1 :
世界@名無史さん :
2006/05/22(月) 21:01:31 0
無意味に初めての2げっと狙います。
3 :
天婦羅騎士団 :2006/05/22(月) 22:04:56 0
私は自室に日本の大鎧と西洋甲冑を左右に対峙させて 飾っています 勿論実物大の本物です
4 :
天婦羅騎士団 :2006/05/22(月) 22:16:35 0
ここはモンゴル帝国の騎馬兵団をサンプルにして考えましょう まず日本の鎌倉武士団を筆頭とする武士は蒙古襲来の時、台風の 影響もありますが結果的に勝利しました それに対してヨーロッパ騎士団 はワールシュタットの戦いで蒙古軍に殲滅させられているので 武士の方が強いという事にしておいてください
スレの初っ端から変なのが現れたなw
>>4 >蒙古襲来
だから、生粋の蒙古兵は少なかったって何度もガイシュツじゃん…。
7 :
天婦羅騎士団 :2006/05/22(月) 22:26:43 0
生粋も糞も関係ない蒙古軍は蒙古軍
変なコテハンは議論する気もないみたいなので、スルー推奨
どちらが強いかは恐らく永遠に決められないだろうが議論や史料を出すことによって 知識が増えることはいいことだと思う。
木材と動物の腱、角を張り合わせたコンポジット・ボウはポーランドから朝鮮半島まで普及していた兵器だが 乾燥した寒冷な気候でないと破損しやすい。 モンスーン地帯の日本で取り入れなかったのは正解だった。
12 :
世界@名無史さん :2006/05/23(火) 19:59:06 0
武士より立場的には上だった天皇&朝廷、 騎士より立場的には上だったローマ教皇&カトリック教会、 さて強いのはどちら?
14 :
世界@名無史さん :2006/05/24(水) 00:42:16 0
どこか馬上槍試合まだやってる国ないかな。遊びみたいなのでも見たい。 あの長槍で突進するスタイルの騎士ってどこの国が発祥なんのですか? イタリア?
NHKのBSで時々世界の面白スポーツを紹介しているけど、馬上槍試合やそれから 発展した競技なんかは今でもやってるみたいだぞ。
ああ、自転車槍試合ね。見た見た。ワラタよ。
とりあえずモンゴル、弓関係はしばらく議論禁止な。
武士の主力武器は弓なのに弓関係の議論をしないで騎士との比較なんかできるわけないじゃん。
20 :
世界@名無史さん :2006/05/24(水) 08:54:56 0
蒙古は「戦争のやり方が上手かった」のであって 別に個々のモンゴル兵が強かったわけではない
つか、西洋のいわゆるナイトが騎士、 日本のお侍が武士。だよね? つーことは中国圏やモンゴルって騎士でも武士でもない? ついでにイスラム圏(マムルークとかが入るのか?)も…?
>17 詳しく
>21 アラブの「ファーリス」 タタールの「オグラン」なんかが近いかもしれない ペルシャ語でもなんかあったような
>>6 生粋の蒙古兵はアリク・ブカの乱でもナヤンの乱でもクビライの大元ウルスに
勝てなかったからな。
モンゴルを基準に判断すれば、
武士>大元ウルス>生粋の蒙古兵>騎士。
アリクブカの主戦力は生粋のモンゴルというよりオイラートやナイマンじゃなかったか? うろ覚えだが
>>23 アラブの「ファーリス」は武士や騎士のような固定的な身分ではなく、単に騎馬戦士という感じらしい。
サラディンのアイユーブ朝が1181年の時点でエジプトで動員できたファーリスは、
司令官「アミール」111騎、上級軍団「タワーシー」6976騎、下級軍団「カラグラーム」1553騎で合計8640騎。
ちなみに海軍力は1179年の時点で、国境防備用50隻、作戦用30隻の合計80隻。
この頃の日本は、ちょうど源頼朝や木曾義仲が挙兵して源平の戦いが始まった時期だ。
>>26 やっぱりそいつらは従者とか取り巻きを連れて従軍するのかな?
>>27 ハッティンの戦いについて書いてある本を比較すると、兵力が「人」で記述している場合は、
「騎」で記述している場合の2倍の数字になってる。
29 :
世界@名無史さん :2006/05/26(金) 07:56:49 0
どう考えても武士が最強だろ そんなに武士をとぼしめたいのか
ファーリスというと「キングダム・オブ・ヘブン」に出てきた 「アル・ハーキム・アル・イブリン!?」 とか叫びながら主人公に斬られたヤシが思い浮かぶ。
31 :
世界@名無史さん :2006/05/27(土) 09:26:22 0
武士は武器が無くなっても、徒手空拳で戦う術を持っていたが、騎士はどうだろう?
>>31 >武士は武器が無くなっても、徒手空拳で戦う術を持っていたが、
ソースと言わんまでも、その根拠は?
柔術
武士がみんな柔術使いだったら、 騎士もパンクラチオン使いばかり、 モンゴル騎兵もブフ(モンゴル相撲)力士ばかりになるが。
鎌倉時代の武士には相撲が必修の武芸として重視されていたらしいぞ。 当時のすぐれた武士を讃える常套句が「弓馬・相撲の達者」。 この頃の相撲は今とは違って土俵とか無く、戦場での組討に直接つながる格闘技だったんだとさ。
八幡愚童訓についていろいろと調べたら、鎌倉武士は蒙古軍に一騎討ちなんか挑んで ないことがわかった。 今まで「日本の戦はお互いに名乗りを上げて、一人ずつ勝負した」だと解釈されてた 文章は「日本軍はお互いに証人になって、名を高めようとする者は命がけで勝負した」 という意味の文章を書き間違えただけだった。
まぁ鉄砲が出てきたら騎士はプレートメイル・武士は当世具足ないし南蛮具足で機動性がどんどん失われていくわけだが
? なんで当世具足で機動性が失われるんだ???????
39 :
世界@名無史さん :2006/05/28(日) 12:04:14 0
突進しかできない騎士が勝つイメージが思いつかない。
そうだよ。 敵が横にいても前にしか進めないんだよ。
おいおいもう頭悪そうな 雑魚キャラしか残ってないのかよ 泣けるぜ
42 :
世界@名無史さん :2006/05/28(日) 13:24:24 O
一枚板のプレートアーマーに対して、札を組み合わせた当世具足は伸縮性がある分、運動性は格段に上なわけだが?
>>37 >鉄砲が出てきたら騎士はプレートメイル・
逆、逆。
鉄砲の弾丸がプレートメイルも貫通するようになったから、
どんどん軽装になっていくんだよ。
それに合わせて武器も厚みのある長剣から、
細身のレイピア、厚くてもサーベルとかに移行していくんだし。
白兵戦用の武器はハルバードみたいな長柄で汎用性の高いものが主力になるけどね。
その前段階として銃の威力とプレートアーマーの防御性能の競争があり 銃が勝ったのでその結果として騎兵は軽装化することになる。
そこで西洋鎧にヒントを得た南蛮胴なんていうものがあるじゃないか 現存するものの中には鉄砲玉痕があるものがあり、実戦ないし試し撃ちで銃弾とめたと見受けられる
じゃあ南蛮胴>西洋鎧が成立、 銃弾止められるんだから最強の鎧じゃないか! 武士>騎士も決定だな
ルネサンス期ヨーロッパの甲冑はアーケバスやマスケットで試し撃ちをして品質を保障していた。 ちなみに当時のマスケットは日本の火縄銃より威力が強い。
48 :
世界@名無史さん :2006/05/29(月) 03:20:10 0
>>47 ルネサンス期にマスケットがあったのか・・・
マスケットっていつからあるの?
>ちなみに当時のマスケットは日本の火縄銃より威力が強い。
これのソースきぼん。
滑空式、鉛球、黒色火薬は変わらないのに威力が違う理由が分からんです。
基本的にどっちも封建領主+その家来という戦術単位だから 集団戦が主になると駆逐される運命 日本の場合はその萌芽が見られた時点で江戸期に入ったので温存されたけど…
>48 前装式の銃の威力は使用する弾の重量や火薬の装填量によって変化するので、 一概に強いとか弱いとかいえないよ。 あと、玉の跡が残っている具足は、鎧鍛冶がデモンストレーション用に準備したと言う話が有る。 つまり火薬の量を減らした弱装弾を当てて「ほらこんなに丈夫ですよー」とかやったらしい。 実際に鎧を火縄銃で打つという実験をやった人がいて、結果は「防ぐのは不可能」と言う結果に。 威力的にはマグナム弾を発射する拳銃並みの威力があるらしい。 日本は小銃による鎧の駆逐が起こる前に戦争が終わって軍縮しちゃったもんだから 19世紀まで鎧が生き残ることになってしまった。 命中率ということになると火縄銃が高い。 ヨーロッパやアメリカで前装式の古式銃による射撃大会があるのだけど、日本の火縄銃の射撃精度にみな驚いていて、 わざわざ日本の火縄銃を手に入れて試合に出る人もいるとか。 // マスケットが強いというのは、元々マスケットというのは 大口径大重量のマッチロックのことを「マスケット」と言っていた事だと思う。 このマスケット、取り回しが難しい上に命中率が極めて悪くてそのうち消滅してしまう。 が、名前は生き残ってその後の前装式の小銃を「マスケット」と呼ぶようになったんだよ。 こっちのマスケットは日本の火縄銃と比べて威力が大きいとか言うのは特にない。
51 :
47 :2006/05/29(月) 20:05:06 0
考えてみたらマスケットは大筒と比較するべきなのかな。 フロイスの記録の邦訳で「ムスケット」を大筒と訳してたような。 威力の強い理由は50氏の書いてるとおり。口径がでかくて装薬量も大きい。
張り詰めた弓の〜♪ それは石火矢です
次に当時の銃器の威力はどれぐらいだったのだろうか。もちろんこれが口径、銃身長、 火薬量、火薬の質といった多様な条件に左右されるのは言うまでもないことだろうが、 とりあえず各時代における標準的と思われる性能を持った銃の威力を数値化してみよう。 初期のハンドガンは14世紀に登場するが、レプリカを造り実験したLassonのデータ等 から推測するに、50gの鉛弾丸に38gのuncorned powderを使用した (200x23mm)口径の この銃ですら250J程のイニシャルエネルギーを持ち、現に実験では30mの距離で軽装甲 の鎧を貫通したという(*)。 (*)ただこの250Jという数値を持つ銃弾の破壊力が矢や弩のそれと同列には論じられない ことは後で説明する。実は弾丸は鎧を「破壊」するのに矢などよりも大きなエネルギーを 要するのであり、この鎧(詳述されていない)はかなり脆弱なものだった可能性がある。 その後ハンドガンの火力は15世紀のフス戦争の際に大いに発達して500-1000Jに達したし 後に登場した長銃身の火縄銃やマスケット銃の威力は火薬の改良もあってさらに恐るべき ものとなった(serpentine powder から燃焼速度の均一なcorned powderへの改良などで) cf.Hall,Bert S.:Weapons & Wafare in Renaissance Europe chap.3:Johns Hopkins:1997
以下に各時代別の武器の威力の概算的な値をまとめて挙げておく。(Williams, p.922) @時代 @武器 @イニシャル・エネルギー 全時代 剣、斧 60-130J 11-12C ロングボウの矢 80-100J クロスボウのbolt 100-200J 14C 初期のHandgun+serpentine powder 250J 15C フス戦争期のHandgun+serpentine powder 500-1000J 16C 火縄銃+serpentine powder 1300J 火縄銃+corned powder 1750J 16C後期 マスケット+serpentine powder 2300J マスケット+corned powder 3000J これを見ると15世紀以後の銃器の発達がどれほど戦争の内容を変えたか想像がつこう。 はたしてこれらの火力に対し同時代の鎧はどの程度対抗できたのだろうか?
Grancsayが強度実験のため自分の持ついくつかの鎧を、ホイールロック型マスケット銃、 draw-weight 30kgの弓、同じくdraw-weight330kgのクロスボウで5mの距離から試し打ち したところ、その距離でも目標に対する角度が大きい場合、矢やboltは弾かれることが わかったし(正面からなら貫通しても)、マスケットの弾丸の場合も2/3はhelmetや brestplateを貫通したものの、16世紀の上質の鎧を貫通させる事はできなかったという。 彼が用いた火薬は20gのserpentine powderという比較的弱いものでイニシャルエネルギーは マスケットなのに900J 程度だったと推測されるとはいえ、鎧は意外と効果的に見える。 また王侯貴族のような高級な鎧の注文者は15世紀においてはクロスボウに対する耐久力の 保証を、16世紀においては火器に対するそれをしばしば要求したことも記録されている(*)。 (*)そういう顧客の要望に応えるため当時の鎧制作者は注文の鎧をクロスボウやハンドガン による近接射撃テストで安全を確かめてからマーク付きで販売する事もあった。ただこの テストをクリアできたPistol-Proof鎧は高価で重い物ではあったが。(Williams, p.920) 次回はこういうプレートアーマーの強度を実際のmechanical testとシミュレーションから 算出しているWilliamsの論考を追ってみる事にする。(この項続く)
さて、博物館の鎧を破壊するわけにもいかないのでWilliamsの採った方法は以下である。 (1)まず現代の軟質鋼板(厚さ2mm、炭素0.15%、硬度235VPH)を用意し、これに各種の武器 (主に当時の模造品)によって攻撃を加えてデータを取り、様々な厚さのこの種の鋼板が 矢と弩のbolt、及び弾丸に対して発揮しうる抵抗力の基本数値を測定&シミュレートする。 (2)著者が長年に渡って調査した当時の鎧に関するデータと、(1)におけるデータに基づき (i)鎧の厚さ(ii)形状(これにより当たる角度が変化する)(iii)硬さ(iv)スラグの混入 といった諸要因が持つ強度への影響力を具体的に数値化する修正強度算定式を作る。 (3)対象の鎧に(1)の基本数値と(2)の数式を当てはめて、当時の鎧の強度を計算する。 ただ「鎧の破壊」の定義だが、実際問題としてこれが矢と弾丸では同一でない事は明白 である。例えば矢やboltはある程度先端が食い込めば「中の人」に致命傷をも与え得るが 銃弾は全体が完全に正面装甲を貫かなければ「中の人」を傷つけられないし(打撃力に よるショックは無視する)弾丸は変形でエネルギーをロスすることも考慮せねばならない。 それゆえWilliamsは矢系の場合それが鎧に40mm食い込めばdefeatedとみなしたが、弾丸は 装甲を完全に貫通した場合にのみそうみなしている。(以下「破壊」に替えdefeatを使用)
矢(及びbolt)に対する現代軟質鋼板の抵抗力の表(defeatするのに必要なエネルギー) 鉄板の厚さ1mm 2mm 3mm 4mm 垂直正面 55J 175J 300J 475J 角度30° 66J 210J 360J 570J 角度45° 78J 250J 425J 670J 弾丸に対する(現代軟質鋼板の)抵抗力の表(defeatするのに必要なエネルギー) 鉄板の厚さ1mm 2mm 3mm 4mm 垂直正面 450J 750J 1700J 3400J 角度30° 540J 900J 2000J 4000J 角度45° 630J 1050J 2300J 4700J これを基に前述の鎧の強度を左右する要因である(i)鎧の厚さ、(ii)形状、(iii)硬さ、 (iv)スラグの混入、の影響度を具体的な数値で見てみる事にしよう
(i)鎧の厚さ 上の表からでは読み取り難いが抵抗力は厚さの約1.6乗に比例することがわかっている。 (cf.:Atkins,A.G.& Blyth,P.H.:Stabbing of Metal Sheets by a Triangular Knife: International Journal of Impact Engineering:2001 の研究によるWilliams, p.928f.) 具体的には1mmの抵抗力を1とすると1.5mmなら1.9、2mmなら2.9、2.5mmで4.1、3mmで5.5 3.5mmで7.0、4mmで8.6、4.5mmで10.3、5mmで12.1、5.5mmで14.1、6mmでは16.1である。 (ii)鎧の形状 上記の表からも判るように平らな板の垂直正面に命中する場合と角度がある場合とでは defeatに要する力はまるで異なる。(a)鎧には丸みを帯びたものがあるし、中にはさらに (b)竜骨的形状をを付加したものもある。図を書いてみれば理解できるだろうが、一般に 角度Aで板に当たった場合のエネルギーはcosAを掛けたものになる。逆を言えば、平板 ならEのエネルギーでdefeatされる場合、角度Aで板にぶつかった場合defeatに必要な エネルギーE’=E/cosAであり、これを実際に(a)や(b)のような形状をした鎧を撃つ 場合に当てはめてみると、(a)には1/cos30=1.2、(b)には1/cos45=1.4を掛けたものが 実際のdefeatに必要な修正値となることが確かめられている。(Williams, p.930)
(iii)鎧の硬さ、と(iv)スラグ混入の影響とは「鋼の質」で一括して数値化しよう。 容易に想像されるように、鎧の材質にとって重要なのは単に硬いだけではなく強靱で あることであり、これは鋼の熱処理の過程が優れているだけではなくスラグの混入が 少ない事も重要な条件である。Williamsは調査対象となった鎧の成分検査と平行して 現代の鉄にスラグを混入したものを造って、それが強度に及ぼす影響を実験した。 この結果に基づいて彼は当時の材質をおおよそ四段階に分け、前記の現代における 軟質鋼板の強度を1とした場合に、それらの材質が示す強度修正係数を算出している。 従ってそれぞれの材質カテゴリーでできた鎧の板金をdefeatするためには同じ厚さの 現代軟質鋼板をdefeatするのに必要なエネルギーに以下の係数を掛ける必要がある。 @材質のカテゴリー @現代軟質鋼板を1としたときの修正係数(W) (*) (最低品質の)鉄製兵卒用甲冑 0.5 (**) (中品質の)低炭素鋼の鎧 0.75 (***) (ミラノ式の)中炭素鋼の鎧 1.1 (****)(インスブルックの)熱処理で硬化された中炭素鋼の鎧 1.5
現実にはさらに考慮すべき要因がある。 (1)鎧下などの緩衝材の効果: 十六折りのリネンが鎧の下にあると、刃物に対しては+80Jの、槍の切っ先に対しては +50Jの追加防御効果の存在が検証されている。 (2)肉体に深手を負わせる事自体に必要なエネルギー: 戦闘中に軽い傷を負っても相手は戦いをやめないだろう。だが「深手」をモノとしての 肉体に負わせるには、さらに50-60Jのエネルギーが必要だと考えられる。 それゆえ、単に鎧をdefeatするのに必要なエネルギーだけではなく(1)と(2)とを併せて (余裕を見て)150J程度の付加的エネルギーが現実の戦闘においては必要と考えられる。 従って、Eを同じ厚さの現代軟質鋼板をdefeatするのに必要なエネルギーとすると (中の人のdefeatに必要なエネルギーである)E'=(EW/cosA)+150J、となり、 T^1.6を厚さ(mm)の1.6乗を表すとすると矢の場合は、E'=(55WT^1.6/cosA)+150J 弾丸ではE'=(450WT^1.6/cosA)+150J、剣ではE'=(80WT^1.6/cosA)+150J となる。(Williams,p.935)(原文には弾丸の場合の数字が155になっているが訂正した)
次にmail及び非金属製の鎧の耐久力(defeatに必要なエネルギー)について触れる。 ただしmailはプレートの場合と異なり下にキルトのlinen jackを着けての評価である。 なおここでのbladeは、剣ではなくハルバード著者が長年に渡って調査した当時の鎧に関するデータに基づきを模したものによる実験結果である。 @材質 @対Blade @対Lance @対矢 @対弾丸 現代の材質でのmail >200J >200J 120J 400J 15世紀のmail 170J 140J 120J − buff leather 70J − 30J − hardened leather 50J 20J − − horn 120J − 50J − cuir-bouilli 80J 30J − − (padding) 80J 50J − − jack 200J − − hardened leatherとcuir-bouilli(革を蝋につけて硬化したもの)は5mm厚のもの。 paddingは16x21cmで60gのlinenの16折。jackは12.5x15cmで171gの物がテスト対象。
さて、最後に具体的な戦闘状況におけるWilliamsによるケーススタディを紹介しつつ 当時の鎧の総合的な防御力について考察してみる事にしよう(これまでの表を参照)。 (1)mailを着用した11-12世紀の騎士の場合。 @刃のついた武器で彼の鎧(の中の人)をdefeatするためには少なくとも200Jが必要。 (mailと下のjackは170Jでdefeated、それ以上の分が人体を直接傷つける力となる) 200Jは極めて力の強い男が両手で斧や剣を振るった時かろうじて可能かも知れぬ数値。 @弓矢の場合は120Jでmailと下のpadding双方をdefeatできるが、これは例外的な力 を持った射手の強弓でないと不可能。ただクロスボウなら片手用のでも可能であろう。 (2)増大するクロスボウの脅威に対抗してmailに加え別の鎧も着けた13世紀の騎士の場合。 @cuir-bouilliによる補強。これで対抗できる運動エネルギーは120+30=150Jにすぎず 近距離からのクロスボウの攻撃に対抗するには不十分。 @厚さ2mm、材質カテゴリー(*)のcoat of iron plateによる補強。不快なほど重いが 120+175x0.5=207.5J、でなんとか対抗できそうである。
(3)15世紀初めのミラノ式鎧に身を包んだ騎士。2mm厚で丸い形状(cos30°が適用可能) 鎧の材質カテゴリーは(***)以上だが、焼き入れ硬化はされていない場合。 @矢の場合は、210(=175/cos30)x1.1(材質***による修正)=231J+50J(padがあれば)=281J これは鋼鉄製のクロスボウでもdefeat困難な値である。 @フス戦争期の1000J級のハンドガンに対しても、900x1.1+50=1040Jでかろうじて安全。 だがこのマージンは時代とともに喪失するし、これ以下の材質の鎧では近距離では危険。 (4)16世紀半ばのニュルンベルク式の歩兵用鎧に身を包んだラントクネヒトやスイス人 パイクマンで2.5mm厚、材質(**)、竜骨的形状(cos45°が適用可能)の鎧着用の場合。 @矢に対しては、78x4.1(2.5mm厚の係数)x0.75(**修正)=240+50(pad)=290Jで安全。 @弾丸に対しては、630x4.1x0.75=1937+50(pad)=1987J、で火縄銃にも安全なことになる。 (原書には、矢の場合260J(+50=310J)、銃弾の場合の耐久力は1250Jで後者に関しては 当時の火縄銃(1300-1750J)でも危険だ、としているのだが計算根拠が判らない) (5)Zutphen(1584)の戦いにおいて鎧を着ないで銃弾を受けたSir Philip Sidneyを巡って 当時の軍事専門家達によるマスケット銃に対する鎧の有効性に関する論争が行われた。
彼が着用していたのが3mm厚、(***)材質、竜骨的形状のミラノ式の鎧なら弾への耐久力は 2300x1.1=2530J+50J(pad)となるがこれでは近距離からのマスケット銃を防げないだろう。 しかし他の条件が同一で材質が(****)であるグリニッジやインスブルックの良質鎧なら、 2300x1.5=3450+50(pad)=3500Jでマスケット銃の弾のエネルギー3000Jを上回る事になり、 安全マージンが存在する事になる、というのが我々の結論ということになる。 (後者の耐久力は原書では3000Jでぎりぎり安全、としてるがこれも計算根拠わからず) (6)十七世紀の胸甲騎兵の場合。彼らのブレストプレートは厚さ4mmほどだが、財質は(*) 形状は丸形であった。それゆえ耐久力は、4000x0.5=2000+50程度でマスケット銃には 近距離では全く敵し得なかったことがわかる。(故にもっと厚い胸甲を着けた者もいた) これらの情報を総合すると、クレシーなりアジャンクールなりにおいて、ロングボウは 当時の最高の鎧を着た騎士達をも圧倒した、といった類の主張に対してはいささか懐疑的 にならざるを得ない。恐らくロングボウの矢が倒し得た者は比較的貧弱な鎧を着た者か、 射手の超絶的技量によって鎧の隙間を射られた者達で、それ以上の戦果はむしろ他の要因 に帰しうるのではないか、というのが上記から得られる私の平凡な結論である。(終)
以前弓スレで書かれていたものを転載しました。 騎士や武士とは直接は関係ありませんが参考にしてください。
初期のマスケットと同じ用途の火縄銃というと狭間筒かな? 普通の火縄銃が全長130cmほどなのが 狭間筒だと150cm以上重量は10kg前後とマスケットとほぼ同サイズで、 用途もマスケット同様、城の狭間、船舶などに固定して射撃する。 十匁玉(37.5 g)を使用。 十匁筒は士分が持った火縄銃としては一般的なので、 狭間筒は火縄銃としては特別大口径と言うほどでもない。ただ、サイズが大きいだけ。 足軽や下士が所持したのは五匁筒。 こちらは時代が下った頃の銃兵が使用したマスケットと同クラス。
火縄銃など身分の低い足軽が使うもの 最強の武器は日本刀だと理解できないあたり、 武士道を知らん奴ばかりだな
おいおいもう頭悪そうな 雑魚キャラしか残ってないのかよ 泣けるぜ
70 :
世界@名無史さん :2006/05/30(火) 20:43:57 0
>Grancsayが強度実験のため自分の持ついくつかの鎧を、ホイールロック型マスケット銃、 >draw-weight 30kgの弓、同じくdraw-weight330kgのクロスボウで5mの距離から試し打ち >したところ、その距離でも目標に対する角度が大きい場合、矢やboltは弾かれることが >わかったし(正面からなら貫通しても)、マスケットの弾丸の場合も2/3はhelmetや >brestplateを貫通したものの、16世紀の上質の鎧を貫通させる事はできなかったという。 ぐだぐだコピペ乙。 このコピペの信憑性はどの程度なわけ? 張力30kgもなくても5mの距離からなら自動車の扉程度なら楽々貫通するでしょ。
71 :
世界@名無史さん :2006/05/30(火) 21:29:36 0
日本刀は主武器でなかったことは軍忠状統計などから明白だが 日本刀の威力は凄いんじゃない? 江戸期に罪人の死に胴で試し切りした記録があるけど 「童子切」安綱は六人分の胴を切断し、尚余って台座に斬り込んだ まぁこれは最高の刀だからか例外中の例外もしれんけど…
おいおい、安綱は日本6名刀か?のひとつだべ? んなのと比べんなよ
天下五剣の一本だな>安綱 では騎士の剣の最高峰は何だろ? その威力を示す逸話とかあるっけ… 勿論実在のもので
エクスカリパー 言ってみたかっただけだ。 ↓何事もなかったかのように再開
「ゾーリンゲンのナイフなら日本刀など簡単にへし折ってしまう」 と以前何かで読んだ気がする。
76 :
世界@名無史さん :2006/05/31(水) 00:58:05 0
>>67 >火縄銃など身分の低い足軽が使うもの
>最強の武器は日本刀だと理解できないあたり、
>武士道を知らん奴ばかりだな
逆宣伝乙w
武士は鉄砲足軽を指揮する士官役であったので、
当然自身も鉄砲の運用に精通していた。
飛び道具は卑怯とか日本刀が美意識に合うと言った世迷い事は、
幕府が朱子学者を利用したプロパガンダ。
日本刀が神聖視されるのは室町時代中期以降。
それまでは単なる汎用性の高い打ち物と言った位置付け。
77 :
世界@名無史さん :2006/05/31(水) 01:05:07 0
西日本で打ち物と言えば金砕棒で刀は副兵装。 頑丈な鎧着た奴には長柄の打撃兵器が有効。 日本の鑓は打撃に特化した金砕棒等の延長線上にある。 長いソケット状の茎のおかげで刀に折られる心配が無く打撃性能も高い。 スイス傭兵のピケーは日本の上代に使用された鉾と同じ袋槍だったので、 ランツクネヒトのフランベルクにポキポキ折られて負けた。 鎌倉時代には鉾が実用兵器として消滅した事から、 鑓>野太刀=フランベルク>鉾=ピケー
信長・家康は自身で鉄砲を好んで使ったし 島津や長曾我部は士分にも鉄砲を装備させたしな 部隊によっては士分一人一丁という高い装備率もあった
79 :
世界@名無史さん :2006/05/31(水) 10:00:43 0
ヨーロッパで火器が登場したときには教会人が「銃砲は地獄で作られた兵器」「悪魔の道具」 などと非難したそうだが、日本ではとくにそういう例はなかったと思う。 イスラム圏を通って伝来したという事情もあるのかも知れないが。
つかそのキリスト教徒が鉄砲を日本に売り込んだ 貿易品が無い西国の中小大名や豪族は鉄砲の玉薬の原料(硝石は当時国産化できていなかった)一樽と引き換えに日本人50人を奴隷として外国に売った 少年使節団が行く先々で酷い扱いを受ける日本人奴隷を見て衝撃を受けたことを記録に残している 九州征伐に来た秀吉がキリスト教禁教令を出した理由の一つがそれ(もっとも秀吉軍も朝鮮出兵じゃ人身売買やってるわけだが)
騎士と武士 コストパフォーマンス勝負 ・封建騎士 重歩兵装備の場合−約40ヘクタールの領地 重騎兵装備の場合−約150ヘクタールの領地 ・封建武士 徒武者の場合−100石取り未満(大抵は土地持ちではなく切米と言う形の給料をもらっていた) 騎馬武者の場合−軍役で騎馬を命じられるのは200石取り以上(100石取り以上から騎乗を許される) 1反から米2石の収益。 100石取りの領地は、約5ヘクタールの領地 200石取りの場合は、約10ヘクタールの領地 中世期の穀物の収穫量は作物と農法の違いもあり、ヨーロッパは日本の約1/10。 兵の動員数は 日本は人口20人につき一人の割合。(100石につき5人動員) ヨーロッパは人口100人につき一人未満の割合。
82 :
世界@名無史さん :2006/06/03(土) 18:39:55 0
中に入ってる人によります ってことでFA
83 :
世界@名無史さん :2006/06/03(土) 19:22:59 0
単位面積当たりの収穫量が格段に違うが、 手間も格段に違う。
84 :
世界@名無史さん :2006/06/03(土) 19:56:04 0
戦場で戦うのは武士と騎士だけという歴史観だな。
ヘクタールって何? マンスとかじゃないの?
ヘクタールっていうのは面積の単位だよ
87 :
世界@名無史さん :2006/06/04(日) 09:33:42 0
騎士の鎧って通気性悪くて熱がダイレクトに伝わってくるし、脱水症状起こしやすそうだなー。 特に中東なんかに攻めた日には大変だったろうな
秀吉なら熱攻め戦法を使う
89 :
世界@名無史さん :2006/06/04(日) 12:50:42 0
>>87 川に鎧を着たまま飛び込んで死んだ王様もいるシナー
90 :
世界@名無史さん :2006/06/04(日) 16:07:46 0
不思議に思うんだが、なんで西洋で同じような武装をしたの?
92 :
90 :2006/06/04(日) 17:45:23 0
西洋→東西
>>93 武士だって歩いて戦うんだって山野さんが言ってました!
95 :
世界@名無史さん :2006/06/04(日) 21:23:30 0
馬具20kg+馬鎧30kg+プレートアーマー25kg+騎士60kg+α 合計135kg+α 馬も品種改良のそれ程進んでない時代なんで騎士の騎馬突撃なんて嘘っぱちです。
そうすると、武田の騎馬軍団も嘘っぱちだな。
早歩きくらいのスピードしか出なかったとは言うけどね
騎馬突撃といっても従者や低い身分から徴集した歩兵を従えて、でしょ当時は そうなると逆に早すぎても孤立するだけだから
99 :
世界@名無史さん :2006/06/04(日) 22:24:22 0
騎兵は存在していたが重装化したことで機動性が落ち、重要性は低下した。 結局、装甲性を捨て機動性に特化した軽騎兵が再注目されるようになった。
100 :
世界@名無史さん :2006/06/04(日) 22:38:57 0
100ゲット
>>99 重装騎兵の衰退は、重くなって機動性が落ちたからというより、
クロスボウや銃砲の発達で重装が意味をなさなくなったからじゃないか
102 :
世界@名無史さん :2006/06/04(日) 23:36:34 0
重装騎兵は疲労の蓄積が酷かっただろうなー。うんこひとつするのも大変だったろうに。
まぁ、騎士を乗せてた馬もシャイア種みたいなのだから問題はなかったんじゃないかな。 ただ、我々が連想するナポレオンや西部劇に出てくる騎兵隊のような動きはしなかっただろうけど。 真っ直ぐに突進するだけなら問題は無さそうだ・・・細かい動きはできなかっただろう
>>4 ポーランドなんて西洋からすれば辺境の片田舎。
軍隊の数も多くなく、技術や装備面でもイギリスやフランスに比べて劣っていた。
その例をもってして「ヨーロッパ騎士団」を評価するのはおかしい。
また騎士の強さが全盛期なのは15世紀以降のフルプレート全盛期時代だということも忘れずに。
騎士の戦闘能力ということに関しては中世初期のほうが上。 これはなぜかと言うと、中世も中ごろになると騎士同士の戦いは様式化してしまい、 戦と言うより競技になってしまっているからです。 騎士同士による戦闘死亡率はきわめて低い。1会戦で数名と言うのが一般的。 これは騎士の戦いが相手を殺すためではなく、捕らえるために行われるため。 騎士は敵騎士を人質として捕らえその身代金を取ることで収入の一部を得ていたのです。 こんな騎士たちですから、一般兵の相手をするのをとても嫌いました。 相手を捕らえても身代金も出ず、なおかつ殺されてしまう可能性が極めて高い(相手は殺す気満々) 戦うだけ損なわけです。 よって、一般兵の相手は一般兵に任せて、露払いが住んだ後で騎士同士の戦いに入るというのが 中世における戦闘では一般的でした。 そんなところにそういったルールなんかお構い無しのモンゴル騎兵が襲い掛かったらどうなるかはお察しください、というところ。
>騎士の戦闘能力ということに関しては中世初期のほうが上。 初期の十字軍の残虐さがすごかったらしいしね。 武士は時代が下ったほうが強いのかな? 装備は互いに同じにして騎士同士・武士同士、 初期vs後期で勝負させてみたいな。 戦術面・組織面からいったら後期が強くて当然なんだけど…。
モンゴル騎兵が強かった理由のひとつとして、パルティア王国が取っていた戦法について調べると参考になる。
上手く口車に乗せようとしてる奴がいるが、 上であがってた戦いはモンゴル軍15万対ポーランド連合軍3万(しかも農民が多かった)という特殊な状況だろ。 それにモンゴル軍とはいっても実際その半分以上はトルコや東欧の民族から構成されていた。 こういうことは議論しないのか?
