1 :
世界@名無史さん:
スペイン・ポルトガルというと、大航海時代とスペイン内戦ばっかり
とりらげられて、中世はあまりスポットがあたりません。
西ゴート王国、イスラム勢力の侵入とレコンキスタ、カスティーリャ王国、
アラゴン王国、ナバーラ王国、ナスル朝グラナダ、ポルトガル王国などについて
語っていただきたいです。
2 :
世界@名無史さん:02/09/12 21:05
2ゲット
3 :
世界@名無史さん:02/09/12 21:05
これが、噂の2ゲットか?
4 :
世界@名無史さん:02/09/12 21:12
青池保子の『アルカサル〜王城』を呼んでスペインに興味持った人って、
結構多いんじゃないかな。
5 :
世界@名無史さん:02/09/12 21:20
カスティーリャ王国は、ペドロ1世でブルグンド朝が絶えて、次の
エンリケ2世からトラスタマラ朝になるけど、なんで庶子なのに
王位につけたんだろう。
6 :
世界@名無史さん:02/09/12 22:58
何となくイスラム・スペインの方が萌える。
文化水準高いし。
庭園とかすごく綺麗だし。
7 :
世界@名無史さん:02/09/13 08:08
>>6 庭園て、あの中庭に噴水とかあるやつだよね?
スペインの「パティオ」はイスラム庭園の影響をうけてるらしいけど。
きさまらには屈せん!
9 :
世界@名無史さん:02/09/13 12:38
そういうバスク人が私は好きだ
孤高の民族・・・(・∀・)カコイイ!!
10 :
世界@名無史さん:02/09/13 13:24
ガリシア人のことも知りたいんだけど。
11 :
世界@名無史さん:02/09/13 15:38
>>10 西ゴート王国の時代はあそこにスエボス王国(スエビ族からきている)
というのがありました。
のちに西ゴート王国に併合されますけど。
住民はケルト系です。
ただし、ガリシア語はボルトガル語ににているそうです。
巡礼地サンティアゴ・デ・コンポステラでも有名。
12 :
世界@名無史さん:02/09/13 15:53
>>10 ちなみにフランコ将軍はガリシア出身。
キューバのカストロもガリシア移民の子。
ガリシアは昔から漁業や航海の仕事につく人が多く、海外移住者も
多かった。
ガリシアの人々は質朴で頑張りやだが、他の地方のスペイン人はガリシア人のことを
「強情」「人を信用しない」「策略家」
などということもあるらしい。
13 :
世界@名無史さん:02/09/13 18:18
14 :
世界@名無史さん:02/09/13 19:02
>>11 >ただし、ガリシア語はボルトガル語ににているそうです。
galego-portuge^sがガリシア語とポルトガル語に分化した。
現代のガリシア人とポルトガル人は通訳を介せずに会話も可能。
紀元前3世紀末以降: ローマ人がイベリア半島に現れる〜俗ラテン語
5世紀から8世紀: galego-portuge^sが成立
13世紀初頭: galego-portuge^sの最古の文献
14世紀中葉: ガリシア語とポルトガル語と区別するに足る音韻上・文法上の差異が認められる初めての文献
15 :
世界@名無史さん:02/09/13 19:24
エル・シッド
16 :
世界@名無史さん:02/09/13 19:57
>>13 アブド・アル=ラーマン1世とか?
母親がベルベル人の奴隷だったから、イベリア半島に逃げたのかなあ。
コルドバには今でもメスキータが残ってますね。
一部改築されて大聖堂として使われているけど。
スペインにはモサラベ様式やムデハル様式のような独特の建築がありますね。
17 :
世界@名無史さん:02/09/13 20:08
タイーファ時代とかも。
18 :
世界@名無史さん:02/09/13 20:15
>>17 小国家乱立時代ですね。
この時代にキリスト教徒の反攻がはじまりますが。
19 :
世界@名無史さん:02/09/14 07:16
ポルトガルの初期の王朝にブルゴーニュ家ってあるよね。
これって起源はフランスか?
20 :
世界@名無史さん:02/09/14 09:05
>>19 そうです。
彼の父はブルゴーニュ公ロベール1世。
21 :
世界@名無史さん:02/09/14 10:03
武田騎馬軍団を壊滅させた鉄砲を伝えたポルトガル逝ってよし!
22 :
世界@名無史さん:02/09/14 11:08
>>19 レオン・カスティーリャ王アルフォンソ6世がフランスに援軍を求めた際、
ブルゴーニュの騎士たちが西方十字軍としてイベリア半島にやってきました。
その一人アンリ・ド・ブルゴーニュが国王の娘テレサと結婚し、ポルトゥカレ伯領を
授封されました。
このポルトゥカレ伯が後にポルトガル王国を建国します。
>>22 なるへそ、そういうことだったのか。
それでポルトガル語とフランス語は発音等が似ているんだ。
24 :
世界@名無史さん:02/09/14 16:02
>23
いや、ポルトガル語とフランス語の発音が似てるのは、もっと根の深い問題
だと思うぞ。
双方ともケルト語の影響が残ってたからじゃないかな。だから、アンリ・ド・
ブルゴーニュ以前から、鼻母音は双方にあったんだと思います。
間にあるアストゥリアスはスエビ族などゲルマンの影響の強い地域だったし、
ナバラはバスク語が頑張ってたので、間の地域には鼻母音がないと。
25 :
世界@名無史さん:02/09/14 16:36
ポルトガル語は二重鼻母音を持つことに始まって主要なロマンス諸語の
中でも随一の複雑な音韻構造を持つ。それに対してフランス語は単鼻母音
だけで、音韻構造もポルトガル語よりは遥かに単純。(フランス語の音素の
数は40のみ。)
二重鼻母音ってどんなの?
a~oみたいな奴?
27 :
世界@名無史さん:02/09/14 17:09
ttp://www.alc.co.jp/mlng/wlng/portuguese.html 発音から見たポルトガル語の特質は二つある。ひとつは鼻母音、なかでも
pão[パォン](パン」やbotão[ボタォン](ボタン)の発音に見られる
ような二重鼻母音が発達していること。-ãoは大体英語roundの[アウン]
に近い。それに、母音eとoに発音がそれぞれ閉口(ê、ô)と開口(éとó)
の2通りあって、その違いが時に意味の対立をもたらすことである。
e.g. avô[アヴォッ](おじいさん)とavó[アヴォー](おばあさん)
28 :
世界@名無史さん:02/09/14 20:10
小西章子『イスラム・スペイン千一夜』(中央公論社)という本に、
「セウタとは北アフリカにある西ゴート王国の領地で」
とかいてあったけど、ここは一貫して東ローマ帝国の直轄領だった。
したがって、イスラーム勢力の手引きをしたフリアン伯も東ローマ帝国の
司令官。
ちなみに、このときのイスラーム軍の司令官がターリクという名で、
アラビア語の「ジャバル・アル・ターリク」(ターリクの山)がなまって
ジブラルタル(ヒブラルタル)になったという説があるけど、これも定説という
わけではないらしい。
29 :
世界@名無史さん:02/09/14 22:13
30 :
世界@名無史さん:02/09/14 22:44
>>24 アストゥリアスやカンタブリアはローマ化、西ゴート化を逃れた原住民(セルティベロ)が強かったのではないか?
>>28 あまり聞いたことのない話だな。ユスティニアヌスの拡大政策が失敗したあとも、セウタなどという遠隔地を支配出来るのか?
