4 :
世界@名無史さん:2006/06/16(金) 09:47:41 0
なぜあの時代にあのようなユーラシア帝国が可能だったのか。
あるいは必然だったのか。
当時は気候が寒冷化していて牧畜だけでは暮らせなかったとか。
モンゴル帝国の場合、1206年のチンギス・ハンの即位以前の草創期からホラズム地方出身の
ムスリム系やウイグル系の官僚たちが宮廷中央で活躍していたから、もとから西方との繋がりが
あったわけだけども、モンゴル高原の遊牧政権が西方の中央アジアとの結びつきを持っていたのは
モンゴル帝国の時代が初めてと言うわけでは勿論無い。
近い時代では突厥帝国とソグドの場合。クシャン朝が滅んだ後しばらく現地のソグドの都市国家群
以外にこれと言った大勢力はあらわれなかった。五世紀なるとエフタルが一時期勢力を誇ったけど、
ソグド側の内応やサーサーン朝との挟撃で突厥はエフタルを滅ぼし、モンゴル高原からカスピ海方面、
ソグド本土を従属させてアフガニスタン北部まで勢力を伸長させた。もともとソグド系の軍閥が
突厥政権中央でも発言力ある集団を形成していたこともあって西方との繋がりはあった。それでも
アム河以西はサーサーン朝後期の英主ホスロー1世の時代で、到底さらに西方へ拡大できる雰囲気
では無かった。
翻ってモンゴル帝国が勃興したとき、西方ではホラズムシャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドが
アフガニスタンのゴール朝を瓦解させ、セルジューク朝本家が滅んでセルジューク朝系の群小国家が
ひしめいていたイラン〜シリア地域まで席巻して東方イスラーム世界を統一しそうな勢いだった。
ここに中央アジアからイラン方面まで単一の政権が存在していたことがとても重要で、そのホラズム
シャー朝が敗退した時、史上始めてモンゴル高原の政権が、中央アジア、イラン方面まで領有することが
可能となった。
アラーウッディーンも何でまたチンギス・ハーンと同時代に生まれてしまったのかねえ。
8 :
世界@名無史さん:2006/06/16(金) 22:58:09 0
モンゴル軍が負けた例ってどれくらいある?
有名なものだと、
1221年春のホラズムシャー朝のスルターン・ジャラールッディーン・マングビルニー
(総勢6〜7万といわれる)がアフガニスタンのガズナとザーブリスターンの間にあったと
おぼしきパルワーンの地でモンゴル軍のシギ・クトク以下3万騎強を撃ち破った戦い。
1260年に件のマムルーク朝のスルターン・クトズとまだアミールだったバイバルスが、
フレグ・ハンがアーザルバーイジャーン地方に退却したあと殿軍としてダマスクス近郊に
駐留していた前衛軍司令キト・ブカ率いる約1万2000騎をアインジャールートの地で破った戦い。
(マムルーク朝側の実数はわからないが4万とも10万ともそれ以上とも伝えられている)
バイバルスがスルターンに即位した後の1277年4月、キリキア遠征でアブルスターンに
駐留していたイルゲイ・ノヤンの子トグ、その弟ウルクト、スンジャク・ノヤンの弟トダンの
3人が万戸長を勤めていた総勢1万1000騎およびグルジア人部隊3000からなるのルーム地方
辺境守備部隊を壊滅させた。(モンゴル側は主将のトグ、トダン、騎馬兵の半数強、および
グルジア軍も2000が戦死)
1303年4月にガザン・ハンの命によるクトルグ・シャーを主将とする第3次シリア遠征。
スルターン・ナースィル率いるマムルーク朝軍がクトルグ・シャー、チョパンら率いる
左右中軍を会戦して敗走させる。(実数は不明だが両者3万騎以上はいたらしい)
他にもいくつかあったと思うが、
この4例で会戦してモンゴル側が敗退したことがはっきりしているのは、ジャラールッディーンと
ナースィルの例。バイバルスの場合は停戦協定違反や降伏勧告無しにキリキアやルーム地方の
諸都市を劫略することもしょっちゅうで、アイン・ジャールートやアブルスターンの戦いも
数に任せて騙し討ちや待ち伏せだった可能性が指摘されている。
10 :
世界@名無史さん:2006/06/17(土) 09:58:41 0
ジャラール・アッディーンみたいに局地的でいいなら(というかたいていそうか)
南宋で元のアラン人部隊が虐殺されたことがあるけど。
「東方見聞録」だかにも載ってる。
あとスブタイとジェべの軍団がカルカ河の戦いでロシア・クマン連合軍を破ったあと
ヴォルガ・ブルガールにスヴァルという町の付近で撃破されてる。
北の元寇
樺太アイヌが元軍を撃退
実際は、「骨嵬(Kuγi:樺太アイヌらしい)」と呼ばれる連中が、アムール川流域の
女直などの北方の辺境部民に対して冬季になると凍結した賽哥小海(間宮海峡)を渡って
襲うので、辺境鎮撫のために兵員1万ほどを投入して現地で作った小舟や結氷期には狗橇を
つかって征討していたらしい。
最初の記事は『元史』に載る至元元(1264)年十一月、第二回は20年後の至元二十一年八月で、
同年十月、翌二十二年一月、十月、二十三年十月の5回が知られている。兵員1万が派遣
されたことが記されているのは二十二年十月と二十三年十月。
最初の派遣から20年ほど空いているが、おおむね骨嵬は服属していたようだ。ただ、
そのあいだにも散発的に骨嵬からの攻撃があって現地部隊から幾度か攻撃命令の上申が
されている。では中央ではカイドゥの乱や南宋征服があったし、十一年と十八年には日本遠征、
シルギの乱やもう少しあとにはナヤンの乱があって、なかなか現地の女直、水達達など動員して
の北方鎮撫に人員を割けなかったようだ。
骨嵬攻撃の理由は至元元年に吉里迷が、骨嵬・亦里于の両部が彊域を侵すと訴えがあったからで、
これに日本をも目標としていたかのような記事は見えない。『高麗史』忠烈王十三年九月の条には
骨嵬国万戸府がすでに設置され、旧南宋軍千人が動員されていることが記されている。
忠烈王十三年は至元二十四(1287)年にあたり、大徳年間(1297-1307)でも骨嵬はたびたび
境域を侵したが、至大元年(1307)には貢物をもって投降したらしい。
総じて、元朝での北方鎮撫は、骨嵬による攻撃からの領域防衛色が強いものだったようだ。
兵員も1万を超えることは無く、そもそも「元冦」や「モンゴル襲来」ではなくて「骨嵬襲来」
などといった方がむしろ正しいかも知れない。当時は元朝側は北海道の存在を認識していたかは
明代までの地図をみるかぎりかなり怪しいようだ。
13 :
世界@名無史さん:2006/06/18(日) 00:20:40 0
ようするにアイヌがギリヤークを襲ってツングースとかが報復したと
水達達って検索してもよく分からんかったけど野人女直の先祖あたりか
南宋兵も北の果てでアイヌからトリカブトの毒矢を射られてたら
さぞやってられない気分になっただろう。
そういや元寇で蒙古兵が毒矢を放ってたとかいう話がたまにあるけど
実際に使ってたとしたらツングース人かな?
モンゴルで毒矢ってあまり聞かないけど。
15 :
世界@名無史さん:2006/06/18(日) 04:31:14 0
>>11 >北の元寇
>樺太アイヌが元軍を撃退
NHKあたりで特集番組にして欲しいな。
16 :
世界@名無史さん:2006/06/18(日) 04:41:18 0
>>15 「世界・ふしぎ発見!」でサラリと触れた回があったよ。
17 :
世界@名無史さん:2006/06/18(日) 08:45:13 0
ポーランド王国騎士団をリグニッツアで壊滅させた後に神聖ローマ帝国やフランス
まで蹂躙していたら、ヨーロッパの世界支配はなかったかも。
18 :
世界@名無史さん:2006/06/18(日) 08:53:05 0
>17
そもそも欧州の森林地帯なんて興味なかったんだろ。
森林地帯に興味あるならもっと近くのシベリアを
真っ先に占領してただろうし。
バトゥの遠征後の東欧の勢力図がどうなったかというと
・ウクライナ、平地ルーマニア キプチャク汗国領
・ロシア諸公国、ブルガリア帝国、ビザンツ帝国 キプチャク汗国の朝貢国
・ハンガリー、ポーランド 独立国(貢税はないが略奪の標的)
こんな感じだったと思う。ビザンツはイルハン朝にも朝貢してたかも。
20 :
世界@名無史さん:2006/06/18(日) 09:31:51 0
樺太の最南端に元の築いた城塞の遺構があるらしい。
その辺りまでが当時の元の支配範囲ってことかな?
適当にレスがついた後すぐに落ちるんだから、スレ乱立させずに既存スレを利用しようぜ。
そもそもモンゴル帝国専用じゃなくて、もっと範囲を広くとってスレ立てするのが賢いやり方だよ。
22 :
世界@名無史さん:2006/06/18(日) 12:52:49 0
>>20 >樺太の最南端に元の築いた城塞の遺構があるらしい。
ロシアが衰えたら、今の中国政権がそこまでは
ウォメンディリンツ!と叫びそうで怖いな。
元の城砦はよく知らんが(たぶん木造のチャシみたいなもので土台しか残ってなさそう)
たしか明の役人が立てた石碑が残ってるらしい。
24 :
世界@名無史さん:2006/06/18(日) 16:35:24 0
樺太の元の城砦は白主土城。
「アイヌのチャシなどとは形式の違う方形土城として有名である」って記事が
あったから、ググってみたこともあるんだけど、有名な割には詳しいページが
ほとんど無い。
講演や論文の名前ではヒットするから調査とかはされてるみたいなのだが・・・
>>19 >ビザンツはイルハン朝にも朝貢してたかも
朝貢かどうかは知らんが、庶系の皇女をアバカに嫁がせて
同盟関係だった。
27 :
世界@名無史さん:2006/06/20(火) 09:14:18 0
ウズベク・ハンの后バヤルンもアンドロニコス2世の娘。
それにもかかわらず、1337年には「タタールの君主や貴族たちへの定期的な贈り物」
を届け忘れたために、タタールの大軍がトラキア地方を荒らしまわったという事件が
ニケフォロス・グレゴラスの年代記に載っているそうな。
28 :
世界@名無史さん:2006/06/21(水) 21:48:55 0
このまま日蒙蜜月で行って、中共を挟み撃ちで追い込むのだ!