するわけない。 ここでは自分の印象でものを語るので史料なんて全く価値の無いところだから。 >>上であがってた戦いはモンゴル軍15万対ポーランド連合軍3万(しかも農民が多かった)という特殊な状況だろ。 リーグニッツの戦いは結構、諸説があるみたいだね。モンゴル軍が兵力で圧倒していたとするものや そもそもこの戦い自体、小規模で取るに足らない戦いだったとか。 中世軍事史は90年代に入るまであまり詳しく研究されてこなかったらしく最近になって色々見直されてる
>>上であがってた戦いはモンゴル軍15万対ポーランド連合軍3万(しかも農民が多かった)という特殊な状況だろ。 その点は勘弁してやれ。 当時のヨーロッパで常備軍を抱えている王や太守は存在しないんで、兵士は農民と言うことになる。 と言うかよくこれだけ動員できたと感心すべき。 モンゴル軍のほうは実質的には3万とか4万とかだったらしい。 残りは108の言うとおり現地でかき集めた連中(モンゴル軍の常套手段) 実際モンゴル軍のほうも手痛い打撃を受けて最終的には撤退している。
111 :
世界@名無史さん :2006/06/06(火) 11:45:46 0
モンゴル軍が撤退したのはオゴタイ・ハーンが死んだからで、ヨーロッパで 手痛い打撃なんか受けてないぞ。
戦闘でモンゴル勢力を撃退したのは騎兵戦に向かない地形のところがほとんどでしょ 例外がエジプトぐらいで
モンゴル兵5万人であとはかき集めて15万人ですね。 その大群をもってしてもポーランドのリグニッチャ要塞を落とせなかったのです。
>>113 そもそもリーグニッツは攻囲されたのか?
あいかわらずの低レベルスレ。 久々に見てがっかりした。
煽りはスルー
世界史板は学問板なので、 本当にレベルの高い人間はより盛り上がるレスを出す。 ただ低い低いと言う人間は煽りでは無く無能の類。
書き込まないだろ。
119 :
世界@名無史さん :2006/06/17(土) 15:33:02 0
騎士のキリスト教は貞操観念やらで同性愛を禁止しているが、 武士の世は信長の小姓・森蘭丸が有名なように、 男色にも寛容な文化であった。 古代ギリシャにおいて少年愛が一般的とされていたように、 同性愛に理解のある社会は発展するのである。 よって武士の文化の勝ち。 ホモが嫌いな女子なんていません!
書き込んでるのはこういう低レベルな奴ばかりなんだよな。
121 :
世界@名無史さん :2006/06/17(土) 16:08:39 0
>>120 ならば貴兄が進んで高レベルな話題を振り向けるべきだと愚考するが
盾武士で驚くほどの回避率を誇る侍に一対一のモンス戦くらい しかいいとこのない騎士ごときでは相手にならんよ・・・
>>37 ボケェ!!
なーんで当世具足で機動性が失われるんだよ!!
中世の大鎧のほうが機動性が上だったとでも言いてえのかよ!!
死ね!!
テメエみてえな知ったかぶりのオナニー野郎はコンクリートに頭ぶつけて少ない脳みそ地面にぶちまけて死ね!!
125 :
世界@名無史さん :2006/06/17(土) 22:49:39 0
モンゴル軍15万のうち、モンゴル人はどれくらいなの? 残りは征服民?
127 :
世界@名無史さん :2006/06/21(水) 11:14:37 0
剣術の形態の違いでしょ。片手持ちなら中東のような形がベストと思われる。 これなら相手の刀を薙ぎ払う時に局地的な力のモーメントを圧縮と引張に分散して強度を増し 圧縮力しか力を負担できない直刀相手なら折る事も可能になると思える。 日本刀は切り結ぶ事を念頭に作られてると思う。あくまで予想だけど
128 :
世界@名無史さん :2006/06/21(水) 11:16:47 0
>圧縮力しか力を負担できない 引張力だった。スマソ
129 :
世界@名無史さん :2006/06/21(水) 15:15:14 0
圧縮と引張を理解出来ていない頭の悪い子がいらっしゃってますね^^; 刀剣にそんな力が作用しているとは初耳ですw ついでに湾刀でも直刀でも加わるせん断力は均しいと思いまーす!
レベル低くてもいいからせめて過去スレくらいは目を通して来いお前等。
↑と、低レベルの人間が御立腹です。
133 :
世界@名無史さん :2006/06/22(木) 15:53:36 0
実践で使われることのない刀の性能差なんてどうでもいい
>>126 アラビア語の「サイフ」もペルシア語の「シャムシール」も「刀剣」という意味の
普通名詞なので、片刃とか曲刀といった形状までは含意していない単語。
テュルク語では「クルチ」というがこれもやはり形状までは分らない。
(ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーンとかいうときの「クルチ」はこれ)
中東地域で「シミター」に連想されるような曲刀が表れるのは実はモンゴル帝国時代からで
セルジューク朝時代ころまでは直剣だったのではないかと考えられている。トルコのトプカプ
博物館に収蔵されているアッバース朝時代のものと伝えられる各種の剣はすべて両刃の剣で
あるし、わずかに残るアイユーブ朝やセルジューク朝の絵画は概ね直剣が描かれているが、
14世紀以降、イルハン朝やジャライル朝、さらにマムルーク朝時代に描かれた絵画資料に
現れる騎馬戦士たちはほとんどが片刃の曲刀を振るっているからだ。
多分、
>>126 のサイトで出ている元ネタになったサイフやシャムシールは17世紀以降の
イランやその影響にあったアラブやシリア、エジプトなどの刀剣を模した物のように見える。
>>127 剣術というかもっというと戦術の違いだと思う。モンゴル帝国などの遊牧騎馬戦士の場合、
長距離〜接近戦までのスパンで、馬上から弓矢で遠近の敵に矢を射掛け、槍で突撃し、
そのまま馬上から片手で刀や戦斧、鎚矛を振るってこれまた馬上の敵に白兵戦を挑むよう
一人でこれらの動作を全てこなせて一人前だったので、弓矢を除くと槍や刀、楯は片手用に
出来ていた。
長距離、近接を問わず馬上戦闘を前提としていたので、刀も自分の腕を延ばして馬首を超えて
相手まで剣先が届くほどの長さが必要だった。モンゴル時代のモンゴルの騎馬兵が用いていた
刀剣は刃渡り、あるいは刀の全長が1ガズ、つまり約95cm前後だったようでこのくらいの
長さがあれば近接戦闘で馬上から騎乗している敵を攻撃するのに充分だったのだろう。
長さについては日本の太刀、それも野太刀とかあるいは大太刀と同規模でかつ片手用だったと
いえば想像がつくだろうか?
近接戦闘でつねに敵に刀で打ち続けているような状態だと、力学的に打おろされる方向に
刀身が湾曲していた方が刃の向きが一定し易いとかいう説明を何か日本刀についての本で
見た気がする。スクリューに曲線をもった羽がついているのと同じ理屈だとか。
>>137 >中東地域で「シミター」に連想されるような曲刀が表れるのは実はモンゴル帝国時代からで
>セルジューク朝時代ころまでは直剣だったのではないかと考えられている。
するとヨーロッパの方がサーベルが入ってきたのは早いのかな?
たしかアヴァール人が持ち込んだのだとか。最初は片刃の直剣だったらしいけど。
ハザールもスラヴ人が貢納として持ってきた両刃の剣を忌んだとかいう話がある。
フン族やササン朝の騎兵はかなり長い両刃の剣を使ってた。
アフロディシアスという所で発掘されたササン朝末期の剣は、写真で見ると人の身長とほぼ同じ・・・
>>139 「はっきりと確認できるのは」モンゴル時代からとただし書きをつけるべきだったかも知れない。
ハザールの墳墓からくさり帷子や尖頭型の兜に加え、刃渡り1mくらいの長大な曲刀が出土してる
(片手用だったらしい)からもともと突厥というかテュルク系の遊牧民族で10世紀前後には曲刀が
使われていたとみて間違いないと思う。
サマルカンドのアフラシアーブの丘の壁画に出てくる人物達はソグド系や突厥系を問わず、片刃か
両刃かは分らないが細長く全長1m強くらいありそうな真直ぐな刀剣を腰から下げている。
一方で中央アジアに現存する突厥時代の石人では柄の部分だけ外側に曲った刀剣をはいているものが
いくつか確認されている。平安時代初期の太刀に酷似した形状だ。
問題は同じ系統のはずのセルジューク系やガズナ朝、ホラズムシャー朝などの
オグズ系やカンクリ系のテュルク系諸民族の連中がイラン・中央アジアで実際どのような武装を
していたのかが今一つ分らないこと。
時代や出自を考えればハザールと同じ武装をしていてもまったく不思議じゃないが、モンゴル以前は
絵画資料が極端に少なく、武器などの実物も残りが悪いので中東における曲刀の出現は十三世紀ころ
だろうという慎重説に留まっている。ニザームルムルクが『政治の書(スィヤーサト・ナーマ)』
あたりでマムルーク軍人の武装の種類だけでなくて形状まで細かく書いてくれれば良かったかも
知れないが。
それにしても
>>132 のサイトは実に素晴らしい!
モンゴル時代を中心に中央アジアの出土した刀剣だけでなくて弓や鏃、矢筒や弓袋、
ベルト、甲冑に戦斧や鎚矛まで扱っているのは貴重この上ない。
>>132 氏に感謝。
142 :
世界@名無史さん :2006/07/14(金) 00:26:11 0
>>138 >長さについては日本の太刀、それも野太刀とかあるいは大太刀と同規模でかつ片手用
NHKとかで見たモンゴル騎兵の再現映像だと、
けっこう短そうな曲剣を持ってるように見えたんだけど、
あれはたまたまだったのか、考証が間違ってたのか、目の錯覚か…。
NHKの「大モンゴル」でモンゴル騎兵が振り回していた刀が、何となく長さ1m弱くらい ありそうな感じだった。刀身の中ほどから二ケ所程ゆるく外側に曲っているような 形状の物が出ていたのをおぼろげだが覚えている。
日本刀がなぜ曲がってんのか?これといった定説は無いと思うが、 日本刀に関して言えば「曲がってる方が、鞘から抜きやすい」これが僕の一押し。 鎧の上から「引っぱたく」のに真っ直ぐも、曲がってるのも関係ないっしょ? ドラクエ8の主人公、あれ絶対に剣抜けんぞ(直刀だし、柄が頭の右っ側!)。
そういえば、刀を背負うときは柄は左側にくるとか説明してる本を読んだ事があったが どんな理由だったっけ? 忘れちゃった。
背負った刀を抜くときの条件は、湾刀を、刃を下側にして、柄を頭の左側にする。 こうすると鞘の形と腕の動きが一致するのでうまく抜ける。 1コでも違うと非常に抜きにくい。根性で抜いたとしても、今度は鞘に戻せない。
147 :
世界@名無史さん :2006/07/29(土) 02:25:55 0
日本のように湾刀を、刃を上にして腰に差すのは世界的に見ても珍しいのではないか。
製造過程で自然と湾曲するんですよ。>日本刀 馬上で打ち込み易いからだという論もありましたが。
それは初耳。 草薙の剣や聖徳太子が付けてる剣は真っ直ぐですが、製法が変わったんですか?
草薙とかは青銅製だと思われるので、 そもそも同じくかたれないでしょう
湾曲というよりは、反りですね。 11世紀には反りの入った太刀と大鎧の原型が成立しています。 10世紀末の作品とされる太刀も現存していますが、疑わしい。 分かり易い人名で言うと、藤原道長や紫式部の時代に出て来るか来ないかと 言ったところです。1130〜1150年頃に成立した『今昔物語集』に出て来る 刀は、もう太刀だったと考えていいでしょう。 >聖徳太子が付けてる剣 太子の肖像は本人よりやや時代が下りますが、それでもこの頃は直刀ですよ。
フツノミタマとかいう古代刀は逆反りの刃になってるんだよね。 トルコの「ヤタガン」と似ていて興味深い。
154 :
世界@名無史さん :2006/07/30(日) 10:48:14 0
ユーラシアの騎馬民族の間ではサーベル状の刀の前段階として 片刃の直刀が使われてたらしいけど、日本でもそういうのがあった?
157 :
世界@名無史さん :2006/07/30(日) 18:09:26 O
ガチャピンが撮影に来たことがあります。 思ったより小さくて(155cm位?) 中に人が入っていると思ってた私は、その大きさがリアルに怖かったです。 動きも妙に俊敏で、周りからも孤立していて薄気味悪い存在でした。
159 :
世界@名無史さん :2006/07/30(日) 21:06:53 0
なるほど、面白い。 切先が角ばってるのがなんか日本的?
尖ってるから「切先」と言うんだが…。 でないと刺せないよ。 日本的も何も無い。
そうじゃなくて刃がまっすぐ上に伸びてから 剣尖近くで斜め上に角度をつけて曲がって 切先をなしているでしょ? 騎馬民族のは直刀でももう少しゆるやかな カーブの切先だったと思った。
>>162 いや、だからね。
中国から伝わった直刀も同じような形状してるの。
考古資料とか見れば分かるよ。
おいおい、七星剣を日本発祥だと思ってる奴が居るのか。 何が日本的なんだか。 無知のくせに偉そうに「なるほど、面白い」だってさ(失笑 面白いのはお前の頭。
>164 聖徳太子の剣が七星剣だってことすら今初めて知ったよw 日本史に疎くてすまんね
168 :
世界@名無史さん :2006/08/04(金) 22:37:53 O
oiがeに変化するなんてしんじられません
年寄り(プ
170 :
世界@名無史さん :2006/08/14(月) 03:16:45 0
騎士じゃないが、ファランクスを見てると日本の武士は鉄砲無しでは勝てる気がしない。 概ね武士が勝てるなら、誰か説得力のある解説頼む。
171 :
世界@名無史さん :2006/08/14(月) 04:14:07 O
武士と騎士のどっちが強いかって言うなら1対1を考えたほうがいいんでないの? しかも飛び道具なんて邪道なものつかわない勝負
172 :
世界@名無史さん :2006/08/14(月) 04:27:01 O
騎士のイメージって鉄鎧盾装備の重武装で剣は切るものじゃなくぶったたくもんでしょ? 対する武士イメージって、装備は鎧甲冑はあるものの鉄鎧より軽装で、刀は切るものでしょ? イメージ通りの装備で戦うなら 刀では鉄鎧や盾は切れない、だが武士は身軽で俊敏 対する騎士は鉄鎧が重くて動きが鈍い でも防御力の高い騎士が勝つ?
武士のメインウェポンは太刀や打刀ではなくて弓や槍だからその辺も考慮に 騎士も馬上では剣はつかわなかったっぽい。騎乗槍だね。
某スレからのコピペ 98 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2006/03/14(火) 19:46:32 0 もし日本の足軽とドイツのランツクネヒトが戦ったら まず戦闘は銃撃戦から始まるだろう。 ランツクネヒトの中隊400人のうち少なくとも50人は火縄銃兵だったというから、銃装備率は最低でも約12%だ。 それに対して日本では鉄砲隊の活躍で有名な長篠の戦いですら、3万5千の織田・徳川軍が3千挺の銃しか 装備していないので(千挺という説もある)、銃装備率がやっと12%に届いているという有様だ。 要するに、互角の兵力なら火力の勝負ですでに圧倒されている可能性が高い。 銃を撃ちつくして接近戦が始まると、重装甲のドッペルゼルドナー(倍給傭兵)がハルバードや両手剣を振り回して 足軽の槍衾を左右に払いのけながら斬りこみ、その後からパイク兵が密集隊形で前進して長槍を突きこんでくる。 比較的ゆるい隊形で戦ってる足軽はこの猛攻に耐え切ることが出来ず、戦死者を残して壊走するのだった・・・
176 :
世界@名無史さん :2006/08/14(月) 11:15:42 0
>>170 武士の緒戦は楯をバリゲードにして矢衾を展開するので
ファランクスは接近戦に持ち込む前に全滅だな
>>172 騎士はホーバークと呼ばれる鎖帷子だ。
ロングボウとクロスボウが登場して以降は板金になるが
機動力は落ちるは傭兵を避けて騎士同士でしか戦わないはと
重装化と戦闘における騎士の存在意義が低下した時期は重なる。
>>175 長篠合戦は鉄砲が本格的に集団戦術化した日本に最初の戦争だ。
爆発的に取り入れられるのはそれ以降になってからで
長篠合戦から装備率を割り出す事自体認識不足な話だ。
朝鮮の役における日本側の「唐入軍役人数島津家分覚書」では
鑓300本に対して、鉄砲1500丁に弓1500張だった。
構成比率は鑓約9%、鉄砲約45%、弓約45%となる。
177 :
世界@名無史さん :2006/08/14(月) 15:34:43 0
>>171 一対一は個人差が大きすぎて意味が無いし、
世界史板じゃなくて武道・武芸板とか別の板向きの話題になっちゃうべ。
弓術向上だって武士の立派な鍛錬の一つだったし。
「立派な鍛錬の一つ」じゃなくメインなのでは?キューバの道ってそういう事でしょう?
180 :
世界@名無史さん :2006/08/14(月) 17:41:06 0
>>177 集団の戦術とかになると、やれ数が多いとか、やれ火力が強いだとか、戦い方とか
不確定要素が多くてややこしい、実際戦ってないのだから・・・
より公平な?条件を基準としてみなきゃ、どっちが強いかわからないじゃん
それならば、一対一の方が、わかりやすい
基本的に同じ人間だけど、騎士は騎士なりの装備があり、武士は武士なりの装備がある
一番の差がでるのが装備の違いやろ
一対一ならフェア-で単純かなって思ったんだが・・・ダメですかね?
飛び道具を省くのは・・・
ほとんど一発当たれば勝敗を決してしまい、西洋問わずそれこそ個人差と運?
で終わってしまうであろうから
>>180 >集団の戦術とかになると、
おいおい集団での戦略・戦術を否定したら、戦史の価値も無意味になっちまうよ。
>一番の差がでるのが装備の違いやろ
同じ騎士・武士でも地域・時代によって全然違う装備になるんだが…。
>一対一ならフェア-で単純かな
単純にやりたかったらここ以外の板へ行ったほうがいい。
ここは理詰め大好きさんばかりなんだから。
182 :
世界@名無史さん :2006/08/14(月) 18:10:21 0
>>175 あの時代の日本の銃の総数はヨーロッパより多いんだが
すげえよな。火縄銃のまま性能UPしてって、命中率とか上がったわけだろ? 西洋ではフリントロックとかに移行していったのになw
>>182 それよく聞くけどどうやって計算したんだろう?
特にヨーロッパの方。
>>180 一騎打ちでどちらが強いか比べるのははいいと思うんですが、
「騎士は騎士なりの装備があり、武士は武士なりの装備がある、一番の差がでるのが装備の違いやろ」
と御自身でも言ってるように、武士が騎乗したまま戦っていた頃(平安〜南北朝)のメインアームは弓なんです。
だから飛び道具禁止だと「騎馬弓兵」としての武士の存在価値が無くなってしまうので・・・
よって一騎打ちを仮定するなら、トーナメントのジョスト(お互い馬に乗って交差するヤツ)方式で
武士の武器は弓というのが公平な戦い方でしょう(実戦的ではありませんが)。
交差するまでに弓でやっつければ日の勝ち、出来なければ欧の勝ちとなるはずですが・・・
矢は何本くらい撲てるのか、チェインメイルとカイトシールドで弓はどの程度防げるか僕には分からないので・・・ゴメンナサイ。
日本でいうと源平合戦の頃に、ギリシャでノルマン人の重装騎士と イベリアのアルモガヴァル軽騎兵が決闘した記録がある。 ノルマン人騎士はランスを構えて真っ向から突撃したが、 アルモガヴァル軽騎兵は馬を狙ってジャベリンを投げ、ランスをかわし、 落馬した騎士に飛びかかって首筋をダガーで押さえ勝利したという。 当時の弓矢を装備した武士ならもっと簡単に勝てるだろう。
187 :
世界@名無史さん :2006/08/14(月) 19:01:39 O
それじゃ、騎士は弓を持った敵を相手に弓を使わずランスで突っ込ん行くほど無謀だったの?w 現代風に言えばピストル相手に刃物で立ち向かうようなもんじゃないかw
一騎打ちするにしても何故武士が敵に向かっていかにゃならんのかと。 変則になるが、今の流鏑馬見たく横射ちすればいいじゃない。
189 :
世界@名無史さん :2006/08/14(月) 19:08:31 0
そもそも比較する事自体がナンセンスだと
>>150 草薙剣は天目一箇神が鍛えたということになっているから、鉄剣だろうに。てつ
世界中、大抵の神話で、鉄の神様は隻眼だでよ。
>187 無謀でした。 オマケに「飛び道具を使うような奴は根性なし」と見なされていたので、弓を装備することもなし。 しまいにはローマ教会に「クロボウ禁止」とかしてもらう始末。 それに騎士は農民兵を相手の戦いを嫌っていた。 相手はこちらを殺す気満々なうえ、捕虜にしても身代金が手に入らないという 当時の騎士にとっては危険ばかり多くてまったく得にならない相手だったのだ。 そういうわけで、戦いの最初は農民兵同士で戦わせて、後半騎士同士の戦いとなるわけ。 中世の騎士の戦いは、重装甲に頼った正面突撃一点張りの、 戦術的に硬直したものなのでいくらでも対処可能なのよ。
>>188 流鏑馬は多分実戦向きじゃない(おそらく訓練用?)。停まってる的ならともかく、
相手も動いてると、自分・矢・相手の各運動方向を考慮した未来位置に撃たなければならず難しい。
WWTの空中戦ではじめ機銃手を別に乗せ横方向に撃ってたのが、後に機首に固定し
進行方向に撃つようになったのも同様の理由。後三年合戦絵詞でも義家は進行方向に弓を構えている。
最もこれはあくまで推測。当時のコンバットマニュアルなんて残ってないので・・・と言うことでした。
犬追物とかでも前方射撃なんだから、基本は前方でしょ。 一騎打ちするならわざわざ騎士に向かっていく必要は無い。 横射ちなりパルティアンショットすりゃいいでしょって事。
それを言ったら、騎士側だってわざわざ飛び道具持ってる相手に近づく必要はない。相手の矢が尽きたところで・・・ってなるでしょう? もともと「実戦」では郎党や従者といっしょに戦うのを、あえてタイマン張らせてるんだから、 ルールを仮定しないと、タイムオーバー両者失格ってのが一番現実的。
流鏑馬の横射ちって後世に創作されたものだろ。 もともとは前方に弓を射ていたという説が有力。
一騎打ちだったら武士の圧勝。 日本刀は世界でもっとも優れた刀剣で、西洋式の甲冑ごとき紙のように切り裂けるからだ。
武士は刀より槍、槍より弓ですが。
西洋ではそうだな。
>>196 普通すぎ
もう一歩面白いこと言ってください
>西洋式の甲冑ごとき紙のように切り裂ける ソース メイル・ホウバークが相手なら弓矢か槍の方がいいだろうな。
201 :
世界@名無史さん :2006/08/14(月) 21:22:07 O
なんか聞いてると騎士って、ただ紳士なだけでルール無用のなんでもありな相手だと弱そうだねw 戦争では騎士より従者や傭兵たちなど身分の低くそうな連中が実は強かったってオチ?w
騎士も異教徒相手には容赦ない。 要はヤル気
>なんか聞いてると騎士って、ただ紳士なだけでルール無用のなんでもありな相手だと弱そうだねw 元寇初期のサムライ並にね
>>186 アルモガヴァルって検索しても出てこなかったけど
検索して出なかったら実在しないらしい
>実在しない そうなん? 捏造って意味?
207 :
世界@名無史さん :2006/08/14(月) 22:47:53 0
実際には武士や騎士は一騎打ち以外では戦わないだろー 実際に殺し合いをするのは末っ子やニートを集めた足軽部隊。武士は後ろで命令するだけ。 比較するなら西欧軍vs日本軍にした方がいいんじゃない。
>末っ子やニートを集めた足軽部隊。武士は後ろで命令するだけ。 ……。
厨スレには厨しか集まらない法則
流鏑馬:実戦と狩猟に疎い、都の貴族・都の武士の娯楽。
212 :
世界@名無史さん :2006/08/15(火) 01:48:39 0
>>175 それってかなり悪質なインチキ論理だよね。
長篠の戦いの時の織田・徳川軍は全体で3万5千もの大軍を動員したから、その
中に占める銃装備率が下がってしまったんだろ。
ランツクネヒトと互角の兵力で戦うのなら、銃装備率なんかいくらでも高める
ことができた。
長篠の戦いで信長は酒井忠次率いる別動隊4千を編成しているけど、その部隊には
徳川軍から選抜された弓兵・鉄砲兵2千と織田軍の鉄砲兵500が含まれていた。
>>175 に従えば、ランツクネヒトが4千人ならその中の火縄銃兵は500人位だろ。
互角の兵力なら火力の勝負で圧倒されるのはランツクネヒトの方じゃん。
ドイツ側も「少なくとも」12%って書いてあるから融通はきくんだろう。
実際スペイン方陣なんか、16世紀末ごろには長槍と銃の比率が
1:1にまでなってたらしいし。
それより
>>175 で問題なのは、鑓を振り上げて「叩く」という
足軽独特の戦術がまったく考慮されてない所。
あれを欧州のパイク兵に対してやったらどういう反応になるのか
ちょっと想像がつかない。
それに銃を撃ち尽くしたら、白兵戦の前に弓を使うだろう(江戸時代の軍学書でもそうなってるそうだ)。 日本の弓は複合弓なので、かのロングボウより強力(最大射程で前者300m、後者250mもちろんバラツキ有り)。 そう簡単には接近戦になんか持ち込めないはず。 最も僕が司令官なら双方とも、弾薬をタプーリ用意して弾切れならない様にしますが(笑)。
弓一つが強力でも連射能力と数が多くないと勝てないのが戦争 弓が強力であれば一つ打つ時間もかかるし、使用できる 人間も限られてくる。
216 :
世界@名無史さん :2006/08/15(火) 03:47:59 O
関係ない話題ですが… ジェットリーの映像HEROだっけな 矢の雨あられが降る映像はすごいね、実際の戦争で弓矢隊がいっぺんに矢をはなったらあんな感じなんだろうね? 長距離の弓矢は放物線を描いて落ちるはずだから盾を傘がわりにして防ぐんだろか まさか剣ではじくなんて芸当はしないよなw
217 :
世界@名無史さん :2006/08/15(火) 03:49:51 O
ジェットリーの映像× ジェットリーの映画○
>>215 確かにそれは正しい。
ただしここは騎士と武士に関するスレ。
弓は武士のメインアームの1つなので大概の者はそれなりの鍛錬は積んでいる。
武士は「使用できる限られた人間」なのだよ。
数については
>>176 参照
>弓が強力であれば一つ打つ時間もかかるし、使用できる >人間も限られてくる。 トルコ弓なんかは100ヤード以内なら甲冑も貫通できたそうだが それでも熟練した射手なら1分間に6本の矢を放ったという。 クロスボウや火縄銃なら1分間に1発程度。 ただ訓練するのに時間がかかり、射手が大量に戦死しても 簡単に補充できないのが難点。 この点銃は工業力や人口を直接戦力に結びつけられる利点がある。
220 :
世界@名無史さん :2006/08/15(火) 11:08:14 0
弓使いは猟師のほうがうまい奴がかなりいただろう。初期の武士は乗馬出来ることが条件だった。
221 :
220 :2006/08/15(火) 11:10:43 0
武士のスタイル 胡服騎射 ↑2ピース
なんでこのスレは武士っつったら騎兵って事になってんの?
224 :
世界@名無史さん :2006/08/15(火) 12:53:18 0
>>223 平安〜鎌倉時代の武士の話だろ
どっちかというとモンゴルスタイル。
重武装の欧州、シナとは戦術が違う。
225 :
世界@名無史さん :2006/08/15(火) 13:09:53 0
>>222 武士の騎射戦術は律令武官の戦術。
唐獅子紋錦のパルティアンショットが原型。
226 :
世界@名無史さん :2006/08/15(火) 13:16:08 0
武士は将軍になれるが、騎士は国王になれない よって武士の勝ち
227 :
世界@名無史さん :2006/08/15(火) 13:21:25 0
>>226 国王ってイッチャン偉い騎士なんですが・・・
その理屈だと武士は天皇になれないので、騎士の勝ちになっちゃいます。ダメです。
質問、宰相とか左右中将とかは武士なの?
>>225 >律令武官の戦術
古いんだよね。その神戸史観。
蝦夷や東国坂東の騎馬狩猟民が技量の原点。
中央の武官は流鏑馬しかないし。
231 :
世界@名無史さん :2006/08/15(火) 14:34:20 0
騎士が変なプライドで飛び道具使えないというのはわかった 武士が武器を飛び道具にした段階で騎士の負けでしょう でも西洋にも飛び道具がある、飛び道具同士で戦ったら殆ど装備の差がでない んちゃう? ここは、フェア-に白兵戦ではどうよ? 武士もちゃんと白兵戦は想定した武装もあるでしょ このスレは、武士擁護派が多いね、騎士擁護派は少ないの?w
なんで弓主流の武士が接近戦やらにゃならんのよ
下馬して剣での戦い(ジョストでも決着付かないときはそうなった)では、 盾を持ってる上、鎧も大鎧よりチェーンメイルの方が軽いので、騎士の方が有利だろう。 相手のドヒョーで戦えばそっちが有利なのは当然ではある。
235 :
世界@名無史さん :2006/08/15(火) 15:13:31 0
>>230 山がちな日本に騎馬狩猟民なんていない。
後年に東国で騎射に長けた人間が多かったのは
漢人坂上田村麻呂の蝦夷征討で技術が伝播しただけ。
蝦夷征討で朝廷側が勝利した理由は馬による機動性の優位性。
蝦夷は狩猟民だが騎馬民族ではない。
>>231 装備の差を無視してフェア?
飛び道具があるから互角なわけがない。
ヨーロッパで弓兵の育成が進まなかったから
訓練せずに玉が飛ぶ弩や鉄砲が主体になった。
発射速度や飛び道具の総数程度は考えろ。
236 :
世界@名無史さん :2006/08/15(火) 15:18:06 0
>>234 弓馬相撲の道だから武士が馬を射て、
騎士が落馬して脳震盪起こしている所を
喜々としてお得意のお相撲で組討して
騎士の首を狩ってオシマイ。
ジョストでは馬を突っつくのはNGだったので・・・ 実戦ではどうだったんだろう?時代が下ると馬も鎧を着せてもらえたけど、あれは飛び道具対策だよな。 でも重いし、汗蒸れるし、馬カワイソッス。
>>235 放っとけ。阿呆に何言っても通じやしない。
それなりの頭があれば言われるまでも無く気付く。
239 :
世界@名無史さん :2006/08/15(火) 16:17:17 0
>>235 ヨーロッパで弓兵の育成が進まなかったから
クレシーの戦いを知らんのか?
どこの国にでも弓矢が主力。騎射は欧州では、はやんなかったがな。
お前は槍一丁かついで敵陣に突っ込むガッツあんのか?
主力は一応騎士だろ。投射兵科は陣形崩しと突撃阻止と最初の撃ち合い位だと思うが。 主力の弓兵は騎兵に踏み潰されても構わないとか考えるヨーロッパ人はすごいね。 あと、イギリスは特殊だから省いた方がいいんじゃないの。 イギリスがヨーロッパの全てって言うなら知らないけれど。
いや、弩弓兵は不利になったら逃げただろ。クレッシーでもそうだったはず。
242 :
世界@名無史さん :2006/08/15(火) 16:41:13 0
戦争の主力 自然 弓矢⇒弩⇒火縄銃 不自然 槍⇒火縄銃
投射だけじゃ敵を完全には倒せない。 中途半端に痛めつけた挙句、篭城されてはお話にならない。 だから最終的に武士も楯突戦の後に馳組戦に移行する訳で。 日本は武士が投射具も白兵具も備えていた。一方ヨーロッパではそうではなかった。 より打撃力のある騎槍を主力に置いて、投射兵科をその支援に置いた。
244 :
世界@名無史さん :2006/08/15(火) 16:54:08 0
>>243 中世の戦じゃそんなに死者出てないだろ。
今で言う選挙の代わりみたいなもんだから。
>>235 騎馬民族?言ってないけど・・・。
弓馬に長けてたのが北東北の蝦夷で、弓馬に疎かったのは朝廷側なんだが。
畿内西国は馬の産地じゃないし。
蝦夷より重い甲冑(桂甲)で、機動性などないよ。
日本での馬牧の分布地帯は東国の丘陵地が主に中心。
起伏に富んだ地形に馬を乗り入れ、巧みに操ったのが東国武士。馬場では習えない。
狩猟と俘囚、狩猟とつわもの、狩猟と武士。
それと坂上田村麻呂は漢人ではない。
自称漢人だからいいんじゃないの
>>246 加藤氏など最近の研究では、漢と漢氏を結びつける見解はあまり出されてないような。
加羅,安羅とアヤ=漢で考えて、それ以前についてはあまり考慮されてない感じ。
漢人は、漢直の組織下にあたる漢人(あやひと)の意味もあるけどね。
>>233 見落としてた。
近藤,福田,五味,中澤氏に伊藤氏とか。あと『的とえな』とか面白い。
古代史の松本,森氏とかも。
248 :
226 :2006/08/15(火) 18:26:52 0
>>228 そうなの?
ナイトの称号って活躍した平民が頂戴するものだと思ってたよ
もうちょっと勉強してみる
西国軍団騎兵はどこで徴発するの?藤原広嗣の部下とか。 東国から連れてくるのは大変だし、西にも産地があったのかな。
>>249 軍団兵士は歩兵中心。
西日本は牛の産地ではあるが、馬が生産されなかったという事ではないよ。
西国の郡司子弟も騎兵だし(郡司子弟=後の武士の源流にも繋がる連中)。
それと西国の中で九州は馬の産地だよ。日向隼人、きりょうの児とか。
騎士の戦法も対イスラム、対モンゴルなど異教徒相手にやったやり方で考えるべきだろうね。
1vs1はどうなるかはわからないが集団同士の戦いの場合 15cの重装騎兵の突撃をまともに食らったら縦深のあるパイクの密集隊形じゃない限り 防ぐのは難しいな もし弓装備の武士>槍装備の騎士なら ロングボウ装備の歩兵>弓装備の武士になる
253 :
世界@名無史さん :2006/08/15(火) 23:45:00 0
>ロングボウ装備の歩兵>弓装備の武士になる ↑これの根拠は何だ?
同じように弓で打ち抜けるなら徒歩の射手のほうが騎乗の射手より有利。 武士が騎乗してるという前提で。徒歩なら話は別だが。 自分としては 弓装備の武士>槍装備の騎士 ロングボウ装備の歩兵>弓装備の武士 とは思ってないけどね
>>241 ジェノヴァ弩兵の戦法はまず大盾をもった兵士が前面に展開して
その背後から射撃をはじめるんだが、クレシーの戦いでは大盾の
用意ができるまえに前進させられた。
256 :
世界@名無史さん :2006/08/16(水) 00:31:50 O
>>251 騎士は何も考えずに槍突撃しましたが、何か?
モンゴルはともかくイスラムには結構、それで勝ってる
258 :
世界@名無史さん :2006/08/16(水) 00:39:03 O
>>239 ロングボウマンを育成できたのはイギリスだけだ。
他国は育成に失敗し、わざわざイギリスからロングボウマンを雇った。
そもそもヨーマンは騎士では無い。
どういった装備の騎士と武士が どういった状況で戦わせるのかな? 集団対集団なら戦術や装備で比較できそうだ。 1対1ならリングの上でいいよ
>>251 戦術的にはあんまし変わんないみたいだが。
十字軍では攻城戦が多くチャージ戦闘の出番が余りなかったのと、手加減無し位かなあ(スマン詳しくない)。
初期はイスラム兵の弓の方が性能が良かったが、3回目辺りでヨーロッパでは禁断の兵器クロスボウが登場し、
ヨーロッパ内でも使われるようになったとか・・・
261 :
世界@名無史さん :2006/08/16(水) 00:46:08 0
>>252 15cの重装騎兵の突撃をまともに食らったら縦深のあるパイクの密集隊形じゃない限り
防ぐのは難しいな
そんなノロマ誰がビビるんだ?