>>30 ひょっとしたら、名目だけで、実質的な支配はできなかったのかも
しれません。
ギボンの『ローマ帝国衰亡史8』(ちくま文庫)の注に、ギボンの間違いを
訂正するという形で書いてあったのですが。
西ゴート時代はそうだったと思うんですが、イスラム勢力による征服後の最初の
反乱が成功し、アストゥリアスが放棄された後、西ゴートの残党が流れ込んだ、
またはアンダルスからの亡命者を積極的に受け入れたので、やはりゲルマン要素
が強いのではないかと思うのです。
反乱の首謀者のペラーヨは西ゴートのファフィラ公の子息という伝承があるよう
ですし。
33 :
世界@名無史さん:02/09/15 01:11
>>32 「プリンシペ・デ・アストゥリアス」というのは、フアン1世がエンリケ王子に
この称号を与えて以来、王位継承権を持つ王子の呼称になったとか。
英語の「プリンス・オブ・ウェールズ」に似てますね。
34 :
世界@名無史さん:02/09/15 01:23
アストゥリアス勲章がスペイン王太子のしるし
35 :
世界@名無史さん:02/09/15 01:47
カタルーニャ全盛期の地中海貿易はすごかったね。
ほかにも英国・フランドル・北海沿岸のドイツ諸港とも交易を行っていた。
でも日本ではほとんど知られていない・・・
36 :
世界@名無史さん:02/09/15 02:02
何年か前に私の家系を遡ると日本人だったというスペイン人がいた
キリシタン追放の子孫らしい
37 :
世界@名無史さん:02/09/15 02:11
>36
「ハポンさん」のこと?
ハポン一族なら、伊達政宗の派遣した慶長使節の一員でスペインに土着
した人の子孫じゃなかったっけ?
前にNHKで見たんだけど。
38 :
世界@名無史さん:02/09/15 02:14
「ハポンさん」はつい最近の不思議発見でもやってましたよ。
ルーツは
>>37のいう通り
39 :
世界@名無史さん:02/09/15 02:19
おお!確かそんな名前でした 情報ありがと
>37・38
40 :
世界@名無史さん:02/09/15 03:03
今のスペインではバスクを初めナバラ・カタルニアなど各地域が独立または
自治権獲得ばかりやって国家としての統一が危うくなってきとるとか
41 :
世界@名無史さん:02/09/15 03:06
>>32 言語の歴史をもう少し勉強しろ。
西ゴート人も支配されていた連中も、話してたのは俗ラテン語だ。
42 :
世界@名無史さん:02/09/15 10:10
>>40 もともと別々の国だったからねえ。
カタルーニャとアラゴンは別の国だったのがラモン・バランゲー4世と
アラゴン王ラミロ2世の娘パルネリャとの結婚によって「カタルーニャ・アラゴン
連合王国」になった。
そしてイサベルトフェルナンドの結婚によってスペインという国ができあがる。
>>42 ガリシア人には独立運動、自治要求運動は無いんでしょうか。
>41
そうだったのか。いや申し訳ない。
勉強し直します。ありがとう!
45 :
世界@名無史さん:02/09/15 12:08
>>43 ガリシア地方は、カタルーニャやバスクと違い、右派の全国政党「国民党」の
拠点になっています。
州議会でも地域主義政党は少数派。
46 :
世界@名無史さん:02/09/15 13:26
>>42 カタルーニャがカスティリャと別の国というのは判るが、アラゴンとカタルーニャ(バルセロナ)が別の国というのは、ちょと言い方が悪いと思う。
アラゴンは内陸国なので、同君連合の段階から速やかに融合し、王は海港をもち繁栄するカタルーニャに重心を置いたと思うので。
47 :
世界@名無史さん:02/09/15 13:46
>>46 そういえば、カスティーリャも正式名称はレオン・カスティーリャ王国ですね。
こちらはカスティーリャ王フェルナンド1世がレオン王国を併合する形でしたが。
中世からカスティーリャは王権が強く、中央集権へむけての体制が整備されていった
のにたいし、カタルーニャは王と家臣の間の協約主義が強い傾向があったとか。
(アラゴンがカタルーニャとの同君連合に踏み切ったのも、それが理由の一つらしい)
48 :
世界@名無史さん:02/09/15 17:24
あまり細かく分けると、アラゴンとソブラルベ、リバゴルサは別の国だとかいうことになるしね。
で、疑問なんだが、ガリシアって何でガリシア語が残ったのかな?。サンティアゴへの巡礼という形で外界との接触が沢山あったと思うのだが。
49 :
世界@名無史さん:02/09/15 18:14
>>48 ガリシア語は、13〜14世紀にはポルトガル語とあまり違いがありませんでした。
で、ガリシア・ポルトガル語は当時イベリア半島で韻文のための言語として
大きな権威をもっていて、カスティーリャ王国のアルフォンソ10世もこの言語で
『聖母マリア頌歌集』を書いています。
ガリシア語がポルトガル語と違う言語になったのは、15世紀ごろからスペイン語の
影響を受けるようになったためです。
19世紀末から20世紀初頭にかけてガリシア語復興運動がおこるまでは一地方語の
地位に甘んじることになります。
51 :
世界@名無史さん:02/09/15 18:23
スペイン大使館は今も
「『イスパニア』か『エスパーニャ』と言ってくれ」
と言っているのだろうか。
52 :
世界@名無史さん:02/09/15 18:26
正式名称はエスパーニャ王国 Reino de Espana
「イベリア」はギリシア人による呼び名
「ヒスパニア」はローマ人による呼び名
「アル・アンダルス」はムスリムによる呼び名
53 :
世界@名無史さん:02/09/15 18:46
>>49 なるほど!
ガリシア語の勢力は強かったんだ。知らなんだ。
中世のカソリック衣服で、首の回りに蛇腹の様な白いわっか。
甲冑の上にも付けたりしてたりする。
あれはポルトガルあたり起源なんですかね?
アレは何と言う名前なんでしょうか?
55 :
世界@名無史さん:02/09/15 19:20
>>55 冗談は顔だけにしれ。 検索しちゃったじゃないか。
マジレスキボンヌ
>56
ごめん。そういえば、昔コスチュームに付けていたなと思って。
58 :
世界@名無史さん:02/09/15 21:30
>>54 ひょっとしてあのエリマキトカゲみたいな白いレースの襟のことですか?
あれなら「ラフ」という名前ですが。
>>52 それは知っている。
以前、スペイン大使館が「スペイン」という英語名ではなく「イスパニア」or「エスパーニャ」と
いうラテン語系の名称を使ってくれと日本の政府、マスコミに申し入れしたというニュース
が記憶にあるんだけど、いっこうに変わる気配がないので、顛末が気になっているところなので。
60 :
世界@名無史さん:02/09/15 21:41
そういえばテーマパークの名前は「パルケエスパーニャ」になってるなW)
61 :
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62 :
世界@名無史さん:02/09/16 04:17
ポルトガルのレコンキスタは何故早く終了したのだ?
南端まで行ったら東に曲がれば良いような気がする。
カスティリャとの間で、勢力圏が決められていたのか?
63 :
世界@名無史さん:02/09/16 17:23
>>62 ナスル朝(グラナダ)はカスティーリャ王国に貢納することを条件に存続が
許されていましたから。
やっぱりカスティーリャをはばかってのことではないでしょうか。
64 :
世界@名無史さん:02/09/16 17:35
65 :
世界@名無史さん:02/09/16 21:47
>>13 スペインのトレドだけど・・・
ムスリムがここに残していった文献のおかげで、アリストテレスの哲学、
ユークリッドの幾何学、プトレマイオスの地理学、ヒッポクラテスの医学などが
西欧に知られるようになった。
このときをもって中世ヨーロッパの哲学史と科学史は前後に二分されるといわれるほど。
66 :
世界@名無史さん:02/09/16 21:58
>>62 おかげでいちはやく海洋に乗り出せたじゃないか。
地中海に閉じこもったカタルーニャなんかは結局大航海時代をフイにしたんだぞ!
