【猪突】小弓御所・足利義明を語るスレッド【猛進】

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1無名武将@お腹せっぷく
中原に覇を唱えん!
房総の地にて「関東公方の後継」に名乗りを上げ、関東の覇者を目指して
兵を挙げた小弓御所・足利義明。
その栄光と挫折を余すところなく語り尽くすスレッドです。

●関連スレ●
【関東】鎌倉・古河公方を語るスレッド【擾乱】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1109516196/
堺公方〜阿波(平島)公方について語るスレ
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1071404950/

●過去ログ●
足利将軍家総合スレ
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1062302088/
【御所様】足利一門総合スレッド【公方様】
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1069789879/
【山名・里見】新田一門総合スレ2【岩松・得川】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1096330183/
2無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 21:12:00
        【将軍家】
足利尊氏┬義詮─義満┬義持─義量
    . ..│       ...├義嗣
    . ..│       ...└義教┬義勝
    . ..│           . .├義政─義尚
    . ..│           .. ├義視─義稙
    . ..│           .. │   ┌茶々丸【堀越公方】
    . ..│           .. └政知┴義澄┬義晴┬義輝    
    . ..│           ....        ..│   └義昭
    . ..│           ....        ..└義維┬義栄
    . ..│           ....         .  .. └義助【阿波公方】
    . ..│【鎌倉公方】
    . ..└基氏─氏満┬満兼─持氏┬義久             ┌藤氏
    . ..         .├満直    .└成氏─政氏┬高基┬晴氏┴義氏=頼氏【喜連川家】
    . ..         .├満隆     【古河公方】..│   └晴直─義勝─義久【宮原家】
    . ..         .└満貞             └義明┬義純
                             【小弓公方】.└頼純┬国朝
                                        ...└頼氏─義親―尊信
3無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 21:13:17
基氏─氏満┬満兼――┬持氏┬女(太平寺住持)       
【鎌倉公方】│     ...└持仲├義久              
... ..     .├満直(稲村御所)├春王丸             ┌藤氏  頼氏  
... ..     .├満隆       .├安王丸             ├藤政  ...┠義親―尊信【喜連川家】  
... ..     .└満貞(篠川御所)│                 .├家国 ..┌女(鴻巣御所)     
... ..     .           ..└成氏―┬政氏┬高基┬晴氏┴義氏─┴梅千代王丸
... ..     .          【古河公方】│   │   ├雲岳(甘棠院二世)
... ..     .                 .│   │   ├晴直(宮原御所)―┬義勝─義久【宮原家】 
... ..     .                 .│   │   └女(東慶寺十八世)└東獄(甘棠院三世)
... ..     .                 .│   │【小弓公方】
... ..     .                 .│   ├義明┬義純  
... ..     .                 .│   │...  ├頼純┬国朝
... ..     .                 .│   │...  │   ├頼氏(義氏継嗣)  
... ..     .                 .│   │...  │   ├女(東慶寺十九世)   
... ..     .                 .│   │...  │   └女(豊臣秀吉側室/古河姫君)
... ..     .                 .│   │...  ├女(青岳尼/里見義弘室) 
... ..     .                 .│   ├基頼└女(東慶寺十七世)
... ..     .                 .│   ├貞巌(甘棠院開山)
... ..     .                 .│   └女(東慶寺十六世)
... ..     .                 .├女(大平寺住持) 
... ..     .                 .└顕実(上杉顕定養子)
4無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 21:14:38
【宮原家】

晴直―義勝┬義照               
    . .. .└義久―晴克┬義辰=氏義―義汨┬義眞=義利―義直(方斎)┬聡氏(喜連川縄氏養子)
    . .. .        ..|           ...└義利             ├=義近    
    . .. .        ..├氏春(喜連川昭氏女婿)              ..├=義以
    . .. .        ..└女                           ..└=義路(岡部備後守子)
    . .. .        ... .┠氏義(義辰養子)
    . .. .        杉浦政令
5参考:2005/09/23(金) 21:19:46
【歴代関東管領 其の一】
斯波家長 (1336〜1337年)
上杉憲顕 (1338年)……………山内上杉家
高師冬   (1339年〜1344年)
上杉憲顕 (1340年〜1351年)
高重茂   (1344年〜1349年)
高師冬   (1350年〜1351年)
畠山国清 (1353年〜1361年)
高師有   (1362年〜1363年)
上杉憲顕 (1366年〜1368年)
上杉朝房 (1368年〜1370年)…犬懸上杉家
上杉能憲 (1368年〜1378年)…詫間上杉家
上杉憲春 (1377年〜1379年)…山内上杉家
上杉憲方 (1379年〜1392年)…山内上杉家
上杉憲孝 (1392年〜1394年)…詫間上杉家
上杉朝宗 (1395年〜1405年)…犬懸上杉家
上杉憲定 (1405年〜1411年)…山内上杉家
6参考:2005/09/23(金) 21:20:25
【歴代関東管領 其の二】
上杉氏憲 (1411年〜1415年)…犬懸上杉家
上杉憲基 (1415年〜1418年)…山内上杉家
上杉憲実 (1419年〜1439年)…山内上杉家
上杉憲忠 (1447年〜1454年)…山内上杉家
上杉房顕 (1455年〜1466年)…山内上杉家
上杉顕定 (1466年〜1510年)…山内上杉家
上杉顕実 (1510年〜1515年)…山内上杉家
上杉憲房 (1515年〜1525年)…山内上杉家
上杉憲寛 (1525年〜1531年)…山内上杉家
上杉憲政 (1531年〜1561年)…山内上杉家
上杉輝虎 (1561年〜1578年)
7無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 21:21:46
藤原冬嗣─(略)─重房(上杉家)─頼重┐
.┌────────────────┘              
.└頼重┬重顕(扇谷)┬重藤    .  .. ...┌持定=持朝┬顕房─政真=定正=朝良=朝興─朝定 
.    .│     .. ...└朝定─顕定─氏定┴持朝  ..... ├高救―義同―義意(三浦氏)      
.    .│                             .├朝昌┬朝寧―朝興    
.    .├頼成―藤成―頼顕―定重―定頼―藤朝   . .└定正└朝良
.    .├憲房┬憲藤(犬懸)┬朝房┌氏憲(禅秀)―持房                     (足利高基子)
.    .| .. .│      . └朝宗┴氏朝=持房―憲房                  .┌=憲寛―義勝  
.    .| .. .├憲顕(山内)┬能憲(宅間上杉重能養子)             ┌=憲房┴憲政=輝虎
.    .| .. .│       .├憲方┬憲孝        ..┌憲忠=房顕=顕定┴=顕実(足利政氏子)
.    .| .. .│       .├憲春├房方        ..├房顕
.    .| .. .│       .│  ...└憲定┬憲基=憲実┴周清―憲房(顕定継嗣)
.    .| .. .│       .│  ...   . └義憲(佐竹氏)
.    .| .. .│       .├憲英(庁鼻上杉)―憲光┬憲長―憲武―憲勝        
.    .| .. .│       .|              ..└憲信―房憲―憲賢―憲盛(深谷上杉)
.    .| .. .│       .└憲栄(越後上杉)┬=房方―朝方=房定┬定昌
.    .| .. .│                   ├頼方    . .  ... ├顕定(房顕継嗣)
.    .| .. .│                   ├憲実(憲基継嗣).. ..└房能=定実
.    .| .. .│                   └清方┬房定(朝方継嗣)
.    .| .. .│                       .├定顕┌頼房
.    .| .. .│                       .└房実┴定実(房能継嗣)
8無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 21:22:32
.    .| .. .├=重能(詫間)=能憲=重兼┬能俊―憲重―憲俊―憲能―憲清―定重―定朝―顕重┐
.    .| .. .├重兼(能憲継嗣)      ..└憲清―憲直┬持成. ┌─────────────┘
.    .| .. .│                        .....|   .....└乗国―乗方―房成―冨朝―規冨
.    .| .. .│                        .....├憲重┌憲宗                (幕臣)
.    .| .. .└重行―能憲(重能継嗣).         . .└憲家┴憲房―顕房              
.    .└加賀局(観修寺別当宮津入道道兎室)―重能(憲房養子)
9無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 21:24:41
>>1
乙です。
しかし、古河スレとどうやって住み分けするんだ???
10無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 21:30:14
>>1
喜連川氏は古河系と見るべきなのか、それとも小弓系と見るべきなのか微妙だよね。
古河姫君(嶋姫)の化粧料を、足利国朝が襲封したというのが興りではあるが、国朝、頼氏共に
形式的には足利義氏の女婿という形になっているし。
といって喜連川頼氏が後年、氏姫の古河領を併呑したのも事実だし・・・グレー・ゾーンだね。
11無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 21:33:23
>>9
それを言い出したら、小弓公方が庇護を受けた真里谷武田氏、里見氏の扱いまで
見直さないといけなくなる。
ま、盛り上がらなかった方が落ちる、それでいいんじゃないのか?
12無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 21:35:48
>>4
宮原氏は完全に古河系でしょ(w
強引に解釈すれば、義明の甥の系譜という言い方もできないことはないけど。
13無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 21:42:59
能力的にはこんな評価。

足利義明(嵐世記)
【能力】政治31 統率71 知略49 野望92 義理35
【兵種】槍 騎馬
【特技】訓練 突撃

足利義明(蒼天録)
【能力】政治17 統率57 知略33 野望93 義理7
【兵種】足軽
【特技】威圧
【策戦】罵声 誘導
14無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 21:47:04
>>13
誘導?
誘き出された(突進しちゃった)んじゃないの?国府台では。
15無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 21:54:30
>>11
あちらは北条方から見た関東戦国史、こちらは反北条方から見たそれということではダメ?
16無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 21:58:31
乱立じゃないからいいっての。
それより密度が下がらないようにやってくれ。
17無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 22:01:27
>>16
そもそも重複か否かも微妙なライン。

ちなみに「密度」とは?
18無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 22:06:17
義明は僧・空然として諸国を放浪していたようだけど、一時、会津の黒川城に
滞在していたらしいね。
19無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 22:17:04
>>18
元々は鎌倉鶴岡八幡宮の若宮別当を務めており、「雪下殿」と呼ばれていた。
後に下野に移って名を空然から宗済と改名し、奥州に赴いている。
20無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 22:27:31
>>18
葦名氏の庇護を受けていたわけか。
しかしながら、義明が滞在していたと思われる時期は、下総に移った時期から遡るとちょうど
盛高(第11代当主)と盛高の子・盛滋(第12代当主)による内乱が勃発した時期に符合して
いるようにも思う。
そんな不穏な空気が漂っていた時期に黒川にいたとは。
21無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 22:46:38
義明の生年は長享元年(1487年)。
鶴岡八幡宮若宮別当の座に就いたのが明応2年(1493年)のこと。
僅か7歳で別当になったことになる。
当時の公方家では次男以降は出家させることが半ば慣例化していたけれども、7歳というのはさすがに早い。
22無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 22:52:15
弟の基頼も出家してたのかな?
23逸見祥仙:2005/09/23(金) 22:56:14
っく、公方様、お待ちを・・・・・
ああっ、討ち取られてしまった・・・・
24無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 22:58:04
野望メラメラ男
25無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 23:19:06
>>23
義純、基頼が討たれたのを見て義明が激昂したという説と、逆に義明が単騎突進して討ち取られ、
結果、友軍が総崩れとなって義純、基頼が討たれたという説があるね。
26無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 23:22:18
>>23
こら!祥仙!
公方様に向かって「公方様」とは言わんだろ!
27里見義堯:2005/09/23(金) 23:25:31
>>23
あ・・・・もう終わっちゃったの???
ちょ〜っと早すぎない????
28無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 23:37:29
>>25
義明を弓で射倒したのは北条方の横井越前守神助。
29無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 23:43:42
>>23
逸見氏ってのは本来、甲斐源氏の嫡流だろ?
当然、祥仙もその流れを汲んでいたわけか。
30無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 00:08:41
>>29
甲斐源氏の祖・義清、義清の子・清光が居住したのが甲斐国の巨摩郡逸見郷で、「逸見冠者」を
称したと言う。
この清光の子・信義が武田姓を名乗り、信義の子・有義(信義の兄・光長の説もある)が逸見姓を
名乗った。上杉禅秀の乱の後、一時的に逸見氏が甲斐を実効支配した時期もある。
31無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 00:11:44
小弓公方を取り上げると、真里谷武田氏、逸見氏を通して
甲斐武田氏まで話が及ぶわけか(w
ということは、安芸武田氏も・・・・・
32無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 00:16:03
>>31
>真里谷武田氏、逸見氏を通して

若狭武田氏、逸見昌経あたりまで飛び火しまっせwww
33無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 00:18:46
↓がdat落ちしたので、里見氏経由で・・・ってどこまで拡大するんだ?

【山名・里見】新田一門総合スレ2【岩松・得川】
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1096330183/
34無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 00:31:33
>>33
まさにスレタイ通りの「猪突猛進」ぶり。
35無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 00:35:26
>>30
応永24年の上杉禅秀の乱で武田信満が敗死したものの、将軍・義持は逸見有直を甲斐国守護には
任命しなかったよね。
鎌倉公方・持氏は再三、義持に有直の任命を要請していたようだけど。
結果、義持は翌25年、信満の弟・穴山満春(信元)を任命した。
但し、甲斐の支配権を有していたのは有直。
これを抑えるために、義持は小笠原政康に信元を支援させようとし、その政康の代理として甲斐に
送り込まれたのが、後年、『甲陽軍鑑』でボロクソに叩かれる跡部一族。
36無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 00:36:14
跡部氏は信元の子・伊豆千代丸を後見する地位にあったが、逸見氏と同様、甲斐の支配権奪取
を目論むことになる。
対して、跡部氏に挑戦したのが伊豆千代丸の叔父・武田信長だったと。
跡部氏は逸見氏と組み、応永28年以降、9年間にわたって抗争を繰り広げ、信長の排除に成功
している。結果、信長は古河公方・成氏に仕え、房総における武田氏の祖となる。
37逸見祥仙:2005/09/24(土) 04:21:01
>>23みたいなネタカキコからこんなに話膨らむとはw
公方様も草葉の陰でおよろこびじゃろうて・・・
38無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 15:52:06
>>37
上様と呼びなさい!上様と!
39無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 15:55:36
>>37
国府台で祥仙さんもあぼ〜んしたよね?
40無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 16:00:28
義明公に与した、敵対した諸氏はぜ〜んぶネタの範疇。
一歩間違うと、小弓公方の名を借りた「武田一門」スレになりそうな悪寒・・・・
41無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 16:07:29
>>36
確か武田信満の子、信重の所在が明らかになり、守護任命が決まったために
跡部は土下座して信重を迎えたんだよね。
その信重から

信重───信守───信昌───信縄───信虎───晴信(信玄)───勝頼───信勝

に辿り着くと。
42無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 18:55:57
>>40
だがそれが(・∀・)イイ!!
43無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 18:59:30
>>30
そうね。
それ故「逸見義清―逸見清光―逸見光長」を甲斐源氏の正統とする説が成り立つ。
44無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 19:16:32
>>36
甲斐を離れた信長の末裔が義明公を擁立するんだから
世の中捨てたモンじゃないね。
45無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 19:28:04
>>43
で、逸見祥仙との関係は???
46無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 19:35:45
>>45
逸見一族には武田家、関東足利家の被官化した者もいるからな
その末流だろ?
47無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 21:57:26
>>46
びみょ〜な役回りですね(w
48無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 22:06:17
>>46
足利国朝が喜連川領に移った際、同行した家臣の中に「逸見三郎」という名があるしね。
やっぱり祥仙の系譜なのかな?
49無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 22:25:32
50無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 23:09:13
>>49
小笠原氏まで拡げます?
まあ、甲斐源氏の流れを組んではいますけど。
51無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 23:40:10
飯富氏も逸見光長の系譜に連なるようで。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/k_obu.html
52無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 23:41:26
飯富氏以外にも、甲斐国内における逸見一族 としては安田氏、一宮氏、吉田氏、青沼氏、
比志氏、坂本氏、米倉氏などがあるとされる。
53無名武将@お腹せっぷく:2005/09/25(日) 00:34:59
>>32
若狭の逸見氏は、安芸武田氏が若狭国守護に任ぜられた時に入府したようだが、当初は粟屋氏など
とは異なり、武田一門の在京奉行人という地位にあったらしい。
結果、逸見氏の若狭入国は、一揆などで内政不安に陥った嘉吉年間と見るのが正しいようだ。
後の応仁の乱では駿河守真正、弾正忠繁経が丹後、京でそれぞれ一軍を率いている。
延徳2年 (1490)武田国信が死去し、嫡子・元信が武田家を継ぐと、家中における主導権は逸見氏
から粟屋氏に移り、粟屋親栄が重用されるようになる。
永正・天文の2度の反乱は実質的に逸見、粟屋の主導権争いであるが、これにより逸見氏は家中
での発言力を徐々に失っていく。
54無名武将@お腹せっぷく:2005/09/25(日) 00:35:54
>>32
天文年間に逸見昌経が登場。
武田信豊の奏者として重用された昌経は、弘治2年(1556)に信豊と嫡子・義統による家督争いが
起きると粟屋勝久と共に信豊を支援し、義統を支援する朝倉義景と交戦したが、永禄4年(1561)
に砕導山城を失って敗北。
このため昌経は永禄8年(1565)、水軍の運用に適した高浜城を築城。
永禄9年(1566)、義統と嫡子・元明による家督争いが起きると、武田義統には朝倉氏が、昌経と
勝久は元明に与したがまたも敗北してしまう。
元明が朝倉氏によって一乗谷に幽閉されたことで昌経は織田信長に接近。元亀元年(1570)の
越前侵攻以降、天正3年(1575)の越前一向一揆掃討に至るまで水軍の将として活躍する。
天正9年(1581)、昌経は京で行われた信長の馬揃えに一番衆として馬場入りするなど厚遇され
たかのように見えたが、直後に死去。
信長は昌経の子への家督相続を認めず、結果、若狭逸見氏は没落してしまう。
55無名武将@お腹せっぷく:2005/09/25(日) 00:37:43
何か知らんけど逸見スレに。。。
56無名武将@お腹せっぷく:2005/09/25(日) 02:36:25
>>53
若狭逸見氏の嫡流は「弾正忠」、次いで「駿河守」を称しているので、真正と繁経を親子
だとする見方もあるようです。
57無名武将@お腹せっぷく:2005/09/25(日) 02:46:01
武田DNAって父子が争うようにできてるのかな?
58無名武将@お腹せっぷく:2005/09/25(日) 18:11:49
>>57
確かに。
59無名武将@お腹せっぷく:2005/09/25(日) 18:55:37
>>54
で、その元明と京極竜子との間にもうけられたのが木下勝俊(長嘯子)だとする説がありましたね。
60無名武将@お腹せっぷく:2005/09/25(日) 19:19:29
木下勝俊って小早川秀秋の兄じゃないの?
61無名武将@お腹せっぷく:2005/09/25(日) 19:41:52
>>60
『続群書類従』に納められている『若州武田系図』には

「武田元明の子二人あり。肥後守家定養ふて子とす。松の丸殿のよしみといへり。母は京極氏の
女松丸殿なり。二人の子、勝俊・利房なり、勝俊は小浜、利房は高浜、ともに本国を領せさせ給ふ
も故ありし事なり」

とあり、勝俊が武田元明の嫡流にあたり、元明が討たれた後に木下家定の養子になったと。
62無名武将@お腹せっぷく:2005/09/25(日) 19:42:51
整理すると現状では

・元明と松丸殿の間にできた二子を勝俊、利房とする説
・元明と松丸殿の間にできた一男一女の男子を木下勝俊とする説
・ 松丸殿は勝俊の継母で、その縁から木下家定の養子になったとする説

など3つの説があるという。
63無名武将@お腹せっぷく:2005/09/25(日) 19:46:40
へ〜
以前安部龍太郎の短編で勝俊が竜子に…てのがあったけど
あれはかなり妖しい話だったのか
64無名武将@お腹せっぷく:2005/09/25(日) 20:35:04
>>61-62
ついに木下家定、小早川秀秋まで飛んだかw
恐るべし!小弓御所!
65無名武将@お腹せっぷく:2005/09/25(日) 20:37:52
>>64
で、義明の孫・嶋姫が秀吉に繋がると(w
66逸見祥仙:2005/09/25(日) 21:56:06
戦国のあらゆる話題に猪突猛進するこのスレに栄光あれ!
67無名武将@お腹せっぷく:2005/09/25(日) 23:12:40
>>66
関連ネタと話の脈だけで猪突突進・・・・



それが小弓公方スレッド
68無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 00:17:33
>>61
ということは松ノ丸殿は子を産める体だったということになるね。
秀吉の種無しぶりが分かるというもの。
69無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 00:52:24
>>68
ということは淀殿はクロということですな。
70無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 01:06:48
『群書系図部集』第三 若州武田家系図別本には
 
母松丸殿。
勝俊者木下肥後守家定之子也。
松丸殿者京極長門守高吉女。
而初為武田孫八郎元明之妻。
秀吉殺元明而奪之為妾。
此説大謬。

右以狩野永納本写之

とある。
71無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 01:22:17
>>68
勝俊の生母を三淵伊賀守晴員の娘とする説もあるんですわ。
となると細川幽斎と叔父・甥の間柄になるわけですけど、勝俊と幽斎は勝俊が成人するまで
ほとんど交流があった形跡が見られず、実際、勝俊と幽斎の交流も、勝俊が改易された後の
こと。したがって、この説も少々疑わしいとされています。
また、養子先としても木下家よりも細川家で養われるべき存在ということにもなります。
勝俊は4歳で家定の養子になったという説もありますから、時に1573年頃。
この頃の家定がどのような身分であったかを考えると、養子先としてとても相応しいとは思え
ませんね。
72無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 01:28:37
不自然の整合がすべて江北に帰結しているのには興味があるな。
73無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 01:57:34
>>71
武田・逸見氏繋がりでついに細川、三淵、京極まで引っ張り出しましたか(w
74無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 02:12:13
若狭では悲劇の将とされてるらしいね、元明って。
やっぱり義統が悪役になってるんだろうか。
義統が朝倉氏の介入を招き、朝倉氏滅亡後、元明が再び若狭の土を踏んだ時には
そこは丹羽長秀の領地になっていたと。
75無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 06:48:07
>>71
当然、朝倉が滅亡した後の出来事でしょ?松丸殿の輿入れは。
76無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 06:53:00
そう考えると、小弓公方って実は古河公方なんかよりも、よっぽど全国的な勢力?
77無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 07:13:49
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78無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 07:24:22
>>54
水軍を率いてた(規模にもよるが)んだから昌経ってけっこう実力者だったんだな。
のぶやぼで見る限りは若狭の田舎武将って感じだが。
79無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 16:47:16
蒼天の方が高評価ですな。

逸見昌経(へみ−まさつね/1532〜1581)

兵種:足軽 騎馬
能力:政治 51 統率 43 知略 59 義理 61 野心 66
特技:弁舌
策戦:密偵 修復
思考:好戦 陰湿
出自:武将
列伝:若狭武田家臣。高浜城主。逸見家は若狭武田家の庶流。織田信長の若狭侵攻軍に降り、
    各地を転戦した。その功により、旧領を安堵され、3千石を加増された。

逸見昌経(へんみ−まさつね/1532〜1581)
兵種:槍 弓
能力:政治 38 統率 34 知略 39  義理 35 野心 49
特技:槍衾
出自:武将
列伝:同上
80無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 16:54:29
>>79
水軍ネタは完全スルーのようで。。。
81無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 17:03:11
>>79
「へみ」なのか「へんみ」なのか・・・どっちなの?
82九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU :2005/09/26(月) 17:40:01
戦国武将辞典では、へんみだったと思う。たしか元明帰若後は、
滝川を通じて再三信長に働き掛けて元明帰参を願い出たり
自分の知行からいくらか割いて元主君に与えたんじゃなかったっけ?
83無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 18:41:44
>>82
元明は若狭に戻ってももはや所領がなかったからね。
確か寺に蟄居させられてたよね?

