孫乾 vs 簡雍

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169無名武将@お腹せっぷく
糜ってすごい珍しい名字だと思うのだが…。
他にこの名字の人っていたかな。
170楊雄 ◆zA1iYang :02/02/19 00:43
糜爛の糜。「おかゆ」「ただれる」「浪費する」「苗字」
一応、辞書には載ってました。尹は「昔の役職」「苗字」だけです。

うろ覚えで済みませんが>169の答えになっていないと思いますが、

日本人=1億ちょっと:4000種類の苗字
中国人=10億以上:200種類の苗字
だった気がします。かなり苗字の種類が限定されているらしいです。
歴史的な有名人では、糜竺の兄弟しか思い浮かびません。
水滸伝に糜[月生]だったかな?が出てきましたね。
17154:02/02/19 11:55
 >楊雄さま

 ああ〜200前後の姓しかないから中国では同姓結婚って
非常識なんですね。(祖先が同じだったらヤバイからという理由だそうで)

 >麋(正式な表記らしいです)
  1.大型の鹿の一種 なれしか
  2.眉
  3.ほとり、みぎわ
  
 「鹿+(音声で)米」の形成文字。
 美や媚(なまめかしい)と同系の言葉で 姿の良い鹿の意。
 辞書には糜であてる用法もありました。 『麋沸』 など。
 麋鹿 で トナカイとしか とも。
172楊雄 ◆zA1iYang :02/02/20 00:29
手元の辞書には、糜と麋は別になっていますよ。中国語の音は全く一緒ですが。

麋=オオシカ
麋鹿=シフゾウ(四不象?)

愛用の辞書(手元にこれしかない)
現代中国語辞典(光生館) 香坂順一著
173楊雄 ◆zA1iYang :02/02/20 00:30
あげてしまいました。逝ってきます。
17454:02/02/20 14:16
>楊雄さま

  説明不足ですみません、結構いろんなサイトで「麋」が
 ビジクさんの正しい表記だって聴いてるので…。
  うちの辞書にも糜と麋は別モノで載っていますが、代用が
 効くみたいなことが書いてあります。
  糜のほうが打ち込みが楽なのかな?長々とすいません。
175101:02/02/20 21:27
54氏の補足をするならば
正史では確かに「麋」の字が正しい表記みたい。
ショウ欽やショウ[王宛]のショウの字が
「蒋」で代用されるのと同じようなものなのかな?
(そう言えば諸葛氏の葛だって略字だものね)

で、麋姓の人だけど、正史・演義合わせても麋竺・麋芳・麋夫人の兄弟と
麋竺の子の麋威と孫の麋照しか見当たらない。
200前後の姓の中でも余程珍しい姓なのかな?

・・・尹黙、話が続かないね。
・・・やはりお題としては無理があった?(笑)
17654:02/02/20 23:10
 >101様
   補足ありがとうございました。
 もし現代中国で麋姓の人がいたら「この人は麋竺さんの子孫かも…」
 と独りワクワクすると思います。
  そういえばシュウユさんの子孫さんは実在するそうですからね。
 …いいなぁ、英雄の子孫って。

  尹黙さんのことはきっと7様ががむばってくれると思います。

  ほんと、孫乾VS簡雍 なのに本人が居ない…
 対決する気がおこらないのだろうか(笑)
177楊雄 ◆zA1iYang :02/02/21 01:55
子孫の話なら・・・

前出の旺文社の三国志の本に、張飛の子孫っておっさんの写真も
ありました。普通のおっさんでした。あと、劉備の子孫一家の写真も。
こっちは普通の農家のファミリー。

その本によると・・・
北京の南西約60Kmが河北省啄(サンズイ)県。その中の集落が劉家荘で、劉姓
を名乗る人が多い。また、啄県の西2Kmが張飛店という集落。張飛店とは、
張飛の出身地ということでついた地名。
多少の石碑が残るが、建造物はみな文革で壊された。。。
とのことです。

糜姓の由来(らしい、暇があったら訳してみます)
http://www.mi.com.cn/mi_1.htm
178楊雄 ◆zA1iYang :02/02/21 02:29
おまたせ。
[糜]
糜とは一種の農作物のこと。古書「姓氏尋源」と「姓氏略考」によると、糜は農業を営んだ一族。
夏代のころ、農業を行ったことを特長としている。このころ、人類は食物を手に入れるのに、
あるものは狩をし、あるものは自生する植物を取り、あるものは牛や羊を飼っていた。農業は
当時最も進んだ生活活動であり、毎年の収穫があった。これによって、「糜」の一族は裕福に
栄え、これ以降この職業を苗字とした。
 「糜」姓の先人は以下の通り;
[糜信]
三国時代魏の大官。彼は官の仕事も良くこなし、読書もよくたしなんだ。春秋時代の孔子などの
研究を専門に行い、「春秋説要」「春秋漢議」などを記した。
[糜竺・糜芳]も三国時代の人。両兄弟とも、劉備配下の武将で、劉備の南征北戦で功を立てた。
179楊雄 ◆zA1iYang :02/02/21 02:34
孫乾 vs 簡雍
から、かけ離れるにも程がありました。失礼しました。
180101:02/02/21 10:04
>>177
他スレで周瑜や張魯も子孫現存と言う話を聞いたけど。
(どのスレだったかは忘れた。スマソ)

>>178
>これによって、「糜」の一族は裕福に栄え、これ以降この職業を苗字とした。
成る程。麋竺は先祖代々の富豪だったらしいけど、
きちんとそういう理由がある訳ですな。

貴重な情報サンクスです。>楊雄殿
しかし同時代の魏にも糜姓の人がいたとは。意外。
181 :02/02/21 21:42
 良スレageー
182簡雍:02/02/24 02:09
|ここんところ忙しくてな。
|なかなか来れなかったんだが、このスレがまだあって本当に良かったよ。
|
| >>136
|孫乾には某ゲームではいつも遅れをとっているよな。  
|向こうは魅力90台こっちはせいぜい70台だしな。そう言う意味では世間の評価は儂の負けってコトじゃろ。
|たまには儂もお留守番以外の仕事があるようにしてほしいんだがどうよ?コーエーさん
|
|>>楊雄
|いつもいつもよく調べてきてるよな。このスレの守護神に思えるわい。
|実は密かに応援している。これからも頑張ってくれ。
\  
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
            ∧∧
           (゚Д゚O =3
      ⊆⊂´ ̄  ソ ヤレヤレ
183楊雄 ◆zA1iYang :02/02/24 02:40
ありがとうございます、簡雍殿。褒めてくれながら、後に続くせりふが
「ヤレヤレ」なのが、簡雍殿らしくってイイ!
184張任:02/02/24 08:09
サイヨウの弟子ってなかなか実績のある人多いが
どう? 自分はコヨウあたりが好きですが・・・
私は、蔡ヨウが「わしも及ばない」と言う程の才能を持ち、
蔡ヨウの家の書籍・文学作品を譲られた建安七子の王粲を推します。
186簡雍:02/02/25 05:59
|コテハンの楊雄だけじゃなくハンコテの52とか54とか101なんかもいい仕事してくれてるよな。
|前の時はつい名前出し忘れた。まぁ、儂の登場前からいるからつい・・・ってなもんだ。許してくれ。
|
|>>184張任
|む・・・まぁホウ統のことは水に流すとして・・・そうか顧雍が好きか・・・
|しかし仮にも呉で丞相にまでなった男をマイナー文官と言っていい物かどうかは甚だ疑問だぞ?
|とはいえ呉の丞相には歩隲なんてのもいるしな・・・。儂らの同士が多く侮れない国なのかもな。
|
|>>185
|王粲か。性格が大雑把だったって話らしいので少し親しみがわく。
\  
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
            ∧∧
           (゚Д゚O =3
      ⊆⊂´ ̄  ソ ヤレヤレ


187簡雍:02/02/25 06:06
|しかし考えてみるとマイナー文官にも二種類いることに今更ながら気づかされるな。
|ひとつは実績がありながら今ひとつ埋もれてしまったり別の人間のエピソードごっちゃになってしまい
|活躍が正当に評価されておらん。もしくは知られていない実力者。
|もう一つは本当に何したか解らないが名前だけ妙にみんなが聞き覚えあってしまうタイプ。
|大別するとこうなるのだが・・・。儂がどっちかは言わぬが花だな。
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    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
            ∧∧
           (゚Д゚O =3
      ⊆⊂´ ̄  ソ ヤレヤレ
18852:02/02/25 20:27
久しぶり…演義…全然進まんです…

王粲といったら乱れた碁盤をきちんとならべ直しちゃうやつでしたな。そういう話しか出てこん(w
んでも漏れ的にはやっぱ記憶力では、、朱桓。…サイコウ…
189楊雄 ◆zA1iYang :02/02/25 23:09
王粲は建安七子の一人として、文人として有名です。>>185にもあるとおり。
確か、文学資料として、中国文学史の後漢・三国時代の資料の中に大抵
名前が出てくるように記憶しています。ほかに出てくる三国武将の名前は…
曹操(詩歌)
曹植(詩歌・散文)
陳[王林](詩歌)
といったところです。詩歌には同時代でほかにゲンセキ・ケイコウ
(ともに建安七子のメンバー)、他の時代では李白・杜甫・孟浩然など。
王粲、只者ではありません。陳群同様、「三国志の英雄」としては翳りのある
位置付けですが、文学史上忘れてはいけない存在ともいえますね。

19054:02/02/26 00:35
 わあい!簡雍さまがおいでなすった!マジ嬉しい〜お久しぶりです。

 >簡雍さま
   うひゃー!お褒めいただき光栄です。
  しかしながら自分は他の皆様より何歩も及びませんので一層の
  努力をいたす所存です。

 言わぬが華→自分は簡雍さまが『疑わしきは罰せず』を体現されたことを
       尊敬してます。例えがお下品ギャグだったにしても(笑)。
       お上品な麋竺さまともこんな調子なのですかね(焦り)。
 他の仕事 →ケイ州を関羽さまと一緒に守るなんてやったらマジで
       逝っちゃいますよ!危険です。あ、あれもお留守番でした、失礼。

 >楊雄さま
   麋姓の由来といい、詩歌の知識といい、あなた様は本当に博識ですね!
  正直言って憧れます。勝手ながら、心で師匠と呼ばせていただきます!
  サイト運営されてたら是非遊びに行きたいものですが、そうもいきませんし
  自分も正体を明かせないのが残念に思ったのは初めてです。
   というかまさかここでカキコするなんて他所の板でロムしてた頃には
  全然思ってもいませんでした。うーん三国・戦国版万歳
  孫乾VS簡雍 バンザーイ!(←マンセーって言った方がいいの?)
  あっ、今日は勉強の話しなくてすみません。
191楊雄 ◆zA1iYang :02/02/26 01:08
マンセーは韓国語らしいです。中国語ではWan Sui(ワン・スイ)。
あまりかたいこといわずに、楽しみましょう。
ちなみに、正史はあんまり詳しくないんです。

伊籍の話は出てきましたっけ? 
192185:02/02/26 01:17
>楊雄様
補足ありがとう御座います。

伊籍の話は、
>>42>>44
に少し出てます。
193楊雄 ◆zA1iYang :02/02/26 01:29
>>192
ありがとうございました。ありましたね、伊籍。
194101:02/02/26 01:35
おお、今日はいろんな方がお見えですな。
乗り遅れないように漏れも書いておこう。
>簡雍殿
おお、お久しぶりの降臨ですな。
お褒め頂き光栄です。

>楊雄殿
>>189にちょいとツッコミ入れさせてもらいますと、
ゲン籍とケイ康は建安七子ではなく竹林の七賢ですぞ。
伊籍は185氏の仰る42、44の話以外には逸話は無いようですな。残念。

王粲ですか〜。非常に優れた人物だったようですが
容貌には恵まれず、それが為に劉表は彼に娘を嫁がせるのをやめたとか・・。
まあ、結果的には劉表の姻戚にはならない方が良かったとも言えますが。

文学畑に縁の無い漏れには、建安七子と言えば
全員がほぼ同時期に同じ流行病で死亡しているのが一番印象的だったり(苦笑

最近、地が出て登場当初と文体が全く変わってしまっている101でした(w。
195楊雄 ◆zA1iYang :02/02/26 02:13
>>194を読んで「あ!ほんとだ!竹林だった!」と
夜中に叫んでしまった楊雄でした(笑)。

トホホ…。ご指摘ありがとうございました。
196無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 08:03
保守age
197楊雄 ◆zA1iYang :02/03/03 13:16
蜀の文官は、地味キャラでも印象に残るのはなぜなんでしょうね。

・・・とりあえず、久しぶりにコーエーの三国志7でもやってみようかと思います。
19852:02/03/03 13:33
演義で悪く書かれてないからだと思われ。ホント、良い奴ばっかだよ。7は正史マンセーのやつだね。俺がGBAのやつと合わせてやった、数少ない三国志…
19954:02/03/05 10:27
 うんうん、一応演義は劉備さまが主人公格ですもんねえ。
曹操とかはカッコよくても魏武将さんたちは”誰もキャラが一緒”
みたいな感じだったもんな。

 ところで三国志戦記の攻略本みたけど、孫乾さまに簡雍さまが
能力的に勝ってましたよ。基本能力しか見てないけど。
 でもあれ、顔イメージがあってない人が多かったな。
三国志7とか8の方が好きです。
20054:02/03/07 23:05
 ふう、みなさんお元気ですか?もしかして研究に明け暮れてる??(ドキ)
こっそり200取り。つーかここでもキリ番にこだわるって知らなかったです。
よその板ロムしてた時は考えもしなかったや。

 ところで費文偉さまは仕事バリバリの割にバクチもほどほどにやった
って本当なんですか?蜀後半の人はあんまり詳しくないのですが、
通な人は費文偉さまを好きと仰る方が多いので気にしてたところです。
 速読が特技で、仕事も遊びも大好きな博愛主義者って簡単な説明が
あったんですが、それだったら、自分も費文偉さま好きですなぁ。
20152:02/03/07 23:43
>>54
費イの博打は漏れも知ってる。っていうかまだ出てなかったんかい!!
仕事も遊びもしっかりやる人生は憧れた。
202楊雄 ◆zA1iYang :02/03/08 00:18
お久しぶり。そういえば、出ていませんでしたね、費イ。

姜維の軍事力への傾注を支えつつ歯止めをかけていた名宰相で、
「採決流れるがごとき」とされています。魏の降将郭循(だっけ?)
に刺殺されたことによって、姜維の北伐に歯止めが利かず、更に宦官黄皓
の専横を許し、蜀滅亡へ暴走し始める・・・といったところでしょうか。

諸葛亮の死の間際、「次の宰相は蒋エン、その次は費イ。」その次は?
の答えが無かったのは、この2人が死んだらおしまいってことだった、
なんて解釈があるようです。
203101:02/03/08 03:34
費イがこのスレで何故今まで出ていなかったか、ですか?
諸葛亮亡き後、蜀を支えた「大立者」の片割れであって、
到底「マイナー」な人物ではないから、だと思いますが。
・・・まあ諸葛亮死後の時代自体がマイナーと言われてしまえばそうなんですが(w

費イは多分野に渡り優れた才能を発揮した人ですね。

まず外交。呉の孫権は外国の使者をからかったりして侮辱するのが好きな方ですが、
蜀の使者の中でもケ芝と宗預、そして費イ、この三人だけは大変敬愛したと言います。

次に内政・事務。費イは人並み外れた政務能力の持ち主であったらしく
「朝と夕に政務を治め、その間に賓客に応接し、飲食しながら遊び戯れ、
博奕までし、人のやる楽しみを尽くしながら、仕事も怠らなかった」と言います。
費イが大将軍になった時、董允が彼の後任として尚書令となり、
費イのやり方を真似しようとしたのですが、十日も経つと未決済の仕事が
溜まりに溜まってしまい「人間の才能・力量がこれほどかけ離れているとは。」
と嘆いたと伝えられます。
董允も諸葛亮・蒋エン・費イとともに「蜀の四相」と称えられた逸材であり、
決して無能ではないことを考えれば、如何に費イがとんでもない人かが分かります。

そして軍事。魏の大将軍曹爽が蜀討伐に漢中に攻め寄せた時、
防戦する王平たちの元に援軍を率いて駆けつけ魏軍を撤退に追い込んだのは
誰あろう当時大将軍だった費イその人です。
蒋エンや費イはよく文官・政治家扱いされますが、実際には軍事にも通じた
正に国家の相たるだけの才能を持った人物だと言えるのでしょう。

また人柄も温和で清廉だったようですね。
魏延と楊儀の対立をいつも仲裁していたのも費イだという話ですし、
諸葛亮同様に質素な生活を好み、家に蓄財をしなかったと言います。
正に非の打ち所のない人です。
しかしいささか博愛心が過ぎて郭循(魏書などでは郭脩)を信用し過ぎ、
宴会の席で気持ち良く酔って寝てしまったところを刺殺されてしまいます。
張嶷が降伏したばかりの者をあまり信用し過ぎないように建言していたのに・・・。
一国の事実上の最高権力者としては余りにも呆気ない最後でした。

ああ、もの凄く長くなってしまった。
すいません、費イ好きなもので(w
まあこれも彼がマイナーではない証拠ということで許してください(w
204楊雄 ◆zA1iYang :02/03/09 10:05
>>203
詳しくて判りやすい名文を書かれるあなたも賢者。蜀マンセー、101マンセー
ってことで。
205101:02/03/09 22:06
>>204
いえいえ賢者などとは畏れ多い。
私など一文吏に過ぎませぬ(w

ところでこのスレ、費イの次はやはり蒋エンが語られるのでしょうか?
個人的にはそういった国の大黒柱・重鎮たちより、
地味ながらも重要な役割をきちんと果たした連中(王連や楊洪、張裔など)
を語ってあげたいところなのですが(勿論、蒋エンが嫌いな訳ではないです)。
でも前回、同じように尹黙で失敗したな・・・(w
206楊雄 ◆zA1iYang :02/03/10 01:20
そうなんですよ。
無名なキャラは(私も含めて)よくわからないままレスもつけられずに
終わってしまいますのでね。

ま、孫乾 vs 簡雍ですから、あまり有名すぎないキャラをマターリ楽しみましょう。
王連や楊洪、張裔の話っていうのも、気になるところではあります。。。
20752:02/03/10 16:04
>>王連や楊洪、張裔
どれも知らん…是非どなたかご説明を!!
20852:02/03/10 16:05
あげてしまった…
209101:02/03/10 17:15
では僭越ながら私が説明を。

まず王連です。
荊州の出身ですが、劉璋の時代に入蜀して梓潼県の県令となります。
劉備が劉璋攻撃を開始した時、多くの郡・県が劉備に降伏したのに反して、
城を守って降伏せず、劉璋の降伏が決まってはじめて開城して降伏し、
その義心が高く評価されました。

劉備政権下では司塩(塩府)校尉となって塩と鉄の国家専売を全面的に管理し、
国庫の収入を増大させたと言います。
蜀郡太守・興業将軍に昇進した後も塩府の仕事は彼に任せられていたそうです。
またこの時有能な若者を選抜して属官(部下)の典曹都尉に抜擢し、
彼らの中から後に尚書令になった呂乂(呂凱とは別人)などが出るなど、
人材面でも蜀に貢献していますね。

後に屯騎校尉となり、丞相長史(諸葛亮の幕府の長官)を兼務します。
この頃南中地方が不穏になり、諸葛亮は南征を決意しますが、
王連は「あそこは不毛の荒地であり、風土病の多い土地です。
一国の期待を担う方が危険をおかして出かけるのはよろしくありません」
と主張して諸葛亮自らの南征に反対し言葉を発する度に懇願したため、
諸葛亮もそれを無視出来ず成都に留まっていましたが、
王連は丁度この頃に亡くなり、諸葛亮は南征に出発することになります。
諸葛亮程の大物にも大きな影響力を持っていた蜀の財政のプロでした。
210101:02/03/10 19:17
次に張裔を。
益州の出身です。入蜀した許靖に「実務の才があって頭の回転が早い。
鍾元常(鍾ヨウ)の仲間だ」と言ったと言います。

張飛の軍が劉備の援軍として荊州から侵攻して来た時、
益州従事・帳下司馬だった張裔は劉璋に命じられこれを迎撃しますが敗北。
成都に逃走します。その後劉璋の使者として劉備の元に赴き、
劉璋と臣下たちの安全の約束を取り付けます。
劉備政権では巴軍太守・司金中郎将として農機具と武器の製造を司りました。

南征に先立つこと数年、南中にある益州郡の太守正昂が殺害され、
蜀は張裔を後任として送ります(何の対策も講じずに・・・)。
張裔は豪族の雍ガイに捕らえられ、呉に送られてしまいます。
結果、張裔は数年間呉の領内を転々と流浪し雌伏を続けることになりました。
ケ芝が関係修復のために呉への使者となった時、張裔の返還を求め許されます。
張裔の出発に当たり孫権は始めて張裔を引見して会話し(詳細は略)、
彼をひとかどの人物だと思い、呉に留めるべく追手を差し向けますが、
張裔も愚者のふりを出来なかったことを後悔し全速力で船を走らせたので、
何とか逃げ延びることが出来ました。

蜀に帰還した後、丞相参軍となり、益州治中従事(別駕従事に次ぐ州牧の属官)
を兼務し、諸葛亮が漢中に駐留すると留府長史(丞相出征時に留守を預かる長官)
となり、諸葛亮留守の丞相府の事務の一切を任されました。
後に輔漢将軍の位を付加されましたが、留府長史をそのまま務め、
建興八年(230)に在官のまま亡くなりました。

また彼には若い頃親しかったが若死にした楊恭のまだ幼い遺児や家族を引きとって
家を分けて住まわせ、自分の母親に対するように楊恭の母に仕え、
楊恭の子が成長した後は彼に妻を娶らせ、
更に田地宅地を買い与えて一家を構えさせたという美談があります。
楊洪のところで後述する欠点はあったようですが、才能と徳行に優れた人でした。
211101:02/03/10 19:19
↑訂正です
>入蜀した許靖に「実務の才があって頭の回転が早い。
>鍾元常(鍾ヨウ)の仲間だ」と言ったと言います
「許靖に張裔が言った」のではなく「張裔が許靖にこう評された」の間違いです。
すいません。
212101:02/03/10 19:20
最後に楊洪です。
益州の出身で、劉璋の時代には郡の役人でした。
劉備が蜀を取るとケン為郡の太守となった李厳の下で功曹になります。
ところが、李厳が郡の役所を移転させようとしたのに反対し、辞職を願い出ます。
ここで李厳は彼を州に推挙し、楊洪は益州蜀部従事に任命されます。

漢中攻防戦において劉備から援軍の派遣を命じられた諸葛亮は楊洪に意見を求めます。
楊洪は「漢中はすなわち益州の喉元であり、存亡の分かれ目となる要地です。
もしも漢中を失えば蜀は存在せず、それこそ家門の禍いとなりましょう。
現在の状態は、男子は戦い女子は輸送に当るべきです。
兵の徴発に何をためらうことがありましょうか。」と言い賛成します。
諸葛亮は、当時漢中に出征していた法正に代わって楊洪を蜀郡太守代行にするよう
上表して許され、後に楊洪は正式な蜀郡太守となりました。
しばらくして益州の治中従事になります。

劉備の病状が悪化したのを聞いて漢嘉太守の黄元が謀反した時、
諸葛亮を始め蜀の大官たちは永安におり、成都はガラ空きに近い状態でした。
楊洪は皇太子劉禅に言上し、劉禅の親衛兵を将軍陳コツ・鄭綽に率いさせて討伐に向かわせます。
人々は、黄元が成都攻撃に失敗すれば南中に逃げ込むのではないかと心配しますが、
楊洪は「黄元は性格狂暴で恩愛が無いからそのようなことは出来ず、長江の流れに沿って
東に逃げるのが精一杯で、主上(劉備)が元気であれば降伏し、もし異変(劉備の死)があれば
呉に逃亡しようとするだろうから南安峡の入口を遮断するだけで捕らえることが出来る(要約)」
と言い、陳コツと鄭綽がその言葉通りに行動すると黄元を捕らえることが出来ました。
後に蜀郡太守に復し、忠節将軍、越騎校尉となっても太守の職務を執行しました。

長くなりそうなので分割します。
213101:02/03/10 19:22
諸葛亮は北伐に先だって漢中への駐留を決め、
留守に残す留府長史に張裔を任用したいと考え楊洪に意見を求めますが、楊洪は
「張裔はそれに堪えうる才能を持っていますが、公平ではない面を持っていますので
彼一人に任せるのは良くないでしょう。裏表の少ない向朗を張裔の下において両者の能力を
発揮させれば一挙両得です(要約)」と進言しましたが、諸葛亮は結局張裔を留府長史とし、
向朗を丞相長史として北伐に同行させました。
人々は楊洪のこの進言を聞いて自分が長史になりたいのではないかとか、
自分と仲の悪い張裔(若い頃は友人だったが、張裔が呉を流浪している頃、
張裔の子の過失を太守だった楊洪が罰したことで仲が悪くなった)が
留守を取り仕切るのが気に食わないのではないかとか様々に噂しましたが、
後に張裔が司塩校尉の岑述と不仲になり仇敵となったのを見て
楊洪の言ったことは正しく、彼には私心があった訳ではなかったのだと知ったと言います。
在官のまま建興六年(228)に亡くなりました。

楊洪は若い頃から学問が嫌いだったけれども忠義・清潔、誠実・明晰な人物で、
公事をまるで自分の家のことのように憂い、また継母に仕えて孝行の限りを尽くしたと言います。

以上です。ちなみにこの三人は「霍王向張楊費伝」として
正史『三国志』の『蜀書』に霍峻、向朗、費詩とともに立伝されています。
演義ではほとんど出番がありませんが三人とも蜀建国期にその礎を作り上げた良臣たちですね。

・・・とんでもなく長くなりましたね(汗
申し訳ありません。
214185:02/03/10 19:58
101様、紹介ご苦労様でした。
王連、字は文儀ですよね。演義では、何故か諫議大夫として登場し、
出番は孔明の南征を諫める(も全く聞き入れられなかった…)場面だけと言う人物。
張裔・楊洪の字は君嗣・季休ですね。
二人共、演義では、劉備を皇帝に即位をさせる所しか見せ場がない…。
でも、彼らのこう言う所も、このスレ的にはポイントが高い点ではないでしょうか?(笑)
215楊雄 ◆zA1iYang :02/03/10 22:15
>>101様、詳しい紹介ありがとうございます。
>>185様、演義での登場の補足、ありがとうございます。

この王連、楊洪、張裔3名のお話を読んでいてフト思ったことがあるのですが。

もともと劉璋配下の能臣って多いですよね。。。

劉璋にもっと将器があったら、劉備の蜀漢帝国の成立もなかったのか、それとも、
劉備の人を見る目の確かさから、これらの人物が才能を発揮できたのか。
劉璋の将器も、劉備入蜀のきっかけの一つでありますが。なんとも、不思議な
気がします。

21652:02/03/11 01:31
>>101
ごくろうさま!あなたの知識には感服しましたよ!!スゲェスゲェ。

元いた能臣といえば、¥紹配下にはこういう人等はいないんですかね?
>>215
劉璋の場合、父の劉焉が流民を組織して作った「東州兵」が好き勝手に振舞って
益州の人々を害するのを、その優柔不断で威厳の無い性格のために抑えられず、
益州の人民が劉璋政権に不満を持っていたというバックボーンがありますから、
仮に劉璋に有能な益州人士を見出す眼力があっても、
益州人士が積極的に劉璋のために働く可能性は少ないと思います
(益州人ではなく法正や劉巴、李厳に王連のような益州外からの流入人士や
呉懿や費観といった姻戚たちはきちんと処遇すれば積極的に協力してくれたかも
知れませんが)。
やはり遅かれ早かれ、張魯・周瑜・劉備のいずれかに潰されたのではないでしょうか。
ただ将器さえあれば東州兵を抑えて益州人士の支持を得られた可能性もありますが。
まあ、劉璋は劉焉の四男であって本来劉焉を継ぐべき位置にはいなかった訳で、
彼に頭領として、群雄としての器が欠けているのを責めるのは可哀想だと思います。

>>216
袁紹陣営はあまり詳しくないのでマイナーな能臣はちょっと思い浮かばないんですが
有名どころだと、
田豊、沮授、郭図、逢紀、許攸、審配、辛評、辛ピ、荀ェ、陳琳、
顔良、文醜、麹義、淳于瓊、張コウ・・・・・・・・
くらいでしょうか?
荀イクや郭嘉だって一時期は袁紹のところにいた訳ですし、本当に人材豊富です。
これだけキラ星のごとき人材が揃っていたのに・・・・。

この中で実績や名声の割にきちんと評価され辛いのは
許攸、淳于瓊、麹義、荀ェ辺りでしょうか・・・。
218101:02/03/13 02:46
書き忘れました。
↑は私の書きこみです。
すいません。
21952:02/03/14 04:38
郭図もきつくないっすか??彼一度も勝ってないんじゃなかったっけ?
220101:02/03/14 12:41
>>219
>郭図=一度も勝ってない
演義においては確かに「出ると負け軍師」(by光栄「爆笑三国志」)なんですが、
正史を見ると実際はいくつか有用な献策をしていることが分かります。
例えば演義にも採用された「沮授が献帝を奉戴すべきと進言し、郭図と淳于瓊が反対した」
という話ですがこれは袁紹伝の注に引かれた『献帝伝』という書物の記述であり、
正史本文の記述ではありません。
それどころか袁紹伝の本文では献帝奉戴を主張したのは郭図であると書かれているんですね。
また官渡において「田豊と沮授が持久戦を、郭図と審配が速戦を主張した」という話や
「郭図が沮授を讒言した」という話もこれまた『献帝伝』の記述です。
この『献帝伝』という書物、どうも沮授を持ち上げて郭図を貶めるような記述が多いので
鵜呑みにするのは危険だと思います。
また辛評とともに郭嘉の有能さを見抜いて袁紹に仕えるように誘ったりもしています。

確かに張コウが曹操に降伏するきっかけを作ってしまったのは郭図ですし、
袁紹の死後、辛評と組んで袁譚を奉じ、袁尚を奉ずる審配・逢紀と対立して
内乱にしてしまったのも郭図ですから彼に欠点があったのも確かですが、
もう少し彼の長所を評価してあげても良いのではないかと思うのです。個人的に(w。
廖立とか董和とか尚寵とかも・・・。
三国志Yまでの尚寵はなぜかやたらと使えた。
222楊雄 ◆zA1iYang :02/03/14 23:57
>>220
なるほど、納得。郭図が負け軍師ってイメージ、刷り込まれていました。
しかし、正史と演義の板ばさみみたいな、キツイ役回りを担っていたんですね。
挙句、負け軍師(笑)。これではあまりにかわいそうですね。>>101様の
おっしゃるとおり、見直すべき人物であることに間違いなさそうです。

あと、嬉しいのは、正史に詳しくても、「正史を読め」と一言で片付けてしまう
方が多い中、>>101様のように丁寧に判りやすくレスしてくれることです。
>>221が廖立とか董和とか尚寵とかを思い出させてくれたことと同じくらい(笑)。

ありがとう。これからも、よろしく。
22352:02/03/15 03:58
いるなぁ…すぐに正史読めって言うやつ…。正直史実じゃなくても面白い物を読みたい…。

>>217=101
麹義ってどんなやつだったんでしょうか?蒼天で見た事しか知らないんですわ。是非、ご説明をお願いしまする。
224101:02/03/15 10:42
>>221
ホウ統に匹敵すると言われながら自信過剰と同僚への誹謗中傷で庶民に落とされた廖立
南夷に恩愛を持って接し、また実力も備えた、劉璋旧臣の中では最も優れた能臣と言える董和
そして劉備・諸葛亮両者に賞賛されながらも蛮族討伐に散った向寵
渋い人選ですね。

>>222=楊雄様
丁寧だなんて(w
ただ長文が好きなだけですよ(w。
4月になったらしばらくネットを休止せねばならないので
短いお付き合いになるとは思いますが、こちらこそよろしくお願いします。
225101:02/03/15 11:10
>>223=52殿
袁紹伝の注に引かれた『英雄記』によると
麹義は公孫サンとの界橋の戦いで八百の歩兵で先鋒を任せられ活躍しています。
彼は長年涼州にいた経験があり、羌族の戦法(=騎馬戦)に通じていたと言います。
これが騎兵の多く擁する公孫サン軍に対するのに最適と判断されての抜擢でしょう。

界橋の南方二十里で激突した両軍ですが
公孫サンは麹義隊が少数なのを見ると騎兵を放って押しつぶそうとします。
麹義は兵に盾を構えさせ敵が数十歩の所に近づくまで引きつけてから一斉攻撃し、
敵の動きを止めたところで、援護として両側に展開していた一千張の弩隊が
公孫サン軍を次々に射落とし、大損害を与えました。
麹義はこの時公孫サンが任命した冀州刺史の厳綱を討ち取り、
武装兵の首、千余級をあげます。
更に麹義は敗走する公孫サン軍を追撃し、界橋の上で敵の殿軍と交戦。
これを撃破して更に公孫サンの本営に到達し、牙旗(軍旗)の立てられた軍門に突入すると、
本営の中にいた敵軍は全て散り散りに敗走したと言います。

後方にいた袁紹は公孫サン軍の敗走を見て勝ったと思い
回りに百余人しかいない状態で休息に入りました。
しかし、ここに敗走中の公孫サン軍の騎兵二千余騎が来襲。袁紹は窮地に陥ります。
しかし相手の軍はこれが袁紹本隊だと気づかず、抵抗にあって少しずつ撤退し、
麹義隊が引き返してきたことで完全に退きます。
麹義は図らずも大功を立てただけでなく袁紹の命を救った訳ですね。
こうして見るとこの戦いは麹義一人の独壇場です。

この戦いで名を上げた麹義ですが、後にこの功績をかさにきてつけあがり、
勝手な行動を繰り返すようになります。
袁紹はそんな麹義を嫌い、この有能な将を殺害させてしまいました。
麹義は己の武に驕り、身を滅ぼしたのです。

さてこんな麹義ですが『演義』では界橋で厳綱を斬るまでは同じですが、
その直後趙雲に一撃で殺されてしまいます。
(正史を基本にしているはずの蒼天も基本的に同じですね)
趙雲の勲功を増やし、彼が強いことを強調するために端役にされてしまった
『演義』被害者の一人と言えるでしょう。
そういう意味で朱然とお友達ですね(w。
226楊雄 ◆zA1iYang :02/03/17 03:53
随分とさがりましたね(笑)。

そんなことより皆さん、ちょっと聞いてください。スレタイと思い切り関係があるんです。

ナムコの三国志を語るスレがあるんです。そこに不完全データベースなるものの
リンクが張ってありました。それによると、孫乾・糜竺の人徳がトップクラスでした。
どんなゲームかあまり覚えていないんですが、これを機に三国志の世界にはまった
人も多いようです。「エミュ」でプレイできるらしいのですが、方法はわかりません。
ファミコンで出ていたゲームですので、今時分見るとちゃっちく感じますが。
一応貼っておきますのでご覧下さい。(ナムコの元ネタは横山三国志。彼ら文官の
出番は少ないのですが。また、ナムコのキャラの選択が面白いところをついています。
カタカナなので重複できないため、「ソンカン」になっているのはご愛嬌)

ナムコの三国志を語るスレ
http://curry.2ch.net/test/read.cgi/warhis/979213265/l50
227無名武将@お腹せっぷく:02/03/18 09:35
>>172
「四不象」てのは封神演義の主人公、太公望の乗ってた「スープーシャン」の事だろ

>>203
でも、郭循(脩)を招聘したのは姜維だから、費イの死の責任は姜維にあると言う話もあるぞ
228101:02/03/18 11:56
>>227
攻め込んだ時に捕らえて脅迫して無理やり仕えさせる、というのは「招聘」なのでしょうか?(w
まあそれは置いておくとしても、
郭循(脩)を蜀に引き入れようとした姜維に責任が無いとは言いませんが、
そんな郭循(脩)を左将軍という高位に任命しているのですから
むしろ劉禅以下の蜀宮廷首脳陣全員の連帯責任だと思います。
また降伏したばかりの郭循(脩)の目の前で泥酔して寝込んでしまった
費イ自身が迂闊であるのは否定できません。
決して姜維一人に被せられるべき責任ではないでしょう。

・・・まあ中には「費イ暗殺は北伐反対派の費イを消すための姜維の策謀だったのでは?」
と更に過激な論を唱える方もいらっしゃるようですが。
229楊雄 ◆zA1iYang :02/03/18 21:53
>>227
四不象[Si bu xiang〈スー・ブー・シアン〉]
形容詞:どっちつかずであること。そうらしくもあるが、そうでもない。
名詞:シカの一種。頭はシカに、足は牛に、尾は馬に、背中は駱駝に似ていながら、
全体的にはどれにも似ていない。=麋鹿
と、辞書にあります。

太公望の・・・その漫画、読みました。結構好きでした。
230楊雄 ◆zA1iYang :02/03/18 21:56
231227:02/03/19 09:35
>>228
まあそうなんだけどね、招聘したって言ってる奴がいたって事、
自己正当化に努めた奴が居たんじゃない?

>>229
解説どうもです
23254:02/03/19 21:35
 ちょっと今回忙しいのでロム中心になります、すいません。
急ぎミニレスだけ。

 >費文偉さまのこと
  マイナーではないですけど、初心者さんではあまり知ってる方は
 いないですよね、多分。自分もこの方を知ったのは随分後に
 なりましたから…。
  皆さんの解説すごくためになりました。今度ここの名文をメモにでも
 コピーしておきます!
  
 >ナム三
  初めて買ったFCソフトはコレです。簡雍さまはスタメン外れて
 いますよね。…探して出てきた試しがないのですが…。
 夏侯兄弟の知力が低すぎると思います(爆)。
  他にもイロイロと、その、なんだってツッコミどころが多いので
 その板見てきますね。今度は挫折せずに済むかも。
233楊雄 ◆zA1iYang :02/03/20 01:20
>>231
そうすると、うがった考え方かもしれませんが、姜維のせいにしようとした
人が居るとも考えられますね。宦官か何かで、郭循を厚遇したけれども、費イと
反目しあって殺しちゃったので、「あんなのつれてきたのは、姜維だ!」って・・・。

・・・姜維は身の危険を感じ、さらに北伐に精を出す⇒蜀滅亡早まる

とまあ、こんな感じですかね。
234101:02/03/21 00:29
>>233
意見&細かいツッコミをば。
>姜維のせいにしようとした人が居る
それは十分あり得るかも知れませんね。
>費イと反目しあって殺しちゃった
反目、というのはちょっと違いませんか?
費イは郭循を信用し過ぎて刺されたのですから。
>姜維は身の危険を感じ、さらに北伐に精を出す
う〜ん、費イ死亡時点で姜維の身が危なくなったのなら費イの後任として
数年後に大将軍に昇進したことの説明が付きません。
やはり費イの死で抑えがなくなり連戦連敗した後に地位が
危うくなったという通説で問題ないのではないかと。
費イの死は蜀全体にとってはマイナスですが
姜維個人にとってはむしろプラスの方が多いんですよね・・・。
235楊雄 ◆zA1iYang :02/03/21 01:46
なるほど、流石。妄想の域を出ない私の駄レスに、的確なお話を頂き、
ありがとうございます。

>姜維個人にとってはむしろプラスの方が多いんですよね・・・。
何か、妙な気分なのはなぜでしょうか・・・。(内容に納得がいくからこそ、
妙な気分です)

費イと姜維が今一番面白いです。>>101様が4月に休眠されるということが、
残念でなりません。
236101:02/03/22 00:32
>>235
>費イと姜維が今一番面白いです
蒋エンも忘れないであげて下さいね(w

話題がないので他の方がいらっしゃるまで費イと姜維の話を引っ張りましょうか。
先の「費イの暗殺を姜維のせいにして彼の失脚を狙ったのでは?」という話ですが、
実際、そういう動きは十分あり得たようですね。
どうも諸葛亮死後の蜀は蒋エン→姜維に繋がる北伐推進派と、
費イを始めとする北伐反対・南方経営重視派の二つに分かれていたらしいです。
蒋エンから費イに実権が移ったことで北伐派は抑え込まれることになった訳ですが、
費イの死で実権(軍権のみとも言えますが)は再び北伐派の姜維に移った訳で、
それに不満を持った北伐反対派の蜀臣がそういう噂を流して姜維の失脚を狙ったとしても
おかしくはないと言えるようです。
237231:02/03/22 10:41
>>235殿の仰る事真にその通りだと思うが
蒋エンが立てた「川下り作戦」は費イも準備に参加してたような・・・
どういうことなのだろう?

それと姜維が魏のスパイで蜀の国力を衰退させるため、
北伐を行っていたと言う説もあるが
流石にそれは無いと思う
238無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 10:50
麋竺
「劉備さんにほれました。あなたに賭けてみます。
お金あげます。娘だってあげます。弟もどうですか?」
劉備
「いや、麋芳君はちょっと・・・」
239101:02/03/22 14:11
>>237
>蒋エンが立てた「川下り作戦」は費イも準備に参加してたような・・・
確かに後主伝の241年のところに
「費イが(成都から)漢中に行き、蒋エンと計策を相談した」という記述がありますが、
この記述はその直後に「年末になったため帰還した」という記述があり、
当時の費イは成都で留守を預かる役割だったことが伺えます。
また蒋エン伝には「川下り作戦」中止の決定を伝えたのは費イと姜維であったともあり、
この両記述を勘案すると、費イが「川下り作戦」に直接関わっていたということは無いようです
(余談ながら北伐自体には賛成の姜維もこの「川下り作戦」には積極的ではなかったようですね。
なにしろその作戦では、彼のホームグラウンドたる雍・涼で戦えないのですから)。

姜維伝には、費イが実験を掌握した後、
「(姜維が)大軍を動かそうと望むたびに費イはつねに制約を加えて思い通りにさせず、
わずか一万の兵を与えるだけだった」
とありますので、費イ自身が本心では北伐に反対であったことは
間違いないと見て良いでしょう。
蒋エン実権期に費イが表立って北伐反対を唱えなかったのは、
北伐賛成派の蒋エンが実権を握っており、官位的にも上だったからというのが一点、
あとは、238年に蒋エンに詔勅を下して北伐を命じていることに見えるように、
皇帝劉禅が(少なくともこの時期は)北伐賛成派であったというのがもう一点でしょう。
243年に蒋エンが事実上引退するまで蜀の朝廷は「川下り作戦」にこそ反対であったものの、
北伐はむしろ積極的に賛成する方向にあったのです。
そのため費イは表立ってそれに反対することが出来ず形の上では蒋エンに協力する形に
なっていたのではないでしょうか。

>姜維スパイ説
「それはない」というのに同意ですね。
魏と蜀の国力差は5倍あったと言われています。
放っておけば蜀は富みますが、魏はその5倍富むわけで、
わざわざ蜀を内部から疲弊させずとも国力差は年々開くのですから。
それに姜維がもし魏のスパイなら蜀滅亡後、鐘会の独立に加担しようとした意味が分かりません。
蜀滅亡の任務を果たしたなら鐘会の謀反は止める方向へ動くでしょう。
やはり単に彼は北伐で大戦功を上げることを考えていただけだったと思って問題ないと思います。

>>238
麋竺が劉備に妾として差し出したのは娘ではなく、妹ですよ。
また麋芳も兄の麋竺同様、曹操から与えられた彭城国の相という太守クラスの官位を
蹴ってまで劉備の流浪に付き従ったという侠気のある人です。
彼が呉に降伏した時の記述は「関羽の処罰を恐れて内応した」とする蜀書と
「交戦したが止むを得ず降伏」とする呉書で微妙に記述が異なり、どちらが事実かは
分かりませんが、いずれにせよ世間で言われるほど酷い人物では無いと思いますよ、多分(w。
240無名武将@お腹せっぷく:02/03/24 00:21
>>239
費文偉に関して言えば、敢えて反対派と考えるよりは
消極的賛成派と考える方が無理が無いように思えます。

諸葛亮から蒋エンまでの北伐は賛成として
自分自身や姜維の北伐は反対

諸葛亮が漢中へ出陣したとき、参軍としてついて行ったりしてるんだから
費文偉の剛直な性格から言えば、何処かで反対をしてると思います。
255年、一人で姜維の北伐に反対した張翼以下ってのは、残念ですし。
241101:02/03/26 11:31
>>240
>費文偉に関して言えば、敢えて反対派と考えるよりは
>消極的賛成派と考える方が無理が無いように思えます。
仰る通りですね。諸葛亮や蒋エンはともかく、
自分や姜維では無理と考えたのかも知れません。
もしくは、自身の意とは少々ズレる形で積極反対派の頭に
徐々に祭り上げられてしまったのかも・・・。

>費文偉の剛直な性格から言えば、何処かで反対をしてると思います。
記録に残っていないだけで諸葛亮時代にも反対はしていたのかも知れませんね。
ところで費イって「剛直」ですかね?
戦直前の来敏との碁の話などから豪胆な一面もかいま見えますが、
魏延と楊儀の調停役に回っていたことなどから、
個人的には直諌の士というより、円滑な人間関係を心がける人物というイメージがあるのですが。
242楊雄 ◆zA1iYang :02/03/29 01:32
http://curry.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1011614442/288-
どうやら、私は文官のようです。
24354@ひさしぶり。:02/03/29 22:13
 >楊雄 さん
  
  それ、自分もやりましたよ〜。サイトに足跡のこしたので
 明かせませんがすっげ使えないヤツでした(爆)。
  あれ、まだ開発途中で相性は全員0なんですよねー。

  まだ忙しいので清談に参加できません、邪魔して御免なさい。
244101:02/03/31 01:02
さて、時間切れのようです。
私はこれでネットから暫らく足を洗いますが、
このスレが皆様によってまだまだ盛り上がることを祈念しています。
それでは!
245楊雄 ◆zA1iYang :02/03/31 03:27
>>101
そうか・・・。ありがとう、今まで。これからも、暢気に構えてやっとりますので、
お戻りの際には、是非お立ち寄りください。

24652:02/03/31 21:44
101さん逝かれるか…漏れも245さんと同じ、待っとりますんで。今までさまざまな知識、情報をありがとう。
24754:02/04/01 00:47
 >101さま
  おおお!本当に旅に出られるか!残念すぎますが
 またお会いできることをお待ちしております。
 大変勉強になりました、ありがとうございます、どうぞお元気で!
 
248楊雄 ◆zA1iYang :02/04/01 02:34
>>246-247
ってことは、ここは52,54,101と私の4人スレだったってことでしょうかね?
さて、のんびりと行きますか・・・。

何話しましょ?
24954:02/04/01 21:54
>楊雄さま

  いや、ロムのお客様も結構いらっしゃる模様です。
 それと簡雍さまも稀にお見えになりますし。
  イン黙さんのことを任せてしまった7様、お元気でしょうか…

  名文官というお題からは外れますが麋芳ちゃん、そういえば
 彭城国の相をケッた話を考えると、後の世の評価はちいとばかし
 あんまりなのかな…と思います。

  費文偉さまは、なんというか演義の魯粛さまみたいな
 かほりがちょっとします。ほやや〜ん、みたいな(意味不明)
 
25054:02/04/06 20:53
 ん?しばらく皆お休み??
 それがしもちょっと立てこんでいますが…
 費文偉さまのような仕事上手であればなぁ…。
251楊雄 ◆zA1iYang :02/04/07 05:13
>>54殿
開店休業状態になっていますね。何か面白いネタ見つけたら、書き込みましょうよ。

…とりあえず、随分とお蔵入りしている昔買った三国志の本でも読んでみようか、
という気が起こりました。かつて色々教えて下さった>>101殿に感謝の気持ちを
こめて。

一応、私はこちら常駐です。限りなく独り言スレに近い状態ですので、気が向いたら
何か書き込んでみてください。
http://curry.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1002424549/
252無名武将@お腹せっぷく:02/04/08 11:37
>>240殿
張翼だけではなく廖化や董ケツ、さらに諸葛センや閻宇もだと思うが・・・
直接反対したのも張・廖・董の三人では?
253無名武将@お腹せっぷく:02/04/14 21:35
このスレだと蜀通な人が多そうなんで質問なんですが、黄忠って年食ってからもあれだけ
活躍しているんですから、若かった頃はさぞかしすごかったんでしょうね。何か彼の若い
頃の武功など記録は残ってないでしょうか?
>>253
若いころの武功話は残ってないけど、
劉表の甥とともに長沙の攸県というところを守っていたから
劉表にはかなり評価されていたと思う。

当時の攸県はおそらく劉表の最前線。
長沙太守の張羨が劉表に対して反乱起こしてたし
長沙の東にある豫章には、孫氏の派遣した太史慈が陣取っていたし。
255無名武将@お腹せっぷく:02/04/15 21:45
虎牢関とか黄巾の乱とかにも出てたのかな…
演義のせいで黄忠は年とったイメージがあるが、
劉備の配下になったときに老年だった、という記述は正史にはないので
実際は老人だったのかそうでなかったのか分からない、
というのをどこかで読んだことがあるんですが…
257256:02/04/20 00:01
自分で正史を読んでみたところ、
生年も没した(病死)年令も不明
しかも弓の名手であったかどうかも不明
でも劉備には優遇されていたようで、実力はあったのかなーと思います
258256:02/04/20 00:03
すいません、ageてしまった・・・
25954:02/04/20 11:09
 おお、お客様がお見えだ。ワシも参加いたしまする。

 ★老黄忠のご年齢
  関羽様が黄忠どののことを「あのじじいが(俺と)同位?」
 みたいな発言を正史でも演義でもしたよーな気がします。
 正史ちゃんと読んでおらんので間違っていたら御免なさい。
  その一言でご老人扱いなのかもしれないですね。
 関羽様よりは年上なのかも。
  黄巾の乱にも実は居たかもしれませんね〜。
 色々と想像して許されるのが演義もある三国志の魅力ですよね。
 
260256:02/04/21 00:44
>259
わわ、関羽のところまでは読んでいませんでした。
立ち読みで流し読みしてきたもので…。正直、恥ずかしいです。

上では正史マンセーっぽい書きかたしてしまいましたが、演義も大好きです。
武将の死際なんかは確実に演義でのほうが好きです。らしい、と言うか何と言うか。
黄忠も演義での死にかたのほうが凄まじくて個人的には好きだったりします。
26152:02/04/21 09:02
趙雲って黄忠とあんまり年変わらないらしいですね…。
長坂では既に50超えてますな…鬱
陳震はどこいった?
263無名武将@お腹せっぷく:02/04/21 12:01
実は五虎将の中で一番の年寄りは趙雲だったり・・
ケ志
漢字変換できない武将多いですね
公孫鑽
公孫鑚

こっちだな
267無名武将@お腹せっぷく:02/04/29 22:37
劉巴何かはどうでしょう。
劉備が、「子初の才智はずば抜けている。儂でなければ使いこなせない。」
と言い、
孔明もまた、「作戦立案能力にかけては、儂は子初に遠く及ばない。」
と言う程の才能の持ち主だったらしいですが。
26852:02/05/02 21:43
劉巴は確か、張飛と仲が悪いやつだったね。ってか、李恢や、董和、董允あたりの紹介キボソ。ってかガイシュツだったかな?
101さんのように、詳しく分かり易く書いてくれる方はいないものか。
270101:02/05/06 01:21
皆様お久しぶりです。
一ヶ月ぶりに復帰いたしました101です。
ご指名して頂いたようですので
僭越ながら劉巴、李恢、董和、董允について少しずつ
(取り合えず一日一人ペースで許して下さい)ですが書かせて頂きます。

まず劉巴です。
字は子初。荊州零陵郡蒸陽県の人です。
『零陵先賢伝』によると祖父の曜は蒼梧太守、父の祥は江夏太守・盪寇将軍でした。
劉祥は孫堅に協力していたため孫堅が南陽太守の張咨を殺害した際、
南陽郡の士民に恨まれて殺害されてしまいました。
劉巴自身は若い頃から名声があり、劉表に何度も招聘され、
茂才で朝廷にも推挙されましたがいずれも受けませんでした。
曹操が荊州に南征し劉備が逃亡した際、多くの荊州人士が劉備につき従いましたが、
劉巴はあえて留まり曹操に仕えます(これにより劉備は劉巴を恨むようになります)。
曹操は長沙・零陵・桂陽の三郡を帰順させるべく劉巴を派遣しますが、
この三郡は赤壁のあと劉備軍によって制圧されたため劉巴は曹操に復命することが出来ず、
南の交州交阯郡へと逃亡します。
その後劉巴は交州から蜀に入り劉璋に仕えますが、劉備の入蜀及び蜀制圧に伴い
劉備に降伏し彼に仕えることになりました。
『零陵先賢伝』は劉備は成都攻撃の際「劉巴を殺害する者があれば三族に及ぶまで死刑に処す」
として彼の保護を特別に命じて彼を絶対に自分の臣下にする姿勢を見せ、劉巴を得ると大喜びしたと伝えます。

長くなるので分割です。
271101:02/05/06 01:58
劉巴は諸葛亮の度々の推薦もあり左将軍(劉備)の西曹掾に任じられます。
その後劉備が漢中王になると尚書に任命され、法正の死後はその後任として
尚書令の重職を務めました。

劉巴は清潔で質素な生活を実践し、財産を増やそうとはしませんでした。
また自身が積極的に帰順したのではないため疑われやすい地位にいることを自覚し、
常に控えめな態度で沈黙を守り、公的なこと以外では発言しなかったといいます。
文才に優れ、劉備が皇帝に即位した時の文書は全て劉巴の起草したものだったそうです。
222年、夷陵の戦いの後暫くして亡くなりました。
数年後、魏の陳羣が諸葛亮に手紙を送って来たとき、劉巴の死を知らず彼の様子を尋ねましたが、
その手紙の中で陳羣は劉巴のことを「劉君子初」と称し非常な敬意を払っていたそうです。
三国に名声が響き渡った逸材でした。
272101:02/05/06 02:06
最後に『零陵先賢伝』から劉巴に関するエピソードをいくつか挙げましょう。

・張飛と劉巴
ある時、劉巴を敬慕していた張飛が劉巴の家に泊まったことがありましたが劉巴は彼と話をしようともしなかったので、
張飛は激怒して帰りました。話を聞いた諸葛亮が、これを諌めましたが劉巴は
「大丈夫がこの世に生きていくからには当然四海の英雄と交わるべきです。
どうして軍人なんかと語り合う必要がありましょうか」と言って聞き入れなかったそうです。
(張飛と劉巴が仲が悪いというよりも、張飛は名士である劉巴を尊敬していたのに対し、
劉巴は張飛を無学な軍人として一方的に嫌っていたというのが正しいようです)。
これを聞いた劉備は怒ったと記されていますが、それに対して劉巴が
どのような態度を取ったのかは記録されていません。

・劉備と諸葛亮の劉巴評
(これは267氏が紹介して下さっているので省略します)

・知恵者劉巴
劉備は成都攻撃前兵士たちに成都城の蔵の中の品物は皆彼らに与えると約束し、
実際に成都が陥落すると兵士たちが争って蔵の品物を持ち出したために軍需品に不足をきたしてしまいます。
劉備は頭を悩ませますが劉巴はこう進言しました。
「簡単なことです。ただ百銭の貨幣を鋳造して諸物価を安定させ、
役人に命じてお上の管理する市を立てさせるだけですみます」
劉備がその通り実行すると数ヶ月で蔵はいっぱいになったと言います。

こんなところでしょうか。
>>270
おお、101さんお久しぶりです。
長文お疲れ様でした。さすがですね。
分かり易く纏める事は中々出来ない事です。
ところで、劉巴さんは周不疑君を指導する事を断りましたが、
あれ、面倒臭かったからなんじゃないか(w
と言う疑いを持っています。101さんはどう思われますか?
274無名武将@お腹せっぷく:02/05/07 13:51
久しぶりにage
275101:02/05/07 21:33
>>273
お褒め頂き有難うございます。
嬉しいです。

>周不疑
劉先の甥の周不疑(字、元直)ですよね?
劉先は劉表配下の重臣(荊州別駕従事)であり、
その甥の師となることは劉表政権に間接的ながら関係を持つことであると言えます。
(案外この申し出自体が劉先からの遠まわしな劉表政権への誘いだったのかも・・)
劉巴は劉表政権と関係を持つのを嫌ったのだと思います。

ただ周不疑は、曹操があの天才児曹沖の友に選ぼうとし、
曹沖の夭折後曹丕では使いこなせず逆に危険と思って暗殺してしまった程の逸材ですから、
「私ごときでは教えられない」という劉巴の言葉は案外本気だったのかも知れませんが。

