1 :
世界@名無史さん :
2006/05/12(金) 17:45:39 0 五位:ヌミディア騎兵(ハンニバル・マシニッサ) 四位:満州八旗軍(弩爾哈斉) 三位:ティムール軍団(ティムール) 二位:モンゴル騎馬軍(チンギスハーン) 一位:武田騎馬軍団(武田勝頼) .__ |風| |林| |火| __________ |山| / _∧ .∧(oノヘ| ̄ < ここも勝利と あいなった・・・・・ (_・ |/(゚Д゚ )|\ \__________ |\Ю ⊂)_|√ヽ (  ̄ ~∪ )^)ノ ||` || ( | ( | '~ ~ '~ '~
2 :
世界@名無史さん :2006/05/12(金) 17:51:46 0
〜¶ ∧⌒∧ ∧彡 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ノ ( ´∀`) 彡 ・\ < 目指すは敵将の首。一直線に攻撃モナ。 §∠ 》#◎# 彡 人_) \__________________ [##フ==) /━━> 〆(//**/― _ \ /(___) ヽ\\ ε≡≡≡ / /| | ノ /) ) 〜¶ ∧⌒∧ ∧彡 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ノ ( ・∀・) 彡 ・\ < 皆の者、モナー汗に続け!!! §∠ 》#/## 彡 人_) \__________________ [##フ==) /━━> 〆(//**/― _ \ /(___) ヽ\\ ε≡≡≡ / /| | ノ /) )
3 :
世界@名無史さん :2006/05/12(金) 18:36:19 0
一位:ポーリッシュフッサール だろ たった一回の突撃でオスマントルコ軍を撃退したわけだから
コサックとかは。
ポーランド槍騎兵もエントリー
6 :
世界@名無史さん :2006/05/12(金) 19:34:58 0
ドイツ騎兵は?詳しく知らないけど
7 :
世界@名無史さん :2006/05/12(金) 21:00:22 O
ネイがワーテルローで率いた騎兵軍団やワーテルローのイギリス側スコットランド騎兵は?
8 :
世界@名無史さん :2006/05/12(金) 22:00:38 0
八旗は意外と弱かった、という説もある
9 :
世界@名無史さん :2006/05/13(土) 13:11:41 0
WWU開戦時、ナチの1号戦車を散々に蹴散らかしたポーランド騎兵団
10 :
世界@名無史さん :2006/05/13(土) 13:17:41 0
>>9 ナチの3号4号に蹴散らされたけど…
普通にモンゴル騎兵最強だろ
11 :
世界@名無史さん :2006/05/13(土) 17:00:10 O
ドコまでの時代の騎兵を含めるかじゃね? 現代まで含めたらアフガンの旧北部同盟の騎兵が最強だろ。彼等は馬上からRPG-7ぶっ放して車両破壊してるし、いまだに騎兵突撃やらかしてるよ。 馬匹で大砲や機銃とかも牽引してるよ。
12 :
世界@名無史さん :2006/05/13(土) 17:11:30 0
>>11 馬たちはきっと高性能な耳栓してるんだろう
よくそこまで仕込んだモノダワ
13 :
世界@名無史さん :2006/05/13(土) 17:22:10 O
そりゃ、米軍主体の有志連合が来るまで三十年近くドンパチやってた国ですからな… 赤軍騎兵や第三帝国の騎兵も手強かったようだがアフガンには敵わないだろ…
なんで未だに騎兵なんて使うの?育成コスト考えたら割高じゃないの?
戦車の方が高いから。
16 :
世界@名無史さん :2006/05/14(日) 02:34:22 O
コストもあるがアフガニスタンは国自体が高原にあり、気候や地形も厳しいからじゃね? 支援に当たった米軍や英国の特殊部隊や諜報機関も馬で移動がかなりあったようだし…
17 :
世界@名無史さん :2006/05/14(日) 22:41:30 0
独眼竜正宗の末裔で馬賊の頭目となり満蒙の地で暴れ回った(伊達順之助) 同じ頃に暴れまくった小日向白朗、松本要之助! 地上最強にはほど遠いが彼ら馬賊はアフガン戦士に似ている?
>>10 >ナチの3号4号に蹴散らされたけど…
それは伝説。真実じゃない。
戦車に対しては騎兵旅団の中の戦車砲部隊が戦った。騎兵部隊は戦っていない。
ポーランド騎兵はドイツの新兵器にやられたというよりは
あとからあとから、しかも三方からやってくるドイツの物量、特に大量の野戦砲によって分断され
本来の機動力が発揮できなくなって包囲され降伏していったというのが本当のところ。
実際にドイツは大量の戦車を失っている。
>>18 キングタイガーのイメージで世界最強!!!と思っていたが、ドイツ戦車って案外無敵でもないんだな。
ポーランド戦は訓練用の一号と二号戦車で戦ってましたから
22 :
世界@名無史さん :2006/05/20(土) 22:37:13 0
武田なら現代の重戦車にも勝てる。
23 :
世界@名無史さん :2006/05/20(土) 23:00:39 0
やはりコサックだよ
24 :
世界@名無史さん :2006/05/21(日) 16:22:20 0
武田騎馬軍団はヘリや戦車や装甲車まで撃破した! ソースは戦国自衛隊
こんなクソスレあげるなよ
>>20 ドイツ軍は戦車300両とその他1000両を破壊されている。
ポーランド「騎兵」の対戦車攻撃も全く無効というわけじゃなかった。
というのもポーランド騎兵旅団は騎兵といいながらも配下に対戦車砲部隊や戦車部隊を持っていて、
そういった部隊が敵戦車と戦ったから。
騎兵で戦車に突撃なんてのは伝説で、実際は1回もやっていないので、戦車に対する騎兵突撃の有効性は不明w
結局ドイツの物量が圧倒していたことが勝敗の決定要因だった。
>>26 なら日本がチハたんで戦ったのは気が狂っていたからってわけでもないんだな。
どうせやられるなら最低限でいいや!ってところか。
28 :
世界@名無史さん :2006/05/24(水) 22:55:46 O
まあ相手がまともな洗車持っていなかったのもあるけどな。 日本軍の戦車で1番強いのは捕獲したマチルダU。次が捕獲したスチュワート。
ポーランド騎兵がドイツ戦車に突撃したのはただの伝説だが、 実はドイツ歩兵部隊相手にランスとサーベルで突撃したのは何度もやった。もちろん味方の機銃による援護つきだが。 捕虜となったドイツ歩兵はポーランド騎兵に突撃された恐怖で気が狂い、泣き叫んで糞尿を漏らしており、 ポーランド人は彼らの扱いに困ったという。 ランスやサーベル等の飛び道具でない武器を使うのが本物の騎兵というなら、 事実上世界史上最後の騎兵である第二次大戦のポーランド騎兵は同時に史上最強の騎兵だったともいえる。
30 :
世界@名無史さん :2006/05/26(金) 12:17:24 0
ほう 近代までなら当たり前だった攻撃も、現代人にかますと気が狂うのか。 だれだよ。戦争は近代兵器を使い出してから悲惨で陰鬱なものになったなんていったのは。
たしか日本にも幕末から明治までランサーが兵科としてあった。
ヌルハチの八旗軍は近代兵器に勝ったんだから表彰台は確実だな
>32 鳥銃や仏朗機、紅夷大砲、倭刀などを近代兵器というのは無理がある。
34 :
世界@名無史さん :2006/05/26(金) 17:24:57 0
>>30 ランサーの突撃はかなり恐いらしいよ。
ポーランドネタで思い出したが、
近代でなくとも、騎兵突撃された経験のなかったオスマントルコの大軍は1683年だったかの第二次ウィーン攻囲のとき、
ソビエスキ王の率いるたった数千のポーランド騎兵に突撃されて恐怖のために大混乱してウィーンから逃げ去ったという逸話がある。
ランサーの突撃なんて今じゃ映画ぐらいでしか見ることができないが、一度本物を見てみたい。
35 :
世界@名無史さん :2006/05/26(金) 17:45:14 0
ポーランド敗北の最大要因は過剰な文民統制。 戦術を知らない文民が軍の作戦に口を出したことである。 その過干渉が原因となり、本来の作戦なら持ちこたえれるはずのポーランド軍は史上稀に見る短期間で敗北を喫した。
36 :
世界@名無史さん :2006/05/26(金) 19:03:47 0
>>34 ランサー突撃なんて槍衾で軽く防げるんじゃないの?それに弓、鉄砲組み合わせたら絶好の鴨葱じゃん
オスマン帝国軍はパイク兵を用いるかわりに荷車を並べて野戦陣地を作っていた。 しかし、トルコ人が騎槍突撃を受けた経験がないって一体どっから出てきたデマだ・・・
wikiあたりの説明を見る限りは、包囲戦で消耗していたオスマン朝軍の横合いを 戦力を温存していたヤン3世率いるポーランド王国軍の主力騎兵部隊が夕闇を 見計らって散々に蹴散らしたって感じだ。 基本的に臨戦体制の歩兵軍と騎馬部隊が正面衝突したとかいう状況には程遠い。 とても槍衾がどうとかで防げるような余裕があったように思えないけども、普通 歩兵軍に対する騎兵の突撃ってこういう状況で無いとやらないように思うが。
39 :
騎兵突撃を敢行 :2006/05/26(金) 23:40:55 0
実際にいくつかのポーランド軍騎兵部隊はドイツの装甲部隊に対して騎兵突撃を敢行した。 ほとんどは戦車の機銃になぎ倒されて一方的に虐殺されたが、 機銃になぎ倒されつつも突撃してくる人馬の群になにか言い知れない恐怖を感じた戦車兵がパニックに陥って戦車を捨てて逃亡してしまった、という例も多少あった。
40 :
もあながち無茶とは言えないものがあった :2006/05/26(金) 23:41:52 0
戦車に向って騎兵で突撃、というのは無謀のようだが、第2次大戦前の武装が機銃だけで無線機を搭載していない為,各車の連携が取れず、 また外部視察装置が貧弱なので廻りがよく見えない・・・という戦車に対しては、馬の脚の早さを生かして死角から戦車に肉薄、対戦車手榴弾を投げつけて撃破、という戦術もあながち無茶とは言えないものがあった。
41 :
コサック騎兵 :2006/05/26(金) 23:42:35 0
ドイツ軍はモスクワ前面の戦闘でも,コサック騎兵に上記の戦術でかなりの戦車をやられたりしている(コサック騎兵側の被害も甚大だったが)。 また,2次大戦初期の戦車には機銃しか武装が無く、照準装置も機銃付属の照準器を覗く穴がついてるだけ・・・というのが結構あったので、 (騎兵がそういう戦術を採ってたかはともかく)対戦車ライフルで機銃の射程外から攻撃する、というのも不可能なことではない。
42 :
ポーランド軍の軍事思想 :2006/05/26(金) 23:43:13 0
ポーランド軍の軍事思想は時代遅れで、軍の編制も旧式であった。 機甲師団、自動車化歩兵師団を持たず、対戦車砲、高射砲もきわめて不足していた。 その上さらに、軍指導部は依然として騎兵の価値を信じ、騎兵の大部隊による突撃の可能性を悲壮に信じ込んでいた。
43 :
世界@名無史さん :2006/05/28(日) 00:20:15 0
>>36 中世だって馬鹿正直に正面からランス・チャージなんてやらんかったと思うよ。
44 :
43 :2006/05/28(日) 00:21:09 0
うあ、38氏がもうレスしてたか……スマソ
>>37 実際オスマン軍兵士はランサー突撃を受けた経験がなかったよ。
ランサー突撃は昔から行われていたからそれに対する防御法もある程度完成していて、
相手に突撃される隙を作らなかったので突撃されたことがない。
ソビエスキ軍が突撃してきたときはトルコ人の連中油断していただけにそれこそ腰抜かしただろうな。
>>36 中世では敵正面に突撃する場合、ロングボウを使ったの矢の雨あられで敵の隊形を撹乱してから、のことだった。
第二次大戦でのポーランド騎兵の場合、遠方からの機銃掃射をまず使った。
47 :
世界@名無史さん :2006/05/29(月) 19:58:47 0
エイジ
武田のポニー軍団が最強だろ
わかったから三戦板に帰ってね
現実として アフガン北部同盟≧ポーランド騎兵≧第三帝国・赤軍・大日本帝国騎兵≧コサックは確かじゃね? 後は沢山いてわからん…
T何とかと言う戦車まで持ってた北部同盟の騎馬軍団と中世の騎馬軍団を比べるのは酷じゃね?
北部同盟は騎兵部隊、機械化部隊、ヘリ、ロケット砲、自走砲等を保有し、西部方面のタリバン潰したのが騎兵部隊、機械化部隊はカブールに向かった。
53 :
世界@名無史さん :2006/06/04(日) 18:53:08 0
騎馬民族史に乗ってた逸話色々書こうかと思ったけど、 あまりにスレタイが厨くさいから止めた
スレタイからして杉山正明の学説信じてる人が立てたかと思ったが ただの武田厨かよ… 木曽馬なんか世界史の騎馬軍団と比較する事自体馬鹿馬鹿しい。
55 :
世界@名無史さん :2006/06/05(月) 20:11:31 0
56 :
世界@名無史さん :2006/06/16(金) 11:53:04 0
初期レスの一位のスルーっぷりは見事
57 :
世界@名無史さん :2006/06/22(木) 20:47:17 0
タシュンカ・ウィトコ!
58 :
世界@名無史さん :2006/07/05(水) 01:59:02 0
タタンカ・イヨタケ!
59 :
世界@名無史さん :2006/07/05(水) 05:56:24 0
アメリカの騎兵隊じゃないか?
60 :
世界@名無史さん :2006/07/05(水) 09:54:00 0
>>59 あまり知られていないが、メキシコの騎兵隊Dragons de cueroも
アパッチ族やコマンチ族と戦っていた。
いまだにイスラム風の盾「アダルガ」を装備してたらしい。
61 :
世界@名無史さん :2006/07/06(木) 00:31:16 0
≫60 装備的には最新だよね。
62 :
世界@名無史さん :2006/07/07(金) 19:34:52 0
>>61 最新というか、13世紀頃にムーア人から伝わった盾で
コンキスタドーレも使ってました。
Dragons de cueroのアダルガは牛革を層状に縫い合わせた
ものだったようです。その他にもみ革のコートを着て、馬も
革の装甲をつけていた。矢を防ぐ効果はあったらしい。
63 :
世界@名無史さん :2006/07/11(火) 00:02:25 0
ツバというかシコロでは
>>63 たこ焼きテーマパークが出てきて
一瞬、釣りかと思った
67 :
世界@名無史さん :2006/07/12(水) 09:54:28 0
ピストル騎兵とフサールが戦った例はあるんだろうか?
68 :
世界@名無史さん :2006/07/12(水) 15:16:25 0
69 :
世界@名無史さん :2006/07/21(金) 20:31:41 0
70 :
世界@名無史さん :2006/08/04(金) 23:24:30 0
米国陸軍バッファロー大隊
71 :
世界@名無史さん :2006/09/04(月) 21:24:19 0
>>45 モハーチの戦いでハンガリー騎士に突撃されてなかったっけ?
72 :
世界@名無史さん :2006/09/04(月) 22:36:54 0
参考になるなあ。 「ポーランド騎兵部隊が戦車に突撃して玉砕して果てた。 負けるに決まってるじゃないか」 というのが今でもいろんな書籍に書いてあるが、そんな単純なものじゃなかったのね。 映像の20世紀かなんかで、「第一次世界大戦時のポーランド騎兵部隊」という映像をちょっと見たけど、 なんか感激したなあ。 ちょっとした平原に騎兵の集団がいるシーンだったが、画面いっぱいに数百騎映っていた(画面の外にはおそらくそれ以上)。 さあスペクタクルですよ!という感じじゃなくて、ごく普通の感じだった。 ああ、これが本当の戦争なんだなあとおもつた。
73 :
世界@名無史さん :2006/09/04(月) 23:36:46 0
最強の騎兵は ボトムズ!!! これで終了
74 :
世界@名無史さん :2006/09/05(火) 00:45:08 0
武田のボニー軍団。
>>35 シビリアンコントロールはどこの国も一緒
イギリスだってチェンバレンが
アメリカは、ルーズヴェルト
伍長と岡田は言うに及ばず、昭和天皇も実は太平洋戦争中はノリノリでした
みんな群議に参加している罠
ちなみに、作戦については
軍事の素人でも意外と口をはさめるもんなんだよね。軍事板の連中みりゃわかるよね
素人も、逆に凝り固まった職業軍人よりも意外といい作戦を思いついたりする。
ナポレオンの言葉を借りれば
「売春婦と軍事は、ときどき素人の方が怖い」
76 :
世界@名無史さん :2006/09/27(水) 19:54:22 0
あげ
77 :
世界@名無史さん :2006/10/09(月) 12:23:50 0
満州八旗軍は弱い、少数の鄭成功に散々手を焼き 三藩の乱では八旗は呉三桂らに負け続けた 鎮圧の主力になったのは漢人主体の緑営であり 降伏した藩の兵だった
78 :
世界@名無史さん :2006/10/11(水) 11:25:31 0
末期の話すりゃ全部弱いでまとまってしまう罠
80 :
世界@名無史さん :2006/10/12(木) 03:47:29 0
八旗は最初から弱いがな
お前ら、スキタイを忘れていないかい? 古代アッシリア帝國を衰退に導いたのはコイツらです。 騎馬民族が世界史に華麗なるデビューをした事件が、スキタイとアッシリアの争いなんです。
82 :
世界@名無史さん :2006/10/19(木) 04:14:50 0
騎馬民族の残虐性について語ろう。
モンゴルが残虐というのはモンゴル自身が敵をビビらせるために流したデマ。 負けた側には絶好の口実になるので、話に尾鰭をつけて流した。 実際のモンゴルはもっと穏和で、異なる宗教に対しても寛容だった。 もしモンゴルが全世界を統一していたら世界平和の理想が実現できたかも知れない。 それを妨げたのはモンゴル人同士、チンギス=ハーンの子孫の仲間割れだった。
「集史」とかに普通に残虐行為が記録されてますが まあタタールと戦った連中もかなり残虐ですけど ルーマニアとかね
>>405 13世紀にそんなことをして何のメリットが。
そもそもチパングが日本かどうかすらはっきりしていないというのに。
↑誤爆
88 :
世界@名無史さん :2006/10/27(金) 19:51:07 0
女真は騎馬民族の癖してなんで弱いの?
89 :
世界@名無史さん :2006/10/27(金) 21:14:21 0
チョンが紛れ込んでるから
アレクサンドロス王の父、フィリッポス王は トラキアに攻め込んできた当時勢いが盛んだったスキタイ軍を迎え撃ち、 これを撃破し、スキタイの勢力を拡大してきたアテアス王を敗死させ、 全盛期だったスキタイを一気に没落の途へと導くきっかけを作った。 マケドニアがペルシャが散々苦戦したスキタイを撃破したことは 後のアレクサンドロス王になってペルシャ軍を散々に打ち負かすことを 予見させる出来事でもあった。
というか弱いのか? 女真族は
92 :
世界@名無史さん :2006/10/27(金) 21:42:17 0
宋の時代に岳飛に負け続け、岳飛死後もたびたび宋を攻めるがそのつど失敗 清の時代でも末期の明を倒せず、結局李自成の乱で明自滅後ようやく北京入場 その李自成や明の残党を自力で倒せず結局漢人の寝返り武将が主力(例えば呉三桂) になってやっと明を征服する。 しばらく後起こった三藩の乱も清軍は反乱軍に歯がたたず 緑営という漢人が主力の軍が鎮圧 女真は弱い、間違いない。
サルフでは明軍を潰滅させたが。
後金は山海関を攻めるたびに負けていたが
95 :
世界@名無史さん :2006/10/28(土) 08:58:40 0
サルフはまぐれ勝ち
96 :
世界@名無史さん :2006/10/28(土) 09:32:42 0
フン族の戦術って何?いくら弱体化してたとは言え ローマに連戦連勝って事はそれなりに戦術考えてたのか?
97 :
世界@名無史さん :2006/10/28(土) 09:59:01 0
98 :
世界@名無史さん :2006/10/28(土) 10:04:17 0
呉三桂や岳飛などは正面から女真と戦って何度も勝っているが
99 :
世界@名無史さん :2006/10/28(土) 10:06:24 0
そんな英雄クラスの武将を持ち出さないで下さい
100 :
世界@名無史さん :2006/10/28(土) 11:44:53 0
在日朝鮮人の生活保護の審査は非常に甘いので 給料もらっても生活保護もらい続ける在日が多い 生活保護20万+給料20万で月収40万 もちろん税金ゼロ 公営住宅優先入居 病院・幼稚園は無料 まさに特権階級
101 :
世界@名無史さん :2006/10/28(土) 16:47:00 0
呉三桂や岳飛以外にも負けている
102 :
世界@名無史さん :2006/10/28(土) 23:33:20 0
女真は戦闘力が低いのにどうして金や清を建てれたの?
103 :
世界@名無史さん :2006/10/29(日) 00:56:35 O
ネパールのグルカ族がポテンシャルやばい
>>102 袁崇煥を始め明の優れた武将達は、清軍を撃退すると
明の宮廷の宦官の讒言で次々に謀反の疑いを掛けられて、
片っ端から殺されたからね。
武官は誰でも馬鹿馬鹿しくて明国のために戦う気には
ならないだろうよ。
そもそも満洲人は遊牧騎馬民族なのか? モンゴルの戦術を取り入れたりしてたの?
106 :
世界@名無史さん :2006/10/29(日) 07:26:49 0
満州族は遊牧民じゃなく狩猟民だよ
騎馬狩猟民
108 :
世界@名無史さん :2006/10/29(日) 18:36:01 0
女真が強いか弱いか語るスレになってしまったな
109 :
世界@名無史さん :2006/10/29(日) 19:17:28 0
武豊が史上最強の騎馬民族
>>109 確かに凱旋門で3位になったし最強の騎馬民族だ!!
って、現代人だし。
111 :
世界@名無史さん :2006/10/30(月) 08:56:44 0
そりゃあ薬物投与すりゃ勝つわな
負けたじゃん。
なんで馬匹にヤクってはダメなん?
薬漬けの馬が勝ちまくったら優秀な子孫が残らなくなる可能性が高くなるから。 一昔前のアメリカ競馬がまさにそうで、成績優秀な馬は薬漬けの影響で駄馬しか作れず、 無名の馬こそがいい仔を残していたりした。 サンデーサイレンスの競走馬時代なんかがまさにそう。
115 :
世界@名無史さん :2006/10/30(月) 18:22:52 0
三国時代の騎馬民族の烏桓も弱い、公孫瓚や曹操にいつも負けている 女真といい勝負じゃない?
>>114 意味分からん。オマイが薬漬けか?
サンデーサイレンスは現役時代にケンタッキーダービーや
ブリーダーズカップクラシックを勝ってるんだぞ。
サイヤーとしても史上最高の成功を収めた
唐の太宗は突厥を破ったとされるが、実際には貢物を贈って御引取り願ったという説もあるが実際のところはどうなのか。
実際はそんなもん。
突厥と一騎打ちした隋の史万歳が気になる なんでわざわざ突厥側は一騎打ちを受けたんだ?
120 :
世界@名無史さん :2006/11/01(水) 09:05:23 0
そのときの状況はよく分からないが 騎馬民族の戦争では一騎打ちの話が結構出てきますよね。
121 :
世界@名無史さん :2006/11/02(木) 15:24:36 0
>>116 池沼乙。アホでも分るように分りやすく説明するね。
サンデーは血統もカスならセリ値もカスのカス馬として評価されていたの。
それが並み居る強豪に勝ちまくって、さらにいい仔を残した。
罵声浴びせる前に知ったかぶりはキモイからよせば?
現役時代から世評では常に イージーゴア>>>>サンデーだったし 種牡馬としてもイージーは初年度から大人気だったが サンデーは母系がマイナーな所と気性面で不人気なため日本に売却。 ちなみに同じヘイロー系の名馬のグッバイヘイロー(キングヘイローの母)は 日本に売られた際、新聞でも特集が組まれたが サンデーは「あ、日本に買われたの?よかったね」とシカト状態だった。
競馬の話はよそでやれ
サファヴィー朝のキジルバシ騎兵が出てこないのは何故?
マイナーだからじゃない
126 :
世界@名無史さん :2006/11/14(火) 12:32:34 0
モンゴル軍を2度蹴散らした鎌倉武士団が世界史上最強の騎馬軍団です。
マムルーク朝は5、6回撃退してるよ。
128 :
世界@名無史さん :2006/11/14(火) 14:04:04 O
日本は暴風雨がなければ撃退できたかどうかわからないし、モンゴルの本軍や騎馬部隊と戦ったわけでない マムルーク朝のバイバルスがモンゴルの騎馬部隊を撃退したのは有名だが、他にもモンゴルの騎馬部隊を撃退した例はわりとある 1284-85年 ベトナムの大越が元軍を撃退 1287年 再度、侵攻してきた元軍を大越は撃退 1296年 タイ北部のタイ人のムアン(小王国)八百熄婦、元軍を撃退 1300、01年 ミャンマーのパガン朝は瓦解したが、チャウセの地方領主を中心に2度にわたる元軍の侵攻を撃退 1282年 占城ヴィジャヤに元軍は海路侵攻するが撃退される 1293年 ジャワのクディリ朝に元軍侵攻しクディリは陥落するが、前王朝シンゴサリの娘婿のウイジャヤが元軍を撃退し、マジャパヒト王国建国 1241年 ポーランドへ侵攻し南下してきたモンゴル軍の一部がオーストリアのノイシュタット要塞を包囲するが、皇帝フリードリヒ2世の息子エンツォ率いる神聖ローマ帝国・シチリア王国軍が救援し、モンゴル軍を撃退
129 :
世界@名無史さん :2006/11/14(火) 14:19:20 0
マムルーク朝が撃退したのはフラグ・ウルス。 モンゴル帝国最強の大元ウルスに勝利した日本とは同列に語れないな。 それに、ベトナムやポーランドは散々国土を蹂躙された上での勝利だろ。 日本は九州に橋頭堡を築かせないという完璧な内容での圧勝。
130 :
世界@名無史さん :2006/11/14(火) 15:03:19 O
日本に侵攻した元軍はほとんど高麗、南宋の兵であり、モンゴルの騎馬部隊ではない しかも日本側の勝利と言われているものは御家人が戦功があったように報告するため、小舟で元軍の船一隻に侵入して何人か殺したのを誇張しただけ 陸上戦で元軍を大々的に破ったことは一度もない やはり暴風雨が元軍に最大の被害を与えた それに侵攻兵力が25万とかも誇張、実際その兵力が補給物資を含め当時の船舶で博多湾に来襲したなら かなりの船舶は湾外にあぶれ、上陸した兵力も限定されてしまうだろう 従って日本に侵攻した兵力は実際はもっと少ないと思われる ベトナム、オーストリア等に侵攻したのはモンゴルや遊牧民の本当の騎馬部隊 オーストリアはポーランドと違うし、皇帝軍が初めてモンゴルと戦った(ポーランドのリーグニッツで戦ったのはポーランド、ドイツの〈諸候〉、ポーランドは帝国領でない)
>>129 ちょっと待て、元はイルハン朝より強いのか?
