1 :
人間七七四年:
秀吉家康の策略一つであっさりと大国から小国に成り下がった毛利家
しかしそれは、元就が構築した「毛利三家」という脆弱な体制を敷いていた
からに他ならない。
秀吉の甥を小早川の当主にしたぐらいで、あっさりと毛利家から分断されるなど
お笑いそのもの。
2 :
人間七七四年:2009/04/23(木) 11:29:26 ID:IfPp3oBU
織田と毛利の領土の差は距離があり、信長が毛利にメスを入れ始める
時期が遅かった為、上杉同様運良く滅亡だけは避けれた毛利。
3 :
人間七七四年:2009/04/23(木) 12:17:03 ID:nPx3zsqF
国人連合が急膨張したのが毛利政権。
並の君主なら一人で統一維持できんよ。
4 :
人間七七四年:2009/04/23(木) 13:02:28 ID:ptVWZAxr
>>1 戦国時代のポジションも、将来的にも武田よかよっぽど重要な役割を担っていた事が笑える
5 :
仙台藩百姓:2009/04/23(木) 15:19:27 ID:DP0DtqbP
それもこれも運よく生き残れたお陰だお( ^ω^)
武田が無理押ししないで毛利みたいにのらりくらりやってたら
毛利と武田のポジションが入れ代わってたおうね( ^ω^)
6 :
人間七七四年:2009/04/23(木) 15:28:22 ID:nPx3zsqF
無理せず甲斐一国じゃあせいぜい浅野家程度だ。
7 :
人間七七四年:2009/04/23(木) 15:59:43 ID:UuNXsYPb
元就が偉大過ぎて長男隆元が萎縮し自信をなくしてしまい
元就が偉大かつ小早川隆景の厳しい教育により輝元は
さらに萎縮し、自分で何も決めることが出来ない頼りない
君主となり衰退していった・・・という趣旨のスレッドかと
思った
8 :
人間七七四年:2009/04/25(土) 12:42:14 ID:iuSNw2Kk
元就は長生きしたわりに国人連合から脱することもできず尼子や大内と似たような緩い連合体で大した事なかったな。
孫の代でツケがまわり意見一致ができずバラバラでその弱さが露呈したよな。
9 :
人間七七四年:2009/04/25(土) 12:48:55 ID:SAwCjaDQ
完璧な体制をつくれなくても元就が偉大な事に変わりはない
よって、このスレ終了!
10 :
人間七七四年:2009/04/25(土) 13:18:32 ID:g4Y/n4QZ
11 :
人間七七四年:2009/04/25(土) 13:45:21 ID:4/XCxE4V
隆元が早死にしすぎた。
12 :
人間七七四年:2009/04/25(土) 14:19:17 ID:IGHRns2r
九州で大友にボコられて無様に撤退
天下に望みを持つなと遺言して死亡
晩年ボロボロだな 天下にも後世にもなんの影響も与えない
三本の矢のおじさん
13 :
人間七七四年:2009/04/25(土) 14:20:28 ID:2UgRqZbd
っていうか、隆元は金庫番で隆元死んで以降出征用の費用が捻出できなったんだっけ。
なら毛利衰退の原因は隆元のような。
14 :
人間七七四年:2009/04/25(土) 14:45:24 ID:Uxzumfmh
隆元は元就と意見が
食い違っていたから
遠征中に暗殺されたんだよ
15 :
人間七七四年:2009/04/25(土) 15:11:17 ID:SAwCjaDQ
こんな糞スレをageる奴は基地外なのは間違いない
16 :
人間七七四年:2009/04/25(土) 15:21:41 ID:Hqcx8Q0l
武田滅亡は信玄のせいの姉妹スレか
17 :
人間七七四年:2009/04/25(土) 18:42:09 ID:Tot8MGEi
どうせ北条オタが悔し紛れに立てたんだろうよ
18 :
人間七七四年:2009/04/26(日) 05:54:39 ID:Lr8jVYmW
鳥なき島の蝙蝠 毛利元就
19 :
人間七七四年:2009/04/26(日) 07:11:04 ID:59CyloSo
鳶や鷹はいた
20 :
人間七七四年:2009/04/26(日) 08:30:05 ID:4iDo84mf
ライバルが死ぬまで待とうホトトギス
21 :
人間七七四年:2009/04/29(水) 12:48:49 ID:fAMs0sk0
>>1 よく冷静になって考えてみろ
元就の次男坊で五百貫の猿掛城主から輝元の周防、長門の二国
これは衰退ではなく躍進と言うんだよ
よって今からこのスレは
「毛利躍進の原因は、元就が作っている件」
これに変更な
お前らも異論は無いな?
22 :
人間七七四年:2009/05/02(土) 14:55:00 ID:71PQQTpH
雑魚武将のスレはさすがに伸びないなぁ
23 :
人間七七四年:2009/05/02(土) 16:19:25 ID:sAJcgBPe
このスレの趣旨とは違うかもしれませんが・・・
以前読んだ「街道をゆく・芸備の道」で毛利氏と一向宗の関わりに触れてました。
大名にとって都合の良い縦社会を壊してしまう門徒に対し、決して敵対はせず
かと言って、自ら宗教にはのめり込まず自家の利益(織田家対策)に誘導する。
しかし具体的な施策については、文献・資料に書かれてないから判らないと書いてたけど
皆さんはどの様な方法が有ったと考えますか?
24 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 12:15:49 ID:ULTR1unY
戦った数なら戦国一だろうけど、大友宗麟に負けてるのでそう強くはない
25 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 13:41:35 ID:SdtmsekU
だから戦で元就は負けてないし九州に行った事もない
散々関連スレで言ってるのに馬鹿発言はやめろ
九州撤収は尼子の為であって連敗の大友は全く関係ないし大友が尼子を動かした訳でもない
大友は毛利に対し連戦連敗
一週間で鎮圧されるような大内輝弘をなんとか闇夜に紛れて送り込む事しか出来なかった
真相は大友は外交、戦略的に勝利したわけではなく
尼子残党によって助けられた
26 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 20:03:52 ID:fzjlgU/5
負けたことが無いとか言ってる時点で相変わらず救いようのない
馬鹿集団だな毛利オタはwwwww
江戸時代の創作を完全に鵜呑みにしているのも困ったもんだw
70歳まで生きて負け戦が無いわけないだろうw
27 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 22:24:25 ID:SdtmsekU
九州に行った事ないから大友と自身で戦った事がないから負けた事がないと言ってるのだ
そこまで説明せんといかんのか?
話の流れでわかるだろ?
読解力のない奴だなお前はww
さすがゆとりの産物!
よく噛み締めて慎重に書けよ
まあ、こんな糞スレageる奴だから基地外なんだろうけどね
28 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 22:30:18 ID:SdtmsekU
>>26 追記
つまり「大友に対して負けた事無い」て事な
お前は多分理解出来ないだろうから
29 :
仙台藩百姓:2009/05/03(日) 22:33:26 ID:JgjM0VpH
九州進出は明らかな毛利の失態だおね( ^ω^)
負けていないと言うなら尚更だお
せっかく優勢に事を進めていたのに残党ごときに撤退せざるを得なかったとなると
ただの骨折り損でこれ以上間抜けな失態もあるまいお( ^ω^)
元就による戦略だったのかは知らんけど( ^ω^)
30 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 23:24:46 ID:zeNHMvMB
京を目指せばよかったのにな
三好相手なら勝てるだろ
31 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 01:37:57 ID:hpwei/Fi
毛利は基本手伝い戦が多い
骨折り損はある程度覚悟していたんじゃねえの?
四国も河野を助けて伊予平定したらすぐに兵引いたし
九州も尼子の残党が出たらあっけなく引いたから要請請われて出兵した姿勢に意味があったんだよ
元就はさっさと帰国するよう両川に言っていたし(吉川元春は最初は断ってたが)
諸国から頼られるのは大大名の宿命だな
32 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 12:56:45 ID:vOWq/zHZ
>>27>>28ばーーーかw
誰が九州うんぬんの話をしてるんだ?お前が勝手に妄想してるだけだろうがw
現実毛利オタは200戦無敗だとかいう100%捏造なのを、史実と鵜呑みにしてたんじゃ
なかったっけ?(笑)
33 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 17:07:41 ID:eeoKK6WW
>>21 上杉景勝の魚沼一郡15万石から
置賜・伊達・信夫3郡51万石も躍進か?
34 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 19:46:49 ID:hpwei/Fi
>>33 上杉の事はよくわからんが多分躍進なんでは?
ただそうなると「上杉衰退の原因は謙信」スレて事になるのかな?
>>32 ちゃんと前スレ24で大友の名が出てるじゃんww
その流れ上あんたの発言がおかしいと思われてもしょうがないでしょww
わざわざ糞スレageるから頭おかしいと思われてもしょうがないでしょww
35 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 23:45:41 ID:fduemPER
(明治での)毛利家躍進の要因は、輝元が作っている件
36 :
人間七七四年:2009/07/08(水) 15:07:21 ID:5YopciW6
毛利の体質
五大老時代の毛利藩の税率は73%で
太閤検地での平均67%にくらべ6%も高い鬼税率で民衆を収奪していた
37 :
人間七七四年:2009/07/08(水) 18:21:57 ID:MgXZfDtH
それぐらいでガタガタ言ってんじゃねーよ!
38 :
人間七七四年:2009/07/08(水) 20:25:31 ID:n4HuOY7s
39 :
人間七七四年:2009/09/23(水) 09:36:47 ID:TPMsW4lq
40 :
人間七七四年:2009/11/04(水) 09:11:12 ID:H7ygVC19
毛利の善政自体が大ウソだしな
41 :
人間七七四年:2010/03/12(金) 13:50:43 ID:2qF6x7IO
>>31 >>元就はさっさと帰国するよう両川に言っていたし
これは大友が大内再興軍や尼子再興軍を後援して背後を脅かしたから
元就が大友と並んで三方から挟み撃ちになるから早く帰ってきてと嘆願したからでしょ。
おかげで無理やり撤退した毛利軍は大友の鬼追撃で殿を勤めた吉川元春軍は
ボロボロにされて、降雪の夜間に「子は親を捨て、配下は主を捨て敗走」という大被害を出して
撤退した毛利最大の被害とも呼べるものだった。
42 :
人間七七四年:2010/04/02(金) 10:26:56 ID:PsptJC7X
元就無能。
ただ単に大友や尼子が安芸の一揆の盟主の家柄というブランド力に期待して
安芸守護武田氏が使えないとわかったから
毛利を厚遇してただけ。
そして、義隆や晴久が死んだ後、無駄に長生きな元就を地域の長老格として
推戴されたに過ぎない。
そして元就死去寸前には毛利領国は瓦解し始めていた。
これが中国地方の寄親寄子制度の実態であり
弱体領国制(養子も一揆盟主の家柄ゆえ先方から欲しいと言われただけで元就の策ではない)であり
軍事動員の動きも遅く、当主に対して実力を認めて従ってるわけでもないので
秀吉などと軍事決戦するほどの指揮もない。
また九州では一揆の盟主の家柄はまったく役に立たず、大友に大敗。
元就の躍進は長生きと虎狼のような信義を踏みつけての裏切り奇襲と
他力本願の軍事行動による。
43 :
人間七七四年:2010/04/03(土) 22:44:35 ID:+McktuYs
長くてよくわかんないな…
つまり要約すると九州では守護の家柄なんぞなんの役にもたたず大友滅亡
こういう事ですね(^0^)/
44 :
人間七七四年:2010/04/09(金) 11:23:30 ID:iI2sK1nr
45 :
人間七七四年:2010/04/09(金) 18:13:36 ID:Jv0vb7Il
小早川や吉川に元就主導の謀略で息子達を養子に送り込んで
両家を支配したって言うソースはまったくない軍記の講談妄想。
さらに兄弟が仲がよく協力して毛利本家を支えたのも大嘘で
兄弟仲は非常に悪かった。
46 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 08:40:33 ID:iDOHC/bn
隆元は兄弟が俺を仲間外れの除け者にして喜んでるとか元就にチクってるし
隆元暗殺説の論拠になってるし
元春と隆景は常に毛利の政策(実際は吉川家と小早川家の利益代表者で輝元は虐待されていた)に真っ向から対立して険悪化してる。
隆景は常に山陽道は小早川の勢力範囲だと押し切り秀吉に譲歩を重ねる。
毛利…特に小早川は村上水軍三派への他力本願が基本なので織田に内通しはじめた村上水軍に恐れて秀吉への内通を始めていた。
しかも吉川親子が謎の死…一説に秀吉から不興を勝った吉川が如水と隆景に暗殺されたとも。
47 :
人間七七四年:2010/04/14(水) 19:08:40 ID:+vvZroZi
なに言ってるか全然わからない(o・ω・o)?