いずれにせよさすがに「面倒臭かった」というのはないと思いますよ(w
276101:02/05/07 22:08
それでは今日は李恢について一筆。
字は徳昂。建寧郡愈元県の人です。
郡の督郵となりましたが、伯母の夫の爨習(サンシュウ)が法律に違反してしまいます。
李恢は連座して免官になるところでしたが、当時益州太守であった董和が、
爨習が地方豪族であることを考慮して罪を不問にし、李恢の辞職も許しませんでした。

後、李恢は州に推挙されましたが赴任する途中で劉備の益州攻撃を聞きます。
劉備の勝利を予見した李恢はただちに劉備の元へ身を投じ、
それを喜んだ劉備は李恢を馬超への使者に起用します。
李恢は見事に職務を果たし、馬超を劉備陣営に引き入れることに成功するのでした。

221年、ライ降都督(南中地方を統括する役職)のケ方が死去し、
劉備は後任を誰にすべきかを李恢に諮問します。
李恢は「人の才能には、それぞれ得手不得手がございます。だから孔子は
『人を使う場合、その人の才能に応じた使い方をする』と申しているのです。
それにだいたい聡明な君主が上におられれば臣下は真心をさらけ出すものです。
(中略)
臣(わたくし)は内心みずからの力量も測らずにおります。
どうか陛下には推察されんことを。」と答えました。
劉備は笑って「わしの本心もすでに君の上にあるのだ」と言い、
かくして李恢はライ降都督・使持節・領交州刺史となり南方の平夷県へ赴任します。

長くなるので分割します。
277101:02/05/07 22:38
劉備が亡くなると、越スイ郡で高定、建寧郡で雍ガイ、ソウカ郡で朱褒が
反旗を翻し、南中地方は混乱しました。
225年、諸葛亮は南征に向かい自身は越スイ郡に兵を進め、李恢の軍を建寧郡に向かわせます。
しかし南中諸県は大いに兵を糾合し、李恢軍を昆明に包囲したため、李恢は窮地に陥ります。
ここで李恢は南中軍に「官軍の兵糧は底をついた。国へ引き上げる計画をしている。
わしはこのところ郷里(建寧)を離れていたが、やっといま帰ることが出来たのだ。
もう二度と北へ戻るわけにはいかない。故郷に戻っておまえたちと心を一つにしたいと思い、
それで本心を打ち明けたのである」と告げ、すっかり信用させます。
そして包囲陣が弛んだのを見計らって出撃、南中軍を大いに破りました。
この南征での大功により漢興亭侯に封じられ、安漢将軍の官位を加えられます。
この後も南蛮は幾度か反乱を起こしましたが、李恢は自らこれを討伐し、
蛮族の有力者たちを成都に移住させ、貢物を納めさせ軍資にあてたので
当時(北伐の)経費には不自由しなかったといいます。

229年、交州が完全に呉の従属下になったので交州刺史の職を解かれ、
改めてライ降都督・使持節・領建寧太守となり建寧を治めました。
のち漢中に移り住みましたが231年、亡くなりました。
漢興亭侯の爵位は子の李遺が継いだと言います。
278101:02/05/07 22:52
最後に李恢の一族について記しておきましょう。

・爨習
前述の通り李恢の伯母の夫です。
李厳伝と『華陽国志』によると
南征後に取り立てられ、北伐にも偏将軍・行参軍として参陣。
領軍にまで上りました。

・李球
李恢の弟(甥という説もあり)です。
263年、蜀の滅亡直前、羽林右部督として諸葛瞻に従って綿竹でケ艾軍と交戦。
張飛の孫(張苞の子)の張遵とともに戦死しました。
279101:02/05/08 00:29
追加訂正です
>>278
>張飛の孫(張苞の子)の張遵とともに戦死しました。
張飛の孫(張苞の子)の張遵や黄権の子の黄崇とともに戦死しました。

とした方が黄崇も浮かばれるでしょう(w。
お詫びして訂正します。

李恢は南征の軍事面における真の功労者ですね。
その後南中地方をよく治め異民族を心服させた馬忠や張嶷とともにもっと評価されてよい人材だと個人的には思います。

ああ、それから民間伝承では関羽の三女の関銀屏は
李恢の子の李尉(李遺のことでしょうか?)に嫁いだと言われているのだそうです。
ホウ会に根絶やしにされたという関羽一族の血は李恢の一族に受け継がれた・・・のかな(w
>>275
成る程。やっぱり面倒臭いからじゃないか(w
281無名武将@お腹せっぷく:02/05/08 18:56
真三國無双2にて
孫乾 vs 簡雍

一般武将文官 vs 一般武将武官 
28254:02/05/08 22:29
>281さま
  妹がシン姫してたとき、孫乾と簡雍を長坂で二人同時に
 蹴ッ飛ばして「ひざまずいて、靴をおなめッ!」なんて
 叫んで悦に入ってやがった(滝汗)のを思い出しました…。
 それでも二人のファンなのですが。

>101さま
  相変わらず丁寧なお仕事、頭が下がります。
283無名武将@お腹せっぷく:02/05/10 17:14
誰か廖化について詳しい人居ません?
三国志通して2番目に好きなんですが・・・
284101:02/05/11 16:25
>>282=54様
お久しぶりです。
いえ、相変わらず長文しか書けないだけですから(w

それでは今日は董和、董允親子について一筆。
更に>>283様のために廖化についても少々書かせて頂きましょう。

まず董和です。
字は幼宰。荊州南郡枝江県の人です。先祖は益州巴郡江州県が本籍だったと言います。
後漢末期、一族を率いて西方の蜀へ移住した董和は劉璋に仕え、牛ヒ県・江原県の長、成都の令を務めました。
当時蜀ではその豊かさから風俗が奢侈になり、万事が派手に行われる傾向があったのですが、
董和は自ら率先して倹約して、この傾向に対して規制を行ったため、
彼の赴任した県ではこの傾向が是正されたと言います。
しかしながら董和の厳しい法規は県境の豪族たちに嫌われ、巴東属国都尉に転任させられることとなりました。
ところがそれを知った住民たちは官民問わず連れ立って董和の留任を懇願しその数が数千人に及んだため、
劉璋も董和の二年間の留任を認めたと言います。

その後董和は益州太守に任ぜられ南中地方を治めることとなります。
この時も彼の清潔さと倹約ぶりは変わらず、また異民族をただ酷使・弾圧するのではなく、
協力して仕事をし、誠意を貫くことに努めたので、
益州郡の異民族たちは彼を敬愛しかつ信頼したと伝えられます
(先に李恢のところで記した、爨習の罪を許したという話はこの頃のことですね)。

劉備が蜀を得ると、董和は召しだされて掌軍中郎将となり軍師将軍の諸葛亮と共に、
署左将軍大司馬府事として劉備の幕府の政務を任せられます
(官位では諸葛亮が上ですが職務では同等な訳です)。
董和は役立つことを推進し役に立たないことはやめるよう的確に進言し、
諸葛亮とも親しく付き合ったと言います。
没年ははっきりしませんが、少なくとも劉備が皇帝となった221年にはすでに死去していたようです。
劉璋の時代以来、政治の中枢に関わること二十有余年でしたが彼の清廉さを示すように
彼の家には財産の蓄えはほとんど残されていなかったと伝えられます。
285101:02/05/11 16:27
諸葛亮は丞相となった時、
「そもそも職務にたずさわる者は、人々の意見を求めて参考にし、主君の利益を上げるように(せねばならない)。
もしもわずかな不満によって人を遠ざけ、自分と意見の違う者を非難して検討し直すことを厭うならば、
仕事に欠陥を生じ損失を招くであろう。
(中略)
とはいえ、人間は残念ながらそう全てのことに気を配れないものだ。
ただ徐元直(徐庶)だけは、こうしたことに対処して惑わず、
また董幼宰(董和)は職務にたずさわること七年、
仕事の上で不充分な点があれば、何度も考え直し、相談にやってきた。
仮にも徐元直の十分の一の謙虚さと董幼宰の繰り返し検討する態度に心を寄せて、
国家に忠誠を尽くすことが出来るならば、私も過失を少なくすることが出来るであろうに。」
と述べて、徐庶と並べて董和を激賞しています。
またその後も崔州平、徐庶、董和、胡済を自分の間違いを度々直言で正してくれた人々として挙げ、
同時に「この四人とは終始気が合った。」と述べています。
劉璋旧臣の中で諸葛亮が最も信頼し、また実力と恩愛を兼ね備えた能吏。
それが董和と言えるでしょう。
286101:02/05/11 16:28
続いて董允です。
字は休昭。董和の子です。
劉備が劉禅を皇太子に立てた時(221年)、董允は選抜されて太子舎人、続いて太子洗馬となり、
劉禅が帝位に就くと黄門侍郎となりました。
諸葛亮は227年に漢中への駐屯を開始する時、公明正大な董允を見込んで劉禅を補佐させます
(出師の表で彼の名が費イ・郭攸之とともに挙げられているのは有名ですね)。
その後、諸葛亮は費イを参軍として前線に呼び寄せ、代わりに董允を侍中に昇進させ、
同時に虎賁中郎将(近衛兵を指揮する役職)を兼任させます。
董允は侍中として劉禅の傍に控え、常に直言を以って諫言をし、
劉禅の「後宮の女性をもっと増やしたい」といった類のワガママを抑えたため、
劉禅は董允に気がねしていたと言います。

諸葛亮が亡くなり、蒋エンが益州刺史を兼任することになった時、彼は費イと董允に譲ろうとし、
更に董允の長年の勲功を称えて叙爵するように上奏しましたが董允はいずれも固辞して受けませんでした。
劉禅は成長してくるに従い、宦官の黄皓を寵愛するようになりましたが、
董允は相変わらず上は厳しい態度で劉禅を匡正し、下は度々黄皓を咎めたので
黄皓は董允を恐れ、董允が世を去るまで思い切って悪事を働くことはなかったと言います。

243年、侍中は兼ねたまま費イの後任として尚書令となって輔国将軍の官位を加えられます
(以前費イのところで書いた、董允が自身と費イの能力差を嘆くエピソードはこの頃の話ですね)。
翌年、侍中守尚書令のまま、更に大将軍副弐(費イの次官)となりましたが、
246年(『華陽国志』では245年)に死去しました。
『華陽国志』は当時の蜀の人民は諸葛亮・蒋エン・費イ・董允を称して四相、四英と言ったと伝えています。
董允の死後、後任である侍中の陳祗は董允とは全く正反対に常に劉禅の意に沿ってへつらい、
また黄皓が董允のことを悪く言ったため、劉禅は死んだ董允に対する恨みをつのらせ、
彼は自分を軽んじていたのだと思い込んだと言います。
結局、董允の忠言は劉禅の心にまでは届かなかったのでした。
そしてご存知のように黄皓の跋扈が蜀滅亡の一因となりました。
蜀の民で董允を追慕しない者はいなかったと伝えられます。

蜀の名将・名相の二世たちには出来があまり良くない人材が多いと言わざるを得ないんですが、
董允だけは二世ながらも出色の出来の良さですね。
名声・官位共に父を越え、諸葛亮亡き後の蜀のNo.3として宮廷内部を支え続けた良臣です。
287101:02/05/11 16:29
続いて董和・董允に関するエピソードをいくつか挙げてみます。

・董和から見た費イと董允
費イと董允はまだ官位に就かないころからほぼ同等の名声を持っていました。
ある時、許靖の息子が亡くなりました。董允と費イは一緒に葬儀場へ行くことにし、
董允が父の董和に頼んで馬車を用意してもらいます。
董和が二人に与えたのは鹿車という鹿一頭乗ればふさがるような小さな車でした。
董允はこれに乗ることを渋りますが、費イはさっさと乗り込みます。
葬儀場に到着するとそこには諸葛亮をはじめとした蜀の高官たちがずらりと参集しており、
彼らの馬車は大変立派でした。
董允は自分たちの鹿車は場違いではないかと不安気な様子でしたが、
費イはゆったりと落ち着き払って普段と変わらない様子でした。
後で家に戻った鹿車の御者からその有様を聞いた董和は董允に向かってこう言いました。
「わしはいつもお前と文偉(費イ)のどちらが優れているか測りかねていたが、
今ではもうわしにもよく分かった。」
(・・・董和、ちょっと寂しげです。しかし董和本人は何故葬式に出席していないんでしょう?)

・董恢の訪問
費イが尚書令、董允が侍中の頃の話です。
ある時、郎中の董恢(同姓ですが荊州襄陽を本籍とする人で董和・允父子と血縁はありません)が
董允に敬意を表すべく彼の家を訪ねました。
その時ちょうど董允は費イや胡済と外出しようとしているところでしたが、
董恢が来たのを見て外出を取りやめます。
董恢は年も若く官位も低かったので、董允が自分のために外出を取りやめたのを
恐れ多く思って退出を申しでますが、董允は
「もともと外出しようとしたのは、同好の士と歓談するためであった。
いま、君はわざわざおこしになって薀蓄を傾けて下さろうというのだ。
この談話を捨て置いて、あの宴会に赴くなんて考えられないことだ。」
と言って董恢をもてなしたと言います。
董允が正しい態度を貫き、士人に謙虚な有様はいつもこのようだったと伝えられます。
288101:02/05/11 16:32
さて廖化です。
字は元倹。荊州襄陽郡の人で、元の名は淳と言いました。
(いつ化に名を改めたのかは明らかではありません。
また明帝紀の注に出てくる廖惇という人物も彼と同一人物ではないかと言われています。)
関羽に主簿として仕えていましたが、関羽が敗死した際、呉に降伏しました。
しかし劉備の元にどうしても帰りたかった廖淳は自分が死んだという偽情報を流し、
老母を連れて昼夜兼行で西へと逃げ、丁度東征して来た劉備とシ帰で合流します。
劉備は大変喜び、彼を宜都太守に任命しました。
陸遜伝などによれば夷陵では別督として一軍を率いて戦いましたが、
運良く戦死せずに生還出来たようです。
劉備が亡くなった後、丞相参軍となり、後に督広武となりましたが、
次第に昇進して右車騎将軍・仮節にまで登り、并州刺史を兼任し、
中郷侯に封じられました。果敢な激しい人物として知られたと言います。
(先に触れた廖惇は蜀の陰平太守として238年の9月に魏の守善羌侯の宕蕈の陣営を攻撃し、
雍州刺史の郭淮が派遣してきた広魏太守の王贇、南安太守の游奕を撃破したと、
『魏書』に記されていると明帝紀の注に引かれています)。

『漢晋春秋』によれば、262年に姜維が狄道に出陣した時、廖化は
「『(戦争とは火のようなものだ。)戦争をやめなければ、必ず自分の身を焚くことになろう』
(『春秋左氏伝』の一節)という言葉は伯約(姜維)にあてはまる。
智謀が相手を上回っていないうえに、武力も敵より劣っているのだ。
飽くことなく戦争を仕掛けたとしても、どうして手柄を立てられよう。
『詩経』の『我れより先だたず、我れより後れず』
(どうして自分の生まれる前か、死んだ後にならなかったのか)という言葉は、
現在の事態にあてはまるものである」と言ったと伝えられます。
(廖化って博学なんですね・・・意外・・・)

263年、ケ艾・鍾会の蜀侵攻に際して奮戦し、
姜維や張翼、董厥らとともに剣閣に立てこもって鍾会を防ぎますが、
その間に難路を切り開いたケ艾が一気に成都に迫って緜竹で諸葛瞻軍を撃破し、
劉禅が降伏して、蜀は滅亡してしまいます。
翌年の春、宗預らとともに洛陽に移住させられることになりましたが、
すでに70歳を越えた老齢の身にはこたえたのでしょうか、
途中で病気になって亡くなったと言います。
蜀を最後まで支えた名将でした。
(正史での廖化は『演義』と違って山賊上がりではありませんし、
関羽にもさほど長くは仕えていません。
むしろ蒋エンや費イ辺りと同世代の人物であったと思われます)。

こんなものでよろしいですか?>>283
長文&連続書き込み失礼しました。
289無名武将@お腹せっぷく:02/05/12 19:36
三国志8(PS2)の廖化は一番遅いシナリオ(シナリオ名忘れた)では年齢がなんと

94

しっかりオープニングにも出てるし。
29052:02/05/14 17:09
御久しぶりです、101さん。丁寧な説明ありがとう。相変わらず博識なご様子で。
俺なんか董和は董允のおやじと知って驚いてんのに…(w。

ていうか>>283が一番好きなのは誰なんだろ…きたら教えてホスィ。
291283:02/05/14 17:22
>>288さんありがとー
廖化が博学だったのを知って嬉しいです
あ、あと改名したのは関羽没の直後らしいです
イリョウでは「廖淳(惇)」と書かれてるらしいので、
でもその後、「廖化」に戻ってるんですよね・・・
まあ、普通に戻しただけでしょうが
もしかしたら若い頃名が「廖淳(惇)」だったのかもしれませんね
その場合馬忠(蜀)(昔は孤篤)と似たようなもんでしょう
年齢は張翼と似たような物で77、8歳かと思います

>>290
一番好きなのは魏延です
三番は正史の劉備
四番は魯粛・趙雲
292101:02/05/14 20:40
>>290=52様
お久しぶりです。
案外早く戻ってくることが出来ました(w。
またよろしくお付き合い下さいね。

>>291=283様
お役に立てたようで幸いです。
で、お返事に対して少々意見をば。

>改名したのは関羽没の直後らしいです
う〜んと正史にはその辺り明確には書いてないんでそうとは言い切れないかと。
283様は基本的に「廖化→廖淳→廖化」とお考えのようですが、
陳寿は宗預伝付の廖化伝で「元の名は淳」とはっきり記してますので
>もしかしたら若い頃名が「廖淳(惇)」だったのかもしれませんね
という283様の後者のお考えで間違いないようです。

で、改名の時期ですが推察できるところまでやってみると
まず283様の仰るように陸遜伝などの夷陵の戦いの記述では
「廖淳」と記されていますし、
また蒋エン伝で丞相諸葛亮が幕府を開いて蒋エンが推挙された時、
蒋エンが辞退して譲ろうとした四人のうち一人が「廖淳」ですので、
早くても諸葛亮が丞相府を開いた233年までは確実に「廖淳」であった
と言えるでしょう。
更に先に記した廖惇が本当に廖化本人であるならば、
少なくとも238年までは「廖淳」と名乗っていた
(=廖化への改名はその後)と考えて良いのかも知れません。
まあどれも推測に過ぎないんですけど(w

なお馬忠の改名(&改姓)については王平の改姓とともに
すでにこのスレの上のほうで語られていたはずなので、
よろしければ見てくださいな。
293101:02/05/14 20:49
諸葛亮が丞相府を開いた年は223年ですね。
お詫びして訂正します。
294楊雄 ◆zA1iYang :02/05/16 01:39
お久しぶり。お元気そうでなにより。

295283:02/05/16 11:19
>>292殿
有難う御座います、
それと貴殿の推測のほうが近いでしょうな

他に改名したのは李厳ですね(李平に改名)
29652:02/05/16 17:49
>>291=283
どれもいいですな。趙雲マンセー!!ていうか、もちろん魯粛は正史ですよね?

>>292=101
こちらからも、よろしくお願いします。

李厳は活躍したのはどんな時でしたかね…。怠慢だった事しか覚えてないんですが。
29752:02/05/16 17:57
>>291=283
どれもいいですな。趙雲マンセー!!ていうか、もちろん魯粛は正史ですよね?

>>292=101
こちらからも、よろしくお願いします。

李厳は活躍したのはどんな時でしたかね…。怠慢だった事しか覚えてないんですが。
298101:02/05/17 00:35
>>289
きゅ、94?
コーエーゲーでの廖化は基本的に演義ベースですから
そんな歳になってしまうんでしょうね(汗

>>294=楊雄様
お久しぶりです。またよろしくお願いしますね。

>>295=283様
李厳→李平は「改名後より改名前の名の方が有名」という変り種ですよね。
普通は程立→程イクとか、陸議→陸遜みたいに改名後の方が有名なのに。
まあ陳寿が「李平伝」ではなく「李厳伝」を立てたせいなんでしょうけれど。
299101:02/05/17 00:36
>297=52様
では今日は李厳について一筆。

李厳、字は正方。荊州南陽郡の人です。
彼は若くして郡の官吏となり才幹によって賞賛され、
劉表の下でいくつもの郡県の長を歴任しました。
208年、シ帰を治めていた李厳は、曹操の南征に際して荊州を脱出。
蜀に入り劉璋に仕え、成都の令となりまた有能であると評判になります。
213年、蜀内部で劉璋攻撃を開始し緜竹まで進軍して来た劉備に対し、
劉璋は李厳を護軍に任じ緜竹の軍勢を統括させて防がせようとしますが、
出撃した李厳はそのまま劉備に降伏。劉備は李厳を裨将軍に任じ、
翌年、蜀が劉備の物となるとケン為太守・興業将軍に昇進しました
(この頃、李厳が楊洪の上司であったことは以前楊洪の時に書きましたよね)。
なおこの頃、伊籍・諸葛亮・法正・劉巴とともに蜀の法律『蜀科』の制定に関わったと言います。

218年、盗賊の馬秦・高勝らがシ県で反乱を起こし、その軍が数万に膨れ上がりました。
この時、劉備を始め蜀の主力軍は漢中に出撃し魏軍と戦っていたためかなり危険な状態だったのですが、
李厳はケン為郡管轄の兵五千人だけという少数の兵でこの反乱軍を撃破し、
馬秦・高勝の首を挙げました。
また同じ頃、越スイの蛮族の頭目、高定が軍勢を派遣して新道県を包囲しましたが、
李厳が救援に駆けつけたため、高定の軍は敗走したといいます。
これらの軍功によりケン為太守の職はそのままに、輔漢将軍に昇進しました。

222年、劉備は李厳を永安宮に呼び寄せ、病没した劉巴に代わって尚書令に任じます。
翌223年、劉備は劉禅を補佐するように丞相・諸葛亮に命じ、
尚書令・李厳を補佐に任じて亡くなりました
(あまり知られていませんが、劉備に後事を託されたのは諸葛亮だけではなく、
諸葛亮と李厳の二人だったんですよね。紛れもなく諸葛亮に次ぐNo.2だったわけです。)
この時より李厳は中都護(内外の軍事を統括する軍事のトップ)に任じられ、
永安に留まって呉の方面へ睨みを効かせます。
翌224年には中都護のまま都郷侯に封じられ仮節・光禄勲、永安都督となりました。

長くなるのでここで分割です。
300101:02/05/17 00:37
226年、李厳は前将軍に任じられます。
諸葛亮は自身の漢中駐屯に際して、李厳が必ず後のことを取り仕切ってくれると考え、
彼を江州都督とし、陳到に任せた永安ともども李厳の支配下に置きました。
230年、驃騎将軍に昇進し、魏の曹真の蜀侵攻に際し漢中に呼び寄せられ、
魏軍の長雨による侵攻断念・撤退後、署丞相留府事として
蒋エン、馬忠を部下に翌年の諸葛亮北伐中の漢中の政務を司るように命じられます。
この頃、238様が仰るように李平に改名しました。

翌231年、諸葛亮は第四次北伐に出陣します。
李平は兵糧輸送などの後方支援を担当しますが、夏から秋にかけての長雨で
兵糧が上手く繋がらず、その旨を諸葛亮に伝え、蜀軍は撤退を余儀なくされます。
李平は諸葛亮の撤退を聞くと白々しく驚いた振りをし、
「兵糧は充分足りているはずなのにどうして帰ってきたのか?」と言い、
更に劉禅に「軍は撤退したふりをして、賊軍をおびき寄せ戦いを交えるつもりです。」
と嘘の上表をしました。自身の輸送失敗の責任をなすりつけ、
進軍しなかった諸葛亮の責任問題にすり替えようとした訳です。
しかし、諸葛亮は李平の自筆の手紙を整理して提出したため、
李平の嘘と責任転嫁はあっさりとバレてしまい、李平も罪を自白して謝罪しました。
それでも諸葛亮は許さず、彼を弾劾する上表を行います。
結果、李平は官爵を剥奪されて庶民に落とされ、梓トウ郡に流されました。

李平はそれでもいつかは諸葛亮が自分を復職させてくれると信じ、
その機会を待っていましたが、234年、諸葛亮が五丈原に陣没すると、
もはや自分が再び任用されることはなくなったと嘆き、
そのまま病になって亡くなりました。

李厳は諸葛亮に
「各部署が流れるように動き、進退に渋滞することがないのは
正方(李厳)の性格による」と称される程に
抜群の才能を持っていましたが、その才能に奢ったのか
自らの地位に飽き足らず、やれ巴州の刺史にしてくれだの、
魏の司馬懿のように幕府を開かせてくれだの
様々に自分勝手な要求をしていたそうです。
また彼は自尊心が強くて部下や同僚を寄せ付けない雰囲気があったため
周囲と折り合いが悪かったともいいます。
文武両面に渡る才能を持った蜀随一の逸材であったにも関わらず
自分勝手な言動によって寂しく死んでいった彼を思うと
「勿体無い」と思わざるを得ないのは私だけではないと思うのですが・・・。
301無名武将@お腹せっぷく:02/05/17 18:47
ふーん…演義の魏延みたい。
まあ勿体無いといえば勿体無いですが、やっぱり組織に属するならある程度適応する事は要るんじゃないですかね〜。
馬秦と高勝を少数VS多数で蹴散らしたって話からも李厳スゲェと分かるけど>>131で出た霍峻や、魏のカク昭の方が記憶に残ってるな。
30252:02/05/17 18:48
↑俺です。
303101:02/05/17 21:01
>>301=52様
確かに軍事面に限って言うと、数百〜千の兵で敵の大軍を翻弄した
霍峻やカク昭(それに趙雲や張遼、甘寧、曹仁にもそんな逸話ありましたね)
の方がインパクトは強いですが、李厳は軍人としてもなかなかの上に、
文官としても国政トップクラスの尚書令を任せられるほどの能力の持ち主ですから、
総合力では蜀随一ではないかと個人的には思いますよ(それこそコーエーゲーでの趙雲並みに(w))。

>組織に属するならある程度適応する事は要るんじゃないですかね〜
ええ、本当にその通りでしょう。
私が「勿体無い」と言ったのは「こんなに才能のある李厳を使わなかったことが」ではなく、
国家を動かせるだけの才を持ちながら、己のつまらない言動によって
その機会を永久に失った李厳に対して
「そんな形で折角の自分の才能を無駄にしてしまうなんて、勿体無い」
と言う意味だったんです。説明不足で申し訳ありません(平謝り)。

蜀って本当に「有能だけど性格に問題のあり過ぎる人」の多い国ですねぇ。
304楊雄 ◆zA1iYang :02/05/18 02:39
ちょっと前の話で申し訳ないんですが、「花関索伝」という作品がもとで、
私のコテハン「楊雄」が水滸伝の中で「病関索」というあだなで呼ばれているんです。
水滸伝成立以前には、この作品は影響力があったのでしょう。
水滸伝作中の三国志関連
@軍師智多星呉用は諸葛亮キャラ仕立て
@大刀関勝は関羽の子孫
@周通のあだ名は「小覇王」
@五虎将
など。。。勿論、それ以前のお話もふんだんに盛り込まれ巷間にはぐくまれた
作品ですので、多くの人気小説間で影響があったのでしょうね。

30552:02/05/18 08:56
>>303=101「尚書令を任せられるほどの能力の持ち主」
そうですね。確かに尚書令を任される程ならそれなりの政治力はあったっぽい。コーエーの李厳の政治が低いのはやっぱ兵糧運びが怠慢だった事が評価されてるんですかね〜?
総合的には蜀随一ですか。なかなか、軍を率いながら政治ができたやつは少ないですが性格に問題があったらねぇ…。
ていうか、あのゲーム関羽と趙雲違いが少ない…(w。それになんで趙雲の政治力が張魯と一緒?(ww

>>304=楊雄
自分は水滸伝知りませんが、水滸伝ができた頃には何か関索が流行っていたというのを聞いた事があるっす。水滸伝面白いですか?全くスレ違いなんでsage。
306101:02/05/18 13:36
>304=楊雄様
成るほど、楊雄様のコテハンの由来は水滸伝の登場人物だったんですね。
私も寡聞にして水滸伝は読んだことがないのでわかりませんでした。

関索についてですが「関羽の三男伝説」はかなり古くから広まっていたそうです。
これは宋から元にかけて成立したと言われる『演義』にも
関索が出てくることからも分かると思います。
『水滸伝』は明代に成立していますが、『花関索伝』も明代の墳墓から
出土したことを考えてその頃の小説と考えると52様の仰るように
その頃「関索リバイバル」とでも言うべき流行があったのかも知れないですね。
(まあ『花関索伝』の場合、成立自体はもっと古いのかも知れませんが)

で、『演義』の関索ですが
蜀の武将を必要以上に活躍させたがる羅貫中にしては珍しく、
たった数回の登場で忽然と消える人物に成り果ててしまっていますね。
羅貫中的には他人の作った架空キャラなんて活躍させたくなかったのかも知れません(w

>305=52様
まあ、ゲームでは武将の性格をシステムに絡ませ辛い(出来ても義理くらい)ですから、
李厳は「能力が高いけど性格が悪い」とするより「能力が半端」として扱う方が楽なんでしょう
(『演義』ベースならそれで間違ってませんしね)。

趙雲が政治も出来たなんてこと『演義』ですら書いてな・・・
いえ、これ以上はやめておきましょう、我らのヒーロー趙雲を貶めるのは(w

今、ふと考えたんですが文武両道に優れる蜀随一の人材なら李厳に荊州任せても良かったんじゃないかと。
彼は荊州の出ですから地元との繋がりもあるでしょうし。
あ、でも格が関羽より下だから関羽と交代させるのは無理ですね。
じゃあ関羽の補佐とすると・・・
・・・傲慢な関羽と尊大な李厳・・・・、間違いなくぶつかりあって自滅しますね(w
適材適所って難しいものですね。
30752:02/05/19 23:49
やっぱ、趙雲の政治力を示す記述は演義にも無いですか…。どうやらコーエーの言う政治力は性格や、その人物の行動から見る(物事が成功したかじゃなく阿斗を助け出したとか)内面的評価とかも反映されてるみたいっすね。
正確に問題のある人に重要拠点のボスを任せるのは少し問題ですね。法正とかなら…。彼って何時くらいまで生きてたんですかね?あと、白眉もまだ関羽が死ぬ前位はきっと生きてたはずですが…。こいつらはこいつらで益州で忙しかったのかな〜。
こうなったら趙雲に頑張って(以下強制終了。

張文遠とか、太守になる人ってやはり政治力が要るんですかね?本国から離れたところでは実質的に政治は誰が摂るんですか?
全くスレと関係無いのでsageよ。
308101:02/05/20 01:00
>>307=52様
>趙雲の政治力
一応、正史趙雲伝の注に引く『趙雲別伝』に赤壁後に桂陽太守になったという記述がありますが、
高い治績を挙げたという話は残念ながら聞きません・・・悲しい(泣)。

>性格に問題のある人に重要拠点を任せるのは少し問題
しかしあの時点で荊州を任せられる人材は能力的にも格付け的にも関羽しかいないので、消去法で行くと妥当なんですよね・・・
ただもう少し副官あたりの人選で人間関係がどうにかならなかったものかと思いますが。
>法正か馬良
一応関羽敗死の時にはまだ二人とも生きてますね。
ただ法正じゃもっとダメでしょう(w。
才能は抜群ですが劉備に目をかけられるようになった後、
蜀郡太守の地位を悪用して、劉璋時代に自分を冷遇した人たちに難癖つけて
死刑にしたり好き放題した人ですから、李厳以上に性格に難ありです。
220年(漢中攻防の翌年、夷陵の二年前)に若くして病没したので李厳や魏延、
楊儀に廖立のような末路は辿らずに済みましたが、
長生きしてたらきっと同じようなことになったのではないかと・・・。
また法正はどちらかというと政治家と言うより謀士や軍師ですので、拠点を預かる司令官には才能的にも不向きかと。
出身地も司隷(長安周辺)ですから、荊州に人脈もないですし。

馬良は222年、夷陵で戦死しています。荊州出身なので人脈的にはOKですが、
ただ彼の場合、その名声の割に実際どんな分野に才能があったのか、
はっきりとした実績を残さないまま死んでしまったので彼で支えきれたかと問われると
「出来た」と断言は出来ないです。

>こうなったら趙雲に頑張って(以下強制終了。
ええ〜っと、言いづらいんですが趙雲はあの当時、翊軍将軍で、
俗に言う五虎将の他の四人が前・後・左・右の四将軍だったのと比べると
2ランク程階級が下なので、残念ながら荊州総督になるには
性格・能力うんぬんの前に格付け的に無理が・・・(泣)

>張文遠とか、太守になる人ってやはり政治力が要るんですかね
まあ張飛が宜都や巴西の太守になったりしてますから、当人の政治力はさほど関係ないかと。
むしろ高官といえば郡太守がまず第一に浮かぶ時代のようですから格付け的な要素が強かったんでしょう。
勿論政治や実務の才があるに越したことは無いでしょうけれど、部下の郡丞なんかが有能であれば
特に問題ないのではないかと思います(刺史や牧も別駕辺りが有能であれば同じことでしょう)。
ちなみに張遼は呂布配下時代に魯国の相(太守と同格)になったことを除けば、
太守になったことはないので悪しからず(w。
30952:02/05/20 12:54
いや〜、駄目だなー、中途半端な知識で三国志の話をしたら…(苦w。

法正は性格駄目なんですか。劉璋から寝返ったのまでは知っていましたが、これは劉璋が彼を冷遇したからしょうがないとは思ってましたが、後でさらにうさばらししてたんですね。それは駄目だ…。
趙雲は格が下なんですか…。確かに、正史では…だしなあ。黄忠の方が後に入ったのに趙雲の方が格はしただったんですか?
あと、張遼って合肥の太守じゃ無かったんですか?まさか、あれも演義の創作…。
張遼、りてん、がくしん、とだれだっけ?
魏の五大将のこと?
それだったら、張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃だよ。
合肥で勝ったときの4じゃない?

長史の薛悌あたりか?
馬良の活躍といえば夷陵の戦いのとき荊州南部の異民族を蜀側につかせた
ってのがある。外交手腕があったかも
314101:02/05/20 20:48
>>309=52様
>黄忠の方が後に入ったのに趙雲の方が格は下だったんですか?
その通りです。更に黄忠どころか(一兵卒から出世した)魏延より下です(泣)。
更に李厳や黄権、呉懿よりも下ですね・・・・。
何か「子竜、一身これ胆なり!」とか誉めてる割には妙に冷遇してませんか?>玄徳さんに孔明さん

>張遼って合肥の太守じゃ無かったんですか?まさか、あれも演義の創作…。
いえ、張遼が合肥の抑えとして呉に睨みを効かせていたのは史実でも同じです。
ただ、張遼はあそこに太守としてではなく盪寇将軍、征東将軍、前将軍といった
将軍として赴任していた「軍事のみ担当」の人なので、あの近辺の政治には職務上、
関与していないはずです。
ちなみに合肥は魏の揚州の拠点であり、劉馥や温恢といった揚州刺史が直接統治していたので
どうも「合肥太守」という職自体が、そもそも存在しないようです
(間違ってたらツッコんでください、魏のことにはさほど詳しくないので)。

>>312
仰るとおり薛悌で間違いないようです。
但、当時の薛悌の職は長史ではなく護軍だったようですね。

>>313
呉に使いした時も、孫権に敬意を持って遇されたようですので、
仰る通り外交手腕はあったと見てよいのでしょうね。
ただ外交だけではあそこまでの名声を得たり、
董和や劉巴、董允ら尚書令クラスの連中と共に正史に立伝されるとは
思えないので、政治か軍事にもそれなりの才能があったのかなと思うのですが・・・
如何せん証拠がありませんね、残念です。
315無名武将@お腹せっぷく:02/05/20 21:51
聞いた話によるとコーエーの(比較的権限のある)スタッフに趙雲びいきの人がいるため
趙雲はあのような完璧なステータスらしいです。さらに孔明の知力100で助言は絶対外れ
ないという裏ステータスのようなものもあるらしいです。
316楊雄 ◆zA1iYang :02/05/21 02:44
えっと。・・・
法正から。
性格が剛直とかそういう文言があったとおもいます。いわゆる頑固者
だったようで。劉璋時代のライバル蹴落とした、っていう話は聞いたことが
あります。

>>283殿の魏延。
以前私が書いた、「劉備に抜擢・厚遇された人物」の筆頭では?演義では、
「叛骨の相」と諸葛亮に嫌われていたのにもかかわらず、演義後半まで物語の重要な
位置を占めています。横山本でも、荊州で城内が混乱しているシーンで、一兵卒として
城内に劉備の軍勢を招き入れようとしています。(城内混乱のため、劉備はそのとき
ソッポを向いてしまいますが。)入蜀後も張飛よりも位が高かったんでしたっけ?

水滸伝
梁山泊にこもる108人の好漢の物語。軍人・武芸者・名主・医師・道士から、
はては山賊から馬泥棒まで個性的な人物が一同に会し、朝廷に巣食う悪徳官僚と
闘う物語。要約しすぎ。
ただし、ここ(三国志・戦国板)では異端なので、3〜4スレッドが下げ進行で
マターリやってます。私の常駐水滸伝スレがなくなってしまったので、このコテだけ
残ってしまいました。一応、三国志にゆかりのある人物からコテつけてます。

>>311魏の五虎将軍
張郃←この字が出るのがスゲー

>>314馬良と張遼
馬良:名門の四男で、五人兄弟で最も優秀、ぐらいしか伝わってないんですよね。
弟が諸葛亮に抜擢(抜擢上手の劉備は高く評価していない所がミソ)されたところも、
著名になった理由の一端かもしれませんね。
張遼:劉馥や温恢の治世が、4月ごろのモーニング「蒼天航路」にも作中用いられて
おりました。この漫画、原作者がお亡くなりになり、正史と演義と創作の渦を
さまよっている様子。全く新しい三国志と思わせておいて、変に正史に忠実だったり
します。ご一読を。

>>315コーエー
中国連環画でも阿斗を助ける趙雲は見せ場です。
317283:02/05/23 09:39
>>296
(亀レスで申し訳ない)もちろんです
31852:02/05/24 15:30
>>314=101さん
合肥太守という職自体無いんですか。んじゃ、俺が見たゲーム中のそれはきっとコーエーが張遼を立てるために分かりやすく表現したのかな…?
外交だけではそんなに名声を得られないもんなんですか。国の未来を掛けて他国のボスん所に行くんだから随分骨の折れる事だと思うんだけどなあ。…【登β】芝ぃ!(死

>>315
ふーむ、確かに「三国志」はどの趙雲も強者ですが、、(Zは弱かったネ)
ま、どうせ自分が好きな趙雲も作り話の演義のですから(w。

>>316=楊雄さん
蒼天は長坂の趙雲見た後、赤壁にはいって何故か萎えました…。

>>317
やはりそうでしたか。演義のは、、まああれはあれでいいんですが(w

魯粛の単刀直入の話って本当なんですかね?
31952:02/05/24 15:40
うお、単刀直入→単刀赴会でした。
先日までこれとこれは同じ物だと思っていたんで、混同していたんで間違えてしまいました。「本当なんですかね?」って、本当もクソも無いですね(苦w
スレ汚しスマソ
32054:02/05/24 23:12
  常連の皆様、実は…正直今の知識では追いつかなくなって
 きました。しばらくお休みをいただきたいと思います。
 申し訳ありません(涙)。修行して出直して参ります。

 蒼天航路
  …麋竺も簡雍も孫乾も見たことないですねえ。
 もっともあのドレッドヘア暴走呂布に、麋竺が
 「名将は他人の妻子を害したりしません。」なんて言えっこない…。

 それではしばらくごきげんよう。
321楊雄 ◆zA1iYang :02/05/25 01:15
>>54(320)
ここの101は、「正史読め」とかって初心者をたたく根性ではないので、
気にしないでいいです。とりあえず、横山三国志・吉川三国志でもコーエーゲー
でもなんでもいいんです。もっと好きになってたのしくやりましょう。

わからないことがあったら、質問にお見えになってください。私のつたない智識で
応援できることがあればいたしますので。
322101:02/05/26 00:08
>>316=楊雄様
>蒼天航路
あの作品のあまりにも超人過ぎる曹操とあまりにも変態さん(wの諸葛亮にはうんざりですが、
劉備は今までの三国志作品の中で一番正史の劉備っぽくて好きですね。

>魏延
魏延は劉備の任侠的な人物登用の最後の生き残りですよね。
諸葛亮の名士的人物評価によって選ばれた官僚たちが蜀の中心になるにつれて
周りから浮いてしまったんでしょう。可哀想に。
ちなみに、正確には「誰もが張飛が任命されるだろうと考えていた漢中都督・漢中太守の地位に、
劉備が抜擢したのは大方の予想に反して魏延だった」という話でして、
地位は最後まで張飛の方が上です。

>>319=52様
>外交だけでは・・・・
いえ、勿論外交も重要な役割だと思います。
ただ、「それに長けているだけでは唯の外交官であって
政権の中枢を担った中心人物たちほどの名声は得られないのでは?」
という私個人の考えですんで、あまり鵜呑みになさらないで下さいな。

ちなみに蜀で呉との外交に成功した人物のうち馬良の他には、
ケ芝、費禕、陳震などが蜀書に立伝されていますが彼らにしても、
ケ芝はその後の軍人としての活躍を、陳震はその後、尚書令まで昇進していることを、
そして費禕は勿論事実上のNo.1になったことを理由にしての立伝であって、
外交だけの人物ではなかったからだと個人的には考えてます。

>単刀赴会
正史にもありますよ。
ただ、演義では関羽の見せ場となっているこの会談、
正史によると正反対に魯粛の理論立った荊州返還要求に対し、
関羽がぐうの音も出なかったというのが事実に近いようです。

>>320=54様
321で楊雄様が仰っているように、そんなこと気になさらないで下さい。
私があんな迷惑な長文を好きなように書けるのも
52様、54様を始めとした皆様の質問や話題提供あっての話です。
54様あってのスレですから、本当にお忙しいなどの
止むを得ない事情がないのでしたら、今まで通り参加して下さると嬉しいのですが。

私は正史を右から左に写すだけの人間ですが、
お役に立てることもあるかもしれませんので、楊雄様と同じく、質問があればいつでもどうぞ。
そして三国志知識を皆で一緒に深めましょう!
323101:02/05/26 00:16
上の書き込みの費イの禕の字、上手く書けたようですね(w
でもこれ311の張コウの郃の字同様、
Unicode表記で中国語のフォントを無理に表示しているはずですから、
読んでいる方の環境によっては文字化けして読めないはずなので、
多用は禁物だと思います。おせっかいながら一言。
32452:02/05/26 14:16
>>101さん
漏れのPCでは文字化けしてますわ。まあ、読めるからいいですけども。費イは費・って感じで。

>>320=54さん
あなたの発言見て焦ってるの俺だけでしょう(w
そういう理由で落ちられると自分的に肩身が狭くなります。是非参加してください。
32552:02/05/26 14:22
蒼天嫌いになったのは曹操が原因かもなぁ。完璧すぎだもん。
陳震は厨房が皇帝になった時、祝いにパシったやつですね。
32654:02/05/27 22:32
 あうあう、楊雄さま、101さま、52さま
お返事どうもありがとうございます。
 なんだかご心配をおかけしてしまったみたいで申し訳ありません。
自分のサイトでも結構てんてこ舞いなので焦ってしまった感が
あります。蜀文官オンリーとはいえ、入蜀後が苦手なので
それもあったと思います。入蜀後の方が圧倒的に人が多いのにね。
 自サイトのこともあるので沢山はかけませんが
今後ともよろしくお願い致します。本当にありがとうございます。
 
32752:02/05/29 00:43
こっちもよろしく。
ていうか別に蜀じゃなくてもぜんぜんOKなんですがね。なんとも蜀には「マイナー&いいやつ」という孫乾系キャラが大勢いるんで。
もっと役にたって目立てよ、、オメェラ(w

ってか自分が蜀のやつしか出さないのは大いに知識不足が原因であるという可能性大ですが。嘆いてもしょうがない、、グスン
328楊雄 ◆zA1iYang :02/05/30 00:15
蒼天航路付記

正史三国志の曹操の項目に「諸葛亮」という文言が一度たりとも出てこないことを
強調すべく「変態孔明」を打ち出してしまい、迷走中です。合掌。

>>327=52様
地味なマイナー文官のなか、簡雍のヤレヤレとねっころがった横柄な態度は、特筆モノかと。
では久しぶりにご登場をおながいします。
329楊雄 ◆zA1iYang :02/05/30 00:18
 \  自作自演て結構めんどい。    /
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

            ∧∧
           (゚Д゚O =3
      ⊆⊂´ ̄  ソ ヤレヤレ
330101:02/05/30 00:28
54様が思いとどまって下さったようで一安心です。
>>327=52様
>蜀には「マイナー&いいやつ」という孫乾系キャラが大勢いるんで。
>もっと役にたって目立てよ、、オメェラ(w

蜀の人材に関する記述が少ないのは仕方のない面があるんです。

『三国志』蜀書・後主伝(劉禅の伝記)によると、
蜀は(少なくとも諸葛亮の時代には)史官(歴史を記録する役人)
を置いていなかったそうです。
そのため陳寿が三国志を書いた晋の時代には、すでに蜀の詳細な記録は
正式な史官を置いていた魏・呉と異なりその多くが散逸してしまっており、
劉備陣営の人々の詳しい記録はなかなか残っていなかったようです。

結果として『三国志』の蜀書は他の二書と比べて非常に薄い書物になっています。
(勿論、魏を正当として書いてる以上、魏書より蜀書が薄いのは当然なんですが、
呉書と比べても遥かに薄いですからねえ・・)

本当は彼らももっと目立った活躍をしたはずなんです。
陳寿は蜀出身であることを考えれば、
諸葛亮が魏や呉同様に史官を置いてくれさえいれば
もっとバラエティに富んだエピソードが後世に伝わったかも知れないと思うと・・・(泣

>>329=楊雄様
>正史三国志の曹操の項目に「諸葛亮」という文言が一度たりとも出てこない
それをいったら文帝紀(曹丕の伝記)にだって出てきませんからねぇ、諸葛亮(w
まあ、諸葛亮が魏に直接関わってくるのは北伐の時だけなんで当たり前と言えば当たり前ですよね。
諸葛亮(蒼天Ver.)はどこへいく(w

最近簡雍様お見えになりませんね。寂しい・・。
331283:02/05/30 11:45
>>306
関羽・李厳・魏延が集まったら・・・

とんでもない事になるか、
意表をついてうまくいくかのどっちかですな
332荒らしにきました:02/05/30 11:55
このスレうざいから荒らして荒らして荒らしまくるぞ!
33352:02/05/30 21:21
>>331=283さん
間違いなくとんでもない事になるっしょ。ついでに法正も連れて荊州と共に逝ってください(w。

>>328=楊雄さん
じみーな中でも少し浮いてますな簡雍(w。ま、そんな横柄な態度よりも李厳や法正みたいに内面に問題があるよりずっとましでしょう。
ちなみに彼は旗揚げ当時から劉備について行って、いつ頃まで生きてたんですかね?

>>330=101さん「もっとバラエティに富んだエピソードが…
いやいや、そんな記録がないからこそボロも出ずにいられるんでしょう、きっと!
このスレがあるのも蜀書が薄いからなんスから(w。
33454:02/05/31 20:55
 
 283さま、多分関羽さまが二人を追っ払っちゃって
       元の木阿弥と思われます(ダメぢゃねーか!)。
 
 52さまは法正がお嫌いなのですか?(笑)
      簡雍ですが、正史では生没年不明で、演義でもいつのまにか
      居なくなっていますが、ネットや本だと220、224だの
      226とか書いてあることがあります。
      全然根拠ないみたいですけどね。

 楊雄さま 自作自演(笑)。簡雍だけじゃなくて他の人物もどなたか
      やってくれませんかねえ?八頭身は怖いから結構です(笑)。
 
 では時間なので失礼。
335101:02/06/02 21:44
>>331=283様
それは・・・(汗
基本的には54様の仰る通りでしょうね。
李厳は完全に士大夫層ですから関羽との仲は最悪でしょう。
ただ、関羽−魏延間関係なら、魏延は兵卒上がりですから
魏延の態度によっては良好な態度を築けるかと。
魏延が関羽を尊敬し、常に彼を立てる態度を示せば・・・・
・・・・まあ可能性ゼロに等しいでしょうが(w

>>333=52様
>そんな記録がないからこそボロも出ずにいられるんでしょう、きっと!
今、残ってる記録だけじゃボロも出ようがないですからね(苦笑。
ただ、正直多少のボロが出てでももっと多くの蜀の記録が欲しかった・・。

・・・ということで現在当方、巴蜀地方の地方誌『華陽国志』と格闘中です。
漢文は高校の授業以来(しかも訓読点なしの白文)なので
いつ読み終わるやら分かりませんが(苦笑
後漢から三国時代の部分をざっと読んだところ、
孫乾や簡雍は・・・蜀の出身者ではないのであんまり載ってないみたいです(泣。

>>334=54様
52様を法正嫌いにした犯人は私ですね(苦笑
>>308の書き込みがその犯行記録です(w
336283:02/06/03 16:32
>>335
しかし、法正は劉備の信頼が諸葛亮より厚かったような気も・・・
(殆ど推測に過ぎませんが)
あと、関羽―魏延ラインならまだいいでしょうが
そこに李厳が入るとやはり最悪っすね・・・
337無名武将@お腹せっぷく:02/06/03 20:41
>>334=54さん
簡雍が死んだのは推測で222年付近ですか、、
劉備と同じとすると享年60歳位ですね。う〜ん、彼に関する話が少ないからなぁ、、(何
蜀の幹部には国の記録を残す事は考えなかったのかね、、

>>335=101さん
いやいや、法正嫌いじゃないじゃないですよ(w
>>333では性格が悪い事を言ってるだけです。

>>336=283さん
確かに自分も魏延−関羽は結構いけるんじゃないかと思います。
ただ、李厳はどっちともくっつきにくいんじゃないかと(w
法正が入ったら大変だ(ww

三国志だったら
訓練−関羽(統率96武力98)、魏延(統78武94)、李厳(統80武84)
内政−法正(政治83)、関羽(72)
計略−法正(知力93)、李厳(81)、関羽(80)
民忠−関羽(魅力96)、李厳(78)
『三国志Y武将FILE』より
あーあ…みんな、大活躍だ(w

マイナーじゃないけど、ホウ統は正史では政治はどうなんですかね。
演義では張飛がいちゃもんつけに殴り込みにきたのを
溜まった仕事をパパッと片づける事で何とかした話がありましたが、、

明日から修学旅行なんで、土曜まで落ちます。
33852:02/06/03 20:43
うー、あげてまった、、スマソ
名前も…
339楊雄 ◆zA1iYang :02/06/03 22:07
>>336
私が気にしているのも、そこなんです。
劉備の人材登用と諸葛亮のそれでは、優劣の差がはっきりしていると思うんですが、
「劉備は抜擢上手」「諸葛亮ってば、案外人を見る目が無いよね」
っていう話にはなりにくいんですよね。演義の中で神格化された諸葛亮が、
劉備没後何でも自分でやる人に祭り上げられてしまったところにも、この2人の
トップとしてのキャラクターの立ち方に差があると思うんですが。
340101:02/06/03 22:59
>>339
え〜と、楊雄様は法正の例から劉備の抜擢した人間も
一概に優れた人物ばかりとも言えないと仰りたいんですよね?
ある意味ではそうだと思います。

恐らく劉備は曹操が郭嘉を高く評価したのと同様に、人物の能力さえ高ければ
たとえ品行が悪かろうが、性格が最悪であろうが抜擢していたものと思われます
(劉エンのような無能な例外もいますがこれは彼が劉備に仕えた期間の長さに対する温情でしょう)
逆に言えば曹操や劉備にはそういった性格に問題のある人材を使いこなす自信があったんでしょう。
対して諸葛亮の人物評価の根底にあるのは名士としての名声ですから、
才能よりもまず品行や徳行などが重要になるのでしょう。
品行の悪い人物は彼からはまず高い評価をもらえない訳ですね。
結果として諸葛亮の評価する人物というのは品行や徳行は一流であるものの、
才能では劉備が抜擢した人材と比べると今一歩という連中がどうしても増えてしまうのだと思います
(まあこちらも楊儀のように性格が悪くても評価された例外もいますがごく少数です)。

そして>>322で前述のように、諸葛亮を中心とする名士層が蜀の中心を占めるようになると(特に劉備の没した後は)
劉備が抜擢した人材の生き残りで、かつ諸葛亮の政治に適合出来なかった連中は次々と蜀漢政権からスピンアウトさせられていく訳ですね。
こうして魏延たちは劉備と諸葛亮の人材登用の狭間に消えていったのだと思われます。
合掌。
341283:02/06/05 16:27
>>339
その辺には結構肯けますよ、
ただ、劉備と諸葛亮の違いは「人材の厚さ」と「発想の問題」
この2つが原因かと思います

>>340
確かに劉備と曹操は人材登用の仕方とかは似てるんですよね
諸葛亮が抜擢した中が殆ど文官だったのも
名士の中では武官が殆ど居ないからだと思います(例外は向寵ぐらいか?)
また、楊儀の場合は、本人の能力の他に、元々家が名士だったからではと思います
この場合性格の問題(魏延の首踏み付けて罵ったくらいですから)
は、置いておいたのではないかと
諸葛亮は「楊儀の才幹を愛し、魏延の剛勇を頼みにしていた」のですから
(もっとも、もしかしたら単なる好き嫌いも有ったかもしれませんが・・・)
それと、どうも諸葛亮は楊儀も嫌っていた様ですから、やはり性格を気にしていたのでしょう
342101:02/06/09 01:17
>>341
>どうも諸葛亮は楊儀も嫌っていた様ですから
ええっ!?それは意外な見解ですね。
283様はどこの記述からそう思われたのですか?是非教えて頂きたいのですが。

>名士の中では武官が殆ど居ない
確かに蜀には軍事に通暁した名士は少ないかも知れませんね。
(魏であれば司馬懿などがそうなのですが)。
高位の将軍職に就いている人もいますが、そういう人に限って
名士としてはどのくらいの評価だったのか分からなかったりします(泣
(それに高位の将軍だからといって軍事を得意としているとは限りませんしねぇ・・・)
張松。
不細工だったという話をよく聞くが出展はどこなのだろうか。
張任が蜀に降ってくれていればと思う。
344101:02/06/10 23:41
>>343
不細工であるというのは演義の創作のようです。
ただし、恐らくこれが誇張されてそうなったのだろうという記述は存在します。
蜀書・先主伝の注に引かれた『益部耆旧雑記』の
「張松は生まれつき小男で、勝手気ままに振舞い、品行を整えようとしなかった」
というのがそれです。
演義はこれを誇張して「小男で醜男」な張松を作り上げたと思われます。

張任ですが、「老臣は二主に仕えるようなことは絶対にしない」とまで
言って死んでいますので降伏させるのは難しいですね。
逆に心服させることが出来たなら絶対に裏切らない心強い臣下となってくれるのでしょうが・・。
345564:02/06/11 18:09
妙にコーエー三国志ではステータス優秀な張松は正史では優秀だったんですかね?
というか、演義でもそんな凄いところあったかな、、曹操→劉備に乗り換えたところは演義的にポイント高いんだろうけど…
>>345
孟徳新書をすべて暗誦し、曹操に対しその内容を馬鹿にしたとかというようなことがあったような。
347346:02/06/11 19:55
曹操に今の官位(益州別駕だったかな)より低い官位をもらって激怒したということがあったような。
34852:02/06/11 23:20
564=52でした。スマソ

>>347
何かワラタ
ギャグかよ…
349283:02/06/12 16:22
>>342
嫌っていた、と言うのは不適切かもしれませんが
後継に蒋エン・費イを選び、
「出師の表」でも忠臣覧に入れていなかった様なので、そこから考えてみました
やはり、「才幹」だけを愛していたのだと思われます
側近に置いておいたのは、魏延の様に自分に敵意を抱いていなかったからでしょう
350101:02/06/12 21:11
>>349=283様
>「出師の表」でも忠臣覧に入れていなかった
え〜っと、出師の表で挙げられている費イ、董允、郭攸之、向寵は
皆、成都を留守して(第一次)北伐には参加していない人々です。
元々出師の表のあの部分は皇帝劉禅に彼の周りにのこっている人物の中で
信任に足る人物を挙げているものなので
諸葛亮とともに漢中へ行っている楊儀は最初から対象外です。
なので出師の表に挙げられていない=評価されていない、という訳ではないと思います。
>後継に蒋エン・費イを選び(=後継に楊儀を選ばなかった)
これはさすがに楊儀の性格では蜀をまとめきれないことに
諸葛亮も気づいていたということなんだと思います。
蒋エンと費イが諸葛亮亡き後の蜀では人望、才能ともに傑出した存在であったことは
後年の彼らの活躍で確かですよね。

やはり諸葛亮が楊儀を嫌っていたというのは言い過ぎではないかと個人的には思います。

>>345=52様
>張松
演義では347=348様の仰るとおりだと思います。
それで347の話はやはり正史に元になった話があります。
やはり注に引かれた『益部耆旧雑記』なのですが、
「楊脩が曹公(曹操)の編纂した兵書を張松に見せたところ、
張松は宴会の間に通覧してたちどころに暗誦した。」
という記述があったそうです。
『孟徳新書』という書名がないことと、
張松が曹操をバカにするということがないことを除けば
演義とほぼ同じですね。
351101:02/06/12 21:14
訂正
「演義では346=347様の仰る通り」
「それで346の話は〜」
の間違いです。
お詫びして訂正します。
352283:02/06/13 11:38
>>350
と言うより、楊儀の性格から考えて諸葛亮が気に入るとは思えなかったんです
諸葛亮は蒋エン・費イの性格を気に入っていたようですから・・・
二人は篤実忠良と形容されるように大人しく静かな性格だった様だし
「騒がしくおまけに度量の狭い人物」と評されていた楊儀を
気に入るとは思えないのです
兎にも角にも前述したように、魏延のように諸葛亮に敵意を持っていなかったので
特に問題視されず(後々問題発言してるけど(藁)北伐終了まで使われつづけた
のでは・・・、と考えたのです

(稚拙な持論で申し訳ない)
353101:02/06/13 21:50
>>352=283様
>諸葛亮は蒋エン・費イの性格を気に入っていた
これはもう推測レベルの話になってしまいますが、「諸葛亮個人としては」
そうとも言いきれないかな、と。
諸葛亮が個人的に最も目をかけていた馬謖の性格はご存知のように
とても忠良篤実とは言いがたいですよね。
諸葛亮が高評価している人物に忠良な人物が多いのは確かですが、
>>340でも述べさせて頂いているように、これは彼自身の好き嫌いというより
荊州名士たちのトップであるという立場上、名士的価値基準で
評価を下していた結果ではないでしょうか。
馬謖のケースを考えると諸葛亮個人としては才能豊かな人物を好んでいたと思われます。
つまり「諸葛亮が人物を高く評価した」が「諸葛亮がその人物を好んだ」
には直結しないのではないかと。(勿論、完全に切り離せるものではないでしょうけれど)

そう考えると逆に楊儀がその才能を評価されていたことを根拠に
283様の「諸葛亮は楊儀が嫌い」説をむやみに否定することも出来ませんね。
(ただ一方で諸葛亮は才気溢れる楊儀を個人的には好きだった可能性もまた否定は出来ません)

私個人としては、諸葛亮は楊儀の「性格が好きではなかった」けれど
「その才幹は頼もしく思っていた」のであって「嫌っていた」というのは言い過ぎだと思う
と考えているのは先に述べさせて頂いた通りです。

ちなみに蒋エンには若い頃、県長でありながら職務をサボって泥酔していたところを
劉備に見つかって危うく処刑されかけた前科がありますので、篤実とも言い切れないです(w

>稚拙な持論
いえいえ、稚拙だなんてとんでもない。立派なご意見だと思いますよ。
「楊儀=諸葛亮派」という固定観念を私が持っていることに
気づかせて頂いただけでも私にとっても有意義でした。

関係ないですけど実は楊儀も劉備が抜擢した人材なんですよね・・・
劉備、恐るべし(汗。
354楊雄 ◆zA1iYang :02/06/14 00:10
楊儀が劉備抜擢の人物で、諸葛亮と今ひとつソリがあわないっていうことは、
魏延と物語中の位置付けが似通っていますね。

諸葛亮政権の中、劉備抜擢の人物が高齢化とともに人数が減ったというのが、
蜀の荒廃につながった、なんて考えるのは、劉備の人材登用を買いかぶりすぎ
もしくは諸葛亮の人材登用をさげすみ過ぎですかね。
355283:02/06/17 16:29
>>楊雄殿
すいません、蒋エンのそのエピソード、一瞬忘れてました(ワラ
自分の意向に添う人材を好んでたのかもしれませんね

・・・ってこれじゃ、独裁者とかわんない(ワラ
35652:02/06/17 21:04
…なんかここに居たら本当に孔明は別に凄いやつじゃないって思えてきます。
別スレで見た時は、そうなのか…そうかもしれないが…、位に思っていましたが。
南蛮制圧は大して効果無かったって本当ですか?
35754:02/06/17 21:11
 うわぉ、上がっちゃってる(笑)。
 
 >52さま
  自分も孔明さん好きじゃないんですが(特に演義)
 やっぱり凄い人物というよりは<悲壮感ただよう人>だと思います。
 たぶん中国史上初めての過労死した人だと思いますし。
 (過労死最初の人は、孫乾と囁く方も居ますが←自分もその一人)

 南蛮は孔明でなくほかの人の功でしたよね?誰かは忘れてしまいましたが。
358101:02/06/17 23:18
>>354=楊雄様
明らかに一回り器の小さい人材が多くなってしまっているのは確かですが、
これは領土が益州しかない点から考えるとある意味仕方ないのかなぁとも思います。

>>355=283様
>楊雄殿
え??蒋エンの話を振ったのは私なんですが???
楊雄様は私とは別の方ですよ?