といっても、隙間がスカスカだがw。チベットとインドくらいは
もっと引き込んでおきたいね。
,,-‐''""''ーе
.|"" . .||
. ;;| 中共崩壊 ||
:: .;;| ... ||
.:::::;:;| ,ノ""" ||
.:::::;;:| ,/""" ;n||
"" / ) :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
宗主国様に何をするニダー / /
::∩::::::::::::::::::::::::::: / / うはー 夢がひろがりんぐ
∧_∧ ...| | ( ( /⌒ヽ
<ヽ`Д´>// ∧_∧ ヽ ヽ ノ_東_ヽ
/ 平壌 ∧_∧ ´ー`) \\(´∀` )i n ∩
∧_∧ ( ´A `)日本i ハ \ ( E)|| ∧_∧ ∧_∧
( ´∀`) /チベット \ ノ | トルキス/ヽ ヽ_/ /. | .| . (丶´∀`) ( `八´)
( ヽ, /台湾 ヽ、/ , // ヽ, | たん ノ \__/ | .| /モンゴルヽ /法輪功ヽ、/
>タタールの君主や貴族たちへの定期的な贈り物
それは朝貢っていわないんじゃ
>31
普通の贈り物なら届け忘れただけで襲ってこない。
ロシアのヴィホードと同じ。
以外にもヨーロッパで最も豊かな地域は黒海北岸なのではないか。
古代のダレイオスから近代のヒトラーまでこの地を征服しようする権力者が絶えない。
34 :
世界@名無史さん:2006/06/22(木) 19:48:17 0
>>33 ジュチ・ウルスにとっては貴重な温暖気候地帯で遊牧にも適している上に
黒海〜コンスタンチノープル経由の重要な海上交易ルートだからな。
35 :
世界@名無史さん:2006/07/03(月) 12:54:59 0
ヴィホードって検索しても見事に世界史板のスレしか出てこないな
36 :
世界@名無史さん:2006/07/07(金) 21:27:27 0
岡田英弘がオスマン朝はモンゴルの駐屯部隊の子孫だって書いてたけど本当ですか。
ルーム・セルジューク朝の配下のオグズ諸部の子孫じゃなかったけ?
どちらにしろオスマン朝の先祖については伝説的記載が多くて
信憑性に足る史料が不足しているのは事実。
三橋冨治男さんの本でエルトゥルルか誰かが
イルハン朝の戦争に従軍したとか載ってたような。
本が手元にないので不明ですが。
39 :
世界@名無史さん:2006/07/10(月) 20:27:02 0
>>14 毒蛇から採ったmogain khoranという矢毒を使ってたそうだよ。
キプチャック人というのがよくわからないのですが。。。
フン、アヴァール、突厥、ハザール、ブルガール、マジャール、ペチェネグまでは、
一連の東方からの移動してきた民族となっています。
でもキプチャック人というのはバトゥの遠征以後、急に概説書なんかでは、つかわれ
はじめる感じがします。ロシア草原はキプチャック人で、モルダヴィア平原あたりは
クマン人となっていて、キプチャック人とクマン人(ついでにペチェネグも)ってどこから
現れた人々なのでしょうか?概説書などを読んでると、唐突に出現して、ジョチ・ウルス
の別名になってしまったのは何故なのでしょうか? どなたかご存知の方
解説していただけますと助かります。
すいません追加です。
オゴタイ、チャガタイハン国は、人名ですし、イル・ハンはフラグの別称との
ことですが、なぜにジョチ・ウルスがキプチャクハンなのでしょうか?
Wikiの記載を読むと、ペルシャ側の呼称が定着したようで、すると集史に
「キプチャク・ハン」と記載されているからかな?とも思いましたが、
そうなると、キプチャクハン国自身の自称とかはなんといったのでしょうか?
ジョチ・ウルスでいいのでしょうか?
42 :
世界@名無史さん:2006/07/11(火) 09:08:24 0
>40
キプチャクはもともと南シベリアのキマク族から分離して
西に移住した種族、という感じだったかと。
>41
その時々によって「サイン・ハン(バトゥ)のウルス」
「ウズベク・ハンのウルス」などと偉大な君主の名前で
呼ばれてたらしいけど。
>>41 『集史』ではジョチ裔の諸政権や君主たちに対しては「ジョチのウルスのハン(ハーネ・ウールーセ・ジューチー)」
という言い方をしていて、実は「キプチャークのハン」という言い方はしていない。イブン・バットゥータのように、
アラビア語やペルシア語の同時代資料では「キプチャーク『草原』(ダシュト・キフジャク)のスルターン(orハン)」
と呼ばれている。つまり「〜地方の王様」的な言い方ではっきりいえば他称。
イブン・バットゥータはイルハン朝のアブー・サイード・ハンを同じ文脈で、
「両イラーク(イラーク・アラビーとイラーク・アジャミー)とホラーサーンのスルターン」などと呼んでいる。
結論からいうと、「キプチャク・ハン」という言い方は19世紀くらいになって欧米で使用されるようになった用語で、
自称のたぐいではまったくない。
「ウズベク」とか「ウズベキヤーン」と呼ばれるのはウズベク・ハンの後の時代、14世紀末か15世紀になって
からとかになるが、実際には政権というか王朝としては「だれそれ・ハン(家)の」という言い方で区別している。
ティムール朝後期・末期やムガル朝初期などでは、ティムール朝のウマル・シャイフ家の当主バーブルを
中央アジアから追い出したジョチ裔であるシャイバーニー朝の君主シャイバーニー・ハンの勢力を「ウズベク」
などと呼ぶ一方、彼自身を「ジョチ・ウルスのハンであるアブール・ハイル・ハンの子のブダグ・スルターンの子の
スルターン・ムハンマド・シャイバーニー」などとも呼ばれている。
>>43の続き。
ジョチ家の諸政権の自称となると、資料によっては名乗る場面ごとでいろいろと違い、王家ごとによって
「シバン家の〜」といったり、「ジョチ・ウルスの〜」とか「チンギス・ハン家の」と呼んだりと様々だが、
「キプチャク・ハン」みたいな言い方を固有名詞的に使ったことは無いので、「ジョチ・ウルス」と言った方が
同時代資料的に裏づけがとれているため、より妥当だと思う。
実はチャガタイ家の勢力も『集史』では「チャガタイのウルス」と呼ばれている。あとあまり一般的に知られていない
ようだが、フレグ以外にも「イルハン」という称号は他のモンゴル王族に対しても使用されている。
(『集史』では一部でフレグ家を指して「イルハンの王朝(ドウラテ・イールハーニー)」という表現も見られる)
45 :
世界@名無史さん:2006/07/11(火) 21:25:24 0
「黄金のオルド」というのはロシア人からの呼称?
バトゥは、そのままいけば
ポーランド→ハンガリー→ユーゴ→ローマ と進軍したのでしょうか
42,43,44さん
丁寧なご説明、ありがとうございました。すごく明確になりました。
キプチャクハン国というのは、ビザンツ帝国みたいな歴史用語だったんですね。
高校時代から漠然と疑問に思っていたことがすっきりしました。
>>46 バトゥ自身はキエフを攻略してからカルパチアを越えてハンガリーに入ったけど
イタリアに向かうならスロヴェニアをかすめる程度では?
ローマ教皇は捕らえられ、ローマは壊滅、なんてこともあったかもね
>>46 バトゥなどの本営諸軍はエステルゴムを陥落させた後、オーストリアに行くかどうしようか
というところでオゴデイの訃報が届いて、そのままドナウを下って黒海北岸まで撤退したみたい。
バイダルがベーラ四世を追ってアドリア海まで一旦出たみたいだったから、あのまま行けば、
とりあえずバルカンをある程度征服したのちに南ドイツを征服に取掛かったかも。
ペレポンネソス半島はあまり大きな勢力もなさそうだから、征服は有る程度落ち着いてからに
なったろうと思う。
あとはハンガリー征服のときみたいに軍団をいくつかに分けて、スイス、南ドイツ、アルル地方を
征服してからか、ピレネーあたりまでフランスを征服したあとにイタリア征服にとりかかるかも。
それでも北イタリアは有る程度威力偵察に出たかも知れない。なにせイタリアは半島だから無闇に
攻め入りでもして後背を取られると逃げ場が無い。
51 :
世界@名無史さん:2006/07/13(木) 18:07:38 0
だとすると、当時の神聖ローマ×教皇庁の内乱状態だったイタリアは
容易にモンゴルに征服されるな。
そしてローマ教皇はモンゴル風の「貴人の死」であぼーん。
領邦分封状態のドイツは諸侯がモンゴルに朝貢して
「タタールのくびき」時代のロシアと同じ状態になっていたかな。
>>51 ロシアは比較的草原地帯に近いので懲罰遠征をできるけど
さすがにドイツとなると・・・
モンゴルが西欧まで到達していたらカトリックの代わりに
ネストリウス派を保護していただろう。
そうなると、史実のカトリック独占状態も無かった事になるので
ルターの宗教改革も魔女狩りも無くなる。
その頃って、北ドイツやフランス北部、イングランドあたりは
攻め取る価値があまりなかったんですか?
祖国モンゴルの気候に似てるような気もしますが。
モンゴル人が自分たちが信じる宗教を強力に布教、
なんていう状況は仏教が広まるまでありえないので、
ヨーロッパでネストリウス派を保護・布教、なんていう
事態もありえない。
第一、それならロシアでロシア正教のかわりに
ネストリウス派が優勢になってもいいはずなのに
そんな事態は起こらなかった。
>>54 イスラーム圏の先進文化を知っていた当時のモンゴル人から見たら
そこら辺の西欧は後進地域にしか見えなかっただろう。
恒久支配なんか考えずに略奪だけしてドナウ川以東に引き返す可能性が高そう。
>>55 従来の信仰を重視するモンゴルなら王族・貴族がカトリックに改宗して
フラグ=ウルスの様に土着化したかも。
ローマへの侵略が間近になってきた段階で
キリスト教・イスラム教の大和解による
連合軍成立、なんてことはなかったのだろうか
>>57 フリードリヒ2世辺りなら提唱しそうだが>キリスト教・イスラム教の大和解
当時のカトリックじゃイスラムとの和解なんて論外だから
結局、ハンガリーの様に諸侯国が単独でモンゴルに各個撃破されるのが関の山。
モンゴル軍は木の生い茂った中央ヨーロッパでは騎兵の機動力が使えず苦戦しており、
将校が五人も捕虜にされておりモンゴルの進撃はハンガリー平原で限界だったという。
モンゴル軍は、森林に弱い、か。
61 :
世界@名無史さん:2006/07/13(木) 23:38:54 0
東南アジアへの侵攻も苦戦している
62 :
世界@名無史さん:2006/07/14(金) 00:00:39 0
ロシアの諸公国もモンゴル侵攻の時代は深い森の中だったけどね。
当時は領地の境界も「斧と鎌の届いた(森が切り払われた)限りまで」なんてのが一般的だったらしい。
モンゴルももともと興安嶺方面の森林帯と草原部の混じりあったような場所から勃興してきた勢力だから、
林床がそれほど厚くないユーラシア内陸の温帯から冷帯の林間の戦闘に弱いということは無いだろう。
当時のルースィやヴォルガ・ブルガール地方はけっこうな森林地帯だから、勿論平原部での戦闘とくらべれば
やりにくいところもあったろうけど、欧州での戦闘で森林のために大苦戦、というのはいささか首肯しかねる。
勿論ルースィ征服の最初にチンギス・ハンの息子コルゲンが戦死しているが、それ以外はかなり順調に進んでいる。
ハンガリー王国については平原部での戦闘は良いとして、当時のトランシルバニア地方は現在よりも森林が多かった
が、都市部や城塞への征服はさほど問題なく成功しているようだ。
バトゥは途中で帰投してしまったが、バトゥの征西軍による戦闘の推移を考えると、あのままオーストリアや
ドイツ、フランス方面に侵攻しても、それまでの戦闘と根本的な違いや障害が発生するとは思えない。
アルプスや南ドイツは山城が多いみたいだから、あのまま遠征が続けばイラン・中央アジア方面あたりから
投石機専門の部隊がまた派遣されてきたかも知れないが。
> 将校が五人も捕虜にされており
これは聞いたことがなかった。どこの資料に載っている情報だろう? 元朝時代の東南アジアというかベトナム
方面への遠征についてはよく知らないのだが、ここでの森林云々と元朝軍の撤退に繋がりはあるんだろうか?