67 :
世界@名無史さん:02/09/16 23:28
>>66 1492年に、スペインからユダヤ人が追放されたけど、カスティーリャとちがって
商業社会であるカタルーニャでは、経済的ノウハウを持った多くの専門家たちと、
彼らが銀行制度を利用して海外に逃避させていた資本を失うこととなり、
その損失は計り知れなかった。
これもカタルーニャの衰退に拍車をかけた理由の一つ。
>>58 サンクスです!
で、ラフの出所は何処なのかと調べてもわからんかったです。
どなたか御教授下さい。
69 :
世界@名無史さん:02/09/18 09:56
>>68 あれは襟や袖からのぞいていた白いシュミーズ(下着のシャツ)が強調され、
やがて刺繍で装飾されるようになり、16世紀後半にはとうとう本体から
切り離されて首に巻かれるようになったものです。
当時流行していた黒や暗色系の上着との対比が美しく、男女の別なく使用
されました。
70 :
世界@名無史さん:02/09/18 17:22
71 :
世界@名無史さん:02/09/23 16:10
中世のスペインと英国って、以外に関係が近かったんですね。
カスティーリャ王ペドロ1世は一時イングランドのエドワード黒太子と
同盟を組んでるし。
彼の二人の娘、コンスタンシアとイサベルはそれぞれランカスター公ジョン・オブ・ゴーント、
ヨーク公エドマンド・オブ・ラングリーと結婚してるし。
スペインと英国は、無敵艦隊の時代に戦ってるので中世から関係が疎遠だったように
思いがちだけど。
72 :
世界@名無史さん:02/09/23 22:25
>>71 >中世のスペインと英国って、以外に関係が近かったんですね。
っと言うか、中世と言うのは(西欧に限ったものだけど)グローバリズムの時代なんですよね。
ですからEU発足の際はしばしば類似性が指摘されました。
例えば、ローマ教会=EU、
大貴族=大企業(大貴族が国外に所領を持っているのは多国籍企業と似ている)等、
議論されました。
>>71 地政学的に、英⇔仏、仏⇔西
だから、<英+西>⇔仏
になることが多かったですね。
ヘンリー8世もカール5世(=カルロス1世)と組んでヴァロア朝と戦っていますし。
この状況が変わったのは
1.イングランドの宗教改革(→新教vs旧教)
2.オランダの反乱(→低地地方の安定は英国の安全保障に不可欠)
3.イングランドの海外進出(→植民地を巡る抗争)
の3つの状況が16世紀に出そろってから。
以後は19世紀に至るまでスペインは英国のほぼ一貫した敵となるようで。
74 :
世界@名無史さん:02/09/24 18:16
エドワード黒太子は1367年にカスティーリャ遠征を行い、ペドロ1世を復位させています。
しかし彼はこの遠征で赤痢に罹り、おまけに遠征に要した軍資金をどうやって
穴埋めするかで悩まされます。
遠征費は復位の暁に全額ペドロ1世が負担することになっていましたが、彼は
いくら催促されてもない袖は振れぬの一点張り。
結局ペドロ1世は1369年のモンティエルの戦いでフランス軍に敗北して
異母兄のエンリケ・デ・トラスタマラに殺害されます。
75 :
世界@名無史さん:02/09/25 17:23
>>73 そういえば、スペイン継承戦争ではイギリスはブルボン家のスペイン王位継承
を認めることと、フランス・スペイン両国が合同しない代わりに、ジブラルタルと
ミノルカ島を得たんだっけ。
76 :
世界@名無史さん:02/10/11 00:07
age
>46
でも、カタルーニャとアラゴンは成立からして別の国だったと思うよ。
カタルーニャ(バルセロナ)は、フランク王国からの独立だし。
78 :
世界@名無史さん:02/10/25 09:10
age
79 :
世界@名無史さん:02/11/07 20:38
カトリック両王(イサベルとフェルナンド)の結婚は、カタルーニャにとって
損だったのかな。
もっとも、カタルーニャの衰退はそれ以前から始まっていたけど。
80 :
天之御名無主:02/11/10 14:16
>>66 >おかげでいちはやく海洋に乗り出せた
ポルトガルのいち早い外洋への関心って、何が契機だったのですか。
82 :
世界@名無史さん:02/11/15 16:12
83 :
世界@名無史さん:02/11/15 19:32
ルイス・フィーゴage
84 :
世界@名無史さん:02/11/16 07:17
>>67 当時のユダヤ人排斥運動の背景は何だったのですか?
揚げておく
86 :
世界@名無史さん:02/12/03 19:24
中世じゃなくて申し訳ないのだが、イベロ人やルシタニア人は言語系統的にはバスク系なんでしょうか?
87 :
世界@名無史さん:02/12/15 07:54
age
88 :
世界@名無史さん:02/12/21 08:28
タイファ諸国を全部挙げてくれ。
89 :
世界@名無史さん:02/12/21 12:15
全部っていっても、どんどん統合が進むからなあ。
まあ、11世紀中期の主なもんなら、
サラゴーサ、トレド、バダホース(以上旧辺境区が独立化)、グラナダ、マラガ、
アルヘシラス、アルメリア、バレンシア、トルトーサ、デニア、コルドバ、
セビーリャ、レリダ、バレアレス諸島
くらいかな。あってる?
その後コルドバはセビーリャ、トレド、バダホースなどの草刈場と化してしまい
ますが、市街区域には民会があって一定の自治を行っていたそうです。
また、トレドは同世紀中に征服されます。
嫌がらせして御免ね。
この時期って、一人の支配者が複数の都市を支配したり、
都市の民衆が支配者を追い出して自治したりと、
同じ地区が複数の時期に(←後ウマイヤ朝停滞期、後ウマイヤ崩壊期、ムラービト崩壊期など)に独立してたりと、
とにかく目まぐるしく移り変わって、
安定した「国」と言えないような状況なので、
誰か詳しく知っていたらなぁと思って書いてみた。
この時期のタイファ期の都市国家って、西欧の都市参事会のように有力家系の寡占共和政なのでしょうかね?。中世北イタリアのように、最有力家系が王朝を築いた?。それとも、アイヤール、アフダースのような暴力集団が指導してたのだろうか?
レオン王国からフェルナンド1世が死んだ後、領地が分割されてできた
ガリシア王国について知りたいんですけど何かいい資料ありますか?
