ビザンツと周辺諸国について

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1世界@名無史さん
日本じゃ関連書物も少ないし、
中国古典と違って、原典なんか(自分は)読めないし。

でもユスティニアヌスからコンスタンチノープル陥落まで
色々あったはず。
ブルガリアのシメオンや、セルビアのドゥシャン王等々、
周辺諸国の人物も面白い人間が結構いたみたいです。

ビザンツと周辺諸国について語りませう。
2世界@名無史さん :2001/04/11(水) 03:07
ビザンツが日本の世界史であまり取り上げられないのは
今日的意義があまりないからなのかな
3スラヴァ:2001/04/11(水) 05:00
まず、ギボンの「ローマ帝国の滅亡」を読んでみてください。中身はほとんどビザンツ帝国についてです。
現在ロシアで勉強しているのですが、ビザンツの影響は色濃く感じられますね。文字もギリシャ文字を改良したものですし。ロシア正教は、ギリシャ正教の正統の後継者を自認しています。
東欧、特にギリシャ正教を受け入れた国々の歴史もからめて、お話ししたいですね。
4世界@名無史さん:2001/04/11(水) 05:50
ビザンツ帝国史 東海大学出版会編集部
16000円
尚樹啓太郎タンの本 買エ
5:2001/04/11(水) 05:53
>3,4

もう買ってたりして……。
あ、でもローマ帝国衰亡史は6以降からしか持ってませんね。
6:2001/04/11(水) 05:55
>3

伝承程度の話ですけど、
ロシア人が宗教を選ぶときに、
イスラム教は酒が飲めないからって
キリスト教に入信したのは本当なんでしょうかね?
7支那@名無史さん:2001/04/11(水) 08:03
>>6
ロシア人のウォッカ好きにかけた単なる冗談でしょう。

でも、寒い地域で「酒はダメ」、てのは致命的ですね。
イスラムで飲酒がダメなのは、熱い砂漠で脱水症状を起こさないためなんだから。

クウェートの寄生虫たちは、水をがばがば飲めるご身分だから酒に酔えるんであって。
8:2001/04/11(水) 17:46
3月にゲオルグ・オストロゴルスキ−という人の書いた
ビザンツ帝国史(恒文社)が出版されましたけど、
尚樹啓太郎氏の本と比べてどうなんでしょうね。
内容的に差があるのならこっちも買ってみようと思うんですけど。

ビザンツの原典って、ギリシャ語で書いてあるんでしょうかね?
それともローマの伝統にのっとってラテン語?
9世界@名無史さん:2001/04/11(水) 21:05
>>8
なんと、そんな本が出ていたとは。
買おう。
10世界@名無史さん:2001/04/11(水) 23:00
とりあえず、入門書としては井上浩一氏の
『生き残った帝国ビザンティン』(講談社現代新書)が
お薦め。
11世界@名無史さん:2001/04/12(木) 01:07
アルカディウスからユスティヌス1世の治世ってどんなもんなん
でしょうか?ユスティニアヌス1世の蛮族への反撃を可能にした
国力を蓄えた時期と聞いた覚えがありますが・・・。

印象としては、瀕死の西ローマを見殺したように見えるのは私の
気のせい?
12世界@名無史さん:2001/04/12(木) 01:19
>>11
見殺しどころか、積極的に消そうとしてなかった?
13世界@名無史さん:2001/04/12(木) 02:42
>11、12
東ローマにとって、西ローマ滅亡は、いわば計画倒産。
「やっかいなフン族や東西ゴート族は、つぶれそうな
西帝国に押しつけちゃえ」ってな感じ。
14:2001/04/12(木) 04:15
>13

フン族の相手は結局してるので、
「こっちだって忙しいんだから、そっちはそっちでやってくれ」
ってくらいでしょう。

ササン朝との戦いは激化していましたし、とてもではないですが、
西に軍を出すような余裕はなかったというべきでは。
15世界@名無史さん:2001/04/12(木) 16:28
>>13-14
古代ローマ末期にはドナウ防衛線が完全に崩壊していたので、
東ローマが西ローマを見捨てたがどうかはさておき、
東西両ローマが共同して軍事作戦を立てるのは
おそらく難しかったでしょう。
パンノニアの平原を騎兵の援助もなくつっきるのは・・・
16世界@名無史さん:2001/04/12(木) 16:33
13>14
ちと誤解を招く書き方だったかもしれませんな。

別に私は東が西に直接軍を出していたと言っているわけではなく、自
分たちにとって邪魔なフン、東ゴート、西ゴートを、「こっちにいな
いで、あっちに行ってね」とうまく外交的に誘導したといいたいわけ
です。(フンの相手もしていたからこそ、フンにはいなくなってほし
いはず)
その結果、西がどうなろと知ったことではない、西はつぶれてもかま
わない、どうせつぶれるなら、東にいたら嫌な連中を送りつけておこ
う、というのを、「計画倒産」と表現したのです。
17世界史@名無史さん:2001/04/12(木) 21:38
>1
オストロゴルスキーは天下の碩学です(かーなり古臭いけど!)。
ビザンツ史をやるならまずこの本から読むべきです。
尚樹『ビザンツ帝国史』は一部オストロゴルスキーを書き写したような個所も有り。
181(つーかめんどくさい、李密でいいや):2001/04/13(金) 00:36
>16

フン族は西ローマに入りましたっけ?
東ローマが異民族を誘導したという形跡がいまいち見られないので。
フン族を半ば挑発に近い形で呼び込んだのも東ローマの人ですし。
結局、異民族連中を自軍に組み込んで戦力としていたわけですから、
(つまり、結局西に行かせることはできず東でも処理するハメになった)
「計画」なんて上等な物ではなかった、と思うわけです。

>17

尚樹の(藁)ビザンツ史は三分の一くらいは
各種索引と系図なんですよね。
ちと物足りないとは思いました。
19世界@名無史さん:2001/04/13(金) 02:02
西ローマにしても、アエティウスがフン族を対蛮族の戦力として利用
してたりしてるし、一概にマルキアヌス帝の貢納拒否とフン族のガリ
ア侵攻との、直接的な結びつきは薄いのでは?
20世界@名無史さん:2001/04/13(金) 04:04
13=16>18
>フン族は西ローマに入りましたっけ?

アッティラの率いるフン族は450年に東帝国と和平を結んだ上で
翌451年、ガリア方面に侵入しています。
西ローマの将軍アエティウスがこれを撃退しました。これがカタ
ラウヌムの戦いです。おそらくこれが西ローマ帝国最後の大勝利
でしょう。
しかしなお十分な勢力を持つフン族は翌452年、イタリア方面に
も侵入しています。(ちなみに、この時にその難を避けた人々が
干潟に移り住んだのがヴェネツィアの起こりです)
教皇レオ1世がフン族と交渉して時間を稼いでいるうちに、幸い
アッティラが死に、フン族の帝国が崩壊してくれました。
東帝国はその間(451年10月)にカルケドン公会議を開き、やっか
いな宗教問題を一つ片づけることができました。フン族をうまく西
にやっかい払いした成果と言えるでしょう。
東帝国がどれほどフンを恐れていたかは、あのテオドシウス帝の
大城壁が、もともとフン族対策として築かれ、補修強化を繰り返
されたことからもわかります。
21世界@名無史さん:2001/04/13(金) 09:52
東ローマ史を見ていると、コンスタンティノープルあればこそ
千年も持ったような気がしますね。
某作家などはこの史実を知っているのでしょうか。
22世界@名無史さん:2001/04/13(金) 13:21
百科事典(平凡)の記述ですが:
天上のキリストの帝国の、不完全な模像であるこの帝国に君臨するのは、天上の唯一の<全能の神>に相当する<全能の皇帝>であり、彼は世俗的な事がらだけでなく、精神的な事がらについても、最高の権限を神から委託された代理人である。この皇帝の臣民たる<ローマ人>は、天上の秩序の模像たるローマ法も秩序に守られ、その保障する平和のもとで文化の名に価する生活を独占的に享受する。(中略)このローマ人に属さないのが<野蛮な>民族である。彼らはローマ皇帝の支配下にたまたま立ってこそいないが、いつの日かそれに服すべき、潜在的なその臣民である。
(中略)
相次いでコンスタンティノープルを訪れる周辺<蛮族>からの使節の応対にいとまない迎賓館マグナウラ宮殿の謁見の間では、彼らが3度記跪拝する間に、皇帝は天井まで引き上げられ、<機械じかけの神>が実演された。

