1 :
中華@名無史さん:
隋の天下統一 〜 唐の高句麗遠征頃まで、
中国史上でも有数な群雄割拠・英傑等の活躍が有った時代だった。
そんな隋〜唐初の動乱期を語り盛り上がりましょう!
一応、自分成りに人物をピックアップして見ました。
帝王 @ 楊堅・煬広・李淵・李世民・李治
群雄 @ 張須陀・楊玄感・来護児・竇建徳・劉武周・李密・王世充・宇文化及
豪傑 @ 秦叔宝・尉遅敬徳・単雄信・程知節・王伯当
謀臣 @ 李勣・魏徴・李靖
功臣 @ 長孫無忌・房玄齢
この他にも色々人物エピソードが有ると思うので、語って下さい。
2 :
世界@名無史さん:02/02/04 20:50
隋唐・・・ようやく後漢末の混乱期から始まる分裂時代が幕を閉じるのか・・・
面白そうな時代だけど、日本の小説はあまり見かけませんね。
3 :
世界@名無史さん:02/02/04 22:12
あ、立て直したんだ……太宗李世民スレは沈めるの?
この時代に人気が無いのは田中芳樹のせいなのだろうか?
あんな訳本あるか、このフヌケがっ!
って別に芳りんだけの責任じゃないか。
基本的に敵役の配下に魅力的な人間がいないだけだろ、竇建徳とか。
徐円朗ぐらいしか知らんよ、ムーラン抜きでは。
4 :
世界@名無史さん:02/02/04 22:36
諸星大二郎作「西遊妖猿伝」は、この時代のお話。
>>3 割と短期間で決着付いちゃったってのもあるわな。
5 :
中華@名無史さん:02/02/04 22:41
>>2 思い付く物だと陳舜臣の小説十八史略の一節か、隋唐演義。
まぁ
>>3 も言ってますが、後者はフィクションが多いので注意が必要。
確かに竇建徳は萌な存在だから、小説で部下の情報は欲しいと思う。
李密萌え〜
7 :
世界@名無史さん:02/02/04 22:57
小説十八史略の石勒の記述の短さに切れた人の数→( )
それ以上に劉裕のこと端折られて切れた人の数→( )
8 :
唐太宗李世民 スレの4:02/02/05 00:51
とうとう立ち上がりました。オメデトウございます。
私は宇文化及の弟?宇文士及なる人物がどうゆう人物
なのかよく知らないので、知りたいのですが?
とうとう立ち上がりましたか。でした。すまそ。
10 :
世界@名無史さん:02/02/05 11:53
秦叔宝萌えあげ〜
11 :
世界@名無史さん:02/02/05 12:09
13 :
世界@名無史さん:02/02/05 18:29
盛り上がりませんね
李世民が事実上統一したわけですよね?
統一したときは確か20代前半だったと思いますが本当の話ですか?
隋唐演義に騙されてますか?
宇文士及が煬帝暗殺の首謀者っていう説はどうなってんの?
あの兄弟宇文氏名乗っているけど、なんであんなに貧相なんだろう。
あんまり猛々しくないし。
しかし建成兄の事跡の隠蔽は酷いもんだよ。
しかも勝手に後宮の女つまみ食いしたことになっているし。
つくづくアンチ李世民だな。
この時代ってヲタ多そうなのに盛り上がらないね・・・
もしかして既出?
16 :
■中国の歴史人物をゲームに登場させよう!■ の1:02/02/05 20:52
宇文智及って人(宇文化及の弟)が首謀者って何かに書いてた・・・
末弟の宇文士及は煬帝暗殺には加わらず、そのまま李淵とこに亡命したことに
『隋唐演義』ではなってるんだけど・・・
あ、わ〜い林彪さんだー(^▽^)
れ・・レポは大丈夫ッすか・・・・(^^;)
>>16 レポートは一段落つきました、あとはテストです。
こんなことやっている場合じゃないですね。
宇文士及だけ生き残っているのが不自然だ、という噂があるそうで。
何故か皇帝殺しの兄弟なのに誅殺されていないのは確かに不自然。
しかも唐では結構出世してたはずだし。
宇文家の血の成せる業なのか?
宇文兄弟は宇文という姓を持っているけど北周王家の血を
引いているんですかねー?
19 :
世界@名無史さん:02/02/06 17:32
>>13 父李淵が担ぎ上げた恭帝から長安で禅譲を受けたのが20歳、皇太子は兄李建成。
王世充らを李世民が討伐して武力統一がなるのが26歳。
その2年後に兄建成と弟元吉を殺害、父淵を引退に追い込んで即位だから28歳で
皇帝になった計算かな?
隋唐演義などでは父淵はなにもせずに皇帝になってるように描かれてるけど結構
武功のある人のようですね。
20 :
■中国の歴史人物をゲームに登場させよう!■ の1:02/02/06 20:48
>8
こっちのスレッドでは
>482
に登録されてますが、ボロカスに評価されてます(^^;)
あと、宇文兄弟は北周王家(楊堅に根絶やしにされました・・・)とは同系ではないそうです
でも「貴顕」の家系ではあったようです
>13
李世民が統一した(玄武門で兄弟殺して帝位についた)のは29歳の時だったそうです
全中国史の中で、20代で天下統一したのは項羽と李世民だけだそうです
(ていっても項羽はちょっと・・・・)
>17
う〜ん、もしかしたら関ヶ原前夜の真田親子のような取り決めがあったのかも(^^;)
やっぱり宇文部の正統な血筋じゃないのね。
そりゃ弱いわけだ。
この時代は泉蓋蘇文と金春秋の二人も中国人じゃないけど重要ですね。
日本もやっと歴史の表舞台に立てるわけですし。
22 :
世界@名無史さん:02/02/08 15:13
秦叔宝は李淵・李世民にとって恩人で単雄信の友人
でも単雄信は兄を李淵に殺されて仲間になりたくなくって。。。
なんて深いんだろう。。。
23 :
中華@名無史さん:02/02/08 18:46
この時代の見所・・・
文帝の南北朝統一。諸制度の改革は新しい時代の幕開けを感じさせ、
煬帝の強権暴君振りは秦末の状況に似ていると思う。
あの時代は、群雄割拠と言うよりも、劉邦と項羽の派閥争いの感が有り、
唐の天下統一までの状況は、三国志の赤壁の戦い前、の様に
群雄割拠(期間は短いが)の様相で面白いと思う。
李密加入前の瓦崗寨閥は、水滸伝の梁山泊を思わせるし、
その後の高宗の対外雄飛時代は漢の武帝時代の様にも見える。
短期間に此れだけの濃度の濃い時代だった。
24 :
中華@名無史さん:02/02/08 18:46
何方か竇建徳の配下で有能な将軍・策士等御存知無いですか?
26 :
世界@名無史さん:02/02/08 19:05
遣隋使で隋に行っていた人の記録ってなんかありそうな気がするんだけどなぁ。
27 :
中華@名無史さん:02/02/09 00:05
>>25 レスサンクス!
一応自分でも調べて見ようと検索掛けたけど、ヒット無し(泣)
どんな人だったんですか?
28 :
世界@名無史さん:02/02/09 00:18
李淵に禅譲した後の恭帝は全く語られないね
十五歳で「崩」と隋書にあるけど、禅譲してから僅か後の事だろう。
宮崎市定は「唐に殺さる」と言い切ってるけど、やはりそうなのかねえ・・。
>>27 確か山東で竇建徳死後、唐に抵抗しつづけた人だったはずだが。
群盗あがりだったかな?
恭帝ってもう一人、王世充におくり名された方のもいるでしょ?
こっちのほうはどうなったの?
31 :
世界@名無史さん:02/02/09 08:19
>>30 「唐、虞の例に倣い給え」と進言する臣下たちに
「天下は世祖(煬帝)の天下である」と述べて激しく抵抗するも
結局譲位させられる。
その後毒酒を持って王世充の臣下が参上。
「二度と帝王尊貴の家に生まれたくない(宋の順帝の言葉を連想させられる)」
と悲痛な叫びを残し、毒酒を飲むも死にきれず、首を吊る。
まだ十代半ばだった。唐とは直接関係のない死だったから
隋書に詳しく記されたんだろう。
32 :
世界@名無史さん:02/02/09 08:29
白楽天の詩に、北周の宇文氏と隋の楊氏の子孫が
朝廷での祭祀に参加する情景を謳った詩がある筈だが
おそらく双方とも傍系も傍系を引っ張ってきたんだろうな。
宇文氏も楊氏も全滅状態だから。恭帝に子はいなかったのかな。
1人だけ煬帝の遺孫で突厥に乳児のころ亡命して
唐の時帰国して何かの官職を授けられた人がいたから
その子孫かも。
>>31 レスどうも。やはりどちらとも死に追いやられたわけですか。
しかし、両方とも同じおくり名を送られると言うのは単なる
偶然なのだろうか?
34 :
世界@名無史さん:02/02/09 18:16
秦叔宝と尉遅敬徳の一騎打ちの話しって昔童話で聞いたことなるなぁ。
切りあっても決着つかなくて、岩を割ったり持ち上げたりとかの力自慢になって
それでも決着がつかなかったってやつ。
まさかこれがモデルだったとは。。。
35 :
中華@名無史さん:02/02/09 23:45
>>8=
>>33 中国の公・王・皇帝ってその後の世代の人が付けるので
似た様な境遇の人は同じ帝号を送られる事が多いですよね?
例えば春秋の晋の実質初代は”武公”で、その孫の名君が”文公”
同じ様に三国魏の曹操は”武帝”で、実際の創始者曹不が”文帝”
と言う様に、王朝最後の皇帝は何人か”恭帝”と言う名を送られた人居ますよ。
たぶん、恭と言う字には”うやうやしい”と言う意味だから、
禅譲をした人に付ける、一種の宮廷での名付けの作法だったのかも知れませんね。
>>35 幽や霊なんかは最低ランクのおくり名ですね。
廃帝や少帝なんてのもあるし。
文が一番善いおくり名と聞いたことがあるが、どうなんだろうね?
確か周代の決まり事か何かだった気がするが。
>>35 いやー、私には「恭帝」って隋以外の王朝でパッと思いつかない
んですけどねー(笑)、春秋時代なら恭(共)公というのは数多います
けどねー。その私にとっては珍しい「恭帝」というおくりな
が同じ王朝の2人の最後の皇帝に同時におくられたところに興味が
わいたというのが33での主旨です。
>>37 東晋最後の皇帝も確か恭帝といいましたよ。
劉裕に禅譲した後に殺されました。
だから8さんの推測は結構イイ線行っているんじゃないのでしょうか?
あまり善いおくり名じゃないってことで。
おそらく春秋時代とはおくり名の決め方が変わってきたんじゃないのでしょうか?
>>1さん、隋末唐初の知識はまだまだ少ないですが、
ひとまずご挨拶にまいりました。
五代後周最後の皇帝(柴宗訓)も謚は恭帝でしたね。
彼の場合は趙匡胤によって保護されましたが。
まずは隋末唐初と関係がないのでsage。スマソ
>>38,39
言われてみればそうですね。折角ですからageときます。
>五代潰瘍さん
某所では色々勉強お世話に成っております(w
何かネタが御座いましたら宜しくお願いします。
実は自分もこの時代は”好き&興味は有る”けど
知識はまだまだ、と言う感じなので、
(別スレで要望も有り立てた。と言う経緯も有るので)
皆様に色々な知識を出して貰い、勿論自分も知り得る事は
書いて行こうと思っています。
それで皆さんで知識を深められたらなぁ?と
考えています。
>林彪さん
フォロー有難う御座います。
>>8さん
何か漏れの書き方でツッコミレスの様な印象を
受けさせてしまったかも知れないのですが、
漏れも
>>35で言いたかったのは、”恭帝”とは
最後の皇帝に付ける謚の意味も有るかも知れないので、
そう言う珍しい現象も有るかも知れませんね?
と言う主旨でした。
43 :
中華@名無史さん:02/02/11 21:32
と、此処でsageネタが続いたので当代ネタを・・・
以前何かで(書籍かWeb)王世充は隋唐演義では
暴君と言うイメージで書かれて居ますが、
(自分の中ではあの作中の彼は三国志の董卓の感じ)
実はそんなに悪い人物では無かった。と言うのを読んだ事が有ります。
少なくとも軍事センスは当代一級で、政治は素人だったので
失政はしましたが、圧政と言うイメージでは無かった。と
基本的に軍人なので、その失政を咎める物を取り締まったしはしたらしいですが、
それが後世に圧政だと言う事に成ったのかと考えます。
どなたか詳しい方居られますか?
44 :
中華@名無史さん:02/02/11 21:33
それと、良く”隋唐演義(田中芳樹著)”はクソ!と言う話を聞きますが、
実際どの位の割合でフィクションなのでしょうか?
”竇建徳”が唐に敗れた時、唐は彼を殺さずに出家させて
逃がした。と言う様なくだりは、
流石に、英雄たる”李世民”が、群雄の中でも善政をしいた
彼を殺すのはイメージ的に良く無いだろう。
と言う事で書いたと思われますが、その他にも、此処が史実と全然違う。
と言う所が有れば知りたいです。
45 :
世界@名無史さん:02/02/11 21:53
煬帝の後宮遊びは面白い<隋唐演義
歴史と演義小説のカラミネタはタブーだたのでわ?
俺は安能版の2巻だけ持っていますが、李密がショボかったなあ。
あの巻だけだと任侠とムーランしか印象に残ってないが、全体的な
流れはどんな感じなのでしょう?
あ、煬帝の後宮の女性たちがちょっと慎ましくて、意外だった。
悪女ってあんま出てこなさそうなんですが、武則天ぐらいですか?
