1 :
世界@名無史さん:
無かったので立てました。
2 :
世界@名無史さん:04/09/13 16:28:58
遠くからわざわざ2げっと!
3 :
世界@名無史さん:04/09/13 16:39:54
このスレの寿命は短いな・・・・・
>>3 なんで?
しょうがないから話題振ろう。
「玄宗は名君か暗君か」
存分に議論してください。
この時代て人気ないの?
何故か立っているのをみたことがなかったので立てたが・・・
7 :
世界@名無史さん:04/09/13 16:51:47
トムヤンクン
>>4 漏れの考えからいうと玄宗は凡君。
若いころは良かったが、老いてからは駄目というのは
政治家として持続力が無いということ。
康熙帝みたいな芯がとおった名君ではない。
有能な側近がついている間はよかったが、
変なのが出てくると自分も変になった。
有能な人物の補佐を受けいれる器量はあったが、
自分でしっかりと政柄を取り続けるには
少し力量が不足していたといえるだろう。
ただ、彼の阿呆化について楊貴妃の話を持ち出すのは
少し勘違いだと思う。
玄宗は楊貴妃登場以前から変になり始めていた。
↑
これを叩きのめすところから議論を始めろや!w
9 :
世界@名無史さん:04/09/13 17:03:13
山野に長恨歌について語ってもらいたひ
10 :
世界@名無史さん:04/09/13 17:07:24
>>8 その情報は確かなんか?歴史書なんて脚色だらけやろうが!当時を生きたみたいに書いてんじゃねえっ
そんな風に叩きのめす所から議論を始めてくださいですw
13 :
長恨歌:04/09/13 17:19:34
・・・天は長く地は久しといえど
この恨み綿綿として尽きること無からん。
14 :
世界@名無史さん:04/09/13 17:24:12
楊貴妃くさそう
かんこう、ちょうしょく、しーけいこく
ぎょーう、たーねん、きゅーふーとく
よーけ、ゆうじょ、はつちょうせい
よーざい、しんけい、じんびーしき
てんせいれいしつ、なんじーきー
いっちょー、せんざい、くんのうそく
かいぼー、いっしょう、ひゃくびしょう
りっきゅー、ふんたい、むーがんしょく・・・・・
16 :
世界@名無史さん:04/09/14 11:38:15
山野さん語って(ハアト
玄宗皇帝は、無気力でぼんくらの睿宗皇帝の子供にしては勇気があり、頭もまあまあ。
しかし、根っからの金遣いの荒い遊び人的な性格。
即位当初は我慢して倹約していたけれども、治世20年過ぎて気がゆるみ、
ついに虫がはい出してきて治世後半の乱脈政治に直結と言うこと。
玄宗の治世前半は名君で、晩年だめになったってよく聞くけど、
ほんとかいなあ。
たんに治世の前半は武則天期に登用された名臣たちが手綱取ってた
から比較的うまくいってただけなんちゃうの?
開元の治世で玄宗が主導してこれをやった!…というのが思いつか
んのね。
玄宗は政治的才能より政権争奪における果断さや独特の嗅覚のほう
が光ってると思う。
太平公主(だっけか?)を排除するためのクーデターをおこしたことで
後継者の地位を獲得したんで、ちょっと運命が一本違えば無名の部屋済み
の皇子だった人。
20 :
世界@名無史さん:04/09/14 13:19:38
そうそう、太平天国の乱ね。
いいぞ、いいぞ、盛り上がってきた〜
21 :
世界@名無史さん:04/09/14 14:15:24
太平ヨンの宇宙旅行
22 :
世界@名無史さん:04/09/14 18:38:01
大平内閣の話しようぜ〜
最初は名君っぽく登場して、晩年の頃には暗君・昏君ってのは
治世の長い君主や権力者にはありがち。
漢の武帝もそうだし、日本では徳川綱吉なんかが典型的な例。
玄宗だけが特別な例ではない。
24 :
世界@名無史さん:04/09/14 18:45:09
「三年鳴かず飛ばず」の楚の莊王、
シェイクスピアが描くヘンリー四世はその逆の例。
漢の武帝、徳川綱吉は政策の誤りはあるけれど、自身は終生賢君だと思うよ。
唐代になって突然帝号がやたら長くなるのは何でだろう。
27 :
世界@名無史さん:04/09/15 08:29:40
つか、前半の善政は則天武后の遺産、中盤は張説が頑張ったから良かったが、
後半に李林甫が出てくるとだめになった。
結局輔佐の臣に左右されやすい君主だったんだろ?
28 :
世界@名無史さん:04/09/15 11:47:12
現代中国での武則天の評価ってどんなもんなんでしょうね。
評価しない人は「則天武后」と言い、
評価する人は「武則天」と言うらしい。
で、発行物をみると歴史史料以外はほとんど「武則天」。
四人組時代にオポチュニスト郭沫若が江青をもちゃげるために武則天の
戯曲を書いたことがある
いまでもフェミな歴史家は評価してるらしい
唐代になって突然帝号がやたら長くなるのも則天の虚栄心から
東大は確かにいいね
34 :
世界@名無史さん:04/09/15 20:45:06
>>19 本当だったら兄貴が皇位を継いでいたわけだし…。
李淵 高祖神堯大聖光孝皇帝
李世民 太宗文武大聖大廣孝皇帝←太宗文武大聖皇帝←太宗文武聖皇帝
李治 高宗天皇大聖大弘孝皇帝←高宗天皇大聖皇帝←高宗天皇大帝
武曌 則天順聖皇后
李顕 中宗大和大聖大昭孝皇帝←中宗大和大聖皇帝←中宗孝和皇帝
李旦 睿宗玄真大聖大興孝皇帝←睿宗玄真大聖皇帝←睿宗大聖真皇帝
李隆基 玄宗至道大聖大明孝皇帝
李亨←紹←璵←嗣昇 粛宗文明武徳大聖大宣孝皇帝
李豫←俶 代宗睿文孝武皇帝←世宗睿文孝武皇帝
李适 徳宗神武孝文皇帝
李誦 順宗至徳弘道大聖大安孝皇帝
李純←淳 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝←憲宗聖神章武孝皇帝
李恆 穆宗睿聖文恵孝皇帝
李湛 敬宗睿武昭愍孝皇帝
李昂←涵 文宗元聖昭献孝皇帝
李瀍 武宗至道昭粛孝皇帝
李忱←怡 宣宗元聖至明武献文睿智章仁神懿道大孝皇帝←宣宗聖武献文孝皇帝
李漼←温 懿宗昭聖恭恵孝皇帝
李儇←儼 僖宗恵聖恭定孝皇帝
李曄←敏←傑 昭宗聖穆景文孝皇帝
李柷←祚 昭宣光烈孝皇帝
36 :
世界@名無史さん:04/09/15 23:21:45
宮崎一定に始まり宮崎一定に終わった大唐帝国
宮崎市定「人の己を知らざるを憂ゑず、己の人を知らざるを憂う・・・」
どの王朝にもいる「世宗皇帝」が唐にはいないのが不思議だったが、
代宗が初め「世宗」だったのか。
たぶん、太宗の名前「(李)世民」をはばかって改廟したと思われる。
39 :
世界@名無史さん:04/09/16 15:55:49
代宗が世宗の廟号にふさわしい男とは思えんから、
変えてよかったんじゃないか?
正装ではなく代走だったんだ・・・
唐揚げしてみよ〜
42 :
世界@名無史さん:04/09/22 18:37:51
唐って漢民族なんですか?
>35
ものものしいね。戒名みたいだね。
>戒名みたいだね。
当たらずと言へども遠からず
>>42 唐の王室ということなら、鮮卑と漢族の混血だろうと思う。
>>45 んで老子さま(姓が李)の子孫だとか言ってたんだっけ。
史記列伝の最初を老子にしたり。
鳥姫伝って小説があって、舞台が唐の時代の北京なんだけど、
この北京って唐で言う所の燕? それともまんまで太原?
田中芳樹の解説だと唐に北京はないらしいんだけど。
>35 なんで宣宗皇帝だけ帝号が長いの?
48 :
世界@名無史さん:04/09/27 17:22:32
>>42 日本に艦隊派遣してきたりするのって大抵北方民族の王朝だよな。
49 :
世界@名無史さん:04/09/28 15:17:04
>>44 その通り…その通りなんだが…なぜか微妙に笑えた。
>>45>>46 少なくとも父方は鮮卑族の血が濃い。
それを隠すために李世民は「氏族譜」を作らせて
李氏を中国筆頭の名族ということにこじつけた。
ちなみに高祖の李淵は煬帝の従兄弟にあたる。
>鳥姫伝って小説があって、舞台が唐の時代の北京なんだけど、
>この北京って唐で言う所の燕? それともまんまで太原?
>田中芳樹の解説だと唐に北京はないらしいんだけど。
まさか原作者がそれを知らなかったとは思えないから、
欧米の一般読者のイメージに合わせて史実をいじったんだと思われ。
そもそもあの話だと、確か北京が都にされていたような……
>>48 類例が少なすぎるので一般法則化は不可。
50 :
世界@名無史さん:04/09/28 15:27:31
>>43 >>44 むしろ、中国〜日本の仏教のほうが、儒教の謚号を取り入れて今あるような戒名となったんじゃないかな?
51 :
以古為鏡:04/09/28 15:53:20
太宗、嘗て侍臣に謂ひて曰く、夫れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正す可し。
古を以て鏡と為せば、以て興替を知る可し。
人を以て鏡と為せば、以て得失を明かにす可し。
朕常に此の三鏡を保ち、以て己が過を防ぐ。
今、魏徴徂逝し、遂に一鏡を亡へり、と。
因りて泣下ること久しうす。
詔して曰く、昔、惟だ魏徴のみ、毎に余が過を顕す。
其の逝きしより、過つと雖も彰すもの莫し。
朕豈に独り往時に非にして、皆茲日に是なること有らんや。
故は亦庶僚苟順して、龍鱗に触るるを難る者か。
己を虚くして外求し、迷を披きて内省する故なり。
言へども用ひざるは、朕の甘心する所なり。
用ふれども言はざるは、誰の責ぞや。
斯れより以後、各々乃の誠を悉くせ。
若し是非有らば、直言して隠すこと無かれ、と。
人生意気に感ず
功名、誰かまた論ぜん
貞観政要だな
54 :
世界@名無史さん:04/09/28 16:03:06
正解!
唐叔虞
貞観政要を読むと、完全無欠な素晴らしい人物だと思い込みやすいよな。
ガキの頃、オヤジの書架に在った貞観政要を
読んだことを懐かしく思い出すよ。
おまけにその本の解説には玄武門の変に於ける太宗の活躍が
血沸き肉踊る文章(資治通鑑のリライトだということに気づいたのは
成人の後)で書かれていたので、消防の頃は太宗はヒーローだと
思っていたなあ。西遊記の太宗もいい人だったしなあ。
大学に入った頃、太宗が史料の粉飾を行わせ、煬帝を故意に
貶めていた事が気賀沢さんの監修によりNHKで報道され、
ショックだったなあ。その後太宗の自筆文書の研究も
進んだようだが、存外気の弱い一面もわかってきているようだね。
57 :
世界@名無史さん:04/10/11 07:15:20
<遣唐留学生>墓誌を初発見 日中交流史に新たな側面 中国
【北京・大谷麻由美】新華社通信によると、中国陝西省西安市にある西北大学は10日、中国・唐時代(618〜907年)に日本から中国に渡った1人の遣唐留学生が
客死したことを記す墓誌を同市内で発見したと発表した。この留学生は奈良時代、阿部仲麻呂らとともに遣唐使の一員として中国に渡ったと見られる。中国で当時の日本人
の墓誌が発見されたのは初めて。墓誌は、ほとんど知られていない遣唐留学生の実態を伝えており、日中交流史の新たな側面を浮き彫りにする貴重な発見と言える。
また同通信は、この墓誌には「国号日本」と書かれており、中国で確認されている漢文の実物資料のうち、「日本」という国名が出てくる最も古いものであると報じた。
発表によると、西北大学の博物館が最近収蔵した墓誌は、ほぼ正方形の石製(一辺約39.5センチ)。文字は篆書(てんしょ)で、全部で12行、171字から成る。
墓誌は、遣唐留学生について「姓は井、名は真成、国号日本」で、豊富な知識と勉学に励んだ業績を評価している。「井真成」は官職として宮廷に仕えたが「開元22年」
(西暦734年)に36歳で死去。死後、皇帝の衣服を管理し直接皇帝に仕えることができる「尚衣奉御」という高位の職を授与されたことも付記されている。墓誌には、
玄宗皇帝(在位712〜756年)がその死を悼んで盛大な葬儀を行ったとの記述もあり、「亡骸は異国の地にあるが、魂は故郷に帰ることを願う」と結んでいる。
「尚衣奉御」という役職から、「井真成」は唐で官吏として出世した仲麻呂に匹敵する人物だった可能性がある。また墓誌にある死亡年齢などから717年に仲麻呂や、
帰国して右大臣になった吉備真備ら557人が参加した遣唐使として中国に渡った可能性が強い。
遣唐留学生の中では、仲麻呂や吉備真備、空海らの名が残っているが、日本側に「井真成」の記録はない。中国名のうえ、日本で高位の官職に就いてなかったためと見
られる。
58 :
世界@名無史さん:04/10/11 07:16:54
◇「井真成」はどんな人物か
遣唐留学生として唐の都・長安で活躍した日本人の墓誌が見つかった。「井真成」と記された留学生はどんな人物だったのだろうか。識者に聞いた。
◇勉学状況明らかに
東野治之・奈良大教授(日本古代史)の話 遣唐留学生の墓誌発見は初めてというだけでなく、留学生の勉学状況や死亡後の待遇などこれまでよく分からなかった留学生の状況を具体的に明らかにする極めて重要な資料。墓誌は一般に良いことを書くので、
事実かどうかわからないこともあるが、皇帝が高い官職を与えて葬らせたとあり、大変優秀な人物だったと考えられる。振る舞いが礼儀にかなっていたともあることから、儒学を学びに行ったと思われる。
◇もう一人の仲麻呂
鈴木靖民・国学院大教授(日本古代史)の話 遣唐使の役割、目的などは文献では分かっていたが、同時代の生の史料が見つかったのは初めてで、日中交流史、日本の古代文化史を具体的に想像できる第一級の史料だ。(「井」という中国姓は)現在の大
阪府藤井寺市一帯を本拠とした渡来系の「井上忌寸(いみき)」という一族ではないか。一族の中でも特に優秀で、コネもあったのだろう。死後に贈られた、皇帝の衣服を管理する役職「尚衣奉御」は従五品上(官位)に相当するが、ほぼ同じ年齢で、ともに
唐に派遣された阿倍仲麻呂は同じころ、従五品下に昇格しており、「もう一人の阿倍仲麻呂」ともいえるだろう。
(毎日新聞) - 10月11日1時40分更新
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041010-00000063-mai-int
59 :
世界@名無史さん:04/10/11 18:46:13
遣唐留学生:日中重視の証し 平山郁夫氏
墓誌発見の発表に同席した平山郁夫・日中友好協会会長の話 井真成という留学生は皇帝から非常に評価されていたことが分かる。日本の留学生にこれだけ立派な墓誌をつくっていたことは、当時の中国王朝と皇帝が、日中関係を非常に重視していた証しだ。
「国号日本」という記述から日本を正式に国家として認めていたことも分かる。真成のような当時の留学生が先進文化を持ち帰り、日本に非常に重要な影響を与えた。こうした歴史をかがみとして「日中関係を良くしなさい」と真成が出てきたのだろう。(共同)
◇交流史解明に貴重
池田温創価大文学部教授(中国古代史)の話
中国では唐時代の墓誌が5000点以上見つかっているが、日本という言葉が出ているものは極めて異例。死後に皇帝から「尚衣奉御」という高い官職が贈られたのは厚遇されていたことを裏付ける。日中交流史にとり貴重な史料だ。ただ一般に中国で見つかる
墓誌と異なり、生前の官位など具体的な働きが書かれておらず、物足りなさが残る。また子孫についても言及がなく、亡くなった時は独身だったのかもしれない。中国では墓誌の発掘が進んでおり、今後も新たに日本人の墓誌が見つかる可能性はあるだろう。(共同)
60 :
世界@名無史さん:04/10/11 18:47:58
◇ことば 墓誌
墓主を明らかにするため、名前や業績を石などに記したもの。中国では三国時代(220−280年)に魏の曹操が埋葬簡略化のため墓碑建立を禁じたことから始まったとされる。唐代は正方形の石が一般的で、貴族から庶民まで広く普及、3000点以上
見つかっている。古代日本では7世紀中ごろから8世紀にかけての中級官僚や僧侶の火葬墓を中心に16点が現存。内容は簡単なものが多く、古事記(712年)を編さんした太安万侶の墓誌は41字だった。(共同)
◇ことば 遣唐留学生
日本が唐の先進的な制度や文化を摂取するため630年から16回、推計5000人以上を派遣した公式使節、遣唐使の一員となった留学生。皇帝に重用され、唐の官吏となった阿倍仲麻呂、留学僧の最澄や空海が有名。遣唐使1回につき十数人が入唐し
たとみられ、滞在期間は約20年間に及ぶ場合もあった。吉備真備のように帰国し、知識人として活躍して初めて名が残った。留学中の挫折や病死のほか、帰国船の遭難で犠牲になり、無名のまま終わった留学生は多いとみられる。(共同)
61 :
世界@名無史さん:04/10/11 18:49:10
◇遣唐留学生の墓誌の要旨は次の通り。
一、姓は井、字(あざな)は真成。国は日本。生来の才能があり、よって命により、遠い国から唐に派遣された。
一、礼儀正しさは比類なく、勉学に努めて飽きなかったが、突然の出来事により、開元二十二年正月に三十六歳で、国の宿舎で亡くなった。
一、皇帝は(死を)悼み「尚衣奉御」を贈り、二月四日に万年県のサン水(現在のサン河)のほとりで国費により葬った。
一、白い馬車と旗をあげた葬列により盛大な葬儀が行われた。参列者は遠くに落ちる夕日を見て、ため息をつき、墓場を指さして悲しんだ。
一、(死は)自然の理だが、日本の人々も悲しんでいるだろう。遺骨は異国に埋葬するが、魂は故郷に帰ることを願う。(共同)
毎日新聞 2004年10月11日 1時10分
ttp://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/news/20041011k0000m030139000c.html
62 :
世界@名無史さん:04/10/12 01:52:53
63 :
世界@名無史さん :04/10/12 07:57:29
国文専攻の者です。和漢朗詠集がらみで白居易つながりで牛僧孺(牛李の党争含む)
・劉禹錫について調べたいのですが中々ピント来る資料および論文が探し出せません。
お薦めのものがあったら教えて下さい。
通鑑記事本末が牛李の争いの条をまとめていたはず。
65 :
世界@名無史さん:04/10/12 15:28:55
上に出てる墓誌の話、なんだかしみじみしちまうな。
遣唐使で唐についた人たちが、様々な制度や文物を学んで戻ったとよく聞く
けど、具体的にはどんなところで勉強してたの?
阿部仲麻呂は国子監のうち太学に入れたらしいが、他の連中は律学とか
書学とかに入ってたの?それとももっと下位レベルの学校や私塾みたいな
のがあったのか、いきなりオンザジョブトレーニングなのか?
ぐぐってもいまいちイメージがつかめなかったので。
久しぶりに来てみたらかなり沈んでいるな。唐揚げするぞよ。
後唐や南唐の話でもいいのかな?
まあ基本的にはいわゆる「大唐帝国」がメインながら、
それと多少とも関係するなら、そのあたりもいいです。
もっとも五代十国時代は既に専用のスレがあるので・・・よし、姉妹スレとして貼っておこう。
酒こそ最高
73 :
世界@名無史さん:04/12/14 00:49:58
age
唐の皇帝、というとどうしても、太宗李世民、武則天武照、玄宗李隆基
程度しか思い浮かばない厨房ですが、他に業績を残した皇帝としては
どんな人がいますか。
75 :
世界@名無史さん:04/12/17 17:44:25
・・・初代の高祖・李淵は?w
あとは憲宗なんかも有名かな。三武一宗の法難のひとつをやらかした人物。
>>75 法難は武宗だよ。道教に凝って廃仏毀釈したんだよね。
尤も、唐の後半の皇帝は如何わしい丹薬飲んでおかしくなったけど
77 :
世界@名無史さん:04/12/18 17:04:53
しまった、武宗だった。
訂正感謝。
78 :
世界@名無史さん:04/12/24 16:24:53
唐揚げって唐と関係あるの?
79 :
世界@名無史さん:04/12/24 16:41:26
カラッと揚げるからカラ揚げ。 or
カラカラという音を立てて揚げるからカラ揚げ。
80 :
世界@名無史さん:04/12/24 18:36:48
高宗、中宗、えい宗は?
81 :
世界@名無史さん:04/12/25 08:37:03
>81
>80は>74にレスしているのでは?
おや、久しぶりに来たらだいぶレスかついていた(^^)
>>76 大体王朝はどこの国も後半になっちゃうと凡君が増えだしますが、
唐の場合は、それがあったのですね。
>>80 私のように高校世界史+原百代「武則天」止まりの厨房にとっては、
唐代の皇帝とはその程度。その三人は、太宗・長孫皇后や武則天という
中国史にその名を残す人たちの子や孫の癖に親の名を辱めているとしか
いえない人たちだし。親が偉大すぎると子は萎縮して駄目になっちゃうのかねえ。
もっとも、中宗、えい宗は優秀だったらお兄さんみたいな目にあっちゃうから
仕方がなかったのかもしれないが。
84 :
世界@名無史さん:04/12/25 15:48:56
>>83 宣宗は?
一応説明はコピペしとくわ
宣宗 820〜846〜859
第十六代天子。諱は忱。憲宗の第13子、穆宗の弟、武宗の叔父。
韜晦によって魯鈍と評されていたため、武宗の病臥に乗じた宦官の馬元贄に擁立された。
武宗の廃仏を撤廃して開山・剃髪に一定の制限を設け、牛李の党争を終わらせて宦官の抑制にも一定の成果を挙げるなど、内政安定に尽力して“小太宗”と称された。
晩年は道教を篤信し、不老長生薬の誤用で没した。
あんまりいじめないでくださいよ
漏れは高校世界史+歴史小説どまりの人間だといってるでしょうが。
時期的に言って、遣唐使廃止前ですね。
他に業績を上げた皇帝・・・政治だけでなく学問・芸術も含めて
って誰がいます?
>>83 おお、私も原百代の武則天読みましたよ。
あれで来俊臣のファンになりましたw
確かに唐の名君だと太宗以外に名前を挙げろと言われたら
首を傾げざるを得ない。
武則天は「武周」の皇帝なので除外がな。
玄宗は後半がだめだめ。
87 :
世界@名無史さん:04/12/29 12:38:52
あげとく
おやじの尻拭いをみごとにやってのけた肅宗も相当な名君だと思いますが。
新唐書肅宗本紀に曰く、
「天寶の亂、大盜(安禄山)にわかに起り天子出奔す。
まさに是の時、肅宗皇太子を以って兵を治め賊を討つ、
真に其の職を得たり!(中略)
亂を平らげ守成、蓋し亦た中材の主なり!」
肅宗も晩年は李輔国の専権を抑制出来なかったのがマイナスかな。
しかし唐の皇帝は晩節を全うできたのは皆無だな。
90 :
李白&杜甫&白楽天&王維&韓愈&柳宗元&劉禹錫&李賀&李商隠:05/01/04 17:40:45
僕 ら に つ い て も 語 っ て お く れ
91 :
世界@名無史さん:05/01/04 17:44:59
やだ
93 :
世界@名無史さん:05/01/04 18:17:45
>>90 >李白
アル中にも程がアルコール
>杜甫
いつもメソメソし過ぎだ
>白楽天
モテナイ男のコンプレックス丸出し(プ
>王維
おまいは画家なのか詩人なのかはっきりしろ
>韓愈
この全員の中で一番つまらん詩を書くのはお前だ
>柳宗元
流罪ご苦労様
>劉禹錫
美女の描写だけはやたら秀逸だ
>李賀
そんなに幽霊が好きか
>李商隠
いつもロ〜ンリーな男だな
94 :
花は舞う長安の春:05/01/04 21:22:07
長安の都に憧れます
西安は文化大革命のとき、長老たちが必死で文化遺産を守ったので、
かなり歴史的なものが残っているそうだよ。
文化大革命なんて、長安の歴史にすればごく最近だろう。
それ以前に何度掠奪を受けたことか。
唐代も洛陽は復興せずじまいですか?
98 :
世界@名無史さん:05/01/05 17:39:19
隋唐代の洛陽は遺構が残っているので、復興したんじゃないの?
99 :
世界@名無史さん:05/01/05 17:56:23
宋は唐の文化を受け継いでないんだよな。
>>97 洛陽は唐の東都。武則天なんか長安が嫌いで(王皇后の亡霊が出るとかで)、
洛陽にいずっぱりだった。
>>99 ネタとしても面白くない。
101 :
世界@名無史さん:05/01/06 02:56:11
長安・洛陽が完全に使い物にならなくなったのは、結局朱全忠のせいなのかな?
103 :
世界@名無史さん:05/01/07 00:08:32
安史の乱のあと、よくあれだけの期間一応とはいえ国家が保ててるな
104 :
世界@名無史さん:05/01/07 00:28:27
>>103 安史の乱以降,唐朝は衰退したといわれる。しかし,専売制や新税制を導入
して,安定した財政を維持したといえると思うよ。また,唐朝の境域も安史の乱
以前にくらべると,周辺民族の活動が活発になって縮小したかもしれないが,
王都長安などは,むしろ安史の乱以降に繁栄を極めていくといわれまっせ(←妹尾
達彦・中央大学教授の本に書いてあった気がする)。
だから,「一応とはいえ国家が保ててる」というのは,あまりいい表現ではない
気がします。
ちなみに,安史の乱では江南が被害を受けず,乱以降の財源となったといわれ,一方,
黄巣の乱では江南も多大な被害を受け,唐朝は滅亡するしかなかったというのは,
大学受験レベルの知識でつ
105 :
神戸人 ◆S3//NYH/w6 :05/01/07 00:33:31
安録山=アン・ロクシャン
106 :
世界@名無史さん:05/01/07 00:46:13
>>104 黄巣の乱ではインドやペルシャの商人たちも十数万人殺されたとか。
このあたりの歴史もなんだか面白そうだ。
107 :
世界@名無史さん:05/01/07 08:40:47
唐って新羅にも渤海にも撃退されてるんだね。
108 :
104:05/01/07 12:01:08
>>106 そうですよね。唐朝の歴史って,安史の乱以前の唐の建国とか,貞観の治とか
武則天とか開元の治にスポットがあたっているけど,むしろ安史の乱以降五代
を経て宋朝と遼朝の分離成立にいたるプロセスのが,ダイナミックな動きが
あっておもしろいよ。でも,五代は別スレ(←ここはちょっとマニア系)。
>>106 イラクで生まれて10世紀前半に活躍したイスラームの大歴史・地理学者
アル・マスウーディーは『黄金の牧場と宝石の鉱山』の中で、
シーン(中国)における唐帝国の崩壊と五代の動乱についても語っています。
あたかもマケドニアのアレクサンドロスがペルシアの王ダーラーを殺した後、
各州の長官たちがそれぞれ独立した時にも似ている。
現在われわれの方でも起こっているごとくである(←アッバース朝の権威低下を指す)
>>107 何だかんだいって、隋が手こずった高句麗は結局滅ぼしてますけどね。太宗在世中は無理でしたが。
それに突厥も倒したし、前期には吐蕃も懐柔したし、西トルキスタンまで勢力を拡大してますし。
久しぶりに来てみたら結構賑わっていて重畳重畳
>>110 結局、高句麗の領地を吸収できなかったんだね。
深い森林は苦手だったんだろうか。
113 :
世界@名無史さん:05/01/07 18:58:13
>>109 アル・マスウーディーの『黄金の牧場と宝石の鉱山』って,和訳ありますか?
>>108 永嘉の乱から混乱を経て少しずつ統一に向かう過程も面白いよ。
>>113 知ってる限りでは、ないです。残念ながら。
116 :
世界@名無史さん:05/01/07 22:54:43
唐は、高そうの時が全盛期
117 :
113:05/01/09 16:20:08
118 :
世界@名無史さん:05/01/10 02:35:33
119 :
世界@名無史さん:05/01/10 08:47:15
永嘉の乱は五胡十六国が侵入して西晋が滅ぶときの事件じゃない?
