孔明ですよ!
進水式が終わったようなのでどうぞ
4 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/09 02:51
3はあいつの役割だろ・・・
6 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/09 03:10
889 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:04/02/09 04:29
スレ違いなのでsageだが・・・
徳川家は「新田義重の子、義季が得川姓を称したのが始まり」ということにして
いるな。
だが、義季の子は頼有(得川)と頼氏(世良田)の2系統に分かれ、「徳川家譜」
では義季−頼氏と繋げている。
得川氏は得川郷、横瀬郷を領有していたようだが、世良田氏が新田家の惣領権
を継承し、鎌倉に出仕するほどの実力を有していた点からすると、得川頼有は長
庶子と見るのが適当で、父である義季が庶流の得川姓を称するとは考えにくく、
新田姓ないしは世良田姓を称していたと思われる。
また、系図を義季−頼有ではなく義季−頼氏とすると、世良田頼氏以降の系譜
に「得川」「徳河」「徳川」を称した者がいない点から、徳川家の系図誤認?の可
能性が出てくる。
9 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 15:32
横瀬、由良家あたりも新田氏流
つーか
新田氏流里見氏と安房の戦国大名里見氏は系図をくっつけただけのまがい物だけどな
11 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 16:36
>>9 観応の擾乱以後、新田氏の事実上の惣領家となったのは岩松氏。
岩松氏の祖、時兼は足利(畠山)義純と、新田義兼の女との間にできた
子だが、義純が畠山氏を相続したことで義兼女が離縁されたため、義兼
の未亡人であった新田尼が時兼に新田荘岩松郷を与え、以後、岩松姓
を称したという。
時兼の曾孫、直国(=頼宥)は足利尊氏に従って戦功を挙げ、伊予、備
後国の守護を歴任、新田氏の没落により新田荘の支配権を確立してい
る。系譜的には直国―満国=満純と続くが、満純は新田義宗(義貞弟)
と直国女との間の子であり、直国の外孫にあたる。
以後、満純の血統が代々岩松氏を継承するが、戦国期には義宗の子、
貞氏を祖とする家宰横瀬家の専横により没落してしまう。
後に岩松守純が家康に召し出されたが、その際の応対が家康の気に
障ったため家禄は僅か20石(後に120石)に過ぎなかった。
12 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 16:45
>>11 信長の野望嵐世記には岩松氏純、守純父子が登場するな
13 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 17:07
>>10 房総里見氏の初代・義実の出自については、「足利持氏近臣・刑部少輔家基の子」
という説と「美濃里見氏の出身」とする説とがあるな。
また、2代・義成に至っては実在したかどうかも定かじゃない。年代を合わせるため
に故意に創作された可能性が極めて高い。
14 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 17:42
>>11 120石って……
一応、同じ?新田氏流なんだから、もう少し何とかしてやれよ……
15 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 23:55
粗相しなけりゃあもう少し禄高も増えてたろうに・・・
二十石って足軽やん!
家康とはそういう男
18 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 17:14
同じ新田氏流でも
山名家……6700石
由良家……1000石(貞繁が1621年に除封後、弟貞長により再興)
岩松家…… 120石
この差はちょっとひどくないか・・・一応、岩松家は高家に列せられたようだが・・・
19 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 17:16
>>18 幕末時寺子屋の師匠だった俺の家よりましだYO!
>>19 別に新田の子孫じゃないけど、俺の本家筋のお寺はかつての寺領が5石w
21 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 20:54
しかし、山名とか里見って今ひとつ萌える要素がないな・・・
22 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 21:08
>>21 里美は萌えも絵だろ?里美八犬伝があるじゃないか?
>>22 その萌え萌えぶりを語ってもらえませんでしょうか?
広忠殺した岩松八弥も元は同族か?
25 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/12 01:22
27 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/12 03:35
第1次国府台の合戦での里見には……
>>26 (基本的に)というあたりが里見っぽいなw
>>26 豊臣、徳川には邪魔者扱いされてあっさり潰されたけどな
30 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/12 04:08
確か里見忠義の正室が大久保忠隣の孫娘だっけ。
おかげで忠隣失脚の煽りを受けてあぼーん……しかも、実子がいるにも
かかわらず無嗣断絶ってどういうことだよ?
新田一門の徳川とすれば、偽新田の里見が目障りだったのだろう。
32 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/12 07:02
33 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/12 11:03
>>30 といっても、里見家改易は本多正純と大久保忠隣の政争のとばっちりを受けたという
見方もある。
まあ、幕府にしてみれば忠隣失脚に乗じて、大久保家と縁故があるのを理由に、江
戸の対岸に勢力を持つ外様大名を排除しておこうとしたのかも知れん。
34 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/12 11:30
上総では古河足利家の藤氏、家国、藤政を保護し、安房では小弓足利家の頼純父子を保護
し、さらには足利晴直の子孫たち(宮原義勝父子)まで領内で保護していたわけで・・・
里見義弘の前室が足利義明女、後室が藤政女ということを考え合わせても、里見家ってつく
づく足利家が好きだったんだな・・・w
それにしても山名は勢力が衰えたとはいえ
戦国後期まで因幡・但馬と2国にわたり勢力を存えたのだから凄い。
それも一度は失った因幡を自力で回復してるしな。
最後の羽柴秀吉は相手が悪すぎたw
それにしても細川・大内の権力争いのころ何やってたんだ、こいつら?
ここで勝ち馬にでも乗ってりゃもうすこし勢力強かっただろうに
分割相続の中世体質から抜け出せなかったのが致命的
37 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/12 23:08
>>34 まあ、北条の関東公方に対する婚姻政策と傀儡政権化への対抗措置なんだろうけどな
38 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 00:44
>>33 里見家改易は本多正純と大久保忠隣の政争のとばっちりだろ
39 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 01:14
里見義弘の死因は胃潰瘍らしいね
山名宗全は自殺?
41 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 02:46
>>27 足利義明が北条軍に単騎突進してあぼーんw
乱戦の中で義明の弟・基頼や嫡男・義純まで戦死したので、里見軍は兵を
まとめてサッサと撤退したと。
まあ、最初からあまりやる気なかったみたいだけどね。
42 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 03:26
徳川家康は三河の吉良氏を通じて得川氏の系図を買ったんだろ?
>>40 自殺説なんてどこから出たんだ?
宗全は病死じゃねえの?確か享年70歳じゃなかったか?
909 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/10 21:00
>>889 徳川幕府公式見解では、世良田氏は親季の時代に頼有系の得川氏の旧領を合わせて継いだとされ、
その際に親季が一時期だけ得川(徳川)姓を名乗っていたというのが、家康の徳川改姓の根拠らしい。
ちなみに、松平家が家康の祖父・清康の段階ですでに世良田氏末裔を名乗っているのは事実。
義重(新田)−義季(得川)−頼氏(世良田)−教氏−家時−満義−政義−親季(得川)−有親−親氏(松平)
45 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 17:29
満義が「徳川(得川?徳河?)右京亮」を名乗ったという説もあるらしいな
46 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 17:44
世良田家は惣領家を凌ぐ実力を有していた時期があるからね
それが得川姓を名乗るなんてことがあるのか?
親季が庶子ならばあり得ない話でもないが・・・
47 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 23:27
「越後岩松家私史」によれば、岩松時兼の孫・政経(下野太郎)は「文永五年に祖父・頼有が
賜った新田荘内得川、横瀬、下江田、但馬國内三沼庄、相模國永用郷を譲り受けた」とある。
また政経の生母は「江田下野守源頼有女(=得川頼有)」ともあるし、政経は外祖父である頼
有の養嗣子になったとされている。(資料の信憑性は?が付くけど)
後に岩松に復姓しているから、その際に所領を得川(江田?)頼泰の系譜に返還し、それを世
良田親季が引き継いだというのか?
>>47 母親がその父から受け継いだ領土の相続と思われる。
養子にはなっていないだろう。
信長の野望だと山名って祐豊が兄なのにいつも豊定が当主なんだが何故?
50 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 23:54
つーか詐称してる系図、略歴を検証してもなぁ・・・w
>>49 祐豊は養子に出されたので弟が家督を継いだ
(養子先も同じ山名一族なんだけど分家筋)
53 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 03:34
兄なのに分家に養子?
54 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 03:41
長庶子ということはないのかい?
55 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 03:53
伊達晴宗の長子・鶴千代丸は岩城家を継ぎ、
伊達家は次男の輝宗が継いだ例もあるね。
しかし山名家の実質的な当主は祐豊では?
56 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 10:15
>>30 忠義の息子は改易後生まれた庶子だから無視だったのでは?
祐豊 右衛門督 正四位下
豊国 中務少輔 従五位下
豊定 中務少輔
58 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 02:11
しかし、言い掛かりもいいところだよな・・・
「大久保忠隣に兵糧米を送り、館山城を増改築し、浪人を召し抱えて謀叛を企てようとしている」
というのが表向きの理由だろ。
安房9万石を収公し、下総鹿島3万石の替わりに伯耆倉吉4千石・・・
大坂の陣の前(慶長19年)だからって、里見家は豊臣恩顧大名というにはそれほど豊臣家から
恩を受けているわけでもないし。
結局、3年後にはその4千石すら収公・・・惨すぎ・・・
59 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 02:37
>>58 倉吉にははじめ国替えと称して、表高3万石ということで入封した
ものの実高は4千石に過ぎなかった、という話でしょ。
そのうえ、1617年にはその所領すら召し上げられて、僅かに百人
扶持を与えられただけ。
>>56 忠義には正室である大久保忠常女との間に2人の女子があったほか、妾腹と
思われる男子3人(里見豊後、山下休三、広部忠三郎)がいたようだね。
里見豊後(利輝)は、改易時には僅か2歳で、家臣に預けられて安房に残った
とされるが早世。その子孫が間部家に仕え、家老職を世襲している。
また、山下休三(貞倶)は幕臣表坊主として150俵を与えられ、子孫は幕府
御家人として200俵を給されていた。
広部忠三郎(義次)は若狭小浜に住したという。
61 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 03:36
>>56 >>60を見るに「改易後」じゃないだろ……
ホントに存在自体を無視しただけだな
あるいは幕府に届け出をしていなかったのか?
62 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 16:29
幕府の華麗なる取り潰しテクニックに引っ掛かっちゃったわけね
なんか神社の宝剣を奪ったり国内の乞食とか盲人に辻斬りしたらしいな。
しかしこの辺も嘘だろうけど。
ただ元は大久保長安が私腹を肥やしたことがいけないのだろうな・・・
64 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 17:49
>>63 罪状なんてあとでいくらでも取り付けられるからね
65 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 19:01
>>34 小田原征伐の後に里見義康が安房1国に減封されたのも、小田原への遅参
に加えて、足利頼純(小弓御所)を鎌倉に入れるために三浦方面で発した禁
制が、関東惣無事令違反とみなされたからだろ?
里見は面倒見がいいな
確か頼純がいたのは安房の石堂寺だろ?
頼純の長子・国朝が没したとき、次子・頼氏は僧籍にあったために還俗したけど、
頼氏が入寺していたのも石堂寺だったな
67 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 20:41
>>66 義弘の時代はともかく、義頼の時代はどうだったんだろうね。
義弘が北条家と和睦したことで、足利藤政など古河公方家の連枝の利用価値が低まったこと
は事実だろうし、義弘は足利義明、足利晴氏の女をそれぞれ前室、後室に迎えているものの、
義頼にはそういった血縁、婚姻関係はなかったからね。
68 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 22:38
×喜連川(足利頼氏)
○喜連川(足利)頼氏
でした・・・スマソ
70 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 22:46
江戸湾の対岸に外様大名がいちゃマズいわな
71 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 03:37
>>65にあるように、義康が足利頼純を奉じていたことから考えると、仮に義頼
と義康の政策に大きな変更点がなかったとすれば、とりあえず義頼は小弓足
利家についてはそれなりの扱いをしていたことになる。
義頼は義弘の死後、義弘の遺児・梅王丸と家督争いをしており、義頼は安房
の、梅王丸は上総の家臣団にそれぞれ支えられていたので、上総の家臣団
を中心に支持されていた古河足利家の子弟に対する扱いについても多少なり
と変化したんじゃないかな。
72 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 10:10
age
73 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 15:20
a
足利スレもよろしく。
なんか荒れているから……
75 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 17:44
76 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 17:47
義実―成義
系図的にこのあたりが怪しいんだよね・・・里見は
新田スレッドは足利スレッドの分家ですか?
だとすると新田氏は足利氏の分家ですか?
80 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 18:57
>>79 >新田スレッドは足利スレッドの分家ですか?
確かに足利スレッドから枝分かれしたのは事実。
しかし、新田家が足利家の分家かどうかとは別問題なんだが?
81 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 19:09
ウザいから住み分けしようよ・・・
82 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 19:25
>>76 戦国期の里見氏は折れた枝を継ぎ足し、新田氏流になりすました
だけでしょ?
足利スレと共に、新田もがんばりましょう。
しっかし両家は仇敵同士じゃなかったかなw
85 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 19:32
『大日本史』ではボロカスにコキ下ろしてるぞ、足利家を
新田氏の一門として、足利を憎んでいたのでしょう。光圀は。
光圀は中国の史書に憧れた観念論の人ですから。
88 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 19:48
>>86 新田氏の一門じゃないことくらい、光圀には分かってただろ・・・
言わないだけでw
89 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 19:53
とりあえず『大日本史』編纂にあたり、叩かれ役になる喜連川足利家に事前に
了承をもらってるよな、光圀は。
「このことで将来的に縁談がまとまらなかったり、御家の大事に至るようなことが
あったら水戸藩がフォローします」
とか何とか。
90 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 19:56
そのせいか幕末になって水戸藩から縄氏が養子に入ってるよね。
家系を詐称するとして、どの程度の人に真実を語るものだろうか。
例えば、清康が新田一門を詐称したとき、子供の広忠に嘘を教え
込んで育てた場合、家康も漠然と自身を新田一族だと思いこんで
いたかもしれない。父親や祖父や親戚から「うちの先祖は何々」
と聞いて胡散臭いと感じたり信用したり、色々あるでしょう。
92 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 20:01
>>91 家康は最初、藤原氏を称していたからね。
要するに明らかに詐称の意思があったということ。
>>91 系図を買ってるくせに「漠然と自身を新田一族だと思いこんでいた」らかなりの
重病だと思うぞw
94 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 20:08
系図を買うときに仲介したのが吉良家というのがなかなか
今度、暇だから新田郡にでも行ってみる。
96 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 20:11
>>93 どこかに繋げて系図を書かなければならないから詐称する意思があった
のでは。清康が「俺は新田一族」と勝手に言ってただけで細かい設定ま
では創ってなかったとか。
>>96 今、揺れている系図問題の世良田東照宮とか…かなw
99 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 20:23
>>94 関白・近衛前久と吉田兼右が万里小路家の系図から徳川の系図を作成したんじゃ
なかったかな?
たのしく100げっと
♪
♪ ∧_∧∩
∧ ∧ ( ´∀`)ノ
∩*゚ー゚) ヘノ\ つ
⊂\_,⊃ し、_ノ ヽノ ♪
ι' l_ノ
自作自演乙
102 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 21:10
岩松守純が僅か20石の捨て扶持止まりになったのは、家康から新田氏
の系図を提出するよう要められたのを断ったから。
おそらく守純は新田惣領家としての意地を貫こうとしたんだろうな。
清康が世良田次郎三郎を称したのは、足利一門の今川氏に対抗したからじゃないの?
そもそも、家康が藤原氏を称していたのは桶狭間の戦いの後、今川家から独立する頃
の話だよね。
だったら尚更、この時期に新田氏を称しておけばいいのに。
104 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 23:11
群馬には山名、里見って地名もある。
もちろんあの山名と里見。でもほとんど何もない(´・ω・`)
どっちも果樹園が多いw
106 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 23:21
>>105 発祥の地なんて得てしてそんなものなのか?
107 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 23:26
群馬には長楽寺、満徳寺って言うどちらも新田義季開基の寺があって、
幕府の庇護の下結構な規模を誇っていたらしいけど、どっちも廃寺になっちゃって今じゃ…。
あと新田郡に行ったら近くの太田金山城もどうぞ。一応新田氏ゆかりの城で綺麗に復元されてます。
足利スレで語りつくした知識人が以降したね。
今度からこのスレを源氏シリーズにしない?初代足利×2
二代目 新田 三代目 伊達 とか
>>108 足利とは仇敵の間柄なのでお断わりだね。
110 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 23:40
>>107 長楽寺って南光坊天海を住職に据えたんじゃなかったけ?
満徳寺は確か、豊臣家から戻った千姫が本多家に再嫁するときに「縁切り」
をした寺院だったよね。
秀頼の意地・天秀尼が入寺した鎌倉の東慶寺と並んで「縁切り寺」として知
られた寺院だったはず。
111 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 23:51
本物の世良田氏の末裔は、戦国期に武田家や佐竹家に仕えていたらしいね。
世良田氏は会津真船郷に住して真船姓を称していたが、14代当主の祐元は葦名
家臣・伊藤時綱に仕え、葦名義広が常陸に逃れたときに共に逃れている。
祐元は仏門に入って宥元と名乗り、世良田長楽寺において法伝授を受けると共に、
世良田氏の系図を与えられたという。
なお、祐元の子・祐綱(宥円)以降、江戸期を通じて世良田姓を名乗り続けたとか。
112 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/19 00:13
113 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/19 00:57
>>95 >>104 車で行くしかないんだけど、車を止めるところが少ないから注意。
あんまし観光地として優遇されてない。
足利とは大違い・・・
>>108 それをやると、家系スレッドが全て「源平藤橘豊臣」でまとまる予感。
足利スレも助けてやれ。
足利は敵です。敵は助けるものではなく倒すものであります。
116 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/19 03:14
>>113 自治体の考え方の違いなんだろうけど、やはり新田はやや影が
薄いのかな・・・
徳川を観光のネタに売り込んだのはむしろ東京都の方かも知れ
ないね。江戸開府400周年事業とかあったから。
でも、貴重な情報サンクスです。
>>111 寺院の住職さんの家系って妙に「昔の名族の残滓か?」と思えるような名前の人
が多いんだよね。
山名さんとか一色さんとか・・・明治新姓かも知れないけど。
118 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/19 05:50
119 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/19 06:35
幕府の奥儒者、成島司直が幕末の天保4年に改撰した『改正三河後風土記』には
「近頃享和二年壬戌二月、武州多摩府中時宗称名寺竹林の中より、掘出したる碑に、
世良田氏徳阿弥親氏、応永一四月廿日と有、官より令し、其地に籬を結廻し、樵采を
禁ず。其子細は詳ならずといへども、附して参考に備ふ」
とある。
松平郷で死んだはずの親氏の墓が、何で多摩にあるんだ???
121 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/19 15:05
>>119 鬼みたいな資料が出てきたなw
幕府は称名寺の竹林への立ち入りを禁止したということだろ?
つまり・・・
1)徳阿弥(世良田親氏)は武蔵国多摩府中で死んで称名寺内に葬られた
2)徳阿弥は時宗の遊行僧として松平郷に出向いたかも知れないが、そこで勢力基盤
を築いたわけではない
ということになるのか?
122 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/19 17:40
>>119 「世良田氏徳阿弥親氏」か・・・墓石に刻むにしちゃあ不自然
じゃないか?
法号(徳阿弥)と俗名(世良田○○○親氏)って分けて掘られ
るものなんだがな・・・
日本史厨うざい。
氏ね
124 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/19 23:27
>>123 日本史厨はむしろ新足利スレの方じゃないのか?
125 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/20 00:42
>>119 出てきたね・・・その話がw
確かこの墓石は現存してるはず。
しかし、刻印されてる応永元年4月20日は現実には存在しない。
何せ明徳から応永に改元されたのは7月のことだから。
したがって、本来であれば偽物と考えるのが無難だろう。
但し、称名寺から届出がなされて実地検分なされるまでの間に、
幕閣のお偉い人たちが何者かによる悪戯に見せるために故意に
刻印し直したとしたら・・・という憶測も立つことは立つ。
それゆえ称名寺側に処分を下すこともなかったわけで。
悪戯だと言い切れる自信があればこそ、証拠物件を残したとも
言えるのではないかな?
126 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/20 03:20
あぁ、その墓って実は親氏の家臣某のものなんだよ。
追われる主君の身代りになって「親氏」として討ち死にしたんだな。
おかげで本物の親氏は三河まで無事逃げることが出来たってわけさ。
‥‥どう?少しは伝奇っぽくなっただろ?>123
127 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/20 07:47
>>126 というより墓に刻まれた内容事態の問題だからね・・・
おそらく称名寺関係者が故意に仕組んだことなんじゃないの?
時宗の寺院というあたりからちょっと怪しい感じがする
>>126 確か応永年間に有親・親氏父子が遊行僧として三河入りした際、草鞋を脱いだのが、碧海郡
大浜の称名寺だったという伝説がある。
三河など徳川領の寺院は、家康の関東入府にともなって江戸に移転するケースが多かったか
ら、称名寺も例にもれなかったのではないか。
となると、親氏の出自がどうであっても、彼の足跡が称名寺から始まることを逆手に取り、称名
寺側が幕府からの何らかの援助を期待して仕組んだもの、と言えなくもない。
129 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/20 18:34
>>125 ttp://hon.web.infoseek.co.jp/tama/tam/t028/t028t.htm ↑ここによると、
江戸時代の亨和二年(1802)境内の竹林から墓碑が発見され、碑銘に「世良田徳阿弥親氏、応永十四年四月廿日」と刻まれてあった。
と、応永元年ではなく10年となっているが?どっちがホント???