その点では>>79の評価は辛いなぁ。
84無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 18:46:37
>>82
事実、当時の情勢では昌経は織田の傘下に入るしかなかったものね。
隣国の越前には朝倉がいて、領主も一乗谷に拉致されたまま。
朝倉の軍事的圧力が掛かった状態では、領土保全のためには織田に降るしかない。
といって解放された領主をそのままにしておくこともできないし。
85無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 20:42:33
逸見って秩父にもいたよね?
北条氏邦の配下で
86無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 20:45:05
武蔵七党の秩父党逸見氏はイツミと読む。ヘンミ氏とは無関係
87無名武将@お腹せっぷく:2005/09/27(火) 02:35:36
>>85
しかし、北条ネタは歓迎。何せ敵陣営ですから(w
88無名武将@お腹せっぷく:2005/09/27(火) 02:42:58
高浜城ってなかなか面白い城ね。
KOEIさんにはこのあたりも評価してもらいたかったな。
http://okhome.fc2web.com/castle/ooi/takahama.html
89無名武将@お腹せっぷく:2005/09/27(火) 23:44:56
で義明公の国府台以前の戦歴ってどんなもん?
90無名武将@お腹せっぷく:2005/09/28(水) 03:30:57
>>89
そもそもは八幡御所
91無名武将@お腹せっぷく:2005/09/28(水) 04:10:32
>>88
新たに「改修」の特技を追加。
92無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 18:29:35
>>88
平山城で水城。全国的にもあまり例がないんじゃないの?
93無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 19:54:24
>>91
ど〜せなら出自も水軍にしてやれよ。
94無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 21:45:11
>>87
つーか氏邦って小弓公方と抗争していた時代には影も形もないじゃん。。。
95無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 23:37:14
ということは、子孫は存在してるってことなのね・・・

>逸見昌経の特別展開催
>
>戦乱の時代を生き抜いて今の高浜町に勢力を築いた武将、逸見昌経(へんみまさつね)の
>特別展が高浜町郷土資料館で開かれています。逸見氏は戦国時代、高浜町を中心とした
>地域を治めていた一族。中でも高浜城を築き強大な権力を誇った逸見昌経は、その生涯が
>戦いの連続であったと伝えられています。
>会場には、逸見家に伝わる重厚な鎧兜(よろいかぶと)や、戦の恩賞として授けられた薙刀
>(なぎなた)など、逸見一族にゆかりの品々など35点が展示されています。戦乱の時代に、
>逸見氏が合戦を繰り返した若狭の武田氏や、手を結んでともに戦った織田信長に関する資
>料なども併せて展示されています。特別展は11月12日まで開かれています。
http://www.fukui-tv.co.jp/cgi-bin/news/user/newsdetail2.cgi?year=2000&month=10&day=30#20001030-04
96無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 23:44:54
>>95
幕府の旗本にも逸見家(禄高3,000俵)というのがあるが・・・
97無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 00:19:04
>>86
逸見若狭守(生没年不詳)のことでは?
その場合は「へんみ」を称しているはずだが。
甲斐八幡の出身で、鉢形城の支城である高松城(秩父郡皆野町高松)の城主を
務めていた。
同じく逸見姓を名乗り、榛沢郡末野内(寄居町末野)で1貫900文の増給を受けた
者に逸見蔵人佐がおり、一族とも思われる。
98無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 00:20:10
なお、秩父郡からは甲斐源氏逸見氏の後裔(19代)を名乗った逸見義年(1747〜1828)
を輩出している。
数代前に没落して帰農し、小沢口の名主となっていたが、桜井五郎長政から一刀流を学び、
甲源一刀流の祖として「耀武館」を設けて門弟を育成した。
99無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 00:40:25
>>97
その逸見若狭守の子孫である可能性が高いのが、家康に召し出された
逸見小四郎左衛門義次。
この義次の子孫が旗本となっている。
100無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 00:42:19
『新編相模国風土記稿』によれば、
文禄元年(1592)、肥前国名護屋陣の時、東国及奥羽二州の諸軍を将て、
二月四日当所の諸御あり
(中略)
(文禄)三年九月逸見左衛門尉義次、當所に居住すべき由命ぜらる、然る
に義次病に依て、同月十三日歿す 寛永逸見系譜曰、義次、北條安房守
旗下に属す、文禄元年肥州名護屋に於て、大権現 義次が子義介に命ぜ
られて、義次を汝が領内に置、朝夕考行致すべしとの上意なり云々、同三
月九日駿府にいたる、時に大権現 大久保石見守に仰て、義次を相州中
原に居住せしむべしとなり、然るに義次さひはひならずして、同月十三日
病死、四十八、法名傳水、逸見家譜曰、小四郎左衛門義次、文禄元年
(1592)被召出、「大三川志」曰、文禄元年( 1592)四月、神祖名護屋
供奉の内、逸見弥吉義介を召れ、相州の采知へ汝が老父四郎左衛門義
次を寓居せしめ、考養を盡すべしと命じ給ふ、人皆其仁恵を称し奉る、按
ずるに、「大三川志」に文禄元年( 1592)逸見義介に命ぜられ、父義次
其采地當所に居住せしめられしとあるは誤なるべし、寛永系譜元年の台
命に、汝が領内に置て、云々とあるのは、他所なるべし、
されば三年に至て、更に當所居住を命ぜられしなり(以後略)
101無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 00:46:44
>>99
四郎左衛門、後、左衛門尉ということかな?
102無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 00:52:44
>>100
つーことは何かい?
義次を采地に住まわせて孝養を尽くしなさい、ってことは、義次の子・義介は既に文禄3年には
徳川家臣として采地を与えられていたことになるね。
ということは、北条家が滅亡して間もなく、逸見義介は徳川家臣に取り立てられていたと。
103無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 01:19:34
>>102
北条旧臣が数多く徳川家臣団に編入されたことを考えれば別段、疑問は感じないが。
104無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 02:50:29
http://www.h4.dion.ne.jp/~sueki/ouen/takedabishi.htm
逸見三郎義清は義光の次男で、初め常陸国の武田郷(茨城県勝田市武田)を領した。
武田氏を称するのは彼からであるとも言われている。ただこれについては義清の子清光が逸見氏を
称していることから各種説がある。
義清の子、逸見清光は在地の武士団と紛争を起こし、大治5年(1130)、父子ともに甲斐市河荘に
配流された。
その館は西八代郡市川大門町の平塩の館といわれているが、一説には、中巨摩郡昭和町西条の
義清神社のあたりともいう。
義清は甲斐源氏の嫡流として、甲斐西部を支配し、その子清光とともに、開拓をすすめて勢力を伸
ばした。久安元年(1145)7月23日没。75歳。
逸見氏は武田宗家と長年にわたり対立し、一時は宗家を押しやり、甲斐守を名乗った時期もあると
いう。小田原北条家につくし、逸見義次以降のとき、徳川家康に属した。
花菱/割菱を家紋とする旗本の青沼氏は、甲斐源氏逸見氏の分かれである。武田氏に仕えたが、
武田滅亡後家康に仕官した。
105無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 17:22:09
>>98
燿武館って最盛期には2000を越える門弟がいたらしいね。
106無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 18:09:43
>>105
義年の子孫である長英は剣客として技量が特に優れていたと言われ、
長英の子・英敦も岩鼻代官所の剣術指南役を務めたほど。
107無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 18:14:37

ビクッ. ∧ ∧ ∧ ∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  Σ(゚Д゚;≡;゚д゚) < うおっ、なんかすげえ所に迷い込んじまったぞ、ゴルァ!
     ./ つ つ    \______________________
  〜(_⌒ヽ ドキドキ
     )ノ `Jззз
108無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 22:13:56
>>97
逸見氏が武田信虎との不和により甲斐から武蔵に移り住んだのは大永年間(1521〜1528年)、
第10代の逸見若狭守義綱の時代と言われている。
若狭守を称した某が高松城主になっているが、甲斐逸見氏の後裔で秩父郡に住した義年が
19世を自称しているということは、いつの時点かで傍流が嫡流の勢力を越え、北条家臣として
一城を任されるようになったということも考えられるね。
そのうえで「若狭守」を自称(又は主君に許された?)したのかも知れない
109無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 22:29:49
大通院
http://www.h5.dion.ne.jp/~bangai/daituin.htm
ここに逸見若狭守と内室、若狭守の子・義久の墓所がある。
110無名武将@お腹せっぷく:2005/10/02(日) 22:59:37
>>108
甲斐源氏逸見氏の嫡流が

逸見若狭守義綱(10代)―…―若狭守某(高松城主)―義久―…<数代略>…―義年

ということはあり得ないのかな?
官途名からして義綱から若狭守某に繋げた方が通りがいいと思うのだが。
秩父の大通院に墓所がある若狭守の子・義久の子孫が義年(19代)であるとして、
嫡流は高松城落城後に没落して帰農。
対して、義次(若狭守の弟?あるいは庶子?)は若狭守と同じく北条氏邦に仕えて
いたが、子の義介が家康の関東入国の際に徳川家臣団に編入され、その結果、
病床に臥していた義次もまた義介の采地(相州・中原?)に引き取られる話になった
と。そんな風に繋げてみると納得できるのだが。
111無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 02:33:08
旗本・逸見家は>>99>>96と見ていいのかな?
112無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 03:16:31
>>108
そもそも秩父地方は山内上杉氏の臣、藤田康邦の支配地。
高松城は北条氏による藤田氏乗っ取り(氏邦の養子入り)後も山内上杉氏の
支配下にあったよね。
その時に城主だったのが逸見若狭守。
高松城は永録4年(1561年)に北条氏によって攻略されたものの、若狭守は
武田軍への備えとして引き続き高松城に城主として置かれたと。
なお、氏邦の居城・鉢形城に逸見曲輪と呼ばれた一帯があったけど、それは
若狭守が三の丸に館を与えられていたからだというね。
113無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 13:09:52
>>111
>>96のそれは限りなく偽者に近い、なんちゃって逸見。
114無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 13:20:32
>>113
傍系の傍系の、そのまた傍系とか?
115無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 13:33:06
古河公方か小弓公方のオフ会は?
116無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 14:13:47
>>115
やりたければどうぞ。
117無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 14:20:08
>>110
仮に嫡流の系統をそのように考えるとしても、義綱以前に関東公方家や武田家の被官と
なっていった傍流が存在したわけだよね?
あるいは武田家(若狭)から分派しての逸見氏(昌経ほか)も存在すると。
このスレの主役?祥仙などは義明の下で戦いながらも、本来は古河公方家の被官だった
人物でしょ?
118無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 14:40:17
>>113
それは逸見義次・義介の系譜ではないね。
旗本として3000俵を与えられていたのは逸見左近家。甲斐源氏逸見氏の傍系を自称する
越後新発田藩主・溝口家から起こった家系。

そもそも溝口家は 逸見光長――基義――惟義――義重 と続き、尾張国溝口郷を領した
勝政が溝口姓を名乗ったとされ、義重の後裔を自称したようだ。

勝政の子・秀勝が丹羽長秀に属して若狭国高浜城主を務め、後に徳川政権下で越後国・
新発田藩主となっている。
溝口家は 秀勝――宣勝――宣直――重雄 と続き、重雄の三子・隼人元長が3000俵
を与えられ、逸見姓を称して旗本に取り立てられたのが>>96にある逸見左近家。

また、宣勝の次子・宣秋が越後国桐海6000石を分知され、宣秋の孫(宣秋嫡子・宣就の
三子)・勝興がさらに1000石を分知されて旗本となり、逸見姓を称したが、こちらは曲事に
より改易となっている。
119無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 18:55:35
>>118
逸見左近家の3,000俵については享保15年、同17年の二度にわたり分知を受けたもの。
120無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 18:56:23
なお、左近家は

元長―副長(寛延2年相続)―長祥(寛政元年相続)―長道(文化7年相続)―長昌(安政3年相続)

と続き、元長と副長は隼人を、長祥と長道は甲斐守を、長昌は若狭守を称していた。
また、長祥は常火消、小普請支配、日光奉行を、長道は日光奉行、書院番頭、大番頭を、
長昌は小姓組番頭、書院番頭をそれぞれ歴任し、維新を迎えている。
121無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 19:05:22
溝口ってのもまたびみょ〜なキャラだねぇ・・・
122無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 19:46:07
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mizoguti.html
清和源氏武田氏流逸見義重の後裔と伝える。
義重は承久の変の功で美濃国大桑郷を拝領したという。
この義重の子孫が尾張国溝口に溝口を称したという。
しかし、『溝口家譜』には逸見義政が常陸溝口村を賜り、戦国末期の勝政のとき、近江・美濃に
移ったとするなど混乱がみられる。史料的には、尾張溝口氏は応永元年(1394)からみえ、溝口
富之助が常安寺を再建したと伝える。同氏の拠城は豊場にあり、子孫は尾だ信長に仕えている。
しかし、名字の地といわれる溝口と豊場では十数キロメートルも離れており、溝口氏の出自は不
明というほかはない。
ひとつの可能性として、遅くとも南北朝期から豊場に拠っていた溝口氏が織田氏に臣従したあと、
その一族が、信長の重臣となった丹羽長秀の麾下に入ったとも考えられる。溝口氏が飛躍的に
発展するのは秀勝の代からである。
秀勝は幼事から丹羽長秀に仕え、天正九年(1581)には若狭高浜城主逸見昌経の遺領八千石
のうち五千石を信長から与えられた。この逸見氏は、代々駿河守を称し、溝口氏と同祖で、若狭
守護武田氏の奉行を務めた。若狭武田氏は、信長の越前国進出によって没落したが、逸見昌経
はそれ以前より信長の与力となって各地を転戦。が病死により、逸見氏は断絶、同族の秀勝が
高浜城主とされたのである。
同十一年、羽柴秀吉が越前北の庄の柴田勝家を滅ぼしたあと、丹羽長秀は秀吉から越前一国
と加賀の江沼・能美二郡拝領し、このうち加賀江沼郡を戦功のあった秀勝に分与した。結果、秀
勝は大聖寺城に拠り四万四千石の大名となった。
天正十三年、丹羽長秀が没し堀秀政がその遺跡を継ぐと、秀勝は秀政の与力とされた。
慶長三年(1598)、秀政後嗣秀治の越後国春日山城四十五万石への移封に伴い、同国蒲原郡
に移封され、録高は六万石に加増された。秀勝は同郡新発田に新たに築城を開始。新発田は
新発田重家の故地で、築城はその古城を取り入れたものであった。
慶長五年の会津征伐に際して、秀勝は家康の命を受けて先陣を務めている。つづく関ヶ原の合
戦でも徳川方に属してその地位を確実なものとし、子孫は新発田藩主として明治を迎えた。
123無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 23:53:03
>>122
同族扱いされた側も迷惑だろうな。
実際には得体の知れない尾張の田舎侍だろうに。
124無名武将@お腹せっぷく:2005/10/05(水) 15:41:13
>>123
昌経の家臣にしてみれば「はぁ?何であいつやねん?」だろ。
125無名武将@お腹せっぷく:2005/10/05(水) 21:00:03
>>124
一応、昌経には子がいたからね。
信長は逸見の水軍を丹羽軍に取り込みたかったのかな?
126無名武将@お腹せっぷく:2005/10/05(水) 21:57:32
>>125
相続を許されなかった昌経の子ってのはどうなったの?
127無名武将@お腹せっぷく:2005/10/06(木) 18:58:23
>>126
子孫は続いているからね。
おそらく帰農したとか?
128無名武将@お腹せっぷく:2005/10/06(木) 23:46:51
129無名武将@お腹せっぷく:2005/10/07(金) 02:04:35
しかし、鎧兜だの薙刀だの35点も保存されてたなんて凄いね。
わりと富裕の家柄じゃないとここまで保存できなかったんじゃないの?
130無名武将@お腹せっぷく:2005/10/07(金) 17:11:32
>>129
売りに出して売れるものなのか?
131無名武将@お腹せっぷく:2005/10/07(金) 17:18:54
でも「なんでも鑑定団」に出したら
偽物のオンパレードだったりしてw
132無名武将@お腹せっぷく:2005/10/08(土) 00:49:10
>>131
とりあえず、子孫さんたちが保存していたわけでしょ?
35点全部がアウトということはないんじゃないの?
133無名武将@お腹せっぷく:2005/10/08(土) 01:28:16
たまにあるよね。
先祖からの伝来品として出してきた作品が
近年の偽作だったってケース。
134無名武将@お腹せっぷく:2005/10/08(土) 19:32:24
>>133
どこかの時代に入れ替わったか、そもそも偽者だったか・・・
喜連川家には小弓足利家の遺品とかは伝わらなかったのかな?
135無名武将@お腹せっぷく:2005/10/09(日) 05:15:03
>>133
高浜町郷土資料館へどうぞ。
昌経のみならず家臣・沢村大学の資料などもあります。
136無名武将@お腹せっぷく:2005/10/09(日) 19:01:56
>>135
何者?沢村って?
澤村大学吉重。ぐぐると出てきますから割愛しますけど、逸見駿河守の家臣すね。
昌経死後細川家に仕えて、墓所もそっちにあるそうです。
(高浜町郷土資料館に墓所写真および事績紹介あり)
万石取りで召されてますから、旧君よりも出世したんすね。
系図も展示してありますから参考になるでしょう。

5年ほど前に逸見氏の企画展示を行なったそうで、そん時に展示総覧を作ったみたいですが
現在品切れ中との事。展示品・系図など詳細な解説が書いてあるんでしょうが、
入手困難なのは残念す。町立か県立図書館行けばあると思いますから、
閲覧くらいは出来るでしょう。

しかし義明 ー> 真里谷武田 ー> 若州武田 ー> 若州逸見 ー> 澤村大学 って…
どこまで脱線しまくるんだこのスレ(笑
138無名武将@お腹せっぷく:2005/10/10(月) 01:50:35
>>137
お、朝倉渦中だ(w

>義明 ー> 真里谷武田 ー> 若州武田 ー> 若州逸見 ー> 澤村大学

甲斐源氏逸見氏もお忘れなく。

ちなみに後年、細川家に仕えた昌経の旧臣はけっこう多いようで。
139無名武将@お腹せっぷく:2005/10/10(月) 17:33:30
>>138
若州勢なのに丹後?
140無名武将@お腹せっぷく:2005/10/10(月) 17:48:30
>>139
丹後守護の一色家が代々在京だったこともあって、
若州武田自身が、丹後に影響力持っていたからな。
その家来たちも丹後にそれなりのつながりがあっても不自然じゃない。
飛び地だってあっただろし。

関東ネタに戻るが、太田資正は武蔵岩槻の武将だが、北条のお膝元である小田原にも所領があった。
北条は結構寛容で、没収はしなかったようだ。

こんな感じのことがあっても不思議はないと思う。
141無名武将@お腹せっぷく:2005/10/10(月) 18:37:37
>>139
細川家の被官になった者も多いからね。
142無名武将@お腹せっぷく:2005/10/10(月) 18:45:21
>>140
常陸に逃れた頃には当然、没収されてたでしょ?
143無名武将@お腹せっぷく:2005/10/10(月) 20:05:12
>>142
没収というか、資正を追放した息子が相続した。
144無名武将@お腹せっぷく:2005/10/10(月) 22:31:17
>>143
氏資ね?
こいつも北条に言い包められてあぼ〜んしましたね。
生来の吃音だったとか。
145無名武将@お腹せっぷく:2005/10/11(火) 00:31:56
>>138
ということは宮本武蔵まで話が及んでしまうのか?
恐ろしいくらいの脱線ぶりwww
146無名武将@お腹せっぷく:2005/10/11(火) 02:09:35
>>144
三楽斎の子孫ってのはどうなったの?
147無名武将@お腹せっぷく:2005/10/11(火) 02:35:06
>>146
資正には氏資、政景(梶原)、資武、景資、資忠(潮田)の男子があったようですね。
このうち、資忠については「?」がつくところがあるようです。
潮田は資忠の生母の姓で、その名跡を継いだとするのが一般的ですが、実は資忠は資正の子
ではなく、太田氏の一族が潮田常陸介の養子になったという説もあるようです。

氏資は、第二次国府台合戦で資正が敗れ、宇都宮城に退いた際に北条氏康に内通し、岩付城
を奪取して資正と弟・梶原政景を追放しています。
永禄10年(1567)、氏資は氏政に従って三船山砦に布陣して里見氏の本拠地・佐貫城を攻撃しま
すが、北条軍は里見軍の罠に嵌り、障子谷に誘い込まれて急襲を受け、北条軍の殿軍を務めた
氏資はこの地で討ち死にします。
氏資亡き後、氏資の娘・小少将の婿となった氏康の子・氏房が太田氏を継ぎますが、小田原の
役で北条氏が滅亡すると氏房は高野山に蟄居する身となります。氏房は文禄2年(1593)、第二
次朝鮮の役に従軍しますが肥前唐津で病没しています。
148無名武将@お腹せっぷく:2005/10/11(火) 02:39:24
>>146
梶原政景は資正と共に常陸に移り、佐竹家に仕えて小田城に城代となっています。
この間、北条氏との内通を疑われ、天正12年(1584)に佐竹義重の攻撃を受けたこともありまし
たが、関が原の役後、佐竹氏の秋田転封にも従っています。なお、政景は秋田転封の際に起
きた御家騒動「川井事件」により佐竹家を出奔し、越前の結城秀康に仕え、大坂の陣にも参戦
しています。

資武、景資は、資正が片野城主となった後に娶った、前城主・八代将監の娘を母としています。
資武は資正の家督を継ぎ、安房守を称しており、後に越前松平家に仕えて大坂の陣にも参戦
しています。
なお、資武の次男・正長は幕命により近江国・草津の関守となり、後に酒造業を営み、子孫に
あたる方が今も草津市内で太田酒造という会社を営んでいるそうです。
一方、景資は文禄4年(1595)に佐竹氏の命により武茂城に入り、秋田転封にも従っています
が、その後の消息については不明のところがあります。

資忠は資正の追放後、氏資に従い、小田原の役において討ち死にしています。しかし、資忠
の次男・資政が越前にいた資武の庇護を受け、後年、土井利勝に仕え、子孫は古河藩の家
老職を代々務めたようです。
149無名武将@お腹せっぷく:2005/10/11(火) 02:43:09
「道灌」という銘柄のお酒もあるようです。

http://www.umai-sake.tv/doukan/doukan.htm
>太田家は江戸の初期、道灌公の末流太田若狭守正長が越前福井藩から海道の要衝近江の
>草津に移り、代々関守をつとめてまいりましたが、その後この宿場で酒造りを始め、遠祖の名
>に因んだ清酒「道灌」は東海道や中山道を往来する人々に、これぞ天下の銘酒と賞味されて
>まいりました。
150無名武将@お腹せっぷく:2005/10/11(火) 02:43:49
太田酒造を扱った神戸新聞の記事。
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou04/0114ke8660.html
151無名武将@お腹せっぷく:2005/10/11(火) 03:00:10
ようやく関東に戻ってきたか(w
152無名武将@お腹せっぷく:2005/10/11(火) 03:51:35
義明公も諸国を放浪してたらしいからね
153無名武将@お腹せっぷく:2005/10/11(火) 07:03:26
道灌 萌ってヲイw
154無名武将@お腹せっぷく:2005/10/12(水) 01:51:40
古河スレ落ちた?
155無名武将@お腹せっぷく:2005/10/12(水) 03:50:44
>>154
どうやらそのようですね。
まあ、ネタ振りする香具師もいなかったし・・・ここに流れた?
156無名武将@お腹せっぷく:2005/10/12(水) 06:16:33
ここに流れたのか?
その割には、若狭ネタで盛り上がっていたような?
157無名武将@お腹せっぷく:2005/10/12(水) 23:29:34
>>156
盛り上がる時にはどんなネタでも盛り上がるものですよ。
違いますか?
逸見氏なんてネタとして取り上げるスレはないですからね。
158無名武将@お腹せっぷく:2005/10/12(水) 23:35:56
>>156
脱線気味の薄ら関連ネタということでwww
159無名武将@お腹せっぷく:2005/10/13(木) 00:47:44
>>152
鶴岡でおとなしくしている人物じゃないもの。
160無名武将@お腹せっぷく:2005/10/13(木) 14:29:00
足利義明をぐぐったら
もしかして: 足利義昭
ちげーよヽ(`Д´)ノバーヤバーヤ
161無名武将@お腹せっぷく:2005/10/13(木) 21:49:38
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
           O 。
                 , ─ヽ
________    /,/\ヾ\   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|__|__|__|_   __((´∀`\ )< というお話だったのサ
|_|__|__|__ /ノへゝ/'''  )ヽ  \_________
||__|        | | \´-`) / 丿/
|_|_| 从.从从  | \__ ̄ ̄⊂|丿/
|__|| 从人人从. | /\__/::::::|||
|_|_|///ヽヾ\  /   ::::::::::::ゝ/||
────────(~〜ヽ::::::::::::|/        = 完 =
162無名武将@お腹せっぷく:2005/10/13(木) 22:23:51
え、終わりかよ・・・
163無名武将@お腹せっぷく:2005/10/13(木) 23:14:51