48 :
人間七七四年:2010/04/15(木) 23:03:05 ID:JLf2SYa+
且山城に籠城した内藤隆世と大内義長ら2000に対して
内藤隆世が責任をとって自刃すれば義長と兵を助命すると元就は約束しておきながら
長福院に監禁した挙げ句に義長に自刃を強要。
約を平気で破り武士を辱める卑怯者が戦国史最強の卑劣人間元就。
元就には相手を尊重するとか、信義とかまともな人間なら生まれながらに持つ人間性がまったくない基地害。
49 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 08:16:09 ID:gVpulmBL
忠義と武勇で評判だった内藤の籠城での指揮ぶりから元就は苦戦した挙げ句に悪質な嘘をついた卑怯者。
自分の命と引き換えに大内家を後世にちゃんと残してくれると元就を信頼して死んだ内藤が哀れ。
相手の信頼を裏切りまくりで武門の道を汚すことでは戦国一の元就。
50 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 11:20:42 ID:2Y/pl1Q9
ニチャン衰退の原因はお前らアンチが作ってる件
51 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 12:09:11 ID:gVpulmBL
>>50 他人のせいにすんな
くだらねぇレスしてるヒマがあったら、
お前が少しでも知識あるレスをして盛り上げろやカス
52 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 12:32:17 ID:ZytvUnDh
アンチは複数ではなく一人のキチガイだよ
53 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 13:22:33 ID:gVpulmBL
無知の捏造マンセーに都合が悪いことを書くとアンチ扱いw
事実を隠蔽させられ歪曲将軍マンセー面白講談教科書だけから学ぶ為政者に都合がよい奴隷愚民が毛利厨の実態そのものw
54 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 18:26:54 ID:2Y/pl1Q9
ほう、お前が事実を知っているとでも言いたいのか?
笑止ww
55 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 18:32:36 ID:2Y/pl1Q9
>>51 お前のレスが一番くだらない
はい、次の患者さんどうぞ!
56 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 18:45:56 ID:gX844I8H
謀略でもなんでもない。
元就は単なる裏切り人生。
そのためには長女さえ平気で
見殺しにする悪党。
57 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 20:46:09 ID:EjZrVe69
戦国時代に悪党(笑)随分おめでたい頭だな
毛利を繁栄させたのが元就なら衰退させたのも元就っていうのは別にいいんじゃないか
秀吉もそうだし
58 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 22:48:28 ID:gVpulmBL
>>57 戦国時代でも元就ほどの冷酷非道なやついないだろ。
実の娘を人質に出して同盟し相手を安心させてから、
油断してるとこをいきなり奇襲して攻めて、激怒した相手に娘を虐殺されるとか他の大名での例は?
59 :
人間七七四年:2010/04/16(金) 22:56:07 ID:mt/Sw0CH
本人がコロっとおっ死んだ信長
死後一瞬で政権崩壊し御家断絶した秀吉
60 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 01:08:50 ID:aQaLleXx
>>59 さらっと大ウソついてんじゃねーよカス毛利厨
61 :
人間七七四年:2010/04/20(火) 21:44:09 ID:eDC8LaQV
元就さんの長女は宍戸さんところに嫁いだ人じゃないの?
62 :
人間七七四年:2010/04/22(木) 02:51:12 ID:J+E7AFfV
>>61 いえ長女は高橋に人質に出された後に
元就の高橋への奇襲で嬲り殺しにされました。
捏造毛利史だと、元就が最初にできた愛娘なので
なんとしてでも助けようと計略を尽くしたが助けられなかったと捏造してますwww
63 :
人間七七四年:2010/04/23(金) 07:11:12 ID:uUdYmvye
卑怯かつ悪辣な裏切り奇襲ばかりの人生
64 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 01:58:12 ID:8slD2gHp
それが評価を落とす理由にはならんがな
65 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 08:24:36 ID:lHNfIc+h
戦国大名ぶっちぎりのDQNワースト1で人格的に非常に問題があると言うか脳に障害がある。
同時代人のほとんどが友好的だったはずなのに
なぜ元就が裏切って無防備状態のままに奇襲してきたのか理解できず激怒してるし。
66 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 10:48:51 ID:4FeXvBzJ
娘云々言ったらきりがない程例があるかと…。
宇喜多とか娘嫁に貰ったら死亡フラグだし。
千姫も和平の切り札だったから殺されなかっただけだし。
家族を見捨てるのはこの時代当たり前では?
大友も茶器と家族を天秤にかけて惨いねって話しになるし。
この点で毛利を叩くのはナンセンス。
毛利を叩くってより戦国大名を叩くのはナンセンスだな。
67 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 12:34:49 ID:sh56TKS1
>>66 まあ、得意げに卑劣だ、悪辣だと言っているヤツに限って、時代背景考えずに
現在の感覚でああだ、こうだと言うのが多いからな。
相手にするだけ無駄じゃないかと思う。
68 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 12:43:38 ID:lHNfIc+h
宇喜多とか龍造寺は別に娘が殺されるような状況は作ってねぇし
元就のように林業や交易からの上がり欲しさに娘を捨てた小人と違い、
すでに公人な家康は天下の安寧と個人的私情を想い決断したわけだし、
しかも殺されないように動いた結果助かってる。
肉親さえも死に追いやってる非道爺元就とは根本的に違うわ
69 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 14:52:14 ID:4FeXvBzJ
それ毛利憎しだけで論じてないか?本気で言ってるの?
他者がやることはいいが毛利がやることは許さないっていう感がプンプンするわー
70 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 15:19:43 ID:lHNfIc+h
他者は元就のような反社会的反道義的非人道的反倫理的なことを同時に満たすことで己が欲望を達成するような真似はしてない。
無理やり同列に論じようとする方がおかしい。
71 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 18:41:09 ID:mN1bK3eg
どうせ信長厨だろw
この生命体は信長を否定的に評価されると思いつく限りのスレを荒らし回る
真性キチガイ
72 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 00:54:17 ID:fsNUjtJs
元就は長女を使って高橋を支配しようとした。
でも失敗したので高橋を滅亡させた。
これを知る宍戸は毛利の奇襲を恐れ元就の次女の五龍に支配された。
また五龍は吉川家をも支配し吉川元春の妻・新庄局を恫喝しまくっていた。
元春が吉川の支配に成功したのではなく
五龍に背けば元就への讒言で奇襲され吉川滅亡を恐れたから。
さらに五龍は河野家や元春の長男の元長や輝元の正室に娘を送り込み支配した。
隆元の暗殺下手人とも言われ、江戸期の五龍の血筋は毛利一門筆頭として毛利支配を成功させた。
なお隆景と五龍は権力支配において対立関係だったという。
73 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 01:56:23 ID:TYWz3VMM
凄く強烈で濃密な電波が飛んでいるなw
74 :
人間七七四年:2010/04/28(水) 23:42:33 ID:TO2QWEgw
五龍は吉川元春の姉でかなり気が強かった。
まぁ気が強かったと言うか元就の宍戸支配指令を達成できなければ
五龍の命なんて元就には軽いもんだから
宍戸へ奇襲をかけて長女同様に宍戸に五龍が八つ裂きにされる恐怖を
思えば嫌でも気が強くもなるだろうな。
三子教訓状でも五龍に仲良くしろと命令してるくらい兄弟間は仲が悪かった。
宍戸&毛利本家から武断派の五龍はすげー嫌われていたらしく五龍の墓所も不明なんだな。
ちなみに元春の妻の新庄の墓は山口市の瑠璃光寺&岩国市の洞泉寺
隆元の妻の尾崎は安芸高田市の洞春寺
隆景の妻の問田は山口市下小鯖鳴滝の泰雲寺
75 :
人間七七四年:2010/04/29(木) 19:21:04 ID:797egx94
別に仲が悪いわけではなく至極普通だろ
仲良くしろ、とか当たり前の事
兄弟喧嘩した事ない家庭なんてあるのか?
76 :
人間七七四年:2010/04/30(金) 06:56:19 ID:hHjqE9d8
>>75 他の同時代の兄弟いる大名で
親がわざわざいい年齢の大人に
そんなお手紙出すほど
深刻な状態で兄弟を諌めている文章なんてないわけだがw
たかが兄弟喧嘩くらいのレベルとは明らかに違いますw
77 :
人間七七四年:2010/04/30(金) 06:58:15 ID:hHjqE9d8
>>75 他の同時代の兄弟いる大名で
親がわざわざいい年齢の大人に
そんなお手紙出すほど
深刻な状態で兄弟を諌めている文章なんてないわけだがw
たかが兄弟喧嘩くらいのレベルとは明らかに違いますw
まぁ毛利厨の脳内設定からしたら兄弟超仲良くて
困難な状況を兄弟の愛と勇気と努力で乗り越えた少年ジャンプみたいな
ストーリーになるんだろうけどwww
78 :
人間七七四年:2010/04/30(金) 18:00:05 ID:MCbRhtiI
>まぁ毛利厨の脳内設定からしたら兄弟超仲良くて
困難な状況を兄弟の愛と勇気と努力で乗り越えた少年ジャンプみたいな
ストーリーになるんだろうけどwww
ほんとお前みたいな人種はオヒレつけたり誇張して言うのが好きだねW
誰もそんな事は言ってないわけだがW
それとも構って欲しいのか?
79 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 00:50:11 ID:sbjWIsto
>>78 こちらは根拠を示した。
しかし根拠を出さず感情的に否定し
そして話をそらして誤魔化した。
それしか
>>75>>78の文章から得られるものは
なにもない。
80 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 04:21:50 ID:pi9uqkN4
>>79 信長は弟を2人殺したが、隆元は殺害どころか敵対すらしていない
これに勝る根拠は無いなw
81 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 02:39:36 ID:S+WXPwNg
>>80 隆元が殺害どころか
父の元就に
隆元「兄弟たちが俺だけをのけ者にするんだ」って讒言したら
元就「お前ら仲良くしろや」
その結果、隆元は暗殺されちゃったじゃねーか。
82 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 03:47:34 ID:5VF0GX36
ほんとに暗殺されたのか?
83 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 13:40:50 ID:besDP5vV
なあなあ「根拠を示した」なんて言ってる馬鹿がいるが根拠あったか?
根拠になってた?
暗殺て何?根拠はどこ?
84 :
人間七七四年:2010/05/03(月) 13:41:19 ID:VdqdRrA4
隆元が暗殺されてないと主張するのか?