>独裁者とかわんない
いえ、劉禅から全権委任されてますから、名実ともに本当に独裁者です(w

>>356=52様
>南蛮制圧は大して効果無かった
南中地方の豪族を締め上げて後方を固める一方、
南方の物産が手に入るようになった結果北伐の資金を捻出することに成功していますので、
失敗ではないですね。
但し、演義で描かれるように南方の人々が心服したなどということはなく、
その後も諸葛亮の生前から反乱は続発しています。
(ただ、交州の士燮を通した呉からの南中への介入がなくなった分、政治的にも成功と言えます)

>孔明は別に凄いやつじゃない
確かに世間一般のイメージほど超人ではないですけれど、
それでも充分凄いと思いますよ。
まず、軍政家として、兵站輸送などの立案実行に関しては超一流です。
また連年北伐を繰り返し、その多くが失敗したにも関わらず、
さほどには国力を疲弊させず、国民の怨嗟を浴びずに更に挙国一致体制を
堅持する政治力、これもかなりのものだと思います。
軍略家としては慎重すぎ大勝はありませんが、その分大敗もありません。
「出師の表」で見せた文才も忘れてはいけません。
人材鑑定眼には?のつく点もありますが、最後に蒋エンと費イを指名しているのは
まさに正解です。
「演義」で描かれるほど凄くないというだけで、当代一流の人物には違いないと思いますよ。

>>357=54様
>孔明=<悲壮感ただよう人>
それも間違いないと思います。

>南蛮は孔明でなくほかの人の功でしたよね?
一応、諸葛亮自身で南征に出ているのは確かなので彼の功ではないというのは
ちょっと言いすぎだと思いますが、南征の際に実際に大きな軍功を上げたのは李恢、
諸葛亮の死後に南中地方の統治に成功したのは馬忠と張嶷ですね。
359楊雄 ◆zA1iYang :02/06/17 23:55
みんなここだけでいいからコテハンつけてくれ〜
劉備は対して才覚のある人物には見えないですが、人物眼に関してはすごいですなぁ。
正直人の才能を見抜くことに関しては許子将並だったのではないでしょうか。
361283:02/06/18 12:34
>>358
しまったあぁぁぁ!!申し訳無い!!
楊雄殿へのレス、付けるの忘れた上に間違っていた!!
>>101殿にはほんっっっと申し訳無い!!
もう逝ってきます!

>>いえ、劉禅から全権委任されてますから、名実ともに本当に独裁者です(w
確かに(ワラ
そっから考えると(飛躍し過ぎですが)
諸葛亮が史官を置かなかったのは、「自分の行動を後に知られたくなかったから」
と言う仮説が成り立ちますな

>>354
(忘れてた楊雄殿へのレスです)
確かに諸葛亮が抜擢した『蜀の四相』の残り3人は活躍してますしね
362鎮関西:02/06/18 15:36
>>354
「諸葛亮の人材登用をさげすみ過ぎ」というより、清濁あわせのむタイプではなく
神経質で狭量なところがあったため、相性の問題があったのでしょう。
神格化されたがゆえに、孔明のそういった部分は曖昧にされてきましたが、
下級官吏の仕事までチマチマ自分でやって部下に「それは丞相の仕事ではない」と
忠告されたり、仲達に「身体が持たない」とバカにされたエピソードは、
孔明のそういう部分をよくあらわしています。
石田三成ほど驚嘆ではないにせよ、文官・官僚タイプの人にありがちな
孔明の人間的な狭量さが魏延や李厳の失脚の遠因になったと言ってよいでしょう。

>>360
人物眼、度量、カリスマを併せ持つ人間を中国では「大人」といいます。
漢初代皇帝の劉邦がその典型であり、劉備もそういったタイプでした。
特に劉備は根拠地を持たず放浪時期が長かったゆえに、そういうタイプでなければ
とっくに滅んでいたでしょう。
別に劉備だけがすごかったわけではなく、曹操も方向性が違うとはいえ
「大人」タイプと言ってよいかと思います。
許子将は「大人」とは違い、占いや人物評価はできても、その人の力を引き出して
働かせるような人間ではありませんでした。
その違いが、許子将を単なる人物鑑定士で終わらせ、劉備や曹操を覇者としたわけです。
ニッポン、チャチャチャ!
363鎮関西:02/06/18 15:37
ageてしまいました
スンマソ
36454は孫乾の従者:02/06/18 19:48
 >楊雄さま、みなさま
  楊雄さまのご要望により54のヤツはこれから<孫乾の従者>と
 名乗らせていただきまする。みんな、怒らないで下さいね〜。
 本当は誰かに適当につけてもらったほうがいいかと思ったけど…。
 …楊雄さまみたいに後ろの記号はつけなくて良いんですよね?
  蜀の桟道をものすごく脱線してるかのようなので下げます。御免。
 
36552=趙統隊護衛槍兵。:02/06/18 23:19
趙雲じゃなくて趙統なのは、ちょっとした謙遜です(w。実は52という数字に愛着が湧いてきてたんですが(w。
というか「私」の護衛する方は実は戦場に逝ってない…。
まあいいや、、一生懸命墓守ってますわ…。日本チャチャチャ…(泣

>>孫乾の従者さん・中国史上初めての過労死した人
マジっすか!?そんな風に言われてるのですか、孔明は。というか、孫乾もですか(w。
なんというか…孫乾も過労死したと囁く人がいるなら功績があったに違いないでしょうが、
孔明に比べて存在の大きさがかなり差がある…。死ぬのが早すぎたのかな…。

>>101さん
成る程。自分が南蛮制圧に成果が上げれなかった、と認識していたのは
南の民を心服させる事はできなかった、という事だったみたいだなぁ。
孔明は人物登用に偏りがあった位で、他には多岐に渡って一流だったのですね。
確かに戦争しまくって国民から怒りの声が出なかったというのは聞いた事ありますし、凄いと思います。
ていうか南蛮の孔明は演義でかなり脚色されてるとこなんだよ…ったく…>自分
張嶷キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!!
…言ってみただけです…

>>362=鎮関西さん
カリスマ、人物眼、度量のうち、孫権もやっぱり3つとも備えていたんですかね?
三代目ボンボンにカリスマなんてあんのかな…。かなり偏見入った言い方…。
366楊雄 ◆zA1iYang :02/06/18 23:59
>>365=趙統護衛槍兵殿
孫権にはカリスマ・人物眼・度量と要素が違いますが、劉備と決定的に異なる
モノがありました。「地盤」です。また、父親・兄貴・さらに兄貴の嫁の妹の
旦那(周瑜)と血縁を3人とも志半ばになくしています。3代目というと、
なんとなーく金閣寺を作った足利義満のような豪華さを思い浮かべがちです。

しかし、孫権のには、兄に期待していた重臣や地域の豪族などの過度の
プレッシャーが双肩にのしかかり、かつ曹操の南下や荊州の混沌、劉備の
西進など状況は予断を許さなくなっています。

このへんと、親譲りのカリスマ性・人物眼・度量(劉備や曹操と異なるのは、
これらが上記の理由による後天的要素が強そうな点)
を兼ね備えていたと思っています。
367283=奸化の副将:02/06/19 13:03
ども、283改めまして廖化の副将でございます

>>366
確かに、日本で三代目と言うと、上記の義満や徳川家光が浮かびますね
しかし、孫権は晩年こそ失策だらけですが、
初期は、気配りが行き届いていたうえに部下をきちんと信頼する名君でした
(この辺諸葛亮に見習わせたいですな(藁 )
カリスマこそ、曹操・劉備に劣りますが、内治にかけては長けていたと思います
368101改め王陶沖:02/06/20 22:34
それでは楊雄様のご要請に応じまして私は今後、王陶沖と名乗らせて頂きます。
この捨てハンには特に意味はありませんので皆様お気になさらず。
ただ音と字面だけで適当に決めましたので(笑
(本当は皆様に倣って「孟起の従子」とでも名乗ろうかと思いましたが、
恐れ多いのでやめました(笑)

>孫権のカリスマ
私も基本的には楊雄様や廖化の副将様と同様に「あった」と思います。
孫策の死後、魯粛は旧知の劉曄の誘いに応じて北に行こうとしていたのですが、
周瑜の勧めに応じて孫権に直接会うことで、
北に行って曹操に仕えるのを思い留まったと言います。

もしここで魯粛が北へ行っていたら曹操の南征はもしかしたら成功したかも・・・
と考えると個人的には「孫権にカリスマなし!」とは言い切れませんね。

>初期の孫権は名君
逆に言うと初期の孫権の権力はさほどのものではなく、
張昭を代表とする名士や周瑜を代表とする揚州豪族たちに
「支えてもらっていた」形が強かったため、「気を使わざるを得なかった」
ということでもあるのではないかと思います。

後年、権力が固まってくると、部下に宴で無理やり酒を飲ませて
部下が酔わないと怒って、酔った勢いで斬り殺そうとするような
彼の地の(更に言えば孫家の人間らしい)性格が出てきてしまう訳ですね(w

>この辺諸葛亮に見習わせたいですな(藁
全くです(笑
ただ、孫権も合肥攻略だけは自分ですることに不思議なくらいこだわっていたようですが。
(結局、攻略出来ていませんね)。


個人的には孫権は超一流の人材には間違いないけれど、やはり曹操や劉備には一歩劣るかなと思います。
張嶷は南蛮の民を心服させ、彼が死んだときには涙を流し悲しんだ。
こんな話をきいたけど、この出展はどこ?
370廖化の副将:02/06/21 13:06
ども、廖化の副将です、PCの誤りで↑は変わってますが・・・

>>368王陶沖殿
>逆に言うと初期の孫権の権力はさほどのものではなく
そうですね、そしてそれが、『呉は連合政権』と言われる所以でしょう

>彼の地の(更に言えば孫家の人間らしい)性格が出てきてしまう訳ですね(w
確かに、孫家の人間は酒乱だらけだった様ですからね(ワラ

>ただ、孫権も合肥攻略だけは自分ですることに不思議なくらいこだわっていたようですが。
それは、張遼に何度も煮え湯を飲まされたから、
転じて、「合肥は俺が落としてやるんだ!」という気持ちになったんでしょう

>>369
・・・『華陽国史』だったかな?
・・・正史の張嶷の欄だったかも
すんません、誰か教えてください
正史の張嶷のでした。
372桃紫:02/06/21 23:53
はじめまして、桃紫と申します。以後お見知りおきを。
えっと、いきなりで申し訳ないですが、ここは「簡雍VS孫乾」というスレッドなので、両者の話にしようと思うのですが、みなさんは両者が一騎打ちしたらどっちが勝つと思いますか?
簡雍は黄巾時代から乱世を生き抜き、孫乾も武侯祀でNO2と言われるほどの人物です。
この両者の人物像を追っていくのは意外と面白いと思うのは私だけでしょうか?
373王陶沖:02/06/22 01:07
>>370=廖化の副将様
>転じて、「合肥は俺が落としてやるんだ!」という気持ちになった
そこが不思議なんですよね。
赤壁、夷陵といったもっと危ない状況に陥った時は、
周瑜や陸遜を信頼してほぼ全権を任せるほどに度量の広い孫権が、
何故か合肥攻めのときだけは個人のつまらない意地が前面に出てきてしまうのですから。

>>372=桃紫様
ようこそおいで下さいました。初めまして。

>みなさんは両者が一騎打ちしたらどっちが勝つと思いますか?
個人的な回答としましてはちょっと失礼になりますが
「考えてもあまり意味が無い」のかな〜と。

まず「一騎打ち」というもの。これ自体が演義はともかく
正史にはほとんど出てきません。
あの時代、武将同士が一対一で打ち合うなどということはまずあり得ないんです。

続いて
>孫乾も武侯祀でNO2と言われるほどの人物
という話ですが、
これは武侯祀を立てた後世の人々の勝手な主観で並べられた順位であって、
当時から孫乾が武官二位の地位にいた訳ではないですから、あまり証拠にはならないかと。

また例え高位の武官であってもそれがすぐに=強い武人とは限りません。
例えば呉の滅亡の際活躍した晋の名将杜預は自身は馬に乗ることすら出来ない人だったと言います。
例え孫乾が本当に当時から武官二位だったとしても、だから彼が武術の達人だとは言えないんです。

それにもしこの二人が武術に長けていなら、
麋竺が実は武芸に長けていたことが記されているように、
何らかの書物にそういう記載が残っているはずだと思うんです。
(仮にも正史に列伝された二人ですから)。
現実には残念ながらそのような記述はありません。

まとめると「簡雍と孫乾の一騎打ち」を考えることは
・まずあり得ない
・彼らが武術に長けていたという証拠がない
などの理由から、論じてもあまり話が広がるとは思えないです。
例えるなら「もし呂布と張飛が内政をしたらどっちが勝つ?」とか言われるのと同じです。
この二人について論じるのだったら彼らの武を論じる方が面白いように、
孫乾や簡雍を語るのであれば、その人柄の良さや劉備を支えたところなどを
、マイナー具合を嘆きつつ論じる方が面白いと思います。
(このスレは今までずっとそういう趣旨で来ていますし)
そういうことで真面目に答えられません。ごめんなさい。
まあ、正史を右から左に書き写すだけの人間のたわごとなので
あまり気になさらないで下さいね。

ただ最後の
>この両者の人物像を追っていくのは意外と面白いと思う
というのには激しく同意します(笑
374桃紫:02/06/22 03:06
>まとめると「簡雍と孫乾の一騎打ち」を考えることは
>・まずあり得ない
>・彼らが武術に長けていたという証拠がない

王陶沖様の言われることはわかっています。
しかし、火のないところに煙は立たないですよね。
だから、たとえ後世の人の評価であろうと何かしらの根拠はあったと思うんですよ。
じゃないと、陳到や廖化を差し置いて孫乾がNO2の座に就くことはなかったと思うんですよね。
また、伝に記述がないからといって否定してしまっては、簡雍や孫乾のような記述の少ない人物の考察は出来ないように思います。
私が思いますに、史書に振り回されるのではなく、史書に書かれている行間を読み取ることの方が大事なのではないでしょうか?
それに、こんな武勇ネタから、意外にも人柄や劉備への貢献度と話が発展する可能性もあるかもしれいないじゃないですか。
まぁ、可能性は低いかもしれませんが(^^ゞ
ということで、たまには変わった角度から人物を見てみるのもどうでしょうか?
375鎮関西:02/06/22 11:54
>>374
武官には二種類あり、まさに典型的な武勇の人の場合と戦略・戦術系の
智謀の人の二種類があります。
また中国は古来より武より文を尊び、自衛隊の文民統制とはちょっと違いますが
一種の文官優先主義の風習があります。
よって、文官で戦略・戦術に詳しい人がいれば、一般の武将よりも上位に立ちやすい
環境にあります。
例えば、孔明北伐の頃の魏の指揮官は仲達と張コウですが、その時点では大して戦功のない
仲達が歴戦の武将・張コウの上位についているのに、張コウ自身がそれを受け入れているのは
そういった中国の文官優先主義があるからです。
蜀を滅ぼしたケ艾・鐘会なども、元々は行政官・文官の出身です。
ましてや諸葛孔明が武人かと言えば、そうではないでしょう。
ゲームだと指揮官の武力が大きく影響するするので、武官=武力の人になりがち
ですが、実際に指揮官自ら一騎打ちなどするのはマレで、実際の戦闘は
兵が行うので、兵の訓練度や統率力や戦略・戦術などの方がずっと大きな要素に
なります(ただしそれらの要素も文人より武人のほうが一般的に高いのは確かですが)。

孫乾や麋竺・麋芳といった人たちも蜀に入って行政官・文官の仕事に専念するように
なるまでの劉備放浪期には、行政・外交・戦略参謀などの業務を行いながら同時に
指揮官として自ら兵を率いて前線で戦うことは何度もあっただろうから、
武官とされても全然問題はなく、文官優先主義や官位などから孫乾がNo.2となっても
全然問題はありません。

>廖化を差し置いて
その受け取り方には、きっと三国志演義の書き方から受ける印象の問題もあるのでしょう。
前述のように孫乾も劉備放浪期には戦闘指揮官も兼務していましたが、
関羽・張飛などが健在なので、文章としては孫乾を書くよりも関・張の活躍のほうを
書くわけです。
しかし、後期の蜀は華やかなスターは姜維を除いては存在しないため、廖化や
張翼の登場回数が増えるわけです。
孫乾も立派に何十年もの間、戦闘指揮官を兼務しながら戦闘シーンで目立たないのは
そういう理由です。
376鎮関西:02/06/22 12:13
ちなみに麋竺の弓の話が正史に出ているため、ゲーマーの間で麋竺の武力が
取りざたされることはありますが、戦国時代においての男性の「一般的な」
たしなみとして当然ながら剣・刀・槍・弓・拳などの武芸は大切な教養のひとつです。
実際にそれが得意かどうかは別として、文官に分類される人たちも教養としては
それを持っています。
我々とて高校ぐらいに剣道・柔道などの授業は受けますし、クラブ活動で
武芸・格闘技をやりますので、戦国時代に生きた麋竺に武芸があるのは全然
不思議ではありません。
また麋竺は富豪であり、戦国期に商売をするには武侠のような人たちとのつきあいは
欠かせないし、お金持ちなのでアクセク働かなくて済むため、武芸を身につける
環境や時間は十分あります。
趣味として鳥獣の狩をたしなんでいたことも考えられます。
さらに>>375に書いたとおり、劉備放浪時代には孫乾・麋竺は戦闘指揮官も
兼務した「歴戦」の人ですので、武芸は一般的な文官よりは鍛えられていたであろう
と思われます。
しかしながら、そういった部分については正史・演義ともに触れていませんので
想像の範囲で楽しむしかありません。
37754は孫乾の従者:02/06/22 13:20
 え〜、一番好きな人物の話に戻って嬉しいものの、スゴイことに
なっていて焦ってます(爆)。

>桃紫さま
  初めまして、凡庸な三国者ですが以後よろしくお願い致します。

≫陳到や廖化を差し置いて孫乾がNO2の座に就くことはなかった
  そっ、それは言えるかも…!(従者を名乗ってるくせに…)
 入蜀以前の記録を残させてくれなかった孔明をチョト恨みます(笑)。

 で、回答ですが、従者を名乗っている以上は孫乾様と言いたひです。

>鎮関西さま
  初めましてご挨拶が遅れました。今後よろしくご教授くださいませ。
 
≫孫乾も立派に何十年もの間、戦闘指揮官を兼務
  そう書いていただくと、なんか我がことのように嬉しいです。
 でも孫乾が武官廊で、簡雍が文官廊というのは未だに納得いかない
 んですよね…まぁ武侯祀に行くのが夢なんで行ってからのお楽しみかな。

 あのあのっ、情けない質問ですが、<都督>って、武官ですよね?
確か軍務の総監督でしたっけ。というと、周ユや魯粛は武官ですか。
文官優先主義のワリにはなんかこの二人は格別って気が…。
 呉のお国柄?孫権のお人柄?他所で聞いたほうがいい質問でしょうか…

 本日夜9:50NHKで三国志街道をつくれと頑張る、
三国志人物の(自称?)子孫の人々が観られるみたいですね。
 誰の子孫さんなんでしょう?
378王陶沖:02/06/22 14:20
>>374=桃紫様
>陳到や廖化を差し置いて孫乾がNO2の座に就くことはなかったと思うんですよね。
それに対する私の答えは>>373でも申し上げた通り
「高位の武官であってもそれがすぐに=強い武人とは限らない」です。
またそれ以上に大抵の私の言いたかったことは、鎮関西様がより論理的に仰って下さいました。
更に武侯祠の順位につきましては、文臣廊において
呂凱や傅トウの方が国家を支えた実績の確かな蒋エンや費イよりも上位に置かれるなど、
どうにもよく分からない順位になっており、私としてはそれだけを根拠に語るのは無謀だと思います。
(まさか呂凱や傅トウよりも蒋エンや費イの実績が下だと思う方はいないと思いますが・・・。)
またこの廟には劉備を飛躍させる上で絶対に欠かせなかった麋竺、法正らも何故か祭られていませんし。

>史書に振り回されるのではなく、史書に書かれている行間を読み取ることの方が大事なのではないでしょうか
仰る通りだとは思いますが、記述が少ないと読み取る行間すらも少なくなってしまうんですよね(泣
かといって根拠も無く勝手な前提で話を進めるとそれは「空想」「妄想」にしか過ぎなくなりますし(汗。バランスの難しいところだと思います。

まあ、今回の私の場合桃紫様のご質問の「一騎打ち」という言葉に過剰に反応して
感情的に否定してしまった感もありますね。ごめんなさい。
もう一度冷静に私の意見をまとめますね。
「孫乾や簡雍がもしかしたら武芸に優れていたのでは?」と言われれば
「その可能性もある」とは思いますが、「私個人として」「証拠がないので同意できない」です。
ただあくまで私個人がそうだというだけで、桃紫様がそう思われることまで否定するつもりは毛頭ありません。

>>375,376=鎮関西様
大変理路整然とした素晴らしい文章ですね。
羨ましいです。

>劉備放浪時代には孫乾・麋竺は戦闘指揮官も兼務した「歴戦」の人ですので
孫乾に関しては特に反論もありませんが、一応麋竺についてだけ反論させて頂きますね。
麋竺伝には「人を統率するのは不得手だった。(中略)一度も軍を統御することはなかった。」
という記述がありますので、彼に関しては「一度も無い」というのは正史の言い過ぎにしても
「歴戦」ということはまず無いのではないかと思います。
もしかしたら彼の分まで麋芳が担っていたのかも知れませんね。
まあ、放浪期の劉備にはそんなに兵力はありませんから
簡雍や孫乾が兵を指揮していたとしても
そんなに大した数ではなかったのだろうなと個人的には思いますが。

>戦国時代においての男性の「一般的な」たしなみとして当然ながら
>剣・刀・槍・弓・拳などの武芸は大切な教養のひとつです。
当時の中国の士大夫層の武の教養と日本の戦国時代の武士のたしなみとを
単純に同一視は出来ないような気もしますが。
(鎮関西様ご自身が仰るように中国では古来より武を軽んじて文を重く見ますし、
もともと武の出身である武士が支配階層となった日本の戦国時代とは違う訳で。)
弓と馬はともかく剣や槍、拳はあまり「一般的」な「教養」ではないような気がします(汗
乱世の常でそういったことに長じた人物が平和な時代より多かったのは確かでしょうが。
また弓や馬が一般的な時代であればこそ、
正史に特筆された麋竺・麋威・麋照の親子孫三代のその腕はかなりのものだったのかなとも思います。

なお麋竺が商人だと思っている方が多いですけれど、
麋竺は先祖が利殖に励んだ「先祖代々の富豪」でして、
本人は士大夫層の人間であって商人ではありません。

>>377=孫乾の従者様
>入蜀以前の記録を残させてくれなかった孔明をチョト恨みます(笑)。
入蜀以前どころか、蜀が滅ぶまで史官がいないんですってば(笑

379桃紫:02/06/22 15:02
私も本気で一騎打ちの話がしたいわけではないので、ご理解ください。そして、幸いにも私の意図した方向に話が進んでいることを嬉しく思います。

>孫乾
彼は本当に兵を率いたことがあったのでしょうか?以前は私もあったように考えていたのですが、最近になってなかったのではないかという考えが湧いてきました。
というのも、彼はボンボンのお坊ちゃまで、人柄こそ良いものの血なまぐさいことや実務処理は不得手だったと思うんですよ。つまり彼の武器は地縁からなる名声と育ちの良さだったと思うんです。
だから、劉備は人柄と名声がフルに活用される外交を彼に任せたのだと思うんですよ。
逆を言えば、彼は外交以外は何もしなかったんじゃないですかね?それでも劉備にとっては彼がいてくれるだけで良かったのだと思います。孫乾のような名声を得ている人を召抱えていることだけで劉備の名声が上がりますから。
そして、劉備のもとに長年いてくれた恩に応えるために高官を与えられたのだと思います。
それにも関わらず、後世の人々は彼を武官として扱ってしまった。このギャップの間に何があったのかに興味があります。
どなたかわかりませんかね?

>麋竺
確かに彼は金持ちの教養の一つとして武術を嗜んだのでしょうが、それ以上に才略のあった人物だったのではないでしょうか。
というのも、あの曹操に「文武に明るい人物」と賞賛されているからです。私は曹操が個人の武芸だけで「武が明るい」とは言わないと思うんですよね。
だから、麋竺は戦略家としてもなかなかの人物だったのではないかと考えています。
そして、正史「三国志」にわざわざ「兵を率いたことがない」と記されたのは、これほどまでの人物を劉備が用いなかったことを批判したかったのでしょうか。
逆に劉備が用いないような人物を曹操は賞賛してしまったことを遠まわしに揶揄したかったのでしょうか。
陳寿の真意はわかりませんが、麋竺という人物は曹操と劉備とで評価が分かれる面白い人物だと思います。

>簡雍
従者さんも言われているように、私も彼は文官ではなく武官でも良いのではないかと思います。後半で劉備の秘書官のようになってしまったために文官のイメージが強いでしょうが、当初は兵を率いて戦っていたと思うんですよね。
これも文官優先主義によるものなのでしょうか?

>都督
これは大きく分けて三つに分類されるようです。
1.諸将軍を統括する者
2.地方の軍政長官
3.将軍の補佐官
どの場合でも武官と文官の線引きは難しいですね(^^ゞ

>NHKの番組
某掲示板の渡辺先生の投稿記事に「孫呉の子孫」と書かれていたように思います。
ていうか、個人運営サイトの掲示板に渡辺先生がカキコしてるのがすごいですよね。
うちの掲示板に来てくれないかなぁ・・・・・。でも、来られても困るかも(^^ゞ
380桃紫:02/06/22 15:19
私がゆっくりカキコして間に王陶沖様のカキコが(^^ゞ

えっと、前述したものと重複する部分が多いので、少しだけレスさせていただくと、麋竺は士大夫でありながら利殖に励んでいたとは考えられないでしょうか?
多くの小作人を抱えていたのは確かでしょうし、一種の荘園経営みたいなことをやっていた可能性はあると思うんですよね。
どう思われます?
あと、放浪劉備軍の兵力はどれぐらいだったんでしょうね。
公孫サン、徐州、曹操などの兵を吸収しながら荊州に落ち延びていったわけですが、多くの兵は離散したでしょうし・・・。
荊州にたどり着いた兵数はいくらだったんですかね?
381趙統:02/06/22 16:29
>>379=桃紫さん
382趙統の護衛兵。:02/06/22 16:56
>>379=桃紫さん
始めまして。護衛兵です。これからもよろしくおながいします。

麋竺は「兵を率いたことがない」と正史に特に記されたのは本当にそうだったんじゃないかと思うんです。
真にかってな憶測ですが麋竺は人より知識や武芸は人よりできて文武に明るかったんだろうけど、
性格的に人をまとめるのに適さなかったんじゃないかと。>>378で王陶沖さんが示している
「人をまとめるのは苦手だった」ってそういう事じゃないですかね?
曹操はやはり、麋竺の能力を称えたんだと思います。
でも実際は性格が災いしてあんまり活躍できなかったと。
…でもあの曹操だしなぁ…。
事の本質なんか簡単に見抜いて麋竺の性格もはかりにかけるんじゃないかな…。
というか絶対兵を率いれないような人間を賞賛なんかしないような気がする…。

>>381
ミスです。スマソ
38354は孫乾の従者:02/06/22 17:15
 もっとすごいことになってますね…オロオロ。ではいつもの短縮レスを。

 >王陶沖さま
  麋竺 弟が裏切った 法正 素行が悪すぎ(そうかな?)
 で、ダメなんでしょうね。@武侯祀 ランキングは清代に安定した
 らしいですから、もっと前はちゃんと関係者そろっていたでしょうねえ。

 ≫麋竺は士大夫
  え゛っ!?本当ですか?その話は初耳です。歴史群像シリーズでは
 彼は豪商であって、士大夫じゃないみたいなことが書いてあったので
 「あー、だから劉備には士大夫系の人材があつまりづらかったんだな。」
(他に士大夫が居ない、その結果人脈が少なくなる)
 と考えていたんですよ。うーん、やはりそうなんですかね。

 >桃紫さま
  はぁ〜、都督の解説ありがとうございます。

 ≫孫乾
  ボンボンのお坊ちゃまですか、実はそれがしもチョト考えたり(笑)。
 訓古学のテイゲン先生の推挙で劉備に仕えたんですよね?
 斜め読みだったのですが、テイゲン先生ってなんかすごい実績の人の
 ようですね。そういう学者先生の推挙を受けたのだから彼のお家柄も
 それなりに良いものだったと考えてもおかしくないでしょうね。
 
 ≫渡辺先生
  その方は、三国志研究で有名な方なのですか?(無知)
 いいですねぇ、ちゃあんとした研究者の方が自分のサイトに
 来たらさぞかし…遊び色が強いからウチはダメだっけ。
  孫呉というと、例の周ユのご子孫の方でしょうか。あの方には
 「赤壁って、本当は何処だたのですか?」と聞いてみたいですな(意地悪?)
 全然短縮じゃないですね、ごめんなさい。

 >趙統の護衛兵さま
 ≫曹操は事の本質なんか簡単に見抜いて麋竺の性格もはかりにかける
  それ、すっごく怖いです(笑)。そういえば評価してたのは曹操その人
 だったっけ。他の人が気づかない、麋竺の隠れた一面でもあったのでしょうか。
 あー、劉備も案外分かってそう…おっ、また脱線失礼しました。では。
  

   
385王陶沖:02/06/22 18:13
>>379、380=桃紫様
>孫乾
孫乾の能力についてですが、事績については確かに袁紹との同盟や
劉表への亡命受け入れしか記録されていませんから想像するしかないんですが、
だからといって「名声と育ちの良さしかないボンボン」と決め付けるのは早計かと。
孫乾伝の注によると彼を劉備に推挙した人間はあの後漢の大学者、鄭玄です。
この点から考えて孫乾はむしろ儒学の学者として名があったのではないかと思います。
また彼の出身は青州の北海郡ですが、劉備と繋がりのある北海関係者と言えば、北海太守だったあの孔融がいます。
彼との関係を考えてみるのも面白いかも知れません。
(なお鄭玄も北海郡の出身です。逆に北海郡の孫氏は他に呉の初代丞相の孫邵くらいしか
名のある人物が見当たらず、あまり名族ではないようなので、
彼に育ちの良さだけでそんなに名声があるとは私としては思えないですね。
北海郡の地縁も徐州時代はともかく、その後はあまり役に立ったとも思えませんし。)

>麋竺
確かに曹操は麋竺を「文武に明るい」と書いていますが、
それは曹操が麋竺を太守に推挙するために書いた上表文の記述であることを忘れてはいけないと思います。
自分が今から推薦しようとする人物を悪く書く人なんていないですよね?
曹操としては徐州の有力豪族である麋竺を繋ぎとめておくための太守推挙であって、
本当に麋竺を上表した通りに評価していたとは限らないと思いますよ
(勿論その通り評価していた可能性もありますが)。
なお、陳寿が「劉備を批判〜」「曹操を揶揄〜」という話ですが
陳寿はそこまで穿ったものの書き方をする史家ではないと思います。
更に言えば、曹操の上表文は注に裴松之が『曹公集』という曹操の文集から採録したもので、
その記述を書いたのは陳寿ではないです。
陳寿自身は>>378で書いた通り、麋竺は「人を統率するのが不得手だった」と書いています。

また「麋竺が利殖をしていた可能性」についてですが
私が「商人ではない」と言ったのは
「物の売買を行ういわゆる一般的にイメージされる「商人」に限っていうなら」の話です。
>>380で仰るような「荘園経営」のようなことなら勿論やっていると思いますが、
それは麋竺に限らずほとんどの豪族がやっていることで
わざわざ麋竺だけ特筆するようなことではないと思います。
なお麋竺の先祖の利殖についても、その記述の直後に「小作人一万人」という記述が出てくるように、
やはり農業によって得た利殖であったと考えられます。
麋竺の「麋」という姓自体がそれを証明していることをこのスレの>>178で楊雄様が調べて来て下さっています。

>簡雍
彼に関しては劉備の旗揚げ時代からの付き合いですから、
自身で武器を取って戦っていた時期も間違いなくあると思います。

書き込みが長くなりそうなのでここでいったん分割します。
386王陶沖:02/06/22 18:49
続きです。
>放浪劉備軍の兵力

一応劉備絡みの兵力記述を赤壁まで知りうる限り挙げておきます
(引用元が書いていない場合は先主伝本文からの引用)

・平原国相時代、孔融からの援軍要請の使者、太史慈に三千の兵を与える(太史慈伝)。
・陶謙救援に赴いた時の兵力は私兵千人余りと
烏丸族の騎兵+無理やり配下に組み入れた飢えた民衆数千人。
陶謙は救援に来た劉備に配下の丹楊兵四千人を加える。
・呂布に降伏し小沛に駐屯すると兵一万近くが結集。
それをよく思わない呂布に攻められ曹操の下に亡命。
・汝南で反曹操のゲリラ戦を行っていた時の兵力は数千。
・劉備が赤壁で後方待機していた時の兵力は二千。(先主伝注『江表伝』)
他に劉キの兵力一万余りがあり。

徐州牧時代が恐らく兵力がもっと多かったのでしょうが、放浪しているころは大体数千から
良くて一万程度の兵数だったと見れば良いのではないかと思います。

>>382=趙統護衛兵様
麋竺に関しての私の意見は上にも書きましたが単純に
兵を統御することが一度もなかったのは
「人をまとめるのが苦手だった」ので「兵を率いることが出来なかった」から
曹操が麋竺を良く書いたのは
「麋竺を推挙する上表文だった」から
というものです。

>>383,384=孫乾の従者様
>麋竺 弟が裏切った 法正 素行が悪すぎ(そうかな?)で、ダメ
なるほど。まあ、塑像があったにも関わらず
「こんな奴祭る必要ない」と破壊されてしまった劉禅よりはマシですね(笑

>麋竺は士大夫
彼は州の別駕従事(副長官的存在と思えばよろしいでしょうか)に任命されていますので
間違いなく士大夫層です。陳登のように名士とまで言えるほど名声はなかったようですが。
何だかんだ言ったところで劉備も士大夫層ですし。
(逆に言うと幾らなんでも庶民が出世出来るような時代ではなかったようです。)

>都督
他にも大都督があったり、魏と蜀と呉では都督の定義が違ったりでややこしいんですよ、そこは(笑

>渡辺先生
図解雑学『三国志』などいくつもあの時代に関する著書を執筆なされている研究者の方ですね。
従者様が上で上げられた「歴史群像」の「真・三国志」にも論文が載っているような方ですよ。
387楊雄 ◆zA1iYang :02/06/22 21:58
スマソ。時間がなくって全部読めていません。が、フト思い出した文官の人物の
武芸について。
このへんをソッコー思い出しました。

「単福(徐庶)は若い頃武芸に秀で、友人の敵討ちにも参加した。」

さて、NHK見ましょうかね。
 TV観ました〜。うーん、観光スポットとしてアタルかどうか
 ちょっと疑問…かな。

>王陶沖さま
  うわ、著者の方の名前はあまり覚えない方なのですが
 図解雑学三国志を書かれた方ですか!うわ常識とも言ってよいくらい
 ですね。顔から火が出る思いです。今後忘れません(><)。

 自分、三国志に復帰したのはつい最近で、10年くらいブランクあるのに
気が付きました。ほんと、知ってる人は何でも知ってるから溜息出ます。
とゆーわけでにわかお勉強で巻き返しをはかる日々であります。
 皆様、以後もよろしくお願いいたします〜。
389桃紫:02/06/22 23:40
>麋竺
曹操は彼を太守に推薦するときに「文武に明るい」と上奏したのは知っています。そして、上奏するときに持ち上げるのも当然のことだと思います。
しかし、曹操が太守に推薦するほどの人物なのだから、上奏どおり文武に明るかったのではないかと思うわけです。
まさか戦争の出来ない人物を太守に推薦するとは思えませんし(^^ゞ
それと、豪族であれば荘園経営をしていて当たり前でしょうね。だから麋竺だけを特筆すべきではないというのはわかります。
ただ、士大夫が金儲けしないと思われるのが嫌だっただけだったります(^^ゞ

>孫乾と名声
鄭玄の推挙というだけで、孫乾の名は響き渡ったと思います。つまり名声を得たというですね。
そして、儒学の学者さんの多くは事務能力がないですよね(^^ゞ
だから、私は「名声と人柄の人」と言ったわけなんですね。また、裕福な育ちだからこそ人間的に丸かったんだと思います。人間は余裕がないと丸くなれない場合が多いですから(^^ゞ
あと、孔融との関係ですが、鄭玄経由であったかもしれませんね。ちなみに私は袁譚との繋がりの方が気になります。
それと、後半において地縁があまり発揮されなかったというのは、私もそう思います。だから荊州時代以降は歴史に出てこないんでしょうね。

>放浪劉備軍の兵力
資料の提示ありがとうございますm(_ _)m

>陳寿
私は彼をあまり信用していません。むしろ疑いの目で見た方が真実が見える場合もあるのではないかと思っています。
これは、ちくまの正史「三国志」の蜀書の“あとがき”にもあるように、陳寿は愛国心と諸葛亮敬愛思想によって随所に歪曲した形跡が見られるんですよね。
だから蜀書は少し引算して、魏書は少し足算して見るのが妥当だと思います。
あと、ちょっと関係ないですが、陳寿は呉にはあまり関心がなかったのではないかと言われていますよね。これは呉書が極端に矛盾点が多いことに起因してるのでしょう。
逆に、裴松之は呉ファンだったと言われていますよね。ある意味バランスが取れていると思います(笑)

>HNKの特番
個人的には、あの子孫ネタは怪しいなぁと思っちゃいました(^^ゞ
390楊雄 ◆zA1iYang :02/06/23 12:06
読みました。みんな、熱心ですな(笑)。
さて。

簡雍
ここまで読んで、思うに彼は劉備放浪初期からの付き合いであったこと、横柄な
態度が特記されているところから、関羽・張飛同様に「任侠」の世界の人物かな?
若い頃は腕白だったのかな?なんて思いますね。関・張ほどの特に武芸には秀でて
いなかったので、「武」ではなく、「文(この場合、政治ではなく「武」のサポート
としてクソ度胸を生かした外交など)」の仕事を分担していたという考え方が出てきます。
下卑た例で申し訳ないが、元不良少年が社会人になってクソ度胸で交渉ごとを纏め上げ
営業課長に抜擢、みたいな面です。決して経理課長にはなれません(笑)。

渡辺先生
反三国志翻訳の渡辺精一先生でしょうか?クセのある講義をします。
これ以上は私の素性が知れるのでチト勘弁(笑)。
違ってたらごめんなさい。


NHKの特番
トホホ・・・。天下のNHKがこれか・・・。と思ってしまいました。曹操・劉備・
孫権・諸葛亮しかいないのか?とか思ってしまいました。しかし、これが中国の
三国志人物の知名度かもしれません。あと、関羽・張飛ぐらいでしょう。日本の
三国志好きと中国での人気の温度差を改めて思い知る結果となりました。ま、
白帝城ですら水没させる国ですから。
391孫家を思うに。:02/06/23 13:35
>>385孫乾
北海の孫家は早くに丞相を輩出したならば、充分に名家だったのではないですか。
おそらくは孫氏を源流として(違ってもそう言っていたと思います)
文の、特に「政」に名のあった一族だったのではないでしょうか。

ここからの人材が少ない理由として考えられるのは、
 呉は土着の豪族の懐柔に力をいれていますし、
孫邵はその前の同姓の縁で用いた(召喚したのだと思います。
後の丞相は文官のなかでも「武略」に明るい人物がなっています。
 魏は長くその土地にいましたが、周辺住民に大きな禍根をつくったところですし
無理にその土地から人材を徴用する必要の無い背景もあります。
 蜀はその地に縁があまりないにも関わらず孫乾がいます。

王陶沖氏の仰るとおり、劉表に用いられてることなどから
孫乾が、ひいては背景の孫家が儒教で名が知られていたのではないかと、思います。
392王陶沖:02/06/23 18:58
まずお詫びを一筆。
>孔融
>>385で北海太守と書きましたが、当時はまだ北海郡ではなく北海国だったので
北海国相が正しい孔融の官位ですね。
お詫びして訂正します。

>>387,>>390=楊雄様
>徐庶の撃剣
私も武のある文官というと彼を真っ先に思い出します(笑。
まあ彼の場合は元任侠だったのを、
その後すっぱり剣を捨てて荊州に遊学したのですから
「文官の武芸」というとちょっと語弊が出るのかも知れませんが。

>簡雍
全面的に同意です。
私の簡雍のイメージも全くその通りです(笑

>渡辺先生
あ、いえ某大学(一応伏せておきますね(笑)の渡辺精一先生ではなく
大東文化大学の渡邉義浩先生の方です。(お名前の漢字を間違えていました。すいません渡邉先生!)
渡邉先生の方は後漢末期から三国にかけての時代を
「名士の時代」という視点から見ることのお得意な方ですね。

お二人とも精力的に三国志関連の本をお書きになっていらっしゃいますが、
改めてプロフィールを拝見するとお二人とも文学部の先生なんですね。

史学部出身の友人に言わせると史学部ではなんでも
演義によって通俗化している時代であるが故に三国時代を毛嫌いする教授がいたりするとか。
まあ、大学や教授によりけりなんでしょうけれど(笑

ちなみに私は楊雄様とは違って文学畑とも史学畑とも縁の無いただの素人です(笑
いつもエラそうでごめんなさい(平謝り

>>388=孫乾の従者様
こちらこそ今後ともよろしくお願いしますね。
393王陶沖:02/06/23 19:00
>>389=桃紫様
>麋竺
>曹操が太守に推薦するほどの人物なのだから、
>上奏どおり文武に明るかったのではないかと思うわけです。
それに対する私の見解は先にも述べた通り、
曹操の麋竺・麋芳推挙は、
「徐州の有力豪族である麋竺・麋芳兄弟を繋ぎとめるために権威を与えて恩を売るための推挙」
であって、「必ずしも上表通りの評価を下していたとは限らない」です。

>まさか戦争の出来ない人物を太守に推薦するとは思えませんし(^^ゞ
場所によっては戦争の出来ない太守でも全く問題ないと思いますよ。
麋竺が贏郡太守に麋芳が彭城国相に推挙された時期は不明確なので何とも言えませんが、
この地域が完全に曹操の支配下に収まっている時期であるなら
別にそこの太守が兵事は全くダメでも問題ないと思います。

それに太守の部下には政務を担当する丞と軍事を担当する都尉がいるわけで、
太守によっては都尉に軍事を一任してしまっている人も存在し得たのではないでしょうか?

むしろ麋竺の官位を根拠に彼の軍才があると論じるなら
贏郡太守の前に任じられていた偏将軍の方に注目すべきではないかと思います。

>ただ、士大夫が金儲けしないと思われるのが嫌だっただけだったります(^^ゞ
いえ、私も麋竺が所謂「商人」と思われていることを「違う」と主張したかっただけですから。
豪族・士大夫の金儲け(というか利殖)に関しては当然やっていたと思っていますよ(笑。

>孫乾
>鄭玄の推挙というだけで、孫乾の名は響き渡ったと思います。
ん〜、私は鄭玄に推挙される前から学者として名があったのではないか、
と上で言ったつもりだったんですが。だからこそ鄭玄も推挙したのだろうと。
その上で、「学者としての能力があるのならそれも才能には違いない訳で
名声と人柄「だけ」ではないのでは?」
と言いたかった訳で。まあ、全部推測ですけれど(笑

>裕福な育ちだからこそ人間的に丸かったんだと思います。
桃紫様は何度かそう仰ってますけれど、それは孫乾が外交を担当していたことから考えて、
外交担当→名声があって人柄が良いだろう→裕福な育ちに違いない、
という論法で導き出した桃紫様の個人的見解と理解して宜しいんでしょうか?
(今までの桃紫様のカキコではそこが私にはイマイチ把握し辛かったので敢えて確認です)
そう断定してしまうのは危険だと思いますが、桃紫様の私見としてということであれば充分に納得です。

>ちなみに私は袁譚との繋がりの方が気になります。
おお、そういえば劉備と袁譚の間には、劉備が豫州刺史であった時に袁譚を
茂才として中央に推挙したという繋がりがあったんでしたね。
その後、劉備が徐州刺史になった時、青州出身の孫乾がわざわざ招聘されて、
後に袁紹との同盟交渉に孫乾が行っていますね。
これを青州刺史となっていた袁譚を通じてのことだと考えると、
確かに袁譚と孫乾に繋がりがあったというのもあり得ると思います。
394王陶沖:02/06/23 19:02
>陳寿
彼は自他共に認める諸葛亮フリークですから(笑、
諸葛亮に関しては持ち上げすぎの面も間違いなくあると思います。
加えて晋の史官という立場的に司馬一族のことも悪く書けません。
ですからその辺りの記述は確かに割り引いて考える必要があると思います。
しかし、それ以外に関しては劉備に都合の悪いことなどもきちんと書いていますし、
魏書に関しては特に貶めて書いているようなことも無いですから
(魏を悪く書くということは魏から禅譲を受けた晋を悪く言うことに繋がりますので)
蜀書の引き算はともかく敢えて魏書に足し算をする必要はあまりないと思いますが。

「信憑性の低い記述は極力排除した上で、自身の立場を考えつつ、
問題にならない程度に自分の出身の蜀を称揚した」陳寿の記述は
少なくとも巷間の噂まで含めて何でもかんでも書いてしまった「晋書」辺りよりは
よほど信用がおけると個人的には思います。

まあ裴松之の注まで一緒にして「正史」と考えるなら話は別ですけれど(笑
ただ、その場合は裴松之が採録した各書物の筆者にも責任を分担させるべきであって、
陳寿一人に責任を押し付けるのは不公平ですよね。

呉書の矛盾の多さに関しては、ただのミスではなく、もしかして「春秋の筆法」かな?
と勘ぐってみたり(笑
まあ『三国志』の呉書に関しては叩き台になった韋曜(韋昭)の『呉書』の存在があるので
陳寿一人を語って済むことでもないですし。

それよりも私が>>385で主として指摘したかったことは
桃紫様が>>379において
>(陳寿は)劉備が用いないような人物を曹操は賞賛してしまったことを
>遠まわしに揶揄したかったのでしょうか。
と仰ったことに対して
「それは裴注の文章であって陳寿は関わっていない文章ですよ」という
事実関係の指摘一点でして「陳寿は〜」というのはあくまで私の私見でおまけです(笑。
395王陶沖:02/06/23 19:04
>>391=孫家を思うに、様
初めまして。
>北海の孫家は早くに丞相を輩出したならば、充分に名家だったのではないですか。
あ〜、そうツッコまれると思ってました(笑
ただ、この孫邵という人物、丞相になった程の人物で特に失政もないのに、
呉書に列伝されていないという不思議な人物でして
彼が何故初代丞相になったのかもよく分からないんですね。
ですから丞相になった理由は彼自身の能力だったのかも知れないし、
名族だったからかも知れない、という断定出来ない状態です。
それで、私の「北海孫氏は名族ではない」という論は
もし名族であれば孫邵や孫乾の他にも名の残っている人物がいてもおかしくない
→現実には残ってない→名族ではないんじゃないか?
という単純な論法で導き出した私見ですので、
到底「これが結論」などと主張する気はないです(笑。

>孫氏を源流として(違ってもそう言っていたと思います)文の、特に「政」に名のあった一族
孫子を源流とする(あるいはそうでなくともそう主張した)なら、
兵家に優れていないとちょっと筋が通らない気もしますが。
当時の価値基準からすると儒家の方が兵家よりも遥かに高い評価を得るものでした。
儒家でありながら、儒家よりも低く見られる兵家である孫子の末裔を名乗るということは、
逆に自分で自分を貶めることにもなりかねません。
逆にそれを名乗った呉の孫氏は家柄的にその程度に過ぎなかったということですので。
もし北海の孫一族が孫子の末裔を名乗ったなら、それは必然的に彼らが名族でないことをも示します。

>ここからの人材が少ない理由として考えられるのは、
これは「北海孫氏の人材」が少ない理由ということですか?
(すいません。文脈上一読しただけでは分かりませんでしたので確認です(汗))

>孫邵はその前の同姓の縁で用いた(召喚したのだと思います
取り合えず孫家に用いられた理由は上述の通り不明ですからともかくとして、
彼を招聘したのは呉の孫家ではないことだけ指摘させて頂きます。
彼は孔融に仕えていたのを、後に江東の劉ヨウの元に身を寄せ
劉ヨウが孫策に敗れた後に孫家に仕えるようになっていますので。
むしろ招聘した人物がいたとしたらそれは劉ヨウでしょう。

しかしこの略歴、太史慈と全く一緒ですね(汗

>魏は長くその土地にいましたが、周辺住民に大きな禍根をつくったところですし
徐州はともかくとして特に青州には禍根は無いような気もしますが。
むしろ民衆レベルならともかくとして、士大夫層から見れば、
暴れまわった青州黄巾族を鎮めてくれたという恩の方を感じていてもおかしくないでしょう。
それとも袁家関係の話ですか?