                   ,.-―っ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                人./ノ_ら~ | ・・・と見せかけて!
           从  iヽ_)//  ∠    再  開 !!!!
          .(:():)ノ:://      \____
          、_):::::://(   (ひ
          )::::/∠Λ てノし)'     ,.-―-、   _
______人/ :/´Д`)::   (     _ノ _ノ^ヾ_) < へヽ\
|__|__|__( (/:∴:::(  .n,.-っ⌒    (  ノlll゚∀゚) .(゚Д゚llソ |
|_|__|_人):/:・:::∵ヽ | )r'        ー'/⌒ ̄ て_)~ ̄__ イ
||__|  (::()ノ∴:・/|::| ./:/         /   ̄/__ヽ__/
|_|_| 从.从从:/ |__|::レ:/      ___/ヽ、_/
|__|| 从人人从 ..|__L_/      .( ヽ     ::|
|_|_|///ヽヾ\ .|_|_     /⌒二L_    |
────────       ー'     >ー--'
164梅津行憲:2005/10/14(金) 00:01:44
さすが公方様・・・
近代無双の名将よ・・・
165無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 00:10:41
>>148
やっぱ「道灌」ブランドってのは効きますなぁ。
康資の系譜なんて大名だからね。
166無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 18:04:40
>>165
うむ、同感
167無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 23:22:40
>>165
英勝院さんが扇谷上杉家の居館跡に建てられたという話に思わずノスタルジーを
感じてしまう。
168無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 23:41:07

 あーっと、>>167>>166の駄レスを
  スルーしたぁーっ!!
_、、_、、_、、_、、_、、_、、_、、/
         _
        r'::::::::i
         トーf/__
      /  イ| 、ヽ
      //_〉 l_l i_ノ、
\\ (_ニノ 〉____〉〉 〉
      /    } /             ,_-‐、
     /\/,ー 'ヾ          i"_Y 〈i
     〈  < /              ゝ^-'"
     \i"ヽ、  \\     //
     ├ i\i カ      ,、
      |_,,i ノ_ソ    )     ゝ
     ノ_/〉       ⌒  `
169無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 01:11:50
>>167
太田道灌の屋敷跡でしょう。
その道灌の屋敷が扇谷上杉家の屋敷の前にあったと。

英勝院は家康没後も秀忠・家光父子の信頼を寄せられ、寛永11年(1634年)に家光に
菩提寺の建立を願い出て寺地を賜り、英勝寺として寛永13年に完成している。
なお、初代の住職は玉峰清因(徳川頼房の娘小良姫)。
英勝院は寛永19年に死去し、英勝寺の裏山に葬られている。
170無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 01:23:00
>>169
英勝寺は水戸藩の庇護を受けていたこともあって、住職には代々水戸徳川家の女性が送り込まれて
いたみたいね。
そのあたりは時代こそ異なるものの、関東足利家の女性が住職を務めた東慶寺に似ているかも。
但し、英勝寺は基本的に檀家のいない寺だったので、金貸しのようなことをして利ザヤを稼いでいた
らしい。
171無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 02:31:59
>>170
商魂逞しかったのね。
172無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 03:11:06
>>170
鎌倉で唯一の尼寺だよね。
本来は一般に公開していないようだけど、山門改築の費用捻出のために期間限定で
公開していた。今はどうなんだろ?
東慶寺はもう尼寺ではなくなって住職は男性。
173無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 03:47:46
>>172
もう金融業はやってないのか。
174無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 07:25:18
>>173
金融は英勝寺だろ?
東慶寺は、縁切業界最大手だ。
175無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 14:11:07
縁切業界最大手w
176無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 16:13:15
>>174
ゴッチャになってまっせ。
英勝寺は鎌倉唯一の尼寺&元金融業。
東慶寺は縁切り寺として有名だけど尼寺ではなくなった。
177無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 16:22:28
徳川家公認?の縁切り寺としては満徳寺も有名。
http://www8.wind.ne.jp/mantokuji/
178無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 19:20:23
>>177
こちらも尼寺?
179無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 21:28:04
>>177
廃寺になっちゃったのね・・・

■満徳寺の終焉
満徳寺は檀家(だんか)を持たず、徳川家の庇護にのみ依存していたので、明治維新をむかえ、
江戸幕府が瓦解するとともに、1872(明治五)年に廃寺を余儀なくされた。
もう一つの縁切寺である東慶寺が、最後の尼僧が逝去した後も男僧の寺として存続しているの
と相違する。
その後の満徳寺は、徳川区民がかつての堂宇を縮小・移築して集会所とし、本尊・位牌類を維
持管理して今日に伝えたのである。
180無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 02:03:41
>>179
お武家さんの寺は維新後、困窮したからね。
しかも、廃仏毀釈でしょう。
181無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 03:07:52
東慶寺ときたら太平寺だろ。
182無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 10:03:33
>太平寺
木沢長政の墓所?
183無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 16:27:13
>>182
鎌倉の尼寺ですね。
里見義弘の攻撃を受けて住持の青岳尼と本尊が奪取され、間もなく廃寺に
なったのでは?
184無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 17:27:47
里見義弘、北条氏康による青岳尼争奪戦。
185無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 17:32:58
そんなにいいオンナだったの?
186無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 17:55:05
>>185
という物語にしておこうよ。
187無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 18:04:34
なるほど、こういうつながりだったのか。恥ずかしいけど勉強になったよ。

青岳尼(せいがくに):

小弓公方足利義明の女。里見義弘の許婚であったと伝えられるが、義明の死により出家、鎌倉尼五山筆頭の太平寺住持として迎えられた。
しかし、弘治元(1556)年の三崎三浦海戦のころに義弘が鎌倉に討ち入り、房総に連れ戻され、還俗して義弘の妻となったというが、永禄の
始め頃(あるいは天正四年とも云う)死去したとされる。北条氏康は書状のうちで「太平寺殿むかい地(房総半島)に御うつり、まことにもつて
ふしきなる御くわたて」として青岳尼の行為を非難し、太平寺を廃寺・滅亡させた。富浦町の興禅寺、館山市の泉慶院に供養塔があり、どち
らも青岳尼の開基ともいう。

ttp://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Tokubetsuhen/AwaOff030927/
188無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 22:28:19
>>187
還俗したという話は伝わってないけど・・・したんだろうねぇ、多分。
189無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 00:07:03
>>187
実はもろに関連ネタだったわけです、はい。
190無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 02:21:15
青岳尼の没年については分からないが、青岳尼の後、義弘は
足利晴氏の娘を正室に迎えている。
191無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 03:34:30

さあ、いよいよ本題に入ってまいりました!
192無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 02:49:39
義明公の「義」は、幕府からもらったから?
それとも自分も足利だからそう名乗ったの?
193無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 17:57:42
>>192
そもそも彼の還俗自体、関東公方家としては認めていなかったしね。
その彼に将軍家が名を与えるかね?
しかも、関東の公方家に対して「義」を与える習慣はないのでは?2
194無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 21:02:08
>>193
時代が後にはなるが、義氏は?
195中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y :2005/10/18(火) 21:06:34
ヒント:持氏の長男
196無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 22:08:05
>>195
義久のことでしょ。
しかし、義久の場合、将軍から偏諱を受けたものではないですね。
持氏が将軍の許しを得ず、義久と名乗らせた故に「謀叛の兆しあり」と判断された
わけですから。
197無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 22:48:53
>>194
義氏の公方就任は1552年、とすると将軍は義輝。
義輝は晴氏の長子に「藤」を与えているが、偏諱を与える慣習に則れば
「義」ではなく「輝」を与えるのでは?
>>197
以下、「喜連川判鑑」より。

右兵衛佐従四位義氏 童名梅千代王丸 母北條左京大夫氏綱女
北條氏康補佐シ申テ葛西ガ谷ニ奉移、晴氏ハ関宿へ御隠居
乙卯弘治元、十月、御家督、従五位下、任左馬頭、京都将軍義輝ノ御一字ヲ請ハレ号義氏

ってなカンジっす。
199無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 01:03:51
「義」の方が格が上なんだよね
大内氏の「義」とかもたしかそう
200無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 01:31:40
>>199
歴代公方もそうだけど「義」の方はあまり例がないでしょ。
201無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 01:50:44
>>192
局地的なクーデター政権である小弓公方に偏諱は与えないだろ。
合法的だったのは高基側だったはずだし。
202無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 02:40:55
>>200
朝倉「義」景と武田「義」信ぐらいかな
203無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 02:53:31
>>201
ポイントは幕府と古河公方の関係。それ次第でしょう。
政氏、高基、義明の3派分裂状態を幕府がどのように考えていたのか、ね。
204無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 06:24:47
>>202
若狭ネタになるが、武田「義」統
将軍家のつながり考えると、おかしくもなんともないが。
205無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 18:05:53
>>204
繋がり過ぎですね・・・確かに。
206無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 18:12:51
>>201
古河公方も成り立ち考えればクーデター政権(幕府からみて)のような
合法的?なのは関東管領と堀越公方じゃない?
207無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 18:51:03
>>206
当初はクーデター政権でしたが、後に幕府との和睦が成立してますからね。
結果、「政」氏、「高」基、「晴」氏と公認マーク付になってます。
208無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 23:14:19
>>206
堀越公方自体、事実上二代で終わったしな。
というか、幕府にとって、堀越滅亡後は、関東なんて、どうでもよくなっていた気はする。
使者が来れば対応するにしても、自分からは、もう手を出す余裕なんてまったくないって感じに。
209無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 23:21:41
>>208
というか政知が死去(これも病死と殺害の2説あるみたいだけど)時点で
終わりでしょう。
210無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 23:32:21
>>208
遠巻きに介入しようにも誰が見方で、誰が敵だかも定かじゃないし。
211無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 00:07:50
幕府と古河公方の和睦(都鄙の合体)は文明14年(1482年)11月のことだよね。
幕府(将軍・義尚)としては山名宗全、細川勝元の死去により、東西両軍の戦いは
惰性的・長期的となり、関東に介入することすら難しかったのは事実。
関東の戦局も、長尾景春の乱が大田道灌の活躍などもあって鎮圧されるに至って
おり、足利成氏としてもジリ貧の状況にあった。
最終的には越後守護・上杉房定の斡旋を容れ、成氏から幕府に和睦を申し入れる
という形で関東における戦闘状態は一時的に収束したと。
212無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 02:38:40
>>211
この後、山内、扇谷の両家のパワーバランスが崩れ始めたことで道灌が非業の死を遂げるわけだ。
213無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 06:48:57
>>209
北条の伊豆占領後も数年間は、流浪の身となりながらも茶々丸は生きていたようだから、
一応二代だろう。
にしても、政知時代のみが幕府に公認されていたという認識でいいと思うが。
後、関東管領の山内上杉の主力が扇谷上杉との戦いに割かれていたから、
北条の伊豆占領ができたことを考えると、関東管領としては、茶々丸を
堀越公方として認めていたということなのか?
214無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 09:00:30
>>213
>政知時代のみが幕府に公認されていたという認識でいいと思うが。

足利義高の将軍擁立(明応の政変)が明応2年(1493年)。
家永遵嗣氏の研究によれば、少なくとも明応5年(1496年)までは茶々丸が伊豆、武蔵、甲斐を
勢力基盤として活動を続けていた可能性があるというが、この間、将軍・義高が実母を殺害した
茶々丸を堀越公方として是認していたとは考えにくい。
それが証拠に、堀越公方の軍事基盤の中核を担ってきた今川家は反茶々丸陣営に回っている。
当主・氏親が北条早雲と縁戚関係にあったとはいえ、従来からの幕府と堀越公方、今川家の関
係を考えると、仮に堀越公方が幕府の出先機関として是認され、機能していたならば、氏親が
早雲の軍事行動を支持するには多少なりと障壁があったのではないか。
とすると、もはや堀越公方は幕府としても「討伐して良い」存在になっていたのかも知れない。
215無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 10:23:11
茶々丸って没年18くらいとか言われてるけど
元服後の名前とかないのかね?
216無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 21:25:51
>>215
故意に消されたとか。
217無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 23:38:38
>>216
そう考えたほうが自然な気もしなくはないが、それにしてもまったく伝わってないのも不思議だよな。
所詮はその程度の人物だったということかもしれないが。
218無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 23:46:18
実は名前を変えて太原雪斎になりました
219無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 03:20:14
>>197
足利義藤だからじゃないの?
細川藤孝とかもいるし
220無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 07:23:01
>>217
本当に元服してなかったら・・・
221無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 08:11:25
延徳3年(1491)に堀越公方が滅亡してもらわなければ困る、という人々が事実を歪曲したとすれば、
主犯と考えられるのは北条氏だよね。
北条側が大義名分を立てるためには、伊豆が混乱状態にあり、茶々丸は家臣からも見放された暴君
でなければならないわけで。
しかし、暴君とはいえ、茶々丸が政知の子であることには変わりなく、さらに伊豆国内や武蔵、甲斐に
は茶々丸の支持勢力(反北条勢力)の存在があって、7年余の抗争が繰り広げられていたとすれば、
北条氏による堀越公方への反逆という側面があって、それを正当化する必要があったのではないか
とも受け取ることができる。
222無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 08:18:21
茶々丸が甲斐で討たれたとすれば、伊豆の願成就院にある茶々丸の墓は何なのか?とも
疑問が残る。
そもそも願成就院は北条時政により建立され、後北条氏の氏寺としても栄えた寺院。
堀越公方が滅ぼされた際に灰燼に帰したとされるが、茶々丸が「この地で討たれたことに
する」ために墓所を設けたのだろうか?
茶々丸の墓石には「延徳四年四月十日 成就院九成居士 足利茶々丸之墓」と刻まれて
いるのだが・・・墓石の建立日を記しただけなのだろうか?
223無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 09:29:08
辻褄合わせでしょう。
残っている資料からも、宗瑞が延徳3年の時点で伊豆を掌握できていないのは
事実のようだし。
224無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 10:00:21
茶々丸!ピッコロ!ポロ〜リ〜♪
225無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 19:01:40
>>222
茶々丸はここで死にましたのでよろしく、ということでしょう。
その後の抗争はなかったことにして、暴君を討ったことで伊豆侵攻を
合法化したということでしょうな。
氏寺に墓を建てる時点で作為的。
226無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 21:35:14
実は茶々丸は山奥で隠遁していた!
227無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 22:52:18
>>220
ありえない話ではないな。
元服前に僧門に入っていれば、当然元服してないだろうし。
廃嫡が確定していたから元服されなかったという可能性もあるか?
228無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 23:19:53
>>227
生母も分かってないんですよね?確か。
しかし、出家した長子(事実上、廃嫡)を支援する勢力というのは・・・・
229無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 23:28:23
>>227
僧籍に入っている場合でも、何らかの名は名乗るからねぇ。
230無名武将@お腹せっぷく:2005/10/22(土) 00:20:56
>>227
政知と茶々丸の関係ってのはどうなの?
231無名武将@お腹せっぷく:2005/10/22(土) 01:38:21
甲斐国史
232無名武将@お腹せっぷく:2005/10/22(土) 02:58:09
将軍・義尚の後継問題も絡んでくるよね。
1487年政知は、二男の清晃を天竜寺香厳院に送り込んでいるけど、後妻の円満院
(武者小路隆光女)の気性考えると、嫡子同然の立場にあった清晃の出家は義尚の
後継問題を睨んでのことだったかも知れない。
当時、義視父子は美濃に逃れて逼塞しており、日野富子との関係も悪かったことを
考えると義政の異母弟・政知を父に、日野一族の武者小路隆光の女・円満院を母に
持つ、清晃の存在がクローズアップされてくる。
血筋的に義稙に対抗できるのは清晃とその弟・潤童子しかいなかったのだから。
事実、後に義稙と対立した細川政元は清晃を擁立することになるけど、清晃を京に、
潤童子を堀越に・・・という政知の京・関東の二元支配の野望?は、政知自身の死
と茶々丸の叛乱を除けば、ほぼ図に当たっていたことになる。
233無名武将@お腹せっぷく:2005/10/22(土) 03:41:45
>>232
潤童子って存在すら「?」に包まれてるよね。
234無名武将@お腹せっぷく:2005/10/22(土) 13:01:53
>>232
恐るべし・・・足利政知。
235無名武将@お腹せっぷく:2005/10/22(土) 13:17:36
>>232
茶々丸は牢に閉じ込められていたけど、政知死去の混乱に乗じて
家臣が救出したんだっけ?
236無名武将@お腹せっぷく:2005/10/22(土) 14:54:06
>>235
家中に一応、手引きをする者たちがいたわけね。
237無名武将@お腹せっぷく:2005/10/22(土) 15:03:36
>>235
そういう俗説だが、牢に閉じ込められていた理由もよくわからないんだよな。
北条方の宣伝と見たほうがいいのかも。

潤童子が実在しなかったとして、将軍後継者の地位をめぐって兄弟で争ったという可能性もあるな。
茶々丸自身、堀越公方になろうとしたのではなく、将軍になろうとしたので、
清晃陣営についた御家人であった伊勢新九郎が堀越御所を征伐し、そのまま自立したと。
ライバルの排除よりも、暴君だったので滅ぼされたというほうが良いと考えられ、
それが今に伝わる公式発表になったという感じかね。

北条方は国府台合戦でも、宣伝を有効活用していたし、代々、宣伝の重要さを
理解していたのかもな。
238無名武将@お腹せっぷく:2005/10/22(土) 18:09:18
茶々丸がいなければ後北条氏もなかった・・・かも
239無名武将@お腹せっぷく:2005/10/22(土) 21:43:37
>>237
茶々丸の生母がよく分からんのよね。
240無名武将@お腹せっぷく:2005/10/23(日) 00:17:16
>>239
名が残っていないのか、それとも故意に消されたのか・・・
241無名武将@お腹せっぷく:2005/10/23(日) 12:00:03
ここまでくると、足利茶々丸という人物が実在したのかどうか?
という話になるような。
242無名武将@お腹せっぷく:2005/10/23(日) 14:17:41
今川の意向もあるでしょ>早雲
243無名武将@お腹せっぷく:2005/10/23(日) 18:24:56
>>242
主導したとすれば宗瑞でしょうね。
そもそも今川家は堀越公方の軍事力の中核でしたから。
244無名武将@お腹せっぷく:2005/10/23(日) 18:43:24
>>243
何せ当主が氏親だからね。
245無名武将@お腹せっぷく:2005/10/23(日) 22:43:44
元服させない=正式な継承者ではない の既成事実化でしょう。
歴史そのものはあとで脚色できるもの。
童名しか伝わらないからといって元服してなかったとは言いきれないかと。
朝倉家に「朝倉宮増丸」という人物がいまして、自ら「宮増丸」の署名で書簡を出していますが
この時、宮増丸は立派に元服しています。

茶々丸は早雲との対抗上、山内上杉(当時は顕定?)や甲斐の武田信縄らの協力を得てたから、
そこら辺りから実名に繋がる文書でも出るといいですねー。
247奇矯屋onぷらっと ◆QqQquqqauQ :2005/10/24(月) 00:47:52
このスレではガマンしましょうよ。ね。
248無名武将@お腹せっぷく:2005/10/24(月) 01:27:21
>>246
流れ的には「本当は元服していたが、何者かの都合で消し去られている」という
意見の方が多いようだが?
249無名武将@お腹せっぷく:2005/10/24(月) 13:07:11
>>247
そうなのよね。
実名はあった(なきゃおかしいだろ、年齢的に)けど、「ない」ことにした作為があったってことよ。
しかし、武田氏の元で・・・なら、物証が出てきてもおかしくないんだけどねぇ。
どこで誰が葬り去ったんだろ?
250無名武将@お腹せっぷく:2005/10/24(月) 13:13:23
>>248
大友皇子→弘文天皇
みたいなもんか?
251無名武将@お腹せっぷく:2005/10/24(月) 13:17:59
殿様のお気に入りの小姓が、20歳を過ぎても前髪を落とせなかったことはあるけどね。
しかし、それとはまるで事情が異なるしね。
252無名武将@お腹せっぷく:2005/10/24(月) 13:43:19
1498年切腹説もあるからな。
おいおい、茶々丸はその時点で何歳だ?
1491年の時点で17〜18歳だとしたら・・・・24〜25歳かいな!(w
253無名武将@お腹せっぷく:2005/10/24(月) 14:04:06
実は殺されたのは政知だった!
なんちゃってw
254無名武将@お腹せっぷく:2005/10/24(月) 15:08:30
>>246
茶々丸は公方を継いでるの?継いでたら伝わってるはずだよね
255無名武将@お腹せっぷく:2005/10/24(月) 17:13:03
>>253
政知にも暗殺説があるからね。
こうなると茶々丸は完全な反逆者として処理できる。
256無名武将@お腹せっぷく:2005/10/24(月) 17:59:35
>>254
歴史なんていくらでも書き換えられますから。
しかし、公方の任命権は誰にあるのでしょうか?
茶々丸が「俺様が今日から公方だ!」と宣言したところで、京の将軍が任命しなければ
無効ですしね。
古河の成氏は一応、鎌倉公方に任命された後の叛逆ですし。
257無名武将@お腹せっぷく:2005/10/24(月) 18:20:14
>>256
延徳3年の時点では、幕府と古河公方は表向き和睦してるからね。
茶々丸は堀越足利家の嫡子ではあったが、鎌倉公方にはなり得ない状態だった。
258無名武将@お腹せっぷく:2005/10/24(月) 20:25:19
>>257
鎌倉に入れないのに「鎌倉公方」は無理だねぇ。。。
259無名武将@お腹せっぷく:2005/10/24(月) 23:22:56
>>258
奉行人はいても独自の軍事力を持っていなかったからね。
260無名武将@お腹せっぷく:2005/10/24(月) 23:45:41
実は早雲と今川氏の足利政知殺しを隠蔽するために
「足利茶々丸」という人物がでっちあげられたとか
261無名武将@お腹せっぷく:2005/10/25(火) 01:13:56
 
262無名武将@お腹せっぷく:2005/10/25(火) 01:37:10
>>259
奉行人にはどういう名前があるんだろう?
やっぱり斯波とか石橋とか高とか仁木とかその他親戚一同の分家の分家みたいなやつがならんでいるんだろうか。
263無名武将@お腹せっぷく:2005/10/25(火) 03:27:34
しんえもんさんとか
264無名武将@お腹せっぷく:2005/10/25(火) 05:04:26
>>260
そうなると山内上杉氏や武田氏は誰を担いだのでしょうか?
265無名武将@お腹せっぷく:2005/10/25(火) 09:15:25
>>262
政知の関東下向に付随して送り込まれたのは渋川義鏡、上杉教朝、朝日教忠、布施為基、
岩松家純など。
ちなみに渋川義鏡の関東入りの時期については諸説あり、関東探題として派遣され、成氏
に対抗しようとしたが及ばず、幕府に将軍家の血筋を引く者(政知)を公方として派遣するよ
うに提言したとも言われている。
266無名武将@お腹せっぷく:2005/10/25(火) 12:09:03
>>265
斯波義廉の実父ですな。
>>265-266
ふっふっふ。政知下向の随伴衆の中には、斯波義廉を擁立する渋川家の以外に
斯波家督を巡って対立していた大野家(斯波分家)も人員を送ってます。
すなはち大野持種の三男、大野三河守(義孝)その人ですが
彼が現地で何をしたかは不明です。大野家は越前分国守護ならびに加賀半国守護を勤め、
主家である斯波とは別に、半ば独立した存在でしたから
堀越創設に伴い幕閣に働き掛けて自家の勢力を伸ばそうとしたのかも知れません。
大野家は、義孝の兄義敏が越前を追われてから没落して、朝倉の治世を迎えるに至り
その存在は消されていくわけですが、時代は下って元亀天正年間の「公記」だったか「始末記」だったかに
「大野三河守」という人物がチラッと出てきます。前述の三河守義孝の直系だと思われることから
堀越滅亡の頃には伊豆を引き揚げて越前に戻っていたものと考えられます。
268無名武将@お腹せっぷく:2005/10/25(火) 13:02:37
>>267
それ以外の情報は?
>>254
「喜連川判鑑」には確か継いだと書かれてましたが、自称なのか任命されたのかまでは書いてません。
判鑑自体が元禄期成立のため、筆者もよくわかってないのが真相かと。
まあ、茶々丸に対して幕府から右衛門佐の下知はありませんし
何より茶々丸に継がせるのを、義高(澄)が許すはずありません。(笑
>>369
それ以外というと?
271九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU :2005/10/25(火) 15:01:42
政知に付随した人たち
渋川義鏡……九州探題家。既に没落。
上杉教朝……扇谷上杉支流
朝日教忠……幕府奉行人斎藤氏。政知の叔父
布施為基……幕府奉行人。
岩松家純……幕府奉公衆。
大野義孝……斯波家支流。