92 :
世界@名無史さん:03/01/05 04:24
age
(^^)
94 :
世界@名無史さん:03/01/16 08:13
age
95 :
世界@名無史さん:03/01/29 08:49
age
狂女王フアナ・ラ・ロカ
イサベル1世とフェルナンド2世の間の娘。
ブルゴーニュ公フィリップ(美公)と結婚。
夫の死後、遺体を馬車に乗せてスペイン中をさまよい歩いた。
97 :
世界@名無史さん:03/02/13 23:54
age
98 :
世界@名無史さん:03/02/22 08:05
サンチェス・アルボルノスとアメリゴ・カストロの論争。
イスラムの侵略による中世スペイン社会に与えたインパクトは言語や美術様式など
表面的なものだけで、ローマ・西ゴートの伝統を貫いていた、とする立場と、近世
のスペイン社会の出現はキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒の3つの勢力が
たがいに影響しあって出来上がった、とする説。
99 :
世界@名無史さん:03/02/22 11:44
>>98 なんかロシアにおけるモンゴル・タタールの影響をめぐる論争みたいだな。
100 :
世界@名無史さん:03/02/22 19:05
101 :
世界@名無史さん:03/02/24 00:44
102 :
世界@名無史さん:03/02/24 07:48
>>98 やっぱり自分達がアジアの影響を受けた、というのは気分が良くないんだろうな。
103 :
世界@名無史さん:03/03/02 19:00
Budejovice
さてなんと読むのか
104 :
世界@名無史さん:03/03/07 14:16
ここで聞いてもいいことなのかどうか迷う……けど聞いてみます。
スペイン女王イサベル1世について調べています。
歴史的な位置や役割などだけでなく、その人物像も。
基本的事項は一応、押さえてあるつもりなのですが……
彼女に関するエピソード、何か知っている方がいらっしゃったら是非教えてください。
彼女の周囲の人々、関係のある人々のエピソードにも興味があります。
兄貴とか旦那さんとか子供とか。
コロンブスとか。
レコンキスタ関係のイスラム側のエピソードも知りたいところです。
独立したスレを立てるかどうか迷ったのですが、ここで質問させていただきました。
このスレの趣旨から外れるようならご指摘下さい。
105 :
世界@名無史さん:03/03/07 18:58
>>104 このスレでいいですよ。
イサベルは異母兄エンリケ4世の差し金で、3歳のときに母と弟ともども、宮廷を
追放されて地方の城で育ちました。
かなりつましい生活を強いられたようです。
(ちなみにエンリケ4世の母はアラゴン王女マリア、イサベル1世の母は
ポルトガル王女イサベル)
18歳のとき、兄の反対を押し切ってアラゴン王子フェルナンドと結婚します。
106 :
世界@名無史さん:03/03/07 19:44
どこかの団体でレコンキスタという機関紙なかったか?
107 :
世界@名無史さん:03/03/09 16:48
ttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/chronology/world/~1550.htm コロンブス,カシーケとの戦争で捕虜となった五百人の先住民をセビリアに
送り奴隷として販売.イサベラ女王はこれを中止させ,聴聞院に提訴.
聴聞院は先住民の「販売」を禁止.
コロンブス兄弟,タイノ族千5百人を捕らえ,うち5百人をスペインに帰る
船団に積み込む.2百名が航海中に死亡,残りはセビリアで奴隷として
売られるが,まもなく,ほとんどが死亡.イサベル女王はただちにインディオ
奴隷の売買を禁じ「インディオはみずからの自由な臣下である」と宣言.
ただし食人習慣のあるカリブ族に対しては「そうした非人間的な習慣を
やめさせるため」奴隷化をゆるす.
109 :
世界@名無史さん:03/03/19 11:38
スペインって今でも一応、王様がいるから
「スペイン王国」って名乗れば良いのに
110 :
世界@名無史さん:03/03/20 19:37
カスティリャとアラゴンの系図を見たら結婚で合同しては、
何度もその兄弟に分割されている。なぜイサベルとフェルナンドの
ときだけ合同が成立したのだろうか。そしてなぜその前にはそういうこと
がなかったのだろうか。
>>110 イサベルとフェルナンドの結婚でスペイン王国が誕生したというのはウソで、
実際にはカスティリャとアラゴンは別個の国として扱われていたみたいよ。
アラゴン自体が小国の連合だしね。
112 :
世界@名無史さん:03/03/20 22:43
>>111 スペイン・ハプスブルク家統治下のスペインは、それぞれの地方がかなりの
自治権を持っていた。
ブルボン家統治下で中央集権国家になる。
スペイン国王という称号が正式に使われるようになったのは1806年に
ナポレオンの兄ジョゼフが王になった時で、それ以前は、カスティリャ・
レオン・アラゴン・両シチリア・・・その他もろもろの地域の王という
称号を並べて使っていた。
114 :
世界@名無史さん:03/03/20 23:35
>>113 スペイン領ネーデルラント(現在のベルギー)もそうだったね。
>>114 ネーデルラントだけでも、ブラバント公・フランドル伯・アルトア伯・エノー伯など
たくさん称号を持ってたみたい。全部並べたら、すさまじい長さだろうね。
116 :
世界@名無史さん:03/03/21 09:58
そういえばアメリカ大陸の植民地で用いられた副王制はもともとアラゴンの
制度。
117 :
世界@名無史さん:03/03/23 12:46
118 :
世界@名無史さん:03/04/05 16:35
アラゴン連合王国では、1412年にカスティーリャ王家出身のフェルナンド1世が
即位しますが、どういういきさつで彼が王位につくことになったんですか?
(^^)
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
121 :
世界@名無史さん:03/05/08 23:26
西ゴート王国の首都は、どこにあったのですか。
122 :
世界@名無史さん:03/05/09 19:47
123 :
世界@名無史さん:03/05/09 23:30
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
125 :
世界@名無史さん:03/05/27 01:13
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
127 :
世界@名無史さん:03/06/17 00:28
128 :
世界@名無史さん:03/06/28 14:32
日本ハムにエチェバリアという選手がいるけど、フランシスコ・ザビエルの
バスク名エチャベリアと関係あるのかな?
ぐぐっても両者を関連付けるものを見つけることができなかったが、どうなの
その辺。
エチェバリアという姓はスペインに結構あるみたいで、ツール・ド・フランス
の選手にもいた。詳しい人降臨キボン。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
131 :
大学一年生:03/07/21 22:05
大学の課題で「B.C8〜11世紀のキリスト教スペインの政治の変化を国家、王の権限と教会委の関係などを交えて論ぜよ」
ってのが出たんですけどよくまとめられませんそのあたりのことが詳しく書いてあるHP等ありませんか?一般教養の
授業なんでまったく歴史に疎いのにこんな問題出されて死にそうです…
132 :
世界@名無史さん:03/07/21 22:06
>>131 諦めろ。1年生ならまだ何とかなるだろ。
133 :
大学一年生:03/07/21 22:29
再履なんてしたくないです
>>133 図書館でスペイン・ポルトガル史なりを見てみたら?
少しは書くネタもできるでしょ
135 :
大学一年生:03/07/22 16:50
>134
先生の授業が恐ろしくマニアックなんですよ。本見たんだけど載ってない名前もたくさん授業に…
いや、あきらめろ。
>B.C8〜11世紀のキリスト教スペイン
世界史板住人にもわからん難問だ。マジで。
137 :
世界@名無史さん:03/07/22 17:33
そもそも8-11世紀ってイベリア半島の大半がイスラム化していたよな。そこで
キリスト教国家の歴史を探るというのは確かに興味深くはあるけど、大変なのは
確かだ。
139 :
世界@名無史さん:03/07/22 21:02
大体そんな授業やる講師って誰だ?
