各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)
ちなみに、万石あたり250人は比較的低い動員率、
無理すればもっと動員できるだろうがそういう兵力は基本的な守りに残すと解釈。
関東
上野:49万6千石/12400
甲信・中部
甲斐:22万8千石/5700
信濃:40万8千石/10200
飛騨:3万8千石/950
美濃:54万石/13500
近江:77万5千石/19375
東海
駿河:15万石/3750
遠江:25万5千石/6375
三河:29万石/7275
尾張:57万2千石/14300
伊勢:56万7千石/14175
志摩:1万8千石/450
北陸
越後:39万1千石/9775
越中:38万3千石/9500
越前:49万9千石/12500(慶長検地では68万石)
若狭:8万5千石/2125
畿内
山城:22万5千石/5625
大和:44万9千石/11225
摂津:35万6千石/8900
河内:24万2千石/6050
和泉:14万1千石/3550
伊賀:10万石/2500
四国
讃岐:12万6千石/3150
阿波:18万4千石/4570
淡路:6万2千石/1550
各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)は以下参照
ttp://homepage3.nifty.com/ksatake/
1572年(元亀三年)十月三日(信玄、古府中を出立)の各勢力の状況
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…95%(9690)
*飯山周辺は残す。
・上野…36〜43%(4450〜5375)
*倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。
14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。
利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割)
・駿河…100%(3750)
・飛騨…10%(95)
*72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
して上杉氏を頼る。
・越中…?
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
・遠江…7.8%(500)
*遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。
武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。
遠征後は20%ほどに増大
・三河…12%(850)
*足助城を落とし、賀茂郡一部・設楽郡ほぼすべて・八名郡一部を支配。ただし全て山地なのがネック。
・美濃…ほぼ0〜5%(0〜675)
*秋山信友が岩村城を落すのが72年11月。 それ以前に落していた恵那郡の小城を、どの程度に見積もるか?
18(21?)郡中これだけでは最大5%もないとする意見。
総計25035〜26635
後北条と同盟。義昭や顕如ら畿内の反織田勢力と連絡を取り合う。背後に上杉と上野方面を巡って火種。
ただし、もともと高税率のうえ、69年以降は戦もそれまでの二倍以上。領国の疲弊はすでに始まっていた
とする説あり、ただしソースは少ない。継戦能力にも疑問。
●織田
・尾張…100%(14300)
・美濃…90%(12150)
*21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺のみ 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…70%(13563)
*浅井・六角は追い詰め中。他には甲賀郡の土豪と野洲郡のいつ蜂起するか判らない一揆衆。
・伊勢70%(9923)
*桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡され乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
・三河…10%(728)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族。
総計51114
この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。
若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山池田荒木和田など、淡路の安宅
などが味方勢力として存在。
●徳川
・三河…78%(5675)
・遠江…92.2%(5875)
*両国とも、武田にどの程度侵略されているか。また調略如何によっては動員はさらに下がるかも。
総計11550
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は グンと下がっているだろう。上杉と同盟。
その他の勢力 東国
●長尾上杉
・越後…100%(9775)
*ただし、揚北衆特に本庄氏の扱いは微妙。
・上野…10%(1240)
*沼田・厩橋近辺と考えるとこれぐらいか? 武田・北条におされ気味。
・越中…20〜25%(1900〜2375)
*神通川以東(新川郡)松倉・富山は1573年正月まで攻撃中。72年〜73年にかけての遠征によって、越中の大部分を支配下に収める。
この時は越中から加賀にまで攻め込み、顕如から信玄へ援軍要請が行われた。
・飛騨…三木氏や江間氏とは友好的。1572年の富山攻めでは江間氏が援軍派遣してる
・信濃…5%?(510)
*飯山城とその周辺は保っていた模様。最大見積もってもこの程度。
総計13425〜13900
・遠征能力○
遠征能力は高いが、北陸へ出陣中。仮に北信・上野に出陣するとしてもメリットは薄い? ただし史実
ではこれ以前も以後も関東への出兵を繰り返している。武田・北条・加賀を敵に回して織田・徳川と同盟。
関東の諸将(佐竹ら)とは疎遠になった。
●後北条
・遠征能力○
武田・上杉と並ぶ大国だが、武田とは同盟中。今回の武田西上でも援軍(二千~三千?)も出している。
数年前まで戦っていたとはいえ、手切れをしてまで武田を攻める事は無いだろう。北関東には他に敵
もいる。
その他の勢力 畿内
●朝倉
・越前…100%(12500)
*寺社領については、明確な根拠を示さない限り否定されます。
・若狭…?
*守護武田氏は抑えているが意味なし。有力国人である逸見氏・粟屋氏などはこぞって織田について抗争中。
朝倉軍の一部は粟屋氏の居城を攻撃していた模様。(武藤氏が反織田に回ったが、この時期の動向は不明)
総計12500+?
・遠征能力○
遠征は10000程度は可能か? 現在、越前にフラフラ様子み。70年の講和以降、浅井への援軍以外に
出兵なし。経済疲弊。一部軍役拒否の状態。若狭の支配圏は低下中、むしろ抑えるための兵力派遣
が必要。
●浅井
・近江…9.5〜14.5%(1850〜2825)
*伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城しか残っていない。
高島郡はもう少し高いとみる説あり。これも考慮に入れた。
総計1850〜2825
・遠征能力△(朝倉が来れば助力可)
単独での侵攻は辛い。木下隊に苦戦。小谷城の眼前に虎御前山砦を築かれて押し込められる。
●六角
・近江…?
*愛智郡鯰江城で逼塞状態。甲賀の土豪がどれほと力になるか?
●松永・筒井(反松永)
・大和(11225、ただし双方合わせて)
*寺社勢力は心情的にも筒井派。土豪も多くが筒井につく。
・遠征能力×(両派とも)
大和で両派が泥沼の抗争中。お互い支援を求めて織田や三好と手を組むことに。
元亀三年の時点では織田の支援を受けた筒井側に有利。松永は押されっぱなし。
●長島一向宗+国人
計20000?
遠征しないが尾張は目と鼻の先。ただし動きは鈍い。守備力は高い。
●石山本願寺+雑賀衆?
計23000?
遠征準備は謎だが、近江まで歩いて1日。 ただし動きは鈍い。守備力は鬼。本願寺自身は織田と直接
軍事衝突は行っていない(するのは後年)。信長との外交ルートあり。
※もともと本願寺と一揆は別ものであり、絶対的な命令権があるわけではない。各地の一揆はそれぞれ
の権益を守るために支配者に抵抗した。また、兵力には老幼婦女が多数含まれていると考えられる。
●北畠
・伊勢…30%(4253)
*大湊など、伊勢湾の海上交易に大きな影響力をもつ。かつては南伊勢五郡を有したが、織田へ離脱
するものが出る。
計?
・遠征能力×
織田による内部からの乗っ取り進行中。そのため勢力としては身動きとれない。隠居させられた北畠
具教は面従腹背。武田と接触をとっているが(根拠は不明)、実質どれほど動かせるかは不明(後年、
具教が討たれたときに北畠残党が挙兵するが、一族などの一部に留まる)。
ほとんど織田の一部とみなしてもいいとする意見あり(ただし、信雄が正式に跡目を継いで北畠軍が
織田の一環として行動するのは74年以降)。
●伊賀
六角に協力したり北畠についたり。基本的には中立。
その他の勢力 三好
三好一族の主だった頭(各国の支配率は不明、動員数は100%の場合)
畿内
・本家:三好義継 三人衆との関係から信長に従っていたが、義昭と共に敵対する
・三人衆:三好長逸、三好政康、石成友通 これも一枚岩ではない。義継や久秀と
抗争の為に行動をともにしていただけ。特に石成は一人信長についた時期もある。
・三好笑岩 基本的に、四国三好家にちかい。信長以前は本家と戦い続ける。
・三好政勝 管領細川家の家臣。長慶を親の仇と長年争い続ける。
・摂津(8900)
・河内(6050)
・和泉(3550)
*ただし、この全てを三好一族が抑えていたわけではなく、細川、畠山、池田、和田、荒木、伊丹、
その他在地勢力が根を張り、反三好から織田につくものも多数いた。
総計18500-敵対勢力
・遠征能力×
反織田という形で立場は同じになったが、指揮が統一されたわけでもなく分裂状態のまま。
統一行動は難しいか。
四国
・阿波三好家:三好長治-篠原長房 基本的に、主筋になる細川家と争ったり講和したり。 畿内には
あまり関わらず。播磨方面で抗争があった模様?
・讃岐十河家:十河在保 阿波三好家と行動を共にす。
・淡路安宅家:安宅信康 四国三好家についていたが、1572年には信長につく。
・阿波(4570)
・讃岐(3150)
・淡路(1550)
*安宅信康が織田についてしまったので、これは三好には加えられない。
総計9270-安宅氏の勢力
・遠征能力×
お互いに争ったり結んだり。このころには篠原長房との確執が表面化しだす。73年4〜5月に長房が
討たれた後は抑えられていた豪族たちが反旗を翻すことになる。
四国の三好家関連は、後にほとんど信長に属することになる
おまけ
●足利将軍家
・山城…?
*北山城の国人が義昭に呼応し、明智の配下から離脱者が出たとの記録あり。また細川藤孝や石成友通
などの勢力もあり。細川・明智は織田勢力とみなしてもいい。
総計不明
・遠征能力×(史実でも城に篭った)
■この情勢をもとにした推測。
織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
(基本的な任務は守備、現状維持)
計算上は2万8千ほどを対武田に向けられるのでは?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
北条の援軍が二千〜三千で、
合計ニ万〜二万五千ほど?
総計25035〜26635
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、石高的には10万石3000ほど
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、石高的には6万石1500ほど
北条の援軍が二千〜三千で、
遠征軍合計実数二万五千ほど
遠征軍は石高的には84万石〜90万石で21000〜22500ほど+北条の援軍2000〜3000
■三方ヶ原の戦い後の情勢。
1572年
十二月 二十二日 三方ヶ原の戦い
1573年
一月 三日 武田軍野田城を囲む
北山城や摂津河内の国衆から義昭に付く者が続出する。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴。
近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。
二月 十五日 武田軍野田城を落とす。
二十四日 柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。
三月 二十五日 信長、岐阜を出陣。
二十九日 細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。
四月 三日〜四日 上京焼き討ち。二条御所を包囲。
七日 調停の仲介により信長と義昭との和睦なる。
八日 信長、京より岐阜へたつ。
十二日 武田信玄死去
柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。
七月 足利義昭京より逃れる。
八月 朝倉・浅井両家滅亡。
37スレ まとめ
>1-32テンプレ
>150-153>237-242過去ログ
>61-207>225-235長篠の戦いと徳川の強さ >188-190信長公記より抜粋長篠
>193-223信玄信長の戦術能力 斯波小笠原について
>245-292織田との講和と信長への降伏真田 勝頼降伏のIF
>293-359 73年織田の兵の配置について 何故石高兵力を求める必要があるのか
>328-334 当時の諸勢力
>360-457近江伊勢石高飛騨加賀など
>395-396南近江諸豪族 >404伊勢国人衆 >408>410高島郡
>427>428>430加賀の朝倉領まとめ >444>446飛騨江馬氏まとめ
>458-511 73年織田の兵の配置について >472テンプレ修正
>497-521伊勢近江
>499北畠氏学講座リンク >508高島郡 >519>520修正テンプレ
>526-533石高以外の経済力
>540-553浅井郡について >546まとめ
>559-624北畠
>630-691飛騨越中畿内諸勢力上杉の動向
>692-805北畠と南伊勢 >706本願寺からの贈り物
>754-766江間について >757テンプレ時の江馬に関する書状 >791謙信の越中の行動
>812-820軍鑑での参陣武将
>824-882武田織田の兵質戦術能力 兵農分離について 馬廻りの割合と蔵入地
>877-881上杉の関東での略奪行為人攫い 雑兵たちの戦場
>859-909北畠加賀など
>911-981武田織田の兵質戦術能力
>935-994三増峠の北条軍
これでおしまい
過去ログはまだしも関連スレはやっぱいらないような
あと
肝心の1でレス指定を間違えるという晒し上げなスレたてをしてしまった
テンプレは
>>1-21とすべきだったのに
吊ってくる
乙ー
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 00:13:22
おつー
あげておくよ
テンプレところどころ修正してあるな
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 00:20:39
>>26 いや織田の美濃のところ全角数字が混ざっていたのが半角に統一されてる
あと郡の数も21に訂正されてる
他に石高のリンク先とかが加わっていたり
あと浅井が若干増えてるな
違った武田の美濃の部分だ
美濃90%か
姑息だな
相変わらず
>>27 前スレ
・美濃…ほぼ0〜5%(0〜675)
↑
ここの部分か!!
細かいなお前
>>29 美濃は元から90だろ
美濃といえば馬場は美濃守に改名するが
これは信玄が美濃を支配する事を意味していたのであろうか?
>>32 島津あたりが陸奥の守の官位貰ったりする戦国の世ではあまり関係無いきもするが
板垣の駿河の守は駿河担当になったことによるものという話も有る
羽柴筑前とかその手の逸話があったから
所詮は自称だからな
正式に官位貰ってたとするなら同位同官が何人出ることやら…
流石に右府衛大将みたいな頼朝とかに授けられた高位を自称はしなかったみたいだけどね
37 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 01:43:18
秋山伯耆守を忘れてもらっちゃ困る
真田安房守もいるぜー
>>34 羽柴や明智は正式な任官だったと思われ。
武田は自称だからね。
総計25035〜26635
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、石高的には10万石3000ほど
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、石高的には6万石1500ほど
北条の援軍が二千〜三千で、
遠征軍合計実数二万五千ほど
遠征軍は石高的には84万石〜90万石で21000〜22500ほど+北条の援軍2000〜3000
25000〜26000-5000-3000=17000〜18000
17000〜18000+3000=20000〜21000
北条援軍がなんで二回計算されてるんだ?
かいてから気づいた。
美濃方面軍も数にいれてるのか。
織田本体とぶつかる実数は21000程度とすべきだろ。
とりあえずあれだ。
>>1乙。
しかし常ながらやたら長いテンプレだ。
北条軍の援軍は・・
織田を二度さす・・・!?
1572年(元亀三年)末日の各勢力の状況
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…99%(10000)*飯山以北は残す。
・上野…45〜50%(5500〜6250)
*利根川以西に北部と南部の東岸を加える
・駿河…100%(3750)
・飛騨…50%(500)
*江間150騎が先方衆となっている。元亀3年9月に木曾方面からの侵攻もあり
・越中…15%(1500)
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っている。71年には謙信に落とされているというのは
誤りで、近年は上洛開始時健在でほぼ確定。
・遠江…40%(2500)
*徳川側記録に拠ると、地侍が靡く様に寝返るとある。東海道沿いに逼塞、ぺちゃんこ
・三河…20%(1500)
*山家三方衆を誘降、足助城を落とし、賀茂郡、設楽郡ほぼすべて・八名郡一部を支配。
・美濃…5%(675)
*秋山信友が土岐、岩村を制圧。
計32000〜33000 + 北条からの援軍1000
領国の疲弊はすでに始まっていたとする珍説があったが完全に否定されたw
●織田
・尾張…100%(13000)寛永検地では52万石
・美濃…90%(12150)恵那、土岐を失陥 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…50%(9500)
*浅井・六角は追い詰め中。湖南のいつ蜂起するか判らない一向一揆。
・伊勢55%(8000)
*桑名・三重郡の一揆衆。南部5郡の北畠氏を除く。
・三河…0%(0)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族は家康の寄子。
総計43100
●徳川
・三河…75%(5500)
・遠江…60%(3750)
侵略しぬかれぺっちゃんこ
計9250 ただし味方が原の大敗でもっと減っている可能性大
>>40 上の北条の援軍が余計なんじゃないか
>25000〜26000-5000-3000=17000〜18000
>17000〜18000+3000=20000〜21000
あとこの計算はおかしいぞ
●浅井
・近江…18%(3500)
*伊香郡、高島郡の朽木、志賀境を除く、浅井郡7割、朝倉との関係上城は元々破却済み。
計約3500
●北畠
・伊勢…40%(5600)
*南伊勢五郡を領有、誰かが織田へ離脱したと主張し始めた国衆はもともと南勢ではない。
織田軍へ加勢するのは長島を根切りにした時の戦から。
計5600−α 織田は北畠一族や国衆を動かせないが
北畠も表立った行動は難しいかもしれない
●朝倉
・越前…100%(12500)
・若狭…?
*若狭侵攻で一部を除く中、東部を支配、逸見氏・粟屋氏は織田についたため逼塞
朝倉軍の一部が粟屋氏の居城を包囲中。(武藤氏が反織田に回った)
・加賀…20%(1800)
計16000
>>49 ・加賀…20%(1800)
って適当だな
朝倉は最盛期には2郡支配したというのに
どうせなら50%しろよ
●長島一向一揆
追い詰められた末根切りに遭ったのが2万人、おそらく3万前後かw
*信長の弟が拠る城を短期間に陥落させたこともある
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 15:19:33
加賀がなぜ入るのだ?
加賀一揆と和睦した際に大聖寺とか焼き払って放棄しているはずだが
■この情勢をもとにした推測。
武田方
北信東部へ680、西部へ1000、上野へ700+小幡500騎+1500、駿河へ330
美濃岩村の秋山組が1500ほど、北条の援軍が二千
計約ニ万八千
総計32000〜33000
>>53 加賀方の柏野も焼き払って放棄している。ってことは‥
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 15:26:04
■この情勢をもとにした推測。
織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下合計七千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに明智八千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の備えに五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
(基本的な任務は守備、現状維持)
計算上は2万ほどを対武田に向けられるのではなかろーか?
計43000
ようやく上洛できそうなフインキですね。
後は徳川の兵力か?
江沼郡だけだと確かに20%いかないな、加賀の17〜18%くらいだろう
本願寺の動静がなぁ…
三好党を攻めた信長軍を一斉蜂起で打撃かつ足止めして、その間に浅井朝倉軍が南下するって手で信長を苦しめたけど
以後は防戦主体で武田とか他大名が信長を叩いてくれるのを待ちの姿勢でしょ
断続的とはいえ講和もしていれば贈り物外交もしてるし
積極的に織田軍を拘束してくれれば、浅井朝倉も追い詰められる速度がかなり鈍っただろう
いくら遠征力に欠ける一揆衆主体とはいえ京都程度まで出張れんとも思えんし
元亀2年5月 六角義治、本願寺宗徒の近江垣見城を賞する云々
遠征力に欠けるってのが間違え
長島の一揆も尾張に侵入して城を落としてるし(信長の弟死亡)
加賀の一揆も何度も越前侵入を繰り返している。
本願寺に詰めた一揆衆はあくまでも御山を守るために集まった者達
落ちた時のことを考えると、迂闊に動きたくなかったんだろ
>>10の三好三人衆の説明だけど基本的に三人衆はまとまって軍事行動を起こしてるのに
あの説明ではてんでばらばらな感じを受けるのだがどうなんだろ?
野洲で蜂起、今堅田で蜂起、垣見城を占拠
確かに一向宗徒って迂闊に動かない奴等ですね
>>64 三好三人衆がまとまって行動してたのって長慶死亡後から信長上洛までの期間ぐらいなんじゃ
>>65 じゃなんで肝心な時に動いてくれんかったん?
武田の西進が頓挫し、浅井朝倉三好が壊滅する間疲れて寝てたのか?w
本願寺及び近辺の砦に詰めてた連中と
在地レベルで集合した連中がごっちゃになってないか?
この場合は織田本軍を正面から拘束しうる兵力を持っていた本願寺本軍のことだろう
結局、後者は各個撃破くらってるしな
>>66 いや、確か信長の畿内遠征にも三人衆で対抗してるし
その後の畿内の勢力に対しても共同で攻めてたと思うが。
>>69 石成は信長に付いてるよ
テンプレの時期でも形式上は織田に付いていたと思う
信長の藤孝への手紙から本当に形だけみたいだが
>>70 付いてるよ
じゃなくて
付いていた時期もあるよ
だな
>>66 正確には70年までなんじゃ
それ以後も一緒に行動しているとなると全員が織田についてるということになりかねないし
無論形式上は義昭についているのだけど
>>70 付いてるというよりも和睦していたんじゃ
付いてるでは従属してる印象ぽいし
形式上は対等だから和睦かもしれないね
ただ実質従属みたいなものだけど
義昭が介在してたりする分、関係は複雑
後年の行動をみれば信長に従属というよりも将軍にという感じじゃない。
ただ将軍は信長の影響下にあったからそのあたりが複雑なのかもしれないけど。
>>75 それはある
一応73年の2月ぐらいまでは織田に協力しているが
それ以後は義昭について行動しているといって良いだろ
似たような例で山本とかもるし
安宅は義昭に降伏して織田についてそのまま織田といった
石成とは違う例だが
元亀の時期の、畿内の諸大名の扱いは難しいんですよね。信長の動員令に
したがっているけれど、立場上は義昭の部下ということで信長と同格扱い。
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 23:47:23
動員兵力を石高だけで換算するのは発想が農民過ぎる
商業の生産力も見積もらなければならない
当時の農業系GNPと、商業系GNPというか非農業系GNPは実際はどうか知らんが、
現代では圧倒的に商業系GNP>農業系GNPであり、当時でも既に非農業系GNP>農業系GNPなのではないのか?