ちょっと中国と比較して考えたい気がしてきます。
23世界@名無史さん:2001/04/13(金) 14:40
うむ。東ローマは中国と似ている。というか、共通点が多い。
・独自の古い文化を持っている。
・その文化を周辺諸民族に伝播・普及している。
・周辺諸民族が入れ替わり立ち替わり、侵攻してくる。
・大帝国の半分が崩壊し異民族に支配されたが、残り半分は繁栄し続けた。
・高度な官僚制度によって国が支えられている。
・王朝に人気がなくなると放伐による王朝交代が正当化される。
・時として、皇帝をバックにした宦官が絶大な権勢を誇ることがある。
24世界@名無史さん:2001/04/15(日) 16:45
やっぱ、ビザンティン帝国最強の皇帝は
ブルガリア人殺しのバシレイオス2世でしょう。
25世界@名無史さん:2001/04/18(水) 17:08
アレクシオス1世コムネソス
26愚礼:2001/04/18(水) 20:35
アレ、引用忘れた
>あのテオドシウス帝の
大城壁が、もともとフン族対策として築かれ、補修強化を繰り返
されたことからもわかります。

戦車の競争選手まで動員して、突貫工事でした。
城壁を見たアッティラは肝を潰し、西へ逝ったとさ。
27世界@名無史さん:2001/04/19(木) 13:10
だれか、トレビゾンド帝国について教えて。
ビザンツの分家みたいなものなの?
あとグルジア帝国も。
どうして「帝国」なんだ?
28世界@名無史さん:2001/04/19(木) 14:02
>27
トレビゾンド帝国は、第4回十字軍にコンスタンティノープルを占領
された時、コムネノス家が建てた亡命政権のです。
分家というより、当事者たちは「我らこそ、ローマ帝国を受け継ぐ正
統の国」と思っていたことでしょう。
そして、それはラスカリス家のニカイア帝国、ドゥーカス家のエピロ
スも同様。結局、コンスタンティノープルを奪回したのはニカイア帝
国だったので、トレビゾンド政権はそのまま続いてしまいました。
最終的にその皇統が断絶するのは1461年なので、実はコンスタンティ
ノープルのパライオロゴス朝より長く存続したことになります。
29世界@名無史さん:2001/04/19(木) 14:56
>>28
なるほどありがとうございます。
ついでながら、ということはオスマン帝国はトレビゾンドのほうは後回しにしたのかなあ?
コンスタンティノープルより攻め落としやすそうなんだけど・・。
地理的にも孤立してるような気がするし。

30李密:2001/04/19(木) 15:30
>29

私見なので、正しいかどうかはわかりませんが。

この頃オスマントルコはバルカンと小アジアに分かれて領土を持っていましたよね。
コンスタンチノープルを取ればこの領土が強固に連結されるということで、
国内整備のような意味合いでコンスタンチノープルを先に落としたんじゃないでしょうか?
トレビゾンド帝国は急いで征服する必要もなければ
いつでも征服できるのであとでいいや、ということになったんでは。
31世界@名無史さん:2001/04/19(木) 20:56
>>29
コンスタンティノープルは政治的意味合いが強いですから、あそこは
何がなんでも陥落させるでしょう。

一方のトレビゾンドは地形的に攻めにくい割には政治的にはあまり
意味がなかったのです。
3227=29:2001/04/19(木) 23:23
>>30
>>31
なるほどなるほど。
お答えありがとうございます。

33ついでに:2001/04/20(金) 01:27
メフメットUはコンスタンティノポリスにご執心だったようで。
異常なほど。
3433:2001/04/20(金) 01:32
追伸。
ユスティニアヌスよりヘラクリウスの方が派手でよいですねぇ。
ペルシャこれで瀕死にしたから・・・
35世界@名無史さん:2001/04/20(金) 01:56
>34
カルタゴから船で帝都に攻め上ったり、
姪と結婚して教会勢力から非難されたり、
ペルシャに遠征したり、
その後、新興のイスラムに破れたりして、
ドラマチックな生涯ですよね。>ヘラクリウス
36異邦人さん:2001/04/20(金) 04:38
>>32
トラブゾン(旧トレビゾンド)には、トレビゾンド帝国時代の
城壁址やらモスクに改装された教会やらあって、なかなか味
のある街でっせ。もっとも、結局メジャーになれなかった勢
力の悲哀みたいなものも感じてしまう街なんですけどね。

まぁ、ビザンティンの南朝みたいなものでしょうか…‥。
37李密:2001/04/20(金) 05:36
>36

場所が悪かったんですかね。
交通の要衝というには程遠い位置ですし、
黒海貿易でも、必ずしもトレビゾンドに行く必要もありませんしねぇ。

欧州藤原に例えるなんてのはどうでしょう?
38李密:2001/04/20(金) 05:37
奥州です……いや、欧州でいいか……
でもあそこはアジアだしな……
39世界@名無史さん:2001/04/20(金) 18:45
トレビゾンドはいちおう黒海貿易の中心地のひとつですよ。
すぐ内陸のタブリーズにイル・ハン国があったころは
黒海貿易の中心地として栄えてたようです。

私にはトレビゾンド帝国というと五代十国の北漢のイメージが…。
辺境の前王朝(コムネノス朝-後漢)の系譜を引く辺境国で、
中央の正統王朝の地位には異朝(パレオゴロス朝-後周)が就き、
隣接する遊牧民族の大国(イル・ハン国-契丹)に脅かされ、
最後は中央を乗っ取った新王朝(オスマン朝-北宋)に潰される。
4036:2001/04/21(土) 10:04
地図見るとわかるけど、トレビゾンドはカスピ海の南側をまわる交易ルー
トの黒海への出口だったんですなぁ。そのことが、あの小さな帝国の経済
的基盤だったそうです。もっとも、東西交易を独占できる訳でもないから、
その繁栄もささやかなものだったようですな。現存する教会の建物も皆小
ぶりですね。

 コンスタンティノーブル回復の見込みがたたないまま二百年以上も独立
を保つのは、いろいろと大変だったようで、ジェノアやヴェネチアと強い
関係を持つとともに、ホラズム・シャー朝、イル・ハーン国、黒羊朝、そ
して白羊朝など東方の強国との関係維持に腐心し、婚姻政策として皇女を
送り込んでます。それでも最後は、メフメット2世とウズン・ハサンとの
東アナトリアを巡る駆け引きに翻弄されたあげく、同盟者に見捨てられて
無血開城してしまうんですな。

 黒海の出口をオスマン朝に押さえられた時点で、その命運は定まってた
のかなぁ…‥。
41李密:2001/04/21(土) 10:45
命運が定まってたという意味では、
自前の精兵も経済基盤も持っていなかったんですから、
周りの状況次第でどうとでもされてしまうのは仕方のないことでしょう。

外交手腕で生きのびた国家にヴェネツィアがありますけど、
こちらは外交手腕だけではなく海軍力を持って地中海に君臨してたわけですから。
42世界@名無史さん:2001/04/21(土) 12:11
>>27
>あとグルジア帝国も。
>どうして「帝国」なんだ?
トレビゾンド帝国ができたころのグルジアはタマラ女王(在位 1184‐1213)治下の
最盛時で面積も最大(ザカフカズ全域)になったそうですが、それで帝国って書いてる
のかな?
トレビゾンド帝国の建国を助け、王権も強化したらしいです。
43ヨーロッパでの帝国号は:2001/04/21(土) 21:13
ほんの近代までは「ローマの後継」を」自認するものが称するものでしたから。
ex フランク皇帝 神聖ローマ皇帝 ビザンティン皇帝 ロシア皇帝
これもその例ではないでしょうか?
4427:2001/04/23(月) 17:43
>>42
>>43