>蜀はその地に縁があまりないにも関わらず孫乾がいます。
「その地」というのは北海郡のことですよね?
劉備は公孫サンの配下の田楷の部下だった間、何年間か青州にいましたので
充分とはいえないまでも縁がない訳ではないと思います。
彼が相をしていた平原国(郡)は北海国(郡)の隣だったのですし。

>王陶沖氏の仰るとおり、劉表に用いられてる
え?私は
「劉備の使者として、劉備集団が劉表のところに受け入れてもらうための
交渉に赴いたのが孫乾(と麋竺)だった」ということを言っているだけで、
「孫乾が劉表に用いられた」とは言っていませんが?
確かに劉表は袁尚に手紙を送った際に袁譚と彼との仲違いを嘆き
「劉左将軍(劉備)や孫公祐(孫乾)と議論する度に〜」と孫乾について触れていますけれども。

・・・・ハッ!ここでも孫乾と袁紹一族に繋がりが!
もしかして孫乾と袁一族ってかなり近い関係だったんでしょうか・・・。
396王陶沖:02/06/23 19:05
>NHK
うわ〜!見忘れちゃいました〜(泣

最近前にも増して超長文になってますね。
皆様、申し訳ありません(平謝り。

・・・そう言えばこのスレの常連でいらっしゃった7氏はお元気かなぁ・・・。
397趙統の護衛兵。:02/06/23 20:27
皆さんすごいですね…。知らん事ばかりだけど議論がおもしろい!
>>孫邵
何で呉書に無いのか?について調べてみたら、
張恵恕という人物と仲が悪く、『呉書』を編纂した韋昭が張恵恕の派閥に属していた
為らしいです。そんな殺生な…。

>>徐庶
魏に入ってからは本当に何も献策しなかったのですか?
というか、自分、徐庶に関しての話は演義しか知らないんで、どなたか…。

>>王陶沖 さん
7氏いつのまにか消えちゃいましたね。自分も気になっていました。
まあ、何かの理由で都合がつかないのでしょう。
長文は漏れは気になりません。
>桃紫殿
もう少し出典のはっきりしている記述と個人的な見解を分かりやすいように区別して、さらにその見解が導き出される
に至った論理過程を記述していただけるともう少し議論がスムーズに進むかと思われます。読んでいて時々どうして
そういう結論に至るんだろう?と思われる場所が端々にあります。このスレの住人は基本的に親切な方ばかりなので
そういった箇所には懇切丁寧に指摘し訂正、事実関係の呈示をしてくださるのですが、その労力を思うと気の毒とも
思います。
399孫乾の従者:02/06/23 21:48
 >長江で溺れた魏の士卒さま
 ≫基本的に親切な方
   ぐっ、私こそダメなヤツですみません。知識が中途半端なばかりに…。

 >桃紫さま
   あっっ!もしかしたらご存知ないかも知れませんが、
  ”こっそり清談“のためにメール欄に小文字でsageとお書きください。

 ≫徐庶
   御史中丞とかゆーのになったらしいですね。孔明先生が
  「徐君ほどの人がその程度なのか、魏は人材が多いのだな。」って
  嘆息したって話があるそうですね。

   そういえば、孔明と司馬イは敵同士なのに
 「徐君元気?」「うん、元気だよ。」てな感じで手紙をやりとりしたそう
 ですが、そんな気楽に当時は手紙をやり取りてきたのですか?
 …コーエの本で見ただけだから良く分からんのですが…。
  毎度出典が意味不明なのはそれがしも同じ、皆さんすいません(涙)。
名士の人たちは、国を越えた繋がりがあるので....
401王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/06/24 01:31
なんとなくトリップつけてみました(笑

では趙統護衛兵様に捧げる紹介文、
久しぶりに徐庶についてで一筆いってみましょうか。

徐庶、字は元直。豫州潁川郡の出身です。
初めの名を徐福と言いました。
もともと権勢のない家(単家。寒門と同義)の出で、
若い頃は任侠を好み、撃剣の使い手だったと言います。
中平の末年(189年頃)人に雇われて仇討ちをした後、
顔に白色の土を塗りつけ、髪を振り乱して逃げようとしましたが、
失敗し役人に捕まってしまいます。
しかし、徐福は姓名を問われても答えなかったため、
捕らえた役人も彼が犯人であることは分かっていても誰なのかが分かりません。
仕方なく徐福を車の上に立てた柱に縛りつけて市場をふれ回り、
彼を知っている人を探しましたが、彼を知っていると名乗り出る人はいませんでした。
そうこうしているうちに仲間が彼を救い出してくれたため、徐福は逃亡に成功しました。
この結果、彼は強く心に感ずるところがあって刀や戟を捨て、
粗末な頭巾に単衣の衣服という貧しい身なりをするようになり、
心を入れ替えて学問に励むようになったといいます。
(なお彼がいつ徐福から徐庶に改名したのかは明らかではありませんが
やはりこの頃ではないでしょうか)

初めて塾へ行った時、学生たちは彼が以前無法者であったと知って、
あえてつきあおうとはしませんでした。
徐庶はそれにめげず、謙虚な態度をとって、早朝に起床していつも一人で掃除をし、
人の気持ちをよく汲んで行動し、経学を学んで経書に精通するようになりました。
こうしている間に学生の中に一人の友人が出来ました。
それが同じ潁川郡出身の石韜(字は広元)でした。

初平年間(190〜193)、中原で戦争が起きたため(反董卓連合のことでしょうか?)、
徐庶は石韜と連れ立って荊州へと避難します。
そこで出会ったのが同じく徐州から避難して来ていた諸葛亮でした。
諸葛亮伝によれば、建安の初期(196〜)諸葛亮、徐庶、石韜、
それに豫州汝南郡の孟建(字は公威)が共に学問に励んだと言います。
また諸葛亮は普段から自分を春秋戦国時代の名宰相の管仲と名将の楽毅に
比していましたが、世間の人はほとんどがそれを認めませんでした。
しかし徐庶と崔州平だけはその通りだと認めていたと言います。

長くなるのでここで分割です。
402王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/06/24 01:35
劉備が新野に駐屯していた頃、徐庶は自ら劉備に会いに出かけます。
劉備も徐庶と会って、彼がを有能な人物であるとの感想を抱いたそうです。
ここで徐庶は諸葛亮を推挙し、その結果有名な三顧の礼が行われる訳です。
その後もしばらくの間、徐庶は諸葛亮とともに劉備に仕えます。

建安十三年(208)、曹操が南征を行います。
劉備に付き従って逃走を図った徐庶でしたが、不運にも長阪で徐庶の母が捕らわれてしまいます。
徐庶は劉備に
「もともと将軍とともに王業・覇業を行うつもりでいたのは、この一寸四方の場所(心臓)においてでした。
今すでに老母を失って一寸四方は混乱しております。事態に対処するのに利益になりません。
これでお別れしたいと存じます」
と言って曹操に降伏し、北へ戻って曹操に仕えることになりました。
この時、石韜も徐庶と共に北へ戻っています。

数年後、黄初年間(220〜226)に至って、石韜は郡の太守、典農都尉を歴任。
徐庶は右中郎将、御史中丞まで昇進しました。
(ともに四品官。御史中丞は官吏の監察・弾劾を司る御史台の長官。)
大和年間(227〜233)、北伐してきた諸葛亮は徐庶と石韜がそんな官位であることを聞いて慨嘆し、
「魏にはとりわけ人物が多いのだろうか。どうしてあの二人は用いられないのだろうか。」
と言ったと言います。
徐庶はその数年後に病気で亡くなりました。墓碑は徐州の彭城にあったと言います。
(コーエーゲーで晩年の徐庶が徐州にいるのもまんざら意味がないわけではないのですね)。

また上で董和のことを書いた時にも書きましたが、諸葛亮は自分の間違いを躊躇わず直言してくれ、
終始気が合った人物として崔州平、董和、胡済と共に徐庶の名を挙げて
「私に元直の十分の一も謙虚さがあれば(以下略)」と彼を激賞していたことが董和伝に記録されています。

もう一度分割です。
403王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/06/24 01:37
徐庶は『三国志』にこそ伝を立てられていませんが、魚カンの『魏略』には
厳幹、李義、張既、游楚、梁習、趙儼、裴潜、韓宣、黄朗と共に「徐福伝」が列伝されていたことが
魏書の裴潜伝の注に記録されています(残念ながら『魏略』は現存しません)。
上に書いた諸葛亮伝注の記事もほとんどがこの『魏略』からの引用のようです。

さて徐庶の能力ですが、事績がほとんど残っていないため、非常に評価が難しいです。
諸葛亮は徐庶の官位を低いと嘆いていますが、それは国家のトップに立つ諸葛亮から見ればの話であって、むしろコネが全く無い寒門の出身としては異例とも言える出世であると個人的には思います。
そこから考えると、やはり行政官としてはかなりの人物であったのだろうと思います
(このスレでは人物評価の名手とされている劉備にも評価されていますしね(笑))。
ですが、演義で描かれたような軍略に優れた軍師かと問われれば、答えは否になってしまうでしょうか。

なお、四人の学友の最後の一人、孟建もやはり北へ帰り、魏に仕えています。
魏書温恢伝の注に引かれた『魏略』は
彼は温恢の死後、その後任として涼州刺史となってその治世は優れた政治と評判となり、
官位は征東将軍(二品官、徐庶の御史中丞より上ですね)まで上ったと伝えています。

北伐の際、司馬懿の書簡を持って蜀の陣営へやって来た司馬懿の部下(軍師)の杜襲は
諸葛亮に「公威(孟建)によろしく」と伝えるように頼まれたそうです。
なんだか戦争の真っ只中だというのにほのぼのとしてしまいますね(笑
404孫家を思うに。:02/06/24 13:20
>>391
まだレスを読み終えた訳ではないんですが、>>392が目に入ったので訂正を。
劉表に用いられた⇒
儒教を尊ぶ劉表にたいして使者に用いられた
です。言葉足らずでした、お詫びいたします。

レスがいっぱいあって非常にたのしみです^^
405孫家を思うに。:02/06/24 13:44
404では引用として用いた部分でしたので即刻、訂正しました。が、
ほかについてを、今このままに書くと「汚名挽回」になりそうので、
じっくり時間をかけて、レスとロムに励みたいと思います。

孫家を名家にって、あれ?リュウゼンのイシンを回復しよう!!!スレのときのノリになってる(~~;
あのスレのおかげで蜀滅亡前付近は多少詳しくなりました、結構調べたので。がんばってみます。
406廖化の副将:02/06/24 16:40
>>399
意外と手紙のやり取りと言うのは多かったんですよ
孔明と仲達は手紙をよくやり取りしていて
仲達は、以前、夷陵で負けた時魏に降伏した黄権を
手紙の中で「忠義の士」と称えているんです
また、かなり上の方ですが、鐘ヨウだか陳群だかが劉巴が亡くなっているのを知らず
手紙を送ってきた、と仰ってる方がいますし、
案外、敵とは言え手紙のやり取りは多かったのかもしれません
単=dan(ダン)ひとつの〜
  Shan(シャン)人名

ですから、タンフクではなくゼンフクと呼んでください。
408無名武将@お腹せっぷく:02/06/24 23:57
質問なんだけど、横山三国志の漫画で金旋が
「私が主と仰ぐのは曹丞相だけだ」とかいうセリフ
があるんだけど、部下だったの?
なんでゲームだと君主なの?初心者ですまん。
409楊雄 ◆zA1iYang :02/06/25 00:42
えっと、

孫乾と袁家
横山三国志17巻、関羽千里行のくだり、関羽に付き従い、袁紹の元へ身を寄せていた
劉備の屋敷に忍び込んだのが孫乾だったことを思い出しました。全然的外れな話ですが(笑)

畑の話
>>407、実は私です。名前入っていませんが。出先からなので、手元に辞書がありませんでしたので。
私は、元・語学畑の人です。お恥ずかしい話ですが、今はもう全然喋れません。

諸葛亮の友人
孟建・徐庶・崔州平・石韜の名前があがります。逆に、兄諸葛瑾との交流が
少なかったことがクローズアップされたりしています。「公式の場でなければ」
と。


410趙統の護衛兵。:02/06/25 00:48
>王陶沖 さん
毎度、分かりやすい解説での武将の説明ありがとうございます。
蒼天航路で何か妙に浮いてた(ような気がする)あの徐庶の台詞の「一寸四方」がどうのこうのって実際本人が言っていた事なんスね。
正史マンセーな三国志Zでは徐庶はほぼパーフェクトなステータスなんですけど、活躍はやっぱり演義>正史みたいですね。うーむ。

>手紙
手紙っつったら合肥戦後の厨房→曹操の手紙を思い出します。
形式的な表の文章の裏にきたねぇ字で「あんたが生きてると息抜きできねぇ…」みたいなやつです。

……今思うとあれって秘本の創作か?

>>408
赤壁の前曹操は荊州を制圧します。そんとき配置されていた部下はほとんど動かさず、
太守だけ代えられて曹操に派遣されてやってきたのが金旋という訳です。
ケイドウエイを部下に持つ劉度や趙雲に兄嫁をやろうとした趙範、魏延と黄忠を部下に持つ韓玄も多分そうです。
(↑ほとんど演義の創作ですが)
411趙統の護衛兵。:02/06/25 00:55
>>409=楊雄 さん
確かに孔明と諸葛瑾の交流はあんまし見ないなあ…。まあ手紙位はしてたんだろうけど、
話に兄弟という事が大きく関係して出てきたのは少なかった気がする。
412桃紫:02/06/25 01:32
徐庶の上司に陳羣がいますよね。実はこの両者は同郷だったりします。そして、両者共もと劉備の部下・・・。
徐庶の出世は陳羣のパイプがあったからとは考えられないですかね?もちろん徐庶自身も行政手腕に優れた人物だったとは思いますが(^^ゞ
413楊雄 ◆zA1iYang :02/06/25 01:51
>>410
秘本の創作
手紙のやりとりが頻繁に行われていた、という土壌によって成立した創作、と
考えればしっくりきます。

>>411
「兄弟なのに、仕えている主君が異なる」ので、あえて面会をしなかったことが強調
されています。日常的に手紙のやり取りがあったさなかだからこそ、この兄弟の
「兄弟なのに面会しない」ことの特異さが強調される裏づけになるのでは、と
感じました。

>>412
陳羣はこのスレの盛り上げ役の一人です。元・劉備配下ということは、私は実は
ここで知りました。なるほど、その可能性はあるでしょう。

>>408
すっ飛ばしてしまいました、失礼。ゲームの中では、「漢朝の臣」でも独立勢力
となっていますよね。あの漫画の27巻ぐらいでしたか、南進する劉備軍勢の
関羽・張飛・趙雲・諸葛亮の活躍、黄忠・魏延の登場など華々しい場面ですので、
コーエーもそこを強調したかったんじゃないですか?そこで、劉度・趙範・韓玄・金旋
には君主として登場、かたっぱしからやられていく、と。
414楊雄 ◆zA1iYang :02/06/25 01:53
しかし、書き込んでからなんだが、今日は自信がないなぁ。
>「兄弟なのに、仕えている主君が異なる」ので、あえて面会をしなかったことが強調
>されています。

それは聞いたことがありますね。両者とも各陣営で重要な地位を占める人物であっただけに逆に親しげに
面会などすると二心があるかのように(兄弟故に)周りに取られるおそれがあったのでお互い自粛していた
と聞きました。
416無名武将@お腹せっぷく:02/06/25 14:01
このスレの人は優しいね。金旋の疑問わかりました。
サンクス
417廖化の副将:02/06/25 16:07
>>411
兄弟で手紙のやり取りはよくしていた様ですよ
五丈原の戦いに諸葛亮が赴く暫く前に
「センも今年で八歳、利口な可愛い子ですが早成しすぎて
 凡人にならないかと心配です」
と諸葛瑾に書き送っています

また、「公式の場では顔を合わせたが、私的に面会する事は無かった」
と史書に有ります

諸葛瑾は孫権に、「お前は兄なのだから弟をこっちに引き入れたらどうだ?」
と言われた時、
「それは無理です、弟は劉備と主従の関係を結んだのであり、義としてこれに
背く訳にはいきません、私が向こうに行かないのと同じことです」
と答えて、孫権を喜ばせているのです
孫権との信頼関係はここから始まったのですが、後に夷陵の戦いの時、和議の使者に立った時
「諸葛瑾は劉備の所に行って二度と戻ってきますまい」
と讒言する者が居ました。
ところが孫権は「私と子喩は生死を越えた信頼関係で結ばれている、けしてそんな事は無い」
と、諸葛瑾に対する信頼の厚さを示しています
諸葛瑾は最後には、武官の最高位である大将軍にまで昇り、248年に亡くなりました
諸葛瑾は、息子・格の事を「この子は利発過ぎる、後に家を滅ぼすかもしれん」
と危惧していましたが、事実、その通りになりました。
諸葛瑾は格を気に入っていなかったのか、利発過ぎるのを防ぐ為かは解りませんが
爵位を継がせず、三男・融に継がせ他と言う事です。
しかし、孫峻のクーデターで一族は殺され、呉の諸葛家は断絶しました。
因みに次男・喬は諸葛亮の養子となりましたが早くに亡くなり、
その子が呉の諸葛家の後を継いでいます。
418王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/06/26 01:02
>司馬懿の黄権評
え?忠義者?
確かに司馬懿は黄権を高く評価していたようですし、
黄権伝には諸葛亮に宛てた手紙の一部分が記録されていますが、それは
「黄公衡は快男児です。いつも普段足下(あなた)を賛美し、話題としております。」
というもので忠義には触れていないように思うのですが?
それとも魏書かどこかに記述があるのでしょうか?

>厨房→曹操の手紙
完全な創作ではなく一応正史にもある出来事です。
本文ではなく呉書の呉主伝に引かれた『呉歴』の記述ですが。

建安十八年(213年)濡須(合肥ではないようです)を攻めた曹操ですが、
戦線は膠着してしまいます。そんな曹操のところに対峙している孫権からの手紙が来ました。
そこには「春になると洪水が起こります。早く立ち去った方が良いですよ」と書かれていました。
そして別紙に「あなたが死なないと私は安心することが出来ません」と書かれていました。
曹操は「孫権は私に嘘は言わない」と言って兵を退いたと言います。

ちょっと話としては出来すぎなので真実かどうかは疑問ですが。
ただ「裏に汚い字で〜」というのは確実に陳舜臣先生の創作となるでしょうか。

>いわゆる荊州四君主
演義での展開は趙統護衛兵様の仰る通りだと思いますが、
正史には蜀書の先主伝に
「南の四郡の征討に赴き、金旋、韓玄、趙範、劉度らを全て降伏させた」
という記述があるだけですので詳しいことは分かりません
(一応趙範の兄嫁うんぬんの記述が趙雲伝の注にありますが)。

ただ金旋に関して言えばその後彼の子の金イが曹操に謀反を起こしたところに
記述がありまして、彼ら親子の先祖は前漢の武帝に仕えた金日テイで、
以来代々の漢臣だそうです。
それから考えると少なくとも金旋は正式に任命された太守であったのではないかと思います。
それが劉表時代からそうなのか、劉表死後曹操に送り込まれたのかは分かりませんが
(息子の行動を見ると到底曹操に従いそうな家柄ではないですが)。

>瑾と亮
公私の区別をきちんとつけた兄弟だったのでしょう。
孫権もあの非常に疑い深い性格を諸葛瑾には向けていませんね。
劉備と諸葛亮よりも孫権と諸葛瑾の信頼の方が厚かったのではないか
と考える方もいらっしゃるようです。
なお、細かい事実関係のツッコミを入れると、
諸葛瑾は夷陵の際に劉備を説得する手紙は書きましたが、
演義とは違って和議の「使者」にはなっていません。
彼は呂蒙の後任の南郡太守として公安にいたそうです。

>陳羣と徐庶
う〜ん潁川郡の出身者は陳羣だけではないのでなんとも・・・
むしろ荀イクの存在の大きさ故に、初期から中期にかけての曹魏陣営の名士は
ほとんどが潁川出身者ですから。
確かに同じく御史中丞を経験していたりしますので一理あるとは思いますが、
それも陳羣が曹操時代、徐庶は曹丕・曹叡時代ですから直接の繋がりとは言えませんし、
それに寒門出身の徐庶を、祖父の代から確固たる名声を持つ名士の陳羣が
引き上げるというのが個人的には考えづらいかなと思ったりします。
(ま、陳家も祖父の陳寔の代までは寒門だったりしますが・・・)
元劉備配下同士の関係も、敵である曹操陣営にいる以上は
下手に結びついてしまうと処罰の口実にもなりかねない危険な共通点ですし。


個人的には副将様もageないでsageて下さると有難いなぁと思うのですが・・・・
(399の従者様のご説明をご覧下さい)
419廖化の副将:02/06/27 11:43
>>418
>それとも魏書かどこかに記述があるのでしょうか?
いや、そう言うわけではないんです
前に読んだ本に書いてあっただけですから
思い付きとうろ覚えで書いてすいませんでした

>演義とは違って和議の「使者」にはなっていません。
すいません、調べ直したらそうでした
混ざっちゃったんです、申し訳ない

今回は色々間違えて申し訳ありませんでした
知識を調べ直しておきます

あとsageておきました
420楊雄 ◆zA1iYang :02/06/28 23:52
瑾と亮
異母兄弟とか、親戚筋とかって説もありますね。
421王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/06/30 13:24
>>419=副将様
いえ、こちらこそうるさくてすいません。
あまり気になさらないで下さいね。
私のツッコミなんて異常に細かいことに口うるさいだけの戯言ですから(笑

>>420=楊雄様
>瑾と亮が親戚筋
たしか瑾と亮が兄弟じゃないという説を書いていらしたのは高島俊男先生の
「三国志 きらめく群像」だったでしょうか。

・・・まあ、
「漢字のつくりや偏に共通のものがないから瑾と亮が兄弟じゃない」とか
「親と同じ偏やつくりは避けるから同じ「おうへん」を使っている珪と瑾は親子じゃない
→瑾と亮が兄弟じゃない」
というのは、もっと後の時代ならともかく後漢末期から三国時代にかけての理由としては弱い
(それに反する事例がたくさん存在する)ので、
この「瑾と亮、非兄弟説」は一般的には「比較的説得力の有るトンデモ説」として扱われているようですね。

対して異母兄弟説ならなんとなく納得のいく気もしますが。
422趙統の護衛兵。:02/07/01 21:32
諸葛均って演義なんですよね…。
あ、諸葛誕って孔明の、、従弟ですよね?これは本当ですか?
423趙統の護衛兵。:02/07/01 21:33
さげそこないました…。スマソ
424王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/01 22:01
>>422
え?「諸葛均は演義だけの架空の人物」という意味ですか?
いえいえ、ちゃんと正史の諸葛亮伝に記述がありますよ。
もっとも「弟の均は長水校尉にまで昇進した」という記述しかないんですけれども。

>諸葛誕って孔明の、、従弟ですよね?
現代の日本の定義で言えば従弟ではないですね。
彼は諸葛珪の兄弟の子ではないようですから。

但し、親戚だったことは確かなようなので当時の定義で言えば間違いなく従弟です。
当時は兄弟や一族のくくりが今よりずっと広かったので。
(例えば荀イクと荀攸は荀イクの祖父と荀攸の曽祖父が兄弟という間柄ですので、
現代の観念で言えば遠い親戚ですけれど、当時の観念では
彼らは「叔父と甥」と呼ばれる訳ですね。
同様に従弟のことを「兄弟」と称することもあったようです。)
425趙統の護衛兵。:02/07/02 00:50
>王陶沖 さん
あ、均も実在の人物だったんですね…。またまた鬱だ…。指摘ありがとうございます。

んーと…荀イクは荀攸より年下で…ほう、、現代での叔父と甥では「甥の方が6歳年上」というのは
キツいかもしれませんがもう一段階世代が増えれば誤差が広がってそういう事が起こりうる事もあるかも。
…分かり難い文ですいません…。上手く表現できん…。
426楊雄 ◆zA1iYang :02/07/03 00:42
つまり、
祖父 − 父 −イク
曽祖父−祖父−父−攸
↑ここが兄弟
ってことになります。現代日本では、7親等になり、忌引きでのお休みの対象に
なりにくいです。

ただし、三国志の頃は、親族として身近に扱います。先祖からの代数によって、
長幼の順が年齢よりも上に見られます。この場合、イクの祖父の父(この表には
ありません)から数えて、イクは4世、攸は5世です。ですから、イクのほうが
実年齢はともあれ「叔父さん」に当たるわけです。攸の一族が若くして子を
なし、イクの父や祖父が晩婚であった場合、攸のほうが年上になる可能性は
充分にあります。

これを踏まえた場合、諸葛亮と諸葛誕がいとこ扱いになるわけです。
「○○の第5世同士」といった数え方が合致すれば、ですが。
427趙統の護衛兵。:02/07/05 16:30
>>楊雄 さん
説明ありがとうございます。やはり諸葛誕は孔明のいとこですか。
ところで蜀の孔明が丞相で頑張ったわけですが、その事は諸葛誕に昇進とかに関して影響する事ってあったんですかね〜?

遅レススマソ
428楊雄 ◆zA1iYang :02/07/06 23:44
>>427
遅レスにさらに遅レススマソ

諸葛亮と諸葛誕の出世
その辺については、申し訳ないがよくわからないんです。遅レスのうえ、この回答、
スマソスマソ。
ただ、中国史のなかで「諸葛」姓が活躍したのはこの時代だけっていうことが特筆
できるらしいですよ。しかも三国に分裂してて、その三国全てに高官として名前が残って
います。魏の諸葛誕、呉の諸葛瑾、蜀の諸葛亮、と。

「司馬」姓はいつの時代にも割と出てくるのに。不思議なモンですね。
429趙統の護衛兵。:02/07/07 09:36
>>楊雄 様「ただ、中国史のなかで…」
いえいえ、謝る必要なんて無いっすよ。それより興味深い事ですね。
少しは親戚の七光りみたいな物が瑾と誕にあったのかも…。
というか元から諸葛姓って多いんですかね?孔明と血が繋がってない諸葛…うーん…
430王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/07 22:53
>>429
>少しは親戚の七光りみたいな物が瑾と誕にあったのかも…。
う〜ん、親戚が他国の重臣であるというのは
出世の妨げにはなっても助けにはならないんじゃないかと。
まだ呉・蜀間であれば同盟国ですから無いとも言い切れませんが、
魏においては賊国である呉・蜀の重臣の親戚であることは絶対にプラスにならないと思います。
むしろそんな障害をものともせずに征東大将軍や司空に上った諸葛誕は大したものでしょう。
諸葛瑾も(>>417で廖化の副将様が書かれているように)孫権から諸葛亮とは関係なく
絶大な信頼を受けていたようですから、少なくとも「諸葛亮の親戚だから」という理由で
諸葛瑾や諸葛誕が呉や魏で優遇されたということは無く、彼ら自身の才覚と人徳で高位に上ったと見てよいと思います。
(蜀国内で諸葛瞻が出世したのは親の七光りだと思いますが)

>元から諸葛姓って多いんですかね?孔明と血が繋がってない諸葛…うーん…
瑾・亮・誕と関わりのない諸葛氏も正史には何人か記録されています(マイナーですが・・・)
中でもそれなりに有名なのがトウ艾・鍾会の征蜀に雍州刺史として参加した諸葛緒でしょうか。
彼は晋の時代になって太常・衛尉といった九卿まで昇進し、
彼の子、諸葛沖の娘が武帝・司馬炎の側室になったりして一族がそれなりに繁栄しています。

他にも魏の人として諸葛原、諸葛璋、呉の人として諸葛壱、諸葛直らが各々
諸葛亮たちとの関係が分からない諸葛氏として正史に記録されていますね。
431王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/07 23:09
しかし、二週間ほどでまた元の少人数に戻ってしまいましたね(汗
細かいところをツッコミ過ぎたのが悪かったんでしょうか・・・・。
皆さん戻って来てくれるといいなぁ・・・。
432趙統の護衛兵。:02/07/07 23:59
>>王陶沖 さん
ああ…成る程。確かに言われてみれば親戚に名がある人が居ても出世し難くなる要因にしかありえないですね…。考え方に問題があったか。
諸葛瞻って対魏戦で戦死したやつでしたよね。人物等の話からはそれますが、
「それなりに身分のある人も戦死する事あるのか」と思ったりしました。馬良も。

ではまた新しい人物について聞きたいんですが、陸抗って何か凄い事やったんですかね?
「三国志」のステータス見る限り何かやってるとは思うのですが…。まさか>>315さんが言ってるような事が…。
そう言えば突っ込むの忘れていたんだよな…。>>315。俺的には結構驚きました。

>>431
漏れも皆に戻ってきてホスィです。皆様の論戦は見物でした。新しい知識も得られるし。
まあ気長に待ちましょう。
433王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/08 02:30
>>432=趙統護衛兵様
>諸葛瞻
諸葛亮の息子であり、劉禅の女婿という蜀随一のサラブレッドですが、
残念ながら才覚はそれほどのものではなかったようです。
上の李恢のところでも書きましたが蜀滅亡の際に息子の諸葛尚、
黄権の子の黄崇、張苞の子の張遵、李恢の弟の李球とともにトウ艾と戦い、
全員戦死しています。

>それなりに身分のある人も戦死する
勿論です。乱戦になってしまえば何があっても不思議じゃないですから。
逆に「名のある人物が戦死した」という記録が一つも無いことで
赤壁の戦いの存在自体が疑われたりします。

>陸抗(226〜274)
残念ながら手元に陸遜伝(付陸抗伝)の巻がある呉書が無いので、
人物辞典の記載と手元にある正史の他の巻からの情報を抜書きします。

陸抗(226〜274)
呉最後の名将。言うまでもないですが陸遜の子です。
母は孫策の娘ですので孫策の外孫にも当たります。
(諸葛瞻が蜀のサラブレッドならこちらは呉のサラブレッドといったところでしょうか)
父の死後二十歳で配下の兵を引き継ぎ建武校尉となり、立節中郎将、奮威将軍を経て、
257年、諸葛誕の救援要請に応じて寿春に派遣された呉軍に従軍、
ここで魏の牙門将・偏将軍(名前不明)を撃破した(戦自体は負け戦でしたが)
功績により征北将軍となります。
259年には鎮軍将軍・都督西陵(元の夷陵)となり、翌年には仮節を与えられます。
264年に孫晧が即位すると鎮軍大将軍・領益州牧となり、西方防衛の総指揮に当たります。
270年に大司馬だった施績(元の朱績。朱然の子ですね)が亡くなると、
信陵・西陵・夷道・楽郷・公安、五県の都督諸軍事を兼ねます。
272年9月、歩隲の子の歩闡が孫晧の暴政に身の危険を感じ、西陵城ごと晋に寝返りますが、
陸抗がこれを討伐、西陵城を包囲した上で各地に出撃して来た晋の救援軍を撃破、
12月には城を陥落させ歩闡の首を挙げました。
273年に大司馬・荊州牧となりますが、翌274年病没しました。
陸抗の兵は五人の子、陸晏・陸景・陸玄・陸機・陸雲に分配されたと言います。

晋の都督荊州諸軍事、羊コとの酒と薬を贈り合う奇妙な友情の話は有名ですね。
(そのことで陸抗が疑われて兵権を剥がれたというのは演義の創作ですが。)
なお、264年に蜀の滅亡に乗じて孫休の命に従い、巴東郡を呉の版図に加えようと出兵していますが、
元蜀将の羅憲の抗戦に会い数ヶ月間の篭城戦の末に魏の援軍の到着もあって撤退しています。
彼の負け戦はこれくらいで、正に名将の名に相応しい戦いぶりです
(この時陸抗を追い返しているので羅憲はマイナー蜀将好きの語り草になっているのです)。
また孫晧に対しても幾度と無く諫言をしたと言われています。
孫晧期の呉は、彼と族父である丞相の陸凱が頑張っていたおかげで
なんとか保っていたという状態だったようです。

ちなみに彼の五人の子ですが、陸晏・陸景は呉滅亡の際に戦死。
陸機・陸雲は晋の時代に詩人・文学者として「二陸」と称され名声を博しますが、
政争の末に非業の死を遂げています。陸玄は・・・分かりません(汗。
434王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/08 02:32
>まあ気長に待ちましょう。
そうですね。それまでマターリするとしましょうか。

・・・しかし相変わらず超長文で書いてしまいましたね。
申し訳ない・・・。
435趙統の護衛兵。:02/07/08 14:31
>王陶沖 様
毎度、ありがとうございます。自分は読むばっかですが、長文お疲れさんです。
>>息子の諸葛尚、黄権の子の黄崇、張苞の子の張遵、李恢の弟の李球、張苞の子の張遵、李恢の弟の李球
何か萌えるメンツばかりだ〜!!黄崇はやはり夷陵のせいで黄権と離れ離れになってしまったのですかね…。
やや可哀相。

>>演義の創作ですが
やっぱそうでしたか…「兵権をはがれた」系のネタは大抵演義ですね。大体兵権はぐなんてやり過ぎだし。

>>羅憲はマイナー蜀将好きの語り草になっているのです
…語り草どころか聞いた事すらありません…(w どうか御高説おながいします。

陸抗は父親の名に恥じない優秀な人だったんですね。十分な知識も持たず、スマソ>陸抗
436楊雄 ◆zA1iYang :02/07/08 23:06
羅憲
ここ(2ちゃんねるの三戦板)でも滅多に見かけません。篭城で諸葛亮と闘った
魏のカク昭とかぶりますね。時代として「三国志演義」の中で脚光を浴びる時代の
人ではないので、残念です。

諸葛姓
多くの中国人が1字姓です。このスレの初期に簡雍殿が寝そべって勘違いなされた
通り、2字姓が圧倒的に少ないんです。その中で、最も目立った2字姓が、
「司馬」です。古代の司馬相如・司馬遷、後の世の司馬光など、歴史の教科書にも
多く登場します。

中国では苗字=血統のような誇りを尊重します。卑近な例では、ラストエンペラー
という映画で、皇帝の位から落ちたフギの元側近の息女たちが家の格の上下で
言い争う場面があります。皇帝の周囲と家柄というのが、雰囲気がつかめる1シーンです。
また、同じ苗字でも結婚はしません。結婚しても苗字は変えません。夫婦別姓が
普通です。劉備の妻は、甘夫人、糜夫人、孫夫人です。劉夫人にはなりえません。

話がそれました・・・。

王陶沖様の話にも出てきたように、史書を精読すれば見つけることが出来るでしょう。
残念ながら私にはそれだけの情報はありません。助かっています。
437王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/09 01:09
ではまた迷惑長文を一筆・・・・。
羅憲(?〜270)
字は令則。荊州襄陽の人です。父の羅蒙が戦乱を避けて入蜀したと言います。
羅憲は若い頃から才能・学問で評判を立てられ、十三歳にして巧みに文章を書いたと言います。
劉禅が長子の劉センを皇太子に立てると、太子舎人となり、太子庶子、尚書吏部郎と次第に昇進します。
宣信校尉として呉に使者となって赴き、呉の人々にも賞賛されました。
当時、蜀の国内では黄皓が権力を握り彼にへつらう人間が多かったのですが、
羅憲はそれに同調しなかったので黄皓の怒りを買い、巴東太守に左遷されました。
ここで巴東都督・領軍の閻宇の副官をしていましたが、
263年、トウ艾・鍾会率いる魏軍の来襲に際して閻宇が成都へ召還され、
羅憲がたった二千の兵で永安城を守ることとなりました。
結局、蜀は滅亡し永安の城も大混乱に陥りますが、羅憲が成都の混乱を言いふらすものを
一人斬ったため、民衆の混乱は収まりました。
呉は蜀が滅んだと聞くと264年、救援の名目で兵を派遣し、実際は永安を奪い取ろうとします。
羅憲は
「わが王朝が転覆し、呉は唇と歯のごとき密接な関係にありながら、
わが国の危難に同情することなく、利益を追求して盟約に違反した。
それにわが漢王朝(蜀のことです)が滅亡したあと、呉がどうして長く存続し得ようか。
呉の降虜になどなれるものか!」
といって抗戦します。城内の将兵に従わない者はなかったそうです。
羅憲は最初、長江の川辺で弓をもって呉軍を防いでいましたがこれを防ぎきることが出来ないと悟り、
魏に救援を要請します。一方で城を攻撃してきた歩協(歩隲の子で歩闡の兄)の軍を撃破し、追い返します。
呉の皇帝孫休はこれに激怒し、陸抗に兵三万を率いさせ永安の包囲を強化します。
永安は攻撃されてから六ヶ月陸抗の猛攻に耐えましたが援軍はまだ来ません。
城内の人々はその大半が病に倒れ、ある人が羅憲に逃亡を進言しますが、羅憲は
「そもそも人の主たる者は民衆の仰ぎ慕うものである。危険に際して彼らの安全を保てず
せっぱつまって見棄てるようなことは、君子たる者の為さない行為だ。ここで命を終えよう。」
と言って受け入れず、戦死の覚悟を固めます。
しかし、この頃やっと魏からの援軍が到着して陸抗らは撤退。羅憲は九死に一生を得ます。
司馬昭は羅憲をそのまま巴東太守の任につけ、凌江将軍に任じ万年亭侯に封じました。
その後魏が滅び晋の時代になっても昇進を重ね、最後は冠軍将軍・仮節まで上りました。
270年に死去し、安南将軍を追贈され烈侯と謚されています。

羅憲に関する記述は『三国志』蜀書・霍峻伝付霍弋伝の注に引かれた『襄陽記』に記述がある他、
『晋書』に羅憲伝が立伝されています。

ちなみに268年3月、晋の武帝司馬炎は宴の席で羅憲に蜀の大臣の子弟について質問し、
その他に羅憲の先輩の中で任用すべき人物がいるかどうかを尋ねました。
この時羅憲は10人の人物を推挙しましたが、その内の一人が『三国志』の著者である陳寿でした。
もしかしたら羅憲がいなければ『三国志』も書かれなかったのかも知れませんね。
そういう意味では我々にとっても大恩人です(笑
438王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/09 01:18
>黄崇
護衛兵様の仰る通りですね。黄権が夷陵で魏に降伏してしまったため、黄崇は父とは離れ離れに育ったと思われます。
なお、黄権が魏に降伏した際、担当官吏は法に照らして黄権の家族を逮捕しようとしましたが
劉備は自分が黄権の進言を聞かなかったことが理由だとして、
「わしが黄権を裏切ったのだ。黄権がわしを裏切ったのではない」
と言って黄権の家族を以前と同様に扱ったと言います。
黄崇はこの時の劉備の恩に報いて散ったのかも知れません・・・・。

>楊雄様
私も楊雄様の語学からのアプローチによって、史書を読むだけでは分からないことを
色々教えて頂いています。こちらこそいつも有難うございます。
 あうう、皆さんすみません。余裕ができたらすぐはせ参じます。
  いんもくさんのことを調べると仰っていた7様と簡雍さまが
 最近お見えにならないのが残念ですね。 じゃまた!
440趙統の護衛兵。:02/07/10 12:51
>王陶沖 様
羅憲…いや〜、まさにこのスレにぴったしの人物ですな。楊雄様と王陶沖様に教えてもらうまで全く知りませんでしたが…(w
ちょうどその羅憲の記述があるという霍峻もごくわずかの兵で二万の劉ショウ軍を防いだ事がありますね。妙につながりを感じる…。

>この時羅憲は10人の人物を推挙しましたが、
10人ってどんな人たちだったんですか?よければ教えて下さ〜い。
441楊雄 ◆zA1iYang :02/07/10 21:01
>>438
黄権の家族と劉備
そういう逸話が劉備には付きまとうので、蜀マンセーはやめられません(笑)。

>>439
お久しぶり(笑)。元気ですか?暑くなって体調を崩さないように、
がんがってください。

>>440
確かに。その10人気になります(笑)。他にも、スレタイの「孫乾 vs 簡雍」の
子孫達はどうなってしまったのでしょうか。


442王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/10 23:34
>>439=孫乾の従者様
無理はなさらず、余裕のある時にゆっくり戻ってきてください。
待ってますから。

>>440=趙統護衛兵様
>妙につながりを感じる…。
ホントは蜀滅亡の際に南中地方の責任者だったのが霍峻の子の霍弋で、
彼も晋の時代にそのまま南中監軍・交州刺史として重きを為したという繋がりで、
霍弋伝に羅憲が載ってるんですけどね。
個人的には董允と霍弋が蜀の二世武将の中では圧倒的な出来の良さだと思います。

>羅憲推挙の10人
正史や裴注にはあまり記述が無いですが、『華陽国志』で補って
ちょっとずつ書いて見ましょうか。

・常忌(字:茂通)
益州蜀郡江原県の人です。従兄弟の常勗(字は脩業)と共に名声がありました。
河内県令で亡くなりました。
江原の常氏はそれ以前にも常竺(字、代文)という人も蜀漢時代に輩出しており、
蜀の名家と言えます。
常忌に関する詳しい記述は『華陽国志』の常勗伝にあります。

・杜軫(字:超宗)
益州蜀郡成都県の人でショウ周の弟子の一人です。
各地の県令を歴任した後入朝して尚書郎となり、ケン為太守を務めた他、
州の大中正となりました。武帝司馬炎も彼を敬愛したと言います。
杜軫に関する詳しい記述は『華陽国志』に杜軫伝がある他、
羅憲同様に『晋書』に杜軫伝が立伝されています。

・寿良(字:文淑)
同じく成都の人です。
若い頃からケン為の費緝や張微(張翼の子)とともに名声があったと言います。
最後は大長秋まで上りました。
彼も『華陽国志』に立伝されています。

・陳寿(字:承祚)
益州巴西郡安漢県の人です。
お馴染みの正史『三国志』の著者にして我々の大恩人です。
なお、彼もショウ周の弟子です。
最後は晋の散騎常侍まで上っています。
『華陽国志』、『晋書』の両方に立伝されています。
ちなみに彼が陳式の子という説がありますが、
演義のいつかの版から出てきた俗説で、証拠はないそうです
(彼の父が馬謖の参軍だったことは確かなようですが)。
443王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/10 23:35
・高軌
荊州南郡の人です。彼は本籍が荊州のため『華陽国志』には記述が無く、
詳しいことは全く分かりません。ただ、南郡を本籍とする高姓の人と言えば
高翔がいます。彼の子孫か一族と見て良いと思います。

・呂雅
荊州南陽郡の人です。彼も『華陽国志』には記述がありません
(以降全員『華陽国志』には記事はないです)。
彼の父親は董允の次に蜀の尚書令を務めた呂乂で、彼は次男になります。
呂雅については蜀書呂乂伝に謁者まで上ったと書かれています。

・許国
同じく南陽郡の人です。
ただ南陽の許姓の人物と言えば蜀の学者許慈・許クン親子がいます。
彼らの子孫か一族でしょう。

・陳裕
豫州汝南郡の人です。
彼の父の陳祗が許靖の兄の外孫だったと言います。
ですが、陳祗は董允の後任の侍中で呂乂の後任の尚書令でありながら、
黄皓と結託して劉禅に媚びへつらった人物としてあまり評判の芳しくない人物です。
陳裕自身が晋でどこまで昇進したのかは記録にありません。

・費恭
荊州江夏郡ボウ県の人です。
お待たせしました。何を隠そう彼は費イの次男です。
蜀の公主を娶ったといいますから諸葛瞻同様、劉禅の女婿になります。
尚書郎まで上りましたが若くして亡くなったと
蜀書・費イ伝注の『費イ別伝』に書かれています。

・諸葛京(字:行宗)
徐州瑯邪国陽都県の人です。
ここまで言っただけでピンと来た人もいらっしゃると思いますが
ズバリ彼は諸葛瞻の次男で諸葛亮の孫になります。
江州刺史まで昇進したと言います。

なお元蜀臣ではこの十人以上に出世した代表的な人物として
益州巴郡臨江県の文立(字:広休)と益州ケン為郡武陽県の李密(字:令伯)がいます。
李密は漢中太守、文立はなんと九卿の衛尉まで昇進したと言います。

>>441=楊雄様
>そういう逸話が劉備には付きまとうので、蜀マンセーはやめられません(笑)。
まさしくその通りですね(w。

孫乾と簡雍の子孫は・・・・記録に残ってないようです(泣
444楊雄 ◆zA1iYang :02/07/11 01:37
>>443
諸葛亮の孫、諸葛京
孫の代でも出自は徐州瑯邪国陽都県になるんですか?祖父が蜀の丞相、父も蜀の
高官ときて、生まれも育ちも蜀の人、ということが想像できます。
「出自」の概念が気になってしまいました。
445王陶沖:02/07/11 01:52
>>444=楊雄様
>孫の代でも出自は徐州瑯邪国陽都県になるんですか?
そのようです。
但し正確に言うならば「出身地・出自が」ではなく「本籍地が」ということになると思います。

例えば馬騰・馬超父子の本籍は司隷校尉部(後、司州)の扶風郡茂陵県ですが、
これは彼らのご先祖様である後漢初期の伏波将軍、馬援の出身地でして、
ご存知の通り生まれも育ちも涼州である馬騰親子は茂陵県とは縁も所縁も無かったと思われます。
(一時期近くのビ県になら駐屯していた時期があるようですが)

上の十人も皆、生まれ育ちは蜀でしょうが、荊州や徐州、豫州が本籍になる訳です。
ただ、劉備が幽州のタク郡タク県が出身地かつ本籍で、
先祖(と自称する)劉邦の出身地を名乗っていないことなどを見ると永久に続く訳でもなさそうですが。

「有名な先祖のうち一番近い人の出身地が本籍」で
「有名な先祖がいない、もしくはあまりにも遠くなった場合は自分の出身地が本籍」なのかなと勝手に想像してますが。
446趙統の護衛兵。:02/07/12 14:35
>例の十人
陳寿以外どれも全く知りません(w
…って良く考えたら陳寿もたまたま正史書いてるから知ってるだけですが。
王陶沖 さん、10の人物の紹介と史料の提示ありがとうございます。

>二世
二世で優秀な武将…夏侯覇は反則ですか?(w …というか出来が良い、というのに引っかかるかな。

>楊雄 様
孫乾と簡ヨウの息子…!!もう究極ですね、そこまでくると。
しかし本人達は横光にすら普通に登場する印象深い人等なのに、子供の記録が無いとは(苦w

地味な文官で、陳矯って既出でしたっけ?出なければまた説明希望しま〜す。
447趙統の護衛兵。:02/07/12 14:47
一度一から読み直して見てたら、>>35さん曰く、簡ヨウは劉備に投獄されてるんですね。
同じく諌めた趙雲はダイジョーブだったのに。
448桃紫:02/07/13 00:10
趙雲はいったい何を諌めたのでしょうか?
夷陵の戦いは違うっぽいし・・・・。
449王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/13 01:31
>>446>>447=趙統護衛兵様

>優秀な二世=夏侯覇
それはいくらなんでもナシでしょう(笑

>出来が良い、というのに引っかかるかな。
前に董允の時にも触れましたが、蜀は二世にパッとしたいのがいない割に、
妙にそういった二世が出世する傾向があるもので、つい口が滑りました(笑

>陳矯
じゃ軽く概略を。

陳矯(?〜237)
字は季弼。徐州広陵郡東陽県の人です。
初め動乱を避けて江東へ避難しますが袁術、孫策の誘いを相次いで断り
郷里に帰ります。そこで広陵太守だった陳登に要請されて郡の功曹となり、
以後陳登の腹心として外交や援軍要請に活躍します。
陳登の死後、曹操に召されて司空の掾の属官となり、
相の令、征南将軍の長史、彭城太守、楽陵太守、魏郡西部都尉を歴任した後、
魏郡太守となりました。
法律を重視し、判決が滞っていた囚人たちを短い間に裁き切ったと言います。
その後、丞相長史、再度魏郡太守、丞相西曹属を務めた後、漢中征討に参加。
帰還後尚書となりました。
文帝の時に吏部尚書を務めた後、高陵亭侯に封じられて尚書令となり、
明帝の時代に侍中・光禄大夫の位を与えられ、最後は司徒まで上りました。
237年に死去。貞侯と謚されています。
彼の次男の陳騫(字、休淵)は晋建国の功臣の一人です。

なお注に引く『魏氏春秋』によりますと、陳矯は本来は劉姓だったそうですが、
母方の叔父の家を継いで陳姓を名乗るようになりました。
しかし、結婚した相手もまた劉氏の女性だったため、
陳矯は後年になっても何かにつけて礼をわきまえない非常識な人間として非難を浴びたそうです
(同姓結婚はタブーなので)。
曹操は陳矯の才能・器量を惜しんで、
「動乱以来、風俗教化は衰微している。謗言をもって評価することはならぬ。
建安五年(200)より以前のことは一切問題とするでない。(以下略)」
と言い、陳矯を擁護したと言います。
450王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/13 01:45
>簡ヨウは劉備に投獄されてるんですね
おっと、それは違います。
過去ログ、読み返して見ましたが、あれは
>>19氏が挙げた「簡雍が秦フクに一喝された」という演義のエピソードに
反応した>>35氏が説明を求めたのに対し>>36氏が「秦フクのエピソード」を紹介、
(従って劉備の東征に反対して投獄されたのは秦フクです)
それを>>38で35氏が簡雍のエピソードと勘違いなさっているだけです。

>>448=桃紫様
おお、お久しぶりですね。
>趙雲はいったい何を諌めたのでしょうか?
>夷陵の戦いは違うっぽいし・・・・。
いえ、趙雲が反対したのは劉備の東征(すなわち夷陵の戦い)で間違いないですよ。
「国賊は曹操であって、孫権ではありません(以下略)」と主張し、劉備を諌める話は
蜀書の趙雲伝の注『趙雲別伝』に見える話で、演義もその話を採用していたはずです。に
451王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/13 01:48
>>450(自己レス)
文末の「に」って何だ(苦笑
452趙統の護衛兵。:02/07/13 09:35
>桃紫 様
夷陵の話です。まあ、簡雍が投獄されたなんて書いてあったら分からないのも無理ないですね。
事実じゃなかったようですし。

>陳矯
ん〜〜地味な方ですね(w。突っ込むところが少ない…。
しかし曹操が言った言葉なんてよく残ってるよな…。

カク昭と関係がある人って居るんですかね?
453桃紫:02/07/13 21:14
王陶沖様、暖かいレスありがとうございます。
ところで「趙雲別伝」は信用できるもんなんでしょうか?
私は信用できないと見ているのでが・・・。
454王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/13 23:19
>>452=趙統護衛兵様
>カク昭
カク昭と関係ある人・・・ですか?
どのくらい関係のある人を挙げればいいのか分からないですが(苦笑
正史に出てくるカク昭が関わる事件は

22?年、涼州の西平・張エキ・酒泉の三郡で起きた麹演・張進・黄華の反乱討伐に参加。
227年、涼州西平郡で反乱を起こした麹英を討伐。
228年、諸葛亮率いる蜀軍からわずか千人余りの兵で陳倉城を守りきる。

の三つとなります。そこから彼と関係のある人物を書き出すと・・

・蘇則:麹演・黄華・張進の反乱の時の上役。カク昭は彼の指揮に従って戦った(魏書・蘇則伝)。
・魏平:麹演・黄華・張進の反乱の時の同僚。共に涼州金城郡に駐屯していた(魏書・蘇則伝)。
・鹿磐:麹英の反乱の時の同僚。(魏書・明帝紀)。
・曹真:北伐の時のカク昭の上役。カク昭は彼の命令で陳倉を守備した(魏書・曹真伝)。
・キン詳:蜀将。カク昭と同郷であり諸葛亮からの降伏勧告の使者となったが、
カク昭は受け入れなかった(魏書・明帝紀の注『魏略』)。

(おまけ)
・カク凱:カク昭の子(魏書・明帝紀の注『魏略』)。

これくらいでしょうか。

>>453=桃紫様
どういたしまして(笑
>『趙雲別伝』
うわわ、正史での趙雲ファンの希望をこっぱ微塵に打ち砕くご発言ですね(笑
確かにどこの誰がいつ書いたとも知れない怪しげな書物ですが
この資料の記事を否定してしまうと、ただでさえ少ない趙雲の史実上の事績が
ゼロ同然になってしまいますからねぇ(笑

「正史本文ほどの信憑性は無い」という点では勿論同意します。
けれど裴松之は本当にいい加減な記述をしている資料を引用する時は
きちんと「信用できない」と書いてくれる人ですが、『趙雲別伝』はそれを免れています。
正史の他の記述と明らかに矛盾していたり、間違っているという証拠でもない限りは、
信じてあげてもいいんじゃないかと個人的には思いますけど。

まあ、趙雲を擁護してあげたいという気持ちが私にあることは否定できませんね(笑
455桃紫:02/07/13 23:51
>>454
『趙雲別伝』は『隋唐志』に掲載されなかったとわざわざ集解に書かれていますよね。
このことからかなり信憑性は低いのではないかと思うわけです。
しかも『趙雲別伝』という名前からして、趙雲をヨイショして書いてあることは間違いないでしょうし、夏侯蘭や張著など趙雲別伝にしか出てこない人物もいますよね。
それに、夷陵の戦いを止めようとしたという話も『趙雲別伝』だけのものですし、かなり疑わしいなと思ってしまいます。
というわけで、私は趙雲は名将ではなかったと思っています(^^ゞ
456王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/14 01:07
>>455=桃紫様
>『趙雲別伝』は『隋唐志』に掲載されなかったとわざわざ集解に書かれていますよね
申し訳ないですが、当方『三国志集解』は未読です(苦笑。
史学畑に縁がないとそうそう読む機会も購入する機会もないですから(笑。
各時代の歴史家たちがつけた補注のまとめですから是非とも読んでみたいとは思っているんですが・・・。
桃紫様が既読なのでしたら是非ともその貴重な情報の数々を教えて頂きたいものです。

さて本題の『趙雲別伝』ですが、信用できないという意見は出てきても当たり前の意見でしょうし、
そう思う方がいても問題ないと思います。それも十分理に適った主張でしょう。

ただいくつか桃紫様のカキコに対し指摘させて頂けると
・「『趙雲別伝』にしか出てこない人名や出来事がある」というのは
『趙雲別伝』の信頼性を判断する基準にはならない。
(ある一部の書にしか出てこない人物や出来事なんて他の書にだっていくらでもいますし、あります)」
・沈家本が「『隋唐志』(正確に言うと『隋書』経籍志と『旧唐書』経籍志、『新唐書』芸文志)
に記述が無い」と注に書いているのは別に『趙雲別伝』に限った訳ではなく、
「裴注に引用されているが『隋唐志』に記されていない書物全て」
についてそうなのであって「わざわざ」そう記されている訳ではない。
また沈家本が「『隋唐志』に記されていない」と書いているのはイコール
「後世にどんな書物なのか伝わっていないので分からない」
という事実を記しているに過ぎないのであってそれが直接「信用できない」に繋がる訳ではない。

という二点について挙げて反論に代えさせて頂きましょう。
勿論、「『隋唐志』に記されていない時点で取るに足らない書と判断されたのだ」という再反論も
あるかも知れませんが、裴松之が注を付けた南朝宋の時代(裴松之は372年生まれ、451年没)から
『隋書』(636年成立)、『旧唐書』(945年成立)、『新唐書』(1060年成立)が記された時期の間に
それらの書物が失われてしまったために記されなかった可能性もある訳で、『趙雲別伝』に限らず
「『隋唐志』に記されていないから信用出来ない」とは断言出来ないでしょう。

要するに「『趙雲別伝』は信用できない」と確定出来る決め手は無いんです。
そういう訳で、桃紫様と正反対に『趙雲別伝』を信じて「演義ほどではないけど趙雲はすごい」
と考える人がいても、それは三国志に対するスタンスの違いに過ぎず、批判は出来ないと私は思います。

ま、要は
「明確な証拠はないんで『趙雲別伝』の信憑性は自分の好きなように考えればいいんじゃない?」
ということです(笑
457楊雄 ◆zA1iYang :02/07/14 11:07
他のスレでとんでもないミスをしてしまったので、ここの皆様にご報告を。
とんだ恥をかいてしまいました。皆さんも、お気をつけあそばせ。

http://curry.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1024928948/142-157
458趙統の護衛兵。:02/07/14 23:51
>カク昭
…俺でも知ってるような有名な人は曹真位だなあ、、
ありがとうございます。>王陶沖 様

>楊雄 様
カンキュウケンですか…ていうか岩波…
459桃紫:02/07/14 23:57
>>456
王陶沖様が言われるように、何を信じて何を信じないかは個人の自由だと思います。
だからこそ、三国志は人それぞれに違った世界が広がっていって面白いわけですから(^^ゞ
とりあえず私は「趙雲別伝」は読んで字の如く、趙雲を贔屓して書かれている書物ですから、その部分をさし引いて解釈していこうと思います。

>集解について
実は私も読んだことないです。
前述の意見も友人の受け売りだったりするわけなんです。
すんませんm(_ _)m
460王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/15 22:31
>>457=楊雄様
実はそこにリンクされてるカキコの内一つは私のカキコだったりします(笑

>>458=趙統護衛兵様
まあまあ、岩波さんだってたまには間違えるということでしょう(笑

>>459=桃紫様
>「趙雲別伝」は読んで字の如く、趙雲を贔屓して書かれている書物ですから
う〜ん・・・困ったなぁ・・(汗。
「現代に現物が残っていないし、記録もない以上、そうとは決め付けられないからそういう風に
断言するような書き方をするのはやめた方が良いですよ」と上で言わせて頂いたつもりなんですが・・・(汗。

確かに趙雲伝には良い記事しか引用されてませんが、だからと言ってその本が趙雲を贔屓して書いた本とは限らない訳で。
(他にどのような記事が書いてあったのか今となっては分からない訳ですから)。
タイトルが『趙雲別伝』だから趙雲に贔屓しているというのもちょっと穿ちすぎな気がします
(世の中の『なんとか別伝』という本が全てその「なんとか」について贔屓した本だなんて言えないですよね?)

