>>842 その数百じゃないという主張も根拠がないけどな
北畠の家臣は織田から見れば只の陪臣だから、
誰が来ようが信長公記に名を載せる必要ないんじゃないの?
ただ北畠に動員かけるなら、兵を何人用意しろって
話なわけだし、名が出るようになったのは、信雄が家督を
を継いで直臣に成ったのもいるからでは?
長篠の合戦とかを見ると馬廻りだけで鉄砲500・兵員1500ほどを酒井隊に合流させている
織田が大大名になったため自然増加したのかもしれんが、一部でこれだけだと直轄軍(大名自身の蔵入地の収入で養われる兵員)の規模はかなり大きいか?
当時の織田家の石高は200万石を越えていただろうから、
到底大きいとはいえないだろうね。
>>859 名が出るようになったといっても何々衆単位だね、直臣にはなってない。
それに元年の長島でも出馬しているなら、当然信長公記に名が載るべき。
>>861 一部を割いて、1500だ。
仮に万石250人計算なら6万石相当。200万石のうちの6万石、3%。
十分に大きいと想像できるが。
>>863 蔵入地なんて豊臣政権で全体の1割ほど、
江戸幕府にいたっては全体の四分の一にもおよぶ。
まあ、江戸幕府は桁違いに大きすぎだとしても、
3%で大きいとは言えないでしょう。
実際には多分織田家の場合ももっとあったと思うけど。
結局その一部が全体の三分の一くらいだったとしても、
まあ標準的なところってものでは?
>>864 何か勘違いしてない?3%は直轄地の一部であって全体ではないだろこの場合。
だから、それが仮に三分の一くらいだったとしても標準的なところでしょう、
ってこと。
仮に三分の一だとすると4500で、18万石相当。秀吉が公称長浜12万石でそれは
ないんじゃない?
まあ直轄の全てを率いていったとも思わないけど、いくらなんでも三分の一は
割きすぎではあると思うが。
逆に全体から信長の馬周り以外を引いていったら
武田家の旗本が馬上200騎、足軽900名で
馬周りに雑兵は入ってないだろうから、1500〜多くて2000前後じゃない?
>>868 当時秀吉の領地が織田家中で最大だったわけでもないしね。
普通に考えて当主の直轄領が有力家臣とどっこいどっこいとは思えない。
まあ、当たり前のようにもっとあったと考えるべきでしょうね。
石田ミツナリwith島勝興みたいなのもあるじゃないか
>>871 当時の秀吉領は秀吉直轄領より樋口のほうが領土でかくて秀吉を困らせてるが
家臣の領土が自身の直轄領よりもでかくては困る。
だからこそ、そんな困ることをわざわざ自分からしないでしょう、普通は。
元々の勢力の強い者をそのまま降らせたとか、
三成と左近のような特赦な例を除いては。
>>873 厳密に言えば、堀・樋口は信長の臣であって秀吉の臣ではない。部下とは言える
かもしれんが。身分としては両者とも信長直臣であり同僚。ただし立場としては
秀吉が上になるが。
寄騎の力が大きすぎる例だな
877 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/03(火) 16:11:47
上杉が、
人さらい、強奪、とかやってたって聞くけど
どういう資料に載ってるの?
>>868 馬廻りは旗本みたいなものだろ?
当然雑兵は含まれないから、100石当たり0.8人くらいかと。
879 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/03(火) 20:23:51
上杉が一万で関東で暴れまわって何を得たのかと・・・。
880 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 03:26:31
その理屈はわかるんだけど
さらった人の目録とか残ってるのかな、と思って。
もう処分して手元に無いけど
「雑兵たちの戦場―中世の傭兵と奴隷狩り」(藤木久志,朝日新聞社)
”朝日新聞社”というのが少し気になるが、この本自体は一次資料を
ソースとしていて面白い。著者が新潟出身のせいか、上杉軍の実態
については詳しい。<人さらい
武田の「人さらい」も紹介されている。
織田軍の下層要員の軍事専業性については、初期の「稲生の戦い」で
「下人」の武功が記録されている。
尾張統一期の戦いで、700前後の軍隊しか動かせない信長が、
勝ち抜けたのは津島から得た租税で、軍事専業の強力な親衛隊を
編成できたことが大きい。
(「織田信長合戦全録」(谷口克広,中公新書))
そろそろまとめないと・・・
そもそも、信玄には上洛を正当化するだけの政治力が無い。
家督相続以降、侵略を正当化できたのは、諏訪だけ。
あとは、ゴリ押しの力押しで、ことごとく地元勢力やら背後の
周辺勢力との永続的な紛争に発展し、完全な平定に失敗している。
「瀬田に旗をを立てよ」は有名だけど、織田に勝っても、京に
翻るのは将軍家の旗。朝廷工作で主導権を握るだけの甲斐性は
無い。
テンプレは改変の必要がありそうだ
>>497-803の言い合いからして、伊勢は訂正確定ぽいね。
あとは近江や飛騨、越中、加賀の扱いをどうするか、持ち越しかな?