微妙だなあ・・・
272無名武将@お腹せっぷく:2005/10/25(火) 16:25:53
>>269
そうなんですよね。
公方の任命権は将軍にありますから、ここがGOサインを出さなかったら
堀越足利家の当主候補のまま。
273無名武将@お腹せっぷく:2005/10/25(火) 22:41:32
>>264
今川の作った虚像を利用して担ぎ返したとか。
実在しない人物だと今川方が否定することはできないわけで。
274無名武将@お腹せっぷく:2005/10/25(火) 23:26:03
まあ>>260はネタで書いただけだから気にしなくてもいいよ
275無名武将@お腹せっぷく:2005/10/25(火) 23:35:47
>>274
そりゃそうでしょう。
でなけりゃ、ただ早雲と山内上杉の争い。
276無名武将@お腹せっぷく:2005/10/26(水) 00:08:15
>>273
意味を取り違えていたら恐縮だが、茶々丸がその虚像であるとしたら、
円満院と第三子の殺害は誰の仕業になるんだ?
中央の政局、つまり「明応の政変」と関連付けると解りやすいでしょうね。
278無名武将@お腹せっぷく:2005/10/26(水) 04:58:33
>>277
ならば、ちょっと関連付けてみてくださいな。
279無名武将@お腹せっぷく:2005/10/26(水) 05:47:09
>>276
第三子は実在するかも怪しいような奴だろ?
そして、円満院を政知が乱心で殺したことこそが、宗瑞の伊豆侵攻につながったとかな。
280無名武将@お腹せっぷく:2005/10/26(水) 21:00:37
>>279
ならば円満院が清晃を手放すことはなかったと思うが?
281無名武将@お腹せっぷく:2005/10/26(水) 21:10:27
>>279
それだけで政知を討つとすれば、宗瑞側に非があることになる。
それではただの反逆。
282無名武将@お腹せっぷく:2005/10/27(木) 05:51:36
>>281
真に受けないでよぉ。。。
283無名武将@お腹せっぷく:2005/10/27(木) 06:14:20
>>281
幕府の上のほうに頼まれたと考えれば、そんなにおかしくもないだろ。
そしてそんな話は外聞が悪すぎるから、茶々丸と言う存在が作り出されたと。
284無名武将@お腹せっぷく:2005/10/27(木) 09:07:47
>>283
ん?幕府から何を頼まれるんだ?
政知の殺害か?伊豆収奪か?
285無名武将@お腹せっぷく:2005/10/27(木) 09:53:46
>>283が痛すぎてスレが急に厨臭くなる件
286無名武将@お腹せっぷく:2005/10/27(木) 10:20:09
>>285
まあまあ、暖かく見守ってやろうじゃないの。
287無名武将@お腹せっぷく:2005/10/27(木) 10:42:57
>>283
何を頼まれるんだ?
幕府としては関東における軍事的な均衡を保つため、堀越公方にそれなりの利用価値を
見出しているのに。少なくとも政知の存命中に限っては。

仮に宗瑞が政知を殺害したとしてどうなる?
幕府の関東方面における軍事力の一角を担っていた今川家が、幕府の出先機関を攻撃
することになるんだぞ?それこそまさに反逆。
政知の死後、幕府公認の堀越公方が存在していなかったからこそ、宗瑞の伊豆侵攻は
話として成り立つのだし、今川家もこれを支援することが可能だった。
山内上杉家と武田家を敵に回しても、「義」がどちらにあるのか、ということが図式として
不明瞭であったから支援する勢力もあったわけで。
288無名武将@お腹せっぷく:2005/10/28(金) 02:09:42
>>287
二代目が空位・・・
ということは、堀越公方を滅ぼしたのは任命権のあった将軍か(w
289無名武将@お腹せっぷく:2005/10/28(金) 06:46:11
さて、そろそろ小弓公方について語ろうか。




冗談はともかく、義明自身は自称鎌倉公方ってことだよな。
将軍家の任命がなくても堀越公方自体が滅んでいたというには無理がないか?
伊豆を限定的に支配していただけの状態で、鎌倉公方も何もないとは思うが。
290無名武将@お腹せっぷく:2005/10/28(金) 06:56:34
まともに京の都も支配できないで室町幕府の将軍が存在する時代ですよ
291無名武将@お腹せっぷく:2005/10/28(金) 19:27:02
>>289
周辺環境を楽しむ余裕がない人ですねぇ。
292無名武将@お腹せっぷく:2005/10/28(金) 19:32:51
>>289
公方の任命権は誰にある?
自称で済むなら俺でも公方になれる。
293無名武将@お腹せっぷく:2005/10/28(金) 21:05:29
自称して誰かが従うなら意味もあるが、>>292じゃ、狂人と思われるのがヲチだろうな。
294無名武将@お腹せっぷく:2005/10/28(金) 21:34:12
茶々丸も狂人説あったっけw
295無名武将@お腹せっぷく:2005/10/28(金) 21:55:08
暴走・・・じゃなかった房総管領ってのは自称なの?
296無名武将@お腹せっぷく:2005/10/28(金) 22:23:40
>>295
そんな役職室町幕府の管制にない。
葦名が名乗っていた会津守護と一緒。
297無名武将@お腹せっぷく:2005/10/28(金) 22:30:29
>>296
言った者勝ちってことですかいな(w
298無名武将@お腹せっぷく:2005/10/28(金) 22:36:12
>>289
任命されていない者が、家督の相続だけ(それすら疑問が残るが)を以て
二代目を自称するには無理があるのでは?
299無名武将@お腹せっぷく:2005/10/28(金) 23:05:20
>>290
だからこそ武家の棟梁としての権威と任命権くらいしか存在価値がないと。
300無名武将@お腹せっぷく:2005/10/29(土) 02:22:20
ほとんど小弓公方について語らないまま300げっと〜☆
301無名武将@お腹せっぷく:2005/10/29(土) 07:07:53
>>299
でなけりゃ、備後の国に所領まで与えて流れ公方様を引き受けないでしょ。
ちゃんと利用する側には利用する側の、利用される側には利用される側の思惑と実利が
あったということ。
302無名武将@お腹せっぷく:2005/10/29(土) 15:01:28
>>301
今度は義昭ですか?
303無名武将@お腹せっぷく:2005/10/29(土) 15:22:10
>>302
将軍と、公方になれなかった?嫡子じゃ比較にならんだろ?
まあ、話として面白けりゃ何でもいいが。
304無名武将@お腹せっぷく:2005/10/30(日) 00:40:08
>>301
伊豆一国もまともに支配したわけじゃないしな。
305無名武将@お腹せっぷく:2005/10/30(日) 04:54:39
>>304
独自の軍事力を持っていないのだから、形ばかり傘下に置くことはできても
実効支配には程遠いだろうね。
とりあえず山内上杉家の存在ひとつで抑えているだけの話だろうし。
306無名武将@お腹せっぷく:2005/10/30(日) 16:27:20
>>305
で、彼らが関東に出陣してしまった、全くの無防備状態の時に伊豆侵攻と。
307無名武将@お腹せっぷく:2005/10/30(日) 16:48:02
>>306
長期戦だったようだけどね。
308無名武将@お腹せっぷく:2005/10/31(月) 04:00:36
>>295
んなモン、自称に決まってるでしょうに。
309無名武将@お腹せっぷく:2005/10/31(月) 14:24:47
>>303
流れ公方と貧乏公方。
310無名武将@お腹せっぷく:2005/10/31(月) 15:48:51
>>309
貧乏公方と言いながらも、鞆幕府時代も、将軍職返上後もそれなりの所領を
宛がわれていたんだけどねぇ。
ただ、一説には没後、棺桶を作る金すら無かったという話もあるんだよね。
311無名武将@お腹せっぷく:2005/10/31(月) 18:25:29
>>310
将軍退いたら、ただの人望のないオサーンだからなぁ。
312無名武将@お腹せっぷく:2005/11/01(火) 04:03:40
>>311
賊軍扱いながら公方家の格式を保てた関東足利家はナンボもマシだったということね?
313無名武将@お腹せっぷく:2005/11/01(火) 15:13:58
>>312
無高(実高5,000石)+格式10万石だっけ?
せめて1万石くらい宛がってやればいいのに・・・悪役引き受けてるんだから。
314無名武将@お腹せっぷく:2005/11/01(火) 21:04:15
義尋はどうなったの?妻帯は許してもらえなかったのか?
315無名武将@お腹せっぷく:2005/11/02(水) 02:56:09
>>314
嫡子は還俗して妻帯?していたんじゃなかったか?
血筋が途絶えた(とされている)のは義昭から見て孫の代でしょ。
2人とも寺に入れられてしまったわけで。
ちなみに俗説レベルの庶子は除くけど。
316無名武将@お腹せっぷく:2005/11/02(水) 08:41:29
>>315
一色と永山
317無名武将@お腹せっぷく:2005/11/02(水) 12:40:34
>>315
取り立ててもらえるように画策したけどダメだったんじゃ?
318無名武将@お腹せっぷく:2005/11/02(水) 15:35:14
>>316
大坂の陣に加わる予定だったが兵が揃わずに断念し、これを恥じて隠棲したなんてのは
やっぱり俗説なんだろうね。
319無名武将@お腹せっぷく:2005/11/03(木) 05:18:13
>>318
一色義喬だっけ?
藤長の養子分として育てられていたと。
320無名武将@お腹せっぷく:2005/11/03(木) 09:36:07
>>319
となると崇伝あたりともご縁があるわけね。
321無名武将@お腹せっぷく:2005/11/03(木) 16:18:19
>>320
無尽蔵に広がる関連ネタ地獄。。。
322無名武将@お腹せっぷく:2005/11/03(木) 19:47:25
ネタに猪突猛進
323無名武将@お腹せっぷく:2005/11/04(金) 05:08:41
永山義在もね!☆
324無名武将@お腹せっぷく:2005/11/04(金) 21:08:52
( ´w`)永山義在と長屋に住みたいな〜ナンチテ
325無名武将@お腹せっぷく:2005/11/05(土) 13:05:20
  小 永    // ̄> ´  ̄  ̄  `ヽ  Y  ,)   永 え
  学 山    L_ /              / ヽ  山  |
  生 が    / '              '    i  !? マ
  ま 許    /               /    く    ジ
  で さ    i   ,.lrH‐|'|   /‐!-Lハ_  l    /-!'|/l   /`'メ、
  だ れ   l  | |_|_|_|/|  / /__!__ |/!トi   i/-- 、 レ!/ / ,-- レ
  よ る    _ゝ|/'/⌒ヽ ヽ/ '/ ̄`ヾ 、ヽト、N'/⌒ヾ    ,イ ̄`ヾ
  ね の  「  l ′ 「1     /てヽ′| | |  「L!    ' i'ひ}
   l は   ヽ  | ヽ__U,     ヽ シノ ノ! ! |ヽ_、ソ,     ヾシ _ノ
⌒レ'⌒ヽ厂 ̄  |   〈     _人__人ノ_  i  く
人_,、ノL_,iノ!  /!ヽ   r─‐-  「  キ   L_ヽ   r─‐- 、   u
ハ キ  /  / lト、 \ ヽ, -‐ ノ  モ    了\  ヽ, -‐┤
ハ ャ  {  /   ヽ,ト、ヽ/!`h)   |     |/! 「ヽ, `ー /)
ハ ハ   ヽ/   r-、‐' // / |く  イ     > / / `'//
326無名武将@お腹せっぷく:2005/11/05(土) 23:26:52
>>318
残党かき集めるのに時間が掛かった、とかいうけど、その頃、既に残党なんて
いたのかいな?
327無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 05:24:33
>>326
後南朝だって、松永久秀が遭遇した時代まで、存続されていたのが確認されているぐらいだから、
幕臣の子孫という形で残っていたと思われ。
ちょうど浪人としては、何でも良いから名目さえあれば仕官できると飛びついた可能性はある。
328無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 10:01:27
>>327
>後南朝だって、松永久秀が遭遇した時代まで、存続されていたのが確認されているぐらいだから

何気に興味をもってしまったぞぃ。
詳細キボン!
329無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 10:06:47
>>327
この場合、幕臣なのかね?
むしろ一色の家臣団ではないのか?と思えてくるが。
330無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 11:23:23
一色の家臣団も残っていたんかねぇ?
大半は細川に組み込まれたんじゃないか?
331無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 12:20:23
>>327
南朝方の勢力ではなくて?
332無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 12:55:36
>>330
藤長と嫡子・範勝は細川家に身を寄せていたようだけどね。
333無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 16:13:42
>>328
応仁の乱の時、山名宗全の陣にいたことは確認されているが、
その後はよくわかっていないような?
でも、伝承としては江戸時代にも山奥の隠れ里として出てくるようなので、
松永久秀の軍と遭遇していても、それほど不自然じゃないかも。
334無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 16:18:09
>>333
すいません、具体的に誰のことを言ってるんでしょう?
335無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 16:44:39
>>333
>応仁の乱の時、山名宗全の陣にいたことは確認されているが

誰が?

>伝承としては江戸時代にも山奥の隠れ里として出てくる

どこが?
336無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 17:32:10
>>335
>>333はたぶん、応仁の乱の時に現れた南帝王(南天皇の遺児・信雅王)のことを言っていると思われ。

江戸時代の隠れ里は知らん。

そういえば、熊沢天皇も後南朝を称していたな。
337無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 19:46:41
>>336
>熊沢天皇

はぁ・・・・。
338無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 19:51:16
義明さんの話はどこへ?
339無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 23:22:27
>>338
空気が読めないお人だねぇ。
340無名武将@お腹せっぷく:2005/11/07(月) 18:14:12
>>338
だから「よしあき」の関連ネタで攻めてるじゃないのさ。

>>336
しかし、いきなり遭遇するシチュエーションてのもね。
341無名武将@お腹せっぷく:2005/11/08(火) 00:13:10
あれ、後南朝の血筋って長禄の変で全滅していなかったか?
南朝を支えた吉野の土着豪族が残存してたのは事実だが。
342無名武将@お腹せっぷく:2005/11/08(火) 09:43:29
>>341
でも、何かいたみたいですよ。>>336
343無名武将@お腹せっぷく:2005/11/08(火) 12:16:34
>>342
奈良の山中に潜む自称・天皇。
344無名武将@お腹せっぷく:2005/11/08(火) 22:28:40
居そうだな〜>自称・御落胤
345無名武将@お腹せっぷく:2005/11/09(水) 08:10:04
誰か俺の落し種を産んでみないか
346無名武将@お腹せっぷく:2005/11/09(水) 21:03:23
でも、実際探せば、自称関東公方の末裔は結構居そうだ。
茶々丸の子孫というのが笑っていいとものご先祖コーナーに出てきたことあったぐらい。
タモリがかなり疑っていて笑ったが。
347無名武将@お腹せっぷく:2005/11/09(水) 21:20:58
へーあのコーナーにそんなの出たのか
見たかったな
348無名武将@お腹せっぷく:2005/11/10(木) 01:36:51
>>346
その人は足利尊氏の子孫、ってことで出たのかな?
足利尊氏の子孫ならもっと別の系列いなかったのかよw

てか喜連川家の子孫はでてこないのか〜
349無名武将@お腹せっぷく:2005/11/10(木) 01:38:56
ご先祖様はスゴイ人 だっけ?
350無名武将@お腹せっぷく:2005/11/10(木) 11:48:20
>>348
直系は近年絶えたようだけど、傍系は・・・そりゃいるでしょう。
351無名武将@お腹せっぷく:2005/11/10(木) 17:42:28
>>346
というか、それを証明する物証があったらエラいことになるな。
352無名武将@お腹せっぷく:2005/11/10(木) 18:09:21

ここは九州の足利先生にご出座いただきますか・・・
353無名武将@お腹せっぷく:2005/11/10(木) 23:08:27
>>336
熊沢天皇の問題が起こった際、熊野宮信雅王の存在は学説的に否定されたのでは?
ちなみにこの熊沢天皇(熊沢寛道)、1951年に「現天皇不適格確認訴訟」を東京地裁に提訴した
のだが、「天皇は裁判権に服しない」として地裁に却下されている。
354無名武将@お腹せっぷく:2005/11/11(金) 00:53:23
>>353
>熊野宮信雅王
南朝9代目の天皇とされてはいるが・・・確か後亀山天皇の曾孫にあたるはず。
355無名武将@お腹せっぷく:2005/11/11(金) 01:02:49
>>341
1457年、長禄の変で赤松遺臣たちに討たれたのは後亀山天皇の子・小倉宮実仁親王の孫
にあたる自天王・忠義王兄弟。

1443年に後南朝方の日野有光などの一派が花園天皇の御所を襲撃し、三種の神器のうち
剣と神爾を奪ったが、間もなく剣は幕府軍により奪い返されてしまい、南朝方は神爾のみを
有して大和・紀伊国境付近に勢力基盤を置いていたとされる。
長禄の変では赤松遺臣に神爾を奪われたが、すぐさま追撃した後南朝方の勢力により奪還
される。神爾は小倉宮実仁親王の第4子・尊雅王(=南天皇)が手にしたが、翌年には南天
皇が赤松遺臣に討たれて神爾は北朝方に戻っている。
信雅王はこの尊雅王の遺児にあたるとされる。信雅王は応仁の乱の際に、山名宗全により
西陣に迎えられたという記録が残るが、以後、その消息は途絶えてしまう。
356無名武将@お腹せっぷく:2005/11/11(金) 06:35:24
>>355
南天皇自体が眉唾だからな。
実在はしただろうが、小倉宮実仁親王の子供であるという証拠が乏しい。
むしろ、大義名分を得るために、出自をでっち上げた可能性のほうが大きい。

信雅王は言わずもがな。父親の素性が怪しい以上に本人怪しすぎ。
西軍も何でも良いから大義名分を得ようとしたんだろうな。
357無名武将@お腹せっぷく:2005/11/11(金) 13:03:55
>>356
歴史学者も首を捻っている存在。
民話などは数多く存在するわけだが、確たる物証が存在するわけでもない。
358無名武将@お腹せっぷく:2005/11/11(金) 19:41:46
>>356
利用できるものは何でも無駄なく利用しないと。
359無名武将@お腹せっぷく:2005/11/12(土) 17:52:25
>>355
熊沢某ごときで天皇なら、天皇候補なんてゴロゴロおるわい。
360無名武将@お腹せっぷく:2005/11/12(土) 22:12:37

さ、本題に戻ろうか。
361無名武将@お腹せっぷく:2005/11/12(土) 22:20:21
>>352
それは阿波系でしょうに。
362無名武将@お腹せっぷく:2005/11/13(日) 02:42:17
>>360
どこまでさかのぼればいいんだよ(w
逸見あたりか?
363無名武将@お腹せっぷく:2005/11/13(日) 21:11:48
ヨシアキなのかヨシアキラなのか
364無名武将@お腹せっぷく:2005/11/14(月) 13:32:54
>>333
>松永久秀の軍と遭遇していても、それほど不自然じゃないかも。

だから・・・これは誰だ?と聞いておる。
365無名武将@お腹せっぷく:2005/11/14(月) 20:48:14
ここで喜連川氏について話題にしていいんかな?
逸見とか出てくるぐらいだし、初代国朝は義明のまごになるわけだし。
366無名武将@お腹せっぷく:2005/11/14(月) 20:53:31
当然おk
367無名武将@お腹せっぷく:2005/11/14(月) 21:00:27
というか、後南朝なんかよりは、よほどスレに適しているような・・・・
368無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 14:10:12
>>367
関連ネタです、関連ネタ。
369無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 19:13:08
>>365
まあ、そんなに焦らなくてもね・・・先は長いし。
370無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 23:22:09
>369
いや、実は昔から喜連川家には興味があったんだよ。
わざわざさくら市< 旧喜連川町>まで行って来たぐらいだからね。
そこの図書館でもイロイロ調べてさ。
実は元禄時代の喜連川家は貧しい喜連川がいやになって
豊かな東海地方に国替えしてもらう為に、吉良上野介を通して運動したんだけど
吉良が死んでそれがパ−になっちゃったとか、
初代国朝には実は義方って子供がいて、叔父さんの頼氏を頼って喜連川に来たん
だけど、ライバルになるのを恐れた頼氏に殺された事とか分かってすごい勉強になった
けど時間がなくてあんまり調べられなかった。
誰か詳しい人教えてくれ。
特に頼純・国朝・頼氏・義親・氏春の事とか、江戸初期の喜連川家臣のことなら大歓迎
371370:2005/11/15(火) 23:47:39
ちなみに俺は365だよ。
あと氏春じゃ無くて尊信だった。
372無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 02:58:43
>>370
ん?国朝の没年からすると・・・成人してないでしょ、いくら何でも。
頼氏にしても国朝が死んだ時には13〜14歳じゃないの?
373無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 15:57:55
>>370
>豊かな東海地方に国替えしてもらう為に、吉良上野介を通して運動したんだけど
>吉良が死んでそれがパ−になっちゃったとか

有力者に働き掛けて領地替えを画策することはけっこうあったようだけどね。
対馬の宗氏などもパーになった組。
374無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 17:05:32
宗のくせに島から出たがってたのか
生意気だな
375無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 18:11:24
>>374
ええやん、元々九州にも領地あったんだし。
376無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 21:52:23
宗氏ってあの国の法則は発動してないのかねw
377無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 11:35:03
>>376
さすがにスレ違い。
378五千石公方:2005/11/17(木) 21:56:17
>371
370を書いたのは俺だけど、すまん!説明が悪かった。
国朝が死んだ時は義方はまだ母親<公家の娘>のお腹の中にいて、喜連川に下ったのは1612年
で、殺されたのが二年後の1614年8月5日
だから年代的な点はこれで解決すると思う。

>373
370で喜連川氏が主体になって運動したみたいに書いたけど
どうも吉良の方が同情して運動したらしい。
無論、喜連川氏自身でも動いただろうけどね。
ちなみに喜連川家は運動してくれたお礼をする為に、吉良邸に使者を送った。
その時吉良は「大雪になるから泊まって行け」って言ったけど、使者は「いや、いいや」って言って帰ったんだ。
使者たちラッキ−、その日の夜上野介は赤穂浪士に首をとられちゃいましたとさ、ちゃんちゃん。

>374
たしか幕末に大老井伊直弼は河内国で30万石を約束したらしい。
直弼は対馬が国防の重要なキ−ポイントとみて、天領にしたかったんだろうな。
結末は言うまでもないな・・・だけどこの話30万石とかの時点ですげえ胡散くせえな。

>375
肥前本土で二万石だったかな?米はこの飛び地でまかなってたみたいだね。
確か徳川の加増だろ?まさに宗家にとっては徳川マンセ−だな。
379無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 23:06:41
>>378
少弐被官時代にも、九州本土に所領を持っていたんだが・・・・・
だから、九州本土の戦いにも時々参加していた。
380無名武将@お腹せっぷく:2005/11/18(金) 18:08:34
>>378
まあ、氏姫あっての関東足利家ですから。
381無名武将@お腹せっぷく:2005/11/18(金) 21:34:54
>>380
といっても血筋は途中でプッツンしてるけど・・
でもまあ、義氏―氏姫―義親―尊信と血筋が守られたことを喜ぶべし。
382五千石公方:2005/11/18(金) 22:15:02
>379そう言えばそうだな
383誘導:2005/11/19(土) 00:45:45
>>379,>>382
こっちでやれ。

●誘導●
戦国時代の対馬国・宗氏を語るスレッド
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1082600146/
384無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 03:13:56
さすがに誘導されるわな・・・・
385無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 13:26:47
さすがの義明公も九州の離島までは突撃できんなwww
386無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 16:04:56
>>385
まずは関東だろ。。。
387無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 16:49:49
さて、飛鳥時代の小弓について語ろうか。
388無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 17:01:31
>>387
そもそもが板違いなわけだが。
389無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 13:07:05
真里谷武田氏って信応の代で断絶したの?
390無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 18:23:01
(´・ω・`) 知らんがな
391無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 22:09:05
真里谷様がみてる
392無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 22:38:22
>>380
そもそも頼氏は義氏の養嗣子扱いだからな。
393無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 23:04:53
>>389 上総介信高が那須家に寄寓したと言われてる
394無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 15:39:11
>>389
嫡流は絶えたにせよ、庶流、傍流は残っているだろうに。
395無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 15:45:35
>>389
江戸時代の剣豪にマリヤって奴がいるぞ。
一応系図では繋がっているようだ
396無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 00:05:04
真里谷武田氏に信玄の息子が養子に入ったってのはガセでFA?
397無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 07:52:09
FA
398無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 04:52:49
真里谷じゃなくて庁南
399無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 11:47:44
どっちにしても信玄に健常者の男児がいたら
もったいなくて他家に養子に出さないんじゃないの?
400無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 13:40:23
>>396
どう考えてもガセネタ。FAで良いと思います。
401無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 16:00:46
西保信之か・・・・・夭逝しただけにいろんな家に養子に行った説があるよな。
もっとも、庁南武田クラスなら、そんな話作らなくてもいい程度には名門だっただろうに。
それとも、信玄人気にあやかりたかったのか?
402無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 18:41:24
>>401
勝頼の遺児も時にネタとして登場してくるね。
浄土真宗の寺に入ったので子孫が現存しているとか何とか。
403無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 20:51:38
そういう話は、源義経=ジンギスカン説とか日本では昔から言われていたし。

それどころか、中国でも、元の最後の皇帝トゴン=テムルが南宋の最後の皇帝の息子であるなんていう
民衆伝説が広まったこともあったそうな。

探せば関東足利家の文献に出てこない庶子を先祖とする家とかもあるんじゃないか?

