★中華民国期の革命勢力★

このエントリーをはてなブックマークに追加
1靡莫
中華民国期に活動した各種革命勢力について語るスレッドです。

国民党や共産党のみならず、その内部の派閥や中間派(民主党派)、
財閥、幇、地下組織など、この時期の中国に出現した各種勢力なら
何でもOKです。

ただし、軍閥や親日政府、あるいはそれに関連した組織の場合は、
こちらのスレッドでお願いします。

「中華民国期の軍閥を語ろう!」
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1004108800/
「民国期親日政府スレッド」
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1010761288/
2世界@名無史さん:02/03/24 12:37
2ダ!
3中国共産党:02/03/24 18:59
1921年7月、上海・北京・済南・武漢・長沙・広州・東京等の地の
共産主義小組が上海の地に代表を派遣して、第一回全国代表大会を開き
成立(湖南省代表は毛沢東)。党綱領を採択し、陳独秀を党中央書記に
選出。22年7月に第二次全国代表大会を挙行し、反封建的民主主義革命
綱領を提出、第三インターに加入。23年6月、第三次全国代表大会を
開催。革命統一戦線を建設し国共合作を実現する政策を制定。共産党の
政治的・組織的独立性を保持を前提の上で、共産党員が個人の身分で
中国国民党に加入することを決定した。国民党改組の後、労働・農民運動の
組織化に尽力を尽くしたが、27年4月の蒋介石反共クーデターののち、
7月にかけて国民党右派の背反にあい、国共合作が破綻。27年8月から各地で
先後して武装蜂起(南昌起義)するも失敗。28年6月、モスクワで第6回全国
代表大会を開催。中国革命の性質・任務・路線問題の統一を行い、工農紅軍を
建設して革命根拠地をつくり、工農民主政権の建設と土地革命を実行して、
逐次農村より都市を包囲してゆく路線に着手。31年11月には中華ソビエト共和国
臨時中央政府を建設し、4度渡る国民党の包囲掃討戦を撃破。しかし、王明・博古
らの左傾機会主義が党を掌握した結果、革命根拠地は第五次包囲掃討戦下、
つぎつぎと失われ、34年10月から長征へ。35年1月遵義会議により毛沢東の
指導権が確立する。長征の途上、35年8月「抗日民族統一戦線」の建設を呼びかける。
36年12月、西安事件の和平解決をおこない、中国国民党に抗日民族統一戦線の
結成を促し、第二次国共合作が成立。日中戦争勃発後、国共合作宣言を公布、
紅軍と南方遊撃軍をそれぞれ国民革命軍第八路軍・新編第四軍と改称する。
37年8月、洛川会議で敵の後方で遊撃戦を展開することを決定し、華北・華東・
華中・華南各地で抗日根拠地を建設。38年10月以降、国民党の親日派の離脱、
国共間の軍事摩擦の中抗戦を堅持。41年〜42年の整風運動をへて、45年4月
延安で第7次全国代表大会を開催。党の指導下、日本軍国主義を打倒し全国の
人民を解放して新民主主義中国の建設を行なう政治路線を採択するとともに、
マルクス・レーニン主義と並んで毛沢東思想が問うの指導思想として規定される。
45年8月国民党と重慶談判を行い、双十協定が締結されて46年1月には
政治協商会議に代表を派遣、和平建国方針を確定するも、国共双方の軍事的衝突
が日増しに高まる中、46年6月ついに全面内戦に突入。人民解放軍は戦略防御・
戦略攻勢・3大戦役を経て国民党軍をおいつめ、49年4月南京を陥落させる。
49年9月に新政治協商会議をひらいて後、10月1日北京において
中華人民共和国中央人民政府の建設を宣言。以後政権をにないつづけて今に至る
4中国国民党 <前編>:02/03/25 00:48
中国同盟会(1905)→国民党(1912.8)→中華革命党(1914.7)という
流れの後、中華革命党の改組により成立した政党。
孫中山(中山は日本時代の仮名中山樵から)の手により1919年10月10日に発足。
≪中国国民党規約≫を発表するとともに、≪三民主義≫を宗旨として出発。
その組織は総経理を1人おき、党務を総覧するという形式をとった。
本部を上海に設け総務・党務・財務など各部を設置。1922年6月広東軍閥陳炯明
の反乱により広東を離れ上海に赴き、コミンテルンと中国共産党との協議を行い
国民党改組を決定する。1923年11月6日≪中国国民党改組宣言≫と党綱領・規約
草案を公布、1924年1月20日には広州で中国国民党第一回全国代表大会を開催。
そこで≪中国国民党章程≫と≪宣言≫を採択し、≪聯ソ・容共・扶助農工≫
の3大政策と新≪三民主義≫が打ち出され、国共合作の政治的基礎となった。
大会の後、黄埔に陸軍軍官学校を設立し党軍の建設に着手するも、
国民会議に参加のため病をおして北京に出向いた孫中山は、
1925年3月12日北京西山にて、「未だ革命ならず」の言葉を残し逝去する。

孫中山の死後、3大政策に反対する国民党右派は≪西山会議派≫を結成。
1926年1月広州で第二次代表大会を開催。
6月4日第二届中央執行委員会臨時全体会議において≪迅行出師北伐案≫が通過。
1926年7月国民革命軍が北伐を開始。呉佩孚・孫伝芳を打ち破り長江中下流へ
進出するとともに、26年11月に国民党中央政治会議が武漢遷都を決定する。
1927年3月国民党第二届三中全会が武漢で開かれ、国共合作強化決議などが通過
するも、国民革命軍総司令の蒋介石は27年4月12日に反共クーデターを断行。
4月18日に南京に国民政府成立を宣言し、武漢国民政府と対立することになる。
その後7月15日、汪兆銘は国共合作解消を宣言し武漢・南京両国民政府が合流。



5中国国民党を書いた人:02/03/25 00:55
中編は誰か書いてくれ。
軍閥と蒋介石の対決は分かりにくくて俺には無理だ〜
6世界@名無史さん:02/03/26 15:42
【宋教仁】

湖南省桃源県の人。1882年生まれ。地主階級の子弟として生まれ、若きより
教育を受け1902年の外遊ののち、1903年民主革命家として知られる黄興とともに
長沙で華興会を結成する。1904年武昌で科学補習所を組織する傍ら、
華興会は、11月16日(旧暦10月10日)の西太后の喜寿(70)の日に、
長沙蜂起を行なうことを決定。常徳にて宋教仁は工作に当るも計画は露見し、
日本へ脱出することになる。1905年与田桐らと雑誌『二十世紀の支那』を創刊。
ならびに中国同盟会を組織し、『民報』において革命の宣伝に努める。
1907年以降南方起義工作を展開し、1911年上海に帰り『民立報』を創刊。
ならびに同盟会中部総会を組織し、以後長江流域での武装蜂起を模索する。

1912年の南京臨時政府成立に際し法制局長に就任。北遷後は農林総長の職に。
中国における議会政治の実現に傾注し、議会政治に関する研究をおこなった
宋教仁は、袁世凱の独裁権力の掣肘のため、責任内閣制の実現を狙い、
弱小諸党派をも糾合して、1912年8月国民党を結成し、翌年2月の国会選挙で
国民党に共和・民主・統一各党を合わせた数より多い絶対多数の勝利をもたらす
ことに成功する。しかしながら1913年3月上海から北京に向かおうとする途中
上海駅で袁世凱の手のものに暗殺されることになる
7世界@名無史さん:02/03/27 19:21
【杜月笙】
1888年上海川沙県に生まれる。幼くして父母をなくし、1901年より上海へ。
果物屋に奉公する傍ら、漕運の水夫人組織に起源を持つ秘密結社≪青幇≫
の頭目の一人、陳福生の元に身を寄せ、その後上海で賭博場・売春宿・アヘン窟
を営み、幇会中最大の勢力の一つ、青幇の大頭目・黄金栄の腹心として台頭する。
黄の下、1918年上海でアヘン運搬組織「小八股党」を結成し、アヘン商と租界・
軍閥と連携し、アヘン流通を掌握。1927年3月、中華共進会を結成し、4月12日の
蒋介石反共クーデターの際に、上海市総工会委員長汪寿華を殺害し、配下の青幇
を使い工人糾察隊を鎮圧。南京政府成立後は、軍事委員会参議、陸海空軍総司令
顧問、行政院高級参議に任命され、また上海地方協会会長などを歴任する。
経済活動でも裏ばかりではなく、中匯銀行を創設するなど、70以上もの商工業
絡みで運営に携わる。抗日戦勃発後、上海で抗日活動を行い、陥落後は香港で、
1941年以後は重慶でアヘン流通に携わりつづける。抗日戦勝利後、
一時上海市参議会副議長になるも、1949年4月香港へ脱出。51年8月病没する
8世界@名無史さん:02/03/28 20:46
【虞洽卿(ぐ・こうけい】
1867年、浙江鎮海県(寧波)に生まれる。15歳のとき上海に出て英語を磨き、
1895年ドイツ系商会の買弁となる。1902年華俄道勝銀行(ロシア系銀行)の買弁
に任じられ、翌年改めて荷蘭銀行(オランダ系銀行)の買弁に任じられる。
1908年、寧紹輪船公司を設立し、総経理となり経営を営み、1911年には、
全国商団連合会の名誉会長に推戴される。辛亥革命後は上海都督府の顧問官・外交次長。
1912年以後、相次いで海運会社である三北輪船公司、鴻安輪船会社、寧興輪船会社
を設立。1923年上海総商会会長になり、1925年には北京前後会議に出席。
1927年3月には、江蘇・浙江の上層の社会階層の人間と連合して、上海商業聯合会
を組織し、江蘇兼上海財政委員会の委員に任ぜられ、蒋介石が設立した南京国民政府の
財政的支援をおこなう。一説には4・12クーデターの前に、蒋介石に6000万元の
支援を申し出たとされる。29年には上海公共租界工部局華董に任じられ、
上海航業公会理事長となる。36年には、彼の喜寿を記念し、上海の旧西蔵路が
虞洽卿路に改称されることになった。抗日戦勃発後は上海で市難民救済協会を結成。
免税で米を輸入する事業を経営し巨額の利益。1940年重慶に赴き三北運輸公司を設立。
1945年4月24日逝去。
9世界@名無史さん:02/03/28 23:36
ここは人名辞典スレ?
10世界@名無史さん:02/03/30 01:44
【張公権】

本名嘉(王扁に)敖。1889年江蘇省宝山県に生まれる。
1909年慶応大学を卒業し、郵伝部≪交通官報≫の編集に携わる。辛亥革命後、
浙江都督府秘書、参議院秘書長に任じられ、ならびに民主党員としても活動。
1914年上海中国銀行副経理につき、1916年の財政上不換紙幣増発を目論む
袁世凱の兌換停止命令を、総経理宋漢章とともに断固拒絶し、中国銀行の信用
を著しく高め、中国銀行をして「浙江財閥の中核」「民族資本の守護者」
と呼ばせる存在にさせた。翌年、中国銀行総行副総裁に昇格。1927年、蒋介石
の南京国民政府成立に関し財政上の支援を与え、中国銀行総経理になる。
しかし、1935年4月の国民政府の中国・交通銀行改組の際、総経理から引きずり
下ろされ、民族資本没落の象徴的事件とされた。しかし以後中央銀行副総裁、
鉄道部長として国民政府の経済開発に携わり、38年には交通部長を兼任する。
43年には辞職してアメリカへ考察団の一員として赴き、陳光甫・李銘らとともに
中国投資公司を設立する。抗戦勝利後帰国して、東北行営経済委員会主任と長春
鉄道中ソ理事会理事長になり、東北接収に尽力。47年に中央銀行総裁と中央信託
局長、輸出入管理委員会主任委員に就任。48年5月に辞任し、49年オーストリアに
行き、『中国通貨膨張之経験』を著す。以後アメリカで研究職につく。
1979年死去。張公権文書は有名


11世界@名無史さん:02/03/30 20:51
やはり国民政府を敗北に追いやったのは日本軍国主義ということかな
12世界@名無史さん:02/04/20 00:46
宋慶齢萌え・・・だ!
1312:02/04/22 07:52
ということで、国民党革命委員会に一票。
14西国のアズマ帰依者:02/04/24 01:42
国民党左派なり〜
15靡莫:02/04/29 21:30
スレを立てておきながら、放ったらかしにして申し訳ありませんでした。
一応、今日はネタ振りとして、国民党内にどんな派閥があったか、整理してみます。

@西山会議派
 国民党内の反共右派で、孫中山の三大政策や国共合作に反対した勢力。その一方で、
蒋介石の独裁にも異を唱えたが、1931年以降は蒋介石支持の勢力と化す。
 代表的人物は、鄒魯・謝持・林森・居正など。

A改組派
 正式名称は「中国国民党改組同志会」。国民党内左派が1928年に設立。
反帝国主義(ただし同時に反コミンテルンも提唱)や「法治」などを唱え、
蒋介石の独裁に反対した。中原大戦で反蒋介石派に与したが敗れ、1931年に解散。
 代表的人物は陳公博・顧孟余・王楽平など。また、汪精衛は彼らから指導者的存在
と見なされていたが、改組派のリーダーになることは辞退している。
16靡莫(15の続き):02/04/29 21:31
B再造派
 国民党の長老胡漢民を擁立し、蒋介石・汪精衛の双方と対立した勢力。蒋介石の
独裁に反対したが、特殊なイデオロギーを持たず、胡漢民あるいは孫科の個人的な
派閥の色彩が強い。1932年以降解体されていく。

C李済深派
 広東軍閥李済深をリーダーとする一派。当初は反共だったが、蒋介石との指導権
争いや抗日戦の勃発を経て容共・聯共へと立場を変換。福建事変などで蒋に挑戦するが敗れる。
後の中国国民党革命委員会の源流ともなった。

この他にも派閥はありますが、大きなものはとりあえずこんなところです。
補足・訂正してくださる方がいたら幸いです。
17世界@名無史さん:02/04/30 17:10
【浙江財閥】
民国以降、銀行金融資本を基盤にしだいに形成された、銀行資本と商工業資本
の結びついた金融集団であり、上海をその発祥地かつ本拠地とする企業集団。
多くが江蘇・浙江省に本籍を持つ人間であり、上海を中心に沿海部一帯で活躍、
金融業・商工業を営んだため、浙江財閥(中国名 江浙財団)と呼ばれた。
浙江実業銀行、浙江興業銀行、上海商業儲蓄銀行、四明商業儲蓄・中国通商銀行
などに、安徽系の中国実業などを中核におき、のちに中国銀行・交通銀行も
この集団に数えられることになった。虞洽卿・杜月笙・張公権・秦潤卿(両替商)
陳光甫(上海商業儲蓄)・銭永銘(交通銀行)などが主要なメンバーである。
彼らは国民党政権下にあって、民族資本を発展のため同郷ということもあるのか、
蒋介石を強力に支援し、4・12クーデターと彼の南京国民政府の樹立に大きく
貢献することになる。とくに上海・江蘇の両財政委員会という、国民政府発行の
公債引受・公債へ信用を供与する機関をつくるなど、財政面で絶大な援助を
おこなった。しかし、通説ではのちに国民党官僚資本家に次第に侵食され、
国民党官僚資本の付属物になる、とされている。
18世界@名無史さん:02/04/30 18:33
福建事変は結構大きな騒ぎだったようだね。
19靡莫:02/05/01 00:08
>>17
おそらく、このスレで色々と人物紹介を書き込んでくださった方ですよね?
ありがとうございました(スレを立てた僕は怠けてばかりだったのに・・・)。

さて、浙江財閥の指導者として代表的な人物は、>>8にある虞洽卿や張靜江、銭新之などがいます。
大陸での通説の評価は、仰るとおり国民党官僚資本の付属物扱いですが、
抗日戦時には西南部へ工場を移転させ、国民政府の戦時経済の基盤を支えるなどしました。

>>18
福建事変は、李済深派の軍人たちが中心となって引き起こした反蒋介石の軍事行動です。
1933年1月に福州で中国人民臨時代表大会を開き、独自の政権を樹立したほどでした。
共産党との連携も模索したようですが、当時の共産党の指導グループだったソ連留学生グループに
それを拒絶され、結局1年余りで福建事変は終息します。

日本で福建事変について論文を発表している人は、本庄比佐子氏や橋本浩一氏など、
数はそれほど多くありません。
20靡莫:02/05/01 21:48
現在の中国の「民主党派」は、いずれも民国時代に成立し、内戦期には反蒋介石運動を担いました。
このスレでも取り上げられると思いますので、ここで整理しておきます。
成立時期の早い順に紹介します。

@中国致公党
 帰国華僑や華僑によって構成。在米華僑の会党である洪門致公党を母体として、
1925年10月にサンフランシスコで成立。初代総理は陳炯明、副総理は唐継堯で、共に
軍閥指導者であった。1931年に総本部を香港へ移し、そして人民共和国建国後は
広州へ総本部を移している。

A中国農工民主党
 前身は中華民族解放行動委員会で1935年11月成立。国民党左派だったケ演達率いる
中国国民党臨時行動委員会の流れを汲む。一時は後述する中国民主政団同盟に加わっていた。
1947年2月、党名を現在のように改めた。
 なお今では、医療や衛生・科学技術界の人士を主要な構成員としている。

B中国民主同盟
 中・上層の知識人によって構成。前身は中国民主政団同盟で、中華職業教育社・
中国青年党・国家社会党・中華民族解放行動委員会・郷村建設派などの諸党派の連合体
であったが、1944年9月から「中国民主同盟」を結成(後、中国青年党・国家社会党
などは離脱)。1947年に、国民政府から非合法団体とされて一時解散したが、1948年
1月から香港で活動を再開している。

C中国民主建国会
 構成員は商工業者を主とする。1945年12月に重慶で成立。発起人は黄炎培・章乃器
など。
21靡莫(20の続き):02/05/01 22:08
D中国民主促進会
 構成員は、文化人や教育界・出版界で従事する人々を主とする。1945年12月、
上海で成立。

E九三学社
 科学技術や医学、文教界の知識人で構成される。1946年5月に重慶で成立。
1944年に成立した科学座談会を前身とする。

F台湾民主自治同盟
 「二・ニ八事件」で台湾から逃れてきた台湾共産党のメンバーを核として、
1947年11月に香港で成立。初期の要人としては、謝雪紅などが有名。

G中国国民党革命委員会
 国民党左派の軍人・政治家で構成。前身は三民主義同志連合会・国民党民主
促進会・民主革命同盟など。これらの組織は中国民主同盟同様、1947年10月に
国民政府から非合法とされたが、1948年1月、この一派は香港で中国国民党
革命委員会を結成した。
 宋慶齢を名誉主席、李済深を主席とし、馮玉祥も中央常務委員に名を連ねるなど、
旧軍閥の人物が多く加わっている。この傾向は建国後も続いた。
22世界@名無史さん:02/05/04 19:18
以前(5年ぐらい前)、李済深か誰かの息子(全国政治協商会議副主席かなにか)
が北京の自宅で何と警備官に強盗目的で殺された事件がありましたよね?
2322:02/05/04 20:15
いや李烈きんの子どもだったかな?
24靡莫:02/05/06 23:53
>>22
李沛瑶氏で、李済深の子息で間違いありません。
民革(中国国民党革命委員会)主席などを務め、航空関連技術者出身の人物だそうです。
仰るとおり、1996年3月に殺害されています。
25世界@名無史さん:02/05/07 14:21
「中国民主党」を一からつくろうとして弾圧を受ける事件があったけど、
一般市民が、「民革」とかその他の民主党派に加盟することはできないんですか。

26靡莫:02/05/09 21:07
>>25
色々調べてみましたが、僕の方では入党資格等については詳しく把握できませんでした。
申し訳ありません。
ただ、各党派とも構成員の身分には特色があり、何らかの条件(職業・学歴など)がある
ものと思われます。一般市民が加入するのは難しいのでは無いでしょうか?

「中国民主党」事件については、大陸当局が一般市民の政治参加を制限している実態を
示した事件ですよね。なお、「結社の自由」は憲法35条で保障されているのですが、
社会団体登記管理条例など行政法規による規制が厳しい状態となっています。
27世界@名無史さん:02/05/13 22:06
陳独秀あげ
28世界@名無史さん:02/05/13 22:25
現在の台湾の国民党って、日本人でも入党している人がいるって本当でしょうか?
現在でも、入党できるんでしょうか?
29@名無しさん:02/05/14 00:34
   (廖仲ト 1876〜1925)
広東省帰善の人。アメリカに生まれた。
1902年、日本に留学し、法政大学を卒業。
中国同盟会に参加して、孫文と親交を結んだ。
辛亥革命後は広東都督府総参議・理財政となった。
1914年中華革命党に参加し、財政部副部長をつとめた。
第二革命に失敗して、日本に亡命。1920年に帰国。
国民党財務部主任・大元帥府財政部長・秘書長・広東省長など
をつとめた。国民党左派の指導者として活躍した。
1924年、国民党中央常務委員・工人部部長・大本営秘書長
・農民部部長。
1925年、国民政府委員・軍事委員会委員・国民革命軍総党代表
。この年の9月に右派のため暗殺された。

   (胡漢民 1886〜1936)
広東省番禺の人。日本に留学し、中国同盟会の結成に参加し、
孫文と行動をともにした。
辛亥革命後、推されて広東省都督となる。
中華民国が成立すると、総統府秘書長となった。
1914年、中華革命党に参加し、政治部長となる。
1924年、広東省省長。
孫文が北伐すると、大元帥の職務を代行した。
孫文の死後に訪ソ。
1927年、南京国民政府が成立すると、国民政府主席。
翌年には国民政府立法院長に就いた。
1931年、反蒋の中心人物として職を追われた。
1933年、香港で『三民主義月刊』を創刊した。
1936年、広州で病没した。

1.二人の経歴をならべると、途中までは混同してしまうほど
 よくにている。
 その一方が暗殺サイド?にまわるとは!
2.広州の租界である沙面を珠江に沿って下流にある解放大橋の
 そばに巨大な労働者の像があり、その前が廖仲ト暗殺現場だ。
 その像は1983年葉剣英将軍が建てた。ただその像のどこを
 みても廖仲トの名は無い。1983年にやっと出来たことと
 あわせその意味は計り難い。
3.もっとも河の向かいに廖仲ト、何香凝記念館というのがある。
 奥さんだろうか?
30靡莫:02/05/15 01:43
>>28
国民党が現在外国人の入党規制を行っているかどうかは分かりません。
最近の選挙を見る限り、少なくとも華僑系は問題なく入党できるでしょうが・・・。
(詳しい方がいたら、よろしくお願いします)
台湾板の過去ログ倉庫にあったこのスレによると、
国民党に限らず、台湾の政党は外国人を平気で受け入れているそうです。
http://ton.2ch.net/taiwan/kako/1002/10021/1002194144.html

>>29
廖仲トは国民党左派、胡漢民は国民党右派の中心的人物ですね。
ただ、胡漢民が廖仲ト暗殺にどれほど加担していたかは未知の部分が残っています
(もちろん、相当程度に関与していたのは間違いないですが)。

何香凝は、仰る通り廖仲ト夫人です。
廖仲トの死後も国民党左派として活動を続け、特に宋慶齢と行動を共にすることが多かったです。
1948年の民革設立の際には、宋慶齢・李済深と共にその中心的人物となりました。
31靡莫:02/05/15 22:00
今回は、大陸の民主党派以外の第三勢力を紹介します。

@中国青年党
 1923年12月にパリで成立。当初は「中国国家主義青年団」を名乗る。発起人として、
曽g・左舜生などがいる。国家主義、「全民革命」、反共などを主張した右派政党。
1944年に中国民主同盟と合流するが、間もなく離脱し、蒋介石支持へと動く。
 1949年、国民党と共に台湾へ逃れ、「大陸光復」や反共を主張しつづけた。一方で、
国民党統治時代には国民党から党運営費を毎年受け取り、「花瓶」政党と称された。
1980年代に内紛を繰り返したこともあって、現在では泡沫的な小政党と化している。

A中国国家社会党
 1931年に張君勵・張東ソン(草冠+孫)・羅隆基らが北平で設立した再生社を前身
とする。1934年10月に天津で正式に党を成立させた。経済面での国家社会主義を主張
したが、階級闘争や共産主義に反対し、また私有制の存在を認めるなど、穏健的社会主義
を唱える。
 1944年に中国民主同盟と合流したが、間もなく離脱。1949年、国民党と共に台湾へ逃れるが、
中国青年党同様に「花瓶」政党となり、現在では泡沫的な小政党と化している。
32世界@名無史さん:02/05/16 00:58
国家社会主義ねえ。
張学良もイタリアなんかまわってファシズムに目覚めたらしいけど、
国家社会主義っていうのは30年代中国で流行したのかな?
蒋介石への期待とあいまって。
33靡莫:02/05/16 22:51
>>32
中国における「国家社会主義」の解釈は、
陳独秀によると、「労資提携、議会政策、民主政治、国家主義」を包含した
穏健的社会主義の思想のようです。

ファシズム的要素が強かったのはむしろ中国青年党で、
中国国家社会党は、抗日統一戦線を築く上では重要な役割も果たしていますが、
中国青年党のような「国家至上」的考え方は薄かったと言えます
>>31では書き忘れましたが、中国国家社会党は、1946年8月に民主憲政党と
合流して、中国民主社会党と改名し、現在に至ります)。

なお、中国青年党や中国国家社会党は、抗日戦の際には他の民主党派(中間派)と
連携して抗日統一戦線の樹立に貢献し(たとえば民主政団同盟の結成と参加)、
また、国共双方(特に一党独裁を図る国民党)を牽制しつつ、戦後の憲政移行を推進する勢力となっています。

こういった勢力の役割については、従来は低い評価しか与えられなかったのですが、
近年の研究によってようやく光が当てられてきた感じです。
34靡莫:02/05/16 22:58
>>32に補足しますと、
中国国家社会党が主張した「経済面での国家社会主義」の内容は、
全般的な計画による混合経済、私有財産の承認、私有経済への国家介入、
土地私有と国家の支配権と整理権の確立、産業開発の計画化、
税制・社会政策の整備などとしています。

つまり、ソ連型計画経済については否定していると言うことになるでしょう。
35靡莫:02/05/16 23:00
↑失礼、>34のところは、×32→○33でした。
36@名無しさん:02/05/17 21:45
1920年4月ヴォイチンスキー李大サ、陳独秀と協議
共産党を組織化
      秋ヴォイチンスキー、孫文会見
1921年7月中国共産党一全大会マーリング馬林出席
12月  馬林国共合作を
          孫文は共産党員の国民党へ入党を提案
1922年6月陳炯明のクーデター
     8月ヨッフェ軍事援助提案
1923年10月 国民党改組 ボロジン顧問に
1924年1月国民党一全大会、第一次国共合作


付録1;コミンテルンとは異なりソ連政府は必ずしも世界共産主義
    運動の原則に縛られる必要はなく、中国国内に親ソ勢力を
    つくる外交戦略を最優先させた.
付録2;戦時共産主義下のソ連は数百万の餓死者、工業生産は7分の一
    に低下、1921年の一部自由化などの新経済政策でしだいに
    経済回復とあるが、中国を援助するほどの力があったのか?
    かつ実際にどの程度の援助をしたのか不明。
37@名無しさん:02/05/18 16:27
ソ連の援助というのは、人材派遣とお古の武器をまわしたということか?
38@名無しさん:02/05/18 22:31
1924年呉佩孚に反乱おこし、曹錕を辞任させた馮玉祥は
1925年からソ連に軍事援助をうけている。ソ連は北洋にも
保険をかけたということか?
39靡莫:02/05/19 00:41
>>36-38
基本的にソ連(あるいはコミンテルン)の援助は、
人員派遣や武器輸出の他、前衛政党及び各種組合の組織方法や軍事技術なども、
その内に含まれます(むしろその方が重要と言えるかも知れません)。

ソ連は共産党や国民党以外にも、呉佩孚や馮玉祥、陳炯明といった軍閥指導者にも
援助を行っています。仰るとおり、様々な勢力に保険をかけたということでもある
でしょうが、特に以上挙げた3名については、ソ連側でも開明的な軍閥指導者と見
なし、ある程度の期待を抱いていた、という面もあります。
40世界@名無史さん:02/05/19 03:18
>>36-38

ソ連としては周りがみな資本主義世界の敵という状況下にあって
とくに世界最長の国境線である中国との関係を重視していたという
ことでしょう。コミンテルン肝いりでアジアにおいて共産党が成立
するわけですが、その順番は中国>朝鮮>日本だという、資本主義
の発展順序から見ればまったく逆であることからも、
コミンテルンが中国を重視していたことが窺えます。
41靡莫:02/05/19 11:49
>>40
ただ、コミンテルンが中国に本格的な関心を持ち始めたのは、
1922年1月の極東民族大会(開催地:モスクワ)以降です。
それまでのコミンテルンは、ヨーロッパ(特にドイツ)での革命情勢に関心を持っており、
極東民族大会においてすら、まだ東アジアを革命推進の中心地とは位置付けていません。

中国に派遣されたマーリンの報告を受け、
1923年以降にようやくコミンテルンは中国への本格的な関与を開始しましたが、
提携の主な対象となったのは陳独秀らの中国共産党ではなく、孫中山の中国国民党でした。
42@名無しさん:02/05/20 23:59
湖南省農民運動視察報告1927年3月 毛沢東
中央公論社、世界の名著78 孫文、毛沢東
p327−343
「・・・当時、党内にあった陳独秀をはじめとする右翼
日和見主義者は、毛沢東同志の意見を受け入れようとせず、
自分達の誤った見解に固執していた。彼等の誤りは主として、
国民党の反動的潮流に肝をつぶし、すでに起こり、またおこり
つつあった農民の偉大な革命闘争を支持しなかったことに
ある。かれらは、農民というもっとも主要な同盟軍を
すてても、国民党のきげんをそこなうまいとし、労働者階級
と共産党を孤立無援の状態におとしいれた。1927年の夏、
国民党が裏切りにふみきり、清党運動(共産党員、左派分子
の粛清)や反人民の戦争を開始したのは、主として共産党
のこの弱点に乗じたのである」毛沢東選集出版委員会

原著は短い。中国の共産革命、文化大革命の原像がよく
見えてくる。
43靡莫:02/05/21 22:31
>>42
確かに、「湖南省農民運動視察報告」は、毛沢東の政治行動(あるいは文革)の原点
を見ることが出来るますね。

その一方で、1920年初頭の毛沢東は、湖南独立論(湖南共和国構想)を打ち上げるなど、
聯省自治的な考えを表明しています(当時、湖南省では軍閥指導者の趙恒トウによる
自治運動が活発化していたことも影響しています)。

その後1923年までには、毛沢東は湖南独立論を放棄していますが、いずれにしても、
その思想の転換をもたらしたのは何であったかには、興味があります。
44@名無しさん:02/05/23 17:32
国共合作を孫文と交渉したヨッフェはトロッキーと親しく
帰国後自殺している。
その他の帰国したロシア人の死亡年度を見ると全員1927年
または、28年だ。スターリンによるトロッキー派の粛清に
よるものだろう。
4544:02/05/24 00:10
全員検証したわけじゃないので言いすぎでしたね。
46@名無しさん:02/05/25 15:01
国民党左派はなかなか理解しにくいですが、汪精衛、宋慶齢、
何香凝の他にはどんな人がいるでしょうか?
47靡莫:02/05/26 00:44
>46
>>15-16の中では、
中国国民党左派として分類されるのは、Aの改組派とC李済深派です。

Aの代表的人物としては、陳公博・周佛海などがいますし、
Cについては、李済深の他、第1次上海事変で日本軍と戦った、
第十九路軍の蒋光ダイ(上に乃、下に鼎)、蔡廷カイ(左に金、右に皆)などがいます。
この他の有名な人物としては、もちろん廖仲トもそうですし、後に第三党を組織したケ演達がいます。

国民党左派の特徴は、共産党との連携(聯共)、そして反蒋介石(反独裁)の姿勢などが挙げられますが、
しかし改組派については、武漢政府での共産党との決裂後は、一貫して反共となっています。

僕はまだ読んでいないのですが、
山田辰雄『中国国民党左派の研究』(慶応通信・1980年)が参考になると思います。
48靡莫:02/05/26 00:56
>>47
上の文章は不正確と言うか、間違っていた部分があるので、訂正しておきます。

後の改組派を構成する一派(陳公博ら)は、武漢政府では聯共の国民党左派勢力だったのですが、
1927年に共産党と決裂してからは、反共の姿勢へ転換していきます。
そして、1928年に改組派を結成することになるわけです。

以上、失礼しました。
49@名無しさん:02/06/09 00:34
黄埔軍学校には社会主義青年団と孫文主義学会と左右の
グループが活動している。
しかしながら、この時期蒋介石の共産党に対する対応は
非常に複雑でこの両派にどう関わっていたかは難しいですね。
北伐の完成までは共産党を押したり引いたりしながら利用
出来る所は利用する高度の作戦だったように思います。
50@名無しさん:02/06/11 23:03
岩波現代文庫28
  「毛沢東初期詞文集 中国はどこへ行くか」竹内実編訳
  湖南共和国の論文を含む
若い毛沢東が方向を模索し、苦労する様子が、包み隠さず書かれて
いる。自分で考え抜いて簡潔に書き込まれているので説得力がある。
リーダーに勝ち抜いて行けたのも理解できる。
51@名無しさん:02/06/13 23:50
(張敬尭 1880−1933)
安徽省出身、保定軍官学校卒。
民国以後、第二革命、白朗蜂起らを鎮圧、14年、第七師団師団長。
17年、蘇、皖、魯、豫(江蘇、安徽、山東、河南)四省辺界剿匪督弁。
18年、湖南に入り湖南省督軍兼省長。暴力的な統治に対する
「駆張運動」が昂揚、漢口租界に逃れる。

白朗とはなんでしょう?
52西国のアズマ帰依者:02/06/14 03:57
白朗(1873-1914)

辛亥革命時に河南省で農民蜂起を指導した人。
第二革命のとき、孫文に湖南・湖北・河南三省連軍司令の職に任じられて
2万人の兵力を率いて袁世凱と戦うが、河南都督段祺瑞率いる20万人の
兵力の包囲殲滅をうけ、失敗
53@名無しさん:02/06/15 22:12
国民党左派に注目する。
(ケ演達 とうえんたつ 1895年−1931年)
保定軍官学校卒、黄埔軍官学校教育長、ドイツ、ロシアを訪れ
共産党員とも知り合う。武漢国民政府の中央執行委員、
農民部長として土地問題に関心。反共クーデター後、モスクワで
宋慶齢などと、蒋介石を批判。帰国後共産党とも国民党とも別の
第3党として後の中国農工民主党を結成。また反蒋介石連合戦線を
模索した。1931年蒋介石に銃殺された。
1928年中共6回全国大会で「第三党」は「郷神、地主階級の
反革命の道具」と糾弾された。
都市中心の当時の共産党に異議の意味でのケ演達と毛沢東の考えは
関連するのか不明。
31年に19路軍の広東進攻を機に第三勢力の政権樹立を画策した
そうだが、福建事変とは別の話らしい。
54靡莫:02/06/16 00:21
>>51-52
白朗の反乱は、どう位置付けたら良いんでしょうね?
単なる会党のリーダーとなのか、あるいは革命の思想も抱いていたのか・・・?
孫中山への呼応が、どういう形態や動機に立っていたかを知ることがカギでしょうけど。

>>53
中国共産党にとって、いわゆる第三党などの第三勢力(中間勢力)との連合は、
この時期では全く意図していなかった、ということでしょう。
僕自身、ケ演達については第三党の組織者ということしか知りませんが、
もしかしたら御指摘のような、国民党のみならず共産党へのアンチテーゼも提示していた、
と見ることが出来るかもしれませんね?
55@名無しさん:02/06/16 00:29
1927年 蒋介石第一次下野宣言、武漢政府南京と合流
      広東コンミューン
  28年 蒋介石復職、北伐北京占領
      国民党改組派成立
  29年 反蒋第1戦(馮玉祥)
      反蒋第2戦(李宗仁)
      反蒋第3戦(宋哲元)
  30年 反蒋第4戦(馮、閻、桂連合)桂とは?
  31年 国民党反蒋派、広州に国民政府樹立、南京討伐を宣言
       (これにケ演達が参加したのか?)
      蒋介石第2次下野宣言
      粤方国民党大会(主席、孫科)
 この頃のはなしは複雑で難解だ。まいる。行慢慢。



56靡莫:02/06/16 00:49
>>55
「桂」=広西で、すなわち李宗仁・白崇禧を指します。

この時期は、蒋介石の北伐に協力した軍閥リーダーとの決戦が行われたわけですね。
特に1930年の戦いは中原大戦と呼ばれ、蒋介石はこれに勝利したことで、
その後の政治主導権を守り通しました(もっとも紆余曲折はその後もありましたが)。
57世界@名無史さん:02/06/16 01:03
「上海時代」を読むと福建事変の時
ケ演達にかぶれた連合通信の支局員が休職して福建に駆けつけたようだね。
1931年銃殺なら福建事変の時にはもう死んでたのか。
58靡莫:02/06/16 01:09
>>57
福建事変の指導者の1人だった陳銘枢は、事変の最中に「生産人民党」という政党を結成していますが、
これはケ演達が作った第三党と神州国光社という政治結社とが連合して出来たものです。
おそらく、その支局員も生産人民党で活動したのでしょう。
59世界@名無史さん:02/06/16 08:50
気孔集団「法輪功」を新世紀の革命勢力に育てよう!!!
60@名無しさん:02/06/17 22:23
国民党左派の一部として
   (蔡廷かい、さいていかい、1892年−1968年)軍人、
1927年南昌起義に途中で共産党と別行動。
30年より「囲剿」に参加。
32年、上海事変第19路軍総指揮として「抗日将軍」として名声。
33年、共産軍と「反日反蒋の初期協定」福建人民革命政府
36年、両広事変、李宗仁を応援。
抗日戦に参加。
1946年、李済深、何香凝と後の中国国民党民主促進会を結成。
中華人民共和国建国に参加。
61@名無しさん:02/06/20 00:58
国民党左派の一部として。「親日政府」スレと重なる。
(陳公博、1892年ー1946年)
広東省育ちの客家。
北京大学で陳独秀に学ぶ。譚平山は学友。
21年 共産党創立大会に参加するが、入党はしてない。
25年 広東国民政府に参加、国民党入党。
27年 武漢国民政府に参加、汪精衛を支持、忠誠。
28年 蒋介石の独裁に反対、改組派の中心に。
30年 汪精衛と党籍剥奪される。
    反蒋各派、拡大会議、瓦解しヨーロッパへ。
31年 5月、国民党反蒋派、広州に国民政府
    9月、満州事変で帰国
広州、南京政府合作、復党
38年 汪精衛 重慶脱出
    陳は汪の行動に最初は賛成しなかったが
    最終的には協力し、汪の死後、主席代理となった。
46年 漢奸裁判で死刑。
62@名無しさん:02/06/20 19:00
陳公博は28年5月汪精衛を批判する呉稚暉と論争を展開し
て青年層に大きな反響を呼んだとありますが、汪精衛を批判
したのはどんな勢力だったのでしょう?
63靡莫:02/06/21 01:27
>61
陳公博らのの改組派は、
国共合作が破綻した後、国共いずれにも与さない知識人層や学生層の支持を受け、
一時は侮りがたい勢力になったようです。

しかし、固有の武力を持たなかったこともあり、
国民政府内の権力抗争の中では確固たる地盤を築くことが出来ませんでした。
それは、汪精衛が改組派から一定の距離を置いていたことも一因です。

>62
28年当時の呉稚暉は国民党反共右派のイデオローグの1人で、
蒋介石への権限集中を擁護する言動を行っていました。

なお、呉稚暉はかつては無政府主義者としてパリで活動を行い、
李石曾や汪精衛らと共に「勤工倹学運動」を推進した人物です。
呉は帰国後に国民党に加入し、思想を大きく転換しました。
64@名無しさん:02/06/22 01:07
国民党左派の一部として
(陳友仁 ちんゆうじん、1878年−1944年)
西インド諸島英領トリニダードトバコ生まれ、客家、外交官。
ロンドンで弁護士。
12年 孫文の運動に共鳴、中国に帰国、中国語は出来ない。
19年 広東政府代表としてパリ講和条約。
22年 孫文、ヨッフェ会談に同席。
26年 国民政府に参加、国民党中央執行委員、外交部長
    広東ストライキの対英交渉
27年 1月、武漢国民政府で漢口、九江租界回収に成功
    7月、反共クーデターの後、ケ演達、宋慶齢と
   モスクワへ脱出、蒋介石を批判した。
   当時、宋慶齢との関係が噂された。
31年 孫科の反蒋介石の広東政府に参加。対日強硬論。
33年 福建人民政府に参加
38年 香港で宋慶齢、何香凝と反蒋介石、抗日運動。
44年 日本軍占領下の香港で病死。
65靡莫:02/06/22 03:53
>>64
陳友仁は軍閥スレでも登場しましたが、「革命外交」(激烈型)を展開した外交官です。
ユージン・チェンという名前でも知られ、辛亥革命当時は中国語がロクに喋れなかったそうです。
「革命的外交とは、断固とした革命手段をとり、それを徹底的に堅持し、玉砕も辞さないことだ」
と主張し、強烈なナショナリズムを掲げて列強に立ち向かいました。

その後、伍朝枢や王正廷、宋子文などの歴代の外交部長は、陳友仁ほどの強烈な姿勢や手法は
とらなかったものの、関税自主権の回復や領事裁判権の撤廃を求めて粘り強く列強と交渉しています。
陳友仁の精神が、形を変えて彼らにも受け継がれていたと言えるかも知れません。

なお陳友仁は、福建人民政府においても外交部長に就任しています。
あと陳の終焉の地は、正しくは上海です。香港陥落後に陳は日本軍によって軟禁状態に
置かれましたが、後に上海へ移されてそこでも軟禁が続きました。
日本は陳友仁に対して占領地統治への協力を何度も要請(強要)しましたが、
陳はこれを断固として拒絶しています。
66靡莫:02/06/22 21:31
第三党や福建事変についての専門書がありましたので、紹介します。

周偉嘉『中国革命と第三党』(慶應義塾大学出版会、1998年)

第三党の成立過程や歴史的存在意義について詳しく記述している他、
福建事変における第三党の関与、福建人民革命政府の構造やその問題などにも触れています。
当時の政治舞台で活動していたのは国民党と共産党だけではない、ということを知る上でも、
ぜひ読んでいただきたいです。
67@名無しさん:02/06/24 00:09
国民党左派の一部として
イスラエル・エプシュタイン著「宋慶齢」
サイマル出版会 1995年
1.著者は1915年、ポーランド生まれのユダヤ人。
 祖国を追われ、日本から天津にわたる。日中戦争の従軍記者。
 戦後渡米。マッカーシイズムで中国へもどり、50年代に
 中国籍を取得。
 この本は英語版よりの翻訳。中国版もあり、内容が異なり
 教育的配慮がされているらしい。
 この経歴から解るように、著者は中国を批判できる位置にいない。
 この事情を意識しながら900ページの本を読むのはかなり苦痛だ。
 しかしながら欧米人の著作を読んでいつも感じることだが、読者に
 充分理解させることの為にはページが増えることを恐れず、徹底的
 に解説するため、周囲の事情の説明が詳しく、情報が多い。
2.宋慶齢は中国共産党にとって、中共が孫文の後継である証明,象徴
 である。それ以上でも以下でもない。宋慶齢が中国共産党に入党
 して、党内で国母として行動されるのは迷惑だろう。逆に国母が
 再婚して派手に行動されてもこまる。
3.宋慶齢は成長期をアメリカでおくったり、家庭環境の為、帰国子女
 というより、中国人に深い哀れみを感じているアメリカ人のように
 みえる。自分をロザリンドとよんで、周囲にいるのも、欧米人や
 陳友仁や孫文、宋子文のように外国帰りの人間ばかりだ。
 モスクワ脱出後も宋家や孔家から外国生活や生活の援助をうけ
 運転手や召使付きの生活を続けている。北京の家も溥儀の父親の
 家だ。革命貴族の一生である。
4.宋慶齢や何香凝は夫の亡き後、亡夫の生前の方向を守って暮らした。
 孫文や廖仲トの共産主義に対する考えはまだ充分検討していない。
 しかしながら、「君子は豹変す」という言葉もあるので彼等が
 生きていたら、ずっと共産党と仲良くやって行ったかは解らない。
5.興味深い写真が沢山載せられている。
 特に、東京の純日本風民家の庭で、孫文夫妻、廖仲ト親子、胡漢民
 が和服の人々とならんだ記念写真は不思議な光景だ。
68靡莫:02/06/25 02:50
>>67
宋慶齢は孫中山死後は国民党左派として活動しました。
政治活動だけでなく、文化活動や社会活動における功績も大きいです。
抗日戦争後には、民革(中国国民党革命委員会)の名誉主席にも就任しています。

政敵を次々と葬ってきた蒋介石も、さすがに国母に手出しをするわけにはいかず、
敬いつつも遠ざけるという姿勢しかとれなかったのです。
最近の例で言えば、
ミャンマーの軍事政権がアウンサン・スーチー女史(建国者の娘)をどんなに疎ましく思っても、
軟禁下に置くのが限界だったケースに似てるかもしれません。
69@名無しさん:02/06/27 23:45
マルロウ著「征服者」新潮文庫(絶版)
中国が舞台の小説とは解っていたが、こんなにも丁度関心を
持っていた時期の、知ってる人物が沢山出てくるのには驚いた。
アンドレ・マルロウ(1901−1976)フランス人
1925年に広東革命政府に参加?、26年か27年に帰国。
28年にこの本を書いて30年に出版されたらしい。
レジスタンスにドゴール等と参加。戦後ドゴール内閣の閣僚。
主人公は1925年6月にコミンテルンから広東に派遣され、
なんとボロディンやガレンの部下になる。当時広東は港湾スト
の最中で外部から陳炯明が圧力をかけ、スト資金が欠乏して
いる。英国船の香港との物資の移動を禁止する法案を実行し
陳炯明にも勝ち、25年末では組合側優勢で小説は終わる。
文学的価値は別にして、どうも事実関係がおかしいようにも
思いますが、知識不足で指摘出来ません。

(省港ストライキ)
1925年5月30日、上海の労働者デモとイギリス警察の発砲。
     6月18日、広州の船員の職場放棄
       23日、沙面のデモとイギリスの発砲。士官学校生
           先にどちらが発砲したかアイマイ。
           イギリス商品ボイコットとゼネスト。
           ピケット隊(武装ピケ隊)
     8月    廖仲ト暗殺
  26年3月20日 中山艦事件
     4月    陳友仁外交部長に。対英交渉
           イギリスはスト中止に1000万ドル提案。
     10月10日 中国が北伐のためにはストを早くやめたがって
          いるのを見透かされ、無条件でスト中止に。
ストの最盛期には小説では、イギリスを香港から追い出せそう
な雰囲気だが、本当にそんな可能性のありそうなタイミングが
あったのであろうか?そうなれば英国板満州事変か?      
70@名無しさん:02/06/29 10:05
国民党左派の一部として
(楊杏仏 ようきょうぶつ、1893−1933)
1911年 辛亥革命に参加、中国同盟会に加入
  南京総統府秘書
  アメリカ留学
  24年 広州臨時総統府秘書、孫文に仕える。
  27年 上海労働者武装蜂起に参加、市の委員に。
      蔡元培の秘書。
  31年 解放区の報告書、エドガー・スノー等に刺激
      政治犯救済運動
      宋慶齢等と蒋介石の専制政治に反対。
  33年 暗殺される。
71靡莫:02/07/02 01:13
>>69
僕も『征服者』については知りませんでした。
それだけ民国時代のキーパーソンたちが出てくるなら、ぜひ読んでみたいですね。

>>70
楊杏仏は、経済と工学の専門家としての顔も持っている実務家肌の人物です。
中国科学社を組織して雑誌『科学』を発行し、漢冶萍公司で会計事務を担当したこともあります。
1931年、宋慶齢、蔡元培、魯迅と共に中国民権保障同盟を結成し、副会長兼総幹事となりました。
72靡莫:02/07/02 22:29
<力行社>
1932年3月に成立した国民党の特務組織。
黄埔軍官学校出身者を中核とし、イタリアの黒シャツ党をモデルとして組織される。
制服は青い上着に黄色いズボンであったため、「藍衣社」という通称も有していた。
主要な幹部として、賀衷寒、戴笠、康澤などがいる。
調査、行動、組訓(組織・訓練)、籌款(資金調達)の四大活動を行い、当初は国民党
の軍事部門での活動に限られていたが、その後活動範囲を拡大していく。
後、軍統(国民党軍事委員会調査統計局)の主力となった。


現在の中国共産党の評価によれば、
力行社は「抗日愛国民主運動を弾圧し、共産党員に残虐な迫害を行った」組織とされています。
しかし実際には、力行社は日本軍に対する特務活動も重要な任務でしたし、
共産党側でも力行社に対して統一戦線への参加を呼びかけたこともあります。
73西国のアズマ帰依者:02/07/07 12:25
中学時代読んでいた松本善治『上海時代』を読み直しました。
当時はつまんなかったのですが。

面白いっすねえ、ありゃあ。中華民国が分かってる人が読まないと、
あの書の価値はわかんないのでは?と思ってしまいましたよ。
マジで政治の動きがわかって面白かった。
74世界@名無史さん:02/07/07 14:01
松本重治ですね。
後になって、近衛内閣の書記官長だった風見章が松本に
「自分の知らないことばかり書いてある」と言ったそうです。
書記官長と言えば今の官房長官。政府の要。
やはり日本は負けるべくして負けたんでしょう。
75西国のアズマ帰依者:02/07/12 03:58
しまった、
なんか字が違うと思ってたんだ(藁)

同盟通信社っすからねえ。
おまけにアメリカ史専門。
面白い人材が昔はいたんですね。
76靡莫:02/07/12 04:45
>>73-75
今、古本屋を回って『上海時代』を探してます。
ハードカバー版は高そうなので、
できれば新書3巻組を見つけたいんですけどね・・・。
77@名無しさん:02/07/12 19:22
「人間の条件」マルロー著 新潮文庫 これも絶版

「征服者」に続いて、1927年の上海クーデターを題材に
1933年に書いた。この時は、作者が現場にいて目撃した
のではなさそう。3月21日から4月12日ごろまで経過が
解りやすいが、歴史の参考としては不満がのこる。

78@名無しさん:02/07/12 19:49
「上海」横光利一著 岩波文庫 75−2 14年2月に復刻版がでた。
私にとっては、名前だけ知ってればいい作家と思っていたが、本屋で偶然
見つけました。なんと、1925年5月30日の上海の日本人経営の紡績工場の
ストライキと、それに続く英国官憲の発砲、ゼネストに日本人男女が
巻き込まれる話。ストーリーは低俗でつまらないが、主人公たちが、中国、
インドなどの植民地問題についての発言が興味深い。事件の3年後に作者は
30日間上海に行って書いたらしい。
79靡莫:02/07/13 11:24
>>77-78
本の紹介、ありがとうございます。
横光利一は1928年4月に上海を訪問していますが、
この上海訪問を薦めたのは芥川龍之介だったそうです。
もっとも、芥川は上海のことを「下品な西洋」などと罵倒しているのですが。

それにしても、読みたいという本はすでに絶版になっているケースが多いですね。
まあ逆に、そういう状況だからこそ、古本屋巡りが楽しくなるのかも知れませんが(w
80@名無しさん:02/07/15 12:24
上海暴動に関係して
(鈕永建、ちゅうえいけん、1870−1965)
 上海生まれ、日本の士官学校入学。
1911年、辛亥革命、南京臨時政府に参加したが、孫文と共に辞職。
  17年、広東軍政府に参加。
  26年7月、国民革命軍が北伐を開始すると、上海に派遣されて
        地下工作をおこなったほか、孫伝芳の軍隊に働き
        かけるなどした。
  27年以後、南京国民政府の役職につく。
  49年、台湾へ。
       軍人というより、軍人出身の政治家、行政官だろう。
81靡莫:02/07/17 00:30
>>80
鈕永建は辛亥革命当時すでに42歳で、
当時の状況を考えればもう“老兵”の部類に入った人物と言えるかもしれません。
それでも日本やドイツへの留学の経験を持ち、
同盟会結成以来、孫中山の側近として行動してきた国民党の元老的人物です。

北伐までは南方側の軍の要職に就いていますが、1927年を境に軍職から事実上引退し、
立法院、考試院などのような実権が乏しい部署を回るだけの、ほとんど目立たない存在となっています。
西山会議派とも異なり、政治的にも影響力は皆無に近かったようです。
82世界@名無史さん:02/07/18 21:45
【政学派】
北京政府時代に形成された政治集団。1916年袁世凱の死後、黎元洪が大総統に、
段祺瑞が国務総理になる。国民党籍の議員がこの時、段祺瑞と北洋軍閥の統治に対し、
反対することになるが、張耀曾・李根源・谷鐘秀はこのとき政学会を組織し、
段祺瑞政権の対ドイツ参戦を支持した。1918年、段祺瑞が国会を解散させた時、
別に新国会「安福国会」を結成する。このとき孫中山は、広州で護法政府を組織しており、
張耀曾らはこのとき南下して政府に参加するも、中華革命党に参加せず、貴州・広西
軍閥の唐継堯・陸栄廷と手を結び、極力孫中山を排除する一派を形成した。
その主要成員がかつて「政学会」所属ならびにその支援者であったことから「政学系」
と呼ばれた。1927年南京国民政府成立以後、この系統の楊永泰、親日派国民党長老黄郛、
張群、およびその他国民党官僚熊式輝、陳儀、呉鼎昌(塩業銀行頭取)らが相互に提携し、
積極的に蒋介石を頂いて一派を形成したが、この一派を新政学系とよばれる。
83靡莫:02/07/19 01:32
>>82
政学系、特に旧政学系は、大陸では余り評価が高くないですね。
南方政府側に加わりながらも、孫中山の指導体制を内側から崩した勢力として見られていますし。

もちろん旧政学系は、各軍閥を利用して守旧的な動きを散々行った勢力ですが、
しかし「南北和議」などの可能性もあった当時の状況を考えると、
果たしてネガティブな評価のみで片付けていいのか?とも思えます。

新政学系については、その親日的傾向のため、
特に大陸で、まともに評価しようとする動きが全然ありませんでした。

しかし日本では1980年代から積極的に評価する研究者が増え、
大陸でも、最近では特に抗日戦における経済建設などについて評価する動きが出ています。
>>82さんが挙げている新政学系の要人たちはいずれも多士済々です。
84世界@名無史さん:02/07/19 09:43
北京政府時期の国会は面白い存在ですな
85靡莫:02/07/19 23:59
>>84
北京政府時期の国会で問題となるのは、
まず袁世凱政権期では宋教仁の活動ですよね。
結局、宋教仁の議院内閣制構想は彼の死と共に崩壊するわけですが。

袁世凱死後の北洋政府における国会は、一般的に消極的評価を受けています。
もちろん「安福国会」のように軍閥指導者の走狗というイメージが強いわけですが、
その一方で、国会が独自の政治主体として動いていたかどうかは、検討の余地が有ると思います。

もし、この時期の国会に関して、何か面白い著作か論文があったら書き込みます。
86世界@名無史さん:02/07/20 01:24
87靡莫:02/07/20 13:46
※軍閥スレでの質問の回答です。

張静江(張人傑)は、浙江財閥及び西山会議派の有力人物です。

父親の家業を継いだ後、ヨーロッパを駆け回る孫中山を補佐して、
同盟会の基金を設立したり、欧米で貿易会社を設立したりしています。
国民党や国民政府でも、財政部門を主に担当しました。
1937年に抗日戦争が勃発すると、ニューヨークへ渡り、
その後は政治舞台での活動をほとんど控えてしまったようです。
88靡莫:02/07/20 14:00
そう言えば、新政学系の一員としては、
後の冀東防共自治政府政務長官の殷汝耕もいたんですよね。
もし上司の黄郛に随従して河北に赴任していなかったら、
国民政府の抗日戦の後方基地建設に従事していた可能性が高かったと思います。

まあ、ifを論じるのは不毛ですが。
89世界@名無史さん:02/07/30 14:31
胡漢民の政治基盤が気になるところです
汪精衛との違いは何でしょう
90世界@名無史さん:02/07/30 14:45
91靡莫:02/07/30 22:59
>>89
先にこの2人の共通点を挙げますと、共に孫中山の古くからの腹心であること、
そして後に蒋介石の個人独裁への反対した点となります。

汪精衛は蒋介石の「人治」に対して「法治(約法の遵守)」を主に求め、
胡漢民は総統の下に五院を配置することは「総理遺教」への背反という点を強く主張しています。
微妙にニュアンスは異なりますが、いずれにしても反蒋という点では一致しています。

それではこの両者の相違点は何かというと、
まず第一に、汪精衛は当初は国民党左派で聯共、
一方の胡漢民は国民党右派で反共の政治的立場を持っていたことです。
これについては、上海と武漢の合流で汪精衛が反共へ移り、相違は無くなります。

第二の相違点は、汪精衛が日本との和平を模索したのに対し、
胡漢民は基本的に抗日的な政治姿勢を示した点です。

最後に、>>15-16にも書き込みましたが、
汪精衛は改組派の支持を受け、胡漢民は再造派の支持を受けています。
92靡莫:02/08/02 03:38
今さらですし、ほとんどの方は気づいておられるでしょうが、>>91のところ、

×上海と武漢の合流→○南京と武漢の合流、です。

「上海四・一二」が頭にあったもので・・・失礼しました。
93靡莫:02/08/02 03:51
>>87の張静江の経歴についても、重要な点を補足しておきます。

張静江は、国民党左派の汪精衛と蒋介石とを反共宣伝や謀略で離間させ、
蒋を反共的立場へと移行させた立役者とも言われています
(1926年3月の中山艦事件も、張の策動が大きかったようです)。

1926年4月には国民党中央常務委員会主席となり、
ソ連から派遣されてきた国民党顧問ボロディンと激しい権力闘争を展開しました。
94@名無しさん:02/08/07 00:38
(瞿秋白 くしゅうはく 1899−1935)
    
   江蘇省出身、生家、家運傾き、ロシア語を学ぶ。
1920、記者としてロシアへ
     コミンテルン関係の通訳、翻訳
  21、中共入党
  23、国共合作支持、反対派の張国トウと対立
     陳独秀の2段階革命論にも反対
      (ブルジョワ革命を経てという考えか?)
     上海大学で教える
     国民党右派と論争
  26、北伐支持(途上で労働者、農民を取り込めるとした)
     陳独秀は反対(蒋介石の権力が膨張する)、農民の武装化にも反対
  27、党大会で陳独秀を右傾機会主義と弾劾
     共産党指導者になる、土地革命、武装暴動の方針
      1)賀龍、葉挺軍の潮州、汕頭作戦
      2)秋収暴動
      3)武漢、上海、南京のストライキ
     これらの都市重視の革命戦略は失敗
     広東コンミューン失敗
  28、左傾盲動主義と自己批判
     王明、李立三の時代へ
  35、国民党軍の捕虜として銃殺される
95@名無しさん:02/08/07 23:44
(Syndicalism,サンディカリズム)
ゼネスト、サボタージュなど直接行動で議会制民主主義を廃し政治の実権を
労働組合の手中に収めようとする。

1.広東の省港ストの目標を考えると、関税自主権、治外法権であったのか?
  ワシントン会議でその方向は決まっていたのか?
2.上海暴動の行動原理にサンディカリズムがあったのか?という問題は
  言葉自体が覚えたばかりなのでもう少し思考を熟成させたい。
3.ストに対して蒋介石が青幇(暴力団組織)を使って攻撃したと、左翼の
  本は非難している。当時上海などの大都市に組織をつくろうとした場合
  青幇などと、無関係に組織化するのは不可能だった。共産党自身が、
  港湾ストをやる場合、青幇と義兄弟になったりして、食い込んだ。
  ゼネストも青幇の了解なしには、商店、港湾労働者も動かない。
  結局、最後にどちらがうまく取り込んだかの違いだけだ。
96靡莫:02/08/09 23:33
>>94-95
古い文献になりますが、野澤豊編『中国国民革命史の研究』(青木書店、1974年)が
この時期についての基本書となります(姫田光義先生が「瞿秋白について」という論文を載せてます)。

陳独秀、瞿秋白、李立三に共通して言えることですが、
この三人はいずれも、現場を熟知していないコミンテルンの指令に振り回され、
(たとえば瞿の場合は「労働者と農民の民主的独裁」を実現するため、都市暴動の組織を命じられてます)
挙げ句にコミンテルン中央の無謬性を守るため、責任を一身に押し付けられて失脚しています。
97靡莫(96の続き):02/08/09 23:42
省港ストは、英仏両軍兵士によるデモ隊への発砲が切っ掛けとなっています。
このときにストの標的とされたのは、英国船と英国品です。
そのため省港ストは、反英を中心とした反帝国主義運動と位置付けるのが妥当と思われます。
ストは広州国民政府の支持を受け、そして漢口・九江の租界実力回収へとつながっていくのです。

ちなみにこの時期の中国の反帝国主義運動は、
西国さんなども指摘している通り、最大の標的はイギリスでした。
済南事変以降、その標的は次第に日本へと移っていきます。
98世界@名無史さん:02/08/09 23:42
ヴァッサーシュトロームの
「近代的労働者は戦闘的か?」
の古典的研究についての評価はどのようなもの
なのでしょうか?
99靡莫(97の続き):02/08/10 00:00
上海暴動(五・三〇運動)は、当初は労働運動的なものでしたが、
租界警察による弾圧が行われてから、反帝国主義運動的要素も帯びるようになります。

ちなみに蒋介石は、
共産主義の浸透による労働者の武装やストを恐れた上海の大小資本家層の支持を集め、
そして上海四・一二クーデター、南京国民政府樹立などで、
国民革命遂行における自らの指導権を確固たるものとしていきます。
100三振タイガース:02/08/10 00:06
おっ100セット!
101靡莫:02/08/10 00:12
>>98
うーん、僕は労働運動史については知識が皆無に等しいですので、
お答えすることが出来ないのですが・・・
(ていうか、僕はヴァッサーシュトローム自体知らないんです)。
どなたか、詳しい方の書き込みを待っていただけたら幸いです。

98さん、お役に立てず申し訳ありません。
102靡莫:02/08/10 00:33
>>95
すみません、上海暴動は1926年10月以降の3回の暴動を指すんですよね。
というわけで、>>99の上海暴動=五・三〇は大間違いですので、取り消します。
省港ストの絡みで勝手に五・三〇と解釈してしまって・・・スミマセン。

上海暴動は、基本的には反孫伝芳の政治行動と見るべきだと思います。
特に第二次・第三次上海暴動については、虞洽卿ら上海の資本家層が、
国民党で上海暴動の工作を担当していた鈕永建との連携を密にしています。

第三次上海暴動成功後に樹立された上海特別市市民代表政府には、
虞ら資本家層も政府委員に任命されていますので、
これについては労働者の単独政権と解釈するのは難しいでしょう。
103靡莫 :02/08/10 01:00
最近大きなミスばかりで、かなり欝です。

軍閥スレでの『上海時代』の読み間違いもそうですし、
今回は「上海暴動」としっかり書いてあるのを勝手に「五・三〇」と解釈してしまうなんて、
本当にどうしようもない・・・。疲れてるつもりは無いんですが・・・。

軍閥スレやこのスレに書き込んでくださってる皆さんには、迷惑をかけて本当に申し訳ないです。
とりあえず、反省として。
104@名無しさん:02/08/10 18:35
(章丙麟、 しょうへいりん、1869−1936)
浙江省出身、孫文、黄興と共に「革命の三尊」と呼ばれる。
 考証学、古文学を修める
康有為、梁啓超の運動に参加するも日本に亡命後、立憲君主制をすてる
1900、弁髪を切る
  03、上海で機関紙「蘇報」に光緒帝を侮辱、3年懲役
  06、彼の組織した革命組織、光復会と、孫文の興中会、黄興の華興会が合体、
     中国同盟会をつくる
 北京大学で魯迅、周作人等に音韻学、文字学を教授
  11、辛亥革命、「中華民国」の国名をつくる
     一時、袁世凱に協力するが、その後幽閉される
  17、護法軍秘書長
  20、連省自治方式を提案
  
 以後、共産主義、国共合作に反対
  35、国学講習所を開く

この人物の経歴をみると、その存在する場所々で、その知識、その教養、その存在感で
周囲を圧倒する人物だったことがうかがわれる。
経歴の中で連省自治のアイデアに注目したい。
当時、世界でアナーキズムというのが、はやっていたらしい。これが訳がわからない。
「アナーキズム」クセジュ文庫
「中国、アナキズムの影」玉川信明著 三一書房
こういう方面の好きな奴は、解からないことを楽しむ連中だから解かるわけがない。
最近日本でも言う小さな政府を、突き詰めていくと、政府がなくなってアナーキーに
なるのかなどと、馬鹿なことを考える。テロイストばかりでなく、トルストイの影響を
うけた白樺派の小さな村運動なども、ひろい意味のアナーキズムらしい。毛沢東が
どこかでで日本の小さな村について言っている。
行き詰った運動だから深入りはしない。
105靡莫:02/08/10 19:46
>>104
章炳麟は孫中山と共に、清末以来の革命派指導者として声望のあった人物です。
年表で触れていますとおり、同盟会には参加していますが、孫との反目はかなり激しいものでした。

章炳麟が聯省自治を提示したのは、孫中山への対抗意識(孫は中央集権的構想の持ち主)によるものです。
章は、省政府→自治省政府(数個の省政府による地域政権)→聯省政府(中央政府)の制度を想定しています。
実質的政治権力は基層組織の省政府に求め、
中央政府としての「聯省政府」は権力をかなり限定されたものとされます。
(詳しくは、横山宏章『中華民国』(中公新書、1997年)の80〜83pを参照)。

あとアナーキズムは、中国では清末民初において知識人たちの間に流行しました。
アナーキズムに傾倒した有名な人物としては、
汪精衛、李石曾、呉稚暉、張継などが挙げられます。
106@名無しさん:02/08/10 22:08
107世界@名無史さん:02/08/11 10:51
近代労働者として出現する半熟練・未熟練労働者は、青幇=国民党などに組織され、
近代以前からの熟練労働者しか、共産党は組織することができず、労働運動
をおこなわせることができなかった、という内容の論文です
つまり近代労働者というのは、職を失うことを恐れる余り戦闘的ではない
108@名無しさん:02/08/11 21:44
>>107
共産党と青幇、国民党で組織できた対象が異なったというのは興味深いですね。
 アイザック著「中国革命の悲劇」至誠堂 1966 を最近読んで、非常に
 情報が多くて参考のなりましたが、この中でも、労働条件改善要求を出した
 労働者が、解雇で脅されるとすぐ引き下がる様子がでていました。
 5.30事件や沙面惨案のように、中国人が殺されて国民的なナショナリズムに
 盛り上がったストの場合、ブルジョアや青幇も協力せざるをえないのが、
 改善要求では、代わりがいくらでもいるので対抗できないのでしょうか?
109@名無しさん:02/08/15 11:47
{どんな人がストライキを指導したか?}
(蘇兆徴、そちょうちょう、1885−1929)
      広東省珠海出身、船員として海外体験
1908、中国同盟会に入会
  11、辛亥革命に参加、孫文に表彰される
  19、5・4運動、対日ボイコット
  21、香港海員工会を組織(最初の組合)
  22,1月賃金改善要求で海員ストライキ、弾圧
     運輸労働者、外資系従業員の支援、3月要求受け入れられる
  25、共産党に加入
     5・30後省港ストライキを発動、指導した
  26、全国総工会委員長
  27、武漢政府労工部長
     南昌蜂起に参加、広州コミューンを計画
  28、ロシアへ