南北朝か五胡十六国のスレで語るべきこと。
120 :
世界@名無史さん:05/01/10 11:56:21
>>119 谷川道雄が『隋唐帝国形成史論』を永嘉の乱から書き起こしている事を考えると
全くのスレ違いでは無いと思ったのだが。
122 :
世界@名無史さん:05/01/13 20:32:36
>>113 あります。
The Meadows of Gold
というタイトルだったと思います。
但し、抄訳です。
アッバース朝の部分のみで、こちらの読みたい部分が省かれていたりします。
ただ、フランス語訳よりも原文の校訂をしっかりやってあり、訳も間違いが少ないと、序文に書かれていたと記憶しています。
ただ、タバリー(これも英訳あり)の方が体系的に、というか編年的に読めます。
マスウーディーは、特にアッバース朝のあたりになると、面白いトピックの
寄せ集め(これが面白いのだが)です。
ただ、タバリーとマスウーディーで同じ歴史的事件を扱っても、微妙に内容が違ったりして、読み比べると面白いですよ。
123 :
世界@名無史さん:05/01/13 20:34:35
122
すみません。宛先を間違えました。
122は、117さんへの回答です。
113さん、ごめんなさい。
124 :
113:05/01/14 09:32:13
>>122 サンクスです。113=117なので,大丈夫です。ちょいと探してみまつ
高宗李治
「嫁が怖いけど、唐の最盛期は私の時代なんですよー(´・ω・`)
隋文帝&煬帝、それとパパの失敗した高句麗遠征を成功させますた。
約一名を除いて息子も結構出来がいいし(ロクな死に方してないけど)。」
睿宗李旦
「無事これ名馬ていうでしょ?自分自身はそう悪くない人生だと思う。
かわいいかわいい妹を息子に殺されてヽ(`Д´)ノウワアァンだけど。」
文宗李昂
「事実上私のクーデター失敗で唐朝もうだめぽ。_| ̄|○
この頃には地方も言う事聞いてくれないし。」
昭宣帝李祚
「殺されるためだけに即位なんて悲惨すぎ(;Д;)
でも御先祖様も同じことして皇帝になったんだよね。
曹丕や司馬炎見習う気ない?無いでつか…そうでつか…。」
126 :
世界@名無史さん:05/01/20 19:53:22 0
>>113 122です。
the meadows of gold
の出版社が分かりました。(本棚の奥から探し出してきました。)
Kegan Paul international limited
です。
訳者は、Paul Lunde、Caroline Stone
です。
115さんが引用している部分だけであれば、前嶋信次氏の「イスラムの陰に」
にも引用がありますので、そちらをごらんになるといいと思います。
ところで、まだこのスレッドでは話題にのぼっていないようですが、
唐時代の長安のことをあつかった「長安の春」という本が私は好きです。
東洋文庫、講談社学術文庫両方から出ています。
興味のある方は読んでみてください。
特に書名にもなっている「長安の春」の章は折があるたびに読み返しています。
当時の長安の様子が典雅な文章でつづられています。
それと、誰か知っている方がいたら、教えてください。
二十四史は、その書名が、
元史、明史、清史稿等、史の付くものと、
唐書、漢書等、書の付くものがありますが、
その用法の別は何か根拠があるのでしょうか。
つまらないことですが、知っている方はいらっしゃるでしょうか。
>>126 >元史、明史、清史稿等、史の付くものと、
>唐書、漢書等、書の付くものがありますが、
>その用法の別は何か根拠があるのでしょうか。
「〜書」は『書経』、「〜史」は『史記』が、それぞれの名前のネタ元
なんだろうけど、ネーミングに際しての使い分けは特に無いような
気がする。やっぱりフィーリングかねぇ。
後は「前代の史書と名前が被って無いか?」とかもやはり重要か。
劉宋の『宋書』があるからには、趙宋の史書に同じ名前付けるワケ
にも当然行かなかったんでしょう。だから『宋史』になったと。
まぁ、『春秋』に倣って『宋春秋』とかにしても良かったんだろうけど、
やはりこれだと、名前がどうにも野史臭くなっちゃうから・・・。それも
これも皆、唐代の史書編纂ラッシュの際に「〜書」や「〜史」ばかり
を採用したからだ!(そして後の両五代史・両唐書で完全にアウト。)
128 :
世界@名無史さん:05/01/21 06:24:43 0
新五代史は「五代史記」
129 :
世界@名無史さん:05/01/21 09:00:02 0
>>122=126さん
113です。ありがとうございます。早速よんでみまつ
『長安の春』,いいですよね。石田ファンの私は,創元社初版で購入しました。
昔の本,風格があります。古本でも手ごろな値段で購入できます
たんに宋書とかぶるから宋史にしただけじゃないの?
「○書」をいくつも並べて「○史」と称する体裁は
南史、北史、旧五代史で確立。
新五代史は「○書」の連結という形はなくなってて、
宋史と同じくふつうの紀伝体になってる。
131 :
世界@名無史さん:05/01/23 12:22:57 0
>>127,130さん
122です。どうもありがとうございます。
いろいろと勉強になりました。やはりフィーリングと、それ以前の史書との
名称の重複を避けること、の2点になるのでしょうか。
まだよく分からないところがあるので、焦点を絞って質問させてください。
@清史稿は、なぜ「史」であって、「清書稿」とはならなかったのでしょうか。
(やはりある種のフィーリング、なのでしょうか。)
A南史、北史が手元にないので、元史と唐書の場合ですが、元史も唐書も
内部構成は似通っています。(ご説明の趣旨がよく理解できていないのですが、
「書」を並べて「史」とした、ということでもないと思います。)
それにもかかわらず、元史は「史」で、唐書は「書」です。
それはなぜなのでしょうか。
もし、わかったら教えてください。
なんども同じ事をお聞きして申し訳ありません。
南史は宋書、南斉書、梁書、陳書の4書をつなげて作った。
構成は「宋本紀、斉本紀、梁本紀、陳本紀」になってる。
北史は魏書(北魏書)、北斉書、周書(北周書)、隋書の4書をつなげて作った。
構成は「魏本紀、斉本紀、周本紀、隋本紀」になってる。
五代史は梁書、唐書、晋書、漢書、周書の5書をつなげて作った。
旧五代史の構成は「梁書、唐書、晋書、漢書、周書」、
新五代史は「梁本紀、唐本紀、漢本紀、周本紀」という構成。
書の集まりだから書とは別の名前(史)にしたんでそ。
宋以後、書じゃなくて史にする慣例ができた本当の理由は
よくわからないね。史より書の方がかっこいいような気もするけど。
133 :
世界@名無史さん:05/01/23 22:07:48 0
>>132さんへ
122です。
詳しい説明どうもありがとうございます。
南史、北史の後は、「史」「書」の別をきちんと理解して、
『旧唐書』『新唐書』と「書」の字を使用したが、
『宋史』は、『宋書』と区別するため、
(別に書をつなげた構成ではないにもかかわらず、)
便宜上そのまま『五代史』の「史」を
使用し、『元史』は、そのような経緯を勘案せず、
(「書」の使用を復活すべきなのにもかかわらず)
「史」を使ってしまい、『明史』『清史稿』は『元史』の「史」を踏襲した、
ということなのでしょうか。
いずれにせよ大変勉強になりました。
どうもありがとうございます。
134 :
世界@名無史さん:05/01/23 22:21:40 0
122
続きです。
そういえば『遼史』『金史』も「史」。
いずれにせよ『宋史』以降は例外なく「史」ですね。
たわいもない疑問に、多数の方が親切に答えてくださり、
感謝しております。
どうもありがとうございます。
135 :
世界@名無史さん:05/01/24 06:44:31 0
新五代史は「五代史記」
137 :
世界@名無史さん:05/02/02 12:17:37 0
玄武門の変で殺された皇子たちは本当に暗愚だったのだろうか・・・
濡れ衣に思えて仕方ない。
138 :
世界@名無史さん:05/02/02 13:05:44 0
>>135>>136 新五代史=五代史記で間違いない。
あえて「史記」と名乗って「世家」を含む構成にしてある。
139 :
世界@名無史さん:05/02/02 13:07:14 0
>>137 少なくとも兄貴は暗愚じゃないし世民よりいい人だったと思われ
141 :
世界@名無史さん:05/02/02 13:27:31 0
李世民は何しろ歴史書捏造の前科(後科?)があるからなあ。
そんなことせんでも十分名君なのに。
といっても人口はとうとう隋時代の水準まで回復しなかったし晩年の高句麗遠征も痛いが・・・
高句麗は隋唐の鬼門だね。じっさい東北方向にあるしw
あんな利用価値のわからない地域に
無理して出兵する意味はあったんでしょうか?
隋も唐もそれでケチついてますし
中華世界の一部と見なしていたんじゃないかな。
五胡の侵入にともなう中国大分裂の前は魏の楽浪郡だったわけだから
燕雲十六州みたいなもので、あそこを支配しない限り
天下統一は完成されないと思っていたんでは?
145 :
世界@名無史さん:05/02/02 13:54:43 0
ただの面子では?
146 :
世界@名無史さん:05/02/02 13:56:29 0
面子だとしたら、そんな些細な事で兵を出している時点で既に瀆武の暗君ケテーイ
147 :
世界@名無史さん:05/02/02 14:09:54 0
それは今も同じ。
とっとと台湾を国家承認して晴れて天下堂々と大人と大人のつきあいをすればいいのに、と思う。
煬帝は瀆武だが・・・・・ところで隋時代のスレってあったけ?
鮮卑の故地のあたりに集住していたことと、
突厥と共同して侵攻されるのを恐れたからとか?>高句麗
滅ぼした隋の煬帝が失敗したんだから成功させて名声をより高めたかったからとか
コストパフォーマンスでみれば半島の存在価値はすごい低かったかもしれないけど、一応陸続きの近所だし合わせたかったからとか?
151 :
世界@名無史さん:05/02/05 21:09:20 0
計画段階では簡単に思えたというのもあるのでは?
煬帝時代の遠征でも後方で反乱が起きなければ
あと一歩で平壌が占領できるところまで迫った事もあるようだし。
152 :
世界@名無史さん:05/02/10 18:20:47 0
そして一将功成らずして万骨枯れ、一夜将兵三十万尽く月を顧みるわけだ。
153 :
世界@名無史さん:05/02/12 23:40:09 0
age
154 :
世界@名無史さん:05/02/12 23:41:38 0
半島に関わるものは全て滅ぶ法則発動したわけね。
結局征服したけどな
強国高句麗を半島扱いするな
157 :
世界@名無史さん:05/02/13 14:23:45 0
李白が西方系民族だったというのは本当でしか?
158 :
世界@名無史さん:05/02/13 15:02:49 0
高句麗なんてしょぼい。
159 :
世界@名無史さん:05/02/15 19:04:42 0
160 :
世界@名無史さん:05/02/15 19:09:02 0
新羅以降のチョンが優れた歴史を持っていれば高句麗なんぞにこだわる必要などどこにもないわけで、、、
161 :
世界@名無史さん:05/02/15 19:13:48 0
半 島 ネ タ は や め と け
>>159 でも漢族ではあると思うが
これは先入観のせいなのかね?
異民族の方が話として面白いのは確かだが。まあ帝室自体が鮮卑系だし
162 :
世界@名無史さん:05/02/16 09:08:59 0
玄宗の頃は下り坂だろう
163 :
世界@名無史さん:05/02/16 11:01:17 O
唐って鮮卑族の王朝なんですか?
漢族王朝だと思ってたんですが。
Frow大学受験版住人
李氏が鮮卑だってのは何に拠っているんだろう?
判る事は李氏が非漢族であるってだけで、実際のところ
匈奴かもしれないし丁零かもしれないし高車かもしれないしテイや羌かも判らない。
この時代に関しては余り詳しくないんだけど、そのあたりはどうなっているんだろう?
165 :
世界@名無史さん:05/02/16 13:16:40 O
唐=隋の外戚
隋=北ギの外戚
↓
唐=鮮卑
ってことなのかな。
漢族王朝だったら、他文化を蔑視する中華思想が影響して、長安に国際的文化が栄えるとは思えないから
少なくとも漢族王朝ではないよな。
>166さんわかる?
ええ、なんとなく。
167 :
世界@名無史さん:05/02/16 13:51:39 0
唐朝李氏は、鮮卑族というより、鮮卑系と表現したほうが良い。彼らの本来の種族が
漢族に出自するものだったのか、北アジアの遊牧民に繋がるものであったのかは判然としないが、
唐朝初期の皇族らが、多分に鮮卑の文化の影響を受けていたことは事実だろう。
唐朝を鮮卑王朝とか漢族王朝と一概に言い切ることも難しい。唐朝300年の歴史は、
徐々に中国的な王朝に変質していく過程であることは、間違いないと思うので。
ただ、初期唐朝を鮮卑系王朝とみなすことは、従来の中華中心史観によって描かれてきた
中国史を見直すことにつながると思われ。
>>163 受験的には漢族王朝という理解でいいと思うので安心してくれ。
>>164 記録では賜ったことになっている「大野」という鮮卑姓が、実は賜りものじゃ
なくて、本来の姓だったんだよ、李という姓が後付けなんだよという説だね。
でもそれも想像の域を出ない。記録通りに西涼の李嵩の子孫とまではいか
なくても、漢族のその辺の李氏の子孫というのを否定する証拠もなさそう。
正直、よくわかりません、としか言いようがない。武川鎮の連中は、もう完全に
ハイブリッドでしょ。
隋は鮮卑名「普六茹氏」、漢名「楊氏」。で元は漢人だが鮮卑化して半漢半鮮卑になっていた。
唐は鮮卑名「拓跋氏」、漢名「李氏」。で元は鮮卑だが漢化して半漢半鮮卑になっていた。
武川鎮の連中はみんな鮮卑とも漢人ともつかぬ混血集団。
平凡社の世界史のシリーズだっけ、緑色の本。あれの中に
なんとかっていう坊さんが、唐の太宗が本当は拓跋ナンタラの子孫なのに
関係のない涼州李氏だと家系を偽ってると非難した話がでている。
唐帝室が拓跋氏ってのはちょっと信じられないな。
若しそうなら家系を偽って隴西李氏を名乗る必要ないと思うけど
東北や九州の田舎もん(伊達、島津)あたりが京に攻め入って統一政権樹立したって感覚でいいんじゃね?
蝦夷とか薩摩隼人とか異民族っぽく言われてるでしょ。
拓跋氏は夷狄の酋長にすぎないけど涼州李氏は漢人の名家。
あの時代を考えれば漢人の名家を名乗りたくなる気持ちもわかるよ。
174 :
世界@名無史さん:05/02/18 19:46:09 0
太宗はわざわざ『氏族譜』とやらを作って帝室を中華第一の名家にでっちあげた。
元々の隴西李氏でもまだ三位にしかならなかったんで、王氏と謝氏だったか、
上にいる二氏族を押しのけて、だ。
やはりあの人は資料捏造がうまいね。
175 :
世界@名無史さん:05/02/18 21:18:51 0
父方と母方と両方考えりゃ何がなんだかわかんなくなるけど
とにかく純粋の漢族でも純粋の鮮卑でもなかったのは間違いない
176 :
世界@名無史さん:05/02/18 22:23:33 0
>>174 編纂中の歴史書の中の自分の伝を無理矢理読もうとしたし。
177 :
世界@名無史さん:05/02/18 22:23:47 0
>>174 そういう逸話が残っているから類推すると、起居注を見せろと無理強いしたというあのとき
兄弟殺しの一件を改竄していないと断言できるかどうか怪しいもんで。
178 :
世界@名無史さん:05/02/18 22:25:04 0
つまり、実はもっとまともかつ善良な兄弟を、もっと悪どい方法で消したのか
179 :
世界@名無史さん:05/02/18 22:28:12 0
二十歳にもなってない世民が李淵に決起を促したってのも捏造くさい。
李淵は正史では善良なお人好しってイメージだけど、実像はそうでもなかったのかも。
180 :
世界@名無史さん:05/02/18 22:41:18 0
世民は少年漫画のキャラのような天才青年だったんだよ
>157 >159
李白が西方異民族だったというのは郭沫若の説、
西涼王朝の末裔だったというのが最近の荘魯迅の説で、
両説それなりに根拠があります。
>漢族王朝だったら、他文化を蔑視する中華思想が影響して、
長安に国際的文化が栄えるとは思えないから
いわゆる「中華思想」(あんまり学問的に正確な名称ではない)が
盛んになるのは唐建国より後だというのが通説ですね。
岡田英弘氏のように北宋の司馬光以降とする説、その他
韓愈の論仏骨表以降とする説、五代の春秋学以来とする説など
多少のずれはありますが…
182 :
世界@名無史さん:05/02/19 14:20:59 0
>>174 氏族志の件は分からなくもない。
だって皇帝より格上の家があったら、そっちの方が皇帝に相応しいと普通は思わないか?
183 :
世界@名無史さん:05/02/19 18:15:36 0
それが南朝各王朝が短命だった理由なのだ。
184 :
世界@名無史さん:05/02/21 01:43:56 0
ここでいいのか分からないが、
川本芳昭の新刊(講談社中国の歴史)の、
孝文帝の生母が実はフウ皇太后という説は、どのていど学界で認められているのか
誰か教えてください。
age
>>181 漢人のどの詩にもない、独特の気風がありますね
187 :
世界@名無史さん:2005/04/17(日) 02:37:09 0
>>143 楽浪郡以来の「あの法則」を忘れたせいとしか思えぬw
あの法則
189 :
世界@名無史さん:2005/05/03(火) 19:28:39 0
>>151 魏のカン丘険が高句麗を滅亡寸前にしたのは無視ですか?
190 :
世界@名無史さん:2005/06/02(木) 02:27:30 0
>>187 それに懲りて高句麗滅亡後は千年の日干し統治に変えたわけね。
タラスで負けた敗因はカルルク族と朝鮮人の武将のせい、どっちが戦犯か?
あれだけ本土から離れたところまで遠征して、
現地の部族に突然裏切られて勝てる将軍なんて世界中のどこにもいないと思うぞ。
193 :
世界@名無史さん:2005/06/11(土) 21:52:07 0
紙を知らなかったのに紙漉き職人の価値がなぜ分かったのだろう?
それとも、交易で紙そのものは目にしてはいたが製法が分からずにいただけなのかな。
194 :
世界@名無史さん:2005/06/11(土) 22:19:06 0
唐時代の官僚制に滅茶苦茶興味あるんだが、
あまりにも現代日本官僚に似すぎているような・・・
195 :
世界@名無史さん:2005/06/11(土) 22:23:59 0
「大蔵省」の名は律令制時代にもよく無くならずに存続したもんだよ・・・
それだけにこの名を絶やした大蔵汚吏連中は凌三滅九(ry
196 :
世界@名無史さん:2005/06/11(土) 23:00:27 0
中書省=国会、門下省=参議院?、尚書省=内閣
で良いのかな?
後、
戸部=財務省、吏部=人事院、礼部=宮内庁、
兵部=防衛庁、刑部=警察庁、工部=建設省
といった所か。
他に 御史台=会計検査院
といったものもあったとか。
秘書省とか国子監とか九寺とかは何だろう
197 :
李世民:2005/06/11(土) 23:07:02 0
アジア全体に中国皇帝の慈悲を知らしめた唐帝国は中国史上最高の時代。
それ以降、中国全体を支配した明をのぞき朝貢外交もなにかDQNな印象。
198 :
世界@名無史さん:2005/06/12(日) 00:24:04 0
うちに御史台が来るってんでこんな時間に帰らされる。
入ったばかりだけど、もう司馬にでもなりたい。
199 :
世界@名無史さん:2005/06/12(日) 02:46:10 0
>>196 中書省=首相官邸、門下省=国会、尚書省=事務次官会議じゃないかな。
六部尚書と九寺のちがいは、六部尚書は文書行政だけ。実務は無し。
九寺が尚書省からおりてくる書類に従って行政実務をおこなう。
秘書省は国会図書館。国子監は東大。
200 :
世界@名無史さん:2005/06/12(日) 08:13:18 0
>>198 司馬は司馬でつらいぞよ(多分)。
まだ若いようだし、中書令を目指すべし。何事も経験、そのうち慣れるもの。
201 :
世界@名無史さん:2005/06/12(日) 13:34:08 0
唐朝歴代皇帝で天寿を全うできなかったのは
中宗、憲宗、敬宗、昭宗、哀帝だったっけ。
202 :
世界@名無史さん:2005/06/12(日) 14:20:20 0
>>201 文宗と武宗と僖宗もある意味天寿を全うしたとはいえんが。
いずれも20〜30代で他界してるし。
特に、文宗は2人の太子に先立たれるしな。
文宗曰く「朕は漢の献帝なりき…」
と自己的に非望してるしな。
203 :
世界@名無史さん:2005/06/12(日) 14:36:52 0
>198
まずは近畿の尉あたりから始めよ。
205 :
世界@名無史さん:2005/06/12(日) 23:39:48 0
198です。今帰りやった〜。皆さんすみません。
キャリアじゃないんで中書令は無理っす。また、改めて科挙を受ける気力もちょっと。
まあ、でも今はしがない県尉ですが、主簿、丞、令と登っていてやりまっす。
司馬になりたいてってのは冗談で、むろん司馬はパスっす。
唐の駆け出しの尉も苦労したんだろうな、ウン。俺なんかまだまだ甘ちゃん。
しかし、御史台(日本の目付?アメンオサ?)は怖いっす。
中書令=大納言は無理ですか。
日本なら弾正台ですね>御史台。しかし、ややこしい(笑)。
>>201 宣宗も全うできなかったなあ。
憲宗もそうだけど、「中興の名君」が皆、金丹中毒で死ぬのが
なんともやるせない。
「朕の力がなくては唐が滅ぶ。どうにかして長寿を…」
とかそういう心境だったんだろうか。
太宗も含めて、なんで唐一代にわたって金丹が流行ったのかな。
道教上位の雰囲気がそうさせたとかそういうことなの?
詳しい方の解説キボンヌ。
そう言えば、北史巻100の李氏の系譜、李悝とか李牧とかの有名人まで
先祖の一人にされてるのが笑える。
そこまでしなくてもいいじゃないかw
208 :
世界@名無史さん:2005/06/13(月) 00:03:49 0
唐の頃って高級官僚がまず任命されるのは県尉だとか、
これは地方の税務署長だか、警察署になるらしい。
で、その後中央に呼び戻されて出世していくという。
日本の国家1種官僚とかも最初に税務署勤務をやらされると聞いたことがあるし、
何か妙に似てるな。
しかし、税務署とかってそんなに嫌な職なんかねw
209 :
世界@名無史さん:2005/06/13(月) 06:58:15 0
税務署は、トップ(官)は違うが、署員(僚)は最初の採用試験から別になっている専門職です。
執金吾になりてぇ・・・・
陰麗華を妻に娶る方がいい、って時代が違うか。
それ光武帝!
旧唐書の酷吏伝が面白い。
>>207 北魏も創始者と華北を統一した皇帝が怪しい薬の所為で死んでいるんだよなぁ
ま、唐と違うのは、北魏の場合薬の飲みすぎで凶暴になって、皇子や宦官に殺されて、なんだけど。
215 :
世界@名無史さん:2005/06/14(火) 00:50:03 0
東洋式錬金術というべき外丹術が最もはやったのはいつの時代だろう。
もしかしたら、王朝が保護した唐の時代じゃないか?
後の宋の時代の火薬の発明につながったわけだ。しかし、
洋の東西を問わず、金属こそ不老不死の秘薬と考えられたのはなぜだろう
216 :
世界@名無史さん:2005/06/14(火) 01:10:26 0
神仙術や占いの類の現在のような技術の詳細ができたのはすべて南宋の頃。
突然だが「拓跋」でグーグルのイメージ検索かけたら
泣きたくなるようなページに到達したよ。
>>217 拓跋の復興を望む一門があるようだ。何の為にッ!
絢爛たる世界帝国、どう?
220 :
◆MvmUgnTkcQ :2005/07/06(水) 23:46:47 0
>>219 うーん・・・
オーソドックスというか、当たり障りがないというか・・・
無難なトコ。
221 :
世界@名無史さん:2005/07/06(水) 23:59:26 0
>>215 >洋の東西を問わず、金属こそ不老不死の秘薬と考えられたのはなぜだろう
中国の外丹術や西洋の錬金術では特に水銀が重要視された。
水銀は、まず見た目が銀で形状は液体というのが、他の金属とかけ離れているため
神秘的な印象を与える上、
服用すると、一時的とはいえ体が熱くなって精力が増大する効果があるので、
霊薬と考えられた。でも実際は猛毒であり、あまり服用すると死に至る、
と聞いたことがあります。
外丹術にこうした危険性が伴ったことが、自己の気を練って不老長寿に至る
内丹術の発達をうながしたといいます。
222 :
世界@名無史さん:2005/07/07(木) 10:04:36 0
最後の皇帝哀帝(昭宣帝)の言葉って残ってないかな。
家族を皆殺しにされての在位4年と禅譲後の殺されるのを待つだけの生活。
悲惨の一語に尽きる。
223 :
世界@名無史さん:2005/07/07(木) 10:14:53 0
台湾で作った楊貴妃の映画を見たことがあるが、大唐帝国にふさわしいスケール感が全く欠けた代物だった。
安録山も精悍な痩せぎすの武人で・・・
>>223 安録山は肥えてる印象がある。根拠なんかないけどさ。
>>224 印象…じゃなくて、安禄山は肥えてるよ。あの腹には赤心が詰まってるんだから。
殺された時の描写が激太りだったような
ゆりかごに寝て赤ちゃんプレイしたとかどーとか
228 :
世界@名無史さん:2005/07/10(日) 19:12:15 0
氣賀澤さんの概説書、手にはいらねー
読んだ人感想おねがい。
>>227 楊貴妃が手ずからおしめをとりかえて、逸物がちらほらするたびに侍女軍団が嬌声
231 :
世界@名無史さん:2005/07/10(日) 21:18:42 0
232 :
世界@名無史さん:2005/07/11(月) 05:44:50 0
>>226 糖尿病で失明、怒りっぽくなって側近を次々と・・・
>>232 「下郎、そこにいるのは何者かっ! 三人だな!」というのが
アトラクサン皇帝陛下の最期の言葉だったそうな。。
小前 亮著の「李世民」が、毎日新聞の夕刊で紹介、推奨されて居たので
興味を持ったんだけど、帯に、田中芳樹の絶賛コメントが有り一気に萎えた…
>>234 つまり、人の本を論評するくらいなら自分の本を書け、と?
承乾が突厥の習俗を模倣したのって、何か故あってのことなんでしょうか?
隋唐代の漢人(ていうか元胡人)の生活から胡風が抜けきってたわけじゃないし、
胡風がブームとは言わないまでも、ちょっとエキゾチックで格好いいみたいな風は
あったというような記述があったと思うのだが、出所が思い出せない。
李承乾の場合は皇太子だからマズいってのと、多分、李世民に好かれてないっての、
かたわだってのと、それと結果として皇室から追放されるまでになってんので、
ことさら取り上げられてるんだと思う。
直接、どうこういう記述は無かったはず。
238 :
世界@名無史さん:2005/07/17(日) 22:21:36 0
隋唐時代の長安の都市史についてお薦めの本とかありますか?
>238
一般書でよければ
学術文庫「長安」佐藤武敏
とか。
あと、これは都市史じゃないけれど、東洋文庫の唐両京城坊攷の巻末に
長安関係の参考文献がたくさん載っていた。
>234
「李世民」は田中芳樹の肝いりで出版した小説だと思ったが。
だから、らいとすたっふの名前が書いてあったりする。
>>239 講談社選書メチエに入ってる妹尾達彦の『長安の都市計画』は?
242 :
世界@名無史さん:2005/07/21(木) 22:10:05 0
全ての道はチャンアンに通ず
243 :
世界@名無史さん:2005/08/01(月) 14:35:15 0
age
244 :
世界@名無史さん:2005/08/01(月) 22:01:43 0
昔ゲームで何のヒントもなしに長恨歌の歌詞どおりに行かないと死ぬアドべべンチャーがあったな
シナリオ飽いたのは志○田さん。いきなり孔明車がおいてあって前に立つと火炎放射で死んだりするの。
あと楊貴妃ってかわいそうだよね
ダッキや則天武后やらイコーや生体剛
なんかとは別に悪いコとしたわけでもなさそうなのに
仮面ライダーではGOD悪人軍団の改造人間
ムカデヨウキヒ(人間体が幼女)にされてヒトデヒットラーとか
クモナポレオンとかタイガーネロとかカブト虫ルパンとかアリ・カポネとかと
同列にされてサムライスピリッツのRpGでもなんか
蟲と合体させられて中ボスにされたてた。繭がいっぱいで倒しづらかったよ。
この時の同僚はマリーアントワネット+クモのアントネット。
首に刺さったギロチンの刃を飛ばしてきたりする。
245 :
世界@名無史さん:2005/08/26(金) 15:47:35 0
age
246 :
世界@名無史さん:2005/09/01(木) 17:44:02 0
『長安の都市計画』(妹尾達彦)買いました。おもしろい。
ところで『絢爛たる世界帝国』読んだひといたら感想キボン。
247 :
世界@名無史さん:2005/09/01(木) 17:45:10 0
>>239 『長安』は買ったんですが、報告忘れてました。失礼。
これもおもしろいです。
248 :
世界@名無史さん:2005/09/13(火) 01:01:43 0
249 :
世界@名無史さん:2005/09/23(金) 22:12:11 0
李世民によって悪役化された建成・玄吉兄弟の実像と
世民の真実の姿について考察しやうではないか。
李世民の政治的粉飾の具にされた『晋書』(そして臧榮緒)テラカワイソス
251 :
世界@名無史さん:2005/09/23(金) 22:30:53 0
元吉は普通にDQNじゃないの?
晋書に限らず南北朝時代の諸正史(除魏書、宋書)はフィルターかかっているんじゃないかなぁ
何せ李世民自身が手を加えているからな。
王義之伝なんか皇帝直筆だし。
255 :
世界@名無史さん:2005/09/24(土) 22:37:55 0
唐が夷狄の出だという事実を必死に隠蔽する李世民の努力哀れ(プ
256 :
世界@名無史さん:2005/09/24(土) 22:54:44 0
李世民も仙薬で死んだってどっかで読んだ。マジ?
李世民が必死だなってのは、どうかと思うけど。夷狄の出の隠蔽なんて隋も同じだしな。
つうか出自に触れられるのがそんなに嫌なら、長孫無忌に権力なんて与えないんじゃねえ?
兄貴と弟の記録を葬った件に関しても組織レベルの防衛だしな。
李世民個人が気にする質だとはいっても、常軌を逸するほどとも思わん。
それよりも兄貴と弟を「暗殺した」っていう方が胡散臭いと思うが。
宮城内を渡り廊下で繋いでたって記録にあるのに、何で玄武門を通るんだ? とか
相手が二人になった時を狙ってるのに、何で指揮官クラスの将校や幕僚まで連れてきて
るんだ? とか。ジャンプの漫画かよって。そいつら他に制圧するところとかあるだろ。
258 :
世界@名無史さん:2005/09/24(土) 23:19:36 0
実際には皇城周辺で戦闘状態になったとか?
259 :
世界@名無史さん:2005/09/24(土) 23:40:41 0
>王義之伝なんか皇帝直筆だし。
いや、それ違うと思う。李世民が書いたのは論賛の部分かと。
他の部分は「論曰」だけど、晋武帝・王羲之ら三名は「制曰」、
つまり「制=皇帝のお言葉」になってるわけで。
>李世民も仙薬で死んだってどっかで読んだ。マジ?