例えば「『趙雲別伝』は趙雲が赤壁の後に偏将軍・桂陽太守になったと書いてあるけど、
長阪の功でやっと牙門将軍になったばかりの趙雲がそんな官位貰える訳ない」(私はそうは思いません。「例えば」です)
というように、まだ何らかの内容検討があった上で「信用出来ない」という意見をお持ちになるのでしたら異論はないのですが、
タイトルだけで判断なさったような書き方をされてしまうと、「それは如何なものか」と思ってしまいます。
どうにも「趙雲は名将でない」という答えがまずあった上で理由を後付けしているように見えて仕方が無いのです
(例え桃紫様が本当は論理的な理由をお持ちだとしても、書き方でそう見えてしまうということです)。

で、これは桃紫様がこのスレにいらっしゃるようになってから何度も言わせて頂いていることですが
桃紫さまがご自身でそう「思う」こと自体は何ら問題ないんです。
非常に面白いご意見だと思いますし「三国志は色々な見方があるから面白い」というのもその通りだと思います。
ただ、確固たる証拠が無い場合は断言するような言い方は避けるべきだと思うのですよ。
あくまで「自分の意見」に留めて書くべきだと。
特に桃紫様は通説とは反対だったり、普通とは異なった説をお唱えになることの多い方です。
何かを批判したり、評価を下げる発言をしたりする時は言動に細心の注意を払わねばなりません。
もう少し注意して発言しないと無用の敵を作ってしまいかねないと思うのです。
特に趙雲のように人気のある武将の評価を下げる発言をするのなら尚更ですよ。
「一歩間違えば敵に回る人」の数が圧倒的に増えてしまうのですから。

以上、おせっかいカキコでした。sage。
461桃紫:02/07/15 23:33
王陶沖様、心遣い感謝しますm(_ _)m
確かに、王陶沖様が言われることはもっともだと思います。
「趙雲別伝」に関してですが、やはり私は趙雲を贔屓して書かれたものだと思います。
というのも、趙雲が主人公である以上、悪く書くことはないと思うんですよね。
これは「花関索伝」「諸葛亮集」でもそうであるように、わざわざ主人をけなして書くような書物は少ないように思います。
あと、趙雲別伝で検索をかけたら、趙雲別伝について説明しているサイトを以前に見かけました。(お気に入りに入れていないのでURLはわかりませんが)
うろ覚えなのですが、第一巻は趙雲が放浪していて劉備に出会うまでの冒険を描いたもので、第二巻が諸葛亮の派閥問題、第三巻が戦いについてだったように思います。
そして、そのサイトの説明でも、趙雲別伝は信憑性が薄いだろうということだったように思います。
私は裴松之の注にひいてあるものしか読んだことがありませんが、漢中での彼の活躍はどうも信じられません(単騎で曹操軍に突っ込んで張著を救出し、その後、曹操軍を壊滅させるなんて人間技ではないと思うので)
また、趙雲別伝に書かれていることが本当だとするならば、なぜに劉備は趙雲を出世させなかったのでしょうか?
私は劉備の人物鑑定眼は信用に値すると思うんですよね。だから、本当に趙雲が有能だったらもっと早く出世していたと思うんですよ。
あと、趙雲別伝でこれだけエピソードが残っているのに、陳寿は一つとしてこういった美談を記していませんよね。
なぜに陳寿はこういったエピソードを記さなかったのでしょう?私も全部を記せとまでは言いませんが、ここまで何もないと、なんで?と思わざる得ないわけです。
また、御意見がございましたら、お願いしますm(_ _)m
つくづく魏延が不遇だと思った。
一隊長から牙門将軍、さらに一足飛びに督漢中・鎮遠将軍。後には諸葛亮の軍事
の片腕。終わりさえよければ、蜀書第六は関張馬魏黄趙伝くらいになってたかもし
れないのに。
趙雲は最初劉備の親衛隊で武勇でもって功績を立て、晩年に高位に登って良将
になり、かつて劉禅を救った功績で他の四将と並び称されたって感じなのかな。
463王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/16 01:14
>>461
>「趙雲別伝」に関してですが、やはり私は趙雲を贔屓して書かれたものだと思います。
>というのも、趙雲が主人公である以上、悪く書くことはないと思うんですよね。
ええ、ですからそう思うこと自体は別に非難する気はありません。(私は同意は出来ませんが)。
ただ「もう少し発言に気をつけて断言するのは避けた方が良いでしょう」ということが言いたいだけのことでしたので。

>趙雲別伝について説明しているサイト
いえ、456や460でも書きましたが『趙雲別伝』はすでに失われた史料ですので、
現在その内容を知ることは出来ません。
よって解説などはどうしたって出来ません。

もしかして桃紫様がご覧になったのはこのページ
http://www2.plala.or.jp/Lian/bookindex/rekishi/sangoku.htm
の19番で挙げられてる「趙雲伝」じゃないですか?
それは後世、日本人が書いた小説ですよ。『趙雲別伝』ではありません。

>趙雲が主人公である
・・・(泣。
『趙雲別伝』は小説ではないのですから「主人公」などはいません。
勿論タイトルからすれば趙雲にスポットを当てて書かれた書物でしょうが、
それは間違っても「主人公」という言葉では表現されないものです。
仰りたいことは分かりますが史書を評すのに小説の用語を用いてはいけません。

>「花関索伝」「諸葛亮集」
その二つの書物は民間の雑史とは言え史書である『趙雲別伝』と比較するには適当でないです。
「花関索伝」は後世の小説です。文学としてはともかく史料としての価値はありません。
「諸葛亮集」は諸葛亮の事績を記した書物ではありません。諸葛亮自身が書いた文章を陳寿が編纂した文集です。
いずれも「ある人物にスポットを当てて書かれた史書」ではないので
「『趙雲別伝』は趙雲を良く書いた書物である」とする説の補強には残念ですがなりません。

>単騎で曹操軍に突っ込んで張著を救出し、その後、曹操軍を壊滅させるなんて人間技ではない
お願いしますから批判をするのならきちんと内容を把握してからにして下さい(泣。
そこには「趙雲は馬を馳せて敵陣に立ち戻って、張著を迎え入れた」
(原文「雲復馳馬還營迎著」)とあるだけで「単騎である」とは言ってません。
また曹操軍も壊滅したのではなく損害を受けて退いただけです。然程に化け物じみた活躍ではありません。

・・・誤解なさっているかも知れませんが私も趙雲が「名将」だったとは思っていませんよ?
私は特に『趙雲別伝』を疑いはしませんが、あれを全て正しいとしても
中規模以上の軍を率いた経験がほとんど無いのですから「名将」とは呼べないと思います。
私自身は、彼を「個人的武勇に優れ、小規模の部隊の統率に長けた親衛隊長」だと思ってます。
劉備から見れば曹操にとっての典韋や許チョみたいな存在でしょう。
そういう意味ではひとかどの人物だとは思ってますが。

従って私は別に桃紫様のご意見そのものに反論している訳ではないんです。
ただ、「断言はやめましょう、証拠はないんだから」と
桃紫様の「書き方」と「論拠」について「だけ」を繰り返し苦言として申し上げているんです。
今後のカキコで気を付けて頂きたいなぁ・・・ということですので・・・・。

正直これで趙雲と『趙雲別伝』の話は終わりにしたいです。
確たる証拠がどちらにも無い以上『趙雲別伝』の信憑性の話は平行線ですし、
これ以上続けてもまた麋竺の時のようなエンドレスになって埒があかない気がしますので(苦笑

>>462
魏延は無くすには惜しい名将でしたね。
ただ、諸葛亮政権下ではどうしたっていずれ排除されたでしょうが・・・。
464桃紫:02/07/16 01:48
私も彼は「個人的武勇に優れ、小規模の部隊の統率に長けた親衛隊長」だと思ってます。
あと、「趙雲別伝」については信憑性は不明ということで、納得いたしました。どうもいろいろとすんませんでしたm(_ _)m
でも、ちょっと細かいことですが、少しだけ言わさせていただくと、「花関索伝」のおかげで最近になって演義の発生ルーツについての研究が進んだそうです。
だから、少なからず史料的価値はあるのではないでしょうか?

しかし、王陶沖様は本当にすごいですね。脱帽です。
できれば、私のサイトにも来ていただいていろいろとアドバイスなどしていただきたいのですが、さすがにここでURLを出すわけにはいかないです(^^ゞ
何か良い方法はないでしょうか?
465462:02/07/16 02:31
>>463
うんー。私はこのスレの主流と違って(笑)、諸葛亮が特に魏延を嫌ってい
たとは解釈していなかったりしますけども。前出ですが、「楊儀の才幹を愛
し、魏延の剛勇を頼みにしていた」「二人が不仲であることを残念がって」
ですから、軍略面で進言を退けはしても冷遇していたとは思えないのです
(個人的な交流があったとも思いませんが)。

諸葛亮の人事からは性格的な欠点への大らかさ(甘さ?)を読み取ります。
推挙したのは劉備だとはいえ、結局魏延や李厳を重用しましたし、楊儀に
至っては丞相府参軍として遠方から呼び戻しています。ただ一度法を犯
した場合の措置が厳格だったということなのでしょう。
魏延の場合、自分(諸葛亮)が死んだら手に追えなくなるだろうとは予想し、
事実そうなったわけですが。優れた武人ゆえに、一介の武人で収まって
はいられなかった、ということですかねー…。
466趙統の護衛兵。:02/07/16 20:11
ちょっと外れますが、泣いて馬ショクを斬るって正史ですか?古典の教科書で見たような…赤壁だったかな…
史実だったらそんな話が残ってる場ショクに対していきなりクビになったり殺されたのに話が特に残って無い魏延や李厳は
あまり孔明に好かれて無かった、または嫌われていた可能性がありますよね。…話に大した進展は無いですが…(苦w
楊儀って孔明に嫌われていたんですか?
初心者の意見なんでsage
467王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/16 20:16
>>463=桃紫様
>「花関索伝」のおかげで最近になって演義の発生ルーツについての研究が進んだそうです。
>だから、少なからず史料的価値はあるのではないでしょうか?
それは「文学史」という観点で見た時の史料価値ですね。
それなら確かに高いものがあるのだろうと思いますが、
史学的な史料価値は「ない」と言い切って構わないと思います
(演義など足元に及ばないくらい荒唐無稽なお話ですから、あれは)。

>私のサイトにも来ていただいていろいろとアドバイスなどしていただきたい
おやめになった方が良いと思いますよ?
それこそ掲示板がはた迷惑な超長文で埋まってえらいことになりますから(笑


>>465=462様

あいや、私も別に諸葛亮が魏延を嫌いだったとは思ってませんよ(好きでもなかったとは思いますが)
ただ、前にも書かせて頂いたことがありますが、私は蜀漢政権というのを基本的に(特に劉備死後は)
「諸葛亮をトップとする荊州名士共同体」が支配する集団」と捉えています。
魏延のような一兵卒上がりの高官は荊州名士たちには目の上の瘤なんですよね。
ですから例え諸葛亮が魏延に悪感情を持っていなくとも、荊州名士のトップという彼の立場上、
いずれ彼を排除せざるを得なかったのではないだろうかということで463のようなカキコになりました。
説明不足でしたね。申し訳ないです。
468462:02/07/16 21:46
>467
確かに、諸葛亮と魏延があと数年長生きした場合、魏延がさらに上を望めば、廖立
のような舌禍の形で排除されるというのは十分ありえそうですね。
469王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/16 22:46
おっと、私が先の書き込みをする直前に趙統護衛兵様のカキコがあったのですね。
気づきませんでした。すいません。
>>466=護衛兵様
>泣いて馬ショクを斬るって正史ですか?
赤壁ではなくて第一次北伐ですよ。
一応、蜀書諸葛亮伝の「馬謖を死刑にして兵士に謝罪した」というくだりと、
蜀書馬良伝付馬謖伝の注に引かれた『襄陽記』の、馬謖の死後に蒋エンが
「(前略)天下がまだ平定されていないのに、智謀の士を殺したとは、なんと残念なことでしょう。」
と言ったのに対し諸葛亮は涙を流しながら
「(前略)四海の家は(三国に)分裂し戦争がまさに始まらんとするときに、
もし法律を無視したならばどうして逆賊を討つことが出来ようぞ」と言った
というのが「泣いて馬謖を斬る」のエピソードの元ネタでしょう。
そういう意味では正史(及び注)にもあると言えます。

しかしこの馬謖の死因、実は同じ正史の蜀書内でも諸葛亮伝では「死刑」、
馬謖伝では「獄死」とバラバラで不可思議な謎に包まれていたりもします。
更には向朗伝にある「向朗は平素より馬謖と仲が良かったので、馬謖が逃亡した際事情を知りながら黙認した」
という記述を曲解して「実は馬謖は死んでない」なんてトンデモ説を唱える方までいたりします(笑
(一般的にはこの「馬謖逃亡」は街亭敗戦直後で、結局は捕まって死んだのだろう、と解されます)。

>馬謖と魏延・李厳
え〜と、このエピソードの核は「愛弟子のような存在だった部下の馬謖をきちんと追求し、
私情を差し挟まずに死刑に処した諸葛亮の清廉さ」であって、むしろ諸葛亮を誉めるために残っている逸話です
(蒋エンが言ったような反論も勿論当時からあるのですが)。
何故諸葛亮が泣いたかと言えば、馬謖が彼にとって非常に親しい人物だったからです。
対して、魏延と李厳はかたや何かと反抗してくる部下、かたや有力な政敵です。親しいはずもありません。
彼らが落ちぶれようが死のうが(魏延の死は諸葛亮の死後ですが)泣くはずないですね(笑
だからと言って李厳と魏延が諸葛亮から嫌われていたとは言い切れませんが、
まあ少なくとも親しくなかったのは確かではないかと思います。

>楊儀って孔明に嫌われていたんですか?
それに関しては私(元101)と廖化の副将(元283)様が
このスレの>>340-342,>>349-353で議論してますのでご覧下さい。
私個人の見解としましては「まあ嫌ってはいなかったんじゃない?」と考えてますが。

>>468=462様
その通りだと思います。
ただ、私は魏延はあのままそれ以上の高位を望まずにいたとしても
いずれは排除されてしまったであろうと考えていますが。
470楊雄 ◆zA1iYang :02/07/16 23:07
趙雲の話と文学の交流
 三国志・西遊記・水滸伝など、明代の爛熟した文化の中、あらゆるジャンルの文学作品が生まれ、
消えていきました。このなかで、歴史書のうちから題材にとったのが三国志演義です。と、簡単に
書くのもアレですので、一点だけ注意してください。
 三国志演義・作羅貫中 とありますが、羅漢中が最初から最後まで書いたのではなく、巷間に
散らばっている各地の三国志の人物にまつわるエピソード・伝説・民話・民間伝承を盛り込んで
います。それらを集大成したものなのです。花関索伝は、関羽の(架空の)三男が大暴れ、という
破天荒な物語です。どちらが先なのかは存じませんが、関索という人物は三国志演義にも、水滸伝
にもみられます(笑)。このように、文学作品や文書には、互いの影響というものがあるようです。

魏延の話
 演義ベースになります。予めご了承ください。
 で、魏延なんですが。諸葛亮との確執が演義後半の諸葛亮の内憂としてクローズアップされます。
しかし、初対面で「お前の顔は裏切り者の人相」みたいなこと(叛骨の相)いわれつつも、一兵卒
から見事立身出世を果たしております。その後も諸葛亮はきっと言葉に出さないまでも、「こいつ、
いつか裏切る」と見られ、そんな中でも働いています。身近な場面に置き換えてみたらどうでしょう?
初対面の目上の人に「あなたは、裏切りますね?」って言われたことありますか?私なら即座に
やっつけます。「どうせ、会社やめんだろ?」って言われたら、働きません、とっとと辞めます。
つまり、魏延は実力もあり、長い間裏切り者のレッテルを張られた中でも辛抱強く働いていたのでは?
とか、かばってしまいたくなります。
諸葛亮「裏切るぞ、裏切るぞ〜」
魏延「なに?!そこまで言うなら裏切ってやる!」
諸葛亮「ほーらやっぱり裏切った〜」
・・・魏延を裏切り者に仕立てたのは、諸葛亮なんじゃないですかね?
471楊雄 ◆zA1iYang :02/07/16 23:14
おまけ

岩波に限ったことではありません。漢詩の本はとくに落とし穴だらけです。
472桃紫:02/07/17 01:18
王陶沖様へ
私の友人という師匠様がこのように言われていましたので、そのままコピペいたします。

基本的に、個人の傳を扱ったのものって、その人物を中心に書くわけですから、基本的によいしょの方向にあんるのは否めないと思いますよ。
三国志の注でも、かなりの雑傳が、ひかれていますが、これもその題名の冠する人物にたいしては、持ち上げる方向でかいているとかんじられます。
正史の部類でも、本人の伝は、敗戦記事を載せなかったり、マイナスイメージの記事を省いたりということを普通にしているので、個人の雑伝にいたっては、そのスタンスは当然のことだと思います。
題名が・・というより、題名がその中身を一番端的にあらわしたものですもんね(笑)
三国志関係の雑傳に関して、このサイト(有名な、黄虎洞さんのだから、見られているかも・・)さんの考えが、よろしいかと。
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/tyosaku/kayoukokusi.html
ここの製作意図のところに、雑傳についての、見解が。
個人の名前を冠していて、なおかつこき下ろしているのは、曹瞞伝ぐらいかな・・とは思うんですが?でも、曹瞞伝は、もっとも、曹操のくそガキ伝という題名ですから、こきおろしは当然なんですが・・。
といっても、三国志関係よんだだけの私の見解ですから、その質問されたかたに、個人の名前を冠している伝で、こきおろしているのがあったら、教えてくださいって言っといてください。

あと、どうでも良いことですが、私は「花関索伝」や「三国志演義」のような小説であっても、史料的価値はあると思っています。
例えば、根も葉もないエピソードでも、全然何もないところからは産まれないわけであって、逆にそのエピソードがなぜ産まれたのかと推測することによって、史料的価値があるとされているものだけでは知りえないことでもわかることはあると思っておりますので(^^ゞ
まぁ、素人が戯言を言っとるという感じで聞き流してくれてけっこうです。
473桃紫:02/07/17 01:24
↑のあと、どうでも・・・・
というのは私の意見です。わかりにくくてすんませんm(_ _)m
>>460:王陶沖殿
ライブで私がミスっているところを見ていたのですね。やるなお主。チッ。
>>473:桃紫殿
吉川英治著「神州天馬峡」を是非ご一読をお勧めします。その辺、リアルです。
しかし。
身近に師匠とも呼べる詳しい友人が居るということは、貴殿は恵まれていると
思いました。

 >桃紫さん
  あ〜蛇足ですが、”こっそり清談“スレとはいえ、URLを
 じかにリンクはされないほうが良いですよ〜。って、
 なぜそういうルールなのかは自分よく知らないのですが…。
 よぅ知らんのに、えらそい事言ってごめんなさい。
  とりあえずwww.ではじめるか、最初のhをはずして置いておいて
 下さいね。 じゃ、みなさんまた今度 (;;)/~
476王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/17 22:14
>>472=桃紫様
はぁ・・・。一度終わらせた話を蒸し返さないで下さいよ・・・。
私のスタンスが趙雲擁護寄りにあることは最初の最初で断ってあるんですし、
合意に至らないことはもう分かってるんですから(泣。
・・・正直、同じことを何回も書かされるのはもうイヤです。


>桃紫様のお師匠さまのご意見
大体仰る通りだと思います。
当時の地方誌や人物伝に、スポットを当てられた地方や人物寄りの記述を
したものが多いことは確かでしょう。

ただ、そういう偏った記述をした書物の「持ち上げ方」というのも様々でして、
「全く根も葉もない事柄を記述したもの」から
「事実をベースにしつつ誇張したもの」、
「事実を都合良く解釈したもの」、
そして「良いことだけを記述して悪い記述のみを省いたもの」まで様々です。
例えばもし『趙雲別伝』が四つ目のスタンスで書かれたものであれば、
趙雲寄りの記述がなされているからと言ってそれは嘘を書いていることには
ならないのであって、「趙雲寄りの本であること」が即「事実ではない」に
繋がらないことが有り得ることをお分かり頂けるでしょうか?
(勿論、『趙雲別伝』が四つ目のスタンスで書かれているという証拠はありません。
そう、確たる証拠はどちらにもないんです。もう何度も言わせて頂いたはずですが)

それにこれも何度も申し上げてますが私が言いたかったのは「確たる証拠はない」ので
『断言するような発言はやめましょう』ということ「のみ」であって、
個々人がどう思おうと自由だと思っているということも既に論述させて頂いた通りです。
「『趙雲別伝』というタイトルの本が何も趙雲を贔屓して書いた本とは限らない」
と言ったのも「断言は出来ない」ということが言いたかっただけなんです。
断言さえやめて下されば何も文句は無いんですよ。合意は出来ませんが。

確たる証拠が遺跡から出土でもしない限り、この問題はこれ以上議論したところで、
合意には至らないのは自明の理です。不毛ですから私はやりたくありません。
ご理解下さい。何か違う話題で次の話でもしませんか?

なおリンク先サイトの記述は『華陽国志』を読む前にどのような本なのか調べた時に
読んだことがありました。
477王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/17 22:20
続きです。
>根も葉もないエピソードでも、全然何もないところからは産まれないわけであって、
>逆にそのエピソードがなぜ産まれたのかと推測することによって、史料的価値が
>あるとされているものだけでは知りえないことでもわかることはあると思っておりますので(^^ゞ

事実ではないエピソードが何故生まれたのかを考察するのは面白いという点は同意します。
しかし「史料的価値」という観点に限ればその人物が生きた時代に近い時代に書かれた
書物以外は、どうしても伝聞的・伝説的要素の方が増えてしまい史料としての価値は
あまり無いと私は考えます。
民間伝承には事実よりもやはり民衆の好き嫌いが最も色濃く反映されてしまうもの
だと思いますし。
(桃紫様は花関索伝のストーリーをご存知でしょうか?
あらすじだけでも知れば、文学的にはともかく絶対あれを歴史史料だとは思わなくなると思います。
(もし既にご存知であればすいません。))

なお言わせて頂ければ「根も葉もない」という言葉は「本当に全くそのようなことはない」
時に使う言葉であって、「全然根拠のない」出鱈目なことを言います。
「エピソードが生まれたのには何らかの理由がある」というのが桃紫様の御主張であるのでしたら、
それは「エピソードには根か葉があった」ことになる訳で、
そこで「根も葉もない」という言葉を使うのは誤用と言わざるを得ません。
おせっかいでゴメンナサイ。


>>474=楊雄様
はい、リアルタイムで見てましたよ(笑

>>475=孫乾の従者様
お元気ですか?
お時間が出来ましたらまた清談にご参加くださいませ。
478趙統の護衛兵。:02/07/17 23:23
>>469=王陶沖 様
赤壁ってのは「教科書に載ってるのは馬ショクじゃなくて赤壁の話だったかな?」って事です。
非常にどうでも良いですが(w ちなみに教科書にあったのは馬ショクじゃなくて赤壁で曹操が攻め込んだ話でした。
やはり王陶沖様が>>433で言ってるとおり詳しい事は書いて無かったです。
あ、後楊儀の話は既出でしたね。スマソ。

>>470->>471>>474=楊雄 様
>魏延
おお!昔私も似たような事考えましたよ。改めて考えたら魏延から見た孔明ってヒイキばかりのやな奴になってもしょうがないですよね。
…まあ魏延の方にも非があったかもしれませんが。韓玄を魏延が殺したのは横光の漫画みたいなイメージでいいんですか?

>岩波
やはりミスは何とかしてホスィですよね、、まあ、ちゃんとやってもミスるもんはミスるんでしょうが。

>ライブで…
そのスレの>>150>>152>>153あたりが王陶沖様っぽい…(w

>>475=孫乾の従者様
直リンって何でマズいんでしょうかね?
479桃紫:02/07/17 23:55
王陶沖様、たびたびすんませんm(_ _)m
一応参考までにコピペしたつもりなんですが(^^ゞ
あと、楊雄様は吉川先生の書籍をご推薦してくださいましたが、私は吉川先生の三国志を読んで以来、嫌いになっちゃったんですよ。
でも、ご推薦くださった本が面白いものであれば、読んでみたいと思います。内容的にはどのようなものなのでしょうか?
それと、師匠様と言っても私のサイトの常連様なんですよ。つまりリアルな友人ではないわけなんですが、いつも掲示板でいろいろと教えて戴いております。
幸いなことに、うちのサイトには私よりも詳しい方が大勢来られるので、感謝感謝でございます。
ちなみに、孫乾の従者様もその中の一人ですし(^^ゞ
480王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/18 01:44
>>478=護衛兵様
残念!私は156でした。
楊雄様の間違いを指摘させて頂けるほど漢字には詳しくありませんので、私は(笑

>>479=桃紫様
>たびたびすんませんm(_ _)m
いえ、私こそ熱くなりすぎたようです。
非礼な発言の数々お許しください。

>ちなみに、孫乾の従者様もその中の一人ですし(^^ゞ
おや、孫乾の従者様と桃紫様は以前からのお知り合いでしたか。
それは意外(笑。
481廖化の副将:02/07/19 11:05
すげえ久しぶりです
>431
いやそんなことはありません、ただの期末試験です(w

>470
演義にさらにツッコミをいれると、諸葛亮没後、魏延が騒ぎ立てますが
横光三国志では「陛下はわしに兵権を委ねられる」と言っています
そして、この後が演義共通なのですが、馬岱が
「漢中をとれば蜀も取れましょう」と言っています
・・・ここから考えると魏延を(演義で)謀反させたのは馬岱としか思えないのですが・・・
(もちろん楊雄殿がおっしゃるように最大の原因は諸葛亮だと思いますが)
482埋められた儒学者:02/07/19 11:22
豎子語るに足らず
483無名武将@お腹せっぷく:02/07/19 21:20
大人の会話に子供が入ってくると大変なことになるというのがよく分かりました。
自分にも子供が出来たら
「大人同士の話だから子供は向こうに行っていなさい」
としつけることにします。
>>483
 子供は向こうに行っていなさい。
485王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/20 04:15
>>481=廖化の副将様
お久しぶりです。
>魏延を(演義で)謀反させたのは馬岱
う〜ん、演義の馬岱は
「諸葛亮の密命を受けて、きっと謀反する魏延に同調した振りをして
彼の信頼を得て、隙を見て斬ることを狙う」という役回りですから、
魏延の信頼を得るために言ったことではないかな、と。
演義の話の流れからすると魏延謀反は既に確定的な状況であって、
馬岱の一言で謀反を決めた訳ではないように感じますが。

演義の魏延が諸葛亮のイジメにあって可哀想というのは同意ですが、
正史での彼の死は
「楊儀と攻撃しあい、互いに相手が謀反と上奏するも、
蒋エン・董允に一方的に魏延が謀反と決定され、兵が四散してしまって軍は瓦解。
仕方なく息子たちと漢中に逃げようとしたところを楊儀の命で追ってきた馬岱に斬り殺される」
と、本当に謀反した演義での死に様よりずっと悲劇的です。
陳寿は魏延を「楊儀らを除き去りたいと望んでいただけであり、反逆したわけではない」と記し、
彼が謀反を起こした訳ではないことを明記しています。
486趙統の護衛兵。:02/07/20 17:29
へぇ、、魏延を超悪役なイメージにしたのは実話だからじゃなくて演義だったんですね。
じゃあ楊儀と魏延ってなんで仲が悪かったんですか?
楊儀がこのスレでは良く出てきてます。
ですが、楊儀の列伝(王陶沖様による正史よりの引用)がされてません。
(検索使って確認しましたが、見落としがあったらすみません)

王陶沖様の引用は、
エピソードなんかもあって結構面白く、初心者にもやさしいので
お暇ありましたらお願いします。
>485
その後すぐに楊儀は罷免されて自殺(?)してますね
そのときに初めて魏延の冤罪が証明されて墓が作られたって逸話も聞いた事ありますがどうなんでしょう?
楊儀の罷免は魏延の冤罪と関係があるんでしょうか?

もう一つ気になるのはそこでぷっつりと姿を消した馬岱
晋書では235年に牛金と戦ってやぶれたらしいですけどそれが蜀側(後主伝)に残ってないのは北伐じゃなかったからなんでしょうか?
私はその戦いの事を知る前は「馬岱は楊儀罷免の際に失脚したんでは?」とか思ってました
楊儀と馬岱が魏延事件の主犯って事で
だからこそ235年の時点で馬岱が兵を率いている事がとても疑問だったのです

でも最近新たな妄想が
牛金と戦った馬岱は失脚して山賊に身を落としていた馬岱だったんでは?って事です
1000余りの首を取った・・って記述以外知らないのでなんとも言えませんがだれか晋書に詳しい方はいらっしゃいますでしょうか?
489王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/21 15:56
>魏延と楊儀、そして馬岱
それではまず状況整理のために>>487様のリクエストのお応えして楊儀、
そしてついでに魏延についての正史の記述を一筆書かせて頂きましょう。
物凄い長さになると思いますので皆様ご覚悟の程を(笑
まず魏延からです。

・魏延
字は文長。荊州義陽郡の人です。
一隊長として劉備の入蜀に参加し、度々戦功を立てて牙門将軍に取り立てられました。
(従って「劉表に仕えていた」、「韓玄に仕えていて、韓玄を斬って劉備に仕えた」
というのは全て演義の創作です。彼はその当時は将ですらなく、一兵卒だったのです。)
219年、劉備は漢中王に即位すると、張飛が就任するだろうという大方の予想を裏切って、
漢中の抑えとして魏延を督漢中(漢中都督)に大抜擢し、鎮遠将軍に任じます。
この時、劉備が
「今、君に重任をゆだねるのだが、君は任に当たってどう考えているのか」
と質問したのに対して、魏延は
「もしも曹操が天下の兵をこぞって押し寄せてきたならば、大王(劉備)のためにこれを防ぐ所存。
(曹操の)副将率いる十万の軍勢が来るならば、大王のためにこれを呑み込む所存です。」と答え、
劉備のみならず、多くの人々はその言葉に感心したと言います。
221年、劉備が帝位に即くと鎮北将軍に昇進し、223年には都亭侯に封じられました。
227年、諸葛亮は漢中に駐留するようになると、魏延を督前部に任じ、丞相司馬と涼州刺史を兼務させました。
230年、魏延は命を受けて西方の羌中に進撃し、魏の後将軍の費瑤と雍州刺史の郭淮を陽谿で撃破します。
この功で前軍師・征西大将軍・仮節となり、爵位も南鄭侯に上がりました。

魏延は諸葛亮に従って北伐に出陣する度にいつも一万の兵を要請し、
諸葛亮とは別の道をとって潼関で落ち合い韓信の故事
(楚漢戦争当時、劉邦の将の韓信が別働隊を率いて関中を陥落させたこと)
にならいたいと願いましたが、諸葛亮は許しませんでした。
魏延は常に諸葛亮を臆病(原文「怯」)だと言い、自分の才能が十分発揮出来ないのを嘆き、
かつ恨みに思っていたと言います
(ここで注に引かれている『魏略』が、魏延が長安奇襲作戦を提言し、
危険な作戦を嫌う諸葛亮がそれを却下したと記していることは有名です)

魏延は士卒を良く養成し、人並み外れた勇猛さの持ち主である上に誇り高い性格だったので、
当時人々は皆、彼を避けへりくだっていたと言います。
しかしただ一人、楊儀だけは魏延に容赦なかったため魏延は大いに怒りを抱き、
二人はまるで水と火のように相容れなかったそうです。
(費イ伝には魏延と楊儀は同じ席にあって争論にでもなると、魏延は刃を振りかざして楊儀に突きつけ、
楊儀は頬に涙を流すという有様で、費イが間に割って入って両者を諌めて分かれさせた
ということがあったと記録されています。
また劉エン伝には魏延は劉エン[王炎](劉焉とは別人。劉備の豫州時代から付き従う重臣だが、
談論を愛好し、劉姓のために劉備に厚遇されただけであまり才能はない)とも不仲となって問題を起こし、
劉エンが成都に召還されるという事件が232年に起こったと記録されています。)

さて、肝心の234年の第五次北伐時の事件に関しては楊儀のプロフィールを書いたあと、
まとめて書きたいと思います。
490王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/21 15:57
次に楊儀です。

・楊儀
字は威公。荊州襄陽郡の人です。
建安年間(196〜219。恐らく建安末期と思われます)に曹操勢力の荊州刺史、傅羣の主簿となりますが
傅羣に逆らって襄陽太守だった関羽の下へと赴きます。
関羽は彼を功曹に任じ、劉備への使者として益州に向かわせました。
劉備は楊儀と軍事や国政の方針、政治の得失について語り合って楊儀を大いに気に入り、
左将軍(劉備)の兵曹掾に任じます。219年、劉備が漢中王に即位すると楊儀は尚書となりました。
しかし劉備が東征(呉攻め。夷陵の戦い)した際、楊儀は尚書令の劉巴と上手くいかず、
はるか遠方(しかも蜀の領地ではない)の弘農太守に左遷されました。

225年、丞相の諸葛亮は楊儀を参軍として軍府の事務を司らせ、南征に随行させました。
227年、諸葛亮に従って漢中に駐留し、230年には丞相長史(丞相府の内政官のトップ)
に昇進し、綏軍将軍の位を加えられます。
諸葛亮は度々北伐を行いましたが楊儀は常に部隊編成と軍糧の計算を行い、
考えあぐねることなく短時間で処置し終えたと言います。軍需物資の調達も楊儀の担当でした。
諸葛亮は深く楊儀の才幹を愛し、また魏延の剛勇を頼みとしていたので、
二人の不仲を大変残念に思うと共に一方だけを辞めさせることは出来ずに悩んでいたそうです。
491王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/21 16:00
さて本題の第五次北伐時の事件です。

234年、魏延は第五次北伐の先鋒となりますが、その時頭から角が生える夢を見ます。
夢占いの趙直に質問したところ、趙直は
「麒麟は角を持っておりますが用いることはありません。これは戦わずして賊軍(魏軍)が自壊する象徴です」
と告げましたが、実はそれは魏延にごまかすための嘘でした。
魏延の前から退出した趙直は
「角の字体は、刀の下に用がある。頭の上に刀を用いるのだから、その不吉さは大変なものだ」
と言ったと伝わります。

諸葛亮は死に臨んで、楊儀・費イ・姜維に撤退の命令を下し、
魏延には殿軍として敵の追撃を断たせるように命じ、
三人に、もし魏延が命令に従わないようなら彼を置いて撤退するように命じます。
諸葛亮が亡くなると楊儀は費イに命じて(この時点では楊儀の方が上官なのです)
魏延の陣営へと赴かせ、諸葛亮の遺命と楊儀の意向を伝えさせます。
しかし魏延は
「丞相が亡くなられてもわしは健在である。幕府(丞相府)付きの役人たちはこのまま遺体を運んで
帰国し、埋葬するが良かろう。わしは自ら諸軍を率いて賊(魏軍)を討つのが当然である。
一人(諸葛亮)の死によって天下の事を廃するとは何事か。
それにこの魏延を誰だと思っているのか。楊儀ごときの指揮を受け、殿軍の大将などなれるものか!」
と言い、撤退する部隊と残留する部隊を分け、費イに手書させて自分と連名で諸将に告示させます。
費イはこのままでは魏延の一派にされてしまうと身の危険を感じたのでしょう、
魏延に
「君のために立ち戻って楊長史(楊儀)に説明いたしましょう。
長史は文官で軍事の経験が少ないですから、決して命令に背かないでありましょう」と言って騙し、
まんまと逃走します。魏延は費イが去ってからすぐに後悔し彼を追いかけさせましたが追いつけませんでした。

長いので一度切ります。
492王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/21 16:01
結局、楊儀は魏延を無視して全軍の撤退を開始します。
魏延は激怒し、指揮下の軍勢を率いて撤退する軍の先回りをし、 閣道(桟道)を焼き落とします。
魏延と楊儀は互いに成都の劉禅に「相手が反逆した」と上奏し、
劉禅はどちらが真実なのか蒋エンと董允に尋ねました。
蒋エンと董允は二人とも楊儀の肩を持って魏延を疑い「魏延が謀反」という裁定が下ります。
楊儀は山の木を切り道を開いて撤退を続け、ついに魏延軍と楊儀軍は南谷口で激突します。
楊儀側の先鋒となっていた何平(王平)は魏延の先陣の兵たちを怒鳴りつけ
「公(諸葛亮)が亡くなられてその身体がまだ冷たくならないうちにお前たちは
どうしてこんなことを平気でするのだ!」
と言うと魏延の兵たちは(命令無視の)非が魏延の方にあることを知っていたので
魏延の命令に従わず散り散りに逃げ去ってしまいます。
取り残された魏延は息子たち数人と漢中へと出奔しますが、
ここで楊儀の命を受け追跡してきた馬岱によって斬殺されてしまうのでした。
魏延の首が楊儀のもとに届くと、楊儀は立ち上がってそれを踏みつけ
「ばか野郎め。もう一度悪いことがやれるものならやってみろ!」と言ったといいます。
この頃、宿衛の諸軍を率いた蒋エンがこの危機を何とかしようと急いで北へ向かっていましたが、
魏延が死んだとの報せを受けて引き返したと言います。
成都の近衛兵まで動員せねばならないほどの切迫した事態であったことがここから伺えますね。

かくしてこの魏延と楊儀の確執に端を発した事件は「魏延謀反」として処理され、
魏延の三族は皆殺しとなりました。
前にも述べましたが魏延自身は演義での魏延と違って蜀漢に謀反した訳ではありません。
あくまでも諸葛亮が没した後、軍事を与るべきは自分であると考え、
全軍撤退に反対し楊儀を除こうとしただけです。
しかしその方法はあまりにも身勝手で、周囲の同調を得ることが出来ませんでした。
また謀反ではないとしても命令無視の罪が彼にあることは明白であり、
彼は謀反人ではないにしても無実な訳ではありません。
結局魏延は自らの驕りと身勝手さで自らのみならず三族を死に追いやってしまう結果を招いたのです。

なお魏延伝の注に引く『魏略』には、「諸葛亮が後事を託したのは魏延だったのだが、
魏延が軍事を統括しているのを見て、日頃不仲な自分が殺害されるのではないかと恐れた楊儀が、
魏延は魏に降ろうとしているという流言を流して、軍勢を率いて彼を攻撃し、
魏延にはその気がなかったため戦わずして軍は逃走し、追撃され殺害された。」
とする異説が紹介されています。
裴松之は「敵国の聞き伝えによる記事に過ぎないのであって本伝とどちらが正しいか問題にする価値はない」
と言っていますが、果たして真相はどうだったのでしょうね。
493王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/21 16:02
さて楊儀の末路です。

全軍を率いて撤退し、「謀反人」魏延を誅殺したことで楊儀は自身の功績は非常に大きいと考えました。
当然、諸葛亮の後を継ぎ、国政を与るのは自分だと考えていたのです。
しかし実際に尚書令・益州刺史(後、大将軍、大司馬)として国政を任せられたのは諸葛亮の遺言もあり蒋エンでした。楊儀は位こそ中軍師に昇進したものの、担当する職務はなく手持ち無沙汰となってしまいます。
元々、蒋エンは楊儀が尚書だった時の尚書郎、すなわち元の部下でした。
また常に北伐で激務に励んできたという自負もあり、
楊儀は自分が蒋エンの下に置かれることがどうしても納得出来ません。
恨みや憤りが声や顔色に出て、節度のない誹謗中傷の言の余りの酷さに
周りの人々は皆彼を避けるようになりました。
唯一、費イだけが楊儀を訪問して慰めましたが、楊儀はここで言ってはならないことを口にします。
「先ごろ、丞相がお亡くなりになった際に、わしがもしも軍をあげて魏氏(魏延?それとも魏?)
についていたならば、世にあってここまで落ち目になったはずがあろうか。
後の後悔先に立たずとなったわい。」
余りの発言にさすがの費イも彼を庇いきれずこの発言を上奏し、
結果として235年、楊儀は庶民に落とされ漢嘉郡へ流罪となります。
それでも楊儀は配所から上書して激烈な誹謗の言を吐き続けたため、
ついに楊儀は逮捕され、自殺します。結局彼もその狷介偏狭な性格が災いし、
勝者となることは出来なかったのでした。
494王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/21 16:04
さて以上の情報を元に、皆様のご意見・ご質問を検討してみましょう。

>>486=趙統護衛兵様
>楊儀と魏延ってなんで仲が悪かったんですか?
上にも書きましたが、
皆、誇り高く傲慢なところのある魏延を立てて、彼には遠慮していたのに、
狷介偏狭な性格の楊儀だけは彼に全く遠慮せず逆らったからですね。
二人の相性が最悪に合わなかったのです。

>>488
>魏延の冤罪が証明されて墓が作られたって逸話も聞いた事ありますがどうなんでしょう?
上にも書きましたが、楊儀の罷免・自殺はむしろ蒋エンとの関係悪化による
酷い誹謗中傷が原因で、魏延の冤罪が晴れたからではありません。
魏延の冤罪が晴れたという話も少なくとも正史『三国志』にはありませんね。
241年に楊戯(楊儀とは別人です)が著した『季漢輔臣賛』の魏延の項には
「反乱の意志を述べた」と書かれています。従って少なくともこの書が書かれた
241年にはまだ魏延は「謀反人」として扱われていたと見て良いのでは無いでしょうか。

>もう一つ気になるのはそこでぷっつりと姿を消した馬岱
正確に言うと彼はそこで急に消えた訳ではありません。
正史における馬岱の記述は
『三国志』における
・222年、馬超が死に際して馬家の祭祀を継ぐものとして劉備に託したこと(蜀書・馬超伝)
・234年、楊儀の命で魏延を追跡して斬ったこと(蜀書・魏延伝)
の二点。
そして488様が仰るとおり
『晋書』宣帝紀(司馬懿の伝記です)の235年に牛金に敗れた戦
の一点。
計三点の記述のみです。
つまり「ぷっつり姿を消した」=「急に記述が無くなった」訳ではなく、
それまでもほとんど出てきていない人物なのですよ。
495王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/21 16:06
>235年に牛金と戦ってやぶれたらしいですけどそれが蜀側(後主伝)に残ってないのは北伐じゃなかったからなんでしょうか?
う〜んと、例えば上述の「230年、魏延が費瑤と郭淮を撃破した」という戦いも後主伝には記載されていません。
蜀の魏への侵攻はいわゆる北伐(諸葛亮自身が大軍を率いて進撃する作戦行動)以外にも、
このような小競り合いが何回かあったのでしょう。
235年の馬岱VS牛金もその一環ではないかと思います。

>牛金と戦った馬岱は失脚して山賊に身を落としていた馬岱だったんでは?
『晋書』の件の記事にはきっちり「蜀将馬岱」と書かれています。それは無いようです。

>「馬岱は楊儀罷免の際に失脚したんでは?」
あの時点で楊儀に従っているのは決して馬岱だけではないですし、
その理由で失脚するなら楊儀側の先鋒だった王平なども失脚していなければおかしいことになりますが、
王平は魏延・呉懿の後を継いで漢中の抑えを長年に渡って務めていますね。
それは無いのではないかと思います。
というか私は馬岱が、「失脚」するほど重要な役割を担っていた将軍だったとは考えていません。
蜀(当時は劉備軍ですが)が馬超、馬岱ら敗残の馬家を受け入れたのは
馬超の威名と、羌族への多大な影響力が北へ向かう際には大いに役立つと考えられたからだと思うのです。
しかし馬超自身はその役割を存分に果たす前に病死してしまいました。
そこで羌族への影響力という役割を次に期待されたのが馬岱だったのでしょうが、
結局馬超と違って然程に羌族を動かす大きな成果は上げられなかったのだと思います。
現に先述の『季漢輔臣賛』には馬超の項はあっても馬岱の項は無いのです。
(ただ『季漢輔臣賛』は241年までに死んでいる人物だけが掲載されているので、
241年には馬岱がまだ生きていて載っていない可能性も大いにあり得たりしますが・・・)。
期待された役割を果たせなかった馬家は蜀漢の中で次第に重きを置かれなくなっていったのではないでしょうか。
(張飛と馬超が生前は完全に同格として扱われていたのに対し、
その後の張家と馬家の扱いには雲泥の差があります。)
馬超の子の馬承など事績すら全く分かりません。
馬家最後の栄光は安平王劉理の妃に馬超の娘が迎えられたことくらいでしょうか。

こんなものでしょうか?長文書き散らしてごめんなさい(平謝り
496趙統の護衛兵。:02/07/21 19:01
王平も偏狭な性格だと聞いてます。彼が楊儀や魏延と関わった話ってのはないんですか?
497王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/21 23:29
>>496
調べてみましたが王平が魏延、楊儀と絡んだ話は見つかりませんでした。
元々魏からの投降者である王平が本格的に蜀の部将として活躍するようになったのは
街亭敗戦後ですから、魏延や楊儀と働いていた時期が短いからかも知れませんね。

性格に問題があった人と言うと、あとはケ芝もそうですね。
彼も驕慢な性格で士人と上手くいかなかったのですが、
その有能さ故に費イをはじめ皆が遠慮して彼を立てていたと言います。
演義での彼のイメージとはかなりかけ離れてますが・・・。
498廖化の副将:02/07/22 13:08
私は『三国志』で正史・演義共に魏延が一番好きなので
北伐周辺について考えてみました

魏延のプロフィールは>489で王陶沖殿が語っておりますので
諸葛亮を含めた人間関係について考えてみます

諸葛亮と魏延はキャリアで言えばちょうど同期に当たります
諸葛亮は仕官してからすぐにポストを与えられた、いわばエリートですが
魏延は一兵卒(よくて部曲将でしょうか)から仕官した叩き上げです
現代の例でもありますが、このような二人では元々仲が悪かったと思います
魏延は自分で大言を言ってから事柄をなすタイプだった様なので
よくいえば実力の伴う自信家ですが、
諸葛亮のようなインテリから見れば唯の野蛮人と映ったのではないでしょうか
この二人の間には入ってくる楊儀は劉備が漢中王となった頃、仕官しています

さて飛んで、北伐です
元々、諸葛亮は南征の実戦しか経験していません
本来なら北伐軍2であった魏延が総指揮を取るはずであったと思います
ところが、『託孤の臣』である政治家の諸葛亮が取ってしまいました
恐らく、魏延はむかっ腹が立ったのだと思います
そこで、有名な「長安奇襲策」を提言しますが、これも却下されてしまいました
更に諸葛亮は『街亭戦』の時、周りの『守将にはベテランの魏延か呉壱を』
と言う意見を無視し、馬ショクに任せてしまいます
とはいえ、魏延も劉備を慕って配下になったのですから、
もし、これが成功していれば、文句を言うにしても少ししか言わなかったでしょう
ところが、知っての通り馬ショクは敗走、全軍撤退、と言う破目になってしまいます
これでは魏延の怒りは収まらないでしょう
しかし、蜀にとって幸運だったのは、魏延が忠臣であった事です
(私は諸葛亮が忠臣とはあまり思っていません、と言うより、こんな時代ですから
忠臣の方が珍しいと思います)
だから、内紛は起こらず年月を経ました
そして、諸葛亮が没すると、当然魏延は「軍権を握れる」、と考えます
ところが、この二人、片方が死んでも争うほど相性が悪かったのか
諸葛亮の遺言により魏延は軍権を握れません
このおかげで魏延の怒りは爆発、彼は道を遮断するという暴挙に出ます
いわゆる『キレた』魏延は冷静に判断が出来なかったのでしょう
しかも、撤退の指揮を執ったのが自分と最悪に仲の悪い楊儀でした
(諸葛亮が人事が下手といわれる所以は、孫権とは違って、仲の悪い人物を
 互いに同じ場所に置いた事でしょう、でもこの辺はしょうがないと思います
 これより前に劉エンを成都に送っていますが、彼は兎も角互いに優秀な魏・楊
 二将を更迭するのは、人材が元々少ない蜀にとっては自殺行為だからです)
仲の悪い人物の命令なぞ聞きたくなかった魏延は騒ぎを起こした、
と、私は考えています
もちろん、兵を動かすほどの騒ぎを起こした魏延が無罪とは言えません
しかし、魏延を必要以上に毛嫌いしてぞんざいに扱った諸葛亮の非の方が
高いと私は考えています
(またまたトンデモ論を唱えてしまい申し訳無いです)
499廖化の副将:02/07/22 13:10
すいません、sage忘れました
魏延って蜀遠征以前は一兵卒だったって聞きますが何処で兵士やってたんでしょうか?
説としては第一に挙げられるのが劉表時代から荊州にいた(演義でもそうですし)
次点として劉備放浪軍(だとしたら諸葛亮より古株?)
恐らく前者で「劉備の新野配属の際に配下になった」か「江夏に逃げる際についてきた」辺りな気もしますが

あぁー、そんな事言ってたらタイトルにもなってる簡雍が気になってきたけど彼は黄巾の乱の時から将、もしくは隊長扱いだったんでしょうか?
劉備は舎弟がいっぱいいたでしょうから実はその中の一人で生き残り(一人戦死し、一人去っていき)って事で表彰モンだったんでは?とか
兵卒みたいなもんだったんでは?とか考えてたりしてます・・・でも文官w
関羽、張飛以上の古株は入蜀の時点で彼以外にどれくらいいたんでしょうか?
501楊雄 ◆zA1iYang :02/07/22 20:14
>>各位
引用しますね。
>魏延の首が楊儀のもとに届くと、楊儀は立ち上がってそれを踏みつけ
>「ばか野郎め。もう一度悪いことがやれるものならやってみろ!」と言ったといいます。
ふと思い出したことがあります。楚という土地柄です。長江中流域、今でいう安徽省、三国志で言う
ならば荊州方面です。古代史の伍子ショという人物から近代の登β小平まで、土地柄として血の気の多い
政治家を排出しているといわれています。三国志の世界では、荊州の劉表が儒家を好んで集めたりと
文化人の町になっていました。しかし、その文士たちは地元ではなく、いわば戦争疎開で平和な
土地を求めやってきた者たちです。これを踏まえてかんがえると、
@楊儀は荊州の出身者
@荊は(三国時代では)文士の集うところ
@でも、楊儀は文士であるとは限らない

楊儀は文士ということよりも、軍人(制服組)であり政治家である
と見るほうがより適切かもしれません。ただし、コーエーのゲームでも横山三国志の作中でも、
キャラクターが「文官」という色が強調されているので、「文官」一緒くたになっているのでは・・。
簡雍と同様ですね。
502楊雄 ◆zA1iYang :02/07/22 20:24
出身地と性格の傾向、おまけ

政治家・芸能人の意外と多い土地柄・・・群馬県。人前で大きいことを言う男。
女は「カカア天下」といわれるが、その実は男性との分業を上手にこなす民主主義者。
芸能人の多い土地柄・・・福岡県。みんなの前に出てひきつける言葉を使う。
AV女優の出身地で意外と多いところ・・・静岡県。性格がおおらかで、開放的。

出身地がその人となりを決定するわけではありませんが、参考までに。
 ども、今までの書き込みはまだ制覇してないのですが短縮で…

 >500さん
  えと、多分、簡雍以外は別れちゃったり、戦死しちゃったのでは
 ないでしょうか…だからこそ彼の記録も残っているのでしょうね。
 他にも居たかもしれませんが、一兵士で生涯を終えた人もいたのかも
 しれませんね。簡雍は【濃ゆい】人物ですからその影に隠れたのかも。

 >楊雄さま
  『出身地で分かる三国志の人物』とかいうコーエーの本って
 ためになりますでしょうか…?孫乾と青州兵ってなんか違う!って
 感じはします。あれ?前言ったかな…??既出でしたらごめんなさい。

 >桃紫さま
   あっ!言っちゃったのね、まぁここの方に身元が割れてもいいけど、
  心無い人にバレちゃったら…と思うと心配(笑)。
  本拠地の倍はトバしてる感があるので、もう少しお手柔らかにね(^^;)。

 >王陶沖さま
   はい、ちょっとたてこんでいるので本復帰はもう少し後になりますが
  また帰ってきたらよろしくお願い致します。
  今度ここコピペしてメモ帳にセーブします(笑)。
504趙統の護衛兵。:02/07/22 23:07
皆、それぞれの考えを持ってて素晴らしいですね。
>王陶沖 殿
トウ芝は正史ではどのような人間だったのでしょうか?
>廖化の副将 殿
うーん…劉備という皇帝から直に大事(魏を滅ぼす)を託されたっていうのはやはり大きな事なんじゃないですか?それで孔明>魏延の構図ができたと。
それから違うスレで、この時代は文官>武官の構図が強く現われていた、というのを見ましたがどうですか?
>>私は諸葛亮が忠臣とはあまり思っていません
どういう点からそう思われるのですか?できれば具体的に聞きたいです。
私は二心があるような人間が、君主のために組織のNO2として民の怨嗟すら呼ばないように真面目に政治をこなしながら戦争をしまくる、なんて大変な動きをしないと思うのですが。
>>500(あ…500…)
>魏延
王陶沖 殿が>>489で詳しく紹介していますよ。
>簡雍
素人な私ですが簡雍は文官と言い切れるような人間じゃないと思ってます。旗揚げ当時に居た人間に文官なんて…、って思ってます。
ていうかそもそも文官の定義が難しいような気がします。
>>孫乾の従者殿
成る程…劉備が大物になるまで生きてたから名前が残ってるという事もありえますね。
505500:02/07/23 00:27
>>趙統の護衛兵。殿
いや、魏延の一兵卒時代が気になったものです
正史でも入蜀以前が見当たらないですし
>劉備が大物になるまで生きてたから
やっぱその説を取ると他はみんな逃げたり死んだりしたんでしょうかねえ?
506趙統の護衛兵。:02/07/23 17:52
>>500
>魏延
どうでしょうね〜。流石にそこまで詳しい記述は残ってないんじゃないですかね〜。
>やっぱその説〜
いやー、生きていたのは生きていたんじゃないですかね?ただ記録に残してもしょうがない人間だったとか、、
さすがに皆を皆記録に残して、それが今まで残ってるというのも無理な気がします。

>>497=王陶沖 殿
そういえば、わざわざ調べてくれてありがとうございます。
507無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 01:31
しょぼい対決・・・
>>507
言うなよ…w
いやー、「こういう記述があるか?」ってのを聞いてるんじゃなくて残ってる限られた資料から推測するのも楽しいですよ
510楊雄 ◆zA1iYang :02/07/24 22:56
えっと・・・。書き忘れていたことも含みます。おそレススマソ。

吉川英治「神州天馬侠」…武田勝頼の子供が御家再興のために戦うお話です。

直リン…鯖に負担がかかります。ただでさえ重いこのスレ(笑)、軽くして行きましょう。
510レスで321KBです。500KBで書き込めなくなります。・・・
と、いうことは、このスレが1000行かない可能性は充分にあります。490KBを超えたことを
確認したら、次スレを立て、そのURLを書き込み、皆さんを誘導しましょう。次スレのURLが
確認されないで490KBのままになっていたら、次スレ建てに挑戦し、むやみに書きこまないで
下さい。
(なんで漏れが仕切っているんだ?)


コーエーの本…一言で言えば、ツマミ食いです。有用な情報・面白い話をかいつまんで
丁寧に書いてあると思っています。三国志のゲームの人物辞典などのコラムなどは、
広い情報から選りすぐって盛り込んでいますので、役に立つことも多いと思います。
ただし、筆者の「論」を前提に情報を集めていますので、筆者の思想(思い込み・思いつき含む)
が前面に出てしまっていることも多く、鵜呑みにしてここ(2ch)で書き込んでいると、
「そんなコーエーの本程度の智識」とかって煽られる可能性もあります。
まあ、思想(思い込み・思いつき含む)は岩波だろうとどこにでもあることですが。

文官>武官
政治権力のトップは常に文官が握ります。どんなに軍功かあっても、文官最高位が
国家最高位となります。

諸葛亮忠臣疑惑(演義ベース)
劉備の臣として劉備に忠義を尽くしたとしても、劉禅にたいしては・・・?という
疑問は常に持っております。
(おまけ)
忠誠心を示す色は、ズバリ赤です。関羽の赤顔にして赤心というのは、
真っ赤な顔して、おまけに忠義心もあるって意味ですね。

>504 趙統の護衛兵。殿
>皆、それぞれの考えを持ってて素晴らしいですね。
ちなみに、誰ファンですか?