ビビるかどうかは知らないがその場で食い止めるにはそれ以外、方法が無い。 まぁ地形もあるけど。
263 :
世界@名無史さん :2006/08/16(水) 00:54:05 O
>>245 東北=良馬の産地と言う妄想だけで話しているのか?
東北の良馬は奥州藤原と北方騎馬民の貿易に由来し、かなり時代は下る。
山と湿地の東国に騎馬狩猟などと言う風習はなかった。
>>263 武蔵・上野など関東や、甲斐・信州の馬牧とか調べたらわかるよ。
官牧以外の記録に現れない私牧も東国に広く分布していたと云われてる。
後期古墳の副葬物からも、東国と馬は関連付けられる。
東北は東国以上に記録がないが、一大馬産地。
つ曽我物語とか。
例えば、 平安期の 【駅馬価格】 陸奥467束、常陸・下野417束、信濃・出羽400束、近江250束、他の畿内200束
266 :
世界@名無史さん :2006/08/16(水) 01:20:33 O
馬は臆病な動物でハードターゲットには突撃できない。 集団戦闘で騎馬突撃を敢行するには予め敵陣形を崩す必要がある。 援護射撃を軽視して騎馬突撃した結果、百年戦争でフランス騎士は敗北を重ねた。 近世で騎兵は馬上射撃や銃手による援護射撃後に突撃した。 騎士の突撃はヨーロッパにおける1対1のローカルルールで実戦的では無い。
それは日本の武士が名前を名乗ってから戦ってたって言うのと同じくらい脚色された話だぞw
ランスチャージ自体は中近東、中央アジア、中国でもみられたらしいね。
269 :
世界@名無史さん :2006/08/16(水) 01:35:21 0
>>262 ロープで馬をこけさせれば終わりだ。と前スレで書いたはず。
ほかに、撒き菱を使う、浅い穴を掘るなどいくらでも方法はある。
モンゴルだって重装騎兵がかなりいたからな。 どの地域でも多少の違いはあれ、騎兵の突撃力を重視していたのは間違いない。
>>ロープで馬をこけさせれば終わりだ。と前スレで書いたはず。 ほかに、撒き菱を使う、浅い穴を掘るなどいくらでも方法はある。 忍者作戦かw 馬鹿みたいだ
272 :
世界@名無史さん :2006/08/16(水) 01:40:12 O
騎兵は機動性を活かして偵察や伝令。 奇襲や包囲、追撃と言った用途が主。
>馬は臆病な動物でハードターゲットには突撃できない。 騎兵隊が全滅を辞さない覚悟なら可能。馬は臆病云々なんて下らん幻想だ てか何処の与太話だそれ?馬がそんなに使えんならWW2まで騎兵は残らんて
>>252 東欧では騎兵対策としてはパイク兵よりタボール(荷車を並べた防御陣地)が一般的。
>>269 ヨーロッパの会戦ではそういうトラップはあまり使ってなかったような。
まきびしや穴はティムールがインドで対象部隊に使った例があるけど。
偵察・奇襲などは重要な役割だがこれは軽騎兵的役割。 敵に対する突撃は重騎兵的役割。 それぞれ重要。 中世ヨーロッパでは後者が極端に重視されてしまったが他の地域では両者併用されている。
>>東欧では騎兵対策としてはパイク兵よりタボール(荷車を並べた防御陣地)が一般的。 フス派の軍隊のことを言ってるの?
>>273 お前のは妄想だがw
二次大戦時は騎兵と言うより馬で移動する歩兵だ。
一次大戦時には騎兵に出来るのは飯炊き位とされた。
騎兵が最後に華々しい戦果を上げたのはナポレオン時代の頃。
>>277 第一次世界大戦ではもう騎兵の役目はほとんどないし、
第二次世界大戦の騎兵はもはや馬を使ってるのかすら怪しいw
でもクリミア戦争のカーディガン騎兵隊を忘れないでやってくれ
つД`)
>>276 フス戦争後はポーランド、ハンガリー、ロシア、オスマン帝国でも使われてた。
ムガル朝の始祖バーブルもオスマントルコ人の技術者から荷車+火器の戦術を
学んだそうです。
というかもともロシア方面の遊牧民の戦術として以前から存在してたようだけど。
280 :
世界@名無史さん :2006/08/16(水) 02:04:02 O
フス戦争で脱穀用の竿で武装した農民にすら勝てない騎士クオリティw
あの当時フス派のタボール軍に勝てる軍隊なんてあるかな?
>>273 は、
ポーランド軍のことを言ってるんでないの?
あと「飯炊き」は日露じゃないの?欧米人飯炊かないしぃ。
>>278 ベトナムの米第1騎兵師団は馬なんか1頭もいなかったしな。詐欺だ。
283 :
世界@名無史さん :2006/08/16(水) 02:13:02 O
唐代の顔真卿は碗で粘土を半円形に固め焼き、凹凸型障害物を作り騎兵を防いだ。 人工的な障害物を利用する戦術は珍しいものではない。
284 :
世界@名無史さん :2006/08/16(水) 02:15:52 O
>>282 ポーランド騎兵の戦車に突撃した話は嘘だろ?
いや人工的な障害物を作ることはどこでもやってるよ。 杭を立てるのが一番、有名かな? ただそれはあくまで受身の戦いで積極的な野戦は難しい。 しかし、タブリン戦術の中に突っこむフランス軍って一体何なんだ・・・ 弓と重装歩兵と杭のオンパレードじゃないか・・・
287 :
世界@名無史さん :2006/08/16(水) 02:29:10 O
それこそ騎士の誇りだろ? 新戦術を全否定して硬直化した戦術を守り、時代について行けないまま消えた騎士らしい生き様
まぁ騎士が頭固いだけってのもステレオな考えだけどな
289 :
世界@名無史さん :2006/08/16(水) 02:52:06 O
具体的な反論が何一つできないおまいが好きだ
クレシー→ポワティエ→アザンクール→カスティヨンの戦術の変化がわかれば一応、中世の軍隊が進化してることがわかるだろう。 イングランドの戦術に関しては西欧では例外的に進んでいることも
291 :
世界@名無史さん :2006/08/16(水) 03:54:37 0
>>284 ポーランド騎兵が戦闘態勢に入る写真が高校世界史の資料集に載ってたお
>>277 ,278
騎兵は馬に乗っているその形態を言うのではなく
機動力とそれによる偵察力と突破力を有する部隊の名称に変化してる
正面装備としての馬の役割減ってきたが、騎兵自体の役目は馬に変わる
他の兵器で立派に期待されているし
現実に第二次大戦には騎兵師団や騎兵上がりの指揮官が活躍しているよ
(実際に騎乗している騎兵も局地戦では活躍しているけどね)
弓兵の天敵は実は騎兵。 防御力に乏しいので、突撃を受けると簡単に壊滅する。 その点をカバーするのに歩兵を護衛に付けたり、地形的に有利な地点を選ぶ。 基本的にはこういった三すくみが形成される 騎兵>弓兵>歩兵>騎兵 という訳でこれら3種の兵科をいかにうまく運用するかが勝利の鍵になる。 // イギリスがクロスボウではなくロングボウを使用したのは、工業力が他国より劣っていたせいだという話がある。 工業力をマンパワー(弓兵の技量)でカバーすると言う事をしたわけ。 長弓兵が強かったのは、長弓兵の長所を見極めうまく運用法した点が大きいと思うよ。 // 弓兵対騎馬弓兵の対決だけど、 足を止めて打ち合う事をすれば弓兵が勝ち、 機動力を生かして、有利なポジションに移動しつつ一撃離脱を行なえば騎馬弓兵が勝つ。 これは歩兵対騎兵にも言える。機動戦に持ち込めば騎兵が勝ち、足を止めれば歩兵が勝つ。 騎兵の利点はその機動力なのでそれを生かさねば。
光栄のゲームだと 騎兵<弓兵<槍兵<騎兵で全く逆だなw 実際はどうなんだろうねえ 騎兵のほうが歩兵より弓矢の防御に向いてなさそうな気がするし 人数が同じなら流石に騎兵より歩兵のほうが強いってのはないような
いやまあ、単純な貫通力とか、殲滅力とかなら槍兵のが上だろ。一応は。単純な攻撃力と言い換えても良い 弓兵は敵から攻撃されない位置から攻撃出来るから、その点を含む総合力では槍兵の上だな しかし困ったな。このスレの話じゃ重装騎兵はあまり役に立たない事になってるじゃないか。俺が創作しようとしてる話に、ランスで敵歩兵陣を打ち崩し、味方歩兵達に「後に続け!」と激を飛ばす重装騎兵を出すつもりだったのに…… 重装騎兵のフルプレートは止めて、投げ槍を装備させ、ランスは突撃間際に構えさせて、弓騎兵の援護を付けて突撃させた上で、突撃地点になるべく早く歩兵部隊を突撃させねばならないじゃないか
>295 重装騎兵に限らず騎兵は使いどころが難しいよ。 近世以前の場合、遊牧民でなければひどく高価で、人馬共に訓練にひどく時間がかかるから簡単に補充できない。 安易に戦闘に投入して消耗させるには高価すぎるユニット。 基本的には歩兵によって敵を拘束しておいて、騎兵や軽装歩兵(弓兵)で側面から攻撃する。 マケドニアのファランクス戦術がそれ。 マケドニアのファランクスは衝撃力より拘束力を重視している。 槍兵が金床で騎兵がハンマーだね。 騎兵は最後の止めを刺すため、もしくは追撃のための部隊と考えればいいね。 戦いの序盤に騎兵を投入する場合は、モンゴル軍が行ったような戦術になる。 投射武器を持った軽装騎兵によって敵陣を誘導・混乱・分散させ、その後重装騎兵による突撃をおこなう。
>撒き菱 末期のローマ帝国がでかいやつをつかってて、ビザンツ帝国も受け継いで使ってたって 二次大戦でロシアの馬に乗った騎兵が結構戦ったらしい。 もちろん偵察や奇襲とかで
重騎兵の最大の戦術的特性は機動力よりもむしろ衝撃力にあります ビザンツのクリヴァノフォロスを原型とする中世ヨーロッパの装甲槍騎兵は、この衝撃力を畸形的に発展させて 強固な敵の隊列を正面突撃で打ち破ることに特化した点で戦史上でも非常にユニークな存在で、 他の時代や他の地域の重騎兵と一線を画しています 騎兵こそが野戦における戦術遂行の中核的兵科であったと言っても過言ではありません この時期の西欧の野戦戦術はいかにして騎兵突撃を成功させるかに集約されていましたが、 それは必ずしも戦術の思考的硬直や、当時の軍事エリート階層である騎士の他兵科への軽視を意味してはいません クレーシーや、アジャンクールにおいても、フランス軍は(結果的に失敗に終わりましたが) 騎兵突撃を成功させるために様々な工夫を凝らしており、クレーシーでは大量の弩兵を投入し、 アジャンクールでは騎兵を下馬突撃させています 実際、この下馬騎兵による攻撃は長弓戦術への最も有効な対抗手段の一つと目されており、 後の薔薇戦争では両軍の騎兵がこぞって下馬して徒歩で戦っています
フス派の車両要塞、イングランドの長弓戦術、スイスの重槍兵梯団戦術は、 いずれもこうした装甲槍騎兵の戦術的優位に対する回答として編み出されたものです 前者二つは、火力と障害を連携させた陣地防御による騎兵突撃の破砕を目したもので、 特に、長弓戦術は圧倒的な弾量による公算射撃を行った点で、現代戦で言う突撃破砕射撃に 近いものがあります 機関銃登場以前の戦場で、こうした弾幕射撃を戦術ドクトリンに採り入れていた野戦戦術は、 イングランドの長弓戦術以外に存在しません 車両要塞も長弓戦術も、騎兵の戦術的優位を覆す点では非常な成功を収めましたが、 基本的に防御戦術であるという先天的な制約を克服することはできませんでした 車両要塞はドイツ農民戦争において、長弓戦術はフォルミニーの戦において それぞれ戦術的限界を露呈することになり、結局はスタンダードな戦術とはなりませんでした
>機関銃登場以前の戦場で、こうした弾幕射撃を戦術ドクトリンに採り入れていた野戦戦術は、 >イングランドの長弓戦術以外に存在しません 中世だと弓でもクロスボウでも野戦では狙って放つ例のほうが少ないのでは?
戦場での混乱や疲労、恐怖、錯誤等により、個々の兵がまともに照準せずに射撃する例は 珍しくありません しかし、それは「戦術」ではありません 大量の火力を限られた時間に限られた地域に組織的に集中してキルゾーンを構成する戦術は、 長弓戦術以外に例を見ません
>この時期の西欧の野戦戦術はいかにして騎兵突撃を成功させるかに集約されていましたが これは騎兵を中核ユニットにしていた全ての軍にいえることだよ。 騎兵突撃を成功させるには、かなりの工夫と努力が必要。
>これは騎兵を中核ユニットにしていた全ての軍にいえることだよ。 そうとは言い切れません ステップ系騎兵を除けば、重騎兵を戦術遂行の中核兵科に位置づけ、 その他の兵科が重騎兵の補助兵科として戦術を展開する軍隊は他に類を見ません 一般に、騎兵が歩兵の補助兵科として行動するケースがほとんどです この点で、中世西欧の野戦軍は戦史上でも非常にユニークな存在と言えます
>>301 いや、そうじゃなくて弓兵や弩兵が部隊として行動するときに
いちいち個々の敵兵を狙い撃ちする例はもともと少ないでしょ?という事。
暗黒時代の数十人単位の戦闘なら別だろうが。
>>302 ステップ遊牧民の重装騎兵は軽騎兵の補助兵科では。
>いや、そうじゃなくて弓兵や弩兵が部隊として行動するときに >いちいち個々の敵兵を狙い撃ちする例はもともと少ないでしょ?という事。 盲撃ちしてしまうことと組織的な公算射撃による突撃破砕射撃とは違います
弩も弓も基本的に攻城戦で用いられる兵器であり、狙って撃つのが基本です リチャード獅子心王を殺したのは弩による城壁からの狙撃で、 王を殺した弩兵は後に虐殺される羽目になりました このような兵器を野外の会戦に用いる際に、狙いをつけずに盲滅法に射撃していたとは 考えにくいでしょう
>ステップ遊牧民の重装騎兵は軽騎兵の補助兵科では。 モンゴルの野戦軍の第二梯隊は重騎兵で構成されており、 第一梯隊の軽騎兵の掩護下で突撃を行っています 同様の運用は女真にも見られます 野外の会戦においては、ステップ系騎兵でも重騎兵が 戦術遂行の中核を担っています
何か「兵科」って言葉が出てくるけど、「騎士」って兵科じゃなくって社会的な身分でしょ。 徒歩の兵士を含む「ランス」って小部隊で戦ったわけだろ? 槍によるチャージなんて1回こっきりしか使えないわけで、再突撃するには引き返して体制を立て直さなきゃいけない。 接近戦で剣で戦うにしても、右側の相手としか戦えないし。従者のサポートがあってこそまともに戦える。 装備や機動力も違う兵士で構成された「ランス」が戦闘単位である以上、 近代的な「兵科」の概念を中世の騎士に当てはめてもアンマ意味ないと思うんだけど。
戦闘時は徒歩の兵士とは分離される。日本みたいに歩兵と騎兵が一緒になって戦うわけではない。
ランスは動員単位であり、常に一緒になって戦っていたわけではありませんし、 騎兵=騎士身分ではありません 傭兵や平民の騎兵も珍しくありません 騎兵=騎士という発想は騎士物語のようなファンタジーに過ぎません
14世紀の重装騎兵の騎士身分は5〜10%
>>306-307 個々の兵士を狙わなくても、敵部隊を狙ったゾーン・シューティングで大量の矢を射ち込めば
目的は果たせるわけで、それを盲撃ちとはいいません。
外人のペーパーの引き写しだけど、例えばドイツ騎士団の弩兵は敵戦列が200mまで近づくと
敵の頭上に矢が降り注ぐように斜め上に角度をつけて一斉射撃を開始した。
敵が80mの距離に近づくまで狙撃は行わなかった。
アイユーブ朝の騎馬弓兵が十字軍騎士の突撃を弓矢だけで阻止した例があるけど、
この場合も狙撃はしていないと思う。
>>308 >モンゴルの野戦軍の第二梯隊は重騎兵で構成されており、
>第一梯隊の軽騎兵の掩護下で突撃を行っています
自分が本で読んだのと逆ですね。
手元の資料によれば、モンゴルの通常の戦闘隊形は百戸隊の横列が5つ並んでいて、前2列が重装騎兵で
後3列が軽装の弓騎兵。
戦闘が始まると弓騎兵が前進して騎射を行い、それが撃退されると重騎兵の背後に戻り
重騎兵が追撃を阻止する。
繰り返される軽騎兵の射撃によって敵の陣形が崩れてきたところで重騎兵の突撃がとどめをさす。
同様の戦術はイスラム圏やビザンツでも行われていて、ビザンツで弓騎兵をクルソレス(攻撃隊)、
重装騎兵をデフェンソレス(防御隊)と呼んだのはその辺の事情があるとのこと。
中世騎士が出てくる小説や映画は何本か見たけど、騎乗兵=騎士なんて描写無かったよ。 欧米人がちゃんと考証したお話で、そんな発想出てくるわけ無いじゃん。 例えば何年か前の正月にやったジャンヌ・ダルク、クロスボウ使う従者も馬乗ってたし、 騎士になり損ねの従者は、ほとんど騎士と変わらない装備だった。
ロングボウ兵も「騎行」の際には馬に乗って移動してたらしいけど。 あとイングランド側には「ホベラー」って軽騎兵がいた。
>外人のペーパーの引き写しだけど、例えばドイツ騎士団の弩兵は敵戦列が200mまで近づくと >敵の頭上に矢が降り注ぐように斜め上に角度をつけて一斉射撃を開始した。 >敵が80mの距離に近づくまで狙撃は行わなかった。 騎兵の突撃速度は概ね時速30〜40qと言われています 距離200メートルで斉射を開始しても、弩の発射速度が毎分1乃至2発程度であったことを 考慮すれば、斉射できる機会は一回だけです これは、突撃する騎兵の漸減や隊列が崩れることを期待した単なる前進阻止射撃であり、 突撃破砕射撃ではなかったことを示しています そして、弓兵や弩兵がこのような擾乱射撃ばかりに終始していたとは考えにくいですね
>アイユーブ朝の騎馬弓兵が十字軍騎士の突撃を弓矢だけで阻止した例があるけど、 >この場合も狙撃はしていないと思う。 中世西欧の装甲槍騎兵の突撃開始線は、敵歩兵隊列の概ね300メートル手前に設定されます つまり、装甲槍騎兵が突撃を発起して、その騎槍の先端が歩兵の戦列の楯壁に喰い込むまでの 所要時間はせいぜい30秒、どんなに楽観的に見ても1分程度です これだけの短い時間の間に弓騎兵がその突撃を阻止できるとは考えにくいですね これは狙いをつけていたか否か以前の問題でしょう
318 :
世界@名無史さん :2006/08/16(水) 14:26:19 0
>>314 得意げに小説や映画の話をされても困る。
>戦闘が始まると弓騎兵が前進して騎射を行い、それが撃退されると重騎兵の背後に戻り >重騎兵が追撃を阻止する。 >繰り返される軽騎兵の射撃によって敵の陣形が崩れてきたところで重騎兵の突撃がとどめをさす。 この「阻止」とはすなわち騎兵突撃の機動打撃による敵の撃破です 機動打撃であるか、突破であるかの違いだけで、重騎兵の突撃が決定的な役割を担っていたことに 違いはありません すなわち、モンゴルにおいても重騎兵が中核兵科であったことに変わりはありません
>>316 その例は騎兵の突撃を想定したものじゃないんだけど、よく考えてみると
>>301 で「限られた時間に」
と書いてるので騎兵が射手に到達するまでの例を出しても反証にならないわけだ。
「大量の火力を」「限られた地域に組織的に集中してキルゾーンを構成する戦術」というのを見て
そんなのはいくらでもあるよと思ってクロスボウの例を出したけど不適切でしたね。
>>317 訓練されたグラームは5本の矢を2秒半で発射することができたそうです。
現代でもハンガリーのKassai Lajosという人が乗馬をギャロップさせながら
3本の矢を5秒で放った記録がギネスに載ってるらしい。
>訓練されたグラームは5本の矢を2秒半で発射することができたそうです。 弓騎兵の発射速度以前に、敵の重騎兵の突撃発起を確認し、突撃経路沿いまで機動してこれを捕捉し、 更にその突撃衝力を破砕するか突撃軸を捩じ曲げるのに、1分では足りません イスラムの弓騎兵が十字軍の行軍する隊列や集落に対して伏撃や襲撃を行い、 これを撃退しようとする十字軍の騎兵をその軽快な機動力で翻弄した事例は珍しくありません むしろこのような状況では、十字軍の騎兵よりも弩兵が大きな働きをしています また、小規模な戦闘ではイスラムの軽槍騎兵が十字軍の騎兵と騎兵戦を演じています 弓騎兵のような軽騎兵は、野外での会戦よりも、こうした遊撃や小競り合いにこそ向いている兵科と言えます 基本的に、一度主動を獲得した十字軍の装甲騎兵が突撃を発起すれば、イスラム世界の軍隊には ほとんど対抗手段はありませんでした
>>317 重騎兵の馬って馬車馬みたいな重種馬でしょ、
装甲兵が騎乗して300mを30秒で駆け抜けるのは無理でしょ1分でも難しいかも
優秀な軽種馬に軍服と銃だけを装備した兵隊が乗ってる時でも、
戦場は競馬場みたいな平坦地じゃないから300M強/分といった所じゃなかろうか
騎士関連の書き込みが増えて嬉しいな。 >撒き菱 モンゴルでは常用されてたね。
「プロイセン軍は、まるで音で人を殺せるが如く発射速度の増進に夢中になっている」 つーかwikiなんて(ry
どっちが勝つとかじゃなくてこういった知識が増える書き込みが増えるのはいいね
現代の競走馬の速度が時速60〜70qで、300mを30秒で駆け抜ける速度は時速36q 突撃する騎兵の躍進距離はせいぜい数百mだからあながち不可能な速度とは思えないが。
>>303 あーちゃんとよく読んでね
>これは騎兵を中核ユニットにしていた全ての軍にいえることだよ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
騎兵を歩兵の補助ユニットにしている軍のことは言ってはいないよ。
近世以前の農耕民族で騎兵を中核ユニットにしているのは確かに珍しい存在。
騎兵としての長所である機動力を捨ててて、重装甲、重武装化によって衝撃力に特化しているのもね。
逆に言えば特化しすぎたせいで他の兵科のによる支援が必要不可欠になってしまった、とも言える。
このへんを戦術的柔軟性を失ってしまったと見なすことがある。
もう一つは中世の歩兵の多くは錬度が低くて攻撃用のユニットとして使い物にならない、というのもあるね。
>>319 なるほど。しかしそうなるとユーラシア的に見て中世西欧の特殊性は
あまりないということになりませんか?
上述した騎馬弓兵と重装騎兵の使い方は広く見られた戦術のようですが。
特に中央アジアやセルジューク朝以後の中近東ではダイラム人等の例外を除いて
歩兵は野戦では補助的な役割だったようだけど、騎射だけで敵を撃破できることは
ほとんどなく、最終的には騎兵の突撃で決着をつけていたらしい。
>>321 >敵の重騎兵の突撃発起を確認し、突撃経路沿いまで機動してこれを捕捉し、
>更にその突撃衝力を破砕するか突撃軸を捩じ曲げるのに、1分では足りません
ちょっとよく分からないんだけど、敵が突撃してきているのに「突撃経路沿いまで機動」
する必要があるんですか?
>基本的に、一度主動を獲得した十字軍の装甲騎兵が突撃を発起すれば、イスラム世界の軍隊には
>ほとんど対抗手段はありませんでした
その点は前から不思議に思ってました。
12〜13世紀の騎士の防具はメイル・ホウバークや詰め物をした防衣、武器は剣やメイス、ランス等
だったようだけど、当時のムクターや奴隷軍人もその程度の装備はしてるんですよね。
アラブ人やクルド人の騎兵は騎射はせず剣やランスで戦うのが主だったようだし。
(もちろんトゥルクメンの軽騎兵なんかは弓矢と刃物しかもってないのがほとんどでしょうけど)
それでいて十字軍側が突撃された例がないような気がする。
例えば、中世から近世初期にかけての東欧では、軽騎兵が野戦における中核的な存在で、 同時期の西欧に見られるような装甲槍騎兵はほとんど発展しませんでした この地域は西欧に質の高い軽騎兵を大量に供給しています 西欧の装甲槍騎兵のような純然たる突撃兵科は戦史上極めて稀です 何をもって戦術的柔軟性とするかは意見が分かれるところでしょう 百年戦争や薔薇戦争を見てもわかるように、西欧の装甲槍騎兵は攻城戦や野戦において しばしば下馬して戦闘に従事することに対して余り忌避していません 近世以降、装甲槍騎兵が衰退し消滅したのは、野戦戦術における防御の優位が確立して 費用対効果が引き合わなくなったからです
>なるほど。しかしそうなるとユーラシア的に見て中世西欧の特殊性は >あまりないということになりませんか? 戦史上、一般に重騎兵の攻撃機動は基本的に敵戦列の翼側(可能ならば後背へ)へ指向されます 敵の戦列の真正面への突撃は、既に敵の組織的戦闘力が破壊されている状況でしか行われません その任務は、敵の側背を脅かして味方の戦列の戦闘に寄与することにあります 一方、西欧の装甲槍騎兵の戦術的役割は、敵戦列へ正面突撃をかけて、敵の組織的戦闘力を 力ずくで破壊することにあります 確かに、騎兵の正面突撃は非常にリスクを伴いますが、その可能性が保証されているだけでも 主動の確保の点で戦術的に大きな優位となります このため、両者の戦術的な地位と役割は全く違うものと言えます
>>もう一つは中世の歩兵の多くは錬度が低くて攻撃用のユニットとして使い物にならない、というのもあるね。 高い錬度、士気をもつ歩兵が現れだした14世紀に装甲騎兵の衰退が始まった点を考えれば正論だろうね。 14世紀以降、騎士を含む装甲騎兵が下馬して戦うケースが多くなる。 17世紀まで装甲兵が存続できたのもこういった対応ができたからだろう。
>敵が突撃してきているのに「突撃経路沿いまで機動」 >する必要があるんですか? 弓騎兵が騎射で命中を期待できる射距離は、概ね30メートルとされています 命中を期待しない単なる牽制ならばもう少し距離を稼げるでしょうが、 それでも50乃至60メートル程度が限界でしょう 弓騎兵で装甲槍騎兵の突撃機動を捕捉するためには、少なくともそれ以下の距離まで 近接する必要があります すなわち、弓騎兵で装甲槍騎兵の突撃を阻止することはほとんど不可能に近いと言えます もし、騎兵突撃の突撃経路上に弓騎兵を展開させるとお考えならば、 それは単なる自殺強要にしかなりません 弓騎兵は味方の戦列と敵騎兵の攻撃衝力に挟まれて圧死するだけです
>その点は前から不思議に思ってました。 西欧の装甲槍騎兵のような戦術的地位と役割を担う兵科が存在しなかったためです イスラムの騎兵の特性は機動の発揮にあり、西欧の騎兵突撃のような任務は期待されていませんでした 装備に共通点があっても、その戦術的な地位と役割は本質的に異なるものです
基本的に、歩兵という兵科は防御的な兵科であり、攻撃には向きません 歩兵を突撃させたら最後、足並みが乱れて統制がとれなくなるからです 中世西欧でも無謀な歩兵突撃が悲惨な結果に終わった事例は少なくありません スイス重槍兵梯団戦術のような例外は存在しますが、それでも陣地防御の優位を覆すには 至っていません 近世以降の西欧の野戦戦術の技術的関心の一つは、基本的に防御兵科である歩兵に いかにして攻撃的な任務を担わせるかにあります グスタフ・アドルフは、その技術的問題に回答を出した最初の一人ですが、 結局は成功したとは言えませんでした
337 :
322 :2006/08/17(木) 00:47:46 0
>>327 その現代の競走馬の速度はサラブレッドやアラブ馬といった軽種馬が
斤量60Kg未満、平坦な馬場で騎手がいわゆるモンキー乗りをして出せる速度でしょ
重装備した兵隊(100kg以上?)を載せた重種馬が、戦場で0〜300mを
平均36kmで走るのはまあ無理だと思いますよ
普通に上手な馬乗りが山野で軽種馬をギャロップさせて出せるのが
40km/h程度なんですから
映画みたいに300メートルの地点からいきなりギャロップというのはありえないよ。 相当訓練をつんだ軍馬でもそんなことしていると1回の突撃で乗りつぶしてしまう。 ナポレオン時代の騎兵突撃の例を出せば まずは常歩で敵陣に近づきます。 これで敵陣に動揺があれば、トロットに切り替えます。 この時点で防御側は小銃射撃を行ないます。 この射撃で騎兵側が打撃を受けなければ、ギャロップに移行して突撃を敢行します。(敵まで80メートルほど) これで歩兵側が陣が崩れなければ、突撃を中止し矛先を変えます。 こんな感じ。 騎兵の突撃によるダメージは、物理的なダメージより心理的なものの方が大きいのよ。 相手を死傷させるより、士気を崩壊させて戦闘能力をなくさせる方が第一目的だからね。
>>334 なるほど、敵騎兵の突撃と味方の歩兵の間に割り込むような状況を想定していた訳ですね。
ネタ元の本によると、十字軍騎士の突撃が弓矢で阻止されたというのは1244年のガザの戦い
(ラ・フォルビーの戦いのことか)で、十字軍・シリア諸侯連合軍の右翼を占めていたフランク人の歩騎6千と
アイユーブ朝・ホラズム連合軍の左翼だったマムルーク騎兵6千が対峙した際のことらしい。
もし事実関係に問題がないとすれば十字軍騎士がマムルークに突撃していったと考えられる。
弓射そのものについては、グラームやマムルークは正確で素早い射撃が必要な状況では馬を停止させて
いたそうなので、必ずしも騎射の不利点を考慮に入れる必要はないでしょう(マムルーク朝時代には
下馬して射撃を始めた例もあるという)。
トルコ弓の実際的なデータとしては、17世紀にウクライナを旅して当時のクリミア・タタール人の記録を残している
フランス人のボープランという人が、タタール人は60〜100ペース(約46〜76メートル)先のものを正確に射抜く
といっています。
また16世紀のアラビア語の弓術教本では(孫引きですが)、正確な射撃が可能な距離の限界は、現代の単位に
直すと80ヤード(約73メートル)少々だとしているそうです。
あとG・パターソンという人は自分でも色々実験したらしいけど、徒歩でなら狙撃は60ヤード(約55メートル)が
限界だといっている(ちなみに馬を馳せながらの騎射だと10ヤードが限界らしい)。
もしマムルークが騎士の突撃を待ち受けるような状況で、2・5秒で5本の矢、というのを額面通り受け入れるとすれば、
またフランク人側の歩兵を引いた騎士だけの数よりマムルーク騎兵が多かったとすれば、騎士のランスが敵に届くまでに
相当な数の矢に直面したのではないでしょうか。騎士が時速40キロで向かってきたとしても、最後の50メートルの間に
狙いの正確な少なくとも5〜10本の矢を射たれる危険があります。トルコ弓は遠距離でなければメイル・ホウバーク
ぐらいは貫通できたらしい。
ただその場合騎士の突撃が始まるまでマムルークは何をしていたのか、というのが問題。
>>332 両方とも歩兵と重騎兵からなる軍隊の描写に見えますが、遊牧民型の弓騎兵と重騎兵の軍隊は前者ですか?
