東大、北大、東北大などの高学歴出身者で、歴史学に精通なさっている方、ビザンツ帝国の滅亡要因について論じてみませんか?
なぜかこの国家の話はあまりでませんよね。
しかも、このビザンツ滅亡については、日本の歴史学者で捉えている人はいないらしい
のですが、なぜ滅んだのかを検証するのは面白いと思いませんか?
私が考えたビザンツ滅亡の要因です(優先順位順)。
1.社会経済的要因
ヴェネツイアやジェノバ以外の地中海国家の貿易力が拡大(ヨーロッパ内陸部の商業ルネッサンスなど)に伴う、
コンスタンティノープルの役割が減少し、地中海での商業活動が急速に衰えた
=国家財政の窮乏
2.政治的要因 中央政府の権威喪失、絶え間ない内乱、伝統的な帝位争奪戦=国家の弱体化
3.国際関係的要因 外交力がなくなってきた状況に、トルコという強力な国家が出現してきた。
4.宗教的要因 「教皇の帽子よりはスルタンのターバンの方がましだ。」という名文句がビザ
ンツの人民の心情を表していたように、カトリックとの仲が最悪=孤立、救援されず
私のゼミの先生が入院して、古代史に回されているのですが、西洋古代史の教授は、宗教的要因はビザンツ滅亡
の要因としては薄いと言われました。これってどう思います。ある本には、直接的なの原因と書いてありました。
私は、カトリックと正教は、宗教戦争をやっていたような気がしますので、重要だとおもうのですが・・・。
あと、1は、外部だけ、3も物足りません。
誰か、「歴史学的な考察」で、その「直接的な滅亡要因」を出せる人ご指摘お願いします。間接的な
要因、人や大砲、黒死病、地理などは取り上げるべきではないと思います。
ですが、さすがにこれは、東大史学科の方でも、専門でないと難しいのかもしれません。西洋古代史の教
授ですら、質問したら悩んでおりました。
2 :
日本@名無史ん:01/10/03 00:05
なんであんなに永く続いた方が不思議だと思われ・・・・
案外そこがキーポイントだったりして。
3 :
世界@名無史さん:01/10/03 00:15
自分たちこそ、神の民、という誇りがあったから、ながながと続いたんだろ。
なんで高学歴って条件つけるの?>1
私は地方大学出身者で、しかも歴史は専攻ではないのだが、
お呼びでない?
高学歴と書いたのは、差別するのではなくて、できれば詳し
い方の意見が聞きたいからです。気を悪くされたならば、申
しわけありません。
ですが、これは史学科でないと難しい質問だと思いますよ。
>できれば詳しい方の意見が聞きたいからです。
そんなら「西洋史専攻者」とか、「卒論・修論等でビザンチン史を扱った人」と聞けばよかろ。
学校名出した時点で1はドキュソ。
「悲惨な1のいるスレ」に認定する。
アホくん、文面をよく練り直した上で、スレッド作って出直せ。
7 :
世界@名無史さん:01/10/03 00:37
「ビザンツ滅亡」で、どういう事態を指してるの?
1453年のそれ?
それとも、1204年の第四回十字軍のあれ?
(ラテン帝国以後の帝国は、それ以前とは比較にならないほど弱体だからね。)
それとも7-8世紀の地中海の喪失に伴う帝国の「変質」の問題なのか。
問題の立て方によって答えやすい・答えにくいはあるよ。
教授が悩んでおられたのも、答えが出しにくいというよりは、
問題を定式化しにくかったからでは?
8 :
世界@名無史さん:01/10/03 00:55
まあまあ。6さんもそれぐらいにして。
新しくスレを作り直させたりしたら重複スレになるじゃないですか。
本題に戻りましょう。
私は、なまじ文明国であったために、軍事を他民族の傭兵に頼る体質が
あったことを指摘しておきたい。
ヴェネツィアに商業上の特権を認めたのも、十字軍を呼び込んだのもそ
のせいだし、それらが結局は第4次十字軍を招き国力衰退の遠因となっ
た。
そしてパライオロゴス朝期には、内戦のために自らトルコ人傭兵を招い
たために、オスマン朝に領土を侵食されることになった。
このスレは失敗だったね。
−−−−−−−−−−−終了−−−−−−−−−−
>>1 名前も場所も伏せるけど、
東大でも北大でも東北大でもない大学の卒業で
地方公立の教授だが日本でもっとも知られたビザンツ史研究者のHPや
趣味でビザンツ史を勉強している人のHPがあります。
まずはそういうところを探してコンテンツを熟読して、
それでもまだ得心がいかないか
あるいはあなたの関心ある問題への言及がないのであれば、
改めて掲示板等でお聞きになってはいかがでしょう。
ここで質問するには設問も聞き方もまずかったと思われ。
11 :
名無しさん@パレオロゴス:01/10/03 01:00
1453年以降の事にしてもビザンチン帝国は外交力と言うか情報収集能力が
もはやラテン帝国以後衰亡の極みに達していたのが原因だと思うよ?
衰退するセルジュークトルコを叩くくらいの軍事力を帝国の騎兵隊は持っていたはずなのに何もしなかった。
そこで叩いておけば1453年の滅亡はあり得なかったはず。
19世紀のヴェネツィアと同じく国家として構造的疲労していたと言う方法もあるかな?
12 :
世界@名無史さん:01/10/03 01:00
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 1ってうざいよね〜
\ _______
V
∧_∧∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ・∀・)´∀` )< だよね〜、誰か殺してくれないかな?
( ) ) \_______________ ∧ ,∧
| | || | | (・д・,,)ペッ!!
(__)_)__(_) ∧ ∧? 、'(_@
(´⊇`)
( 1 )
|| |
∧ ∧ムカムカ (((_)_)
(#゚Д゚) ̄ ̄ `〜 ∧ ∧
U U ̄ ̄UU ( ) イッテヨシ!!
へ | ヽ
/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ったく、サルみてーに糞スレ乱立させてんじゃねーよゴルァ!!
\________________________
狙いは良かったのに、学歴を絡めた時点でクソスレに決定!
準備よし
コキすぎで足りません
やっぱ2chは低学歴の人がおおくてがっかりです。
思ったとおりでした。たぶんこういう反応返ってくると思って振ると、
学歴コンプレックスの持ち主が釣れる釣れる(劇藁)
おめでてえね
あわわ。ひょっとして私が4でよけいなことを書いて
パンドラの箱を開けてしまったのか?
私自身はそんなに気にしてなかったのだが……。
18 :
世界@名無史さん:01/10/03 01:15
>>15 知人に、それこそ君の条件にピッタリの人間がいたんだが(ビザンツ史を志してる研究者の卵)、
そういう態度だったんなら、このスレの話を伝えることはしないよ。
本当に興味があるんだったら、自分で考えな。
学歴と歴史を知っているかどうかに明確な因果関係はない。
まったく個人で研究を続けている人間にも、
優秀な人物が少なくないということを1は知らないのだ。
また、掲示板という「来る者拒まず」の場で、
参加者を限定して議論を行おうとした姿勢も戴けないと思う。
私もビザンツ帝国に関心があるだけに、非常に残念でならない。
>>5 しかしながら、1の書き込みが
世界史の好きな高校生、ないしサラリーマンレベルなんだが。
あ、なんだ、Tってこのスレの1か。
教えてもらう立場で相手を門前払いなんていい度胸してるよな。
1のTさんへ
のっけから、「高学歴出身」とはなんですか?
