1 :
人間七七四年:
2 :
人間七七四年:2010/01/10(日) 18:36:38 ID:HWszEABz
3 :
人間七七四年:2010/01/10(日) 22:08:30 ID:p9f4QgtP
>>1さん乙です
諱はその人の魂につける名前だから
生きている間は呼ぶのをはばかられたって聞いたことあるけど
どうなんでしょう?
4 :
人間七七四年:2010/01/10(日) 22:11:10 ID:VFaW1gqh
5 :
人間七七四年:2010/01/10(日) 22:11:12 ID:20cO0w+7
上位の人間が公的な場で呼ぶ分には問題ない。
6 :
人間七七四年:2010/01/10(日) 22:23:29 ID:p9f4QgtP
>>4,5
相手との関係や状況によって違ってくるんですね
勉強になりました、ありがとうございます!
7 :
人間七七四年:2010/01/10(日) 23:03:39 ID:Ct3ebAC2
前スレでも言われてたけど、今だってあまり親しくない人を呼び捨てにはしないだろう、って事
8 :
人間七七四年:2010/01/10(日) 23:15:31 ID:UIUr7N8G
敬称を付ける付けないの問題じゃなくて
本名を声に出して呼ぶのは憚られるってことでしょ
そのために仮名がある
9 :
人間七七四年:2010/01/10(日) 23:29:02 ID:Ct3ebAC2
え?
例えば山田五郎さんがいたとして、親しくなかったら例えさん付けでも下の名前じゃ呼ばなくね?
「山田さん」とは呼んでも、「五郎さん」とは呼ばないだろう、って。
そういう事だと思ったんだが?
じゃあどう呼ぶの、ってのも、前スレで散々出てたし。
今でも「山田部長」「大阪の」(大阪に住んでる山田さん)「ゴロちゃん」とか呼んだりは普通にする。
10 :
人間七七四年:2010/01/11(月) 00:34:20 ID:NovNEawN
親しい人でも名前を呼ぶのは憚られるってことだろw
根本的に間違ってないか?w
11 :
人間七七四年:2010/01/11(月) 00:35:02 ID:LeRZTjWG
現代なら親しくなれば下の名前で呼ぶ事もあるけど諱は親しくなったとして呼ばれないって事じゃない?
12 :
人間七七四年:2010/01/11(月) 00:36:13 ID:0ekTD9HL
>じゃあどう呼ぶの
そのために仮名がある
13 :
人間七七四年:2010/01/11(月) 00:41:44 ID:JbNS+UPN
14 :
人間七七四年:2010/01/11(月) 00:58:44 ID:f5J/5SHq
諱を呼ばないって文化を現代に例えるのは無理があるよ
15 :
人間七七四年:2010/01/11(月) 06:59:28 ID:HvOOoCPw
986 人間七七四年 2010/01/10(日) 17:17:12 ID:HWszEABz
秀吉遺言状の宛名は、いえやす(徳川家康)ちくせん(前田利家)てるもと
(毛利輝元)かけか津(上杉景勝)秀いへ(宇喜多秀家)だな。
秀吉は五大老を呼び捨てだな。
16 :
人間七七四年:2010/01/11(月) 08:49:05 ID:kjPs9m4s
17 :
人間七七四年:2010/01/11(月) 14:23:41 ID:LcQUzeVm
18 :
人間七七四年:2010/01/11(月) 20:09:00 ID:P83UBwin
さすがに利家には気を使ってるな。
19 :
人間七七四年:2010/01/11(月) 23:39:33 ID:rlOr9QLi
名前をとっさに思い出せなかっただけだったりして
20 :
人間七七四年:2010/01/12(火) 21:11:01 ID:Jt8oJE2g
利家がやたらいじられるのはなぜですか?
21 :
人間七七四年:2010/01/12(火) 21:16:49 ID:vM7Fyhd1
利家と秀秋と光秀は日本史の恥部
22 :
人間七七四年:2010/01/13(水) 03:31:23 ID:otAMSufq
宇喜田とかで有名な八丈島ですが
戦国時代はだれが統治していたんですか?
23 :
人間七七四年:2010/01/13(水) 03:40:27 ID:64mCZX0X
幕府の代官
24 :
人間七七四年:2010/01/13(水) 04:20:24 ID:otAMSufq
江戸時代じゃなくて戦国時代
種子島氏みたいなのいなかったの?
25 :
人間七七四年:2010/01/13(水) 10:56:30 ID:64mCZX0X
だから幕府の代官。
正確に言えば幕府から委任を受けた関東管領の代官。
26 :
人間七七四年:2010/01/13(水) 14:06:27 ID:0hxAovgg
>>24 関東管領が派遣していた代官に変わり北条早雲が派遣して、以後北条家の領土となる。
北条が滅んでからは徳川家が派遣する。
秀家が送られた時は徳川の代官。
確か『戦国宇喜多一族』に、北条早雲が長戸路家を派遣したとあった
28 :
人間七七四年:2010/01/13(水) 14:54:02 ID:gW7MhyY8
淀は信長と市の子
竹千代は家康と春日の局の子
という説をみなさんはどう思いますか?
みなさんのご意見を聞かせてください
29 :
人間七七四年:2010/01/13(水) 15:12:06 ID:64mCZX0X
SFと言っていいレベルの妄想
30 :
人間七七四年:2010/01/13(水) 15:49:31 ID:W+Aq14uM
世界史板には通称ホモ吉というのがいて「カルタゴの同性愛文化について教えて
ください」とか「ハンニバルは逞しい青年を愛でたというのは本当ですか?」とか
書いて回るんだよ。いや、それだけ。
31 :
人間七七四年:2010/01/13(水) 16:42:32 ID:hn9QdLMS
32 :
人間七七四年:2010/01/13(水) 17:10:57 ID:gW7MhyY8
無言でテレビを消したうちの嫁より穏やかな回答ありがとうございましたw
33 :
人間七七四年:2010/01/13(水) 17:26:53 ID:qJU+XmUM
イイヨメダナー(;∀;)
34 :
人間七七四年:2010/01/13(水) 17:28:01 ID:hQnZVUAD
宇喜多秀家は徳川の臣になることを条件に赦免されるはずが、
当人がそれを拒否したという話を聞いたんですが。
当人はともかく、子孫ならその条件で降ってもいいような
気がするんですが。
なんで幕末まで島流し状態だったんでしょう?
35 :
人間七七四年:2010/01/13(水) 18:23:15 ID:W+Aq14uM
>>32 貴方の嫁ってひょっとして実の妹?
というレベルの話だろ。下世話に過ぎる。
36 :
人間七七四年:2010/01/14(木) 02:41:52 ID:I99Ec3BP
>>35 ただ、こういうのを平気でウィキペディアなんかに書き込む奴がいるってのに
驚かされる。
そもそも八切止夫だってネタだっていう前提で言ってただろうしw
37 :
人間七七四年:2010/01/14(木) 04:44:36 ID:ftDUpBlo
八切はガチで妄想を語る。
そしてそれを井沢みたいなのがすげーと称える。
38 :
人間七七四年:2010/01/14(木) 09:10:35 ID:atwj6awi
まあ冷静に考えればどう考えたっておかしいユダヤの世界支配とか陰謀論とかを
ガチで信じてる気の毒な連中も多いわけで。
39 :
人間七七四年:2010/01/14(木) 13:16:04 ID:gbe5HsbY
>>34 秀家が家臣になることを拒否した時、本土へ帰って加賀藩の世話になった人もいる。
徳川の恩赦もこの一度限りで、明治の大赦まで、刑は解かれなかった。
40 :
人間七七四年:2010/01/14(木) 19:01:11 ID:WWlZ2vtj
歴史小説や時代小説以外にも
作中で歴史や歴史上の人物に触れることがありますが
その場合、それらの知識がなくても問題なく読み進められる場合が多いです
しかし知っていれば更に楽しめると思い
わからないことはネットで調べたりしているのですが
どうせなら他にも色々調べてみようと思い本を探しています
用語の解説が詳しくのっている本があれば教えてください
41 :
人間七七四年:2010/01/14(木) 19:11:28 ID:atwj6awi
>>40 とりあえず、どこの出版社でもいいが、なるべく新くきちんとした歴史家によって編纂された
「日本の歴史シリーズ」の自分の知りたい時代の巻から始めるのがいい。
42 :
人間七七四年:2010/01/15(金) 00:14:15 ID:Jx34a3uM
>>39 つまり子孫は秀家の意地の巻き添えですか。
可哀想に。
43 :
人間七七四年:2010/01/15(金) 13:42:00 ID:UVq584+j
江戸時代、罪人が島流しの刑を受け、八丈島と聞くとホッとしたと言われている。
(最悪は佐渡)
秀家の功績は島の知的水準をかなり高いものにしたということだろうと思う。
島帰りの元罪人の口からもその話は本土に広まっていたと考えられる。
秀家が84歳まで長生きしたということは、心身ともに健康だったということだろう。
可哀想というが、明治の大赦のあと島に戻っていった人も何人かいるから、
そう悪くなかったと思う。
44 :
人間七七四年:2010/01/15(金) 20:13:26 ID:7u0OfhO5
ナチスドイツ軍みたく犬部隊って無かったんですか?
猛牛を突撃させる奇襲はあったみたいですけど
ちゃんと回収(勝手に戻ってくる?)していたのですか?
45 :
人間七七四年:2010/01/15(金) 20:18:21 ID:J9JXBIrV
>>44 太田資正は軍用犬を育成、使用していたらしい。
あと
> 猛牛を突撃させる奇襲
北条早雲の小田原攻めとかのことだと思うが、アレは後世の軍談講談の創作。
実際にはそんな事実はない。
46 :
コピペ:2010/01/15(金) 21:02:30 ID:Qa2K4Fte
『源平盛衰記』ではこの攻撃の際に義仲軍は数百頭の牛の角に松明をくくりつけて
敵中に放ったと言われるが、この戦術が実際に使われたかどうかは疑わしい。
おそらく中国戦国時代の斉の武将田単の火牛の計を参考に後世脚色されたもので
あると思われる。
47 :
人間七七四年:2010/01/16(土) 11:55:15 ID:Rk6c+clw
>>44 太田資正が伝令用に数頭の犬を使ったという記録はある。
48 :
人間七七四年:2010/01/16(土) 13:16:46 ID:In8JqLPZ
江戸時代に大阪の八尾市辺りを収めてたのは何家(何藩)ですか?
自分のルーツが八尾市辺りの武家の分家らしいので
49 :
人間七七四年:2010/01/16(土) 14:08:02 ID:IDWtn/N5
50 :
人間七七四年:2010/01/16(土) 15:26:13 ID:9mDECEhE
戦国に興味を示し始めた友人に、紹介する本を探しております
とりあえず、隆慶の一夢庵と司馬太閤記、国盗あたりを勧めようかと思うのですが
ほかに、これオススメってのありませんか?
信長、家康、秀吉は知ってる!って自信満々だったので、検証が正しいとか気にしないと思われます
単純に物語として面白いものであれば良いかと思っております
何か戦国時代導入に適したものを、教えて下さい
51 :
人間七七四年:2010/01/16(土) 15:35:26 ID:ZYcHOQUs
52 :
人間七七四年:2010/01/16(土) 15:48:14 ID:9mDECEhE
おっと、そうですね、そうします
誘導感謝します
ありがとうございました
53 :
人間七七四年:2010/01/16(土) 18:17:43 ID:+GOgm4VM
54 :
人間七七四年:2010/01/17(日) 13:05:30 ID:nzfDT6cQ
>>48 八尾は複雑だ。
場所によって高安藩か岡田藩。
市役所に資料があるよ。
55 :
人間七七四年:2010/01/19(火) 19:46:34 ID:8kjSWqga
学術書などを読むと、佐竹義重の娘は
江戸実通室(のち高倉永慶室)だけとなっていますが
wikiでは他にもう1人(岩城常隆室)いたことになっています。
どちらが本当ですか?
56 :
人間七七四年:2010/01/20(水) 12:25:34 ID:JegZKg1o
>>55 この流れは、
岩城常隆の正室は二階堂盛義の娘で嫡男・隆道が生まれた。
佐竹の圧力でこの正室が離縁させられ、継室として佐竹義重の娘が嫁ぐ。
岩城常隆が小田原の陣の直後急死し、秀吉の意向もあって義重の三男・貞隆が岩城家を継ぐ。
隆道は追放され、伊達成美の室になっていた母の元に逃れる(政隆に改名、伊達の家臣となる)
後に貞隆は佐竹義宣の養子となり秋田佐竹家を継ぐことになる。
というわけで、もう一人娘がいたということになるが・・・・
57 :
人間七七四年:2010/01/20(水) 12:38:18 ID:JegZKg1o
訂正
すまん、佐竹を継ぐのは貞隆の息子だった。
58 :
人間七七四年:2010/01/20(水) 17:21:25 ID:wqcS0o+c
自分もそこが気になっていた。<娘1人説・2人説
佐竹は伊達や上杉と比べて地味な大名だから
たぶん土居輝雄氏や渡部景一氏あたりが
今のところ佐竹氏研究第一人者ってことになるんだろうが
両氏とも義重娘1人説を採っているんだよなあ…
(どうでもいいが土居氏の「義重長女の名=なす」はどこから来たんだろう??)
59 :
人間七七四年:2010/01/21(木) 03:59:31 ID:cF4bjKuF
宇喜多秀家が関ヶ原で負けたあと東軍の武将から助命嘆願がたくさんでたって聞いたんですが
本当でしょうか?
具体的にどの大名からでたとか分かりますか?
朝鮮の役で立花への発言とかであんまり好かれなさそうなんで意外なんですが
60 :
人間七七四年:2010/01/21(木) 11:59:10 ID:M7mOXZAZ
「なす」は義宣の妻「正姫(那須氏)」の通称だと信じていたが、
そうじゃないのか?
61 :
人間七七四年:2010/01/21(木) 12:41:02 ID:PVnjMd2y
義宣の最初の正室=正洞院の名前は今のところ不明。
土居氏は著書(not小説)の中で、義重には娘が1人しかおらず
その娘の名前は「なす」だとしているんだけど、
根拠となる史料が何なのかはっきりしない。
62 :
人間七七四年:2010/01/21(木) 15:30:47 ID:M7mOXZAZ
「義重の娘が嫁いだ高倉永慶の次男・義隣に、佐竹北家を継がせた」
「岩城常隆の継室として佐竹義重の娘が嫁いだ」
この二つは史実で、同じ娘ではない。
後者が養女ならつじつまが合う。
63 :
人間七七四年:2010/01/21(木) 15:38:05 ID:B74ML9wy
大名に娘がいない場合、重臣の娘を形式的に養女にして
他家に嫁がせるのはよくある話ではあるが。
64 :
人間七七四年:2010/01/21(木) 16:35:25 ID:J0qz5NzJ
伊達稙宗みたいに、子宝に恵まれた人ばっかりじゃなかったしね。
65 :
人間七七四年:2010/01/21(木) 17:17:41 ID:V7aLGsBc
家譜や系図類でも義重の娘は一人だし、実子の娘は一人であると見た方が自然だね
例えば宇都宮国綱の室は佐竹義久の娘だが、義重の養女になって輿入れしているし
他に養女がいたとしても不思議ではない
66 :
人間七七四年:2010/01/22(金) 16:10:48 ID:rg1wN5o0
漫画などで忍者・農民などが
「足首〜脛に布を巻きつけている」
「なのに裸足」
というスタイルであることが多いですが、
あれは何か由来があるのでしょうか?
(普通に考えれば足に巻きつけたほうが歩きやすいような…)
実際にそのようなことをしていたのかどうか、
していたとしたら何故かお教えください。
67 :
人間七七四年:2010/01/22(金) 16:20:45 ID:SXgNEXyC
膝から足首に布を巻くのは袴の裾を固定して農作業時に動きやすく、またはねた泥などが
着物の内側に入らないようにするため。
今農作業の時に長靴を履くのと一緒。
忍者がそういう格好なのも、裾をひらひらさせないように、って理由でしょう。
68 :
人間七七四年:2010/01/22(金) 18:45:04 ID:JRHDzDbd
>>66の質問は
「着物は膝丈のつんつるてん&生足の状態で
何故脛にだけ布を巻きつけているのか?」
という意味じゃないかな。(違ってたらゴメン)
考えた事もなかったが、言われてみればそうだな。何故だろう?
弁慶の泣き所をガードしているのかな。
69 :
人間七七四年:2010/01/23(土) 11:50:40 ID:FtYq2xf8
>コピペ
脚絆には、脛部分を保護すると共に、脛やふくらはぎ周辺の血管に圧力を加えて
下肢に血液が滞留することを防ぎ、疲れを軽減する働きがあり、
長距離を歩く際の旅や農作業の必需品とされ、
飛脚や鉱夫のように脚を駆使する仕事にも使われました。
脚絆にはまた、道が舗装されていなかった時代、
やぶ蚊や蛇に噛まれたり、下草や枝葉などで摺り傷を負ったり、
泥や埃・雪などがズボン(股引)や履物に入ることを防ぐ効果もあります
70 :
人間七七四年:2010/01/24(日) 15:46:17 ID:tjqdAsix
室町時代の大名家の格式はどのような順序だったのでしょうか?
有力どころと言えば下記でしょうか?
足利将軍家・関東公方・三管領(細川・畠山・斯波)・四職(京極・山名・赤松・一色)・土岐・六角・大内・上杉・今川
また佐竹・武田はこれらより格下だったのでしょうか?
71 :
人間七七四年:2010/01/25(月) 15:44:37 ID:fRlupSp/
ゲームの話題に関連しますがご容赦願います。
室町後期や戦国時代の家宝の価値とくに名物茶器の価値は高く、
上野一国よりも「珠光小茄子」のほうを滝川一益は欲したと言われています。
ゲームには茶器以外にも武具や書物や水墨画とかありますが
これらは名物茶器と比べてどのくらい価値があったのでしょうか?
茶器だけが突出して価値が高かったのでしょうか?
72 :
人間七七四年:2010/01/25(月) 16:36:45 ID:bLnMorph
>>71 > 上野一国よりも「珠光小茄子」のほうを滝川一益は欲したと言われています。
この話は、当時の茶の隆盛を表す根拠としてよく言われるが、一益としても本気でそう言ったのではなく、
ちょっとした大言壮語だと考えられる。あまり真に受けない方が良いかと。
あと、茶器、武具、書画のそれぞれの価値だが、それぞれに「名物」と呼ばれるものは
何れも、それこそ金銭に変えられないほどの価値を持っていた。
茶器は当時の新興芸術だったので、目立つだけ。
73 :
人間七七四年:2010/01/25(月) 16:52:43 ID:fRlupSp/
>>72 なるほど
じゃあやっぱり茶器なんかより侍として実用的な刀とかのほうが
一般的には貰ってうれしいというか重宝されていたわけですね
74 :
人間七七四年:2010/01/25(月) 17:06:44 ID:aOSbxmnr
>>73 松永久秀のような例もあるし、その辺は一概に言えないんじゃないか。
75 :
人間七七四年:2010/01/25(月) 17:12:31 ID:bLnMorph
当然のことながら武士にとって一番嬉しいのは土地をもらうことね。
76 :
人間七七四年:2010/01/25(月) 17:24:43 ID:MNVa7UZF
土地は有限だから、代わりに名物を与えるようになっていったんでしょ。
77 :
人間七七四年:2010/01/25(月) 17:33:15 ID:kjUi1PKy
その時の滝川は、おじいちゃんだから
知りもしない領地より茶道具欲した気持ちもわからんでもない
隠居する前に最後の功を上げないか的な言葉を信長から貰っているしな
78 :
人間七七四年:2010/01/25(月) 20:23:29 ID:ALy+fBxl
茶器オタク、刀剣オタク、絵画オタクどれも代表的なのが居るね
健康オタクなんてのも居るし、趣味は人それぞれってことでしょうか
モノの価値って、欲しがる人間が居るから価値が出るわけで
京周辺や遠国の大名なんかでは、価値観が大きく違ってたんじゃないかな
そういった意味で
>>72が正解な気がする
79 :
人間七七四年:2010/01/25(月) 22:11:17 ID:fRlupSp/
一律で忠誠が上がる信長の野望よりも
趣味に合わなければ好感度がほとんど上がらなかった
太閤立志伝のほうがリアルに近かったようですね
80 :
人間七七四年:2010/01/27(水) 21:28:37 ID:sWhYbGoQ
織田家の版図について質問です。
おおまかな年代ごとの織田家の版図をまとめたサイトはないでしょうか?
丹後とかいつの間に手に入れていたのかとかわかりにくいので
絵で見た方が理解しやすいかと思っています
81 :
人間七七四年:2010/01/28(木) 00:10:06 ID:p0O9EyRo
>>80 自分で作れば?
白地図に年代ごとに色を塗っていくだけだからそんなに手間もかからんだろ。
82 :
人間七七四年:2010/01/28(木) 12:19:33 ID:SBZ+tkhY
>>80 そんなもん無理
光秀の丹波攻略も一気に裏切りにあって、支配地が明確でない時期もあったんだから
それでもやりたいというのであれば、お前のみのオナニーでやっておれば良い
83 :
人間七七四年:2010/01/28(木) 15:20:27 ID:xJ4ERO5n
そもそも信長が何年に伊勢を取ったのか確定してないんじゃなかったか
84 :
人間七七四年:2010/01/28(木) 18:00:00 ID:1zu8GhT9
伊勢はわりとはっきりしている方じゃないか?
85 :
人間七七四年:2010/01/29(金) 08:36:56 ID:0dBcZ6WF
はっきりしないのは美濃じゃなかったかな。義龍死後のグダグダ状態の中で
信長がいつ稲葉山城を取ったのかが資料によってばらばら。
86 :
人間七七四年:2010/01/29(金) 12:18:02 ID:18WfL/u0
>>80 1546年元服
1548年結婚
1549年正徳寺会見
1551年家督
1555年守護代織田信友殺害(清州奪取)
1556年長良川の戦い
1557年織田信勝殺害
1559年宗家織田信賢追放(岩倉奪取)
1560年桶狭間の戦い
1561年斎藤義龍病死
1562年清洲同盟
1564年浅井長政と同盟
1567年斎藤龍興追放(美濃奪取)
1568年六角義賢・義治追放(南近江奪取)、
上洛し、三好義継・松永久秀・池田勝正降伏(山城・摂津奪取)
1569年北畠具教幽閉(北伊勢奪取)
1570年金ヶ崎の戦い。第一次信長包囲網。姉川の戦い
三好三人衆挙兵。長島一向一揆。勅命で浅井・朝倉と和睦
1571年比叡山焼き討ち
1572年三方ヶ原の戦い
1573年武田信玄病死。足利義昭追放
朝倉義景、浅井久政・長政自刃(越前、北近江奪取)。松永久秀降伏(大和奪取)
1574年一向一揆により越前失陥。長島一向一揆鎮圧
1575年長篠の戦い、越前奪回
1576年安土城の築城開始(1579落成)。波多野秀治、石山本願寺再挙兵、第一次木津川口の戦い
1577年松永久秀がまた裏切って自爆。信貴山城の戦い。手取川の戦い。
1578年上杉謙信病死。御館の乱の間に能登、加賀奪取。第二次木津川口の戦い
1579年波多野秀治処刑(丹波奪取)。荒木一族処刑。宇喜多直家服属。松平信康自刃
1580年本願寺石山退去。播磨、但馬奪取。佐久間信盛、林秀貞、安藤守就追放。
1581年因幡、淡路、伊賀奪取。
1582年武田滅亡(信濃、甲斐、上野奪取)駿河は徳川家康。本能寺の変
自分でつくれ。飛騨とかいまいちよくわからんかった
87 :
人間七七四年:2010/01/29(金) 12:25:40 ID:18WfL/u0
しかし1567年以降はゲームの如く
ものすごい勢いで勢力が拡大していっているな
88 :
人間七七四年:2010/01/29(金) 12:33:06 ID:DVghC3Yd
>>87 まあな
そこが信濃一国でてこずったアホ信玄との違い
89 :
人間七七四年:2010/01/29(金) 12:35:08 ID:DVghC3Yd
> 1577年松永久秀がまた裏切って自爆。信貴山城の戦い。手取川の戦い。
手取川の戦いなんかなかったのが今や定説なんだがね…
90 :
人間七七四年:2010/01/29(金) 12:39:44 ID:fIrKEFnt
気持ちの悪い信長厨が出たぞー
91 :
人間七七四年:2010/01/29(金) 13:00:10 ID:18WfL/u0
>>89 それよりなんで最近になって軍神とか言われるようになったんだろうね?
92 :
人間七七四年:2010/01/29(金) 19:06:50 ID:A0pNKQzr
毛利輝元と毛利秀包みたいに「甥(姪)よりも年下の伯父(伯母)」の場合、
普段どういう風に接していたのだろうか? 他人には解らない確執とかありそうだけど。
93 :
人間七七四年:2010/01/29(金) 19:26:30 ID:CBti2l7a
甥よりも年下の伯母だとエロゲのネタに(ry
94 :
人間七七四年:2010/01/30(土) 00:26:40 ID:Kz9mLyfX
>>92 甥が当主の嫡男なら、甥=主(次期主)・伯父伯母=家臣筋になるのでは
伊達政宗と伊達成実の場合がそうだった(でもこれは良い例じゃないね)
95 :
人間七七四年:2010/01/30(土) 08:56:48 ID:2eCajrjb
中国だと、爺さんの甥が子供の伯父を伯父様なんて敬語で呼んだりして
徹底してるけど、日本はその辺が曖昧になりがちで確執の種になりそうだね。
96 :
人間七七四年:2010/01/30(土) 15:08:28 ID:0NX3MFaE
徹底してればしてたで確執の種にはなるだろうさ
97 :
人間七七四年:2010/01/31(日) 20:36:57 ID:xb1LszcS
柳沢元政の父を調べたところ柳原新右衛門と柳沢信景の二人の名前がありました。
柳原新右衛門と柳沢信景は同一人物なのでしょうか?
柳原家は公家です。
柳沢家は武家です。
別人だとすると、元政の父はどっちなのでしょうか?
父が柳沢信景と言うことになると、柳沢吉保と繋がりがあるみたいですが…
98 :
人間七七四年:2010/02/01(月) 12:11:36 ID:/CBqBGWL
99 :
人間七七四年:2010/02/01(月) 12:39:37 ID:ua60XdSc
>>98 伊東長次の誤植かもね。
この人は後に七手組の一員になっている人
100 :
人間七七四年:2010/02/01(月) 14:43:20 ID:/CBqBGWL
101 :
人間七七四年:2010/02/01(月) 16:52:00 ID:wx6v/1Nf
質問なのであげ
校合雑記を探してるんですが、活字化されて収録されてる本はありますか?
国会図書館で「校合雑記」で検索しても出てこなかったのです
ご存じの方がいらしたらよろしくお願いします
102 :
人間七七四年:2010/02/02(火) 19:05:53 ID:KTMj8vGB
そういうマジ質問は日本史板で聞きたまえ
しょせんここは歴ヲタ板
103 :
人間七七四年:2010/02/03(水) 04:24:58 ID:sV6uMNOb
兄弟盃みたいな儀式ってあったのでしょうか
精神的な上下関係というか
あくまで官職による官僚的な上下関係で割り切っていたのでしょうか
104 :
人間七七四年:2010/02/03(水) 07:21:30 ID:KQyE0mf/
105 :
人間七七四年:2010/02/03(水) 08:17:26 ID:8JPHXEWr
106 :
人間七七四年:2010/02/03(水) 09:49:36 ID:yZnmOZs5
養子・猶子ならよく聞くが義兄弟は聞いたことないな。
107 :
人間七七四年:2010/02/03(水) 11:14:21 ID:6NnC+pio
>>102 そうか、ありがとう
日本史板に行ってくるよ
108 :
人間七七四年:2010/02/03(水) 11:41:17 ID:Gs7tJQvY
織田信長が造らせた鉄甲船は、当時の記録が少なく
船体寸法や運用方法 石山合戦後の行方 などは
よく分からない と知りましたが、実際はどうだったのですか?
木造鉄板張りの浮き砲台?
造船所から戦場予定地までは曳航?
戦闘終了で解体?
建造に2年の歳月と莫大な費用(九鬼兵糧)が掛かったらしいですが、
何故記録が殆んどないの?
109 :
人間七七四年:2010/02/03(水) 11:45:56 ID:xinkw1s9
>>108 > 何故記録が殆んどないの?
実際には存在しなかったからです
110 :
人間七七四年:2010/02/03(水) 11:50:05 ID:yZnmOZs5
存在期間が短かった。そもそも安土城のこともよく分からんし、太田牛一が
信長公記書いてくれなかったら信長のことは分からんことだらけだったね。
111 :
人間七七四年:2010/02/03(水) 12:36:43 ID:Gs7tJQvY
>>109さん
>>110さん ありがとうございます。
存在期間が短かったという事は、鉄板が海水で腐っていくのを
もったいなく思ったり、木材を再利用しようと考えたりして
作戦終了後 日を置かず解体したって事ですか。
よくよく思うに、「安土城天主の吹抜け」や「鉄砲三段撃ち」
「本能寺の変の真相」 など 判らない事が多い武将ですね。
ありがとうございました。
112 :
人間七七四年:2010/02/03(水) 12:52:28 ID:xinkw1s9
そもそも『鉄甲船』に関しては、敵であり実際に被害を受けたはずの毛利方に何の記録も無く、
毛利水軍を「大敗」させたという第二次木津川口の戦いの後も、毛利は普通に海から本願寺に
兵糧を入れている。織田は制海権を全く取れていない。
実際に毛利水軍が大阪湾に入れなくなるのは、秀吉による中国侵攻が進展し、
「陸」の拠点が織田勢力圏に取り込まれてからで、織田水軍、鉄甲船の存在とは
殆ど関係が無い。
さらに言えば、「鉄甲船」を運用したはずの九鬼家にすらその運用記録が一切残っていない。
鉄甲船のような特殊な船なら、特殊な運用、戦術が必要だったと容易に想像出来るのに、である。
以上のことから、信長の『鉄甲船』なるものは、信長のプロパガンダ上にのみ存在した
でまかせの存在か、仮に存在したとしても何の役にもたたず、敵方である毛利の視界にすら
入らなかった欠陥兵器だった、と考えるべきでしょう。
113 :
人間七七四年:2010/02/03(水) 13:01:51 ID:zWsJBzFD
114 :
人間七七四年:2010/02/03(水) 13:02:39 ID:zWsJBzFD
ふと思ったのですが、こういった嘘本当などについて語るスレってありますか?
115 :
人間七七四年:2010/02/03(水) 14:24:25 ID:5xfHKDM9
>>114 ないよ
君がそのスレを立てれば良いのでは?
116 :
人間七七四年:2010/02/03(水) 14:31:39 ID:HImCvja4
117 :
人間七七四年:2010/02/03(水) 19:33:09 ID:yZnmOZs5
>>111 短期間で解体され、その木材で小型船を多数作ったらしい。少なくとも、あまり
戦力にならなかったのは本当だろうね。いくら火力と防御力があっても、軍艦は
機動力がなければダメ、という歴史上何度も繰り返されたお話でした。
118 :
人間七七四年:2010/02/05(金) 03:27:49 ID:ndur+1Wj
毛利元就についての書籍でおすすめありますか?
119 :
人間七七四年:2010/02/05(金) 03:51:22 ID:nLjHgKW6
>>118 池享氏の「 知将・毛利元就―国人領主から戦国大名へ 」あたりがいいのでは
120 :
人間七七四年:2010/02/05(金) 18:51:57 ID:bAq126pP
秀吉って字の読み書きが出来るんだから百姓じゃないんじゃないの?
母子家庭だったから貧乏だったってだけで
121 :
人間七七四年:2010/02/05(金) 19:15:41 ID:nLjHgKW6
122 :
人間七七四年:2010/02/05(金) 21:35:22 ID:ICzQYj9d
かへすがへす秀よりの事たのみ申候
123 :
人間七七四年:2010/02/05(金) 22:07:01 ID:YgmdNZ8n
>>120 再婚して秀長をこさえてるのは無視ですか。
まず母子家庭ってのは間違い。
それに百姓ってもピンキリだしなあ。
あと村は村の権益を守るために武装して武力抗争に発展したり、
有事にそなえて方々に書状を出すという外交行動もしていたり、
村ってのはプチ国家なんだよ。
で、秀吉の父親は足軽をしていたと言う説があるけど、
それが本当ならば指導層に属するわけで、比較的裕福な層に属することになる。
124 :
人間七七四年:2010/02/05(金) 22:23:13 ID:nLjHgKW6
この時代漠然と「百姓」と呼ぶ場合は、自分の土地を持ち数名以上の下人を抱え、
村落における自治の「参政権」を持った指導層の事を指す。近代的な用語で言うと
「ブルジョア」に近い感覚。
下の階級からは「百姓様」と、様付けで呼ばれた。
当時の庶民には「百姓様ほどになりたし」なんて言葉があったくらい。
125 :
人間七七四年:2010/02/05(金) 22:40:17 ID:jKRCkHMD
現代だって、例えば欧米で単に「農業をやってる」っていえば、広大な土地を持ってて、
従業員をたくさん雇ってるような人を指すのが普通だからなぁ。
日本だと何故か農家=貧乏小作人みたいなイメージが…
小作人=貧乏ってのも時と場合によるし。
126 :
人間七七四年:2010/02/05(金) 23:30:17 ID:wJLZa5nA
>>124 便乗だが、
下層の農民は何と呼ばれてたの?
127 :
人間七七四年:2010/02/05(金) 23:41:52 ID:ACFSRBEV
下層の農民は位置的に小作人でしょ。
128 :
人間七七四年:2010/02/05(金) 23:43:26 ID:FHjnpjR1
>>125 日本では戦後の農地解放で、小規模で貧乏な農家ばかりになったせいだな。
129 :
人間七七四年:2010/02/05(金) 23:52:30 ID:Ni+dtMW0
江戸時代では忠臣蔵とか刃傷沙汰あったりしますが
統一後の豊臣時代って刃傷沙汰あったんでしょうか?
今まで戦していて遺恨とか激しそうですが
やっぱり近い大名とかは登城とかでもそれなりに配慮とかがあったんでしょうか?