>>336 とすると十字軍・イスラム双方が使っていたメイル、兜、盾など当時の防具は機動の発揮を妨げるほどの重装備ではなかった・・・
騎士をイスラム騎兵のように運用するのもやろうと思えば可能だったんでしょうか。
>>339 現代の軍用小銃で標的を狙って射撃する際の射撃速度は1発辺り約4秒とされています
弓で正確な射撃を行う場合は、矢をつがえる動作が必要なことや筋力の負荷等を考慮すれば、
少なくとも4秒以上はかかります
イングランドの長弓兵でさえ射撃速度は1分間に6〜10発程度とされています
装甲槍騎兵が最後の50メートルを躍進する間に、5〜10本の矢を正確に射撃することは
まず無理と考えざるを得ません
イングランドの長弓兵がフランス騎兵の突撃を破砕できたのは、野戦陣地と歩兵(下馬騎兵を含む)が
フランス騎兵の機動発揮を阻止できたからです
また、西欧の装甲槍騎兵は基本的に対歩兵用兵科で、騎兵突撃は歩兵の戦列に対して行われるものです
一般に装甲槍騎兵は騎兵相手には突撃しません
>両方とも歩兵と重騎兵からなる軍隊の描写に見えますが、 歩兵と重騎兵が存在していても、戦術ドクトリンまで同じとは限りません >騎士をイスラム騎兵のように運用するのもやろうと思えば可能だったんでしょうか。 イスラム騎兵のような運用というのが具体的に何を指しているのかわかりませんが、 中世西欧の騎兵は、常に野外での会戦ばかりを戦っていたわけではありません むしろ、大規模な野戦軍に従軍しているよりも、軽騎兵や歩兵とともに、 ご近所とのちょっとした小競り合いや襲撃等に従事しているほうが一般的でした こうした任務は、細かな差異はありますがイスラム騎兵と基本的に同じだと言えます
343 :
世界@名無史さん :2006/08/17(木) 22:57:31 0
ヘルメットを被った人間の視界の狭さも考慮してくれ。 アメフトの選手の動きみてもどかしく思ったことないか? ラグビーとは大違いだ。 横槍入れられたら一巻の終わり。
>>340 >>332 ではないのですが…
前者、すなわち
>一般に重騎兵の攻撃機動は基本的に敵戦列の翼側(可能ならば後背へ)へ指向されます
をやる場合、敵部隊を動けないように拘束する必要があります。
遊牧民の戦闘部隊の場合、敵部隊を拘束するのに適した部隊(歩兵)がいません。
したがって前者の戦術は遊牧民戦闘部隊では行ないにくい。
遊牧民の使う戦術は、狩りに使用する戦術の発展系なんです。
すなわち、軽騎兵で敵部隊(群れ)を分散させ、重騎兵によって敵本陣を撃破、もしくは分散した部隊を各個撃破
という機動戦を行います。
//
前者は農耕民族で騎兵を用いる軍隊の一般的な騎兵戦術です。
騎兵は打たれ弱いので、正面からの突撃は一般的に自殺行為になるのでそのような戦術になります。
中世ヨーロッパの重装騎兵の場合は、
当時の歩兵には重装騎兵の突撃を食い止め、倒すだけの士気も錬度も白兵武器も持ち合わせていないので
飛び道具さえ始末できれば正面突撃が行なえるわけです。
345 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 03:50:02 0
時代は忘れたけど、イスラムの軍隊には、精密射撃ではなく 面制圧射撃を目的とした重弓部隊がなかったでしたか? 密集配置から相当に太い矢を40度といった角度で打ち出す、 馬も人もちょっと当たれば大怪我、近代戦における砲兵的な役割です。 精密射撃の得意な弩では無く、トルコ弓の大型版みたいなやつだと思うのですが、 この手の弓兵運用をされると、400m程度の対峙距離から射程内になるので 突撃敢行までには相当に打たれる可能性もあると思いますが、どうなんでしょう。
騎兵>弓兵>槍兵>騎兵の三すくみですが… 弓兵が騎兵に負けてしまうのは武器の威力や射程の問題ではなくて士気の問題なんです。 弓兵は白兵戦用の装備を持っていません。白兵戦を受けた場合一方的な攻撃を受けてしまいます。 そのため、騎兵の突撃を受けると「蹂躙されてしまう」と感じてしまい、戦列を崩してしまうんです。 その結果負けてしまう。刃を交える前に負けてしまうんです。 この点をカバーするために槍兵でカバーしたり、地形を選んだりします。 槍兵が守ってくれると安心して、突撃直前まで射撃を続けることが出来ますし、 地形が騎兵の突撃を留めてくれるならばそれは、鈍重で的の大きな目標に過ぎなくなるので、勝ち目がでてきます。 槍兵か弓兵に負けてしまうのは鈍重なせいです。 重装甲化にも限度がありますし、足が遅いせいで長時間弓兵の作り出すキルゾーンにとどまってしまう結果となり、負けてしまいます。 カバーには騎兵を用いて弓兵を混乱させ、その間に接敵すれば勝ち目が生まれます。 騎兵が槍兵に負けてしまうのは、直接的な戦闘力の低さにあります。 騎手は重装甲化できても馬には限度がありますし、馬上で武器を振るうのと地上で武器を振るうのとでは差が出ます。 また、騎兵は足を止められると利点である衝撃力と機動力を失ってしまいます。 ちゃんとした歩兵は防御力が高いので、騎兵の突撃を受け止めることができるのです。 カバーには弓兵か軽騎兵によって混乱させ、歩兵特有の防御力を発揮させないようにする必要性があります。
>当時の歩兵には重装騎兵の突撃を食い止め、倒すだけの士気も錬度も白兵武器も持ち合わせていないので >飛び道具さえ始末できれば正面突撃が行なえるわけです。 何を根拠に中世西欧の封建軍制下の徒歩兵が押しなべて士気や練度が低く、装備も不十分だというのかよくわかりませんが、 装甲槍騎兵の突撃にとって最も脅威となるのは投射兵器ではありません バノックバーンやクルトレーでは、有力な投射兵科の掩護を受けていない歩兵が 騎兵の突撃を破砕しています 騎兵の天敵が飛び道具というのはよくある誤解です
>面制圧射撃を目的とした重弓部隊がなかったでしたか? >密集配置から相当に太い矢を40度といった角度で打ち出す、 そのような兵科はイスラムだろうが他の地域だろうが存在しません 制圧射撃に最も要求されているのは、射程でも威力でもなく発射速度です 仰角をかけて敵の頭上に矢を降らせるのはどこの国の弓兵でも行う一般的な戦法ですが、 これは基本的に戦闘展開阻止射撃であって、制圧射撃とはほど遠いものです
>精密射撃の得意な弩では無く、トルコ弓の大型版みたいなやつだと思うのですが、 トルコ弓のような合成弓は、威力を向上させるために単純に弓部を大型化することなく、 携行の便を確保するために発展した兵器です このため、合成弓はコンパクトでありながら、弓を引くためにはイングランドの長弓のような 単材の大弓以上の筋力を必要とされます その合成弓を大型化しても、弦を引けなくなるだけです これでは合成弓本来の特性を殺してしまうだけです 確かに個人の武勇や力を誇示するために、そのようなゲテ物が使用されたケースが皆無だったとは言えませんが、 部隊として運用するのは意味がありません
>この手の弓兵運用をされると、400m程度の対峙距離から射程内になるので >突撃敢行までには相当に打たれる可能性もあると思いますが、どうなんでしょう。 400メートル先の騎兵の鎧を貫通する弓なんてまず誰も引けません 携行用の弩でさえ、貫通が期待できるのはせいぜい100メートル程度までで、 それ以上の距離は、通常は城壁の上に配置される大型の弩でなければ無理です ウインチや梃子の原理で弦を引く弩ですらこの程度の有効射程であるのに、 単純に筋力に依存する弓では物理的に不可能です
部隊の戦闘力は、機動力と火力によって構成されるもので、古今東西例外はありません 戦術とは、機動力と火力のバランスとその実行のための具体的な方法により決定されるものです 軍隊が様々な兵科の連合体であり、各兵科が連携して戦う以上、 騎兵、歩兵、弓兵のじゃんけん論はあまり意味がありません
352 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 07:21:29 0
騎士道精神も武士道精神も基本的なことは変わらない。 違うのは @ヨーロッパの封建的主従関係が契約的・双務的な性格で、 日本の武士道のような無制限・絶対のものではない。 A武士道とちがい捕虜になることは原則的には恥ではない。
武士って捕虜になっちゃいかんのか・・・ 降伏したら駄目なんだっけ?
>347 え? 「中世西欧の封建軍制下の徒歩兵が押しなべて士気や練度が低く、装備も不十分」 って書いたっけ? あくまでも一般論だよ。 バノックバーンの槍兵は密集陣を組めるほど錬度が高かったし、 クルトレーの場合は地形を騎兵突撃に不向きな状態に持っていくといううまい手段を使えた上に、 長槍やフレイル等、有効な武器が使用できた。 これは特殊な例だよ。 逆にいえばのバックバーンやクルトレーの例を挙げて 「中世期における歩兵の装備や錬度は押しなべて士気や錬度、装備の点で優れており騎士の突撃を阻止できた」 とは書けないでしょ? それと同じ。 弓兵も別に騎兵の天敵だとは書いてない。 >飛び道具さえ始末できれば というのは厄介ごとが少なければ良いに越したことはない、というだけの話。
おっと、名前間違い。
>>353 いや、捕虜になってもいいよ。恥といえば恥だけど。
捕虜になった騎士が支払う身代金に近いものに、「首代」ってモノがあって、
負けた武士が首を取られるのを勘弁してもらう代わりにお金を払うという制度もあったし。
それに戦国時代の武士の主従関係はそれほど絶対的モノではない。複数の大名に仕えた武家も多数存在する。
真田家とかね。一族で徳川方と豊臣方に分かれて仕えたけど、別に一族で仲たがいしたわけではない。
無制限で絶対的なものになったのは江戸期に朱子学から作られた方の武士道。
従来の武士道って言うのは泰平の世では騒乱を引き起こす種になるんで、色々禁止したりしたんだよ。
356 :
344-346 :2006/08/18(金) 08:10:13 0
ジャンケン論は各兵科の「機動力と火力のバランス」を判りやすく例えるための方便です。 また、各兵科の基本的な役割や連携を示すのにも便利です。 ただし、これがいついかなる場合でも正解であると考えるのは間違いですね。 戦場における状況は流動的で、硬直した考えでは勝てるものも勝てなくなります。 というか、なんで私の話が「いついかなる時でもそうである」と言う事になっているんだろ。 そんな事書いてないのに。 では名無しに戻りますよと。
357 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 09:19:46 0
>当時の歩兵には重装騎兵の突撃を食い止め、倒すだけの士気も錬度も白兵武器も持ち合わせていないので と >中世西欧の封建軍制下の徒歩兵が押しなべて士気や練度が低く、装備も不十分 の違いがわからない。
士気も練度も装備も、それぞれ個々の状況によって決定されるもので、 「一般論」で片付けられるものではありません バノックバーンの槍兵方陣は、当時の重槍兵の隊列としては一般的なもので、 特殊な例とは言えません クルトレーの戦闘も、陣地防御のセオリーを忠実に守っていただけで、 これも特殊ではありません
359 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 13:36:13 0
>>349 >その合成弓を大型化しても、弦を引けなくなるだけです
その合成弓を大型化した国の子孫として一言↓
日本の弓の平均張力を求むw
中世といっても農業革命以前とその後では兵士の質は違ってくるよ。 農業生産力が上がれば、その分を色々と回せるからね。 ちゃんと区別しないといけないよ。 9世紀ごろの戦闘とバノックバーンやクルトレーの13世紀の戦闘を一緒にしちゃいかん。 13世紀の例を挙げて中世全体の評価にしてはいけないし、9世紀の例を挙げて中世全体の評価にしてもいけない。 平安時代の武士と鎌倉時代の武士とを一緒にしてはいけないのと同じ。 つまりどっちもどっち
362 :
世界@名無史さん :2006/08/18(金) 18:49:03 0
>9世紀ごろの戦闘とバノックバーンやクルトレーの13世紀の戦闘を一緒にしちゃいかん。 バノックバーンは1314年、クルトレーは1302年です。 有り難うございました。
>>361 つーか9世紀と13世紀とどう違うのか具体的に説明しないと説得力ないんですけど。
>>341 >弓で正確な射撃を行う場合は、矢をつがえる動作が必要なことや筋力の負荷等を考慮すれば、
>少なくとも4秒以上はかかります
そうですね。狙いを定めるプロセスを限界まで短くしたとしても射撃そのものが1秒の壁を越えるのは
自分の頭ではちょっと想像がつかない。現代の速射でも1・5秒はかかっている。
ちなみにネタ本で当時のフルースィーヤの文献が引用されてる箇所を読み返してみましたが、
狙い方は結構アバウトでした。「敵の騎兵がこちらへ駆けてくるときは、鞍頭を狙って射よ。
矢が上に逸れれば騎手の胸に当たり、下へ逸れれば馬に当る」といった調子。
>一般に装甲槍騎兵は騎兵相手には突撃しません
今まで抱えていた色々な疑問を解く鍵を与えられたような気がします。
とはいえ騎士もオリエントの軍隊と戦っているときには目の前の攻撃しうる敵が騎兵部隊のみ
といった状況に往々にしてなる訳で、そこに突撃しても不自然ではないでしょう。
1189年のアッカー近郊の戦いではサラディンが自軍中央の重装部隊を右翼の応援に回した後で
中央に残ったトルコ人騎兵へ向かって十字軍側の中央が前進し、歩兵が弩の矢を浴びせてから
騎士が突撃して潰走させてます(後で逆襲されますが)。
時代が離れすぎてますがモハーチの戦いでは、オスマン朝が大砲やイェニチェリ等の前面に
配置したルーメリアとアナトリアの騎兵へハンガリーの騎兵がまっすぐ突撃して、突破しています。
あとこれは微妙なんだけど、オットー1世がレヒフェルドでマジャール人の遠征軍と戦ったときは
騎兵からなる8つの部隊を率いていましたが、マジャール人に側面攻撃を受けたりしながらも
最後には一斉に突撃をしかけて潰走させてます。10世紀だと重騎兵はいても槍騎兵はいない
だろうけど(騎士階級も)、基本的な役割は同じでしょう。
>>342 >歩兵と重騎兵が存在していても、戦術ドクトリンまで同じとは限りません
ええ、それは
>>332 で書かれていた通りなんですが、弓騎兵と組み合わせた重騎兵の使い方が
どちらに当てはまるのかよく分からなかった訳です。
あと「主動の確保」という表現もよく分からなかったので解説してもらえるとありがたいです。
>むしろ、大規模な野戦軍に従軍しているよりも、軽騎兵や歩兵とともに、
>ご近所とのちょっとした小競り合いや襲撃等に従事しているほうが一般的でした
イスラム圏でも記録には残りづらいけど実際その手の戦闘が多かったようですね。
逆に、イスラム勢力が集団的な騎槍突撃を戦場での選択肢の一つとしてもたなかった理由は何だと思いますか?
少なくともビザンツではそれを導入しようとした形跡がありますが。
>>345 ちょっと聞いたことないです。
>>349 で説明されてる通り、ただの丸木弓なら単純に弓身を長くすることによって威力を上げる
ことができる(アフリカ人が大型動物を狩るのに使う弓のように)けど、木材と動物の腱、骨角を
張り合わせた中央ユーラシア式の彎弓は材料の組み合わせによって威力を上げている訳です。
例えば南宋の岳飛は張力300斤(180キロ)の弓を引けたといいますが、そんな化け物のような
(そして多分実用的ではない)弓でも並外れて大きかったとは聞いたことがない。
中近東で大型の矢を発射する兵器としては、「ズィヤール」というヨーロッパの「エスプリンガル」と同じ
四角い枠に収まった大弩があり、対人兵器だったようだけど野戦で使われたかどうか。
あとカウンターウェイト式投石器の変形で「カラブハ」という2本の巨大な矢を飛ばす装置があるけど
たしか攻城兵器だったと思う。マムルーク朝がアッカーを陥落させた時に使ってたはず。
12世紀のムルダー・イブン・アリー・アル・タルスーシーという人の著作では、丸いターンテーブルの上に
3本の矢を一度に発射する大弩を四方に向けて取りつけ、回転させながら次々と発射するという装置の
図が載ってますが、実戦で使われたものなのか不明。
367 :
世界@名無史さん :2006/08/19(土) 07:19:51 0
前にヒストリーチャンネルでイスラムは足で弦を支えて、全身で引く 弓を使用した放送していたけど。345はそれのことでは。
弓部じゃなく弦を足で支えてどうやって弓を引くんだ?
>367 春秋戦国時代の韓もそんなのを使ってたような
ヒストリーチャンネルの再現映像では 仰向けに寝ころんで、足で休部を押さえ 両手で弦を引いて撃っていた。 狙いが付けられるのか疑問だが
マムルークと騎士はどっちが強いの?
状況による
>>365 主動を確保することは、端的に言えば、我の望む時期と場所で戦闘を仕掛け
または戦闘を回避することです
通常、攻撃に主動の利があり、防御は受動に陥りやすい傾向にあります
西欧の装甲槍騎兵の戦術モデルはビザンツのクリヴァノフォロスにあります
中世初期の西欧の軍事技術はビザンツの強い影響を受けていました
フランクのカバラリウスもカタフラクトをモデルとして重装化したものです
ビザンツのクリヴァノフォロスが結局は編制兵科として定着しなかったのは、
維持コストがかかりすぎたからです
装甲槍騎兵用の軍馬と装備一式を揃えるのに要する費用は、
農耕牛10頭とも1ダース分とも言われています
馬の飼育や消耗品、装備の予備等を考慮すれば、出費はさらにかさんだでしょう
当時の戦闘は、大軍同士の野戦よりも小競合いや攻城戦の比重が大きく、
野外での会戦用に特化した兵科を整備するのは財政的に非常に厳しいものがあります
ビザンツで、クリヴァノフォロスよりも多目的に使えるカタフラクトが主流になったのは
費用対効果の点から言えば当然と言えます
374 :
世界@名無史さん :2006/08/20(日) 20:34:25 0
武士は好きだけど、紀元前からまさに皆殺しの戦いを繰り広げ、何百年もイスラム教徒との血で血を争う戦をしてきた ヨーロッパ人に戦で洗練してきたとは言え、日本の武士は勝てないような気がする。武士は好きだけど
それだったら中国人は相当戦争に強くないと・・
377 :
世界@名無史さん :2006/08/21(月) 01:36:44 0
いや一対一で戦わせたら武士が強かろうよ まあ、これは日本の戦国期で考えた場合(その後、日本の軍事は特殊な扱いになるからな) 一対一なら軽装で機動力が生かせ時間戦える方が有利 和弓、槍坂、日本刀、鎧兜で武装した武士の方が強いと思う 同時代の騎士の武装は集団戦向きであるから、部隊戦闘を前提とすると又変わるかもしれんが・・ 坂井三郎が零戦一対一なら零戦で負けないと断言してるのに似てる (落とされなければ航続力がある方の勝ちというやつ)
378 :
世界@名無史さん :2006/08/21(月) 01:38:34 0
ペーストミスった 槍坂→槍 時間戦える→長時間・・・
379 :
世界@名無史さん :2006/08/21(月) 02:12:43 0
【教育】中国、韓国などアジア留学生に奨学金、日本で就職促す…月計20万〜30万円相当2千人に国支給
ttp://news18.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1156027830/ 中国、韓国などアジア諸外国の優秀な人材に、日本企業にもっと入ってもらおうと、
日本の大学で学ぶ留学生への無償奨学金制度を07年度から経済産業・文部科学両省が始める。
大学・大学院に、採用意欲のある企業と提携して、留学生向けの専門講座やビジネス日本語講座
などの2年間の特別コースを新設してもらい、その受講生1人あたり、住居費分、学費免除分、
生活費など月計20万〜30万円相当の支給を検討中だ。支援対象は約2000人を想定している。
なあ、少し考えてみたんだが、古代戦車や馬車のようなもので、歩兵を敵陣の側面や背面に一挙に運び、車体を防御柵代わりにする、とかそういう戦術は無かったのか?結構有効な戦術だと思うんだが 金がかかりすぎるか?
荷車を即席の防御陣地の囲いにするとかは良く聞くことだが
>>377 一対一で戦わせたらどちらが強いとは言えない。完全に個人差。
軽装備のほうが重装備より個人戦で強いなんてことはないし、実際スポーツチャンバラみたいなことをやってる人によると
一対一では盾を持ってる人が圧倒的に強いらしい。
スポーツチャンバラって二刀流でバシバシやってるアレか
よくはわからないんだが実際に甲冑つけて武器もって戦うらしいw 前にこの手のスレで見たんだが今、ちょっと見つからない
386 :
世界@名無史さん :2006/08/21(月) 20:19:36 0
同じ武士でも平安時代と戦国時代では全然違う。 平安時代は騎馬の代表戦。古代亜細亜や欧州の戦車戦のようなもの。 いつの時代を想定すればいいのか?
時代をある程度そろえて装備や戦術なんかを比較してみたら面白いかもしれない。 例えば 12c末 第三回十字軍≒源平合戦 15c半ば 薔薇戦争、ブルゴーニュ戦争≒応仁の乱 みたいな感じで
>380 明のモンゴル遠征で一度、歩兵を全員荷車に載せて行軍するというのを 実験的にやったらしいが、一度でやめた。 コスト的に割に合わなかったようだ。
389 :
名無し :2006/08/21(月) 21:01:06 0
武士に決まっている。 騎士が切腹できるか。逃げ回るぞ。
切腹できるほうが強いのかwアホだw
391 :
世界@名無史さん :2006/08/22(火) 00:18:40 0
戦(いくさ)と戦争は違う。 武士や騎士が活躍するのは戦だけ。 戦争、乱、変は騎馬戦が主体ではない。
どうしてそんなことになるんだ? 古今東西騎兵が戦場でどれだけ重要な働きをしたか知らないのか・・・
394 :
世界@名無史さん :2006/08/23(水) 02:51:04 0
>>391 戦(いくさ)の定義を除き同意
戦争を支配するのは結局兵站である
・・・・がトピズレでもある
395 :
世界@名無史さん :2006/08/23(水) 03:25:38 O
徳川幕府成立時の日本なら、世界有数の強国なんだけどなぁ。 武士対騎士ならどうかわからんな。どっちも戦争の主力じゃないし。
鈴木真哉w
軍律が厳しいからこそ、不名誉に対して切腹のような過激な刑罰が制度化される。
軍紀を厳しくしないと言う事を聞かないとも言える。
極限状況に投入されたときの反応で実証されている。
400 :
世界@名無史さん :2006/08/23(水) 19:14:29 0
中共軍のように軍規がないからこそ勝てた例もある。ま、勝った後に処刑の嵐だったようだけどさ
401 :
世界@名無史さん :2006/08/23(水) 21:03:23 0
=番外編= モンゴルの強さの秘密は逃げながら後ろ向きに騎射出来たこと。 相手は挑発に乗り深追い。取り囲まれて一気に あぼーん
>騎兵 日本の武士の場合、集団突撃が確認出来ない様です。 >切腹 武士への刑罰として出て来るのは室町時代後期からで、明文化されたのは 江戸時代初期と、案外新しい。それ以前は斬首が目立ちます。 いずれにせよ、過酷なのは違いありませんが。 もっとも、家人型の武士ならまだしも、家礼型の武士なら潔く刑に服する前 に逃げ出しますね(後者は契約社員の様なもの。中世武士はこちらが多数派 で、扱いや状況次第ですぐ主を変えた)。 >後ろ向きに パルティアン・ショットの事でしょうか。本朝にもありましたが。
モンゴルの騎兵戦術のほとんどは古代からステップ遊牧民が実践していたもの。
いきなりだけど、そもそも騎士と武士とを比較するのは、どちらも封建軍制に おける基本単位(封建領主が発する召集に応じて馳せ参じ、数に数えられる者) という概念上の類似点から発しているのではないの? それなら考察対象が限定されてくるから、もう少し比較論しやすいはずだけど。 強弱論議はともかくとして。
手柄の為に相手の首を獲る事を目的とする武士の戦と、 身代金の為に相手を生け捕りにする事を目的とする騎士の戦争ごっこ。
407 :
世界@名無史さん :2006/08/26(土) 23:39:59 0
じゃ武士と騎士のプロテクターはどっちがカッコいいかにしたら?
それこそ収拾がつかなくなる。主観の問題なので。
いや、必然的に騎士だな。うん。
410 :
世界@名無史さん :2006/08/27(日) 12:21:55 0
金髪 vsちょんまげ 革のブーツ vs草鞋 可動式バイザー vs鬼のお面 ホテル風城塞 vs旅館風城砦 シャラポア188cm vsヤワラちゃん147cm
おいおいもう頭悪そうな 雑魚キャラしか残ってないのかよ 泣けるぜ
413 :
世界@名無史さん :2006/08/28(月) 20:32:48 0
ヨーロッパは鉄が豊富だったから騎士は装備万全。 ついでに封建時代の日本人は特に小柄。 一対一なら侍の負け。
>>413 ヨーロッパは鉄を加工する技術の発達が遅く装備はガラクタ。
食料に乏しく成長ホルモン漬けの牛肉も無いので体格差は無い。
一対一なら射殺されて騎士の負け。
印象操作だけの夏欧厨しかいないのか?
智将は同じ事しか言わんな
前近代で一番体格がよかったのは鎌倉時代。身長が150〜170cm台。 平均して160cm台でしょうが、170cmも珍しくなかった。 一番小さかったのが、江戸末期から明治にかけてです。
同じ鎖帷子でも日本は均一な太さの鉄の輪をビス留めした鎖帷子。 ヨーロッパは棒に巻き付けて変形させた針金を組んだ鎖帷子。 日本の鎖帷子=ホーバークでは無い点を注意!
417 :
世界@名無史さん :2006/08/28(月) 22:08:02 0
418 :
世界@名無史さん :2006/08/29(火) 01:03:40 0
日本の鎧はパーツ同士を紐でつないでいるだけなので、ちゃちに見える。 城も紙と木で出来ているので簡単に焼失。南蛮人もビックリ!
419 :
世界@名無史さん :2006/08/29(火) 19:10:47 0
>>418 おっと、中世ヨーロッパの城が木造だったと知らない馬鹿が一人登場w
>>419 西欧はあまり詳しくないけど、木造建築の国ロシアでも14世紀にはモスクワの城壁が石造りになってりしてる。
ドイツ騎士団なんかはもっと早くから煉瓦や石で城を築いていたはず。
中はよく燃えるんだが。
9〜10世紀のヨーロッパの城は土塁に木造の城だった。 後進地域のヨーロッパでは、この程度でも篭城されると互いに手も足も出なかった。 そこで領主や騎士は身代金や領土を賭けて馬上槍による一騎打ちを行った。 篭城して決着が着かないより雌雄を決する戦争ゲームをしていたのだ。 十字軍運動の影響でオリエント式に石造になったのは11〜12世紀である。
9〜12世紀頃の日本の城はというと
石造になり一見より堅固になったようだが、実際はそうではない。 同時に正教圏や回教圏の進んだ攻城戦術もヨーロッパに入ってきた。 その一つがトンネルである。 軟弱地盤上の石造城壁は下にトンネルを掘られると容易に崩れてしまった。 1215年ロチェスター城はジョン英王がトンネルを掘ると簡単に陥落した。 さらに回教圏の新兵器・投石器はより凶悪だった。 投石器の前に石の城壁はやすやすと破壊されてしまった。 城が攻め落とされる危険が無ければ、身代金以外の財産は守られていた。 しかし、城の攻略が簡単となった時代には全財産を失う可能性が出てきた。 個人の技量に頼ったリスクの高い騎士の馬上槍遊びは攻城技術が発展したシビアな14世紀には その役割を終えた。
ヨーロッパの城壁は大規模な都市で外周300m。 通常は外周100mにも満たない小規模な城壁だった。 さらに扉は相変わらす剥き出しで木造だった。
>>423 奥州十二年合戦の頃まで騒々しかった東北が例外だった様な例もありますが、
基本的に「城」というのは恒常的な施設ではなく、臨時に天険の要害に掻楯
を並べ、逆茂木を組み、柵や板や空堀で囲んだ空間でした。
普段から居住する様な「城」が登場するのは、15世紀以降です。
(14世紀には攻城戦が目立っているのも注目していいでしょうが)
それまでの「城」は、臨時に造られたバリケード状のものが中心。
戦闘が長引く様な場合であれば、相応の居住空間も必要とされましたが。
>>424 投石器はアヴァール族が欧州に伝えたという説をどっかで読んだけど
普通は十字軍で伝来したことになってるのかな?
ギリシャ人の伝統芸能じゃないの。
ヨーロッパの投石機は回教圏から12世紀頃のイタリアに伝わった。 ヨーロッパの投石機は平行錘を利用した回教圏の回回砲と全く同じもの。 グレコローマンの攻城兵器は投石機では無く、破壊鎚や大型石弓である。 マケドニアのフィリプは大型石弓を渡河時の支援兵器として使用した。 なお、これを攻城に使用したのは息子アレキサンダー大王とされる。 大型石弓は投石機に比べると射程と石弾の重量が劣った。 また、大型石弓では防衛側の小型石弓の射程に入らなければならず、射手が遠殺される危険があった。 ビザンツ帝国は大型石弓を野戦や防衛に利用したがこれは正教圏の話だ。 カソリック圏の騎士はグレコローマンと歴史的断絶があり、異なる。
たしかにカウンターウエイト式投石器はシリアあたりの発明らしいけど それ以前に人力でロープを引っ張って飛ばすタイプが伝来してなかったっけ。
431 :
世界@名無史さん :2006/08/31(木) 00:12:46 0
城攻めで一番有効なのは兵糧攻め。 日本の城は何ヶ月ももたないのに、シナでは何年も籠城するのも珍しくない。 戦の厳しさの差がここにもある。
432 :
世界@名無史さん :2006/08/31(木) 00:16:02 0
北京城城壁、周囲約30km、厚み下部30m上部20m、高さ20m。 これに近いスケールの城壁都市はいくつもあった。
たしかアルメニアあたりの山城で、ティムールの軍勢に包囲されたが15年近く持ちこたえて そのうちティムールの方が先に死んでしまった・・・という例があったような。
434 :
世界@名無史さん :2006/08/31(木) 02:49:37 0
>>431 日本の城は住居を兼ねた砦、支那の城は城郭を巡らした街そのもの
篭城の意味からして違う
支那の場合は人は石垣、人は城に加えて人は非常食
436 :
世界@名無史さん :2006/08/31(木) 20:56:41 0
加藤清正は北京まで1日の所まで攻め込んだという。 大砲も持たずに何しにきたの?って感じだよねー
女真族の地(オランカイ)には入ったそうですが、一日は大袈裟では。
438 :
世界@名無史さん :2006/08/31(木) 22:30:50 0
明末の城壁都市なんて、まともな武装もしてない流民集団に簡単に攻略されてるじゃん。
闖王軍は普通に大砲とか使ってなかったか? 官軍が賊の攻城砲列に向かって「陰門陣」を行った例があったはず。
>>439 李自成軍の攻城法
1.兵士が城壁まで走って行って敷きがわらを一枚抜いてくる。
2.敷きがわらを取り終えたら、その穴から順次城壁の土を外へかき出す。
3.穴が4.8〜8メートルに達したら、一本の土柱に大綱を結びつけ、大勢で一気に引っ張る。
4.土柱が折れて城壁が崩れる。
5.火薬を充たした瓶を城壁の壊れた所に並べ、爆発させて守備兵を一掃する。
>440 5がちょっとよく分からなかったんですけど 守備兵が城壁の裂け目に下りてきて守ってる状態?
442 :
世界@名無史さん :2006/08/31(木) 23:34:35 0
>>438 北京城は結局、政治的謀略によって中から鍵を開けたようなもんだけどな
>>437 加藤清正vs女真族って前から気になってたんだけど
どうも詳しい資料がないんですよね。
記録自体少ないのかもしれないけど。
444 :
439 :2006/09/01(金) 20:41:36 0
読み直してみたら陰門陣を使ったのは李自成の方だった
>>442 スパイに内側から呼応させて攻略するってのも多かったみたいですね
445 :
世界@名無史さん :2006/09/01(金) 23:05:27 0
>>443 結局実現しなかっただろー 明に断られて。
446 :
世界@名無史さん :2006/09/03(日) 12:33:02 0
それにひきかえ江戸城は、城壁も無いので、勝の言うとおり焦土作戦しかない。
447 :
世界@名無史さん :2006/09/03(日) 15:28:58 O
>>446 江戸城が建築された頃には、世界的にも城壁で防衛ラインを形成しようとする築城思想は
時代遅れになっていたからね。
449 :
世界@名無史さん :2006/09/03(日) 22:47:29 0
縄張りの問題じゃねーよ 江戸は幕末期に3度も火事で丸焼け、3度目は江戸城も再建されず、維新軍とは 戦う前にギブアップ状態。人口が増えすぎ防衛力が無くなったのが原因
450 :
世界@名無史さん :2006/09/03(日) 23:25:46 0
天守閣と城の違いも知らないような
>>449 のようなカスしかいない
>>450 そして、あえて違いを説明しない、もしくは出来ないカスしかいない。
天守閣は飾りです。えらい人にはそれが分からんのです
453 :
世界@名無史さん :2006/09/04(月) 21:29:38 0
454 :
世界@名無史さん :2006/09/04(月) 21:33:45 0
>>450 糞馬〜鹿ッ 天守閣など当の昔ないわい。
本丸御殿の事に決まってんだろが
455 :
世界@名無史さん :2006/09/04(月) 21:58:22 O
あっ! まだ夏厨がいる! 一晩も調べて虚しい反論してるよ〜
456 :
世界@名無史さん :2006/09/05(火) 23:01:25 0
俺がオメーらに付き合える無駄な時間は1日1回だけだ
江戸城 堀があるだけで結構な防御あると思うけどね
ま、一地方藩にすぎない長州、薩摩を倒せなかった点をみても 末期の徳川幕府は経済的にも人材的にもメタメタな状況だったんだろうな 末期に中心となった勝海舟や近藤勇なんて能力はここではおいておいて、家柄で言えば、話に ならない下級の出なのだから
459 :
世界@名無史さん :2006/09/07(木) 21:53:11 0
中国が一番強い 中国は世界の中心
>>458 全国を取り仕切る江戸幕府は官僚主義的弊害に陥りやすかったろう。
そして制度が硬直化し、変化する状況への対応が遅れたのではないか。
むしろ地方藩のほうが小回りがきいて敏活に対応できたということではないか。
家柄がどうとか言ったら戦国時代は・・・
島津(源)、大友(藤原)、毛利(大江)、長曽我部(秦)、織田(斎部)、武田(源)、 長尾(平)、北条(平)、伊達(藤原)。一応それなりの名家ではないかと。 少なくとも、勝や近藤の実家よりは由緒も基盤もありますよ。城主クラス。 少弐、大内、上杉、などそれ以上の家の没落も目立ちますが、一国の中では一応の勢力が あった家の出身がほとんど。 このレベルの立身なら、戦国期を待つまでもなく既に見られていたと思います。 完全に外れるのは秀吉でしょうが、一応平氏を名乗っていましたね。 相応の血統の出でないと高い地位には就けないのが当時の通念。 加藤や福島はともかく、前田や山内でもまだ勝や近藤よりは出身は上かと。
>戦国期を待つまでもなく ちなみに、下克上という不穏な言葉が登場するのは鎌倉時代末期です。
464 :
世界@名無史さん :2006/09/08(金) 00:22:22 0
そんなどうでもいいことより、征夷の大将軍が無理やり夷国に条約を結ばされた時点で終了ー
465 :
世界@名無史さん :2006/09/08(金) 15:00:34 0
なにが?
466 :
世界@名無史さん :2006/10/09(月) 09:00:06 0
みんなどこいった
>>459 清代前半までは。アヘン戦争で負けてから転落、今は内紛の危機を迎えていて世界の盟主に復帰するのは当分は無理(当分が永久になるかもしれない)。
468 :
世界@名無史さん :2006/10/14(土) 22:55:30 0
>>467 清は中華支配(漢民族)じゃないけどね。
アレが世界の盟主になったら世界が滅ぶよ。ユダヤよりタチが悪い
469 :
世界@名無史さん :2006/10/15(日) 00:06:50 0
ユダヤは在日 シナが覇権は取ったら・・・・ 戦前の白人の人種差別にも一理あった
470 :
世界@名無史さん :2006/10/20(金) 22:39:38 0
漢民族は虐殺大好きっ子だもんな。真っ先に日本人はホロコーストされると思われ。
食べる為に殺すのは仕方が無い事。
472 :
世界@名無史さん :2006/10/31(火) 19:21:41 0
時代劇とは違い武士はサラブレットのような大型の馬ではなく 本来は木曽馬のような短足な馬に乗っていた。 騎士のプレートアーマーは武士の鎧と違って隙間が少なく 見た目に反して機動性にも優れていた。 そして、その硬い鎧を破るための武器も発達していた。 体格も騎士のほうが明らかに上。 正面衝突では武士は絶対に騎士には勝てない。
小型のモンゴル馬の持久力にキエフの大型馬の騎兵は敵わなくて 逃げるモンゴル軍を追撃したキエフ諸侯軍の騎兵隊は かえって疲弊してしまいそこにまだ余力があるモンゴル騎兵が逆襲して 大将のハリツ候は圧死の刑に処されるなどして潰滅しているが。
まあ「正面衝突では」って書いてあるからな
ロシアは小さいモンゴル馬の耐久力を思い知らされたのか、 コサックはサラブレッドよりモンゴル馬を使用している。
モンゴルのような戦法を日本武士が取るのは無理だろ。
重装備は馬の持久力を奪うし、大型馬は大量の飼葉を消費する為、 ヨーロッパ型の騎士は広大な平原地帯での戦いには向かない。 フン族やモンゴルのような飼葉が少なくて済み耐久力のある小型馬が ユーラシアでは主流だった。
武士の弓はイングランド軍のロングボウよりも強力だし、数でも圧倒している。 実際に戦えば、クレシーやポワティエ以上に騎士にとって悲惨な結果に終わるだろ。 まぁ、衝突する前に全滅するだろうな。。。
モンゴルの騎馬軍にドイツ騎士団も大敗しハインリヒ二世が晒し首の憂き目にあっている。
どちらにしても遊牧民ではない日本人が モンゴルと同じような戦闘ができるとは思えないし 仮に奇策で騎士団を撃退できたとしても 攻城兵器も攻城戦術も貧弱な日本人が逆に攻めることはできないだろうな。
中国や日本では城攻めで水責めは常套手段だが、ヨーロッパではあまり聞かない。
>>480 対モンゴル戦を見る限り、ヨーロッパの城が朝鮮の城よりも防御力があるとは思えないな。
ヨーロッパでは城攻めは兵器が中心だが、日本や中国では突貫工事で川の流れを変え 城を水浸しにしてしまう作戦が多い。モンゴルもウルゲンチ攻略では水責めで皆殺しにしている。
>>武士の弓はイングランド軍のロングボウよりも強力だし ウソクサ
日本はともかく、中国の城って城壁が分厚いから 近代の火器が出てくるまで兵器の攻撃はあんま意味なさそう
中国は日本と違い、攻城兵器も攻城戦術も豊富なわけだが。
>>473 ロシア人が大型馬に乗っていたという根拠は?