単に漢人を擁してるので兵力が多いだけじゃないのか。
騎馬部隊の中身は同じはずだが。
132 :
世界@名無史さん :2006/11/14(火) 19:34:55 0
>>130 その高麗、南宋の兵を使ってフビライはナヤン・カダアンの乱でモンゴルの騎馬部隊に
勝利したんだろ。
モンゴルの騎馬部隊<大元ウルス軍じゃん。
文永の役で元軍が暴風雨に遭ったのは、御家人にまったく歯が立たず、日本から逃げ帰る
最中の11月5日、対馬沖でだよ。
高麗史にはっきりとモンゴル軍の総司令官が、「日本軍が優勢だから退却するしかない」
と言って撤退を決定したと書いてあるだろ。
当時の日本人の日記にも「モンゴルはすぐに退散した」と書いてあるし。
あと弘安の役で元軍が暴風雨に遭ったのは、博多湾で撃退され、2ヶ月近くも日本軍から
逃げ回った末のこと。
それに暴風雨の被害にあったのは元軍のごく一部で、十万以上の元兵は御家人によって
皆殺しにされた。
>その高麗、南宋の兵を使ってフビライはナヤン・カダアンの乱でモンゴルの騎馬部隊に >勝利したんだろ。 >モンゴルの騎馬部隊<大元ウルス軍じゃん。 決定力になったのは侍衛親軍の欽察衛や阿速衛だったらしい。おそらく両方とも騎兵部隊。 高麗軍や新附軍が参加してたって記録はあるの? たしか「東方見聞録」ではナヤン支配下の国々の中にカオリ(高麗)があったはず。 あとフビライ側が漢人の歩兵を突入させて馬の足を切らせたとかいう記述があったから 漢軍はいたんだろう。
134 :
世界@名無史さん :2006/11/14(火) 20:47:37 O
殺した数が10万人なぞありえるはずない 戦死者10万なら少なくとも倍の20万人以上の負傷者が出たはずであり 大量の捕虜が発生したはず 逃げ帰った生存者が多くいることはわかりきっているのだから少なくとも投入兵力は60万人以上ということになるか ありえない、ありえない、絶対ありえない なぜなら陸づたいに侵攻するわけでないから侵攻兵力の食糧は現地徴発になるからだ 当時の北九州の人口を推測してもそんな大兵力を投入したら1ヶ月もしないうちに全員餓死するだろう
杉山正明の本だと江南軍の10万は農機具と種籾しかもってなかったとか書いてたけど。 まあそんな連中を皆殺しにしたとしたらファナティックすぎるとも思うが。
136 :
世界@名無史さん :2006/11/14(火) 21:20:27 0
>>133 杉山の「モンゴル帝国の興亡」では、1294年『カダアンの反乱軍が大元ウルス・
高麗連合軍により、鴨緑洪付近で完全鎮圧される』と書いてあるよ。
>>134 7月30日に元軍が暴風雨に遭遇した後、船が壊れて逃亡不可能な元軍が10万以上
鷹島に立て籠もっていたんだよ。
この元軍は8月7日〜9日の日本軍の攻撃で捕虜2〜3万を除いて全滅。
捕虜もその後、博多で旧南宋兵を除いて斬首。
元史の記述では、『十万の衆、還るを得たる者三人のみ』
日本の文献では、『但し、ことことくに、殺し尽くしても、こたひの神の威徳を、
しらて止へけれはとて、只三人を、たすけて、汝か王に、事の趣を、いつはらす、
いひきけよと、いひつけて、小舟にのせて、おひ返す』
>杉山の「モンゴル帝国の興亡」では、1294年『カダアンの反乱軍が大元ウルス・ >高麗連合軍により、鴨緑洪付近で完全鎮圧される』と書いてあるよ。 ほう? 後でチェックしてみます。情報サンクス。 新附軍は対カイドゥの戦争で使われてたのは聞いたことがあるが。 南宋征服後、老弱兵は江南軍として日本へ送り出し精鋭は中央アジアへ送ったとか。
>>137 1292年の間違いだった。
P256の年表の所ね。
139 :
世界@名無史さん :2006/11/15(水) 13:02:33 0
フビライの対日本戦とその他の国との戦いを比較するぞ。 1257年、ウリャンカダイ率いる兵3000が大越に侵攻し、首都・大羅を約1週間占領。大越は3年に1度の朝貢を約束。 1268〜71年、馬成旺率いる兵3000・馬300が占城を征服。 1274年、ヒンドゥ率いる兵4万が日本に侵攻して大敗。軍の還らざる者1万3500。 1277年、怱都率いる騎兵700がンガザウンジャンの戦いでパガン朝の戦象団に勝利。 1281年、ヒンドゥ率いる東路軍4万と范文虎率いる江南軍10万が日本に侵攻して大敗。兵の6〜8割は生還できず。 1282〜83年、元に叛旗を翻した占城に遠征。元軍の兵力は約5000から始まり、約2万にまで増強された。 1283〜86年、宗王・相吾答児率いる船200艘がパガン朝に侵攻。翌1284年に江頭城を攻略。1286年、師を喪うこと7000にしてパガン朝を平定。 1285年、対占城戦への協力を拒んだ大越に侵攻。トゴン率いる元軍は大越の史記によれば50万。全土を制圧するも兵站確保とゲリラ戦に苦しみ敗退。 1285〜86年、タタールダイとヨーウルダイ率いる兵1万がサハリンに侵攻し、アイヌ民族の骨嵬を追い出す。 1287〜88年、再びトゴンが大越に侵攻。元の兵力は大越の史記によれば30万。首都を攻略するも補給艦隊500艘が伏兵に大敗。本隊も撤退途中に大敗。 1293年、兵2万・兵船500艘でジャワに侵攻。後のマジャパヒト王ウィジャヤとの同盟でクディリを攻略するも、裏切りに遭い退却。
140 :
世界@名無史さん :2006/11/15(水) 13:05:34 0
元軍は基本的に東南アジアの軍が相手なら、数千規模の兵力で勝利することができる。 しかし、全土を制圧・統治するには数万の兵力を長期間投入することが必要で、そうすると兵站の負担が大き過ぎる。 いくら大軍を投入しても、大越のようにゲリラ戦で抵抗を続けられると、元軍側も消耗して撤退に追い込まれてしまう。 ちょうどアメリカ軍がイラク正規軍にあっさりと勝利した後で、占領・統治に苦戦しているような感じ。 反面、大越やジャワのように元軍を退却に追い込んだ国も、侵攻自体を阻止する軍事力は無いので、結局は自分から 元への朝貢を申し出ることになる。 一方、日本に対しては、いくら大軍を送っても正面から粉砕されてしまい、九州に橋頭堡を築くことすらできない。 元が日本に対してできるのは、せいぜい高僧を送って鎌倉幕府のご機嫌を伺うことぐらいだ。 日本が最後まで元への朝貢を認めないまま独立を維持できたのはそのため。
>>139 ついでにカイドゥとかトルキスタン方面の戦線の情報プリーズ
>>140 何でだろう。日本の海岸線は断崖が多くて上陸できる地点が少ないからか?(と思いつきでレス)
(大軍が)上陸できる地点ね
>>141 すみません。
そっち方面は詳しい情報がありません。
インド戦線についてなら多少情報があります。
1221年、インダス河畔でチンギス・ハン率いるモンゴル軍がジャラールッディーン率いるホラムズ・シャー国軍を撃破。ジャラールッディーンはインドへ逃れて
亡命を求めたが、奴隷王朝のイルトゥートゥミシュは拒絶。
1241年、タイル・バハードゥル率いるモンゴル軍がラーホールを襲撃。
1245年、モンゴル軍がムルターンを包囲。奴隷王朝のバルバンが急遽駆けつけムルターンを救援したが、デリーの防衛線はジェーラム川からベアース川まで後退。
1256〜57年、モンゴル軍がパンジャーブに侵攻。1260年にフラグの使節がデリーを訪問し、バルバンは暗黙のうちにモンゴルの全パンジャーブ支配に同意。
1292年、フラグの孫アブドゥッラー率いる騎兵15万がデリーを目指して侵攻。国境近くでジャラールッディーン・ハルジー率いるハルジー朝軍に敗退。
モンゴル兵4000がイスラムに改宗してインドに投降。
1299年、クトゥルグ・ハージャ率いるモンゴル軍20万がデリーの征服を目指して侵攻。デリー直前でアラーウッディーン・ハルジー率いるハルジー朝軍に敗退。
1303年、モンゴル軍12万が再び北インドに侵攻。デリー近くの新首都スィーリーで2ヶ月間に渡ってハルジー朝軍と対峙した後に撤退。
一時窮地に立たされたアラーウッディーンは、この後に47万5000騎といわれる常備軍を整備。
1327年、モンゴル軍がトゥグルク朝中枢部のバダーウーンまで侵入。但しこの時は、侵攻説と救助を求めて来たという説とがある。
旧南宋の捕虜だけで約2万人もいたというから元軍全体の損害も相当なものだと思うが。 ただ、モンゴル自体はそれほど人的資源を投入していないので高麗や旧金、旧南宋が犠牲者の大半ではあると思うが。
146 :
世界@名無史さん :2006/11/19(日) 22:03:44 0
>>140 日本が勝てたのは海のおかげだろ
日本が特別えらいわけじゃない
いや、弘安の役では石垣を作っておいたのも大きい。
148 :
世界@名無史さん :2006/11/20(月) 10:17:25 0
海という防壁に恵まれた日本より 陸続きでありながらモンゴルの攻撃を 2、3回撃退した高麗のほうがすごい
149 :
世界@名無史さん :2006/11/20(月) 13:15:48 O
日本襲来の一回目は南宋攻撃のため南宋と盟約を結ばぬせないための牽制攻撃でもともと襲撃したらすぐに引き上げる予定のヒットエンドラン戦法でたまたま撤収時に暴風雨に合い損害を受けた 投入兵力も2万7000程度 二回目の時、南宋はほとんど戦わずに屈服したため、旧南宋の職業軍人40万人が健在で放置すると反乱を起こしかねないため、多くは西方・北方戦線や広東・広西の鎮圧に振り向けた それでも老弱兵が残ったため日本に振り向けた 江南軍は総兵力は10万だったがたいした武装をしておらず、入植用の農器具と種もみを携行しており、実質、武装移民であった確率が大きい 東路軍は4万程度の兵力だが、補給部隊を増強しただけで前回と戦闘部隊兵力はさほど変わっていない しかしながら補給部隊をほきょうしたにも関わらず糧食不足になり撤収しようとしたときに台風が直撃した いずれにしても二回の襲来とも日本軍により深刻な被害を受けたわけでない もし騎馬部隊が乗船するなら騎兵一人あたり最低3頭の馬が必要である(同時期の十字軍の用例から) 従って有力な騎兵部隊を投入する意図があれば、さらに膨大な船舶が必要であり博多湾以外にも複数箇所に上陸せねばならなかっただろう
すいません。ちょっと聞きたいんですが 重騎兵のプレートアーマーって何かメリットがあるんですか?重さで突撃速度が遅くなるし、攻撃を防げると言っても、落馬してしまえば終わりじゃないですか 装甲は薄くした方が良くないですか?
151 :
世界@名無史さん :2006/11/20(月) 21:17:23 0
>>149 >日本襲来の一回目は南宋攻撃のため南宋と盟約を結ばぬせないための牽制攻撃でもともと襲撃したらすぐに引き上げる予定のヒットエンドラン戦法でたまたま撤収時に暴風雨に合い損害を受けた
ここに書いてることは全部文献の裏付けなんか皆無なんだよ。
日本が当時滅茶苦茶強かったということを認めたくない日教組とかが、
適当な事を教えたため、おまえは洗脳されているんだよ。
文永の役の目的は元史にはっきりと『その国に入りこれを敗らんとするも』
って書いてあるだろ。
東南アジア戦線に数千の兵力しか投入しなかった元が、その数倍の兵力を
投入した日本戦が、単なる牽制攻撃ですぐに引き上げる予定な訳がないだろ。
高麗の武将は撤退を決定した軍議で、帰りの船を焼いてでも断固戦い続けることを
主張してるんだよ。
牽制攻撃ならそんなこと主張するはずないし。
文永の役で元軍がたった一日で撤退しなければならなかった理由は、鎌倉時代の
御家人が強すぎて、元軍がまったく歯が立たなかったからだ。
152 :
世界@名無史さん :2006/11/20(月) 22:49:59 0
>>146 勘違いしている人が多いけど、大元ウルス軍は海戦が得意だ。
長江や漢水といった大河に守られた南宋を征服するため、艦隊の強化に力を入れたからね。
だから、三別抄相手の珍島や済洲島への攻撃や、南宋の大艦隊相手の克Rの戦いでも、
圧倒的な海軍力で勝利しているだろ。
加えて、元寇の際の元軍指揮官たちは、いずれも艦隊指揮の経験がある。
文永の役の元軍や弘安の役の東路軍を指揮したのは、三別抄に勝った時と同じ武将たちだし、
弘安の役で江南軍を指揮した范文虎は、襄陽の戦いで南宋の水軍を率いていた。
153 :
世界@名無史さん :2006/11/20(月) 22:52:38 0
でも大元ウルスってジャワ攻めに失敗しているジャン
154 :
世界@名無史さん :2006/11/20(月) 22:58:31 0
>>150 一つのパライダイムは、徐々に加速しやがて、新しいパラダイムにとって
かわる。
155 :
世界@名無史さん :2006/11/20(月) 23:09:55 0
156 :
世界@名無史さん :2006/11/20(月) 23:10:13 0
>>153 ジャワでも戦闘では普通に勝利してるよ。
ジャワの場合は、クルタナガル王がフビライに喧嘩を売ったため侵攻したんだけど、
元軍が上陸した時には、既にクーデターで王朝は滅び、王も死んでいた。
仕方が無いから首都クディリを攻略してクーデターを起こしたジャヤカトワンも殺害。
その後に同盟を組んでいた現地勢力が裏切ったので撤退した。
軍事的に見れば、「元軍は海があっても強かった」だろ。
あと、大元ウルスは海に隔てられたサハリンも征服している。
いやあ、勉強になりますな
元に征服されなかったことを誇りとする日本人は、だからモンゴル贔屓だ。
159 :
世界@名無史さん :2006/11/20(月) 23:44:49 0
>>159 授業料代わりに、一発お見舞いしてやる。
確かに、文永の役での元軍撤退を『牽制目的』とするのは、あくまでも その不自然さから出た推測であって、文献があるわけではないんだよな。 俺も一時期その辺の資料を探したが、それを裏付ける資料は見つからなかった。 元軍に『矢が尽きた』という資料があることと、日本軍(少弐景資)が元軍の副将劉復亨を射抜いたことだけは事実。
163 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 01:24:43 O
元が日本を占領してなんのメリットがあるんだ 資源はない、たいした農産物は生産していないし、工芸技術他も陳腐なものしかない、その上住民のほとんどは貧農 そんな日本を占領したところで元にとってなんのメリットもない せいぜい老いて使えなくなった南人を植民させるぐらいだろう そんな老いた南人でも当時の低レベルの日本人よりはマシだ 中国語など他国語の文献を読み取れない以上、日本の異常に誇張された史料を鵜呑みにしても仕方がないと思うが
164 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 01:31:59 O
日本に有利なこと書いていないと日教組だかなんだか知らんが 講談社刊 中国の歴史 『疾駆する草原の征服者』でも読みな 著者は日教組ではないと思うがな
>>163 >異常に誇張された史料
どこが異常に誇張されてるのか証明してみろ。
166 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 01:45:57 O
占領する気がないならば弘安の役での南宋兵の農具は何だったのかと
167 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 02:38:26 0
>>166 農耕民族の日本に農具もってきてくれたんだろ
で、史料とはなに?
168 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 02:40:10 0
>>166 実は宋人に対して日本に土地を与えるという
デマカセを述べているだけであって、
本質は宋人の処理だったのではないか。
>>163 当時の日本は世界有数の金産出国だよ。
高麗人の趙彝とかいう奴が「南宋の富有は日本が金を輸出しているお陰です」って
クビライに進言したから、元は必死になって日本を征服しようとしたんだろ。
171 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 08:48:17 O
占領が目的だろうとそうでなかろうと十万以上の大軍でせめてきたら脅威だな。 占領が目的ではないという根拠はなんだ
172 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 08:56:27 O
167 いらねえよ。 間に合ってます。
>>163 つ【黄金の国ジパング】
小学生でも知ってるよな
>>163 使者を斬った国はつぶすのがモンゴルの君主の義務。
兵籍に入ってただけで無駄飯を食らってた連中が植民して何のメリットがあるんだ?
>>170 元史の日本伝を検索しても趙彝のそんな発言はない。趙彝が出てくるのは
「元世祖之至元二年,以高麗人趙彝等言日本國可通,擇可奉使者」という部分だけ。
>>173 東方見聞録のその部分は読んだことあるけど元軍に首都を占領されたとか
食人の風習とか滅茶苦茶な内容で、日本のことなのかすら確信がもてなかった。
>>174 宋史日本伝『東の奥洲は黄金を産し、西の別島は白銀を出だし、以て貢賦となす』
日本が勝てたのは元寇の主力がモンゴル兵じゃなく 高麗や南宋の降伏した兵が主力だったからでしょ つまり元の2軍部隊だったから勝てた
>>175 貢賦とは朝貢のこと? 日本側はそれと引き換えに何か得ていたのですか?
>>176 モンゴル騎兵が強いのは平原での戦いで
日本で戦うなら定住民の歩兵部隊でも問題ないのでは?
178 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 13:27:39 0
日本は争いをおこさずモンゴルに降伏すべきだったよね
釣れんよ
180 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 13:38:24 0
>>178 何で戦えば勝てる相手に降伏する必要があるんだよ?
181 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 14:31:15 O
遊牧民であるモンゴル人は人口が少ないので占領地域の軍隊を新たな遠征に使うことは常套手段であります。
182 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 15:05:34 0
>>177 日本は中国に金を輸出して、それと引き換えに銅銭を輸入していた。
これは元史の記述だけど、1277年『日本、商人を遣わし金を持して来り、銅銭と易えしむ』。
日本の史料の民経記によれば、1242年に南宋から帰還した船は銅銭十万貫などを持ち帰ったらしい。
183 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 18:39:32 O
ほー 輸出できるほどの金山ねぇ いったい中世日本のどこにそんなに産出量の多い金山があったか教えていただきたいものだな ちなみ佐渡金山は開発が近世以降だがね
>>182 ああ、杉山正明の本でちらっと読んだような。
元で紙幣を使うようになって銅銭が不要になり
宋代よりも輸出が盛んになったとか。
185 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 20:36:13 O
この場合、実際に金が出たかどうかというよりも金が出るという情報が侵略の動機になる
186 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 20:39:49 0
異なる時代の騎馬軍団を比較しても意味無いと思うけど。 零戦とF15を比較しても時代が異なる戦闘機だから 優劣なんてつけられないし。
金山? 奥州の砂金がメインじゃなかったけ?
188 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 22:02:58 O
>>183 のを見て、雑談スレで誰かの「世界史板は確実に死に向かっている。」
という言葉が思い浮かんだ。
190 :
世界@名無史さん :2006/11/22(水) 12:30:52 O
金が産出するところでは金による工芸品など多数、歴史的遺物として発見される しかし金箔、金メッキで加工されたもの以外の金で作られた工芸品ないしは歴史的遺物は中世日本であっただろうか? ましては‘日本で金が出るかもしんない’なんて不確かな情報をもとに大国、元が軍を動かすとは思えない
191 :
世界@名無史さん :2006/11/22(水) 13:29:28 0
>>190 1277年に元自身が金と銅銭とを取引してるんだから、不確かな情報でも何でもないじゃん。
192 :
世界@名無史さん :2006/11/22(水) 23:00:32 O
日本を過大評価しすぎ 日本と元の交易量なんか元にとってはわずか 戦国時代以降の日本の銀の産出が世界史的影響を与えたのは理解できるが、鎌倉時代の砂金程度で侵略を思いつくとは思えんし、船舶建造料を含んだ戦費を考えても見返りで砂金程度では大赤字は確実だ とにかく捕虜、戦利品がほとんどないところを見ても日本軍による戦いでの大勝利はありえないだろう 通常、戦いで敗れた場合、重傷者は敵の手に落ちる ましては陸続きでなく船舶でしか逃げるてだてのないのならなおさらである 元冦とほぼ同時期ごろに起き、ダンテの神曲でも記述があるモンタペルディの戦いでは フィレンツェを中心とする教皇派都市の7万が皇帝派都市のシエナに攻めこんだ シエナは人口5万で15〜70歳の市民男子を動員、皇帝フリードリヒ2世の子シチリア王マンフレーディからドイツ騎兵の増援を受け2万で教皇軍と戦った 結果は皇帝軍が勝利し、教皇軍は1万8000が戦死して1万5000が捕虜になった 捕虜の中には多くの負傷者がいた つまり戦果が大きく、敗者に逃げる手立てが限定されるなら、その戦果に比例して捕虜数も多くなるはずなのだが
すまんが何を主張したいのか分からない。
194 :
世界@名無史さん :2006/11/22(水) 23:52:38 0
元寇は日本の圧勝ではないと言いたいのでは?
>>192 元史日本伝には元軍の3〜4万が日本の捕虜になったと書かれているな。
高麗史だともっと多くて、13万〜14万の元兵が日本に降ったと書かれているけど・・・
196 :
世界@名無史さん :2006/11/23(木) 11:45:01 0
あほ 秋山好古に決まってるだろ
197 :
世界@名無史さん :2006/11/23(木) 21:43:07 0
骨鬼が何度も樺太から出向いて荒らしまわった事は触れないのね 元マンセーも日本マンセーもそこいら辺手落ちし過ぎ
>骨鬼が何度も樺太から出向いて荒らしまわった シベリアではよくある狩猟民同士の紛争でしょう。
骨鬼って元軍の侵攻によって樺太を制圧されて追い出され、たまに隙を衝いて 大陸に渡ってもことごとく撃退される。 それで二進も三進も行かなくなって、1308年に毛皮の朝貢を条件に元に降伏だろ。
日本を過小評価しないと気が済まないやつが必ず出現するな。 昔からいるんだが、そのほうがインテリぽいとでも思ってるアホ としか言いようが無い。
201 :
世界@名無史さん :2006/11/25(土) 12:28:34 O
だったら 京大大学院教授の杉山正明氏に文句言いな お前のようなどこの馬の骨ともわからん奴のザレ言より教授の本の方が信憑性高いからな
202 :
世界@名無史さん :2006/11/25(土) 12:45:49 0
色々な意見を出し合わないと議論自体が成立しないような気がするのだが。 日本賞賛のレスを繰り返した所で、果たして本当にそうなのか? と言う観点で物事を考えないと韓国人のように勘違いを引き起こしそうだからな。 みんなが同じ意見を述べては議論自体が成立しないし、謎も解けない。
杉山は武士が弱いとはいってなかったと思う
204 :
世界@名無史 :2006/11/25(土) 22:02:06 0
騎馬の用法で天才はチンギスハーン、フレデリック大王、ナポレオン、 モルトケ、信長、義経あたりだと思うが…
205 :
世界@名無史さん :2006/11/25(土) 22:46:40 O
ティムール、阿保機、李克用、北魏の太武帝、クタイバ、プロイセンのザイドリッツ将軍、ムハマンド・シャイバーニー・ハーン、クタイバ・イブン・ムスリム
206 :
世界@名無史さん :2006/11/26(日) 06:14:40 0
ごめん はじめて このすれ見た モンゴル大好きなだ仲間にいれてくれ 世界史上最強の騎馬軍団はやはり モンゴルだ ほかの部族 いや 近代の軍隊にいたるまで 騎馬の用法が全く違う ほかの軍隊の騎馬部隊は ほとんどが 槍などをもち 突撃をメインとする 密集して 相手を蹴散らす(古代の戦車) もしくは 高速移動手段として用いていた すまん用事ができた 続く
>ほかの部族 いや 近代の軍隊にいたるまで 騎馬の用法が全く違う >ほかの軍隊の騎馬部隊は ほとんどが 槍などをもち 突撃をメインとする >密集して 相手を蹴散らす(古代の戦車) 中央ユーラシアの草原地帯ではそっちの方が特殊なんだが。 騎射兵なんてスキタイとかの時代からいるし。
一口に騎兵と言っても、突撃主体か騎射主体かは系統が違うような気がするね
アヴァールなんかは旗の構図から見ても 明らかに騎射っぽいけどな
210 :
世界@名無史さん :2006/11/27(月) 23:04:13 0
モンゴルとは中央ユーラシアの草原地帯の民族をさすのです ほんとうに騎馬の用法が他とちがうのです ほかの騎馬民族では 騎射も 相手を狙い 水平に打つ モンゴルの騎射は水平じゃなく 弓なりにうつ やじりには毒がぬってある みそであるが 距離をおいてスペ-スのかぎられた馬の上から 短時間に大量にうつ まあ これでは 密集した敵はひとたまりもないな モンゴルの馬は 他の馬とはちがう これも強さの秘訣とおもう
211 :
世界@名無史さん :2006/11/27(月) 23:16:10 0
212 :
世界@名無史さん :2006/11/27(月) 23:18:05 0
>モンゴルとは中央ユーラシアの草原地帯の民族をさすのです すまんが言いたいことがよくわからん。 匈奴やスキタイやサルマートや鮮卑や高車やエフタルやアヴァールや ハザールや突厥やウイグルや契丹やジューンガルは 中央ユーラシアの草原地帯の民族じゃないのか?w
> 中央ユーラシアの草原地帯の民族 そのカテゴリーに当て嵌まる言葉は、むしろ「テュルク」やそのアラビア語による複数形、 「アトラーク」の方が前近代では一般的だ。もちろん『集史』などのモンゴル帝国時代の 資料では、従来のモンゴル人やタングートも「アトラーク」の範疇に入るがw
「トゥラン」てのもそんな感じだろうか
215 :
世界@名無史さん :2006/12/01(金) 18:13:46 0
逆に弱かった騎馬軍団ってなんだろ
ペルシアとかか? 勝てそうなギリシアやスキタイ征服に失敗してるし。
スキタイはともかく歩兵しかいないギリシャになんで負けたのか不思議だ やる気なかったのか?
>>217 1度目のマラトンの戦いで負けたときは、ペルシア軍には騎兵がほとんど居なかったんだろ。
当時のガレー船では、大量の騎兵を輸送するのは難しいし。
だから2度目では、騎兵を含む大軍を陸路ギリシアまで海岸沿いに進軍させ、兵站補給用の
艦隊を並走させる作戦を選んだんだけど、艦隊の方がサラミスで負けちゃったから・・・
219 :
世界@名無史さん :2006/12/02(土) 16:59:29 0
>>215 上のほうに散々女真は弱いと書いてあるだろ
女真が弱かったとは思えないが 金が南宋に敗れたのは騎兵が活動しにくい地域に侵攻したときだし 山海関はもともと強力な要塞なうえに明軍は大量の火器を装備していた
もし仮にも華北制圧、全土制圧を成し遂げた女真族がが弱いなら、 モンゴル以外の北方騎馬民族はそれよりさらに弱いってことになってしまうわけだが?
222 :
世界@名無史さん :2006/12/03(日) 05:34:23 0
武田騎馬軍団(武田勝頼)が弱い 武田信玄が天才的な謀略で勝つことができたので 騎馬部隊はたんなる移動手段
いや、武田騎馬軍団なんて存在しないから。 架空の存在だから。
だから、武田騎兵軍団は存在しなかったけど、 馬上の巧者が多い軍団という意味では、武田騎馬軍団は存在したんだって
それを騎馬軍団の範疇に入れてしまったら、 騎兵を含む軍は全て騎馬軍団になってしまうがな。
226 :
世界@名無史さん :2006/12/03(日) 21:47:35 0
アメリカ陸軍を撃破したスー族最強、と言ってみる。
騎馬軍団というのは「騎兵を主力とする軍団」でいいのか? だとしたら、戦国の日本の軍隊は違うと思うが
そりゃあ、騎兵以外が主力の軍団を、普通「騎馬軍団」とは言わないだろうからね。
229 :
世界@名無史さん :2006/12/07(木) 21:45:13 0
ヒッタイトじゃないかな やっぱ最初期の騎馬軍団の方が弱いだろ 馬の利用法も時代が下るほどレベルが上がっていくんだしさ
>>230 ヒッタイトは騎兵じゃなくて戦車(チャリオット)が主力じゃなかったっけ
最初に騎兵を使用したのはアッシリアだったと思う
匈奴とモンゴルを比べても、鐙の有無や鏃が骨から鉄へと変化するなど
一般的に言って後の時代のほうが戦闘力は高いが、当時の中東で恐れられた
アッシリア軍が最弱の騎馬軍団というのは違和感がないでもない
232 :
世界@名無史さん :2006/12/15(金) 21:00:21 0
>>219 李如梅
「倭兵が三十人ぐらいでも女真兵一人に敵わないだろう」
日露戦争時の露西亜軍の「コサック」はどれくらい強かったんでしょう?