「高学歴」か「大学卒業者」というのが正しい日本語。
ビザンツ論ずる前に中学国語を勉強してね。
23 :
世界@名無史さん:01/10/03 01:56
>>1 >さすがにこれは、東大史学科の方でも、
>専門でないと難しいのかもしれません。西洋古代史の教授ですら、
>質問したら悩んでおりました。
の傲慢ここに極まれし。
もう返す言葉もありません。皆さんの仰る通り、私は傲慢で無知で
救いようのない最悪の奴です。私には天誅を加えるべきでしょう。
書き方も悪かったのですが、自分としては悪意はありませんでし
た(←言っても無駄でしょうね)。後は皆さんで「言葉の限り」を
尽くして罵倒し、このような奴が現れないような雰囲気にしてく
ださい。私はもうこのスレに書き込みませんし、読みません。
もう読んで、相当のショックを受け、バツもうけたつもりなので、
これで勘弁してください。
わずかに真剣に書いてくださった方、本当に申しわけありませんでした。
25 :
世界@名無史さん:01/10/03 02:12
火に油を注ぐかもしれんが、
>東大、北大、東北大などの高学歴出身者で
なぜ京大がない!
と吉田山方面では不満の声が高まっていると思われ。
(俺は関係者じゃないよ。)
つーか、傲慢以前にそんなにたいそうな質問なのかな? そりゃ詳細はわかんないけどさ。
栄華を誇った国が国の機能を維持出来ずに金属疲労おこして衰退する理由なんて、
>>1 が
挙げてる項目のいずれもが大小入り交じったりするもんじゃないの?
どれか一つ「直接的な滅亡要因」なんて事は絶対にあり得ないと思う。
こうなりゃ、あとは当時のビザンツ人に聞けよって感じだけど。
まあこれに懲りず(反省はしてるようであるし)、
次こそ、ここ向きにした話題を提供して欲しい。
28 :
世界@名無史さん:01/10/03 05:13
>>1 >東大、北大、東北大
ゴルァ! なんで東に片寄っとるんじゃあ!
その他の「名大、京大、阪大、九大」も入れたらんかい!(藁
30 :
本当に読まないのか?:01/10/03 07:35
馬鹿に一言だけ言っておく。
自分で調べろ。古代ローマから、特に宗教と法制史、勉強しろ。
人になんか聞くな。自分で本読んで調べる。
つーかさ、このスレで出てきた程度なら巷間のビザンツ関連本に
出てる内容だ。
>>1は最低限それらを読んでから聞いたらどうか?
俺は名指された大学の理系出身だが(wそれらは全部読んでるよ。
理系のしろーとだから和訳本しか読んでないけどね。
32 :
世界@名無史さん:01/10/03 14:22
ラテン帝国って何ですか?
教科書に唐突にでてきて困ってます。
どういう国で、どんな役割したんですか?
知ってる人教えてください。
>>32 「第四回十字軍がコンスタンチノープルを征服して〜」って書いてない?
35 :
Mikres :01/10/03 18:38
ビザンツ衰退の最大の原因は、小アジアという帝国の生存圏をトルコ人に占拠されたからでは?
ギリシャ人の民族としての衰退もその辺に原因があると思う。
36 :
世界@名無史さん:01/10/03 22:46
>32
第1回十字軍
キリスト教(ローマカトリック+ギリシア生協) vs イスラム(セルジュークトルコ)
第4回十字軍
ローマカトリック(西ヨーロッパ) vs ギリシア盛況(東ヨーロッパ、ビザンツ帝国)
んで、この第4回のときに西側がラテン帝国をビザンツの首都(コンスタンティノープル)に建てた。
ビザンツの人々はニケーア帝国(亡命政府ってところかな)を建てた。
答えになってる? 場所は地図で確認してくれ。
37 :
低学歴者@中卒小僧:01/10/04 00:15
35にもあるように小アジアを失ったことで優秀な騎兵隊を養えるだけの馬匹を供給できなくなったことも少なからずあったのでは?
なんだったっけ。。。 ビザンティンのエリート騎士団
38 :
低学歴者@中卒小僧:01/10/04 00:18
あ、カタクラフトだった。念のためにいっとくけど、軍事力、しかも
軍を構成するうちのたった騎兵隊が衰えただけで国力が衰退したとは言ってないからね。
すこ〜〜〜しの要因。低学歴者が思いつくのはこれぐらいかな?
>>1 によると大学の専門課程、それも東大、北大、東北大などの高学歴出身者でないと書き込んではいけないスレです。
僕は書き込めない。
>>37 アナトリアを失ったくらいで馬匹供給が滞りはしないんじゃないかなあ。
ただ重装騎兵(カタラクラフトって言うのかな?)が
アナトリアの失陥かなにかが原因で弱体化したのは確かみたいで
(ビザンツ騎兵のなり手は富裕農民層だった)、
代わりに西欧人やペチェネグ人・トルコ人の騎兵を傭兵に使っていたようですね。
41 :
Mikres:01/10/04 21:32
肥沃なアナトリアの土地を失ったことによってビザンツ帝国の農業生産や人口は減少し、騎兵隊だけではなくあらゆる面で衰退したのでしょう。
アレクシオス1世がアナトリア奪還を試みたが、トルコ人は粘り強くて完全な奪還はできなかった。
その後は、ベネチアやジェノバといった商業都市に翻弄される一小国、中途半端な通商国家に成り下がった。
つまるところ、トルコ人の侵入がビザンツ衰退の最大の原因だったわけで、ビザンツの末裔を名乗るギリシャ人がトルコ人をあれほどまでに敵視するのも当然だと思う。
sage
43 :
世界@名無史さん:01/10/06 00:34
ていうか、パラエオロゴス朝に関する日本語書籍って妙に
少ない感じ。13世紀の話題の次が、もう1453になってるみたいな。
宗教枠を外して、オスマン込みの地方政権の関係史として、
誰か相対化してちょーだい。
そんな本が読みたい今日この頃。
44 :
世界@名無史さん:01/10/06 00:37
>>43 ビザンツ史に本格的な興味持つんだったら、それこそ外国語は必須かもよ。
45 :
リトル愚礼@ロズウェルのアレ:01/10/06 00:49
>>43さん
エドワード=ギボンの「ローマ帝国衰亡史」はどうよ?
ママ〜 2chでスレたてたよ〜
\__ ______
∨ ∧_∧
" , 、 ミ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ゝ∀ く < いい子ね、後で見てみるわぁ
∧_∧ | \_____
三 ( とノ
三 / つ |
三 _ ( _ /| |
(_ソ(_ソ(_ )
>>1の母でございます(以下略)
__ _____________
∨ カタカタ
∧_∧ピーー____ ___
" , 、ミ ||\ .\ |◎ |
ゝ Дく || | ̄ ̄| |:[].|
┌( つ/ ̄l| / ̄ ̄/ | =|
|└ ヽ |二二二」二二二二二二二二」
 ̄]|| | | | || | ||
/ ̄| .| |/ || / ||
◎ (_)[____|| .[__||
47 :
世界@名無史さん:01/10/06 01:15
先生!おかげさまで2chでスレたてれました
 ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ ____________
__( *´∀`)__ Λ◎Λ /
| __ ( つ_つ__| (・∀・ )< よくがんばったね。後で見てみるよ
|\⌒⌒\| |\ (\ / ) \____________
| \ ======= \|__Ω____|
\ |⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒|_(___)
\ |_______|
.