>>483 そんなに水浸しって多いか?まだ水不足のほうが多いような
というかどう考えても日本は攻城戦の比重が軽いだろう
長期化することなんて稀だし。
日本だと、上田・紀伊大田・備中高松 しか浮かばなかった。
>>472 プレートアーマーが登場した時期には頃には火縄銃が最盛期で役に立たなかった筈なんだけど?
>>485 中国式の城は穴掘れば一発で愉快に崩壊。火薬が登場し地下から爆破されるとさらに脆くなった。
壁の分厚さは意味無いよ。むしろ土を厚く盛って石垣で補強した日本の城のがやっかいだよ。
>>490 関ケ原の合戦時に、徳川家康が身につけていた南蛮胴具足は火縄銃の弾丸を
はねかえすほどの防御力だった。
それ距離が分からないと意味無いよ。
ヨーロッパはアジアに比べ馬も人も大きいが、その分食料などの「燃費」もかかった。 ロシア諸侯軍はモンゴル軍を人も馬も小さいと侮り逃げるモンゴル軍を追撃して かえって逃げるモンゴル軍より先に息切れしてしまい、そこを逆襲され潰滅している。 甲冑に身を固めた状態で軽装のモンゴル軍を追撃していたので体力の消耗は モンゴル軍に比べ相当大きかったと思われる。
モンゴルの戦術は簡明だろう 包囲して、ただ遠くから騎射するだけ。機動力が圧倒的に違うから近づけない 他のいかなる文明も戦争が若干の儀礼的な側面を持ってしまうものだが モンゴルでは敵をいかに殺すかという点だけが重要であって 特に個人的武勇や、英雄的行為は必要としなかったんだろう。
>>494 >ロシア諸侯軍はモンゴル軍を人も馬も小さいと侮り逃げるモンゴル軍を追撃して
>かえって逃げるモンゴル軍より先に息切れしてしまい、そこを逆襲され潰滅している
どこの戦い? そんな例は初めて聞いた
>>495 遊牧民の間でも選ばれた勇士同士による一騎打ちとかやってますが?
どこらへんが武士と騎士の話やねん
鎧や体格は明らかに騎士のほうが上だな。 昔の日本人の平均身長は今よりずっと低い。
鎧なんていつの時代で比較するかによって全然違うぞ。 十字軍の騎士と源平の武士を比較すれば、武士の大鎧の方が上だろ。
何を基準に上とか下とか決めるんだ?
どっちが鎧のイデアに近いか
何より総合的な防御力だろ。 鎖帷子は刺突や打撃に弱いとか、 大鎧は隙間が多く繋ぎ目が革紐なのでいまいち防御力が高くないとか。
503 :
世界@名無史さん :2006/11/02(木) 22:16:34 0
>>502 その辺はこのスレの過去レスで答えが出ている。西洋の鎧はおおざっぱ
>>496 ハーグ条約(1899年)
ウィーン条約(1961年,1963年)
みたいに、ばっちし儀礼の様式の書かれた国家間の約束事だってあるじゃん。
>>502 重量や運動性、製作コストなんかは評価にいれないのか?
武士が江戸時代以降アホか勉強の虫になってる以上 領主として民から尊崇を受けるべく肉食し体を鍛えた騎士に勝るとは思えん
江戸時代以降ねwwww
>>498 山野が鎌倉時代の平均身長は高かったとかいってたけど。
509 :
世界@名無史さん :2006/11/03(金) 02:30:55 O
貧農出身の豊臣秀吉は身長158センチ 。 武家の織田信長は165センチ。 同じく武家の前田利家は180センチと長身。 竹中重治も身長は170台と記憶。 1800年代スウェーデンの身長平均165センチ。 騎士が存在した中世では栄養状態も悪く、ヨーロッパ人もチビ助。 ラテン系ヨーロッパ人であれば更にチビ。 騎士厨外児は現代と過去の身長が違う事ぐらい気付けw 更に鎧の強度に関してだが、「中国武器集成」で弩の威力に関する実験があった。 その結果、板金よりも革が高い防御性能を発揮する事が証明された。 白人は体がでかいとか鎧は鉄だから強いとかイメージばかりの羅列だな。 幼稚な連想ゲームはよそでやれ。 騎士厨はゆとりの二学期制度が生んだ秋厨か?
ゆとり教育って便利な言葉だよな。 それ使ってるだけで書いた奴が例外なく馬鹿だと判る。
511 :
世界@名無史さん :2006/11/03(金) 03:32:30 0
>>509 >1800年代スウェーデンの身長平均165センチ。
ソースきぼんぬ。
512 :
世界@名無史さん :2006/11/03(金) 03:34:57 0
前田利家は、長身のイケメンだったので信長公の男色相手として寵愛されますた。 しかし、栄養状態がいいはずの徳川将軍は、なぜか大半が身長150cm台だったそうな。
利家の義理の甥の前田慶次も6尺5寸(197cm)だったそうだ。 血統的に長身だったのだろう。
武士や貴族だけの集団だった時代に比べて、近代国家の軍隊は、 農民や平民などが入ってくるため身長が低くなるんだよね。
515 :
世界@名無史さん :2006/11/03(金) 03:52:38 0
豊臣秀頼は身長2m近かったんだよね? やっぱり淀殿の不倫の子?
>>515 母方の祖父である浅井長政の影響だろう。
517 :
世界@名無史さん :2006/11/03(金) 03:56:10 0
> 【17歳日本人の平均身長】 > 男:1950年 161.8cm 女:1950年 152.7cm > 1965年 166.8cm 1965年 154.8cm > 1985年 170.2cm 1985年 157.6cm > 1998年 170.9cm 1998年 158.1cm > (文部省「学校保健統計調査」より)
518 :
世界@名無史さん :2006/11/03(金) 03:57:51 0
例え有名武将の身長が高くても兵士そのものの平均身長は 15cm以上差が武士が有利になるはずが無い。 それから軽量な革鎧よりも重い板金鎧が好まれたのは 総合的な性能で勝っていたから。 戦国末期では日本武士も南蛮胴を導入している。
現実の戦争ではヨーロッパの軍隊は小柄で軽装備のモンゴル軍に歯が立たなかったし、 イスラムに対しても劣勢だっただろ。
521 :
世界@名無史さん :2006/11/03(金) 10:22:06 0
武士の方が全然強いだろ 幕末でも薩英戦争で英人負けてるくらいだから
522 :
世界@名無史さん :2006/11/03(金) 11:10:19 O
南蛮胴が鉄砲対策として有効だったかは疑問。 現実として騎士の板鎧は鉄砲の前に無力だった。 家康のように射程外で指揮官が着る分には良いが、弾幕張られている中に突っ込めば死ぬ。 一枚板の南蛮胴採用も鉄砲対策の一選択肢にすぎない。 明清のように綿などの繊維を利用する選択肢もある。
523 :
世界@名無史さん :2006/11/03(金) 11:17:33 O
身長で勝ってる現代人のお前らだが、江戸時代の農民に腕力で勝てない。 身長がでかいから強い訳ではない。
524 :
世界@名無史さん :2006/11/03(金) 16:54:10 0
ちんこがでかいからだろ
モンゴルは文明が優れていたのではなく、意外性があったから 中国やイスラムやヨーロッパを圧倒できただけだと思われる。 イスラムの場合は十字軍が砂漠の戦い方を知らなかっただけ。 第一次十字軍ではヨーロッパのほうが優勢だった。 日本武士についてだが彼らにモンゴルのような 卑怯に徹した戦略が取れるとは思えない。 唯一対抗できる可能性がある武将がいるとすれば織田信長だけ。 もっとも信長が天下を統一していれば外国と戦争自体にならないかも知れないが。
526 :
世界@名無史さん :2006/11/03(金) 18:53:01 0
つか戦国の武将は卑怯者ばかり、武士が卑怯はいけないとかなったのは幕末の教養化された武士
モンゴル人・馬のように人も馬も小さくなければ大規模且つ遠距離の遠征は不可能だった。 ヨーロッパのように人・馬が大きければそれだけ消費する食料・飼料もそれだけ増大してしまう。
日本武士は韓国すら占領できないヘタレだからね。
パラダイムの違いを吸収する前に、モンゴルが弱体化したから、 緒戦で勝利しても、モンゴルが強いとは言い切れない。ヨーロッパと モンゴルの戦いが長期に複数にわたって、モンゴルが勝利すれば 強かったと言えるが。
ベトナム戦争でアメリカは敗北したから、ベトナムが世界最強の軍隊 と主張しているのと似ているな
ベトナム兵は小さく腕力でも劣るが穴倉に潜んで鼠の肉を食べながら戦える。 一方のアメリカ兵は睡眠不足でもノイローゼに陥る。 この「耐久力」の差が、 見かけでは小さく華奢なベトナム兵が大柄で腕力の強いアメリカ兵に勝ち得た大きな要因かもしれない。
532 :
世界@名無史さん :2006/11/04(土) 00:13:28 0
大王ではなく、その父の1世の方ですね。 ポツダムの巨人連隊でしたっけ?
結局は、昔はヨーロッパ人の身長が低かったが、日本のほうがもっと 低かったということか。
>>529 実際、モンゴルはヨーロッパに、長期に複数にわたって勝利しているだろ。
17世紀になっても東欧で最強の軍事力を持っていたのはタタールだったぞ。
薩摩人こそ最強で偉大なのである。 1 秀吉vs明&朝鮮の戦いでは、薩摩兵が強すぎて明&朝鮮軍から疫病神のように恐れられた。 2 関ヶ原では退却の際、家康本陣に捨て身の突撃を見せつけ家康に後世の心配までさせる。 3 薩英戦争では当時最新鋭のアームストロング砲を持った英海軍を追っ払う。 4 西南戦争では近代兵器を装備した政府軍に白刃で突撃し散々悩ます。
ポーランドとドイツがグズンヴァルドで戦った時、 ポーランド側にタタールの騎馬隊が加勢していた。 ドイツはこの戦いに大敗している。
>>535 17世紀の東欧で最強はロシア、ポーランド、トルコのどれかだろう。
>>537 ドイツじゃなくドイツ騎士修道会。
ヤギェヴォ王がお祈りしてる間に先制攻撃をかければ勝てたかも。
グズンヴァルドでのドイツ騎士団の敗因はリトアニア軍の反転で タタール騎兵が破ったわけではないだろう。
リトアニア軍の一部ですね。 あの戦いの経緯を見ると兵の強さは チュートン騎士団≧ポーランド軍>>>>>リトアニア軍+タタール って感じがする。
541 :
世界@名無史さん :2006/11/05(日) 12:27:38 0
純粋に一対一ならば 武士>騎士
個人差だろ。
>>535 モンゴルはなぜヨーロッパを征服できなかったんだ
モンケが死亡したから アクレサンドリアも後一歩で・・・
デニス・サイナーって人がモンゴル軍はロジスティクスの問題で いずれ撤退せざるを得なかったとかいってたけど
ドイツ騎士団はモンゴルに従属したネフスキーにも大敗している
ロシアは17世紀になっても、タタールに定期的に高価な貢物をしていた。 ロシアがタタールの襲撃から開放されたのは、ロシア版「万里の長城」の ベルゴロド防衛線やイジューム防衛線が1680年代に完成してから。 ポーランドは1648年に勃発したフメリニツキーの乱で、ほぼポーランド軍と 同数のコサック・タタール連合軍に連戦連敗。 タタールがコサックとの同盟を解消するまで、まったく歯が立たなかった。
東欧なら17世紀でもタタールが強力だね。 ただ、西欧や北欧にはフランスやスウェーデンがいたからヨーロッパ最強と言うわけでもないだろう・・・ ってスレ違いだな
550 :
世界@名無史さん :2006/11/12(日) 17:26:27 0
イメージだけで言えば騎士は4d車、武士はトヨエースって感じがする
551 :
世界@名無史さん :2006/11/12(日) 23:21:45 0
>>550 確かにそんなイメージもできるけど実際は騎士の装備も武士の装備も
重さは大して変わらないよ。
武士の方が強いよ。 騎士は任命制だけど、武士は自分で武士だと名乗ればいいだけだし。
それを言っちゃあお終ぇよ
少なくとも、中世前期なら名乗れるだけの貴種に通じる家系と領有する「名字の地」 がないと、単なる「兵器に耐えうる輩」扱いしかしてもらえませんよ。 家系の捏造は、洋の東西を問わずどこでも行われましたが。 また、同じ武士でも国司や幕府の名簿に記載され、有事の際には直接徴収される有 力武士のほうが、駆武者と呼ばれる臨時雇いの連中よりも格式があった。
武士の方が強い、と信じたいなぁ……。
でも、女にもてるのは騎士だよね…
騎士:ロリコン 武士:ショタコン
>第一次十字軍ではヨーロッパのほうが優勢だった。 そりゃ複数の国が兵士を出し合って集団で攻め込めんだんだから最初は有利だろ。 攻め込まれる側に団結する余裕があったとは思えないし。
足軽鉄砲隊に潰滅させられる十字軍の騎士達
マジでそんな感じ。でも多分最後はどっちが勝っても和解だと思うよ。 あれひょっとしてコイツらは今まで戦ってきたやつらより話が通じる?みたいな。
>>560 残念ながら日本に鉄砲が普及した頃には向こうも長槍に火縄銃に歩兵密集陣の時代
563 :
世界@名無史さん :2006/11/17(金) 01:48:38 0
日本の農民は武装しているから、異人が占領するのはまず無理だべ。
農民が戦わなくても普通に無理だと思うが 16世紀なら
豊臣秀吉が朝鮮攻めたとき、 向こうは長く平和が続いていた(NHKのチャングムとかいうドラマがその頃)せいで 対応が遅れたそうだけど、 日本はそういう時代は平安期と江戸時代くらいなのかな?
平安期に朝鮮が攻めて来た時には、あっさりと撃退したけどな。
568 :
世界@名無史さん :2006/11/17(金) 20:38:48 0
日本が弱けりゃ幕末に植民地になってるよ
569 :
世界@名無史さん :2006/11/17(金) 22:27:03 0
結局日本が生んだ侍階級は潰すにはおしかった、幕末明治でも社会的な創業者はほとんど士族だし そういった使命感もってたうえ、西洋の貴族と違い清貧で富を独占しなかったし
社会的な創業というのがこの場合何を指すかは分かりませんが、国民国家 形成のためには、通らねばならない道だったのでしょう。 四民制度ぐらいは残しておいてもよかった気がしますが。
身分制を早くから(名目だけでも)捨て去っていたからこそ、 大正デモクラシーや現在でも判例が使われるような司法制度につながり、 引いては現在の民主政治や資本主義の根付く土台が作れたんじゃないか。 韓国の独裁政権時代や北朝鮮人民の衆愚っぷり、 ソ連や中国の騒乱の歴史を思えば、 アメリカのおかげもあるとはいえ、 日本は国内事情に関してはいい道筋を進んできたと言えると思うぞ。
国民総中流で共産国家以上の事実上の共産国家を実現できたわけだし。
しかし、いまや、格差社会。ジニ係数はイギリスなみ。 貧困率の高さは、OECDトップクラス。
574 :
世界@名無史さん :2006/11/18(土) 02:19:10 0
>>571 そこが問題
日本の場合西洋の市民革命的じゃなく、四民平等も武士が行ったもの
そのため一般の庶民の政治意識や社会意識が薄くなった
政党政治も士族が起こしたし
西洋の場合政治も富みも貴族が独占した為
不満を持った市民が革命の主役になって四民平等に繋がった
というのは建前でね、実態は「貴族出ばっかりじゃん!」とか「世襲政治家かよ」とかそんなのが多い。 この人違うなーと思ったら学者の家系とかでやっぱ階級社会なんだなと。 パリ大学の学長の親もパリ大学の学長だったりと、そういうのが現実。 たまにイレギュラーがあるくらいだよね。
>>574 >西洋の場合政治も富みも貴族が独占した為
>不満を持った市民が革命の主役になって四民平等に繋がった
ヨーロッパは今でも階級社会じゃないかと。
577 :
世界@名無史さん :2006/11/26(日) 19:02:39 0
結局、下克上が通用するのは、混乱紀と発展紀だけ、停滞紀までくると あるゆる職種が世襲に向かう。
578 :
世界@名無史さん :2006/12/03(日) 10:48:08 0
>566 朝鮮は平和が続いてたというより、社会が停滞してたんでしょう。 一方日本の戦乱は所有権の争いが本になっているのが多く、それだけ土地私有の原理が 封建制により社会に根付いていたんでしょう。
579 :
世界@名無史さん :2006/12/19(火) 15:33:41 0
先週やったラストサムライ見たぜ! 鉄砲相手に刀と弓で敵を倒しまくるサムライすげー! やっぱ極めれば武士のほうが強いんだよ!
580 :
世界@名無史さん :2006/12/19(火) 16:13:43 O
武士は鉄砲の腕も凄かったんだけどな
つまりだ。 建前上の身分制を廃し、上流に都合のいい恋愛自由主義を持ち込んでキレイどころを食いまくり、 下流には上流の食いカスかゴミを垂れ流して処理させるのが今の社会の実態と言える。 良く考えたものだなあと素直に感心してしまう。
現代にサーの称号を持つものがいる限り、 不戦勝により騎士の勝利にて候
福原愛は騎士だったのか・・・・・・
福原愛は中華文明が誇る猛者です
586 :
世界@名無史さん :2007/01/13(土) 23:59:44 0
このスレまだあったのか・・・ つーか、互いに装備は何なんだよ。 侍は武具一式か? それとも、着物に刀一本か? 騎士はフルプレートか? 実際、あんな重装備で走れるのか? それとも、鎖帷子か?
どの時代の騎士階級だ? 欧州の騎士階級はローマ帝国〜WW2前のドイツまでなんだが…
589 :
世界@名無史さん :2007/01/14(日) 13:29:28 0
スペインのイダルゴなんかが日本人と戦闘した記録はないのか?
戦国ランスだと騎士の方がつおいお
591 :
世界@名無史さん :2007/01/14(日) 14:54:00 0
コーエーのゲームだと蒙古騎兵が最強です
チュートン騎士団最強。
meの股がイ凧いているsamurai swordこそがstrongest longestなのデース
594 :
世界@名無史さん :2007/01/14(日) 17:01:30 0
武士も騎士も無手組の達人には勝てん。
595 :
世界@名無史さん :2007/01/14(日) 17:39:19 0
双方馬上で槍装備 武士・革鎧 騎士・重装鎧orチェーンメイル 同じ馬 短期決戦・騎士有利 長期決戦・馬のスタミナ切れで武士有利 西洋の馬品種改良を考慮 騎士有利 馬を喪失後 武士有利(騎士重武装の場合) 地形考慮 険しい地形 軽装有利 広い地形 重装有利(短期決戦の場合)
596 :
世界@名無史さん :2007/01/14(日) 17:46:15 0
>>591 >蒙古騎兵
これだと弓兵も範疇に入ってくる?
俺も馬上技術はモンゴル最強と思うよ
597 :
世界@名無史さん :2007/01/14(日) 18:32:11 0
モンゴルの馬も日本在来馬も似たようなもの?だけど 基本的に馬小屋で飼う日本の馬と、一昼夜運動している?モンゴルの馬 では基礎体力が全然違うと思うし 前にテレビで見たけど、モンゴル人三頭の馬並べて走らせて馬が疲れたら 隣の馬に飛び乗り、疲れたら又隣の馬に飛び乗ってた! モンゴル人恐るベシ
>>597 日本の馬は山道を重い荷を負って歩くぞ。
日本在来馬は蒙古馬の亜種
武士の不戦勝でしょう。その昔アステカを滅ぼしたスペイン人は鎧を着た兵士が 大活躍したそうだが、戦国時代に来たスペイン人は武士との直接対決は避けていた ように見える。すなわち、武士にはかなわないと思ったのでは?
601 :
世界@名無史さん :2007/01/16(火) 02:15:26 0
アステカの話なら、馬を知らないインディオたちが騎馬兵を見てビビッたってやつだろ
602 :
世界@名無史さん :2007/01/16(火) 04:15:55 O
>>595 また、重装甲に品種改良馬で槍突撃?
それなんてエロゲ?
自分の意見を通す為に都合の良い時代考証をつまみ食いしたお膳立てするな
十字軍ノルマン騎士なら重馬の駄馬か徒歩となり、馬は品種改良されていない
槍も日本は南北朝以降で時代設定が違う
鎌倉武士に弓を放棄させた時点で
>>595 は騎士の負けを認めている
>>602 >鎌倉武士に弓を放棄させた時点で
>>595 は騎士の負けを認めている
まあ戦の主力は刀槍より弓とかかもな。
農民(イギリスのロングボウ兵)
まで範疇に入れて考えるか?
弓騎兵を戦法の主体にしてたモンゴルの前には
武士も騎士も取るに足らないでFA?
605 :
世界@名無史さん :2007/01/16(火) 06:18:49 0
日本の武士はモンゴルに勝ったろ。 高麗・江南・蒙古の連合軍です。
>>605 船に乗ってきた徒歩モンゴル人と高麗、南宋人混合まで含めると、
ますます話がズレてくるな。
博多が焼かれた事や台風の影響とかは考慮?
607 :
世界@名無史さん :2007/01/16(火) 06:28:28 0
「女子差別撤廃条約」とは、簡単に言うと、アメリカのフェミニズム思想が 国連を介して制度化したものです。 ところが、当のアメリカでは、フィリス・シュラフリーという女性を中心とした アンチ・フェミニズム派が10年間にわたる運動をした結果、フェミニズムが 人間のモラルや家族を破壊する危険思想であることを多くの国民が知り、 「女子差別撤廃条約」には批准しませんでした。 しかし、日本ではこのような経過でアメリカが批准していないのを知って いながら、国連の言うことだから正しいことだろうということで、中身を精査 することもなく、1985年に批准してしまったのです。 これが元で、「男女共同参画社会基本法」なる悪法が出来たのです。
608 :
世界@名無史さん :2007/01/16(火) 06:38:32 0
>>605 モンゴルに勝った日本でも、秀吉の明遠征で失敗。
恐るべき明w
モンゴルは「戦争が上手い」のであって個々の兵士が強いわけではない というか大帝国を築いた国の兵士はどっちかと言うと弱い方が多いよ
このスレは何故かいつもモンゴル軍の話に行き着いてしまう
611 :
世界@名無史さん :2007/01/16(火) 15:11:22 0
>>603 >主に農耕や重量物の運搬のために改良された品種。
これを駄馬とか駑馬と言う。足が太い農耕馬で牽引力は強いがのろい。
>中世ヨーロッパでは重い甲冑を着込んだ重装備の騎士の乗馬とされた。
>大きな個体では体重1トンを超えることも珍しくない。
くり返し言うが大型の 重 馬 は 鈍 く、猛スピードで突撃はできない。
大型馬を品種改良して速さを追求すれば、自重で足を痛めて軍馬に向かない。
近代に登場したサラブレットのようなガラスの足になる。
突撃戦術が最適なのはアラブ種のような足の速い軽〜中馬。
速度を生かした突撃戦術を効果的にするには、ベルベルやその戦術を継承した
スペインのように無駄な負荷を減らした軽装甲騎兵になる。
騎兵突撃は飛び道具の支援なしでは成功しない奇襲に過ぎない。
弓兵の育成が遅れた騎士主体の大陸ヨーロッパは対外戦争には勝てない。
騎士は統率の無い集団やせいぜい中小氏族集団にしか勝ってない。
612 :
世界@名無史さん :2007/01/16(火) 15:30:08 0
>>608 >モンゴルに勝った日本でも、秀吉の明遠征で失敗。
>恐るべき明w
ホームとアウェーでは結果は変わる。
モンゴル軍は日本への上陸に失敗しているし、
同じ土俵なら鎌倉武士は集団戦法に苦しめられた。
秀吉の明遠征が失敗したのはモチベーションの問題だろう。
613 :
世界@名無史さん :2007/01/16(火) 15:35:14 0
中央アジアの覇権をかけた「タラス湖畔の戦い」で、 中国はイスラムに敗れている。
覇権かかってたのか?
615 :
世界@名無史さん :2007/01/16(火) 15:54:05 0
602が勝手に勘違いしてるんだろ。 595は騎士が突撃主体なんて書いてないし。
616 :
世界@名無史さん :2007/01/16(火) 15:59:08 0
モンゴルは支配した民族をけしかけて漁夫の利を狙う戦略。 モンゴル騎兵より隷属民歩兵主体で元寇時もその他の時も変わらん。
617 :
世界@名無史さん :2007/01/16(火) 16:59:55 0
騎士も武士も大したこと無い。 馬もステータスシンボルに近い。 現実の戦は長槍と弓の雑兵が主力。
>>573 >しかし、いまや、格差社会。ジニ係数はイギリスなみ。
>貧困率の高さは、OECDトップクラス。
1位はアメリカだけどな。
大国になればなるほど貧困率は増加する。
困ったものだ。
>>615 その認識は不正確。
チンギス・ハンの中央アジア遠征で都市・城塞の攻略に、一時抵抗したものの
後で投降して来た別の都市民を補充兵力(歩兵)として動員しただけ。
ただ、これが可能だったのもモンゴル軍がマーワラーアンナフル全面に展開し、
歩兵も現地で調達できたから。
モンゴル軍の戦力基盤は飽くまでも千戸制を主体とする遊牧騎馬軍団。
13世紀後半のモンゴル諸王家間の紛争でも1〜5万規模の兵員が普通に投入
されているが、これらも騎馬軍団の主体であって歩兵はカウントされていない。
ただし、サハリン遠征や文永・弘安の役、あるいは南宋遠征のように状況に応じて
歩兵が相当規模投入される事も良くあったようだが。特に文永・弘安の役は
『元史』の記述からすると前者は帝国東部の女直人などの屯田軍がメインであり、
後者の江南軍にしても歩兵であって、いずれにしろ正規の騎馬軍団は殆ど居ない。
中央アジア・イラン、キプチャク草原での戦役と、これらの戦闘では投入された
兵員の状況が全く違うので、同列に扱う事は出来ない。
>>619 んなこと言ったらワールシュタットだって
ポーランド・ドイツ騎士団連合軍はほとんど民兵で
正規の騎士はほとんど居なかった。
数の上でもバトゥの方が明らかに上回ってたし
兵員の状況が全く違うので、同列に扱う事はできない。
とか、なんでも言えるが?
621 :
世界@名無史さん :2007/01/17(水) 17:03:44 0
>>620 細かいことかもしれんがワールシュタットの指揮官はバトゥではないし
モンゴル軍の数は全く不明
>>621 どこかの過去スレに出てた気がするが
ブルガリ諸族の数とかも掲載されてた記憶が。
総指揮官な。指揮官はバイダル。
というか、言わんとすることぐらい悟れや
よく分からんが619は616へのレスじゃないのか
>>611 全身を板金鎧で固めた重騎士の突撃は早足ぐらいのスピードしかでなかったそうだ
重騎兵については、あんまり速さは追求していなかったんじゃない?
>騎士は統率の無い集団やせいぜい中小氏族集団にしか勝ってない。
アルスフの戦いは?
625 :
世界@名無史さん :2007/01/20(土) 23:00:36 0
マムルーク最強伝説
626 :
世界@名無史さん :2007/01/21(日) 02:55:14 O
どっちのマムルークだ? エジプトのか? ナポレオンのか?
627 :
世界@名無史さん :2007/01/21(日) 16:04:21 0
グラーム最強伝説
戦国最強武田牙軍団もポニー軍団だもの。たかがしれてる。
629 :
世界@名無史さん :2007/01/21(日) 18:19:30 O
北斗と南斗の男二人で壊滅だな
>>628 未だに、武田は騎馬軍団を突撃させただけとか思っている阿呆がいたのか・・・
ていうか、モンゴル騎兵もヨーロッパの馬も、戦争に使ったのは同じようなサイズの馬。
【審議中】 ∧,,∧ ∧,,∧ ∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧ ( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` ) | U ( ´・) (・` ) と ノ u-u (l ) ( ノu-u `u-u'. `u-u
635 :
世界@名無史さん :2007/02/04(日) 01:18:29 0
NHKの今晩の世界遺産でマルタ島バレッタを取り上げていたけど、 聖ヨハネ騎士団伝来の剣術ってのにはワロタw 剣を逆に持って(刃の方を掴んで)、 握りの部分を相手に向かって振る場面が一瞬あったwww まああれが打撃なのか、 相手の攻撃に対する防御なのか、 フェイントの一種なのかは見た目で分からなかったし、 カウンター目的で敵が攻撃した後の隙を狙うって根本的な戦法自体はいいと思ったが。
>>635 君が無知なのでは?
日本の刀は斬るのが主体。
西洋の剣は突くのが主体。
西洋剣の刃を持っても手が切れる物とは限らないし、
相手が鎧の場合は、重い握りの方をハンマーの要領でぶつける方が、
有効な場合もあるだろ。
日本の場合は鎧同士で斬り合いできず、組み合う事もあったが、
逆に持ってハンマーの要領で戦える西洋剣を劣ってると言えるか?
人を無知と言いながら仮定ばかりなのはどうかと思うぞ。
638 :
世界@名無史さん :2007/02/04(日) 08:39:00 O
>>636 君が無知なのでは?
日本の刀は「打ち物」で打撃に主体を置いた武器。
実践的な介者剣術では刺突主体。
打つ突くが本来の使い方で、斬る断つは平和な江戸時代以降の趣味の素肌剣術。
短刀主体の忠孝真貫流は懐に入って胸板を貫く剣術。
中条流の分派である勢源流が短刀主体となったのも
鑓の登場で刀がサブウェポンとなったからだろう
十字剣の鍔で攻撃するのはマーダー・ストライクって技だな。
>>638 >日本の刀は「打ち物」で打撃に主体を置いた武器。
打撃が主体なら、刃を持って握る部分をハンマーの様にぶつけられる西洋剣や、
打撃専用のメイスの方が戦で優れてることになるな。
日本刀は打撃用としては曲がるし、華奢すぎる。
>斬る断つは平和な江戸時代以降の趣味の素肌剣術。
趣味?馬鹿?
鎧を着ない日常の護身術では、刀の方が優れてるだろ。
合戦では主体になる長い槍や弓を、普段から持ち歩けってか?w
>短刀主体の忠孝真貫流は懐に入って胸板を貫く剣術。
だから鎧同士でらちが開かず、組み合った際の戦術だろ。
上で指摘した通り。
日本刀が打撃主体と言ってる奴は、 日本刀が中途半端な欠陥品と言ってるのと同じ。 ぶつければ曲がる武器。 日本刀は戦場というより、日常の護身術的な武器で、 当然、斬る性質も大きな役割を果たす。 日本刀は戦場で鎧を叩く武器ではない。 組み合って鎧の隙間から短刀で突くのは有効だが。
642 :
世界@名無史さん :2007/02/04(日) 11:12:36 0
そうだ。大体、野戦では弓槍が必須だぞ。刀は首級を獲るものだ。
野太刀の使い方ってのはどうだったんでしょ
644 :
世界@名無史さん :2007/02/04(日) 13:43:54 O
>>640-641 日本刀もハンマーのように打ちつける武器だから打ち物
鑓登場前の西日本で近接戦は金砕棒が主流
華奢な日本刀は江戸以降の新刀から
それ以前は太く肉厚で刃も研いでいない
刀が活躍した時代の古刀ではなく新刀を前提にしている時点で
>>640-641 はおかしい
645 :
世界@名無史さん :2007/02/04(日) 13:55:03 O
西洋刀も打てば折れて曲がった ヨーロッパでは面頬を一撃いれる鶴嘴や戦槌だな
>>644 >華奢な日本刀は江戸以降の新刀から
>それ以前は太く肉厚で刃も研いでいない
へぇ〜
江戸以前は刃を研いでないんだ
それ刀?
どっちがおかしいのかね?
>刀は首級を獲るものだ。 これも長刀ではなく、組打で刺殺や斬首に使われた腰刀の方でしたが。 平安〜江戸初期の戦の庭における太刀・打刀の使用例としては、兜の 上から頭を殴りつけるというものです。その後腰刀で刺殺など。 切ったという話はあまりありませんが、実際には参戦しても満足な装 備がなく、防御性の薄い防具で参加していたり、博打などの理由で素 肌と呼ばれた鎧の無い状態で参加していた者もかなりいました。 大河ドラマに出て来るような「標準」装備の参戦者というのは、全体か ら見て何割いたのか疑問です。 ただ、刀が切る用途を果たした例も、やはり平安時代から日常の闘諍 に絡んでいくつも記されていますが、戦の庭用と区別して生産された 様子はありません。 切ることを意識していたが、戦の庭では切ることはあまりなく、あれ ば長柄が必要とされ、あるいは兜の上からの初撃が求められたといっ たところでしょう。
戦場の華は弓と槍
日本刀は世界でもっとも切れ味がよくて、 もっとも美しい武器だ。 侍の魂を南蛮人のなまくらがたなと一緒にしては困る。
652 :
世界@名無史さん :2007/02/04(日) 18:16:05 0
鉄パイプと日本刀 あきらかに日本刀の方が切れ味がいいんだろう。 しかし、鉄パイプをまっぷたつにすることは難しく、 両方で叩き合ったら日本刀が曲がる気がする。 もし、上記のような過程が成立するなら、果たして 武器としてどちらが優れているのだろうか?