これは新旧両唐書の「西域伝 天竺」の所に載ってる話ですね。
王玄策が連れ帰った怪しげな天竺人に作らせた仙薬を飲んで、
太宗は逝っちゃった…ということのようですが。
唐も漢同様、一時的に断絶したので
前唐、後唐と呼ぶべきだろう。
261 :
世界@名無史さん:2005/09/27(火) 21:20:00 0
唐代最高の名君はあえて武則天と言って見る。
262 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/09/27(火) 22:07:01 ID:0
>>260 確かにその通りなんですが漢の場合は天子の血統が甚だ疎遠な移動を示しているのに、
唐の場合は復辟した皇帝は易姓された当人の重祚であり、簒奪者は唐室の皇后の位置に
戻された扱いなので、王朝の断絶は無かったことに認識されてしまったのです。
武韋の過
儒教っていややわ〜
264 :
世界@名無史さん:2005/09/27(火) 23:11:58 0
見方によっては逆に隋唐がひとつの王朝。
つか代国から唐まで全部「拓跋帝国」でもよかろう。
宇文・高・楊・李ともに鮮卑系であろうとは思われるが
拓跋部の構成氏族かどうかはわからんだろうに
楊、李なんて鮮卑って言えるだけの材料ないでしょ。
武川鎮で鮮卑匈奴高車勅ロク漢人入り混じったごった煮社会出身ってだけじゃない?
267 :
世界@名無史さん:2005/09/28(水) 21:17:53 0
宇文皇后ってのがいるであらうが
268 :
世界@名無史さん:2005/10/16(日) 09:00:24 0
うん
269 :
世界@名無史さん:2005/10/22(土) 21:41:27 0
age
270 :
世界@名無史さん:2005/10/29(土) 19:05:35 0
271 :
世界@名無史さん:2005/10/29(土) 20:29:25 0
>中国では長い間、女性は圧迫され、離婚の自由がないとされてきた。
>しかし、見つかった放妻状では妻の再婚を願う配慮まで言及。
>「唐代には男尊女卑の風潮はなく、逆に『男女平等』であり、
>男性が寛容であれば、女性にも選択自由の権利があった」(北京科技報)との見方もできそうだ。
それはちとホメ過ぎのような。
そんなら三行半の離縁状とか駆け込み寺のあった日本の江戸時代だって
「男尊女卑の風潮はなく、逆に『男女平等』であり、
男性が寛容であれば、女性にも選択自由の権利があった」
ということになっちゃうぞw
岡田英弘の本では中国人が恐妻家になったのは
鮮卑などの北方民族の文化の影響だとか書いてたけど
気賀沢先生の『中国の歴史』隋唐時代の巻でも、女性の活躍に一章を割いているよね。
274 :
世界@名無史さん:2005/10/30(日) 17:49:16 0
なにそれ
隋唐時代は女性の力が強かったからな。
隋の文帝の独孤皇后や唐の武則天はいわずもがな。
大唐帝国の女性はみんな倭髟隋髷という髪型をしていたそうだからな。
日出づる国の威光には逆らえず、自然とみな恐妻家になったのだろう。
277 :
受験生:2005/11/05(土) 09:58:05 0
あの。問題集をやってて分からない点があるので
少しご教示していただきたいのですが…。
問題
「両税法は大土地所有を認めたとはどういうことか。30字で説明せよ」
答えは
「一律均等課税だった租庸調制と異なり、資産高に応じた課税となった」
ポイントは『資産高に応じた課税』という部分なのは分かるのですが、
どうも「資産高に応じた課税」=「両税法が大土地所有を認めた」という
内容の展開がイマイチ頭の中でつながらないのです。
私の国語力の無さが原因ですが、このまま文章内容を暗記するのも嫌なので
出来ればお助けの説明お願いします。 m(_ _)m
278 :
277:2005/11/05(土) 10:08:45 0
ちょっとageますね。ご迷惑をかけてすいません。 m(_ _)m
279 :
277:2005/11/05(土) 10:09:46 0
ちょっとageますね。ご迷惑をかけてすいません。 m(_ _)m
>>277 高校生質問スレに書けば一発でレスが返ってくるだろうに……。
一応答えておくと、租庸調制の下では「みんな同程度の資産である
べきだ」という理想像がまずあって、それゆえに税負担も均等だった。
ところが、社会や経済の発展により地方の地主などが力を付け、貧富の差が
広がりだしたため、累進課税に変更せざるを得なかった。(そうしないと貧乏人
にとって不公平だし、取れるはずの税金を金持ちから取り損ねちゃうわけだし。)
つまりこれは、理想像を放棄して、現実の大土地所有を追認したというわけだ。
281 :
世界@名無史さん:2005/11/15(火) 19:58:15 0
>>36 唐は宮崎市定に始まり・宮崎市定に終わる、ってなに?
日本人の名前みたいだけど
もしかして李氏がケツァル・コアトルみたいに崇拝していた神の名前?
世界創造の神だが、追放されたのを恨み世界が滅びるときに再び戻ってくるという伝説があるのか?
おいおい、
>>36には「宮崎市定」じゃなくて「宮崎一定」って書いてあるぞw
前の宮崎一定はケツアルコアトルかもしれんが、
後の宮崎一定はテスカポリトカかもしれん。
唐高祖李淵はケツアルコアトルであり
後梁太祖朱全忠はテスカポリトカであり、
つまり唐の歴史とは壮大な兄弟ゲンカ絵巻だったのだよ!!
今、創造主宮崎一定最高神を崇拝する宮崎教が長安で生まれた
もし、唐の人間が創造と破壊の神として宮崎一定を崇拝してたら滑稽だね
意見求む:李建成を通鑑の片言隻句をもって寛仁温厚なやしとしてイメージしちまっていいのか?どうよ?
その手の性格描写は一切、気にしないことにしている。
むしろ「何をやったか」「何をできたか」「誰と繋がってたか」を重視したいのでね。
と言いたいとこだが、彼の場合、記録が残ってないのであまりわからんわな
特別、誰かに寛仁温厚だったエピソードも無いし
288 :
世界@名無史さん:2005/11/22(火) 09:44:06 0
日本にとっては唐が最後の見本だった。
今の皇室が元号の元ネタをひっぱってきたり、憧れたりするのは唐までの中華王朝。
これ以後は中華にあって中華にあらず
遣唐使廃止したしな
宋〜元時代は民間の交流が盛んで決して国交断絶していた訳じゃないよ。
>>288 いかにも、伝統的な漢学の知識がリセットされた、ここ3,40年の物の見方だなぁ……。
浅見絅斎や荻生徂徠を読めとは言わんから、せめて丸山真男ぐらい読んだらどうだ?
292 :
世界@名無史さん:2005/12/08(木) 23:27:20 0
武則天と呼ぶべきか則天武后と呼ぶべきかについての議論求む↓
293 :
世界@名無史さん:2005/12/08(木) 23:45:42 0
隋の恭帝にせよ唐の昭宣帝にせよ最期の時の様子とか全然記録に無いね。
二人とも殺されたのだろうがやはり唐や後梁が史料を完全に抹殺したのかな。
なお武照は宗室を虐殺して帝位を簒奪した女なので
則天武后で十分。
>>289 廃止というより、政情不安定という理由からとりあえず取り止めておいたら、
唐が滅亡して、なし崩し的に遣唐使自体も消滅してしまいました。
その後、遣宋使は生じる事無く、醍醐天皇の御遺誡によって、天皇が外国人
を引見される事も廃れ、これが後醍醐天皇の時代まで続きます。
平清盛は宋商を後白河院(退位済み)に引き合わせて大問題に。
ただ、民間レベルでの交流が盛んであったのは事実であり、所謂国風文化と
いうものも、その背景に漢文学(但し多くは断章取義)がありました。
漢籍による教育は、中世や近世になっても続く訳で、
六歳児でも読んだのが、『蒙求』、『小学』、『千字文』、『十八史略』辺り。
↑戦前までは、これが続いていましたね。>291教育の基本。
>292
歴史的に見て簒奪が悪いという訳でも無し、武則天で。
『平家物語』などを読んでいると、つい則天皇后と呼んでしまいますが。
295 :
世界@名無史さん:2005/12/09(金) 00:48:02 0
簒奪は悪であります。
「我国に革命無し、あるべからず」が日本国の根本理念であります。
漢土における宋武帝、斉高帝、梁武帝、陳武帝、隋文帝、唐高祖
此等は皆簒奪弑逆を敢えて為した憎むべき賊であります。
天は民なり。民の支持を失ったものからは天命は去るんだよ。
297 :
世界@名無史さん:2005/12/09(金) 01:15:14 0
歴代王朝の簒奪者は殆どが武威を嵩に来て
幼帝を脅迫し天命革まれりと偽装し
自ら瑞祥を捏造して帝位に即き、遂には
前王朝の一族を老幼問わず残忍に虐殺したものであり
其処に民意の介在は認めがたいのです。
尭や舜はちゃんと禅譲を受けたぞw
「尭や舜の禅譲というのも、実態はこんなものであったろう」と言った簒奪
者もいたという話ですが。
300get!!
301 :
ビリー・ザ・マッド:2005/12/09(金) 22:04:30 0
302 :
世界@名無史さん:2005/12/09(金) 23:34:09 0
>>252 いや、なにげに世民が一番ドキュンだったりする。
だいぶ美化されてるけど、冷静見てみれば兄弟殺して甘い汁吸っただけだし。
こいつの手柄で唐ができたってのもうそ臭い。
303 :
世界@名無史さん:2005/12/09(金) 23:43:17 0
>>275 ちなみにあの時代は日本もキムチ国も女性の力が強かった。
305 :
世界@名無史さん :2005/12/10(土) 22:16:43 0
安史の乱以後の唐が好きというのは俺だけ?
龐勛の乱とかが起きて以降の所謂「残唐」なら、五代宋初との絡みで
俺も好きだけど、そこまでに至る晩唐はやっぱり地味だしなぁ……。
307 :
世界@名無史さん:2005/12/11(日) 00:25:27 0
明日夜9時15分からNHK「シルクロード」長安の会を放映age
308 :
世界@名無史さん:2005/12/11(日) 00:26:16 0
実質今日か。
309 :
世界@名無史さん:2005/12/11(日) 22:30:52 0
>>307 マジでツマラン。見なきゃ良かった。
特に遣唐使男と光ファイバーはいらん。
NHKもう終わってんな。せっかく妹尾さんとか使っているのに全然活かせてない。
311 :
世界@名無史さん:2005/12/11(日) 23:30:37 0
実につまらなかった
今やっている再放送は、なかなか面白いですよ。
何と言うか、ナレーションの台詞が時に格調高い。
中島敦の三分の一ぐらいには。
313 :
世界@名無史さん:2005/12/12(月) 12:49:18 0
なかば中共のプロパガンダ番組と化してたな
最悪
なかば?完全にでしょう。
最初中国製作のドキュメンタリー番組を放送してるのかと思った。
315 :
世界@名無史さん:2005/12/12(月) 15:30:04 0
なにがそんなにつまらなかったの?
具体的におせーて。
あと再放送ある?
別に西安がこれからアイテー産業に力入れていく様子を描いてもいいが、
それってシルクロードじゃないし。
アーカイブスの方が面白い。
新シルクロードはアイテー産業云々のアイテテーな番組。
317 :
世界@名無史さん:2005/12/12(月) 23:21:01 0
最初の方の墓地の出土品でもえんえん写してくれた方が余程ましだったな
318 :
世界@名無史さん:2005/12/12(月) 23:28:15 0
妻を恐れる余り実子や忠臣を殺した惰弱な李治と
己が腹を痛めて生んだ女児を絞め殺した残虐無道の武照
この二人の眠る乾陵を暴き、徹底的に調査しましょう!
棺から頭蓋骨を取り出しCGで顔を再現しましょう!
副葬品は全て博物館に納めましょう!
319 :
世界@名無史さん:2005/12/12(月) 23:46:52 0
唐王朝は何気に子殺ししている皇帝が多いな。
太宗、高宗、則天武后、中宗、玄宗・・・
自分の子より寵臣の讒言の方が信用できるのかねえ。
>>319 まあ皇室なんて普通の世界じゃないしな。
中国の歴史を通して皇帝と子供の殺し合いなんて普遍的だし(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル
また真成か。
322 :
世界@名無史さん:2005/12/13(火) 00:15:07 0
>>321 あの中途半端な再現ドラマ?みたいなの何の意味があったのかな
近年の糞大河臭が激しく漂ってきた
>>322 いやいや、今日のニュース23でもやってたの。
かなり酷い内容だったぞw
324 :
世界@名無史さん:2005/12/13(火) 00:44:21 0
日本王白壁は我が大唐の使節に平伏叩頭したアル!
日本は卑劣にも『続日本紀』ではこの事を隠しているアル!
しかし石上宅嗣の「我小彼大、宜用○○之礼」
の言葉で日本王がどう振舞ったかは明らかアル!
日本は大唐に臣従朝貢していた、これが歴史の真実アル!
いや、実際に属国だったし。
16世紀以降ならともかく、唐とその時代の日本とを比べる
なんて、今の東京と青森を比べるくらいおこがましいよ。
青森には青森の文化と気概と魂がある、というのとは
全く別次元の話の、単純に国力・文化力の比較でね。
属国とは違うんじゃ?
とりあえず唐の宗主権を認めた形になったっつーことで。
327 :
世界@名無史さん:2005/12/13(火) 12:27:07 0
属国なんていう近代西欧の国際秩序から生まれた概念を前近代東アジアに当てはめるのは無意味
328 :
世界@名無史さん:2005/12/13(火) 12:36:30 0
属国という証拠はないだろ。
例えば日本国王が唐の天子に「臣某」というような名乗りで上表してれば、
支那の文献に必ず出てくる。
遣唐使なんかが属国の使者扱いされてたことは事実だろうけど。
329 :
世界@名無史さん:2005/12/13(火) 12:38:07 0
「属国なんていう近代西欧の国際秩序から生まれた概念」とは言えないよ。
清史稿でも覗いてみれ。
そもそも前近代東アジアには「独立国」という概念が無いから、現在使われている意味での「属国」も成立しないだろ
331 :
世界@名無史さん:2005/12/13(火) 17:27:41 0
頭のおかしい奴には何言っても無駄
332 :
世界@名無史さん:2005/12/13(火) 18:08:59 0
日本は大唐の朝貢国だった。むろん、大唐の臣下。
遣唐使が朝貢の体裁を受け入れてたことを否定する史料でも出てきてるのか?
>>324とか
>>332とか、誇らしげだが
ただ新羅、突厥、吐蕃とかのように恒常的に各種利害が絡んでた国と
日本やペルシア・イスラムのように距離があるために、特定の交流があった程度で
おさまってた国とでは、今で言う国交の程度に違いがあったのは事実だろう
334 :
世界@名無史さん:2005/12/13(火) 21:46:33 0
ぐぐってたら偶然見つけた
唐から日本にあてた国書としては、唐・開元23年(735)玄宗皇帝の与えたものが、
中国側文献に残っています。
玄宗の側近の張九齢が日本にあてて起草した国書は
「日本国王主明楽美御徳に勅す、(第九次遣唐使の帰国にあたり与えられた) 」
で完全な臣下あての形式をとる勅書です。
張九齢が起草した諸外国の君主宛の国書によると、
諸外国のランク付けは次のようであった。
吐蕃−突厥・突騎施−新羅−奚・契丹−渤海・南詔−護密・識匿・勃律・けい賓・日本
当時外国に対して発せられる皇帝の命令には二種類の書式があったが、「勅」で始まるのは
最下等の書式であった。(東野治之氏)
当時の国書には一般に、「皇帝敬問」「皇帝問」「勅」の三形式があり、「勅」は君臣関係がある
場合に用いられた。(金子修一氏)
聖徳太子以降日本は中国と対等に外交関係を持ったとかいうのは
完全な謬説だな。
335 :
世界@名無史さん:2005/12/13(火) 21:55:31 0
張九齢って張説のこと?
336 :
世界@名無史さん:2005/12/13(火) 21:57:07 0
張九齢と張説は別人。
337 :
世界@名無史さん:2005/12/13(火) 23:15:30 0
>>334 そりゃあ中国人がそういってただけだろ。
中国が日本をどう扱っていたかで対等かどうかは決まらない。
338 :
世界@名無史さん:2005/12/13(火) 23:18:42 0
>>334 その順位だと、むしろ順位が高いほど中国への属国度が強かったと言える。
中国からどれくらい気に入られているか、そういう順位だな。
チベット・突厥は唐の一部だったし、新羅も属国で年号は中国のものを使っていた。
339 :
世界@名無史さん:2005/12/13(火) 23:54:40 0
日本側が唐の国書を
「これは我が皇帝陛下(皇帝、華夷に称する所、と律令にある)
に対して無礼であります」
と突き返さない限り日本が唐の宗主権を
認めたと言っても過言ではないよ。
無論そんな事をすれば大騒ぎだが
実際は遣唐使は行く度に礼遇されているし
紛糾も起きていない。これは日本側が唐の態度を受け入れてた証拠になる。
340 :
世界@名無史さん:2005/12/14(水) 00:02:47 0
>>339 かといって、「属国」だったと言うのはあまりにも知性に欠けた意見だと思う。
属国と言うのはそもそも植民地のことだろ。
朝貢国だが属国ではない。
341 :
世界@名無史さん:2005/12/14(水) 00:05:04 0
新羅が唐の年号を用いざるを得なかったのは
陸続きで常に情報が唐に伝わっていたからだろう。
独自の年号なんか使えばその時点で「征討」されかねない。
日本は海に隔てられているから国内でいくら皇帝を称しようが
独自の年号を使おうがすぐさま国際問題にはならない。
日本は地理的に有利な点を利用して
「唐と対等の国家」であると国内で装っていただけというのが実情ではないか。
342 :
世界@名無史さん:2005/12/14(水) 00:11:13 0
>>341 日本は海に隔てられているから国内でいくら皇帝を称しようが >>
独自の年号を使おうがすぐさま国際問題にはならない。>>
じゃあ属国とはいえないと思う。
日本は唐の文化を学びたいが、
唐は朝貢した国にしか遣唐使も受け入れないから、仕方なく日本は朝貢国としての体裁を取っていた。
だから唐の皇帝からは扱いが低かったのではないか。
343 :
世界@名無史さん:2005/12/14(水) 00:52:17 0
朝貢国と属国は違うだろ。
中国に朝貢したことがある国なんて山ほどあるんだが。
足利義満の時は日本も中国の属国だったのか?
吐蕃=チベットなんて何度も唐の奥深く侵攻してきた強敵だぞ。あれが属国か?
中国側は見栄を張って朝貢させてきたけど、周辺国はうまく唐を利用してきたんだよ。
おだててやりゃ、有利な条件で交易ができる。それが朝貢国の狙いだったのだと思う。
344 :
世界@名無史さん:2005/12/14(水) 03:44:49 0
朝貢については岡田英弘『倭国の時代』第七章にわかりやすい説明があるよ。
盆暮れにわれわれがお中元やお歳暮の贈り物を、上役や取引先、子どもの学校の先生、
親戚や友人の家に届けさせたり、自分で持っていったりするのは、「服属関係」の表現でもなく、
「特殊な形態」の商取引でもなく、日頃のご厚情に対する寸志、つまり個人的な親善の保障である。
(中略)
中国の皇帝にとってもこれは同じことで、世界最大の人口を持つ、世界でもっとも富んだ帝国の経営者としては、
他の中小企業の外国から贈り物が来れば、そのランクに応じて恥ずかしくない程度の返礼をしないことには、
社員たる臣民に対してしめしがつくまい。(中略)そういったわけで、朝貢と貿易は全然別のことである。
……ということらしい。
>>344 朝貢への返礼が多額すぎて財政を圧迫したため、
「朝貢の回数を減らすように」と朝貢国に通達したことがあったらしいな。
もし本当に属国だったんなら
遣唐使の廃止なんてやらかす筈も無い罠。
関係無いがそれに比べるとやはり半万年(文字通りの)属国だったかの邦はw
>>343 足利義満は明の皇帝に「日本国王・臣源道義」とはっきり名乗っているわけだが。
350 :
世界@名無史さん:2005/12/14(水) 20:08:05 0
義満は焼香して明の国書を拝し
下賜された明の官服を着、
輿に乗って北山殿の紅葉を愛でたらしいな。
これは完全に属国の王としての所作だろう。
その割に天皇は厳然として存在してたけどな。
皇なんて文字を使う存在が居ても良いのかね?
352 :
世界@名無史さん:2005/12/14(水) 20:13:17 0
義満は天皇の存在を棚上げしてたんだよ。
外交の舞台に天皇は介入させない。
それに義満は後小松天皇を北山殿に招いた時には
ほぼ対等の存在として振舞ってる。
同じ紋の服を着たり畳の縁の柄を同じにしたり。
>>352 中華的な華夷秩序としてはあってはならないことじゃないのかねえ、天皇なんて存在は。
おまけに、その義満の行動が思想として共有されたわけでも継続したわけでもない。
権力者の一時的な物狂いだ罠。
354 :
世界@名無史さん:2005/12/14(水) 20:49:15 0
355 :
世界@名無史さん:2005/12/14(水) 20:50:46 0
ヴェトナムの歴代王朝の君主も国内では皇帝を称していたが
中華王朝には朝貢して臣を称した。
やはり東アジア、東南アジア、中央アジアの諸国家は
時期的に例外はあれ中国を宗主国と仰いできたと見るべきだ。
>>355 そういう中国人的な発想で歴史を見ても得る物は少ないと思うが。
日本に関しても、中国の影響と共に日本の独自性を見なければ
まともな歴史認識にはならん。
357 :
世界@名無史さん:2005/12/14(水) 21:14:05 0
>中国人的な発想
歴史的事実を述べているだけだよ。
どの国にも当然独自性はある。
しかし独自性があることと対外関係の如何とは全く別だ。
日本オタの夜郎自大ぶりにはあきれ果てた。
>>346 いえ、ですから、完全な廃止では無かった様ですよ。とりあえず取り止め。
当時の唐に、抗議する実力も、もてなす余裕も無かったでしょうが。
・『隋書』には、煬帝が怒ったという有名な逸話が出ていますが、この頃に
突厥も天子と自称して咎められており、東アジアの国際秩序が整備される
以前に、外交に不慣れな国が犯した「失敗」だったのではないかという論文
が、数年前の『日本歴史』に掲載されていました。
・『日本書紀』にはこの顛末は記されておらず、隋からの国書も小野妹子が紛
失してしまっていたとされています。おそらく、天皇の権威に関る様な内容
であった為に、憚られたのでしょう。煬帝を怒らせたという自慢は無し。
少なくとも、独立を誇った事件であったとは、考えにくいですね。
・裴世清からの国書には、「倭皇」とあったとされているが、これは元の国書
には、「倭王」とあったとする説が有力。日本側の都合の良い捏造では。
→10世紀に成立した『聖徳太子伝略』において、この話が「書式は臣下に賜
うものですが、「皇」の字が使われています」という太子の一言によって収ま
ったものとされていますが、『日本書紀』に無い後付けです。
10世紀には、自国の立場を高めようという意識が高まっていたのでしょう。
それ以前は、表記を改竄してスルーするのがせいぜい。
・『日本書紀』では、隋への返書は「天皇」から「皇帝」へのものとされていま
すが、「天皇」号が使用され始めたのは、実は天武朝頃からとする説が有力。
『日本書紀』などの国内向けの記録では准皇帝といった態度で外交を行ってい
たかの様に記されていますが、実際には、終始「倭王」として「皇帝」に向かっ
ていたものの様です。
少なくとも、聖徳太子の時代から対等な「外交を」云々は嘘でしょう。
実力から言っても、国内向け宣伝が関の山です。
夜郎自大が出来ないというぐらいの、バランス感覚はありました。今日日、
被害も考えずに日中開戦とか言っている自称愛国者よりマシな思考です。
吐蕃は属国ですか?
>>359 有名な「日出る国の天子、書を日没するところの天子に致すつ つがなきや」云々は
「天子」を名乗る政権が乱立していた魏晋南北朝、六朝時代に国書の贈答で流行った
文体で、当時の大和朝廷としてはその慣例を踏襲しただけだったという話を以前に
何かの本で書かれてあったような記憶がありますが、そんな感じでしょうか?
突厥の「天子」の話は突厥と隋朝との北・中央アジアを巡る覇権闘争の感じがして
倭国からの親書とではやはり重大性が段違いな気もしますね。
>>357 中国側から見た歴史的事実だろうが。
日本側から見れば別の事実が見えると言うだけの話だ。
つか、形式重視というのが中華思想っぽいよな。
朝貢貿易やってれば属国というw
その考え方で行けば、日本は明治に至るまで律令制国家だが、
そんなことは歴史を学ぶ上で重要性が低い事実だ。
ここは世界史板の唐代スレだからねぇ。
唐の立場から見たり当時の国際システムから見た議論になるのが当然じゃない?
>>364 唐の思想と客観的事実は全く別物だぞ。
国際システムから見れば冊封体制だったで終わり。
属国だの足利義満の事例なんぞは出てくるわけがないw
東ローマ帝国も属国ですか?
367 :
世界@名無史さん:2005/12/15(木) 22:26:26 0
日本は奈良時代や室町時代には冊封体制に組み込まれていたとの事実を
確認する為には義満の事例は必須でしょうが。
明に臣従した義満が国内では事実上の「治天の君」だったのは半ば常識だし。
368 :
世界@名無史さん:2005/12/15(木) 22:40:42 0
朝貢してやったら倍返し。しかも、現地での宿泊費・交通費ただ。接待も付いて、
陶磁器やら織物なんかの貴重品はGET!GET!
こんなおいしい話ってないよな。俺だったら逆立ちしたって朝貢するよ。
ブタもおだてりゃ金を出す。
>>367 1.奈良時代の話に義満の事例は全く関係ない。
2.冊封体制と属国は別の概念として扱うのが妥当。
>368氏の言うように、そんなおいしい属国は珍しいからな。
370 :
世界@名無史さん:2005/12/15(木) 23:09:41 0
>1.奈良時代の話に義満の事例は全く関係ない。
>奈良時代「や」室町時代に
と書いているんだが。文章よく読め。
371 :
世界@名無史さん:2005/12/15(木) 23:13:14 0
>冊封体制と属国は別の概念として扱うのが妥当。
朝貢国には時には国王自らの入朝、
中華皇帝の前での拝礼が求められる。
これを臣従と言わずして何と言う。
何で「属国」と別概念として扱いたがる?
372 :
世界@名無史さん:2005/12/15(木) 23:16:22 0
所詮日本も新羅も唐の属国だったということで結論がでる。
>>370 読んだ上で言ってるんだよ。
なんで義満の事例の時に奈良時代なんてのが出てくるんだ、阿呆。
>>371 日本の天皇や治天の君、あるいは最高権力者が入朝して拝礼したか?
それに、お前は礼儀作法だけで属国かどうかを判断するのかw
形式主義ここに極まれりだな。
>>372 お前の脳内だけでな。
それで論文書いてみろよ。
もう一回言っておいてやる。
冊封体制はお前の言う「属国」に対して甘すぎる体制だ。
しかも、日本は唐や明から軍事的侵攻を受けて屈服したわけでも、
内政に干渉されたわけでもない。
それを属国という概念で括ったら他の事例と質的に違う物を同じ概念で括ることになるんだよ。
375 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 00:16:51 0
>日本の天皇や治天の君、あるいは最高権力者が入朝して拝礼したか?
日本が君主の入朝を求められなかったのは
唐に歯向かうことなく臣従したからだよ。
入朝を求められるのは大抵国書に無礼があったりして
お咎めを食らう時だからな。
日本はそれだけ従順だったということだ。
376 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 00:18:45 0
>日本は唐や明から軍事的侵攻を受けて屈服したわけでも、
白村江で大敗してますが。
倭寇取締りを求められて従ってますが。
つまり、日本が唐の属国だということにして、それを現代にまで引っ張ってきて、
中国>>>日本
とか
中国>韓国>>>日本
とかやりたくてしかたがない人が一人いるということか。
べつに心の中でなにを望もうが自由だと思うけど、それを
378 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 00:26:40 0
>>377 誰がそんな事考えてるの。
素直に「当時の外交関係はどうだったか。当事者らは自国の地位をどう把握していたか」
を探求したいだけだよ。
だから属国なんて、今で言う国の概念がない世界じゃ通用しないっての(´・ω・`)
朝貢をするというのは中国皇帝が体現している天命を受け入れて、その徳を慕っています、って証なの(´・ω・`)
たとえそれが、PCゲームやる時に「同意します」とか、本人の意思とは関係なく形式的にクリックさせられるのと同様でも(´・ω・`)
たまには心の底から同意してる人がいるかも知れないけど(´・ω・`)
380 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 00:54:58 0
>>376 どうしても唐の属国に仕立て上げたくて仕方ないって感じだな。
381 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 01:04:59 0
でも、100%譲って日本が唐の属国としても、その属国の日本が
もう、唐には日本人を行かせません!もう付き合っても何の利益も
ありません、無駄です!
と言って、日本から唐様に三くだり半突き付けたんだよね、断交として。
属国の日本の方が強いじゃないの?。本当に属国?属国の日本語の意味
解ってる?>376様
>>381 三行半を突きつけてなんか無いよ。ただ引きこもっただけ。
もう商船で往来できるし、わざわざ国が船出す必要ねーな。
384 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 11:09:03 0
>>356 どうでもいいが日本オタって笑わすな
お前何人だよ?
385 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 11:09:48 0
>>376 ついでに突っ込んでおくか。
白村江はどこにあるんだ?
日本領とでも言うつもりか?
侵攻の意味を理解できてるのか?
>倭寇取締りを求められて従ってますが。
貿易のメリットがあれば要求は呑むだろ。
現代でも日本は他国の要求を呑むことが多々あるが、それで属国になるのか?