130 :
人間七七四年:2010/02/06(土) 00:34:24 ID:NoMs5Lwj
>>126 村落において自分の土地を持たない、もしくは土地があっても小さく小作をしないと
食っていけないような層は「小百姓」「小作人」「間人(もうと)」などと呼ばれた。
>>129 合戦に近くなるが七将による石田三成襲撃とか。
131 :
人間七七四年:2010/02/06(土) 00:43:19 ID:dPvcSpTD
刃傷沙汰は水野勝成がよくやる事
132 :
人間七七四年:2010/02/06(土) 04:58:25 ID:+pa1HS95
黒田長政と細川忠興とか
133 :
人間七七四年:2010/02/06(土) 12:07:21 ID:IxA7RKH8
千葉邦胤(1557〜1585)
下総千葉氏・第29代当主。正室は北条氏直の養女(氏政の娘で、氏直の妹)。
兄が反北条の姿勢を見せた事から、家臣団によって追放された後、家督を継ぐ。
以後、親北条の姿勢を取り、1582年に滝川一益が関東へ進出した際も信長への使者の派遣を拒絶している。
勇将として北条方として各地で転戦したが、1585年・家臣の桑田万五郎が宴席の最中に屁をたれたため
無礼千万であると大勢の前で罵倒した結果、これを恨みに思った桑田に就寝中に短刀で刺され、6日後に死去。享年29。
134 :
人間七七四年:2010/02/06(土) 16:43:19 ID:BL5Rt0PN
>>130 小作ってそんな昔からあった言葉なんですか
勝手に近代以降だと思ってた
135 :
人間七七四年:2010/02/06(土) 16:45:50 ID:s0KGK69J
>>112 鉄鋼船の記録は信長公記に出てくるから完全否定はできない。
これは鈍足で遠洋渡航できるシロモノではない浮き砲台に近いものだった。
よって毛利領へ進出して攻撃するような用法には使えず
本願寺への援助を試みる船舶への海上封鎖用。
そういう欠点があるので一回きりの戦法だったのだろう。
毛利方が欠点を認識したら終了なもの。
これに似たものが李瞬臣の亀甲船でこれまた鈍足で遠洋渡航できるシロモノではなかった。
136 :
人間七七四年:2010/02/06(土) 17:31:57 ID:NoMs5Lwj
>>135 信長公記に出てくるのは漠然と「大船」ってだけじゃなかったっけ?
その姿形や性能、運用に関して何一つ説明されていなかったはず。
137 :
人間七七四年:2010/02/06(土) 17:38:37 ID:s0KGK69J
鉄で覆ったとか書いてあった記憶あるんだけど
ちがかった?
138 :
人間七七四年:2010/02/06(土) 17:51:35 ID:0I3H4ET2
139 :
人間七七四年:2010/02/06(土) 18:17:54 ID:+pa1HS95
>>133 守山崩れとか、戦国の頃は家来が主君をヌッ頃す事件が多いよね。
140 :
人間七七四年:2010/02/06(土) 18:43:02 ID:IxA7RKH8
寺社や宣教師や公家の日記っていい加減な記述も多いからな・・・所詮、日記だし。
町の人々の大袈裟な噂や憶測をそのまま書いてる部分も結構多く
他の信頼できる資料と符号しないことも多いし。
141 :
人間七七四年:2010/02/06(土) 21:08:03 ID:1Q3zhL4p
142 :
人間七七四年:2010/02/06(土) 21:21:13 ID:NoMs5Lwj
143 :
人間七七四年:2010/02/06(土) 22:02:01 ID:IxA7RKH8
きっと1回目で邦胤が「今度したら絶対許さないからねッ!」とか言っちゃったんだろうな
144 :
人間七七四年:2010/02/07(日) 12:44:55 ID:MlRiEaBa
_({})
ノノノ小ヽ
川`;ω;´) < ブーミン! 出ていらっしゃい!
,ノ゙゙゙゙゙ハヽ、
`〜ェ-ェー'′
145 :
人間七七四年:2010/02/07(日) 13:26:11 ID:lABf2Otc
>>144 ,r '" ̄"'''丶,
./.゙゙゙゙゙ .l゙~゙゙゙゙ ヽ\
. i´ ri⌒.'li、 .'⌒ヽ 'i::`i,
.| ′ .゙゜ .゙゙゙″ .:::l::::::!
|, ,r'!ヾ・ ヽ, .::::.|:::::::i アイツはもう消した!
.i, ./,r──ヽ, :::::::i::::,r'
゙ヽ、 .ヾ!゙゙゙゙゙゙'''ヽ、_ノ
`'''゙i ._____ l /ヽ
/\ へ ゙ヽ ___ノ’_/
へ、 | ̄\ー フ ̄ |\ー
/ / ̄\ | >| ̄|Σ | |
, ┤ |/|_/ ̄\_| \|
| \_/ ヽ
| __( ̄ |
| __) 〜ノ
人 __) ノ
146 :
人間七七四年:2010/02/08(月) 10:01:25 ID:NP6kxQBU
いかにも戦国らしい身も蓋も無い話でつね
147 :
人間七七四年:2010/02/08(月) 10:04:54 ID:Gjd+uPA1
148 :
人間七七四年:2010/02/08(月) 12:27:37 ID:F0R5ssLs
関が原などにおける、裏切りや内通はどのように行われたのでしょうか?
手紙や会話、交渉内容を教えてください。
149 :
人間七七四年:2010/02/08(月) 12:57:43 ID:PyvHTxRh
150 :
人間七七四年:2010/02/08(月) 13:05:09 ID:Jv5ZJkpF
「スレ立てるまでも無い質問」なのに、スレの2,3個消費しかねない
学会の研究テーマになるような質問されても困るわな。
151 :
人間七七四年:2010/02/08(月) 18:08:43 ID:po+QeH97
152 :
人間七七四年:2010/02/09(火) 17:58:26 ID:Z+dCc/2A
戦の時に吹いてた法螺貝って職人さんが作ってたのかな?
153 :
人間七七四年:2010/02/09(火) 18:28:17 ID:/sjGzhli
>>152 今でも山伏とか吹く人は居るし、ググってみると職人さんも居る様だよ。
154 :
人間七七四年:2010/02/09(火) 22:56:23 ID:uYY4OPWi
ID変わりましたが152です。
>>153 山伏ですか!
キーワード変えてもう一度ググってみます。
そこから戦国時代の法螺貝作りまで遡れるかも。
ありがとうございました!
155 :
人間七七四年:2010/02/09(火) 23:19:56 ID:/sjGzhli
>>154 あぁ、っていうか、そのまま「法螺貝」でググって、作り方とかいろいろ出てきたよ。
156 :
人間七七四年:2010/02/10(水) 16:59:45 ID:J0+H7DJX
157 :
人間七七四年:2010/02/10(水) 17:11:10 ID:70LA+MU8
久保陣営は、自陣深くに本陣を固めた上で、主力の半数を敵陣に向ける堅実な攻め手
羽生陣営は、大将自ら主力兵を率いて自陣を開いて迎え撃つ、そんな感じ?
158 :
人間七七四年:2010/02/10(水) 18:45:06 ID:bd8W3N6T
いや、わざわざ>戦国時代に詳しい方ならば、とあるから
武将や戦に例えてって感じなんじゃないか?
俺は将棋がさっぱりだから全然分からんけど
159 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 00:27:06 ID:0j/MKpLX
メール
160 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 01:07:46 ID:PO2pqXQ0
161 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 11:01:04 ID:KJbGsdZU
>>156 今のところ久保の作戦勝ち。数手後に久保の飛車が2筋に来ると、久保の勝ち。
162 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 11:39:33 ID:PxOOscg5
>>156 何か今の局面、全然違ってるなw
後手がむちゃくちゃ堅い陣張ってる
163 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 12:38:23 ID:8cAR6weo
三方原から長篠へ
164 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 14:48:08 ID:KJbGsdZU
久保の35角・・疑問手
165 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 16:23:40 ID:Go+GKC/7
>>156 車掛かり戦法の羽生。
きつつき戦法の久保かな?
川中島の戦いに例えてみた。
166 :
156:2010/02/11(木) 19:34:57 ID:PxOOscg5
例えてくれてありがと〜^^
車掛りとかきつつきとかあるんですね
勉強してきます!
ちなみに先手の久保さん勝ちました
167 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 21:55:50 ID:8cAR6weo
堺の町って江戸時代になると話を聞かなくなるけどどうなったんですか?
衰退したんですか?
168 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 22:00:04 ID:9NTyZ9qZ
秀吉が堺の商人を全部大阪城の西に住ませた
これが今の船場
で、当然の如く堺は寂れた
169 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 22:01:00 ID:e1Tmbgyv
>>167 天下の台所と言う言葉を
歴史の授業で習わなかったのですか?
170 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 22:13:42 ID:RtTV3MQU
あと大坂の陣の時の、豊臣軍の堺焼き討ちでとどめを刺された。
171 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 22:25:14 ID:SorCFmoP
船場吉兆って彼らの末裔だったのか
172 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 22:36:58 ID:RtTV3MQU
つーか元々堺ってのは応仁の乱の時、大内の拠点となった兵庫港が戦乱で
港湾としての機能を大きく減退させたため、兵庫の代わりに、細川京兆家が自身の勢力圏内の
あらたな畿内の港湾として発展したもの。
戦乱期はともかく天下が静まれば、自然衰退する運命ではあった。
173 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 22:55:00 ID:WQh+1A1Z
江戸前期まで八尾市、東大阪市内を南から北へ流れ
大阪城の北で旧淀川と合流していた大和川を
洪水防止と新田開発の為に今の流れに付け替えたが
それによる堆砂で港が浅くなり大型船が入港できなくなってしまったのも
堺衰退の原因の一つ
174 :
人間七七四年:2010/02/12(金) 18:58:32 ID:mu+Ktjy6
美味しい船場汁ってどこへ行けば食べられますか?
175 :
人間七七四年:2010/02/13(土) 08:18:41 ID:4XVu3pcZ
灰吹法技術はどのように広まっていったのでしょうか?
国内では博多商人の協力のもと明を通じて大内領の石見銀山で精製が始まったと言われていますが
この技術を他大名に伝えても他国を利するだけなのでわざわざ領外に流出させたとは思えません。
176 :
人間七七四年:2010/02/13(土) 11:17:21 ID:B0RYbRdu
>>175 朝鮮・明では当然の技法だから、そこの技術者が何人も日本に来ている。
鉱山を持つ大名はこぞってヘッドハンティングしただろう。
自国に技術を閉じ込めておくなんてのは不可能。
鉱山技術者で有名な大久保長安の父も秦姓を持つ朝鮮からの渡来人。
177 :
人間七七四年:2010/02/13(土) 19:03:02 ID:+723HBxN
家督はどのような時に継がせるのですか?
本人が死んだ時や隠居した時などがあると思うのですが、そのほかにも継がせたりする場合はあるのでしょうか?
178 :
人間七七四年:2010/02/13(土) 19:11:10 ID:pOww3+cG
>>177 まあ足利義政がいい例になるよ
あれが悪例となって生前相続がめっきり減った
179 :
人間七七四年:2010/02/13(土) 19:21:09 ID:a9X1M1jN
当主がバカで親戚一同が寄ってたかって強制隠居させるとか、精神に異常を
きたしたから死んだことにして座敷牢に閉じ込めるとかか?
180 :
人間七七四年:2010/02/13(土) 20:11:37 ID:GRlooN5z
>>179 そういう記述が残ってる場合、大概「押し込めた側」が
「そういう愚鈍な君主だったので、そうなった」と捏造してる場合がほとんどだけどね。
どこの家でも派閥争いみたいなのは大勢力であればあるほど存在して
負け組は勝ち組にボロクソ書かれるから
181 :
人間七七四年:2010/02/13(土) 23:12:23 ID:GRlooN5z
なんかギコナビでスレ更新したら
文字化けだらけになって、どうやっても更新できなくなった
俺だけ?(戦国時代板だけ。他の板は正常)
182 :
人間七七四年:2010/02/13(土) 23:15:04 ID:GRlooN5z
あ、直った。なんだったんだろ
レス汚しスマン
183 :
人間七七四年:2010/02/14(日) 01:01:19 ID:/lad3/OU
>>178 ちょっと調べてきます、どうもありがとうございました。
184 :
人間七七四年:2010/02/14(日) 08:44:03 ID:lZL8FeWS
>>180 江戸時代の武家だとマジバカやマジキチで強制隠居や廃嫡が呆れるほど多いけど、
戦国の頃はどうだったんだろうね。
185 :
人間七七四年:2010/02/14(日) 11:26:53 ID:GsbSlBI+
>>175 灰吹法は明や朝鮮でも厳重に管理されていた技術で流出は厳罰だった
大内と商人が大陸から宗丹と慶寿を招いて製法を伝授してもらったが相当な大金を費やしているようだ
(そもそも大陸が日本から銅を高い相場で輸入していたのは精製が荒く銀含有率が高い為であり
精製法を伝授すると銅の旨味が減るだけに相応の対価を求められた)
彼らにより技術を習得した鉱山技師は大森銀山や銅山のために従事していたが
おそらく明や朝鮮と同じように技術流出は管理されていただろう
たとえば戦国時代に国産化が始まった技術の代表格に挙げられる絹織物だが
西陣織や博多織の職人は大内氏の遣明船に同乗し明に習得に行ったり
山口で生糸を用いて量産技術を研究していた
こちらの技術管理は厳しいかどうかはわからないが
多くの技師や職人が自発的に滞在していた。それは職人への待遇の良さもあるが
唐本屋など大陸技術の情報の優位性、海外留学の機会など様々あげられる
しかし、大寧寺の内乱で山口が荒れると職人は逃走し、西陣や博多に集まって西陣織などを興した
同じように内乱に乗じて鉱山技師が流出し、それが各地のかなやまに引き抜かれたと考えれば自然だろう
186 :
人間七七四年:2010/02/15(月) 22:00:21 ID:OrbnZHiP
立花道雪のあだ名ベッキーって何故?
あと市松って誰?
多分初歩だろうけどお願いします
187 :
人間七七四年:2010/02/15(月) 22:59:01 ID:Sow2KKJu
戸次鑑連(べっきあきつら)ってのが立花道雪のそもそもの名前。
故あって変えました。
苗字から戸次→べっき→ベッキー
市松は福島正則の幼名、故に正則を指す。
188 :
人間七七四年:2010/02/15(月) 23:03:38 ID:SoqzcxHs
道雪は立花城に拠って、立花氏の名跡を形式上は継いでいるけど
立花姓は名乗っていない。
立花姓を名乗るのは時代・宗茂から。
だからベッキーでいいのよ
189 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 00:10:36 ID:UuV1hM6X
186です
>>187-188ありがとう
あと一つだけ思い出したので教えてください
松永久秀=爆死=ボンバーマンはわかるけど「ギリワン」って何?
190 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 00:12:40 ID:7GB2CcVr
つか、その手の略称をどこで見たの?
前後の文脈がわかれば推測もできるけど
191 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 00:27:44 ID:JupJtSMK
高橋ちんちんシュシュシュって麻生太郎と関連あるのでしょうか?
192 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 00:28:14 ID:UuV1hM6X
すいません「いい悪い話まとめ」の用語集的なところで、文脈がないです。
193 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 00:34:02 ID:JupJtSMK
>>189 信長の野望でいつも義理が最低の1なので
義理1=ギリワン
よく裏切るよ
194 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 00:44:54 ID:UuV1hM6X
>>193なるほど…どうもありがとう
ノブヤボ始めたばっかだけど会ったら気を付けよう。
195 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 19:35:34 ID:7GB2CcVr
>>194 まあ、コーエー(信長の野望)の列伝とかはいい加減なの多いから
全部鵜呑みにしないように気をつけてね。
気になる武将がいたら、その武将に関するスレで質問すれば
もっと詳しい人たくさんいると思うし
196 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 20:18:39 ID:b7FtdyUf
豊臣寄りだった結城秀康が
関が原で佐竹・上杉側と組まなかったのは?
福島正則と仲が良かったと言う事なら
秀康も三成嫌いだったんですか?
197 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 20:20:38 ID:g2b33kz0
所詮は程度問題
198 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 20:26:20 ID:Y+94BjQI
>>196 > 豊臣寄りだった結城秀康が
まずこの前提が完全に間違っている。
秀康が豊臣寄りなんて、それこそ戦後の小説家が作った妄想。
199 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 20:51:19 ID:h+pRFiSU
ついでにいうと、佐竹は上杉と組んでいない。
ただ旗幟を鮮明にして動くということがなかっただけ。
200 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 21:18:52 ID:7GB2CcVr
>>199 佐竹は動かなかったというか
「動けなかった」が正確なような。
義重と義宣で西軍につくか東軍につくか揉めたんだよね
秀康については前述の通り、後に豊臣秀頼などと交流はあったものの
一応、徳川の一門なんだし豊臣に肩入れする必然性は
少なくとも家康が存命中の関ヶ原の時点では微塵も無い。
201 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 21:34:27 ID:uyy2O/6q
というか関ヶ原で治部が勝ってたら秀頼の天下になってたんですか?下手すりゃ
治部の天下になってたんじゃないですか?完全な秀吉の独裁だった豊臣政権は、
秀吉が死んだ時点でアウトじゃなかったんですか?秀吉死後の豊臣家に政権担当
能力があったんですか?
202 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 21:58:44 ID:8R4517tw
>>201 秀頼の能力は未知数。無能かもしれないけど有能かもしれない。
治部が天下を我がものにしようとすれば上杉や毛利が黙ってない。
直江と仲良しだろうが大義が立たない。豊臣の天下で三成が専横するのは有りかな。
西軍が勝つには小早川が味方する必要がある。そうすると秀秋が関白になるなぁ。
203 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 22:09:20 ID:Y+94BjQI
大坂の陣前後の秀頼周辺の動きを見ると、秀頼と言う人物が有能だったとはとても思えない。
無駄にプライドばかり高く家臣の追従や煽動に簡単にのって、そのくせ状況が変化すると
腰が定まらない、という人物だったと考える。
204 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 22:15:34 ID:/EPr9OlF
城に引き篭って蒲鉾ばっかり食ってたイメージしかないな
205 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 22:17:19 ID:7GB2CcVr
よく言えば未知数だけど
実際、大阪の陣まで、ずーっと個人で何かを採決したって事はなかったような
淀君とアホばっかの重臣に振り回されて、自分が何かを決めて行動するって事をやる前に死んでるからなあ
何とか豊臣政権が残ったとしても、いいとこ凡君で、いずれ家康に難癖つけられ減封とか改易処分とかになってただろう
206 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 22:25:11 ID:sAqINvKl
>>205 案外こんな感じかもな。
早期に屈服し、領地は大和にもらうも江戸定住となる秀頼公。
秀忠から豊臣家臣一同ともに江戸城の宴に招かれ上方料理で接待受けて
みんなは大阪思い出してすすり泣くも、1人だけ
「江戸は楽しい」とご満悦。
あとで大野治長に「大阪が恋しい、と訴えれば帰れるかも知れないのに」
と入れ知恵された秀頼、後日やはり江戸城で秀忠に
「やはり大阪が恋しいです」と訴えるが、秀忠に
「それはいつも治長殿が言ってることですね」といわれ
「よくわかりましたね」と驚く秀頼。
207 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 22:33:24 ID:uyy2O/6q
秀頼=鳩〇ということでよろしいでしょうか
208 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 22:34:21 ID:Ks0+2nz2
>>206 安楽公のパクリじゃないか
死ねよボケ!!
209 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 22:40:48 ID:Y+94BjQI
>>205 > 淀君とアホばっかの重臣に振り回されて、自分が何かを決めて行動するって事をやる前に死んでるからなあ
大坂の陣を起こしたのは、ある程度以上秀頼の意志だったと思うよ。
あの時大阪城内の主戦派、過激派は秀頼の側近ばかり。
これに対して和平派、現実派はみんな淀殿周辺の人物。
秀頼とその側近層が母親の影響を排除し大阪城の主導権を握るために、それまでの徳川との
融和路線を批判して、それが大坂の陣に至ったんだと思っていたりする。
210 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 22:40:54 ID:/EPr9OlF
211 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 22:50:15 ID:8R4517tw
関ヶ原で西軍が勝ったらって話なのに何で家康に難癖付けられんの?
まぁ、秀頼が淀に振り回されてどうにもならないのも確かだね。
212 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 22:55:33 ID:uyy2O/6q
そもそも淀殿があんなに威張る事自体、豊臣家の人材不足を物語っているのでは。
つまり淀殿=ヲザワ、豊臣家=民主党ということで。
213 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 23:13:17 ID:P+p+9JZc
214 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 23:17:06 ID:Y+94BjQI
>>213 何を「同じような本」と言っているのか知らんが、歴史書に関してなら、
例え同じ時代、人物を扱っていても、著者、論者によって対象に対する考察、視点、認識はみんな違うぞ。
215 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 23:24:10 ID:/EPr9OlF
216 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 23:28:48 ID:Y+94BjQI
>>215 お前も同類だ。仲良く消えろ。
> 210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/16(火) 22:40:54 ID:/EPr9OlF
>
>>207 > 麻○だよ
217 :
人間七七四年:2010/02/17(水) 00:39:07 ID:dxKrkTDF
>>213 それはもはや「歴史に関する質問」じゃないな。君が読書が嫌いなだけでは。
218 :
仙台藩百姓:2010/02/17(水) 09:22:48 ID:DtTnQUPx
歴史関連書籍は多分に著者の意図が絡んでいるから一冊だけ読んで鵜呑みにするのが一番危険だお( ^ω^)
平たく言えば2chと同じで自分の好みで都合よく解釈したり、丸っきり捏造する物ですら珍しくないお( ^ω^)
だから同じ題材のものをより多く読み自分なりの解釈を導き出すしかないのだお( ^ω^)
219 :
人間七七四年:2010/02/17(水) 11:35:50 ID:dxKrkTDF
というわけで
>>201に関連して質問。豊臣家の敗因は、秀頼がバカでも立ち行く
ような組織造りを秀吉が怠ったからだと思うんですが、その理由は何ですか?
しなかった(成り上がり者の常で猜疑心が強く、他人に仕事を任せられなかった)のか
できなかった(成り上がりゆえ股肘の臣が少なかった)のか…。
220 :
人間七七四年:2010/02/17(水) 12:48:58 ID:JN+wnv8w
>>219 敗因は秀頼が出来た事だな。出来なければ秀次とその与力集(?)で組織作り出来てた。
秀頼が出来たおかげで全部ご破算。
それはそれとした上であえていえば家康を処断できなかったこと。家康ほどの脅威が無けれ
ば三成ら奉行衆でとりあえずは何とかなった。
221 :
人間七七四年:2010/02/17(水) 15:49:10 ID:yhdhb6HL
豊臣政権崩壊の根本原因は唐入りだよ。
これの報奨の問題が誰が政権担当したって出てくる。
で、奉行連中はこれに消極的である以上諸侯は誰かしらの実力者を立てて
これを勝ちろとらなくてはならない。
家康がいなくなってもならば毛利、前田と言った連中を押し立てただろう。
そうしないと埒があかないからだ。
ついでに言えば、「家康さえ処分すれば〜」って、
>>220みたいな意見をたまに見るが、
唐入りと言う大軍事力を外征に向けている状況の中で家康のような大諸侯を
処分出来るわけがない。外で戦っているのに内で大内戦を繰り広げてどうする。
愚策にもほどがある。
唐入りが膠着した段階で豊臣政権と言うものはほぼ詰んだ。その後は惰性で存在しただけだ。
222 :
人間七七四年:2010/02/17(水) 16:29:22 ID:XMfGpkup
先物取引
223 :
人間七七四年:2010/02/17(水) 22:21:27 ID:JN+wnv8w
>>221 >外で戦っているのに内で大内戦を繰り広げてどうする。
だから。唐入りより家康が優先事項だって話。自分が居なくなっても家康が動かないと
信じたのが秀吉の間違い。
224 :
人間七七四年:2010/02/17(水) 22:28:15 ID:yhdhb6HL
>>223 間違いもなにも秀吉在世時、家康は秀吉に対し忠実に働いている。
その意味で秀吉はなにも間違えていない。
それどころか三成が変なクーデターまがいを起こさなければ、「豊臣政権」はむしろ
長く続いただろう。関ヶ原の結果家康は豊臣家を圧倒する権威と権力を手に入れたからだ。
家康は最初から豊臣の天下を奪おうとしていたわけではない。色々な政治的軍事的な動きの中で、
結果としてそういう事が可能になり、なおかつその方が政権運営にとって合理的だったがために、
徳川政権と言うものが成立したのだ。
結果がそうだからといって、最初からそれを目的に動いていた、などというのは
一種の陰謀論で、創作としては面白いだろうが現実性は一切ない。
225 :
人間七七四年:2010/02/17(水) 22:39:01 ID:EDeMHMpi
関ヶ原は宇喜多騒動に介入されて家康に
むかついた秀家が突発的に起こしたってのが結構可能性高い気もする
三成ならもうちょっと下準備してからやりそうな気もするし
226 :
人間七七四年:2010/02/17(水) 22:52:38 ID:JXZoP8Cc
>>223 本貫地から引き離すためとはいえ200万石超の突出した巨大大名を作ったのは他ならぬ秀吉。
その上、何の失点も無いのに処罰できるわけないだろ。
徳川方の腹づもり通り恩賞は伊豆一国だけで済ましておけば、
五大老制で百万石前後の数家のパワーバランスが拮抗させられたのに。
227 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/02/17(水) 23:23:44 ID:ELOKZ9d5
そんで秀吉死後に戦国時代に戻るわけね。
228 :
人間七七四年:2010/02/17(水) 23:41:46 ID:JN+wnv8w
いや、だから。何の失点も無い家康に難癖付けて何とかして処断するべきだったって言ってるの。
漢の高祖も何の失点も無い韓信を処断するのは心苦しくてもやってるでしょ?
それに家康だって何の失点も無い前田や上杉に難癖付けてるでしょう。
関東移封が裏目に出たのも痛かったね。
229 :
人間七七四年:2010/02/17(水) 23:49:47 ID:yhdhb6HL
>>228 そんなことしたら東日本全体が一気に不安定化して、小田原役以前の状態に逆戻りなんだけど。
そうなれな秀吉の権威すら大きく傷つく。彼が権威を得た大きな理由は国内の平定だったからだ。
あと、漢の高祖とか言っているが、権力であれば何でもかんでも一緒だと考えない方がいい。
それぞれの権力にそれぞれの事情と限界がある。
ついでにいえばその高祖の漢は、劉邦の死後妻の外戚に実質的に乗っとられている。
その後劉家の王朝が復活したのは多分に偶然によるもので、劉邦のやった粛清なるものは
何の役にも他たなかった。
230 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 01:30:18 ID:QbSFj3Vn
偶然というか劉邦が王朝存続の意図をもって何かしたところじゃない方面からの動きでだよね
231 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 07:01:39 ID:SOejvwxW
・唐入りをしない(最低でも慶長で留める)
・秀次を処断しない
・秀秋を冷遇しない(家康と接近させない)
・三成が固辞しようと九州百万石を与える
・東日本が不安定化し天下が遅れようと、じっくり家康を潰す
方法は色々有るが秀吉にそこまでの深慮は無かった
232 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 07:19:17 ID:ilCL+1H3
秀吉の実子が早く生まれていれば、という問題だと思うけどね
秀次も秀秋も実子がいないせいでできた禍根の種だし
のちの歴史を知ってるから簡単に家康潰せってあるけど、
秀吉本人の寿命が尽きかけてるときに、正当な理由なくそんな事したら
他の大名家(特にでかいところ)は間違いなく警戒感を抱く
秀吉時代で信頼を失ったら確実にその死後に問題が噴出してまた歴史通りだな
歴史通りになった場合の秀頼の行動は言わずもがな
この場合、また群雄割拠の時代に元通り
233 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 07:38:04 ID:VybCKcy0
そもそもの発端になった小牧長久手で、なぜ秀吉は無意味な持久戦に
終始したんですか?挙げ句に無茶な迂回戦を仕掛けて案の定の敗北…
秀吉は最初から家康と妥協するつもりだったんでしょうか?
234 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 07:50:00 ID:2dR8KN4y
両陣営が信長譲りの野戦築城しまくったので、
攻撃に出るには損害覚悟で強攻せざるを得なかったが
家康は兵力不足、秀吉はまだ政治的立場が不十分で、
ありていに言えば、集まった諸将に対し俺の為に死ねと命令できなかった
235 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 11:43:23 ID:VTzAUr8f
ついでに言うと小牧長久手で秀吉軍はかなりの兵糧不足に陥っていたらしい。
筒井順慶がそれを嘆いている書状が残ってる。
236 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 17:19:07 ID:VybCKcy0
そして家康と和平する為に妹や母を人質に入れる事態に至ったんですね。
結果、家康の声望は一気に高まり、のちの天下取りに繋がるわけです。
私が秀吉なら、(結果論ではなく)こんな奴は到底生かしておく気に
ならないんですが秀吉は平気だったんでしょうか?対外戦争を始める
ということは、国内は完全に安定したと秀吉が考えていたと思うんですが。
237 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 17:53:56 ID:26Gac7g2
当時の家康は律儀者で通っていたからな。
実際秀吉生存中は忠義を尽くしてる。
まあ仮に家康を除いたとして、豊臣家の天下は磐石だ万歳万歳、なんてことはないぞ。
家康を粛清して唐入りの有無とは別問題として、後継者問題は不可避。
であれれば秀次粛清と重臣連座はほぼ必然、官僚機構も半減する。
どっちにしても秀吉没後の豊臣政権なんてのは砂上の楼閣にすぎん。
家康を粛清して、唐入りを実行せず、秀次事件に温情を示して〜なんてのはもはや秀吉じゃない。
秀吉死後の家康の行動を想定して〜なんてのは神の目線。
それが許されるのは架空戦記だけだ。
238 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 18:02:41 ID:gcpySbdV
これは結果論だけど
秀吉の懐柔策は成功して
秀吉存命中の家康は忠実な味方だった訳だし
秀吉も家康潰す口実がないと滅ぼせない
上でも出てるけど、難癖付けて滅ぼすのは
他の大名達の不信を買うし
秀吉が家康潰してやりてーって思っていても
実行できなかったのでは?
239 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 18:16:35 ID:VTzAUr8f
秀吉は家康を除いておけば、なんて言っている人間には理解出来ないと思うが
秀吉にとって配下に徳川家があることはこの上ないステイタスであり、
東に徳川家、西に毛利家が秀吉の両翼となり全国政権を構成していた。
「家康を除く」というのは秀吉にとって(豊臣政権ではなく”秀吉”にとって)、自分の片方の翼を
もぐのと等しいことで、秀吉個人の権威、権力を著しく削ぐものである。
唐入りを行おうが秀次を殺そうが配下大名を取り潰そうが、徳川、毛利と言うものが
秀吉の股肱として忠誠をゆるがせることが無かったからこそ、彼の権威権力は保持されたのだ。
秀吉が生前に徳川を潰しておけば、なんていうのは結果から遡った議論に過ぎず、
「秀吉」の政権の構造上、家康を排除することは不可能なのだ。
「豊臣政権」と言う枠で見れば、仮に秀吉が早い段階で死に秀次が政権を引き継いだ場合、
徳川とも毛利とも繋がりの薄い秀次にはそれら「強大すぎる」大名を処分出来た可能性は
確かにある。足利尊氏、義詮の代で異常に強大化した大内や山名と言った守護大名を、
義満が討伐出来たように、だ。
が、逆に言えば可能性とすればそのくらいのもの。秀吉一代の間には無理。
240 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 19:11:12 ID:VybCKcy0
>>239 つまり、そこが疑問なわけです。結果的に豊臣政権は秀吉個人のカリスマに頼る
足利型の弱体政権になってしまったわけで。四国征伐、九州征伐、小田原の陣と
大規模軍事作戦を展開して天下統一した秀吉が、なぜ画竜点睛を欠く結果になっ
たのかなと疑問でして。以前どこかで読んだ「臨終間際に決めた五大老五奉行の
制が豊臣政権唯一の『組織』である」というのはなぜなのか、と。
241 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 19:37:55 ID:jIyyiB9G
秀頼が生まれて関白秀次ぶっ殺しちゃって
秀吉亡き後の秀頼を後見し豊臣政権でリーダーとなる
秀吉に替わりうる存在が外様の大大名達しかいない時点でオワットル
242 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 19:47:52 ID:VTzAUr8f
>>240 室町幕府は(直義の性格もあるだろうが)むしろ組織づくりをしっかりした政権だよ。
実際政所や奉行衆、奉公衆と言ったものはシステマチックに機能した。
カリスマだよりで組織が無いのは信長の頃からの話で、織田系に共通した現象だと言える。
これは信長と言う人間が組織を軽視しており、なおかつ急拡大する織田家において
組織を形成するだけの時間が無かった為だと思われる。
ついでに言えば秀吉自身は自分の天下統一が画竜点睛を欠くなどとは考えもしていなかっただろう。
少なくとも彼の生きている間、それでうまく行っていたから。
五大老五奉行も、組織かと言われると微妙。
あれは秀頼補佐役に過ぎないと思う。
豊臣政権はほぼすべて慣習で動いており、だからこそ秀吉の恣意がまかり通った。
将軍ですら法と組織に縛られていた徳川幕府と異なり、恣意を通すことが秀吉にとって
必要だった以上、彼の政権に組織が無いのは当然だと言える。
243 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 20:10:04 ID:VybCKcy0
>>242 しかし秀吉は最期に「秀よりこと、かへすがへす頼み参らせ候」なんて遺書を
書くハメになったわけで。なぜ元気なうちにそういう配慮ができなかったかなと。
244 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 20:25:36 ID:26Gac7g2
>>243 君の質問はもう質問じゃない。
君には望む答えが既にあるだろ、満足の行く回答でないからと食い下がられてもな。
245 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 20:57:53 ID:VybCKcy0
じゃあ端的に。
秀吉はアホだったんですか?
246 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/02/18(木) 20:58:29 ID:kl2JwaE1
豊臣ifを語るなら、秀次が秀頼誕生時に出家なり別家なりを立てて身を引けば良かったという道もある。
247 :
人間七七四年:2010/02/19(金) 00:15:16 ID:16xr5Iqk
じゃあ秀次の子供達と家臣達はどうなるんだよ
248 :
人間七七四年:2010/02/19(金) 01:13:52 ID:MnfxsxZp
漫画からの質問なんだが
家臣団の構成についてだけど、
例えば豊臣秀吉の家臣団では
【一門衆】
秀長(弟)、杉原(嫁の実家)、浅野(?)・・・
【子飼】
福島正則、加藤清正・・・
【黄袰衆】
神子田、尾藤、戸田、宮田・・・
【寄騎衆】
蜂須賀、加藤、山内、仙石・・・
とあるんだが、会社に例えたら↓みたいな認識で良いの?