火縄銃の大量生産をできるくらいの文明がある以上、石高以上に商業生産力が高い地域もあるだろう
義昭蜂起の時に従った連中の少なさから考えると
信長の実力に従ってたのであって、将軍は名目だったのかなやっぱ
>>78 それすると織田と本願寺が更に強大化するから
いい史料が無いというのもあるし。
>>79 石山、今堅田の連中や奉公衆の山岡も呼応してる
明智の与力だった山本対馬守も明智から離反してる、肝心の光秀は義昭から離反したが
石成も将軍についてるし、幕府奉公衆や一部の公家衆も義昭についている
義昭側の最大勢力の一人細川藤孝は織田に付いたけどさ
将軍なんて義輝みたいに実力(この場合は個人的武勇のことではなく、財力や兵力など)が無ければ殺害される程度の存在
権威は権力が伴って初めて意味がある
だけど権力は将軍じゃなくて信長が持っていたわけで
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/07(土) 01:12:18
義昭蜂起のタイミング悪い
もし将軍の名で講和を結ばざるを得ないほど信長がキツかった時期に兵を挙げていれば(そこまでいかなくても身一つで別の勢力に身を寄せていれば)展開がかなり違ったものを
武田軍が後退し、動きが鈍いor弱体化した勢力との協調しか期待できなくなった時点で立っても…
当時のことだから正確な情報が届かなかったのかもしれんけどさ
>>78 問題は商売人は兵にならないし、浮浪者は兵になっても逃亡するってことだろ
大規模な傭兵が存在していれば金持ちかどうかが史実より大きく兵力を左右しただろうけどな
日本では根来衆とか雑賀衆とか各地の水軍衆程度じゃね?
動産給付で動いてくれるのって
元々武士身分だった牢人衆はどの大名家にも見えるけど
そうじゃない浮浪者雇っても逃げるだけだろうしね
>>78 武田の金山と信長の上がりとか史料があるといいのだがな
>>44 飛騨はアレだけ否定されたのにまだ入れてるあたりに武田厨のずぶとさが現れてるな
>>46 おそらく織田徳川本体がぶつかるであろう三河あたりでの信玄が率いる軍勢が21000前後ってこと
>>84 元々1万石あたり250人って言うのは1万石の米を金に買えて
武具を用意したりそのまま兵糧してまかなえる人数が250人と言うこと。
経済力を考慮に入れると言うのは、持っている金や銭で武具を整えたり
兵糧を購入して兵をまかなうと言うこと。
経済力を考慮にいれても結局動員されるのは農民だろう。
別に商人を兵士にするわけじゃない。
後は織田領の寺社領を差し引いた兵力を出すだけだな
まだこの辺は手付かず
武田領から寺社領を差し引いた形跡がないが。
なぜ織田領だけ?
武田は寺社関係と良好な関係を保っていたからと、くるに300石
実際そうだし>武田は寺社関係と良好な関係を保っていたからと
武田は寺社領で争わなかったから寺社と関係が良好なだけなんだよ。
別に寺社が武田に協力的だったわけじゃない。
だから寺社領を引かなければならないなら武田も同じこと。
>>95 だったら、寺社領で争わなかった分比率で言えば
織田より武田の方が引かなければならない寺社領は多いと言うことか?
>>89 鉄砲だのといった装備はともかく、
兵士を金で雇うという兵力動員形式は戦国時代の日本にはないよ。
いや、正確には初期にはあったんだけどまともに戦いもせず逃げてしまうから、
使い物にならなくて廃れた。
結局当時の兵力動員を担っていたのは武士により封建的に支配されていた、
半農半兵の連中で、それがどれほどいたかは農業生産力、即ち石高によってほぼ推測される。
>>97 それは嘘だな
大阪城篭城とかおもっきり浪人を雇っていた
>>98 大坂の陣の時には、関ヶ原後の改易で領土を失った武士が大量にいたからね。
それに彼らだって、もしも上手くいけば、豊臣家によって取り立てて貰える、
つまり「領土」を得て大名や領主や武士に戻れる、あるいはなれると思って参加したわけで、
金だけで雇われた傭兵ではない。
戦国時代に各大名が用いた浪人衆もほぼ同様、
手柄を立てれば取り立ててもらえると思うから集まるわけで、
結局当時の兵力動員の基礎となっているのは土地。
応仁の乱のときに盛んに用いられた雑兵や、
堺の町衆が雇っていたという兵力等は金だけで雇われていたといえると思うが、
そういった連中はまともに戦ってくれないから、あまり用いられない。
一部に
>>85があげているような例外があるだけ。
>>95 >別に寺社が武田に協力的だったわけじゃない
それは嘘だな。恵林寺検地帳の存在や諏訪の神兵、川中島における善光寺別当の帰参など
寺社は武田家に協力的だったよ。
初期を除き常に寺社と敵対してた織田とは全く違う。
寺社との関係なら
一向一揆を撃破して寺社領を取り上げるないし削減して直轄地に組み込んだほうが、国内の治外法権を容認しつづけるより大名の力になるんじゃないの?
徳川なんかは三河に限っての話だけど一向一揆撃退後、他国に先駆けて一職支配を強めてたし
いや、朝倉や北条、武田も寺社領を横領なり没収なりしてから
制限された権利を認めているワケで
家康の場合、自家の力に比して一向一揆の力が大きかった為に
大事になってしまっただけだと思う。
104 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/07(土) 16:16:54
争わなくてすむ程度の制限なら寺社領が多く残っているんじゃないか?
一国総計多くて数千石みたいよ
織田に協力していた寺社もあったけどね
>>105 ただ寺社は経済・流通を握っていたわけで
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/07(土) 16:51:17
保守的な勢力は革新的な事を嫌う。
革新的勢力は保守勢力の考え方を嫌う
110 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/07(土) 18:06:20
利権屋さん
熱田神宮とか
熱田神宮の宮司(名前失念)は神官と織田の武将を兼任してたね
桶狭間の時戦死したけど、息子も同じように織田についたはず
興福寺なんかは親織田か
大和検地で寺社領削られちゃったとかあったけど…
>>101 全ての寺社が信長と対立したなんていっている時点で終わっている。
ちなみに、叡山焼き討ちのあと信長は近江の山門領を全て没収して配下に分配し、
それによって近江の支配を確立させた。
>>113 千秋氏ね。以前は京に住み尾張・美濃・三河に寺社領を持ってたらしいが戦国期に入り衰退して
尾張に居住を移し信秀の時は織田について戦ったらしいが
桶狭間で戦死した後その子が宮司を継ぎ、以降宮司の千秋氏が戦に参加した記録はないそうだ。
>>114 親織田というより反松永かな。大仏殿を焼かれてたりするし。
その後興福寺出の筒井が松永と争った為、筒井についた。結果として織田側になったかんじだね。
>>117 『千秋家譜』に次のような記述がある。
千秋季忠が桶狭間で戦死した時息子の季信はまだ母の胎内にあった。
彼が十五歳になった年(天正二年)、初めて信長に拝謁した。
信長は天下統一の暁には本領全てを相続させるとしたうえで
「熱田大宮司は神祇伯に次ぐ重い職なのに、三代続けて戦死してしまった。これから
は軍事に関わる事をやめ、大宮司職に専念せよ」
と言った。
信玄も一次か二次の川中島で善光寺とその勢力と戦っているけどね
最終的に信濃善光寺は壊滅して武田のものとなっているから
信玄も信長の焼き討ちのように寺社を自分のものとしている
自辛未歳両棟別共御赦免、、
然而御普請役・隠田等之事、
軍役衆可為同前之旨、御下知候間、
存其旨厳重ニ可令陣参、御扶持者、
如此間可被下者也、如件、
元亀弐年辛未
卯月十九日
山県三郎兵衛尉
原隼人佑
これって結局どういう意味なの?
>>119 第二次から武田に付いたみたいで一次は上杉方だったみたい
善光寺は川中島の合戦で荒廃したから本尊などを
甲府に移したんで信長の焼き討ちとはちがうよ
日本史で習う楽市楽座で特権を奪われる対象の一つが寺社
独自の武力も蓄えている以上、中々大名にとってはウザかっただろうな
>>103 あの今川とも対立している状況で寺社にも手を出すあたり
家康はかなり大胆だな、今川が介入する直前までに終わらせるあたりが凄いが
>>120 税を免除してやるから変わりに軍役に付けという意味では
>>124 介入する前に遠州ソウゲキが起きてなかったっけ?
武田が、仮に三河をとっても、地元の一向宗門徒との利害調整は
難しそうだな。顕如と姻戚関係にあっても、末寺は統制できんだろうし。
徳川という重しが無くなると、三河も、朝倉氏亡き後の越前のように、
一向宗の大蜂起が起きるかもしれんね。武田の西進はそこで終わる。
>>120 発覚した隠田を没収せず、隠田分とその他扱いを軍役衆同様にしてやるから
軍役に付けってことじゃないかな
>>127 越前は加賀から一揆が侵攻したから。
よって三河じゃ一向宗の大蜂起は起きません、悪しからず
一向宗と他の反信長との完全な共闘が成立していれば、信長の覇権は
数ヶ月で終焉する。
特に、上杉と北陸門徒宗との和平が成立していれば、上杉軍が突如、
近江・坂本あたりに出現することもあり得る。
現実は、北陸・一向宗ベルトを打通できず、加賀に織田が攻め込む
事態になって初めて共闘らしきものが成立するが、そのあと謙信がポックリ。
あれだけ、ガチンコ・バトルやっときながら、朝廷をダシにして
何度も講和に持ち込んで時間稼ぎできた信長の方が、武田・上杉よりも
一向宗対策は勝っている。
>>129 家康の統治初期に実績あるじゃん?<三河一向宗の蜂起
鎮圧後も、徳川家の末端は一向宗多いよ。
大将の旗印からして、「厭離穢土欣求浄土」。
主家が滅びれば、再蜂起もあり得る。
>>131 対武田の時点じゃ信者部下は改宗して帰順するか、離れたまま(本多とかの帰参は本能寺直前)
それにその時点で抵抗力を削がれたから、以後目立った動きをしなくなったんだろ
駿河を起点に掛川を攻略せずに、二俣経由で南下するあたりが
武田の限界。
徳川潰しの戦略としては有効な間接アプローチ的かもしれんけど、
堅城とはいえ、掛川程度を攻略できない軍が「上洛」するなんざ
百年早い。
>>128 それは何というか蜀の末期みたいな軍事増強策だな
>>132 一向宗を改宗させる?
そんなことは、信長でも無理だw。
家康にしても統制できたのは世俗に関わるとこのみ。
天下をとった後でも、西本願寺と東本願寺を分割統治する
のが精々。
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 04:30:10
家康は一向一揆に加担した武士には「首謀者を死刑にせず、領土も安堵」という破格の許しを出したが
寺に対しては「元に戻す」と約束
「一揆起こす前に戻すんだな」と僧侶側が思ってたら寺打ちこわし
僧が抗議したら「(寺が建てられる前の)元にもどしたじゃん」と答えた
なかなかいい性格してたんだな
>>135 無理じゃないが困難だね
だから改宗を拒んで追放された者がかなりいたそうな
殺さない辺りが家康の肝かな。後に一揆を気にしなくて済むようになると禁令を解いたんで本多正信などの有力家臣が帰参してきた
>>131 その時は、三河一向宗の蜂起と松平家内部のお家騒動に一向宗の地侍が混じったからな
武田家と本願寺の関係は良好
対家康の協力こそすれ、再蜂起とはあり得なさすぎて笑える
徳川十六将に後年数えられる蜂屋も家康に敵対して一揆に参加したけど
いざとなると家康に槍を向けることを躊躇して隠れたという話がある
板挟みになった連中が多かったことだろうな
厭離穢土欣求浄土は別に一向衆の独占じゃないが
松平家は浄土宗だな
厭離穢土欣求浄土は松平四代目の親忠が尾張で敵の大軍と戦って勝った時の旗印と同じといわれる
143 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 11:08:35
>>142 蜂屋半之丞貞次のことだと思われる
一向一揆鎮圧後の吉田城攻めで戦死してるからあんまり有名じゃない
正直、徳川十六神将の一人になる理由が良くわかんない男
家康には槍を向けなかったってエピソードのお陰かな?
>>120 武田の領国疲弊のソースの一つ
前にも一度出たが、それはソースにならないとか主張してる人もいたけど
結論はどうなったかは忘れた
>>144 軍役の代わりに税免除する旨の書状が
なぜ領国疲労なのか説明してくれ
そんなに噛みつくなよ
144も結論は忘れたって書いてるでしょ
領国疲労までいったかは分からないが
軍役の代わりに税免除するということは単純に考えて財政は悪化だろうな
税負担者が減ったにも関わらず財政が悪化して無いなら今まで以上の重税をかけたということだな
軍役の変わりに税免除に限定するなら他家でも結構あったんじゃない?
特定の家臣だけに度々軍役を課す事もあるだろうし恩賞の一つと考えても良いと思うよ
150 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 20:25:16
ソースソースとお気楽だね。
軍役かけられた領民にとっては恩賞かもしれないが
武田家にとってはその分、税収が減る、財政悪化、
その減収分を補うためそれ以外の領民に重税、領国疲弊
やってることは長篠後と同じじゃない?
153 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 21:06:58
ヽ(´ー`)ノ
テレビ朝日系列 「風林火山」 始まりましたよ〜
154 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 21:09:46
>>151 臨時的な軍役だとしたら武田家だって何らかの恩賞を出す必要があるんだから
それを税の免除にしただけじゃないの?
恩賞だって武田の財布から出すんだから一緒の事だと思うけど
ただ働きはないよ
隠田没収は法度に定められたものでしょ?
通常の免除とは違うんじゃ?
普通に考えれば、領国が万全でも地力が大きい織田と交戦する可能性があるんだから
多めの動員を考えても不思議じゃなかろう
所詮は推測だけどな
>>154 だから要するに支出が増えたということだろ
一方の織田も不利になりそうだと判断したら動員多くするだろうな。
兵力が足りない場合は
・根こそぎ動員をかける(小牧長久手の徳川氏等)
・他の地方はある程度手薄にしてでも、特定方面に兵力を集中させる(荒木攻めの信長等)
動員を多くするといっても自分の土地を守る以外の戦は基本的に恩賞が要るんだって
恩賞が出せないから兵が集められなくなる訳でそんな簡単な事じゃないと思う。
>>151>>157 規模によるだろうな。
郡単位での免除なら財政に及ぼしてくるだろうが
規模が小さければ支出も少ないし
或いはほとんど影響ない程度かもしれんし
そこら辺の詳細なソースも出してくれないとね
そこで碁石金の出番ですよ
不動産給付は難しいけど、動産ならやりくりしようがある
>>161 郡単位の免除なんてしたらその時点で崩壊しかねないんじゃないか
しかも
>>159の例と異なり
軍役衆と同じ扱いにする(その年だけかあるいはある程度長期かは分からないが)
仮に一郡5万石と考えると
5人に1人を成人男子として兵にすると1万人の増加かなりの規模だろ
>>162 動産だって財政の一部なんだから
その税を免除した年新たな動産による収入増があったなら別だが
例年通りの金山収入とかなら結局、皺寄せは領国に向かうんじゃ
>>161 軍役衆増加の書状は確か村単位で出された書状で複数現存してるが
現存してる書状が当時だされたすべてかは分からないので
詳細なソースは存在しないだろうね、推測するしかない
>>165 原文は正確には郷単位だったよーな
まあ同じ事だが
>>163 >>164 兵の増加と税負担者の減少による支出増収入減も、その増えた軍事力でより大きな
収入源を得たなら、短期的には財政が厳しくても長期的には財政は好転するのだが
現実にはこの時は上杉北条徳川と争っている状況で、その後も織田との戦いに突入
していつまでも軍事負担が続いていき、長篠の敗戦で更に財政が厳しくなっていくと
>>165 ということは財政が悪化といってるのは
明確なソースからではなく推測なんですね
>>168 明確なソースをもとに推測してるんだろ?
武田厨みたいな憶測じゃないからw
信玄晩年の頃には、すでに敵も万の軍勢を動員できる勢力しか廻りにいなくなった
からね。正直、今までのようと同じ動員をやっていたら採算が合わなくなると思う。
171 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 22:20:07
今やってる風林火山は武田最強騎馬軍団が出てきてないから捏造だな
>>165 同じ年の3月26日付けの同文の文書が5〜6通残っていたから
残ってるのを合わせるだけでもそれなりになるかも
>>169 規模を特定しないとその推測自体意味ないから
村単位に出されたものとのことが有力なようだけど
このような書状が複数あるならともかく一つ(村一つに出されたもの?)だけでは
とても領国疲弊のソースとしてはちょっと無理がある
>>172 その文書に郷村の名前はないの?普通あると思うけど。
出来れば何の史料に書いてあるか教えて。
明日休みだから図書館いって見てみたいし。
元々武田氏は重税体質だから(棟別銭を例に挙げたやつが過去スレであったはず…)
逆説的に税免除が大きな恩賞になったかもね
>>174 戦国遺文だろ恐らく
>>175 免除された者にとっては恩賞だろうけど
武田の税収が変わらないとしたらそれ以外のものにとっては負担増だろ
単なる恩賞なら普通に棟別の免除とか普請役の免除でいいじゃん
軍役衆と同じにするなんて書状、信玄治世下ではこの時だけでしょ
>>177 >武田の税収が変わらないとしたらそれ以外のものにとっては負担増だろ
そりゃそうだ、それに負担者が減った場合はその分は村のみんなで補うとか
決まっていなかったか?
時期的に駿河を手に入れた頃だから金山や貿易のあがりが入って余裕あったのかもよ
それなら他に税収の穴埋めさせなくても十分まかなえるな。
>>177 それと絡んでか、同年4月に棟別改めして
以利倍之勘定可収納者也
とか書かれた文書も残っている
>>180 正確には手に入れた直後だな
そんなですぐ貿易の上がりが入ってくるかは分からないけど
金山収入はありそう
ただ問題は信濃手に入れたときも西上野手に入れたときも
この手の命令は出されていないはず
>>181 戦国遺文の武田氏編だぞ
まちがって北条氏とか借りてこないように。
自分も読んだことあるけど信玄の晩年は3巻か4巻だったと思う。多分3巻
図書館によっては借りれない貴重本禁書扱いの可能性もあるから
文書の年と月ぐらいは覚えていったほうがいいと思う。
兵力が足りない場合は金で雇うこともあるはずだが?
上杉なんか越後約30万石ほどしかなくて実質は座と津の上がりで兵を
雇っていたんだろ?でなきゃ、30万程度で関東へ出兵したり信玄とは戦えん
>>186 上杉はもともと貸し金でまかなってたんだろ。
>>186 謙信の兵力は1万に満たなかったりするからそれほど奇異でもないが
この武田の事例の場合、一般農民を軍役衆扱いにするという、特殊な
事例だから問題になっていると思うのだが
>>186 >兵力が足りない場合は金で雇うこともあるはずだが?
今回のはそーゆー話しじゃないだろ
>>120 この文書は両棟別・隠田を免除のかわりに軍役を課してるのであって、
本年貢の免除はしてないのだが。
>>190 年貢は領主のもので両棟別免除で損するのは武田宗家だから、
この場合は武田家の財政が悪化ということか?
免除された分の棟別を他に求めなければ
>>191 いや確か軍役衆でも一部賦役を負ってたと思う。
>>192 120の文書は料所に出されたものだと思う。でないと山縣や原の署名はおかしいし。
つまり、他の領民への負担が増えたと。
ただちに、とは言えないが領国の疲弊が進んだ原因とみなせるか。
196 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 00:03:12
風林火山age
重税かけて戦するより、戦を避けて軽税で民力回復に努めるべきだったんだよ
金山の出が悪くなった
>>161 >>173 村単位で出されたって誤解してないか?
あと他の人も
村ごとに出されたって、意味は
各郷ごとに書状が出されて、その郷の何名かを軍役に就かせるという意味で
村ごとまとめて軍役衆にして税免除なんて意味じゃないぞ
>>201 それだと家臣とその領民への負担は少ないけど
武田家本体が財政的に厳しくなるんじゃ・・・
ただでさえ金山とか間接統治だし
そんなだから穴山の方が金持ってるとかになるんじゃないか
駿河を取ったばかりだしなんとかなったんじゃないの
>>203 それだと今まで領土が増えた時はしてないのに何でこの時だけそんなことしたんだ?
貿易や金山支配を収入に繋げるのは領国編制が必要じゃないのか
戦費を即回収できるとも思えん
駿河攻めは一度撤収を余儀なくされてる上、徳川・北条と対する二正面作戦になったから負担が重かったんじゃ
自転車操業だな
>>204 ちょうど元亀2年から3年の最後の遠征まで最も軍事行動を起こした時期だったからじゃないか
>>207 それだと最後の遠征のため、無理に(かは分からないが)軍役衆を増やしたということになってしまう
対織田まで想定していたとしたら、信長が後詰に出てきた場合その兵力がどれぐらいになるかわからんから
少しでも多く兵を連れて行きたい思いがあったとしても不思議じゃない
所詮推測だけどね…
>>208 どうだろうね。てか、ここで素人が議論するより武田研究家の出版本読めば一気に結論がでると思うのは私だけ?
それをいっちゃー(以下略
>>210 >武田研究家の出版本
は玉石混交だからなんとも
軍役衆増やしたといっても一つの村から数名だろ
それほど大きな収入低下と支出増加とも思えないが・・・
武田研究家の出版本とかだと武田はかなりの重税体質だから
その僅かな量でも厳しいということもありうるが
前にも農村から数名働き盛りが減るだけで農作業は厳しくなるとかいう
意見もあったから数名というのは僅かではないかもしれんがな
功名が辻の信長ダメだなー。配役ミスだ。
機械化していない時代の農業はそりゃ重労働ですよ。戦国期に限らず、農業は
村・集落単位で行っていました。これは例えば○○家の田の収穫が終わったら、次
は△△家の田をみなで行う、という感じで一つの家が自分の所有の田畑を自分達
家族だけで世話をするのは不可能ということです。
216 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 11:03:07
214
舘=名古屋人だぞ。
217 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 09:19:12
今川の蔵に銭がいぱ〜い蓄えてあったんじゃね?w
話変えるけど、武田家って何故か指揮官クラスの人物が良く戦死しているよね
なぜだろうか??