>>232 刀伊の入寇や元寇の時の女真兵はかなり弱かったけどな。
撃退したとはいえ被害は日本側の方が多い それに白村江の戦いでの唐の水軍は靺鞨が多かったと言われる
>>34 >>36 とかその辺り、だいぶ遅レスだが
槍騎兵の突撃というのは槍のみが武器ではない。
欧州の軍馬というのはサラブレットなんかよりずっとでかい。
ばんえい競馬を見たことがあるなら、話は早くてああいう馬が西欧の軍馬
こいつらは体重が1t近くある。
おまけに乗ってる人間は鎧やら武装やらして、総重量は軽く1tを超える
そーいうやつらが横1列に隙間もないほどに密集して突っ込んでくるのが槍騎兵の突撃
彼らの武器はその重量であり、運動エネルギーで、槍はただの付け足しに過ぎない
現代人に簡単に言えば乗用車が突っ込んでくるみたいなもんだ。
おまいさんは突っ込んでくる乗用車あいてに槍1本で支えろ言われて、踏みとどまれるかね?
騎兵突撃を食らった部隊が恐怖で壊乱するのはある意味では当たり前の事で、
逆に槍衾でこれを支えきれたときは、それこそ栄光の勝利だったのだ
西欧では騎兵突撃を支えきったという、ただそれだけの事で歴史に名を残した部隊やら指揮官がたくさん居るのもうなずけよう。
そして小銃と騎兵の関係にも誤解がある。
もともと騎兵という兵種は歩兵の銃列に対して「強い」兵科だったのだ
槍騎兵が戦場から消えたのは、ピストル騎兵の登場によるもので、歩兵が火器を装備したためではない
また騎兵が完全に戦場から消えるようになるのは、機関銃が広まってからだ
>>223 何を持って「強い」というかにもよるが、
コサックの強みは重騎兵(歩兵集団に突撃をかける)的な装備を持ちながら
軽騎兵(敵の後方に進出して撹乱する)的な運用に耐え得るという点だろう
本来、西欧的な騎兵というものは単独で敵の後方霍乱を行なったりすることができない。
人員に加えて馬も生かさなければいため、大きな後方兵站能力を必要とし、かつ、兵站から大きく離れる事ができない
しかしながら、コサックはその特殊な生活形態から騎馬民族的な大移動を行なう事ができ、
かつ必要とあらば西欧の重騎兵的な突撃も行なう事ができた。
西欧において彼らコサックが恐れられたのは西欧騎兵が行なう事ができない
大進出を行なう事ができたためで、その直接的な打撃力や突撃力からではない
>>235 文永の役で少弐景資隊と戦って負傷し、元軍が撤退を決めた際に真っ先に乗船したという劉復享は、
女真部隊の指揮官だよ。
指揮者が駄目だったからといって 配下の女真兵まで弱いとは限らない 上の李如梅という人は明の将軍で 女真とも豊臣軍とも戦ったことがある人だよ
>>239 現実に直接対決では女真軍が負けているんだから、李如梅の認識が間違ってるんだろ。
現実に女真と戦って日本の方が酷いめにあっている 白村江、刀伊入寇(ぼろぼろになりつつ辛くも撃退) 李如梅の認識が間違っているというが 30人でも敵わないというのは言いすぎだとしても 女真の方が強いというのは妥当だと思うよ
刀伊の入寇は、2500〜3000の女真軍を、藤原隆家がたまたま手元にいた部隊だけで撃退。 文永の役は、4万の元軍を1万の日本軍が撃退で、女真軍はその中核部隊のひとつ。 いずれも、日本軍の方が少ない兵力で勝利してるじゃん。 更に伝えられてる日本の損害は非戦闘員のものがほとんどで、戦闘の内容事態は九州に まったく橋頭堡を築かせないという日本側の圧勝。
>>241 刀伊の入寇は李如梅の生きていた時代の500年前のこと
白村江に至っては1000年ぐらい開きがある
慶長の女真と日本どっちが強いかどうかは戦っていないからよくわからない
>>242 刀伊の入寇は日本の被害も多い(殺害された者数百、拉致千数百、牛馬も数多く奪われた)
藤原隆家の軍には現地人も数多く加わったというから
日本側の完全な勝利とは言えない
>>242 日本側は兵力差に押されて博多を放棄して大宰府に引いている
元が引いたのは矢が足りなくなってしまったから
(大陸と日本の間には海があり補給が困難だったんだろう)
>>221 ホンタイジはモンゴルを下し元の玉璽をもらっている
つまりモンゴルも弱いことになってしまう
>>222 戦国時代馬に乗っていたのは武者で
農民から徴発された、戦いの主力となる足軽は徒歩だった
247 :
世界@名無史さん :2006/12/17(日) 02:51:25 0
>>244 「矢が足りなくなった」などというのは、単に「ボロ負けだった」ということの婉曲表現に過ぎない。
鎌倉時代の史書には、いずれも合戦による日本軍の勝利が書かれている。
>>244 矢が尽きた。副将(?)の劉復享が射倒された。撤退の原因はいくつかあるが、
推測するにかなりの激戦だったことは間違いない。
>>241 ここは時代が1000年も違うことを平気で比べるスレですか?
>>247 そりゃ日本側の資料なら勝ちって書くだろう
騎兵がほとんど活躍しない元寇は別スレで語ったほうがいいと思うが
現在でも日本海は日本の守備にとって10個師団の価値がある と言われているのに13世紀の軍隊に島国をとるなど無理、兵站が続かない 文永の役で緒戦でいきなり矢がつきたことからもわかる
騎兵が活躍した戦いと言うと ニコポリスの戦い、アンカラの戦い、白登山の戦いとかか
>>252 元軍は前年の三別抄の乱鎮圧で渡海作戦を経験済みで、文永の役にも時間をかけて
十分な準備をしてから臨んでいた。
元軍が負けたのは、単に日本軍より弱かったから。
高麗史にはっきりと元軍の方が劣勢で、無理をすれば優勢の日本軍に全滅させられて
しまうから撤退した、と書かれている。
攻め込んだ元軍側の史書に「負けた」と書かれているんだから、否定する理由なんか
ないだろ。
>>251 文永の役の元軍は3000近い騎兵を投入していたし、日本の騎兵は大活躍だったぞ。
高麗史には 「倭兵は大敗して屍は山をのごとく」 とあるが >>高麗史にはっきりと元軍の方が劣勢で、無理をすれば優勢の日本軍に全滅させられて そりゃそうだ、日本側は兵力を回復できるが 元側は海を越えてやってきて援軍も補給もない、だから引いた。戦闘で負けたからじゃない 弘安の役は防塁を作って準備していたこともあって終始有利に戦っていた日本の勝ちと言ってしまっていいが
256 :
世界@名無史さん :2006/12/17(日) 15:22:27 0
>>白登山の戦いとかか 劉邦の漢じゃなく項羽の楚だったら 匈奴にも負けなかったんじゃないか そういう気がなんとなくするw
>>255 高麗兵が殺したのは武士ではなく非戦闘員だよ。
日本の文献には高麗兵の上陸地に近い場所で逃げ遅れた多くの妻子眷属が犠牲に
なったと記されている。
高麗軍が菊池武房に大敗したのはその後。
あと、高麗史・表では「壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人」。
戦って負けた事を認めてるじゃん。
258 :
世界@名無史さん :2006/12/17(日) 15:49:12 0
高麗史に負けたとは書いていない 兵を失ったのは帰る途中に暴風雨に襲われ 半数が座礁したある 確かに戦争目的を達しえなかったんだから 日本の勝ちと言っていいだろうが戦闘自体ではどうかわからない 日本の資料には日本が勝ったとあり、高麗側には倭兵を負かしたとある ついでに日本人捕虜を200人ほど献上したという文献がある 弘安の役は終始元軍の上陸を阻止し優勢に戦ったので 弘安の役こそ日本の完全な勝利言ってもいいと思う
> 文永の役の元軍は3000近い騎兵を投入していた 少なくとも『元史』の方ではそのように書かれている部分は見た事がないのだが・・ 文永の役について、『元史』世祖本紀には至元十一年三月庚寅条において、 「庚寅、敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等、將屯田軍及女直軍、并水軍 水軍、合萬五千人、戰船大小合九百艘、征日本。」 としか書かれておらず、同年十二月甲寅条に何時の間にか帰還した忻都らが、 「賞忻都等征耽羅功、銀鈔幣帛有差」(本文中の「耽」の偏は本来「身」) と出てくる。 一応十一月癸巳条の末尾に「召征日本忽敦、忽察、劉復亨、三没合等赴闕。」 とは出ているが、それ以外は音沙汰がない。 一方で『元史』列伝第九十五 外夷一 日本伝に 「 (至元)十一年三月、命鳳州經略使忻都・高麗軍民總管洪茶丘、以千料舟、 拔都魯輕疾舟、汲水小舟各三百、共九百艘、載士卒一萬五千、期以七月征日本。 冬十月、入其國、敗之。而官軍不整、又矢盡、惟虜掠四境而歸。」 「元軍は3000近い騎兵」云々は高麗側の資料か『南村輟耕録』あたりの情報だろうか? あるいは『元文類』とか。
それに『元史』などのモンゴル側の資料は、負けたり兵員を多く失った場合はその旨書くのが 普通だから、「元軍側の史書に「負けた」」とは書かれていない。 「矢が尽きた」というのは東西問わずモンゴル軍側の撤退の理由や「口実」として語られる 「常套句」だが、「敗退」をも含むかと言うと微妙。 『高麗史』はともかく『元史』の記述を信じるなら大元朝側がいわゆる文永の役を自ら敗退と 認識していたかは確認出来ないし、同時期の南宋作戦と比べると記事の文量が僅か。 現在のモンゴル帝国史、大元朝史研究に携わる人たちのおおまかな認識としては、 文永の役は他の外征時に一般的に行われた「威力偵察」の類いだったとしているはず。 特に派遣した兵力が「一萬五千」という規模が他の「威力偵察」の事例の規模と共通する。
>>215 上に上がっているが俺も烏桓に一票
皇甫嵩が韓遂を討伐する時に烏桓を援軍要請しようとした時に
一時期劉備の上司?だった鄒靖という人が
「烏桓は弱いので鮮卑の方がいい」と言っている
それに袁尚、袁煕をかくまった時に曹操の討伐を受けて
単于が討ち取られ二、三十万が降伏し移住させられた。
263 :
世界@名無史さん :2006/12/18(月) 01:00:16 0
>>259 高麗史の年表の1274年には、戦って負けたと書いてあるだろ。
>>261 他の威力偵察の事例とはどのようなものですか。
威力偵察のわりに一万五千って多いよな
一万五千って直前に元から派遣された兵力で、それ以前に日本侵攻のため高麗に 屯田していた元軍や、高麗軍の兵力は含まれていないよね。 あと、日本側の防衛の要である水城や大宰府なんて、海岸から15キロ程度しか 離れていないだろ。 わざわざ博多湾から上陸したのに、水城や大宰府を見ることも無く帰ってしまって、 偵察の役割を果たしたことになるのか?
苦労して海を越えてきた割にあっさりと帰るんだなw
元寇の話題は日本史板でやれ
>>263 戦闘で負けていなかったとしても
戦争目的を達成できなければ負けたという
(豊臣秀吉の朝鮮出兵、アメリカのベトナム戦争等)
高麗はかなりやる気で日本を征服する気だった
高麗側の船を焼いて戦おうという発言が
金方慶が戦闘では兵力差もあり決して戦闘で
負けているとは思っていない事、征服する気があった事が伺える
ローマに何度か勝った事がある パルティアはスルーですか。
>>269 戦闘で負けていないなんてことはないだろ。
高麗軍が赤坂で菊池武房に負けて海岸まで敗走した様子は、文献に詳細に書かれているぞ。
江戸時代に書かれた「北條九代記」だと文永の役は、 『関東より筑紫へ下知して、武備に怠りなし。同十月に蒙古の賊船対馬に寄来る。 筑紫の武士等集りて防ぎ戦ふ。蒙古の軍法乱れ靡きて整らず、矢種盡きえれば 海辺所々の民屋を乱暴し、これを以て、此度の利として軍を引て漕帰る。日本の 武士等も、攻め破られざるを勝にして、軍はこれにて止みにけり』 正直言って江戸時代の国学者の方が、現代の歴史研究者なんかより遥かに日中韓の 史書に精通し、客観的に解釈しているような気がするのだが・・・
>>271 確かに有名なのだけで2回戦闘で勝っているけど、
そのかわりパルティアはローマ軍に3回首都を落されていますね。
それから、ローマ軍は別に無敵の軍隊って分けでもないし、
むしろ最初は不利だったが粘り腰で結局勝つってパターンが多いから、
一度や二度勝っただけで最強云々とはならないかと。
>>247 勝利したなんて書いてあったか?なんか知らんけどいなくなったぞよ、
て感じだろう。特に文永の役では。
275 :
世界@名無史さん :2006/12/24(日) 23:00:13 0
ビルマ、ベトナム、ネパールに負ける清軍萎え 朝貢とか言っても独立状態だし
威力偵察って敵の防備を知るためにやる事でしょ? 文永のあと5年も6年も後に来たらもっと防備が強化されちゃって せっかくの偵察情報が無駄になるじゃん。 実際、弘安の役のとき上陸地点に文永の役のときにはなかった石垣できてちゃったわけだし。 文永の役が威力偵察目的なら、すぐに「本隊」で攻めなかった 元軍はとんでもないアホウという事になっちゃうんじゃないの?
元寇の話がしたかったら日本史板でやれよ
>>276 単純に七年であれほど防備を固めるとは思っていなかったんだろ
南宋攻めにも忙しかったんだろうし
学者の間では「文永の役は威力偵察」「弘安の役が本腰」が定説になっている
279 :
世界@名無史さん :2006/12/25(月) 10:47:32 O
元が日本占領したとこで何かメリットあるのか 金とか目を引くを特産物なにもないし 特産物→はにわ?(笑)
何じゃそりゃwwww 何だ、まだ日本さんって俺らに従属してなかったの、フビライ勘違いしちゃった →使者を送って服属を求める→断られる→また使者を送る→切られる→成敗してやる!!!!!111111! って大河ドラマで見たよ。
281 :
世界@名無史さん :2006/12/25(月) 15:32:16 O
はにわをバカにしちゃいかんよ 紀元後3世紀にあんな程度の低いものは他の地域では見られん、珍しい物品じゃよ BC4Cには東南アジアではヘーゲル1型のドンソン銅鼓出現し既に青銅器時代に入っていたし 5300年前に欧州では青銅より精錬加工の難しい純銅の実用性のある銅斧使っていたんだから
>>274 当時の文献には、はっきりと合戦でモンゴル軍が敗北したと書いてあるよ。
鎌倉年代記「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北」
帝王編年記「是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々」
どうして、「文永の役は威力偵察」とかいう 厨の俺でも突っ込みどころ満載の説が学会で定説になれたの?
>>284 単純に日本軍が勝ったと認めたくないからだろ。
戦前までは、普通に戦って勝ったことになっていたのに、太平洋戦争で負けた途端、
文永の役でも負けてたことになってしまった。
それで「文永の役は暴風雨のお陰で助かった」ことにしたんだけど、当然のことながら
いろんな方面から突っ込みが入って、しかたなく今度は「文永の役は威力偵察」だった
ことにしたんだよ。
>>261 の「他の威力偵察の事例」を提示してもらわないと何とも言いようがない。
289 :
世界@名無史さん :2006/12/26(火) 08:41:30 0
つーか戦闘で勝ってるのに夜になると海上に後退するなど戦術的には論理的でありません
>3万なんて本気のわけないだろ 橋頭堡を構築するには十分な兵力
>>291 海があるということを考慮すれば全然足りない
海という自然の防壁がある日本より 陸続きでありながらモンゴル軍を二、三回撃退した高麗の方が強い
そもそも元寇の戦略的な位置は元の対宋戦略における支作戦正面 その作戦目的は北九州を押さえて宋の後背の海上交通路を圧迫遮断することで、 京や鎌倉の奪取や本全土の征服は含まれていない 主作戦正面に寄与するため、また、渡洋侵攻作戦の膨大な準備所要を考慮すれば 悠長に威力偵察なんやってられる暇は無い その証拠に文永の役で元軍は3万とも言われる大兵力で侵攻している
>海があるということを考慮すれば全然足りない 戦術的には全く根拠が無い 北九州の港湾を抑えるのには十分
>>292 1066年にノルマン軍は7000の兵力で、海という自然の防壁に守られたイングランドを征服している。
文永の役の日本軍は補助戦闘員を含めても1万程度だったんだから、3万以上の兵力を投入して敗北した
元軍は、単に日本軍より弱かったとしか言いようが無い。
298 :
世界@名無史さん :2006/12/26(火) 11:41:03 0
えーと
>>294 とかは、何なの?
ようするにウリナラが最強!!って言いたいだけなの? アホなの?
299 :
世界@名無史さん :2006/12/26(火) 11:50:49 O
中世ヨーロッパでの戦いは意外に投入兵力は少ない それにイングランド王ハロルドの軍はノルマンディー公ウィリアムと戦う前に “最後のヴァイキング”ノルウェー王ハラルド苛烈王とスタンフォードブリッジの戦いの激戦で辛勝したばかりで疲弊していた
>>299 イングランドはその前にデンマークにだって征服されてるだろ。
海が有ろうが無かろうが、その国が弱ければ他国から征服されるよ。
301 :
世界@名無史さん :2006/12/26(火) 13:01:09 O
だって日本はそんなに大々的に勝ったわけじゃないじゃん ましては元はわずか2、3万の侵寇兵でモンゴルの本隊が来たわけでないし 第一、騎兵以外のモンゴル軍本隊なんかいるのかねぇ モンゴル人自体少ないのに
>>301 モンゴル軍が多国籍軍だってのは、ほとんどの侵攻で共通で日本だけが例外では無い。
マムルーク朝がアイン・ジャールートの戦いで勝ったモンゴル軍が1万2000だったことを
考えれば、文永の役で4万、弘安の役で14万の元軍に勝利した日本は、世界史的には立派に
モンゴルに「大々的に勝った」国だよ。
303 :
世界@名無史さん :2006/12/26(火) 14:05:35 O
江南軍のほとんどはたいした武装をしていない入植用の農器具と種もみを持った移民集団 戦闘部隊は前役と同じ東路軍のみで兵力も前役と同じ2万7000のみ 引安の役では保塁を作り10万の兵力を集中した日本軍が勝のは当たり前 なにせ敵の4倍の兵力だからな 『中国の歴史 疾駆する草原の征服者』 杉山正明著 講談社刊 を読め
モンゴル軍に「日本軍が勝のは当たり前」とは、日本に対する最大級の賛辞だな
305 :
世界@名無史さん :2006/12/26(火) 14:32:00 O
そうだな 防御設備があって4倍の兵力があればマウイ族でも勝てるたろうなw ニッボーン武士は4分の1の兵力のアイヌに敗れたから アイヌが最強だな
はにわ君は感情的だな。
単純な強弱論ではなく渡洋侵攻は非常に難しいという産業革命以前の軍事的常識の実例に過ぎない 蒙古征東軍を撃退した日本軍が大陸に逆侵攻して勝てるわけがないのと同じ
ここ本当に世界史板? 渡洋侵攻なんて古代ギリシャ・ローマの時代でもやりまくってるぞ。
渡洋侵攻と経海侵攻の違いも知らんのに世界史板に出入りしてるのか?
やりまくってるけど大失敗も多いよね マラトンとか
敵前強襲上陸の成功例は非常に少ない
>>309 違いを教えてくれ。
因みに経海侵攻なんて言葉を検索しても殆ど引っかからないぞ。
渡海侵攻といえば 唐軍による百済攻略とかもあるな。
ヴァイキングもあっちこっちに侵攻して領土分捕ってるしな。
現代でも大陸から日本を攻略することは、日本海のせいで難しいと言われているんだが
ヴァイキングだって強襲上陸なんてほとんどやってない 大航海時代でも同じ 大航海時代には数万の軍勢が長距離海上躍進できるようになったとでも思ってるのか?
391年に日本が対馬海峡を逆からせめて百済・新羅を征したことはどうなのさ?
319 :
世界@名無史さん :2006/12/27(水) 12:47:15 0
やっぱ、 いつのまにか中国沿岸部を版図に治めていた事になってる高麗が最強なんじゃね? 教科書にも載ってる事実だし。
>逆からせめて百済・新羅を征したことはどうなのさ? どこからそんな出鱈目をw
>>320 広開土王を称える碑文からじゃね?