【一門衆】
親族の経営陣
【子飼】
住み込みの社員?もしくは秀吉の会社に勤務する正社員?
【黄袰衆】
秀吉の子会社社長?
【寄騎衆】
織田本社からの出向社員?
こう考えたら、軍師・竹中半兵衛や、一番付き合いが古そうな蜂須賀小六なんかも、織田からの出向社員なのかな?
249 :
人間七七四年:2010/02/19(金) 12:24:43 ID:Q0bOx20q
出向社員というよりも御目付け・取締役。
250 :
人間七七四年:2010/02/19(金) 12:38:33 ID:agNtcnXZ
竹中半兵衛は実際には軍監として秀吉に付けられていたので、文字通りのお目付け・取締役だなあ
251 :
人間七七四年:2010/02/19(金) 15:45:25 ID:X0V1BgZ6
石垣山城等、合戦中に築城した城は、敵方にとって動揺があるのはわかりますが、具体的にどのような意味があるのですか?
252 :
人間七七四年:2010/02/19(金) 16:19:07 ID:8ElBEXnS
敵が反撃してきた時の防御拠点と、宿泊時に安全を確保するため
後は高所に井楼を建てて、内部を観察する
253 :
人間七七四年:2010/02/19(金) 17:32:54 ID:pRdXkimL
本願寺顕如などの僧侶は当時どのような呼び方が一般的な呼称だったのでしょうか?
当時でも「寺の名前+戒名」で呼ぶのは一般的だったのでしょうか
254 :
人間七七四年:2010/02/19(金) 20:02:11 ID:ql9eORI8
>>251 ・敵拠点の眼前に付城を築けるという事は、つまりそれを妨害・阻止するだけの援護がない
後援の絶たれた状況であるという城内へのプレッシャー。
・また自拠点の眼前に敵拠点があれば、当然、自拠点からの派兵も自軍へ対する援軍も
容易に城への出入りが不可能になる。つまり残された味方拠点も孤立する事になり
士気は一層下がる
>>253 顕如とかの法名だけで呼ぶ。宗教勢力の人物を△△寺○○と苗字と姓のように呼ぶのは
(滝本寺非有とか安国寺恵瓊とか)
△△寺の○○さんというようなわかりやすさを示す為に表記されてるだけ。
法名だけだと似たような名前たくさんあるから。
255 :
人間七七四年:2010/02/19(金) 20:35:51 ID:pRdXkimL
256 :
人間七七四年:2010/02/19(金) 22:36:47 ID:X0V1BgZ6
257 :
人間七七四年:2010/02/19(金) 22:51:54 ID:MnfxsxZp
258 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 04:29:19 ID:LEjHPdY2
北ノ庄城って落城時爆発したんですか?
259 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 11:25:26 ID:pZIlG6lZ
>>239 それでも明支配するより徳川潰す方が現実的なのは変わらない
260 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 11:48:23 ID:FVrznmHL
>>258 爆発したというのうはどの記録にあるんだろう。
燃え落ちる時に火薬に引火したかもしれないという人もいるが、
天守閣に火薬は普通は貯蔵しない。
もしも爆発が本当ならば、松永久秀のとき以上に大々的に書かれるはずだ。
261 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 15:08:50 ID:qEiA3W9S
262 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 16:18:40 ID:j1qqeuT3
>>259 そうかな
ライバルに差をつけるために外征を繰り返す
大帝国はいくらでもある
263 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 16:23:02 ID:JgfK9EZ7
>>259 あほか。外征の方が楽なんだよ。
一つの敵に力を集中すればいいだけだからな。
国内の政治の方が、内部の複雑性からいじりづらいのは古今変わらない。
会社の仕事より家庭内、親族内の問題の解決の方が普通厄介だろ。それと一緒。
264 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 16:29:02 ID:JgfK9EZ7
戦国時代でも多くの戦国大名は、外征を繰り返すことで家中をまとめたが、その家中に存在する
根本的な問題には手をつけなかった。上杉謙信や島津義久などはその典型だな。
家中問題の解決は次代に持ち越された。
謙信や義久も強力な指導力を持ち優秀な戦国大名だったこと、これは同意してもらえるだろう。
彼らですら家中の問題に対して大鉈を振るう事は難しかった。
秀吉も同じことだ。
265 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 17:29:21 ID:8gqzrf1W
秀頼のために秀次は殺しましたが
家来にしてから忠実だった狸にはまんまとだまされました
266 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 17:45:10 ID:kDhlpNV/
いい加減家康をどうすべきだったかの議論は別のスレでやれよ…。
もう質問とは言えないだろ。
267 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 17:55:09 ID:fjunyctg
やはり成り上がり者に天下取りは無理があったのでは
268 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 18:21:41 ID:JgfK9EZ7
>>265 キミみたいなのには理解する能力も無いだろうし、理解する気も無いだろうけど、
秀次の処分は理論的には秀吉の「家庭」の問題。
単純化すれば秀吉は家父長として、家父長に反抗した肉親である秀次を私的に処分したのだ。
「家中」はそうはいかない。いくら秀吉が独裁者だからと言っても、法人としての対応を求められる。
そう扱うことが逆に言えば秀吉が独裁を成す基板になっているからだ。
まあキミみたいなのは「俺なら豊臣政権を100%存続させられた!秀吉無能俺最高!」と
一生オナニーしてなさい。
269 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 18:25:49 ID:fjunyctg
太閤厨キター
270 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 19:20:11 ID:GRjgK7eJ
>>268 既に関白の位を譲った秀次に言いがかりをつけて処断することを家庭の問題とは言わんだろ。
271 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 19:36:57 ID:jRhdwVUW
> 911:人間七七四年 :2009/11/15(日) 19:08:58 ID:20oW1ekd [sage]
> 別に俺だけがそう思ってるわけじゃないよ。
>
>
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5348977.html >
> 915:人間七七四年 :2009/11/15(日) 22:34:23 ID:lIQv50hK
>
>>911 >
> 初めてお前が確定してるって文章読んだよw
>
> あれはな、道三死後に姪を妻にやれない、
> ましてや妾などとんでもない
> って書いてあんだよw
>
> 930:人間七七四年 :2009/11/17(火) 19:22:35 ID:iMy9gDVN
> 確定くん
>>915はスルー?
> 必死に答えてよw
272 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 19:40:32 ID:jRhdwVUW
>>271は濃姫スレを荒らした通称画定さんなんですが質問サイトに質問を出して自分で答えて画定しました、立証しましたと騒いで困ります。
他にこの人が荒らしていて被害が出ている所はありませんか?
273 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 20:00:57 ID:xQq7SvH5
274 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 20:05:58 ID:JgfK9EZ7
>>270 関白を譲っても秀吉は関白以上の地位である太政大臣は退任しておらず、豊臣家の家父長の
地位も降りていない。
そして秀吉は法的ではなく、家父長の権限で持って秀次を処分した。
ゆえに「家庭内」と表現していいと思う。
275 :
人間七七四年:2010/02/21(日) 13:04:41 ID:n5AXdkh+
こんにちは、どなたか教えてください。
都内にある旧華族邸宅、旧大名庭園のような場所が好きで
時々散歩をするのですが、最近になってそこで暮らしていた人たちについて
少し勉強してみようと思うようになりました。
特に興味があるのは、大正時代あたりは「髭に洋装」の家柄の人たちも
少しさかのぼれば袴に丁髷、更にさかのぼれば戦国大名だった
という感じに時代の変化を感じられるところです。
ただ私は歴史がとても苦手で、中でも戦国時代あたりは
他家とのつながり用語の意味などたくさん勉強しなおす必要があります。
学生ではないので時間はかかってもかまいませんが
取っ掛かりが見つけやすい勉強方法を教えていただけると嬉しいです。
また、旧前田公爵邸(加賀藩前田家)を勉強するのは難しいでしょうか?
よろしくお願いします。
276 :
人間七七四年:2010/02/21(日) 21:40:23 ID:7eHYqvCe
部屋の整理をしていたら、歴史群像シリーズの「上杉謙信」が出ました。
奥付を見たら初版はもう22年前・・・
最近また歴史群像の謙信の本が新しく出てたけど、やっぱり新しい方が最近の説とか載ってるんでしょうか?
それともこの22年間、そんなに新説とかは出てないんでしょうか?
277 :
人間七七四年:2010/02/21(日) 22:49:09 ID:QW+xIW9h
>>276 歴史群像シリーズがどういう編集方針をとっているのかは知らんが、
長尾上杉氏の研究も、北条や武田ほどでは無いにせよここ20年でかなり進んでいるので、
そう言うのを反映しているとすれば、最新のものとかなり内容的に違っているとは思うぞ?
278 :
人間七七四年:2010/02/21(日) 23:25:01 ID:7eHYqvCe
>>277 たとえばその新説というのは、具体的にどういうものがあるんでしょうか?
また、そういった新説を反映している書籍などあればお教え頂けませんか?
279 :
人間七七四年:2010/02/21(日) 23:45:41 ID:QW+xIW9h
280 :
278:2010/02/22(月) 01:20:56 ID:iSgNxb4+
>>279 そうですね。まず上杉関連のスレをじっくりと読んでからにしたいと思います。
ご回答ありがとうございました。
281 :
人間七七四年:2010/02/22(月) 07:59:44 ID:qHFWKEie
>>275 あまり詳しくないので通り一遍のお答えしか出来ませんが
目黒区のサイトによると旧前田侯爵邸は明治時代に現在の地に移ってきたそうです。
(それまでは本郷に前田家の上屋敷が有りました。東大の赤門も元は前田家の屋敷の門です)
現在残る洋館と和館は16代当主の前田利為が建てたものだそうなので、その娘の酒井美意子が書いた
「写真集 酒井美意子 華族の肖像」、「加賀百万石物語」あたりをまずはお読みになったらどうでしょうか?
勉強といっても趣味なのですから、興味のあるものから学んでいってはどうでしょう?
旧前田侯爵邸でご興味があり、もしそこから前田家に興味が広がったら、江戸時代の加賀藩や
前田家に関する本をお読みになっていけばよろしいのでは?
本を読んで分からない単語は、大抵はネットで調べれば説明が有りますし。
282 :
人間七七四年:2010/02/22(月) 16:29:00 ID:TyRnOy9M
>>281 こんにちは、レスありがとうございます。
血縁の方が出版した本もあるんですね。
ぜひ読んでみようと思います。
前田家の祖から時代を追っていこうと思いましたが
やはり建物に、より興味がありますのでその辺りから始めようと思います。
本郷は岩崎邸などもあるので時々行きます。
今度行く時はいままでとは違った目線で散歩できそうで楽しみです。
知識はそのうちどこかでつながってくると思いますのでコツコツやっていきたいと思います。
どうもありがとうございました。
283 :
人間七七四年:2010/02/24(水) 02:56:09 ID:195dI4VL
質問です
書体には草書体や隷書体など色々ありますが
戦国時代には正式な書類や手紙を書く時などにはある程度決まった書体はあったのでしょうか?
284 :
人間七七四年:2010/02/24(水) 04:07:35 ID:xme6dQj6
決まりはない。鎌倉から室町前期までは将軍家の下文や御教書を手本にしたらしいが
戦国期には地方・家・人によって形式はバラバラ。
とは言え戦国期の文書はほとんど草書。足利義昭の御教書は行書で読みやすいが
地方大名家の文書は公式文書でも崩しの強い草書で読みづらい。
285 :
人間七七四年:2010/02/24(水) 04:25:17 ID:195dI4VL
286 :
人間七七四年:2010/02/24(水) 04:35:35 ID:drpOKt5v
草書も江戸期になると、全国的に形式がほぼ統一されるので、一通り勉強すれば
どこの地域のものでも大体読めるようになる。
江戸期の教育と教養の広がりが可視的に確認出来る資料でもある。
287 :
人間七七四年:2010/02/24(水) 05:09:59 ID:xme6dQj6
まあ戦国期に形式がバラバラになったのは、それだけ下層に読み書きが広まった
ということだと思う。それが江戸期の教育水準につながるのだろう。
288 :
人間七七四年:2010/02/26(金) 22:46:54 ID:CvlHAuWo
書状には朱印状と黒印状があり、重要は文書は信長発給文書では朱印状を用い、秀吉発給文書
は逆に黒印状を用いたと何かの本で読んだのですが、一般的には重要文書は朱印・黒印どちらの
形式が用いられるのでしょうか?
289 :
人間七七四年:2010/02/26(金) 23:28:05 ID:KS4CzbBl
>>288 特に決まった形式は存在しない。それぞれの大名家ごとに、それぞれの形式があったと考えて良いかと。
290 :
人間七七四年:2010/02/27(土) 00:37:04 ID:SOHM6tk0
291 :
人間七七四年:2010/02/27(土) 08:42:19 ID:VdMqrCM4
那須七騎の小田原征伐時の処理のことなんですが
所領安堵:大関、大田原
所領削減:蘆野、伊王野
改易:那須
福原と千本への対応はどうだったんでしょう?
292 :
人間七七四年:2010/02/27(土) 21:49:49 ID:P2da4BGj
所謂、通字ってどの程度重要だったんですか?
武田勝頼を見ると義信死亡〜信玄死亡まで6年もあるのに
その間に信の付く名前に改名などはしていないですし
その後も勝頼で通しています
(文書が残っていないだけで改名していた可能性は除いて)
これを見ていると「あったらいいな」程度のものに思えるんですが
1→2→3で2に付いていなくても3についていたらおk的なものなんでしょうか?
(武田でいうと勝頼に信の字はついてなくても信勝についてるからおkみたいな)
293 :
人間七七四年:2010/02/27(土) 22:09:23 ID:wHinKBLb
>>292 その家、その人の事情もあるので一概には言えない。
勝頼の場合は、信の通字を仕えなかったことが、家中での立場の弱さを表している、
と言う研究者もいる。
294 :
人間七七四年:2010/02/27(土) 22:23:41 ID:FXEQM89Z
>>292 勝頼は諏訪家に出しちゃったからね。諏訪家の通字の頼も付いてるし。
だから信勝の後見とか中継ぎの立場でしょ。
295 :
人間七七四年:2010/02/28(日) 06:57:39 ID:vtAF/E8K
>>291 福原氏は秀吉に属して所領安堵、後に加増。那須の改易後、上杉に仕官。関ヶ原で上杉が減封になると徳川に仕官、5000石の旗本。
千本氏は一端所領を削られるが、後に加増されて3000余石の徳川旗本。
296 :
人間七七四年:2010/03/03(水) 18:59:37 ID:4lgt9nzz
勝頼だけが悪いわけじゃない。最後まで守護大名家の古い体質を改善できなかったのは
信玄の責任でもある。信玄をむやみに持ち上げた甲陽軍鑑に乗せられ過ぎ。
297 :
人間七七四年:2010/03/03(水) 19:13:50 ID:+Ju4iyti
いややっぱり信長が本腰を入れて武田征伐を開始したら
雪崩を打ったように壊滅したのは勝頼があまりにもボンクラだったからだろ
298 :
人間七七四年:2010/03/03(水) 19:18:11 ID:4lgt9nzz
いやスマンが誤爆だから
299 :
人間七七四年:2010/03/03(水) 19:41:41 ID:kC4BVZeF
な、なんだってー
300 :
人間七七四年:2010/03/03(水) 19:51:51 ID:1nQ452qG
調べ物をしているのですが、家康〜秀忠治下で2500石というのはどれぐらいのランクの武士なのでしょうか?
職は奉行筆頭?で、使えている大名は22万石の国二つの大名です。下屋敷があった場所に名字が地名で残っています。
あまり当時の武士の事情に詳しくないので、なにか現代の立場や職にたとえて教えてください。それと、下屋敷というのが普通の屋敷とどう違うのかもお願いします。
301 :
人間七七四年:2010/03/03(水) 19:57:34 ID:+T6GsQhI
302 :
人間七七四年:2010/03/03(水) 20:30:01 ID:4lgt9nzz
大旗本か、大名の家臣なら重臣級かな
303 :
人間七七四年:2010/03/03(水) 20:35:30 ID:pw91YQKC
>>300 下屋敷というのは別邸的な側面が大きい場所
他の屋敷より離れた場所にあり、面積が大きい
304 :
人間七七四年:2010/03/03(水) 20:37:39 ID:4J4Kd27u
現代にも都心と郊外にそれぞれ屋敷持ってる人って…少しはいそうだな。
305 :
人間七七四年:2010/03/03(水) 20:40:46 ID:4lgt9nzz
仙台藩下屋敷で味噌を売っていたって本当だろうか
306 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 11:35:27 ID:8wTEl/j/
尾張徳川家の下屋敷には御町屋もありましたから、よそにもあるんじゃないの。
307 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 19:05:54 ID:9fyYvAkn
武田信玄は息子を殺し今川氏を裏切って攻め込みました。
当時肥沃な美濃を、織田と共同で斎藤氏を攻めた方が得だと思うのですが
なぜわざわざ北条から顰蹙を買うような真似をして今川を狙ったのでしょうか?
308 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 19:08:42 ID:MQ2ca/dB
山奥暮らしが長く続いたので、海が欲しかったから
309 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 19:14:26 ID:xIWFpWTY
そもそも美濃が肥沃かと言われると…
310 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 19:35:58 ID:0/LnVgUh
戦国までの美濃は水害がハンパないからな。
311 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 21:27:02 ID:Ll+TNvX9
既出かもしれませんが、質問させていただきます。
国守の官職って室町時代後期辺りだともう名目だけのものになってたと思うのですが、
それでも自分の支配領域の国守職を得ることは、何か有利なことというか、他の領域の
国守職や別な官職とかに比べれば良いことと思われていたのでしょうか?
江戸時代、安芸国の国守をずっと浅野家の人が努めてたので気になりました。
312 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 21:30:45 ID:xIWFpWTY
>>311 今も昔もその「名目」が有ると無いとでは雲泥の差
313 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 23:51:04 ID:NZKc9iHg
血気盛んな若殿が家臣が「そこは銃弾が飛んできて危ないから下がってください」って言っても
若は「怖くなどない」と言って聞かず、
爺やが「そっちは道が悪いからこっちを歩いてください」
と安全な方へ誘導する話って誰と誰の話でしたっけ?
314 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 23:59:51 ID:DrOY+KWx
>>311 大内義隆は少弐氏と争う際に、朝廷にわたりをつけて大宰大弐に叙任されている。
これは単に大内義隆の嗜好という問題でなく、少弐氏よりも上の大宰府の官を
獲得することで、名分を得るという効果を狙っているんだよね。
効果があるからこそ、そういうことが行われるわけです。
315 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 00:33:56 ID:vZUR1baG
>>313 大阪冬の陣の時の、前田軍が真田丸から攻撃受けたので丘の陰に移動しようって進言されたのに
前田利常がそれを拒否してたら、重臣の山崎長徳が「ここは風が強いから風邪ひきそう。
いざという時風邪ひいちゃダメなんで、風のこない丘の陰に移動しましょう」って言ったら
それもそうだと従った、ってやつか?
316 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 02:02:35 ID:fFCRS0Jb
ちょっと変な質問なんですが、戦国武将の羽織ってる羽織りがあるじゃないですか。
あれの後ろの裾にベント(切れ目)が入ってて、差した刀の鞘の後ろの部分をあそこから
外に出してるような絵をよく見るんですが、切れ目は真ん中なのに刀はちょっと左寄に
あるので、少しめくれ上がっちゃってますよね。
別にそれが不恰好とも思わないんですが、誰が切れ目の位置をずらして(スーツの
サイドベントみたいにしたりして)、刀の鞘がすっと後ろに出るようにした人とかはいなか
ったんでしょうか?
317 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 02:16:42 ID:gADJ/bfz
横は紐でなのとかあるから漁ってみるがよろし
318 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 03:31:41 ID:vZUR1baG
>>316 陣羽織を着るようなのは一手の将であり、そう言った身分の者は脇差は常に身につけているが、
太刀に関しては常時身につけると言うわけではない。(太刀持ちが普通ついている)
319 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 07:51:37 ID:r5fAo6V5
>>316 あそこは布の縫い目だから。
和装をちょっとは知るといい。
320 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 11:05:40 ID:S4PhO4QY
戦国時代の忍者は、子供向け番組にあるような
「凧で飛行」 「シュノーケルで水中移動」 「撒き菱で逃げる」 など、
実際に使用したのですか?
321 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 13:43:29 ID:bObZnIN6
>凧で飛行
ルパンだけだろうな
>水中移動
わざわざ水の中に潜る必然性がないので使用機会はほぼ無いでしょう
>巻きびし
これくらいはやったかもしれない
基本、忍者(間者)の役割と言うのは情報収集なので
普通に武士の格好して紛れ込んで相手の情報を探ったり、偽情報を城下で流したりとか
そういう事をやってた。
忍び装束で城へ忍び込んで手裏剣投げて・・・などというのは空想上のお話。
322 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 18:01:05 ID:gADJ/bfz
凧で飛行といえば白影さんじゃろがい
323 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 18:07:28 ID:CBRpiH5C
激動たるカワラザキ
324 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 18:23:03 ID:Kk5yhOiA
『万川集海』は江戸時代のトンデモ本だと思う。
325 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 18:31:32 ID:vZUR1baG
一口に忍者と言っても色々あって、十数人から数十人くらいの小数で夜討やゲリラ戦を仕掛けて
敵を混乱させる部隊も、透破、乱破などと呼ばれた。
326 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 18:59:50 ID:KiDdDpFj
>>321 忍者屋敷の博物館で水の上に乗るやつが展示されてたぞ
327 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 19:43:58 ID:HadNnS24
>>326 水蜘蛛のことか?
甲賀の忍者村だかでそれをつけながら水を上を歩くってイベントがあったけど
なんか滅茶苦茶でかかったしバランスとるために竹かなんかを杖みたいにして歩いたりとか
実際に用いたとはちょっと考え難いものだったぞ
328 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 20:18:43 ID:Kk5yhOiA
水蜘蛛こそ万川集海に載っていたトンデモアイテム
329 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 00:05:23 ID:kVuWOrT3
鈴木眞哉という人の名前をちょこちょこ見かけますが、この方の主張はどんなもんなんでしょうか?
在野の歴史研究家で既存の研究や通説を真っ向否定する傾向があるとは理解しておりますが、
「巷間に流布しているものと違い実は〜〜だった!」という説を見ることは好きなのですが、
裏打ちも入念な調査研究もないものはトンデモだと思うので・・・
この方の著書は読むだけの価値がある(説得力や十分な裏打ちがある)のでしょうか?
この板には実際に史料を読解できるレベルの方もいらっしゃると思うので、
そうした視点からの率直なアドバイスをいただければ幸いです。m(_ _)m
330 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 00:07:05 ID:F+NLryGe
ぶっちゃけて言うと「説の一つ」
トンデモとは言わないけど、極端に過ぎる嫌いがあるのも確か。
331 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 00:30:30 ID:rUnAFpOw
鈴木眞哉は、自分の考えにあわせて都合のいい史料をあてはめていく行くと言う、
歴史家として最もやってはいけない事を平気でやっているので、
彼の本は基本的に小説と同じようなものだと考えた方がいい。
332 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 02:38:15 ID:ZCD6tmW2
水蜘蛛は使われてない、仮に使われたとしても浮き輪みたいな使い方をした
って聞いたが
333 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 02:59:20 ID:yPipITQT
濡らしたくないものを乗っけて泳いで渡るが正解だわな
334 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 07:59:04 ID:lho/MqVL
一代で急成長した大名が幼い後継を残して死ぬ
この状況で受け継いだ版図を維持できた事例があったら教えて下さい
335 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 09:08:46 ID:iVQRatnp
毛利さんちのテル様?
336 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 09:13:00 ID:YL5GfZ6w
>>329 全体的にどうかは知らないけど雑賀衆関連の本は
他に調べてる人もあまりいないもんで、参考になったよ。
337 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 09:20:54 ID:jsh5s4xD
>>334 幼いってのがどの程度の年齢までを指しているのか判らないが、若造と言っていいレベルなら毛利家。
338 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 09:34:58 ID:UKqLU0OP
俺たちのTERUは隆景さんに陰でぶん殴られて教育されたらしいな
339 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 09:58:31 ID:54V7yxcl
>>334 親が死に家督をついだ歳
大内政弘19歳
大内義興18歳
大内義隆21歳
若くして相続したが勢力を衰退させるどころか先代より発展させている
340 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 10:17:25 ID:bwhuv6Fo
>>339 そら当時じゃ立派な成人レベルの年だろがよ
341 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 11:32:47 ID:uJl9ki7G
>>338 元就や隆元や元春がいた時代にはそんな暴挙はできなかった。
秀吉から優遇されてから。
342 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 14:12:28 ID:bg84ThAB
戦国時代の女性の髪型はどのようなものだったのでしょうか?
お願いします
343 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 14:21:47 ID:rUnAFpOw
344 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 15:34:53 ID:bg84ThAB
>>343 おお!
すごく面白そう
今度買ってみます!ありがとう
345 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 15:44:45 ID:WJTpKeV8
織田信長時代前後の大大名の石高一覧ってありませんか?
毛利元就は一時期中国全部に北九州まで手を伸ばす大勢力だったみたいですが、
織田の上洛前後よりも石高は上だったのではないでしょうか?
また豊臣政権下の毛利輝元と一族の合計は徳川に近いものではなかったのですか?
また、上杉謙信も小田原包囲するなど、どうも織田は特別大勢力とは言えなかったような気がするのです。
なのに何故か織田〜豊臣の勢力は天下人とされていたのはやはり京に近い大勢力だったからなのでしょうか?
346 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 15:58:48 ID:rUnAFpOw
>>345 > 織田信長時代前後の大大名の石高一覧ってありませんか?
太閤検地以前は基本的に貫高であり、銭と米との交換率、さらに銭自体の価値も
地域によって様々だったので簡単に石高に変換出来ない。
推定値なら探せばどこかにあるかも知れないが。
> 毛利元就は一時期中国全部に北九州まで手を伸ばす大勢力だったみたいですが、
> 織田の上洛前後よりも石高は上だったのではないでしょうか?
上洛前なら毛利の方が上だったかもしれん。ただし上洛後であれば、
畿内と中国では生産性が段違い。
> また豊臣政権下の毛利輝元と一族の合計は徳川に近いものではなかったのですか?
どこまでを「毛利一族」に入れるのかにもよるし、そもそも豊臣期の毛利一門は
構造として君主権がまだ弱く、家康の君主独裁をほぼ確立していた同時期の徳川家と
単純に比べられない。
> また、上杉謙信も小田原包囲するなど、どうも織田は特別大勢力とは言えなかったような気がするのです。
> なのに何故か織田〜豊臣の勢力は天下人とされていたのはやはり京に近い大勢力だったからなのでしょうか?
室町期の常識として、畿内近国、東瀬戸内くらいまでが「天下」の範囲だった。
この「天下」が日本全国を指す言葉に拡大したのは、信長の末期くらいから。
347 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 16:04:21 ID:YL5GfZ6w
>織田信長時代前後の大大名の石高一覧ってありませんか?
全国の大名の石高が統一基準で検地されたのは秀吉の天下統一以降。
それまでは各地の大名の基準がまちまちなので、おおよその石高しかわからない。
よって信長時代の「一覧」はないと思われる。
>毛利元就は一時期中国全部に北九州まで手を伸ばす大勢力だったみたいですが、
>織田の上洛前後よりも石高は上だったのではないでしょうか?
毛利は秀吉に屈して中央政権の後押しを受けて国人層を次々取り潰しは直轄地にしていったが
それ以前は半従属、半独立状態の有力国人層が多かったので、毛利の直轄地はそれ程多くない。
つまり、それら有力国人領主達の建前上の盟主に過ぎず、独自に彼らを総動員できるような立場ではなかった。
その点、信長は次々と寺社や旧勢力を武力で滅ぼしていったので直轄地が多かった。
支配範囲=石高・動員数ではないということ。
>また豊臣政権下の毛利輝元と一族の合計は徳川に近いものではなかったのですか?
前述の通り、毛利は豊臣政権下で豪族を滅ぼして直轄地を増やしたので、徳川より上。
単独の大名として比した場合だけど。秀吉が死ぬ前まではそんな感じ。
>また、上杉謙信も小田原包囲するなど、どうも織田は特別大勢力とは言えなかったような気がするのです。
謙信がどうこうの意味がわからん。それと信長の勢力と何の関わりがあるの?
348 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 17:44:22 ID:iVQRatnp
年表的に荘園制が完全終了したのは太閤検地でしたね。そして貫高制から石高制
への転換。やはり検地は一つの画期だったし、実際に検地された百姓たちも
「時代が変わった」と実感したのでしょうか。
349 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 17:50:39 ID:JkEQvycP
秀吉軍の小田原征伐を単独でやった謙信は
信長(秀吉)と同じくらいビックな存在じゃね という意味かと
謙信=天下人級なら同じくらいスゲー奴は天下にゴロゴロいるぜ、と
350 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 17:57:04 ID:rUnAFpOw
>>348 そりゃあ実感しただろう。恐ろしい大増税が始まったわけだから。
351 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 18:03:51 ID:WJTpKeV8
352 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 20:15:59 ID:aiLm3Smc
この間、群馬のあるお寺にいったら北爪将監の墓とかいう文化財があって
説明に戦国時代に活躍した武将で北条氏に従った書いてあったけど
北条のほうで調べてもそんな名前見当たらないし
何者なんでしょう?
353 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 20:26:43 ID:rUnAFpOw
354 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 21:46:09 ID:qP7N7wwQ
見張り台や、館みたいなものでも城と呼ばれてる場合がありますが、城の定義はどのようなものですか?
355 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 00:28:45 ID:LfCfCTlW
掘っ建て小屋を木の柵で囲んだ程度でも〇〇城だもんなあ
356 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 00:37:17 ID:aHxWa1vS
>>354 応仁の乱あたりまで、館に櫓をあげたらそれで「城」と呼ばれた。
ぶっちゃけ「城」にある程度の定義が出来るのは、江戸期の一国一城令からだと
考えた方が良いかと。
357 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 01:21:18 ID:u7398EtG
>>355 >>356 ありがとうございます
当時の人は、城とは言わなくて、現代の人が勝手に城と言ってるだけなんですかね〜
358 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 01:27:23 ID:aHxWa1vS
>>357 いや、城とは普通に呼んでた。ただ城というものの概念が後世に比べて恐ろしく広かっただけ。
359 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 06:55:27 ID:LfCfCTlW
そんな時代に砦と呼ばれた丸根、鷲津砦がどれほどショボかったか。そこに
篭らされて今川勢を迎え撃たされた将兵のことを思うと背筋が寒くなりますな。
360 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 08:43:37 ID:64tEbqW2
大陸国から見れば倭国に城などない
豊臣時代以降は韓国人の力を借りて多少ましな城を作れるようにはなったが
361 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 08:54:47 ID:tmkXxz2W
朝釣りかー
362 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 08:56:13 ID:OFvNTUBY
>>360 確かに中国で言う城邑は無いな。城に対する考え方自体違うのに一緒くたにしてる
事自体がおかしい。
363 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 09:06:14 ID:63F5N1kK
韓国とかチョーウケルwww
朝鮮ならまだしも韓国w50年前にできましたwww
364 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 09:09:36 ID:aHxWa1vS
見え見えの
釣り針なのに
喜んで
釣られる馬鹿は
救いようが無し
365 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 09:19:18 ID:iya6Hvu9
そういう自分は釣りと分かってます!
自分は釣る奴も釣られる奴とも違うんですよって書き込みももういいから
366 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 09:40:05 ID:5npb21xn
>>359 だから、城と砦の規模に関する明確な差異ってのもないのよ。
むしろ純粋に軍事目的で作る砦の方がそこらの名ばかりの城より防衛力は優れていたり。
367 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 10:53:11 ID:SQXj44QB
>>366 まずはその名ばかりの城を出してから言えボケ!!
368 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 11:59:06 ID:OFvNTUBY
369 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 12:06:39 ID:0KgdLqPn
柵は?柵はどうなのお兄ちゃん
370 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 12:51:18 ID:tmkXxz2W
371 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 16:25:52 ID:LfCfCTlW
結局城なのか砦なのかは当時の人がフィーリングで付けてたの?
372 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 16:26:40 ID:/nb10Acg
>>354 中に篭ってる人間が長期生活できることだろうね
兵舎と兵糧庫があって水の確保が必須
373 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 22:46:32 ID:MKw+08sc
実家の裏の山(つーか周囲より小高くなってる程度)が
地元方言に訛ってるけど訳すると城山と呼ばれてて
何で城山なんだと思ってたら
後々調べたら一応、城ではあったっぽい事を知って驚いたのを思い出した
374 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 23:51:39 ID:aHxWa1vS
近江なんてちょっとしや山や丘陵は悉く城跡って勢い。
375 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 09:04:53 ID:eeuiapva
伊達政宗は、5年で奥州統一と言われていますが
陸奥は津軽とか南部とか健在でしたよね?
結局近隣の弱小と蘆名を倒しただけで秀吉に没収されて
何がしたかったのかよくわからない伊達政宗さんですが
奥州統一って嘘は誰が言い始めたのでしょうか?
376 :
friend:2010/03/08(月) 09:17:23 ID:izlbHygY
私は韓国人なのでよく分からないが . 怒らないでください. 私は戦国時代で 上杉 謙信 球が一番良いです. 正義感, 実力最強, 仏教優待,
特に塩を他国に送ってエピソードは大好きです.
現在にこんなリーダーが出たら忠誠するようです. 青臭い日本語申し訳ありません.