そりゃあ無敗毛利マンセー安西軍策がソースかねwww
85 :
人間七七四年:2010/05/12(水) 10:15:58 ID:J+TamFys
一つでも隆元が暗殺されたというソースがあるなら出してみろ
軍記物はもちろん講談物でも何でもいいから
86 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 04:51:19 ID:O3kdbBzy
>>85 先生〜じゃあなんで
和智誠春・新三郎・湯谷又八郎・又左衛門・赤川元保らは元就に殺されたのか
明確な説明をしてくださいねwww
87 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 06:53:31 ID:HaTayjmX
基地外元就の頭が狂ってたんだろ
88 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 21:22:14 ID:RIfe4WR4
>>86 じゃあから話が繋がってないよねww
一つでも隆元が暗殺されたというソースがあるなら出してみろ、出せないだろうけどw
89 :
人間七七四年:2010/05/14(金) 00:58:24 ID:91JfhDP/
>>88 元就が隆元の暗殺者として彼等を殺戮したじゃんw
やっぱり明確な説明なんてできないよねwww
だいたい暗殺じゃないとするソースこそないじゃんwww
90 :
人間七七四年:2010/05/14(金) 19:14:21 ID:vYgfEO1E
元就が隆元の暗殺者として彼等を殺戮したのなら
元就が隆元を暗殺したっつーオマエの珍説は否定されたな、よかったよかった
91 :
人間七七四年:2010/05/16(日) 02:02:59 ID:9dP4x3al
横からスマン。
隆元暗殺を主張している人は、兄弟仲が悪く、よって五龍、元春、隆景、
あるいは元就の意向を受けた
>>86に上がってる人達の手により隆元は殺害された、と。
隆元暗殺説は昔からよく聞くけども、それが元就以下身内の意向によるもの、
とするのはあまり聞いたことないな。
まあ、隆元の死の原因は今でも謎とされているらしいから、
色々推理してみるのも面白いかもな。
92 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 12:29:05 ID:TxJYTm83
>>86 口封じのために裁判もなく迅速に殺された。
93 :
人間七七四年:2010/05/20(木) 01:59:40 ID:j/UyBxXB
tp://www.nhk.or.jp/historia/schedule/index.html
〜戦国武将・毛利元就、秘密の悩み〜
戦国時代、小さな城の主から中国地方の王者にのし上がった毛利元就。
そんな名将最大の悩みは「家族」、しかも“優秀な”3人の息子たちだった。
才能も個性もある男兄弟3人、当然ケンカも起きる。
そこに心配性のオヤジ元就が、長い長い手紙で説教したものだからさあ大変。
弱肉強食の真っただ中、分裂寸前となった毛利一家はいったいどうなるのか?
誰にとっても大切で、悩みの種の「家族」をめぐる戦国秘話をお送りする。
94 :
人間七七四年:2010/05/26(水) 02:19:11 ID:Y67NaPK4
毛利兄弟の仲の悪さは異常。
95 :
人間七七四年:2010/06/26(土) 20:10:43 ID:seQiqJJg
元就は大友と戦い敗北して死んだわけだが
この元就の失策が
対織田戦で毛利滅亡フラグを立てまくってたよな。
備中高松に隆景や元春が織田との決戦兵力で集めようにも
織田と同盟した大友が周防長門上陸準備を開始したために
そちらにも兵力を動員しなければならなくなり
完全に詰んでたもんな。
本能寺がなければ元就のバカのせいで毛利滅亡前夜だった。
96 :
人間七七四年:2010/11/17(水) 15:12:02 ID:cgNi3zhZ
隆元が早く死んで元就も安心しただろうね。
隆元は芸能遊興にハマってて
文雅を理解できない元就が「そんなくだらないもんは武将にはまったく必要ないから辞めろ!」って言ってたしな。
自分が文武両道の大内義隆に人質に出して教育を頼んだのを棚にあげて…
97 :
月孔雀:2010/11/17(水) 15:16:28 ID:d1W2k626
タカモトは、元就に暗殺されたと、思っていた。
普通に考えると、そうならないかな?
98 :
人間七七四年:2010/11/17(水) 18:02:05 ID:c1TaH0Va
普通はそんな考えにならんわ
99 :
人間七七四年:2010/11/17(水) 20:25:53 ID:cgNi3zhZ
まあ信玄も家康も長男殺害してるしな〜。
政宗は父を暗殺してるし…
100 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 15:16:19 ID:rb7r60kS
伊達の親子相剋はもはや伝統行事だし
信玄も親を今川領に追放したね。
やっぱり元就も弟達から嫌われていた隆元じゃ将来の毛利瓦解が確実だったから邪魔になったんだろうね。
101 :
人間七七四年:2010/11/19(金) 14:47:31 ID:EKlCsWYP
領地欲しさに元就は長女を殺した前科がすでにある
102 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 14:47:15 ID:Re4gl6z0
元就は仁義なき地方チンピラ
103 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 19:02:30 ID:6jNzfLCh
姫なんて道具ですぞ
嫁ぎ先を滅ぼした、なんてよくあった話
104 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 13:48:40 ID:muLJKS7N
>>95 大友は耳川で大敗したのに長門に出てこれるわけないだろ。
105 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 14:14:40 ID:faOchuNN
106 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 18:36:56 ID:muLJKS7N
はぁ?
耳川がいつあったか調べろよw
因みに龍造寺は沖田畷の戦いまだで1582年に大友が長門に渡る余力なんかまったくねーよw
107 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 19:22:07 ID:52gDihV+
あげ
108 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 19:22:31 ID:faOchuNN
天正6年末に耳川があったが
天正7年末には諸領主の懇願により隠居してた宗麟が皆の服従を条件に復帰し、
謀反の巨魁たる田原親宏は病死したことで大友最大の危機は去る。
天正8年2月に道雪が大友家中に激を飛ばし叱咤激励。
その後、大友軍の前に田原親貫や田北らが破滅。
龍造寺と島津が筑後肥後で対立を開始し、
道雪がその隙を突いて筑前筑後で勢力回復戦を開始
天正9年に信長は大友に豊後から毛利の背後を突いてもらうために義統と龍造寺と対立してる島津の和睦を斡旋成立。
天正10年6月に本能寺の変で秀吉が中国大返し
天正8年〜天正13年9月に道雪が死去するまで大友復興期であり
島津の牽制を受ける龍造寺を道雪が筑後で抑えており
大友軍が織田に呼応し豊後から船舶をもって長門周防上陸は充分に可能だからw
109 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 11:28:33 ID:SeJgUXcf
元就と尼子経久は方向性が似ていると思う。
内政を顧みず、無理な外征を繰り返して、一見領土が拡大しまくっているという点で。
そうすると次代がそのつけを払わないといけないんだけれども、
一見影響下にあるように見えて実はちゃんと把握出来てない領地経営に追われた晴久に比べ、
輝元がラッキーだったのは、
・大内や尼子という先代まであった庇護先オプションがなかったので、
国人たちは不満があったのだとしても毛利に反抗することが難しかった
・わりとすぐ豊臣政権に組み込まれたので自分で行政システムをなんとかしないですんだ
の2点。
それで毛利は大大名の立場を保ったまま関ヶ原に至り、元就の欠点もあまり追及されないのではないだろうか。
110 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 14:46:15 ID:bXOEg4rX
>>109 中国地方は寄親寄騎制だったから勢力図がドミノ倒しのようにアホみたいに簡単に変化しやすい。
安芸守護に対抗した一揆の盟主の家柄で
長生きして地域の長老となった元就に国人たちが近付いてきただけで
一揆契約は平等の精神があるだけで盟主への忠義の概念は無いからね。
暗殺回避で逃げ隠れてばかりだとしても
またま運良く長生きってのは実は勢力拡大には重要な要素。
50歳くらいまでに大勢力を作っても当主が死亡すると権利構造に変化が生じて弱体瓦解化するのは免れないが
それが無く2世代分を生きたと言える80歳以上も生きれば家康のように天下が取れるほどにもなる。
111 :
人間七七四年:2010/11/24(水) 03:53:16 ID:uOHEUvGL
>>110 そうそう、寿命はでかいよね。
あと本題とは関係ないが、元就の場合死んだタイミングも良い。
年齢的にこれ以上の長寿は望めないとはいえ。
もし毛利が豊臣に屈するまで生き残ってたら、結局元就なんて
強敵の居ない中国で運良く勢力拡大しただけで、三英傑には敵わない
って評価になってただろう。
うまく死んでるから「もし元就が生きてれば今頃は!」というifドリームも広がるわけで。
112 :
人間七七四年:2010/11/24(水) 06:04:50 ID:EHq8Tff4
そもそも信長は耳川敗北の大友のフォローをしていて
大友得意の外交戦略で天正7年11月27日に義統が従五位下に叙し左兵衛督に任じられたのを機会に
信長も大友に対して周防長門を宛がっているからね。
中央政権から周防長門は毛利では無く大友のものだと公認されているわけだ。
信長と大友の協調体制はとっくに成立してるわけ。
113 :
人間七七四年:2010/11/24(水) 12:29:03 ID:cOJMqoAm
論点がずれてないか?
114 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 19:28:57 ID:hZw9KJkb
大内も尼子も毛利を配下に加えることが国人一揆の国たる安芸の支配の要として考えていたから
毛利に良い条件を提示してたし
ちょっと軍事的に圧力を加えて帰属を促したりしただけで
そもそも毛利滅亡なんて危機的状況なんて1度もなかったもんな。
そんなことしたら安芸支配が難しくなるだけだから。
115 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 10:54:43 ID:4unj3228
>>114 毛利は安芸国人の中での抜群の恵まれ方はハンパないよね。
大国から罰せられないことを良いことに長女を犠牲にした裏切り奇襲をしたりと
相手を信用させておいてのからの卑劣な裏切り三昧。
しまいには厚遇してくれた大内義隆まで裏切って陶に内通。
その陶が厚遇してくれたのに大友宗麟に内通していきなり石見遠征してる陶の背後を襲ってきたり
大友と同盟していたのに豊前筑前で謀反を誘っていきなり奇襲上陸して大友を攻めたり
尼子側が出雲を譲渡してまで和睦したのにそれを無視して尼子義久を奇襲したり
悪魔のような裏切り奇襲の悪事の限りを尽くした恩を仇で返すことしか考えていない戦国一の人格破綻者が元就。
116 :
月孔雀:2010/12/10(金) 21:24:24 ID:cCKpFEkm
ゲーム「信長の野望・天翔記」PSP版で、
コンピューター側が、初めて探題になった。
毛利元就が。あげ・・・
117 :
月孔雀:2010/12/10(金) 21:26:02 ID:cCKpFEkm
将星録でした・・
118 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 00:34:01 ID:ae+T3Ej+
>>115 いや…それは騙される方が悪いだろ(笑)
119 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 06:29:02 ID:Fbumpij3
元就に騙されて人質に出た元就の長女は元就の野望に利用され殺された。
120 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 10:43:50 ID:UFDRzady
さすが謀将、元就。
121 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 12:27:20 ID:ae+T3Ej+
人質が殺されるとか別に珍しくもない…茶飯事って訳でもないけど。
人質が殺された上結果が最悪なら汚点だが殺されて結果が出ればそれも御家の為だろ。
その点信孝や成政は人質殺された挙げ句結果得たもの無しで終わっとるわ。
122 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 13:34:28 ID:Fbumpij3
信孝も成政も織田家を救う大義の為に正々堂々と挙兵した。
元就は故毛利当主の実母と言う極めて近い親戚で信用を得ておりながら詐術で騙し討ち。
元就は己が利得の為に最初から娘が処刑される前提で信用させておいてから卑怯な奇襲で故毛利当主を辱めた。
やはり故毛利当主幸松丸も暗殺し、弟の
相合元綱も謀殺したのだろうし
元就の妻の実家すら謀でむちゃくちゃにする。
ずっと毛利のために力を尽くし奉仕してきた井上元兼をも暗殺し経済的利益を奪い取る。
大内義隆も裏切り陶隆房も裏切りまくる。
そしてついには元就は長男すら後年に暗殺。
123 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 14:28:13 ID:UFDRzady
>>122 お疲れ様です。
もう来なくていいですよ
124 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 15:03:18 ID:Fbumpij3
>>123 大友宗麟や尼子義久をも裏切って奇襲しまくる悪逆非道の超絶キチガイ卑怯者元就についてどうお考えですか?