西ヨーロッパの森林は東ヨーロッパより密度が高く、また土地の起伏も多い為、
有効な騎兵戦を展開するのには向かない上にヨーロッパはオデール以西の河は凍結しない。
ヴィナーノイシュタットでオーストリア軍に敗退している。
イングランドに向かうときは、
フランス人に船をつくらせ
フランス兵を先兵にして攻撃するのだろうか
>>63 占城のインドラヴァルマン5世の元寇「撃退」というのは
実際はジャングルに退却しながらゲリラ戦で元軍を
消耗させるというものだったらしい。
後に元軍が陸路で侵攻したときには安南ともゲリラ戦に。
と、中東の武器防具の専門家の本に書いてあったけど
何がソースなのかは不明。
元史にそんなことが書いてあるんだろうか。
67 :
世界@名無史さん:2006/07/15(土) 09:31:34 0
モンゴル侵攻の時のハンガリー軍ってどういう編成だったの?
弓騎兵なんかも結構いたのか
愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。
半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝負服ないでたちで。
脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。
私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。
あれには本当にびっくりした。
69 :
世界@名無史さん:2006/07/17(月) 13:45:27 0
既に散々議論された話かも知れませんが、
杉山センセーが、元衰退の主な原因は、自然災害だといってましたが、
これを統計データ的に分析したものってあるのでしょうか?
後漢なんかだと、史書に掲載のある天災をまとめた研究などを目にすることが
あるので、説得力があるのですが、元についても知りたいところです。
また、後漢は、多くの天災を請けながら、結構政権的に長持ちしましたが、
元の方が短期で滅んでしまった感じです。元の方の災害の方がひどかった
ということでしょうか?
このあたり、ご存知の方、お教えください。
>>64 > 西ヨーロッパの森林は東ヨーロッパより密度が高く
この情報のソースはどこからのものだろうか? あまりよくは知らないのだが、
十三世紀頃であれば、ヨーロッパの殆どの地域はヨーロッパブナの純林が多かったと思うが、
ヨーロッパブナ林は、日本のブナ林などと違ってササ類やツバキ科などのような、亜高木、
低木の種類や量を欠いているため、日本よりも林床は明るくスッキリとしていると言われる。
これは第四紀に入ってから氷期によってヨーロッパ中部の大部分が氷床になったり極地的な気候に
なったため夏緑林帯の植物の多くがヨーロッパから一端絶滅したからだと聞く。基本的にヨーロッパ
ブナの分布はトランシルバニア周辺からクロアチア、ポーランド、ドイツ、ピレネーに至るそうだが、
ハンガリー王国周辺の森林とフランスやドイツ西部の森林とで林床などに顕著に差が有るという話は
今の所聞かない。(土壌や地形によって植生にいろいろ差があるとは聞くが)
トランシルバニア周辺は森林をともなった丘陵地帯であり、ここも西ヨーロッパとの本質的な差異は
感じられない。モンゴル軍はハンガリー周辺には約2年ほど侵攻作戦を展開している。確かにドナウ川
渡河にはこの年の冬場の凍結が利したようだが、ほかの遠征先では冬季以外には橋舟などをつかって
渡河していたように記憶しているが、これが必要な河川は有る程度限られてくるはず。
> ヴィナーノイシュタットでオーストリア軍に
ドーソンの邦訳『モンゴル帝国史』ではマシュー・パリスの年代記にナルボンヌのイヴォン司祭の書簡
からの情報として、ウィーン近郊のノイシュタットという守備兵100人(うち弩砲術兵20)に満たない
都市が(現ヴィーナー・ノイシュタットのことか?)1241年8月にモンゴル軍に包囲されそうになったが、
オーストリア公、ボヘミア王、カリンティア公、バーデン辺境伯、アクィレリア総大司教の連合軍の
「接近によって退却した」、とあって敗退したどころか戦闘をしたようにさえ書かれていない。
>>69 十年くらい前に出た『講座文明と環境』シリーズのどこかの巻に十四世紀ころの気候についても
触れた論文があったように思ったが、それ以外は良く覚えていない。あと「遊牧社会の脆弱性」
とかいうテーマの論文があって遊牧社会は気象の影響をダイレクトに受け易いと言う話だったが・・
他に関連していそうな論文はあまり知らない。
ヴィナーノイシュタットでモンゴル軍は撤退の際にオーストリア軍に攻撃され8人の将校を捕虜にされたが、
逆襲する事無く東へ去り、モンゴル軍は二度と戻ってこなかった。
また凍結せず直接浸るには冷たすぎる冬の中央ヨーロッパの河川はモンゴル軍にとっては厄介だった。
その時に捕まったのが例のイギリス人か
オーストリア軍、強いじゃないか
>>69 杉サマは元衰退の原因にペストも含めているけど
実際、華北華南でどれだけ流行したかは研究者や史料によってまちまち。
黄河・揚子江の氾濫も自然災害に入れるのなら
元の治水及びそれと同時して発生する流民対策が不十分だったのもある。
黄河の治水に手をつけたら工事現場に変な石像埋められちゃうしな。
77 :
世界@名無史さん:2006/07/21(金) 20:33:57 0
騎馬軍団再現、戦闘シーンも…建国800年のモンゴル
【ウランバートル=加藤隆則】建国を迎えたモンゴルで、初代皇帝チンギス・ハーンの騎馬軍団が再現され、海外の観光客を含む約3000人を前に10日、13世紀の軍服姿で戦闘シーンを披露した。
建国記念行事の目玉イベントで、同国のエンフバヤル大統領、エンフボルド首相のほか、行事に協力している日本からも森喜朗前首相らが参加した。
会場は首都ウランバートル南郊約45キロの草原。モンゴル国軍兵士による計500騎の騎馬軍が約45分間、弓矢やヤリ、剣による戦闘を演じた。同イベントは8月まで計30回開催の予定。
800周年事業実行委員会の責任者ガラムオチルさん(70)は「世界最大の帝国を築いたモンゴル民族の偉大な力を改めて見直し、その力を特に今の若者たちに授けたい」と熱弁を振るった。
見学に来ていた中学生バトオルンホー君(16)は「隊列がきれいで格好よかった。騎馬隊のことは本の中でしか知らなかったので、本物を見ることができ感激した」と話していた。
(2006年7月10日19時47分 読売新聞)
ttp://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=66986
愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。
半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝負服ないでたちで。
脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。
私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。
あれには本当にびっくりした。
79 :
世界@名無史さん:2006/07/26(水) 00:13:37 0
>75
というか元末の疫病ってペストなんですか。
マクニールの本なんかだとそう主張してますが。
もともと雲南地方の風土病だったとかで。
モルゴルは最盛期は軍事力で欧州を圧迫し
崩壊期は黒死秒で圧迫か
迷惑な事だ
後遺症はイスラム圏のほうが深刻だったらしい。
モンゴル人はアラブ人キラーだな
83 :
世界@名無史さん:2006/07/28(金) 00:32:29 0
今後、ムスリムのテロは 中国帝国に向かう危険性がある
84 :
世界@名無史さん:2006/07/28(金) 17:22:56 0
オーストリアに向かった部隊は主に何人で構成されているのでしょうか?
チンギスの子供は多そうですが家督あらそいにならなかったのでしょうか?