>>652 んなこたーない。
鉄パイプも真っ二つ。
654 :
世界@名無史さん :2007/02/04(日) 18:57:47 0
ウォーターカッターに勝てるぐらいだからな
656 :
世界@名無史さん :2007/02/04(日) 19:43:47 0
鉄パイプを固定して、日本刀で思いっきり振りかぶって とかいう実験室でしかありえないケース以外を除けば、 真っ二つにできないだろう。人間の腕が衝撃を和らげるから。
657 :
世界@名無史さん :2007/02/04(日) 19:52:21 0
「トリビアの泉」だろ、日本刀に都合のいい実験しかしていない。 日本刀VS拳銃 人体ダメージを考慮してやわらかい金属でできている弾丸と比較w 日本刀VSウォータージェット 水のみで傷が付かなかった。が、実際は、研磨剤などが加わるんだがw
あまり参考になるか分らんが・・ ペルシア語でも「刀(シャムシール)で斬りつける」ことを、 shamshiir zadan と表現するけど、動詞 zadan は「打つ、叩く、殴る」の意味。 「打ち首にする」という時も、 sar zadan と言い、日本語と同じく 「首(sar)」を「打つ(zadan)」という表現になる。 (「シャムシール」自体は「かたな」や「剣」のような片刃か両刃かを区別する意味は 含まれず、刀剣一般を指す単語だが) イルハン朝からサファヴィー朝、カージャール朝時代にかけて、イラン・中央アジア周辺では 写本の挿絵などで歴史や文学作品にまつわる絵画が多数描かれたが、鎖帷子などの甲冑に 身を包んだ遊牧勢力の騎馬戦士たちが馬上で太刀やメイスをふりかざして近接戦闘を行う 場面がたびたび描かれた。なかには兜と甲冑を付けているにも拘わらず頭から胸まで太刀で 真っ二つにされるような漫画顔負けの現実的とは思われない表現がされている場合も多く あるが、歴史関係の戦闘の記録でも弓矢や槍での攻撃の後に、近接戦闘で太刀やメイスで 打ち合っていた事は頻繁に出てくる。 中央アジア・イランでの鎚矛・メイスの類いはピヤーズィーとかシェシュ=ポルなどと 呼ばれているが、太刀と同じく片手で振り回す事が出来、長さも太刀のそれと遜色ない ものが使われたようだ。記録の上ではシャムシールの方が言及される頻度が多いが、 戦場での効果自体はシャムシールと何ら変わりが無い。
>>652 両者が甲冑をつけず、技量も同じくらいと判断してだが、
鉄パイプは当たっても打撲で済むが(勿論打どころが悪ければ死んでしまう)、
日本刀では斬り付けられて身体に当たれ必ず出血する。鍔迫り合いにでもなれば
そのまま刃を下に流されたら鉄パイプを使っている方は指を切り落とされる
可能性も高い。
日本刀が鉄パイプを断ち割れるかどうか以前に、日本刀の方がかすっただけでも
切り傷など負い易く殺傷能力は高いので、鉄パイプを持っている方は不利だと思う。
甲冑つけとけば鉄パイプのほうが有利なのかな
【審議継続中】 ∧,,∧ ∧,,∧ ∧ ( `д´)(`Д´ ) ∧∧ ( `・д) U) ( つと ノ(д・´ ) | U ( `・) (・´ ) と ノ u-u (l ) ( ノu-u `u-u'. `u-u
打撃が主体と考えると、メイス(棍棒)>>>日本刀だし、 突きに特化して考えると、反りがマイナスになる。 日本刀は斬るのを主体とした、戦場には向かない武器と考えるのが妥当。
鉄パイプは握り辛い
メイスの類いは振り回して穂先きの部分が相手に命中すれば、近接戦闘での効果は 計り知れないが、相手が穂先きから外れ長柄の中ぐらいが当たっただけだったら 効果は激減。逆にメイスを持った方は懐に入られるとピンチになる。 メイスの柄が長かったら懐に入られてもそのまま柄を使ってねじ伏せて押さえ付ける ことも可能だが、日本刀などで同じ事をやれば、相手を体重を掛けてねじ伏せたら、 フルプレートアーマーとかでも無い限り、頭部や肩周りなどの甲冑の接合部みたいな 弱い所とかザックリやられると思う。 確か甲冑装着を前提にした古流の剣術とかで、鍔迫り合いをそのまま組み伏せて 体重乗せてザックリやっちゃうような方法があったような・・・ 要は使い方次第であって、日本刀(太刀や打刀)がメイスの類いに比べて実際の 戦場に向かないとはそんなには思えないが・・ 単純に振り回すだけでも効果がある分メイスや棍棒のほうが使い勝手が良いだろうけど。 金属バットと出刃包丁振り回されたらどっちが恐いかっていったら包丁のような気がする のと似てる・・というわけでもないか。
665 :
世界@名無史さん :2007/02/05(月) 00:54:53 0
騎士って重装甲なだけに動きも鈍いし、 倒れたら簡単には起き上がれないみたいね。 その点、武士は騎士と比較すれば軽武装だし動き易いから、 足を躓かせて転ばせれば武士有利になるんじゃない?
騎士って重装甲が取り柄だけど、 逆に重装甲のせいで動きは鈍い・・・・みたいね。 先手をかけて転ばせれば、武士が勝つよ。
使い手によるが。 まあ、素人が使うなら西洋剣や青竜刀の方が間違いなく強い。
甲冑を着た人間が走ったり転がって受け身をとってる動画が以前うpされた。 ナレーションで完全武装した騎士は馬から下りたら動けないという通説を覆したと言ってた。
・武士にせよ騎士にせよ鎧着てる奴に刀剣で致命傷を与えるのは難しい ・しかし弓矢は当たればかなりの深手を負わせられる ・武士にとって弓は基本技能だが、騎士は基本的に弓を使わない(思想上の問題) ・よって両者が戦えば武士が勝つ可能性は高い
やはりモンゴル弓騎兵最強でFAか
672 :
世界@名無史さん :2007/02/05(月) 12:32:48 0
>>669 実際に使われた甲冑の重さは20kg程度と言われてる。
中にも色々着込むから計30kg以上にはなるようだが、
全身に分散されてその重さなら
一般的な男子なら身動きが取れなくなるなんて事は無いだろうね。
腕立て伏せやれと言われたら辛そうだけど。
>671 訓練されたグラームであるマムルークが最強ですよ
騎乗ありなら像騎兵じゃね?w
紀元前に敗れ去ってます>象兵
>671 武士はモンゴル軍に勝ったんだから、武士最強でFA
象兵も東南アジアからインドにかけては近代まで一線兵種だからな
>>675 インドのラージプート諸政権と中央アジアのガズナ朝やゴール朝との戦闘をみると
テュルク系の騎馬部隊がインド側へ掠奪遠征に来ただけの時は、インド側の戦象部隊は
良くて五分の勝負に持ち込んで辛くも相手側を撃退。本格的な合戦になると殆どの場合は
騎馬部隊に四方八方から弓矢や投槍で袋叩きにあって全滅に近い壊滅状態に陥ることも
しばしばだったようだ。
記録ではタラーインの戦いのあとゴール朝側が象部隊を数百頭単位で次々と捕獲したなどと
信じ難い数字が出てくるが、ラージプート諸政権としては的になることは分かっていても、
なんとか数を揃えて騎馬部隊に可能な限り対抗しようとしたようにも思える。
>>677 モンゴル軍ではあっても、
モンゴル弓騎兵が相手ではないからこの場合の議論には関係ない。
>>680 日本に来たモンゴル軍はチンギス・ハン以来の軍事的進化の最終形態。
フビライは歴代ハーンが勝てなかった南宋を滅ぼし、カダアンのモンゴル騎兵軍を、
蒙漢軍と高麗軍の連合軍によって鴨緑江の畔で壊滅させた。
最強モンゴル軍に勝利した鎌倉武士こそが、13世紀世界最強の軍隊。
>>682 では、一対一っぽい場合のもひとつ。
ゴール朝の君主シハーブッディーン・ムハンマドとチャウハーン朝のプリトヴィラージャ3世率いる
ラージプート連合軍との間で戦われたいわゆるタラーインの戦いは、実は第一次と第二次がある。
第一次タラーインの戦いは、シハーブッディーン率いるゴール朝軍は掠奪遠征が目的でインド側へ
侵攻したが、プリトヴィラージャ側の思わぬ攻勢を受け、軽装備のまま戦象部隊数百頭+歩兵軍と
交戦する事態になった。1万騎強くらいの寡勢だったためプリトヴィラージャ側の攻勢に
シハーブッディーン自身も戦象と肉迫して戦う事を余儀無くされたが、シハーブッディーンは
戦象の口中に槍を投じてこれを仕留めている。ただ、このとき腕に重傷を負い、辛くも軍は撤退に
成功したものの、失血が酷く戦場から離脱に成功した直後に昏倒して落馬したと伝えられる。
結果この戦いで敗退し、本拠地のアフガニスタンへ帰還したシハーブッディーンだが、1年数カ月後に
傷を完治させて、今度は重装騎兵四万を率いて復讐戦を挑んだ。これが第二次タラーインの戦いで、
同じタラーインの地で再びプリトヴィラージャ率いるラージプート連合軍に相対し、今度は戦象部隊を
壊滅し、プリトヴィラージャも敗走させて勝利を納めている。
ゴール朝系の史料の記述を信じるならば、テュルク系の騎馬戦士1騎でも戦象1頭を倒す事は一応
可能らしい。
戦象のことはあんまりしらないんだけど、やっぱり騎乗しての矢が主流なのかね?
>>681 日本に来たのはただの朝鮮人と食い詰めた中国人の部隊だけだよ。
ビルマあたりでは武将同士が象に乗って一騎打ちとかやってたらしい。 操縦が難しく、たいてい象が疲れて勝手に戦場離脱しはじめると終了だったそうだw
>>685 でも、フビライはその部隊を率いて、カダアンの乱でモンゴル騎兵軍に勝った。
結局モンゴル騎兵と鎌倉武士は戦ったことないのか
>>687 ナヤン・カダアンの反乱がおきたのは弘安の役の6年も後の話ですが。
日本海の藻屑になった部隊を率いたとでも言うのですか?
もっと言えば、文永の役の5年前から中央アジアでカイドゥの乱が起こっており、
フビライはこれに対処する為、まずに王子を司令官とする軍を派遣、
さらに南宋を滅ぼすとその最大の功労者であるバヤンもそちらの戦線に派遣、
最後には親征と、終始精鋭部隊はこの同じモンゴル系国家との戦いに送られていた。
元寇はその合間に行われていたもの。
はっきりいって元寇に使われた兵は、いても戦力にならないような者ばかり、
だからこそ、モンゴル高原を賭けた重大な戦いのさなかに、海の向こうまで送ることが出来た。
そして元寇の結果10万以上という数の兵が失われたにもかかわらず、
その前後で元の軍事行動に対した違いが出ていないことも、
彼らの死が軍事的に大して影響を与えるようなものではなかったことを証明している。
元寇でやってきたのはそういう部隊。
というか、元寇の船には鍬だの鋤だのといった農機具も積まれていたそうだから、 非戦闘員も相当数乗っていた可能性もある。
まあ、その程度の意気込みの戦だったってこと。
というより、中身がモンゴル人じゃないんだろ。 ただ戦法自体が違うと言うことは、指揮官もモンゴル人じゃなかったということになるな。
元寇の時の元軍の指揮官、ヒンドゥやアタガイは歴としたモンゴル人だよ。 更にヒンドゥ配下の主力部隊は、蒙・漢軍だからモンゴル兵と旧金兵。 弘安の役では、大友貞親率いる騎馬武者から逃げ回るのに精一杯だった洪茶丘も、 ナヤン・カダアンの乱でモンゴル騎兵を相手にした時は大活躍。 現実はあきらかに、鎌倉武士>モンゴル騎兵だから。
>>694 同じ将軍だってね屑みたいな部隊率いては逃げるしかない場合もあるんだよ。
その例は元寇に参加した部隊が弱かった根拠にしかならない。
そして、同じ時期に元の主力軍はずっと北方で同じもモンゴル人のカイドゥらと戦っていたのも事実。
とりあえず、元寇に参加した部隊と、 北方で展開していた部隊が全く違う部隊なのは間違いない。 なにしろ、元寇と同じ時期に北方でも敵と対峙していたわけだし、 最も重大な事態となったナヤンの乱は元寇より後のことだから、 元寇で壊滅した部隊が戦えるはずがない。
>>695 モンゴル軍が異なる方面で同時に重要な軍事作戦を進めることなんか、珍しくないだろ。
フレグの征西とモンケの南宋遠征は同時進行だったし、フビライだって対アリク・ブケ戦と
対李壇戦を同時にやっている。
北方でカイドゥらと戦っていたことが、元寇に参加した部隊が弱かった根拠にはならないわけ。
あとね、カダアンの乱の主戦場は朝鮮半島。
まさに、対日戦のため朝鮮半島に駐屯していた元軍と高麗軍が矢面に立たされたんだよ。
もしもフビライが対日戦のために弱兵しか用意していなかったら、この時に大元ウルスの命運も
尽きていたな。
>>684 そもそも、弘安の役当時の洪茶丘はモンゴル騎馬部隊を指揮していたんだろうか?
件の『高麗史』も「金方慶列伝」では、文永の役に、
「(洪)茶丘與之亮・(趙)ハル、撃殺千餘級、捨舟三郎浦、分道而進、所殺過當。
倭兵突至衝中軍、長劍交左右。方慶如植不少却、拔一ワハ矢、シF聲大喝、倭辟易而走。
之亮・(金)忻・(趙)ハル・李唐公・金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻。」
とあり、また弘安の役では、
「六月、方慶・(金)周鼎・(朴)球・朴之亮・荊萬戸等、與日本兵合戰、斬三百餘級。
日本兵突進、官軍潰、(洪)茶丘棄馬走。王萬戸再横撃之、斬五十餘級。日本兵乃退、
(洪)茶丘僅免。翼日復戰敗績。」
とある。要は文永の役は「遠征軍は、日本軍をワンサイドでボコボコにした」ということだが、
弘安の役では、「はじめは遠征軍が優勢だったが日本軍の反撃で一旦(上陸)軍が崩壊し、
高麗軍の主将のひとり洪茶丘が敗走するほどだったが、王萬戸が側面を攻撃してくれた
おかげで挽回、でも翌日には再び敗てしまった」的な「双方一進一退」の攻防で
あったような書かれ方をしている。
>>699 の続き。
洪茶丘は馬に乗っていたようだが、モンゴル騎兵部隊を指揮していたかどうかは書いていない。
王萬戸は大元朝側の軍人らしいので、千戸か百戸か十戸かは分らないが騎兵部隊を率いる
1部隊長だったのかも知れない。(これも証拠不足な憶断の域を出ないが)
少なくても『高麗史』の記述を読む限りは、「現実はあきらかに、鎌倉武士>モンゴル騎兵」
というふうには読み取れないし、そもそもモンゴルの騎兵部隊がどれだけ上陸して前線に
投入されたか明確な記載が無いので、鎌倉武士がモンゴル騎兵と実際に戦ったのかさえ
判断するのも正直難しい。(あったろうくらいは言えるがそれ以上となるとどうも微妙)
中央アジア・イランでの戦争だったら、断り書きが無い限り兵員は普通騎馬部隊がメイン
なのでこんな面倒なことは考えなくてすむんだが・・
>>697 一方には王子や宰相級の家臣や大ハーン自身が出向き、
しかも、カイドゥの乱の場合は向こうから攻め込まれていて、
負ければモンゴルの故地であるモンゴル高原を奪われてしまうという重大な局面なのに?
そして、同レベルの軍隊だったかもしれないというだけでは、
モンゴル騎兵よりも武士のほうが強いと主張する根拠にはならない。そう主張するなら、
少なくとも同レベルの軍隊だったと積極的に言えるだけの根拠を示してもらわねば。
あと、カダアンの乱が朝鮮を舞台にするようになったのは、
決起したナヤン・カダアンがフビライに敗れてその残党が朝鮮半島に逃げ込んだから。
そんな敗残部隊に勝ったところで、何の自慢にもならないし、
そもそも、仮にカダアン側が勝って朝鮮半島を占拠したところで、
朝鮮半島がどうなろうと元にとっては別に痛くも痒くもない。
それを、大元ウルスの命運も尽きたって・・・、幾らなんでも朝鮮半島を過大評価しすぎ。
>>699 洪茶丘は高麗軍の将軍じゃないよ。
洪一族はモンゴル軍が高麗に侵攻した時、真っ先にモンゴルに帰順した一族。
だから元寇では、蒙漢軍の副司令官として参加している。
『高麗史』は、「(洪)茶丘與之亮・(趙)ハル、撃殺千餘級」の前に、
「至一岐島、倭兵陳於岸上、之亮及慶壻趙ハル逐之、倭請降、後来戦」って
書かれているだろ。
つまり、『高麗史』では壱岐(一岐島)で千餘級を撃殺したことになってる訳だが、
実際には文永の役の時に壱岐を守っていた武士は100騎だけ。
残りの900人は一体何者?
『元史』では、「冬十月、入其国、敗之。而官軍不整、又矢尽、惟虜掠四境而帰」。
日本軍を敗ることができなかったから、その埋め合わせに四境を虜掠したんだろ。
高麗軍は虜掠して殺した民間人を、手柄として書いてるんじゃないのか?
本当に日本軍をボコボコにしていたら「兵法小敵堅、大敵之擒」なんて戦況判断に
なるわけないじゃん。
最後に、「翌日には再び敗てしまった」は、あきらかに「双方一進一退」じゃないだろ。
あと、日本側の文献の『八幡愚童訓』だと 「十月廿日未明より、蒙古陸地に、おしあかり、馬にのり、旗をあけて攻めかかる」。 モンゴル軍は普通に騎馬部隊。
そりゃあ朝鮮人だって馬くらい乗るから。 もちろん、少数のモンゴル人もいただろうが、 それをもって元の精鋭を倒したかのように言うのは、 如何にいっても過大表現ってものだ。
モンゴル人でないという根拠も無いが
>>704 『高麗史』によると文永の役の元軍の編成は、
「與元都元帥忽敦・右副元帥洪茶丘・左副元帥劉復亨、以蒙漢軍ニ萬五千、
我軍八千、梢工引海水手六千七百、戦艦九百餘艘、征日本」。
蒙・漢軍が2万5000と高麗軍が8000で、蒙・漢軍の方が圧倒的に多数だよ。
>>705 武士のほうが強いと言いたいなら、違うという根拠はないというだけでなく、
モンゴル人だといえる根拠を提示しなければならないでしょう。
>>706 蒙と漢の内訳は?
>>707 金の滅亡したのは1234年だよ。
それ以来、華北の漢人はモンゴル軍の一員として世界各地を転戦している。
蒙も漢も普通にモンゴル軍だろーが。。。
>>708 モンゴル騎兵よりも武士のほうが強いと言っているのがいるから、
「モンゴル人」かどうかにこだわるんじゃあないか。
モンゴル軍に参加している中国人に勝ったとしても、
「モンゴル騎兵」よりも強いとは言えないでしょう。
別にモンゴル軍に参加していた朝鮮人や中国人より、 当時の武士のほうが強かったというだけなら特に問題ないだろうが、 薄弱な根拠で、モンゴル騎兵より強いとか言い出すと、 あまりにも身贔屓過ぎて恥ずかしい。
>>709 モンゴル高原を一歩外に出た段階から、「モンゴル人」だけで編成された部隊なんか存在しない。
モンゴル軍の騎兵部隊はどんな民族で構成されていようが普通に「モンゴル騎兵」。
ましてや、漢人はかなり初期の段階からモンゴル軍に参加している。
蒙漢軍の騎兵は「モンゴル騎兵」だし、それに勝った以上、武士は「モンゴル騎兵」より強い。
>>708 本筋とは関係ない横レスですが「世界各地を転戦している」というのは大袈裟では。
ホラズム戦、バトゥの遠征、フラグの遠征の間、同時に中国での戦線が続いていたわけで
郭侃のような攻城戦技術者や糺軍のような騎兵部隊などの「エリート」はともかく
金朝滅亡期に各地に叢生した盗賊や自警団まがいの軍閥兵を西方に連れて行く
メリットはないでしょう。
>>711 そもそも「漢軍」の基になった金朝末期の軍隊に多数の騎兵がいたかどうか?
馬産地を押さえていた契丹人はいきなり牧場ごとモンゴルに寝返ってるし
兵員不足から漢族定住民の大規模な徴兵を繰り返していたようです。
そうした寄せ集めの兵に騎乗戦闘のスキルがあったとも考えにくい。
旧南宋軍を基にした「新附軍」については言わずもがな。
また、うろ覚えですが元代には漢人の馬を没収してモンゴル兵の乗用に
あてていたとか元軍の概説本か何かで読んだような。
> モンゴル高原を一歩外に出た段階から、「モンゴル人」だけで編成された部隊なんか存在しない。 待て。 それはモンゴル帝国が勃興した当時、中央アジア・イランの軍隊は、モンゴル高原の諸部族と 同じテュルク系の遊牧民やその系統の騎馬部隊がメインだったから、よほど「歩兵だった」と 断り書きが無い限り軍勢の基本構成は弓矢を常備し、槍での突撃を果敢に行い、近接戦闘では 刀や鎚矛で振るって奮戦することが出来る「騎馬部隊」だと了解できる、という前提が有るからだ。 しかも部隊編成は『集史』の「諸部族志」の各々モンゴル帝国に帰順した諸部族、例えば 「タタル部族誌」などで、どこそこの戦いの時に各王家の王子だれだれの麾下で○○・タタル部族の 誰それの息子なんとかが奮戦した、みたいな書き方をしているので大体の事は分る。 ただ、降服したあと、部衆をモンゴル王族や諸侯に散じられたホラズム方面のカンクリ族みたいな 諸勢力についてはほとんどその後の記録に出てこないので足取りが掴めない場合が多いが。
至元十一年(1274年)三月庚寅条に、増派された軍勢について、 「敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等、将屯田軍及女直軍、并水軍、合萬五千人、戦船大小 合九百艘、征日本。」 とあり、日本遠征軍の主力が「屯田軍及女直軍」だったことが分る。そもそもその『高麗史』が 「蒙漢軍」と一括りにしているこの軍勢に、どれだけ騎兵部隊が配備されていたかは『高麗史』自体 はっきり書かれていないので分らない。『高麗史』には遅れて来た女真部隊の到着をもって遠征軍は 出航したらしく、「屯田軍及女直軍」の記事を踏まえて歩兵部隊だったんではないかと推測はできるが、 騎馬部隊も含まれていたか、あるいは部族軍ごとに騎兵部隊と歩兵部隊の混成部隊だったのか、 資料的に明示されていないので自分には分らない。 だいたい在来のテュルク・モンゴル系の諸部族の軍隊ならまだわかるが、女直人や漢人や高麗人に 騎兵部隊が編成されていたのか、そうだったとしてもテュルク・モンゴル系の騎馬兵と同様の戦い方を したとか判明しているんだろうか? 蒙古襲来の時の遠征軍や日本側の構成やら、戦闘経過に興味が有るから議論に加わったが・・ 正直、モンゴル騎兵が強いだの鎌倉武士が強いだの、なんでこう結論先行で厨っぽく我田引水な議論を 好むのか、まるで理解出来ん。
>>707 モンゴル人だという根拠は提示されていますが、そうでないという根拠は提示されていませんよ。
>>7014 文永の役の元軍は『八幡愚童訓』に、
「十月廿日未明より、蒙古陸地に、おしあかり、馬にのり、旗をあけて攻めかかる」
「鎧かろく、馬に、よくのり、ちから、つよく、命をします、豪盛勇猛、自在きはまりなく、かけ引せり」
って書いてあるんだから、騎兵中心だったことは間違いないだろ。
その他の個別の部隊の編成については、女直人の劉復享指揮下の部隊が、
「蒙古の大将とおほしくて、長七尺はかりの大男、ひけは臍辺りまて、おひさかりたるか、あか鎧に、
あし毛なる馬にのり、十四五騎うちつれ、徒人七八十人あひ具して、おひかくる」
だから、恐らく女真部隊は歩騎混成。
『蒙古襲来絵詞』で武士から逃げ回っているのは、装備などから高麗兵と言われているから、高麗部隊は
歩兵中心で指揮官のみ騎兵。
>>715 どこに?
どう考えても主力はモンゴル人以外だったとしかいえないと思うが?
>>716 > 「十月廿日未明より、蒙古陸地に、おしあかり、馬にのり、旗をあけて攻めかかる」
> 「鎧かろく、馬に、よくのり、ちから、つよく、命をします、豪盛勇猛、自在きはまりなく、かけ引せり」
『元史』や『高麗史』ならネットで検索できるからある程度前後の状況を把握できるが、
『八幡愚童訓』は手許に無いので資料情報の選択が判断出来ない。少なくても引用文をあげるなら
文章の前後関係についてもう少し解説をしっかり入れるべきではないだろうか?
この単文だけでは、遠征軍に騎馬部隊が確実に存在したらしいことは分かっても、特に下の文章は
どういう文脈で騎兵部隊が出て来ているのか、どれくらいの規模だったのかまでは分り難い。
「騎兵中心だったことは間違いないだろ」という意見は速断が過ぎる。
「騎兵中心」という言い方で片付けるのも漠然とし過ぎるとは思うが。
> 女直人の劉復享指揮下の部隊が、
ちょっと待った!
それは『八幡愚童訓』に表れる劉復享と彼が率いる女直部隊の行動について、既に先行研究で
同定がされている、という前提で話しをしているのだろうか? だとしたら、まずそのことを
きっちりと触れるべきであって、いきなりさも『八幡愚童訓』に劉復享についての行動が
名前が出るなりして明確に記録されているかのような書き方をすべきではない。
『高麗史』「金方慶伝」で文永の役で遠征軍が撤退する時の件で、「(劉)復享、中流矢」と
あるからといって、「蒙古の大将とおほしくて、長七尺はかりの大男」という人物が、間違い無く
劉復享とイコールなのかは慎重に判断すべきであって、一番重要な部分だろうからその考証を
端折るべきではないだろう。少なくても研究上の情報は示すべき。
> 『蒙古襲来絵詞』で武士から逃げ回っているのは、装備などから高麗兵と言われているから
この部分もどうして高麗兵と思われているかも、まず研究史なりの説明をして根拠をあげるべき。
>>707 『高麗史』の元宗十五年正月十九日の記事として元宗十五年正月十九日の記事に、遠征軍司令
大元朝の中書省が、遠征軍に糧料の支給についての省旨の件で「忻都官人所管軍四千五百人」
とあるから遠征軍司令である忻都(ヒンドゥ)の所管する「軍四千五百人」というのが、多分
忻都直属のモンゴル騎馬部隊じゃないかと思わせるが、他にモンゴル騎馬兵と判断できそうな
ものはあるんだろうか・・
文永の役は『元史』「世祖本紀」の至元十一年(1274年)三月庚寅条に、増派された軍勢について、
「敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等、将屯田軍及女直軍、并水軍、合萬五千人、戦船大小
合九百艘、征日本。」
とあり、日本遠征軍の主力が「屯田軍及女直軍」だったことが伺える。
『高麗史』元宗十五年五月己牛条に、この「万五千人」の軍が高麗側に到着したことが出てくるが、
「忠烈王世家」の元宗十五年冬十月乙巳条に
「以蒙漢軍二万五千、我軍八千、梢工・引海・水手六千七百、戦艦九百余艘、征日本。」とあり、
「蒙漢軍二万五千」と1万多くなっている。恐らく高麗駐留軍(タムマチ)の一部が加わったの
だろうが、そもそも高麗駐留のモンゴル軍について規模も編成もどのような兵員だったかも
『元史』も『高麗史』もまるで触れていなくてよく分らない。(知ってる人補足キボン)
中央アジア・イラン・アフガニスタン方面に展開したモンゴル軍のことであれば、騎馬部隊が
駐留軍(タムマチ)として万(テュメン)単位で投下されていたとペルシア語資料でいくらでも
書かれているので論ずるまでも無いのだが、高麗方面は本当によく分らない。
そもそも高麗の高宗・元宗の時代に6度も侵攻されていながら、『元史』にも『高麗史』にも
その規模についてオゴデイ、モンケの本紀などには記述が出てこないのは、どうにも。
(これも知っている人補足ヨロ)
> 『高麗史』の元宗十五年正月十九日の記事として元宗十五年正月十九日の記事に、 ああ! 文が重複している〜llorz
ところで『元史』にでてくる「鳳州等処経略使忻都」の 「鳳州」ってどこのことだろう? 岩波文庫の『元史日本伝』の注記だと「陝西鳳県」のことってしているけど、 同じ岩波の『高麗史日本伝』の元宗十二年 三月丙寅の部分で 「欽みて帝旨を奉じ、忻都・史枢を以て経略司を行し、鳳州等の処に於いて 営軍・屯田せしむ」 の「鳳州」の注記で、平壌の南、黄海北道(当時は西海道)鳳山郡の鳳山の ことだと説明しているが、陝西の鳳州から派遣されて来た忻都の高麗での任地が、 たまたま同じ名前の西海道の「鳳州」だったってことだろうか? それとも『元史日本伝』の訳者石原道博氏の誤記だろうか?
>>719 『八幡愚童訓』の元軍の特徴を記した箇所は、学習用の史料集なんかに、かなり長く
引用されている。
下の方の文の前後をもう少し書くと、
「もとより牛馬の肉を、うまきものとする國なりけれは、人のみならす、いころさる
□馬をも、とりて食とせり、鎧かろく、馬に、よくのり、ちから、つよく、命をします、
豪盛勇猛、自在きはまりなく、かけ引せり、大将は高き所にあかりゐて、引へき所は、
逃鼓をうち、駈へき時には攻鼓を鳴し、それにしたかふて、ふるまへり」
>>719 「長七尺はかりの大男」については『八幡愚童訓』に名前が出てくる。
「蒙古の大将とおほしくて、長七尺はかりの大男、ひけは臍辺りまて、おひさかりたるか、あか鎧に、
あし毛なる馬にのり、十四五騎うちつれ、徒人七八十人あひ具して、おひかくる」 の後、
「その時、(少弐)景資か旗の、せみくちを、鳩かけりしかは、八万大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、
究竟の馬廻に、弓の上手ありしかは、それに下知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ出させたり、
かの奴原を見かへりて、よつひき、はなつ矢、一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、逆にこそ、
おちたりけれ」で負傷。
その後、日本軍が捕虜にした元兵に尋問し、
「此者に、かの大男を尋ぬれば、蒙古一方の大将軍、流将公と云ものなりとそ、又申けるは、出たつより、
あやしや、鳩、翔りて、既に吾が大将軍を、うちてけりと云にこそ、八幡宮の降伏、めてたく、たうとき事を知て、
皆人かんしける」
日中韓の史書に出てくる人名なんか当て字だらけだから、ほとんどの書籍では『高麗史』の「(劉)復享、中流矢」
と合わせて、「流将公」=「劉復享」としている。
726 :
世界@名無史さん :2007/02/24(土) 14:02:45 0
保守
727 :
世界@名無史さん :2007/02/24(土) 15:16:34 0
なんとかブシドーってレスラーおったな
728 :
AIRSHIP :2007/02/25(日) 01:00:45 0
この板を久しぶりに見ましたら、西洋甲冑を着た騎士は倒れたら起き上がれないとの書き込みが 有りましたが、そんな事は有りませんよ。 アヴァロンの試合を見ると分りますが、25〜30kの鎧を着て戦闘し、倒れても直ぐ立ち上が ります。 甲冑を着たまま、前転や横転を軽々とこなします。 疑われるなら、5月の連休にブラックホールと言うイベントで公開試合をやる予定ですので、浅 草の都産貿に見に行ってみては如何でしょうか。 騎兵の乗馬突撃ですが、私の経験では、サラブレッドにフランス胸甲騎兵(胸甲23k、ヘルメ ット1,5k、サーベル4キロ、その他制服ピストル、ホルスター等併せて32k)加えて自分 の体重78k(身長182cm)足すことの鞍を含む馬装一式だと、130kを超えてしまって、 跨った途端、馬に嫌がられ振り落されてしまいました。 中種や重種の馬でなければ、突撃は無理ではないかと納得した物です。 亦、ギャロップしてくる馬の前に、10人ほどが突撃を掛けたら馬のほうが嫌がって、暴れて逃げ 出し、騎手が馬を宥めるのに大変でした。 ナポレオン戦争時の記録に、軍馬として調教するの に5〜6年掛かると言う物が有りましたのも納得できる所です。
729 :
世界@名無史さん :2007/02/25(日) 04:21:26 0
で結局のところ西洋の甲冑に日本刀で切りつけたらどのくらい斬れるの? 転んでも立ち上がれるくらいなら甲冑の厚さ自体はそんなに厚くないんだから。斬れることは斬れるんでそ?
730 :
世界@名無史さん :2007/02/25(日) 04:59:41 0
一人倒せばおしまいの戦場かw
日本でも、刀で切ろうとはしておりませんよ。
兜を殴るのが一番多く、顔面から首にかけてを刺すのが次に多い。
矢で狙うのは、顔面から首にかけてと脇の下。狙ってあたるようなものでは
ありませんが、鎧の隙間も重要でした。
だから矢を放っている敵の前で川を渡る際には、「敵は定て矢衾を作つて射
ずらん、敵は射るとも射返すな、相引してシコロ射らるな、痛く俛て手辺射
らるな、射向の袖を指かざせよ、物具に透間あらすな」と言われた。
内甲(顔面から首にかけて)を防御するため、「シコロを傾ける」つまりは、
内甲を射られないためにやや伏せることが行われましたが、余り頭を下げす
ぎると、兜の頂点の穴が露出する為、主に射向の袖を向けて防御しました。
以上は鎌倉時代の例ですが、戦国期までは一応通用するでしょう。
南北朝時代になると鑓が登場しますが、これも狙う箇所は顔面と脇の下が中
心です。
防御性があるからこそ甲冑をつける訳で、甲冑ごとは切れませんよ。
>>730 の指摘ももっともですし。
もっとも、一人で同じ刀をいつまでも使うとは限りませんでしたし、一人で
何人も倒せた人間はそうはいなかったでしょうが。
しかし、それにしても甲冑相手に刀で切りかかろうとは無茶です。
頭部への攻撃も、脳震盪狙いで致命傷を要求したものではない。
ヨーロッパの甲冑は、時代によるがフルプレートなら脇の下か顔面の露出した部分(あれば) ぐらいしか剣で狙える箇所はなかったはず。あと内腿を下から刺せるかな? 13世紀のべネヴェントの戦いでは通常のメイル・ホウバークの上にコート・オブ・プレーツを着た ドイツの騎士に対し、フランス軍は「剣を振り上げた隙に脇の下を刺す」という戦法で対抗している。 メイル・ホウバークは剣でも刺せたらしい。
734 :
世界@名無史さん :2007/02/25(日) 12:50:59 0
欧州に介者剣術みたいのってあったんですか?