今日も、変なおまけでお茶を濁してしまいました(笑)。
511王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/24 23:38
二、三日見ないうちにカキコが増えましたね(笑
私も楊雄様にならって容量節約と鯖の負荷軽減のために
リンクは>>から>にすると致しましょう。


>498=廖化の副将様
私個人としてはかつて462様が仰った意見に近いものがあって、
諸葛亮はそれほど魏延のことを嫌ってはいなかったのではないか
(魏延の方は明らかに諸葛亮を軽蔑してますが)と思ってますので、
「その通り!納得!」とは思えませんがそれもあり得るご意見だと思います。

ただ数点だけ気になったところを指摘をさせて頂きますと・・・、

>諸葛亮と魏延はキャリアで言えばちょうど同期に当たります
??そうでしょうか?
諸葛亮の劉備への仕官は207年、対する魏延の仕官はいつ頃かは分かりませんが、
少なくとも士の階層として将軍の扱いをされたのは入蜀の後で早くとも214年です。
7年差があれば普通は同期とは思わないと思いますが・・・。

>元々、諸葛亮は南征の実戦しか経験していません
う〜ん、一応入蜀の際の後発の援軍として張飛・趙雲と軍事行動に参加してますよね。
この時はこの二人とも別行動で諸葛亮自身も一隊を率いて転戦した訳ですから
実戦経験が「南征だけ」というのは言い過ぎではないでしょうか?
勿論魏延と比べたら実戦経験に天地の開きがあることは疑いないですが。

>ところが、『託孤の臣』である政治家の諸葛亮が取ってしまいました
諸葛亮の官職は丞相ですからねぇ・・。
人臣の最高位たる丞相は強いてカテゴリ分けをすれば行政官になるでしょうけれど、
全ての文官、武官より上の地位な訳で、軍権を握っても別に不思議は無い地位です
(例えば後漢の丞相だった曹操が軍権を持っていたことに何ら疑念を抱く人はいませんよね?)
特に「託孤の臣」だから特別に軍権を握った訳ではないと思いますよ。
それに「託孤の臣」ならもう一人李厳もいる訳で・・・。

>諸葛亮の遺言により魏延は軍権を握れません
魏延自身はすでに軍権を握っているつもりだったと思いますよ。
ですから費イを巻き込んで残る部隊と帰る部隊の選り分けなんかを勝手に行った訳で。
魏延が激怒したのは「軍権を握れなかったから」ではなく、むしろ
「軍権を握っている」自分の決定を無視して楊儀が「全軍撤退」を開始したから
ではないかと思いますが。
つまり魏延(の考え)から見ると楊儀が(魏延の)命令を無視した謀反人な訳です。
魏延が劉禅に「楊儀が謀反」と上奏したのは別に嘘を言った訳ではないのです。
それが正しいかどうかは別として、ですが(笑
512王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/24 23:39
>簡雍以外に挙兵以来の古参はいたか?
どうなんでしょうね。
個人的には旗揚げ時代から入蜀時代まで生き残ってる人物が他にいたら
もっと重臣扱いされて名も残ってるんじゃないかと思いますが。
劉備は人を見る目はしっかりしてる一方で、長年自分に仕えてくれた人間にはきちんと報いて、
無能者劉エンですら(実権はないけれど)重臣にしちゃってますからねぇ(笑

>501=楊雄様
出身地とそこに住む人々の傾向、面白いですね。
しかし「楊儀=制服軍人&政治家」説ですか。
大体同意ですが、私は更に
楊儀は「軍事における事務スペシャリスト」だったのではないかと思います。
魏延たちとは違う意味で「戦争屋」だったのではないかと。

>506=趙統護衛兵様
>そういえば、わざわざ調べてくれてありがとうございます。
あ、いえいえお気になさらず。
索引からトウ芝の載っているところを調べて、片っ端から見ただけですから。
労力はほとんど使ってません(笑。

>509様
そうですね。
ただ、議論する際にはその自分の推測を「当たり前」のものとして考えて、
人様に意見を押し付けることがないように気を付けたいものです。
私も反省しつつ心に留めておきます。

>519=楊雄様
2ch&スレに関する情報の詳しい解説ご苦労様です。
>ただでさえ重いこのスレ
一切の責任は私にありますです、はい。
皆様申し訳ない(平謝り
しかしここ容量いっぱいになったとしても、
次スレたてちゃって良いものでしょうか?
最早タイトルと程遠い内容になっちゃってますが・・・(汗
513楊雄 ◆zA1iYang :02/07/25 00:18
>512 王陶沖殿
あ、ごめんごめん!スレが重いことを王殿だけのせいにするつもりじゃないんですよ。
それと、スレのタイトルは次が立つ時に考えればいいでしょう。

魏延と楊儀

トップ:諸葛亮
前線での指揮をするもの…筆頭:魏延
(現場で)後方支援の指揮をする…筆頭:楊儀
と、諸葛亮以下ナンバー2が2人居る、あるいは双肩というか、そういうことですかね?
そしてこの2人が、トップの諸葛亮亡きあとは俺に任せろ、あいつは俺の言うことを
聞かない謀反人だっ、と双方言い出したって感じですかね。

魏延の長安奇襲策

漢の劉邦の故事に倣った策ですよね。
@有名な故事なので敵も知っていること
@道が狭く、退路に危険があること
@魏延が功にあせっているとみたこと
これらの事由で、諸葛亮はこの策を避けました。慎重派の諸葛亮からすれば、無謀な
手で、しかもそれで魏延を失うことを嫌がったとするならば、諸葛亮は魏延の才覚を
大事にしていた、といえると思います。
514趙統の護衛兵。:02/07/25 00:24
>507
ショボい言われてもしょうがないから鬱だ、、

>楊雄 様
ファンですか?私は演義の趙雲一筋ですから(w
>>孔明
孔明の働きは劉禅に忠義を尽くしたとは言えない物なのですか?
働きとしては、まあ結果は残りませんでしたが、代償の少なさの割に何度も魏を滅ぼそうと頑張ったし
政治に関しては諸葛氏に辛い陳寿も誉めていたし…と思うのですが。
…それとも、働き以外に何か別な事に忠義が足りなかったと言う事ですか?

>王陶沖 様
スレはまあ立てるとして名前ですね、問題は(w。
長いのは構わないですよ。
515王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/25 01:35
>513=楊雄様
いや本当に申し訳ないです。長文だらけで・・・。
もう少しまとめて簡潔に書ける能力があれば良いんですが・・・。

>魏延と楊儀
同意見です。その通りだと思います。
孫権には「牧童程度の小物」「鶏や犬ほどには役に立つ」と酷評されたこの二人ですが、
この二人がいたからこそ北伐は成り立ったのだと思います。
しかし考えてみると諸葛亮没後、魏延は軍権を、楊儀は国政を握りたかった訳で
利害はぶつからないのであって、性格さえあえば二人で蜀の実権を握ることも
出来たかも知れないと思うんですが、幸か不幸かこの二人の相性は最悪だったと・・・(笑。

>慎重派の諸葛亮
そうなんですよね。諸葛亮は実戦指揮官としては慎重過ぎて、正攻法しか取れないんですよね。
決して指揮が下手ではないけれど奇策はないのでこちらの方が軍勢が多ければ対処はし易い。
敵の魏から見るとそういう感じなのだと思います。
だからと言って魏延の策を取るべきだったとは思いませんが。

>514=趙統護衛兵様
>諸葛氏に辛い陳寿
ん〜と、はっきり言うと陳寿は「諸葛亮大好き」な人です。
正史でも諸葛亮伝に付けられた陳寿の評の長さは尋常ではなく、
陳寿の諸葛亮への厚い尊敬の念が伺えます。
大体、好きでもなければ「諸葛亮集」なんて諸葛亮の文ばかり集めた文集なんて作りませんって(笑
「陳寿は諸葛亮を貶めている」というのは、
「(諸葛亮は)臨機応変の軍略に欠けた」と諸葛亮の兵事の欠点を挙げた、
陳寿のただ一点のこの記述が気に食わない、見境のつかなくなった
後世の諸葛亮至上主義の人々による言われも無い言いがかりです。
逆に陳寿が諸葛亮を賛美し過ぎている危険性ならあるのですが、
正史内で「陳寿が諸葛亮に厳しい」ということは無いと思いますよ。

>スレ名
それが一番問題なのです(笑
516廖化の副将:02/07/25 12:44
>504=護衛兵殿
私が裏を考えたのはそこです、有名な『託孤の遺言』に関してですが、
私は明の王夫之が唱えた、『諸葛亮への牽制策』の賛成派です
つまり、劉備は諸葛亮を能力は買っていたがまるで信用していなかったと思ってます
(曹操の司馬イに対する扱いと似たような物ですね)
『魏を倒す』というのを託したのは、劉備が
「自由に国政握らせたら何をするかわからん」と考え、
諸葛亮を縛る為に言ったのだと考えます
先帝の遺言ですからこれは守らにゃならんでしょう
李厳はその見張りだったのではと思います
(李厳失脚はそれを嫌った諸葛亮の策謀と考えています)
また、『忠臣かどうか』について、真面目に政治をやったのは
国政を握っているのですから、あえて自分の周辺を肥やす必要は無い為と
後世の評価を上げるため、この二点だと思います
北伐は一回で終らせる積りだったはずですよ
ところが、幼常クンのせいで失敗、諸葛亮に対する視線も厳しくなったはずです
だから、『蜥蜴の尻尾きり』の要領で建前の『信賞必罰』を守った、と考えています
>それから違うスレで、この時代は文官>武官の構図が強く現われていた、というのを見ましたがどうですか?
ええ、確かに当時は文官の方が上です、
でも人間の心理って難しい物で、武官は本拠地にいる文官を
「俺達が前線で頑張ってるのに楽しやがって」と思ったり
文官から見れば、「戦争ばっかしてりゃ良いってもんでもないだろうが」
といったように、折合いが悪くなる事なんて日常茶飯事だったでしょう
(張飛は劉巴を敬愛したけども無視された、なんてのもありますし)

>511=王陶沖殿
>7年差があれば普通は同期とは思わないと思いますが・・・。
申し訳有りませぬ、私は仕えた年代で言ったのです、言葉不足でした
ここからはもう、推測しか出来ないのですが
魏延が劉備の傘下に入ったのは、赤壁直後辺りと私は考えています
荊州攻略に乗り出そうとした時に、様々な人士が集まったらしいのですが
(劉備が劉キを擁していて、その後見を称していた為でしょう)
その辺りかな・・・と考えた次第です
>実戦経験が「南征だけ」というのは言い過ぎではないでしょうか?
そうですね、言い過ぎました、申し訳ありません
>それに「託孤の臣」ならもう一人李厳もいる訳で・・・。
これより↑の文に関しては反論できません(ワラ
しかし、私は上にも書きましたが、李厳は『監視役』であったと思っています
>魏延自身はすでに軍権を握っているつもりだったと思いますよ。
これに関しては、私は魏延ではないので、解りませんが
『後主に上奏した方が、周りに対しても示しがつく』
というのは、根っからの武人で政治性が無かった魏延でも想像がついたと思います
そこで私は「もう握ったも同然」ぐらいに思っていたと考えます

それと護衛兵殿
>435で言っていた『兵権剥奪』に関しては一つ史実で知っております
馬幼常の副将であった黄襲が兵権を剥奪されています
・・・まあ、処刑された同僚の李盛・張休よりマシですが

いや〜、今回は突っ込まれ通しだったなあ
いまだ若輩の浅学菲才ゆえ、申し訳有りませぬ
これからも精進して行きたいと存じます
どうか宜しくお願いします
517王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/25 23:14
ついに諸葛亮の話題になってしまいましたか・・・

>516=廖化の副将様
ageないで欲しかったです(泣
諸葛亮談義はただでさえスレ荒れしやすい話題なんですから・・・・。

>『託孤の遺言』=『諸葛亮への牽制策』
はい。十分あり得る説だと思います。
心情的にはあまり採りたくない説なんですが(笑

>劉備は諸葛亮を能力は買っていたがまるで信用していなかった
これは個人的には少々同意しかねます。
「全く」信用していなかったのなら、いつ不穏な行動に出るかも分からない
そんな危険な人間に後方を任せたりはしないと思いますが。
実際は劉備の出征の度に諸葛亮が留守を一任された状態でした。
例えば漢中攻防の時、成都を含めた後方が非常に手薄だったことは
李厳のエピソードを紹介した時に書きましたよね。
諸葛亮を本当に危険視していたのならいつ実権を奪われるかも知れない
そんな状態の本拠地を手薄にするなんて、危なっかしくて出来たものじゃないと思います。

>『魏を倒す』=諸葛亮を縛る遺言
>諸葛亮は北伐を一回で終わらせる積りだった
それもどうでしょうか。劉備が皇帝になった大義名分を考えて見ましょう。
彼らの言い分では新しく国を建てたのではなく、「漢の皇統を継いだ」訳です。
従って建国の理念は「先帝(献帝)を廃した魏を滅ぼして漢を再興させる」ことにあります。
従って魏討伐=北伐をしない蜀漢は存在意義を失うことになります。
魏を攻めないと皇帝を名乗った意味が否定されてしまうのです。
諸葛亮は劉備の皇帝即位を強く後押しした一人=「魏を攻めることが国是」と主張した人物です。
従って北伐をしない=魏を攻めないと彼が言うことは、
かつての自分の行動を否定することに他なりません。それは名士としては致命的です。
諸葛亮はその本心はどうあれ、皇帝即位に賛成したという立場上、
北伐をしない訳にはいかなかったと思います。

もしも「劉備の遺言=諸葛亮牽制策」説を取るのでしたら「魏攻めうんぬん」よりも
「劉禅を支えると諸葛亮自身に明言させることで諸葛亮が皇帝に即位する道を未然に絶った」、
とする方が主張・説としては自然だと思いますが(ちなみに私個人は牽制策説は採っておりません)。

>国政を握っているのですから、あえて自分の周辺を肥やす必要は無い
国政を握れば贅沢な生活が出来る、という訳でもないですよ。
国費を私用に使い込めば弾劾される材料となるのは目に見えてますから。
如何に諸葛亮の権力が蜀では随一とは言え、
法正や李厳のようにほぼ同等の権力を持った政敵がいた時代もあるのです。
彼が本当に清廉だったかどうかはいざ知らず、
そんな失脚の種になるような馬鹿な真似をしなかったからこそ
諸葛亮は不動の地位を保てたのだと思います。
518王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/25 23:16
続きです。

>武官と文官の確執
それは確かにあると思いますが、その根には文武の官職の差よりも、
名士かそうでないかという階層格差の方が根強くあったのだと思いますが。
同じ武官であっても非名士層の出身である関羽や張飛、魏延らと
名士層出身の将軍たちでは名士層の文官たちから向けられる目が全く違ったはずですから。

>私は仕えた年代で言ったのです
いえ、それは十分承知してますが、その上で
「一兵卒と軍閥幹部を同期として扱うのは無理がありませんか?」と言いたかった訳です。
例えるなら郵政省の官僚と郵便配達のアルバイトを同期扱いするようなものですから
(これはちょっと極端ですが)。
魏延のキャリアをまともに幹部クラスの人間として数えられるのはやはり将軍になった後でしょう。


・・・結局、諸葛亮という人物は蜀の人物の中でも下手に記述が多いがために、
いくらでもその行動の裏読みが出来てしまう人物なのですよね。
そしてこれは諸葛亮に限ったことではありませんが、何が真実なのか、
それを客観的に証拠立てるものはありません。あるのは陳寿の筆になる状況証拠のみです。
結局何を信じるかはこれまた各人次第ですね。
私個人としては美談は美談のまま残しておきたい気分なのですが、ね(笑

ただ諸葛亮について語る時、人は極端に彼を賛美するか、
極端に彼を貶めるかのどちらかに走ってしまいがちです。
「諸葛亮」を特別視する余り両極に走るのではなく冷静になりたいものですね。
519楊雄 ◆zA1iYang :02/07/25 23:55
ここで一つトンデモ説(私見につき、スルーしてください)

伊籍「劉備殿、あなたのお使いの馬、あれは足が4本とも白く、また額に白い模様が
あります。この相の馬は的盧と申しまして、乗っているものに災いをもたらす、と
言われる大変な凶馬です。是非、この馬は人に譲るなりなさりませ。」

・・・この馬を人に譲らず愛用しているその頃、劉備は子供を授かった。妻がその子を
授かる際に、北斗七星を飲み込む夢を見たので、この子は「阿斗」と名づけられた。

馬の災いによって生まれたこの子供、今でも現代中国語の辞書の1ページ目に載る「阿斗」
として後世に名を残すことになる・・・。

ナンテネ
520趙統の護衛兵。:02/07/26 00:26
>王陶沖 様
>陳寿の孔明の評価
成る程。陳寿本人が諸葛センに侮辱されたから諸葛氏に対しての評価が辛いと聞いたので言って見たんですが、所詮それも考えの足りない意見なんですか、、
ちなみに陳寿が孔明に関して賛美し過ぎているというのはどういう事ですか?

今まで出たレスを見てたら素人目には孔明は清廉な人物だったという方が無理の無い気がします。

>廖化の副将殿
>兵権の剥奪について
古いレスからわざわざご指摘ありがとうございます。陸抗みたいな上の人間にはなさげな処罰も下の人間には平気で来ると、、
521王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/26 01:00
>519=楊雄様
なるほど。そうか、的盧の呪いだったのか・・・・(笑

>520=趙統護衛兵様
>陳寿本人が諸葛センに侮辱されたから諸葛氏に対しての評価が辛い
はい。確かにそのような説はあります。
ですが裴松之が注に引いた孫盛の『異同記』の記述は
「陳寿は昔、諸葛瞻の下役だった時に恥辱を受けたことがあり、
そのことを根に持って諸悪の根源を黄皓に押し付け、
『諸葛瞻は政治の乱れを矯正できなかった』と書いた」というもので
例えこれが事実だったとしてもその場合悪く書かれているのは諸葛瞻のみであって、
「だから諸葛亮も悪く書かれているんだ」というのは後世の諸葛亮至上主義の人たちの難癖です。
まだ「陳寿の父が馬謖の参軍で、馬謖の敗戦に連座してコン刑
(頭頂部の髪を剃られる刑。当時頭を見せるというのは死にも勝るとも劣らない屈辱です。)
に処されたのを根に持って諸葛亮を悪く書いた」説の方が直接諸葛亮に関わりがあるだけマシですね。
いずれにせよ諸葛亮伝を実際に読んで見れば
「陳寿は諸葛亮を悪く書いている」と思う人はほとんどいないと思います。

>陳寿が孔明に関して賛美し過ぎているというのはどういう事ですか?
いえいえ、「賛美し過ぎている」と断言はしてません(笑。
あくまでそういう可能性もあるかも知れないというだけの話です。
先にも述べましたが陳寿が諸葛亮を尊敬していたことはまず疑いありません。
人間、好きなものについて書くときはどうしても擁護気味・賛美気味になりがちですよね。
もしかしたら陳寿も諸葛亮に関しては功績を大きく、過失は小さくして書いている可能性も
あり得ないと言えません。
しかし、「賛美し過ぎていることがあり得たとしても悪く書いているということはあり得ない」
と言いたいためだけに言ってみただけですから
本気で「陳寿は諸葛亮を誇大に賛美している」と思っている訳ではないですよ、私は(笑。
522廖化の副将:02/07/26 12:08
>王陶沖殿
たびたびのご指摘申し訳ありません
国政については金銭欲より権力欲が勝ったのでは・・・と考えたのです
私も政治を動かしたいとか思いますしね
仕官年代に関しては
警察の新米の巡査と公務員試験をパスした新米の警部補ぐらいに考えてください
確執については
文官からそう言う目で見られれば武官が気に食わなくなるのは自明の理かと思いまして

まあ、私、諸葛亮が三国志でトップクラスに嫌いなので必要以上にひねくれた考えを出してしまうのですよ
陳寿の様に公平にはいきませんね(ワラ
(私は陳寿を結構公平な人物と見ています)
王陶沖殿にはご迷惑をおかけしました m(_ _)m
まあ、一アンチ諸葛亮ファンの戯言と思って下されば幸いです
荊州からの外様なのに、淵を破った大功があるにしろ関、張、馬超に並ぶ
後将軍にまで出世するわ、年齢不詳が何時の間にか爺さんキャラになるわ
演義では強引に無駄死にするわ(w
有名どこで申し訳無いですが、謎すぎる黄忠の逸話なんてありますか?
524王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/27 02:16
>522=廖化の副将様
あまり厳しいことは申したくはないのですが・・・
あえて辛口に意見させて頂きます。

>警察の新米の巡査と公務員試験をパスした新米の警部補ぐらいに
正直、それも同期というにはかなり無理があるような気もしますが・・・。

>文官からそう言う目で見られれば武官が気に食わなくなるのは
>自明の理かと思いまして
議論が噛み合っていないようです。
私が言いたかったのは
「そういった対立というのは確かにあっただろうけれど、その対立の軸になっていたのは
武官だ文官だという官職のくくりよりむしろ、名士か非名士かというくくりの方が
より重大な対立の軸になっていたように思えるのですが?」という話で、
そもそも武官だから文官だからというくくりは蜀内部の対立構造の話に限って言えば、
左程重要ではないのではありますまいか、という話でして。

>私は陳寿を結構公平な人物と見ています
陳寿は「公平な人物」であると考えるのに、その陳寿が書き記した諸葛亮の記録は信用出来ない、と?
ちょっと論理的に繋がってないような気がします。
陳寿を公平な人物と讃えるのなら諸葛亮伝を含め、正史の記述は全てとは言わないまでも大半は信じて然るべきでしょうし、
反対に諸葛亮伝の記述を否定し本当の諸葛亮はそうじゃないと一説ぶつのなら、陳寿の公平性は否定しないと筋が通りません。
諸葛亮伝を否定しておきながら陳寿は公平というのでは論理に一貫性が無いと言われてしまいかねないと思いますが・・・。

>私、諸葛亮が三国志でトップクラスに嫌いなので必要以上にひねくれた考えを出してしまうのですよ
人間、誰しも好き嫌いがあるのは仕方の無いことですが、
こと三国志に限らず、自分が好悪の感情を持って「初めに答えありき」で物事を論じていることに気づいたのなら、
一度自分の考えから引いて一から冷静に考えて見る必要があると思います。
好悪の念は色眼鏡となって物事の解釈を一方向に固定してしまうものですから・・・。

そして最終的に構築する自分の論理には自己の感情を関わらせないことが理想的なのですが・・・
なかなか難しいものですね。日々これ研鑽だと思います。

>王陶沖殿にはご迷惑をおかけしました m(_ _)m
いえいえ、そんなことありません。
私こそ説教っぽくてすいません(苦笑。

>523様
>黄忠
正直、正史の黄忠伝はあまりにも短すぎて逸話と言えるものはないと言わざるを得ません。
(裴松之も黄忠伝には一つも注をつけていませんし)
一応、このスレの253前後に黄忠の話題があるようですので
そちらを参照なさると宜しいのではないでしょうか。
525無名武将@お腹せっぷく:02/07/27 02:42
諸葛亮が嫌いって人は、どの辺が嫌いなのか一度聞いてみたくはある。
って、これだけじゃあれなので、好きだって人にも。

私は好き派。「至誠」、これに尽きる。忠義とかいう言葉より似合ってる
と思う。
(ほとんどちくま正史しか知らないので、その印象のみ)

……とか考えると、なんか諸葛亮って人気ないような気がするなーw
526無名武将@お腹せっぷく:02/07/27 02:53
>>525
正史から入った人初めてハケーン(゚д゚)
その人物が忠義の臣かどうかは結果でしか求められないと思います
そういう考えでは北伐が失敗したにしろ結果として国を一つにまとめるために自らを犠牲にした諸葛亮は忠義の臣といってもいいと思います
腹の底で何考えてたかは解りませんがねw
だから私的に考えると三国志の時代にも忠義の臣はいっぱいいたと思います

反対に曹操のもとを去って劉備陣営に戻った関羽は「2度寝返っている」わけで孫権が処刑したのも解る気もします
彼が忠義の臣として認識されたのはもっと後の時代になってからな気がしますがどうなんでしょう?

>523
黄忠は多分老人です
少なくとも関羽よりは年上でしょう
50代の関羽が老人扱いしてるからやっぱ60越えてるんでは?

>524
私は横山三国志から入って最初の群雄だらけの話が凄く好きだったのでそこに突然出てきて割って入って超人的活躍をする諸葛亮が嫌いでした
でもその後に「彼も人間なんだな」と思うようになって今では結構好きな人物です

話は変わりますが数年前に文庫で漫画三国志全3巻なんてのがあった気がしました
最近ハードカバー版が出てると思いますが(立ち読みしたところ)結構良かったです
注釈が所々にあったりして
その漫画の中での劉禅は若い頃から学問武芸に優れていました
なんか元になる記述でもあるんでしょうか?(説明短くてすいません)
528523:02/07/27 03:36
黄忠は特に逸話がある訳でも無いのか…
噂の『趙雲別伝』の様な物があるかなと、期待してたが残念
60越えて淵を破る程の者、劉表に仕えていたであろう前半生が気になるな〜

お答えくださった全ての方、感謝!
529楊雄 ◆zA1iYang :02/07/27 12:19
>廖化の副将 殿
確かに、「英雄・豪傑の力と力のぶつかり合い」だった三国志演義の序盤からの進行を180度転換させる
ほど、諸葛亮の登場と活躍は異色です。しかし、物語の進行を全体から見ると、
【序盤】各個人の能力・武技による出世物語。地方豪族単位。
【中盤】諸葛亮の登場と軍師の活躍。戦争規模が物語の視点の肥大化。(個人の局地戦から、地方豪族や
    国家規模へと徐々に大きくなっていく)
【終盤】建国者たちの死と後継者達の国家単位の戦争。
と変化してゆきます・
徐庶〜諸葛亮の話から、方向性はガラッとかわります。物語は、もはや一人一人の武技は戦争の中に
花を添えるようなものになっています。そしてそれは、国家の三分裂と死闘へと大規模な物語にシフト
してゆきます。
 その物語の微妙な方向性の変化の前触れとして諸葛亮の登場があります。これに奇妙な感触を覚え、
物語の流れを乱していると感じ、アンチ諸葛亮と公言できる方は、三国志演義という物語の変化の
機微を敏感に感じ取っていると思われます。

得意な「おまけ」
人間の三大欲求
@食欲  (腹減った)
@睡眠欲 (眠い〜) 
@生理欲 (トイレいきてぇ)
これがなくなると、人間死んでしまいます。では、この次にくる人間の欲求とはなにか?
それは、性欲ではありません。「所属・権力への欲求」だそうです。
つまり、グループに参加・所属したい、次にはそのグループの中で他の奴よりも上の地位にいたい、
という欲求が生まれるそうです。権力欲というのは的を射ているんじゃないですか?隠遁生活を
するものだって、他の隠遁生活者と連絡を取り合ったり、「隠遁社会に所属」することを望んでいる
わけですから。
530楊雄 ◆zA1iYang :02/07/27 12:20
うーんさがっていないぞ。。。
申し訳ない・・・。
531楊雄 ◆zA1iYang :02/07/27 12:45
黄忠(漢升)
一説には、趙雲よりも年下だったとか?年齢順にすると、
趙雲>黄忠>劉備>関羽>張飛>馬超
ってことですか。

>529のおまけ
水滸伝ではこの個人の武勇〜大規模な軍の指揮へとの変化は顕著です。棒術がうまいとかそういう
個人の武芸から後半は大軍を指揮するものに比重が大きくなっていきます。
また、江戸時代に流行った軍談も、諸葛亮的な軍師の存在をあとづけで強調するようになっていきます。
武田信玄の軍師役、山本勘介などいい例ですね。

>527殿
この場合の「寝返り」は、呂布のように丁原→董卓へと利害関係で主を変えたのと異なり、「劉備への
忠義」のもと2度裏切ったと解釈しています。ですから、後世の認識として忠臣であるとされたとしても、
早い段階でそのような認識があったんじゃないでしょうか?
あと、全3巻のものって申し訳ない、存じません。読んでみたいのですが、どこの出版社だか、わかります?

>528殿
そうですね、突然出てきて入蜀まで魏延と功を争い、定軍山で活躍、それほどの活躍をした人物の
前半生、気になります。正史にもたいして記述が無い場合、本当にたいした活躍が無かったのかも
しれませんが。

532王陶沖 ◆P3YvIYbo :02/07/27 15:29
>525様
>「至誠」
確かに正史を正しいとした場合、「忠義」よりも
その方が諸葛亮に似合いの言葉のように思えます。

>527様
>関羽は「2度寝返っている」
基本的には>531で楊雄様が仰っているような見解が一般的です。
ただこれも捉え方、解釈の仕方次第だと思います。
関羽が不忠と捉えるのもまた一理あるでしょう。

ちょっと話はズレますが関羽が曹操に下ったことを擁護するのなら、
于禁が関羽に下ったことも擁護してあげないと論理的にはおかしい
(二人とも生きていればこそ元の主君の下に戻って戦えると思ったわけで)
のですが、于禁と一緒にいたホウ徳が死を選んでいることと対比されてしまうせいか
一般に関羽は忠義、于禁は不忠にされる傾向がありますね。
于禁も草葉の陰で泣いていることでしょう(苦笑

>劉禅
基本的に劉禅の個人的な才能に触れた記述はどの書物にもありません。
その作者の方の創作と見て相違ないと思います。

>528様
劉表に仕えていた時代は中郎将として
劉表の従子の劉磐とともに長沙の攸県を守備していたそうです。

劉表死後、魏延が韓玄の指揮下にあったというのは演義の創作ですが、
黄忠が韓玄の指揮下にあったというのは黄忠伝に記載されていることです。
しかもそれは曹操の命令を受けたものだったりします。
そういう意味では黄忠は(間接的にではあれど)曹操勢力に仕えたことがあるとも言えます。

>531=楊雄様
>一説には、趙雲よりも年下だったとか?
明確にそのように記したものは特にないようです。
あくまでどなたかが唱えた説だと思います。

>年齢順にすると、趙雲>黄忠>劉備>関羽>張飛>馬超ってことですか。
う〜ん、没年は皆明らかですが生年が分かっているのはその中では
劉備(161年生)と馬超(176年生)だけで他四人の年齢は明言できませんから
(費詩伝での関羽の発言を信じれば関羽より黄忠が年上というのは確かなようですが・・)。
下手をすれば劉備より関羽が年上とかいうこともあり得る訳で・・・・(汗。
馬超が他の五人より一回りくらい若いのは確かでしょうが・・・。
533王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/27 15:39
あ。532のカキコ、トリップをタイプミスしてしまいました・・・
申し訳ない。偽者じゃないですよ(苦笑
534趙統の護衛兵。:02/07/27 16:12
>524、>518=王陶沖 様
>陳寿は「公平な人物」であると考えるのに、その陳寿が書き記した諸葛亮の記録は信用出来ない、と?
…すいません、廖化の副将様はどこのレスで諸葛亮伝の記述を信用していないと言ってるんですか?
廖化の副将様は裏読みしてるんじゃ、、
ていうか漏れが見落としてる可能性大なので、どの辺か教えてくれたら嬉しいです。

>・・・結局、諸葛亮という人物は蜀の人物の中でも下手に記述が多いがために、
>いくらでもその行動の裏読みが出来てしまう人物なのですよね。
記述が多いなら多いで色々考えができて真実から遠ざかり、少ないなら少ないで情報が足りず真実が分からないと。
さすがに1800年も前に起こった事象なんて我々が生きてる間には分から無さそうですね。

>531=楊雄 様
>本当にたいした活躍が無かったのかもしれませんが。
それは何か嫌だな、、w
535王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/27 16:54
>534=趙統護衛兵様
>廖化の副将様はどこのレスで諸葛亮伝の記述を信用していないと言ってるんですか?
あ、それは私の書き方が良くなかったせいですね。
廖化の副将様は陳寿の「事実関係の」記述を信じておられない訳ではなく、
その事実関係は信用した上で深読みなさって、陳寿が先主伝や諸葛亮伝を書くときに
一貫して貫いている「諸葛亮は忠臣」という書き方を否定なさっているだけです。
この陳寿の「諸葛亮の書き方」のことを「諸葛亮の記録」と表現してしまった私の表現がおかしいですね。
ただ、「諸葛亮=忠臣」を否定するのならそれを書いた陳寿の公平性も否定しないと論理的に繋がらないのでは?
と言いたかったのですが。
回りくどい書き方で分かりづらくて申し訳ありません。
536趙統の護衛兵。:02/07/27 20:11
>王陶沖 様
>関羽と于禁
確かに、、言われてみれば于禁可哀相です。これも演義の影響か、、コーエーの影響か、、

>535
わかりました。

曹操→ケイ州南部の影響力ってどの程度だったのですかね?劉備達が結構短期間で韓玄や金旋を倒していますが、、
それと質問しといてなんですが、私用で3日程落ちます。まあ、どうでもいいですが、、
537楊雄 ◆zA1iYang :02/07/28 13:07
王陶沖 殿
【生没年】
確かに。暦の都合・年号の都合・信仰の都合・ゼロの観念など色々な面から、「生年」は重視
されていませんね。享年と没年が判明している場合のみ、生年がわかるんですが。
その享年すらも、「自称」である場合もありますので。ま、多角的に文章のなかで
「誰よりも若い」とか、そういった記述から判断していくしかないんですよね。まあ、
1800年前の人物の年齢の長幼による力関係が多量に持ち込まれても、読む側としては
わけがわからなくなる一方なので。

【関羽と于禁】
武士の最後のあり方の問題ですね。比較対照になるホウ徳は、馬超から主を変えていますし。
于禁の忠義の示し方とホウ徳のそれが異なったために、不当に于禁が貶められています。

趙統の護衛兵。 殿
【荊州の支配】
曹操は漢の丞相として全国の頂点(荊州も勿論含む)と考えれば、しっくりくるんじゃ
ないでしょうか。引用しますね。
>黄忠が韓玄の指揮下にあったというのは黄忠伝に記載されていることです。
>しかもそれは曹操の命令を受けたものだったりします。
>そういう意味では黄忠は(間接的にではあれど)曹操勢力に仕えたことがあるとも言えます。
つまり、曹操の勢力である漢王朝の指示に従った、ということです。

538楊雄 ◆zA1iYang :02/07/28 19:17
時期が時期だけに、私のコテハンも板のルールにそぐわない、と指摘がありましたの
で、考え中です。(リプレイスレ、なりきりスレ以外ではご遠慮云々)
新しいコテ決まりましたら、爾後ご報告いたします。
539王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/30 21:03
>538
はい。(元)楊雄様の新しいHNがどんなものになるか楽しみに待ちますね。

>于禁とホウ徳
そうか、そう言えばホウ徳も降伏経験者ですね。
正確には馬超→張魯→曹操と主を変えてます。
しかも馬超が張魯の下を去った際に彼が従わなかった理由は不明・・・
(病気でついていけなかった、というのは演義の創作のようです)。

ならばなおのこと于禁ばかりを酷く言う風潮はおかしいのですが・・・。
哀れなり于禁・・・。
540趙統の護衛兵。:02/07/31 18:43
フカーツしますた。
微妙にずれますがホウ徳が司馬キに付けたあだ名の由来ってなんですかね?
541王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/07/31 20:10
>>540=趙統護衛兵様
お帰りなさい。

>ホウ徳が司馬キに付けたあだ名の由来ってなんですかね?
微妙にホウ徳違いな気もしますが(笑、
それは置いておいてまず本題から。
司馬徽の異名「水鏡」の由来ですか?
「水で出来た鏡のように物事をはっきりと映しだす程の素晴らしい人物鑑識眼を持っている」
という意味らしいですが。根拠となる文献は・・・存じません。申し訳ない。

それで、ホウ徳違いの件ですが、
その水鏡の名付け親は「ホウ徳公」(恐らく字が徳公)という人物で、
この人はホウ徳(ホウ悳)とは別人です。ホウ統の従父の方ですね。
ちなみに諸葛亮を臥龍(伏龍)、ホウ統を鳳雛と呼んだのもこの人だとか。
>540=趙統護衛兵様
お帰りなさい。暫定コテですみません。

ホウ徳(ホウ悳)=馬騰配下の人物。
「ホウ徳公」(恐らく字が徳公)=号が山民なので、ホウ山民とも。(これまた別の人かも?)


手元の辞書にのっかってるのは、臥龍だけでした。意味は、「時を得ない英雄」
とのことです。鳳凰の鳳は雄、凰は雌だそうで、「龍鳳」で優れた才能や人物、
とあります。水鏡は辞書にもありませんでした。ちゃんとした辞書があればいいんですが。
543王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/01 01:36
>542=元・楊雄様
>「ホウ徳公」=号が山民なので、ホウ山民とも
あ、ちょっと違いますね。ホウ山民はホウ徳公の息子です。
ホウ統の従兄弟であると同時に、
諸葛亮の下の姉の夫ですので諸葛亮の義理の兄にもなります。
蜀の二大重臣とこれだけ縁が深いのだから蜀に仕えているものと思いきや、
彼自身は魏に仕官していたりします。
もっとも彼は早くに亡くなったようですけれど。
544趙統の護衛兵。:02/08/01 13:22
…マジ鬱だ。ホウ徳公=ホウ徳の敬称だと思ってた、、武人がそんなあだ名付けないだろうな〜。
二人共、意味の提示ありがとうございます。

>542=元・楊雄様
いえいえ、マターリコテを考えてください。

ホウ徳はもういいです、、夏侯淵の子供達って優秀なのが多いですよね。何か話はありませんか?
【あだ名】
マジ鬱だ、おれも。
三国志の時代のあだ名といえば、上記の他にも
小覇王 孫策
美周郎 周瑜
西涼錦馬超
東呉の徳王(誰だっけ?厳白虎?)
とかありますね。

【コテハン】
引き続き考え中です。

【夏侯淵の子供】
出てくるのは、覇、威、恵、和と楙もですか?いろいろ調べてみているんですが、
見つからないので今日は改めます。チト気になってしょうがないんで。
546趙統の護衛兵。:02/08/03 12:16
夏侯楙はいいです…(w
う〜ん、夏侯淵の子供達は晋になっても繁栄したって聞いてますが、記録とかないんですかね〜。
547王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/04 01:06
>545=元・楊雄様
>あだ名
他にも思い出せる限り書くと

飛将軍 呂布
美髭公 関羽
陥陣営 高順

なんてのがありますね。
但し関羽の美髭公、馬超の錦馬超、厳白虎の東呉の徳王などは
どうも演義のみに見える呼称のようです(確信はないですが)。

おまけ 法正の祖父の法真の号はなんと「玄徳」だったそうです(笑

>夏侯淵の息子たち
>出てくるのは、覇、威、恵、和と楙もですか?
演義で出てくるのは確かにその五人ですね。
但し、夏侯楙は演義では「夏侯淵の子で夏侯惇の養子」ということになっていますが、
正史によれば彼は夏侯惇の次男で実子です。ですから本当は夏侯淵の子ではありません。
羅貫中は何を考えてこんな設定にしたのでしょうね(笑。

夏侯淵の子は他にも何人か正史(の注)に登場します。
年齢順に列記すると、衡、覇、称、威、栄、恵、和、の順になるようですね。
一人ずつ分かっていることを列記しますと、

・夏侯衡
字は不明(但し、弟たちの字から推測するに伯権か孟権と思われます)。
夏侯淵の長男。曹操の弟である海陽哀侯(本名不明)の娘(すなわち曹操の姪)
を妻としていたため取り分け礼遇されたと言います。
父夏侯淵が戦死するとその爵位である博昌亭侯を継ぎ、
後に安寧亭侯に転封されました。それ以外の事績は一切不明です。

・夏侯覇
字は仲権。演義では長男ということになっていますが実際は次男になります
(字にも次男を表す「仲」を使っていますし)。
父、夏侯淵の仇を討つべく偏将軍、右将軍、征蜀護軍を歴任し、
征西将軍夏侯玄の片腕として対蜀戦線で活躍しますが、
249年、一族で親交も深かった曹爽が司馬懿に倒されたことに身の危険を感じ、
何故か憎むべき敵だったはずの蜀へ亡命し車騎将軍となります。
(254年に夏侯玄が誅殺されていることを考えれば、彼には先見の明があったと言えるでしょう。
敵国へ降伏すること=その妻子は罪により皆殺し、が当時としては普通のことですが、
夏侯覇の子供たちは夏侯淵の功績によって命を助けられたと言います)。
夏侯覇は、張飛の妻(=劉禅の皇后の母)が夏侯覇の従妹に当たる女性だった関係で、
蜀でも皇族に連なる者として礼遇されました。何度か姜維の北伐にも参戦しています。
ちなみに演義では戦死したことにされていますが、実際は病死です。
蜀臣では数少ない謚号を送られた人物の一人ですが、その謚号そのものは伝わっていません。
三国時代でもトップクラスの波乱万丈な人生を送った人ですね。

長くなったので分割です。
548王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/04 01:16
続きです。

・夏侯称
字は叔権。夏侯淵の三男です。
幼き頃より子供を集めてその大将になることが好きで、遊びは常に戦争ごっこで、
規律に厳しかったと言います。
かなりの武芸達者で、16歳の時、虎を一矢で倒し、曹操に激賞されます。
曹丕とは身分に関係なく仲が良かったそうです。
残念ながら18歳の若さで早逝しました。

・夏侯威
字は季権。演義では次男とされていますが本当は四男です。
侠気あふれる人物で、荊州・エン州の刺史を歴任したそうです。49歳で亡くなりました。
演義のような個人的な活躍の記載は正史にはありません。
その死に関しては朱建平の予言の逸話がありますが、それはまた後で・・・。

・夏侯栄(207〜219)
字は幼権。夏侯淵の五男です。
夏侯称が武で幼き頃から名を売っていたのに対し、夏侯栄は文で知られた子供でした。
7歳にして文章を書くことができ、一日に千字の書物を読み、目を通せばたちまち覚えたといいます。
曹丕がその評判を聞いて招き、賓客百人に一人一人に本籍地、氏名を書かせた名刺を持たせて
夏侯栄に挨拶させましたが、夏侯栄はすべての賓客の本籍地、氏名を正しく覚えていたそうです。
それを見た曹丕は夏侯栄を高く評価したといいます。
そんな天才児の夏侯栄でしたが、219年、父夏侯淵に従い戦場に出ます。そこはあの定軍山でした・・。
夏侯淵の戦死を聞いた左右の臣下たちは夏侯栄に逃げるように勧めましたが夏侯栄は
「主君や親が危難にあっている時に、(自分が)助かることなど出来るはずがあろうか」
と言って受け入れず、そのまま敵陣に斬り込んで戦死しました。わずか13歳でした。

・夏侯恵
字は稚権(演義では雅権)。演義では三男とされていますが正史によれば六男です。
幼い頃から才能と学問によって称賛され、とくに奏議(上奏文の一種)を書くのを得意としていました。
散騎、黄門侍郎、燕国の相、楽安太守を歴任しましたが、37歳の若さで亡くなったといいます。
しばしば鍾毓(鍾ヨウの子。鍾会の兄)と議論を戦わせましたが、
多くの場合は夏侯恵の意見が採用されたそうです。

・夏侯和
字は義権。演義では四男とされていますが正史によれば七男です。
弁舌さわやかで才気に満ちた議論をしたと言います。
魏の五代皇帝・曹奐のときに相国(司馬昭)の左司馬となりました。
264年、鍾会が蜀で反乱を起こしたとき、使者として成都にいましたが鍾会に荷担せず、
節義を守ったため、乱が終息した後、その功で郷侯に昇進したそうです。
以後は不明です。

以上が夏侯淵の息子たちです。確かに概して皆優秀ですよね
(長男だけ少々夏侯楙と同じニオイがしますが・・・)。
字の末尾に皆(夏侯衡は推測ですが)「権」の字があることを考えると、
司馬朗・懿らの兄弟が「司馬八達」、馬良・謖らの兄弟が「馬氏の五常」と呼ばれていたように
「夏侯七権」などと称されたのかも知れませんね。
(ちなみに夏侯惇の息子たちは皆、字の頭に「子」の字がついたようです。
例えば夏侯楙の字は子林です。)
549王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/04 01:18
>546=趙統護衛兵様
>夏侯淵の子供達は晋になっても繁栄したって聞いてますが、記録とかないんですかね〜。
では名前の分かる孫、曾孫だけを略記してみます。

<孫>
・夏侯績:夏侯衡の子。衡の死後、後を継いだ。
・夏侯駿:夏侯威の長子。并州刺史となる。
・夏侯荘:夏侯威の次子。淮南太守。後、司馬氏の外戚として羽振りを利かせる。
<曾孫>
・夏侯褒:夏侯績の子。績の死後、後を継いだ。
・夏侯湛:字は孝若。夏侯荘の子。美貌と文才で名を馳せ、潘岳とともに連壁と称された文学者。

晋(西晋滅亡後、東晋)の時代になると夏侯荘の娘が司馬覲(司馬懿の孫で司馬チュウの子)
の妃となり後に東晋の初代皇帝となった司馬睿を産んだ関係上、
嫡流の夏侯衡系の子孫より夏侯威系の子孫の方が繁栄したようですね。
なお夏侯湛には、陳寿が『三国志』を記していたのとほぼ同時期に全く別の『魏書』を書いていたところ
、『三国志』を読む機会があり、そのあまりの素晴らしさに自身の書いた『魏書』を恥じて焼き捨ててし
まったという逸話があります。
夏侯淵の子孫が比較的多く記録されているのは、
この夏侯湛が先祖や族父兄たちの詳細な記録を書き残していたことが大きく影響しているようです。
550王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/04 01:20
お待たせしました、夏侯覇と夏侯威の逸話です。

・夏侯覇と張嶷(出典:蜀書張嶷伝注『益部耆旧伝』)
蜀に亡命した後のことです。ある時夏侯覇は張嶷に手紙を書き、
「足下(あなた)とは疎遠でありましたが、旧知の人に対するのと同じように心を寄せているのです。
どうかこの気持ちをはっきり知ってください」
と言いました。張嶷は返書を書き送って
「私はまだあなたを理解していないし、あなたはまだ私を理解なさっておりません。
(友情の)大きな道は彼方にあるのです。どうして心を寄せるなどとおっしゃるのですか。
願わくは三年たった後、改めてその言葉を言ってください」と言いました。
見識のある人々は張嶷の態度を立派だと評したと言います。

その後、夏侯覇と張嶷の仲がどうなったのかは記録されていません(汗

・朱建平と夏侯威(出典:魏書法技伝、朱建平の項)
朱建平は人相見の名人でした。ある時、夏侯威の人相を見る機会があった朱建平はこう言いました。
「あなたは四十九で州牧の位につかれますが、その時きっとご災難がありましょう。
その災いを切り抜けられればお年は七十まで、位は公輔(天子の後見役)まで昇られることになります。」
後に、夏侯威はエン州刺史(牧と刺史は牧の方が権限が大きいが基本的に同じ役職)となりましたが、
49歳の十二月上旬に病気になります。朱建平の言葉を思い出した夏侯威は助からないのだと思い、
あらかじめ遺言を整え、葬式の準備を済ませます。
ところが下旬になると病気は快方に向かい、ほとんど全快します。
安心した夏侯威は三十日の日が暮れる頃、州の主だった役人を集めて酒宴を開き、
「俺が苦しんだ病気もようやくよくなり、明日の鶏鳴(夜明け)になれば年はもう五十だ。
朱建平の戒めた時期も確かに無事に過ごせたのだ」と言いました。
酒席が果て、夏侯威は寝所に入りました。すると急に病気が再発し、夜半に亡くなりました。

あと数刻で五十になれたのに・・・最後まで気を抜いてはいけなかったのでしょうね・・。
なお朱建平は他にも曹丕、応キョ、荀攸の寿命に関しても予言を残し、そのことごとくを的中させています。

またまた長文&連続投稿失礼しました。申し訳ありません。
551趙統の護衛兵。:02/08/04 23:20
>王陶沖 様
また、すごく丁寧な説明ありがとうございます。

>夏侯覇
正史にはコーエー三国志の彼のステータスに見合うような功績ってあるんですか?
夏侯和は荷担するだけじゃなく鎮圧もしたそうですね。
>字
やっぱ孫策、孫権とか郭淮とかも他の兄弟は長男から順に伯、仲、…なんですかね?
古典の授業で「こういうパターンで字を付ける家はあまり名家じゃない」と聞きましたがどうですか?
552王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/05 02:11
>551=趙統護衛兵様
>夏侯覇の功績
派手な活躍はないようです(あるのかも知れませんが手元に和訳された
夏侯淵伝がないもので、私の語学力では読み取れません)。
しかし、あるときは魏側の、そしてあるときは蜀側の部将として
魏VS蜀の戦いのあちこちにその名が散見していることから考えても
歴戦の武将だったことは間違いないでしょう。
また魏にいた時代から兵卒や異民族の兵たちから厚く慕われていたそうです。

念のために夏侯覇が参戦していたことが文献上確認出来る戦闘だけピックアップしてみますと、

・230年、子午の戦い(曹真の征蜀)で先鋒として興勢まで進軍。
しかし蜀軍に包囲され、一時は自ら鉾を持って戦う状態にまで追い込まれ、撤退(夏侯淵伝注『魏略』)
・247年、羌族の首領たちが連合して魏に反乱を起こし蜀に援軍を要請した際、
為翅に駐屯して郭淮と合流し、攻めて来た姜維を追い返す(魏書郭淮伝)
・248年、羌族の首領残党たちの援護に赴き城を築いた姜維と廖化を攻撃。
郭淮が城を守っていた廖化を、夏侯覇が別働していた姜維を攻撃して追い返す(魏書郭淮伝)
・255年の姜維の北伐に蜀側の副将として参戦。
姜維と共に王経の軍を大破したが最終的には撤退(魏書陳羣伝付陳泰伝)

となります。最低でも二十五年(実際はそれ以上でしょう)は最前線で名を馳せていたことになりますね。

なお夏侯覇は郭淮とは個人的に仲が悪かったそうで・・・。
曹爽が誅殺された時、夏侯玄が征西将軍を解任され、
代わりに郭淮が征西将軍になったことも蜀への亡命の一因となっていたようです。

>夏侯和=鎮圧に参加
う〜ん、そうとも言えないようです。
魏書陳留王紀によると、謀反の意を露わにした鍾会に対し、
鍾会の部下の羊シュウ、それに使者として成都に来ていた朱撫と夏侯和が、
鍾会の脅迫にも屈することなく正論を以って謀反に反対しているうちに
もう一人の鍾会の部下賈輔が自分の部下の王起に
「鍾会は兵士たちをことごとく殺そうとしている」
「相国(司馬昭)はすでに三十万の兵で鍾会討伐に向かっている」
という虚報を流させた結果、激昂した魏の兵士たちが暴れはじめて鍾会と姜維を殺害。
ついでに巻き込まれた張翼や劉セン(劉禅の長男)も殺害されて成都は大混乱、という事態になった訳でして、
鍾会の反乱の鎮圧自体には夏侯和は関わっていないですね。
もっとも、暴徒と化した魏兵たちの鎮圧になら参加していたかも知れませんが。
いずれにせよ関係ないのに巻き込まれた張翼たちには迷惑な話です・・・。

>孫策、孫権とか郭淮とかも他の兄弟は長男から順に伯、仲、…なんですかね?
郭淮は兄弟の有無が分からないので何とも言えませんが、孫堅の息子たちは間違いなくそうですね。
孫策が伯符、孫権が仲謀、孫翊が叔弼、孫匡が季佐となります。
(その下に庶子の孫朗がいますが、彼は字が分かりません)。
見事に伯・仲・叔・季、になってます。

>「こういうパターンで字を付ける家はあまり名家じゃない」と聞きましたがどうですか?
私は寡聞にして存じませんが、時代によってはそういうこともあるのかも知れませんね。
ただ、後漢末期から三国にかけては特にそうとも言えないのではないかと思います。
例えば前述の「司馬八達」ですが
朗が伯達、懿が仲達、孚が叔達、馗が季達、
恂が顕達、進が恵達、通が雅達、敏が幼達、
と見事に「伯・仲・叔・季、最後に幼」という順番になっています
(間の三人は?と聞かれると困りますが(笑))。
ご存知のように司馬家は名士の家柄で暦とした名家と言えます。
この時代では名家であってもそういう字の付け方をする家もあったと言えるのではないでしょうか?
ちなみに「馬氏の五常」も上三人は全く不明ですが、
四男の馬良が季常、五男の馬謖が幼常、と判明している二人に関しては
やはりきちんとセオリー通りの字の付け方になっています。
http://curry.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1002424549/208-210

以前書いたものですが、参考になるやも知れませんので。
ここにも書きましたが、漢の創設者劉邦の字も季です。その前の人物でも、
管仲や伯夷・叔斉なども字で伝わっている例です。国家運営に携わる人物たちで
兄弟の順序を字に用いることはおおいのですが、特記すべきはこの劉邦ですね。
彼は庶民の出ながら皇帝になっています。しかし、名前の「邦」は親分、兄貴分
の意味ですし、字の「季」も兄弟の順番しか意味していません。ですから、前漢の
ころまでは、名家であってもなくてもこのような字をつけたのか、もしくは、
劉邦が皇帝になるかその前の有名人になった時点で名家の字のつけ方をならった、
ということが考えられます。庶民階級では、逆に字の習慣はなかったとも言いますからね。


ごめん。

間違えた。

最近、ミスがおおいなあ。

http://curry.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1002424549/208-214

レスが足りなかった(笑)。
ついでに、ぞろ目ゲット。

ついでに。
ttp://natto.2ch.net/test/read.cgi/off/1027110301/l50

>553-554で貼ったリンク、一番重要なのは214なのに忘れるなんて、どうかしてますね。

556趙統の護衛兵。:02/08/06 01:46
>王陶沖 様
へぇ、郭淮と夏侯覇って仲悪かったんですか。

>夏侯和
548での王さんの説明だと確かに鎮圧するというより諌めるってイメージが合いますね。
張翼もこの時は結構年だったんでしょうね。老いているとはいえ、勿体無い。

…しかし姜維VS郭淮の話が出るといつでも郭淮の凄さを感じさせられますw

>楊雄 様
いえいえ、参考になりましたよ。ありがとうございます。
字といみなが関連づけて付けるのはやはり狙ってやるものなんですかね?
暑いですねえ・・・。
>556
趙統の護衛兵。殿
【あざなといみな】
いみなは既出の通り、声に出すことを避けて、目上の方(君主、親など)のみ呼ぶことが
許されていた、といいます。しかしながら、これこそ親に貰った名前ですから、
通称であるあざなは兄弟の長幼の意味を持つ文字と、いみなとは位置付けの近いもの
を選んだのではないでしょうか。

自分自身でも疑問なのは、あざなは元服の歳(元服という表現ではおかしいかもしれません、
つまりは成人です。)に自分で名乗るものです。それが「司馬八達」だとか「馬氏五常」とか
兄弟でも関連付けているのにはなぜなのか?ここがちょとわかりません。ある程度、親族の意思
が働くのか、それとも、なにか信仰や文献によるものなのか?
気になって、昼も満足に眠れません(笑)。

【夏侯覇】
魏の名門中の名門の御曹司にてこの波乱万丈の人生。すさまじいですね。
ちょと好きになりました。

【545に書いた気になること】
楙の字が手元の辞書に載ってなくって。懋ならあったんですが。こっちの意味は、
=茂、ということなので、「カコウモ」でも「カコウボウ」でもOKなんですが。
どちらかというと、「カコウモ」推奨で。mao4(マオ)ですのでね。
オット、字が違うんでした。

【この流れで、既出のおまけ】
夏侯惇ならXia4 hou4 Dun1(シア・ホウ・ドゥン)ですので、「カコウトン」と
呼んで(読んで)ください。

暑いですね・・・。
558王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/06 22:45
ちょっと今日は時間がないので少しだけ。

>あざなは元服の歳(元服という表現ではおかしいかもしれません、
>つまりは成人です。)に自分で名乗るものです。
確かに自分でつけることが多かったようですが、人によっては親や学問の師などに
命名してもらうこともあったと聞いたことがあります。
周囲の意志もやはり大きく影響したのではないかと。

ところで曹沖や夏侯栄のように成人する前に没したのに字のある人物って
いつ字を付けたんでしょうねぇ・・?やはり死後なのでしょうか・・・。
559趙統の護衛兵。:02/08/07 00:15
>楊雄 様
成る程…親からもらったいみなを持ち上げるために考えて字を付ける訳ですね。
眠れないのは暑いからでしょう(w
>王陶沖 様
夏侯栄の字は例のパターンに当てはまりますが、曹沖の倉舒は…。ある程度自分に付ける字は事前に考えてるとか…?でも他人の影響をよく受ける事もあるって話ですから実際死後に誰かが付けたというので正しいかもしれませんね。
おそらく、当時の成人っていうのが、現代人よりもはるかに若い年齢だったのでは
ないでしょうか。また、年齢の数え方も。生年の記載がほとんどない、ということ
と、古来日本でも伝わっている「数え年」の概念からも。

日本の古典の話ですが、数え年とは生まれた歳が1歳、誕生日ではなく、正月が来るたびに
1歳づつ増えていく、というものです。ですから、実年齢よりも数え年のほうが
常に1歳多くなるわけです。

中学生ぐらいで成人の扱いになります。また、成人→初陣の順番というのもあるでしょうから、

そこで思うに、夏侯栄は成人直後になくなったのでは?
正史の記述に「元服前」とかそういう意味合いがあるようでしたら、さらに疑問が
残ります。では、「栄」といういみなは?幼名で残ったのでは?と。
561王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/08 01:17
気になったので字(あざな)と元服についてちょっと調べてきました。

集めた情報から改めて定義してみると・・・

・名
本名。生まれた時に親がつける。
目上の人間(親、主君、師、年上の親族など)以外が本名を呼ぶのは大変失礼なことに当たるため、
目下の人間がその人物を呼ぶ時は字か官職で呼ぶのが礼儀となる。(成人前は幼名や小字で呼ぶ)。
その人物の死後も名は「諱(いみな)」に変わり、やはり呼ぶのを避けて「諡(おくりな)」で呼ぶ。
(注:よって正確には生きている間には名を「いみな」とは言わないらしいです。)

・字(あざな)
本名を呼ぶのを避けるために付ける別の名。成人した一人前の人間の証でもある。
通常は冠礼(元服)の際に自分でつける(親や師がつけることも稀にあり)。
原則的に名と関係のある言葉を選んでつける。
なお主君を字で呼ぶのは自分と同輩と扱っていることとなり大変無礼なことである。
(注:よって現実的には、夏侯惇が曹操を「孟徳」と呼ぶのはあり得ないことなんですね・・・。残念。)

・冠礼
古代中国における男子の成人の儀式。これを行う以前は皆「童子」である。
『礼記』によれば原則として士大夫は二十歳、天子諸侯は十二歳で冠する。
なお女子の冠礼に当たる物は上笄であり、十歳以上になって婚約した時、
または十五歳になった時に行う。

以上が原則ですが、後漢末期から三国にかけては十三歳までが幼童で、
これ以後は師について個人的に学問をするようになり
この頃に字をつけることも多かったらしいです。
曹沖と夏侯栄の没年齢は共に数えで十三歳・・・。
ギリギリ範囲内でしょうか?