>>84 > オーストリアに向かった部隊は主に何人で構成されて
結論から言うと、全くの不明。これについては調べた限りとりとめも無い話になってしまうのだが・・・
バトゥ率いるモンゴル諸軍は、チンギ・ハンのホラズム遠征やもう少し後のフレグの西方遠征に匹敵する規模の
大軍団だったらしいが、バトゥの弟シバンが率いていた本営軍所属の前衛部隊が1万人だったこと以外は、
『世界征服者史』や『集史』といったモンゴル側の資料では明確な数字がまったく出てきていない。
また、ベーラ4世が敗走してからオゴデイの訃報によって撤退するまでのモンゴル諸軍の行動は、ほとんど明確な
記載が無いため具体的なことが分かっていない状況だ。そのため、ハンガリー遠征の後半については、欧州側の
資料に残る記録をつなぎ合わせることによって全体を復元しか方法が無い。ハンガリー側の年代記などによれば、
モンゴルが撤退する直前には、旧都エステルゴムなどが壊滅寸前になっていたことや、同じ時期にウィーン近郊に
モンゴルの偵察部隊らしきものが出没していたらしいこと、クロアティア、ダルマティア方面がベーラ4世を
追っていたカダンの軍によって劫略されていたらしいことが分かっている。トランシルバニアもアルバユリアが
池沼が多かったため陥落を免れていたことなど以外はハンガリー王国のほとんどの地域は劫略されていたらしい。
さて、ウィーン近傍でのオーストリア連合軍によるモンゴルとの遭遇についてだが、これは2回程あったらしい。
エステルゴムの包囲攻撃の最中と重なるようだが、最初1241年8月に、ウィーン近郊の守備塀100人に満たない
ヴィーナーノイシュタット周辺にモンゴル軍の部隊が現れたらしい。規模はよくわからない。
>>85の続き。
これに対し、バーベンベルク家のオーストリア公フリードリヒ2世(在位1230-1246年)が中心となって
周辺諸国の王侯が迎撃に出たようだ。マシュー・パリスの年代記によると、このオーストリア連合軍に参加した
のはフリードリヒ公の他には、プシェミスル家のボヘミア国王ヴァーツラフ1世(在位1230-1253年)、
カリンティア公(現ケルンテン州)の恐らくシュパンハイム家のベルンハルト2世(在位1202-1256年)、
ツェーリング家のヘルマン5世(在位1190-1243年)、アドリア海沿岸の主要都市アクィレイアの総大司教
(これが誰だかよく分らなかった)らだったようだ。
しかし、この時モンゴル軍部隊は交戦する間も無く早々に撤退したらしい。オーストリア連合軍はこれを勝利と
見なして有りもしない戦果を誇大に喧伝していたらしい。
ここら辺からよく分らないのだが、エステルゴムを壊滅させたのち、カダンはベーラ4世を追撃するよう派遣され、
そのままダルマティア方面へ下ったらしい。ベーラ4世はブラティスラヴァへほうほうの体で逃げ出し、ここで
フリードリヒ公と接触して加勢を頼んだようだが、公はウィーンをはじめとするオーストリア地方への租税の
免除とその賠償を要求し、さらにそれにも満足せずドナウ東方がモンゴル軍によって劫略の憂き目に合っていた
にも関わらず、ドナウ西方のハンガリー王国の諸地方を劫略し、ジュール市を占領さえしたらしい。
ベーラ4世はカダアン率いるモンゴル軍が追撃してくるとの情報を得ると直ちにダルマティア地方へ逃走。
そのままアドリア海まで逃げ延びた。一方フリードリヒ公は、翌年の1242年にウィーン近郊のクロイスター
ノイブルクで再度モンゴルの部隊と遭遇したらしい。そこで撤退する部隊を追撃して一部と交戦、捕虜を8人
得たらしいが、そのうちの一人が例のイングランド人だったらしい。他の7人についてはどのような素性かは
良く分らなかった。
>>86の続き。
取り敢えずオーストリア連合軍のウィーン近郊でのモンゴル軍との遭遇については、マシュー・パリスの年代記
に載っている情報らしいのだが、自分は原書が手許にないので確認できない。オーストリア大公フリードリヒに
ついてもドイツ・オーストリア史に明るく無いので、詳しい方にこの時期のドイツ・オーストリア地域の王侯たちの
動静について伺いたいところ。勿論当時の彼らにありがちな白髪三千条な戦果はまま置くとして。
モンゴルの偵察部隊は派遣される規模も、その場によってまちまちで一概にこれと決まっていない。
だから件のシバン率いる1万から100、あるいは10までと幅が有り過ぎる。何らかの年代記に具体的な数字が
載っていれば別だが、これもなかなか信用できる数字かどうかはまた問題があろうけども。
88 :
世界@名無史さん:2006/07/29(土) 02:30:10 0
>カダアン率いるモンゴル軍
ブルガリアを通って帰った連中か。
なんかラテン帝国ともちょっと交戦したらしい。
ベーラ4世ってのは、相当、モンゴル軍から敵視されていたんだね。
現代のフセイン、ビンラディン並み。
北条時宗も負けてりゃこういう運命だったのか?
敵視と言うかハンガリー王国は当時欧州でも屈指の大国だったそうだから、その国王ともなれば
殺害するにしろ捕縛するにしろ、ともかく確保しないことには戦闘は一段落しなかったからじゃないかと思う。
取り逃がして後で面倒なことになったのは、ナイマン王国のクチュルクとかホラズムシャー朝のアラーウッディーン
・ムハンマドとかその息子のジャラールッディーン・マングビルニーとか何人か先例があるから。
モンゴル軍は越南や日本など多湿で水軍の戦いが中心な地域では苦戦し敗退している。
国王の首が槍先に高々と掲げられたら、戦意なくすね。
(ポーランドのヘンルィク2世)
93 :
世界@名無史さん:2006/07/30(日) 12:17:51 0
農耕社会では領地を失った王侯はただの人だが
遊牧民の有能な指導者は何度でも仲間を集めて戻ってくる。
テムジンがいい例。
>>91 そっち方面は投降した漢人部隊に任せないとならないから。
純粋なモンゴル兵は高温多湿気候地帯じゃ使い物にならない。
95 :
世界@名無史さん:2006/07/30(日) 17:35:43 0
純粋なモンゴル兵かどうかなんて関係ないだろ。
漢人部隊はかなり早い段階からモンゴル軍の主力部隊だぞ。
1243年にセルジュクトルコに雇われていたジェノヴァ人のクロスボウ部隊を
破ったのだって漢人の連弩部隊だし。
一口に「漢人部隊」と言ってもチンギスの頃からモンゴル軍の主力だった
契丹族や華北漢人世侯の部隊と
フビライの代に投降してきた旧南宋兵じゃ
モンゴルへの帰属心・忠誠心も大きく異なるだろ。
ベトナムや元寇で負けた(元の中枢はそう思っていなかっただろうけど)けど
ナヤンの反乱ではフビライ指揮下の直衛軍が見事な勝利を得ている。
>>95 >1243年にセルジュクトルコに雇われていたジェノヴァ人のクロスボウ部隊を
>破ったのだって漢人の連弩部隊だし。
kwsk
初めて聞いたけど凄く気になる
イル汗国にも土着民の弩兵隊がいたらしいが・・・
郭侃(かくかん)が漢人としては稀にフレグの西征に従軍して
アッバース朝やイスマイル派と戦って戦功を立てている。
99 :
97:2006/07/30(日) 19:12:42 0
1243年というとキョセ・ダウの戦いだろうか?
Kose-Dagh crossbowmenで検索しても出てこないが・・・
そもそも1240年代の西アジアに漢人部隊が居たなんて初耳だ。
東南アジアって征服はわりと簡単だったんだけど、その後の支配でミスったって感じ。
大越、占城、パガンとかは大体数千単位の兵力で征服したり朝貢を認めさせたりしている。
でも、南宋を滅ぼした後、クビライが東南アジア経営に力を入れようとして支配権を強化したら、
それに反発して叛乱が勃発。
占城なんてモンゴルが持ち込んだ回回砲を武器に、モンゴルが築いてやった城に籠っている訳で、
とても数千の軍では鎮圧できないし、大軍を送りたくても大越は占城と組んで兵の通過や兵站の
供給を拒否するしで、結局ずるずると泥沼にはまり込んでしまった。
>モンゴルが持ち込んだ回回砲
そうだったのか。
チャンパにムスリムの攻城戦技術者がいたという話は何かで読んだけど
彼らが中東から持ち込んだのかと思ってた。
103 :
世界@名無史さん:2006/07/31(月) 09:08:34 0
ジャワも元寇を撃退してるのにほとんど話題にならないね。
104 :
世界@名無史さん:2006/07/31(月) 09:21:03 0
モンゴル人の軍隊は遠くまで遠征に行き家族をおいていく者が殆どだと
思うが、
現地調達(異民族)との交流はどうなっていたのだろう。ただ
現地で産み落としていたのか、戦場には家族を連れていかないが
ジプシーのように家族が後からついてきたのか。
また、現地調達したのか(これはレイプや売春)。
モンゴル人はイスラムのように宗教的に性的な束縛をうけないから
そのへんどうなのか知りたいです。
また、モンゴルが中国を治めた100年間、漢族との交際はあったのだろうか。
>104
元代には黄河流域などにモンゴル兵のコロニーが作られていた。
そこの屯田兵は遊牧でなく農業をおこなっていたらしいが
そのせいで数世代たつと戦争の際に馬すら用意できない有様になっていた。
たぶんその後は漢人に同化してしまったんだろう。
あと岡田英弘が書いてたけど明代初期の軍戸の名簿を見ると
モンゴル系の名前が異様に多いそうだ。
まあ漢人でもモンゴル名を持った人が大勢いたんだけど。
遠征には家族を連れて行く場合もあったらしいが
アフガンに駐屯してた軍団なんかはインド人等と混血して
独特の集団になってる。
108 :
世界@名無史さん:2006/07/31(月) 15:38:33 0
インドの女を犯して子供をつくったわけか
109 :
世界@名無史さん:2006/07/31(月) 17:46:33 0
85
アラン人なんかもいそうですね。
モンゴルのレイプの話はよく聞きますが史実でしょうか?
レイプなどと言わずに、せめて土着化・混血と言ってくれよ。
111 :
世界@名無史さん:2006/07/31(月) 19:02:46 0
ハンバリクの現在の首都を誰か教えて下さい。
ウランバートル
>>111 「ハンバリク」が現在のどこの場所かという意味だったら、現在の北京のこと。
当時で言えば「大都」のことだけど、14世紀初頭のペルシア語の同時代史料である『集史』では
「大都」(ダーイドゥー)も「ハンバリク」(ハーンバーリーク)も同じ割り合いで使われている。
「カアンバリク」(カーアーンバーリーク)とは呼ばれていないからモンゴル語というよりは
テュルク語だと思うけど。
> 土着化・混血
普通はそういうよね。どうもドーソンを半端に齧ってる連中(作家?)が適当にれいぷれいぷ
言ってるせいか、去年の春から夏頃なんてモンゴル関係のスレはそんな書込みばかりで埋め尽されて酷かった。
ロシアのガリーチ・ヴォルイニ年代記とかアラブ方面の年代記なども、殺戮や掠奪の話ばっかりで、レイプ云々が
出てくるような話は正直見たことが無い。当時のアフガニスタンってゴール朝の遺臣たちが多かったようだから、
その系統で土着の勢力と混血が進んだろうか? 「カラウナス」軍団ってインド方面の住人と混血が進んだせいで
色が若干黒ずんでるから「カラ・ウナス」とか言うらしい、とマルコ・ポーロが言ってるとかいう程度で、
あんまりこの地域のモンゴル勢力の動向って良く分かっていなかったような。
(志茂碩敏先生がカラウナス軍団の起源について色々論じておられた)
男皆殺しの女子供奴隷化は
朝鮮半島では適用されなかったの?