やはり武士にあるまじき振る舞いからして唾棄すべき動物未満の生物ですよね。
125 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 23:57:46 ID:UFDRzady
>>124 平和な時代ならいざしらず
卑怯だなんだの言っている奴は遅かれ早かれやられるだけの存在でありましょう
単なる負け犬のざれ言にしか小生には聞こえません
126 :
人間七七四年:2010/12/12(日) 09:00:57 ID:NkFakL2T
武士は卑怯を蔑み信義を大切にします。
信義を疎かにすれば、
国人や惣村の人々の士気は低くなり言うことをきかなくなります。
元就は宗麟に大敗し、しかも戦った国人達に約束した加増すらシカトとやりたい放題。
信義を無視してきた元就はそのツケを払うハメになり
国人達に裏切られ尼子復興軍や宇喜多に隠岐、出雲、伯耆、美作、備中を蹂躙されるも何ら策無く
天に唾して悪逆非道の限りで自分の家族すら泣かせて手に入れてきた毛利最大版図から危険かつ急激な大縮小を続ける中で
毛利滅亡を憂いながら失意のうちに元就は憤死する愚かな末路と成り果てた。
まさに坂道から転げ落ちて死んだ愚者元就こそ、
信義を守らず裏切りを繰り返してきたしっぺ返しによる因果応報の悲惨な死であった。
そしてその元就の悪逆のツケは子にも及び織田&大友による挟撃滅亡の危機をも呼んだのである。
127 :
人間七七四年:2010/12/13(月) 02:08:00 ID:5TfXr/1R
128 :
人間七七四年:2010/12/13(月) 08:50:33 ID:wa3wFaH9
元就は毛利の名を汚しまくって
名門毛利がついには名誉と面目を重んじた武士の筋目を棄てて
卑劣なチンピラ一揆党になり下がってたよな。
129 :
人間七七四年:2010/12/13(月) 12:06:31 ID:5TfXr/1R
江戸ならまだしも戦国時代で武士の名誉とか本気で言ってんのかよw
130 :
人間七七四年:2010/12/13(月) 12:31:46 ID:ralMcaAw
江戸時代に確立された武士道を、戦国時代に置き換えている事
自体、話にならんだろ。
131 :
人間七七四年:2010/12/13(月) 12:33:16 ID:wa3wFaH9
平安の時代から武士は公家と違い何よりも武士の面目と言う名誉を重んじてきましたが何か?
132 :
人間七七四年:2010/12/13(月) 15:14:43 ID:Pfad1Q7P
忠臣蔵がお好きなんですね。
わかります
133 :
人間七七四年:2010/12/13(月) 16:03:32 ID:9yAAg8j3
相手を信用させるために人質を出すとか本来の意味を意図的に歪曲させてるところに悪意を感じるな
人質というのは相手に信用されてないから出さざるを得ないものであって
相手を信用させるためと言うほど毛利と高橋が対等若しくは毛利が上なら高橋側も人質を出さなければ辻褄が合わないだろ
それに高橋に繋がりがあるのは兄興元であって間違っても元就にとっては“極めて近い親戚”ではないし
長女を人質に取られた当時の元就は毛利家当主ですらなく庶家に過ぎないし
後見役と言っても直接繋がりのある幸松丸の外祖父である高橋久光の方が発言力が強かったからな
134 :
人間七七四年:2010/12/13(月) 17:14:22 ID:wa3wFaH9
>>133 高橋の方が発言力が強いとするソースはなんでじょうか?
高橋が人質を出して無いとするソースはなんでじょうか?
あなたの言っている根拠に当たる部分を調べてみてもまったくありませんが妄想ですか?
135 :
人間七七四年:2010/12/13(月) 18:01:43 ID:+qYsSYw4
>>134 最初から娘が処刑される前提で信用させておいたというソースは?
幸松丸を暗殺したというソースは?隆元を暗殺したというソースは?
元兼(≠井上氏)が毛利のために力を尽くし奉仕してきたというソースは?
高橋が人質を出したと言うのなら誰を人質に出したと言うんだね?
あなたの言っている根拠に当たる部分を調べてみてもまったくありませんが妄想ですか?
136 :
人間七七四年:2010/12/13(月) 18:13:57 ID:wa3wFaH9
なんだ根拠が提示できないバカの典型パターンきましたw
質問に質問で返して回答から逃げまくるオウム返しバカでしたかw
相手して損したわアホ乙
137 :
人間七七四年:2010/12/13(月) 18:37:05 ID:+qYsSYw4
違う人に向かって質問に質問で返して回答から逃げまくるとか言っちゃって必死なのが丸分かりだなw
自分は今まで散々言いたい放題喚いて一度も根拠を提示した事が無いくせに相手には当たり前かのように要求するのかよ
何処までも身勝手で最低な奴だな
138 :
人間七七四年:2010/12/13(月) 18:57:51 ID:wa3wFaH9
ID自演必死過ぎてワロタw
139 :
人間七七四年:2010/12/13(月) 20:31:21 ID:Pfad1Q7P
おまえ必死だなageてまでW
140 :
人間七七四年:2010/12/14(火) 12:48:22 ID:HVS9ZQrC
まあ安西軍策の記述スタンスが
元就は常に不敗かつ正義で、
ことごとく世の中が元就に都合がよく進行していくけど全部偶然だからな!絶対だぞ!
元就に刃向かうやつは全員が元就を陥れようとしてる悪だが、
一方的に元就にボロ負けしまくりって記述だからな…
その必死擁護フィルターを外せば元就が悪党以外の何者でも無いのは明らかだよな。
141 :
人間七七四年:2010/12/15(水) 07:28:40 ID:j9VPS0oe
根拠を提示できないからって誤魔化すなよw
142 :
人間七七四年:2010/12/15(水) 11:16:17 ID:FtIbsd7Z
>>141 なら一次史料を使って反論してみろよアホがw
絶対に無理だろうがな〜♪
そもそも毛利マンセー軍記の出典話で自慰してろよw
143 :
人間七七四年:2010/12/15(水) 13:00:46 ID:FC6v0C0z
>>142 で、お前さんの主張してる事は何処の一次史料とやらを参考にしたんだね?
史料にすら載ってないのに妄想だけでものを言ってる奴が何を偉そうにぬかしてんだよw
144 :
人間七七四年:2010/12/15(水) 13:32:15 ID:FtIbsd7Z
毛利マンセー歪曲フィルターを取り除いてあげたんだよ感謝しろ。
145 :
人間七七四年:2010/12/15(水) 15:05:01 ID:hrEM0/FC
デカくしたのが元就だし
あとはどうしようと元就の自由じゃね
146 :
人間七七四年:2010/12/15(水) 15:18:31 ID:FtIbsd7Z
元就は毛利滅亡の恐怖に苛まれ失意のうちに死去し
その葬儀に元春は叛意を現し出席すらしなかった。
そして毛利本家にはからずに勝手に国人に所領安堵を発給するようになっていくのである。
147 :
人間七七四年:2010/12/15(水) 15:47:20 ID:hrEM0/FC
元就は75歳の高齢だし
いつ逝ってもおかしくないと思うが
148 :
人間七七四年:2010/12/15(水) 22:37:32 ID:dWMaBbw9
まあ元々無理がありすぎたんだよ
バブルはいずれはじける運命
その前に寿命迎えて死ぬことで結果的に元就自身は逃げ切ったというだけ
バブルのツケだけを子孫に残してな
149 :
人間七七四年:2010/12/15(水) 23:31:17 ID:1W304osV
隆元が早死にしたのが惜しい。せめて50歳ぐらいは生きてほしかった。
150 :
人間七七四年:2010/12/16(木) 00:49:05 ID:hymCl0X/
隆元はケチで城下に屋敷が欲しいと言った小早川隆景を突っぱねたりして
兄弟達から嫌われまくってた。
しかもすげー後ろ向き思考の愚痴愚痴人間で
これが原因で毛利家の将来が懸念されて暗殺された。
151 :
人間七七四年:2010/12/16(木) 23:14:14 ID:nJyMGnZx
>これが原因で毛利家の将来が懸念されて暗殺された。
その証拠となる一次史料を出してみろよアホがw
絶対に無理だろうがな〜♪
152 :
人間七七四年:2010/12/17(金) 00:27:30 ID:L5q7gGw+
153 :
人間七七四年:2010/12/17(金) 13:59:57 ID:BAlMDqhv
>>152 それだけでは暗殺の根拠にはならないな
そもそも隆元を暗殺して何の得があるんだ?
154 :
人間七七四年:2010/12/17(金) 14:11:19 ID:L5q7gGw+
なってるだろw
毛利厨必死乙〜♪
兄弟姉妹を統率できないどころかみんなにシカトされまくって孤立して父にチクる無能の長男じゃ毛利の前途が真っ暗闇だからな。
155 :
人間七七四年:2010/12/17(金) 14:47:01 ID:VAgyEU6I
156 :
人間七七四年:2010/12/17(金) 16:54:55 ID:KtaUnNzL
これで人を説得出来ると思ってるなら池沼レベル。
ただ毛利が嫌いなだけだれw
157 :
人間七七四年:2010/12/17(金) 17:17:08 ID:VAgyEU6I
毛利隆元が死んだときに一時期、毛利家の財政が悪化したのは事実で、
他の国人達との交渉も一気に難しくなったそうだ。
特に財政難はかなりひどかったようで、毛利元就が
「天下を狙わず家を残す事を第一にしろ」
という遺言を書いたのは、隆元が死んで財政が悪化した事で戦費調達が難しくなったため
何が何でも家を残す事を優先させざるを得なかったからとも言われている。
158 :
人間七七四年:2010/12/17(金) 17:23:03 ID:L5q7gGw+
単に隆元に財務を丸投げしてただけだろ。
いなくなりゃそりゃあ財務が分からなくなるよな。
そりゃあ当たり前の話だわ。
別に隆元が有能を示すもんじゃないし
算学なんて戦国時代じゃ武士にあるまじき惰弱とされてたしな。
159 :
人間七七四年:2010/12/17(金) 17:36:15 ID:VAgyEU6I
479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/17(土) 00:01:21 ID:H7GgyYqo
毛利家では
隆元が死んだ後、輝元が政務することになったのだが、
ある日、隆景と元就が毛利全体の決算をしてみた。
元就が政務をしてた時を100とすると、
隆元が政務をしてた時は120、輝元は95だった。
次男三男と比べてまったく目立たない地味なアニキだが、行政手腕に関しては元就よりも上だったのだ。
しかし、輝元に関しては自分に近い成績を出してたのにも拘らず、
「輝元だめよねー」とか言っちゃう元就。
160 :
人間七七四年:2010/12/17(金) 17:43:11 ID:mbJ+b/fJ
>>158 隆元は跡継ぎになんだから財務とか普通に任せるだろ。それよりも何時死ぬか分からない老いぼれに一任させとく方が怖いってw
161 :
人間七七四年:2010/12/19(日) 16:23:20 ID:8x2jeXqu
戦国時代の中国地方をアフガニスタンに例えると、
毛利→タリバン
尼子+山名+浦上+宇喜田→北部同盟
織田→ロシア(北部同盟支援)
徳川→インド(北部同盟支援)
大友→イラン(北部同盟支援)
戦争犯罪者「毛利元就」を国際法廷に掛けろ!!!