府中称名寺で発見された墓碑は幕府の寺社奉行へ「徳川御当家の御先祖様の墓なるべし」と届け出たが、浮妄の言と叱責したという。
親氏が武蔵国府中で葬られたのなら、徳川将軍家は新田源氏の末という系譜は宙吊りになる。
明治三十五年、これを根拠の一つとして村岡素一郎は『史疑』一巻 を著わした。
しかし、碑銘は現代の専門家も否定している。墓碑は称名寺に現存するはずだが、公開されていない。
・・・公開されていなのか。やっぱりちょっとあやしいな、この寺はw
130 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/20 19:01
群馬の英雄 新田義貞
131 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/20 19:10
歴史に名高い
133 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/21 09:10
3代・松平信光からだよね、松平氏が歴史上に登場するようになるのは。
室町幕府の政所代だった蜷川親元の『親元日記』には、寛正6年に足利義政の命に
より、幕府政所執事の伊勢貞親の被官として額田郡の国人一揆を鎮圧したという記
録が残っており、一揆鎮圧後、国人衆の所領は信光に与えられている。
このことから信光の時代には加茂郡から額田郡にかけての勢力基盤が存在し、幕府
高官の伊勢氏に接近していたことが窺えるわけで、親氏が新田氏の末裔であるか否
かは別問題として、初代・親氏、2代・泰親が松平郷を拠点に勢力を伸ばしていたこと
はほぼ確実とみて良いのかも知れない。
134 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/21 14:41
泰親が三河目代だったという説もあるよね
>>134 三河に寓居していた公卿を京まで護衛した泰親が、その功によって三河の目代に
任じられたという話な
136 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/21 22:53
近隣豪族との戦いを繰り広げる中で「ウチは新田氏の末流」と吹いた香具師
がいたんだろうな。
んでもって清康が「そう言えばそんなこと言ってる先祖がいた」とばかりに
世良田姓を名乗ったりしたんじゃないの?
その清康の行動に無理やり根拠を付け足したのが家康と。
137 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 00:01
「源親氏」と署名している願文が残っているんじゃなかった?
138 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 00:03
当初は足利のお膝元である三河で新田氏を名乗るのは憚られたが
戦国の世となって足利の権威が衰え出したので
俄然本来の姓である「新田」を名乗り始めた、と取れなくもないけどな。
139 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 00:25
>>137 親氏は今のところ客観的な歴史資料には登場していないんだよな・・・
140 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 00:47
家康は系図詐称に功績のあった近衛前久や吉田兼右に毎年金や馬を
送り続けていたよね。
謝礼というか口止め料というか、そんな感じだったんだろうけど。
>>138 清康が世良田を称したのは、今川への対抗措置じゃない?
142 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 01:00
>>138 その「本来の姓」が不確かだから語ってるわけで・・・OK?
群馬県人はいないか・・・
144 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 02:19
松平郷には、徳阿弥は松平太郎左衛門に自らの素性を
「惣して我等と申は東西南北をめくりしまはる旅人・・・」
と答えたという伝承があるらしい。
スレタイ、ぼんやり見て「山田一門」ってどういう人たちか? ってオモタよ。
146 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 06:39
>>140 近衛前久って秀吉を猶子にした人だっけか?
家康への系図協力といい、何かと懐が潤うことばっかりしていたんだなぁ。
ただ、ここまで露骨だと他の公家から批判されたりしなかったのか?とも思うけど。
147 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 07:01
>>146 関白とはいえ困窮状態にあるわけで、美味しい話があれば乗ってくるんじゃない?
そう言えば、上杉謙信が前久を関東公方に擁立しようとしたことがあるよね。
結局、謙信は足利藤氏擁立に転じるわけだけど。
148 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 18:28
>>141 清康自身はそれほど詳細な根拠を持たせていないよね
149 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 18:28
>>146 困窮していたからというより、どこか野心的な感じがする>前久
150 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 18:36
>>149 おかげで?武田攻めの時には山の中に置き去りにされてるしw
151 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 18:57
まさに「財と権力あるところに前久あり」だな
152 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 22:39
太閤検地によれば、三河は1国で29万石だったかな。
松平郷は山間部で耕地面積が狭い小盆地だけに、林業や猟師、鉱山師、
山川の運送業、焼き畑農業などを生業とする者が多かったとか。
松平太郎左衛門は「12人の使用人に12具足を持たせて山道を開いて人
望を集めた」と言われている。
12具足とは「鍬」「鎌」「鋤」「つるはし」「鉞」「熊手」「もっこ」「げんのう」「棒」
「金棒」「梃子棒」「尺杖」などで鉱山の採掘や森林の伐採に使用する鉄製
の道具だけに、親氏以前の松平氏は、これらの道具の生産と管理、さらに
は山師たちを統率して開発を行わせるだけの組織を有していたということに
なる。
153 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 23:35
>>152 これらの勢力基盤を軍事転用することに成功したのが親氏という
ことになるのか?
154 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/23 01:12
確かにそういう経済基盤があればこそ、時宗の遊行僧?が比較的短期間のうちに周辺に勢力を
拡大することができたとも言えるわな
さっき信長の野望をやっていたら、登用奉行のスカウト網に岩松守純
が引っ掛かったぞ。
このスレの住人としては登用しないわけにいかないので知行100で
召し抱えたが・・・
能力値が政治58、統率5、知略51で、兵種は槍のみ、特技は「回復」
のみ・・・この先、一体どうやって使いこなしたらいいんだ?
156 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/23 03:56
>>155 といって守純を追放した由良氏も新田氏流なんだよね
157 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/23 13:51
16 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/02/19(木) 16:38
>10
そいつらに異様な執念で噛み付いてスレを過疎化させる奴らもいるしなw
まぁ、三戦が厨なのはもう分かり切った事だから気にもとめてないよ。
シッタカ遠江家厨も三戦ならヒーローだったかもなw
158 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/23 16:50
で、何がしたいの?
159 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/23 18:39
>>156 確か一度改易されたけど高家として復活したよね、由良家
>>152 松平氏の額田郡、碧海郡進出は平野部での耕作地を求めての
戦いだったと?
161 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 02:26
そのころ里見は・・・
>>44 『吾妻鏡』には、世良田頼氏が「新田三河前司」「三河前司頼氏」として登場するし、
『長楽寺文書』にも「前三河守源朝臣頼氏」として登場してくる。
新田氏の惣領権を持っていた新田政義が、寛元2年(1244)に所領を没収されると
世良田頼氏が惣領権を得て鎌倉に出仕するなどしていたが、その頼氏も文永9年
(1272)に二月騒動に連座して佐渡に配流となり、惣領権は政義の孫である新田
基氏(基氏の孫が新田義貞)に帰している。
しかし、新田惣領家になったこともある世良田姓を称した親季(親氏の祖父)が、わ
ざわざ庶流の得川(徳川)姓を名乗る必要があるのだろうか?
163 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 05:37
親季が庶子だったため、庶流の得川家に養子に入るなり、あるいは
得川姓を名乗るなりした後、何らかの事情によって世良田家を相続
したというのであれば話は分かるんだけどね。
だったら世良田に改姓すりゃあいいじゃん、ということになるんだが…
164 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 10:16
清康の一時的な世良田改姓は勢いで「言っちゃいました」という
感じがするけどな
165 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 10:41
166 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 10:57
信憑性のある文献などから、その存在が確認されているのは里見義通以降。
したがって義通のところで系図のドッキングを行い、架空の人物である成義を仕立てる
ことで
義実―(成義)―義通
という継承ルートを繋いだと見るべきなんじゃない?
あくまで成義は年代的な辻褄あわせのため(だけ)に作り出されたと見るのが妥当。
義通、実堯は義実の子だとする説もある
169 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 11:41
成義=義通ってことはないんかね?
軍記物に出てくる成義と、記録上に残っている義通の活動時期が
合わないんじゃない?
171 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 16:43
>>168 となると義実以降、実質的には系図の継ぎはぎはないんじゃないか?
172 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 17:22
義実は、足利成氏に仕えた里見家基の子と言われているが、一方では美濃里見家
の出身ではないかという説もあり、その出自は定かではない。
但し、系図上には義実と同じ民部少輔を称する里見義正(家基の弟、家成の子)が
おり、従兄弟同士が共に「里見民部少輔」を称するというのもおかしな話で、家基の
子であるならば民部少輔ではなく、代々の刑部少輔を名乗ろうとするのではないか?
173 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 17:41
松平と違って里見のほうはもし本物でも不自然じゃないように思っちゃう。
実際はどうかは知識ないからまったくしらないけど。
同じく義重の子からわかれた山名と違って里見は目立たないね。
大館氏も幕臣としてそれなりの地位なのに、どこが分かれ目だったんだろう。
>>173 房総半島の歴史的な役割も左右してそうな気がするw
175 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 17:51
>>174 中央から見れば、それこそ「田舎の戦争」だからね。
応仁の乱の主役となった山名に比べると、確かに形成は不利だろな。
山名家は義満の時代に三職七頭の家柄になっているし、侍所の所司を務める
家柄(四職)にもなっているからね。
補足失礼、
>>173の
>里見は目立たないね。
上野国里見郷出身の新田氏支流里見氏の里見です
房総半島を馬鹿にする気はありませんw
スレの流れから安房里見家かと思ったよ
>>177 そうは言うが、あの歴史に名高い新田義貞は里見家から養子に入ったって説もあるんだよ。
180 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/25 01:40
>>179 現時点でへぇ×40くらい?
解説と補足トリビア希望!という感じ
181 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/25 02:40
里見義正や家基の弟・持家の孫である堀内政兼にはそれぞれ義通の
姉(または妹)が嫁している。
美濃里見家の出身だった義実が、娘を家基の弟たちの家系に嫁がせ、
一族に加わり、豪族間の混乱に乗じて安房1国を手中に収めた後、子
孫がその経歴を詐称して家基の子として里見嫡流になりすましたと考
えることもできるのではないか?
182 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/25 03:13
詐称、詐称ってみんなエラく簡単そうに言ってるけど、戦国時代だからってそこまでメチャクチャになるもんかなぁ?
そんなに詐称が簡単なら、例えば山中鹿介なんかはなぜあんなに尼子の血統にこだわったのか。
自ら「実は俺、尼子の血を引いてんだよぉ」とか詐称したって良かったんじゃないのかね?
結局そんなことをしたって旧臣とかそういう地下でつながったネットワークではいとも簡単にバレると思うし
かえって味方なんか集まりにくいように思うんだが。
183 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/25 08:20
>>182 系図を売るという行為は日常茶飯事だったという現実は確かに存在する
んだよね。官職任官に確実に影響するし、それを斡旋することで食いつ
ないでいた公卿や名族が確かに存在していた。
先祖が一体誰であったかについて系図を書き換えることと、現実に○○
家の血筋であるということは、目の前の現実という点において多少状況
を異にするよね。前者は官職就任などを前提とした貴種性の主張だし、
後者は家督を継ぐ者としての正当性の主張だし。
>>182 じゃあ、何でわざわざ遠縁であろうとも血筋の者を引っ張ってくると思うの?
185 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/25 10:01
系図の書き換えにはある程度の整合性がなければいけないし、家康
の場合には近衛前久らの斡旋を受けたとはいえ、正親町天皇が一度
は突っ撥ねたという経緯があるくらい。
そう簡単なものではなかったようだね。
186 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/25 10:44
江戸期の大名なんて出自に「?」が付く香具師の方が多くないか?
187 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/25 11:09
>>185 鼻紙に系図を書いて差し出したとかそんな話だったような・・・
188 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/25 13:23
>>181 そもそも安房里見氏を嫡流とする根拠はない。
系図上のおはなしだけ。
189 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/26 17:05
>>188 里見嫡流ってのは戦国期に存在したんか?
190 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/26 17:32
家基と義実って血統的に繋がってるんか?
191 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/27 05:29
同じ(・・・じゃないけど)新田氏流ということで、由良家、里見家はいずれも徳川家と
同族に扱われているよね。
里見家は外様として否応なしに始末されたし、由良家も一度は改易の憂き目に遭っ
てるけど、そもそもが「なりきり」の偽者同士だから遠慮がないだろうし、出自に差し
障る可能性のある香具師はサッサと消してしまいたかったのかも知れないね。
192 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/27 06:06
まあ、幕府の外様大名対策ということもあるだろうが、大久保忠隣と
本多正純の政争の巻き添えを食って体よく生贄にされたという方が
色濃いだろ
193 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/27 10:03
義実が安房を制した後、混乱期を経て義通が再び安房を制した
ということでいいのかねぇ?
194 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/27 11:32
里見家も足利政氏→高基→義明→藤氏→藤政→頼純とやたら足利家に肩入れしてる
よな。
それが対真里谷武田、対北条のスタンスの基本になっているにしても、秀吉が北条を
呑み込もうとしている時期に、小弓御所を担ごうというのもやや時代錯誤な感じがする
けどな。
196 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/27 16:58
足利藤政って最後どうなったんだ?
里見家に最後まで保護されていたという話も聞かないし・・・
197 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/27 19:42
>>196 藤政は藤氏と共に里見義堯の庇護を受けているけど、藤氏の死後、簗田氏に擁立されて
おり、その時点で里見領を出てるんじゃないかな?
天正2年(1574)の第三次関宿合戦で簗田氏が関宿城を開城した際に、藤政も水海城に
向けて敗走したようだが、それ以後の行方はよく分かっていない。簗田氏に保護されたま
ま死んだのか、それとも再び里見氏に保護されたのか・・・
里見が北条と和睦したのが天正5年(1577)なので、その頃には里見領内から退去して
いる可能性が高いよね
浅間のいたずら鬼の押しだし
里見の領内には、真里谷信政に招かれた足利晴直の子、義勝もいたよね
200 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/28 08:21
足利晴直=上杉憲寛だろ?
あの上杉憲政に追われた香具師ね。
といっても憲政は憲房の実子で、憲寛は古河足利家からの養子だからね。
足利晴直の関東管領就任と追放には・・・
1)永正4年(1507)に越後守護の上杉房能(顕定弟)が守護代長尾為景によって殺害。
2)顕定は為景を討伐のため越後に出兵するが、信濃で高梨政盛によって討たれ、養子
の憲房は上野に敗走。
3)顕定の死去により、顕定の養子である憲房、顕実(足利政氏弟)との間に内紛が生じ
るが、これには政氏と高基の不和が影響していた。
4)永正9年(1512)に憲房の家宰長尾景長は顕実を攻めて古河城に追う。
5)大永5年(1525)に憲房が死去するが、憲房の子憲政が幼少のため、高基の子であ
る憲寛(=晴直)が山内上杉氏の家督を継ぎ、関東管領に就任。
6)享禄4年(1531)に憲寛は成人した憲政に追放され、憲政が家督を相続する。
という過程が存在する。
203 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/28 19:07
>>197 俺が読んだ本では藤政は開城の時に腹を切らされたと書いてあった気が…。
>>203 開城とは関宿城かな?
ちなみにその本のタイトルを教えてもらえるとありがたいんだけど
205 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/29 08:19
>>202 足利晴直を上総に招いたのは真里谷信隆・信政父子だよね。
晴直は享禄4年9月に上杉憲政により関東管領の座を奪われ、古河に戻って
いたところを信隆・信政父子に招かれている。
その後、信隆・信政父子が北条氏綱(古河公方派)と通じたことから、晴直招
聘は嫡流・真里谷信応(小弓御所・足利義明を擁立)への対抗措置と考える
のが無難かも知れない。
206 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/29 13:45
里見義堯などの攻撃で一度は相模・金沢に逃れてるよね、信隆父子は。
晴直も一緒に逃走したのかな?
207 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/29 14:07
>>205 基本的には合っているのだろうが、俺は信隆の父・信保がやったのではと思う。
確か庶子の信隆を世継ぎに決めた後に信応が生まれておかしくなったんじゃなかったっけ?
>>207 その通り。
信応は嫡次子(そういう言葉あるのかな?)だよね。
209 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/29 14:13
>>207 その場合、里見義頼はどうなんだろうね?
義弘の弟という説もあるし、梅王丸と年齢の離れた庶兄という説もある。
>>209 義頼派(安房家臣団)と梅王丸派(上総家臣団)の争いでもあった
よね、この2人の家督争いは。
212 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/02 03:09
庶長子で検索した結果 ページ:104件
長庶子で検索した結果 ページ:13件
だそうな
215 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/02 08:32
>>205-206 里見義堯は足利義明を支援して真里谷信政を攻撃し、北条領に追っているよね。
しかし、第一次国府台の戦いで義明が敗死すると、一時的に上総から撤退を余儀なくされて
しまう。(この際に真里谷信政が旧領回復)
態勢を立て直した義堯が信政を滅ぼすと、真里谷家は衰退し、上総は里見、北条の草刈場
の様相を呈することになるのだが、足利晴直はおそらくこの時点で里見家の保護下に置かれ
ることになったのだろう。
216 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/03 14:48
晴直の室は義明女だよな
したがって里見としては小弓御所(義明−頼純)を擁立している手前、晴直をそれなりに
遇する理由はあったというわけだ
217 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/03 17:09
218 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/04 17:36
里見義弘は当初、足利義明の娘を正室にする予定だったよね。
ところが第1次国府台の合戦で義明が戦死したため破談となってしまう。
その後、義明の娘は安房経由で鎌倉に入り、出家して青岳尼と名乗り、鎌倉尼五山の1
つ太平寺住持となっていた。
しかし、青岳尼への思いを断ち難い義弘は、1556年に上杉謙信と呼応して鎌倉に攻め込
んだ際、青岳尼を安房に連れ帰り、正室にしている。
(けっこういい話だよな・・・)
この時点で義弘は足利頼純、晴直とそれぞれ義兄弟になったことになる。
219 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/04 22:33
第1次国府台の戦いで敗れた義堯は、義明の子女を連れて安房に
撤退しているけど、その義明の娘たちはどういう経緯で鎌倉に入っ
たのかな?
まあ、鎌倉の尼寺の方から「代々の風習なので娘をください」とでも
言ってきたのかな?
話が足利系にシフトしてるような・・・
221 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 02:42
>>218 父の遺言、とかなら父死亡でも嫁げたはず。
結納は「権威」で済むはずだし。
「よ っ ぽ ど 義 弘 が い や だ っ た。
出家までして逃亡。
それも、ある意味聖地・鎌倉で
な の に 出 兵 し て ま で 強 奪 」
という風にも・・・
>>221 妹も出家(東慶寺)してるから、嫌だ何だという個人レベルの話ではないだろうね。
223 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 12:29
里見家は古河足利家とも繋がりがあるから、そのあたりを
経由しての話なんじゃない?
安房で義明の遺児・頼純を養育しておきながら、一方では晴氏やその子弟たちとも盛んに
交流してるしね。
一見すると北条憎しの一点だけで「飾り物」を取り替えまくってるような感じもする。
225 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 14:45
義弘の後妻は足利晴氏の娘だしね
226 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 15:54
>>222 「わたしは逃げるよ!義弘マジうざい。バイバイ。マジバイバイ!」
「待てよ姉貴っ!あんたが逃げたら、ゼッテーわたしが身代わりじゃん!?」
「・・・じゃあんたも出家する?」
「うー、マジそれっきゃないよねー。」
「大体さぁ、里見だなんて、身の程知れってーの」
「エセ新田のくせにねー」
「マジ信じらんなーい」
「ダサいよねー」
227 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 22:43
228 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 22:44
里見というと南総里見八犬伝でつか?
>>226 んでもって弟?(足利頼純)を残してスタコラ出家かいなw
230 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 23:39
当時の当主は義堯だからね・・・義堯がどういう判断を下したのか?と
いうことになるな
231 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/07 19:00
梅王丸の生みの母は誰なの?
>>231 梅王丸の生母は佐貫城主・加藤伊賀守の女とも、千本城主・東平安芸守の女とも
言われているね。
233 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/07 22:05
青岳尼が死去した後、義弘は足利晴氏の娘を娶ったものの子に恵まれず、
複数の側室を置いていたようだな。
とすると・・・状況的には妾腹の嫡子という可能性が高い。
義頼は抗争の末に梅王丸を捕らえて出家(出家後は「淳泰」と名乗った)
させ、さらにその生母と娘(梅王丸の妹)を幽閉している。
234 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/07 22:51
でもさぁ……
安房は義頼に、上総は梅王丸に与えるなんて裁定を下したら、それこそ
御家騒動になるに決まってるよな……
>>234 まあ、一度は後嗣に据えちゃったから、それを反故にするわけ
にもいかんしね。
236 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/08 11:37
正木憲時を義頼の子とする説があるけど、あれは本当なのか?