1.鈴江言一の友人だったらしい。
2.熟練、非熟練労働で言うと海員は非熟練なのかな?
3.海員ストを支援した運輸労働者は青幇だろう。
4.22年の海員ストのころ、ストと共産党の関わりは、まだ不明。
110世界@名無史さん:02/08/15 12:32
海員は熟練のような気がしているのですが?
ジャンク船なら親方子分で、とても労働運動はやれないでしょうけど。
111@名無しさん:02/08/16 02:28
{誰がストライキを指導したか?}
(ケ中夏、とうちゅうか、1894−1933)
湖南省宜章県生まれ
1914、湖南省長沙、高等師範学校に入学、毛沢東(93年生まれ)と知り合う。
  17、北京大学入学、李大サとロシア革命に影響される。
  21、共産党創立に参加、民国初期の労働運動の育成
     京漢、他の鉄道、炭鉱のストライキを指導
  23,2,7  2・7惨案、呉佩孚の弾圧→上海へ
  25,3月、日系企業のストライキで逮捕される。
 5・30事件後省港ストライキを指導、スト委員会総顧問、
 武装ピケット隊を組織、
  27、4・12クーデター後、南昌暴動の立案
     ロシアへ
  33、国民党に逮捕され処刑された。


海員スト、省港スト、上海暴動
蘇兆徴  ○    ○     ×
ケ中夏  ×    ○     ×
  上海暴動の労働者側の指導者は不明
112@名無しさん:02/08/16 10:54
上海暴動の労働側の指導者は、共産党は周恩来と、上海総工会の代表
王少華らしい。

Shanhai on Strike(E.J.Perry)
読まれる機会があったら、内容教えてください。


http://www.amazon.com/exec/obidos/
ASIN/0804720630/harapanmediatech/104-5618544-5359906


113バグパイパー ◆4NSnA8xs :02/08/16 12:36
ところで陳独秀が中共から追い出された後に対抗して作った、中国共産党左派反対派
ってのはどうなんだ?
114@名無しさん :02/08/17 10:24
>>113
靡莫さん夏休みにつき、新米で失礼します。
陳独秀は、中共から批判された後にトロッキズムに共感し
ロシアがえりの連中と作ったグループは次々に逮捕され
勢力となれなかったようですね。
私自身はモスクワの中山大学の騒動に関心がありますが
よく理解できていません。
スターリン派とトロッキー派。
コミンテルン従順派と中国独自派。
これが同じなのかよくわかりません。
115靡莫:02/08/18 01:28
>>114
申し訳ありません、仰るとおり夏休みで書き込みを控えていましたので。
代わりに答えていただき有難うございました。
共産党の派閥関係については、もう少し僕のほうで調べてから書き込むつもりです。

>>113
@名無しさんの言う通り「中国共産党レーニン主義者左翼反対派」は、
国内の政治勢力としてはそれほど大きなものとはなれませんでした。

1931年5月、この「左翼反対派」は上海で正式に結成され、陳独秀が総書記となっています。
第一次国共合作の崩壊後に活動していた、各種トロッキー派の大同団結と言えます。
「左翼反対派」はトロッキストとして「不断革命論」や国民会議の開催を唱えながらも、
当時の中国共産党主流が行っていた武装闘争には反対していました。

しかし、間もなく内部闘争が発生し、1932年11月には陳独秀が国民政府に逮捕されて、
「左翼反対派」の中央組織は崩壊します。
それでも「左翼反対派」構成員は、抗日戦争中に組織を立て直し(ただし分裂状態)、
1949年の中華人民共和国建国まで細々ながらも活動を続けました。 
116世界@名無史さん:02/08/26 04:13
中国共産党員は国民党に捕まって
過酷な拷問をされてもめったに口を割らなかったそうですね
逆に日本共産党員はちょっとした尋問で
なんでも喋ってしまったとか
完全黙秘は宮本顕治ただひとりらしい
117@名無しさん:02/08/27 19:42
(李 立三、 りりつさん、 1899−1967)
湖南省の生まれ
         父(秀才)に古典の教養を教わる。
         中学時代に無政府主義者に
1919、フランス苦学留学(赴法勤工倹学運動)
  21、帰国、中国共産党へ入党
     湖南省安源炭鉱やその石炭輸送鉄道のストライキを指導、勝利
  25、上海総工会代表として、5・30運動を指導
  27、中共5全大会、陳独秀、批判され、共産党中央委員会主席辞任
  30、「新たな革命の高潮と1省または数省の首先勝利」決議
      李立三路線。
      毛沢東の農村主体を批判、
      ゼネスト、と2次の長沙攻撃失敗。
  31、 コミンテルンのミフが李立三路線を批判。
      以後、総書記は向忠発だったが、実権は王明に。
      李立三はモスクワで自己批判
  67、文革で批判され服毒自殺。




1.毛沢東 1893年
      劉少奇 1898年
      李立三 1899年生まれ
ほぼ同時期に湖南で活動を開始し、その後の人生も
        複雑にからみあっている。毛沢東を神格化しにくい経歴ではある。
2.安源ストライキの時期は呉佩孚が労組に甘くしている時期だったのが、
      李立三の経歴つくりには幸運だった。
    3.陳独秀の総書記辞任のあとに、向忠発が総書記になったが、以後
      李立三、王明に実権があったらしい。
      そのせいで表向きの権力交代の時期があいまい。
118@名無史さん :02/09/03 01:10
(王 明、 おうめい、1904−1974)
安徽省の生まれ
1924、学生運動に活躍
  25、中国共産党に入党
 モスクワ孫中山大学留学、共産主義理論、ロシア語の才能で
 中国に派遣される、ミフに注目される
 中山大学で反対派と激しい闘争があった(後日カキコ)
  29、帰国、都市中心の武装暴動、反富農闘争の強化を主張
 李立三と根本的な違いはなかったが、反対勢力となる
     「両条路線的闘争」という意見書、右傾の危険を指摘
  31、李立三から主権を奪うが、モスクワに脱出
  37、帰国、毛沢東の中共独自路線に対し、ソ連の意向で
 国民政府との統一戦線を主張
  40、毛沢東「新民主主義論」に対し、「両条路線的闘争」で対抗
  45、第3次極左路線として批判される
  56、ソ連へ
  69−74、ソ連で毛沢東の文革路線を批判した
119西国のアズマ帰依者:02/09/06 21:27
去年、中国で出たドラマ、「長征」はすごかったです。
コミンテルンから派遣されたドイツ人が、戦争指導を目茶目茶にし
話なのですが、最後にはとうとう中国人娘に手をつけて失脚。
中国人にとって悪玉を描くには、女に手を出すことが必要なのかな〜
と思った。
120@名無しさん:02/09/06 22:19
図説中国近現代史p116によりますと
長征の途上、35年1月の遵義(貴州省)会議において、コミンテルンから
派遣されていたドイツ人オットーブラウン(李徳)らのこれまでの軍事指導方針の
誤りが批判され、毛沢東が軍事指導権を掌握した。とありました。
どうも実在の人物らしいですね。コミンテルンというとロシア人と思うと
そうでない場合がいろいろあるようでわかりにくい。
中ソ対立については、知識ゼロですがそのうち勉強したいと、思っております。
知らないことが沢山あるのは楽しみが多いものです。
121世界@名無史さん:02/09/10 01:12
すみません、青幇についての資料を探しているのですが、
彼らによってもたらされた上海への影響を数値としてのデータで
あらわした書物は存在するのでしょうか?
大学図書館のOPACや国会図書館でも探しても見つかりません。
秘密結社というあたりで表には登場しにくい資料であるとは思うのですが・・・
質問だけですみません。
122西国のアズマ帰依者:02/09/10 16:10
上海への何の影響なの?
多分、国民党政治史、杜月生・黄金栄(青幇)の本を探してきて
そこに引かれている資料を個別的に探す方が手っ取り早いでしょう。
データで出すのは難しすぎると思う。
123@名無しさん:02/09/11 18:22
「大運河」星アヤ夫著、アヤの字は、へん(左)はなべぶたの下に
カタカナのメ、つくり(右)は武士の武、山形大学教授
近藤出版社、世界史研究双書3、1971年

この本は上海とは直接関係はない。隋漢から清末までの大運河の
解説であるが、青幇の大運河の水手組織からの発達がうかがわれる。

終戦で租界がなくなったら青幇も消失したそうですね
124世界@名無史さん:02/09/13 00:25
>>123
ありがとうございます。探して参考にしたいと思います。
125@名無しさん :02/09/14 23:21
オットー・ブラウン(1901〜1974)
中国名は李徳。通名リトロフ。ドイツの人。ドイツ共産党に入党。
ドイツ中部の労働者蜂起に参加。1926年に逮捕されて死刑を宣告されたが、
1928年に脱走してソ連へ。軍事学院で学んだ。1932年ごろ上海に入り、
コミンテルンの軍事顧問として江西の共産党根拠地に入った。
長征に参加した唯一の外国人となる。遵義会議では秦邦憲らとともに批判を
受けた。陝北に遷ったのちに、抗日軍政大学で教えた。
1939年延安を去り、ソ連へ。1949年、東ドイツに帰国した。
マルクス主義研究所で翻訳に従事した。中ソ論争ではソ連を支持した。
1974年に病没した。『中国紀事』。
126@名無しさん:02/09/16 20:17
(モスクワの留学生)その1
参考にした本
1)横山宏章著「陳独秀」朝日選書230,朝日新聞社、1983年
2)王凡西著「中国トロッキスト回想録」アジア叢書、拓植書房、1979年
3)イスラエル・エプスタイン著「宋慶齢」サイマル出版社

モスクワには、一般大学として革命以前からあるモスクワ大学などの他に
共産主義を教えるための大学が作られ、沢山の中国人が送りこまれたようだ。
その内、最エリート校のレーニン学院には中国人は1,2人しかいなかった
らしい。主に、東方大学と中山大学があった。東方大学は中国の共産党員を
600人位送り込み、内100人位は共産主義理論を教え、そのほかは、
軍事訓練を主にしたらしい。中山大学は共産党員ばかりでなく国民党の
有力者の子弟などがいたらしい。ロシア人の教師に通訳をつけて授業を
したようだ。2)と3)で少し事実関係が違う。1)は2)からの引用。
127@名無しさん:02/09/16 20:23
(モスクワの留学生)その2
「宋慶齢」によれば、中山大学は1925年に政治工作者養成のため
モスクワにつくられた。蒋介石の息子、蒋経国、ケ小平など一期生。
「宋慶齢」の本には東方大学のことは無視。大学内の紛争も、左派の学生が
孫文主義を批判し、孫文支持派との論争を重大視している。当局はこの論争は
無視。27年にトロッキーとその派の校長ラヂックが追放され、スターリン派
のミフが校長にその部下に王明。宋慶齢はこの問題は避けている。
彼女は孫文のことしか関心がない。
128@名無しさん:02/09/16 20:27
(モスクワの留学生)その3
 一方、王丹西は宋慶齢と同じ船でモスクワへ、行ったが同時に6、700人
の学生が東方大学(極東勤労者共産主義大学)に軍事速成斑6ヶ月コースに
入るが、数十人は2年間の革命理論コースになった。
東方大学は革命幹部を養成する政治大学で、ソ連の東方少数民族、アジア、
アフリカ、日本、アメリカ黒人がいた。国共合作で中国人が大量にくると、
中山大学をつくって別に教育した。中山大学は非共産党員が多かった。
古参党員は東方大学へおくられた。著者も。
両大学共にスターリントロッキー論争ではスターリン派のみが教育され
文献も見せなかったが、密かに皆よんでいた。国共合作の失敗がスターリン派
の誤りということは学生はわかっていた。半数くらいが、トロッキー派だった。
スターリン派から帰国させた。学生はトロッキー派をかくしていた。大学も
そのうち改心するとして、過度の取締りがなかったのが、陳独秀の反対派旗揚げ
で情勢が一変し、ソ連にいた、学生数百人はゲーペーウーにつかまり行方不明に
なった。王丹西も帰国していたが密告され除名された。
129世界@名無史さん:02/09/30 01:59
未成革命
130@名無しさん:02/10/02 18:40
(康 生、 こうせい、1898−1974)
山東省生まれ
1924年、上海大学入学
  25年、中国共産党入党、上海総工会幹事
  26年、27年、第一次、二次、三次、上海武装蜂起に参加
  29年ー33年、李立三、王明の下で従事
  33年、モスクワ行き、反トロッキー運動を指導
      「28人のボルシェビキ」(留ソ派)のリーダー
  37年、延安に戻る
      スパイ摘発工作、毛沢東のもとで整風運動で活躍
  45年、スパイ摘発でっち上げで罷免される。
  56年以降、毛沢東の「社会主義段階での継続革命」路線で右派批判。
  66年、文革小組の顧問、4人組のひとり
       67年の「2月逆流」「7・20事件」
       68年の「雲南省趙健民特務事件」、「内蒙古人民革命党事件」
       などをデッチあげた。
  73年、党副主席
  75年、病死
  80年、4人組裁判で主犯として党籍剥奪
131@名無しさん:02/10/02 18:54
康生は文革で有名だがそれ以前にいろいろ陰謀をやっているが、よくみれば
毛沢東の穢れ仕事をやらされたともいえる。延安の粛清など共産党の暗部は
まだまだ情報が少ない。台湾などで調べているのだろうが、出版してほしい。
130は毛利和子氏の記載を参考にした。
132世界@名無史さん:02/10/02 20:58
いや真の陰謀家は周恩来。
康生も死の直前まで周を警戒していた。
康生は晩年ガンで入院していたが
周が見舞いに来ると「総理は何しに来たんだ?」
と叫んでいたという。
病気に見せかけて暗殺されるのを警戒していたらしい
133世界@名無史さん:02/10/08 02:50
国民党はアメリカともソ連とも(日本とも)仲良かったけど、
共産党はそうでもなくて、独力で革命やったんだ!って感じの話を
ときどき聞くけど本当なの?
134@名無しさん :02/10/22 09:47
定期あげ
蒋介石、ヒトラー、歴史は敗者に冷たい。
勝者によって書かれた歴史では、敗者は悪者に書かれるのは
仕方がないとして、アホに書かれるのは気の毒だ。
林彪もまるで、強欲なアホだ。彼の前反省を考えよう。予告。
135@名無しさん:02/10/22 12:23
>133
中国共産党が出きる初めから、ソ連共産党の強力な援助、支配が
ありました。その後独自路線を作るのに苦労したようです。
その後も反発はしながらも援助はうけていたようです。
136@名無しさん:02/10/22 12:53
まず経歴の第一歩
林彪(1907〜1971)
もとの名は林育蓉。湖北省黄岡の人。
1925年共産党入党。五・三〇事件参加後、黄埔軍官学校に入り、北伐に参加。
1927年南昌蜂起に参加し、井崗山で毛沢東に合流。
   紅軍第四軍軍長・紅軍第一軍団軍団長・紅軍大学校長などをつとめた。
   長征に参加。抗日戦では八路軍一一五師を率い、山西で遊撃戦を指揮。
1946年東北連軍総司令。東北野戦軍司令員・第四野戦軍司令員として内戦を
   指揮した。
建国後、中南軍区司令員・党中央軍事委副主席。朝鮮戦争にも参加。
1954年国務院副総理・国防部長となる。人民解放軍の元帥のひとり。
   毛沢東に忠実で多くの軍幹部を攻撃し、失脚に追い込んだ。
文革でも江青らを支持して「実権派」を弾圧した。
1969年に毛沢東の後継者として認定されたが、
1971年、毛沢東暗殺を企てて失敗し、ソ連へ向けて飛行機で逃亡中に
    外モンゴルで墜落死した。

137世界@名無史さん:02/10/23 18:03
277 名前:月に14部 投稿日:02/10/22 08:20 ID:nuJXvz3i
一時間ほど前、小林先生のお家(うち)に「光の泉」「白鳩」「理想
世界」「理想世界ジュニア」の14部の普及誌をいただいて、9月分の
会費をお払いしてきました。いままで、いつも結局もって来ていただく
ことのなってしまって申し訳なかったです。だけど、ああ、思い付いて
母に「光の泉」と「白鳩」「お〜い、 お〜い」『なんだん』「はい、
これおとうちゃんとおかあちゃんにあげる」『前のとちがうのかん』「これは9月号だよ」  『なかなかいいことが書いてあるけど、ついテレビ見
てしまってなかなか読めん』ということで今わたしてきた、一歩前進か、ポスト愛行一遍したことがあるけど、やめちゃった。あと二冊は今年4
人乗らんと駐車券もらえんからとかいって、父母と大講習会にきてもらった、春ちゃんってぼくも呼んでいるけど、ああ、もちろんよかったから
また行きたいっていっていたけど、うちの工場に働きにきてて、随分年は上ですけど美空ひばりとたしかおない年だ、松下春江さん(白鳩)と
あと川合さんっていって、うちの工場にきている人だけど天皇陛下が好きなひとがいるもんで「光の泉」をあげているだけ。



138@名無しさん :02/10/23 19:13
(林彪、りんぴょう、1906−1971)その1
湖北省黄崗県出身
1925年、5・30事件(上海の工場ストと弾圧)で学生ストライキ
      黄埔軍官学校入学(4期生)
      共産主義青年団に入団
  26年、北伐戦争に参加、葉挺の第4独立軍
  27年、中共入党、南昌蜂起に参加
      朱徳の元で農民蜂起
  28年、労農紅軍に改編
      5月毛沢東と井崗山(せいこうさん)で合流
      労農紅軍第4軍成立(軍長、朱徳・党代表、毛沢東)
      6月中共6全大会モスクワ、ソビェト建設へ
紅四軍では、朱徳、毛沢東、陳毅の3頭支配
      28、29,31,32団の28団長の団長になる。
  30年 紅四軍を軸として、紅三軍、紅十二軍を併せて第一軍団、林彪は軍長に。
  31年、 瑞金ソビエト成立

井崗山では朱徳と毛沢東の主導権争い。林彪は毛沢東につく。
陳毅は中立。文革で批判される。
紅軍の組織は知識不足でよく解からない。
139@名無しさん:02/10/25 18:14
矢吹晋著「中国人民解放軍」講談社選書メチエ82

人民解放軍の本は少ない。軍事費が増えても脅威でないと言っている。
こういう人らしい。↓
http://www2.big.or.jp/~yabuki/
140@名無しさん:02/10/25 21:47
軍区(軍区)政治委員   
軍団(軍団)              政治委員
軍(軍)政治委員
師(師団)政治委員
団(連隊)    党委員会政治委員
営(大隊)    党委員会
連(中隊)    党の支部
拝(小隊)    党の小組
斑(分隊)    党の小組

井崗山に行く途中毛沢東は「三湾改編」を行いもとの三団(連隊)の
工農革命軍第一軍第一師を工農革命軍第一師第一団に縮小し、軍内に
党組織を置いて支配した。
これと朱徳軍が合流、紅軍第四軍を編成。第四の名は鉄軍からとった。
141@名無しさん:02/10/26 23:42
(林彪、  その2)
26年、第4軍排長
27年、葉挺部隊連長
28年、朱徳に従い農民蜂起
    紅軍第1師に改変
    大1団第2連長
    井崗山で労農紅軍第4軍成立
29年、第4軍第1縦隊隊長
30年、第1方面軍第1軍団第4軍軍長
32年、第1方面軍第1軍団総指揮
34年、第1軍団軍団長として長征に参加
    第1方面軍と第4方面軍の会師後第1方面軍(指令員、彭徳壊)の
    右路軍長
36年、抗日紅軍大学校長、学生の劉錫銘と結婚
37年、八路軍に改変、115師長として板垣師団を撃破
38年ー43年、モスクワ
43年、中共中央学校の副校長、学生の葉群と結婚。
45年、中央委員

上の表で中共軍内での出世がやや解かる。
学生とすぐできてしまう先生だ。
142@名無しさん :02/10/31 10:11
age
まだ林彪の途中です。
143世界@名無史さん:02/10/31 11:02
>>135
そもそも最後は一つになる予定だったんだよね。
「我ら〜、インターナショナル〜」って。
共産主義は最後は国もなくなるわけだから。
144世界@名無史さん:02/10/31 11:07
林彪は軍を掌握してない毛沢東に利用されたな。
労農紅軍の五大系統
第一野戦系     賀竜
第二野戦系     劉伯承ーケ小平
第三野戦系     陳毅ー劉少奇
第四野戦系     林彪

六大軍区
華北兵団系     ジョウエイシン
146@名無しさん(林彪はすごい)      :02/11/06 22:20
(林彪、その3)日中戦争後の林彪
     日本降伏後、東北に進撃
     東北民主連軍指令員
1946年、東北局書記
  47年、四平街解放
  48年、長春解放
      遼瀋戦役を指導、瀋陽を解放
      東北民主連軍を東北野戦軍と改称
 山海関を越えて関内(華北)に進出。
  48年11月−49年1月、平津戦役を指導(北平は北京、津は天津)
       北平を解放(49・1・31)東北野戦軍は第四野戦軍と改称
       平漢線ぞいに南下(漢は漢口)
       武漢を解放、華中区司令員、華中局書記
       長沙解放
  49年、政府委員、軍事委員会委員
      10月、広州を解放後、雷州半島(海南島基部)まで進撃。

1.国共内戦の三大戦役、遼瀋戦役、平津戦役、淮海戦役の内、二つに
  貢献している。
2.中国軍の五大野戦軍のうちの第四野戦軍が林彪の影響下にあった
  理由が理解できる。
3.朝鮮戦争で、林彪は中国人民志願軍指令員に任命され拒否とあるが
  この時の事情はよく解からない。朝鮮に中国が介入するのに反対
  だったらしいが、軍人が毛沢東の指令をどうして拒否できたか
  理解しにくい。
4.いずれにしろ、林彪の日中戦争、国共内戦における功績は、驚異的に
  輝かしいもので最若年で元帥になったのも理解できる。               
147西国のアズマ帰依者:02/11/08 19:47
一応林彪は不敗将軍だからなあ。
林彪の生年は1906年で確定?
148      :02/11/08 21:44
>147
1906年でいいようです。

生まれた年代をならべてみると、
朱徳    1886年
毛沢東   1893年
劉少奇   1898年
 このへんが中心年令層
ケ小平も1904年で若いですね。
>http://www.utp.or.jp/shelf/200106/030123.html
「毛沢東とベトナム戦争」
朝鮮戦争とベトナム戦争と文化大革命は微妙に関係していそう。
ゆっくり考えよう。上記の本は読んでない。
最後の二三章が関係しそう。図書館をさがそう。
>http://www.wordpedia.com/search/kdg.asp?kl=233&page=2

解放軍に関するデータ集、文字からみると台湾の資料なのか?
151    :02/11/11 11:15
http://homepage2.nifty.com/tsubasakai/w1306b.htm

>19日付けの産経新聞によれば、中国高官が論文で軍の党への服従
>徹底を強調したとういうことです。 中国では伝統的な革命路線を
>伝承する開放軍を強調する「紅」と近代軍への脱皮を図る「専」の
>対立が繰り返され、今は「専」が優勢と言われています。というこ
>とは、党の指導が弛緩しているという危機感を指導部が感じている
>ことであり、これが軍の近代化への逆バネとなりかねないと考えら
>れます。
>解放軍は中国内戦、朝鮮戦争、中越紛争と伝統的に非正規戦を主
>体に戦ってきましたが、現在の中国軍近代化路線はミサイル戦力、
>海空軍近代化等正規軍への道を歩んでいます。軍の内部から正規軍
>化の動きが出ても当然の流れであって、この動きは80年代から始ま
>っています。
>中国会全体が資本主義化する中で、共産党の指導が自己矛盾に
>陥っているのではないかと感じます。

「専」とは専門家のことか?この問題がポイントらしい。
152@名無しさん :02/11/12 12:19
    (彭徳壊、ほうとくかい、1898−1974)
     湖南省の生まれ、貧農出身
1916年、湖南軍に入隊
  26年、国民革命軍第8軍第1団第1営営長として第4独立軍と行動
  28年、中共入党,
平江蜂起(湖南)<中国研究月報82年5月
  29年、井崗山で毛沢東と合流、第1軍団と第3軍団は合同して第1方面軍
      長征では第3軍団司令員
  35年、第1方面軍司令員
  37年、八路軍副指令員
40年、百団大戦を指揮<中国研究月報83年5月特集
  49年、第1野戦軍司令員
  50年、朝鮮戦争、人民志願軍司令員
  53年、停戦協定に調印
      米国との近代戦争の経験より中国軍の近代化、正規化に取り組む
  57年、兵員の削減による質的向上を目指す
  59年、ソ連、東欧、モンゴル訪問
      毛沢東との対立へ
(50、60、70年代の東アジア)
1950年、6月、朝鮮戦争起こる。
  51年、9月、サンフランシスコ平和条約、日米安保条約
  52年、   日華(台湾)平和条約
  53年、3月、スターリン死亡、
      7月、朝鮮休戦協定調印
  54年、7月、インドシナ休戦条約
  58年、3月、フルシチョフ、首相に
      9月、中国軍金門島を攻撃
  59年、4月、毛沢東退き、劉少奇主席に
  61年、10月、中印武力衝突
      12月、中ソ対立激化
  63年、11月、南ヴェトナム革命(ゴーディンジェム政権崩壊)
  64年、7月、 中国原爆実験
      8月、 トンキン湾交戦事件
      10月、フルシチョフ失脚、コスイギン首相に
  65年、2月、ソ連首相北ヴェトナム訪問
         米軍北爆開始
  66年、4月、文化大革命起こる
  69年、3月、珍宝島で中ソ武力衝突
      6月、林彪新国防計画軍事費34%増
      8月、新疆ウイグル地区中ソ大衝突
  71年、9月、林彪、飛行機事故
  72年、2月、ニクソン大統領訪中
  76年、9月、毛沢東死去
      10月、四人組逮捕
154@名無しさん    :02/11/14 21:49
1。彭徳壊は朝鮮戦争の現場での経験からアメリカ軍事力の圧倒的な物量、近代兵器に
  直面し、中国軍の近代化を計画した。人海戦術による大量の死者は指揮官として
  つらいものがあったろう。
2。毛沢東の戦争方法論は遊撃戦だ。
    毛沢東著「遊撃戦論」中公文庫629
  敵を引き付けて攻撃するゲリラ戦だ。ただし毛沢東のやったのは、国府軍、日本軍
  相手で彭徳壊のようなアメリカ軍でない。林彪も毛沢東の方法で戦ってきた。
  この戦術にこだわりがある。当時のベトナムの戦いもこのやり方でホーチミンも
  戦っていた。毛沢東と林彪が文革でチームを作った理由にならないか?
3。毛沢東は王明等のロシア留学派との抗争を勝ち抜いて、中国独自の共産主義を
  打ち立ててきた。中国軍近代化、大量物資主義はロシアの方法論に屈服することに
  なる。確認していないがベトナム戦争の戦い方でも中ソに違いがあったのでないか?
4。彭徳壊の後ろ盾は劉少奇だ。毛沢東は思想家、軍人、政治家が結びついた人間で
  戦場で勝ち抜いてきた人間だから、軍事にはなによりもこだわりが強いだろう。
5。朝鮮戦争、ベトナム戦争をバックにして戦争方法論をつかって中ソの共産主義の
  優劣を競い合う、文化大革命にそのような要素は考えられないでしょうか?
155新刊スレ住人:02/11/21 00:21
こんな本が出てますが、既出?

『中国革命とソ連 抗日戦までの舞台裏【1917-37年】』
ボリス・スラヴィンスキー/ドミートリー・スラヴィンスキー著
加藤幸廣訳
共同通信社 ISBN4-7641-0513-6 本体\4,600

孫文との接触、中国共産党の設立、北伐と上海事件、東支鉄道紛争、満州事変、西安事件…
発掘された新資料をもとに、これまで謎に包まれていた1920年代から30年代にかけての中ソ関係と日本とのかかわりに新たなスポットを当てる。
156@名無史さん     :02/11/21 22:17
>>155
ソ連は秘密文書が公開されていくようですね。私は東支鉄道に興味が
あるので買いたかったのですが、私のえこのみー問題で延期してます。

今エドガー・スノーの「中国の赤い星」ちくま学芸文庫を読んでますが、
第一部62pの国民党兵士が紅軍兵士のうわさ話。
「奴らは俺たちよりよっぽどちゃんと食べてるよ」
「そうだ、老百姓の肉をくらっている」  とある。
老百姓はこの場合地主のことらしいけれど、こういう表現は中国で
よく出てきて非常に気になる。
157世界@名無史さん:02/11/22 14:36
べんきょうちゅう
「毛沢東死去以降の中国政争史」のスレの50の方(物知り博士と想像させるお方)が
「選出された政治局常務委員の顔ぶれをみると、序列2位の呉邦国を筆頭に、
上海系ばかりじゃないか。第2野戦軍系は、どうしたんだ?」と発言されている。

このスレのに145に
労農紅軍の五大系統
第一野戦系     賀竜
第二野戦系     劉伯承ーケ小平
第三野戦系     陳毅ー劉少奇
第四野戦系     林彪

六大軍区
華北兵団系     聶榮臻

50の意味は第二野戦軍出身のケ小平の広州、深センの派閥から江沢民の上海派閥に
勢力が移ったということをおっしゃってると思いますが、このように長征時代の
方面軍から野戦軍をへて共産党軍においても、地域的な軍閥のようなものがある
ということを、もうすこし調べて理解したいと思っております。
林彪雑記
「林彪は元来第四野戦軍の指導者として、一つの派閥をもっていたわけだが、
 軍事委員会を牛耳るようになってから、林彪派の形成を意識的に行った。
 「双一」(すなわち紅一方面軍、紅一軍団)にかつて属したことがメンバー
 の条件であった。「双一」こそが後の第四野戦軍の源流である。
 黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作、いずれもその資格を備えていた。
160@名無史さん     :02/11/27 19:24
(劉 伯承、りゅうはくしょう、1892−1986)
四川省生まれ
1912年、重慶の将校学堂入学
  26年、中共入党
  27年、南昌蜂起に参加、モスクワに逃れる。フルンゼ軍事学院に。
  31年、瑞金革命根拠地に入る。
  34年、第1方面軍第5軍参謀長として長征に参加。
      揚子江渡河や彜族(イ族)の首領と義兄弟となり紅軍を無事に通過させた。
  38年、抗日戦争、八路軍第129師師長
      ケ小平と晋冀予抗日根拠地を創設。
      
  40年、百団大戦に参加
      抗日遊撃戦術の著書多数。

      国共内戦では、ケ小平と共に中原野戦軍、第2野戦軍を指揮。
      淮海戦役、長江渡河作戦に参加。
      西南戦役を指揮。
  50年、ソ連軍に倣い近代的な正規軍養成の軍事学院を創設。
  58年、解放軍のソ連軍化を目指したと、彭徳壊と共に批判される。
  78年、文革後、軍事学院復活、
      ケ小平は劉伯承を名誉回復。

1。西南地方に勢力地盤があること。彜族(イ族)との関係など靡莫さんの
  専門領域と関係が深い。
2。軍事教育に関し葉剣英とライバルだそうだが、二人の方向の違いは不明。
3。八路軍は115師(林彪)、120師(賀龍)、129師(劉伯承)の三師
4。彭徳壊との関係も要検討。
川島弘三著「中国党軍関係の研究、上中下」慶應義塾大学出版会
>>98
>ヴァッサーシュトロームの
>「近代的労働者は戦闘的か?」

福本勝清著「中国共産党外伝」蒼蒼社のp33に
「幇会、幇口、工会ー上海史研究の新しい視角」という
章がありますが、そこで例の青幇と熟練工の話がでてますが、
その出典はE・J・Perryですね。
共産党政府にとっては、最も貧しいグループが青幇のほうにつく
というのは、まずい、困った説らしいですね。
第1方面軍(林彪)→115師→第四野戦系
湖南、湖北西部で紅軍第2軍団→第2方面軍(賀龍)→120師→第一野戦系
河南、湖北、安徽の紅軍(徐海東、徐向前)→第4方面軍(張国Z)→129師(劉伯承)→第二野戦系

第1と第3合同で第一軍団
第5と第9は張国Z
劉伯承は第1方面軍の第5軍団より129師へ
164   :02/11/30 00:43
age
165@名無しさん   :02/11/30 12:20
1.日中戦争史研究会編約
    「日中戦争資料、八路軍・新四軍」  竜渓書舎
  
  あまり具体的な資料がなく、参考にならなく面白くない。
2.宍戸寛著「中国八路軍新四軍史」  河出書房新社
  
   非常に参考になる。一番参考になったことは八路軍の構成は
   誰もよく解からないのだということ。その原因として
   1.共産軍幹部にも自分達の現有規模が良くわかっなかったし
     必ずしも威信が確立してなかった。
   2.国府軍と共闘の形は維持しようとしたが、衝突はしていたので
     共産軍の実勢を国府軍にかくそうとしていた。八路軍は3師団に
     こだわり、その他は別働隊と無理につくっていた。

著者の宍戸さんはジャーナリストの出身で今はなんと瀬戸内海の島で牧師さん
をしているらしい。宍戸さんに数人が協力している。
右、左に偏らないでこれだけの資料を集めたのはたいしたものだ。新書でも
書いてほしい。
             
166世界@名無史さん:02/12/03 20:56
結局、国民党も共産党も同じ穴のムジナ
167世界@名無史さん:02/12/04 13:45
河南省の紅槍会の頭目李大黒
山東省の土匪の毛思忠、顧得林、史殿臣、宋朝勝、史天聡
広西の土匪の劉顕潜、陳豹
湖南省湘西の土匪の楊樹臣
福建省同安の土匪の葉定国、福建省長泰の土匪の葉文龍
 の以上の人物についての詳しい伝記をご存知の方は書き込みを
お願いします。
168@名無史さん   :02/12/04 17:51
(中国の軍区)
北京軍区   南京軍区  福州軍区  成都軍区   
新疆軍区(後にウルムチ) 蘭州軍区  広州軍区
済南軍区   武漢軍区  昆明軍区  瀋陽軍区
基幹都市と辺境に配備されている。
169世界@名無史さん   :02/12/06 15:14
「富田事変」1930とは何か?
断続するミニ文革的粛清運動・・・
http://www2.big.or.jp/~yabuki/doc/nei9701.htm
戴向青、羅恵蘭著『AB団与富田事変始末』
       (鄭州、河南人民出版社、一九九四年)
>一九二六年末、アンチ・ボリシェビキ団(すなわちAB団)が組織され、
>国共合作を破壊しようとしたが、これは共産党の努力で三カ月で解体された。
>三年後の一九三〇年五月、毛沢東は李韶九を富田に派遣してAB団粛清を
>命じた。これは敵情を誤認した粛清であり、これに反発した側が富田事変を
>起こした。毛沢東はなぜ敵を誤認したのか。富田事変の悲劇の全貌がこの本で
>細部まで理解できる。

なんの事をいっているのだろう?
AB団とはロシア支配を嫌った革命運動なのか?
なにかご存知の方教えてください。


170@名無史さん   :02/12/07 14:56
「林彪秘書回想録」張雲生著蒼蒼社、2884円
  この本は見つからない。この値段は消費税3%の頃の本らしい。
171@名無史さん:02/12/11 19:05
       (富田事件)

1930年、3月、反蒋第4戦
      6月、労農紅軍第1軍団、第3軍団成立
      8月、1,3軍団で第1方面軍編成
      9月、長沙攻撃失敗、李立三路線批判
         江西省ソビエト大会毛派、反毛派の対立     
     12月4日富田事件
         国民党第1次「囲剿」開始
  31年、瑞金(江西省)ソビエト成立

共産党が南昌蜂起、秋収蜂起に失敗し、上海の組織が密告で壊滅し、
組織を江西省に移しつつあった。李立三と毛沢東は主導権あらそい。
蒋介石は囲剿の体制を整えつつあった。そのころ・・
江西省の紅軍組織幹部の親族が国府軍にかいた領収書が見つかった。
毛沢東が調査にのりだし、主に反毛派の4000人が粛清されたと
いわれた。人数には諸説ある。これに反発した紅軍第20軍が反乱を
起こしたが鎮圧された。、
AB団(アンチボルシェビキ)というのは、地区の地主等の組織で
この行動の黒幕の嫌疑をかけられたがこの点は誤りだったらしい。
この騒動で反毛派は一掃されてしまった。
時期的に囲剿の直前で、スパイに過敏になっていたようだ。
1721942年の文化大革命@名無史さん:02/12/13 17:13
    (1942年よりの整風運動)
1941年ごろから、百団大戦などにより共産軍に注意を払い
掃討作戦に切り替えた日本軍や国共再合作も破綻し、共産軍は
苦境におちいり再編成の必要があった。
毛沢東の文革のひな型ともいうべき、運動が延安で始まった。
教条主義、セクト主義、官僚主義に反対し、学風、党風、文風
の3風を整頓し、批判と自己批判を武器として徹底的に行うと
した。
その評価はさまざまで実像がつかみにくい。
ウラジミロフ著「延安日記」によれば、実質は王明等の左傾
路線との思想・路線闘争。イデオロギー論争をよそおい反対派を
弾圧するのに用いられた。康生が指揮するスパイ狩り運動と
している。
徳田によれば、中国のマルクス主義の発見。中共の毛沢東化
への作戦としている。
「中国八路軍新四軍史」の宍戸寛氏によれば、虐殺の資料は
見つからないと言っているが、私としては、文革のような
ものだったと想像している。
    その他マーク・セルデン著「延安革命」がある。
173予告編@名無史さん:02/12/15 19:56
次に第四方面軍、張国Zと毛沢東の抗争をやりたいが、
これが訳の分からない展開のようだ。
174@名無史さん :02/12/15 21:54
175@名無史さん:02/12/15 22:13
176@名無史さん:02/12/19 00:05
    (1931年、最盛期の革命根拠地)
朱徳、毛沢東の中央根拠地、瑞金、

      西に彭徳壊の贛西
      東に方志敏の贛東

       贛、かん、江西 
張国Z、徐向前の鄂予ユ

       鄂、がく、湖北
       予、よ、 河南
       ユ、かん、安徽

賀龍、ケ中夏の湘鄂西
       
       湘、しょう、湖南
       鄂西、湖南省西部
177二つの赤い星@名無史さん:02/12/21 00:10
現在、一般によまれている「エドガー。スノーの中国の赤い星」は
筑摩書房の松岡洋子さんの訳のものだろう。1968年に加筆した
ものを1975年に出版したものである。文革の時期だろう。
私の関係する田舎の家が近くこわされると聞いて訪問した。その
古い家で何十年も人の足を踏み入れてないほこりの中から
「中国の赤い星、宇佐美誠次郎、杉本俊朗訳」を発掘した。
これは昭和21年12月発行の上下2冊で永美書房から200円で
でているが、これを入手した人は中国文芸愛好会というところから
非売品として180円で入手したらしい。この本は朝鮮戦争のころ?
GHQにより発禁になってるが、非売品ということと関係あるのか
分からない。内容は全部比較したわけでないが、前の部分は訳が
違うだけのようだが、終わりのほうになると原文が違うのでは
とおもわれる。
やはり、時代に合わなくなってもオリジナルで読みたいものだ
178世界@名無史さん:02/12/21 00:49
>>146
> (林彪、その3)日中戦争後の林彪
:
>   48年、長春解放

この時の演説を映画監督の内田吐夢が見てるね。
満映の後も中国残留を余儀なくされたので。

>>158
> 地域的な軍閥のようなものがある

第二野戦軍系と上海系は、右派、左派と路線も全然違うね。
179世界@名無史さん:02/12/21 00:50
あんまり民主党派についての話がないですね。
お薦めの本や論文などあれば、教えて頂けないでしょうか。

中国青年党がファシスト的傾向だと書いてありましたが、
幹部の中には民主主義について言及している人もいたような記憶があります。
本当にラディカルな政党だったら、国民政府の憲政に協力はしないような気が
するのですが。どなたか解説していただけないでしょうか。
180世界@名無史さん:02/12/21 01:19
>177
宇佐美誠次郎の回想で松岡洋子訳が出て立腹した、みたいなくだりがある
翻訳権か何かでもめたのだろうか
181世界@名無史さん:02/12/21 10:21
>>179
諸星清佳「中国革命の夢が潰えたとき―毛沢東に裏切られた人々」中公新書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121015142/
これは既にご存じのことばかりでしょうかね?
「裏切られた人々」というのは民主同盟の人たちのことです。
182世界@名無史さん :02/12/23 01:14
(整風運動を文革との関連で考える。その2)
石山紀之著「中国抗日戦争史」を材料として。
1941年ー42年。日本軍の掃討作戦(中国のいう三光作戦)
          毒ガス(イリベットガス)の使用。
          経済封鎖。食料収奪。
1940年、    国民政府の軍事援助停止。経済封鎖。
          自然災害としての干害。

第2次国共合作後、大量の知識人等プチブルの入党があった。
彼らを、主観主義、セクト主義、党八股(無内容で形式的な文章)を
克服するための大教育運動。
「マルクスレーニン主義の普遍的真理を中国革命の具体的実践に結合」
つまり「マルクス主義の中国化」
文化界の整風運動。作家の思想統制
毛沢東の「文芸講話」。知識人の下郷運動。「白毛女」
王明等のソ連系人脈の排除。
43年からの幹部審査ではつるしあげ、暴力的手段による糾弾があった。
康生はスパイ摘発運動(39年の三大スパイ事件、40年の倉救運動)
42−43年には整風運動の副責任者で王明等の摘発。45年にでっち上げ
を批判され罷免。

文化大革命は整風運動の成功を参考にその再現を企てたと考えられる。
1.文芸問題を最初のとっかかりに利用する。
  知識人を攻撃する。最初は弱いものをたたく。
2.共産主義思想の純化を主張する。
3.大衆に自己批判を要求するが、罰則は軽い。この間に毛沢東礼賛、
  神格化をおしすすめる。
4.最終的に主目的である、対抗勢力を押しつぶし、毛沢東への権力
  集中を実現する。王明は劉少奇の役割である。王明の妻は孟慶樹
  だが、中国近代史のNo.1の美人の彼女が劉少奇夫人のような
  攻撃を経験したかは知らない。
5.うら若い江青もじっくり、この騒動をみていた。     
183世界@名無史さん:02/12/24 00:40
延安では、衣料には3段階、食料は5段階の階級格差があった
話があるが本当か?作家の王実味がソースか?
184@名無史さん:02/12/24 11:20
王実味という作家にもっと注目しよう。

>http://www2.big.or.jp/~yabuki/doc/pe850800.htm
>http://wwwsoc.nii.ac.jp/ica/monthly/m.m/1990.html
>http://maoist.netfirms.com/jiang-qing/koc007.htm
> 早くは三十年代、江青同志は断固として毛主席の革命路線の側に、文化革命の旗手魯迅を
代表とする革命文芸陣営の側に立ち、あれらの文壇の妖怪、陳腐な者ども、漢奸の狆に対し
、王明を代表とする投降主義路線に対し、周揚、王実味のやからの三十年代の反革命文芸の
黒い糸に対して不撓不屈の闘争を行なった。

 抗日戦争の時期、延安で江青同志は毛主席の指示により、京劇(当時は "平劇 "といった)
革命に重大な歴史的意義をもつ最初の試みを行なった。林彪同志の直接指揮した平型関の
大戦を題材とした革命的現代京劇「平型関」などを演出したことがあった。党内のブルジョ
ア階級の代理人は、江青同志のこの創挙をきわめて恨み、胸中に不満を抱いていた。
一九五六年になって、反革命修正主義分子田漢はこれを「誤った路線であり、否定せねば
ならない」と罵りを加えた。
小山五郎著
「現代中国の政治と文学」東方書店
昨日本屋で一時間ほど、立ち読みでなく、座り読みした。
いい本だった。すみません。
江青が延安で活躍した話は本当なんだろうか?
185世界@名無史さん:02/12/24 11:28
大爆笑!

 「中国国民党革命委員会」!!!!

初代党首は宋慶齢だが、パロディとしか思えぬ名前。
186世界@名無史さん:02/12/24 13:11
 1990年代初めに死去した中国国民党革命委員会主席の屈武が、
死後、長年にわたり中国共産党員であったことが明らかにされたように
中国国民党革命委員会の幹部には中国共産党との二重党員が多いです。
 

187世界@名無史さん:02/12/25 00:07
逆「国共合作」ですね
188世界@名無史さん:02/12/25 13:56
 湖北の宗教系秘密結社、黒洞神兵の幹部で、1928年3月に、
賀龍が率いる南昌蜂起軍の残存勢力の紅軍に参加した李大菩薩
という革命家の経歴について詳しくご存知の方がおられましたら、
どうかお教えください。
189@名無史さん:02/12/25 16:51
私は中公新書福本勝清著「・・・アウトローたち」のp154に
李大菩薩が出ている以外なにも知りません。こういう文献は大部分
中国語じゃないでしょうか?それならいろいろありそうです。
日本語で私の知っているのは「星火燎原」人物往来社1から6の内
1くらいでしょうか?
190世界@名無史さん:02/12/25 23:16
>>185
パロディーというか、
国民党左派の分派みたいな小政党だろ。
別にふざけてはいないと思う。
191世界@名無史さん:02/12/26 13:33
中華人民共和国建国に参加した、北洋軍閥政府の元海軍総長
薩鎮ヒョウと、国民党政府の元外交総長顔恵慶、辛亥革命勃発
時の四川省総督イン昌衡の3人について、新中国成立以後の経歴を
お教えください。
192世界@名無史さん:02/12/26 14:48
劉志丹の革命軍と一時友好関係にあった平涼の軍閥陳珪章は、
中華人民共和国成立後はどうなりましたか?
193@名無史さん:02/12/26 18:09
>191
   薩鎮冰(さつちんひょう、1859−1952)
福建省生まれのウイグル人、北洋海軍を育てた。
戦後福州に戻り、46年に動脈硬化になると引退。49年台湾行きを断る。
人民軍事委員会委員。52年死亡。
   顔恵慶(がんけいけい、1877−1950)
北洋内閣の外交官、不平等条約改廃に努める。
松岡洋右の国連演説に反対演説。
新中国では、政治協商会議委員、政治法律委員会委員。50年死亡。
   尹昌衡(いんしょうこう、1886−1953)
四川省都督、1912年チベット兵の四川へ侵入と戦う。
戦後は重慶に住み死亡。
194@名無史さん:02/12/27 00:36
>192
陳珪章については、全く知識がありません。長征の到着ころの
話でしょうか?平涼の地理がやっとわかった状態です。
>http://www.jcbus.co.jp/chinahotel/map/ganshu/
>http://www.netlaputa.ne.jp/~keiwa/eurasia-file/china-text/cina.html
>http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/rashufu_zhang.html
195世界@名無史さん:02/12/27 01:07
ジョナサン・スペンス著のペンギン評伝シリーズ『毛沢東』が岩波から出てましたね
ちょっと読んでみたけどなかなか面白いです
196@名無史さん:02/12/27 17:46
>188
「黒竜神兵」について、
フィル・ビングズリー著「匪賊」筑摩書房をみたんですが、
白朗の話なんかが多くてというより、もう少し前の話が
中心で出てませんね。

「星火燎原」は文献に出ているページ数がどうも変だと
思っていたら、学者は中国版を読んでいると気づいた。

中国版は全4巻にわかれ、
1巻は「土地革命戦争」
    4冊あり、1上、1下、2、3
2巻は「抗日戦争」これも4冊
    4,5,6,7
3巻は「解放戦争」 3冊
    8,9,10
4巻は「祖国保衛社会主義建設」が予定されたが発行されてない。
以上中国版は11冊あるらしい。
これを日本語版では、1の上を1、1の下を2、3を3、
4,6,7を4,5として、10を6として出した。
つまり、中国版の2と5と8と9は出ていない。
おまけに、この訳本は1973年に日本で出版されたのだが、この
訳の中心の責任者の新島淳良氏は、当時文革後で登場人物の評価が
日々変化していった時期なのだが、このへたれ訳者はそれにおいかけ
られて、訳をどんどん変えていったらしい。みじめな話である。
>195
毛沢東伝はスチュアート・シュラムやハン・スーインもありますが
そのうち全部読み比べてみたいです。
197世界@名無史さん:02/12/29 15:22
北洋軍閥時代に国務院総理を務めた軍人政治家で、
1952年に天津で死去したキン雲鵬の、新中国建国後
の消息をお教えください。キン雲鵬は中国共産党に
対しては、協力、非協力のいずれの立場を、新中国
建国後は取りましたか?
198@名無史さん:02/12/30 00:04
(靳 雲鵬、きん うんほう、1877−1951年1月3日)
1898年、北洋陸軍武備学堂入学
      段祺端の四天王の一人
1911年、雲南新軍で辛亥革命、蔡鍔等を弾圧しようとするが、
      からくも脱出。
  15年、袁世凱の帝位即位運動したり、機を見て反対運動にまわる。
  17年、WW1、段祺端も元で日本から資金援助、軍事条約。
  18年、再び、南北和平、日中軍事協定反対の機を見て、段祺端、
      徐樹そうから離れ、徐世昌、曹混、張作霖と組んで19年
      靳雲鵬内閣を組閣、安福倶楽部解散、日中軍事協定廃止、
      参戦軍の廃止、参戦借款の停止などの安徽派解体に動く。
  21年、辞職
      以後は山東で事業に従事。
      日中戦争中は傀儡政権運動があったがうごかなかった。
  51年、天津で病死。

WW2の終戦時、68才なので政治活動はなさそうです
晩年は半出家状態。
199世界@名無史さん:02/12/30 01:42
今日本屋さんに逝ったら『トロツキー研究』(つげ書房新社)という雑誌の39号が
「中国革命と陳独秀」を特集してるのが出てますた。\2,000ちょっと痛いね

佐々木力「中国トロツキスト運動と陳独秀」(解説)
トロツキー「中国左翼反対派への手紙」(翻訳資料)
陳独秀「被抑圧民族の前途」(同上)
鄭超麟「陳独秀同志を追悼する」(同上)
王凡西「陳独秀─中国共産主義の創始者」(同上)
江田憲治「陳独秀研究の地平」(解説) ほか

それに書いてあったんですが、来年1月・2月に平凡社東洋文庫から
上記のトロツキスト・鄭超麟の回想録が出るそうです
200世界@名無史さん:02/12/30 08:38
200
201世界@名無史さん:02/12/30 19:15
>>199
ホームページには出てないな。やっぱりトロツキーの論文じゃないからかな?
202@名無史さん:02/12/31 00:04
「トロッキー研究」これですね。
>http://www2u.biglobe.ne.jp/~Trotsky/yokoku.html
203世界@名無史さん:03/01/01 15:48
国民党軍の将軍で、第二次国共内戦の際、中共軍に寝返った
呉奇偉について、詳しく書かれた文献をお教えください。
204世界@名無史さん:03/01/06 12:24
198 
 晩年は半出家状態にあったキン雲鵬に対して、
中国共産党は、優遇、迫害、無視のいずれの態度
をとりましたか?
205@名無史さん:03/01/08 19:16
省の簡称、現在の文字、その1
直、ちょく、Zhi2、直隷、Zhi2li4,
冀、き、Ji4,河北省、He2bei3,省都は石家荘
魯、(鲁)ろ、Lu3,山東省、Shan1dong1,省都は済南、魚はyu2、太行山脈の東、
晋、しん、Jin4,山西省、Shan1xi1,省都は太原、太行山脈の西、

203については全く知識がありません。
204も同様です。
上のカキコは私のいたずらがきです。問題はみなさんのお宅で
ろの()の中に文字が出るかの練習です。すいません。

陝、せん、Shan3,陝西省、Shan3xi1,省都は西安、
206@名無史さん:03/01/08 19:33
失敗のようです。
>>167
「山東抗日根拠地と紅槍会」馬場毅
中国研究月報、553号1994年、3.
>http://wwwsoc.nii.ac.jp/ica/geppou.htm
207世界@名無史さん:03/01/08 23:18
古本屋で『中国現代思想史資料簡編』全5巻注文しました
あれって専門家的にはどんな評価なの?
アンソロジーとしては便利そうなので買ったが
208@名無史さん:03/01/09 12:48
甘、Gan1,かん、甘粛省、Gan1su4,省都は蘭州、
  甘粛省は元の甘省と粛省の合体。甘は甘省の略称でないか?
陇,Long3,ろう 甘粛省の略称
豫,Yu4,よ、河南省,He2nan2,省都は鄭州
今日はどうか?
209世界@名無史さん:03/01/11 00:23
平凡社東洋文庫の『初期中国共産党群像』第一巻(\3,000)もう出てる?

同じ新刊の江戸時代のお菓子のレシピ本(タイトル失念)は書店に並んでるのに
210山崎渉:03/01/11 12:45
(^^)
211@名無史さん:03/01/11 23:20
隴,ろう、Long3,甘粛省の略称、
閩、びん、Min3,福建省、Fu2jian4,省都は福州、
贛、かん、Gan4,江西省、Jiang1xi1,省都は南昌、
鄂、がく、E4,湖北省、Hu2bei3,省都は武漢、
212@名無史さん:03/01/14 23:10
   (陳 毅、ちんき、1901−1972)
     四川省の生まれ
1919年、勤工倹学でフランスへ。
  23年、北京中法大学へ入学、中国共産党入党。
28年、革命軍第1師団党代表
  29年、井崗山へ、紅軍第四軍で転戦。
  34年、長征には加わらず、残留ゲリラ戦を戦う。
日中戦争、 新四軍で葉挺、栗裕等と江蘇省を転戦。
       ユ南事変後の新四軍を立て直す。
  43年、延安へ行き、整風運動に参加。
解放戦争、  新四軍長兼山東軍区司令員。
       劉伯承、ケ小平と中原解放区を拡大。
       淮海戦役、渡江戦役を指揮。
  49年、上海市長。
中華人民共和国成立。
       華東軍区司令員、第三野戦軍司令員。
       海軍、空軍の近代化、
  59年、外交部長(外相)
  文化大革命では激しく攻撃された。
      米中関係打開を進言。
  詩人としての著作も多い。  
213@名無史さん:03/01/14 23:12
1、陳毅と同姓同名で中華民国政府で外蒙古など、辺境の専門家がいる。
2、現代中国の主流派である上海系は、陳毅などの第三野戦軍系の
  直系なんだろうか?
3、華東軍区という言葉は上海の他にどの程度の範囲を意味するのか?
4、劉伯承、ケ小平の(後に葉剣英も)第二野戦軍系と第三野戦軍は
  戦場で共闘したことが多そうだ。
5、広東軍区は軍隊の影響を強く感じさせるのに、上海は少ない(?)
214世界@名無史さん:03/01/15 00:37
以前は陳毅と陳儀をよく混同した
215世界@名無史さん:03/01/15 01:45
平凡社東洋文庫の新刊

初期中国共産党群像  1 トロツキスト鄭超麟回憶録
(東洋文庫 711)
長堀祐造 三好伸清 緒形康=訳

定価:本体 3000円  全書判  424頁  2003.01
ISBN4-582-80711-9 C0131 NDC分類番号 311

建国以後幽閉され、中国共産党の真相を封印された不屈の革命家による回想録。
「正史」の歪曲を正し、陳独秀、瞿秋白、茅盾、周恩来、【トウ】小平などの若き群像を活写する完全版。

http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/browse.cgi?code=80_711
216@名無史さん:03/01/16 20:39
江沢民は第三野戦軍、元の新四軍の影響力で出世したらしい。
>http://kazankai.searchina.ne.jp/publishing/toa/2001_05/power/01.html
中央革命根拠地、1934年10月中央機関と第1方面軍は撤退。
閩浙贛根拠地、
湘鄂贛根拠地、
湘贛根拠地、1934年8月第6軍団は撤退。
鄂豫ユ根拠地、1934年第25軍は撤退。
湘鄂川黔根拠地、1935年11月第2第6軍団撤退。
川陝根拠地、1935年3月第4方面軍撤退。
鄂豫陝根拠地、1935年7月第25軍は撤退。
陝甘寧根拠地、
       1935年9月紅軍第25軍と陝北紅軍は永平鎮で合流。
              新たに紅軍第15軍団を編成。
            10月第1方面軍到着、15軍団と合流
218@名無史さん:03/01/18 00:38
郭晨著「女たちの長征」徳間書店1989、
  長征中の出産は、子供を置いてくるそうだ。
  江青にのりかえられた、毛沢東の前の奥さんの苦悩がうかがわれる。

平松茂雄著「中国人民解放軍」岩波新書 1987、
  情報が多くて非常にいい本だ。岩波が絶版にしたのはよく解かる。
  中公新書などの方が合っている。何故岩波がだしたんだ?
  中越戦争で中国軍は、人民戦争のやりかたを忘れてしまって
  密集陣でベトナムに侵入していって、ベトナム戦争できたえた
  ゲリラ戦法に徹底的にやられて、弾の続くかぎり、中国兵の
  死体の山ができたそうだ。人海戦術の馬鹿馬鹿しさがわかる。
220219:03/01/18 21:55
小学館→学研
失礼しました。すいません。
221@名無史さん:03/01/19 23:59
世間の人達は長征の現場へいろいろ旅行されてるようですね。
うらやましい。
http://www.china.co.jp/guizhou/
http://www2.neweb.ne.jp/wd/sadachan/sisen/si08.htm
222@名無史さん:03/01/20 16:45
姫田光義編「日中戦争下中国における日本人の反戦活動」
青木書店1999、

姫田光義著「中国革命に生きる・コミンテルン軍事顧問の運命」
中央公論社、1987中公新書
223世界@名無史さん:03/01/20 22:28
オットー・ブラウン萌え >222
224@名無史さん:03/01/20 23:21
     (徐 海東、じょ かいとう、1900−1970)
     湖北省の生まれ
1925年、陶工を経験後、中国共産党に入党。国民革命軍に入る。
  26年、北伐戦争に参加。
  27年、大革命敗北後、湖北に帰り、農民運動に参加。
  31年、鄂豫ユに紅軍第四方面軍ができる。
  32年、主力部隊は鄂豫ユから川陝に西行。
      残留部隊から紅軍第25軍を編成。
  34年、鄂豫ユ辺から鄂豫陝辺さらに、陝北へ長征。
  35年、陝北ソヴィエトへ到着。劉志丹の陝北紅軍と合併、
      第15軍団となり、毛沢東等の第1方面軍を迎える。
抗日戦争を転戦、喀血で長期療養
  56年、中央委員。
  70年、文化大革命を批判し迫害され死亡。

1、賀龍、徐向前、徐海東などの軍は三大規律など無かった。
2、鄂豫ユの許継慎の軍閥主義??
  古田会議で批判した、「兵馬をつのり、寝返り逃降兵をかかえこむ」??
3、鄂豫ユの読み方は「がくよかん」と「オユワン」でもよい。
4、第15軍と馬一族のたたかい。四大馬、第五の馬は馬仲英
  スヴェン・ヘディン著「馬仲英の逃亡」中公文庫
  東干トンガンとは回教の漢族のこと。
  馬とはモハメッドの中国訳
225世界@名無史さん:03/01/21 13:14
徐海東は、抗日戦争最中に病気で倒れて半身不随となり、
中華人民共和国成立後は、公式の場では車イス使用でした。
 そして、徐海東は長年、中国の身体障害者関係の機関の
最高責任者でした。
226世界@名無史さん:03/01/21 13:58
重度身体障害者の徐海東を惨殺した紅衛兵を
賛美した毛沢東は、ヒトラーと並ぶ史上最悪の
障害者差別主義者だ。
227@名無史さん:03/01/22 23:35
(劉 志丹、りゅうしたん、1903−1936)
   陝西省保安県(現在は彼の名をとって志丹県という)で
   地主の子として生まれ
   楡林ゆりんの中学へ
1925年、中国共産党に入党
  26年、黄埔軍官学校卒業
      北伐に参加
  27年、南京クーデター後上海で活動
  28年、故郷に帰り、哥老会にも関係したり、や馮玉祥や
      馬一族の軍隊に関係したり、叛乱をおこしたりを
      くりかえす。
  32年頃、陝西根拠地
  34年、陝西ソヴィエト政府樹立
      徐海東の紅25軍とと合流、第15軍団成立
  35年、毛沢東、林彪の第一方面軍、第1軍団を迎え、合流。
  36年より抗日戦、山東省へ東征
  37年、負傷、死亡。

1、西北軍とは?
  馮玉祥の軍閥の総称、中原大戦ごろより分立
  楊虎城の17路軍もも蒋介石について西北軍とよばれる。
2、楊虎城の部下の張漢民も共産ゲリラを影で支援していたが
  25軍との戦闘で捕虜になり糾弾される。
3、25軍は鄂予ユの粛軍スタイルを陝北へ持ち込んだ。
4、馮玉祥の知識不足もあり陝西は理解しにくい。
5、劉志丹が陝西に足場を築いてくれなかったら、中国共産党は
  危うかった。
228@名無しさん:03/01/24 18:14
1、「長征への道。中国瑞金〜延安12000キロ」 日本放送出版協会、1986
   竹内実監修、
写真がきれい。簡潔で解かりやすい。
   
2、オットー ブラウン著    「大長征の内幕」 恒文社、1977
製本?が悪く読みにくい。日中戦まで含む。
   中共側からは弁解の書という悪口があるだろうが、中共称賛の
   書ばかりの中では貴重な情報源だ。

3、ハリソン E ソールズベリー著 長征、かたられざる真実」The Long March
   時事通信社 1988
   内容が細かい、文革後の話もある。
   評価ははっきり解からない。情報とりには良いだろう。

4、「New Fourth Army,1938−1941」    by Gregor Benton
   Curzon 出版
   見ただけで、読んでない。人物、地名の中国語の発音を知らないと
   読めない。それでもアメリカの本は厚くなるのは気にしないで、
   解かるまで書き込むから読んで解かりやすいだろう。地図も大きく
   沢山でている。

5、ピョートル ウラジミノフ著 「延安日記」ソ連記者が見ていた中国革命
    サイマル出版、
   面白い、情報豊富、常識がひっくり返る。
   受け入れるかどうかは別にして、読まなくては延安は語れない。

6、マーク セルデン著 「延安革命」第三世界解放の原点
   まだ、あまり読んでいない。陝西などの情報が多そう。
   著者の名前で検索すると、筑紫哲也などの戦争責任運動などに
   関係していて、その点、気に入らない。
229世界@名無史さん:03/01/25 03:12
セルデンって文革支持派だからな
確か竹内好なんかとも対談してるよ。けっこう有名
230@名無史さん:03/01/25 17:51
>>228の1
竹内実→竹内好
実は経済学者でした。
231世界@名無史さん:03/01/29 21:52
すいません。質問です。
天津「大公報」を所蔵している日本の大学や研究室ってどうやって調べればいいですか?
WEBCATには反映されていないようなんですが。
ということ書いてたら、こんなページがあった。大阪外国語大ですね。
ttp://homewww.osaka-gaidai.ac.jp/~nisimura/toppage/frame/frame_top.htm
232@名無史さん:03/01/29 22:01
(徐 向前、じょこうぜん、Xu Xiangqian、1901−1990)

1924年、黄埔軍官学校入学、
  25年、陳炯明討伐の東征の参加
  27年、中国共産党に入党
      広州蜂起に参加、
      海陸豊根拠地の遊撃戦を指導、
      紅軍遊撃戦の7原則を提起
  31年、鄂予ユの反囲剿戦を指揮
      第4方面軍総指揮
      張国Zと鄂予ユの根拠地の発展に貢献
  32年、張国Zと第4方面軍を率い、四川、陝西省境で
      川陝(川北)根拠地をつくる。
  35年、長征へ
      四川で第1方面軍と合流後、左路軍として北上、
      張国Zの元で西征、大敗する。
日中戦争
八路軍129師副師団長
      晋冀予抗日根拠地をつくる。(山西、河南、察哈爾)
国共内戦  華北野戦軍の政治委員(聶栄 臻司令員)
解放後、  総参謀長、元帥
文革    反林彪の二月逆流に参加「再教育」をうける。
文革後   副総理兼国防部長

1、徐向前 は張国Zと長く行動を共にしてきたのに、失脚しなかった。
  軍人としてだけ行動してきたからなのか?
2、八路軍は実は抗日戦は、ウラジミロフの説などでは、兵力温存して
  戦わなかったの説もあるが、聶栄 臻や徐向前 は活躍している。
3、四川の第1、第4方面軍の合流、分離は謎が多い。
233@名無史さん:03/01/29 22:23
大阪外大のホームページへ行って、
次に図書館に行き、
蔵書検索で大公報で検索すると確かにあるようです。
ご自分の大学の図書館経由でコピーがもらえるのでは・・・
  10. 大公報 ; 28(1915年11月-12月)~164(1948年9月-1949年1月). -- 天津版. -- 人民出版社, 0001
     072.2||23|| 0003678611 /書庫

  11. 大公報 ; 1(1902年6月-12月)~27(1915年1月-5月). -- 天津版. -- 人民出版社, 0001
     072.2||23|| 0003678344 /書庫

234@名無史さん:03/01/29 22:38
こちらにも
愛大国研 研 361.222:J93 0243303308
京大文 東洋史 FIIIb||9||D-21 02045755
広大西 362.22:Ko-11/72218703 1030433799
東大東文 図書 CG21:100 6412007616
235世界@名無史さん:03/01/29 23:19
>>234は『≪大公報≫新論』という本じゃないですか?
グーグルで調べたところ、アジア経済研究所や広島大学にもあるみたいです。
でもWEBCATには出てこないようですね。
ほかにもありそうな気がしますが。
236@名無史さん  :03/01/31 22:11
「毛沢東のベトナム戦争ー中国外交の大転換と文化大革命の起源」
     朱建栄著東京大学出版会
この時期、中ソ対決もあり興味深いが事実の羅列で分析がもの足りない。
私自身は鉄道建設に関心がある。毛沢東の言う第三線の建設という三線が
沿海部の一線、中間部の二線、奥地、後方の三線という意味は知らなかった。
南西部の三線の建設という意味もあって、成都ー昆明、重慶ー貴陽、昆明ー貴陽
という意味もある。この完成はベトナム終戦後だったが・・
援助は中国が通常兵器、ソ連がミサイルだったらしい。ソ連から昆明まで単線で
鉄道輸送は大変だったようだ。おまけに、飛行機輸送はソ連機が中国上空を
飛ぶのをいやがったらしい。
そう考えると、日中戦争で航空機以外の蒋介石ルートの輸送はたいしたこと
なさそうだ。そんなことを止めさせようと、インパール作戦をやったのか?
237世界@名無史さん:03/01/31 23:39
むずかしい
238世界@名無史さん:03/01/31 23:59
こちらにも。関連書籍の新刊

甦る河上肇 近代中国の知の源泉
三田剛史
 
なぜ河上肇は中国で愛されてきたのか?
毛沢東が、周恩来が、『貧乏物語』を読んでいた!
革命前後の中国で、最も多くその著作が翻訳され、最も知的影響を与えた日本人社会科学者、河上肇。
厖大な史料と河上自身の知的ルーツを踏まえて初めて明かされる、河上肇という環を通じた日中間の知的交流の全貌。

藤原書店;発行 A5上製 480頁 本体6800円(2003年1月刊)
◇4-89434-321-5

http://www.fujiwara-shoten.co.jp/book/book421.htm
239@名無史さん  :03/02/01 00:23
>230の竹内実先生は私の間違いで大変失礼しました。
竹内姓の学者は沢山おられますね。
竹内好先生の評価に関する議論は興味深い。じっくり考えましょう。

>http://kyoto.cool.ne.jp/smcs/takeuti.html
>http://www.suntory.co.jp/sfnd/chiikibunka/kangaeru_k10.html
>http://www.bekkoame.ne.jp/~n-iyanag/articles/orientalism/page1.html
240@名無史さん  :03/02/01 09:59
 P.A.コーエン『知の帝国主義−オリエンタリズムと中国像−』
(平凡社、1988年)
授業の定番らしいですね。
241靡莫:03/02/05 02:20
こちらも、200を超えていたんですね。
書き込んでくださった皆さん、ありがとうございます。

>>179
中国青年党(以下青年党)については
>>31>>33を参照していただきたいのですが、
やはり「国家主義」や「全民革命」などを主張しているため、
ファシズム的“要素”は中国国家社会党よりは強いと思われます。

ただしそれにも関わらず、
僕個人としては、青年党をファシズム政党とはみなしていません。
なぜなら青年党は、
国家体制としては欧米型議会制を志向していましたし、
国民党はもちろん、他の中間党派や共産党(一時的であったにしても)とも、
連合を模索し、それを実際に実現しているからです。
242靡莫(241の続き):03/02/05 02:38
具体的には、抗日戦争時の青年党は、
当時の実質的指導者だった左舜生のリーダーシップにより、
統一建国同志会や民主政団同盟の結成に尽力しています。
そして戦後は、旧政治協商会議や国民大会に参加しているわけです。

いずれにしても青年党は、
国共双方とは異なる独自の路線を打ち出そうと苦闘していた、
と言うことが出来るのでは無いでしょうか?