なるほどありがとうございます。
だとすれば、グルジアみたいな辺境(これはまずいか・・)でも
「ローマの後継」みたいな意識があったんですね。
西欧だけが必ずしも中心じゃないってことかな。
45名無し:2001/04/29(日) 21:54
「トレビゾンド」スレ立てようとしたら激しくがいしゅつ

さすが2ちゃんと思い知る今日この頃。
…あげげ
46いちご姫:2001/04/29(日) 22:44
>>24
フェオドシィ帝は?
47世界@名無史さん:2001/04/30(月) 00:18
>46
不勉強なもので、そういう名前の皇帝は初めて見た。
詳細教えてプリーズ。
48世界@名無史さん:2001/05/02(水) 02:05
バシレイオス2世帝は、1014年7月、ストゥルムニツァの戦いで宿敵
ブルガリアを破った。
その時に得た、ブルガリア人捕虜1万5千人の扱いがすごい。
百人ずつのグループに分け、1グループに1人は片目だけ潰した。な
ぜかって? あとの99人は両目を潰したので、彼らを誘導する者が必
要だったからだ。
視覚障害者となった捕虜がぞくぞくと帰還して来るのを見たブルガリ
ア王は、その光景にショック死したと言われている。
49世界@名無史さん:2001/05/29(火) 21:52
キエフ公国が遠征かましてますが、
彼らは攻城兵器を持っていったんでしょうか?
50世界@名無史さん:2001/06/29(金) 12:26
>48
バシレイオス2世かっこいい〜
51世界@名無史さん:2001/06/30(土) 21:36
バシレイオス2世の父親のロマノス2世は美少年だったらしいね(若くして死去)。
で、母親のテオファノ(アナスタシア)は絶世の美女。
二人が16、7の時に結婚して、バシレイオスが生まれたそうな。
52世界@名無史さん:2001/06/30(土) 22:39
アナスタシアって名前は美人が多いのか?(意味不明)
53世界@名無史さん:2001/07/01(日) 00:09
コンスタンティノープル陥落のおり、最後の皇帝が
どうなったのかということについて、本には全然書いて
ないんですが、本当に何も分かっていないんですか?
54世界@名無史さん:2001/07/01(日) 00:18
死体が出てこなかったから、たぶん最後乱戦のどこかで戦死。
55世界@名無史さん:2001/07/01(日) 00:44
パライオロゴス家そのものは、現在も続いているみたいだけど。
確か、最期の皇帝の弟の子孫がイギリスのワイト島に住んでいる。
56世界@名無史さん:2001/07/01(日) 12:39
東から敵が来れば西の兵士を徴用し
西から敵が来れば東の兵士を徴用する。
首都が取られれば周辺に逃げ、
周辺が取られれば首都に篭る。

鵺のような国だなぁ。
57ミハイ勇敢公:2001/07/02(月) 00:26
割り込んでごめん。この辺のこと詳しい人、ヴァラキアの串刺し公ヴラドに関する
スレつくったから、そっちも覗いてチョ。
58世界@名無史さん:2001/07/04(水) 01:42
コンスタティノープルはどう攻め落としたんですか。
兵糧攻めですか。
59世界@名無史さん:2001/07/04(水) 01:47
>>58
中世の戦闘を想定して作られた城壁は
大砲には無力だった。

という事です。
60世界@名無史さん:2001/07/04(水) 01:56
ランシマンの『コンスタンチノープル陥落す』か
塩野七生の『コンスタンチノープルの陥落』を読むと一番いいのだけど。

オスマン軍は巨大な大砲で城壁を崩したり、
入り口を封鎖された金角湾に艦隊を陸越えで送り込んだりして
守備側のビザンツ軍を追いつめて、
最後に決定打は打って出た守備軍が
ある門を閉め忘れたところから突入されて決まったらしい。


スレの本旨とずれる話題なのでsage
61世界@名無史さん:2001/07/04(水) 18:26
じゃあ火器がなければまさに不落だったわけですね。
アンナトコ フツウジャ オトセナイヨ…
62世界@名無史さん:2001/07/04(水) 18:45
ロングレンジで攻めて守備軍を出撃させたのが勝因でしょうね。
アッティラは眺めて「こりゃむりだ」と思って去った。
63ナポレオン:2001/07/04(水) 19:19
いや、
1204年にヴェネツィアと第4回十字軍と称する野蛮なフランクどもが
大砲なしでコンスタンティノープルを陥落させてますよ。
64世界@名無史さん:2001/07/04(水) 19:27
あのときは金角湾の城壁から攻めたんじゃなかったかな??
鎖はれなかったのだろうか・・・
65世界@名無史さん:2001/07/04(水) 19:53
>>64
不意打ちだからねえ。
66世界@名無史さん:2001/07/04(水) 19:58
ゲルマン民族といいイスラムの国々といい
なんでビザンツ帝国いじめるの?
ひどいよ!!!!!ひどいよみんな!!!!!
そりゃ昔は地中海のまわりに大きな国築いてたけどさ、
もう最後の方なんかほんのちょびっとした国になってるじゃん!!!
なんでそんな国いじめるの?ひどいやひどいや!!!!
67世界@名無史さん:2001/07/04(水) 19:59
66は皇帝の親戚か何かですか
68世界@名無史さん:2001/07/04(水) 20:01
当時のコンスタンティノープルの画像ありませんか?
69世界@名無史さん:2001/07/04(水) 20:05
>>68
CGで復元した画像ならあります。
http://www.byzantium1200.org/
70ナポレオン:2001/07/05(木) 04:42
釈由美子の「ドラマティックに恋をして」のPVの衣装は、
ビザンツ皇帝のスカラマンギオンみたいでちと萌える。
71世界@名無史さん:2001/07/05(木) 19:41
コンスタンティノープルより堅い都市なんてあるの?
72世界@名無史さん:2001/07/05(木) 19:53
テオドシウス城壁は大砲なしでは破れないでしょう・・
73世界@名無史さん:2001/07/05(木) 22:59
オリンピックはイスタンブールに
74世界@名無史さん:2001/07/05(木) 23:02
>>71
大坂城
75アマノウヅメ:2001/07/05(木) 23:12
>>74
だまされなかったら、落城しなかったかも・・・
76世界@名無史さん:2001/07/06(金) 19:12
>>74
あれは城で、都市じゃないよ。
77世界@名無史さん:2001/07/06(金) 21:30
『ビザンツ皇妃列伝』(井上浩一著、筑摩書房)を本屋で注文したら、絶版だって言われた。
78世界@名無史さん:2001/07/06(金) 21:38
>>76
わかってらい
79世界@名無史さん:2001/07/06(金) 21:43
大阪城ってそんな堅かったの?
80世界@名無史さん:2001/07/06(金) 21:45
>>79
大砲をドカドカ撃っても精神面以外ではあんまり意味がなくて、
謀略使って内堀まで埋めないとどうにもならなかった。