>>113 鎌倉幕府以外の大元ウルス周辺国は、最終的にはアイヌも含めて、みんな朝貢しているんだよな。
戦争の後の朝貢って、要するに手打ち式なんだから不思議なことでは無かろう。
「徳を慕ってやってきた」ってのは中国側の勝手な解釈だし。書式とその場の儀礼
だけ整えておいて、お互い知らないふりしてやってる。
ジャワの元寇
1289年、クビライはシンガサリ王朝の朝貢を求めるため、孟hを派遣した。
シンガサリの王クルタナガラはこれを拒否、孟hの顔に焼鏝をあてて追放した。
クビライはただちに遠征軍の派遣を決意、モンゴル人史弼を総司令官、漢人高興を
前線指揮官に任命し、福建、江西、湖広から兵と軍需物資を集めた。
1292年、2万の兵を千艘の船に乗せた遠征軍が泉州から出航し、翌年に高興は兵を
率いてジャワに上陸した。
クルタナガラ王は元の艦隊を阻止するため兵力の大部分をチャンパとマレー半島に
送ってしまっていた。この機会にケディリ地方の貴族ジャヤカトワンは反乱を起こし、
クルタナガラの手勢を撃破して王を殺した。
王の娘婿ヴィジャヤは復讐のため元軍と同盟、ジャヤカトワンの艦隊を撃破した後
高興はケディリに上陸し、5千の敵兵を殺してジャヤカトワンを捕らえた。
ヴィジャヤはマジャパヒト市で正式に元へ服属するために、2百人の武器を持たない
元兵を護衛につけることを要求した。その護衛はマジャパヒトへ向かう途上で伏兵に
よって全滅させられ、それと同時に他の部隊もヴィジャヤの兵に包囲されていた。
史弼は命からがら逃げ出すことができたが、艦隊の停泊地へ戻るまでに生き残りの
兵の数千人がジャングルの中で命を落とした。
指揮官たちの間でヴィジャヤを討伐するかどうかの議論に決着がつかず、結局艦隊は
中国に帰航した。遠征軍が持ち帰ることができたのはジャワの地図とわずかな香辛料、
象牙などであった。
ジャワを制圧できていたら、ニューギニア、オーストラリア方面にまで
進出していたのだろうか
スリランカとかインド沿岸地方の交易都市の方面に侵攻するんじゃないかな。
インド南部は征服してもあまり意味がない土地なのだろうか。
アレキサンダー大王もその手前で止まってしまったし。
南部に行けば行くほど女性の質が落ちるので
行く気が失せてくる、とか?w
中央アジアの連中は、サカにしろクシャン朝にしろガズナ朝、ゴール朝にしろ、
インドの富を求めて北インドを散々荒し回るが、夏の酷暑には辟易していたようだ。
ムガル朝の始祖バーブルも北インドの穀倉地帯や王侯の富を求めてパーニーパトの戦い
に至まで五回程インドへ遠征しているけど、夏の重苦しい暑さにはうんざりだったようで、
デリーを征服して北インドを掌握したあとでも、アフガニスタンのガズナに本拠地を
ずっと置いて、夏の快適さもあってかこの地をこよなく愛していた。バーブルの
ヒンドゥスターンに対する文句は『バーブル・ナーマ』でも何度か吐露されている。
インドでは酷暑のせいか馬の飼育が困難で、馬群の維持が厳しいらしい。
デリー・スルタナトの諸王朝もなかなか南インドの獲得は出来なかったようだが、
モンゴルにしてもガズナ朝のスルタン・マフムードよろしく、インドはわざわざ征服なんて
しなくも、掠奪だけしていればもうそれで充分だと思っていたのかも知れない。
富に誘われてインドを征服しても、何世代かたつと征服軍もインド化して弱くなるから
インドの外に出れなくなっちゃうんだよね。
ヒマラヤ山脈が蓋になったウツボカズラみたいなもの。
恐ろしいところだよ、インドって。
シナモナー
>126
なんかペルニエの本にあったね。
ムガル軍が中央アジアに攻め込んだとき、ある部隊が
タタール人の女ひとりに全滅させられたってw
その点、大英帝国はきちんとインド南部まで支配したね。
東部カルカッタと、南東部マドラスから領域が広がっていったようだ。
インドや日本などモンゴルの支配を免れた地域をアングロサクソンの勢力圏なのは偶然か。
>130
普通はそれを「ランドパワー」「シーパワー」という
でもさ、元は「ランドパワー」に過ぎなかったそれまでの中華王朝の殻を破って
「シーパワー」化しようとした所が面白い。
日本、ベトナム、ジャワと、これほど大規模で長距離の海上遠征した王朝は無かったし。
海のシルクロードも押さえてたんじゃない?
133 :
97:2006/08/06(日) 09:43:48 0
アルメニアの年代記に
>>95と関係ありそうな話があった
ttp://rbedrosian.com/hetum3.htm 「(ギヤース・アッディーンは)タルタル人の襲来を耳にすると震え上がって、外国人やラテン人の傭兵部隊を
できる限り多く呼び集めた。彼の麾下にはとりわけ、キプロス出身のYohannes Liminadとヴェネチア出身の
Vonip'akiosという二人の指揮官が率いるラテン人の集団がいた。
(トルコ人のスルタンは)それと共に近隣のスルタンたちへ使者を送り、来援する者には恩恵と贈物を約束した。
そうして大勢の戦士たちを集めると、彼はタルタル人の野営地へと向かった。しかしタルタル人はまったく動揺
することはなく、その代わりに、Konsedrak(キョセ・ダウ)の地において果敢に戦いを挑んだ。その末にタルタル人は
勝者となりトルコ人は打ち負かされた。こうしてタルタル人は我らが主の年一二四四年にトルコ人の王国を
手に入れたのである」
しかしヴェネチア人は言及されてるがジェノヴァ人や弩兵については触れられてない。
「漢人の連弩部隊」ってのはいったい何をソースに書いたんだろう?
>>133 後で読み直したら若干思い違いしていた箇所もあったのですが、一応講談社選書メチエの
伊藤敏樹著「モンゴルVS西欧VSイスラム」をもとに書きました。
P20の『しかし、モンゴル軍には千名単位の中国兵がいて巧みに連発式火矢攻撃を行った。
それにかなわぬセルジュク勢は、ついに1243年6月下旬、総崩れとなった。』という部分。
>>134 その本はとんでも認定されていたと記憶しているが…。
連弩から火矢を放つのは無理ぽ
>とんでも認定
詳しく
当時なら「連弩」じゃなくて、宋代に開発された「火箭」じゃね?
ロケット花火を束にしたような火矢発射装置。
139 :
世界@名無史さん:2006/08/08(火) 23:57:39 0
ロシアのウラジーミルで矢羽まで総鉄製の巨大な矢が出土していて、
今はクレムリンの武器庫にあるけどモンゴルの攻城兵器から発射された
ものでないかといわれているらしい。
>>135 やっぱりな。
と学界も正式認定したってことか?w
141 :
世界@名無史さん:2006/08/09(水) 00:35:37 0
>>125 そもそも北インドと南インドはまったく環境が異なる。
北は地勢的・文化的には高温多湿とはいえ、中央アジアの延長としての面がある。
反して南は完全にディープなインド世界。
しかもこの間には標高こそ高くは無いものの、峻険きわまりないヴィンディヤ山脈がそびえ
その南のナルマダー川に向かっては断崖絶壁が東西数百キロも続く。
東海岸はジャングルに覆われ、さりとてヴィンディヤの西のグジャラートから南下しようとしても
高山と海に挟まれた東西数十キロという狭ーい沿岸平野がはるか亜大陸南端近くまで続く。
ヒンドゥスタンは北にも南進みにくい土地。
イギリスの場合は史上初めて「南から」インドを制圧してったわけだから別格。
とはいえその高山地帯からマラータ同盟が出てきたりするから
世の中分からんもんだ。
>>137 回天でばっさり切られてたが、ようするにモンゴル帝国のことを何にも知らない。
そんなのフランス中世史の専門家が書いたんだから当たり前なんじゃないの?
前にちらっと読んだけど、分からない用語があるからって
モンゴル大使館に電話するなよと思った。
>>143 「回天 伊藤敏樹」で検索してもよく分からなかったが・・・
雑誌かなんかですか?
『史学雑誌』の「回顧と展望」のことだと思う。他にも何かの雑誌の書評で
酷評されてたような。確かにモンゴル帝国どころかイスラム関係も人名とか
見たことも無い綴り方していて、書店で読んだ時かなり混乱した。
内容もモンゴルやイスラムについても典拠がよく分らないところも・・
フランス中世史の人だとやっぱ
聖王ルイの十字軍→マムルーク朝→モンゴル
みたいな感じで入ったんだろうね。
俺もマムルークとかから興味もったけど。
149 :
世界@名無史さん:2006/08/14(月) 19:38:40 0
けれいと部、めるきと部、モンゴル部とかいいますけど、
これは部族の部ですか???
そしてみんな言葉が通じるんですか?
全部まとめてモンゴルというのは、チンギスの統一後からだと思いますが、
それ以前はなんと呼んだの。
150 :
世界@名無史さん:2006/08/14(月) 23:00:17 0
細かいこと言い出すとキリがないけど、いちおう一般的には部族みたいなもんと考えておk。
基本的に言葉は通じる。モンゴル以前は総称らしい総称はない。
しいていうなら胡とか北狄とかか。
151 :
世界@名無史さん:2006/08/15(火) 06:50:53 0
モンゴルというか、元(?)の情報勉強できるサイト教えて
元典章でぐぐりなされ。
153 :
太国:2006/08/15(火) 21:32:44 0
ぐぐります
154 :
世界@名無史さん:2006/08/16(水) 00:09:15 0
クリミア汗国では皇太子の副官をヌール・アッディーン(信仰の光)といったそうですが
どういう経緯でそういう名称になったんでしょうか?
クリミア汗国の前身であるキプチャク汗国がイスラーム化して
公用語をペルシャ語にしたから。
>>155 公文書はテュルク語で書かれてたと聞いたような気がするが
ペルシャ語を公用化したのはフラグ=ウルスではなかったか?
158 :
世界@名無史さん:2006/08/21(月) 23:05:11 0
>>155 官職名としてはどういう意味なのでしょうか?
>>1 似たようなスレ乱立させんなよ、糞ドキュンが
160 :
世界@名無史さん:2006/08/27(日) 11:38:57 0
ジョチウルスの「青帳汗国」と「白帳汗国」ってどっちが西でどっちが東なのかよく分からない。
本によって西側のバトゥの領域が青帳だったり白帳だったりとまったく逆のことが書いてたりするので。
ふつーに陰陽五行じゃね?
青龍(東)と白虎(西)で。
そういえばチベット仏教の色相方位説でも東が青で、西が白だったね。
ウズベク・ハンの父である、トクタ・ハンの子トゴリルを初代とする
右翼(ウンク・クル)を青帳(クク・オルダ)。
ノガイの子サシ・ブカを初代とする左翼(スル・クル)を白帳(アク・オルダ)
と呼んだらしい。
ところが東方を鎮撫していたジョチ・ウルス左翼のトカテムル家のトクタミシュ・ハンが
ジョチ・ウルスのハン位を継ぐと、この両翼構造を解消しちゃったために、後世の記録では
左右両翼の首長の系統がごちゃごちゃになっちゃったんだとか。
話を聞くと「青帳」とか「白帳」とかはバトゥ・ウルス内部の区分であって、オルダ・ウルス
を含むジョチ・ウルス全体の区分じゃないような気がするんだけど、どうなんだろう?