※参考
周偉嘉「中間党派の戦後構想と社会民主主義」
(姫田光義編著『戦後中国国民政府史の研究』、中央大学出版部所収)
243@名無史さん:03/02/09 00:23
コーエンの英語の本の立ち読みで「boxer」という言葉がでてきて、
スメドレーの「偉大なる道」の101ページに「拳匪」と出ていて
ボクサーとかながふってありますが、意味がよく解かりません。
私の想像では、布教活動の宣教師が洋鬼子などと呼ばれてなぐられた
ことか?とも考えましたが・・
244世界@名無史さん:03/02/09 09:16
ボクサー=義和団(義和拳教)だろ

Boxer's Rebellion=義和団の乱
245靡莫:03/02/09 15:29
>>243
244さんの仰る通りです。

もともと義和団は、
呪術的な儀式と武術の修練によって超人的な武力が獲得できることを説く、
「義和拳」という山東省の秘密結社でした。

その後、当時の山東省巡撫が義和拳の活動を正当とみなし、
その集団を団練(地方官の監督下に置かれた自衛組織)として公認しました。
そのため義和拳は「義和団」と名乗りました。

しかし、義和団の排外行動を恐れた列強の意を受ける形で、
山東巡撫に赴任してきた袁世凱は、
義和団への公認を取り消して「拳匪」として弾圧したわけです。

※参考
尾形勇・岸本美緒『中国史』(山川出版社)p.355
(第6章:並木頼寿「動揺する中華帝国」)
246@名無しさん:03/02/10 15:52
>>244
>>245
サンクスです。助かりました。
247靡莫:03/02/11 01:56
今、このスレですでに話題に上っている
『初期中国共産党群像1 トロツキスト鄭超麟回憶録』
(平凡社東洋文庫)を読んでいるところです。

初期共産党の内部における人間関係や権力闘争が、
とても克明に描かれていて面白いですね。
もちろん、共産党だけでなく、国民党や軍閥など、
他の政治勢力の動きを知ることも出来ます。
248世界@名無史さん:03/02/11 23:54
>247
この本読んでいちばん驚いたのは王凡西(序文)がまだ健在だったということです
(昔つげ書房から『中国トロツキスト回顧録』?を出していた)
249靡莫:03/02/12 20:08
>>248
序文によると、王凡西は現在イギリスのリーズに滞在中らしいですね。
1952年の粛清後のトロツキスト派の動向について、
何か詳しい書籍は無いんでしょうか?

※お詫び
>>33-34の中で、中国国家社会党の「国家社会主義」については、
>>241-242にある周偉嘉氏の文に拠っています。
明記し忘れていたことをお詫びし、補足します。
250世界@名無史さん:03/02/15 02:27
>247 第二巻出てますね(完結)
251世界@名無史さん:03/02/16 20:19
age
252@名無史さん:03/02/23 20:44
>250
1,2巻ともそろった本屋はほとんどありません。
売れてしまうから無いのか部数がすくないのか?
自分個人は王明の資料がモスクワにあるでしょうから
それが出版されないか期待してます。
253世界@名無史さん:03/02/24 23:10
>252 発行部数少ないからと思われ>鄭超麟の回顧録
254靡莫:03/03/02 23:58
>>240
コーエンの本は、入江昭『[増補]米中関係のイメージ』と共に、
「世界史板住人がおすすめの本を紹介するスレ」
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1025253558/
で紹介しました。

この2冊を合わせ読むと、
アメリカの政界や学界における中国観を、詳しく知ることが出来るはずです。
255世界@名無史さん:03/03/06 01:33
>>249
今更ながら中国トロツキストについて
http://money.2ch.net/test/read.cgi/kyousan/1004134756/243/
ただ、香港では現在でもトロツキストが活動しつづけているらしいです。
十月評論 http://members.tripod.com/~cpri/or.html
256世界@名無史さん:03/03/06 02:46
>248です。王凡西について補足を

新しく出た平凡社のPR誌『月刊百科』に
長堀祐造氏(>>215の訳者)の「家族たちのトロツキズム」なる短文が掲載されていました
それによれば老トロツキスト王凡西は英国リーズで昨年12月30日に
英留学中の外孫に看取られながら亡くなったそうです。享年95

なお彼の自伝の日本語訳は矢吹晋・訳『中国トロツキスト回想録』で
1979年に柘植書房から出ています
257靡莫:03/03/07 01:42
>>255>>256
中国トロツキスト(「托派」)について、情報をありがとうございました。

実は、僕は中国トロツキストについては、
これまで全くと言っていいほど関心を抱いていなかったんですが、
民国期当時の政治勢力の1つとして、
余裕があればもう少し色々調べてみたい、と今では思っています。

『鄭超麟回憶録』のドイツ語版序文にも書いてありましたが、
大陸では、11期3中全会後に陳独秀や中国トロツキストについての研究が
始められたそうです。
実際1980年代に、党史や革命史関連の雑誌に論文が幾つか掲載されています。
258世界@名無史さん:03/03/07 02:06
age
259世界@名無史さん:03/03/07 04:33
>255 日本で今さらながらにトロツキストをカムアウトした人が佐々木力w
スレ違いスマソ
260世界@名無史さん:03/03/07 19:38
5年位前に放送した
中国中央テレビ制作の「ケ小平」という
ドキュメンタリーのNHK放映版で
当時95歳の鄭超麟が
20年代のケ小平について語っていました
261@名無史さん:03/03/08 23:39
中国旅遊出版社「井崗山」
   自助旅遊手冊、Hand book of free individual tourists
中国も最近印刷がよくなってきれいな旅行案内がでてきた。
地球の歩き方とそっくりな模造品もある。
北京から歴史の本だと京漢線といわれた、北京−石家庄ー武漢−
長沙‐広州ー深圳は現在は京広線というらしい。
その東を平行して北京ー九江‐南昌ー井崗山ー深圳は京九線という。
香港や南昌から列車でいけそう。
駅からバス。革命記念館や毛沢東の家、会師橋跡とか紅軍の本に
出てくる話の場所がある。中国人の観光地になってるようだ。
ホテルやケーブルカーもある、すごい山の中の避暑地にでも行く
つもりのような場所らしい。余裕がないと移動に時間がかかりそう。
自分はもう少し交通が整備されてからでないと日数がとれないだろう。
この本は写真が沢山あってもう行った気分。
 
262世界@名無史さん:03/03/09 22:14
>井崗山

昔「毛沢東って『いおかやま』に登ったんだよな」って言ってた知人がいた
263261:03/03/10 00:21
崗は間違いで、岡が正しいですね。すいません。
小学館の中日辞典によると、崗はgang1,岡はgang3で中国人の
発音がよく間違えると書いてありました。上の本は中がメの字
です。
2ちゃんは出ますか?try「冈」
264261:03/03/10 00:39
駄目ですね。
「冈 」
表示のエンコードをユニコードにすれば見えるんですが・・
くだらないことで遊んですいません。
265261:03/03/13 09:43
↑;264は真っ白になって文字化けもしません。やらないでください。
この板の一番下のほうの「変な疑問だけど聞いてくれ」というスレの
27で練習したら簡略体の岡がでるのに、なぜかこのスレでは出ない。
266山崎渉:03/03/13 13:08
(^^)
267世界@名無史さん:03/03/15 08:55
age
268@名無史さん:03/03/16 00:35
予定していなかったおつりがあったので古本が何冊か入手できました。
秋山良照著「中国土地改革体験記」
    中公新書468、1977年、昭和52年、
著者は1940年、山東省で解放軍の捕虜になる。
ケ小平、劉伯承指揮の129師の冀南軍区司令官は陳再道(文革の
武漢事件で有名)の部隊で反戦指導を受け、延安で教育される。
終戦後、日共に入党後、朝鮮で金日成と会う。帰国者の援護。
日本でパージにあい、中国へ。マルクスレーニン学院後の1951年
広東省の農村で土地改革に参加。地主を粛清、その土地を分配。
54年、重慶の共産党幹部養成大学へ。
57年、四川省農村の整風運動に参加。
58年、帰国
その後、中国は大躍進、人民公社、更に文革へすすむ。

なにしろ著者は、共産中国の核心である農村の課題を実体験してきた
という経歴はすごい。党員として批判はさけているが事実の記載で
なまなましい報告となっている。
現在は絶版なのか?重要文献と思う。
269世界@名無史さん:03/03/17 19:50
日本人による「土地革命」回顧としては
岩波新書の福地いま『私は中国の地主だった−土地革命の体験−』(1954)
もありますね。既出?
270@名無史さん:03/03/17 21:14
>269
知りませんでした。
ぜひ探して読みたいです。最近読んでる本は黄色に変色した
ものばかりで、ページをめくると、ほこりでくしゃみが出ます。
電車で取り出すと、となりの人が身を引きます。
271世界@名無史さん:03/03/18 08:27
「中国革命を駆け抜けたアウトローたち」もえ
272世界@名無史さん:03/03/19 01:01
今年の立命館の世界史科入試問題で
「日中戦争開始まで国民政府に軍事顧問を派遣してたヨーロッパの国」を
問う問題が出題されてた(正解はたぶんドイツ)
それにしてもマニアックで細かい問題ですね〜w
273@名無しさん:03/03/20 23:36
胡 宗南、こそうなん、Hu2 Zong1nan2,1896−1962)
      浙江省の生まれ
1924年、黄埔軍官学校入学(第一期生)
  25年、孫文主義学会設立に参加
      東征、北伐に参加。
  31年以後安徽省で囲剿に参加
      第一戦区(安徽省)
      第二戦区(延安、甘粛)
      第八戦区(西安)
      これらの地方で日本軍と戦う一方、共産軍討伐に活躍。
  46年、国共内戦開始、中原軍区に進攻。
  47年、「重点進行」→「進攻」のまちがいか?
       延安に進攻。
      四川、海南島で解放軍阻止に従事後、台湾へ。
      台湾移転後も軍幹部、顧問として活躍。

1、胡宗南の名前はスノーやスメドレーの本で延安包囲の憎き相手
  としてしばしば出てくる。
2、戦区の絵図は「我が義弟」の裏表紙に出ているが、順番は
  訳が解らない。
274靡莫:03/03/22 17:56
>>268-270
土地革命に関する近著としては、
田中恭子『土地と権力−中国の農村革命』(名古屋大学出版会、1996年)
があります。

この本では、土地革命が民衆による中共への政権支持につながった、
という通説への批判的検討が加えられています。
275靡莫:03/03/22 18:19
>>271
この本でとりあえず、
この時代に活躍した武装勢力の指導者たちの動向を眺めることはできますね。
ただ個人的には、著者の軍閥観がやや古いとも思えますが。

>>272
さすがに、私大の世界史試験は厳しいところを突いてきますね(w
正解はドイツでその通りです。

1932年、ドイツはフォン・ゼークト元帥、ファルケンハウゼン将軍らの
軍事顧問団を中国に派遣しました。
このドイツ軍事顧問団の支援が、
国民政府の第五次共産党掃討に大いに貢献しています。

なお中独関係は、主に武器の取引などによって密接になっていて、
日本と中国の戦争が始まっても、当初のドイツは中立的態度をとりました。
尾崎秀実『現代支那論』は、当時の中独関係についても詳しく触れています。
276靡莫:03/03/22 18:33
>>273
胡宗南は軍閥スレでも触れたことがありますが、
陳誠、湯恩伯と共に、国民政府軍の「三巨頭」とされた人物です。

戴笠とは同郷の親友で、戴を蒋介石に紹介した人物は胡宗南でした。
その後、復興社が組織された際にも、
胡宗南は復興社の最高幹部の1人として名を連ねています。
277世界@名無史さん:03/03/25 19:54
岩波書店の新刊

世界歴史選書 愛国主義の創成
―― ナショナリズムから近代中国をみる ――
吉澤 誠一郎

■体裁=四六判・上製・カバー・264頁 ■本体 2,600円 ■2003年3月25日
■ISBN4-00-026843-0 C0322

現代世界にもなお強烈な影響を与え続けるナショナリズム.
国を愛し,国民の団結を叫ぶその思想運動は,いかなる社会状況のもとで形成されたのか.
20世紀初頭の中国を題材に,反米運動と人種意識,地理観念と歴史認識,身体の文明化,愛国者の死と追悼,などのさまざまなテーマから,愛国主義の光と影をよみとく.
ナショナリズムの文化=社会史.
278世界@名無しさん:03/03/27 23:46
岩波書店の旧刊
亀田東伍著「中国の建設ー第一次五カ年計画の時代」

  岩波新書252、昭和31年、100円、

新中国、この変化はどこから来たか?この清潔な街、この活き活き
とした人の動き、この速やかな建設、このわだかまりのないまなざし、
この原因はどこから来たか?一つは人民の力。戦う人民は以前にも
いたが、義和団も太平天国も失敗した。今回は共産党の指導があった・・・
昭和30年ごろの日本のジャーナリズムの革命観の勉強になる。
朝鮮戦争のアメリカ軍は731のように細菌攻撃をした。それに対し
中国人民は猛烈な清潔運動をしたら中国からハエがいなくなった。
人民は誤らないから、人民裁判は正当だ。
279世界@名無史さん:03/03/28 19:31
最近、読みはじめたのだけど『週刊ヤングジャンプ』に連載中の本宮ひろ志「国が燃える」が妙に気になる。
主人公は石橋湛山とも親交のある官僚らしくて満鉄に出向してて
もう一人の主人公は大アジア主義者(多分)で、蒋介石の側近になってるという…
今、発売中の号では、ちょうど済南事件の場面です。
単行本はまだ出てない様子。
280世界@名無史さん:03/03/29 01:56
橘樸とか中江丑吉が出てくる漫画もキボンヌ
ちょとマイナー?
281@名無しさん:03/03/29 09:58
先日教えていただいた土地改革の本を2冊読みました。
福地いまさんの本は非常に情報が多く参考になりました。
戦前の大卒女性というのは、大学に行くかどうかだけでも
悩んだでしょうから、社会のほんの少数のエリートだったのが
強く感じられました。
田中恭子先生の本の中共成功と土地改革の関係は充分に理解できない。
農民の土地改革の選択は受身のものであり、中共が勝ちそうだから
一応中共支持の側に立った。という理解では、巨人が優勝すると
みんな言うから優勝したになってしまう。まあいろんな考えが
あったほうが面白い。読み込みが不十分なのでしょう。
282世界@名無史さん:03/03/31 04:05
こんどNHK出版から『「留用」された日本人』という本が出るみたいです
「留用日本人」ってスレ違い?
283世界@名無史さん:03/03/31 15:43
>>282
民国期ではないです。
284靡莫:03/04/06 22:28
>>279
情報ありがとうございます。レスが遅れて申し訳ありません。
本宮氏の漫画はまだ読んでないのですが、
主人公たちのモデルがいるとしたら、誰でしょうね?
特に後者(大アジア主義者)についてですと、
佐々木到一などの「支那通」軍人がモデルになっているのかも知れませんね。

>>280
その2人も、共に満鉄と関わりのある著名人ですね。
(特に中江は、過去に曹汝霖の逸話など武勇伝もありますね)
個人的には、尾崎秀実や中西功(大村達夫)あたりも出てきて欲しいです。
285靡莫:03/04/06 22:33
>>281
田中恭子氏の見方を簡単に言えば、土地改革→中共勝利ではなく、
中共支配→土地改革というのが正しい、というものでしょうね。

中共による土地改革は、逆に農村社会に混乱をもたらし、
指導部の調整政策によって辛うじて被害を抑えられた、
という見方では無いでしょうか?
286世界@名無史さん:03/04/07 01:47
中江丑吉=元祖中国ヲタヒッキー
287世界@名無史さん:03/04/14 01:59
ネット古書店で朝日選書『近代日本と中国』上下2巻買いますた
288山崎渉:03/04/17 09:52
(^^)
289@名無史さん:03/04/17 23:20
古本屋で 丁玲著「太陽は桑乾河を照らす」青木文庫の上だけ
買いました。木炭化と言うんでしょうか、紙の変質が進行中。
現代中国文学全集とかいうので、もう少し紙質のいいのがありそう。
290山崎渉:03/04/20 04:49
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
291世界@名無史さん:03/04/30 10:15
人民公社の形成 : その実態的研究 / 城野宏著.
東京 : しなの出版,1968           読んだ人いますか.
てどの程度の内容ですか?

それにしてもこのレスずっと下げ進行だなー
292世界@名無史さん:03/05/04 02:29
人民公社に関する文献集
http://www.toyo-bunko.or.jp/cgi-bin/MCT.cgi?n=14.3&db=J
293世界@名無史さん:03/05/04 02:58
>291
大学図書館、都立図書館、古本屋にはなく、国会図書館しか
見つかりませんが・・・
294@名無史さん:03/05/04 20:53
陳伯達著「中国四大家族」大阪市大グループ訳 創元社
  原著は1946年出版、訳本は1953年
  文革で活躍、失脚した陳伯達が日本敗北直後に書いた。
  蒋、宋、孔、陳の四家族が「封建的、買弁的、軍事的」に中国を
  支配し利益を独占したといっている。
  中央銀行、中国銀行、交通銀行、中国農民銀行の四つの銀行を、
  日本が不良債権処理でやるかと言われている半国有化により
  私物化したそうだ。
  イギリスは一元=1シリング2ペンス半。
  アメリカは銀1オンス=6角5分。
  と固定し利益を吸い上げたとある。
  訳者が前書きで微妙に表現しているが、「この本は中国の近現代史の
  中国人なら解る前提を知っている必要がある。」
  これは何を言っているかというと、四大家族が悪いのは議論の余地の
  ない、当然だという意味だ。我々が読んでも、資本主義経済活動の
  何が悪いかはこの本では解らない。
295世界@名無史さん:03/05/05 10:53
中国四大家族の一人
陳立夫って2年くらい前まで生きていたよ
296@名無史さん:03/05/06 22:15
291さんに出てくる、城野宏著「山西独立戦記」雪華社 1967
軍閥スレの方の内容ですが、城野さんの部隊が日本の敗戦時、山西省に
残留し、閻錫山の部隊とも連携し、中共軍と戦い四年間拠点を確保し、
捕虜となり、15年の刑で服役。河本大作と同じ収容所にいたらしい。
行動の動機などが、理解できず、共感しにくい。実話なのかなあ?
297世界@名無史さん:03/05/17 08:18
戴笠って完全な事故死なんですか?
298世界@名無史さん:03/05/21 13:38
国共は結局、中国統一まで互いに相容れなかったと考えていいのかな。
299山崎渉:03/05/21 22:16
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
300山崎渉:03/05/22 00:21
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
301山崎渉:03/05/28 15:26
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
302@名無史さん:03/06/03 00:46
エドガー・スノー著「革命、そして革命・・・、The Long Revolution」
朝日新聞社、1972年
1905年、カンザス州生まれ
  36年、陝西省北部で取材。
  37年、「中国の赤い星」
  60年、中国訪問
  65年、中国訪問、
      北爆開始、ベトナム戦争
  66年、文化大革命開始。
  69年、中ソ国境紛争
  71年8月から72年中国訪問。
  71年、4月ピンポン外交
      7月キッシンジャー訪中
      10月中国国連へ    
  72年2月15日、スイスの自宅で肝臓がんで死亡。
     2月21日ニクソン訪中。

この本自体は死の直前に書かれたせいもあり、あまりどうと
いうこともない。ただ文革の原因としての劉少奇、彭徳懐の対ソ戦略
など、当時としては鋭い視点だったのでないか?
それにしても、スノーという人はどういう人物なのであろう?
アメリカ生まれの共産中国の宣伝部員なのか?
予見にとらわれない、鋭い分析能力のあるジャーナリストなのか?
私の感じでは、彼はでたらめを書いてるのではないが、無意識のうちに
中国に不利なことは、目に入らないか、見ても忘れてしまう所があるようだ。
303@名無史さん:03/06/05 00:01
尾崎秀樹著「上海1930年」岩浪新書 1989年
著者は尾崎秀実の弟。秀実は台湾生まれで、台北の小学校、
中学校にかよっている。外国の小児期体験はその後のものの考え方に
影響してるように思う。指揮者の小沢征爾やジャズピアノの秋吉敏子も
満州生まれで海外に拠点を移して生活している。外国で子供の成長期を
おくると、日本に収まりきれない性格ができるようだ。最近多い帰国子女たち
はどうなっていくのだろう。驚いたことに、秀実は兄秀波の妻栄子と
親しくなり、離婚後、妻にしている。現代でもあまり聞かない刺激的な
話だ。当時にしては周囲も驚愕した出来事だろう。夏目漱石の小説に
似たような話があったような気もするが、小説でその後世間からかくれて
ひっそり暮らしたように思う。これも後の行動に影響したかも知れない。
上海での内容はあまり目新しい内容はない。中国演劇界、文学界の解説が
多い。ゾルゲの説明は不正確と思われる内容も混じる。
304@名無史さん:03/06/06 17:52
 歴史科学体系十三巻 解説野沢豊  校倉書房 1978年
  「アジア近現代史研究の前進のために」より
「満州経済論争」
   矢野仁「満州国史」昔から満州は中国の領土ではなかった説。
   大上末広
       「満州経済は中国国民経済とは原理的に独立した経済であった」
       「開港による世界経済との結合と封建的土地所有が大豆単一
        経済を生み、世界恐慌により打撃を受けた」
   中西功「帝国主義の二面性」
        列国資本が旧生産関係を破壊する進歩的側面(脱化論)と
        封建的生産関係を維持強化する(封建化論)
   大村達夫(中西の別名)
        論文「支那社会の基礎的範疇と統一化との交渉」

1、歴史に ”科学”が付くのは一般に左翼系シリーズか?
2、矢野、大上の満州別個論は、満州国建設組織にとっては便利な論文
  だったのであろう。
3、日本軍が華北から、中国全土へ進攻するようになるとどうでも
  よくなった。
4、中西、尾崎秀実の論文は沢山出版されているのに対し、大上は無視
  されていて、反論も孫びきからのが多い。
5、矢内原、大上、中西の中国統一化論争では、AをBが批判、Bを
  Cが批判している。矢内原氏はあえて結論のない論争には、加わら
  なかったのだろう。
6、大上氏の中国停滞論?は内藤湖南の明清を後期封建制ととらえる
  影響があるとかないとかよく解らない。今後勉強したい。
305@名無史さん:03/06/08 21:07
浅田喬二著「日本知識人の植民地認識」 校倉書房 1985年
この本は最初に読まないでよかった。解説というより著者の好みが
はっきり出ている。矢内原、大上は否定、尾崎、中西は賞賛。
いまどき、恥ずかしげも無く「知識人」という言葉を使うのは左翼
好みの人間だけだろう。
「大上の中国農業論」
半封建制と半殖民地制の状態にあり、小作農化を勧めていて、大規模
農耕の必要性を述べている。
現代中国は土地改革、人民公社の失敗から、小作農化したが、農民が
小さな土地にしがみついて、大規模化の必要性が叫ばれながら、うまく
いかず、産業の自由化時代に対応できず問題になっている。
だだし大上は中国のことを述べながら、実は当時の日本農業のことを
提案していたらしい。
「大上の中国工業論」
マニファクチャー段階にあり、消費財生産部門に偏り、生産財生産
部門の遅れを指摘している。これも現代中国工業の問題点で第三次
産業に偏りがある。重工業は国営の非効率産業である。ベンチャーも
サービス業、pcソフト産業、不動産、金融などが盛ん。日本にある
東レ、旭化成、三菱金属みたいな産業はない。
浅田は尾崎を「反戦平和のために政治的実践を行った人物」と評価
している。尾崎は経済、社会を科学的に分析する必要を説いているが、
科学的とは、共産主義的に、という意味だと尾崎自身が述べている。
尾崎の農業論は毛沢東の土地政策の受け売りである。
尾崎秀実の評価は、岩波現代文庫「ゾルゲ事件、上申書」が参考に
なった。
306@名無史さん:03/06/24 18:11
加地信著「中国留用十年」岩波新書  1957年
著者は1908年生まれ、慶応の医学部出身、細菌学やワクチンをつくる
仕事で満州国の長春で終戦を迎え、その後10年間、主に東北で一部武漢
で防疫の仕事をして帰国し、千葉県の防疫研究所長をされた方だ。
1、事情がはっきり書いてないが、終戦後一般人は帰国させたが、一部の
  有用な人間を留め置いたのか?そこに強制と、説得がどこまでか不明。
  中国空軍の養成にかかわった人の話も聞いたことあり。
2、満州、細菌といえば、731部隊だがその話は全くない。少なくとも
  ハルピンの研究所から菌がもれたという話は全く無い。あれ以前も以後も
  通常、満州にペストやチフスは沢山おこっている。
3、朝鮮戦争で米軍が細菌兵器を使ったと中国も著者もいっているが、専門家
  にしては、その根拠があいまいである。
4、終戦時の長春を国府軍の進攻し、占領するが、著者はその時解放軍と同行
  したためチャーズの話はでてこない。ただこの時期の情報は興味深い。
5、成分、階級と給料の関係、土地開放運動、整風運動、朝鮮戦争の出兵など
  共産中国に対しては、全部好意的な解釈しかしない。一つには著者が
  特権階級として待遇されたほかに、根本的に親共人種なのだろう。
  党員かもしれない。高岡もでてくるが、一部の土地を優遇したと言って
  いる。
307@名無史さん:03/06/27 23:27
こちらのスレにスペース多いので。

  (19世紀後半のフランスとアジア)
1851年、ルイナポレオン、(ナポレオン3世)第2帝政
  56年、アロー戦争
  58年、越南国を攻撃
  62年、サイゴン条約
  70年、普仏戦争
  71年、ヴェルサイユ、フランクフルト条約。50億フランの賠償。
      パリコミューン
      第3共和制
第2帝政期にフランスは産業革命を終え、海外進出の体制が整った。
清仏戦争(中法戦争)当時雲南、江西省では回族等の反乱があった。
フランスは紅河経由で中国に武器も売り込もうとしたらしい。
中国は自国内も混乱していたようだ。

先日教えていただいた、
       坂野正高著「近代中国政治外交史」1973年
       東京大学出版会
すばらしい本でした。清朝の政治機構の解説などが、アメリカの教科書の
ようなすっきりした説明があり、購入するか検討中です。
       山下達郎著「ベトナム中国関係史」山川出版社1975年
       地域からの世界史4「東南アジア」朝日新聞社1993年
(馮桂芩、ふうけいふん、Feng2 Gui4fen1、1809−1874)
1832年、郷試に合格、林則徐に注目される。
  40年、進士に合格。
  53年、太平天国の乱、上海、小刀会鎮圧に功。
  62年、李鴻章の幕友になり、
      土地税制の改良、
      西欧の科学技術移入による富国強兵を建言し、李鴻章の
      政策に大きな影響を与えた。
      北京の在職は短いがその後、書院での講義、著作を行う。
  経世学、「封建」を復するのに「宗法を復するに如かず」
  地方分治。
  西洋に学ぶべきは軍備に代表される科学技術。
  船砲、外国語、算術の学校を提唱した。
  改革の提唱が容れられないことを嘆いた。
(薛 福成、せつふくせい、Xue1 Fu2cheng2、1838−1894)
1957年、秀才に
  67年、意見書が評価され曽国藩の幕吏に
  75年、李鴻章の幕吏に
  82年、壬午の変に、清国軍艦の迅速な派遣を進言、功績を評価される。
  85年、清仏戦争で鎮海の防備を説き、役立った。
  86年からイギリス、フランス、ベルギー、イタリア四カ国公使。
  94年、帰国死亡。
西欧の強い軍事力は、農業、工業、鉱業、商業,貿易等の産業が支えて
いることを把握していた。しかし議会などの政治体制の役割には考えが
及ばなかった。
310ごるごるもあ ◆753Z/RLFiY :03/06/30 22:07
▲資本共産法▽  
 職業安定所を国税庁に統合し、かつ公権力化する。企業面接を撤廃して雇用創出を図る。
備考:企業教育の必然性と人材派遣業の処分
▲琉球国際認定規格推進▽
 同一国内でありながら、国籍と民族の固有化を尊重し、続けて北方領土問題にも取り組む。
 ▲地域社会保護法案▽
 住民投票を公権力化し、地域社会の破壊を阻止する。
▲教育改革法▽ 
 義務教育の数学・音楽・美術を廃止し、情報処理・脳神経学(精神学)・マインドコントロール手法(音楽・美術)を新たに加え、資本主義社会の虚弱性に抗する消費者層の暗黙的な社会主義化を目指す。
▲予約売買法▽ 
 卸売り業者すべてに予約販売制を導入・義務化し、物資の流通を共産主義化する。
   (馬 建忠、ばけんちゆう、Ma3 Jian4zhong1、1845−1900)
      江蘇省の生まれ
    家族が太平天国の乱を避けて上海に移住。
    カトリック系の学校で学ぶ。
1877年、フランスへ留学。外交、法律を学ぶ。
  80年、帰国、李鴻章の幕下で北洋海軍の建設。
      インド、ヴェトナム、朝鮮に派遣される。
  82年、壬午の変、大院君を保定に護送。
  85年、清仏戦争後の交渉に参加。
  95年、下関条約交渉に参加。
有能な外交官だったが、科挙の資格がないので不遇だった。

戦力を強くする(求強)は民間の商工業育成(富民)の結果である。
富民には輸出を増やし外貨をかせぐ。商品がない時は鉱山を開発する。
釐金(りきん)封建的な地方関税。これがあるので中国の統一市場が
形成できないとし、廃止を主張した。関税自主権がなかったので、
うまく機能できなかった。
海軍に関し、専門家は簡単には出来ないとし、じっくりとした養成を
主張した。
(張 之洞、ちょうしどう、Zhang1 Zhi1dong4、1837−1909)
直隷省の生まれ
  16才、郷試の合格、挙人に。
  26才、太平天国の乱で試験がなく、この年進士に。
1880年、光緒帝の皇位継承問題で西太后に付き、信頼を得る。
  81年、山西省巡撫に就任、振興に活躍。
  84年、両広総督(広東、広西)対仏主戦論。
      開明的指導者として近代化に努める。
  89年、湖広総督(湖南、湖北)
      1907年まで18年間その地位に。
      外国人顧問を雇い、進歩派ブレーンを組織。
      京漢鉄道を完成。
      殖産興業、機械製造業、鉱業、製鉄業、製糸織物業。
      造幣事業。
      強兵、水師学堂、ドイツ式軍隊自強新軍、
      広東水師学堂、武昌自強学堂、湖北高等農務学校の創設。
      留学生の派遣。
      梁啓超、譚嗣同を援助。
1907年、内閣大学士兼軍機大臣
  09年、死亡。

      「書目答問」中国古来の本の目録とその評価。
      「勧学篇」(中体西用論)西洋の科学技術の導入は行っても
       思想や制度は拒否する。
(附会説)西洋の機器や技術は原理的にはすでに中国の諸子百家により
     その萌芽がしめされている。
西洋の政治と経書を附会的に説明。


  (宋代に確定した一三種の経書)
十三経 : 易経(周易) 書経(尚書) 詩経(毛詩) 周礼 儀礼 礼記
     春秋左氏伝 春秋公羊伝 春秋穀梁伝 論語 孝経 爾雅 孟子

経書の中でも「周礼」、諸子の中でも「墨子」、「春秋」の解釈では、
「公羊学」などの変革の理論を重視した。

康有為の「孔子改制説」、従来の儒学は漢代に改変されていて、
            オリジナルは、もっと現状改革的だという。
    「大同説」   究極の理想とする社会を述べた。大同という
            言葉に万人平等の意味があるのか解らない。
            毛沢東もこの言葉が好きだ。
学問を朱子学のような保守的なものでなく、社会改革の道具としている。
大塩平八郎の陽明学に似ている印象あり。
314@名無史さん:03/07/06 23:27
小崎秀美「支那資本主義発達略史」
漢代より明代まで「塩鉄使」などの官僚制度により商業抑制
政策がとられた。(これはよく理解できない)
地主たる官人支配体制は小規模マニファクチャーの経営者であり、
高利貸しであった。
アヘン戦争後に官営工場が民族資本に変わっていったが消費財の
生産が中心だった。
銀行も外国資本中心だったのが、半官半民に。
鉄道、鉱山が外国資本に。
銀行を中心とする民族資本と国民政府の協力。浙江財閥。
第1次大戦中の欧州の後退の間に、中国民族資本がかなり盛んに
なったが、日本、アメリカが進出した。
農業は相続が諸子分配なこともあり細分化された。
1935年の幣制改革が成功した。
浙江財閥などの民族資本に問題があるといっているが、何処が
悪いのかの記載が不足している。
        歴史科学体系13巻

「近代中国・日中関係図書目録 増補」
  市古宙三編 汲古書院 1980
     この本は大変参考になった。この後は無いのだろうか?
{中国・1948年秋
       −東北人民開放戦争ー}
日本軍の敗戦した、東北地方では、日本軍の武器の捕獲競争があったが、
ソ連軍のついた中共側が有利だった。党側から彭真、高崗、軍は林彪、
羅栄桓等を派遣。東北抗日連軍から東北民主連軍を組織。政治面は、
彭真第一書記、高崗第二書記。軍は林彪司令。軍事生産の重要性を強調
した羅栄桓は、砲、砲弾を大量に生産した。
1946年、彭真、高崗の指導で北寧線沿いに国民党軍と正面戦闘し
敗退。解放軍はハルピン、吉林に後退。ゲリラ戦、土地改革による
根拠地形成で勢力を盛り返し、1948年秋には国府軍約40万を
長春、瀋陽、錦州に追い込む。解放軍は旧第1方面軍→東北野戦軍→
第4野戦軍と改変し70万と民兵30万を擁した。重火器も強化
されていた。毛沢東、林彪は錦州を中心とした東北南部から作戦を
開始、錦州を攻略、国府軍の退路を断った。その後瀋陽を攻略し
東北全域を獲得した。遼瀋戦役という。
 姫田光義著「中国現代史の争点」日中出版1977年
この本のポイントは中国では、権力闘争の手段として、歴史が改変
されていて、特に林彪は文革書記には、持ち上げられ、後期には
失墜し、それにより、遼瀋戦役の改変の可能性を危惧してるのだが、
戦役の当時の現場では、林彪の密かな上申、提案と、公式な毛沢東の
支持というスタイルで両者の連携があり、対立はなかったという
分析である。
その他、瞿秋白、劉少奇、などに関連した改変が検討されている。
316315:03/07/10 00:38
林彪は文革書記→初期
毛沢東の支持→指示
(陳 宝箴、ちんほうしん、Chen2 Bao3zhen1、1831−1900)
      江西省の生まれ
1851年、挙人に
  61年、曽国藩の幕僚になる。
      江西省で、知府→河北道→按察使
  94年、光緒帝に陳奏すること多く、意に適う。
  95年、湖南巡撫に
      この頃、学政(省の文部大臣)に江標から徐仁鋳に
      黄遵憲が按察使になり、変法派が集結した。
      熊希齢と共に、「富強」として電信、汽船、弾薬の会社を
      おこす。
  96年、湖南、時務学堂を設立、梁啓超を中文総学習に任命
  98年、2月、南学会を設立、学術の講演にみせた、議会準備組織。
      6月、変法国是
      9月、戊戌の政変、変法運動失敗。
         陳宝箴は罷免される。
「六部」りくぶ
吏部(りぶ)   文官の任命等の人事を担当
戸部(こぶ)   戸籍管理、徴税、貨幣鋳造等を担当
礼部(れいぶ)  儀式、教育、科挙等を担当
兵部(へいぶ)  軍事を担当
刑部(けいぶ)  法律、刑罰等を担当
工部(こうぶ)  土木建築、水利等を担当

「中央官庁の階級」
尚書(しょうしょ)  各部の長官
侍郎(じろう)    各部の次官
郎中(ろうじゅう)  侍郎の次
員外郎(いんがいろう)郎中の次
主事(しゅじ)    員外郎の次
{清朝の地方組織}
省)
  「総督」   1省から数省を治める大官。
         兵部尚書と都察院右御史を兼ねて軍事と観察を
         司った。
         清朝では8人の総督がいた。巡撫とほぼ同格。
  「巡撫」   省の長官。兵部侍郎と都察院右副御史もかねて
         軍事、観察を司った。
         総督とほぼ同格。
  「布政使」  ふせいし、省の民政、財政長官。
  「按察使」  あんさつし、省の司法長官。
道)
  「道員」
府)
  「府知」
州)
  「知州」
県)
  「知県」
(黄 遵憲、こうじゅんけん、Huang2 Zun1xian4、1848−1905)
      広東省の生まれ、客家
1867年、生員(科挙受験資格のある国立学校生徒)
  70年、香港に行く。西洋の進んだ文明と、外国の中国支配に衝撃。
  76年、挙人に。外交官になり、日本に。
      日本の維新後の改革に感動し後に「日本国志」を執筆。
  82年、アメリカへ。
  91年、シンガポール領事。
  94年、張之洞に呼び戻され、南京で開港、教案に従事。
  95年、上海の強学会に参加。
  96年、雑誌「時務報」を創刊、変法思想を鼓吹。
  97年、湖南省の塩法道、按察使に任命される。
      積極的に改革に取り組み、
      長沙時務学堂を設立。
      鉄道建設、鉱山開発
      南学会の設立、
      「湘学新報」「湘報」を創刊。
  98年、戊戌の政変で失脚、引退。
321山崎 渉:03/07/15 12:50

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
323@名無史さん :03/08/01 21:21
東洋文庫 景梅九(けいばいきゅう)著
     「留日回顧、 一中国アナキストの半生」 原題は「罪案」
景梅九(1882−1959)は北京大学から日本の旧制一高に留学。
日本で多くの中国革命同志と交流、幸徳秋水、大杉栄の講演を聞き
アナキズムにあこがれる。帰国後、辛亥革命がおこり、故郷の山西省で
兵をおこすが閻錫山の袁世凱との妥協もありてを引く。北洋政府や
その後の南京政府よりも招かれるが、政権には入らない。しかし議員には
なっている。オリジナルは留学期間と辛亥革命時期の記録があるが、訳本は
日本の時期だけである。アナキストとしての行動は特にない。経歴からも
判るように、理論の好きな秀才タイプで、ジャーナリズムで活躍した。
辛亥革命期の山西省は興味深いがこの部分は訳者の要約だけで残念
     ∧_∧  ∧_∧
ピュ.ー (  ・3・) (  ^^ ) <これからも僕たちを応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄〕
  = ◎――――――◎                      山崎渉&ぼるじょあ
325@名無史さん:03/08/02 11:27
8月2日から上映される映画「フリーダ」はメキシコのトロッキーが
出てくるようだ。
>http://www.frida.jp/about_frida.html
326@名無史さん:03/08/04 00:56
「季刊 日本思想史、第60巻、特集近代日本と東アジア」
(東アジア三国における「海国図志」と横井小楠しょうなん」
   源了圓著
林則徐の部下の魏源が、英国のマレイの地理書に当時の現況
自分の意見を書き加え、地図、武器の図を加え、アヘン戦争後の
中国に、世界認識の変革を説いた。世界の各国編があり、欧米
列強のアジア進出の動機などが分析されている。
清、朝鮮、徳川日本のこの本に対する反応が分析されている。
日本では幕府の中枢から回読の指示があり、20種の解説本が
でて、魏源の本の誤りまで分析されていた。攘夷から開国への
転換をうながした原動力の一部でもあった。
図書館に1967年に台北で出版された原著があった。
全60巻。約3500ページ。一巻は約50ページ。
7冊に分冊されている。地図や兵器の絵の出ている第7巻だけみた。
英国やアメリカの部分が特に注目されたようだが、どこに出ているか
わからない。
共産中国で最近出版された3分冊のもあるらしい。
327@名無史さん:03/08/06 17:39
コピベのこぴー 芥川龍之介の中国史講義
>http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/87.html
328@名無史さん:03/08/22 15:50
岩波書店「吉野作造選集」第12巻

「清国の夏」1909年
「袁世凱及其遺族」1916年
1904年に大学を卒業した吉野は、日露戦争(1904−05)直後の
中国に6年から9年の3年間袁世凱の長男袁克定の家庭教師として中国に
行かされる。当時奉天で盛京将軍だった超爾巽が、馬賊討伐に北洋軍を
袁世凱から借りたお礼に、克定を奉天軍の将軍にしたので、吉野も奉天に
行った。克定は袁世凱のたった一人の嫡男で他は妾の子だった。克定は
読書は好きであったが、学校教育を受けていないため、基礎的学力が
なく。病弱だったため、甘やかされて育ち軟弱な人間だったという。
吉野は待遇が良くなかったらしく不平たらたらである。
超爾巽と袁世凱は繋がり深い。
329@名無史さん:03/08/22 16:23
「谷崎潤一郎全集」第12巻
              改造社1931年
紀行文
「蘇州紀行」
「秦淮の夜」
「上海交友記」
「上海見聞録」
「支那劇を観る記」
「支那趣味と云うこと」
谷崎の中国での夜遊びと、中国の作家との交流記。
秦淮(しんわい)というのは南京南部の揚子江の小入江で周囲に
明清代の建築物のある水辺の繁華街。ここで谷崎は美貌の芸者と
料金交渉をしてふっかけられ、交渉成立せず断るが、あとで
くよくよ後悔するがもっと安い芸者屋へ行き泊まる。
私は秦淮のマクドナルドで、座ろうとして中国人にそこは、俺達が
取ってある席だとからまれた。勿論私はマックの席で日清戦争を
起こしたりしない。同じ所へ行っても人によって経験は異なる。
いずれにしろこの本はたいした情報もなく面白くない。
330@名無史さん:03/08/28 23:44
森田靖郎著「蛇頭と人蛇」じゃとうとやんせ、集英社新書
       中国人密航ビジネスの闇
従来の華僑の時代と異なり、改革開放政策による経済格差の
拡がりから抜け出そうと、アメリカへ、日本へ非合法の渡航を
くわだてる。それを利用して巨利を得ようとする犯罪組織。
「幇ばん」は本来helpの意味だが、同郷、同族、同業が複雑に
結びあっている。
こんな恐ろしい組織をよく調べあげられたものだ。
331@名無史さん:03/08/29 00:11
竹内好著「日本のアジア主義」
魯迅の解説でも、毛沢東語録でもこの本でも竹内好という人は
理解できない。理解しようとすることが時間の無駄であるのか?
そうでないのか解らない。
ともあれ、明治時代から、日本人が懸命に西洋に追いつこうと
しつつ、中国、朝鮮にいらいらしながらも連帯感をもち、
その行き過ぎが侵略となった過程の玄洋社などの思想の良い
解説ではある。ウヨサヨ論争の土台でもあるのだろう。
332世界@名無史さん:03/08/29 17:25
ところで満鉄調査部の鈴木小兵衛って戦後も生きてたって本当ですか?
権力に仲間を売り続けて最後は中国の大学の先生になったらしいんですが
333@名無史さん:03/08/29 18:42
中央公論社「日本の名著45、宮崎滔天、北一輝」
   近藤秀樹の解説「明治の侠気と昭和の狂気」
1、この解説自体は二人の経歴と辛亥革命との関わりの解説だが、
  それについては、別記する。
2、宮崎滔天の妻の姉が、夏目漱石の「草枕」の主人公那美子の
  モデルだそうだ。
3、宮崎滔天は一時プロの浪曲家になり、桃中軒雲衛門の弟子だったという。
4、アメリカ革命の影響がフランスに及び、フランス革命を呼び、君主制が
  共和制に移行したが、辛亥革命の影響が日本に及び、日本が君主制から
  共和制への運動が日本に及ぶのを明治政府は恐れたという。
5、北一輝は左眼が翼状片という病気で見えなかった。これが彼の人生に
  いろいろ影響している@
334@名無史さん:03/08/29 19:40
>332
戦後の情報は解りませんが、反講座派の理論のほうが結局生き残ったようですね。
>http://www.rku.ac.jp/~hara/amano_tajima.htm
335世界@名無史さん:03/09/02 19:41
age
336世界@名無史さん:03/09/02 19:59
  >>95
 毛沢東は、農村部の秘密結社と手を結んだ
 長征の成功もそれに負うところが大きい
 中国共産党もその頃の影響を色濃くのこした組織と呼ぶ者もいる

 幇や会党といった秘密結社で、国民党についたもの、日本軍についた者以外に
 共産党についた者もいたに過ぎない
337@名無史さん :03/09/05 16:35
北一輝著「支那革命外史」
飛ばし読みなので正確さには自信がない。
大正の年代と民国の年代は一致するようだ。
北一輝は辛亥革命を聞いて、内田良平に派遣されて中国に行ったが、
中国側にあまり期待もされていなかったようだ。
大正4年にこの本の骨格は書かれているが、当時の流れとして革命派は
評価しないで、袁世凱、北洋に展望をもっている。
338@名無史さん:03/09/05 17:39
筑摩書房「竹内好全集」第2巻
2巻と3巻が魯迅について
魯迅は1926.3.18北京→厦門→広東→1927年10月北京
1928年、プロレタリア文学派と論争。
彼らはプチブル知識層の観念の遊戯にすぎず、直輸入の理論の非現実性を
ついた。自身も進化論的世界観に階級闘争説を導入。
魯迅の側の勝利に終わった。この文学論争は、李立山と毛沢東の論争の毛の
主張にも合致するため、中共政府の魯迅評価につながっている。
1936年、抗日の民族統一路線でも文学界に二つの意見の対立があった。
広範な勢力で魯迅にセクト的、政治的と攻撃された「文芸家協会」
相手からトロッキスト的偏向と非難された魯迅等の少数派の「文芸工作者」
があった。論争に決着がつかないまま魯迅が死んだ。
この論争の意味は解らない。
竹内好の文章は毛沢東、蒋介石双方に、露骨な非難を避けているために、
常に文章にアイマイサがのこる。中共にも台湾にも、公平の名のもとに
ええかっこうしいだったらしい。
339@名無史さん:03/09/05 22:59
 (徐錫麟、じょしゃくりん、Xu Xilin、1873−1907)
    浙江省、紹興の生まれ。
1905年、蔡元培の光復会に入る。
  07年、安徽省の巡警学堂の卒業式に出席する恩銘に発砲。
      同志だった秋瑾らと処刑された。

この人物を取り上げたのは、魯迅の小説集に、軍閥に肝臓を食われたとの
話題がでているので。
340世界@名無史さん:03/09/13 00:20
狭間直樹が『東亜』に連載していた「初期アジア主義についての史的考察」が面白かった
本文は霞山会サイトにうpされてます
341世界@名無史さん:03/09/13 17:06
「東亜」の論文読みました。
霞山会のサイトは移動してましたね。
霞山会の存在そのものがアジア主義という言葉と微妙なかかわりを
もっているようです。
342世界@名無史さん:03/09/13 22:01
霞山は近衛篤麿の号
343世界@名無史さん:03/09/13 23:00
うっかりして途中で発信してしまった。
霞山会は東亜同文会の継承団体です。

東亜同文会は1898年に東亜会と同文会の合同により設立され
その2年後には「亜細亜協会」(最初の本格的アジア主義団体=興亜会の後身)を
併合しアジア主義者の一大勢力になった。
会長に就任したのは近衛篤麿(号は霞山)で、周知の通り後の首相・文麿パパ。
狭間氏の論文では東亜同文会結成の背景として、戊戌政変による康有為・梁啓超の
日本亡命の影響を示唆している。
東亜同文会は1901年、上海に東亜同文書院('38?に大学昇格)を設立、
日中提携を担う人材の要請をめざした(ちなみに中西功などゾルゲ事件や
満鉄事件の関係者には同校の出身者が多い)。
終戦後、東亜同文書院大学は解散、翌年には経営母体の東亜同文会も解散した。
('50には財団法人として清算)
1948年には同会の後継団体として「霞山会」が発足した。
なお、1946年に設立された愛知大学は、東亜同文書院大学の他、京城帝国大学など
外地の大学から引き揚げた学生・教員のために作られたので東亜同文書院との
直接の継承関係はないが、創立時の学生・教職員は同校関係者で占められており
また『中日大辞典』編纂など東亜同文書院から継承された知的遺産も多い。
さらに霞山会とは理事の相互就任など密接な関係にあり、93年には東亜同文書院大学
記念センターが愛知大学内に設立され、孫文や山田良政(同文書院教員)など
の関係史料受け入れを進めている。

愛知大学東亜同文書院大学記念センター『東亜同文書院と愛知大学』(第1集〜第3集)1993〜96、参照
344世界@名無史さん:03/09/13 23:53
中村新太郎著「孫文から尾崎秀美へ」日中出版 1975年
  代々木系のサヨ本である。

  「野坂参三と延安洞窟の日本人」
1928年、投獄された野坂は何故か眼の治療ということで
      仮出獄
  33年、モスクワに潜入コミンテルン日本代表に。
  40年、モスクワから延安に。
      王明の家にとまる。
      日本人捕虜の共産主義教育のため、「宝塔山」に
      「日本労農学校」をつくり、野坂は岡野進の変名で
      校長をつとめる。華北反戦同盟を組織。
  45年、終戦により日本にのりこむ。

345世界@名無史さん:03/09/13 23:54
続く
    「鹿地亘(かじわたる)と反戦同盟」
日本のプロレタリア作家の鹿地亘は、保釈出所後の1935年、
上海へ。内山書店の紹介で魯迅に会う。
盧溝橋事件、上海事変後、鹿地は郭沫若の紹介で武漢、重慶と
移動しながら、「日本人反戦同盟」を結成。日本人捕虜の教育
を行う。
1941年7月「思想妥当ならずにより」解散を命じられた。

「中江丑吉と片山潜」
中江丑吉は兆民の息子。彼の東京の家に曹汝霖が下宿し一生の
繋がりができる。五・四運動で襲われた曹汝霖を丑吉は日本
大使館にかばう。以後丑吉は北京の曹汝霖の屋敷で浪人学者
として、中国古典やマルキシズムの研究に没頭。
鈴江言一は丑吉の弟子。片山潜等多くの党員が丑吉の屋敷に
世話になる。

  「伊田助男と長谷川テル」
長谷川テルは、中国で反日放送をやったコミュニスト。
東京ローズの中国版。


346世界@名無史さん:03/09/14 05:59
今田新太郎は中江丑吉に兄事してたらしい
347@名無史さん:03/09/14 20:03
>346
大変参考になりました。
鈴江言一が後に中江家の姻戚関係になるとか、今田家と中江家が
もともと知り合いだったとか興味深いですね。
http://www10.ocn.ne.jp/~awjuno/sub32.html
348世界@名無史さん:03/09/14 20:35
今田の親父さんは漢学者だったらしい。
今田自身は石原シンパで、東條から疎まれてた。
349@名無史さん:03/09/17 00:37
344,345の続き
  「中西功と上海」
19才の中西は東亜同文学院に入学。
    学内の「共産主義青年同盟」に加盟。
    反戦運動で停学。復学後上海事変がおこり帰国。
    尾崎秀美の下請けのような仕事。
1933年、満鉄入社調査部へ。
      大連、上海、天津で活動。
      「支那抗戦力調査報告」戦後三一書房から出版
1941年、西里等と逮捕される。
      西里は死刑。中西はからくも終戦になる。

あれだけ、反日運動をやれば本人も捕まっても当然と覚悟は
できていたろう。

    「尾崎秀美とゾルゲ事件」
尾崎の中国での活動が中心。
それにしても、尾崎という人物は、ゾルゲ、スメドレー等の西洋人。
魯迅とような、有名文化人。近衛のような上流階級、この種の人間が
好きだ。筑紫哲也と好みが似ている。本来は一番共同作業が必要だった
解放軍とはまったく接触がない。ブランドではなかったらしい。
350世界@名無史さん:03/09/17 04:04
>349 西里って西里竜夫のこと?
彼は死刑を求刑されたけど中西同様生き残って戦後は共産党員として活躍しています
(西里竜夫『革命の上海で』日中出版、1977年)
351349:03/09/18 14:52
西里はおっしゃるとおりでした。裁判の場面ではやとちりしました。
350の本や「風雪のうた」読んでみます。

岡本隆三著「長征秘話」西路軍壊滅の記録 潮出版社1972年
読み始めたところです。張国Zの分裂行動の話らしいです。
352@名無史さん:03/09/19 22:17
西里竜夫『革命の上海で』日中出版、1977年
中国近代史の日本人による現場レポートとして貴重な記録と思い
ました。一つ気になったのは、日本軍占領直後の南京の描写が
何かのんびりしてるなということです。実はこの本の最後の章は
77年の書かれたもので、ここでは南京での、一般市民を巻き込んだ
便衣兵に対する攻撃がいまさらのように書かれています。
本文では一行だけ南京の虐殺という言葉が書かれています。
この本は1946年の大雅社の出版本の77年の改訂版です。
46年版に南京大虐殺という言葉が出ているかは重要な点ですが
私の調べた範囲では、大雅社の本はどこにもみあたりません。
「風雪のうた」という本はないようです。雑誌の掲載かも
しれません。
353@名無史さん:03/09/21 20:16
岡本隆三著「長征秘話」
この本は難しくて苦戦しています。次のような知識が不足しています。
1、延安より西、中国西北部の地理の知識。
  河西回廊を中心にしたシルクロードの地理。
2、西安事件直前の日本軍の西北部への進出。徳王などの動き。
3、国府軍の内情。張学良などの東北軍、楊虎城の軍、胡宗南、
  王均その他の軍のからみ。日本軍と共産軍を同時に相手に
  している。
4、共産軍内部の派閥。モスクワとの関係。特に張国Zの考え。
5、回教軍の考え。
6、一番の難物。シルクロードの歴史的知識。ヘディン。
354@名無史さん:03/09/21 20:31
野町和嘉著「長征夢現」ちょうせいゆめうつつ、55年後の証言。
写真集。ルートを追体験した現代の写真と当時の写真。
河西回廊で馬軍に虐殺された死体の山は迫力。
負けた軍隊がすぐ「虐殺」されたという中共軍。戦死は虐殺か?
355@名無史さん:03/09/23 22:39
(1930年代の内蒙古)
白雲梯らの急進的民族主義者。
蒙古旗人(王侯)中のホープ徳王を中心とする旧王侯の自治促進派。
外蒙に根拠を置く共産派(日海峰、朱実夫ら)の独立運動。
綏遠省の傅作義、チヤハル省の宋哲元も勢力拡大を狙う。

1934年徳王の内蒙古政務委員会(蒙政会)本部百霊廟
熱河省の軍閥李守信軍、日本の協力。
「六郡(察東)事件」
  関東軍をバックにした李守信の軍事力で徳王は内蒙古の東部を徳王の勢力下に。
「綏遠事件」
  田中隆吉指導の徳王側の内蒙古軍(王英軍)を傅作義指揮の蒋介石支援の
  綏遠軍が戦闘。
  百霊廟が綏遠軍に占領された。
  西安事件で停戦になった。
356@名無史さん:03/09/23 22:41
   (傅作義、ふさくぎ、Fu4 Zuo4yi4、1895−1974)
     山西省の生まれ。
1918年、保定陸軍軍官学校卒業
      閻錫山の山西軍に。
  31年、綏遠省政府主席に。
  33年、日本軍が山海関を越えるとこれと抗戦。
  35年、国民党中央執行委員に。
      日中戦争の間、八路軍と良好な協力体制を保った。
  49年、共産軍の和平条件を受諾し北京を戦火から守った。
      新中国では国防委員会副主席などを務めた。
357@名無史さん:03/09/23 22:47
1、綏遠事件では、中国軍が日本軍に勝ったというほど、日本軍の実動はあった
  のだろうか?
2、田中隆吉などが綏遠省に工作した目的は、中国進出でなく、対ソ戦準備
  だったのだろうか?
358世界@名無史さん:03/09/23 23:30
1、破れたのは日本軍人のサポートを受けた蒙古軍。
金甲山の裏切りで十数人の日本の特務機関員も死んでるが。
2、親日の徳王政権を内蒙にぶっ立てて、内蒙の赤化を防止する狙い。
ただ隆吉はどういうわけか蒙古人に非常に好かれてたので、
彼個人としては、徳王を喜ばせたいというような感情もあったのではないか。

もちろんこの計画には中央も天津軍も反対してたんだが・・・・
359@名無史さん:03/09/26 17:37
(盛世才、せいせいさい、Sheng4 Shi4cai2、1897−1970)
    奉天省の生まれ。
1917年、日本の明治大学留学
  19年、ヴェルサイユ条約に反対して帰国。
      上海でマルクス主義の本を読む。
  19年、広州の講武堂を卒業。
      奉天軍に入り、郭松齢の部下になる。
      郭松齢の義女と結婚。
  27年、日本の陸軍大学を卒業。
  30年、新疆に軍官学校教官として赴任。
  31年、新しく省主席になった金樹仁が従来の回教徒間接統治から
      漢民族直接の強圧統治により東干トンガンの甘粛省の漢人回教徒の
      馬仲英が反乱。(34年まで)
      ソ連は満州事変でソ連に後退していたソ連軍を新疆に。
  34年、権力を握る。
      新疆省督辮を中央政府に承認させる。
      ソ連は資金援助、軍隊派遣などの軍事援助。
  37年、西安事件で中国共産軍の力が安定すると、ウルムチに中共代表部を
      設置。中共は毛沢民らを派遣、ソ連との交通路を確保。
  38年、盛世才はソ連共産党に入党、新疆がソ連勢力圏になった。
  41年、独ソ戦。盛世才はソ連敗北と読み、ソ連、中共分子を排除、自身は
      国民党に入党。
  44年、ソ連の勝利の近いのをみて、国民党要員を投獄。
      国民党は盛世才を新疆から除き、武漢に移す。
  49年、台湾に。
360@名無史さん:03/09/27 00:04
(毛沢民、もうたくみん、Mao2 Ze2min2、1896−1943)
      毛沢東の弟。3才年下。だから湖南省のうまれ。
1919年、両親死亡。家計の面倒をみる。
  21年、毛沢東の勤務する師範小学校の事務管理をする。
  22年、入党
  25年、広州の農民運動講習所を卒業。
  32年、革命根拠地で財政、生産の指導をする。
  34年、長征に参加。食料、経費の調達。
  36年、陝北に到着。経済、供給を担当。
  37年、気管支炎、蓄膿の治療でソ連へ行く途中、ウルムチで盛世才に
      頼まれ、新疆省の財政をたてなおす。
  41年以後、盛世才は、ソ連、中共路線から蒋介石側に転向。
      毛沢民は逮捕され処刑された。
362@名無史さん:03/09/29 00:30
前述の「長征秘話」p30に、「日本軍は36年初めには、関東軍が内蒙工作を
中心として、甘粛、寧夏、陝西の軍閥にたいする工作、青海、新疆、外蒙への
工作を含む大西北工作にとりかかろうとしていた。」とあるが具体的に何か
あったのかは解らない。
9月28日の読売新聞に出ている尾崎三雄著「日本人がみた’30年代のアフガン」
石風社、2003年、30年代に日本人がアフガンに農業指導に行き、これの
バックには、日本政府、軍の対ソ連、対英国の日本の中央アジアへの進出政策が
あったという。
363@名無史さん:03/09/29 23:28
(李先念、りせんねん、Li3 Xian1nian4、1909−1992)
     湖北省の生まれ。
1927年、中共に入党。
  31年、紅軍に参加。鄂豫ユ(湖北、河南、安徽省境)ソヴィエトで活躍。
  32年、川陝(四川、陝西省境)ソヴィエト創設。
  33年、紅軍第4方面軍(張国Z、徐向前の指揮)第30軍政治委員。
  35年 長征に参加。張国Zとの激しい抗争を経て、会寧で第1方面軍と
      会合。
      国民党の胡宗南と戦闘。
  36年10月、紅軍30軍を率いて黄河を西渡し、西路軍軍政委員会委員
         を兼任。
  37年3月、西路軍が敗北してから、きわめて厳しい軍事状況下で西路軍を
        指揮して祁連山脈を越えてゴビ地帯に避難。
     (なおこの37年3月の戦闘で全軍2万2000人のうち多数が犠牲
      になり、700人が新疆へ、500人が陝西に逃れたといわれる。)
      李先念は新疆ウルムチに逃れ、そこの支配者だった盛世才の保護を
      受ける。
      7月、陳雲が延安に引き取る。
      日中戦争では新四軍で活躍。
      毛沢東、劉少奇につづき、」3代目の国家主席に。

西路軍の状況に関しては更に検討する。
364@名無史さん:03/10/03 21:56
スヴェン・ヘディン著「馬仲英の逃亡」中公文庫
中央アジアの探検が辛亥革命を禁止されていたのが、1934年蒋介石は
ヘディンに許可し資金を負担した。新疆にでかけたヘディンは馬仲英の部隊
に捕虜になりその記録である。金樹林、盛世才の時代をリアルに自己体験
した貴重な体験である。
この本の後書きに、蒋介石が探検を援助した目的が、日本との戦争にそなえて
雲南ルートの他に、シルクロードから、インド方面へのルート確保の狙いが
あったそうだ。
365世界@名無史さん:03/10/03 23:29
こんな本が出てますたのでさっそく買いますた

光文社の新刊 http://www.kobunsha.com/book/HTML/gak_97408_2.html

日・米・英「諜報機関」の太平洋戦争
初めて明らかになった極東支配をめぐる「秘密工作行動」

リチャード・オルドリッチ 会田弘継 訳  2003年8月5日(火)発売
定価(本体2,300円+税) ISBN4-334-97408-2

あと平凡社のPR誌『月刊百科』で松原正毅が1930年代の新疆省の
遊牧民族についてエッセイを連載していますが既出ですか?
366@名無史さん:03/10/04 15:02
15年戦争と言ってしまうと一まとめですが、竹内好なども
日中戦争は侵略戦争。日米戦争は帝国主義どうしの勢力争いという
評価のようですね。毛沢東などもそう考えていたのかも知れません。
PR誌は見つかるか自信ありませんがさがしてみます。
367世界@名無史さん:03/10/05 01:15
月刊百科は大抵の図書館には置いてあると思われ
368@名無史さん:03/10/05 22:07
「中国をめぐる国境紛争」巌南堂書店 1967年
   アジア・アフリカ国際関係史業書
1、1933ねん、ソ連は金樹仁と新疆密約を結んでいたが白系ロシア軍の
  反乱で失脚した。
2、馬仲英に対抗する盛世才にソ連は、満州国に反抗しシベリアに逃げ込んだ
  馬占山軍を送り、更にソ連軍も送り支援した。
  敗れた馬仲英は、カシュガルから皮肉なことにソ連に亡命した。
3、馬仲英の部隊には、大西タダシという名前の大陸浪人らしい日本人が
  顧問として参加していた。
4、日中戦争中にはソ連から800機近くの航空機や大量の武器が援助されたが
  大部分国民党に渡され、共産軍に渡らなかった。
5、1864年、西域でヤクブ・ベクの回教徒の反乱が起こり、左宗棠に鎮圧
  されたが、イギリスがヤフブ・ベク軍に武器などの支援をしていたらしい。
  この混乱に乗じてロシアはイリちほうに進出。
6、1879年、リヴァディア条約を結んだ崇原は不平等だと投獄された。
  1881年、イリ条約として改定された。
7、1944年、イリ地方に東トルキスタン共和国ができたが新中国誕生後
  吸収された。回教徒指導者が毛沢東に招待された飛行機が遭難した。
  こうゆう事故があの頃多い!!!
  中国では三区革命という。
8、新疆西方のパミール地方の大部分はソ連に占領されている。
  アフガニスタンとは非常に狭い部分で接している。
  国境の向こうは、アフガン戦争でテレビによく出てきたペシャワール、
  ラホールである。
9、新疆にはウラン、タングステン、錫、石油などがとれる。
369@名無史さん:03/10/08 17:45
(ロバート・C・ノース氏による張国Z回顧談記録)
1950年、香港での会見記録。
長征の途中、四川省の毛児蓋で毛沢東と張国Zはヘゲモニーを
争った。毛沢東は寧夏への北上を、張国Zは新疆へ移行を主張
した。モスコーは新疆行きを支持した。黄河を渡った部隊は
国民党軍により壊滅した。
この会見記録の他にアメリカ国務省の接見記録が秘密記録として
あるらしい。現在では、年数もたったので公表されているのか?
        石川忠雄著「中国共産党史研究」より
370@名無史さん:03/10/10 19:23
「月間百科」ありました。
盛世才の軍学校は広州でなく雲南。
1937年の中ソ不可侵条約でソ連は中国に985機の戦闘機、82台の戦車、
1300門の大砲、14,000挺の機関銃、多量の弾薬を送った。
1924年、外モンゴル人民共和国成立。
  31年からラマ教の弾圧。
1933年、カシュガルに東トルキスタン共和国成立。
  34年、馬仲英により崩壊。その後ソ連に亡命。
  38年、スターリンの大粛清で死亡。
371@名無史さん:03/10/10 23:15
>368
ペシャワールがアフガンは間違いでパキスタンに訂正。