>>1の主治医です(以下略)
__ _____________
∨ カタカタ
ピーー ____ ___
∧◎∧ ||\ .\ |◎ |
( ・∀・) || | ̄ ̄| |:[].|
┌(つヽ /つ/ ̄l| / ̄ ̄/ | =|
|└ ヽ Ω |二二二」二二二二二二二二」
 ̄]|| | | | | || | ||
/ ̄|(_)_)/ .|| / ||
◎ ◎ [___|| .[___||
48 :
世界@名無史さん:01/10/06 01:15
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ●
とうとう2chでスレ立てちゃったよ > ∧))∧
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ \____________/ ‖(・∀・ )
( (´∀`)< それはおめでとうございます と[,ヽy/ )
~( 」)y,_」、 \後でさっそく覗いてみまするモナ /ノ∞\,ゝ
と、_)∪ノ \__________ |_|__\
>>1の家臣でござる。(以下略)
__ _____________
∨ カタカタ
ピーー ____ ___
∧_∧ ||\ .\ |◎ |
( (´∀`) .|| | ̄ ̄| |:[].|
┌( 」つy ]つ/ ̄l| / ̄ ̄/ | =|
|└ ヽ |二二二」二二二二二二二二」
 ̄]|| | | | | || | ||
/ ̄|(_)_)/ .|| / ||
◎ ◎ [___|| .[___||
49 :
世界@名無史さん:01/10/06 01:27
>>43 井上先生が「生き残った帝国ビザンティン」で書いてるけど、ビザンティン
帝国の研究者って、やっぱ、ビザンティン帝国が好きなのよ。だから、この
国がひたすら衰退していくパライオロゴス朝期の研究はついつい、心情的に
やりたくないのです。
50 :
世界@名無史さん:01/10/06 01:47
パライオロゴス朝が成立して間もなく
もうオスマン朝の原型が東北アナトリアに現われてるからねえ。
それも、コンスタンチノープル奪還の拠点ニケーアのすぐそばに。
一つ 直接的要因が宗教だったらとうの昔に滅びてる。
だいたい本当にやばくなったら宗教は捨てる。ビザンツ皇帝にとっては宗教はそれぐらいの意味しかない。
ミカエル八世も捨ててるよ。
一つ 西洋古代史の教授なんぞに何を期待してるのか?
周囲の状況も違う。社会システムも違う。人々の思想も違う。
古代からつながってるからって、いくら何でも無理がある。日本史で古代専門の人に戦国の話聞いてどうなる?同じ事。
後、古代なら大丈夫だと思うが、「ドイツ史」とかやってる人にはビザンツ自体理解できないおそれが。研究方法的に。
52 :
世界@名無史さん:01/10/06 21:33
1>>
面白いスレッドですが
理科系出身ですので書き込めません。
53 :
世界@名無史さん:01/10/06 21:44
オスマン帝国UZEEEEEEEEEEEE−−−−−
あげ
56 :
世界@名無史さん:01/11/04 21:55
チムールのどアホ!
どーしてオスマン朝の息の根を止めなかったんだ!!
57 :
世界@名無史さん:01/11/04 22:22
>>56 息の根止めるどころかチムール死後は黒羊朝に押されて東へ東へ
後退していったし。その黒羊朝も白羊朝もサファビー朝も
オスマン朝の息の根を止めることはできなんだー。
サファヴィー朝なんて逆に息の根を止められかけてる(w
このスレは失敗だったね。
−−−−−−−−−−−終了−−−−−−−−−−
60 :
世界@名無史さん:01/11/17 02:57
軍事力の低下がビザンツ滅亡の直接的な原因だと考えるが(ローマ帝国は伝統的に戦争が強かった)
そのきっかけは第四回十字軍によるコンスタンティノープル占領だとおもう。
つーか、1000年も続いたんだから十分だろ。
62 :
世界@名無史さん:01/11/19 11:11
俺的にはビザンツの滅亡要因よりも、むしろ11世紀もの間続いた理由の方が
議論する価値が高いような気がするんだけどな・・・
63 :
世界@名無史さん:01/11/20 11:35
夷を以って夷を制すという
選民華夷思想が軍事力減退ひいては国力減退に繋がった側面はあるでしょう。
歴史上「夷を以って夷を制す」の発想をした国家にろくなことは無い。
テマ制は結構上手くいってたのにねぇ
国家は自国民で護るもんです(後知恵)
ビザンツ滅亡時の要塞防御指揮官ジェノバ人海軍指揮官ベネチア人
ダメダコリァ!
64 :
リトル愚礼@ロズウェル逝きます!:01/11/20 22:14
>>63さん
ビザンツの軍事力が強力だった頃は
非常にうまく機能していたんですが
それ以降はサパーり。
後、少し気になったのは
何で大国ビザンツの市場が
(当時は)フランク風情のヴェネチアやジェノヴァに
あっけなく乗っ取られたのだろうか?
それと、中産農民層の没落
これが軍事力の弱体化につながったらしいが
ビザンツ政府は、何か手を売ったのだろうか?
65 :
世界@名無史さん:01/11/20 22:19
>>64 塩野七生さんの本だと、ギリシャ人は商売、というか経済に強いのだそうな。
にもかかわらずなぜだろうね。疑問は残る。
しかし、ヴェネチアやジェノヴァをフランクよばわりすると、ラテン民族が
怒らないか? (藁
「直接的な滅亡要因」というけど、ビザンツの歴史を調べたら、徐々に滅亡したとしか
思えんのだけど。それと、だからこそ、地理的要因も考慮すべきとおもう。ヘラクリウ
スが、シリアを失わなかったら、滅亡は遅れたはず。大体、「直接的な滅亡要因」なん
て、数少ない要因(決定的な要因)で、語れるとおもうか? ”直接的”な滅亡要因で
なくていいんなら、トルコという強力な国家が出現しかないでしょう。しかし、現に、
滅ぼしたのは、彼らだ。
>>65 ビザンツにとってはあいつらみんなフランク(w
68 :
世界@名無史さん:01/11/22 01:22
>歴史上「夷を以って夷を制す」の発想をした国家にろくなことは無い。
ローマ法王と日本の天皇は、権威に特化することで、これをやりとげ、ともに2000年近い寿命を保っていると思う。
ビザンツ皇帝の欠点は、権威に特化できなかったことではないかな?
軍事司令官が皇帝の起源だから、権威にだけ特化するのは難しかったろうし、異教徒のイスラム教徒にも認めさせる権威がなかったという原因があるだろうが
69 :
世界@名無史さん:01/11/22 01:27
うまく機能していた時期には、たぶん、世界史的にもまれなぐらい
うまく機能してたんだけどなあ。
ビザンツの「夷を以って夷を制す」は。
70 :
世界@名無史さん :01/11/22 01:29
>うまく機能していた時期
アレクシオス1世やマヌエル1世の頃?
71 :
世界@名無史さん:01/11/22 01:31
ビザンツ帝国って、いつ頃まで自国の海軍を持っていたんだっけ?
いや、いつ頃までビザンツ海軍のレベルは地中海世界で「上」にランクされていたのだろう?
72 :
世界@名無史さん:01/11/22 15:55
>>69 十字軍もその発想で始まったことを忘れてはいけない。
73 :
【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋:01/11/22 19:18
日本人は歴史好きでも、
古代のポリスやアレクサンドロス帝国には関心があっても、
ビザンツ帝国への関心は低いからね。
74 :
世界史板@住人:01/11/22 23:11
>>74 ビザンツ帝国では歴史学が盛んで、皇帝自ら歴史書を書くほどと本に書いてあったが
ビザンツ人は歴史好きといってのかな?
75 :
世界@名無史さん:01/11/23 01:22
ビザンツ史は上手に宣伝すれば、日本でも人気が出ると思うだがなあ。
西欧視点の世界史を受け入れてしまったせいだと思う。
ちなみに、中東の歴史教科書では、ビザンツ帝国の扱いはすごく重いらしい。
もっとも、彼らはビザンツと呼ばず、ローマ帝国と呼ぶらしいけど。
結構アラブ人の中では、ローマ帝国といえば、ビザンツ帝国を意味したりするらしい。
76 :
世界@名無史さん:01/11/23 01:37
>十字軍もその発想で始まったことを忘れてはいけない。
あまりにも田舎者過ぎて、そして狂信的だったから、ビザンツ皇帝の意図を離れてエルサレム攻略とかしちゃったんだよね・・・
いつの間にか軌道修正してるね。歓迎するけど。
78 :
世界@名無史さん:01/11/23 01:44
>>75 そう。西欧だったら、それこそ王宮から農村の様子まで
きっちりイメージできるのに、素人の俺にはビザンツの
生活のイメージが全然沸いてこない。(藁
79 :
世界@名無史さん:01/11/23 01:48
ビザンツの農村風景ってまるで思い浮かばない!