377 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 10:19:06 ID:dE24oZqA
>>375 当時の勢いから言えば、「秀吉が停戦令を出さなければ」奥州統一も可能であっただろう、って話じゃないの。
長宗我部と一緒で。
東北じゃ蘆名と伊達くらいしか中央から勢力として認知されてなかったようだし
その一方を倒したんだし、対抗馬になるような勢力もなかったからね。政宗の時代の東北は。
南部は津軽と揉めててそれどころじゃなかったし、安東は内紛だし。
378 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 10:22:57 ID:dE24oZqA
>>376 えっと、イメージ先行でよく語られるエピソード多いけど
謙信が正義感強かったとか、実力最高ってのは過剰に美化されたものですよ。
関東出兵時も略奪やってるし、国内じゃ国人層がバンバン離反してるから統率力にも欠けてたし。
寺社優遇くらいじゃない?本当なのは。新潟県はいまも神社の数が日本一らしいしな
379 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 10:28:25 ID:psgfzA2q
いや惣無事令によって救われたのは政宗の方。
大崎を支援した義光が作った伊達包囲網を義光自ら放棄したのは義姫うんねん以前に、秀吉の惣無事令の使者がわざわざ下向してきたからだし。
380 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 10:36:00 ID:2eATWhL7
あれえ?あぼ〜ん三連発だ
381 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 10:53:49 ID:dE24oZqA
>>379 だって、その包囲網の盟主である蘆名を倒しちゃってるんだから
最上がどうこう足掻いたところでどうなるもんでもないでしょ。
つーか、最上は東北の中じゃ他の大名と比べる比較対象にならんでしょ。
佐竹と全面戦争になってたら統一は無理だったかもしれないけど
その中で最上の果たす勢力比なんてたかが知れてる。
>義光自ら放棄したのは義姫うんぬん以前に、秀吉の惣無事令の使者がわざわざ下向してきたからだし
つまり最上が劣勢になってたからでしょ。伊達側から和睦を申し込む必然性がない。
382 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 11:36:36 ID:psgfzA2q
大崎包囲網の時点で葦名を倒した?
葦名が包囲網の盟主?
なに言ってんだお前?無知さらすんじゃねぇよw
大崎単体にフルボッコされた伊達こそ最上に手を引いてもらいたい方だ。
383 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 11:38:57 ID:iO3FI2hh
>>377 南部は津軽と揉めてるというより、一族内で争ってて周りに対処する余裕がまったくなかったってイメージがある
384 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 12:31:23 ID:sDU4F/ZL
>>381 つまり、惣無事令がなければ包囲網は続いていたと
政宗が葦名を倒せたのも、最上が秀吉に従ってくれた結果
それがなければ、政宗の葦名征服もできたかどうか
385 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 13:10:58 ID:psgfzA2q
政宗が攻めあぐんだ二本松城が相馬の斡旋で開城したのも
最上の伊達包囲網が解除されたのも
優勢下の佐竹の再三の撤退も
葦名支援を佐竹が止めて葦名から支援やめるんなら義広を佐竹に返すと言われたのも
上杉が佐渡へ渡り会津が真空状態になったのも
上杉と佐竹が伊達攻めを中止した北条攻めな行ったのも
ぜんぶ秀吉の惣無事令政策からくるもの。
386 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 13:11:31 ID:dE24oZqA
>>382 わざわざageて自己主張お疲れ様です。
ええと、君のような読解力の無い馬鹿の為に全部詳しく書かないとダメかな?
>大崎包囲網の時点で葦名を倒した?
大崎・最上だけで「包囲網」とは言わないだろう
俺はその後の摺上原の戦いを指して「包囲網」と思ってたんだが。
実質的にだって最上・大崎連合だけで伊達に勝ち目はないわけだし
佐竹主導となって蘆名を名目上の盟主に立てて包囲網を作ったからこそ
それに便乗できただけ。
>葦名が包囲網の盟主?
事実上は佐竹が盟主。名目上は蘆名。そう書けばよかったか?
最上が伊達包囲網の盟主とかどっからそんなアホな考えが出てくるのやら。
>大崎単体にフルボッコされた伊達
佐竹手動によって南側勢力からの脅威が増したから全面対決できなかっただけだろ
局地戦で1回負けたからってフルボッコ?
結果的に手を引いたのは最上の方なんだから、劣勢だったのは明らかじゃねーか
伊達こそ最上に手を引いてもらいたかったってんなら、それこそ伊達から中央に誼通じるんじゃねーの?
戦を続ける意味がないだろ。このまま勢力を広げられると思ったから戦を続行したわけで、結果的に蘆名を駆逐してるわけだし。
なに、君は最上信者なの?
387 :
人間七七四年:2010/03/09(火) 08:56:38 ID:jQ5Mj0/H
>>376 韓国人なら大内氏について調べてみると面白いぞ
388 :
人間七七四年:2010/03/10(水) 01:01:46 ID:/ocANWzi
韓国の話題でちょっと気になったのですが
戦国時代の大名では平や源などを名乗っている人は多いですが
先祖は秦や漢の皇族とか、自分は百済や新羅の王族の末裔とか
大陸や半島が起源だと名乗っていた大名はいるのでしょうか?
389 :
人間七七四年:2010/03/10(水) 01:03:53 ID:3W7heOj6
大内、宇喜多、長曽我部。
390 :
人間七七四年:2010/03/10(水) 01:17:57 ID:/ocANWzi
ありがとうございます。
391 :
人間七七四年:2010/03/10(水) 06:10:26 ID:k5ShJXi7
半島系と思われる氏族でも、後に秦の始皇帝や漢の献帝の子孫を称しているな。
392 :
人間七七四年:2010/03/10(水) 14:14:26 ID:vhlNLPuK
対馬の豪族、宗氏って半島系なの?それとも名乗ってるだけ?
393 :
人間七七四年:2010/03/10(水) 14:20:58 ID:3W7heOj6
宗氏は少なくとも室町以降は桓武平氏を名乗っている。
394 :
人間七七四年:2010/03/10(水) 14:34:26 ID:2e6twsBG
そもそも何で半島系か、そうでないのかを気にするの?
実際は渡来系だけど平氏や源氏を名乗った人もいるし
氏素性の知れない出だから、皇帝の末裔だとか自称した人も多いし
こまけー事はわからんと思うのだけども
395 :
人間七七四年:2010/03/10(水) 14:53:28 ID:k5ShJXi7
「宗氏は韓国系だから対馬は韓国の領土ニダ!」
396 :
人間七七四年:2010/03/11(木) 03:50:43 ID:cp82WL31
大内は日明・日朝貿易で細川よりも優位に立つために渡来系であると主張するようになったとか
397 :
人間七七四年:2010/03/11(木) 07:00:40 ID:XGjc93Ry
大内・細川の寧波の乱の迷惑っぷりは異常
398 :
人間七七四年:2010/03/12(金) 05:19:11 ID:KaJ7EOgh
戦国時代の天皇や大名でない公家などは普段何をしていたのでしょうか?
戦国時代になると急に歴史の授業でもあまり出てこなくなる階層なので
あまり印象にないのですが
399 :
人間七七四年:2010/03/12(金) 06:06:09 ID:rBmLaYnS
山口や朝倉谷に疎開してた連中もいたが、京に残ってた公家は
どうやって食ってたんだろうね。
400 :
人間七七四年:2010/03/12(金) 06:57:16 ID:IvZ7/+J4
京に残った中でも有力な公家は、座や関などの京の経済利権を持っていた。
中小の公家はそれらに服属していた。
401 :
人間七七四年:2010/03/12(金) 08:14:33 ID:rBmLaYnS
内裏の衰微が最も著しかった時期には、天皇自ら草した和歌の短冊を
売って凌いだなんて話もあった。
402 :
人間七七四年:2010/03/12(金) 13:14:49 ID:MpxjtL2F
>>399 地方へ下向する場合、自分の所領(荘園)を直務(直接経営)するという
パターンもあるね。九条政基なんてその典型だし、二条晴良や山科言継も
自分の所領がある国へ下向している。
403 :
人間七七四年:2010/03/12(金) 17:42:49 ID:rBmLaYnS
土佐一条氏みたいに公家が下向して戦国大名化した例もあったなそういや。
404 :
人間七七四年:2010/03/12(金) 17:53:58 ID:IvZ7/+J4
戦国期の朝廷で言うと、なんのかんので京の各種経済利権を持っていたので、
大嘗祭とかのべらぼうに金の掛る行事はともかく、普段の生活に関してまで苦しいというほどのことは
無かったはず。
405 :
人間七七四年:2010/03/12(金) 18:03:48 ID:KaJ7EOgh
ありがとうございます、公家にも色々といたり天皇も経済的に大変だったのですね。
他の時代と比べて戦国時代はあまり歴史の表舞台に登場しないので、
何をしてたのか気になってたのですがなんとなく分かりました。
406 :
人間七七四年:2010/03/12(金) 18:11:25 ID:n1uH97M7
日記書いてた
407 :
人間七七四年:2010/03/13(土) 02:48:22 ID:PVo7wvRz
戦国時代には出自をけっこうコロコロ変えてる人や
明らかにそんなわけないだろって出自を名乗ってる人がいますが
当時の教養人とか上層階級の人間が
「○○の□□家は最近源氏名乗ってるらしいがあいつの家って確か違ったぞ」とか
「どこどこの大名が俺の遠い親戚だとか言ってるそうだけどあんな奴知らんし認めん」
みたいなつっこみ入れてるような日記や手紙みたいな文書って存在するんでしょうか
408 :
人間七七四年:2010/03/13(土) 03:00:29 ID:bk22E319
佐竹義重が武田信玄に源氏の正当性について書状で議論したくらい。
つーか、どの血脈を名乗るにせよそれだけの実力がなけりゃ誰にも認めさせられないし、
基本生き残った戦国大名にはsの実力があったんだから、それらに血筋のことで文句つけて
喧嘩売るなんてアホか気違いしか考えない。
端的に言ってそんな行為は殆ど意味がない。
409 :
人間七七四年:2010/03/13(土) 03:08:28 ID:PVo7wvRz
>>408 なるほどありがとうございます
自分として公然と真っ向から批判や議論をするというよりも
ちょっと知り合いに書いた手紙に気に入らない奴のそんな陰口を書いたり
日記で愚痴ったり風刺してるような人の一人か二人ぐらい当時でも
いなかったのかなと思いまして
410 :
人間七七四年:2010/03/13(土) 03:17:28 ID:bk22E319
ああ、長尾上杉を忘れてた。謙信、景勝は敵対した大名から上杉を継いだことを認められず
ずっと長尾呼ばわりされている。まあこれは上杉の家職と言うべき関東管領が付属してしまうためだが。
で、長尾上杉は江戸期に入っても書状などで長尾と書かれることが多く、景勝の血筋が断絶して
吉良家から綱憲が入ってきたあたりで、ようやく「上杉」と統一して呼ばれるようになる。
411 :
人間七七四年:2010/03/13(土) 06:27:50 ID:a6LioUaj
武田家は滅亡するまで謙信を長尾呼ばわりだったな
関東管領だと甲斐守護職の武田より格上になっちゃうもんな
412 :
人間七七四年:2010/03/13(土) 11:22:05 ID:CK32UFiN
義の字をもらった相良に大友が異議を唱えたりしとる
413 :
人間七七四年:2010/03/13(土) 13:06:26 ID:XkEjUj8V
>>410 まあ、織豊期以降の長尾呼ばわりは「長尾出身で上杉を継いだ景勝殿」程度の
ニュアンスなんだろうな。
北条氏も「伊勢」呼ばわりされていたような・・・
414 :
人間七七四年:2010/03/13(土) 17:43:49 ID:a6LioUaj
北条もずいぶんだよな
どこかから関東に流れて来た奴が北条得宗家の名跡を名乗るなんてどんだけww
415 :
人間七七四年:2010/03/13(土) 18:51:23 ID:Lzr0NngE
伊勢でも名族だと思うんだけどな。
関東に根を生やすなら北条が良かったのかね?
416 :
人間七七四年:2010/03/13(土) 18:58:11 ID:UD5JDVE/
417 :
人間七七四年:2010/03/13(土) 19:13:45 ID:bk22E319
つーか関東で最初に本拠にした韮山あたりが「北条」って呼ばれてた地域だからな。
伊勢宗瑞のころから「「北条の伊勢」略して「北条」と呼ばれていた可能性も否定できない。
418 :
人間七七四年:2010/03/13(土) 20:48:06 ID:eHOYAx2s
戦国武将は修道とかいって、ホモ趣味が多かったって言われてるみたいだけど、
コンドームも無い時代にやったら感染症ですぐ死んじゃったりしないの?
もしかして戦国時代の男が早死なのは感染症?
それとも、直腸挿入せずに手でみたいなことだったの?
419 :
人間七七四年:2010/03/13(土) 21:19:28 ID:kxHqmY8A
>>413 頼山陽の日本外史は面白い
武田氏の章では、上杉はいつまでも「長尾」呼ばわり。
上杉氏の章では、北条はいつまでも「伊勢」呼ばわり
>>405 中小の公家でも経済的利権を保って近世以後につなげられた家がある一方で、
経済的な利権を持たない家は一度断絶したら、復活させつメリットもなかったからそれっきり断絶したまんまって言う家も多かった(大宮官務家とか賀茂氏の勘解由小路家とか、さすがに後に再興されたけど摂関家の鷹司家でさえ1546年から1579まで断絶状態だった)。
さすがに世の中が落ち着いてくると、このままじゃ公家社会が維持できないと気付いて本来なら出家するしか道が無かった公家の次男・三男を分家させて「新家」を創設させた。
公家の格式の旧家・新家はまさにその時に出来た区別。
420 :
人間七七四年:2010/03/13(土) 22:23:10 ID:a6LioUaj
>>415 畿内で伊勢と名乗るのと関東で北条と名乗るのでは重みが違うだろ。
421 :
人間七七四年:2010/03/14(日) 00:37:00 ID:gIaXg5e+
>>420 でもいくら名族とは言え北条が滅んで200年近くたってるわけだからなあ。
北条と名乗ることで対外的に何か実質的な意味があったとは思えない。
むしろ「伊勢」という京の幕府にあまりに密着していた姓をはばかった、と考えた方が
いいんじゃないだろうか?
422 :
人間七七四年:2010/03/14(日) 01:08:47 ID:LHKsnQOa
フィギュアの織田信成とかマスコミの扱いみると有名先祖効果の
賞味期限は忘れ去られ無い限り続くんじゃないかに
423 :
人間七七四年:2010/03/14(日) 01:15:21 ID:og9vOrn3
モー娘でも平氏の末裔だと色んなメディアで吹聴して
個性にしてた平家みちよって奴いたな
424 :
人間七七四年:2010/03/14(日) 09:09:35 ID:wr2neCWh
>>421 伊勢の姓をはばかったにせよ、効果が無いと思ったのなら改姓するのに北条を選ぶ理由もないでしょう。
だったら、北条以外のほかの関東名族の姓を名乗ればいいだけの話だから。
425 :
人間七七四年:2010/03/14(日) 09:18:43 ID:kc+a/56z
>>421 実質的というが、そもそも名前を変えるのに実質の意味などあるわけがない。
しかし例えば、今の人が突然「徳川」と改名したら結構インパクトがあるんじゃないか?
まあ徳川氏はいまだ健在だけど。
426 :
人間七七四年:2010/03/14(日) 09:20:17 ID:gIaXg5e+
>>424 んだから、「北条」と言う土地を(小田原以前は)本拠にしていたから北条になったんじゃないか?
選ぶ選ばない以前に。
427 :
人間七七四年:2010/03/14(日) 09:33:15 ID:kc+a/56z
>>426 江戸時代に三河の松平郷を領地にしても松平とは名乗れなかったんじゃないか?
先に名乗ってる人がメジャー過ぎるから「地名です」では通りにくいのでは。
428 :
人間七七四年:2010/03/14(日) 09:39:35 ID:gIaXg5e+
>>427 体制や制度がかっちり決まった江戸期と一緒にされても。
そりゃ鎌倉北条氏の記憶とリンクする思惑はあったにしても、基本的には「北条の伊勢」だから
「北条」って事になったのが先なんじゃないかね?
小田原征伐の頃まで「北条の本願は伊豆」って意識は内外ともにあったようだし。
429 :
人間七七四年:2010/03/14(日) 11:34:51 ID:kc+a/56z
Wikiですまんが
北条氏の本姓は伊勢氏(備中伊勢氏)である。現在では伊勢氏は室町幕府に仕え
た身分の高い一族であることが判明しており、関東支配において不利になる要素
ではなかった。それでもなお北条の名にこだわったのは、鎌倉幕府を支配した執
権北条氏の影響力を利用しようとしたためと言われている。氏綱から名乗った官
途名左京大夫、氏康から名乗った受領名相模守も、鎌倉北条氏で歴代の執権が名
乗ったものを踏襲したものである。当主が左京大夫、隠居した際に相模守を名乗
るのが通例だった。
430 :
人間七七四年:2010/03/14(日) 12:57:17 ID:gIaXg5e+
>>429 それは知っているが、先ずその前提の
> 現在では伊勢氏は室町幕府に仕え
> た身分の高い一族であることが判明しており、関東支配において不利になる要素
> ではなかった。
ここが違うんじゃないかと考えているわけだ。
関東に根の無い幕府政所家の伊勢ではやはり、「京からの侵略者」と言うイメージが
強すぎたのではないかと。
431 :
人間七七四年:2010/03/14(日) 20:25:05 ID:0i6FkPNh
>>428 そもそも北条執権家は戦国時代初期には滅亡していた訳だし。
432 :
人間七七四年:2010/03/14(日) 23:52:11 ID:og9vOrn3
これ以上は質問スレの範疇でないただの議論だから
北条スレでも行って議論してくれ
どうもお互いに結論しかりで論破したくて仕方がない人が一部いるみたいだから
433 :
人間七七四年:2010/03/15(月) 00:05:08 ID:llNC4xRF
歴オタの悪い癖ですねぇ
434 :
人間七七四年:2010/03/15(月) 13:24:01 ID:e5SfgNGc
中国地方の大内と伊達の家臣の大内ってつながりあるんですか?
Wikiでは定綱は義隆の息子の一人と書いてあったんですが、信用できないんで
そのへん詳しい方お願いします(・ω・)
435 :
人間七七四年:2010/03/15(月) 16:45:05 ID:5NLGYtXf
陸奥の大内氏は自称じゃなかったかな、家系図はいじってそうだが
室町初期に遠くて目が届きにくい奥州管領(斯波家)に対抗するために
長門守護家から派遣してそれが土着したんだ ってな言い分だったような
定綱と義隆が親子というのはみたことがないなぁ
福島や宮城県史とか見ることができれば詳しくわかるかもね
436 :
人間七七四年:2010/03/15(月) 22:45:45 ID:JV96vUKz
>>434 周防大内家の方は色々調べてるけど
大内定綱の話は全く出てこないな
生年で行くと定綱は大内義隆の長男・義尊と同い年だが、
義尊がいるから定綱は陸奥の方にあげたなんてのはちょっと考えにくい
そんな事があったら記録に残っているだろうし
437 :
人間七七四年:2010/03/15(月) 22:56:47 ID:v8suGHnw
大内って言えば山本勘助も元々山口で大内に仕えていたって話があるな。
こっちは萩藩閥閲録に堂々と出てくるw
438 :
仙台藩百姓:2010/03/15(月) 23:55:36 ID:SiNUwrSe
>>434 wiki見てみたけど普通に大内義綱の子って書いてあるお( ^ω^)?
439 :
人間七七四年:2010/03/15(月) 23:57:33 ID:txdQ64JA
440 :
人間七七四年:2010/03/16(火) 00:07:25 ID:cMChbGtS
>>439 己で解決することに喜びがある
成功の秘訣は存じてるがあえてやめとこ
441 :
人間七七四年:2010/03/16(火) 00:23:01 ID:ajc6iCy1
442 :
人間七七四年:2010/03/16(火) 01:39:53 ID:FglSGVsk
イヤ、正月とか特別な日だけ解禁されるみたい。
テス
444 :
人間七七四年:2010/03/16(火) 07:01:18 ID:u12nS6OY
ここでやるなよバカが
445 :
人間七七四年:2010/03/16(火) 15:38:24 ID:rHxYWBAx
参考になりましたありがとうございます。
446 :
人間七七四年:2010/03/16(火) 21:44:28 ID:1yBa8DSy
>>440-442 遅くなりましたがレスありがとうござます
釣りスレかなと最初は思ったけどどうもそうでもないっぽいと思って色々粘ってました or2
残念無念
447 :
人間七七四年:2010/03/17(水) 21:55:56 ID:clhMFCJq
骨皮スネ夫みたいな名前の武将がいたとおもいますが名前がおもいだせません
ちなみに中の人の肝付のことではありません
448 :
人間七七四年:2010/03/17(水) 22:04:11 ID:ytky+Ipz
骨皮道賢
449 :
人間七七四年:2010/03/17(水) 22:04:29 ID:clhMFCJq
サンクス
450 :
人間七七四年:2010/03/18(木) 00:24:46 ID:Nh2xrp42
いわゆる戦国期的な意味での足軽の出現は応仁の乱だそうですが、
その頃の足軽って明らかに傭兵集団ですよね。
その傭兵集団である足軽が、農村からの軍役によって編成される、正規の
兵制に転換したのはいつごろなんでしょうか?
いち早く足軽部隊を編成と戦術を確立したと言う太田道灌からなのでしょうか?
451 :
人間七七四年:2010/03/18(木) 03:18:04 ID:RGX0FBM3
色々意見が飛び交うだろうからさっさと結論を出しとくと、
「戦国時代の足軽の事はあまりよく解ってない」
452 :
人間七七四年:2010/03/18(木) 13:28:00 ID:A1nuIow/
武田家の武将の戦死率が異様に高いとかいう話題がでたときに
「武田家の戦死者は、実は死んでなくて、村とかにひっそりと身を隠して戦死扱いになるので、実際には死んでない」
と聞いたのですが、本当ですか?
大河ドラマ風林火山では、戦死した人が、ドラマでは側室にぶっ殺されてましたけど・・・
453 :
人間七七四年:2010/03/18(木) 16:37:02 ID:ho8yysEL
母衣というのは本当に弓矢に効果があったのですか?
布切れごとき矢は簡単に突き抜けそうなんですが…
454 :
人間七七四年:2010/03/18(木) 16:48:36 ID:4IRy2QY2
>>453 母衣が矢をふせぐと言うのは、後ろから弓矢で狙われた時相手の距離感を惑わせて
当たりにくくさせる、と言う要素のほうが大きいかと。
455 :
人間七七四年:2010/03/18(木) 16:54:07 ID:ho8yysEL
>>454 なるほど、的の前に風船がプカプカ浮いてると思えば
狙いにくくなるって効果はありそうですね
456 :
人間七七四年:2010/03/18(木) 16:59:37 ID:USkRufOD
>>452 武田家の武将だけ戦死を装って村に隠居してどうするのかと強く問いたい。
457 :
人間七七四年:2010/03/18(木) 17:14:18 ID:5nvFSW5i
よく小説やドラマなどで一向一揆が「進めば極楽往生、引けば無間地獄」みたいな
スローガンを掲げているのを見ますが
実際に戦国時代の当時からそのような言葉は存在したのでしょうか?
引いたら無間地獄なんて浄土真宗の教義から考えたら明らかにおかしい言葉な
気がするのですが
458 :
人間七七四年:2010/03/18(木) 20:04:41 ID:wVDNs7Xg
>>453 戦場では馬に降りて戦ったって言ってる人も居るのだが
それだと母衣衆の存在も嘘って事になるよなぁ
459 :
人間七七四年:2010/03/19(金) 06:43:12 ID:8EGzXOIe
>>458 大規模な騎馬軍団の運営がなかっただけで
大将や将校クラス、または伝令役などは普通に戦場で騎馬に乗ってただろうし
移動が多い伝令将校などは常に動いているわけで、膨らんだ母衣が後ろにあれば
目くらましにはなったろう
矢玉は防げなくとも刀や槍で突く場合は急所を狙いにくくなるわけだし
460 :
人間七七四年:2010/03/19(金) 11:45:37 ID:J2Hq4i3+
>>457 宗教の教義はよくわからないが、
信長が長島に攻め込んだときの篭城門徒の旗(むしろで作ったのぼり)には
そう書いてあったと読んだことがある。
しかも前線兵は足を互いに縄で縛って人間の盾のようなものを形成して抵抗したそうだ。
461 :
人間七七四年:2010/03/19(金) 12:46:03 ID:Prhpj0nh
本願寺の信長への「抵抗神話」は、江戸時代中期に西本願寺と東本願寺との間で対立が起きたときに
その正統性を証明するため「作られた」話がほとんどなのだそうだ。
当時世俗領主から離れて純然たる宗教団体になっていた本願寺は、過去の石山合戦などの
戦いを、宗教的に粉飾したんだと。
462 :
人間七七四年:2010/03/19(金) 12:50:30 ID:a3Jbz5uw
>>457 確かに悪人正機の教義からすれば「敵前逃亡しちゃう卑怯な俺でも南無阿弥陀仏と
唱えるだけで極楽往生が約束される筈」だが、それを認めると組織としては何も出来
なくなるぞ。
463 :
人間七七四年:2010/03/19(金) 15:03:38 ID:/oFFR6fq
>>460 その旗現在も残ってなかったっけ
TV番組かなにかで見た気がする
464 :
人間七七四年:2010/03/20(土) 15:21:24 ID:fWIo9YJ6
465 :
人間七七四年:2010/03/20(土) 17:45:11 ID:nKJf722/
>>386 遅レスだが
義光主導の包囲網ってのには根拠がある。
それはその構想の元になった出来事による。
政宗が家督を継ぐや葦名を不意打ち奇襲して敗北するや
岩城氏の三坂越前へ
葦名との累代のよしみ(親戚付き合い)も気にせず攻撃するなんて・・・
会津滅亡ともなれば、政宗はかならず仙道を南下する。岩城は相馬と久しくすべき。
と最上が佐竹の庇護する葦名・相馬・岩城と協調歩調を取ると明言し団結を呼びかけてる。
そしてこれが包囲網へ発展する。
しかし葦名が名目上の盟主というのはなんか根拠あるのか?そんなの聞いた事がない。
葦名は佐竹から指南を受けている身分であり、足利公方のように名目的にまつりあげるだけの権威もないよ。
摺上原の戦いが包囲網?大崎や最上も上杉も参加してないのに、あれのどこが包囲網なの?
局地戦?まさかあれだけの大軍で大挙して攻め込んだのに局地戦?伊達が負けた戦はぜんぶ局地戦とか捏造すんのかい?
しかもその後、最上の報復で、黒川・志田両郡まで奪い取られたのに
たった一回負けただけとは???
劣勢だったのは伊達の方だよ。なんで劣勢だったのが最上側になるのか意味不明。
466 :
人間七七四年:2010/03/20(土) 18:00:38 ID:chbPa7vg
>>465 どっちが大藩となって残ったかで全て理由・説明つくじゃん
伊達が劣勢で中央に頼んで泣き付いたって書簡でも残ってんの?
467 :
人間七七四年:2010/03/20(土) 20:16:05 ID:ZQNwhHp4
おっとそこまでだ
伊達のマー君絡みの論争は関連スレでよろしく
468 :
人間七七四年:2010/03/20(土) 20:29:18 ID:QrjLTYJ3
マー君はやめろ
469 :
人間七七四年:2010/03/20(土) 21:01:10 ID:GopwGXGs
「洞」(うつろ)は関東、東北で見られる族縁共同体の形態だそうですが、
西国の毛利氏も、自分達を中心とした共同体に関して、この「洞」の言葉を使ってますよね。
しかし西国では毛利氏のみに見られる特殊な例だそうですが、では、何故毛利氏は
自分達の共同体をわざわざ東国の言葉である「洞」と言う言葉を使って呼んだのでしょうか?
毛利氏が南北朝期に東国から西遷した国人だから、そのため関東の言葉を保存していたのか、
とも思いましたが、それを言えば山名氏なども同じですし、他の西遷御家人には
そういった例は無いように思います。なにか特別な意図があったのでしょうか?
470 :
人間七七四年:2010/03/21(日) 02:12:14 ID:puaBzjbx
>>466 最上の改易は完全にスレ違いだろう。
藩主のお家騒動は日本史板でやれ
471 :
人間七七四年:2010/03/21(日) 02:36:15 ID:XwaTHi5Z
で、伊達の方が最上より劣勢で泣き付いたって客観的根拠は?
472 :
人間七七四年:2010/03/21(日) 04:00:47 ID:j5VjyHLF
473 :
人間七七四年:2010/03/21(日) 12:50:24 ID:NLx9YtLI
毛利は「国人領主達をまとめめ上げた中心の存在」という意味で、その組織を「洞」(うつろ)と呼んだ。
支配力が大きくなると国人領主達は臣下となっていくが、大内が滅ぶまではまさに「洞」の形。
山名の支配体制は「洞」ではないだろ。
474 :
人間七七四年:2010/03/23(火) 17:58:20 ID:0p9aXnBy
越中の佐々成政さんが冬のアルプス越えが出来たのは、
当時 すでに ルートが確立されていた?
475 :
人間七七四年:2010/03/23(火) 19:07:04 ID:YDtJZrCI
修験者道かマタギ道かな。谷川岳初登頂も江戸時代の坊さんだったな。
476 :
人間七七四年:2010/03/24(水) 05:48:18 ID:IK6NdLZt
谷川岳じゃなくて剣岳
477 :
人間七七四年:2010/03/24(水) 21:59:30 ID:AdRTtt5p
鍋島直茂だが、なんで主家の竜造寺を簒奪するような
形を取らせたんだろう?
彼の才を惜しむなら、立花宗茂みたいに別家立てさせるとか
すればよかったのに。
478 :
人間七七四年:2010/03/24(水) 22:26:27 ID:sGuRgWYh
>>477 簒奪とはかなり違う。社員そのままの社名変更に近い。
479 :
人間七七四年:2010/03/24(水) 22:39:54 ID:sayhkuLn
>>477 独立しようとしたけど、竜造寺家に阻まれたって経緯があるらしい。
あと、立花と大友は元は別家だったという立場の違いも大きいんじゃないかね。
480 :
人間七七四年:2010/03/25(木) 04:00:03 ID:X3gdepGA
関ヶ原の戦いは局地戦ですか?
481 :
人間七七四年:2010/03/25(木) 09:30:08 ID:j4BuVfRQ
482 :
人間七七四年:2010/03/25(木) 09:41:38 ID:t5zNAyeL
483 :
人間七七四年:2010/03/25(木) 19:23:48 ID:a+3H83zu
戦国時代の各国の主な資源が何だったのかを知りたいんですが、何かいいサイトか本はありますでしょうか?
484 :
人間七七四年:2010/03/27(土) 01:11:34 ID:A3bhP0yS
この分野、まったくの素人なんで、スレ違いや頓珍漢な質問だったらごめんなさい。
小笠原昨雲の『軍法侍用集』のオリジナル12冊セット揃っていたら価値がありますか?
485 :
人間七七四年:2010/03/27(土) 01:19:37 ID:JNpqLnNb
>>484 そりゃあオリジナルなら当然書籍という以上に歴史的に貴重なものとしての価値もあるが。
486 :
仙台藩質問:2010/03/27(土) 08:29:14 ID:XRgjrjrp
先生( ^ω^)ノ
武将がハゲたらどうするんですかお?
多少のハゲなら付け髷とかあったみたいだけどツルッパゲだと強制入道ですかお( ^ω^)
487 :
人間七七四年:2010/03/27(土) 10:44:54 ID:GDNO9b4a
488 :
人間七七四年:2010/03/27(土) 12:25:05 ID:GDNO9b4a
>>486 ふつうツルッパゲになるころにはとっくに家督を譲っている(実権は握っていても)だろ?
禿げの家系でも40半ばでツルッパゲはまず無い。
その年で髪が無いのは禿頭(とくとう)病か栄養失調ぐらい(武将クラスならそれはない)。
光秀も使ったカツラで十分事足りたはずだ、と思う。
禿頭病なら呪われた存在として武将としては生きられない。
僧籍に強制的に入る。
489 :
人間七七四年:2010/03/27(土) 14:29:22 ID:nJF0TvuJ
信玄も謙信も一応出家だからな。
はっ!Σ( ̄□ ̄;
まさか二人ともハゲたから…
490 :
人間七七四年:2010/03/27(土) 20:38:28 ID:ccQuMDoO
マゲ=現役のシンボルみたいな感じなので(あくまで象徴に過ぎない)
ハゲたらカツラを使うか、一般的には入道した。
入道しても現役大名を続けた人はたくさんいるし。
491 :
人間七七四年:2010/03/27(土) 21:24:24 ID:qM+KnnJf
薄毛には辛い時代だったんだな…
492 :
人間七七四年:2010/03/28(日) 09:30:51 ID:w2Ke3meY
江戸時代は髪型=身分だったからな。百姓が武家髷をしていたらぶった切られる。
戦国の頃はそこまでうるさかったかわからない。どいつもこいつも百姓上がりだし。
493 :
人間七七四年:2010/03/28(日) 09:59:31 ID:Jg0QSE/g
>>492 本多髷とか普通に武士も町人もしてるがな。身分の峻別はむしろ戦国期の方が厳しいぞ。
494 :
人間七七四年:2010/03/28(日) 13:11:04 ID:r4/ZRv3m
江戸時代は長いから一括りにはできんよ。
厳しくなったり緩くなったりしてるんだからな。
495 :
人間七七四年:2010/03/28(日) 15:35:23 ID:w2Ke3meY
戦国も長いよね。応仁の乱前後の、まだ足利将軍の権威が残っていた時期と
信長秀吉の頃ではいろいろ違うよね。
496 :
人間七七四年:2010/03/28(日) 15:38:41 ID:w2Ke3meY
連レスすまんが質問!
丁髷というあの妙な髪型はいつ発生したの?どう広まったの?
497 :
人間七七四年:2010/03/28(日) 16:53:01 ID:Jg0QSE/g
髷のことを聞きたいのか、丁髷のことを聞きたいのか?
髷はそれこそ律令制の時代から存在する伝統的なヘアスタイル。
丁髷と云うのは髪の少なくなった老人がどうにか髪を結っている状態のことを指す。
498 :
人間七七四年:2010/03/28(日) 18:16:59 ID:w2Ke3meY
めんどくさい人だな
サカヤキ剃る習慣のことですよ
499 :
人間七七四年:2010/03/28(日) 19:57:14 ID:r4/ZRv3m
兜をつけたときに蒸れないようにするため。
たしかはじめは武士も戦時以外は剃ってなかったとか。
なお平安末期〜鎌倉で使われた大鎧の兜は頭頂部に穴が開いている為に蒸れない。
500 :
集団戦の戦い方:2010/03/28(日) 22:55:12 ID:nFFIZvHs
関が原とかの大きな合戦でさ お互いの集団がぶつかりあうわけでしょ
世が世なら、俺なんか三男だし底辺足軽で借り出されると思うわけよ
んで、もし俺が最下層足軽だったら、集団同士ぶつかり合った時、どうやって戦って
仲間ともどもどうなるわけ?