1年生ってことは一般教養レベルの授業なんだろうに。
140 :
世界@名無史さん:03/07/22 23:40
>>131 俺の持ってるD.W.ローマックス『レコンキスタ』(刀水歴史叢書
39)から抜粋して載せてみる。
正直王権や教会との関係についての記述は少ないので、あまり
約に立たんかもだが、レポートの水増しにはなるだろ。
711 ウマイヤ朝によるイベリア征服、西ゴート王国滅亡
718 ペラーヨを指導者とするキリスト教徒の蜂起、アストゥリアス
王国の成立(アルフォンソ3世『西ゴート諸王年代記』より)。
なお、以降周辺地域の征服が進むが、アストゥリアス、ガリシア、
レオンなどの地域ごとの政治的文化的独立性は高く、時代によって
はそれぞれ副王がおかれるなどした。
地方には伯が置かれた。
法は西ゴート以来のフエロ・フスゴ。
754まで アルフォンソ1世によるドゥエロ川流域在住キリスト教徒の
北方移住政策。結果、イスラム勢力との国境地帯の無人化成立
(以降、この無人地帯は国境の移動と同時に南下)。
また、イスラム支配地域在住のキリスト教徒がアストゥリアスに
かなりの数移住している。この移民をモサラベと呼んだ。
791以降 アルフォンソ2世による西ゴート化政策(即位時の塗油、
宮宰・宮中伯・尚書・厩舎長官storator・礼拝堂司祭長primicerius
等の設置等)=「新ゴート主義」(命名者:メネンデス・ピダール)
これ以降、王の選出は要人の宮中会議で決定された形跡があり、
国王選挙・廃位・復位の事例もある。
またアルフォンソはオビエドに司教座を新設したほか、いくつかの
司教座の再建を実施。
9世紀後半〜10世紀 ドゥエロ川流域へのキリスト教徒再植民が
進展。歩兵として軍役を担う武装農民が自治的村落を営み、特に
カスティリャにおいては、独自の慣習法を作成するなど独特の環境
を形成する。
10世紀以降は、これら軍役を負担する平民のうち、自前で馬と武器
を準備できる者を免税とした。結果平民騎士が台頭する。
910 ガルシーア1世がレオンで即位。これまでアストゥリアス王国を
形づくっていたレオン、ガリシア及びアストゥリアスのうち、レオンが
中心地となり、以降レオン王国と呼ぶ(〜1157)
982〜1002 後ウマイヤ朝の大臣ムハンマド・イブン・アビー・アーミル
(アル・マンスール(勝利者)の称号で名高い)によるキリスト教勢力
への攻撃。
1031 後ウマイヤ朝滅亡。以降、イスラム勢力は1086年までタイーファ
諸国(地方政権)の割拠時代に入る。レオン王国はそのいくつかから
貢納を徴収。
1085 レオン王アルフォンソ6世、内紛に乗じてトレード(かつての西
ゴート王都)を征服。以降、ドゥエロ川からグァダラーマ山脈までの
地域にキリスト教徒の再植民活動。
1086 ムラービト朝のスペイン侵入
ナバーラやアラゴン、バルセロナ泊領の動きは省略した。
143 :
大学一年生:03/07/24 16:02
ありがとうございます。なんとかなりました
>>大学一年生氏
亀レスで済みません。
正直言ってこれは外国語(せめて英語・できればスペイン語)
文献も読めなければ厳しい課題かと思いますが…
卒業論文一本書けるかもしれないテーマですしね。
レポートを書くという前提で邦語文献で言えば
立石編『新版世界各国史 スペイン・ポルトガル史』山川出版社
立石他編『スペインの歴史』昭和堂
ローマックス『レコンキスタ』刀水書房
ウルフ『コルドバの殉教者たち』刀水書房
安達かおり『イスラム・スペインとモサラベ』彩流社
ここから得られるヒントは大きいと思います。
少なくともこれくらいは読んでおかないと厳しいかも知れません。
デュフルク『イスラーム治下のヨーロッパ』は残念ながらあまり評判は良くありません。
(読まないでという意味ではありませんので注意)
注や参考文献などから得られる情報は多いですよ。
まずは読みたい本を捜して追いかけることが大切だと思います。
145 :
世界@名無史さん:03/08/02 14:03
146 :
世界@名無史さん:03/08/04 20:28
>>71 >>73 スペインは16世紀以降、英国との関係が悪化しますが、
ポルトガルはほとんどの時代、英国との関係は良好ですね。
スペイン・オランダに対抗するために英国の支援を仰ぎ、
経済的には従属するという形になる(これはスペインから独立した中南米の
植民地も同じ)。
147 :
世界@名無史さん:03/08/06 22:16
東方での十字軍や、中世シチリアにおける対イスラム戦では
ノルマン騎士が活動してたそうだが、イベリア半島における
レコンキスタでもノルマン騎士が活動してたんだろうか。
前者ではノルマン人の活動をよく耳にするが、イベリア半島の
レコンキスタにおける、ノルマン騎士の活動なんて聞いたことが
ないのでふと気になってた。
148 :
世界@名無史さん:03/08/07 10:22
>>147 イベリア半島とノルマン人の関係というと、
9世紀にノルマン人がビスケー湾岸に到達して、バスク人が彼らから航海術を
習得したという例があるけど、
レコンキスタについては特にノルマン人が活躍したというのは聞かないですねえ。
ピレネーを越えるとそこは
150 :
世界@名無史さん:03/08/07 16:08
アフリカ
151 :
GET! DVD:03/08/07 16:10
153 :
世界@名無史さん:03/08/07 16:13
>>149 19世紀のフランス人が、
他のヨーロッパ諸国とは逆に半近代化の方向を強めるスペインを蔑視し、
その風土的な特性をも加味して言った言葉らしい。
ニグロはカレーから始まる。by English
155 :
世界@名無史さん:03/08/07 16:24
>>154 「カレーの先はすべて暗黒のジャングル」という言い方もあるらしい。
ピレネー越えたらアフリカって西班牙人に言ったらぶっ殺される?
158 :
世界@名無史さん:03/08/08 03:57
いわゆるノルマン人のレコンキスタ全体における役割はよくわかりませんが、
ノルマンディのTosny家などの有力家門などが11世紀には参加していました。
また、ノルマンコンクエストにおいて、
優秀な騎馬をWilliam征服王が所有していたのも、
スペインからのアラブ産の馬の導入についてはよく言及されているところです。
その後も、フランス王との対抗関係上、
中世においてはイベリア半島とは結構良好な関係にありますし。
159 :
世界@名無史さん:03/08/27 21:35
中世スペインの社会や文化についても語ろう。
サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼、
スペインのロマネスク美術、ゴシック美術、
トレド翻訳学派、ムデハル様式など。
160 :
世界@名無史さん:03/10/13 10:37
亀レスですが、
>>118 田澤耕著『物語 カタルーニャの歴史 知られざる地中海帝国の興亡』
中央公論新社刊(中公新書)から少し引き写してみました。
1410年に連合王国の国王マルティ(マルティン)1世が亡くなって、連合王国の
王家であるウルジェイ家が断絶します。既にマルティの嫡子は亡くなっていて、
カタルーニャ、アラゴン、バレンシアからの代表が集まって会議で継承者を
決めることになりました。アラゴンのカスプ(カスペ)で会議が行われたので
これを「カスプの妥協」といいます。
一番の有力候補は普通皇太子が就く王国総督に就いていたウルジェイ伯
ジャウマ(ハイメ)2世でしたが、彼は権威主義者として知られていて、カタルーニャの
協約主義(王と臣民の合意の下国政を行うシステム)を反故にするおそれが
あったため、他の候補を探すことになりました。その候補の一人がフェルナンド・
デ・アンテケーラ、後のファラン(フェルナンド)1世でした。
フェルナンド・デ・アンテケーラことファラン1世が最終的に即位する
ことになったのは、カタルーニャが「外国人の王」ファランのほうがウルジェイ伯
ジャウマよりは協約を守ってくれる可能性が高いと踏んだことや、アビニョン教皇の
思惑などがあったためのようです。
ちなみに、表向きの理由は亡くなったマルティ1世に血縁的に一番近い男子
(マルティ1世の妹エリオノールとカスティリャ王フアン1世の子)とのことです。
結局トラスタマラの国王とカタルーニャは事あるごとに「協約」を巡って
しばしば対立するようになりましたが。
162 :
世界@名無史さん:03/10/14 13:56
そういえば14世紀末頃のポルトガルにドゥアルテという
名の王がいたそうだが、ドゥアルテは英語名のエドワードを
現地読みした名だというのをどっかの本で読んだことがある。
そのエドワードはアングロサクソン起源のイングランド名
でイングランド王室の伝統名の一つだけど、ドゥアルテ王
がこの名を付けられたのは彼がイングランド王室の血をひい
てたからなんだろうか。
>162
ポルトガル王ドゥアルテ1世の曽祖父がイングランド王エドワード3世
のようです。某系図ページで見つけました。
エドワード3世=フィリッパ
|
ジョン・オブ・ゴーント(ランカスター公)=ブランシュ
|
ジョアン1世(ポルトガル王)=フィリッパ
|
ドゥアルテ1世
情報大変感謝いたします。
初めてお便りします。あまりイベリア半島史詳しくないんですが、
別スレで、イベリア半島では庶子の王様が多い。との記載がありました。
その後、レスで、初夜権がどうのこうのとありました。
庶子の王は、初夜権行使の結果と理解しきってよいでしょうか。
愛妾とかではないかと僕は思います。初夜だけでなく、ずっと愛妾として使えて、
寵愛を維持し、初めて、自分の子を継がせることができるではと思います。
初夜権の後、愛妾になるケースとか多いとは思えませんし(?)。
もちろん、愛妾の子がいなければ、初夜権の庶子も可能性はあると思いますが。
あと、もうひとつ、「庶子が継ぐ」と継承権の問題で一族から横槍があったり、しませんか。
兄弟分割相続の盛んなようですから、
従兄弟、鳩子がいっぱい異議を出してきな臭くなりかねないのでは??