237 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/08 12:05
>>236 正木憲時は時忠又は弘季の子とされている。
義頼の子は正木憲時の死後、正木家(大膳亮家)を継いだ弥九郎時茂。
時茂は里見家改易後、当主の忠義と共に倉吉に赴き、忠義の死後は鳥取藩に
預けられている。
238 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/08 12:39
義弘の男に正木金太郎、義頼の男に正木久太郎という香具師が
いるようだが、彼らは正木家とはどういう繋がり合いがあるの
かな?
>>237 弥九郎時茂の生母は、義頼の側室になっていた大膳亮時茂の女だったはず。
>>238 正木金太郎義俊は、正木頼忠の養子となり、一門衆に扱われて1,519石を領したという。
また久太郎忠勝も一門衆として2,269石というが、その後の詳細は不明。
241 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/08 14:39
>>237>>239 弘季って時茂、時忠の弟だね
ということは、正木大膳亮家は通綱−時茂=憲時(時茂甥)=時茂(憲時甥)と繋がるわけか
242 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/09 02:54
>>240 正木頼忠には直連、為春などの実子がおり、頼忠自身が晩年に紀州藩家老に
なっていた為春の許に身を寄せていたことからすると、直連は早世したか、ある
いは零落していたかのいずれかということになるな
それにしても養子の義俊もどうなったんだろうな?
正木氏が三浦氏の子孫というのはかなり胡散臭いよね
>>243 かなり胡散臭いです。
新田氏の末裔で「新田華垂」さんという人が今、栃木に住んでいますがこれもどうでしょう?
新田氏は徳川の縁もあって群馬国領に二万五千石の捨扶持をもらっていました。
その時の様子を「雲古新田沈陳伝」という文書に詳しく載っています。
「遠祖、徳川譜代ノ臣トシテ、重要サレツツモ水戸ノ鼠賊ニ睨マレル」
と書いてあります。水戸藩からは随分とひどい仕打ちをうけたそうです。
幕末にはいち早く戊辰戦争に政府軍として参陣。
その時の藩主「新田満粉」は大将まで生きて、オナニーをしたそうです
>>244 >新田氏は徳川の縁もあって群馬国領に二万五千石の捨扶持をもらっていました。
2万5千石???
247 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/10 12:13
age
248 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/10 12:49
岩松家は僅か120石・・・
249 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/10 15:36
>>248 素直に系図を差し出してりゃあ3〜4千石の高家は固かったろ>岩松家
250 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/11 01:13
俺ならホイホイ系図差し出して、一筆書き加えさせるけどねw
251 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/13 14:10
戦国期の新田嫡流は岩松ということになるのか?
252 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/13 14:59
>>241 正確には、正木大膳亮家は通綱−時茂−信茂(時茂嫡男)=憲時(時茂甥)=時茂(憲時甥)と繋がる。
信茂は里見義堯の娘婿で永禄初頭に正木家の家督を継いだが、第二次国府台の合戦で戦死。
夫の死を悲しんで出家して山中に引き篭もった信茂の妻・種が「八犬伝」の伏姫のモデルといわれる。
253 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/13 17:06
里見忠義の段階的な除封はかなり悲惨なものがあるな
倉吉に流したんだからもう許してやれよ、とか思うんだが・・・
254 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/14 19:02
大久保忠隣は一応、改易後も5千石程度の扶持を受けてたけど、忠義は倉吉を召し上げられ
て以後は百人扶持だったかな?
まあ、譜代の重臣と外様大名じゃ扱い方が違ってくるんだろうけど。
255 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/15 04:11
256 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/16 04:36
改易されたとはいえ、仮にも元大名だからね
そりゃ、食い扶持くらいは何とかしてやらにゃいかんでしょ
>>252 江戸期には同じ新田系の由良、横瀬家の方が上位になっちゃったけどね
259 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/16 15:06
由良、横瀬は表向きはともかく、実際は本姓新田ではなく小野だろ?
260 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/16 15:15
>>259 それを言い出したら、最大の紛い物である徳(ry
263 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/16 16:14
>>261 それをここに貼って何がしたいんだ???
264 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 01:42
>>259 横瀬氏は本来、小野姓を名乗っていたし、武蔵七党から起こってるけど、
そこに新田貞氏が女婿に入ってから新田氏流に加わったんじゃなかった
かな?
そのあたりは畠山氏が足利氏流に加わった経緯にやや似てるような…
265 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 03:36
266 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 03:39
まあ、系図を詐称するより良くない?
268 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 03:52
貞氏は横瀬経氏のところに婿入りしてないか?
貞氏の子・貞俊が横瀬家を継いでいるんだから、枝を継いで新田氏族になった
と見るべきなんじゃないの?
269 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 12:48
>>252 近年じゃ、正木時茂の没年が十数年も繰り上がっているらしい。(1561年4月没説)
270 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 13:35
>>268 主家の岩松家を蹴落としたよね、由良・横瀬家は
272 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/18 03:13
そもそも新田貞氏なる人物は系図上のみの存在。
273 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/18 04:38
>>272 由良・横瀬の新田氏流はでっち上げということね。
じゃあ、それを提唱してる学術的な資料って何かあるの?
あるいは貞氏の事績を示すものが何もない→実在したか定かじゃない、ということかい?
>>273-274 んなモン、あるわけないだろw
実在したことは容易に証明できるけど、実在しなかったことを証明するのは
極めて難しいだろうからな…全部の可能性を潰さないといかんわけで…
…だろ?
断っておくけど俺は
>>272じゃないけどね
276 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/18 12:26
>>270 千葉の郷土史関係では1573年没説が長年定説だった
277 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/18 13:30
>>273 貞氏の実在を証明し得ない
とうことじゃないの?
278 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/18 14:27
>>272 俺、新田義貞の菩提寺・金龍寺(群馬県太田市)に行ったことあるけど、
資料に「開基は新田義宗の三男・横瀬貞氏」と記されてたぞ。
>>272の言う通り、貞氏が系図上のみの人物だとしたら、金龍寺にあっ
た新田義貞、横瀬貞氏、由良国繁、由良忠繁の順に横並びになってる
墓石、あれも作り話ということになるわけか。
何だよ、思いっ切り騙されたってことじゃん・・・だったら太田市に忠告し
てやった方がいいよ。
経歴詐称に何かと使い易かったんじゃない?>新田氏w
280 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/18 17:57
コロンビア大学とかペパーダイン大学みたいなものか?
281 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/18 21:12
>>278 「兄の岩松満純が建立して、横瀬貞氏が義貞らの遺骨を納めた」とか抜かしてる
ケースもあるな
282 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/18 22:07
>>276 ついでに弟の時忠は里見実堯が死んだ時13歳だったといわれている。
283 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/19 00:45
時忠って離縁した北条氏隆の娘以外の女性にも子を産ませてるよね?
>>283 ちなみに北条氏隆の女も実は養女なんだよね
彼女が産んだのは為春(後に三浦姓、紀伊徳川家家老)と於万の2人のみ
285 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/19 03:51
>>278 まあ開基とかは実際は不確かであることが多いからね。
墓石だって当時のものか、後世のものかもわからないからね。
286 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/19 04:37
現時点で・・・
徳川家×
里見家×
由良家×
横瀬家×
とニセ新田氏流ばっかじゃねえかよ。
せめて岩松くらいはホントだろうな・・・頼むぞ、マジで。
287 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/19 14:43
まあ、なりきり子孫が自己正当化のために先祖でもない先祖の墓を建てる
ということは大いにあり得るだろ
どいつもこいつもやってることは大差ねえな>系図詐称
村上義清の子孫なんて公然と村上源氏の系図を売り、生活費を稼いでいたというから、そういう
輩が多かったんだろうよ
その意味では、家康に「系図をよこせ」と言われて断った岩松家こそ本物の
可能性はあるわな
289 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/20 12:13
・・・・・・・・・・・。
何かもう横瀬貞氏がでっち上げの架空の人物と断定されたような言い草だな。
290 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/20 12:30
里見で言うところの成義みたいな感じだな>貞氏
291 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/20 15:42
成義は軍記物にこそ登場するが、実在したかどうかは全く以て不明だからな。
その意味では、新田系里見家に繋ぐために「作られた」人物である可能性が高い
だろね。
ちなみに正木氏は三浦氏の末流ということで、頼忠の子・為春が零落状態にあっ
た正木氏を再興するにあたって三浦姓を称しているよな。
このあたりはどうなんだろ?
292 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/20 17:24
里見氏の場合、義実以前が問題なのであって、成義を抜かせば系譜関係は基本的に問題なく繋がる。
家基あるいはそれ以前の繋がりが問題なはず。
293 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/20 17:39
>>292 >成義を抜かせば系譜関係は基本的に問題なく繋がる
そこに「抜かせない」人物が存在しているというのはどういうこと
なんだろね?
295 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/20 20:58
>>291 別に為春に正木家再興の気持ちがあったとは思えない(前述のように宗家の大膳家は里見家に乗っ取られた様なものだったし)。
むしろ、祖先としては鎌倉以来の名門・三浦氏の再興のほうが大事だった訳で。正木一族にとっては本来正木姓など三浦再興までの繋ぎみたいなものだったんだろう。
>>295 三浦家再興は家康の命だったという話を聞いたことあるな
297 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/21 01:26
為春が三浦姓を称したことについては・・・
伊勢宗瑞に滅ぼされた三浦義同の子(又は義意の子)を正木通綱とする説に
則ってるんだろね。
ただ、この説は年代的に噛み合わないところがあるし、確証もないので「?」
付きくらいに考えた方がいいんだろうけど。
298 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/21 09:58
この話は三浦一族の助力で里見家が安房に入ったという伝説にも関係するしな…。
あと、白浜里見家について詳しい方いますか?
299 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/21 15:29
>>298 房総方面で勢力を持っていた三浦氏族の1つと見た方がいいんじゃないの?
確かにその方が無理がないように思うが?
>>273 でっち上げで高家かよ・・・所詮、幕府もその程度なんだな・・・
ってか、徳川家の新田氏流説自体がでっち上げだから、まあ、いいかw
301 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/21 17:04
302 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/21 23:30
>>295 一応、為春が徳川家に仕官したときには、里見家は健在だったし、一門衆の正木大膳家
も健在。
但し、為春の父正木頼忠は一門衆ではありながら、徳川家により勝浦城が接収されたた
めに長狭郡成川に隠棲しているような状態で、大膳家を差し置いて為春が祖先の三浦復
姓を願い出るだろうか、という疑問に行き当たる。
正木家は家康の子万福丸(=頼宣)の生母於万の実家になるわけで、箔付けと名族コレ
クションという観点から家康の上意という形で先祖にあたる名門三浦家を再興させ、為春
に三浦姓を名乗らせたという方が筋が通るように思えるのだが・・・
303 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/22 05:27
>>289 疑わしきは全て「詐称」「捏造」にケテーイ。
これが歴史家のとるべき態度ですワラ。
305 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/22 16:07
>>302 お万の母が再嫁した蔭山氏も再興されているよね。
蔭山氏は足利持氏の子?とされる広氏を祖としているようで、お万の養父の
長門守氏広は伊豆河津城主。
小田原の役で河津城は落城、蔭山氏は離散してしまい、お万は宿場に奉公
しているところを家康に見初められたとか。
蔭山氏は再興されたが、家格的には三浦氏の方が断然上であるため、その
段階でも扱いとしては三浦氏の方が上だったようだ。
306 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/22 18:29
>>303 そんな歴史家はろくな歴史家じゃないだろ
307 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/22 20:53
「ゴッドハンド」と呼ばれた某F氏・・・
308 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/22 23:14
>>303>>306 別に不明なら不明でいいんじゃないのか?
状況的な考察から選択肢の幅を狭めたり、拡げたりできればいいと思う
事実だけ並べても面白くないしな
309 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/23 17:58
>>305 於万は正木頼忠ではなく蔭山氏広の実子の可能性がある、という説を聞いたことがあるな
310 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/23 20:24
311 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/24 02:10
頼忠の子のうちお万と同腹なのは為春だけだね。
為春は紀州藩家老として知行1万6千余石を領する大身だったし、晩年に
頼忠が為春を頼ったのも、他の兄弟に比べて圧倒的に経済的に恵まれて
いたからなんじゃないかな。
ちなみに頼忠の子たちは・・・
直連:正木左近将監。松平忠吉に仕える。
康長:正木左馬允。旗本となり7百石を与えられる。
時明:正木左京亮。松平忠輝に仕える。
定利:三浦勘助。異母兄の為春を頼り、紀伊徳川家に仕える。
松平忠吉の家臣なら、尾張徳川家に再登用される道もあったのだろうけど、
忠輝の家臣はどうだったんだろね?
315 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/25 16:20
>>311 紀伊家に仕えた系譜だけが三浦姓を名乗ってるわけね
316 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/25 17:43
新田一門と言えば、大館氏もお忘れなきよう……
317 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/25 17:56
318 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/25 22:51
>>318 おまいの目は節穴か?
氏明の子、伊賀守氏清から枝分かれした系統にちゃんと「義実」とあるぞ?
320 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/26 03:35
『蒼天録武将ファイル』によると……
大館義実
1537〜1601(登場年1552)
政治:67 統率:9 知略:26
策戦:収拾
特技:弁舌
列伝:甲冑の故実家。伊賀関岡城主で将軍義輝・義昭家臣。
1573年、義昭が信長に京を追放され浪人。
のち加藤清正、秀吉に仕えた。
ということらしい。
「甲冑の故実家」という表現が正しいのかどうかは知らないが、大館氏は武家
故実に長けた家柄だったそうな。
補足になるが、『戦国人名辞典』によると……
大館義実
生没年不詳
伊賀国関岡城主。清祐の長男。将軍義輝、のち義昭に仕え北陸に流浪した。
天正元年(1573)、義昭が織田信長と争い、義実は知行を失った。
のち和泉国に住み、加藤清正の手に属して朝鮮役に従軍した。帰国後、秀吉
から山城・伊賀両国に所領を宛行われた。
甲冑の研究家としても知られる。
となっている。
>>317 『大館常興日記』でお馴染みの伊予入道常興はいずこに?
安土桃山”まで”の甲冑研究家、って・・・
明珍とか日野根はそっからじゃないっすか。
324 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/26 06:34
>>323 甲冑の目利きとかそういうことやってたんじゃないの?
鑑定を依頼する大名に「いい仕事してますねぇ・・・」とか言って小金を
稼いでいたのかもね
325 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/26 10:34
一乗院覚慶(足利義昭)が幽閉先の大和を脱出し、近江、越前を流浪したときの
一行の中に「大館治部大輔晴忠」「大館伊予守」の名が見られる。
326 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/26 15:03
足利義政を籠絡した乳母兼側室の今参局は大館氏から出てるよね
327 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/26 20:12
どうも義政の初めての相手は今参局のようだな
義政が15歳のときに、局は29〜30歳くらいだったようだが、年上女のテクで義政を
翻弄したうえに女子をもうけてる。
この結果、一時的ではあるが、義政生母の日野重子を凌ぐ発言力を手に入れてる。
328 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/26 23:06
今参局の性技にハマッてる義政にしてみれば、日野家のガキなんざ
どうでもいいって感じじゃねえの?
俺が義政なら、日野家の娘とは形だけの夫婦関係を貫くけどね。
子供なんかできた日には厄介でしょうがない……
確か今参局は15〜16歳くらいで義政に仕えたよな
しかも、乳母として・・・
って授乳できるんか?
330 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/27 01:13
>>325 伊予守については信堅と名を記す資料もあるが、系図では確認できないな
331 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/27 04:13
>>328 義政の今参局への思い入れは、生母・日野重子の嫡男・義勝偏愛の代償
みたいなところがあるからな
332 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/27 18:25
しかし、傅役としての役割を期待して入内させたのに、いつの間にか性の指南役になるとは、
重子だってまさか予想しなかったろ?
今参局のおかげで、大館一族は役職や知行を得て潤い、終いには幕府の
人事に関する権限を握り、幕府高官から役人、守護、国人衆、商人に至る
まで彼女に賂を差し出していたと。
334 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/27 22:36
大館一族唯一?のメジャーな人物が今参局(♀)というあたりが、びみょ〜度を高めていて
いい感じだねw
335 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/27 23:02
>性の指南役
乳母がそう言う役割を果たすのは当時としてはよくあったこと
337 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/27 23:44
338 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/28 00:12
>>337 マ、マジで!?
義政と今参局以外の実例ってどんなのがあるの???
339 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/28 01:23
確か今参局って義政より15歳くらい年上だろ?
とすると義政15歳、今参局30歳・・・しかし、初めてのときは年上の女性に限るな。
経験が豊富だから、ちゃ〜んとリードしてくれるし。
>>333 一説にはそういった賄賂の類は受け取らず、ただ義政の後見役を務めるだけで満足
していたらしいが・・・どうなんだろな?
341 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/28 13:10
>>338 腐るほどある
特に天皇家なんかは
というか江戸以前のオープンセックスの時代なんだからごく普通なことだよ
実例も何もほとんど全員やってると思うが
性の指南は乳母の重要な役割の一つだし
344 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/28 22:08
>>343 じゃあ、家光の指南を春日局がしたということかい?
sirane-yo
毛利元就の初めての相手は杉の大方かいな?
347 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/29 05:47
『世鏡抄』によれば……
「誕生の蟇目より七歳までの学文始め迄肝要也。如何にも如何にも賢人の御父、智人
の乳母をつくべき也。
君は又おちめのとの膝に三歳まで居て、四歳より少しづつ云ふ事を覚るべき也。賢人
のおちは大義を教へ、智者の乳母は生長してより以来四恩の道を教へはたして、一命
を重んじて君に軽く仕へよと云ふべし。
(中略)
又女房御乳の人は五体を能く能く清浄にして、男子に嫁がず、仏神に若君の生長より
度々文武賢五常の大事を祈るべし。朝には速く起き出でて乳房を朝日の光に当て、其
れを君子に奉るべき也。是則ち不老不死の薬也。早晩も早晩も味好き美物を食すべし。
悪しき物をくはば乳あしくて生長難し」
とある。
近世〜現代的な観点では、どうしても「乳母」と「女房御乳の人」と混同しがちだけど、
本来は分けて考えられるべきなんだな。
したがって、今参局について言えば、彼女に「女房御乳の人」としての役割はなく、む
しろ「四恩の道を教へ」はたす教育係としての役割を課されていたと。
したがって、元就について言えば、杉の方は教育係であって「女房御乳の人」ではな
かったということになる。
「したがって」が連続してるね……失敬。
349 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/29 11:47
>>347 その教育のカリキュラムに性教育(実技付き)を加える乳母が大勢いた
ということだなw
本題からズレてそうで、実は
新田氏流 ⇒ 大館氏 ⇒ 今参局 ⇒ 乳母
という強引な関係性があるわけだなw
351 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/29 22:37
>>344 自分は××しないだろうけど、好みの女性を次々とあてがったりはしてたんだろ?
まあ、それも指南と言っちゃあ指南だけどね
352 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/30 01:27
日野重子(義政生母)に与する勢力は今参局のことを「朝を告げる雌鶏奴」と
呼んでいたとかw
353 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/30 09:20
しかし、何で『蒼天録』では晴忠じゃなくて義実なんだろね?
足利家臣としての実績、家格なら晴忠の方が上だと思うんだが・・・
354 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/31 21:29
>>350 少なくても三浦氏系の正木氏を語るより正当性はあるのか。
>>354 正木氏は自称・新田氏流の里見氏絡みのネタということ?
356 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/02 11:13
永禄11年3月、朝倉義景が亡命中の義昭一行を南陽寺に招いて遊宴を催した際には、
「大館治部大輔晴忠」以外に同族の「中務少輔信実」の名前が出てくるな
ひょっとして・・・
>>330の「信堅」に関係する人物か?