404無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 20:59:52
>>403
言った者勝ちということですよ。
405無名武将@お腹せっぷく:2005/11/24(木) 02:12:57
>>402
まあ、寺伝なんてけっこういい加減だからね。
406無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 15:29:01
>>402
勝三だっけ?
407無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 16:41:31
>>406
勝親と勝三は同一人物?
確か勝三は一向宗の僧侶になったと聞いたことがあるが。
408無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 16:05:29
>>407
というか俗説。
409無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 17:42:52
>>408
墓石も最初は勝頼のそれじゃないかと言われてたようですね。
410無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 23:40:43
411無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 18:43:51
>>409
難解で判読できなかったらしいけど、専門家の調査は入ってないでしょ?
412無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 19:23:45
>>401
作り話のネタにしやすいんだろ。

>>411
しかし、何で池田家を頼ってるんだろうな。
わざわざ信長のご近所に逃げ込むってのが良く分からん。
413無名武将@お腹せっぷく:2005/11/28(月) 01:20:26
>>411
まあ、墓ってものはいくらでも偽造が効きますからね。
414無名武将@お腹せっぷく:2005/11/28(月) 15:25:10
>>413
一時期、ここでも茶々丸の墓の話題がありましたね。
あれも偽物?
415無名武将@お腹せっぷく:2005/11/28(月) 18:31:37
>>414
堀越御所は滅んでも、その後の抵抗は続いていたからな。
茶々丸の1491年以降の生存もほぼ確実な情勢。
となると「あの墓は何じゃ?」ということになる。
416無名武将@お腹せっぷく:2005/11/28(月) 20:30:49
>>415
・・・・・・・・・・・・ズバリ、捏造です。
417無名武将@お腹せっぷく:2005/11/29(火) 18:06:29
>>415
小和田センセの説だっけ?
418無名武将@お腹せっぷく:2005/11/29(火) 23:16:24
>>415
石の年代とかって分からないものなのかね?
419無名武将@お腹せっぷく:2005/11/30(水) 01:12:51
>>418
墓石には確か建立年月日が刻んであるでしょ。
それだけでも資料と整合性が取れないわけですよ。
420無名武将@お腹せっぷく:2005/11/30(水) 21:52:52
>>419
過去ログを掘りなさいって。
421無名武将@お腹せっぷく:2005/12/01(木) 11:30:48
>>419
222 :無名武将@お腹せっぷく :2005/10/21(金) 08:18:21
茶々丸が甲斐で討たれたとすれば、伊豆の願成就院にある茶々丸の墓は何なのか?とも
疑問が残る。
そもそも願成就院は北条時政により建立され、後北条氏の氏寺としても栄えた寺院。
堀越公方が滅ぼされた際に灰燼に帰したとされるが、茶々丸が「この地で討たれたことに
する」ために墓所を設けたのだろうか?
茶々丸の墓石には「延徳四年四月十日 成就院九成居士 足利茶々丸之墓」と刻まれて
いるのだが・・・墓石の建立日を記しただけなのだろうか?
422無名武将@お腹せっぷく:2005/12/01(木) 14:49:59
延徳四年ということは1492年ということね。
423無名武将@お腹せっぷく:2005/12/01(木) 19:20:30
>>422
じゃあ、誰が建立したんだ?という話にもなるわな。
424無名武将@お腹せっぷく:2005/12/02(金) 14:32:24
>>423
北条方の捏造と見るのが妥当では?
425無名武将@お腹せっぷく:2005/12/02(金) 18:37:18
>>421
この時期はまだ抗争中。
しかし、抗争が既に終結していたことにする必要があったとすれば・・・
426無名武将@お腹せっぷく:2005/12/02(金) 23:23:06
あいつはニセモノ、ってことにしておきたかった
427無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 19:18:23
>>426
だろうね。
「茶々丸はもう死んだっつーの!!!」ということにしておきたかったに10j。
428無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 20:33:44
しかし、以後も国内外の茶々丸派との抗争が続いたのだから、プロパガンダとしてどれだけの
効果があったことやら。
429無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 21:17:15
足利義明が比較的詳しく登場するおすすめの小説とかあります?
430無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 21:38:37
そんなものない
431無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 22:29:56
>>429
小説?
所詮、フィクションなんてなんぼ読んでもつまらん。
432無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 22:38:06
>>428
死亡説と生存説が併存していた状態?
433無名武将@お腹せっぷく:2005/12/05(月) 03:04:59
>>431
自分の主観を押し付けるなよ。
小説だろうがなんだろうが興味持つだけいいじゃん
434無名武将@お腹せっぷく:2005/12/05(月) 20:56:16
>>433
主観意見がごった煮状態が2ちゃんねる。
あまり気にしないことですよ。
435無名武将@お腹せっぷく:2005/12/07(水) 00:33:20
しかし、小説にするほどネタも無さそうだしな。
436無名武将@お腹せっぷく:2005/12/07(水) 02:32:16
おれはなんかの小説で軽く触れられてるのをみたな。
やっぱり突撃して射殺されてたが。
437無名武将@お腹せっぷく:2005/12/08(木) 13:59:21
>>436
猪突猛進して速攻あぼ〜ん、くらいしかネタが無い。
438無名武将@お腹せっぷく:2005/12/08(木) 15:18:39
国府台城跡にある案内には太刀を抜いて奮戦する義明公が描かれている
439無名武将@お腹せっぷく:2005/12/09(金) 15:27:24
>>438
実は太刀を抜く前に射倒されてたりしてw
440無名武将@お腹せっぷく:2005/12/09(金) 19:45:38
>>438
義明に切り倒された香具師とかいるの?
441無名武将@お腹せっぷく:2005/12/09(金) 20:35:59
太刀を抜いて奮戦する義昭公がでてくる漫画なら見たことがあるが…
442無名武将@お腹せっぷく:2005/12/09(金) 21:16:29
>>441
だから義昭じゃねえよ。
443無名武将@お腹せっぷく:2005/12/10(土) 02:06:03
>>441
「信長」ではお兄ちゃんよりも力戦していたような・・・
444無名武将@お腹せっぷく:2005/12/10(土) 15:01:27
>>443
槇島城を退去する時に信長に唾を吐いてましたね。
445無名武将@お腹せっぷく:2005/12/10(土) 18:08:26
>>444
でもまあ、その後も反信長のモチベーションだけで生きてきたわけっしょ?
その執念だけは評価してやらんとね。
446無名武将@お腹せっぷく:2005/12/11(日) 22:00:31
>>445
鞆幕府。
447無名武将@お腹せっぷく:2005/12/13(火) 00:24:43
>>446
それも義昭だっての。。。
448無名武将@お腹せっぷく:2005/12/13(火) 02:07:38
わかった上で話が飛び火してるだけだろ

で小弓の義明公だが、
PHP文庫の里見義尭にちょっと出てくる
顔を出したと思ったら討ち死にするけどw
449無名武将@お腹せっぷく:2005/12/13(火) 16:51:49
>>448
元々そういうキャラなんだからしょうがない。
450無名武将@お腹せっぷく:2005/12/14(水) 01:24:52
義明がいなかったら古河公方の血筋は近代まで残らなかったのでは?
451無名武将@お腹せっぷく:2005/12/14(水) 22:47:09
>>450
血筋を伝えたのは事実だが、どっちかというと、嶋姫が秀吉に売春したおかげという気がするが。
452無名武将@お腹せっぷく:2005/12/15(木) 15:36:33
>>451
それをさらに遡れば・・・・>>450だわな。
453無名武将@お腹せっぷく:2005/12/16(金) 14:42:53
>>452
確かに。
家禄の問題と血筋の問題はちょっと違うからね。
浪人でも血筋は血筋。
義明が還俗しなければ子をもうけることもなかったわけで。
454無名武将@お腹せっぷく:2005/12/16(金) 17:05:01
>>450
足利晴直の存在もお忘れなよう。
455無名武将@お腹せっぷく:2005/12/17(土) 01:02:23
>>454
あまり有名ではないが、二度にわたって養子を送り込んでいる点は見逃せないね。
456無名武将@お腹せっぷく:2005/12/17(土) 17:56:19
>>455
現当主さんは神主さん。
457無名武将@お腹せっぷく:2005/12/17(土) 23:22:54
宮原御所
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/nagae/m-miyaharagosyo.jpg

宮原御所(みやはらごしょ)は、古河公方足利高基の長男、足利晴直が住んだ館。
大永5年(1525年)山内上杉憲房が亡くなる。その子憲政が幼少のために山内上杉憲寛と称し、
関東管領になる。しかし、上杉家との折り合いが悪く享禄4年(1531年)、関東管領を追われ、
古河に戻る。その後真里谷城主真里谷信政の庇護を受け、上総宮原に住む。
その住まいが宮原御所である。
すぐ前の今関さんの話では、一度失火で焼けた、現在は寺が建っていて墓石があるが、実際は
埋葬されていない、一部崩したがほぼ当時の敷地のまま残っているとのこと。
子孫が江戸時代には、宮原姓を名乗り、高家となった。
県道13号線を国道297号線に向かう。宮原の交差点の正面の狭い道に入る。5メートルほどで
右に行く道があるが、かまわず直進。約20メートル行くと右手に小さなカーブミラーがある。そこ
を左折。とにかく道が狭いので注意。少し行くと右手に写真の宮原御所がある。門の前に駐車可。
2台分。無料。
カーブミラーを見落とすと、道は下って一面の畑にでる。そこまで行ったら行く過ぎなので戻ること。
458無名武将@お腹せっぷく:2005/12/17(土) 23:59:33
何か寂れた感じのお寺だね。
459無名武将@お腹せっぷく:2005/12/18(日) 20:27:33
>>457
足利晴直室って足利義明の娘だったの?
460無名武将@お腹せっぷく:2005/12/18(日) 22:23:37
らしいね。
義明の女は後に里見義弘室になった者もいる。
461無名武将@お腹せっぷく:2005/12/19(月) 00:17:51
>>460
足利スレの有名人・青岳尼様でござんすね!☆
462無名武将@お腹せっぷく:2005/12/19(月) 00:49:38
>>457
しかし、あの上杉憲政に関東管領の座を追われるということは能力的にはかなり厳しいものが・・・
463無名武将@お腹せっぷく:2005/12/19(月) 02:12:16
当主の能力差以前に嫡流と他家からの養子、ていう時点で家臣達の支持が全然違う
464無名武将@お腹せっぷく:2005/12/19(月) 02:24:57
>>463
とはいえ、目立った活躍はなかったようで。
465無名武将@お腹せっぷく:2005/12/20(火) 12:28:02
>>463
かなり横柄な香具師だったという説も。。。
466無名武将@お腹せっぷく:2005/12/20(火) 22:32:00
>>463
単純に「つなぎ役」でしょ?
467無名武将@お腹せっぷく:2005/12/21(水) 03:06:22
>>466
登用の理由が「憲政が幼少」というものだけに、時限的な管領職と考えられていたのは事実でしょう。
後に真里谷武田氏の庇護を受けたけれども、果たして政治的に利用価値があったのかどうか。。。
468無名武将@お腹せっぷく:2005/12/21(水) 16:31:02
>>467
義明の娘を憲寛室にしているということは?
469無名武将@お腹せっぷく:2005/12/22(木) 05:47:11
>>468
既にこの時点で古河・小弓系の融合?
470無名武将@お腹せっぷく:2005/12/23(金) 00:55:02
>>469
系統違う違う
471無名武将@お腹せっぷく:2005/12/23(金) 15:45:37
>>470
何で?
472無名武将@お腹せっぷく:2005/12/23(金) 17:09:34
>>471
高基の弟(義明)の系譜と、晴氏の弟(晴直)の系譜との混合種。
473無名武将@お腹せっぷく:2005/12/23(金) 23:52:27
>>472
傍系同士の掛け合わせじゃん。
474無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 01:16:26
>>457
義明を担いだのは真里谷信応だよね?
475無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 01:30:51
>>474
異父兄にして妾腹の信隆が家督を継いだことに不満を持ち、信隆と対立関係にあった義明を
担ぎ出して一時的に家督を奪取したと。
ところが義明が国府台であぼ〜んすると、北条氏綱と結んだ信隆に反撃されて里見義堯を
頼って落ち延びるハメに。
476無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 02:33:10
>>457の信政は信隆の子。
したがって、信応とは敵対関係にあったはずだが、里見義堯が信政を攻めると
信応は一転して信政方についている。
477無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 02:49:44
>>476
正木時茂が大喜多城を攻略したりさ、里見の攻撃目標が真里谷信政に向けられていることが
明白だったからね。
信応に助成したのも北条と同様、飼い馴らすため。
結果、里見軍の攻撃で椎津城が落城して信政が自害すると、信応も自害に追い込まれてしまう。
478無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 03:13:27
義明を担いだという見方もできるし、義明が真里谷武田氏の家督争いに介入した
という見方もできる。
479無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 17:49:27
>>477
北条VS里見の代理戦争ですな。
480無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 18:48:20
>>479
ということは晴直は義明の対抗馬?
481無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 20:41:12
>>480
年代としてはギリギリ噛み合うね。
482無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 21:01:35
そもそも義明を迎えたのは信保。
千葉氏との抗争で劣勢だった信保が、永正13年(1516)に義明を八幡御所に迎えた。
そして、上杉憲政に敗れた足利晴直を領内に迎えたのも信保。しかし、それから間もなくの
天文3年(1534)に信保は病没してしまう。
信応と信隆の家督争いはそれ以降の話。
483無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 21:15:29
>>482
晴直の正室は義明の娘だよね?
となると、古河を追われた晴直が宮原の地に移るにあたって、舅である義明が斡旋した可能性は
ないのかな?
484無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 21:22:51
>>483
この頃の古河公方と北条氏の関係が鍵では?
485無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 22:34:25
高基は北条と近いだろうに。
486無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 23:26:20
後に信政は娘を晴直の子・義勝の室にしている。
といって信政は北条を頼りながら里見と交戦しているし。
487無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 03:24:43
>>486
となると必然的に古河方(義氏)支持になるわな。
488無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 04:04:32
>>487
時代がまるで違うだろ!
489無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 17:17:36
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%86%B2%E5%AF%9B
ウィキペディアの上杉憲寛(足利晴直)では、義明の娘が妻という「寛政譜」の記事に問題ありとしてとりあえず、奥方には触れないと言う事になった。
490無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 18:17:01
>>489
典拠が「寛政譜」となるとね。。。
491無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 18:21:42
>>489
確か娘2人はいずれも仏門に入っているしな。
492無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 18:27:29
>>491
確認されているのは、大平寺の青岳尼(後、里見義弘室)と東慶寺の旭山尼だけ。
493無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 18:55:57
義明の血が入ろうが入るまいがあまり関係はないけどね。
494無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 19:56:40
>>492
しかし、義明死後は安房で養育された姫たちは、どういう経緯で対岸の相模に渡れたんだろうね?
495無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 22:20:40
>>494
本来、足利家の女性が住持になる不文律のようなものがあったわけでしょ?
たとえ交戦中でも仏門のことだけに「話は別」ということになってるんじゃないのか?
496無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 22:34:28
>>491
基氏以降、足利家の女性で他家に嫁いだケースの方が珍しくないか?
497無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 00:54:51
>>496
ですね。
傍系にならないと・・・
成氏の娘が六角高頼に嫁してるケド、ほとんど太平寺逝きですねー。
499無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 01:06:12
>>498
お久しゅう。
ということは・・・六角氏には古河足利家の血が・・・???
500奇矯屋onぷらっと ◆QqQquqqauQ :2005/12/26(月) 01:09:20
今宵はサービスデーなんだろうな。
501無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 01:11:24
>>498
東慶寺じゃねえの?メインは。
西軍だった高頼と成氏が、東軍への対抗上結んだいわゆる都鄙合一んときに嫁したと言われてますよね。
系図によって違いますが、一応高頼子氏綱は成氏の孫とされてます。
六角家は直冬や鎌倉の基氏、また義満からも代々降嫁の誉れを受けてますね。
松岡長慶寺のことでしょか。
504無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 01:43:57
>>502
>一応高頼子氏綱は成氏の孫とされてます。

異説もあるわけね?
505無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 01:47:43
>>503
それを言うなら松岡(山)東慶寺。
近年、男性住職が入寺するまでは尼寺だった。
>>504
近衛政家女という説っす。

>>505
類従の「足利系図」には長慶寺とありましたが、「古河公方」で確認すると
松岡東慶寺でした。義明女で青岳の妹に旭山と名乗る松岡殿がそれっすね。
507無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 02:55:15
>>502
しかし、古河と近江じゃねぇ・・・どう連携するのよ?
508無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 18:13:23
>>506
青岳和尚は里見義弘室になったまではいいが、その後、足利晴氏の娘が輿入れしてるよね?
ということは比較的早い時期に身罷ったのかな?
509無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 13:15:54
>>508
けっこうな年齢でしょ?
510無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 19:28:34
>>509
死去を受けて、再び足利家から・・・・ってことかな?
511無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 17:28:55
>>510
もう古河系しか残ってなかったし。
512無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 17:36:21
ほぅ。勉強になるな
513無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 20:34:04
>>511
しかし、小田原征伐の時には小弓系の頼純の復権を大義名分にしている。
義頼が古河の血筋にあたる甥(弟?)を排除したこともあるのだが。
514無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 21:36:16
>>513
で、それを咎められちまうんだよなぁ。
515無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 00:59:46
頼純は第一次国府台の戦いの後、里見氏の庇護を受けるも、ず〜っと安房にいたわけ
ではなく諸国を放浪しているんだよね。
で、小田原征伐の際、下総から北条勢が撤退した好機に乗じて、里見義康の支援を
受けて小弓城を奪還したとする説もあるのだとか。
516無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 20:26:13
義康はそもそも秀吉の要請に応じる形で軍事行動を開始したが、小弓城攻撃などその軍事行動は
独自のそれだった。また、三浦半島において、里見氏の龍の朱印を捺した禁制を発給していたこと
が発覚したため、徳川家康の仲介こそあれ領国が安房一国に。
517無名武将@お腹せっぷく:2005/12/30(金) 11:21:33
>>516
頼純を鎌倉に入れたかったわけでしょ?
518無名武将@お腹せっぷく:2005/12/30(金) 11:28:12
>>516-517
ちょっと時代錯誤・・・でも、北条氏はその秩序の中で関東を支配していたのだから、
義康がその価値基準で行動しても批判はできないわな。
519無名武将@お腹せっぷく:2005/12/30(金) 12:50:47
>>518
むしろ秀吉の方が「何者?」だったんじゃないの?
520無名武将@お腹せっぷく:2005/12/30(金) 12:53:58
>>516
その家康に・・・・。
521無名武将@お腹せっぷく:2005/12/31(土) 02:26:19
>>517
まあ、義氏の没後だし、小弓系しか残ってないでしょ。
522無名武将@お腹せっぷく:2005/12/31(土) 18:46:08
>>521
そりゃそうだ。
でも、氏女タンは近臣と古河城にいたんだろ?
523無名武将@お腹せっぷく:2005/12/31(土) 19:30:12
氏女タン?
524無名武将@お腹せっぷく:2005/12/31(土) 20:15:23
>>523
氏姫タン
525無名武将@お腹せっぷく:2005/12/31(土) 22:50:11
>>524が秀吉の誘いを断ったがために古河城を退去させられ、僅か300石余の扶持を
与えられるだけの困窮状態に。
526無名武将@お腹せっぷく:2005/12/31(土) 22:53:53
>>525
>>524が、ではなく、氏姫が、でしょ?
527無名武将@お腹せっぷく:2006/01/01(日) 00:05:57
>>526
細かいね。
528無名武将@お腹せっぷく:2006/01/01(日) 00:19:17
>>525
しかも、それは氏姫個人への化粧料ではなく、家臣の扶持も含めた石高。
その件では秀吉とも一悶着あった。
結果、数多くの家臣が足利家を去って行ったと。
529無名武将@お腹せっぷく:2006/01/01(日) 00:39:57
>>528
それが姫スレで以前、秀吉が凄まじいくらいに憎悪されていた一因でもあったな。
530無名武将@お腹せっぷく:2006/01/01(日) 00:46:34
>>529
元住人さん?
531無名武将@お腹せっぷく:2006/01/01(日) 02:09:25
>>529
ま、一時の祭ということで(w
532無名武将@お腹せっぷく:2006/01/01(日) 02:30:43
>>513
頼純は義頼が北条の力を借りて里見の当主になった手前、居辛くなったので放浪したんだろうな。
その後、再び里見・北条が手切れになったので帰ってきたと。
533無名武将@お腹せっぷく:2006/01/01(日) 02:36:12
>>532
義弘没後の里見家の内紛のあたりでしょうね。
534無名武将@お腹せっぷく:2006/01/01(日) 03:19:12
頼純って安房に置かれていたんだよね、確か。
ということは義頼のお膝元?
535無名武将@お腹せっぷく:2006/01/01(日) 22:43:04
>>534
そういうことになりますね。
古河系(義氏)にシフトした時期もありますし。
536無名武将@お腹せっぷく:2006/01/02(月) 15:46:37
梅王丸は足利晴氏女の腹とも言われているよね?
梅王丸派(上総家臣団)に対抗するために、北条氏政の妹を娶るわけだが、頼純はどう転んでも
反北条。北条との和睦により頼純の存在価値が一時低下したことは事実だろう。
おそらく頼純が里見領に戻ったのは、義頼室の没後、再び北条との関係が悪化し始めた時期で
はないか。
とはいえ、義頼は外交上、秀吉に接近するなどしており、既に頼純には保険程度の存在価値し
かなかったのかも知れないが。
537無名武将@お腹せっぷく:2006/01/02(月) 21:03:56
>>536
どういう経緯でお嶋さんは塩谷氏に嫁いだのかね?
538無名武将@お腹せっぷく:2006/01/02(月) 21:18:57
>>536
あの扱いは保険で済むか?
539無名武将@お腹せっぷく:2006/01/03(火) 02:19:18
>>538
義頼と義康の考え方、状況判断に違いがあるのは当然のこと。
義頼の方がその点、リアリストだよな。
540無名武将@お腹せっぷく:2006/01/03(火) 02:46:01
>>536
出家後は淳泰ね。
しかし、生母は佐貫城主・加藤伊賀守の女とも、千本城主・東平安芸守の女とも
言われているが、いずれにせよ、妾腹の男子だった可能性が高い。
家督相続の結果、生母と妹が幽閉されて非業の死を遂げ、出家させられた淳泰
の系譜もそこで途絶える。
541無名武将@お腹せっぷく:2006/01/03(火) 03:11:01
義頼の子としては義康以外に義高、千寿丸(没年不明※正木時堯と同腹)、正木時堯がいるよね。
義高は上野・板鼻藩主となったが、慶長18年(1613年)に「職務怠慢」を理由に(大久保長安事件の
余波であることは疑いないが)改易され、岳父である酒井家次に預けられた。
なお、横浜の松蔭寺のお堂に困窮した民衆を救うため、即身成仏した里見義高が「入道様」として
祀られているのだと言う。
http://www.city.yokohama.jp/me/tsurumi/shokei/99-03/17tenbyo.html
時堯は生母(正木左京介の娘)の実家の姓を名乗らせ、正木憲時誅殺後、大膳亮時堯と名乗らせ、
烏山城主となっている。
542無名武将@お腹せっぷく:2006/01/03(火) 03:40:29
>>541
二代目・時茂(=時堯)ってさ、里見忠義の改易の時に倉吉に同行しているよね。
で、忠義の没後は鳥取藩に仕えたはず。
543無名武将@お腹せっぷく:2006/01/03(火) 03:52:50
>>542
仕官?
池田光政に預けられたんじゃないのか?
544無名武将@お腹せっぷく:2006/01/03(火) 14:40:34
>>543
池田家の岡山転封後、禄高1500石の上士として家臣に列せられている。
これは幕府が寛文元年(1661)、諸大名家にお預けになっていた改易大名の家臣たちを
召し抱えるように命じたためのこと。
結果、徳川忠長、松平忠直、加藤忠広、最上義俊など大藩の家臣団を中心に、お預けと
なっていた大名家に召し抱えられることに。
545無名武将@お腹せっぷく:2006/01/03(火) 14:41:33
時茂には実子はなく、忠尭(忠義弟)、時次、時俊(弟・康俊の子)を養子に迎えていた。
時茂自身は大坂の陣後、倉吉から駿府の家康の下へ。
家康の死後、元和3年(1617)に秀忠から江戸に呼び出され、桜田の旧屋敷に蟄居処分
となった模様。その後、忠義が病没すると、秀忠による池田家仕官の斡旋を断ったために、
池田家お預けの処分となった。
池田家での時茂は、2000俵の合力米を支給され、家中でも敬意を集める存在であったと
言われている。時茂には妻、養子たちに加え、家臣の上野大蔵丞、高梨半兵衛が供奉し
ていたが、時茂が寛永7年(1630)頃に病没すると、養子の1人である時次が家督を継い
で池田家お預けとなって800石余の合力米を支給されると共に、上野大蔵丞には安房へ
の帰国が許されている。
546無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 04:04:43
>>541
即身成仏?????
547無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 05:42:13
>>537
よく分からんね、そのあたりは。
ちなみに喜連川塩谷氏って宇都宮一族かと思っていたけど・・・どうなのかね?
資料によって違いがあるだろうけど。
548無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 06:56:53
>>547
宇都宮業綱の子・朝業が分家を興して塩谷氏を名乗ったという説がある。
一方、源義家の子・義親が平正盛に殺された後、義親の子・頼純が塩谷郡に居住して塩谷氏を
名乗ったという説もある。
頼純の孫・惟頼、惟広の兄弟が源頼朝の平家追討軍に加わって活躍して、その戦功の恩賞と
して喜連川十五郷を賜わったとされているのだが・・・。
その後、川崎城に拠った塩谷氏(惟頼系)が無嗣で途絶えそうになった際、宇都宮氏から朝業
を養子を入れたということで辻褄を合わせており、この時に源氏系から藤原氏系になったとして
いる。
549無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 09:02:19
>>541
義高は1650年に死亡して、子孫はそのまま庄内藩酒井家に仕えている筈だよな。
550無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 20:29:22
>>549
お寺の由来書にそうあるらしい。だが、別人?
551無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 20:52:39
>>549
どうやって死亡したかの問題だろな。
お預けの身でも死ねば、沙汰がない限りは子孫もお預けのまま。
で、後に家臣化すると。
552無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 20:55:36
>>548
倉ヶ崎城に拠った塩谷氏は、惟頼の弟・惟広の系譜とされているな。
惟広の築城以来、嶋子の夫・惟久の代で滅亡するまでの約400年間、倉ヶ崎城主であった
ことは事実のようだが。
553無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 21:17:27
>>552
>約400年間、倉ヶ崎城主であったことは事実のようだが。