「倭国が攻めてきて、今のソウルのあたりは倭兵でごったがえしてた。それに打ち勝った広開土王超偉い」
って碑文。
高句麗って騎馬軍が主体だったらしいね
324 :
世界@名無史さん :2006/12/27(水) 22:45:56 0
どうりで今でも半島のいたるところで 男が路上で女に馬乗りになっているわけだ。 先祖代々、馬に跨って略奪していたころの血が騒ぎ出すんですかね。
>>283 >>302 文永の役では、戦略目標を達したという意味では「負けてはいない」けど、
実際の戦闘では相当苦戦しているからな。菊池氏などはよく戦ったが、
総大将の小弐氏は本営としていた箔崎八幡を捨てて太宰府に移ろうと
している。防衛ラインを下げるつもりだったわけだから、優勢ではないと
判断したんだろう。
>>283 が引用したのは、「博多を守った」という程度の意味で、戦闘で優勢だった
と言うことではあるまい。
ただ、弘安の役は日本軍の完勝と言っていいだろう。
上陸すら許さなかったのは戦術戦略ともに優れていたと言っていい。
江南軍が戦闘部隊だったら、あるいは危うかったかもしれないが。
>>325 総大将の小弐が水城に引き上げる決定をしたのは、単に夜になったからだろ。
大宰府防衛が目的の日本軍が、本来想定していた防衛ラインは水城。
その証拠に籠城戦に備えて、水城に豊富に兵站を蓄えていたりする。
元軍は日本軍にとって前哨戦に過ぎない博多で戦闘不能に陥ったわけで、戦闘では
まったく日本軍に歯が立たなかった可能性が高い。
確かに主戦闘陣地は水城だが、前方地域で出来るだけ敵の前進を遅滞し 戦力を漸減するのが陣地防御の基本 当初の計画通り夜になったから主陣地に引き上げたのか、 前地での戦闘が不利になったから主陣地に後退したのか、 今となっては推測の域を出ない 論理的に考えれば夜間は地形を知悉した防御側に有利だし、 前地を放棄することはすなわち夜が明けたら主陣地で 敵と渡り合うことを意味する
水城に引き上げた日本軍は、元軍に大打撃を与えた事を認識していたよ。 副将の劉復享を討ち取ったとの情報を、捕らえた捕虜から得ていたからね。 日本軍は水城さえ維持していれば、後方から援軍が到着して日毎に有利になるのだから、 日没後も博多を維持するリスクを犯すより、より堅固な水城で朝を迎えようとする判断は 別に不自然じゃないだろ。
通常、前地の戦闘を優位に進めている防御側は、主陣地の掩護と防御準備の余裕の獲得のために、 そのまま前地での戦闘を継続する わざわざ優勢な戦場を放棄し、戦闘中の部隊を主陣地に収容する行為は、戦術的には論理性がない また、日没後に博多を放棄する意義も非論理的 地形を知悉しているのは防御側であり、夜戦でのリスクは防御側よりもむしろ攻撃側にある 事実、戦後、博多放棄は非難されている もし、前地での戦闘で元軍が戦闘不能に陥るほどの損害を受けていたとすれば、 水城への後退は戦術的には致命傷になりかねない大失策といえる また、水城での戦闘は出来るだけ遅らせればそれだけ増援部隊の収容も容易になる 前地での戦闘を優位に進めていたと仮定した場合、博多の放棄に戦術的妥当性は薄い また、封建軍制の日本軍で、指揮下の御家人衆に地域の放棄を容認させるほど 小弐景資の軍事統帥権が強力だったか疑問 彼の指揮下には博多周辺に所領を持つ御家人も少なくなかった筈である 勿論、戦場の霧効果も無視できないし、小弐景資の状況判断を示唆する史料が乏しいため、 水城への後退が予定の作戦行動だったのか、苦戦の末の撤退だったのかを判断するには 材料不足で、新たな史料の発掘が待たれる
博多周辺に所領を持つ御家人は、小弐景資の指揮下には入らず、個別に戦っていた。 そういった御家人たちは戦後「御家人が自分の所領を守るために戦うのは当たり前」 として、幕府の恩賞の対象から外されている。
つまり戦場には小弐景資の指揮の及ばない部隊が少なからぬ数存在していたことになる これらの部隊が自分の部隊の周辺の状況のみを頼りに各個の判断で優勢な戦場を棄て、 整斉と水城に後退したとは信じ難い 状況証拠及び戦術的妥当性からいえば、水際〜博多周辺での戦闘で 日本軍が優位に戦ったとする推測はますます成立しにくい
>>331 博多周辺に所領を持つ御家人とは松浦党など。
こういった武将たちは文字通り元軍と死闘を繰り広げていたし、日本軍の中での
損害も集中している。
ただ、小弐景資自身は最初から博多周辺での戦闘には淡白だった。
この辺は外国との戦争経験が少ないことが影響してると思うし、そのため大損害を
受けた民間から非難されたのも仕方が無いと思う。
ただ結果的には20日の戦闘では、小弐景資指揮下の主力部隊はほとんど温存されたし、
元軍が翌日以降の戦闘継続が不可能との判断を下したのも事実だろ。
淡白というより状況がつかめず動けなかったと考えるのが妥当だろう 組織だった指揮系統も情報伝達組織も満足に整備されていない当時の日本軍が 組織的に内陸撃破型の対上陸作戦を展開できたとは考えにくい 統帥上の欠陥と情報不足のため水城から動くに動けなかった日本軍主力部隊、 全般の戦況もわからず各個に目前の敵と戦った挙句に損耗して 水城まで撤退を余儀なくされた水際部隊、というのが実情だろう 元軍の実情はともかく、小弐景資以下の前地の戦闘に対する状況判断は 相当に悲観的だったに違いなく、戦闘で日本軍が元軍を圧倒したとは考えにくい
>>333 それでは元軍が水城まで進軍できず、たった1日で撤退に追い込まれた説明がつかない。
当時の日本軍に組織だった指揮系統や情報伝達組織が整備されていないなどということは無い。
竹崎季長が小弐景資の陣を訪れた際、日本軍の大部分がその指揮下に集結し、元軍が進出してきた
ところを、一同にて追い物撃ちする作戦だと告げられている。
現実に日本軍はその作戦に沿って、夕刻まで4倍の敵に対して戦線を維持した訳だろ。
あと、文永の役では博多での戦闘で日本軍が大きな損害を受けた形跡が無い。
伝わっているのは、松浦党が多く討たれたと言うことぐらい。
竹崎とかも最前線で戦いながら主従5人とも生存。
菊池氏も赤坂で元軍に100余人で突撃したはずなのに、元軍を撃破して引き上げてきた時も同じく100余人。
これが弘安の役だと、小弐一族だけでも多数の戦死者が出ているのに。
20日日没までに水城に到達できなかったのは、元軍の損害が大きかったためと考えられるが、 それがすなわち日本軍が元軍を圧倒していたことを意味するものではない 日本軍の任務は元軍の撃退であり、上陸する元軍を水城以西に阻止することではない 戦場で戦闘を優位に進めていたとすれば、日本軍は元軍を水際で撃破できて然るべきで わざわざ優勢な部隊を後退させて水城に全軍を集結させた行動は不可解極まることになる 事実、20日の戦闘で箱崎正面の島津勢と大友勢が押し込まれて夜に離脱し、 中央戦線も圧迫され今津、麁原等が奪取されている 少なくとも、量的に劣勢な部隊がほとんど無傷で突撃を敢行するような 圧倒的なキルレシオで戦っていたとは考えにくい 赤坂正面における菊池武房勢他約二百余名の突撃は、八幡大菩薩愚童訓では 成功と記されているものの、菊池武房は負傷、落馬して後退しており、 封建軍制下の軍隊で突撃に成功した部隊及びその指揮官の行動とは考えにくい 日本軍が水城に集結したのは、概ね三方向から侵攻する敵の圧迫に 対応できなかったからに他ならない 戦場には前線指揮官である小弐景資の指揮下に入らずに戦闘する部隊があり、 これらの部隊は小弐景資の与り知らぬ場所で各個に戦い、しかも当然ながら 戦況や戦闘を小弐景資に報告する筋合いは無い こうした指揮系統及び情報伝達組織の混乱を回避して、全部隊を掌握するため 水城に集結させたと考えるほうが戦術的には妥当
>>335 八幡愚童訓って、もともと八幡神の霊験を強調するために書かれた文献だから、
元軍については誇張し、武士の戦果については控えめに書く傾向があるの。
更に後世の写本になればなるほど、その傾向が強くなる。
菊池次郎130騎、託磨別当太郎100騎、都合230騎と書かれているのは写本の方ね。
菊池武房は落馬したのではなく、馬当てといって当時の武士たちが敵の首を取る
ために行なう、ごく当たり前の戦い方をしていたのに過ぎない。
八幡愚童訓では何故、菊池武房の突撃が賞賛されたのかについては書いてないけど、
元軍はその後、他の日本軍の追撃を受けながら、二手に分かれて赤坂から麁原まで
敗走してるんだよね。
一方の菊池武房は、元兵の首を掲げて意気揚々と水城へと引き上げてる。
少なくともこの方面での戦闘では、日本軍が元軍を圧倒しているだろ。
あと、小弐景資は最初から元軍を水際で撃破しようとはしていない。
その理由は元軍の上陸した辺りは足場が悪く、騎兵の運用に適さないからだそうだ。
水際撃破を選択できなかったのは前述のとおり指揮系統と情報伝達組織の問題によるもの 水線部の砂浜は当然騎兵の機動を制限するが、当時の日本騎兵は随伴歩兵に掩護された弓騎兵で、 大陸のような重騎兵の集団突撃を行わない 砂浜で騎馬武者が戦闘した事例は決して少なくない また、博多周辺が騎兵の運用に適さないとは考えにくい 武士は水田部や山間部でも易々と戦闘している 戦闘で常勝していた日本軍が水城まで後退する戦術的理由はない もし、日本軍が元軍を圧倒していたのならば、日本軍は戦場で常に敵を撃破し 元軍の組織的戦闘力を破壊しかねないほどの大損害を与えながら、 後退を重ねていたことになる これは戦史上でも非常に奇怪きわまる現象と言わざるをえない
水際撃破を選択しなかった理由について、小弐景資自身の説明が『一所にて合戦候べき由、 候申き。赤坂は馬の足立ち悪く候。ここに控え候はば、定めて寄せ来たり候はんずらん。 一道に賭けて追物射るべき由申さるる』なんだから、それで納得するしかないだろ。 あと、当時の日本の騎兵が集団突撃を行わない、というのも根拠不明。 小弐景資が博多でやろうとしていた一斉追物射ちなんて、重騎兵の集団突撃以外の 何物でのないじゃん。 小弐景資は自分の指揮下に集結した御家人に対して『言質の約束を違へじ』と誓わせて いたから、かなり強固な軍事統帥権を持って、組織的に戦うことができたんだよね。
小弐景資のコメントは水際撃破を選択しなかったのではなく、 選択できなかったと捉えるべき 戦場には小弐景資の指揮下にない日本軍部隊が各個に戦闘しており、 彼は戦場を整理するためにも水城に部隊を集結させる必要があった 日本騎兵は随伴歩兵を伴う小規模な戦闘チームを組んで戦うため、 大陸で行われていたような重騎兵による騎兵突撃は行わない それ以前に、追物射とは騎射のことであり、騎兵突撃ではない 小弐景資が御家人衆に要求した誓約は、封建軍制で封主から 軍の戦場指揮を委譲された封臣の軍事統帥権を保証しているだけ これをもって通常の封建軍の水準を越えた強固な軍事統帥権を 有していたことにはならない
描かれているのは集団で騎射しているのであって突撃ではない 騎射は衝撃力を伴わない
突撃とは、敵を地域から駆逐しその組織的戦闘力を直接破壊するために 行われる攻撃の一形態 この時期の突撃は、騎馬であろうが徒歩であろうが白兵をもって実施される 古今東西、弓騎兵の騎射による騎兵突撃という事例は存在しない フンやモンゴルのような弓騎兵で名高いステップ系騎兵ですら、 突撃は刀槍その他の近接戦闘装備の重騎兵が行っている
騎射の後、接近したら刀で斬りつけるんだろ。
躍進距離が足りない 嬲り殺しになる
そもそもこの時代の日本の軍制には、騎兵単一で突撃するという発想はない 騎兵である武士と、一部騎乗の場合もあったが随伴歩兵である郎党の 小規模な戦闘チームが当時の日本軍の最小戦闘単位 騎兵のみを抽出して独立的に運用することは当時の日本の封建軍制が許さないし、 それ以前に当時の日本で行われていた戦闘では、騎兵突撃を行う必要性も意義も無い
騎馬と歩卒がよーいドンで突進したら 一時的に騎馬だけが突出する。 歩卒は後から追従した。 騎馬が一時的に歩卒から離れる事を否定するなら 疾走しながらの騎射自体が成り立たなくなる。 平安末から鎌倉期では歩卒を伴わず騎馬武者だけで騎射する絵が多い。 蒙古襲来絵詞もその一つ。
一時的にでも騎馬が歩卒から離れる事を否定するなら 日本の騎射戦術だけでなく、 同様に歩卒を伴って行動した西欧騎士のランスチャージも否定する事なる。
>>346 だからといって、騎馬突撃が行われた根拠にはならないでしょう。
そのようにして騎射が行われていたってだけで。
西欧では国王直属軍や封臣軍、各召集軍単位で騎兵を抽出して 単一兵科部隊として運用する 同じ封建軍制ではあるが、こういう些細な点まで同じではない 騎射で騎兵が一時的に随伴歩兵と分離することと、 騎兵を集成して独立した単位として運用することは全然違う 騎射と騎兵突撃は戦術的な効果も役割も全然違う 騎射は主に襲撃や小規模な小競合いのような場面で大きな効果を 発揮する攻撃機動で、重歩兵の方陣が相手では戦術的効果は薄い 騎射の射程は概ね最大30メートル程度で、徒射に対して劣る この上更に射撃の後に弓を棄てて突撃隊形に組み直し、 改めて抜刀突撃するためには躍進距離が足りないし、 当時の日本封建軍の編組を考慮すれば出来るわけがない
つーか日本武士が弓を射た後にそのまま突撃したケースなんてあったっけ? どうも仮定に仮定を重ねた不毛な意見にしか見えない。
重装歩兵の密集陣と騎馬弓兵の戦闘っていうのもなかなか例がないな。 クラッススがパルティア人に壊滅させられたカルラエの戦いぐらい?
文永の役で、現実に騎兵突撃を行なう日本軍が資料に描かれているのに、 「騎兵単一で突撃するという発想はない」なんて言うのは、何の根拠もない 単なる思い込みじゃん。 「衝撃力を伴わない」とか言ってるけど、日本軍の戦法の「馬当て」なんて 騎馬の衝撃力を武器にした戦法以外の何物でもないだろ。 当時、小弐景資の指揮下には日本軍の大多数が集結しており、元軍はその強固な 組織力に、まったく歯が立たなかった。 攻撃を仕掛けた元軍副将の劉復享が逆に返り討ちに遭う始末だ。 文永の役は、『元史日本伝』が敗退の理由として「官軍整わず」と元軍側の軍法の 乱れを挙げているように、組織力で勝る日本軍が4倍の元軍を撃破した戦い。
騎射と騎兵突撃は別物 衝撃力とは馬の体当たりでなく機動の発揮による戦闘力の集中の意 元軍が全く歯が立たなかったのに日本軍が水城に後退、集結したのは戦術的に非論理的
小弐景資が部隊行動に適さないとしていた赤坂正面で 菊池勢他の小規模な突撃が大成功したというのは矛盾 しかもその突撃の成果を拡大せず、無為に水城に後退して 博多を放棄した行動も不可解 結局、戦闘は概ね一連の不期遭遇戦の形で推移し、 両軍ともに戦場では大損害を受けていたと考えるのが妥当
>>354 文永の役で敗退したのは元軍だろ。
博多から水城までなんて、騎馬なら30分程度で移動できる距離。
普通に同一戦場じゃん。
一方の元軍は、乗船して日本から離れている。
どちらが敗北したかなんて一目瞭然だろ。
「敗北した元軍が、勝利した日本軍に全く歯が立たなかった」のどこが非論理的なんだよ?
それだけ離れていればまったく別の戦場 現代とは戦場のスケールが違う
>>357 乗船して日本から離れた元軍を「敗退した」とは言わないの?
博多から水城まで直線距離で約10キロ程度 これを同一戦場と断ずるにはいささか無理がある
元軍が作戦企図を放棄して撤退することと 「戦場で日本軍が元軍を圧倒していた」こととは違う
>>359 文永の役の戦場は、今津から箱崎にまで及んでいた。
その距離は博多から水城までの距離と大して違わないぞ。
そもそも、騎兵突撃の「衝撃力」を「機動の発揮による戦闘力の集中」と定義するなら、 日本軍が集団で一斉に行なう追物討ちは、立派に「衝撃力」を伴っているだろ。
20日の戦闘は概ね三個正面で独立的に推移している 同一戦場ではない
突撃の要旨は、機動を発揮して戦力を集中し、その衝撃力をもって敵の隊列を崩し、 敵に地域の放棄を強要し、可能ならば最終的に敵の組織的戦闘力を破壊することにある 騎射の戦闘力はこのような要件を満たせない 騎射に限らず投射兵科の戦闘力の根幹を成す主たる要素は火力であり、 突撃を行う近接戦闘兵科の戦闘力の主要素である機動とは根本的に相容れない 戦術の歴史は機動と火力の相克を基調として発展しており、 投射兵科である弓騎兵に突撃を強要するのは、カラコールの例を問うまでも無く ほとんど何の成果も伴わないだけでなく、弓騎兵の貴重な戦術的地位と役割を 否定することに他ならない
武士という当時の軍事エリートを成員とする当時の日本武士は、 イランの自由農民を起源とし、比較的重装で、村落や農地を略奪から防護し、 近隣の村落との紛争に対応するために生まれたカタフラクトに近い発展過程を辿る カタフラクトも、槍や刀だけでなく、弓も装備した一種の中騎兵または万能騎兵で、 随伴歩兵を伴い戦闘に従事した 日本騎兵がどちらかと言えば弓に重点を置いていたのに対し、 カタフラクトが主に刀槍を用いていたのは、 周辺のステップ系騎兵が有力な弓騎兵の供給源として存在していたからで、 カタフラクトは後に東ローマで編制兵科に採用され、 更にフランク王国のカバラリウスの原型となり、その過程で 野外決戦における要求から集成統一運用の構想が発生、制度化されている 日本武士にはこうした動きがなく、騎兵を抽出して統一運用する発想は生まれていない
>>353 資料に描かれているって、
>>340 の蒙古襲来絵詞見る限りじゃあ、
日本軍がやっていることは正に騎射であって、突撃じゃあないでしょう。
資料を根拠にするなら、明らかに騎馬突撃はなかったという方に分がある。
衝撃力=馬当てという斬新な発想に噴いた。
>>364 突撃が必ず近接武器でなければならないという発想がおかしい。
じゃあ、突撃銃って何よ?
カラコール戦法が失敗だったのは、当時の銃が単発だったために射撃の終わった後は、
後方に退いて、弾込めを必要があったからだろ。
連射可能な弓騎兵と一緒にするべきではない。
突撃銃とは従来の歩兵用小銃にかわって弾を小型化させ 射程を犠牲にする代わりに連射性能を向上させた自動小銃 携行弾数が増加するという副次的効果もあったが、 一方で弾の小口径化による威力の低下や連射機能の必要性に対して 疑問視する声も少なくないが、当分は歩兵の標準的な小火器として 用いられると思われる ちなみに突撃するから突撃銃というのは全くの誤解 近世以前の戦闘と、金属製薬莢式後装旋条銃が普及した20世紀の戦闘を その軍事技術を無視して同一に論ずること自体に無理がある カラコールを行ったピストル騎兵は複数のピストルを携行していた 一発撃ったら装填のために後方に退いたというのは全くの誤解
突撃銃云々は言葉遊びみたいなものだけど思いついたら書いてみたくなった。 突撃は、何の武器で行なわれるかではなく、何の目的で行なわれるかで定義されるべき。 中世の合戦が、楯突き戦から馳組戦へと移行するのは、武士に敵の隊列を崩し、 敵に地域の放棄を強要し、 可能ならば最終的に敵の組織的戦闘力を破壊することを期待しているからだろ。 武士に火力だけが求められるのなら、大鎧を着用する必要も、騎乗する必要も、大小の日本刀を装備する 必要もない。 重装弓騎兵みたいな兵科自体が、日本以外にあまり例がないんだから、世界の他の地域では違うとか言っても 無意味じゃん。 現実に文永の役で日本軍は弓騎兵による突撃を行い、元軍はその前に敗れ去った。
あのな、馬に乗って刀剣を持ってれば、世界中何処でも状況次第で騎乗突撃はやるんだよ。 遊牧民系の弓を所持した軽装の騎兵が射撃専門で全く騎乗突撃をしなかったと思っているならそれは大きな間違いで、彼らだって騎乗突撃を行う。 ましてや、日本の騎馬武者は重装である。 どうしても日本の騎馬武者だけは騎乗突撃しなかったことにしたい奴がいるようだ。 その理由として「封建制の元では歩卒が伴っており、単一の兵科として集中運用されていなかったため、騎馬での突撃はなかった」とか言う。 しかし、例えば50メートルの距離で、盾を並べて弓による射撃戦をした後、敵が怯んだ隙を見計らって、 騎馬武者と歩卒の主従混成部隊が突撃を行ったケースを想定してみよう。 当然の事ながら、一時的に騎馬武者が先行し、歩卒が遅れる形になる。 ただし、遅れると言っても、50メートルの距離だと、ほんの数秒の時間差しか生じない。 まあ、3〜4秒差程度かな。 ほんの数秒程度歩卒の突入が遅れたところで決定的な問題を生ずるものではない。 むしろ騎馬の主人が刀で撃ち倒した敵を、駆けつけた歩卒が止めを刺すには丁度良いタイミングとさえいえる。 したがって「封建制の元では歩卒が伴っており、単一の兵科として集中運用されていなかったため、騎馬での突撃はなかった」と言う論拠は全く成立し得ない。
弓騎兵は洋の東西を問わず珍しくない 重装か軽装かは装備の違いに過ぎず、運用とは関係ない 現実に文永の役で日本軍は騎兵突撃を行っていないし、 それを示す資料も存在しない 日本軍の突撃は専ら騎兵と随伴歩兵の戦闘チームによる歩騎協同の突撃
>日本軍の突撃は専ら騎兵と随伴歩兵の戦闘チームによる歩騎協同の突撃 突撃してるじゃないか。
騎乗突撃すなわち騎兵突撃ではない 論じられているのは、封建軍隊であった当時の日本軍において 編制から騎兵のみを抽出して集成編成し、単一兵科部隊として運用し 騎兵突撃を行っていたか否か
装備を基準に運用が決定されるわけではない 運用があって装備が決定する 装備を基準に運用を決めるなど本末転倒
ちなみに、騎乗した兵士が突撃したら全て騎兵突撃と断ずるのは暴論 前述したように当時大陸で行われていたような騎兵突撃は日本では行われていない
無論、日本軍も突撃を行うが、それは大陸スタイルの騎兵突撃ではないし まして騎射による突撃などは行わない
ちなみに、現代の標準的な突撃銃であるAK47は装弾数30+1発で連射速度は毎分約600発 当時の鎌倉武士がいかに騎射に長じていたとしても突撃銃のような芸当は無理
そもそも日本で騎兵だけを抽出して単一兵科を編成してたなんて主張する奴はいない。
当時の日本で騎兵だけを抽出して単一兵科部隊を集成編成して運用した事例はない すなわち、騎兵突撃は行われていない
>>375 お前が言いたいのは
「騎乗突撃すなわち騎兵突撃ではない」ではなく
「騎乗突撃すなわち単一兵科として編成された騎兵部隊による突撃ではない」ではないのか?
それなら議論する余地も無く結論は出てるだろう。
>当時の日本で騎兵だけを抽出して単一兵科部隊を集成編成して運用した事例はない 当たり前
当たり前のことを何度述べても理解しない人ガイル
どこに?
>>387 大陸みたいな騎兵単一兵科による騎兵突撃が行われていないという意見に
絵巻を頼りに反論している人。
>文永の役で、現実に騎兵突撃を行なう日本軍が資料に描かれているのに、 >「騎兵単一で突撃するという発想はない」なんて言うのは、何の根拠もない >単なる思い込みじゃん。 >「衝撃力を伴わない」とか言ってるけど、日本軍の戦法の「馬当て」なんて >騎馬の衝撃力を武器にした戦法以外の何物でもないだろ。 少なくとも一人はいるなw
突撃銃があるから弓で突撃するって言ってる人は?
日本の騎馬武者は徒歩の従者を伴って騎兵突撃を行ったが 騎馬武者のみで編成される部隊を形成することはなかった。 という結論でおk
>>368 ところでカラコール騎兵がピストル1挺しか持ってないっていう根拠は?
>>394 カラコール騎兵がピストル1挺しか持ってないとは書いてないよ。
>カラコール戦法が失敗だったのは、当時の銃が単発だったために射撃の終わった後は、 >後方に退いて、弾込めを必要があったからだろ。 >連射可能な弓騎兵と一緒にするべきではない。
>>396 何でだよ?
当時の銃が単発なのも事実だし、カラコール戦法が前方での射撃と後方での
装填を繰り返す戦法なのも事実だろ。
>>387 もう一人いた
>>371 >したがって「封建制の元では歩卒が伴っており、単一の兵科として集中運用されていなかったため、騎馬での突撃はなかった」と言う論拠は全く成立し得ない。
つーか過去ログ読めよ・・・
つーか「おk」じゃないだろ。
勝手に一人で結論だすなってw
>>353 の反論マダ?
お前ら中世の文献には、現実に騎馬武者が歩兵を伴わずに行動している場面が、 幾つも書かれているという点については、どう考えてるの? まず固定観念があって、それに反する記述は全部間違い?
いきなり脈絡も無く何を言い出すんだ?
徒歩の郎党を伴ってる場面もいくつも出てるけど、固定観念?
つまり、徒歩の郎党を伴うこともあれば、騎馬武者だけで戦うこともあるってことだろ。
つーか誰もそんなこと論じてないだろ いきなり何言ってるんだ?
近藤好和「騎兵と歩兵の中世史」吉川弘文館 「まず『太平記』で注目されるのは、次の記述である。 巻八・山崎合戦 (軍勢を)三手に分つ、一手には足軽の射手を勝て五百余人小塩山へ廻す、 一手をば野伏に騎馬の兵を少々交て千余人、狐河の辺に引へさす、一手をば 混すら打物の衆八百余騎を汰て、 赤松満祐による軍勢の手配を記しているが、この記述からは、その軍勢が「人」 で数えられる歩兵集団、野伏(おそらくは歩兵)に騎兵を加えた集団、さらに 「騎」で数えられる騎兵集団に分けられ、しかも集団ごとに役割分担があり、 歩兵と騎兵の連携を促していることがうかがわれるが、・・・」
足軽が登場した南北朝時代の話じゃん。 鎌倉時代のはないの?
「騎」というのは西欧の「ランス」と同じように 武士とその郎党を加えた集団でしょ。 純然たる騎兵集団とはいえないと思われ。
単位としての騎の定義は様々で、文字通り騎乗兵の数のみを示す場合もあれば 騎兵である武士と騎乗または徒歩で随伴する郎党を一括りにした場合や、 騎乗も徒歩も合わせた兵士の総数を表す場合もあるし、 足軽や野伏のような非武士身分の兵士と武士身分の兵士を区別するために 足軽や野伏を人で、武士身分の兵士を騎で数えることもある 騎の表現が騎兵のみを示唆しているとは限らない 時代は下るが旗本八万騎が騎乗した旗本八万名を意味しているわけではないのと一緒
ちなみに南北朝時代でも大陸のような騎兵突撃は行われていない
>>412 そんなことを断言できるほど、南北朝時代の合戦の研究は進んでないだろ
つーか何故南北朝時代? 話題ずらそうとしてる?
すごい爆弾発言
>>413 では大陸のような騎兵突撃が行われていた根拠を
417 :
世界@名無史さん :2007/01/03(水) 13:14:08 0
>>350 遅レスですが
>騎射の射程は概ね最大30メートル程度
というデータに興味があるので出典を教えて欲しいです。
>>416 やっていた根拠が無くとも、やっていない根拠も無い
断言するにはまだ早い
今はまだわからないとしか言えないんだから
流鏑馬とか見てると、人間のほうが的が大きいことを勘定に入れても 30mは十分長いと思うけど。
南北朝時代は騎兵突撃をやってたかやってないかわからないのに 元寇の時は騎兵突撃をやっていたって矛盾してません?
普通は、(騎兵突撃を)行っていたことを示唆する史料が存在しなければ 行っていなかったという結論になるのだが
射程30メートルと考えた場合、馬を疾走させながら前方に騎射を行なえば、 数秒後には敵陣の真っ只中に居ることになる。 射終わった後に回避しようとしても間に合わない。 これって突撃そのものだろ。
もう想像だけで騙るのは止めたら?
騎射しながらそのまま敵の方陣に突っ込むなんて自殺は 大陸でも日本でも行われていない
"Firearms"って本に載ってた明末の兵書の抜粋で 軽騎兵が馬を馳せながら騎銃を発射し 撃ちつくすと銃を左手に持ち替えて盾にしながら 抜刀してそのまま突撃する図があったが それはまた別か
攻撃してたら何でも突撃だと思ってません? 突撃は重騎兵のお仕事ですよ。
攻撃なら何でも突撃だと思ってませんか? 突撃は重騎兵のお仕事ですよ。
攻撃なら何でも突撃だと思ってませんか? 突撃は重騎兵のお仕事ですよ。
うわ。 多重レスごめんなさい。
430 :
世界@名無史さん :2007/01/05(金) 09:55:00 0
16世紀の明で重装騎兵と軽騎兵の役割分担があったかどうか、興味深い。 ネット上で中国人が書いてたけど、三国時代の末から五胡十六国の時代にかけて鐙の普及があり それと関係あるかどうか分からないが重装騎兵がランスチャージを行なうようになる。 でも歩兵も野戦築城や密集陣でその脅威に対抗するようになり、また軽装の騎兵には接近戦に 持ち込もうとしても逃げられるので重騎兵の使い途がなくなり、唐の時代までに衰退してしまったそうだ。 12世紀には金の鉄騎兵に対抗して南宋の重装歩兵が戦っているけど、詳しくは知らない。 明ではラメラー装甲やチェインメイル、ブリガンディンのようなものなどが使われていたようだから 少なくともプレートアーマー普及以前の騎士程度には重装甲にできたはず。 戚継光の騎兵の装備とか見ても武器しか書いてないのでさっぱり分からないが。 当時の明の騎兵は歩兵部隊に突撃する機会などほとんどなかっただろうが(たいていの場合敵兵力の ほとんどが軽騎兵)、騎兵相手にどう戦っていたのか。
>>424 現実に元軍は蹴散らされて逃げ帰っただろ。
>>431 弓と歩兵に蹴散らされたかもしれないじゃん。
近世西欧の抜刀騎兵は前列がピストルで射撃した後に突撃したりしてるケースもあるが、 これは携行に便利で突撃隊形のまま射撃できるピストルだからできることであって、 弓や弩でこれをやったケースはないな。 流鏑馬だって的に向かって駆けたりはしない。
しかも近世西欧のケースはあくまで抜刀突撃が主で、ピストル射撃は 景気づけみたいなものだし。
>>433 現在行なわれている流鏑馬と鎌倉時代の騎射は完全に同じという訳ではない。
文献や絵巻で見る限り、当時は進行方向への騎射の方が主流。
当時の絵巻とか見てると真正面じゃなくて斜め横だね。
真正面だと馬の後頭部が邪魔で弓射れないよな しかも和弓って大きいし
中世日本の騎射術には馬の首の右側に弓を構える馬手射のように 正面に弓を射る射法もあり、鎌倉武士の射角はかなり広い ただし、三十年戦争の頃のスウェーデン騎兵のような、 騎射した後にそのまま突撃に移行するような事例は皆無 本来、鎌倉時代の軍制は主に小規模な小競合いや襲撃、遭遇戦等を 想定して練られているので、騎兵突撃のような機動を行う必要はなかったし、 そうした訓練も行っていない
源平の戦いや承久の乱で、何度も万を超える軍勢が動員されているのに、 それに対応する軍制が無いわけないだろ。
>>439 いや、それがないなんて誰も言っていないでしょう。
ただ騎馬突撃はなかったよってだけで。
>主に小規模な小競合いや襲撃、遭遇戦等を >想定して練られている 誰も一言も無いなんて言ってないなw
根拠が絵巻だけじゃな。 しかもその絵巻だって騎兵突撃じゃないし。
絵巻のは騎兵突撃だろ。 日本軍の騎兵部隊の戦闘にかんする文章表現は「駆け入る」もしくは「駆け散らす」。 敵部隊に突入してるじゃん。
蒙古襲来絵詞に描かれているのはどう見ても追撃で突撃じゃないね。 突撃と追撃は全然違うよ。
上のほうのレスにもあるけど、攻撃=突撃だと思ってるの?
「駆け入る」もしくは「駆け散らす」ってのが突撃じゃないのなら一体何?
そんなの文章の前後から推測するしかないでしょ。 それもせずに「駆け入る」「駆け散らす」=突撃って短絡的に解釈してるの? そもそも騎馬武者と徒歩の郎党の協同突撃は誰も否定してないし。 >源平の戦いや承久の乱で、何度も万を超える軍勢が動員されているのに、 >それに対応する軍制が無いわけないだろ。 これだって相当に短絡的だよね。
結局、騎兵突撃肯定派の人の根拠って、 蒙古襲来絵詞に書かれてるからってことだけなの? それじゃあもう「参ったって言わなければ負けない状態」だね。 レスの無駄だよ。
ここまで読んでもよく分からないんですが とりあえず隊伍を組んで上陸してきた元軍に 鎧武者が騎馬で接近して矢を放つ。ここまではいい。 で突撃派の人はそのまま突っ込んで戦うと考えている? その場合近接兵器に持ち替えて斬りまくる? それともある程度距離を維持したまま弓矢? 非突撃派の人によるとどうなるの? ステップ遊牧民の騎兵のように後から来た連中と 入れ替わりに後退する? それともやはりある程度距離を維持したまま射撃を続ける?