ビザンツのイメージ
=コスモポリスとしての首都コンスタンチノープルの繁栄
80 :
世界史板@住人:01/11/23 02:08
ゲルマン諸族に荒らされた西ローマと違い自由農民が存続していたというから、
東ローマの農民は自立精神が高く各自の武器防具を所有し、家には正教会のイコンを飾り、
識字率が高かったといわれているからラテン語もしくはギリシア語の聖書を各家庭一冊はもっていた・・・
という所までイメージしてみた。
81 :
世界@名無史さん:01/11/23 02:12
>ゲルマン諸族に荒らされた西ローマと違い自由農民が存続していたというから
自作農民なんて、ローマの東西分裂前からすでに存在していないよ。
基本的にはコロナートゥスだったんでないの?
82 :
【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋:01/11/23 02:36
クルアーン(コーラン)にはビザンツ章なる
ものがあって、ペルシャに対するビザンツ帝国の逆転勝利を
称えています。
83 :
世界@名無史さん:01/11/23 02:39
>ペルシャに対するビザンツ帝国の逆転勝利
ヘラクレイオスの対ペルシア戦争のことなのいかな?
ムハンマドって、時代によっては、キリスト教徒にすごく好意を表明しているよね。
コーランの中でも、キリスト教徒への態度って、ころころ変わる。
ところで、「ビザンツ章」って不勉強で読んだことなかったのですが、ビザンツ帝国はなんと呼ばれているのですか?
84 :
【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋:01/11/23 03:02
>ヘラクレイオスの対ペルシア戦争のことなのいかな?
ペルシア軍はビザンツ軍を破り、一時はコンスタンチノープル
にまで迫りましたが、ヘラクレイオス帝に打ち破られ
ました。緒戦のビザンツ劣勢の際、メッカのクライシュ族は
ムハンマドと同じく一神教を奉ずるビザンツの敗退を、
ムハンマドの運命と重ねて嘲笑しましが、ビザンツの逆転勝利と
時近くしてムハンマドはバドルの戦で勝利しました。
このことからアッラー(ヤーウェの同一)の偉大さ、
多神教徒(クライシュ族@メッカとペルシャ)の
愚かさを述べています。
私には、その程度しか解かりません。
85 :
世界@名無史さん:01/11/23 03:06
>緒戦のビザンツ劣勢の際、メッカのクライシュ族は
>ムハンマドと同じく一神教を奉ずるビザンツの敗退を、
>ムハンマドの運命と重ねて嘲笑しましが
面白い逸話だ。
「直接」と「間接」という言葉の使い方おかしくない?
長期にわたる衰退の理由を知りたいらしいけど、
それは滅亡に関しては間接要因でしょ。
直接要因はトルコとの戦争以外に無い。
「塩野七生『コンスタンティノープルの陥落』を読め」で終わり。
まあ、読んでるだろうけど。
87 :
世界@名無史さん:01/11/23 03:20
88 :
世界@名無史さん:01/11/23 08:46
最盛期のビザンツ軍は、軍事技術的に当時世界最良の諸兵科統合軍
だったらしい。人によっては、アレクサンドロスのマケドニア軍の正当な
後継者だと言うそうな。
89 :
世界@名無史さん:01/11/23 10:19
>「ルーム」じゃない?
ちゃんとローマって呼んであげたのね。
90 :
世界@名無史さん:01/11/23 14:06
ビザンツとかビザンティンというのは後世の呼び方で、当時、そこに住んでた
人たちは自分たちの国をあくまで「ローマ帝国」と呼んでいた。
中東の人たちがこの国を「ルーム」と呼んでも別に不思議はない。
91 :
世界@名無史さん:01/11/23 14:14
そういえば、神聖ローマ帝国も自称はローマなの?
92 :
【^▽^】プロイセン太郎ジョーカー@ブレスラウ:01/11/24 13:35
>86
あの話の中でのトルコ人のホモ・レイパーぶりがオゾマシイですよね。
>91
途中から「ドイツ国民(?)の神聖ローマ帝国」と云うように
なりました。
93 :
【^▽^】ビザンティン太郎ジョーカー@アテナイ:01/11/24 13:39
進めティムール!ブルサも攻略せよ!
94 :
【^▽^】プロイセン太郎ジョーカー@ケー二ヒスベルク:01/11/24 18:30
トルコ人は中央アジア(←はトゥランとして認める)に帰りなさい。
95 :
世界@名無史さん:01/11/25 20:23
>中東の人たちがこの国を「ルーム」と呼んでも別に不思議はない
いや、「ギリシア人の帝国」とか、そういう呼び方はしなかったんだなあ、と
96 :
世界@名無史さん:01/11/25 20:29
まあ、ムハンマドの頃は、まだまだビザンツではローマ帝国時代の勢いが残っていたから、「ギリシア人の・・・」とは呼ぶはずもないか
97 :
世界@名無史さん:01/11/25 20:41
そうそう、イタリア南部とか北アフリカ一帯はまだローマ領だった
もんね。ホスロー2世が占領してたけど。
98 :
世界@名無史さん:01/11/25 23:34
>>97 ホスロー2世が占領したのは、シリア・パレスティナ・エジプト・アナトリア半島
では?ヘラクレイオス帝の対ペルシア戦争前半のときですね。
コーランの著者達がこの戦争を称えるのもわかる気がする(コーランは読んだこ
とないけど)。まさにあの戦争は一発逆転でどこか叙事詩的だから。
しかし、この戦争でビザンツ・ササン朝ともに疲弊し、新興のイスラム帝国側が
漁夫の利を得え、領土拡張を成功できたからコーランで称えたのでは?という
気がする。
99 :
世界@名無史さん:01/11/25 23:41
ムスリムにとって、『ローマ帝国』とは如何なる存在だったのだろう?
ビザンツを滅ぼしたメフメト2世は、その後、“カエサル”を名乗ったというけれど、
それって、ムスリムも、ローマ帝国の権威を認めていたということかな?
キリスト教帝国としてのローマ帝国の権威に、アラーの意向が介在したかのように考え
たりしていたのだろうか?
それとも、単にメフメト2世の趣味かな?
100 :
世界@名無史さん:01/11/25 23:49
>99
おそらくメフムトはオスマン帝国をイスラム教化されたローマ帝国とみなしたかったのでは?
結果として以後の領土の動きはそうなったんだし(今はまだマケドニア朝後半くらいかな。
101 :
世界@名無史さん:01/11/25 23:56
西欧の歴史では、決してオスマン・トルコをローマの後継者と認めないよね。
当然なのだろうけど。
ところで、
コンスタンチノープルを包囲したものの攻略を果たせなかった、正統カリフ時代ごろ
のアラブ人たちも、ローマ帝国、ローマ皇帝
102 :
世界@名無史さん:01/11/25 23:57
(続き)の称号をほしいと思っただろうか?
103 :
世界@名無史さん:01/11/27 00:12
>>99 地中海を支配するのにその称号使うのが都合が良かったからでは?
>>101-102 欲しいというか、落としてたら使ってたんじゃない?
105 :
世界@名無史さん:01/12/12 17:41
ビザンツ国民の識字率が高かったってのが
どこに書いてあるか教えてもらえませんか?
106 :
【^▽^】アフリカ太郎ジョーカー:01/12/12 19:06
メフメット二世のようなデカダンな人物には
コンスタンチノープルはぴったりだね。
107 :
【^▽^】アフリカ太郎ジョーカー:01/12/12 19:08
メフメット二世がコンスタンチノープル攻略と
共にビザンティン正教に改宗していたら、
オスマン・ビザンツ帝国になるのかな?
108 :
世界@名無史さん:01/12/12 20:07
ビザンティン帝国秘蔵の秘密兵器、「ギリシァの火」の製法は解明されたのだろうか?