さらにもうひとつですが、カトリックのお盛んな土地ですが、
庶子が継ぐとか問題はなかったのでしょうか。
教皇の承認とか、お金で解決でしょうか。もっとも、
カトリックにとって大事な国だから教皇も硬いことは言わないということでしょうか。
(イギリスなんか、エリザベス一世が嫡子と認めうるかどうか、反対派からは少し問題になったと記憶します)
さて、イスパニアついでですが。
高校教科書レベルでは、
皇帝とは本来、
ローマを継ぐようなイメージかと思います。
教皇と皇帝が居てというような。
それで、カロリング朝の後では、
西ではローマ教皇と神聖ローマ皇帝とが居てというイメージかな、
つまり、皇帝は国家民族(部族)を超えた普遍的な概念のよう。
しかし、イメージはどの程度のものだったのでしょうか。
だいぶ昔にイスパニアでは、伝統的に
「イスパニア皇帝」という名乗りがあったそうです。
どこだったかのアルフォンソ3世とかも名乗っていますよね(どこだったかが大事ですけど)。
「イスパニアの」ですから普遍的な皇帝でないですよね。
すると、この皇帝理念はスペインでは、熱心なカトリックですけど、
西ローマ皇帝(の後継者としての、神聖羅馬皇帝)という概念は認めなかったんでしょうか。
どなたか、ご意見を下されば幸いです。
バルセロナ伯は、フランク王国に義理を感じてか、ずっと伯のままでしたけど。
167 :
世界@名無史さん:03/10/18 21:13
ガリシアとポルトガルの関係は?
168 :
世界@名無史さん:03/10/18 21:20
ガリシアとポルトガルの歴史的関係は?ポルトガル旧領土でスペインに取られた土地が
ガリシアなんですか?
そのばあいの「皇帝」は、「諸王の王」的な称号かと。アストゥリアス
副王、ガリシア副王、ナバーラ王、場合によってはいくつかのイスラム
君主の上位に位置するレオン王、という意味合いで。
ローマ皇帝位を意識したものではないと思います。
(ローマックス『レコンキスタ』などを読んだ印象から書いてみますた)
>168
>ポルトガル旧領土でスペインに取られた土地がガリシアなん
>ですか?
ガリシアが葡領になったことはないよ。
ガリシアはアストゥリアス王国成立後まもなく(8世紀)併合され、のち
副王が置かれたりしている。ポルトガルより由緒?がある。
ポルトガルはレオン王国(アストゥリアス王国の後身)内のポルトカレ
伯領が源流。伯領は9世紀に成立し、以後イスラム支配地域を蚕食し
て南領土を拡大していくが、その間ガリシア副王やレオン王やカスティ
リャ王と戦ってもいる。カスティリャへの臣従を脱して王位を得たのは
1143年になってから。
もちろん領土が隣同士だし、言葉や文化も似ているけどね。
>>165-166 >寵愛を維持し、初めて、自分の子を継がせることができるのではと思います。
確かに、愛されない妻の子に継承権が回るのには若干不利になる傾向があるようです。
ただ、(私の知る範囲では)それを決定的にするのは先妻の子供が何らかの行動を
起こした結果(先妻の子が愛妾を殺害、反乱、先妻の子が病死など)で愛妾の子に
継承権が回ってくるようですが。
>「庶子が継ぐ」と継承権の問題で一族から横槍があったり、しませんか。
後継者が嫡子でも庶子でも文句をつける人はいたようです。
>>161の「カスプの妥協」の実例では、マルティ1世の嫡子に庶子フレデリックがいて、
マルティ1世はフレデリックにあとを継がせようとしたらしいのですが、(彼が庶子で
あったからかはわかりませんが)後継者の指定をせずに亡くなってしまいます。
こういうことから考えると、庶子が跡を継ぐことに抵抗がないわけではないようです。
嫡子でも嫡子が幼少の場合、暗殺しようとする父方のおじがいたようですよ。
>庶子が継ぐとか問題はなかったのでしょうか。教皇の承認とか、お金で解決でしょうか。
当時は王が結婚をする際には(必ずとも言えませんが)教皇にお伺いを立てていたようです。
お伺いを立てた上で、教皇が政治的思惑などの上で判断するようです。
そういうことから、庶子の可能性の出る再婚自体承認されないケースもあったようです。
話がそれますが、教皇に戴冠してもらうには多額の寄付が必要だったそうです。
>バルセロナ伯は、フランク王国に義理を感じてか、ずっと伯のままでしたけど。
カタルーニャ=アラゴン連合王国の王と名乗ることはあったようですよ。
172 :
世界@名無史さん:03/10/19 02:18
ムスリムの血が混ざっていないアストリアスは「純血」だということで、
宮中役職はアストリアス出身者でないと駄目だったらしい。
173 :
世界@名無史さん:03/11/01 00:13
カステラなんて国名恥ずかしい。日本で言えば、饅頭国みたいなかんじだ。
174 :
世界@名無史さん:03/11/01 08:40
>>173 カステラ(カスティーリャ)は、「城塞」という意味の国名。
お菓子のカステラは日本人が勝手に付けた名前。
175 :
世界@名無史さん:03/11/01 08:42
ポルトガル語が語源
スペイン語ではない
176 :
世界@名無史さん:03/11/01 20:29
ラ・マンチャはカステラ(カスティーリャ)の一部
今の行政区分だと
カスティーリャは
castilla y leonとcastilla la mancha.