それとも「青帳」とか「白帳」とかの区分ってオルダ家が断絶した後のジョチ・ウルス再編で
東方であるオルダ・ウルスを「青帳」、西方であるバトゥ・ウルスを「白帳」と呼ぶように
なったんだろうか? 詳しい人の解説きぼん。
ロシア皇帝をツァガン・ハンと呼んだのも西方の帝王という意味だろうか。
白人だから「白いハーン」という意味だそうな。
>164
できれば出典が知りたいです。
>>162 そういえば青ロシアってのがあったな。
あれって青帳汗国とか関係ないの?
167 :
世界@名無史さん:2006/09/06(水) 16:22:47 0
つまり、モスクワ大公国の東アジア版が李氏朝鮮だったってことを主張しているのだろう。
まあ、あり得ない話ではないとは思うけど、大元朝史や朝鮮史は疎いのでなんとも・・・
明朝も永楽帝なんかは自ら大元朝の後継政権としてかなり意識していろいろ根回ししていたことは
最近の研究でけっこう明らかになってるけど、朝鮮半島でも似たような動きが有ったってことかねぇ。
> 1255年に5000戸の千戸長とダルガチ(元の地方役人)の地位を元皇帝から下賜され
モンケの治世だから「元皇帝」はさすがに誤り。あと、「5000戸の千戸長」という表現は文献的に正しい
表現なんだろうか? 複数の千戸を与っていても「千戸長」と表現されていたろうか? 正規の遊牧軍団に
含まれていないような辺域の部民を束ねるような部将たちが複数の千戸を統括していたような話を聞くけど、
普通、正規の千戸が複数からなる軍団を統括する部将は「万戸長」と呼ばれている。
あと、クビライ幕下の漢人勢力の代表、姚枢なんかも千戸長とかのあつかいだったような・・
詳しい人の解説を請う。
ダルガ職はモンゴル系の人物が多かったけど、必ずしもモンゴル系「だけ」ってわけでもなかったとように
記憶している。チンカイやヤラワチも財務官僚で書記職(ビチクチ)だったけど、ヤラワチは華北で活躍する
前はアフガニスタンのガズナのダルガ職をチンギス・ハンから任されていた時期が有る。中央アジアのダルガ
職にあった人物は外部から入って来たけどウイグル系とかいろいろ居たような。
この記事だけだとオッチギン王家が本当に李成桂一門を重用していたかは分らないので何とも言い難い。
具体的な用例を出してくれれば、他との比較が可能なんだが・・・
コンギラト部族の要人たちと並んでオッチギン王家の当主の同母姉妹と通婚していたとかなんとか。
インフラ整備だけだったらどこのモンゴル勢力でも戦争とかが無いといろいろ地場産業とか耕地開拓とかに
投資しているから、それと比較してどうかとか。
韓国のどこかには元代にやって来たウイグル人の家系もあるらしいな・・・
170 :
世界@名無史さん:2006/09/06(水) 20:43:52 0
元朝のフビライ家は高麗国王家と深くつながっていた。高麗国王は代々フビライ家の
皇女を妃にもらっていた。明の洪武帝と同時代の高麗国王は、モンゴル語の本名をバ
ヤン・テムルといい、韓半島の正史である『高麗史』では、恭愍王(きょうびんおう)
と呼ばれる。恭愍王は(中略)今の北朝鮮の咸鏡道を占領した。このとき、双城(咸鏡
南道の永興)にいた李ウルス・ブハという女真人の酋長が高麗に降伏した。この李ウル
ス・ブハの息子が李成桂である。
(岡田英弘著・原書房刊『皇帝たちの中国』の『第4章・モンゴル王朝から独立した朝
鮮王国の建国』より)
>>167 このコピペは割合いよく見かけるが、岡田英弘先生のその文章、
「元朝のフビライ家は高麗国王家と深くつながっていた」の部分。
大元朝というかモンゴル帝国の実態に即して言えば、これは本来主語が逆だろう。
「高麗国王家は元朝のフビライ家と深くつながっていた」とすべきだと思う。
「高麗国王は代々フビライ家の皇女を妃にもらっていた」というのも、高麗国王家が
附馬(キュレゲン)家だというだけで、コンギラト部族などの他のキュレゲン家と
立場的にはそれほど変わらない。(「附」は馬+付の代用)
高麗はチンギスの時代からクビライの即位までの時代に幾度も帰服を拒んでその都度
モンゴルから軍が派遣されて討伐を受けており、『元史』では至元11年(1274)の
公主クトルガイミシュの降嫁が実現するまで、附馬国王家で諸王の上位にあった
ウイグル国王家や、下位にあったカルルク王家のさらに下を位置していた。
至元7年(1269)二月乙未条では帰服が大幅に遅れた事をクビライが先のウイグルや
カルルク諸王の例を挙げて、来朝した高麗の元宗を叱責してさえいる。
一時はクビライの宮廷では離叛が頻繁であった高麗王家そのものを廃絶しようという
意見さえあったようだが、討伐よりも懐柔したほうが得策だろうという判断が有ったのか、
結局高麗側から要請のあった公主降嫁が実現されることになった。
『高麗史』の忠烈王世家の記事によれば公主降嫁が実現した至元18年(1281)には
「附馬国王」宣命がされてたが、至元31年にあたる1294年には成宗テムルが催した
クリルタイの宴席では諸王・附馬の第7位に座し、六年後の只孫(ジスン)宴では
第4位に座したと伝えられる。
一方『元史』の成宗本紀至元31年(1294)四月乙巳条によればテムル・カアンの即位に
諸王・附馬たちに多額の銀が下賜されているが、コンギラト附馬家の当主、蠻子台には
銀七萬六千五百兩が、同じくオングト附馬家の当主、闊里吉思には一萬五千四百兩が、
そして高麗の忠烈王には三萬兩であったという。
高麗の下賜の量はオングト附馬家よりも多いが、コンギラト附馬家の半分以下であり、
やや高位であったようにも思えるが、他の附馬家よりも決定的に高位であったかというと
そうでも無さそうだ。
とりあえず、オッチギン家が豆満江流域まで支配していたというんは本当なの?
チンギスの弟三王家は、ヒンガン山脈のあたりに本拠地があって、
他にいくつか支那に飛び地を持っているだけだと思っていたんだけど。
>>171-172 森平雅彦先生のいくつかの論文で元に服属後初期の高麗の事情はわかるけど、
元末の、特にバヤン・テムルの動きについて、良いソースない?
岡田英弘先生は細かい論証を省きすぎで使えないから。
174 :
世界@名無史さん:2006/09/07(木) 14:43:12 0
>>168 モスクワ大公国はモンゴルに官位をもらってたんですか?
王族をケシクに入れたりしてた?
175 :
世界@名無史さん:2006/09/07(木) 20:24:04 0
ケシクってとるこのイエリチェリみたいなもん?
176 :
世界@名無史さん :2006/09/08(金) 17:05:52 0
南宋攻略の前に雲南攻略したのが、よくわからない。
モンゴル人の感覚はかなり違うような。
チベット東部ルートで雲南攻めたっていうから、
四川の西を迂回したわけ??
モンゴル的にはチベットの方が馴染みやすかったのか?
歴史的四川は今の四川よりもだいぶん小さいんだよ。
陝川行省の広がりとか参照。
>175
> ケシクはイェニチェリみたいなもの?
記憶してる限りだと、似たような感じだが微妙なところで両者は決定的に違う。
イェニチェリは奴隷身分や捕虜となった幼少の異教徒をムスリムに改宗させて
軍人として養育し、これをオスマン朝の皇帝のもとに親衛軍団として組織したもの。
言ってみれば、マムルーク軍団のオスマン朝バージョンみたいなものと思っても
良いかも知れない。イェニチェリを持っているのはオスマン皇帝のみ。
ケシクテイとかケシクテンと呼ばれるものは、モンゴル皇帝であるカアンや
ジョチ王家やフレグ王家の君主であるカンといったウルスの首長のもとに
麾下の「支王家」や「部族長家」の子弟がカアンなどの直属の親衛組織として
(だいたい千戸ほど)編成されたもので、次代の各王侯家の当主としてカアンや
カンの直接の薫陶を受けた。
だからカアンなどが没した場合、次代のカアンが先代と親子関係にあったのであれば、
次期カアンも先代のケシクと結びつきが強いことが多いのでケシクテンがそのまま
引継がれる場合も多い。そのため飽くまでも当主個人や当主家との結びつきによって
編成されているので、別の家系のカアンが即位すると、ケシクはケシク職を解かれても
先代の家系に引継がれたりするが、この場合、新カアンは新たな人員で(あるいは元から
自分のところで持っていた人員で)ケシクテンを編成し直さなければならなくなる。
179 :
世界@名無史さん :2006/09/08(金) 20:29:53 0
ケシクって、有力者の子弟を集めた選抜親衛部隊(人質の意味も)でしょ。
イェニチェリとは、ニュアンスがだいぶ違うような。
ところで、現代の歴史研究だと、「モンゴル系」「トルコ系」とか、
言語に基づく民族区分がよく出てくるけど、当時の遊牧民って、そんなこと
意識してたのか??「部族意識」は重要だったようけど、
当時のモンゴル高原〜中央アジアで、「モンゴル系」「トルコ系」って
言語以外に違いあったのか??