本物の馬鹿というか中華主義者だな、お前は。
>>386 正確には、当時の唐に対する日本、明に対する日本の関係は
一般的に言うところの「属国」というものではないということだな。
属国だと主張してる奴は、中国皇帝とローマ皇帝と日本の天皇を一緒くたに
見なすような手合いなんだろうさ。
>>382 外交の主導権を握っていたのは日本側だろうが
>>389 唐から見りゃ別に日本と外交関係持つ必要ないもんな。
>>390 日本だって必要がなくなればいつでも切れる、その程度の関係だw
>>391 その辺が元と高麗との関係なんかと根本的に違うとこだよな。
属国厨は全く認めようとしないが。
393 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 17:37:07 0
まあ、この手の奴には何言っても無駄だからな。
日本オタ、必死だな。
日本王白壁は唐の使者に平伏している。
396 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 18:33:00 0
日本の朝廷は最初唐の使節が旗を高々と掲げているのを「無礼」
としておきながら結局そのままにしてるんだよな。
で光仁天皇=日本王白壁は唐使を「迎えた」としか書いていない。
玉座に座ったまま迎えたなら「○○殿で唐使の拝礼に応じた」
とでも書けばいいのに。やはり臣下の礼を取ったとみるべきだろう。
また形式主義者の馬鹿が来たよ。
少しは内実調べて他の事例と比較することはできないのかね?
>>396 外交上で少しでも失礼な対応されたら臣下の礼を取ったってか?
誇大妄想ここに極まれりだな
流石は中華思想
399 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 18:40:56 0
奈良時代の国際関係は礼法=形式こそ至上のものなんだがな。
内実=朝貢品<下賜品に拘って
「唐は『朝貢国』に貴重品を献上していた」とでも言うつもりか?
400 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 18:42:31 0
どうせ「聖徳太子は隋と対等外交をしていた!」とか主張する手合いだろう。
実態は全然対等ではないんだが。
401 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 18:46:46 0
>>399-400 おいおい、今度は妄想で人を非難し始めたよ、こいつw
>394といい、まともに比較もできないから仮定の話を持ち出して叩くってか?
品性下劣ここに極まれりだな
>内実=朝貢品<下賜品に拘って
>「唐は『朝貢国』に貴重品を献上していた」とでも言うつもりか?
同時期の他の地域の外交と比較してみろよ
朝貢と属国を同一視する馬鹿にはできないだろうがな
このスレで他の人も指摘してるが、冊封体制は属国とは別物なんだよ
だからわざわざ冊封体制という歴史用語で語られてる
>>401 属国厨は都合の悪い書き込みに答えないから相手にするだけ無駄だと思われ。
403 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 18:52:43 0
冊封体制は中華王朝の権威を周辺国が認めないと成り立たないんだが。
その点を無視して「属国とは違う」とそこまで固執する理由が分からないね。
>>403 当たり前だろう。
元と高麗の関係も属国、唐と日本の関係も属国と
両者の違いを無視して同じカテゴリーにまとめて語るのが不適切だからさ。
属国と冊封が違うのはお前以外の人には理解されてるんだよ。
405 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 18:58:53 0
>唐と日本の関係
「礼」が至上の時代に
「皇帝、倭王に問う」だの「日本国王に勅す」
なんて国書を下賜されているんだから
属国以外の何者でもないね。
国際儀礼の重要性も理解できないのか。
日本オタの夜郎自大ぶりにはあきれ果てる
>>405 やっぱり元と高麗と、唐と日本の関係の違いも答えられないじゃないか。
都合の悪いことは全部スルーか?
無礼な国書が来れば属国か?
なら、日本も元の属国だな、おい。
本物の馬鹿だよ、こいつは。
>>406 まともに議論に参加もできないクズは失せろ。
409 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 19:05:11 0
>>409 呉は魏の属国だし、至るところ属国だらけだよ。
まあ、属国厨の論理だから当然だが。
411 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 19:09:46 0
高麗は元の軍門に降って属国になった。
日本は百済救援軍が惨敗して唐使郭務ソウを受け入れ
事実上降伏した。
何十年も抵抗し続けて全土を占領された元と
対外派遣軍が惨敗しただけの日本とは状況は違うが
ともに中華王朝の軍事力に屈した事は事実。
この点を意図的に無視しているのはそちらだろう。
412 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 19:11:50 0
宋は金に臣と称しているが。
それが耐えられないからこそ
後に必死になって叔父と甥の関係に改めた。
>>411 事実上降伏? 軍事力に屈した?
おいおい、征東行省までおかれて日本侵攻の下請けやらされた高麗と日本が同じだと?
ゼミでそう主張してみろ、大笑いされるから。
>>412 叔父と甥の関係も当然属国なんだろ?
国際儀礼の重要性を理解するならw
415 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 19:14:19 0
>>413 >やっぱり元と高麗と、唐と日本の関係の違いも
元と日本の関係を言えとなどとは君は問うてないだろう?
>>415 元と高麗と、唐と日本の関係の違いを述べてるんだが。
日本は唐に役所おかれてどこかを征服する下請けやらされたのか?
さっきから一人でがんばってる人はピラセセンセの親戚かなにかですか?
なんとなく似てますが。
418 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 19:20:16 0
史上最大の征服国家だった元と唐を単純比較するほうがおかしいがね。
唐にしてみれば日本を屈服させたら
もう征服対象はそれ以東にはないだろう。
役所なんてわざわざ置く必要もない。
ところで属国だ属国じゃないってピーチクパーチク言ってる人たちは、
東アジア世界における属国の定義をしてくれないかな?
何度「国という概念がない世界では属国も成立しない」って言っても聞いてくれやしない。
>>419 属国でない派だが、意見は基本的に貴方に同意だよ。
属国という概念を当てはめるのが不適当だと実例を挙げて主張してる。
421 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 19:22:58 0
>国という概念がない世界
中華王朝正史の「外国伝」の存在の意味を教えてくれ。
>>418 ああ、違う時代の国家間の関係を単純に比較するのはおかしい。
その通りだ。
だから、「属国」なんて概念を冊封体制に持ち込むのはおかしいんだよ。
わかったか?
>>421 つまり、国と名が付いていればアメリカ合衆国も唐も同一の概念として扱えると言いたいのか?
424 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 19:26:37 0
>アメリカ合衆国も唐も同一の概念として扱えると
誰がそんなことを言った?
外国、と言う概念が明白に中華世界でも成立していたんだが。
「外国伝」はその証拠。
>>424 その外国の概念と今の一般的な外国の概念が同じであるという証明は?
お前が無意識に違う概念を違う時代に当てはめてるから馬鹿にされてるんだよ。
日本は特別な国と思いたい厨が必死だな。
427 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 19:31:18 0
たとえば「国朝」という言葉は「我国」「我が王朝」と言う意味だ。
「外国」という言葉は中華の外にも「国」が存在していると認めてるんだよ。
428 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 19:31:41 0
まず「天下」があり、そこに中華皇帝が君臨し、
その下に属国や冊封国などの「国」がある。
と言ってみる。
429 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 19:51:00 0
属国の説明
・中国の権威を(形式的に)認めた国
・支配されている国
唐の場合は前者。だから朝鮮も日本も属国。
荒服より外の国、って意味だよ。外国
で、この際の国とは現代的な意味の、主権を持った国じゃなくて諸侯の封国と同レベルの扱いという意味だ。
決して外国列伝の存在で、(形式として)中華と対等な国家が有ったという意味ではない。
431 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 19:58:11 0
南北朝期には既に史書の中でこそ「索虜」「島夷」と
罵り合いながら現実には南北朝間で使節の往来が行われていたし
宴席では互いに「我こそ真の中華」と教養の限りを尽くして嫌味を言い合うのが普通だった。
北周と北斉の合戦の時には斉の後主に
「我又天子、彼又天子」と述べた臣下の発言が記録されている。
唐代の人間は「天下で唯一の皇帝」という概念が崩壊した期間を経験していた。
それなりに論議の出来る中華思想厨が一人と
>426みたいな「どういう発想よ」と言いたくなる典型的チョンレスを付けるのが一匹か。
外野の意見だけどこういう議論になるとこの板でもID出ればな、と思う。
日本ヲタ
>>435 中国の権威=中華
中華に従わない民=夷狄
中華が知られていない地域=外国
中華を認める地域=属国
中華を知っている地域=潜在的な属国
437 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 21:07:57 0
>>435 普通は冊封体制で済ませるからなあ
>>436 ここでなら好きなだけ喚けるからな
論文に書くと指導教官にぼろくそに叩かれるが
覚えておけ、皇太子・・・・・・
天皇はもう日本の象徴ですらねえんだ
天皇をそんなに尊敬するやつはもう日本にはいない・・・・・・
ただ一部の皇室ウォッチャーが追っている・・・・・・
人なみはずれて皇室にくわしい奴に慕われているだけだ
奴に出来ることはテレビに顔を出すことぐらいさ
440 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 21:16:02 0
こんなクソスレ見てるヤシは、たぶん2チャンネラーだろう
441 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 21:19:57 0
「上等」は「物怖じしない」という意味ね。「これが最良」の意味じゃないよ。
443 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 21:29:32 0
>>442 一々俺定義を振りまわす馬鹿の言葉の説明を受けながらやり取りなんぞアホらしくてできるか
てか、一発こうですって言えば鬼FAじゃね?
>>439 つか、これまで散々色んな人が述べてるように、冊封体制下にあった、
と記述すれば混同されることもなくて一発ですむと思うんだが。
>>444 それで納得しないのがいるからここまで伸びてるんだろうが。
447 :
世界@名無史さん:2005/12/16(金) 21:37:03 0
>>444 すでに
>>437で書いたろう
普通は冊封体制に組み込まれていたで済ませる
冊封体制ってのがそもそも特殊な形態だからな
>>445 フォローサンクス
今日もやってたのか。
正直に言えば、なんで俺定義にこだわるのかがわからん。
そんなに属国という言葉を使いたいのかね。
唐と日本のことはあまりよく分らないが、
大元朝(大元ウルス)と高麗の場合は、唐と日本の場合とは異なり、クビライ家から
皇女の降嫁があり、なおかつ高麗王家はチンギス・ハン家の「キュレゲン」の一族
としてその所領は大元ウルスを構成する準王族クラスのウルスの一つと見なされていた。
1200年代初頭に帰順したウイグル王国などよりは明らかに家格的に低くはあるが、
大元ウルスの下位(付属的な)の構成ウルスなので、その意味では確かに「高麗は元の属国」
だといえると思う。(大元ウルスの上位というか基幹構成ウルスは、クビライの皇子クラスに
分邦された「行省」レベルの封土と人民)
日本は、高麗がモンゴル帝国から受けたような、唐の皇女の降嫁を受けたわけでも無く、
また唐の正規軍の駐留を受けたわけでも無く、また唐の行政組織に組み込まれたわけでも
無いので、「朝貢国」というなら話は分るが、やはり「日本は唐の属国だった」という意見は
いささか納得し難い感じがする。
もっともこれは吐蕃や突厥の場合も考慮しないと問題かとは思うけれども。
あれ?俺来るスレ間違えちゃったかな??
スレタイと全然違う内容の話題が延々と続いている…
>>450 すまんな。
頭のいかれた奴が日本は唐の属国だったとか言い出して、
そんで話がそれちまったんだよ。
このキチガイが謝罪するとは思えんから、俺が変わりに謝っとく。
こんど出没しても無視な。
452 :
世界@名無史さん:2005/12/17(土) 12:48:52 0
やれやれ
「頭のいかれた」とはね。
日本が唐の下位に在ったことくらい素直に認められないのか。
.| | | | | | | | | | || | |
.| | | レ | | | | | J || | |
∩___∩ | | | J | | | し || | |
| ノ\ ,_ ヽ .| レ | | レ| || J |
/ ●゛ ● | .J し | | || J
| ∪ ( _●_) ミ .| し J|
彡、 |∪| | .J レ
/ ∩ノ ⊃ ヽ
( \ / _ノ | |
\ " / | |
\ / ̄ ̄ ̄ /
「属国」という言葉を聞くと、ねらーはどうしても
「チョウセンヒトモドキ」を連想してしまうからねえw
まあ、当時の半島人とは「民族」からして違うわけだが。
>>454 そういう問題じゃないんだが。
歴史に現代のイデオロギーを持ち込むのはやめてくれ。
俺定義でもいくね?
それで説明がつくなら。
>>456 他の時代や地域の「属国」と紛らわしいだろうが。
何のために「冊封体制」や「朝貢国」という言葉が存在すると思ってるんだ。
お前は日本の天皇のことを皇帝だの”Imperator”だのと呼んで、
説明がつけばいいと馬鹿なことをぬかすのか?
458 :
世界@名無史さん:2005/12/17(土) 17:13:08 0
>>452 とうとう論点ずらしまではじめたかあ
ここまで見苦しいとは思わんかったな
>>456 なに、俺定義を認めさせたい?
頑張ってきちんとした説得力のある論文を書くんだな
書いて学説として主流になったら嫌でも広がるぞ
459 :
世界@名無史さん:2005/12/17(土) 17:14:46 0
日本ヲタの頑迷さにはあきれ果てた。
460 :
世界@名無史さん:2005/12/17(土) 17:30:19 0
おかしいな、これまで一行で悪態をついてたのはsageだったような気がしたが……
まさかずっと一人二役だったとか?
>>457-458 ちょwww
なんで狙いとは違う人が釣れてるのw
微妙なニュアンスを察してくれよw
462 :
世界@名無史さん:2005/12/17(土) 17:40:48 0
>>461 スマソ、回線切って休むわ
どうも電波に毒されて読解力が落ちてるみたいだから
>>325から属国云々が出始めた様ですが。
属国の定義(言葉としては『漢書』等に出)とその明証が無い限りは、この
話題は控えた方が無難でしょうね。
325氏の言い分、後の四行は同意致しますが。
日本の他国観というのを見てみた場合、古代には朝鮮半島の国を相手に
その優越を誇り、中世には仏教的世界観から印度と震旦という「大国」と
は別の「粟散国」と自覚しながらも、一方では張り合える能力が持てるも
のとし、近世になって印度・震旦に勝る「神国」と言う様になった様です。
「神国」という言葉は、『日本書紀』の例が初見ですが、古代にはこの言葉
は朝鮮半島に向かった時に使用されており、中世には仏の利益を直接受
けられないから垂迹神が示現した国といった意味で使用されています。
それこそ、16世紀頃にならないと、対等以上に渡り合えるという発想
は、当時の人間に聞いても出て来なかった筈です。
夜郎自大的な他国軽視の発想が過ぎると、現実の利益になりませんし、
それで良かったと言える。
朝鮮半島の国家に対する中世日本人の理解は、辺境の野蛮国ではないが、し
かし日本には従えられる国というものでしょう。
近世になるまで蔑視という程のものは無かったと思いますが、中国人が日本
人に恐れ入ったという話は出て来なくても、朝鮮人が日本人に感服したとい
う話は多い。主に武力や仏教の霊験譚という形で記されています。
大宋国や大明国には畏れを抱いていた様ですが、それも近世になると清とい
うか中国や朝鮮の文明に敬意を払う思想家とは別に、縁起等の面で日本が朝
鮮はおろか中国や印度以上という意識が芽生えて行きます。
ただ、進んで頭を下げる様な傾向はありませんね。
魏や宋に対しては完全な服属状態でしょうが、『日本書紀』の時点では倭皇
という名で国書を受け取った(捏造説有力)としており、10世紀になると
「皇」の字があるから受け取ってやったという程になっています。
唐・渤海・新羅とそれまで交流していた国々が軒並み滅亡した後は、朝廷が正
式に国交を行う国も無くなり、1172年に明州の刺史から「日本国に賜う」
という文面の書と品が贈られて来た時には、公卿の大多数は「突っ返せ」派で
した。交易重視の浄海(清盛)の意志で返答されましたが。
地理的に見て幸福だったと言わざるをえませんが、少なくとも唐代には一応
の自尊心を持ちながら交渉し(国外では我慢)、それ以後は格下扱いされれば
反発していたのが、日本の外交というか、対外意識であった様です。
>>465 主語が無い文が多いので、いまいち意味がわかりません。
20点。
467 :
世界@名無史さん:2005/12/17(土) 18:21:30 0
山野ウザス。ここはお前の日記帳じゃない。
>>466 おっと、御免なさい。自明の事となると、無意識の内に省略してしま
う様で。分からないところはお訊ねを。
興味がおありでなければ、スルーなさって下さい。
469 :
世界@名無史さん:2005/12/17(土) 19:56:44 0
>>452 お前はよっぽど唐が好きで好きでたまらないんだな。
だったら中国に住めばいいじゃないか。
西安はいいところだぞw
俺は横浜ファンだけど、中日より弱いのは認めてるよ
唐代の音楽とか舞踊って日本に残ってる?
残ってるとしたら、どのくらい原型とどめてる?
472
473 :
世界@名無史さん:2005/12/18(日) 01:38:15 0
支那さん
戦国期に一旦衰退してから再編成されたものですし、それまでにも変化や断
絶(秘伝が多かった為)がありましたから、かなり変化している筈。
476 :
世界@名無史さん:2005/12/20(火) 19:50:18 0
大唐帝国は白村江の戦争後
高句麗に安東都護府を置き
旧百済に鶏林都督府を置いて
新羅を熊津大都督府として新羅王を大都督にしつつ
旧百済にいる反新羅勢力を支援し新羅の直轄化を図った。
それが新羅との戦争の遠因だそうだが
新羅ってよく唐に勝てたなと思う。
図式を見るに唐・高句麗・百済VS新羅になっているように見えるのに・・
477 :
世界@名無史さん:2005/12/20(火) 22:28:40 O
安史の乱以後特に自立性が強かった河朔三鎮
は何故唐から分離するまで至らなかった
んだろうか?
478 :
世界@名無史さん:2005/12/20(火) 22:31:46 0
下手に独立したら中央&契丹から討伐受けるから
無難に唐に寄生する手段を選んだんでしょ。
479 :
世界@名無史さん:2005/12/21(水) 09:08:49 O
晩唐すきだなぁ。これまでの性質から
がらっと変わっちゃったところが
480 :
世界@名無史さん:2005/12/21(水) 09:31:15 0
>>476 直轄化を阻止したという面ではそうだけど
干渉は強まり複数の面でさらに譲歩してるので、
新羅が勝利したとまでは言えないな。
藩鎭の節度使たちは、強固な世襲制による地位の継承ができてなかった
のが一番でかいんじゃないかな>唐から分離するまで至らなかった
食糧を兵士に支給できなければ、反旗を翻されて地位を追われるわけで、
簡単な頭のすげ替えを防ぐために下の人間を納得させる権威、中央政府の
官爵を必要としたのが藩鎭支配の形ですし。
唐の中央と河朔三鎭の関係は、変則的な冊封体制として見るのがよいかと…。
482 :
世界@名無史さん:2005/12/22(木) 10:16:09 0
483 :
世界@名無史さん:2005/12/22(木) 18:12:51 0
李世民の頃の唐は中国が最も輝いた時代だと思う。
その後の宋は文明国だが、なんか地味だ。
484 :
世界@名無史さん:2005/12/22(木) 19:41:19 0
俺は北宋が中国史で最も好きだが。
唐よりもリベラルで明るい感じ。
485 :
世界@名無史さん:2005/12/22(木) 20:22:10 0
>>484 「リベラル」の結果、史上最大の党争王朝に・・・
俺ら君子だから当たり前っつうか、
手前ら庶人より先に憂えてやってんだから感謝しろっつうか
唐が世界帝国とかよく言うけど、本当の世界帝国とは清とか元だよ。
宋も唐も美化されまくりなんだよ。
488 :
世界@名無史さん:2005/12/22(木) 22:17:49 O
世界帝国の初代は前漢
489 :
世界@名無史さん:2005/12/22(木) 22:36:41 0
>>485 党争が起きるのは仕方のないことだと思う。今の日本だって党が争っている
わけだし。まあ、宋はそれで国力を弱めてしまったのは弱いところだが。
まあ、でも権力闘争も左遷程度で済ませていた(党争が過激化する前ね)
のはあの時代にしちゃ良くできた方なんじゃないかと。
文化的にも色々な発展があった時期だし、数学なんかも発展した、中国史
上の黄金時代なんじゃないかと思うわけだが。
逆に言えばその後の推移は何で、という思いがあるけど。民間活力の発展は
あったとは言え、政治や主流文化の面ではどうも暗くなる。
安禄山事迹、ネットで読みたいです。
ないっすか
491 :
世界@名無史さん:2005/12/23(金) 00:07:53 0
>>487 いや、イメージでさ。
初期の唐はなんか国際的で世界最高の文明国って感じ。
元と清はなんか薄暗いイメージでいかにも非文明国って感じ。
492 :
世界@名無史さん:2005/12/23(金) 20:06:32 0
>>487 当時としたら大唐帝国とイスラム帝国は十分に“世界帝国”の範疇
にはいるだろ。
唐が西域に影響力を持っていたのはほんの短期間だよ。
すぐに内地すら十分に支配できなくなっていくのに
イランからエジプト以西まで支配したイスラム帝国と較べるなんて出来ないよ。
494 :
首ライ:2005/12/23(金) 20:43:06 0
でも元の頃に文学作品はたくさん出来てないですか?
清は、非合理的、儀礼主義ないメージが
清が礼儀的、非合理的というのは清末のイメージだね。
もともとの清、特に順治、康熙、雍正の頃は実利主義だよ。
唐は晩唐をもって代表しないのに、清は清末の印象で語られる。
これが清の不幸だな。
496 :
世界@名無史さん:2005/12/23(金) 21:56:24 0
>>482 はじめて武烈王の存在をしりました。三国志のキャラ並みに面白そう。
今の韓国では評価されたんのかなあ
うむ・・・
498 :
世界@名無史さん:2005/12/27(火) 02:20:11 0
【10:5】【中国】陝西省潼関県で隋王朝の大規模古墳発掘、壁画や石棺見つかる…皇族のものか
1 名前:諸君、私はニュースが好きだφ ★ 2005/12/27(火) 02:06:36 ID:???0
26日付の中国紙、北京晨報などによると、中国陝西省潼関県でこのほど、
隋王朝(581−618年)の皇族のものとみられる大規模な古墳が発掘され、
多くの壁画や彫刻を施した石棺、陶製の人形など200点以上の埋葬品が
見つかった。
同省の発掘隊関係者は「身分の高い皇族のものとみられる。当時の
埋葬制度や美術の研究にとって極めて貴重な発見だ」と強調した。
墓室内は直径約6メートル、高さ約5メートルの半円形。壁には女官の
絵が描かれ、漆黒に塗られた天井部には、星や銀河を模したとみられる
白色の斑点や帯が描かれていた。
墓室に通じる地下通路は長さ約21メートル、幅約2メートルで、等身大
の男性46人からなる儀仗(ぎじょう)兵団の壁画も見つかった。石棺には
仙人やトリ、カメなど各種動物の複雑な彫刻が多数あった。
ソース(共同通信)
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=home&NWID=2005122601003017
499 :
世界@名無史さん:2005/12/27(火) 18:16:46 0
これはお前に限らないが、コピペするときは、せめてコメントくらいつけろ。
いきなり長文貼り付ける意図がわからん。
500
501 :
世界@名無史さん:2006/01/02(月) 23:10:30 0
500ゲッツ
502 :
501:2006/01/02(月) 23:11:28 0
orz
武則天が容易に周建国出来た要因を幾つか挙げてみようよ
504 :
世界@名無史さん:2006/01/05(木) 22:52:32 0
>>503 高宗が惰弱に過ぎた。
いくら恐妻家でも、妻の言うなりに
長子(廃太子忠)を殺して娘二人を幽閉し
廃后の決意を固めたかと思えば
ばれた途端に「朕は何も知らぬ」。
ここまで腐った男も珍しい。
おまけに体も弱い。
権力が武后に集中するのも当然。
505 :
世界@名無史さん:2006/01/05(木) 23:00:21 0
>>503 高宗在世中に培った権力を存分に活かして
一大恐怖政治を敷き、唐の宗室を虐殺しまくって
自分の子孫以外の李氏をほぼ全滅させ
抵抗勢力をなくした。
李氏がそもそも漢人じゃないだけに、女性の発言力が高かったんだろうね。
北魏の文明太后なんかの類型かな
507 :
世界@名無史さん:2006/01/06(金) 00:29:29 0
あの時代は漢人じゃない日本や朝鮮でも女の君主がいたらしい
508 :
世界@名無史さん:2006/01/06(金) 06:24:33 0
「らしい」?
高宗惰弱もあるけど、官僚機構主導型の国家に移行していったのもあるかと。
北魏〜隋までの「なにかと皇帝が指揮を執る」っていうのを否定したのは
関隴系貴族集団だけが主導するってのを否定するのにも通じる。
寒門が台頭して良い理由ができたわけだし、そうなれば彼らは旗頭を求めるわけで
何か、前漢が儒を真面目に取り入れた結果、「有徳者に禅定しちゃっていいじゃん」
ってことになって王莽にやられたのに似ているような気がしないでもない。
宋以降みたいに民族主義に基づく国家っていうようなのがないわけだから
皇室は権威を否定されたらアウトだなって感じもする。
510 :
世界@名無史さん:2006/01/07(土) 19:35:57 0
>宋以降みたいに民族主義に基づく国家っていうようなのがないわけだから
華夷思想が高揚した宋代でも、趙氏は突厥サダ部の出身という説がある。
事実だとしたら、宋の開祖の祖先は、唐の時代は中原を脅かしていた夷狄禽獣になってしまう。
511 :
世界@名無史さん:2006/01/07(土) 21:22:49 0
でも漢民族自体が「中華文明の恩恵によくした人」の総称であって
出自や祖先の民族をこだわってもってきがしないでもない。
往時の中華帝国にとっては漢民族=現代でいうアメリカ市民権みたいな感覚
だろ。
512 :
世界@名無史さん:2006/01/22(日) 16:05:08 0
なんで唐は大興城を長安に改名したんだろ
保守
514 :
世界@名無史さん:2006/02/13(月) 22:55:23 0
守
515 :
世界@名無史さん:2006/02/14(火) 04:28:21 0
しゅ?
ノ
__ /
/⌒ ヽ / /
(;´Д` )'゙ヽ. _/
. /iー-‐'"i ,; /
i ! ( ヽ. ) ノ/ .:/
(\.゙ヽ_(_/,イ/
i ! (\\_,_)' ノ
(\\_,_,)'
i ! l ,i\ ヽ、 ! シュッ! シュッ! シュッ!
し'
516 :
世界@名無史さん:2006/02/15(水) 15:42:24 0
>512
隋の文帝は,即位前に大興郡公に封ぜられていたため,新都を大興城と命名したと考えられる。
唐高祖は即位するや,隋代の名称を変更するため,都の名を,もとのこの地にあった都,長安に戻した
と考えられる。ただし,旧長安城と新長安城(大興城)は別の場所。
この考え,違うかな?今ひとつ自信ないが……
安禄山の乱でウイグルに援軍申し込んだくらいで
まるで唐がウイグルの属国になったと言っている杉山先生に辟易しました。
518 :
世界@名無史さん:2006/03/12(日) 13:40:05 0
月例保守。
519 :
世界@名無史さん:2006/03/23(木) 11:27:57 0
age
520 :
世界@名無史さん:2006/03/23(木) 20:10:38 0
新唐書読みたいな。
中華書局版の安いのどこかで売ってないかな。
最近売ってる横書きの漢籍なぞ論外。
やはり縦書きで旧字体じゃないと。
つ書虫
つ中央研究院 漢籍電子文献
522 :
世界@名無史さん:2006/03/23(木) 20:50:08 0
>>521 ありがとう。他にも色々探して調べてみるよ。
神田の古本屋で旧唐書は5000円だったけどね。探せば新唐書もあるんじゃないかな
李勣より影が薄くなりがちな李靖について
>>517 そーいえば682年に東突厥が独立した時点で世界帝国としての唐は終わりてなふうなことも
書いてるなー。
吐蕃からのタリム奪還も北庭都護府設置もタラス川の戦いも未だだというのになんぼなんでも
早すぎやろと思った。まぁそーゆーこと言いたくて執筆してる面も無きにしも非ずだから
しょーがないのかもしれん。
それにしてもタラス川の敗戦や安氏の乱があったというのにさらに30年程も北庭や安西の
都護府を維持したとはしぶといな。そこが陥落してもさらに100年も存続するとは唐とはしぶとい
王朝ですなー。
526 :
世界@名無史さん:2006/03/25(土) 13:16:54 0
>>517 「遊牧民から見た世界史」杉山正明 だね。
確かにこれを見たときかなり違和感があった。ウイグルが世界警察だというのは噴飯ものだ。
唐が勝手に過大評価してやられたい放題になっただけと思う。(現代の日本と朝鮮の関係に近い)
>>524 遊牧民族が勃興していたのは事実だけど、それに伴う商業の発達をある程度うまく利用できた面が大きいと。
節度使どもはこれが分からず、独立できず、唐に寄生するしかなかったと思う。
>>524 田中芳樹が散々持ち上げていたな。
中国史で最初に騎馬民族の大軍を破った名将とかで。
528 :
世界@名無史さん:2006/03/26(日) 19:19:36 0
>中国史で最初に騎馬民族の大軍を破った名将とかで
漢の衛青や霍去病はどうなるの?
529 :
世界@名無史さん:2006/03/26(日) 20:08:47 O
蒙恬…
そもそも芳樹の歴史観なぞ旧唐書の許敬宗の記述みたいなものだ。
まともに受け止める方が馬鹿を見る。
でも李靖が太宗より長生きして高宗に仕えたとしたら
おそらく長孫無忌と対立して失脚するか
李勣のように武則天擁立を傍観して天寿をまっとうする道を選んだかの
どちらかだと思う。
531 :
世界@名無史さん:2006/03/26(日) 20:17:38 0
>>527 いくら田中でもそこまでポカするかいな。
彼がいうには「最初に有効な対遊牧民戦略を確立した」のが戦国時代の李牧。
そして李靖は「定住民の軍隊を率いて遊牧民の本拠地に攻め込んで遊牧国家を崩壊させた名将」。
もちろん衛青、霍去病、蒙恬についても言及してるよ。
こうして一度アフォとされたヤツの評価が実像以上にアフォ化されていく・・・
お前ら馬鹿か?