47 :
世界@名無史さん:02/02/11 22:39
田中芳樹読むぐらいなら、諸星大二郎の『西遊妖猿伝』読んどけ。
48 :
世界@名無史さん:02/02/11 22:48
50 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/02/12 23:32
この時代の女性で(私見ですが)強烈な印象を放っているのは、
隋文帝楊堅の正妻・文献独孤皇后ですね。
夫のみならず、高官の生活(というか夫婦婚姻関係というか)にまで干渉してくる
人ですし。詳しいことまでは失念スマソ
51 :
中華@名無史さん:02/02/12 23:51
>>50 独孤皇后、確かに臣下の夫婦生活まで介入していますね(w
妾を何人も抱えている臣下は、文帝に讒言して次々と左遷までさせて居ますからね。
後の煬帝・楊広も、そんな母親の性格を計算して、兄”楊勇”を皇太子の座から
引き擦り降ろしていますしね。
52 :
中華@名無史さん:02/02/12 23:52
その後、独孤皇后死後に段々と正体を現し始めた”広”を見て、
確かに派手好みでは有ったが、太子時代は良く政治的にも補佐していた
”勇”の方が有能ではないか?と思い始めた文帝が、
「畜生、なんぞ大事を付するに足らん。独孤、我を誤れり。」
と言う言葉を残しています。
文帝の妻が独孤某の4女?で5人の男子がいてそのうちの一人が煬帝。
八柱国の一人李へい(日丙)の妻が独孤某の7女?でその息子が唐の高祖。
ゆえに、煬帝と唐の高祖は母つながりの従兄弟だったと記憶してますが、
この独孤氏という家柄かなりのもんだったのですかねー?よく知らない
のですが?
>8さん
彼女の父親は”独孤信”と言う名で、南北朝の北魏の将軍です。
その後北魏は東西に分裂する訳ですが、その時同郷の宇文泰と西魏を創建。
しかし泰の没後、息子の宇文覚が禅譲に拠って北周を立てるが、
実質の権力を握った覚の従兄弟、宇文護に疎まれて死を賜ります。
ちなみに楊堅の父”楊忠”は独孤信配下の武将として功を立てました。
55 :
世界@名無史さん:02/02/13 09:37
>>54 便乗質問でスマソ
>南北朝の北魏
ってことは、南北朝以外の時期にも北魏ってあったの?
中国史の国名ようわからん
56 :
中華@名無史さん:02/02/13 20:58
御指名な様なので・・・
>南北朝以外の時期にも北魏ってあったの?
南北朝以外には”北”魏と言う名の王朝は有りません。
”南北朝の”、と書いたのは、ただ単にROMの方を含め時代が解る様に書いただけなので、
深い意味は有りません(汗
ちなみに”魏”と言う国でしたら歴史上幾つか出て来ます。
戦国時代の七雄の1つの”魏”、それとこれが一番メジャーじゃ無いかな?
と思われる三国時代の”曹魏”。
それと鮮卑族・拓跋部族が建て華北を統一した”北魏”。
それとその北魏が東西に分裂して出来た”東魏”と”西魏”です。
ちなみに、”魏”と言う国名に付随する方角や姓の漢字は後世の人間が、
これらの王朝を区別する為に付けた名称なので、当時は皆”魏”です。
さらにちなみになのですが、この時代の群雄の”李密”も、短命ですが
”魏”と言う国を建てました。
と無理矢理この時代の話題を絡めてage(w
王世充の配下の武将で”これは”っていう人いませんか?
隋の残存勢力の後継者は彼でしょうから、隋の群臣が多くいたことこと
でしょう。
でもあんまり名前が出てこないので、誰か詳しい人いたら教えてもらえ
ませんか?
話は変わって、李密の洛陽の攻略は果たして戦略的に誤っていたので
しょうか?
個人的にはあそこを完全に抑えることができれば、いくら隋の幼帝を握
られていても、各個撃破は難しくなかったと思います。
李密はタク譲(字ぃ忘れました)を殺した後人望を失った、みたいに言わ
れてますが、寧ろ洛陽を落とせなかったから人望を失った気がするので
すが。
あと、李密は鮮卑系の名家としてどのくらい認知されていたんでしょ?
何か教えて君になってしまいました、すいません。
>>54 そうそう、独孤信でした。胸のつかえがなくなりました。レスどうも。
又質問ですが、「随」という国号が「隋」と変わるのはいつなんです
かねー?この件に関する詳しい記述を見たことがないので。
>>58 文帝が「随」のしんにょうが縁起悪いからって「隋」に変えさせたって話ですか?
>>59 そうそう、それです。デモこれって事実なんですかね?
61 :
中華@名無史さん:02/02/20 03:53
>>57の林彪さんの問いですが、何方もお答えしていない様ですので
激しく亀レス気味ですがスマソ!
更にそんな大したネタでは無いので、ひょっとして林彪さんも既に御存知か?
と思われる様な事かも知れないのですが、その時は御容赦を!
(一応ROMされている知らない方が居れば、その方達には為に成るかな?と(w )
62 :
中華@名無史さん:02/02/20 03:55
>隋の残存勢力の後継者は彼でしょうから、隋の群臣が多くいたことことでしょう。
と言う問いから挙げるとするならば、元隋の人物としては”段達”と”元文都”と言う人物がいますね。
二人は文官ですが、しかし元々異民族出身で有る”王世充”を好まなかった様で、
彼には”李密”との同盟を薦めています。が、その実は八柱国家の1つとして由緒正しい”李密”を
洛陽に迎え入れ、二人で権力闘争をさせ、あわよくば”李密”にその勢力を乗っ取らせようと
考えて居た見たいなので、ブレーンとしては疑問が残りますね?
63 :
中華@名無史さん:02/02/20 03:56
それと、能力的に・・・ と言う事で言えば、”徐文遠”と言う人物がいます。
こちらは元々”李密”の勢力で、”李密”が師として敬った程の人物ですが、
李密の敗北とともに王世充に仕えました。
と、此処で彼に関する或るエピソードが有りますので、書いて置きます。
ある日ある人が質問します。
「君は李密と会うときは尊大なのに、王公(王世充)には拝礼して敬するのはどうしてだね?」
「魏公(李密)は君子であり、賢士をよく容れる人である。
王公は小人である。知人ですら簡単に殺してしまう。拝礼せずにおれようか」
と言ったそうです。
まぁ、これは”李密”を持ち上げる話。と言う方が良いと思いますが、
一応”徐文遠”と言う人物は、人を見る目が有る。と言う有能な人物で有る。
と言うエピソードでも有ると思うので書きました。
って、これじゃ以前漏れが書いた”王世充有能説”が、更に遠のいて行きますね?(汗
64 :
中華@名無史さん:02/02/20 03:56
それと、こちらが一番有名かも知れませんが、李密軍→王世充軍
と言う事で言うと、あの豪傑”単雄信”も、そうですね?
>>64 レスありがとうございます。
王世充は有能だけど人望がなかったっていう感じですからね。
外人には従いたくないやつらが多かったんでしょうね。
盧楚と元文都でしたっけ?
謀叛おこそうとしたのは。
66 :
中華@名無史さん:02/02/22 04:04
保全で空ageするのも何ですし、出来そうなレスします。
>>57の
>李密は鮮卑系の名家としてどのくらい認知されていたんでしょ?
と言う問いですが、多分当時相当名が通って居たと自分は考えます。
と言うのは、”李密”は高句麗遠征軍司令官の”楊玄感”(父の楊素は隋建国の元勲)
が煬帝に反旗を翻した時、従軍している彼を(隋の楊家よりも家格が上な八柱国家だから)
反乱を興すのに誘っていますし、唐も彼が降った後、唐李家と同格と言う事で
彼の動向を注視していますから、当時の識者階級の中では彼の家格は有名だったと思います。
>>66 なるほど、レスありがとうございます。
何か名門らしくないイメージがあったもので。
68 :
世界@名無史さん:02/02/24 23:15
隋唐スレ挙げ
69 :
世界@名無史さん:02/02/25 00:20
>>58-60 隋代は「隋」字とともに「隨」字もちゃんと使用されていた
(部首の一部を省くことはよくある)のを、唐代になって
史書を編纂する時にわざわざ「隋」字に統一したんだと
東洋史の先生が仰ってました。
「隋の連中はまともな字を知らなかった」と貶めるために、
唐朝の史官がやったのだとか。
はなはだ真偽不明な話ではありますが・・・
>>69 ほう、真偽不明でもそんな話があるんですか。
これは聞いてよかった。
>>69 でも隋書が編纂されたのは太宗期。
そのころの史官の多くは、煬帝にも仕えていたような・・・
>>71 確か晋書の宣帝紀も唐太宗皇帝御撰だったよね。私の記憶がただしければ。
ついでにageましょう。
73 :
中華@名無史さん:02/04/06 02:16
保存age!
書くネタ有れど暇が無し(泣
74 :
世界@名無史さん:02/04/06 03:26
お邪魔します。…しかし、むう、人がいませんな(笑)
この時代を描いた小説では、幻冬社文庫で
「太宗李世民」と言うのがありますよー。ご存知でしょうか。
だいたい李淵挙兵あたりから玄武門の変までを描いていて、
平易な文章でなかなか読みやすくて面白かった。
一般の人が読みやすいような入門編って感じで、
ここの方たちには物足りないかもしれませんが。
作者は芝豪って人です。
田中芳樹の訳の隋唐演義は僕もつまらなくて投げ出したんですが、
でもこの時代が面白そうだなって思ったのは同じ作者の
「風よ万里を翔けよ」なんですよね…。
ムーランが主人公(笑)の中華ヒロイックファンタジーですけど
隋末唐初のおいしい所や、英雄、有名人など押さえるとこ押さえて軟派になりすぎず、
史実とエンターテイメントの融合がいい感じのバランス保ってて
面白い小説だったと思います。(あの頃はこの作者も面白かったんだけどな…)
あとは陳舜臣さんの小説一八史略くらいかな。
遣隋使・遣唐使と日本と関わりある時代だし
李世民の後半生は西遊記の時代だしで、
優れた小説なり何なりが出たら盛り上がりそうな気もするんですがねえ。
やっぱイマイチ地味なのかなあ。
75 :
世界@名無史さん:02/04/06 15:33
>>72 楊堅が父親の楊忠から世襲した爵位が随国公。
581年、楊堅は北周から禅譲され皇帝となった。
このとき王朝の名前を随としようとしたが、随の字の仲のしんにょうには走り去る
という意味があり、これは不吉であるとし、しんにょうを除いて新しく創り出した
文字が「隋」だそうです。
これが王朝の名前に使われたそうです。
76 :
世界@名無史さん :02/04/06 15:54
>>74 >やっぱイマイチ地味なのかなあ。
個人的には派手な時代だと思う。
登場人物をみても煬帝、李世民、李密、王世充ほか、個性的な面々が多いし、
東征、西征、遣隋使・遣唐使や玄武門など見所も多いし。
小説を書く場合、誰を話の軸に持っていくか難しいのだろうか?
誰かが漫画にでもすれば人気がでるかも。
77 :
世界@名無史さん :02/04/07 06:39
よく20代で天下を取ったのは項羽と李世民だけってきくけど正しく考えた場合、
天下を取ったのは李淵なんじゃないの?
>>77 李淵のけつ叩いて(煬帝の妃妾に手出させたっていうのだっけ)挙兵
させたのは李世民っていうのも捏造
李建成の武功が不自然に少ないのも歪曲
戦争には強かったみたいだけどね、世民
79 :
世界@名無史さん:02/04/07 12:58
>>78 絶対捏造・歪曲なの?
それとも「捏造であろう」との学説が有力、って程度?
なんか状況証拠とか反証みたいなのあるのかな
おしえてちょ
(煽りじゃないYO)
>>77 まちごーた
李淵>李渕ね
>>79 唐の史書である旧唐書は許敬宗という人の編集した「実録」をもとに
かかれています。この許敬宗は賄賂によって史書の内容をかえるような
評判の良くない人物だったそうです。
李世民は自分が史書にどう書かれるか非常に気にしていた人物でした。
この二人の関わった旧唐書は他の文献との食い違いや常識では考えにくい
李世民の活躍する場面がありかなり李世民びいきな内容になっていると
いわれています。
また李世民は皇太子であった兄の李建成を殺して皇帝に就いたため、兄建成
の功を編集の段階で隠蔽しようとしたといわれています。
このことについてもっと知りたかったら講談社の陳瞬臣著「中国の歴史」の五巻をお勧めします。この時代の事が詳しく載ってるんで。
>>80 >講談社の陳瞬臣著「中国の歴史」の五巻をお勧めします
すいません
隋・唐は四巻でした・・・
ありが惇。なるほど、根拠はあるわけですか。
陳舜臣さんは李世民あまり好きではないみたいだから
もしかしたらちょっと辛い点はあるかもね。(玄武門の変が生理的に厭らしい)
あの人の書くもの結構読んできたけど、本人がいわゆる「いい人」すぎて
清も濁も飲み込んで歴史を見る事が苦手な人のような印象を受けました。
血みどろの闘争が嫌いなのか、「八百長戦争」「裏同盟」的解釈が
あまりにも多いんですよね。読みつづけてると、またか、って感じでちょっと萎えてくる。
…なもので、信憑性は実際読んでみるまで、ちょっと保留かな…(笑)
「中国の歴史」はまだ読んでないんで、今度読んでみます。
>79
横やりなレスですんませんが、あと「大唐創業起居注」なんてのには
李淵主導で軍閥が形成されてゆく様子が書かれてます。挙兵を急ぐ
世民らを、機が熟していないとなだめる李淵って描写もあります(確か…)。
建成は本人よりも他の人の伝に記録が散っちゃってますね。
北辺の防衛の責任者と重大事以外では代理皇帝という立場にいた
と思いますわ。
この件について学者さんの間では「状況的には限りなく世民はクロだけど、
物証がない」って感やないすかね、多分(布目さんとか)。
世民が挙兵メンバーの中枢にいたのは確かだと思いますが。
84 :
世界@名無史さん:02/04/10 14:18
人が少ないね・・・
隋唐は人気がないのかな?語り尽くしたというにはまだ早いし・・・
いままで隋唐に興味がなかったけどココ読んで興味が出てきた人っている?
85 :
世界@名無史さん:02/04/10 14:32
楊家将について語るのはスレ違いなのかな
86 :
世界@名無史さん:02/04/12 13:02
秦叔宝が若い頃、後の群雄に次々気に入られて行ったのは
あれは演義の創作?