えらい抽象的な質問だけど 戦闘開始時のぶつかり方とか 教えてエロい人
501 :
人間七七四年:2010/03/28(日) 23:14:40 ID:Jg0QSE/g
>>500 組頭の指示通りに戦う。勝って更に生き残っていればその後掠奪やら落ち武者狩りやらで
それなりにハッピーな事になる。負けたら逃げまわるしか無い。組織的に撤退が可能な状況なら
これもまた組頭に指示通り。壊乱状態なら自分でどうにか故郷まで走るしか無い。
敵軍の中に知り合いや親戚がいればそこに紛れ込まさせてもらえる事も。
502 :
人間七七四年:2010/03/29(月) 10:39:50 ID:CnJeAmSs
雑兵物語。地獄の沙汰も金次第。
503 :
人間七七四年:2010/03/29(月) 10:40:57 ID:nT3D34j4
504 :
人間七七四年:2010/03/29(月) 10:55:10 ID:CnJeAmSs
505 :
人間七七四年:2010/03/29(月) 11:41:47 ID:kzm8CHOr
この時代の土豪クラスの家に蔵はあったんでしょうか
まだ土蔵ではないだろうけど
屋敷とは別の保管庫的な建物ってあったのかな
506 :
人間七七四年:2010/03/29(月) 12:21:54 ID:eXiePoaF
奈良時代から「土倉」と呼ばれた土壁の倉庫は存在する。
507 :
人間七七四年:2010/03/29(月) 13:29:18 ID:EmYvXy4y
漆喰自体は古墳にも見られるし、保管庫としての建物だったら正倉院とか
508 :
人間七七四年:2010/03/29(月) 13:51:29 ID:eXiePoaF
つーか戦国期は土倉どころか、戦乱時に家族や家財を避難させる地下シェルターすら
全国的に存在した。
509 :
人間七七四年:2010/03/29(月) 15:23:42 ID:pCSxl3Yv
ただ土豪・地侍クラスの屋敷の発掘例は非常に少ないから、戦国時代の土蔵の
普及率とかは何とも。城跡の発掘も予算不足なのに小規模遺跡までは…
土豪は江戸時代も名主・庄屋として引き続き同地に居住するケースが多いしね。
ただし商人で戦国の頃に土蔵を持っていたのはよほどの大商人だと思う。
何だかんだ言っても江戸の元禄以降に比べると戦国日本の経済規模は小さい。
510 :
500:2010/03/30(火) 14:45:57 ID:w9TASaLC
>>501 なるほど、まさし「く勝てば官軍」ですな
さいたまの雑兵展示いってみたい
もすこし突っ込むと、今まさに集団がぶつかる戦闘開始の時
最下級槍足軽の俺みたいのは、一番はじめに集団にぶつけられんのかな?
それとも、どうせ使いものにならないから太鼓とかドラ叩きなのかね
511 :
人間七七四年:2010/03/30(火) 15:09:12 ID:O27qgtf/
>>510 実際には戦国期に、軍集団同志が激突するような野戦は殆ど無かった。
大抵は攻城戦、あるいは攻城している敵に対しての後詰め戦。
集団が激突するような戦になった場合、先鋒は普通、練度の高い精鋭部隊が担当する。
精鋭と言うのは上級下級は特に関係なく、練度が高いか低いか。
もしキミが練度の低い足軽であったのなら、先鋒部隊が進軍しやすくするため、
その弾除けになるような場所に配置されるだろう。
512 :
人間七七四年:2010/03/30(火) 16:16:39 ID:s7iRHtLx
太平洋戦争では
まともな兵隊は最前線で戦ってて
一般人が居るような後方ではニート系の兵隊がうろうろしてたから
日本軍の評判が悪かったって聞いた事ある
513 :
人間七七四年:2010/03/30(火) 17:24:47 ID:i1ylDjio
優れた兵士≠人格者
514 :
人間七七四年:2010/03/30(火) 17:33:20 ID:miGjFPzi
戦場での勇者は、一般生活の落伍者でることは往々にしてあるらしいな。
アーロン収容所でもそんな話があったな。
515 :
仙台藩百姓:2010/03/30(火) 20:57:44 ID:Yhe6pT2g
幕末やWWUの場合を見るに有事の際に臨時徴集された一般人は
土木作業や輸送任務が主な仕事で、上にも出てるように兵役にしても後方の守備隊にまわされるのが普通だお( ^ω^)
いつの時代も最新兵器は高価で必要数揃えるのが難しいから
訓練もされず戦力にならないような雑兵にまで持たせる余裕はなく
自然、旧式装備で後方支援になるわけだお( ^ω^)
防衛戦、しかも劣勢な状況でもなければ雑兵が最前線に出る事はあるまいお( ^ω^)
>>488 ハゲネタにレスくれる人がいるとは( ;ω;)
516 :
人間七七四年:2010/03/30(火) 21:14:19 ID:vwBR1N3l
たしかにジオン軍はゲルググを学徒兵に与えていたけど末期だしなあ
517 :
仙台藩百姓:2010/03/30(火) 23:56:15 ID:Yhe6pT2g
ハイセンスな例えに嫉妬だお(;^ω^)うむむ
518 :
人間七七四年:2010/03/31(水) 10:53:59 ID:1idAQxMo
519 :
人間七七四年:2010/03/31(水) 11:38:45 ID:kC0GCgoO
鉄砲隊なんかは生首ゲットが不可能だから恩賞は少なかったのだろうか
今川義元を討った人は歴史に名を残したけど
島左近を撃った人は「鉄砲隊」と呼ばれるだけだもんね
520 :
人間七七四年:2010/03/31(水) 12:00:39 ID:l7pNwbgN
誰が殺したか不明なので、恩賞として確定しにくい
弓なら矢に名前を書くことで判別が可能だが、鉄砲はそうはいかない
521 :
仙台藩百姓:2010/03/31(水) 23:27:35 ID:j6cf5yJS
そういう意味でも鉄砲は足軽の武器だったわけだおね( ^ω^)
522 :
人間七七四年:2010/03/31(水) 23:38:31 ID:Fb3NexVR
しかし射程がそんなに長くなく、また弾幕をはるほど鉄砲を多用する戦は殆ど無かったのもあって、
状況などからある程度、誰が討ったのかはわかったらしい。
523 :
仙台藩百姓:2010/04/01(木) 00:44:29 ID:hBlqRJBB
大坂の陣などでは大分射撃戦が激化していたようだけど
古い時代はそれほど数もないし集中運用しなかったからそうだおうね( ^ω^)
割と軍記類などに名前が出てるお( ^ω^)
524 :
人間七七四年:2010/04/01(木) 01:05:22 ID:l23SNEkL
>>523 小牧長久手じゃ「森長可を撃ち殺したのは俺」ってのが何人も出てるな。
まあ実際には体に何発も銃弾を受けてたらしいけど。
525 :
人間七七四年:2010/04/01(木) 02:14:25 ID:OmGHChw3
526 :
人間七七四年:2010/04/01(木) 07:34:29 ID:ubMjyspM
まあ射程は百bだし三十秒に一発だしな。見てればわかったのかな。
527 :
人間七七四年:2010/04/01(木) 08:22:37 ID:iMRW434n
>>524 いや最初に額に一発食らったのが致命的だったんだよ
褒美を与えるとすれば、そいつなんだがな
528 :
人間七七四年:2010/04/01(木) 18:04:47 ID:pOcFFgCi
>>511 基本的には、対陣して秋口になると農閑期も終わるので
双方が和睦して撤退ってのが多い。
耳川の戦いなんかも和睦交渉中に勝手に戦端ひらいたアホのせいで
決戦に発展したし、第四次川中島でも濃霧の中の偶発的遭遇戦から発展してる。
人取橋は佐竹が二本松城に兵糧を入れる戦略目標の達成後は伊達を一撃して追撃の危険を排除後に
速やかに撤退してて伊達を滅ぼすような気持ちはさらさらない。
摺上原の戦いにしても葦名義広側による伊達圧倒をもって、すみやかに後退したところを
葦名側の反義広勢力が噛み付いただけ。
ちなみにこの戦いで葦名に壊滅させられた片倉隊は混乱のあまり戦見物をしていた民衆を敵と間違い
鉄砲で大虐殺していた。
>>516 ガクト兵は零戦のように大戦初期からの老兵ザクだ。少年志願兵はオッゴ
烈風と違い完成はしたゲルググではあるが生産数がほとんどなく、
しかも大戦再末期のためにぶっつけ本番出撃に近いため
その操縦系の癖を嫌って出撃数も少ない。
熟練者でも操縦系を嫌ってドムや高機動ザクであるRシリーズで出撃したりしてた。
529 :
人間七七四年:2010/04/01(木) 20:49:29 ID:sHEs5Abj
530 :
人間七七四年:2010/04/01(木) 21:08:22 ID:HAR+71qt
531 :
人間七七四年:2010/04/01(木) 21:17:14 ID:sHEs5Abj
>>530さん
ありがとうございます。
馬印というものがあるのですね、初めて知りました。勉強になりました。
532 :
人間七七四年:2010/04/02(金) 11:14:58 ID:TMDca7Qz
>>528 やはりマ・クベさんのギャンにしておくべきだったな
533 :
人間七七四年:2010/04/02(金) 11:26:35 ID:TMDca7Qz
中国地方の覇者毛利の最大版図って
安芸・備後・長門・周防・石見・出雲・伯耆・因幡・但馬・
美作・備中・備前・播磨・豊前・筑前・筑後・肥前・隠岐
従属を含めるとどのあたりまで支配していたのでしょうか?
一時的には宇喜多とかも臣従していましたし
534 :
人間七七四年:2010/04/02(金) 14:24:30 ID:ql3OR1n5
それは明確にすんの難しいんじゃないの?
一応、毛利に臣従の形をとってるけど半独立状態で
いつ他の勢力に寝返ってもおかしくない国人とか
毛利の意のままに動かせない有力国人もたくさんいたわけで。
毛利直属で動かせる動員数=直轄支配域って意味では
秀吉に降伏するまで、大した版図は持っていないということになる。
だから尼子や大内の残党にひっかき回されたり
支配地域の広さの割りに勢力拡大ができなかったりしてるわけで。
535 :
人間七七四年:2010/04/02(金) 14:48:57 ID:+3p3iQm8
> 一応、毛利に臣従の形をとってるけど半独立状態で
> いつ他の勢力に寝返ってもおかしくない国人とか
> 毛利の意のままに動かせない有力国人もたくさんいたわけで。
こういうのにはちゃんと人質をとってなかったの?
536 :
人間七七四年:2010/04/02(金) 15:05:12 ID:we2iwgU3
>>535 人質をとることが必ずしも領主権力の強化につながるわけではない。
毛利は惣国検地まで人質はとれても、傘下の国人達の領地領民を直接把握するには
至っていなかった。支配が深化していなかったってことね。
537 :
人間七七四年:2010/04/02(金) 16:10:29 ID:qmZ624gp
>>534 なるほど、とすると関ヶ原後の減封も、これまでのイメージほどの
大削減でもなかったということなのかな?
538 :
人間七七四年:2010/04/02(金) 16:20:56 ID:we2iwgU3
>>537 毛利は太閤検地の前に自前で検地していたので、基本的に過少申告だった。
そのため防長二州は公称で36万石だが、実際は50万石以上あったそうな。
そのせいか改易早々検知を行った毛利は、家格を上げることも目論んで
石高を54万石に訂正することを幕府に申し出たが、幕府の方から拒絶された。
539 :
人間七七四年:2010/04/02(金) 17:13:58 ID:ql3OR1n5
>>537 まあ、毛利直轄領という意味では
そんなに影響なかっただろうね。
毛利の支配体制は広く浅くって感じだから。
伊達(晴宗・輝宗の時代)なんかもそうだけど、
信長みたいにバンバン敵対勢力を滅ぼして直轄領にしていく、というやり方じゃなく
ある程度戦って勢力差を見せ付けたところで和睦して
半独立・半従属みたいな感じで取り込んでいくって政策で国人衆を支配下に置いてたから。
あと人質って、実際あってなかったようなもんだからねえ
江戸期とかならともかく、戦国期の人質なんて
いくらでも殺されてるわけで、それを承知の上で
小さい勢力はあっちへ行ったり、こっちへ行ったりするわけで。
姫や子息が死のうと、また作ればいい話だし、それよりいかに御家を残すかって話だから。
540 :
仙台藩百姓:2010/04/02(金) 23:50:28 ID:PaMbsgcM
格下の同盟者、従属、臣従では曖昧であっても同じものではないお( ^ω^)
一般的には格下の同盟者、従属は自立勢力(独立・半独立)であり
臣従は自立性を失った状態を指す事が多いお(天皇や将軍等を頂点とする主従関係ではまた違ってくるけど)
例えば宇喜多などは果たして臣従関係にあったのかお?( ^ω^)
541 :
人間七七四年:2010/04/03(土) 00:26:13 ID:Ko23iSAE
北条や武田と言った制度的に先進を行っていた大名の間で、配下大名、国人の家中への取り込み、
被官化がある程度進行していたとは言え、やはりそういう重層的な支配、被支配関係を、
一定の仕組みで序列化し整理するのは秀吉を待たねばなるまい。
さらに法と制度で、当主を頂点とするピラミッド型の大名組織を確立させたのが徳川幕府。
(信長にはそう言った制度やしくみへの志向は未だあまり見られない)
例えば宇喜多が毛利に従属した状態のまま江戸期を迎えたとしたら、
宇喜多氏は重臣として毛利家中に取り込まれていただろう。
542 :
人間七七四年:2010/04/03(土) 00:37:43 ID:yhX5llI8
宇喜多クラスは誰も毛利に臣従してたとは書いていないと思うが・・・
俺が指したのは毛利ならば三刀屋氏、三吉氏、天野氏、三沢氏、赤穴氏、阿曽沼氏など。
それぞれある程度の独立性を保ったが、多くが秀吉の支配力を受けた後に毛利に粛清されてる。
543 :
人間七七四年:2010/04/03(土) 01:33:43 ID:EeOp0TTj
>>542 減封後には天野や熊谷、吉見なんかも排除されてるな。
多くの大名にとって、いかに自身のもとに集権化を図るか
ってのは大きな課題だよね。
544 :
仙台藩百姓:2010/04/03(土) 09:10:55 ID:/xUPnWZK
>>541 その辺りも難しいお( ^ω^)
例えば東国でいうと結城氏と結城四天王
彼らは元々結城氏の被官であり戦国期には一定の自立を得たものの主従関係を失う事はなかったお
しかし豊臣徳川政権下では岩上氏、山川氏は結城宗家の重臣として組み込まれ
多賀谷氏、水谷氏は独立大名として認識され分離していったお( ^ω^)
那須氏と那須七騎の関係もこれと似たようなものであるお
従属関係にあっても必ずしも臣下として認識されるとは限らず
宇喜多氏がどこまで毛利氏の介入と抑制を受けていたかによって違ってくるお( ^ω^)
>>542 質問主の
>>533が言ってるお( ^ω^)
>一時的には宇喜多とかも臣従していましたし
545 :
人間七七四年:2010/04/03(土) 11:03:58 ID:V8kTHomS
少し前で言えば毛利自身は大内の完全な傘下だよな
龍造寺や松浦党・村上水軍も臣従
大友はやや格下の同盟者
相良は貿易の時だけ自称傘下w
546 :
人間七七四年:2010/04/04(日) 16:30:44 ID:YzQ3W3Do
村上水軍は独立性が高くて、秀吉が海賊禁止令だすくらいまで毛利の完全家臣下にはなってないよ。
たびたび小早川に攻められてるし、尼子の残党と組んだりしてる。
547 :
人間七七四年:2010/04/04(日) 16:44:47 ID:tvgRt9rv
548 :
人間七七四年:2010/04/04(日) 21:57:19 ID:pKzsiLxH
大内は貿易のうまみがあるから水軍衆はこぞって媚びていたからなあ
549 :
人間七七四年:2010/04/05(月) 14:29:12 ID:se7RqWeJ
戦のとき、聞き逃れはいいが見逃れはしてはいけないと聞きました。
(味方が敗走中だと聞いて自分らも逃げるのはいいが、
背走する味方を見ておいて逃げてはいけない)
どうしてでしょう?
550 :
人間七七四年:2010/04/05(月) 14:56:50 ID:Odk9P7+b
情報によって退却するのは戦力を温存する意味でもある程度合理的な判断だが、
可視範囲で味方が崩れる状況なら、大崩れして味方の壊乱をを防ぐためにも
踏みとどまることが必要とされたからでは?
551 :
人間七七四年:2010/04/07(水) 09:14:39 ID:wKl+Pu7T
>>534 まあ毛利に限らず戦国期の大名の支配ってそういうのがむしろ普通だよね。
武田家で、信虎を追っ払って晴信を担いだり、勝頼が滅びた時の裏切り続出とか、
あれはやはり甲斐国人の連合政権だったのかな、と思う。
552 :
人間七七四年:2010/04/07(水) 10:53:12 ID:VDNtGMwu
>>551 織田も変わらん。つーか織田の方が被官、国人の権限が多く残ってた。
おかげで信長死んだらアレ。
553 :
人間七七四年:2010/04/07(水) 11:41:28 ID:wKl+Pu7T
そうなると、中世型の色んな勢力が蟠居してる状況から、江戸時代型の藩主を
頂点としたピラミッド体制に移行したのはいつ頃なんだろう。
国人・地侍はいつ名主・庄屋になったんだろう。
554 :
人間七七四年:2010/04/07(水) 12:29:51 ID:VDNtGMwu
>>553 北条などでその萌芽が見られたが、全国的に近世的は大名家のシステムが成立する画期となったのは
太閤検地から。その後徳川幕府の法整備や一国一城令などで、法的にも権威としても、大名を
頂点とした体制が確立した。
国人、地侍の帰農も太閤検地から幕府の成立、安定にかけての流れだな。
それらが固まったのは徳川家光の時代だと思う。
555 :
人間七七四年:2010/04/07(水) 13:09:38 ID:wKl+Pu7T
>>554 家光の時代まで下がりますか。以前から、刀狩令という一片の命令だけで
国人・地侍層の「武装解除」が出来るわけがないと思ってたんですが。
ありがとうございました。
556 :
人間七七四年:2010/04/07(水) 13:32:40 ID:9GTcF/DC
>>552 織田こそ戦国大名として成功したケースだと思っていましたが
被官の権限の強さを考慮すると国人連合だった諸大名と似ていますね。
たしかに柴田とか羽柴とか近隣大名以上の権限を持ち
織田一族すら呑まれてしまったからものすごいリスクがあったんだなあ。
かといって一族の力が強くても家督争いだとか内紛のもとになりますし。
ほとんどは大名個人に臣従していたといいますし
家にこだわる山中鹿之助みたいなケースは稀なんでしょうね
557 :
人間七七四年:2010/04/08(木) 00:21:39 ID:Iqx4yApb
>>553 > 江戸時代型の藩主を頂点としたピラミッド体制
っていう見方自体が微妙なのでは?
どんな藩でも戦国時代の国人連合の頃より藩主の権力が強かったっていうなら別だけど。
門閥の強い藩もあれば、藩主主導の政治が多く見られる藩もあるんだろうし。
現に重臣連が藩主を押し込めるなんてことも起こってる。
藩という制度(ルール)ができたのもそれが平和な時代には必要だからなだけじゃないのかな。
558 :
人間七七四年:2010/04/08(木) 00:50:30 ID:cyCyoRqW
長州藩は藩自体は強いけど藩主は部下の意見のいうがままだったしなあ
559 :
人間七七四年:2010/04/08(木) 01:05:41 ID:tLytfPMW
>>557 >>558 あくまで「全体の傾向」であって、均一的にそうなったわけじゃないしな。
あと長州藩も結局は藩主の命令がなければ部下が何を言おうが正式の決定にはならないわけで。
そういうのをピラミッド型の体制と呼ぶんだろ。
560 :
人間七七四年:2010/04/08(木) 08:00:28 ID:l0/eVXap
>>559 だな。藩主がどう、重臣がどうというのはあくまで「お家」の中のパワーバランスで
あって、藩の一元支配という状況は変わらない。戦国期みたいに〇〇衆とか××衆とか
半独立勢力がいるわけじゃない。
561 :
人間七七四年:2010/04/08(木) 09:08:51 ID:gGOZgVKK
近世大名が一つの企業なのに対して、戦国大名は企業のグループ
562 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 01:35:33 ID:temwRJP9
秀吉死後速攻で徳川方についた加藤清正、福島正則って戦国屈指の不忠者だと思うんだけど
そのように謗りをまったく受けていないのは何故ですか?
一方、豊臣に忠義を尽くした石田三成はウンコ扱いなのも含め、徳川が天下をとり歴史を作ったからそう伝わっているというだけですか?
563 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 01:48:03 ID:rgdcsTKh
表向きは、豊臣家VS徳川家の戦いではなかったからでは。
564 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 01:57:34 ID:YWleKn8/
>>562 キミのその粗雑な歴史認識を先ず何とかした方がいい。
はっきり言わせてもらうが、勉強しろ。自分で。
565 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 02:12:49 ID:temwRJP9
ですよね。すみません。
566 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 02:50:14 ID:FgB8oyPf
一番の理由は程度にもよるけど歴史の中の悪党や英雄は後世の人が
そう見せるのに都合のいい逸話だけを引っ張ってきて作り出した部分もあるからだと思う
一般的に英雄視されてる人でも父兄を殺したり主君を追放したとか
どう考えてもおかしな理由で大虐殺をしたような経歴の人もいれば
悪党扱いされてる人でも地元ではそれなりにいい政治をしていた名君だとか
教養がある風流人だったとか家族には優しかったなんて逸話もあったりと
一人の人間の人生を善悪で白黒つけようとしたってそれは本来は無理なもんだし
庶民レベルで言えば悪党と英雄が戦ってる方が分かりやすいし面白いってのもあっただろう
567 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 05:48:29 ID:nemynrJ4
個々人が自分で好き嫌いを論じるだけならいいけど、常識や価値観の違う時代を安易に善悪で評価しようとするから色々おかしくなる
結局その行いが、当事者に利益があれば歓迎も称賛もされるし、不利益なら排斥され非難される
それだけのことなんだけどねぇ
568 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 06:15:44 ID:VgiEb+bW
治部は忠義者だったのか?そもそも関ヶ原で勝っていたら治部は何がしたかったんだ?
家康を排除して後釜に座る? 治部が大老で輝元や景勝が納得するのか?
569 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 08:48:20 ID:6Vk2paQM
すみません、最近信長に興味を持ったばかりの者です
本能寺の変の数ヶ月前に、信長が富士山を見学しているのは、どういう理由があったのでしょうか
570 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 08:52:41 ID:oR0b3d+c
武田征伐の後始末を終えた後に、東海道の家康の接待を受けて帰る際に通過
571 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 09:37:06 ID:iDOHC/bn
昔、足利義教が鎌倉公方足利持氏を恫喝するために富士山を見に出かけた故事に倣って北条を恫喝する目的もあって富士山を見に行った。
畿内から富士山に物見遊山するとは東国を伐つぞと言う挑発的意味が隠語としてある。
572 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 10:35:41 ID:6Vk2paQM
なるほど・・・面白いですね
ありがとうございます
573 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 16:24:30 ID:t3LJreqD
普通に富士山見たかっただけだと思うw
574 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 17:13:45 ID:VgiEb+bW
信長さんああ見えて遊び人やから
575 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 18:12:21 ID:11YwcUfG
戦国時代の山城や砦について質問。
山城などを散策すると樹が沢山ありますが、当時はハゲ山だったのですか。
576 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 18:14:17 ID:t3LJreqD
守備側が弓、鉄砲を射撃する邪魔にならないように木は切ってました
577 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 18:22:07 ID:YWleKn8/
だから山城一つ造るのはものすごい自然破壊でも有った。
578 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 18:53:12 ID:rgdcsTKh
今現在でも、部落と呼ばれる場所がありますが、(部落問題の)元々は平家の落人だと聞いた事がありますが本当ですか?
579 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 19:01:29 ID:rDmXcX7P
嘘です
580 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 19:47:59 ID:+JtWdyvy
>>568 何がしたかったって、豊臣の天下を家康が横取りするのを黙って見てる訳にはいかんだろ?
三成は西軍の総大将ではないから家康の後釜には座れません。大老筆頭は総大将の輝元でしょう。
しかし毛利が家康のようになっては意味が無い。合議を無視して専横できない仕組みを考えなきゃならない。
三成自身については大加増して大老に加えても良いけど、そんな大勢力を畿内には置けない。越前かな?
大老になるのは反感買うけど、どうせ既に買いまくってるからまぁ良いだろ。
581 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 19:59:43 ID:YWleKn8/
>>580 具体的に家康が豊臣の天下を奪おうと慕って証拠は?
関ヶ原まで家康は三成を失脚させた以外は、豊臣家の支配機構に何も手出ししていない。
豊臣政権の中での主導権を取ろうとしたに過ぎない。
結果家康は自前の政権を作ったが、それが出来るようになったのは関ヶ原の結果であって
それまでは豊臣政権を横取りする意志もその実力も無かったと言っていい。
582 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 20:24:52 ID:JeIcKXS6
尼子家の家臣で栗栖氏という一族がいるようですが、どういった一族だったのでしょう?
調べてみても、あまり詳しいことがわからないのですが。
583 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 20:48:25 ID:+JtWdyvy
>>581 いちいち書くのは面倒だから書かないけど、勝手に諸大名家との婚儀をまとめて多数派工作したり、
目障りな大老家(前田、上杉)にいちゃもん付けて屈服させようとするのが野心の現れでなくて何だと?
上杉が屈服するにしろ武力討伐されるにしろ、残るは毛利のボンボンと家中グダグダの宇喜田だけ。
関ヶ原の結果早まったけど、それが無くても徳川が天下取ってる。
584 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 21:32:39 ID:hyvZGGUj
家康無欲論もちょっと歴史群像に影響されすぎかなと思います
585 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 22:05:51 ID:YBCYJXhr
前田家からの人質を「江戸」に取っている時点で、豊臣政権の支配体制からはっきりと
逸脱している。
586 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 23:44:17 ID:iDOHC/bn
いやあれはまつと家康はヤリたかったんだよ
587 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 01:19:24 ID:trBukmih
大坂城の抑えとして篠山市城が築かれたと聞きましたが、天下普請で築くほど重要な場所だったんですか?
また具体的にどんな役割だったのですか?
588 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 01:34:05 ID:OSiQpTBE
>>587 大阪城の押さえというより西国に睨みをきかせるための城>篠山城
あそこが大阪の陣までの徳川勢力の西の最前線だから。
589 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 01:41:02 ID:1npVE31a
素朴な疑問なんですけど、山城などに籠った勢力を
放って置いてはダメなんですか??
被害を出して攻めるより、周りの村などを占領した方のが良い気がしますが…
590 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 01:58:19 ID:trBukmih
>>588 そうだったんですか。
ありがとうございました。
591 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 02:34:03 ID:HDTtNKxR
>>589 攻める側も村を占領統治するより山に篭って山賊ポジションに付きたいのでは?
お腹空いた時だけ村に降りて来て食料調達した方が楽じゃん
592 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 02:44:37 ID:OSiQpTBE
>>589 城というのは一個の孤立した存在ではなく、その勢力圏において近隣の城と密接にリンクした存在。
ほおっておいていい場合もあるかも知れないが、通常はほおっておくとその城の兵と進軍先の守備兵とで挟み撃ちにされる。
593 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 08:11:34 ID:12uHXWnp
>>589 攻略する必要がなければ、監視だけ置いて素通りすることもあるけど、
城があるごとに兵を分散させたらその度に兵力少なくなるよね。
>被害を出して攻めるより、周りの村などを占領した方のが良い気がしますが…
戦国中期頃まではそれこそ一村一城と言えるぐらいあちこちに山城があって、
村の支配=山城の占領だったりするよ。
594 :
仙台藩百姓:2010/04/11(日) 08:56:30 ID:8q9lJWbf
うむ( ^ω^)
城というのはあくまで少数の兵で敵と戦う為の拠点であってずっと篭っているものではないお
村落だけ占領しても城に敵兵を残して置いては夜討ち朝駈けなど常に奇襲される危険に脅かされるお
軍隊が村落から移動すれば当然再び城兵が降りて来て奪い返されるし追撃してくる可能性もあるお
あとは
>>592が書いているように篭城側は自国の別の城や盟友に後詰めを依頼するから
敵の援軍が来襲すれば正面の城兵と挟撃されてしまうお
又、城をスルーして別な拠点や敵勢に当たろうと移動すれば背後から襲われるお
だから結局は城を落とさねばならぬお┐ (´ω`) ┌
ただし、戦略によってはスルーしたり兵を割いて城兵が出て来ないように監視させる場合があるお
有名所では長篠の戦いでの長篠城や、関ヶ原の戦いでも何箇所もそう言った城があったお
でもあまり兵を割いては本隊の戦力を損なうからなるべく避けたい
そこでよく行われたのが付城(対城・向城)だお
敵の拠点の目の前に築城してしまうのだお
敵城兵が出てくればこっちの城から撃って出て、不利なら城に引き揚げてしまう
それを繰り返して敵城の動きを押さえ込んでしまうのだお
自軍も城があるわけだから少数の兵でも十分活動出来る利点があるお
有名所では秀吉が在番した横山城などが挙げられるお( ^ω^)
595 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 10:17:47 ID:aGL4d1L0
交通の要路を押さえる城や水軍の拠点となる良港など経済通商の要害など城の性格にもよるから一概にこうだとは言えないよ。
そして山城→平山城や平城と土木技術の向上とともに城は行政拠点になって行くし。
596 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 11:05:04 ID:UISVeQ+f
軍事専門家が現代の知識を持って戦国時代当時に行って指揮した場合
野戦や攻城戦などで戦国当時では前例のない画期的な戦い方をするのでしょうか?
それとも当時の武器では現代の軍事的な戦い方は役に立たず、
当時の戦い方を真似るしかないのでしょうか?
597 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 11:37:53 ID:IlvaaPb0
真似るしかないんじゃないかな。武器もそうだが、むしろ観測や通信の手段が
限られるのが近代戦術には致命的。
598 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 11:41:36 ID:UISVeQ+f
>>597 やっぱり武器があってこその現代戦術なんですね。
599 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 11:45:53 ID:IlvaaPb0
武器、移動(輸送)手段、通信手段。全てが必要だ。何もないなら昔ながらの
戦い方をするしかないんじゃないかな。
600 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 12:15:10 ID:JdMHxfzz
>>576 >>577さん ありがとうございました。
群馬県の丸岩城や山梨県の岩殿城は
責める前に戦意消失しそう。
601 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 13:10:01 ID:IlvaaPb0
そういやどこの城だっけ。高過ぎる山の上に築いてしまって
早々に放棄された城があったような。
山城といっても「守りに有利な程度には高くて、出入りに不自由ない
程度には低い」とか条件が難しいのね。
602 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 17:19:39 ID:aGL4d1L0
いやおまえ、高すぎたら凍死するだろ。
山城は街道を制するのがまず基本なんだぜ。
603 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 18:25:47 ID:OSiQpTBE
「高い山上の城」って言うのは、たいていは民衆の避難場所。
戦が通り過ぎるまでそこに滞在出来ればいいだけの、山の上を平にして切岸だけ切ったものが
全国各地に有る。
604 :
仙台藩百姓:2010/04/11(日) 23:09:32 ID:8q9lJWbf
季節によっては落雷や突風の危険もあるから比高が高すぎるのも問題だおね( ^ω^)
>>596 真似るというか戦術の基本は今も昔も大差ないお( ^ω^)
現代知識なら工兵や技官の方が役に立つだおうね( ^ω^)
605 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 23:22:19 ID:1npVE31a
606 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 23:47:48 ID:wnp9dfpS
高山病の心配とかあったのか
607 :
仙台藩百姓:2010/04/12(月) 08:14:52 ID:T2LZ9nSe
さすがに高山病になるほど標高の高い城はまずないと思うけど( ^ω^)
高山病といえば、佐々成政は針ノ木峠や立山一の越あたりを抜けたと言われているけど
あの辺りは2500mオーバーだし高山病の危険もあったおうね( ^ω^)
608 :
人間七七四年:2010/04/12(月) 08:17:44 ID:JJaJPpid
キチガイでアホの仙台藩百姓は早く死ね!!!
609 :
人間七七四年:2010/04/13(火) 09:51:04 ID:W1McwuHz
秀吉の頃の京都所司代屋敷はどこにあったのでしょうか?
610 :
人間七七四年:2010/04/13(火) 16:27:23 ID:BhA1FOO7
611 :
人間七七四年:2010/04/15(木) 23:32:15 ID:suGMHNEL
合戦の後の掃除は誰がするのですか?
討ちとられた武者の鎧兜や刀は取り放題だったのですか?
612 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 05:37:20 ID:cMLS2oOg
戦死者の埋葬は一遍宗の僧侶がボランティアでやっていたと聞くが。
613 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 06:54:05 ID:9VM3LKPj
>>611 厳島の戦いでは毛利の兵が敵兵の遺骸を埋葬し、
血で汚れた砂浜を清掃したそうな
これは聖域を怪我したという反省からの行動だから他の戦ではどうだろうね
614 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 08:10:08 ID:gVpulmBL
大内への謀反の相談に元就が同調しておきながら、
元就は陶が出雲で苦戦してるとみるや大内への謀反を口実に突如、留守の陶の本拠地周防を奪い取るなど陶の元就への信頼を裏切って、
しかも厳島合戦当日は中国地方では大凶日の日にあたり戦をしてはいけない日という習わしだったので、
陶の軍勢は武装を解いてゆっくりしていた。
そこを村上水軍が急襲して陶軍は壊滅。
その数々の卑怯かつ卑劣な行いで武門の道を逸脱し、武士としての陶という相手を汚したのを元就は恐れに恐れて
鬼籍に入った陶の祟りを恐れて、陶の首を前に
「陶が悪い、俺は一切悪くないから成仏しろ」という恨み返しの呪いをやる為に神域を清掃して自らを護っただけ。
例えば毛利軍が秀吉の命令で北九州に上陸した時の記述などでは、
秋月に同調した長野氏の城を攻め立てた際に落城させた後に生き残り探しして村人までことごとく殺戮しまくり海に投げ捨てたと書かれている。
615 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 09:08:47 ID:76Vi4MB4
>>611 死体は現地住民が基本的に処理
今年は耕地を荒らされてしまいましたが、来年は豊作が期待できます
また、雑兵や武士もある程度の分捕はしますが、基本的に自分で持てる
範囲なので大部分が残って、現地住民の物になります
これらは保証みたいなものですな
616 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 17:17:02 ID:nN3ZE711
一応、戦場漁りはご法度なんだけどな。
しかし実際は古金買いといって、釘一本まで現地住民が回収してしまうので何も残らない。
当時は産業革命以前なので、
金属はもちろん衣類や木材、紙なんでも売れるからな。
長篠で銃弾がほとんど発掘されなかったからここで戦はおきていないとか言った奴がいたらしいが、
そら残ってるわけない。
617 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 20:02:37 ID:OCfptQw/
>>612-
>>616 ありがとうございました。良い宿題が出来そうです。
関ヶ原には両軍の墓地があると聞きましたが、局地戦等、小さな合戦にはその様なものはないでしょうね…
618 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 20:40:19 ID:9R3dRsqQ
>>617 小規模な合戦でも、よーく探せば「〇〇塚」と呼ばれる戦死者を埋めたとされる塚が
各地に残っている。
619 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 16:43:22 ID:OSeyz8jk
戦国時代、戦の時 一般の兵士はワラジを履いていたと思いますが
重臣や大将もワラジですか?