です。因みに、簡単と言われる(言われるだけだけど)スペイン語でも
「リャ」がちゃんと発音できる日本人は少ない。
178 :
世界@名無史さん:03/11/01 21:21
>>174 カスティーリャて、国名からして「軍事国家」というイメージだな。
アラゴン・カタルーニャに比べて王権が強かったらしいけど。
179 :
世界@名無史さん:03/11/04 03:46
ナスル朝などのイスラム教徒名門の子孫はいないの?
180 :
世界@名無史さん:03/11/04 07:29
>>179 マグリブ諸国にはアンダルスから亡命したムスリム貴族の末裔が多いんじゃないの?
181 :
世界@名無史さん:03/11/05 17:24
>>171 スペイン国王がブルボン王朝に変わったとき、ハプスブルクの王には庶子がいたそうだけど
182 :
世界@名無史さん:03/11/22 16:55
マールさんと171さんのやり取りのうち庶子の件ですが、
マールさんは、庶子といっても、
初夜件による庶子と愛妾の庶子と区別していますよね。
171さんは、庶子と嫡子の違いに注目していますけど、
マールさんは、嫡子と愛妾の庶子、初夜権の庶子をとりあえず3つに分けていますが、
愛妾の庶子は、嫡子に准ずる者で、初夜権の庶子とは相当別物という感覚で書いていますよ。
初夜権の庶子って、どうなんでしょうか。
フィガロの結婚で、結局スザンナが初夜権を行使され、伯爵の子が生まれたら、
その子は、それなりに貴族の息子の待遇を期待できるんでしょうか、
また、嫡子に事故があり、スザンナの息子が伯爵になる事態もそんなに異常ではないのでしょうか。
そのとき、スザンナはそれなりの待遇が期待できますよね。
フィガロもスザンナは王の城に住む使用人ですけど、農村に住んでいる農奴の場合、どうでしょう。
生まれるまで十月十日、城に居るわけですか。
農村にボロヤに住んで、そこで生むんだとおもいますが、すぐ引き取るのですか。
引き取らずにいて、しかし、その子も貴族の息子の資格があるんだとしたら、
イベリア半島は、天一坊だらけで大岡越前大忙し状態ですよね。
183 :
世界@名無史さん:03/11/22 23:22
爵位は息子のすべてが継げるわけじゃないらしい。家督を継ぐものだけみたい。
正式な子供なら、下級の爵位ぐらいもらえるみたいだけど基準が良く分からん。
あと、下級貴族は一代限りの爵位みたいだよ。
184 :
世界@名無史さん:03/12/05 21:59
スペイン人の「オノラ」(名誉)は、具体的にどんな感覚ですか?
186 :
世界@名無史さん:03/12/14 01:31
スペインって、国旗によれば、たしか4つの王国の結合を示していたと思う(実際は、もっとありそうで、どの4つか、と思うんですが)。
よって、複数の国の連合ということなんではないでしょうか。
もっとも、この連合といっても、それが自治権とはストレートにはつながらないと思いますが(ナバルは、それとカタランは、それなりに自治権あるようですが)。
よって、スペイン王位とは通称であって、抽象的意味での王冠は複数なのかとも(つまり同君連合)思えてきますね。
ちなみにイギリスは、イングランドとスコットランドと、、、の同君連合でしたが、
1707年「連合王国」になって、それぞれの王(イングランド、スコットランド)とかはないみたいですね。
イベリア半島に詳しい人の登場を待ちましょう。
>>187 確かナバラは最終的にはアラゴン王ファラン(フェルナンド)2世に征服されてアラゴンと
同君連合になったものの、孫のカルロスの王位即位の際にナバラ独立を恐れ、カスティリャに
併合したようです(カスティリャ議会が戦争歳費をファランに与え、その見返りとして
カスティリャにナバラを与えたようです)。
こういう経緯から考えると、ナバラ王位はカルロス1世からハプスブルク、ブルボン王家を渡って
現スペイン国王ジュアン(フアン)=カルロス1世がナバラ王、と思われます。
ただ、1285年にフランス王フィリップ4世がナバラ王となってから、フランス王が革命まで
ナバラ王を名乗り続けたので、アンドラ公国のフォア伯の方の宗主権がフランス大統領に
渡ったようにフランス大統領がナバラ王、という考え方もできますが。
>>188 国旗によれば5つの国の連合(カスティリャ、レオン、アラゴン、ナバラ、グラナダ)の
結合だそうです(小学館「西和中辞典」より)。
詳しく挙げたらたぶんきりがないでしょう(バレンシアとかも普通に入ってそう)。
191 :
世界@名無史さん:04/01/06 17:16
アーヘンの和約(オーストリア継承戦争の講和条約、 1748) における
スペイン国王フェルナンド6世の全権委任状の冒頭部分
フェルナンド、神の恩寵によりカスティリャ、レオン、アラゴン、両シチリア、
エルサレム、ナバラ、グラナダ、トレド、バレンシア、ガリシア、マヨルカ、
セビリア、サルデーニャ、コルドバ、コルシカ、ムルシア、ハエン、アルガル
ヴェ、アルヘシラス、ジブラルタル、カナリア諸島、東西インド、及び大洋の
島々と陸地の国王、オーストリア大公、ブルグント、ブラバント、ミラノ公爵、
ハプスブルク、フランドル、ティロル、バルセロナ伯、ビスカヤ及びモリナ卿
等々。天なる神より私の王冠に合された広大な属領の統治を信託されて以来・・・
この中でイベリア半島の領土は
カスティリャ、レオン、アラゴン、ナバラ、グラナダ、トレド、バレンシア、
ガリシア、マヨルカ、セビリア、コルドバ、ムルシア、ハエン、アルガルヴェ、
アルヘシラス、ジブラルタル、バルセロナ、ビスカヤ、モリナ。
ビスカヤとモリナってどこだかわからんな。湾とか海のことか?