(って言う言い方をすると三国志スレみたいだなあ(笑)。勿論隋唐演義ね)
なんか水滸伝そのままな感じがするんだけど、
後々に群雄となって歴史の中枢でぶつかり合うところはなかなか面白いっすね。
誰か面白い小説、長編でかかんかな。
87 :
世界@名無史さん:02/04/12 13:07
>>86 史実をしらないのでなんともいえないのですが。
典型的な中国講談の流れかと。。。
隋の高句麗遠征軍って実際にはどれ位だったんでしょうね。
いくらなんでも100万は多すぎると思うんだけど。
多くて2、30万くらいでは。
90 :
世界@名無史さん:02/04/12 14:50
大体こんなのは十分の一ぐらいだと思う。
だから十万ぐらい。
そういえば沈光とか言うやつがいたな。田中@厨房がなんか書いてたけど。
91 :
世界@名無史さん:02/04/12 14:54
某歴史ゲーム屋が作れば盛り上がるんだろうけどね。
それ以前に売れないか。
92 :
世界@名無史さん:02/04/12 15:11
輸送や後方でたずさわった人達ののべ人数であれば100万いくかもよ。
出征に関わる官僚達もひっくるめてね。
あくまでも延べ人数だが。
93 :
世界@名無史さん:02/04/12 22:15
>>90 このスレ見て隋唐関係懐かしくなって小説一八史略やらなんやら唐関係読みなおしてみたけど、
意外にも田中芳樹の「風よ万里を翔けよ」は今読んでもかなり面白かったぞ。人物が生き生きしてて。
最近の田中氏の著作には俺も悪い印象しかないんだが、あの頃の氏の著作は
やっぱひとかどのもんだなーと思った。あの頃のはね。
94 :
■中国の歴史人物をゲームに登場させよう!■ の1:02/04/14 00:10
>93
あっ、私もです。あれは面白かった
花木蘭ハッピーエンドだし
何で田中ヨシキは『隋唐演技』のあんなつまらない訳本を出したんだろう
李密か劉黒闥を主人公にした小説でも書いてくれればいいのに・・・
李氏のバックボーンの武川鎮集団て唐のいつごろに消えたんですか?
96 :
世界@名無史さん:02/04/14 11:46
>>95 武則天のころじゃないかな?武川鎮以来の名家が排除されて、
なんの背景も持たない寒門出身の官僚が現れるのは。
97 :
世界@名無史さん:02/04/17 14:45
正史が複数著者で直接皇帝の命令で出来たのって「晋書」からで
李世民の歴史の利用のスタンスが伺えるってほんと?
98 :
世界@名無史さん:02/04/20 13:35
隋唐共、漢族王朝に分類されているが、実は楊氏も李氏も非漢人の家系というのは本当?
99 :
西国のアズマ帰依者:02/04/20 15:03
>>98 その通りだよ〜ん。
1970年に他界された陳寅格は、隋唐の支配者集団を「関隴集団」と
整理し、非漢人の集団であることに注意を喚起した。
科挙層、または門閥貴族は当然非「関隴」系統であるわけで、
隋唐をとおし、これらの対立は政治史の底流をなすことになる
100 :
世界@名無史さん:02/04/20 16:03
楊氏は普六茹、李氏は大野という鮮卑姓を名のっていた時期があるので
それが元々の名前と思われる。
101 :
世界@名無史さん:02/04/21 10:11
唐と漢って長期政権なのは似てるけど、それ以外はあんまり似てないね
102 :
世界@名無史さん:02/04/21 11:13
>>100 鮮卑姓を名のったんじゃなくて、下賜された姓だね。
宇文泰の方針で。
まあ、それを抜きにしても非漢人だったのは間違いないでしょう。
楊氏は後漢の楊震に、李氏は涼武昭王・李玄盛に家系を繋げてたけど、
確認するすべなしだから。
…しかし、漢人の定義ってあいまいだよな。
で確か理性民は晋書作るうえで五胡16国のうち2国を漢人の国にしちゃったんだとね?
104 :
世界@名無史さん:02/05/05 01:10
>>100 漢人の定義ってのは簡単ではないだろうが、要は生活習俗を同じくするか否かじゃないか。
>>104 その二人はバリバリの遊牧民の名門と違う?
■中国の歴史人物をゲームに登場させよう!■ の1 さん・林彪さんもこちらにもいましたか。
私も加わりますので今後よろしく。(隋唐だったらおまかせ!)
>>5>>24 竇建徳の部下としては、他に武将は、劉黒闥・范願・王伏宝・楊義臣がいますね。
劉黒闥は竇建徳の敵討ちの兵をあげ、唐と戦った人物です。奇襲戦を得意とし、「神勇」とまで
いわれています。レス12で紹介してるスレッドに紹介していますよ。
范願は元山賊で楊義臣に捕らえられ部下となりました。先鋒として活躍し、劉黒闥と共に決起しています。
王伏宝は知勇兼備の武将でしたが、他の武将の讒言にあい処刑されています。
楊義臣は元は隋の将軍でしたが、竇建徳に乞われその配下となり、宇文化及を捕らえ、
煬帝の仇を取った後去っています。
参謀としては凌敬がいます。彼は、唐との戦いの時に決戦せず、唐の本拠地をつくように進言したそうです。
>>16 宇文智及が本当の首謀者ですね。宇文士及が許された原因は分かりませんが、結構、煬帝殺しの
犯人ははじめはそれが功績として認められたようですね。
107 :
世界@名無史さん:02/05/06 18:07
>>96 その後復活しているらしい。玄宗後期の宰相李林甫は王家の血を引いた
男で、嘗ての貴族達の利益代表として頑張っていた。
>>44 一言ではいえません(^^)ただ「三国志演義」が嘘三割なら、嘘七割でして、歴史書と
して読んだら危険です。(「三国志演義」程度ならまあなんとかいいですが)
>>57 ええっ、私の戦略間違いかって?(法主は李密の字)
ううん、苦しいですが間違いではなかったと思いますよ(汗)ただ、王世充を通して、洛陽に
いれてしまったのが敗因ですか。情報戦を軽視しすぎました。(でも今度やったら絶対勝つ!)
人望については、(^^)コメントを控えて・・というわけにもいかないので、確かにみんな
洛陽を落とせないで疲れていたのは間違いないでしょう。計算違いへの失望もあったと思います。
しかし、我が軍の主力は民衆兵です。タク譲を殺した方が貴族出身の私に対して不信感をだかせた
と思います。でも人望は失ってないよな、王伯当(涙)。
あと、私はれっきとした名門!そこらの山賊どもと違う!←それがいかんのだよ。(王伯当・談)
>>94 そうですよ。あれはつまらんかったです。私が主役ですか・・、そうだったらうれしかったですね。
そこまで私を慕って・・←アホだな(単雄信・談)
しかし、我々がいっているんだから、面白いと思ったのは芳樹だけでは・・
あと、私をヘタレとして描いた、安能務はつまらん!
109 :
中華@名無史さん:02/05/06 22:39
>法主さん
色々レス有難う御座いました。
最近自分の身の周りが忙しいので、こちらに書き込みに登場する際は
一応色々調べた後の方が良いかな?と思って居るので、
暇が無く、なかなか登場出来ませんでしたが、一応ROMはしてます。
で、色々自分が書いた物にレスをつけて戴いた様なので
登場しました。
(つづく)
110 :
中華@名無史さん:02/05/06 22:40
>竇建徳の部下ネタ
劉黒闥・楊義臣の両名は名前は存じて居ました。特に劉黒闥は
>>1の群雄の欄に加え損なったのをスレ立てた直後に悔やんだ程の
人物なんで(w (一応、HN良く見ると、私が此処の不肖
>>1 だったりします(苦笑))
楊義臣に関しては、自分は彼は隋将と言う印象が強かったです。
(張須陀みたいな感じですね)
竇建徳と繋がりが有ると言うのは知りませんでした。
范願・王伏宝・凌敬と言う3名の人物については
まったくの初耳な人物だったので、大変楽しく勉強に成りました。
有難う御座いました。 此れで更に漏れの”竇建徳萌え”度UPかな?(w
(つづく)
111 :
中華@名無史さん:02/05/06 22:41
>隋唐演義ネタ
嘘七割ですか…(汗
まぁ物語と言う事で割り切って居ますので、問題はないかな?
それと”法主”さんとは”李密”の字なんですね。
そう言えば、歴史系板に”李密”と言うコテハンさんが居たと記憶してますが、
法主さんは、李密さんとは別人ですか?
いや、ちょっと気に成っただけで深い意味はありません(汗
それと、李密の戦略云々な話ですが、某歴史系サイトでの会話で
唐に降るまでの彼は、色々失敗も有ったが、唐側からもう一度独立する
機会が有った時に、その当時まだ殆ど無傷だった徐世勣(李勣)が
預かる勢力と合流が成功していたら、まだ天下の情勢は判らなかったのでは?
と言う話が出て、興味が湧きましたが、どうでしょうね?
(つづく)
112 :
中華@名無史さん:02/05/06 22:41
>板住人の話題
自分は確かに
>>1では有りますが、関係板で何人かの要望が有って立てた。
と言う状況ですので、本当形だけの
>>1です。
だから、別に有名な方が来られたからと言っても、別に自分が凄い訳でも
何でもないんですが、それでもやっぱり”林彪”さんや、
”■中国の歴史人物をゲームに登場させよう!■ の1”さんは
歴史系板では御高名な方なんで、御登場され、尚且つ板が育って行く様は
(遅いけど(爆))やっぱり見ていて嬉しいものですね?
法主さんは、凄くこの時代の人物の造詣が深いと推察しました。
ですから、これからもネタ振りや、知っている疑問レス等有ったら、
ドンドン遠慮無くおながいします。 長文レススマソ
(とレス感謝の御挨拶レスをして、またOFFの忙しい世界へ戻る)
>>112 ただの空気固定です、俺は
そもそも耳学問が6割ですから
東洋史は2ちゃんの全体的な右寄り傾向の煽り食らって弱い気がする
中国罵倒スレが世界史板にいくらか立ってるし
でもこれからも地道に盛り上げていきましょう
ところでアンチ李世民の人いる?
俺はバリバリのアンチです
何であいつの評価がやたら高いのか理解できない
永楽帝と同レベルならまだしも……
確かに李世民は歴史家にとっては許せない存在だが、
その類まれなる徹底的なマキャベリズム政治力はすごい力だと思う
115 :
世界@名無史さん:02/05/09 20:53
李世民、中国がやっと手に入れ始めた安定を、壊さずに完成させて後に残した
って点では評価できるんじゃないかなぁと思う。
開元の治とかを見て、これは元はといえば李世民から始まったんだよね、って感じ。
でも、唐朝の創始者みたいに書かれたり、常勝将軍みたいに書かれたりするのは
やっぱ過大評価だよなぁ。李世民主導の歴史観のせいで、南方の群雄の扱いの
ぞんざいなこと。あと親父や兄貴の扱いも。
五経正義の編纂命じたりしてるし、貞観政要の内容見たりすると、儒家サイドの
支持も強かったんじゃないかと思ふ。
116 :
中華@名無史さん:02/05/11 03:11
自分も李世民は政治家としては評価していますが、軍人としてはちょっと実力より
評価が高過ぎるかな?と思いますね。
大原から長安を落とすまで、殆ど戦らしい戦をしていないし、それに長安を落とした時点で
ほぼ天下の形勢が決まってしまった感が有りますからね?
まぁこの動き自体は太宗個人では無くて、唐王朝が、と言った方が良いのかも知れませんが・・・
117 :
世界@名無史さん:02/05/14 05:00
隋末の戦乱がほとんど唐のワンサイドゲームだった理由って何だろね?
物量で他を圧倒してたとも思えんし、柱国家の権威ってそこまで尊ばれたんか?
皆様のご意見きぼんぬ
118 :
中華@名無史さん :02/05/15 21:23
>117
一応漏れの個人的見解と先に断って置きますが、
漏れの考えるに、唐は色々な面で条件が良かったと思いますね?
李淵が太原留守に任命されていて、比較的都から近くに居た事。
また有力な群雄が比較的欠点の目立つ人物が多く、正当性に欠けて居た、
と言うのが上げられると思います。
(王世充・宇文化及等)
また、一番の原因が李密の対唐戦前の崩壊では無いでしょうか?
やはり李密が王世充に負けてしまったのが大きいと思います。
もし彼が王世充戦に勝利するか、又は決戦を先延ばしにしていたら
比較的友好勢力で人望も有った竇建徳勢力と同盟を結んで唐に当たった可能性が高いと思うし
そうなったら天下の情勢ももっと拮抗(または逆転?)した面白い展開に成って居たと
考えます。(つづく)
119 :
中華@名無史さん:02/05/15 21:26
まぁ、八柱国家だから必要以上に諸勢力から正当性が認められていたか?とは感じ無いですが、
(李密も八柱国家の家柄だし)
太原からの長安攻略戦等の様な弱小勢力に対しては、皆挙って臣従を表明して居る事から
大いにその”箔”が効いたと思います。
纏めで言うと、惜しむらくは”李密”の早期の撃沈じゃ無いでしょうか?
何と言っても唐創設期の主だった功臣は多くが李密の元配下ですからね・・・
他の閲覧者はどう言う見解でしょうか?
120 :
中華@名無史さん:02/05/15 21:31
>>113(林彪さん)
漏れは”アンチ”とまでは行きませんが、過大評価は受けているなぁ〜、とは思います。
比較的トントン拍子に天下を取ってしまった。と言う事でも物足りなく感じますね。
121 :
世界@名無史さん:02/05/15 22:20
この時代は鮮卑系と漢人系の両方の姓が入り乱れて登場し、
何だかとてもアナーキーなパワーに満ちた時代という感じがする。
122 :
世界@名無史さん:02/05/16 10:06
>>121 王世充って西域出身とは言われるが、イラン系とかだったのかな?
ソグド人みたいな感じだったのかね?