162 :
人間七七四年:2010/12/19(日) 16:45:56 ID:vTXG1r1b
ガラがむちゃくちゃ悪いチンピラ元就
163 :
人間七七四年:2010/12/19(日) 19:07:06 ID:S5b8WW4v
反論出来ないからってID変えてまで必死だなw
164 :
人間七七四年:2010/12/19(日) 21:41:17 ID:KB5Zj8yj
なんだこの荒れ具合。
今北産業
165 :
人間七七四年:2010/12/19(日) 22:51:24 ID:fIyTr0Tb
>>164 だがアンチの織田厨が
関係ない毛利スレで
大暴れ
166 :
人間七七四年:2010/12/20(月) 01:26:41 ID:rmh19fvu
輝元の織田家への宣戦の理由って何?
167 :
人間七七四年:2010/12/20(月) 01:39:45 ID:iqYK7q0Q
本願寺と手を結んでたから
織田と争わざるをえなかったんでしょ?
168 :
人間七七四年:2010/12/20(月) 01:51:47 ID:n2y5dJB0
169 :
人間七七四年:2010/12/22(水) 12:36:38 ID:FSYyFstb
毛利厨は一次史料など読んだことがないアホだから期待すんな。
170 :
人間七七四年:2010/12/22(水) 12:42:23 ID:URkPsVyR
>>169 そういうお前さんはどの一次史料とやらを読んで出鱈目を書き並べたんだね?
171 :
人間七七四年:2010/12/25(土) 20:19:35 ID:eq4xQsUO
172 :
人間七七四年:2010/12/25(土) 22:35:33 ID:x61ic6rG
173 :
人間七七四年:2010/12/26(日) 18:49:14 ID:NNnl+Koa
とにかくキチガイ親父としか思えない。
陶の味方だったのに石見に苦戦してるのを見るやたちまち裏切って背後を襲うし
宗麟や大内義久との将軍斡旋和睦も突然破棄して奇襲してくるなど
頭が完全におかしい。
本城常光の銀山利権が欲しくてたまらなくなり陣に呼び出し
元春と熊谷信直を使っていきなり家族全て謀殺しちまう。
これのせいで石見・出雲国人の大量造反で月山富田城を力攻めする士気が消失し
周囲を討伐して孤立させていく5年に及ぶ平定戦と包囲戦
さらに尼子復興軍と5年に渡り戦ってるうちに大友には完敗するわで
失意のうちに元就死去するハメになるバカぶり。
博多や岩見銀山は攻略失敗。山口は焦土で復興失敗。
破綻財政を残して死亡とか最低最悪の盗賊首領元就。
174 :
人間七七四年:2010/12/26(日) 20:24:03 ID:mUm6WPLX
陶の味方というか
敵になったら滅ぼされるのは確実
滅ぼされない為に表面上は味方だと取り繕ってたんだろ
戦国時代じゃ当たり前のことだと思う
175 :
人間七七四年:2010/12/26(日) 21:08:22 ID:5AtOmAUG
>>176 何がそんなに憎いの
百済の末裔である大内を見捨てたから?
176 :
人間七七四年:2010/12/27(月) 02:57:03 ID:Tx9esJmu
尼子晴久にまったくかなわず
さんざん命からがら敗走しまくったよね。
晴久が上洛狙いで東に目がいってたから
助命されてたようなもん
177 :
人間七七四年:2010/12/27(月) 06:39:07 ID:0ke0GfBz
晴久って、なんでアホみたいに思われてんだろうなあ
新宮党を粛清して当主権力を安定させ
大内義隆が攻め寄せた際には、大内方に着いてた吉川等の軍勢を寝返らせる
追撃戦で義隆の養子も討ち死させたし
178 :
人間七七四年:2010/12/27(月) 09:09:11 ID:gvo7oHFr
大伴家持の時代にも武士道はあったよ。
179 :
人間七七四年:2010/12/27(月) 09:40:25 ID:0ke0GfBz
>>178 それマジソース
奈良って武士の時代じゃねえだろ
180 :
人間七七四年:2010/12/27(月) 10:00:05 ID:wbO8/joQ
>>177 生き残った毛利関係者が徹底的にネガキャン張ったからです。
逆に実際はどれだけ晴久に手こずったかってことだな。
元就による晴久呪殺説なんてトンデモが出てくるのは実力で敵わなかった証左だろ。
呪い殺せるもんなら陶とかをやるべきだよな。
なんで命がけの一大決戦なんかしたんだw
181 :
人間七七四年:2010/12/27(月) 12:21:50 ID:WwnFpB58
晴久は寄親寄子制を廃して中央集権的な改革をして
状況によって国人一揆連盟体質の国人達がドミノ倒しのように謀反していく中国地方の脆弱な統治からの脱却を図ってたから
軍事的に毛利はまったくかなわなかったからね。
そういう改革は国人達の権利の制限や力の剥奪たる収奪が伴うから反感を買っていたから
晴久が体制を固めきらない前に死ぬとさっそく瓦解し始めてしまった。
これは陶の旧弊たる既得権益の文治官僚を廃して身分が低くても武を尊び国人を引き上げ採用していく改革とも類似し
大内も尼子も国人への介入を進めて政権への併合による統治の深化を進めていた。
しかし毛利はだらしないユルユルの支配で支持を受けていったから肥満肥大しただけに過ぎない。
だから尼子晴久に大敗し、大友宗麟に大敗し、織田信長の前にひたすら後退を続け、
秀吉からの領内軍事動員の余りの遅さを愚鈍だと糾弾され、
関ヶ原でも国人達のワガママから分裂し自滅した。
182 :
人間七七四年:2010/12/27(月) 23:16:29 ID:lnwn7WZK
>>181 大内も尼子もその結果滅びたんだから意味ないだろう
183 :
人間七七四年:2010/12/28(火) 02:14:28 ID:N6fQfW6s
彼らの強国化への改革中の死で
中国地方による畿内統一の夢が消えて
暗愚元就によって50年は歴史の歩みが後退したよなぁ。
184 :
人間七七四年:2010/12/28(火) 03:35:01 ID:2mKTCW0o
大内と尼子っていう二大勢力に挟まれながらも
領地を一郡から百万石以上にまで伸ばした手腕を暗愚と言うのか
それなら長宗我部元親なんかもっと暗愚だな
三好以外には大した敵がいない四国の統一に苦戦したんだから
185 :
人間七七四年:2010/12/28(火) 04:51:40 ID:AKjFWYEh
>>184 長曽我部なんてまさしく鳥無き里のコウモリじゃん。
つかそれと一緒で、どういう状況で勢力を伸ばしたかを考えれば、
毛利は大内尼子が健在だった頃にそれらを滅ぼして100万石になったわけじゃないだろ。
大内義興義隆、尼子経久晴久が居た頃に元就はどうしてた?
陶晴賢はともかく尼子義久を強敵とは言わないよな?
186 :
人間七七四年:2010/12/28(火) 05:08:04 ID:FtW3TGzB
統治者なんてのは支持された奴が一番偉い。
中央集権だろうが緩い国人連合だろうが、その時必要で求められたものをやり遂げた。それで十分偉い。
無理矢理中央集権を進めれば優れた統治者、ってもんでもない。
187 :
人間七七四年:2010/12/28(火) 07:48:51 ID:2mKTCW0o
まあ
元就は三英傑以外の戦国武将で
唯一正一位を授与されたんだけどね
188 :
人間七七四年:2010/12/28(火) 12:45:40 ID:V32SrUy9
>>187 その官位は戦国時代にもらったんじゃなくて
後世の増長してた薩長閥の時期に無理やりじゃねぇかw
>>186 実力者がいる時は庇護してもらい恩賞をもらっていたり、
将軍の斡旋で同盟者の顔をしておきながら
誰もがなんで襲ってきたのかまったくわからないレベルで突発的に同盟破棄して
恩顧を忘れ武士にあるまじき卑怯な騙し討ち奇襲ばっかりやってれば
誰だって元就くらいにはなれるわな。
189 :
人間七七四年:2010/12/28(火) 23:04:16 ID:avM/Zh7g
>>188 つまり主君であるだけでなく偏諱を受けたにも関わらず義隆を討った陶隆房や
国久の娘を妻に娶ったにも関わらず国久だけでなく新宮党もろとも粛清した尼子晴久は
恩顧を忘れ武士にあるまじき卑怯な行為をしたのに結果を出せずに死んだという事は
元就よりも無能だったという事か
190 :
人間七七四年:2010/12/29(水) 00:59:30 ID:CUQM+l6v
>>188 アンチ毛利だけどそれはないわ。
正々堂々武士道(江戸時代の捏造w)に乗っ取って勢力拡大した戦国大名なんているのかね。
191 :
人間七七四年:2010/12/29(水) 01:05:05 ID:3lCxn0TJ
>>177 晴久最大の失敗は自身が早く死んでしまったこと
新宮党粛清で中央集権化したは良いが、そのために自身の死後若い当主義久をサポートする有力一門がいなかった
192 :
人間七七四年:2010/12/29(水) 01:13:09 ID:CUQM+l6v
>>191 でも通説のように新宮党一味が脳筋だとすると、
義久に間違ったアドバイス→やっぱり尼子滅亡ってことになって
後世「晴久が生前に粛正しておけばよかったのに、晴久はアホ」
って評価になったかもねw
193 :
人間七七四年:2010/12/29(水) 01:23:01 ID:5mb8/5+B
毛利厨が言うには
なぜか中国地方だけは朱子学も孔子の教えも入ってきてない
非常に野蛮な後進地だったらしい。
さすがキチガイ理論w
194 :
人間七七四年:2010/12/29(水) 02:38:39 ID:5mb8/5+B
大内義隆は従二位まで昇ったが、毛利元就の官位は従四位上止まり
隆元に大内氏家督の正統性を継がせようと足利幕府への工作したが失敗し、大内氏家督を大友宗麟に奪われた
陶隆房や尼子晴久は別に娘が殺されるような状況は作ってねぇし
元就のように林業や交易からの上がり欲しさに娘を捨てた小人と違い、
肉親さえも死に追いやってる非道爺元就とは根本的に違うわ
元就は長女を使って高橋を支配しようとした。
でも失敗したので高橋を滅亡させた。
これを知る宍戸は毛利の奇襲を恐れ元就の次女の五龍に支配された。
また五龍は吉川家をも支配し吉川元春の妻・新庄局を恫喝しまくっていた。
元春が吉川の支配に成功したのではなく
五龍に背けば元就への讒言で奇襲され吉川滅亡を恐れたから。
さらに五龍は河野家や元春の長男の元長や輝元の正室に娘を送り込み支配した。
隆元の暗殺下手人とも言われ、江戸期の五龍の血筋は毛利一門筆頭として毛利支配を成功させた。
なお隆景と五龍は権力支配において対立関係だったという。
五龍は吉川元春の姉でかなり気が強かった。
まぁ気が強かったと言うか元就の宍戸支配指令を達成できなければ
五龍の命なんて元就には軽いもんだから
宍戸へ奇襲をかけて長女同様に宍戸に五龍が八つ裂きにされる恐怖を
思えば嫌でも気が強くもなるだろうな。
三子教訓状でも五龍に仲良くしろと命令してるくらい兄弟間は仲が悪かった。
宍戸&毛利本家から武断派の五龍はすげー嫌われていたらしく五龍の墓所も不明なんだな。
ちなみに元春の妻の新庄の墓は山口市の瑠璃光寺&岩国市の洞泉寺
隆元の妻の尾崎は安芸高田市の洞春寺
隆景の妻の問田は山口市下小鯖鳴滝の泰雲寺
武士は卑怯を蔑み信義を大切にします。
信義を疎かにすれば、
国人や惣村の人々の士気は低くなり言うことをきかなくなります。
元就は宗麟に大敗し、しかも戦った国人達に約束した加増すらシカトとやりたい放題。
信義を無視してきた元就はそのツケを払うハメになり