109 :
世界@名無史さん:01/12/12 21:48
>108 「ギリシァの火」の製法
生石灰・松脂・精製油・硫黄などの混合物で、液体状のもの。
ポンプによって筒から発射されると火を噴きながら飛ぶ。
その火は水をかけても消えず、かえって燃えひろがる。
110 :
世界@名無史さん:01/12/12 21:50
>109
なんかナパーム弾みたいだね(原材料は知らんが)
111 :
世界@名無史さん:01/12/12 22:18
>110
実際、ナパーム弾が開発されたとき、
「これこそがギリシアの火だ」と絶賛されたらしい。
112 :
【^▽^】マジャル太郎ジョーカー:01/12/12 22:24
よっしゃ、こうなったらメフメット2世の手先と
化したマジャルの風上にも置けぬ屑に天誅を
加える為にも、コンスタンチノス12世に最新鋭の
大砲100門と大量の砲弾、更に爆薬を支援しよう!
113 :
【^▽^】ジーモン西郷:01/12/12 22:30
アームストロング砲50門とスペンサー騎兵銃1000挺を
ビザンティンに支援するでごわす。
114 :
【^▽^】シモニス榎本:01/12/12 22:31
我が艦隊(+甲鉄)もビザンティンに馳せ参じ候!
115 :
【^▽^】縄文太郎ジョーカー:01/12/13 01:51
まあ、ビザンツ帝国は年を取り過ぎたんだろうな。
19世紀末からのオスマン帝国も然り。
寿命だよ。
116 :
世界@名無史さん:01/12/15 01:02
十字軍が来なければ、近代まで持ちこたえたかも。
117 :
世界@名無史さん:01/12/15 01:26
北大、東北大は医学部以外は高学歴とは思われず…
118 :
世界@名無史さん:01/12/21 04:33
>111
ナパーム弾っていつごろ作られたの?
119 :
世界@名無史さん:01/12/21 17:51
121 :
世界@名無史さん:02/01/03 06:59
>118
日本に落とされたやつ?違う?
122 :
世界@名無史さん:02/01/25 01:03
良スレ復活運動強化月間につきage
123 :
世界@名無史さん:02/02/06 23:26
age
124 :
世界@名無史さん:02/02/09 03:47
ageついでに質問。
パライオロゴス朝は、開祖のミカエル8世については結構語られる場所も多い
ですが、以降のアンドロニコス2世・ミカエル9世・アンドロニコス3世
・ヨハネス5世・ヨハネス6世ツィミスケス・アンドロニコス4世・ヨハネス7世
・マヌエル2世・ヨハネス8世・コンスタンティノス11世らの個人評価は
どのくらいなんでしょうか?
(偉そうに全部書きましたが、ほとんどが名前しかしらないんで・・・)
皇帝のカリスマや政治力・軍事力が高ければ、もう少し帝国が存続
(コンスタンティノープルが陥落したとしても)したんでしょうか?
125 :
世界@名無史さん:02/02/09 04:06
マヌエル2世は、ビザンツ史上、最も長距離を旅した皇帝。
対トルコ戦の援軍を求めてフランスやイギリスにまで行っている。
結局援軍は得られなかったけど、たまたまティムールのおかげでオスマン・
トルコが一時崩壊すると、後継者争いする者たちの1人を支援して恩を売り、
それによって帝国を延命させた。けっこう名君だと思う。
126 :
世界@名無史さん:02/02/09 16:03
>>125 その支援した一人ってのが、メフメト1世ですか?
127 :
世界@名無史さん:02/02/10 16:40
125
>>126 その通り。
そんなわけで、トルコにメフメト1世が在位していた時代は、ビザンティン帝国最
後の平穏な時代となった。
メフメトが没してムラトになると、何をとちくるったかビザンティン側で対トルコ
強硬論が台頭し、その筆頭である共同皇帝のヨハネス8世(マヌエル2世の息子)
が政治のイニシアチブをとる。
ヨハネス8世はムラトの対立者を支援してトルコの混乱を狙うが、失敗。結局ムラ
トを怒らせ、トルコに対ビザンツ戦を再開させることになる。
で、息子の手に負えなくなると、「しょうがないなあ。わしがなんとかしよう」と
いう感じでマヌエル2世再登場。外交工作でなんとかトルコをなだめて帝都の包囲
をといてもらう。
しかしそのあたりで、マヌエルは没。市民たちにもその死を惜しまれた。
128 :
世界@名無史さん:02/02/10 18:29
後、途中で何度か座を追われたとはいえ、バシレイオス2世と同じ
50年間帝位についていたヨハネス5世の政治力ってどの位なんでしょ?
50年も皇帝をやってたんだから、結構能力はあった
(仮に皇帝自身が無能でも、臣下に有能がいた)と思うんですが。
それとも明の万暦帝みたいに、滅亡の原因を作った皇帝なの?
129 :
世界@名無史さん:02/02/11 23:02
>>128 ヨハネス5世ねえ。うーん。確かに在位期間は長いけど、その内実は、内戦と権力
闘争に明け暮れた50年。内戦を回避できなかったという点で、私はあまり政治力は
評価しない。
結果論だが、ビザンティン帝国が衰退しトルコ人がバルカン半島側で勢力を持つよ
うになるのは、ヨハネス5世やその前後の皇帝たちの時代の内戦で、トルコ人を傭
兵として自ら招いたせいなのだ。
130 :
世界@名無史さん:02/02/16 11:41
>>1の記述があまりにイタくて、ここに書く気がしないビザンティン史専攻者も多いと思われ。
俺もその一人。。。
131 :
世界@名無史さん:02/02/16 12:05
>>130 禿同。
もっとも洩れは学歴が要求より低くて書き込めない。
帝大系以外は書き込み禁止。
ビザンツ系スレはときどきとんでもなくレベルが低かったりするのは確か。
おかしなのが紛れ込んでくるからかな?
大阪城と比べてるスレは、レベルはともかく読んでて楽しいものもあったが。
おかしいと逝っているやつが一番おかしい
134 :
世界@名無史さん:02/03/10 15:27
つーか、何で東ローマ帝国なの。西に「ローマ帝国」があるわけじゃあるまいし。
神聖ローマ帝国は全然ローマと違うよ。ビザンチンはローマ帝国と呼ぶべきだ。
135 :
世界@名無史さん:02/03/10 15:40
>>134 確かに、ビザンティン帝国側では自らの国号は、終始ローマであったし、
自らローマ人と言いつづけていたけどね。だから、小アジアにあった
セルジュク系の国家はルームセルジュク朝と言われたわけだから。
まぁ、東ローマとかビザンティンというのは、西洋史における慣用語
であって、自分は正確に知っているよってことでいいじゃない。専門家
は百も承知のことなんだから。
136 :
世界@名無史さん:02/04/20 01:04
age
それにしても
>>1はイタイな。
既存の良スレに移植したくなるくらいだ。
>>134も…。
476年までは西ローマ帝国があったから
区別のために東ローマ帝国って言うだけの話だと思うのだが。
139 :
世界@名無史さん:02/04/20 08:11
138の言うとおりでしょう。
大体134の考えだと中国史では死ねます(藁
そうだね。自称の国号にこだわってると、たとえば三国時代の
いわゆる蜀も、自称の国号は漢だし。西夏みたいなメジャーな
国でさえ、自称は夏だし。
詳しくはないけど、南北朝や五代十国もややこしい。
同じ国号も多いから、前○とか後○とか区別しているわけで。
141 :
世界@名無史さん:02/05/13 22:06
age
142 :
世界@名無史さん:02/05/14 18:48
東大、北大、東北大
何ゆえ限定?
>>142 それが1が知っている大学の名前全てなんでしょう。
144 :
世界@名無史さん:02/05/15 21:00
ふと思ったんだけど防衛大学の史学はどのぐらいのランクなの
入試は九大と同じレベルらしいけどそれなりにエリート教育して
そうなんだけど
145 :
世界@名無史さん:02/05/16 03:52
>>135 >>138 逆に、日本では「ビザンツ」の名ばかりが使用されて、
「東ローマ帝国」の名前は精々ユスティニアヌス以前までしか
使用されていないのはなんででしょう?