現在、大阪市内に多数残っている堀を見るだけでも、単なる城なのに
もかかわらず、その巨大さがわかるかと。

小田原のほうがもっと巨大っていう話もあるけど、あれは城じゃ
なくて日本にはめずらしい都市だからね。
81アマノウヅメ:2001/07/06(金) 21:57
>>79
コンスタンチノープルより東では、最大の要塞と宣教師たちが、保証
しています。
82世界@名無史さん:2001/07/06(金) 22:00
>>80 >>81
そんなに凄いもんだったんですか。
今は家康にぶっ壊されてこじんまりとしてるけど、
凄いやつだったんだね、大阪城!
ありがとう>>80 >>81
好きなものが増えたよ!
83世界@名無史さん:2001/07/07(土) 16:14
年号が増えるたびに領土が縮んでいく、ビザンツ帝国の暮らしはどんなものだったんですか?
ワタシのイメージでは
「むかしは でかい くにじゃったんだぞぉー・・・」
とじいさんが孫に話してるのがでるんですが。
84世界@名無史さん:2001/07/07(土) 20:46
秀吉時代の大阪城の絵巻や本丸の推定復元模型は公式 page に
ちょっと小さいですが絵があります。
http://www.tourism.city.osaka.jp/ja/castle/noshock/haran/hideyosi.htm
本丸だけでもなんだコリャって感じなのに、二の丸、三の丸、出城などが
あるんですから…
85世界@名無史さん:2001/07/15(日) 02:02
ビザンツ帝国も確かに非業の死を遂げる(只の憤死は除く)皇帝も
多かったようですが、
それでも旧ローマ帝国・西ローマ帝国に比べれば
はるかにベッドの上で死ねる皇帝が多い
のは何か理由があったんでしょうか?
(旧ローマ帝国じゃまともに死ねた皇帝を数えた方が早い
・・・毒殺説がある人を含めても20人ぐらい?)
86世界@名無史さん:2001/07/15(日) 02:34
>>84
あひゃー。
今の大阪市の何パーセントになるんだろ。
87世界@名無史さん:2001/07/15(日) 02:49
ポリス制度は続いてたの?
88世界@名無史さん:2001/07/15(日) 03:20
そういえば、昔東ローマ帝国皇帝が”ヴァシレフス”
(ペルシャ語で王)を名乗っていたという話だけど、
正確にはヘラクレイオス1世がササン朝を滅ぼした後の称号だよ。
んじゃ。
89世界@名無史さん:2001/07/15(日) 03:25
> ヘラクレイオス1世がササン朝を滅ぼした

もちろんネタだよね?
90世界@名無史さん:2001/07/15(日) 03:25
”アウラクラトル=インペラトル・ヴァシレフス”
「諸民族を統合する最高司令官にして、ペルシャ王」という意味だな。
多民族を支配する人間がKingではなくて、emperorなのは
ここに由来していたり。
91世界@名無史さん:2001/07/15(日) 03:27
>もちろんネタだよね?

んとー。滅ぼした訳じゃないけど、
事実上滅亡に追いやったつーことで。
聖十字架も取り返したし。正確な指摘Thanks。
92世界@名無史さん:2001/07/15(日) 04:19
ビザンツは、軍管区が生きている間は総じてよかったっぽいね。
ブルガロクトノスのあたりから、農業の生産性が上がらなく
なっていくのはテマ制の崩壊と関係があるのかなあと思うけど。
93世界@名無史さん:2001/07/15(日) 10:16
テマ制は農業生産に直結するものではないから、なにか別の事情があったのでしょう。
94世界@名無史さん:2001/07/15(日) 10:23
>>8(かなり前のレスですが)
オストロゴルスキーの邦訳がでたんだ…と感慨深くなりました。
あれ、大学で卒論書いたり教員になってから研究発表したりしたとき、
分厚い英語版(オックスフォードから出版)を注文して購入し、必死で格闘したのを思い出します。
早速、邦訳も手にとって見てみたいと思います。
でも、注もちゃんとついているのでしょうか?
あの膨大な注に大きな意味があると思うのですが。
学術書も邦訳になると注がカットされたりするので心配です。
95世界@名無史さん:2001/07/17(火) 00:30
なるほど、農業生産が上がらなくなっていくのは別の事情があったのかもね。
しかし皆さん、ビザンツ詳しいですね。諸賢に敬意を払いたく思います。
そーいや、55のレスへの回答ですけど、ビザンツの子孫は時々日本に来て
晩餐会やってますよ。ホステスはデヴィ夫人ですが。。
96ナポレオン:2001/07/17(火) 01:06
えーと、ヴァシレフスってのはギリシア語なんですけど。
97世界@名無史さん:2001/07/17(火) 01:35
あーギリシャ語なの?正確な指摘ありがとう
98世界@名無史さん:2001/07/17(火) 01:43
ヴァシレフスは、ペルシア王固有の称号だったはず。
でも、アレはギリシャ語なのか。
となると、由来はどこまでさかのぼるのかな?
諸賢のアドバイスを頂きたし。
99世界@名無史さん:2001/07/17(火) 02:08
>>98
その件に関して,まさに,オストロゴルスキーの本に注がついていた!
しかし,現在実家においてきているので調べようがない。
もし実家に帰ったらレスするけど,いつのことになるやら…。
100ナポレオン:2001/07/17(火) 02:16
いや、例えばギリシア悲劇のオイディプス王もヴァシレフスだし、
スパルタにもヴァシレフスはいたし。
そのペルシア固有の称号というのはどこから?
101世界@名無史さん:2001/07/17(火) 03:06
なるほど。では原典が間違っていたと言うことか。Thanks。
原典はトルコの教科書だよ。正式な名前は忘れたけど。
102世界@名無史さん:2001/07/17(火) 07:47
>>95
8のレスがあった時から探してるんだが、見つからないよ〜。
103世界@名無史さん:2001/07/18(水) 00:09
>>101
トルコの教科書の日本語訳?
104世界@名無史さん:2001/07/18(水) 00:28
>>98
ヴァシレフスというのは、Βασιλειοσ(Basileios)というギリシア語
で王という意味でしょ。ヴァシレフスとは、むしろ、Basileiosの
中世ギリシア語読みが更にペルシア語訛りした感じだね。
ペルシア語で王の称号は、やっぱり、シャー・ハン・シャー(王の中の王)
じゃないの。
105揚げ足取りスマソ:2001/07/18(水) 00:39
>>104
>シャー・ハン・シャー(王の中の王)
Shahan-Shahは「Shahan(シャーたち)のShah(シャー)」だから
シャーとハンのあいだに「・」入れるとおかしい。
106匿@匿:2001/07/18(水) 00:44
東ドイツというスレッドを発見して書き込みました。レス全部は読んでません。DDRに関心を持ってWEBの運営やCD−Rの制作を行ってます

http://www.din.or.jp/~a_ohno/
107世界@名無史さん:2001/07/18(水) 01:09
>>106
スレ違いですよ。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=whis&key=988890102
こっちに書こうとしたのでは?
108世界@名無史さん:2001/07/18(水) 02:20
>>43
ブルガリア人も皇帝を名乗ってるよ。
109世界@名無史さん:2001/07/18(水) 08:03
>>108
ブルガリアは昔ビザンツを脅して皇帝号を名乗る権利を貰った。
110ナポレオン:2001/07/18(水) 10:22
>>104
ちと違う。Basileiosは古典語でバシレイオス、中世以降はヴァシリオス。
これは純然たる人名。
王はBasileus、古典語でバシレウス、中世以降はヴァシレフス。
ビザンツ皇帝がヴァシレフスと呼ばれるのは、ペルシアと関係なく、
イラクリオス(ヘラクレイオス)時代に、
公用語がラテン語からギリシア語に切り替えられたことによるものでしょう。
インペラトルかなにかをギリシア語に訳したものだと思われます。
ビザンツ皇帝の正式(?)な称号は、
「ヴァシレフス・ケ・アフトクラトル・トン・ロメオン」、
ローマ人の王にして専制君主、というものでした。
111世界@名無史さん:2001/07/18(水) 14:32
なるほどねえ。

98氏がヴァシレフスをペルシア王固有の称号だと思ったのは、
きっとギリシア語でペルシア王のことをそう呼んでて
98氏のソースの本の著者が固有称号と勘違いしたってことでないかな?
112世界@名無史さん:2001/07/18(水) 23:37
朕はローマ人の皇帝、オットー一世である。
今回偽りの皇帝の元に来たのは他でもない・・・


息子の嫁さんください。
できたら緋室生まれが良いのですが。
113世界@名無史さん:2001/07/24(火) 15:12
右側がパライオロゴス家の末裔ですな。
http://www.harapan.co.jp/Indonesia/GBI/GBInews/news991011_2.jpg
114世界@名無史さん:2001/07/24(火) 21:51
>>113
右なの?
115世界@名無史さん:2001/07/24(火) 22:36
>>113
左じゃないの?
116ニキフォロス2世フォカス:2001/07/24(火) 23:05
>>112
偽りの皇帝はそちの方じゃ。
そちなんぞはドイツ王で十分じゃ!
・・・といいたいところだが、
無礼なリウトプラントを寄越さず、
自らローマ皇帝の足元にひれふしたことに免じて、
国内でのみ皇帝を名乗ることを許すぞ。
皇帝の恩恵をありがたく受けるがよい。
朕は寛大な心で許すぞ。
ただし娘はやらん。
117世界@名無史さん:2001/07/24(火) 23:13
>>112
ビザンツ皇女が輿入れする途中に息子が死んじゃったじゃん。
118オットー一世:2001/07/26(木) 02:02
>>116
けっ。貴様なんぞ売女にでも殺されるがいいや。
お次の皇帝でお願いします。