>>110 どうも、丁寧なレスありがとうございます。三・戦板の■中国の歴史人物をゲームに登場させよう!■ は
しばらくお休みなので、こっちにたびたび来ますのでよろしくお願いします。
竇建徳については、東洋文庫「中国民衆反乱史1」に列伝の翻訳がありますので、図書館でみつけ
たらどうでしょうか。王伏宝はそこにでてきますよ。
また、范願・楊義臣については、通俗二十一史「唐太宗軍談」にその話が載っていますよ。
これも大きい図書館ならあると思います。正史では確認できないけど、「隋唐演義」に
同様の話があるから民間伝承としては有名なのでしょう。(「隋唐演義」は正史以外の話を確認
するのに使うだけですね)ただし、漢文体なので、始めは苦労しますけど。内容は正史+隋唐演義
ー煬帝外史という感じです。矛盾や不可解なところもありますが、小説としてはまあまあです。
>法主さんは、李密さんとは別人ですか?
そうですね。別人です。その人の字は玄邃なのでしょう(^^)
>唐側からもう一度独立する
>機会が有った時に、その当時まだ殆ど無傷だった徐世勣(李勣)が
>預かる勢力と合流が成功していたら、まだ天下の情勢は判らなかったのでは?
できてればと思いますが難しいでしょう。その後の唐の快進撃ぶりをみていると瓦崗塞
の人材と同数の兵力がいてやっと互角ですね。立て直す前に攻められますね。竇建徳に降伏し、
私と徐世勣がその軍を率いるならまだわかりませんが・・・(でもそれでは他の武将が納得しないでしょう)
むしろ、王世充に大敗したあと、徐世勣と合流し、降伏した元の部下と協力して洛陽を内外から
とるというシナリオなら可能かも・・
ネタ振っといて遅レス、スマソ。OSがぶっ飛んでた。
>118
李密の早期撃沈かぁ。確かに李密は一度は周辺勢力から盟主に推戴されるほど
だったし、「天下取り」を明確に打ち出してたけど、タク譲殺害後は、カリスマの
衰えを連戦戦勝で誤魔化してたイメージもあるんだよなぁ。
事実、たったの一敗で勢力四散しちゃったし。マジで項羽みたいな人だった。
逆に李密が洛陽に拘らずに山東・河南での支持や軍勢を温存・充実させてたら
面白いことになってたかも、と思う。
個人的には竇建徳・杜伏威・蕭銑クラスの勢力が、唐とぶつかる頃には、ずいぶんと
動きを鈍くしてたのが気になってきた。彼らは隋の次の支配者になることを視野に
入れてなかったんじゃないかな、と。
それに乱世以前に高級官僚を経験したのも李淵(高級というほどじゃないか?)と
王世充くらいだよね、群雄では。
何か、「隋が滅ぶ、新しい王朝が興るぞ」っつう雰囲気じゃなかったんじゃないか
なぁ、と、書きつつ思い始めてしまった。
どんなもんでしょう?
125 :
世界@名無史さん:02/05/24 20:21
>法主さん
いえいえこちらこそ再レス有難うです。
特に文献情報は為に成りました。今度探してみます。
>117さん
こちらもリアルが忙しいのでなかなかレス出来ないので色々事情は有るのかと思われるので
お気に為さらずに
スマソ!↑名前入れ忘れです。
ちなみに、漏れの中華史(と言うか外国史)の興味を持つそもそもの切っ掛け(リアル厨房時代)と言うのが、
集英社刊の「学習漫画中国の歴史」の三国志の英雄達。と言う奴なのですが、それはその刊と
モンゴル帝国の奴しか所持して居なかったのですが、最近初心に帰ろうと、何故か今頃(いい大人が(苦笑))
に成って他の刊も読みたく成ってしまったのですが、(漫画と言ってもなかなかどうして要点はしっかり抑えた物
だったので) いざこの時代のを読んで見たら李淵即位後の状況は
「その後各地の勢力平定に一番活躍したのは李世民でした。」と言う説明と
1コマの合戦シーンのみでした(泣
やっぱり余りにも短期決戦過ぎるからなぁ〜・・・
(ちなみに宇文化及と思われる人物は出てきた)
終わるとさびしいのであげときます。
何か盛り上がらない。
この時代って面白い作品化されてないからかねぇ。
研究論文自体はたくさんあるし。文革期の隋唐革命や玄武門の変を階級闘争で
語ってんのは失笑もんだけど・・・。
群雄の記録が少ないっていっても、後漢末の群雄の記述量と
たいして変わらんしね。
芳樹や安能の隋唐演義は明らかに水差したしな。
俺的には宇文述とか長孫無忌なんか、小説にするには良い題材だと思うんだが。
主君との友情や、公人としての立場、それと権力欲、この辺のせめぎ合いとかを
軸にしてね。この二人、清廉潔白ではないけど、絶対に悪人ではないと思うし。
むしろ李世民とか李密とかはベタ過ぎて主人公には向かなそう。
と、支援age
129 :
世界@名無史さん:02/06/08 11:28
三国志演義っぽい話にするなら李密だろうし
水滸伝なら竇建徳になるな、主人公
でもここはあえて数奇な運命に翻弄されて・・・・もいないけど魏徴なんて
どうだろう?
こういう人物は宮城谷氏が得意そうだな
田中も風よ、万里を翔けよじゃそれなりに書いてたんだけどね
隋唐演義は目もあてられん、ひどいシロモノだったな
李密に使ってもらえなくて少し不満な魏徴
建成勝利のために元吉を焚き付けてそうな魏徴
謀臣やるのに疲れて正論家になっちゃった魏徴
諫言長すぎて列伝読むのが苦痛だった魏徴
きっと世民も内心嫌いだったんじゃないかと思われる魏徴
そんな魏徴、萌え(煽りではない)
クライマックス作るのは大変そうだ
太宗と仲違いして死に、続いて高句麗遠征、太宗反省かな
>>117 私(李密)の早期撃沈なんですが(TT)隋帝国は政治的にはボロボロでしたが、人材が、文帝のころの
優秀な人材と煬帝のころ抜擢された人材が残っていたのでいたかったですね。私と楊玄感は結局
は結局、唐のために隋帝国と相打ちになったようなものでした。
隋は優秀な武将がおおいですものね、王世充・張須陀・来護児・屈突通・楊義臣
・薛世雄・李景などなど、
煬帝の優秀な人材をある程度大事にするという唯一の美点にやられたようなものです。
でも、私が王世充に敗れたのはかえって隋の寿命を縮めました。
私は隋を滅ぼすために生きてきたような気がします。
>>129 おおっ、魏徴が主役!彼の進言を聞いていれば・・・、陳舜臣が書いてもいいと思います。
自分的には、劉黒闥と羅士信の因縁を軸にか、孫策を彷彿とさせる杜伏威
の生涯がいいなあ・・・、唐側なら、徐世勣。頼む・・・、せめて部下を・・・
隋唐演義は面白くないならもっと、翻案しろよ、安務・田中。俺がヘタレになってたぞ。
というか、長さのわりに歴史長すぎ、隋の始めから玄武門の変までで十分だろ。
せめて、「説唐」と史実の面白いところをもってくればよいのに・・・
133 :
世界@名無史さん:02/06/12 01:24
李勣って、李世民の「世」の字を避ける為に李勣と成ったと言う事だけれど、
それって史書だけの呼称だったんじゃ無いんですか?
実際リアルタイムで生きてた李勣は、”李世勣”だったんじゃ無いかな?
と疑問に思ったんですが、実際はどうなんでしょうか?
それと、もし実際は”李世勣”だったとしたら、李世民に気を使わずとも良い現代の
(しかも異国の)我々は、どう呼ぶ方が適当なのでしょうか?
徹夜仕事はそろそろ止めてぇ
>133
「世」の字は永徽年間(高宗の最初の元号)に取っ払ってるので
生前から李勣と名乗ってます。
正史では(李)世勣と書かれたり、(李)勣と書かれたりと、結構いい加減?
太宗は即位直前に、諱として二字両方を禁止しちゃうと誤字が多くなる原因に
なる、ってことで、「世民」とか「隆基」のように二字連続して使わなければ
オーケーにしちゃいました。この頃、二字の名前も当たり前になってきてたし。
でも臣下にしてみれば畏れ多かったのか、「世」や「民」単体でも避けていた
人も多かったようですね。例えば隋書の王世充伝は「王充」になってる。
そういう経緯があるんで、正史の元になった資料の記述も混乱していたと思われ、
結果として「世勣」だったり「勣」だったりするのかもしれない。
李靖と間違わなければ何と読んでも問題ないと思いますけど。
(俺、書き間違えて先生に怒られた)
135 :
世界@名無史さん:02/06/12 16:32
>134
レスありがとんございますた。
この時代、他には隋から日本へ使者小野妹子の返使(宣愉使)として来た
”裴世清”も、史書等では”裴清”に成っていますよね。
ところで、やっぱり玄武門の変が無く皇太子”李建成”が即位していたら
”竇建徳”も”竇徳”に成ったのかな? 萎え〜
137 :
ハンニバル:02/07/05 14:09
李密がお気に入りの僕ですが、六一七年に李密が洛陽を早々に陥落させ、越王楊桐
を擁立して攻めてきた王世充とは和睦するが謀殺して、さらに北上してきた宇文化及
を大破して一大勢力となり天下を統一する話を作っています。もしかして李密玄遂って
評価低いですか。
138 :
世界@名無史さん:02/07/10 23:42
>>137 全中国史的見地から言うと、取るに足らない存在。
隋と唐の間に歴史的発展性が殆ど無いし、そこに李密でなければ果たせなかったような役割もない。
隋唐革命は社名と社長が変わっただけで、経営方針や取扱業務が変わったわけではないもの。
そこで動いた人間に、もし壮大な役割を与えようとするなら大変なことだろうと思う。
139 :
世界@名無史さん:02/07/10 23:48
続き
では隋唐革命期のみに全てを限定するなら、
李密は最も最初に「隋を倒す」構想を具現化した人間であり、最も最初に「煬帝の失政」を天下に訴え得た人間。
諸群雄の中でも「隋を倒す」ことを現実的に構想し得たのは李淵と李密だけ。
そして先に動いたのが李密だった。
時代を限定して描くのなら、李密はパイオニアであり、風雲児といえる。
140 :
世界@名無史さん:02/07/11 00:01
最後
李密の組織者・アジテーターとしての才能は優れたものであっただろう。
単なる山賊に過ぎなかった瓦崗軍を一挙に革命集団に変えてしまった手腕、
河北・河南の諸勢力、諸郡県を自らの下位に置き得たある種のカリスマ、
李密は争覇の舞台に立つ資格を十分にクリアしていた。
が、
偃師決戦での敗戦後、一挙に軍勢が崩壊してしまった事実、
彼に殉じた人間が殆どいなかった最期、
何をおいても李密でなければダメだ、という、
説明しがたいが恐らく天下を取った人間が持っていたであろう求心力のようなものに
欠けていたのではないかと思う。
天下人に必要な才覚や威風があり、それゆえに天下を狙うような生き方しかできなかった。
にもかかわらず、天下人に最も必要な一点が絶対的に欠けていた。
李密にはそんな悲しさが漂っているような気がする。
と、個人的見解を述べておきまする。
141 :
世界@名無史さん:02/07/11 00:07
追加
李密の功績は「隋は死んだ」と全天下に知らしめたことですね。
それまでは「隋帝国」の中でいくつもの反乱が起きている、という状態だった。
が、李密の登場後、中国は全くの混沌に陥った。
それが導いたものは、唐王朝のスムーズな天下統一だった。
李淵は隋王朝を気にかけることなく、邁進することができたから。
ま、皮肉な結果ですな。
唐太宗李世民
1 :世界@名無史さん :02/02/03 13:25
中国最大の皇帝を語ろう。
★主な業績
@兄と弟をぶち殺す
A親父押し込め
2 :世界@名無史さん :02/02/03 13:51
でも有能そうだ。
3 :世界@名無史さん :02/02/03 13:53
B殺した弟の妃を犯し、二人も子を産ませる
4 :世界@名無史さん :02/02/03 17:54
C予言にも拘らず武照を殺さなかった。よって、唐王朝が中断(一時滅亡)
と言う羽目に。
5 :林彪 :02/02/03 23:20
D何気に鮮卑(トルコ)系の血を引いている。
6 : :02/02/03 23:23
(´-`).。oO(21以降はどうするのだろう・・・)
7 :世界@名無史さん :02/02/03 23:23
E高句麗に負けて、独眼になった。
8 :4 :02/02/03 23:28
>>7 初耳ですが、そうなの?(毒癌の部分ネ)
9 :世界@名無史さん :02/02/03 23:36
>>8 まあ、中国は「そんなことないアル!」と認めないけどな。
高句麗にボコボコにされたのは史実。
10 :中華@名無史さん :02/02/04 01:51
余計なお世話かも知れないんですが、李世民スレを立てるんで有れば、
隋末唐初全般をカバー(勿論李世民話題も含む)したスレッドを立て直した方が、
面白いし、話題も膨らみ盛り上がると思うんですが・・・
もし、そう言う方向なら私も参加したいです。
皆様どうでしょう??
11 :4 :02/02/04 12:47
>>10 私は一向に構いませんが?ほかの皆様は?