国人達に裏切られ尼子復興軍や宇喜多に隠岐、出雲、伯耆、美作、備中を蹂躙されるも何ら策無く
天に唾して悪逆非道の限りで自分の家族すら泣かせて手に入れてきた毛利最大版図から危険かつ急激な大縮小を続ける中で
毛利滅亡を憂いながら失意のうちに元就は憤死する愚かな末路と成り果てた。
まさに坂道から転げ落ちて死んだ愚者元就こそ、
信義を守らず裏切りを繰り返してきたしっぺ返しによる因果応報の悲惨な死であった。
そしてその元就の悪逆のツケは子にも及び織田&大友による挟撃滅亡の危機をも呼んだのである。
且山城に籠城した内藤隆世と大内義長ら2000に対して
内藤隆世が責任をとって自刃すれば義長と兵を助命すると元就は約束しておきながら
長福院に監禁した挙げ句に義長に自刃を強要。
約を平気で破り武士を辱める卑怯者が戦国史最強の卑劣人間元就。
元就には相手を尊重するとか、信義とかまともな人間なら生まれながらに持つ人間性がまったくない基地害。
忠義と武勇で評判だった内藤の籠城での指揮ぶりから元就は苦戦した挙げ句に悪質な嘘をついた卑怯者。
自分の命と引き換えに大内家を後世にちゃんと残してくれると元就を信頼して死んだ内藤が哀れ。
相手の信頼を裏切りまくりで武門の道を汚すことでは戦国一の元就。
195 :
人間七七四年:2010/12/29(水) 02:44:54 ID:eKSrZz2u
朱子学も孔子も広まる余裕が全くない。
そもそも朱子学や孔子を理解し他人に教えれるレベルの人材が貴重な時代だし…。
噛み砕いた適当な趣旨はそこそこの階級人には広まっても一般武士に広がる理由がない。
196 :
人間七七四年:2010/12/29(水) 02:53:48 ID:5mb8/5+B
>>195 はいはいデタラメ乙
朱子学の思想を色濃く残す太平記を写していながら、
そんなもんは広まってませんキリッ
これが毛利厨クオリティwww
197 :
人間七七四年:2010/12/29(水) 04:29:27 ID:QHBzcGms
198 :
人間七七四年:2010/12/29(水) 11:46:39 ID:90jVp0OA
直家ほど信義を守り配下に優しい人物はなかなかいないだろ。
元就のような基地害と一緒にすんなよアホ毛利厨。
毛利なんて「大切なのは宇喜多に自分たちの弱気を悟らせないようにするべき」なんて口裏合わせて最前線の宇喜多にだけ織田軍と戦わせようとする武人としての信義のカケラも無いふざけたヤツらだったろうが。
199 :
人間七七四年:2010/12/29(水) 11:52:08 ID:KSxt+DjT
舅殺してる直家が信義を守り配下に優しいって笑える冗談だな
200 :
人間七七四年:2010/12/29(水) 11:55:55 ID:KSxt+DjT
古くは近世初頭の著述家小瀬甫庵が自身の著作『太閤記』で、
斎藤道三や松永久秀に並ぶ悪人としており、
また出雲の尼子経久・安芸の毛利元就と共に中国地方の三大謀将と言われる。
歴史書の「和気絹」でも記されているとおり、
金光宗高をはじめ松田元賢、後藤勝基など手に余る者には、
自分の娘や姉妹、或いは親類の娘を養女として、
縁組を成立させて親類の体を表し、
時節を見はからった上で毒殺したり、
闇討ちして寝首をかく(暗殺・謀殺)行いが多いと伝えられる。
201 :
人間七七四年:2010/12/29(水) 12:46:31 ID:90jVp0OA
>>199>>200 祖父の仇討ちや
失敗するから止めた方がいいって
言ってるのに忠義のために
死ぬ覚悟で鉄砲持って敵陣に忍び寄るやつや
親戚にしてまで目をかけてやってたのに
宇喜多存亡の乾坤一擲の戦いに
参加しないで敵に内通して不義理をしたからやむなく直家は攻めただけとか
直家が一方的に悪く書かれてるだけだし。
実際に内通の責任取って自刃した者の息子兄弟などはちゃんと直家の為に忠節を尽くしたりしてるし。
202 :
人間七七四年:2010/12/29(水) 13:10:53 ID:QHBzcGms
じゃあ、何で弟は兄と会う時に毎回鎖帷子着込むの?
203 :
人間七七四年:2010/12/29(水) 13:34:52 ID:G8nGIPtZ
1日:SRbRt7/c
2日:yBuZd+3I
3日:o+o0gV/n
4日:rYPytEYc
5日:4unj3228
6日:HZyZHJuB
7日:Pr0BqS6o
8日:QZzSow+8
9日:dH21dwXm
10日:QhbdL8yu
11日:Fbumpij3
12日:NkFakL2T
13日:wa3wFaH9
14日:HVS9ZQrC
15日:FtIbsd7Z
16日:hymCl0X/
17日:L5q7gGw+
18日:yQDzX8T6
19日:vTXG1r1b
20日:n2y5dJB0
21日:PEdhLYSD
22日:FSYyFstb
24日:jtKKFyEp
25日:eq4xQsUO
26日:NNnl+Koa
27日:WwnFpB58
28日:N6fQfW6s V32SrUy9
29日:5mb8/5+B 90jVp0OA
204 :
人間七七四年:2010/12/29(水) 13:37:24 ID:90jVp0OA
そんな一次史料ねぇだろ…
そもそも暗殺の危険があるような弟が宇喜多軍の総大将になってるわけねぇよ。
謀反されて直家が殺されるだろ。
205 :
人間七七四年:2010/12/30(木) 00:39:30 ID:qQbf/3jQ
>>201 何かいろいろ書いて誤魔化してるけど
舅や娘婿を殺した事に関して何で反論しないんだ
直家が信義を守る人間ならこんな事をしないんだから反論しろよ
206 :
人間七七四年:2010/12/30(木) 01:06:14 ID:taFbOw8c
ごまかしてないだろ。
ちゃんとした理由があってのことなんだから。
欲望のみの元就の悪事には理由がまるでない。
207 :
人間七七四年:2010/12/30(木) 03:06:55 ID:AUHzQb//
島村盛実←祖父・能家の仇討ちだし浦上宗景の許可を得ている。
中山信正←浦上宗景の命令
穝所元常←岡郷介が勝手にやっている(乞食女を母親にしたとかトンデモ話)
三村家親←遠藤兄弟が申し出てきたが直家は成功するとはまったく思っていなかったし、成功後もしばらく信じなかった。
金光宗高←毛利氏と内通。2人の息子は厚遇され関ヶ原まで忠節を尽くしている。
松田元賢←明禅寺合戦の際に援軍を出さないでシカト。元賢と伊賀久隆が対立し久隆が挙兵したので援軍だしただけ。
ほとんど毛利の捏造で悪人にされてるだけ。
毛利の軍記の影響を受けて1774年に完成したのが備前軍記。
208 :
人間七七四年:2010/12/30(木) 03:23:40 ID:v7ViHtI1
会津土民が暴れてるスレはここですか?(((;゚д゚)))
209 :
人間七七四年:2010/12/30(木) 05:52:51 ID:Diek0liL
>>207が捏造だという線も充分あるな
いくら毛利が捏造マンセー大好きだからとはいえアンチ毛利も捏造マンセー大好きだしな
ソースを提示してみろよ
210 :
人間七七四年:2010/12/30(木) 08:02:53 ID:6xV2vof3
三村家親を暗殺したのは自分の領地を増やしたかっただけでしょ?
なんでそんなに直家を神格化するんだろう
211 :
人間七七四年:2010/12/30(木) 11:47:25 ID:taFbOw8c
大友や宇喜多や尼子や大内が江戸時代には大名として滅亡して
藩史も残らなかったのを良いことに捏造し自己正当化と神格化の限りを尽くした恥知らず毛利の汚さ醜さは最強!
さらに明治政府時代には大内義隆に追いつけなかった元就らの官位を無理やり引き上げたり
昭和に入ると軍国少年に毛利親子天才すげー洗脳をしたりと捏造工作にふけていた。
滅亡した宇喜多がどうやって捏造したり神格化できんだよキチガイ毛利厨乙
212 :
人間七七四年:2010/12/30(木) 12:06:53 ID:Diek0liL
で、ソースは?捏造したソースもないならそれはあなたの空想上のもので統合失調症ry
213 :
人間七七四年:2010/12/30(木) 12:07:08 ID:6xV2vof3
必死すぎて怖い
これが宇喜多厨か
214 :
人間七七四年:2010/12/30(木) 12:22:58 ID:taFbOw8c
ソースも何も直家が悪人だとか暗殺命令者だとか書かれてるのが
軍記講談話であり史実ではまったくそれを証明できないんだから
悪魔の証明の要求に必死になってる毛利厨のキチガイさがよくわかるわ。
お前が直家が悪人だと軍記以外の史料で証明してみろよw
絶対にムリだけどなwww
215 :
人間七七四年:2010/12/30(木) 12:29:30 ID:6xV2vof3
毎日毎日暗殺に明け暮れる直家が良い人って言うほうがおかしいわ
216 :
人間七七四年:2010/12/30(木) 12:31:33 ID:6xV2vof3
あなたの大好きな宇喜多直家は太閤記にて松永久秀らと並ぶ悪人と書かれていますが
217 :
人間七七四年:2010/12/30(木) 14:09:00 ID:taFbOw8c
いまじゃ斉藤道三の業績が、実は親子でやったことと確定してるのに太閤記は悪人道三1人w
そもそも毛利厨は金をもらって書いた太閤記が史実だと思ってたのかよwww
大久保彦左衛門も昨日はウソばっか書いてるって言ってるしw
アホすぎ超ワロタwww
218 :
人間七七四年:2010/12/30(木) 14:10:14 ID:taFbOw8c
訂正
×昨日
○作者
219 :
人間七七四年:2010/12/30(木) 21:00:22 ID:Diek0liL
連投が続くとか面白いじゃないか
まさかの直家綺麗説
天地人の脚本みたいな感じかね
220 :
人間七七四年:2010/12/31(金) 00:01:18 ID:JNtKZKY9
最近は宇喜多厨なんてのもいるのか
221 :
人間七七四年:2010/12/31(金) 00:53:15 ID:IsOdGpsM
毛利さえ叩ければなんでも良いんじゃないの?
222 :
人間七七四年:2010/12/31(金) 01:04:11 ID:L/xNnA6C
223 :
人間七七四年:2010/12/31(金) 01:49:56 ID:fw2iCsMl
>>222 直家が舅や娘の夫を殺したことに関しての反論はまだぁ?
元就の事を娘を使って高橋を滅ぼしたから悪人だと言ってるのに
同じようにやっている直家さんは悪人じゃないとでも?
224 :
人間七七四年:2010/12/31(金) 02:42:50 ID:ppPt5uQF
225 :
人間七七四年:2010/12/31(金) 05:42:58 ID:VOH5a3T8
>>224 >>207のソースまだー?君の妄想じゃないの?暗殺しまくった直家が悪人じゃないなんて言う奴はそうそういないだろ
残念だけど妄想を語れるほどこっちは妄想力がないんだ あるんならソース出して見ろよ
226 :
人間七七四年:2010/12/31(金) 05:50:06 ID:L/xNnA6C
とりあえず毛利厨には
>>222が都合悪くて見えないらしいワロタw
直家が悪人とするソースはまったく無いんだから出せるわけ無いよな。
悪人としたい妄想だけはあるようだけどw
宗麟を悪人にしようとして完全論破されたりと毛利厨のブザマさは神レベルだよな…
227 :
人間七七四年:2010/12/31(金) 06:55:38 ID:ZDDfHZJL
直家が舅や娘の夫を殺したことに関しての反論はまだぁ?