中公新書の新刊「ポスト・タリバン」遠藤義雄他著の中の
中国がかかえるイスラム問題。
1933年と1944年に東トルキスタン共和国が短期間できた。
現代にもドイツに本拠をおく「東トルキスタン情報センター」がある由。
372@名無史さん:03/10/13 17:41
「中国近代化の歴史と展望」 法律文化社 1996年
   (「中国型社会主義」と近代化)座間紘一
高度な市場関係の発達が作りだしてきた個人の人格的自立、基本的人権、
民主主義といった市民社会的要素を切り捨てた。
党と官僚の支配は中国封建制度での位階制的官僚主義的支配、家父長的
宗教的支配の再編であるといえよう。とある。ここまで明快に現代中国を
論じたものをはじめて読んだ。
後半は「社会主義的市場経済システム」の問題点。省略。
373名無的発言者:03/10/14 18:28
東トルキスタン情報センター
>http://www.uygur.org/
日の丸クリックで日本語板
374@名無史さん:03/10/14 22:50
中国板の東トルキスタンすれは、すごい情報源ですね。
三区革命のメンバーの死因は問題ありと思ってましたがソ連とは
知らなかった。
375世界@名無史さん:03/10/14 23:12
>>373
これはいいサイト
376世界@名無史さん:03/10/18 16:50
377@名無史さん:03/10/18 22:22
(陳昌浩、ちんしょうこう、Chen2 Chang1hao4、1906−1967)
    湖北省の生まれ。
1927年、モスクワの中山大学へ入学。陳紹禹と共に、「28人のボルシェヴィキ」を結成。
  30年、帰国
  31年、鄂豫ユ根拠地(湖北,河南、安徽)で徐向前らと第4軍。
  32年、川陝根拠地へ第4方面軍。
  34年10月、長征の最終段階で甘粛省東南部の会寧で、第4方面軍の張国Zの部下の陳昌浩は
     西路軍を編成し、黄河を西に渡り、河西根拠地を形成する指示をだした。 徐向前、李先念、
     程世才がふくまれる。
     河西回廊を西に進む西路軍は、テングリ砂漠を南の祁連山脈からの水路のオアシスをたどる。
     人口衛星(載人航天)を挙げた酒泉の手前で第5軍全滅。祁連山脈を南方へ越え、第9軍全滅。
     残存する第30軍は200人近くになり、壊滅。陳昌浩と徐向前は陝西にもどり、残りは西進した。
     西進部隊は最終的にウルムチに到着し盛世才の保護に入った。
  39年、モスクワにわたる。幽閉されていたという話もある。
  52年、帰国。北京で死亡。

 1、張国Z、陳昌浩が西進した理由を星火燎原など中共系の本は甘粛に根拠地を作ろうとした分派活動として
   非難攻撃している。しかしながらこの作戦は目的自体があまりにピントがはずれていて嘘っぽい。
 2、出発前に張国Zは「国際コースを貫徹せよ」とのスローガンをだしている。これはソ連と連絡路を造れとの意味だ。
 3、最終的にウルムチに着いた人達は航空機や戦車の整備、使用の訓練を受けている。
 4、近代兵器を持つ日本軍、蒋介石軍との経験から中共軍の原始的兵器を危惧し対応の必要を感じたのではないか?
 5、そう考えれば西進の目的も納得がいく。問題は甘粛の馬一族の騎馬部隊との対戦の準備不足にあったのでないか。
 6、毛沢東に対抗した張国Zは無能な悪者にする必要があった。
   張国Zの著作を弁解の捏造と判定する学者達自体が偏向している可能性がある。
378@名無史さん:03/10/20 15:15
西域の旅行案内、15日間とはすごい。
>http://www.eurasia.co.jp/nittei_03_kami/03_silkroad/rck5/rck5.html
地図が参考になる。
379@名無史さん:03/10/20 16:45
実は何がゴビ砂漠なのかは本当はあいまいで解りにくい。
「ゴビ」とはモンゴル語で「短い草が疎らに生えている土地」という意味で、
砂漠と呼ばれてはいるが、実際には山や森、 草原であり牧畜に適した土地も多く、
珍しい動植物も少なくないそうだ。飛行機が降りられるらしい。だから中国に
飛んでくる黄砂もゴビでなくてタクラマカン砂漠らしい。西路軍は河西回廊から
ウルムチへは、タクラマカン砂漠でなくゴビ砂漠を通ったらしい。
http://www.asahi-net.or.jp/~pj5m-sgw/china2/kasei2.htm
この方の解説は解り易い。

380@名無史さん:03/10/24 18:20
週間新潮の10月30日号のグラビアに四川省の世界遺産に選ばれたという
「九寨溝」がでている。すごい景色だ。地図でいうと北緯33度東経104度
あたりで、丁度長征が四川省から甘粛に入ったあたりで、毛沢東、張国Zの
論争のあった毛児蓋の近くで岷山山脈を越すという長征の歌に最後の難所と
歌われているあたりだ。チベット族自治区で襲撃をさかんに受けたようだ。
381@名無史さん:03/10/29 19:01
金子民雄著「ヘディン交遊録」探検家の生涯における17人
1、日本人の書いた本でこれだけ面白い本はめずらしい。
2、著者の金子さんの西域に関する知識の量がものすごい。
  その知識の裏づけがあるので説得力がある。
3、西域をロシア、イギリスなど西側から見た見方は興味深い。
4、ニコライ2世、李鴻章、蒋介石などなど交流はひろい。
5、1907年、日本の参謀本部から日野強少佐が新疆省を広く旅行し
  カラコルム峠を越えてインドに出た由。
382@名無史さん:03/11/02 20:43
王柯著「東トルキスタン共和国研究」
  東京大学出版会 1995年
ウイグル人と回族の共通の宗教の絆も民族の壁の前には
いかに脆弱か?
この本の第二章第一節に日本の新疆進出のまとめがあった。
既知の情報が多い。
こうゆうテーマを扱うには、著者が中国人であるので限界がある。
383世界@名無史さん:03/11/03 03:23
戦前期の日本・イスラーム関係史(もしくは日本の対イスラーム政策史)は、イスラーム史・日本近現代史研究のなかでも空白の分野だと思う。
最近だと田澤拓也『ムスリム・ニッポン』や臼杵陽「戦時下回教研究の遺産」『思想』2002.9(野原四郎や竹内好も関わった回教圏研究所が中心)があるが、いちばん包括的なのは小村不二男『日本イスラーム史』(1988、日本イスラーム友好連盟)であろう。
著者の小村氏は1912年生まれで1935年以降、内蒙古方面で現地回教民の親日連携工作に従事した(巻末「著者紹介」より)。
この本によれば戦時期日本の対イスラーム政策は、まず蒙疆方面での回教徒工作に始まり、太平洋戦争開始で南方に戦線が拡大して以降はインドネシア・マレーシア・フィリピン南部など東南アジアの対ムスリム工作として展開された。
野原四郎の回顧(「回教圏研究所の思い出」1966年)によると、1939〜40年、中国大陸における日本軍の回教政策が挫折し、一時国内での「回教熱」が冷めていた時期があるのだと言うが、これが具体的にどのような事実を指しているかはよく分からない。
384世界@名無史さん:03/11/03 04:01
前掲『日本イスラーム史』では

1932年2月 小林元、イスラム文化研究所設立
1933年10月 大久保幸次、イスラム学会設立=上記研究所の後身
1936年12月 佐久間貞次郎、日本回教文化協会設立
1337年5月 イスラム文化協会設立(理事長;遠藤柳作)=上記協会の後身
1938年2月 北京・懐仁堂で中国回教総連合会開催
     5月 同協会から回教圏研究所が分離設立(所長;大久保幸次)
    同月 東京モスク落慶献堂式
    12月 内蒙・綏遠帰化城で西北回教連合会の創立総会
1938年9月 イスラム文化協会を改組し大日本回教協会設立(会長;林銑十郎)
        【2代会長=四王天延孝→3代=小笠原長生】

この本によると1939〜43年ころは「イスラーム視察旅行といえば、先ずどこよりも”内蒙古視察”と相場が決まっていたくらいであった」とある(もちろん日本軍の許可が必要)。
しかし上記野原の回想「大陸回教徒政策の挫折」に相当する部分は見いだせなかった。
385@名無史さん:03/11/03 21:17
>393 捜してみます。

(河西回廊)
←敦煌←安西←酒泉(粛州)←張掖(甘州)←武威←蘭州
上記がメインルートであるが、途中西北に進み西進する北路や
祁連山脈の南側の青海湖畔から西進する南路もある。
回族の反乱などは南路から西安に向かった。
長征途中で張国Zが青海進出を主張し、中共系の文献では張国Zが
青海根拠地をつくろうとしたなどと、張国Zの無能さを強調しているが
彼はどのルートであれ、新疆にいってソ連の最新兵器を手に入れて
戦いたかったのだと思われる。
386@名無史さん:03/11/07 23:03
陳立夫著「成敗の鑑、陳立夫回想録上下」原書房 1997年
陳立夫(ちんりっぷ)と盛世才は北伐の時の戦友だった。
盛世才が新疆で権力をにぎった時、国民政府に自分を新疆の支配者と
してのお墨付きを要求した。その象徴として高官の派遣を要求し
旧知の陳立夫を指名した。そこで新疆を訪問した。丁度日本軍の侵攻で
政府を武漢から重慶に退却させるころである。途中漢口、西安で空襲にあう。
このつながりは、最終的に盛世才が台湾へ移住するのにも役立ったであろう。
本の中で、CC団などという組織は実際存在しなかった。共産党が陳chen
兄弟の頭文字から作った宣伝用の造語である由。陳立夫は、自分は漢語の
用法に非常なこだわりのある人間であり、もし何か組織を作ったとしても
そんな名前は付けないと言っている。そうだろうと思う。
387@名無史さん:03/11/11 21:45
エリノア・ラティモア著  原もと子訳 「トルキスタンの再会」東洋文庫
中国学者のオウエン・ラティモアは内モンゴルのフフホトから陸路トルキスタンへ
向かった。結婚直後のに新妻のエリノアはシベリア鉄道経由でトルキスタンに向かい
現地で再会reunionこれが題名の意味。北新疆のトルファン、ウルムチを回り北から
天山山脈を越え、カシュガル、ヤルカンドを経て、カラコルムを越えてインドの
カシミールに抜けた。1927年2月から9月の新婚旅行である。1月に北伐後
武漢政府ができている。当時新疆は楊増新の支配。本の内容はおばさん文体で
退屈。実はこの原作は神近市子さんの翻訳で昭和17年にでている。パクリで
ある。松岡洋子訳の「中国の赤い星」も宇佐美誠次郎、杉本俊朗訳のパクリで
ある。日本の女性翻訳者の倫理感に疑問を感じる。
388世界@名無史さん:03/11/12 03:33
>387 神近市子の訳って確か岩波新書じゃ…
そこからパクるなんて度胸あるな

宇佐美誠次郎は、戦後自分の訳書がパクられてたことを
どっかのインタビューで憤ってた
389@名無史さん:03/11/12 11:17
現在の中国がそうであるように、日本も昔は特許や著作権などはかなり
いいかげんだったのでしょう。こうゆう翻訳の重なりも、実は後の方が
原作者との翻訳権などが了解ずみで、最初の方が無断翻訳かもしれませんね。
判定は慎重である必要がありそうです。
390@名無史さん:03/11/14 17:07
「中西功訊問調書」亜紀書房 1996年
1941、10,15、尾崎逮捕
1942、616   中西逮捕
芋ずる式に逮捕されている。日本の左翼は捕まるとカタルシスとでもいう
ように、自白していく。本質的な左翼運動が労働運動というより、一種の
宗教活動のようなもので、つかまることにより、以後の運動の継続より、
自白による自己の正当化が「悟り」のようなものになっているのでないか。
うしろに付いている福本勝清の解説文がすばらしい。
「その成功(革命の)は当時としては画期的なものであったとしても、一時の
成功であり、その過程において、もしくはその後もたらされた犠牲の大きさと
つきあわせれば、その”成果”は大きく霞んでしまう。」
391世界@名無史さん:03/11/17 23:54
age
392@名無史さん:03/11/23 22:21
陳舜臣著「熱砂とまぼろし」シルクロード列伝 広済堂文庫
法顕、宋雲、張騫、ヘディン、ヤクブ・ベクの話。
1、陳舜臣の「回族」の説明では、漢族の回教徒と誤解されるおそれがある。
  回族は人種的にはウイグル族とほとんどかわらないといってよい。
  だが現在ウイグル族と呼ばれている人たちにくらべて、漢族の文化や
  風俗習慣により深く傾斜しているのが回族なのだ。
  ラティモアは漢語をしゃべる回教徒と逃げている。
  民族とか人種という言葉は議論をよびやすいのでここまでに。
2、辛亥革命後の新疆の役職名が、
  武官は都督→将軍→督軍→督弁(1925年)
  文官は民政長→巡按使→省長と変化したらしい。
  これは新疆だけでなく、全省的な変化だろうか?
393世界@名無史さん:03/11/27 03:06
満鉄調査部の鈴木小兵衛って「満鉄事件」で獄死したのかと思ってたら
戦後まで生き延びてるんですね
戦後の鈴木について御存知の方、教えてください
394@名無史さん:03/11/28 15:35
スラポンスキー著「中国革命とソ連」共同通信社、2002年
 10月革命後に新疆内に逃げ込んだ白衛軍に対し、赤軍と中国軍が
共同して軍事行動をする協定を結んだ。
 ソ連共産党1921年「日本は反革命のウズベク人や中央アジア民族に
敬意を払い、かつ白衛軍を支援する可能性がある」
 「極東共和国」なるものも興味深いが後回し。

1925年馮玉祥は国民軍を張家口に退却。熱河チャハル綏遠甘粛を支配下に。
胡景翼(後に岳維峻)孫岳など。人数は多いが装備は悪かった。
李大サ(たいしょう)を通じソ連に援助を依頼。→これが後の張作霖の殺害に
つながる。
ソ連は張家口開封に軍学校を作り、軍事援助を行う。

満州事変で一部の中国軍がソ連に逃げ込み、共産教育の後金樹仁に対抗する
盛世才側に投入された。満州との繋がりが盛世才の立場を強くした。
協力した白衛軍に恩赦を条件にした。
395世界@名無史さん:03/12/11 09:30
岩波文庫のスメドレー「偉大なる道」が復刊されてるネ
396@名無史さん :03/12/11 21:50
ウラジミロフの「延安日記」によればスメドレーの取材中は、
朱徳と彼女は二人でこもりっきりで奥さんがヒステリーをおこして
大変だったらしい。取材が終わってみたら朱徳は社交ダンスの
名人になっていたそうだ。延安でも北朝鮮の喜び組のようなグループが
あって、アメリカからのデキシーミッションや視察がくると接待が
あったらしい。
北朝鮮の色々な様式も実は中国がモデルになっているというものが
ありそうだ。
397@名無史さん:03/12/12 23:35
「オーエン・ラチモアと敗戦日本
       −ラチモアの滞日日記」
東京大学出版会、「UP」university press 1983年1号〜4号、三浦陽一一部邦訳
終戦後の日本にどれくらい賠償を払わせるかの調査団にラチモアは
加わって来日した。天皇を中国への抑留を主張した。農地改革も述べて
いる。彼の農地説は中共を参考にしている。日本の農地改革にどの程度
中国の動きが影響したかまだ不明。
ラチモアは後にマッカーシズムに追求されるが、複雑な人物でまだ
よく解らない。
398世界@名無史さん:03/12/13 00:58
>>397 ラティモア(とその仲間たち)については
小林弘二『対話と断絶─アメリカ知識人と現代アジア─』筑摩書房、1981年
も詳しいですよ
399@名無史さん:03/12/13 12:01
>398 探してみます。

昔の雑誌をフォローしていくリアルタイムの当時の現代が感じられる。
毎日新聞社(昔はたいした新聞社だった)発行「世界の動き」
     昭和23年、19048年
5月の一号
    楽観を許さぬ内戦の拡大
    38度線国共化の危機
5月の2号
    土地革命からみた国共の内戦
    満州はどうもだめそうだ。
    国民は中共を土地をくれるだけの理由で支持している。
6月の1号
    極東のソ連圏を探る
    東トルキスタン共和国が地図に出ている。
    満州は中共がほぼ押さえた。
    上海では非合法とされた民主同盟が満州では活動。
    長春、奉天は包囲されている。(チャーズの時期だ)
    チベットでラッサ動乱
    新疆では昨年張治忠主席を解いてウイグル族のマイスウドを主席に
    したらカザック族が反乱をおこしたという。
    ソ連勢力に操られる鉄扉に閉ざされた外蒙
    新憲法下の中国
    蒋介石総統、李宗仁副総統
400@名無史さん:03/12/13 12:02
6月の2号
    中国のインフレ、暴落を続ける法幣
    5月1日に訓政期終わり立憲民主制に。
    華北が危ない。インフレ
8月の1号
    華北に進出
    左翼だったアンドレマルローがドゴール陣営に
8月の2号
    中国に激しいストの波
9月の2号
    中国に大洪水
10月の1号
    南北に反蒋運動の火の手
10月の2号
    勢力地図で揚子江まで中共に、華南にも点々と拠点。
    8月に法幣が破産した。
11月、12月に中国のニュースがない。混乱で情報が取れないのか?
401世界@名無史さん:03/12/15 20:25
激動の時代やね
402@名無史さん:03/12/15 21:43
ラティモア「中国と私」みすず書房、1992年
 ラティモアは1900−1989年。この本は彼の弟子の
磯野富士子氏が彼と問答をして84年ごろできたもので著作とは
云いにくいものだ。いくらかぼけて物忘れがあったようだ。
だが興味深いエピソードがいろいろある。
1、日中戦争中、彼はルーズベルトに蒋介石の相談役として派遣
  され、その主任務は中共と共同して日本と戦わせるものだった。
2、彼はイデオロギーに興味がないという言葉で、共産主義問題を
  避けているが、モンゴルや中国が共産化ののち、以前より生活が
  向上したという表現で評価している。決して共産国家の欠点に
  ついては発言しない。
3、宋美齢は孔祥巸夫妻と親密で宋慶齢とは仲が悪かった。宋子文とも
  合わなかった。宋三姉妹のなかで、宋慶齢が一番頭が悪かった!!
4、フライングタイガーは女性を世話しないと働かなかった。
5、蒋介石の標準語はなまりがひどかった。
6、ロロ族(イ族のことか?)は中国人をさらって奴隷にした。
  奴隷にロロ族の妻をあたえることもあった。龍雲はそういう子供で
  半漢半ロロだった。
7、蒋介石は長征の追跡のとき、わざと一部を開けておき、自分の権威を
  認めていない地方に自分の部隊を入れたそうだ
403@名無史さん:03/12/16 09:57
402の追加
     8、竜雲は盧漢の異母兄といっている。
404@名無史さん:03/12/18 21:46
余華著「生きる」角川書店、2002年
コンリーの出た映画の原作。映画では主人公は影絵の語りみたいなことを
するが原作では地主の息子が博打で土地をとられて農民になる。民国軍に
兵隊にされ、中共軍の捕虜になり家に帰され、土地改革で農地をもらい、
人民公社になり土地をとられるが、さぼりながら暮らせたが大躍進、凶作
に苦しむ。生産請負制になり、自助努力が要求され老齢にもなり苦労する。
二人の子供も妻も貧しさに死んでいくが、家族の愛情面ではめぐまれる。
話自身が面白いし、中国の生活の変化、変わらなさ、が感じられる。
405@名無史さん:03/12/21 23:34
西川一三著「秘境西域八年の潜行抄」中公文庫
これは驚くべき本である。
著者は1943年日本のスパイとして内蒙古に潜入し寧夏を通り、
南へ青海からチベットへ抜け終戦後のインドへ達し帰国した。
この本は350ページの大著であるが抄録で原著は5巻になって
いて、電子出版でしか読めない。
>http://www.paburi.com/paburi/bin/qfind2.asp?keyword=%90%BC%90%EC%88%EA%8EO&genre=0&searchtype=author&x=37&y=18
ぜひそちらも読みたい。実体験にもとづいた貴重な情報が沢山
ある。私の特に興味あったのは、蒙古、チベットのラマ教信仰ももとの
悲惨な生活である。ダライラマといえども支配階級であり、共産化
によりそこからの向上はあったのだろう。伝統破壊による生活向上と
民族意識の拮抗はさらに検討の余地がある。著者は西康にも行って
いるが本では省略されている。張国Zはこの地にも行こうとしていた。
ぜひ読んでみたい
ただ電子出版は経験がないのでおっくうではあるが・・
406@名無史さん:03/12/22 15:40
407@名無史さん:03/12/23 21:28
小林弘二著「対話と断絶」筑摩書房、1981年
やっと読めました。何かPAコーエンの「知の帝国主義」を思い出しましたが、
あちらは84年なので、こちらの方が前。著者はラティモアに共感している
よう。スパイとしては無罪は当然としても、共産主義シンパではありますね。
南朝鮮は蒋介石政権と同じにどうせ最後は北に飲み込まれるから支援は無駄と
言ってたらしい。結局エドガースノーもラティモアもスメドレーも米国では
暮らせず、ヨーロッパで死んでいる。
親中国のジャーナリストで過去に共産党員だったアトリーやウイットフォーゲル
が後に反共になった。読売のナベツネもそう。実態をよく知っていて幻想がない。
「日中戦争中も地方軍閥は独立志向を強めていた」とありこれは蒋介石が力を
発揮出来なかった理由として更に検討したい。
フェアバンク「中国人は近代中国のかかえている問題の根因をすべて帝国主義に
求めようとする」という説を古臭いと切り捨てる。
バーネット、シュウォルツの近代化理論
「革命的幹部は官僚となり、革命の精神は利己心に道を譲り、ゲリラ戦の簡素さ
は、近代工業および手の代わりに頭を用いて働く者の特権的役割、この両者の
要請するものにとって代わられた。」
この説は、資本主義側の共産主義批判ともとれるし、毛沢東などの整風説とも
とれる。
408@名無史さん:03/12/25 21:59
コミンテルン小史
 さて、コミンテルンの歴史を遡ってみると、ロシア革命に成功した
レーニンがその余勢をかって新しい国際的共産主義運動を開始し世界
革命をめざしたことに始まる。
レーニンは第二インターナショナルの社会民主主義、改良主義を徹底
的に排除し、ボリシェビキ同様に鉄の規律をもって強固な組織を作る
ことを決意した。
それを具体化したのが第1回(1919)、第2回(1920)の世界大会
(又は共産主義インターナショナル大会。以後、大会とする)で、
とりわけ第2回大会で決定した21か条では、プロレタリア独裁、
民主的集権主義、粛清、決議に対する絶対的な服従などをコミンテ
ルンへの加入条件として規定した。
しかし、その政策は急進主義的から現実妥協主義へ、あるいはその逆
へとしばしば転換があったことも特徴であり、
第3回大会(1921)以降は社会民主主義との協力の模索、
第5回(1924)大会ではスターリンによるソ連への服従の強要、
第6回(1928)大会では共産勢力の武装、社会民主主義との対決、
その後の第7回大会(1935)ではファシズムに対する労働者統一戦線の
呼び掛け、と目まぐるしい。だが、独ソ戦争の勃発でスターリンは米英
の協力を得るためその障害となるコミンテルンを解散させざるをえなく
なった。(1943)

コミンテルン第7回大会[国]1935.7.25
 世界恐慌とファシズム台頭の時期,コミンテルンは〈社会ファシズム〉論
・〈社民主要打撃〉論の立場をとり,運動の分裂によってナチスの政権掌握
を阻止しえなかった.この経験から第7回大会では,初期の労働者統一戦線
より幅広い,中間層を含む反ファシズム統一戦線・人民戦線の新路線を採用
し,ブルジョワ民主主義を再評価した.書記長にはディミトロフが選ばれ,
各国共産党への個別指導も緩和された.日本からは野坂参三らが出席した.
409@名無史さん:03/12/25 22:33
「戦争を内乱に転化せよ」
32年テーゼで武装
 1929(昭和4)年の検挙によって日本共産党の指導部はほとんど
崩壊し、党の指導権は青年達の手に移りました。彼等も躍起になって党
の再建に努め、中央ビューローを確立、また『赤旗』も復刊。翌三〇年
には、田中清玄、佐野博らが指導部の中心となると、武装闘争・赤色テ
ロを公然と標榜するようになりました。

「極左冒険主義」で大衆から孤立
 たとえば同年おこった東京市電争議では「武装自衛隊を組織して、
スキャップ(スト破り)どもに徹底的に赤色テロを加えると同時に
電力の輸送路を破壊し、電車、自動車の運転機械をぶちこわせ」との
破壊的指令を発しています。 さらに川崎では、日本石油の党細胞が
中心となり、ピストル、短刀、竹槍などで武装し、東京までデモを続け、
宮城を乗っ取ろうと計画、止めにはいった一般労働者と大乱闘になりま
した(武装メーデー事件)。
 こうした武装メーデーなどの「極左冒険主義」によって、共産党は同党
の影響下のもとに組織した全協からも浮きあがり、さらにその全協までが
一般の労働大衆から浮きあがって孤立するという重大な危機を迎えるよう
になりました。 この危機打開にあたったのが、31(昭和6)年1月、
モスクワ帰りの風間丈吉や四・一六事件の保釈で出てきた岩田義道、紺野
与次郎らで、彼等は冒険主義を清算し、再びもとの平和的大衆路線に引き
もどした。その結果、全協も組合員数が1万人位まで回復しました。
つづく
410@名無史さん:03/12/25 22:35
 このように共産党が過激、穏健の左右に揺れ動いている中で、同年9月
18日、、満州事変が勃発。コミンテルンは、満州事変によって、日本の
中国への進出の意図が明らかとなったとして、これを阻止するために急きょ、
日本共産党をその後方撹乱の任に当てようと考えます。
 そこでコミンテルンの極東部長クーシネンらは、モスクワにいた片山潜、
野坂参三、山本懸蔵(昭和三年モスクワ派遣)などとともに、「日本における
情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」、通称「三二年テーゼ」を起草します。
「三二年テーゼ」は、「帝国主義戦争を内乱に転化し、ブルジョア=地主的天皇制
の革命的転覆を招来する」ことをもって日本共産党の任務と規定した、激烈きわま
りない内容です。

天皇制粉砕が「革命」の主要な任務
「三二年テーゼ」はまず満州事変について「日本帝国主義の略奪戦争であるとともに、
帝国主義列強の対ソ統一戦線の強化をもくろむものであり、また日本国内の経済的
諸矛盾(市場の狭さなど)をこの対外進出によって解決せんとするものである」と
規定します。
411@名無史さん:03/12/25 22:37
そのうえで「ゆえに日本のプロレタリアートと共産党は、身近かな経済闘争・政治
闘争と結びつけて反戦闘争を強化し、帝国主義戦争を内乱に転化し、それによって
ブルジョア=地主的天皇制を革命的に転覆させなければならない」と、共産党の
任務を明らかにします。
 さらに同テーゼは「この当面する日本革命の本質と任務をよく理解するためには、
封建制の異常に強力な諸要素と独占資本主義の著しく進んだ発展との結合という
支配的な特質を十分に考えなければならない」とし、天皇制を粉砕することが
日本革命の第一の主要なる任務であると強調しています。
 大衆闘争については「大衆の注意を『議会主義的幻想』を培うような方向に向けて
はならず、あくまでも議会外の闘争に主眼を置き、革命的情勢が熟した時は、
労働者農民兵士ソビエトを樹立し、ブルジョア=地主的独裁の国家機構を完全に
粉砕すべく闘争しなければならない」としています。
 戦後、共産党は50(昭和25)年に朝鮮動乱が勃発すると、翌51年には
「32年テーゼ」とウリ二つの「51年テーゼ」を採択、やはり戦争の内乱化を
めざした武装闘争を展開します。 2度にわたって武装闘争の「前科」をもつ
日本共産党。その第一歩が「三二年テーゼ」だったわけです。
412@名無史さん:03/12/26 20:58
不破委員長の解説は解りやすい。
>http://www.jcp.or.jp/jcp/78th_koen/fuwa_78th_point.html

中西功著「死の壁の中から」妻への手紙、岩波新書、1971年
大部分は飛ばし読み。妻にダイヤモンドや東洋経済を差し入れさせて、
囚人というより、読書用の別宅のように刑務所を使っている。
前書き部分の個人史が興味深い。
8月15日に終戦になり、府中刑務所にいた徳田球一と豊玉刑務所に
いた中西が一緒になり、今後の共産党の方針に関し激論をかわした
そうだ。
「テーマはファシズム、第二次大戦の性格、社会民主主義の評価
(統一戦線)、8・15以後の情勢分析、今後の課題と闘争形態など
でした。議論は平行線で、32年テーゼとコミンテルン第7回大会の
方針の違いで、これが戦後の日本人民の運動の分かれ目であった」と
いうが、徳田等の方向は不破の解説で解るが中西の方向はまだ不明。
このへんは日本史であるが中国と関係があるのであろう。
413世界@名無史さん:03/12/26 21:19
中西功の戦後初期の著作
『戦後民主変革期の諸問題─1945年10月〜1946年6月の政治展望─』校倉書房、1972

獄中非転向組で長く監獄にあって戦時期(1935年代以降)の状況を知らない徳田と
「偽装転向」?していったん出獄し、満鉄調査部での「支那抗戦力調査」に協力するなか
獄外の社会状況・運動状況をある程度知っていた中西とはかなり認識の差があったのだろう

…と思われ(たぶん)
414世界@名無史さん:03/12/28 00:42
ラチモア、今日の「映像の世紀」にチラッとでてきましたね
「私は共産主義者ではありません」と
415世界@名無史さん:03/12/28 20:33
ラティモアはかなり赤狩りで迫害されたらしいね
416@名無史さん:04/01/08 17:19
立花隆著「日本共産党の研究」講談社文庫、1978年
この本は面白い。力作である。立花38才頃の本で脂の乗り切った
時期だったのだろう。最近の駄作と大違いである。彼は40年の生まれ
なので、18才で58年、大学時代が安保闘争の最盛期で、共産党問題
は彼自身の問題として深く長く考えてきたテーマなのであろう。
日本共産党がコミンテルンの忠実なしもべとして、その変遷にふりまわされて
きた歴史がよく解る。インテリ中心の前衛政党として労働者の生活感から
遊離していたのから、人民戦線として他の左派勢力との連帯を築きはじめた
時期に、終戦で徳田球一等の浦島太郎が、孤立した極左としての失敗を
繰り返したわけだが、その根本原因に民主集中制があるとしている。
417@名無史さん:04/01/09 22:25
中西功著「戦後民主変革期の諸問題、
      1945年10月〜1946年6月の政治展望」
            校倉書房、1972年
よく理解出来ない。当時の左翼、労働界の動きを知らないから
だろう。徳田球一が統一戦線がどうとか言っている。西尾末広とか
今の民主党の赤松の親父とかがいろいろ動いている。
中西は干されていて、入党も一年後になり、中央委員にもなれない。
派閥が面白い、「獄中派」「延安派」とか、他に「ソ連派」とか
あったらしい。
徳田、志賀は府中の自立会の「獄中派」
中西は、人民社という出版に関係し「延安派」
野坂は延安派なのか、ソ連派なのか不明。
418@名無史さん:04/01/09 22:48
風間丈吉著「モスクワとつながる日本共産党の歴史」
        天満社、1951年
風間丈吉はモスクワ帰りの元共産党幹部で、公安警察に捕まり、転向。
コミンテルンはソ連という国のために活動してるんじゃないか。
なんで日本人がそれに従わなくちゃいけないんだという論理に反論しきれ
なかった。この本は上下2冊の予定が上巻しか出版されていない。後半は
さしさわりが多すぎたのだろう。面白いエピソードが沢山でてくる。文章も
うまいので面白く読める。立花隆の本は参考にしているだろう。
419@名無史さん:04/01/09 23:16
林健太郎著「ワイマル共和国」ヒトラーを出現させたもの
       中公新書、1963年
名著の誉れ高いブランド品の一冊である。遠いドイツの出来事なのであるが、
アナキストの活動とでもいうべきキール軍港の暴動、スパルタカスの乱、
ワイマル体制では社会民主主義政党が中心を占めていたわけだが、共産党は
社会民主主義は資本主義の延命に奉仕している最悪の存在として敵視した。
「社会ファシズム論」。時にはナチスとも共産党は連携し、社民勢力に対抗し
ナチス政権誕生阻止ができなかった。これらの反省がコミンテルンに影響し、
その方針転換を招き、日本や中国に影響を与えているのだが、この3者、四者の
相互関係を経時的に理解するのは、限りなく難しい。
420世界@名無史さん:04/01/11 21:20
次回の「その時歴史が動いた」は「孫文を支えた日本人」特集です
421世界@名無史さん:04/01/11 22:21
久々に見てみよう
422@名無史さん:04/01/14 17:57
1月14日(水)21:15〜21:58です。
再放送は翌週午前0:15〜0:58木曜日の深夜です。

R・H・ロービア著「マッカーシズム」岩波文庫、1984年
マッカーシーは上院議員として、多くのアメリカ人を米政府を共産主義に
有利な方向に動かすのに協力した疑いで議会で喚問しセンセーショナルな
騒動を引き起こした。1950年から始まり54年に失脚した。
国務長官のマーシャル、ラティモア、ジョン・スチュアート・サービス、
マーシャルは中国特使時代に周恩来に感化されたと言われた。46年に
国共交渉を推進しようとした。
ラチィモアは30年代、40年代には頑固な共産主義同調者であり米国の
極東政策を共産主義的見解に誘導したとされる。サービスは重慶、延安で
中共に武器提供に活動した。
彼自身は部下の徴兵回避に運動をきっかけに失脚。
アメリカの田中真紀子のような人物でマスコミを煽る才能があったが、
ヒットラーなどのように、信念としての政策方向性が無いので、苦境から
立ち直れない。現在の日本のニュースショウ的政治だったようだ。
トルーマン政権は中国が共産化していくのをただ指をくわえてみていた
わけで、朝鮮戦争下の米国民としては、中国サイドで動いた政府関係者が
いたのだろうという主張は共感するものがあったのだろう
423@名無史さん:04/01/16 18:25
毎日新聞社、「世界の動き」
昭和23年、12月号
  「トルーマン大いに笑う」
   共和党のデユーイ候補の圧勝予報をくつがえしトルーマンが
   圧勝したという記事。
   蒋介石はデユーイを応援していたため、トルーマンにリヴェンジ
   され、援助要請も無視される。
  「寝返る国府軍将領」
   長春攻防戦時、雲南省部隊の寝返り。終戦後雲南中央化のために
   行った中央の昆明クーデターの不合理が表面化した由。
   済南攻防戦で司令の方針に不満な将軍が寝返った。
   蒋介石は危機的な状況でも前線にしばしば飛行機で乗り込み士気を
   鼓舞した。これは良い面もあり細かいことに口を出し過ぎでもあった
昭和24年1月号。
   包囲した長春へ物資を空輸する政府軍飛行隊の写真、前年のもの。
   「ホワイトハウスの新年」
    国内のニューディール政策、ヨーロッパへのマーシャル援助などで
    中国へ廻す金が不足。
   「米国の援助は中国を救うか?」
    マーシャル長官が無駄だと主張。
      2月第1号
   「中国内戦・政治の動き」
    国民党
保守派 
    張群前行政委員長、政学系、国防部長、何応欣派、陳立夫のCC系革新クラブ
    三民主義青年団系、孫科の太子派
進歩派
    黄宇人系、程潜系
 この他に広東、華北、湖南、雲南、四川の分離独立の可能性の検討があった。
424@名無史さん:04/01/18 00:06
1944年、 「世界の動き」続き
    昭和24年、2月号
「アチソンがマーシャルに代って米国務長官に」
「命運尽きた蒋政権」
  四面楚歌に揺らぐ四大家族」
          3月1号
雑誌編集者も中共の勝利をこの時期には確信し、中共の人物紹介、
政策紹介が増える。中共はまだ、本性を隠して個人企業を奨励したり
地主を許容したりしていてうまい統治をやっている。
「中国を動かす人々」
「中共の経済政策」
  私有企業を奨励している由。南京、上海で国営企業は没収し、あとは
  自由にさせている。
「華南の抗戦力」
          4月号
国府側の空軍は台湾へ移転。
蒋介石は総統を引き、李宗仁が代理総統として南京で和平交渉。
中共は蒋介石を戦犯として要求。この交渉は中共は揚子江渡河、国府は
台湾移転のそれぞれ準備の時間稼ぎ。
1月31日共産軍北京に入る。アメリカの記者がそれをレポート。
A記者「一部の人は明らかに心から中共を迎えた。しかし物見高い人々も
あり、本当に心から歓迎しているとは見えない見かけの歓迎振りを
しめしたものもあった」
B記者「北京の民衆は中共軍の北京入城に際して、日本軍や政府軍に
対してと同じような歓迎振りを示した」
この記者に中共放送は「北京人民を嘲笑した」と非難したら学生たちが
「米国記者出て行け」とデモをした由。
425@名無史さん:04/01/18 23:02
オーエン・ラティモア著「中国」岩波新書、1950年
    原著は1944年に発表、1947年に改定。
日本は敗戦しているが、新中国はまだ出来ていない。
1、広東語などの東南沿岸部の種々の言葉は外部種族が中国人に
  変えられたため。
2、漢や唐の長い時代の前に秦や隋の短い王朝があるのは、征服
  技術を持っていても、管理能力がないため。
3、漢字が難しいのは、官僚が意識的に難しくしていって、成り上がり
  者の参入を抑え、世襲化するため。課税システムもわざと複雑化。
4、皇帝をわざと堕落させるようにしむけ、管理を独占しようとした。
5、19世紀のイギリスの宣教師は非国教新教徒で布教だけでなく
  中国人を変革しようとした。
6、ラティモアは日本を嫌っていて、日本にかんしては常に厳しい
  形容詞をつける。日清戦争は「むごたらしい」
  北伐の途中揚子江北部で「残忍な」日本の干渉が・・(砲撃のことか?)
  済南での「挑発的な」行動など。
  英国になると、アヘン戦争では「とりのぼせた」中国官吏がアヘンを
  焼いた(林則徐のこと)など尊大な態度が目立つ。
7、清朝は民衆の不満を「洋鬼」に負わせた。これは現在の不満を
  「残虐な日本」に負わせるのと同じ。
8、ワシントン会議1922を日本の牽制に役立ったと評価。
              つづく
426@名無史さん:04/01/18 23:37
9、孫文とロシアの同盟をひも付きでないと評価(アカに甘い)
  ソ連の中国政策にスターリンとトロッキーのイデオロギー争いが
  関係している。
10、列強は清朝への武器輸出時、反抗できないような程度に抑えた。
   (対日本には之が無くて有利だったのだろうか?)
11、日本軍の熱河侵攻時の世界初の大規模な自動車部隊の利用を
   ドイツのポーランド侵攻で参考にした。
12、戦時、共産党は土地政策に慎重で全地主を敵にまわすことを
   しなかった。(好意的表現)
13、新経済政策。
   共産党は国営企業では事態を収拾できないとわかっていたので
   国民党と違って市場むけ生産活動利潤追求を奨励した。(???)
14、戦後このあたりの中共の政策が後のイメージと反対方向なのだが
   新中国が出来るまで、猫をかぶっていたのか、意識的に弱点を
   かくして書いたのかは解らない。
427ごるごるもあ ◆753Z/RLFiY :04/01/20 20:09
■セクト琉球新赤軍革命的極左宣言
米軍基地というのは、明らかに社会的不必要施設であり、それは経済、倫理、物資のすべての次元において同様である。
よって、我々は確実に「当たり」と思われるこの物件に対して、今後も革命的連続爆破予告を宣告する。
http://darkelf.dip.jp/doubt/
  ∩∩
 (・(ェ)・) くまのぬいぐるみどうぞ。
 ○  ○ 
http://darkelf.dip.jp/3DBearDoll.html
428@名無史さん:04/01/22 16:00
老舎著「駱駝祥子」らくだのシアンツ、岩波文庫
話自体は、北伐後の北京で、まじめな車引きが色々苦労するが
やはり貧しく年とっていくという話でどうということもないが、
著者の経歴が興味深い。清朝末期の満軍八旗の最下位の守備兵の
息子。父が義和団事変で連合国軍との戦いで死亡。苦学したが
燕京大学卒業。ロンドン大学で中国語教師になり滞在。帰国後
大作家になる。
文化大革命で彼が編集責任者になっていた雑誌に載った「海端の
辞任(海端罷革)」が問題にされ紅衛兵に追求され入水自殺。
429@名無史さん:04/01/22 22:04
中嶋嶺雄著「中ソ対立と現代」中央公論社、1978年
この本はたいした本だ。ページ毎に余りに内容があってなかなか
進まない。じっくり検討したい。
  (歴史の証言としての朝鮮戦争)
開戦直前ごろの米国。トルーマン、アチソンラインは、アジアに関し
関心が無く、台湾、朝鮮は攻撃されても米国は対応しないと公言して
いた。日本、フィリピンの線を防衛線にすると言っていた。北朝鮮が
その気になる舞台を無意識に作り上げていた。北が進入したのを、一概に
無謀な作戦とも言えなかったようだ。
この著者の著作を少し読みたい。
430世界@名無史さん:04/01/24 11:05
中嶋嶺雄先生は外語大の学長だったのですね。内容があるわけだ。
国際教養大学というのを秋田に作られるらしい。
431@名無史さん:04/01/24 22:54
「世界の動き」
1949年、昭和24年、7月1号
「中共をめぐる国際関係」
戦後米国の対華政策
国共調停索→蒋政権援助策→その打ち切り→中共政権の承認か不承認か?
アチソンの静観主義、中国のチトー化を期待している。
政治協商会議待ちのようだ。8月2日から
     8月1号
「直進する中国革命」
満州は日露戦争直前のロシアの権益状態になった。
「嵐に立つ南鮮」
米占領軍は500人の軍事顧問団を残し撤退を完了した。
「上海新市長、陳毅」
     8月2号
「着々と進む中国連合政府計画」
新政治協商会議準備会が終わった。ラティモアの中共礼賛の言葉。
「中国内戦秘話、戦わざる戦い、渡河前後」
陳毅軍の南京南の渡河、600そうのぼろ舟で行ったり来たりしながら
やっと着いた。国共両軍が血みどろの戦いをやったかと思えば、南京戦の
死者は両軍併せて3名だった!!!
432@名無史さん:04/01/25 23:03
毎日新聞社「世界の動き」1949年、昭和24年
  9月2号
「燃え上がる38度線」この記事はすごい!
境界で小競り合いが繰り返されている。南部でゲリラ活動。
北朝鮮側の大攻勢のうわさがある。←わかっていたのだ。!!
米国の白書は中共が隣国の脅威となれば介入する。
(但し台湾、韓国はこれに含まれない!)
「米国の対華白書と蒋政権」
トルーマン、アチソン等は国民政府を完全に見放している。
  10月1号
「劉少奇」
モスクワの外交政策にはすべて従うべしという劉に対し
周恩来は独自の道もあるという意見の違いがある由。
「国民党を見捨てた人々」
「中国の通貨政策」
  10月2号
「中国と民族主義、毛沢東はチトー化せず」
「人民民主主義と民族主義」
「徹底抗戦の行方」
広東、西南中国、西北中国はまだ中共は支配していない。
馬継援が西北軍長官になった。
「海上封鎖と上海」
「新中国の首都北平野」
433@名無史さん:04/01/30 17:15
「世界の動き」1949年、昭和24年
  10月中華人民共和国誕生
 11月1号
「四川に走った蒋介石」
張群西南軍長官、劉文輝西康省主席
 12月1号
「解放区の都市ストで大荒れ」
「地下に潜った国民党」
 12月2号
「対日講和中国の立場」
日本は米帝の支配化にあり、民主化不十分だからダメ。
渡日した張群は日本の民主化を評価。
        1950年、昭和25年
2月1日号
「台湾を捨てた米国」
トルーマン大統領「台湾は米国の軍事基地にしないし、派兵もしない。
国防省、マッカーサー「台湾の損失は測り知れない」
パール・バックの新作「郷土」
アメリカから中国農村に帰った医師が共産党に忠誠を強要され拒否する。
434@名無史さん:04/01/30 17:35
毎日新聞社「世界の動き」1950年
  2月11日号
日共野坂は日本では議会主義を通じて共産政権が可能との
考えだったが、コミンフォルムに批判され自己批判。
これに中西功参議院議員!!が抗議除名される。
  4月21日号
「中国の飢餓とインフレ」
  5月1日号
「各国の中共承認」
49年10月、ビルマ、インド、パキスタン
50年1月、英国、2月オランダ
「ソ連は国連で国府のいる委員会をボイコット」
  ↑↑、これが北朝鮮非難決議案成立の原因か?
  7月11日号
「朝鮮半島遂に発火」
「運命の女神、国府に微笑む」
台湾は絶望的状況だったのがこれで生き延びられた。!!!
435@名無史さん:04/02/01 22:55
西村成雄著「東北接収をめぐる国際情勢と中国政治・
王世杰日記を中心に」
1945年9月〜1946年3月、中華民国外交部長
終戦時に張学良を解放していたらという提案は興味深い。
共産軍も満州から足場を築いたのだから。一時的に張に支配されても
挽回出来たのでないか?
436@名無史さん:04/02/05 22:25
  江南著「蒋経国伝」同成社、1989年
著者は良く調べていて情報が多い。台湾から米国へ移住したのは何か
事情があったのだろうが、それにしても伝記としては蒋介石、蒋経国に
対して刺激的な表現が多い。発刊後米国で刺客により殺害されたのも
解らないではない。「江南、蒋経国」で検索するといろいろ情報がある。
初期台湾政府についてはさらに検討したい。
437@名無史さん:04/02/08 22:57
トーマス・キャンペン著「毛沢東と周恩来」
  中国共産党をめぐる権力闘争(1930年〜1945年)
  三和書籍、2004年,2月15日、第1版 
モスクワ帰りの王明率いる28人のボリシェヴィキ派がソ連の国益を
尊重し、毛沢東派は中国の利益を尊重する2派が抗争し、1935年の
遵義会議で毛沢東の主導権が確立したとの定説は、1950年頃の
毛沢東グループの宣伝によるもので、そういう抗争ではなく、43年頃
はじめて毛沢東のヘゲモニーが確立し、それ以前は種々の主導権争いが
あり、周恩来が毛沢東の側に立つのは最終段階であったとしている。
438世界@名無史さん:04/02/10 20:18
ラティモアってDQNのイメージしかない
439@名無史さん:04/02/10 21:44
ラティモアもエドガー・スノーも共産主義の欠点弱点を見ている筈
なのに、決してそういう事にふれませんね。そういう点が彼らは
一般のジャーナリストや学者でない傍証なのでしょう。

「愚公移山」という話は知っていたが、毛沢東がこの話を好んで、
解放軍が地道にこつこつ努力していれば、いつか(人民)天帝は
解ってくれて協力してくれるたとえに使ったとは知らなかった。
440@名無史さん:04/02/11 22:36
天児慧、加藤千洋著「中国大陸をゆく」近代化の素顔
  岩波新書137、1990年、
天安門事件前後に学者と新聞記者が中国各地を見て回る。彼らの
旅行は土地の政府に申請し手配と、案内がつく。管理者の接待、解説が
つく。
15年近く前のことだが、中国が大きく変わったようでもあるし、本質は
同じようでもある。井崗山へ行くのに南昌から400キロ車で1日かけて
行っているが、どうして列車に乗らなかったのだろう。
85年に貴州省書記として実績をあげた胡錦涛がチベット書記へ地位を上昇
させていくのに注目しているのは鋭い。
441世界@名無史さん:04/02/11 23:24
三和書籍って出版社から『毛沢東と周恩来』って本が出てた
1930年代の党内権力闘争を扱った本らしいが…既出?
1941年、12月8日、    真珠湾攻撃。
1943年、 2月       スターリングラードでドイツ降伏。
       9月、      イタリア降伏
      11月22日、   テヘラン会談。
      12月1日、    カイロ宣言。
1944年、 6月、      ノルマンディー上陸。
       8月、      パリ解放。
1945年、2月4日から8日間、ヤルタ会談
      4月、       ルーズベルト死亡。
      5月7日、     ドイツ降伏。
      7月、       原爆実験成功。
                ポツダム会談
      8月6日、     広島、原爆投下。
        8日、     ソ連参戦。
        9日、     長崎、原爆投下。
        14日、    中ソ友好同盟条約。
        15日、    日本降伏。
三大同盟国は、日本国の侵略を制止し、かつ、これを罰するために、
今回の戦争をしているのである。右の同盟国は、自国のために何の利益も
要求するものではない。また、領土拡張の念を有するものではない。
右の同盟国の目的は、日本国から、1914年の第一次世界戦争の開始
以後において日本国が奪取し又は占領した太平洋における一切の島しょを
剥奪すること、並びに満州、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から
盗取した一切の地域を中華民国に返還することにある。
日本国はまた、暴力及び貪欲により日本国が略取した他の一切の地域から
駆逐されなければならない。
前記の三大国は、朝鮮の人民の奴隸状態に留意し、朝鮮を自由かつ独立の
ものにする決意を有する。
1 外蒙古(蒙古人民共和国)の現状は維持する。
2 1904年の日本国の背信的攻撃により侵害されたロシア国の旧権利は、
つぎのように回復される。
(イ) 樺太の南部及びこれに隣接するすべての島を、ソヴィエト連邦に返還する。
(ロ) 大連商港を国際化し、この港におけるソヴィエト連邦の優先的利益を擁護し
、また、 ソヴィエト社会主義共和国連邦の海軍基地として の旅順口の
租借権を回復する。
(ハ) 東清鉄道及び大連に出口を提供する南満州鉄道は、中ソ合併会社を設立
して共同に 運営する。但し、ソヴィエト連邦の優先的利益を保障し、
また、中華民国は、満州における完全な利益を保有するものとする。
3 千島列島は、ソヴィエト連邦に引渡す。

前記以外の外蒙古並びに港湾及び鉄道に関する協定は、蒋介石総統の同意を要する。
大統領は、スターリン元帥からの通知により、この同意を得るために措置を執る。
3大国の首班は、ソヴィエト連邦のこれらの要求が日本国の敗北した後に確実に
満足されることを合意した。
ソヴィエト連邦は、中華民国を日本国の束縛から解放する目的で、自国の軍隊に
よりこれに援助を与えるため、ソヴィエト社会主義共和国連邦と中華民国との間の
友好同盟条約を中華民国政府と締結する用意があることを表明する。
445@名無史さん:04/02/14 00:36
ソ連はこれらのおいしいせっかく手に入れた利権を確認するには、日本が
降伏する前に中国にこの条件を承認させなければならなかった。
残された日時はない。
446@名無史さん:04/02/17 22:14
中ソ友好同盟条約)
1945年(昭和20)8月14日,
対日戦遂行に関する相互援助,
ソヴィエト政府が中華民国に対する援助を〈すべて中華民国の中央政府たる
国民政府にたいして〉与えることを誓約した交換公文,
および長春鉄道に関する協定,旅順口に関する協定,東三省に関する協定からなる。
これらの協定によりソ連はいわゆるヤルタ密約を国民政府に承認させることに成功した。
議事録にはソ連が日本降伏後3週間以内に東三省から撤兵を開始するとのスターリン声明
が記録されている。
以上の条約,および協定は1950年2月14日の中ソ交換公文において失効が宣言された。

蒋介石にとっては、共産軍でなく中華民国が正式政府であることを
認めさせた。ソ連にとっては日露戦争以前の利権の回復のヤルタ密約を
認めさせた。
447@名無史さん:04/02/17 22:16
中ソ友好同盟相互援助条約)1950年2月。
1、相互の軍事援助。既存の条約の継承。日本を仮想敵国。
2、「中国長春鉄道・旅順港および大連に関する協定」
   52年までに返還。
3、3億ドルの高利子借款。
4、45年条約の破棄。モンゴル独立は承認。
5、新疆における鉱山石油のソ連合弁会社。

54年にフルシチョフ訪中。旅順返還、新疆の合弁中止。
79年に中国は破棄を通告。
448@名無史さん:04/02/17 22:35
1、日米安保条約を作る時にどの程度、この中ソ条約の事を
  意識していたのだろうか?
2、朝鮮戦争の時、マッカーサーが中国領土を攻撃して、
  この条約が適応されれば、米ソ戦争→世界大戦だった。
3、日本降伏後の蒋介石軍の満州進出のタイミングと、ソ連軍の
  3週間以内の撤退の「開始」という言葉が微妙な意味をもった
  ようだ。大連港にソ連軍がいるということは蒋介石軍の海路の
  移動を妨害したようだ。
449@名無史さん:04/02/18 21:43
 中嶋嶺男著「中国」中公新書、1982年
先に読んだ「中ソ対立と現代」と重複するところはあるが、やはり
この先生は圧倒的な知識と分析力で教えられることが多い。
450@名無史さん:04/02/23 11:12
(朝鮮戦争に関する、南北朝鮮、中ソに対する中嶋氏の考え)
南朝鮮の自発的共産革命の可能性の無さ、及び米国の無関心を見た
金日成が発案し、中ソには意向は打診したが反対はされず聞き置かれ
て独自に行動したとの説。中共は朝鮮族部隊を北に渡しているが、
これは内戦が終了したためで、当時建国直後で、戦争する余裕は
無かった由。米軍の侵入の可能性がでると、東北の混乱は、ソ連が
かかわり、東北がソ連に取られるのを恐れ止むおえず介入したという。
ソ連は中国に武器を提供したがその費用はきびしく取り立てたという。
独自に米国と戦ったことは、中共の権威を確立しソ連の衛星国化
から自由になった。また国内の反対勢力を押さえ込むのにも役立った。
451@名無史さん:04/02/27 00:38
   (高崗、こうこう,gao1gang3,1902−1954)
陝西省の生まれ。劉志丹と陝西、甘粛に革命根拠地をつくり長征軍を迎えるが、
到着時何故か、一時的に粛清される。45年以後満州で活動。48年に東北
人民政府主席になり地区の最高権力者になる。ソ連との単独貿易協定を結ぶ。
東北を経済発展させ、全国的にも脚光をあびる。52年末より、地方に分散した
権力を中央に集中させる流れ。周恩来と権力闘争。劉少奇の批判では注意を
受ける程度だったが、次にケ小平に追求され、自殺に追い込まれたとされる。

複雑な事件がからみ謎が多い。長征も陝西根拠地が無ければ失敗したろうし、
東北の活躍が無ければ、国共内戦にも勝てなかったであろうから、共産軍に
とって毛沢東のライバルともいえる実績がある。それで狙われたのであろう。
劉少奇、ケ小平の批判も勿論後ろで毛沢東があやつったのであろう。ケ小平は
これのおかげで文革を乗り切れたともいわれる。批判された多くの人物が、
復権しているのに、高崗がそれを果たせないのは、現在の中国中枢が、ケ小平
派閥のためとも言われている。
452@名無史さん:04/02/27 17:27
朱建栄著「毛沢東のベトナム戦争」東京大学出版会、2001年
ベトナム戦争と文化大革命の今更のくどい解説があるが、両者の関係に
特になにか新説があるわけでもない。あの国の人間は亡命でもしない
かぎりまともな本は書けない。言論の自由がないのだから。

今村(王へんに英、こんな字は日中に無いぞ)一、浜勝彦著
「中国文化大革命とベトナム戦争」アジア経済研究所出版会、1968年
内容ない。この研究所は興味がある。東畑精一が名誉所長だそうだ。
筑紫哲也ごひいきのおばさんがよくテレビに出る。
453@名無史さん:04/02/27 17:55
中嶋嶺雄著「現代中国論」青木書店、1971年
65年に大学院修了なので、そこで書いたらしい!!
あの当時毛沢東、中国共産党についてこれだけの分析をしていた
とは本当に驚く。毛沢東の行動に三国志、水滸伝などの行動
パターンが強く影響している事。毛沢東は共産主義を知って
1年後には入党しているので、ほとんど正統的な知識が無い。
マルクス・エンゲルスにほとんど関心が無く、レーニンもロシア革命に
しか関心が無い。スターリンの方法論には関心がある。関心があるのは
農民問題だけだ。中国農村の地域同属意識による、ゲマインシャフト的
平等主義が根本にあるそうだ。
追補の文革は林彪の最盛期時期だか、今後の対策はなにもなく、実は
堅実派の潜在勢力はあなどれないと鋭い。じっくり読みたい。
454世界@名無史さん:04/02/28 23:22
>452
瑛一、この字ありました。お恥ずかしい。手書きがあまりきたなくて
PCが理解できなかっただけでした。
455世界@名無史さん:04/02/28 23:49
>>452 東畑はアジ研の創立メンバーなので。

戦争中にフィリピンに逝って調査してるし
戦前は東大の植民政策学の主任教授を兼任してるので
地域研究者のオルガナイザーとしてはまあ適任。

東畑精一『私の履歴書』日本経済新聞社を参照されたし。
456世界@名無史さん:04/02/29 23:26
>455
「私の履歴書」さがしてみます。

蒋介石著「中国の中のソ連」 時事通信社、1962年
 中華民国大使館よりの寄贈本だ。
1924年、中ソ懸案解決大綱
1937年、中ソ不可侵条約
1904年にロシアが強奪した特殊権益
この3つは知識不足でよく解らない。3国干渉に関係か?

  中ソ友好同盟条約
1、外蒙の独立承認
2、長春鉄道の共同経営
3、大連経由のソ連貨物の非関税
4、旅順口の海軍共同使用
  この他に付属文書で
1、国民政府への援助
2、東3省の主権確認
3、新疆事件に不干渉
4、ソ連軍撤退を3週間以内に開始、3ヶ月で完了。

日本の敗戦が近く、蒋介石はソ連に東北を取られることをなんとしても
阻止したかった。形式的には国民政府を正式政府として認めさせたが、
その後の東北での動きは中共に有利に動いた。
この間の交渉の経過については、
蒋経国著「わが父を語る」新人物往来社、1975年に詳しい。

蒋介石著「中国の命運」日本評論社、1946年
457@名無史さん:04/03/01 17:07
1924年5月31日に北京政府とソ連が国交樹立。
          これを「中ソ懸案解決大綱」と言うのかも知れない。

1897年、8,16  東清鉄道正式に着工
      11,24、ドイツ膠州湾占領
      12,15、ロシア旅順湾に侵入、大連旅順占領
  98年、 3,6  ドイツ租借
       3,27、ロシア大連旅順租借
  99年、義和団山東省で排外運動
1903年、東清鉄道完成
458世界@名無史さん:04/03/03 23:49
459世界@名無史さん:04/03/05 14:06
東畑精一読みました。東畑先生の保証人が忠犬ハチ公の飼い主だそうだ。
矢内原先生の弟子ではなくて、追放された席に入ったようだ。
アジア研究所は正式には「Institute of Developing Economies」
中国を主とする関係文献集を刊行してるそうだ。通産省の外郭団体。
ジェトロとも関係しそう。
青木書店はユニークな本をいろいろ出しますね。
460世界@名無史さん:04/03/05 22:20
アジ研は井村哲郎氏がまとめた旧満鉄調査部員からのインタビュー集を
刊行していますね。

既出かも知れませんが
戦前の満鉄調査部・東亜研究所・太平洋問題調査会(IPR)の
活動をまとめた原覚天氏(大来佐武郎の部下だっけ)の
『現代アジア研究成立史論』は役に立ちます(かさばるけど)。
原氏の回想録『アジア研究と学者たち』はもう少し読みやすい本です。
このあたり読むと戦前と戦後のアジア研究の連続と断絶が興味深い。
大来も『私の履歴書』を日経から出しているようですね。

>矢内原先生の弟子ではなくて、追放された席に入ったようだ。

正確には矢内原が筆禍事件で辞めたあと、植民地鉄道研究を専攻していた
永雄策郎(元・満鉄だが調査部でなく大川周明主宰の東亜経済調査局出身)
が経済学部植民政策講座を担当したが1年ちょっとで辞任し
(河合栄治郎が辞職した「平賀粛学」と関係があるらしい)
その後任で農学部教授の東畑が兼任した。
461平凡社:04/03/08 20:33
http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/browse.cgi?code=80_724

尾崎秀美時評集 日中戦争期の東アジア
(東洋文庫 724)

尾崎秀美=著 米谷匡史=編

定価:本体 2800円  全書判  480頁  2004.03
ISBN4-582-80724-0 C0121 NDC分類番号 210

日中戦争期に、独自の視点から、アジアにおける日本の置かれた状況と進路に群を抜いた認識を示した尾崎秀実の論考を編む。
危機の時代の明晰な記録。
「東亜協同体」論とは何か。

×尾崎秀美→○尾崎秀実 ですね
462@名無史さん:04/03/10 01:05
李志綏著「毛沢東の私生活」文春文庫、上下、1996年
毛沢東の主治医を長く務め、米国に亡命した手記。上刊しか未だ
入手してない。毛沢東の活発な夜の生活の暴露本のような宣伝も
していたので手にしなかったがその面より身近にいて毛の性格、
行動パターンを観察した点に意味がある。また政治には関与しない
ため、過去の行動に責任が無いので、無理に帳尻あわせの作話を
する必要性がない。全体として毛は予想していたような人物で、
闘争のような状況を好み且つ強い。共産主義を理論よりも実践論
として使い自分の理想を追求しようとしている。ただし経済の
現実をしらないから、現実の政策では必ず失敗する。失敗すると
責任問題の闘争が起きるが、闘争には強いので勝利する。
毛沢東がダメというより、もともと共産主義というものは、うまく
いくのは無理なのであろう。
463@名無史さん:04/03/18 17:33
いみのないage
464@名無史さん:04/04/16 16:57
笹本駿二著「人間・尾崎秀実の回想」岩波書店、1989年
著者は尾崎より少し年下。幼児期より近所で兄弟のように
育ち、人生設計に大きく影響を受けたという話。
たいして面白くない。尾崎の奥さんの写真がいろいろ出ていて
例のエピソードを起こしそうな風貌であった。
465@名無史さん:04/04/21 18:09
    (張聞天、ちょうぶんてん、Zhang1 Wen2tian1、1900−1976)
  筆名、洛甫、作家でもある。
1900、上海市の富農の生まれ
  21年、来日、文学に親しむ。
  22年、渡米バークレー校で学ぶ
  25年、洛甫の名で中国共産党に入党。
      同年、モスクワ中山大学。
      モスクワの東方大学でスターリン派のバベル・ミフの指導をうける。
      コミンテルン東方部で活動。
  30年、帰国
  33年、江西ソヴィエト地区へ、
  34年、長征参加。
  35年、遵義会議で第5次囲剿戦敗北の責任を博古とオットー・ブラウンにある
      とする毛沢東を支持。中央総書記になる。
  50年、中ソ大使
  59年、廬山会議で彭徳懐と共に大躍進を批判、失脚する。
  66年、文化大革命で批判される。
  79年、死後名誉回復。ケ小平が追悼文。
「留ソ派」(王明グループ)として毛沢東の農村革命路線に反対したが、遵義会議では
毛沢東についた。廬山会議を含め注目される。
466@名無史さん:04/04/21 23:18
(秦邦憲、しんほうけん、Qin2 Bang1xian4、1907−1946)
     別名;博古 、bo2gu3、ソ連時代のロシア名前ボクリフの略
1903年、浙江省の生まれ。
  25年、中国共産党入党。
  27年ー30年、モスクワの中山大学に学ぶ。
  30年、帰国、上海でコミンテルンのミフの支援を得て、反李立三
      路線闘争。
  33年、臨時中央を率いて江西ソヴィエト瑞金へ。
  34年、長征に参加。
  35年、遵義会議で総書記を解任される。
      西安事件で国民党と交渉。
  41年、延安で「解放日報」の社長。
  46年、国民党との重慶会談。
      延安への帰路、葉挺らと飛行機事故で死亡。
延安整風運動後、李立三路線を第2次「左」傾路線。遵義会議までは、
王明と秦邦憲に指導された第3次「左」傾路線として批判された。
467世界@名無史さん:04/04/30 09:07
age
468世界@名無史さん:04/05/04 18:53
軍閥スレは次スレ立てないの?
469世界@名無史さん:04/05/04 22:35
このスレに合流しても良いんじゃない?
470@名無史さん :04/05/13 17:55
文芸春秋6月号に日本の終戦前に毛沢東や蒋介石が野坂参三に出した
手紙が出てますね。戦後の日本がどうなるか解らないのであちこち
保険をかけておいたのでしょう。サービス達のデキシーミッション
グループやラチモアなどの影響力が残っていたら日本の天皇制は
廃止になっていたかもしれない。
立花隆の矢内原や大内兵衛が東大を追われるいきさつも面白い。
471世界@名無史さん:04/05/15 23:44
>>470 学部長?が警察のスパイだったんですね

いくら戦時中とはいえ凄いな
472@名無史さん :04/05/19 23:45
オットー・ブラウン著「大長征の裏側」1973年を読んでるんですが、
中身が濃くてなかなか進行しません。エドガー・スノーは嘘をついてる
というより、毛沢東などに聞いたとおりに書いているんでしょうが、
かなりブラウンと食い違っています。先日発売になった「毛沢東と周恩来」
と併せて検討する必要がありそうでとても難しい。
周恩来は初期には反毛沢東派にいて後に毛沢東派に転向したのはどうも
そうらしい。別に悪いことをしたわけでなく、よく考えてそうしたのなら
それもよいでしょう。遵義会議で毛沢東の指導権が確立したわけで
なさそう。延安整風まではごたごたしてたよう。
473@名無史さん:04/05/19 23:54
長征が到着の直前に変な奴が先に乗り込んでいて、高崗などを収監する
話があって赤い星のもっとも変な部分ですが、ブラウンはあれは毛沢東の
やらせだろうと言っていて、説得力があります。延安方面は毛沢東が
行く前に支配が確立していたので何か仕掛けをしないと毛の権威が確立
しなかっのでしょう。
474世界@名無史さん:04/05/24 12:58
「中華民国期の軍閥を語ろう!」消滅しちゃったんだね。残念!油断大敵じゃ。
475世界@名無史さん:04/06/15 03:22
かわぐちかいじ「ジパング」の石原と毛沢東が写真撮ってる話で閻錫山思い出した。
彼も岩松中将と握手した写真撮るところまでいきましたよね。
476世界@名無史さん:04/06/29 11:16
age
477@名無史さん :04/07/19 21:16
バーバラ・W・タックマン著「失敗したアメリカの中国政策」朝日新聞社、1996年
この本は元来は
「Stilwell and the American Experience in China,1911-45」
という題名を反米マスコミとの噂のある出版社が意識的に改題した
ものである。邦題の中国をイラクに変えてみれば最近よく目にする
用語で読まなくても出版の意図は感じられるが、資料ではあるので、
先入観なく読みたいと思う。ただ9月までは用事が多く読めない
だろう。私個人は蒋介石のビルマルートの補給がどの程度有効だった
のか関心がある。
478世界@名無史さん:04/07/20 00:48
『毛沢東の朝鮮戦争』が岩波現代文庫の新刊で出ています

あまりこのスレとは関係ありませんが講談社選書メチエの
『ポルポト〈革命〉史』(山田寛著)も面白いです
479スティルウェルの1:04/08/17 23:39
476の本について
やっと読み始めました。恣意的に改ざんされた邦題は無視。
非常に面白い。近代中国史をアメリカ側から見る視点が新鮮。
WW1が日米中3カ国に大きく関与したようだ。
まだきちんとは出てこないが、WW1の塹壕戦の方式が蒋介石、ドイツ人指導の
戦い方の基本となっていて、WW1の米軍の戦い方は、その塹壕戦方式による
戦線の硬直化を打破したもので、スティルウェルの戦い方はその米軍方式で
その方式の対立もあったようだ。
1914年7月10日、開戦
  15年、     21か条要求
  17年4月、   米国参戦
     11月、  石井ランシング協定
  18年3月、   ブレスト・リトフスク条約、ロシア離脱
      8月、  米軍大攻勢
     10月、  ドイツ休戦の申し入れ
  19年5月4日、 五・四運動
     6月18日、ヴェルサイユ条約調印