大河内とか北畠にはいりこんでる織田家臣とかむしですかそうですか
飛騨越中加賀なんかまともなソ−スないのに持越しとは
>大河内とか北畠にはいりこんでる織田家臣とか
ほ〜 例えば誰で、その織田家臣は北畠一族や土豪を使役できたのかな?
将来の影響力拡充を目的とした処置=直接支配とはねぇ
織田厨はムシがいい頭脳の持ち主ですねw
>>886 朝倉家は代々、加賀国内において一揆と戦っているし
大聖寺城が朝倉の拠点になっているよ。
飛騨は馬場組の管轄で、江間150騎500人は越中、北西信の対謙信戦に参陣すると決められてる
人質を送っていたり、飛騨在番の武田武将の名前も見えるし。
>>888 で、ソースは?
ソースがないと言うことに対しての反論でなぜソースを示さず話す?
>>887 信雄は単身伊勢に乗り込んだのか?
具房も織田の反乱討伐軍に加わってるな
一切の影響力がないと考えるほうが無茶だぞ
>>888 外国で戦ってたら領土があることの証左ですか?
なら山城河内和泉丹波などなど織田領も続々と加えられるぞ
上のほうに書状あったけど見た?
そしてソースの提示を求められると消える武田厨
あーそうだw
自分は思いつきを事実として書き込み
武田厨には一件ごとにソースを求めるのが彼の信長厨のデフォだったなw
>>888 朝倉記と軍鑑の信憑性のかなり高いとされている部分。
>>890 大聖寺城や名前は忘れたが加賀国内の城で準備してるからなぁ‥
畿内と同じ扱いするのは、位置的にも史料の記述的にも誤魔化しだね
>>892 >朝倉記と軍鑑の信憑性のかなり高いとされている部分。
上で否定されてたのにまたループ?
>>894 ソースが何も無いねw 自分の書き込み>武田派の出したソースなのかな?
しかも堀江、加賀南部の織田厨説は上で否定されてたのにまたループ‥
大聖寺城、三谷城を一向一揆が落としたというソースでもあればいいのにね
思いつきの書き込みでなく、自分もソース持ってこないと信用されないよ
>>895 堀江は停戦時の約束で退去した でおさまってるみたいだけども?
違うというなら貴方がソースつきで示せば?
ついでに書き抜きしてくれればもう言うことないね
君の越中衆も思い込みだったねw
>>896 そうだね、寝返ったワケではないけども謀反の嫌疑を掛けられて
結局自らの所領から退去したってことだろう。
越中衆に椎名の名前がはっきり見えるんだが‥どうした?
それに対して
>>894の書き方は、意図的なものか都合よく解釈したのかは解らないが
堀江が寝返り、支配地そのままで一向宗側へ付いた様に誤誘導しようとしているね。
>>893 >>896 朝倉始末記だと1564年に加賀に攻めこんだとも書かれているが
その後1568年に越前金津に侵攻した杉浦・堀江勢を朝倉景恒が
打ち破るとこも載っている
900 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 17:05:58
881氏ありがとう。
探してみます。
朝日か・・・・・。
連れ去られた人の数は100分の1くらいに割り引いて読まないとな。ww
>>898 >そうだね、寝返ったワケではないけども謀反の嫌疑を掛けられて
>結局自らの所領から退去したってことだろう。
それって何がソース?
>>898 越中じゃなくて飛騨の江馬だった
その椎名も謙信につっつかれて援軍どころじゃないぞ
ぐぐると堀江が一揆に通じているという噂が流れたため一揆方に通じて挙兵というのはあるが
でその後堀江は停戦時の約束で退去した
もっともそれまでに一揆勢は加越国境を突破してるみたいだが
>>898 謀反の嫌疑を掛けられて堀江が寝返り、支配地そのままかは分からないが
結果として一向宗側へ付いたことは事実だろ
どんなにがんばっても織田軍より劣るか
どっこいどっこいの兵しか集められない武田軍が上洛するとは考えられず
また信玄本人にその意思もないって事でいいんじゃね?
直接対決すれば勝てたかもしんないし負けたかも知らんが
そんな危ない橋を信玄が渡るかな?
兵力が劣ってるからこそ包囲網で兵を分散させようとしてたわけだからな
順当に行くなら徳川攻めが一番ありそうな目標だったんじゃね
>>902 まあ確かに、信濃北西部と越中防備の為に馬場の寄子を送っている罠
とはいえ、その分は謙信への備えにもなるワケで戦力には違いないんじゃないか