735 :
AIRSHIP :2007/02/25(日) 13:29:17 0
>>733 私は生きているのか?・・・ 冗談はさて置き、落馬しても落ち方や受身の取り方に拠って
もダメージは違ってきます。 私も合計して10回ほど落馬していますが、幸いにして打ち
身に痣程度で済んでいます。 落ちても意外に動ける物ですよ。
アヴァロンの鎧ですが、最低1,6mm以上の鉄板を使っています。 フランス軍の胸甲の1番厚
い所は5mmの鋼鉄です、重量も23k有ります流石に背甲は薄いですが。
腋の下ですが。 チェーン・メイル付きのホーバーグを着ていても、打撃の痛みとショック
はかなりの物です、一瞬息が止まり動きも止まりますから。
映画「ワーテルロー」の冒頭でのパーティ・シーンでの「フランス胸甲騎兵は、腋の下しか
狙えない」との台詞が有ります。 あの胸甲はサーベルや銃剣では、貫通できないでしょ
う。 現代のイギリス近衛騎兵の胸甲は、アルミに鍍金、裏打ちに革を張った物で腋の下の
両サイドが開いていますので、正面からの暴漢のナイフ除けにはなるでしょう。
736 :
AIRSHIP :2007/02/25(日) 13:38:27 0
>>734 大まかに言って、イギリス剣術、ドイツ剣術、イタリア剣術等が伝わっています。
此れは「武道版の西洋剣術スレッド」にかなり詳しく書かれています、一度覗いて
見て下さい。
フルプレートで落馬して、素早く戦闘態勢が取れたとして、その後の戦闘って出来るもんか? なんか馬に乗ってる事が前提の装備のような気がする。
739 :
AIRSHIP :2007/02/25(日) 14:14:56 0
>>737 イギリスの「薔薇戦争」当時は、騎士も下馬して戦闘しています。
メン・アット・アームズと言われています、
亦、中世の馬上槍試合の一部に、徒歩での戦いや集団戦で落馬した後で、徒歩での戦いを実施
した例も有ります。 それに、城攻めの時には城内では徒歩で戦わないとどうしようもない
でしょう。
下馬した騎士なんかイングランド弓兵の丸木弓の的でしかなかった。 合板弓を使う武士となんか戦ったら、もっと悲惨なことになるぞ。
百年戦争時のイングランド騎士は戦場では基本下馬した 長弓兵の殺傷力を発揮するためには敵を拘束して戦線を維持する必要があったし 戦線維持には騎兵より歩兵のほうが適している
>>733-734 >>737 どのみち中世の戦争の最前線で転んだり落馬したりすれば、
鎧が何だろうと立ち上がる前に袋叩きにされて一巻の終わりだろうね。
とりあえず、我が国ではそれをさせないために徒歩の兵がついていたのですが。 それなりの身分であれば、馬を射られて落馬した主のために、自分が乗っていた 乗替用の馬を提供する(専門の)郎等もいました。 逆に、徒歩の兵が長刀で馬の足をはらったりして敵を落馬させてもいる。 個人ごとにバラバラに戦っていた訳ではなく、主従である程度の集団を形成して いる訳ですから、落ちたらすぐ袋叩きで一巻の終わりということはない。 欧州でも、状況はそう変わらなかったと思いますが。
身代金目当てで捕虜にされる
746 :
世界@名無史さん :2007/02/25(日) 22:29:30 O
馬どころか 円卓に乗ってる騎士も居たみたいで
騎士の騎兵突撃は逆茂木を並べるだけで簡単に阻止できるから武士には通用しない
武士の振り回す刀槍なんて騎士にすればお笑い草ですね。 盾で防ぎつつ、テキトーに剣先つっこめばイチコロですよ。 顔面とか防具つけてないし。 最初に配下の射手に斉射させれば大半の武士は死ぬから楽勝です。 戦いになりません。虐殺ですよ。 勇猛で優れた肉体を誇るゲルマン民族の血筋とローマ以来練り上げられた戦法を 身につけた騎士に勝てる戦士なんぞ他にはどこにもありゃしないのです。
騎士って馬上で盾と剣付けてんの?
弓を射合ってヨーロッパの軍勢が武士に勝てる訳ないじゃん。 動員できる弓兵の数の桁が違う。 最初の斉射で騎士壊滅状態だろ。
騎士は騎乗して戦闘するばかりじゃなく敵に射手が多数とわかった時点で下馬して徒歩戦です。
全身を金属の皮膚で被覆している上に盾を構えているのですからへろへろ矢なんぞ雨のように
射掛けられたところでほとんど完全に弾かれます。
もし
>>750 のいうことが本当ならオスマントルコの大軍が攻めてきたときに騎士団の守る城は
一瞬で陥落していたことでしょうが史実はそうじゃありまへん。
徒歩になった結果オスマンの騎兵に包囲されて壊滅したこともあるが
よく知らない敵地で兵数が不足していれば騎士に限らず負けるな。 兵数の多寡による勝敗をもって兵種の優劣をいうのはどうかと。 それよりオスマントルコの大軍に包囲された城を武士ならば果たして騎士のように 長期間防衛できただろうか?などと置き換えて考えてみるのも興味深い。 武士といっても鎌倉武士と戦国武士とでは対応が違うのだろうか、とかな。
>>753 オスマン帝国と欧州の戦いでは、欧州軍はもっぱら自国の領土で戦いながら、
オスマン軍に負け続けたんだよ。
兵力不足だって、相手は何百キロもの兵站線を維持しながら進軍している訳
だから、まったく言い訳にならないし。
ちゃんと「兵数の多寡による勝敗をもって兵種の優劣をいうのはどうか」と書いたのに
認識してもらえなかったようだ。
言い訳とか書いてるし。「とにかく勝ったんだから強いんだ」みたいな?もしかして?
>>754 の頭の中ではなにもかもが渾然一体となっているのかな。
それじゃまるで話にならないよ。筋肉バカっていう言葉を久々に思いだした。
>>755 現実の戦争では、大量に投入できる兵種は優れた兵種だよ。
単体ではどんなに強くても、コストがかかり過ぎて、数を揃えることができない兵種は役に立たないし。
真田信繁みたいに銃の装備率が高い軍勢を寡兵が抜刀突撃で切り崩した戦いって西洋にありますか?
>759 ”第二次世界大戦で” ”イタリア軍騎兵が” 抜刀突撃で赤軍を蹴散らしたということがある
761 :
世界@名無史さん :2007/03/07(水) 04:24:36 0
武士に関して興味があるのですが、どうしても分からないことがあるので質問をお許しください。 1、どうして武士には西洋を初めとした他の国と違い「盾」がないのですか? 騎士=盾+剣というのは容易に想像できるのですが、どうしても武士=刀しか連想できません。 弓を使った戦闘が主体であれば盾は必須の装備に思えるのですが……。 2、鎌倉時代などは特に野太刀と呼ばれるような大変大きな刀を馬上で振るっていたと聞きます。 ですが、実際に馬に乗りながら不安定&かなりの重量をもつ野太刀を扱うことが可能だったのでしょうか?
762 :
世界@名無史さん :2007/03/07(水) 08:59:13 O
つ
>>761 『クレヨンしんちゃん』の戦国映画を見ろ
>1、どうして武士には西洋を初めとした他の国と違い「盾」がないのですか? ・弓馬の道 ・歩兵用の手楯は存在した。 >弓を使った戦闘が主体であれば盾は必須の装備 事実、地面に立てて使用するための木製の楯があった。 >2、鎌倉時代などは特に野太刀と呼ばれるような 成立は鎌倉時代ではない。刀剣の長寸化は南北朝時代に始まり、五尺から最 長で七尺を超えるものも作られたが、大きすぎて普段は腰に帯びることが出 来ず、従者に持たせるか、自分で抱えた。 重量を軽減・分散させる工夫がこらされており、当時の馬上での戦闘が一撃 からせいぜい二三撃で決めるものであったため、振り回さないまでも数回打 ち下ろせれば用は足りたものと考えられている(チャンバラではない)。 また、この時代に下馬戦闘が始まったことから、馬上以外でなら振り回す機 会も見られた。
764 :
世界@名無史さん :2007/03/07(水) 21:23:37 0
>>763 先生、広義では四尺〜五尺が野太刀。
五尺以上が大太刀でっせ。
多分「長い刀」というイメージしかお持ちでないだろうと思われ、また野太 刀が大太刀の小型版なのかが気にかかりました。 野太刀といっても短刀を指した例もありますが、中世中期以降は刃の長い大 ぶりな刀を指しています。 しかし、『貞丈雑記』は大太刀を刃の長さ六七尺のものとし(紐をかけて背 負ったとしていますが、『七十一番職人歌合』のように手に持った例も有る)、 野太刀を二三尺のものとしている(近世の軍記物の表記とも合う)のですが、 野太刀の異名を長太刀とし、戦国期に登場した長巻と同一としています。 長巻なら貞丈も言っている通り、長刀ほど反りの無い、刀に柄をつけたよう な武器になってしまい、>762の質問内容で想定されているであろうもの とは、ずいぶん異なったものになってしまいます。 貞丈の考証も時としてあてになりませんが、「広義では」以下は何時の時代 のどの史料に出て来る定義なのでしょうか。お教え下されば幸いです。
766 :
世界@名無史さん :2007/03/07(水) 23:24:58 0
>>765 現代の大まかな解釈というのが適切かな。
馬上の戦闘なんてほんとに行われてたのかね?
近世の模写のようですが、原本が成立したのは14世紀の初頭です。 手前の人間が長刀を、奥の人間が熊手を使用しているのが、日本で最初に確 認出来る馬上での長柄使用の例です。馬上以外では鉞の使用も見える。
いやね、そういった絵巻があったり記録や伝承があるのは知ってるんだけど、 実際のとこはどうなのかなと。 いちいち雑兵に論功行賞なんてやってられないから主人に手柄を集中させて 従者はそのおこぼれをもらうシステムつうだけなんじゃないかなと? 馬上で先端に重りついた棒なんか振り回したら自分が落馬する可能性が高い訳で、 走ってる馬からの落馬は運が悪けりゃ死ぬ。組み落としなんかやっても落ちてからの 条件は相手と大して変わらんから運が悪けりゃ自分が殺される。 普通の感覚では矢で射落としたり、逃げ遅れた奴を従者が熊手とかで落としたところを、 みんなでよってたかっていたぶるんじゃないか?
結論が先に出てるならそれを先に行ってくださいよ。
太平記見ると金棒TUEEEEEEEEって思う
『葦毛なる馬に紫逆沢瀉の鎧に紅の母衣懸けたる武者、其の勢百余騎計りと見へて、凶徒の陣をてやぶり、賊徒追ひ落として、首二、太刀と薙刀の先に貫きて・・・・・・ (『蒙古襲来絵詞』) 『ここに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分け、おしよせて、さんさんに、かけちらし、上になり下になり、勝負をけつし・・・・・ (『八幡ノ蒙古記』)
777 :
世界@名無史さん :2007/03/10(土) 12:09:23 0
>>635 剣を逆手に持ってつばで殴るとか、剣の刃身をもつとか西洋甲冑剣術ではジョーシキですけど
リバースグリップとかハーフソードとかゆう持ち方で、むしろこっちのほうが多くつかわれたって知らないのね。WW
つばで殴られると1.5kgくらいのハンマーでひっぱたかれたくらいの威力があるってこともわからない?
>>652 日本刀で恐いのは刃の部分だけ。そこさえさわらなきゃ怪我しないから、実際古流剣術は左の手で相手の刀をよこからはたく技は普通にあるよ。
むしろ、どの方向でも攻撃ができる(柄の部分でも)鉄パイプのほうが恐いね。
切れる刃物であればあるほど、布一枚で防御できる。三銃士なんかでマントをつかって防御するのは古典テクニックだーね。
あとガントレットだけでも1kg以上あるから、殴られただけで歯がおれて鼻が潰れるだね。
武士の甲冑は金的も垂だけだけど、騎士は鉄のコドピースつけてるから、またぐら蹴り上げられても平気だーし、鉄靴はいてるから足踏まれてもへいきだーね。
武士の面甲は紐で結わえてあるだけで顔とくっついてるけど、騎士の面甲はビス止めで顔との間に空間があるから顔に頭突きくらったら、武士は動けないね。
武士は普通わらじで甲掛けつけてないから甲冑加えた体重で革の靴でふまれたら、指の骨おれるね。
武士の手甲は指出してるから、一番狙われるね。
つまり1VS1で、同じ体重、同じ経験でお得意の武器武装だったら武士はまけるね。
武士の得意の武装は弓だろうが
779 :
世界@名無史さん :2007/03/10(土) 13:33:40 0
戦国では槍だろ
モンゴル騎兵にヨーロッパの騎士団は壊滅的な打撃を受けていた。 モンゴルが陸戦で負けたのはバイバルス率いるマムルーク軍ぐらいで、 ベトナムや日本相手には得意の騎兵戦闘が出来なかった。
781 :
ホットカルピス(;´Д`)ハアハア ◆PDG4DGZXd2 :2007/03/11(日) 05:55:11 O
(;´Д`)ハアハア 刀というのは、武士のアクセサリーみたいなもので 実際 戦闘に使うやつはいないって
782 :
世界@名無史さん :2007/03/11(日) 07:17:30 0
>>781 見たことないコテだが、どっかよそから来たのか?
刀が実戦向きでないことなど、何回出たかわからんぞ。
>>776 騎馬の集団同士で戦っているのではなく、中間に双方が二組づつ出て打ち合っている
あたり、「騎馬軍団」扱いは無理があります。
馬上打物を想定した模擬演習でしょう。
後方には徒歩で馬の世話をする人の姿も見えますが、実際にはああした人間が傍につ
きそっていた。>775も騎乗してのことなのか不明。
そもそも、「〜騎」といっても騎馬ばかりを指したのではありませんし。
>>783 『八幡ノ蒙古記』で「〜騎」といえば騎兵ばかりだよ。
歩騎混成部隊の場合は、
「蒙古の大将とおほしくて、長七尺はかりの大男、ひけは臍辺りまて、おひさかりたるか、
あか鎧に、 あし毛なる馬にのり、十四五騎うちつれ、徒人七八十人あひ具して、おひかくる」
みたいな感じで、ちゃんと分けて書いてあるんだよね。
そもそも、騎乗した菊池武房配下の手勢は、しっかりと『蒙古襲来絵詞』に描かれているし。
>>784 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1147423539/481 こちらとほぼ同意見ですね。
>十四五騎うちつれ、徒人七八十人あひ具して
『蒙古襲来絵詞』を見ると、蒙古軍は歩兵が中心で、騎乗した人間の数は限
られています。また、騎兵に歩兵が随伴していた日本側とは異なり、歩兵だ
けで集団で行動することが見られたので、特筆されたものでしょう。
季長の前方に多数の歩兵が描かれており、その奥に騎馬が数人控えている。
>歩騎混成部隊の場合は
あくまでも蒙古側の描写として出ているものでしょう。
菊池も大友(宇都宮説あり)も戦闘以外の場面で目立った数人が描かれてい
るだけで、そのまま参考には出来ないと思います。
なら蒙古側の描写を参考にするのは何故かと言われるでしょうが、行軍なら
行軍、布陣なら布陣でそれぞれの場面を明らかにするのに必要なものだけが
描かれているものだと考えました。
大友などは主要な武士、蒙古側は布陣の特徴が分かる騎兵・歩兵の組合せ。
それ自体あまり分量のない『蒙古襲来絵詞』だけから判定することは困難だ
ろうと思います。
>『蒙古襲来絵詞』 『前九年合戦絵巻』や『春日権現験記絵巻』といった前後の時代の絵画史料 や文献史料を見ても、徒歩の兵の介添なしということは考えにくいですね。 季長主従五名は、全員騎乗していたということになっていますが、人数自体 が少なく、介添自体用意出来なかった。 それでは他の戦闘に参加している武士の描写はどうかというと、白石などは 季長に攻められて敗走する蒙古軍を追物射にする姿で描かれています。 かなり様式化されているように見えますが、一時的な先行では。 そもそも俗に『蒙古襲来絵詞』と呼ばれてはいるものの、実際には蒙古襲来 は主題ではなく、竹崎季長個人の神慮による栄光を描いたもので、『竹崎季 長絵詞』と言うべきだという意見も古くから提出されており、戦闘そのもの を主題に描いたものではありませんからね。 戦闘全体を見渡すのが難しく、参照にするなら既出の絵巻の方がいい。 >『八幡ノ蒙古記』 なんでまた、わざわざマイナーな異本を。 群書類従本や京大本の『八幡愚童訓』でよかったと思いますが、どこから引 用されたのですか。検索したら変なブログが出て来ましたが。
>>786 『前九年合戦絵巻』や『春日権現験記絵巻』は合戦に参加した当事者が作成
したものではないだろ。
戦闘描写の参考にするなら、当事者が作成した『蒙古襲来絵詞』の方がいい。
>そもそも俗に『蒙古襲来絵詞』と呼ばれてはいるものの、実際には蒙古襲来
>は主題ではなく、竹崎季長個人の神慮による栄光を描いたもので、『竹崎季
>長絵詞』と言うべきだという意見も古くから提出されており、戦闘そのもの
>を主題に描いたものではありませんからね。
絵巻に描かれていることが伝聞などではなく、竹崎季長が直接見たり体験したり
したことだけだという事は、それだけ信頼性が高いということじゃん。
竹崎季長は内容の正確さについて、河野館の妻戸にまでこだわっている。
あと史料に複数の異本が存在する場合、より古いものを用いることは常識だと思うが。
>『前九年合戦絵巻』や『春日権現験記絵巻』は合戦に参加した当事者が作成 >したものではないだろ。 それはそうですが、少なくとも作成された当時の(地方での小競り合いや度々 の政変は当時もあった訳ですし)戦闘法は参考にしているでしょう。 『前九年合戦絵巻』の成立時期は、二本ともに13世紀末頃とされ、更にその 中に描かれている甲冑も古風であり、『吾妻鏡』に記されている実朝が実見し たという絵巻が祖本である可能性が高い。 『蒙古襲来絵詞』の成立は、永仁元年(1293。但し奥書は後年加えられた ものであり、最大で南北朝時代まで成立を遅らせる説もある)とされており、 単純に成立時期だけ辿ってみても、『前九年合戦絵巻』とそう開きはありませ ん。『春日権現験記絵』も、1308年に奉納されている。 >それだけ信頼性が高いということじゃん。 内容を否定したい訳ではありません。戦闘場面は絵巻全体を代表するものでは なく、『前九年合戦絵巻』や『春日権現験記絵』とは異なり、多数の人物を並 べて奥行きのある空間を描くのではなく、竹崎季長という人物を主役に据えて いるため、多彩な戦闘場面を描くことが出来なくなっています。 要するに、『竹崎季長絵詞』とも言われるだけあって、季長を中心に描いてい る構造上、合戦全体の様相を知ることは困難だろうということです。 馬や具足、妻戸の有無といった細部への心配りは事実でしょう。 >より古いものを用いることは常識だと思うが 異本を活用するのであれば、ただ古いものを用いるのでなく、異本同士を比 較して、相違点を挙げたほうが意味があるでしょう。 管見の限りでは、別の本でもそう変化の無い箇所であったので。 別に引用された本に問題があるとか、引用に問題があると申し上げたかった のではありませんが、珍しいので気になりました。 結論ありきの妙なサイトが出て来たので、影響を受けられたのかと。 とはいえ、不躾でした。お詫び申し上げます。
>妙なサイト そこの内容に問題があるなら根拠を示して反論すべき。
790 :
世界@名無史さん :2007/03/12(月) 02:04:26 0
380 名前: 人間七七四年 投稿日: 2007/03/12(月) 01:48:45 ID:XrVOjAZQ J.F. Verbruggen, The Art of Warfare in Western Europe During the Middle Ages: From the Eighth Century to 1340 - 必読・ P. Contamine, War in the Middle Ages - ドライで退屈だが、為になる。特に中世における歩兵の中心的役割と傭兵集団の重要さについての章は秀逸。 M. Prestwich, Armies and Warfare in the Middle Ages: The English Experience - 中世の軍隊の兵站、組織、編成、戦術について詳しく書かれている。 K. DeVries, Infantry Warfare in the Early Fourteenth Century: Discipline, Tactics, and Technology - 中世の歩兵?規律と戦術?イカれてるのかこいつは!(笑) K. Fowler, Medieval Mercenaries: The Great Companies - 14世紀に集中しているが、著者の書く傭兵集団のプロフェッショナリズム、訓練と有用さは中世初期と後期にも当てはまる。 取り合えず中世の軍に兵站が存在しなかったと思ってる人はルイ9世や獅子心王の遠征を調べると宜しいかと。 強度の強い電波だと解るから。 -------------------------------------------------------- こう言うレスを見たんですがこれらの本は信頼出来るんですか?
このスレにtotal war centre forumsのThiudareiksGunthigg氏を召還してみたいな。 ここにいる雑魚共を一瞬で皆殺しにするだろう。
792 :
世界@名無史さん :2007/03/12(月) 03:24:18 0
結局ここの人は絵巻物の描写とかそのまま信じてるんですか? さすがに戦いの最後を一騎打ちで、なんてのは信じてないよね?
794 :
世界@名無史さん :2007/03/16(金) 09:42:14 0
>>780 >モンゴル騎兵にヨーロッパの騎士団は壊滅的な打撃を受けていた。
当時のハンガリーやポーランド、ロシアに「騎士」と呼べるものがあったかどうか。
ドルジーナ(従士団)ならあったかも知れないが。
795 :
世界@名無史さん :2007/03/16(金) 09:56:20 0
>777 重い奴は転ばせば終了
797 :
世界@名無史さん :2007/03/16(金) 21:25:08 0
>重い奴は転ばせば終了
798 :
世界@名無史さん :2007/03/16(金) 22:56:32 0
>>798 素晴らしい。
スポーツの剣道なんてあっさり投げ倒されて終了ですね。
800 :
世界@名無史さん :2007/03/16(金) 23:18:55 0
殴るほど動けないから重い奴は即終了
武士・騎士だけでなくマムルークも加えてください
802 :
世界@名無史さん :2007/03/17(土) 11:59:44 0
日本鎧も騎士の甲冑も重量は変わらない。それを知らない800は即撤退
14世紀ぐらいまでならそうだろうな。
804 :
世界@名無史さん :2007/03/17(土) 13:49:35 0
世間一般で西洋の甲冑として知られている、オール装甲のロボットみたいなのは、 実は中世騎士の黄金時代が終わってからのものなんだよな。 十字軍時代とかは、バケツみたいなカブトと鎖帷子だったので、ショボく見える。
実際に見た方が早いよね。 日本刀で西洋の甲冑に通用するかどうか。
ポン刀は武士のメインウェポンという訳じゃないだろ。 精々、野武士が大太刀使ってた位だし。
>>804 西洋の甲冑は、実に見事なデザインですね。
それに引き替え、にほ(ry
まあ、好みによるわな。
809 :
世界@名無史さん :2007/04/07(土) 08:49:25 0
>>804 ウルトラセブンに出てきたボーグ星人とか、宇宙刑事ギャバンみたい>オール装甲
810 :
世界@名無史さん :2007/04/07(土) 12:03:33 0
最強はさすがに永春拳だろ。
このスレと同レベルかそれ以下ですね。
813 :
世界@名無史さん :2007/04/08(日) 03:50:56 0
つうか日本刀なんて合戦じゃほとんどつかわんだろ 幕末ぐらいだろはやったの
立場的に強いのは武士だな 武士は下は半農クラスから上は将軍まで 騎士は下級貴族
ドイツだと騎士は盗賊・傭兵から上は皇帝まで
そもそも広義の騎士は騎乗の戦士という意味で、王侯も騎士である。
騎士の時代の終わりになっても、上級貴族や王の戦死は珍しい話じゃなかったしな。 それも最前線で指揮していたとかじゃなくて、自らどつき合いに参加した上で。
イングランド王で戦死したのはリチャード三世だけ!
ハロルド王も戦死したろ。
フィクション補正がかかれば日本刀の前に(接近戦は)敵は無い
821 :
世界@名無史さん :2007/04/15(日) 16:19:44 0
>817 日本でもそうだけど、同盟軍、同じ軍、家臣でも裏切り横行の、中世や戦国時代で 戦略家気取りで、指揮官は後方にて大局点な判断をするのが仕事とか言っていたら、 戦争には絶対勝てないだろう
823 :
世界@名無史さん :2007/05/03(木) 23:49:28 0
戦国時代なら、動員数と火力で圧倒的な日本の勝ちでしょう。 同時代のイギリス軍の鉄砲保有数は武器庫を入れて1000丁未満。 関ヶ原の上杉伊達軍の装備率は40%に上ります。
824 :
世界@名無史さん :2007/05/04(金) 00:07:23 0
>>823 関が原と同時期の八十年戦争時のオランダ式大隊で既に銃兵の割合が2/3に近いんだが。
んでオランダ軍の総兵力が2万以上はあったはずだから余裕で銃兵1万超えてるな。
>同時代のイギリス軍の鉄砲保有数は武器庫を入れて1000丁未満。 この数字はどっから出たんだ? アルマダ海戦における英海軍の砲は1975門なんだが。
当時軍事的には後進国だったイングランド(長弓や鉈鎌をもった民兵が主力)や さらに田舎のスコットランドでヨーロッパを代表させる。 「鉄砲を捨てた日本人」でやってたトリックだ。
1600年の関が原の戦いの日本軍と八十年戦争ニューポールトの戦いのオランダ軍の 比較なら大砲の数で互角、兵力と鉄砲数で日本軍が圧倒
いずれにせよ、その時代になると騎士も武士も戦力の決定的要因じゃないからスレ違い。
830 :
世界@名無史さん :2007/05/05(土) 00:42:26 0
>>828 >大砲の数で互角
これも戦国厨がよくやるトリック。
火縄銃に毛が生えたような程度の大筒・中筒も、大口径のカノン砲もカルバリン砲も
全部いっしょくたにして「大砲」扱い。そら保有数も増えるわ。
※和製大砲の弾の重量は、最大級の芝辻砲でも一貫=3.75kg
カノン砲の弾は19kgくらいで、ほぼ5倍もの差がある
831 :
世界@名無史さん :2007/05/05(土) 01:12:39 0
地政学的に日本じゃ砲はそれほど役に立たないから重視しなかっただけ
山がちな地形の関係でしょうか。 ラクダみたいな動物がいればアフガン人みたいに移動砲台として利用できたかもしれないが。
>>830 砲弾が19kgくらいって、攻城戦用の全カノン砲じゃん・・・・
攻城戦ですら半分で十分って理由でグスタフ・アドルフに廃止されたのに、
そんなもの野戦で使い物になるはずないぞ。
マウリッツがニューポールトの戦いで使用したのは、3ポンド(1.36kg)又は
6ポンド(2.72kg)の野戦砲が6門。
一方、関が原のために家康が用意したのは、1貫匁(3.75kg)玉の大筒5挺と
800匁(3kg)玉の大筒10挺。
ニューポールトの戦いのオランダ軍には、海からの支援砲撃があったはずだが 九州程度の面積しかない国の戦力と比べてる時点でアレだけどね
835 :
世界@名無史さん :2007/05/05(土) 08:02:23 0
>>833 戦力比較なら持てる最大量の火器で比べるのが普通でしょ?
攻城砲からあえて軽量の野戦砲に移行するのと
大口径の砲を(技術的に)作ろうと思っても作れなかった日本とでは天と地ほどの隔たりがあるよ。
日本みたいに山岳が多く、限られた平地には水田が隙間無く広がるような場所じゃ、 重たい攻城兵器や大砲なんかの運用は非常に困難。 川も流れを頻繁に変えるんで橋も作れない。 大砲を大量に持った大陸軍なんか、日本じゃまともに動けないぞ。
>>834 石高250万石の徳川とオランダ一国を比較することに、問題があるとは思えないな。
それに、石高10万石に過ぎない石田三成ですら、関が原には大筒5挺というオランダ軍と
遜色の無い火力を投入していたりする。
>>836 15世紀のブルゴーニュ戦争では、山岳国であるスイスに野戦砲が持ち込まれ、結構な成果を挙げている。
ニューポールトの戦い自体、砂浜という砲にはどう考えても不向きな地形で行われてるんだが。
(砲の数が妙に少ないのは多分そのせい)
>>837 なんでいいつの間に比較対象が日本軍から一大名にシフトしてんだよw
田圃あるんだから野戦砲なんて使えるわけねーだロ
地形なんて潮と風だけでじゅうぶんデース 海の上でかかってきなさーい
>>840 その辺タイやヴェトナムではどうだったんだろう。
当時大砲が用いられていたように記憶しているが。
843 :
世界@名無史さん :2007/05/06(日) 17:30:27 0
残念ながら、泣こうがわめこうが大砲と帆船に関しては欧州にはかないません 火縄銃自慢ぐらいで我慢しとけ
844 :
世界@名無史さん :2007/05/06(日) 17:40:10 0
だから酢ペイン艦隊はシャムで名もなき日本の傭兵に絶滅させられてるって 兵のレベルがちが過ぎる
845 :
世界@名無史さん :2007/05/06(日) 21:24:58 0
いつの時代の騎士と武士なの? 騎士といっても欧州には国ありすぎだからな・・
ここ学問板なんだけどね。 こういうDQNな議論は三戦板でやって欲しいな。
847 :
日本@名無史さん :2007/05/07(月) 01:08:05 0
hはいはいはいはいわろすわろすwwwww 君たち劣等人種が白人の優勢人種の事、語らない語らないwwwwwwwwwwww 君たち、武士とかほざく前に、まず白人から人種差別受けまくってる劣等民族という前提忘れてない??ww いつから白人文化と比較できる身分になった?ww人種的に無理なんだよ次の太陽系のびっくばんがおきるまでww 武士もへったクラも無いんだよwwこのモンゴロイドがww白人と比べる前に、まず人種差別撤廃を話し合いなさい。w この劣等人種ww
848 :
世界@名無史さん :2007/05/07(月) 01:10:27 0
普通に武士対騎士の一騎討ちを想定するなら 武士が弓を使える分圧倒的に強い 白兵武器(槍等)同士の戦いを想定するなら 恐らく騎士のほうが強い ってことでFA?
だから騎士にしても武士にしても数世紀の長期間にわたって存在してるんだから最低限大まかな時代設定しないと話にもならんって。 個人的には体格だとか武装だとかの差は無視できる程度。戦法なんかはある程度の期間やりあっていれば敵から学んで最終的には均質化されるから、比較するだけ無駄。 優劣つけられるほどの差はないと思う。
じゃあ12〜13世紀の中世
851 :
世界@名無史さん :2007/05/07(月) 16:35:50 0
騎士じゃ武士に皆殺しにされるって
屈強な体付きの武士VSピザデブ騎士 武士圧勝。 屈強な体付きの騎士VSピザデブ武士 騎士圧勝。
853 :
世界@名無史さん :2007/05/07(月) 20:38:42 0
武士は組み技の技術あったが白いのはあったのか
854 :
世界@名無史さん :2007/05/07(月) 21:04:04 0
855 :
日本@名無史さん :2007/05/07(月) 22:52:16 0
はいはいはいはいわろすわろすwwwww 君たち劣等人種が白人の優勢人種の事、語らない語らないwwwwwwwwwwww 君たち、武士とかほざく前に、まず白人から人種差別受けまくってる劣等民族という前提忘れてない??ww いつから白人文化と比較できる身分になった?ww人種的に無理なんだよ次の太陽系のびっくばんがおきるまでww 武士もへったクラも無いんだよwwこのモンゴロイドがww白人と比べる前に、まず人種差別撤廃を話し合いなさい。w この劣等人種ww
日本史板で暴れてるウエンツ君はここにもいるのだなあw
857 :
日本@名無史さん :2007/05/08(火) 02:23:35 0
>>856 あいちゅいまちぇん
ただ私はあまりに朝鮮とか同じ種族同士でのいがみあいがいやなので、問題提起という意味で
このような形でしてみました よろしくです
朝鮮と同じ種族・・・本気で止めてね吐きそうだから^^;
859 :
日本@名無史さん :2007/05/08(火) 07:44:47 0
>>858 いやいや、朝鮮も日本もたかがモンゴロイドね?ww目くそ鼻くそね?ww白人からしたらww
どんぐりの背比べなんてお笑いじゃあーりませんか?w
白人超優性民族 黄色いサル全般劣等民族
ですよ万国共通w
現代の日本にサムライの自覚があるひとは何人残っているのだろうな・・・
まあ農民の子孫のほうが圧倒的に多いだろうしな
家系とか血、DNAじゃなしに 公共に対する奉仕の心だとか責任感だとか。 イギリスのエスタブリッシュドの連中は 良くも悪くも 今でも戦争になったら 最前線で活躍して死傷率高かったりするわけですよ。 今の日本に、国民のために血と肉をささげよう という気概のある層や個人がどれほどいるか。 ノーブリスオブリージュのあるなしで勝負したら 現代の武士に勝ち目があるのかと。
人殺し何てしたら穢れるだろ。高貴な人は戦場に出ないのが日本の常識。 昭和帝みたいな血にまみれた王者など日本には不要だ。
864 :
日本@名無史さん :2007/05/09(水) 00:49:58 0
おまえら武士とか馬鹿じゃないの??www いまのヤーさんが戦国時代いたらまちがいなく組長は大名だろww なにが武士道だよwwwwww馬鹿か?wwww
865 :
世界@名無史さん :2007/05/09(水) 03:17:52 0
かつお武士 うぷぷ
866 :
世界@名無史さん :2007/05/09(水) 07:28:56 0
>>863 「天皇」より「大王」が慣用表現の時代なら自ら戦場に立つことも
当たり前だったが。先帝が行ったのは精々閲兵だろ
>>864 いや、大名だと一部上場企業の社長ですら幾千人かいるわけですから
867 :
日本@名無史さん :2007/05/09(水) 09:48:35 0
>>866 社長とは違うね
武士=傭兵 って提議ではなしてんだろうから 武士=マフィア
が」正確だよ
その程度ねwww武士ごときというよりたかが黄色人種の歴史ごときw
白人の歴史は違うから 質が高いし、かんがえてみろよ?ww幕末までに西欧はどれだけの世界的革命おこした?ww
この劣等人種アジアンよww
ジャップの黄色いサルに、経済革命、民族革命、宗教革命、商業革命、いえばきりない西欧の価値ある歴史に比べさww
何が徳川家だよwwwww馬鹿かいキミ達は?ww池沼がそろって集団現実逃避かい?
そんなら西洋の歴史語りなさいよ価値あるからww
868 :
世界@名無史さん :2007/05/09(水) 10:32:50 0
>>867 正直な話、日本のヤーさんですらチャカが精々で、重火器武装は
チャイニーズやコリアンでも無理だろ。いや、まともに戦闘集団として
武装している処は人種を問わず内乱状態と言われている様な処だよ
(アメちゃんでも個人の銃保有をどうこう云う位だろ)。
近代国家は武力を国家権力が一元化しているのが通例。
でも、ニッポンの学校教育から教育研究機関の影響だろうが、
欧米史中心主義にも困ったもんだね。どんな事でも大事になる。
マイケル・ジャクソンみたいに持って産まれた自らの属性を
忌み嫌い、脱色だか人体改造に勤しむ様な哀れな猿が21世紀
にもいかに多いことか、こんなレスからもそんあ事を伺わせるよ
869 :
日本@名無史さん :2007/05/09(水) 11:44:48 0
>>868 いや、だれも今のアメリカ社会をいってないでしょ?
戦国時代の下克上なんて ただのいまでゆうヤーさんでしょうな?
現実信長は職業軍人は、今で言う荒くれ者の犯罪者とかヤーさんみたいな人を専属にしてるしそれが結局武士に名って言ってるし。
仮に足利鎌倉時代からの守護大とかを、仮にだよ?エリート集団とするならほぼ壊滅しちゃったじゃない。
それに、西欧中心主義じゃなくて、あんたらイエローモンキーのジャップの先祖が維新後ダツアニュウオウして自国の全てを否定したんだろ?w
それでも白人から差別全開今でもうけてるけどな?ww世話ないよw
脱亜入欧は自国歴史の全否定じゃありません。 しったか乙
871 :
日本@名無史さん :2007/05/09(水) 12:20:10 0
全否定じゃなくとも文化をかなり否定してますから
872 :
世界@名無史さん :2007/05/09(水) 13:39:03 0
>>869 確かに今でも、ヤーさん系の政治家が跋扈してますがな。
ただ、暴力を一手に引き受け、統治を行っているのを権力者と
呼んでいる訳で、それは神話時代から変わらんでしょ。
>戦国時代の下克上なんて ただのいまでゆうヤーさんでしょうな?
