ビザンチン帝国はなぜモンゴルに滅ぼされなかったか

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1院房
ビザンチン帝国が滅んだのは15世紀。
しかし13世紀には、モンゴルがアッバース朝を滅ぼし、
ワールシュタットにまで侵攻した。
モンゴルにとっては弱体化しているビザンチン帝国を滅ぼすなど
たやすいことだったでしょうに、なぜビザンチンは余命を長らえることが
できたのでしょうか。
2名無しさん@1周年:2000/08/06(日) 18:16
さすがのモンゴルも、オスマントルコ帝国は怖かったのかもしれませんね。
これを刺激するのがいやだったのでは?
3名無しさん@1周年:2000/08/06(日) 18:16
モンゴルがアナトリアに来た時はビザンチン帝国はありませんでした。
4名無しさん@1周年:2000/08/06(日) 18:18
はじめて年表見たとき
オスマントルコにはまじでびびった。
5名無しさん@1周年:2000/08/06(日) 18:22
>2
オスマン朝の建国は1299年、
しかも都邑ブルサを領有して本格的に国家らしくなれたのは
ようやくにして1326年(異説あり)。
このときのこの方面のモンゴル、イル・ハン朝は
ガザン・ハンがムスリムになって統治を改革する守勢期だから、
そもそもアナトリア方面にはほとんど出てこないはず。
だいたいオスマン朝自体が
モンゴルのアナトリア侵入(13世紀半ば)で
生じたアナトリアの中央権力不在をついて建国されていることになるはず。
6七氏:2000/08/06(日) 21:19
フラグの遠征についていってるのかな?1は。
あの時は南のマムルーク朝と戦っていたじゃん。
だからじゃないかな?
7名無しさん@1周年:2000/08/06(日) 22:16
アナトリアにはルム・セルジュクの残党がいたんじゃなかったかな。
ビザンツはイル・ハン国とうまく付き合えてルム・セルジュクを牽制出来たんじゃなかったっけ。
8名無しさん@1周年:2000/08/06(日) 22:37
そうではなく(つまりビザンツが外交上手だったからでなく)当時トルコ方面
の総司令官フラグ汗の身内は、后・ドグースをはじめとして、
景教(ネストリウス派キリスト教)信者が多くて、当然フラグ自身も影響をうけていたから。
もちろん、相次ぐイスラム軍との激戦も、フラグの反イスラム親キリスト傾向
を深めたはず。実際キリスト教側は何度もフラグに同盟の使者を送っていた
から、本国・元での相続争いのためにフラグが撤退しなければ、トルコを
征服して、ビザンツ帝国を助けていたかもしれません。
十字軍とモンゴルの挟み撃ちにあったら、トルコがひとたまりもなかったで
しょう。
十字軍の時代の一時期は、民族、宗派を越えて「キリスト教徒」というだけで団結できる可能性のあった貴重な時代でした。
98の訂正:2000/08/06(日) 22:38
ドクースのまちがいです。
103:2000/08/07(月) 00:11
だからフラグの遠征(1258年)のときは
ビザンツは消滅してるんだってば。

ラテン帝国(1204〜61)を忘れずに。
11名無しさん@1周年:2000/08/07(月) 00:18
>10
・・あれはビザンツ帝国滅亡とはいわないでしょう。
普通は1453年ですよ。オスマン・トルコによる侵略で。
12メフメト2世:2000/08/07(月) 00:46
>10

そうだよ、おれが滅ぼしたんだよ!
13七氏:2000/08/07(月) 00:52
>11
同感であります。エフェソス亡命国家でしたか?
一応体面は保ってるじゃありませんか。
143:2000/08/07(月) 01:05
ビザンチン系の亡命貴族が立てた国家には有名なだけで
アンゲロス家のエペイロス専制国、
ラスカレス家、のちパライオロゴス家のニケーア帝国、
コムネノス家のトラベルスス帝国などがありますが
どれをもってこの時期の「ビザンチン帝国」と?
むろんラテン帝国を滅ぼしビザンチン帝国を再興した
ニケーア帝国が有力でしょうが、
第4回十字軍に滅ぼされたのはコムネノス朝でしょう。

>11
>・・あれはビザンツ帝国滅亡とはいわないでしょう。
だから「このときには」無かった、「消滅していた」と言ってるんですけど。
15七氏:2000/08/07(月) 09:52
>14
消滅=滅亡と、解釈されてしまう。
はっきりと、一時消滅と書けば誤解を招かない。
16名無しさん@1周年:2000/08/07(月) 10:37
「中断」がいいと思う
17名無しさん@1周年:2000/08/07(月) 10:49
そうだね、中断か一時消滅、お家断絶とかなんかどお?
それにしても助けにいったはずなのに、十字軍もひどいことするね。
183:2000/08/07(月) 22:40
いろいろ書きましたが結局のところ、
モンゴルにとってこのときのビザンチン帝国
(「中断」していたのだから厳密にはその亡命諸国家)は
わざわざ滅ぼすほどの意味あるものはなかった、
従属させる、あるいは同盟するだけで事足りた、
・・・ってとこだと思うんですが。
ビザンツを滅ぼすことがヨーロッパの源流たるローマ帝国の残滓を絶つことになる、
という象徴的な意味に縛られる必要は、
のちのメフメト2世とは違って彼らには無かったのでしょう。
実際、メフメト以前のオスマン帝国スルタン(バヤジド1世、ムラト2世ら)は
ビザンツを服属させるだけで満足していたはず。
19名無しさん@1周年:2000/08/07(月) 23:35
そうかなー、ちょっと違うと思うけどなー。
モンゴルはそこに国がある限り、弱いにしても強いにしても征服していった。
征服しないには明確な理由があったと思うよ。それがネストリウス派キリスト
教だった。
20七氏:2000/08/07(月) 23:41
マムルークの話しは眼中に無しですか?(^^;
あれが、大きいと考えているんですが・・・(もちろん
景教も)
213:2000/08/08(火) 00:34
>19
フラグの後継者・アバカは間違いなくネストリウス派信徒で、
彼がキリスト教徒諸勢力と結んで
キプチャク・ハンのベルケ−マムルーク(もともとキプチャク草原の遊牧民)枢軸に
対抗していたのはたぶん間違いないと思いますが、
フラグ自身のほうはクリスチャンではないわけだし、
それが理由と考えるのはちょっと辛いのでは。
フラグ征西の20年前、バトゥの征西のときは
キリスト教徒国、キエフ公国なりポーランドなりを粉砕してるけど、
そのモンゴル軍の中にだってネストリウス派信徒はたくさん居たはずでしょう。
(バトゥと不仲で戦線離脱したのちの大ハーン・グユグが好例)
そういえばフラグもシリアのフランク国家と戦っていた例があったはず。
あと、モンゴルは天山ウイグル王国のように服属・同盟した国は
大小問わず潰してません。
お忘れなく。