元就の事を娘を使って高橋を滅ぼしたから悪人だと言ってるのに
同じようにやっている直家さんは悪人じゃないとでも?
228 :
人間七七四年:2010/12/31(金) 09:49:07 ID:VOH5a3T8
>>226 世間一般で直家を悪人と言う奴のが圧倒的に多いだろう
ゲーム講談では悪人扱いです(^^宇喜多厨涙目www2chで騒ぐしかできない惨めな負け犬www
229 :
人間七七四年:2010/12/31(金) 18:23:04 ID:HxDVPrAZ
結局、軍記講談で書いてあるから直家は悪人だとする
無知さが毛利厨の愚劣さそのものだな。。
230 :
人間七七四年:2011/01/01(土) 01:42:02 ID:McvhcOWW
>>229 直家が舅や娘の夫を殺したから悪人じゃないかと
こちらは書いてるんだけど
自分自身でそういった事をしたら悪人だと書いてるくせに
軍記講談で書いてあるからと逃げてないで
さっさと舅や娘の夫を殺してないソースなり何か出せば?
231 :
人間七七四年:2011/01/01(土) 03:44:51 ID:R6HYRZ60
毛利衰退の原因は、元就が作っている件
そもそも存在しない悪事について、
悪事を否定するならしてないとするソースを出せと無茶苦茶な要求をしながら
自分は悪事をした根拠を一切出さずに逃げるキチガイぶり。
211 :人間七七四年:2010/12/30(木) 11:47:25 ID:taFbOw8c
大友や宇喜多や尼子や大内が江戸時代には大名として滅亡して
藩史も残らなかったのを良いことに捏造し自己正当化と神格化の限りを尽くした恥知らず毛利の汚さ醜さは最強!
さらに明治政府時代には大内義隆に追いつけなかった元就らの官位を無理やり引き上げたり
昭和に入ると軍国少年に毛利親子天才すげー洗脳をしたりと捏造工作にふけていた。
滅亡した宇喜多がどうやって捏造したり神格化できんだよキチガイ毛利厨乙
212 :人間七七四年:2010/12/30(木) 12:06:53 ID:Diek0liL
で、ソースは?捏造したソースもないならそれはあなたの空想上のもので統合失調症ry
213 :人間七七四年:2010/12/30(木) 12:07:08 ID:6xV2vof3
必死すぎて怖い
これが宇喜多厨か
すごい勢いで連レスする気持ち悪い自演で
不利になるとオウム返しのソース出せの一点張りで喚くが
自分は一切出したことすらない無知毛利厨。
※
>>207>>211>>214>>217>>218>>226のレスで再三に渡り論破されてもガン無視を現在進行中w
ところで別なスレをのぞいて見ると・・・無知を曝け出し大敗しているのであったw
北条氏康(チキン・ザコ)をボコボコにするスレ
164 :人間七七四年:2010/12/30(木) 12:25:18 ID:taFbOw8c
なら一次史料で証明してみろよw
絶対にムリだけどなwww
165 :人間七七四年:2010/12/30(木) 12:38:16 ID:Diek0liL
否定出来るソースがないらしいなw
ただのキチガイでしたか
166 :人間七七四年:2010/12/30(木) 12:49:03 ID:6xV2vof3
川越夜戦が無かったとしても
多くの将兵が戦死し、その骨などもあったそうなので
なんらかの大きな戦があったのは間違いない
185 :人間七七四年:2010/12/31(金) 18:11:09 ID:HxDVPrAZ
黒田基樹も江戸時代成立の軍記物により「河越野戦」として喧伝されている戦いについては
同合戦そのものに関する良質な史料は極めて少ないと語っているし
当時の川越城は玉縄北条綱成ではなく宿老大道寺盛昌が城代をしていたとしてるから
天正12年にすでに綱成が河越城にいたとするのは明らかに事実誤認して偽文書を作成してしまったと断言できる。
北条厨は武田文書は偽文書ばかりと喚くくせに北条の文書は偽文書がないとか主張する気か?
すごい勢いで連レスする気持ち悪い自演で
不利になるとオウム返しのソース出せの一点張りで喚くが
自分は一切出したことすらない無知北条厨。
※現在の北条スレでは完全逃走中w
相変わらず鸚鵡返しとゲームとコーエー武将FILE本とWIKIだけを武器に
絡んでくる根拠ソースゼロ粘着キチガイを続けてるようですw
232 :
人間七七四年:2011/01/01(土) 04:58:17 ID:3xjl8Jn5
単芝にまともな人間はいない
これ豆知識な
233 :
人間七七四年:2011/01/01(土) 13:06:22 ID:wHmxKBOx
そもそも直家の被害者は誰で、どんな悪事を直家がしたのかソース付きで書いてもらわないとわからないよね。
悪事自体が後世の軍記ものの創作ばかりだから、
軍記に書かれてる内容で擁護の理由を書けば
信じられないから一次史料のソース出せって言うしもうむちゃくちゃ過ぎる。
論破されながら粘着を繰り返し悪魔の証明を要求する戦国板の常習特定人物がいるけど、
そいつは自分は一切ソース出さずにオウム返しで逃げて
ひたすらソースを出せを乱用連呼するだけの基地害自演がいるけど
>>231をみるとやはりそいつが粘着してたのか。
234 :
人間七七四年:2011/01/02(日) 00:23:40 ID:T2tgpDwf
完全に水掛け論になりあってるみたいだけど。
両方極悪人だろwww
今の概念からはな。
当時はそんなの当たり前な時代なんじゃないの?
悪人認定合戦とか無意味すぎるし無価値。
235 :
人間七七四年:2011/01/02(日) 01:49:13 ID:L8eaCEQL
>>188 しかも大内義隆が毛利のために後奈良天皇へ応永の先例に倣って官位を授けるように
嘆願して官位をもらいながらその義隆を陶と裏切る悪魔ぶり。
そして大友と内通して陶を裏切り奇襲し、さらに大友を裏切り奇襲するトンデモ基地害。
尼子義久との将軍の斡旋による和睦も石見をもらうとまた奇襲し滅ぼし
将軍の斡旋で大友と和睦しながら尼子問題が片付くとすぐ大友を奇襲する始末。
毛利の悪辣性はその全力捏造による元就は正義でいつも被害者。
悪いのは滅亡した大友や尼子や宇喜多や三村って顔をしてるところだな。
宇喜多らは改易して擁護されてないから全ての悪意を押し付けられてる。
ちょっと軽く考えただけで下記の国人レベルでさえ元就正義史観で悪く書かれて貶められてるからな。
超悪魔元就の正義無き強欲裏切り人生。
高橋氏の豊富な森林資源貿易の利益欲しさに
高橋久光の娘が毛利興元の正室で子が毛利幸松丸で元就の娘が高橋の人質と言う関係でありながら滅ぼす。
吉川の中国山地の鉄の独占利益欲しさに
吉川国経の娘が元就の正室、国経の嫡男・元経が元就の姉と言う関係でありながら滅ぼす。
井上元兼の通商路の関税貿易利潤欲しさに
孤立していた毛利元就を財政政治で強力支援して家督相続に成功させた井上一族を粛清する。
本城氏の銀山利益が欲しさに
元就の兄・毛利興元の夫人は常光の姪でありながら本城常光を滅ぼす。
236 :
人間七七四年:2011/01/02(日) 11:51:01 ID:hmwjN7SA
キチガイ宇喜多厨さん自演でつか?
237 :
人間七七四年:2011/01/02(日) 12:21:23 ID:5Row+Qpg
つーか、領地とか利権欲しさでやらかした元就の悪行(?)ってさ、あの時代なんだから批判される類のもんでもなくね?
238 :
人間七七四年:2011/01/02(日) 13:57:41 ID:1GUVMoUE
>>237 元就ほど人間が本来生まれながらにして持つ倫理や
生後に学ぶ儒教的価値観による道義から逸脱した盗賊や基地外と区別ができない人間なんているの?
あの時代だからこそ信義が重要だったんじゃないの?裏切りばかりで誰にも信用されなかったから晩年に全てが破綻して失意のうちに元就は死去し
一方の直家は信義を大切にしたから宇喜多家の将来を秀吉に託して安心して死ねたんじゃないの?
239 :
人間七七四年:2011/01/02(日) 17:05:00 ID:EzCpLR2T
>>238 >元就ほど人間が本来生まれながらにして持つ倫理や
生後に学ぶ儒教的価値観による道義から逸脱した盗賊や基地外と区別ができない人間なんているの?
これ書いてるあんた
>晩年に全てが破綻して失意のうちに元就は死去し
そもそも元就が失意のうちにとか言ってるのお前だけじゃない
それに全てが破綻してとか書いてるけど元春や隆景が謀反や独立をしたか?
領地が減ったり、家臣たちが寝返りをしたか?
結局は全てお前の妄想じゃないか
240 :
人間七七四年:2011/01/02(日) 19:12:04 ID:TXP0xtlM
>>238 >元就ほど人間が本来生まれながらにして持つ倫理や
生後に学ぶ儒教的価値観による道義から逸脱した盗賊や基地外と区別ができない人間なんているの?
宇喜多騒動が起きたのは秀家が基地外だからなんですね、分かります
241 :
人間七七四年:2011/01/02(日) 21:17:47 ID:QjAh2MG2
宇喜多信者なんて珍しい
絶滅しないよう八丈島に保護してやらないとな
242 :
人間七七四年:2011/01/02(日) 23:32:21 ID:hmwjN7SA
柵を越えて泳いでくるぞwwww
243 :
人間七七四年:2011/01/02(日) 23:58:08 ID:1GUVMoUE
>>239 えっ妄想?
長男死んだ後に年齢とキャリアで
実質毛利No.1だった次男の元春が
休みも取れずに戦い続けて
元就の葬儀にすら出席出来ないほど
毛利は版図大縮小進行中に陥り
追い詰められてたのに?