WW1終戦後のアメリカ、反ウイルソン勢力の運動と反日運動の合体。
ハースト系新聞の反日キャンペーン。米国国内史の知識も大事なようだ。
480スティルウェルの2:04/08/19 00:16
(1920−23)
中国語の研修のため中国に派遣された。何人かの軍閥にあっている。
中国語では軍閥を「督軍」du1jun1というようだ。
1920年、安直戦争、直隷派+奉天派>段祺瑞
1922年、第一次奉直戦争、直隷派>張作霖
1924年、第二次奉直戦争、奉天派>直隷派
(呉佩孚)
細面のすらりとした体つき、琥珀色の眼、鷲鼻。教養のあるマンダリンを
しゃべる。彼の軍隊は給料もきちんと支払われ、略奪も少なかった。
(馮玉祥)
精強な軍隊を作るには食料、衣服、給料の他に、精神教育が必要と考えた。
ホースで水をかけて洗礼をほどこし、賛美歌を歌わせた。
(閻錫山)
進歩的で実際的な物質主義者。彼は省をからからに絞り上げるより、
太らせた方が自分の力をつけ、富を増すとみるだけの才覚があった。
彼は省長と督軍を兼ね、山西を中央制覇の争いの埒外に置き、支配下
地域の収入増加に心を砕いた。道路、橋、排水路を建設。学校を作った。
481スティルウェルの3:04/08/20 00:06
1926年ー29年)
義和団議定書にもとづくアメリカ軍の天津駐屯部隊に派遣された。
約800人で英仏より少なく、日本軍とほぼ同数だった。
北伐が上海に近づくと、英軍九千、米海兵隊五千、日本軍千五百が
上陸。クーリッジ、ケロッグは自国民保護以外には干渉するなの指示。
義和団議定書による米軍は1936年ごろまで中国にいたのであろうか??
盧溝橋事件の時も米軍はいたのであろうか??
どなたかご存知でしたら教えてください。
(陳友仁)
黒人の血も入った西インド人として生まれ、西洋で教育をうけ、金縁眼鏡
をかけ、白いスパッツを穿いた子男。おおげさな英語を話し、外国人に
激しい憎悪をたぎらしている。
後期北伐はほとんど抵抗がなかった由。
張宗昌の傭兵部隊である「ロシア人騎兵隊」装甲列車四両とロシア人歩兵
3000人とはすごい。彼等はどこでどうなっていったのだろう?
この人数は上海の戦い以後である。
482スティルウェルの4:04/08/20 19:01
「スティルウェル」の著者バーバラ・W・タックマン(1912-89)他の本
「8月の砲声」ちくま学芸文庫
1963年のピューリッツァー賞受賞作で、第一次大戦が、セルビアの
銃声をきっかけに、各国の戦争準備プログラムが自動的に動いてしまって
各国の意思とは無関係に開始されてしまい、開戦阻止が働かなかったと
しているらしい。実はまだ読んでない。
この著者は他に
「誇り高き塔」
The proud tower,1966
「風に逆らう砂ースティルウェルと中国でのアメリカの体験」
Sands against Winds,1971
「中国からの手紙」
Notes from China,1972
「遥かなる鏡」
A Distant Mirror,1978
「愚考の行進」
The March of Folly,1984

スティルウェルの本はオリジナルではSands against Windsというらしいが
Windsは大統領と蒋介石なのか?
483スティルウェルの6:04/08/27 18:47
(1935−1939)の1
1、スティルウェルは日中戦争下の中国で陸軍武官として諜報活動を
  行うが、ルーズベルトは海軍武官のカールソンの報告を評価重視
  した。
2、フランクリン・ルーズベルト大統領
  1933−37、37−41、41−45の3期つとめた。
  第1期目ごろは、アメリカ国内で戦争反対の勢力が強く、日本など
  の行動に強行姿勢がとれなかった。
3、1935、8,31、アメリカ議会「中立法」可決
            ヨーロッパの戦争に巻き込まれるのを避けた。
       9,1、 ドイツ、ポーランド侵攻
  1939,9,5、 アメリカ中立宣言
       11,3、中立法修正案に署名。
  日本はこうゆう国に自分から戦争をしかけた訳だ。
4、日本軍の南京攻撃時に米国は紛争に巻き込まれるのを避けるため、
  天津に残留していた、義和団議定書による部隊を撤退させた。
484スティルウェルの5:04/08/28 09:22
順序がくるいました。
(1929-35)
この時期スティルウェルはアメリカで軍隊の教官。
1935年に大使館付き武官になり、北京に赴任。
満州事変、盧溝橋事件、上海事変の欧米からの見方。
米英はウォール街の暴落以後の不況で日本に干渉する元気がない。
Point of no returnはどこだったのだろう?アメリカは日本の
親米派を見ていた。
(商震、Shang1 Zhen4,1888-1978)
直隷省の生まれ、原籍は浙江省の紹興。
1905年、保定軍学校の洋文班に入る。英語コースか?
1916年、閻錫山の軍に入る。
      英語学習や外国人との交際を好み「洋派」と言われた。
1927年、閻錫山が北方国民革命軍を組織、北伐に参加。
1930年、閻錫山が中原大戦に破れはなれる。
      紹興出身として蒋介石に接近。
      塘沽保安司令兼天津市長。日本軍に勧誘されるが抵抗。
      抗日開戦後、平漢線沿線で戦うも敗退。
      長沙の副司令官。
1940年、重慶政府の外事局長。
1941年、ビルマ・インド・マレーシア視察団長。
1946年、国連代表。
1947年、日本駐留軍中国代表。
1949年、国民政府の台湾行きには従わず、以後日本人の妻と
      日本で暮らした。
スティルウェルの戦線視察やビルマ作戦の世話をしたらしい。
(法幣とは何か?)
西敏明著「法幣地帯」石川近代文学全集14、石川近代文学館、1993
日本軍の占領時代の北支の様子がよく解る。
占領地域では、1、1932年、成立の満州国幣
       2、1935年、蒋介石の「中国幣制改革」により始動した英国の
               スターリングに連動した法幣
       3、1938年、王克敏政府の中国連合銀行の連銀券
       4、1940年、汪兆銘の南京の中央儲備銀行の儲備券
       5、日本軍の軍票
これらの紙幣があり、その交換レートが場所により違うためその移動で利益が
出たという。
麻薬の問題、朝鮮人の売春、などの話題。
判沢純太著「法幣をめぐる日満中関係」信山社、2002年
なかなか大事な問題を扱っていて、著者の主張もはっきりしていて情報の
多い本と思われるのだが、著者の主張が学会主流からどう評価されているのか
解らない。ゆっくり読もう。
488世界@名無史さん:04/08/31 22:39
(董 顕光、Dong3 Xian3guang1,1887-1971)
両親がキリスト教徒の農家に生まれた。
1909年、アメリカへ留学、新聞学を学ぶ。
      蒋介石、孫文と知り合う。
      以後、英文紙を発行し蒋介石を支援。
1937年、重慶政府で国際宣伝所の所長。
      中国の抗戦状況を報道。
1952年、初代駐日大使。
1956年、駐米大使。
489世界@名無史さん:04/09/01 20:32
(杜聿明、と いつめい、Du Yuming,1905-1981)
1924年、黄埔軍学校第一期生。
      蒋介石の部下として中原大戦、剿共戦で戦功。
1937年、日中戦争、第5軍軍長、中国軍で唯一機械化された部隊。
1940年、広西崑崙関の戦いで中村正雄旅団を全滅させた。
1942年、ビルマ遠征中国軍第1軍司令官としてビルマ、インド
      遠征軍を指揮した。日本軍と激戦を展開した。
1945年、蒋介石に反対した龍雲を監禁して昆明事件を引き起こした。
1948年、国共内戦、東北の戦い
1949年、淮海戦役で破れ捕虜になる。思想改造をうける。
      以後全人代代表などを務める。
490スティルウェルの7:04/09/04 23:53
   (1939−1942)
日本軍の南進後、彼はビルマに派遣され、蒋介石に2師団を派遣して
もらうが、破れ彼のグループは陸路ビルマのジャングルを越え、インドの
インパールに達する。
   (ビルマの地理)
南部のデルタに首都のラングーン(ヤンゴン)。ほぼ中央部にマンダレー。
西北の国境を越えた所にインパール。
   ’(ビルマ・ルート)
東北に中国の雲南省。省府の昆明。その手前に大理。国境に畹町ワンチン、
ワンチンと大理の中間に龍陵ロンリン。ワンチンとマンダレーの中間にラシオ。
一般には昆明からラシオの間をビルマ・ルートという。
全長、715マイル、幅、9フィートの単線。8つの税関手続きがあり、通行料
を取った。税関では250台のトラックが2週間も待たされた。
バンコックの港には沢山の米国援助トラックがさらされ、日本軍侵攻前に、
無駄に焼却された。
     (ハンプ、こぶのこと。ヒマラヤ山脈のこと。)
     (ハンプ・ルート)
インドのアッサム地方の空港から昆明まで空路の武器輸送が行われた。
491中国軍:04/09/05 00:06
中国軍の部隊は3の倍数を基礎に編成されていた。
3個連隊で一個師団。3個師団で一個軍。三個軍で一集団軍。
3集団軍が一戦区に配置された。
中国全国が十二戦区に分割された。日本軍に一戦区が撃破されても
他に影響が出ないように独立していた。
そのため地方の権力が増大し、連携がうまくいかなかった。
492世界@名無史さん:04/09/11 23:00:27
スティルウェルと蒋介石は犬猿の仲になっていくが、政治的に
アメリカと中国の連帯を示す写真がマスコミ対策として必要だった。
この写真では両者の間に宋美玲が入って緩衝となっている。
>http://j.peopledaily.com.cn/cehua/20031110/home.htm
493世界@名無史さん:04/09/11 23:07:43
494世界@名無史さん:04/09/13 12:07:44
(フライングタイガーに関し)
1、ロナルド・ハイファーマン著「Flying Tigers in China」
  Baldantine's illustrated History of World War 2
  サンケイ新聞出版局、日米航空決戦、第2次世界大戦ブックス 53、1973年
  ステイルウェルの本の同じ時期のビルマ、中国をシェン・ノートの
  側から描いている。写真や図表が多く解り易く面白い。
2、吉田一彦著「シェンノートとフライングタイガー」徳間書店、1991
  徳間文庫と内容が同じか知らない。
3、ローバート・L・スコット著「フライング・タイガー」朝日ソノラマ、1988
  この本は見たことがない。
495世界@名無史さん:04/09/15 12:23:12
良スレ鉤沈
496世界@名無史さん:04/09/18 10:34:55
1、スティルウェルはインド北部のアッサムからビルマ北部の空港の
  あるミイトキーナまで道路を開通させようと奮闘。
  日本軍の抵抗、熱帯病、イギリス中国の非協力に苦労するがついに
  成功する。逆に日本軍はインドの補給拠点基地であるインパールを
  攻撃し補給の不足もあり壊滅。ミートキーナからはヒマラヤを越え
  ないで空輸できたので、空輸量が激増。
2、四川の成都に空港を建設、ここからはB29が九州まで空爆できた。
  その後、マリワナ諸島より東京が空爆できるようになり中国の
  日本攻撃の意味はなくなる。
3、アメリカ軍はドイツ攻撃を優先したため、日本はその後にやる
  予定だったので、中国はそれまで降伏しないで持ちこたえが期待
  された。蒋介石、毛沢東もその考えでその後の内戦に備えていた。
  それに対し、スティルウェルは日本軍への中国軍の攻撃を主張し
  蒋介石を糾弾し無礼な言動も多く結局ルーズベルトに解任された。
4、この本はそういう事が書いてあり、スティルウェルは不満足だろうが
  アメリカは対日戦勝利という目的を達成したのであり、本のタイトルの
  アメリカの失敗という意味が不明。出版社は翻訳権を買ったと言っても
  こんな恣意的な改題をして良いのだろうか?
5、雲南からの陸路のビルマルートは初期にも道路整備、輸送管理の不備も
  ありたいした輸送がされていない。日本軍のビルマ侵攻による遮断も
  成功している。ヒマラヤ越えも高空の為たいした量ではない。ただ
  終盤の低空になってからの輸送はすごい。
  現在、雲南側からビルマへ抜ける道はバス交通が有るような無いような
  ひどい道らしい。
497世界@名無史さん:04/09/19 22:27:14
(援蒋ルートの輸送能力)
ヒマラヤ越えのハンプルートは最高で月に1万トン
北ビルマのミートキーナからの低空輸送では最高月に5万トン。
日本軍のインパール作戦の陸路補給計画では、
1.5トントラック、620両で920トン
駄馬2160頭、480トン
929+480=1409トン
498世界@名無史さん:04/09/20 20:07:47
米軍の輸送機C47,ダコタは最大3トン積めた。

山川出版社「東南アジア史、1」
伊藤利勝「日本が行かなくてもイギリスはビルマを独立させる
     つもりだった」

信夫のぶお清三郎著「太平洋戦争」と「もう一つの太平洋戦争」
勁草書房、1988年
谷川栄彦教授の説
日本の東南アジア占領のインパクトは「意図せざる結果として」
白人支配層の威信を失墜させ、現地の独立運動を強化した。
山川の著者の選択は岩波、朝日と好みが似ているらしい。
499世界@名無史さん:04/09/21 23:54:24
「太平洋戦争、日本の敗因、4、責任なき戦場、インパール」
NHK取材班編集、角川文庫、1993年、
昭和19年ー1944年3月開始、4ヶ月
この本自体は大本営の無責任なあいまいな指示で、司令官の牟田口が
補給の不備を理由にする部下の参謀の反対を押し切って名誉欲のために
強行した無謀な作戦という常識的な判断である。
スティルウェルの本を読んだ後でこの作戦をみるとNHK記者と微妙に
判断が異なる。
1、初期のビルマ作戦では英国軍は全く抵抗してなく、日本軍はその
  実力をみくびった。インパールでは米軍が制空権を握り空から
  日本軍の補給は攻撃され英国軍には補給された。これが大きかった。
  作戦開始が遅れ敵の体制が整備された。敵の陸上補給ルートの
  コヒマは一時占領できたのでなかなかよくやっている。おしい。
2、勝算の無い戦いを挑んだ事の非難に対し;
  太平洋戦争そのものがそういう戦いであり、当時連敗が続き
  局面を転回する起死回生策が必要だった。東条も牟田口も
  作戦に無理があるのは解っていたのだ。
  司令官は無理のある作戦を命令してもよい。
  ただ失敗したら、黙って自害してほしい。
500世界@名無史さん:04/09/26 21:55:29
下斗米伸夫著「アジア冷戦史」中公新書、2004年9月24日発行
ロシアに詳しい下斗米先生の本なので特にペレストロイカ後のソ連から
の情報による分析が興味深い。個人的には高崗の運命に注目する。
501世界@名無史さん:04/10/01 23:42:15
定本佐藤春夫全集、臨川書店、
30余刊の大全集であるが、戦時中軍部の招きで作家が戦場を取材した
ようだが、戦場以外の場所の紀行文が沢山収録されている。
直後の「盧溝橋」「閘北三義里の戦跡」「南京雨花台の女」「植民地の旅」その他
沢山ある。中国中を旅行している。年月がややあいまい。
もっともついでに読んだ、佐藤春夫と谷崎潤一郎が親友で、谷崎が佐藤に
「君、僕の女房をもらってくれないか?」と頼み、佐藤が了解しその後も
二人が親友として交際する話が衝撃的で、それをまた文章にして発表する
文士の姿勢に驚嘆させられる。
502打通さん:04/10/05 00:22:52
落日】満洲旗人すれ【清朝末期】↓
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1096778327/l50

カキコお願いします
503世界@名無史さん:04/10/09 23:15:56
「一億人の昭和史、日本の戦史、10、太平洋戦争4、
 ビルマ・フィリピン・沖縄戦、玉砕の島」毎日新聞社、1980年
スティルウェルの本に書かれていることが画像としてあった。
写真の説得力が圧倒的だ。インパール作戦の山脈越えの大変さ。
インドビルマ北方の山脈を越えてスティルウェルが作ったレド公路の
すごさが解った。日光のいろは坂のヨタレソツネ坂板だ。
知識としてまだ不足しているが、日本軍が援蒋ルート対策として雲南に
南方から侵入した作戦が注目される。サルウィン川(怒江)上流の中国領
方面の拉孟、騰越、龍陵を占領し陸路の輸送を阻んだが最終的には駆逐
された。
504世界@名無史さん:04/10/09 23:57:01
   (衛 立煌、えいりっこう、Wei4 Li4huang2、1897〜1960)
1914年、孫文の衛隊に入る。粤軍。
1928年、陸軍大学入学
      囲剿に活躍
抗日戦争、 山西省で八路軍と接触が多い。
1942年、ビルマ遠征軍総司令
1948年、東北の委員、陥落の責任を追及される。
1949年、香港で顧孟余等と民主戦闘同盟。
1955年、北京に行く。
1959年、国防委員会副主席。
505世界@名無史さん:04/10/15 16:31:56
石島紀之著「雲南と近代中国」青木書店、2004年
  1942年から44年の日本軍の雲南西部の占領の話がでていた。
  滇緬公路てんめん;ビルマルート
  滇越公路;ハノイルート
  ただしこの本に出ている滇緬公路の写真は印緬公路レド公路のもので
  雲南のものでない。
506世界@名無史さん:04/10/22 00:26:46
森下修一編「国共内戦史」三州書房1971年
読んでいてこの本を書いた人達のことが非常に気になる。
森下修一の名で調べると中国経済新聞社というのが出てくる。
これも解らない。三州とは愛知県だろうから、愛知大学と
関係あるのだろうか?データはやたらに細かいことが出ていて
個人の情報ではなさそう。中共がバックにいる出版なのかが不明だ。
新聞社の住所はなんとホテルニュージャパンの一部屋だ。
507世界@名無史さん:04/10/22 01:26:31
>>506
愛知大学は東亜同文書院の後身だから関係あるかもね
508世界@名無史さん:04/10/22 02:17:55
戦間期の死者って何人ぐらいなんですかね?
飢饉やら戦乱やらで何百万人死ぬこともザラだったようですが。
太平天国の乱では2000万人以上死んでますが。
509世界@名無史さん:04/10/23 23:25:30
国共内戦では双方数万人の部隊か対決して敗者の部隊が壊滅する
のですが、実際の死者は見当もつきません。数万人かもしれないし
数人かも知れません。冗談のような本当の戦いらしいです。

「アジアカップ・サッカー騒ぎはなぜ起きたのか」日本僑報社、
2004年10月7日初版
東京新聞、中日新聞記者が書いている。
解りきったことで、読む価値なし。靖国参拝やめても
中国は騒ぐだろうとのこと。
矢吹晋著「日中の風穴」勉誠出版、2004年9月
意味のないことをだらだら書く人だ。もう定年で停年だからいいか。
510世界@名無史さん:04/10/25 23:18:28
トロッキストの彭述之ほうじゅつしの言う
国民党にたいする中国共産党の勝利の多様な要因。
1、蒋政権の完全な腐敗と自動的な崩壊
2、アメリカ帝国主義に最終的に見棄てられた蒋介石
3、中国共産党の主体的力量
4、ソヴィエト同盟の援助

勿論これは親ソ派の意見ではあるが大事なテーマとして今後
じっくり検討したい。
蒋政権の腐敗ということもよく言われることであるが、共産党の
宣伝による誇張という部分もあり保留しておきたい。
戦略的、戦術的な問題として、蒋介石が満州に精鋭部隊を投入し
ソ連が満州の港湾を接収して海路の補給が妨害され、鉄道の補給路が
遠すぎて兵站面で敗北した説もある。アメリカが満州進出に反対したのを
強行している。ソ連による占領にたいするあせりもあっただろう。
終戦後の経済政策の失敗は蒋介石の責任ではないが、どの程度方法に
よってはうまくいく可能性があったのか解らない。
現在のアメリカがイラク戦争後に北朝鮮と戦いたくないように、日米戦争が
やっと終わったアメリカ人が中国で戦いたくなかっただろう。
511世界@名無史さん:04/11/12 22:59:42
ロナウド・ハイファーマン著「Flying Tigers in China」
日米航空決戦;「零戦」「隼」対「フライイング・タイガーズ」
第二次大戦ブックス53;サンケイ新聞出版局、昭和48年
内容は他の本と同じようなものだが、シェンノートンサイドに
たって書かれている。戦果などは賞金がかかっていたこともあり
誇張されている気配もある。
512世界@名無史さん:04/11/12 23:45:59
早乙女勝元編
母と子でみる10
「重慶からの手紙」日本は中国でなにをしたかU
草の根出版会1989年

1941年(昭和16年)6月5日重慶の地下壕で何が起こったのか
検討しよう。
513世界@名無史さん:04/11/16 23:48:36
比較の較;jiao4,場chang3,口kou3,
較場口;jiao4chang3kou3
梯、ti1,テイ、はしご
重慶市の古称を渝、ユ、変わる、yu2,と言うらしい。
重慶市の中心部に渝中区という区があって、そこに較場口という盛り場がある。
重慶は坂の街なので、階段が多い。
較場口から急な石段をおりるとそこに防空壕の入り口がある。18梯というのは
階段の名前でないかと思う。この地下洞は6千人収容できることになっていたらしい。
毛沢東が中ソ緊張時代北京に地下防空壕を作った話があるが、重慶市は日中戦当時
地下都市のようになっていたらしい。1936年6月5日に日本軍の空襲があって
そこに2万人近く逃げ込んだようだ。定員の数倍入ったので酸素不足になった。
おまけに外から鍵を掛けたために、脱出できなかった。これが全部日本の責任だ
という教育がされている。四千人という話もある。南京と同じに人数はアイマイ
かつ誇張があるようだ。
514世界@名無史さん:04/11/17 22:42:26
(張自忠、ちょうじちゅう、Zhang1 zi4zhong1,1891−1940)
     山東省の生まれ
1916年、冯玉祥の部下になる。
  26年、冯玉祥と共に国民党に入党
  35年、チヤハル省政府主席
      冀察政務委員、天津市長
  37年、日中戦争、戦死
      国民政府は遺体を重慶の北碚梅花山に葬る。
  終戦後、抗日戦の英雄として、北平、天津に碑が建てられる。
515世界@名無史さん:04/11/18 23:18:26
↑馮が抜ける。
 (張治中、ちょうじちゅう、Zhang1 Zhi4zhong1、1890−1969)
   安徽省の生まれ
1916年、保定陸軍学校卒業
  24年、黄埔軍官学校に参加。周恩来、ケ演達と知己。
  26年、北伐に参加。
  32年、第1次上海事変に参加
  33年、第4路軍総指揮として福建事変包囲に参加。
  37年、第2次上海事変に参加。
      湖南省主席、周恩来、葉剣英と交流。
  39年、軍事委員会、三民主義青年団。
  42年、国共交渉代表
  43年、孔祥熙打倒運動に参加。
  45年、日中戦争勝利後、重慶で国共和平交渉。
      ハーレー、毛沢東と交渉「双十協定」
  46年、新疆省主席
  47年、南京に戻り、国共和平に動く。
  49年、人民政治協商会議に参加。
      以後、中共側に入る。
516世界@名無史さん:04/11/28 01:24:46
ラティモアは1941年7月19日に蒋介石の顧問として重慶に赴任。
その年の12月8日に真珠湾攻撃。蒋介石は日中戦争にアメリカを
引き込みたかったのが、成功した。蒋介石にとってラティモア招聘の
主目的は達成された。
赤痢を理由に42年1月15日にアメリカに帰り、42年10月始めに
重慶にもどった。42年11月17日に正式に中国を離れた。
スティルウェルは42年3月3日に重慶に司令部を設置。
1944年10月21日解任され中国を離れる。
ラティモアの家は宋子文の建てた嘉陵江を見渡す洋館で、渝中区
李子*嘉陵新村63号にある。そこにスティルウェルも入り、ラティモアが
再度中国に戻ってみたら入れなかった。現在は博物館になっている。
この家の向かいに呉鉄城の家がありそこの防空壕には種々の人物が
入っていたらしい。
517世界@名無史さん:04/11/30 01:41:07
小学館から小林英夫・福井紳一の共著で『満鉄調査部事件の真相』が出ています。
ご参考までに。
518世界@名無史さん:04/12/10 23:04:29
(重慶の飛行場)
重慶の南を長江が流れ中間に珊瑚島がある。島上の現在競馬場の場所に
飛行場があった。蒋介石や米軍はここを使用。
南に九竜坂(正しくはpo1)にもあり重慶会談の毛沢東はここを使用した。
もっと前に北岸に城市駅(正しくはyi4)に飛行場があった。
現在は渝北区江北国際飛行場がある。
519世界@名無史さん:04/12/11 22:58:12
   (林 森、りんしん、Lin2 Sen1、1868−1943)
福建省の生まれ、福州の米国系の英華書院を卒業。英語が堪能。
1909年、九江税関に勤務
  11年、辛亥革命に活躍。
  12年、臨時政府の参議院議長、
      袁世凱に反対し辞職。
  17年、広州で国会非常会議
  21年、孫文を大総統に「中華民国政府」樹立。
  25年、孫文死後、西山会議派
  30年、広州派に
  31年、満州事変、広州南京の妥協
  32年、以後国民党主席。
  37年、重慶へ移転。
  43年、死去。
520世界@名無史さん:04/12/12 22:30:53
(林園)
1939年に建てられ、始め蒋介石のために築いた「総裁官邸」だった。
落成の祝賀に来た林森が精緻な建物と幽静な環境を絶賛。蒋介石はそれを
林森に譲った。43年林森は交通事故で死亡。44年蒋介石が越してきた。
一号楼は蒋介石の住居(正中楼)、二号楼は宋美齢の住居(美齢楼)
三号楼は国共会談の時に米国特使のマーシャルが住んだ。その建物の
前に大きな客庁があり蒋介石や国民党の重要会議を開いた。また宋美齢が
よくダンスパーティーを開いたので美齢舞庁とう言われる。
四号楼は林森を記念した林森記念堂。国共会談の時、毛沢東と王若飛は
二号楼、周恩来は三号楼に住んだ。ある朝毛沢東は庭を散歩し蒋介石に
会い、石に腰かけ会話をしたという。
1945年6月28日に重慶に来て、二晩公園にとまり以後は紅岩村に
41日過ごした。
重慶から林園にいくには市内の解放碑からトロリーバス402で終点の
沙坪覇まで、始発212のバス歌楽山行きに乗り換える。直通。
521世界@名無史さん:04/12/15 21:24:54
張自忠って本来は知日派ですよね
522世界@名無史さん:04/12/16 17:56:12
(黄山陪都遺跡) 陪都とは都の傍という意味か?
重慶の南を長江が流れ、その対岸を南岸区という。そこに風光明媚な
黄山がある。日本軍の爆撃を避けるためと避暑をかねて官邸を改築した。
蒋介石は「雲岫楼」に、宋美齢は「松庁」に住む。近くに草屋根の
「草亭」があり、マーシャルが泊まったことがある。
他に黄山には孔祥熙の別荘「孔園」、米軍顧問団の駐在所「蓮青楼」、
戦士した将兵の遺児の「黄山小学校」があった。
連合国各国の大使館もあった。日本領事館は反対の嘉陵江の北岸に
あった。
市内から南岸区には長江をわたるケーブル(索道suo3dao4)があり
黄山にもケーブルがある。
現在の中国政府は、日本との戦争を解放軍がやったと宣伝しているため
特に重慶などの蒋介石関係の建物などの情報を眼につかせないように
している。地球の歩き方などの旅行書も周恩来の住居とか、共産党員が
拷問されたとかの施設ばかり。多分重慶の旅行案内人もそんなとこばかり
連れて行くと思われる。
523世界@名無史さん:04/12/18 09:00:56
保守
524世界@名無史さん:04/12/19 19:15:55
522の陪都の意味。
中国人の学生にきいたんですが、充分には知らないよう。
一応の説明は、重慶時代は本来の首都はあくまで南京なので
重慶は「仮の都」の意味との解釈でした。
525世界@名無史さん:04/12/21 15:39:29
渋谷百里著「馬賊でみる満州」張作霖のあゆんだ道、講談社メチエ、2004年12月
著者は張作霖の部下の王永江研究を土台にその財政運営サポートを受けながら、張作霖が
登りつめて行く過程を描いている。それなりに面白い。
ただ最後で、日中関係がどうとか演説するのは止めてほしい。
526世界@名無史さん:04/12/23 00:32:35
(重慶の飛行場、フェアバンクによれば3つ)
 1、揚子江の中洲、珊瑚島だろう。冬の渇水期だけ使えた。雪解けの
   関係か?離陸直後に川をまたいだ電線があり、下をくぐるか、
   またぐかの選択を要した。
 2、九竜坂。一端は山、一端は堤防だそうだ。川に直角なのか?
 3、最大の空港白石隘。山の峰を一つ越した谷間にあるそうだ。
晴れた日には日本の爆撃があったが、たいてい雲に覆われていたそうだ。
四川とか雲南は曇りが多そう。気象をもう少し調べたい。
揚子江の水分が夏に蒸発し高地に冷やされるのか?
日本の爆撃の時期、季節はいつか?
527世界@名無史さん:04/12/23 21:57:17
石島紀之、久保亨編「重慶国民政府史の研究」東京大学出版会、2004年12月20日
丁度このスレで追求していた主題の本がでた。
私個人の興味で言えば、蒋介石が重慶が落ちたら後退するつもりだった
西康省の話。援蒋ルートの話があるが、民間航空の話ばかりでつまらない。
内山書店の裏の方の本棚に中国航空発達史の本が数冊ありあちらの方が
参考になる。
528世界@名無史さん:04/12/24 18:49:26
聖誕節 快楽
聖誕老人 平安夜
礼物 聖誕大餐
529世界@名無史さん:05/01/07 09:25:09
age
530世界@名無史さん:05/01/07 19:59:07
1937年7,7.盧溝橋事件、日中戦争
     11,7、上海陥落
     11,20、南京から重慶に遷都を宣言。官庁部門は武漢へ。
     12,13、南京陥落。
1938年、10,27、武漢陥落。
1939年     春より重慶爆撃開始。
          10月から翌年春まで中断。
1940年     5月爆撃再開
          5月7回、6月10回、7月5回、8月5回、9月終息
          重慶の中心部は完全に破壊される。
1941年     6月から8月にかけて大規模空爆。
          9月、日本軍仏印進駐。三国同盟成立。
     12月8日、真珠湾攻撃。
重慶爆撃とは、日本が日中戦争を終わらせようとした、最後の戦略であった。
以後はその目的がなくなった。地下壕の悲劇は、1941年6月5日の午後6時頃だ。
久しぶりの空襲であったため、心理的に動揺したこと、防空壕の整備が進んだこと
などが悲劇を大きくしたようだ。
531世界@名無史さん:05/01/07 20:03:23
*重慶の平均天気
  月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
降水量
(ミリ) 11.4 28.8 1.5 194.1 188.3 337.1 198.5 282.9 116.9 99.5 4.8 34.2
日照時数
(H) 9.2 21.2 60.3 202.9 123.8 70.8 113.5 108.2 134.0 47.0 47.0 4.0

*北京の平均天気
降水量
(ミリ) 1.3 26.3 4.3 54.7 61.5 142.9 247.9 114.4 4.7 61.8 11.3 0.6
日照時数
(H) 174.4 194.3 207.8 175.8 272.7 196.1 193 246.4 204.7 183.7 172 199.8
北京と重慶の各月の変化である。
重慶の冬は日照時間が極端に少ない。つまり曇りで、空襲が出来ない理由が解る。
532世界@名無史さん:05/01/07 23:22:50
吉野正敏著「気候地名をさぐる」学生社1997年
四川省は雲りが多い。
その南にあって晴れているのが、雲南省だそうだ。
知らないのは自分だけ?世間では常識なのか?
533世界@名無史さん:05/01/08 09:25:45
重慶空爆訂正
1938年末に重慶に出撃はあったらしいが、冬季で成果はなかったらしい。
日米戦争開始後も43年8月まで散発的な攻撃はあったらしい。
534世界@名無史さん:05/01/11 00:02:29
太平洋戦争の日本軍は、関東軍、支那派遣軍、南方軍の3総軍。
45個の野戦軍、169の師団。
1938年10月、日本軍武漢占領。
最大の第11野戦軍、7個師団、20万の内の3師団が武漢の北方より
武漢と重慶の中間にある宜昌ぎしょうを目標に作戦開始。
中国軍は第5戦区李宗仁総指揮。安徽省西部、湖北省北部河南省南部担当。
張自忠指揮の蒋介石直系の国府軍第33軍、広西軍の第11軍
四川軍の30,32,68軍などの40万。  
当時は米軍もまだ参加していないため、国府側も必死に戦ったようだ。
張自忠はこの乱戦中、司令部が孤立し戦死したようだ。
宜昌獲得後、ここが重慶爆撃の基地になったらしい。
雲南上空でも空中戦や爆撃があったようだがまだ調べられない。
535世界@名無史さん:05/01/14 23:58:28
J.K.フェアバンク著「中国回想録」みすず書房、1994年
700ページ近い大冊である。やっと読み終えた。読み終えても著者の
評価判断がよく解らない。
1、学者の偉くなるための処世術の手本ではある。受験校で勉学一筋に
  はげみ、何故か?ハーヴァードに大学の3年から転校する。この
  事情の記載があいまい。米国ではまだ未開の中国史を選び、権威ある
  オクスフォードに留学し中国に行って海関の論文を書く。日本人より
  待遇が恵まれている。日米戦争が始まり、情報関係で重慶に行く。
2、蒋介石に対する低い評価と、共産軍に対する親近感と高い評価。
  サーヴィス、スメドレー、ラティモアとの交際。
  教授昇進とマッカーシズムを切り抜ける。
  彼のすごい所は他の連中が失脚したり、アメリカに住めなくなったり
  してるのに、彼だけは出世を続ける。
3、戦後日本にも来て情報収集をしている。当時の日本の学界はマルキスト
  シンパばかりと評価。
4、共産軍がナショナリズムと運動に取り込むのがうまいとの評価は、
  私もそう思う。イラクのゲリラもそう。
5、出世する中国専門家は中共の悪口を言わない。蒋介石の政策のまずさ
  を言うのはよいが、共産主義国家は初期から欠点は予想できたはず。
6、台湾に行って、米国との安保破棄を勧める!!!
7、スメドレーの長征の本は途中が1章中共政府により抜き取られている
  そうだ。
8、訳者も弟子なので評価が甘い。
9、共産中国の主導を早くから見抜いたのは鋭いのだろう。
10、ハーヴァード大学に対する自負は異常に強いが、権威は低下しているようだ。
536世界@名無史さん:05/01/16 22:23:32
1月の22日、25日、31日にスカパーやケーブルテレビの日本映画チャンネルで
「上海陸戦隊」という上海事変の映画をやりますね。もう放送もあったよう。
実写フィルムも混じっているらしい。誰かにビデオにでも採ってもらってみやう。
537世界@名無史さん:05/01/18 09:50:38 0
535のフェアバンクの本で彼は中国人には自由な選挙は無理で上からの
指導が必要だといっている。ある意味で共産政権の援護発言なのであるが、
その後の台湾の選挙などを見るとそんなことは無いとの気もする。
天安門騒動を見ても民主化運動ももう少しうまくやれたのではとの感じもある。
台湾の選挙でも激亢しやすい国民の感じもある。帝国主義の侵略に対しても
冷静で的確なまとまりある対応が出来ず、結局極端な共産主義に走った。
今後どう進むのであろう?
538世界@名無史さん:05/01/23 00:19:00 0
入江昭著「増補、米中関係のイメージ」平凡社
前に読んだような気がするが、フェアバンクが著書の中で入江のことを
弟子の中でものすごく優秀とほめていたので読み返す。文章が明解で
読みやすい。もっとも過ぎて、大事なことがちりばめられているのに
読みすごしそうだ。
問題は大戦中、サーヴィスやフェアバンクが中共の将来性ある力を
評価していたのはよいが、中共を反帝国主義の民族主義組織で、
本当の共産主義ではないとしていたことである。入江はおりこうさん
だから、師匠を露骨に批判したりはしないが、その誤りをきちんと記載して
いる。フェアバンクがアメリカの師弟関係や研究室では師匠のことも
きちんと異議をとなえるのに、日本の学者や研究室は全くそれが無いと
言っていたが、まさにその指導に従っている。
以下は私見だが、中国共産党は民族主義と共産主義の二つの顔を持って
いて、それを使い分ける。日中戦争などの時はそれで、若者を集め、
終戦になると、整風などでしめなおす。政権に対して不満が高まると
民族主義を出してくる。靖国などはその武器の一つだ。
539世界@名無史さん:05/01/23 19:57:44 0
アベッグ著「重慶」清水書房、1941年
日中戦争時、ドイツ人(記者か?)が中国をみてまわる。39年から
40年に書いたそうだ。三国同盟は40年だから、まだドイツ人は
中国を自由に動けた。
38年から日本の重慶爆撃。39年夏には防空地下室は完成していて
市民全部が収容できるスペースはあった。だだし一部に集中しないように
番号の付いた入場券が必要であった。
ドイツ人から見ると爆撃では重慶は屈服されそうになかったそうだ。
地形の関係で南方からの攻略は無理そうで、攻撃するなら陝西省の
方からと言っている。長征の逆方向になる。
540世界@名無史さん:05/01/29 10:34:01 0
梅本弘著「ビルマ航空戦」上下、大日本絵画、2002年
この出版社はdainipponkaigaというそうで、戦記物や戦場ビデオなどを
出しているらしい。この本の特徴は著者が両軍のデータを調べて撃墜の
実態を調べていて、実は生還してる場合が多いとしている。
上巻は日本軍が優勢時期、下巻は後退時期。上巻のみ読んだ。
スティルウェルはアメリカ人だからイギリス軍が逃げ回ったとして
いるが、なかなか抵抗している。「加藤隼戦闘機隊」というのがここに
いたのかと解った。ビデオを借りよう。昆明を爆撃した日本軍が北ビルマ
から出撃したのが解った。せっかく行っても天候が悪いと下が見えない
ようだ。またインドのアッサムからのヒマラヤ越えの輸送も攻撃している。
ヒマラヤ超えの米軍は死者が1000名以上、600機くらい墜落したらしい。
541世界@名無史さん:05/02/04 23:50:14 0
ニコル・スミス著「滇緬テンメン公路」1940年8月、万里閣
著者はアメリカの石油長者の息子で世界漫遊の旅をしているらしい。
時代は1939年の6月ごろ。日中戦争で南京武漢は陥落し重慶
政府。日米戦争はまだで、日本軍はまだ仏印にもビルマにも行って
いない時期。著者は一人でハノイから列車でベトナム当時は、
東京トンキンの北端の老開ラオカイを通り、雲南に入り昆明に行く。
途中で支線に入り箇旧の錫山に行き悲惨な少年坑夫をみる。
昆明から、昆明のアメリカ領事の息子とふたりで、援蒋ルートを
ビルマのラシオまで車で往復してくる。その行動力はすごい。
なおハノイ昆明の滇緬鉄道工事は1901年着工、09年完成。
清仏戦争は1884,5年。英語よりフランス語が通じていた。
よくまあこんな本が出版されたものだ。
542世界@名無史さん:05/02/11 00:27:45 0
木村荘十著「雲南守備隊」ダ・ヴィンチ特別編集、メディア・ファクトリー
            「消えた受賞作、直木賞編」2004年
昭和16年の直木賞受賞作だそうだ。読んで驚いた。
このスレの541で書いた「滇緬公路」に出てくる箇旧の錫山が舞台で、
まじめな中国兵は腐敗した上官達を見て職務を離脱する話。当時の雲南の
様子が良く調べて書かれている。中国で新聞記者をしてたことがあるそうだが
それにしても知識が豊富。竜雲将軍の話など面白い。錫は飛行機を作ったり
するのに重要な貴金属で戦争遂行にアメリカにとっても喉から手が出るほど
欲しい物質らしい。アメリカからの武器と引き換えに錫が確保されたらしい。
543世界@名無史さん:05/02/11 01:02:47 0
錫は合金材料として重要ですよ強度を与えるし
考古学でも年代が下がるほど青銅器に含まれる錫の割合が下がる
それ自体でも輝きがあるので薩摩錫器などに加工されることも

木村荘十は荘太や荘八の弟、荘十二の兄だね
544世界@名無史さん:05/02/14 00:52:06 0
私の錫のカキコはジュラルミンと混乱がありますね。
作者のほうも山岡荘八と混乱して著作に徳川家康なんかを
捜してしまいました。
545世界@名無史さん:05/02/18 12:05:17 0
安藤正士他著「文化大革命と現代中国」岩波新書、1986年
本の前三分の二は、文革の歴史で読み厭きた内容。
残りがその後の歴史と文革のまとめで参考になる。
1、継続革命論の否定。常に特権階級を産み出していく体制は
  安藤氏は「社会主義体制」に問題があるのでは?と簡単に
  書かれているがそれを言ってはお終いよとも言える。
2、パリ・コミューンの夢の霧散。これは別の本で考えたい。
3、皇帝崇拝の封建意識の残る中国。
  これはいつも私が考えることで支配されたがる国民。
4、小作農の貧富の差のない世界。これの不可能性の証明。
5、富強の中国。植民地国家に痛めつけられた国民が強い国家を
  求めた。これはその通りだろうけれど、共産主義の必要が
  あったのか?
  今日の中国が平和国家などでなく軍事大国を目指している
  ことを忘れてはいけない。
546世界@名無史さん:05/02/26 12:39:34 0
西本正明著「孫文の女」文芸春秋、2005年
孫文が日本滞在中、二人の日本人女性と関係があり、内一人とは
女子までつくったそうだ。つまらない話。
1990年5月7日の朝日新聞に
宮川登美子さん死去「孫文の遺児」といわれる。という記事が出たそうだ。
547世界@名無史さん:05/02/28 10:27:32 0
諸星清桂著「中国革命の夢が潰えたとき」毛沢東に裏切られた人々、
中公新書、2000年
中華人民共和国が出来た時、政治協商会議と中間派を取り込んで
それとの合体という形を採っているわけだが、出来てみたら全く
相手にされないで、プチブル的勢力として攻撃されたという当然に
話。
そのことは自業自得だからよいが、日中戦争終戦後、雲南方面に
局在していた国府軍が沿岸部に復帰した時に、補給不足もあり
略奪行為があったとか、復帰した旧地主の農民との抗争とかの
情報がどこまで本当かもう少し知りたい。
人心の捉え方がへただったという問題。
548世界@名無史さん:05/03/01 19:39:15 0
>>546
蒋介石も日本で子供作っていたような
549世界@名無史さん:05/03/03 18:22:37 0
>546>548
蒋介石や孫文に似たのが、そのへん歩いてるかもしれない。
このスレ見てるかもしれない。
550世界@名無史さん:05/03/03 18:25:33 0
age
551世界@名無史さん:05/03/08 23:24:59 0

張作霖を爆殺しなければ、満州国なんて必要なかったのに。
と思う。
552世界@名無史さん:05/03/09 21:09:57 0
>551
爆殺現場は線路が入り組んでいて解りにくい場所でした。
小さい碑が立っていて私がやっと見つけて行ったら中国人の5人連れの
家族が碑を熱心に読んでました。
瀋陽からの留学生は中学の時学校からバスで連れられて見に行ったそうです。
注目されるような時に殺してしまうなどと日本人には植民地経営は無理でしたね。
553世界@名無史さん:05/03/11 23:24:38 0
桂圭男かつらあきお著「パリ・コミューン」岩波新書1971年
中国スレに出てくるのは勿論可笑しい。545で書いた文革の本に人民公社の
公社はコミューンの中国語訳だとあった。
以下は私の愚考だが、人民公社renmingongsheの言葉全体もコミューンを
表すような気もする。renmin部分の語感もマクドナルドやコカコーラの
文字あわせと感じが似ている。
文革の時、毛沢東は形式的な権力は劉少奇に譲っていたのだから、それを
倒すには、コミューン的な下からの運動が必要だったので、文革の初期には
コミューンという言葉を匂わせて利用したようだ。日本や仏、米のいわゆる
Maoistなどはこれに引っ掛かったのだろう。それをきっかけにこの本を
読んでみるとフランスの民衆の成熟した力の凄さに驚かされる。上からの
指導の通りにデモをやる国民と全く異なることが解る。この民衆の革命運動の
成熟が左翼運動が共産主義国家へ暴走して行くのを防いだのだろう。
中国との関連を別にすれば、プルードン、バクーニンなどのアナーキズム、
一揆主義的な革命運動のブランキズムとマルクスの運動の異同。ジャコバン、
ジロンド主義と労働運動など興味深いが深入りは避けよう。
554世界@名無史さん:2005/03/21(月) 17:36:08 0
角田房子著「甘粕大尉」ちくま文庫、2005年
直木賞作家と紛らわしい。この著者の「閔妃暗殺」はためになった。
90才を越してあとがきを書く気力はすごい。
1、甘粕の評価とは大杉栄殺害の評価である。当時の大杉栄がどの程度の
  社会的革命運動実践的な力があったのかが、大事だろうがその知識が
  私にはない。あの頃の日本の左翼運動の知識が必要だ。あまり実践的な
  活動家ではなかったような気もするが・・
  妻である堀保子、神近市子、一緒に殺された伊藤野枝と女性関係の発展は
  評価できる。神近市子との関係は知らなかった。
2、満州国の裏方としての活躍。
  東大退職後の矢内原の植民地研究に援助してたとは驚いた。
  満鉄調査部との関係は解らない。
3、帝国日本の狂気なのか?
555世界@名無史さん:2005/03/24(木) 14:18:38 0
支那共和国あげ
556世界@名無史さん:2005/03/24(木) 16:24:56 0
ageていただいたついでに。
「中国文化大革命辞典」福岡にあるらしい中国書店、1966年
分厚い本で文革については、岩波の本などで勉強していると大事なことを
見逃すぞと実感させる当時の中国各地の騒動がいろいろ出ている。
雲南の騒動が特に凄い。解放軍内部が分裂して武器で撃ち合いを
している。死者が600人とかいう騒ぎが各地で起こっている。
彭徳壊や羅端卿がさらしものになってる写真は見ていて悲しいし、
中国人の狂気の恐ろしさを実感する。
これとは別に最近中国で出た文革当時の秘蔵写真集が本屋においてあった。
5000円近くするので立ち読みだけだがこれも凄い。
557世界@名無史さん:2005/03/25(金) 01:27:04 0
そういや、中華民国ができて初期の頃は日本は中華民国を「支那共和国」と呼んでいたけど、
やっぱりこれは「中華」に抵抗があったからなの?
558世界@名無史さん:2005/03/25(金) 14:49:03 0
よく知りませんけど、the Republic of Chinaの和訳なんでしょうか。
日本としては、皇帝がいなくなった国がアジアにできて
天皇制との関係もあってびっくりしたようですね。
559世界@名無史さん:2005/03/30(水) 01:58:43 0
というか当時の政府は本気で辛亥革命(帝政打倒)の流れが
日本に波及するんじゃないかと考えて、その動きを必死でくい止めようとしてたらしい

相当な取り越し苦労というか。
560世界@名無史さん:皇紀2665/04/01(金) 00:12:45 0
(上海の西郊賓館)
毛沢東の話を読むとこの名前が良く出てくる。上海の西にある虹橋飛行場の
そばの宿泊施設だ。毛沢東は列車で国内を移動してよくここに泊まっている。
最近は日本人も泊まれるらしい。ある人によれば
「アパートから広い通りをはさんだ斜め前の、西郊賓館の屋内プールに行こう
というのです。西郊賓館は本来中国政府要人用、または国賓接待用のホテルら
しく、四星とか五星とかの評価無用の扱い。天皇陛下もお泊まりになったとの
事だ。上海市人民政府の日程に特に支障がなければ、一般人も宿泊可能になっ
たのはごく最近のことだと、アパート管理の孫建民氏が言っていました。」とある。
>http://travel.explore.ne.jp/wm/xijiao.php3
「ここで迎賓館や賓館について説明しておきますと、以前は要人の別荘だったり、
 専用の宿泊所だったりしたところですが、現在は一般に公開されていて普通の人
 でも泊まったり食事をしたりできます。ただし、要人が泊まっているときには
 進入禁止になるようですね。やはり迎賓館だけあって緑がたくさんあり、道も整えられ、
 ごみなんかも落ちていない、力が入ってますよ。特に西郊賓館なんかはだだっ広くて中に
 川なんかもあり、道路も広いです。やはり天気の良い日に西郊賓館に行ったことが
 あるのですが、リスとかいましたよ、鳥も気持ちよく鳴いていましたね。
 ウォーターフロントレストランという名のレストランの窓からは白鳥や鶴も見られますし、
 とりあえずこちらは一見の価値あり、ですね。」だそうです。
日本人もいろいろ行ってるようです。どんな所か知らないと本を読んでも
解らない。毛沢東が泳いだプールのようです。
561世界@名無史さん:エジプト暦2329/04/01(金) 14:50:55 0
(武昌の東湖賓館)
ここは文革で有名ですね。サイトがないのでパンダさんに失礼して
>http://www.panda-style.com/dest/huazhong/wuhan.html
私は入り口までは行ったんですが、中には入る元気がなかった。
残念。さすがパンダさん。
文革の本では取り囲んだと書いてますが、入り口をふさげば封鎖されて
しまう構造です。
562世界@名無史さん:エジプト暦2329/04/01(金) 15:10:34 0
(廬山の美廬)
蒋介石の別荘で宋美齢に捧げたもの。
後に毛沢東が愛用し彭徳壊の失脚につながった廬山会議の時もここで謀略が
練られた。

>http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/ziliao/2003-10/24/content_1141592.htm
563世界@名無史さん:エジプト暦2329/04/01(金) 18:00:42 0
京夫子著「毛沢東 最後の女」中公文庫 1999年
著者の名前はペンネーム。アメリカ在住と言っているが本当の所は
解らない。男性でないかと思う。毛沢東の性格には批判的だが、共産主義には
寛容だ。あまり好みの本ではない。
564世界@名無史さん:エジプト暦2329/04/01(金) 22:28:33 0
戦前は「帝國政府」と言えば大日本本帝国政府のことで、「民國政府」と言えば中華民国政府のことだった。
アメリカが支那事変で中国に肩入れしたのは中国が共和国を名乗っていたからと言うのも大きい。
まあ、実際は国民党政権なんて親独のファシズム政権なんだけどね。
565世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 23:16:43 0
556で取り上げた文化大革命の写真集が4月3日の朝日新聞の書評で
取り上げられています。あのおぞましい写真を見て美しいという感想を
もてる感覚は理解できません。
566世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/05(火) 04:52:30 0
フォン・ゼークト将軍sage
567世界@名無史さん:2005/04/06(水) 16:53:12 0
「中国近代現代史」上下、人民教育出版社、
全日制普通高級中学教科書(必修)一冊」920円
「世界近代現代史」上下、人民教育出版社、
全日制普通高級中学教科書上下、(選択)一冊600円

高校の教科書だから中国の大学生の基礎知識はこの程度とわかる。
世界史の方は案外まとも。国内史の文革の部分は毛沢東の周りの人間が
悪かったのは解るが毛沢東が良かったのか悪かったのかはよく解らない。
568世界@名無史さん:2005/04/18(月) 15:01:10 0
アメリカ映画「北京の55日」1963年
義和団事件の連合国との戦い。芝五郎もでてくる。
反日デモに荒れる現在にみると、感慨深い。不満がいつも排外として
噴出し、着実な建設とならないのは変わらない。
私としては城壁に囲まれた北京が珍しい。
569世界@名無史さん:2005/04/18(月) 20:58:50 0
煽(あお)られた中国の反日ナショナリズム
http://jpn.dyndns.ws/~showa/113.html
 その上で中国側は日本人居留民に対する暴行、示威という暴力的手段すら用いていった。
 日本人経営の商店で買い物した客から取引税を改めてとったり、日本人に土地家屋を貸し
た満人を投獄したり、更には長春や奉天では巡警自ら日本人と見ると袋叩きにしたり投石
するといった事件が頻発し、小学生の通学を領事館警察隊が護衛するという異常な状態が
日常化したのである。
 朝鮮人農民に至っては、入植した農地を取り上げられ、暴行を受けた上で家財道具一切を
略奪されて追放されていった。
 こうして20万にも昇る日本人が餓死か日本への引き上げかを決断するところまで追いつめ
られていった。

 一方満州の支配者であった張作霖(ちょうさくりん)は、アメリカの力を背景にしながら
この地域における排日運動を推進した。
 満鉄への経営妨害、炭鉱など鉱山の採掘権の否認、鉱物の輸送制限、付属地の買収禁止、
その他農林水産業への妨害、二重課税などの不当課税による商業活動の妨害、日本人や
朝鮮人への立ち退き命令などが行われ、これらによって日本人居留民の生活は
危殆(きたい)に瀕(ひん)した。
http://jpn.dyndns.ws/~showa/214.html

 最も効果があったのは、排日侮日運動です。利権回収といっても、条約上の権利はなく、
実力で取り返そうとしても、かえって日本の武力にやられてしまいます。そこで日本に武力行使
の口実を与えないギリギリの範囲で、在留邦人、とくに女性、学童に、唾(つば)を吐く、石を
投げる、殴る、小売を拒否する等のいじめで、満州にいたたまれないようにする方策です。
http://www.okazaki-inst.jp/hyakuisan40.html
570世界@名無史さん:2005/04/23(土) 00:27:19 0
三島四郎著「ビルマ軍医戦記」光人社NF文庫、2005年4月
著者は大学2年で真珠湾なので、繰上げ卒業で19年末に徴兵。
シンガポールからもう完成していた泰緬鉄道でビルマへ。19年7月
インパール敗退。イギリス軍の侵攻。スティルウェルの道路も完成。
雲南の日本軍も米軍の新装備の中国軍に圧迫され、半年で終戦。
地名になじみが出来て解りやすい。熱帯病で苦労している。
戦局の判断は的確で基礎知識があるためなのか、後知恵なのか?
571世界@名無史さん:2005/04/26(火) 00:50:44 0
台北郊外の蒋介石の別荘。陽明書屋。
>http://www.taipeinavi.com/play/play.php?id=123
572世界@名無史さん:2005/05/06(金) 18:20:35 0
蒋介石(1887−1975)
1946年11月、「中華民国憲法」
1948年3月、蒋介石は総統に。
1949年1月、陳誠を台湾主席に任命。移転の準備。
        下野。故郷の奉化県に戻る。
     4月、台湾における「三七五免租」
     4月23日、中共南京占領。蒋は広州へ。
     10月1日中華人民共和国成立。
     12月10日、台湾に行く。
1950年3月、総統に復職。行政院院長には陳誠。
     6月25日朝鮮戦争。
1952年、日華講和条約
1972年、蒋経国を行政院院長に。後継を固める。
      肺炎療養生活
1975年、心臓病で士林官邸で死去。
      遺体は台北の西隣の桃園県大渓慈湖に安置。
573世界@名無史さん:2005/05/06(金) 18:39:41 0
予備の地理
台北は台湾北部。
台北市の西を南から北に淡水河が流れる。
台北市の北を東から西に基隆河が流れ、主流の淡水河に注ぐ。
台北市の地下鉄淡水線は台北市から北に向かい郊外電車となり
基隆河を渡り、台北駅から6つ目が士林。
士林の東で台北から16kmの所に陽明山があり、高尾山か箱根のような所。
574世界@名無史さん:2005/05/06(金) 19:37:04 0
「草山行館」
台湾に移った蒋介石は陽明山にあった旧日本の製糖会社「台糖」の温泉保養施設を
官邸とした。郊外の地は人も少なく警護に便利だったのであろう。
571のアドレスの最後に写真がある。小さい家だ。
「士林官邸」
翌年ここが完成し移る。草山行館は夏の避暑地に使用。
トタン板に囲まれた工事現場のようなその奥に秘密の花園がある。
宋美齢の好みであろう広大な庭園がある。もっとも亜熱帯の台湾でのランの栽培は
日本の感覚とは違うだろう。広大な庭は狙撃者からの警護の意味もあろう。
一番奥にある屋敷は華美なものでない。
ここが総統官邸として主に使われた。士林官邸で検索すると沢山でるが、庭園の
写真が多く官邸は解り難い。
「陽明書房」
陽明山の陽明公園から更に坂道を歩いて20分ほど登ったところにある。
1970年に作られた官邸のような別荘のような所。発病後の保養に使ったくらい
だろう。571のアドレスに写真。

現在の台湾政府は国民党の反対の民進党のため、政府は蒋介石をあまり表に
出したくないようだ。だからこれらの施設を観光用のきれいな庭園として
紹介しても蒋介石ゆかりの場所ということは抑えているようだ。
571のアドレスにある。
575世界@名無史さん:2005/05/08(日) 23:34:00 0
西部邁の言う中国共産党は抗日の歴史的存在という説明はよく検討すべきことだ。
解放軍という言葉自体反植民地の組織という意味だろう。朱徳達や学生が共産党に
入った動機なども抗日の意識が大きい。彼らが共産主義をどこまで理解、意識して
いたかかなりあやしい。毛沢東独りの夢想に他が付き合った部分がある。
日本の敗戦で、抗日としての共産党の存在意義が無くなって以後、中国を共産党が
支配する必然性がなくなった。朝鮮戦争や台湾といった紛争が常にないと問題点が
露出してくる。改革解放政策をやればやるほど共産党の存在意義が問われる。
反日、抗日問題は中国共産党にとってそこに意義がある。
576世界@名無史さん:2005/05/10(火) 23:25:19 0
中国もベトナムもキューバもその成立の時に、共産主義運動と外国の
影響排除の抵抗運動の区別があいまいというか、共産主義の本体を
かくして民族主義の衣に隠れている。
日本のベトナム戦争の北応援論調などもほとんど、民族主義応援、アメリカ
批判ばかりで、その支配を脱した今日共産主義である必然の論議はない。
577世界@名無史さん:2005/05/11(水) 19:44:09 0
アホか? 反米なら共産主義にならざるを得なかっただけなんだが。
578世界@名無史さん:2005/05/12(木) 11:53:52 0
   (陳誠、ちんせい、Chen2 Cheng2,1898-1965)
浙江省の生まれ。
1922年、保定軍学校卒業。
  23年、胸部に銃弾、入院。
  24年、黄埔軍学校の教官。東征に参加。
  26年、北伐に参加。
  33年、34年、囲剿に活躍。
  36年、西安事件で軟禁。
  37年、日中戦争。上海戦指揮。
  38年、三民主義青年団書記長。
  45年、国民党中央執行委員。
  48年、台湾省主席。
  49年、金門島防衛。
      農業の振興、土地対策。
      経済発展に貢献。
      行政院長、副総統
  65年、肝臓癌で死亡。

軍人から政治家に移行。有能で台湾発展に貢献した。
579世界@名無史さん:2005/05/12(木) 17:38:21 0
(陳儀、ちんぎ、Chen2 Yi2、1883−1950)
浙江省の生まれ
1907年、日本の陸軍士官学校卒業。
      陸軍大学留学。
  24年、蒋介石軍長。
  27年、27年南京政府軍事委員会委員。
  28年、ドイツ派遣、ドイツ軍顧問招聘。
  34年、福建省主席。
  41年、重慶政府行政院秘書長。
  44年、台湾調査委員会主任。
  45年、台湾省行政長官。
  47年、2・28事件で武力鎮圧の指示を出す。
      引責辞職、閑職に。
  49年、浙江省で湯恩伯に和平を勧め、50年蒋介石に処刑される。

ドイツ軍顧問の問題はもう少し知りたい。
国民政府の秘書長という職は日本人の感じより重職のようだ。
2・28鎮圧の指示は誰かは微妙だ。
580世界@名無史さん:2005/05/24(火) 00:30:01 0
台湾の高校の歴史の教師指導用の参考書。
「高中歴史」教師用、康熙図書、中華民国93年、
93+11=104、2004年か?
年号が民国になっていて解りにくい。
大陸の教科書よりはるかに詳しい。
日本への留学の人数も多く近代化、政治変革に影響大とある。
南京はやはり30万人となっている。
細かい点で勉強になる。
国共内戦で何故敗れたかと苦しい問題もある。
581世界@名無史さん:2005/06/16(木) 14:52:49 0
保守SAGE
582世界@名無史さん:2005/06/20(月) 18:59:19 0
───┐
□□□│ミ ζ゚   <世界を革命する力をっ!
□□□│       
□□□│
□□□│
□□□│
□□□│
□□□│
□□□│
 ._.  │
 | | |  │
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
583世界@名無史さん:2005/06/20(月) 19:40:28 0
シリーズ中国にとっての二十世紀の新刊はいつ出るの?
584世界@名無史さん:2005/06/20(月) 23:50:34 0
20世紀中国の政治空間―「中華民族的国民国家」の凝集力
これはもう店頭にありますね。この次のことでしょうか?
585世界@名無史さん:2005/06/27(月) 22:14:53 0
ジョンストン著「紫禁城の黄昏」岩波文庫
ラストエンペラーの家庭教師の話。
満州国成立で日本に好意的なので喜んだ人がいたらしい。
民国時代を内側から見ていて面白い。中国をよく研究している。
イギリス外交官はすごい。日本は公使と武官が足を引っ張りあっている。
現在の省庁の争いのようだ。
訳者の入江曜子さんは教授の奥さんか?
586世界@名無史さん:2005/06/28(火) 23:56:24 0
(鄭孝胥、ていこうしょ、Zheng4 Xiao4xu1、1860−1938)
江蘇省の生まれ、福建省郷士のなり、官僚に、来日、総領事になる。
張之洞の部下、鉄道建設、国有化に動き、これが辛亥革命を誘発する。
1923年、故宮に入り溥儀の信頼を得る。
  24年、馮玉祥のクーデターの時溥儀を日本公使館へ。
  25年、天津の日本租界へ。
  31年、満州事変、鄭は黒龍会の頭山満と協議
  32年、満州国成立国務総理になる。
  35年、関東軍と軋轢、辞任。
  38年、急死。
587世界@名無史さん:2005/06/29(水) 23:30:45 0
588世界@名無史さん:2005/07/01(金) 16:57:40 0
(王正廷、おうせいてい、Wang2 Zheng4ting2,1882-1961)
浙江省の出身、クリスチャンの家庭に育つ。
中英中学で英語を学ぶ。北洋大学で法律を学ぶ。
1905年、日本に2年間留学。
      孫文と知り合い、同盟会へ。
  07年、アメリカへ。エール大学で法律を学ぶ。
  11年、帰国、辛亥革命。
      黎元洪の元で臨時約法の起草に参加。
  12年、唐紹儀内閣に参加
      護法運動に加わる。
  17年、広東政府に参加。
  19年、パリ講和条約に南方代表で参加。
      山東半島返還に努力。
  24年、中ソ協定に調印。ヨッフェ、カラハンと交渉。
      黄郛内閣に参加。
  25年、許世英内閣に参加。
  28年、国民政府の外交部長を3年4ヶ月。
      「革命外交」
  31年、満州事変の対応で不抵抗政策批判で学生に暴行を受け、辞職。
  36年、駐米大使。
  38年、国民政府委員。
      新中国では香港に暮らす。

全期間を外交の中枢で活躍。日中戦争時の対日交渉の中心人物。
589世界@名無史さん:2005/07/04(月) 17:18:58 0
桑島節郎著「華北戦記」朝日文庫、
1、著者は小学卒の学歴で、昭和17年徴兵入隊し、山東半島の守備隊に
  衛生兵として軍曹終戦を迎えた。
2、引き揚げ後、本多勝一、家永三郎、毛沢東選集を読んで感動し、
  昭和46年から52年に書いた。経験から著作まで間隔があり
  百団大戦、三光作戦など読書による知識見解が混入し過ぎている。
  「衛生兵の見た山東戦記」程度の題がふさわしい。華北というには
  もう少し上官でないと戦況が見えないだろう。
3、しかしながら自己体験部分は参考になる。
  中国人の強制連行については私の知識が不足。勤労動員とアイマイな
  朝鮮人と事情が違う。
4、8月15日の終戦後に八路軍地域の日本軍が蒋介石軍に武器引渡しの
  命で、21年1月16日まで武装してたとは驚きだ。戦闘も死者もいた。
5、日本兵は,アメリカ軍には負けたのだろうが、中国では負けなかったと
  思っている。
6、戦記は早く書かなければ忘れる。まあ朝日文庫だからこんなものでしょう。
590世界@名無史さん:2005/07/05(火) 11:16:10 0
>>589
それ元々は図書出版社から出た本だと思う。
昔図書館で走り読みした。
図書出版社の戦記ってその手の本が多いんだよね。
591世界@名無史さん:2005/07/06(水) 17:06:47 0
「中国21」風媒社、愛知大学、Vol,13,2002,4
特集、義和団100年と現在
200年10月に中国山東半島で「義和団事件一百周年国際学術討論会」に
関連してこの特集が組まれた。最初の座談会が面白い。
PAコーエンなどは義和団事件はただの排外運動で反帝国主義など
考えていないと切って捨てる。中国の学者は紋切り型に太平天国、
義和団、解放軍と連続する反帝国主義組織としてとらえ自己の
存在意義を強調する。
その中で小林一美先生などは、義和団の問題点などをずけずけ言うもの
だから、日本侵略の反省が足らないと言われる。
言論の自由の無い国の学会のつまらなさにうんざりするが、教育的効果が
有るような、無いような。義和団もその後なにも残さないで終わる。
最近の反日デモとの関連もあり義和団は面白い。
中国の秘密結社とイタリアのマフィアの共に外国支配があったとの指摘。
要注目。
592世界@名無史さん:2005/07/08(金) 15:08:27 0
今井駿著「中国革命と対日抗戦」抗日民族統一戦線史研究序説
汲古書院、1997年
従来の蒋介石は腰抜けで、毛沢東だけが中国のために戦ったという
説がこのころやっと後退しつつあったようだ。
尾崎秀実、竹内好の問題点。尾崎はコミンテルンの言うとおりに
動いただけじゃないかとの説もある由。
中国ヨイショしといたほうが研究はやりやすいだろうから、専門家は
それなりに大変なんだろう。
著者が左向きから正面向きにハンドルを切り替えたらしく歯切れが悪い。
石川紀之著の「抗日戦争史」の読後評が出ていて、中共の評価が解らない
と書いているが、今日の学会は中共ヨイショもまた書きにくい時代になって
いるのだろうか?
593世界@名無史さん:2005/07/08(金) 15:42:23 0
鳥海靖編「日本立憲政治の形成と変質」吉川弘文館、2005年の中の
劉傑著「日中提携と満蒙問題」重光葵と王正廷
  幣原の強調外交」 南京事件」 軟弱外交
  革命外交   」 漢口事件」