>20
たしかにマムルークに気を取られてシリア方面に貼りつかざるを得なかった。
というのもあるでしょうね。

もうひとつ理由になりそうなことをあげましょう。
アナトリア方面の諸国家がギリシア系・トルコ系問わず滅ぼされなかったのには
征西の途上でモンケが死んで進攻が止まったこともあるでしょう。
フラグはフビライ・アリクブカと同じくモンケの実弟なのだから、
征西の功績を武器に大ハーンの座に野心を持って、
中央帰還をはかるのが当然な立場ですな。
2219=11:2000/08/08(火) 01:09
>3
>モンゴルは天山ウイグル王国のように服属・同盟した国は
>大小問わず潰してません。
服属同盟した国も「征服」されたことにはちがいありません。

それはともかく、バトゥのケースとは異なり、フラグが洗礼をうけずとも、
妻ドクーズの影響を強く受けていたことはまちがいありません。
フラグによるバグダッド侵略のおり、イスラム教とは虐殺されましたが、
ドグーズの庇護の元、キリスト教徒は殺害を逃れました。
また、フラグはアルメニア王ヘトム、グルジア王ダビッドアンティオキア候
ボエモンらと接見し、そのさいかれらを同じキリスト教徒としてタタール式
に平伏する必要はない、といっています。
『キリスト教徒がひざまずくのは神に対してだけである。(フラグ)』
アンティオキア候はアルメニア王の婿なので、アルメニアとフラグの同盟が
成立すれば当然十字軍とも手が組めるはずでした。
少なくとも十字軍側は期待していました。
しかし結局1259年モンケの逝去によってフラグは撤退します。
フラグがパレスチナに残したモンゴル将軍キトブカと二万の兵は、
十字軍側の愚かしい作戦のためにマムルークに大敗・・・ここで十字軍と
モンゴルとの同盟は泡と消えたのでした。
233:2000/08/08(火) 01:59
>22
おぉ、丁寧な御教授ありがとうございます。
なるほどフラグはキリスト教徒を重んじる人だったようですね。
ただ・・・それがギリシア正教徒国家
(このスレッドで言うところの「ビザンツチン帝国」)
が滅ぼされなかった理由だ、と言われてしまうと「?」。
理由は上の通りで。
24名無しさん@1周年:2000/08/08(火) 02:24
七氏はあらゆるスレで意見たれてるな・・・
出しゃばり固定ハンはいずれ叩かれる運命にあるぞ
25名無しさん@1周年:2000/08/08(火) 02:47
>24
嫉妬するな。
26名無しさん@1周年:2000/08/08(火) 05:40
>24
叩かれるの恐れたら何も出来ないよ。
君の言う通りになるんなら、誰も意見しなくなってつまんないよ。
叩かれる運命・・じゃなくて、君が叩く運命なんじゃないの?
たのむから参考になるここで揚足レスとか止めてね。
そうでなければ、負けないような興味深いスレを立てましょう。
27名無しさん@1周年:2000/08/08(火) 06:32
あちこち書き込みすぎ
こっちがうなるような意見ならともかく・・・
謙虚な固定ハンっていないよね、あんまり
28七氏:2000/08/08(火) 15:46
 ∧ ∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄                        
  (@`@`゚Д゚) < 呼んだ?                         
  ./  |    \______                        
 (___/                        
/                         
 
29名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/09(水) 09:44
フビライが死んで喪に服す意味からそれ以上の征服をできなかった(しなかった)。
30名無しさん@1周年:2000/08/09(水) 18:44
モンゴルの軍事戦術は平原でこそ最大の威力を発揮できるものでした。
よって、アナトリア山岳地帯には侵攻しようともしなかったのでは?

また、当時の彼らは遊牧に適さない土地をあまり好まなかったという事実もあります。
31名無しさん@1周年:2000/08/09(水) 23:39
>30
でもアナトリアには今も遊牧民が居ますよ。
ユルックって言って、最近TBSの
「世界ウルルン滞在記」(だっけ)に取り上げられてた。
だいたいアナトリアに侵入してビザンツにとって代わった
トルコ民族ってのがもとを辿ればモンゴル高原の遊牧民だし。
32名無しさん@1周年
ビザンチンと元はお互いの存在を知らなかったんじゃない??