神聖ローマ帝国(一応「西」ローマ帝国)がある以上、
「東」を強調してもよさそうなんですが・・・
146 :
世界@名無史さん:02/05/16 06:48
>>145 日本で「ビザンツ」の名ばかり使用されるのは、西欧に習っただけじゃないかな?
EUのヨーロッパ共通教科書でも「ビザンツ帝国」と呼ばれているよ。
西欧人が、ユスティニアヌス以降の東ローマ帝国を、「ビザンツ」と呼びたがる心
理を掘り下げた方がいいんではないかな?
147 :
世界@名無史さん:02/05/16 06:57
東ローマ帝国が、
・ユスティニアヌス以降、エジプトを奪われて「パンとサーカス」が消滅した
・ユスティニアヌス以降、領土がギリシア語圏だけになって、ヘラクレイオス
以降公用語が、ギリシア語となった
のように変質していったのも、西欧がかの帝国をローマでなく、ビザンツと呼
びたがる理由じゃないかな?
バシレイオス2世以降は、「ギリシア人の帝国」っていう呼び方をしているはず。
ビザンツ皇帝もはじめは激怒してたけど、後には目くじら立てられなくなってし
まう。
そのあたりの西欧側の優越感と、12世紀まで持っていた劣等感から目を背けたい
という想いも、「ビザンツ」という名を使わせたがっている
148 :
世界@名無史さん:02/05/16 06:58
逆に中東の歴史教科書では、ビザンツのことをしっかり、「ローマ帝国」として
記述しているらしい
149 :
世界@名無史さん:02/05/17 03:59
>>147 歴史家が古代ローマ帝国を一回滅ぼしたいから、という事情もある。
中世ローマ帝国=ビザンツ帝国という構図やね。
まあ近代>古代>>>>>>>>>>中世みたいな価値観でやってたころの考え方だけどね。
150 :
世界@名無史さん:02/05/17 08:29
どう考えてもローマ建国以来1203年までは滅んだことがない国をローマ帝国と呼ばないのはおかしいが。
age
152 :
世界@名無史さん:02/06/02 19:10
1203年?
オスマン帝国はローマにアイデンティティーを求めたんですか?
自身こそローマの後継だと言いたかったんですか?
オスマン帝国がウィーン陥落させなくて良かったよ・・・。
154 :
世界@名無史さん:02/06/02 21:25
>>153 >オスマン帝国はローマにアイデンティティーを求めたんですか?
>自身こそローマの後継だと言いたかったんですか?
すばりそうっす。
メフメト2世は自分のことを、カイサル(カエサル)・ディ・ルーム(ローマ)
と呼ばせていました。
そもそもイスラム教は、教祖ムハマドが、信仰の仕方は間違っているが同じ唯
一神を信仰している、ということで、ビザンツ帝国を認めていた。
(ビザンツがササン朝を倒したことも賞賛)
メフメト2世がしたことは、神の国ローマ帝国を、より正しい信仰(イスラム
教ね)を持つ者が本来あるべき姿に戻した、と強弁することもできる。
155 :
世界@名無史さん:02/06/02 22:33
西欧人にとってローマは古典古代
西欧文化はローマ文化の正当後継者
しかし、コンスタンティノープルのローマ帝国が
現代の西欧文化に繋がってないことは明白
コンスタンティノープルのローマ帝国をローマと認めると、
現代の西欧文化はローマ文化の正当後継者ではなく傍流ということになってしまう
だから西欧人はコンスタンティノープルのローマ帝国を
ローマと認めるわけにはいかない
156 :
世界@名無史さん:02/06/02 22:35
>コンスタンティノープルのローマ帝国をローマと認めると、
>現代の西欧文化はローマ文化の正当後継者ではなく傍流ということになってしまう
ある意味真実
157 :
世界@名無史さん:02/06/02 22:37
>>154 もっともオスマン帝国がローマの後継者という意識をはっきり持ってたのは
スレイマン1世くらいまでと言われてますね。
158 :
世界@名無史さん:02/06/02 22:38
>>157 スルタン・カリフ制が成立してからは、ローマの権威が要らなくなったのかな
しかし黒海・地中海、小アジアとヨーロッパを結ぶところに存在した国家がこれだけ
続いたのが不思議。
後のスラブ系に与えた文化的影響は絶大だとおもうのにソ連あたりでまじめに研究されなかったのは
どうしてかな。
160 :
世界@名無史さん:02/06/06 01:19
161 :
世界@名無史さん:02/06/06 01:31
いきなりビザンツ系スレッドがage傾向だな。
162 :
世界@名無史さん:02/06/06 04:28
ビザンツに簡単な火炎放射器があったって本当?
いや、オカルトとかオーパーツじゃなくて当時の技術で充分作れるような単純なやつ。
163 :
世界@名無史さん:02/06/06 07:21
「ギリシャの火」のこと?
164 :
世界@名無史さん:02/06/06 10:26
165 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:02/06/06 10:41
メフメト2世がビザンツ正教に改宗していたらオモロかった。
メフメト=マホメットからキリスト教関連の名に
変えねば。
166 :
世界@名無史さん:02/06/06 12:19
クイックレスなので思いつく要因を簡単に書きます。
<経済>
1)ビザンツ商品の競争力低下(主に絹織物)。
2)ノミスマ金貨以降に行なった悪鋳による貨幣信用低下。
3)官位売買による国庫負担(官位者への年金増)増大。
<軍事>
1)重装騎兵による戦法の旧式化
2)海軍力低下(財政難で維持不能)による地中海制海権の喪失。
イタリア諸都市の台頭。
3)アンカラの戦い以降、トルコ勢力の進入激化。
<その他>
1)バシレイオス以後の皇帝が概ね無能。(これが一番かな)
さらにその他、シリア エジプト喪失に端を発した
パンとサーカスの終焉!
周辺諸国や宗教的なことはあえて省きました。(トルコは堪忍して)
●●●●
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169 :
世界@名無史さん:02/06/13 00:23
>>166 コムネノス朝・ニケア帝国・ミカエル8世あたりは決して無能とは言えんのでは?
170 :
世界@名無史さん:02/06/13 01:10
マヌエル2世も名君とはいかなくても、暗君ではないと思う
171 :
世界@名無史さん:02/06/13 06:33
私的にコンスタンティヌス11世ドラガゼスが・・・
・・・いや、
>>1さんの言う有名国立大卒じゃないので
やっぱやめときます。
>>170 マヌエル2世は滅亡寸前の帝国を良く支えた‘名君’だと
言えるよ。
たまたま居合わせた時世が不運だっただけ。
>>144 遅レス&スレ違いながら…
防大の入試に
「テマ制とプロノイア制(の違いだったか?)について説明せよ」
ってのがあったな……さっぱりだったけど
174 :
世界@名無史さん:02/06/13 13:17
後、キポンの本ではニケーア帝国のヨハネス3世がビザンツ一の名君と
書かれてますが、これは何ゆえでしょう?
175 :
世界@名無史さん:02/06/14 04:22
>>174 何ででしょうね?ヨハネス3世より
テオドルス・ラスカリスの方が名君のように思えるのですが・・・
やっぱ
>>1さんの言う有名国立大卒じゃないのでやめときます。
176 :
世界@名無史さん:02/06/21 23:28
あげ
177 :
世界@名無史さん:02/06/22 00:00
ビザンツ帝国が滅んだのはコンスタンティノープルの城壁に頼りすぎたため
178 :
世界@名無史さん:02/06/24 18:49
第4回十字軍でラテン帝国作られてもうた時点で既に滅亡の要因があったのでは。
ビザンツ衰退の遠因の一つは農業の停滞。
5〜9世紀くいらいまでは、ビザンツの農業技術は世界最高峰だったが、その
後、伝統的な農業技術の継承ばかりに力が入れられ、イノベーションを怠った
た。
そのため、10世紀以降は、農業生産力で、ヨーロッパ、アラブ圏に完全に逆
転されてしまった。
絹などの商品作物(作物と言ったら違うか)は10世紀以降も独壇場だったが、
やはり税収の大部分は農業に依存していたわけで、相対的に周囲に国力の差を
つけられることになった。
180 :
世界@名無史さん:02/06/29 02:20
中継貿易で稼いでいたわけじゃないの?