357 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/03 04:37
>>355 ここまでほとんど「自称」ネタだったような・・・
358 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/03 09:18
>>357 新田一族は中央の主流から排除されていたから(山名は例外として)、系図偽造がやりやすかったんだろう。
359 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/04 00:31
じゃあ毛色の違う話。
秀吉が里見の所領を削ったのは、結果論で言えば失敗だったと思う。
家康に対する押さえとしては絶好の勢力だったのに。
あの時点ではまだ家康の関東転封は頭になかったのかな。
もし里見が上総・安房の中程度の大名として残っていれば、
関ヶ原のとき上杉−佐竹−里見の外線が形成されたかもしれない。
360 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/04 05:13
>>359 でもさぁ・・・小田原攻めのときには、足利頼純を鎌倉入りさせるために三浦方面に
禁制を出したり、秀吉に不信感を抱かせるようなことやってるからね。
小田原攻めのときには、秀吉は北条を呑んでかかっていたから「負ける」なんてシ
ナリオは頭になかっただろうし、関東支配をどうするか、ということは戦前から青写
真を抱いていたはず。
>もし里見が上総・安房の中程度の大名として残っていれば、
>関ヶ原のとき上杉−佐竹−里見の外線が形成されたかもしれない。
それは分からんよね。
調略されて徳川方に与したかも知れないし。
>>352 今参局が引き起こした事件としては、尾張守護代織田郷広、敏広の家督問題
があるね。
はじめ郷広は弟の敏広に家督を譲って隠居していたが、今参局に守護代復帰
を願い出た。そして今参局の口添えにより、義政は守護代の職を郷広に返すよ
う敏広に命じた。
一方、敏広はこの命令を不服として、日野重子と政所長官の伊勢貞国に訴え
たため、重子が義政にとりなしたが、義政はこれをにべもなく握り潰したため、
重子は憤慨して嵯峨野に閉居してしまう。
この様子に幕臣、守護から不満の声が上がり、畠山持国、細川勝元らが諫言
に及んだため、義政は郷広の願い出を退け、今参局を追放し、重子が御所に
復帰することになった。
(
>>361の続き)
ところが今参局を追放した義政は、生ける屍同然の腑抜け男になってしまった
ため、ついつい親心から重子は今参局の御所復帰を取り計っている。
御所への復帰を果たした今参局は、その後、義政の子(女子)を出産したこと
もあり、今まで以上に政務に介入するようになった。
今参局に反感を抱く細川勝元は、義政に無断で政務の重要事項を取り決める
ようになり、義政もまたそんな勝元を無視するようになった。この結果、政局は
今参局、赤松一族の有馬持家、烏丸資任の3人に独占され、世間は3人のこ
とを君側の奸の意味を込めて「三魔」と呼んだという。
今参局は女子を産んだ強みから、義政に自分の息のかかった女性を側室に
するように指導し、3人の女子をもうけてさせていた。
(
>>362の続き)
この状況を打破するため、重子は1455年、弟・義資の孫にあたる富子を義政
の正室とする。時に義政19歳、富子16歳。
しかし、義政は今参局と彼女の息のかかった側室を寵愛していたため、義政
は結婚後も富子の寝所に入ろうとはせず、重子は苦労に苦労を重ねて義政
を富子の寝所に向かわせたという。
その甲斐があってか、翌年、富子に男子が誕生する。しかし、この男子は僅
かニ刻ほどで夭逝してしまう。
今参局を憎む重子は、義政に「男子が死んだのは今参局が呪詛したためだ」
と吹き込み、これに激怒した義政は今参局を琵琶湖の沖の島に追放すること
になる。
(
>>363の続き)
男子の死の3日後、愛宕社の3人の巫女が「今参局に若君を呪詛するように
頼まれ、黄金数枚貰った」と問注所に自首したことが、今参局追放の決定的
な証拠になったようだ。
そのうえで巫女たちは呪詛に用いた祭具一式を差し出し、これに激怒した義
政が今参局の追放を命じることになる。
おそらく巫女たちに黄金を渡したのは重子の一派と思われる。
沖の島に追放となった今参局は、所司代の京極持清の護送付きで都を去っ
たが、その直後に重子が義政に「首を刎ねるように命じられませ」と促したた
め、義政は今参局殺害のため使者を京極一行の許に送った。使者は蒲生郡
甲良荘の付近で一行に追いついた。
この使者の到着に運命を悟った今参局は、「首を打たれる無様は見せとうな
い。腹を切って大館一門の誇りを見せましょうぞ」と言い、自ら命を絶ったと言
われている。
365 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/04 09:28
>>360 中央政局に対する認識が遠隔地の関東だと希薄だったのだろうね。
でなかったら、北条は秀吉との無謀な戦いをしなかっただろうし、里見だって鎌倉公方の復活という秀吉の統一政策の矛盾した構想を立てなかっただろう。
まあ、これは九州平定の時の秋月・城井や奥州平定の時の葛西・大崎・和賀あたりにも言えるのだろうが。
第1次国府台の戦いで小弓御所が滅亡して以来、里見家は義尭−義弘=義頼−義康
と4代にわたり足利義明の遺児・頼純を保護してきたわけだけど・・・
足利義昭はこの時点で既に将軍職を返上しているし、関東公方もまた足利義氏の死後、
氏姫が限定的に公方の職務を代行してはいるものの、事実上、没落状態にあった。
ならば「今こそ北条を討って関東公方再興を!」と思ったのか、それとも北条領の三浦方
面に侵攻するために名目的に頼純を利用しようと思ったのか・・・
しかし、秀吉の関東惣無事令が出た後だけに、政治判断としては明らかなミステイク。
ひょっとして「秀吉とて関東公方には手出しできまい」と判断したのかな?
367 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/04 10:19
関東と畿内を結ぶ中間には広大な徳川領がある。
とすると、関東へ伝わっていく情報に、家康が何らかの操作を加えていたら……
北条が秀吉の軍事力を見誤ったのも、義康が前時代の権威を担ごうとしたのも
何となく納得してしまうのだが……
368 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/04 11:20
>>366 里見氏は足利義明なり、足利藤氏・藤政兄弟なり、常に公方の連枝を
担いで北条氏に対抗してきたからね。
三浦半島から鎌倉を目指すとすれば、滅亡状態に近かった古河公方に
代わるものとして、小弓公方を担いだ方が北条領内の宣撫工作が容易
と考えたのでは?
>>363 >しかし、義政は今参局と彼女の息のかかった側室を寵愛していたため、義政
>は結婚後も富子の寝所に入ろうとはせず、重子は苦労に苦労を重ねて義政
>を富子の寝所に向かわせたという。
>その甲斐があってか、翌年、富子に男子が誕生する。
嫌がってるくせにやることはやるw
しかし、母親に促されて嫁とやるっていうのもなぁ・・・
370 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/05 06:53
天正13年(1585年)に関東・奥羽惣無事令を出したときに、父・義頼は使者を
派遣して恭順の意を示している。
したがって、豊臣軍の実力を知らない義康ではないし、実際、小田原征伐で
の軍事行動も秀吉の出陣要請に応える形で起こっている。
一方、鎌倉等で発給した禁制は、小弓御所を擁しての鎌倉公方再興を期し
たものであり、北条家に代わり、管領(執事)的立場での鎌倉支配を目論む
ものであると受け取られて致し方ないわけだが・・・
秀吉が北条家滅亡後の関東を再び鎌倉公方の手に委ねるとでも思ったの
だろうか?
>>359-360 まあ、墓穴を掘ったのは里見の方だしな
小弓御所を擁して鎌倉で禁制出しちゃ拙いだろ
それに家康のとりなしでようやく安房1国を安堵されるような状況なのだから、
ここは家康が手堅くポイント稼いだことになる
家康の関東入府の時点ではとりあえず「家康>>>秀吉」だわな
372 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/05 13:28
あの時期に鎌倉公方再興させて何かプラスになることあるのか?
373 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/05 21:03
>>372 鎌倉公方による関東統治=本来あるべき姿、当然の常識と信じていたから。
逆に言えば、旧体制の否認をやってのけた信長・秀吉の発想が当時の世間一般からは非常識だった。
秀吉にとっては鎌倉公方なんて全く構想外の存在だよね。
果たして、里見家に保護されている小弓御所の残滓のことを秀吉が存知し
ていたかどうかすら疑わしい。
小弓御所が滅亡してから50年の歳月が過ぎており、今さらそんな前時代
の権威を担ぎ、鎌倉に入府させようと画策した義康の軍事行動が、かえっ
て「貴様は豊臣家と足利家を両天秤に掛けるのか?」と在らぬ疑いを招い
たことは確かじゃないかな?
375 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/06 06:06
>>373 古河の連枝を担ぐなら……って、あの時点では氏姫だけだし、
北条氏の手の内にあったからな
376 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/06 15:38
上総領没収については、小田原への遅参が原因と言われているけど、里見義康が
船橋郡の高城氏を攻撃すべく出陣したのが天正18年(1590)4月7日。
同月13日には水軍を率いて三浦半島に上陸している。
地理的に見ると、水軍を駆使しての戦いだったのだろうが、その後も北上総、下総
方面にて戦線を拡大している。
この結果、義康が小田原に参陣したのは4月下旬から5月上旬とされているが、そ
れでも結城、佐竹、宇都宮各軍よりも参陣は早かったことになる。
したがって遅参は言いがかり以外の何物でもなかったと。
>上総領没収については、小田原への遅参が原因と
「上総領没収については、小田原への遅参もその一因と」に訂正。
小田原遅参+関東惣無事令違反が問われたわけで。
378 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/06 15:57
>>373 >旧体制の否認をやってのけた信長・秀吉の発想
信長はまだしも、秀吉の場合は足利義昭に「猶子にしてくれ」と迫ったり、菊亭晴季の養子に
なって関白に就任したり、思いっきり旧体制の中での地位確立に奔走してるんだが?
379 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/06 16:12
前久だろう
>>376 義康が発した三浦、鎌倉方面での禁制とは、禁制を出した地域を
戦闘行為から保護することを保証する内容のものであった。
したがって、義康自身が禁制を出すという行為自体が秀吉の命令
外での私戦行為にあたり、私戦を禁ずる関東惣無事令に違反する
と見なされたわけだ。
ならば、北条方に属する小山氏の領内にて禁制を発した結城晴朝
はどうなるのか?という疑問が湧いてくる。
晴朝に何のお咎めもなかったことを考えると、どうも里見氏は目の
仇にされていたんじゃないかとすら思えてくる。
豊臣家中で、結城氏の取次をしていたのは浅野長政。
里見の取次は増田長盛。
こいつら仲悪かったんじゃないの?
禁制も、自分の名前で出すだけならまだしも、小弓公方のためという名目を出したのは
豊臣家を軽んじているとみなされても言い訳できないと思う。
>>381 禁制自体は里見義康の名前で出してんじゃないの?
>>380-381 そのあたりは、
>>381の指摘通り、里見家の取次が増田長盛、結城家の取次が浅野長政
だったことに起因してるんじゃないか?
石田三成と対立する長政は、三成に近い長盛を同様に嫌っているところがあり、その結果、
増田が取次を務める里見家が煽りを食った可能性が高いな
現実に長政は房総攻略戦では、常陸南部に侵攻した時には佐竹領の鹿島郡にまで兵を
進めるわ、上総でも北条領を占領していながら、里見領の上総・安房国境地帯まで兵を進
めるわ、とにかく三成憎しの一念でかなり粗暴なことをやってるところがあるしな
ひょっとして長政って性格的にイヤな香具師なんか?
384 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/06 20:25
増田の落ち度にしてやろうと、同じ禁制を出した結城を棚に上げて、
里見を徹底的に吊るし上げてやったと?
385 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/06 21:14
確か、上総での強引なやり口に関しては、さすがに秀吉から咎められたんじゃなかったか?
386 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/07 09:58
>>378 しかし、小田原攻めの時点では、既に足利将軍家自体が存在しないわけで、その
職制にある関東管領(関東足利家は鎌倉公方又は関東公方と名乗っていたが…)
にしても、もはや再興もクソもないんじゃないか?
まあ、関東武士にとっては、都の将軍家とは切り離された権威になっていたんだろ
うが、将軍家の死に水を取った秀吉にしてみれば、鎌倉公方なんて何を今さら…と
いう心境だったんじゃないか?
足利家の貴種性は認めても、将軍(公方)による足利政権はもはや存在しないと。
>>386 >足利家の貴種性
それすら認めてないでしょ、秀吉の場合は。
貴種性というだけなら義昭の子孫、高山の槙島領相続認めてやればいい
のにこっちはダメ。
関東足利家の貴種性といっても、秀吉は当初、足利義氏の遺児氏姫(鴻
巣御所)から古河領を没収し、僅かに332石(300貫とも)の所領を与える
という冷遇ぶりで応えているしね。おかげで多くの家臣が鴻巣御所を離れ
ることになった。
これについては、氏姫を側室にしようとして拒否された腹いせだったという
説が根深いのだが、氏姫の代わりに足利頼純の一女・嶋子(古河姫君)
を手に入れた途端、降って沸いたように古河、小弓足利家を「名族の衰退
を惜しんで」再興させるという話が出始めたというあたりが、秀吉の性格を
顕著に表してる。
おそらく足利頼純の内意を受けて、小弓足利家再興のために古河姫君が
秀吉に懇請したのだろうね。
結局、秀吉が重視する貴種性などというものは所詮、その家の女性に付
随しているもので、家名や一族そのものには大して興味はないと思われ
る。したがって、義昭が一族の姫を秀吉に側室として差し出していれば槙
島足利家は「貴種性」を認められ、「名族の衰退を惜しんで」存続させたの
ではないか、とさえ思えてくる。
388 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/07 10:46
秀吉の認める貴種性なんざ下半身次第だろwww
389 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/07 21:38
>>380 結城と小山の特殊な関係(結城高朝が小山家を継ぎ、その息子の小山晴朝が結城氏を継いだ事)を考慮する必要がある。
現に旧小山領はそのまま結城領となっている訳で…。
似たような例で東北の国分・留守両家が秀吉に所領没収された後も、新しく大名が入ったわけでなく、宗家筋の伊達家の領地になっただけ。
>>389 結局は浅野の存在に尽きるということじゃないのか?
391 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/08 14:52
何かどいつもこいつもって感じだなw
392 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/08 16:46
>>375 いるじゃない、宮原御所こと足利義勝がw
>>392 それは真里谷武田信政が招いたんじゃなかったっけ?
394 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/09 08:49
>>393 里見義康は天正16年(1588年)12月3日付で高滝の宮原家に諸役免除の
印判状を出しているね。
すなわち、宮原家を家臣団に組み込まず、御所領に対して不介入の方針
を示したということかな。
安房・石堂寺に頼純父子、上総・高滝に義勝父子が存在していたというこ
とは、やはり義康は旧態依然とした関東の政治秩序の中に半身を突っ込
んでいたことになるね。
395 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/09 11:27
義頼のときには北条と和睦状態にあったから、それほど利用価値はなかった
はずだよね?>宮原御所
義頼は小弓御所と宮原御所のどちらを重んじていたんだろ?
397 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/09 22:12
小弓御所に100j
398 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/10 06:45
>>396 北条と和睦し、氏政の妹を正室に迎え入れているから、今さら足利義氏の対抗馬を
擁立するという考えを持っていたとは思えないね
といって、全く無視するわけにもいかないわけで、安房・石堂寺にいた頼純同様、有
事に備えて「保険」としてキープしていたのかも知れない
ここまで山名ネタが温存気味なのは後半に・・・
単に人気がな(ry
401 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/10 11:28
群馬や千葉と鳥取のネット人口の差
402 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/10 12:20
>>401 やっぱ?
俺、島根に知人がいるけど、玄関先しか携帯の電波届かなかったり
するものな・・・
403 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/10 13:02
山名時氏……因幡、伯耆、丹波、丹後、美作守護
師義(時氏嫡男)……伯耆、丹波守護
満幸(師義嫡男)……播磨守護
義理(時氏二男)……紀伊守護
氏冬(時氏三男)……因幡守護
氏清(時氏四男)……丹波、山城、和泉守護
時義(時氏五男)……美作、但馬、備後守護
「六分の一殿」「六分の一衆」と呼ばれたのも束の間、幕府から警戒され、
明徳の乱で氏清戦死、満幸処断、義理出家という事態を迎えてしまうわけ
だが…
407 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/11 10:46
応仁の乱後の山名家について詳しい方いますか?
408 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/11 14:30
宗全の孫・政豊の時代には、総領家は赤松政則によって播磨、備前、美作
を奪われ、辛うじて本領の但馬を維持しているような状態だった。
それでも細川政元と共に足利義稙を将軍に擁立するなど、政治的には何と
か余力はあったようだ。
しかし、政豊の跡を継いだ致豊の時代には、守護代の垣屋続成以下、太田
垣、八木、田結庄に実権を握られてしまう。そして、永正9年(1512)に国人
衆が離反する形で但馬国内は内戦状態に陥り、致豊から誠豊(致豊弟)に
但馬守護職が譲られる。
誠豊も傀儡政権に過ぎなかったが、因幡守護家の山名豊治と対立すると、
豊治の死後、因幡守護家の家督争いに介入して誠通を家督に送り込んで
いる。
410 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/12 11:53
田結庄って顔グラ的に捕らえると斬っちゃうんだよなぁ・・・
>>407 大永8年(1528)に誠豊の養子・祐豊(致豊の子)が家督を継ぐが、出雲の
尼子氏がその勢力を伯耆から因幡を伸ばしたため、大内氏と結んで対抗
することになる。
一方、因幡守護家の山名誠通とも対立するようになり、弟・豊定を因幡守
護として送り込んで勢力拡大を図っている。
天文17年(1548)に誠通を敗死させたが、誠通の遺臣・武田高信が毛利
氏と結ん抵抗するなど因幡全土を掌握できず、さらに毛利氏が因幡に侵
攻するに及んで今度は尼子氏と結んで対抗した。
このときの縁により、祐豊は尼子滅亡後も尼子勝久、山中鹿之助を支援
することになる。
織田信長が勢力を伸ばすと、祐豊と但馬国人衆は織田、毛利の二大勢
力の間で足元が定まらず、羽柴秀吉が但馬に侵入してくると、祐豊は堺
に亡命、今井宗久を通じて信長に降伏した。
結果、但馬に復帰した祐豊は、因幡の山名豊国や山中鹿之助らとともに
武田高信を討つが、これがかえって毛利氏の本格的侵攻を招く結果とな
り、天正元年(1573)に因幡が陥落。
このため天正3年(1575)、祐豊は毛利氏と和睦するが、この時点で但馬
国人衆は分裂状態となっており、天正8年(1580)に羽柴秀長に攻められ
て滅亡してしまう。
こんなことでよろしいかな?
412 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/12 15:47
山名豊国(『信長の野望・嵐世記』)
政治33 統率24 知略9 特技「茶湯」
正直、酷評という感じだが、織田(豊臣)VS毛利の争いの中で
家名を保った点はもう少し評価してもいいんじゃないか?
豊国の母親はかつての管領・細川高国の女。
ということは、新田と足利のハイブリッド武将ということになるな
414 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/12 17:52
因幡守護家は、時義(宗全祖父)の兄・氏冬の血統だよね。
氏冬−氏家と続いたが、この後、明徳の乱で討たれた満幸の遺児・熈貴、続いて
宗全の三男・勝豊が養子に入っており、祐豊に討たれた因幡守護・誠通は勝豊の
孫にあたる。
しかし、同族の分国支配は、代を重ねるごとに限りなく他人に近づいていくわけで、
やっぱり限界がある。
持豊(宗全)の跡を継いだ教豊が但馬・播磨守護、是豊が備後・山城守護を継職
しているが、やっぱりこれもねぇ・・・
415 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/12 18:28
山名家、ちょっとだけブレイクの予感・・
気が付けば……但馬、因幡だけ……
417 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/12 19:25
宗全の頃の他の守護領(但馬・因幡以外)はどうなったの?
>>417よ・・・赤松氏や尼子氏の存在は知ってるよな?
419 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/12 23:04
祐豊の子尭熈が豊臣豊臣秀頼に仕えているな
確か大坂夏の陣で戦死したことになっているが、尭熈の孫恒豊が家臣清水氏
の養子となり、子孫が幕臣として380石を給されている
このあたりも新田繋がり的恩赦か?
420 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/13 07:38
名門保護策では?
六角だって助命されているし…。
じゃあ、山名家も系図を差し出したんかな?
宗家筋の岩松家の場合はそこでヘマをやって微禄に終わったわけで・・・
>>420 徳川家に仕えたのは義治の弟・義定の系譜じゃなかったかな?
確か1000石を給されてたように思う。
スレ違いだけど・・・
http://www8.plala.or.jp/kawakiyo/kiyo40_42.html >◆六角家事件
>正造は17歳で小中村の名主に推された。
>父富蔵が名主から六角家の割元役(名主の総元締)に昇進したための関連人事である。
>六角家は安蘇郡のほか足利郡さらに武蔵国など知行所あわせて表高2,000石の旗本で
>あった。
>江戸屋敷の普請計画とその先納金の件で問題が発生し、正造(27歳)は、これに対する
>各地農村名主指導層や農民の側の先頭に立って対抗した。
>正造は投獄されたが、正造自叙伝をひもとくと牢獄での生活など迫真の物語に思わず吸
>い込まれる。六角家事件で正造は在獄10か月と20日、明治2年の初め釈放された。
>この後、堀米町の地蔵堂で手習塾としての寺子屋を開いた。食事の世話までした村民の
>協力は微笑ましい。
何か厄介な家臣がいたんだな、六角氏・・・
それにしても、いつも家臣とのトラブルは相変わらずだなw
425 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/13 12:31
>>420 義治の息子が大坂の陣で豊臣方の筈ですが。
>>424 それは公家の六角氏です。近江の六角氏とは同姓ですが直接の関係はありません。
道誉の家系はどうなった?
>>425 しかし、家紋は例によって「鶴丸」だぞ?