→1930年       →1931年
 良い関係;日中関税協定   満州事変

著者は日本は自己の体験から中国の関税、治外法権に理解があったと
言うが、理解はしても、その廃止には抵抗したのでは。
594世界@名無史さん:2005/07/12(火) 23:23:52 0
  (張景恵、ちょうけいけい、Zhang1 Jing3hui4,1871-1961)
遼寧省の生まれ。馬賊の出身。張作霖の配下。清朝に帰順。
奉天講武堂に学ぶ。
第1次奉直戦争で敗戦、失脚。後に和解。
1926年、顧維均内閣に奉天系として入閣。
      潘復内閣にも入閣。
1928年、張作霖爆死事件で負傷するが、日本軍と
      通じていたらしい。
1931年、満州事変、黒竜江政府の独立。
1932年、満州国成立。
  35年、日本軍に不満をいだいた鄭孝胥に代わり
      満州国国務総理に。
終戦後ソ連に抑留、戦犯として中国に引き渡され、
収容所で死亡。
595世界@名無史さん:2005/07/16(土) 14:33:49 0
北村稔著「中国は社会主義で幸せになったか」PHP新書、2005年8月3日
蒋介石のままでも、中国は日本に勝っただろうし、三民主義なのだから
今頃民主主義国になっていただろう。
現在の中華人民共和国は社会主義の衣を着た封建王朝」
中国は古代から続く搾取社会から抜け出せない。とおっしゃる。
あまりまとも過ぎて中国歴史学者らしくない。
596世界@名無史さん:2005/07/22(金) 22:45:06 0
小田敦巳著「ビルマ最前線、白骨街道、生死の境」光人社NF文庫、2004年
1、NFはノンフィクション、戦記物の文庫
2、ビルマのベンガル湾への英軍の上陸を警戒して配備された部隊。
  イギリスは実際この方面の作戦を主張したが、米軍に反対された。
3、その後攻撃して来た部隊を印英軍と言っている。
  日本はインドと戦争している意識はなかっただろう。
  インドもポーズは主流ではなかったようだが、知識がない。
  東京裁判のハル判事など心境がよく解らない。
  敗戦後捕虜の日本兵は工事のブルトーザーや衛生物資に驚いているが、
  人手は英軍でも物資はアメリカではないか?
4、インパールなどは行ってないから、最前線はおおげさだが編集者が
  つけたのだろう。
5、マラリアやアメーバ赤痢、コレラで沢山亡くなっている。
597世界@名無史さん:2005/07/25(月) 23:50:21 0
sage
598世界@名無史さん:2005/08/07(日) 05:06:08 0
sasage
599世界@名無史さん:2005/08/07(日) 10:41:18 0
>>595
>蒋介石のままでも、中国は日本に勝っただろう

この本にそういうくだりはないよ。
勿論、「毛沢東だから中国は日本に勝った」とも書かれていないけど。
戦中期の国民党の業績として書かれているのはこんなところかしら。
・1941年12月9日 中華民国重慶政府として日本に正式に宣戦布告
・1943年アメリカとイギリスに対する不平等条約を撤廃、治外法権と租界を消滅させる
・同年カイロ会談へ参加し、満洲と台湾の中華民国への返還を確約
600世界@名無史さん:2005/08/07(日) 11:06:43 0
というか蒋介石のままで日本に勝ったのは史実
601世界@名無史さん:2005/08/27(土) 16:04:04 0
sage
602世界@名無史さん:2005/09/02(金) 14:32:54 0
1、中央大学人文科学研究所研究叢書35
「民国後期中国国民党政権の研究」
  672頁 7350円 2005年

2、坂野 良吉著
 中国国民革命政治過程の研究 (歴史科学叢書)\10,500
 校倉書房  2004.3

1は読んでみたい。2は目次だけではまたかの内容そう。

4.
公同教会は、時によってよく見え、時によってあまり見えないことがあった(1)。またその肢体で
ある個々の教会は、そこで福音の教理が教えられ奉じられ、 諸規定が執行され、公的礼拝が
行なわれている純粋さに従って、その純粋さに相違がある(2)。

1 ロマ11:3,4、黙示12:6,14
2 黙示2,3章、Tコリント5:6,7

5.
世にある最も純粋な教会も、混入物と誤りとをまぬがれない(1)。そしてある教会は、キリストの
教会でなく サタンの会堂になるほどに堕落した(2)。それにもかかわらず、地上には、み旨に従
って神を礼拝する教会が、いつでも存在する(3)。

1 Tコリント13:12、黙示2,3章、マタ13:24-30,47
2 黙示18:2、ロマ11:18-22
3 マタイ16:18、詩72:17、詩102:28(29)、マタイ28:19,20

6.
主イエス・キリストのほかに、教会のかしらはない。どのような意味ででもロマ教皇は教会の
かしらではない(1)。その反対に彼こそは教会においてキリストとすべて神と呼ばれるものと
に反抗して自分を高くするところの、かの非キリスト、不法の者、滅びの子である(2)。

1 コロサイ1:18、エペソ1:22
2 マタイ23:8-10、Uテサロニケ2:3,4,8,9、黙示13:6

http://www.ogaki-ch.com/WCF/text/index.htm

ミミ彡  ゚̄ ̄' 〈 ゚̄ ̄ .|ミミ彡
604世界@名無史さん:2005/09/18(日) 01:27:10 0
sage
605世界@名無史さん:2005/09/22(木) 11:33:56 0
高玉宝著「高玉宝」青年出版社、1972年
広告文では;
日本軍国主義と闘った一中国少年の記録!
中国農村の一少年が、中国共産党と解放軍の影響のもとに、日本の鬼兵と
闘う民族恨と階級愛につらぬかれた抗日・解放の物語。日本軍国主義に
反対し日中国交回復を実現した日本人民に贈る良書。だそうだ。
内容は戦争中の満州の農村で貧しい家族が中国人の地主に無駄にいじめられる
話。何故か少年は地主を恨まないで日本兵を恨む。
終戦直後に書かれた小説を文革のころに書き直させられたそうだ。
当時この出版社から抗日小説がいろいろ出されたようだ。
606世界@名無史さん:2005/10/07(金) 17:07:52 0
伊藤克訳「中国青年英雄伝」中国青年出版社、1965
毛沢東の人民戦争理論というのは、兵士の死をなんとも思わず投入する。
だから多産を奨励した。
その結果の人口爆発が今日の石油危機や混乱を生んでいる。その6人。
死んでもらうためには英雄に祭り上げる必要がある。その為の本である。
1、山西省、日中戦争時、閻錫山の晋西事変、反共降日計画
  ttp://shanxi.nekoyamada.com/archives/000139.html
  国共内戦時に閻錫山に殺される。生前に入党してる筈なのに、死んでから
  正式党員になる。どうもだまし党員があるらしい。
2、国共内戦時、熱河省で爆死。
3、1952年、朝鮮戦争。38度線鉄原の北、上甘嶺のトーチカ攻略で死亡。
4、52年、上甘嶺の南、平康と金化の間391高地で一級英雄。
5、東北、撫順で仕事中に交通事故「雷鋒」に学べ!
6人のはずが5人しかないのは誰か抜けたようです。
607世界@名無史さん:2005/10/08(土) 22:15:08 0
佐藤亮一著「北京収容所」河出書房新社、昭和38年
このスレに沢山の本の読後感を書いたが、この本が一番衝撃を受けた。
著者は毎日新聞の特派員として戦時中の中国で活動した。
昭和21年4月スパイ活動容疑で逮捕され、22年7月に無罪で放免
された。そこでの地獄の体験である。また他の多くの日本人がいいかげんな
裁判で死刑にされていくのをみてきた。
皆さんも読む機会があったらぜひ一読ください。読後感は非常に苦いものが
あるでしょうが・・
608世界@名無史さん:2005/10/10(月) 11:53:31 0
ここを読書感想文にしている貴方は、なんで他人に話題を振らないの?
どうして自己完結の感想文を綴っているの?
たまに語りかけたかと思えば、本の宣伝とは・・・何がしたいんですか?
609世界@名無史さん:2005/10/10(月) 13:08:15 0
>>607
しっかし読む本に偏りありまくりだな。お前が反韓・反中の流れに乗りたいってことが
ことはわかったから、いい加減広告の裏に書け。もう二度と湧いて出てくるな
610世界@名無史さん:2005/10/11(火) 19:31:51 0
中共から司令でも出た?
611世界@名無史さん:2005/10/11(火) 21:59:24 0
興梠(こうろぎ一郎著「中国激流」岩波新書、2005年
中国の最近の都市の繁栄と衰退する農村の不均衡を指摘する本は多いが、
著者のユニークな点は更に一歩踏み込んでいる。市場経済が共産党の支配に
より、恣意的にコントロールされるために、経済活動の基本である、ルールと
自由がないという。農村も支配層が共産党に独占されているため農民の活動が
制限されてしまう。全体として共産党支配が限界に来ていると言う。
日経を中心とする躍進する中国経済報道とだいぶ差がある。
解らないのは、岩波がどうしてこんな本を出してしまったのかという点だ。
この本は同じ著者の「現代中国、グローバル化のなかで」の続編だそうだ。
続編執筆を頼んだら、とんでもない結論の本が出来てしまったのでないかと
想像する。一読の価値あり。
612世界@名無史さん:2005/10/11(火) 23:15:02 0
>608
2ちゃんをブログのように使ってるという自覚はあるんですが、
議論は得意じゃないというか好みでないのです。
個人の頭の整理に使っていてすいません。
613世界@名無史さん:2005/10/12(水) 07:54:18 0
閻錫山は?
614世界@名無史さん:2005/10/12(水) 10:10:50 O
民主諸党派の中でも弱小だった社会民主党はあったが、
社会民主党なり社会民主労働党なり労農党なり、
大きな社民主義政党が不在だったのも痛いな。
615614:2005/10/12(水) 10:16:15 O
あったとしても、国民党にも共産党にも、

とても太刀打ち出来そうもないが。
宋慶れいらの国民党革命委員会(左派)にしたって、ね。
616世界@名無史さん:2005/10/12(水) 10:28:31 0
>613
私も閻錫山については知識不足を自覚してますがまとまった日本語の
良い本をどなたかに書いてもらいたいものです。
ttp://www1.odn.ne.jp/~aal99510/1HA_3.htm
これは「北京収容所」のBC級戦犯問題にも関係しますが、
幹部は早々と帰国し中間管理職が死刑にいろいろなったようです。
林彪の負傷もこのあたりですし、山西省に注目してます。
617世界@名無史さん:2005/10/12(水) 19:43:01 0
平野零児も河本大作の縁者で、山西に残留して抑留されてたね。
618世界@名無史さん:2005/10/14(金) 12:46:33 0
閻錫山に味方して日本の再起を図ろうと、山西省に残留して敗戦後も八路軍と戦争していたんだ。
10年ほど前?まだ残っているかもしれない残留日本人を調査するという話があったようだが、詳しいことは不明。
619世界@名無史さん:2005/10/18(火) 00:54:41 0
林博史著「BC級戦犯裁判」岩波新書、2005年6月
1、A級戦犯;平和に対する罪。B級戦犯;通例の戦争犯罪。
  C級裁判;人道に対する罪。
2、中国国民政府;漢口、北京、瀋陽、太原、済南、
         徐州、南京、上海、台北、広東、
  中華人民共和国;瀋陽、太原
  米国;上海、米国人捕虜に関し
  香港;英国、豪州
3、4分の3が軍人、下士官が多い。憲兵が多い。
  捕虜の扱いを重視。朝鮮人、台湾人も監視人として処刑された。
  中国は49年1月で終了。
  中国ではこれとは別に人民裁判で1000人位処刑。
4、岡村寧次被告など内戦協力で無罪。
  山西省に残留し閻錫山軍に協力して中共と戦った140人も戦犯。
5、著者は戦後の日本の平和運動が軍の存在そのものを悪としたために、
  軍隊の行動、軍隊の悪い行いにたいする分析、批判が不十分としている。
6、前述の「北京収容所」の本の理解に役立った。
  日本の戦争犯罪は過去に広範囲に処罰がされている。
7、中国人捕虜のかなりが日本に労働のため連行されたとする問題は
  まだよく理解できない。
620世界@名無史さん:2005/10/18(火) 10:59:34 0
中国が民主化したらどんな国名になるのでしょうか。
621世界@名無史さん:2005/10/21(金) 16:44:24 0
平野零児著「人間改造:私は中国の戦犯であった」三一書房、1956年
他の出版社からも出ている。617さんに教わった本。
著者は従軍記者の後、昭和18年叔父の河本大作のもとで山西産業で
働き終戦。残留し閻錫山に協力、反共宣伝。昭和24年戦犯となり、
31年起訴免除。その間洗脳教育を受け、反省人間になって帰国。
あとがきでいつ元のグータラに戻るのだろうと書かれているが、
その後洗脳はどうなったのだろう。
その洗脳教育の中で「毛沢東の民主主義」という文献を読まされて
アメリカの民主主義との違いがどうしても解らないと言っている。
民主集中制のことか?BC級裁判と平行して人民裁判が行われている。
前述の岩波の「BC級裁判」では下級兵士の死刑は無かったと言っているが
非公式の大衆集会で大量に処刑されている。
洗脳は人民裁判の恐怖と平行する「暖かい共産主義教育」が平行して
行われる。それにより強制ではなく、自主的な共産主義の選択が
装われている。文革でも見られた中国の大衆行動の恐ろしさだ。
622世界@名無史さん:2005/10/21(金) 16:55:33 0
小川仁夫著「処刑されなかった戦犯:人民裁判の裏側である戦犯の手記」日中出版、1979年
著者は戦争中満州の朝鮮国共の安東市の警察保安係。
45年9月に逮捕され、46年ソ連軍に引き渡され、ソ連に抑留50年に
再度中国に引き渡され56年に不起訴になった。
飛ばし読みのせいもあり、よく理解できない。戦犯は自分のやったことを
はっきり書かないから余計わからない。ソ連のからみも不明。
623世界@名無史さん:2005/10/21(金) 16:58:24 0
age
624世界@名無史さん:2005/10/23(日) 03:30:24 0
「暗黒大陸中国の真実」、面白いよ!
625世界@名無史さん:2005/10/28(金) 22:20:58 0
雑誌「中国軍人」
この雑誌は広州で1925年2月20日から26年の3月まで、全部で9冊、
黄埔軍官学校や各地の軍学校の有志によって発行された。
1983年に広州の人民出版社から影印版として復刻された。
まずこの時期がどんな時期か考えよう。
626中国軍人:2005/10/31(月) 23:29:25 0
1924、1、国民党第1回全国大会、党の改組。
       第1次国共合作、第2奉直戦争。
     5、ソ連使節カラハンと中ソ協定成立、国交回復。
     6、黄埔軍官学校開設。
     10、広東商団事件、馮玉祥のクーデター
     11、呉佩孚下野
        段祺瑞臨時執政へ。
1925、2、第1次東征(陳烱明征伐)
       善後会議開催。国民党は反対。
       上海紡績スト。
     3、孫文死亡。
     4、黄埔に孫文学会成立。反共組織。
     5、五、三○惨案。反英運動と英国官憲の中国人殺傷。
     6、六・二三惨案。広東沙基事件。
     7、広東に国民政府成立。汪精衛主席
     10、第2次東征
        列国関税会議。
1926、1、広東の国民党二全大会。
     3、三・一八事件。段祺瑞、民衆の抗日運動に発砲。
       中山艦事件
     4、張作霖、北京に入る。
     7、北伐開始。
627世界@名無史さん:2005/11/01(火) 00:31:08 0
講談社から9月に出版された、「中国の歴史第10巻 ラストエンペラーと近代中国」は、
太平天国から西安事変までの歴史がわかりやすく書かれていると思う。

同シリーズの他の巻と比べても、第10巻は比較的初心者向きでわかりやすいと思う。
628世界@名無史さん:2005/11/02(水) 23:48:26 0
読売新聞大阪社会部編「中国慰霊」(新聞記者が語りつぐ戦争16)、昭和58年
当時読売は戦争という連載をしていて、民間人の中国訪問がやっと始まった
時期に、大陸打通作戦の後半にあたる、湘桂作戦の舞台、湖南省の長沙の南の
衡陽を計16名の旧軍人、記者で訪れた。北伐のルートでもあり、毛沢東の
生地の近くだ。軍記物より記者はさすがに文章がうまく、読ませる。
地獄の体験をして死んでいった日本兵、その犠牲になった中国民間人が
生々しい。靖国神社の存在理由もそれに反発する中国も理解される。
中国国府軍も十分に戦ったのもわかる。
629中国軍人:2005/11/03(木) 23:46:59 0
第1号;1925、2,20
    創刊号、中国青年軍人連合会の大会開催
第2号;     3,2
    善後会議反対、陳烱明糾弾、国民会議開催要求
第3号;     3,12、マルクスの紹介、帝国主義批判
第4号;     4,2、孫文死亡特集
第5号;     4,30、
第6号;     8,7、途中香港、広州スト
第7号;     10,10
第8号;     11,8、恵州戦役、陳烱明征伐の記録
第9号;1926、3,12、孫文逝世1周年記念。
ここで急に廃刊になっている。
初期からマルクス主義の気配はありソ連からの資金に支えられた
雑誌のにおい。8月のストごろから共産主義の色がはっきり出てくる。
3月18日の中山艦事件でこの雑誌の関係者は追放されたのだろう。
歴史のリアルタイムの資料は面白い。
630世界@名無史さん:2005/11/06(日) 21:34:04 0
  薛岳、Xue1 Yue4、せつ がく、1986−
広東省の生まれ。保定軍学校卒業後、21年孫文の警護にあたり、
22年、陳烱明の反乱から守る。東征、北伐に参加。
27年に上海、広州でサンジカリズムを鎮圧。囲剿、長征の追撃に
活躍。抗日戦争では主に華中で淞滬会戦・武漢攻防戦。39年湖南省主席
長沙周辺で日本軍と戦った。アメリカ軍との関係が良かった。
国共内戦後台湾に渡った。
631世界@名無史さん:2005/11/06(日) 21:57:49 0
632世界@名無史さん:2005/11/12(土) 21:50:06 0
佐々木春隆著「桂林作戦」図書出版社、1989年、
1944年、日本空襲の発進基地をたたく目的の大陸打通作戦の終段階として
桂林を攻撃した。著者は当時攻撃連隊の作戦主任。中国の城市というものの
攻撃は想像以上の困難さが解った。
このスレの目的の一つである、日本軍が戦った相手方の事情の理解に関して
いくらか見えてきた感じがある。
対日戦のスティルウェル、蒋介石の主導権争い。
アメリカ軍内のスティルウェル、シェンノートンの争い。
広西省の戦いでもあり広西軍閥の白崇禧、李宗仁と蒋介石と省長の張発奎。
日本軍は苗族にも攻撃されている。
633世界@名無史さん:2005/11/13(日) 22:02:19 0
中央公論12月号
特集;中国を蝕む解放軍の実像
   いまだに軍に振り回される胡錦涛政権
中島嶺雄、小川和久などの論文が載っているがあまり
新しい情報がない。
634世界@名無史さん:2005/11/15(火) 17:36:02 0
(顧 祝同、こしゅくどう、Gu4 Zhu4tong4、1893−1987)
江蘇省の生まれ。保定軍官学校卒業。黄埔軍学校教官。
東征。北伐に参加。その後軍の中枢に。
囲剿に活躍。皖南事変で新四軍を撃退。
日中戦争の頃は、江蘇省主席、第3戦区司令長官。
1942年に日本軍と浙贛 せつかん会戦を戦う。
49年参謀総長。台湾に渡る。
635世界@名無史さん:2005/11/19(土) 12:41:01 0
久米滋三著「日中講和決裂と中支激戦録」旺史社、2003年
第2次長沙作戦;日米開戦後、香港占領に対し、北方からの援護を防ぐため
武漢の部隊が湖南省し進出したが、大きな損害を出した作戦。
浙贛作戦;昭和17年東京空襲後、南昌から抗州へ抜ける浙贛鉄路付近の
空港の破壊作戦。あまり抵抗がない。
このあたりは第3戦区顧祝同指揮。江蘇省南部、安徽省南部、江西省東部
浙江省、福建省。著者の久米さんは「桂林作戦」の佐々木さんの上司。
終戦後四国放送の社長になられた。戦後亡くなられた部下のお宅を訪問し
家族に報告している。こういう後日談は知らなかった。

スティルウェル著「中国日記」みすず書房、1966年
これは資料として面白い。中国のいろいろな将軍の評価が書かれている。
19年11月10日に桂林は陥落しているが7月ごろ、スティルウェルも桂林に
いっている。シェン・ノートと睨み合ったまま握手してる写真は面白い。
636世界@名無史さん:2005/11/22(火) 09:36:13 0
当時の国民党軍は鉄鉢もかぶってなかったほどの前近代軍隊
637世界@名無史さん:2005/11/22(火) 16:12:26 0
川崎春彦著「日中戦争、一兵士の証言」光人社、2001年
昭和18年秋召集。南京に送られ、打通作戦の後半部湘桂作戦に参加。
衡陽、桂林で戦う。その後湖南省南部で新四軍と戦う。新四軍が、
一般に八路軍でいわれる中共軍と違って、略奪の匪賊的な軍隊だ
そうでこの辺の知識がない。
中国軍の装備は時期、部隊によってかなり異なる。
桂林の戦いで捕獲した武器は米国製で小銃は6発(日本は5発)、
自動小銃、バズーカ砲があった。総体的には日本軍よりすぐれた
武器を使用していた。中国の日本軍は明治、大正の武器が多く
新式は南方に送られたようだ。
638世界@名無史さん:2005/12/02(金) 02:19:25 0
「The Stilwell Papers」
重慶政府がどんな体制にあったかの判断は難しい。色々な意見も
どんな資料を基にしているか考える必要がある。蒋介石に会っていた
人間で内部の人間は利害関係が戦後にもあり批評がし難い。李宗仁や宋慶齢のように
反発して中共に逃げ込んだ人間は自由な発言ができない位置にいた。
著者も1944年10月に解任後、外部に発言を禁じられ、46年に死亡している。
中共政府は重慶にスティルウェル博物館を作っているし、朝日やみすず書房の
ような左翼メディアが出版するのもよく理解できる。彼の総括であるが、今回
この本を読んで彼を馬鹿らしく感じた。ビルマのジャングルに道路を築き、
日本軍を駆逐するわけだが、米軍は太平洋側から日本に侵攻して行ったので、
ビルマは全体からみればどうでもよかった。中国への補給も空路でなんとか
なった。インパール作戦や打通作戦がどうでもいいのと同じだ。
蒋介石や英国軍がグズグズするのを、罵倒しているが全体として後回しが
正しい。最後に中共軍への武器援助を主張して蒋介石、ルーズベルトに
解任された。
中国軍に関し、蒋介石の面前ではぺこぺこしていたが、裏では無視していた。
各軍区の長に政治、軍事の支配権を渡したため、蒋介石の自由になったのは
一部の中央軍だけだったと観察している。
639世界@名無史さん:2005/12/02(金) 20:28:33 0
国民党と洪門、白蓮教などの会党や宗教団体との関係を論じた本などないでしょうか。
640世界@名無史さん:2005/12/07(水) 19:06:56 0
国民党成立以前の反清朝運動の頃の孫文や黄興などとの関わりは
色々あったように思いますが成立後は良く知りません。
641世界@名無史さん:2005/12/07(水) 19:08:26 0
火野葦平著「土と兵隊」
昭和12年1937年
 7月盧溝橋事件
 8月第二次上海事変
 11月5日杭州湾敵前上陸
 泥とクリークとトーチカに苦しみながら15日に
 上海から杭州への線路にある嘉善に達する。
 作戦の予定はこのあたりで停戦になるつもりが全く
 終わらず、この部隊も予定外の南京に進軍していく。
 この段階でも多数の中国人捕虜を捕獲しているが、日本軍自体が自分達の
 食料に苦しんでおり勿論捕虜の分はなく、対応も計画になく全員銃殺されている。
 この本は当時のベストセラーであり、当時の日本人は特に違和感なく受け入れて
 いたと思われる。これに続く「花と兵隊」は南京進軍を扱っており、
 それはなんと「朝日新聞」!!に連載された。
642世界@名無史さん:2005/12/07(水) 19:16:55 0
>>641
まあ、上海事変から南京攻略にかけては一切の捕虜を取らなかった = 投降してきた
兵士でもかまわず処刑していた ってことは、資料をあたってもきちんと出てくる確たる
事実だからねぇ。

ちなみに、大虐殺は幻論者には、これすらも否定するトンデモもいるから説得力に
欠けちゃう…
643世界@名無史さん:2005/12/08(木) 05:17:52 0
 南陳北李というけれど、李大サは上海本部の役職についていないだよね?陳独習がその後除名されたものだから共産党の創設者は陳一人だけではないという
意味で北李が強調されているのかな?実際は上海の陳主導だったと思うのですが。
644世界@名無史さん:2005/12/08(木) 10:08:35 0
1.中共は第1次国共合作失敗の責任を全部陳独秀に押し付けた。
2.中国共産党史の中の毛沢東の業績を強調独占するためには、
  その他の偉人は影を薄くする必要があった。
3. 1.をきっかけに毛沢東の権力掌握が加速した。
645639:2005/12/10(土) 11:03:51 0
>>640
ありがとう御座います。青幇との関係や、国民党の台湾移動後の特務と黒道
の関係など見て興味を抱いたものですから。あまり資料は無いとのことで残念です。

共産党の成立過程については、石川 禎浩の『中国共産党成立史』が面白いですね。


646世界@名無史さん:2005/12/13(火) 23:15:37 0
火野葦平著「花と兵隊」杭州警備駐留記
昭和14年、1939年、改造社
昭和12年、8月第2次上海事変
      11月4日、杭州湾敵前上陸、その後も進軍して
      12月17日、南京入場式
         18日には早くもみぞれの中を杭州攻略に出発。
         26日には杭州に到着。
問題の南京の戦闘にはほとんど触れられていない。杭州市内は日本軍が
占領管轄しているが市外は中国軍が出没している。米軍支配下のバクダッドと
感じが似ている。日本軍は中国軍とは敵対しているが、市民とは友好的で
あろうと指導されている。市内を自由に散策し外食もしている。
市民は日本軍にも服従し、中国軍の復活にも対応出来るようにしている。
647世界@名無史さん:2005/12/13(火) 23:35:32 0
>639
中公新書の福山勝清著「中国革命を駆け抜けたアウトロー達」は
ご存知と思って書きませんでしたが、土匪、赤匪などいろいろ
出てますよね。
実は先日、渋谷のブックファーストで山川からそれにぴったりの全書シリーズが
出ているのを見つけたのですが、書名がアイマイで調べたけれど出てきません。
そのうち。
648世界@名無史さん:2005/12/18(日) 22:23:36 0
1937年、昭和12年、7,7、盧溝橋事件
      8,13、第2次上海事変
      12,7、トラウトマン、広田Aへ仲介
      12,13、南京占領
1938年、1,16、近衛A内閣「爾後国民政府を対手とせず」
      北支那方面軍、寺内(北京)第一軍、香月
                   第二軍 西尾寿造A不起訴
      中支那派遣軍(上海)松井石根A→畑俊六A無期

徐州作戦とは江蘇省の徐州で李宗仁の50万の大軍を北と南から
挟み撃ちにしようとした作戦。逃げられてしまったし、開封近くで
蒋介石に黄河を決壊させられ日本軍の損害も大きかった。
Aとだけ書かれた者はA級戦犯の内の絞首刑。
この部分の知識をつけないと靖国問題は解らない。
649世界@名無史さん:2005/12/18(日) 22:48:11 0
火野葦平著「麦と兵隊」
著者は杭州湾上陸作戦直後に芥川賞を受賞し、南京作戦後、報道部に
転属され、徐州作戦に軍の報道部員として従軍した。戦場一帯が広大な
麦作地帯のためこの題が付いた。大部隊の正面衝突よりもこぜりあいの
連続でいつのまにか終わってしまう。学校の文学史の授業ではこれ等の
小説は軍隊賛美、戦争協力小説と決め付けられて受験生も現物は読まないで
そのまま決め付けを覚えさせられているのだろう。当時の兵士の心境を
書いたリアリズム小説である。最後の場面で捕虜が軍刀で首を切断
される。著者は戦後、戦争協力者として追及され1960年に自殺
している。火野は労働運動家からの転向者だ。転向者はサヨから見ると
本来の右翼以上に憎い存在だったのだろう。
650世界@名無史さん:2005/12/20(火) 23:40:35 0
1937年、 7,7、盧溝橋事件。
 (12年) 12,13、南京占領。
  38年、10,27、武漢占領。
      12,20、汪兆銘重慶脱出
  39年、7,26、アメリカ通商条約破棄。
      9,1、 ドイツ軍ポーランドへ。
  40年、3,12、南京汪兆銘政府。
      9,27、日独伊三国同盟。
  41年、12,8、真珠湾攻撃   
  42年、6,5、ミッドウェー海戦
  43年、2月、江北作戦
      6月、江南作戦
      12月、常徳作戦。
  44年、 3月、インパール作戦。
      5月、湘桂作戦(打通)
  45年、8,5、終戦。
651世界@名無史さん:2005/12/20(火) 23:49:02 0
森金千秋著「常徳作戦」図書出版、1983年
日米が開戦すると、中国戦線は戦争目的もアイマイになり、物資もないので
あまり活動するなとの方針だったらしい。ただ10倍ちかい敵軍が相手だと、
時々攻撃していないともたなかったようだ。この本では武漢の上流沙市の
あたりまでの両岸の作戦と洞庭湖の西の常徳の作戦の記録。
地理の勉強にはなる。
スティルウェルがビルマに中国兵を送るように蒋介石に要請するが、快諾
されなかったのは、日本のこの攻撃があったためと理解される。
日本は重慶進撃の具体的決定は無かったが、中国側はかなりそれを恐れ
警戒していた。
色々読めば読むほど、日本が何をしたかったのか解らない。
日中戦争は日本史でもなく、世界史でもぴったりしない変な領域だ。
652世界@名無史さん:2005/12/24(土) 00:20:15 0
図書出版社からは支那戦線の戦記ものが結構でてるね。
著者は中隊長級の軍人が多い。第二次長沙作戦とかもあったはず。
653世界@名無史さん:2005/12/25(日) 20:11:54 0
戦記物はあまり上官は実際の戦闘を知らないし、あまり下級兵士は
腹が減った苦労話ばかりで作戦をしらない。中間管理職がよいのでしょう。
正しい??戦記は防衛庁防衛研究所戦史室著の「戦史叢書」100冊だか
200冊だかがありますがあまりに膨大ですくみます。
朝雲新聞社の出版ですが防衛庁の天下り先でしょうか。
>647   結社の本が解りました。
綾部恒夫監修、野口鐡郎編「結社の世界史、2、結社が描く中国近現代」2005,7、山川出版社
目立たない本です。福山先生の本の追加情報があるのか不明です。
654世界@名無史さん:2005/12/25(日) 20:53:36 0
魯迅の「打落水狗」(水に落ちた犬は打て)という言葉は
1926年、魯迅が反革命派が占める北京を逃れ南下するときに述べたそうで
水狗というのは走狗つまり、外国の帝国主義になびいた連中という意味だ
そうですね。ぼかした政府批判らしい。
655世界@名無史さん:2006/01/03(火) 22:28:03 0
( 楊尚昆、ようしょうこん、Yang Shangkun,1907 - 1998、)
    四川省の生まれ。
  26年、入党、上海大学入学。
  27年、モスクワの中山大学。
  34年、長征に参加。
      抗日戦では、朱徳、彭徳懐と共に戦う。
      新中国成立後、党中央の業務。
      文化大革命で批判される。
  78年後、広東省軍区政治委員。
      ケ小平の時代に軍事委員会副主席として解放軍に大勢力を
      築いた。
  89年、天安門事件の弾圧を指揮。
  88年〜93年、国家主席。
  92年にその強大な軍部勢力が、江沢民を後継に考えるケ小平に
      批判され失脚。
656世界@名無史さん:2006/01/04(水) 16:48:36 0
ロバート・ローレンス・クーン著「江沢民」ランダムハウス講談社、2005年10月
アメリカ人が書いたのかと誤解して読み始めてしまった。
江沢民ヨイショの中国人の書いたごますり本である。
履歴や現代中国の幹部たちを知らないのでその点は参考になる。
1、江沢民の叔父は39年に共産党員で国民党に殺された。
  26年生まれの江沢民が13才でこの叔父に養子になったとされる。
  46年に入党するが、以後の出世にこの養子問題が非常に有利に
  利用されている。
2、江沢民は名門上海交通大学卒業とされているが、
  彼が入学したのは、日本支配下の南京中央大学に入学した。
  南京大学でもない。ここに3年通い終戦。編入で1年だけ
  上海交通大学に通った。戦時でもあり、労働運動もしていたので
  勉学の程度は想像される。
以後、上海閥にのって出世していく。
青春時代を日本に蹂躙され、以後の日本に対する変わらぬ憎悪が
彼を形成している。
657世界@名無史さん:2006/01/09(月) 23:14:25 0
1933,3−45、「フランクリン・ルーズベルト」(民主党)
  43,11、   テヘラン会談
  43,11、   カイロ会談
  44,10、   スティルウェル解任。後任はウェデマイヤー。
  45,2、    ヤルタ会談
1945−53、  「トルーマン」(民主党)
  45,12−47,1、重慶に特使として駐留。延安訪問。
             帰国後2年間国務長官
  47、6、    マーシャル・プラン発表。
1953,1−61、「アイゼンハワー」(共和党)
  54、      マッカーシー中傷発言で失脚。
658世界@名無史さん:2006/01/09(月) 23:38:09 0
八路軍には最大時三万人ほどの日本人兵士が参加していたという。

『誰も知らない中国』葛西純一
659世界@名無史さん:2006/01/09(月) 23:41:08 0
ジョゼフ・マッカーシー著「共産中国はアメリカがつくった」成甲書房、2005,12
この本はもともと1950年に米国で出版され、著者はマッカーシズムの
本人である。中心は大戦中参謀長をつとめ戦後国務長官だったマーシャルを
共産主義シンパだとして告発した本である。
1、ドイツの侵攻で苦しむロシアのために米軍が大陸に進攻し西部戦線を
  つくる協力をした。
2、ヤルタ会談でソ連の参戦がなくても日本に勝てたのに、無理に願って
  参戦してもらう形にしたので、北方領土や満州、モンゴル、北朝鮮など
  無駄な利権をソ連にあたえた。
3、毛沢東軍に好意的で戦後の交渉でも、無理に国共合同を試み、蒋介石の
  早期の駆逐を妨害した。
4、欧州戦線終結時に米軍のベルリンや東欧への進駐を妨害してソ連の
  占領にまかせた。
これらを大統領をあやつって行わせたと主張している。
私はこれらがマーシャルの故意のたくらみで行われたとは思わないが、
結果として共産側を利させたことは賛成する。戦争にうんざりしている
米国民に対する妥協が中心にあったと思う。
今日のイラクに対する米国民の感情に似たものだろう。
撤退の結果が反米勢力の利益になることもあろう。
660messy:2006/01/10(火) 13:27:51 0
話題の「マオ」が出てこないのはなぜ?当時の中国は歴史上でも珍しく言論の自由がかなりあったらしいことや、ソ連の暗躍がすさまじかったらしいこと、張学良は「ギャンブラー」を自称したことなど、面白さ全開の一冊です。
661世界@名無史さん:2006/01/10(火) 22:25:18 0
韓復矩(正しくは下に木)、かんふくきょ、Han Fuju,1890−1938
馮玉祥の部下として頭角をあらわす。馮が一人でロシアに行き不信感。
蒋桂戦争で馮玉祥を離れ蒋介石に付く。30年に蒋介石に山東省主席に
任命される。しだいに山東省を独立王国化する。37年日中開戦。
山東半島に出兵に抵抗せず後退したため蒋介石との関係がさらに悪化。
37年に武漢で蒋介石を捕らえようとした密議がもれ、38年処刑される。
662世界@名無史さん:2006/01/11(水) 18:29:36 0
棟田博著「台児荘」光人社、昭和50年、
原作は昭和16年から1年半「大衆文芸」という雑誌に連載し
野間文学賞をもらう。
中国華中の南北の鉄道は北京から漢口への京漢線、天津から南京(浦口)
への津浦線がある。北支那方面軍(寺内司令官)の第一軍は京漢線、
第二軍は津浦線に沿って南下した。
台児荘は津浦線山東省の最南にありすぐ南が江蘇省の徐州である。
第二軍の二つの師団の一方、第十師団の三個連隊約1万が10万の
李宗仁の軍に苦戦した。これを中国軍は台児荘の大勝利として宣伝
した。第2軍の師団の一つはこれらの南下作戦の命令に従わず山西省に
進軍し林彪に平型関で痛めつけられた。その師団長が板垣征四郎。
しょうがない奴だ。
台児荘は中国では台儿庄と書く。日本の書き方は子供のいるアパート
みたいで感じがでない。
663世界@名無史さん:2006/01/13(金) 18:45:10 0
現在の中国の鉄道路線は以下の通り。
>http://www.chinatravel.co.jp/travelinfo/chinaraily.htm
中国を東西に走る鉄路の中心は隴海線 。山東半島の南を海州湾といい、
その海州から甘粛省 の別名である隴まで
東から 連雲港、徐州、商丘、開封、鄭州、洛陽、三門峡、華山、西安、宝鶏、蘭州
内陸の主要都市を通る。
天津から南京までの津浦線と徐州で交差する。東から来た隴海線に徐州の手前で西北に
津浦線にループして抜ける支線のようなものがあって台児荘は正確にはその支線の駅
664世界@名無史さん:2006/01/16(月) 11:46:18 0
  李先念、りせんねん、Li Xiannian,1909-1992
      湖北省の生まれ。
1926年、入党
  29年、紅軍第4軍の政治委員。顎豫皖がくよかん湖北河南安徽ソヴィエトで活動。
  31年、顎豫皖をはなれ川陝ソヴィエトを建設。張国Z、除向前の指揮。
  34年、同地に中華ソヴィエト共和国を建設。
  35年、張国Zとの抗争を経て会寧で毛沢東の長征に合流。
      その後西路軍としてゴビ砂漠で苦闘し、盛世才のウルムチに達する。
  37年、延安に帰国。抗日軍事大学で学ぶ。
  38年より、新4軍の指導者。
  49年、湖北省主席
  54年以降、国務院で経済、食料等行政面の活動。
  75年以降、ケ小平と行動。4人組逮捕に参加した。
  83年に空席だった国家主席を一期勤めた。

波乱万丈の興味深い一生で更に検討すべきことが多い。
665世界@名無史さん:2006/01/17(火) 23:26:52 0
曽慶紅中国副主席は現在中国において胡錦濤に次ぐNo.2である。
 (曽山、そうざん、Zeng Shan,1899-1972)
     江西省の生まれ
1926年、共産党に入党。
  27年、南昌蜂起に参加。
      広東コミューンに参加。
  28年、毛沢東,朱徳と合流紅軍の前敵委員。
  29年、江西省ソヴィエト主席。
  35年、モスクワ、レーニン学院。
  抗日期には新四軍に参加。
  新中国では国務院で行政に活躍。

すごい経歴である。妻も長征に参加。
曽慶紅はその子供。親の七光りの太子党の代表人物。
666世界@名無史さん:2006/01/20(金) 05:31:50 0
李先念といえばその女婿が最近話題だが。
667世界@名無史さん:2006/01/24(火) 06:56:37 0
良スレ
668世界@名無史さん:2006/01/24(火) 06:57:41 0
しかしこのスレにあげられてるような本でも「反中」で片付けようとする人もいるのね
669世界@名無史さん:2006/01/24(火) 16:46:36 0
「八老」balao
天安門事件1889当時、共産主義体制保持を最優先しデモ隊に対し
断固たる処置を支持した長老グループ。
ケ小平、陳雲、李先念、彭真、ケえい超、楊尚昆、薄一波、王震の8名。

660さんのおっしゃる「マオ」が出てこないのは、あまりに値段が高く
手が出ないため。読んだ方書いてください。
岩波書店の横の南海堂は歴史書の書店ですがその後ろの文華堂は戦記物
専門店でひいきにしてます。
670世界@名無史さん:2006/01/26(木) 00:32:16 0
アンドリュー・ネイサン、ブルース・ギリ共著「中国権力者の身上調書」
秘密文書が暴いた処世術・人脈・将来性、阪急コミニュケーションズ、2004年
読まれた方も多いと思うが、現代中国に関心のある者の必読書とも思われるたいした
中国指導者群の研究分析であった。こういう本を読むためにこれまでの基礎知識を
つけてきたのかもしれない。
これらの指導者達の中国観として、「中国はあまりに複雑で騒然としているため、
真に開かれた、競争原理にもとづく民主体制では統治できず、国内の発展でも
外交政策でも強力な指導を今後とも必要とする」と考えているそうだ。
我々が中国史を勉強する重要な目的の一つがこれを考えるためかもしれない。
孫文は当時の状況をそのように考えたが段階的な発展により民主化が可能と
考えていた。共産党幹部はそれが不可能ということらしい。
台湾人はそれをのりこえたのは参考になるのだろうか?
尚、日本に翻訳されていない重要な現代中国解説書が米国などに沢山あるようだ。
671世界@名無史さん:2006/01/26(木) 02:14:05 0
>>665
中国内の政治関係調整というのは、一国の外交よりも難しそうなんだけれども。
その人の調整能力は親の七光りだけじゃ説明できない気がする。
672世界@名無史さん:2006/01/26(木) 09:28:42 0
私はある学会のボスの息子である同僚とよその大学の教授にある相談に
いったのですが、**先生のおぼっちゃんですかと対応がひどくいいので
驚きました。
673世界@名無史さん:2006/01/26(木) 18:15:32 0
>>670
紹介ありがとう。興味をひかれました。
国際法の先生が講義で何度かネイサンの名前を挙げていたし、読んでみようかな。
674世界@名無史さん:2006/01/28(土) 01:40:46 0
渡辺龍策著「馬賊、日中戦争の側面」中公新書
この本は1964年初版であるが、一度絶版になって最近再出版
されたのでないか?アイマイ。著者は1903−1988
著者の父親は張作霖の家庭教師というか相談役?をしていたらしい。
25年間も実際に中国でくらしたそうで、現場で歴史的な事件を経験して
いるので、記載に迫力がある。学者の歴史書と全く違う面白さがある。
このスレのはじめの方で張宗昌と日本人の関係などいろいろ書き込んで
いただいたが私に知識がなかったため反応出来なかった点が読んでいて
いろいろ思いあたった。
先日他の方が質問されていた紅槍会、大刀会などもでてくる。興味深い
写真が沢山でている。伊達順之助、小日向白朗、川島芳子にもくわしい。
>http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000031465840&Action_id=121&Sza_id=C0&Rec_id=1008&Rec_lg=100813
渋谷由里さんの上記の本より面白い。
小日向明朗著「馬賊王 小白竜」星雲社は読んでない。
>http://www.shuchousha.co.jp/kikan/book2005/kikan0510mazoku.htm
675世界@名無史さん:2006/02/01(水) 21:03:21 0
渡辺氏は戦後もしばらく大陸に残って国民党の機関で働いていたらしい
676世界@名無史さん:2006/02/04(土) 16:31:23 0
>>668
「反中」は一昨年あたりから全国的にキテるだからね。
「親中」は一発変換できないけど、「反中」はIME一発です。
677世界@名無史さん:2006/02/04(土) 23:14:08 0
ダライ・ラマ著「チベットわが祖国」ダライ・ラマ自叙伝、中公文庫
亜細亜大学のアジア研究所で木村肥佐生教授の訳で1981年に発行
された。オリジナルは英語なんだろうか?1962年に初版された。
日本で昭和38年に日高氏によって訳されたが、何故か毛沢東など
との北京の交渉、中共軍による弾圧の部分が削除されていたそうだ。
チベットの帰属問題は私には解らないが共産党支配は宗教家には
辛いものがあろう。
訳者の木村氏は「チベット潜行十年」の著者で「秘境 西域八年の
潜行」の著者の西川氏との微妙な関係は面白いがここでは触れない。
川口彗海の「チベット旅行記」は講談社学術文庫では6冊にもなる。
中公文庫では一冊に圧縮してある。私の本がどこかに潜り込んで
見つからない。
ダライラマの本にでているチベットの地図は参考になるが数ヶ所の
自治区や青海省とチベットの関係もよくわからない。
中国とチベットの文化圏の境のターチェンル(康定)の位置、
民国時代の西康省の境界、イザベラバードの行った限界などの
関係も解らない。
678世界@名無史さん:2006/02/05(日) 03:54:36 0
>>676
え、だから?
679世界@名無史さん:2006/02/10(金) 14:48:33 0
石川達三著「生きている兵隊」昭和文学全集11、小学館
第2次上海事変に続いて呉松に上陸。揚子江にそって南京陥落まで。
38年に掲載され、直ちに出版禁止になったらしい。当時よくこれだけ
書けたものだ。戦後老衰?で弱った著者に馬鹿な記者が南京大虐殺は
有ったのか無かったのかなどと迫ったそうだが、著者の言いたいことは
もう全部作品の中に書かれている。
こういう作品が現在文庫本としてないのは出版社の怠慢だ。
680世界@名無史さん:2006/02/11(土) 21:37:38 0
ニューズウイーク日本語版、2006年2月15日号
普段は買わないNWを買ったのは「男の子はどうして女の子より劣るのか」
という特集があったからだが、P20〜23に「共産党に盾つく編集長の
戦い」の記事があった。400万部発行の1月の「氷点週刊」に中山大学の
袁教授の論文を掲載し発行停止になった。植民地主義に抵抗した義和団は
「破壊主義者の集団にすぎなかった」とした。「中国の中学校で使われている
歴史教科書には思想的な偏りや事実の誤認があり、生徒に偏見や敵意を
植えつけかねない」と非難したそうだ。
この週刊誌は05年6月1日に平型関の戦いの記事でこの戦いでは解放軍単独の
勝利ではなく、国民党、共産党両軍が協力して奮戦し、国民党兵士数万人が犠牲
になったと報じたそうだ。
そんなことを言っても、山川の本だって中共の言うとおり書いてあるんだから
これを読んでもなにも感じない。
台湾独立運動にも関係して、中共は国民党を持ち上げる態度を見せている。
681毛澤東語録より:2006/02/11(土) 21:53:22 O
戦争―それは、私有財産が出現し、階級が出現してからはじめられたところの、
それによって、階級と階級、民族と民族、国家と国家、政治集団と政治集団、
これらの間の一定の発展段階に達した矛盾を解決するところの、
最高の闘争形態の一つである。

《中国革命戦争の戦略問題》より(1936.12)
682世界@名無史さん:2006/02/12(日) 23:32:21 0
北村鴻著「暁の密使」小学館、2006、1月
日清戦争と日露戦争の間の時期に河口慧海の他に仏典を求めて東本願寺から
チベットを目指し消息を絶った僧が実話としているそうで、彼を材料に
当時の情勢を清朝、イギリス、ロシアの派遣争いをからめてミステリーに
している。歴史事実にストーリーを無理に合わせたためか面白くない。
683世界@名無史さん:2006/02/13(月) 22:31:37 0
文芸春秋3月号短期集中連載「誰も書けない中国」第1回
富坂聡著「人民解放軍の反乱が始まる」
大層なタイトルが付いている。
内容は中国軍は装備近代化のために人数は減らそうとしているが
適当な就職先がなく不満がたまっているというだけの内容。
中国で中国軍についてまともに取材すればスパイとしてつかまる
だろう。この記事のように装備の遅れのように、欠点を書いて
いるように見せて、じつは脅威論を打ち消すような記事は
中国軍に歓迎されて、また何かニュースを教えてくれるかも
知れないだろう。
現代中国研究の絶望感がここにある。
684世界@名無史さん:2006/02/15(水) 05:20:52 0
>>670
>「中国はあまりに複雑で騒然としているため、
 真に開かれた、競争原理にもとづく民主体制では統治できず、国内の発展でも
 外交政策でも強力な指導を今後とも必要とする」

ロシアにも当てはまるなコレ。
685670:2006/02/16(木) 14:37:20 0
中国やロシアがそのような国であるのに対し、インドも複雑で生活水準もまだの
国なのに、民主的な選挙制度が根付いているようでその違いがどこにあるのか
考えようとしています。強力な皇帝制度に押さえつけられて国民が無気力、
自己中心的な変な意味の無政府主義になっているのでは、など考えます。
686世界@名無史さん:2006/02/17(金) 17:55:02 0
永富博道著「白狼の爪跡:山西残留秘史」新風書房、1996
著者は戦中軍曹をして山西省で住民の摘発などをしていた。
終戦になり閻錫山の依頼で日本軍が残留、八路軍と戦うが、
1949年に太原が陥落し捕虜になる。56年に戦犯として十三年の刑を
宣告され、撫順刑務所、63年に釈放された。
1、1937年(S12)北支那派遣軍の第一軍の内、東の石家荘の方から
  二十師団が太原を目指し、東北の北京の方から、平型関を通って板垣の
  第五師団が、北の大同の方から東条の関東軍が来襲した。
  黄河の東は日本軍が西は八路軍がしめた。
  閻錫山の軍は南部の黄河東岸の忠義を中心とする温県、吉県の山中に逃げ込んだ。
 、閻錫山は朱徳を副司令官に国共統一戦線。
2、1942年(S17)
  追い詰められた閻錫山に日本軍が接近、第一軍と防共協定。日本軍は
  閻錫山が投降すると期待したが協定だけだった。
3、1948年、日本軍晋中作戦、
  八路軍;除向前司令官兼政治委員、胡耀邦政治主任
      ケ小平とのこの繋がりが改革開放政策で天安門事件まで続く。
4、1949年4月閻錫山は米軍の偵察機で脱出。
  閻錫山軍の最精鋭部隊は薄一波の工作で八路軍に持っていかれる。
5、これらの中国帰還者は帰国後洗脳されていると警戒され、公安の監視が
  ついたという。著者はその中国帰還者連絡会の世話人。
  白い眼で見られた人々の互助組織でもあったろう。自己批判の書を
  沢山出している。
  もっともその組織が洗脳がとけるのを防ぐ相互監視組織なら怖い。
>http://shanxi.nekoyamada.com/books/cat_cat69.html
他にも沢山関係書があるようだ。
687世界@名無史さん:2006/02/21(火) 23:58:46 0
笠原十九司著「南京難民区の百日」虐殺を見た外国人、岩波現代文庫
この本は1995年に刊行されたものに、加筆して2005年8月に
第1刷がでたのだそうだ。以前に読んだ気がするが何が新しいのか
よく解らない。色々人様の本を継ぎ足したもので著作権の関係が
よく解らない。捕虜の処刑があった。軍服を脱いだ兵の混じった
市民からの兵の選別がいいかげんだった。逃亡しようとする兵と捕虜の
違いもあいまい。
作戦そのものの命令指揮がいいかげん。
日中戦争全体がいいかげん。
688世界@名無史さん:2006/02/22(水) 17:12:26 0
唐生智の官邸は南京東部の城壁に近く玄武湖を望む百子亭にある高台。
とあるがよく解らない。彼は坊主だから寺が傍にあるのか?市政府の
あたりか?
激戦になってくると挹江門近くの中山北路の中国の宮殿風にデザインされた
堅固な鉄筋コンクリートの鉄道部の地下室に移転したとある。逃げやすい
場所のようだが、駅舎なのか?
689世界@名無史さん:2006/02/25(土) 15:15:13 0
内田知行著「黄土の大地」山西省占領地の社会経済史、1937−45、創土社、2005、
タイトル通りの内容で面白くない。一橋大学とはそういう大学なんだろう。
参考文献が色々出ていて役立つが細かい誤りが多く迷い込む。
黄土という言葉の実感が解らない。
(犠盟会、山西新軍)を要チェック。
690世界@名無史さん:2006/02/26(日) 21:45:34 0
児野道子著「日本陸軍の対閻錫山工作」
       「二十世紀アジアの国際関係」原書房1995年
1、閻錫山は日本の陸軍士官学校へ留学。当時岡村寧次、板垣征四郎は
  留学生世話係だった。
2、辛亥革命直前、山西省には山西旧軍と山西新軍があった。新軍は
  日本留学生を中心にした近代軍。
3、戦争中はぬらりくらりとして結局日本に利用されなかった。
4、戦後の日本軍の残留問題は、残留グループが愚かなだけ。
  ただし、残留に軍隊の上下関係による命令があったのかはっきりしおない。

閻錫山についていろいろ参考になる。
691世界@名無史さん:2006/02/26(日) 22:33:18 0
内田知行著「犠牲救国同盟会史序論」
        「季刊現代史」6号1975年8月、松本清張編集
         p、55−97
1935年5月、 長征終わる。
     11月、綏遠事件、傅作義は閻錫山の部下。
1936年2月、 東征宣言
         紅軍黄河を渡り山西省へ進入。約三分の一を支配。
         閻錫山は蒋介石に救助を依頼。商震軍を派遣。紅軍を撃退。
         紅軍は劉子丹を失う。
     9月、 閻錫山と共産党は妥協して抗日組織、犠牲救国同盟会(犠盟会)を造る。
         犠盟会の作った軍事組織が山西新軍。薄一波はその指導者。
1937年、   日中戦争、太原陥落。閻錫山は犠盟会から離反。抗日路線放棄。
1938年、   林彪の部隊と閻錫山の部隊が誤って戦闘、林彪は重傷を負った。
1939年、   閻錫山の部隊が共産系の部隊を攻撃。これがきっかけになり閻錫山の
         精鋭部隊が紅軍に寝返る。薄一波の工作。これが山西新軍事件。
692世界@名無史さん:2006/02/28(火) 09:59:01 0
「白狼の爪跡:山西残留秘史」この本のタイトルがよく解らなかったが
白狼というのは、小日向白朗の意味なのか?気が付いてびっくり。
693世界@名無史さん:2006/03/02(木) 22:05:14 0
内田さんの本はつまらないね。阿片の論文入れるなら、親日政府の阿片管理を扱った論文もいれなきゃ。片手間になっているのはなんか理由があるのかしら。
児野さんの論文は簡潔にまとまっていいね。
永富さんの「白狼の爪跡」も良いね。城野がファビョった話が出てる。彼は中帰連の活動家だったけど、抑留時代について自分の言葉で書き下ろしせずに、当時の記録をそのまま転載していたのは、彼なりの気持ちの処し方だったんだろうなあ、と思ったりする今日この頃。
694世界@名無史さん:2006/03/03(金) 17:04:34 0
吉開那津子著「消せない記憶;湯浅軍医生体解剖の記録」日中出版、1993
山西省の中部を北の大同から太原を通り南方(南京の浦口)へ向かう同浦線。
その東側の大行山脈の南部の潞安の病院に著者は勤務。死刑になる健康な捕虜
を使って麻酔をかけてだが手術の練習をさせて戦後、中国の刑務所に収容され
ていた。他国ではこんなことをしなくても訓練は出来たのだから無用な
くだらない行為だった。やられたほうはたまらない。
695世界@名無史さん:2006/03/03(金) 18:10:04 0
   1938年
第一戦区平漢線方面;程潜・・宋哲元、商震・・
第二戦区山西方面;閻錫山・・衛立煌
            ・・傅作義・・八路軍・朱徳司令、
                       聶栄臻政治委員
                   第一師長;林彪、五台山根拠地
アグネス・スメドレー著「中国は抵抗する。八路軍従軍記」岩波書店1965年
1937年8月19日から1938年1月9日にかけて、スメドレーは延安から
西安から山西省に入り北部の五台山から圧迫される部隊とともに南下しレポートを
書いた。陝西省のとなりでもあり、戦争の初期なので、国府軍と共産軍も比較的
協力し戦闘し被害もうけている。
696世界@名無史さん:2006/03/03(金) 22:22:15 0
高木健夫著「正、続、中国風雲録」鱒書房、昭和30年
古本屋でただみたいな値で買った汚いゴミみたいな本だったが、大変な
大当たりだった。辛亥革命から共産中国の成立までの中華民国史をこれほど
明解に書いた本を知らない。著者の高木氏は私が知らないだけで有名な
コラミニストらしい。この本も有名な本だろうと想像される。著者が戦前の
中国に記者として豊富な基礎知識をもとに走り回った強みなのだろう。
特に北洋軍閥政権の現場、北伐後の反蒋介石の動き、国共内戦時のアメリカの
ドジな動きなどその詳しさは抜群だ。公平な視点をもってる点が最もよい。
697世界@名無史さん:2006/03/03(金) 23:16:38 0
新聞記者でしょ>高木ケンプ
いろいろ渡り歩いて戦後は読売。
北支那方面軍司令官多田駿と仲が良くてね、
彼の官舎に入り浸って、陸軍の悪口言いまくってた。
多田は全く怒るでもなしにそれを聞いてたとか。
高木に言わせると当時の多田は”どうやってうまく負けるか”ばかり考えてたらしい。

彼の自伝に面白い話がある。
ある心中事件でどうしても死んだ女性の写真が手に入らないので、
弔問客の振りをして葬式に出、焼香のときに壇上の写真を分捕ると
一目散に逃げた記者がいた。それが江川問題のときのセリーグ会長鈴木龍二だとか。
もっともこの手の話は井上靖の小説でも出てくるから、戦前では珍しくないのかも知れないが。
698世界@名無史さん:2006/03/05(日) 01:01:04 0
岩波から山本武利氏の編訳で「延安レポート」が出ますね
699世界@名無史さん:2006/03/05(日) 01:17:08 0
「リポート」ですた
当時延安にいた人間の回顧録はいろいろ出てますが、一番面白いのはどれかな?
700世界@名無史さん:2006/03/05(日) 02:17:08 0
石原莞爾が毛沢東と会談する「ジパング」かな
701世界@名無史さん:2006/03/05(日) 09:27:36 0
ウラジミロフ,ピョートル・П.高橋正.
延安日記 : ソ連記者が見ていた中国革命 / ピョートル・П.ウラジミロフ著 ; 高橋正訳.上,下.
東京 : サイマル出版会,1975.
702世界@名無史さん:2006/03/07(火) 00:34:49 0
雑誌?「アジア遊学45、特集山西省」勉誠出版
「中国現代史を目撃した閻錫山の旧居」張建新、p112
山西省の北の端に大同があり近くに雲岡の石窟がある。
山西省のほぼ中央に省都の太原があり、大同と太原の中間部の東に
五台山がある。五台山に行く途中の定襄県(昔の名は五台県)の川辺村に
29才で都督になった閻錫山は屋敷を立てた。30余の建物で千の部屋数が
あったそうだ。現在その建物は残っていて博物館になっているそうだ。
著者はその館長さんだそうで、文章は明解で行ってみたくなるが、太原
からの距離の感覚がつかめない。山西省だけでも広大な広さだろうから。
703世界@名無史さん:2006/03/07(火) 22:43:45 0
林浩(リンコウ)著「客家の原像」中公新書、1996
著者は1955年生まれの中国人客家で早稲田大学博士課程に留学中だった。
創価学会の人が創価学会について本を書くようなもの。当然知識は豊富で、
批判疑問点はない。
辛亥革命で孫文、廖仲ト、胡漢民、宋一族、
共産側には、朱徳、ケ小平、葉剣英、郭沫若、
国民政府軍には張発奎、薛学、陳銘枢、葉挺などが客家。
紅軍の根拠地は客家部落が基礎になったものが多い。そうだ。
704世界@名無史さん:2006/03/10(金) 19:52:31 0
香港の月刊誌の「動向」というのが売っていたので買ってみた。
p6、「曾慶紅李長春向胡錦涛権力挑戦」
来年胡錦涛の任期がきれるので、この二人がその対抗馬だそうだ。
先日、自民党の二人が中国を訪問し、二階産業相は序列2位の呉邦国と
日本では首相と呼ばれる温家宝と会談したのに対し、中川政調会長は
序列の低い李長春しか相手にしてくれなくて、阿部官房長派の中川は
親中国の二階より冷遇されたと報道されたが、呉邦国は自民党でいう
副総裁のような飾りの地位だし、中国の首相というのは役人の管理者の
ような地位だ。李長春は対抗馬かもしれないが切れ者でかえって価値が
ある会談だったかもしれない。こんな記事は香港の雑誌だから出せる
ので、本国では出ないだろう。香港はニュースソースとして大事そうだ。
705世界@名無史さん:2006/03/12(日) 20:41:35 0
楊逸舟著「大東亜戦争秘録、ビルマ戦線従軍記」共栄書房、1980
インドのアッサムからスティルウェルによって作られたレド公路を
通って彼の指揮の元、中国人部隊のビルマ進攻に南京から派遣された
記者の報告。大本営発表のようなよいしょ記事で面白くない。
レド公路は1942年11月に工事がはじまり、43年11月には
山岳部は超え平坦地に達した。一部は日本軍が基礎工事をやって
あったそうだ。一部は8車線のところがあったそうだ。(???)
中国側の指揮官の孫立人はウエストポイント出身でスティルウェルと
うまくいってたそうだ。台湾に行ってからはアメリカスタイルを
通そうとして、蒋経国の政治委員のいるスタイルと合わないで
追放されたようだ。46年にすでに邦訳が出たらしい。
706世界@名無史さん:2006/03/12(日) 21:21:22 0
張良著、ネイサン、リンク監修「天安門文書」文芸春秋社、2001年11月
天安門事件は1989年6月4日。アメリカに持ち込まれ英訳された文書は
2001年1月にアメリカで出版された。当事者でなければ知らない情報が
含まれているが真偽は不明。発表で利益を得ようとした者の持込だろう。
学生の運動が拡大、歯止めがきかなくなり暴走し、当局もやむを得ず弾圧した
との弁解に私には見える。89年当時という時代はロシアのペレストロイカ、
東欧の「連帯」、チャウシェスク政権の崩壊など共産主義がぐらついた時だ。
中国の学生が、共産主義否定なのかアイマイだったこと。運動が学生だけで
市民の意識が低いことなどが失敗の理由になろそうだが・・
中国で共産党による革命が起こったことが良かったかどうかによりこの学生
運動の評価が決まるのだろう。何しろ長い本だ。疲れた。
707世界@名無史さん:2006/03/16(木) 23:14:06 0
林芙美子著「北岸部隊」中公文庫、2002年
1937年12月に南京陥落。
  38年5月徐州作戦。
  38年9月から10月にかけて日本軍は揚子江の北岸を南京から
       武漢に侵攻した。著者は新聞社のトラックに同乗しその全区間を
       取材した。書かれた原稿は無電で伝達され翌日の新聞に掲載された
       という。やりとげた行程に驚嘆すると共に、感性豊かな記録と
       なっている。当時の従軍作家に戦争の暗黒面を書いてはならない。
       将校は高潔、勇敢に書かなければいけないなどの制約があった
       らしい。地図がよい参考になる。揚子江周辺には多くの湖沼がある
       のは知らなかった。
708世界@名無史さん:2006/03/17(金) 03:54:53 0
陳独秀なんてもっと中国や日本で注目されてもいいはず。
709世界@名無史さん:2006/03/17(金) 11:41:17 0
>>660,670
『マオ』『中国権力者の身上調書』は、康生に関して
『中国諜報機関―現代中国「闇の抗争史』ロジェ・ファリゴ 著
に追加情報ありますでしょうか?
710世界@名無史さん:2006/03/17(金) 11:59:43 0
>>708
「中共礼賛」をしてきた人たちが目を向けてもよさそうだよね
711世界@名無史さん:2006/03/17(金) 14:24:00 0
>698
延安リポートは900ページ近く。つかれるな。がんばりましょう。
712世界@名無史さん:2006/03/18(土) 09:51:17 0
>709
『中国権力者の身上調書』は最近の話なので、75年の病死?の康生は
でてきません。マオは読んでないので解りません。
713世界@名無史さん:2006/03/21(火) 04:47:58 0
i
714世界@名無史さん:2006/03/24(金) 15:28:16 0
『延安リポート』のリポートまだー?
715世界@名無史さん:2006/03/24(金) 16:38:39 0
石川達三著「武漢作戦」石川達三著作集3、新潮社、1972
南京陥落後日本軍は武漢めがけて侵攻した。
当時、日本は作家を中国に派遣し現地報告を書かせた。
林芙美子は揚子江の北岸の陸軍に随行し、石川達三は海軍と共に
行動したようだ。その結果こちらは、臨場感の薄い全体の状況の
解説のようになってしまい面白くない。南京以後の日本国内では
終わりの無い、戦争目的のあいまいな点に疑問を持つまともな心理が
働いていたようだ。やはり米国相手の戦争突入が狂気の心理を形成
したようだ。

高木健夫著「狂乱の漢口を衝く、陥落の前夜」昭和13年、という本が
あるらしいのだが、図書館にあるが閲覧ができない。本がボロボロなのか?
残念。
『延安リポート』は本屋にも図書館にもまだ出てませんね。
716世界@名無史さん:2006/03/27(月) 22:48:54 0
藤村信著「ヤルタ、戦後史の起点」岩波書店、1985年
著者の経歴がよく解らないのだが、中日新聞のヨーロッパ駐在記者で
停年後もパリに留まって「世界」などに記事を書いていたらしい。
年令もあいまいだが健在なら80代の方なのか?この本も有名な本なので
あろうが、西洋史、東洋史に限らず現代の世界の成り立ちの基礎がこの
会議から始まったことがよく解る。一般に日本人の書いた歴史の本は
つまらない。それは本の分量が先に決まっていてその中に収める。
それに対してアメリカなどの本はテーマをしぼって解らせるまで情報を
つぎ込む。著者は珍しくそのスタイルだ。中国に関してはヤルタから
ポツダムまでの変化が興味深い。読んでいると頭の中が知識の洪水になる。
717世界@名無史さん:2006/03/28(火) 15:52:19 0
暁沖著「汚職大国中国・腐敗の構図」文春文庫、2001年
香港の記者が中国の8つの汚職事件摘発を取り上げている。
取材の政府の協力があったようで詳細まで暴露されている。
現在の中国という国が汚職だらけの穢れた国だとも言えるし、
政府組織が汚職防止摘発に努力しているとも言える。
ただ気になるのは、この摘発された土地が、江沢民、胡錦涛の
ライバルの地元で汚職摘発がライバルつぶしに見えてくる。
江沢民のなわばりの上海がない。
718世界@名無史さん:2006/03/29(水) 00:14:10 0
船木繁著「支那派遣軍の終焉」
別冊丸、中国大陸戦記、p350
丸という戦記雑誌はつぶれてないのかと思っていたらまだあった。失礼。
1943年、11、カイロ会談
  44年、4、 打通作戦はじまる。
      10、スティルウェルの罷免要求
      11、汪兆銘死亡。
  45年、2、 ヤルタ会談
44年の11月に岡村寧次は支那派遣軍総司令官に任命される。
岡村は行き詰まりの打開策として重慶攻略作戦を計画提案するが、
補給面で余力が無かったこと、中国南東部に米軍の上陸が考えられ
ていたことより承認されなかったが、小規模には実行されたようだ。
揚子江北部では湖北省北部の老河口に進出、南部では湖南省西部の
芷江まで進出している。実際は制空権を握った米空軍と米軍支給の
装備の充実した中国軍に苦戦したようだ。
719世界@名無史さん:2006/03/30(木) 17:25:11 0
age
720世界@名無史さん:2006/03/31(金) 00:05:52 0
延安リポートがやっと図書館に入りました。残念ながら
しばらく行けません。
世界史と関係ないけれど、西武線中井のそばに林芙美子の自宅だった
記念館があります。私は関係ないけれど、デートにいいような落ち着いた
いい家です。
721世界@名無史さん:2006/04/03(月) 21:54:07 0
愛新覚羅溥儀著「わが半生」上下、筑摩叢書、1977年
「満州国」皇帝の自伝。
上巻を読んだ後下巻が消失していた半年位、間があいたので
記憶が薄い。上巻のほうが面白い。北洋事大の情報が多い。
ただ皇帝にしては社会情勢に詳しすぎて、人民日報の記者の
代筆と噂されるのももっともらしい。下巻の終戦、収容所の
思想改造になると、そうしなければ生きられない生活があわれ。
722世界@名無史さん:2006/04/07(金) 14:33:48 0
「延安リポート」2006年2月、岩波書店
この本は図書館の歴史の場所でなく、軍事の棚にあった。最初館員の
間違いかと思ったが正しい位置と解った。1944年7月からスティルウェルの
提案もあり、アメッリカはディキシーミッションと呼ばれる調査団を延安に送った。
南北戦争の南軍をディキシーと言うが、重慶軍に対する南方の中共軍の延安を、
それにたとえたのと、担当責任者のディッキー大佐の名にかけている。
彼等は沢山のレポートを送ったがその中で野坂参三を中心とした、日本人捕虜に
対する工作活動の部分の報告である。当時の延安の状況が解ると期待して読むと
失望するだろう。よく読めば日本人捕虜に対する優遇は「人道的配慮」から
なされたものでなく、「捕虜利用が宣伝戦の有力な武器となる」というためで
ある事がわかる。また延安という場所が脱出不可能な場所であり、従属する
以外にない環境だったのも勿論である。
この本に出ているわけでないが、派遣されたアメリカ人には「全員」情報工作員で
ある中国人美人が提供されていたのは、最近渡中した日本人の政治家やOO7の
映画の通りである。好色な九州の政治家が最近中国のために活動しているのも
心配だ。これらのミッションも44年末のスティルウェルの更迭で中止になった。
延安からの報告で「中共はロシアのような共産主義組織ではなく、実態は民族
主義運動だ」という誤った情報が、戦後のマーシャルなどの謝った国共合作工作が
蒋介石軍の移動を禁止し早期の掃討を不可能にし、日本軍の武器の中共軍への
移転を助け、中共に有利に働いた。図書館にあればよい程度の本だ。
723世界@名無史さん:2006/04/13(木) 23:43:36 0
林京子著「上海」林京子中国小説集、講談社文芸文庫、2001年、
著者を知らなかったが75年の芥川賞受賞者だそうだ。
上海事変から終戦近くまで上海の共同疎開にくらし、81年から
再度上海を訪問している。こんなに上海に詳しい人を知らない。
知性あふれる視線で戦中、戦後の上海をみている。
興味深い情報が多く、参考になった。
724世界@名無史さん:2006/04/14(金) 16:16:02 0
堀田善衛著「上海にて」堀田善衛全集、9、1994年
著者は出征、入院後中国で広報活動に従事、終戦後上海で国民党の
情報部門に徴用され46年の末に帰国した。戦後再度訪問しその変化を
述べている。非常に興味深いことに関与したと思われるが恐らく帰国
許可がおりる時にその間知り得たことはもらさない一筆があるのだろう。
肝心の情報はないがそれでも当時の上海の様子がなまなましい。
当時蒋経国が上海を管理していたようだ。インフレがすごいらしい。
ただ帰国後、著者の読んでる本はスノー、スメドレー、エプスタイン
など赤い本ばかりで戦後の中国の評価はそれに影響されている。
725世界@名無史さん:2006/04/14(金) 16:30:35 0
697さんが高木健夫の話題の所で、多田司令官というのが出てきます。
4月16日の読売新聞のシリーズ「戦争責任」で南京陥落当時の和平交渉で
陥落により日本が条件を引き上げて決裂する記事がありますが、この中で
多田副参謀(総?)長だけが、和平に賛成したとありました。
勝ってる時に欲張らないですばやく止めるのが戦争のコツなので、
日本のラストチャンスだった。
726世界@名無史さん:2006/04/15(土) 16:36:20 0
>>722
>この本に出ているわけでないが、〜
以降のくだりが面白かった。
727世界@名無史さん:2006/04/15(土) 19:53:07 0
>>722
>この本に出ているわけでないが、〜
以降のくだりのソースを教えて欲しい。
小説『黄土の狠』(伊藤桂一)なんかも、
華北に駐屯する部隊に投降してきた女八路
(当然まだ八路ともつながっている)と、
小隊長中隊長鮮人通訳がそれぞれ関係を持つはなしだったし、
支那人が外国人と腹の探り合いをするとき必ず女を使う習慣が
あったりしたら、ちょっと面白いからね。