元軍は概ね三箇所から上陸して橋頭堡の構築は概ね達成 日本軍は各個に独立的に行動しつつ上陸地点を目指して進撃 元軍の内陸侵攻の過程で各侵攻経路上で一連の不期遭遇戦が生起し 両軍にかなりの損害が発生 日本軍は水城に後退して再編成 元軍は内陸侵攻の企図を放棄
452 :
世界@名無史さん :2007/01/08(月) 04:25:33 0
スー族 VS カスター将軍
age
age
455 :
某研究者 :2007/01/10(水) 07:39:07 0
西欧の騎兵では騎馬弓兵には勝てず モンゴル騎兵の弓もトルコ弓と同様の物だろうが 近接戦闘では重装のトルコの騎兵の方が 強いと言う事かも知れぬが 騎馬武者も重装だろうが 弓は威力不足と言う事かも知れぬが
456 :
某研究者 :2007/01/10(水) 07:42:32 0
リチャードや グスタフ・アドルフの騎兵の様に歩兵の支援が有れば サーベル騎兵や槍騎兵も 弓騎兵に勝てると言う事かも知れぬが (故に歩兵の支援を受けた重装槍騎兵が 最強なのかどうかだが) 日本の騎馬武者は歩兵の支援は常に受けているだろうが トルコやモンゴルはどうなのだろうか
457 :
某研究者 :2007/01/10(水) 07:48:26 0
458 :
某研究者 :2007/01/10(水) 07:55:42 0
歩兵の支援を受ける場合は 歩兵対歩兵の勝負に成る訳だろうし 16世紀辺りでは砲兵の多い仏やスウェーデン等が 有利と言う事かも知れぬが 15世紀ではトルコの方が砲は多いかも知れぬが 野戦向けの軽量砲は無いので フス戦争の戦車の様な物が一番 有用かも知れぬが
459 :
某研究者 :2007/01/10(水) 07:58:26 0
13−14世紀では英のロングボウ兵では無く トルコやモンゴルの徒歩の弓兵の方が 強いと言う事かも知れぬが リチャードの様に馬車等を盾にすれば クロスボウでも対抗可能だった訳だろうか
460 :
某研究者 :2007/01/10(水) 08:00:11 0
まあしかしローマレギオンや ギリシャのファランクスの様な物に 弓は何処迄有効なのかだろうし 飛び道具は石や投げ槍が主流だったのは弓が余り 通用しなかったからと言う事では無いのかだが
461 :
某研究者 :2007/01/10(水) 08:03:56 0
ノルマン・バイキングのシールドウォールと言うのも 弓は可也止まるかも知れぬし ヘースティングスでは歩兵に対して弓は 殆ど通用しなかったかも知れぬし 盾で騎兵の突撃も止めていた訳だろうが (まあ後で出て来る 槍に体重を掛けて突撃するタイプの騎兵は 盾で止めるのは無理だろうが) 矢を上に放ち盾を上に向けさせた後 騎兵が突撃して勝ったと言う 事だっただろうか
462 :
某研究者 :2007/01/10(水) 08:06:57 0
スコットランドのシルトロンも 盾は有ったのかどうかだが 左右からロングボウの射撃を受けた為に 盾が役に立たなかったと言う 事だったかも知れぬが (クレッシーのジェノバのクロスボウ兵も 盾(パビス)は 持って居たかも知れぬが 左右から打たれたので盾が役に立たなかったと言う 事かも知れぬが)
463 :
某研究者 :2007/01/10(水) 08:15:23 0
シールド・ウォールは ノルマン勢力衰退後は 廃れたと言う事かも知れぬが シルトロンが使われて居た時は 未だ有ったのだろうか (十字軍歩兵がシールドウォールで イスラムの弓を止めたと言う事は 有ったのかだが 包囲されて射撃されシールドウォールが 無効化されると言う事も 多かったと言う事かも知れぬが)
464 :
某研究者 :2007/01/10(水) 13:43:32 0
鎌倉時代の日本軍と 十字軍が戦ったら 騎兵隊騎馬武者で戦えば 後者が弓で馬を倒して勝つかも知れぬが (馬を狙わないと盾で矢を止められる恐れが 有る訳だろうか) 歩兵対歩兵ではシールドウォールで 矢を止められて 一方的にクロスボウや単弓でやられる恐れも 有るかも知れぬが 発射速度の遅いクロスボウを打つ相手に対して 突撃を掛ければだろうが 接近戦で徒歩武者が別段有利なのか どうかだが 両手用の重い長巻が主体と言うのは 有利かも知れぬが (十字軍の場合盾と短槍が 主体だろうか)
465 :
某研究者 :2007/01/10(水) 13:47:07 0
十字軍騎士が篭って シールドウォールで騎馬武者の弓を止め 弓で反撃すると言う方向はどうなのかだが 徒歩武者と騎馬武者が同時に突撃したら アウトと言う事は 無いのかどうかだが (騎士の突撃は弓歩兵や騎馬武者に 阻止され シールドウォールは徒歩武者の攻撃で 崩されると言う事だろうか)
466 :
某研究者 :2007/01/10(水) 13:49:45 0
塹壕等で歩兵の攻撃を止めればだろうが 相手が攻撃しない限り 何も出来ぬ訳だろうし 此れは16世紀の西欧の塹壕戦の様な 状況にも成り得るだろうか
467 :
某研究者 :2007/01/10(水) 13:55:55 0
モンゴルやトルコには シールドウォールは有るのか どうかだが
468 :
世界@名無史さん :2007/01/10(水) 14:11:22 0
話の種提供 1981から1983の間にK谷市H陽中にてS間K里5XXの 7某西山家系太市の子禎孝とその仲間たちは 5弱者にいじめがバレたら親族に危害を与えると脅迫し、 2えたひにんと呼び、遺書や奴隷契約書を書かせ、 3殴る蹴る汚すを繰り返し、金銭も恐喝していた。 2こういう類は親族ともども不幸とは無縁の 7社会的信用を得たお金持ちの生活をしている
山桜に風 2005-05-23 20:04:25 No.163454
--------------------------------------------------------------------------------
佐藤鉄太郎氏は「軍事史学」特集・元寇(第38巻第4号)のP.63でこう述べられています。
【源平の争乱時代から合戦の通常の戦法は騎馬隊が集団で敵陣に突撃する戦法
であり、双方が合意して一騎打ちを申し合わせたというような特別な事情の場
合のみ一騎打ちが行われたのであり、合戦に於いて一騎打ちは通常の戦法では
ない。
『八幡愚童記』に日本の武士達が一騎打ちの戦法をとったと記されているため
に、その記述を真に受けて日本の武士達が蒙古軍に対して一騎打ちの戦法をと
っていたかのように誤解されてしまっているが、日本の武士達は各武士団それ
ぞれが騎馬隊を中心とする一団となって突撃する集団戦の戦法で蒙古軍と闘っ
ている。絵五はそのような日本の武士達の戦法を描いている絵である】
ttp://www.ch-sakura.jp/oldbbs/thread.html?id=162712&genre=sougou
>>451 単に内陸侵攻の企図を放棄しただけなら、わざわざ真夜中に出港する必要ないよな。
正確な海図もない時代、土地に不慣れな元軍が深夜に外洋に出たりすれば、座礁したりして
大損害を受けるリスクが高いし。
文永の役の元軍は、一刻も早く日本から逃げ帰ろうと必死だったってことだろ。
蒙古襲来絵詞の原文には「馬も射られずして、夷狄の中に駆け入り」と なっているから敵の中に突撃したのは間違いないだろう。 この中で「馬も射られずして」という表現があったのは日本の国内戦では 敵の集団に突撃すれば途中で馬を射倒されることがあったことを教えている。
>>445 追撃と突撃は矛盾する概念じゃないんだよ。
歴代戦争において敵軍が浮き足立って後退するところに
突撃を命ずることは全然珍しくない。
逃げる敵を追うんだから追撃になるんだろうが追撃に使う移動形式は
突撃ということになる。
というか逃げ惑う歩兵の群れに騎兵が突撃して蹂躙するのは
近世ヨーロッパでは良く見られた風景なんだがね。
>というか逃げ惑う歩兵の群れに騎兵が突撃して蹂躙するのは 普通はそれを追撃といいます >追撃に使う移動形式は >突撃ということになる。 なりません どーも突撃と追撃を混用されてるようで
突撃は敵の組織的戦闘力の破壊 追撃は組織的戦闘力を喪った敵に対する戦果拡張 前者は敵隊列を崩す衝撃力が、後者は敵を捕捉する機動力が求められます 従ってそのやり方は全く違います 突撃が戦闘力の集中のため緊密な隊形を組むのに対し、 長駆機動しなければならない追撃は主に行進隊形で行われるものです 騎兵が突撃隊形のまま追撃するなんてケースのほうが珍しい どんな戦例ですか?
>>474 中世の騎馬武者が騎兵突撃にため緊密な隊形を組むことは当時「魚鱗駆け」と呼ばれていました
騎兵突撃と追撃は違いますよ 追撃に密集した隊形を作ることは非論理的です
つーか
>>475 って答えにも反論にもなってない気が・・・。
話を蒙古襲来絵詞に戻すけど、あそこに書かれている武士団は、追撃ではなく 騎兵突撃をしているところだよ。 「凶徒麁原より鳥飼潟の塩屋の松の下に向け合わせてかせん(合戦)す。一番に 旗指馬を射られて跳ね落とさる。季長以下三騎痛手負ひ、馬射られて跳ねしところに、 肥後国の御家人白石六郎通泰後陣より大勢にて駆けしに、蒙古の軍引き退きて麁原に 上がる。」 白石六郎通泰率いる武士団は、向かい合って合戦している元軍に対して駆けている。 白石六郎通泰の騎兵突撃によって元軍が敗走し、それを日本軍が追撃する様子は、 別の場面として書かれているし。
騎兵突撃を示唆してるとはとても思えないが・・・・
『葦毛なる馬に紫逆沢瀉の鎧に紅の母衣懸けたる武者、其の勢百余騎計りと見へて、凶徒の陣をてやぶり、賊徒追ひ落として、首二、太刀と薙刀の先に貫きて・・・・・・ (『蒙古襲来絵詞』) 『ここに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分け、おしよせて、さんさんに、かけちらし、上になり下になり、勝負をけつし・・・・・ (『八幡ノ蒙古記』) これ突撃してないか?
これだって騎兵突撃を示してるとはとても思えませんね 騎馬武者には徒歩の郎党が随伴していますからね 上位の武士なら騎乗の郎党もしたでしょうが、大半は徒歩です 騎兵突撃と解釈するには無理がありすぎです 蒙古襲来絵詞も八幡蒙古記も戦闘詳報ではありません 字面通り捉えるのは無理がありますね 凶徒の陣を破ったと記されていますが、絵詞の描写は 主防御陣地の前衛部隊を追撃しているとしか見えません 大陸スタイルの騎兵突撃を行うには、封臣軍から騎兵を抽出して 集成して部隊を編成しなければなりません 封建軍隊であったフランク王国や中世西欧諸国には、 動員兵力を兵科単位で集成して部隊を編成することを示した勅令が 現存していますが、鎌倉時代の日本にははそれが行われたことを 示す動員文書は存在しません
西洋騎士は徒歩の郎党が随伴してても突撃するよ
徒歩の郎党と混在した状態じゃランスチャージは出来ませんよ
つーかそもそも薙刀という武器自体が騎兵突撃には向かない得物なわけで
中世西欧でも大規模な野戦軍が編成されない小競合いや襲撃のような 小規模な戦闘では騎兵突撃はほとんど行われてません そのような場面では、騎兵と随伴の歩兵による協同突撃が行われています 戦闘は何も大規模な会戦ばかりじゃありませんからね
竹崎季長は下級武士だが郎党まで全員騎乗していたよ
郎党の一部が騎乗していたの間違いです そもそも下級武士が揃えられる程度の人数では騎兵突撃にはなりませんw それは単なる自殺
そもそも郎党は当時の書物では員数外ですからねえ 特別な場合を除けばほとんど無視です
書物では無視されているが、騎馬武者には必ず徒歩の郎党が随伴した・・・ なんてことを何を根拠に言ってるの?
西洋騎士は徒歩の郎党が随伴していても突撃することは明確であって 日本の武士が徒歩の郎党が随伴を理由に突撃を否定するなど戯言にすぎない。
誰も突撃してないとは一言も言ってないぞ。 つまらん揚げ足取りだな。
蒙古襲来絵詞では、郎党は員数外の扱いになっていない。 普通に騎乗して戦闘に参加しているし、その負傷は恩賞請求の際に報告の対象になっている。 「旗指の馬、同じき乗り馬を射殺され、季長・三井三郎・若党一人、三騎痛手を蒙り、 肥後国の白石六郎通泰、証人に立て候て・・・」 「親類野中太郎長季・郎従藤源太資光、痛手を蒙り、乗馬二疋射殺されし証人に、 豊後国御家人橋詰兵衛次郎を立つ」 蒙古襲来絵詞は、鎌倉まで共をした中間の名前まで書き込まれている史料だぞ。 何で徒歩の郎党だけ無視しなけりゃいかんのよ? 歴史上の出来事なんて、史料に書かれていることから推測するしかないよな。 史料に書かれていない存在が、戦場で必ず随伴していたなんて、断言できる根拠は何だよ? 史料に書かれている騎兵突撃を、史料に書かれていない存在を持ち出して否定するなんて、 ありなのか?
たった騎兵3名で騎兵突撃?
つーか、騎兵突撃の根拠って絵巻だけ?
なかった根拠は妄想だけ
騎兵突撃を示唆する史料が存在しないだけなんですけどね(苦笑 騎兵単一兵科による突撃が慣用的に行われていたことを示す動員文書とか 軍令書とか示して貰えれば有難いんですが 挙句に突撃と追撃が同じと強弁されても困ります 上のほうで主張してる蒙古襲来絵詞の絵は騎射で騎兵突撃じゃありませんし
そもそも中央集権軍や後の絶対主義軍に比べて相対的に軍事大権が弱体で不安定な封建軍において、 従軍する成員の動員範囲を越えた戦闘編成を行うことには先天的に困難が付きまといます このため、例えばフランク王国では封主の陪臣に対する軍事大権を保証する勅令が幾つも残っています 一方で、鎌倉時代の日本には、御家人が自弁で準備した編組を解体し、 新たに兵科単位で編成し直すことを示す史料が見当たりません また、明文化されてなくても慣用的に行われていたことを示唆する史料もありません また、当時の日本の戦術的環境では、騎兵突撃を行う必然性も妥当性も存在しません
ところで竹崎季長の騎兵突撃って何騎で行ったの?
単一兵科の問題と突撃の問題は分けて語らんといかん
中世の合戦にかんする史料自体が少ないんだよ。
だから、この時代の合戦を考察するには、大抵の場合は軍記物なんかに頼るしかない。
でも、そうした史料の多くは制作者が不明だったり、成立時期が合戦から歳月の経過したもの
だったりと問題が多い。
その点、蒙古襲来絵詞は実際に戦った武士が監修しており信頼度は随一。
蒙古襲来絵詞に騎兵突撃が描かれている以上、それを否定できる信頼度の高い史料でも無い限り、
騎兵突撃はあったと考えるしかない。
>>496-497 が当時の合戦をどのようにイメージしているのかは知らんが、そんなの単なる妄想で
裏付けとなる史料なんか何一つ提示してないだろ。
>>496-497 >>480 が書いてる八幡ノ蒙古記の『ここに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分け、
おしよせて、さんさんに、かけちらし、上になり下になり、勝負をけつし・・・・・』
については、どう考えてるの?
菊池次郎の部隊は、蒙古襲来絵詞でも同じく百余騎。
>>492 に書いてあるように、蒙古襲来絵詞では郎党も員数外ではない。
これって騎兵単一兵科による突撃だろ?
無いものを証明しろなんていわれても困りますね 悪魔の証明って奴です
>>502 八幡ノ蒙古記に書かれている菊池次郎の騎兵突撃について、「徒歩の郎党の随伴」を理由に否定したんだよな?
蒙古襲来絵詞には描かれていないが、竹崎季長にも「徒歩の郎党の随伴」があったんだろ?
“あった”と書いた菊池次郎や竹崎季長への「徒歩の郎党の随伴」を証明すればいいだけじゃん
505 :
世界@名無史さん :2007/01/26(金) 09:28:18 0
>>504 鎧が安っぽいな・・・
というかモンゴルや元の小札鎧の肩のパーツってあんなローマの鎧みたいのじゃなく
こういう上腕部を覆うような感じだったと思う
ttp://www.tgorod.ru/contentimage/shpak/shpak_mongol.jpg 加藤和秀って人がティムールの戦争について書いてたけど
ステップ遊牧民同士の戦争ではああいう両サイドが一度にぶつかっていく感じではなく
右翼・左翼・中央に分かれて、通常右翼が敵左翼に猛攻を加え、左翼は敵右翼の攻撃を
持ちこたえる役割だとか(馬上からの射撃が右側にやりにくいことと関係してるらしい)。
で、敵左翼がつぶれると自軍中央と共に敵の本陣がある中央を攻撃するんだろう。
(アンカラの戦いではティムール軍左翼が先に攻撃してた気もするが・・・)
史料が少ないからといって公文書が一件も残っていないと主張するのは余りに不自然
つーかそれ以前の問題でしょ 絵巻一つで全ての矛盾を無視してんだからw 件の絵巻だってどこまで信用していいものか 絵巻の内容鵜呑みにすると戦場の日本軍の大半は騎兵ってことになっちゃって、 極東の島国に遊牧民族に匹敵する騎兵軍が存在したことになるんですけど あれ、後に修正や改竄(好意的に言えば編集w)が行われたって説もあるし グスタフ・アドフルのサーベル騎兵みたいな射撃即突撃移行なんて荒業が自然というのも初耳 詳細キボンヌ
モンゴルの騎兵は騎射して突撃移行しないの?
しないお 少なくとも慣用じゃないお
追撃とかなら馬上で弓を射てから抜刀して接近ってのはあるけど 歩兵方陣に向かっての突撃じゃ自殺行為でしょ。 突撃のための隊形を組む時間も距離も不足してるし。
ヨーロッパの抜刀騎兵の突撃も最初のピストル射撃は景気づけみたいなもんだし。 しかも射撃するのは前列だけ。 後列が射ったら前の列の味方の後頭に当たっちゃう。
>>509 モンゴル騎兵が突撃するのは、騎射で敵を混乱させた後のとどめの時
モンゴルにも白兵戦用の重騎兵いたしね?
515 :
世界@名無史さん :2007/01/28(日) 23:36:17 0
最近の研究ではモンゴル兵は下馬して戦っていたことが判ってきた。 あのような小さな馬でトコトコ突撃する姿を想像できるだろうか? ポニーサイズの馬は乗り物に過ぎないのだ。 刀は殆ど使われなかった。精々首取り用に使われた程度。 揺れる馬上では射程2百メートルを誇る蒙古弓を正確に命中させることは出来ない。 現実では、弓は下馬して射撃したと考えられる。
下馬して戦うほうが不自然だよ。 今でもモンゴルでは騎射競技が行われているが、これは何のための訓練だよ。 何のための短弓で、何のための退却戦法だ。
ゆれる馬上で正確に弓を射れるから強いんじゃないの?
矢を大量に使うから不正確でも問題ないよ 数撃てば当たるし
519 :
世界@名無史さん :2007/01/30(火) 09:59:12 0
John Masson smith Jr.の"Mongol Society and Military in the Middle East"で モンゴルの騎射戦術をルブルクの記述などを元に再構成してますが、こんな感じですね (日本語訳は面倒なのでパス) As I see it, successive waves of archers charged the enemy at the gallop, and shot from 40-50 yards distance, just close enough to pierce armor, but far enough away to evade a counter-charge; they then turned away, retired, turned back and charged again. As the attackers turned and rode away, the powerful urge to pursue fleeing foes might indeed provoke the enemy to counter-charge; the "fleeing" Mongols then let their pursuers come close enough for the point-blank, armor-piercing, so-called "Parthian" shot. I suggest that "hit-and-run," for a Mongol unit of Hundred, with 80 men participating in four waves of 20 men each (assuming that 20 men of the Hundred wore armor and did not attack), meant hitting--or at least shooting at--the enemy with 20 potentially armor-piercing arrows every ten seconds in an assault lasting about four minutes. At this rate of activity, a Mongol soldier, equipped with 60 arrows and five ponies, could sustain active combat for about 45 minutes: he expended five arrows in four minutes, and his ponies probably needed to be changed after eight to ten minutes of fast action (judging by the comparable performance of polo ponies). Assuming that half of the units of a Hundred in any larger formation (Thousands or Ten Thousands) were in action at a time, so as to maintain steady pressure on the enemy while some inits reloaded and remounted, a Mongol attack could be kept up for around an hour and an half. The enemy, the Mongols hoped, would be unable either to retaliate against this bombardment or to resist its punishment for long.
521 :
世界@名無史さん :2007/01/30(火) 16:49:23 0
モンゴル最大の祭典ナーダムの祭りで行われる弓の競技は騎射ではなく 下馬した弓手による競技である。 これはモンゴルは主に騎射ではなく、下馬して戦っていた証拠である。 最近の研究ではモンゴル於ける騎射とは、追撃や逃走の際の補助的戦法に過ぎないことが判明している。
騎射よりも馬を停めたり下馬して射撃したほうが有利だから、
そう出来る場合はそうしたことは間違いないだろうな
フランクの弓騎兵なんかは騎射はやってないし
>>520 ど こ が ?
> 最近の研究ではモンゴル兵は下馬して戦っていたことが判ってきた。 下馬して戦うこと「も」あった、の間違いでは。 モンゴル高原周辺に展開していた遊牧諸部族出身の純粋な騎馬軍団の兵士ならば 騎乗での戦闘は、最初は弓矢やはじまりやがて槍、太刀&鎚矛と手持ちの武器を 敵との距離と用途に応じて段階的に代えていたようだ。 プラノ=カルピニのジョヴァンニ修道士の報告にしても騎乗戦闘を前提に闘って いたような書き方をしていたと記憶しているが・・ 『集史』あたりに記録に残るモンゴルなどの遊牧騎馬軍団同士の戦闘の場合、 双方ある程度弓矢を撃ち尽したら槍で突撃したり、近接戦闘になったら刀や鎚矛で 戦っている。乱戦になっても矢は数本必ず残していたようで、撤退などで殿軍が 友軍の退路を確保するため前線を死守する場合など、「騎馬兵は馬を降りて馬匹を 盾にし、敵軍に矢を浴びせ付けてこれを守った」みたいな記述が見られる。 有名なチャガタイ家のバラクがイルハン朝のアバカに惨敗したヘラート近郊の カラスウ河畔の戦いで、退却時に落馬したバラクが、敗走する自軍のアミール たちに向かって、自ら名乗って代わりの馬をよこすように叫ぶ場面がある。 友軍兵士は退却に夢中で、一人の兵卒が気付いて自らの馬を明け渡すまで、 周囲は彼の言葉をほとんど聞き流し状態だったようで、ここでも声の届きの 悪さを考えると、兵の殆どは騎乗していたのではないかと思わせる。
また、アバカの計略にはまったバラク軍が動揺しつつも戦闘準備しているが、
劣勢を挽回しようと「(アバカの軍の)左翼を騎兵で攻撃」したことも書かれてある。
「兵士」や「男たち」ではなくて「騎兵(サヴァール)」と書かれていることは
重要な点だと思う。また、戦闘中に両軍の間にわざわざ椅子に座って友軍を激した
イルハン朝軍の老将スニタイ・ノヤンの話しも載るので、状況的に考えれば、
恐らくはじめから両軍騎馬することを前提に戦闘してしていたと考えるのが
自然では無いだろうか。
攻城戦ではさすがに下馬して弓矢を撃つ場合も多かったようだが。撤退時に
追撃してくる敵軍に対していわゆる「パルティアンショット」で迎撃などしていた
らしいことは、絵画資料からも伺える。
この時、追手側は追い付くと槍で突いたり、刀や鎚矛で攻撃していたらしい。
>>519 ルブルクもプラノ・カルピニも護雅夫先生の邦訳が有るからちょっと調べてみようか。
>>521 最近の研究では
日本や西洋みたいに騎馬武者or騎士に従者や歩兵が随伴する形式なら下馬しても
戦闘にあまり支障は無いだろうけど、純粋に騎馬戦力だけでも双方1〜5万なんて
数がざらなテュルク・モンゴル系の遊牧民の戦闘で、合戦時にいちいち下馬して
いたら馬の置き場が無くてあきらかに邪魔になると思うんだけど・・
情報のもとはどこの誰の論文?
>それにそのシリーズのイラストレーター、バーブルの想像図を現存する肖像と >あまりに懸け離れた顔で描いた前歴が有るから それは本文を書いてるデヴィッド・ニコルの責任だと思う。 アンガス・マクブライドが自分で史料を漁ってるのでなく指示通りに描いてるだけ。
気鋭の研究者・鈴木眞哉氏の研究でポニーサイズの馬での騎馬突撃は無理な事が判ってきました。 蒙古馬はポニーサイズであり、モンゴルのポニー軍団では騎馬突撃は無理という結論に達します。
何時までもモンゴルの騎馬突撃という「古典的通説」を盲信するのは愚か者の証と言えます。
>527 イラストレーターに責任を負わせるのは酷にしても、資料としてその想像図を 参考にするのはやはり無理っぽいということにはなりそう。 > 鈴木眞哉 モンゴル学会や東洋史関係の雑誌ではあまり聞いた事が無いような・・ ポニーといっても種類は色々あるし、文献学的な調査とか、モンゴル時代の 墳墓から発掘された軍馬の骨とかもちゃんと参考にしているのだろうか? 検索かけると論述の仕方に問題があってあまり評判が良くない人みたいだけど。
ニコルとマクブライドのコンビは未邦訳のThe Age of Tamerlaneではティムールを描いてたけど ソ連の学者の頭部復元図みたいな顔だったな。
>>508 実際モンゴル軍には勝ったわけだし、極東の島国に遊牧民族に匹敵する騎兵軍が存在した
という認識で問題無いのでは?
八幡愚童訓とかでも、歩騎混合編成の部隊の場合は、ちゃんと区別して書いてるし。
533 :
世界@名無史さん :2007/02/02(金) 16:29:12 O
笑わすな
刀にそりがついたのは騎馬で駆け抜ける際に振るい易いようにしたためではなかったか。 単に騎乗で刀を振るうだけでは反りは生まれてこないような。
直刀を使う騎兵も珍しくないが
サーサーン朝は直剣だったみたいだけど、同じ時期のソグドは刀身がえらく長い細刃の 直刀を使っていたみたい。アラブは良く分らないが現存するアッバース朝時代あたりの ものをみると全て両刃の直剣。サイズからして多分サーサーン朝あたりの意匠を受継いで いる印象がある。 突厥はどうだったか忘れたが、10世紀頃のハザルの墳墓から発掘された武具には、全身 くさび帷子に刃渡り100cmくらいあるかなり反りの入った太刀が含まれていた。 セルジューク朝もよくわからないが、モンゴルは発掘されてものも写本などの挿絵からも 反りの入った太刀を持っていた事が分かっている。 日本の刀も大陸の遊牧民の刀も、だいたい同じ時期くらいに「鎬」が入った刀を使うように なっている感じがする。
537 :
世界@名無史さん :2007/02/02(金) 20:01:05 0
モンゴル騎兵を破ったシリア騎兵が最強
538 :
世界@名無史さん :2007/02/02(金) 20:02:10 0
大体モンゴル騎兵は鉄砲を持っていたかもしれないから反則負け
539 :
あだち :2007/02/02(金) 20:07:09 0
「勝手メール」失礼します。 ■□ 「こころを強くするメッセー」のご案内 ■□ 「幸せを得る最大の秘訣」 幸せの秘訣、それは簡単なことです。まず 毎朝早く起きることです。この簡単・単純な ことをなおざりにしているから「幸せ」をつ かむことができません。 ところで、あなたは朝早く目をさましたら何をし ますか。「徳」ある人は朝をこのように得あるも のとします。 まず「見える」ことに感謝します。「聞こえる」 ことに感謝します。この世には見えず聞こえず 何の感覚もない大勢の人がいます。 あなたは五体正常で新しい朝を迎えること ができるのです。何はさておいても心から感 謝する事です。感謝の積み重なりが「幸福」 という形になってあなたに還ってきます。 ================= 「こころを強くするメッセージ」と Google にて 検索してください。
> シリア騎兵 ?耳なれない単語だが、普通は「マムルーク」と言うと思うが・・・ バイバルスにしろ先代のクトゥズにしろ、マムルーク軍団の騎兵は エジプトやシリアなどマムルーク朝統治下の各地に食邑を持っていたから 兵員の根拠地はシリア限定では無い。だから「シリア騎兵」というのは 表現として誤り。 アイン・ジャールートの戦いにしろマムルーク朝軍とイルハン朝の戦いは だいたい装備は同じだったようだが、大抵の場合イルハン朝軍が寡勢が殆どで、 対してマムルーク朝側が騎兵だけで1〜数倍+歩兵が数千。しかもアイン・ ジャールート以降はイルハン朝側はおおよそ防戦状態。両軍とも敵からの 攻勢にはよく耐えていたが、要はずっと決定打が無いまま膠着状態だった。 あまり両者に最強がどうだの言うのは意味が無さそう。 > 鉄砲 『ナースィル史記』や『世界征服者史』、『集史』や『元史』でも 当時の記録からモンゴル帝国の騎馬兵が火砲、火器を使用していた ような記事はお目にかかった事が無い。どこからの情報だろうか?