>>179 ものすごく大雑把にいうと、もともとぐちゃぐちゃだったのが、
イスラム教になったのがトルコ語だけを使うようになり
チベット仏教になったのがモンゴル語だけを使うように分かれていった。
>>176 モンゴル系もウイグルやナイマン、ケレイト、カルルクなどのテュルク系も、
一括して「テュルク系諸民族」(アトラーク(トゥルクのアラビア語複数形)として理解されていた。
『集史』の「テュルク・モンゴル部族誌」の区分だと、キヤト氏族やタイチュウト氏族、
コンギラト部族などのモンゴル系の人々は、「『モンゴル』と呼ばれているテュルク系の部族集団」と
位置付けられていて、タタル部族連合やジャライル部族などは「モンゴル語を話すがモンゴルとは呼ばれない
集団」とされている。モンゴルという集団もモンゴル語も巨大な「テュルク系」諸民族の一派である、という認識。
ちなみに「タングート」もこの「テュルク系の集団」に含まれているw
女直や契丹も「テュルク系」に含まれていたかはちと忘れた。
『集史』は「創世記」の族祖神話と同じ世界観で語られていて、テュルク系もその一派であるモンゴル系も
方言差はあるものの、古代の族祖神話を共有し、言語も近似しており、生活形態もほぼ同じで、もともとは
同じ系統の民族と当時は考えられていた。実を言えば、19世紀末に欧州近代の歴史学が移入されるまで
トルコからイラン、中央アジア、モンゴルに至るまでこの考え方は浸透していた。
そういやロシアではタタールのことを「ハガルの子孫」と呼んでたな。
タタールというよりイスラム教徒全般のことなのかも知れないが。
184 :
世界@名無史さん :2006/09/08(金) 23:06:09 0
>>180>>181 なるほど。
やっぱり、トルコだ、モンゴルだ、と言語区分にこだわるのは、
近代以降の歴史研究の産物ですか。
>>176 正直当時の実際の事情に詳しくないんだけど、
軍事的に見るなら、四川は南宋の防衛線の一翼を成していて攻めがたい、
つまり、四川を攻めれば南宋の他の地域から援軍が来て、
それに対応するとなし崩し的に全面戦争になってしまう。
そして、そこまでする準備は出来ていない、
つまり全面戦争での一気に制圧は確実に出来るとは言いがたい状況だとの判断から、
現状では南宋の防御線の外側から進出し南宋を包囲しさらに情勢を良くしよう、
南宋を完全に制圧する為の戦争を起こすのはそれからだ。
という戦略だったのではないかと思う。
186 :
世界@名無史さん :2006/09/12(火) 20:05:20 0
チンギスの末裔は、北元滅亡後、
一時期傀儡のハーンに落ちぶれたけど、
15世紀末には復興して、最終的に清朝に服属、
てことは、現在もチンギスの末裔はモンゴルに結構いるのかな??
187 :
世界@名無史さん:2006/09/12(火) 20:37:31 0
>>187 その研究所、テムジン本人のDNAを入手して調べてる訳ではないよ。
>>187 あらためて見るとつっこみどころ満載な記事だね。
> チンギスは立志して死亡するまでの40年間、多くの国を滅ぼしてはその国の女性を
> 組織的に犯しては、略奪を繰り返したと言われている。
> そしてチンギスは新たな都市を征服するたび、部下たちに略奪は許可する一方で、
> 女性は必ず自分のもとに連れてくる> > よう指示し、組織的な強姦を行うか、
> 妾として自らの下に置き、自らの血を継ぐ子孫を増やし続けたと言われている。
誰だこんな与太話を吹き込んだのは。というかちょうど一年前くらいにチンギス・ハンに
ついてレイプレイプと喧しかったが、元ネタはこれか。
> そしてチンギスが65歳で死ぬまでの間、モンゴル帝国は中国南部からペルシャ湾にまで
> 及ぶ人類史上未曾有のスケールを持つ巨大な帝国に成長した。
チンギス・ハンの時代に実行支配できていたのは華北からマーワラーアンナフルとアフガニスタンまで。
ジェベとスベエデイの追跡部隊はアゼルバイジャンからキエフ方面を劫略してモンゴル本土へ
帰還しているが、ペルシア湾までは行っていない。「中国南部」ってどういうことだ。
こんな基本的な歴史的知識で大間違い侵している記事では研究内容と言うか主張を鵜呑みに出来んよ。
しかもDNAを採取したところがアフガニスタンのハザーラ族って・・・ ハザーラ族がモンゴルに
関係しているらしいことはよく言われているが、チンギス・ハン家それじたいと関係があったのは
伝説レベルであって、まったく不明だったんじゃあなかったっけ?
モンゴルとかクリミア、ロシアあたりの比較的系統が分かっているチンギス・ハン家の子孫から
チンギス・ハン家共通のDNAを割り出すとかいうなら理解はできるが・・・
割り出した対象がオイラト部族とかコンギラト部族とかのものでないという保証はあるんだろうかw
190 :
世界@名無史さん:2006/09/12(火) 22:20:57 0
オゴタイの末裔で一番最近まで残っていたのは?
王大人?
193 :
世界@名無史さん :2006/09/13(水) 00:42:08 0
16世紀中葉、アルタン・ハンの時代に、モンゴルはまた盛り返したわけだが、
明に対しては、辺境を荒らすだけで、有利な通商条件で和平。
華北の再征服しなかったのは、軍事的に不可能だったのか、
それとも、発想として、華北征服が無かったのか。
なぜなんだろ。
一応、北辺には、100万くらいの明軍がいたらしいが。
>北辺には、100万くらいの明軍
それはちょっと無理かも。
太祖の時代には5,600名の「衛」が全国に500ほどあって
300万近い兵士が登録されてたようだが、16世紀には
半分以下の兵力になってしまっていたらしい。
>>187 レイプをしなかった征服者が歴史上あるのかね
それにしてもレイプ好きだな、レイプ、レイプ、レイプ
196 :
世界@名無史さん:2006/09/14(木) 21:27:58 0
>>195 世界的な侵略者・欠地日王裕仁もかつて盛んなりし時にレイプしてたのだろうか?
197 :
世界@名無史さん:2006/09/14(木) 21:35:13 0
>>195 て事はレイプをしてたんでしょうか?レイプしていたとしたらちょっとショック
レイプ話しはそこまでにしてもらいたい。
モンゴル帝国側の資料も、モンゴル帝国の侵攻を受けた地域の資料も、老若男女を問わぬ
殺戮や掠奪に付いての記事はそれこそあげるのもきりが無いくらいあるが、モンゴル軍団が
レイプしただのチンギス・ハンがレイプしただのといった記事はまず見た事が無い。
恐らく欧州あたりの近代戦での諸々の記録や伝聞から、勝手に想像して書き散らしているのだと
思うが、モンゴルに対立していた勢力の記録にもまず出てこないような話を実際に有ったかの
ような前提で話をするというのは馬鹿げている。同時代性の高い資料でそういうことが述べられて
いるのであれば話は別だが。
> レイプをしなかった征服者が歴史上あるのかね
具体的な例を挙げて欲しい。いわゆる征服者と呼ばれている君主なりで征服した地域の子女を強姦した
という人物が記録に残るだけでどれだけいるのか、それがどれだけ一般的だったのかを見ない限り、
「歴史上」などと軽々しく言うべきでは無い。個人では無く集団として行ったものとして言っているのだろうか?
チンギス・ハンはモンゴル軍団が征服した地域ごとに有力諸部族の首長家や王侯から子女が送られて来たため、
チンギスのオルド(宮廷)には正妃・側室が500人もいた、とは『集史』が述べていることだが、記録に
残るチンギスの子供達は男女含めても20人に満たない。うち9人は第一正妃ボルテとの子供たちになる。
『元史』ではチンギスの皇妃をボルテも含めて30数名あげているが、果たして40代も半ばに領域的な君主
として権力を確立し、しかもあとの20年の内に大きな遠征に二回も行った人間に「公称」側室500人全員を
相手にしている暇など有ったのかは疑問だが。発言者の「レイプ」をどう言うものと定義しているのかは
知らないが、側室として娶るということが強姦なりにあたるなどということは歴史学関係の話では普通は聞かれない。
それも「レイプ」にカウントされるならどうしようもないが。
199 :
世界@名無史さん :2006/09/15(金) 00:17:20 0
モンゴル高原から、中央アジア・西アジア方面への民族移動は、
史上、幾度もおこなわれてきたわけで。
血縁的には、それなりに混交してるだろ。
別に、モンゴルの征服時のみではない。
そういやコーカサスのノガイ族のDNAのデータがどっかネット上にあったな。
レイプ話は「男子最大の快楽とは?」ってやつだろ。
ドーソンの著書って信憑性あんのかね?