 もともと山西省は、中国では風紀のもっともみだれているところで、
 土民間でも、姦通などは全く常識になっている。
 堕胎や殺児も公然と行われているのが現状だった。
 女一人の値段でさえ、将校の給料なら充分買えるのだ。
 それも容貌の美醜にはあまりかかわりなく、肉体の充実度が基準で、
 二十歳がもっとも高価な水準を保っている。
                  『黄土の狼』伊藤桂一
728世界@名無史さん:2006/04/15(土) 19:55:12 0
>>722
あと、こっちと岩波の延安リポートとどっちが面白かったかも教えて

『米戦時情報局の「延安報告」と日本人民解放連盟』(全2冊)大月書店
山極 晃 著
http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0105799242
729世界@名無史さん:2006/04/15(土) 22:23:30 0
>>725
参謀次長ね。
http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/general/colonel02/tada.html

そもそも彼は南京攻略自体に反対だった。
トラウトマン工作の打ち切りにも反対して米内や廣田と論争した。
そのとき、解散をちらつかせる米内に対し、明治天皇のお言葉を
引用して反論したことは有名。
730世界@名無史さん:2006/04/16(日) 01:04:19 0
>この本に出ているわけでないが

ソースは「延安日記」 by ピョ−トル・P.ウラジミロフ サイマル出版会です。
この本は非常に非常に面白いのですが、出版当時中ソ対立の時期なので
評価が難しい欠点があります。さらに下ネタですが、スメドレーの下半身は
開放的で、ゾルゲなどとも交流があった。よく言えば情報収集のためには犠牲を
惜しまなかったとも言えます。朱徳からネタを話してもらうには、見返りがあった
などの話もあります。九州の政治家に関しては根拠は何もなくげすのかんぐりと
いうやつです。でも有りそうな気も・・・
上記の堀田の本では、戴笠などの特務も女性工作員を使ったそうです。
板の品位を落とす話題で申し訳ございません。
731世界@名無史さん:2006/04/16(日) 21:41:04 0
>728
山極晃氏の大月書店の本は同じ本をまとめたものなのでどちらでも
いいわけですが、山極本は要点がよくまとまっていて読みよいと思いました。
付録が付いているのを忘れないのが大事。

山極晃著「米中関係の歴史的展開 1941年ー1979年」研文出版、1997年
この著者は要約するのが得意らしく、よくまとまってはいるのですが、いろいろ
書いていると結局どうでもいい本になってしまっています。
日本人もねらいをしぼって、その問題はその本一冊あれば全部出ているという本を
書いてもらいたいものです。
732世界@名無史さん:2006/04/16(日) 22:14:42 0
堀田善衛著「時間」堀田善衛全集、2、1993年、p269−412
著者は1945年に南京に旅行して当時南京市の顧問をしていた草野心平から
情報を仕入れたようだ。中国語も英語もできる。それによると、南京市は
1928年に特別市になり、当時人口17万だそうだ。日本軍の攻撃前は
人口が70万くらいだったらしい。攻撃により、逃亡する市民が多数、
有産階級は逃げ貧乏人は逃げられなかったようだ。上海方面から逃亡して
くる兵士多数。さらにそれらが逃亡通過していったようで、日本軍突入時
50万とも100万とも言われ人数はだれにも不明なようだ。
当時の南京は官庁施設、大学等教育関係の施設だけで、公共施設以外何もない
空き地も多い地方都市のようなところだったらしい。
この本は1953年から55年にかけて書いたフィクションである。
欧米の文献をいろいろ読んだようだ。
主人公はインテリの中国人で1937年の11月30日の逃亡でごったがえす
南京の川辺からはじまり、12月12日の陥落に続き、妻や姪はレイプされ
殺され子供も死ぬ。その後便衣兵の死体処理や強制労働をやらされ、その後
接収された自宅で召使をやりながら、地下室から無電で情報を重慶におくる。
市民の日本軍協力者もいろいろ出てくる。
733世界@名無史さん:2006/04/17(月) 01:12:23 0

■日中韓の正しい歴史 基礎知識入門サイト

 韓国は“ な ぜ ”反日か?
http://3.csx.jp/peachy/data/korea/korea.html

東亜板では最も有名なサイトのうちの一つ。

韓国の話を中心に、中国や日本に関する問題を
過去・現在ともに、わかりやすい言葉で大雑把に把握できる。


まだ読んでない人はぜひ一読を。
734世界@名無史さん:2006/04/19(水) 10:51:23 0
高野悦子著「黒龍江への旅」新潮社、1986年
著者は岩波のビルの中にある岩波ホールの支配人。
著者の父が満鉄の技術系の幹部だったので満州育ち。
1983年に中国の招待で中国東北地方をめぐる。
なぜこの人を公式にあんなに中国が歓迎するのか
よく解らない。
文革が終わり改革開放の時期で天安門事件より前の期間の
中国は対日の対応が独特の時期だったのだろう。
著者の姉が岩波の社長夫人のようだ。
ファザコンの独身女性の気持ちの悪さがただよう。
昔生活していた人の知識は違う。
735世界@名無史さん:2006/04/21(金) 23:10:16 0
宮崎正弘著「中国財閥の正体」その人脈と金脈、扶桑社、2004年
本屋の店頭に中国経済の繁栄とか破滅とか色々本が沢山ならんでいるが
怪しげなものも多そう。判断の基礎となる中国の経済データがでたらめ
だろうから当然だろう。著者は中国経験が長く判断の根拠となる資料も
あげているので読んでみた。キーワードは「太子党」で昔も今も中国が
コネ社会であることのようだ。次のセンテンスは説得力を持つ。
中国は法治国家というよりも、権力の集中と腐敗、その人脈がパワーを
持つ「人治」の国。資本主義で最も大事な「規制緩和」「情報公開」
「ルールの遵守」が「人治」のために実現しないのだから、経済の
メカニズムが円滑に作用する筈がない。そうだ。
736世界@名無史さん:2006/04/22(土) 23:51:11 0
静かな良スレだ
737世界@名無史さん:2006/04/27(木) 23:56:48 0
関志雄著「中国経済のジレンマ」資本主義への道、ちくま新書、2005年10月
著者はセキさんでなく、カンシユウさんで、香港の大学を卒業後、
東大の大学院で中国経済の論文を書いて、今は野村の研究所に
いる、多分中国人でしょう。学者らしく、中国経済の発展、問題点を
あげ、2050年くらいまでに、しだいに共産主義をやめて、資本主義にはっきり
なっていくだろうとの、好意的、楽観的な予想をしている。
既得権益階級である共産党の幹部は、そのころまでに、国有組織の民営化に
乗じて、国家財産を収奪して資本家に移行していくから特に不満もない。
問題はその移行期に一波乱あるかどうかだろう。
未来の話になっていくと、歴史板からますます外れていく。
738世界@名無史さん:2006/04/28(金) 23:42:05 0
矢吹晋著「文化大革命」講談社現代新書、1989年
著者は「反体制」運動などという言葉の大好きな学者なのだろうが
その文革のまとめであり、あまり面白くない。
著者は「中国の若者たちが社会主義を疑うことを学んだことが文革に
最大の教訓である」などといっているが、現在の中国の若者は金に
走り、愛国に染まり、社会主義体制に関しては眼をつぶり考えない
ようにしていると思う。疑うこともしないようだ。
739世界@名無史さん:2006/05/08(月) 00:21:54 0
連休に重慶に行きました。
重慶に西に歌楽山という丘陵地帯がありそこに戴笠が所長の中国と
米国の軍事技術協力施設である中美合作所がありましたが、同時に
共産党員の収容所で処刑所でもありました。中国も連休なので、
その何箇所かある施設を中国人に混じって見学しました。
そこから更にタクシーで30分ほど箱根のような坂を上がった所に
戦争当時の主席の林森の広大な屋敷あとの「林園」があります。
あまりに広大なので、現在はその一部は庶民のアパートに一部は
解放軍の学校になっています。蒋介石、宋美齢、マーシャルが使った
建物があり、毛沢東も国共会談のときここに泊まりましたが、あまりに
広く見つかりません。そこにその学生兵士達が通りかかり、私を連れて
全部案内してくれました。私が持っていた中国語の重慶の案内書を
読ませて私の中国語の力をチェックまでしました。携帯に付いたカメラに
馴れてないようで驚いていました。
最後に私の持っていた本に「中国人很友好!」と書き込みましたので
握手して別れました。很という字はとてもという意味です。
740世界@名無史さん:2006/05/08(月) 01:08:10 0
>解放軍の学校
>学生兵士達
>私の持っていた本に「中国人很友好!」と書き込み

ステークホルダーとしての責任を果たすために、今年はこんな教育をしてますよというのが伺えて面白いです。
741世界@名無史さん:2006/05/08(月) 22:57:22 0
中国の本屋に蒋介石の本がいくつか並んでいるのに驚いた。
従来はほとんど無視。ヤクザとつながりがあったとか、虐殺したとか
いう話ばかりだったのが風向きを変えようとしているらしい。
台湾の独立派を牽制するために、統一が方針である国民党を
おだてて引き付けようとしているようだ。
日本文学関係では村上春樹の本や林真理子の本もあったが
一番目立つ場所を占めていたのは、なんと渡辺淳一だった。
あんな本読むなよと言いたかった。
742世界@名無史さん:2006/05/12(金) 17:49:17 0
堀田善衛著「歴史」堀田善衛全集2、筑摩書房
訳の解らない題だが内容は著者の経歴に似て、上海で終戦を迎えた
主人公が、国民党に留用され残され、国共内戦の間際の上海の様子が
書かれている。小説としては非常に面白くないが、歴史の情報材料と
しては貴重だ。歴史の本より詳しいし著者の知識も広く深い。
日中戦争中に日本軍と重慶政府の間に交易があったりしている。
著者の著作をもう少し読んで評価を考えよう。
743世界@名無史さん:2006/05/19(金) 16:31:05 0
「加藤周一対話集」(国民的記憶を問う)、かもがわ出版、2001年
サヨがサヨを集めて対話している。
対談;変わるものと変わらないもの、堀田善衛
ふたりでウオーターゲイトやベトナム戦争でアメリカの悪口を言い合う。
対談;戦争体験と異文化接触、菅野昭正、
堀田善衛は中国、インド、ヨーロッパと偏らない外国経験があると評価。
私もそう思う。堀田は当時としては最初から語学能力が高い。どうやったの
だろう。
加藤周一も自分の本に「知の巨人」などと書いている。ぼけたのか。
筑紫哲也の知識を豊富にしたような人物だ。朝日に投稿して食って
いたのだからそうなるだろう。
744世界@名無史さん:2006/05/19(金) 17:24:43 0
奥村哲著「中国の現代史」戦争と社会主義、青木書店、2001年
著者が世間でどのように評価されているのか知らないが、私には
最近読んだ本の中ではもっとも説得力ある本でした。
青木書店の社長の青木さんが亡くなったと新聞に出てましたが、
正統派の左翼書店でよく利用させてもらってます。
著者は元マルクスボーイと言ってますが客観的な論調と思いました。
私なりの理解では、中国共産党は外国、彼等の言う国際帝国主義との
戦いにより成長してきた。日本の侵略に対する戦いで中華人民共和国を
成立させ、朝鮮戦争のアメリカとの戦いの中で大躍進などで、国内の
共産化、国有化を実現し、ベトナム戦争を作って文化大革命により
国内をひきしめ、世界的な共産主義の後退に対しては、中ソ対立を
煽って持ちこたえた。その後冷戦崩壊で敵がいなくなり改革開放
路線をとっていると言う。
この他、中国の地主、農民階級というものは、財産の均等割り相続により
地主階級といえども安定性はなく、固定的でなかったというのは、
基礎知識がないのでよく評価できません。
著者は書いていないが、私は外国との対立の中で生き延びてきた
中国共産党が冷戦崩壊後、いなくなった外国の敵を無理やりつくって
国内の引き締めに利用しているのが、靖国問題と理解している。
745世界@名無史さん:2006/05/22(月) 23:23:34 0
愛知大学現代中国学会編「中国21」臨時特集号、2006,3、風媒社
特集「日中関係のゆくえをさぐる」
加々美光行と天児慧amakosatosiが中国に行って学者と討論した。
日本の戦争の責任は指導者にあり国民はその被害者という考えは、
日中両国民に違和感を感じさせているが、中国政府はまだこれに
固執している。天児も違和感派だが、中国御用学者の加々美も
固執している。加々美は安保騒動がなつかしくてしょうがないし
現在も愛知大学で自衛隊のイラク派遣反対運動のリーダーを
しているらしく、中国反日騒動と小泉靖国、イラク派遣を結びつけ
たくてしょうがない今時左翼活動家である。中国人に、こういう
討論に日本からは左翼学者しか来ないと言われている。
中国の時殷弘という学者が鋭い。
靖国を否定するということは、明治以後の日本の近代化の否定に
つながり、ドイツがナチスを否定してもドイツ近代化の否定に
ならないドイツと事情が違うというのはもっとも。
戦争責任区分論否定はプロレタリア革命の放棄につながるから
中共は取り難かったのだろう。
746世界@名無史さん:2006/05/25(木) 19:21:23 0
>中国人に、こういう討論に日本からは左翼学者しか来ないと言われている。

面白そうだな。読んでみよう
747世界@名無史さん:2006/05/26(金) 22:41:31 0
中西功著「中国革命と毛沢東思想」青木書店、1969年
当時の中西が日共でどの程度の地位にいたか知らないが、中国を
半封建半植民地と規定し戦後の歴史界を引っ張ってきた彼からみて、
当時の紅衛兵の暴れまわる社会は共産主義の流れからみて異常な
行動をとらえていただろう。

堀田善衛編、筑摩書房、講座中国5、これからの中国、1967年
高橋和己などの論者が当時の文革の風潮に興奮している。
堀田は中国を良く知ってるせいもあり、風潮の流れを掴みかねているが、
ベトナム戦争、カストロ、ゲバラのキューバ革命に高揚している。
748世界@名無史さん:2006/05/26(金) 23:03:03 0
奥村哲著「中国の資本主義と社会主義」近現代史像の再構成、桜井書店、2004年
共産革命以前の中国が帝国主義資本の侵食され、地主による大農化のよる農民の疲弊
という左翼史観にたいし、国民党政府の政策でかなり民族資本経済が育っていたし、
農業はかえって細分化されていて農村も課税システムが出来ないほど未統制だった
のが、日本の武力侵略により、産業が破壊され、農村からの国防総動員による
課税強化があった。共産革命後、農地改革によりさらに農地が日本以下に細分化された。
朝鮮戦争の総動員により、集団化が行われたがうまく機能しなかった。など諸説が
のべられている。中国学会の歴史が一番参考になった。
749世界@名無史さん:2006/06/02(金) 17:00:30 0
東京大学出版会;「現代中国の構造変動」5冊あるうちの第1巻、2000年
p249、毛利和子「中国はどこへ行く」
内容が全く無くつまらない。「neo-corporatism」という意味のない言葉に
自己陶酔している。
750世界@名無史さん:2006/06/02(金) 17:11:24 0
天児慧編著「中国の21世紀」東京経済新報社、1997年
この中の国分良成氏の論文;
天安門事件の時などでも、一般国民の民主化要求は表に出てこない。
さらに国家権力に完全に押さえ込まれているから中国が民主化問題で
揺れる可能性は少ない。それよりも、経済発展による富の再分配システムが
出来ないと暴動が発生する可能性があるそうだ。説得力がある。
751世界@名無史さん:2006/06/02(金) 17:20:06 0
田中恭子著「土地と権力」中国の農村革命、1996年、名古屋大学出版会
戦中期、国共内戦期、50年代の農村の共産化の分析がすばらしい。
これが今後のどう影響していくのだろうか?
752世界@名無史さん:2006/06/05(月) 08:53:43 0
名古屋大学出版会の「東アジア」モノは良いのが多いよね
753世界@名無史さん:2006/06/05(月) 09:53:55 0
保守age
754世界@名無史さん:2006/06/07(水) 22:29:12 0
宇野哲人著「清国文明記」講談社学術文庫、2006年5月
著者は東京帝大の漢文の先生で明治39年1906年から
2年間北京に留学した。途中熊本の両親に報告を書き、それを
地元の新聞が連載したという。著者は文章がうまく、歴史の
知識もすごいのでこんな面白い本はないという程私には面白い。
義和団後の清末の中国の様子が細かく書かれている。
日本人の書いた中国物は旅行記が多く、滞在型は少ない。
北京という町が現在と違って城郭に囲まれた城市であるのが
解る。町の風物も共産化によって失われた風習がたくさんあり
郷愁を誘う(知らないのになつかしい。デジャブー感覚がある)
755世界@名無史さん:2006/06/08(木) 22:42:14 0
宇野先生は漢文の先生でなくて中国哲学の先生だそうだ。
日本は天皇という固定した権威がいるが、中国は易姓革命とかで
皇帝といえども民意を失えば倒される。民主的なのだそうだ。
756世界@名無史さん:2006/06/09(金) 22:52:22 0
イギリスは阿片戦争後、インドから持ち込んで儲けたが、中国が阿片を国産化
したので、阿片では儲からなくなった。アロー号や義和団のトラブルに軍隊を
入れて賠償を取って税関業務を通じて取り立てる。
他には帝国主義的な収奪とは他にどんなものがあるだろう。
借款を出して取り立てるるのは、実際はプラスになったのだろうか?
イザベラ・バードなどによれば英国衣料などは中国人に歓迎されなかったようだ。
757世界@名無史さん:2006/06/10(土) 20:08:08 0
ジュニア新書のこの本が結構評判いいみたいです。
いわゆる「岩波の中国本」っぽくないとか。

http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/50/6/5005300.html
758世界@名無史さん:2006/06/11(日) 22:35:45 0
  (鄒魯、すうろ、Zou1 Lu3,1885-1954)
広東省生まれ。
1905年、中国同盟会に加入。反清運動へ。
  12年、中華民国成立後、衆議院議員に。
      第2革命に参加し、失敗。日本へ。
      早稲田大学に学ぶ。中華革命党へ。孫文の部下に。
  17年、孫文の護法軍政府に参加。
  23年、その頃より、孫文の容共政策に反対。
      北京で謝持らとともに「民治主義同士会」を結成。
  25年、孫文の死亡。遺嘱に署名。
      11月中旬、孫文の遺骸のある北京西山の碧雲寺で会議を
      決定。
      11月23日から10日間大会を開く。
  26年、国民党は西山会議派の党籍剥奪。
  27年、南京国民政府成立、党籍回復。
  29年、反蒋介石を声明。
  31年、広州政府に参加。
  35年、この頃から蒋介石を擁護。
      国民党史を編纂
  49年、台北に。
759世界@名無史さん:2006/06/13(火) 00:03:52 0
  (戴 季陶、たいきとう、Dai4 Ji42tao,1891−1949)
四川省の生まれ、
1907年、日本大学法科に入学。
  10年、上海で記者。清朝、梁啓超を攻撃。
  12年、孫文の秘書に。
  17年、広東軍政府に参加。
  20年、陳独秀、マルクス主義と接触。
  23年、国共合作を推進。
  24年、孫文の死後。国民党右派の理論的支柱となる。
      反共的な孫文主義解釈は蒋介石を思想面から支えた。
  28年以後国民党を文化教育面から支えた。
  34年、「新生活運動」
  49年、広州で就寝中に死去。睡眠薬自殺とも言われる。
760世界@名無史さん:2006/06/13(火) 22:59:51 0
字の方が有名な人だね
761世界@名無史さん:2006/06/14(水) 17:36:02 0
杉原達著「中国人強制連行」岩波新書、2002年
著者は53年生まれ、75年に京大卒、大阪市大研究科、阪大教授だそうだ。
活動暦に眼を付けられて、自分の大学に残れない者は多い。
日本に併合されていた朝鮮と違い中国の強制連行は弁解の余地はない。
著者の文体は教師による事実の解説を期待すると期待はずれで、全体が
アジ演説の文章化である。被害者との共闘というより家族の後ろで
煽っているようだ。こんな教師の授業をうけるものも、一種の被害者だろう。
著者は興奮していてあまり情報がない。
捕まった農民というのは、抗日ゲリラなのだろうがその部分の聞き取りがない。
だからといって日本に連れて来てよいわけでないが。
762世界@名無史さん:2006/06/21(水) 17:36:39 0
藤原てい著「流れる星は生きている」中央公論新社、
元本は昭和24年。終戦で満州の新京からおかあさんが子供3人
つれて引き揚げる苦労話。読む前に予想したより大変でない感じ。
すぐに列車で北朝鮮国境を越え21年7月にそこを離れ、列車で
38度線の北の新幕で降りて、歩いて38度線を越し、開城を通って
ソウルの北の議政府で米軍に拾われ日本に帰る。この人は乳児を含む
3人の子供をかかえての道中が大変だったのは解るが、飢えや病気が
問題で他の危険にはあまりさらされてない。ソ連兵があまりにいい人に
書かれていて口に出せないことがあるのだろう。
開城が当時は南側で現在と異なる。これは興味深い。
日本敗戦後は38度線が境界。朝鮮戦争後の休戦ラインはそれと異なる。
その結果、開城が北に移ったようだ。テレビドラマのクッキーの
お父さんはここの沙里院の駅で殺される。同じ時代の話。
議政府は朝鮮戦争で北が進入してきた所で現在でも米軍キャンプが
ある。朝鮮の雰囲気がわかり難い。中国は戦勝気分だろうが、朝鮮人は
どんなんだろう。朝鮮人と言うといやがるので「こちらの人」と言ってた
そうだ。朝鮮のほうが中国よりも「解放」ではあるが
763世界@名無史さん:2006/06/23(金) 19:10:07 0
豊田勢子著「天津租界の思い出」文芸社、2004年
著者は1931年生まれ。終戦時に14才だからあまり中国社会の
記憶がない。
地図だけ参考になった。当時の日本からの船は塘沽沖に泊まり、小船で
白川を天津に登った。この河は曲がりが百に一つ足りない白から白河と
言われたという話もある。現在はまっすぐに治され海河という名になって
いる。天津で西の揚子江からの南運河が入る。さらに上流でY字に分かれ、
西側が永定河で途中に盧溝橋がある。
764世界@名無史さん:2006/06/23(金) 19:16:50 0
763の本に中国語で忘八蛋(ワンバータン)というのはばか野郎という
意味で最大の罵り言葉とあるが、ワンパターンone patternと思っていた
言葉が実はこれなのか???
765世界@名無史さん:2006/06/23(金) 22:31:52 0
>>762
その中に出てくる次男坊は今年のベストセラー作家
旦那は新田次郎
766世界@名無史さん:2006/06/23(金) 23:07:46 0
そういえば日本に帰って秋田に戻りました。
八甲田山を書きましたね。
767世界@名無史さん:2006/06/24(土) 18:17:19 0
どうでもいいけれど764は辞書では王八蛋とありました。訂正。
768世界@名無史さん:2006/07/02(日) 00:37:07 0
沈定一って有名なんだろうか?
769世界@名無史さん:2006/07/07(金) 14:57:05 0
西村正邦著「天津・疎開彷徨記」2000,1
西村正邦著「天津的柳絮」2002,9
西村正邦、樋口隆一著「天津日本租界五十年」2000,1
この著者の本が他に数冊あるが大部分自費出版のようだ。
完全なアマチュアが折々に書いた雑文集。
3番目が時系列的でややまとまっている。
欧米人は説明に必ず地図を入れる。
770世界@名無史さん:2006/07/11(火) 02:14:30 0
age
771世界@名無史さん:2006/07/11(火) 11:22:03 0
山川の中国史に西山会議派には林森のような保守派と戴季陶や沈定一のような
左翼からの転向者がいるとあり、沈定一に注目した。検索したら
「血路」革命中国の沈定一の秘密という古本があったので注文したら、
R.Keith Schoppa著「Blood Road」California大学出版の英語の本だった。!!
Chen Duxiu'New Youth とかCaiYuanpeiの北京大学の改革とかクイズを
やってるようで、終わりまで行く自信がないが、買ったもとは取りたいものだ。
772世界@名無史さん:2006/07/17(月) 23:11:39 0
「中国近代建築総覧、天津篇」トヨタ財団助成報告書、1989年
西洋館の写真が並んでるだけの本だが、昔の持ち主が軍閥だったり、
清朝、北洋の重鎮で、各国の租界に安徽派、直隷派それぞれに
それらしい場所に住んでいて面白い。さらに詳しく検討したいが、非売品で
入手出来ないのは残念。路上観察の藤森研究室の本。
773世界@名無史さん:2006/07/20(木) 22:05:12 0
良スレage
774世界@名無史さん:2006/07/21(金) 22:34:45 0
天津の旧英国租界に中華民国時代の鉱山経営者の周実之の屋敷が残る。
現在は小学校、その前は病院に使われていた位広大な屋敷だ。
ここで家庭内のトラブルからピストル発砲事件があり死者3名、それをモデルにした。
曹 禺【そう ぐう/ツアオ・ユイ】 (1910―1996)
 清華大学(西欧文学)〔1933年〕卒
 1934年旧封建家族の悲劇を描いた処女作『雷雨』(4幕)が、
 成功を収め、巴金らに絶賛され文壇デビュー。
 続いて金万能の都市社会の腐敗を批判した『日出』(1935年)、
 農民の反抗を描いた『原野』(1936年)を発表、
 新劇を中国の芸術に定着させ、中国における近代演劇の第一人者となる。
 1937年日中戦争勃発後は抗日文芸活動に参加、南京、漢口、四川などで、
 演劇活動を行い、『蛻変』『北京人』などを発表。
 1960年戯劇家協会副主席となるが、文化大革命で反動文化人と批判され失脚。
 1977年名誉回復し、1978年北京人民芸術劇院院長に復活。
 1979年戯劇家協会主席。
 他の作品に『胆剣篇』『王昭君』『明るい空』など。
曹 禺著「雷雨 戯曲」未来社 1953年
「雷雨」で表現されているのは封建的なブルジョワ家庭の中の、二代に渡る複雑な恩と仇が錯綜する世界だ。

2004年スター版劇「雷雨」
日時:11月7〜9日 19:15
場所:上海グランドシアター
チケット:1000、800、580、360、220、100元
1000元といえばすごい入場料だ。これを払う新しいブルジョワが出現しているのだろう。
775世界@名無史さん:2006/07/25(火) 10:25:59 0
嵯峨隆さがたかし著「戴季陶の対日観と中国革命」東方書店、2003年
戴季陶は左翼思想の五四運動の頃「我が対日観」を書いて日本の神国思想を
批判し、明治維新はあったが、支配階級の保守思想は継続しているとした。
その後、国共合作などのソ連をみて、ソ連の共産主義も結局、民族的な
運動で中国にはやがて脅威になるだろうと予想していった。
その後左翼労働者の北伐時の西洋人攻撃の過激さをみて、蒋介石などの
上海の奪還などに協力していく。その過程で「我が対日論」を書く。
ここでは明治維新などの日本人の対応、欧米文明の主体的な利用、取り入れを
評価している。しかし日本がやがて発展の過程で中国への侵略を予想している」
日本の明治の近代化を評価しつつも、それが軍隊によって支配発達したもので
真の民衆の意識改革によるものでないという指摘は鋭い。
国共合作時の国民党に三つのグループ
1、謝持、馮自由の反ソ反共派。2、張継、鄒魯の連ソ反共派。3、廖仲ト、
  汪精衛、などの連ソ容共派。があり戴季陶は第2グループ。
沈定一は戴季陶に会った直後に暗殺集団にピストルで襲われ殺されている。
先の英語の本はその真相にせまってミステリー仕立てになっているが、
読解は進展していない。
776世界@名無史さん:2006/07/31(月) 00:26:41 0
sage
777世界@名無史さん:2006/08/05(土) 00:51:04 0
天津出版社「北支!!天津事情」1938年
23センチの厚さの分厚い本だがあまり情報ない。

田中良平著「天津今昔招待席:租界、にんげん模様」
出版社の名前が眺というらしい。2005年
著者が育った生活を懐かしがっているだけ。

草田耕次著「中国近代史に於ける華北の風雲と天津」近代文芸社、1995年
この本は面白い。著者は天津で生まれて且つ、よく歴史を調べて
勉強している。吉田茂をはじめとする代々の天津総領事の話や軍閥の最後の
話も興味深い。段祺瑞の末路では彼を日本軍に利用されるのを恐れた
蒋介石が南京、上海に招待してもてなしている。
徐州作戦等を指揮した本間中将を著者が尊敬しているが、その戦犯裁判の話は知らない。
天津市南部に李家花園というのがあるが、李鴻章の屋敷あとらしい。
北東部の新開地を袁世凱が開発したらしいが、彼の公楼はそこに
近いオーストリア租界にある。
778世界@名無史さん:2006/08/14(月) 23:14:44 0
>>774
雷雨というと、チャウ・シンチーの馬鹿映画しか思いつかない。
779世界@名無史さん:2006/08/17(木) 13:03:05 0
夏休暇に天津北京を旅行したが、丁度靖国参拝の時期だったので
中国の放送に注目した。15日朝にNHKのBSで参拝を知った。
中国の反応なし。15日夕には大使の抗議が放映され、韓国での
反発デモや東京のプロ市民の自虐発言を放送。夜になるとNHK風の
アナウンサーと学者二人の解説討論があり、欧米の論調でも正義は
中国側の主張に支持があると強調した。全体に抑制のきいた番組だった。
香港のテレビでは小泉は「鬼」に参拝したとタイトル。
鬼とは「日本鬼子」リーベンクゥーツのことで侵略日本軍の蔑称で
戦犯のことです。中国側の非難の突出でかえって日本国民の反発を
警戒した感じがしました。帰りの飛行機で中国の女子大生21才
の隣になった。日本の大学生と交流の予定があるそうで、靖国も問題で
とげとげしくなるのを非常に心配して小さくない胸を痛めていた。
私たちはあんな問題関心がないのにと言っていた。思ったとおりに
発言すればよいとアドバイス。日本ではマックやケンタッキーは
自分でかたすのだと教えたら驚いていた。原宿という所に行って
「おたく」というものを見なさいとすすめる。
会った人は親切にしてあげてください。
780779:2006/08/17(木) 15:23:23 0
鬼子はクゥィーズの方がよさそう。
781世界@名無史さん:2006/08/17(木) 18:37:47 0
天津市の南部に停戦協定で有名な塘沽区がありその東に漢沽区がある。
この一帯はTOYOTAなどが進出する工業地帯になりつつある。
その漢沽の海岸に中国がソ連から買った空母「キエフ」が展示公開されている。
入艦料が110元と高いが沢山の人が入って見物していた。
予備知識なしに見たので、ミサイルがすごいなー、ヘリが多い、一般の空母で
イメージする広い甲板が見当たらない、見逃したかと思ったがそういう船らしい。
普通の空母のミンスクはシンセンで公開していたが一時休みでまた再開するようだ。
>http://www.eurus.dti.ne.jp/~freedom3/kiev.htm
782世界@名無史さん:2006/08/18(金) 23:56:28 0
旧オーストリア租界;袁世凱の公館、河北区華安路
旧イタリア租界;梁啓超、河北区民族路44号、46号
       ;湯玉麟、河北区民主道38号
旧日本租界;段祺瑞、和平区鞍山道38号
      張園、    鞍山道59号
      静園、    鞍山道70号
旧英国租界;周実之公館、 和平区秦安道13号、雷雨の事件の舞台
      孫伝芳公館、    秦安道41号
      顧維欽公館、    河北路267号
      張学良公館、    馬場道54号

天津には軍閥の屋敷が残っていた。
梁啓超の家は梁啓超博物館となっているが家の前の道路が工事中で
入れなかった。孫伝芳の家だけ見つからなかった。
前述のトヨタの本で写真で想像していたものより実際は、西洋風の
洗練されたものではあったが、大きさはそれほど大きくなかった。
軍閥は租界に逃げ込んだ状態なので宗主国には遠慮があったのだろう。
その中で溥儀の屋敷の張園静園と段祺瑞湯玉麟の家は広大なものだった。
宗主国がその人物をその後利用しようと考えている場合は援助があった
のだろう。東西と南北で路と道を使い分けてるそうだ。
李家花園というのが李鴻章の屋敷後かと思ったが違う豪商の李さんだった。
天津駅近くに李公楼立体交差というものがあり、李鴻章の屋敷か確かめ
たかったが誰もしらなかった。天津は周恩来の出身地というのを強調
しているが李鴻章は無視されている。
天津歴史博物館のある番地でさがしまわったが、現在は天津博物館に
吸収合体したのだそうだ。
他に義和団に攻撃された望海楼教会、義和団の拠点だった道教の施設の後、
義和団博物館へ行った。
783世界@名無史さん:2006/08/23(水) 00:13:12 0
北京の北西方に丹沢山系のように丘陵地帯が見える。市内からバスで
40分ほどで香山公園に着く。清末当時も貴族の別荘地帯でアロー号
事件などの外国軍に破壊された。ロープウェイで450mほどの香炉峰に
登れる。遠方に北京市が展望でき、中国では珍しい美しい光景である。
その麓に碧雲寺がある。孫文の死後遺体を置いてあった所で、ソ連から
送られたガラスの棺が置いてある。孫文は160センチあるかないかの
小男のようだ。上海の孫文邸のベッドも小さい。死後ここの集会により
西山会議派と呼ばれた。
この南方の石景山八大処も英仏軍により略奪されたという。
香山公園の手前南に紅旗村という所があって中国軍が駐屯している。
現在は北京防衛警備部隊であろう。北京陥落から人民共和国成立まで
共産党幹部が北京の西方に滞在していたと読んだことがある。どの
本だったか忘れた。ここだったのではと想像している。
784世界@名無史さん:2006/08/25(金) 14:26:38 0
長征は8万人くらい出発して戦いながら到着したのは数千だと
思っていた。8万マイナス数千が途中の死亡ないし、脱落。
私もそのイメージでいたのだが、江西省を出発してじきに
江西の連中は故郷を離れるのはいやだと、Uターン。
次の人材を調達。しばらくすると同じことの繰り返し。
幹部連中は馬にのったり、女を連れたり優遇され将来共産党で
出世しようと思ってるから従軍を続ける。
つまり参加人数は8万どころか何十万だったのではないか?
ソースは?
あるヨーロッパの中国研究所長のはなし
785784:2006/08/25(金) 22:56:25 0
>参加人数は8万どころか何十万だったのではないか?
「十万以上だったかもしれない。」位の方がよさそう。
786世界@名無史さん:2006/08/26(土) 01:48:24 0
>次の人材を調達。

そんなにうまく物事が運ぶかどうか。
アカに関わったピンク人間は後でつるし上げられるだろうし、
八路についていっても食いもんはろくにないだろうし。
787世界@名無史さん:2006/09/01(金) 03:05:03 0
ルシアン・ビアンコ著「中国革命の起源、1915−1949」東京大学出版会、1989年
この本はフランスの中国研究センター所長の著者が1967年に書いたものを
坂野教授が翻訳したのだが、問題は71年から86年にかけて原著者はその後の
共産中国の流れをみて思考を変遷させていき、英訳本もでていたのだが、訳者は
何故か原著にこだわる翻訳に執着したが86年に死亡した。坂野教授の弟子が
原著者と相談しその後の思考変化を追記、翻訳した変な本だ。それでも、
変遷の前も後もビアンコ氏の分析はすばらしい。
孫文も蒋介石も毛沢東も民主主義も共産主義もどうでもいい二義的なことで
中国を外国に対抗する軍事大国にすることに関心が集中している。
中国の農民にとって共産主義にはあまり関心がなかったが、日本の侵略に
よって生活が破壊されそれに対する抵抗心を共産党がうまく利用したという。
戦後はアメリカを日本に置き換えることにより利用したという。
冷戦終了でアメリカが利用できなくなると、「再び日本を持ち出してきた」
のだろう。最近の反日運動が理解しやすくなる。
最近の著者の本をストレートに翻訳しなおしてほしい。
788世界@名無史さん:2006/09/01(金) 16:28:14 0
ビアンコの本に問題の沈定一がちょっと出ていて、鄒魯と沈定一は国民党でも
農地問題に熱心に取り組んでそれなりに成果を出したのだが、運動が局地的で
終わったとあった。一応の人物ではあったようだ。
789世界@名無史さん:2006/09/11(月) 21:54:23 0
入江曜子著「溥儀」岩波新書2006年7月
溥儀の自伝は筑摩書房の「わが半生」があるわけだが、この本は全編
そのまる写しであり、中共の暖かい思し召しで生涯を終えたとしている。
岩波があえてこの時期にこんな本を出した目的を考えたくなる。
これほどまでのパクリがあり、かつ筑摩という言葉が参考文献に
全く無い。岩波と中共は一心同体だから許されるとしても、筑摩
との関係はどうなるのだろう?
入江さんは朝鮮戦争では中共は米国に勝利したそうだ。ベトナムと
混同してないか?中共がいうのはいいとしても、日本人がそう
考えますか?
790世界@名無史さん:2006/09/12(火) 17:54:01 0
にしむらじゅんこ著「フレンチ上海」平凡社コロナブック、2006年7月
上海のフランス租界に残る西洋館を菊池和夫さんのきれいな写真で紹介している。
雑誌のHANAKOやPOPEYEの雰囲気だ。西村さんはフランスで長く
暮らしたそうでその知識とよく調べてある内容。戦前上海には551の米国企業、
617の英国企業、309のドイツ企業、171のフランス企業があった
そうだ。この英国との経済格差を乗り越えて、大国の体面を保つ努力のすべを
西村さんはしっかり見ている。その知性がフランスの力だ。
791世界@名無史さん:2006/09/13(水) 16:37:48 0
R.Keith Schoppa著「Blood Road」California大学出版
やっと終わりまでいった。読んだというより看書しただけ。
沈定一は杭州の近くの生まれで資産もあったようだ。孫文の指示で国共合作の
前に蒋介石がロシアに派遣されたのに同行して、レーニンなどともあっている。
蒋介石とこの時すでに共産主義の限界を感じてるのに対し、沈定一はまだ共感
している。孫文の死後上海で左翼文筆活動をしている。国民党成立後は、幹部に
なれなかった。ボロディンの動きなどをみて共産主義が中国の為でないと感じ
離反していく。西山会議に参加しようとするが、戴季陶と沈定一は前日に
アカとして襲撃暴行され参加してない。後に仲間に入れる。
広州武漢南京政府から離れ、故郷の杭州で農民を組織し地代減額闘争をおこなう。
かつ全中国の改革の困難さを感じ地方ごとの自治による改革を目指す。
共産党の過激な農民運動でなく、地道な農村改革の可能性を追求しある程度
成功する。1928年に何者かに襲撃され死亡。
中国史を英語で読むのは西洋史を読む場合より難しいと解った。
792世界@名無史さん:2006/09/15(金) 06:54:55 0
>>789
ああ、買わなくて良かった・・・
793世界@名無史さん:2006/09/15(金) 23:53:10 0
Chang Kuo-t'ao著「The Rize of the Chinese Communist Party,1928-1938」カンサス大学
「張国Z自伝」として文献に良く出てくる本です。上下2巻に別れ併せて1300pの
英文です。ピンインが今と違う。登場人物の名前が漢字と対応表が付いていた。
睡眠薬として役立つだろう。
794世界@名無史さん:2006/09/16(土) 16:07:46 0
雑誌?アジア遊学75、2005年5月
特集;黄河は流れず。−アジアの水問題ー
黄河の断流、中国の水資源と農業問題、アジアの砂漠化問題、
中国の砂漠化防止と緑化運動。他の記事がある。
黄河上流の人口が増え過ぎて、農業などで水を使いすぎる。
植林しただけでは解決しない。都市と地方の格差是正のために、
西北部に金をつぎ込み、開発すればするほど、灌漑用水整備などを
すればするほど、砂漠化は進行し、華北は水不足になる。
795世界@名無史さん:2006/09/18(月) 03:24:43 0
中国映画「古井戸」1987年
中国山西省の北部大同の近くの井戸がなく水不足の山村。
清末から何十年も井戸堀に挑戦し失敗し続ける。旧来の思考から抜け出せない
人々は井戸を犠牲を出し続けながら堀続ける。1982年にやっと掘り当てた
そうだ。
新しい思考に移行できない中国人を批判しているようでもあり、毛沢東の
推薦した「愚公移山」のしつこくあきらめないで続ければやり遂げられる
という考えが中国人の好みだとも言える。
796世界@名無史さん:2006/09/19(火) 22:54:59 0
高橋隆治著「上海狂想曲」文春新書、2006年8月
第2次上海事変当時の上海市内の様子。
著者は戦時史研究家だそうだ。一応面白い。
当時の日本兵の行いで、中国人の強姦はともかく、指輪を奪って
得意になって着けているのは、火野葦平の本にもでてくるが、
見苦しい。同じ著者の「雑誌メディアの戦争責任」 「文芸春秋」と「現代」を中心に
第三文明社 1995読みたい。
797世界@名無史さん:2006/09/20(水) 11:02:28 0
映画「黄色い大地」1984年
日中戦争の頃、1939年だったかの陝西省北部。
延安は南にある。黄河のほとりの農村。国府軍の支配下でもあり、中共の
支配下でもある。そこに解放軍兵士が民謡の採取という名目でやって来る。
中共は劇や踊りを宣伝の重要手段にしているがこの場合は情報収集と
工作が目的だろう。村の幹部が共産兵士を「お役人」として接待している。
中共映画だから、国府領地の生活は地獄に描かれていて、娘の結婚は金で
買われる仕組みになっている。いわゆる慰安婦問題はこのような一般的
状態を知らないと理解できない。兵士の工作に惑わされた土地の娘は
延安に行こうと黄河に舟を乗り出し死ぬ。延安では人々が民謡を踊って
楽しく暮らしている。いつ日本軍と戦うのだ。
黄河が北に迂回している地方なのだろう。
黄土地帯の光景がすごい。農村と解放軍の関係が興味深い。多分
両方にペコペコしているのだろう。
798世界@名無史さん:2006/09/22(金) 02:41:48 0
>>796の著者、高崎隆治氏は似たようなテーマの本を第三文明社と、新日本出版社の両方で出していますね。
「バランス」のとれた方なのでしょう
799世界@名無史さん:2006/09/22(金) 22:22:37 0
>天津市政府と国務院関係者が開いた天津東疆保税港区設立に関する座談会で、
>国務院が8月31日に天津東疆保税港区の建設を許可していたことが明らかにされた。
>天津東疆保税港区は上海洋山保税港区に続き、中国で2番目に設立される保税港区となり、
>面積では中国最大の保税港区となる。中国新聞社が伝えた。
>http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060922-00000009-scn-cn
保税区?
>http://www.jcipo.org/shiryou/hozeiku.html
保税港?
>http://www.smbc.co.jp/hojin/international/pdf/CWR051012_123.pdf#search=%22%E4%BF%9D%E7%A8%8E%E6%B8%AF%22
800世界@名無史さん:2006/09/30(土) 17:26:37 0
竹内好著「魯迅」未来社、転換期を読む6、2002年再販
竹内が33才、昭和18年に書いた。
文学の評論は原著を読み込んでから読むべきもので、もともと魯迅は難解
な上に、竹内の頭が整理されてないためひどい悪文でなんの役にも立たない。
松岡正剛さんのサイトのほうがよっぽどよい。
>http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0716.html
801世界@名無史さん:2006/10/03(火) 15:30:20 0
「the Hung Chiang Society」とは何だろう?
802世界@名無史さん:2006/10/04(水) 23:46:10 0
太宰治著「惜別」新潮文庫
34刷だそうだから随分読んだ方も多いのだろうが、一緒に掲載されている
「右大臣実朝」が有名だからそちらのせいだろう。
惜別は魯迅の「藤野先生」を題材に昭和18年に情報局の依頼で書かれた
国策小説だ。魯迅の仙台での生活を仲間の暖かい援助があったことに
なっている。当時の五族協和思想の宣伝小説だろう。
803諸星清佳:2006/10/05(木) 03:48:15 0
この項目のレベルの高さは凄いですね。私は2チャンネルを低く見ていましたが考えが変わりました。私に対する批判も真摯に受け止めて、次の著作の力にしたいと思っています。
804世界@名無史さん:2006/10/07(土) 17:48:02 0
>>547 :世界@名無史さん :05/02/28 10:27:32 0
諸星清桂著「中国革命の夢が潰えたとき」毛沢東に裏切られた人々、
中公新書、2000年
中華人民共和国が出来た時、政治協商会議と中間派を取り込んで
それとの合体という形を採っているわけだが、出来てみたら全く
相手にされないで、プチブル的勢力として攻撃されたという当然に
話。
そのことは自業自得だからよいが、日中戦争終戦後、雲南方面に
局在していた国府軍が沿岸部に復帰した時に、補給不足もあり
略奪行為があったとか、復帰した旧地主の農民との抗争とかの
情報がどこまで本当かもう少し知りたい。
人心の捉え方がへただったという問題。
805世界@名無史さん:2006/10/11(水) 23:14:40 0
エコノミスト、臨時増刊、10月9日号
「2016年中国」成長は続くか、毎日新聞社
現在の中国のかかえる問題がよく整理されている。
来年の第17回共産党大会で指導部が改選されるがここで江沢民の
上海グループがどこまで減るかが問題だそうだ。
総書記は任期5年を2回までだそうで、胡錦涛は2012年まで。
言論の自由のない資本主義がどこまで行けるのか不明。
806世界@名無史さん:2006/10/13(金) 23:37:05 0
王敏著「ほんとうは日本に憧れる中国人」PHP新書、2005年1月
著者は中国の大学を卒業して現在法政大学教授。
前半は中国人の生活が豊かになったという話と日本の物資や芸能に
あこがれがあるという話。後半は、それでも中国人はしつこく戦争体験を
覚えていて日本人に反省しつづけることを要求している。日本人にもっと
歴史教育が必要と言い、反日デモの反省などこの著者にもまったくない。
朝日新聞の外部研究者をしたこともあるそうだからその手の人間だろう。
著者は中国の若者にくらべて日本の若者に歴史の知識がないというが、
私の会った中国の大学院生たちの歴史の知識は偏っている上に知識量も
はひどかった。
中国人は書物などのおおやけの場所での政治的意見は誰も公式な同じ
ことしか言わない習性があるから、この本をはじめ読んでも無駄である。
言論の自由ができるまで、相互理解など期待しないほうがよい。
本のタイトルは日本人編集者が付けたものだろう。
807諸星清佳:2006/10/15(日) 02:36:13 0
話を元に戻してすみません。547(804)の世界@名無しさんの内容はとても素人
のそれではありません。何と言いましょうか、マニアじゃ失礼だし、オタクはもっと失
礼か。ともあれただの素人の書き込みとは思えないです。プロ(大学の先生)かセミプ
ロ(大学院生)じゃないでしょうね。こういう書き込みは実は私にとっても
嬉しいのですね。ここまで読み込んでくれるなんて筆者冥利に尽きます。私の周辺の某
大学出身者は「わかんなーい」なんて言ってくれて私を落ち込ませてくれました。次の
著作が中国関係になるかどうか分かりませんが、貴重な批評にありがとうと言いたいで
す。
808諸星清佳:2006/10/15(日) 02:38:14 0
話を元に戻してすみません。547(804)の世界@名無しさんの内容はとても素人
のそれではありません。何と言いましょうか、マニアじゃ失礼だし、オタクはもっと失
礼か。ともあれただの素人の書き込みとは思えないです。プロ(大学の先生)かセミプ
ロ(大学院生)じゃないでしょうね。こういう書き込みは実は私にとっても
嬉しいのですね。ここまで読み込んでくれるなんて筆者冥利に尽きます。私の周辺の某
大学出身者は「わかんなーい」なんて言ってくれて私を落ち込ませてくれました。次の
著作が中国関係になるかどうか分かりませんが、貴重な批評にありがとうと言いたいで
す。
809諸星清佳:2006/10/15(日) 02:39:19 0
話を元に戻してすみません。547(804)の世界@名無しさんの内容はとても素人
のそれではありません。何と言いましょうか、マニアじゃ失礼だし、オタクはもっと失
礼か。ともあれただの素人の書き込みとは思えないです。プロ(大学の先生)かセミプ
ロ(大学院生)じゃないでしょうね。こういう書き込みは実は私にとっても
嬉しいのですね。ここまで読み込んでくれるなんて筆者冥利に尽きます。私の周辺の某
大学出身者は「わかんなーい」なんて言ってくれて私を落ち込ませてくれました。次の
著作が中国関係になるかどうか分かりませんが、貴重な批評にありがとうと言いたいで
す。
810諸星清佳:2006/10/15(日) 02:56:04 0
ごめん、私のパソコンの習熟の浅さから、投稿が3つになってしまいました。808と809を削除してください。PC初心者の私は方法がよく分かりません。この文章も含めて管理者の方、削除してください。
811世界@名無史さん:2006/10/15(日) 03:08:55 O
悪質な荒らし等でないとそうそう削除はされないですよ。
まあ、誰もがやる失敗だから気にしないで。
812世界@名無史さん:2006/10/15(日) 03:58:02 0
>>807
2ch世界史板は、実は普通に大学院生や助手クラスが出入りしている
ところだったりします。
813世界@名無史さん:2006/10/15(日) 05:38:55 O
昔はもっとも質が良い学問板でしたね
814諸星清佳:2006/10/15(日) 21:07:23 0
うーん、やっぱりね。長々と掲示板ジャックしてすみません。これからもちょくちょく覗かせていただきます。
815諸星清佳:2006/10/15(日) 22:14:24 0
あ、大事なこと忘れていた。804の世界@名無史さんの批判は、全く的を得
たものです。国共内戦時の農村の状況に関する、裏づけのある資料って意外と
ないのですよ。逆に言えばこのあたりのことを題材にした論文を書けばよいも
のになると思います。森下修一編『国共内戦史』は1部と2部に分かれていて
、2部は内戦に関したフィクションを集めたもので、使い物になりません。1
部はノンフィクションですが、国民党軍の補給路については書いてなかったと
思います。いずれにしろこの本は戦争のことばかりで、当時の社会状況をそれ
ほど書き込んだ本ではありません。私は仕方ないのでジャック・ベルデンのル
ポ『中国は世界をゆるがす』を援用することしかできませんでした。このあた
りの実証的なレポートってなかなかないと思います。中共側の報告は皆さんも
ご存知でしょうしね。
816世界@名無史さん:2006/10/16(月) 22:53:39 0
魯迅著「朝花夕拾」岩波文庫、
藤野先生の入っている短編集。
この本を書いたころ、
1925年、5・30事件
  26年、北伐
  27年、蒋介石の反共クーデター。
「水に落ちた犬は打つべき」の理由が解説に書いてあるが、魯迅は
本文の中で自分は痒いところをかいてあげるような、説明はしない
主義と言っている。アイマイさが当時の微妙な時代を生きる知恵
だったのだろう。
817世界@名無史さん:2006/10/18(水) 04:25:38 0
魯迅の「藤野先生」ではスクリーンで登場する中国人は、「ロシア軍のスパイ」
として日本軍に銃殺されるのですが、『吶喊』の「自序」では、「見せしめに日
本軍の手で首を斬られるところ」となっています。一体どっちが正しいんでしょ
うね。まあ、いずれにせよフィックションだからどうでもいいんですけれど、気
になったので投稿してみました。最近の魯迅の権威は誰ですかね。私の若いころ
は丸山昇先生とか藤井省三先生とかだったりするのですけど。
818世界@名無史さん:2006/10/19(木) 06:21:13 0
魯迅の『朝花夕拾』は自伝的エッセイだからフィクション
ではないし、『吶喊』は小説集だけど自序はフィクション
ではありません。念の為。
819世界@名無史さん:2006/10/21(土) 15:31:12 0
    (林 語堂、りんごどう、Lin2 Yu3tang2,1895-1976)
福建省の生まれ、名前はペンネーム。言語学者、作家。
ハーバード大学、ドイツのライプチヒ大学に留学後23年帰国。
欧米の民主主義思想を持ち込む。サヨ用語ではブルジョワ民主主義。
北京大学教授。
1924年、魯迅、周作人と雑誌「語絲」を創刊。軍閥政治に不満。
  25年、保守体制人章士サの下野に追い討ちをかけるのを批判し、
      「フェアプレー」の精神を強調したのに対し、魯迅は
      「水に落ちた犬は打つばし」とし、保守勢力のしぶとさに
      警告し両者論争した。
  26年、「3.18惨案」で段祺瑞に北京を終われ、アモイ大学
      主任になり魯迅を呼ぶ。
  27年、武漢政府で陳友仁の秘書になる。
  28年、魯迅の雑誌「奔流」にユーモアを強調した小説を発表。
  29年、英語教科書を出版、ベストセラーに。
  35年、小説に自我を表現すべきとし、魯迅と論争。
  36年、渡米、国民党政府の応援工作。
  66年、台湾に帰国。
>http://www.tabitabi-taipei.com/more/2003/0722/
>http://www.linyutang.org.tw/user-jp/news_1.asp
820世界@名無史さん:2006/10/21(土) 15:38:07 0
章士サの評価は保留。要検討。
821世界@名無史さん:2006/10/22(日) 05:15:50 0
章士サ(1882−1973)
サヨ文献(『簡明中共党史辞典』によると)
湖南長沙人。清末に上海で『蘇報』を主筆。辛亥革命後、北京大学教授、北京農学学校校長、
広東軍政府秘書長を歴任。
  1924年、段祺瑞政府の司法総長兼教育総長になる。学生運動を弾圧する。
  1926年、三・一八事件。『甲寅周刊』で、魯迅に代表される新文化運動に反対。
  1935〜36年、冀察政務委員会委員兼法制委員会主席。
  抗日戦争期、一,二,三期国民参政員。抗日戦勝利後は上海で弁護士。
  国共内戦末期、上海和平代表団として「解放区」に入る。
  1949年、南京国民党政府和平代表団の委員として北平に赴く。同政府
        が国共談判と和平協定制定に拒否すると、北平に留まる。
        中国人民政治協商会議第一回全体会議に出席。
  建国後、政務院法制委員会委員、全国人民代表大会常務委員会委員、政協
      全国委員会常務委員、中央文史研究館館長。
  1973年7月、香港で親戚訪問中に死去。
最初やたら反動的なのに後年になるほど中共に近づいている。内面的に何か思う
ところあったのか、それとも中国人にありがちなただ尻馬にのっただけか。 
822世界@名無史さん:2006/10/22(日) 05:53:37 0
魯迅も巻き込まれた北京女師大事件で校長に選ばれた楊蔭楡女子は、
魯迅を敵に回してしまったがゆえに反動呼ばわりされた人物評が定
番になってしまったが、姪で作家の楊絳によれば女権の拡張運動に
生涯かけて尽力した人らしい。歴史的評価の難しさを感じますね。
なお821で掲げた『簡明中共党史辞典』は、中共よりの叙述のバ
イアスを除けばこれほど役に立つ辞典も珍しいです。例えば中共第
八次二中全会で何が話し合われたかすぐ分かりますか。この辞典を
引けばたちどころに分かるのですよ。山東人民出版社で初版は19
86年ですから、もうなかなかないかも。中国の古本屋で見かけれ
ば買っておいて損はないはず。あくまで視点は中共側ということを
忘れずに。
823世界@名無史さん:2006/10/23(月) 01:32:40 0
(章士サ しょう ししょう、Zhang1 Shi4zhao1,1881-1973)
湖南省の生まれ。
1903年、上海で「蘇報」の主筆となり(孫文)の名を世間に知らしめる。
      蘇報が発禁になると(陳独秀)と「国民日日報」を創刊。
  04年、(黄興)の華興会に参加。
  08年、イギリス留学。
  12年、辛亥革命で帰国。(宋教仁)の同盟会入りの勧めを断り
      (于右任)の「民立報」の参加。民国の政治体制に教示。
      (袁世凱)に見込まれ北京大学、明徳大学学長に推されるも
       宋教仁暗殺を知り、袁世凱から離れ岑春煊の秘書になり
       第二革命に参加するも失敗、日本に亡命。
  22年、ヨーロッパ留学から帰り、農業大学校長になる。
      曹錕の賄選に反対し杭州に逃れる。、
  24年、(段祺瑞)内閣成立、司法、教育担当。
  28年、北伐でヨーロッパに逃げる。
      (張学良)に招かれる。
  36年、宋哲元の招きで冀察政務委員会に入る。
  38年、重慶の(蒋介石)に会い、委員に。
  49年、(毛沢東)、(周恩来)に会い、政治協商会議委員になる。

複雑な経歴で評価が難しい。
824世界@名無史さん:2006/10/23(月) 01:41:06 0
鐙屋一著「章士サと近代中国政治史研究」芙蓉書房出版、2002年

この本の紹介に以下の文章がある。

保守主義思想ゆえに「革命中国」では酷評されてきた大物政治家の思想と行動を
追いながら、彼の政治思想の中核である「議会主義政治論」の展開という新たな
視角で近代中国政治史を分析した論考。
825世界@名無史さん:2006/10/24(火) 00:37:20 0
3.18惨案とはなんだろう?
1915年、青年雑誌、後の「新青年」創刊
  18年、「狂人日記」
  21年、「阿Q正伝」
  24年、第二次奉直戦争。
      馮玉祥「首都革命」
  25年、3月、孫文の死。
      10月、奉天軍の松郭齢、李景林の離脱。
      李景林は天津をめぐり馮玉祥と抗争。
      ソ連と武器供給で結ぶ馮玉祥は英国、日本などの連合国からの
      北京政府への武器供給を阻止するため天津の白河を封鎖した。
      日本海軍が大沽砲台を砲撃し、連合国が段祺瑞に抗議した。
      連合国に謝罪。
  26年、3月、謝罪に帝国主義に対する屈服と学生が抗議デモ。
      銃撃、死者。

学生デモは反帝国主義でもあるし、親ソデモでもある。
魯迅は反帝国主義デモに同情しているが、親共産デモでもあることに
どの程度意識があったか不明。
>http://ef.cdpa.nsysu.edu.tw/ccw/02/1926.htm
26年1月から3月まででも複雑な動きがある。
華北もゴタゴタ続きであるし、南方も北伐の準備や広東のスト、中山艦事件
やら大変だ。
826世界@名無史さん:2006/10/24(火) 22:16:09 0
あれ『中国民主党派名人録』(江蘇人民出版社、1993年)によると、
章士サは「1881年3月20日、湖南省善化(現長沙県)の生まれ」
になっとる。『簡明中共党史辞典』もあんまり当てにならんな(笑)。
それとも旧暦換算なのかしら。
827世界@名無史さん:2006/10/24(火) 22:48:58 0
>>815
国府軍に編入された山西残留日本人でまだ存命な方に話を聞くという手はどうでしょう?
828諸星清佳:2006/10/24(火) 23:20:17 0
なるほど、それもひとつの手でしょうね。ジャーナリスティックな方法ですら
あります。あなた、まさか鐵扇會の人じゃないでしょうね(笑)。でも私には
もう金も暇もありません(とくに金ね)。どなたかやってください。
829世界@名無史さん:2006/10/25(水) 00:42:49 0
魯迅著「魯迅評論集」岩波文庫、竹内好訳
年代別に評論がならんでいるので、解りやすいそうだが、解るといえば
解るし、解らないといえば解らない。
魯迅は陳独秀などと「新青年」を作ったが、陳はこれをイデオロギー雑誌に
持って行き、文学派の魯迅と弟の周作人は意見が違って離れる。
その後、林語堂との保守派についての論争。このことは書いてないが、欧米
留学派と日本留学派の派閥争いの気配を感じる。その後、郭沫若などと、文学の
政治利用についてもプロレタリア文学論争をする。
それを1930年に左翼作家連盟として統一したそうだ。この最後の部分の
思考はまだわからない。共産中国が魯迅を大作家として持ち上げたその辺を
もう少し調べたい。
830世界@名無史さん:2006/10/25(水) 01:44:06 0
創造社とのプロレタリア文学論争は、魯迅の「非革命的な急進革命論者」
を読めば一応納得できるが、なぜそれがマルクス主義でなければならない
かは魯迅もはっきり言っていないのでよく分かりません。私がかつて師事
した中国人文学者は「魯迅はマルクス主義者ではありません」と言い切っ
ていました(ちなみにこの先生は紅衛兵世代)。魯迅晩年の国防文学論争
では(私は)どちらも同じ主張しかしていないように思えて仕方ありませ
ん。魯迅がマルクス主義をどう受容したか(もしくはしたようにみえたか)
はなお議論の余地があると思います。毛沢東の魯迅礼賛については既成左翼
一流の利用主義にしか思えないんですけど、実態はどうなのか。魯迅の中国
社会に対する批判は、中華人民共和国の現在について一番よく当てはまって
いるとさえ言えます。共産主義者が魯迅を深く理解していたとは到底思えま
せん。うーむ。
831世界@名無史さん:2006/10/25(水) 15:59:31 0
何を言っている。
最大の革命家(たち)は土匪と秘密結社だろ。
832孫文先生万歳♪:2006/10/25(水) 19:48:46 O
【1922年11月《ジャパンアドヴァタイザー紙》掲載記事より】
日本は[第1次]世界大戦の際に連合国側に荷担したが、
これによって日本はもっぱらアジア人のための絶好の機会を利用することを怠ったのである。
かようなアジア人のためのアジアが建設されてこそ、
アジアは白人、特にアングロサクソン[米英]に対抗することが出来た筈である。
世界大戦の初期に私[孫文]は日本の政友会総裁犬養[毅]氏に一書を呈して、
この際日本はすべからくチュートン諸国[独・墺]を援助し、
かくしてアングロサクソンの相対的勢力の相殺をはかり、
以て世界の勢力均衡を維持すべきであると説いた。

∀ <_☆_>
G\(〇m〇)
 \ ※:@*\ ♪大東亞聖戦に乾杯!
インドが日本の御蔭をこうむっていることは言語に尽くせない大きなものがあります。
偉大な貴国はインドを解放するに当たって、可能な限り軍事援助を提供しました。
何十万にものぼる日本軍将兵が、インド国民軍の戦友として共に血と汗と涙を流してくれました。
インド国民は日本帝国陸軍がインドの大義のために払った崇高な犠牲を、永久に忘れません。
インドの独立は日本帝国陸軍によってもたらされました。
ここに、日印両国の絆がいっそう強められることを、祈念します。