542 :
世界@名無史さん :2007/02/03(土) 09:20:09 O
ありゃ鉄砲には見えないぞ
543 :
世界@名無史さん :2007/02/03(土) 22:31:54 0
アイン・ジャールートの戦いでマムルーク朝が原始的な銃器を使ったらしい。 モンゴル軍の馬を驚かせる撹乱効果ぐらいしかなかったらしいが。 そういやマムルーク朝には「花火騎兵」というのもあったなw
544 :
世界@名無史さん :2007/02/04(日) 00:28:08 0
モンゴル?
>>506 春日権現験記絵の朝廷軍と興福寺の僧兵の戦闘場面に、弓を左脇に抱えながら抜刀する
騎馬武者の姿が描かれている。
この「弓を脇に挟みながら抜刀突撃」ってのは、源平盛衰記の木曾軍と勅使河原軍の合戦でも
『弓をば脇に挟み、太刀の峰打つるべて、勅使河原余すなとて、蜘蛛手十文字、縦様横様
切り廻りければ、三百余騎の大勢も、五十余騎にに駆け立てられて、馬の足立つる隙こそ
なかりけれ』
みたいな感じて登場する。
>>528 >気鋭の研究者・鈴木眞哉氏
わろすわろす
歴史研究の最先端を行く鈴木眞哉氏の主張を否定する守旧派は思考停止の馬鹿。
ポニーサイズの馬に乗ったモンゴル兵の戦闘方法は下馬によるとしか考えられません。 その証拠にモンゴル相撲は下馬での格闘術です。もしも、モンゴル兵が騎乗での戦闘を主としていたなら モンゴル相撲は騎乗スタイルで行われていたでしょう。 更に、モンゴル民族最大の祭典であるナーダム祭での弓の競技は下馬で行われます。モンゴル兵が主に 下馬で射撃をしていた証拠です。 同じくナーダム祭で長距離の競馬が行われますが、この時途中で弓を射る事も無く、何らかの形で格闘術が行われる事もありません。 モンゴル兵が馬に乗るのは、単に移動の手段だったという事です。
だいたい、馬乗って弓を射たって振動で正確に射れないし、馬の首が邪魔で剣を振るいにくい。 どんな武器でも両足をしっかり地面につけて両手で扱ったほうが強力だ。 モンゴル兵が乗馬戦闘したなんて妄想レベルの有り得ない話だな。
まあ、議論を見てるとモンゴル兵は騎乗戦闘は無かったという考え方 が優勢に見えるな。最近ではこれが定説となってきたようだ。
ポニーサイズのお馬さんで鎌倉武士は騎乗戦闘したので ポニーサイズだから無理ってのはないんじゃね?
いまだにモンゴル騎乗戦闘の神話を信じてる奴がいるんだなwwwwwwww 神話は神話として楽しもう!!!!!!!!!!
ttp://www.ee.bilkent.edu.tr/~history/Pictures1/im9.jpg これとか
ttp://www.ee.bilkent.edu.tr/~history/Pictures1/im17.jpg こういうのは証拠にはならないのか?
>>549 そんなことを言い出したら、近代の欧州や日本陸軍の騎兵がサーベル持って戦っていたことも
妄想になると思うんだが。
それに騎馬兵が騎乗して弓矢を撃っていたのは別にモンゴル帝国の騎馬兵だけじゃ無くて、
前近代の中央アジアからイランのテュルク系の遊牧民の騎兵はどこでも同じ事をしていたし、
マムルーク朝やオスマン朝の騎馬兵(ファーリス、スィパーヒー)も騎射や槍での突撃、
騎乗しての刀剣や鎚矛での戦闘の訓練を積んでいた。その訓練として推奨されいたひとつが、
ポロ(ペルシア語でチューガーン)で、これはイラン系やテュルク系を問わず、騎馬部隊が
主戦力として戦われていたところはどこでも愛好されていた。文学作品でもチューガーンは
王侯貴族の嗜みとして良く登場する。
その鈴木眞哉なるのことは全く知らないが、13世紀半ばにグユクの宮廷を訪れたプラノ・
カルピニの報告だと、モンゴルの騎兵はよく落馬するが、すぐに体制を立て直して馬等を
盾にしながら馬上と変わらず盛んに敵に弓矢を浴びせるなどと証言しているし、モンゴルの
相撲は、日本の武芸と同じく「落馬させた」相手を組み伏せる技術なので、
「モンゴル兵が騎乗での戦闘を主としていたならモンゴル相撲は騎乗スタイルで行われていたでしょう。」
という意見は的外れ。そもそも「騎乗スタイル」の相撲って何?
ポニーサイズってどこかのスレであったけど、サラブレッドみたいなのは戦闘には全く向かなくて、
むしろ日本の在来種とかモウコノウマみたいなサイズの方が適しているって無かったっけ?
騎乗戦闘がなかったと言い張ってる人はおそらく鈴木アンチなのだろう。
>>553 >そもそも「騎乗スタイル」の相撲って何?
騎乗格闘術
本当に騎乗での戦闘が主ならモンゴルで騎乗格闘術が発達しただろう。
しかしそのようなものは無く、あるのは下馬で行われるモンゴル相撲のみ。
騎乗格闘術の他に騎乗槍術や騎乗剣術も未発達。
もし騎乗での戦闘が主ならこれらが発達していなければ道理に適わない。
モンゴル兵騎乗戦闘肯定論者は モンゴルでの騎乗格闘術・騎乗槍術・騎乗剣術を提示しないと説得力がない。
中東方面の大型馬を使う地域なら騎乗戦闘は可能だが ポニー並みのモンゴルでは極めて困難と言わざるを得ない。 精々逃走時のパルティアンショットに限られるだろう。
>>553 その絵は当のモンゴルに残るものではないので証拠にはならない。
とりあえずハッピーな妄想は聞くに耐えないので、マナスとかバーブル・ナーマとか
カーブース・ナーマとかシャー・ナーマとかエルデニイン・トブチとか色々あるから
それらをまずひとつでも読んでからにしてくれ。
>>553 上は『集史』「カリフ伝」のイラスト。イルハン朝末期のタブリーズ派の絵で、
ばりばりモンゴル政権の御用絵師の描いたもの。
下はジャライル朝時代に描かれたシャー・ナーマのイラスト。ジャライル朝は
イルハン朝麾下の中核部族集団が建てた政権。これもモンゴル系の政権で、
「当のモンゴルに残るものではないので証拠にはならない。」という反駁は
意味不明。
> モンゴルでの騎乗格闘術・騎乗槍術・騎乗剣術を提示しないと
そんな現代の感覚で格闘術とか言うものが近代以前にあったか疑問だが、戦闘直前に
モンゴルの騎兵が下馬して戦ったとかいう話しは西方でも東方の資料でも聞いた事が
ない。なぜわざわざ騎乗戦闘を否定したがるのか全く理解出来ない。
むしろ、そちらがモンゴルの騎馬兵が戦闘が有る都度に下馬して闘っていた、
或いは戦場まで騎馬で移動した後、一旦下馬して闘うスタイルがモンゴル騎兵には
一般的だったという記録なりの証拠があるなら、その方を明示すべき。
何でこんな意味不明な釣りが湧くのか・・・
結局、さも証拠のように出してくる物は全て中東等の他地域のものばかり。 モンゴル系の政権といっても中東に進出して騎乗戦闘可能な大型馬を入手した 連中が残した記録であって、純粋なポニーサイズのモンゴル馬を維持し続けた 連中が残した記録ではないのだ。 従って、非モンゴル地域の記録は、たとえモンゴル系政権であってもモンゴル 兵騎乗戦闘論の証拠として採用することはできない。 モンゴル兵騎乗戦闘の信憑性のある証拠が何も存在しないかぎり、ポニーサイ ズの馬に乗ったモンゴル兵の騎乗戦闘は理論的に無かったと見るのが妥当であろう。
ポニーサイズの馬で騎乗戦闘が不可能な事はNHKが実験を行い証明している。 実験では分速150メートル出すのがやっとで、しかも10分くらいでへばって しまったという。旧陸軍の基準では、速く走る駆歩(ギャロップ)は分速310 メートル、はるかに劣っていると言わざるを得ない。
>騎乗格闘術 騎乗槍術 俺の知っている例ではキルギスの「マナス」叙事詩で 主人公と女武者サイカルの一騎打ちの場面で出てくる。
そもそもポニーサイズという基準が漠然的。 有名なファラベラみたいに体高70cmのものから軍馬として有名だった木曽馬みたいに 体高130cm強まで色々いる。モンゴル高原在来種のモウコノウマも体高120〜140cm ほどであり、体格も木曽馬等の日本の在来種と遜色ない。 チンギス・カンによる統一以前の群雄割拠時代やモンゴル帝国の遠征などで「馬を太らせる」 記事は『元朝秘史』でも『集史』でも『蒙韃備録』その他漢籍や欧州からの旅行者たちが 言及している。わずか数cmの体格の違いが決定的であったとは思えない。 中東の当時の軍馬が大型種というがその根拠は? いわゆるアラブ種とよばれる馬種も体高150cm前後と、モウコノウマなどとそんなに 大きく違う訳では無い。アラビア半島で飼育されて来た馬はもともとイラン高原のファールス地方 あたりから移入されたものだったそうで、その歴史はサーサーン朝がアラビア半島内陸まで覇権を 拡大した3〜6世紀頃まで遡ると言われている。正統カリフ時代に始まるアラブ征服の原動力は、 当時アラビア半島の各々の部族で飼育されたものやイラク地方で馬群を大量飼育されていた サーサーン朝の系統の馬だった。 突厥墳墓やモンゴル時代の墳墓に馬も埋葬されている例がよくあるそうだが、特に大きく体型が 違っていたという話しも聞いた事が無い。概してモンゴル高原周辺の在来種はやや小柄だが 中東以南のアラブ種をはじめとする馬種よりも頑健で忍耐強いと聞く。 そのNHKが実験を行ったと称するが、軍馬として調教された物かも分らない例をあげ、 しかも現役の軍馬が活躍していた時代である戦前のデータと比較するのは公正に大きく欠ける。 そもそもモンゴル高原の在来馬だとも説明していないようだが、おなじ比較をするなら現在の 木曽馬とかユーラシア全般の軍馬だったものともすべきだろう。そのNHKの実験とやらも いつ、どこでやったか説明が無いので判断しようが無いが。
> さも証拠のように出してくる物は全て中東等の他地域のものばかり エルデニイン・トブチや元朝秘史はモンゴル高原のほうの情報だけどね。 > モンゴル系の政権といっても中東に進出して騎乗戦闘可能な大型馬を入手した > 連中が残した記録であって、 それだとモンゴル帝国軍の騎馬軍団が西遼やホラズムシャー朝の騎馬軍団と中央アジアや アフガニスタンで熾烈な戦闘を繰り返していたことを伝える南宋やモースルのイブン・ アル=アスィールの年代記、プラノ=カルピニあたりの記録の説明がつかない。 > モンゴル系の政権といっても中東に進出して騎乗戦闘可能な大型馬を入手した > 連中が残した記録であって、純粋なポニーサイズのモンゴル馬を維持し続けた > 連中が残した記録ではないのだ。 これもマムルーク朝あたりやイブン・バットゥータあたりの記録を見ても、馬の大きさに ついては特にイルハン朝やジョチ・ウルス、チャガタイ・ウルスで違いがあったとも聞かないし、 ジュワイニーあたりにしても、モンゴル帝国が拡大する件で西方のその「大型馬」を入手した という記録があるとも聞かない。もしモンゴル高原在来種と西方の種類で決定的な違いが有り、 それが意識されたならばその旨記録が残るはずだ。軍事的な問題は政権側の死活問題だから。 『元朝秘史』にはチンギスたちモンゴル部族の人々に対してナイマンの王あたりが「匂い」が どうだのチンギスも「森の王」だのと田舎者扱いされて馬鹿にされているが、ホラズムなどで 西方の遠征で馬が劣っていると問題にされたような話しは記憶に無い。むしろ頑健で手強いと いう話しなら聞いたような覚えがあるが・・
中東から中央アジアにかけての西方大型馬のモンゴル馬に対する優越性を無理矢理否定したい奴がいるようだ。 それではなぜ漢の武帝はわざわざ李広利を大宛に遠征させ汗血馬を入手したのか? その理由は明らかで、西方大型馬がモンゴル馬に優越しており軍事的に有用だったからだ。 また馬の歴史で最高の走力を誇るサラブレットの起源も中東のアラブ種だ。
>>563 >キルギス
中央アジアはモンゴルじゃないんだな。
>>564 「馬を太らせる」 がなぜモンゴル兵騎乗戦闘の根拠になるのか?
長期間の遠征に際し餌を十分に得られない事態に備えて太らせただけだろう。
それは馬が移動の手段であったことの根拠になるだけで、モンゴル兵が騎乗して戦闘
を行った根拠にはならない。
実はモンゴル帝国の戦闘の多くは攻城戦であり、野戦の比率は小さい。 馬に乗って攻城兵器を扱うのだろうか? 馬に乗って城壁を越えるのだろうか? 答えは否である。攻城戦で騎馬戦術は役には立たない。 攻城戦が多かった事を考えると、実際のところ戦いの殆どで彼らは下馬して戦っていたのだ。
> 実はモンゴル帝国の戦闘の多くは攻城戦であり、野戦の比率は小さい。 資料的根拠は?
自分で南宋攻略戦でもホラズム攻略戦でもロシア方面でもサンプルにして調べてみれば。 まあステップ地帯を除けば攻城戦が多くなるだろうけどね。
> 自分で
いや、そんなのは東洋文庫の『モンゴル帝国史』があるから、そっから原資料あたるのは
難しくはないんだが・・・
> 南宋攻略戦でもホラズム攻略戦でもロシア方面でも
いまいちよく分らんのだが、一昨日あたりから見られる
>>548-551 ,
>>561-562 ,
>>566 ,
>>568-569 のモンゴル帝国の騎馬兵は騎乗戦闘が出来なかったって主張しているのの根拠は、
モンゴル帝国の戦争の記録の多くが都市攻略の話しで占められていたから、モンゴルの騎馬兵は
馬上戦闘は「出来なかった/(もともと技術的に)不可能だった」ってこと?
攻城戦で「下馬して戦う事もある」ってことと、「下馬して戦う=騎乗戦闘などもともと出来なかった」
と主張することでは言っている事の意味が全然違うが・・・
>だいたい、馬乗って弓を射たって振動で正確に射れないし、馬の首が邪魔で剣を振るいにくい。 >どんな武器でも両足をしっかり地面につけて両手で扱ったほうが強力だ。 >中東方面の大型馬を使う地域なら騎乗戦闘は可能だが >ポニー並みのモンゴルでは極めて困難と言わざるを得ない。 >精々逃走時のパルティアンショットに限られるだろう。 この二つの主張はどう両立するんだろう。同一人のレスだと思うが。 まあ多分鈴木信者を装ったアンチって所だろうが。
やたらとポニー並みの馬だから戦闘に使えないって言う人がいるけど、ポニー というと大抵の日本人はシェトランドポニーのような小さな馬だけを思い浮か べる。でもこれは間違っていて、実際は体高147cm程度の比較的大きな馬も含ま れる。ポニー並みの馬だから戦闘に使えないって言う人はこうした間違った印 象を利用していて悪質だと思う。
その頃のモンゴル人の身長って156センチくらいで、 今で言うと小柄な女の子ぐらいじゃないの? 150センチ位の馬に乗って戦うの可能じゃない?
576 :
世界@名無史さん :2007/02/17(土) 02:20:14 0
>>567 モンゴルだと「蒙古源流」や「ゲセル」
あとオイラートの「ジャンガル」に馬に乗って弓や剣、槍で戦う場面がある。
422 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2007/02/23(金) 18:00:17 0
>>421 元寇時に日本側は苦しんでなんかいないぞ。
たった一日でモンゴル軍を撃破しとる。
578 :
世界@名無史さん :2007/02/24(土) 22:42:33 0
579 :
世界@名無史さん :2007/02/24(土) 23:44:53 O
元冠の少し前まで 日本は内戦状態だったんだぞ 蒙古襲来時には 歴戦の兵士が そらもうズラって並んでたんちゃうの?
少し前ってあなたいつの事さしてるのよ 三浦叩いたのからも数十年経ってるでしょ、しかも九州の御家人関係ないし
581 :
世界@名無史さん :2007/02/26(月) 20:20:08 0
>この戦争が高麗・モンゴル連合軍側の勝利で終わっていれば モンゴル帝国史専門の杉山正明氏が左翼系の雑誌のインタビューで答えてたけど 「まあ上手くいっても大宰府を落とすぐらいがせいぜいじゃないですか」
>>582 大宰府ってモンゴル・高麗連合軍が上陸した博多湾から10キロ程度しか離れていないんだよ。
2回も攻めて来たくせに、大宰府に指1本触れることが出来なかったモンゴル・高麗連合軍って一体何?
文禄の役で小西行長が1万8700の兵力で朝鮮に攻め込んだ時は、上陸地点の釜山城なんかその日の内に
攻略し、3週間後には首都・漢城も占領していたっていうのに・・・
むしろ小西が異常なんだよ! 関が原でも大活躍ですよ。
ヒデヨシ
武田騎馬軍団最強
587 :
世界@名無史さん :2007/03/25(日) 17:33:35 0
第七騎兵隊!
588 :
世界@名無史さん :2007/03/25(日) 21:40:43 0
パルチアンショットのパルチアが強いのではないかと思います。
589 :
世界@名無史さん :2007/03/26(月) 00:38:01 0
スキタイは?
>>583 一回目は威力偵察
二回目は防壁があったから
渡海、上陸作戦てのは難しいからな 上陸用の海兵隊なんてものもあるぐらい 逆に鎌倉幕府が高麗などに攻め込んだとしても勝てないだろう
エフタルは?
594 :
世界@名無史さん :2007/03/26(月) 07:57:51 0
>>590 一回目は威力偵察という説には裏付けが皆無。
実際には単純にモンゴル軍が日本軍との戦いでボロ負けしただけ。
二回目も防壁で戦闘が行なわれたことは一度も無い。
戦闘は防壁以外の場所で行なわれ、モンゴル軍は連戦連敗。
>>594 たった二万の軍勢で本気のわけがない
防壁のおかげで上陸もままならいというのは有名
>>596 スレの趣旨に従って、世界史上最強の騎馬軍団である鎌倉時代の日本軍について
書き込んでるのに何が不満?
元寇などスレ違いだ
日本に騎馬軍団などない 馬に乗るのは武士だけで 兵の9割は歩き
>>595 高麗史に書かれた文永の役における元軍の兵力は、蒙漢軍2万5千+高麗軍8千+水手など6千7百。
仮に2万だとしても、アイン・ジャールートでマムルーク軍と戦ったモンゴル軍の約2倍の規模だ。
更に弘安の役の元軍に至っては14万で、バトゥの東欧遠征に匹敵する兵力。
あと、弘安の役の元軍は防壁に守られていなかった志賀島に上陸。
実際の戦闘はそこで行なわれ、日本軍にボロ負けした元軍が、博多湾からの撤退に追い込まれている。
>>603 残念ながら元側の記録には、はっきりと日本を敗ることが目的だったと書いてあるんだよね。
>>605 残念ながら
最初の一回目は
威力偵察という意見が
主流なんだよね
異論があるなら学会で発表すれば?
>>606 学会なんか軍事オンチの集まりじゃん。
軍事専門家からは、文永の役は普通に日本軍の勝利という論文が、何度も発表されている。
そりゃ追い払ったからな
アメリカ軍第一騎兵師団が最強だろ
>>609 文盲とか何様だよ
匿名希望といえど
失礼にも程がある
ざっと読んだところこのスレの人達は 元寇で騎兵戦がメインだったということを前提に論争してるみたいだけど 普通に徒歩の者同士の楯突戦がメインだったという可能性はないの? 「蒙古襲来絵詞」で見る限りでは蒙古兵は徒歩の者が多く いかにも掻楯にできそうな四角い楯を使ってるけど。
615 :
世界@名無史さん :2007/03/27(火) 02:36:06 0
それ、蒙古兵じゃないしw
>>614 八幡愚童訓
「其中に、大宰少弐三郎左衛門尉景資殿を、日大将軍として待かけたるところ、
十月廿日未明より、蒙古陸地に、おしあかり、馬にのり、旗をあけて攻かかる」
617 :
世界@名無史さん :2007/03/27(火) 12:16:23 0
>>614 たしかに歩兵は多いけど、装備は槍ばかりで弓矢を射ち合う楯突戦はできない。
実際は武士が馬を馳せてきたところを槍兵が取り囲んでめった刺しにした。
>>615 フビライの武将のもとで戦ってるから蒙古兵でいいんじゃ?
>>616 その一文だと攻め手の中に馬に乗った者がいたことしか分からないなあ。
>>617 「蒙古襲来絵詞」を元にして言ってるんですよね?
たしかに楯の後ろに控える蒙古兵とか槍が多いけど「てつはう」のシーンで
普通に弓矢放ってますけど?
槍をもって腰に弓矢をつけた兵もいる。
「槍兵が取り囲んでめった刺し」って元寇関連でたまに聞きますけど
ソースって何なんですかね?
>>618 スマン 少しだけ
620 :
614 :2007/03/28(水) 08:18:39 0
蒙古兵をそういう意味で使うのもできるだろうけど、その場合、新附軍とかも全部蒙古軍って意味でしょ。 元寇の主力が騎兵なんて誰も言ってないと思いますよ。
>>620 元史や高麗史に、文永の役が歩兵のみの特別編成で行なわれたという記述でも
あるのならともかく、そんなもの皆無なのだから、元軍は通常編成だったと
考えるべきだろ。
日本遠征だけは騎兵を主力にしないなんて理由が無い。
622 :
615 :2007/03/29(木) 00:09:51 0
ごめん上の614は615。 614が絵巻の敵兵を蒙古兵と称して、「フビライの武将のもとで戦ってるから蒙古兵でいい」っていうから、それじゃあ過去発言の意味が通らないよ。と言ったまでのこと。 高麗兵は歩兵主体で当然だろと。それを全軍に拡大解釈するのはおかしかろう。 だから別に元軍に騎兵がいないって意味じゃないよ。 主力って意味が漠然としてるから答えにくいけど。
623 :
615 :2007/03/29(木) 00:22:34 0
あと、「通常編成の元軍」って何を指してるんだ? まさか元の軍隊が総じて騎兵主体だったとか思ってないよね?「元」だよ。元。
624 :
世界@名無史さん :2007/03/29(木) 00:31:44 0
我われ日本人が蒙古を撃退できたのは 日本人がスキタイの末裔だからだ
625 :
世界@名無史さん :2007/03/29(木) 00:37:16 0
騎馬軍団なんざ自動小銃と短機関銃だけで撃滅してやるわっ!
>>620 >>622 よく分からないんですが「絵詞」に出てくる連中は高麗兵ばかりで
元軍本体は描かれてないということ?
>元寇の主力が騎兵なんて誰も言ってないと思いますよ。
ざっと読んだだけなんでアレなんですが、突撃がどうとか
かなり長々と論争していたので騎兵前提かと思った。
>>621 自分も「通常編成」がよく分からないので詳しく。
627 :
615 :2007/03/29(木) 02:34:13 0
>>626 お、えっとね。元軍本体って言葉の意味はおいといて
まず、史実の文永の役で竹崎季長が対戦したのは高麗兵の可能性が高い。これは高麗の部隊が上陸した場所から見てね。
そして絵巻を見るんだけど、まず後世の加筆部分を除く必要がある。人物では毛付帽の兵の加筆が多い
すると、敵が
文永の役 1 盾を持っている徒歩部隊や、追われて逃げる部隊(シコロで首を覆っている)
弘安の役 2 季長が切り込んでいる船などの兵士(毛付の帽子)
3 後ろに続く軍船の兵士(吹き返し付兜)
この三種類に部隊としてはっきり描き分けられてる。弘安は船の上での描写だけど。
とりあえず、そもそもこの三者を書き分けの意味を考えてみる。
1兜の形式から金代との関連が伺われるが、かつて金で一般的だったはず?のブーツではない。金〜高麗兵?(季長が対戦した相手なので高麗兵かな。服装、装備は直接指示してると思う)
2毛付帽にブーツなので蒙古兵?ただし服は布の刺子状、船は宋式。(こちらも季長の対戦相手だが、指揮官の船(柱が白い)だと知って狙ったらしい。ただ、うまく目的の船に切り込めたかは不明)
3吹き返し兜の形から、南宋兵?(季長は見る機会は少なかったと思うけど、よくわからない)
ということで、狭義の元軍(モンゴル兵)は絵詞では(2)の弘安の役で季長が船上で対戦した相手。ぐらいしか「絵師の意図として」は描かれていない・・・と思う。これでどう?