で、
>>113ではジョゼフ・ボナパルト以降はただの「スペイン王」になったみた
いな書き方だが、ソースキボン。
>>191 ビスカヤ(Viscaya)
現在では、スペイン北部のバスク自治州を構成する県の一つ
ビスカヤ湾=ビスケー湾
>>191 「スペイン国王」の称号の問題は『スペインの歴史』(昭和堂、1998年)の一節「「スペイン王国」の構造」が詳しいです。
>>131にあるように1808年は「スペイン国王」の称号が公式に使われるようになった最初の年で
これは上記の文献にも記されている(そこでは具体的な史料は挙げられていない)
それ以前にはやはり領土に含まれていった各地域が列挙されていて
フェリペ2世の遺言状では
「神のご加護による、カスティーリャ、レオン、アラゴン、両シチリア、ポルトガル、ナバーラ
グラナダ、トレード、バレンシア、ガリシア、マジョルカ、セビーリャ、サルデーニャ、
コルドバ、ムルシア、ハエン、アルガルベ、ヒブラルタール(ジブラルタル)、
カナリア諸島、西インドおよび東インド、大西洋の諸島と大陸…の国王、
ブラバントとミラノの公爵、フランドル、…バルセローナの伯爵、ビスカーヤとモリーナの領主、等々」
となっている
(アルガルベはポルトガルの南海岸、モリーナはカタルーニャのピレネー沿いにある)
で、カトリック両王の時代以降も1808年に至るまで「スペイン国王」の称号は公式には使われず
>>191のフェルナンド6世や上のフェリペ2世のように「○○と××と…の国王、…の公爵」という
表現が使われた。
ここで気をつける必要があるのが
「1492年はカトリック両王のもとで国土・宗教共に統一された近代スペインが成立した」というよく見られる見解。
この見解はフランコ時代の地域主義否定・伝統的カトリック教会重視のなかで作られた産物で、最近では
カトリック両王によって共同の統治が始まったが、イベリア半島の各地域(後にポルトガルが独立)は
それぞれの法体系・行政組織・議会・税制を維持しており、直接に統一的近代国家のスペインが成立したとは
言い難い。そしてこの時期の「スペイン」は
王(カスティーリャの王でありアラゴンの王であり以下上述したいろんな地域の領主であるところの)を
媒介として、カトリックを統合の原理とした各地域の緩やかな統合体であった、とする見方が現在では多い
(その統合を維持する手段がカトリックのキリスト教共同体の確立(=具体的には異端審問や強制改宗)だった)
近代国家としてのスペイン政治的統合は
基本的にはカスティーリャの法や行政制度を他の地域に移植する方法で行われたが、
これは18世紀の間を通じて大問題だった
…というのがだいたいの論旨です(長くてスマソ)
「スペイン国王」の称号が19世紀初頭の旧体制の崩壊まで公式に用いられることがなかったことと
カトリック両王以降の同君連合的な統合の在り方とは密接に関連しているようです。
そして「フランス国王」の称号が使われていた(もちろん国家の構造も大きく異なる)
フランスから来たホセ(フランス名でジョセフ)・ボナパルトが「スペイン王」を名乗ったのは、
フランスの統一的な「国王」の称号をイベリアの地に持ち込んだと考えられるのではないでしょうか。
>
>>113ではジョゼフ・ボナパルト以降はただの「スペイン王」になったみたいな書き方
ただの「スペイン王」になったというよりこれ以降「スペイン王」の称号が段階的に定着していき
各地域を政治的に統一する過程の中で各地域の称号に取って代わられたと見るべきでしょう
>>192 >>193 おお、凄い詳しく書いてくれてありがとう。
各地の行政・法制的統合は長い時間をかけて進められたんだな。
隣のフランスみたいな(行政制度的には)均一な国の方が特殊だったんだろうね。
197 :
世界@名無史さん:04/01/23 12:46
>>90 >この時期のタイファ期の都市国家って、西欧の都市参事会のように有力
>家系の寡占共和政なのでしょうかね?。中世北イタリアのように、最有力
>家系が王朝を築いた?。それとも、アイヤール、アフダースのような暴力
>集団が指導してたのだろうか?
だれかこれに回答プリーズ。ちなみに、アイヤール、アフダースてのは、
都市の街区や職能集団を地盤として男気(ムルッワ)を徳目とし、弱者救済
や富裕層への強請行為などを行ったやくざ者のこと。時代が下ると自治
組織をもって街区の利益を代表し、街区の防衛や祭礼・年中行事をとり
しきったほか、イランやイラク南部では警察機能や行政権も担ったことも
あるそうだ。
ملوك الطوايًف
عيار
احداث
199 :
世界@名無史さん:04/01/23 15:30
ハエン、アルガルヴェ、
ってどこですか?
Jaén
Algarve
>>199 ハエンはアンダルシアの北東部。コルドバの東、グラナダの北。
アルガルベ(ポルトガル語ヴェ)はポルトガルの最南部。(
>>193参照)
>>197 ネットでは、なかなかアンダルスの内情に関する情報は得ることが
できない。
シャームやミスルやマーワラーアンナフルに関してならそこそこある
んだが・・・
>>144にある本や、入手困難だがW.M.ワット『イスラーム・スペイン史』
岩波書店1976 2000円 を探すしかないかも。ちなみにローマックス
『レコンキスタ』は持ってるが、イスラム側の都市の自治についての記述
はほとんどないね。
洋書ならいくらでもあると思うがな。
203 :
世界@名無史さん:04/01/23 22:40
ムスリム貴族が改宗して
スペイン貴族として残らなかったの?
204 :
世界@名無史さん:04/01/25 19:04
>>203 改宗者は後々まで「本当に改宗したのか?まだムスリムのままじゃ
ないのか?」と疑われ続け、あげくに1609年をはじめとして何度となく
追放されているから、貴族として残ったのは本当に少数と思われ。
ロシアにおける改宗タタールのようには手厚くされなかったことは確か。
206 :
世界@名無史さん:04/01/27 14:42
一時はイスラム教徒、アラビア語話者が
イベリア半島の多数派になっていたというのは本当ですか?
アブド・アッラフマーン1世って誰か小説にせんかな。
小説の題材としては最高だと思うんだが。
それにしても、この人の日本語表記はバラバラやね。
208 :
世界@名無史さん:04/02/13 13:50
>>206 それデュフルクが書いてるの読んだのか?
俺は眉唾だと思うな。言語に関しては、大多数は俗ラテン語話者だと。
「支配層の多数派」がムスリムでアラビア語話者というのならまだわかる
がな。
もっとも貴族層でも、アラブ人やベルベル人起源でない人々は、ずいぶん
あとまで俗ラテン語を話していたという話がある。
209 :
世界@名無史さん:04/02/15 14:48
征服されたキリスト教徒は都市部でだけ残り、
農村民は人頭税ジズヤのうえさらに地租ハラージュもとられるので
イスラム教の改宗したのではないの?
イスラム教国家で基督教ユダヤ教が残っているところは主に都市では?
>>128 サッカー選手にもいますよね。(多分バスク人)
アスレティック・ビルバオ所属のスペイン代表FWホセバ・エチェベリアがいますね(バスク人)
あと前のほうに出てたハポンという姓の選手もバジャドリというクラブにいます
ヘスス・ハポンだったかな
212 :
世界@名無史さん:04/03/23 00:25
質問なのですがスペインとポルトガルは隣国同士で覇権争いをしながら、全面戦争に発展しなかったのはなぜですか?
>>212 1384年にカスティーリャのファン1世がポルトガル王位継承を主張して侵攻し、
翌年にアルジェバロッタで撃退されている。dで1640年にはジョアン4世がスペイン
から分離独立しブラガンサ朝を開いて44にスペイン軍をモンティホで破る。
これらを”全面戦争”言わんなら中世〜近代の西欧の国同士での全面戦争など
一つもないぞ。
214 :
世界@名無史さん:04/03/23 01:29
>>213 一応戦争してるのですね。わかりました、どうも。
215 :
カウニッツ:04/03/24 04:47
良スレの予感!本当に勉強になりますね。
216 :
世界@名無史さん:04/03/27 20:59
¡¡¡ Arriba !!!
217 :
世界@名無史さん:04/04/08 06:19
フランスのブルボン家とナバラは関係ないの?
アンリ4世はフランス王になる前はナバラ王エンリケ3世だったんだから
関係大有りだが。
219 :
世界@名無史さん:04/04/16 15:41
>>218 実質的にはないよ。
持ってたのは有名無実になっていた単なる王位にすぎん。
領土を保有しているわけではない。
220 :
世界@名無史さん:04/04/17 04:01
バスクとの血縁関係は?
221 :
世界@名無史さん:04/04/17 21:53
フランス領ナバラとスペイン側のナバラとの境界は、
いつ、どのように決まったのですか?
1659年11月7日ピレネー条約が締結されスペインとフランスの国境が画定した。
1635年フランスの三十年戦争参戦以降、戦争状態にあった両国は、
ウエストファリア条約で講和が実現せずに、その後、1658年6月の
「砂丘の戦い」の敗北を受けて結ばれた。
このとき、ピレネー山脈の稜線(自然国境)に基づいて国境線が引かれた。
223 :
世界@名無史さん:
ふんふん、なるほど