S・S・ヤダフ インド国民全国委員会事務局長、インド国民軍大尉
833世界@名無史さん:2006/10/28(土) 00:26:09 0
(瞿秋白,くしゅうはく、Qu2 Qiu1bai2,1899-1935)
魯迅、1881-1936,
江蘇省の生まれ、官僚の家の生まれだが、魯迅と同じく没落した。
1919年、北京でロシア語学校に行き、5・4運動に巻き込まれる。
      トルストイに共鳴し無政府主義。雑誌「新社会」発行。
  20年、李大サのマルクス主義研究会に入る。
      モスクワへ行く。
  21年、中共入党。コミンテルン大会で陳独秀の通訳。
  23年、国共合作。国民党入党を支持、反対の張国Zと対立。
      陳独秀は中国はブルジョワ革命が未完成の2段階革命論。
      瞿秋白は即時革命論で対立。
      国民党右派に弾圧され地下に潜る。理論指導者になる。
  25年、「中国的国民革命与戴季陶主義」を書き対立。
  26年、北伐に反対する陳独秀。北伐途上で農民を取り込もうと
      する瞿秋白。
  27年、陳独秀から権力を奪う。賀龍、葉挺の南征、秋収暴動、
      都市暴動いずれも失敗。左傾盲動主義を自己批判。
  28年、モスクワのコミンテルン代表に退く。
  31年、李立山路線の扱いで王明と対立、失脚。
      以後は上海で魯迅などと左翼文化運動を指導した。
834世界@名無史さん:2006/10/28(土) 12:40:01 0
ふーん、章士サって若いころはリベラルだったんだ。
リベラルどころじゃないよね、陳独秀と一時協力し
てたなんて。魯迅と対立したころあたりからしか私
は知らなかったので。
瞿秋白はほんとに気の毒だよね。処刑前に書いた
「多余的話」が祟って文革中批判されてさ(本当に
余計な話になってしまったというシャレにならない話)。
835世界@名無史さん:2006/10/28(土) 15:25:41 0
1、瞿秋白の最後、蒋介石に銃殺されたのが抜けましたね。
2、「中国的国民革命与戴季陶主義」この「与」というのは
   againstという意味だそうですね。
3、中国語をアルファベットやロシア文字表記にしようという
  運動に彼等が関わっているらしい。
836世界@名無史さん:2006/10/29(日) 01:17:55 0
姚(yao2)文元著「魯迅」潮出版社、1975年
著者は文革の四人組、江青、張春橋、姚(yao2)文元、王洪文
「四人幇」(四人組)、まとめて「王張江姚」の一人。
本書は1959年に書かれている。文革は1968年から。
姚文元の書いた有名な「新編歴史劇(海瑞罷官)を評す」は1965年に
書かれている。
著者によれば魯迅は1928年の後半に小ブルジョワ階級の立場の
限界性に気付き、プロレタリア階級の位置に立ち、マルクス主義者に
なったそうだ。著者のインチキ臭い所は、著者の文体の文章に魯迅の
レファレンスを付けている。この時期の原著を読まないとなんとも
言えない。
尚、日本の本では魯迅の祖父の何かトラブルの原因が解っていないが
著者によれば、科挙の選抜で不正を犯し、7年間入牢したそうだ。
文革で郭沫若や巴金が攻撃されたが、魯迅の論争が利用されたのでは
ないだろうか?魯迅のマルクス主義者を名乗っていても生活はプチブル
でないか?という罵倒は色々な場面で使えそうだ。
837世界@名無史さん:2006/10/30(月) 19:01:10 0
あれ?
838世界@名無史さん:2006/10/30(月) 19:17:15 0
姚文元の「魯迅」って誰が訳していたんだっけ。翻訳者には罪はないが、
この時期に潮出版社から出ているのに引っかかる。中共の文芸・イデオ
ロギー担当の官僚に周揚(1908〜死んだ齢忘れた)というおっさんがい
るが、国防文学論戦の恨みからか、胡風や徐懋庸など魯迅の弟子筋や仲
間筋を粛清したあと、当の国防文学論戦で魯迅に反対したからと言う理
由で文革中、つるし上げられて失脚してやんの。アホですねー。1977年
に名誉回復し(文芸関係者では異様に早い)、第4回文代大会で自己批
判をし、聞くものの涙を誘ったらしいが、あたしゃ全然信用していない
よ。あんなに片っ端から文学者を粛清しておいて、よー言うわ。もう死
んじまったからいいけどねえ。

839世界@名無史さん:2006/10/31(火) 03:56:50 0
838 徐懋庸→× 馮雪峰→○ 
失礼しました。
840世界@名無史さん:2006/10/31(火) 06:55:18 0
国防文学論争で、徐懋庸は周揚の側だったのに、
なぜか反右派闘争で失脚。馮雪峰は魯迅の側だったのに、
反右派闘争で失脚。魯迅関係で生き残ったのは妻の許広平
とバカ息子の周海嬰くらいか。
841世界@名無史さん:2006/10/31(火) 09:01:54 0
(周作人,しゅうさくじん、Zhou Zuoren,1885-1967)
魯迅の弟。
1908年、立教大学に入学。英文学、古典ギリシャ語を学ぶ。
      下女の日本人羽太信子と結婚する。
  11年、帰国。中学教員。
  17年、北京大学文科教授
      雑誌「新青年」で「思想革命」として論陣をはる。
  23年、魯迅と絶交する。羽太信子が原因の説もあるようだ。
  37年、日本軍が占領した北京に残り文学院長。
  45年、日本降伏後、国民政府に対日協力者として懲役刑。
  49年、共産党により、出獄。
  67年、文革で漢奸として、魯迅未亡人・許広平などから
      攻撃され死亡。

許広平は北京女子師範大学の学生運動の闘士。
周作人は政治には余り関わらないようにしていたらしいが、保守でも
革新でもない「第三の道」というのを模索したらしい。
魯迅との別れは思想的なものと思っていたが、私生活に原因が
ある可能性もある。
842世界@名無史さん:2006/10/31(火) 19:27:07 0
魯迅と羽太信子ができちゃったんでしょう。魯迅研究者ならみんなが
知っているが、誰も口に出さない公然の秘密。
843世界@名無史さん:2006/11/03(金) 17:14:41 0
許広平著「魯迅回想録」筑摩書房、1968年
著者は魯迅の後妻。共産中国に震え上がっていて、何も自由に言えてない。
全く面白くない。読むのは無駄。
同じ著者で、「暗い夜の記録」岩波新書、1955、という日本軍に捕まって
拷問された話の本があるそうでこちらを読みたい。

河野実編集「一九三〇年代上海魯迅」、出版社は町田市立国際版画美術館、1994年
魯迅が木版画に関心があっただけで、魯迅に関係ない。
プロレタリア芸術というかサヨ美術である。
町田市の予算がどうしてこんな豪華な本の制作に使われなければならないか
解らない。

李長之著「魯迅批判」徳間書店、1990年
1935年に著者25才で書いた。批判といっても当時の中国では魯迅が
神格化されていた誰もまともに論評しなかったそうで、中国人の書いたこんな
まともな本は読んだことがない位、説得力のあるものである。著者も魯迅は
充分に評価した上で、魯迅は理論的構成能力に欠けていて、哲学者や思想化とは
言えない。だから長編小説は書けなかった。主観的情緒的だが、内向的で
自己批判の能力もあったという。
57年の百家鳴争の発言が58年の反動で問題におなり右派と断定された。
文革でも圧迫された。
844世界@名無史さん:2006/11/03(金) 18:03:05 0
今村与志雄著「魯迅と一九三〇年代」研文出版、1982年
これは素晴らしい本であるということだけ解ったが、残念ながら
私の基礎知識の不足でまだ読みこなせない。じっくり検討したい。
魯迅がどこまでサヨかという疑問が今回魯迅を検討する原因であるが、
シンパであるのは勿論だが、魯迅が芸術が人民の為のものであるのか
という関心が彼の中心であることもあるが、体制側の取り締まり対策も
あろうがはっきり書いたものは少ない。
その中で彼の最後の年の
「トロッキィ派に答える手紙」や「我々の文学運動について」の文章は
あきらかに以前のものと調子が異なり、共産主義に一歩踏み出している。
これを読めば、魯迅はアカだと断定される。今村さんによれば、魯迅の
末期に病床で世話をしていた馮雪峰などは延安から派遣されて工作を
していたそうだ。延安の魯迅が長征の成功を祝うと電報を打った
そうだが、これも連中の工作だろう。外部状況のニュースも選択して
伝えられていたようだ。
また姚文元は誰か文学論争の当事者の息子だったのが失脚後発表された
そうだ。
ともかく魯迅と文学論争の問題は、整風運動、文革に繋がる重要なテーマで
あることは解ってきた。文学論争の中のある人物が劉少奇のペンネームだった
ようだ。ビックリマーク。
845世界@名無史さん:2006/11/03(金) 19:06:12 0
姚文元のおやじは1930年代に活躍した姚蓬子の息子ですね。
魯迅とどう関わりがあるかは忘れた。今村さんは文革のとき、
魯迅に関するトンデモ本を出しているはずなんですけど、
タイトルを忘れました。すみませんなんだか頼りない答えで。
私の蔵書は今、実家にあって。東京にはごく限られた本しか
持って来ていないのです。
846世界@名無史さん:2006/11/03(金) 19:13:06 0
845 の息子→×
度々すみません。
847世界@名無史さん:2006/11/03(金) 19:47:52 0
まあ、今村さんも改心(?)したらしいですし、
『魯迅と1930年代』はいいんじゃないですか。
848世界@名無史さん:2006/11/05(日) 14:23:55 0
姚蓬子は左翼作家連盟の作家ですね。
文芸大衆化運動(1930−34)にも関わっている人です。
系統的には魯迅の側ですが、国防文学論争ではどちらの立場
だったかよく分かりません。
849世界@名無史さん:2006/11/05(日) 18:12:46 0
1921年、文芸研究会;自然主義説、茅盾
      創造社「芸術至上主義」郭沫若、郭達夫
1927年、国共分裂、三つ巴の論戦
      A;プロレタリア文学
        改組された「創造社」
        蒋光慈などの「太陽社」
      B;魯迅などの「語絲」派
      C;ブルジョワ文学「新月社」
1930年、中国左翼作家連盟
1936年、
      文芸家協会、国防文学、周揚、徐懋庸など
      「文芸工作者」民族解放戦争の大衆文学、魯迅、胡風

南雲智著「魯迅日記の謎」TBSブリタニカ、1996年、
著者の関心が魯迅の女性関係に集中しあまり面白くない。
魯迅40代にもう一人日本人女性がいたようだ。

今村与志雄著「魯迅と伝統」勁 草書房、1967年
「改心」する前の本でしょうか?
私にとっては、この方の本は勉強になって有り難い。
「周揚批判について」今村さんと竹内実、丸山昇組の論争があるらしいが、
頭が疲労したので、中断。
850世界@名無史さん:2006/11/07(火) 18:44:50 0
>http://www4.kokugakuin.ac.jp/syllabus2006.nsf/db4419059461492249256e5d0007b790/4925713300739b2c4925713300101014?OpenDocument
大学とはやはりいい所のようですね。
勉強してから授業受ければいい話があるのだろう。
普通は明日試験の日に面白さに気付く。
851世界@名無史さん:2006/11/07(火) 19:31:59 0
いい先生じゃないですか。
現代中国文学で講義しようと思ったら、このくらいかなあ。
『中華文学通史』なんか使うところがマニアックですね。
この先生がこだわっているのはやはり1930年代なんですかねえ。
852世界@名無史さん:2006/11/08(水) 16:56:41 0
建国後がちょっと駆け足なのが気になりますね。
武訓伝批判(1951年)、紅楼夢研究批判(1954年)、丁玲批判(1955年)
なんかは概説の中で説明するのかしら。
ま、この先生、1920年代〜1930年代が専門のようなので、
やむを得ないと言えばやむを得ないのですが(どんな偉大な先生でも
得て不得手があります)。
1920年代〜1930年代と1980年代は、現代中国文学がもっとも面白い時期ですからね。
853世界@名無史さん:2006/11/08(水) 23:13:28 0
木山英雄著「北京苦住庵記」日中戦争時代の周作人、筑摩書房、1978年
周作人は60,61年に「知堂回想録」などを書いたが、木山氏は調査を追加して
この本を書いた。読んでいて周作人も木山さんも知的なゆったりした風格が
あるので両者が渾然としてくる。情報として特別なものはない。
1966年に死んだことになっているがアイマイなものらしい。
1967年に許広平が「文学戦線」に「漢奸の周作人を庇護した劉少奇の
手下の陸定一、周揚、胡喬木など」として攻撃した。この本には書いてないが
これは許広平が名前を使われて利用されているのでないかと、思う。
漢奸裁判での許広平の動きは知らない。
魯迅に放り出された妻、母、周作人の日本人妻、周作人の弟も信子の
妹と結婚して子供も残して南方に走り、周作人はその全部の世話をしたらしい。
周作人の専門分野も日本文化研究ということもあり、日本に深く関わり
過ぎて抜け出せなくなっていたのではないか?
854世界@名無史さん:2006/11/09(木) 23:08:46 0
木山さんと言えば「『野草』的形成の論理ならびに方法について」がいい論文ですよね。
東大の紀要だったかな、載ってたのは。もしかしたら何かの評論集に入っているかも。
大学のレポートか何かで『野草』について論じることがあったら、この論文は必見です。
855世界@名無史さん:2006/11/10(金) 23:42:03 0
木山英雄著「周作人対日協力の顛末」岩波書店、2004年
この本は筑摩書房の「北京苦住庵記」に新資料の検討を追加
したものだが、新資料は検討の結果、無価値だったという詐欺の
ような本だ。

丸山昇著「魯迅:その文学と革命」平凡社、東洋文庫、1965年
魯迅の広東から上海への転居の時期までを扱っている。
この本の竹内芳郎氏の批評は;
「著作があまりに些末な実証的研究に深入りし過ぎて、その主張を
充分に浮き彫りに仕切れなかった」とある。
それを受けて著者自ら
「抽象的思考能力の貧しさ」と謙遜してみせている。
丸山先生の思考方式は演繹的とでもいうのでしょうか、大部分が
伝記の記述で、そろそろ結論としての思考が始まるのかと、思うと
次に時期に行ってしまう。

丸山昇著「魯迅と革命文学」紀伊国屋新書、1972年
文革の時期は作家の評価が激変した時期で著述にためらう時期
だったようだ。
著者は瞿秋白の魯迅がプチブルからプロレタリアに自分の位置を
転換させたとしている。
竹内好は「魯迅は自分を丸ごと投入することもなしに、共産主義を
受け入れた」としてるそうだ。

小谷一郎編「転形期における中国の知識人」汲古書院、1999年
この中のp、503
丸山昇、「建国後十七年」の文化思想政策と知識人、
丸山先生は最近の学生に「改革解放政策の成功で、建国以来の政策の
誤りがはっきりし、無駄な時期を中国は過ごしたとされる時代に
なって、過去の論争などどうでもいいじゃないですか」と言われる
そうだ。「それもそうだが、やはりやる価値はある」とおっしゃる。
856世界@名無史さん:2006/11/11(土) 09:14:17 0
木山さんの岩波本で、周作人の末期、紅衛兵になぐられ、孫が私を代わりに
なぐってくれといい、木の棒でなぐられ、朝行ってみると周作人は死んでた
そうだ。哀れ。
857世界@名無史さん:2006/11/12(日) 11:13:25 0
教えてください。
国民政府の西域覇権、特にウイグル方面について書かれた本はないでしょうか。
宜しくお願いします。
858世界@名無史さん:2006/11/12(日) 15:08:29 0
859世界@名無史さん:2006/11/12(日) 15:46:27 0
このスレの353以下に少しあります。
860世界@名無史さん:2006/11/12(日) 21:40:47 0
1957年7月、周揚は魯迅の最晩年の3篇は馮雪峰が執筆したと攻撃。
        馮雪峰は失脚。
        反右派闘争。馮雪峰を反党グループとして批判。
        陸定一、周揚が中心。
        今村氏はあの3篇は魯迅にしか書けないと主張。
1966年、党機関紙が周揚の「三十年代文芸」を修正主義として批判。
      「国防文学」ならなんでもいいじゃないかという妥協を
      劉少奇、陳伯達、批判とからめていくようだがまだ不確か。

最終目標が劉少奇批判に持って行きたいことはわかるが、
「魯迅は偉大だ」→「その偉大な魯迅も共産主義に傾いた」→
「これは共産主義が大事な証拠だ」という三段論法に魯迅を利用する、
新興宗教がタレントの入会を利用するのと同じ仕掛けとすると、馮雪峰の
偽造を暴露するのは、党にとって不利益にみえるのは何故だろう?
現在でも中国では魯迅の偶像化、神格化があるのは解るが、日本でも
その雰囲気は残っているように感じるのは誤解だろうか?
861世界@名無史さん:2006/11/13(月) 17:17:43 0
もうアクセス規制は終わったのかなあ?
862世界@名無史さん:2006/11/13(月) 17:33:43 0
では857さん、以下の資料がドンピシャリで合っているかどうかわからないのですが、とりあえず私の知っているだけの書籍を掲げます。
@今谷明『中国の火薬庫』(集英社)
A杉山正明『遊牧民から見た世界史』(日経ビジネス人文庫)
B王柯『東トルキスタン共和国研究―中国のイスラムと民族問題』(東京大学出版会)
C毛里和子『周辺からの中国―民族問題と国家』(東京大学出版会)
D小松久男編『中央ユーラシア史 新版 世界各国史』(山川出版)
E羽田明「東トルキスタン研究序説」『イスラム世界』第12号(1977年4月)
F『剣橋中国史』第10冊 晩清篇(上)、南天書局有限公司(台湾、1987年9月)
第2章と第8章に19世紀の新疆についての記述があります。ということは『剣橋中国史』
の中華民国篇には国民政府の西域覇権の記述があるはずです。ちなみにこの本は中文。
元の本はDenis Twitchett and John K Fairbank“THE CAMBRIDGE HISTORY OF CHINA”
なので、英語に強い人はこちらがお勧め。
863世界@名無史さん:2006/11/13(月) 22:05:45 0
潮出版社の『魯迅』って、片山智行さん(マージャン漫画家ではない)の訳でしたかね。
しかし最近の学生は毛沢東時代の文学論争も忌避しちゃうんですかね。
「誤り」必ずしも「無駄」じゃないのですけれども。共産主義が壊滅の段階にあって、
こうした時期の議論はうけないのかなあ。江川卓さん(巨人軍の投手ではない)の
『現代ソビエトの文学』によれば、無葛藤理論批判など面白い議論がたくさんあるのですが。
関係ないけれど、根本敬さん(特殊漫画家ではない)の『ビルマ』(岩波新書)はまあまあ
面白かった。
864857:2006/11/13(月) 22:18:14 0
>>862
どうもありがとうございます。
先週台湾に行ったばかりだったので、(7)の本捜してくればよかった残念。
ネット通販で入手を考えてみます。
ありがとうございます。
865世界@名無史さん:2006/11/13(月) 22:49:17 0
(陳 伯達、Chen Boda,1904-1989)
福建省の生まれ。上海労働大学を卒業。
1927年、中国共産党に入党。
      モスクワに行き、中山大学に入学。
  30年、「支部派」のトロッキスト派分子として追放。帰国。
      北京の中国大学で教鞭、多数の論文。
  37年、劉少奇の推薦で延安に行く。
      党内有数の理論家として、毛沢東の政治秘書になり
      毛沢東の論文を作成した。
  49年、毛沢東のソ連行きに同行。
  56年、中央委員。
  58年、「紅旗」編集長。
      大躍進の頃、貨幣経済の廃止を提案したこともある。
  66年、大躍進の失敗後の現実路線に危機感をいだいた毛沢東の
      下で、「文化大革命」の中央文革小組の組長として
      文書を作成、劉少奇打倒に貢献。
  70年、陳伯達は江青グループから林彪グループに接近。
      林彪グループに警戒感をいだいた毛沢東は「批陳整風」
      運動として
  73年、党籍剥奪。
  89年、死亡。

この年表では魯迅との繋がりは解らない。これから。
866世界@名無史さん:2006/11/14(火) 17:12:40 0
ご質問の潮出版社についてうっかりして出版会社名についての
注意に気付きませんでした。
姚文元の本が出版されたのは、1975年ですが翻訳,あとがきは
1973年です。1972年に日中国交回復がありましたが、その
背後であの宗教組織が動いたのは公然の秘密です。それを考えると
あの本の出版の意味も難問です。
867世界@名無史さん:2006/11/14(火) 17:20:34 0
権力は反対の極にスパイを置く
868世界@名無史さん:2006/11/14(火) 19:10:34 0
あの政党の人たちはいまだに周恩来を持ち上げていますからね。
創×大学(自己規制)の研究者なんか、えらく周恩来を礼賛しています。
周恩来の評価は、今でもだいぶ落ちているけど、これからもさらに落ちて、
結局、皇帝・毛沢東を諌められなかったダメ宰相、あたりで落ち着くと思います。
それなのに、ああそれなのに、周恩来を無批判で礼賛してしまう
×価大学(自己規制)の研究者たち。党派的真実は本当の真実とは違うことを
目の当たりに見せてくれる人たち。哀れ。
869世界@名無史さん:2006/11/14(火) 20:44:33 0
あんまり複雑な理由はないんじゃない。中国の次代の指導者として創価学会は
姚文元を先物買いしたけど、翌年、四人組が失脚しちゃって、パーになっただけじゃない。
指導者ばかりを見ていて、民衆の存在を忘れるとこうなるという見本みたいな話。
870世界@名無史さん:2006/11/15(水) 01:21:06 0
862さんお奨めの剣橋中国史とはケンブリッジ大学とやっと解りました。
英語で読むと、人名、地名が難しいですね。
871世界@名無史さん:2006/11/15(水) 15:48:39 0
ちなみに出版社はCambridge University Pressです。
最近では固有名詞の後に漢字を添えている本も増えてきているようですが、
この本はまだそうなっていません。
872世界@名無史さん:2006/11/17(金) 19:20:33 0
茅盾著「西北見聞記」河出書房、1958年、現代中国文学全集3、
1939年冬から40年にかけて、蘭州→西安→成都→重慶→貴陽と
著者は旅をした。あまりどうと言うことはない旅行記。各地で日本軍の
爆撃の跡がある。成都は冬の間重慶は霧で爆撃できないので、狙われた
ようだが、空襲警報で避難は繰り返されたが、実際の爆撃については
よく知らない。この本は著者の評価の参考にはならない。

>http://www.chainavi.jp/column/viewer.aspx?id=2617
873世界@名無史さん:2006/11/18(土) 12:41:26 0
>>869
創価学会(というか名誉会長)が周恩来を激賞するのは、
最後まで「独裁者」を裏切らなかったことが底意?
874世界@名無史さん:2006/11/18(土) 17:25:32 0
現在こ中国のいわゆる普通の良い子は表向き、共産主義の悪口は
いいません。ただ過去の共産主義に大躍進や文革など失敗が
あったのは明らかです。そこでそういうことは全部毛沢東の失敗に
押し付けて、尊敬する人は?の答えに周恩来というのが優等生的
答えでしょう。実際みんなそう言います。
875世界@名無史さん:2006/11/18(土) 18:01:21 0
そうかもね。評価が上がったり下がったりした中共の指導者の中で、
周恩来は切り札だもんね。しかし周恩来本で私が頭に来るのがみんな
建国前で終わっていること。これは毛沢東もしかりで、例えばみすず
書房で出ている毛沢東伝は、やっぱり建国前で終わっています。私が
知りたいのはそこから先なのにー。八つ当たりまでに記すと、茅盾の
回顧録(出版社忘れた)は名誉回復まで書いてあるはずなのだけれど、
翻訳はなんと建国前で終わっているのです。やたら長いので訳すのは
大変なのは分かるけど、訳すなら全訳してくれ。


876世界@名無史さん:2006/11/18(土) 18:07:08 0
歴史は政治に負ける。

ある権力が台頭している時代にはその権力者を批判することは書けないんだよ。
なにも共産圏だけの話じゃない。いわゆる自由主義圏だって書けないことは沢山あるんだ。
あんまり嗅ぎまわるなよ。
877世界@名無史さん:2006/11/18(土) 18:59:29 0
もう毛沢東時代はとっくに過ぎ去ったし、改革開放も定着したんだし、
いいじゃん、毛沢東時代のことくらい書いたって。
878世界@名無史さん:2006/11/18(土) 19:40:51 0
政治は歴史に負ける。
現在の中共政権を中国人に批判せよというのは酷ですが、日本にいる歴史家
または歴史を学ぶ学徒には自ずと別の視点があっていいとおもいます。
文化大革命の頃を思い出してください。大陸は文革を礼賛する論評でいっぱい。
日本でも文革礼賛する歴史家・評論家でいっぱい。でも少数ながらも文革を
冷静な目で見つめる研究者がいました。で、結局、今現在誰の論評が残っていますか。
文革批判派が生き残りました。
時間がかかるというのが欠点ですが、ウソは必ずばれます。歴史のウソは許さないと
いう歴史家がいる限り。
また、そうでも思わなければ歴史を学ぶ意味なんかないでしょう。
879世界@名無史さん:2006/11/18(土) 23:07:08 0
以下は中国語の教本の一部ですが、この文は中国の高校の教科書に
出ていたそうです。北京の案内ですが・・
「北京は光栄ある革命の伝統のある都市です。1919年に有名な
五四運動がここで発生しました。この運動は中国の旧民主主義革命が
新民主主義革命に転換した象徴と言われています」とある。
新旧の革命とはブルジョワ革命とプロレタリア革命という意味。

齋藤道彦著「五・四運動の虚像と実像」中央大学学術図書、1992年
著者は五四はただの山東半島の領土返還運動で当時の学生はマルキシズムの
知識もなかったし、反帝国主義の思想もなかったとしている。
この本の前に中央から
「五四運動史像の再評価」がでている。今回の本では当日の学生達の動き、
発言、行進路、最終的な暴行、放火を細かくマニアックに分析している。
学会発表には激しい反論があったようだ。
880世界@名無史さん:2006/11/19(日) 17:52:57 0
京大の研究班も五四運動の研究をやっているはずです。
こちらはなにぶん古いので、「再評価」の視点は乏しかったように思います。
881世界@名無史さん:2006/11/19(日) 21:26:36 0
竹内実著「周樹人の役人生活、五四と魯迅・その一側面」同朋舎出版、1985年
京都大学人文科学研究所共同研究報告
魯迅は15年も文部省で役人をしていた。北京大学や師範大学はアルバイトだった。
国費を使った研究の成果はそれだけ
882世界@名無史さん:2006/11/19(日) 21:44:53 0
ウースーユンドンとあんまし関係ないな、それ
883世界@名無史さん:2006/11/19(日) 22:37:20 0
   (梁士詒、りょうしい、Liang Shiyi,1869-1933)
広東省の生まれ、梁啓超の学友、
挙人、一等一番で合格するも、西太后に梁啓超の親類と誤解され登用
されなかった。気の毒。
1905年、唐紹儀が鉄路大臣になりその秘書。交通系に入り込む。
  07年、交通銀行設立を提言。その総理に。
  12年、辛亥革命後、袁世凱が大総統、その秘書長、郵伝大臣。
  16年、袁世凱の皇帝就任失敗、死亡で香港に逃れる。
      帝政8大禍首の一人。
  18年、馮国璋により復活。交通銀行理事長に。
      失脚期間中に安福系の新交通系の派閥が曹汝霖を中心に出来、
      梁士詒たちは旧交通系と呼ばれた。
  19年、1月、パリ和平会議の準備として、徐世昌大総統は親日の安徽派
      中心の外交部から離して、新米派の研究系、旧交通系中心の外交
      委員会をつくり、梁士詒等を委員とした。
      五四運動で曹汝霖などの新交通系が後退。旧交通系が盛り返す。
      この頃から張作霖に近づき、梁士詒の微妙な動きが安直戦争の
      誘因にもなったらしい?日本に近づく。
  21年、梁士詒内閣。
      日本に近づき過ぎ呉佩孚に攻撃され倒れる。直隷派に攻撃される。
  25年、段祺瑞政府に招かれる。
  28年、北京政府崩壊で失脚。
884世界@名無史さん:2006/11/20(月) 22:55:23 0
(曹汝霖,そうじょりん、Cao Rulin,1877-1966)
      上海生まれ。
1900年、日本留学。中央大学で法律を学ぶ。
      中江兆民宅に下宿。
  05年、留学生用試験で進士に。外交部に勤務。
  15年、袁世凱の下で外交部に。
      対華21か条交渉。受諾。
  16年、交通総長、外交総長を兼務。
      新交通系の筆頭。
  18年、山東交換公文に携わる。
  19年、五四運動で「親日売国奴」として焼き討ちにあう。
      6月に罷免される。以後は民間で交通銀行総理など
      実業界で活躍。
  37年、「中華民国臨時政府」の顧問になる。
  45年、終戦後は売国奴として批判される。
  49年、台湾→香港→日本在住
  57年、渡米。

自伝;曹汝霖著「一生之回憶」鹿島研究所出版会、1967年
これは非売品だろうか?読みたい。大きい図書館にはあるようだ。
中江兆民の息子が五四事件の時、曹汝霖の家にいた理由が解る。
885世界@名無史さん:2006/11/20(月) 23:08:56 0
結果として、徐世昌大総統としては、五四運動騒ぎで、安徽派に近い、
親日の新交通系を追っ払い、親欧米系の旧交通系の勢力を復活すること
が出来た。五四運動はその方面の黒幕が仕掛け学生はそれに踊らされた
という考えもあるようだ。
中央大学の先生方の本はそこまで断定していないが、少なくとも、
左翼勢力が仕掛けたものではないとしている。
興味深い問題だ。
886世界@名無史さん:2006/11/23(木) 17:00:50 0
片山智行著「魯迅と梁啓超、(国民性)(病根)問題と小説観について」
伊藤漱平教授退官記念、p817、1986年
退官する伊藤先生は「紅楼夢」の研究一本で一生やられたらしい。すごい。
さて片山論文。魯迅が日本に来た頃、梁啓超は横浜で雑誌を出していた。
魯迅はそれを読んでいた。梁啓超は「圧制の対して反抗する西洋の国民と、
(奴隷根性)の中国人」と中国人を批判している。後の魯迅の主張の
大部分は梁啓超の文章にある。そうだ。説得力がある。
887世界@名無史さん:2006/11/23(木) 20:24:12 0
梁啓超年譜長編は岩波書店なのでここでは紹介されまいな
888世界@名無史さん:2006/11/23(木) 23:03:51 0
岩波本で梁啓超が五四時期にどう言ってるか調べたんですが
彼はベルサイユに夢中で発言が解りませんでした。
「研究系」という組織を調べようとしてるんですが、日本語の
資料が見つかりません。
889世界@名無史さん:2006/11/23(木) 23:28:40 0
狭間直樹も島田虔次もこのスレにあっては形無しである。
890世界@名無史さん:2006/11/24(金) 04:32:27 0
梁啓超は康有為門下に入り、「強学会」創設のとき書記になっているはずですが、
「研究系」と「強学会」は何か関係があるのでしょうか。中国語の書籍だけれど、
張朋園『梁啓超与清李革命』(台湾・中央研究院近代史研究所、1969年6月)に
「研究系」の記述はないのかしら。
891888:2006/11/24(金) 17:00:39 0
研究系について解っていることは、
袁世凱の議会をつくる時に、梁啓超は「憲法研究会」を作った。
この組織がなぜか残っていて活動しているようです。
北洋議会が出来た時、第1党は国民党で、進歩党とかいうのが
あってここと関係してるのかとも思っています。
892世界@名無史さん:2006/11/25(土) 18:24:27 0
銭錘書著「結婚狂詩曲」岩波文庫、1988年、上下
1946年に書かれたというこの本はとんでもない本で、あまりの
くだらなさに下巻を読む気にならない。1937,8年の上海が舞台で、
ヨーロッパ留学帰りの男女がバブル期の日本のような、ドタバタを
くりひろげる。下巻の後書きによると、中国のプロレタリア文学は
善人、悪人がはっきりしていて、文学が主義のために存在している。
その点この本は書きたいように書いているそうだ。
後書きだけ立ち読みすればよい。
893世界@名無史さん:2006/11/25(土) 23:59:37 0
そうか、そんなにくだらないか、買わずによかった。女房の楊絳が書いた
『風呂』と『幹校六記』(いずれもみすず書房)は面白いぞ。特に『風呂』
の訳者解説は、現代中国文学屈指の名解説だ。値段は高いがこれだけでも
買っておく価値ありだ。訳者は中島みどりさんだが、これって『結婚狂想曲』
の訳者だったっけ。くだらないのは書いた本人(銭鍾書)が悪いのだろう。
894世界@名無史さん:2006/11/26(日) 00:48:41 0
『結婚狂詩曲』の訳は中島長文&みどりご夫妻だったかな。楊絳エッセイ集『お茶をどうぞ』(中島みどり訳、平凡社)
もお勧めです。なお中島みどりさんは残念なことに2001年初頭に亡くなりました。合掌。
895世界@名無史さん:2006/11/26(日) 16:04:50 0
荒井健を忘れてはいけない。
896世界@名無史さん:2006/11/26(日) 21:40:00 0
すまぬ。歳のせいか最近記憶力が劣化してきて。
荒井健さんって、李賀の専門家でしたっけ?
897世界@名無史さん:2006/11/26(日) 23:31:07 0
しかし、"洗澡"を「風呂」と訳す根性って、すごいな。
陽明山へピクニックに出かけるあたりで放り投げてしまったが、
その後は「美徳の不幸」みたいな展開に当然なったんだよね?
898世界@名無史さん:2006/11/26(日) 23:38:43 0
そうですね、あれは「三反運動」の小説ですからね。
毛沢東型粛清運動の走りですからね。
899世界@名無史さん:2006/11/26(日) 23:53:56 0
バルザックの『赤と黒』がなくても、
桑乾河に太陽が輝いてればいいじゃない。
900世界@名無史さん:2006/11/27(月) 17:00:19 0
狂詩曲=奇想曲(伊:capriccio、仏:caprice)のこと。
クラシック音楽における楽曲の一形式。
狂詩曲(仏:rhapsodie、英:rhapsody)と混同されやすいが、
異なる形式である。
901世界@名無史さん:2006/11/27(月) 20:13:02 0
『赤と黒』はスタンダールじゃあ。
しかし丁玲を読んでいる人がちゃんといるんですね。
スターリン文学賞を取った同作品だが、私にはいまいちだった。
でも80年代半ばに現代中国文学を習ったものとしては、
丁玲読んでいる人がいるだけでもなんだか嬉しい。
902世界@名無史さん:2006/11/27(月) 21:47:18 0
言論の自由のない世界にまともな文学が存在できるのかという
疑問はしまっておきましょう。
魯迅が「静かなるドン」とか「何をなすべきか」などの
ソ連の文学を読んで、面白いと思って存在価値があると思い
込んだのだろう。魯迅も日本から中国をみてまともな思考が
あったのが、長く中国で暮らしていて持ち上げられてボケた
というのが暫定的な私の魯迅評価です。レーニン時代のソ連の
過酷な状況のニュースも掴んでいたのに、ソ連が小麦の輸出を
してるくらいだから、豊かなんだろうと寝ぼけたことを
いっている。
903世界@名無史さん:2006/11/28(火) 01:37:49 0
>>901
『風呂』にそういうシーンがある。
声高なバカに礼節を知る知識人が根負けするところ。
904世界@名無史さん:2006/11/28(火) 15:15:40 0
そうだったのか。私も『風呂』読んでみる。
シャレがわかんないようでは、それこそシャレにならんな。
905世界@名無史さん:2006/11/28(火) 15:45:20 0
わはははは。
丁玲をからかうとは、楊絳女史も度胸がありますな。
しかしこんな高級な冗談は人民大衆に分からんぞ。
人民大衆にもっと分かる文学を!――なーんて論理から、実は文学者の弾圧が始まるのです。
ああ恐ろしい。
906世界@名無史さん:2006/11/30(木) 16:15:57 0
 丸山昇さん75歳(まるやま・のぼる、中国現代文学研究者、東京大学名誉教授)
26日、肺炎のため死去。葬儀は近親者のみで済ませた。
後日「しのぶ会」を開く予定。喪主は妻まつさん。
魯迅を中心とする近・現代中国文学を手がけた。
著書に「魯迅―その文学と革命」、「魯迅・文学・歴史」など。
兄は作家の佐野洋さん。
907世界@名無史さん:2006/11/30(木) 16:24:45 0
age
908世界@名無史さん:2006/12/01(金) 15:11:49 0
丸山松幸著「五四運動」紀伊国屋新書、1969年
文革、紅衛兵と五四を結びつけて興奮している。
ただし当時すでに野原四郎などは「反政府政客の扇動」や「英米の
裏工作による排日運動」などの説があったようだ。丸山も五四当時
共産主義の浸透はまだだったが、アナーキストの過激派が大きな
役割をはたしたと言っているが、当時のアナーキストというのは、
学生運動の黒ヘルなどのイメージで想像すべきものでなくて、
新しい村運動などに影響されたおとなしいものでないだろうか。
同じ著者で同じ出版社から
「五四運動:中国革命の黎明」1981年が出ているが図書館にない。
図書館の人はページ数も同じだから69年と同じ本でないかと言う。
内容は同じでもよいが、文革から遠のいた段階で著者に心境の変化
でもあるのか知りたい。
909世界@名無史さん:2006/12/01(金) 17:13:00 0
竹内弘行著「後期康有為論:亡命・辛亥革命・復辟・五四」同朋舎出版、1987年
京都大学人文科学研究所共同研究;五四運動の研究;14
この本は大変勉強になり有り難かった。
康有為が儒教を孔教会という形で宗教化しようとした。
五四の現場としての山東半島は儒教のメッカとも言うべき場所というのが意味が
康有為が五四を応援した理由の一つ。
島田虔次氏の「明治日本の神道、天皇制を国家統一の道具とした方法を、康有為が
儒教、清朝廷に応用しようとした?」というのは説得力がある。
著者が「自分の五四運動に対する考えは別の文献に譲ると逃げてしまうのは賢い。
魯迅が「致宋祟義」という手紙の中で「中国人は外国の思想を受け入れない。
五四も一時的な(中国式の乱)だ」と五四を当時否定的で後に訂正したそうだが、
この資料は調べたのだが解らない。


狭間直樹著「五四運動の研究、1」同朋舎出版、1982年。
19冊に昇るシリーズの第1巻であるこの本の一行目は
「中国の新民主主義革命は五四運動に始まるというのは、広く公認された説である」
そうだ。
910世界@名無史さん:2006/12/02(土) 22:27:20 0
908殿。
丸山松幸さんには『中国近代の革命思想』(1982年、研文出版)が出ております。
私は読んでないので内容には言及できませんが、
文革後の丸山さんの思考が載っているのでは。
911世界@名無史さん:2006/12/08(金) 15:14:14 0
茅盾の「子夜」を読むための予備知識収集。
日本上海史研究会編「上海」2000年、この中の
菊池敏夫著
「一九三〇年代金融危機と申新紡織公司」
無錫出身の栄宗敬が上海に作り、中国の3割近くを生産した
紡織、製粉企業。
WWTにより急成長。30年代初めは地方が政情不安定なため、資本が
上海に集中しバブル景気になった。日本製品のボイコット運動も貢献した。
35年にアメリカで銀買い上げ法案、綿花の不作高騰、生産過剰により
企業危機に陥る。国有化される可能性もあったがなんとか乗り切る。
国民党政府内の対立。
栄宗敬は蒋介石派の呉稚暉、財政部長の孔祥熙に結びつきその援助があった。
対立する汪精衛派の陳公博。
関税自主権の回復による、財政利益や軍事支出をまかなう公債など複雑な
問題があった。
この話がモデルじゃないかと思うがそう書いてあったわけではない。
菊池先生の論文は非常に参考になり素晴らしかった。
912世界@名無史さん:2006/12/10(日) 01:04:50 0
茅盾作「子夜」岩波文庫、は1931年から32年にかけて書いた。
ストーリーは1930年の5月に始まり、7月で終わり。
下巻の終わりの小野忍さんの解説がすごい。
北伐が終わって、反蒋介石戦争を背後で汪精衛が煽って
北京に政府を作ろうとする騒ぎで公債の値段が上下する話で
歴史知識の理解が難しいけれど勉強になった。
こんなのを書いてて共産中国でよく出世できたものだ。
913世界@名無史さん:2006/12/10(日) 01:07:48 0
森時彦「在華紡と中国社会」は駄目かね
914世界@名無史さん:2006/12/10(日) 09:06:00 0
>「在華紡と中国社会」
本屋でタイトルは知ってたんですが、価値に気づかなかった。反省。
>『中国近代の革命思想』1982年
これは過去の論文のまとめでした。
915世界@名無史さん:2006/12/10(日) 13:16:28 0
慶應大学出版会から『蒋介石と新生活運動』なる本が出ましたね。
作者の段瑞聡という支那人が、共産党と無縁ならよいのですが。
916世界@名無史さん:2006/12/10(日) 16:57:57 0
段祺瑞の親戚みたいな名前ですな
917世界@名無史さん:2006/12/10(日) 16:58:44 0
>『蒋介石と新生活運動』
段瑞聡という方は読んでいて本当に頭がいい人だと感じました。論理の立て方が
正確で論文の書き方の教科書のようです。
内容は私には関心のある領域ですが、他の方にどうなんでしょう?

波多野澄雄編「日中戦争の軍事的展開」慶応大学出版会、2006年4月
1冊で日中戦争の色々な部分がわかって便利といえば便利。
新しい知識は発見できなかった。

家近亮子著「蒋介石と南京国民政府」慶応大学出版会、2002年
過去のいくつかの論文集。
国民政府についての本は少ないので参考になりました。
独裁者といわれる蒋介石も実は国民党の内部ではそれほどには実権が
なかった。いくつかの軍事勢力の集合体であった。だから共産軍に
負けた。という論理。必要条件、充分条件、必要充分条件として
どうなんでしょう。
918世界@名無史さん:2006/12/12(火) 12:32:02 0
一番の英雄は、実は梅屋庄吉だと思う人。

http://www.matsumotoro.co.jp/umeya1.htm
919世界@名無史さん:2006/12/12(火) 20:26:18 0
920世界@名無史さん:2006/12/13(水) 07:36:11 O
ワイルド・スワンって誰の本だっけ?
921世界@名無史さん:2006/12/13(水) 20:13:17 O
杜月笙の存在
922世界@名無史さん:2006/12/13(水) 22:45:10 0
911の栄宗敬の会社がつぶれそうになって、上海銀行、中国銀行などが
話し合いになるとその中に杜月笙も混じって出てきました。
夜の世界のギャングのボスというより、上海の有力者として扱われて
いますね。
923世界@名無史さん:2006/12/14(木) 02:38:44 O
国民党の資金源だったりしたので、フィクサー的な形で見れば「革命勢力」と言えるかと思ったんスけどw
924875:2006/12/15(金) 12:40:16 0
ごめん。
1949年から76年までの周恩来の伝記って出てたわ。2巻本で岩波書店から。
「岩波」というところで私は腰が引けて購入しませんでした(なんとなく内容が想像できる)。
筆者も覚えてきませんでした。
重ねてごめん。
925世界@名無史さん:2006/12/15(金) 15:26:03 0
高綱博文著;上海「在華紡」争議と5・三○運動、
中央大学人文科学研究所編「民国前期中国と東アジアの変動」1999年の中
これも五四運動と同じ論理で、中共はこれを共産党指導による
反帝国主義運動として、顧正紅を犠牲になった英雄として祭り上げているが
共産主義運動などでなく、顧正紅の名前も顧正洪を意図的に「紅」の
名前に変えたらしいと疑っている。

森時彦編「在華紡と中国社会」京都大学学術出版会、2005年
日本の中国への繊維産業の進出は大規模だったこと、中国製品に対抗
するため、高技術の製品にシフトしたこと、必ずしも利益が上がらなかった
ことなどがあるようだ。この本は図書館で食品工業、鉄鋼業などの、
産業別の棚にあった。歴史の本の置き場所間違いと思ったが司書の
方の読みはさすがに鋭く正解だった。

秦孝儀編「蒋介石総統画伝」ケイザイ春秋社、1974年
台湾で出されたものの日本語版写真集。彼は二十台から、額は
禿げているようだ。
926世界@名無史さん:2006/12/15(金) 15:31:02 O
坊主でしょ(笑) あるいは自らスキンヘッドにしたか。いずれにしろ、潔癖だったらしいよ。ボサ頭の毛沢東とは頭から合わないね。

髭無い時の蒋委員長は、ハンサムだったりする。当時の軍閥ってなんでハンサムが多いんだらう?
927920:2006/12/16(土) 00:21:59 O
検索したらユン・チアンJung Cangと出たが、どんな漢字やろか?
928世界@名無史さん:2006/12/16(土) 02:25:45 0
>>927
張戎
929世界@名無史さん:2006/12/16(土) 02:42:41 O
>>928
算楠
930世界@名無史さん:2006/12/16(土) 09:39:45 0
ユン・チアンについて。矢吹先生というのは論争、闘争がお好き。
>http://www25.big.or.jp/~yabuki/doc/so940601.htm
931世界@名無史さん:2006/12/16(土) 15:40:47 0
国分良成編「中国の統治能力」慶応義塾出版会、2006年9月
以前から国分先生の中国の改革解放により、民主化への流れは
不可避であるというもっともな結論が最初に書いてある。
先のことは誰にも解らないのだから各論は読んでもしょうがないと
考えている。
台湾で中国人が民主化出来たのだから大陸でもできるだろうという
考えもある。かえって中国当局が中国人はまだ選挙制度に対応できる
ほど教育されていないとの発言もある。既得権保持のためもあろう。
私は「中国やロシアのように、共産主義を選択する国民は専制支配される
ことが好き」という仮説を持っている。反日デモや文革、義和団事件
などで現れる狂気は短期的には無くならないだろうと悲観的だ。
毒殺テロの政府を許す国も同様だ。モンゴル支配の後遺症かどうか
知らない。

後藤春美著「上海をめぐる日英関係1925−1932年」東京大学出版会、
日英同盟後の協調と対抗という副題
どこが新しい知見なのかは私には解らないが、色々知識の付く本だと
思いました。ゆっくり繰り返し読みたい。
932世界@名無史さん:2006/12/19(火) 03:44:10 0
蔡鍔について書かれた良書ってある?
朱徳が若い頃この人の軍にいたようで、非常に尊敬していたようなんだけど。

黄興といい、蔡鍔といい、カコイイ奴は何故か早死に中華民国。
933世界@名無史さん:2006/12/19(火) 05:45:01 0
934世界@名無史さん:2006/12/19(火) 12:42:44 0
>>862
>今谷明『中国の火薬庫』(集英社)

買った。
読んだ。
余り面白くなかった。
でも良くまとまっていたと思う。
入門書。
935世界@名無史さん:2006/12/19(火) 16:49:26 0
>932
日本では、石島紀之著『雲南と近代中国―”周辺”の視点から』
     (シリーズ中国にとっての20世紀)青木書店,しか知りません。
中国では、謝本書著「蔡鍔伝」天津人民出版社、1983年とか
あるようだけど、著者の名前が変ですね。名前じゃないかな?
蔡鍔は梁啓超の弟子で、日本に来てから、成城学校で安倍首相の先輩で、
その後陸軍士官学校。中国に帰ってから広西で沢山の士官を育てて
雲南に移った。
936875:2006/12/19(火) 19:04:08 0
重ね重ねすまん。
茅盾の回想録って、もともと中華人民共和国の建国のところで終わっているのだったよ。
んでもって翻訳は原本のなんと3分の1まで。理由がくどくど書いてあるが、
面倒くさいから読まなかった。
みすず書房が出版社で、お値段は13000円。誰が買うのかね。
もっとも古本屋では6000円になっていたが。
937世界@名無史さん:2006/12/19(火) 19:31:25 0
>>935
あふ、前者は目付けてたんだが、躊躇してたんだw
結構安いし、こうなったら中文書逝ってみるか。
サンクス!


ところでこの人、袁世凱に中央に行かされた時の理由として、
1、袁世凱が兵権を取り上げるため(在地勢力との連携阻止)
2、袁世凱が彼の能力を見込んだため

の二説あるようなんだけど、ホントの所はどっち?もしくは両方?
938世界@名無史さん:2006/12/19(火) 23:11:07 0
よく知らないですが、徳川幕府が参勤交代させたような理由じゃないでしょうか?
939世界@名無史さん:2006/12/20(水) 23:54:31 0
趙樹理著「李家荘の変遷」岩波文庫、昭和33年
この本は面白い。
山西省の東南の山村が舞台で1920年代後半から1945年までの
貧しい大工が苦しい生活の中から解放軍兵士に成長していく過程を
講談のような語り口で展開していく。
閻錫山が馮玉祥、汪精衛と反蒋戦争を起こし、屈服し西安事件から
盧溝橋事件で国共合作により共産軍が進出して、そこに日本軍が侵略、
トーチカを作りこもり、ゲリラ部隊と戦う。「空室清野」戦術。
「犠盟会」。など小説で出てくるとイメージがつくりやすい。
終戦。人民裁判。国共内戦に入っていく。
共産党のプロパガンダ小説。
940世界@名無史さん:2006/12/21(木) 12:43:30 0
>>931
>台湾で中国人が民主化出来たのだから大陸でもできるだろうという
考えもある。

しかしロシアの現状を見るに、若干悲観的にならざるを得ない自分がいる。

>中国やロシアのように、共産主義を選択する国民は専制支配される
ことが好き

一方で、東南アジアやアメリカの華僑が生き生きしているという現実もある。


はっきり言って、この先どうなるか、皆目見当が付きましぇん。
941世界@名無史さん:2006/12/23(土) 16:13:11 0
「中国文化大革命事典」中国書店、1996年の中の人名。
(趙樹理)
文革後「走資派」とされ「文芸黒線」を打ち出した「尖兵」
「ブルジョワ階級反動学術権威」とされ迫害。
68年に「大裏切り者」とされ暴行され骨折。
70年、太原で大規模な「趙樹理批判大会」の5日後に死亡。
批判されたのは知っていたが殺されたのは知らなかった。
作家は軒並み殺されている。

釜屋修著「中国の栄光と悲惨、評伝趙樹理」玉川大学出版会、1979年
文革時に批判は
「英雄を描かず、農村のおくれた人物や中間人物を描き擁護する作家」
「農村の幹部や活動家のハネアガリ分子に勇敢率直に意見を述べた」
という。
本の題名と副題が逆のほうが解りやすい。
山西省は戦争中、蒋介石によって八路軍に分担させられた場所だ。
そこで、彭雪楓、薄一波、周恩来、劉少奇、朱徳、彭徳懐が実績を挙げた。
趙樹理はそこで彼等と協力して活動したわけだが、私はそれで毛沢東に
眼を付けられたのでないかと想像していたがそういう記述はなかった。
942世界@名無史さん:2006/12/23(土) 16:19:43 0
毛沢東はそんなのいちいち指図しないよ。
ゴロツキ紅衛兵が手当たり次第文化人をつるし上げるのを、
周恩来がときどき保護指示を出して止めていたって感じじゃないか。
943世界@名無史さん:2006/12/28(木) 00:40:48 0
NHKの文革の番組の清華大学の闘争の被害者の先生の話では
学生を政治中枢が動かしていたと言ってましたね。

944世界@名無史さん:2006/12/28(木) 00:41:25 0
黒田明伸著「中華帝国の構造と世界経済」名古屋大学出版会、1994年
この本はチラッと見ただけですが、随分いい本みたいです。
私の能力に負えない感じもあります。
読んだ方いたら解説してください。
945世界@名無史さん:2006/12/28(木) 07:42:29 0
>>918
『梅屋庄吉と孫文』(読売新聞西部本社編/海鳥社)買いました。
薄い本ですが、写真が豊富で紙質が良いので、やや高い。
946世界@名無史さん:2006/12/29(金) 18:44:09 0

947祝新年快楽:2007/01/01(月) 23:39:19 0
(丁玲、ていれい、Ding1 Ling2,1904-1986)
1904年、湖南省の大地主の家に生まれる。
  14年、常徳女子師範に。家は没落、母は教員。
      後の毛沢東の妻、楊開彗と同級。
  22年、上海の陳独秀、李達の始めた平民女学校へ。
  23年、上海大学へ。、瞿秋白、邵力子を聴講。
  24年、北京へ行く。無政府主義傾向。
      胡也頻と同棲。
  25年、胡也頻と上海に行く。
      と思えば馮雪峰との男女関係が原因で転居という説もある。
  31年、胡也頻などが逮捕銃殺される。
      邵力子、張群、陳立夫に救援を求めた。
      これを契機にシンパから政治活動に。
      左翼作家連盟で活動。作品「水」社会主義リアリズムの評価。
  32年、入党。
  33年、逮捕される。愛人の馮達が関係するらしい。
  36年、西安、延安へ行く。文化宣伝工作。
  42年、「三八節有感」を書き陝北や山西の封建的意識や上層幹部の
      旧態依然たる男女関係や性差別を批判した。
      ↑これは読みたいな。
     、整風運動で批判される。自己批判。
  46年ー48年。土地改革、大衆闘争に参加する。
      ↑作品「太陽照在桑乾河上」で毛沢東の文芸講話を実践と評価。
  54年、57年に「右派」として批判される。
  58年から黒龍江省の農場で肉体労働に従事。
  70年、文革では「牛小屋」に監禁、さらに北京監獄に投獄。
  75年、解放される。
948祝新年快楽:2007/01/02(火) 00:12:02 0
丁玲著「霞村にいた時」他六編、岩波文庫、1956年
1、28年、シフィー女士の日記;中国の飛んでる女の話。
2、28年 阿毛姑娘;おしゃれしたかった貧乏女の話。
3、32年、上海で同棲していた胡也頻の処刑された夜。
      魯迅に出てくる作家の処刑と同じことか?
4、39年 日本兵の農村襲撃の話。
5、41年 日本兵の女にされた女の話。
6、41年 農村党員の苦労。
7、50年 胡也頻との生活の回顧。

丁玲というのは、日本の文学部などに時々いる、人間は成長して
いかなければいけないなどと主張しながら、活発な男女関係を
発展させる、近づくとケガをしそうな危険な女性のようにみえる。
胡也頻もいいとこ見せようとして銃殺された。
949世界@名無史さん:2007/01/03(水) 22:45:17 0
>>943
ヒントンの「百日戦争 -清華大学の文化大革命」のような話でしょうか。
950世界@名無史さん:2007/01/04(木) 21:36:29 0
>949
私は読んでないですが、NHKの担当は読んで参考にしてるでしょうね。
951世界@名無史さん:2007/01/05(金) 18:23:11 0
丁玲著「太陽は桑乾河を照らす」上下、青木書店、1955年
日本敗戦後、国共内戦時期、華北の土地改革の話。上巻だけは数年前に
読んだ。中国の農村は身分社会でないので、働き者は中農、大農の
地主になっている。中共は貧乏人を煽って働き者の土地持ちを攻撃
させ、土地を貧乏人が奪い「みんなで貧乏になった。」働き者に対する
醜い嫉妬のからんだうさばらしがあった。暴力行為による死者もでた。
文革で見られたさらし者に使う三角帽子の原型がここにあった。
ロシアの土地改革が農業集団化による機械化があったのに対し、
中国では農民の土地執着を煽ったために、今日でも農地が日本よりも
細分化されていて機械化が進まない。
ただ救いは、小説家として丁玲も趙樹理も土地改革を行う下級党員の
教条主義、利己的な点はみている。
952世界@名無史さん:2007/01/07(日) 23:13:49 0
茅盾著「腐蝕」岩波文庫、1961年
茅盾は1940年5月延安に立ち寄って魯迅芸術学院で教え、
同年10月重慶に行く。11月に江蘇省北部で国共軍の武力衝突。
41年1月皖南事変が起きる。春に香港に移る。この年腐蝕は書かれ
10月に出版された。
茅盾の重慶滞在時期にほぼ一致した期間の若い女性の日記スタイルで
書かれているが、読み始めてびっくりジョンルカレを連想する、
エスピオナージ小説である。主人公は共産党スパイと同棲して
いた国府側の諜報組織に属しているが共産党シンパにもみえる。
汪兆銘側の組織の男女もいて、米軍からの軍事援助物資がどこに
かくしてあるのかさぐろうとしている。密輸もあるようだ。
ところが謎も解明されずに突然終わってしまい読者は投げ出される。
魯迅もそうなのだが、私の乏しい中国読書経験では中国の小説の
作者は全体の構成というものを最初に考えてあるのだろうか?
いきあたりばったりに書いているようにも思える。
探偵小説というものは、アリバイや密室の謎、トリックがあり、
最後にそれが解き明かされるのだが中国人にそれが、書けるの
だろうか?私の無知のためであることを願う。
953世界@名無史さん:2007/01/09(火) 23:13:40 0
(項英、こうえい、Xiang4 Ying1,1898-1941)
湖北省生まれ、12才工場労働者に
1922年、共産党に入党
  23年、京漢鉄道ストを指導
      中央委員に
  26年、労働者を組織し北伐に参加
  31年、中華ソヴィエト副主席
      10月、主力部隊が長征に出た残軍を遊撃隊に組織
  38年、正式に新四軍が成立、葉挺が軍長、項英が副軍長
      >http://www.asiatravel.to/chinatravel/sinsigun.html
  41年、1月の皖南事件で新四軍は壊滅、3月に潜伏していた項英は
      殺害された。
954世界@名無史さん:2007/01/09(火) 23:30:09 0
茅盾は共産シンパとしての活動が忙しくなると、すぐ作品を投げ出しちゃうんだよね。
『虹』(未訳)しかり、『腐蝕』しかり、『霜葉は二月の花に似て紅なり』しかり…
完結した長編小説は『子夜』『蝕』くらいか。
建国後は文部大臣になって(〜64年12月)創作活動停止しちゃうし。
一説によると、趙樹理が現れたので、自分の役割は終わったと思ったとか。
955世界@名無史さん:2007/01/11(木) 22:53:55 0
茅盾著「霜葉は二月の花に似て紅なり」岩波書店、1980年
舞台が江南の都市で中で海を見たことがないというので、何処
だろうと考えたが解らなかったが解説を読んで桂林だった。
日米戦開始により香港にいた茅盾は桂林に退却。重慶に移住
する資金のためにこの本を書いたらしい。
五四運動直後の時代に開明派の地主たちが農民のために運動し
失敗する話。題名の霜葉は秋の紅葉のカエデのことで、老人?
の開明派のことで、二月の花は春の花々のことで赤い若者の
ことだそうだ。
茅盾は単純な革命文芸に批判的だったようで、この小説は
その線の話のようにも見える。こんなものを書いてる人間が
中共で出世したのはよく解らない。
話の中で女子高生のスカートがどんどん短くなり、女教師の
スカートが薄く透けていくというのが出てきて、何処の国の
ことかとびっくりした。
956世界@名無史さん:2007/01/12(金) 23:58:50 0
松井博光著「薄明の文学」中国のリアリズム作家・茅盾、東方書店、1979年
著者は知識が豊富で茅盾辞典のような本。ただ79年の中国関係は
まだ言論の自由がないように、著者は自分の意見は一切出さない。
戦後については、小説を書いていないからと、言及がない。
957世界@名無史さん:2007/01/14(日) 03:05:51 0
「温故一九四二」は、このスレ的にはどう?
国民党が河南省だけで30万人自国民を殺害していたとは知らなかったよ。
958世界@名無史さん:2007/01/14(日) 18:37:07 0
劉震雲著「温故一九四二」中国書店、2006,4
竹内実監修とあり、後書きに竹内実の解説文の謝礼があるのだが、
見当たらない。「報告文学」というのだそうだ。
その年にいつものように飢饉があった。国民政府はあまり援助を
してくれなくて、蒋介石達は豪華な暮らしをしていたという。
日本軍が占領してたら、生活がやや安定したという話。
宋美齢は飢饉の最中にスティルウェルを招待して、贅沢にも
「コーヒー」を飲んでいたという。
私の最近読んでる中国文学は新中国成立以前のもの。
言論の自由の無い国の文学にもともと期待していない。
竹内実がからむとろくなことは無い。
959世界@名無史さん:2007/01/15(月) 01:26:46 0
うーん。竹内実さんも竹内A(文革まで)と竹内Bがあるからねえ。
960世界@名無史さん:2007/01/18(木) 11:24:28 0
961世界@名無史さん:2007/01/18(木) 17:11:44 0
ここは人名辞典スレ?
962世界@名無史さん:2007/01/20(土) 00:03:20 0
(陳毅、ちんき、 Chen2 yi4,1901-1972)
四川省の生まれ。農家だったが読書人だった。小学生のころから
中国古典文学に興味をしめした。
1919年、勤工倹学でフランスに渡る。マルクス主義に接する。
  22年、北京中法大学に入学。中国共産党に加入。
  28年、湘南蜂起を指導。工農革命軍第一師団代表。井崗山に入る。
  29年、紅軍第4軍を率いて江西省、福建省を転戦根拠地を造る。
  34年、長征には残り、張雲逸、頂英等と遊撃隊を組織。
  37年、8月日中戦争開始により、第2次国共合作により遊撃隊は
      新四軍に編成され、陳毅は第1支隊司令員。栗裕、葉挺と
      蘇南を転戦、南京南方に茅山根拠地を作る。
      その後蘇北に移り転戦、黄橋戦役なだを指揮、
      八路軍南下部隊と合流。
      劉少奇政治委員と華中八路軍と新四軍を指導。
  41年、皖南事変で新四軍崩壊。新四軍の軍長代理になって
      華中抗日根拠地を指導。
  43年、延安に行く。
  45年、日中戦争終結。
      劉伯承、ケ小平、栗裕等と華東野戦軍を率い淮海戦役、渡河戦役を
      指揮。
  49年、上海市長。
  58年、外交部長。
963世界@名無史さん:2007/01/22(月) 13:19:40 0
やはり国民政府を敗北に追いやったのは日本軍国主義ということかな
964世界@名無史さん:2007/01/22(月) 15:41:35 0
あと、終戦時のソ連が満州を取りそうで、それが心配で無理に
国府軍を遠い満州に送って、補給が続かなかったのが痛い。
965世界@名無史さん:2007/01/22(月) 23:06:57 0
>>958
竹内実が書いてるのは前書きだよ。
あと、国民党が河南省で殺したのは300万人だそうだ。
白髪三千丈って、すごいね。
966世界@名無史さん:2007/01/22(月) 23:08:17 0
>私の最近読んでる中国文学は新中国成立以前のもの。

残念。うまく乗せて残雪とか読ませてみたかったのにw
967世界@名無史さん:2007/01/23(火) 00:58:27 0
好みは分かれるだろうが劉賓雁とか戴厚英とかもね。
968世界@名無史さん:2007/01/25(木) 16:59:19 0
巴金著「家」岩波文庫、1956年、上下
巴金は1904−2004年。
あとがきを読んで著者の自伝と知った。
四川省成都の代々県知事の家に生まれ、祖父が絶対権力をふるう。
辛亥革命や五四運動の時の年令が解る。新青年などの新文化運動に
刺激され家を出るところで終わり。実際は南京にまず行き後に
上海、フランスに行ったようだ。中国では共産主義のはやる前に
トルストイや白樺派のアナーキズムがはやったのでそれに影響
されている。岩波本の出版の56年は微妙な年で、あとがきの
解説文をかいた人もアナーキストをほめていいのか、けなして
いいのか、ためらいがあるのは興味深い。
国防文学論争時代に魯迅のグループに属し桃文元などにアナー
キストと批判されたのを、文革で持ち出されたようだ。
969世界@名無史さん:2007/01/26(金) 14:40:52 0
日中戦争時、雲南の蒋介石ルート遮断のためビルマより攻め入って、
最後には全員玉砕した戦場を訪ねるツアーの案内が来ました。
私は残念ながら日程の関係で参加できませんが興味のある方、
参加されたら御報告を書いてもらえるとありがたいです。
>http://www1.tour.ne.jp/toku/tur/dtl.php?tur_id=801086&grp=47705
970世界@名無史さん:2007/01/26(金) 16:52:28 0
三好章著「摩擦と合作、新四軍1937−1941」創土社、2003年
この本は茅盾の「腐蝕」の背景として読み始めたが、500p近くで厚い
ためばかりでなく、特に地理が理解しにくく苦戦したが、抗日戦における
中共軍というものを考えるのに非常にいい材料で大変参考になった。
地理の例では;省が揚子江で分断されていること。その南側を安徽省では
ユ南、江蘇省では蘇南といい、当然蘇北がある。安徽省は大きいので、
中部はユ中だが、天津、哺口間の鉄道が南北に走りその東をひがユ東という。
安徽省北部のことを、東西に流れる淮河の北で淮北といっている。
第2次国共合作により、新四軍はユ中、蘇南、ユ南に限局し国府軍に
組み込まれた。また華北の解放軍と新四軍を切り離すよう誘導していた。
1938年早くも、中共中央は摩擦覚悟での根拠地拡大を指示していた。
38年10月には陳毅の部隊は揚子江を密かに北へ渡河し、蘇北に進出、
国府軍と戦闘した。主に40年。これを蘇北摩擦という。
41年1月ユ南にいた新四軍はユ中への移動の公表と異なり、東方へ移動。
国府軍に気付かれ壊滅された。ユ南事件。
旧「新四軍」は崩壊し、後に劉少奇、陳毅、馮雪峰を幹部に再建され
第三野戦軍となり、江沢民などの上海閥になる。
著者の三好先生は77年から97年ごろまでの開成高校の世界史の先生。

G.Benton著「New Fourth Army」1999
950pの大冊。孫引き的には、頂英と毛沢東の関係、劉少奇の役割、
新四軍の進出と郷神の関係が詳しいそうだ。
倍の厚さがある。日本文と英文では同じ1ページの情報量がどうなのだろう?
971世界@名無史さん:2007/01/27(土) 02:28:56 0
新四軍がNew Fourth Armyならパーロは8way Armyかな?
972世界@名無史さん:2007/01/27(土) 02:48:38 0
延安時代から死ぬまで毛沢東の信頼を得てた康生ってのはバケモノだな
973世界@名無史さん:2007/01/27(土) 03:52:24 0
974世界@名無史さん:2007/01/27(土) 04:02:42 0
八股軍
975世界@名無史さん:2007/01/27(土) 22:36:05 0
(饒漱石、じょうそうせき、Rao2 Shu4shi2,1903-1975)
江西省の生まれ。
1923年、社会主義青年団に加入。
  35年、モスクワへ行く。王明、康生と共に中共留ソ派の指導者。
  38年、華東、華中で活動。
  41年7月、新編「新四軍」の政治部主任、政治委員代理に。
  45年、中央委員に。内戦。
  46年、中共中央華東局書記。第三野戦軍政治委員。
      この時期に康生と争い勝利、華東地区の第一人者になる。
  53年、東北地区の高崗と華東上海地区の饒漱石は地区を繁栄させ
      権力を誇るが、毛沢東に眼を付けられケ小平も同調し二人は失脚。
      高崗、饒漱石と劉少奇の権力争いの説もある。
      ケ小平は高崗、饒漱石批判側にまわり命拾いをするわけだが、結果と
      して地区の権力を譲り受けた形になり政策的には饒漱石的になっていく。
      41年ユ南事件後、当時、陳毅との権力争いがあったらしい。
      劉少奇、陳毅は華北の解放軍と華南の旧新四軍を無理やり結合させようと
      して、壊滅させた失敗が関係しているのでないか?(書いてはないけれど)
976世界@名無史さん:2007/01/31(水) 16:58:23 0
977世界@名無史さん:2007/01/31(水) 16:59:21 0
977
978世界@名無史さん:2007/01/31(水) 17:00:41 0
978
979世界@名無史さん:2007/01/31(水) 17:01:11 0
埋め
980世界@名無史さん:2007/01/31(水) 17:02:22 0
979
981世界@名無史さん:2007/01/31(水) 17:03:11 0
埋め
982世界@名無史さん:2007/01/31(水) 17:03:51 0
982
983世界@名無史さん:2007/01/31(水) 23:11:25 0
 
984世界@名無史さん:2007/01/31(水) 23:12:48 0
 
985世界@名無史さん:2007/01/31(水) 23:13:35 0
985
986世界@名無史さん:2007/01/31(水) 23:15:01 0
 
987世界@名無史さん:2007/01/31(水) 23:16:09 0
 
988世界@名無史さん:2007/01/31(水) 23:17:00 0
 
989世界@名無史さん:2007/01/31(水) 23:18:07 0
 
990世界@名無史さん:2007/01/31(水) 23:18:54 0
 
991世界@名無史さん:2007/02/01(木) 09:40:32 0
992世界@名無史さん:2007/02/01(木) 09:44:36 0
埋め
993世界@名無史さん:2007/02/01(木) 09:45:36 0
埋め
994世界@名無史さん:2007/02/01(木) 09:46:37 0
埋め
995世界@名無史さん:2007/02/01(木) 09:48:30 0
埋め
996世界@名無史さん:2007/02/01(木) 09:49:26 0
埋め
997世界@名無史さん:2007/02/01(木) 09:50:04 0
埋め
998世界@名無史さん:2007/02/01(木) 12:01:06 0
 
999世界@名無史さん:2007/02/01(木) 12:02:06 0
1000世界@名無史さん:2007/02/01(木) 12:03:27 0
1000!
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。