元研究者のソース出せと言われたら俺個人の研究としか言えないんだけど、質問には答えるよ。
628 :
世界@名無史さん :2007/03/29(木) 06:16:10 0
杉山正明の著書より >ようするに、南宋作戦とは異なり、日本や東南アジア各地への侵攻は、関係の現地出先機関が複数組あわさって、 >計画を中央政府に申請し、それが許可されたら、実行も引き受ける、といった類のものだった。いわば請負のか >たちでおこなわれたのである。政権まるごと乗りだしたものではなかった。まして、近現代のような国家間戦争 >などをイメージすると、大いに事態を見誤るだろう。
>>626 モンゴル帝国のもともとのテュルク・モンゴル系の遊牧戦士たちによる騎馬軍団は、
遊牧戦士が10戸、100戸、1000戸という10進法で兵員の部隊編成がされていて、
この1000戸が軍事行動における基本単位となっていた。この千戸が数個集まって
万戸(テュメン)部隊をつくる。文字どおり千戸部隊が10集まって編成される事も
あれば、場合に応じて3、4個くらい集まってひとつの万戸部隊を形成する場合もよくある。
文永の役のときに派遣された日本遠征軍について、『高麗史』によるとそのうち「蒙漢軍」は
遼東方面から派遣された1万5000を合せた2万5000だったとある。『元史』によると
遼寧のあたりから派遣されたこの「1万5000」とは「屯田軍及女直軍」だったそうで、
どうもこの「蒙漢」軍は、同じ時期に中央アジアで戦っていたジョチ家やチャガタイ家、
イルハン朝のモンゴル軍のような、純粋にテュルク・モンゴル系の遊牧戦士だけで編成された
騎馬部隊では無いらしい。
総司令は忻都(「ヒンドゥ(ー)」と読む)は名前からしてテュルク系かモンゴル系の人物に
違いないから、少なくとも彼の直属部隊は騎馬部隊だったろうくらいの類推はできる。しかし
「蒙漢軍」全体の内訳は記録されていないのでよく分からない。
『高麗史』だったと思うが、艦隊が出立する前に遼寧からの派遣軍1万5000の到着がけっこう
遅れたらしいので、日本側の戦闘記録とあわせるとこの「蒙漢軍」は「テュルク・モンゴル的な
騎馬部隊」よりも、かなりの割合いが「歩騎混成部隊」だったんじゃないかと臭わせるが、
やはりいまいち謎。
モンゴル帝国軍は、征服・帰順した地域の軍隊を騎馬部隊・歩兵部隊の違いに関わらず、
服装や髪型などをモンゴル族と同じ格好に統一させていた事が『元史』や『集史』、欧州からの
旅行者たちが等しく記録しているので、『蒙古襲来絵詞』には髪型や服装がモンゴル風の人物が
多く描かれているが、それが部隊編成の内訳を反映しているというわけでは無い。
確か高麗もこの時期モンゴルと同じ格好をするようになったと忠烈王の父、元宗あたりが嘆いていた
ような。
630 :
615 :2007/03/29(木) 12:27:39 0
>>629 歩騎混成の描写がある劉将軍の部隊は恐らく旧金の漢族兵だろうけど、金滅亡以来かなり蒙古化する期間があったにも関らず、それでも軽、重騎兵部隊を駆使する伝統の?蒙古軍とは装備が違うのよね。
服装について
個人的には新附軍の装備はかなり南宋寄りだった可能性が高いと思う。
徐々に蒙古化していったのは確かだけど、滅亡以来あの頭髪や質孫服に統一する期間が短い上、指示の記録が無い。甲冑や武装は特に。
むしろ高麗は自発強制的に国民を蒙古化させたことが記録に残るけど、これもどれほどのものか。
逆に上の旧金系の漢族兵は金代以来強引に女真化させられてるし、滅亡以来の期間も長いのでかなり蒙古化していたと思う。
絵詞が部隊編成の内訳を反映しているというわけでは無いというのは賛成。大筋で共感しているので念のため。
イルハン朝のモンゴル軍も、純粋にテュルク・モンゴル系の遊牧戦士だけでなんか 編成されていないのだが・・・ 定着民のタジーク人を大量動員していたんだから、フレグ遠征軍だって歩騎混成だよ。
いや、そういうことじゃないでしょ。 軍団規模の歩騎混成と小隊規模の歩騎混成は戦術面での運用が全く違うよ。
>>631 フレグ遠征軍の本体は各モンゴル王家や各部族から派遣された騎馬部隊がメインで、
これにケルマーンのカラキタイ朝とかヘラートのクルト朝、ルーム・セルジューク朝などの
現地の地方政権麾下の諸軍が参加している。
勿論これらの地方政権でも純粋に騎馬部隊だけの部隊もあったみたいだが、それとは別に例えば
モースルのバドルッディーン・ルウルウは投石機(いわゆる回回砲や、マンジュニーク、トレブシェット
の類い)の専門部隊をシリアのアイユーブ朝系政権の征服のときなどに供出しているし、グルジア王国軍は
クロスボウを携帯した歩兵部隊を投入させている。
アラムートのニザール派の諸城の攻略の時は、中央アジアなどから専門の攻城戦専門の部隊が参加したようで、
モンゴルの騎馬部隊そのものが投石機を扱った訳では無いみたいだ。(それとは別に騎馬部隊の戦士たちも
場合によっては下馬して塹壕を掘ったり戦ったりしたからややこしいが)
フレグ西征軍の場合、モンゴルの王族や部将たちが直接指揮する騎馬戦士だけの主力部隊に、攻城戦専門の
部隊とかその他の補助兵員として地方政権あたりから供出された歩兵部隊などが随伴するという形式。
これはチンギス・ハンやバトゥの中央アジア、欧州遠征、モンケやクビライあたりの南宗遠征でも基本的に
この形式だったみたい。
>>629 で言った「歩騎混成部隊」というのは適当な言い方が思い付かなかったのでこう書いたが、要は日本の
騎馬武者や西洋の騎士みたいに、騎馬の人物に徒歩の郎党や従者が随伴する、というのと同じく、騎馬する
隊長格の人物に歩兵部隊が随伴する形式。フレグの遠征軍のような形式とは質的に違う。
そこらへんについては
>>632 が指摘してくれた通り。
634 :
629 :2007/04/01(日) 20:34:17 0
テュルク・モンゴル系の騎馬戦士は、どこも本質的には軽装備か重装備かくらいしか違いが無くて、
大抵、馬上での弓矢の扱いが出来るのが大前提で、これに戦況に応じて槍や刀、戦斧、鎚矛で戦って
いたわけだけど、『元史』はあまり詳しく書いていないが、『高麗史』や『絵詞』あたりの戦闘記録を
見ても「テュルク・モンゴル系の騎馬戦士が揚陸作戦をやって騎馬で戦っている」という印象がどうにも
あまり湧かない。『絵詞』じたい矢で射られたことは出てくるけれど、どんな兵員がいたかまでは
詞書でほとんど書かれていないのもなかなか驚きだが。
中央アジアやイランあたりのペルシア語文献のように「アミール・だれそれの率いる部隊1000騎が
敵軍のアミール某以下に討ち掛かり刀や鎚矛で戦った」みたいな書き方だったら確実に騎馬戦士しか
居ない部隊で戦っているとわかるけれど(歩兵も一緒に掃討したならその旨書かれる)、『高麗史』
あたりの内容とはちょっと違う。単純に漢文とペルシア語文の文体の違いと見るべきかは判断が付かないが。
大元朝から派遣された軍隊だからといって、文永、弘安の役で派遣された軍がユーラシア各地に展開した
モンゴル軍と同じ編成と判断するのは、ナイーブが過ぎる意見だと思う。むしろ記録から断片的に分る事は
両者は質的に違うような印象がどうにも強い。
>>630 中国史はあまり詳しく無いのであれだけれど、金朝や契丹の風俗はモンゴルのそれとそんなに違っていた
んだろうか? 宮廷の人々ならいざ知らず、軍人や興安嶺方面の現地の女直人あたりは、細かい部分は
違っていたろうけど着ている物や頭髪を剃り上げるたり結ったりする習俗は共通していたように思える。
右か左か合せのある着物にベルトや帯で腰を締め、革などのブーツを佩くというような。
ただ、契丹人ならともかく女直人は遊牧というよりも半狩猟半農耕で一部放牧も行うという感じがする
ので、遊牧がメインのモンゴルとは生活習慣がそこで決定的に違い、軍制にも影響しているんではと
思えるが。部隊編成や装備もそれに従って違って来るように思うが実際はどうなんだろうか。
635 :
615 :2007/04/02(月) 07:54:08 0
女真とモンゴルは似ているけど微妙に違います。でも仰る部分が似ていたのは確かですね。 あと、 >>旧金系の漢族兵は金代以来強引に女真化させられてる と書いたけど、最近の資料ではこれは実施不能に陥ったという説もある。 女真の服飾文化が漢族には受け入れ難く、激しい抵抗にあったとも言われる。 南宋人かもしれないけど、絵詞には漢式の頭髪、服の者も見受けられますし。 金には特に漢族の兵が多かったことも知られるけど、彼らがどこまで女真式文化に従ったかは不明です。 ブーツ等、生活に合理的な物はともかく、弁髪や左前の着物を漢族が容易に受け入れることが出来たとも思いがたいのですが、なにせ代を重ねていますので・・・ 軍制は旧金時代でさえ多くの漢族部隊が編成されていた状況では、なんというか・・・必ずしも「女真的な」編成でもなかったでしょうね。
普通に考えて、かなり大量の騎兵が存在しなければ「蒙古は馬に乗って攻めて来た」 とは書かないだろ。
>>633 騎馬民族の野戦軍は右翼・中央・左翼に前衛、後衛ってフォーメーションが多かったと思うけど
そうした定住民の歩兵部隊なんかはどういう位置で戦うことが多かったんでしょうか?
638 :
世界@名無史さん :2007/04/02(月) 14:02:11 0
普通は中央に歩兵が固まってバックボーンを形成 左右両翼に騎兵が配置される だいたいこれがオーソドックス
639 :
629 :2007/04/02(月) 21:18:14 0
>>637 あまり詳しくわけではないので申し訳ないけど、『集史』あたりは歩兵部隊の活動はほとんど
明示していなくてそれぞれの戦闘で具体的な配置や行動を追うのは難しい。案外欧州の研究者は
調べていそうだが自分はあまり知っていない。
ただ一例として、1270年にチャガタイ家のバラクがフレグ家のアバカの治めていたホラーサーン
地方に進攻した時、バラク軍の部将筆頭ジャライルタイに並んで活躍していた有力部将マルガウルと
いう人物がクロスボウの矢で射られて戦死している。
この時、アバカ軍でクロスボウを持って居そうな部隊は、左翼の将軍のひとりとして参戦して
いたイラン総督アルグン・アカのもとにいたケルマーンのカラキタイ朝の第4代君主スルターン・
ハッジャージュの率いる部隊と、同じくロレスターンを領有していたセルジューク朝系アタベク
政権のひとつサルグル朝の当主アタベク・ユースフ・シャーの部隊が、個人的には怪しように思う。
アミール・マルガウルは最初の突撃でほどなくして射殺されたようなのだが、「左右から攻め寄せた」
としか書いていなくてアバカの左翼、前衛、右翼のどこら辺で射られたのか良く分らない。
同じアバカの時代、1281年10月にアバカは自らシリアへ親征しているが、弟モンケテムル率いる
右翼軍にグルジア人やアルメニア人の部隊が配されていたそうな。
大元朝あたりの戦闘で歩兵部隊の動向とか何か記録が見られると比較出来て良いのだが・・
>>639 興味深いデータありがとうございます。
以前ネット上で見たクリコヴォの戦いの布陣図では
ジェノヴァ人部隊の位置まで載ってた気がするけど
どこにあったか・・・
>>632 フレグ遠征軍にだって小隊規模で歩騎混成のアルメニア王国軍やアンティオキアと
トリポリの十字軍部隊が参加しているだろ。
歩騎混成の高麗軍や女真軍が参加していた元寇の元軍と基本編成は同じ。
642 :
世界@名無史さん :2007/04/07(土) 09:50:00 0
なんか
>>632 と
>>641 を見比べてたら頭が混乱してきたんだが
「軍団規模の歩騎混成」が騎兵部隊+歩兵部隊で
「小隊規模の歩騎混成」はいわゆるランスやグレーフェンのような小隊の集合
>>641 でいってるのが騎兵部隊+「小隊規模の歩騎混成」
という理解でよろしいか?
643 :
世界@名無史さん :2007/04/07(土) 10:46:37 O
元冦のとき元軍に騎兵がいるなど妄想しているの、まだいるんかい 元冦のときの元軍には騎兵はいない!
644 :
世界@名無史さん :2007/04/07(土) 11:47:01 0
海豚に乗ったモンゴル兵の図
地理的に考えて高麗騎兵
646 :
世界@名無史さん :2007/04/07(土) 14:14:32 0
1が3位にあげているティムール軍団はどうなの? なんかティムールは戦争ではほとんど負けなしと書かれていたんだが
647 :
エウメネス :2007/04/08(日) 00:44:37 0
全盛期のアケメネス朝を一蹴したスキタイ人がまごうことなき最強です。 次点は当然キンメリア人
>>642 「大隊規模の歩騎混成」+「小隊規模の歩騎混成」だろ。
テュルク・モンゴル系の騎兵とタジク人の歩兵からなる大隊規模で歩騎混成のフレグ遠征軍本隊に、
アルメニア王国軍や十字軍といった小隊規模で歩騎混成の部隊が加わっているのだから。
649 :
世界@名無史さん :2007/04/10(火) 20:39:28 0
となると元の場合 騎兵大隊→蒙古人 歩兵大隊→漢人 小隊規模の歩騎混成→高麗、女真 という感じ?
650 :
世界@名無史さん :2007/04/11(水) 08:09:05 0
蒙古の場合、十戸を最小単位として百戸・千戸とまとまり、それぞれ長が強い指揮権を持っていた 単なる騎兵の大集団というだけではなく、近代的なユニット化された編制の萌芽でもある 日本の武士や西欧の騎士は封建領主で、部下もロクに持たない程度の所領の主でも独自の判断で行動する権限があった。要するにバラバラになりかねない 歩兵に関してはかなり発展していたローマ軍さえ、騎兵は貴族や周辺民族に依存した体制
>近代的なユニット化された編制の萌芽 匈奴の時代からずっとあったと思うが
ないよ
653 :
世界@名無史さん :2007/04/12(木) 05:04:08 O
>>649 大隊=数個小隊のあつまり
大隊規模=人数が大隊並にいる≠大隊
654 :
世界@名無史さん :2007/04/14(土) 09:58:57 0
>>649 >小隊規模の歩騎混成→高麗、女真
当時の高麗や女真は騎馬武者に徒歩の従者がくっついて戦ってたのか?
656 :
世界@名無史さん :2007/04/26(木) 03:36:48 0
意味わからん
モンゴルは騎馬に拘らなかったからあれ程拡大できた って先月の歴群に書いてあった
>>45 モハーチの戦いでハンガリー騎兵の突撃を受けているが?
>>36 槍・銃の密集方陣に勝てない→騎兵衰退。
→天敵いなくなったら槍方陣要らない子→銃剣主体の横隊陣形にシフト。
→機動性生かして歩兵横隊の側面つけばよくね?→騎兵復活。
→銃の連射とか精度とか向上+車両登場→また騎兵衰退。
という流れ。
>>36 槍・銃の密集方陣に勝てない→騎兵衰退。
→天敵いなくなったら槍方陣要らない子→銃剣主体の横隊陣形にシフト。
→機動性生かして歩兵横隊の側面・背後をつけばよくね?→騎兵復活。
→銃の連射とか精度とか向上+車両登場→また騎兵衰退。
という流れ。
662 :
660 :2007/06/21(木) 18:36:54 0
…って。 二重カキコとか以前の問題だな。逝ってきまつ。
663 :
世界@名無史さん :2007/07/21(土) 13:57:07 0
あげ
とっくつ? とっけつ?
とんこつ!
667 :
イッキーしゃん :2007/09/01(土) 18:57:33 0
ところで弓は問題にならないの。
668 :
世界@名無史さん :2007/09/02(日) 03:17:35 0
上の方で元寇での日本勝利は暴風雨のお陰という相変わらずの書き込みがあるが、 ディスカバリチャンネルで元寇のことを取り上げたときに、日本の勝因は、やはり上陸 されても橋頭堡を築かせなかったこと、長大な弓を使ったので、射程ギリギリでは 日本の弓の方が威力があったこと(劉復享が小弐景資に射倒されたのは、日本軍 弓の射程外と思っていたらそうでなかった)、接近戦では刀剣の扱いに巧みな鎌倉 武士の方が強かったこと、そして急に船を揃える為に生粋の浅い内陸河川用の船 を多数徴用したので、台風にはひとたまりもなかったとかなり客観的に分析してる。 再現ビデオの日本軍の時代考証は滅茶苦茶だったが。 アメリカが無理に日本びいきにする必要もないわけで、勝てる要因があったから 勝てたというきわめて当たり前の分析だったよ。 別のアメリカの歴史番組をアメリカにいる時に見たときには、皮や布製の元軍、高麗軍 の鎧は、騎射や槍を構えての突撃には身動きが容易で向いていたが、鉄の鎧を貫通 する日本の弓矢と斬撃に向いていた日本刀に対しては有効な防御にはなってなかった と言ってたな。実際中国の鎧を矢で打ち抜いたり日本刀でばっさり切り裂いて見せていた。
当時の甲は小札鎧や綿甲といったところだろうか。 元寇記念館にある甲や明代後期の絵画に描かれた兵士なんかを見ても その頃から明末清初まで装甲にほとんど革新があったようには見えないのだが フロイスなどは明軍の甲冑について「従来最優秀を誇っていた日本の刀や槍が 利かなかった」と書いており、その点については日本側の史料にも同様の 記述がみられる。 まさか戦国時代の武具が鎌倉時代よりも退化していたわけでもないだろうが 何がどう変わっていたのかはよく分からない。
670 :
世界@名無史さん :2007/09/03(月) 00:49:07 0
>>669 明代は歩兵も明光鎧を着用するようになっており、騎兵の鎧も環鎖鎧といういわゆる目の細かい
チェーンメイルになっていたから、見た目に大きな違いがなくても防御性は進歩している。
鎖帷子はモンゴル兵も装備してた。モンゴルまで旅した教皇庁の使節が記録している。 明光鎧って小札鎧に円盤付けたやつでは?(それを言ったら綿甲もスケールメイルを 裏返しただけとも言えるが・・・)
あげ
673 :
世界@名無史さん :2007/09/16(日) 00:15:52 0
槍を持たない近世や古代ローマの騎兵などの剣やサーベルって どうも馬体と比べると小さすぎるような気がするのですが、 あれって実際に攻撃するときはどんな姿勢なんでしょうか・・・ それと馬体自体が敵と接触するとどうなるんでしょうか?
674 :
世界@名無史さん :2007/09/16(日) 00:26:39 0
馬のサイズはポニー
675 :
世界@名無史さん :2007/09/16(日) 17:21:46 0
>>236 とか見てすごく納得したのですが、
槍ならまだしもサーベルで馬の運動エネルギーを伝えることはできるんですか?
スピードがついたことによる武器の威力は相対速度の関係から相手も同じ条件ですよね。
ポーランドの騎兵かなんかで、サーベルを前に突き出した格好で突撃するってのがあったような。 刃は右側に向けて、すれ違いざまに切り払っていく。
677 :
世界@名無史さん :2007/09/17(月) 00:36:00 0
>>676 正面に敵がいた場合はどうなるんでしょうか?
678 :
世界@名無史さん :2007/09/17(月) 08:47:21 0
進路に障害物があったら普通に危険なのでは? 軍馬だと歩兵ぐらいは跳ね飛ばせるのかな?
馬は車とかバイクとかと違って生き物なんだし 左右が空いてるなら操縦者の意志がなくても勝手によけてくれるんじゃない? 敵歩兵が隙き間なく陣を組んでたら正面から強行突破か 射撃、銃撃で陣を崩してもらってから突撃するか、だろなあ。 まともにぶつかる場合300kgの巨体が時速5,60キロで突っ込んでくるわけだ 歩兵の対騎兵戦は地獄だぜ・・・
680 :
世界@名無史さん :2007/09/18(火) 15:03:54 0
でもマムルーク朝の騎射競技の大会で、弓をひきしぼる際に手綱を放したら 馬が的をぶら下げてある柱に突っ走って激突、人馬もろとも死亡って例があったらしい。 何でそうなるんだろう?
681 :
世界@名無史さん :2007/09/18(火) 16:55:36 0
>>679 運動量の観点から見ると、たしかに騎兵に利があるように見えますが、
実際に武器が接触するということになると、歩兵も騎兵も条件は同じじゃないですか?
>>681 接触ったって……その前に馬に乗った敵が高速で自分を殺しに迫ってくるんですよ?
よほどの胆力の持主でなければビビって逃げるか立ちすくむんじゃないでしょうか。
個人的に考えている騎兵突撃のモデル。 縦隊や横隊よりも密集度が高い対騎兵用の方陣でも 兵士が肩と肩がぶつかるほど密集して陣を組んでるわけじゃなく 兵士と兵士の間には若干隙間がある。 騎兵はその隙間に潜り込むように襲ってくる。 歩兵とのすれ違い様に切り払い、勢いを保ててるならそのまま歩兵の戦列の後方まで 走り抜けた後、適当なとこで再度集合をかけて突撃or退却 正面衝突したら馬が驚いて暴れたり止まったりするかもしれないのでなるべく避けr 歩兵の側も騎兵が脇を通り過ぎる瞬間を狙って銃剣を突き上げる
中世ヨーロッパの騎士はランスを媒体にして運動エネルギーを伝えるから、 衝突しているという表現がしっくりくるけど、 近世の騎兵の槍はなんか一回当たったら折れちゃいそうなんだよなぁ。
>>684 折れて問題なし、というかランスは基本的に使い捨て。
突撃の後はランスを捨てて剣やメイスなどを用いた白兵戦に移行。
まぁ近世の歩兵の隊列は薄いから使い捨てでも問題ないんだろうな。 でも中世の隊列は縦にも長いから槍を使い続けることが必要だったんだろうか。
中世も同じだよ。「エル・シードの歌」にもランスが折れるシーンがある。
>687 それは中世初期の木でできたタイプのランスだったからでは? 鉄製のランスが折れるとは思えない。
鉄製のランスて何?
>>1 に告ぐ
な ぜ ポ ー ラ ン ド の ポ モ ル ス カ が 入 っ て い な い ?
691 :
世界@名無史さん :2007/09/22(土) 18:20:27 0
693 :
世界@名無史さん :2007/09/24(月) 13:01:21 0
形からトーナメント用のランスに見えますが。 木製じゃないんですか?
>>350 フィリップ・コンタミーヌのWar in the Middle Agesでは騎士の突撃について
"It was the same even when the enemy were on horseback: in this case, the aim was to reach the horses and thus unseat their riders.
Then the esquires, foot soldiers and valets could intervene and finish things off as necessary."
と書いてましたけど
695 :
世界@名無史さん :2007/09/26(水) 18:29:55 0
騎馬軍団の定義が解らんが、20世紀で言えば、 内戦と波蘭戦で活躍したブジョンヌイ騎兵軍が最後の華かな。 白軍と中国軍を撃破したスフバートル率いるモンゴル人民革命軍も捨てがたい。
騎馬銃兵なら 今のアフリカとかに普通にいるけどね。 騎兵突撃は第二次大戦末期まででおしまいだと思う
今、ダルフールで民兵のラクダ騎兵が活躍してるよ。
世界最強は、武田の騎馬軍団
700 :
世界@名無史さん :2007/11/03(土) 12:10:33 0
攻めるも守るも自由自在
騎馬戦術って要するにどういうことなの? ただ馬に乗ってるだけじゃダメなんだよね? 部隊編成の段階から考えていかなきゃいけない?
むずかしい
704 :
世界@名無史さん :2008/01/29(火) 22:25:40 0
武田騎馬軍団
だから無敵武田騎馬軍団っていってるだろうが!!
当然、武田のポニー軍団
世界史上で強かった騎馬軍団10傑を選べば、半分以上はポニー騎馬軍団になる予感。。。
戦場での実用性 ポニー>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>サラブレッド
>>708 そりゃサラブレッドは軍馬じゃなくて競走馬だからな。
馬の体格がよくなってきた時代には、 すでに騎兵の時代でもなかった
>馬の体格がよくなってきた時代 百年戦争あたりか
百年戦争の騎士は戦いが始まると馬から下りて歩兵として戦った
>>712 それは大雑把にまとめすぎでは。
知ってる限りでは乗馬戦闘は後期のパテの戦いあたりになってもやってるけど。
715 :
世界@名無史さん :2008/04/03(木) 11:28:38 0
満州八旗軍も馬から下りて戦うことが多かった。
馬上の不利を知れ! by ケンシロウ
モンゴル帝国の騎馬兵も下馬して戦う時もあったけど、基本的に馬上戦闘がメイン。 馬を降りて戦う時は、何か特殊な事情かその場を動かず死守するって場合だったらしい。 >バイバルスがシリアに大軍を率いて遠征して来た時、寡勢だったシリア駐屯の部隊は馬を盾にして マムルーク朝軍にガスガス矢を浴びせてその場を死守し、1万1000騎いた部隊は半数が戦死したそうだ。 (当時イルハン朝のアバカはヘラートでチャガタイ家のバラクと大合戦していて、このシリア駐屯部隊の うち、三人いた司令官も二人がその場で死亡している) グユクの即位式の時にモンゴル宮廷を訪れたローマ教皇使節のカルピニとかも、報告書で 「モンゴル兵は戦闘中、馬から落ちても弓矢で散々狙い打ってくるから甚だしく危険だ」 と警告している。
デデ・コルクトの書だったか何だかに「馬をなくした勇士に未来はない」 とか書いてあって印象に残ってる
719 :
世界@名無史さん :2008/06/08(日) 19:26:27 0
720 :
世界@名無史さん :2008/06/08(日) 20:39:11 0
騎馬民族の戦闘って、よく考えるとわからん。 近世以降の西洋の騎馬部隊みたいに、隊列組んで馬蹄轟かせて突撃、とは違って、 散開しながら弓で相手を撹乱、崩れて敗走したとこを、追撃、でいいのかな。 あと、替え馬って、戦場ではどうしてたの?? 日本の武士みたいに、従者が管理してたのか?? 替え馬引き連れての戦闘って、イメージわかないんだが。
>>721 モンゴルの後継国とかの戦争について読むと
大規模な合戦の直後になぜか后とか後宮ごと捕虜になってたりするんだけど
たぶん戦闘隊形をとって布陣した背後に
家畜とか荷車に乗せた住居とかぞろぞろついてきてるんじゃないか?
それで補給が出来ると。
>>722 チンギス・ハンやバトゥ、フラグの大西征はどうなんでしょうね。
やっぱり、テント家財積んだ馬車隊引連れていったんですか??
モンゴル帝国の時代はよく知らないけど ティムールの遠征軍はパン焼き竈や風呂屋まで車輪に乗っけて ついてったらしい
725 :
世界@名無史さん :2008/06/11(水) 00:10:25 0
どうでもいいが早く大カーン復活しろよ。リンダンかアルタンの子孫いるだろ。
ティムール
>>724 騎馬民族軍団の移動というと、馬蹄を轟かせて騎馬軍団が
草原を疾駆するイメージだけど、
実際は、西部開拓団みたいな感じか??
モンゴル大西征でも、一部は征服地に残留してるから、
やっぱり妻子家財ひきつれてってるのか。
>>727 モンゴル帝国での場合だが、
どこのどういったグループが遠征に派遣されるかは遊牧君主や諸侯たちがクリルタイとかで
議論して決めるけど、遊牧民の遠征は万戸〜十戸まで区分けがあるものの基本は「イエ」単位
で行われる。
遊牧民の遠征は家族が同伴するのは普通だったようだ。前線には武装した兵士がグループ毎に
集められていたが、その後方に兵站部門として家族と家財、家畜が家毎に集められていたようだ。
モンゴル語ではこれを「アウルク a'uruq/アグルク aγuruq」と呼んでいた。
ゲルの材料になる柱や門扉、フェルト製の外壁など家財道具一式は一まとめにして馬車で持ち運ぶし、
家畜や軍馬も同伴してぞろぞろついていく。遊牧民が普段やっている夏営地や冬営地への移動と
基本は同じで、定められた宿営地まで休み休み行っていたようだ。イブン・バットゥータあたりが
書いていたと思うが、移動中は女子供は幌を貼った馬車で寝泊まりしていたとか。
勿論、前衛の兵士は武装していつでも作戦行動に移れるようにしていたようだけど。
729 :
世界@名無史さん :2008/08/01(金) 12:29:49 0
トルコとモンゴル どっちが強いんだろう
730 :
世界@名無史さん :2008/10/18(土) 16:47:49 0
ティムールがバヤズィト1世に勝ってるから、モンゴルだろ
731 :
世界@名無史さん :2008/10/18(土) 17:06:07 0
ポニーに乗った武田騎馬軍団
732 :
世界@名無史さん :2008/10/20(月) 00:10:38 0
366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/01/20(日) 21:14:38 ID:MloAFSh6 信長公記(かなり簡単に略) やがて、戦が動いた。織田・徳川勢の動きに反応し 武田勢が突撃を開始したのである。一番に攻め寄せたのは 山県三郎兵衛昌景の率いる精兵だった。山県勢は押し太鼓を鳴らして 猛然と攻めかかってきたが、織田勢の鉄砲の前に散々に 打ち立てられて引き退いた。かわって武田逍遥軒信廉が 突撃してきたが、織田・徳川勢は敵がかかれば引き、 退けば食い下がって密着し、下知通りの鉄砲射撃によって 過半を討ち取った。三番手に寄せてきた西上野小幡党の赤武者も、 馬上巧者として名高い関東衆の名にかけて騎馬で突撃を しかけてきたが、身隠しの胸壁の間から射撃を加える 織田・徳川勢の前に兵の大半を討たれて退いた。 四番手には黒一色の軍装に身を包んだ武田典厩信豊勢がつづいたが、 これも同様にして討ち果たされた。
733 :
世界@名無史さん :2008/10/20(月) 00:23:55 O
>>727 モンゴル人の子孫って今のハンガリー辺りまで?
