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野戦において銃兵隊は、グリャイ・ゴロドと呼ばれる車輪のついた移動式の防壁で野戦陣地を築いて、その背後から
小銃や野戦砲を発射した。その射撃陣地の両翼と前面に騎兵部隊が配置され、戦闘開始とともに突撃をおこなった。
最初の突撃で敵部隊が崩壊しなければ、騎兵は両翼へ退いて、前進してきた敵を火器が迎撃し、両翼から騎兵が
攻撃を加えた。さらに後方に温存されていた予備部隊が戦場を大きく迂回して敵の背後をついた。(こうした戦術は
東欧ではポピュラーだったらしく、ハンガリーでは「さそりの陣」とか呼ばれていたらしい。歩兵と防御陣地が胴体で、
両翼の騎兵がハサミ、予備部隊がさそりの尻尾というわけである)
当時の軍律はおそろしく過酷なものであった。いかなる状況の下であれ敵に降伏した指揮官は処刑された。ツァーリの
ものである都市や要塞を敵に奪われながらおめおめと生き延びた軍人は、その家族や係累まで殺された。そのため
ロシア兵はどんな危機に陥っても降伏せず全滅するまで戦ったという。1578年にヴェンデンを攻囲していたある砲兵隊は
リトアニア軍に大砲を鹵獲されそうになったので、全員が砲身に首を吊って自決してしまった。
Richard Hellieの概算では、イヴァン雷帝が有していた兵力は勤務士族17,500人、外国人4,000人、銃兵隊12,000人、
コサック6,000人、砲兵隊3,000人、少数民族の補助兵(タタール、モルドヴァなど)10,000人、奴隷17,500人。
E. A. Razinは全国の兵力を総動員しても7万人に達するかどうかだという。
一度の軍事行動に2万人以上を動員するのは難しかったようだ。