>>117
オットー三世がいるから良いの。
119世界@名無史さん:2001/07/30(月) 00:29
オットー三世は構想は壮大だったが、
実力がな…
120世界@名無史さん:2001/07/30(月) 01:02
ビザンツ征服計画は、13世紀後半、シャルル・ダンジューの話が面白い。
フランス王ルイ9世の弟で、プロバンス侯のシャルルが、イタリアの教皇派と皇帝派の争いに介入し、
シチリア王となってイタリアに覇権をうち立てる。
さらに、地中海帝国建設を夢想し、教皇の支持のもと、ラテン帝国復興のための十字軍を企図。
ビザンツ皇帝ミカエル・パライオロゴスはそうはさせじと外交と謀略の限りを尽くす。
そして遠征直前の1282年、シチリアで大反乱勃発、遠征軍壊滅。
ビザンツと秘密同盟を結んでいたアラゴンが乗り込んできて、シチリアを奪う。
夢やぶれたシャルルは失意のうちに死ぬ、というストーリー。
「シチリアの晩鐘」とよばれている。
あまりにも劇的な話なので、論文2つ書いてしまった。
121世界@名無史さん:2001/07/30(月) 01:36

シチリアマフィアはそれが起源ってほんとですか?
フランス許すまじ。という意味の・・・
ギボンでもこの辺の記述は珍しく熱いですね。
122120:2001/07/30(月) 01:43
「フランス人に死を」だったっけ。
でも、あの話はまゆつばだと思うな。
マフィアの起源は、もっと後らしいし。
ちなみに、「晩鐘」に関しては、ランシマンのSicilian Vesperがいい。
しかし、和訳出てない。テーマがマイナーだから、これからも出ないだろう。
123世界@名無史さん:2001/08/04(土) 05:39
起源の話は「マスターキートン」の
何話かにのってたな。
124世界@名無史さん:2001/08/04(土) 14:27
シャルルマーニュ戴冠に始まる二皇帝問題について、
何かわかりやすい本/論文があれば教えてください。
125世界@名無史さん:2001/08/04(土) 15:12
アブドゥルアズィーズ・イブンサウード(サウディ建国者)
2m近くあった。
126世界@名無史さん:2001/08/04(土) 15:18
>>125
誤爆だな。
127世界@名無史さん:2001/08/05(日) 16:06
>>125
どこに書こうとしたの?
128世界@名無史さん:2001/08/17(金) 11:30
>>124
分かりにくいものなのよ。
129世界@名無史さん:2001/08/17(金) 14:38
ローマの教皇がシャルルマーニュをローマ皇帝として戴冠させたのは、
ひとつには、ちょうどその時、ビザンティン帝国が女帝エイレーネーの
時代だったため。
ローマ帝国には本来、女帝というのはなかったから、「あんなのは皇帝
ではない、だから正しい皇帝をこっちで立てる」というわけ。
130世界@名無史さん:2001/08/18(土) 00:01
>>129
シャルル=マーニュとエイレーネの後に皇帝になった
ニケフォロス1世との密約とかはあったんでしょうか?
コンスタンティノス5世の死後の混乱期を一時的とは言え落ち着かせたのは
嫌われ者のニケフォロス1世の功績だと思うんですが。
131世界@名無史さん:2001/08/18(土) 06:35
>>130
ニケフォロス1世は、現代の研究者には高く評価されているようですね。
テオファネスの年代記で十大悪政なんて数えられていて、当時の人たち
には嫌われてましたが、税を取る人間ってのは嫌われるものです。(ニ
ケフォロス1世は元財務官僚。皇帝としても、その方面で能力を発揮し
ている。)
しかし、私の乏しい知識では、シャルルマーニュとビザンティン帝国が
合意に達するのは812年のことで、この時の皇帝はニケフォロス1世の
娘婿ミカエル1世ランガーベです。
この時、シャルルマーニュはヴェネツィアをビザンティン帝国に割譲し、
ビザンティン帝国はシャルルマーニュの皇帝位を承認しました。
132世界@名無史さん:2001/08/18(土) 22:34
へー。
133提供:名無しさん:2001/08/19(日) 00:16
>>131
ギポンですら「他の暴君と比べて特に暗愚というわけではないが、
税の取立てが厳しかったせいで相当嫌われた」って半分擁護する形で
書いてますからね。
ニケフォロス1世とその子はブルガリア人に殺されてしまいましたけど
ミカエル1世はレオン5世に退位させられたとはいえ
修道士になるだけと比較的マシな余生をすごせたのは
なんか理由があるんでしょうか?
(あとレオン5世のあだ名が「カメレオン」といわれるの理由って何なんですか?
134世界@名無史さん:2001/08/19(日) 01:34
>>120
ヴェルディのオペラにもそれらしいのがありましたね。
135世界@名無史さん:2001/08/19(日) 02:48
129=131>>133
このへんは、私もあまり詳しくないので、ひょっとすると間違ってるかもしれま
せんが。
ミカエル1世も文官出身の皇帝であるせいか、軍事は不得意で、レオーン5世の
クーデターに対してあっさり降伏し、彼の覇権を認めたようです。だからレオー
ン5世も、彼を生かしておいても危険はないと判断したのかもしれません。
「カメレオン」というあだ名は、宗教上の態度がころころ変わったためと何かで
読みましたが、詳しくは私も知りません。資料を調べ直す時間もないので、これ
で勘弁してください。
136世界@名無史さん:2001/08/19(日) 03:16
>>131 >>135
色々情報ありがとうございます。
目や鼻を潰されずに引退できた皇帝って
テオドシウス3世・ミカエル1世・ロマノス1世・イサキオス1世
ミカエル7世・ニケフォロス3世・アンドロニコス2世・ヨハネス6世
ぐらいですか。(目を潰された皇帝を含めればもう少し増えますけど)
137世界@名無史さん:2001/08/19(日) 18:52
>>136
目や鼻を潰されずに引退ないし失脚した皇帝としては、他にこんな人がいます。

ユスティヌス2世(在位565〜567)
精神に異常をきたしたため、皇帝位を養子ティベリウスに譲って引退。

エイレーネー(女帝、在位797〜802)
宮中クーデターで失脚、レスボス島に流された。

ミカエル4世(在位1034〜1041)
甥のミカエル(5世)を養子として後継者とし、死期を悟って修道院に入る。

ゾエ&テオドラ(女帝、在位1042、テオドラは1度目)
共同皇帝として擁立されたが、2ヶ月で失脚。ゾエの夫コンスタンティノス9世に
帝位が移る。(テオドラは後に復位)

コンスタンティノス・ラスカリス(在位1204)
十字軍による帝都陥落寸前に選ばれるが、逃亡。「一夜帝」
138世界@名無史さん:2001/08/19(日) 23:31
>>137
一番最後の
コンスタンティノス・ラスカリスがいるから
コンスタンティノス11世が12世と書かれる場合があるんですか?
139世界@名無史さん:2001/08/19(日) 23:33
>>138
上のコンスタンティノス11世ってのはもちろん
ビザンツ最後の皇帝のことです。
140アマノウヅメ:2001/08/19(日) 23:46
>>137
反論するつもりはありませんが、要するに、まともに最期を遂げた人
は、いないんですよね。

それと、長年疑問に思ってたのはゾラの『ナナ』で小間使いから
家政婦になって、普仏戦争直前に多額の財産を持ち逃げする
「ゾエ」という女性がいて、名前の見当が全くつかなかったんですが、
このゾエが語源かも。