名の付け方とか、「伯、仲、叔、季・・」のような字の決まりというのは
儒教の礼で規定されている原則だそうです。
よって「伯、仲、叔、季・・」と字を付けている家は名家ではないというより
むしろ「伯、仲、叔、季・・」のように字を付けている方が
「形式的に礼儀に則っている」ということになるのでしょう。
しかし「礼は形式ではなく本質を尊ぶ」と、『論語』に書かれているそうで
原則はあくまで原則に過ぎず、それに当てはまらない名・字があっても
別におかしくはないし、それで問題ないと考えられていたようですね。

別件になりますが、あざなに使われる「孟」の字、時代によっては「嫡出ではない長男」を表すのに使われたとか。
さすが中国。一筋縄ではいきませんね(笑
562趙統の護衛兵。:02/08/08 20:46
保全あげ
結局微妙ですね、、>夏侯栄、曹沖
まあ字が残ってるんだから成人してたんでしょう。多分。

曹操は儒教嫌いそうなんで字が形式に従ってないのも分かるような気がします。

すいません、田疇について何か教えてくれませんか?
田疇、字は子泰。劉虞配下。趣味・・・読書、特技・・・剣術。

劉虞の死後隠棲するが、曹操に招かれ烏丸征伐で功績を挙げる。
曹操にその才能を評価されるが、自分は一度は世を捨てた者であるとして、
すべての昇進や恩賞を固辞し、議郎のまま死去。
>561王陶沖 殿
「諱(いみな)」は忌み名とされ、言葉に出し音声にすることにより穢れる
といわれています。また、
呉懿は司馬懿に遠慮して呉壹と表記が変えられているとされていますね。

夏侯栄、曹沖は、成人したとたんに・・・。ということでしょう。

>562-563
田疇
疇は田畑の意味。「平疇千里」=どこまでも続く農地、という言葉があります。
泰は平らか。果てもなく地平線も見えるくらいの平らかな意味で
共通するのかな?とか思っています。

そして彼は名前の通り、平らかな地位に甘んずることを選んだんですね。

565趙統の護衛兵。:02/08/10 10:38
>563、楊雄 様
ありがとうございます。どこかのサイトで田疇は夏侯惇の親友である、っていうのを見たんですがそんな話ありますか?
566張コウ好き:02/08/11 01:57
字といえば三国志キャラの中国読みスレで張コウの合βという名と
儁乂という字は『尚書』「皐陶謨」篇?の文言にちなんだ凝った命名で
名付け親も本人も相応の学があった事が分かるというような説を目にしたんですけど
それって本当ですかね?それが本当なら張コウって結構インテリなのかもしれませんね。
>>566
こちらを参照していただければ、詳しく書かれています。私が書いたもので
ないので恐縮ですが、是非ご覧になってください。

http://curry.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1002424549/220-224
568張コウ好き:02/08/11 15:19
>楊雄様
へけっ、ありがたまきん
569王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/11 19:50
>564=元楊雄様
>呉懿は司馬懿に遠慮して呉壹と表記
確かにそう言われてますし『華陽国志』では確かに呉懿と書かれています。
そうすると彼の名はやはり呉懿だったと考えたいところですが、
その話、本文に記述がないのは当たり前にしても裴注にも全く記述が無いんですよね。
韋昭の名が司馬昭に遠慮して韋曜に書き換えられていることを裴松之が明記していることを考えると、
呉懿の件が事実ならば、何故裴松之がそのことに触れていないのかが気になります。

>565=趙統護衛兵様
>田疇は夏侯惇の親友
一応、正史の田疇伝に「疇素與夏侯惇善」という記述があり、
親交があったことが明記されています(親友、と言うほど親しかったのかどうかは分かりませんが)
曹操は田疇が魏に仕えてくれるように夏侯惇に説得させていますが
563様の仰った通り田疇はそれを断っています。

>568=張コウ好き様
>へけっ、ありがたまきん
うわっ!懐かしい!
でも最近の十代にはもう分からないネタなんでしょうね。
作者の小○よ○のり氏はいやに思想的なものばかり書くようになってしまわれましたし、
なにより三国志と関係ないですし(笑
570王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/11 20:03
追加です。
>562=趙統護衛兵様
>曹操は儒教嫌いそうなんで字が形式に従ってないのも分かる
いや、ちゃんと形式に従ってるじゃないですか。
当人の字はきちんと長男を意味する「孟」の字を使ってますし、
子供たちの字も曹昂が子脩、曹丕が子桓、曹彰が子文、曹植が子建と
ちゃんと形式的に統一を図ってますよ。
曹沖や曹彪らの字に「子」がつかないのは嫡出ではないからでしょうか・・・。
571王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/11 23:20
>570に追加です。

あれ?でも曹仁が子孝、曹洪が子廉、曹純が子和、
ついでに一世代違うけど曹真が子丹、というのを考えると
やはり曹操の字は曹家の中では異質ですかね。
・・・曹休の字も文烈で異質ですが。
>569 王陶沖 殿
「疇素與夏侯惇善」を一文字ずつ確認してみました。
素・・・平素から、かねてより
與(与)…〜と 「我与曹操」で「私と曹操」
善・・・仲がいい・むつまじい。「友善」で仲よしの意、「相善」で親しい、 
    等の熟語が派生しています。
これを元に読むと、
「疇は普段から夏侯惇と仲が良い(良かった)」
となります。これをさらに深読みすると
「疇は普段から(立場の異なる)夏侯惇と仲が良かった(のに…)」
というのはどうでしょう。陳寿も田疇が曹操陣営に籍を置かなかったことを惜しんで
書いたのでは?または、田疇存命の頃から評価が非常に高くて、惜しまれたことを書き
たかったのかな?
なんてところまで想像が膨らみます。どちらにしても、評価の高い人物であったこと
を前提とした私の想像ですが。

現代語の辞書なので、昔は多少意味合いが違っていたかもしれません。念のため。
おまけ
親友という言葉は中国語では「親戚や友人」の意味になり、日本語の「親友」とは
違ってしまいました。

たったの7文字でえらく想像が膨らんでしまいましたね。前後の文脈を全く把握していない
ので、アテにはなりませんが(笑)。ただ、ビッグネームと仲が良かったってことを
むやみに記述するとも思えなかったので。
573趙統の護衛兵。:02/08/12 16:22
>王陶沖 様
兄弟の字の付け方の「伯、仲、叔、季・・」の他にも、そういう順番があるんですかね?
>田疇
でも結局、田疇って曹操に使えて議郎になったんですよね?>572のを見てると使えなかったように見えるんですが、、
まさか演義…?
574王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/12 22:55
>田疇
>でも結局、田疇って曹操に使えて議郎になったんですよね?
>まさか演義…?
あ、いえいえ曹操陣営に身を置いているのは正史でもそうですよ。
ただ和訳の田疇伝が手元に無いんで曹操が田疇を仕えさせようとしたのが
「後漢の朝廷」に対してなのか、魏公となった曹操の建てた「魏公国」なのかが
自信がないんですよ(苦笑
最初はその前後の原文も抜き出してここに書こうかと思ったんですが、
あまりに長くなるのが明白なので断念しました。
元・楊雄様、よろしければこちらに行って読んで来て頂けませんか?

台湾中央研究院 漢籍電子文献
www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3
そこの、二十五史→新校本三国志→魏書→魏書十一
に田疇伝の電子テキスト(勿論原文の中国語です)がありますので。


>兄弟の字の付け方の「伯、仲、叔、季・・」の他にも、そういう順番があるんですかね?
あ、いえいえ単に「子の字であざなの統一を図っている」=画一的、形式的、と言いたかっただけです。
「曹操の息子たちもこんな風に形式ばったあざなを付けているのだから
曹操が形式や儒教嫌いと決めるのは早くないですか?」
と言いたかっただけで。
曹操は確かに儒教を絶対視はしていませんが、別に儒教を弾圧したりもしていません。
あくまで儒教の道徳を模範としつつもそれを重視する余り現実に役に立たないことをする
俗に言う「腐れ儒者」(孔子二十世の裔、孔融はこの典型ですが・・・)が嫌いだっただけではないかと思いますよ。
儒教が嫌いな人間が徐州攻撃の理由に「父の仇討ち」などを称するとは思えないですし。
>573
ご指摘ありがとうございます。浅薄な思慮の元に書き綴っているので、なにか
思い込みや思い違いありましたら、また教えてください。
ここはひとつ、頑張って調べてみようかと思います。

詳細は明日にでも。
576趙統の護衛兵。:02/08/14 13:52
>王陶沖 様
>曹操
あー、私は曹操は儒教の事を完全に弾圧してるのかと重っていましたよ。

>楊雄 様
詳細分かり次第お願いしますね。たのんますm(__)m
577王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/14 22:48
>576=趙統護衛兵様
>あー、私は曹操は儒教の事を完全に弾圧してるのかと重っていましたよ。
後漢の時代は他の時代よりも遥かに強く儒教の礼節が重んじられた時代です。
後漢末期ともなれば乱世ということもあり多少の弛みはありますが(特に江南では)、
それでも士大夫層の基本的な価値観や倫理観は相変わらず全て儒教が基本となります。
従ってその儒教を頭から否定などしようものなら名士・士大夫層のほとんど全てに叛かれることとなり
到底大勢力にはなれません。
曹操の陣営が大きくなった理由の一つに荀イクを筆頭とするエイ川の名士たちの協力がありますが、
彼らが曹操に協力していることそれ自体が曹操が儒教を否定などしていなかった証左でしょう。
儒教的倫理からはみ出した行動を取り続け、名士層から見放された群雄がどうなるか・・・。
それは呂布、袁術、公孫サン、馬超がどうなったかを見れば語るまでもないですよね。
>575の続き



もうしばらく時間下さい。
途中からで申し訳ないのですが。いやー訳しにくかった(笑)。
精密な訳だと日本語が当てはめにくいところもあったので、意訳にさせていただきました。
申し訳ない。「」が例の部分。( )は私が足したところです。

343の【3】
太祖(曹操)はなおも彼を欲しがった。「田疇は普段から夏侯惇と仲が良かったので」太祖は
夏侯惇にこう言った。
「彼のもとへ赴き、君から私の気持ちを伝えてくれ」と。
夏侯惇は早速赴き、まるで太祖のように戒めると、田疇はその目的を推し量り、
発言しなかった。夏侯惇は帰り際に田疇の背中を叩いてこう言った。
「田君、この考えには(太祖の)心がこもっている。これまでにはなかったことだぞ!」
すると田疇はこう答えた。
「そうじゃない。私は、恩義にそむき逃げ回る者であって、(前の君主の)恩を覆い隠して生活をしている、
それで充分に幸せだ。盧龍?の塞を売ってご褒美を貰えというのか?
それで私一人に心に恥じるものがないと思うのかい?将軍は私のことを知っている
だろう。こんなことをを繰り返すなら、もしやむを得ないなら、私の首を斬って・・・」
と言葉が終わらないうちに泣き出した。
夏侯惇は太祖にこれを話した。太祖は大いに嘆き、不満にも思えず、彼を議郎に拝した。
46歳で死に、子供もまた早くになくなり、文帝が即位すると田疇の徳義が高められ、
孫の田続に関内侯の位を賜り、その子孫へと奉じられた。
580王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/16 00:38
>579=元・楊雄様
おお、素晴らしいですね。さすがは元・楊雄様!
旧主劉虞への恩と曹操に受けた恩との間で揺れ動く田疇が伝わってきます。
本当にお疲れ様です。

ちなみにちょっとだけツッコませてもらいますと、
元・楊雄様が「343の【3】」としている原文の[三]という記号は
その前の文章である「〜(前略)司隷校尉鍾?亦以為可聴.」に、
その後344ページに載せられている[三]「魏書載世子議曰〜(後略)」
という裴松之の注が付けられている、
という意味の数字で、元・楊雄様の訳して下さった
「太祖猶欲侯之〜」で始まる文章の見出しではないですのでご注意を。
変な日本語だな・・・。ま、いいか。

字のこと
曹操の名前に用いられている「孟」は兄弟の順序なんですが、これが儒教と密接な
関係がある、というきがしません。というのも、名家の一員であることが重要なのは、
儒教社会だからではなく、封建国家の中にいることです。また、封建制度が終了した
現代社会でも、「名家の出身」のご威光は輝きを失っていません。それは先の
細川・元総理や田中・元外務大臣も例に漏れないでしょう。

ふと思ったこと
曹植、字は子建。
名前が「植える」で、字は「建てる」です。
木を植え〜柱となって大きな建物を建てる
って、気のきいた名前だと思いません?
>580 王陶沖殿
そうでしたか・・・。
道理で変なところで切れているかと思ったら。
>581
宦官の孫、という、隠したいコンプレックスの中、「孟」の字を逆に使った、
ってところに儒教社会(既成概念)に叛骨精神が反応した、というのもうがった
考え方ですね。
584趙統の護衛兵。:02/08/16 03:11
>元・楊雄 殿
乙&提示サンクスです。
しかし、こういう美談を見れば見るほど真実かどうか怪しく思えてきます…。

めっちゃ似たような意味の組み合わせをみつけますた。
虞翻・仲翔
翻-はためく。ひるがえす。
翔-羽を大きく広げて飛ぶ。

>王陶沖 様
>577
成る程。私は孔融が儒教の中心人物みたいな立場に居る人間と思い込んでて、それを処刑した曹操は当然儒教を疎ましく思ってたのかと、勝手に思い込んでたようです。
ちなみに、馬超は儒教的にどこがいけなかったのですかね?
>584 趙統の護衛兵。殿
>しかし、こういう美談を見れば見るほど真実かどうか怪しく思えてきます…。
はははっ。確かにその通り、出来すぎたお話ですね。ただ、これだけの美談が
遺されるほどの人物なんだなって考えてればいいんじゃないでしょうか。

私の訳した文章も、台湾のものですし、句読点が施されていましたし、横書きです。
「真実」とか「ホンモノ」とは言い切れません。しかし、信憑性は抜群に高いのですが、
「句読点をつけた人の考え方」に従っているわけです。もしかしたら、句読点の位置がずれれば
文字の分け方が変わってきて、意味が変わることもありえます。
ま、意味が通ったのでよしとしておいてください。で、言いたいのは、書いた人の
本当の意図が読み取れているかどうかなんです。多少の歪曲があったとしても、
この文章の筆者はこの田疇の美談を伝えたい!という気持ちがあったのでしょう。

字のこと
虞翻・仲翔
いいですねぇ〜〜。部首も揃ってます。そして忘れてならないことは、彼が
次男だということがわかりますね。
586王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/17 13:00
>584=趙統護衛兵様
>孔融
確かに「孔子二十世」という点においては彼は儒教において特別な存在ですけれど、
儒学者として学派を形成するような大儒ではなかったようですから、
儒学においては盧植や司馬徽、宋忠といった大儒たちの方が大物でしょうね。

>馬超
演義では父の仇討ちのために挙兵する馬超ですが、正史によれば逆で、
彼が挙兵したために当時ギョウに住んでいた馬騰初め一族二百余人が皆殺しとなっています。
馬騰らのギョウへの移住は実質は曹操に対する人質ですから
それに構わず挙兵した馬超は「父を見捨てた男」として士大夫層からの評判を大いに下げました。

また曹操に負けた後、勢いを盛り返して涼州を席捲した(212年)頃、
彼は涼州刺史の韋康のこもる冀城を落としますがこの際、
冀城から援軍を要請する使者として脱出しようとした閻温に罵られたことに腹を立てて閻温を殺害したり、
「和議を結ぶ」という約束で開城させたのに約束を破って韋康と太守(名前不明)を殺害させたりしています。
これでは名士層の支持は到底得られません。案の定一度は配下に収めた楊阜たちの反乱にあって、
漢中の張魯の下に逃げ出す羽目になりました。

馬超はこのような行動をかなり行っていたようで、当時から「信義を軽く見る男」という悪評があったようです。
馬騰の後を継いだ頃、互いの父の代にはかなり親交の深かった劉璋と同盟しようとしますが、
劉璋は部下の王商の「馬超は信義を意に介さないので同盟者として不適当」という諌めを容れて同盟を拒絶しています。
587王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/17 13:01
ただ馬超の名誉のために弁護しておくと彼は羌族などの異民族と接する涼州の辺境で育った人です。
そういった辺境では、中原と異なり儒教の倫理感は薄いですし、
また塞外の遊牧民らの「強い者が勝つ。騙される方が悪い」という実力主義の風潮も多分に影響していたと思われます。
馬超はそういった環境で育ったのですから当人としては「酷いことをしている」という感覚はあまりなかったのではないでしょうか。
彼としては生き残るためにごく当然のことをしているに過ぎなかったのでしょう。ただそれが中原の感覚で見ると「信義に薄い」人物と映ってしまっただけで。
これは并州の辺境で育った呂布についても同様だと思います。

しかしこうして考えると同じようにかなりあくどい裏切りや背信を繰り返したのに
人望を失わず皇帝にまで上り詰めた劉備はすごいというかずるいというか・・・(苦笑

>585=元・楊雄様
>この文章の筆者
はい、皆様ご存知の陳寿さんです(笑
>虞翻
おっと、上で挙げ忘れましたけどこの人も大学者ですよね。
さらに儒学のみならず「老子」にまで手を伸ばしていたとか。
弟子は数百人に上ったそうです。
>587 王陶沖殿
陳寿さんが書かれたのですが、句読点やかぎかっこは後の世の研究者の皆さんが
くっつけたものです。また、繁体字(やたら画数の多いやつです)は現在台湾で
用いられています。案外、現代語の辞書でも訳がすすんだのもチョト気持ち悪かったです。
(古代漢語詞典はほとんど使いませんでした)

言い訳がましいのは、訳に自信がない証拠(笑)。

さて。大学者といえば。
許靖も弟子がいっぱい居ませんでしたっけ?
>王陶沖殿
>劉備
確か演義だったと思いますが劉表に対して劉備のこれまでの裏切りを弁護して納得させたのがタイトルにもなっている孫乾の力になってますね
史実でも似たような事あったかも、あれだけ裏切ってるのだからw
彼のような優秀な部下がいたからこそ信義を失わなかったのかもしれませんね
んー、でも劉備自身にそれだけの魅力があったからこそ(ゲーム的ですいません)彼等がついてきたとも考えられますが

実際のところ「これだけ素晴らしい男が従っているという事は劉備という男は〜」って思うかもしれないですね
590王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/18 12:55
>588=元・楊雄様
>陳寿さんが書かれたのですが、句読点やかぎかっこは後の世の研究者の皆さんが
>くっつけたものです
はい、存じております。
いえ、>585で元・楊雄様が
>言いたいのは、書いた人の本当の意図が読み取れているかどうかなんです。
と仰っていたので「意図を持って書いた人=陳寿ですね?」という確認の意味で書いたまでです(笑

>許靖
彼は学者、というにはちょっと違うようです。
従弟の許劭(許子将)と共に人物鑑定の第一人者としてその名声が非常に高かったことは確かですが。
許靖伝をさらっと読んだところでは彼に弟子がいるような記述は見受けられませんでした。
ただ人物鑑定を流行させた立役者であることを考えると全ての人物鑑定家は皆、許靖と許劭の弟子、と言えなくも無いですが。
(もっともこの人物鑑定も後代になると曹丕や陸遜には否定的に言われてしまってますが・・・)

>589様
確かに部下の能力も大きいと思います。特に外交担当だった麋竺・孫乾はかなり苦労しただろうと(笑)。
なんせ劉備の裏切りは数限りないですから。
もっとも劉備自身も人望を失うことがどれだけ恐ろしいか心得ていたようで、
正史を見ると実際にやっていることはともかくとして言動や大義名分には細心の注意を払っていたことが伺えます。
考えれば彼は大儒・盧植の弟子の一人であり儒家の倫理観がどのようなものであるかは人一倍知っている立場なんですよね
(たとえ、あまり真面目に勉強していなくても。(笑))
また兄弟子公孫サンの失敗を反面教師にしたというのもあるのかも知れません。
いずれにせよ部下のみならず劉備自身も呂布のようにただ単に裏切るのではなく、
裏切ったことに明確に理由をつけて人心を失わない術にかなり長けていたと見て良いのだと思います。
591王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/18 13:02
ちなみに私は劉備が無学だとは思っていません。
字の玄徳は一説には『老子』の一説から採られているとか。
任侠的な出自でありながら大学者の弟子の知識人でもある本当に不思議な人です(笑
592王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/18 13:08
>591訂正です。

>『老子』の一説
『老子』の一節ですね。
失礼しました。
593趙統の護衛兵。:02/08/18 14:28
>もっとも劉備自身も人望を失うことがどれだけ恐ろしいか心得ていたようで、
>正史を見ると実際にやっていることはともかくとして言動や大義名分には細心の注意を払っていたことが伺えます。
督郵殴って官を放り出したのも名声を得るためかもしれませんね。
594王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/18 20:33
>593=趙統護衛兵様
>督郵殴って官を放り出したのも名声を得るためかもしれませんね。
いやあ、督郵が賄賂を要求したというのは演義の創作で、
正史の記述によれば督郵が会ってくれなかった、というだけでキレて暴行ですから・・・。
悪名にはなっても名声にはならないんじゃないかなぁ・・・と。
まあ横暴な官憲に一発くらわしたという点で民の喝采は得られたかも知れませんが。
595王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/18 20:36
まあ、その督郵暴行事件は劉備が官職に就いた本当に初期の頃の話ですから
地の乱暴さが出た例外かなと思うのです(苦笑。
許靖
あ、と・・・。失礼。誰だか思い出せない、弟子が大勢の話が。ここの過去ログ読めば
思い出せるかもしれませんので、チト読んできますね。

劉備
「玄」
老子の一節に「玄之又玄」とあるようです。辞書丸写しで
【1】非常に奥深く捉えがたいことの形容
【2】観念論・形而上学・スコラ哲学を指していう
とあります。(なんのこっちゃ???)
他に、「玄妙」(奥深く捉えがたい、深慮微妙である)とかあります。この「玄妙」、
三国時代魏の曹植の「輔臣論」では「道家・道学」という意味で用いられている、
とあるようです。
「玄」の文字、ちょっと奥深いようです。

督郵暴行事件
これを機に改心したんでしょうね。
(逆に、孫乾たち傍臣たちが暴走を食い止めるよう尽力するようになったのかも)
597王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/19 01:15
>玄徳in『老子』
「玄」の字の奥深さ。非常に興味深いですが、
『老子』の文中にはもっと直接的に「玄徳」が出てくるらしいです。
ある三国志サイトからの丸写しで申し訳ないのですが
『老子』の51章に
「生じて而も有せず、為して而も恃まず、長じて而も宰さず、是を玄徳と謂う。」
という文言があるのだとか。
この「玄徳」、「神秘な最上の徳」のことなのだそうで・・・
劉備ってもしかして物凄い自信家でしょうか?(笑

>督郵暴行事件
まあこの当時は回りに関羽・張飛・簡雍くらいしかいなかったはずですから、
誰も止める人がいなかったんでしょうね。
そういう意味で麋竺や孫乾の役割はやはり大きかったのだと思います(笑
598趙統の護衛兵。:02/08/20 01:19
>王陶沖 様
あ、そうなんですか。劉備はやはり正史を見ると演義の面影はかなり薄いですね、、
>>579
一応原文に目を通した事はあるけど、普段はちくまの正史しか読まない漏れにとって、
元・揚雄さんの訳は、訳者によってこんなに解釈が変わるものなんだと再認識させてくれた。
非常に勉強になりました。ありがとうございやした。
>599殿
いや、どういたしまして・・・。訳に自信がないのに褒められてしまいました。
おもはゆいですね。
そ〜っとおまけ
揚ではなく楊です。細かいこと言って申し訳ない。

>598趙統の護衛兵。
演義の劉備は物語の勧善懲悪の主人公として祭り上げられていますからね。
601王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/22 00:28
>劉備
>劉備はやはり正史を見ると演義の面影はかなり薄いですね、、
あはは。確かに。
もっとも成立した順番を考えれば正確には「演義の劉備に正史の面影がない」んですけどね(笑

演義の聖人君子劉備も人柄だけ見ると好人物ですが、
演義も細部はともかく大きな歴史の流れは再現している以上どうしても
演義劉備は「聖人君子なのに結果的に裏切る」というどうにも不自然なお人になってしまい、
穿った日本人三国志ファンからは「偽善者」呼ばわりされてしまうのに対して、
最初から野望に満ち溢れた正史劉備の行動は、過激ですが自然で
正に曹操が「天下の英雄は君と余だ」と言ったに相応しい傑物として記録されています。
このスレにお邪魔させて頂く様になった頃にもちょっと言いましたが
個人的には正史劉備の方が魅力的に思えますね。

「中国読み」スレで私の駄文が引用されているのを見て
非常に恥ずかしく思っている王でした(苦笑。
>>600
うげ!名前書き間違えてやしたか。どうもすみません。
あの〜、趙雲って正史では生年不祥だったと思うんですが、
何で演義では劉備よりも年上に設定されているんでしょう?
何か根拠となる史料でもあったんでしょうか。
三兄弟より年上なのはイメージと違う。。。
趙雲のイメージが何処からってのが問題になるのかも
成都武侯祠の像ではじーさんらしいですから現地の人からすれば違和感無いのかもしれません

そういえば趙雲別伝ってのがありましたがあれは注釈で参照されているだけで本文は残っていないのでしょうか?
605王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/22 20:40
>603様
はい。仰る通り正史には趙雲の生年の記述はありません。
確かに演義では第一次北伐の際に「七十過ぎ」という記述があるそうで
それを信じれば劉備より年上になってしまいますね。

まあ演義の年齢設定は劉備の年齢がシーンによってまちまちだったりして
かなりいい加減らしいですから、特に趙雲が劉備より年上というのも考えて書かれたこととは思えません。
演義で急に趙雲が老将扱いされるのは北伐からですし。南征まではそんなこと一言も書かれていないのに(汗
単に羅貫中が、趙雲の死が近いことから、老将として70過ぎと深く考えずに書いたら、
劉備より年上になってしまった、くらいが真相ではないでしょうか。

特に根拠となる史料はないと思いますよ。
ただでさえ伝が残っている割には記述の少ない人ですから、趙雲は。
606王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/22 20:44
>604様
>趙雲別伝
はい。現存していません。
その話題で私と桃紫様がこのスレの上の方で論戦してます。

今見直すとかなり感情的になってますねぇ・・・私。
607無名武将@お腹せっぷく:02/08/22 22:21
簡雍「漏れも義兄弟に(;´Д`)ハァハァハァ」
>604
正史、演義、漫画、ゲーム等いろいろな趙雲像がありますが、
一番印象に残ってるのは演義初登場時の颯爽とした若武者の趙雲ですかね。
そういえば武侯祠の像は白眉に白髪のじいさまでしたね。。。

>605
やっぱりそんなところですか。実はそんな気がしてたんです。
アフォな質問してすいません。アフォな質問ついでにもう一つ伺いたいのですが、
例の趙雲別伝に「先主は趙雲と同じ床で眠り」(原文:先主與雲同床眠臥)
とありますが、これはただ単に一緒に寝たと言う意味なのか、
寝所を警護したという意味があるのか、
ともに善後策を講じたという意味があるのか、
それとも、掘りつ掘られつの関係という意味なのか、
一体どういう意味にとったらいいんでしょう。
同じく趙雲別伝に、趙雲と劉備の深い絆を感じさせるエピソードがあるので
ちょっと怪しいかなとも思ったり。。。いや801じゃないですよ。すいません。

609名無しさん@ピンキー :02/08/22 22:29
http://page.freett.com/bstuji020821_1/(BS2番宣)紺野あさみ_BS2.mpeg
610王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/22 23:47
>>608
むぅ。難しいですねぇ(笑。

寝てる時、というのは一番無防備ですから、劉備のような抜け目の無い人物は、
本当に信頼している人を除けば就寝時に側に人がいることを許したりはしません。
それを許したということは、それだけ信頼されていたということだと表したい記述なのではないでしょうか。

ちなみに関羽伝のこちらは本文には「先主は二人(関羽と張飛)と同じ寝台に休み」という記述があります。
夏侯惇伝にも曹操が夏侯惇には寝室の出入を許したという記述がありますし、
それだけ彼らが劉備、曹操から信頼を受けていたということの表れなのではないでしょうか。



・・・掘りつ掘られつの関係も可能性は否定出来ませんが・・・
正直あまり考えたくないところですね・・・・(苦笑
>608殿、少々長くなります。
「先主與雲同床眠臥」について。
さて。では少しずつ。

「與」〜と〜。与の旧字体。ここでは「先主と雲」
「同」1、同じ 2、付随する 3、一緒に 4、統一する 
   5、集う 6、参与・関与する 
「床」これは寝床。ねっ転がるための椅子も含まれていますが。
「眠」これも眠るでOK。
「臥」寝る。伏せる。

私の意訳はこんな感じ
「先主と趙雲は同じ寝室で眠っていた」
・・・よって。

◎これはただ単に一緒に寝たと言う意味なのか
×寝所を警護したという意味があるのか
△ともに善後策を講じたという意味があるのか
?掘りつ掘られつの関係という意味なのか

こんな感じでしょう。寝室に出入りを許されるということは、善後策ならずとも
何か話相手にしたいが為でしょう。しかも、そんじょそこいらの奴にそれを許す
とも思えません。政治的ヒソヒソ話も多分にあったと思われます。
しかし、警護という意味合いは含まれてません。
>610
ああ、もっと素直に読めば良かったんですね。
いやはや、、、変な事伺ってすいませんでした。

>611
掘りつ(以下略)は冗談として、
善後策云々は「〜床で眠り、」の後に
「密かに趙雲を派遣して兵を募集させ〜」
とあるので、今後の方策を寝室で語り合っていたのかなと夢想しました。
警護云々の方は、趙雲が劉備の主騎というボディガード?のような
役目に就いてたみたいなので、警護の意味もあったのかなと。
でも素直に字を訳してみれば、当然そんな意味は含まれてない訳ですね。(笑)
元・楊雄さん、丁寧に訳してくれてありがとうございました。
613趙統の護衛兵。:02/08/25 17:05
ホウ徳の出身地の南安郡ってどの辺でしょうか?儒学の影響の薄い西涼の馬騰軍団の中にある関わらず、なかなか誠実そうな人間なのでちょっと気になりました。
余談ですが>587の王陶沖 様の発言で董卓、呂布のイメージが変わりましたよ。
614趙統の護衛兵。:02/08/25 17:11
ホウ徳の出身地の南安郡ってどの辺でしょうか?儒学の影響の薄い西涼の馬騰軍団の中にある関わらず、なかなか誠実そうな人間なのでちょっと気になりました。
余談ですが>587の王陶沖 様の発言で董卓、呂布のイメージが変わりましたよ。
涼州と雍州の州境の近くにあるみたいだYO!
董卓は確信犯ではないか、と思うが
617趙統の護衛兵。:02/08/26 04:04
>>615
ありがとうございます。何というか微妙というか、、とりあえず儒教の影響は薄そう…。
>>616
そういえば董卓って若い頃は褒美を部下に分け与えたり、異民族がきた時は動物を屠って招いたりしてましたね、、
もう何がなんだかわかんねぇや…
董卓とえばヘンショウの反乱が真っ先に出てきますがあのときの彼は本当にていたらくだったんでしょうか?
それなりの実績があったからこそ反乱討伐を任されたのだと思いますが・・・
って、蜀とは関係ない人物ですね(^^;;

では後出師の表に出てくる蜀将達について語りますか?
・・・・・やめといた方がいいかもしんないですねw
>>617
書き忘れてゴメンNE!
南安郡は雍州の都市だったYO!
馬玉さん…(;´д⊂)
621王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/26 23:04
>董卓
まあ、彼の場合はやってることがやってることだけに、
「酷いことしてると自覚がなかった」とは私も思えませんね・・・(笑
若い頃はきっぷがよかったのも確かなようですが・・・
後年は見る影もないですね(苦笑

>辺章・韓遂の乱
あの場合、董卓には彼自身の目論見があって、「討伐に失敗した」というよりむしろ
「討伐する気がなかった」ように思えますが。
少なくとも、呉書の孫破慮討逆伝(孫堅と孫策の伝)に裴松之が注で引いた
『山陽公載記』で部下の劉ガイに向かって当時のことを語る董卓は、
優れた戦術眼の持ち主であることを感じさせてくれます。

>後出師の表に出てくる蜀将
・・・語るったって、趙雲と閻芝を除けば、そこにしか名前が出てこない人たちじゃないですか(汗
何をどう語れば良いんですか(笑
622孫乾の従者:02/08/27 20:24
 みなさま、お元気ですか?自分は随分ネット可能な時間が減りました。
で、突然ですがちょっとだけ質問カキコです。

 って、蜀ではなく呉の話なんですが、あの『遼来来』事件の際、
パニックに陥った孫権を「谷キ(ゲイキ)」という人が機転を利かせて
自分の馬を譲り、自分の指示どおりに孫権を乗馬させると思い切り
馬を叩いて、無事に河を渡らせて助けた。って話があったそうですが、
その後その谷キと言う人はどうなったのでしょうか?
 わが弟は「自分の馬譲って、もう敵が迫ってるんなら助からねぇよ!」
と谷キの行動に大変驚いていましたが…ここにしか出てこない人物
なのでしょうか?

 毎度うろ覚えで申し訳ありません。正史もまだ読む時間が
取れませんが、近いうちに必ずここのログを取って勉強して、
また皆さんとお話できるようにしたいと思います。それでは皆様
お元気で!再見!
623近所の白寿ファン:02/08/27 21:05
>>孫乾の従者殿
谷利(こくり)という人とは違う人なのでしょうか?
624王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/27 22:52
>622=孫乾の従者様
お久しぶりです。お元気でしょうか。
本格的に復帰される日を楽しみにしていますよ。

>谷キ
623=白寿ファン(渋いですねぇ)様の仰る通り、それは谷利であると思われます。
簡単に分かっていることを書いて見ます。

・谷利(生没年不明)
『三国志』呉書、呉主伝(孫権の伝)の注に引く『江表伝』に記載された人物です。
孫権の側近の使い走りでしたが、謹直な性格を評価され親近監に任ぜられました。

215年、孫権は合肥を攻めますが、陥とすことが出来ず、已む無く撤退することになりました。
孫権は撤退の際、兵士たちに先に長江を渡河させましたが、
孫権の他に凌統・甘寧といった数人の部将しか残っていない最悪のタイミングで張遼の奇襲を受けてしまいます。
孫権は凌統らが必死に防戦している間に駿馬に乗って逃げおおせるのですが、
途中、通りかかった橋は兵士たちの撤退の際にすでに南端が撤去され、渡るに渡れない状況でした。
そこで孫権の後ろに従っていた谷利は孫権に鞍をしっかり持って手綱を緩めるように指示し、
その上で馬に鞭を振るって勢いをつけ、無事に飛び越えさせます。
これによって命を長らえた孫権は谷利を都亭侯に取り立てました。
(自分の馬を〜というのは江表伝には見当たらないようですね。江表伝では無事に生き残っております。)

長いので一旦切ります。
625王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/27 22:52
続きです。
演義で出てくるのは上記の合肥の戦いのみですが、
正史の注にはもう一度出てきます。
226年、孫権は武昌において大船を建造させて「長安」と名付け、長江で進水式を行います。
その進水式の日は非常に風が強い日でした。孫権は「長安」を先へ先へと進めようとしますが、
谷利が水夫たちに剣を突きつけ無理に引き返させます。
帰還した後、孫権は谷利をからかってこう言います。
「阿利(利ちゃん)よ、水を畏がってひどく臆病だったじゃないか。」
谷利はそれに対して跪き、こう言ったと伝わります。
「大王(孫権)様は万乗の主であらせられながら、
何が起こるか分からぬ深い淵に軽々しく乗り出され、あそびごとにして激浪を冒されました。
船の楼は高く作られており、もし転覆するようなことがありましたならば、
社稷をなんとされるのでございますか。
それゆえ私は、あえて死をかけてお引き止めしたのでございます。」
このことがあってから孫権は谷利を特に大切にし、以後は彼のことを名で呼ばず、
いつも「谷(こく)」と呼んだと言います。

孫権は、忠義で一本気で決していい加減なことを言わない彼を愛し、信頼していたといいます。
孫権が最も信頼を置いた護衛官であり、丁度曹操における許チョ、劉備における趙雲に当たる存在だと言えるのかも知れません。
(趙雲を護衛官だと言うとイメージが違う方もいらっしゃるでしょうけれど・・・・)


いつもながら長〜い駄文ですいません・・。
626趙統の護衛兵。:02/08/28 00:28
私、8月末をもって落ちる事になりました。新しいPCを買うまでです。
またネットできる環境ができたら必ず来ますんで。あしからず。

627孫乾の従者:02/08/29 22:32
 さっそくのお返事ありがとうございます。

 >近所の白寿ファンさま
   はい、おそらく 谷利(こくり)のことだと思います。
  その本ではたまたま(げいき)だったので「変わった読み方…。」
  と思っていて話も濃かったので覚えていたのです。

 >王陶沖さま
   詳しい解説、いつも本当にありがとうございます。
  毎度「教えてさん」な自分をちょっと叱ってみたり。
 「自分の馬〜」の件は無く、またその後も活躍した、いぶし銀的
 存在だったのですね、一人発掘(笑)できてよかったです。

 >趙統の護衛兵。さま
   新しいPCですか、羨ましい限りです。
  私もなるべく早く復帰いたしますので、どうぞお元気で!

 それでは皆様ごきげんよう、再見!
628王陶沖 ◆W4jwKdPc :02/08/30 00:35
おや!
孫乾の従者様の本格復帰がまだだというのに、
趙統の護衛兵様まで一時的にとはいえ、
おいでにならなくなってしまうのですか。
寂しいですねぇ・・・。
お二人ともお早い復帰をお待ちしています。

さて、これからどうしましょうか?>元・楊雄様&皆様
あらららら・・・

ちょっと見ない間に・・・。寂しくなってしまいましたね。
では、2人が居ない間に、誰の話をしましょうか・・。

王累。

無理か・・・。

なんか考えときます。
630趙統の護衛兵。:02/08/31 01:10
少々時がかかるかと…。来れるようになったら絶対着ますんで。
中国読みになんか書いておきました。
ここも保守が必要になってきたみたいですね。
週末保守
634無名武将@お腹せっぷく:02/09/09 11:12
保守age
http://curry.2ch.net/warhis/kako/978/978187780.html

置き土産です。ご随意に。
636無名武将@お腹せっぷく:02/09/11 01:13
地味キャラケテーイ
637廖化の副将:02/09/11 17:03
凄く御久しぶりですね

>524=王陶沖殿
本当にすいません。殆ど貴方の言うとおりです。
実を言うと私は貴方の見識を羨ましく思っているのですよ
とはいえ、反論しなくては単なる金魚の糞扱いされるので、二つばかり・・・
>>警察の新米の巡査と公務員試験をパスした新米の警部補ぐらいに
>正直、それも同期というにはかなり無理があるような気もしますが・・・。
これは『踊る大捜査線』で、いかりや長助氏演じる役と警視監の関係で
浮かんだだけですのでどうかご容赦を

>陳寿について
これは単に陳寿は嘘ついてないだろーけど、事実は別にありそうだ、
と思っただけです。陳寿だって生まれた時の事はわからんでしょう

・・・どーも書きつづけると生き恥をさらすだけの様なので今後は見物に廻ります
いやはや、どーもご迷惑をおかけしました
>>637 廖化の副将 殿

お久しぶりです。

>これは『踊る大捜査線』で、いかりや長助氏演じる役と警視監の関係で
>浮かんだだけですのでどうかご容赦を

卑近な例を取り上げて比較し、検討する方法としては面白いと思います。

というよりも、人がいないんです、最近。
639孫乾の従者:02/09/12 21:15
 ぜえぜえ…すいませんねえ…自分もこれといったネタが
無くて…しかしこのままなし崩し的に終わってしまうには
あまりに勿体なさすぎますよね。

 桃紫さんあたりも最近きていないから、そっちを期待したいのですが…
なかなか面白いスレですな。
それにしても魏延だのヨウギだのを束ねていた
先主はすばらしい管理能力を持っていたのでしょうな。
641孫乾の従者:02/09/19 21:14
 保守ッ!
>>641
じゃ、俺も!保守っ!

 良スレ保守age。スレ消失緊急回避のためお許しください。
644無名武将@お腹せっぷく:02/09/19 23:21
しまった。上がらなかった。もっかいすいません。
最終書き込みで決まるんであって、別に順位はどうでもいい気がしますが…
>>640
魏延だのヨウギは諸葛亮も一応束ねてます
それでヒイヒイ言ってたのは事実だと思いますが

先主はそれに加えて関羽、馬超、諸葛亮、法正とかいうキワモノを余裕で束ねる化け物かもw
647廖化の副将 :02/09/20 16:18
どもども、持論展開はお休みして勉強させてもらいます

>646
曹操と劉備は統率の面では互角に近いと思うのですが・・・
他の方々はどうです?
648:02/09/20 23:25
正史では曹操自身が、劉備の能力は自分と同等だと評していますね
「君と余だ」とは違って劉備と敵対している時期の発言なので、単なるおべっかではないでしょう


いやあ、久しぶり。
>608
武侯祠に像として残っている人物は以前にも書きましたが、蜀成立のころには
趙雲はいいおっさんでしたからね。彼の最後はおじいさん。ただし、ゲームの
強い影響により、「若武者」キャラクターが立ちっぱなしですね。

>646 さらに、李厳やら張飛だの、もうクセのある人でてんこもりですね。
>647 統率力は共に抜群でしょう。誰かさんのいまわの言葉ではないですが、
なぜこの2人が同じ時代に生まれてしまったのでしょう。ただ、私見ですが、
曹操は早くに高い地位についていたころ、劉備は流浪の身分でした。曹操の
もつカリスマの成分として地位があったとしたら、劉備のほうが面白みの
ある人だったかもしれませんね。(アンチも多そうです)


651廖化の副将:02/09/25 15:53
>650
面白みを追い求めるならそうですね
ちなみに私は、曹操にしろ劉備にしろ主君に仰ぎたい人物ですね
ただ、孫権はごめんこうむりたいですな
652無名武将@お腹せっぷく:02/09/27 03:56
ここでも孫権は地味な存在。

劉備が徳の人というのは横山三国志とか演技みたいな感じではなくて、
647、650のいうような感じだったんだろう。
自分は特に秀でていないが海千山千の曲者たちを自然に統率する能力。
それをあえていえば徳とかカリスマとかになるんだろうが、
上記の漫画みたいな単なるいい人とはぜんぜん違うんだよな。
 妄想でスマソ 漏れは劉備は実は結構強くて(腕っぷしも戦術も)、
自らも何人か斬ってるし、兵を直卒しても戦果を挙げてたんじゃ
ないかと思フ
 そういうのを、それこそ孫乾あたりが「皇族を名乗るなら自分
の手は汚さないで下さい」なんて事を言って、あまり吹聴させない
ようにしたとか…或いは蜀帝になった時に一斉消去したとか(w

 スレ違い失礼しました。(ここカキコ初めてです)
 良スレですね〜
654無名武将@お腹せっぷく:02/09/28 18:42
良スレであり続けることを願いつつあげ。
>652
 そうなるとますますもって前漢をおったてたご先祖様(自称ですが)に似てきますな。
あくまでイメージなんですが。わかりやすい例を。

SMAPリーダー、中居君。
@芸能界の中心にいて、アイドルでありながら時々他の芸能人に「目が怖い」と言われる。
@負けん気だけが強く、歌もダメ、踊りもクサナギらに遅れをとっていながらもリーダー。
@好きな女性のタイプはヤンキーを公言、愛車はDQN仕様のシャコタン親父セダン。
・・・とまあ、これだけ見てると、ただの30すぎのチンピラです。しかし、彼は
アイドルとして芸能界の頂点に近い所にいます。目に見えない「カリスマ」は、
こんな風に眼に見えない(画面には映らない)悪いところをも飲み込んでしまいます。
こんなチンピラまがいの170aない男のいいところ悪いところすべてをひっくるめて、
「アイドル」=象徴と呼ぶわけです。

そう考えると、三国志の頃はTVも何もなく、それこそ風聞のみで伝言ゲームのように
ひととなりが伝播したのでしょう。曹操も劉備も傑出した人物(兼、DQN)だった
ことは間違いないでしょうね。

ちなみに。
もし仮に、中居君本人と面識があれば自慢するでしょ?
「ああ、スマップの中居くんね。高校のころは、あいつ悪くってさぁ」なんて
人に話すでしょう。これが風聞のスタートです。
中居くんと面識があって、殴られたりとかいやな思い出がある場合には、アンチに
なっていくわけです。
くだらないことを書いてしまった、と気が滅入っている最中です・・・。
sageホシュ
保全
じゃ、おれも。
「(前略)治中文恭の仕事はでたらめだし、
 長史向朗などはむかし馬良兄弟を聖人だと思い込んで尊敬さえしていた。
 郭攸之は人の後ろを付いて行くことしかできないのに侍中の大任に就いている。
 まさに今は末世なのだ。王連のような俗物が偉ぶってるから
 民衆は疲弊してこんな事態になったのだ」

保守
馬氏の五常って事は伯や仲の付かない馬良は長男でも次男でもないという事か!?
季常だしなあ・・・・
その弟は一個下の弟という事であとは兄達(既に他界?)
>>663
馬良は4男ですね。
伯仲叔季幼の順ですが、季常と幼常以外は、フルネームさえも判っていません。
(季常と幼常以外、伯仲叔も推測です)
「馬氏五常、白眉もっとも良し」という言葉から上に兄3人がいる、ということだけが
判っているに過ぎないんです。
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1002424549/208-210
こちら参考になると思いますので貼っておきますね。
ようやく読み終わった>ALL

王陶沖殿。
貴方は本当にすごい。
あなたのレスをかなりたくさんコピーさせていただきました。
ものすごく勉強になりましたし、自分が知らない三国志の魅力を教えていただいたような気がします。
正史、自分も買ってみようかな。
手ごろな本があったら教えてください。
って、どこかに書いてあったような気も……
667保守:02/10/19 03:58
ゲームボーイアドバンスで十年以上ぶりに三国志プレイしています。
馬騰でただいま統一目前。
そんな時にこのスレを見つけ、とても楽しい反面、プレイ前に読んでおけば
補給国の太守選びなんかが楽しかったろうになあ、と少し残念です。

五虎将を欠いた後の蜀ってあまり興味がなかったんですが、
今度は文官たちを活用して戦ってみようかな……。
>>666
ちくまで文庫で出ています。大きな本屋さんなら取り寄せも可能でしょう。
東京近郊の方でしたら、神田神保町のすずらん通りにある「内山書店」「東方書店」
がおすすめです。中国関連専門の書店ですので、余計なものまでやたらめったら欲しくなる
甘い罠が十分に張り巡らされています。通販やってるかどうかチョト判りませんが、
問い合わせしてみるのもイイかもしれません。

>>667
一度ならず何度でもやってみてください。安全地帯の人の配置に無駄に力いっぱい
こだわりたくなってしまいます。
669無名武将@お腹せっぷく:02/10/21 12:19
>>666
そうですか?私はまったく逆の感想を持ちましたよ。
王陶沖さんのあまりに威圧的(口調は穏やかだが、他者の意見を決して認めない)な姿勢が、
このスレを閑散させた原因だと思ってます(趙雲伝なんかいい例)。

理論的には王陶沖さんの意見が最も筋が通っていると思いますが、
だからといって他の人がここで「私はこう思います」と意見を書いても、
その度に王陶沖さんが出てきて「それは違うと思います、なぜなら・・」
などといつも書かれたら、誰だって書くのが嫌になってしまいますよ。

ようするに書きづらい雰囲気になってしまってるんですよね。
何か書こうものなら、また王陶沖さんに突っ込まれるんじゃないと思って。
そういう雰囲気はあまりいいものではないですね。
670462:02/10/21 20:09
実際に問題のやり取りが進行している間には黙っていたくせに、事が終わってからししゃり
出てきて正論家ぶるのは卑怯なことだね。しかも本人に直接言うわけですらなく、他人の
レスに横槍の形で。
正史記述について討論という形に限れば、王陶沖氏の姿勢は別に悪くも無い。相手が討論と
いう形を望むか、『教えて』と言ってきた場合が殆どなのだから。
演義や他の小説の記述のレスに口を挟んで「正史では〜」なんて言っていたわけではないだろう。
少数の固定の知識にのみ頼りきりでスレを回していたのだから、その人らが息切れすれば
スレッドが止まるのは当然(もちろん、息切れした人達が悪いわけでは全く無い)。
要するにスレが止まってるのは単なるネタ切れってことだよ。


正史に限らず、演義他小説漫画などでのマイナー蜀人物について語るって方向にすれば、
また結構ネタが出せると思うんだけど。
……小説とか、私は読んでないので肝心のネタ振りできないのだが。すまそ。
>669
わたしも王陶沖さんはすばらしいと思いますよ?
知識も態度も文章も。
あの時の桃紫さんは別に討論をしようとしたわけでもないですし。
ただひたすら自説のみを押し付けてただけに思えます。
672666:02/10/21 21:43
>>669
>趙雲伝なんかいい例
あれは桃紫氏の意固地が原因。
過去ログ読んでて、桃紫氏が「私の恩師のコピペ」云々と蒸し返してきた時は、ホント空気読めんやっちゃな、と思った。
王陶沖氏は、桃紫氏の思考の進め方を注意してただけ。
つーか、貴方は趙雲伝における桃紫氏の解釈の仕方をどう思った?

>その度に王陶沖さんが出てきて「それは違うと思います、なぜなら・・」
>などといつも書かれたら、誰だって書くのが嫌になってしまいますよ。
反論・討論がなければ、議論にゃならん。
反論されたから嫌になって書き込むのをやめる人とは、イタイ説をぶちまけることしかできない、そもそも議論には向かない人。
反論するだけの根拠も知識も根性もないのだから。
そういう人は、議論風になっているスレには書き込まない方が良い。

>ようするに書きづらい雰囲気になってしまってるんですよね。
>何か書こうものなら、また王陶沖さんに突っ込まれるんじゃないと思って。
このスレの趣旨は、マイナー文官について語り合うことだと理解している。
「語り合う」とは言っても、「俺、尹黙が好き」「郭攸之も捨て難いだろ」的会話だったら、とっくにこのスレ落ちてるよ。
議論形式になったからこそ、ここまで伸びた。
さらに言うなら、こんなに紳士的にレスが応酬される議論スレはほかにはない。
2、3カ月程度2ちゃんにいれば、それはわかるでしょ。
俺は、王陶沖氏がよくもまあ桃紫氏を罵倒しなかったもんだ、とむしろ「呆れ」たが、冷静に考えれば、このスレを荒らしたくない、っていう気持ちの裏返しだったと思うよ。

どうしてこのスレが「紳士的」な進行となっていたのか。
なぜここまでスレが伸びていたのか。
王陶沖氏の功績が大。
673666:02/10/21 21:44
>>668元・楊雄@コテハン考え中様
どーもありがとうございます。
お礼ついでにもうひとつ無知な質問を。
本の名前は、ちくま文庫の「三国志・正史」と注文書には書けば良いのでしょうか?
それとも、ただの「三国志」or「正史・三国志」?
王陶沖殿は、正史を手元に長文ながら丁寧な表現でいろいろと教えて頂きましたね。
読んでいてためになりかつ面白かったというのが正直な感想です。ま、それはさておき。

※※注※※
ここはコテハンを語るスレではありません!