もうひとつ、ある先生が、安土桃山時代は軍事産業バブルで景気が良かった
と言ってたのですが本当ですか?
620 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 17:01:55 ID:lYPyicFC
>>619 騎馬の武士は「馬上沓」や「貫(つらぬき)」と呼ばれた一種の靴を履いていた。
あと徒士の武士や足軽は草履よりも「足半」と呼ばれた、足の前半分だけにつける
草履を履く場合が多かった。
あと安土桃山時代だが、信長の時代は資料がなくてよく分からない。
秀吉の時代はたしかに一部の政権に密着した商人は儲かった感じは受けるが、
7公3民と言う高税率と、朝鮮役などの負担で国内経済は明らかに疲弊しており
とても好景気などと言う状況ではありえなかった。
日本の経済が好景気化したのは関ヶ原以後、家康の政権が確立してから。
そこからは数字上のデータからも、明らかに加熱と言っていいほどの経済拡大が起こっている。
その先生は多分、変な俗説まがいの書物当たりに影響を受けたんだと思う。
621 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 17:14:05 ID:3z+f9vNh
戦争しててバブルが起きるなら、今のアフリカなんて大フィーバーだろうに。
622 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 17:17:59 ID:LPJjUiyl
戦争でって言うより築城とか街づくりだな
623 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 18:17:35 ID:R2zTEVhR
アフリカはなぁ
紛争→飢餓→難民→紛争の無間地獄スパイラルだからなぁ
624 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 18:31:27 ID:FnKHzrSn
戦争に向けざるをえなかった国力を全部国内に投入出来るようになったんだからなあ。
そら発展するわ。
戦争で儲ける人はいるけれどその恩恵を受けるのはごく一部だし、
何よりも自転車操業になるから長期的にはロスが大きい。
625 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 19:11:07 ID:R2zTEVhR
まあ兵士というのは消費するだけで何も生産しないからね。
626 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 19:48:48 ID:vxFXnkt3
その兵士が生産者(農民)でもあったのが戦国時代なんだけどな
627 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 20:33:17 ID:FnKHzrSn
その生産者を戦場に駆り出してる時点で生産力が落ちるってもんだ。
628 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 20:39:36 ID:LPJjUiyl
カタワも増えるしな
やらないにこしたことはない
629 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 20:47:20 ID:kDQV0Uz7
一概にそうとも言えない
ヨーロッパや中国では農村の生産力では養えないあぶれ者を吸収する受け皿として傭兵・軍隊の存在意味があった。
都市の産業基盤がまだまだ貧弱で、余剰人口の全てを吸収できるほどのパイがなかったから。
日本も同じで、農村からの徴兵もこういったあぶれ者を優先して出すようにしていっている。
630 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 21:35:02 ID:kUyQn0DP
あぶれたら有徳者から施しを強要しに都へ行くだけだろ…
631 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 21:38:02 ID:R2zTEVhR
だがその「公共事業」の財源も結局税金=年貢なわけだ。もちろん失業率上昇による
社会不安や治安悪化を防ぐ効果はあるが、経済的負担になる事実は変わらんよ。
632 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 21:50:57 ID:kDQV0Uz7
>>631 軍隊がモノを消費すればそれは税金が社会に還元されるということ。
もちろん程度問題ではあるが、大量に消費してくれる集団がいなけりゃ経済は回らない。
江戸時代以降は、その主体が軍隊から庶民へとシフトした。
633 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 22:05:41 ID:lYPyicFC
家康は余剰人工が食っていけるように、とにかく新田開発を推し進めた。
東海道では干拓されまくって、家光の時代にはかつて古歌の名所だった海辺が
見渡す限り一面の田畑になってた、なんて所もあったそうな。
634 :
仙台藩百姓:2010/04/18(日) 06:13:59 ID:+rN30vFS
なんで「家康は」なんだお( ^ω^)
新田開発なんて全国でやっているじゃんお┐ (´ω`) ┌
635 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 06:39:49 ID:lYYI27xx
つ水戸黄門
636 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 07:28:29 ID:/fKRorin
中々難しい話だが、軍事ケインズ型経済は最低限、軍事支出による雇用増加
→消費拡大→需要増加という形に加えて、実際には戦争をしないこと、
クラウディングアウトを起こさない範囲であること、という条件があるな
まあそれ以前に当時の経済は貨幣がないか金本位制かという感じだろうし
少なくとも江戸期ほど貨幣制度が完成してないから、金融政策は機能しない
更にそもそも当時は現代的な需要制約型不況が存在してないと思われる
多分供給制約による不況しかないだろうから、ケインズ政策は意味がない
ケインズ的需要制約・デフレ型不況がはっきり観察出来るのは江戸からかと
(少なくとも吉宗の時代にはデフレが起きて実質通貨供給増で対処してた)
むしろこの時代なら小泉みたいなサプライサイド政策のほうが有効だろうね
小泉もこういう時代に産まれたら良かっただろうに、なんでデフレ日本に…
637 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 09:38:54 ID:kx3SM31B
>>634 流路変更を含めた大規模な開発を多数、行っているのは彼が始めて
638 :
仙台藩百姓:2010/04/18(日) 23:40:41 ID:+rN30vFS
>>637 そりゃ支配地域が広いのだから当たり前だお( ^ω^)
行った事自体は他の大名となんら変わらないお( ^ω^)
639 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 23:46:11 ID:JISZwdd8
>>638 変わらないから評価しないって言うのは意味がわからん。
その方向性を主導することこそが指導力と言うものなのだし。
640 :
人間七七四年:2010/04/19(月) 03:01:16 ID:3tbVDOvM
発案と実行したのは別に家康じゃないだろ。
641 :
人間七七四年:2010/04/19(月) 08:59:46 ID:HkRvjEiz
織田信長
- 2代織田信高(七男)
- 3代織田高重
- 4代織田一之
- 5代織田信門
- 6代織田信倉(養子)
- 7代織田信直(養子)←←← 大和宇陀松山藩主織田高長の孫(信雄の系統)
- 8代織田長孺
- 9代織田長裕
- 10代織田信真(1842〜?) ←←←明治維新後、写真師になって、その後消息不明
- (11代から14代は不明)←←← 親戚に迷惑をかけるから、あえて16代信義氏が製作配布した家系図では4代不明としたとか(週刊新潮の記事より)
- 15代織田重治(1917〜1995?)←←←1842から1917の間に5人もいる
- 16代織田信義
- 17代信成(次男)←←←信雄の末裔を連呼する割には、大徳寺でなく信孝が建立した本能寺・信長廟へ行った上に、信長の声が聞こえたらしい…。
織田信成が織田信長の子孫って本当?【2代目】
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1271421161/
642 :
人間七七四年:2010/04/19(月) 09:01:07 ID:HkRvjEiz
〜 織田信長の子孫に関する小ネタ 〜
●金スマ出演時に用意した家系図は某家系図業者共通の装丁で、
安住アナの指摘どおり「昨日作ったばかりのよう」な代物。
代々受け継いだものでないことは明らかで、歴史学的な検証には耐え得ない。
歴史ヲタにはおなじみの業者で、日本史板では落胆と失笑の声が上がった。
●織田母がTV番組出演時に語ったエピソード
「嫁に来て間もない頃に桔梗の花を飾ったところ姑に叱られた。」
「桔梗は明智の家紋だから、織田家では桔梗をいけるのはご法度ご法度なのです」
⇒旧丹波柏原藩織田家(元大名家)の当主である
織田孝一氏(本名は織田信孝、フリージャーナリスト)によるコメント抜粋。
「家には(桔梗ご法度の)習慣はないです」 「彼は誰なのでしょうね」
有名な母による桔梗禁止のお話
家系伝説と家系図を示したという、文体も現代風の真新しい伝来の和綴本
http://www.youtube.com/watch?v=uKtU64tEbt8 織田信成が織田信長の子孫って本当?【2代目】
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1271421161/
643 :
人間七七四年:2010/04/19(月) 09:40:00 ID:3tbVDOvM
>>642 他人の中傷とかガチくだらない。該当スレから出てくんな基地害
644 :
人間七七四年:2010/04/19(月) 09:47:36 ID:gk9hszxy
645 :
人間七七四年:2010/04/19(月) 10:33:17 ID:E4hwWDJE
フィギュアオタってほんっとにしょーもないなぁ
全然関係ない該当板以外の板やスレでも
荒れた流れになってきてたりすると
オススメにフィギュアウォッチスレとかフィギュア〜アンチスレとかが
バンバン入っていたり良くあってコェーよ
646 :
人間七七四年:2010/04/19(月) 19:43:18 ID:FwL6LOP6
戦国ヲタクだからってその子孫まで興味あると言われると違うしなー
500年前の武将の血をちょびっと引く奴が何やらかそうと
「へー」とか「ふーん」ぐらいしかリアクション取りようがない
647 :
人間七七四年:2010/04/19(月) 19:55:44 ID:XwQyad78
そういや織田家って高家に入ってたっけ
648 :
人間七七四年:2010/04/19(月) 20:50:30 ID:TsIs/bqw
685 :U-名無しさん@実況はサッカーch:2010/04/19(月) 20:27:06 ID:mH5vcFuI0
726 名前:本屋 ◆JuldhLqJR6 [sage] 投稿日:10/04/19(月) 20:17 ID:S1Oj96Ys [2/2]
サカダイ
・特集「戦国武将×J1監督(歴史家 加来耕三が解説)」
J1全18人の指揮官を戦国武将にタイプ分類
小林伸二…伊達政宗 オリヴェイラ…武田信玄 チャン・ウェリョン…長宗我部元親
フィンケ…毛利元就 黒崎久志…朝倉義景 城福浩…大友宗麟 木村和司…上杉謙信
高畑勉…柴田勝家 反町康治…明智光秀 長谷川健太…小早川隆景 柳下正明…浅井長政
ピクシー…織田信長 加藤久…上杉謙信 西野明…蒲生氏郷 クルピ…柴田勝家
三浦俊也…最上義光 ペトロヴィッチ…竹中半兵衛
これってイメージに合ってますかね
649 :
人間七七四年:2010/04/19(月) 20:51:55 ID:sqp6pyg2
Jオタだけど今一ピンと来ないな
理由がわからんし
650 :
人間七七四年:2010/04/19(月) 21:26:24 ID:oxP14cGQ
Jオタでもある自分に言わせると、この18人で最も慎重、かつ堅実な人物が伊達政宗になってしまう
というあたりで察してくれればおK。
651 :
人間七七四年:2010/04/19(月) 23:42:45 ID:A3QknuKQ
小林伸二って最貧球団を残留させた人だから
伊達政宗とは違うよね。マゾ大名の方がいいかな、里見とか?
上杉謙信が被ってるような・・・
反町より、加藤Qの方が光秀っぽいような
652 :
人間七七四年:2010/04/20(火) 18:10:58 ID:Zfom/t0K
ポニーに乗って武将気分になろうと頑張ったのだが
ほとんど乗れなかった。
胴体や下半身を蹴られても軽症で済ませるような防御方法って
どうしたら良いと思う? 薄い鉄板でエプロン?
653 :
人間七七四年:2010/04/20(火) 18:21:50 ID:PE3sYojl
蹴られてって馬にかよ。
背後に回らないことだな。馬はゴルゴ13だから、
背後から近寄る者は問答無用で倒してしまう。
654 :
人間七七四年:2010/04/22(木) 18:28:01 ID:cZHPnQjF
戦国時代の鞍とかは縛って固定してたんだろうか…
江戸時代までの馬術ってよくわからないけど、乗る方向が今とは逆だったんだっけ。
655 :
人間七七四年:2010/04/22(木) 20:12:57 ID:oH9uvvHW
固定してない鞍に何の意味が
656 :
人間七七四年:2010/04/22(木) 20:24:07 ID:cZHPnQjF
飾っとくと綺麗
マジレスすると、今の乗馬だと鞍は留め金具で固定するんだよ。
戦国時代だと金具だったのか縛ってたのか…でも結構きつく締めないと安定しなくて
人馬ともに辛いものだから、縛ってたとしたらどうだったんだろうか、って思ってさ。
657 :
人間七七四年:2010/04/22(木) 20:35:00 ID:4TYp1+mk
大内家が日明貿易や倭寇を取り仕切っていたわけだが
明ですら苦労していた倭寇をどうやって取り締まっていたんだろう?
658 :
人間七七四年:2010/04/22(木) 20:35:59 ID:l1AQfIig
659 :
人間七七四年:2010/04/23(金) 02:33:17 ID:GJVjAvL/
質問です。
戦国から安土桃山にかけての経済政策といえば資源開発やインフラ整備に加え
信長の楽市楽座など「市場活性化」が主眼ですよね。奴隷貿易とかおいといて。
しかし江戸時代になって後、経済対策として市場緊縮に直結するであろう
倹約令などがだされています。
素人考えでは財政問題を考える為政者はいかに消費を活性化させ
資本を循環させるかが勝負だと思うんですが、なんで江戸時代になると
質素倹約を推進する方向に進んだんでしょう?
家康は倹約家で有名でしたけど、その影響なのでしょうか?
もしくは戦国時代の認識が間違いで、市場活性化が主眼になったのは
明治以降なのでしょうか?
どなたかお答えよろしくお願いします。
660 :
人間七七四年:2010/04/23(金) 02:55:42 ID:SsOIqj5d
>>659 質素倹約は戦国時代もそう。というか、源平合戦の時代から武士の経済政策といえば「質素倹約」
あと楽市楽座は市場活性化政策でも何でもないぞ。
アレは「商人を呼び込む」ことが主眼であり、消費を活性化させるなどという意図は全く無い。
というか、その当時の日本に消費の活性化で経済を成長させるような力も基盤もない。
戦国期はまだまだ自給社会の面が強い。
ついでに言うと「楽市楽座」を全国に、無条件に展開したのは徳川幕府。
織豊政権は座の利権をむしろ保護していた。
江戸時代の経済政策は、基本的には倹約志向とそれの緩和という波によって形成されているが、
前提として、一国経済で循環させている以上拡大策にはどうしても限界がある。
そのため経済の引き締めは定期的に必要なことではあった。
あと、明治以降になっても戦争時(太平洋戦争に限らず日清、日露でも)などではやはり
「質素倹約」が国民に求められており、明治になってから市場活性化が最重要視されたわけではない。
戦後ですら石油ショックの時などの「倹約運動」などがある。
日本に限らず市場活性化というのは、その条件が整ったときにのみ行われる政策に過ぎない。
活性化出来る条件がなければ、どう刺激しても活性化は絶対に無理だからだ。
そういう意味で江戸期の経済政策も、その条件の中においてごく常識的なものであったと言える。
661 :
人間七七四年:2010/04/23(金) 04:50:05 ID:00ocDRpJ
>>660 勝手に補足させてもらえば、
「楽市楽座」については、中世史の研究家がヨーロッパの都市と日本の都市の共通性を見出そうとして「楽市楽座」≒「自由都市」と解釈してきたためにおかしなことになっている。
楽市楽座というのは座などの既成の商人組織を解体して自由化する代わりに商人を大名の監視のきく城下町に集めてその統制下におく政策であったから、
既成の座でも大名の利益と合致すればむしろ保護して税金や物資調達の面で大名に奉仕させた方が有利だった。
662 :
人間七七四年:2010/04/23(金) 05:40:48 ID:Vd+f0/PC
大内と博多の関係なんか顕著ですよね
663 :
人間七七四年:2010/04/23(金) 09:56:00 ID:kyEW2d9H
質素倹約って、経済萎縮しそうな気がするけど
つまりバブル消費はさせないって事?
664 :
人間七七四年:2010/04/23(金) 10:20:37 ID:UH1Ekn0b
掛売りが基本だから払えないほどの消費は避けろってことじゃね?
払えんと連鎖破産おきるし
665 :
人間七七四年:2010/04/23(金) 11:13:42 ID:uUdYmvye
江戸幕府が自前で貨幣を鋳造し市場への流通量をコントロールしたりした時代以前に経済政策というほど立派なもんはないね。
財政悪化した挙げ句に鋳造率を変えて悪貨が良貨を駆逐するを見事にやっちまうし。
まあ江戸時代でも米本位体制だから財政基盤が天候に左右される脆弱性は相変わらずだけどね。
しかもその時代になっても室町時代の京みたいに商人による米価操作に悩まされて、幕藩体制下の武士階級は上下限らずみんな財政悪化を引き起こしてるわけだし。
さらに江戸期の経済政策には河川流通網の発展と、土木事業たる治水と埋め立てによる作付け面積の拡大による石高向上が基本だからね。
利根川東遷治水や印旛沼などの埋め立ては老中などの政敵追い落としの政争の具にしかなってねぇし。
賄賂を容認した経済活性化も汚職追放質実剛健財政再建の倹約令も両論極端でしかも中途半端な時期に老中が失脚しまくりで大してうまくいってないね。
幕末は金銀保有量によって幕府発行貨幣に裏付けを与え保証するという考えが無くて欧米に交換比率を悪用され大量に騙しとられてるしな。
666 :
仙台藩百姓:2010/04/23(金) 11:40:08 ID:c6UY+103
徳川幕府は経済学的にやっていけない事をみんなやっているおね( ^ω^)
丸っきり素人政策だお( ^ω^)
経済学が確立されていない時代だから仕方ないと言えば仕方ないけど( ^ω^)
というか現代でも制御仕切れてないけど
667 :
人間七七四年:2010/04/23(金) 13:04:18 ID:ue0+St8S
経済は政府が責任を持つって考え方はいつから出来たのだろう
668 :
人間七七四年:2010/04/23(金) 13:17:34 ID:eopVOO4/
江戸時代の諸政策を西洋の流れを無理やり当てはめて
重商主義政策とか書いてるのを見るとかなり痛い。
信長のことを政教分離とか書いたり、西洋史を無理やり日本史に持ち込むのやめろや
669 :
人間七七四年:2010/04/23(金) 16:07:16 ID:aGe9JSLk
>>659 藩の収入、武士の給料は米の年貢が主
経済を活性化させればさせるほど、工業製品、加工品の価値が上がり、
米を始めとした1次産品、原料品の価値は下がる。
当時は経済活動から税金を取るという概念がほとんど無いので(同業者組合からまとめて取る)
当時、消費税や所得税の概念があれば、
今の政治家と同じように経済活性化策を打ち出したと思う。
670 :
人間七七四年:2010/04/23(金) 20:12:38 ID:j93wCk3G
町人からはどうやって徴税してたんだろな。
671 :
人間七七四年:2010/04/23(金) 20:16:04 ID:SsOIqj5d
>>670 町人と言うのは都市において土地家屋を所有している人間のことで、
落語に出てくるような八さん熊さんは町人ではない。
で、そういう「町人」からは年貢と同じように地代が徴収される。
672 :
人間七七四年:2010/04/23(金) 21:22:49 ID:00ocDRpJ
まぁ、石高制自体が1570年代から数十年間の貨幣不足の時期だからこそ成り立ちえた政策だからな。
673 :
人間七七四年:2010/04/23(金) 21:25:50 ID:aGe9JSLk
>>670 家の間口の大きさで税金を取られる。今の固定資産税だな。
だから京都を始め、古い町は間口が狭く奥に長いうなぎの寝床になる。
674 :
659:2010/04/24(土) 10:31:32 ID:vKccp8JN
>>659です。
少し遅くなりましたが皆様回答ありがとうございました。
なるほど。
・私自身の認識の違い
・当時の経済政策の未成熟
・一次生産物である米を主収入とする石高制の性質
の要素が絡まっていたのですね。
さらに興味が涌きましたのでいただいた回答を元にもう少し詳しく調べてみようかと思います。
675 :
人間七七四年:2010/04/24(土) 10:32:14 ID:j8otTvAW
其方儀重々不届に付御腹申付る者也依如件
676 :
人間七七四年:2010/04/24(土) 10:32:59 ID:j8otTvAW
誤爆失礼
677 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 00:13:57 ID:xmw70FP8
例えば誰かが越前守に正式に任官したとして、それを周りの大名に広報してくれる人っているのですか?
それとも自分で越前守になりましたよって他の大名に手紙でも送るのですか?
678 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 00:58:14 ID:yhY4dG6F
>>677 どう言う時期、状況でどう言う身分の人間が任官したかによるが、
正式な任官なら朝廷から発表されるのでよほど世間に疎い人間でない限り
誰でも知る。
679 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 01:38:09 ID:xmw70FP8
>>678 朝廷が披露してくれるんですね。
ありがとうございました。
680 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 07:49:45 ID:1ssMvImv
聚楽第破却以後の秀吉時代の京都所司代屋敷はどこにあったのでしょうか
681 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 11:00:08 ID:9YwEbxGG
豊臣秀吉は九州攻めを実行したのに
徳川家康が関ヶ原後島津攻めをしなかったのはなぜでしょうか?
682 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 13:40:06 ID:50sPPaAt
辺境でどうでもいい存在だから。
関ヶ原の翌年の新年の挨拶に来ない島津を
家康は「いまになって事の重大さに気づいて、俺を恐れて挨拶すらこれねーのかよあのヘタレ島津と佐竹w」って嘲笑されてる。
683 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 14:05:39 ID:uGFKumb8
毛利に島津を討たせるって話があったんじゃなかったっけ?
死に体の毛利の国力をさらに削れて島津も討てるから一石二鳥だって
どこで読んだんだっけなあ
684 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 15:07:21 ID:v1Eq8dvQ
毛利が討たれちゃうじゃん
685 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 15:16:34 ID:5zsGSN3t
九州の諸大名に命じるならともかく毛利じゃどう見ても返り討ちだし、やり口が
酷すぎるって徳川が天下の不信を買う結果になる。
686 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 15:45:56 ID:50sPPaAt
弱島津と弱毛利
この西国最弱決定戦は見ものだ。
捏造藩史では双方にチート設定がある両雄。
687 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 18:34:47 ID:zhmd/uGs
志摩の守 とかなら、簡単になれそうだが
あれって自称も多かったのだろうか?
上総の「介」とかはどうなんだろう?
なんてキーワードでググッたら、色々わかるの?
688 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 19:05:21 ID:yhY4dG6F
689 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 22:44:17 ID:zrG4me4z
上総守ならすぐ自称できるよなw
690 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 11:31:40 ID:W4y+eYOq
歴史にたらればはないんだろうけど、秀吉とねねの間に、若い頃後継ぎが出来てたら、
家康を倒して豊臣が長期政権になってたのかな
家康の力や状況から見てどっちにしても江戸時代になってたかな
そんなこと考察した学者とかおらんのかな
691 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 11:54:19 ID:7KfSxoWL
>>690 それは学問じゃない。
あと個人的には豊臣政権は、組織、機構が殆ど存在せず
慣習に頼った政権運営の上、外様大諸侯の勢力バランス、の上で成立していた
室町幕府と大差ない不安定な政権構造なので、その後徳川政権が成立したかどうかはともかく、
政権として長続きはしなかったと思う。
692 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 11:54:19 ID:jrimeaR6
どうだろう。家康は吾妻鏡を座右に置いて鎌倉幕府の組織造りを研究していた
というし、秀吉にそこまでの先見性はなかったのかなあ…
693 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 12:14:58 ID:aCbbfo3h
秀吉はやっぱり出の悪さの限界が響いていますから
694 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 12:33:29 ID:XNpkyh/E
組織や機構は後から整備していくこともできるのだから、絶対に無理とは言わないけどね。
条件としては、天下統一のあと外征なしで、かつ十分に成長した後継者がいる状態で
秀吉が引退するかいっそおだやかに死ぬか。
それでも二代目三代目あたりで大諸侯の粛清は必要になるだろうが。
695 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 13:02:07 ID:lHNfIc+h
25くらいの自称秀吉実子のガキがいたら
ガキを大坂において政治をやらせて
秀吉は自ら渡海してんだろ。
秀吉が釜山あたりに常駐して指示してたら意志疎通もなくなり三成と武断派の対立もなくなってたかもしれんな。
秀吉が渡海しちまったら家康も側近として忠勝らと渡海せざるおえないし
ガキは国内政治の邪魔者がいなくなるから整備が進み盤石になるな。
ほぼ日本の全軍が朝鮮に上陸して、撤退したら改易の状況で日本餓軍が北上したらさすがに怖いなw
696 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 13:30:31 ID:7KfSxoWL
>>694 関ヶ原の時には既に、豊臣直属軍で有る七手組が殆ど存在感を喪失し、
三成ら奉行衆すら、毛利、宇喜多などの大諸侯の軍事力に頼ったことからも、
秀吉の末期には既に、豊臣家直属の軍隊は大きく弱体化していたと見られる。
ここから、仮に秀吉後継が成立したとして、何らかの改革、強権を発動しようとしても
徳川、毛利、前田などの大諸侯の軍事力を後ろ盾にせざるを得ず、それらの諸侯の利益に反する
改革を行うことは非常に困難であり、権力は限定的にならざるを得ない。
諸侯粛正を行うにしても、それは政権の後ろ盾になった大諸侯の利益に沿った形でのみ
可能であり、のちの徳川幕府のような強大な権威、権力を保持することは、政権の構造上
無理だったと思う。
697 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 15:26:07 ID:jrimeaR6
家康は若い頃今川義元の軍師太原雪斎に学問を教わってるからな。歴史から教訓を
得ることを知っていたんだろう。そこはやはり秀吉とは違うのかな。
698 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 15:58:15 ID:35l0zxVo
1万石くらいの藩主の生活って、どんなん?
699 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 16:13:43 ID:XNpkyh/E
>>696 なんで関が原の時点で考察するんだ?
豊臣家直轄の軍事力の低下は、秀次粛清によって古参も没落したことと、
残った豊臣恩顧出身家も唐入りの失敗で弱体化していたことが大きい。
>694のIFだとこれらの条件が大きく変化するわけだしね。
700 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 22:16:45 ID:iq+7utr/
通常の大大名って権威を示すためや領内整備のために
織田みたいに城作ったり、武田みたいに治水したりと土建に力を入れますよね?
大内って山口の町づくりが室町中期にあったとはいえ
その後、特に治水とか城造りとか土建関係を全くしていないのはなぜでしょう?
701 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 22:22:08 ID:ycJKhfkb
別の板で、
>実際には皇室を私物化しようとしてたから、事実上の朝敵だよね信長は
という書き込みを見たんですが。
どのあたりを指しての事なんでしょう?
702 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 22:23:38 ID:/DhZSd0x
その書き込みした奴に聞けよ
703 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 22:39:49 ID:7KfSxoWL
>>701 領内整備なんて普通にやってるぞ。領内を守るための城の建築も積極的だし。
あと大内の時代とキミが例に上げた戦国後期を一緒にするな。
704 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 22:40:39 ID:7KfSxoWL
705 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 23:23:47 ID:uONVWSOB
金さんの遠山家1万石 苗木城 とかロマンあるよな。
金も無いし幕府に目を付けられないように、
100年くらいかけて城を整備したんだ。
30人くらいの大名行列とかも萌えるw
706 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 23:52:23 ID:0m3IWTry
707 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 23:56:08 ID:0m3IWTry
寝太郎はおとぎ話だけど山口の厚狭地方に
田畑を開拓してそのモデルになった人が寝太郎権現として祀られているらしいね
708 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 00:44:01 ID:fsNUjtJs
>>697 太原雪斎に学問を教わってるからな
上記の話は後世の捏造だよ。
709 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 01:37:28 ID:CzHJN9cf
前に何かの本で、
「秀吉は朝鮮派兵で朝鮮を制圧した後は明、インドと征服して最終的には
アジアに巨大な帝国を作るつもりだった」と書かれていたのですが、
素人目にも明と日本では軍事的に圧倒的な差があって無理と気付きそうな気がしますし、
諸説あるとは思うのですが何か別の目的があった可能性はあるのでしょうか?
710 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 01:49:06 ID:EEKCZLGB
>>709 秀吉自身はリアルにインドまで征服出来ると考えていたようです。
別の目的というか、戦線が膠着してからは朝鮮の南部割譲と明との交易の再開、くらいが
目標になりました。
711 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 02:02:49 ID:/gpPlFB7
大寧寺の変って単なるお家騒動で終わらずに
明との交易が断たれ国家レベルでの損失につながったよな
712 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 05:24:38 ID:ZZvzlZGM
どうだろう、陳舜臣氏は秀吉軍による明征服は可能だったと言ってるけどね。
後に明を征服した清軍は、秀吉軍より兵力が少なかった。だから秀吉の失敗は
兵力以外に要因があると。
713 :
仙台藩百姓:2010/04/27(火) 08:07:22 ID:XYQkYiCc
モンゴルやイングランドも圧倒的に少ない兵力で支配地を広げていったおね( ^ω^)
日本民族は政治能力が極めて低いから戦争に弱いのだお┐ (´ω`) ┌
国同士の戦争に揉まれる事が殆どなかったからだおうね( ^ω^)
714 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 08:48:13 ID:Gv9VXyQ5
イングランドは欧州の支配地域は失ってるけどね
715 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 10:20:00 ID:4Likecwj
716 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 10:27:43 ID:rayPSHTU
5百石→マンションオーナー
5千石→村長
3万石→市長
でいいかな
717 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 11:21:45 ID:EEKCZLGB
>>712 小説家の言う事をまともに取るなよ…
秀吉の時と清の時は状況が全く違うって事くらい
ちょっと調べればわかるだろうに。
718 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 11:56:43 ID:ZZvzlZGM
>>717 やっぱりプロイセンとバイエルンぐらい違うの?ww
719 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 12:09:29 ID:/gpPlFB7
>>718 ランペルールでバイエルンに宣戦布告したつもりが
プロイセンに布告して酷い目にあった悪夢を思い出す
720 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 13:46:39 ID:SgMegTyp
>>717 陳舜臣は単なる小説家じゃないぞ
…ただし日本史は専門外だと思うが。
そもそもあの頃の明朝と末期の明朝を単純比較する意味がわからん。
721 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 17:02:50 ID:ZZvzlZGM
>>719 マニアやなー
リバティ・オア・デスとか
722 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 22:37:32 ID:E3GR9VB8
ポルトガル、イスパニアがアフリカや新大陸を征服しているのを聞けば
「俺も上手くいけば北京攻略できなくね?」と思っても可笑しくない。
大陸の果てから艦隊を派遣してくるのと晴れた日に海の向こうに見える国に
渡るのと、どちらが難易度が高いか想像してみるといい。
723 :
人間七七四年:2010/04/28(水) 03:30:58 ID:BoRtvpLy
>>709 ありがとうございます。
やはり本気で中国やインドを征服できると思ってやったというのが一般的な解釈なんですね。
724 :
人間七七四年:2010/04/28(水) 20:00:21 ID:HLSn5lsz
柴田明家とは誰でしょうか。
なんでも柴田勝家を父とする者らしく、前田慶次を部下にしているらしいのです。
調べてもネット小説しか出てきません。やはり創作の人物なのでしょうか。
725 :
人間七七四年:2010/04/28(水) 20:16:27 ID:TXnZ8KRf
>>660についてちょっと気になったので
>質素倹約は戦国時代もそう。
供給制約で流通・統合政府・行政と分配補助機構などのない社会ではそうなる。
自給自足経済(ロビンソンクルーソー)ならセイ法則が成立しやすいだろうし
>というか、その当時の日本に消費の活性化で経済を成長させるような力も基盤もない。
程度問題としてはそれほどではないと言えるが、交易機会の増加が起きている限り
その効果はあると思われ。意図があったか、という点については俺はないと思う。
>江戸時代の経済政策は、基本的には倹約志向とそれの緩和という波によって形成されているが、
>前提として、一国経済で循環させている以上拡大策にはどうしても限界がある。
むしろ閉鎖経済系のほうが開放系経済よりも拡大策の限界性は拡張される気がする。
アジア危機などで高流動性による経済攪乱が起きたことやIMFモデルの問題点が
指摘されたことなどに通じると思う。閉鎖経済系でかつ通貨発行権がある場合は
拡張限界=名目物価上昇率が主になると思われるため。ただし当然ながら代替貨幣
による貨幣システムそのものの攪乱という問題も存在する。江戸期にはこの問題が
(特に地方政府において)発生している。なおこの点は現在でも議論は分かれる
>戦後ですら石油ショックの時などの「倹約運動」などがある。
いわゆる供給ショックからくるstagflation。エネルギー・食料品などの物価
上昇によって一般物価が連動して引き上げられる状態。この状況においては
倹約・または代替物へと消費が移行する。ただし、「倹約運動」は有効だが
=それが望ましい均衡シフトであるかどうかは難しいところ。
>活性化出来る条件がなければ、どう刺激しても活性化は絶対に無理だからだ。
これはその通りだと思われ。
>そういう意味で江戸期の経済政策も、その条件の中においてごく常識的なものであったと言える。
「常識的」の意味の受け取り方の問題だと思う(この話事態そう)だが、
「適切な」と言う意味では少し違うのではないかと思われ。その時代の
方法論の限界を表していると言う意味では正解だと思う。いじょ
726 :
人間七七四年:2010/04/28(水) 20:38:29 ID:TXnZ8KRf
>>665 >財政悪化した挙げ句に鋳造率を変えて悪貨が良貨を駆逐するを見事にやっちまう
通貨の信認が崩れない限り(不連続的な複数均衡のシフト)実は名目物価上昇は
経済にとって一国マクロ経済に対して好影響。経済学の実証においてはほとんど
「正しい」とみなしてよいレベルの頑健性のある結果。吉宗の時には、倹約令を
実行した結果、更に国家財政が悪化したというのが多分正しく、逆に貨幣供給量
増加によって経済及び財政の回復も起きたと思われる。いわゆるドーマー条件が
成立したということだけども。
問題は各藩が独自に発行していた藩札。こちらは見事に不連続均衡シフトして
「誰も藩札を受け取ってくれない」状況を引き起こしたりしていたとのこと。
悪貨が良貨を駆逐するというのは、条件設定でだいぶ変わるから難しいですね。
727 :
人間七七四年:2010/04/28(水) 20:56:25 ID:pvfO8Y3Z
おーい、江戸時代はスレ違いですよー。
江戸時代の経済を語るスレとかなかったっけ?