ありがとうございました。
141世界@名無史さん:2001/08/20(月) 00:04
帝都陥落後、コンスタンティノス・ラスカリスの弟テオドロスはニカイアにビザンツ帝国の
亡命政権を打ち立てたが、兄のコンスタンティノスは一体?
142世界@名無史さん:2001/08/20(月) 01:51
129=131=135=137>>138-139
確かに、一夜帝コンスタンティノス・ラスカリスを正規の皇帝として数えるなら彼
がコンスタンティノス11世、ビザンツ最後の皇帝コンスタンティノス・パライオロ
ゴスはコンスタンティノス12世ということになります。

ただ、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』では、なぜかコンスタンティノス8世ぐらい
からずれていて、これを9世と数えており、どうもいろいろな解釈、数え方がある
ようです。

コンスタンティノス7世と8世の間の時代で、コンスタンティノスの名を持つ権力
者としては、ロマノス1世レカペノスの共同統治者だった義理の子がいますので、
ギボンはたぶん彼を8世と数え、一夜帝は数えず、最後の皇帝を12世としているの
だと思います。(ひょっとすると、これは私の勘違いで、真相はぜんぜん違うかも
しれないので、あまり鵜呑みにしないように。)

>>140
>要するに、まともに最期を遂げた人は、いないんですよね。
137での話題は「引退できた皇帝」だったので、帝位についたまま死んだ皇帝につ
いては言及していません。もちろん、そういう皇帝には「まともな最期」を遂げた
人もたくさんいます。(わかってると思いますが念のため。)
また、137で挙げた皇帝でも、たとえばゾエやテオドラなどは自然死です。

>このゾエが語源かも
うーん、どうでしょうね? ビザンティン帝国の人名はもちろん、ギリシャ語系。
この「ゾエ」は確か、英語の「ソフィア」に相当する名前だったと思います。

>兄のコンスタンティノスは一体?
私も知りたいです。逃亡後の彼がどうなったか。どうなったんでしょうね?
ちなみに、彼の前に逃亡したアレクシオス5世は十字軍に捕まって、柱から落と
されて処刑されました。
143142:2001/08/20(月) 01:55
失礼、最期の1節は>>141へのレスです。
144世界@名無史さん:01/08/28 21:08 ID:uvRl1cUs
ユスティニアヌスは明君だったんですか。
145世界@名無史さん:01/08/28 22:20 ID:O/H7kRfs
>>144
ユスティニアヌスですか。当然、1世のことですよね。
「鼻そがれ帝」ユスティニアノス2世ではなく。

ユスティニアヌス1世は、いろいろな意味で存在感のある皇帝ですが
「明君」という評価はどうでしょうねぇ。
確かに、ユスティニアヌス法典の編纂は、ビザンティンのみならず全
ヨーロッパのその後の法律に大きな影響を与えた偉大な事業です。
しかし、その他の点はどうも。
一見華麗な戦果を挙げてローマの領土の大半と栄光を取り戻したかに
見える外征事業は、むしろ逆に帝国を衰退させるものでした。外征と
占領地経営の出費で、帝国の経済がガタガタになったのです。この辺
り、漢の武帝の対匈奴戦に似ています。
また、こういう派手な外征が好きな皇帝は、壮大な建築も好きという
傾向もあるようです。東方正教の総本山たるアヤ・ソフィア大聖堂は
しかたないとしても、それ以外にもむやみに行った建築事業は、やは
り財政を圧迫しました。
彼の死後、それらの無理が表面化し、せっかくの新領土イタリアもす
ぐに失陥してしまうことになるのです。
また、彼は人間的にも、遠征軍を率いさせたベリサリウス将軍のこと
を信用せずに呼び戻したりするという、猜疑深い一面がありました。
さらに、これはまあユスティニアヌスを非難するよりも、時代の流れ
なのですが、プラトン以来の伝統ある学園アカデメイアを閉鎖したの
も彼でした。
そんなこんなで、あまり「明君」とは言えないですね。
でも、売春婦同然の女優兼ストリッパーのテオドラに恋して后妃に迎
えるなど、キャラクターとしては面白い人物だと思いますよ。
146:01/08/28 22:38 ID:jqYUTX0g
ておどら って聞くと どうしても
いざべる ぺろんを連想してしまう
147世界@名無史さん :01/08/28 23:51 ID:YfOavMss
中央公論社の「世界の歴史」だと
アレクシオス1世とその子ヨハネス2世を高く評価していますね。
あと、ヨハネス3世が「ビザンツ1の名君」って書いてある本もあったような…
(その子テオドロス2世も長生きすれば名君になっただろうとも
書いてありました)
148世界@名無史さん:01/08/29 00:26 ID:p9vjke.Y
>>145
確かに結果論としてはそうですけど、
簡単にそう結論づけるのは難しいところがあるのではないでしょうか。
中国もそうですが、「世界の中心」を自認するものの理論は
現在の国家単位の政治では推し量れないものがありますからねえ。

外征についてはやらないならやらないで「責任を放棄している」ということになりますし、
また、「領土を失う」という事実も彼らの認識では「失った」のではなく「委任した」と感じていたかもしれない。
ガリアをカエサルに任せたのと同じ感覚であったかもしれない、ということです。
建築も、世界の中心としては必要なことでしょう。

結果論としては彼のやったことは確かにまずいものでしたが、
それ以前に「ローマ」という枠組みで世界を統治しようという試み自体が崩壊していたのでは?
その崩壊した枠組みに沿って政治を行えば結果としてはまずい方向に進むでしょうが、
その時代においてはそのような政治が必要とされていたように思います。
・・・うーん、結局どう評価すべきなんだろ?
149酔鯨ジョーカー:01/08/29 18:43 ID:DoQjLY4E
革命劇場コンスタンチノープル。
この場合の革命とは、皇帝の交代。
150今は亡きモ板@羊の某固定:01/08/29 21:08 ID:qB2f0Pmg
ところでトレビゾンド公国ってどんな感じだったのでしょうか?
151酔鯨ジョーカー:01/08/29 23:28 ID:LfnXXLMY
話を逸らすつもりではありませんが>150さん、
1453年のコンスタンチノポリス陥落と1945年の
ベルリン陥落は野蛮が高貴を踏みにじった恐ろしい出来事。
152今は亡きモ板@羊の某固定:01/08/30 21:30 ID:KTSzfbjc
>>151
レス遡ってみたらあったのでお気になさらずに<トレビゾンド
いやぁ、このスレ最高っすね。すごく面白い。勉強になります。
ここ来てコンスタンティヌス・ラスカリス一夜帝の存在を初めて知りました。
153世界@名無史さん:01/09/21 20:07
ビジュアルがイメージしにくい…。
モザイクなどを見ると、かなりオリエンタルな感じだった様ですが。
154世界@名無史さん:01/09/23 03:00
>>153
美術関係はここでやってます。
http://green.jbbs.net/music/746/byzantion.html
155世界@名無史さん:01/10/09 23:18
>>154
珍しいHPだね。
156153:01/10/30 21:31
>>154
ありがとうございました。
分裂前のローマ帝国だと、映画などでも相当な大作がいろいろ創られているためか、イメージがすぐ浮かんでくるんですが、ビザンツはあまり題材に取り上げられる事がありませんからね(小説ではありますが)。
157アヤソフィア大好き:01/10/31 01:35
すごい。
こんな名スレがあったのか。

ビザンツ史の扱いが小さいのは、ビザンツの末裔であるギリシアも、ビザンツを滅ぼして覇を唱えたトルコも、いまはヨーロッパの三等国だからですよね。
『歴史から学ぶ』という意味では興味深いけど、『強者が強者に至った経緯を調べねば』という動機が生じない。
個人的には掛け値無しに面白い帝国だったと思いますが。

昨日、根津由喜夫「ビザンツ幻影の世界帝国」(講談社選書メチエ)を読んだのですが面白かったです。
通史を読むとあまり評価されていないマヌエル1世の時代を活写した感じの本なのですが、経済的な富と外交戦略で生き延びを図る帝国の姿がわかりやすく書かれている良書だと思います。
158世界@名無史さん:01/10/31 02:52
質問なんですが、十字軍によるコンスタンティノープル陥落ってどのような経緯だったのでしょうか。
高校で習ったときは非常にあっけなかったのでできたら詳しく教えてください。
159世界@名無史さん:01/10/31 07:48
>>158
「十字軍」スレからのコピペ