12 :世界@名無史さん :02/02/04 12:53
言ってる間に自分で立てろ。
13 :世界@名無史さん :02/02/04 12:59
早くたてろよ
14 :中華@名無史さん :02/02/04 20:20
>>11 >>12 >>13 スマソ!一応重複スレに成るとヤバイかな?と思って確認させて貰ったんです。
と言う事で立てました。ヨロシコ
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1012821411/ 15 :世界@名無史さん :02/02/20 00:46
>>4 元々、殺すつもりだったんだけど、その預言者に「殺せばより強力な男子として生まれ、
ますます危ない運命が生ずる」と警告されたそうだ。
16 :世界@名無史さん :02/03/23 22:31
も少し話そう
17 :世界@名無史さん :02/03/23 23:31
名君と言われながら宮中で
御苑の監督官を自ら斬殺するなど
相当乱暴な人だ。
名君ではあっても仁君ではないな。
18 :世界@名無史さん :02/03/23 23:35
名君であれば仁君である必要はないんじゃない
19 :幻想の語り部 :02/03/24 11:38
仁君と名君は必ずしも両立しないよ
20 :世界@名無史さん :02/05/09 08:35
F実録改竄
G魏徴の墓壊す
>142-149
転載ありがとん
このスレが出来た切っ掛けに成った(流れも判る)スレの転載ですね。
>>138-141 だからこそ、さほど恐れ多くなく、なりきりができるんですけど。(^^)
ハンニバルさん、私も通俗二十一史の「唐太宗軍談」の現代語訳を考えているのでお互い頑張りましょう
私に欠けていたものとは「運」でしょうか。これはただの運ではなくて、「天」から選ばれていないという
意味の「運」です。実践的な学問をし、あらゆる策謀を立て、それを実行し多くは成功させてきましたが、
タク譲を殺したことで人望を失った以上に、なんとなくそれ以前に「天運」がなかった気がします。
王伯当の方が結果的に自分より正しい判断を示していることがそれを証明しているような・・・
152 :
世界@名無史さん:02/07/20 01:21
153 :
世界@名無史さん:02/08/08 22:33
age
ほしゅ
156 :
世界@名無史さん:02/09/19 22:47
あげ
偉人や英雄も、一つ一つのエピソードを取り上げると変わり者ですね。
李世民もやることはいちおうやってるし、総論で言えば嫌いじゃないです。
各論では付き合いきれそうもない部分もあるんですけどね。
158 :
世界@名無史さん:02/10/05 17:09
159 :
世界@名無史さん:02/10/09 19:46
ネタ切れたかな。
じゃ、ちょっと軟弱に。
隋から唐の初期。
この時期を舞台にした小説、どんなものがあるでしょうか?
160 :
中華@名無史さん:02/10/10 04:08
否!ネタは有るんだけど、暇が無いと言う感じでしょうか?…(ニガワラ
やっぱりこの板だとそんなに思い付きとかで書けないし、(下らないネタには其れなりに反応しますが)
書くと成ると、それなりに調べてから書く様にしているので、時間が要ります。
でも、話題に乗る方がスレの為なので此処は一つ反応します。
中国清代の[ネ者]人獲の匯編:『隋唐演義』が一番有名ですかね?
国内では、安能務、田中芳樹の二人がそれぞれ編訳して出してますね。
小説の一部では有りますが、それなりに内容が有る物としては、
陳舜臣著の『小説十八史略』が有ります。
それと、この板では名前を余り出すと荒れるらしいのでどうか?と思いますが、
ガイシュツなのでまた出しますが、田中芳樹著の『風よ万里を駆けよ』が有ります。
漏れが知っているのはこれ位ですが、他にお勧め本御存知の方は居られますか?
この時代のことはぼんやりとしか知らなかったけれど
李密って、陳勝みたいなヤツなんだね。
司馬光じゃないが、同じような事の繰り返しで
エピソードまでは追ってないから
ネタはふれないスマソ。
162 :
中華@名無史さん :02/10/10 18:10
李密≒陳勝(w …(汗
う〜ん、確かに活躍した時間は短いですが、陳勝みたいにへたれでは無いと思いますよ?
(陳勝ファソ居たらスマソ)
漏れの中では、その時代で例えるならどちらかと言うと項羽の方が近い気がします。
(彼ほど腕力や迫力は有りませんが)
名門だし、活躍した期間も数年。天下を取った勢力の功臣達を数多く抱えていたにも関わらず、
最終的にその勢力に臣下が流れて行っちゃったりとか。
163 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :02/10/10 18:24
ええっと、反論あると面倒なので書いときます。さっき、現代語だったので。
「盾」の語源は「立つ」ではないかと。
164 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :02/10/10 18:27
誤爆です。ごめんなさい。
165 :
世界@名無史さん:02/10/11 00:20
ちょっと時代はずれるかもしれないが、津本陽が『則天武后』出してる。
典型的なオヤジ向け小説なんで、面白いかってぇとアレだが。
後「長孫無忌」ってタイトルの小説を見かけたような気がするんだけど、
本屋で探しても、ネットで検索してもないんだよな。幻だったか…?
>160
『風よ…』は出来が良い方だと思うから、田中でも叩かれはしないと思う。
ただ歴史小説というより、歴史の場面を借りた英雄譚・冒険譚って感じと
個人的には思ってる。
166 :
世界@名無史さん:02/10/11 00:28
あと、「隋唐“龍”伝説」って作品もある。全三巻。
タイトルからも分かる通り、内容はかなりイッてる小説だ。歴史小説を
標榜する割に誤植・誤認のオンパレードなんで、ネタとして購入する
分にはいいかもしれん(w
……絶版かもしれんが。
167 :
中華@名無史さん:02/10/11 01:19
とんでもファンタジーをageても良いと言うのなら、「西遊記」も(が)
この時代では一番有名な小説ですね?(w … 勿論ネタです…スマソ
おほん! 今度は真面目に書きますが、小説とは少し違いますが、評伝的著書としては、
宮崎市定氏著の、「隋の煬帝」も、この時代を知る上では面白いと思います。
168 :
中華@名無史さん:02/10/11 01:27
>アマノウヅメさん
誤爆とは言え、この板での代表的コテハンの方に降臨戴き嬉しいです。
ROMする限りは、東洋史系がお好きな様にお見受けされるので、
もしネタ等有れば次回は誤爆では無く登場&ネタ提供して戴けると嬉しいです。
>165
そうですか、自分書いといて何なんですが、「隋唐演義」は所蔵していますが、
『風よ…』の方は持っていません。 購入して見ようかな?
>162
そうでしたか、短絡でスマソ。
項羽かぁ・・・対抗者や副官主役の小説なら読んでみたいな。
探せば、この時代のこと書かれた本を
持っているはずだから、再度読み直して勉強してみます。
>169
嫌々、項羽説はあくまで漏れの意見なので、他の方がどう思われるかは分かりません(汗
お気に為さらずに
ただ、このスレを読んでこの時代に興味が出て頂けたのなら、1として本望です。
漏れもそのお陰で、他の住人から知らない知識もだいぶ授けて頂きましたし
(特に法主さん)
171 :
世界@名無史さん:02/10/11 02:55
>>133,134
その手の専門書とか読んだこと無いんだけど・・・
徐世勣の字は懋功(ぼうこう)でしょ?
比較的近い立場の人達からはそう呼ばれてたんじゃない?
「懋功どの」みたいに。
加えて、徐世勣は李世民に仕えた中ではかなり若い人間だし、長幼の序からも砕けた態度をとられていたのでは?
もしかしたら、李世民からも字で呼ばれていたかも。
李世民と歳が近く、頭の回転がついていけれる幕僚は徐世勣だけだったろうし。
歳とってきたら、「栄国公」でしょ
172 :
世界@名無史さん:02/10/11 03:43
>>171 親しいというか、普通、日常では字で呼ぶだろうね。上の人からも下の人からも。
ただ133・134で言ってるのは李世勣から李勣に変えたのはいつ頃で、ってのが主題。
その上で、どう表記するのが正確なのかって話。
173 :
世界@名無史さん:02/10/13 00:12
何だか結局、李世民・李密・竇建徳、以外には目が向かないのが現状って感じだね。>小説とか
例えば父李淵や兄李建成も名将と言うべき功績を残してる節があるし、
漢族の正統南朝の逆襲って感じで蕭銑を扱ってみるとか、
竇建徳「亡き後」の河北の抵抗戦とか、江南四国志とか、他にも
同じ李世民主役の話作るにしても、無視されまくってるネタ転がってんのにね。
書き捨てだから、オマエが書けとか言わんで
174 :
世界@名無史さん:02/10/13 00:24
さいゆうようえんでん
175 :
世界@名無史さん:02/10/13 05:34
なんとなく項羽に例えるなら李密より楊玄感を押します。
>>173 建成の仕事は突厥対策だったと思われます
その功績の多くはかなり意図的に削られているみたいですが
李淵も決して凡庸ではなかったし
むしろ、初期に秦の薛一族相手に苦戦しまくった李世民の方が軍事的に?かも
この人大局は見れても、局部は疎かにするヒトだったんじゃない?
どっかの陵墓の山で敵軍に捕まりかけたり、玄武門では弟に首締められたり
南方では李靖が活躍したなあ
177 :
世界@名無史さん:02/10/13 09:17
>>176 建成不在の時に限って、突厥は唐本土の要衝を脅かしてるしね
采配能力云々までは史料が消されてるので謎だけど、
少なくとも建成抜きで、当時の北辺の守りは考えられない状態だったんだろうね
後、世民は占領地政策の不得手の可能性を考えてみてたりする
劉武周追討後の「屠夏県」の記述や、
劉黒闥らの再蜂起を招いた河北(これは世民のせいだけではないかも)
んで対照的に、河北平定後、魏徴が建成に「人心を得ろ」と進言してるあたりから
178 :
中華@名無史さん:02/10/14 03:29
>>173さん
>江南四国志
興味有りますね? で、その四国と言うのは
杜伏威・蕭銑・李子通・林子弘ですか? もしくはその誰かが抜けて朱燦ですか?
手元の素材だけだと、それらしいのはこの5人(漏れも名前しか知らない)です。
でも、確かに南の方は余り話として出て来ないので寂しいです。
このスレだけでも、有識者の方が降臨されて、頂けると面白いですよね?
(その為にこのスレが有ると思うし)
そう言う意味でも法主さんの降臨を願います。(以前、杜伏威の名を出して居たので)
三戦板に帰っちゃったのかな?
179 :
中華@名無史さん:02/10/14 03:43
それと何人か話題に出して居られますが、漏れも”隠太子・李建成”は
無能な人物では無いと思います。
どちらかと言うと、弟の”斉王・元吉”の方が野心家で、
彼が兄を焚き付けた。と言うイメージが有ります。
あと、漏れ自身が興味が有る群雄は…
高開道・梁師都・李軌・薛挙、ですね。
まぁ、梁師都以外は何処かで名前を見た記憶が有る様な無い様な…
と言う感じでは有るので、自分で調べられれば調べたいですね。
180 :
世界@名無史さん:02/10/14 13:51
上谷の王須抜・魏刀兒、龍門の毋端兒。反乱軍首領
沈法興・林士弘・郭子和・薛仁杲・馮盎。上記以外の群雄
保全さげ
182 :
世界@名無史さん:02/11/01 11:13
age
183 :
■中国の歴史人物を登場させよう!その弐【改】■の1:02/11/13 22:56
あげときます
184 :
世界@名無史さん:02/11/29 00:18
この時期の歴史的意義って、どんな感じ?
単に王朝が交替しただけ?