>>215 基本は村単位、百姓単位だよね。
>>213の「農村から数名働き盛りが減るだけで農作業は厳しくなる」
は何が根拠なのだろうか、まあ農村人口が十数人程度という仮定なのかもしれんけど
>>218 状況が悪かったからじゃない?
上田ヶ原では本陣渡河中に伏兵喰らって孤立した先陣が叩かれてるし
長篠じゃ完全じゃないとはいえ前後から包囲状態でしょ
同じ状況に陥ったらどんな大名の軍も免れないと思うよ
>>219 もともと一家族の所有耕地面積に対して、一家の労働人数が足りないのです。
だから村単位で「皆で今日は東の家の田の世話、明日は川向こうの家の田の世話」という
感じで互いに協力しあって補っていたのです。
そこから壮年の働き盛りの人手が失われれば、そりゃ作業は厳しくなりますよ。
>>221 >そりゃ作業は厳しくなりますよ。
いつもより30分長く労働に勤しむ、とかそんな感じか
まあ「作業は厳しくなりますよ。」でも間違いじゃないな
>>218 ・単なる戦下手 前スレの最後でも話題になったが史実の武田は戦闘は弱い
・死んだ指揮官が軍鑑のせいで有名なだけで実際にはそれほどの武将ではない
のどちらかじゃないか
ま、下のほうが有りそうな話しだが・・・
それほどというのは能力じゃなくて武将の地位兵力のことね
例えば元亀の織田などと比べれば武田の山県内藤秋山高坂クラスでさえその兵力は
佐久間柴田木下丹羽明智森といった程度
武田のそれより下の兵力の指揮官は織田だと一郡支配に達しない将や馬周りとか旗本
となりそれぐらいの地位の武将は織田でもかなり戦死してる
武田の場合は普通なら戦死しても問題にならない程度の少禄の武将まで有名武将と
なっているからやたら指揮官が戦死してるという印象を受けるだけではないかと思う。
勇猛果敢が売りの軍勢と言うのは勝つときは良いけど、
負けた時には、逃げればよいところでも逃げなくて討ち死にするって言うことじゃないか?
ようするに単細胞ってことだな。
相手にするには御しやすいな。
武田軍は白兵戦志向があるんじゃないかって説があったな
誰が唱えたかは失念したけど…
>>224 戦績から考えて史実の武田は戦場では弱いよ
だからこそ指揮官が先頭になって戦う必要があり、結果指揮官死亡が多いのかもしれない
>>223 普通に後者じゃないか?
三増峠の浅利死亡程度の出来事なら織田家にはたくさんあるだろ
さすがに上田原での板垣甘利共に死亡みたいなほどの死亡は織田にもないだろうけど
229 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 23:39:16
織田家最大の敗戦って何?
信玄の三大拙戦(筆頭家臣クラスを失った上田ヶ原・川中島はともかく戸石崩れはちと?だが…)とかは聞くけど
織田の武将なんてバタバタ戦死してるじゃん。
戦死した奴は名が売れてないだけ。
越中の一向一揆が織田最大の敗戦じゃないか
前波以下差配を任せた旧朝倉家臣がやられて、一国を完全に喪失したわけだから
それが致命打にならんのが織田の恐ろしさだが…
そ、武田の指揮官ばかり死ぬなんてのもただの印象論
織田家で甘利・板垣あるいは信繁に相当する武将が討ち死にしたかどうか対比してみればいい
信長の弟だっけ?一向一揆に討たれたの。
まあ馬廻りの戦死が多いがその辺は軍制や戦術の違いによるものだろう。
236 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 00:33:07
両職ってことは筆頭家老×2ってことだろ
信繁は一門の重鎮で副大将格
えーっと、織田家に当てはめると柴田・佐久間あたりか?
信長の弟達は連枝衆だけど信長の子の下の席次だったから…
>>234 織田信興だね。織田信秀の七男
対本願寺・一揆戦がやっぱり織田が一番苦戦した戦いか
他に原田直政も本願寺攻めで討ち死にしてるな
室町幕府から移って来た野村定常も
というか、普通に織田でも重臣クラスの戦死はあるよ。
それが、戦死という結果からマイナーにとどまっているため印象に残らないだけ。
例えば、追放まで信長家臣のナンバー1、柴田よりも上だった佐久間信盛は本来は
次男。大学助が桶狭間で戦死してから、彼が佐久間一族の代表(総領格)になった。
佐々成政は三男だし、前田利家は四男。近江戦線で戦死した坂井尚政や森可成も
その頃は秀吉や光秀よりも地位は上な重臣だった。
また一族で言えば信繁のような副将格とまでは言えないが、連枝の重要人物の戦死
がそれなりにある。連枝衆筆頭として信長の戦に従軍した庶兄信広や京を守る重要
地点宇佐山を森と共に任された弟信治などの戦死の意味は小さいとは言えないだろう。
逆に言うと信玄の家臣は道半ばで戦死したにも関わらず名の売れてる武将がいると言うことか。
まあ歴史ある守護大名だからな。
すっかり忘れてた(酷)が信長の兄・信広も長嶋攻めの時に討ち死にしとるな
やっぱり大名同士の合戦より一揆勢のほうが織田には鬼門か
>>238 同意
武田程では無いにしても
織田も結構上位の指揮官が死んでいる
長篠の時みたいにまとめて討ち死にしてたら名が少しは残ったかも…
盛重・信広・可成・尚政・直政あたりか
かなりの地位で戦死している指揮官は
佐々孫介は信長の突撃によって氏んだんじゃなかったっけ。稲生だったかな?
守護代まかされた前波善継が戦死指揮官中最高位?
>>242 普通に歴史には名を残していると思う、武田家の武将よりも
ただ民間には名を残していないな
>>243 他に林や氏家もそれなりの地位勢力
織田信光はどうなんだろう
信長による暗殺説もあるが
正直言いたくはないが、
武田家は良くフィクションとかにもなって広く知られているけど、
どうしても、活躍や見所が織田家よりも少ないからね。
そういう中でその物語を描こうとすれば、
当然苦戦したところもかなり強調されることになる。
おかげでその場面での戦死が目立つと。
死ななかった連中が活躍する場面が数多くあれば、
当然途中で死んでしまった者よりも目立つようになり、
相対的に戦死者は目立たなくなるのだけど。
>>245 原田のほうが摂津和泉河内大和山城の一部を任されて
後の佐久間といった指揮を任されていたから原田のほうが上だと思う
桂田長俊は外様だからなぁ。近習上がりの弥六が門徒を焚き付けてやっちゃった事件だし。。。
話戻すけど室町時代は耕地面積に比べて人余ってたんじゃないかなあ。
平和になったら新田の開発が大いに進んだところを見ると潜在的に耕地の不足があったのでは。
>>248 そうだな当時の原田は佐久間柴田と並ぶぐらいの指揮権を持っている
家中での地位も武田家でいうと秋山高坂馬場内藤あたりの郡代並みの
地位にあたるものが戦死したと言っていいだろうな。
織田家の場合、討ち死にした武将より後に大名になったり天下を争ったりした武将のほうが有名だしな
他家とは指揮官層の厚みが違うから、「こいつがやられたら(やられたから)」終りって人材は信長本人と嫡子信忠ぐらいでしょ
>>250 どうだろう、人返し令が出されることを考えるとむしろ逆という気がするが
太閤検地でも荒地は年貢の対象だし
原田直政の死後、一族は追放になってるね
なんでだろ…
森家のように討ち死にした武将でもその子を取り立てたこともあるし、特別厚遇しなくても追い払うっていうのは…
>>254 簗田広正も地位を剥奪されて尾張に引き篭もることになったような・・・
そうだな原田の戦死は大きかった。最大の敵である対本願寺の包囲網がいきなり
破られたわけだから。
もし信長の救援が間に合わず天王寺が破られていたら戦略も大崩壊する。
おそらく、織田家にとって家の浮沈がかけられた一番の大敗戦だろう。
それ以外の野田福島や金ヶ崎は負けても即織田家滅亡の危機に繋がったりはしな
かった。
>>250 室町後期に差し掛かると、禁制に加えて「濫坊浪籍」の禁が設けられるように、
また戦後収拾で「人掃い」が行なわれるように、
戦地に晒された場所の人さらいはかなり深刻だったよーです。
戦国時代は被開拓地が飽和状態だったというよりも、労働力確保が極めて困難な時代だったと言えるでしょーね。
>>254 謎
森柴田の姻戚で直政の妹は信長の側室
身内だけに厳しくする必要があったのか
森とは異なりそれほど劣勢でも無いのに負けたのが不味かったのか
戦死したのが気に入らなかったのか
この負け戦によって本願寺対策をやり直しそうな状況にさせたのが
いけなかったのか
>>253 太閤検地だと
当荒
永荒
と二つあったと思うが当荒は現在使われてない田畑だっけ?
>>256 野田福島から続く志賀の陣は信長にとってかなり危機だったと思うが。
>>256 >織田家にとって家の浮沈がかけられた一番の大敗戦だろう
そんなたいしたこと無いだろう
精々摂津と河内和泉の一部の権益を失う程度じゃないか
70年だって本願寺は織田を追い払うだけで大した事してないし
例え西方を失ったとしても織田家の根幹は揺るがないと思うが
毛利が参戦してないこの時期では
上杉との対立はいつだったか忘れたけど・・・
「当代記」だと信長と何か仲違いしたんで、憤って討ち死にしたことになっている
本当なら私憤で戦略を崩したんだから罪ってことになるんだろうけども…信憑性はいまいち
>>262 確か原田が本願寺に負けて佐久間が援軍に行って助かったんだけど
その時信長が原田に
お前なんかに原田はもったいねー元の塙に戻しやがれ
といってそしたら直正が
明日一番死んでやるー
と言って突撃して戦死したと言う話し
>>260 しかしあれも最悪な事態となって畿内を失い近江を失い北畠領を失っても
尾張美濃と北伊勢だけでも130万石の大大名(数字は適当)
当時これに匹敵するのは大友毛利北条ぐらいか
結果だけ見れば、佐久間なんてかなりの功労者なんだけど追放は無いよな〜
それに追放しても体制が揺るがない点で武田とは決定的な差があるよね。
釣れますか?
>>268 なんか肯定的に捉えてるけどこうした人事や行為、言動が
家臣の出奔や荒木の裏切り、本能寺につながったんだろ。
荒木の裏切りにしても明智の本能寺にしても動機ははっきりとはわかっていない
のだから、佐久間の件が繋がったとは言えない。
そもそも信長の功臣粛清って荒木裏切りより後のことだし。それ以前に功労者を
罪なく追放した例ってほとんど無いぞ。
ぱっと思いつく限りでは中川重政くらい。
「信長は譜代でも無能者にはつらくあたった」なんて事実に反するイメージでしか
ない。少なくとも佐久間・林の追放以外にそういった事が頻繁に行われていた
なんて記録はない。
>>272 多少の罪でも厳しいのは問題じゃないか
原田や梁田みたいに
>>272 佐久間・林の追放>全然事実に反してないじゃん
原田は当代記とやらの、私怨で勝手に死んで軍を包囲殲滅させかけたからじゃないか
梁田罷免は加賀平定に失敗したからで、後年また織田信忠配下として復帰しとる
佐久間の場合は理由を並べた上で「もう一度手柄立てようとするか、高野山行くか選べ」と迫っているわけで即追放ではない
前田利家みたいにリターンマッチに這い上がってくる気概を要求したんじゃないか
林が信行擁立理由で追放されたっていうのはやっぱり「当代記」の話でしょ
信長公記には、信長が苦しかったときに異心を抱いたからってことになってる
そういや滝川彦右衛門も勘気をこうむって虎御前山に居残り
手柄を立て復帰したな
打下の林?も過去の罪で追放されてなかったか
佐久間とはまた違った例だけど
磯野樋口みたいに禄を捨て織田家を出奔という例もある
>>275 信長公記では織田軍が崩されたところを原田が何とか支えて激戦の後に討ち取られたと
なっている。当代記の信憑性はいまいちらしいし、むしろ罪どころか親族は取り立てられて
不思議ではないのにね。
佐久間にしても織田の主要な戦にはほとんど参加して本当の初期から支えた重臣なのに
あっさり切ってるな。まあ、確かに後年はさほど活躍はしてなかったが。
しかし自分が高野山と言っておきながら高野山在住を許さないというキレっぷりも見せてるし
そのほかにも多数の家臣を切ってるし
家臣団の統制・再編制のために理由が即重罪じゃなくても厳しく処したりしたのかな
尾張の一勢力だったころとは家臣に要求されるものが全然違ったわけで
膨張する織田家に必要とされなかったか、あるいはついてこれないと判断されたか
安藤だったか稲葉だったかも追放された口だよな
信行連座では到底通らない
>>283 安藤の追放理由に信勝云々は持ち出されていないぞ。
ところでこの林と安藤と一緒に丹羽なんとかって人も追放を受けているはずだけど、
これまで語られたことがないのよね。事跡もよく知らない。誰か教えて。
余裕が出てきたから、気に入らない奴を思いのままに
虐待、殺害出来るようになったんでしょ
>>284 丹羽氏勝だな
元々は織田信次の家臣
守山篭城(信長の弟が誤まって殺されたことに端を発する騒動)などに名が見える
信長の家臣としては目立った活躍はしてないな。一応伊勢攻めや野田福島戦に名は見えるようだが
追放理由は信長公記説の林と同じく、反逆容疑
ただ、子までは追放されず信忠近習のまま留まっている
本人は追放後家康に使えた。小牧長久手の戦いで討ち死に
大分話題が流れたところで、そろそろ復活する悪寒w
荒木、明智とかは、同格の家臣なのに羽柴が総大将やってるときに
家臣扱いしたからキレて別所みたいに謀反したんだよ。
家康は、大人だったね。
佐久間は、どっちか選べっていわれて高野山選ばれたら
ふつうキレるわ。
>>288 家臣扱いって秀吉が荒木、明智を家臣扱いしたってことか?
家臣扱いって与力にされたってことか?
光秀が他の家臣の与力につけられるケースはそれまでもあったし
荒木が秀吉の直接下につけられたことは無いはずだが…
光秀は何度か秀吉の援軍として播磨なんかで戦っているだろ
鳥取攻めも細川が加わっているし
荒木は原田や佐久間の与力だろ
信長は働きの悪い家臣や気概のない家臣が嫌いだったんだろう
だから駄目出しした家臣を追放はするが殺しはしない
もう一度這い上がって来い、と思ってたのかな
>>290 上月城後詰めは一緒に来てるよ。
家臣扱いってのは、小牧長久手後に上洛した
家康にやったやつね。
>>293 >上月城後詰めは一緒に来てるよ
それがなんか問題あるのか
>家臣扱いってのは、小牧長久手後に上洛した
>家康にやったやつね。
そんな扱いを同僚にしてなんていないだろ
したら秀吉の首が飛ばないか?
>>293 上月救援軍は文字通り一時の援軍じゃん
この程度で怨恨に思うのなら、対本願寺で佐久間指揮下に横滑りした時に既に持ってないとおかしい
勝頼も長篠後に穴山を処罰していれば…
と、軍鑑を鵜呑みにして言ってみる
そもそも上月城救援軍って、総大将織田信忠の下に編成された軍だったはずだが。
>>296 長篠後じゃどうにもならん、と思う信玄厨が参上しましたよ
というか勝頼の性格じゃ、どの道破滅だと思ったりする
ローマ厨は特に頑迷な厨だから嫌
あいつらは宿便より凝り固まってるから処置無し
301 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/13(金) 01:28:49
『甲陽軍鑑』の高坂進言による処罰って無理だしやっぱり架空だよな
・北条氏に駿河と遠州をやって、姫を貰え
・木曽と小幡の領地を入れ替えろ
・戦死した大身家臣の後継ぎから兵を取り上げ、足軽大将らを侍大将に格上げしろ
・信豊と穴山に腹を切らせろ
・上杉謙信に臣下の礼をとれ
どれ一つとして実現不能
木曽小幡の領地交換に到っては後世から見た後知恵だし…
・北条氏に駿河と遠州をやって、姫を貰え →アフォ
・木曽と小幡の領地を入れ替えろ →できればやるべき
・戦死した大身家臣の後継ぎから兵を取り上げ、足軽大将らを侍大将に格上げしろ
・信豊と穴山に腹を切らせろ →穴山はともかく信豊はなぜ?
・上杉謙信に臣下の礼をとれ→やれば安泰だとは思うが無理だろうねえ
どれ一つとして実現不能
そんな話あったっけ?
>>295 具体的な流れでいうと関ヶ原前の家康が景勝に
やった言いがかりみたいな感じ。
木曾と小幡の領地替ってそんな不可能なことを…
高坂昌信が本当にそんなことを言ったのなら、ゲームのあいつの知略は下げるべきだな。
実行不可能な完璧な作戦、なんてなんの役にもたたん。
所詮は軍鑑
まったく事実無根というわけではないが、自分達の理想や考えついた教訓で史実を捻じ曲げまくってるからな
実際に実現したのは北条との縁組くらいなもんだし
読まずに批評とはこれ如何に
309 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/14(土) 10:09:53
高坂の『御異見申五ヶ条』のことだろ
品第五十二あたりだったはず
領地替えなんて、明らかに織豊以降の発想だよなあ
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/14(土) 21:41:52
信玄が領地を与えた子飼いならともかく
古くからの豪族で、縁戚でもある木曽の領土を召し上げなんて無理だろ
それができるくらい大名権力が強いならもう少し別の歴史があったはずだ
313 :
信玄:2006/01/15(日) 04:17:52
>>301 話の信憑性は置くとして、そのくらい思い切った措置を講じなければ、武田家の命運を保つことは難しかったと思う。
勝頼は確かに武に関しては好戦的な勇者だったけれど、当時の状況で武田家の惣領として求められる資質は、慶喜のように傑出した政治実行力だったんじゃないかな。
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/15(日) 18:34:28
そもそも命よりも先祖代々の土地を大事にする思想なのに絶対無理
それこそ信長に付け入る隙をあたえるだけ
木曾家の領地替えなんてありえないだろ
領地替え以外にもイロイロと突っ込みどころはあるな。
兵を取り上げろというのも、この時代は兵イコール領地であるわけで。
大身家臣の後継ぎは実戦経験に乏しいから、足軽大将クラスの実戦経験者のほう優遇しろって理屈はわかる
だけど理屈に過ぎず、知行と兵士と家督が実質一体化だった時代じゃあ無理
領地替えの代表例だと織田家臣ぐらいしかない?
穴山とかは甲斐の領地もったまま駿河も?
>>317 当然そう
穴山は河内を持った上で駿河の一部を支配
北条が領地替えやってるじゃん
それに織田家臣の領地替えなんてあったっけ?
例えば柴田勝家の知行が尾張→近江→越前と移ってることを入ってるんじゃないのか
これは領地替えというより、勢力拡大に伴う異動といったほうが正確か
前田利家も領地替えされている
荒子→府中→金沢
金沢まで来ると豊臣政権下だし転封と言うべきかも知れないが。
勢力拡大に伴う異動も含めて領地替えだと思うのだが
穴山は旧知行を保持したまま、駿河の金山支配地を含む領地をさらに加増されてるんだね
やっぱり親類衆筆頭だからかな
他の諸将はどうだったんだろう?
宿将に関しては、例えば柴田などは明らかに元亀の頃に授かった近江の知行を
召し上げられて越前に封じられている。
325 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/16(月) 20:28:01
穴山の場合は、論功による加増の側面もあるだろう
徳川家康との共闘を結ぶ外交の実務を担当したし、駿河攻撃の際には穴山領が前線になったし
だから政治的理由からの領地替えとは無縁のもの
信玄って血縁外交血縁政策が好きだけどあまり効果がない気がする
結局一族の穴山も小山田も木曾も逍遥軒もあっさり寝返り降伏したわけでしょ?
だとしたら高坂の
・北条氏に駿河と遠州をやって、姫を貰え ってバカげてると思う
「明智軍記」にあるように領地を召し上げた上に領地を切り取り次第
と言うのは聞いたことがない
>>327 それ明智軍記だけの話で信憑性が無いからな
もし領地召し上げなら、当然受け取りの人間が派遣されてるはずなのに、坂本は最後まで明智の本領のまま
菅谷に越前、堀に長浜を与えるって話も合ったし、
数年後に坂本を他のやつに与えることはあったかもな。
その場合は、長谷川か矢部だろう。
信長としても、近江は完全掌握しておきたかっただろうし。
ただ、いくら切り取り次第とはいえ、
まったく平定してない土地を与えて旧領は召し上げなんてのはありえん。
仮に毛利を平定後に丹波坂本を召し上げて石見出雲に転封でも割りあわないね
石高減るしは、京から離れはでタイヘンだ
>>330 石見の銀山と出雲の鉄、そして日本海交易の一旦を担う
そこまで悪いわけではないと思う
石見銀山は直轄だろ、信長のやり方からして。
信濃って金山ないの?
光秀は坂本持ってたけど
それだけでなく琵琶湖の水運まで握っているから
石高以上のモノがあるのは出雲石見といっしょ
京から近いってのがでかいと思うがどう思う?
むしろ四国方面の責任者だったのを外され、外交成果もフイにされたことによる面子説のほうが…
武田家で例えるなら内藤がいきなり関東から外され山県の下に組み入れられたようなもの
一時の援軍にしても、本来の担当がぽしゃった上でだからそれまでとは違うだろう
>>336 そのテの話が出るたびに思うのだが、光秀が四国担当、特に長宗我部の外交を
担っていたというのは本当なんでしょうか?