49 :世界@名無史さん :2001/03/29(木) 15:20
第4次十字軍。
もともとはエジプトと戦って聖地エルサレムを奪回するために立ち上がった
はずの十字軍で、フランス貴族中心のこの十字軍には教皇も多大な期待を
抱いていた。第3回の時に、国王の十字軍は政治的な理由でなかなか教会の
言うことを聞いてくれないと思い知っていたからだ。ところが、貴族の十字
軍はもっと統制がとれなかった。
そもそものつまづきは、彼らにエジプトまでの渡航費用を捻出できなかった
こと。ヨーロッパは契約社会である。騎士たちは、ヴェネツィアに契約して
渡航用の船を用意させたのに、肝心のその代金が払えない。ちゃんと彼らの
ための船を用意して待っていたヴィネツィアにしてみれば、彼らを運んでも、
運ぶのを拒んでも大損だ。だが、そこはしたたかな商業国家ヴェネツィア。
「じゃ、うちの国がハンガリーに取られた港町ザラを取り返してくれれば、
運んであげましょう」
ってなことになる。ハンガリーは、教皇のおぼえもめでたいカトリックの国。
東方正教ですらない。そのハンガリーを十字軍が攻めるという、もはや十字
軍だかなんだかわからない逸脱になってしまった。
教皇もカンカンに怒って一度は彼らを破門してしまう。
一方そのころ、ビザンティン帝国は、この国の悪いくせ、権力闘争で揺れて
いた。クーデターで失脚した皇帝の皇子アレクシオスは国外に脱出し、復帰
の機会をうかがっていた。そのアレクシオスが、十字軍を見て、これは使え
ると考える。自分を皇帝に復帰させてくれたら、聖地への渡航費用ぐらい出
してやるさ、ともちかけた。
ヴェネツィアのドゥーチェのダンドロがこれに乗って、十字軍を帝都コンス
タンティノープルに運ぶ。
かくして逸脱しまくりの十字軍はコンスタンティノープルに向かい、アレク
シオス4世を皇帝につけた。だが、皇帝になってみると、帝国の国庫は空っ
ぽで、約束した金など払えない。その上、市民は邪魔者、侵略者という目で
十字軍を見る。十字軍も、イスラム教徒と仲良く暮らしてるギリシャ人を
理解できない。怒った十字軍はコンスタンティノープルを攻略してしまった
のである。
長い苦労で、もはや十字軍は、聖地に行こうという気もうせ、ビザンティン
帝国をヴェネツィアと分割し、ラテン帝国を建てて居座った。
長年対立していた東方正教の総本山を落としたので、以前破門を宣告したは
ずなのに、教皇も機嫌を直して、これを正規の十字軍として認めたのである。
十字軍のダメぶりを象徴する十字軍であった。

50 :47 :2001/03/29(木) 18:52
>>49
詳しい説明サンクス。
まあダンドロが他の連中とは役者がちがったってことだな。
今の日本の総理もこのぐらい頼もしい人だったら・・・

51 :世界@名無史さん :2001/03/30(金) 03:24
すごい指導者だよね。エンリコ・ダンドロ。
十字軍とビザンツの亡命皇子を完璧に利用し、ヴェネツィアに最大限の
利益をもたらした。
その時点では高齢でほとんど目が不自由だったってのもすごい。
160アヤソフィア大好き:01/10/31 11:49
第四回の十字軍が、エルサレムに行けない腹いせにコンスタンチノープル在住のトルコ人を虐殺しようとことがあったらしいですよね。
その時、ビザンツ人、すなはちギリシア人たちはトルコ人に同情して、トルコ人ともに十字軍と戦ったとか。
161世界@名無史さん:01/10/31 15:28
>159氏
わざわざありがとうございました。
結局は権力闘争の産物なんですね。
でもこのあとのビザンツ帝国ってすっごく悲しい。
唯一の千年帝国なのに・・・。
162世界@名無史さん:01/10/31 19:28
我が日本も何気に1000年は確実に生きとるんじゃがのぅ。。。
163【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋:01/10/31 20:15
モンテスキューやボルテールなど啓蒙思想家は、
古代ギリシアを称える一方、ビザンティンのことは
クソみそに貶していました。啓蒙思想家の多くは
キリスト教がよほど嫌いだったんですね。
理神論者共め!
164世界@名無史さん:01/10/31 22:10
>>162
確実なところで1400年ほどは続いてますなあ、日本帝國。
165世界@名無史さん:01/11/01 11:07
ビザンツを千年帝国と称するのなら、万世一系の皇統が続いている
必要は無いので、結構条件ゆるいといえるかも?

>>162
エチオピア帝国はそれ以上続いていたかな?

>>164
日本は壬申の乱で不透明部分があるので、1300年といっておいたほうが
安全かな?
166世界@名無史さん:01/11/23 03:44
「ビザンツ帝国滅亡の要因」スレの1はドキュソなのであげ
167世界@名無史さん:01/11/23 07:39
テオドシウス朝
ユスティニアヌス朝
ヘラクレイオス朝
イサウロス朝
マケドニア朝
コムネノスおよびアンゲロス朝
ニケーア帝国
パラエオロゴス朝
168世界@名無史さん:01/11/23 14:17
167は、皇統が千何百年続いているという162や164の話題は、
王朝が何度も変わっているビザンティン帝国の千年とは関係ないと
言いたいのかな? いや、別にそれに反対する気はないけど。

ちなみに、これが中国だったら、王朝が変わるたびに国号が変わって
国が変わったってことになるんだけど。
ビザンツの場合、どんなに王朝が変わってもあくまで「ローマ帝国」
なんだよね。ローマ帝国の皇帝って、必ずしも世襲じゃないから。
169世界@名無史さん:01/11/30 00:47
>>120
アンジュー家って,ハチャメチャですよね。15世紀のルネ・ダンジュー
なんか,幾つ称号を持ってたことか。シチリアって,でもやっぱり
スペイン時代の方が支配は厳しかったんでしょうかね? シチリアで
制作された文化財のかなりのものがマドリーにあるような印象。
スキリティス年代記にしても然り。

最近おもしろいと思ってるのは,シャルル6世時代のブシコー元帥ジャン・
ル・マングル。ニコポリスの戦いに参加してハンガリー王ジキスムントと
共にオスマン=トルコのベヤズット1世と戦うが1396年に大敗。1399年には
トルコ軍のコンスタンティノポリス封鎖を解除して,ビザンティン皇帝
マヌイル2世をひきつれてフランスへドサ周りさせている。
170世界@名無史さん:01/11/30 00:58
>>27, >>42
「グルジア帝国」とはきいたことないですが,ギオルギ3世なんか「シャー」
を名乗ってるし,そんなところから来てるかもですね。
タマールはどうだったか忘れましたが。
超亀レスすいません。
17127:01/11/30 12:30
>>170
うわっ、まだこのスレあったんだ。
情報ありがとうございます。
びっくりした〜。
172ジャレル:01/11/30 14:25
東ローマ(ビザンティン)帝国関係の他のスレッドまとめてみました。

ビザンツ帝国滅亡の要因
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1002034484/

東ローマ帝国について
http://mentai.2ch.net/whis/kako/968/968341462.html

ビザンチン帝国はなぜモンゴルに滅ぼされなかったか
http://mentai.2ch.net/whis/kako/965/965543799.html

ビザンティン帝国の末裔
http://mentai.2ch.net/whis/kako/974/974070327.html

ビザンティン皇室って何?
http://mentai.2ch.net/whis/kako/962/962266586.html
173【^▽^】酔鯨ジョーカー@黒潮:01/12/04 19:27
オスマン帝国晒し上げ!
>シチリアって,でもやっぱり
>スペイン時代の方が支配は厳しかったんでしょうかね? シチリアで
>制作された文化財のかなりのものがマドリーにあるような印象。