連続性がはっきりしているからねぇ。巨視的に見ればそうかも。
>>178 どうも、久しぶりです。なぜか検索にかからなかったので、落ちてたかと思ってました。
以前、三・戦板で自分があげた群雄の紹介文をあげておきます。
李密以外の群雄は、東洋文庫の「中国民衆反乱史1」に伝があるので参考にしてください。
能力値は落としています。
▲宇文化及▲(?〜619) 隋末の群雄
煬帝の重臣、宇文述の長男。煬帝とともに江都にいたが、快楽にふける煬帝に絶望する仲間におされて首謀者として、煬帝を殺し、
十万の兵とともに長安帰還をめざした。
その後、煬帝の敵をうとうとする沈光や自分を殺そうとしたかつての反乱仲間を殺したが、徐世[責力]・李密に敗れ勢力を失い、
破れかぶれになり皇帝を名乗った(国号は許)。最後はトウ建徳に敗れ、処刑された。
▲竇建徳▲(573〜621) 隋末・河北の群雄
元々、農民で煬帝の高句麗遠征の際、徴兵され、その武勇で将校となっていたが、県令を
殺した友人の孫安祖が反乱を起こし、そのため家族を隋兵に皆殺しにされ、反乱軍・高士
達の部下となった。高士達が隋の名将・楊義臣と戦い、戦死した後それをつぎ、河北を制圧した。
隋の名将・薛世雄の3万の軍を数百の兵で奇襲をかけ、打ち破りその地盤を固めた。
その生活は質素でその支配地帯は平穏だった
その後、隋の臣と称し、宇文化及を殺した後、河北を制し、夏王を名乗ったが、天下をねらっていた
唐に危険を感じるようになった。
620年、洛陽の鄭帝・王世充に請われ、援軍として唐の李世民と戦ったが、わずか三千五百の李世民
に破れ、捕らえられ長安にて処刑された。
▲劉黒闥▲(隋末の群雄)
竇建徳ともとより仲が良く、李密軍から降伏して、隋軍の王世充の部下となっていたが、
当時、竇建徳の武将となっていた徐世勣(李勣)によって捕らえられ、竇建徳軍の武将
となり活躍していた。
竇建徳の処刑後、その残党とともに敵討ちを名目として、唐に反乱を起こし、徐世勣
を打ち破り、河北を制し、漢東王を名乗った。李世民との戦いでも、有利にすすめ、そ
の猛将・羅士信を討ち取るほどであった。しかし、結局は敗れて、突厥に亡命した。
その後突厥の援助を得て、唐を攻めたが、皇太子・李建成によって、敗れ捕らえられ、
処刑された。正史では「神勇」といわれている。
▲王世充▲(?〜621)隋末、洛陽の群雄 字は行満
西域出身の胡人で、隋の文帝のもとで、武勲があった。煬帝にも江都宮の建築や、賊・劉
元進を破り、降伏してきたものをすべて殺したことで重用された。裴仁基の降伏後、洛陽
の越王・楊桐の援軍の将として李密と対峙し、押している時もあったが、敗北を重ねた。
しかし、講和派を殺し、「北〔阝亡〕山の戦い」において、死に物狂いで、奇襲をかけ
李密軍を崩壊させる。その後楊桐を殺害し、鄭帝を名乗ったが唐との戦いでは離反者が続
出し、敗北を重ね洛陽にろう城した。だが、援軍の竇建徳が捕らえられた後、降伏し、助
命されたが恨みを持つものに殺された。
▲翟譲▲(?〜617)隋末、瓦崗塞の群雄
隋の官吏であったが、河南において反乱を起こし、瓦崗塞を本拠地に大きな勢力を築いた。
頼ってきた李密を受けいれ、張須陀を戦死させ、その後は李密に頭領を譲り、軍をそれぞれ
二つに分けた。しかし、次第に権力を失っていき、不満を高め、李密により殺された。
▲李密▲(583〜618)隋末、瓦崗塞の群雄 字は法主又は玄邃
隋の貴族出身であるが、煬帝にうとまれ、親友の楊玄感と共に反乱を起こし、その謀主
となった。高句麗遠征を行っていた煬帝攻撃か長安奪取を進言するが、楊玄感は洛陽を
攻撃し、敗北した。その後、捕らえられたが、脱走し、翟譲の元に身を寄せた。その計
略で隋の名将・張須陀を戦死させ、無敵を誇り、その勢いで洛陽を攻めた。王世充との
戦いを有利にすすめたが、恩人の翟譲をこのとき殺している。
洛陽の元文都らと和平を結び、その要請で宇文化及を攻めた後、王世充と疲労を省みず
戦い、その奇襲を受け、大勢力を一夜で失った。唐に降伏したが離反し、逃亡中に唐軍
に発見され戦死した。
▲杜伏威▲(?〜624)隋末、江蘇地方の群雄
豪放な人物で泥棒をしており、輔公祐とは刎頚の交わりがあった。16歳で群盗となり、独
自で勢力をもち、力をつけていった。隋軍を度々破り、財産を兵士に分けたため、敵なし
の状態であった。隋に楚王に任じられたが、唐に降伏し、王世充討伐に参加した。長安に
いき、太子太保に任じられたが、まもなく病死した。(毒殺された説もある)
▲輔公祐▲(?〜624)隋末、江蘇地方の群雄、杜伏威の兄弟分
杜伏威とともに群盗となり、その副将として、李子道を破るなど功を立てたが、次第に杜
伏威にうとまれた。杜伏威が長安にいったあと、その命を偽って唐に反乱を起こしたが、
李孝恭に敗れ、捕らえられ、処刑された。
▲薛挙▲(?〜618)隋末、隴西の群雄
▲薛仁杲▲(?〜618)薛挙の長子
隋の校尉を努めていたが、隋末の混乱に乗じ、西秦覇王(少年漫画みたいだ・・)を名乗
り、挙兵した。隋軍を破り、隴西を支配したが、関中にいた唐軍と激突し、李世民に大勝
したが、直後に病死した。(以上、薛挙)
薛挙の後を継いだが、勢力は衰えていく一方であり、李世民に攻め込まれ、持久戦の末に
破られ、降伏し、処刑された。(以上、薛仁杲)
▲劉武周▲(?〜620)隋末、山西の群雄
■宋金剛■(?〜620)劉武周の武将
隋の校尉であったが、太守の王仁恭を殺し反乱を起こした。突厥の力を借り隋軍を破り、
定揚可汗に任命される。また、竇建徳に敗れ、頭目の魏刀児を殺され、頼ってきた宋金剛
を宋王に任命し、妹を妻に与えた。宋金剛は尉遅敬徳や突厥とともに唐を攻め、裴寂を破り、
山西を奪った。
しかし、李世民に大敗し、二人ともども唐を恐れ、突厥に逃げ込み、そこも逃げようとして
殺された。
▲簫銑▲(583〜621)隋末、長江中流地方の群雄
南朝の後梁の末裔で隋の県令であったが、人望があり、反乱の盟主にかつぎあげられ、梁
帝を名乗った。次々と降伏してきた各地の勢力を加え大きな勢力となった。しかし、唐の
李孝恭・李靖に攻められ、折しも武将たちの権力を奪うために軍隊を解散し、内訌が起こ
っていたので、あっさり敗北した。民をまきぞえにしないように籠城せずに降伏したという。
その数日後に援軍の十数万の軍勢がきたが解散した。長安で堂々とした態度で処刑された。
▲沈法興▲(?〜620)隋末、江東の群雄
▲李子通▲(?〜623)隋末、江東の群雄
▲杜子弘▲(?〜621)隋末、江西の群雄
南朝の名族の出身で隋の呉興太守。乱に乗じて挙兵し、江東を抑え、梁主と名乗った。し
かし、杜伏威・陳稜・李子通に攻められ、最後は李子通に敗北し、逃げる途中入水した。(以上、沈法興)
隋末に賊軍に投じ、自立して将軍を名乗り、江都の陳稜を攻め、江都を奪った。その後、
沈法興を滅ぼしたが、輔公祐に敗北する。さらに、杜伏威の武将・王雄誕に攻められ、
唐に降伏したが逃亡し、その途中殺された。(以上、李子通)
賊将の死後、その跡を継ぎ、隋軍を破り、江西を抑え、楚帝を名乗った。しかし、
盟友の張善安に裏切られ、さらに唐の李孝恭に攻められる。結局、逃亡している
最中に病死した。(以上、杜子弘)
▲李軌▲(?〜619)隋末、西涼の群雄 字は処則
豪族出身で隋に仕えていたが、薛挙の乱を聞いて決起し、帝を名乗った。(国号は河西大涼)
隋の官僚を登用し、薛挙を破ったが、内訌が起こり衰退した。唐には降伏しないでいたが、
唐の安興貴に城をせめられ降伏し、処刑された。
▲高開道▲(?〜624)隋末、遼東の群雄
塩の生産者であったが、群盗の格謙の下にいき、将軍となった。格謙が王世充と戦い死んだ後、
逃亡し、隋の将軍・李景を破り、河北北部を制した。幽州の羅芸と手を組み、唐に降伏したが、
二度も裏切り、燕王を名乗った。同盟した劉黒闥の敗死後、突厥を頼ったが、部下の張金樹に
裏切られ、妻子を殺し、自殺した。
▲梁師都▲(?〜628)隋末の群雄
夏州の豪族で突厥と組み、隋軍を破り、大丞相を名乗った。しかし、唐の段徳操に大敗し、
次々と降伏し、やむをえず、突厥を招きいれた。突厥が衰えると唐の攻撃がさらに激しくなり、
唐の将軍、柴紹によって敗北し、城にこもったが、従父弟の梁洛仁に殺された。
▲羅芸▲(?〜627)字は子延 隋末、遼東地方の群雄
元は隋の武将。高句麗討伐の際に、隋の諸将と対立し、武器・食料基地の涿郡をおさえ、
幽州総管と称した。高開道にははかられたことがあったが、竇建徳を幾度も破り、唐に帰順し、
燕王に封じられ、李姓をもらった。その後も、劉黒闥討伐で功を挙げたが、李世民の側近を
なぐったことがあり、その即位後、不安をいだき、長安を攻撃して破られ、突厥に亡命する
途中で部下に殺された。(李建成派であったのかもしれない)
王世充や羅芸、宇文化及も入ってないな。「隋書」を読むしかないか・・
後、今まで出てこなかった小説では原百代の「武則天」がおすすめ。
それ以外は紹介したか、されたな。あとは中国語の本しかないかな。
武将系もできたらそのうち
191の江南三群雄が読みにくいので訂正します。
▲沈法興▲(?〜620)隋末、江東の群雄
南朝の名族の出身で隋の呉興太守。乱に乗じて挙兵し、江東を抑え、梁主と名乗った。し
かし、杜伏威・陳稜・李子通に攻められ、最後は李子通に敗北し、逃げる途中入水した。
▲李子通▲(?〜623)隋末、江東の群雄
隋末に賊軍に投じ、自立して将軍を名乗り、江都の陳稜を攻め、江都を奪った。その後、
沈法興を滅ぼしたが、輔公祐に敗北する。さらに、杜伏威の武将・王雄誕に攻められ、
唐に降伏したが逃亡し、その途中殺された。
▲杜子弘▲(?〜621)隋末、江西の群雄
賊将の死後、その跡を継ぎ、隋軍を破り、江西を抑え、楚帝を名乗った。しかし、
盟友の張善安に裏切られ、さらに唐の李孝恭に攻められる。結局、逃亡している
最中に病死した。
194 :
中華@名無史さん:02/12/06 02:54
>>法主さん
遅レスですが、申し訳有りません。
御降臨誠に有難う御座います。知っている群雄でも
なかなか自分が知らない事実も有って為に成ります。
お礼と言っては何ですが、一度某板の某スレで、自分も登録チャレンジして見ます。
>>194 御光臨を御臨終と読んでしまいました。(^^)
あのスレはもはや世界史ならなんでもオッケーなんでいつでもどうぞ。
参考文献は、いままで出てきたものを除くと、もはや歴史書になります。
河出書房「新十八史略」(今でもあるかな?)
陳舜臣「中国の歴史」
宮崎市定「大唐帝国」「隋の煬帝」がおすすめ。
谷恒生の「隋唐龍伝説」はひどいです。歴史を勘違いした人がいたらかわいそう。
まともなところは、宮崎市定の意見の転用です。(オマージュか?)
小説なら、ガイシュツですが
田中芳樹「風よ万里を駆けよ」
芝豪「太宗李世民」
諸星大二郎「西遊妖猿伝」(漫画だけど)がよいと思われます。
その続きは津本版よりも原百代版の武則天で知るのがいいと思います。
で、これが終わったら通俗二十一史「唐太宗軍談」→東洋文庫「中国民衆反乱史1」
→「資治通鑑」(大きい図書館で探せば、漢文読み下し文のやつがあるかも)
→「隋書」「旧唐書」「新唐書」ら正史の原文をあたればいいかと。
すいません、実は自分も最終段階はいっておりません。
意外に役に立つのが、世界史の大きな事典です。
特に、一番いいのは、平凡社「アジア歴史事典」
(絶版です。さがしたら10万!で古本屋にありました、買おうかな・・)
出版社はわすれましたが、「東洋歴史大事典」(三冊で48,000円、妥当だと・・)
自分はアジア歴史事典の方が好みですが、結構マイナーな人物も載っており
(上の人物紹介は実は図書館で見て、それからダイジェストで抜粋したやつです)
この時代を知るのには参考になります。
ネットは自分は初心者ではないですが、いいサイトは知りませんのでできたら教えてほしいです。
>>184 遅レスですが、この時代の歴史意義は、
「隋唐」というように連続性でとらえる説、すなわち王朝の交替だけである説と
隋を北周(北朝)の後継者ととらえ、この時期に大きく変換をとげて唐王朝が
生まれたという説があります。
確か、宮崎市定氏は「大唐帝国」で双方の言い分には根拠があるとし、中世社会の完成形であり、
近世への根をもつ唐王朝は武川鎮つながりで隋王朝との連続性は認めていますが、
それと同時に皇帝の絶対的な独裁権力を背景として南北朝や隋に続出した嗜虐的な皇帝が
唐王朝には認められないことなどから、新しい方の人間である李世民によって作られた
唐王朝の新しい特徴を指摘しております。
(宮崎先生は李世民マンセーなので本当は彼の父や兄のおかげかも知れませんが)
この時代は、中世(宮崎先生によると)の一時代にすぎないので、古代から中世にうつる過程の
三国時代や中世から近世に移る五代に比べると歴史意義は小さいかもしれません。
198 :
世界@名無史さん:02/12/08 04:52
1−群雄勢力の性格
漢末:中央から来た有力者と在地の中小豪族が結びつき群雄化
唐末:中央から来た軍人と、現地の下級将校が結びつき軍閥化
というパターンが多いと思われる。
隋末:地方の下級将校、地方官、中小の豪族自信が主体となって
軍閥化、というパターンが多いと思われる。
前二者の場合、中央の破綻と地方の分離が同時並行(ややずれはある
にしても)であった結果と考えられる。後者の場合は、地方統治が
一方的かつ一挙に破綻した結果と考えられる。
つまり隋末の群雄は、隋朝の支配体制の問題点が徐々に具現化し、
その中で成長していったのではなく、突然に現れざるを得なかった
のではないかと考える。
このことから隋朝の滅亡は、必然というよりアクシデントであった
可能性を強く推したい。
199 :
世界@名無史さん:02/12/08 04:52
2−内乱の契機
漢末:黄巾の乱
太平道自体が後漢のドグマである儒教へのアンチテーゼ。さらに、
そこには清流派士大夫や宦官ら政権の担い手の影すら見える。
漢の存立意義自体が限界に来た結果か?
唐末:黄巣の乱
唐のアイデンティティを考えてみたが、「強い」という所に落ち着く
のではないかと思う。強い者が弱い者を集権的に保護・支配する
というのが唐の方針とすれば、特別な野心もイデオロギーもない反乱が
大規模化したのは、藩鎮の割拠も絡めて、唐の保護を必要としなくなった
結果?
宋以後の大衆文化の活性化や、強権的な皇帝・宰相の稀少化が、唐崩壊の
結果とも見られるか? あ、後、塩の闇商人の反乱と見るなら、中世的な
統制経済が実行不可能な段階に来た証?
つまり、従来の社会体制の行き詰まりや、政権の存在意義・支持される理由が
失われたこと。そこに両反乱の原因があると見る。
しかし
隋末:楊玄感の乱
楊玄感や李密の発想は特別、隋朝と違いがあるわけではない。また彼らは煬帝と
同じ世界の住人であり、利害の対立と言うよりも、内部抗争的な傾向を見る。
その後に起こった反乱も「開皇の旧へ」と唱えるのが関の山で、隋朝の打倒を
考えた者すら、李密と李淵以外にいたかどうか…
隋朝の社会体制・政策方針自身に、やはり問題という程のものはなかったと推測
200 :
世界@名無史さん:02/12/08 04:53
3−李氏と楊氏
李淵が叛意を懐いたのは?