>>422 六角義定は、はじめ同族の大原氏に養子に入っているよね。
義定は六角氏滅亡後、しばらくの間隠棲していたが、後に召し出されて豊臣家、
徳川家に仕えている。
その頃には「佐々木高定」と名乗っていたようだね。
義定の長男高賢は大原氏を継ぎ、二男高和が佐々木姓を継承、徳川秀忠に仕
えて2千石を領したというが、こちらは後に無嗣断絶となったらしい。
なお、四男等定は同族の青地氏に養子に入り、前田家に仕えたという。
432 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/13 16:40
>>413 豊国は兄豊数が武田高信に鳥取城を奪われると、尼子残党の協力を
得てこれを奪還して因幡守護の座に返り咲いたり、毛利の傘下に入っ
ておきながら、秀吉軍が進出してくるとこれに降って因幡国内に2郡を
与えられたり、一応、それなりに巧妙?に立ち回っている・・・・のだが、
裏を返せば「節操が無い」のも事実。
結果、その性癖が祟り、毛利派の家臣に背かれて鳥取城を追われて
しまう。
このあたりが
>>412の評価に繋がっているのだろう。
家臣に背かれると相当評価が低くなるのがkoeiだしw
434 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/13 23:41
豊国も取り扱いに困るキャラだよな・・・
とりあえず名族・山名氏の残滓だけに、旧領の但馬因幡に配置する
という手もあるんだが、何より能力がびみょ〜だしな・・・
>>418 別に尼子や赤松の事を知らないわけじゃなくて…。
宗全の頃には確か6カ国の守護だった筈の山名が、どうして宗全の死後に赤松や尼子に急速に勢力を奪われて2カ国にまで落ち込んだ理由が知りたいのだが…。
細川は勝元よりもむしろ政元の頃の方が全盛だと言われているのに…。
(大内氏でもそのようなことは起きていないわけで…)
元々の支配体制の緊密さに差があったんじゃないの。
土着してないというか。
で、脆さの理由はそれとして、あとは巡りあわせでしょ。
庶流の反乱とか。
437 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/15 12:37
同族による分国支配には限界があるでしょ。
438 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/15 19:45
播磨と分家の備中、美作は赤松氏に奪還されたしな
>>438 この時点で宗家は但馬引き籠りが決定したってことだな
440 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/15 22:19
>>435 そのあたりは朝倉、織田など守護代に領国を蚕食された斯波家と相通じるものがある。
但し、山名家の場合にはどうにかこうにか家名を保っただけマシだったわけだが。
441 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 01:16
>>412 山名豊国(『信長の野望〜蒼天録』)
政治30 統率19 知略9 特技「茶湯」 策戦「混乱」
ほとんどイジられた形跡はないなw
442 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 16:18
側室?に危うく命を助けられたことあるよね>豊国
443 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/19 18:03
豊国は二度目に鳥取城を失った後、秀吉の御噺衆になっているよね。茶湯に秀でていた
とも言うし、血筋と芸が身を助けたということか?
しかし、持ち前の節操の無さは、秀吉の死後に再び発揮され、家康に急速に接近した豊
国は但馬国七味郡に6,700石を与えられている。
また、大坂の陣には家康に供奉して参戦し、旧恩に仇で報いている。
何とも豊国らしい処世術だね。
445 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 02:27
豊国はなかなか小技を効かしてくるな
家康の陣に馳せ参じたとき、豊国は少々薄汚れた、所々破れた羽織を
身に着けてきて
家康「どうしてそのような羽織を?」
豊国「この羽織は我が先祖が足利義晴公より拝領したものでございます」
家康「かつての恩義を忘れず、本に背かない者よ」
といったやり取りがあったという
典拠は『常山紀談』なので真偽のほどは・・・という感じだが、それが加
増に繋がったのだから、けっこう食わせ物だな、豊国
豊国は自分の立場を理解した上でうまく立ち回ってる気がする
落日の名門にしてはなかなかの策士だな
かつての恩義を忘れないわりには、正室を人質に取られた途端、コロッと羽柴秀吉に
寝返ったりして、家臣の信頼を失うようなこともしてるんだよな、この人。
その結果、毛利派の家臣に鳥取城を追われるハメになるわけだが。
448 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 07:29
祐豊の方がもう少しまともだった気がするが
>>412 創世でも豊国の統率・知略低すぎ
アレで鳥取城奪い返せるんか?
関係ないが地元なので今度帰省した時に八木城にでも
登ってくるか。
>>449 鳥取城を奪還したことより、その後、家臣に追放されたことが
大きく作用しているんだろうね>能力値
>>442 側室?長氏は、豊国の居館を賊が襲撃した際、賊の前に苦戦する豊国を見かねて
衣類を投げつけて、もがいている賊を豊国に討たせて難を救ったというな
452 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 15:51
453 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 14:49
豊国の正室は祐豊の女という説もあれば、有力国人の長高連の女という説もある。
とはいえ、正室であったにせよ側室であったにせよ、武田高信を討ち、鳥取城を奪回
するために長高連の女を娶ったのは事実のようだ。
しかし、豊国としては正室とされる祐豊の女の方を愛していたようで、毛利の人質と
なっていた正室が羽柴秀吉に捕われるや否や秀吉に降伏してしまったので、家臣の
信望を失ってしまったとか。
454 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 21:23
どっちにしても「信長」では無視の豊数よりはマシだろう。
個人的には祐豊より豊国を厚遇するけどね、そのびみょ〜さゆえに
456 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/24 16:29
御噺衆の豊国はどんな噺をしたのだろ?
457 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/25 00:17
世間話では?
459 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/25 21:39
山名は明治に爵位をもらったの?
460 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/27 03:01
男爵
461 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/28 07:40
他の高家系の家柄の子孫爵位と比較すると低いのか?
462 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/28 18:04
語呂的には「山名子爵」より「山名男爵」の方がかっこいいけどな
463 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/29 12:34
高家は爵位ありません
山名は維新の際の高直しが認められて爵位をもらいました。
464 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/29 22:38
>>463 確かに喜連川足利家(子爵)は厳密には高家じゃないし、山名家も1万1千石に
格上げされてようやく諸侯に列したという状態だものね。
465 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/30 18:55
>>463 高家だった大沢家(表高3,550石)などは、実高5,485石に浜名湖の「湖面」を開墾予定地
とする架空高4,521石を加え、10,006石を領有していると申請して堀江藩を立藩して諸侯
に列したけれども、後に虚偽申請が明るみに出て、爵位を剥奪されている。
おそらく山名家も表高6,700石を、実高11,000石としているあたり、同じような虚偽申請を
したのだろう。
467 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/01 19:57
>>466 申請された石高だけで判定するからそういうことになる
>>465 >浜名湖の「湖面」を開墾予定地とする架空高4,521石を加え
誰か気がつけよって感じだけどなw
まあ、それだけ時代的に混乱してたってことか?
469 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 00:41
山名はバレなかったのかな?
470 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 02:14
南朝の功臣ということで新田家の子孫を華族にすることになったが、高家だった由良家
は系図的に疑いがあって選に漏れ、岩松家が選ばれた。
ちなみに岩松(新田)俊純は「新田官軍」を組織して官軍のために戦っている。
同じように南朝に属して活躍し、その後、長く零落していた菊池、名和家の子孫なども
いきなり華族に列せられることになった。
471 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 04:40
里見の子孫は放置ですか?
例えば利輝(忠義の側室の子)の系は
越前鯖江藩で350石取ってるから、
明治以降は普通に士族として遇されたのでは。
474 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 11:51
475 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 13:03
476 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 15:06
>>465 噂だが、長州は幕末には実際は100万石ちかくあったらしい。
477 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 19:49
478 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 20:23
480 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 20:35
>>479 実際の石高≠届出の石高と言いたいんでは?
481 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/03 00:18
表高と実高がぴったり一致するってことの方が稀では?
新田開発もするだろうし、商業や交易で藩財政を賄うこともあるからね
しかし、大沢家の場合は「ホラ」なのでちょっと違うんじゃないかな?
482 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/03 14:54
バレて士族に降格されたんだよな>大沢氏
483 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/03 21:21
周囲が疑うだろ?>山名家
484 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/03 23:52
旗本山名家は・・・
豊国−豊政−矩豊=隆豊(福嶋正長二男)=豊就(山名光豊三男)−豊暄=
義徳(立花貞俶八男/豊暄女婿)−義方=義蕃(間部詮茂男/義方女婿)−
義問−義済
と到って明治維新を迎えている。
なお、石高を1万1千石と申請したのは義済で、華族(男爵)となっている。
また、宗家以外でも豊政の弟豊義が幕臣として1千石、矩豊の弟義豊が同じく3百俵、
矩豊の養子泰豊(山名豊守五男)が5百石など、分家が多数ある。
485 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/04 00:11
福嶋正長というのは正則の縁者っすか?
>>484 正長は福島正則の孫にあたる人物だね。
正長の子・正勝(隆豊の兄)は幕府旗本として2,000石を給されている。
>>486 正則の子正利が正則の遺領から3千石を与えられたけど無嗣断絶となったよな
でもって縁者を探し出して、正利の兄忠勝(早世)の孫にあたる正勝を召し出して幕臣にしたと
489 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/04 13:23
>>475 祖先義貞の倒幕挙兵になぞらえたんかね?>新田官軍
490 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/04 14:15
>>489 新田氏流としては最も由緒正しいはずなのに、極端に冷遇されてたからな
491 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/04 16:48
親徳川ではないだろな・・・成り行き的に
11 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/10 16:36
>>9 観応の擾乱以後、新田氏の事実上の惣領家となったのは岩松氏。
岩松氏の祖、時兼は足利(畠山)義純と、新田義兼の女との間にできた
子だが、義純が畠山氏を相続したことで義兼女が離縁されたため、義兼
の未亡人であった新田尼が時兼に新田荘岩松郷を与え、以後、岩松姓
を称したという。
時兼の曾孫、直国(=頼宥)は足利尊氏に従って戦功を挙げ、伊予、備
後国の守護を歴任、新田氏の没落により新田荘の支配権を確立してい
る。系譜的には直国―満国=満純と続くが、満純は新田義宗(義貞弟)
と直国女との間の子であり、直国の外孫にあたる。
以後、満純の血統が代々岩松氏を継承するが、戦国期には義宗の子、
貞氏を祖とする家宰横瀬家の専横により没落してしまう。
後に岩松守純が家康に召し出されたが、その際の応対が家康の気に
障ったため家禄は僅か20石(後に120石)に過ぎなかった。
102 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/18 21:10
岩松守純が僅か20石の捨て扶持止まりになったのは、家康から新田氏
の系図を提出するよう要められたのを断ったから。
おそらく守純は新田惣領家としての意地を貫こうとしたんだろうな。
492 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/04 21:58
>>398 でも、義頼夫人の死後は里見と北条は対立関係に戻ったろう。
>>492 だからちゃんと保険かけて小弓足利家をキープしてたんじゃないの?
とはいえ、倅の義康が使いどころを誤ったのは事実だけど。
494 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/05 05:25
>>493 キープしている間に前時代の遺物みたいになっちゃったとw
495 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/05 13:25
>>491 同族であると同時に、ちゃんと系図を差し出すことが厚遇の条件だったんだな
>>495 家康の前で寝たふりをしたらしい>岩松守純
497 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/05 20:09
岩松家は僅か120石だけど格式だけは大名並みという異色の存在だったよね。
確か秀吉の側室に山名殿(豊国女)がいたよな。
もしも男子を生んでれば歴史も変わったろうに。。。
502 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/06 01:03
>>497-499 江戸に参勤するときには乗物から袋傘に至るまで最高格式のものが許されていたし、年始に
江戸城に登城した際の控えの間は大名・高家が詰める「柳の間」だったと。
といっても120石を現代の収入に換算すると、およそ380万円程度というけどね。
503 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/06 16:13
家康に拝謁したときに新田氏の系図を持参したけれども、見せただけで「よこせ」
と言われても聞く耳持たずという感じだったと。
仮に系図を差し出してたら・・・
>>489 新田官軍の盟主・岩松満次郎(俊純)に従ったのは近隣の郷士たち80名ほど。
草莽隊というのが実態だったと。
506 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/07 00:59
>>502 初めは屋敷地20石のみで御家人としての扱いも受けてなかったね。
岩松氏の加増と旗本取立てにあたっては天海や阿部忠秋などの骨折りがあったらしい。
しかし、岩松氏の所領があった下田島は辺鄙な上に、生産性の低い土地だったようだな。
507 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/07 23:20
ところで、日本史板の里見スレにこんな質問が出ていたが、誰か答えられる奴いるか?
素朴な疑問だが、
義頼の幼名は、里見嫡流の太郎で、その次が義継(家督を継ぐという意味らしいが)についてはどう考える?
義堯の息子だと、無理っぽい気がするけど??
510 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/08 09:04
里見の隣の真里谷の場合、庶長子の信隆が跡継ぎとして決定した後に嫡子の信応が生まれているわけだし(ついでに言えば、コーエーの信応の生年は少し早すぎだな)。
512 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/08 22:23
>>505 薩摩が手引きしたんじゃなかったっけ?
まあ、格式は大名並みとしても、世間からは嘲笑されてたようだし
513 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/09 01:57
石高的には高家・武田家も500俵(=約200石)だよね、確か。
514 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/09 15:13
>>513 それを言ったら品川家なども300石程度
515 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/10 07:33
>>510 義頼が義弘の庶長子だったとしての類似例だろう。
517 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/11 09:15
今川直房(氏真の孫)の時代に1,000石になってるね。
直房の父・範以の時代には500石だった。
518 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/11 15:56
高家連中に比べると山名ってわりと経済的には厚遇されてたのかな?
519 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/11 22:49
>>518 家格的には高家連中の方が全然上でしょ?
島根県警浜田署は10日、ゲームセンターにいた女子高生に小便をかけたとして
暴行容疑で同県温泉津町の無職の男(36)を逮捕した。
「興奮してやった」と容疑を認めているという。
調べでは、男は10日午後3時40分ごろ、浜田市のショッピングセンターで、
ゲームをしていた女子高生2人のスカートに小便をかけた疑い。
2人から被害を聞いた警備員が浜田署に通報。
同容疑者が同様の行為を以前にもしたことを知る署員がいたことや、
似顔絵などから同容疑者が浮上。
JR浜田駅付近で帰宅しようとしていた奥原容疑者を発見したという。
記事の引用元:
http://www.zakzak.co.jp/top/2004_05/t2004051111.html
522 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/12 01:33
>>518 そこは豊国の口八丁手八丁が功を奏したんだろ
サッサと豊臣から徳川に乗り換えるあたりは、豊国の無節操ぶりを示しているわけでw
>>504 最終的には家康の関東入府の際に召し出されるわけだが
524 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/12 15:30
526 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/16 16:06
528 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/16 23:37
529 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/17 18:58
>>527 >>528 義弘と青岳尼(頼純の姉)は死別なのだから、感情的には全くあかの他人になるわけじゃないだろう。
足利晴氏の娘を妻にしたのは青岳の死後でしょう。
530 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/18 12:51
青岳尼と義弘の恋物語はマジで泣ける、間違いない!!
531 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 00:59
小弓家の次は古河家から妻を迎えるってのは、小弓御所の家臣の感情的にはどうだったんだろね?
532 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 07:40
>>531 難しいところだが、
青岳の死を永禄年間(天正説もあり)としても、晴氏の娘を後妻にした時には第1次国府台合戦から20年以上経っておりその頃からの家臣は殆どいなくなっていたのでは?
それに亡命中の身の上じゃ、不満を出せる訳ないだろうし…。
戦国時代の山名氏について、詳しい本は無いでしょうか?
ご教示いただければ幸いです。
534 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 16:03
>>531-532 足利頼純の直臣っていたのかな?
義明家臣の子たちが引き続き仕えたってことになるのか?
535 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 19:35
喜連川に移るときに頼純の嫡子国朝に同行した家臣がいたはずでは?
>>532 一応、藤氏・藤政兄弟も頼純もアンチ北条という点では繋がる
537 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/20 00:01
足利ネタっすか?
538 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/20 02:38
>>537 時系列的には足利スレから分岐してるから、足利好きがけっこういるはず。
とはいえ、その足利スレも傍系に押されっ放しだけど。
里見絡みのネタだからスレ違いってわけでもないわけだが・・・
539 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/20 03:33
>>538 それを言い始めると必ず「足利と新田をまとめて源氏総合スレを
立てろ」と言い出す香具師が出てくる
ちなみにこのスレが立ったのも「新田も語らせろ!」という声が
あったから
とはいえ戦国期の新田(岩松家)だけじゃ持たんわなw
542 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/20 12:45
あくまでここでの足利は里見家と縁のある古河・小弓の話が関連として出ているだけであって、足利将軍家はスレ違い。
545 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/21 05:46
>>542-544 足利総合スレ=将軍家ネタということでは?
しかし、前の足利スレは将軍家ネタより関東公方ネタの方が多かったような
記憶あるけどね。今は知らんけど。
まあ、このスレでは新田氏流に絡んでくる関東足利家はセーフということで
良いわけね。
546 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/22 17:36
>>536 藤氏あたりからすると祖父の時代の抗争だからね。
でも、一応は引きずってるのかな?
まあ、里見サイドとしては対北条戦のためにやむを得なかったんだろうけど。
547 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/22 22:02
足利スレが隣にあったのであげ
貴様、我らが新田を足利なぞと同列に見なすのか!ヽ(;`Д´)ノ
550 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/23 19:24
てす
552 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/24 01:05
>>547 それって多分、足利の傍系スレじゃないの?
新田の話は一体どこへ……
554 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/25 07:42
既出かもしれないが、山名っていつ頃から足利方に寝返ったの?
555 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/26 03:37
>>534-535 http://members.jcom.home.ne.jp/2131535101/musasi6.htm >◎足利国朝(古河公方・足利義氏の養嗣子)が下野喜連川に移ったときに従った家臣◎
>
>高修理頭 伊賀金右衛門 相馬靫負 渋江弥五郎 梶原平右衛門 堀江彦右衛門
>印東内記 柴田某 福田某 後藤内蔵助 大草茂右衛門 高塩某 星某 高橋某
>石崎某 里見主馬 高城左衛門 浅沼友左衛門 水戸某 武田一郎右衛門 海老名某
>佐藤某 土屋織部 小俣某 大谷某 江戸某 芦屋某 一色刑部 相木与右衛門
>石塔某 中村四郎兵衛 椎木某 伊賀伊勢守 鴻野修理 山名豊前守 国井某
>山名采女 逸見三郎
まあ、この中には古河足利家の家臣が多く含まれているようなので、純粋な小弓
足利家の家臣となると......どうなんだろね。
557 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/27 05:11
確かにそれっぽい名前がいるな
>里見主馬
>山名豊前守
>山名采女
おそらく傍系のそのまた傍系みたいな香具師なんだろうけど
558 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/27 12:36
印東とか堀江とか里見家中から寝返ったんじゃないか? と思わせる人もいるが…。
559 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/27 23:47
>>558 “お付き”に命ぜられたということはないのかな?
高修理頭は古河足利家の家老だね。
監視役
>>556 なんてゆーか名前が戦国時代っぽくないような。
靫負・内記・内蔵助・主馬・織部・采女、とか
たしかに佐々内蔵助成政とか古田織部なんかもいるにはいるけど
どーも江戸時代的な、時代劇の登場人物みたいな名前なきがする。
563 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/29 12:36
>>562 こうした官途名の由来になった官職のルーツは奈良・平安の律令制度なのだから、江戸時代的というよりは戦国時代(あるいはそれ以前から)のものを江戸時代になっても使ってたという方が正しいのでは?
565 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/30 12:47
>>563-564 時代時代に流行があるとおもうわけよ
戦国時代なら六衛府や弾正、受領、兵庫・馬寮などなど。
567 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/31 10:40
流行???
568 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/31 14:05
記載が残ってるなら致し方ないしな……
>>566 こいつら結構下級の連中なんじゃないの?
570 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/31 19:19
何かいつの間にか足利スレっぽくなってますねw
571 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/31 23:12
別にいいんじゃないの?関連ネタだし
572 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/31 23:34
>>561 国朝を監視?
何でそんなことする必要があるんだ?
>>567 だって私称だろ?
時代劇見てみろよ、登場人物に主馬とか頼母とか主税とか多いだろ。
けどそんなヤツは戦国武将には殆どいない。これは流行じゃないのか。
>>568 その記載をしたのが江戸時代、ようは「創作なんじゃネーノ」て疑問。
574 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/01 09:00
随行した家臣を創作して何の利があるんだ?
しかも、3,800石程度の小領主が
575 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/01 09:27
>>574 家格を高く見せるためじゃないか?
今は落ちぶれたが、本来はこれだけしっかりした家臣も居たという感じに
576 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/02 09:36
577 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/04 01:21
>>575-576 大半は古河から連れて行ったと見るのが妥当でしょ。
古河城を没収されるまでは12万石程度の所領があったわけだし。
里見家から足利家に転じた香具師ってのはいないのかな?
580 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/05 01:15
その頃宮原御所は・・・
581 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/05 06:57
>>579 里見取り潰し後に何人かいても不思議はないな。
582 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/06 23:41
>伊賀伊勢守
>山名豊前守
このあたりは受領名だし、結構由緒ありそうだ。
しかし、伊賀氏って北条義時の妻の伊賀氏の末裔かな?
鎌倉・室町自体をしぶとく生き残ってたのなね。
583 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/07 17:44
>>572 古河系から見れば国朝は謀反人の子孫だからということか?
宗全が嘉吉の乱で死んでいたら、どうなっていただろう。
赤松満祐の足利冬氏(義尊)擁立が成功した筋書きもあったのだろうか。
585 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/08 18:26
宗全が死んでいたら、他に一所懸命追討する大名は他にいなかったかもな。
587 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/08 22:34
関東足利家も壊滅的な状態だったしな・・・
588 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/09 10:29
その頃、成氏はまだ赦免されてないよね?