>>180 中継貿易でも稼いでいたけど、それだけで小アジアからバルカン半島に至る
広大な版図を維持するのは不可能でしょう。
帝国全体でみたら、やはり税収のうち農業の占める割合は大きかった、との
ことです。
実際、ビザンツを支えたのは、テマ制や、プロノイア制といった農業を基本
とする体制。
コンスタンチノープルにおける中継貿易の富がいかに莫大であったといって
もそれは、ひとつの都市の財源としては破格であった、ということなのだと
解釈してます。
トルコに小アジア全域を奪われてから急速に弱体化した事実も、
帝国全体の税収でいれば、貿易よりも農業、の裏づけになるのでは
183 :
世界@名無史さん:02/06/29 03:24
その後5世紀間をも続いた理由は?
184 :
世界@名無史さん:02/06/29 03:28
>>183 >その後5世紀間をも続いた理由は?
ん?
小アジアがビザンツから失われた時期を「いつ」と考えてる?
185 :
世界@名無史さん:02/06/29 03:36
いや、14世紀のことではなくて、農業が停滞した10世紀以降。
184は俺です。
5世紀間ということは、10世紀に小アジアがビザンツから失われた
ということ?
まず、10−11世紀は、ビザンツ帝国の最盛期で、小アジアはもち
ろん、アンチオキアやらクレタ島やら、バルカン半島北部までも版図
にいれていた時代だよ。
小アジアをトルコに侵食され始まるのが、11世紀後半。
国力が衰え始まるのはこのころ。
わざわざ西欧から援軍を要請しているからね。
でも、11ー12世紀にアレクシオス1世は十字軍がエルサレム方面
で戦っている間にちゃっかり小アジアを奪回している。
それで国力も回復し、12世紀後半のマヌエル1世時代のイタリア遠
征やら、ヴェネチア艦隊を撃退なんて実行している。
ビザンツが本当に衰弱するのは、このマヌエル1世死後。
小アジアを軽視して西に向いた政策で、小アジアが再びトルコに侵食
された。
その直後が、実質的なビザンツ帝国の滅亡である第4回十字軍。
力もあった。
ビザンツが小アジアへの支配を失うのは、13世紀からだよ。
1204年の第四回十字軍で、
>>185 >いや、14世紀のことではなくて、農業が停滞した10世紀以降。
スンマソン。
農業が相対的に停滞しても、版図を奪われなければ、0にはならない。
ジワジワと国力の相対的低下にはつながっても、
農業生産力の相対的低下=国の滅亡
とはならんでしょう。
まとめます。
10世紀:農業生産力の停滞
(農業生産力が下がったのではなく、周囲より遅れ始めた)
11世紀:テマ制を背景にした重装騎兵による征服時代
12世紀:周辺からの安い穀物輸入増加でテマ制崩壊
⇒十字軍要請へ
(その背後でプロノイア制への移行)
10世紀に、農業生産力で周囲に追いつかれたことが、2世紀後のテマ
制の崩壊につながると考えればいいはず。
何故農業生産が停滞したんでしょうか?
当時東ローマ帝国は、先進地帯だったと思いますが。
>>189 >何故農業生産が停滞したんでしょうか?
>当時東ローマ帝国は、先進地帯だったと思いますが。
イノベーションを怠ったから。
ビザンツの農業は5−9世紀までは周囲に比べ技術的優位性があったけれど、
進歩もしなかった。(例えば、有輪犂はついに使われなかった)
逆に、西欧は当初原始的な農業をしていたけれど、10世紀頃には技術の改良
の成果、ビザンツのレベルに追いついた。11世紀以降は、引き離している。
ビザンツの農業が衰えたのではなく、周囲のイノベーションに置いていかれた。
191 :
世界@名無史さん:02/06/29 12:25
森林破壊による表土流失によって耕地が荒廃、農業が停滞して
国力が衰えた、とは考えられないだろうか?
>>191 それ面白いね。
そういや、安田喜憲さんの本にもそういうことが書いてあったな。
地中海沿岸が森林伐採で土壌が流出してしまったのは事実っぽいけど、
それが年代的にはいつ頃か、という検証がが必要だとは思う。
193 :
世界@名無史さん:02/06/29 15:43
○西ローマ帝国
首都:ローマ
宗教:カトリック
成立年:395年
滅亡年:476年
○東ローマ帝国(ビザンツ帝国)
首都:コンスタンティノープル
宗教:ギリシャ正教
成立年:395年
滅亡年:1453年
194 :
世界@名無史さん:02/06/30 01:03
○大韓民国
首都:ソウル
宗教:無神論
成立年:ジュラ紀
滅亡年:弥勒菩薩年
小アジアの辺りは高地と高原が多い。農耕にあまり向いている
様には見えない。沿岸部の地中海式農業なるものも降雨量から考えて
それ程生産力があったとも思えない。
ヒッタイトもこの辺りの鉱物から鉄器を開発した。
本来豊かな地域ならエジプトまで遠征などしないだろう。
古代ギリシャ人は半島の貧しい生産力から貿易や植民に走ったはず。
従って本来粗食だった。
古代ローマは属州エジプトを手に入れてから贅沢に成った。
そのローマ時代も小アジアは穀物輸入地域だったと聞く。
現代のトルコ共和国はアタチュルクの改革から穀物輸出国。
果たしてそれほど農業のウェイトが大きかったのだろうか?
農業が大きな要因とは考え難いが、どうか?
やはり小アジアは交通、交易、防衛、の要所としての価値が高かったのでは?
当時の税制度は?税の対象は、農業生産物の物納が主だったのか?
商業への間接税のようなものは少なかったのか?
>>195 確かに小アジアは、古代ローマ時代、穀物輸入地域だったよね。
でも、それは、7世紀に、穀倉地帯シリア、エジプトを失うまで。
シリア、エジプトを失って以降は、働かなくても飯が食えた「ローマ市民」が
姿を消し、帝国民の多くは版図内で農業を行い、自給自足の生活をするように
なっていた。
この自給自足の農村をたばねて軍管区が経営され、農民達は土地所有を認めても
らうために兵役に臨んだ。9−10世紀のビザンツ帝国最盛期の駆動力となった
重装騎兵は、この軍管区制の賜物だった。
ギリシア、小アジアでの農業があったからこそ、中世ビザンツ帝国の繁栄があっ
た。
ギリシア、小アジアは確かに土壌が肥沃でなくて農業に向いていなかったけれど、
古代ローマに遡る(7−9世紀段階ではまだ高度なレベルだった)農業技術が自
給自足を可能としていたのだろう。
ちなみに、第四回十字軍の後に作られたビザンツ帝国民による亡命政権の一つニ
ケーア帝国は小アジアに根を張ったのだが、この亡命政権も農業を基本とした国
家だった。しかもただ自給自足していたのではなく、トルコ人相手に穀物の輸出
まで行っていた。
そんなわけで、中世ビザンツ帝国の国力の基本は、やはり農業だといえるのでは
ないかと思う。
>>195 >果たしてそれほど農業のウェイトが大きかったのだろうか?
「帝国の財源の中心は土地所有農民、または小作人が払う土地税であった」
---黄金のビザンティン帝国(ミシェル・カプラン)
>当時の税制度は?税の対象は、農業生産物の物納が主だったのか?