サラ〜ッと言うけど、事実なら凄いよな、これ。
554無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 23:04:54
>>552
事実上、宇都宮の家臣or属将でしょ?
555無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 23:26:52
流浪中の頼純・嶋子父娘が、倉ヶ崎城に滞在していたのか、それとも斡旋する者が
あったのか・・・。
556無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 03:01:35
>>555
嶋子の年齢を考えると、足利義氏の没後の輿入れなんだろうな。
ところが絶世の美女を置いて、惟久は側室を連れて出奔してしまう・・・。
557無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 03:33:37
頼純には二姫がいたよね。
嶋子と東慶寺の住持となった瓊山尼。
瓊山尼以前に頼純の姉(妹?)も入寺していることを考えると、逆に嶋子には入るべき寺が
無かったという解釈も成り立つね。
頼純が浪々の身で、しかも、東慶寺には既に瓊山尼を入れてしまっているわけで。
558無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 09:42:43
>>555
足利家の姫だし、「何で逃げ出さなければ成らないのか」とデーンと構えていたのかも知れないな。
ダンナは恐れをなしてサッサと逃げてしまったが。
この時、既に小弓足利家再興を頭の片隅に置いていたとしたら、相当なタマなんだろうが。
559無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 14:23:14
>>557
瓊山尼は長女だよね。
560無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 14:30:59
>>555
どの程度政治的価値があったのか・・・?
561無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 15:24:27
>>552であるならば、源氏の名門?の末裔ってことになるけど、宇都宮家の勢力下にある一豪族に
そこまでの価値があったとは思えないのだが。
562無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 16:19:21
>>558
どのあたりで御家再興にシフトしたんだろうね?
563無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 21:41:53
>>562
逃げ出した惟久の代わりと言いながら、その実は城と領地を手中に収める・・・
その後の古河足利家の家名まで手に入れるところからすると、案外、惟久の出奔の時にはそういう
考え方になっていたのでは?
564無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 21:51:59
>>545
越後里見氏は?
565無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 22:16:33
里見八犬伝・・・。
566無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 22:21:24
567無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 00:33:50
反戦メッセージと心からの謝罪・・・TBSは正月から何をやってんだい、全く。
568無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 01:25:51
>>558
既に彼女には帰るべき実家は無かったしね。
となると、選択肢があるわけでもないし、結果、倉ヶ崎城に残るしか無かったのでは?
夫も逃げ出したことだし、女城主としてとことん居座ってみようと。
結果、それが幸いしたわけだけど。
569無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 19:41:27
>>568
一時的に制圧?された小弓城は?
570無名武将@お腹せっぷく:2006/01/07(土) 03:15:48
>>569
それも「?」付きだからね。
571無名武将@お腹せっぷく:2006/01/07(土) 08:27:37
>>567
ちょっと見るに耐えない作品だったね。
しかも、あれってビデオ撮りでしょ?何か終始萎えっ放し。
公方が謝ってチャンチャン!って・・・。
あれが当時の価値観であると思い込ませる意図があったとしたら、TBSの罪は重いぞ。
572無名武将@お腹せっぷく:2006/01/07(土) 11:11:05
>>571
ほかのドラマからしても、そう思い込ませる意図はあったんじゃないか?
水戸黄門をやっている局だぞ?
573無名武将@お腹せっぷく:2006/01/07(土) 17:16:12
勧善懲悪の単純図式なら平和だが。
テレ朝日がやや「らしくない」ことをし始めたら、今度はTBSが逆行路線か。
574無名武将@お腹せっぷく:2006/01/07(土) 18:41:00
TBSはどんどんおかしくなってる
575無名武将@お腹せっぷく:2006/01/07(土) 21:45:06
前から相当おかしかっただろwww
576無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 03:17:36
>>574
同意。
おかげで賢明?な視聴者に見放されつつあるようです。
それにしても公式HP掲示板の検閲ぶりは凄いな。
そもそも反戦モノをやりたいにせよ、題材が「里見八犬伝」である必然性をまるで感じないのだが。
577無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 07:26:31
>>573
初期は勧善懲悪のみだったが、最近は、明治の志士の先祖を意味もなく悪役で出してみたり、
朝鮮通信使をやたらと持ち上げまくったりと、偏向が酷いぞ。
578無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 09:10:06
>>577
朝鮮の属国の対馬なんて助さんに言わせていたこともあったな。
579無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 18:55:13
>>577-578
スポンサーからしてグルってことはないよね?
580無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 19:00:01
>>578
いい加減、打ち切りにしちまえよ。
581無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 22:19:08
>>579
スポンサーも何も、プロデューサーが在日。
582無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 01:58:10
>>581
ありゃ。
やはり在日にはある程度の職業差別的な施策が必要かも。
人様の国で勝手なことしやがる。
583佐野弘綱:2006/01/09(月) 08:22:23
さすがの公方様もこんなとこまで突撃するとは思わんかったでしょうな
584無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 17:45:15
>>583
水戸の黄門様は関連ネタ。
585無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 02:14:49
>>584
「大日本史」繫がりか?
どうせなら喜連川足利家の内紛に黄門様が絡むストーリーでもやって欲しい。
586無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 02:19:28
>>585
5000石の全国最小大名じゃなぁ・・・行き掛けの駄賃にもならん。
587無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 10:27:04
巧いこと差し戻したなw
588無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 12:07:17
>>581
それ聞いた瞬間、見る気を無くした。
幕末に水戸から喜連川に入嗣ってことで、軌道修正可かな(笑


しかし女性に救われてるなぁ。古河。
590奇矯屋onぷらっと ◆QqQquqqauQ :2006/01/10(火) 23:59:20
>>589
それ、家はともかく血統が守りきれてないんですけど。
今では血筋はおろか、市町村合併の流れを受けて喜連川の名さえもなくなってしまいましたね。。。
592奇矯屋onぷらっと ◆QqQquqqauQ :2006/01/11(水) 00:12:25
栃木県塩谷郡喜連川町喜連川

こんな住所があるんですが、消えたんですか?
さくら市ではないかと
594奇矯屋onぷらっと ◆QqQquqqauQ :2006/01/11(水) 00:19:52
字(アザ)でも残ったならよしとしましょう。
595無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 00:21:53
596無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 02:39:35
>>589
だがそれがいい!
597無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 11:11:25
>>590
血統も大事なんだけど、やっぱり家名なんだよね。
喜連川足利家をどう守るか、ということの方が大事だし、財政難を考えたら
大藩から養子(女婿含む)をもらった方が良いという判断もある。
598無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 11:20:54
>>597
確かに5千石(実高1万石弱?)で10万石の格式ってのはつらいものがあるよね。
あれこれと出費も嵩むだろうし。
599無名武将@お腹せっぷく:2006/01/12(木) 19:29:35
>>598
でも、参勤は免除でしょ?
600無名武将@お腹せっぷく:2006/01/13(金) 05:09:07
>>599
家臣であって家臣でないようなびみょ〜な存在だからね。
601無名武将@お腹せっぷく:2006/01/13(金) 05:53:31
室町幕府の後継者として存在するための茶番用主君もどきだし。
江戸幕府の正当性の権威付けになりさえすればよかったから、
幕府にとっては、勝手にやっていてくれてよかったのかも。
602無名武将@お腹せっぷく:2006/01/13(金) 06:40:29
>>601
ええ、ですから「無高」ですね。
603無名武将@お腹せっぷく:2006/01/13(金) 08:00:27
>>601
しかし、それが将軍家ではなく関東公方家の末裔に委ねられたというところがね・・・。
604無名武将@お腹せっぷく:2006/01/13(金) 16:10:36
>>603
義昭の子も家督相続を願い出たろ?
但し、豊臣政権下の話で石田三成に退けられた。
仮に相続させるにしても1万石はくれてやらないといけないだろうし、
そこは既に喜連川を領する頼氏を据えて、安く上げたんじゃないのか?
605無名武将@お腹せっぷく:2006/01/14(土) 14:09:40
>>604
後年、3800石から5000石に若干加増してるけどな。
606無名武将@お腹せっぷく:2006/01/15(日) 06:49:37
>>605
まあ、その程度なら・・・。
しかし、高山が徳川家に召し抱えられたとしたら、やはり喜連川家と同じように
無高&格式10万石なんて扱いになったのか?
607無名武将@お腹せっぷく:2006/01/15(日) 09:24:52
>>606
阿波公方家はまるで眼中に無かったんだろうな(w
608無名武将@お腹せっぷく:2006/01/15(日) 17:54:29
>>607
存在自体が「?」だったんじゃね?w
609無名武将@お腹せっぷく:2006/01/16(月) 01:27:50
このスレきめぇ
こんなトコでグチってなんいなるんだい?中二病の坊たちよ
610無名武将@お腹せっぷく:2006/01/16(月) 01:32:57
中二病って使い方違くね?
611無名武将@お腹せっぷく:2006/01/16(月) 07:12:53
覚えたての言葉を使うのも中二病。
612無名武将@お腹せっぷく:2006/01/16(月) 10:14:40
中二病
■基本的な語義*1
バカドリルによってこの病気がはじめて世に知られる事となった。中学2年生程度の屁理屈で社会を
否定し、結果何の行動も起こさなくなる病。特に引篭もり患者に多く見られる。重度の患者は勝手な
思い込みから社会の規律に反した行動を引き起こすため、早めのケアが必要。闘病患者としてタレン
トの伊集院光氏が有名。(未完治)

■最近の一般的な意味
自分に自信が無いので「他人とは違う趣味を持っている」ということで無意味なキャラ作りをすること
男子が中学二年に取りがちな痛い行動
自虐ネタ

■関連語
→女子の似たような現象は小六病と呼ぶ。
→中二病の人を嫌悪したり「この人はここが中二病だよ」とバカにすることは高二病と呼ぶ。
→計算の無い単なる面白い子供らしい行為は小二病と呼ぶ。
→「高二病の人は中二病の人を嫌悪してみっともないよなぁ」と思うのは大二病と呼ぶ。
→中ニ病は誤変換
→中二病を過剰に意識して何も行動を起こせなくなることは裏中二病と呼ぶ。
613無名武将@お腹せっぷく:2006/01/16(月) 14:43:57
>>607
時代的には義助の頃かな?
614無名武将@お腹せっぷく:2006/01/16(月) 15:16:07
>>613
どうでもいいが義助って名前がまた安っぽい。
615無名武将@お腹せっぷく:2006/01/16(月) 15:44:14
ギスケといえば脇屋義助
616無名武将@お腹せっぷく:2006/01/16(月) 17:02:27
足利義明が奥州に滞在していた話って、実話じゃないよね。
617無名武将@お腹せっぷく:2006/01/16(月) 17:55:44
>>614
二男坊でしょ?義維の。
618無名武将@お腹せっぷく:2006/01/16(月) 19:56:35
>>617
最近まで「よしこれ」だと思ってたのは内緒だ。
619無名武将@お腹せっぷく:2006/01/17(火) 01:49:00
>>346
あの人は茶々丸の子孫で出てたんじゃねーよ
タモリたちは他が実名なのに一人だけ幼名だった茶々丸をネタにしてただけ。
2ちゃんてこーやって誤った情報が真実のように語り継がれてくんだよな。
620無名武将@お腹せっぷく:2006/01/17(火) 13:12:27
>>619
誰の子孫?
621無名武将@お腹せっぷく:2006/01/17(火) 21:29:31
>>616
奥州のどのあたりを徘徊してたの?
従者はいたの?
622無名武将@お腹せっぷく:2006/01/18(水) 07:38:36
>>621
奥州を徘徊なんかしてないよ。
小弓に来る前は、下総国の高柳にいたのが真相みたいです。
623無名武将@お腹せっぷく:2006/01/18(水) 11:32:49
>>622
典拠を教えていただけると幸いです。
624無名武将@お腹せっぷく:2006/01/18(水) 16:26:02
>>622
徘徊って何だよ?w
認知症の老人じゃあるまいし。
625無名武将@お腹せっぷく:2006/01/18(水) 20:11:52
>>622
佐藤博信「小弓公方足利氏の成立と展開-特に房総領主との関係を中心に-」(『歴史学研究』635号、1992年)

滝川恒昭「小弓公方家臣逸見氏について-国立国会図書館所蔵『逸見文書』の紹介-」(『中世房総』6号、1992年)
626無名武将@お腹せっぷく:2006/01/18(水) 23:54:47
>>625
dクスです。
627無名武将@お腹せっぷく:2006/01/18(水) 23:57:24
あげ
628無名武将@お腹せっぷく:2006/01/19(木) 00:06:58

629無名武将@お腹せっぷく:2006/01/19(木) 01:38:42
>>625
へ、逸見氏・・・懐かすぃ・・・。
630無名武将@お腹せっぷく:2006/01/19(木) 10:34:21
>>629
序盤は逸見冠者ネタでしたね、そう言えば。
631無名武将@お腹せっぷく:2006/01/20(金) 14:50:17
>>622
八幡御所。
632無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 23:19:50
>>622
どういう経緯、経路で?
633無名武将@お腹せっぷく:2006/01/23(月) 00:32:50
>>632
それはよく分からないけど、とにかく東北には滞在はしていない。
さらに最近の説では、下総国高柳から小弓に直接来たのではなく、
一時的に市原市八幡に滞在していたらしい。


634無名武将@お腹せっぷく:2006/01/23(月) 17:45:27
>>633
だから八幡御所と言っておろうが。
635無名武将@お腹せっぷく:2006/01/23(月) 21:02:31
流れ公方めが
636無名武将@お腹せっぷく:2006/01/23(月) 22:50:45
>>635
流れない公方など公方ではない。
637無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 00:07:23
つ犬公方
638無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 00:22:29
>>637
完全なるスレ違い。
639無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 13:24:40
640無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 14:36:57
>>639
ふむむ・・・。

>[八幡(やわた)御所]
>真里谷武田氏2代信勝は小弓城の原氏を一挙に葬る策をめぐらせていた。やがて武田氏は
>奥州の会津黒川城の食客であった空然を迎え、当初は八幡の八幡宮の別当寺であった霊
>応寺に住まわせた。さらに信勝は諸将を従えるためには威容ある御所が必要として八幡御
>所を造営、同時に永正7年(1510)空然は還俗して足利義明と名乗り、古河公方である兄高
>基に対抗した。
>永正14年(1517)、勢力を蓄えた義明は小弓城の原氏を攻撃、原氏が逃亡するとここに入城
>して小弓公方を称し、八幡御所はそのまま存続した。やがて房総の諸将が義明に従うと古
>河公方にとって代わろうという野望をもち、天文7年(1538)公方派の北条氏綱・氏康を討つ
>べく市河(現市川市)国府台で合戦に及んだが敗戦、弟基頼・子義純とともに討死した。
>同時に八幡御所も消滅したとされる。
641無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 14:40:40
奥州の会津黒川城の食客ねぇ・・・。
642無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 21:22:39
>>639
>奥州の会津黒川城の食客であった空然を迎え

だから奥州なんかに滞在してないの!!
643無名武将@お腹せっぷく:2006/01/26(木) 02:34:02
>>639
>奥州の会津黒川城の食客であった空然を迎え

これは「快元僧都記」の記述。事実が確認されないことと
「快元僧都記」の諸本に有るのと無いのがあることから否定されている。
真里谷武田氏に擁立される前は小山・高柳・八幡御所にいた模様。
644無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 21:28:05
>>643
鶴岡からどういう経路を辿ったのか時系列的に頼んます。。
645無名武将@お腹せっぷく:2006/01/30(月) 22:11:16
>>644
自分で調べなさい。
646無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 11:36:05
>>644
父・政氏の許に身を寄せていたんじゃなかったか?
高基と不仲になったので、義明を抱き込もうとした。
647無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 22:54:09
>>646
最初は三つ巴だったけどね。
648無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 20:48:36
【千葉】前期里見氏の居城「稲村城跡」見に来て…館山に残る戦国前期の貴重な遺構
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1138887661/l50
649無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 21:37:12
室町時代に前期里見氏の居城となった、館山市の「稲村城跡」を紹介
するイベントが、四日に市内で開かれる。有志による保存会結成から
十年を経た今年は、行政や地元地区が初めて参加。国の文化財指定を
目指す動きが盛り上がっている。

 稲村城は十五世紀後半に造られ、十六世紀前半の内乱で里見義豊が
滅びるまで里見氏が居城とした。主郭や土塁、堀切などを設けた東西
五百メートル、南北五百メートルの丘を中心とする城で、戦国時代前期
の城の形を伝える貴重な遺構とされる。

 一時は道路建設計画で存続が危ぶまれたが、一九九六年に発足した
「里見氏稲村城跡を保存する会」が保存運動を展開。その後発足した
特定非営利活動法人(NPO法人)「南房総文化財・戦跡保存活用
フォーラム」と連携して、国の文化財指定を目指してきた。

 今回のイベントは、数年来開いていた「里見紀行」を拡大する形で、
保存する会と同フォーラムが主催。「わたしたちの稲村城跡大発見」と
銘打ち、市や地元の館野地区コミュニティー委員会などが初めて参画する。

 当日は稲村城跡を歩いて見学する第一部、専門家がスライドを交えて
講義する第二部、各分野の七人が座談会を行う第三部に分かれている。

 第一部は午前九時四十五分から、同市稲の「成勇館山店」向かいの
空き地(JR九重駅から徒歩十分)で受け付ける。参加費百円。第二・三部
は館野小学校体育館で午後零時半から受け付け。無料。会場で資料冊子
を販売する。問い合わせは保存する会へ。

(問い合わせ電話番号省略、ソース元でご確認ください)
ソース(東京新聞) http://www.tokyo-np.co.jp/00/cba/20060202/lcl_____cba_____002.shtml
650無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 14:06:33
>>649
はぁ・・・。
651無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 15:38:08
>>649
さて、そこからどう展開しましょうか?
652無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 15:53:59
じゃあ、結城合戦の話しでも
653無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 17:11:51
>>652
いや、稲村城跡の話からどう展開するのかということだろう。
654無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 20:11:05
>>646
形勢不利だった政氏が義明を引き込んだというのが正しいのでは?
655無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 12:53:13
>>654
還俗した時には「認めん!」って態度だったのにね。
ホント、コロコロと変わり身の早い家系だこと。
656無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 00:15:16
>>655
だから関東っていろいろ混乱しちゃうのさ。
657無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 00:29:13
関東ってよその地方と比較して、一族の争いで戦乱が激化した回数が多いからな。
北条一族こそ内紛がなかったが、上総の武田一族の内紛、里見の内紛、足利一族の内紛、
両上杉の争い、宇都宮一族の内紛、那須一族の内紛・・・・・・・
北条が強かった理由が良くわかる気がする。
658無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 18:56:53
>>657
さすがは坂東武者(w
659無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 19:00:17
>>657
元凶は鎌倉府ですな。
660無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 23:32:53
PHP文庫の「里見義堯」に登場していたけど、
血気盛んなただの「バカ戦野郎」扱いだったけど、そこらへんはどうなのだろう・・・
義明さまぁ〜
661無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 23:43:17
>>660
血の気が多かったのは事実でしょう。
カルシウム不足?
662無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 00:37:23
>>661
そういう分析?っすか?w
663無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 03:01:03
死に際の行動だけでキャラ作られてる人ばっかですから
664無名武将@お腹せっぷく:2006/02/16(木) 04:15:22
では生前の事績についてお願いします。
665無名武将@お腹せっぷく:2006/02/16(木) 05:02:03
>>663
スレタイからして・・・
666無名武将@お腹せっぷく:2006/02/16(木) 14:56:56
>>665
・゚・(つД`)・゚・
667無名武将@お腹せっぷく:2006/02/17(金) 23:44:30
>>665
そこから始まってますからね。
しかし、猪突猛進以外のエピソードないのかね?この人。
668無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 03:22:43
まあ、結果論ですけど、彼の還俗が関東足利家を再興させる切っ掛けになったわけ
ですけどね。
669無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 06:00:21
確かにただの結果論。
670無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 16:14:36
国朝の半生(氏姫との婚姻前)って今ひとつよく分からないんですが。
671無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 22:09:11
まあ、存在自体がびみょ〜ですから。
672無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 22:57:34
どこにいたのかな?
里見家の食客?
673無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 14:22:51
頼氏は出家してたけど、国朝の場合は嫡子だしね。
674無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 16:29:11
WIKIでも扱いはこの程度だしね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%9B%BD%E6%9C%9D
足利 国朝(あしかが くにとも、元亀3年(1572年) − 文禄2年2月1日(1593年3月3日))は、
小弓公方・足利義明の次男・足利頼純(喜連川頼純)の嫡男。喜連川頼氏の兄。喜連川国朝
と呼ばれることもある。

足利義氏の死後、関東における足利氏の系統は断絶していたが、豊臣秀吉は名族の足利氏
が滅亡することを惜しみ、義氏の娘と義明の孫に当たる国朝を娶わせて、断絶していた足利氏
を再興させたのである。このとき、下野国喜連川の地に、400貫の所領を与えられた。

1593年、文禄の役のとき、肥前国名護屋に赴く途上の安芸国で、病のために死去した。
んじゃ国朝の補足を少し。

幼名乙若丸、初名元氏。左兵衛督。法常院球山良公と号す。
祖父である八正院義明討死後、父頼純は房州に落居し里見義弘の補佐を受けたとあるから、
国朝は里見の庇護を受けていたと考えられますが委細不明。
1590(天正18)年、秀吉の動座により下野国塩谷荘喜連川に400貫を得て嫡家を継承。
1593(文禄2)年、上洛ののち鎮西へ赴く途上に発病、同年2月1日死去。
1601(慶長6)年、父頼純死去。
676無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 22:13:02
>>675
なるほど・・・と言えるほどのことでもないね、朝倉。
677無名武将@お腹せっぷく:2006/02/21(火) 15:03:38
父・頼純と行動を共にしていたのかな?
678無名武将@お腹せっぷく:2006/02/21(火) 22:58:07
でしょうね。
ということは、一時、諸国を放浪していたのかも。
679無名武将@お腹せっぷく:2006/02/21(火) 23:20:33
佐野弘綱って何者?
680無名武将@お腹せっぷく:2006/02/21(火) 23:24:14
>>679
小弓足利家の奏者。佐野一族とされてはいるが詳細は不明。
681無名武将@お腹せっぷく:2006/02/22(水) 03:06:59
>>680
泰綱の三男という説もあるね。
682無名武将@お腹せっぷく:2006/02/22(水) 03:33:06
こがくぼう?
ふるかわくぼう?
683無名武将@お腹せっぷく:2006/02/22(水) 07:39:37
何を今さら・・・
684無名武将@お腹せっぷく:2006/02/23(木) 07:51:56
本佐倉城跡発掘調査現地説明会