●鎌倉公方家
基氏─氏満┬満兼┬持氏┬義久
├満直└持仲├春王丸
├満隆 ├安王丸
└満貞 └成氏┬政氏
└顕実
>>590 足利スレ滅亡につき生き場を失った者です。言葉足らずだったな。
はりまやの略図から拾ったんだが補完してほしいなと思ったので作ってみた。
成氏以降、古河公方の人物はだいたい把握出来てるのでそれ以前の人物よろ。
592 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/09 14:09
>>588 義教の死により恩赦という流れじゃなかったかな?
その恩赦が最終的には関東擾乱を引き起こすことになるわけだけど
594 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/09 14:37
一応、山名宗全ネタということでいいんだよね? ね?
595 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/10 11:27
596 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/10 13:07
>>594 宗全の死後、赤松に盛り返されたり、同族の分国支配が裏目に出たり・・・
典型的な没落パターンって感じだな
とは言え、山名が清和源氏新田支流ということで豊国が結果大名として徳川に召抱えられて、その家は幕末まで続いた。
一方ライバルの赤松は但馬竹田城城主で関ヶ原で東軍に寝返った赤松広英がいたが、鳥取城下を焼き払うなど
家康の怒りに触れて切腹、西軍についた宗家則英ともにも滅亡。
豊国と広英の行動は対照的で、能動的だった広英は滅び、受動的だった豊国は残った…
豊国は世渡り上手だったということだろうが、赤松・山名の160年の戦いの決着とは言い難いが、皮肉な結末となった。
赤松は傍流の有馬氏(キリシタン大名とは別)が九州で大大名になって幕末まで続いたのが、唯一の救いか。
有馬記念の有馬家ですね。
599 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/10 15:57
山名は明治維新のときに爵位貰ってるしね。
600 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/10 16:00
男爵だっけ???
男爵。
但馬村岡藩の11000石の小大名で外様だったしね。
602 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/10 22:19
どっちにしろ全国最少クラス。
石高なんていい加減なもん。
604 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/11 01:02
>>603 虚偽の石高申告がバレて爵位剥奪された香具師もいるが?
605 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/11 01:11
>>604 大沢家(高家)だろ
そりゃ、湖面を開拓予定地にするってのはちょっと無理あるだろw
606 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/11 12:31
>>601 藩と認められたのも維新後だよな?
>>605 新政府だっていちいち旗本の所領の水増し申告なんてチェックする余裕なかったんじゃないか?
それ以外の問題が山積してたわけだし
607 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/11 15:19
分家も多いでしょ?>山名
608 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/11 19:16
旗本で複数あるだろ、山名姓
>>597 有馬が赤松姓を名乗ろうとした形跡はあるの??
611 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/11 23:06
まあ、名門だけにその素地はあるでしょ?
名族好きの将軍家の虚栄心を満たすだけって感じではあるが・・・
江戸期は家柄さえ良ければ食うに困るほどまで没落する事はなかったみたいだね。
5000石なんて小諸侯並だもんなぁ。村岡藩も実際はそんなもんだしね。
明治維新後は足利家あたりが爵位求めて拒否されたとか、不遇な時代を迎えたので
対照的かも。
613 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/12 03:26
614 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/12 04:14
平島さんの方だろ
あと自称義昭の子孫もいたらしいが。
平島公方のほうだね。
子爵は下野の喜連川さんのほう。
616 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/12 23:37
名門スレより引用。
455 :無名武将@お腹せっぷく :04/06/11 22:48
>>454 系図の信憑性を問われたという説もある>岩松、由良
457 :無名武将@お腹せっぷく :04/06/12 21:18
>>455 【横瀬・由良家】
源義家−義国−新田義重−義兼−義房−政義−政氏−基氏−朝氏−
義貞−義宗−横瀬貞氏−貞治−貞国−国繁−景繁−国経−泰繁−
由良成繁−国繁−貞繁=貞長−貞房−頼繁−貞長−貞整=貞通−
貞雄−貞陰=貞靖=新田貞時−貞善
由良貞房−横瀬貞顕−貞国−貞隆=貞臣−貞樹=貞径−貞征=貞固−貞篤
新田義貞−新田義宗−横瀬貞氏・・・、ってとこが信憑性薄いってみたい。系譜引
用による脱線、恐縮。
617 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/12 23:38
458 :無名武将@お腹せっぷく :04/06/12 21:21
岩松新田家は足利家・畠山家とも関連あり。
源義家−義国−足利義康−義兼−畠山義純
源義家−義国−新田義重−義兼−娘
義純は初め新田義兼の娘婿となり岩松次郎と称するが、後に畠山重忠の未亡人と結婚
し畠山姓を継ぐ。
畠山義純−岩松時兼−経兼−政経−経家−直国−満国=満純
満純は新田義貞の三男義宗の次男。
岩松満純−新田家純−明純−尚純−昌純=氏純−守純−豊純−
岩松秀純−富純−孝純−義寄−徳純−道純−新田俊純−忠純−義美
618 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/13 13:47
>>616 >新田義貞−新田義宗−横瀬貞氏・・・、ってとこが信憑性薄いってみたい。
義宗と貞氏の繋がりが怪しいわけ?
>>617 >義純は初め新田義兼の娘婿となり岩松次郎と称するが、後に畠山重忠の
>未亡人と結婚し畠山姓を継ぐ。
血筋は足利、家柄は新田……と思いきや、畠山氏って桓武平氏秩父氏の
流れを汲んでなかったっけ?
620 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/13 19:45
新田官軍ってどんなもんだったんだ?
621 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/13 21:55
622 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 00:35
>>620 しかし、そんなに武士集まらんのじゃないか?
623 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 16:16
食い詰めた連中とか乗ってくるんじゃないの?
新田本家の冷遇に業を煮やした俊純に加勢するくらいのことはしそう。
しかも、薩摩のお声がけだしな。
624 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 16:49
>>617 >畠山重忠の未亡人と結婚
確か重忠の娘と結婚したという説もあったような・・・
仁井田徳島
626 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 20:51
627 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/15 05:07
>>615 足利多いからな...畠山系もあるんだろ?
628 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/15 13:01
>>610 六角もそうだろう。
確か幕末に重税に耐えかねた領民が田中正造をリーダーに騒動起こしたはず。
田中正造のその後は中学生以上なら歴史の授業で習っているので省略。
629 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/15 13:19
徳川家康って源氏じゃないんだろ?
○○源氏だったという事はないね。
元々藤原系で征夷大将軍に際して新田後裔得河が祖と僭称した。
631 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 12:36
>>630 家康の祖父の清康が言い出したことなので家康オリジナルではないが。
632 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 13:00
武家で力がある人=源氏の総領って感じだったんだろうな。
実際、源義家あたりも、清和天皇の子孫というのはかなり眉唾だしな・・・・・
略して源氏といえば清和源氏とか陽成源氏と思われがちだが、
別に他の源氏でもいいと思うけどなぁ。
なんで清和と陽成が頭領とするのがその後の伝統になったのだろうか。
634 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 21:13
>確か幕末に重税に耐えかねた領民が田中正造をリーダーに騒動起こしたはず。
幕末??????
正確には明治の足尾銅山の鉱毒事件のことだね。
まあこのスレ的には関係ないから、みんなスルーしていただけだと思う。
>>635もスルーしてあげようよ(^^;
637 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 11:01
638 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 11:18
640 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 17:30
>>636 スレ違いだけど、田中正造は幕末というか維新のころ(明治元年)に領主の六角氏の悪政に対して住民運動を起こしてしばらく投獄されている。
そのことから、地元住民の信望を集めて自由民権運動に参加して国会議員となり、その後足尾鉱毒事件に関わってくる。
>>640 それがどうした?
スレ違いならsageでやれっての。
642 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/18 23:53
>>632 眉唾が正統性を主張し合ってるようなものw
643 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/20 17:40
644 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/20 21:09
>>632 義家あたりなら貴族制度が一応機能していたらしいから僭称は無理だろう。
645 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/20 23:03
八幡太郎って何かいいっすね
646 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/21 21:56
647 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/21 22:53
由良って一度改易されてるよね?
648 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/22 21:42
だから何?
649 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/24 06:57
650 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/24 14:43
世良田次郎三郎
茶屋四郎次郎
652 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/27 01:50
http://mentai.2ch.net/history/kako/962/962007739.html 7 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/06/27(火) 09:27
得川でなく“徳”川にした理由は佳字を選んだためらしいよ。
実際の世良田郷の地名は得川だけど、音を通じて佳字で表現するのは当時ままあることでした。
新田氏族の得川氏も文書によっては徳川としているものもあるようです。
酒井も当初は坂井でした。
織田本家の家老坂井大膳もその一族。
得川が衰退した理由は、後南朝にかたいれしたためです。
得川一族は新田、脇屋や尹良親王などとも婚姻関係がありました。
最後の得川(世良田)姓で確認できる親季の母は吉良氏で、
その関係で系図を繋げたという説がありますね。
後南朝の子孫として代表的な大橋(氷室)や大河内(後に松平)などとも初期の松平氏は婚姻関係がありました。
他に「岡崎市史」で考証されてる畠山氏の一族の和田氏との関連も怪しい要素ですね。
>4
征夷大将軍になる前にすでに松平氏は世良田姓を仮冒してます。
家康の5代前の親忠から3代前の信忠までは世良田次郎三郎を
親忠の父の松平信光からもう源朝臣を名乗っていますね(萬松寺本尊の台座銘)。
まったいら氏は結構奥が深いな
654 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/28 23:16
>>652 >最後の得川(世良田)姓で確認できる親季の母は吉良氏
松平氏の源氏詐称にも手を貸してなかったか?>吉良氏
655 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/28 23:26
656 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/29 02:16
山師の棟梁って説もあるな
657 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/29 12:38
>>654 だから、上野介は「高家筆頭」なんだろう。
658 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/29 16:26
>>657 だからも何も、吉良様は足利氏流の中でも一、二を争う名門やんけ。
659 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/29 19:57
今川も吉良の分家みたいなものだしな
>>657-658 赤穂の田舎侍など本来足元にも及ばないわけで……ホント、お気の毒なことです。
661 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/29 22:20
>>652 得川家康・・・う〜む、どうだろうねぇ?
662 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 01:07
>>661 「得川慶喜」だと何となく縁起良さそうな気もするw
663 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 02:11
松平は賀茂氏という説もあるようだが
664 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 04:24
室町期に賀茂朝臣と称してたとか
葵紋はもともと賀茂氏が多く用いていたものとか
そういうのだろ。日本史板の十六松平スレで前に語られてたぞ。
666 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 00:52
667 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 01:16
669 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 17:40
新田流というと里見氏から分かれた鳥山氏、大島氏から分かれた大井田氏、脇屋氏
などがあるよね?
670 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 17:45
里見ってホントに新田氏流なの?
671 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/02 20:02
>>669 それって庶流のそのまた庶流ってことになるな
>>668 ググッてもあまり有力な情報がないね>額戸氏
673 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 01:00
>>665 http://www.harimaya.com/kamon/column/aoi.html 葵は、京都にある加茂(賀茂)社の神草で、祭器の模様に付けられ神紋
として扱われた。加茂社の祭礼である葵祭の神事にも用いられ、冠・牛
車・桟敷の御簾などが、葵で飾られる。そして、加茂社の神官が家紋とし
て用い、賀茂神社の氏子や当社を信仰する家々の家紋として用いられる
ようになった。加茂社の由緒については諸説あって不詳としかいえない。
別雷神社(上社)と御祖神社(下社)とに分かれ、総称して加茂社と呼ば
れる。
葵には何種類かあり、紋章として用いられているのは双葉葵で、ウマノ
スズクサ科の多年生ツル草。短い茎に二枚のハート形の葉と、薄い紅
紫色の花をつける。その双葉葵の葉や花が図案化された。双葉葵は別
名加茂葵とも呼ばれているが、これは葵祭の神事に用いられるからであ
る。現在、葵といわれているのは立ち葵のことで、葵紋の双葉葵とは別
のものである。
上・下賀茂社の社家・鴨氏は、山城国葛野郡賀茂郷に在住した土豪・
鴨県主の後裔である。賀茂県主・葛野県主・葛野鴨県主などとも文献
に記される。神武天皇の東征に際し、熊野路を先導して功績をあげた
というヤタガラスの伝説がある。このヤタガラスこそ建角身命で、これが
鴨県主の遠祖であると伝える。鴨県主は大化以前から京都の賀茂神
社の祠官であった。葵紋を用いる神社では、洛西の松尾大社、近江の
日吉大社などが知られている。
674 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 01:01
>>673の続き
家紋の図案として最も古いものは『見聞諸家紋』にみえる西田氏の葵紋
で、写生的なものである。西田氏は丹波の武士で、丹波の国神は玉依
日売の母神伊可古夜愛媛とされ、古くから加茂社が勧請され、加茂厨が
おかれていたことから、西田氏は加茂社の氏子・崇敬者として葵を家紋
にしたといわれている。
また、三河から伊豆にかけて、加茂という地名が多く残っているが、これ
は加茂社が勧請されたり、加茂社の神領があったことに因んでいる。そし
て、この地方の豪族である本多・伊奈・島田・松平氏などが、いずれも葵
紋を家紋としていた。徳川家の粗といわれる親氏は三河に流れてきて松
平氏の婿となり、その子の信光は加茂朝臣を称したという。そして、家紋
も葵紋を受け継いだのだといわれる。
徳川氏の葵は「三つ葉葵紋」として有名なものである。そもそも、松平氏
に入る以前の徳川氏は新田氏の一族であったといい、本来の家紋は、
広忠の墓や日光東照宮などにみられる「銀杏紋」であったといわれてい
る。家康は天下をとると葵紋の使用を禁じたため、島田・伊奈氏らは葵紋
の使用を差し止められた。ところが、本多氏はその後も葵紋を用いた。本
多氏は、もと加茂神社の神官であったと伝えられ「立ち葵紋」を用いた。
長野善光寺の寺紋も「立ち葵紋」だが、これは本多善光という人物が寺
を開いたことによるものである。
家康は本多忠勝にも葵紋を用いぬようにいったが、忠勝は「当家は神代
以来、京都の賀茂神社に奉仕仕る賀茂族、それゆえ賀茂の神紋である
葵紋を用いるのは当然のこと。殿こそ本宗新田氏の「大中黒」に代えられ
てはいかが」といいはなったので、家康もそれ以上は口にしなかったとい
う。
675 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 01:02
>>674の続き
ところで、本多氏は系図によれば藤原氏の後裔を称しているが、忠勝の
言葉によれば賀茂氏の後裔が正しかったものと思われる。江戸時代、
徳川家の葵紋の権威が高まり、他氏はもとより、同族の松平氏も葵紋の
使用を憚った。かくして、水戸黄門の「この紋所が目に入らぬか」の決め
文句でも知られるとおり、徳川氏専用の紋として絶対的な存在となった。
葵紋を使用した武家としては、室町時代、古河公方に仕えた簗田氏の
「立ち三つ葵」が知られ、『見聞諸家紋』にもみえている。しかし、この家
紋は「立ち三つ沢瀉」が正しい呼称なのだといわれる。
676 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 07:01
加茂と賀茂ってどっちが正しいんだ?
677 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 22:02
賀茂じゃないの? 略して加茂では?
古河公方に仕えた簗田氏ってあの怒った顔してる奴か
679 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/07 03:44
>>678 あの地域の武将ってみんな同じような顔してない?
681 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/08 03:11
源氏長者+征夷大将軍=国王>関白
という図式だったのね・・・
>>681 「その時歴史が動いた」ネタかいなw
しかし、新田氏流を名乗り始めたのは関東移封後って……そうなんか???
683 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/08 03:57
>>682 新田氏の末裔を名乗るより、北条旧臣を仕官・登用したり、
土着勢力の既得権益を保護したりする方が効果的だったと
思うけどな。
684 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/09 21:01
685 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/10 00:08
>>683 確か家康は初期の段階で寺社の既得権を保証したはず
686 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/10 15:05
>>675 浄土宗の寺院では「葵」の紋を許されたところが多いな。
ウチの旦那寺?もそうだよ。
687 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/10 15:16
>>682 たしか、五カ国時代に里見氏に向かって
新田氏の同族であることを主張した
書状があったんじゃなかったっけ?
だからもう少し早いと思ってたんだけど。
>>687 世良田姓を名乗っていた過去には全く触れんかったね
>>687 どっちも「なりきり」というのが笑えるなw
>>688 確か世良田氏の本物って別にいたんじゃなかったか?
691 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/10 21:40
>>690 111 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/18 23:51
本物の世良田氏の末裔は、戦国期に武田家や佐竹家に仕えていたらしいね。
世良田氏は会津真船郷に住して真船姓を称していたが、14代当主の祐元は葦名
家臣・伊藤時綱に仕え、葦名義広が常陸に逃れたときに共に逃れている。
祐元は仏門に入って宥元と名乗り、世良田長楽寺において法伝授を受けると共に、
世良田氏の系図を与えられたという。
なお、祐元の子・祐綱(宥円)以降、江戸期を通じて世良田姓を名乗り続けたとか。
これじゃないの?
692 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/10 22:03
その長楽寺の開基は「世良田」義季だよね。
長楽寺住持の書状にも「世良田地頭御建立長楽寺」とある。したがって、開基で
ある義季の本拠は世良田郷にあったのだろうし、得川姓ではなく世良田姓を称し
ていたことはほぼ確実と言える。
その後、義季は庶長子の頼有に得川郷を与え、その頼有の女が岩松経兼に嫁
し、岩松政経をもうけている。頼有は政経に得川郷、横瀬郷、下江田村を与えて
おり、得川郷は家康が祖とした頼氏に与えられてはいなかった・・・
693 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/11 00:31
そりゃ、是が非でも岩松家の系図が欲しかったわけだ
>>693 いくらプライド高いからって家康の前で聞こえないふりしちゃマズいだろ…
695 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 09:30
家康が三河守任官時に新田源氏を名乗りたかったところ
なんらかの理由で藤原姓の徳川になってしまったのだという経緯が
近衛前久の書状からわかっていたはず。
本当は世良田が名乗りたかったもんだから
後付けで義季が得川を名乗ったことにして
こじつけたのではないかという気がする。
696 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 18:11
徳川に比べると由良あたりはまだ「疑い」の余地があるって感じだね
697 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/11 23:12
>>696 明治政府はクロorグレーと見たんでしょ?
新田義宗のあたりが「?」なんでしょ?>由良
700 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/13 03:41
>>689 里見の場合は、美濃の里見氏の流れを汲んでるというけど、実際どうなんだろね?
美濃でも奥州でも新田氏流には変わりないのでは。
702 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/14 00:17
>>700 全く別系統の里見さんってわけじゃないんだろ?
703 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/14 03:44
越後里見氏もお忘れなくw
里見越後
705 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/14 15:52
706 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/14 20:12
>>705 それは里見義員のことだろ?
確か義尭に討たれた義豊の遺児が越後国中澤に逃れたって話ね。
しかし、それ以前から越後国には大井田氏、烏山氏など里見一族の所領が
数多く存在していたはず。
707 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/14 21:34
里見伊賀五郎
708 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/14 23:46
>>706 そういう地縁を頼って落ち延びたのでは?
710 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/15 06:11
>>706 細かいことですけど、「鳥山氏」だと思いますが???
711 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/15 23:20
712 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/16 15:52
出羽のほうに里見民部とかいうのいなかったっけ?
713 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/16 21:55
714 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/17 01:48
元は一緒なんでしょ?
715 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/17 11:57
里見忠重
出羽といえば出羽前田家とかね。あ、こりゃ自称秀郷流か。
そういや東日本に松平家あるね。
717 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/18 17:18
718 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/18 18:45
720 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/18 23:28
慶長5年の役のときに上杉方の上泉モンドを破ったらしいぞ
子孫はどうなったのだろう
721 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/19 12:29
>>720 モンドって倅の方でしょ?確か討ち死にしたよね
722 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/19 12:51
ttp://www.geocities.co.jp/Playtown-Queen/2954/mogami.html より引用。
>里見民部 (?〜1614?)
>安房里見氏の一族とも、大崎氏家中の里見氏の一族ともいうが定かではない。
>兄内蔵助とともに上山満兼の家臣となるが、義光の誘いに乗り兄と満兼を謀殺。
>満兼の所領二万千石を与えられ出羽合戦でも活躍するが、最上家中の発言力
>を強めるために義光次男家親を当主にしようと企む。義光長男義康が父とうまく
>いかないことを利用し、義康を殺害する。激怒した義光は斎藤光則に真相究明
>を命じ、強い危機感を覚えた里見親子は出奔。他家に仕官しようとするが義光
>からの依頼でそれもできず、身を寄せた加賀前田家から義光のもとに引き渡さ
>れてしまう。が、その途中に盗賊に襲われ親子共々殺されたという。斎藤光則
>の手の者が盗賊を装ったのだろうか。
>里見正光 (?〜1614?)
>越後守。里見民部の子。義康謀殺に荷担し、最上家から追われる身となる。
>前田家に身を寄せるが、家康の口添えもあり最上家に引き渡されることになる。
>その途中、盗賊に襲われ父とともに殺されたという。自刃させられたともいい、
>その日は慶長十九年一月という。
724 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/19 14:06
>>723 大崎の家臣というと里見紀伊守隆成だろ?