『創業起居注』によれば太原留守として現地に向かった際、世民に隋朝の滅亡を
仄めかしたのが最も古いか? また、その時、李淵は兵士と強い関係で繋がって
いたようでもあり、建成を分身として人脈を広げさせていたようでもある。
しかし彼は文帝に親愛されたから官途につけたのであり、煬帝に信頼されたから
隋の重臣になりおおせたともいえる。李淵自身に隋朝に謀反する理由はなかった。
そして上記の事項は隋の滅亡も押し迫った頃のことであり、沈む船から脱出した
という以上の理由は考えられない。
また八柱国の制度だが、後に『氏族誌』で李氏の格付けが低くされたように、
宇文氏の定めた家格が全中国的に影響力を持ったかどうかは疑問。
つまり李淵は名門だから、でもなく、隋朝に異を唱えて、でもなく、
単に既存の政権が消滅したときに、最も強大な力と、最も地の利を得ていたから、
勝利者になった、とも考えられる。
201 :
世界@名無史さん:02/12/08 04:54
結論:
つまり隋が滅んだのも、唐が成立したのも、非常に「偶然」とか「時運」という
ものに左右されている部分が多いのではないかと思っている。
おそらく歯車がずれなければ隋の命運は延びただろうし、大唐帝国の誕生もあり
えなかった。後に唐がやったことは、隋がいずれはやったのではないか、と。
少なくとも、両者の間に変革など無かった。
故に両者を特に区別する要件が果たしてあるのかどうか、疑問に思っている。
えぇと、法主さんの文を読んでて、今考えつつあることを並べてみました。
やっぱり、隋唐間に何かがあったと考えるのはロマン求めすぎ、とか思ったり。
突っ込みどころは山程有ると思うので(考え中の内容だし)、
適当に突っ込んで下さい。
後、唐が安定したのは漢を強く意識して中華皇帝の権威を再生すると共に、
そのイデオロギーは受け継がずに北狄的な世界観を持ったことにあると考えたり。
意義というなら隋〜唐より、漢〜唐に見いだすべきじゃないかと。
隋が漢を強烈に意識したかどうかは謎ですね。
これは李世民が政治的実行力・実務面では史書の編纂>五経正義の編纂と
考えていたと、編者メンツから勝手に推測してるところに端を発しています。
が、何か書けるような状態でないんで、長文スマソ
202 :
世界@名無史さん:02/12/08 06:38
息子によっかかって天下とったダメパパ李淵萌え
>>198 どうも、長文レスありがとうございます。
ここだけの数字でいいから、コテハンとってくれるとありがたいです。
現在、宮崎市定先生の「大唐帝国」を探しているけどみつからない・・・
実家にあるのかな?
本屋にいってみたけど、この時代のいい資料はないですね。
大修館書店の「中国の英雄豪傑を読む」という本をみたのですが、この時代の小説は
「隋唐演義」を初めとして良い講談小説はないようです。
「説唐」もネットで途中まであったけど、「蒼天航路」の方が史実に近い(^^)
歴史を知ってから読む方がいいような気がします。
その文章には、自分なりに反論がありますが整理してからレスします。
>>198 遅くなりましたが、まとめましたので、レスします。
全体的に漢末・唐末とは時代の意義は小さいことには同意します。宮崎先生の説
にも自分は同意してますし。ただ、隋末は、秦末、新・後漢初期の戦乱と比べる
べきではないかと。いずれも、統治の失敗による短期間の王朝の崩壊、次の王朝
が統一に成功し、長命化したことという共通点があります。それを踏まえた上で、
反論をします。
だから。198の
>つまり隋末の群雄は、隋朝の支配体制の問題点が徐々に具現化し、
>その中で成長していったのではなく、突然に現れざるを得なかったのではないかと
>考える。
については同意しますが、(秦末、新・後漢初期の戦乱と同じ)
>後者の場合は、地方統治が
>一方的かつ一挙に破綻した結果と考えられる。(中略)
>このことから隋朝の滅亡は、必然というよりアクシデントであった
>可能性を強く推したい。
これはいいすぎではないかと。隋王朝は、もともと武川鎮の一貴族、楊堅によって、北周が
のっとられたもので全然、豪族層の指示はありませんでした。逆らうと殺されるから逆らわ
ないだけです。南北朝の流れを組む王朝と変わりません。ただ、内政に力をいれている点で
は評価できますが。
煬帝の暴政は地方統治の崩壊の結果と思えず、中央政府の暴走が原因だと思います。そして、
これは南北朝で多くみられるケースです。アクシデントではないと思います。
次に199ですが、漢末、唐末の所では、おおまかな所で同意
>楊玄感や李密の発想は特別、隋朝と違いがあるわけではない。また彼らは煬帝と
>同じ世界の住人であり、利害の対立と言うよりも、内部抗争的な傾向を見る。
>その後に起こった反乱も「開皇の旧へ」と唱えるのが関の山で、隋朝の打倒を
>考えた者すら、李密と李淵以外にいたかどうか…
ううん、どうでしょうね。新しいイデオロギーが生まれる時間がなかったのは認めます
が。しかし、秦の時も、六国をもどそうと動きが強かったし、新の時は漢王朝が形態を
変えながらも復活しましたよ。後漢も劉備は復活させようとしていたし・・・・。
竇建徳たちを責めるほうがおかしいような・・・・。曹操みたいに都合のよいときは残
して、役にたたなくなったら滅ぼすって、李密と李淵は考えていただけだと思いますが。
おおっと、入れ忘れたな(^^)
>隋朝の社会体制・政策方針自身に、やはり問題という程のものはなかったと推測
隋の問題は皇帝が絶対的であるという南北朝の歴史を受け継いだことにあると思い
ます。唐にしても、同じかも知れませんが、「貞鑑政要」をみればいかに家臣の意
見に耳を傾けたかが分ります。(美化をさしひいても)
次は200ですが、
>つまり李淵は名門だから、でもなく、隋朝に異を唱えて、でもなく、
>単に既存の政権が消滅したときに、最も強大な力と、最も地の利を得ていたから、
>勝利者になった、とも考えられる。
同意します。ただ、隋朝の基盤の緩さ、煬帝の暴虐を考えると、もっと早期に乱世にな
る可能性、隋朝が倒れる可能性も考えていたのではないかと思います。
201の
>つまり隋が滅んだのも、唐が成立したのも、非常に「偶然」とか「時運」という
>ものに左右されている部分が多いのではないかと思っている。
>おそらく歯車がずれなければ隋の命運は延びただろうし、大唐帝国の誕生もあり
>えなかった。後に唐がやったことは、隋がいずれはやったのではないか、と。
>少なくとも、両者の間に変革など無かった。
>故に両者を特に区別する要件が果たしてあるのかどうか、疑問に思っている。
これも自分はそうは思っていません。隋王朝の問題は、南北朝と同じように、皇帝
があまりに独裁権力を持ち、家臣の生殺与奪を握りすぎたことにあると思います。
初代の楊堅があのような人物ですから、家庭が乱れるのは当然です。隋王朝は、時
間の差こそあれ、煬帝のような皇帝を輩出したでしょう。
それに対して、唐王朝は武則天以外であのように殺した人物はいません。しかし、
その武則天のおかげでかえって、唐王朝は清新さをとりもどしたのです。
これは幸運といえます。
変革がなかったとは思えません。「貞鑑政要」や若い頃の玄宗皇帝のエピソード
を見ると、いかに家臣の意見を聞こうと努力したかが、うかがえます。
安禄山の乱も皇帝の暴虐によるのではなく、家臣を大事にしすぎた結果といえなくもないです。
>後、唐が安定したのは漢を強く意識して中華皇帝の権威を再生すると共に、
>そのイデオロギーは受け継がずに北狄的な世界観を持ったことにあると考えたり。
これは、いえるでしょう。もはや儒教を基盤とした漢王朝の考えは時代遅れでしたから。
(もっとも、儒教は宋王朝で別の形態に変え、復活しますが)おっしゃるとおり、唐の
魅力は「強さ」です。だから、無理な外征を続けたのです。
しかし、もうひとつの魅力は働き甲斐のある王朝です。漢よりはるかに実用的な形で。
(しかし、その実用が内部に巨大な反抗勢力を作らせますが。)
ということで、自分の反論、終わりです。よかったらレスください。
あぼーん
210 :
198-201:03/01/06 01:56
>>法主さん
考えているうちに変なノイズが入り込んだようだ
もうちっと整理してからレスしたいので、救済age
204以降の趣旨は
隋朝の統治責任の明確化と
隋朝は南北朝の系列、唐朝はそこから変貌したもの
と見てよろしいですか
世界史板で”あぽーん”って初めて見た(w
この板にも、ちゃんと削除人さんって居たんだな
スレと関係無いのでsage
>>210 「大唐帝国」は実家にもなかった・・・。買いなおすか・・・。
>隋朝の統治責任の明確化
すいません、この意味がよく分らなかったです。もう少し詳しくお願いします。
>隋朝は南北朝の系列、唐朝はそこから変貌したもの
そうですね。人物的・理念的にはそう考えています。唐は有能な家臣の諫言を聞こうとする姿勢
が結果的に強さにつながると考えていたと思います。
南北朝の政権は隋の文帝・楊堅と同じように有能な家臣は使うだけ使って、不用になったら捨てたり、
殺したりするのが基本姿勢です。煬帝はそれに従っただけです。
北朝は元々異民族なのでそうしないと生き残れない世界を生きているから仕方がないことです。
南朝においても、その創始者は武人であるため、その性格は濃厚です。
唐は皇帝に対しての豪族・軍人・文官の相対的地位を高めたのです。
しかし、制度的には唐は間違いなく隋の後継者でしょう。数え上げると
1 西域諸国との交通を整え、その文化をとりいれた
2 高句麗遠征を行い、遣隋使を迎えた
3 均田制・府兵制・律令・科挙を実施した。
4 南北に結ぶ運河を開通した
5 長安を首都にし、唐朝に使われる宮殿などを建設した
など、いずれも唐に生かされました。
だから、>隋朝は南北朝の系列、唐朝はそこから変貌したもの
というのは、半分だけその通りと考えるとお答えします。
あと、「貞鑑政要」→「貞観政要」の間違いでした。すいません。
213 :
210ではないけど、、、:03/01/07 02:40
半分というのはいいですね。確かにそんな感じです。
(^^)
215 :
198-201:03/01/21 00:29
>法主さん
えらく経ってしまった。申し訳ない。
ええと、まず隋朝皇帝が南北朝的な専制君主であり、
唐朝の成功は、その点で隋朝の対極に位置した、
もしくは、その反省の上に立っていたから、
つまり王朝を構成する臣下の重視(また微妙な物言いになったか?)にあった
その差異が隋朝滅亡、唐朝長期政権化に繋がった、
という趣旨だと勝手に思いこんでレスします。
各論にレスすると揚げ足の取り合いになるといけんので、
総論的にやらしていただきやす。
1:隋朝の立場
もちろん、隋朝の成り立ち、および皇帝権力の性格が南北朝皇帝のそれと
類似していることには同意。
ただ、隋朝と南北諸朝の完全な相違点。
隋朝は、かつて漢が我が領域と認識し、以後も漢人の世界とされた地域と
ほぼ同一の領域を単一政権で統一したということ。
北周から隋への政権移行は確かに南北朝のそれ。
ただ、陳平定後の大隋帝国の成立は、少なくとも知識人らにとって
中華の再統一、と見なされるものになった。
それに関して、対遅尉迥、対陳の戦争を漢や唐、明が行った統一戦争に
擬似することもできないだろうか?
並立する諸国間で一国が強大化した、というのと、
その文明圏全てを掌握・支配する権力者の誕生、というのでは
発生する社会的事実・影響力が異なる。
216 :
198-201:03/01/21 00:30
つづき
事実、隋朝の行った、
突厥への介入(最強敵への対処)、対高句麗戦争(討伐・鷹懲の意識)、
大運河開削・東都造営(大工事)、周辺諸国への朝貢の要求、
行政区画・法(律令)の整備、官吏登用制度の改革、等は
漢・唐・宋・明・清など、いわゆる長期統一政権が世界戦略として
やってることでもある。
逆に南北朝政権の皇帝の視点は、
諸貴族・部族に対する皇帝権力の強化、隣接する軍事力(敵国)への対処、
に重心があると思われ、北魏の一時期を除けば、有力者らのパワーゲームが
国の「ような」ものを擬似構成していたと極論することもできる。
これらから、仮に楊堅・楊広が南北朝的世界観から脱し切れていないとしても
統一王朝大隋帝国皇帝という地位や、それに対する社会的状況に
左右されないでは済まされない。
彼らは枠組みの固まった「国」を嫌でも背負う形となったのであり、
過程やメンタリティは同じでも、社会的事実としては
南北朝皇帝とは性格を異にする存在だったのではないかと考えている。
217 :
世界@名無史さん:03/01/21 18:08
よく韓国人が古代朝鮮は中国の一部を支配していたって
自慢?げに言うけど中国人的にはどうなの?
219 :
世界@名無史さん:03/02/05 20:08
age
クソスレageんな。
>220
ひょっとして五胡スレで、いっとき喚いていた香具師?
222 :
世界@名無史さん:03/02/13 19:30
秦淑宝あげ
ていうか、安史の乱について語りたいのだがこのスレじゃ駄目なのか。そうか。
>>223 そりゃそうでしょ。時代が1世紀以上違うし。
そうですね。かと言って単独スレだと盛り上がるかどうかは判らないし…
>安史の乱
隋唐全域をカバーするスレがあったら良かったんだけどね。
227 :
中華@名無史さん:03/03/04 17:45
以前このスレで、お勧めされて居た「中国民衆叛乱史1(東洋文庫)」を購入出来ますた。
この時代を扱った物としては、殆どが隋→唐と言う政権の本流に関係する勢力や人物しか
扱って居ないものが多いですが、確かにこの本は、それ以外の群雄勢力について、
詳細に記述されて居るので、とても良書だと思いますた。
と、話題を振りつつage!
あのー、遅れてきた者ですが、
ここで呉王李恪や高陽公主について語るのはありですか。
>228
前の安史の乱談議でもそうだったけど、最近は唐初に余り拘らなくても良いのかな?
と思ったりして来て居ます。(あくまで個人的に)
まぁ、住人(書く人)が少ないと言うのも有るし、過去ログ探しても、実は唐スレって
ちゃんとしたのは、以前から無かったみたいですし…
龐の乱頃に成ると、流石に五代スレの方が適当だと思いますが、
それ以外だったら、動乱関連だったら良いかな?