唐は挙兵時に突厥から援軍仰いだんだぞ。
従って唐は突厥の属国で李靖とやらの軍事行動も
突厥が一時的に難を避けただけの幸運に過ぎないんだぞ?
ひたすら唐マンセーする連中は架空戦記か小説でも読んでろwww
533 :
世界@名無史さん:2006/03/26(日) 21:02:36 0
>>532 本物の杉山正明なら「衛星国」か、せいぜい「保護国」と表現すると思うが。
しかも杉山正明は唐が全期間を通じて突厥の傘下にあったなんて一言も言ってないぞ。
杉山説が正しいかどうかは別として、イメージだけで研究者を誹謗するのは不快。
534 :
世界@名無史さん:2006/03/26(日) 21:59:35 0
糞シナにはしっかり払ってもらわないとな
首相「常任理事国、責任持ってもらう」・分担金下限提案で
小泉純一郎首相は10日、外務省が国連安全保障理事会常任理事国の
国連分担金負担率に下限を設ける改革案を提出したことについて
「常任理事国には権限もある。責任を持ってもらう意味で一定の負担を
してもらうのは良いことだと思う」と説明した。
首相官邸で記者団の質問に答えた。 (19:04)
そうそう、信者の崇め奉る「杉様w」とやらは、唐はタクバツ国家であって、
低能カニバリストの漢民族なんぞは世界帝国建設の貢献度ゼロである、と
ご喝破なさっているだけでございましてよ?
>>272 岡田英弘はそんなこと書いてない
「中国人が恐妻家」ともいってるし
「鮮卑などの北方民族の文化の影響」もある
とは言ってるが両者に因果関係があるとは書いてない
537 :
世界@名無史さん:2006/04/16(日) 03:21:45 0
age
人間は感情の動物だから仕方が無いとは思うけど
歴史の事柄に関してはあまりああだこうだと評価はしたくない
けど・・・・
無理かw
539 :
世界@名無史さん:2006/05/07(日) 13:45:11 0
月例保守に上がりました。
540 :
世界@名無史さん:2006/05/14(日) 18:09:58 0
阿倍仲麻呂or朝衡って、安史の乱の頃何やってたの?
援軍を頼むどころか、長安を包囲して、優位な講和をした吐番に対しては?
543 :
世界@名無史さん:2006/06/08(木) 17:36:08 0
唐の皇族の生き残りっているの?
朱全忠に皆殺しにされたらしいけど、
相当な人数がいたみたいだし。
>>543 武則天の粛清で睿宗系以外の皇族宗族は大半が断絶
睿宗ー玄宗系の皇族の傍流は後に五代十国時代でも微々としてだが
存続した。
朱全忠が皆殺しにしたのは最後の皇帝である哀帝とその兄弟。
545 :
世界@名無史さん:2006/06/17(土) 19:56:07 0
哀帝とか霊帝とか名前聞くだけで悲惨な存在だと思う。
546 :
世界@名無史さん:2006/06/17(土) 21:21:21 0
だから贈名を・・・・
547 :
世界@名無史さん:2006/06/18(日) 01:02:52 0
贈名がどうした?
| 俺の立てたスレなんだ!!!
| age続けるんだ!!!
| 名スレにするんだ!!!
| きっと職人さんも来てくれる!!!
\___________ ____
∨ カタカタ____ ___
∧_∧ ||\ .\ |◎ |
(.#`Д´) || | ̄ ̄| |:[].|
∧_∧ . ┌( つ/ ̄l| / ̄ ̄/ ..| =|
∧_∧ ( TДT) |└ ヽ |二二二」二二二二二二二二」
( TДT) ( つつ  ̄]||__) | || | ||
(つ つ / / / ./ ̄\ / || / ||
と_)_) (___)__) ◎ ◎ .[___|| .[___||
∧
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|
>>1よ、もういいんだ・・・・・・・
| 本当に良く頑張った・・・もう充分じゃないか・・・
| 楽になっていいんだ・・
549 :
世界@名無史さん:2006/06/20(火) 19:27:42 0
だから贈り名が何だよ!
気になるだろ。
から
551 :
世界@名無史さん:2006/06/24(土) 19:48:41 0
漢民族ではないのに漢民族になりきったところが「Zガンダム」のクワトロ
(シャア)よりもすごい。
552 :
世界@名無史さん:2006/07/11(火) 23:31:39 0
ウリも戦前はチョッパリ以上に(ry
553 :
世界@名無史さん:2006/07/12(水) 00:38:39 0
たまたま通りかかったデパートのコインショップで
開元通宝が1枚100円で売っていた。
千年以上も前のものなのに、全然値打ちがないらしい。
一枚買ったけど。
旧唐書と新唐書ってどう違うんですか?
なぜ二つも史書があるんですか?
ぐーぐるっ
聞く前に少しは調べろよ
愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。
半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝負服ないでたちで。
脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。
私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。
あれには本当にびっくりした。
558 :
世界@名無史さん:2006/08/15(火) 00:17:05 0
創元社の「図説 中国文明史6 隋唐開かれた文明」
はよかったぞ。
政治史・制度史以外はあまり語られることのない中国史において、
近隣国家、軍隊、産業、社会、宗教、服飾、飲食、スポーツ、文化、芸術
医療をとりあげていたぞ。
高かったけど、買ってよかった
559 :
世界@名無史さん:2006/08/15(火) 13:20:26 0
俺は唐の皇族[玄宗以降]には生まれたくないな。生まれたときから隔離されて
一郭を与えられて暮らしていくしかないし、名誉職はあっても仕事にはつけない
し。食事などもあてがいぶちで品質は悪い(文宗の代にあまりにひどいので係が
処罰されている)など良いことはない。
早く分離してもらって一般の士族になったほうが楽しいわ。
560 :
世界@名無史さん:2006/08/15(火) 21:55:04 0
唐鑑って読む価値があるかな。貞観政要のようなきれい事の世界ならあまり時間
をかけたくないが。今は刺史考を簡体字に悩まされながら分析中です。
561 :
世界@名無史さん:2006/08/28(月) 14:18:36 0
地図で見ると、吐番の勢力って結構長安に近いよな
長安って西の方から攻められたら危なそう
元々、長安は東からの侵攻に対する守りだし。
長安こそが侵攻する東だったのでは?
>>563 文脈が読めないやしだな。562は561を受けて、長安は東からの侵攻に対する守りには強いが、西からの侵攻には弱いという意味だよ。
実際、代宗のときに、吐蕃に長安落とされてるだろ。
565 :
世界@名無史さん:2006/10/06(金) 22:41:19 0
唐の皇太子は悲惨な目に遭ってる奴が多い。
>>565 元やトルコの皇太子もそんなの多いな。遊牧民族の血かねえ?
女人政治と言うのも遊牧民族の血か?
568 :
世界@名無史さん:2006/10/11(水) 00:24:58 0
唐朝の頃の行政区分……つまり境界線って実際の所、
各役所に図としてあったんでしょうかね?
何だか適当にこのへんからこのへんまでがここの担当って感じがするんですけど。
570 :
李林甫:2006/10/22(日) 00:19:45 O
そろそろ安禄山について語ろうか
571 :
世界@名無史さん:2006/10/22(日) 08:48:45 0
12世紀頃にアゼルバイジャンの詩人ニザーミーが書いた「七王妃物語」のなかで
ルーシャンという悪徳宰相が登場して「名前はルーシャン(光)なのに心は闇」と書いてある。
これってアン・ルーシャン(安禄山)がモデル??
572 :
世界@名無史さん:2006/10/22(日) 22:16:59 O
悪徳宰相の名前がルーシャンって
安禄山と楊国忠と李林甫を足して2で割ったような人物だな
573 :
世界@名無史さん:2006/10/23(月) 00:24:16 0
3人を2で割ってどうするw
とあえて釣ってみる
574 :
世界@名無史さん:2006/10/23(月) 00:51:27 O
唐代における女性の地位はシナ史の中では高め。
女性皇帝が出た点で水増しされた部分を差し引いても高い印象がある。
ズボン履いて活動的なイメージ。
まぁ、デブ専はいただけないが。
老上単于の名前って、ペルシア語の「ルーシャン」と
関係ないのかなあ
576 :
世界@名無史さん:2006/10/23(月) 20:12:47 O
女性の地位は高めというけど太平公主の本名が不明なのはどうかと
>>575 ラオシャンは知らんが、その後に続く稽粥(けいいく)という部分が
モンゴル帝国のグユクと同じじゃないかという説はあるな。
すれ違いなのでsage
579 :
世界@名無史さん:2006/11/01(水) 17:10:05 0
太平公主の名前は「李令月」。
580 :
世界@名無史さん:2006/11/01(水) 18:40:01 0
白楽天の詩で、朝廷で北周と隋の皇室の末裔が唐朝の賓客扱いされて
儀式に参列しているさまを見て歴史の移ろいやすさを嘆じたものがあったと
記憶しているんだけどその詩がどうしても見つからない。
北周と隋の皇族は革命の際ほぼ全滅したと思うんだが
もし私の記憶が事実なら一体誰の子孫なのかも
教えて頂ければ幸いです。
581 :
世界@名無史さん:2006/11/01(水) 19:23:10 0
唐以降の時代はユニークな人物が出てこないね
583 :
世界@名無史さん:2006/11/08(水) 21:39:59 0
武則天がいなかったら唐は長孫無忌に簒奪されてたかもしれない。
傀儡にぴったりな高宗を皇帝にした時点で太宗の負け。
おそらく晩年、病床で功臣の粛清をしなかった事を後悔していたでしょう。
唐代の女性は纏足してなかったし、馬にも乗ったりしてたし
後の時代よりはかなり自由に行動できたはず。
>>582 唐時代を含んで?
武則天と配下の酷吏、李林甫、安禄山、楊国忠はユニークだと思うが
ただ、それ以降は中国史からユニークが人物がいなくなるに同意。
国家の官僚化が進んだせいだと思うが
587 :
世界@名無史さん:2006/11/13(月) 03:39:04 0
>>586 その面子だとユニークというよりブラックユーモアだと思うが。
特に拷問手段に仙人献花とか名前付けていた酷吏連中。
588 :
世界@名無史さん:2006/11/13(月) 08:36:04 0
>>582 >>586 明の洪武帝、永楽帝、清の康煕、雍正帝、乾隆帝、西太后などはユニークではない、と?
589 :
世界@名無史さん:2006/11/30(木) 20:18:18 0
李世民の息子達って問題のある奴ばかりだな。
590 :
世界@名無史さん:2006/11/30(木) 20:35:29 0
李世民って貞観の治の人だろ?則天武后の元夫。
「上品に寒門なく、下品に勢族なし」の言葉の意味説明できる奴いないの?
>上品に寒門なく、下品に勢族なし
唐代を語るには不適当じゃないか?この言葉。
南北朝時代の言葉でしょ、これ。
592 :
世界@名無史さん:2006/11/30(木) 21:45:34 0
誰か黄巣の乱について語れ
593 :
世界@名無史さん:2006/11/30(木) 21:46:54 0
誰か黄巣の乱について語れ
蜀に逃げた皇帝に見棄てられた後宮の美女たちは黄巣を「黄王さま」と呼んで歓迎したらしいな。
唐が長安を回復すると黄巣軍に手を付けられた宮女たちは処刑された。
595 :
世界@名無史さん:2006/12/24(日) 18:46:01 0
age
フランスで出版されて今年邦訳のでた則天武后の小説って
誰か読んだ?読んだ人いたら感想教えて。
イランと中国、 >>>>> 北朝鮮
599 :
世界@名無史さん:2007/01/28(日) 22:34:23 0
600 :
世界@名無史さん:2007/02/03(土) 04:06:21 0
601 :
世界@名無史さん:2007/03/03(土) 22:25:20 0
>>601 今も「人民共和国」なのに、人民は無視され共和的ではないわな。
原百代の則天武后読んだよ
則天武后は妾の手足を切って酒ダルに付け込んだって本当かな
この当時の中国はまだ内陸から沿海部に繁栄が移る前だった
607 :
世界@名無史さん:2007/04/14(土) 17:33:19 0
このスレ的には、森安先生の「シルクロードと唐帝国」はどうだった?
て、さびれてるか…
608 :
世界@名無史さん:2007/05/08(火) 11:20:03 0
age
610 :
世界@名無史さん:2007/06/10(日) 06:46:59 0
611 :
世界@名無史さん:2007/07/07(土) 19:53:44 0
>>605 東南アジア方面との海上交易は、唐代ではまだ本格化していないのだろうか。
その一方で義浄などがパレンバンまで足を伸ばしてもいるわけで。
612 :
世界@名無史さん:2007/07/07(土) 21:43:32 0
613 :
教えて下さい:2007/08/04(土) 00:22:37 0
「唐時代の官吏の勤務時間」を知っている人がいたら教えて下さい。
あるいは、それについて書いてある書籍の紹介でも結構です。
父が、退職後の趣味として歴史の勉強を始めたのですが、壁に当たると私に質問を振ってきます。
その都度、ネットなどで調べて回答していたのですが、20年もやっていると質問がマニアックに
なってきて、最近は四苦八苦してます。
上の質問はその一つですが、色々当たってみても見つかりませんでした。
わかる人がいたら、どうか一つお願いします。
614 :
世界@名無史さん:2007/08/04(土) 00:38:11 0
>>613 宮崎市定の『大唐帝国』(中公文庫、1988年)あたりに書いてないかな?
あなたの父上はヒマだから相手して欲しいだけなんじゃないか?
と疑ってしまう俺ガイル。
俺だったらとっくに
「趣味で歴史の勉強してんだろ? 人に聞いたら勉強にならんだろ。
ネット検索の仕方を教えるからそんなの自分で調べろよ!」と突き放してるところだ。
それなのに20年間も
いちいち調べて答えてあげていた貴方は、俺が唐の皇帝なら表彰したいぐらいの孝子。
615 :
613:2007/08/04(土) 00:52:48 0
>>614 早速ありがとうございます。助かりました。
父にその本を紹介しておきます。
父の質問の方は、本当に煮詰まるまでは質問してこないので、実際には半年に1回位の頻度のため
たいして負荷にはなっていません。それよりも自分が転勤族(死語?)で、年に1回くらいしか帰れないので、
せめてもの親孝行と思ってやっています。
とはいえ、ネット検索が出来れば、世界も広がると思うので、今度の盆休にはパソコンを買ってやって、
頑張ってセットして来ようと思っています。
616 :
世界@名無史さん:2007/08/04(土) 00:53:49 0
20年も歴史の勉強をさえているのなら既にれっきとしたの中国史研究家といえるのではないでしょうか?
617 :
613:2007/08/04(土) 01:04:30 0
>>616 いえ、どうも違いそうです。
確かに中国関係の話しは多いのですが、正当な歴史以外にも、呪術めいた関係の質問もあったり、
なにやら偏りがありそうですし、前回は延喜式の話で、以前はバスク語に飛んだりしてます。
本人の中では繋がっているらしいのですが、もともと歴史の苦手な私には何をやっているのやら
皆目見当がつきません。
まぁ、ボケ防止には多少役立っているのかなと、思ってつき合ってます。
618 :
世界@名無史さん:2007/08/04(土) 01:12:43 0
しかし、20年以上の蓄積は凄いものになっているのではないかと思います。
一度、総括的に整理し纏めて世に問うてみるのも良いのではないでしょうか?
619 :
613:2007/08/04(土) 01:16:52 0
>>618 ありがとうございます。
一度、勧めてみます。
しかし、いったい何が出て来るやら。
楽しみのような、恐いような。
620 :
世界@名無史さん:2007/09/09(日) 01:24:18 0
最近宋を扱った本を読んだりしているのですが、色々疑問が出てきました。
皆様のご意見をいただけたらと思います。
1.現在に残っている建築物は、金、南宋時代のものは結構多く、北宋、五代では、
石造の塔ばかり、唐代となると、石造の塔そのもの少なくなり、史跡建造物自体、
殆どなくなってしまいます。これはやはり、元、明、清の混乱期には破壊が少なく、
唐末五代の騒乱が激しかったということなのでしょうか?
それとも、木造建造物の耐久年限という理由に尽きるのでしょうか?
(山西省に、唐代の木造建築物が残っているそうですが)
2.宋代、特に南宋以降、様々な文献史料が飛躍的に増大しているように思えます。
(清明上河図、東京夢華録、夢梁録、武林旧事など)。宋代以降であれば、アナール派的社会史分析も
容易に行えるのではないかとおもえるほどです。紙はそれ以前から普及していたと思いますが、唐代は
繁栄していたはずなのに、宋代と比べて宗教以外の民間文献史料が極端に少ないように
思えます。これはなぜなのでしょうか。唐と宋は、時間的間隔の割りには、
ずいぶん差があるように思えます。
3.唐太宗は功臣の粛清をしないで済んだのはなぜなのでしょうか?
企業でも、創業時の社員は、会社が大きくなると、組織に馴染めず、やめてゆくケースが
多いのです。今仕事上で、似たような状況になっていて、できれば辞めてほしくないので、
唐事例など、有益な事例があれば参考にしたいと思っています。
ご意見などいただけますと助かります。
621 :
世界@名無史さん:2007/09/09(日) 02:10:20 0
>>620 1.騒乱と木造建築の耐久限度の両方だと思います。
2.五代〜宋代にかけて木版印刷が一般化したせいで
出版物が大量に刊行できるようになって、その分文献も残りやすくなったかと。
622 :
世界@名無史さん:2007/09/09(日) 03:16:44 0
なるほどありがとうございます。
ということは、残って無くても、唐代には、
清明上河図、東京夢華録、夢梁録、武林旧事などに匹敵するような
社会を描いた書籍があった、ということなのでしょうか。
どうも唐代の史料となると、文学作品と歴史書くらいしか目につかないのですが、
このあたりはいかがでしょうか。
唐までは庶民が文化に参与することは少なかったんだから
庶民文化を知る文献史料が乏しいのは仕方がない。
宋代からは庶民文化が盛んになったから
庶民文化を知ることのできる史料も豊富になった。
624 :
世界@名無史さん:2007/09/09(日) 04:51:57 0
ご回答ありがとうございます。
となると、なぜ唐と宋で急にそんなに変わってしまったのでしょうか?
西欧ルネッサンスに匹敵するくらいの急激な変化であるように思えます。
>>624 唐と宋は、置かれた国際環境からして全く違うからな。唐は絶対的な世界帝国だけど、宋は大きくても
数ある国の一つでしかない。
まあ、庶民文化が盛んになったのは、商工業が発展して民間にも金が回ってきたから、ってのが一番の
理由だとは思うけど。
626 :
世界@名無史さん:2007/09/10(月) 00:25:42 0
ご回答ありがとうございます。更に追求いたしますと、なぜ商工業が
この時期に急激に発展したのでしょうか。
ヨーロッパですと、議会運動が起こったり、13世紀頃から遠隔地貿易が盛んになり、
都市が勃興したり、大学ができて、古代知識を復興したりと、
商工業発展の道筋が比較的把握しやすくなっています。
また、イスラム勢力の影響を受けて、12〜13世紀、シチリア、イベリア経由で、
北イタリアやネーデルラントの都市へと知識が波及してゆくなど、この点でも、
商工業発展の背景が説明できます。
宋の急激な商工業発展は、何が原因で生じたものなのでしょうか?
>>626 唐末期からの混乱がようやく集束したのと、イスラム教徒による海洋交易が発達して
貿易が過去に無いほど発展したから、って言うのが教科書的な答えかなあ?
628 :
世界@名無史さん:2007/09/11(火) 10:22:57 0
>>627さん
ご回答ありがとうございます。
質問ばかりでも恥ずかしいので、概説書を少しひっくり返して読んでみました。
自分が思うには、萌芽は唐代からあったのですが、宋代に
1.二期作・二毛作の発達(2つ目は徴税しないという政策)
2.占城米の移植による飛躍的な収穫増(真宗の政策)
3.営利印刷出版の発生(五代の宰相フウ道の事業)
4.商店営業規制の緩和(政策)
5.経済浮上により、鉄・銅銭の物理的不便さによる紙幣・手形発生(政策)
6.これらを抑圧しない政策(唐代では、結果的に規制する政策となっていた)
7.こうした政策が取れたのも、科挙のおかげ。科挙でエリートのためのエリートではなく、
民間のための政策ができる人材が集まったのは、受験図書出版を確立した印刷のおかげ。
と理解しました。つまり、もともと発展の目はあったのに、唐代は政策的に
対応できていなかった、ということです。井上進さんの「中国出版文化史」も参照したのですが、
ここには、写本中心の唐代から、「ほしければ本屋に買いにいける」状況に、一気に変貌した
宋代書物事情が記載されていて非常に興味深いです。イスラムと西欧の発展が、紙の導入による要因も
大きかったことを考えると、印刷術が成立し、かつ*書籍販売*が普及したことも大きいように思えます。
では、唐代既に発展しつつあったのはなぜか、ということについては、
内的発展と、イスラムとの交易などが要因なのではないかと思いました。市民革命を
生まず、農民反乱しか生まなかった中国ですが、上からの改革もなかなかやるのではないか、と思いました。
629 :
世界@名無史さん:2007/09/11(火) 11:06:40 0
大運河による流通が商業を発達させた。
つまり唐の時代から商業は発達し始まっていたけど、
それによって経済の中心地が政治の中心たる長安と分離してしまった。
五代〜宋になって開封が都になったことで政治と経済の中心が一致し、
商業発展の後押しとなった。
630 :
世界@名無史さん:2007/09/11(火) 16:01:05 O
ペルシャ人だったんじゃないか?
>>628 技術的な条件として石炭の利用が普及したことも大きい。
文化の中心が
当時すでに貧しい地域になってしまった中原から豊かな江南に移ったことも。
632 :
世界@名無史さん:2007/09/15(土) 04:12:14 0
既にありふれた内容かもしれないけど、前後の時代を含む漢唐の共通点って、結構あるね。
中国史は、統一-民衆反乱による滅亡、と金太郎飴みたいな歴史の繰り返しといわれるけど、
この期間も、ほぼ似たようなことが繰り返されているね。他にも共通点がないか、探してみると
面白いかも。
黄巾の乱から、96年後、再統一、黄巣の乱から、95年後、再統一
漢も唐も、ともに前王朝は、強引な政策で統一期間は短命
漢も唐も、最盛期は、ともにパミール以西に遠征
漢も唐も、ともに途中王朝簒奪にあっているが、もとの王家に戻った王朝(ちょっと苦しいか)
漢も唐も、途中で王朝史を前後に区切る真ん中たりで大乱(赤眉の乱、安史の乱)発生。
再統一後の王朝(晋と宋)は、北部を北方民族に侵略され、南半分の王朝となる。
再統一後の南北分裂時代、最終的に北部を支配したのは、ともに東北部の民族(鮮卑と女真)
再統一後、それぞれ、309年、300年で、南部王朝滅亡
再統一後、300年後に統一した王朝は、ともに、朝鮮半島の王朝とともに、日本と交戦(隋と唐の違いがあるので相当苦しいが)
633 :
世界@名無史さん:2007/09/15(土) 04:24:59 0
こうしてみると、同じく北方民族の圧迫下にあったのに、
易々と本土進攻を許した晋と、ある程度ふんばった宋の相違が際立ちますね。
逆にその差が無いと、本当に歴史の繰り返し。宋は文弱と言われながらも
軍隊の人数は多かったから、晋と宋の政策の差であって、晋も地方軍隊解散など馬鹿な
政策をやらなければ、もっと長く持ちこたえたかも。こう考えると、これが前(漢晋)の
歴史から学んだもっとも大きな成果といえるかも。
ちなみに宋も晋も、統一期に兄弟が政権についた点も似てますね。
634 :
世界@名無史さん:2007/09/15(土) 04:38:09 0
途中の簒奪王朝は、どっちも周がらみだね。
こうしてみると、モンゴル帝国は、このマンネリを打破した貢献度大かも。
モンゴルなかったら、その後も同じパターンが続いていたりして。そうすると、
丁度今頃が、第3期南北時代の終了というところか。明朝が頑張って、南朝として
持ちこたえることができたら、第3期も同じパターンか。となると、北宋の頑張りと
明朝の駄目駄目が、マンネリを打破したポイントか。連投スマンでした。
635 :
世界@名無史さん:2007/09/18(火) 03:00:11 O
安倍仲摩呂は唐の国力をそぐためのスパイ?
玄宗に弟子の楊貴妃を送り込み、玄宗をろうらくし国政を乱れさせた。
楊貴妃は日本人?
だから、シナチクは日本人を見るとハニートラップを仕掛けたくなるんすか?笑い
636 :
世界@名無史さん:2007/09/18(火) 12:30:49 0
最近、朝鮮大学校の高寛敏という教授の隋唐倭朝鮮関連のものを読んだんだが、
滅茶苦茶だね。驚いたよ。願望によるこじつけ満載。
何としても倭を隋唐朝鮮の下に置きたいと言う願望で日本を罵しってる。
一応学術論文の体裁を取りながら、随所に学術逸脱の記述。
朝鮮大学校だけじゃなく、大阪経済法科大学もそういう教員が多いみたいだね。
大阪経済法科大学は全員がそうではないんだろうけど。
2chで朝鮮を嘲る馬鹿どもには腹立たしく思ってたが、朝鮮の人がもともと
こんなことを久しく続けていたのなら、嘲られても仕方ないかも知れん。
637 :
世界@名無史さん:2007/09/19(水) 14:20:52 0
どっちも相手にしないに限りますよ。
客観的分析よりも主観的歴史観が重要だといっている人々なので、
最初から折り合うはずがありません。そういう歴史観があっていけないとは
いいませんが。
戦争やるときは、無関係な人々を巻き込まないで、
係争中の島へでもいってやって欲しいと思います。
ただまぁ国家的に思想的統制下にある人々の言う事は、論争する気にも
なりませんね。ここの嫌韓厨の方が少しはましでしょう。目くそ鼻くその違いかもしれんけど。
638 :
世界@名無史さん:2007/11/09(金) 00:03:12 0
睿宗は自分の力量を悟って潔く玄宗に皇位を譲ったあたり、かなり聡明な皇帝だと思う。
639 :
世界@名無史さん:2007/11/09(金) 00:21:39 0
良い意味での「明哲保身」を実践した皇帝だよね。
640 :
世界@名無史さん:2007/11/12(月) 20:15:52 0
武則天の子の中で唯一、天寿を全うできたというだけでも賞賛に値する。
641 :
世界@名無史さん:2007/11/14(水) 04:09:03 0
637
2chで韓国を馬鹿にする輩はともかくだ。
そういった奴らは知らない相手に向かって高説をさも歴史上の定説のように
語るのが問題なんだよ
東大の玄武大だったか、あれも韓国マンセー、日本クソの言いがかり
をITで語っていて、それなりの支持者を得て、今では昔でいう助教授だぞ。
怖いところには最初から相手にしない、知らないやつ、弱そうなやつに
向かって中国アメリカは相手にならないからまだしも引っかかりそうな
日本人に向かって日本を組み伏せようと手段を練る。
それが未だに一般人、ネットとは無縁なやつには有効なんだよ。
嫌韓はそのあたりはまったく理解できてないし、しても何一つ有効策をもってない
つうか電通がマスメディアを牛耳ってる以上
何かした処でのれんに腕押しだわな…。
646 :
世界@名無史さん:2007/12/06(木) 21:37:26 0
則天武后だと、皇后という意味。高宗が生きていた時代の呼び名だよね。
武則天は、ひょっとしたら、即位後の名称だったんじゃないの?
因みに、中国では、、「武則天」と呼ぶのが普通。始皇帝を、秦始皇 というのと同じ。
武って国だったのか
則天ってのは、おくり名「則天順聖皇后」の最初の二文字。
武は、彼女の姓。
これを合わせて、「武則天」てのは、よく意味が分からないよな。
李世民の場合は、姓は李。おくり名が「文武大聖大広孝皇帝」だから、
李世民を、李文武と呼ぶが如し。
649 :
世界@名無史さん:2007/12/14(金) 16:53:29 0
お、結構格好いいな。今度からそうしない?
単純に「武さんところの則天皇后」くらいの意味だろ。
651 :
世界@名無史さん:2008/01/15(火) 10:33:24 0
「則天帝」あたりがいいと思う。
652 :
世界@名無史さん:2008/01/19(土) 04:25:37 0
中国で正式に女帝になったのって、この人だけなんだっけ?
すごいね。
653 :
世界@名無史さん:2008/01/19(土) 08:24:13 0
チュルク系だったのはもう基本?
654 :
世界@名無史さん:2008/01/19(土) 08:34:51 0
中国は現在、皇帝をおくり名や廟号では呼ばず生前の氏名で呼んでる。
どの王朝でも似たようなおくり名や廟号が多いから、その方が慣れたら便利らしい。
ただ、一世一元の清朝はそのままでわかりやすいので元号で呼んでいる。
中国での話なら清の皇帝は乾隆帝とかで呼ぶより高宗とかの廟号で呼ぶことのほうが多い印象があるが?
最近はドラマの影響があるから少しは変わったのか?
656 :
世界@名無史さん:2008/01/19(土) 16:29:36 0
それにしても武則天はなぜ皇帝になる必要があったんだ?
