【モンゴル】 元寇 2 【高麗】〜神風は運?実力?〜
932 :
930:2007/10/23(火) 09:54:18
>「そのような国家意識」というのは領主らが全体の危機よりも自身の所領に
執着する国という意味ですかね?
そういう意味です。例えば当時のイングランドにフランスが攻めてきた場合
貴族は私怨を捨ててでも一致団結して国防を最優先させたのですか?
欧州国家同士の戦いは外国戦とは比べられないんじゃ?
ありゃあ遠い血筋で繋がってて他国の継承権一応持ってたりする王同士の戦いだったりするし
相手方につくにもそれなりの理がある
むしろ古代ギリシャやローマなんじゃないかね
内部でぎゃんぎゃんやりつつも結局はペルシャやカルタゴ相手に徹底して戦った
>>927 実際モンゴル軍に圧勝してるんだから空威張りじゃないじゃん
ああ、都市を焼かれようが民衆をいくら殺されようが寺社焼かれようが
武士の価値観から見れば損害に値しないんだなw
936 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 12:30:44
むしろそれだと、そんないい加減な政治基盤と意識で
モンゴル撃退できた鎌倉武士TUEEEEEEEEwwwwwってことになるな。
似たような状況のポーランドやロシアは言い訳出来ないぐらいにモンゴルにフルボッコにされてるし。
ポーランドやロシアと戦ってたのは日本にやってきた奴らよりも
本来のモンゴル軍に近い編成だったからなあ・・・
初見で奴らに野戦で勝てるほど質の高い軍隊はそう多くは存在しない。
何年も耐えたり撃退した国の場合は気候や地理的要因も大きいし
日本の場合は相手が質に劣る兵も多く含み精鋭でなかったてのもある。
他のモンゴルにやられた国とくらべりゃ日本は
撃退のための条件がかなり良かったんだ・・・
使者斬ったのは情報漏えいの防止のためじゃあないか?
本当に使者もその家来もほとんど皆殺しにしちゃったからフビライが
使者がどうなったか知るのに何年もかかったりしてる。
(その結果文永と弘安の間に7年も期間が空いたそうだ)
あと文永〜弘安における戦いの中で日本の国家意識がある程度
形成された、て話も聞いたな。外敵を前に国が一つにまとまる、て感じで。
938 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 13:32:12
寺社仏閣なんかは統一国家としての意識は持っていたようです。律令体制下
では地方行政を担う国司は中央から派遣されていたために、比較的中央集権
的な体制が維持できたのに対して、院政期よりこっちは地方の国主には基本
的に在地の豪族が任命されるようになったりして、だんだん中央への帰属意
識が低くなっていったというのはあるそうです。
939 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 13:44:16
>937
確かに、海戦なんかは圧倒的に日本軍が有利だったようですね。蒙古兵
の多くは船酔いに苦しまされ、伊万里の方でも夜戦は日本軍が終始優勢
だったそうですし・・・。
ガチの騎馬戦でモンゴル倒したマムルークが最強
>>937 ポーランドやロシアと戦ってたのは、大半が直前にモンゴル軍に吸収された連中。
日本の場合の方が遥かに精鋭部隊だよ。
副司令官の劉復亨だって、過去にはモンケ・ハーン直属の武将として南宋侵攻に
参加し、手柄を立てた経歴の持ち主。
方やモンゴル軍が最も扱いの上手い騎兵を
ほとんど連れてきてない上に
朝鮮人を大量に含んでる3万人と
方やモンゴル軍本体の騎兵部隊5万に
トルコ系歩兵7万+服属した国の兵士3万の計15万人で
上の3万人の方が精鋭だと申すか
国家は近代以降に生まれたもの。だから鎌倉武士が国家意識を持っているはずが無い。
だが、国家意識なくとも共同体意識はあるに決まっている。
言葉も風習も違う相手の集団を、自分達と異なる共同体と見なすことは至極当然。
>>942 >方やモンゴル軍本体の騎兵部隊5万に
>トルコ系歩兵7万+服属した国の兵士3万の計15万人で
この数字に資料の裏付けなんかあるの?