>229
じゃあここへきてもよいのでしょうか。
呉王と高陽は長孫無忌に殺されてるから一応動乱関連ですよね。
呉王の母は煬帝の娘で、異母妹の高陽は玄武門の変の後に生まれてますから、
二人とも唐初の混乱期を生きてますし。ということで、よろしく。
(^^)
232 :
世界@名無史さん:03/03/15 08:27
>>215 >隋朝と南北諸朝の完全な相違点。
>隋朝は...漢人の世界...領域を単一政権で統一したということ
隋朝のその原動力って、何だったのですか。軍事力で、新たな技術革新があったのですか。
取りあえず保守しておこう…
(^^)
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
最近保守あげだけなので、呉王と高陽について。
ご存知のことも多いと思いますが、ご容赦ください。
呉王李恪は李世民の第3子。
異母兄には廃太子承乾、異母弟には魏王泰、晋王治。
(いずれの母も皇后長孫氏)
呉王恪の母は隋の煬帝の娘といわれ、
彼には両王朝の血が流れていたことになります。
それゆえ父李世民の寵愛を受けたのかとも。
承乾、魏王の後、治よりも恪を皇太子につけたいと考えたようです。
高陽公主は第17王女で、母親は卑賎の出とも李世民の兄建成の妃とも。
その美貌ゆえに父李世民に寵愛され、驕慢な性格になったといわれます。
高陽は唐建国の元勲、房玄齢の次子、房遺愛のもとに嫁ぐものの、
玄奘三蔵の弟子、辨機和尚と不倫関係に陥り、
それが密告されて辨機は漸腰の刑に処せられます。
しかし、一説では玄奘三蔵の持ち帰った天竺などの情報を知りすぎたことから
(筆記した)辨機を殺す必要があったともいわれます。
(つまり辨機は高陽とは不倫に関しては無関係)
そして高陽は呉王を近親相姦関係にあった。
呉王は政治的には野心がなかったにもかかわらず、
長孫皇后の兄長孫無忌からその血筋故に危険視されていたことから、
高陽公主との関係を利用して謀反の疑いをかけられ、
殺されたという説もあります。
辨機和尚も呉王も高陽との関係がなければ..とも思うものの、
長孫無忌の悪辣さの前ではだれもがやはり殺されていたのではと思います。
中国では高陽や辨機、そして呉王に対して無実の罪で殺されたという
日本でいう判官びいきみたいなものを感じますね。
(高陽の好色さはちょっと考えものですが。)
さらに則天武后がそれほど悪人にならないのは、
長孫無忌が同情されないほど策略家であったという
ことが原因なのではないでしょうか。
承乾と魏王泰を追い落とし、一番無能な晋王治を位につけ、
そのあげくに李世民の妾の1人だった武后に殺されたのですから。
237 :
世界@名無史さん:03/04/21 23:21
なんか唐の専用スレがないみたいなんでここで質問するんですけど
「安史の乱」に関する新めの研究でいい文献ってありますか?
中国史は専門外なんですけどふとしたことから最近興味を持ったもので。
だれか杜如晦、房玄齢を語ってくれよ
魏徴もいれて三傑としてでも良いからよ
239 :
世界@名無史さん:03/04/24 22:17
いきなり程度の低いネタでスマンが、尉遅敬徳の体毛は芳樹が長安妖月記に書いたとおり赤かったんですか?
出典つーか、元ネタはあるの?
あと、大学浪人中予備校の世界史の授業で聞いた、「李淵や李世民の目は青かった」って話しも気になってます
これホント?
どうも、久しぶり、法主です。五胡スレで喚かれていたのと忙しかったので、2ちゃん自体
さぼってました。すみません。自分の意見がおかしいと思ったら意見をここでどうぞ。
コテハン使っていると、色々いわれるので、今度から番号でいきます。
少しでも、盛り上がるようにレスします。「安史の乱」の話題は自分的にはOKです。
>>232 新たな技術革新はなかったと思います。ただ、隋は中央集権制にあうように南北朝時代
に乱れてしまった軍制の整理統合を進めたようです。
また、府兵制度の強化を行うとともに北周の時期に行政官の支配下にあった軍戸(軍事
を専門とした農民集団)の制度を廃止しました。
でも、これは基本的に統一後の話で、基本的にすでに天下の大勢は北周の時期に北斉を滅亡
させた時点で、北周を支えた武川鎮軍閥の手に落ちることは決定していたのでしょう。
>>240 (上の)北周の時期に→北周の時期に実施されていた
です。
>>236 呉王と高陽の話は、原百代の「武則天」で初めて知りました。結構、興味がわきますね。
日本での事件だったら、時代小説のネタになりそうですね。
>しかし、一説では玄奘三蔵の持ち帰った天竺などの情報を知りすぎたことから
>(筆記した)辨機を殺す必要があったともいわれます。
>(つまり辨機は高陽とは不倫に関しては無関係)
>そして高陽は呉王を近親相姦関係にあった。
>呉王は政治的には野心がなかったにもかかわらず、
>長孫皇后の兄長孫無忌からその血筋故に危険視されていたことから、
>高陽公主との関係を利用して謀反の疑いをかけられ、
>殺されたという説もあります。
この説は初めて知りました。しかし、これが事実なら、辨機と不倫したといわれた
高陽公主は相当キレたのではないでしょうか。
だけど、呉王はどのような理由をつけられても殺されていたと思います。
自分も長孫無忌は嫌いです。則天武后はどちらかといえば、好きですが。
(続き)
歴史上もっとひどい悪人はいますが嫌いな理由は、長孫無忌が李世民が
臣下の意見をとりいれようと努力しているのを利用し、自分の権力を固めた
ことです。君主の美点と努力を踏みにじる行為と思います。
また、さらに腹が立つのは、多くの歴史書や正史において、長孫無忌が晋王治
の忠臣であり則天武后の賄賂を拒否し誠心誠意、唐に尽くしたために殺されたと
なっているところです。呉王のことは触れられません。
歴史書でも悪人と書かれていればここまで嫌いではないのですが・・・。
>>237 新しめかどうかは知りませんが、自分がアマゾンで買った書籍なら、
(この程度はすでに通過済みで笑われるからもしれませんが)
「安禄山」藤吉真澄著 中公文庫(これは古い)
「安禄山と楊貴妃 安史の乱始末記」 藤吉真澄著 清水新書
「楊貴妃」村山義広著 中公新書
がおすすめです。自分は学術書は買わないもんで・・・。役に立てたかな。
>>238 杜如晦、房玄齢は功績をすべて李世民にやって具体的な策略が玄武門の変でしかわかり
ませんからね。唐初が人気ない理由の一つかも。しかし、なんで唐はあんなに
サイトがないんだろ・・・。光武帝もあるのに。知名度は李世民の方が上と
思うけど。
>>239 知りません(^^)でも、李世民の目が青かったら、さすがに漢民族とは自称
しないとは思いますけど。
>>243 そうなんだ
房杜とか唐の三傑と言ったら
唐初において比類なき功績があると思ってたけど
詳しいことは分からないんだ
なんか、残念だ
>>240 法主さん、レスありがとうございます。
原百代さんというお名前、浅学で初めて知りました。早速探してみようと思います。
呉王はどういうことがあったにせよ長孫無忌に殺されていたというのは
まったくその通りですね。
そして、長孫無忌の評価についても同感です。
忠臣のように扱われていますが、結局その後の紊乱を招いた張本人は
自身に権力を集中しようとした長孫無忌その人なのですから。
そんななかで呉王や辨機が犠牲になったということですかね。
直接読んだわけではないのですが、中野美代子氏が辨機の死について
高陽との不倫関係という原因ではなく、国家機密を知りすぎたためという
説を示されているというのをきいたことが。(よく調べればわかることを伝聞ですみません)
呉王と高陽の近親相姦関係については...ですね。(そうであったらいいなーとは思います)
辨機が殺されたのが李世民の生前であったのに対して、
呉王と高陽が殺されたのは高宗の永徽4年ということから、
無忌の呉王と房家を同時に潰す策略にうまうまと遺愛がのってしまった
結果であるともいえます。
呉王は永徽4年に死に、34歳とされてます(数えか満かはわかりません)。
高陽は同じ年に20代半ばから後半といったところですか。
呉王は益州などへの封地への赴任がありましたから二人に関係があったとしても赴任前のごく若い頃からということになってちょっと無理もあります。
また呉王については、長孫無忌ならずとも皇位継承させたくないと思った重臣は多かったのではと思うのです。
自分たちが滅ぼした前朝の皇孫(外孫ですが)を皇帝の位につけるのは
やはり恐ろしいですよね。
(李世民は高句麗遠征などで呉王に手柄を立てさせて、
皇太子にしようとしていたみたいですけど。それも裏目になってますね)
ただ、怪しまれるのを承知で二人は親密な交流をしていたわけで、
それは決して政治的な理由からだけではなかったと思うのです。
>>245 どうも、ありがとうございます。
原百代の「武則天」は本当に傑作なので機会があったらご覧下さい。
毎日新聞社から、愛蔵版が出ております。
昔は講談社文庫からでていたようですが、残念ながら絶版しているようです。
古本屋のサイトとか探しても見つかると思います。
この作品のおかげで「資治通鑑」をこの時代は見返す必要がないぐらいです
自分的には宮城谷氏よりもこの人を評価しているぐらいです
(もっとも、原百代の作品は実質的にこの一作だけしかないのですが)
中野美代子氏は西遊記関連の研究をされている方ですね。
もってないけど、「西遊記の秘密」とか読んだことがあります。
呉王には息子があり、彼が則天武后の唐室粛正を逃れているのはご存じですか?
名前を李仁といい、襄州刺吏に任命され、名を千里と改名しています。
彼は政務を全くせずに、珍宝を則天武后に献上することばかりしていたようです。
(才能を隠した大変な空とぼけでしょう)
彼には有名なエピソードがあります。
則天武后に嶺南討撃使に任命された後、はるばる上京し、少年宦官、二人を献上した
ことです。二人の少年宦官の名前は『金剛』『力士』でした。
この『力士』こそが、後の玄宗皇帝の寵臣となる高力士です。
彼が粛正を逃れた背景には則天武后は長孫無忌に苦しめられた者、
同志的な感情が彼にあったのでしょうか。
>>244 呉王に4子あり、その長子の仁のみが生き残ったようですね。ただ仁も姓を蝮に変えられたり、いろいろあったみたいですが。
南唐の王室は呉王の子孫を名乗ってますから、まあどうにかこうにか細々と残っていったと思われます。
長孫無忌の一族は族滅だったのかな。
房家は遺愛の兄の遺直の方の系統が残ったかもしれませんが、遺愛の系統、つまり高陽の系統は記録にないようですね。
「新唐書」を読んでますが、確かに遺愛の系統、つまり高陽の系統は記録にないですね
ただ、長孫無忌の一族の方は唐の文宗により開成三年(838年)にその子孫の長孫鈞
が県令に封じられてますから嶺南に流されたもので生き残ったものがいたようですね。
>南唐の王室は呉王の子孫を名乗ってますから
そう言われれば、そうですね。思い出しました。呉王は子孫は優秀ですね。
自身は不運でしたが、そう考えれば少し報われるような気がします。
>>244 遅レスですが分かっていることといえば、
房玄齢は早くから隋の滅亡を予見しており、李淵のほぼ決起時から李世民の幕僚
となっていたこと。多くの人材を推挙し、彼らに死力を尽くさせたこと。
(杜如晦を推挙したのも彼)
戦乱があった十年間の間、軍事関連の情報を知り、それを理路整然と述べたこと
(つまりは、情報処理した上での伝達か?)ぐらいでしょうか
玄武門の変以降は宰相として十五年間、李世民を支えていますが李世民が高句麗
遠征にいっている際、自分を弾劾するものをはるばる高句麗まで送り届けたと
いうエピソードがあります。李世民は一言もいわせず切り捨てたそうですが
なんか芝居くさい・・・
杜如晦は玄武門の変後にすぐ死んでいるから本当に分かりません
まあ、「謀の房玄齢、決断力の杜如晦」と言われているから
策略実行の決断を自分の責任で行ったのではないでしょうか
李世民は自ら前線にでますので、本陣で部隊に指示を行ったのが彼らだったと
思います。
249 :
世界@名無史さん:03/05/04 14:26
最終的大新羅が勝利^^
http://www.hnetv.com/zhuanti/datangqingshi/ ミーハーですみませんが保守あげということで御容赦ください。
去年の今ごろすごくはまってた中国のドラマ(DVDで購入)のHPです。
ここでは呉王と高陽の関係はかなーりぼかされてます。
呉王のマザコンぶりが(・∀・)イイ!!のですが、
辨機和尚をあちらのアイドルくんが演じてるのもかなり(・∀・)イイ!!です。
ちなみに李世民を演じているのは雍正帝や毛沢東を演じてる唐国強さんというすごい有名俳優さんです。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
,
254 :
世界@名無史さん:03/06/25 20:28
隋唐は人気ないね。
中国じゃ三国志より人気があるみたいだが。
255 :
世界@名無史さん:03/06/25 20:38
/ヽ /ヽ
/ ヽ / ヽ
______ / ヽ__/ ヽ
| ____ / :::::::::::::::\
| | // \ :::::::::::::::|
| | | ● ● ::::::::::::::|
| | .| :::::::::::::| 喧嘩は止めてぽ
| | | (__人__丿 .....:::::::::::::::::::/
| |____ ヽ .....:::::::::::::::::::::::<
└___/ ̄ ̄ :::::::::::::::::::::::::|
|\ | :::::::::::::::::::::::|
\ \ \___ ::::::::::::::::::::::::|
256 :
世界@名無史さん:03/06/25 20:39
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
李淵のお祖父さん李虎なんかはどこに伝立てられてるんでしょう?
ちょっと探したけど見つからないの・・・
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
生みそ隋
>>258 新旧『唐書』の本紀の冒頭
と言ってみるテスト。
だめだこりゃ。
264 :
■中国の歴史人物を登場させよう!その弐【改】■:03/09/04 21:41
泉蓋蘇文あげ
何か語りましょうか?
504 :名無し三等兵 :03/08/29 13:14 ID:HZY4JEYH
漢民族は偉大あるよ!
暴漢・悪漢・痴漢・酔漢・・・
つまらんイメージ操作。
好漢・壮漢・・・