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267宮城・加美町宮崎
東山官衙遺跡:国史跡で西辺の材木塀、大溝を確認 避難広場に利用か /宮城
 ◇武力衝突頻発の780年ごろ

 ◇あす現地説明会

 県教委は29日、加美町宮崎の国史跡「東山官衙(かんが)遺跡」の発掘調査で、南半部の西辺を区画する材木塀と大溝を確認したと発表した。同遺跡は古代の賀美郡の政庁跡と推定されている。
昨年までに見つけた南、東辺の材木塀と大溝につながり、内部はほぼ何もない約3ヘクタールの空地だったことが分かった。県教委は、「蝦夷(えみし)の攻撃から人員を守る避難広場的性格の場」とみている。

 同官衙遺跡は、奈良時代の730年代ごろの完成。広場は当初、塀にも溝にも囲まれていなかった。広場北側にある枢要部の政庁と収税倉庫群域(5ヘクタール余)だけが築地塀で囲まれていた。

 県教委によると、広場を囲む材木塀と溝の構築は、蝦夷との武力衝突が頻発するようになった780年代ごろとみられる。
広場の南側一帯に、官衙施設群と同時に造成された役人らの居住域と推定されている「壇の越遺跡」があり、そこの人員を危急時に収容し、態勢を整えようとした可能性が高い。

 材木塀はクリの丸太(直径約25センチ)をすき間なく立て並べ、推定で地上高約3メートル。溝は塀の外側に掘られ幅5メートル、深さ0・9メートル。
西、南、東辺を合わせた塀の総延長は574メートルで、約2300本の丸太が使われた計算になる。

 780年ごろには、両遺跡の外周に総延長数キロとみられる築地塀、やぐら、土塁からなる外縁防御線も構築されたことが分かっており、脅威の切迫ぶりを伝える。

 両遺跡は国府多賀城と秋田城(現秋田市内)を結ぶ官道建設を進めた前線都市で、最盛時の人口は1万人ともいわれる。9世紀半ば以後、律令制度の崩壊とともに衰微した。12月1日午前10時から現地説明会を行う。【小原博人】

毎日新聞 2007年11月30日
http://mainichi.jp/area/miyagi/news/20071130ddlk04040331000c.html