縁といっても部下の妹が嫁いでいるというだけで、長宗我部自身は信長と特に
密接な外交を展開していたわけでもなく、わずかに記録に残った交渉を見ても
別に光秀が窓口になっていた形跡もない。本能寺直前にいたるまで長宗我部と
争点になった四国における領域問題も、光秀が特に交渉を受け持ったり事態を
解決するべく介入したりした形跡もない。はっきり言うと、光秀は織田と長宗
我部の交流史においてロクに関わってこない。良好だった時期にも、決裂した
時期にも、彼が積極にせよ消極にせよ関わった形跡がみられない。
>>337 そうか?伝奏役として、例えば信長の一字を元親の後継ぎに与えるのを取り持ったり
長宗我部側にとって一番重要な「四国は切り取り勝手」という条約みたいなものを調えたりしてたんじゃないか?
交流をふいにされたといえば足利政権との交流もふいにされたな
光秀はあまり気にしてないのでは?
>>320 それ任地が変わった+知行が加増されただけだろ
その程度なら他にも五万とある
>>324 柴田勝家の知行が召し上げられたなんて聞いた事無い。
>>340 任地が変わったのなら領地替えじゃん
実際に旧柴田知行の長光地城は城が後に破却され信長直轄領に組み入れられてるが
尾張にあった柴田の知行地は?
343 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/17(火) 13:51:36
戦域の拡大に伴っての前線への異動ならともかく
政治的理由からの領地替えって明らかに秀吉が一応の覇権を確立してからの手法だろう
武田家でそもそもそういう考えが当時あったのかどうか…
例によって後世加筆部分なら、江戸時代あたりにはザラだったからもってきても不思議ではないが
>>341 任地変わるだけなら何処の大名でもあるじゃん
しかも、長光寺は知行地じゃねぇし
柴田勝家は近江にいたとき小瀬清長を知行3千貫で招いて断わられたって話があるぞ
自分の知行じゃないのをさらに宛がおうとすることなんてできるのか?
近江は広い
殆どが琵琶湖だがな
>>344 蒲生や永田などの元亀当時に柴田の配下だったものたちは後に信長直轄に
組織されている。
ただ柴田は尾張の本貫地はどうなったかよく分からないよな
知行云々なら陪臣(家臣のそのまた家臣)の移動が参考になるかな
そもそも、蒲生や永田なんてばりばりの知行持ちじゃんか
滝川も羽柴も明智も丹羽も後年一国をもらうが近江の領地はそのままだし
>>353 滝川は近江には関わっていないぞ。たしかに上州及び信濃二郡を拝領した後にも
北伊勢の所領は持っていたようだが。
播磨を拝領した秀吉も長浜は持っていたようだし。
ただ、柴田と丹羽に関しては近江に対する書状その他が全く見られなくなるので
こちらは知行は召し上げられたと見ていいと思うが。
あまりに距離があると、領地を離れて持たせるのって不便じゃないか
いちいち遠方から動員かけにゃならんのはかなりの負担だろう
滝川は伊勢の領地は失わなかったはず
サワヤマって丹羽のままじゃ無かったの
【徳川側によるプロパガンダの影響】
義元=5倍以上の兵力で討たれた弱将 ←それまでの経緯、業績は無視=松平は今川の力に屈服していたのではない
信長=信玄にビビりまくり=実力で天下を取っていない ←徳川の天下は拾い物ではない
信玄=戦国最強騎馬軍団を率いる ←三方ヶ原でボコられる=徳川が弱いわけではない
秀吉=小牧・長久手の戦果で窮地 ←実力的には徳川の方が上=豊臣の天下を奪っているわけではない
三成=勝てない戦に挑んできた愚将 ←関ヶ原は余裕の勝利=徳川の天下は必然である
ホリエモンと信長がダブって見えるのはわたしだけ?
似通った部分はあるなw
立ち直ったら上田ヶ原以後の信玄とダブる
スレ違いだけど粉飾やらかしては
さすがに終わりだよ
むしろただいま本能寺!もはやこれまで…
オレは信玄とホリエモンが被る
364 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/19(木) 11:33:49
ホリエの話はここまでにしよう
実にくだらない
時代が違う人間を似ているとかナンセンスだな
369 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/20(金) 12:26:14
秀吉も失敗や軍令違反してるのに微罪ですまされてるよな
まぁ人事基準なんてない時代の話だから一定の法則に当てはめる事はできんのかも知れんが
織田家は国法がないんだよね。
371 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/20(金) 15:55:47
その都度出してる気がする。
京に入れば京では狼藉云々とかさ。
>>371 その手の禁令は分国法の範囲外だから他の大名も度々で出してる
…でも確かに織田家は体系化された分国法作ってないな
それいったら秀吉だって出していない。
それから分国法といってもそれぞれでその性質にかなり違いがある。
例えば早雲寺殿二十一箇条なんて統治法というより家訓だし、六角の場合は
大名による統治どころか大名権力を制限するためのものになっている。
織田の場合は体型的な法というと柴田の越前での法と
光秀の軍規ぐらいか
国ごとなら検地や破却といろいろやっているが
法律といっても近代法の概念で動いてないことを考えないと
大抵は慣習でしょ
一揆契約は揉め事に蓋して先送りするシステムだしな
とは言っても、壁書や今川家のカナなんとかや甲州法度は
慣習とは全然違うけど
大内、今川、武田、北条なんかは革新的ってことかな
>>381 それだけじゃ別に革新的でもなんでもないだろ
単に法なら昔からあったんだし
問題は中身だろ
織田徳川など、大名権力の早期強化に成功した家は、分国法出してないね
徳川の諸法度は天下を取って全国区一律統制の必要が出てからだし
分国法出すってことは大名自身の行動も制約するって意味合いがあるからな
>>382 いや、だから、大内、今川、武田、北条(朝倉?)が上げられてる
のでは?
>>383 そうかもしれないな
明智軍規?は軍役と軍規についてだし
柴田の越前での法は農民へのものだけど
分国法の多くは大名と豪族の権利の確認再設定みたいなものだし
分国法をみると、豪族の権利を認めている条文もあったりするしな。
御成敗式目なんかが武士の基本的な社会規範のままだった
多くはそれを準用してすませたんだろうな
大名の権限を制約するというと六角が良い例だ
あれは例外中の例外、作ったの大名本人周辺じゃないし
ふと思ったんだけど、工業はともかく商業者からの税収って
座から巻き上げるしか無いよな?
流通で取るのもあり。
経済なんて流通無くして成り立たないし。
関所か
どのみち大した税収にならんね
まあ戦国時代は鉱物資源が豊富に採れるようになったから
商からの税収に無関心でも仕方ない気は駿河
関所よりも港だろうな。
>>393 その鉱物’資源’を’資産’に変換するためには商業流通が必要なのだが。
佐渡金山は金銀の生産量が、388年間で採掘した
金の量は78トン、年平均で金200キロだってさ。
明治以降の工業の発展で産出量は増えたはずだから
江戸時代はもう少し平均より下だったろうね。
商からの税収に無関心ならば撰銭令を出すわけがない。
それだけ関心があったということだ、信長が堺などに代官を置いた理由もな。
少し話は戻るが、領地召し上げて他の領地を与える記述が「信長公記」に
あった。明智軍記のような敵国の領地を与えるってものではないが、
細川の勝竜寺城を没収して丹後を与えたという記述があった。
>>395 主要鉱物資源(金銀)=資産、なんだけど
>>397 撰銭令は職人を確保する為だけどな、オマケで商人というか町人も付いて来る
それに税収に無関心も何も、商業行為は税金掛けてないでしょ>信長
信長は矢銭という名目で頻繁に商業や寺社に税金かけてるよ
本当は臨時の軍費調達用の税なんだけど
戦国時代は棟別銭のような、本来は臨時税だったのが恒常化する例が多いから
矢銭強奪って、畿内へ侵入したとき略奪紛いに要求した25000貫+
紀伊、大和の巨大寺院くらいしかないだろ
>頻繁に商業や寺社に税金かけてるよ
ソース持って来いソース
>>400 「細川両家記」「多門院日記」「多田院文書」等
堺と本願寺への矢銭要求が有名だけど、津島大津草津にもかかってる
1969年(本願寺に矢銭を出させた翌年)に矢銭徴収を巡って本願寺門徒と衝突しとるし
402 :
401:2006/01/24(火) 12:36:35
1969年ってなんだorz
1569年
その反面、関所や駒口の税は免除していますね>信長
>>402 1969はどうでもいいけど、日付が無いと調べようがない
商業に関しては謙信のほうが上だろう
>>401 商業や寺社(極少数除く)には、税金掛かってなかったぞ
>>401 大津、草津への矢銭要求が見当たらないのだけど
日付分かる?
>>405 上か下かは検証してみないと分からないところですが
謙信は重商政策だった事は同意
謙信は死亡時かなり溜め込んでるから
商業の力はデカイナ
そもそも農業だけを基盤としていた地域なんて中世日本にはない。
矢銭とか家銭とか兵糧料とか冥加金とか。いろんな名目で税金かけられてるから戦国の商人も楽じゃない
天文12年に織田信秀が内裏の修理代4千貫を出したことは有名
このとき、信秀の大規模な収入源は津島の港しかなかったはず
でもこの話はよく商業のでかさの引き合いに出されるけど、具体的税制って有名じゃないね
やっぱ制札銭とかの名目だったんだろうか
謙信って重税かけすぎで商業廃れさせて、慌てて税金免除して再興させたことなかったか、どっかの港
>>412 その多すぎる四千貫を巡って信秀はバカか勤皇家かの議論をしてたのって
どのスレだったっけ?
415 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 23:52:53
謙信が荒廃させて、五年間の税免除を定めて(長尾氏老臣連署条目写)復興させたのは府内町
信長は別に商業都市を荒廃させてないから、謙信が上ってのは…
むしろ謙信(長尾上杉家)の統治能力の低さを露呈してるよな、それ。
コピペ
362 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2005/12/02(金) 22:07:47 ID:bUShq715
>>329 都合のいい所だけ抜粋しないの。分からない人は誤解するだろ?
その御礼銭(外交支出)は上杉家臣時代に、守護になるために朝廷や幕府に送った賄賂なんだが、もろバレで
賄賂の影響で上杉あき定に反抗勢力を組まれ、敗北をし、越中に追いやられた。5000貫もの無駄な出費で財産を大きく減らした。
直江津は為景が作り上げた物ではない。長享二年(1488)には3000戸もの民家が軒を連ねる大商業都市だったんだよ。
為景の代での投資は微々たるもの。謙信が大規模に整備をし、朝倉と協定を結び陸路を確保、近畿地方周辺及び
山陰地方と貿易をする事で利益が出るようになった。金だけかけてたわけじゃない。ちなみに朝倉とは1566年に同盟を組み
上洛を目指したわけだ。まあ、余談になるか。
為景の代と謙信の代では公共事業に掛けたお金の額が違う。為景は圧制を敷いた故に何度も一揆が暴発し、越中、越後を転戦している。
その隙を狙って豪族が反旗を翻したり春日山を奪われたり、まともな統治じゃない。
それと大永十七年(1521)二月から為景は一向宗禁制を行い徹底的な弾圧を行っている。
これは謙信の代までの争いの火種となり、永禄二年(1559)の上洛時の本願寺との交渉によってようやく解決をしている。解決をしたのは越後一向宗だけで
本願寺とは二度交渉に当たる事になる。この辺は本願寺の資料にもハッキリ記載されています。甲陽軍艦には載ってませんね。
それと為景時代の享録二年(1529)の年間領国財政規模は、7500貫で300貫の赤字だったと記録が残っています。
ちなみに謙信の死の直後、春日山には二万七千両もの金が貯蔵されていました。金山は掘ってません。
為景のおかげとは言い難い。と、言うより好き勝手暴れたのが為景。
コピペ
309 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2005/12/01(木) 23:57:56 ID:cezzOnss
>>305 >上杉領は平野部も多く特産品と貿易港に支えられて
それをやったのが謙信。それまでは特産品があっても輸出するにも座がてんでバラバラで
統制ができなかった。恐喝まがいまでしてまとめて整備したのが謙信。
平野部は江戸に埋め立てたのが大半。
戦国時代は今の平野の8割は海だったと考えていいです。江戸みたいなもんです。
>一方、信玄の甲府盆地は地形上洪水が多く農業生産が安定しなかった
越後もです。江戸時代には三年に一度、必ず大洪水が起こるので人身売買が横行していました。
埋め立てたをした弊害のせいですが。治水なら直江親子に命じて謙信もしてますよ。
名前忘れましたが今もその分水路は大事に使われています。上越の人なら知ってると思う。
>それと謙信の酷税は
えっと、五ヵ年の租税免除礼って知ってますか?
>>それと謙信の酷税は
>えっと、五ヵ年の租税免除礼って知ってますか?
重税かけて離散した町衆を戻すための免税であることを隠すとは、まさに「都合のいい所だけ」のような?
藍ソの収入は相当な物だったらしいけど、商業収入とは違うな
商業でいいんじゃね?特産物だろ?
信長とか謙信とかの湊や商業都市からの収入って商人からの税だよね
大名が直接売買はやってなかっただろうし
少し時代が下るが島津とかは砂糖の密貿易で力をつけたとも言う
大内は
明と勘合貿易をやっていたな
宗も李朝と貿易してたんじゃあないか?
>>422 物納銭納半々か全部銭納か忘れたけど
アオソは年貢だから商人からの税は関係無いでしょ(家臣に高い時売れと命じてるし)
座からは金取れるかもしれないけど。
府内町・柏崎町などからの上がりの話をしてるんじゃないか?
428 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 13:43:02
織田信秀が4000貫出したソースは?
多聞院なんだ・・・ちょっと以外
てっきりあれは言継の日記とかがソースだと思ってた
>>422 売買とは異なるが、謙信は部下の豪族達相手に直接高利貸しをしていた。
つまり
軍役を課す「君はこれだけの領地を持っているから、これだけの兵を連れて従軍しなさい」
↓
大きくてとても自腹では賄えません!
↓
しかたないなあ、じゃあお金貸してあげるからこれで軍備を整えなさい
んな事実は無い
「信長、金銀・米銭不足これなき…」と信長公記にある
謙信も遺金たっぷり残してて、御舘の乱でこれを抑える事が景勝の勝因の一つになった
どちらもかなり金持ちだったんかね
信長は商家から名物を買い上げてるぐらいだから資金には余裕があったの
だろう。
名物つっても所詮茶器だからな
436 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 22:25:03
>>435 謝れ!一国より茶器を欲しがった滝川君に謝れ!
茶器マニアック
実際のところ、茶器の取引価格ってどれほどのものだったんだ?
つくもかみだから高くて100貫じゃねーの
440 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/26(木) 15:26:35
九十九茄子は最初は九十九貫で買われた(これが名前の由来)んだが
後になると値段が跳ね上がって、松永久秀は一千貫で購入した
つうか
珠光小茄子>上野一国+関東管領
って感覚ってマジかよ、と思う
左文字の太刀 黄金200枚
珠光香炉 銀子150枚
兵糧代 金の袋×2(1袋2人がかりで持てる重さ)
平蜘蛛>松永久秀自身の命&大和
>>442 銀子150枚なら400貫くらいか、大した事ないな
似たり茄子も100貫らしいし
いくらやすいとはいえ 五位相当の相場だぜ? 茶器バブルだなこりゃw
茶器一個に400万かよw
まあ、何時の時代もマニアとかコレクターはいるからな
二万貫って堺の町単位でだろ?
少ないのか多いのか分からないな
449 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/26(木) 18:35:10
>>448 かなり多いんじゃないの?名目はともかく、同じ時期にかけられた税は
本願寺5千貫・法隆寺1千貫ぐらい
それだけ堺が富裕だったってことかもしれんが
実際に一度は支払いを拒否して防備を固めて、浪人雇ったりしてるから、かなりふっかけたんだろう
相州正宗黄金500枚
黄金1枚って何貫?
相州正宗を信長が所持していたという意味ではありません
黄金〜枚って天正大判で?
黄金としか記載されてねえ
ものすごくおおざっぱに、なら黄金一枚がだいたい十両相当
一両って四貫だったか(江戸時代の平均相場とごっちゃになってる…?)
一両四貫。
ただ時代と地域差で(ry
マサムネと堺の矢銭が同等か
黄金500枚=5千両=2万貫か。やっぱりおおざっぱに、だけど
そういや、信長っていつだったか京や堺で名物狩りなんてやってるけど、これって
ちゃんと買い取ってるんだよね?ただで召し上げたわけじゃあないよね?
>>458 >>442 そのあたりの記述は金銀兵糧与えたとかしか掲載されてない
どれぐらいで買い取ったのかは謎。
たまにただで召し上げてる時もあるが、松永とかw
刀剣>茶器なんだね
つまり刀剣>茶器>上野+関東管領職か
信玄公は良い茶器をお持ちですかな?
463 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/26(木) 19:53:26
甲斐の山ン中に茶器なんかあっても漬物入れに使われるのが関の山
甲斐源氏の末裔だし名刀宝剣は何十本はあったのでは?
源氏の家宝・御旗楯無は有名だけどな
466 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/26(木) 20:46:33
和泉守兼定(武田家伝来)
来国長(信玄愛用の品だったらしい)
備前長船(戦勝祈願のため奉納)
あと、塩止めしなかったお礼に謙信に送った名刀があったらしい(これは俗説で、贈り物したのは別の理由という説がある)
467 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/26(木) 23:23:50
信長の名刀というと、義元からの戦利品の左文字宗光とか
茶坊主を棚ごと斬った、「圧切」長谷部とか
松永から献上された不動国行あたりか
黒川金山、記録によると天分年間での産出量百十九貫三百七十匁だと。
名刀は名刀一本だが茶器は茶碗・茶壷・茶釜・杓・花入れなど一式
そろえてなんぼだしな
甲斐の税対象者世帯を1万〜2万世帯と考えて
棟別銭200文*1万〜2万で棟別銭収入200万文〜400万文だから
甲斐の棟別銭収入」は2000〜4000貫
と考えるなら2万貫というのはとんでもない額じゃないか?
春日山には二万七千両=約12万貫か?
>>470 なんで米の収穫高じゃなく棟別銭なのかが分からんけど
税対象者世帯は33万/5人として5.8万前後じゃないの?
で、世帯当たり50〜200文として約5800貫
堺の矢銭と違って毎年の収入だしこんなもんだと思うが。
>>472 人口33万ってどこの国の話しだよ
あと棟別銭なのは大名の収入だからだと思う
>>470も甲斐の税対象者世帯を少なく見積もってるきもするが
>>473 甲斐でしょ?
戦国期の人口と食料生産量の関係はこのくらいだと思ったが‥
堺には代官をおいてるわけだから、毎年二万貫ほどではなくても確実に
収入が入ってるはずだが。
>>474 慶長三年の日本の総石高は約1850万石で人口は約1250万でしょ
>>475>>477 俺もずっとそう思ってたんだけど、15**年(30か50年代だったような‥)頃の
石高は人口に対して2/3〜3/4くらいで漸増していた、という資料を見た
んだけど、書名忘れたから説得力無いなw
>>476 そりゃ座から巻き上げるなりなんなりで収入はあるだろうけど
武田領や上杉領にも漆やら青芋の収入はあるワケで
>>478 >俺もずっとそう思ってたんだけど、15**年(30か50年代だったような‥)頃の
>石高は人口に対して2/3〜3/4くらいで漸増していた、という資料を見た
それだけじゃ1530年〜1550年の全国的な人口石高を示す史料は存在しないから
適当な新説を挙げる話題性だけの本に騙されたんじゃないか
としか言えない
武田領の青芋や漆が堺の矢銭に匹敵するのですか?
都市の収入を青芋などの特産物と比較してよいものか・・・
特産物ならば織田は他にも国をもっていますので、収入は多いとは思いますが
いかがですか?
>>480 残念ながら不正解です。
座からの収入なんぞ青芋や漆の収入に到底及びません
つーか及んでいたら、各藩が財政難になんかならんだろ
まあ、それ以前に税金掛けてないけど‥
平野部の武蔵の特産物収益は1割以下だけど(つーか驚くくらい微々たるもの)
(尾張の特産物も塩くらいじゃないの?)
甲斐や越後の山がちな地域では3割から5割届く地区もあったらしいよ。(こっちはうろ覚え)
482 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/27(金) 17:35:08
>>481 青芋や漆の収入のソース希望
青芋>堺凄すぎるよ
483 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/27(金) 17:42:11
>>481 なんか文章すべてが適当に想像して結論出してるみたいでなんだが
取りあえずソースを
それ以前に商品作物が急成長した江戸時代をもとに推論してどうするんだ
まして商業に税金かけてないんじゃ話しにならん
だいたい謙信の青芋座収入だって、青芋座を蔵田氏などを通じて統括した結果だし
でも謙信は湊の停泊代でけでもそれなりの収入だったんじゃ
>>487 確かに税金を沢山とってたのは事実だろうな
町衆が離散して、慌てて免税しなきゃならんほどだから…
でも信長だって元からの津島・熱田に加えて大津・草津直轄領にしてるぞ
>>484 いちいち覚えてねーよ
信長厨って自分は感想文だらけなのに人にはソースソースうるさいのな。
なんとな〜く、武蔵田園簿とか世伝直江兼継とか上杉氏年表とかそんな感じのタイトルw
>>485 商品作物は年貢がかかってるのに
商業は税金かけてないもんな、確かに話にならん
>>489 いやw織田厨でなくてもソース知りたいぞ
だって見たいじゃん知りたいじゃん
青芋の収入が座を通したものなら
座が遠く及ばないってどういう理屈?
座支配と直売の二束の草鞋で儲けてたの?>謙信
みんなもさ、
>>481のホラってこと気がついてるんだろ?
