の攻城戦では「町人までは守りきれないから逃げるにまかせる」 って印象があるんだけど、実際はどうだったんだろう?
>>428 城に収容してる。つーか、非戦闘員が逃げ込む専門の城とかもあった。
戦国時代の領主は領民を守れない場合は、領民から「見限り」をされて、租税を敵対する領主に
治められてしまうから、領民の生命財産の保護には、そりゃあ真剣に対応している。
>>429 日本の城は基本的に市街地を囲っていなくて
市街地を丸ごと飲み込める「総構え」はやっと戦国後期に登場した
と認識してるんですが、よろしいでしょうか?
>>432 その前に日本の都市を外的から守るのは山、川、海など天然の要害。
わざわざ街全体を壁や濠で囲わなくても天然の壁や濠で囲われているところはいっぱいあった。
山で囲まれている京都や鎌倉はその分かりやすい例。
異民族から日本を守るための海というでっかい濠もあったし。
434 :
世界@名無史さん :2009/01/29(木) 18:46:00 O
海については同意するが、鎌倉京都が天然の要害ってのは苦しいと思う 特に京都は攻めやすく守りにくい地形だと思うが 自然地形を活かした城というか砦はいっぱいあるが、掘やら柵、土塀で固めたり、土手の草木を取り払って見通しを確保、かつ登りにくくしたり、何らかの手を加えなければそのままでは防御施設としてはかなり不安だと思う
>>434 京都は防衛を考えて作られた都市じゃないからな。
鎌倉は制海権さえ確保しておけばそうそう攻め込まれることは無い。
まあ434の言うとおりだろうな。
437 :
世界@名無史さん :2009/01/29(木) 22:18:08 0
戦国時代って、相手の城を落としたら3日3晩は略奪が許されていたんじゃないの? それが足軽の報酬になるんだよね。
ちゃーっす。ニュー速からきました。 ちょっとROMらせてもらうス。
441 :
世界@名無史さん :2009/03/29(日) 21:22:12 0
初めて世界史板に来たのだが 現代の城(国会議事堂・皇居・首相官邸・ホワイトハウス)って守りが弱すぎじゃない? 中世の大砲レベルでも、すぐに占領できる 現代人って馬鹿なの?
>>441 そういえばロシアの議事堂に立て籠もった共産党幹部が戦車で攻撃されて泣きが入り降参するって事件があったな。。。
443 :
世界@名無史さん :2009/03/31(火) 16:25:56 O
マルタの城壁は凄い コンスタンチノープルの城壁が霞む程 中身の腐敗がなきゃナポレオンでも攻略は無理 あんな小さな島のくせにやりすぎ!て感じ
444 :
世界@名無史さん :2009/07/01(水) 18:27:26 0
445 :
世界@名無史さん :2009/08/10(月) 23:32:43 0
>>443 当時の城砦建築の粋を凝らしてるからな。
ロードス島のときに大砲でがんがんにやられたから、特に大砲対策はかたい。
実際にオスマンの大軍を防ぎきってもいる。
コンスタンティノープルは大砲ができる前だから比べるのは酷だけどね
447 :
世界@名無史さん :2009/12/09(水) 16:34:04 0
h
西洋には中世〜近代ウイーンのように街を囲む城塞都市もあれば、 ハイデルブルク城のような純粋な要塞もあるね。 昔は日本もそうだけど柵や石壁で囲った城塞都市だったと思うんだけど だんだん要塞化していったんだろうな。兵隊と一般人の区別が明確化した とか何かの背後関係があるんだろうけどさ。良く知らんが。
449 :
世界@名無史さん :2009/12/09(水) 21:51:21 O
ローマ時代から都市自体を囲む壁はあったが。 ヨーロッパは民族間の戦争があったから、言葉も文化も違う者同士の戦い。 皆殺しにされかねん。 だから都市に壁が必要
ヨーロッパもキリスト教が普及した中世以降の戦争は結構ぬるいけどな。 都市丸ごと皆殺しにされた例なんて聞いたこと無いけど。 中国のガチで皆殺しにするから恐ろしい。それも漢民族同士で。
451 :
世界@名無史さん :2009/12/10(木) 04:27:54 O
漢民族って、元々他部族を強引に一つにまとめだだけかと。 現在でさえ言葉からして違うから同じ部族とみなさなくていいかも
中国は大げさに記録するからなぁ 実数は1/10くらいだったりすると思うよ
453 :
世界@名無史さん :2009/12/10(木) 13:16:30 O
日本で戦国時代に城下町も内包する総構形式の城や、城の塔と言える天守が流行ったのは、 鉄砲やキリスト教と共にヨーロッパの城塞都市などの情報が入ってきた影響なのかな? それとも日本独自に考案したものがたまたまヨーロッパの城と共通項となったの?
類似点が殆ど無いからヨーロッパの影響は感じないけどなぁ 国内戦争の必要性から発達した感じがする。
>>454 でも幕末に大坂城の外観を見た某フランス軍人は
「ヨーロッパの中世の城そっくり」って言ってるよ。
類似点がほとんどないって見方は建築学的にみてとかそういう意味なんだろうかね
当時ヨーロッパでは稜保式 なのに日本の城は稜保式じゃない。
>>457 大砲が少なかったのと江戸幕府が内戦を行わせない政策をとったので
稜堡式まで発展する必要性が無かっただけ。
横矢掛かりや枡形式城門などはあくまでも銃撃戦までの想定だけど
クロスファイヤーを可能にしているところはある意味稜堡式と共通点がある、
また薄く高い城壁よりは土塁や石垣を多用している点などたまたま似てしまった点もある、
という指摘は↑に散々既出だから最初からこのスレをよぉ〜く読みやがれ。
本気で日本の城が西洋由来だと思ってんの?