ビザンツとは関係ないが、シチリアも興味あるので。
アンジュー家とスペインの支配を比べるならば、
スペインの方がまだしも寛容であったと思われる。

そもそも、アンジュー家がシチリアを上手く治められなかった理由は、
シチリアが多文化・多宗教地域であったのに、
アンジュー家の統治理念はキリスト教を第一とする姿勢であったことによる。
一方のスペインはこちらもまた多文化・多宗教地域であって、
アル・アンダルス(イベリア半島のムスリムのこと)とキリスト教徒は
相互に影響しあい、融合していた。
シチリアのパレルモが地中海世界有数の大都市であったように、
イベリア半島のコルドバもまた有数の大都市として栄えた。
スペインとシチリアは、フランスとシチリアに比べてはるかに環境的に近く、
よって、とられていた政策もまた無理の少ないものであったと思う。
175ジャレル:01/12/08 23:46
ビザンチン教会とモスクはなぜ似てる?
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1003936810/-100
176世界@名無史さん:01/12/12 17:22
>172
ご苦労様です。感謝。
177世界@名無史さん:01/12/23 17:11
178世界@名無史さん:01/12/23 22:57
>3
超遅レスで申し訳ございません。講談社新書に寄れば、ロシアが
ギリシャ正教を選択したのは以下の理由です。
キエフのウラジミール公は国を治めるに当たり、ロシア元来の自然崇拝
から教義の整った宗教に改宗する事を考え、各宗教を学びました。
その結果解った各宗教の欠点。
イスラム教=一夫多妻はありがたいが、禁酒は辛い。
ユダヤ教=亡国の民が信仰する宗教、有り難く思えない。
そこでとりあえずキリスト教を選択しました。で、カトリックと
ギリシア正教とでは後者の方が「ミサの光景が美しい」ので
ロシアはギリシア正教の国になったのだとか。
179世界@名無史さん:01/12/24 20:37
ロシアの改宗については『ロシア原初年代記』を参照するとおもしろい。
180ジャレル◇JSxwVwx+:01/12/26 03:24
東ローマ(ビザンティン)帝国関係スレッド
オスマン朝 >1は壮麗王スレイマンT世さんです。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1008047030/
トルコ共和国ってさ >1は音速の名無しさんです。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/987871402/
過去ログより
>オスマン・トルコ<
http://mentai.2ch.net/whis/kako/975/975185222.html
181ヨハンネス・ダマスケノス:01/12/26 04:49
182世界@名無史さん:01/12/26 09:42
>>178
年代記ではそういうことになってますが、年代記を書いたのは当時唯一のインテリ
階級である修道士ですから、たぶん「ギリシャ正教はこんなに素晴らしい」と自画
自賛的にでっちあげたエピソードでしょう。
もっとも、イスラム教拒否の理由が「禁酒は嫌だ」というのは国民性を表していて
なかなか面白い。(今でもロシア人のウォッカ好きは有名。)
実際には、キエフを中心とした当時のルーシ人にとって主要な交易相手は、ビザン
ティン帝国だったのですから、次第に東方正教徒が増えたのは必然というものです。
183世界@名無史さん:01/12/28 22:22
心と宗教板の正教スレ(マターリしてるよ)

http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1003417971/l50
184世界@名無史さん:02/01/15 14:14
キエフ公国聖界の初期の指導者たちはギリシア人ばっかりだった。
185世界@名無史さん:02/01/15 15:08
ビザンチン帝国とラテン帝国(第四回十字軍)の歴史的和解?
ビザンチン皇室てのと、ラテン帝国の末裔の領事とやらが
一緒に写真写ってるが・・・?????
一応ここのメルマガ取ってるんだが、なんかそのことを
書いてたような・・・

http://www.kcc.zaq.ne.jp/dfahy603

でも法王の東欧訪問見てると到底和解なんてあり得なさそう
な気がする。
186世界@名無史さん:02/01/27 12:07
コンスdティノープル
187世界@名無史さん:02/01/27 13:25
外出ならごめん。
他のスレでパライオロゴス家の子孫が
まだ皇帝を名乗っていると書いてあったんだけど。
だれか教えて!
188世界@名無史さん:02/01/28 21:41
パライオロゴスPalaeologosって「古い言葉」って意味ですか?
189世界@名無史さん:02/01/28 23:37
バシレイオス2世らマケドニア朝の全盛時代(10〜11世紀)ビザンティン帝国
の南東、今のトルコ領クルディスタンにはクルド系王朝マルワーン朝があった。
バグダードのブワイフ朝より独立、ビザンティンやファーティマ朝エジプト
と関係を維持しつつ周辺のアラブ系王朝などと争ったりした。
それなりに領土も広がり繁栄したが1085年にはセルジューク朝によって滅亡。
周辺の現イラク・イラン方面のクルド系王朝やアラブ系王朝やイラン系王朝も
ことごとく併合され、ビザンティン帝国も小アジアの大半を失陥した。
190世界@名無史さん:02/02/11 17:34
コムネノス朝ヨハネス2世ってどんな人だったんですか?
有能な皇帝で、しかも美男だったそうですが。
191世界@名無史さん:02/02/11 20:01
>>190
綽名のカロ(美男)っていうのは皮肉だったらしいが……(なんせビザンツ)。
192  :02/02/24 16:45
素人は何読めばいい?やっぱり中公文庫?
193世界@名無史さん:02/02/24 17:35
>>192
民明書房が一番おすすめ
194世界@名無史さん:02/03/13 00:13
アンナ・コムネナを主人公にした小説「緋色の皇女アンナ」を読みました。
中学生向けの本ですが、小説としてはなかなか良く出来てて、面白かった。
…でもこれだと、アレクシオス帝がちょっと情けないような気が。
詳しい史実を知りたくなってきました。ここを参考にして勉強しよ。
195世界@名無史さん:02/03/26 08:14
新紀元社のオスプレイ・メンアットアームズ・シリーズの
『ビザンティン帝国の軍隊 886-1118 ローマ帝国の継承者』
を買った。それはいいのだが……

「ビザンティン軍の装備については、以下の説明やカラーイラストにあるようなものが実際
によく用いられていたかどうかは疑わしい。」
だってさ。
何のための本だよ、これ。
表紙は、いかにも野蛮人っぽいヴァリャーグ傭兵だし。
196世界@名無史さん:02/05/12 22:34
age
197世界@名無史さん:02/05/27 00:38
age
198世界@名無史さん:02/05/27 00:41
空アゲ反対
199世界@名無史さん:02/05/27 00:43
メンアットアームズのカバーは無意味だ。
あんな薄い本にカバーなんていらねえよ。
200世界@名無史さん:02/05/27 00:51
>199
>あんな薄い本にカバーなんていらねえよ。

そうそう。
カバー無くしてもっと安くしろ
201初心者:02/05/27 07:33
ビザンツの最後の数十年って、もはやコンスタンティノープル周辺を確保しているだけで
周りはずううっと異教徒のオスマン帝国に囲まれていたんですよね。
救いの手も無く、ビザンツ国民は正気でいられたのでしょうか?
202世界@名無史さん:02/05/27 08:00
>>201
西欧から援軍を仰ぐためカトリックと合同してでも生き残ろうとする連中と
正教の信仰を捨てるくらいなら援軍などいらないという連中が
抗争したりと大変なことになってました。
203世界@名無史さん:02/05/28 01:43
内紛はこの国の宿痾ですからな。
204世界@名無史さん:02/05/28 02:14
サビル人って?
205世界@名無史さん:02/05/28 07:41
>>203
関係無いからsageるけど、宿痾(の痾)って、文字コードにあったんだ。
で今かな漢字変換してみたらATOK12では出ない。
辞書登録しておくか。
206世界@名無史さん:02/06/06 01:19
礼賛 ビザンティン美術 礼賛
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=65&KEY=1011457994
207世界@名無史さん:02/06/21 23:53
あげ
208世界@名無史さん
ビザンチンの場合、日本では古代スラブ史の研究者が少なすぎるのが致命的で、
どうしても偏ってしまう。