あまり責めてやるな
世伝直江兼継
この手のタイトルの本って大抵役に立たないと思うんだが・・・
>>494 どういう理屈? というのは冗談として‥
安いから買ったんだけど、ちゃんと史料を基に話進めてるまともな本だよ
>>489 自分に賛同しないレスはすべて織田厨と決め付けるのはどうかと思うが
武田の年貢以外の収入が具体的にどの程度なのかはみな知りたがってることだから
ソースを知りたがるのは当然のことだぞ
>>495 買ったのならタイトルだけでも分からないか?
>>497 セイデン(多分正伝、漢字が分からん‥)直江兼継
渡辺三省の本だな
わりと良質な本だったはず
でもそれで何で
>>481みたいな結論になるかはよく分からないが
>>495 学研とかの小説によくその手の題名がつけられてるんだよ
つうか割合だけの問題なら
年貢自体の収入が低い→特産品の収入全体に占める割合が上がる
ってオチにならんか?
>>500 特産物も石高に入ってたりするから、その辺は地域ごとにかなり適当になるはず
>>499 でもあの人は専門家じゃなくて郷土史家じゃ無かったか?
タイトル出てるんだから読めばいいじゃん
特に
>>491とか
まあ大抵ソースは要求しても読まない奴がほとんどだろうがw
504 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/27(金) 19:58:52
で、具体的にアオソ座の収入ってどれぐらいだったのよ?
>>500 だよね。結局根本となる農業生産高が低いから、収入における特産品の割合が高くなるだけで。
でも、根本となる農業生産高が低い為に収入における特産品の割合が高くなる
ということは、表に出てくる石高より実収入が多いんジャマイカ。
と思ったが、江戸時代は石高に特産物入ってるんだっけか?
>>506 江戸時代というより、中世のころからそう。
米のとれない地域では、表向き米を納めたように書類上ではつくろって、実際には
米納に相当するだけの特産物を納入している。
毛利は転封後の検地しなおしで、太閤検地に載せてない
米以外の生産物も石高に反映させたんじゃなかった?
>>508 毛利に至っては軒先に生えてる柿の木にまで年貢をw
太閤検地はもともと米以外も含んでいる
じゃあ上杉120万石は特産品のあがりも込みで?
確か新潟平野が大規模な米所に生まれ変わるのは江戸のことだったでしょ?
>>509 >太閤検地はもともと米以外も含んでいる
ソースは?w
米以外だと特産物以外の舟役、賦役、段銭も入るしなぁ‥
>>510 塩や魚、木材なども石高に換算されてたりするから普通は特産品のあがりも込み
屋敷とかだって石高に換算されてたりもする
江戸時代は更に沼地や葦なども石高に加わったと思った
>>512 それ江戸時代の話ね。
太閤検地では入ってない
>>512 武蔵田園簿が成立した頃だと、少なくとも魚、木材、葦は石高と別みたいよ
取れる土地に税掛かってはいるけど。
>>513 後期の太閤検地では入っているだろいろいろと
大抵の太閤検地に関する本読めば載ってるだろ
琉球が12万石、佐渡が1万7千石 蝦夷は0石。
後期の太閤検地では特産品のあがりも込みというのは
どうも嘘っぽいな
>>518 なんでさ?金や毛皮みたいな米(石高)換算が難しいのは除外されただけだろ
>>518 琉球が12万石、 蝦夷は0石。
それ太閤検地と関係あるのか?
>>519 昆布や毛皮は除外されて、葦や魚は入ったのか?w
522 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/28(土) 19:42:51
桑、茶、紙なんかは太閤検地でも石高換算の対象
ただ、紀伊の蜜柑のように江戸期まで記載はしても換算対象にならなかった作物はけっこうあるよ
その二箇所って交易収入な気がする
交易は石高に反映しようがないだろ
>>522 年貢を納めるのと石高換算の対象を勘違いしてる気がする
琉球12万石って何がソースなんだろ?
>>525 インターネッツ資料がソースw
ただし
>>522みたいな個人の意見じゃなく、大日本租税志に載っていたよん
527 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 11:28:35
>>526 個人の意見?
馬鹿いうな、伊都郡検地帳とかの史料みれば一目瞭然だボケ
>>527 >有田以外の村々では十数本程度のみかんの木登録であり、
>紀州藩ではまだ年貢対象とする石高換算をしていない。
「紀州藩では」ということはこれは他藩に対して例外的なものでは?
換算対象にならなかった作物はけっこうあると言ってるが
ここで確認できるのは蜜柑だけだが他には?
太閤検地じゃ琉球は検地してないのに
何言ってるんだ?
そもそも特産品とは皆の中で何を指しているのだろう?
穀物以外とか?それとも食物以外?
作物のみ?植物のみ?生物全部?鉱物含む?それとも生産活動全部?
>>529 多分
>>518は太閤検地が江戸時代と思っているか
太閤検地の時琉球も検地したと思っているんだよ
謙信にしてみれば関東の奴隷狩りで得た人間も特産品だな。
信玄もか。
質問。
このスレのまとめサイトある?
紙とか筆とか墨とか、あと衣服などの日常品だってこの時代は立派な特産物だがな
小物成と本途物成の両方が石高に入ってるというのか?
そう主張する一*がいるな
>>531 検地した時期は、蝦夷の方が後だけどねw
>>536 つうか、その辺はどうなんだ?
毛利なんかは小物成と本途物成を含めて石高としていた気がしたのだが
ソースは毛利スレでみたような・・
ちと探してみる
この結果、山代の石高はそれ以前の11,901石からなんと28,325石と2.5倍以上に算出され、73%という高い税率も加わり、農民の負担は途方もないものとなりました。
太閤検地には入っていないことが証明されたな
慶長史料推奨×
太閤検地史料○
>>540 のサイトを見て思ったこと。
そうか毛利は返したのか、上杉なんかそのまんまガメたのにな
545 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 17:47:15
で上杉が捕らえた奴隷の目録でもあるのか?
具体的に。
、
略奪しに関東に遠征していた。
ってことにして、つじつま合わせないと
メリットが少ない関東遠征をやるホントの理由が見当たらないからか?
>>545 略奪’だけ’が目的ってもんでもなかろうよ
謙信本人は勝てると思ってたから攻めた。
しかし結果的に失敗→憂さ晴らしに略奪、人攫い
妄想豊かな人ですね
まるでK国人みたい
やることないから出稼ぎがてらにやってたんだよきっと
×>フロイス『日本史』も含めて
○>宣教師の書き残した各種史料は、信仰の問題を除けば、概ね冷静公平な記述である
だけどな
公平かは兎も角誤解はあっただろうよ。
フロイスの日本史も元は却下された報告書だったとか
大友の件なんて、信憑性ほとんどないんじゃないか?
と思うような記述がごろごろごろ
まあ、有名だよね
ちょっと疑義あるけどね
559 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 19:28:30
国内が統一された後
朝鮮の侵攻でもこの慣習は行われ
多数の朝鮮の人が、連行され、東南アジアなどに奴隷として売られていった。
↑みたいなコト書いてあったけど
朝日出版だけに
[強制連行」言いたいだけちゃうんか?
と思ってしまう。
結局、上杉謙信が「人さらい」やってたって具体的な記録はないわけね。
謙信が指示してやっていたのか、統制の離れていた雑兵が上の意向と関係なく
勝手にやっていたのかによって違ってくると思うけど。
まあ「上杉軍(上杉に限らずこの時代の軍隊)が」やっていた事は変らないの
だろうけど。
人攫いは当然あったとして、それ以外がどうなん?
>しかし戦国期では銅銭を保証するものがなく、輸入も減り、通貨としての価値が下がった
>だから中世から戦国期まで普及し続けて来た銅銭による流通が減少するのは当然
>そもそも永楽銭が貨幣として使われたのは、関銭・銭納の影響が大きい
>しかし畿内の分国中の関廃止によって、畿内の商人は銅銭を集める必要性が下がり
>以前からあった米取引が盛んになるのである(少額取引でも)
>信長はこれに対して厳しい対応をとる、それは悪銭を種類別に分け、撰銭を認めるものと禁止するものを確定し
>禁止するものについては善銭と悪銭との交換比率を定め、さらに支払手段としての米の使用を禁じた程である
>しかし、結局銭の価値は下落し続け、米取引を止める事は出来なかった
>京都大学物価史研究会編「15〜17世紀における物価変動の研究-日本近世物価史研究T」には
>畿内とその他の地域の物価の変動に伴い、周辺勢力にも銭納から現物納による和市換算への切り替えが目立つ
>特に煽りを喰ったのが越前朝倉氏で、段銭・役銭・礼銭などを銅銭の価値の下落によって
>3倍に上げている
>越前の朝倉氏が、信長の分国内における関の廃止で、銭の価値が下落して
>段銭・棟別銭を、額面の3倍の金額を徴収したり、元亀元年4月からの信長との争いに際しては
>戦費調達を棟別銭で行なってるが、実際は米でなされてるのが『誓願寺文書』に書いてある
>例えば、1532年の京における塩の価格は1斗143文、1582年には1斗60文前後まで下落
>これ『十五〜十七世紀における物価変動の研究』に書いてあるよ
>それと『尋憲記』に、天正元年に興福寺新祐岩が近江から越前に下向した際に
>どこでどれくらい関銭を払ってるのか詳しく書いてあるが、それでも6ヶ所に減ってる
信長の革新性は幻想ってこと?
幻想は言い過ぎだけど、少なくとも厨房教科書に書いてあるのは一部おかしい罠
畿内の惣はずっと前から和市換算した現物納じゃん
革新性ってのは、あくまで室町戦国時代に対して、だからね。
なぜに棟別銭
北条とかだと物納と銭納の両方じゃなかった
過去にもそのテの話題があったような
>>569 そう。
補足すると、原則としては精銭納(良貨のみ)。
ただ1550年代後半の飢饉や疫病への民衆救済の一貫として、負担の大きい精銭納の緩和を計り、
具体的には米穀・銭の併納(現物と銭の割合は半々)と
精銭率の引き下げ(良貨だけでなく悪銭も一定の割合までは可)を行った。
また棟別銭は銭納みたいだけど、正木棟別銭という新設の税は麦納。
572 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 02:52:58
信長の革新性の一つに比叡山焼き討ちがあります。
叡山焼き討ちも、足利義教の「先例」がある。
義教は、いろんな意味で信長の先駆者。
信長は「革新性」よりも「戦略的一貫性」が持ち味だと思うね。
桶狭間直後くらいから、明らかに上洛を意識して周到な準備を重ねて
いる。稲葉山城を陥落させて、齋藤に止めをさすや、翌年に電光
石火の上洛を成し遂げている。
武田がどう動こうと、あのトロくさい、なおかつ不徹底な体質では、
信長の覇権を妨害するのは無理。
>桶狭間直後くらいから、明らかに上洛を意識して周到な準備を重ねている。
それはいくらなんでも妄想w
それに、将軍からの要請があり、畿内は誰も支配を確立していない状況で
しかもルート上に居るのが六角で浅井と姻戚関係なら、信長じゃなくても
信玄でも義元でも謙信でも氏康でも上洛するっての。
>>574 信長は、義昭と接触を持つ前から朝廷と接触してましたよ。
さらに言えば、上洛はするのも大変だが、さらに大変なのがした後の権力の確立。
ついでに付け加えておくと、上洛戦における敵は六角だけではなく、主敵は三好
一族なんだが。
>>575 他の大名も義昭と接触を持つ前から朝廷と接触してましたよ。
三好、六角とも代替わりのあと見る影も無いし
主敵が三好なのは当然としても、それまでの進路に難敵が居れば諸々難しい
>>573 そんなのは先例になるのか…?
それを言ったら平清盛も奈良の寺社を焼きまくったが
そもそも寺院同士や土一揆が散々ばら略奪放火しまくりんぐだしな
そういや、発掘調査で焼いた跡が見つからなかったとかはどうなんだ?
安土城も 馬鹿息子が火をつけたことになってるが
発掘調査によると 違うらしいな
582 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 22:47:47
義教とか土一揆とかと信長公の比叡山焼き討ちは違いますよ。
比叡山を滅ぼして寺領を没収して自分の領地にする。すごい革新性です。
信玄には到底マネできないでしょう。
>>582 >義教とか土一揆とかと信長公の比叡山焼き討ちは違いますよ。
>比叡山を滅ぼして寺領を没収して自分の領地にする。
それも最近の発掘で 信憑性が低くなってる
>>582 確かに自分の家臣にぶっ殺される信長は信玄ならず
当時の大大名には真似できないほどの革新性を持ち合わせてますよ
>>584 つ[大内義隆]
つ[足利義輝]
つ[大友義鑑]
つ[松平清康]
あと微妙なラインでは
つ[斎藤道三]
[松平清康]が微妙なラインで
[足利義輝][斎藤道三]はどう考えても的外れだな
そうです。信玄公なら上洛できたはずです!
津本陽もそう言ってます!
小説を根拠にしていいのなら、『天を衝く』の九戸政実は伊達政宗を越える大人物。
>>587 足利義輝が的外れって何で?あれこそ下克上の最たるものだと思うが。
当時の大大名ではないからではないか?>将軍さま
>>574 どうでも良いが、氏康はわざわざ上洛はしないだろう。
北条家にとってはもはや将軍家も他大名も京も一つの領土に過ぎない。
>>593 だな。
後北条家がちょっとでも上洛を考えてるなら、
三国同盟も甲相同盟も家康との同盟と、三回も自ら上洛路を閉ざすような同盟はしないだろ。
そうです!
もっと信玄公を科学的に称えるべきです!
何度も出ているが、全ての大名が天下だ上洛だのを目的にしていたわけではない
そりゃ天下狙えるほどでかい領土を持ってる大名なんかほとんどいなかったからな。
大概の小大名は自分の領土が守れればそれでよし、あわよくば領土拡大ぐらいだろうな。
信玄も例外では無く、信長包囲網の面々もしかり。
600 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 23:48:19
>>593 北条は5代でようやく関東制圧。
京都まで視野が無いよ。
謙信は、上野に移転すればよかったね。
601 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 00:01:38
桶狭間直後、ってのは大げさだけど、美濃を平定する以前から義秋を擁しての上洛って動きはあった。
一度、足利義秋の斡旋で斉藤家と和睦して、信長が義秋を擁して上洛、って寸前まで話が進んだようだが、取りやめになってる。
まぁ、これは早期上洛して将軍になりたい義秋側の勇み足的な部分が大きいが。
多分頓挫したのは、美濃を領国化してから上洛したい、と言う信長の意向だろうけど。
斉藤側が和睦に前向きだったので、信長側もうやむやにするしか無かったようだが。
>>601 斉藤が和睦を破って攻撃してきたからじゃないのか?
それって『武功夜話』だっけ?
流れとしては、義昭が各地に出した上洛の要請に信長が応える。ただし美濃の
斉藤氏と争っている最中なので急には無理。それで細川藤孝が両者の和議を
まとめて織田に出陣要請。けど信長からやっぱ無理と返事が来てお流れ。
こんな感じだったと思う。
たしかに、当時の信長は美濃制圧が見えてきた大事な時期で、これを放って
他の作戦に移るというのメリットもなく力不足を感じてもおかしくない。
将来を見据えて接触を持っておこうと声をかけたら向こうが乗り気で和議まで
整えられてしまって困惑したというのがありそうだな。織田斉藤の和議なんて、
斉藤氏には、信長の侵略が止まる&侵攻方面が別になるとメリットはあるが、
信長の方には(今すぐの上洛を考えていなければ)メリットがロクにない。
いや、全然違うだろう。
信長が天下を目指すようになったのってどの時期からなんでしょ
岐阜改名と天下布武の後かと
>>607 それはなかば大っぴらに公言知るようになった時期でしょう。
その時に突然思いついたわけじゃあないだろうから、
それ以前から考えてはいたはず。
〜だろうから、
〜はず。
>>608 当然思い描いていたのはもっと前だろうが、思い描くだけなら誰にだって出来るわけで。
具体的に「目指すようになった時期」、つまり天下を意識したのはその辺りだろう。
美濃取った段階で
東の武田徳川とは同盟中で浅井とも同盟しているから
自然と進む方向は六角か北畠になるわな
港から駿河に渡って今川攻める。
なんてどう?
軍艦の信玄上洛作戦パクって。
その段階では一応まだ武田と今川は同盟関係じゃね
だから、思っていたかどうかなんてことは本人にしかわからないのだから、
後世から確認出来るのは、周りにもそう言い出した時期だけだろう。
天下を取るつもりがないなら今川の侵入に対しては降伏していただろう
尾張統一で満足しているのは降伏していだろうよ
いや、降伏したら尾張統一にもならないし。
自身より強大な敵が攻めてきたときにすんなり降伏せず抵抗しただけで、
天下を取るつもりだったと言うなら、かなりの大名・豪族が該当してしまうわな。
とりあえず、明らかなのは稲葉山城攻略後、
それ以前にも考えてはいただろうと推測はされる。
ってことでもういいだろう?
尾張の地理条件と当時の情勢からすれば、ある程度必然でもあるしね
東北、関東の大名は、軍勢を率いての上洛なんてほぼ無理。
つい数百年前には奥州から京まで電撃進攻した人もいることだし、
条件さえ整えば可能なんじゃないの。
少なくとも技術的には。
だなあ
関東から京のぼった人物も少なくないしな
623 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 21:35:41
>603
中島文書。
斉藤家から武田家に宛てた書状の中にその辺の事が記述されてるみたい。
この書状の日付が1566年8月18日だから、このときの動きは1565年末から1566年初夏くらいだろうね。
書状の続きには8月中に織田家と交戦した、って記述もあるから。
磯野員昌にあてた文書
信長以前では、京よりも鎌倉を制圧して「幕府」を開く方が天下取り
へのポピュラーな戦略。
その意味では、信玄よりも、謙信の方が天下取りの野望は大きかった
と見るべきだと思うね。父の代からの北陸道制圧路線を一時棚上げ
してまで強引に関東に乱入してきた。
関東管領まで成り上がれば「将軍」も近い。
信玄は、一貫して「場当たり的領土拡張主義」でしょ。
とりあえず、中央アルプスの山岳地方沿いへの領土拡張。
それ以外は考えていたとは思えんね。山岳部族のボスだからな。
>626
幕府を開く為には、「京に居る天皇」を抑える必要があると思うが・・・
>>626 尊氏は京に幕府を開いたが
>>信玄は、一貫して「場当たり的領土拡張主義」でしょ
言いすぎだと思うが、確かに明確な目標があるような外交・戦略ではないような気もする
>>626 「関東管領」と「関東(鎌倉、堀越、古河)公方」は全く別物ですが?
ほとんどの大名が目先の弱い勢力を倒して自分の勢力を強くしようぐらいしか考えてなかっただろ。
天下なんかはその延長線上であって。
信玄は三河独立後にすぐに信濃から侵入すればよかったのにね
謙信とは上手く折り合いつけて
>>628 というか攻略しやすいところから攻めるのは基本なわけで戦略の大筋で間違いはないと思う。
個別の件では確かに間違いもあったけどそれは織田・北条・上杉などにもいえることで、
武田に限ったことではないし。
>>633 上杉のは戦略眼は・・・なのは分かるが北条・織田ははっきりとした
目標があると思うが。
信玄は結局京へ行きたかったのか、関東へ進出したかったのか
あっちこっち敵を回してそれだけにムダな時間を費やしすぎではないか?
織田のようにあっちこっち敵を回して全て平らげたのとはまた違うし
信長は長慶死後の畿内にロクな勢力がいないのを見て、暗愚な義治もろとも攻めつけた
ついで、弱そうな北畠を攻めたが思ったより手強く、布石を打ってそそくさと立ち去った
さらに、義景がバカっぽいから攻め、押し気味だったが浅井が朝倉へ付いて窮地に陥った
まあ、よくいる戦国大名の一人だ
北条なんかは武田or今川とぶつかるより東に行ったほうが領土広げられると判断したんだろ。
639 :
634:2006/02/13(月) 17:22:14
煽りに聞こえたらすまん。
いやさ、信長は上洛畿内と言う目標は明確、北条も関東というのも明確
信玄は関東手をだしたり、畿内に手をだしたり、一貫性が感じられない
海が欲しいのならば、今川と一緒に三河を攻撃することも可能。
上洛する気なら早々と三河なり美濃なり攻撃すれば良かったはずだ。
わざわざ北条や上杉を敵に回すより尾張・美濃の織田を攻撃したほうが良かったのでは?
織田はよくいる戦国大名程度のようだし
640 :
635:2006/02/13(月) 17:34:27
煽りに聞こえたのならすまん。
一部の人間は、信長の伊勢手をだしたり、越前に手をだしたり、という行動に
一貫性が感じられないらしい
俺からすると、弱い勢力を狙うという首尾一貫した行動だと思うのだが
革新的では無いという理由から否定したがるのは如何な者か
641 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 17:38:19
>>637 自分でくだらねえ書き込みしてるって分かってるんだろ?
だったら止めろよ、スレッドのレベルが下がるんだよ。
信玄も村上如きにwなどくだらねえレス付くってのは分かってんだろ?