>>459 > 本気で日本の城が西洋由来だと思ってんの?
こいつアホ?
誰が「西洋由来」って言ってるの?
西洋の影響を受ける事と西洋由来とは意味が全然違うだろw
で、本気で横矢掛かりや枡形式城門が西洋の影響だと思ってんの?
462 :
458 :2009/12/13(日) 17:00:28 O
>>459-461 君たちワタシノ日本ワカリマスカ?
類似点があると言ってるだけで「西洋由来」だなんて一言も言ってないし
西洋の影響を「直接」受けたからなんて言ったつもりは無いけどね。
但し間接的な影響ならある。
日本に鉄砲や少ないながらも大砲が戦国時代に使われだした影響は確実に城造りに現れている。
それと信長や秀吉あたりは伴天連から聞くヨーロッパの建造物の噂に対抗するかのように
自分たちの国力を見せつける形で城やその他建造物を建ててもいる。
463 :
458 :2009/12/13(日) 17:05:03 O
それと共通点があると言ったのは「共通点は全くない」という極端な意見に対する反論。 同じ人間である以上考え方に相似点が現れるのは当たり前。 そういう意味で横矢掛かりや枡形は他国の城と共通点があると言ったまで。
そもそもなぜ
>>457 は総構えや天守が流行ったのかについて
他国の影響があったかなかったか?という
>>453 の疑問に対し
趣旨とは違う稜保式を持ち出したの?
稜堡式の考え方は上にかかれている横矢掛かりや枡形の他にも
馬出しや出丸などの考え方と類似点があるけれど、
それらが「稜保式」かと問われると「違う」としか答えようはないわな。
まあ車を見てそれが「ベンツ製のセダン」か「日産製のミニバン」か程度の違いだけど。
465 :
世界@名無史さん :2009/12/20(日) 23:05:21 0
天主は支那の鐘楼・鼓楼の影響を受けてのものなんじゃないの?
466 :
世界@名無史さん :2009/12/20(日) 23:17:28 0
sssssss
>>465 そうとも言えますし違うとも言えます。
ていうか日本の木造建築物全般が元は中国の影響を受けていますが、
天守も確かにその影響を受けてますが造り自体はそれらを元にして日本で独自に発展したものです。
↑で問われているのは城の中心に高い塔を配置する考え方がどこから影響を受けたか?でしょ?
中国の場合は基本的に都城形式なので、城壁上の櫓や楼門は高く造られていますが、
例えば紫禁城の中心にわざわざ高い塔は配置してないでしょ。
城を権力の象徴として見た場合、中国の場合は城壁で下々の者を威圧して、
対して内部は外部から見せない(今の日本の皇居とある意味同じ)ような造りになってますが、
日本の場合は城壁はあまり高くなく、城の中心にある天守をあえて見せることで
下々の者を威圧するような造りになっているような気がします。
468 :
世界@名無史さん :2009/12/21(月) 12:00:10 O
日本の城は本丸は飾りで深縦に構築された石垣や堀や多数の砦が本体なのかしら
>>468 なんか日本の城の構造を理解しているのかいないのか分からないレスだな
一回「城」+「構造」でググって頭を整理する事をオススメする
>>468 天守は飾りで石垣や堀が主体だけど、本丸も堀や石垣で防備を固めている。
多数の砦は意味不明だな。
天守閣は西洋の塔にあたるんだろ? 日本で見張り台を高く築くにはああいう形にせざるえなかったと思ってたけど
天守を英訳するとmain tower又はdonjonだっけ?
見張り台は櫓じゃねーの?
>>473 > 見張り台は櫓じゃねーの?
天守も櫓の一種です
>>471 ただ単に高く築くだけなら、仏塔形式でも良かったはず
天守がああいう形になったのは、
建築技術的理由や軍事的必然性によるものなどではなく、
やはり信長という人間の個性と思想によるものなのだと思う
まあ古今東西で塔ってのは見張り台ではあるが 力の象徴でもあるからな
>>475 > ただ単に高く築くだけなら、仏塔形式でも良かったはず
> 天守がああいう形になったのは、
> 建築技術的理由や軍事的必然性によるものなどではなく、
いや単純に五重塔のような形をしていたら使い勝手悪過ぎだからだと思うけど。
実際の天守や大型の櫓の構造のルーツは金閣や銀閣と聞いたことがある。
478 :
世界@名無史さん :2010/02/06(土) 21:01:50 0
高い建物は野蛮という中華思想的理屈も分かるし、日本の城のように高い建物 の方が景観が良いという事実も間違い無い。 理屈(朝廷)か事実(武士)だが、現代の都市の無茶苦茶な事実をみると理屈 の大切な事がわかる。 総理官邸なんて高層ビルに囲まれてるもんね。ひどい話だよ。
総理は所詮総理だからあれでいい
城の真の敵が軍隊よりも法による取り壊し命令ってのは合ってる気もするw
日本の城はほとんどそれだからね。
徳川時代に一国一城制で それ以外の城をすべて取り壊せたことか?
廃城令では
城が最も多く取り壊されたのは 一国一城制施行の時だろう。
486 :
世界@名無史さん :2010/03/07(日) 16:36:51 0
播磨?の山崎城はどのような城だったのですか? 自分の先祖がそのお城の主に仕えていたと聞き、気になりました スレチだったらすみません。
488 :
世界@名無史さん :
2010/07/04(日) 01:26:50 0 >>63 あの城壁は強かったと思うぞ。守る兵力と装備が十分なら。
高さとか変えたり、堀も組み合わせたりした三重の城壁だったはず。