202 :
世界@名無史さん:2006/09/17(日) 05:26:42 0
>>198 集団レイプならもっとたち悪いじゃないか
馬鹿?恋人でもモンゴル人にやられたらどうおもうね
どっちにしろそんな記録は無いから。
204 :
世界@名無史さん:2006/09/17(日) 22:17:46 0
消したんだろ
>>201 この際だから一年前に今は無き「モンゴル大虐殺史」スレに書いたものを貼ってみる。
ttp://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1116559441/254-258 254 名前:世界@名無史さん メェル:sage 投稿日:2005/07/23(土) 20:29:36 0
>229,>230,>240
参考になるか知れないけど、>233で少し触れたドーソンの情報の元ネタになった
『集史』の記述についてちょっと書いてみる。そんなに長い内容でもないのだが、
ドーソンはそこそこ端折っている。これは、
「チンギス・ハン紀第三部;称讃すべき性格と品行、彼の選ばれた習慣と各々の時期の
ために言い命じた良い金言と言葉とビリクと命令の数々、及び先の二つの部に入らなかった
ものについて良く知られたことで各々の人物や各々の本から散乱し整理されなかったために
単独で書かれてしまった彼の治世中に生じた逸話と出来事について」
255 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/07/23(土) 20:36:42 0
というやたらと長い題名の一章に出てくる逸話集の最後のエピソードなのだが、
面倒なので訳をそのまま載せてみる。必要そうな箇所は()で補った。
「次に曰く。チンギス・ハンがある日、諸将の首長であったボオルチュ・ノヤンに
「男子の快楽とジルガミシュ(=テュルク語で「快楽」の意味。同義語反復の例)は何であるか?」
と尋ねた。ボオルチュが曰くに、
「男子のそれ(快楽)とはこれであります。すなわち、己の色の紺青なる鷹をその肩に食い込ませ
(ペルシア語で鷹を肩にのせることをこのように言う)、冬には羽毛を生えさせ、取り巻きの全てを
手にとり(?)、太らせた良い去勢した速く静かに走る馬に跨がり、春の緑には紺青なる頭の鳥ども
(ワシタカの類いか)で狩猟し、立派な衣と衣服を着ることです」
チンギス・ハンはボログル(ボロウル)にも言った。
「汝もまた言え」 ボロウルが曰くに、
「男子のジルガミシュとはこれであります。すなわちソンコル(白ハヤブサ)に似た動物どもを
灰色の鶴の上に飛ばし、それらのカギヅメの傷によって空から落ちて捕らえるまで(行うこと)です」
そしてその後ドゥラダイ、クビライにも尋ねたが、「男子のジルガミシュは狩猟と動物を飛ばすことです」
と言った。
その時チンギス・ハンが仰せられることには、
「汝らは良しとすることを言わなかった。(=自分の望みに適うことを言わなかった)
男子の快楽とジルガミシュとはこれである。すなわち謀叛人を粉砕し、敵に勝利を納め、
彼を根こそぎに覆滅し、その持てる物を征服することである。そして彼らのボグタクを
持てる者(既婚女性のこと)たちをの眼を涙ぐませ、彼(女)らの鼻の面の上に涙を流させ、
彼らの尻の太った態度の良好な去勢馬どもに跨がり、彼らの見目の麗しいハトゥンたちの腹と
臍に眠りと寝床の衣服を設け(着させる?)、彼(女)らのバラ色の頬を見ながら口付けし、
彼女らの砂糖のナツメ木色の(ペルシア語で恋人の唇を指す詩的な言い方)唇を吸うことである」
『イスラームの民のうえに平安あれ』
256 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/07/23(土) 20:38:49 0
ここでのボオルチュとは、モンゴル帝国の勲臣第一等アルラト部族のボオルチュ・ノヤンのこと。
チンギス・ハンの青年時代から幕僚となった帝国の最古参のひとり。
ボログルとは、幼少時代ジュルキン部族から拾われてチンギス・ハンの養子となった、ムカリ、
ボオルチュ、チラウン・バアトルと並ぶチンギス・ハン四傑(ドルベン・キュルウド)のひとり
ボロウルのこと。
ドゥラダイは主要な勲臣のひとりだとは思うが、特定はできなかった
クビライとはジェベ、ジュルメ、スブタイらとともに勇名を馳せた、チンギス・ハン麾下の四狗
(ドルベン・ノガイ)のひとりクビライ・ノヤンのこと。
いづれも帝国の筆頭と呼ぶべき名のある勲臣たちだが、そのどれもが鷹狩りをあげていることから
当時モンゴルの人士の内では鷹狩りによる狩猟が最大の娯楽だったことがわかる。要は鷹狩りなどの
遊技を「男子の快楽」とすべきでなく、征戦による武功とそれにより馬匹と子女とを獲得しこれを
愛でるこそ「男子の快楽=本懐」たるを心せよとのことだと見るのが穏当だろう。
ボオルチュが自分の去勢馬を〜というところを、対してチンギスは征戦によって獲得した敵の去勢馬を
駆ることにこそ上とすべきと述べているが、これによってもとくに良好な去勢馬が珍重されていたことが
見て取れる。
256 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/07/23(土) 20:38:49 0
ここでのボオルチュとは、モンゴル帝国の勲臣第一等アルラト部族のボオルチュ・ノヤンのこと。
チンギス・ハンの青年時代から幕僚となった帝国の最古参のひとり。
ボログルとは、幼少時代ジュルキン部族から拾われてチンギス・ハンの養子となった、ムカリ、
ボオルチュ、チラウン・バアトルと並ぶチンギス・ハン四傑(ドルベン・キュルウド)のひとり
ボロウルのこと。
ドゥラダイは主要な勲臣のひとりだとは思うが、特定はできなかった
クビライとはジェベ、ジュルメ、スブタイらとともに勇名を馳せた、チンギス・ハン麾下の四狗
(ドルベン・ノガイ)のひとりクビライ・ノヤンのこと。
いづれも帝国の筆頭と呼ぶべき名のある勲臣たちだが、そのどれもが鷹狩りをあげていることから
当時モンゴルの人士の内では鷹狩りによる狩猟が最大の娯楽だったことがわかる。要は鷹狩りなどの
遊技を「男子の快楽」とすべきでなく、征戦による武功とそれにより馬匹と子女とを獲得しこれを
愛でるこそ「男子の快楽=本懐」たるを心せよとのことだと見るのが穏当だろう。
ボオルチュが自分の去勢馬を〜というところを、対してチンギスは征戦によって獲得した敵の去勢馬を
駆ることにこそ上とすべきと述べているが、これによってもとくに良好な去勢馬が珍重されていたことが
見て取れる。
257 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/07/23(土) 20:42:43 0
ボオルチュが自分の去勢馬を〜というところを、対してチンギスは征戦によって獲得した敵の去勢馬を
駆ることにこそ上とすべきと述べているが、これによってもとくに良好な去勢馬が珍重されていたことが
見て取れる。
さて、肝心の「陵辱・レイプ」問題だが、チンギスの言葉それ自体からはそれらしい文言は出ていない。
チンギスが「男子の快楽」として述べた文言の内容は、1)敵対者に対する征戦とこれの撃滅すること、
2)それによる敵対者の財物を制圧すること、3)敵対者のハトゥンたちを獲得してこれを愛でること、
である。
婦人達に涙を流させることが「陵辱」の見ることもできそうだが、財物の征服と良好な去勢馬を駆ること
の間に述べらおり、テュルク・モンゴル系の遊牧諸族では家産の管理を各家の婦人たちが担っていたので
これはむしろ敵対者家族の財物を容赦なく制圧し、もう少し穿ってみれば虜囚として家族が分散されこと
で「婦人達の涙を流させる」ということではないかと思われる。
さらに最後の部分だが、「ハトゥン」とは「ハン」の女性形、「妃」とか「王妃」に類するような
王侯貴族の婦人や子女のこと。ようするに「妃、姫君」のような高貴な女性たちのこと。
「砂糖のナツメ木色の唇」とか「バラ色の頬」とかいった表現はペルシア語文学のロマンスものでも
頻繁にでてくる表現で、「バラ色の頬」などは『元朝秘史』でも似た表現がある。
つまりここでは、敵対勢力から勝利して獲得した姫君を飽くまで「愛でること」が主眼となる。
同盟者や敵対者の頭目からその子女を獲得することはモンゴルに限らず日本でも欧州でも中世期では
一般的だったので、ここではチンギス・ハンが何か特殊なことを言ったわけでもなければ、強姦らしい
ことを奨励したわけでもないと見てとったほうが妥当だろう。もっとも中世には君主が有力勢力の子女を
妻君や側室として獲得することは一般的だったし、これと睦むことが強姦だと言うのであれば別だが。
>>205 そのスレでチンギスハーンが鍛冶屋だったという伝説が話題になってなかった?
●ないから見れない・・・
258 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/07/23(土) 20:46:28 0
>254-257の結論からすると、
チンギス・ハンは、敵対者を征戦によって打倒しその家産を略奪しその后妃・姫君を愛でる
ことこそ男子の快楽とは述べてはいるが、婦女子を陵辱し蹂躙することこそが快楽、などとは
全く言っていない。
────────────────────────────────────────────
>>201 ドーソンの主要典拠は彼自身が調べたパリ国立図書館蔵の『世界征服者史』『集史』『完史』などの
メインにモンゴル帝国関連のペルシア語、アラビア語の諸写本や、個人的に持っていたシリア語、アルメニア語の
歴史書で、これに当時出版されていた『元史』などの漢語資料のフランス語訳などを参照にして
1834〜1835年に、『チンギス・カンよりティムール・ベイ、すなわちタメルランに至るモンゴル族の歴史』
(邦題:モンゴル帝国史)を出版した。
ペルシア語資料については、イルハン朝の後期頃の記事は『集史』「ガザン・ハン紀」や『オルジェイトゥ史』
をそのまま直訳して載せてる場合が多くて、かえって索引として元の文章にあたりやすかったりする。
ところどころ写本本文の読み間違えとかドーソン個人の勘違い、理解不足な部分も少なからずあるものの、
全体としてモンゴル帝国史研究では今でも参照すべき資料になっているのは、周知の通り。
>>209の続き
それで、ドーソン本文では
>>206の部分はどのように書いてあるかと言うと、最後の部分、
チンギス・カンは言葉を続け、
「然らず。男子の最大快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、
これと親密な人びとの顔が悲哀に泣きぬれているのを見、その女たちと妻たちを抱きしめることにある」
と語った。(佐口透訳:第二巻、四一頁)
となっている。そこそこ端折っていることがわかるが、あるいは彼が引用した『集史』パリ本ではこのくらい
さらっとしか書いていなかったのかも知れない。この部分でチンギスが下問した部将はボオルチュとボロウル
しか載っておらず、ドゥラダイ、クビライの名前は出てこない。一年経ってまた調べたがこの「ドゥラダイ」
という人物については結局よく分らなかった。
ボオルチュと同じアルラト部族にドレデイ・ヤルグチという人物と、チャガン・タタル氏族のドレデイ・イデチ
という人物がいるが、双方ともフレグの西方遠征で活躍した人物で、アルラト部族のドレデイはアバカ、アフマド・
テグデルにつかえた幕僚らしい。一方のタタル部族のドレデイもアバカからアルグン時代に活躍した主膳司(イデチ)
という要職にあった人物で、チンギス在世中から随分時代が下るのでどちらも同一人物とは思えない。
ペルシア語では「妻」も「女」も zan という単語で呼ばれているので、あるいはパリ本の方では zan wa khatun
のような書き方をしているので「その女たちと妻たちを」と解釈したのかも知れない。
原文に比べて、おおよそのことは書いてあるけど、ちょっと端折りすぎてる嫌いが有る、くらいかも知れない。
>>210 ビザンツ帝国の歴史家パキメレスや、小アルメニア王ハイトン、ルブルクのギョーム修道士、
マムルーク朝の歴史家ヌワイリーなどが、テュルク語で鍛冶屋を意味する「テムルジ」が
「テムジン」の語源だろうということで「テムジン」=「テムルジ」=「テムジンは鍛冶屋だった」
という説明をしている。当時はそのような語源的解釈による伝説が流布していたらしくて、
それをかれらが記録してしまったのだろう、という説明をドーソンはしているみたい。
『集史』だったか『世界征服者史』だったかにチンギス・ハンの本名テムジンのもとになった、
「テムジン・ウゲ」の「テムジン」とはテュルク語で鍛治師を意味するようだ、という説明を
していたような気がするが、ちょっと忘れてしまった。
>>213 情報サンクス。
そいや突厥も鍛冶集団だったとかいうし
北アジアでは鍛冶屋が呪術師みたいに恐れられてたとか。
みたい、というかそうなんだろう。
むしろ現代日本人のように無宗教的に物事をみたり感じたりする方が世界史的には異常ではないかと。
まあ現代日本人と言っても、占い好きな人は多いが。
現代、というかごくごく最近の日本なら「お金」への
信奉と畏怖を宗教(というか迷信)みたいなものだと
考えれば決して特殊ではないような気もするな
>>59 東・南シナ海と同様、東欧迄が戦術的な限界線だったんだろ
そんな中でオゴデイの死は、
西欧に垂涎してる10万の兵達に退却を納得させられる
時宜に敵った口実だったと考える方が自然か。
219 :
世界@名無史さん:2006/10/10(火) 23:45:27 0
>>98 そのソースとなっている元史の郭寶玉伝は
西征軍がエジプトやメッカを征服したとか書いてて
あまり信用ならない内容らしいけど。
221 :
世界@名無史さん:2006/10/20(金) 22:16:20 0
ナヤンの乱の首謀者ナヤンについて、
テムゲ・オッチギンの子孫ではなく、
ベルグテイの子孫という説を知ったのですが、
これは本当でしょうか?
222 :
世界@名無史さん:
222ゲット