>弱い勢力を狙うという首尾一貫した行動
全ての大名がこの考え方だな。
織田はそれが西に、北条は東に一貫してるから「明確な目標がある」ってみえるだけで。
信玄の場合はそれが西に東にいってるだけのこと。
643 :
634:2006/02/13(月) 17:40:24
ああ、もう良いです。
荒れる原因になってすまん。
煽るつもりはなかったんですが・・・
633だけど武田は信濃制圧後、謙信のいる越後より弱体化した今川を狙うのは理に適ってる
で、関東に手を出したりとかあるけどそれは駿河に手を出した結果北条が敵対して駿河は
一時的に北条の支配地になり駿河に展開した北条の部隊を引き返させるための関東遠征
なのだから戦略目標はブレていない。
畿内の話も北条と同盟して後方を固めた上で義昭の要請や反織田と協力した上のことで
これも間違いとはいえないだろう。
それで、個別の件とは武田視点では今いった北条を敵にまわした事や徳川にちょっかい
出したなどのことね。
これは例えば織田で言えば浅井に話を通さず朝倉攻めをした金ヶ崎や畿内遠征を
したために浅井朝倉に背後をつかれた滋賀の陣などがあげられるね。
北条でいえば武田との敵対を選択したために武田の侵攻され領内を放火され
三増峠で敗北し、その後駿河を分断されて西駿河にいた部隊が壊滅させられて
結局得るものがないまま武田と元の鞘にに収まった事などがそうだね。
>>644 駿河ではなく三河へ侵入すれば良かったのでは?
結果論になりますが、北条を敵に回す事もないし当時の織田と武田では
それほど国力の差もないし、今川と武田と当たれる強みがある上に北条の後援
も期待できますし。
上洛するつもりがあるのならばですが。
>>645 ソースは忘れたけど始め信玄も三河を狙って今川に三河攻めで協力しようと
要請したのだけど今川が織田と同盟する奴なんか信じられるかと断ったらしい
それで徳川との協力で今川攻めをすることに。
家康と氏真を比べてみれば結論は解りきってるのでは?
龍興や義治のような無能者を相手するのとはワケが違う
>>645 >>646 1562年 清洲同盟
1563年 家康西三河
1564年 家康東三河を統一 信玄川中島
1565年 甲尾同盟成立
北信濃が落ち着くまでは三河に手は出せないし、落ち着いた頃には織田と同名結んで
今川に不信感を与えているから三河への進出は難しい
>>647 お前さレスつけなくていいよ
信玄最強でいいからさ な?
信長の野望革新が出たみたいだよ、ゲームでもやってろ な?
実は信玄厨と見せかけた織田厨心象を悪くしようとしている
はいはい都合悪けりゃなんでも織田厨
>>635 概ね事実だが、信長には他に選択肢があったか?
東は姻戚の武田徳川で、北の飛騨は武田の勢力圏西に進むしかない
六角はあっさり駆逐しているし北畠も養子を受け入れた
三好を攻めるには海を越えないとならない
またこの時期本願寺延暦寺とは敵対していない、畿内の諸勢力は織田に従っている
>>638 その割には河東に執着して氏綱時代から今川武田と争っている
最終的には退いたが、河東は領有したかったと思う
>>639 信玄の場合は上杉と敵対しながら更に
今川攻めて徳川攻めて織田とも敵対しているのが・・・
今川はともかく何でそこから更に徳川や織田まで敵に回す
>>644 今川攻めた結果北条を敵に回したのが不手際というだけで戦略的には間違ってはいないが
上杉と敵対しているのに徳川織田と敵対するのは間違っていると思うが
はいはい都合悪けりゃなんでも信玄厨
>>644 >>652 徳川織田を倒せればいいが倒せない場合は上杉織田徳川を敵に回すことになるから
あまりいい戦略とは言えないと思う。
いくら弱そうな相手を狙うといっても、それによってより強力な敵対者を作っちゃ意味無いと思う。
>>652 織田と敵対するのは72年の遠征からで東美濃で争うまで一応同盟関係だよ
徳川と本格的に争うのも駿河を制圧した後だしそこまで間違ってはないと思うけど。
それと上杉に関しては越中加賀の一向宗使って対策立ててるし。
織田も本願寺と争いながら毛利や上杉、波多野等と敵対してるから一概に
間違いとはいえないと思うよ。
>>654 武田VS織田・徳川・上杉ならそのとおりだが
実際は武田・本願寺・浅井・朝倉・(対上杉で)北条・将軍・三好など
VS
織田・徳川・上杉
なんだから意味ないわけでもないだろうな
>>655 毛利や上杉、波多野は相手から敵対したのであって自ら敵に回した信玄とは違うんじゃないか?
それに上杉対策に越中加賀飛騨の親武田勢力を使ってるが、その結果武田は74年には飛騨越中への
影響力を失ってる、その上織田徳川と敵対上杉強大化。
そんなことになるぐらいならまだ、駿河制圧後、織田徳川とは手を結んで越中加賀飛騨の親武田勢力
と共に上杉と戦うほうがマシだったのではないか?
>>656 まあね
実際に浅井・朝倉・(対上杉で)北条・将軍・三好などがどれだけ役に立つかは微妙な問題だが
>>657 まあ、結果から言えば上杉と戦い続けるほうがまだ良かったかもしないけど、
それは史実を知っているから言えることじゃないか?
>>656 でも織田徳川と敵対しないでいれば
武田(対上杉で)北条・本願寺(の一部)VS上杉
であり
武田・本願寺・浅井・朝倉・(対上杉で)北条・将軍・三好など
VS
織田・徳川・上杉
よりは楽じゃない?
本願寺などの畿内諸勢力が織田徳川と互角であればどっちでもいいけど・・・
ただ前者選んで織田が強大化していたら武田の天下はほぼ不可能、
絶対的な差がついた時点で織田は武田に難癖つけて敵対や干渉してくる可能性が高いので
天下とるつもりなら、さっさと織田徳川と戦うべきだろ
>>659 織田が畿内を制圧するまでに上杉を倒せば武田だって
越後越中手に入れて200万石近い大名になれているのだから
織田も簡単には勝てないだろ
それから一向宗毛利と共に戦うでも望みはあると思う
史実として、信長は毛利上杉本願寺武田を同時に相手にしているからな
織田が畿内を制圧するまでに上杉を倒せば武田だって
無理じゃねえか?
史実だと信玄は謙信にかなり苦戦してるからな。
織田と違って雑魚ばかり相手にしてませんから。
手取川の戦いを見れば分かる。
織田厨は必死に捏造して「無かった事」にしたいらしいが。
>>664 織田が強すぎるから回りが相対的に雑魚になるだけじゃん
>
>>666 織田は雑魚だよ
手取川の戦いを見ればわかる
>>666 だな
斎藤龍興、六角義治、朝倉義景といずれも名立たる名将だったからな
なんでそこで信長の相手が弱かったとかいう話になるかわからんが、信長の相手が強かろうが弱かろうが謙信が弱くなるわけじゃないぞ?
現実として、信玄は謙信に苦戦してる。
謙信を倒して云々というのはかなり無理がある、無理でなくても厳しい仮定だってことだ。
結論:もうちょっと別の仮定考えたら?
上杉と同盟結んで上洛、の方が可能性では勝ってると思う。
上杉と武田が結んだら上杉は政治的に孤立する
家内の聞こえも悪いしなんかメリットあんの?
なんで孤立すんの?
関東侵攻に当たって味方が増えるのは心強いはずだが。
んー、たしかに上杉と共同して関東侵攻なら佐竹里見その他の反北条勢力も
味方につけてかなりイけるかもしれん。
信玄厨の論理
1、信長が勝利した相手→雑魚
2、信玄が苦戦した相手→強敵
3、信長が苦戦した相手→信長が雑魚
4、信玄が勝利した相手→相手も強かった信玄はさらにその上へ行く
斎藤龍興は明らかに雑魚だろw→信玄も侵攻すれば良かっただろw隣国だぞw戦略眼0
朝倉義景ごとき→未だに朝倉雑魚と言う旧人類がいたとは・・
六角義治も雑魚→村上の雑魚とか氏真の雑魚とかのために何年費やしましたか?w
677 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 08:04:27
織田厨と見せかけた信玄厨なのは言うまでもない
いや、いつもの織田厨だろ なんせ言ってる事が凄い的外れだからなw
>隣国だぞw >朝倉(義景)雑魚と言う旧人類 >村上の雑魚
ちなみに氏真の雑魚?は3年で滅亡、六角は5年。
>>669 北信から駆逐するまで時間が掛かったのは事実だけど
そりゃあ手を焼いたのであって、苦戦とは言いませんよw
このスレッドでは朝倉義景は評価されてないのか?
>>678 「手を焼いた」と「苦戦した」の違いってなに?
弟討たれておいて「苦戦じゃない」ですか。
大きな事柄を細切れのバラバラにして微に入り細を穿っての揚げ足取りこそ
彼の織田厨の真骨頂というワケですね。
今度は弟がうたれたことを小さなこととのたまいますか。
>>678 六角は5年って言うなら信玄も小笠原に5年ぐらいかけているが・・・
>>685 織田だって長島で散々一族を討たれたけど・・・
武田家における信繁ほどの地位ではないもの達としても
お前ら釣られんなや
織田の揚げ足とり武田儲の妄言にイチイチレスつけんなや
スルーしろ
謙信と同盟するよりは氏真と手を結んで徳川叩けばよくないか?
そんで信濃から撤兵しとけば謙信も積極的にかかわってこないだろうし。
北条との同盟も維持できる。ついでに義信の命も安泰。
氏真が周囲を同盟勢力に囲まれたときにどういう行動起こすかが問題だが。
>>688 真・今川氏真伝 蹴鞠伝説の始まりだ!!
>>689 断られてるっても積極的に敵対するような断りじゃなかったんだろ?
んだから「これから徳川せめちゃうお。邪魔しないでね。」
ぐらいの打診なら氏真も黙認してくれるんじゃね。
>>689 >>692 それは軍鑑に載ってる話しだが
信玄は今川に伊那から三河を攻めるから手伝ってくれ
家康にくれてやるより俺にくれたほうがいいだろと言ったが
今川は織田と手を結んだお前は信用できないといって断った
結局のところ、弱い勢力へ侵攻するという基本は変わらんよね。
信長の場合たまたま畿内への進路と一致したから、遠大な志があった
とか思っちゃうワケで、京(幕府、内裏)周辺の掌握の旨みと
領土拡大のし易さを考えれば、一般的で自然な方針じゃないか?
一応北畠の方がより弱体的な相手だが
六角は三好と組んでいたから本来はそんな簡単な相手じゃない
数日で落ちたから三好からの援軍なんて不可能だったが
六角は観音寺騒動で終わってるうえ
三好とは昔から因縁があるからなあ‥
単に弱い方を選ぶなら、一応君主のもとに固まっていた美濃斉藤氏よりも、
豪族が割拠して弱体だった伊勢の方が美味しいわな。
しかし信長は伊勢ではなく美濃を攻めた。
単に弱い方を選ぶなら上洛後
丹波丹後若狭播磨もあるぞ
でもこの話題は3スレぐらい前に一度でたよな
信玄だって単に弱い方を選んではいないで結論がでたが
木曽川、揖斐川を越えなければならずついでに長島とも折り合いつけないと
尾張からは伊勢に大規模侵攻できないのだけどそこら辺理解してる?
701 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 21:47:49
>>699 義昭の上洛で降った波多野・赤井を攻めるとはすばらしい感性だなw
それが信長厨クオリティーなのです
>>700 永禄十、十一、十二年の伊勢攻めは木曽川、揖斐川を越えさらに長島とも特に
交渉なりなんなりもせず当然折り合いもつけずに行われてます。
そこら辺の史実、理解してる?
信玄上洛時?信長にとって家康は完全に捨て駒と化していたが
家康がいずれ負けるにせよ、釘付けにして時間を稼いでくれればOKで
尾張に迫ればおそらく倍近い大軍を動員し堅固な砦を作って待ち受け両陣営睨み合いの状況になり
結局信玄が農繁期で撤退するのを待つことになるだろうな
徳川勢力が残存しているなら尚結構でその間外交でも調略でも武田、上杉、北条、朝倉等には働き掛ける
ちょうど三國志の諸葛孔明と司馬懿の対陣みたいな感じになるだろう
>幕末、勝海舟が武田家伝来の訓練を見て
>「西洋並み」と、その質の高さに驚いたという
確かに武田軍がよく組織、訓練されていたことは事実だろうが
戦国時代の一強豪であっても戦国最強とは言えないだろうね
>>701 上洛後の時期は畿内に敵は無いし
丹波どころか伊賀でさえも一応従っているから
結局攻める相手は朝倉とかになるんだよな
一応武藤とかもいるけど
>>704 その時には西美濃をある程度保持している
ついでに後の長島攻めも、一部は尾張からだが残りは美濃経由で包囲してる
>>707 後の長島攻めや、その時期に西美濃を押えていたことでそれがなにか?
主力軍は尾張から発して伊勢を攻撃した。それに、美濃経由でも木曾三川が
障害になることは変らない。
長島と川の存在を理由に尾張から伊勢は攻撃できないと言ってきたから、それ
があっても史実では攻撃していると言っているのだがね。
>>708 それって美濃からじゃないと攻撃できないと言っているのと同義じゃない?
西美濃を収めたからこそ伊勢に積極的に介入したんじゃないのか。
美濃とはすでに敵対関係なんだから、
美濃と比べて伊勢が弱かろうが美濃を攻めるだろう。
美濃を攻めた場合:斉藤のみが相手
伊勢を攻めた場合:斉藤&北畠が相手
美濃はかなり豊かだったらしいからなぁ。
同じく駿河も豊かだったしな
豊かではないお勧めできない国ってあるか?
極端に隠岐とかなしで
尾張・美濃は信長支配のときは70万石だってな
ソースは大河の前説だが適当に言ってるわけでもなさそうだし
大河本編なら演出かもしれないけど
前説なら基本的に専門家の監修受けてるでしょ。
まあ、適当かどうかは問い合わせるのが一番だけど。
それって、ただ単に東濃1*万石を支配してないってだけじゃないの?
時期によっては両属だったり、独立だったり、武田側だったり
第五回の前説だったけど美濃・尾張が織田色になってて
このときの織田家は70万石との説明だったよ
といってもNHKだから信用性無いと思うぞ
今までにも前科あるし
そもそもソースは何?
俺が言い出しっぺだしNHKに問い合わせてみるよ。
返事あるまで待っててくれ
「そのとき歴史が動いた」で武田騎馬軍団とか言ってたからな、NHKは。
>>721 監修は小和田だったと思うけど・・・
学生だった頃、NHKの番組であれはどういうことかとある教授に聞いたが
番組の脚本で決まっているから仕方が無い、あれはドラマであって歴史ではない
フィクションと学問は別と言われたことがあったが・・・
>>722 信玄ちゅ・・好きの人の視聴率がっちり掴むような発言
>>723 そこら辺も含めて聞いてみる。
ドラマの本編だとフィクションもかなり含まれるだろうが
前説はどういう根拠で70万石なんだと。
何の根拠もなく勢いで言っただけじゃね
前にもあったな、信玄が甲斐の石高を3倍にしたとか
それだと甲斐は元々7万石弱かよ・・・・
それは堺谷太一の発言だったはず
反証してるなら別だがなんでもNHKだからと切り捨てるのは思考の停止だよ
ソースさえ出してくれればいいんだけどね
NHKだからとソースも無しに信用するのこそ思考の停止だよ
演出、と言われてしまえばそれまでだがな。
演出で表現が大げさになるのはかまわないが、
数字が変わったらいけないだろう。
>>728 ぶっちゃけ、甲斐なんてそんなもんだと思う。
この時代でも雪国で大変なのに、昔なんてそれこそどうだったことやら……
冬なんて農作物一切だめだろうし、凍え死ぬ民だっていたんじゃないか?
信虎が当主だった頃は甲斐国内での戦がほとんどだったし
釜無川に代表される氾濫もひどかったらしいから
あながち誇大表現ではないかもしれないな
戦はあちこちで起こってるんじゃないか?戦国時代なんだし。
戦があれば戦場になった国土は少なからず荒廃するもんだろ。
武田の場合は甲斐の統一過程や今川などとの争いで
信虎の追放直前まで甲斐が戦場になってたのだから河川の氾濫などと
あわせて考えれば7万石説も妥当な範囲だと思うが。
7万石説はありえん、というか未開地でもないのに3倍はありえん
相次ぐ戦乱で実収入が7万石まで落ち込んでしまった、というのならまだ判るがねえ。
釜無と笛吹の両川がよく氾濫して収穫の高い甲府を水浸しにしたようだから地域の特性や
信玄の政策を考えれば十分ある。
つうか信玄が治めるまで荒廃しまくりだろ甲斐は。
信虎の時代って貫高制じゃねえかw
たしかに高白斎日記でも洪水のことが書かれてるし盆地だからいったん暴れ川になるとなかなか水もひきにくそうだしね
3倍かどうかはわからないけど信玄の代になって相当新田開発されただろうね
信玄の代になって税の取立てが厳しくなって単に3倍になっただけなんじゃないか?
はいはいw
745 :
743:2006/02/16(木) 14:51:02
信玄を評価してるだけなのに・・・
はいはいw
>>737 信虎時代の後年は甲斐は戦場になってないが
3倍ってNHKは信虎時代のいつと比較しているんだろ?
家督を継いだころとの比較ならありそうだけど
>>740 それでも精々巨摩郡の一部地域を3倍にした程度じゃないか?
釜無と笛吹の治水は都留郡などには一切関係無いから、甲斐全体で3倍となると
一部地域で飛躍的に石高が増えてることになるが
>>742 その割に新田開発の記録がまるでない
>>743 その可能性は高い
棟別銭を一国単位で徴収できるようにし、
分国法でも年貢を確実に徴収できるよう、様々な規定を盛り込んでいる
>>747 ↑訂正
治水した村の年貢免除と新村の建設の記録があったから
新田開発はしてるはずか
>>747 >棟別銭を一国単位で徴収できるようにし、
>分国法でも年貢を確実に徴収できるよう、様々な規定を盛り込んでいる
信虎時代でも棟別銭はあったがそれの規模範囲はよくわかってないからなぁ
また信虎も分国法では無いけど一応、法度というか訓示みたいなものは出してるな
ただ農村への記述は無かったような・・・
信玄のほうは農村へいろいろ言ってるよな
農民が逃げたら連れ戻すとか、逃げた分農民の分は農村で負担しろとか
隠し田は没収するとか
なるほど
検地だってしてるし、税のとりたては厳しくなっているだろうが
信玄堤に関連して新村がいくつかできているから、
実際の生産高も増えていただろう
それがどの程度かは分からないけど。
第一信虎時代の石高なんて分かってないのにNHKは何を根拠に(ry
>>747 都留郡は山岳地形で甲斐の平野部は巨摩郡がほとんどでしょ
ここが主に洪水でやられるから一度氾濫すれば収穫に相当影響でると思うよ
>>752 自分でもそう思ったので、ちょっと調べてみた
天保時代の石高
山梨郡8万
八代郡6万8千
都留郡2万2千w
巨摩郡14万w
ある程度差はあるとは思ってはいたがまさかここまでとは
河川の氾濫とやらで不作になったときの収穫量?と豊作の時の収穫量らべて三倍かな?
しかし、そんなに変動するのかな?
信虎が石和から躑躅ヶ崎に本拠を移したひとつの原因に水害があったらしいし
笛吹川は山梨、八代郡にもかかってるから信玄にしてみれば治水は切実な問題だったろうな
信玄時代の石高でさえ分からないのに
その通りだな。
信玄は総延長50キロに及ぶ治水事業に取り組む。まず盆地を東西に流れる御勅使川から始めた。
御勅使川は幾つもの河川に分かれ、南北を流れる釜無川と6か所で交わり合流地点では大雨の時、
水かさが増え、洪水が起きていた。そこで御勅使川の流れを人の少ない荒れ地の方向に2本にまとめ
合流地点を減らすことで、洪水の被害を少なくしようとする。
そして、釜無川と御勅使川の合流地点は水量が増え、普通の堤防では決壊する。
そこで、釜無川に沿ってそびえ立つ岩盤(高岩)を堤防にしようと考え、
御勅使川に巨大な石を並べ、流れを高岩に向けさせて決壊することを防いだ。
そして、15年以上の歳月をかけ、御勅使川と釜無川の堤防工事は完成した。
その後、信玄は優遇措置を与えて人々を堤防の近くに住まわせ、
建設した治水整備を後々まで守り続けるようにした。治水工事の完成で、
甲斐の耕地はこれまでの3倍近い400平方キロに広がったという。
信玄の執念と指導力で、豊かな国に生まれ変わった
どうやら石高ベースでなくて耕作地ベースで3倍らしいな。
これなら考古学的な調査で確認できるしな。
太閤検地の甲斐の石高÷3=信玄の治水以前の甲斐の石高
信濃の方は開墾に力をいれなかったのかな?