皇太后のままでも十分権力を持っていたのに。
>>656 そのほうが武氏の権勢が永続化すると思ったんだろ。
658 :
世界@名無史さん:2008/01/19(土) 18:04:44 0
実家の親族の方が大事だったわけか。
660 :
世界@名無史さん:2008/01/19(土) 20:34:05 0
我が子も平気で殺してるしな。
661 :
世界@名無史さん:2008/01/19(土) 21:08:57 0
原百代はそれを否定しているがな
>>653 You Tubeの書き込みだったかでテュルク系らしき人が
唐の支配層はテュルク系ってコメントしてた人いた
>>662 鮮卑っつーか、タウガチュ部族はチュルクと言っていいものやら…
むしろチュルク(突厥)とはライバル関係にあっただろ。
664 :
世界@名無史さん:2008/01/22(火) 16:17:11 0
>>559 高宗期の皇族もかなり悲惨だ。
武則天の子孫以外はほぼ全滅だからな。
チュルクの影響がかなりあったってことでは?
唐も後半はウイグルの庇護でもってる感でもあるし
666 :
世界@名無史さん:2008/01/22(火) 23:56:22 0
玄宗があと20年早く死んでいれば、唐の繁栄はどれだけ続いていたかな?
>>663 しかしトルコ語のウィキペデイアでも有るように
トルコやテュルク系の国々は鮮卑もテュルク系の主張してるし
実際タブガチュを自民族の支配層な記述有るんだよなぁ
鮮卑は東胡の子孫だからテュルク系。
何故東胡がツングースだと言い切れる?
匈奴は何系と言うに近いものが
>>670 どう見たって「東胡」はツングースの音を漢字で表した物だろ。
「東胡」=「とうこ」=「トルコ」
674 :
世界@名無史さん:2008/02/08(金) 21:05:43 0
武則天に進言し殺された兪文俊をご存知の方、
江陵の人、荊州の人、本当はどっちが正しいのでしょうか?
>>674 君の質問はこういうことだ。
フジテレビをご存知の方、
港区にある、お台場にある、本当はどっちが正しいのでしょうか?
>>674 『新唐書』巻40志第30地理4
江陵府江陵郡は、本は荊州南郡であり、天宝元年に郡名を更めた。
677 :
世界@名無史さん:2008/02/09(土) 21:26:53 0
>>675、
>>676 コーヒー吹いてしまいました
恥ずかしや〜ありがとうございます
兪文俊という人物について調べたいのですが、
お勧めの文献等、善導宜しくお願い致します…
678 :
世界@名無史さん:2008/02/11(月) 16:48:31 0
679 :
世界@名無史さん:2008/02/15(金) 21:03:47 0
>>678 おお、ありがとうございます!次の休みに図書館で探して見ます
『わが名は則天武后』読んできましたが名前ありませんでした
いまいちパッとしなかったんですかね…?
680 :
世界@名無史さん:2008/02/27(水) 22:46:14 O
質問質問(*^▽^*)/
唐朝は鮮卑タクバツ部がおこしたんですよね?
だったら唐は征服王朝ではないのですか?
唐朝初期の支配層は多分に北族的要素を持っていたと、昔のエライ学者さんも言ってましたし(>_<)
よくわからないので、博雅の士がいらっしゃいましたら教えてください><
拓跋国家論ってたしかにあるけどさ。
鮮卑拓跋部が起こしたってまで言ったら明らかに言い過ぎじゃないの?
>>680 ( ^ω^)うむ、唐が北族的要素を持っているのは確かだが、
ふつう征服王朝というのは、関外で建国し、その後に中華本土を征圧し移ってきた王朝のことをいうのだお
唐の場合は、関内(といっても内蒙古近辺だが)で建国した鮮卑拓跋系勢力である代国の長い変転の結果によるものだから、征服王朝には当たらないお
まぁ、代国の時点では、征服王朝への道もあったかもしれないがお
683 :
世界@名無史さん:2008/02/28(木) 00:02:30 O
>>681 タクバツ国家…ちんいんかく(えっちな名前!)さんがとなえたのでしたっけ???
その話はよく知らない(>_<)
>>682 えーでも長いスパンであろうとも北方の騎馬民族が中国の貴族制利用して、
統治したのだから征服王朝ではないの(?_?)
南面北面の二重統治ではないから征服王朝とは言えないとか?
キッタンや金や元と何が違うの、わかりません(>_<)
>>681 実際草原から西方世界じゃ、中華国家を「タウガチュ」って呼び続け、唐もそれを直そうとも
していなかったわけだが。
>>680 鮮卑勢力が強かったから鮮卑系の血が濃いかもしれない。
しかし鮮卑といっても色々おるからな。ずばり拓跋と
主張したのは法琳だが、その他の情報ははっきりしない。
唐書の「大野氏」というのもどういうもんだかよーわからん。
>>683 契丹や金や元は我々は漢民族にあらずと主張した。
唐は我々は漢民族なりと主張した。
>>684 ちなみに宋もタブガチュと呼ばれ続けました。
>>685 > 唐は我々は漢民族なりと主張した。
この当時の「漢族」って、「北部中華地域の住民」くらいの意味じゃ無いの?
>>684 唐が拓跋国家の流れを汲んでるのは確かだけど、
拓跋部が興したというと間違いってことだろ。
唐李氏の出自は現状、不明ってのが無難
>>683 征服王朝ではなくて浸透王朝って言葉がある。五胡諸国〜北朝諸国を指す言葉
この辺は、外部の勢力として中国王朝と戦ってきたんじゃなくて、
内部で挙兵、もしくは権力の空白状態になった中原・関中にそのまま流れ込んで形成された
確かに征服王朝と似ている部分、通ずる部分はあるけど、
制度上に細かい違いみたいなのがあったり、
宋以前の民族と国家の関係の違いとかもありまして。
そういう辺りで同一のものとしてはくくれない部分がある
688 :
世界@名無史さん:2008/02/28(木) 05:21:57 0
>>679 >『わが名は則天武后』
朝のコーヒー吹いた・・・
李淵の母親が独孤信の娘って時点で、ほぼ確定だろ
李王家が漢族だろうが胡族だろうが
南朝陳の滅亡をもって中華王朝の嫡流は途絶えてるわけだが。
何が確定なんだろう?
独孤氏だったら匈奴系なんだが…。
むしろ長孫氏が拓跋なりよ。
また南朝厨か
693 :
世界@名無史さん:2008/03/01(土) 23:11:50 0
694 :
世界@名無史さん:2008/03/01(土) 23:34:35 O
森安タソはちょっと言い過ぎな気がするw
いろいろとね
唐が拓跋っぽいのはどうしようもないことさ
697 :
世界@名無史さん:2008/03/02(日) 01:24:20 0
北魏孝文帝の時代に鮮卑としてのアイデンティティーは終わってるでしょ。
あとは血統がどうであれ実質漢人政権。
>>697 孝文帝は漢化政策の反発食らってクーデター起こされている訳だが?
北周の時代に鮮卑姓の復活とかあったし。
700 :
世界@名無史さん:2008/03/02(日) 09:24:49 0
>>684 宋までタブガチュですか。
でも、宋も唐の血を引いてますからね。
思うんですけど、実は漢崩壊後、漢民族というのは最早無くなったと考えても良いのでは
ないかとも考えます。
自称、中原中原言ってるけど、実は以降はほとんどがタブガチュ系国家。
ちなみに漢以前も、実は漢民族では無いでしょ。秦、楚、呉越、周もみな非漢民族。
西獣か北族か南蛮系。
701 :
世界@名無史さん:2008/03/02(日) 13:10:26 0
王氏崔氏なんかの漢人名族は唐末まで活躍しているわけで。
そもそも「民族」なんて現状融通無碍のアヤシイ言葉であるわけで。
702 :
702:2008/03/02(日) 13:34:43 0
>>698 そのクーデターはすぐに鎮圧されてるんだが
>>703 クーデターには皇太子まで参加してて、のちのちまで「民族問題」を引きずり続ける訳だが?
つーか、六鎮の乱のあとこそ、鮮卑の軍人集団の力が強まる訳だが。
隋の楊氏も、唐の李氏も、自称では鮮卑の系譜であることを否定してるんだが。
なんちゃって女子高生かよ
みっともねぇw
なんちゃって漢人名家
遊牧ヲタの李承乾は失脚
710 :
世界@名無史さん:2008/03/18(火) 11:30:39 O
唐揚げ
711 :
世界@名無史さん:2008/04/25(金) 13:35:52 0
高祖、太宗の息子で天寿を全うできた者は殆どいない。
高宗の息子に至っては睿宗のみ。
712 :
世界@名無史さん:2008/05/27(火) 10:29:43 0
李世民は息子の教育に関してはほとんど失敗してる
713 :
世界@名無史さん:2008/05/29(木) 20:58:28 0
法琳という高僧が唐の道教優遇を批判して
「李氏は老子の末裔だと言ってるけど本当は鮮卑だろ」とのたまったら
李世民が激怒して、法琳は殺されかかったらしい。
714 :
世界@名無史さん:2008/06/22(日) 08:13:59 0
清代に漢族も北方諸部族も中華世界の仲間だよー、ってされたんですよね?
715 :
世界@名無史さん:2008/07/19(土) 00:32:00 0
age
>>700 良く聞く論だが・・・
その論だと、ほとんど漢民族は地上に存在したことがなかったことにならんか?
いくらなんでも極論だろー
中華思想を打破したいのだろうが。
718 :
世界@名無史さん:2008/07/22(火) 00:13:43 0
>>716 ウンそうだよ。漢民族なんて捏造。あの国は全部捏造。
まあ「民族」っての自体が近代の捏造だからな。
同じ意味では「日本民族」なり「大和民族」も捏造
李世民は外交はイマイチなような
それに中国側では勝ったことになってる戦いも
相手側では違ってるから唐書だけ信じるわけにはいかないな
唐の王室は武川鎮の出身で、独狐氏や拓跋氏(匈奴や鮮卑)といった明らかに
北方民族系の名族と通婚しているので、北方民族系の可能性が高い。
ただ、独狐氏や拓跋氏(元氏、長孫氏)は唐代になっても出自は隠していない
のに、なぜ李氏だけ漢族を名乗ったのかは不思議。李氏は北周時代に大野とい
う胡姓を名乗っているが、大野部という部族の活動は史書等では確認できない。
結論から言うと出自不詳としか言えん。まあ、隴西李氏出身の可能性は限りな
く低いと思うが。
陳寅恪の趙郡李氏説って、なにげにスルーされてるけど、なんで?
723 :
世界@名無史さん:2008/09/16(火) 23:00:50 0
安史の乱以降が結構長いんですけど
なんかこう、必修のようなイベントはないんですかね?
>>719 漢民族に実体がないのは確かだけどね。日本は一応、数百年かけて単一民族らしい
体裁を作り上げていった。奈良時代以降、日本民族は歴として存在し続けたでしょう。それ以前は知らんが。
あっちは秦やら楚やらの蛮族時代から始まって(漢も秦と楚の混合)、南北朝時代は漢民族激減、
北方遊牧民大量進入だし、
唐は鮮卑、宋は沙陀族、そして金・元、最後は清と、いつ漢民族だったの?ってくらい。
たがいに言語も通じなければ、やれ客家だの何のと、現状でもとても同一民族とは言えない状況。
それが悪いとは言わないけど、中国中国言う前にそのような現実があることを知っといた方が良い。
そうすりゃ、先のオリンピックのように、なんでああいう国威発揚イベントを繰り返さざるを得ない
のか、理解してあげることもできる。中国は良くも悪くもアメリカに似ている。
明治政府がいかに「日本民族」を作るのに苦心したか、
も同様に知っておいたほうがいいよね。
>>725 他国に比べりゃさほど苦労と言うほどのものはしていない
727 :
世界@名無史さん:2008/09/18(木) 15:49:23 0
唐太祖って玄宗?
唐太祖はふつう李虎だろ。
後唐太祖の李克用を指してることもあるけど。
729 :
世界@名無史さん:2008/09/19(金) 08:41:58 0
>>728 李克用さんは、武皇のほうがかっこいい気がする。
730 :
世界@名無史さん:2008/09/19(金) 18:57:47 0
>>728 ありがとう。
ところで↓の書き込みがあったけど、唐太祖ってそんなに偉大なの?
3 :世界@名無史さん:2008/04/14(月) 20:02:14 0
カエサル=アレキサンダー≧ヒトラー=ナポレオン≧唐太祖>チムール=チンギスハン≧
シャルルマーニュというイメージ
731 :
世界@名無史さん:2008/09/19(金) 19:21:41 0
そりゃ唐太宗の間違いだろ
732 :
世界@名無史さん:2008/09/20(土) 14:23:07 0
その不等号で、唐太祖より左がほとんど一代だけの一発屋というのは偶然か?
カエサルにはアウグストゥスという遺言で指定した後継者がいただろ。
確かに血は途絶えたかも知れないが、一代とは言えないような。
>>732 カエサルは一発屋じゃないだろ。
それよりもひとらとなぽが上過ぎじゃね?
アレクサンドロスも後継者を自認する政権が長く続いたし。
ヒトラーとナポレオンは生きてるうちに否定されてさらに死後に
否定する体制が何十年も続いたし。
唐はしぶとい。
736 :
世界@名無史さん:2008/09/20(土) 22:52:35 0
ナポレオンは英雄だけど、ヒトラーは極悪人だよね。
>>736 そりゃフランスはアメリカ様やソ連様の支配下に置かれてなかったからね
738 :
世界@名無史さん:2008/09/21(日) 19:22:56 0
>>736 はぁ?ならスターリンはどうなるんだよw
739 :
世界@名無史さん:2008/09/21(日) 23:57:10 0
スターリンはどうなの?
スターリン及び後継の政権は結構しぶとかったな。
数十年で崩壊したけど。
741 :
世界@名無史さん:2008/09/24(水) 15:14:51 0
ヒトラーはユダヤ人のホロコーストをやってなかったら、
今頃はナポレオンの様な英雄になっていたのだろうか?
>>741 ヒトラーの出世と、反ユダヤ主義はセットだからなあ。
743 :
世界@名無史さん:2008/09/24(水) 19:56:06 0
さて、そろそろ唐の話でもしようかな
744 :
世界@名無史さん:2008/09/27(土) 01:07:15 0
>>744 漢が成立してない時代に漢族がいるとでも
746 :
世界@名無史さん:2008/10/07(火) 19:21:07 0
>>727 玄宗は太祖よりも世祖の方が会ってる。
太祖にふさわしいのは李世民だろう。
唐の世祖の廟号は李モが取ってしまってるからねえ…。
748 :
世界@名無史さん:2008/10/10(金) 15:24:50 0
>>744>>745 61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/25(木) 09:50:50 ID:DewUgWcDO
当時の中原の連中から見れば、秦も楚も夷狄蛮族の類い
だけど、現代の漢族の先祖の一部ではある
ただ、「漢族」という言葉の元となった漢王朝は、秦の後だから、「秦は漢族か」って問いは時系列的に変な質問になるね
一応、史記の系図を見ると、秦の王統は殷末に趙氏と別れ、さらに遡ると最後は黄帝にまで行き着くから「漢族=黄帝の子孫」ってことなら、漢族(の先祖)ってことになるね
まぁ、王室と支配民が同じ種族とは限らないし、系図も古い時代はあんまりあてにならんだろうけど
ぶっちゃけ、素姓の怪しい諸侯まで黄帝に連なる系図を偽装した結果として「漢族=黄帝の子孫」ってのが定着したとも考えられるし
漢籍のルーツな世界では、
漢族以外の民族も「黄帝の子孫」ってことになってるんだが…。
日本人だって呉太伯の子孫とされてて、つまりは「黄帝の子孫」だろ(笑)。
アダムの子孫、みたいなものか。
751 :
世界@名無史さん:2008/10/11(土) 21:34:53 0
>>747 李モ(李淵の父)って北周時代に死んでるんだよな。
北周時代から唐公だった李淵は過小評価されてるかも。
752 :
世界@名無史さん:2008/10/15(水) 14:39:33 0
>>744>>745>>749 58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/22(月) 22:45:11 ID:Kwu8Mo6j0
秦があった頃に漢民族とか中国人とか言う概念はないと思う。
だけど秦には李斯、白起、范雎、張儀、趙高といった、
現在の中国人に近い姓を持つ人がいるのは確かだ。
彼らは多分、現在の中国人の先祖だと思うけど、
民族的には漢民族(の先祖)に近いんじゃないの?
59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/22(月) 22:56:18 ID:Kwu8Mo6j0
他にも呂不韋、王翦、章邯とか居るからね。
現在の章姓の人物といえば中国で女優している人でいたと思うが(名前忘れた)、
民族的には漢民族なのは確か。
もっとも秦があった頃に民族的概念や国籍的概念があったとは思えない。
753 :
世界@名無史さん:2008/10/17(金) 06:45:33 0
>>700 このような中国史におけるの民族の事が分かりやすく書かれてる本とかありますか?
754 :
世界@名無史さん:2008/10/22(水) 22:40:31 0
数年前に岡田英弘氏が「sapio」に中国史に関する論文を寄稿してたけど、
その論文中で「後漢が滅亡した2世紀以降、中華民国が出来る以前には漢族の王朝は明の300年足らずしかなかった云々」って書いてた。
隋は遊牧民系、遼は北アジア系とか詳しく書いてた。
>>754 我々は先祖代々漢人也などとぬかす輩を遊牧民の仲間に入れていいのか?
>>755 唐の事なら、漢人向けの顔と、その他の民族に向けた顔は全然別でしょ。
自分達をタウガチュと呼ばせ続けてたんだから。
宋もタウガチュと呼ばれてましたな。呼ばせてたというより
単に外国でそう呼ばれてただけでは。
チャイナ、シナと呼ばれたときに秦は無く、カタイ、キャセイと
呼ばれたときに契丹は無く、タウガチュと呼ばれたときに
拓跋の北魏は無く、漢と呼ばれても漢王朝は既に無い。
特定の王朝、集団から来た名前はその特定王朝・集団が滅ぶ
ことによってそれに縛られない中国一般を表す名前になるのかも。
>>754だが宋がはいってないのは遼や金の属領とでも解しているからか?
魏晋南北朝は分裂してるから無し?どうもよくわからん。
>>757 漢は自分の事「秦」とも呼んでたはずだよたしか。
759 :
世界@名無史さん:2008/10/25(土) 19:19:36 0
>>757 五代十国時代に突厥系統の沙陀族が大活躍しておりました。
五代のうち実に三代まで沙陀系王朝なんですよ。
後唐、後晋、後漢はみな支配階層は沙陀族。宋も沙陀系王朝の築き上げた
軍閥体制を基礎に建国されています。
極論ですが、ウィキではこんな意見もあるようで
>華北の「五代」の抗争は、実際には沙陀系王朝とキタイ族の遼との間の連携・離反の繰り返しであったともいえる
実は、見方によっては、中国史において漢民族王朝というのは存在したことがないんです(統一王朝としては)。
いや、妙な話ですが
ちょびっとでも非漢要素が入ってれば漢では無い、ということにすれば
そりゃ漢が存在した事は無いでしょうな。
一滴でも黒人の血が入ったら黒人とか主張したら白人が
いなくなってしまったとかそんな話を連想するけど。
761 :
世界@名無史さん:2008/10/25(土) 23:00:19 0
>>759 でも、沙陀集団って周末宋初でもそんなに強力な軍閥たりえたんですか?
被支配層の漢人に比べると圧倒的に少数だし、人員の再生産とか補充とか、
仮子をとったりするだけでは難しかったと思うんですが。
762 :
世界@名無史さん:2008/10/26(日) 16:19:09 0
>>757 岡田英弘氏は著書「皇帝たちの中国」で、
「北宋と南宋の趙氏については漢人かどうか議論がある」みたいな事書いてる。
763 :
世界@名無史さん:2008/10/26(日) 23:14:55 0
>>761 それを言うなら武川鎮軍閥も、モンゴルや清だって漢人に比べたら圧倒的少数では
ないですか?後漢の後を継いだ後周の支配期間は僅か10年たらずですよ。ちなみに
五代十国のうちで最後まで残った北漢も沙陀系です。
>>762 趙氏の出自は代々唐の宦官との話ですが(現北京近郊出自の氏族とか)。
ま、隋唐みたいに研究が進んでひっくり返る可能性もありますけどね。
祖父あたりから沙陀系軍閥の中枢で活動していたのだから、血縁は
なくとも文化的には結構影響を受けているだろうと個人的には思っています。
配下の軍閥自体はほとんど沙陀族そのものでしょう
764 :
世界@名無史さん:2008/11/13(木) 02:44:20 0
質問ですが、
ウィキの漢民族の項目に「日本の学界では唐王朝の皇帝の一族もまた鮮卑系の北方民族に近いものであると考えられている」や、
唐の項目に「唐李氏は鮮卑系であるとの見解が戦時中に日本の宮崎市定によって出され、以後日本学界ではこの考え方がほぼ定説となっている。
なお、近年の中国では、宮崎説を「日本軍の中国支配のために持ち出された論説である」と批判する見方もなされている。劉及辰『京都学派哲学』(光明日報出版社 1993年)または『日本対中国的文化侵略』叢書 (昆侖出版社) 」
といった記述があるのですが、これはつまり中国の学界では唐李氏は鮮卑人ではない。あるいは鮮卑人とは認めていないという事でしょうか?
台湾の学界や韓国の学会やアメリカの学界等の日本以外の学界では唐李氏=鮮卑人は定説とはなっていないのでしょうか?
765 :
世界@名無史さん:2008/11/14(金) 23:40:44 0
元々唐の李氏が鮮卑系だと言い出したのはあちらさんの歴史学の権威の
陳寅恪だし。このスレで出てくる単語、関隴集団だの拓跋国家だのも
陳寅恪の造語だし。
唐が実は鮮卑だというのはすでに世界中での共通認識だろう。
>>759 司馬遼太郎の言う、夷狄同士を坩堝に入れて溶かしたら中国になる、というのが一番
実情に近いのかな。
全中国国民は中華民族(中国共産党の言い分)
日本で隋唐が三国志並の人気を得るにはどうしたらいいんだろう
というのを考えた時に、勘違いしまくりでも見識が狭くてもいいからとにかく物語として面白い歴史小説を
田中芳樹みたいな有名どころが死ぬ気で書けばいいと思った
koeiにシミュレーションと無双を出してもらうのが一番手っ取り早い気がする
だなあ
信長の野望とか三國志みたいな感じで隋唐ゲーム出てくれたらなあ…壊滅的に売れないだろうなあ…
小説ならまだ望みがあるかもしれないから小説→ゲーム→映画化とステップアップして欲しい
登場人物は質・量ともに問題ないから、SLGとしては作りやすいかもね。
やはり一般人に知名度がないのが致命的か。
771 :
世界@名無史さん:2008/11/19(水) 03:48:35 0
>>765 「週刊東洋経済」5月3日・10日合併号の総力特集「中国と世界経済」に、
「韓国ジャーナリズムの大御所」って肩書きで趙甲済っていう韓国のジャーナリストが論文寄稿してるけど、
その論文中に、「新羅は唐と手を組み、百済、高句麗を滅亡させた後、今度は唐が新羅と戦った。これを新羅ははねのけ、
統一を果たした歴史がある。その後、文化的友好の時代が大陸とは続いた。特に唐、宋、明といった“漢族政権”との友好時代だ。」
って書いてあるけど、唐が漢族ってこのジャーナリストの勘違いなんでしょうか?それとも韓国では唐=漢族なのでしょうか?
772 :
世界@名無史さん:2008/11/19(水) 10:11:31 0
そこも間違ってるけど、それよりも
「その後、文化的友好の時代が大陸とは続いた。」
に突っ込むべきでは?
>>767 花木蘭のやつと隋唐演義の翻訳やってるけどな>ガイエ
花木蘭のやつは面白かったけど、隋唐の知名度を上げるにはボリューム不足だな
演義は訳だしなあ。何よりあんまり面白くない
もっとこうスペクタクルハードボイルドワールドワイドな大河小説的な何かを求めてるわけよ
…って言うのは簡単だよなw書けりゃ書いてるよな
775 :
世界@名無史さん:2008/12/14(日) 16:15:44 0
>>763 43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/07(土) 08:46:35 ID:qG3QZTYf0
涿州趙氏は突厥の血も混じってる、となんかで読んだ気がするが、なんだったか思い出せない。
中国史なんか民族の混合で成り立っているようなもんだから。
北魏の皇室は鮮卑の出身だけど、漢族名門の娘ばかり嫁にしたんで、文化はお
ろか生物学的にもすっかり漢人になっちまった。
逆に、唐の皇室なんかは、仮に漢族出自だったとしても、鮮卑系の嫁ばかりも
らっていたから、生物学的には鮮卑と変わらん。
777 :
世界@名無史さん:2009/01/14(水) 08:08:41 0
あげ
123 :世界@名無史さん:2008/11/15(土) 11:41:55 0
日本人は外国の王朝の"帰属の基準"を
血統に偏らせ過ぎてるといわれた
たとえば中国の学界は、隋や唐を当然ながら純然たる中華王朝、
すなわち、漢民族の王朝とみたがる(というか断定してる)
ところが日本の学界は、隋や唐の初期の皇帝が草原の出身
すなわち万里の長城の外、遊牧民の血統者であることに粘着し
隋や唐を半征服王朝といった位置づけで捉えている
つまり近代国家成立以前、国境などあってなかったような大陸では
隣の民族と血統を峻別することなど不可能、という諦念があって
その王朝の帰属条件を文化に求める傾向がある
つまり祖先が遊牧民であっても、漢民族の言葉をしゃべり、
漢民族の服装、文化、つまり風俗を受け入れた者は
漢民族に認定する、という感覚をもっている
一方、古代から海で国境を隔てられてきた日本人は
自他の民族の血統を峻別しようとする傾向がすさまじい
とっくに混血してトルコ化しているティムールの一族を
祖先がモンゴルから来たからモンゴル人だ、などというのは
日本人の血統信仰の証左に過ぎまい
開祖のティムールが明朝の征服を目指したという事実があるからじゃね?
780 :
世界@名無史さん:2009/02/15(日) 22:03:01 0
今まで西洋かぶれしててアジアの歴史とか興味なかったんだが、最近ドラマ見て興味を持ち始めた
んで、唐はなぜ何度も高句麗に負け続けたんだ?
資源・人員ともに日本とアメリカくらい差があったんしょ?
西方で突厥という強大な遊牧勢力の存在があって
東方に大きな戦力を割けなかったとか。
>>775 それはたしか、地域的にその可能性が濃厚というだけで
なにかそれらしい血脈があるわけではないみたいよ。
783 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 10:19:50 0
>>780 遼河下流の無人の荒涼とした湿地帯を通過中に兵隊がくたびれ果ててしまうから。
その同じところが兵站ルートでもあるわけで。
そんなところ、入植もできないしね。そもそも誰も住みたがらないだろうし。
軍隊が人の足が主である以上、その距離や地形の壁は、想像より大きい。
チョリンてイヘゴの子を産んで婚姻したのか・・・
兄妹なのに、さすが漢民族は蛮族だなあ
>>784 でもそれなら何で何度も何度も攻めたのかという理由が分からんね
>>786 李世民が「おれならやれる」と思ったとか?
とにかく、中世のころの軍隊にはハードルが高いのは間違いない。
可能にするのは、国力のバックボーンと運営力と、相手に隙があるかどうか
かな。
李世民は無理だったけど、唐だけでいえば、後には勝利しているわけだから…
戦車機動隊があってもソ連侵攻失敗したしねドイツ
丁度、武后時代あたりなんだよな>高句麗滅亡
790 :
世界@名無史さん:2009/02/22(日) 11:00:49 0
>>786 前王朝の煬帝が失敗した事業を自分が成功させて
名声に箔をつけようと思ったんだろう。
791 :
世界@名無史さん:2009/02/22(日) 11:07:19 0
高句麗遠征では遼東半島を接収してるし一応成功とも言えるか?
内乱もないのにいきなり滅亡させるのは流石に無理だわ
>>789 日本も交えているから、そのときの朝鮮史はなんかすごいよな。
高句麗って朝鮮なのか?
百済や新羅の戦いで、唐、日本が交戦した白村江を言っているのだと。
百済や新羅は朝鮮なんだろうが、高句麗はどっちかというと今で言うなら中国史になるな
場所的にも民族的にも
高句麗は北東アジア史の範疇かなぁ、と思っている
「朝鮮」の誕生だってよくて統一新羅以降だし、そこらへん人それぞれかも
797 :
世界@名無史さん:2009/02/27(金) 04:07:10 0
2chの過去スレをあさってたところ、
唐の帝室の出自が鮮卑だという説の場合、
もともとの姓が李氏じゃなくて
1)大野氏だという説
2)拓拔氏だという説
の2種類の系統のコピペがあるんですが
それぞれの根拠ってわかりますか?
また両者は矛盾するものでしょうか?
799 :
世界@名無史さん:2009/03/05(木) 17:00:58 O
流れぶったぎってすいません。
質問したいのですが、
玄宗皇帝の治世に、呂向なる人物が美人賦を奉っていさめたという典拠について、詳しく知ってる方いませんか?
美人賦がなんだかもわからないし、どうやったらいさめることになるのか、と…
800 :
世界@名無史さん:2009/03/05(木) 20:23:07 0
800
801 :
世界@名無史さん:2009/03/05(木) 20:23:39 0
801
803 :
世界@名無史さん:2009/03/17(火) 01:35:06 0
書店で「歴史群像シリーズ 大唐帝国」って本が置いてあったので読んでたら、
その本に色んな大学教授が論文寄せてたけど、皆「唐は鮮卑」とか、「漢族ではない」とか書いてた。
アカデミズムでは唐=異民族王朝ってのは定説みたい。
804 :
世界@名無史さん:2009/03/17(火) 19:40:35 0
隋も鮮卑。そもそも五胡十六国時代に一般民衆レベルでかなり遊牧民族と
混血したと思われる。支配階層がたまたま異民族だったというレベルでない。
ほとんど民族が入れ替わったと言っても良いのでは?
文化もだいぶ変わったし。
今の漢族が鮮卑と漢人の混血であるならば唐が漢族でないとは
さて如何なる意味になるのやら。
806 :
世界@名無史さん:2009/03/28(土) 00:21:15 0
黄巣は科挙試験に落ちまくったせいで性格がぶっこわれたんだろ?