945 :
942:2007/10/23(火) 21:39:33
>>944 とりあえず自分が参考にしたんは
東洋書林の「モンゴル帝国の戦い」と
新紀元社の「戦場の覇者」て本だ。
当事者の記録でなきゃ信じられんと言うなら
自分はもう何もいわん
その後のキプチャク・ハン国とイル・ハン国のライバル関係を考えたら計15万は
あきらかに多すぎると思うけどね。
あと、元軍が日本に騎兵をほとんど連れてきてないっていうのの根拠は?
東洋書林はともかく…
新紀元社ってオイw
948 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 23:24:50
>946
「蒙古襲来絵詞」なんかでも、蒙古兵は歩兵が主体だし、海ノ中道での戦い
でも蒙古兵は歩兵が殆どだったって聞いたけど・・・。
モンゴル人は馬を連れて来ずに、ダニ(チョン)を連れて来てしまったんだな!
まあ騎兵集団で攻めたとしても、日本では馬による機動戦は無理だ。
海ノ中道は砂浜だし元々騎馬では戦いにくかろうて。
蒙古襲来絵詞は高麗兵相手の見聞だからどうかな。
蒙漢軍主体の博多方面では多少なりと使われた可能性があると思う。
ただし、その方面で劉将軍がやられた時、引き連れた配下は騎兵15と歩兵80の混成に「見えた」ようだ。
中途半端手ですまんが、これぐらいしか記録が無いのよ・・・
あ、間違えた。
「戦場の覇者」じゃなくて「覇者の戦術」ね
劉復亨が騎兵で戦ってたから全くいないて訳じゃなかったと思うけど
渡洋侵攻作戦で上陸直後の戦闘も想定されるのにそんな
大量の騎兵を伴って行くのは技術的に困難だと思う。
あ、あと一つ思い出した。蒙漢軍が本土で集結予定にめっちゃ遅れてたと思う。
モンゴル式の騎馬部隊ならさすがに遅れないのではないかと妄想。
せいぜい混成で一部騎兵部隊もいた程度だと思う。
この時期のモンゴル軍が歩騎混成なのは普通で元寇だけというわけではない。
仮に劉復亨の部隊(女真部隊の可能性が高いと思うが)の比率をそのまま当てはめても
全体で5000〜6000の騎兵が参加していたことになる。
それに、集結予定に遅れたのは女真部隊。
蒙漢軍の半数近くは予め朝鮮半島に屯田していたし、その部隊のために高麗が馬料を
供給していた記録もある。
神風wで難破して打ち上げられた高麗人や漢人
は殺されたが南人は奴隷にされて売られていった
らしいけどそんな違いなんてわかったのかな?
言葉とか服装で判断したんかな?
中国語にも方言とかあっただろうし
劉復亨はよく間違えられるが女真じゃなくて漢人。だから漢人部隊じゃないの?
前もこんな流れになったが、最小の戦術単位での歩騎混成部隊がいたのは確かで、誰も異論は無いと思う。
>>926 高麗史 家〇九五
「忠烈王六年 倭賊、固城の漆浦に入り、漁者を虜えて去る。大将軍の
韓希愈を遣わし、海道を防守せしむ。又た忽赤・巡馬・諸領府等の
二百人を選び、慶尚・全羅道を分守せしむ。倭賊、又た合浦に寇し、
漁者二人を虜え、以て帰る。」
馬匹なんていう輸送に手間かかるものを運ぶのは大変だろう
それに日本の地形をあらかじめ調べていたのなら、蒙古兵の騎馬戦術に適さないことぐらい知ってただろう
歩兵が主体、あと騎馬は幹部が少々ぐらいじゃ?
一日で弓が不足するあたり、投射兵器も軽視してたかも
959 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 10:13:51
>>945 >新紀元者「覇者の戦術」
ここ笑うとこ?