甲州流は武田信玄が甲府盆地を流れる釜無・笛吹の二川の,
川底が石と砂から成る急流の洪水を制するために工夫した方法で,
今も竜王近くの釜無川畔に痕跡を残す霞堤は著名であり,
本堤と控え堤の二段構えのものである。
甲州以外にも武田領であった東山・東海の荒れ河にもこの流の堤が施工されたといわれる
>>762 >東山・東海の荒れ河にもこの流の堤が施工されたといわれる
ソースは?堤防工事をするのならそれなりの期間、それなりの人数を、それなりの
資金を使って行うのだから記録は残るはずです。
>>763 安倍川の新田開発は1500年代後期から活発化しているため武田信玄による
甲州流治水技術の影響が考えられるが定かではない。
HPの転載だからソースを聞かれても答えようがないが
そんなに詳しく知りたいなら所管が中部地方整備局の静岡河川事務所だから問い合わせて
聞いてみるといいよ。
ちなみに17世紀はじめに家康が島津に命じた安倍川改修はわずかに言い伝えがあるだけで
歴史書による記録は残ってないらしいよ。
お前らすげー詳しいなー
さすがに治水まで分からん
>>758 400平方qとすると、広がった分が全部水田だという無理な仮定をして
全て開発したとするならば33万石前後になるね。無茶だけど
マジメな質問ですが、
「天文16年(1547年)、晴信は東信濃の平定を目指して志賀城の笠原清繁を攻める。
しかしこのとき、晴信は勝利したものの、捕らえた敵3000人を処刑し、女や子供を人質にする。
この事件が晴信の信濃平定を大きく遅らせる遠因となったという。」(ウィキ抜粋)
なんか理由あったの?「仇は敵」と信玄らしからぬ行動。
偏執的編集者乙w
3000人も従える勢力にしては落城早すぎますから。
>>767 3千人は志賀城に援軍にきた上杉軍のこと。
人質は志賀城の城内にいて落城後捕らえられた人。
むしろ、それで手こずって懲りて「仇は敵」とか言い出したのだと。
対諏訪がそうだけど、信玄の政略って恨みをかいそうなことばかり。
771 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/17(金) 23:31:14
上読まないでいきなり書くけど、信玄の最大の失策は駿河攻めたことだろ。
あそこで美濃を攻めていればいい感じで漁夫の利を得られた上に、今川・北条を敵に回すことも無かった。
美濃→尾張→三河と獲れば、あとは取って返して上洛するだけ。
>>773 今川に徳川攻めを断られた以上、駿河以外に進める場所がない。
問題は北条を敵に回したことだろうな。
事前に前後の状況(共同作戦断られたことと上杉と手を組みつつあること)を説明して、
駿東割譲あたりで味方に引き込めればなあ。
美濃攻めの最大のネックは交通事情。
織田の武田討伐は中山道を下った訳だが、それだけが侵攻ルートではない。
徳川や北条を動員して、信濃・駿河・武蔵・上野へと侵攻した。
あと信濃側の出口にあたる木曽が寝返ったことなどの条件が重ならない限りきつい。
んだな。今川攻めなかったら徳川が3カ国領有の大勢力に為るし
しかも、その頃はまだ義昭と信長が決裂してないとくれば
遠山が先方にでもならない限り、美濃侵攻は下策
やっぱ北条に駿東ゆずって徳川と戦うほうがいいな。
ただそうすると信長がどの時点で介入してくるかが問題になるな。
>>774 最後の3行を書いた意図が分からないんだけど。
普通に岩村城を押えて美濃を狙えばいいんじゃないか?
>>775 徳川単独では今川を滅ぼすのは無理だよ。
できたとしてもかなり時間がかかり、武田が美濃・尾張を取って織田を滅ぼす方が早い。
別に今川に援軍出してもいいわけだし。
>その頃はまだ義昭と信長が決裂してない
俺が言ってるのはもっと早い時期の話。
史実では、
1562清洲同盟
1566家康の三河統一
1567信長の美濃入手
1568信長上洛、信玄と家康の今川侵攻開始
なんだから、1567の前後に美濃に侵攻すれば楽々落とせるはず。
一度に美濃と尾張を席巻できればいいが、持久戦になれば織田有利。
冬の木曽路は進軍に難儀するだろう。
東美濃の土着勢力を取り込んでも、冬になれば援軍が来ないとなれば、武田を見限るのは確実。
上杉謙信が三国峠でどれだけ苦労したか、それを考えれば無理が分かるはずだ。
>>777 >普通に岩村城を押えて美濃を狙えばいいんじゃないか?
だから状況がまるで違う。
武田滅亡時は武田包囲網と呼ぶべきものが成立していたわけで、
織田・北条それぞれ単体で武田の国力を上回ってるし、ここぞとばかりに反武田の急先鋒徳川も加わる。
それらが越信以外の国境という国境からほぼ同時侵攻した。
仮に織田単体で木曽路のみの侵攻であったとしたら定めたらああはならなかった。
逆に武田が木曽路からのルートから侵攻しても、それにだけ対処すればいい事になる。
また本国との距離や交通事情から、長期化すれば織田が主導権を握るは必定。
木曽路のみでは主導権は握れない。
木曽路木曽路と言うが、秀忠も木曽路を通って関が原へ行こうとした。
秋本も木曽路から美濃岩村を落とした。
まず、木曽路が君達が言う程の難所かどうかソースを出すべきではないか?
木曽路のみでは主導権は握れないとか、織田単体で木曽路のみの侵攻では
武田は滅びなかったとか話が飛躍だし、無根拠。
1、徳川秀忠は大軍を引き連れ木曽路経由で関が原へ向かった。
当時美濃は西軍敵方。
2、秋山信友が美濃岩村を陥落させた事実がある。
木曽路ルートの侵入が困難だとしたら秋山がわざわざ岩村を落とす必要はなかった。
牽制の意味もあるのだろうが、持久戦となり冬がくれば木曽路ルートの援軍が来れないと
なれば秋山を見殺しにする事になるし、牽制の意味も全くない。
仮に65年に美濃へ侵攻すれば美濃半国くらいは手にいれられたかもね
龍興・・・
>>782 半国って言うか稲葉山城を取れるかですべてが決まるだろ。
龍興を助ける形で稲葉山城を譲渡されることができれば、一瞬で美濃を手に入れることができると思う。
まあそうだけどね
仮に当時美濃を攻めるとすれば、全力で攻められるのかね?
第5次川中島は1564年で最後なんだけど。
上杉の押えにはどのくらいの兵力を裂かなければいけないのか。
北条に上杉への牽制を頼めれば、全力で美濃攻略に専念できるのかな。
むしろ美濃を取れる確信があるなら、海津城を放棄してもいいと思う。
後から取り返せばいいわけだし。
787 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 18:26:37
西上野を得るより西美濃を得るべきだった
>>787 それは言えるな。
西上野は完全に無駄だ。
789 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 18:34:45
確実言えることは、美濃を入手していれば織田の天下は間違いなくなかった
確実に言えることは、美濃を入手していなくても織田の天下は間違いなくなかった(史実)
791 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 18:55:11
>>781 秀忠は雨が降っただけで行軍に難儀して遅刻しているがな。
坂下町から北の木曽路は、現在でもたしか、1日120mmくらいの連続雨量で通行止めになる。
2桁国道では珍しい場所だ。
片側が木曽川、もう片側が峻険な日本アルプスという街道で、秋には紅葉と渓流を求めて観光客が来るような場所だ。
岩村は中山道ではなく、北三河からの街道を押さえる位置にあり、南信州から北三河経由で抜ければ、それほど標高の高い峠も無い。
北三河を制圧した状況下では、後詰が容易だという判断だったのだろう。
岩村は東三河では別格の大城郭で、兵糧も十分に備蓄可能で、実際に秋山が篭城して半年耐え切っている。
秋に兵糧を入れれば春まで持つ計算だ。
>>791 ×岩村は東三河では
○岩村は東美濃では
岩村城のような堅城を持つ遠山はともかく、他の在地土豪はそんなに堅い城を持ってない。
勝頼が東美濃に侵攻したとき、瞬く間に十八の城を落として平定してしまった事実を見れば、かれらが、援軍が来ないのに篭城で頑張ってくれる可能性は低い。
>>岩村は東美濃では別格の大城郭で、兵糧も十分に備蓄可能で、実際に秋山が篭城して半年耐え切っている。
秋に兵糧を入れれば春まで持つ計算だ。
なら、岩村を拠点に尚更東美濃を落とすべきだったのでは?
大城郭で兵糧も十分に備蓄可能とあれば。
いざとなれば篭城し春まで待ってもよいし。
>>786 で、奪還戦でまた重臣が討たれる訳ですね。
796 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 19:39:21
>>794 1.中仙道から外れた山間にあるこの城を、どうやって攻める?
苗木、飯羽間などの城をしらみつぶしに落として進軍する?
2.織田信忠率いる大軍にびくともしなかったこの城を、どうやって落とす?
腰を据えて攻めるための拠点となる城がない。
>>798 調略か?
岩村の兵糧がなくなるまで囲い込んで降伏勧告だろ?
>>なら、岩村を拠点に尚更東美濃を落とすべきだったのでは?
大城郭で兵糧も十分に備蓄可能とあれば。
いざとなれば篭城し春まで待ってもよいし。
武田勝頼の代では岩村を拠点として約3万近くで孫目城・苗木城
明智城、その他諸城を陥としている。
何年にどのような外交状況で美濃に攻め入ろうと考えてるんだ?
それがはっきりしないことにはレスが返せん
804 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 21:50:47
読んだ上で訳分からんから聞いているんだが・・・
>>803 家康の三河統一が1566年?
それに1567年前後に攻めるとしたら、(後だと織田が美濃を制しているから前だろうけど)
織田との同盟を破棄することになる
また武田が美濃を攻めるというなら斉藤と同盟して織田を攻めるのだろうけど、
仮に織田に勝てたとして東美濃を斎藤と分割でもするのか?
>>織田との同盟を破棄することになる
まだ同盟結んでないだろう
織田と武田の同盟は織田の美濃入り後
なんだかな‥
美濃攻めるくらいなら、徳川を早く潰す方がいいよ
その頃はバカ軍神がまだ信濃に御執心だから無理なのにな
>>811 史実でも今川と北条を同時に敵に回して駿河を獲ったくらいだから、駿河を攻めるか美濃を攻めるかというこの戦略上の問題にバカ軍神は関係ない。
>>813 いやだから、史実で今川攻めに使った戦力をそのまま美濃に使うだけだから、北信濃の防衛は史実通りにやればいい。
>>814 それだと西上野が無い状態だから今川攻めの時と同様にはいかない
>>814 駿河と美濃じゃ距離も違うからそのままとはいかないだろ
今川とは違って美濃攻めても勝てないだろ
西上野攻めは今川攻めよりも前の話だろ。
長野業盛を滅ぼしたのは1566年だし。
てか長野業盛はこっちから手を出さなきゃ攻めてこない。
放置しても可。
>>816 北信濃までの距離は駿河と美濃変わらんよ。
上野はすべて北条に譲るのがいいな。
というか自分も
>>803答えて欲しいんだが・・・
どのような設定なのか掴めないんだが
また直線距離か
>>819 史実では1568年に駿河攻めを開始し、69年に北条牽制のため2万で小田原を囲み、70年には駿河を制覇。
これだけの戦力があって美濃を取れないとは思えないけど。
824 :
816:2006/02/19(日) 01:04:16
>>820 いや北信濃防衛よりも攻める時の兵站の積もりで聞いたんだけど
>>823 だから1566年ぐらいだと上野が無いし、北信濃も不安定なままじゃん
ついでに織田とは同盟中
>>821 @1565年に西上野を取らずに美濃攻め。
A1568年に美濃攻め。
このいずれかで可能な方。
どちらにせよ三国同盟は維持したまま。
相手にするだけ無駄だと思う
>>827 2は織田に勝てるわけ無い
1で考えるとして
斉藤とは同盟結ぶでいいのか?
国力的にはほぼ互角だから可能性はあると思うが
>>827 >A1568年に美濃攻め。
これは無理だろ、それにまた同盟破って武田の評判がw
1566年に西上野とってから67年に攻めることは不可能かね?
>>831 もう厳しいと思う
67年というと既に信長は北伊勢に手を出して美濃は稲葉山のみといった感じ
65年春だと信長は尾張の大部分と西美濃の一部に対し
武田は甲斐と信濃の大部分西上野の一部と東美濃の一部だから
まだ望みはある。
>>829 従属関係にはできるだろ。
国力が同じと言ってもほとんど織田に蝕まれて、それを駆逐してやるんだから。
そうだな65年の織田が東美濃に手を出す直前か
手を出した直後が一番良い時期か?
どっちにしても下手すると斉藤まで敵に回しかねないが
>>833 それができるぐらいなら今川を従属させろよ
>>833 織田を駆逐できるのか?
65年終わりだと、信長は美濃の4分の1ぐらい持ってないか?
下手したら武田と斉藤の両方を相手にできるぞ
そうなったら織田のこれ以上の成長は望めないかもしれんが。
>>835 いや今川はもともと対等な同盟関係にあるし。
義元が死んだだけでどこからも侵食されてない。
>>832 むしろ67年に斉藤が稲葉山城だけの段階で織田と決戦できれば・・。
>>836 65年じゃ既に西美濃3人衆が出仕してない状況か?
確かに地理も考えれば何とか戦えるかも。
>>837 三河は・・・
>>838 いや無理だろ
織田は既に100万石ぐらい
武田は70万〜80万石ぐらいか
>>840 それでも野戦では武田の方が強いと思うけど。
実際尾張兵が弱いのは史実でしょ?
てか、結局武田が天下を狙えるときってここしかないと思うんだけど。
上読んでないけどさ。
>>840 石高で戦するわけじゃないんだからその程度の差だとわからんよ
>>842 67年よりは65年のほうがまだいいと思う。
この時期なら国力は多分そう変わらない。
あと史実だと武田の兵は弱いよ、若しくは信玄は戦闘指揮が下手だよ、
過去スレで既出だが。
織田の兵は強いみたいだけど。
>>845 >あと史実だと武田の兵は弱いよ、若しくは信玄は戦闘指揮が下手だよ、
問題はこれだな、信玄なら多分相手のほうが兵力上なら戦わない。
>>845 三増峠を傍証に武田弱いとか言ってた与太話だったろ、あれw
お前ら過去スレ読めとまでは言わないが、
せめてこのスレぐらい読めよ。
>>845 いや一応、家臣が戦下手という可能性も指摘されていたが・・・
個人的には信玄の戦闘指揮が駄目ではなく兵若しくは各指揮官が弱いと思っているが
戦場における大名の任務は戦闘指揮より戦場につくまでが仕事だと思っているから。
>>848 他にもあったと思うけど
2―3スレ前だと思ったけれどいくつだったかな?
>>850 一応言っておくけど長野業政との争いで武田の惨敗続きという話ならそれ嘘話だから。
たしか間に受けて鬼の首取ったようにはしゃいでた奴とかいた記憶があるが
>>850 >>851 多分そのスレじゃなくてもっと前だと想う。
城攻めや退却時などの敗戦は除いて、出来る限り野戦で比較したことがあった。
だから砥石崩れも武田の兵質とは関係ないと言う事に。
三増峠は会戦だったのか撤退戦だったのかで揉めて保留だった、かな。
前スレでは武将の死亡が武田には多すぎるという話しから比較したな
>>851 あれってコピペじゃない?
いろんなスレで見るけど・・・
別パターンで上杉毛利島津伊達もあるけどw
でもほとんどの人が史実か微妙でスルー、
自分も武田が負けたという事実は否定しないけどね。
>>852 結構ここに参加してるつもりだけどそんな比較をしてたとは知らなかったよ
その比較みたいなの引っぱってきてね
三増峠は基本撤退戦。軍鑑だと北条が高所より武田を攻撃。北条の記録だと追撃戦。
>>856 >結構ここに参加してるつもりだけどそんな比較をしてたとは知らなかったよ
そうなの?それじゃ別スレかもしれない、
日本史板ということはないと思うんだけど。
857=852ね
>>856 >>857 だったらもう一度話し合えばいいじゃん
どうせ何回でもループするスレなんだしw
>>857 そう、じゃあきみのいってることは意味ないね。
861 :
852:2006/02/19(日) 02:36:40
>>860 いやまあそうかもしれないけど
じゃあ取りあえず武田の兵が強い根拠を挙げてくれ、
自分は武田が負けた戦い調べるから、
今日はもう遅いので明日以降にでも。
>>840 ま〜たすぐ水増しと不当搾取するw
織田は85万石(東濃はこの後も支配してない)武田は90万石くらい。
まあ上洛前だと信長は敵いないから
美濃侵攻は夢物語だろうけど
>>861 今川遺臣はあまり召抱えていないのに対して
武田遺臣は山盛り召抱えてるのが何よりの証拠だろ
>>864 それって徳川が召抱えたってことだよね。
旧今川で徳川に下ったのは、ぱっと思いついただけで、
安倍・安藤・鵜殿・久野・菅沼・牧野が挙げられるかな。
武田経由ならプラス伊丹・岡部。
兵の話をしてるのに国人領主クラスの名前を出してどうするよ
兵の質云々ってそれこそゲームじゃないんだから。
兵力が多いほうが妥当に考えれば勝つ。
それでいいだろ。
>>863 信玄上洛大作戦時の石高も正確にわかってないのにそれ以前のものに「水増し」も「不当搾取」もないだろ。
お前が正確なことわかってるなら一々かきだしていけばいいだろ?勿論資料つきで。
できないなら「不当搾取」だの「水増し」だの「自分は正確なことを一から十まで知ってます」みたいなのは滑稽。
現状水掛け論でしかない。
>>847 スレのテーマと微妙にずれた話で盛り上がってばかりに見えるが。
定期的に武田の美濃攻めを提唱してるゲーム脳がいるね。
俺も昔は、こんな山道を進撃路にするなんてゲームじゃあるまいし、と思っていたが、
最近、ゲーム脳と言い切る方が固定観念に囚われているだけだと気づいた。
>>870 同意。
可能性を議論してるだけなのに、ゲーム脳とか言ってる方が馬鹿丸出し。
姉川なんかを見る限りでは、尾張兵が三河兵と比べて弱いのは確かだな。
>>867 >兵の質云々ってそれこそゲームじゃないんだから。
>兵力が多いほうが妥当に考えれば勝つ。
同意。
そして信玄は兵力が多くないと戦わない・勝てない
だから信長と戦うことは無い。
局地的優勢を作り出せばいいんだろ。
武田が美濃へ直接攻めなかったのは、甲斐から離れて後方の危険が大きいから。
秋山の岩村攻略は美濃・遠江方面も同時に攻めている時期だし、
勝頼も1574年東美濃攻めた際、家康が足助に進出したため引き上げている。
>>867 >そして信玄は兵力が多くないと戦わない・勝てない
>だから信長と戦うことは無い。
無茶苦茶なこと言ってますね。
>>873 >そして信玄は兵力が多くないと戦わない・勝てない
薩捶山では北条4万5千に1万8千で対陣してるが?
ただ単に戦の前に敵を上回る戦力を用意するという常道をしてるだけで
信玄もやるべき時にはやってるのだよ。
それに信長と対陣すればむしろそこからが信玄の真骨頂だと思うがね(外交・調略)
878 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 15:16:02
外交・調略って信長の真骨頂でもあるよ
>>877 小競り合いがあった模様。
戦うの定義が違うようだが、ようは信長と対陣するかどうか。
対陣してしまえば信長のとれる手段に比べて信玄のとれる手段のほうが多い。
>対陣してしまえば信長のとれる手段に比べて信玄のとれる手段のほうが多い。
何それ?
>>880 もちろん信玄、信長の個人的な能力ではなく状況でね
>>881 本国から近い分、織田のほうが戦術的に取れる手段も大きいと思うが
外交では共に背後に斉藤上杉を抱えてる
強さでは上杉が上としても、東美濃で戦うとしたら、斉藤のほうが協同作戦をやり易い分有利
しかも上杉とは小康状態だが、織田斎藤は臨戦状態
織田は東美濃は占領したばかりで調略の余地があるが
織田も武田の影響下の東美濃とは長年関係があるため多少調略の余地がある
どっちも決定的な勝利が掴めないで時間が過ぎるだけじゃないか?
>>882 へたれながら徳川よりは強大な今川もいるし武田が手を貸して徳川攻めて
織田の戦線を拡大させたりと連携なら武田がより取れやすいと思うけなあ。
ちょうど上杉も関東遠征に忙しくなるし。
>>883 その今川は上の方で信玄の援助断ってるとあるな。
それに今川に手を貸す場合、美濃に送る兵は何処から持ってくるんだ?
>>884 それは織田と同盟したから。美濃に出て織田と敵対すれば今川は喜んで協力すると思う。
美濃だってすぐに落ちるわけではないし徳川が劣勢になれば織田は三河に出ざるをえないだろうし
そしたら斎藤が織田の背後を突いたりも出来る。
>>885 徳川が劣勢になるって武田は美濃以外に三河にも兵を出すのか?
それだと武田戦線拡大し過ぎじゃない?
>>875>>882 美濃が本拠の甲斐から離れているなら、松本付近に暫定的な本拠を置けばいい。
これなら北信濃への対策もしやすい。
889 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 18:51:33
暫定的に本拠を変えれれば苦労しないと思うけどね。
890 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 18:54:46
>>885 上杉が黙って見てるとは思えないんだが・・・。
>>889 信長や家康や元親なんかも戦略上の都合で本拠を変えてるけど。
なら史実で信玄が本拠地変えたことアル?
>>888 本拠変えても兵は甲斐や上野から来ます。
>>893 じゃあ何で家康や元親は本拠を移したんだ?
交通の便と敵地への距離を考えてのことだろ。
896 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 19:14:13
おみこしでした。
すいません
信玄
優しい御神輿大名信玄君が
部下に長期単身赴任を強制できるわけなかろ?
898 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 22:42:31
もう引き下がったのか
899 :
888:2006/02/19(日) 22:44:12
まともな意見マダー?
>>890 上杉は関東遠征で忙しくなると数レス前に書いてあるだろう
それくらい見てから書き込んでくれ
信玄が関東に進出したから忙しくなったという面もあるんだが・・・
信玄が西に向かうならこれ幸いと信濃を目指す可能性もある。
とはいえ武田の邪魔が無いから好機と見て、より関東に進出する可能性もあるんだけどね。
>>899 家臣に担ぎ出された大名が家臣の意向をまるっと無視して本拠変えられるか?
このスレのテーマは1570年代の話だよね?
今川に手を出した後で、なおかつ織田が既に容易ならざる勢力に成長している状態では、
は東海道の手を抜いて美濃に主攻軸を持ってくるのは得策ではないと思う。
やはり遠江・三河から順に潰していかないと
>>903 スレの主題はそれであってるけど
上で話し合われてるのは1565年に美濃攻めたらという話し
そして時々武田最強騎馬軍団について熱く語る方もいらっしゃいます。
>>902 なんで家臣が反対することを前提に考えてるんだ?
戦略を説けば賛成するだろ。
史実でしてないからだろうな
908 :
906:2006/02/20(月) 00:11:14
そもそも担ぎ出されたって信虎追放のこと言ってるのか?