728 :
人間七七四年:2010/04/28(水) 20:58:56 ID:rx1/Ql0O
729 :
人間七七四年:2010/04/28(水) 21:51:05 ID:TXnZ8KRf
失礼。まぁ戦国期の領主に「倹約」以外の経済政策思想があったか、
といえば考えにくいというのは完全同意。俺が上レスで気になったのは
ほとんど江戸期以降の説明の部分だから、確かに蛇足ですな。
730 :
人間七七四年:2010/04/29(木) 00:47:53 ID:tDD0dN18
あ、726間違いでした
正しくは需要制約型不況の場合、通貨の信認が崩れない限り〜 で更に
名目物価上昇率が正であるのが望ましいが高すぎる上昇率も問題となる
という一文が抜けてますね。重ねて失礼。
731 :
人間七七四年:2010/04/29(木) 06:50:00 ID:iGi/CIiU
732 :
人間七七四年:2010/04/30(金) 01:45:12 ID:+T0FIOQo
山本勘助って今川に仕官断られて浪人していたところ武田に仕官したという認識でしたが
創作本で大内のところにいたという展開を見ました。
これはその作品が勝手にそういう話にしているだけなのか
それとも現在の有力な学説ではそのようになっているのでしょうか?
733 :
人間七七四年:2010/04/30(金) 06:22:54 ID:b2QcM68X
今川も大内も何も「軍師山本勘助」は甲陽軍鑑のでっちあげという説が最近まで
主流だった。近年「山本管助」名の書状が発見されて、そういう人物がいたらしい
ことはわかったが、地位や事績はいまだ不明。
734 :
人間七七四年:2010/04/30(金) 07:16:45 ID:bunopKsP
大内の方は萩藩閥閲録に名前が載ってる
大内義興に仕えてたとか何とか
735 :
人間七七四年:2010/04/30(金) 08:30:03 ID:b2QcM68X
毛利家に自称勘助の子孫や山縣昌景の子孫がいたらしい。
いずれも眉唾で、証拠の古文書も内容が怪しいという話だが。
736 :
人間七七四年:2010/04/30(金) 09:11:24 ID:+T0FIOQo
ありがとうございます
徳川によって甲斐武田家のことが絶賛されたので
安芸武田家の生き残りが売名のために関係者をよそおったってところでしょうか?
737 :
人間七七四年:2010/04/30(金) 09:20:26 ID:b2QcM68X
安芸武田かどうかも怪しい。江戸期の武家の家伝とか由緒書は胡散臭いのが多過ぎる。
萩藩閥閲録は良質な文書集だが、中には怪しいのも混じってるという話。
738 :
人間七七四年:2010/04/30(金) 13:09:33 ID:mBqNsNSj
>>736 そういう形式論で物事を理解しない方がいい。徳川政権下で一貫して信玄が絶賛されてたわけじゃない。
むしろそういうのは、徳川綱吉政権下で、武田一門の子孫である柳沢吉保が強い影響力を持った一時期くらい。
250年も続いた政権が常に同じ色調だったなんて無理がありすぎる。そういう江戸時代という時代を
ひとまとめにしたような考えは余りおすすめしない。あの時代でも5年、10年で世相は変わってるよ。
739 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 00:33:41 ID:XckhMZgy
陣屋や小城に住み、
参勤交代は30人くらいのお供
そんな1万石とかの小大名の生活を妄想するスレを立てたら
楽しいと思いませんか?
740 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 00:51:18 ID:lC20mPYg
それは江戸時代の話だ。
741 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 05:10:35 ID:kxcgUqfO
名古屋城を見物してふと思ったのですが
あれほど大きい城ですら千人以上の人間が城で篭城すると窮屈ではないでしょうか?
天守閣に入れない余った兵士は門の内側のところにボロ小屋でも作って寝起きしていたのでしょうか?
742 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 07:09:52 ID:eTKPihTu
日本には西洋でいうとこのカタパルトみたいな兵器はなかったのかな
大筒とかなんかより城攻めのときは有効なように思えるんだけど。
743 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 07:23:01 ID:inhXNGS7
どっかで聞いただけだが
ほとんどの日本の城は地形を利用した山城ばっかで
中華や西洋の平地で高い城壁なんかが防御の要な城は日本にはほとんどなく
そのため城壁破壊のための攻城兵器なんかは作られなかったとかなんとか
744 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 11:20:48 ID:lC20mPYg
745 :
739:2010/05/01(土) 15:24:13 ID:gFokn9zO
じゃあ戦国時代の1万石大名って、どんなんだったの?
9900石と1万石の違いって、単純に石高が違うだけ?
746 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 15:44:19 ID:lC20mPYg
領地を石高換算するようになったのは太閤検地から。
そして「1万石以上が大名」と言うのは江戸期の基準。
厳密に言えば戦国期に「一万石大名」なるものは存在しない。
そして戦国期に大体1万石前後くらいだろうって勢力は、大大名の
組下に組織される、いわゆる国人領主。戦国大名に軍役を提供する代わりに
所領安堵をしてもらう存在だ。
747 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 16:27:47 ID:c9Eo7mD1
>>741 >>744氏の書いてる事に加えて、本丸にしても二の丸にしても今は只の空き地のようなところに
御殿などの建物が立ち並んでたりする。
戦時における天守の役目は物見と城内まで侵入された段階での防衛拠点そして落城ぎりぎりの
最後に立てこもる場所。しかし城内に進入された段階でほぼ負け。
748 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 17:32:09 ID:2r2L4yis
まあ、現存する城で全部曲輪や御殿が残ってる城なんてないからなあ
天守だけ見て、これが城かあ、これに籠もるのかあ、って思う人は多いんだろうね
749 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 18:35:51 ID:7J6Pf2tr
江戸城なら現在の皇居を見てある程度想像できるけどその他はねえ。
750 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 18:48:53 ID:M9M9rMLp
名古屋城は三の丸は殆ど残っているから、あれの南面をずっと歩くとそのデカさに呆れる
751 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 19:18:32 ID:uUCJpQAm
ってことは篭城戦って門が全部壊されたらおしまい?
752 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 20:06:16 ID:SGU1GDVv
>>745 上杉家の色部氏で1万石
有名大名の譜代の家老クラス
753 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 20:07:47 ID:M9M9rMLp
>>751 だからこそ枡形になっていたり、櫓門があったり、横矢ができる位置に櫓があったりする
虎口と謂われる所以
754 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 21:01:11 ID:c9Eo7mD1
>>751 基本的には本丸を守るのが篭城戦。それまでに援軍が来るか、誰かが敵の本拠を突くなどして
撤退を余儀なくさせれば防衛成功。二の丸三の丸など曲輪を連ねるのは時間稼ぎの為。
755 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 21:32:32 ID:2r2L4yis
>>751 門がどうこうっていうか、
城の守備勢に「援軍はもう来ないよ」「攻め手の国内地盤も揺ぎ無いから撤退ないよ」って思わせて
降伏か玉砕かを選択させれば終わり。
門壊さないで城を包囲したままでもね。
その為に本城を包囲して支城を落したり
本城の近くに付城を築いたりもする。
756 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 21:55:49 ID:jhp56WJJ
>>746 >>752 戦国期の小大名って、その辺の城に住んで
武芸でも磨いていたのだろうかとか、興味ない?
757 :
仙台藩百姓:2010/05/01(土) 21:58:17 ID:PGWW2Q7w
基本的に大大名も小大名もやる事は同じだお( ^ω^)
規模が大きいか小さいかの違いだけで
758 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 22:29:22 ID:eTKPihTu
戦国時代や江戸時代の生活って興味あるな
武士とか基本毎日登城してたんかな
勤務時間も一日なのか、半日なのか
戦がある時だけ呼ばれて、普段は家で武芸を磨いたりしてたのかとか。
江戸時代の人らの生活が一番よかった、みたいな話どっかで聞いたし。
759 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 23:06:29 ID:RwN6g6JA
>>758 そこらに興味あるなら鸚鵡籠中記でも読んでみれ
あくまで、とある藩の一家臣の日記でしか無いけど、貴重な当時の記録ではある
760 :
仙台藩百姓:2010/05/01(土) 23:39:30 ID:PGWW2Q7w
江戸時代の場合、役付の人は登城したけど無役だと家でぷらぷらしてたお( ^ω^)
武家は貧乏なのさえ気にしなければ楽と言えば楽だお
勝海舟も言ってたけど武士は食うに困らずやる事無いから毎日武芸や学問に励んで
嫌でも素行を立派にするしかなかったと( ^ω^)
勤務時間は役によって違うけどだいたい実務に携わらないお偉いさんは4時間程度
奉行や目付は10時間以上働いたようだお( ^ω^)
宇都宮の殿様(水戸藩家老)が維新後困窮し旧臣に食わせて貰っていたが
さすがに毎日ぷらぷらしていて旧臣にたかるのも気が引けるから
自分の食いぶちぐらいは自分で稼ごうと就職しようとしたら
「有難迷惑」であると旧臣達に非難されたという事があったお( ^ω^)
武将が働くなんて御家の恥だ、というのが江戸時代の人の感覚だったわけだお
働かないけど遊び歩くわけにもいかない
そんな生活が楽しいかは人によるだおうね( ^ω^)
761 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 00:10:36 ID:iRJqpwBq
働けない → でも遊べない → 勉強でもするか…
高等遊民ですね、わかります(皆が皆勉強してたわけじゃもちろん無いだろうけど)。
共産主義者とかだとぶち切れる存在だろうけど、文化の発達には欠かせない存在だよなぁ。
762 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 00:17:48 ID:S6Jk6HDn
今の天皇みたいだなぁ、公務オンリーで、気軽に出歩けないみたいなの。
週5で一日12時間以上働いてるけど、それよりは楽しい人生なのかしら
いやーどうなんだろう、わかんないな、人生なんて楽しいものじゃないのかもな
763 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 01:18:33 ID:EMc/wAsx
もし小大名だったら とか
小大名の生活 とかのスレ立てたら、需要あると思いません?
20人くらいの大名行列とか萌える(^-^)
764 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 12:45:27 ID:28Lbp6yW
しかもヘタするとその20人も全員エキストラという可能性も?
765 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 14:16:04 ID:E9hkRyuq
国元と江戸周辺では臨時雇いの人足使ってたらしいね。
今で言う日雇い派遣だなw
766 :
人間七七四年:2010/05/03(月) 07:25:37 ID:5WcOIGu7
倭寇と戦国大名のつながりはどのような感じだったのでしょうか?
767 :
人間七七四年:2010/05/03(月) 09:30:44 ID:DC2ZA9Ir
関係ないだろ。前期倭寇は時代が違う。後期倭寇は『明史』に
「十中八九は真倭にあらず」とある通りほとんど中国朝鮮人だった。
768 :
人間七七四年:2010/05/03(月) 10:33:28 ID:aIXF9wdH
倭寇の頭目の王直は、松浦隆信と非常に深い関係にあったらしいな。
大友宗麟にも接触していたとか。
769 :
人間七七四年:2010/05/03(月) 15:37:19 ID:+JcDsq6E
倭寇を海賊だと考えるから誤解が生まれる。
あれは商人国家とでも言うべき一勢力だもの。構成人員の人種はあまり関係ない。
770 :
人間七七四年:2010/05/03(月) 19:02:25 ID:VdqdRrA4
前期倭寇の時代に倭寇は中国や半島から人をさらってきて、九州から日本各地だけでなく
琉球を通じて東南アジアにまで輸出されていた。つまり北九州は奴隷貿易の一大拠点だった。
後期倭寇になって中国や半島からさらわれてくる奴隷は減少するが、北九州-琉球-東南アジア
の流通ルートは維持され、北九州が奴隷貿易の拠点であることは変わらなかった。
農耕技術が未熟なため自給自足できない薩摩人って
八幡(パハン)って職業を
大半の人々が従事してるって
宣教師の記録に書かれてるよね。
大小の船を多数用意してシナやその他いろいろな地へ行っては
略奪暴行強盗して戦利品を獲得する仕事。
ほんと化外の地だよな薩摩って。
それに薩摩の住人はここには薬すらない地だから去るなら薬を置いていってって懇願してるし
薩摩でもっとも優秀なキリシタンだった人も
薩摩に戻ってから、薩摩の貧しい土地柄ゆえかキリシタンの教えに背き
なぜか八幡になって海の向こうで戦死したって話を
宣教師が驚愕して書き残しているし。
771 :
人間七七四年:2010/05/04(火) 02:48:32 ID:DhLxbDIp
倭寇は李氏朝鮮の成立やその統治にも大きく関与してますからね。
元々倭寇は松浦地方や壱岐対馬といった貧しい地域の人間が追い込まれ生きるために行った行為。
これの取締の対価として足利義満が日明貿易を認めさせると沈静化した。
でも応仁の乱で取締が緩み、寧波の乱で海禁政策が強化され、
大寧寺の変で大内義隆が死去すると後期倭寇が活発になる。
ここまでは有名。
倭寇といえば宗氏が深く関与しています。ちょっとピックアップしてみます。
倭寇の中には興利倭人といわれる倭寇取締に協力することで
李氏朝鮮の陪臣として私貿易を認められたものもいた。
たが交易制限に反発する宗氏を中心に1510年三浦の乱が起こり陪臣への私貿易は衰退していった。
しかし宗氏は日本国王(笑)である大内(後に大友)の後ろ盾の元で日朝貿易を独占することになる。
締め出された他の商人は中国人と結託して倭寇を起こす。
これが後期倭寇に中国人が多い理由の一つです。
1555年大内の支配が緩んだ隙に宗氏が貿易拡大を李氏朝鮮に要求するも断られる。
すると断られた腹いせに倭寇を朝鮮に攻めさせて 乙卯達梁の倭変という動乱を起こしています。
これも結局失敗に終わりましたが李氏朝鮮はかなり苦戦しています。
宗氏はその後も厚かましく倭寇をけしかける一方で日朝貿易を行っていました。
貿易は1581年まで続き、倭寇は1588年豊臣秀吉の海賊停止令により沈静化した。
宗氏や倭寇は信長の野望でガン無視されていますが
当時の戦国時代のに深く関連していて非常に興味深いものです。
772 :
人間七七四年:2010/05/04(火) 05:01:40 ID:9f1X8JPj
最近韓国の学会は「倭寇に朝鮮人は一人も参加していない!」と主張しているようですが
773 :
人間七七四年:2010/05/04(火) 12:48:25 ID:5yRx6xKi
すみません、ちょっとお尋ねしますが
雑賀孫市と雑賀孫一
どちらが正式名称になるのでしょうか?
774 :
人間七七四年:2010/05/04(火) 13:59:42 ID:dDn3oToy
どっちも通称なんでどっちでも良いんじゃないかな
775 :
人間七七四年:2010/05/04(火) 14:33:04 ID:sJnU0QC3
どっちでもいいのですか。
さんきゅー。
776 :
人間七七四年:2010/05/04(火) 15:07:50 ID:9f1X8JPj
そもそも当て字の嵐の戦国時代に正式名称って何だろう(´・ω・`)
777 :
人間七七四年:2010/05/04(火) 18:14:40 ID:MGYHvVnU
>>773 この時代の「正式名称」って意味では『穂積佐大夫重意』だろうな。>孫市
778 :
人間七七四年:2010/05/06(木) 18:49:23 ID:HlWB5kBD
最近上杉家の跡目争い、御館の乱をダラダラと調べてるんですが、
武田勝頼がなんかの拍子に春日山城に入ってないですか?
いいんですか上杉家の聖なる居城に武田の御館様が入っちゃって
779 :
仙台藩百姓:2010/05/06(木) 23:52:54 ID:ub1eNr3Y
まったく上杉厨は…┐ (´ω`) ┌ヤレヤレ
780 :
人間七七四年:2010/05/07(金) 09:29:22 ID:8c08F2Rs
伊達政宗が動乱の間に増やした石高はどのくらいなのでしょうか?
幕末換算の実高とか関ヶ原とか大坂の陣などで他人からもらったのは抜きにしてお願いします。
781 :
人間七七四年:2010/05/07(金) 09:46:16 ID:wGctwaPD
何の動乱だよ?時期を明確にせよ。
782 :
人間七七四年:2010/05/07(金) 12:58:55 ID:w9L2CP8D
>>780 関ヶ原の時のだって自分で切り取った分を承認してもらっただけで、人から貰った訳ではないだろ。
それとも上杉と密約してたって言いたいの?
783 :
人間七七四年:2010/05/07(金) 13:26:06 ID:8c08F2Rs
蘆名とかそのへんの弱小のことです
784 :
人間七七四年:2010/05/07(金) 13:26:31 ID:tqnxXTdK
>>780 一揆を扇動して得られた所領と言う意味ですか?
それなら徒労に終わってますが。
785 :
仙台藩百姓:2010/05/07(金) 23:23:55 ID:kDAJt13M
葦名と戦っていた頃は石高制が確立していないのに分かるわけないお( ^ω^)
786 :
人間七七四年:2010/05/08(土) 02:46:32 ID:oUWPaGiH
東北は開発が大きく遅れており戦国時代は版図の割に石高が低く
東北仕置のあとで開発された以降に調べられた実高との差が大きい。
開発が進んだ幕末では本家だけで表高62万石実質98万石の加賀藩に次ぐ大大名になっている。
戦国中だと元々が20〜30万石で蘆名を倒した頃が60〜70万石くらいじゃね?
岩代30〜40万と陸前南部が20〜30万くらい。
単純に石高を増やす難易度で比べると
蘆名+近隣諸侯の領土を奪う難易度は
出羽・越後・越中・加賀・下野・下総・上総・統一・摂津・播磨・伊予・肥前・筑前・肥後
あたりの国を奪って統一するのとおなじくらいの難易度。
伊達の領土全体は
尾張・美濃・伊勢を統一するよりも石高が高く
武蔵や近江を統一するよりはちょっと低いくらいだね。
787 :
仙台藩百姓:2010/05/08(土) 08:02:04 ID:0vp9WeWR
検地を行ったわけでもあるまいし一体何を根拠に言っているのだお?( ^ω^)
788 :
人間七七四年:2010/05/08(土) 09:12:03 ID:uXQO5IdO
789 :
人間七七四年:2010/05/08(土) 13:29:36 ID:SJ3rykaV
まあ格でいえば100万石クラスの巨大勢力だったんじゃね?
790 :
人間七七四年:2010/05/08(土) 14:35:33 ID:9Pc3kFwR
基本的な質問かもですが、
石高(貫高)って大名に支払われる年貢の対象となる
土地の価値ってことですか?
たとえば、、、
100万石で税率が六公四民のとある大名領と
150万石で税率が四公六民の北条領を比較した場合、
収入面では同じ60万石になる??
それとも税率は関係なく単純に収入が何万石か、ってことですか?
791 :
人間七七四年:2010/05/08(土) 15:10:12 ID:6hDdyh8Z
>>790 石高は、その土地で取れる額面上のお米の総収入。だから、10万石の大名
がいるとした場合、その大名は年間に10万石の米が取れる土地を支配している
わけだ。そのなかから、たとえば5公5民ならば、半分が大名の取り分となり、
その中から家臣への禄やら、必要経費が払われるんだよね。
ただ、「10万石の所領」といいながら、大名が開発に励んだり、豊かな土地だったり
すると、実際の米の収入はもっとあったりする。
792 :
人間七七四年:2010/05/08(土) 15:45:51 ID:OmHIRbdi
「石高」は収入と言うよりも「軍役」の基準だという面がの方が大きい。
収入に関してはそれぞれの大名や地域の事情により様々。
793 :
人間七七四年:2010/05/08(土) 19:18:26 ID:SJ3rykaV
現代に置き換えるのもなんだけど米の収穫量だけで国力が測れるわけねーよな
794 :
人間七七四年:2010/05/08(土) 20:30:44 ID:6Xti04ud
東北は石高があっても産業がないので貧しい。また、生産物の輸送コストもあるし
消費地に売って利益にする間にかなり目減りする。
江戸時代だと畿内の1万石と東北の1万石の暮らしはかなりの差があったらしい。
795 :
人間七七四年:2010/05/08(土) 20:34:45 ID:6Xti04ud
たしか東海道の端から端まで陸路で100石輸送するのに輸送コストが200石必要なんだっけ?
輸送中に中身がなくなってしまうじゃないかw
796 :
人間七七四年:2010/05/08(土) 21:09:54 ID:XO9UR3wR
普通は船を使います
797 :
人間七七四年:2010/05/08(土) 21:48:07 ID:2NOpcGm8
石高=国力じゃないのを理解するには織田VS今川を例すると解りやすい。
(時代はズレるが江戸頭の資料で)石高だけみるなら尾張と駿河+遠江は2:5くらいの差。
しかし伊勢湾経済圏の上がりを加えれば差はさらに縮まる。
義元は伊良子〜鳥羽間を封鎖してればよかったんではないかと思う今日この頃。
798 :
人間七七四年:2010/05/09(日) 00:36:05 ID:TJvcHmyX
>>797 それわかりやすいか?ってかその前に尾張と駿遠だったら大差ないか
尾張が大きいくらいじゃないかと思うんだけど?
799 :
人間七七四年:2010/05/09(日) 01:26:37 ID:CkkcYY5v
>>797 そもそも、「織田は尾張全土、今川は駿河・遠江・三河のみ」という誤解が原因かと・・・
今川にとって尾張は旧守護領であり、桶狭間時点でも数郡は支配していたわけで
800 :
人間七七四年:2010/05/09(日) 07:07:59 ID:e+9EF7Rm
そもそも、東北とか戦国時代にそんな米収穫できなかったんじゃないの?
東北じゃないけど、米どころ新潟だって、
米が豊富に収穫できるようになったのかなり後だし。
当時の稲は寒さに弱くて、雪国じゃほとんど育たなかったんじゃね?
だから何度も飢饉が起きてるわけで
801 :
人間七七四年:2010/05/09(日) 07:47:21 ID:h+3k/ugn
>>800 米が全く取れないなら飢饉は起きない。畑でヒエやソバだけ作ってればいいわけだし。
稲作不適地で無理して米を作るから、ちょっとした天候不順で飢饉になる。
まあ戦国期に東北でどれだけ稲作をやっていたかは謎なんだが。
802 :
人間七七四年:2010/05/09(日) 19:02:15 ID:UBWsYns6
石高制の矛盾が露骨に出たのが天明の大飢饉だった訳だ。
まぁ、天正期には明らかに米の方が銅銭よりも貨幣としての価値があった訳だが、
それを米余りの江戸中期以後も続けたことが江戸幕府の命取りだったのかもしれないな。
803 :
人間七七四年:2010/05/09(日) 21:23:39 ID:f9QQRGf8
ドラマだと皆死に際が格好よかったり、粛々と潔かったりしますが
死を免れないと悟って激しく取り乱したり
見苦しかったりした人の記録って無いんですかね?
やはりそこは武士の情けで書かないのかな
804 :
人間七七四年:2010/05/09(日) 22:18:48 ID:/DULYg9L
>>803 てか武士って負けたら清水宗治みたいにキレイに死ぬとは限らない
荒木村重なんか落城寸前の城から夜陰にまぎれて逃げた 妻子を残して
そのほかにも滅亡寸前で城から逃げてそのままどっかいった大名はけっこういる
やっぱ死にたくないよね 生きていたいよね 武士を引退することになっても
805 :
人間七七四年:2010/05/09(日) 22:30:38 ID:T+WGSvqV
でも子孫の為、名誉の戦死を遂げた武士も多い。
赤穂47士の子孫なんて、その典型じゃね?
806 :
人間七七四年:2010/05/09(日) 22:37:04 ID:fSPhmBtQ
福沢諭吉は赤穂浪士なんてただのテロリスト、って学問のすゝめで看破してたな。
「不満があるなら吉良上野介を襲うのではなく幕府に申し立てるべきだった」って理論。
正論過ぎて何も言えない。
807 :
人間七七四年:2010/05/09(日) 22:51:07 ID:/DULYg9L
浅野がチンピラ野郎でちょっと厳しくしたらすぐキレたらしいな
吉良さんもえらいやつとかかわってしまったものよ
808 :
人間七七四年:2010/05/09(日) 23:08:00 ID:nidw/DUZ
>>806 それは江戸期に蓄積された法治の考え。
元禄の頃までなら、意識としては赤穂浪士のやり方のほうが正しい武士の反応。
809 :
人間七七四年:2010/05/09(日) 23:11:32 ID:M26z0gx4
いつものようにちょっと厳しく袖の下をねだっただけなんだけど、相手が悪かった。若さ故にそういうのが
許せない中二病だった。
諭吉は馬鹿だな。
>>803 スレチだけど、最近webで見たフランス革命の頃の死刑執行人の話によると、大勢死んだけど取り乱し
たのはたった一人だけだったそうだ。皆潔く死を受け入れた。むしろ取り乱す者がもっと多かったら、もっと
早くそういう時代が終わってたんじゃないか、だそうだ。
810 :
人間七七四年:2010/05/10(月) 00:41:05 ID:V30TmEEs
811 :
仙台藩百姓:2010/05/10(月) 00:52:51 ID:geg6titT
>>806 幕府に申し立てても聞き入れて貰えなかったから事に及んだのだお( ^ω^)
福沢も適当な事吹いてたのか、何か私怨でもあったのだおうか( ^ω^)
812 :
人間七七四年:2010/05/10(月) 00:56:37 ID:hbFTmNop
>>811 それなら恨む対象は幕府になるだろ。
裁判で相手が無罪になったからって相手を殺しに行ったら、そりゃあ逮捕されるわ。
813 :
人間七七四年:2010/05/10(月) 01:12:05 ID:KoEQ07cX
>>808 当時の幕府(綱吉)は、その法治を社会に定着させるべく奮闘していた。
そんな折に「幕府のいう法治なんてしったことかこちらの納得いく手段を勝手に採る!」
と私的制裁として暴力行為を働いたのでは、幕府としてはどう言われようと許すわけにはいかない。
浪士たちの行動を認めることは、幕府のそれまでの営為を否定することだから。
814 :
人間七七四年:2010/05/10(月) 01:26:51 ID:r0vbNVYO
打ち首じゃなく切腹にしてるからかなり温情判決だな
815 :
人間七七四年:2010/05/10(月) 01:31:25 ID:KoEQ07cX
>>814 ですね。それが切腹という温情措置になったのは、それだけ
「これまでの価値観を否定され書き換えられる」ことに対して
根強い反発が社会の一方に存在し、それが幕府も無視できない
世論になったということなんでしょう。
816 :
人間七七四年:2010/05/10(月) 04:10:58 ID:GD3fy828
仇が逃亡した場合、所属する藩主や幕閣に仇討ち届を出して捜索に出る。
仇を発見したら、その地の領主に仇討ちの許可をもらわないといけない。
仇討ちできるのは直系卑族だけ。父を殺された息子は仇討ちできるが息子を
殺された父は仇討ちできない。叔父を殺されても甥は仇討ちできない。
また卑怯な手段で殺された場合しか仇討ちできない。正規の決闘(いわゆる
『尋常の立会い』)で負けた場合は仇討ちできない。
このように制限が多く手続きが繁雑なのは、やはり仇討ちという蛮習を
抑制したい幕府の思惑があった。
817 :
人間七七四年:2010/05/10(月) 05:25:49 ID:8rQdqzwD
小刀持って「父の仇」って襲ってきた娘がよく返り討ちにあっていますが
レイプされるのは正当防衛というか合法なのでしょうか?
818 :
人間七七四年:2010/05/10(月) 07:36:00 ID:nIu0VLgR
819 :
人間七七四年:2010/05/10(月) 19:16:54 ID:oY3pJlDa
そういうのでたまたま意気投合した浪人が手を貸したりするのがあるが、これだって本当は違法行為。
極端な話、仇人が兄弟分を集めて返り討ちにするのもアリだった。
820 :
人間七七四年:2010/05/10(月) 19:21:29 ID:r0vbNVYO
仇討ちとか心中は娯楽の殿堂だよね
821 :
人間七七四年:2010/05/10(月) 19:37:02 ID:u+Ok67m6
>>819 弥七みたいにレイプの邪魔をするのは
やはりご法度だったか
822 :
人間七七四年:2010/05/10(月) 21:16:03 ID:GD3fy828
歴ヲタにもいろいろいるな
近親マニアとかレイプマニアとか
823 :
人間七七四年:2010/05/10(月) 21:18:39 ID:IBjl1wF9
戦国武将が手篭めにした女(男)で分かる性癖スレとかないんかね
寝取り+年上属性 大友宗麟みたいな
824 :
人間七七四年:2010/05/12(水) 02:19:10 ID:CMNdonRZ
825 :
人間七七四年:2010/05/12(水) 03:20:00 ID:6UD6YAWC
826 :
人間七七四年:2010/05/12(水) 10:15:53 ID:QkqWcR+f
寝取られで思い出した。秀吉は大名が不在中にその奥さんに
手を出したって話があるけど、実際手を出された奥さんって誰だろう。
寝取られ未遂でガラシャとか愛姫の話は読んだことあるんだけど。
827 :
人間七七四年:2010/05/12(水) 11:33:44 ID:V/FfBUGp
宇喜多直家の嫁さんで秀家生母の円融院は、直家生前から寝取ってた感じはするな>秀吉
828 :
人間七七四年:2010/05/12(水) 17:26:40 ID:dkksHF4c
>>826 ぎんちよと彦鶴とあと毛利輝元の嫁もそんな逸話があった気がする
829 :
人間七七四年:2010/05/12(水) 17:28:16 ID:dkksHF4c
あ、実際にか
上の三人も多分未遂だ
830 :
人間七七四年:2010/05/12(水) 21:48:19 ID:XoVFRWph
あのあたりの逸話は全部テンプレで創作臭い。
秀吉ってのはこんなに女癖の悪いヤツだったんだ&うちの奥方はこんなにスゴイ人なんだ
という宣伝として。
831 :
人間七七四年:2010/05/12(水) 23:07:17 ID:V/FfBUGp
しかし実際に忠興の「秀吉に気をつけろ」って書状も残っているわけで。
秀吉が大名の女房狩りのようなことをしていたのは確かなんだろう。
832 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 04:46:43 ID:O3kdbBzy
ガラシャを病的に愛してる人の被害妄想かも知れん。
833 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 05:22:58 ID:4WQcIB7L
ガラシャの生きているうちには忠興には側室がいなかったというのは本当だろうか
834 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 09:00:48 ID:EcOYkmDv
>>831 実際に秀吉が他人の妻を奪って妾にしたという例は一件も確認できないんだよね。
835 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 10:24:30 ID:UWlMUA86
そんなもの記録に残したら大名家の恥だからな
836 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 10:29:28 ID:4WQcIB7L
秀吉は高貴な女人が好みだったのは事実だな
837 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 14:12:41 ID:wusHRSco
後世に創作されたのも多いだろうけど
忠興さんが書状残してるくらいだし
妾とまではいかなくても一度手を出した事くらいはあるかもしれない
838 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 17:25:36 ID:3+7W4gjb
大名未亡人に手を出そうしてこばまれたて尼になられたとかなかったっけ?
839 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 18:24:11 ID:k8fmpsZ3
天守(天守)閣の質問。
本邦初は安土城だと思いますが、なぜあのような
木造高層ビルを作ったのか理由がよく分かりません。
権力誇示? 展望台? 宣教師に日本の技術を見せるため?
宣教師が持ってきた西洋の建物の絵画を見て参考にした?
(山全体を含めるとモンサンミシェルに似ているような・・・)
よろしくお願いいたします。
840 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 18:47:20 ID:UWlMUA86
>>839 安土より前から天守は存在しています。最も古いのだと明応2年(1493)の明応の政変の時
将軍足利義材の籠った正覚寺城が
「百余りの櫓が建てられそのうち一番高い櫓が公方御座所であった」
と記録されているので、天守の原型が既に存在したと見ていいでしょう。
天守が高層である理由は、物見の塔ととして高さが必要だった事、
そして敵が本丸に迫ったとき弓手、もしくは銃砲を縦に重ね密度の高い攻撃が出来る事、
などがある。
841 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 18:56:29 ID:UWlMUA86
安土以前、細川や三好期の越水城や伊丹城などにも天守が存在したとされ、
天守は信長の前から畿内の大規模な城郭には、当然の設備として存在していたと思われる。
高層化は銃砲の発展が促したのだろう。
842 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 20:28:47 ID:4WQcIB7L
歴史において物事が一つの理由だけで動くことはあまり無いんじゃないかな。
展望台でもあり権力誇示でもあり防衛上の要請でもあっただろう。そうした
複合的な理由ではなかったのかな。
843 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 20:59:30 ID:mokP1oo/
てかデカい城1つ作っておけば、ビビって手出して来ないかも知れないもんなw
844 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 21:38:17 ID:tnXOyC84
上杉謙信が武田信玄に塩を送ったエピソードがありますが、それで武田側は喜んでいたのですか?
845 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 23:26:39 ID:68/Z5ZV4
その話しは創作だから喜ぶもなにもないかと
846 :
人間七七四年:2010/05/14(金) 01:56:44 ID:6zY87472
当時も平安時代みたいに顔を隠す風習は残っていたの?