今はヤーさんの支配領域をフロント企業から宗教団体から、広範囲に
考えるなら是、かも知らんけど、疾うに現存するヤーさんは
社会化、組織化しているのは常識かと
873 :
世界@名無史さん :2007/05/09(水) 13:51:52 0
武士は世界最強でづ
1日で勝負がつくならともかく、数年にわたって戦いが続くなら、 その間に相手の軍隊研究が進んで、変質するじゃん
875 :
日本@名無史さん :2007/05/09(水) 16:06:50 0
>>873 お前は妄想オタの現実逃避教か?w幕末に黒船四席で日本沈没なw 二次対戦で武士道まがいの精神論ぶちかましてアノざまなwwばかかおまえ?w >>869 お前歴史勉強しろよ御託ならべるまえに 西洋史はそんなんじゃねーだろwもうすこしかんがえろよ?
876 :
世界@名無史さん :2007/05/09(水) 16:37:23 0
>>875 無知な原人w
薩英戦争で一薩摩藩に英国艦隊が撃退させられてますが?w
鎖国して武器の優劣あっても武士のこの強さw
877 :
世界@名無史さん :2007/05/09(水) 16:39:54 0
日本武士はヨーロッパの土人と違いモンゴル軍を撃退してるほどの強さ
878 :
日本@名無史さん :2007/05/09(水) 16:43:38 0
どんだけあたまわるいん?げきたいされてねーしwwしかもアウぇーでもかってんだよ向こうw 武士とかいまどきいっちゃってんのやばいよ?騎士とか十字軍遠征おわってからもう1400年代後半から騎士なんて衰退してもういなくなっちゃうよ?www 武士とか。。。。。。wwwだから乱射韓国人も白人のアジア人差別訴えてたけど、そうなるんだよw
879 :
日本@名無史さん :2007/05/09(水) 16:44:43 0
まぐれ撃退も力の証明にはいるんかい?w
880 :
世界@名無史さん :2007/05/09(水) 16:47:19 0
モンゴル軍撃退がマグレとかほざいてる奴は世界史板に来ないでね 神風とかしんじてんじゃねーだろーなw
881 :
世界@名無史さん :2007/05/09(水) 16:49:31 0
ちなみに西洋諸国の中で日本より優れた国は一つもない いまじゃ日本の製品を買い、日本の発明を用意、日本の文化に憧れ 日本のバンドを崇拝してる
882 :
日本@名無史さん :2007/05/09(水) 16:55:50 0
お前さ、日本で発信されてる西洋の情報しかみてもきいてもいねーくせにひどいねw 日本の歴史と中国、韓国の歴史内容が違うのと一緒だ馬鹿が
883 :
日本@名無史さん :2007/05/09(水) 16:57:56 0
お前さ、アウぇーまできてる人たちが負けてもしゃーねだろ?そんならなんでおまえらはちょんだのばかにしてん? 秀吉ぼろくそまけてんじゃん?韓国併合いうなら日中戦争ぼろまけしてんじゃん?
884 :
世界@名無史さん :2007/05/09(水) 17:01:17 0
>>883 まずお前は前提条件として歴史勉強してこいやw
ボロ負けってw
885 :
日本@名無史さん :2007/05/09(水) 17:06:46 0
いやおまえがべんきょうしてきなさい。 歴史おたきドルなら、まず俺クラスになろうなw武士とかほざいてないでw
886 :
世界@名無史さん :2007/05/09(水) 17:13:21 0
>>885 モンゴル軍撃退も薩英戦争も朝鮮出兵もなーんにもしらない無知者w
887 :
日本@名無史さん :2007/05/09(水) 17:22:37 0
お前がなw
このスレは、武士と騎士の戦いではなく、池沼と痴呆の戦いとなり果て候。
889 :
日本@名無史さん :2007/05/10(木) 07:40:14 0
〜〜〜〜〜〜〜い、ジャップの軍隊おタどもよwwwwwww いつから日本は列強にはいってるの?wwww笑わせんなよ黄色いサルw ドイツからも黄色い去る呼ばわりされてた黄色人種のくせにさww 一次も二次も白人の戦争なw中の民族主義とかもちろん啓蒙とか一次からの条約とか経済とか絡んでくるにしても、日本のアジア進出の言い訳は基本アジア人差別撤廃だからw お前ら列強とかわらわせんなよな?wその前に人種差別受けてるくせによwしかもそれでも人種差別撤廃拒否されたシナ白人国家にw 日新も日露もくだらねー戦勝気分にひたってんなよ?wあれ白人の代理戦争に使われた使い捨て駒なww戦後のアメリカロシアみてもわかんだろ?w駒wキミ達w なんか白人国家と対等気分でお話になってるみたいだけどwwなにが帝国海軍だよww馬鹿会?wwいい加減にしようよw陸軍とかなんだねあれ?w 基地外精神論の特攻精神がユウいつの武器だろ?w海軍?wwきみたちくだらないおタどもが空母だの戦艦だのひどいねwwいつまでハードのスペックにこだわってるの?wゲームのやりすぎじゃない?w あめりかとかそんなハードの強化にこだわってないからwwソフトの性能はどれほどちがうかわかんだろ?w だから、キミ達アジアンは勧告乱射青年がいってたとおりの白人から人種差別いまでもうける劣等人種なww 白人と対等の目線で話すのやめてくんない?www見苦しいからwwわきまえろよ人種身分ww
890 :
世界@名無史さん :2007/05/10(木) 22:32:34 0
>>889 黄過論の意味もわからんの?w
日本人の優秀性に適わないと知った白いのが日本を恐れて言った
無論朝鮮は国ですらないから話題にすらあがらないw
891 :
日本@名無史さん :2007/05/11(金) 03:20:59 0
>>890 いいからおまえだまっててくんない?
妄想の現実逃避オタにははなしてないから
精神化池よ きめーから
892 :
世界@名無史さん :2007/05/11(金) 03:41:44 0
と薄気味悪い低脳が泣いてます
893 :
日本@名無史さん :2007/05/11(金) 03:51:11 0
お前と顔が一寸たがわぬ種族を馬鹿にしてて世界せますぎだよ君? もうすこし学歴とかつければ?w
そのアーリア人種マンセーのオーストリア人が三国同盟組んだ時に建国以来負けた(占領されたコトがない国)と同盟出来て大喜びし連合艦隊が太平洋艦隊・東洋艦隊を壊滅させたのを知ってパニクったのは知ってる?
895 :
日本@名無史さん :2007/05/11(金) 12:00:50 0
いつから二次大戦時オーストリアが日本と同名結んだの? オーストリアもゲルマン人ということでつなげてるの?
>(オーストリアではなく)オーストリア人 ヒトラーのことでしょう。不敗云々も彼が言っている。
ウエンツ君
898 :
日本@名無史さん :2007/05/12(土) 06:54:38 0
>>897 また僕の存在かぎつけたんですか?www
なんでわかるの?
899 :
世界@名無史さん :2007/05/12(土) 07:57:18 0
900討ち取ったり!
お前ら的にマルムークとイニェイチェリはどうなのよ
902 :
世界@名無史さん :2007/05/15(火) 02:39:11 0
騎士って身分のことじゃないの? 武士は職業でしょ? 「トヨタ自動車」と「GMの部長」はどっちが強いみたいで違和感あるな
903 :
世界@名無史さん :2007/05/15(火) 02:42:45 0
武士も身分でもある
在地領主を中心とした騎乗資格所有者という点では身分。 武芸という「芸能」を司るものとしては職業。
で、結局タイマンしたら個人の技次第で不明、 戦争したら大砲打たれて武士側ボロ負けでFA?
>>905 いいかげん既出だが
鎌倉時代頃の騎士だと防御力が低いので武士の弓矢が脅威になりえるが
南北朝時代以降だと騎乗武士も近接兵器が主武装になるので
接近してどつきあいになる。しかし騎士の装甲もコートオブプレーツや
ブリガンディン、さらに板金鎧などかなり進歩してくるので苦戦するだろう。
戦国時代あたりになると日本もヨーロッパも雑兵が主役。
あれ?大砲なしルールなの?
908 :
世界@名無史さん :2007/05/15(火) 10:42:50 O
近代以前の弾が炸裂しない大砲は城壁の破壊か、密集隊形をなぎ倒すのが主目的。または船に搭載して海戦用。 機動の面では地理的な制約を多く受ける。後のマシンガン的な圧倒的な威力を期待すると肩すかしを食う
で、ここは身分対身分でどっちが強力か決めるスレなのか?では武士が強いと思う ナイトはあくまでナイトだろうが、武士は足軽から征夷大将軍まであるからな マジレスすれば 一騎打ちで強いのは大抵機動力、航続力が秀でていて軽装な方である 集団戦では攻撃力、防御力、機動力のバランスが重要 この面で武士有利だと思うが、騎士とその騎乗馬をどの時代の何処の騎士にするかで 機動力が大きく違うな
>南北朝時代以降だと騎乗武士も近接兵器が主武装になるので >接近してどつきあいになる。 太刀や長巻で斬りかかろうとして正面からランスチャージくらって死ぬ絵が浮かんだ
中世最後の騎士と呼ばれたマクシミリアンI世は神聖ローマ皇帝だったわけだが。 マクシミリアン式甲冑に身を包んだマクシミリアンI世と同時代の初期戦国武将で一騎打ちでもするか?
912 :
世界@名無史さん :2007/05/15(火) 14:03:34 0
秋山光政みたいに長棒で対抗するよ!とか言いそうだなw
騎士のランスチャージは逆茂木で簡単に阻止できるから武士には通用しない
>>914 盾や逆茂木を並べて、その後から敵を射るのは、野戦における武士の普通の戦い方だよ
重甲冑に身を固めた騎士と、戦闘用軽装の戦国武将が一騎打ちするとこうなる 1.接近戦に持ち込まないと騎士は戦闘にならないので突進 2.武士有効射程まで敵を誘い込んで馬を射る、 引き続き馬冑の死角に回り込みながら馬を射る→騎士落馬又は下馬 3.徒歩になった騎士は重甲冑ゆえ非常に消耗が早い、 ころあいを見て直接馬をぶつけて組み伏し、甲冑のスキ間から武士が短剣で止めをさす (もっとも落馬と同時に騎士が自ら甲冑の一部を捨ててしまうかも知れない) 自分が乗っていて一対一ならグラマンやムスタングに零戦は絶対負けないという坂井三郎氏と似たような戦いかた 負けなければ、持久力のある側が勝つ
>>915 まあ欧州の弓兵の常套手段でもあるな
なんか単兵種が複数の兵種に喧嘩売ってるみたいだな
>>906 >南北朝時代以降だと騎乗武士も近接兵器が主武装になるので
それまでの騎射・太刀打ち・組打中心が改まって、下馬してからの歩射や種類
の増えた長柄(八角棒・斧・金砕棒・熊手・長刀・鑓)を使っての戦闘が目立ち、
また馬上での長柄を使うようになっていますが、弓矢も発展しています。
>>909 >武士は足軽から征夷大将軍まであるからな
官職名と武家奉公人の一種である足軽を並べるのは、無理があると思います。
白馬と馬ぐらいにジャンル(官職と地位)が異なる。
それに、騎乗出来る武「士」と、士に率いられる「卒」(両者で士卒)にあ
たる足軽と、直接主人の世話をする下人と、荷運びなどをする夫は別です。
大体、この四つに分かれて戦場に出ていた訳ですが。
(↑細かい分類は戦国期のものですが、基本は中世で共通です)
明治になってから、一時足軽や同心(与力以上は騎乗資格のある士)が士族
ではなく卒族に分類されていたように、武士と足軽のような武士に従う「侍」
は、本来別のものです。今では、武士=侍ですが、元々は下級兵卒の意。
一対一であれば、騎乗する武士が相手をするべきでしょう。
実際の戦場では、時に下人は勿論、夫まで戦闘に参加していましたが。
>>913-915 ニコポリス十字軍(オスマン側が使用)や百年戦争(イングランド側が使用)でも
類似した障害物は使用されていましたが、実際に戦うとなれば、双方とも馬鹿で
はなし、そう簡単に真正面からはぶつかりあわないでしょうね。
地味な消耗戦が続いたあげくに和議という、つまらない結果に終わるかも。
勿論、戦う背景がどんなものかにもよりますが。
私は、一応14世紀後半の両者で想定しています。
鉄炮伝来以降では、島津などを除いて基本的には武士は鉄炮を直接用いて
いませんが、慶長の役以降は馬上でも使用するように、足軽より位の高い
者も鉄炮(馬上用はやや短め)を使用しています。
馬上で火縄を持ち続けるのが、なんとも面倒であったそうですが。
>>916 はいはいわろすわろす。流石に両手の指の数ほども突っ込み入れとられん。
920 :
世界@名無史さん :2007/05/16(水) 00:29:40 0
西洋人には勇気と言うものがないからあっさり殺されるだろう
921 :
世界@名無史さん :2007/05/16(水) 00:33:31 O
確実に言えることは、この手のスレは大人の余裕があってこそ成り立つ。
>ニコポリス十字軍(オスマン側が使用)や百年戦争(イングランド側が使用)でも >類似した障害物は使用されていましたが ニコポリスではブルゴーニュ騎士団が無理やり突破してたな・・・ そのままオスマン軍の本陣へ突入してイェニチェリやシパーヒーに 三方向からボコボコにされて全滅・・・
武士がそんなに知性のある戦い方をしそうに思えないのは 後の日本兵のバンザイ突撃のイメージがあるせいだろうか どっちかっていうと異民族との戦歴のある騎士のほうが狡猾な戦い方をしそう
普通に考えれば馬上対決などスポーツ並みのルールが決まっていないと成立しないと思うが
>異民族との戦歴のある騎士のほうが狡猾な戦い方をしそう
出身地による。
ニコポリスの戦いでは対オスマン戦がどんなものか知っていたハンガリー人は
慎重な策を唱えたが、ブルゴーニュ人やフランス人はそれを卑怯者呼ばわりして
結果
>>922 のようなことに。
ちなみにその後のフランス側史料では敗戦はハンガリー人等のせいにされているw
>>923 >武士がそんなに知性のある戦い方をしそうに思えないのは
敵の城や敵陣に潜入させて情報収集や放火を行わせる「忍び」。
叢に隠れて敵陣の視察や奇襲攻撃を行う「草」。
夜闇にまぎれて攻撃する「夜討」。
山中を移動する敵を道ならぬところから攻撃し、糧道を断つ「山賊」。
↑の海版であり、海浜部にも攻撃を加える「海賊」。
敵地で食料を刈り取り、人や物資を奪うのも戦闘の内。
こうした汚れ仕事を請け負った侍(下級兵卒)は、悪党などと呼ばれ、放火
の専門家などがいたらしく、時には茶売りなどの商人に化けて城内に入って
火種を各所に仕込んで、城を出た後で炎上させたりしています。
こうした汚れ仕事やゲリラ戦を得意としたのは、正規の武士ではありません
でしたが、武士が正面で敵をひきつけ、敵が追いすがってきた時や退却を始
めた時に、脇の叢から悪党が出てくるなどの連携した奇襲が行われました。
戦闘全体からすれば、武士側も南北朝時代以降重要性を認識しています。
野伏とは山賊のことで、まあ悪党と同類の連中ですが、彼らの哲学は、
「野伏は走り散りて馬武者にからかひあへ。懸けば引、引かば送り、敵に強
りあはず、城(護り易い地形)あらば踏み留まりて矢ぶすまをつくれ。
いかにもいかにもむつしかきをもつて野伏の能となす」
というものでした。武士も彼らに合わせて身分標識であった馬から下りて戦
うようになります。
もっとも、これらは地形などが有利に働いた場合で、真正面から鍛錬を積ん
だ武士と戦った場合、野伏・歩立と呼ばれた連中は、もろいものでした。
状況に応じて硬軟を使い分けることが、あらゆる状況での勝利を呼んだ。
どうやって敵の意表を突き、伏兵を効果的に使うかぐらいの脳はあります。
わざと退却したところで、追撃してきた敵に三方向から襲い掛かるとか。
初めての遭遇戦で、お互いの階級がどうとかで意気投合しちゃって、アホなスポーツ始めるかもしれんぞw 1年も戦い続けてれば効率良い殺し合いを始めると思うが
928 :
世界@名無史さん :2007/05/16(水) 21:14:50 0
>>924 だな。
太平記には馬上一騎打ちの描写が多いけど、集団戦闘となると下馬してる。
929 :
世界@名無史さん :2007/05/16(水) 23:27:39 0
そりゃ小隊長や大隊長が馬で勝手に動かれちゃ戦争にならないもの
930 :
日本@名無史さん :2007/05/17(木) 00:44:58 0
はいはいはいはいわろすわろす モンゴロイドのお前らが白人の歴史かたってんじゃねーーよw なにが武士と比較だよ黄色人種ごときがww そういうのは白人と人種レベルが同等になってからいえやwww お前ら現時点でも、そして歴史的にも白人から差別されてる人種と民族ジャンww なのに何白人と比較してん?wwなんか違くね???少し妄想とか現実逃避じゃなく、人種差別撤廃を考えたほうがよくない?君たちモンゴロイドはwww
なぜか南北朝時代と同時期の百年戦争でも騎士が下馬する戦術が見られるようになる。 これはどういう意味があるのか。モンゴル帝国の崩壊と関係でもしているのか?
>そういうのは白人と人種レベルが同等になってからいえやwww ああ、ほんの二,三百年前にようやくアジアや中東に追いついたド田舎の成り上がり人種が何か?
単に戦いに参加する人数の増加や階級の多様化で「馬上対決しました」なんていう 嘘報告が通じなくなっただけだと思うが
その嘘報告はなんでしてたの?かっこいいから?
>931
こんなのが
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021025b.html >この時代の歩兵は、敵騎兵の動きにくい地形を選んで、散開して飛び道具で戦うのが通例であって、
敵を阻止するために密集し強固な戦列を組む戦い方など、訓練されてはいないからである。
つまり、歩兵では敵騎兵の突撃は止められず、そこで騎馬武者の下馬ということになる。
騎馬武者ならば、軍事の専門家とも言うべき階層であって、日頃から武技を練っており、
敵前で強固な隊列を維持し続けるだけの、能力が期待できたのである。
ちなみに、これとほぼ同時期、14世紀の西洋においても、社会的発展と軍事的発展は我が国と類似の状況にあり、
騎士の突撃と弓兵の併用が見られるが、そこでも敵騎兵の突撃をくい止めるためには、軍事の専門階層である騎士が下馬して戦っている。
このことから言っても、下馬戦闘の目的を敵の突撃の阻止と見て良いだろう。
>この時代の歩兵は、敵騎兵の動きにくい地形を選んで、散開して飛び道具で戦うのが通例であって 楯突戦は?
938 :
世界@名無史さん :2007/05/17(木) 22:37:34 0
>>929 部隊長クラスじゃない騎馬武者の方が多いだろ
>この時代の歩兵は 中世の「歩兵」は、騎馬武者に率いられていない独立した「歩立」の連中を 指したようですから、悪党・歩立と呼ばれた連中の行動としてなら正解。 あくまでも、数ある行動の一部としてですが。 >つまり、歩兵では敵騎兵の突撃は止められず、そこで騎馬武者の下馬ということになる。 それ以前も、騎馬だけで突撃した例などないと思いますが。 そもそも、大陸のような「騎兵」が我が国に存在したかというと。 >敵前で強固な隊列を維持し続けるだけの 騎乗する人間に、徒歩の侍・下人が随行して戦うもので、騎乗者だけが前線 に出るものではありません。主人だけ先に死んでどうするのかと。 主人が死なないようにし、時には代わって危険に身をさらすのが役目。 >騎馬武者ならば、軍事の専門家とも言うべき階層であって、日頃から武技を練っており、 歩立・悪党といった「歩兵」相手に真正面から戦えば(ゲリラ戦は逆)、騎 馬武者とその随伴者たちの方が有利だったようですが。 「騎兵が突撃」自体がありえませんが、ここで想定されているらしい広い地 形でのみ戦わなくなったことが、この時代の変化です。 楯突・馳組といった従来の範疇に囚われない戦法が彼ら「歩兵」の強みであ り、彼らが得意とする地形に分け入らざるを得なかったため、騎馬武者が随 伴者と同じ徒歩向きの装備で下馬するようになったものでしょう。
ない 騎馬だけの突撃 ある 騎馬の突撃
>>934-935 馬上対決(一騎打ち)を信じている人はまだ多い訳か
「かっこいいから」ってのはほとんど当たりだと思う
言い換えると軍功を頭領に集中させるためではないかと思ってる
熊谷は本当に敦盛を直接手にかけたのだろうか?
配下の歩兵たちに寄ってたかって首を取られた若者の姿を見たのではなかろうか?
合戦の戦いの最後を一騎打ちで締めくくるという報告をそのまま信じるべきだろうか?
武将Aと武将Bの一騎打ちとは武将A軍と武将B軍の戦闘と読み替えるべきではなかろうか?
国内外を問わず、槍が残っている頃の戦闘の話は常にこういった読み替えを
頭に置いておく必要があると思う。
>合戦の戦いの最後を一騎打ちで締めくくるという報告をそのまま信じるべきだろうか? >武将Aと武将Bの一騎打ちとは武将A軍と武将B軍の戦闘と読み替えるべきではなかろうか? 古今東西の一騎打ちの例を見ていくとそもそも指揮官クラスだけがするものではないし 戦闘そのものの勝敗と関係なく勝負がついていることがよくある。 敵味方の士気に与える影響はあったかもしれないが。
943 :
世界@名無史さん :2007/05/18(金) 20:48:37 0
ヨーロッパには中世日本みたいな悪党っていたんですか
>>943 まあ、大体において傭兵がそんなもんじゃないか。
私もそう思いますね。『双頭の鷲』の中で、泥をかぶって蛙のようになる ベルトラン・デュ・ゲクランが、赤松や楠の姿と重なりました。 悪党や流れ者の侍・下人も雇い先を求めて渡り歩いていましたし。 中世の日本や欧州では食料生産率が低く、地元ばかりでは食えず、戦争に 食する場を求めたことが、傭兵の活動を生んだという。 欧州では、食えるようになると戦争に行きたがらなくなったという事です。 それまでは、食料不足による傭兵・人と物と略奪は一体だった。 こういう食えない連中が戦う訳ですから、それまでの乗馬をして武芸を鍛 えていた連中とは真正面から戦えば勝ち目はありませんでしたが、狩猟な どで鍛えた偽装や山間部の徒歩での移動には優れていました。 時代が下るほど、乗馬する連中も彼ら徒歩連中を無視出来なくなった。
ドイツの盗賊騎士reubritterとか
948 :
世界@名無史さん :2007/05/19(土) 09:51:48 0
一騎打ちは一番最初にやったのでは? 一騎打ち 矢合わせ 集団戦 の順番だと思っていたが。
(治承・寿永期の)戦闘形態は騎馬軍が河川をはさんで横隊戦術で対峙して精兵を選んで矢合=射戦を展開したあと、 敵軍を中に取り込むべく機動力のある騎馬で包囲して勝敗を決するのである。 富士川・横田河原・宇治川など主要な戦闘が河原合戦となったのも、こうした機動力のある騎馬軍による包囲作戦が 集団戦の大規模化をもたらしたためであるといえよう。 これに対して源氏に組織された東国武士は少数派であり、そこでは新しい戦闘形態が登場しつつあった。 東国武士が兵力の消耗を前提とした突撃戦法と、敵軍の意表をつく「策」による心理陽動作戦を展開しており 西国武士を中心とした平氏の戦闘形態とは異質であることが指摘されている。 横田河原での木曽義仲・宇治川の戦での足利忠綱など源氏の勝利は、いずれもこの二つの戦法によっている。 こうしてみれば、平氏も源氏もその戦闘形態は騎馬軍による包囲戦か突撃戦を主としており、 特別な防御陣地を必要としなかったことがわかる。 中世のいくさ・祭り・外国との交わり(井原今朝男著)
なぜ「騎馬軍による包囲作戦」に河を挟む必要があるんだろう
>敵軍を中に取り込むべく機動力のある騎馬で包囲して勝敗を決するのである。 これの根拠になっている史料が、よく分かりませんね。 史料の引用無しで、結論だけ持ってこられるのもどうかと。 本自体も少し古いですし、この10年ほどの間に、軍事関係の研究が進みましたからね。 66頁あたりの記述でしょうか。『平家物語』が引用されていましたが、何本の何巻の どの段かの説明がなかったのは、不親切だと思いましたね。 おそらく、延慶本第三末の、「義仲白山進願書事、付兼平与盛俊合戦事」にある、 「木曾申けるは聞か如は平家多勢なり柳原の広みへ打出る物ならは馳合の合戦にて有へ し、馳合の戦は勢の多少による事なれは、大勢の中にかけられて悪しかるへし」 に相当する箇所の引用でしょう。 長門本では「四方よりかけ立られてあしかりなん」、覚一本では「とりこめられては叶 ふまじ」などとなっていますが(他本は本文を欠くか誤脱あり)、要するに、馬が駆け 回ることが出来るような広い所に出て戦っては、無勢は多勢に囲まれて倒されてしまう から、勝利はおぼつかないという意味でしょう。 馬だけで背後に回るなどして包囲したという意味とは思えませんね。 『中世のいくさ・祭り・外国との交わり』の本文は、先ほど大手書店で確認したものな ので、間違っていたら申し訳ありませんが、その場合、根拠とされている文章をお教え 頂きたく存じます。
戦争の規模は圧倒的に日本のほうが上だよな。 関が原レベルの大規模戦闘は当時のヨーロッパには存在しない。
954 :
コピペ :2007/05/22(火) 01:29:53 0
16世紀の欧州と日本の戦闘 1509年 アニャデッロの戦い フランス軍3万 vs ヴェネチア軍1万5千 1512年 ラヴェンナの戦い フランス軍2万6千 vs スペイン軍1万2千 1513年 フロッデンの戦い イングランド軍3万以下 vs スコットランド軍3〜6万 1514年 オルシャの戦い ポーランド軍3万 vs モスクワ大公国軍8万 1525年 パヴィアの戦い フランス軍2万3千 vs スペイン・神聖ローマ軍2万3千 1526年 モハーチの戦い ハンガリー軍2万6千 vs オスマン朝軍6万 1529年 第一回ウィーン攻囲 オーストリア軍2万5千 vs オスマン朝軍10万 1557年 サン・クェンティンの戦い スペイン・イングランド軍1万 vs フランス軍2万4千 1568年 ジェミンゲンの戦い オランダ軍1万2千 vs スペイン軍1万5千 1578年 アルカセル・キビールの戦い ポルトガル軍2万3千 vs サード朝軍10万 1561年 川中島の戦い 武田軍2万 vs 上杉軍1万8千 1570年 姉川の戦い 織田・徳川軍3万4千 vs 浅井・朝倉軍1万8千 1573年 三方ヶ原の戦い 徳川軍1万5千 vs 武田軍2万5千 1575年 長篠の戦い 織田・徳川軍3万8千 vs 武田軍1万5千 1582年 山崎の戦い 明智軍1万6千 vs 羽柴軍3万6千 1583年 賤ヶ岳の戦い 柴田軍3万 vs 羽柴軍5万 1590年 小田原征伐 豊臣軍20万 vs 北条軍5万 1600年 関が原の戦い 西軍8万2千 vs 東軍7万4千 ↑だいたい1580年代から加速的に規模が増してるんだな
小大名同士のちまちました戦じゃなく、ある程度絞られてきて るからな。 県大会予選よりも、夏の甲子園全国大会の方が見所が あるのと同じようなものだな。
三国志の80万(赤壁、曹操軍。まぁ、誇張が入ってるから実際は30万くらいだっけ?)はー?
せまっちぃ国土の分、日本の方が召集しやすく補給も楽そうだ
>>954 1571年 レパントの海戦 キリスト諸国同盟軍8万4千vsオスマン軍8万8千
海戦だけどこれが最大規模かもなー
中世の兵力なんて、戦場となった地の食料事情次第だろ 大兵力動員出来たからどうとか、どうでもいいな
大阪の陣で兵糧攻めやってた方が米の買い占めに出遅れて逆に飢えたりな つうかウン10万とか都市じゃん 地図なきゃ迷うぜ
962 :
世界@名無史さん :2007/06/06(水) 07:03:52 0
クロスボウでも貫通困難なプレートアーマーを弓矢で貫くなど無理 イギリスのロングボウのように雨霰と射降らせるしかないね
中世の武士にとっては弓術は必修技能。 弓兵の動員数ではイギリスなど比較にならないほど多い。 さらに、イギリスの弓が単一素材の丸木弓なのに対して、日本の弓は合成弓。 イギリスの矢尻が鉄製なのに対して、日本の矢尻は鋼鉄製。
つかクロスボウが通らないような鎧着て戦場に出る馬鹿がどこにいるんだよ
>>962 ロングボウは200m先の5mm鉄板を貫通できるんじゃなかったか?
>964 そこら辺がよくわからないんだよなあ 鎧の出来を至近距離でクロスボウを撃って確かめたという話もあるし
967 :
世界@名無史さん :2007/06/06(水) 20:40:47 0
968 :
世界@名無史さん :2007/06/06(水) 21:22:52 0
>>962 プレートアーマを大多数が装着出来たと妄想する禿げ
ロイヤル・アーマーラーのロングボウの実験って、肝心の距離が出てこないんだよね。
>>35 騎士もレスリングなどで格闘力をつけるのが基本らしいが。
日本の鎧をやたら褒める奴がいるが、プレートアーマーと違って隙だらけだがその点に関してはどうなんだ?
日本刀の切れ味がいくら良くても、鉄を斬るのは難しいしな。
試し切りをする猛者ですら、1ミリあるかないかぐらいの兜を斬れてもあまりへこんではいない。
しかも固定して、何秒か精神を集中して、振りかぶって、の三拍子だからな。
あと、武士は江戸時代くらいまであまり重量も無い刀で振り下ろしを連発し、体勢を崩すという稚拙な剣術だったというし、
騎士にかなうとは思えない。
>>963 日本の甲冑は隙が多いから鉄で十分だろ。
>>970 日本の鋼鉄製の矢尻に対しても十分な防御力を誇っていた大鎧に、イギリスの鉄製の矢尻が通用するわけ無いだろ
西洋のプレートアーマーが日本の鎧より防御力が高いという割に なぜ重量が変わらないのかが分からないんだよね 金属部分は同じ鋼でしょ 何故? あと隙間がなくて動きにくいのにプレートアーマーで格闘戦もないよな
アーマーのわずかな隙間が致命的な結果を呼ぶことがあるのは 先日の立てこもり犯の警官殺傷事件でよく分かったじゃないか
大鎧と比べるならホウバーク、プレートアーマーと比べるなら当世具足
ごく簡単な時系列も把握できてない馬鹿は黙ってろ。
>>971 ロングボウの鏃は銑鉄だバカモノ
日本の弓は西洋のプレートアーマーを貫くほどの威力があるの?
武具発達の時系列もそうだが弓矢対決と刀剣対決の話もごっちゃになっとる
正面からヒットすれば貫けるだろうが少しでも角度がついてたら弾かれるだろうな 狙って撃てるものではないし運任せのクリティカルヒットに期待するしかない
>>973 大鎧は、騎乗した状態で敵の方に肩を向けると、吹返、袖、脇楯、草摺に完全に
体が隠れるから、隙なんか全く無いの。
西洋の鎧みたいな無駄を無くし、その分必要な箇所の防御力を重点的に高めた
効率的な鎧。
>>972 >あと隙間がなくて動きにくいのにプレートアーマーで格闘戦もないよな
プレートアーマーの事を知らない奴だな。
動きやすい構造になっているのに。ちょっとは調べてから言えよ。
典型的な素人乙。
>>978 隙が全く無いって・・・日本の剣術の達人でも甲冑は隙が多いと言っているがな。
肩をいつも相手の方に向けていたら戦いにくいし、何を言っているのか・・・
それで完璧のように言うとは、
>>978 は、かなりの修行をしている剣術家より優れているんだな?
>>979 武士の主力武器は弓だよ
お互いが弓を射合って戦う場合、左肩を敵に向ける姿勢になるだろ
だから左側の袖は「射向けの袖」といって特に重視されていた
何このスレ?弓の話ばかり?
武士の戦争の仕方って
遠距離から互いの陣営にななめ45度で撃って集団で矢の雨を降らせる
↓
接近して乱戦
の手順だろ。
>>978 の話が有効なのって始めのシーケンスだけだね
確かに武士の戦争のメインはこの始めの矢の打ち合いだったけど
>>982 >遠距離から互いの陣営にななめ45度で撃って集団で矢の雨を降らせる
>↓
>接近して乱戦
シーケンスがひとつ抜けている。
遠距離から互いの陣営にななめ45度で撃って集団で矢の雨を降らせる
↓
射撃によって相手の陣形が崩れる
↓
接近して乱戦
射撃によって相手の陣形が崩れない限り、接近戦に移行することはない。
矢が尽きると「また後日ということになる。
まぁ、基本はそうというだけで、絶対そうだというわけではないが。
というか、古今東西、防具の発達は主に対飛び道具なんじゃがなぁ。
>射撃によって相手の陣形が崩れない限り、接近戦に移行することはない。
>矢が尽きると「また後日ということになる。
接近戦をして相手の首を取らないと戦果にならないのだから
どっちみち接近戦は必ず行うわけで、弓矢合戦で終わることはないので
>>978 の鎧は耐弓矢に特化していれば問題無いって主張は無理があるよ
985 :
世界@名無史さん :2007/06/09(土) 19:59:50 0
>979 プレートアーマーが動きやすいって? 上体が完全に固定されてるのにか? 解剖学をすこしでもかじりなさいよ
どうしようもなく接近戦に使えないほど動きにくいなら 徒歩で戦うmen-at-armsなどいらないと思うのだが
絶対、わざと馬鹿なこと言ってレスもらおうとしてる奴いるよなwwwwww
跳躍、転回、起き上がりが普通の人間並にできるのなら動きやすいんじゃねーの?
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,..-――-..、._ r::::::::::::::::::::::::::::::::::.、 /::::;:r '´  ̄ ゛ ̄ ヾ:l! i;::r! :i:! lr::;! ,,,_ ; .,,,,_;;:l:! r-、r-‐  ̄「tT;: T Tr lエTl ! :. i! ヽニ -' ヽ._/ .ヽ :.. .:' -、.ノ ::! . ,>._, ___, !.:l .r:::::::::::::l ヽ ::. ´` .ニ;::.:/ /::::::::::::::::::::ヽ::::::.. ._ ,r'、 /:::::::::::::::::::::::::::::::ヽ、_  ̄/:::::::::ヽ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ`‐r!.!ヽ:::::::ヽ ヘタスルト・ダスレー [Hiterchult Darthray] (1907〜1969 フィンランド)
ココデハナイドコカヘ
>>985 ( ´,_ゝ`)プッ
ド素人、もしくは釣り乙
1000 :
世界@名無史さん :2007/06/10(日) 09:01:45 0
今だ! 1000ゲットオォォォォ!!  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ (´´ ∧∧ ) (´⌒(´ ⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡  ̄ ̄ (´⌒(´⌒;; ズザーーーーーッ
1001 :
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