日 時 平成18年2月25日(土)11時〜15時
場 所 国史跡本佐倉城跡(京成線大佐倉駅から徒歩約15分)
問合せ 財団法人印旛郡市文化財センター
その他 申込不要、無料
    雨天中止(足元の状況により中止の場合もあります)
    駐車場はありません。
685無名武将@お腹せっぷく:2006/02/23(木) 14:49:07
佐倉城と小弓御所の関係は?
686無名武将@お腹せっぷく:2006/02/23(木) 18:02:32
何だ?
房総の城ヲタの集まりか?
687無名武将@お腹せっぷく:2006/02/23(木) 20:59:46
>>686
城ヲタでしかも房総限定?
どういう人種だよw
688無名武将@お腹せっぷく:2006/02/24(金) 22:39:02
>>675
国朝への改名はいつ頃の話なんだろうか。
689無名武将@お腹せっぷく:2006/02/26(日) 19:14:57
>>688
婚姻後?
つーか、いつ元服したんじゃい?
690無名武将@お腹せっぷく:2006/02/27(月) 04:20:34
元亀3年(1572年) の生まれですからね。
14〜15歳としても・・・
691無名武将@お腹せっぷく:2006/02/27(月) 09:28:25
やはり婚姻の前後なのかな。
しかし、元氏から国朝への改名は一貫性がないね。
692無名武将@お腹せっぷく:2006/02/27(月) 22:13:06
「足利家国の国と頼淳の子息国朝の国の一字が無関係であったとも
みなし難い」

佐藤博信氏が「足利家国論ノート」(『千葉県史研究』11号別冊、2003年)
で上記の指摘をしている。
693無名武将@お腹せっぷく:2006/02/28(火) 21:48:29
足利家国って何者?
694無名武将@お腹せっぷく:2006/02/28(火) 22:06:27
695無名武将@お腹せっぷく:2006/02/28(火) 23:41:16
696無名武将@お腹せっぷく:2006/03/01(水) 03:54:28
家国も里見の庇護下にいたんですか。
ということは、晴氏女の輿入れにも関わっていたんでしょうね。
義弘を基準にすると、先妻(青岳尼)の甥(国朝)と、後妻の兄弟(家国)という間柄で
ありながら、又従兄弟の間柄でもあると。
697無名武将@お腹せっぷく:2006/03/01(水) 23:59:50
>>696
里見家も大変ですね。
小弓(義明)―→古河(簗田系)―→古河(北条系)―→小弓(頼純)という変遷ですか。
おまけに領内には真里谷武田領以来の宮原御所までいたりして。
698無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 15:56:20
>>697
房総は公方家傍系の宝庫ですね。
699無名武将@お腹せっぷく:2006/03/04(土) 03:59:16
>>698
お血筋の方を集めるのが趣味なんでしょ。
700無名武将@お腹せっぷく:2006/03/04(土) 07:32:19
>>699
というか、和睦した一時期を除いて、反北条外交の所産でしょう。
701無名武将@お腹せっぷく:2006/03/04(土) 22:09:19

千野原靖方『関東戦国史(全)』(崙書房,2006年)

上記の本で足利義明もそれなりに取り上げられています。
702無名武将@お腹せっぷく:2006/03/04(土) 22:37:05
>>701
特筆すべき内容は?
703無名武将@お腹せっぷく:2006/03/05(日) 09:55:13
>>702
書店で立ち読みしただけですが、目新しいことは特にないような・・・・
704無名武将@お腹せっぷく:2006/03/05(日) 15:24:00
どこが「それなり」なんだ?
705無名武将@お腹せっぷく:2006/03/05(日) 22:17:55
>>703
猪突猛進してあえなく討死、とか?
706無名武将@お腹せっぷく:2006/03/06(月) 00:49:24
>>705
そのままじゃねえかよ。
もっと他にないのか?
707無名武将@お腹せっぷく:2006/03/06(月) 08:07:10
>>696
なるほどね。
しかし、頼純系は安房に匿われていたわけでしょ?
接点あったのかね?
708無名武将@お腹せっぷく:2006/03/09(木) 03:01:34
>>707
家国は・・・・北条への対抗上、上総でしょう。
709無名武将@お腹せっぷく:2006/03/09(木) 10:33:43
大野太平氏は『房総里見氏の研究』(宝文堂書店、1933年)で
足利家国は安房の那古寺に御所を構えたと推測している。
710無名武将@お腹せっぷく:2006/03/09(木) 17:59:25
>>709
その説を取るとなると、両雄並び立たず、ですね。
頼純の諸国放浪も現実味を帯びてくる。
711無名武将@お腹せっぷく:2006/03/10(金) 12:48:42
>>710
国朝は?
712無名武将@お腹せっぷく:2006/03/10(金) 15:14:19
>>711
当然、頼純に同行したんじゃないのか?
713無名武将@お腹せっぷく:2006/03/11(土) 06:48:45
年齢的なものもあるでしょ。
714無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 13:16:42
頼氏誕生が1580年。
既に北条・里見の和睦が成立し、また、義弘の病没後、古河足利家所縁の義弘の
遺児・梅王丸が義頼に廃されたことで、里見家の外交方針が転換していくので、
頼純の出国は、頼氏誕生後間もなくと想像される。
715無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 07:16:06
>>714
で、小田原征伐で都合よく戻ってきたわけか。
716無名武将@お腹せっぷく:2006/03/15(水) 09:56:57
>>715
しかし、今さら鎌倉府でもあるまいし・・・。
717無名武将@お腹せっぷく:2006/03/16(木) 10:24:32
>>716
そのあたりの錯誤こそが、長く混迷が続いた関東っぽいのでは?
秩序自体が以前として足利家を抜きには形成できない、と考えているのは
至極当然のこと。
718無名武将@お腹せっぷく:2006/03/16(木) 13:26:27
>>717
秀吉の当時の関東における位置づけでしょうね。
719無名武将@お腹せっぷく:2006/03/17(金) 15:47:50
その判断を誤った例は多いのだし、里見義康だけが錯誤していたわけでもあるまい。
720無名武将@お腹せっぷく:2006/03/17(金) 19:11:34
関東で秀吉に取り潰された大名ってどれくらいあるの?
721無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 14:42:02
小西城が消滅の危機です。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/chijoken/chijyoken2.htm
722無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 18:18:09
>>721
で、ワシらにどうせいっちゅうねん?
723無名武将@お腹せっぷく:2006/03/20(月) 18:24:38
>>722
デモ行進とか。
724無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 02:00:10
>>723
座り込み
725無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 14:34:35
>>714
ということは放浪期間は10年弱ですか。
726無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 21:35:55
で、その間に塩谷氏に絡んだわけか。
727無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 01:47:07
>>726
塩谷氏って宇都宮氏の傍系だっけ?
728無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 21:25:11
729無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 01:11:05
>>728
意味のないものは貼らないように。
730無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 13:25:49
>>719
義頼は北条との和睦、中央との接触など外交上、現実的な方向を歩んでいるよね。
その点では義弘とも路線が異なるし。
で、義康になると路線変更してしまう・・・何でだろう?
731無名武将@お腹せっぷく:2006/03/29(水) 22:56:27
>>730
そのあたりが能力値に反映されてますw
732無名武将@お腹せっぷく:2006/03/30(木) 08:35:10
733無名武将@お腹せっぷく:2006/03/30(木) 14:53:24
>>731
里見義弘
政治55 統率64 知略50 野望77 義理70
特技:開墾 回復 連射

里見義頼
政治42 統率54 知略41 野望59 義理55
特技:引抜 捕縛

里見義康
政治38 統率42 知略24 野望57 義理65
特技:商業 改修
734無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 16:02:11
>>733
義頼の能力って半端じゃない?
735無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 20:46:20
>>733
捕縛って・・・誰か取っ掴まえたの?
736無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 02:30:44
>>735
梅王丸じゃねえの?
捕縛して出家させたしな。
737無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 16:30:10
>>736
上総勢を離反させたり・・・・で、引抜かな?
しかし、もう少し知略値は高くないか???
738無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 19:58:54
目立った業績あるの?
739無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 23:12:32
>>738
中央との外交など?
740無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 02:23:08
北条との政略婚により、一時的に北条に屈服することになったが、結果、梅王丸の排除と
上総領・上総家臣団の併呑を成し遂げている。
また、反抗的だった正木憲時の排除にも成功。
義頼室の没後、北条と再度対立することになるが、豊臣秀吉との外交的連携により窮地
を脱している。
741無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 13:30:50
里見義頼は外交に熱心。
武田勝頼と上杉景勝が義頼家臣の岡本但馬守に送った手紙が残っている。
義頼は北条家臣の松田尾張守に手紙を送っている。
佐竹義斯にも手紙を送っている。
豊臣秀吉から手紙をもらっている。
742無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 18:35:00
>>741
メール大好きっ子の頼ちゃん
743無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 16:32:50
>>741
そりゃ、手紙のやり取りくらい誰でもするでしょうに。
744無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 16:56:57
喜連川氏のご先祖様ですね。
745無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 17:21:58
>>744
な、何を今さら。。。
746無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 17:38:03
>>733
データが嵐世紀な件について
747無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 15:07:26
>>746
では、他から引っ張ってね!
748無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 21:39:54
蒼天録とか?
749無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 02:00:48
>>748
大差ないんじゃないか?
750無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 03:05:05
いや、たしか知略が20以上あがってた気が
751無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 13:09:13
>>750
具体的なデータきぼん☆
752無名武将@お腹せっぷく:2006/04/15(土) 16:10:47
>>751
そのままスルーか?????
753無名武将@お腹せっぷく:2006/04/15(土) 16:24:57
里見 義弘
【思考】保守鷹派
【特技】哀願
【策戦】混乱 誘導
【能力】政治45 統率58 知略44

里見 義頼
【思考】好戦陰湿
【特技】弁舌
【策戦】混乱 収拾 破壊
【能力】政治43 統率54 知略66
754無名武将@お腹せっぷく:2006/04/15(土) 16:52:39
>>753
何だこれ

ところで善政を敷いて領民から「万年でも領主をやってほしい」って言われた
義弘の政治力って毎回低いね。


武田信保が足利義明を擁立したはいいものの逆にこき使われる羽目になって
里見義豊救援に失敗したところで隠居に追い込まれた
みたいなのがどっかに載ってた気がする
755無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 02:02:18
>>754
>何だこれ

蒼天録の初期値でしょ?
756無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 02:39:19
そうなんだ
757無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 20:34:26
>>753
>好戦陰湿

いいねぇ、何となく俺好みw
758無名武将@お腹せっぷく:2006/04/17(月) 16:57:39
何かまた足利スレが立ったようですね。
懲りない香具師・・・。
759無名武将@お腹せっぷく:2006/04/17(月) 22:30:32
>>753
>【策戦】混乱 収拾 破壊

マッチポンプのような性格?
慌てさせたり、もちつかせたり、何だか大変だな。
760無名武将@お腹せっぷく:2006/04/20(木) 00:18:07
>>759
相手を混乱させるけど、自分も混乱しちゃ拙いからな。
761無名武将@お腹せっぷく:2006/04/20(木) 15:56:46
>>758
ここは小弓で次スレか?
関東公方くらいまで拡げた方が良いと思うが。
762無名武将@お腹せっぷく:2006/04/20(木) 18:10:01
>>761
難しいね。
古河公方スレ再興に一票。
763無名武将@お腹せっぷく:2006/04/22(土) 04:11:25
>>762
同意!
764無名武将@お腹せっぷく:2006/04/22(土) 16:18:38
>>762
確か古河公方スレって第2弾まで行ったけど、サッサとdat落ちしたよね?
そこで小弓公方スレが立ったと思うのだが。
765無名武将@お腹せっぷく:2006/04/22(土) 19:55:27
>>764
第2弾って最初に波に乗れないと衰退しますよね。
何事も二番煎じは難しい。。。
766無名武将@お腹せっぷく:2006/04/23(日) 07:09:49
関東足利家くらいまで扱い範疇を広げないとね。
767無名武将@お腹せっぷく:2006/04/24(月) 05:58:49
>>766
では、そういうことで。
768無名武将@お腹せっぷく:2006/04/24(月) 11:18:51
>>766
いよいよ御家再興ですか。
とはいえ、このスレもまだ1/4近く残っていますからね。
もう少し盛り上げていかないと。
769無名武将@お腹せっぷく:2006/04/24(月) 14:13:03
古河歴史博物館の「古河公方展」の目録、2冊もっていたことが判明。
誰1冊買ってください。
770無名武将@お腹せっぷく:2006/04/24(月) 19:38:06
>>769
そういう時には、はい!ヤフオー!
771無名武将@お腹せっぷく:2006/04/25(火) 02:26:32
いきなり話?が逸れて申し訳ないが・・・
『射学聚方集』(東大弓術部編明治版「弓術書」収録)には、喜連川茂氏の記載がある。
茂氏は当代随一の剛弓引きと言われていたらしい。
772無名武将@お腹せっぷく:2006/04/25(火) 23:24:51
>>771
事実のようですね。
歴代の中ではわりと名君だったようです。
773無名武将@お腹せっぷく:2006/04/26(水) 16:23:14
>>771
何でいきなりそんな人が出てきちゃうの?
774無名武将@お腹せっぷく:2006/04/26(水) 17:38:26
いや、今回はわりと脱線してないほうだとおもうが
775無名武将@お腹せっぷく:2006/04/26(水) 23:26:13
>>774
そうなの?
776無名武将@お腹せっぷく:2006/04/27(木) 05:58:25
だれに弓を習ったのよ
777無名武将@お腹せっぷく:2006/04/27(木) 11:14:35
>>776
ただ今、お調べ致しております。
少々お待ち下さい。
778中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y :2006/04/27(木) 12:25:53
ま 小笠原あたりだろ
779無名武将@お腹せっぷく:2006/04/27(木) 21:57:25
>>778
小笠原家ってそのまま小笠原流を継承し続けてたの?
780無名武将@お腹せっぷく:2006/04/28(金) 13:39:09
>>777
日置流の竹林派という説もあるようですが。
781無名武将@お腹せっぷく:2006/04/28(金) 19:33:58
>>780
小笠原流に比べると実践的だったと言われてるね。
実際の戦でどれだけ役に立ったのかは知らないけど。
782無名武将@お腹せっぷく:2006/04/29(土) 21:43:57
>>781
「礼」の小笠原流ですから。
783無名武将@お腹せっぷく:2006/05/01(月) 07:18:33
阿波公方スレが終焉を迎えたな
784無名武将@お腹せっぷく:2006/05/01(月) 18:13:12
>>783
思えば完全にネタ枯れして・・・そこからが長かった・・・。
785中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y :2006/05/01(月) 19:30:39
以下は検証の余地がない 俺様の家に伝わる話なのだが二点教えて下さい

俺様の祖先が高階姓高氏庶流の出らしいのだが 簗田配下として間接的に古河公方に仕えていた
永禄年間に簗田流の足利藤氏が廃され 北条流の義氏が立った時
関宿の簗田と俺様の祖先は北条方の北条綱成に下ったらしいが
一部(俺様の本家筋)は安房の小弓を頼って落ちたという
その後秀吉の仕置で小田原役後は 俺様の祖先は佐倉に落ちて帰農し
現在の俺様に至るらしい

ここで疑問なんだが
俺様の本家が小弓を頼ったというが この時期の小弓系の動向はどこを調べたらよいか
また佐倉は古河系(古河家臣)に関係ある地域だったのか
このスレにいる知識陣の皆様 どうかお知恵を貸して下さい
786中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y :2006/05/01(月) 19:40:20
>>779
将軍家指南役だze〜 めがねかけたおっちゃんが確か現当主
どっかのサイトでみた
787無名武将@お腹せっぷく:2006/05/02(火) 00:45:09
>>785
まあなんだ、高氏庶流ならとりあえず名前に帥をつけてばされ
つーか、プチ幕府好きのおれとしても萌える話だな
788無名武将@お腹せっぷく:2006/05/02(火) 01:58:19
>>785
里見家に寄寓していた足利頼純なんでしょうな。
789無名武将@お腹せっぷく:2006/05/02(火) 04:36:14
喜連川に移る際の家臣団の一覧があったよね?どこかに。
790無名武将@お腹せっぷく:2006/05/02(火) 13:28:21
小弓城って安房にもあったっけ?
下総のは知ってるが。
791無名武将@お腹せっぷく:2006/05/02(火) 13:36:08
>>785
>この時期の小弓系の動向はどこを調べたらよいか
意味がよく分からないのだが、小弓系について調べた書籍や論文を知りたいの?
792無名武将@お腹せっぷく:2006/05/02(火) 15:37:54
>>790
安房には無いっての。
793無名武将@お腹せっぷく:2006/05/02(火) 15:58:40
小弓城と生実城って結局同じなの?
それともほとんど同じ場所にあっただけの別の城なの?
794中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y :2006/05/02(火) 16:14:34
>>787
通字みたいなもんはある 残念ながら「師」ではないがw

>>788
伝承を信じればたぶんそうなんだろうな 
本家は小田原直後に安房の御所を頼ったみたいだが 
秀吉の召集に応じた御所が 体裁を保つために間に合わせで招き入れたんだろうか

>>789
喜連川創設に際して暇を出された家臣もいると聞く 本家は何の取り柄があって臣籍を獲得出来たのか
本当に家臣になったのか 考えると不審に思える

>>790
本家は喜連川所属らしいから この時期安房にいた小弓御所て意味で
「安房の小弓」と書いた ややこしくてすまんす

>>791
喜連川創設で 家臣団の再編成があったことは俺様の家の事例を上げるまでもなく
想像はつくと思う その辺がわかる資料や 前のほうでも上がっている
安房に至るまでの御所の動向を研究してる資料はないかな?と思いまして
795無名武将@お腹せっぷく:2006/05/02(火) 18:49:07
>>794
安房に至るまで?
国府台で義明が戦死した後、里見家が幼少の頼純を安房に匿ったという話
ではないのかな?
796無名武将@お腹せっぷく:2006/05/02(火) 22:45:01
>>793
同じ城。
797無名武将@お腹せっぷく:2006/05/02(火) 22:57:47
>>793
別の城だよ。
生実城は京成ちはら台線学園前下車徒歩西ヘ約10分
小弓城は南へ一キロ

詳しくは、千葉城郭研究会『図説房総の城郭』(国書刊行会、2002年)
798無名武将@お腹せっぷく:2006/05/03(水) 17:40:00
>>797
>生実城

何て読むの?
799無名武将@お腹せっぷく:2006/05/03(水) 17:57:52
現代と同じなら「おゆみ」
800無名武将@お腹せっぷく:2006/05/04(木) 02:18:52
>>799
dクス!☆
801無名武将@お腹せっぷく:2006/05/04(木) 02:39:21
足利家国の末路とか聞くのはスレ違い?
802無名武将@お腹せっぷく:2006/05/04(木) 17:30:41
>>801
聞くだけではなく自分でも調べようね。
俺も調べるけどさ。
803無名武将@お腹せっぷく:2006/05/04(木) 18:44:05
>>802
調べてるけど分からないから聞いてるんだよ。
当然自分でもまだ調べるけど。
804無名武将@お腹せっぷく:2006/05/04(木) 20:37:22
>>794
古河系と小弓系が混在しているからね。
まあ、多くは古河系の家臣だとは思うのだが。
805無名武将@お腹せっぷく:2006/05/04(木) 23:11:55
佐藤博信「足利家国論ノート」(『千葉県史研究』11号別冊、2003年)
806無名武将@お腹せっぷく:2006/05/04(木) 23:18:18
>>805
もしよろしければ著作権に引っ掛からない程度で家国について教えてもらえませんか?
807無名武将@お腹せっぷく:2006/05/05(金) 08:28:23
>>804
そりゃ、古河家臣団の方が多かろう。
808無名武将@お腹せっぷく:2006/05/05(金) 16:39:57
>>807
しかし、古河開城の時点でかなりの数の家臣に暇を出したり、他家に仕官させているので、
国朝の喜連川入りの際にはどの程度の数が残っていたのやら。
809中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y :2006/05/05(金) 22:42:03
参考になるかわかりませんけど、「喜連川文書」から読み取れる公方家中を書いときます。。。

(天正十八年)八月廿二日  山中長俊書状
  一色右衞門佐殿(氏久)
  町野備中守殿(義俊)
  小笠原兵庫頭殿(氏長)
  高修理亮助殿(氏師)
  簗田右馬助殿(助実)

天正十八年十一月○一日  増田長盛書状
  南美作守殿
  佐野大炊頭殿

(年次不明)二月十二日  増田長盛書状
  町野孫七(郎殿)
訂正

>>中野区民憲章さん

参考になるかわかりませんけど、「喜連川文書」から読み取れる公方家中を書いときます。。。

(天正十八年)八月廿二日  山中長俊書状
  一色右衞門佐殿(氏久)
  町野備中守殿(義俊)
  小笠原兵庫頭殿(氏長)
  高修理亮助殿(氏師)
  簗田右馬助殿(助実)

天正十八年十一月○一日  増田長盛書状
  南美作守殿
  佐野大炊頭殿

(年次不明)二月十二日  増田長盛書状
  町野孫七(郎殿)
811無名武将@お腹せっぷく:2006/05/06(土) 16:36:56
>>809-810
自作自演。。。
812無名武将@お腹せっぷく:2006/05/06(土) 18:11:04
>>810
思いっきり御連判衆の皆様方じゃありませんか。
813無名武将@お腹せっぷく:2006/05/08(月) 22:14:08
足利家国の末路は解決した?
814無名武将@お腹せっぷく:2006/05/08(月) 22:20:13
全然。
815無名武将@お腹せっぷく:2006/05/08(月) 22:20:14
>>805を読めという結論らしい
816無名武将@お腹せっぷく:2006/05/09(火) 10:48:02
>>815
どこでどうやったら入手できんの?
817無名武将@お腹せっぷく:2006/05/09(火) 20:24:49
>>816
千葉県のある程度、大きな図書館になら置いてある。
818無名武将@お腹せっぷく:2006/05/09(火) 22:15:23
>>817
千葉までご出張かぁ・・・。
819無名武将@お腹せっぷく:2006/05/09(火) 23:41:20
本日、足利昌義が農協に対し謀略を図り捕まりました。
820無名武将@お腹せっぷく:2006/05/10(水) 20:12:51
>>816
http://www.pref.chiba.jp/bunsyokan/index.html
ここで購入できるが完売ですね。
やはり図書館しかないですな・・・・
821無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 02:39:47
>>819
誰だよ?
822無名武将@お腹せっぷく:2006/05/13(土) 19:42:37
>>820
・・・・・・・ですね。
823無名武将@お腹せっぷく:2006/05/14(日) 19:11:46
房総(千葉)学検定試験ができたそうです。

http://www.sankei.co.jp/edit/kenban/chiba/060419/kiji01.html
824無名武将@お腹せっぷく:2006/05/16(火) 21:47:36
>>823
房総半島全般の話題に対応できないと苦しいんジャマイカ?
825無名武将@お腹せっぷく:2006/05/17(水) 09:39:42
図書館に置いてあるなら、近場の図書館に行って取り寄せ貸し出しして貰いなさい
取り寄せ経費払えば貸してもらえるかもしれんよ
持ち出し可ならね

交通費払うより格段に安いから
826無名武将@お腹せっぷく:2006/05/17(水) 18:34:42
佐藤博信『中世東国足利・北条氏の研究』(岩田書院、2006年)
http://www.iwata-shoin.co.jp/
827無名武将@お腹せっぷく:2006/05/18(木) 17:20:37
>>826
井上定幸著『近世の北関東と商品流通』