確か家老の1人だったと思うが、大崎家内乱の火種になったのは隆成と
その子・新井田隆景、それに隆成の弟・大膳之亮だったよな
何かトラブル続きですな・・・
726 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/19 16:53
最上家、大崎家に仕えた里見氏ってのは、南北朝の頃に奥州に移った里見氏の子孫だろう
から一応、根っこは一緒なわけだ。
727 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/19 17:18
里見薩摩守
728 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/19 18:47
729 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/20 01:39
730 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/20 01:55
しかし・・・各地の里見氏って安土桃山〜江戸初期にかけて根こそぎあぼーんしてるなw
>>730 まさに受難の時代か・・・
結局、小禄の直参か陪臣止まりだったわけだろ?
732 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/20 15:30
江戸期における里見氏の動向ってどうなの?
734 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/21 17:01
735 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/21 19:14
>>732-734 このあたりで語られてるね・・・
58 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/16 02:11
しかし、言い掛かりもいいところだよな・・・
「大久保忠隣に兵糧米を送り、館山城を増改築し、浪人を召し抱えて謀叛を企てようとしている」
というのが表向きの理由だろ。
安房9万石を収公し、下総鹿島3万石の替わりに伯耆倉吉4千石・・・
大坂の陣の前(慶長19年)だからって、里見家は豊臣恩顧大名というにはそれほど豊臣家から
恩を受けているわけでもないし。
結局、3年後にはその4千石すら収公・・・惨すぎ・・・
59 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/16 02:37
>>58 倉吉にははじめ国替えと称して、表高3万石ということで入封した
ものの実高は4千石に過ぎなかった、という話でしょ。
そのうえ、1617年にはその所領すら召し上げられて、僅かに百人
扶持を与えられただけ。
736 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/21 19:15
>>735の続き
60 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/16 03:27
>>56 忠義には正室である大久保忠常女との間に2人の女子があったほか、妾腹と
思われる男子3人(里見豊後、山下休三、広部忠三郎)がいたようだね。
里見豊後(利輝)は、改易時には僅か2歳で、家臣に預けられて安房に残った
とされるが早世。その子孫が間部家に仕え、家老職を世襲している。
また、山下休三(貞倶)は幕臣表坊主として150俵を与えられ、子孫は幕府
御家人として200俵を給されていた。
広部忠三郎(義次)は若狭小浜に住したという。
61 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/16 03:36
>>56 >>60を見るに「改易後」じゃないだろ……
ホントに存在自体を無視しただけだな
あるいは幕府に届け出をしていなかったのか?
737 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/21 19:16
>>736の続き
62 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/17 16:29
幕府の華麗なる取り潰しテクニックに引っ掛かっちゃったわけね
63 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/17 16:38
なんか神社の宝剣を奪ったり国内の乞食とか盲人に辻斬りしたらしいな。
しかしこの辺も嘘だろうけど。
ただ元は大久保長安が私腹を肥やしたことがいけないのだろうな・・・
64 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/17 17:49
>>63 罪状なんてあとでいくらでも取り付けられるからね
739 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/21 19:46
>>738 江戸城中で大名の世話役を務めるのが表坊主。
したがって同じ法体をしてはいるけど、茶坊主とは職務が異なってくる。
>>736 彼らはいずれも側室との間の子どもたちだよね。
忠義と正室との間には2人の女子がいたという。姉は旗本・久永家(4千石)に、妹は
大久保忠常の養女として旗本・木下家に嫁したとされている。
741 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/22 03:09
里見利輝(忠義の一子)は安房で家臣・印東氏によって養育され、正保元年
(1644)に病没しているな。享年31歳。
この利輝の孫・義旭が宝永2年(1705)に間部家に仕官した。
ちなみに家禄350石、中老という座にあった。文久元年(1861)に義和が鯖
江に移住するまで江戸詰めだった。
742 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/22 13:18
>>741 印東氏の中には喜連川足利家に仕えてた香具師もいるね
743 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/23 03:07
>>742 556 :無名武将@お腹せっぷく :04/05/26 13:59
>>534-535 http://members.jcom.home.ne.jp/2131535101/musasi6.htm >◎足利国朝(古河公方・足利義氏の養嗣子)が下野喜連川に移ったときに従った家臣◎
>
>高修理頭 伊賀金右衛門 相馬靫負 渋江弥五郎 梶原平右衛門 堀江彦右衛門
>印東内記 柴田某 福田某 後藤内蔵助 大草茂右衛門 高塩某 星某 高橋某
>石崎某 里見主馬 高城左衛門 浅沼友左衛門 水戸某 武田一郎右衛門 海老名某
>佐藤某 土屋織部 小俣某 大谷某 江戸某 芦屋某 一色刑部 相木与右衛門
>石塔某 中村四郎兵衛 椎木某 伊賀伊勢守 鴻野修理 山名豊前守 国井某
>山名采女 逸見三郎
まあ、この中には古河足利家の家臣が多く含まれているようなので、純粋な小弓
足利家の家臣となると......どうなんだろね。
744 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/23 14:38
ttp://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku23.htm 里見氏に仕えた印東氏もあった。永享12(1440)年の「結城氏朝の乱」では、足利
持氏の遺児の足利春王丸・安王丸が下総結城城主・結城氏朝に擁立されて挙兵し
ているが、このとき、里見家基が氏朝に味方して結城城に入ったとされる。戦いは幕
府側の勝利に終わり、結城氏朝は自害し、春王丸兄弟は捕らえられて美濃で斬首さ
れた。春王丸11歳、安王丸10歳。
里見家基は結城落城の時、嫡男・義実(伊賀守)を所領のある上総国に落とさせ、義
実は安房の安西氏の庇護のもとで成長したあと、安西氏を家臣に組み込んで独立し
た。このときに足利氏の被官だった印東氏も所領のある上総へ同行したのかもしれな
い。里見家中における印東氏の家格は高かったようで、『里見安房守忠義公家中帳』
によれば、印東采女は300石を知行し、家老・武具寺社奉行を兼任していた。ほか、
印東六右衛門(中小姓頭・150石)、印東河内(馬乗八人衆・200石)、印東又七・印
東長次郎・印東内匠(百人衆・50石)、印東惠斎(茶道・50俵)があった。
だそうです。
745 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/23 18:16
>>745 「なんちゃって山名説」ってあったよなw
747 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/23 23:49
748 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/24 00:55
749 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/24 18:29
>>735 >倉吉にははじめ国替えと称して、表高3万石ということで入封した
>ものの実高は4千石に過ぎなかった、という話でしょ。
ひでぇ話だなぁ・・・
750 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/24 19:10
>>749 表高と実高がまったく違うというのは珍しくないとはいえ・・・・な。
徳川吉宗が綱吉から3万石を賜ったことがあったという話があるが、
実際には、1000石に満たない飛び地だらけの土地だったという話はあるが、
あれは、0からの話だから、前提条件が違うし。
752 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/25 21:38
>>751 じゃなかったか?知行取じゃなかったよね?
>義康の死後は、子忠義が家督を継ぎましたが、妻の祖父大久保忠隣の改易に連座して、
>慶長19(1614)年領国安房を没収され、伯耆倉吉三万石に転封となってしまいました。とは
>いっても、これは事実上の配流で、元和3(1617)年には三万石を召し上げられて百人扶持
>となり、同8(1623)年家名再興もかなわぬまま、病没しました。
>彼は正室大久保氏との間に二女がありましたが、男子がなかったため家名断絶となりまし
>たが、実はこの二女の他にも今知られるだけで三人の男子がいたといわれています。
>まず豊後利輝は、忠義が倉吉に改易になった際、2歳でしたが、家臣に託されて房州に残
>り、世に出る機会のないまま31歳で没しました。その孫義旭は上州高崎藩主間部詮房に仕
>え、次の義孝は越前鯖江藩主となった間部詮言の家老となり、以後鯖江藩の家老職を世襲
>して幕末まで続いたそうです。この義孝とその子義徳、孫義豪は、祖先里見氏の事績を熱心
>に調べたり、各地の里見氏の史跡を整備したりしているそうです。
>次に山下休三貞倶は、山下休三という人物の娘と忠義との間に生まれ、寛永11(1634)年150
>俵取りの表坊主として幕府に召し抱えられたとのことですが、仮にもその数十年前まで国持
>大名であった忠義の子としてはあまりにも待遇が低く、ちょっと信じられません。滝川恒昭氏
>は『すべてわかる戦国大名里見氏の歴史』の中で「庶流の出身だったのではなかろうか。」と
>書いています。また同書によると、貞倶の子孫で幕末の当主里見啓次郎は二百俵取りの御
>家人で、その子義氏は維新後主家に従い駿府に移住するも、廃藩置県後は零落して房州に
>移住し、船形の正木家に寄寓し、さらにその子孫は富浦の代田家に寄寓し、大正期以降は行
>方不明となったそうです。
>もう一人は忠三郎義次といい、母は広部高次という人物の娘で母方の姓を冒して広部と称し、
>のち若狭国小浜に移住し、その子孫は天明年間(1781-1789)に里見姓に復し、現在に至って
>いるそうです。
その他にも君津市の田中家など里見忠義の子孫を名乗る家が何家か存在するとのことです。
754 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/26 10:46
>>750 なぜ御三卿?
吉宗は御三家・紀州藩主の3男坊ということで綱吉から所領を与えられたのですが。
756 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/26 15:52
>>753 子孫を名乗るのはある意味、当事者の勝手なんだけどね・・
>>753 >して幕末まで続いたそうです。この義孝とその子義徳、孫義豪は、祖先里見氏の事績を熱心
>に調べたり、各地の里見氏の史跡を整備したりしているそうです。
江戸時代に各地の史跡整理とかって、簡単な仕事じゃなさそうだけど。
758 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/26 23:53
>>757 確かに江戸詰めの家老ってそんなに暇なんか?という気はするな
>>758 そこまで暇じゃないだろ・・・・と言ってみる。
暇かどうかよりも、他藩への出入りが厳しい時代だからな。
幕府のお許しをもらわないと。
761 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/27 16:24
>>760 安房って江戸期は譜代大名の所領?それとも旗本の所領?
旧領の土民どもと談合して何を企むか!ってな話になる?
764 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/28 02:32
765 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/28 14:22
766 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/28 16:56
勝山(酒井家)・館山藩(稲葉家)などがあったけど、いずれも1万〜1.2万石
程度の小藩だね。
まあ、江戸湾防備という性質上、安房の地に数万石規模の大名を置くというの
は考えにくかったのだろうね。
767 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/28 22:09
やっぱり里見家の末裔ってことになると、藩内でも一目置かれるのかなぁ?
768 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/29 02:29
>>767 クラスでも○○の末裔っていう香具師がいたら一目は置かれないまでも
「へぇ〜」ってことにはなるでしょ?
武家社会なら尚更のことじゃないの?
770 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/29 17:03
>>767 利輝は家臣に養育されたとは言いながら、立場上は幕府に届出がされて
いない「?」のつく子でしょ。
間部家に仕えたのは利輝の孫の代だけに・・・
「あの御仁は里見家の血筋の方らしいですよ」という感じだったんじゃない
かな?
戦国の混乱期じゃないんだし、基本的には伝えられてる通りと考えていいんじゃないの。
772 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/30 09:55
773 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/30 16:07
774 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/30 22:46
>>757 どの程度のことをしたのかっていう記録は無いのかな?
775 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/31 01:55
>>774 h**p://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/kanzenban/kan_6shou/k6shou_1/k6shou_1.html
>忠義の子孫たちは、江戸時代も中期を過ぎた頃になると、里見家ゆかりの寺院や
>旧家臣のもとを訪ね、あるいは遠く忠義配流の地倉吉までおもむいて、先祖の足
>跡をたどり、系図を求め、資料や伝承を集めてまわるようになります。その頃は家
>譜の編纂が盛んになってきた頃でもありました。
>まず鯖江藩の里見義孝が精力的にゆかりの地を回りはじめました。間部家に仕え
>た義旭の子で、里見義尭と同じ「権七郎」と名乗っています。元禄六年(一六九三)
>に生まれ、宝暦九年(一七五九)に六十七歳で没しました。杖珠院に墓参し、延命
>寺に先祖代々の位牌を納め、また倉吉の大岳院にも忠義をはじめ家老の堀江頼
>忠そして殉死した家臣の位牌を納めています。延享三年(一七四六)には義頼の
>墓がある青木(富浦町)の光巌寺を訪ねて義頼の肖像画の修理もしました。
776 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/31 01:56
>子の義徳も父とともに先祖の墓へ参り、また里見家の記録を収集しています。ま
>た大岳院にあるもっとも大きな墓は、義徳が建てた父義孝の墓だということです。
>次の義豪も倉吉と安房を訪れています。文化十二年(一八一五)には祖父義孝
>の遺髪を延命寺に納めて、ここにも義孝の墓が建てられました。文政九年(一八
>二六)にも安房を訪れていて、旧家臣の田山家や高橋家を訪ねて先祖義康の古
>文書を見、また高橋家には里見家でつかう菊桐紋の提灯を贈り、延命寺への墓
>参の名代を依頼するなど、先祖の地の人々との交流を深めていきました。倉吉に
>も子の義嗣とともに文政十一年に訪れ、里見忠義にまつわる話を大岳院の住職
>に記録してもらったほか、記念に忠義ゆかりの槍を譲られています。
777 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/31 01:57
>義嗣の子義和も安房を訪れ、明治六年(一八七三)に延命寺を墓参したときには、
>関が原合戦のときに徳川秀忠から里見義康に宛てた書状を譲られています。この
>鯖江の里見家では代々が先祖の墓参と事績調査を続けていたようです。
>また旗本になった里見家でも、弘化から嘉永頃に大御番衆の里見啓次郎義比が
>家臣を杖珠院に遣わして、所蔵の系図を写しています。この義比は竹林義比と名
>乗ることがあります。安房里見家の先祖が新田荘(群馬県)の竹林を所領にした
>頃に竹林氏を称したことを意識しているもので、先祖に対する意識を強くもっていた
>ことがわかります。
778 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/31 10:45
忠義の子孫と称する家はすべて疑わしい。
すべて自称にすぎず、何ら確認できない。
だからってどこの馬の骨ともわからん奴がいきなり家老になったりはしないだろ。
当時の人が信用するくらいの信憑性はあったということだ。
別に積極的に疑うべき矛盾点があるわけでもなし。
安房・倉吉の里見にあんまり肩入れすると、徳川批判になりそうだな。
781 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/31 20:19
782 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/01 04:17
>>779 家柄で家老になった訳ではない。
どこの馬の骨ともわからんやつが公家になったり、関白になったりできるんだよ。
戦国の混乱期じゃないんだし…
>戦国の混乱期
・・・うーん・・・
戦国時代じゃなかったら秀吉は関白にはなれないだろ。
786 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/01 12:32
>>779 多少信憑性を持たせるような里見グッズとか持ってたんじゃないの?
「自称子孫」じゃ間部さんのところだって信用しないでしょ。
787 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/01 19:40
里見グッズ
里見グッズ
里見グッズ
里見グッズ
788 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/01 23:56
789 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/02 02:08
>>782 家柄だろ。
間に入った人間が「里見家の子孫」ということで間部家に売り込まなければ
仕官なんてできないだろが。
>>780 改易大名の子孫が名誉を回復するって例は少なくないからね。
しかも、忠義の孫の代なわけで、それほど障壁があるようには思えないんだが。
里見先生
里見家の旧臣を名乗る連中を引き連れているのが
登用の決め手じゃないの?
本人や家臣たちが使える連中なら、万一贋物でも損はない。
∧_∧
(∩´∀`∩ 酒井里美ちゃん ♪~
| /
( ( /
(_(_)
794 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/03 00:36
>>792 仕官した当時の間部家って数百石の旗本なんだけどね・・
795 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/03 04:27
>>794 ってことは、旧臣といってもそんなに雇えんわな
796 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/03 18:47
間部って綱吉の寵童じゃなかった?
>>796 違うって…詮房は家宣の男色の相手(…とされている)。
間部は家宣の側室の月光院と噂がなかったっけ
男色の話同様、本当かどうか分からんが
799 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/03 23:06
甲府の徳川家は積極的に浪人などを仕官させてたようだね。
間部も父親の代に徳川家に仕官したとか。
>>799 甲府徳川家は、家宣が綱吉の後継者として西の丸に移った際に消滅し、
甲府藩士全員が幕臣に編入されている。
館林藩から綱吉が率いてきたのが約500名、これに対して家宣が率いて
きたのは800名弱だったという。間部家もこのとき幕臣に編入された。
>>798 詮房は1666年生まれ。家宣に召し出されたのが1684年で19歳のとき。
したがって家宣の男色の相手というのはやや「?」が付くという。
桜田御殿の用人から西の丸用人、家宣の将軍就任と同時に側用人に
出世したが、その出世ぶりから常に周囲から悪評を立てられている。
幼少の頃に猿楽師・喜多七太夫の弟子だったことから、「能役者上がり」
と陰口を言われ、また容姿端麗であったことから、周囲がそのよう
な男色話を作り出したのかも知れない。
801 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/04 04:05
>>800 新井白石は世間のそれとはちょっと違う評価をしてるみたいね。
802 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/05 08:34
803 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/06 05:06
家宣って結局、一度も甲斐に入国しないまま将軍になったんだな
804 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/07 00:02
>>802 「人間として優れており、君子肌で、将軍補佐のために誠心誠意尽くした」といった
評価を与えていたらしい。
805 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/07 00:11
そもそも新井白石は間部と組んで幕政を補佐してたんだろ
806 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/07 21:01
白石って人物評が辛いからね・・
807 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/07 22:37
みたいね・・
>>798 月光院(家継生母)は間部詮房−新井白石を支持していたからね。
対抗勢力の天英院(家宣正室)や幕府有力者が在らぬ悪評を撒いた可能性は
あるんじゃないの?
810 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/08 01:03
>>809 まあ、地位を追われた香具師はどうにでも酷評できるしな
何か・・・脱線してません?
絵島事件なんかは、月光院派と天英院派の対立がもたらした事件
の最たるものじゃないの?
813 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/08 01:58
里見さんの子孫は「暴れん坊将軍」なんて見ていられないなw
815 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/08 03:09
>>813 吉宗って天英院が推挙したんだっけ?
となると、主君が権力の座から追われたのをどういう思いで見ていたんだろ。
しかも里見家は江戸詰めの家老職だしな。
h**p://okhome.fc2web.com/castle/sabae/sabae.html
>初代の鯖江藩主となったのは、間部詮言である。間部家の祖は詮房であり、
>甲府宰相徳川綱豊(後の六代将軍家宣) に仕え、宝永7年には上州高崎5万
>石の城主になるなど、異例の昇進を遂げた人物である。しかし吉宗が8代将軍
>になると、詮房は老中職を解かれ、越後村上5万石へ移される。死後弟詮言が
>家督を相続するが、直後の享保5年9月12日鯖江5万石への移封が命じられた。
>詮言が入部した時の鯖江は、小屋掛けのようなものが17軒、通りの向かい側
>は小浜藩領で、寺(誠照寺)領・福井藩領・小浜藩領が入り組み、陣屋や侍屋
>敷を建てるべき場所はなかった。鯖江村全体でも27軒、人口は200人余りと惨
>憺たる状況で、移ってきた150名の家臣たちは、二里も三里も離れた地区の農
>家を借りなければならなかったといわれている。明らかな左遷である。このため、
>今立郡に在った鯖江藩領と小浜藩の東鯖江村を幕府の許可を得て交換取得し、
>ようやくまとまった地域を支配下に置くことが できた。
酷い話だよね・・・
吉宗ってけっこう陰険なのね・・・
>>815 間部も吉宗を推していたって説あるだろ?真相は定かじゃないが。
818 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/08 17:25
吉宗の将軍就任後、天英院も月光院も厚遇されてるよな。
それによって両陣営のパワーバランスを保ったんだろうけど、間部は更迭
されたうえに左遷同様の移封だものな・・
819 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/08 19:18
間部って独身って聞いてたけど、妻帯してたの?
821 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 02:58
弟が相続したってことは直系の子孫がいなかったわけだな。
しかも、月光院と噂になるんだから・・・
822 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 09:10
>>798 噂を真に受けると、詮房は上様と(;´Д`)ハァハァしたうえに、上様の側室とも
(;´Д`)ハァハァしてたわけね……
823 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 10:04
>>822 その側室は詮房の失脚後、吉宗との噂もあったりする・・・
月光院最強伝説
月光院は浅草のお寺の娘だったんだよね
825 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 10:31
なんか本当かどうか分からない里見の末裔話から飛躍しすぎ…まあ、徳川が新田の末裔とすれば幕府260年間全部が関連という強引解釈もあろうが。
新田の話題をこの板でやることがそもそも間違ってるのかもしれない
だって…
船田家(?)
大井田家(?)
鳥山家(?)
大島家(?)
世良田家(?)
得川家(?)
主だった分家が全部不明しかも主家筋が一番あやしい
新田家(断絶)…由良・岩松(?)
里見家(義実以降?)