それで乱を起こし、長安を陥落させたのちはエリート官吏を大虐殺した。
今だったら、秋葉原の加藤みたいなものか。
807 :
世界@名無史さん:2009/03/28(土) 01:04:56 0
唐の時代の文化・経済を中心地は江南だったの?
808 :
世界@名無史さん:2009/03/29(日) 23:39:36 0
この時代のヨーロッパはどんな情勢だったの?
>>803 その本には岡田英弘やら宮脇淳子が書いてるようだけど他は
誰が書いてるんかねー。普通一冊の史書にバラバラの意見の人が
バランス良く記述したりはしないと思うけど。
>>808 東ローマ帝国はヘラクレイオス帝がなんとか建て直そうとしてたが
イスラムに押しまくられアフリカ、シリアを失う。また、それ以降、
イスラムに攻められ、バルカンからはスラヴに押しまくられ大変な
危機にあった。
だが、唐が西方を失った頃から宋の時代にかけて再び小アジアと
バルカンを支配する強国に復活した。
メロヴィング朝フランク王国においては宰相家が力を持ち始め、
イスラムを退けた後、カロリング朝フランク王国を建てる。唐が西方を
失った頃、カール大帝により全盛を迎え、アヴァール王国とか
ランゴバルド王国を倒した。アヴァールの故地はフランクと
ブルガリアに分割された。
その後、フランク王国は分裂する。フランス、ドイツ、イタリア、
ベネルクスが成立する下地となったと思われる。
811 :
世界@名無史さん:2009/03/30(月) 00:24:43 0
>>808 イベリア半島では西ゴート王国がイスラムに倒されウマイヤ朝領に。
ウマイヤ朝がアッバース朝に倒されると独立して後ウマイヤ朝どなる。
グレートブリテン島ではアングロサクソン諸国がイングランド王国へ
統一される。
唐末期頃のヨーロッパではバイキングが大暴れするようになった。
812 :
世界@名無史さん:2009/03/31(火) 13:38:46 0
たまに隋唐や五胡が異民族かどうか、が話題になるけど。
五胡が漢化して・・・とかいうじゃん?
俺はこの「漢化」という言葉を使うから話しがややこしくなると思うんだよ。
普通に文明化といえばいいんだよ。
だいたい、遊牧民なんてのは未開人なんだよ。
その未開人が先進文明に触れて文明化し、発展していく過程が南北朝時代。
で隋唐に入ったら、もう完全に文明化したから鮮卑(未開人)も漢人(文明人)も
関係なくなったというわけだ。
814 :
世界@名無史さん:2009/04/04(土) 18:02:54 0
黄巣軍は末期には民衆を虐殺して人肉を食って生き延びていたそうな。
革命の大義などどっかへ飛んでいったのだろう。
ところで集英社コバルト文庫で珍しくも穆宗皇帝が登場する少女小説があった。
『月色光珠』というシリーズ。
なんともマイナーな時代を取り上げるもんだと思った。
815 :
世界@名無史さん:2009/04/04(土) 19:36:20 0
支那圏に限ってみれば、遊牧民の方が開明的なような……
遊牧民族政権の時代に発展し、支配層が漢化したら衰退、漢人の政権に乗っ取られると
元の木阿弥というのの繰り返しじゃん。
例えば?
そもそも漢人の政権に乗っ取られたことなんてないし。。
現在みたいな「漢人」は唐以前には無いんじゃまいか?
魏晋南北朝からの胡漢融合の果てに、唐代に新しい「漢人」が誕生した。
「漢」って使っているからややこしいのであって、「唐」人とでも使用すべきなのかもな
今の漢人って、何のことを言ってるのかよく分からないな。
今と昔で文化が違うというのは、よく有ることだけどね。
唐代以前以後に見られる風俗で、漢人の自己規定に大きな
影響をおよぼしたものについて、何か参考文献がある?
すみません、唐の食文化とか、庶民の生活を調べるのに
最適な本をご存じの方いませんでしょうか。
とりあえず「和菓子風土記」という唐のお菓子文化について
書かれた本は見つけたのですが、それ以外がなかなか
検索でひっかかりません。
さて唐拓跋説の論拠かと思しき、法琳が李氏の先祖は拓跋達闍
(今ひとつ何者かわかんねー)じゃーと主張し、李世民が俺の先祖は
老子に繋がる隴西の李氏じゃーと主張して大喧嘩になった事件
ですが、なんでそんなことになったのかと言うと。
当時、廃仏を叫ぶ道教陣営と仏教陣営が大喧嘩を繰り返してたのですが、
道士の秦世英が「弁正論」(僧の法琳が道教との論争の際に出した論文)
は帝室を誹謗していると申し立て、んで尋問答弁。
李世民が家は老子の家系なのに何故老子の道教を批判したかと
詰問すると法琳は陛下の先祖は拓跋達闍で老子は関係無いと
返して大バトルという…
揉め事の主体は宗教だったわけですが、帰属民族論争≒政治的争い
になってるのは現代でもありがちなような。混血とかしとる場合は
帰属民族主張そのものが甚だ政治的ということかも。
822 :
世界@名無史さん:2009/05/02(土) 17:46:02 0
たとえ先祖が拓跋氏であっても、李世民が純粋な漢人であることに
変わりは無いけどね。
823 :
世界@名無史さん:2009/05/02(土) 22:30:39 0
中英板で知ったけど
太宗て宇文泰の血も引いてるんだね。
「純粋な漢人」ってなんだべさ?
「純粋なアーリア人」と同じくらい胡散臭い言葉だな。
>>824 そういうこというなら、じゃああんた達の漢人の定義は?ってことになる。
>>823 うん。立派な漢人である宇文泰のね。
気持ちの悪い漢民族至上主義者がいるな
827 :
825:2009/05/03(日) 11:17:36 0
>>826 俺が言ってるのは「漢人」だ。「漢民族」なんてものは前近代には存在しない。
そして俺の言う「漢人」というのは中華世界における文明人のことだ。
李世民も宇文泰も文明人だ。だから漢人だと言っている。
おかしな俺様定義を出してきたな
829 :
世界@名無史さん:2009/05/03(日) 13:56:18 0
おかしな俺様定義というか
>>827は常識レベルだろ
漢人か蛮族かは儒教的教養で決まる
それとは別に伝統的な門閥が存在する。それだけ
阿倍仲麻呂でもエラい人になれる国
多分、微妙に話がずれているぞ双方
831 :
世界@名無史さん:2009/05/03(日) 14:14:35 0
漢化して久しい家系の漢人はいても
純粋な漢人なんていつの時代にもいないだろ
そこだけは
>>824に同意だなあ
まあ表現のミスだろうが
832 :
世界@名無史さん:2009/05/03(日) 14:48:14 0
頼山陽も漢人。
>>829 古代ローマ後期〜中世ビザンツの「ローマ人」みたいなもんか。
834 :
世界@名無史さん:2009/05/03(日) 14:57:25 0
門生故吏とかパトロン&クリエンテスに類似性ってある?
魏の曹操がけっこう匈奴をボコってて驚いた。
匈奴が南北に分割した直後とはいえ、
中国史でここまで馬賊を使役した漢人はいないんじゃないか?
曹操はもっともっと評価されていい
その時期は一番遊牧民が弱かった時代だからな。
鐙も無かったし。
匈奴が弱いとかもうね
1行ごとに間違いがあるというとんでもない釣り針
840 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 13:54:53 0
遊牧民うんぬんは学会でも曖昧だからね。
学会でも曖昧なことを、ここで揉めたところで何も変わらないだろう。
ま、スルー対象の話題にしといた方がいいでしょう。これこそ。
841 :
世界@名無史さん:2009/05/15(金) 00:25:12 0
844 :
世界@名無史さん:2009/05/15(金) 08:25:11 0
自治厨は本当に鬱陶しい
>>843=
>>844 と、このような人間を『身勝手厨』といい、2ちゃんの中では何事も自分の思うようにならないと我慢できない、
ある種の精神疾患を抱えた方なのであります。
846 :
世界@名無史さん:2009/05/15(金) 11:07:04 0
>>835=
>>842=
>>845 と、このような人間を『身勝手自治厨』といい、2ちゃんの中では何事も自分の思うようにならないと我慢できない、
ある種の精神疾患を抱えた方なのであります。
848 :
世界@名無史さん:2009/05/15(金) 12:13:46 0
>>847 分かってるじゃないか
おまえのような虫けらを踏みにじると足の裏が汚れてしまう
はやく死ね
荒れてるところ失礼。
タガヴチ≒フランク
世界史的には北魏〜唐まで全部一つとして
見るべきではないだろうか?
と杉様の著作を読んで思った。
そう思う。基本同じ権力集団の中の政権たらいまわしだしな。
杉山なんか読んだらアホになる
拓跋国家論かー。関隴集団説よりさらに粗雑で大づかみな話だからなー。
代
北魏
東魏、西魏
北斉、北周
隋
唐
854 :
世界@名無史さん:2009/06/12(金) 23:35:38 0
age
>>849 だからさ、なんで似たような話を蒸し返すの?
こっちはそんなこと百も承知なんだよ。
でもここでは、それに納得いかないから議論されてるわけで。
ま、大体、人種だの民族だのについては、日本で決められることじゃない。
本土の中国でやるべきことだ。
だから中国の見解が正式見解でいいのだ。
貴方がネタフリすればよくね。
一ヶ月も前の話に喧嘩を売るのはアホとしか言い様がない
858 :
世界@名無史さん:2009/06/29(月) 20:21:09 0
>>857 >一ヶ月も前の話に喧嘩を売るのはアホとしか言い様がない
そんなの世界史板じゃザラだ。
>貴方がネタフリすればよくね。
だから唐の民族関係については、ここで議論しても無駄だと書いた。
どうせ嫌中厨の妄想で終わるし。今までそうだったし。
859 :
世界@名無史さん:2009/06/29(月) 20:47:34 0
今の中国が本気でアメリカに並ぶ大国になろうとしたら
唐をモデルにするべきだな
政府のポストを外国人に解放するくらいの度量を見せれば
文句なしに世界一の国家になる
860 :
世界@名無史さん:2009/07/04(土) 06:27:46 0
そんなことしたら求心力を維持出来ないな
861 :
世界@名無史さん:2009/08/09(日) 21:59:42 0
ただでさえ少数民族優遇策で漢族は不満たらたらです
ウランフとかいう人がモンゴル出身なのに人民解放軍だかのトップになってたな
863 :
世界@名無史さん:2009/08/09(日) 22:50:10 0
>>862 解放軍じゃないよ
内蒙古自治区主席から国家副主席、ただし傀儡
チベット自治区主席のアペイ・アワンジンメイも傀儡
中共の異民族支配は日本の満州国と一緒で、名目上のトップには現地人、実際の権力を持つのは
本国から派遣された役人、と言う風になっている。
東の上座が新羅
西の上座がチベット、次に日本だった時
新羅は日本に朝貢してる格下国だから席次に( ゚Д゚)_σ異議あり!!つって
二国の席を取り返させたことがある
と
>>334 とどうつなげて考えればいいんですかね?
867 :
世界@名無史さん:2009/09/05(土) 21:40:27 0
>>失敗した使者が
わかりっこないからって適当なこと言っただけだろ
だいたいなんで日本が西の国になるんだか
>>859 唐は実際には漢人の王朝ではなくて、清の初期、モンゴル帝国、遼と同じような
二重支配体制だったようだな。
イスラム帝国の資料では、皇帝ではなく、拓跋のカガンという表現で出てくる。
河西回廊からパミールまで支配域に置いたのは、華夷秩序ではなく、遊牧王朝の
連合政権での盟主としてで、その盟主が中原の農耕圏を支配したということだろう。
同じ拓跋を始祖とするチベットの王室はかなり高いランキングになっているのもその
為であろうし、反乱が起こるのも鎮圧するのも遊牧文化圏の兵力を用いているのは
広大な地域に散らばるいくつものの遊牧政権の一つに過ぎず、精々、唐の王室が
盟主格くらいだからだ。
吐蕃は長安を占領したことすらある強大国だし、新羅は朝鮮半島から唐軍を追い払った国
しかるに日本は白村江の戦いの敗戦国だから、格下に扱われるのもしょうがない。
ま、日本が強くなるのは、武士の台頭以後だからな。
>>869 唐の力を借りてようやっとこさ国家統一を成しえた。
百済は攻め落とした唐もさすがに日本にまで攻めてくる余力はなかった。
>>871 その当時の日本ごときを獲ってなにが得られるんだよ。
余力はたしかにないけど、さすがに旨みがないだろ。
ちなみに宋代では日本と仲良くなって、通商していたから
わざわざ争う必要はなくて、次第に日本が強くなった
明代では、攻める意思表示すら空振りに終わった。
東海の小国のくせに強い日本の幕開けは、早くてもその頃だ。
一方中国は、宋の滅亡をもってピークが過ぎている
(何百年かあとには再び浮上するかもしらんが)
古代帝国ってものは取れる領土は取れるだけ取る、が基本だべ。
日本を獲って何が得られるっちゃあ、んなもの、版図にきまってるべ。
獲った後どうこうしよう、獲った方が得かどうかむ考えよう、獲ったものでも
取り立てて妙味が無ければ手放そう、なんてものは近代の考え方。
宋や明は別に日本と仲良くなんかなっていない。単に北方対策や沿岸海賊対策で
手が回らなかっただけ。
それが証拠に、宋は唐書の編纂まで「倭」と「日本」とが同じか違うか知らない
万系一世で宋は宋でもその600年前の南北朝の時代の倭の五王から皇室が続いてると
も知らなかった。本当に続いてるものかと仁宗皇帝が欧陽脩に問いまくったそうでは
ないか。仲がいいのに相手の素性も100年近く知らないようなことがありえるのか?
相手の国情を知らないのは明も同じで、足利義満に「日本国王」の冊封なんかしている。
海禁策時代の江戸時代ですら、ヨーロッパの果て暮れにまで、京のエンペラーと江戸の
ダイクンとの二重支配体制だと知れていたのにだぜ。
地続の国との間のもめごとで、宋も明も汲々としていたのは、もはや自明。
皇帝が北方民族に拐われてしまうような失態までしでかしている。
日本と手を組んだのは宋は宋でも、南宋だろ。
仁宗のころではない。
杭州や閩江の港開発も、南宋で成熟されたし
そこを通じての通商は、日本といっても平家との。
>>海禁策時代の江戸時代ですら
仁宗の頃から何百年のひらきがあるんだよw
ヨーロッパへの喧伝効果の先触れは江戸ではなしに、安土の頃だろうし
別に江戸も完全にひきこもっていたわけじゃない。
>>宋も明も汲々としていたのは
漢も唐もだけどな。それこそが中国の歴史だろ?
海洋社会になって日本も、結構な諸外国から接近され
先の大戦にいたっては、首都に爆撃くらってますよ。
何百年か後には、「失態」とかってフレーズがつけられるだろうね。
875 :
世界@名無史さん:2009/09/11(金) 22:51:44 0
太宗の字って何なん?
もしかして世民が字?
>>870 武士の登場した後の時代とそれより前の時代、それぞれが長過ぎて
同一に扱うのには無理がありますし、何をもって平均的に強いとし
たのかも謎です。
>>876 武士厨いわく
白村江で負けたから
鎌倉以後は、負けてないどころか圧倒してた
VS中国など あたりが根拠かと。
878 :
世界@名無史さん:2009/09/13(日) 23:51:26 0
>>873 >古代帝国ってものは取れる領土は取れるだけ取る、が基本だべ
実際に世界の歴史を見ると全然違うんだな、これが。国益になることはする、
国益にならないことはしない、というのは昔も今も変わらない。人間の脳みそ自体
あまり変わってないんで、昔も今も人間のやることに大差はないよ。
漢時代、北方民族が内部分裂して弱体化した時だけど、長城外まで領土にできる機会が
あったんだけど、漢帝国はそうしなかった。台湾だって鄭成功が大陸から追い出されるまで
ずーっと放置プレーだし。勝手に入植した漢人移民はいたけど。
イベリア半島にまで版図を拡大した中世イスラム帝国もサハラ砂漠を越えて南進しようとは
一切しなかった。基本、利益にならんことはしないのよ。
古代帝国の国益=版図の大きさだからね。
ただ広けりゃいいってもんでもなく、点と点の連結とか
そういったものが必要なんじゃないの?
漠北みたいに不毛な大地を恒久領土とはしないでしょ。
時の権力者の意向も大きいからね
漢の武帝や、隋の煬帝、唐の太宗、明の永楽帝みたいな領土拡張に
積極的な皇帝が度々出てくるけど、結局その代限りで終わってしまうことが多いような
前から聞こうと思ってたんだけど、唐になってから皇帝の諡号がやたらと長ったらしくなったのってなぜ?
これについて解説してるサイトとか本を見たことがないんだよなぁ
>>879 ユスティニアヌス時代のビザンツ帝国みたいに、無理して広げて却って国力が弱体化するパターンもある
883 :
世界@名無史さん:2009/09/18(金) 00:10:27 0
大航海時代のスペインやポルトガルもそのパターンだな。
基本的に植民地(および新たに広げた版図)の経営は赤字になることがほとんど。
>>882 そういえば唐からだよな、長い諡号になるの。なんでだろ
だから廟号で呼ぶようになってる。
>>884 既に謚号を贈られている皇帝に対して、更に尊号を追加できる『上尊号』とか言うアホな制度のせいらしい
ちなみにこれを定めたのは武則天
さらに言えば、時代が下がるにつれ、文字数というか過剰な装飾は
調子に乗ってどんどん増えていったようだね。
則天武后時代では、すでに決められていた諡号を改めるだけだったのが
玄宗時代では追加されていくという……
>>885 ありがとう
しかし、何のためにそんな制度始めたんだ?
>>886 もう宋の時代とかまでいくと長ったらしくてどうしようもないよな
韓国人=朝鮮人の先祖は、古代半島の東北部、 いわゆる中国領・楽浪郡の東部地方(日本海沿岸地方)に 住んでいたワイ族。
百済人、高句麗人は古代の満州地方に住んでいた遊牧民族=フヨ族。
ウィキペディア-朝鮮民族
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E6%97%8F 歴史
朝鮮半島では4世紀頃までに高句麗、新羅、百済の三国が興り三国時代と呼ばれるが、7世紀に中国の唐が新羅と結んで高句麗、百済を相次いで滅ぼし、さらに新羅が唐の勢力を追放して朝鮮半島を統一した。
高句麗や百済の支配層は扶余系とみられ、韓系である新羅人とは別系統の言語を話した。
一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語とされている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられる。
ウィキペディア-新羅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85 脚註
^ なお韓国では、高句麗の滅亡後にその遺民が靺鞨族と共同して満州に建国した渤海を高句麗の後継国家と見なし、新羅・渤海をあわせて南北国時代と呼び、朝鮮民族史の及ぶ地理的範囲を朝鮮半島から満洲・沿海州を含めた領域としている。
しかしながら、言語的観点から現代の韓国・北朝鮮の祖とされる新羅と、高句麗・渤海とでは、民族的・言語的に隔たりがあり(金芳漢著・大林直樹訳『韓国語の系統』)、
高句麗・渤海を現在の韓国・北朝鮮へ連続する国家と見なす十全な根拠がないため、高句麗・渤海の故地を領土に含み、また高句麗・渤海と民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国との間に軋轢が生じている(→東北工程)。
朝鮮人(高麗族、コリョ族)は中国東北部起源の北の蛮族
「楽浪半島、もしくは東シナ半島」の歴史(中国と日本の歴史)
前1000年頃 殷の廷臣、箕氏(中国人)が周の武王から楽浪(半島北部)に封じられる?(周の属国)その後、周の凋落で王を称す?
戦国期 編纂されはじめていた地理書「山海経」に「楽浪の南に、燕に朝貢する倭がある」旨、記される。 辰国(半島南部、百越人の国)は倭そのものか? 百越人(弥生人)とは、失われた長江文明の担い手。現在そのDNAは半島、日本、ベトナム以南にしか残されていない。
前195年 秦に滅ぼされた燕からの亡命武将、衛満(中国人)が箕氏楽浪を乗っ取る。 このころから辰国は三韓に分かれはじめる。 馬韓(後の百済)は百越人の国。秦韓(辰韓、後の新羅)は始皇帝から逃れてきた秦民の国。弁韓(後の任那)も秦韓に似る。
前108年 中国皇帝の武帝が衛氏を滅ぼし楽浪郡を設置、植民地とする。
前37年 東胡を祖とするコリョ族(高麗族)が中国東北部に高句麗(前高麗)を建国。
2世紀 遼東太守、公孫度が扶余族(穢族からコリョ族と分岐)の王、尉仇台に嫁を与え馬韓(後の百済) の王とする。先から三韓の王族は全て扶余族となっていた? 倭王も同族? 新羅三王家のふたつに倭出自伝説が残されている。
3世紀初 公孫康 、曹操の許可を得て楽浪郡南部を帯方郡(後の百済)として設置。
4世紀 晋の八王の乱の混乱に乗じて、高句麗が楽浪郡を不当占拠。百済、新羅が建国。日本を大国と崇め、人質を送る。任那も併せ三韓は日本の勢力下にあった。
7世紀 任那、百済と順に滅亡、遣隋使と合わせて日本は半島から手を引く。新羅、高句麗を征伐。統一新羅は中国の属国となり、独自の名前と年号を捨て、中国式の名前と年号を使い出す。
918年 新羅滅亡、高麗(後高麗)建国。新羅内に雌伏していたコリョ族が国を乗っ取った。
ここまでは、朝鮮人の歴史ではない。
朝鮮人とは朝鮮半島の南側に住んでた原住民で、三韓(馬韓、弁韓、辰韓)人
それに対して高句麗(※)も百済も朝鮮人を支配してた扶余(ツングース)民族だな
※
広辞苑より
【扶余】前一世紀から五世紀まで、中国東北地方北部に活動した民族。
また、その建てた国。ツングース族の一。一〜三世紀中頃が全盛期、もと百済の別称。
【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙(東明王)の建国という。
中国東北地方の南東部から朝鮮北部にわたり、四世紀広開土王の時に全盛。
都は二○九年より丸都城、四二七年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。高麗(コマ)。
【渤海】八〜一○世紀、中国東北地方の東部および朝鮮半島北部のあたりに起った国。
靺鞨(マツカツ)族の首長大祚栄が建国。唐の文化を模倣し高句麗(コウクリ)の旧領地を
併せて栄え、七二七年以来しばしばわが国と通交。一五代で契丹に滅ぼされた。
【靺鞨】(マツカツ)ツングース族の一。有力な部族が七部あり、その一である
粟末(ゾクマツ)靺鞨の首長大祚栄は渤海国を起し、また黒水靺鞨は後に女真と称した。
【女真】中国東北地方の東北部から沿海州方面に住したツングース系の民族。
五代の頃より女真と称し1115年完顔(ワンヤン)部の首長阿骨打(アクダ)が金を
建国し宋に対抗。後に清朝を興した満州族も同一民族である。
一方朝鮮人は、朝鮮半島の原住民の事です。
馬韓、弁韓、辰韓の民族ですね。
なので
百済≒高句麗≒渤海 ≠ 三韓=朝鮮民族
高句麗=扶余系=満州系なんだわな。
高句麗の発祥地は中国の東北地方で、高句麗の数百年の歴史のうちの最初からの半分以上が中国東北地方にしか版図がなく、朝鮮半島には存在はしてなかった。
そして、彼らが滅亡した後は、ほとんど満州の部族に移行している。つまり、どう考えても、高句麗は中国東北系の国なんだわな。
高句麗と朝鮮の関係って大日本帝国の朝鮮と似たようなもんでしょ。
朝鮮に日本家屋があることを理由に、朝鮮人が江戸文明を作ったとかぬかすくらいあつかましい主張でしょ。
何しろ、文明が継承されてないんだもの。
満州人はきっちり高句麗文明を継承してるけど朝鮮は100年前は土人文明だもの。
高句麗はシナと新羅(朝鮮)が連合して消滅させた異民族の古代国家にすぎない。
百済も、高句麗の後継国家、渤海も同じ。
なぜ朝鮮人は嘘をつくのか Why does the Korean tell a lie?