ロシア以西はそんなにいるイメージがないな
カタフラクト最強伝説 次点で武田騎馬軍団
735 :
世界@名無史さん :2008/10/27(月) 05:07:14 0
女真族が最強
736 :
世界@名無史さん :2009/01/06(火) 15:35:27 0
737 :
世界@名無史さん :2009/01/12(月) 09:02:08 0
義経以上の騎兵戦術の天才なんて存在しないよな
738 :
世界@名無史さん :2009/01/12(月) 09:49:04 O
おいおい、どう考えても李靖将軍の騎馬隊に勝るものはないだろう……
李靖が将軍ねぇw
モンゴル兵は元寇で勝ったからどうも強いって感じがしないな まあ船戦の主力南宋軍なのもあるが
>>736 満州族はでかいけど蒙古人は結構小さいぞ
アッテラも小さいし
やっぱ突厥系でしょ!
李靖って将軍でもあるんじゃないの?
中書令とか司徒でしょ。
兵を率いたのはあってる?
>>745 行軍総管として軍を督し、分裂して弱化した突厥を伐ってる。
武散官としての将軍号をもらっている記述はない。と思う…
文散官として、開府儀同三司(従一品)とされ、衛国公に封じられた。
突厥倒すなんて流石だな
言っても、最盛期というわけでもないけどな。 つうか、最盛期同士で、そう簡単に決着つくことないけど。 ま、さすがはさすが。 韓信も白起も衛青も霍去病も敵わないって絶賛されたから、たいしたことないわけない。
ヌミディア騎兵 統御:A 攻撃:A 守備:B 敏捷:B 満州八旗 統御:S 攻撃:C 守備:C 敏捷:B ティムール軍団 統御:B 攻撃:S 守備:A 敏捷:A モンゴル騎兵 統御:B 攻撃:S 守備:B 敏捷:S 武田ポニー兵 統御:C 攻撃:C 守備:D 敏捷:B ポーランド騎兵 統御:D 攻撃:B 守備:B 敏捷:A
「攻撃」を 突撃 火力(飛び道具全般) に分けたほうが良くね?
そもそも騎馬輸送兵と騎乗兵をわけるべきだと思うんだ。
>>749 なんで人類史上最高の騎馬戦術の天才である義経様が入ってない?
評価するまでもなくすべてSだからか?
河内源氏騎兵 統御:B 攻撃:D 守備:D 敏捷:B こんな所か?
セルビア騎兵はどーよ?
>>755 騎馬は基本、移動手段としてSが適用されている。基本能力じゃないか。
ヨッシーだって、戦うときは徒歩立ちだったわけだし、関係ない。
大体、日本の騎馬はサラブレッドじゃなくてポニーだろ? 攻撃力なんかないようなもんだ
サラブレッドを軍馬に…
サラブレッドは競走馬だと何度言ったら(ry
時代が違う兵科を同列に比べてランク付けしようとする事に無理がある
義経が突厥にいたら唐軍涙目壊走だったのにな
763 :
世界@名無史さん :2009/01/20(火) 02:28:51 0
未だにアンチ武田のポニー厨いるとはw
サラブレットなんて戦争に使ったらすぐ脚痛めちゃうよ。
765 :
世界@名無史さん :2009/01/20(火) 06:52:57 0
デカ馬なんてせいぜい重騎兵で使える程度で火器食らったら終わり しかもそういう使い方だと乗せる重さで騎兵の特徴であるせっかくの機動が失われる、モンゴルの馬も小型だが長距離でも耐えれる耐久力ある馬
>>764 だからサラブレッドは競走馬だと(ry
>>765 そのかわり軽騎兵では軍馬に乗った重装騎兵の突撃をくらったら終わり
ヨーロッパでは中世末期ごろから甲冑の重装甲化が進むと
重騎兵と軽騎兵を分けて運用するようになるし
地上最強の騎馬軍団といったら、地獄地震後の関東を支配したドラゴン以外に有り得ないだろう。
皇国の守護者かよ
このスレ、興味深く読んでたけど元寇の話題になったあたりから、 レスアンカーつけられない人が、1人で大量に連レスしてて引いた。
770 :
突厥といえば... :2009/01/22(木) 22:53:28 0
ANoRA!! ウズベキスタン突厥の末裔の歌手で〜す☆ (ふるさとゴスペルみた〜い♪) 近々日本でデビュー!! よろしくね(>・)b
騎馬関連の話を一つ。 12世紀の朝鮮半島は今の北朝鮮領威鏡北道(正確には『威』の『女』の部分には『口』が入る)に東女真が住んでてコイツらは度々、高麗に略奪に来てた。 王はユン・グェンという武将に命じて討伐を命じるんだが強力な騎馬隊の前に兵隊の半数近くを失う敗北。 ユン自身も敗因を女真が強力な騎馬軍団を保有している一方で高麗軍が歩兵中心で騎馬が少ないと分析。 そこで王の許可を受けて養成したのが、歩兵で構成された神歩軍、新式武器を備えた特科隊、騎馬兵の神騎軍から成る「別武班」という部隊。 ユンはこの別武班を含む20万の軍勢を率いて水陸から女真討伐を行い圧勝し拠点135ヶ所制圧。 占領地自体は戦後に行き場を失った女真の要請を受け入れて女真が高麗の官爵を受けること、二度と侵入しないことを条件に返還したんだがね。 これ以降女真の侵入は沈静化して北辺は安定。 因みに平安北道にいた西女真は11世紀に徐煕とい武将に制圧されてる。 半島北東部の女真は朝鮮王朝初期に制圧。この時に活躍したのが火筒衛という火器を装備した部隊。
>>771 同じ女真族の金朝は東女真を助けに来たりしなかったん?
たしか完顔阿骨打が活躍してたのが12世紀初頭かと思ったが・・・
>>771 朝鮮人ごときに負けるとは、やはり女真は弱いな。
清を建国できたのも、所詮は李自成の棚ボタか。
というかその当時の高麗が珍しく軍閥政治
>>776 満州八旗の骨頂は攻撃力より鉄壁を誇る統率力
もともと袁ガクカンや呉三桂にやられてるし、攻撃力は初期から大したことない
その意味で
>>749 の評価は妥当といえるかも
つか入関以前に、清朝が存在している件 それと清朝って、モンゴル族も取り込んでいるお ま、呉三桂のお陰で中国内地に進出できたのは事実だろうが
> 袁ガクカン 袁崇煥(えんすうかん)だろ
781 :
世界@名無史さん :2009/02/09(月) 21:16:21 0
袁崇煥の場合は堅固な要塞に立て篭もって火砲での撃退だから どんな軍団が攻めようが勝てるわけない 呉三桂は常に連戦連敗で満州に勝ったことはない
782 :
世界@名無史さん :2009/02/10(火) 05:27:48 0
呉三桂て清との戦いで戦功あげて出世したんじゃなかったけ?
>>782 そう。皇太極ヘカンもあまりの頑強さに力で攻めとることは遂に諦めて計略で仕留めた。
ドルゴンも苦戦して降格させられた
日本の騎馬軍団は朝鮮で大暴れしてるのにな 高麗史・柳淑伝附・柳実 「倭三百余騎、又た古阜・泰山等の県に寇し、官廨を焚く。実、之を追撃し、副令の金玄伯、 舎人の閔中行、戦いて死す。実、退きて屯す。賊、夜に乗じて之を囲むや、士卒驚憒す。 実、僅かに脱身して走る。賊、遂に全州を陥る。実、戦うも利あらず。賊、帰信寺に退屯す。 実、之を撃ちて却かしむ。賊、臨披県を陥れ、橋を撤して自ら固む。実、潜かに士卒をして 橋を作らしむ。都指揮使の辺安烈、兵を率いて渡るを得、按廉の李士穎をして伏を橋の畔に 設けしむ。賊、望見して之を逆撃し、我が軍敗る。」
顕宗の時代 亀州大捷てやつ
790 :
世界@名無史さん :2009/02/11(水) 18:08:28 0
詳しくはわからないけど清軍を撃退したらしい
791 :
世界@名無史さん :2009/02/17(火) 14:37:40 0
らしい、じゃ困るわ
どっかのスレに「日本は刀夷の入寇を撃退したんだからヌルハチも余裕だろ」とか言ってるやついたな どんだけー
刀伊だろ
794 :
世界@名無史さん :2009/02/18(水) 04:44:44 0
呉三桂はたしか山海関に攻めてきた清軍を撃退
795 :
世界@名無史さん :2009/02/19(木) 13:09:58 0
最強と言われる騎馬民族モンゴルを余裕で打ち破った日本の歩兵 その歩兵を蹴散らした日本の騎馬 よって最強は日本の騎馬軍団 あとは国内最強の騎馬軍団を決めればいいな
グーはパーには勝てない道理。 平地でモンゴル騎兵と日本の騎馬がやりあったらおもろそうだ。
文永の役では福岡平野で鎌倉武士がモンゴル軍に勝ってるが
いや、相手の懐である草原で並べて騎馬戦したら、という話。
スタローンのロッキーのモデルになった白人ボクサーはパッとしなかったんだね
誤爆スマソ
山脈繋がりか
802 :
世界@名無史さん :2009/04/17(金) 19:58:58 0
>>795 モンゴル兵はほとんど参加してないよ
多民族の混成とはいえこの時の割合はとりわけ低い
それはそうと元寇スレって今では軍事板しかないのな
>>776 その李自成は女真にフルボッコにされてるんだけど
勃興期のジュルチンをなめたらいかんぜ
805 :
世界@名無史さん :2009/04/18(土) 13:10:30 0
沙陀はどうよ? 耶律阿保機も後唐に勝てなかったけど
てゆうか
>>776 は丁卯胡乱や丙子胡乱を知らないのか?
>>805 沙陀と契丹とは、当時の中国史においては注目の対決なはずだし
また、沙陀の中華(華北に限定的ではあるが)流入は、五胡以来の
ことで、それなりに研究対象とならねばならないはずなのだが…
大抵は唐宋変革ばかり。
ってのがとある論文に書かれてあった。
>>耶律阿保機も後唐に勝てなかったけど
契丹は耶律氏による支配をほぼ確定としたけど、沙陀は李氏や石氏や劉氏やらで
支配は安定していなかった。
たしかに、河北での決戦では、最終的に沙陀が勝利しているが(劉知遠の台頭で)
燕代を質にしたのはあるいみ戦略的敗北となる。
二州を回復した後周世宗を除いて、誰も寸土も取り返せなかった北方問題は大きい。
しかも、後周以降は沙陀支配ではなくなっている。
一応、契丹の勝利ということになるのかな。ちょいと外部要因が多すぎるけど。
808 :
世界@名無史さん :2009/04/18(土) 22:32:59 0
杉様は契丹マンセーで 契丹の負けを認めたくないようだったな
李嗣源の中央突破を、契丹の本隊はほとんどひきあげていて あとに残ったわずかな部隊に勝っただけ、みたいなネラーのような こと書いてたな、たしかw
810 :
世界@名無史さん :2009/04/19(日) 13:11:06 0
残った部隊に勝っただけで、 阿保機が負けたわけじゃないって力説してたな あと後唐が勝ったけど契丹の被害はたいしたことないとも書いてたような。
確か流れ的には 耶律阿保機が周徳威の軍を野戦で撃破して、 幽州を囲むも城兵の激しい抵抗で城を落とせず 部隊を残して撤退 そこに李嗣源や李存審が後唐の援軍に現れて契丹軍を撃破 こんな感じであってる?
>>811 おおむね。
耶律阿保機の本隊に、周徳威の幽州師だけで勝てるわけもなく
それこそ、数の差だろw と言いたかった。
あと、李嗣源や李存審の、このときの勇猛と奇略は
かなりのちのちまで参考にされる戦例だから、(いくさの規模として)
あまり過小評価されるのは釈然としなかった。
だいたい、後唐(このときは正しくは晋)の主力=李存勗は
南で後梁と対峙していたのだから、その余力のないときに
北に7万も派遣できたことこそ、評価していと思ってる。
でも、やっぱり最終的には(太宗徳光の代)、契丹の勝利。
ちなみに、後晋VS遼(石重貴VS耶律徳光)の会戦では 第一回目は澶淵まで遼軍は押し込んだけど 戚城の戦いで、後晋軍の抵抗の激しさに攻勢を断念。引き上げる。 ついで、後晋軍が逆進してくるのをひきつけて、満を持して投入した 精騎8万の正規軍は、耶律徳光の指揮の下、大将がラクダ馬車の 馬車を棄て、ラクダで逃げ出さないといけないくらいの、敗北を喰らった。 そのあと、奢った後晋軍は半分自滅しながら、遼に蹂躙された… 契丹騎兵を二度まで撃退した沙陀をなめちゃあいかん。 一度目は、個々の勇猛さで対処したまぐれ勝ちかもしれんが 二度目は、司令塔がきちんとした、勝つべくしての勝利。 よく活躍したのは、李存審の四男 …漢人ですけどねw ここらまでくると、沙陀騎兵ってあんま軍の中核ではないのかもしれない。 李存勗も、魏博以降は、魏州師である銀槍効節都を主力に据えているから 民族としての沙陀がどれほどのものか。もともと少数だったけど。
契丹vs後唐は燃えるな
>あと、李嗣源や李存審の、このときの勇猛と奇略は >かなりのちのちまで参考にされる戦例だから、(いくさの規模として) この辺の話ってのは遼について書いてる本には大体載ってます?
>>815 戦術の詳細は書かれていない。
《遼史》本紀太祖上の神冊二年八月の段で
「秋八月、李存勗は幽州へ李嗣源などを援軍として差し向けた。
曷魯らの兵は少ないので、撤退した」
って感じだ!
耶律阿保機は、六月に幽州が意気盛んをみて、軍を返している。
曷魯と盧国用二人に後を任せているってわけね。
んで、その後、麾下の刺葛とその子は、幽州に寝返った。
周徳威が率いた幽州師は、《舊五代史》荘宗紀では三万。
《遼史》でいくと、周徳威は幽、并、鎮、定、魏の五州師を率いて迎撃し
大敗して三万を失ったとされる。
并州は太原で、晋の本拠地。魏州は李存勗の本陣があるところ。
鎮州の趙王、定州の義武軍は、同盟国に近かった。
その辺の軍勢かき集めてたら、李存勗はどうするんだ?
契丹軍の規模は《遼史》には書いてない。《舊五代史》には、五十万とも
百万wとも言われているとか… 《資治通鑑》は無難に三十万にしているが
まぁ、そこまで大動員してないでしょ。国、傾きますって。
中国や欧州では遊牧系騎馬民族は恐怖の対象らしいが 日本はそういうのにボコボコにされたことが無いからどうもあんま強そうって感じがしないのな
日本には遊牧系騎馬民族はいないからな
>>817 そういうこと言うと、鎌倉武士厨が沸くよ。w
騎馬民族は野戦に強くて城攻めに弱いよね
821 :
世界@名無史さん :2009/04/22(水) 23:22:12 0
>>815 杉サマの『疾駆する草原の征服者―遼西夏金元』がオススメ
かなり契丹よりの本だけど面白いよ
モンゴルの馬はポニーに該当する ポニーで戦えるわけがない モンゴルの騎馬軍団などなかった
日本の馬も十分酷いだろw
>>822 の釣りってもうこの板だけでもう10回以上も見たような気がする
スウェーデンの馬はポニーに該当する ポニーで戦えるわけがない グスタヴ・アドルフの騎兵軍団などなかった
826 :
世界@名無史さん :2009/05/14(木) 21:12:09 0
827 :
世界@名無史さん :2009/05/14(木) 21:12:58 0
828 :
世界@名無史さん :2009/05/14(木) 21:33:23 0
騎馬軍団があって騎鹿軍団がなかったのは不思議
鹿では人を乗せられんのだろ。 駱駝部隊なら、中国でも南北朝くらいからあったけど。
ラクダ騎兵ならばアケメネス朝ペルシアの時代からいるぜ。馬はラクダの匂いがキライなので騎兵への嫌がらせに最適。 あと、パルミュラの高速ラクダRは強烈。
中国って昔から、歩兵か騎兵か、牛かって感じで 駱駝がいるってことが、意外だったんだ。 五代十国時代のことになるが、後周朝は淮南の湖沼地帯を制するのに 駱駝隊を投入したそうな。 騎兵も多く投入しているし、へんな組み合わせに見えるけど、駱駝は 河をそのまま渡れたから、最適なんだったってさ。
大韓竜虎騎兵軍団
833 :
世界@名無史さん :2009/05/15(金) 11:04:28 0
沙陀が最強
ラクダが沼沢地に強いとは意外。
835 :
世界@名無史さん :2009/05/15(金) 22:29:08 0
ラクダは結構タフ
836 :
世界@名無史さん :2009/05/18(月) 22:08:24 0
ラクダ部隊と言えばアラブ系遊牧民のベドウィンて戦闘力はどのくらいだったのかね?
ベドウィンが活躍したのって第一次中東戦争のヨルダン戦線しかシラネ 第一次大戦の連合国側アラブってベドウィンか?
838 :
世界@名無史さん :2009/05/20(水) 22:31:43 0
ベドウィンってアラブ系遊牧民の総称だろ? ラクダにのってるような人たちでも、馬にのってたナバテア人でもベドウィンなんじゃないの?
839 :
世界@名無史さん :2009/05/20(水) 22:54:48 0
日本陸軍、騎兵隊、秋山好古。
蒙古に連勝した明の馬芳が世界史最強
>>840 明軍もモンゴル騎兵を用いていたのでは?
サラブレットは60キロ超
砂漠ではサラブレッドよりラクダのほうがよさそう
蒙古騎兵の馬でも40キロくらいしか出なかったと聞いたが サラブレッドが戦に使えるのか? 最高速度が維持できる時間はどうなのよ? そっちの方が実際には重要だと思うんだが
馬は大喰らいの代名詞。 蒙古馬は小柄でずんぐりした体型だが、雑草ばかりの粗食にも耐え、遠くまで行動できる。
日本騎兵は日露戦争でコサックにボコボコにされて屠られた。
つか人間より遅い四足動物なんて ナマケモノとカメくらいじゃないか
851 :
世界@名無史さん :2009/05/30(土) 15:30:26 0
>>847 そしてコサックは弾幕射撃の餌(ry
史上最強騎馬軍団だけでいいならロシア陸軍を押すんだが、いかんせん時代が遅すぎるw
独ソ戦で赤軍側についたコサックは1942年にドン河に展開していた イタリア第8軍を撃破し敗走させた戦いで大いに貢献したという。 ドイツ軍側についたコサックはロシア解放軍に組織されたがドイツ敗戦後、 米軍に降伏したものの、ソビエトへ引き渡されその後(ry
854 :
世界@名無史さん :2009/05/31(日) 19:02:59 0
>>845 日本在来馬(木曽馬)は騎乗者の重装備なしで40km/hくらい、まあこの辺が軍馬としての標準じゃねーの。
856 :
世界@名無史さん :2009/05/31(日) 21:29:47 0
秋山好古が世界史上最強ってことで
以前JRAの雑誌「優駿」に 中国で行われている蒙古馬の競馬のタイムが載っていた。 具体的なタイムは覚えてないけど、サラブレッドは比較にならないほど遅いタイムだった。 それでも蒙古帝国は蒙古馬を使ってユーラシアを席捲したんだから スピードは軍馬としての有効性を考える上で過度に重視すべきものではない。 馬のサイズにしても同様のことがいえる。
そもそも軍用ポニーとの比較にいわゆる大型軍馬(デストリアー)でなく 競走馬のサラブレッドを持ち出してくる人間が後を立たないのは何故なのか
22 :世界@名無史さん[]:2008/01/07(月) 10:10:19 0 ところで軍事史のスレなのにデストリアーとかじゃなくて 競走馬のサラブレッドを基準にして話してるのは何故なのか
ということは低速の駱駝でも戦闘には使える要素があるということか
低速ってほどでもないし馬はラクダを怖がるので 敵の騎兵を撹乱することができるよ。
見掛けだけなら。 象部隊が最強なんだがな。 象自身も牙とか足で踏みつぶしたり出来るし。 象の背中に大砲や機関銃を設置可能だし。
象の上から機関銃ぶっ放すのはさぞ楽しいだろうなw
長砲身88ミリ砲を搭載した象もいるしな。
>>862 早く走るって動物じゃないから鈍いし、大きいから飛び道具に弱い。
武装すればさらに足は遅くなるし、気性もウマより扱いにくいらしい。
まあ何より生息地がインドとアフリカだから、補充が大変なのがネックだ罠
藤田茂小将率いる騎兵第4旅団こそ最強だろ…。 勝てる奴らいるなら言ってみろよ。
868 :
世界@名無史さん :2009/08/10(月) 21:43:13 0
ビルマの象兵部隊が最強
869 :
世界@名無史さん :2009/08/19(水) 23:06:59 0
世界最高の馬ってどこの馬だろうか やっぱアラブか?
870 :
世界@名無史さん :2009/08/19(水) 23:41:16 0
駝鳥って人が乗れるのかな
乗ったら足が折れるんじゃね?
人に馴れないので無理
873 :
世界@名無史さん :2009/08/22(土) 10:52:19 0
>>869 要素によるんじゃね?
スタミナとか、燃費(餌の量)とか、最高速度とか
あげ
875 :
世界@名無史さん :2009/11/13(金) 00:20:45 0
モンゴル国の国際関係
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%96%A2%E4%BF%82 南に隣接する中国とは、伝統的に関係が悪い。「娘が中国人と結婚したら一家の恥」との通念が今でも通用しているし、国政選挙でも中国との関係改善の是非が争点になる。
モンゴルが漢字文化を一切受容しなかったのも、モンゴル人が中国人を嫌ったためである。
モンゴル人にとって「中国人のようだ」というのは最大の悪口となり、選挙でも「あの候補は家系に中国の血が入っている」というのは最大のスキャンダルとなる。
日本人を含めた東洋系外国人が、街頭で「中国人か?」と聞かれることはまずない。中国人は蔑称であり、喧嘩を売っていることになるからである。
通常であれば、「中国生まれのモンゴル人(または韓国人)か?」と聞かれる場合が多い。ただし、日本とはまだ縁遠いため、日本人かと聞かれることは少ない。
モンゴル人と中国人との衝突事件、あるいは中華料理店に対する襲撃事件は、ニュースにもならないほど日常的に起きている。
学校教育で、中国人に敵意を煽る教育は行なわれていないが、家庭教育で敵意を植え付けている場合が多い。
モンゴル人の子どもが語る「学校の怪談」でも、中国人による殺人事件が頻繁に登場する。
現在、中国人が嫌いなモンゴル人は9割、好きなモンゴル人は1割と言われる。
衣料品や、家庭電化製品は、中国製がほとんどであるが、モンゴル人は、「中国の商品は構わないが、中国人の思想が気に食わない」と語る。
876 :
世界@名無史さん :2009/11/13(金) 00:23:36 0
877 :
世界@名無史さん :2010/02/01(月) 14:20:07 0
>>43 百年戦争でフランス軍は百年間真正面から突進続けて
百年間野戦で負け続けたじゃん
んなわけあるかアホw
880 :
世界@名無史さん :2010/04/18(日) 22:23:56 0
通常、池を超えるには時間が掛かります。しかし、非常に寒い冬の夜には厚い氷が張ることがあります。 水は零度を下回ると固体になります。固体になった上を雪車で走破すれば圧倒的な速度で進撃できます。 ナポレオンやヒトラーは初夏にロシアに攻め込みました。しかし、モンゴル軍は冬にロシアに攻め込みました。 ロシアの泥と吹雪でフランス軍もドイツ軍も身動きが取れず敗退しました。 モンゴル軍は凍り付いた土地を圧倒的な速度で進撃し、冬の作戦の為に冬装備も充実していました。 自分が楽な作業は敵も楽ですし、自分が不利な状況という事は敵も不利だという事です。
881 :
世界@名無史さん :2010/04/18(日) 23:45:05 O
武田の騎馬隊が最強 鉄砲がなかったら
>>879 フランス側が野戦で勝てるようになったのって終盤じゃん
883 :
世界@名無史さん :2010/04/19(月) 13:19:08 O
ライフルやマシンガンを開発出来なかったから 遊牧民は永遠の敗者になった コサック娘たち200人がライフルで武装し たった一晩でモンゴル兵13000人を屠殺したのはあまりにも有名な悲劇 遊牧民は人間として、男として恥をしれ
【中国/歴史】 王朝の変遷の原因は気候の寒冷化とそれに伴う食糧難だった…膨大な史料使い研究 [07/15]
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1279196606/ 中国歴代王朝の盛衰と、干ばつや洪水、イナゴの異常発生といった天災との関係を指摘する説は
以前からあったが、これほど長期間の社会・政治・経済の出来事と気象データを体系的に比較した
研究はこれが初めてだという。
■寒冷化と王朝崩壊に関連
その結果、農業を基盤としていた後漢(25〜220)や唐(618〜907)、北宋(960〜1127)、南宋(1127〜1279)、
そして明(1368〜1644)の王朝の崩壊はすべて、低気温もしくは急激な気温低下と密接に関係があると結論づけた。
気温の低下は中国の王朝を食糧不足で弱体化させた。
年間平均気温が2度下がるとステップ地帯の草原に生える草の成長期間が最大で40日も短くなり、
家畜の飼育に打撃を与え、北方の遊牧民族が南の中国語を話す人々が暮らす地域に
侵攻するきっかけになったという。
・福田首相は中国講演で歴史認識について村山談話をかみくだいて語った。 ・だがそれは、日本人に向かって言ったのでも、日本人が聞いていたわけでもない。 ・こういう大事なことは、日本に向かってこそ語りかけるべきだ。
887 :
世界@名無史さん :2010/08/25(水) 12:48:26 P
サルケチレル遊牧部族、定住へ―「遊牧に疲れた」
2010年08月23日付 Zaman紙
アナトリアで遊牧生活を続けている数少ない遊牧民の一つ、サルケチレル遊牧部族は遊牧生活に
疲れてしまった。彼らは何百年もの間、冬季はメルシンで、夏季はカラマンとコンヤの草原で
過ごしてきたが、牧畜ができる場所が提供されれば定住すると話している。
サルケチレル遊牧部族は昔、何千ものテントがあったが、今では150にまで減った。彼らは、
もはや山では昔ほど自由ではないと不満を漏らしている。サルケチレル遊牧部族長の
ハリル・オクスズオールは、自身の子供は都市へ移住した親戚の下で生活していることを明かし、
「子供たちは勉強したい、テレビやパソコンがほしいと思っており、説得はできなかった」と話す。
彼は定住生活に移行するために、公共事業住宅省に申請をしたと述べ、以前に行った申請は
受理されたと話した。更に、メルシンとカラマン県での手続きも最終段階に入ったと話し、
「約140世帯のうち、100世帯近くが権利を得た。遊牧生活はいよいよ終わりに近づいた」と述べた。
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20100823_132841.html
888 :
世界@名無史さん :2010/08/28(土) 10:53:36 0
>>858 どうしてかと言われても・・・
何かをイメージする時に、府中あたりで見慣れたものを思い浮かべたほうが分かりやすいからだろ。
新聞掲載の写真なんかで、見慣れない物体を撮る時、マッチ棒とか人間を必ず入れるのと同じかな。
test
890 :
世界@名無史さん :
2010/08/28(土) 20:12:51 0 かつて俺が中国武術の師匠(回族)から聞いた話。 遊牧騎馬民族が西洋騎士に勝てた背景の一つにはには武器の操法の差がある。 西洋人は武器を大きく振り回す(ハンマーを振りまわすような感じ)に対して 遊牧民たちは武器を小さく振り回した。 (例えば刀を使う場合、峰が体に沿うようにコンパクトにまわす) この起動の差が戦いの勝敗を分けた。 とのこと。