さて。
>666
ちょっと高いぞ一冊1500円×8
「井波律子訳の正史三国志、ちくま学芸文庫」
で、分かると思います。
しかし、>672の、「俺、尹黙が好き」「郭攸之も捨て難いだろ」には
マジうけました。なかなかいいセンスをお持ちのようで(笑)。
675666:02/10/23 23:16
>元・楊雄@コテハン考え中様
ご丁寧にありがとうございます。
さっそく注文……1500円×8ですか……。
残業手当出ない貧乏リーマンにゃキツイなあ。
今日から節制だ。
676孫乾の従者@落ち込み:02/10/24 12:29
 どうも、みなさまお元気そうで。
えと、自分の城の2chからきた荒らし(しかも一人だけ…)に
疲れてしまいました。結局自分は意気地がないなぁと思います。

 666さまは桃紫さんのことをお怒りのようですが、自分が
もうちょっと桃紫さんにルールを教えてあげるべきでした。
皆さん本当に御免なさい。

 最後にネタ切れ?とのお話なので自分の好きな孫乾の話を
させてください。

 前から誰かに聞きたかったのですが…三国志に出戻った頃
孫乾が最後まで劉備に従った理由について「他につけるほど名声が無い。」
という話をネット検索で見てある意味ショックを受けたことがありました。
 そこで自分なりに考えたのですが、孫乾はテイ玄の推挙を受けたんですよね、
となると孫乾は儒学者の可能性がありますよね。その仮説を踏んでですが
彼は自分の≪儒学の実践の場≫を劉備のもとと決めていたのではないかと
想像しています。学問を実践させている学者というのは今でもそうそう
いないように思えます。そんなわけで今自分は孫乾がめっちゃ好きなん
だろうな、と思いました。あくまで想像の範囲で変だと思いますけど。
もっとも小学生の頃からサイボウを論破するシーンとか好きなんですが…。

 なんか紙に書いてからカキコすればよかったかな、悪文ですみません。
…自宅からはこの書き込みが最後になります、皆様本当にお世話になりました。
あんな言葉遣いでしたが、従者って本当は女だったんです。(バレバレ?)
 閲覧は続けますので、またカキコ環境できたら参加しますね。
本当にありがとうございます。
>>675
一遍に全部もきついでしょう。月に1冊のお楽しみ、ぐらいでいいんじゃないでしょうか。

>>676
お疲れ様です。あなたが謝る必要はありません。
せっかくですから、私個人の話でもしてみましょうか。

初めて三国志のゲームをした時に、同好者は周りに居ましたか?人によって順番
が異なると思いますが、初めて三国志の小説を読んだ時は?その物語にはまりこんで、
2chに書きこむほどになっている時、あなたが直接顔を合わせて三国志について
話すことが出来る友人は、どれくらいいましたか?
私の周りには、居ませんでした。「三国志?ハァ?」って世界でした。
私がはじめて三国志に触れた時には、まだネットが普及する前、今の中高生からすれば
信じられないかもしれませんが、携帯電話さえ世の中に出回っていませんでした。

今、こうしてネットの中で同好の士があまたつながって、好きだの嫌いだのいいだのわるいだの
言いあえる(顔も知らない)友人にめぐり合えることは、孫乾の従者さんが落ち込む
原因ではあるかもしれませんが、幸せなことです。私がもっとガキのころから
このような便利な道具があればもっと知識を得てもっと関心を深めて、もっと好きになって
いただろうなと思います。

あなたがどこの誰かは存じません。男でも女でもどうでもいいです。興味があれば、
また来て見て読んで書きこんでください。

678廖化の副将@久しぶり:02/10/24 15:45
ちわ〜っす。↑の方で王陶沖殿の批判がなされていましたね。
私は何度か持論を否定されていますが、別に恨んだりしておりませんよ。
勿論持論を全て捨てたわけではないですが、十分に役立つ情報を提供してくれましたしね。
ここでは皆さん仲良く討論をしていきたいですね。
私も度々来ますので宜しくお願いします。
保守保守
ふう、正史買っちゃった・・・

蜀と呉では人物の数はあんまし変わらないのに量が全然違う理由がやっとわかりました
魏一と蜀を読んだところ一人一人の伝の長さがぜんぜん違いますね
簡雍、孫乾も短いですし黄忠も凄かったです
「蜀の人物には想像を働かせる余地が多い」という理由がようやくわかりました
伝が一ページの人も珍しくないという事ですね

意外と秦密(字を忘れました)の伝が長かったです


 謹
 亮
 誕

 蜀は竜を、呉は虎を、しかして魏はその犬を得た。

出典はなんでしょ?正史に載ってたっけ?
 実際、誕は士卒にも愛された良将の模様。

諸葛誕・・・の乱に対応したのが孫[糸林]でなくて諸葛恪だったらとか思っちゃうなあ

どっちも蜀じゃないのでsage
>>676
孫乾が劉備に従うわけですが、
単純に主従の師匠、盧植と鄭玄が同門だったということを考えてもいいと思う。
結構学閥意識もあるだろうし。
まあ、鄭玄は師匠のやり方に嫌気がさしたのか、師匠の下を去っているけど
諸葛菜ってキャベツのことなんですか?
諸葛菜=zhu1 ge2 cai4(ジュー・グゥ・ツァイ)
意味は、「ハナダイコン」とありました。
ttp://www.hojinkai.or.jp/furusato2000/hanadaikon.html

ここに、諸葛亮の話つきで紹介されています。
そうなんですか。こないだ天声人語か何かを読んでるときにキャベツとか言うような説明があった気がしたのですが。
大根の一種ですか。
定期保守
689簡雍 :02/11/13 07:41
俺の本当の姓は"耿"なんだよな・・・
よくあるじゃん?荻原なのに"はぎわら"って呼ばれる奴。それと一緒だよね。
最初は人に会うたびに一々訂正してたんだけどさ。
なんかもう面倒になってどうでもいいか〜と思えてきて。
それにさ、なんか俺の話題で盛り上がってる時に「俺って"耿"姓だよ」って言うのって雰囲気に水を差すみたいでさ・・・
半分自棄で"簡"姓にしちゃったんだよ・・・
そしたら自分でも本当は俺って元々"簡"姓だったんじゃないかと思えてきたんだよね〜。



ところで演義での俺の袁紹軍からの脱出話ってがいしゅつ?
え?この姓名の話も? ゥヒャー
      
 |  >>689は、 |
 |  正史だと劉備以外には諸葛亮にすら   |
 \  こういう態度だったらしいな。     /
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

            ∧∧
           (゚Д゚O =3
      ⊆⊂´ ̄  ソ ヤレヤレ
hosyu
>>687
キャベツも大根もアブラナ科だから、どこかで取り違えられてるのかも。
保守してみる…
694無名武将@お腹せっぷく:02/12/18 09:37
上げてみる
郤正ホシュ
郤正サゲ
>>82>>144-145
郤正テイセイ
>>87>>144-145
698王泰明 ◆N3W4jwKdPc :03/01/01 03:40
皆様お久しぶりです。四ヶ月ぶりでしょうか?
「これからどうしましょうか?」などと問うておきながら
自分も去るという無責任なことをして申し訳ありません。
今後は以前ほどではないにせよ、ちょくちょく書き込みたいと思いますので
改めてよろしくお願いします。

どうも私の態度が物議を醸したようで本当に申し訳ありません。
669様の仰ること、その通りだと思います。今後は気をつけたいものです。
666様、670(492)様、671様、弁護して頂き有難うございました。
本当に嬉しいです。励みになります。
そして廖化の副将様。非礼な発言の数々、本当にごめんなさい。
実は私もあなたのような柔軟な考え方の出来る方が、羨ましいんですよ。
きっと知識を増していけばあなたは正史を表面的になぞるだけの私などより
遥かに優れた三国志論客になれると思います。もしよろしければこれからもよろしくです。
699王泰明 ◆N3W4jwKdPc :03/01/01 03:42
さて、本題に関係ない私の話はこれくらいにして
お詫び代わりにマイナー蜀臣の情報を一人提供しましょう。
数少ない五虎将亡き後の武人です。


句扶(字:孝興)
「コウフ」と読みます。益州の巴西郡漢昌県の出身です。
忠勇に優れ、ェ厚な性格だったと言います。
数多くの戦功があり同じ巴西郡出身の王平と並び称されました。
官位は左将軍(『華陽国志』では右将軍)、爵位は宕渠侯にまで至ったと言います。
後に張翼と廖化が大将軍になった時(実際には彼等は大将軍にはなっていないので、
彼らが左右の車騎将軍になった時のことではないかと思います)、
時の人々は「前に王・句あり、後に張・廖あり」と言って彼ら四人を讃えたといいます。
(参考『三国志』王平伝付句扶伝、『華陽国志』巴志・劉後主志)

句扶が勇名高き将軍であったことのみならず、
王平・張翼・廖化の勇名も名高かったことがこの逸話から知れて、
何だか嬉しくなります(笑
700王泰明 ◆N3W4jwKdPc :03/01/01 03:46
あ、忘れてましたが王陶沖は王泰明に改名いたしました。

以前の常連様たちもいずれ戻って来て下さると良いですねぇ・・・。
701名無しさん:03/01/02 19:17
              / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
Λ_Λ  | 君さぁ こんなスレッド立てるから          |
( ´∀`)< 厨房って言われちゃうんだよ             |
( ΛΛ つ >―――――――――――――――――――‐<
 ( ゚Д゚) < おまえのことを必要としてる奴なんて         |
 /つつ  | いないんだからさっさと回線切って首吊れ     |
       \____________________/

(-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ…
(∩∩) (∩∩) (∩∩)

(-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ…
(∩∩) (∩∩) (∩∩)

(-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ…
(∩∩) (∩∩) (∩∩)
>>698-700
お久しぶりですな。

さて。
句扶、いいですねえ。こういう人物がいるから面白いんですよね。
ところで、句という姓、蜀後期に他にも出てきませんでしたっけ?
たしか「句安」って。
李厳の失職に絡んでいたような、ちょっと記憶があいまいで申し訳ない。
おかえりsage
704王泰明 ◆N3W4jwKdPc :03/01/04 18:07
>>702=元・楊雄様
お久しぶりです。

>句安
いましたね、句安。
ですが演義にはもう一人苟安という人物がいまして
元・楊雄様の挙げられたのはこちらの方かと思います。
第三次北伐において兵糧運搬を担当していた酒飲みで
糧食の輸送を怠ったのを諸葛亮に咎められて
罰棒の刑に処せられたのを恨んで魏に投降し、
成都で諸葛亮謀反の噂を振りまいて、蜀軍を撤退させる
という役回りの人物です。
705王泰明 ◆N3W4jwKdPc :03/01/04 18:08
句安の方は少し下って姜維の北伐時代(といってもまだ費イは健在ですが)
の蜀の将軍です。
こちらは正史・演義両方に登場します。

249年、姜維は雍州攻撃の拠点として麹山に二つの城を築き、
当時牙門将だった句安と李韶(李キンとも。キンは華キンと同字)にそこを防衛させます。
しかし攻め寄せた郭淮、陳泰らの魏軍は堅固な麹城を攻めるのではなく、
糧道と水を絶つという作戦に出て句安たちを窮地に追い込みます。
句安たちは食料を分け合い、水の代わりに雪を集めて飢えをしのぎ援軍を待ちますが、
救援にやって来た姜維は、陳泰の策で退路を絶たれそうになり、已む無く撤退します。
こうして孤立無援となった麹城の句安と李韶は魏に降伏せざるを得なくなったのでした。

なお、後に句安は、鍾会の部下として263年の蜀征に従軍。
故国の滅亡を目にすることとなりました。

ちなみに正史に出てくる句姓の人物は句扶と句安だけだそうです。
もしかしたらこの二人は血縁関係なのかも知れませんね。
蜀の勇将と称えられた人物の縁者が蜀を滅ぼすことになったのだとしたら
句安の心中はさぞ複雑なものだったでしょうね。

>>703
ありがとうございます。
706山崎渉:03/01/11 01:33
(^^)
一旦保守
708王泰明 ◆N3W4jwKdPc :03/01/15 23:12
句扶、句安ネタは続かないようなので(笑、
話題を変えて見ましょうか。

『華陽国志』から一人、マイナー蜀臣を書いてみます。
柳隠(字:休然)
蜀郡成都の人です。
若い頃から同郡の杜禎・柳伸と並んで名声がありました。
「隱 直誠 篤 亮 , 交友 居厚 , 達 於 從政」
(ここ私は訳せませんでした何て書いてあるんでしょう?)
大将軍姜維の北伐に従軍し、計を設けて敵陣を陥落させたと言います。
勇略は軍でもトップだったそうです。
官位は牙門将・巴郡太守・騎都尉となり、転じて漢中の黄金圍の督となりました。
鍾会の蜀攻略に際しては、多くの蜀側の陣が降伏しましたが、
柳隠はじっと動かず任地を守り、鍾会の別将がこれを攻撃しましたが
勝てなかったと言います。
劉禅が降伏して初めて鍾会の元に出頭し、
これを聞いた司馬昭は柳隠の行為を義と賞賛したそうです。
咸熙元年(264) 、河東に移され議郎に任じられます。
晋が建国されると西河太守となりました。
在官三年で老齢を理由に官を去って蜀に帰り、無官で亡くなりました。
八十歳だったと言います。
長子の柳充は連道の令となり、次子の柳初は秀才で推挙されたそうです。
(参考『華陽国志』後賢志・柳隠伝)

正史『三国志』同様、『華陽国志』でもやはり武人の記述は少ないのですが、
探せばなかなかどうして、こういういぶし銀な人がいるものですね(笑
709無名武将@お腹せっぷく:03/01/16 22:20
ほっしゅ
このスレまだ生きてたんだねぇ…。
三戦板(2ch)来て初めて入ったスレだからちょっと印象深い。

>>708
柳隠なんて全然知らなかった。
三国志って面白いね。
演義の赤壁の戦いで、曹操軍敗北の原因となった蒋幹について、教えてください。
当方、「魏書」の二巻と三巻しか持っておらず、それには蒋幹に関する記述がありませんでした。
検索してわかったのは、以下の内容だけです。

蒋幹(ショウカン)  字/子翼(シヨク)  生没年/?-?
弁舌に優れ、だれも彼を言い負かすことは出来なかったという。
その話を聞いた曹操の命を受け、周瑜の説得に赴く。
周瑜は軍営を一通り案内した後、孫権への忠義を語り、寝返る意志がないことを告げた。
蒋幹は不可能なことを悟り、曹操のもとへ戻ってこのことを報告したという。
『演義』では、周瑜の計略のせられ、蔡瑁らを殺すのに一役買ってしまう。
>>708
隱=ここでは人名ですね。
直=まっすぐ、素直。
誠=まこと。
篤=誠実、真心がこもっている。
亮=明るい

交友=交友
居=居る、位置する、蓄える
厚=厚い、人情味がある(厚道)、尊ぶ

達=通じる、届く、成し遂げる、伝える、顕要な地位に就く
於=…に、…で、
從政=政治に携わる

んで、「隠は、直誠篤亮とでも言おうかとにかく真っ直ぐで誠実な人で、厚い人柄で交友を持ち、
政治に携わることで重要な地位に就いた。
or政治に携わることに通じていた」
こんな感じですね。

人柄の良さを4文字も使っていて、なおかつその次に交友関係が厚いというのは、あまり
ないんじゃないでしょうか。しかも、最後に官職を蹴って蜀に帰ったというところが
渋いですね。
713王泰明 ◆N3W4jwKdPc :03/01/19 11:30
>>710
細々と続いています。
よろしければ今後も書き込みよろしくお願いしますね。
>柳隠
こういうキラリと光るマイナー人物を発掘するのも
三国志の一つの楽しみですよね。

>>711
>蒋幹
蒋幹の記述は『三国志』魏書にはなく、
呉書の周瑜伝にあります。
そこに記されていることはほぼ>>711様が引用された文の通りです。
正史での蒋幹は曹操の命で周瑜を曹操側に引き入れるべく派遣されますが、
周瑜と孫権の仲を引き裂くことの不可能を悟って、
周瑜を説得せずにそのまま帰還しており、
赤壁の敗戦の原因には一切関わりがありません。
周瑜に良いように利用されて蔡瑁たちを殺させてしまうというのは
演義の創作ということになります。

これでご質問にお答えしたことになりますか?
なお、このスレは訪れる方の非常に少ない閑散としたスレですので、
あまり質問には適しません。
今後はこのスレ辺りでお聞きすることをお薦めします。

もの凄いユルい勢いで誰かが質問に答えるスレ 3
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1039958962/l50
714王泰明 ◆N3W4jwKdPc :03/01/19 11:31
>>712=元楊雄様
和訳ありがとうございます。
なるほど、人柄の良さと交友関係の広さが称えられていた訳ですね。
気難しい人の多い蜀臣の中では珍しい(笑

蜀滅亡当時、軍の第一線にいたのは姜維や張翼、廖化に董厥のようですが、
その他にも柳隠や羅憲、霍弋などがいたことを考えると、
鍾会やケ艾のような軍事の天才がいなければ、
もう少し国を保てたのではないかと思ってしまうのは、
蜀ファンから見た贔屓目に過ぎないのでしょうねぇ・・・・(苦笑
なにげにover一周年おめ!
ここかなり勉強になります。面白いです。
716山崎渉:03/01/22 14:35
(^^;
717無名武将@お腹せっぷく:03/01/23 17:43
    ノ川ヽヽ   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ピュ.ー ( V▽V)< ドラマ「高校教師」見てね
  =〔~∪ ̄ ̄〕  \________
  = ◎――◎
718山崎渉:03/01/24 13:19
(^^;
719無名武将@お腹せっぷく:03/01/25 21:19
720無名武将@お腹せっぷく:03/01/25 21:19
721無名武将@お腹せっぷく:03/01/27 11:12



722あぼーん:あぼーん
あぼーん
723無名武将@お腹せっぷく:03/01/29 10:21

      ,..-‐−- 、、
   ,ィ":::::::::::::::::::;;;;;iii>;,、
  /:::::::::::::::;;;;;;;;iii彡" ::ヤi、
 ./::::::::::::;:"~ ̄     ::i||li
 |::::::::::j'_,.ィ>、、   .:::iii》
 ヾi´`,  `‐-‐"^{"^ヾノ"    ラピュタの研究の邪魔しないでくれたまえ
   Y     ,.,li`~~i
    i、   ・=-_、, .:/          ______
  . < \    '' .:/           .│  | \__\___
 / \.` ー 、、ノ             |  |   |= |iiiiiiiiiii|
/⌒ヽ.  \_/\|/\           |  |   | =. | !!!!!!!|
|   ヽ____| l___ _.    |  |   |三 |_「r.、
|  //     // ̄.\ //⊃ヾ)   |._.|_/(  ) ̄ ))
ヽ ______//r_/| |.||⌒ヽ〜〔 ̄ ̄! ̄ ̄ ̄/ ̄ ̄\((
724山崎渉:03/01/31 17:18
(^^)
ホントに最近人いないなァ〜・・・このスレに限らず・・・
726黄緑 ◆/06cFHuang :03/02/04 02:21
名前が変わりました。今後ともよろしく・・・
元〜
…程畿の話って出ました?
728-:03/02/18 17:33
729無名武将@お腹せっぷく:03/02/21 18:04
一気に読み終わった。皆すごいな、と思う。
今まで演義+正史の一部しか読んだことなかったから。
再び活気を戻って欲しいものです。
>>729
これまでも、ゆっくりペースで話が進んで、人が帰ってくるたびにまた話が進んで、
というパターンだったから、気長に続けたいね。
識者を囲んで語る系のスレはそんな感じじゃないかと。

731黄緑 ◆/06cFHuang :03/03/02 00:38
保守できるのですか?
ミーハーファンなので、こういう学識系には
ただ感心するばかりなのですが、
読んでておもしろいです。
つか、だいぶ前に読んで、久しぶりにまだ続いていたことに感心。
マターリ続いてほすぃスレだ。
泰明殿も、来られる時期に波があるみたいだね〜。
拝聴するばっかで申し訳ないけど、密かに楽しみにしているのでまた
語って欲しいです。
語り待ち。
保守。
そういえばここで知ったネタが某リレースレで使われててニヤリとしたな。
一人で本読んでるだけだと、いろいろ細部を読み解いていくきっかけも見つけにくい
から、こういうスレがあると楽しいです。
いろいろ読みつつ進めていくには、またーりペースが一番なのかも。
737無名武将@お腹せっぷく:03/03/07 13:25
すいません、何[日安]て誰ですか?
どっかで見たことある名前なんですけど…。
何晏?
何晏の事だろうな。
陶謙を人の良い爺様だと思ってたら間違いだぞ。
どうしようもない暗君だったそうだ by正史
徳間書店「三国志全人名辞典」より

何晏、字は平叔。後漢の大将軍何進の孫。
母の尹氏が曹操の側室になったところから魏の宮廷で育てられた。
文帝・明帝の代には、その風流貴公子気取りを嫌われて重用されなかった。
明帝の死後、曹爽が実権を握ると散騎常侍、侍中尚書に登用されたが、
司馬懿の逆クーデターによって曹爽ともども殺された。
老荘を好み、玄学を提唱した。「論語集解」を著した。
742孫乾の従者:03/03/10 23:24
 黄緑さま、皆さま、大変ご無沙汰しております。
恥ずかしながら、ちょっぴり戻って参りました。たまに時間ができると
こちらを拝読させていただいておりました。特に黄緑さま(元楊雄さま)には
暖かいお言葉をかけていただき、大変感謝しております。
また時間がございましたら、よろしくお付き合いくださいませ。

 さて、何晏(かあん)の『風流貴公子気取り』のことなのですが
私の勘違いが間違いだと思うのですが、彼は度を越したナルシストで
自分の影を見ると髪型を直したりしたとか、女装を好んだとか
変な話しか記憶にないのです。風流貴公子気取りってこの事でしょうか?

 三国時代を代表する儒学者が彼とテイ玄先生と家にある本で見て、
なんだか複雑な気分になってしまいました。私の勘違いであることを
祈りたいです。妙なお話ですみません。

 それでは、またの機会に…。
743紫電 ◆TX.8oHuyEA :03/03/11 09:53
勉強になるスレだな。
何晏て何進の孫だったんだ……。 
744黄緑 ◆/06cFHuang :03/03/12 01:16
>>742
おやお懐かしい。

何晏は詩歌の方面で活躍していますね。詩作の世界に老荘の風気による、哲学的
命題を好んで談論する「玄談詩」という一分野の確立に竹林の七賢とともに貢献
しています。この当時に流行しましたが、詩として面白くないので評価も乏しく、
今ではほとんど残っていません。但し、時代が下って唐の頃流行した五言詩(教科書
に散々出てきますね)の生育に大きく貢献したという点が大事なようです。
豚殺しの孫でも3代つづけば、貴公子
人に歴史あり、だな。
春近し、世間も板も騒がしくなりつつあるようですが、ここは変わらずに
ゆっくり語る場であって欲しいものです。
春ですね、確かに…
春の嵐に花の舞うごとく。
750無名武将@お腹せっぷく:03/03/16 01:12
hosyu

質問っす。孫紹と孫[音召]って同一人物ですか?
753紫電 ◆TX.8oHuyEA :03/03/26 14:18
俺はわからないな。一緒なんじゃないのか?孫紹って孫策の子でしょ?
754無名武将@お腹せっぷく:03/03/26 14:26
孫音召 公礼(そんしょう  こうれい)

叔父の殺害されたあと、17歳であとを継いだ。
城壁をきちんと補修工事し、敵に備えた。

丹楊の混乱をおさめた孫権は、わざと、攻撃してみたが、
警戒システムが機能し、場内からは矢も射掛けられてきた。

孫権は自分だと名乗ってやめさせ、孫音召を誉めて
承烈校尉に任命し叔父とまったく同じ権限を与えた。

広陵太守、偏将軍となり、孫権が王位になると
楊威将軍、帝位につくと鎮北将軍に昇進した。
755無名武将@お腹せっぷく:03/03/26 14:27
国境を守備すること数十年、兵士の育成に成果を
あげ、彼のためには死をいたおわぬものを養成した。

最前線での警備体制をととのえ、遠く斥候を放って
敵の情勢をうかがうことに努め、敵の動静を
すばやくつかんでその供えをし、めったにやぶれることは
なかった。

おかげで、多くの兵士を征伐に回すことが
でき、国境線では兵士がいないところが数百里に
上った。10年ぶりに孫権が建業に戻って
彼に会うと、「久しく公礼どのを見ぬままであったが
おもいもかけず立派になられていたのだ。」
と、嘆息した。
241年亡くなった。

演義では、徐盛が曹ひ迎撃の大将となったとき
わがままをいう役をふられている。しかも、
危うく死刑になりそうになり、孫権の顔に免じて
許されるが、抜け駆けをしている。孫越があとを継いだ
756無名武将@お腹せっぷく:03/03/31 10:35
勉強になるスレですな。
俺からも質問いいでしょうか?
某スレで、孫[立羽]、孫匡、孫朗という連中を見かけたのですが、彼らはどんな功績を残したんですか?
孫堅の息子だという事しか知らないんですが。
孫儼(翊) 叔弼 (そんげん しゅくひつ)

字のとおり、孫堅の三男で、おそらく孫権の一歳下。
「翊」の名で知られるが、正しくは「儼」というらしい。

『正史』では驍悍果烈にして、兄・孫策の風あり、とあるが、一方で「朱治伝」に
性峭急、喜怒快意、とあり、事に臨んでは性急で、喜怒を露わにしやすく、また常に
帯刀していた。

孫策の死に際して後嗣を孫儼に推すむきもあったが、これは統治に不安定さを抱えた
当時の江東にあっては、孫策により近い性向である孫儼が相応しいとみるむきもあった
とみるべきか。

若くして官位を授かり、二十歳で丹陽太守・編将軍という昇進を果たす。
丹陽太守として赴任すると、孝廉に推挙された経歴をもつ嬀覧、戴員を招聘し、大都督、
郡丞という軍政の一方ずつを握る要職を与える厚遇を施すが、これが仇になる。

204年、孫儼より、かねてからの交誼を咎められていた辺鴻と謀り、宴席を経て生じた
隙を衝いて辺鴻に孫儼を殺させると、馳せつけて譴責する孫河を殺し、罪を辺鴻ひとり
に着せて殺し、揚州刺史・劉馥への内応を計る。
軍政両面を掌握する嬀覧、戴員を咎める者は皆無であったが、賢妻である孫儼の妻である
徐氏と遺臣らが仇討ちを計り、これに討たれた。

子は松といい、231年に歿したが、諸葛亮にも高く評された。
孫匡 季佐 (そんきょう きさ)

孫堅の四男で、策、権、儼(翊)同様、孫堅の子の正妻の呉氏の子である。

孫策への懐柔策から、曹操の弟の女(娘の意)を娶り、孝廉、茂才に推挙され
るものの、二十歳にして歿した。

子は泰といい、234年の合肥新城での攻囲戦で戦死。

泰の子の秀は、前将軍・夏口督で、皇族にあってもその血統の確かさから
皇帝・孫皓に疎まれ、危機感を募らせ眷族を率いて晋へ亡命。
晋では、驃騎將軍・会稽公に封じられ、儀同三司を加えられるという厚遇を
うける。
呉の降伏によって伏波将軍へと降格されるが、儀同三司の権限は残された。

呉の滅亡に際し、晋の朝廷にあって廷臣が寿ぐなかでも、病と称して阿らず、
故国に向かって涙し、呉の滅亡を嘆く言葉を吐くが、とりわけその最後に至る
「― 悠悠蒼天 此何人哉」 は、個人的にも胸を打たれるものがある。
孫朗 (そんろう)

孫堅の庶子にして末子で、別名を「仁」というらしい。
字は不明(四男の匡が季佐とある以上、「幼」でもつくのだろうか…)

事績は全くといえるほど不明だが、裴松之が及第点を与え、「呉書」のなかで多く
ひかれる「江表伝」には、222年頃に孫匡が定武中朗将であったとあるが、既に孫匡
は歿しており、これは孫朗に該当するものだと、裴松之は正している。

『演義』では孫仁を、孫堅の女で権の妹、としていた記憶が…。
760756:03/03/31 20:52
おお、凄いな。どうもありがとうございました。孫家も奥が深いんですね。
ちなみに某スレとは…バトロ(r

ともあれ、勉強になりました。
761758:03/04/01 13:56
>>760
もうしわけない。

>孫堅の四男で、策、権、儼(翊)同様、孫堅の子の正妻の呉氏の子である。
”子の”、の部分は除外して。
もうひとつ、ゲームで確認したわけなのだが、孫朗の字は「早安」とあった。

以上、たいへん失礼。
王允て三公のうちの一つの司徒だったんだよね?
それより上の官職は無かったんでしたっけ?
763黄緑 ◆/06cFHuang :03/04/05 21:07
まず、皇帝。
次に太傅、太師、太保。三公の上になります。非常置官で、皇帝が幼年の場合に政治をつかさどりつつ
同時に天子の教育係も兼任します。

さらに、大将軍。これはもともと軍隊を率いる臨時の最高武官職でした。後漢の後期にもなると、外戚が
尚書令(文官の位)を兼任して独裁となるケースがみられます。このころから、三公の上になり外戚独裁
政治を行い、文武のトップになります。

三公(司徒・司空・司馬)
司徒…天子の補佐、総理大臣のような立場。前漢・三国時代には丞相。
司空…前漢では御史大夫、土地と民事について担当、司徒に次ぐ2.
司馬…軍事をつかさどる。ただし、三国時代には将軍や都督の幕僚などの訳名になった。

袁紹の出自の説明に「四世三公」とあるのは、4代に渡って三公を輩出した、名門中の名門
であることを示します。田中真紀子元外務大臣のお父さんが総理大臣でしたが、ここの家も
及ばぬ名家であることが分かります。
764無名武将@お腹せっぷく:03/04/07 06:16
>>763
司馬は三国時代だと太尉になるよね。

御史大夫って、監察官だったような気がするけど、
もともとは司空と同じだったんだ。

徐庶が御史大夫までしかなれなくて、孔明が嘆いたって記憶があるけど、
それだと三国時代には御史大夫はそれほどの役職ではなかったってことかな。
>>764
徐庶が就いたのは御史大夫ではなく、御史中丞です。

御史大夫は、黄緑 ◆/06cFHuangさんが仰るように
司空に改名されてますが、御史台の扱う監察の業務とは
関係ないようです。
曹操の丞相就任と同時に司空から御史大夫に改称されています。

前漢中期頃までは御史台は御史大夫に属していましたが、
それ以後分離して御史台だけが監察官として働きます。
御史大夫は前漢末以降は司空として三公末席でした。

御史中丞は御史台の長官という要職ですが、
最終官位だとすれば(能力の割には)それほど出世しなかった方と言えるでしょう。

768山崎渉:03/04/17 11:31
(^^)
769山崎渉:03/04/20 05:30
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
通して読んだが凄い良スレだな。
桃紫とかいうのがあまりに幼稚で邪魔だが。
典型的な厨の来襲を凌ぎきり、ネタ切れまで続いたのはすごい。
もともとマイナー分野だけに今後の再隆は難しいかもしれないが、保存に値するだけの素晴らしい内容だ。

あと、669=桃紫
771無名武将@お腹せっぷく:03/04/23 22:25
どこが
三公が太尉、司徒、司空なのは常識だろ
誰に言ってんだ?
空に
漏れも最近見たがものすごい良スレですな(特に王泰明)
他の議論スレとどうしてこうもレベルに差があるのかw

桃紫も他のスレだったらまだ対等のレベルで話が出来たかもしれないのに…(いや無理か?w)
775無名武将@お腹せっぷく:03/04/24 11:48
771 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:03/04/23 22:25
どこが
三公が太尉、司徒、司空なのは常識だろ
一応補足しておくか。

後漢代に政権を振るうようになったのは尚書令じゃなくて録尚書事。
霍光に端を発し、大抵が三公や上公との兼任だった。

『上公』の説明は上の通り。
最も頻繁に置かれたのが大将軍で、梁冀や何進が兼・録尚書事。
次が太傅。胡広や袁隗、馬日【石單】らが、同じく録尚書事と兼任していた。
録尚書事とは「皇帝に代わって政務を代行する」という事です。
要するに摂政・関白ですな。
(そういえば関白の語は霍光に由来します)

皇帝が若年の場合もしくは政務を執らない場合に置かれるものです。
だから外戚や太傅がなるのです。

なお尚書令は皇帝の秘書長官です。
事実上皇帝の政策決定に直接関与し詔を作成するので後漢あたりから重要になってきました。


中国では皇帝自身も文書行政の頂点として日々決裁や政策決定を行わなければならなかったので,
尚書が秘書として生まれたのです。
録尚書事の意味は「尚書の事を録する」というだけ。
「録する」は記録するに留まらず、「統べる」・「取り纏める」という意味がある。
また、前漢代は領尚書事、併任すると平尚書事などと呼ばれた。
779黄緑 ◆/06cFHuang :03/04/27 02:46
録の文字だけ辞書をひいたら、現代中国語の辞書には記録のほかに
「補欠の人員を登録することから選抜・採用する」という意味が派生したことが書いてあります。
また、古語辞典ではこれらの意味に加えて「総領」の意味がありました。
780王泰明 ◆N3W4jwKdPc :03/05/03 18:48
皆様お久しぶりです。
たまにぶらりと戻ってきては長文を書き付ける迷惑者、王泰明でございます。

三国志に関わる三公以上の地位といえば他に相国もありますね。
前漢の功臣蕭何が就いて以来、名誉職として誰も就かなかった
(実は蕭何の後任の曹参も就任したらしいですが)ものを
董卓が復活させて就任したものです。

ちなみに曹操が208年に三公を廃して設置した丞相は
相国と同等の官位と看做されますが、
後に司馬懿が丞相に就任した後で相国への就任を
改めて要請されていることを考えますと、
やはり相国の方が少し上なのかも知れません。
司馬懿はその直後に亡くなったため、追贈されこそすれ、
実際に相国となることはありませんでしたが、
息子の司馬昭は260年に晋公の位を得ると共に相国に就任しています。

なお魏では他に鍾ヨウ、華キン等が相国になっていますが、
これは魏が後漢に取って代わる前に一諸侯国として存在した時期のことであり、
曹丕の皇帝即位とともに魏はこの相国を司空に改称していることを考えると、
鍾ヨウたちが就いた相国は三公の一つであり、
董卓や司馬昭の就いた相国よりワンランク下であると考えて良いのだと思います。
相国、元は相邦。劉邦の諱なので漢では相国です。
秦のリョフイは出土資料では相邦に就任していた事が知られています。

漢では丞相の上位互換です。
名誉職というのとも少し違うような気がします。
丞相と権限などでは同一で、漢の文書行政の頂点(皇帝以外では)です。
間違いなく丞相より位は上ですが、三国時代以降は簒奪一歩手前で貰うようになっちゃいました。

魏の相国は形式上は「魏国内の」相国ですので、当時の漢の丞相(曹操・曹丕)と比べれば
位は下です。

あと、丞相・相国→(大)司徒です。御史大夫→(大)司空、太尉→大司馬→太尉という関係。
782王泰明 ◆N3W4jwKdPc :03/05/03 19:16
おっと、ちょっと間違えていたようです。
司馬懿は丞相への就任要請を、後の相国への就任要請同様に
断り、就任してはいないんですね。勘違いしてました。
司馬懿は死ぬまで太傅ですね。
お詫びして訂正しておきます。

だとするとやはり丞相と相国は同等で良いのでしょうかね。

ちなみに丞相就任要請の件は『三国志』、『晋書』の両方にありますが、
相国就任要請の件は『晋書』にしかないようです。
783王泰明 ◆N3W4jwKdPc :03/05/03 19:25
>>781

詳しい解説有難うございます。
大変参考になりました。

そうですか。相国の前身たる相邦は呂不韋の時代にはすでにあったのですね。
驚きです。

>名誉職というのとも少し違うような気がします
申し訳ありません。
「憚りがあって誰も就くことが無かった」ということが言いたかっただけで、
確かに「名誉職」というのは語弊があったかも知れません。
野球の永久欠番といった方が近いのかも知れませんね(苦笑
>だとするとやはり丞相と相国は同等で良いのでしょうかね。

相国は元々定員一名で、
それに対して丞相は定員二名でした。

ただ、相国と丞相の権限は同じであり、
事情によってか、後に一人が担当することもあったので、
こうした場合は相国と同様の立場であったようです。

呂不韋の相邦は2人の丞相の権力を纏めたものなので、
本来は相国の方が名誉であったはずなんですが。

ちなみに、国と邦は同じ意味ですんで、
前身というより『改名前』程度のものだと思いますよ
785王泰明 ◆N3W4jwKdPc :03/05/03 21:19
>>784

なるほど。
相国と丞相は権限は同一だけれども、
その成立から考えれば、本来は位としては相国の方が上、という訳ですね。
三国時代だけ見ても分からないことですね。
大変勉強になりました。有難うございます。
三国時代の官制は秦・漢から受け継いでいるからねえ。
漢の官制を知らないと、三国志での就任した官職の意味するところが分かりづらいね。

秦の制度は、周(春秋戦国)の他国からすると独特な名前や制度だったっぽいんだけど。
漢代の儒者は周礼なんかの制度と実際の官制をツジツマ合わせるのに苦労していた。
三公とかね。
>>781>>783
細かいツッコミになるけど…
相国に関して、『史記』をみていくと、趙の武霊王の27年(299年)に肥義が、
秦の昭襄王32年(275年)に魏冄が、既に相国となってますね。
呂不韋は四半世紀以上後の人物なんで、こちらが先ではあるかと…。

ほんと細かいツッコミで、腰折る真似してすまんす。
788783:03/05/04 18:10
失礼、初めじゃなかったでしたね。
調べなおしもせずに書いてしまいました。申し訳ないっす
魏国の相国と漢の丞相の関係。
献帝が出した詔がどうやって伝達されるかを見ていくとわかるかも。

皇帝→御史大夫→漢の丞相→将軍・九卿・魏国の相国・郡の太守→県令など
(報告・上奏文は逆のルート)

まあ実態としては丞相=魏公ですが、公文書はこういった手続きで上意下達されます。
文書行政の順番としては漢の丞相から詔を伝達されるという関係なのです。
これを理解すると、この時の魏相国と漢丞相がまったく別のカテゴリーに位置する存在だと分かるのではないでしょうか。
そりゃ、藩国なんだから、盟主国と同等のはずがないと思われ
791無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 12:00
  _、_
( ,_ノ` )y━・~~~  保守だ・・・
しかしまあ、厨や知ったか、クソスレが多いこの板の中では、ほんと名スレですな…。
勉強になります。
ところで、曹操は子供が25人いた、という話を聞いたのですが、自分は曹す兄弟の上五人くらいしか知りません。(曹沖とか曹宇とかは名前しか知らないので)
よければ、少し教えてもらえませんか?
793無名武将@お腹せっぷく:03/05/19 14:55
794山崎渉:03/05/22 01:19
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
795軍事板から来た男:03/05/22 05:01
 はじめまして。ネタになるかちょっと自信が無いですが、2,3個程。

>>相国と丞相
 相国は軍権を正式に示す鉞等を与えられているので、丞相よりも
位が上の扱いを受ける、と思いましたが。前漢の場合には、それ以
外にも臣下の礼を取らない、という特権が一緒に有った訳ですが。

>>趙雲の政治
 趙雲の政治力の値の話ががうんと前のレスにありましたが、此れ
は「政治力」というよりは、「政治的バランス感覚」にたいして、コーエ
ーが付けたものでは無いですか?(出典は第一次北伐後の諸葛亮
と趙雲の会話より)

>>趙雲の統率力(軍事力)
 趙雲は、確かに正史ベースで大部隊を率いた事が一度もありませ
んが、だからと言って軍事的才能の評価が高すぎる、というのは過小
評価ではないか、と思います。何しろ、実質大敗の第一次北伐で、殿
軍を率いて、全軍崩壊の危機を救っている訳ですから、統率力に関し
ては水準以上の力量を持っていたと判断してよいのでは、と私は思い
ます(殿軍の後退戦が戦闘では一番難しいですから。まして三国時代
の頃のように、兵隊の質が総じて現代に較べてあまり高くない場合
は尚更、です)。

マイナー部将スレに合ってるのか判りませんが……。
「臣下の礼を取らない」は相国とはまた別に与えられた特権じゃないかな。
「軍権を正式に示す鉞等」も同様。
相国にもれなくついてくるんじゃなく、相国がなにか別の理由があって貰った、という事かと。
というかそれはドコに出てくる話なのか知りたい。
平時から軍事権の象徴を相国とはいえ臣下に一任するなんて皇帝失格だしね。
多分「相国・国王→禅譲」の六朝典型ルートの中での話じゃないかと思うけど。
あまりに興味深いので保守。
漏れも>>796と同じ見解。
>>795氏、「臣下の礼を取らない、という特権」というのは
どこで調べられたのでしょう?
796ですが。
漢書の蕭何伝に証拠があったよ。
伝(史記世家も)の記述によると、蕭何は丞相の時に「帯剣履上殿、入朝不趨」の特権を賜っている。
相国になるのはその後。
後の相国についてはまだ見てないけど、少なくともイコールではないよ。
強いて言えば、蕭何が相国と「帯剣履上殿、入朝不趨」の両方を持っていたために後世に同一視してしまった可能性はあるけど。
795さんが何(誰の事例)に基いているのかが気になる。
あと鉞だけど、蕭何の頃には太尉がいるんだよね。その後職務は丞相に引き継がれるけどさ、太尉。
どちらにしても、蕭何の時期に鉞を与えられたような形跡は無し。
あ、今度は晋書をめくったんだけど、
司馬昭は大将軍の段階で斧鉞と「剣履上殿」をもらってるな。
相国は晋公になると同時かな。
>>799-800
おおよそ丞相クラスはそんな感じ。
後漢代は基本的に丞相が無かったから、黄鉞等は稀だったけど。
ageとく
803山崎渉:03/05/28 16:05
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
804bloom:03/05/30 22:20
>>792
http://curry.2ch.net/warhis/kako/1012/10124/1012424535.html
の146を見ると解ると思う。
スレ違い気味だが、今週のモーニング蒼天に簡雍登場してるよ。
スレによっては時々「簡擁」って表記されてるよ……。
やれやれ。
>>806
というか、今までがスレ違いw
あの簡雍は良い。
オイラのイメージしていた「劉備の幼馴染、一番仲良く話が出来る人」という感じになっていた。
惜しむらくは、「もっと前から出せよ」だな。
810黄緑 ◆/06cFHuang :03/06/05 20:43
>>806
拝見しました。荀ケショックからどのように話が展開するのかと思いきや。
法正・孟達に龐統です。曹操主人公の作品ながら楽しみです。
で、簡雍も雰囲気が出ていました。寝っ転がって酒飲んで歌って、おまけに
宝玉パクってました。
若い頃からの古参陪臣としてタメグチで劉備の背中を押しているように感じました。

>>808
ごめんね。
簡雍、字は憲和
?県からの劉備の幕僚。
性格はおおらかで、民人に好かれていた。
劉備が、酒は人を堕落させるからと禁酒令を出し
酒を作る道具の所持も禁止した際に、簡雍は道行く恋人を指さし
「淫行の道具を持っている、彼等を罰せよ」と進言
劉備は笑い、禁酒令を解いた

新野の混乱の際に、槍傷を負うも趙雲に助けられる
おおらかな性格で人民に好かれていた
大の酒好きで、吹き矢の名手
スマナイのですが一つ教えてくらさい。

>新野の混乱の際に、槍傷を負うも趙雲に助けられる
>おおらかな性格で人民に好かれていた
>大の酒好きで、吹き矢の名手

これは何に書いてあるのでしょう?簡雍の事らしいですが三国志の簡雍伝に該当する文が見えませんのです。
オイラが見逃したのかもしんないけど。
孫乾 字を公祐
劉備が徐州の刺史となってからの幕僚。
曹操から逃れた劉備が、劉表の客将として荊州に入る際に、反対する蔡ボウを論破し劉備を受け入れさせる
徐庶が劉備の臣になる際には猛反発、徐庶を殺せとまで進言する
孫権の妹と劉備の結婚の時には、同席して媒酌人を務める
劉備が成都に入ると、秉忠将軍に任命される
駄洒落を好んでいたらしい
>>813
劉備がなったのは徐州刺史ではなくて徐州牧。
>新野の混乱の際に、槍傷を負うも趙雲に助けられる
そういえば、コーエーの三國志5武将FILEにそんな事がかいてあったなぁ。
あ、5じゃなくて7の武将FILEだ。
817孫乾の従者:03/06/07 20:46
 あの、ご無沙汰しています。初めての方は初めまして。
800台まで続いたのですね、あらためて感慨を覚えます。さて、

 812さまの仰っていた
>新野の混乱の際に、槍傷を負うも趙雲に助けられる
>おおらかな性格で人民に好かれていた
>大の酒好きで、吹き矢の名手    (811さまの投稿)
 は演義の話だと思います。吉川版でも背中を切られて気絶していた
 シーンがあります。でも「吹き矢の名手」は聞いたことがありません。
 他の誰かの演義なのでしょうか。

 813さまの書かれる孫乾の伝はほとんど演義での活躍内容のようです。
 孫乾伝はガッカリするほど短いのです。補足は劉表伝とテイ玄伝ですが。
 駄洒落…これも私は聞いたことがないのですが、どこに載っていたもの
 なのでしょうか。よろしければお聞かせください。

 蒼天でついに簡雍登場!の報に急いでチェックしました。
 イメージ通りで嬉しかった反面、孫乾さまはダメかな…と。
 毎度長文すみません、ではまた今度。
 
818趙統の護衛兵。:03/06/15 16:44
どうも、おばんです。厨代表ですw

蒼天28出たらみなきゃ…。
819黄緑 ◆/06cFHuang :03/06/15 18:16
なんだか懐かしい名前が並びました。このスレもまだまだイケル?

確かに、孫乾も簡雍をがっかりするほど伝が短いですね。孫乾伝、中国語原文で
7行130字程度でした。
>>813-814
孫乾伝には原文で「先主領徐州、辟為従事」とあります。これをちくまの文庫では
「先主は徐州の刺史に任じられたとき、招聘して従事とした」とあります。ここから
引用されたのではないかと。ただし、だじゃれについてはどちらも触れられていません。
なんとなくトリプ

>黄緑殿
ちょっとお話したいことがあるんで上の捨てアドに一発お願いしたいす。
821廖化の副将:03/06/16 12:55
どうもこんにちは。お久しぶりですね、大学入学その他で遅くなりました。

なんか、すごい久々にスレタイに添った議論がされてるような気がするんですが……。
822黄緑 ◆/06cFHuang :03/06/16 19:01
>>820
はぁ。了解しました。

>>819について
「辟」には君主という意味があります。これを厳密に訳の文章の中に放り込もうとすると、
君主は従事と為した、となります。これが誰でどうとか言い出すと翻訳として日本語で
読むにはやたら滅多ら長々しくなり、却って意味不明に陥りがちです。そこで、
「招聘して従事とした」という訳し方になっています。
もともと原文は簡素な文章ですから、語を補っていかなければならなくなります。ここに、
どう解釈してどんな言葉を補うかによって日本語訳の意味に訳者による解釈の微妙なズレが
生じます。(時と場合によっては全く逆の意味になることも考えられます)

ということを改めて気づかされました。このスレに感謝。

>>821
なんだかおめでとうございます。
823怨霊:03/06/16 21:17
>>822
うんにゃ。
ここでの「辟」は動詞で、一語で「召す、招く」の意味でしょう。
辞書とかにもでてますよ、その意味。
徐州牧(刺史)は君主ではありませんし。
「辟して従事と為す」と読み下します。
訳文は「辟」を「招聘して」と訳したようですな。

この頃(後漢)、「召辟」「辟召」というのがありました。
三公、将軍などが有望な官僚候補生等を自分の部下として招くもので、
招かれた官僚候補生はそこでいわば官僚の修行をしてから中央に賢良・茂才等に挙げられて治民官になってゆくのです。
孫乾も劉備に「辟召」されたのです。
824黄緑 ◆/06cFHuang :03/06/16 21:26
あ、ほんとだ、失礼。
古語辞典には「君主」の意味の次に「召集」とありました。
旧唐書の文章が引用されていますので、この召集の意味はもうしばらく後の時代
まで使われていたようですね。

ご指摘ありがとうございました。
825怨霊:03/06/16 21:49
そこで思うのですが、孫乾と簡雍、あと糜竺なんかはゲームなんかでは似た感じの能力だったり、
演義でも似たようなイメージにしかならないのでしょうが、史実ではそれぞれまるで違うタイプの人物ですね。
孫乾は先に書いたように劉備に辟召されたワケで、一歩間違えれば中央で九卿くらいには出世していたかもしれません。
劉備に従ったのが自発的なのかどうかがハッキリしないのが残念です。

一方簡雍は劉備旗揚げ時からの盟友で、なんだか人付き合いに長けた人物だったようです。
特別な教養やら何やらがあったようにも思えないのですが、劉王章にやたら好かれるなど不思議な面を持っています。
俗に言う劉備の魅力は簡雍のおかげだったのかもしれません。
三国志歴は短そうだな、怨霊タン
このスレのROM歴はもっt(略
と、いいつつ黄緑氏の間違いを正せる良コテ歓迎sage
828怨霊:03/06/17 22:14
あ、バレました?
三国志歴ッスか?ゲームの三国志で一番好きなのはギランという程度のモンです。
密かに名無しさんで書き込んでいたのはヒミツ。

簡雍と糜竺が劉備に自発的に従ったのは明らかだけど、孫乾は正直微妙かもなあ・・・。
ただ逃げられなくてついてったのかも、とか言ってみる。
既出意見ならメンゴ。
829無名武将@お腹せっぷく:03/06/18 01:35
陳群なんかは逃げた組か。
ギ、ギランって… 怨霊タン、歴は長いのねw
興味を持ったのが最近なの?
831怨霊:03/06/18 23:18
休眠期間があったからね。
光栄のだって1・2・3・4・6しかやった事ない。
横山60巻は実家にあるから見れない。蒼天は立ち読み派。
そりゃスレにかんけーなかったね。
小ネタ。既出ならゴメンして。
蜀では裏切り者として有名な士仁が劉備の出身地そばの人間だったと知りました。
荊州でも蜀でもないということは、簡雍のようにかなり早い段階で劉備の下にいたのかもしれないなあ。
832無名武将@お腹せっぷく:03/06/18 23:52
>>831
>蜀では裏切り者として有名な士仁が劉備の出身地そばの人間だったと知りました。
そうだったんだ!!
正史の何ページか教えて。

初期メンバーの士仁、
833832:03/06/18 23:55
ごめん途中で切れた。

初期メンバーの士仁、
そして初期の資金を支えた富豪出身のビホウ
(兄は重臣、妹は夫人、自分も要衝、南郡太守)が裏切ったのは、
劉備にとってかなりショックだっただろう。
別スレであったよな <士仁ネタ
835怨霊:03/06/19 00:18
おいらもそのスレにいたのだ実は。
蜀書15(蜀書のラスト)の最後の方。「士仁字君義、廣陽人也」とあるよん。
んで廣陽は燕国だかにあって、劉備の出身タクから大して離れていない。

>>833
糜芳は(この仮説が正しければ士仁も)劉備の腹心中の腹心みたいな存在だったと考えるべきでしょうからね。
糜芳は江陵、士仁は公安(荊州牧劉備の治所)、どっちも要衝にいたのだし。
836黄緑 ◆/06cFHuang :03/06/19 00:26
燕国といえば張飛の名乗りをすぐに思い出します。
>おいらもそのスレにいたのだ実は。

うん、だと思ったから書いたw
簡雍が表舞台に出るのが遅いのはやはり、多くの古参の一人に過ぎなかったからだと思います
希少品になってから目立ったのかと・・・

士仁の話は気になります
簡雍と同じ様に関張よりも古株なのか・・・それとも関張の配下(?)だったのか・・・
いずれにせよいい家系でも金持ちでもなかったとは思います
 簡 雍
 ● ○
 18 13
 総運31◎ 頭良く先見の明あり。意志も強く人の上に立つ存在。孤独運。晩婚傾向。
 人運31◎ 情熱的で気が強い。才能と出世欲が噛み合い成功。束縛を嫌う。
 外運31○ 困難を乗り越える強運の持ち主だが、孤独傾向。結婚運は○。
 伏運44× 破滅運。悪い運数です。
 地運13◎ 才知、学芸、弁舌、成功運。
 天運18○ 両親の期待を活力に夢を実現していく家柄。
 陰陽 ◎ 理想的な配列です。
相変わらずここの議論はレベル高いなぁ。

>>839
けっこう当たってるね。
841王泰明 ◆N3W4jwKdPc :03/06/29 19:26
お久しぶりです>皆様

士仁の話、大変興味深いですね。
広陽郡と言えば幽州の州治だそうで、
怨霊さまの仰るように、国として皇族の領地となる時は燕国と称されます。
公孫サンが一時期本拠にしていた薊も広陽郡にありますよね。
もしかしたら士仁は趙雲や田豫同様に
劉備が公孫サンの下に身を寄せた時に付き従った人物なのかも知れません。
この場合は、関・張・簡よりも趙雲と深い繋がりが出てきますね。

旗揚げ以来の仲間だとしても、公孫サンの旧部下だとしても、
いずれにせよ劉備と長年苦楽を共にしてきた
古参の一人には違いないのでしょうね。
だからこそ関羽とは同格であるという意識が強く、
傲慢な関羽との反目も強くなってしまったのでしょうけれど。

劉備の嘆きと怒りはさぞ深いものだったのでしょうね・・・。
842黄緑 ◆/06cFHuang :03/06/30 23:48
 別段、なにかしなければいけないというわけでもなくこれまでコテハンで書き込んできましたが、
一旦ここで辞めちゃうことにしました。
 まあそろそろとも思っていたのですが、他の方のように何もなく消えていくのも自分自身の踏ん切り
がつかないかなとも。ま、それはそれとして。
 そもそも、sage進行のスレッドに常駐してだらだらと続けていたんですが、ときたまにあがっている
面白そうな所を見つけては書き込んでいたので、不本意ながら比較的有名なほうに分類されるように
なってました。レス番号を名乗り、そしてコテハンへ。そのスレッドでは私も色々と勉強させていただいて
ました。ありがたいことです。

 ありがとね。
 じゃあね、ばいばい。

元・楊雄@コテハン考え中 改め 黄緑
>>842
あなたのようなコテハンがいなくなるのは非常に残念でなりませんが、
しょうがないですね。とりあえずお疲れ様でした。

でも、名無しでも書き込んでくださいね。
コテハンと言えばあまりいいイメージの無い三戦板、その中でも立派だった黄緑氏のような名コテが去られるのは寂しい限りです…。
学術指南コテが復帰したと思ったら、司会進行コテが去って行くなんて〜
このスレだけでも……
846王泰明 ◆N3W4jwKdPc :03/07/01 22:31
>>842=黄緑さま
久々にお話できるかもと思っていたところだったので、とても残念です。

黄緑さまの言語学からのアプローチには
教えて頂くことが大変多く、とても勉強になりました。
色々と有難うございました。
名無しさんに戻られてもお元気で。
>>842 黄緑氏

「初め有らざるは靡し 克く終わり有ること鮮し」

自分の人生訓でもあるのだけど、いまの貴方にはこの言葉がよく合う様に思う。
名コテが消えるのは惜しいけど、ほんとうに、おつかれ。
848廖化の副将:03/07/02 14:40
そうですか……。黄緑氏が去られてしまうとは、寂しいですね……。
これからもお元気で、……いや、三戦板らしく、ご武運を!!
849無名武将@お腹せっぷく:03/07/09 11:47
age
そろそろ次スレ逝っときませんか?容量がカツカツになってきました
テンプレと新しいスレタイ誰かおながいしまつ
私が立てさせてもらってもいいので
851 ◆NRtIkON8C2 :03/07/09 18:52
482KBっすか・・・。最大って512?
確かに読み込むまでが重いッス。
850さまよろしくお願いします。
【孫乾】三国時代の隠れた英雄・秘話【簡雍】
じゃあ趣旨を変えて
是儀vs胡綜
で・・・
854恩良 ◆NRtIkON8C2 :03/07/12 08:57
じゃあ両方合わせて

【孫乾vs簡雍】三国時代の隠れた英雄・秘話【是儀vs胡綜】

なんてのは?
そもそも「英雄」なんてのが間違いではない?

【劉巴vs呂乂】三国時代の隠れた逸材・挿話【是儀vs胡綜】

あたりがいいと思うんだが…。
魏の人材だと、マイナーでも呉蜀と較べて格が…。
856山崎 渉:03/07/12 17:13

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
857無名武将@お腹せっぷく:03/07/12 21:01
良スレ打ち上げ
858王泰明 ◆N3W4jwKdPc :03/07/12 23:39
855様のスレタイに一票。
ただ個人的には、孫乾と簡雍の二人の名は
このスレの象徴でしたので、
次スレにも引継ぎたい気がします。
859恩良 ◆NRtIkON8C2 :03/07/12 23:43
ワタクシも「隠れた逸材・挿話」という表現の方が宜しいと思いました。
次スレなんだし孫乾vs簡雍は残しつつ。検索とかの関係もあるだろし。
ではスレタイは

【孫乾vs簡雍】三国時代の隠れた逸材・挿話【是儀vs胡綜】

でFA?

テンプレは〜?
妙に影の薄いヤツらについて語るスレ。


で充分
862850:03/07/13 01:10
次スレ立てたよ
【孫乾】三国時代の隠れた逸材・挿話【簡雍】
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1058026176/

サブジェクトが長すぎますってエラーが出たんで(出ると思ったが)
タイトル変えますた
スレ立て、乙カレー
864怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/13 01:53
スレ立てありがとう。
865王泰明 ◆N3W4jwKdPc :03/07/13 22:27
スレ立てお疲れ様です。
現在485kB
867山崎 渉:03/07/15 12:09

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
次スレもたったことだし。1年半の長寿スレになるとも思わなかったな。
埋めるべきなんかな。
>>870
480KBを越えているし、ゆるゆると過ごしていけば自然に落ちるでしょう。
それもまたこのスレらしいのではないかと。
1000到達の場合と違って、dat落ちの場合は即日で落ちてしまうので、
いまのうちにミラーを取っておくのがよいかもしれませんね。
自己レス。
とりあえず、現時点でのミラーを取っておきました。
ここが落ちたら、新スレの方にも持って行きましょう。

孫乾 vs 簡雍
http://dempa.2ch.net/dat/2003/07/warhis-1011019416.html
>>871氏 サンクス
じゃあもうこのスレは残り容量も少なくなってきてるし
このまま適当にdat逝きということで
>>871
ありがとう。

>>孫乾
ありがとう。

>>簡雍
ありがとう。

さようなら。
874無名武将@お腹せっぷく:03/07/25 03:25
kojima
futoshi?
876無名武将@お腹せっぷく:03/07/25 11:04
王坑はぁ〜?
尹黙はぁ〜?
董和はぁ〜?
費観はぁ〜?
劉巴はぁ〜?

だれかキボンヌ
>>876

すでに次スレが立っているのでそちらでどうぞ

【孫乾】三国時代の隠れた逸材・挿話【簡雍】
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1058026176/
法バク
なんで、この両名がバトルをするんだ?
全然バトってないですw
既に次スレに移っているので、宜しければ>>877にどうぞ。
     ∧_∧  ∧_∧
ピュ.ー (  ・3・) (  ^^ ) <これからも僕たちを応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄〕
  = ◎――――――◎                      山崎渉&ぼるじょあ