顔をしらなければ対秀吉用に嫁をすり替えてもわからないよな
847 :
人間七七四年:2010/05/14(金) 09:40:47 ID:hnISeSAS
>>840 >>840 >>842 >>843 皆さん ありがとうございました。
安土城以前は、丸太で組んだ壁の無い 「やぐら」 だけだと
思っていました。
「越前北の庄城」 「豊臣大阪城」 の最後を見ると
それまでの 「物見用やぐら」 とは違う目的で作ったのかと
思っていました (たとえば「滅びの美学」のような)。
銃撃戦になったら攻め手を攻撃しやすいとは思いますが、
建ってる場所も城の奥の方だし。
848 :
人間七七四年:2010/05/14(金) 09:43:06 ID:hnISeSAS
849 :
人間七七四年:2010/05/14(金) 10:45:49 ID:cdIwl8Q7
>>847 少なくとも落城するつもりで城作る武将は居ない。滅びの美学はあり得ない。
それから淀殿と秀頼の親子は天守で死んでないから。
そして単なる物見用とは違う目的が複数、既に挙がってるじゃん。
奥の方に建ってるのは落城ぎわに、ここに詰めてギリギリの抵抗を試みる為。
そういう場所だから、江戸時代には殿様が天守に上るのは不吉とされて、
当主になったとき一度きりだったそうだ。
しかし櫓は天守以外にいくつも建てるんだから天守が奥の方でも城全体の
戦闘力には関係ない。
850 :
人間七七四年:2010/05/14(金) 11:29:17 ID:hnISeSAS
>>849さん。 ありがとうございます。
天主の成り立ちが分かってきました。
ありがとうございました。
851 :
人間七七四年:2010/05/15(土) 00:09:56 ID:337rAdHg
城壁を1つでも完全突破されて、
落城しなかった例なんてあるの?
852 :
人間七七四年:2010/05/15(土) 00:13:44 ID:WQrrrjwg
城壁と言うのがどこの城壁を指しているのか知らんが、
曲輪の突破、と言う意味なら
八王子の滝山城は武田軍に二の丸まで攻め込まれたが退却させておる。
他にも複数の曲輪を攻め取られても本丸と残存の曲輪で耐えぬいた例はいくらもある。
853 :
人間七七四年:2010/05/15(土) 01:43:36 ID:3eWqQ9Lh
安土城の模型を作ったけど、これ構造的に内部に日の光が差さなくね?
中心部なんて365日真っ暗だろ。何に使ってたんだあの部屋は
854 :
人間七七四年:2010/05/15(土) 02:25:23 ID:WQrrrjwg
855 :
人間七七四年:2010/05/15(土) 08:40:48 ID:7YSco/K4
江戸城天守の復元案で宮上茂隆氏の考え(慶長度『中井家指図』、元和度『江戸御殿守絵図(津軽家古図)』)に対する、
他の研究者の論評はありますでしょうか。
例えば、『中井家指図』を元和度とする案を否定された内藤昌氏の反論なんかあれば良いのですが
856 :
人間七七四年:2010/05/15(土) 11:33:06 ID:RExjY8u8
昔テレビで江戸城天守閣の予想図が出てたけど気持ち悪いほどでかかった
857 :
人間七七四年:2010/05/15(土) 11:36:33 ID:YZYNYH/N
葵徳川三代で「かしこまって候」とか言ってたんですが
会話でも候とか使う時あったんですか?
858 :
人間七七四年:2010/05/15(土) 11:49:08 ID:SaEuyP6m
少なくとも江戸時代にはすでに文語になっていたと思うけどね
859 :
人間七七四年:2010/05/15(土) 14:07:25 ID:CwbzFaJc
嫁によく「あなたはそうろう」とか言われるんだけど葵徳川3代の口癖を真似してるのかな?
860 :
人間七七四年:2010/05/15(土) 14:53:19 ID:SaEuyP6m
>>859 其方儀不届千万に付御腹申し付る者也依如件
861 :
人間七七四年:2010/05/15(土) 23:18:41 ID:RExjY8u8
so long tingting
862 :
仙台藩百姓:2010/05/16(日) 00:23:02 ID:fOUVpeTs
家康なんかはズラとか言ってたんだおうね( ^ω^)
863 :
人間七七四年:2010/05/16(日) 00:47:49 ID:hlrjebS9
仙台藩百姓はヅラと聞いて飛んで来ますた
864 :
人間七七四年:2010/05/16(日) 02:33:14 ID:9XV59rbG
陣形って言うほど意味あんのか?
865 :
人間七七四年:2010/05/16(日) 02:38:58 ID:FH6k8tQp
言うほどがどんなもんかわからんが意味はある
866 :
人間七七四年:2010/05/16(日) 03:28:43 ID:9XV59rbG
鶴翼はまあわかる。両の翼が閉じたときが勝利だな。
魚鱗もまあ突破しやすいかもしれんね。
ただ鋒矢とかなんだ。後ろの奴ら意味なくね?戦うの前線だけじゃん。
兵力温存する余裕がある相手なら鶴翼にするべきじゃね?
867 :
人間七七四年:2010/05/16(日) 10:09:12 ID:tTEfxx62
家康はにゃーにゃーとかだぎゃーだぎゃーだろ
〜ずらーは信玄とか真田昌幸だな
都に武田の旗ぁたてるずら〜 山県〜おめぇがやるずら〜 ってかんじ?
868 :
人間七七四年:2010/05/16(日) 10:27:40 ID:8z+rWS5M
>>866 サッカーで全員をフォワードにすれば最強の布陣。
アメフトで全員を前衛にすれば最強の布陣。
ってレベルの認識ですよ。
869 :
人間七七四年:2010/05/16(日) 11:37:27 ID:9XV59rbG
それ例えになってないぞ。
具体的に鋒矢の後ろの部隊はどう動くんだ?
870 :
人間七七四年:2010/05/16(日) 12:55:47 ID:FH6k8tQp
前列の崩れそうな部分へ補強とか横から回り込んでくる奴に対応とか
勝てそうになかったら見捨てて逃げるとか
871 :
人間七七四年:2010/05/16(日) 15:41:44 ID:hlrjebS9
『兵力の控置』は戦の基本だな。全員前線に出してしまうと一角が崩れれば終わり。
崩れそうな所を支えるために控えの兵力は絶対必要。
872 :
仙台藩百姓:2010/05/16(日) 19:17:42 ID:fOUVpeTs
蜂矢は寡兵で敵陣を突破する為の陣形だお( ^ω^)
Λの部分に足軽を配置して敵の前線にぶつけて後続のΙの部分の武者が突入するのだお
あくまで理論上の話しだけど( ^ω^)
873 :
人間七七四年:2010/05/17(月) 12:37:25 ID:FtXC59nw
>>871 世界の経営者に言ってやりたい言葉だなw
874 :
人間七七四年:2010/05/17(月) 12:57:32 ID:audqh4y4
>>873 今の「株式会社」って方式は、「株主の利益」が第一だから、
余力があるようならそれは株主への配当に当てられるので
経営者の努力にも限界がある。
875 :
人間七七四年:2010/05/17(月) 15:30:02 ID:/oCyzvee
城をたてるとき人柱として子どもたちが生き埋めにされたそうですが、
だいたい何人埋められたんでしょうか 教えてください
876 :
人間七七四年:2010/05/17(月) 19:41:40 ID:bNJMrkep
信長が一番嫌いそうな行為だな。
いったい何処の逸話なんだ?
877 :
人間七七四年:2010/05/17(月) 19:45:01 ID:UGL5nTc7
毛利元就も人柱になりかけた幼女を助けた逸話もあるし
人柱ってのは普通にあるもんだと思ってた
878 :
人間七七四年:2010/05/17(月) 19:57:34 ID:H0zZC3n8
>後ろの奴ら意味なくね?戦うの前線だけじゃん。
いったいどこの世界に後ろの部隊が闘う軍隊があるんだよw
どんな陣形だって前線しか戦わないのは常識だろ。
879 :
人間七七四年:2010/05/17(月) 22:01:37 ID:Zhz5xtdx
何で魔王の信長が、人柱ごときを嫌うの?
880 :
人間七七四年:2010/05/17(月) 23:18:22 ID:iKD7lYT3
881 :
人間七七四年:2010/05/17(月) 23:28:26 ID:audqh4y4
信長が合理主義者とか小説や俗論に毒されすぎだわ
882 :
人間七七四年:2010/05/17(月) 23:35:38 ID:LAvtZyHw
化けて出たら怖いからだろ
883 :
仙台藩百姓:2010/05/17(月) 23:58:30 ID:xMZW1XaP
昔の人は怨念だ祟りだを半端なく怖れたものね( ^ω^)
首実験も刀に手をかけて正視せずに横目で見るけど
見ようによってはかなりのビビりっぷりでマヌケだお( ^ω^)
884 :
人間七七四年:2010/05/18(火) 00:09:41 ID:zDcoy6Jn
人柱なんてそもそも伝説の域を出ない逸話だろ。
885 :
人間七七四年:2010/05/18(火) 00:09:47 ID:5j5bImY6
信長は比叡山焼き討ちの前に、吉田神道の吉田兼見に
「マジ焼打しても大丈夫?祟りとか無い?ホントに!?」
って、何度も聞いて念を押してた。
信長が無神論とか迷信を信じないとか、大嘘もいいとこだ。
886 :
人間七七四年:2010/05/18(火) 00:37:12 ID:3hS2heX5
吉田神道あてにならねぇな
887 :
人間七七四年:2010/05/18(火) 00:50:51 ID:GHqEefJ3
>>885 出典なに?聞いたことがない。
叡山焼き討ちでなく将軍義昭との対決の時に、吉田兼見と会見して
「お前の父は『興福寺が滅びるときは延暦寺も滅び、王城にも禍がある』と言ったそうだが、根拠はあるのか?」
と訪ねて
「父はそう言ったそうですが、根拠はありません」
という問答があった、という記録ならあるけど。
888 :
人間七七四年:2010/05/18(火) 01:04:08 ID:lgrI13bO
>>883 だとしたら浅井の親子や朝倉義景の髑髏に金箔貼った職人は凄い勇者だな。
889 :
人間七七四年:2010/05/18(火) 05:20:12 ID:b/hPxxeh
比叡山の女子供まで焼いておいてかw
890 :
人間七七四年:2010/05/18(火) 05:48:34 ID:keNM3h8/
一方、一向一揆勢の虐殺はへっちゃらの信長であった
891 :
仙台藩百姓:2010/05/18(火) 08:57:23 ID:i5rUKMSf
そして荒木一族もこんがりBBQ(´・ω・`)
892 :
人間七七四年:2010/05/18(火) 21:14:58 ID:PxD3nTal
伊達家と佐竹家が戦った人取橋の戦いについてぐぐると
伊達政宗が勝ったと書いてたり負けたと書いてたりしますが
実際はどちらだったんですか?
893 :
人間七七四年:2010/05/18(火) 21:30:24 ID:she8WnZ2
894 :
人間七七四年:2010/05/18(火) 21:42:24 ID:5j5bImY6
>>892 ・伊達はコテンパンにやられた。
・だが佐竹等の連合軍も何らかの理由で撤退した。
・なので戦という意味では伊達は負けていたが、戦争目的は果たした。
つまり「戦闘」を見れば佐竹の勝ち、「結果」を見れば伊達の勝ち。
895 :
人間七七四年:2010/05/18(火) 22:02:16 ID:rDRmyO2Y
>>892 >>894氏が言うとおり
犠牲は出したけど伊達の勝ち
砦を落としたからって桶狭間は今川軍の勝ちとは言わないよね
896 :
892:2010/05/18(火) 22:23:39 ID:PxD3nTal
>>893-895 ありがとうございます。
人取橋付近の衝突では伊達が戦線を維持できなかったので
その場の戦いは伊達の負け、佐竹の勝ち。
でも進攻側の佐竹軍は二本松城への救援を果たせなかった
なので全体を見れば伊達の勝ち、佐竹の負け…という認識でよろしいのですね。
なんとなく人取橋の戦いの「戦い」に目をとられて
諸説ありとか言うけど伊達負けてんじゃん、とずっと思ってて
お互いの目的を見落としてました。ありがとうございました。
897 :
人間七七四年:2010/05/18(火) 23:33:09 ID:GHqEefJ3
個々の合戦と戦役全体の結果が意図的にかどうかかなり混同されてるんだよね
898 :
人間七七四年:2010/05/18(火) 23:55:52 ID:8ZywahkD
>砦を落としたからって桶狭間は今川軍の勝ちとは言わないよね
大将死んどるやないかw
899 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 01:07:19 ID:ZB4jXfHf
トラファルガーみたいに大将死んでも圧勝したケースもあるよ
もっとも息を引き取ったのは戦闘終わってからだけど
>>896 肝心な主力の芦名をスルーして「佐竹と伊達が」というのもいかがなものかと
なぜか奥羽永慶軍記ばかりが流布されて佐竹が伊達と激戦演じたみたいになっているけど
現実には芦名と伊達の戦いに佐竹、岩城、白川らが援軍送ったという構図だ
援軍は誰がどの程度送ったのか不明だが
少なくとも佐竹義重と岩城常隆は出陣していない可能性が高い
900 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 05:23:43 ID:qja+LCq0
勝ち負けは難しいな。戦略目的を達成したから勝ちかと思ったらとんでもない
犠牲を出してたり。乃木将軍は旅順で勝ったのかね?
901 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 09:22:58 ID:TxJYTm83
伊達の大敗。
佐竹の目的は二本松城に兵糧を運び入れること。
伊達の阻止行動を排除し運び込むことに成功したので帰っただけ。
結果、冬季に入っても伊達は二本松城を降せずにおめおめと帰ることになった。
その後、惣無事令が奥羽に伝達されたので
恐怖した伊達&田村が、相馬に陳情して
二本松側に和睦を呼びかけて、
惣無事違反は両家お取り潰しになるから
伊達は信用できないが相馬が保証するなら安心
葦名側が身元保証人になる
この条件で和睦開城になっただけ。
佐竹は目的を達成し
伊達はまったく目的を達成してないどころかフルボッコされた。
二本松は落城じゃなく、惣無事令による和睦。
伊達が勝ちなんてどう考えても大嘘。
902 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 09:48:17 ID:ZB4jXfHf
903 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 10:15:38 ID:qja+LCq0
じゃあ第四回川中島の合戦はどっちが勝っ(
904 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 12:40:42 ID:ZB4jXfHf
引き分けでいいんじゃない?
お互い目的は達しているとも言える
905 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 13:00:24 ID:3mPlvQ20
武田上杉の抗争全体で言えば上杉の完敗だな。
信濃どころか西上野まで武田に確保された。
906 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 13:07:44 ID:ksWfyNVM
>>901 和睦開城だから落城じゃないなんて話あるかい。二本松城を手に入れたんだからそこは伊達の勝ち。
でもホントだったら人取橋で全滅して屍を晒してたのに運の良い奴だ。
907 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 13:29:50 ID:TxJYTm83
>>906 冬季に入っても伊達は二本松城を降せずにおめおめと帰ることになったんだから戦略的にも戦術的のも伊達の大敗。
二本松城を手に入れたのは秀吉の惣無事令により
佐竹が支援から手を引いたからであり
伊達は惣無事令にビビって相馬に和睦を哀願した方であり
伊達の勝ちなんて100%言えない。
908 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 14:00:06 ID:ksWfyNVM
>>907 >伊達は惣無事令にビビって相馬に和睦を哀願した方であり
だったら何で二本松が開城するんだよ。そんなビビリに二本松くれてやるのはもったいない。
伊達が引き上げて終わりだろうが。そもそも政宗は秀吉の惣無事令なんて全く相手にしていない。
小田原に呼びつけられて初めて自分の立場に気がついて青くなってる。それで取る物も取り敢えず
自分が駆けつけるのがやっとで、石川とか田村とか留守とかが改易の憂き目にあったんだろうが。
同じ事書くようなら論理的思考が出来ないと見なすぜ?
909 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 15:20:03 ID:ZB4jXfHf
910 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 15:57:28 ID:ksWfyNVM
911 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 16:17:34 ID:qja+LCq0
マー君が絡むとなぜ荒れるんだらう( ^ω^)
912 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 16:47:13 ID:WAhQKC6t
>>899 ネルソンはただの総司令官じゃないか。
桶狭間は君主が討ち取られたんだぞ。
913 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 18:03:57 ID:TxJYTm83
>>908 ああお前は時系列も理解できてないみたいね。
それにその当時の状況や外交相手も知らんと見えるw
あのな、そもそも北畠国王丸は11歳。
そんで当時のこの地域は、政宗の虐殺による死体の遺棄によるものか
疱瘡は流行っていて葦名亀王丸はまもなく3歳で死去っていう前後の状況。
こういう状況の中で政宗はガキイジメやってるわけ。
その幼君相手に敗北続きで、しかも秀吉の命で
6/17に小笠原貞慶から田村へ惣無事の連絡がやってきて
家康が朝日姫を娶って秀吉に臣従し、上杉も上洛してきたことも知らされ、
上意んみ背いたら御追罰の旨があるからと言われた
田村清顕と伊達実元が狼狽して、相馬盛胤夫人になってた
実元の妹(つまりは当主義胤の叔父が実元)に和睦の斡旋依頼を陳情してんだよ。
お前そういうことぜんぜん知らんくせに自信満々に書いてそうとう痛いよw
惣無事を守らないと名門畠山氏も滅亡になると聞いて相馬を信用して開城したんだよ。葦名も二本松も幼君でなく、当主が凛々しい武者だったら敢然として拒否してたかもな。
二本松開城の頃にちょうど南部信直も秀吉に臣従するって使者をよこしてるしな。
そんで家康も上洛してきて、奥羽には正式に金山宗洗が秀吉に派遣されてきて巡察してまわるわけだ。
ちょうどこの辺りから北条が伊達にいろいろと歪曲情報を吹き込んで政宗をだまくらかして反惣無事令的な行動に誘導させるようになる。
もちろん秀吉の目が九州鎮圧へ向かっていたこともある。
政宗は惣無事令を無視し大崎家内紛の鎮圧という名目で侵攻し伯父の義光の激怒を買い大崎合戦で大敗
それと連動しての南方戦線での郡山合戦では連合軍が新国貞通を囮として伊達の砦の近くをゆったり進軍させたら
伊達成実と片倉景綱がバカみたいに脊髄反射して片倉重継に襲撃させたら
佐竹側の二つの砦からわんさか兵が繰り出され包囲され
ヤベェと思った伊達成実と片倉景綱が兵を率いて救援に向かったら
佐竹全軍が一挙に逢瀬川を渡河しまくってフルボッコされ脱出不能になり
政宗も必死に前線まで出てきて救援せざる負えなくなり
二階堂の矢田野義正が伊達の伊東重信を討ち取ったりで伊達100人以上が討ち取られ惨敗して山王館へ逃げていったんだろ。
そんで山上に大量の銃を構えて籠もったままビビリまくり挑発しても一切出てこなくなり伯父の岩城・石川に和議斡旋を哀願したってのが郡山合戦。
ビビリ症の伊達は退却中に追撃されるのを恐れて佐竹が完全に危険ラインから消えるまで見届けてから退却したんだよなw
(その頃北方では母の義姫に政宗が泣きついて最上義光との和睦を願ってた)
914 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 18:13:14 ID:TxJYTm83
まぁ市販の捏造垂れ流しの政宗本やwikiにはそういうのが一切書いてないからわからないんだろうけどw
915 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 18:14:11 ID:KLbYcPN/
伊達関係だとすぐこうだ
スレ立てるまでの質問と回答をやるつもりがなくて
相手を論破(笑)したいだけなら外でやれ
916 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 18:14:55 ID:ibKGetbb
目標は125円
917 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 18:59:13 ID:ZB4jXfHf
>>912 じゃあリュッツェンならどうかね
王が死んでも勝利してるぞ
918 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 21:59:36 ID:ty0ZkTvA
双子の記録って全く見ないんですが
双子だった・双子の可能性のある戦国時代の人物って記録ないのでしょうか?
919 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 22:11:01 ID:3mPlvQ20
>>918 戦国期双子は畜生腹として忌まれ、双子の片割れは殺されたり里子に出されたりした。
有名なところだと結城秀康(徳川家康次男)と、永見貞愛(知立神社神職)が双子であった、
と言う説があるらしい。実際はわからないが。
920 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 22:11:52 ID:OoqArQxs
徳川家康が竹千代と二郎三郎の双子説じゃないかな一応
921 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 22:18:07 ID:3mPlvQ20
922 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 23:33:17 ID:ZB4jXfHf
恵最の話しは何が元ネタなんだろう
923 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 23:47:15 ID:7DCPS+c3
宇喜多忠家と春家は同一人物説と双子説あった気がする
924 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 23:56:51 ID:c+kfAEYE
真田んとこも双子説あった気がする
925 :
人間七七四年:2010/05/20(木) 00:16:19 ID:RJUJFQDN
BALLADの鳥越城みたいな土塁中心の城って、
福島〜東京〜静岡のエリアで他に無いですか?
926 :
人間七七四年:2010/05/20(木) 00:20:48 ID:vdE4bNC4
>>925 なんぼでもあるがな。城郭系のサイトでも参照してみ?
927 :
人間七七四年:2010/05/20(木) 01:11:11 ID:NkXVPK09
戦国の城って土塁がほとんどで、石垣を使ってても馬入りとかごく一部だろ。
総石垣はいわゆる織豊系城郭から。
928 :
人間七七四年:2010/05/20(木) 01:12:01 ID:dtCAknmi
馬出しでは?
929 :
人間七七四年:2010/05/20(木) 01:24:27 ID:j/UyBxXB
930 :
人間七七四年:2010/05/20(木) 01:42:00 ID:9qUF8cP5
>>929 910だが俺の何処が自演だ?
そして俺の何処が伊達廚だ?
931 :
925:2010/05/20(木) 05:11:52 ID:QDv4l8rm
場所が本当なら偽物でも良いから、
石垣や城壁が無いと、当時に思いを馳せられないのです。
そんなんでも各地にありますかねぇ?
932 :
人間七七四年:2010/05/20(木) 06:12:15 ID:9qUF8cP5
>>931 よく判らなくなってきたぞ。普通土塁中心って言う時は『近畿では石垣が発達したが東日本では
発達が遅れて土塁が中心』って感じで言う。でも石垣も欲しいの?あなたの考える土塁中心で
ないお城は何が中心なの?
土塁や石垣は保存状態が良ければ大体そのまま残るけど、壁は復元しないと無いのが普通かな。
933 :
人間七七四年:2010/05/20(木) 11:19:46 ID:ID1OlGTB
その当時あったとされる場所に、ソレを偲ばせるモノが、偽者であれ存在しているお城はドコ?
ってことでしょ
ほんとうは土塁はあくまでも要因の一つでしかないんじゃない?
土塁と空堀くらいなら、開発されてないところならどこにでも残ってそうな感じだけど
そういった踏破系のサイトは一杯あるよ
BALLADってなんだ?とおもったらクレしんのあれか
あれはいい物だ
934 :
人間七七四年:2010/05/20(木) 11:39:20 ID:MFcWBvr6
土塁と空堀だけじゃあ、妄想するにも限界があるから
一部それらしいモノもあるところが良いのです。
935 :
人間七七四年:2010/05/20(木) 11:48:35 ID:SHDjTvPp
想像力が足りないよアンタ。
936 :
人間七七四年:2010/05/20(木) 12:02:28 ID:E2MABh0H
これがゆとりって奴か
937 :
仙台藩百姓:2010/05/20(木) 17:35:48 ID:6NjnZwl2
楽しみ方は人それぞれだけど、城を楽しむポイントとしては妄想ではなく推測をするのだお( ^ω^)
938 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 01:17:04 ID:P/RywMZ7
939 :
934:2010/05/21(金) 02:38:58 ID:Cty+xJAG
看板がなきゃタダのデコボコにわざわざ旅行して
思いを馳せるとか出来ないよ(´・ω・`)
940 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 08:07:14 ID:oFlCVRaC
昔、源平交代観(説)がありましたが、それでいくと現政権は
徳川(源)→明治〜戦前(平)→戦後自民(源)→細川(平)→自民(源)→現政権(平)
と考えていいの? 場違い質問ですが御容赦を。
941 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 09:21:45 ID:EmXKWVpv
なんという無意味な質問
942 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 10:54:57 ID:8e8WLIOh
>>940 源平交替説は封建武家政権のみに適用する、で如何か
943 :
仙台藩百姓:2010/05/21(金) 12:28:13 ID:7TddmqS+
近代は選挙で選出されているのに源平もなにもあるかお( ^ω^)
江戸時代以前だって平氏政権と思われるのは清盛政権ぐらいじゃんお( ^ω^)
944 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 12:45:39 ID:tC+/1RpA
北条も一応自称平氏ではある 関東の平氏ってのは相当疑わしく、全部自称らしいが
945 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 12:48:34 ID:LNUIL6qh
平家はいまいちブレイクしなかったよな
むしろ過大評価されてるくらい
946 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 15:16:18 ID:oFlCVRaC
>>941>>942>>943>>944>>945さん
早々のご回答 ありがとうございます。
そうでしたね。 王政復古の大号令で武家政治が終わったのでした。
今 思い出しました。 お手数掛けました。
出自を考えず 平氏政権や明治以降の政府を源平の順番に
当てはめた時の仮称平氏政府の性質や性格だけを見ると、
なぜかお公家様的な香りがするのですが・・・・。
後北条氏→将軍は朝廷から
明治政府→要職にお公家様
細川内閣→弟さんはお公家さま
民主党→?
947 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 15:22:17 ID:xH/tjrPU
徳川の源氏の時点で躓いてるよな
948 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 15:29:57 ID:tC+/1RpA
まあほとんど全部自称源氏なんだろうな
ってか当時は歌舞伎役者とかはなし家とかの名跡みたいなもんで、公家とかときっちり手続きして後を継げば
血のつながりはなくても源氏の一家ですってことになってたんじゃねーか?
何代目かの徳川将軍が前田家にいい話があるからおまえも源氏にしてやるって言って、
断られたって話を聞いたことがある その前田家は菅原道真の子孫だってわけわからんことを言ってたらしいが
949 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 17:03:12 ID:EmXKWVpv
源平迭立とか将軍は源氏長者だけとか、ほとんど都市伝説に近い話は
どこから出て来たんだろうな。南北朝あたり?
950 :
仙台藩百姓:2010/05/21(金) 18:13:09 ID:7TddmqS+
源平というより氏が入れ代わるのは必然なのだお( ^ω^)
現政権を潰すには同族だとお互い非難しても仲間割れにしか見えないお( ^ω^)
だから違う氏で差別化を図り対極に位置しようとするのだお
そして一番簡単に掲げやすい名分として以前の政権を挙げる場合が多いのだお( ^ω^)
これは何も中央政権に限った事ではなく地方勢力の戦いにもしばしば顕れているお( ^ω^)
951 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 00:28:44 ID:zqgmKyVz
長寿をネタにされる真田信之ですが
長寿の秘訣について何か残して居ませんでしょうか?
また、信之に限らず長生きの秘訣について述べた記録があれば教えてください。
952 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 01:09:29 ID:x9EAvsXC
曲直瀬道三「養生俳諧」より
「かねてより身をつつしむは文の道 病で医(くす)すは物ののふのわざ」
普段から体調をよく管理しろってことだ。
953 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 01:53:01 ID:5dNaeWTP
>>938 伊達政道が輝宗の跡を継いでいたら
奥羽の覇王となってたのにバカ政宗が継いだばかりに・・・
954 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 02:06:37 ID:5dNaeWTP
>>940 日本を破滅させた大東亜戦争に導いたのは責任政党として行動していた薩長閥に対する
強度鬱病コンプレックスを発症していた負け犬精神障害者集団である何でも反対非協力偏執的キチガイ蝦夷政権だぞ。
その中でも代表的メンバーの東條英機は津軽恐怖症のクズ南部人
955 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 09:09:25 ID:3lXBIZld
質問です。
政宗は伊達家の家臣の順位を一位石川昭光、二位伊達成実、三位留守政景
としましたが、どうして昭光が一位になったのでしょうか?
昭光は政宗の叔父で四男、成実は政宗の従弟で大叔父、政景は叔父で三男、
加えて成実、政景は政宗が一番厳しい時期に奮戦し伊達家を守りましたが、
昭光は人取橋の戦いの時には伊達家を裏切っています。
政宗の叔父だからといってもそれなら兄の政景のほうが順位が上でも・・・と
思うのですが、皆さんどう思われますか?
956 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 17:00:02 ID:5nDojGGc
日本最大の規模を誇っていた江戸城天守閣&櫓ですら江戸の火事で燃えています
ってことは戦国時代の城くらいなら
篭城している城の周りで大規模な焚き火をして城ごとやけそうに思えます。
火で攻城に成功した事例はありますか?
957 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 17:25:59 ID:K1tq/S7A
江戸城なみに周囲を大都市に囲まれてる戦国の城ってどこだい。
958 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 17:37:40 ID:7radNSxC
火矢を打ち込むとかどうなんだろ?
959 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 17:40:40 ID:x9EAvsXC
何で戦乱時と平時を一緒に出来るかな。
戦闘機や軍艦が平時に故障とかで動かなくなることがあるから、戦争時でも役に立たないって
言うようなものだ。
960 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 17:47:14 ID:pJBjr5oG
>>955 独裁者にNo.2は必要ない
政宗なりのバランス感覚ですね
>>956 江戸時代の火事は油に引火したんじゃないかな
>>957 埼玉の川越かな?
961 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 18:18:10 ID:S6iTED66
>>960 >江戸時代の火事
単純に木造建築が密集していたから。
明暦の大火みたいな大災害がが油が主原因で起こるとでも?
>河越
戦国当時で大都市だったなんて話は初耳だぜ。
というか、前後の文章をちゃんと読んだ方がいいよ。
江戸時代の江戸城クラスの城なんて無いだろ、江戸初期と言うことを考えても大坂城くらいかと。
962 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 18:38:20 ID:K5SVczAE
>>955 単純に留守より石川の方が家格が上だからじゃないの?
石川氏は葛西とか大崎と同格の旧大名、留守は秀吉から独立性を認められなかった家臣扱いされたことが影響しているとか?
963 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 21:28:52 ID:F8gjbXIz
江戸城天守は本来は閉めてあるべき窓が開いていたので火の粉が入り
類焼しました
964 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 22:07:17 ID:fIHoHLIB
>>955 >>962とちょっと被るけど。
その順位がどういう資料なのか知らないけど
石川昭光は読んで字の如く、「石川氏」の家督を継いでいる独立勢力だった人で
伊達の一門ではあるが、伊達の完全な家臣という立場ではなかった。
どちらかというと常陸寄りの場所に勢力を持っていた国人で
政宗なりに危険視していたがゆえの「1位」だったんじゃないのかな。
一門であり、別家の当主でもあったので粗略に扱うわけにはいかなかったと。
965 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 22:25:32 ID:8xQVZ7FQ
臆病野州の尼子久幸は経久の弟ではなく、弟の子らしい。
84歳で死去する経久の弟が同じ年に郡山城攻めに従軍して討ち死に
するとは考えにくい。佐々木系図には経久の弟・源四郎の子とあり
それだと国久とはいとこになる。
966 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 23:03:31 ID:qc2qitqC
そう言えば、信玄からして
弟の信繁と、嫡子の勝頼とかって
どっちが目上なんだろうか。
967 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 23:37:53 ID:EXpPcfXT
農民出身の武将ている?
968 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 23:43:10 ID:qc2qitqC
超有名なのが1人居るでしょw
969 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 23:45:18 ID:LNgjRzsx
>>966 本人同士だと信繁が上だが
信繁家臣と勝頼家臣では勝頼側が圧倒的に上
970 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 23:46:37 ID:LNgjRzsx
>>968 家出少年じゃなくて
鍬を捨てて平和のために立ち上がった戦士じゃないの
971 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 23:54:41 ID:qsXEM1ZT
在地土豪なんか半士半農だったんじゃないの
多分
>>967は純粋な農民のことを言ってるんだろうけど
972 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 00:03:21 ID:NpAbbHsY
>>966 たぶん嫡子の義信じゃね。信繁が生きてる間は勝頼は諏訪家の人間だから信繁の方が目上かも?
1561年 第4次川中島の戦い(信繁討死)
1565年 義信事件(廃嫡)
1571年 勝頼信玄の命令で高遠城から躑躅ヶ崎館に移る(事実上の後継指名)
973 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 00:06:40 ID:ihfEUOHA
エド以前は純粋ノーミンのほがレアだったんじゃね?
974 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 00:43:13 ID:D4fbmQEE
ある言葉をドわすれしてしまい
いろいろ辞書系サイトを当たったのですがどうも上手く見つかりません
ここなら詳しい人がいそうなのでできれば教えていただきたいです
・俺はいつでも腹を切る覚悟がある!
という意味の言葉で常に刀を懐にしまっている状態、またはその隠喩
という単語ってなんでしたでしょうか?
懐刀、忍刀、とかそういう2〜3文字の雰囲気の言葉だったような記憶があるのですが
975 :
966:2010/05/23(日) 02:17:03 ID:+lG56eOv
個別例だと分かりにくいから、
当代の弟と嫡男では、
>>969 が言うように
嫡男のほうが徐々にまさって行くのかな?
976 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 03:32:40 ID:+lG56eOv
おまいら、馬に乗って武将気分を味わいたくないか?
千葉中央部と茨城南部にある「ダチョウ王国」なら
1日たった600円で、当時サイズであるポニー20頭に
「勝手に」乗り放題だぞ。動物好きならなお更おk。
拙者は涼しくなったら、落馬の馬糞まみれ対策100円雨合羽持参で
再チャレンジするつもりだw
977 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 09:24:50 ID:EbL4ToOR
>>955です
>>960>>962>>964さんありがとうございます。
No.2を作らない為、家格の違いなどどれも納得できました。
石川と留守の家格の違いを調べてみたら石川は清和源氏の出で
留守は鎌幕府の御家人が始まり、加えて政景の先代は伊達の政略で政景に
家督を強制的に譲らされたというのも見ました。
政宗からみても留守氏は石川氏より扱いやすかったんでしょうね。
それにしても奮戦を重ねたのに弟より下とか政景カワイソス。
978 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 12:18:53 ID:EbL4ToOR
鎌幕府ってなんだorz
鎌倉幕府です
979 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 12:59:16 ID:X51gEvFc
頼朝「いや〜ん後白河ちゃんが意地悪するから新組織作っちゃう」
後白河「あらやだ、どんな組織?」
頼朝「カマ幕府よ〜ん」
980 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 13:30:18 ID:nxkOLs8P
981 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 17:50:30 ID:8iJSsAcJ
浮気者頼朝とジェラシーで荒れ狂う政子はけっこう萌える
982 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 18:58:57 ID:Ubo+lZ3F
俺は史実の人には萌えられないんだ…
と云うわけで葵上萌え
983 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 21:12:11 ID:eRGpccku
984 :
人間七七四年:
俺は さくらまや と大橋のぞみ で迷ってるw
キャバクラ幕府は?