>>958 馬匹の輸送なんて別に大変じゃない。
大昔から普通に行なわれてる。
元軍は日本の地形をあらかじめ調べていたから、福岡平野では蒙古兵の騎馬戦術が効果的だと知っていたはず。
961 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 10:29:46
馬だけ運んでもモンゴル騎兵の能力は十分発揮できない。
羊が必要。食料にもなる上、弓の材料にもなる。おまけに自分の足でついてくるので
陸続きなら輸送の手間も省ける。
モンゴル兵一人に馬3から4頭、それに羊となるとかなりの大所帯。
それを考えたら騎馬軍団の投入はかなり難しいと思う。
>>961 その点も無問題。
船舶で兵糧をはじめとする大量の物資を輸送できるから、羊なんか必要ない。
元軍の船団は四次元ポケットでも装備してると思い込んでるんですか?w
>>963 元軍の大型船1艘が200トン積載可能で、300艘だと計6万トンの物資が輸送可能なんだけど
>>963 前近代の社会では陸上よりも水上の方が輸送効率がいいのは基本
966 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 14:13:51
相手をなめてたのは鎌倉側じゃなくて元側だったと
モンゴル軍は3千の兵力でベトナムの首都を占領したりしてるからな。
4万程度の軍で中東全域を征服するための遠征に出発したのに比べれば、
海岸から10キロちょっと内陸に入っただけの大宰府の攻略に兵3万も
つぎ込んだのは、かなり謙虚な作戦だったと思うのだが。
鎌倉武士が当時の世界では規格外の強さだったということだ。
968 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 20:36:37
元側は相手の矢のを再利用を考えていたところが、日本で和弓でしか使えないような長大な矢を使っているなんて想像も出来なかったんだろう。
969 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 21:09:23
少なくとも個人の武芸が合戦の勝敗を分けていた時代だからこそ、きっと
鎌倉武士は武器の扱いに長けてたんやろうね。ところで疑問なんやが、弘
安の役の際に江南軍として日本に来た10万の南宋の降兵はみんな元々兵
士だった人なの?それとも徴兵された人達だったの?
>>969 江南軍は旧南宋軍の降兵から参加希望者を募って編成されたんだよ。
旧南宋からはその他に、様々な技術者なんかも参加していたみたいだけど。
希望という名の徴用な。
だよな。職にあふれた人間の処分法でしかなかったとおも。
「抜擢殺し」とも言えるか
是は俺の全くの想像だが、恐らく当時の蒙古(元)は日本の領土を今の台湾の位置とサイズと考えていたのではないかと。
戦国期の西欧の世界地図でも日本の位置と形は現実とは遠い。
14世紀では尚更日本の正確な位置と領土を知るのは困難ではないかと。
もし日本が東西に長く、人口が膨大であることを知っていたならば、
九州の端から攻めてゆくような真似はしなかったのではないか。
博多から京都、京都から鎌倉まで陸上で攻め上るのは無理というもの。
実際、弘安の役では戦闘がほぼ終了した時点でも、まだ関東から兵が続々と進軍中だった。
蒙古(元)は日本の奥深さを知らなかった。
>>972 「職にあぶれた」以前に、
「ちゃんと組織化され、徹底抗戦を戦いつつも、余力を残して降伏した元・南宋軍団」
なんて、ヤバイ分子以外のなにものでもない。
とっとと処分したいだろこんなもの。
おまけに日本(鎌倉)とはお友達&モンゴルを挟んで「敵の敵は味方」だし。
975 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 23:53:39
>>973 今の日本人ですら、日本は世界でもかなり小さい国と思ってる人多いからなあ・・・
実際には日本列島ってかなりデカい
>>973 一応日本の大きさなどについては、使者として来日した趙良弼が調べて報告した
ことになってる。
元は耽羅人からの情報で「大宰府に攻め込むためには2〜3万の兵力が必要」と
言われたから、その通りの兵力を投入したのであって、最初から京都や鎌倉まで
陸上を攻め上ろうなんて考えていないだろ。
>>976 大宰府を攻めて何をしたかったんだ?
趙良弼はあほなのか?
>>977 それまでの元との外交は大宰府が全部やってたんだよ。
元が使者を送っても全員大宰府で足止めされて、京や鎌倉と直接交渉することはできなかった。
だから武力侵攻になったんじゃん。
980 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 08:44:03
>977
とりあえず太宰府を陥落させて、日本を威嚇するつもりだったんじゃない?
あるいは小手調べというか威力偵察だったのかも。太宰府を落とした時点で
第二波の遠征軍を送り込んでくるとか・・・。
当時はまだ南宋戦など、もっと重要な戦域が激戦だったからな
限定作戦で(恐らく元側などの価値観からみれば日本人が見るよりずっと重要な)博多一帯の破壊ないし制圧
この程度だろう
元々高麗式船は中国式に比べて積載量が小さく、それ以上の作戦を要求するだけの船腹は無い
(本当は中国式を揃えたかったが、時間かかりすぎるっていうんで簡易な高麗式の船を作らせたと元側資料にある)