http://www.youtube.com/watch?v=9ATZG6pyY88 http://www.youtube.com/watch?v=jbgbbXk0n1k http://www.youtube.com/watch?v=KR7z_-jagCE ■朝鮮人が認められない歴史的事実一覧
・弥生人が長江流域からやってきた百越系民族であること
・半島南部の先住民が倭人(=弥生人=百越系民族)であること
・新羅の建国時の宰相が倭人であり、王家の二つが倭人系統であること、また始祖の朴赫居世についても倭人説があること
・百済、新羅が大和朝廷に対し従属的地位にあったこと
・大和朝廷による伽耶地域の支配(半島南部における多数の前方後円墳の存在)
・半島における文化的独自性の欠落(あらゆる分野での古典の不在)
・常に某かの国の属国として歩んできた歴史
・姓が中国文化の影響を受け、みずから改名し、中国語氏名であること
・朝鮮征伐が日本と明との戦争であったこと(李朝の軍は明の将の指揮下に入り、和平交渉も日本と明の間で行われている)
・朝鮮通信使が実質的に朝貢使節であったこと(琉球の江戸上りと同じ)
・オンモン(朝鮮文字)がパスパ文字、契丹小字をもとにしたものであり、しかもカナより600年遅れて作られたものであること
【質問】『「我々韓国人は高句麗人(フヨ族)の子孫だ。高句麗は韓国人が建国した国だ」と主張していますが、 これは事実でしょうか?』
【回答】 完全なウソです。韓国人の作り話です。韓国人と高句麗人はまったく別種の民族です。高句麗人は
古代の満州地方に住んでいた 遊牧民族=フヨ族の一派ですが、韓国人=朝鮮人の先祖は、古代半島の東北部、
いわゆる中国領・楽浪郡の東部地方(日本海沿岸地方)に 住んでいたユウロウ族です。狩猟民族=ユウロウ族の子孫が
現在の韓国人です。このユウロウ族はシベリア奥地の山岳部から半島東北部に移住してきた民族です。
満州地方に住んでいた遊牧民である高句麗人(フヨ族)とは何の関係もありません。強いて関連付けるならば、
一時期、フヨ族がワイ族を 支配化に置いていたこと、くらいです。
では、高句麗人の子孫にあたる民族とはどのような民族なのか。それは女真族(満州族)です。
高句麗が唐によって滅ぼされた後、高句麗人(フヨ族)は彼らの故郷である『満州』に逃げました。
高句麗人はこの地において契丹族や鮮卑族、モンゴル族と混血しました。それによって誕生したのが
女真族(満州族)なのです。 この女真族が、1115年に満州地方から中国北部にまで版図を有する
『金国』を建国しました。金国が滅びた後、1616年に、 同じく女真族の国である第2次金国=後金国が建てられ、
この『後金国』が清国へと発展していきます。
高句麗人(フヨ族)の歴史を図にすると、下記のような流れになります。
〔フヨ国→ 高句麗→ 金国→ 後金国=清国 (高句麗滅亡後に建国された渤海国も『高句麗人の国』という説がある) 〕
見ての通り、高句麗と韓国人は何の関係もありません。高句麗人の末裔と呼ぶべき民族は満州族であり、
韓国人=朝鮮人ではないのです。 韓国人は高句麗人の子孫ではないだけでなく、高句麗人の歴史を受け継ぐ
満州族(女真族)のことを『オランケ』と呼び、蔑んでいました。 オランケとは韓国語で「野蛮人」の意味です。
韓国人は、「我々は高句麗人の子孫だ」と自称する一方で、本物の『高句麗人の子孫』である満州族のことを、
野蛮人呼ばわりして 見下しているのです。
ところが最近の韓国人は、時と場所によって「満州族と韓国人は兄弟民族だ」と言ったり、「満州族はオランケであり、
韓国人と違う民族だ」と、 言ったりしています。まさに『ご都合主義』です。自分たちの都合により、歴史を捏造し
歪曲しているのです。 日本人は倭人の子孫である。一方、朝鮮人はユウロウ族の子孫である。この2つの民族は
最初から別種なのだ。
高句麗は、夫餘から出た別種である。(『旧唐書』高麗伝 :「高麗者、出自扶餘之別種也。」)
高句麗は本来夫餘の別種である。(『新唐書』高麗伝 :「高麗、本夫餘別種也。」)
という記述にもあるように、高句麗族はその起源伝説の類似点から、ツングース系と考えられる
扶余と同じ民族と見られることが多い[2]。史上でも扶余の流民を受け容れていることが記されているが、
民族を同一とするにたる明証はなく、墓制の違いを見る限りは扶余と高句麗との差は歴然としている[3]。
但し、『魏書』百済伝の百済王蓋鹵王の上表文には、「臣と高句麗は源は夫余より出る」
(臣與高句麗源出夫餘)とあり、当時の百済人は高句麗人を同種の夫余とみていたことになる。
なお、扶余族は他に、沃沮(東沃沮・北沃沮)・?・百済(王族)など朝鮮半島に広く分布していた。
wiki より
上記からも、高句麗はツングース系と確定している。当然、朝鮮民族ではない。
百済→王族は扶余族、倭人と混血 、民衆は長江文明の遺臣の弥生人(百越人ともいう)
新羅→王族は扶余族、三王家のふたつに倭人出自説あり、民衆は弥生人と、始皇帝から逃げてきた秦人(漢族)
高句麗→ツングース系女真人
高麗→ツングース系女真人
渤海→ツングース系女真人
渤海と高句麗の民族的人種的なつながりははっきりとはわからないが、
新羅に滅ぼされた高句麗の遺民が建国した国ではないか、とは言われている。
何度も日本に朝貢している。
渤海が滅んだのち、今度はその遺民が高麗を建国した、というのがだいたいの流れ。
中国東北部にいた人々が一時期朝鮮半島に国を作ったとも言えるし、それが朝鮮人であるとも言える。
朝鮮半島は漢族、倭人、中国東北部族、モンゴル人等々、種々雑多な人種が入り乱れている。
日本と違って、半島というのはどこでもそういうもの。いわば人種民族の通り道的な存在。
前12世紀〜前2世紀の箕子朝鮮は中国人の箕子が建国した中国人国家。
箕子朝鮮を滅ぼして前2世紀〜前1世紀の衛氏朝鮮は中国人の衛満が建国した中国人国家。
前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして朝鮮半島北部に前1世紀〜後3世紀に設置した漢四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡)は中国植民地。
百済と高句麗はツングース系民族の夫余族の国家。渤海は夫余族と靺鞨の国家。夫余族と靺鞨は中国・満州族の母体。
秦からの亡命中国人が前2世紀〜4世紀に朝鮮半島南部に建国したのが辰韓(秦韓)で、後に12カ国に分裂して、その一つの斯蘆国が新羅。
朝鮮の歴史は半万年ではなく千百年弱
「朝鮮、属国史」の始まり
918年 高麗建国
10世紀 宋に朝貢、契丹(東胡の末)に朝貢。
12世紀 金(女真族、東胡の末)に朝貢。
13世紀 高麗はモンゴルの属国となる。劣等感から、一然という僧が檀君神話を捏造し、忠烈王がモンゴルに日本侵略を唆す。
14世紀 高麗滅亡、李朝建国。李朝は最初から明の冊封国で、国名も中国に決めてもらった。
17世紀 清(女真満州族)に服属、三跪九叩頭の礼に甘んじる。
19世紀 日本が日清戦争で中国を破り、属国の李朝は独立させてもらう。(日本の保護国)
1910年 李完用の要請により日本に併合してもらう。李氏朝鮮(大韓帝国)滅亡。
1948年 戦後アメリカ軍政庁の統治下にあったが、アメリカの後押しで大韓民国が成立。
1950年 アメリカとソ連の代理戦争である朝鮮戦争が起き分断国家となる。
1991年 ようやく国連加盟、史上初めて世界から独立国家として認められる。
1993年 韓国、軍事独裁制を脱し、史上初めて独立民主政体となる。
現在 いまだ言論、学問の自由もなく民主主義とは程遠い国である。北は論外。
======== 偉大な韓国の歴史 ==========
10世紀 長白山が過去2000年間で世界最大級とも言われる巨大噴火を起こす(リセット)
1010年 「契丹」に侵略される。首都開城が陥落。(キタン人化)
1013年から1019年まで継続して侵略される。 (キタン人化)
12世紀 「女真」の侵入。侵略。「金」に朝貢。 (満洲人化)
1231年 「蒙古」に侵略される。首都開城が陥落。国王江華島に逃亡
長い間、無抵抗の半島はモンゴル軍に蹂躙される。(モンゴル人化)
1247年 「蒙古」に再侵略される。しばらく蹂躙が続く。 (モンゴル人化)
1258年 雙城総管府を置かれる。翌年、王子を人質に降伏。(モンゴル人化)
国内には多くの蒙古軍人が駐留。 (モンゴル人化)
1270年 東寧府を置かれる。 (モンゴル人化)
反対派が済州島に移って徹底抗戦。1273年に鎮圧 (モンゴル人化)
1274年と1281年「元寇」(半島人主力で日本侵略。が、全滅(モンゴル人化)
1356年から1362年までの紅巾賊侵入により首都開京が陥落 (シナ人化)
1419年 「応永の外寇」 17000人で対馬を襲撃。船、家を焼き、住民を虐殺する。
しかし、少数の対馬軍に撃退される。
1592年 と1598年秀吉の「唐入り」 首都漢城が陥落(短期でヤマト化は無理)
1627年 「後金」に侵略される。平壌を超え、侵略されるが漢城までは来なかった。
しかし、国王は江華島に逃亡(満洲人化)
1636年 「清」に侵略される。首都漢城が陥落。清軍が、す早く江華島への道を遮断。
泥濘の中、朝鮮王仁祖は清の太宗に降伏、大清国属国となる。(満洲人化)
「屈辱の象徴」三田渡碑の移転決定
http://tosi.iza.ne.jp/blog/entry/610163/ 韓国マイナー観光
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kikyo/1239/w-18.htm
各国教科書に見る朝鮮半島
http://bansensyukai.blog23.fc2.com/blog-entry-7.html ◎ ポーランドの教科書
「AD1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」
◎ ドイツの教科書
「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀の事だった。その後300年、日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」
◎ オーストラリアの教科書
「朝鮮は近代に到るまで、その国内での抵抗に関わらず、中国と日本の属国だった」
◎ フィリピンの教科書
「朝鮮は、その歴史の大部分中国の属国であり、その支配は19世紀に日本に引き継がれた。日本は自由な新しい秩序を樹立する事によって、朝鮮に平和と安全をもたらそうとした」
◎ インドネシアの教科書
朝鮮を中国の属国として記した。
「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」
「朝鮮は言論・宗教の自由が制約を受ける国」
「北部はロシアが、南部はアメリカが占領している」
◎ タイの教科書
「朝鮮は中国の支配下に入り、これが19世紀まで続いた」
◎ アメリカの教科書
「朝鮮は中国の従属国」
◎ カナダの教科書
「朝鮮は、数百年間中国の属国」
「日本は<中略>朝鮮に鉄道・道路・港を建設し、産業を発達させて教育の機会を拡大させようと努力した」
◎ インドの教科書
「朝鮮は永らく中国の属国だった」
◎ イギリスの教科書
「西暦366年から562年まで、日本が朝鮮半島を支配した」
韓国と北朝鮮の国内でどれだけ洗脳教育をしても勝手ですが外の世界に出れば朝鮮半島は古代から下関条約まで常に属国。
これが世界の一般的な認識ということです。
統一新羅
http://www.memomsg.com/dictionary/D1096/390.html 統一新羅は、676年の朝鮮半島の統一から935年に滅亡するまでの新羅の事を差す。
この統一新羅、いわゆる新羅は、現在の韓国、朝鮮両国の共通の先祖の国家の初代といえる。
それ以前の国家は民族・言語・文化的につながりが薄い。当然、統一新羅の前身である新羅と統一新羅は連続している。
統一の過程で滅んだ、高句麗、百済は現在の韓国及び朝鮮とは連続性があまりない。
高句麗は実質的に後継国家として渤海があり、現在の中国東北部に小さく民族移動して国家を再建設している。
東北工程:百済・新羅の歴史も「中国史の一部」=中国社科院 『朝鮮日報2007年6月4日』
http://www.chosunonline.com/article/20070604000018 公式研究書に百済と新羅の歴史も「中国史の一部」と記述していたことが3日、分かった。
百済に対しては「(高句麗と)同様に古代中国の辺境にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」とし、
新羅については「唐は(百済が滅亡した)660年以前には羈縻政策を、それ以降には直接統治を行った」と記述した。
また、新羅は「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」とした。
東北工程・高麗も中国が建てた国『朝鮮日報2007年6月6日』
http://www.chosunonline.com/article/20070606000006 高麗について、「箕子朝鮮、高句麗に続き、中国が朝鮮半島に打ち建てた3番目の政権」と主張したところの、
吉林省社会科学院が隔月刊で発行する歴史雑誌『東北史地』の2007年第3号に掲載された「後唐の明宗が、高麗を建国した太祖・王建の族籍を明らかにした」と題する論文の存在が確認された。
この論文は、「王建は決して朝鮮半島の新羅人の子孫ではなく、中国・淮河流域から来た漢人の末裔」と主張し、
933年に後唐の2代目の明宗が太祖・王建に送った冊封詔書などをその根拠として提示した。冊封詔書には太祖・王建を「長淮の茂族」と呼んでいる部分があり、この論文は「長淮は淮河流域を意味する言葉で、太祖・王建の本籍地が中国であるため、高麗は中国人が建国した国
901 :
世界@名無史さん:2009/12/23(水) 21:56:23 0
age
902 :
世界@名無史さん:2010/01/10(日) 04:33:05 0
韓国人=朝鮮人の先祖は、古代半島の東北部、 いわゆる中国領・楽浪郡の東部地方(日本海沿岸地方)に 住んでいたワイ族。
百済人、高句麗人は古代の満州地方に住んでいた遊牧民族=フヨ族。
ウィキペディア-朝鮮民族
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E6%97%8F 歴史
朝鮮半島では4世紀頃までに高句麗、新羅、百済の三国が興り三国時代と呼ばれるが、7世紀に中国の唐が新羅と結んで高句麗、百済を相次いで滅ぼし、さらに新羅が唐の勢力を追放して朝鮮半島を統一した。
高句麗や百済の支配層は扶余系とみられ、韓系である新羅人とは別系統の言語を話した。
一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語とされている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられる。
ウィキペディア-新羅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85 脚註
^ なお韓国では、高句麗の滅亡後にその遺民が靺鞨族と共同して満州に建国した渤海を高句麗の後継国家と見なし、新羅・渤海をあわせて南北国時代と呼び、朝鮮民族史の及ぶ地理的範囲を朝鮮半島から満洲・沿海州を含めた領域としている。
しかしながら、言語的観点から現代の韓国・北朝鮮の祖とされる新羅と、高句麗・渤海とでは、民族的・言語的に隔たりがあり(金芳漢著・大林直樹訳『韓国語の系統』)、
高句麗・渤海を現在の韓国・北朝鮮へ連続する国家と見なす十全な根拠がないため、高句麗・渤海の故地を領土に含み、また高句麗・渤海と民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国との間に軋轢が生じている(→東北工程)。
903 :
世界@名無史さん:2010/01/10(日) 04:34:19 0
朝鮮人(高麗族、コリョ族)は中国東北部起源の北の蛮族
「楽浪半島、もしくは東シナ半島」の歴史(中国と日本の歴史)
前1000年頃 殷の廷臣、箕氏(中国人)が周の武王から楽浪(半島北部)に封じられる?(周の属国)その後、周の凋落で王を称す?
戦国期 編纂されはじめていた地理書「山海経」に「楽浪の南に、燕に朝貢する倭がある」旨、記される。 辰国(半島南部、百越人の国)は倭そのものか? 百越人(弥生人)とは、失われた長江文明の担い手。現在そのDNAは半島、日本、ベトナム以南にしか残されていない。
前195年 秦に滅ぼされた燕からの亡命武将、衛満(中国人)が箕氏楽浪を乗っ取る。 このころから辰国は三韓に分かれはじめる。 馬韓(後の百済)は百越人の国。秦韓(辰韓、後の新羅)は始皇帝から逃れてきた秦民の国。弁韓(後の任那)も秦韓に似る。
前108年 中国皇帝の武帝が衛氏を滅ぼし楽浪郡を設置、植民地とする。
前37年 東胡を祖とするコリョ族(高麗族)が中国東北部に高句麗(前高麗)を建国。
2世紀 遼東太守、公孫度が扶余族(穢族からコリョ族と分岐)の王、尉仇台に嫁を与え馬韓(後の百済) の王とする。先から三韓の王族は全て扶余族となっていた? 倭王も同族? 新羅三王家のふたつに倭出自伝説が残されている。
3世紀初 公孫康 、曹操の許可を得て楽浪郡南部を帯方郡(後の百済)として設置。
4世紀 晋の八王の乱の混乱に乗じて、高句麗が楽浪郡を不当占拠。百済、新羅が建国。日本を大国と崇め、人質を送る。任那も併せ三韓は日本の勢力下にあった。
7世紀 任那、百済と順に滅亡、遣隋使と合わせて日本は半島から手を引く。新羅、高句麗を征伐。統一新羅は中国の属国となり、独自の名前と年号を捨て、中国式の名前と年号を使い出す。
918年 新羅滅亡、高麗(後高麗)建国。新羅内に雌伏していたコリョ族が国を乗っ取った。
ここまでは、朝鮮人の歴史ではない。
904 :
世界@名無史さん:2010/01/10(日) 04:35:05 0
朝鮮人とは朝鮮半島の南側に住んでた原住民で、三韓(馬韓、弁韓、辰韓)人
それに対して高句麗(※)も百済も朝鮮人を支配してた扶余(ツングース)民族だな
※
広辞苑より
【扶余】前一世紀から五世紀まで、中国東北地方北部に活動した民族。
また、その建てた国。ツングース族の一。一〜三世紀中頃が全盛期、もと百済の別称。
【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙(東明王)の建国という。
中国東北地方の南東部から朝鮮北部にわたり、四世紀広開土王の時に全盛。
都は二○九年より丸都城、四二七年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。高麗(コマ)。
【渤海】八〜一○世紀、中国東北地方の東部および朝鮮半島北部のあたりに起った国。
靺鞨(マツカツ)族の首長大祚栄が建国。唐の文化を模倣し高句麗(コウクリ)の旧領地を
併せて栄え、七二七年以来しばしばわが国と通交。一五代で契丹に滅ぼされた。
【靺鞨】(マツカツ)ツングース族の一。有力な部族が七部あり、その一である
粟末(ゾクマツ)靺鞨の首長大祚栄は渤海国を起し、また黒水靺鞨は後に女真と称した。
【女真】中国東北地方の東北部から沿海州方面に住したツングース系の民族。
五代の頃より女真と称し1115年完顔(ワンヤン)部の首長阿骨打(アクダ)が金を
建国し宋に対抗。後に清朝を興した満州族も同一民族である。
一方朝鮮人は、朝鮮半島の原住民の事です。
馬韓、弁韓、辰韓の民族ですね。
なので
百済≒高句麗≒渤海 ≠ 三韓=朝鮮民族
905 :
世界@名無史さん:2010/01/10(日) 04:36:14 0
■朝鮮人が認められない歴史的事実一覧
・弥生人が長江流域からやってきた百越系民族であること
・半島南部の先住民が倭人(=弥生人=百越系民族)であること
・新羅の建国時の宰相が倭人であり、王家の二つが倭人系統であること、また始祖の朴赫居世についても倭人説があること
・百済、新羅が大和朝廷に対し従属的地位にあったこと
・大和朝廷による伽耶地域の支配(半島南部における多数の前方後円墳の存在)
・半島における文化的独自性の欠落(あらゆる分野での古典の不在)
・常に某かの国の属国として歩んできた歴史
・姓が中国文化の影響を受け、みずから改名し、中国語氏名であること
・朝鮮征伐が日本と明との戦争であったこと(李朝の軍は明の将の指揮下に入り、和平交渉も日本と明の間で行われている)
・朝鮮通信使が実質的に朝貢使節であったこと(琉球の江戸上りと同じ)
・オンモン(朝鮮文字)がパスパ文字、契丹小字をもとにしたものであり、しかもカナより600年遅れて作られたものであること
・焼肉はモンゴルのパクリ!焼肉メニューはモンゴル語ばかり
・キムチは秀吉が朝鮮出兵の時に落とした唐辛子の種が増殖したのが起源
・テコンドーは日本空手をパクリ!そのままだとまずいのでキック特化にした
・中国の太極図案と五行八卦の中の四卦と陰陽魚が韓国国旗であること
・大韓民国の国名の民国は中華民国の民国の借用であること
・大韓民国憲法は、全て1948年に南京で制定された中華民国憲法を剽窃したものであること
・韓国の法律は、台湾の六法全書、「憲法、刑法、民法、商法、刑事訴訟法、民事訴訟法」と全く同じであること
・中国原産の木槿(むくげ)の花を、勝手に改名し、無窮花として韓国の国花にしたこと
・朝鮮という国号は明の永楽帝が下賜したこと
・古代高句麗人と現代の韓国人は全く違う民族で高句麗は古扶余人で東胡の一部であること
906 :
世界@名無史さん:2010/01/10(日) 04:38:23 0
907 :
世界@名無史さん:2010/01/10(日) 04:40:05 0
908 :
世界@名無史さん:2010/01/10(日) 04:41:12 0
【質問】『「我々韓国人は高句麗人(フヨ族)の子孫だ。高句麗は韓国人が建国した国だ」と主張していますが、 これは事実でしょうか?』
【回答】 完全なウソです。韓国人の作り話です。韓国人と高句麗人はまったく別種の民族です。高句麗人は
古代の満州地方に住んでいた 遊牧民族=フヨ族の一派ですが、韓国人=朝鮮人の先祖は、古代半島の東北部、
いわゆる中国領・楽浪郡の東部地方(日本海沿岸地方)に 住んでいたユウロウ族です。狩猟民族=ユウロウ族の子孫が
現在の韓国人です。このユウロウ族はシベリア奥地の山岳部から半島東北部に移住してきた民族です。
満州地方に住んでいた遊牧民である高句麗人(フヨ族)とは何の関係もありません。強いて関連付けるならば、
一時期、フヨ族がワイ族を 支配化に置いていたこと、くらいです。
では、高句麗人の子孫にあたる民族とはどのような民族なのか。それは女真族(満州族)です。
高句麗が唐によって滅ぼされた後、高句麗人(フヨ族)は彼らの故郷である『満州』に逃げました。
高句麗人はこの地において契丹族や鮮卑族、モンゴル族と混血しました。それによって誕生したのが
女真族(満州族)なのです。 この女真族が、1115年に満州地方から中国北部にまで版図を有する
『金国』を建国しました。金国が滅びた後、1616年に、 同じく女真族の国である第2次金国=後金国が建てられ、
この『後金国』が清国へと発展していきます。
909 :
世界@名無史さん:2010/01/10(日) 04:42:11 0
高句麗人(フヨ族)の歴史を図にすると、下記のような流れになります。
〔フヨ国→ 高句麗→ 金国→ 後金国=清国 (高句麗滅亡後に建国された渤海国も『高句麗人の国』という説がある) 〕
見ての通り、高句麗と韓国人は何の関係もありません。高句麗人の末裔と呼ぶべき民族は満州族であり、
韓国人=朝鮮人ではないのです。 韓国人は高句麗人の子孫ではないだけでなく、高句麗人の歴史を受け継ぐ
満州族(女真族)のことを『オランケ』と呼び、蔑んでいました。 オランケとは韓国語で「野蛮人」の意味です。
韓国人は、「我々は高句麗人の子孫だ」と自称する一方で、本物の『高句麗人の子孫』である満州族のことを、
野蛮人呼ばわりして 見下しているのです。
ところが最近の韓国人は、時と場所によって「満州族と韓国人は兄弟民族だ」と言ったり、「満州族はオランケであり、
韓国人と違う民族だ」と、 言ったりしています。まさに『ご都合主義』です。自分たちの都合により、歴史を捏造し
歪曲しているのです。 日本人は倭人の子孫である。一方、朝鮮人はユウロウ族の子孫である。この2つの民族は
最初から別種なのだ。
910 :
世界@名無史さん:2010/01/10(日) 04:43:06 0
高句麗は、夫餘から出た別種である。(『旧唐書』高麗伝 :「高麗者、出自扶餘之別種也。」)
高句麗は本来夫餘の別種である。(『新唐書』高麗伝 :「高麗、本夫餘別種也。」)
という記述にもあるように、高句麗族はその起源伝説の類似点から、ツングース系と考えられる
扶余と同じ民族と見られることが多い[2]。史上でも扶余の流民を受け容れていることが記されているが、
民族を同一とするにたる明証はなく、墓制の違いを見る限りは扶余と高句麗との差は歴然としている[3]。
但し、『魏書』百済伝の百済王蓋鹵王の上表文には、「臣と高句麗は源は夫余より出る」
(臣與高句麗源出夫餘)とあり、当時の百済人は高句麗人を同種の夫余とみていたことになる。
なお、扶余族は他に、沃沮(東沃沮・北沃沮)・?・百済(王族)など朝鮮半島に広く分布していた。
wiki より
上記からも、高句麗はツングース系と確定している。当然、朝鮮民族ではない。
百済→王族は扶余族、倭人と混血 、民衆は長江文明の遺臣の弥生人(百越人ともいう)
新羅→王族は扶余族、三王家のふたつに倭人出自説あり、民衆は弥生人と、始皇帝から逃げてきた秦人(漢族)
高句麗→ツングース系女真人
高麗→ツングース系女真人
渤海→ツングース系女真人
渤海と高句麗の民族的人種的なつながりははっきりとはわからないが、
新羅に滅ぼされた高句麗の遺民が建国した国ではないか、とは言われている。
何度も日本に朝貢している。
渤海が滅んだのち、今度はその遺民が高麗を建国した、というのがだいたいの流れ。
中国東北部にいた人々が一時期朝鮮半島に国を作ったとも言えるし、それが朝鮮人であるとも言える。
朝鮮半島は漢族、倭人、中国東北部族、モンゴル人等々、種々雑多な人種が入り乱れている。
日本と違って、半島というのはどこでもそういうもの。いわば人種民族の通り道的な存在。
911 :
世界@名無史さん:2010/01/10(日) 04:43:52 0
朝鮮の歴史は半万年ではなく千百年弱
「朝鮮、属国史」の始まり
918年 高麗建国
10世紀 宋に朝貢、契丹(東胡の末)に朝貢。
12世紀 金(女真族、東胡の末)に朝貢。
13世紀 高麗はモンゴルの属国となる。劣等感から、一然という僧が檀君神話を捏造し、忠烈王がモンゴルに日本侵略を唆す。
14世紀 高麗滅亡、李朝建国。李朝は最初から明の冊封国で、国名も中国に決めてもらった。
17世紀 清(女真満州族)に服属、三跪九叩頭の礼に甘んじる。
19世紀 日本が日清戦争で中国を破り、属国の李朝は独立させてもらう。(日本の保護国)
1910年 李完用の要請により日本に併合してもらう。李氏朝鮮(大韓帝国)滅亡。
1948年 戦後アメリカ軍政庁の統治下にあったが、アメリカの後押しで大韓民国が成立。
1950年 アメリカとソ連の代理戦争である朝鮮戦争が起き分断国家となる。
1991年 ようやく国連加盟、史上初めて世界から独立国家として認められる。
1993年 韓国、軍事独裁制を脱し、史上初めて独立民主政体となる。
現在 いまだ言論、学問の自由もなく民主主義とは程遠い国である。北は論外。
912 :
世界@名無史さん:2010/01/10(日) 04:45:36 0
======== 偉大な韓国の歴史 ==========
10世紀 長白山が過去2000年間で世界最大級とも言われる巨大噴火を起こす(リセット)
1010年 「契丹」に侵略される。首都開城が陥落。(キタン人化)
1013年から1019年まで継続して侵略される。 (キタン人化)
12世紀 「女真」の侵入。侵略。「金」に朝貢。 (満洲人化)
1231年 「蒙古」に侵略される。首都開城が陥落。国王江華島に逃亡
長い間、無抵抗の半島はモンゴル軍に蹂躙される。(モンゴル人化)
1247年 「蒙古」に再侵略される。しばらく蹂躙が続く。 (モンゴル人化)
1258年 雙城総管府を置かれる。翌年、王子を人質に降伏。(モンゴル人化)
国内には多くの蒙古軍人が駐留。 (モンゴル人化)
1270年 東寧府を置かれる。 (モンゴル人化)
反対派が済州島に移って徹底抗戦。1273年に鎮圧 (モンゴル人化)
1274年と1281年「元寇」(半島人主力で日本侵略。が、全滅(モンゴル人化)
1356年から1362年までの紅巾賊侵入により首都開京が陥落 (シナ人化)
1419年 「応永の外寇」 17000人で対馬を襲撃。船、家を焼き、住民を虐殺する。
しかし、少数の対馬軍に撃退される。
1592年 と1598年秀吉の「唐入り」 首都漢城が陥落(短期でヤマト化は無理)
1627年 「後金」に侵略される。平壌を超え、侵略されるが漢城までは来なかった。
しかし、国王は江華島に逃亡(満洲人化)
1636年 「清」に侵略される。首都漢城が陥落。清軍が、す早く江華島への道を遮断。
泥濘の中、朝鮮王仁祖は清の太宗に降伏、大清国属国となる。(満洲人化)
「屈辱の象徴」三田渡碑の移転決定
http://tosi.iza.ne.jp/blog/entry/610163/ 韓国マイナー観光
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kikyo/1239/w-18.htm
913 :
世界@名無史さん:2010/01/10(日) 04:46:30 0
914 :
世界@名無史さん:2010/01/10(日) 04:47:35 0
各国教科書に見る朝鮮半島
http://bansensyukai.blog23.fc2.com/blog-entry-7.html ◎ ポーランドの教科書
「AD1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」
◎ ドイツの教科書
「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀の事だった。その後300年、日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」
◎ オーストラリアの教科書
「朝鮮は近代に到るまで、その国内での抵抗に関わらず、中国と日本の属国だった」
◎ フィリピンの教科書
「朝鮮は、その歴史の大部分中国の属国であり、その支配は19世紀に日本に引き継がれた。日本は自由な新しい秩序を樹立する事によって、朝鮮に平和と安全をもたらそうとした」
◎ インドネシアの教科書
朝鮮を中国の属国として記した。
「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」
「朝鮮は言論・宗教の自由が制約を受ける国」
「北部はロシアが、南部はアメリカが占領している」
◎ タイの教科書
「朝鮮は中国の支配下に入り、これが19世紀まで続いた」
◎ アメリカの教科書
「朝鮮は中国の従属国」
◎ カナダの教科書
「朝鮮は、数百年間中国の属国」
「日本は<中略>朝鮮に鉄道・道路・港を建設し、産業を発達させて教育の機会を拡大させようと努力した」
◎ インドの教科書
「朝鮮は永らく中国の属国だった」
◎ イギリスの教科書
「西暦366年から562年まで、日本が朝鮮半島を支配した」
韓国と北朝鮮の国内でどれだけ洗脳教育をしても勝手ですが外の世界に出れば朝鮮半島は古代から下関条約まで常に属国。
これが世界の一般的な認識ということです。
915 :
世界@名無史さん:2010/01/10(日) 04:48:38 0
統一新羅
http://www.memomsg.com/dictionary/D1096/390.html 統一新羅は、676年の朝鮮半島の統一から935年に滅亡するまでの新羅の事を差す。
この統一新羅、いわゆる新羅は、現在の韓国、朝鮮両国の共通の先祖の国家の初代といえる。
それ以前の国家は民族・言語・文化的につながりが薄い。当然、統一新羅の前身である新羅と統一新羅は連続している。
統一の過程で滅んだ、高句麗、百済は現在の韓国及び朝鮮とは連続性があまりない。
高句麗は実質的に後継国家として渤海があり、現在の中国東北部に小さく民族移動して国家を再建設している。
東北工程:百済・新羅の歴史も「中国史の一部」=中国社科院 『朝鮮日報2007年6月4日』
http://www.chosunonline.com/article/20070604000018 公式研究書に百済と新羅の歴史も「中国史の一部」と記述していたことが3日、分かった。
百済に対しては「(高句麗と)同様に古代中国の辺境にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」とし、
新羅については「唐は(百済が滅亡した)660年以前には羈縻政策を、それ以降には直接統治を行った」と記述した。
また、新羅は「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」とした。
東北工程・高麗も中国が建てた国『朝鮮日報2007年6月6日』
http://www.chosunonline.com/article/20070606000006 高麗について、「箕子朝鮮、高句麗に続き、中国が朝鮮半島に打ち建てた3番目の政権」と主張したところの、
吉林省社会科学院が隔月刊で発行する歴史雑誌『東北史地』の2007年第3号に掲載された「後唐の明宗が、高麗を建国した太祖・王建の族籍を明らかにした」と題する論文の存在が確認された。
この論文は、「王建は決して朝鮮半島の新羅人の子孫ではなく、中国・淮河流域から来た漢人の末裔」と主張し、
933年に後唐の2代目の明宗が太祖・王建に送った冊封詔書などをその根拠として提示した。冊封詔書には太祖・王建を「長淮の茂族」と呼んでいる部分があり、この論文は「長淮は淮河流域を意味する言葉で、太祖・王建の本籍地が中国であるため、高麗は中国人が建国した国
このキチガイは何に向かってレスをしているんだ?
見えない敵と必死で戦うってカコイイ
>>365 あんたは先生にたいする理解が甘いよ。
先生はな、わざとあちこちのスレでクズを演出しておられるんだ。
「ああ、この世の中にはこんなクズがいるのか・・・おれなんてまだまだ序の口だな」
という具合に人々をなぐさめ、励ますために先生はあえて畜生道にわが身を落とし、
人々に救いの光を与えていらっしゃる。
あんたの見方は、先生の皮相しか捉えていないということを忠告させてもらう。
おっとスレ違いすまん
唐時代を舞台にした文学作品のおすすめを教えてください!
>>920 原百代「武則天」
長編だが史実にそった内容でお勧め。
>>920 マジレスすると、
「李太白文集」
「韓昌黎集」
唐詩選はあまりおすすめできない
924 :
920:2010/03/21(日) 15:41:58 0
みなさんありがとうございます! 早速チェックします!
唐詩選はおすすめではないとのことですが、それはどうしてでしょうか?
よかったら教えてください! 何しろ唐のことはまだまだ素人ですので・・・
925 :
世界@名無史さん:2010/03/24(水) 20:35:37 0
>>920 変わったものを読みたいなら「絹の女帝」三部作(ジョゼ・フレーシュ)。
フランスでベストセラーになったフランス人作家の小説。武則天時代が舞台設定。
ほか、ミステリーで有名なロバート・ファン・ヒューリックのディー判事シリーズは全部
時代設定が唐代。ディー判事の名前を漢字で書くと狄仁傑。
あと、漢詩だったら好みの問題だけど杜甫と李賀が個人的にお奨め。
源氏物語の翻訳者として有名なアーサー・ウェイリーの評伝「白楽天」と「李白」は
どちらも超おすすめ。
926 :
世界@名無史さん:2010/03/26(金) 10:10:49 0
劉暁慶の「武則天」、張兄弟の弟の方、キモい。
927 :
麒麟の尻尾について:2010/04/24(土) 23:24:45 0
「出世するにはどうしたらいいですか」というのに対し、房玄齢が「麒麟(天下人)の尻尾についてゆくことだ」と答える逸話があったと思うのですが、どこに書いてある話か、知っている方がいらっしゃったらおおしえねがえませんでしょうか、よろしくおねがいします
928 :
世界@名無史さん:2010/06/09(水) 23:26:24 0
age
929 :
世界@名無史さん:
唐揚げ