これは貨幣で収めていた様子。
「土地税」だから。
農民達がブドウ、オリーブなどの商品作物を近隣都市で売っている事実から、
彼らに貨幣収入があったことが分かる。
198 :
世界@名無史さん:02/06/30 21:43
>193
西ローマ帝国の首都はローマでよかった?
199 :
世界@名無史さん:02/06/30 22:15
>>198 メディオラヌム→ラヴェンナが一番事実に近いような気がするが……。
200 :
ニダーランの歌 ◆X8WSYuDE :02/07/01 02:52
>米好きさん
>ビザンツの農業は5−9世紀までは周囲に比べ技術的優位性があったけれど、
進歩もしなかった。(例えば、有輪犂はついに使われなかった)
確か・・・地中海あたりは土壌が柔らかいから
ゲルマン式の有輪鋤でなくとも、耕作ができたから広まらなかったのでは??
でも、10世紀ごろから西欧に農業技術が抜かれたというのは禿同。
ちなみに、コンスタンティノープルには国営のチョウザメ養殖場があり
国営工場の労働者はアンチョビを食っていたそうです。うらやましいぞゴルァ!
>>200 >確か・・・地中海あたりは土壌が柔らかいから
>ゲルマン式の有輪鋤でなくとも、耕作ができたから広まらなかったのでは??
なるほど。
なまじ土地を耕す時に困難が生じなかったことが、イノベーションの遅滞を招いた。
それもありそうなシナリオだなあ。
第四回十字軍は13世紀初頭だよね?
その頃にも穀物輸出が可能ならなぜ税収が落ちた?
商品作物が生産できて、貨幣経済が浸透している社会でなぜ、
農業への直接税に数世紀もの間比重が置かれていた?貿易等の商業の発展はなかったのか?
あったとして穀物輸出がかなり可能だったという事?
自給自足経済では物納が普通だし、貨幣経済の浸透は
普通は商業の発展に並んで起こる。
なぜ、農業重視の社会で貨幣に因る徴税が長期間可能なのか?
日本でも鎌倉期に宋銭が入ってから貨幣による納税が農民に可能となったのは明治時代から。
貨幣経済の浸透と数世紀間の農業への直接税重視の政策に矛盾ないか?
貿易重視なら間接税にウェイトがいかないか?
屯田兵制は通常未開拓地や生産性の低い土地での辺境防衛制度では?
例えば、北海道や帝政ロシアや現ロシアのコサック。
いずれにせよ高い生産性をもつ土地での制度とは思えないが、、、。
生産性が高い土地では余剰生産力で兵を扶養するようになり、兵農の分離が起こるのが普通。
生産性の高い土地でこれが数世紀間起こらなかったのか?
小作人がいたと言うことは、大土地所有が可能になった?生産性は上がるよね?
貨幣経済は浸透していたにも拘らず税収対象としての商業の発展には至らなかった理由は?
203 :
世界@名無史さん:02/07/05 12:09
>>202 日本は室町〜戦国末期には貨幣納税はあった。
ただ江戸時代に原則物納になっていたから(貨幣納税の場合もあった)遅く見えるだけ。
>>202 >第四回十字軍は13世紀初頭だよね?
>その頃にも穀物輸出が可能ならなぜ税収が落ちた?
これは俺の説明が悪かったかな?
"第四回十字軍の時代に「ビザンツ帝国」が穀物輸出をしていた" なんて言っては
いないよ。それだけの農業生産力は、第四回十字軍直前のビザンツにはなかったろ
う。
第四回十字軍の後に出来たビザンツ亡命政権の一つ、二ケーア帝国は、農業に力を
入れてなんとか体制を保った、という話を紹介したのだ。
伝えたかったのは、
第四回十字軍前のビザンツ帝国は、テマ制が崩壊して、独立自営農民が消え、国力
が衰えていた。しかし、第四回十字軍にコンスタンチノープルを奪われたことで、
再度、テマ制的な体性が出来て、国力を蓄えることが出来た、というストーリー。
プラス、小アジアの大地でも頑張れば、輸出する穀物を作ることも、可能ではあっ
たという事実も浮かび上がる。
>>202 >屯田兵制は通常未開拓地や生産性の低い土地での辺境防衛制度では?
>例えば、北海道や帝政ロシアや現ロシアのコサック。
これは違うよ。
ビザンツ帝国に関して言えば、ヘラクレイオス帝の時代、7世紀初頭に始まったテマ制
(軍管区制)は、国境周辺にしか存在しなかったけれど、8世紀初頭のレオ3世の時代
には、テマ制が帝国版図全体に広げられている。
これについては、「ビザンツ帝国史」(尚樹啓太郎)の地図12、地図14を見ると
一目瞭然。
通常辺境防衛にしか使わない制度を帝国全土に広げた点が、中世ビザンツ帝国の特徴。
>>202 >いずれにせよ高い生産性をもつ土地での制度とは思えないが、、、。
小アジアとギリシアが、生産性の高い土地だ、と主張したことは一度もないよ。
生産性が低いから、エジプト、シリアが版図内にある時は穀物輸入地域だった。
しかし、エジプト、シリアを奪われてからは、この肥沃でない地帯で独立自営農の
形成が薦められて、帝国の財政を支えた、という流れだよ。
うーん氏の言ってることと俺の言っていることは、一致していると思うが。
>>202 >自給自足経済では物納が普通だし、貨幣経済の浸透は
>普通は商業の発展に並んで起こる。
これは、俺が間違っていた。
ビザンツ帝国の独立自営農民を、間違って『自給自足』と表現していた。
自給自足なんじゃない。
独立自営農民なのよね。
彼らは、農作物を近隣の都市で売り、貨幣収入を得ていた。
納税も、貨幣。
ビザンツ帝国初期の5世紀アナスタシウス帝の時代に、土地税がほぼずべて
金納化されている。
なんか俺ばかり書き込んでいて、粘着だが(w
ローマの税収においける、農業課税と、商工業に対する取引税がどの程度の比率
であったのか、についての研究事例発見。
ソースは、「ローマはなぜ滅びたか」(弓削達)だから、たいしたネタではない
のだけど・・・
6世紀エジプト(東ローマ版図内ってことね)のヘラクレオポリスの、穀物と土
地に対する金納税は、約800ローマ・ポンド。
一方、シリア国境とアンティオキアを結ぶ、絹・奢侈品貿易の要地であった属州
首都エデッサの5世紀末(こっちも東ローマ)の取引税が、年平均35ローマ・
ポンド。
別の都市間での、農業課税と取引税の比較だから、この値の差が意味を持つとする
根拠はないのだけど、それでも、交易都市エデッサの取引税収入の少なさにはちょ
っと驚く。
最近見つけた他の事例。
小アジアの大半をオスマン・トルコに奪われたアンドロニコス2世(1282-1328)
の時代、ビザンツ帝国の国家収入は50万ノミスマ程度だった。
一方で、小アジアがまだ版図内にあった10-11世紀のビザンツの国家収入は、600
〜800万ノミマス。
しかも、アンドロニコス2世の時代、ノミスマの価値は、10-11世紀の頃の半分に
なっていた。
つーことは、小アジアを失ったことによって、税収は、20分の1以下に落ち込ん
だことになる。
小アジアを失ったことが、農業税収入を失ったことを意味するのか、取引税収入を
失ったことを意味するのかは、微妙かもしれないけれど、貿易で栄えていたとは言
え、コンスタンチノープルを押さえているだけでは、税収が全然足りなかったこと
は分かると思う。
ちなみに、アンドロニコス2世の時代の財政で雇えた傭兵は、3000人
の騎兵隊がやっとだったらしい。
211 :
世界@名無史さん:02/07/07 15:07
米好きさん、勉強になります。
続きを期待してます。
ewr
商業税=取引税だと思うのですが、税収全体に占める割合は、1/20だったようです。
貨幣経済が進んでいたといっても、そこはやはり中世なのだなあ、と思いました。