↑これも面白そうだね。
828無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 18:34:37
>>827
やはり関宿は外せないでしょう。
829無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 00:08:25
>>828
水上交通の拠点だもの。。。
830無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 19:27:45
>>824
特定の時代の、特定の話題しか対応できないのは用無しだわな。
831無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 21:34:34
詰まるところ「プチ幕府」
832無名武将@お腹せっぷく:2006/05/23(火) 16:06:03
>>831
足利スレ自体、プチ幕府の存在抜きには語れないだろうw
833無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 15:05:52
>>831
江戸に公方様がいるのに、片田舎にも公方様がいるというのがいいんじゃない?
834無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 03:39:37
>>833
喜連川公方ですからねぇ。
その実は「たかり屋」だったわけですがw
835無名武将@お腹せっぷく:2006/05/26(金) 16:35:00
>>834
橋の下で釣り糸垂れてる話ですか?
836無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 00:07:45
>>835
過去に足利系のスレでは何度か紹介されているでしょ?
喜連川に逗留したくない大名家がルート変更したら、公方様自ら江戸屋敷まで出向いて厭味垂れたとかw
837無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 18:28:00
>>836
セコい話だけど、高い家格が災いして財政は火の車だったしな。
838無名武将@お腹せっぷく:2006/05/28(日) 16:30:26
>>837
実高5,000石で10万石の格式というのはキツいねー・・・。
839無名武将@お腹せっぷく:2006/05/29(月) 12:42:21
>>838
出費が嵩むんだろうな。
確か無高だよね、表向きは。実高は5千石とも、新田開発の結果、最終的には
1万石弱とも言われているが。
840無名武将@お腹せっぷく:2006/05/29(月) 18:11:32
        ブーン
      /⌒ヽ       このブーンを見た人はコピペでもいいから
⊂二二二( ^ω^)二⊃   1秒以内にブーンのスレへ貼り付けて欲しいお。
     │   /        いい子にしていればボクがお家に遊びに行くお。
     ( ヽノ         ボクとブーンしてご飯食べてお風呂入って一緒に寝るお。
     ノ>ノ
  ≡  レレ
841無名武将@お腹せっぷく:2006/05/29(月) 20:03:38
>>839
地味に名君や弓術の達人がいたりする面白いお家柄。
842無名武将@お腹せっぷく:2006/05/30(火) 01:18:01
  そだ  |------、`⌒ー--、
  れが  |ハ{{ }} )))ヽ、l l ハ
  が   |、{ ハリノノノノノノ)、 l l
  い   |ヽヽー、彡彡ノノノ}  に
  い   |ヾヾヾヾヾヽ彡彡}  や
  !!    /:.:.:.ヾヾヾヾヽ彡彡} l っ
\__/{ l ii | l|} ハ、ヾ} ミ彡ト
彡シ ,ェ、、、ヾ{{ヽ} l|l ィェ=リ、シ} |l
lミ{ ゙イシモ'テ、ミヽ}シィ=ラ'ァ、 }ミ}} l
ヾミ    ̄~'ィ''': |゙:ー. ̄   lノ/l | |
ヾヾ   "  : : !、  `  lイノ l| |
 >l゙、    ー、,'ソ     /.|}、 l| |
:.lヽ ヽ   ー_ ‐-‐ァ'  /::ノl ト、
:.:.:.:\ヽ     二"  /::// /:.:.l:.:.
:.:.:.:.:.::ヽ:\     /::://:.:,':.:..:l:.:.
843無名武将@お腹せっぷく:2006/05/30(火) 18:22:31
宮原氏って、幕末に喜連川家に養子を出していますが、
こっちの子孫は健在なのでしょうか?足利惇氏さんがなくなって
子爵足利家は絶えたそうですが・・・・・
844無名武将@お腹せっぷく:2006/06/02(金) 02:11:47
>>843
足利系スレでは散々頻出のネタでは?
845無名武将@お腹せっぷく:2006/06/02(金) 14:37:57
>>844
そうですね。
とりあえず、過去ログを掘ってもらえると詳しいことが分かると思います。
846無名武将@お腹せっぷく:2006/06/03(土) 14:30:45
>>843
宮原さん?神主やってますよ。
847無名武将@お腹せっぷく:2006/06/03(土) 20:14:45
>>846
ええっ!?そーなの?
848無名武将@お腹せっぷく:2006/06/03(土) 22:12:18
>>847
嘘だと思うならば過去ログ彫ってみて下さい。
849無名武将@お腹せっぷく:2006/06/04(日) 16:40:39
>>848
事実だからいいんじゃないの?
神主になったとはいえ、先祖代々の墓はきちんと管理されているらしい。
喜連川足利家は滅んでも、宮原家は健在。
できれば、もう一度旧姓に戻ってほしいなぁ。
850無名武将@お腹せっぷく:2006/06/04(日) 23:44:49
>>849
三度目の養子?w
851無名武将@お腹せっぷく:2006/06/05(月) 02:31:49
>>849
宮原家は比較的安定しているというか、途中で「誰?こいつ」みたいな養子入りがない。
852無名武将@お腹せっぷく:2006/06/05(月) 14:11:06
>>851
喜連川家の場合は支度金欲しさに婿&養子がバンバンだからね。
853無名武将@お腹せっぷく:2006/06/05(月) 16:21:49
最終的には水戸の系譜なんだろか?
854無名武将@お腹せっぷく:2006/06/05(月) 16:57:21
>>853
途絶したけどね。
855無名武将@お腹せっぷく:2006/06/07(水) 22:08:22
>>854
そうですね。
足利惇氏さんを最後に血統が途絶えてますね。
856無名武将@お腹せっぷく:2006/06/08(木) 13:29:40
足利輝氏って誰?
857無名武将@お腹せっぷく:2006/06/08(木) 23:08:42
>>856
そんなに知りたけりゃググッて来いよ。
858無名武将@お腹せっぷく:2006/06/09(金) 11:52:42
>>857
それを言っちゃおしまいだろ。
859無名武将@お腹せっぷく:2006/06/09(金) 23:27:18
>>856
つーかどこに出てきたのよ、そんな香具師。
860無名武将@お腹せっぷく:2006/06/09(金) 23:54:37
>>859
あー自分、>>856とは別人だけれど
たぶん俺が他スレで尋ねたのがキッカケじゃないかな。

wikiの足利義輝の欄に「足利輝氏」って出てたから
南北朝スレで「足利輝氏」って誰?と尋ねたら
「晴氏の子」ってレスが帰ってきた。
861無名武将@お腹せっぷく:2006/06/10(土) 16:36:10
862無名武将@お腹せっぷく:2006/06/10(土) 20:34:51
佐藤博信編『戦国遺文 古河公方編』(東京堂出版、2006年)
863無名武将@お腹せっぷく:2006/06/10(土) 20:50:26
>>862
戦国遺文足利氏編を彼がやると東国中心になりそうだな
864無名武将@お腹せっぷく:2006/06/11(日) 01:06:15
>>861
数の問題じゃねえだろ。
865無名武将@お腹せっぷく:2006/06/11(日) 18:21:50
>>860
藤氏、藤政、家国、輝氏、義氏・・・。
866無名武将@お腹せっぷく:2006/06/13(火) 23:17:50
>>865
随分と子沢山だね。
その他に姫君もいたわけでしょ?
867無名武将@お腹せっぷく:2006/06/14(水) 00:52:28
>>866
まあ、そのくらいしかすることが無かったわけで・・・w
868無名武将@お腹せっぷく:2006/06/14(水) 17:16:46
>>867
河越で敗れてからは特にね・・・。
869無名武将@お腹せっぷく:2006/06/15(木) 14:02:42
>>865
藤氏、藤政は粛清されたよね?
870無名武将@お腹せっぷく:2006/06/16(金) 02:14:47
>>869
確かに粛清されたも同然かも・・・
でも、藤政の最期ってどうなの?詳細があまり語られないけど。
871無名武将@お腹せっぷく:2006/06/18(日) 23:54:39
>>870
関宿陥落後、自害じゃね?
872無名武将@お腹せっぷく:2006/06/19(月) 23:11:54
>>871
そうなの?
873無名武将@お腹せっぷく:2006/06/20(火) 15:15:24
その頃、小弓足利家は。。。
874無名武将@お腹せっぷく:2006/06/20(火) 20:55:04
>>871
伊豆で謀殺されたという言い伝えもあるような。
875無名武将@お腹せっぷく:2006/06/21(水) 02:01:05
>>874
ということは北条家に身柄を拘束されていた?
876無名武将@お腹せっぷく:2006/06/22(木) 19:05:30
>>875
それしか考えられないね。
大体、古河足利家の子弟が伊豆に居ること自体(ry
877無名武将@お腹せっぷく:2006/06/22(木) 20:24:15
878無名武将@お腹せっぷく:2006/06/22(木) 21:09:07
佐藤博信「足利晴氏の子息のこと」(『戦国史研究』13号、1987年)

佐藤博信「足利龍王丸論ノート」(『季刊ぐんしょ』62号、2003年)

佐藤博信「足利藤政論ノート」(『鎌倉』96号、2003年)

佐藤博信「足利藤氏論ノート-房総移座の問題を含めて-」(『日本歴史』669号、2004年)
879無名武将@お腹せっぷく:2006/06/22(木) 23:07:14
>>878
どこに行けば手に入るの?
880無名武将@お腹せっぷく:2006/06/23(金) 01:07:10
>>879
図書館へ逝け
881無名武将@お腹せっぷく:2006/06/23(金) 16:28:20
公立図書館にはねぇな、大学図書館にならあるが、研究室蔵が殆どなんで
学生以外は見れないと思われ。
882無名武将@お腹せっぷく:2006/06/23(金) 16:30:31
>>881
ありゃりゃ・・・。
883無名武将@お腹せっぷく:2006/06/23(金) 16:47:10
>>882
見るためには、大学図書館に行き(一般も利用は出来る)、
中の学生捕まえて、学生に研究室に閲覧申込してもらってコピーするのが一番いい方法化と。

学生さん次第です、ジュースの1本でも奢ったらなんとか・・・
884無名武将@お腹せっぷく:2006/06/23(金) 17:51:26
『日本歴史』は公立の図書館にも置いてある場合がある。
『鎌倉』は神奈川県の公立図書館で置いてある館もある。
『戦国史研究』は吉川弘文館から出ているから、書店で注文できる。
取りあえず、近所の大学の図書館で所蔵しているか調べてみたら?
885無名武将@お腹せっぷく:2006/06/23(金) 19:19:44
>>883
今時、ジュース1本で釣れるか?
886無名武将@お腹せっぷく:2006/06/23(金) 20:49:40
つ 国立国会図書館から(馬鹿高いが)コピー取り寄せ
887無名武将@お腹せっぷく:2006/06/23(金) 22:19:46
. .: : : : : : : : :: :::: :: :: : :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
    . . : : : :: : : :: : ::: :: : :::: :: ::: ::: ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
   . . .... ..: : :: :: ::: :::::: :::::::::::: : :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
        Λ_Λ . . . .: : : ::: : :: ::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::
       /:彡ミ゛ヽ;)ー、 . . .: : : :::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::
      / :::/:: ヽ、ヽ、 ::i . .:: :.: ::: . :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
      / :::/;;:   ヽ ヽ ::l . :. :. .:: : :: :: :::::::: : ::::::::::::::::::
 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄ ̄ ̄ ̄
888無名武将@お腹せっぷく:2006/06/24(土) 08:52:44
>>885
貧乏で純朴な考古の学生なら可能かも
889無名武将@お腹せっぷく:2006/06/24(土) 13:51:52















上杉最強















890無名武将@お腹せっぷく:2006/06/24(土) 20:20:36
    / ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
  彳         ヘ
   |  从从从从从ミ
   |  |  ヘ ノ_ ヽノ |ミ   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  ┌V/ `( ・ノ ( ・ノl    |
  | 6| ; `⌒__,J,_`⌒|   |
  └ 、   /_;_;_;_;_;ヽ|  < そぉんな奴おらんやろ!
    | ヽ 王王王ツ|   │
    l\ ヾ==' l   │
   _lヽ \;_;_;_;_;_;_/    \_________
 / .∧ \__/ヽ\ ̄\
/  / \ハ__ハ/  〉  \
   > ヽ ハ / <    |
891無名武将@お腹せっぷく:2006/06/24(土) 21:13:19
>>889
犬掛?
892無名武将@お腹せっぷく:2006/06/25(日) 03:31:41
>>891
また微妙なところから・・・。
893無名武将@お腹せっぷく:2006/06/25(日) 11:59:12
上杉最強
894無名武将@お腹せっぷく:2006/06/25(日) 12:10:04
上杉と絡めるなら晴直か
895無名武将@お腹せっぷく:2006/06/26(月) 00:23:25
>>894
憲政に追われた時点で能力値は。。。
896無名武将@お腹せっぷく:2006/06/27(火) 15:18:53
>>895
それほど高くないと?
まあ、子孫でも見るべき能力の人はいないからね。
897無名武将@お腹せっぷく:2006/06/28(水) 03:36:11
>>896
蹴鞠の名人も・・・。
898無名武将@お腹せっぷく:2006/06/29(木) 18:15:05
>>897
確か宮原家は高家ですからね。
899無名武将@お腹せっぷく:2006/06/30(金) 16:07:17
ほとんど義明に触れないまま900を迎えようとしているこの現実。。。
900無名武将@お腹せっぷく:2006/06/30(金) 17:02:33
/ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
  彳         ヘ
   |  从从从从从ミ
   |  |  ヘ ノ_ ヽノ |ミ   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  ┌V/ `( ・ノ ( ・ノl    |
  | 6| ; `⌒__,J,_`⌒|   |
  └ 、   /_;_;_;_;_;ヽ|  < オタクはこの世のゴミやろ!
    | ヽ 王王王ツ|   │
    l\ ヾ==' l   │
   _lヽ \;_;_;_;_;_;_/    \_________
 / .∧ \__/ヽ\ ̄\
/  / \ハ__ハ/  〉  \
   > ヽ ハ / <    |


901無名武将@お腹せっぷく:2006/06/30(金) 17:12:22
次スレ立てる?
スレタイ変えて
902無名武将@お腹せっぷく :2006/06/30(金) 17:17:09
    / ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
  彳         ヘ
   |  从从从从从ミ
   |  |  ヘ ノ_ ヽノ |ミ   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  ┌V/ `( ・ノ ( ・ノl    |
  | 6| ; `⌒__,J,_`⌒|   |
  └ 、   /_;_;_;_;_;ヽ|  < オタクはこの世のゴミやろ!
    | ヽ 王王王ツ|   │
    l\ ヾ==' l   │
   _lヽ \;_;_;_;_;_;_/    \_________
 / .∧ \__/ヽ\ ̄\
/  / \ハ__ハ/  〉  \
   > ヽ ハ / <    |
903無名武将@お腹せっぷく:2006/06/30(金) 18:35:16
>>901
関東公方で復活させますか。
関東全域にやや広域化させた方が会話の自由度が高まるし。
904無名武将@お腹せっぷく:2006/07/02(日) 04:59:45
同意。
905無名武将@お腹せっぷく:2006/07/02(日) 19:32:08
>>903
では、>>980くらいまでかけてスレタイ、テンプレートを議論しましょう。
906無名武将@お腹せっぷく:2006/07/02(日) 19:52:17
戦国板だよね?
907無名武将@お腹せっぷく:2006/07/02(日) 23:14:56
>>906
それも含めて検討。
908無名武将@お腹せっぷく:2006/07/03(月) 06:19:26
元に戻るというわけか。
909無名武将@お腹せっぷく:2006/07/04(火) 10:29:02
>>903
都鄙の和睦までは京と交戦状態にあったというのが良い。
910無名武将@お腹せっぷく:2006/07/06(木) 02:59:42
>>909
和睦しても結果的に関東の世情は安定しなかったけどね。
911無名武将@お腹せっぷく:2006/07/06(木) 20:02:20
>>903
このスレでも平気で北陸や九州の話題が出てなかったか?
912無名武将@お腹せっぷく:2006/07/07(金) 20:54:35
>>911
表向きと建前が大事なのですw
913無名武将@お腹せっぷく:2006/07/08(土) 18:49:38
>>911
逸見スレでしたから。
914無名武将@お腹せっぷく:2006/07/09(日) 19:59:28
>>913
若狭ね。
確か甲斐で繋がるって話だったような。
915無名武将@お腹せっぷく:2006/07/10(月) 17:09:10

【関東】鎌倉・古河公方を語るスレッド【擾乱】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1109516196/

1 :無名武将@お腹せっぷく :05/02/27 23:56:36
足利基氏以来、関東の地にあって常に関東擾乱の主役であり続けた
鎌倉、古河公方及び関東足利家について語るスレッドです。

↑こういうテンプレートでしたね。
次スレ向きにちょっと捻りましょうか。
916無名武将@お腹せっぷく:2006/07/10(月) 18:09:48
素直に

【古河】関東の名族大名を語るスレ【上杉】

という感じにしたほうがいい気もしなくもない。

実質的な内容はこんな感じになるっしょ?
917無名武将@お腹せっぷく:2006/07/10(月) 18:45:43
幼い頃に父が亡くなり、母は再婚もせずに俺を育ててくれた。
学もなく、技術もなかった母は、
個人商店の手伝いみたいな仕事で生計を立てていた。
それでも当時住んでいた土地は、まだ人情が残っていたので、
何とか母子二人で質素に暮らしていけた。
娯楽をする余裕なんてなく、日曜日は母の手作りの弁当を持って、
近所の河原とかに遊びに行っていた。
給料をもらった次の日曜日には、クリームパンとコーラを買ってくれた。

ある日、母が勤め先から愛・地球博のチケットを2枚もらってきた。
俺は生まれて初めての万博に興奮し、
母はいつもより少しだけ豪華な弁当を作ってくれた。
愛・地球博の会場に着き、チケットを見せて入ろうとすると、係員に止められた。
母がもらったのは割引券で、これでは入場できないと言われた。
帰りの電車賃くらいしか持っていなかった俺たちは、会場の周辺を夕方まで散歩した。
電車の中で無言の母に「楽しかったよ」と言ったら、
うつむいた母は「母ちゃん、入場チケットだと思った。バカでごめんね」と言って
少し涙をこぼした。

俺は母につらい思いをさせた貧乏と無学がとことん嫌になって、
一生懸命に勉強した。
親元を離れて新聞奨学生として大学まで進み、
いっぱしの社会人になり毎月少しばかりの仕送りもできた。
結婚もして、孫を見せてやることもできた。

そんな母が去年の暮れに病気で亡くなった。
死ぬ前に一度だけ目を覚まし、うわごとのように「愛・地球博、ごめんね」と言った。
俺は「楽しかったよ」と言おうとしたが、最後まで声にならなかった。

918無名武将@お腹せっぷく:2006/07/10(月) 22:22:34
>>917
時代考証が変だわな
919無名武将@お腹せっぷく:2006/07/11(火) 15:30:33
>>916
何か混然とした印象。
920無名武将@お腹せっぷく:2006/07/11(火) 15:35:25
【関東】古河公方と愉快な仲間たち【名家】
921無名武将@お腹せっぷく:2006/07/12(水) 02:50:36
>>920
楽しそうだが却下w
922無名武将@お腹せっぷく:2006/07/12(水) 06:15:58
確か「2」が立ったけど即死したよね?
923無名武将@お腹せっぷく:2006/07/12(水) 16:41:51
>>922
だったら「U」で復活させるか。
924無名武将@お腹せっぷく:2006/07/14(金) 04:25:26
>>923
基本に立ち返るのも大事かと。
というわけで同意。
925無名武将@お腹せっぷく:2006/07/14(金) 17:25:51
>>877に立てるのか?
926無名武将@お腹せっぷく:2006/07/14(金) 17:30:52
でしょう。
927無名武将@お腹せっぷく:2006/07/14(金) 19:16:56
順次引っ越していこう
928無名武将@お腹せっぷく:2006/07/15(土) 01:38:29

では>>980を踏んだ方に次スレを立てていただくとしよう。
929無名武将@お腹せっぷく:2006/07/15(土) 18:18:27
何かウイルス蔓延してません?この板。
930無名武将@お腹せっぷく:2006/07/16(日) 09:32:03
>>929
このスレだけでは?
931無名武将@お腹せっぷく:2006/07/16(日) 11:42:25
>>929
掲示板を閲覧するだけで感染するウィルスなんてありませんよ。
932無名武将@お腹せっぷく:2006/07/17(月) 20:37:24
ふ〜ん。
933無名武将@お腹せっぷく:2006/07/17(月) 23:43:13
>>931
敗死した足利義明公の祟りでは?
934無名武将@お腹せっぷく:2006/07/18(火) 20:12:56
なんだかんだいって義明公は政氏公や高基公よりも有名になってしまったわけだがw
935無名武将@お腹せっぷく:2006/07/19(水) 03:11:52
>>934
政氏は確かにちょっと微妙ですね。。。
936無名武将@お腹せっぷく:2006/07/20(木) 21:57:14
>>935
負け組ですから。
937無名武将@お腹せっぷく:2006/07/21(金) 02:38:41
>>929
ウイルスコードが貼ってある。
ノートンが反応するだけで無害。
938無名武将@お腹せっぷく:2006/07/21(金) 03:30:23
>>937
またそんな・・・
939無名武将@お腹せっぷく:2006/07/21(金) 04:28:16
940無名武将@お腹せっぷく:2006/07/21(金) 10:59:24
ノートンなんぞ使ってるやつはマゾ
941無名武将@お腹せっぷく:2006/07/22(土) 02:45:24
           ワハハハ
   ハハハ              ハハハ
  ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄\   ∧_∧
 ( ^∀^)< >>1あほか.  > (^∀^ )
 ( つ ⊂ ) \____/  ( ⊃ ⊂)
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 (__)_) (^∀^)ゲラゲラ   (_(__)
942無名武将@お腹せっぷく:2006/07/22(土) 19:50:49
>>939
貼るなっての。
943無名武将@お腹せっぷく:2006/07/24(月) 09:46:44

今頃、まだそんなことしてる香具師がいたのか・・・。
944無名武将@お腹せっぷく:2006/07/24(月) 10:00:10
小野真弓
945無名武将@お腹せっぷく:2006/07/25(火) 20:03:07
>>944
・・・・・・・・・・・・・氏ネ。
946無名武将@お腹せっぷく:2006/07/25(火) 20:20:11
小弓・・・小野真弓
篠川・・・
稲村・・・
鴻巣・・・
宮原・・・
947無名武将@お腹せっぷく:2006/07/26(水) 22:33:32
>>946
どうしようもないだろ。誰か何とかしてくれ。
948無名武将@お腹せっぷく:2006/07/28(金) 22:50:31
>>934
そうかね?
一般的には古河公方ですら怪しい。
949無名武将@お腹せっぷく:2006/07/29(土) 07:28:23
>>948
一般人だと室町幕府の将軍の苗字を言えるかどうかも怪しい気が。
950無名武将@お腹せっぷく:2006/07/30(日) 16:19:41
>>949
一休さんを知っている世代じゃないとキツいかな?
951無名武将@お腹せっぷく:2006/07/31(月) 13:33:47
>>950
後年、新右衛門さんが蜷川姓だったことを知ってちょっと感動したけどw
952無名武将@お腹せっぷく:2006/08/01(火) 03:07:06
>>951
蜷川氏は厚遇。
といってもほとんど使者としてしか使い道ないのだが・・・。
953無名武将@お腹せっぷく:2006/08/01(火) 16:22:39
>>952
実に真っ当な考え方だと思うが。。。
954無名武将@お腹せっぷく:2006/08/02(水) 03:02:23
>>952
一色もそんな感じですね。
955無名武将@お腹せっぷく:2006/08/03(木) 02:30:35
>>954
一色藤長・・・金地院・・・
956無名武将@お腹せっぷく:2006/08/03(木) 02:46:41
【猪突】小弓御所・足利義明を語るスレッド【猛進】
【往生極楽】本願寺と一向一揆を語るV【無間地獄】
大河『徳川家康』『葵 徳川三代』を語るスレ V

↑この3つのスレっていつもセットで上がってるよね
957無名武将@お腹せっぷく:2006/08/04(金) 16:45:44
>>956
本願寺(教如)は徳川家と親しい間柄だからいいんじゃないですか?
958無名武将@お腹せっぷく:2006/08/05(土) 03:18:54
>>957
そういう話じゃないだろw
959無名武将@お腹せっぷく:2006/08/05(土) 16:09:24
>>957
徳川系のドラマには登場しないね、本願寺。
960無名武将@お腹せっぷく:2006/08/05(土) 18:51:35
どうでもいいが顕如の曾孫が水戸頼房の側室
961無名武将@お腹せっぷく:2006/08/06(日) 06:56:24
>>960
詳細キボンヌ
962無名武将@お腹せっぷく:2006/08/07(月) 02:07:02
>>961
顕如−興正寺顕尊(佐超、顕如の次男)−同准尊(昭玄)−弥々(寿光院、水戸頼房側室)−松平頼隆(常陸府中藩初代藩主)
963無名武将@お腹せっぷく:2006/08/07(月) 05:15:06
>>962
ほお、大名になったの。
964無名武将@お腹せっぷく:2006/08/08(火) 15:08:45
>>960-963
こちらでどうぞ。

【往生極楽】本願寺と一向一揆を語るV【無間地獄】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1134122815/
965無名武将@お腹せっぷく:2006/08/10(木) 00:38:01
age
966無名武将@お腹せっぷく:2006/08/10(木) 08:30:49
967無名武将@お腹せっぷく:2006/08/10(木) 09:47:21
>>965-966
始まりました?
さて、そろそろ小弓御所様の人物、そしてその最期について大いに語り明かしましょうかー。
969無名武将@お腹せっぷく:2006/08/10(木) 13:34:21
遅杉だと思います。
970無名武将@お腹せっぷく:2006/08/10(木) 13:57:31
いや、遅くはないぞ。
残り30レスもあれば事足り うわ何を(ry
971無名武将@お腹せっぷく:2006/08/10(木) 16:48:20
>>968
ネタ振りしたあなた様からどうぞ。
972無名武将@お腹せっぷく
誰か頼淳についても語ってやれよ