あれから何倍もの国力を得たのに、多少の反対があったところで遠慮することはないだろう。
家康や元就なんかも弱小期は家臣のおかげで生き永らえた大名だが、強国になってからは家臣に遠慮して戦略を決めてなどいない。
机上の空論だからだろ
>>909 実例が他であるのに、どこが机上の空論なんだか。
>>906 ならなんで史実で本拠地を移動しなかったんだ?
史実で本拠を移動しなかったのは、単に思いつかなかっただけだろ。
当時の武田の周りでは実例が無かったからな。
913 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 00:21:53
どういうことだ?
信長は尾張から美濃に移してないか?
>>914 移してる。
>>891で書かなかったのは、信長は経済的な観点による理由が一番強いと思ったから。
揚げ足取られるのもつまらないし。
徳川も浜松に移しているね。
ただ、他に他国に拠点を移した例というとちょっと思いつかない。
四国から出てきた三好長慶が芥山城に居を移したくらいか?
そういう発想がそもそも無かったのか、やりたくても出来なかったのか。
917 :
12:2006/02/20(月) 00:32:01
松本盆地は中仙道と甲州街道の交わる交通の要所であり、武田の領地の中心に位置してるからな。
たとえ家臣の反対があったとしても移すべきだった。
>>911 美濃を直接攻めるつもりなかったから。
・弱いところから攻めるのは常道
・領土が縦に伸びきって後方の心配する必要がない
・駿河が豊かで海・港も手に入る
・交通の便も東海道のほうが有利
本拠移すのは信虎がやっているから、知らなかったわけではないだろう。
しかし上杉との戦いですら本拠を移さなかったのだから、メリットがなかったんじゃないの。
>本拠の移動
絶えず上杉・北条に気を配る必要があったから、
東側面が徳川で鉄板の織田と同じようにはできないと思われ。
920 :
12:2006/02/20(月) 00:33:05
>>916 元親の白地城が一番いい例だと思うんだけど・・。
まああれは暫定的だろうけど。
12関係ない。
間違えた。
信長だって美濃攻略の途中で本拠を移したりはしてない。
いくらなんでも上杉と激しくやり合ってる最中に信濃に本拠移すバカはいないだろ。
>>915 小牧への移転は経済が理由とは思えないが
>>922 そりゃ稲葉山城が最後に落城したからだろ。
美濃に移すんなら稲葉山城以外意味ないし。
敵の攻撃次第で失陥しかねない地点に本拠を移すのは愚作。意味なし。
海津城の城砦群ができた後なら築摩も佐久も安全じゃないか
>>925 攻撃次第で落せるくらいなら軍神さんはとっくに落してる。
てか信濃は広い。
防衛については他の狭小国と同様に考えても意味ない。
>>919 北条に気を配る必要があったとは思えないけど。
>>918 そりゃ駿河を攻めるなら甲斐に本拠を置くしかないだろうさ。
美濃を攻めると仮定するなら松本しかないのでは?
>弱いところから攻めるのは常道
それは同意だが、織田と斉藤の漁夫の利を狙うなら話は別だろう。
>領土が縦に伸びきって後方の心配する必要がない
それは言えるが、結んでいる同盟をわざわざ破棄してまで得るべき利かは疑問。
>駿河が豊かで海・港も手に入る
>交通の便も東海道のほうが有利
海の問題はそこまで切迫していないと思う。
交通の便に関しては駿河より美濃の方がいいよ。
ちょっと近過ぎない?
それに、一応交通の要衝ではあってもそれほど魅力的とも言えない。
単なる作戦上の都合だけなら前進基地を保持しとけば十分だと思うし。
>>928 いやだから前進基地でもいいんだよ。
論点としては美濃を攻めると仮定したときに、上杉への対応が早く取れる場所に戦力が集まっていればいい。
本拠を移すとなれば、経済的なメリットなども色々求められてくるしね。
931 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 02:03:24
領主の仕事は戦争だけじゃないからな。
領地を留守にするからには、誰かに領主の代わりをしてもらわなければならない。
信長の小牧はそれほど遠くまで移転してないし、
家康の場合は息子に岡崎を任せることができた。
932 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 02:09:53
武田家には誰もいないのか
933 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 02:15:58
逆に言えば領国経営を委ねられるような
絶対的な信頼が置ける親族か、
奉行を務めてくれる側近が居れば、領国をしばらく空にしてもやって行ける。
家康でさえ岡崎奉行大賀弥四郎に叛かれている。
鉄の団結を誇る三河衆でもダメだったのに、信玄に出来るかな?
三河衆が鉄の結束?
それは後世の美化によるもの。
本拠は移しちゃいないが、数ヶ月にわたって帯陣するくらいのことは普通にしてるぞ。
「領国を空」にするくらいは別に問題ないんじゃ?
信長はわりと本拠移転している。
名古屋→清洲→小牧山→岐阜→安土
937 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 05:45:38
それより石高を見ると今川が上洛の時3万も動員できたはずないんだが
実際は1万程度?桶狭間も正面対決で負けたみたいだし
そんなことよりテンプレの石高は織田厨の(ry
>>936 本拠地移転は政治上の配慮からしたものだと思うな
甲府〜松本間は3,4日だし、甲府に不都合ないなら移す必要感じないかと
>>937 義元は海道一の弓取りだから
>>939 駿河占領後じゃなくても色々築いてるじゃん
駿河おとした後駿府に移してもよかったかもな
美濃とか攻めるとなると当然長期間にわたって滞在することが必要になるけども、
信玄が長期間にわたって(2〜3年ぐらい?)その前線基地とやらに滞在したことある?
謙信と抗争中ならする必要もあると思うけども
美濃とかを攻めるとなると当然長期間にわたって滞在することが必要になるけども
なぜか当然にされている。
勝頼は普通に東美濃の諸城(苗木城・明智城・その他多数)落としてますが何か?
なら一年で攻略できると?
しかも片手間に徳川も相手せねばならん。
謙信の動向も考慮しなければならない。
勝頼時代とは石高も違うし、信長もすぐ近くで美濃を攻めようとして正面衝突する可能性がある状態で。
時代も状況も違う時の結果を持ち出してそれを当てはめて意味があるのか?
それなら武田攻めみたいに織田は武田氏を瞬く間に制圧できることになるぞ。
何年も滞在するのではなく甲府に帰還すればよいってだけの話
勝頼もそうだったろう。
なぜ徳川と相手しなきゃなんないの?今川攻めで手いっぱいだろう
謙信の動向も注意するべきではあるが、信玄は武田VS今川・北条・上杉という
状況化ですら駿河を手に入れた男。何らかの根回しはするだろう
なんの比較も史料もあげず出せずに自分の脳内だけであーだこーだ言うよりは
はるかにマシ
>>942 長期間にわたって前線基地とやらに滞在した大名なんて居ないよ
といっても、西上野〜今川併呑が最善の策と思うけど
948 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 13:22:30
信玄厨比較
信玄厨左派→信玄の行動を客観視し疑問を提起する。よく織田厨と間違われる
信玄厨右派→信玄のやった行動は全て最善。疑問を提起するようならその疑問に対しての答弁をする
信玄厨極左→つうか織田厨。罵るのが得意。キーワードは村上・小笠原・弟を戦死させたなど
信玄厨極右→織田厨の釣りか成り済ましか?と疑う。罵る事しかできない。六角・龍興・織田は雑魚ばかりを
相手などがキーワード。織田厨に倍ぐらい言い返される事が理解できてない。
↑こういうの貼ったり、たまに出てくる896、897なんてのは
信長厨の面々なんだろうな(笑)
>>947 大名の方は途中で帰還したりしてないか?
>>940 それいうなら、清洲への移転も小牧への移転も岐阜への移転も
みな数日・・・どころか1日で移動できる範囲
スレ伸び過ぎじゃないか?
最後の数レスはまとめ人のために残しておかないと。
>>952 ゆえに
>>940は戦略上の都合の移転ではなく政治的上の都合による移転ではないかと
言っているのではないか?
信長の本拠移転は政治上の都合だろう。
それよりも家康や元親の方が好例。
家康なんか信長の反対を押し切って、わざわざ前線に近い浜松に移転してるし。
浜松移転は、要衝の地で居城として向いていたっつーのが大きいと思うけど
>>956 小牧山への本拠移転はどんな政治上の都合?
そして何故信玄はそのような移転ができなかった?
959 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 16:22:48
信玄の主力は甲州勢なんだからあんまり意味が無い
>>959 信長だってもともとの主力は下4郡の一部じゃん。
>>957 そんなことはない。
浜松移転の第一の理由は武田対策の都合。
>>958 なぜ丸投げ?
何故質問ばかり?
そして、小牧には移ってないから
>>961 武田から遠ざかるタメにか?理由としては弱い気が駿河
>>962 >そして、小牧には移ってないから
初耳何だが・・・ソースは?
>>963 >武田から遠ざかるタメにか?
逆だろ。
前線に近い方が指揮が取りやすいから。
>>962>>964 小牧には移ってるよ。
てか信長が小牧に移ってようがいまいが、移った理由が政治的だろうが戦略的だろうが、どうでもいい。
俺は
>>956だが、これは小牧のことを考慮せずに書いた。
どうでもいいところで揚げ足を取られても困る。
今は信玄の松本移転が現実的に可能かどうかを議論してるんだから、論点を戻せ。
>>964 常識。
>>965 遠江を治めやすいってなら話は分かるが、武田からの圧力は
岡崎でも浜松でも変わらないだろ、それに前線へ近づくにしては南寄り過ぎる。
>>966 普通突っ込まれるだろう、
小牧移転は政治上の都合かどうかそのすぐ上で言われているんだから。
まあ確かに問題の焦点は信玄が信長家康元親のように軍事上の都合で
本拠を移転できるかどうかだけどさ。
>>967 小牧山城でぐぐってもぱっと見たところ、小牧に本拠を移転してるとする
ページしかみつからないんだが
>>967 変わる。
遠江の方が甲斐からも近いし。
実際、武田は遠江に主力を持ってきてる。
遠江の中で浜松を本城としたのは、他に適当な城が無かったからだろ。
仮にも浜松城は海と川に囲まれた要害ではある。
即決戦するんじゃないんなら、最前線に本城を置く意味も無いし。
見付に移転する計画もあったrしいけどね。
971 :
969:2006/02/20(月) 18:07:49
つまり織田の援軍や前線の指揮のバランスを考えたら、浜松城が最適だったってこと。
>>968 インターネッツ上の記録がどうなのかは知らんが
岐阜へ移ったという記録は在るけど小牧へ移ったという記録は無いよ
岐阜と安土はあるけど
973 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 18:16:18
>>966 移転が成立する条件を探るという意味でなら
小牧や浜松移転について論じてもいいんじゃないのか?
まあ上でも言われるように、小牧は尾張の一部なわけで領国を離れたとはいえないので
松本移転の参考になるとは思えない。
論じるなら徳川の浜松移転だろうとは思う。
徳川の場合は移転後の岡崎の統治を岡崎三奉行と呼ばれる官僚的な武士に任せていた。
その一人が大賀弥四郎なわけだが。
まず、武田家の統治機構に仕える官僚的な武士が当時育っていたかが鍵ではないのか。
そしてそいつらが甲斐の国人衆をちゃんと束ねることができること、
なにより、他国から賄賂を受け取るようなことをしないことが条件だ。
そういう内務官僚のような武士は、勝頼の代に表舞台に上がって力を振るうことになるが、
上杉から金を受け取ったり、賄賂で裁定を変えたりするようなことをしていたともいう。
嘘かも知れないが、こういう強烈な反発が記録されていること自体、
武田の体質は官僚を育てるのには向かなかったのかもしれない。
974 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 18:21:15
>>970 > 見付に移転する計画もあったrしいけどね。
袋井のあたりだったかな?
軍事的には、東海道と浜街道を同時に睨む位置にあって最適だと思う。
しかし、水運が不便だということで、浜松になったという話だが。
そうであれば遠州統治のこともある程度計算されていたのではないかと。
>>973 いや、内政官僚が国人衆を統治するわけではないだろう。
そもそも浜松移転後の岡崎城主は信康だし。
信玄が松本に移転するなら、甲斐は義信あたりに任せればいい。
976 :
975:2006/02/20(月) 18:27:27
穴山信君でもいいかも。
流れを見ずに書き込むけど普通に信長公記にでてくるぞ?>小牧山移転
何か別の解釈でもあるの?
>>945 今川と結んで徳川攻めて、美濃にも攻めるって話じゃないのか?
いっこも援軍送らなかったら蹴鞠名人がすねるぞ。
>、信玄は武田VS今川・北条・上杉という
>状況化ですら駿河を手に入れた男
信長は三好に本願寺に朝倉に浅井に武田に周囲を囲まれた中で生き残ったな。
しかし、上杉は関東攻めに忙しいといってみたり、武田株上げるためにはその小康状態を無視して敵方に加えるわ大変だな。
それからお前が何か資料を提示したか?
おまえは状況がかなり違う都合のいい結果を引っ張ってきただけだろ?
だから、織田も武田を瞬殺できるといったわけで。
韮崎あたりに移転でもいいのに、
信秀も信長も10km程度の距離でも移転している。
やっぱ信玄には本拠を移すなんて発想は無かったんじゃないの。
980 :
977:2006/02/20(月) 18:34:26
一応ソースつうか、なんつうか・・・
信長公記の首巻の39題で「小牧山移転」とありますが。
>>だから、織田も武田を瞬殺できるといったわけで。
>>だから、織田も武田を瞬殺できるといったわけで。
>>だから、織田も武田を瞬殺できるといったわけで。
>>だから、織田も武田を瞬殺できるといったわけで。
982 :
975:2006/02/20(月) 18:39:35
思ったんだけど、1565頃に美濃に攻めるなら、徳川の押さえは一向一揆への援助で十分じゃない?
+今川で十分。当時の徳川の状況では武田方に寝返る可能性も高い
おまいらとても楽しそうだな。
そして次スレの季節ですよ。
立てられなかった・・・。
次スレが立つまで書き込みやめませんか?
このスレのまとめをやってくれる人の書く場所がなくなっちゃうので・・・。
986 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 18:50:22
>>975 信康は岡崎衆を束ねる軍事司令官であって、何度も遠州に出馬しているよ。
そもそも若い信康に内政全般を委ねるわけがない。
甲斐衆を率いるのが義信でも構わないんだが、拡大を続ける武田家の内政全般を委ねるのは無理だ。
武田家の急膨張に伴い、煩雑で難しくなった内政の処理は、信玄個人の有能で賄われていた形跡がある。
なぜなら、勝頼の代になって武田家は次第に混乱し、求心力を失って弱体化していったように見えるからだ。
仮にそうだとすれば、義信に任せるなど無理で、信玄が甲斐を離れることも無理だ。
従って松本移転も非現実的ということになる。
>>、勝頼の代になって武田家は次第に混乱し、求心力を失って弱体化していったように見えるからだ。
普通に長篠の戦で重臣古参が相次いで戦死したからではないか?
信玄個人の賄われていたってのはどうだろう?
>>987 *68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っている。71年には謙信に落とされているというのは
誤りで、近年は上洛開始時健在でほぼ確定。
ソース
991 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 19:02:21
普通に従来のを張ればいいのにねー
なぜかそれができない信玄厨
■三方ヶ原の戦い後の情勢。
1572年
十二月 二十二日 三方ヶ原の戦い
1573年
一月 三日 武田軍野田城を囲む
北山城や摂津河内の国衆から義昭に付く者が続出する。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴。
近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。
二月 十五日 武田軍野田城を落とす。
二十四日 柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。
三月 二十五日 信長、岐阜を出陣。
二十九日 細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。
四月 三日〜四日 上京焼き討ち。二条御所を包囲。
七日 調停の仲介により信長と義昭との和睦なる。
八日 信長、京より岐阜へたつ。
十二日 武田信玄死去
柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。
七月 足利義昭京より逃れる。
八月 朝倉・浅井両家滅亡。
993 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 20:09:14
遠江の国人たちからすれば
家康さまが遠州にいらっしゃるのと
三河から目を光らせているのじゃ
前者のほうが武田の策謀にのりづらいだろう。
38スレ まとめ
>1-21テンプレ
32-39官位の自称
60-83本願寺一向宗 三好三人衆の動向と石成について 義昭蜂起に協力した者
78-100経済力
90-143織田武田領国の寺社領と大名の寺社勢力への対応
120-222武田の軍役衆の増加とそれに伴う収入減支出増・財政悪化?があるかについて
120両棟別共御赦免の書状 182棟別改
218-249武田織田の指揮官クラスの死亡について 武田の戦場での強弱
248-281原田直政について
268-297 368-369信長の人事・処罰・追放改易など
296-357家臣の領地替え
250-259戦国時代の農村状況・耕地不足か人手不足か
370-389分国法
390米以外の大名の収入源
401信長の畿内への矢銭要求のソース?「細川両家記」「多門院日記」「多田院文書」等
417-418謙信の商業政策
428-429織田信秀4000貫のソース
434-469茶器宝物の値段
470-479甲斐の棟別銭収入の推定
480-561特産物収入と検地の石高の範囲
562-571銭について
572-714信長の上洛への戦略的一貫性?武田の戦略 三河美濃攻め・駿河取得後上杉と決戦の可否
623義昭による織田斉藤の和議と破談ソース
648年表
715-766NHKの信用性 信玄は甲斐の石高を3倍にしたか
753甲斐郡別石高 758信玄堤
767-983甲尾同盟前の三河美濃攻めの可否
888-988本拠移転
38スレ まとめ
1-21テンプレ
32-39官位の自称
60-83本願寺一向宗 三好三人衆の動向と石成について 義昭蜂起に協力した者
78-100経済力
90-143織田武田領国の寺社領と大名の寺社勢力への対応
120-222武田の軍役衆の増加とそれに伴う収入減支出増・財政悪化?があるかについて
>120両棟別共御赦免の書状 >182棟別改
218-249武田織田の指揮官クラスの死亡について 武田の戦場での強弱
248-281原田直政について
268-297 368-369信長の人事・処罰・追放改易など
296-357家臣の領地替え
250-259戦国時代の農村状況・耕地不足か人手不足か
370-389分国法
390-571米以外の大名の収入源
401信長の畿内への矢銭要求のソース?「細川両家記」「多門院日記」「多田院文書」等
417-418謙信の商業政策
428-429織田信秀4000貫のソース
434-469茶器宝物の値段
470-479甲斐の棟別銭収入の推定
480-561特産物収入と検地の石高の範囲
562-571銭について
572-714信長の上洛への戦略的一貫性?武田の戦略 三河美濃攻め・駿河取得後上杉と決戦の可否
>623義昭による織田斉藤の和議と破談ソース
>648年表
715-766NHKの信用性 信玄は甲斐の石高を3倍にしたか
>753甲斐郡別石高 >758信玄堤
767-983甲尾同盟前の三河美濃攻めの可否
888-988本拠移転
996 :
信玄:2006/02/20(月) 20:30:51
38スレ まとめ
1-303 朝鮮、さいこ〜!
304-761 李舜臣もさいこ〜!!
762-1000 やっぱり朝鮮、さいこ〜!!!
997 :
信玄:2006/02/20(月) 20:31:50
義義義義義義義義義義義義義義義義義義義義
義義義義義義義義義義義義義義義義義義義義
義義義義義 李舜臣 義義義義義義義義
義義義義義義義義義義義義義義義義義義義義
義義義義義義義義義義義義義義義義義義義義
998 :
信玄:2006/02/20(月) 20:32:52
嗚呼、李舜臣、世界三大提督の一人よ!
おお、李舜臣、気高き魂よ!!
999 :
信玄:2006/02/20(月) 20:33:44
朝鮮 is great!
Uh fuuu...!!
1000 :
信玄:2006/02/20(月) 20:34:41
朝鮮さいこ〜! 朝鮮さいこ〜! 朝鮮さいこ〜!
朝鮮さいこ〜! 朝鮮さいこ〜! 朝鮮さいこ〜!
李舜臣「1000!」
朝鮮さいこ〜! 朝鮮さいこ〜! 朝鮮さいこ〜!
朝鮮さいこ〜! 朝鮮さいこ〜! 朝鮮さいこ〜!
1001 :
1001:
立 新 / ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、 ,r';;r" _ノ と 何
て し L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/ ) 申 と
ね い //;;/´ `' 、;;;;;;;;,,l;;' /ヽ す 1000
ば ス /.,';/ ヽ;;;;,l;L_ .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i か を
い レ l |;|┌--‐フ ┌----、、 |;ヾr''‐ヽ, ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く !! 超
か ッ i |l ~~__´ 、 ``'__''''┘ |;;;;;l rO:、; ´ ィ○ヽ 'i;;;;;厶, え
ん ド l _|. <,,O,> 〉 <,,O,,> |;;;;;| `'''"/ `'''''"´ !;;;;;;;;ヽ た
の を ._ゝ'|. / 、 |; ,' / 、 |;;;;;;;;;;;;;レ、⌒Y⌒ヽ
う 「 | | ( ) .ソ l ,:' _ ヽ .|;;;;;;;//-'ノ
ヽヽ | _,ニ ニ,,,,,_ ', ゞ,' '"'` '" i;;;;;i, `' /
⌒レ'⌒ヽ厂 ̄ `| ,、ィ-‐''__'''‐-`,、 '' .', i、-----.、 `''"i`'''l
人_,、ノL_,iノ! . ', :i゙''''''''''`l' ` _人__人ノ_ヽ ヾ゙゙゙゙ニニ'\ ,' ト、,
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ハ ワ {. ヽ. -、、、、 ' ノ き き 了. ゙, ,ヽ===-'゙ ,' , // ヽ
ハ ハ ヽ. ハ ) ん 込 | ',.' ,  ̄ , ' ノ //三国志・戦国板
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