徳川・松平は論外
結局戦国期にはっきりわかるのは大館家と山名家だけなんだよな
ぶっちゃけ山名スレでよかったかもw
>>827 そもそも系譜に「?」が付くのを承知でここまで展開してきたわけで、
そこまで言うなら、このスレとは別に「山名スレ」を立てて下さい。
それでは。
829 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 04:04
>>827 その不透明さが想像力を掻き立てるんじゃねえか
今さら何を言ってやがる
830 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 11:30
832 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 19:11
833 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 20:58
山名だけじゃスレ維持できない事は明白だと思うが。
834 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 04:36
835 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/12 02:39
>>823 月光院ハァハァハァハァハァハァハァハァ!!!
836 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/12 14:47
スキャンダルの似合う女性なのかもな。
確か側近の絵島は役者との色恋沙汰で処断されたよね。
837 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/13 05:01
山名ネタないの?
ない・・
839 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/13 18:45
山名豊国伝説
山名は応仁の乱がピーク。
841 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/15 21:35
細川が20世紀に天下取ったのと比べると、かなり早く没落したよな。
842 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/15 22:18
インポ
843 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/16 01:15
>>841 自分で投げ出したんですけどね・・・まあ、家系なんでしょうけど。
844 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/16 02:06
山名姓のエロ漫画家さがしゃいいんでしょ
845 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/16 04:05
>>840 「六分の一殿」とか呼ばれた明徳の乱以前の方がピークだろ
847 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/16 14:22
宗全の没後、急速に家運が傾き始めたけど、やはり一族の分割相続が
命取りになったのかな?
848 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 02:36
849 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 03:44
>>398 遅レスだが、里見義頼と北条家の婚姻は里見家との内乱の絡みで足利とは直接関係無いし、足利義氏に男子がいなかったのだからあわよくばという考えもあったのでは?
851 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/18 08:22
852 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/18 18:26
>>849 古河足利家は完全に北条家の支配下にあったからね・・・どうだろ?
853 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/18 21:44
>>850−851
足利頼純や宮原公方家が足利義氏死後(嫡系男子の断絶後)に新しい公方に立てられる可能性についてらしい。
854 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/19 02:35
>>853 里見義頼と北条家の婚姻は、これ、和睦と同時に義頼が公方擁立争いから
の事実上の撤退ということを含んでるよね。
855 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/19 12:38
ただ、義頼は北条の傀儡みたいな要素もあったからな…。
安房の家臣団が局面をどう見ていたかじゃないか?
義頼の基幹兵力は彼らだしな。
857 :
>>844:04/08/19 17:47
859 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/19 22:22
し! _ -── ‐- 、 , -─-、 -‐─_ノ
永 あ // ̄> ´  ̄  ̄ `ヽ Y , ´ ). .新 え
久 ん L_ / / ヽ 田 |
に た / ' ' i !? マ
. 無. じ / / く ジ
理ゃ l ,ィ/! / /l/!,l /厶,
じ天 i ,.lrH‐|'| /‐!-Lハ_ l /-!'|/l /`'メ、_iヽ
. ゃ 下 l | |_|_|_|/| / /__!__ |/!トi i/-- 、 レ!/ / ,-- レ、⌒Y⌒ヽ
. ん統 _ゝ|/'/⌒ヽ ヽト、|/ '/ ̄`ヾ 、ヽト、N'/⌒ヾ ,イ ̄`ヾ,ノ!
一 「 l ′ 「1 /てヽ′| | | 「L! ' i'ひ} リ
ヽ | ヽ__U, 、ヽ シノ ノ! ! |ヽ_、ソ, ヾシ _ノ _ノ
-┐ ,√ !  ̄ リ l !  ̄  ̄ 7/
レ'⌒ヽ/ ! | 〈 _人__人ノ_ i く //!
人_,、ノL_,iノ! /! ヽ r─‐- 、 「 L_ヽ r─‐- 、 u ノ/
/ / lト、 \ ヽ, -‐┤ ノ 無 了\ ヽ, -‐┤ //
ハ キ { / ヽ,ト、ヽ/!`hノ ) 意 |/! 「ヽ, `ー /) _ ‐'
ハ ャ ヽ/ r-、‐' // / |-‐ く 味 > / / `'//-‐、 /
ハ ハ > /\\// / /ヽ_ ! │ ( / / // / `ァ-‐ '
ハ ハ / /! ヽ レ'/ ノ > ' ∠ -‐  ̄ノヽ /
{ i l ! / フ / -‐ / ̄/〉 〈 \ /!
860 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 06:41
861 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 10:08
>>856 義頼が古河足利家とどれだけの関係にあったかだよね。
862 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 11:05
>>862 いい加減、他でやってもらえませんかねえ?
864 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 16:14
>>853 小弓御所の忘れ形見である頼純にはチャンスないだろ。
>>864 宮原(足利)晴直にしても、真里谷武田氏に招かれて古河を離れた香具師だからな…
里見領内にいたことはいたが、彼の子孫を擁立しようって動きはなかったし
866 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 17:58
>>861 義弘は足利晴氏の婿なんだが、一説には梅王丸の実母説もあるからな…義頼と古河は逆に不仲?
867 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 18:04
>>863 だってホントのことじゃん
新田ネタだし
868 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/21 08:06
>>866 義康の政治路線が義頼のそれと質的に転換していなかったとすれば、
義頼の狙いは古河公方ではなく、鎌倉公方の再興にあった???
869 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/21 08:19
山名氏の先祖の義範は実は足利義康の庶孫で
矢田判官守義清の庶長子といわれている。
祖父・実父が早く死んだために大伯父の
新田義重が養子したといわれる。
義重の長子は正確には里見義俊(大新田氏)。
だから、彼が新田氏の一門といわれながら、
室町幕府に厚遇されているのは、それが理由。
ある意味岩松氏と同等の立場。
870 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/21 10:32
>>868 古河も小弓も宮原も鎌倉公方の子孫なんだから継承権はあるだろう。
871 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/21 13:26
>>870 誰を担いでそれを狙うかって話じゃないのか?
872 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/21 15:12
新田義重の息子達
長子・里見義俊(大新田氏) 次子・新田義兼(小新田氏)
三子・得川義季 四子・額田経義 五子・義澄 六子・義盛
七子・義光 八子・義佐 養子・山名義範 …以上。
このスレでそんなこと話してる場合か 糞削除人追放のために戦うんだよ おまいら
874 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/21 15:57
義範の実父といわれる矢田判官守義清は
足利大炊介義康の庶長子で、木曾義仲の武将。
義仲の命で備中国に出陣して、平家軍と激戦の結果
針鼠のように矢に浴びられて、戦死した。
875 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/21 16:25
新田って童貞でしょ
876 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 07:50
>>871 義康は小田原攻めの時に足利頼純を奉じて鎌倉を目指したよね。
時代錯誤&状況判断ミスも甚だしいわけだけど、それを考えると義頼も
路線的に言えば小弓御所再興という腹が無かったとも言い切れないな。
877 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/24 08:54
安房ってやっぱり情報伝達の遅いエリアなんか?
879 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/24 15:37
馬加氏のふるさとだし
880 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/24 23:46
>>879 馬加氏は室町中期以後、宗家を倒して千葉家を乗っ取った。
だから、下総じゃん! さすがに馬加メッセなんて使う奴はいないが。
881 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 01:00
馬加氏って頼朝上陸時の馬鹿で
そのまま頼朝に名乗らされたんじゃなかった
882 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 01:24
>>881 馬加氏は下総馬加(現在の幕張)を根拠とする千葉家の分家。
しかも初代・康胤の代で千葉家を乗っ取った。
だから千葉胤富とか「信長の野望」に出てくる千葉家の当主達は馬加氏の末裔。
883 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 01:33
>>869 山名氏が室町幕府で優遇されたのは母系で尊氏兄弟と繋がっていたからじゃなかったか?
確か山名時氏の母が上杉氏で、尊氏の母と姉妹だったような‥‥
886 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 06:06
>>885レスサンクス!
山名義範のことは、さらに独自で関連がある書物で調べる。
ただ、何故か実父とされる矢田判官代義清がキーポイントのような気がしてレスした。
また、義重の子の里見義俊は大新田氏、その弟で嫡子の新田義兼は小新田氏の
家系図もあったようなので…。
887 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 06:30
それにしても日本って、中国と違って全国各地の豪族の多くは、
皇族系(源氏・平氏・橘氏など)や摂政関白系(藤原・菅原諸氏)が
非常に多い!これは、大陸と島国の違いと言いようが無い…。
888 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 06:39
>>869 >確か山名時氏の母が上杉氏で、尊氏の母と姉妹だったような‥‥
まるで、鮮卑系?とされる隋の煬帝(揚広)と唐の高祖(李淵)と類似している。
(どちらも、鮮卑系の北周の名門である独狐氏の姉妹を母を持つ従兄弟同士)
>>887 ある程度調べた経験があるが、主要大名家は25%源氏、20%摂関家+秀郷
10%平氏、残りはその他
だが、雑賀衆や阿蘇家、紀家、那須家など皇族よりはるか昔からの一族の
奴らも多い
890 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 10:16
馬鹿はどうなった
891 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 12:18
892 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 21:15
>>889レスサンクス。
>だが、雑賀衆や阿蘇家、紀家、那須家など皇族よりはるか昔からの一族の
奴らも多い
唐突になるけど、彼等って遠い先祖は鮮卑族(トルコ系)の末裔という推測は
無理があるかな?
一応、疑問に感じたので…。
>>892 阿蘇家と紀家は神官家
因みに雑賀衆の首領鈴木家の始祖と呼ばれる人物の血筋を辿ると天照大神の曾孫
一応、家系図になっている模様
紀家は神官家で、今でも何処かの神社の神主を受け継いでいるけど、その昔は紀伊国の国造
紀家を国造に封じたのは神武天皇といわれている。
国造になる前は紀伊の国王だった
あと、那須家も一応那須国造家の末裔という説もある
他にも出雲王家とか日本創世記の時には別の民族、別の国家の首長だった一族の末裔が数家ある
894 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 23:44
>>893レスサンクス。
神武天皇率いる部族連合は烏(カラス)をトーテムとする北方遊牧民族の
酋長の後裔と聞いた。
民族の系統はトルコ系の鮮卑なのか、モンゴルとイランの混血である
匈奴なのかは正直いってわからない。若しくはモンゴルと満洲の混血である
烏丸(桓)なのかな?
また、発祥地とされる高千穂高原(宮崎県)には牧草地とかあったかな?
>>894 レスサンクス
もし、その通り(神武天皇の率いた部族連合の出自)の場合、かつて神族扱いされていた
出雲族や紀家などの現神官家の多くが元々日本の各地域を治めていた諸国の各王になり
神武天皇ら大陸からの渡来族の傘下に地域の王という形で服属していったといった形に
なるのかな
とすると、今迄伝承未定の伝説域だった民族は旧日本民族か・・・
896 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/26 00:09
>>895レスサンクス。
>もし、その通り(神武天皇の率いた部族連合の出自)の場合、かつて神族扱いされていた
出雲族や紀家などの現神官家の多くが元々日本の各地域を治めていた諸国の各王になり
神武天皇ら大陸からの渡来族の傘下に地域の王という形で服属していったといった形に
なるのかな
とすると、今迄伝承未定の伝説域だった民族は旧日本民族か・・・
なんかあのチンギス・ハーンみたいな話題でスンマソン。
ただある記事を見ると、特に出雲族は鉄工の技術に長けていると聞いたから、
多分、突厥か丁霊(古代トルコ族)の一派が朝鮮半島を経て、渡来した遊牧民の
グループかも知れない。当時は弁髪だったかも…。
安曇族はベトナム系の越部族の後裔とされているそうである。
897 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/26 00:37
これもある記事で見たけど、東京の狛江と埼玉の高麗(こま)川
は、元来朝鮮北部にいた半農半牧の靺鞨族(満洲ツングース系)の一派が
渡来して、定住した地域とされる。
また、現在の奈良県も遡ると、多分モンゴル系かトルコ系の一派のどちらかが
渡来して、その中で納刺(ナラ)部族というグループが地名として名付けたとされた。
はっきりいって、確定ではないので自身は無いが…。
もっとも、日本のどこかにヘブライ語の村があるとか何とか言うくらいだからな
隣国地域から移民やら渡来民が来てもおかしくはないだろう
地名に語源を見る説はこじつけ的な胡散臭いのが多いからそのままは信じがたいな…
スレの流れが日本創世記の部族についてに変貌している気が
日本史板か考古学板にお任せしたい流れだな
902 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/26 06:12
ヤンキースの松井はモンゴル顔!!
(ボンクラの元首相の森も!)
宰相の地位を簒奪し
経世会に止めを刺しつつある
派閥の首魁がボンクラなんだろうか
よくわからん人物だ
>>886 山名義範が足利義清の実子という説は初めて知った。
興味あるんでソースを示してくれると有難い。
ちなみに「山名家譜」によると、山名重国の母が足利義清の娘ってことになってるらしい。
906 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/27 06:40
>>905レスサンクス
う〜ん…その事項に関する資料は非常に少ないのでソースで示せるか
どうかはわからない。
矢田(足利)義清には、山名義範以外にも息子は結構いたし、
それらは、細川・仁木などの両氏の先祖となっているのは事実。
ただ、山名氏が細川・仁木の両氏とは義清を始祖とする、
最も血の濃い一族とはなり得るけど…。
907 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/27 12:27
でも山名…実は足利系としたら、このスレ大崩壊?
908 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/27 12:30
>>907 次スレは「足利・新田一門総合スレ」ですのでご安心をw
それは嫌だな
910 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/27 12:33
>>909 まあ、立ったら立ったで何とかなりますよ。
911 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/27 12:35
>>909 次スレは「足利(新田)一門総合スレ」ですのでご安心をw
それは嫌だな
源氏派生一門総合スレでいいやん
915 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/27 15:21
>>914 必ず出てくるな…こういう香具師。とりあえず却下。
916 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/27 21:52
新田一門といわれている山名氏が他の新田氏族と
違うのは、初代の義範自身が鎌倉(源)頼朝の挙兵に真っ先に
応じたこと。それ以降も足利氏と代々姻戚関係を持ち、
ますます、重用された。本家とされる新田氏とは露骨に距離を置いた。
新田義重の長男とされる里見(大新田)義俊も頼朝に応じて、官職を貰ったが、
それでも、義貞の鎌倉攻めには、一族を挙げて参加していた。
どう考えても、山名氏は新田氏の血を持った足利氏族としか思えないが…。
スマソ。山名時氏の母は上杉清子(尊氏母)の妹ではなくて叔母だった。
つまり系図上は時氏本人と尊氏の母がいとこ同士ということになるな。
918 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 08:52
尊氏の孫の義満の時代に伯耆・石見の守護である山名時氏と氏清が
尊氏の従父(おじ)でありながら、幕府に造反を翻した。
(黒幕には長門の守護の大内義弘がいたという…)
これは多分、足利将軍の独裁ぶりの不満と初代の義康の長孫(長男の系統)
のプライドが重なって起こったことではなかろうか…??(明徳の乱)
919 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/29 02:37
明徳の乱は時氏没後の山名家の後継争いに義満が巧みに介入して起こった事件。
これによって最大勢力だった山名の力を削ぐ事に成功した。
920 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/29 08:19
>>919サンクス
ヤパーリ、義満は初代の義康の長男の系統である山名氏が分家したとはいえ
目障りだったのでは…?もちろん山名氏が相当の実力あったことも事実だが…。
>>920 まあ、血統ってか勢力図の問題っぽいけどね
922 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/31 22:32
>>921 でも、応仁の乱で山名宗全入道持豊がしぶとく出たね。爺さん凄い!!
923 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/31 22:40
925 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/04 12:09
926 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/05 10:05
>>925 衰退を繰り返し、最後は、男爵に列せられた。
927 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/05 11:27
>>926サンクス。
ということは江戸時代には同じ足利系の吉良・今川氏
(細川氏の場合は肥後の藩主となった)や甲斐の武田氏
と共に高家となったわけかな?
>>927 高家にはなっていない。単なる直参旗本。
929 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/05 22:00
でも交代寄合でしょ。
931 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/08 22:12
>>929 まあ、6,700石の高禄自体、豊国の没落状態を思えば……と
933 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/09 12:37
934 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 16:40:09
935 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 16:54:40
>>933 高家筆頭の吉良上野介家は3,000石だったはず。
936 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 00:44:52
937 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 08:30:09
>>936 単に旗本としての石高比較ではないのか?
sageでいいと思う。
938 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/13 18:12:27
山名の分家は? 祐豊の子孫とか?
祐豊のどこが分家じゃ
940 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/15 15:54:04
分家じゃねぇべ
941 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 16:39:59
山名の子孫は豊国以外は滅亡ということで…。
942 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 21:43:45
足利国朝の家臣に山名某がいたけど・・・偽者だろな
943 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 23:33:42
>>942 556 :無名武将@お腹せっぷく :04/05/26 13:59
>>534-535 http://members.jcom.home.ne.jp/2131535101/musasi6.htm >◎足利国朝(古河公方・足利義氏の養嗣子)が下野喜連川に移ったときに従った家臣◎
>
>高修理頭 伊賀金右衛門 相馬靫負 渋江弥五郎 梶原平右衛門 堀江彦右衛門
>印東内記 柴田某 福田某 後藤内蔵助 大草茂右衛門 高塩某 星某 高橋某
>石崎某 里見主馬 高城左衛門 浅沼友左衛門 水戸某 武田一郎右衛門 海老名某
>佐藤某 土屋織部 小俣某 大谷某 江戸某 芦屋某 一色刑部 相木与右衛門
>石塔某 中村四郎兵衛 椎木某 伊賀伊勢守 鴻野修理 山名豊前守 国井某
>山名采女 逸見三郎
まあ、この中には古河足利家の家臣が多く含まれているようなので、純粋な小弓
足利家の家臣となると......どうなんだろね。
944 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/17 13:02:00
義昭の子孫ってどうなったの?
947 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/17 22:34:51
>>945 佐竹義昭の子孫なら、関が原での中立がたたって、秋田に飛ばされたが?
室町最後の将軍、足利義昭の子孫ってどうなったの?
949 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/18 00:38:56
薩摩藩士と会津藩士・・・俗説だけど
950 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/18 14:48:41
次スレは「足利・新田一門総合スレッド」ということで。
。。
952 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/18 21:57:52
953 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/19 05:01:09
>>942 偽者かどうかはともかく、山名時氏の系統だけが山名氏ってわけじゃないから。
鎌倉時代に地方の地頭になって土着した山名氏なんかもいたらしいし、
そういうマイナーな山名の子孫が旧縁から関東公方に仕えるなんてケースもあったんじゃないか?
あと里見氏ってのは関東甲信越以外だと岐阜(だったかな?うろ覚えスマソ)あたりにわりと固まって多かったらしい。
これなんかも分家が鎌倉期にその地方で地頭やってて、そのまま土着したケースらしいよ。
954 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/19 14:21:17
>>948 スレ違いだが、孫がみんな僧侶になったから子孫はいない筈。
955 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 05:14:59
956 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 16:09:02
957 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 17:26:02
958 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 18:36:51
越後の里見氏のようなもの?
959 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 01:37:53
【 】足利・新田一門総合スレッド【 】
サブタイを募集します。
山名スレとか里見スレ等を探してる人が検索で見つけられるようにつけてるタイトルなんだから、
無闇に変えるべきもんじゃないと思うぞ。
962 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 16:36:37
代案が無いなら同じでいいよ
964 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/24 01:04:06
965 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/24 04:16:13
966 :
965:04/09/24 04:17:36
次スレは
>>990を踏んだ人にお願いしたいと思います。
埋めるのが面倒なので。
967 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/24 22:29:20
足利スレのように二スレ目で没落間違いないから、
土岐とか京極とか最上とか島津とかについて語らない?
969 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 22:12:22
>>968 足利一門スレが落ちたのは、第2弾を史板厨が立てたことにコア住人が反発し、離れて行ったから。
>>965 どちらにしろ俺には立てられなかった訳だが、
どうやら、そのタイトルは長過ぎで立てられないみたい。
【山名】新田一門総合スレッド 2【里見】 ではどうだろう?
それか、下かな。
【山名・里見】新田一門総合スレ2【岩松・得川】
っていうか、次スレ300もいかねーぞ
このスレで新田源氏は大抵語りつくされただろう?
970まで行ったんだから、立ててもいいのでは?
足利スレは
>>976のスレが1000到達してから立てればいいんじゃないか?
おいおまえら。次スレでは新田一門の家紋や旗指物について語ろうぜ。
最初はみんな大中黒を使ったのかな?
>>978 そのモチベーションの高さがスレを支えますw
そろそろ、スレ立て挑戦してみてくれないかな?
俺はどこから立てようとしても無理だった…
990が立てられずそのまま…なんて見たくない… 俺も立てられないが(´・ω・`)
今やってみたけど俺も立てられなかった。志ある者、頼まれてくれ。
986 :
新田俊純:04/09/28 09:11:34
987 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 12:04:50
梅です
988 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 12:12:38
989 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 12:52:01
額戸氏について出た?
990 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 13:13:15
梅
膿め
倦め
宇目