>>240 なぜ基地外なんだね?相変わらず理由も語れずただ悪口中傷するだけだよね。
244 :
人間七七四年:2011/01/03(月) 00:42:20 ID:G8sQCAmG
俺に言わせれば毛利も宇喜多も謀略使いまくりで
同じようなもんだけどな
245 :
人間七七四年:2011/01/03(月) 01:07:17 ID:+N2EKVdp
毛利家が一番苦境なのって明らかに信長に宣戦して時勢を読み間違えた事だろw
元就も生前問題残したけどクリアー出来る程度だったわけだし。
代替わりが一番危険な時代に一族揃って良くやったと思うわ。
後に仇になって返ってくるけどw
武田上杉みたいに相続からいきなり畿内のボスが敵とかの状態残して跡継ぎ問題に
亀裂残して死ぬのが一番最悪なパターンだろw
246 :
人間七七四年:2011/01/03(月) 06:20:42 ID:Dl/6X40q
1566年7月には毛利が後援していた三村元親を浦上配下の宇喜多が明善寺合戦で破り
備前西部・美作から三村氏を追い払い備中深くまで侵入し
1568年には撫川城(備中南東)・猿掛城(備中南西)・斎田城(美作・備後国境沿い)と宇喜多の前に次々落城し、
最後の仕上げとして直家の調略で備中の名族庄氏が裏切り備中中枢の松山城の居城を奪われ三村氏は崩壊。
大友は毛利が清水を派兵して支援している北九州の国人を叩き潰すために元就の目を逸らす目的で四国の一条氏に支援を送る。
これに引っかかり3月に元就曰く「来島扶持を以て隆元、我ら頸をつぎたる事に候」厳島の恩返しのスローガンで隆景が河野支援で四国へ。
7月4日、道雪の調略で立花城落城。立花鑑載討ち死に。高橋城からからくも脱出した原田、衛藤らは清水とともに中国へ大敗走。
8月、原田、衛藤が立花城奪還を図り、再度、やってきた毛利の将たる清水と5000を集めて襲撃するも撃破される。
清水もなんとか新宮の浜から長門へ落ちた。前回の戦いのダメージから回復していない秋月は毛利の援軍敗北を知り大友に降伏。
宝満城の高橋鑑種が孤立化。 九州の戦況激変により隆景は四国での厳島の恩返しを投げ出して大友氏と戦うために九州へ。
この際、なんで小早川の私欲のために俺らが狩り出されなきゃならんわけ?と思っていた
毛利兵が四国から九州へ向かう船上で対岸の故郷を見て士気が下がらないように船を布で覆ったという。
毛利が大友戦で四国の余裕が無くなり大友の後援を受けている一条氏が西園寺をも降し
小早川隷属下だった伊予での主導権を握り11月には東表の合戦に一条氏が大勝利し
甲之森城主の長山伯耆に切敷のうち六町を与えて毛利の後援を受けている河野との形勢逆転に成功。今後は大友支援の一条VS長宗我部になっていく。
1569年2月大友全軍をあげて毛利支援の龍造寺討伐を開始し隆信を佐賀城へ押し込む。
これにより毛利支援の神代、馬場、八戸、横岳、犬塚、小田、姉川、高木が大友に降伏。
3月毛利4万で門司城奇襲し小倉城に着陣し元就も対大友戦で長府へ(翌年正月に輝元をおいて元就は吉田へ帰る)
5月より大友との多々良浜の戦いが開始され吉岡宗歓の秘策を宗麟が実行し村上武吉が見て見ぬフリをしたために大成功し大内軍が後方の周防国へ上陸し
合戦でも5月18日毛利4万と大友3万5000が立花を巡って決戦をし、道雪が小早川隆景隊左翼に突撃をかけて敗走させたために毛利全軍も敗走していた。
11月15日雨天にみぞれが混じり降る寒風の夜に吉川元春を殿に撤退開始。
「士卒大いに凍え疲れ、親を捨て主を跡に置きて、我一にと逃げ行くを小倉の津まで追討。
行程十余里が間、死人算を乱せるが如し、今日大友方へ討取る首数3491級」 そして置き去りにされた立花城の毛利軍も降伏。
247 :
人間七七四年:2011/01/03(月) 06:22:31 ID:Dl/6X40q
さらに尼子残党が隠岐より上陸し出雲一国をほぼ制圧してしまう。
三浦氏(美作西部の有力者)も三村氏より美作西部の要衝高田城を奪還。
(美作三浦氏は大友宗麟から山中鹿介経由で塩硝を援助してもらい攻勢)
毛利軍が備中猿掛城を落城させるも備中斎田城で宇喜多勢に大敗。毛利方香川春継が尼子・三浦氏より高田城奪取。
山中幸盛らの尼子残党に西伯耆の軍事上の中心地の尾高城を奪われる
上洛を果たした将軍足利義昭・織田信長に赤松政秀や宇喜多直家が一時的に降るも
織田の派遣した池田勝正、別所安治が越前に行くことになり
すぐ帰ってしまい見捨てられた4ヶ月ほどで直家は浦上宗景の配下に戻る。
毛利を待ち続けた高橋鑑種が11月下旬に、ついに大友に降伏し肥前、筑前、豊前の再制圧が完了し立花城には道雪が配置された。
大友は最盛期を迎える一方で毛利財政はすでに破綻しており荒廃し再興に失敗した山口の都に代わる商都博多奪取も諦める。
1570年2月尼子残党の月山富田城攻略失敗。そこで尼子と宇喜多はさらに結びつきを強め、
尼子勝久・山中幸盛らは備中より美作へ1000の援軍を派遣し三浦氏を支援し10月には毛利軍を破り高田城は落城。
尼子勢は備中を次々に降し幸山城(倉敷北方)・松山城などの諸氏は尼子に降り毛利方の城攻めを開始しほぼ毛利は備中失陥。
宇喜多配下の花房職秀は荒神山城を築城し美作支配の拠点とする(宇喜多が美作をほぼ制圧完了)
宗麟と一条氏は宇和郡へ大攻勢をかけるなど河野氏は衰退する一方。
1571年毛利と同盟して因幡を乗っ取った武田高信が但馬侵入するも山名氏の塩冶高清(尼子党と織田氏の前に帰順していた)に大敗。
西伯耆の浄満原で毛利の杉原盛重が尼子党(信長の支援で但馬因幡の山名氏を復興させた)と戦う
美作三浦氏と備前浦上宗景と尼子勝久&三好氏の篠原長房と協力して備前児島で毛利氏に勝利。
100万石まで超激減しまさに滅亡の瀬戸際の毛利・・・
6/14大友に続き織田とも敵対し始めた元就が元春と隆景と五龍の仲がむちゃくちゃ険悪なのを案じながら死去。
248 :
人間七七四年:2011/01/03(月) 13:57:18 ID:t8F5tt9P
3行で
249 :
人間七七四年:2011/01/03(月) 20:13:16 ID:hOgC+vdh
但馬守護の山名祐豊が擁立していた因幡守護山名豊数打倒のために
毛利氏傘下の伯耆国人衆の支援を受けた武田高信が
山名豊弘(岩井屋形)を擁立しクーデター成功し因幡を掌握。
勢いに乗り豊数(布施屋形)の弟・山名豊国も但馬へ追放。
豊数の死後に山中幸盛ら尼子氏残党軍の支援を得て豊国は因幡山名家の家督を継承。
高信は毛利氏に従って但馬国・美作国へ進出を始めるが尼子党が攻撃が開始される。
1569年但馬に侵攻した尼子党と織田氏の前に但馬守護の山名祐豊は滅亡し塩冶高清も帰順。
織田尼子方の高清と豊国が内通し毛利方の高信が攻め寄せる。
祐豊は織田信長に直接会い配下になることで但馬領有を認められ但馬へ帰還。
1570年織田&但馬衆&尼子の支援を受けた山名豊国が盛んに毛利の因幡へ侵入。
1571年毛利方の高信は但馬国芦屋城の高清を攻めて大敗鳥取城を山名豊国に明け渡すハメに。
1571年6/14元就死去。1572年毛利方の高信を尼子山名軍は討ち取る。
元就の遺産とも言うべき財政崩壊中の毛利は但馬の生野銀山欲しさに天正以降(1573年)に山陰を東進し
織田が一向一揆に苦戦してるのを横目に吉川元春によって山名氏を降伏させ毛利方にするも
1578年上杉謙信が急死し第二次織田包囲網が崩壊するや
有効な支援もできず三木合戦・有岡城の戦い・第二次木津川口の戦いと山陽での敗退と同様に山陰でも総敗北。
宣教師は野蛮な方法で大内を滅ぼした暴君元就と言っているが、
1567年9月の中国にいる司教ドン・ベルショール・カルネイロへの宗麟書状では
毛利を打ち破り山口に宣教師を赴かせ布教させる為にも
山口に硝石の輸出を一切止めて
代わりに自分のところに毎年良質な硝石200斤を対日航海指揮官カピタン・モールに援助して欲しい。
もしこの要望に必要とあらば100タイスまたは必要とする金額を払うと言ってる。
また美作三浦氏は1569年大友宗麟から山中鹿介経由で塩硝を援助してもらっているなど
経済貿易武器戦争を宗麟は毛利に仕掛けていたのがわかる。
250 :
人間七七四年:2011/01/03(月) 20:14:44 ID:hOgC+vdh
>>248 1570年4月の信長の浅井に黙っての朝倉攻め〜1572年11月の信玄の西上作戦という
織田包囲網のおかげで織田勢力が畿内情勢に目が向かってる隙に戦線を好転させたので
元就死後の前後のボロボロ毛利が助かる時間があっただけ。
そういや伯耆国で毛利が支援していた南条氏も1569年には尼子残党の猛攻の前に
毛利との連絡線が途絶され孤立化してたな。
しかも気づいたら浦上氏まで織田配下になっていた罠w
あの元就を死に追い込んだ尼子残党の自分達を支援してくれるなら
織田、浦上&宇喜多、大友、三浦ら誰とでも手を組んで反毛利を貫き
アチコチで毛利の敵を次々に作って火をつけて回る執拗なガッツの原動力は
結局、尼子晴久の突然の死去で20歳の尼子義久が
足利義輝の講和斡旋の顔を立てて元就の主張する石見不干渉要求を飲んで
一方的譲歩の銀山を含む石見国譲渡の講和で平和になったはずが
それを受け取るや速攻で出雲へ奇襲して尼子を背信的詐術で騙し滅ぼした怨恨に根ざす。
汚い手口をした元就に反感を持つ国人層たちが一寸の正義すら無い毛利の占領政策における
ソフトランディングを困難にしてしまい尼子残党の大反抗を呼び込んだ。
さらに長く大内家臣として反大友の戦いの歴史で戦死を出してきた北九州国人達を
元就は利用するだけ利用して見捨てるなど愚劣な策ばかりで弄んでいた。
元就がもっと早く死んで大友との間に決定的な敗北をせずに
穏便に講和していればよかったのは間違いない。
251 :
人間七七四年:2011/01/04(火) 02:28:55 ID:pIWyA/Hg
1571年6/14に元就が死んだとは言え
実際、1569年末に大友の前に大敗走した後も
大友軍の報復の影に怯えて輝元と隆景を長府に配置したまま
元就だけ正月に吉田に帰って尼子党と戦う指揮を取ってた。
だが尼子残党の急拡大の激しさにショックの余り
9月には元就は倒れて一時危篤状態になったと言うし
その際に尼子残党を元春に任せ輝元と隆景は
大友の動きを警戒しつつ極秘に元就のもとへ急行・・・
元就は九州・四国・中国中部の3方向で
戦線が刻々と崩壊瓦解する中で絶望感のあまり死んだのは明白だよな。
252 :
人間七七四年:2011/01/04(火) 13:04:36 ID:UNTE1f2W
いや、没した年齢は75歳だし
失意とかそういうの関係なく自然死でしょ
253 :
人間七七四年:2011/01/04(火) 14:03:51 ID:Ef3kZphD
元就だってよぼよぼのじいさんだったんだぜ? 元々かなり無理してたんだよ
どんだけじいさんに厳しいんだ
254 :
人間七七四年:2011/01/04(火) 17:47:49 ID:hflnlgvn
警報!
ID:pIWyA/Hgは他スレ(北条・毛利・上杉・伊達・武田・織田・今川)でも暴れている荒らしです。
戦国の知識が無いどころか頭が悪い荒らしなのでスルーを推奨します。
【海道一の弓取り】今川義元、北条氏康に圧勝
レス番号 172
毛利衰退の原因は、元就が作っている件
レス番号 251
上杉謙信VS伊達政宗
レス番号 726
武田信玄は過大評価されすぎ!!part2
レス番号 65
織田信長最大の功績は何か
レス番号 239
織田信長は日本最高の過大評価
レス番号 986
漏れがあったらスマン!
255 :
人間七七四年:2011/01/04(火) 18:04:53 ID:hflnlgvn
追加!
北条氏康(チキン・ザコ)をボコボコにするスレ
レス番号 195
まだ増える模様。
256 :
人間七七四年:2011/01/04(火) 18:32:55 ID:pIWyA/Hg
馬鹿な荒らしは毛利厨の方だろwww
無知を毎回露呈させて毛利厨であるのを隠して
他スレで知恵を借りようとしてて恥ずかしくないの?
37:人間七七四年 12/31(金) 09:05 ZDDfHZJL [sage]
じゃあ、これについてどう思う?
207 名前:人間七七四年[]
島村盛実←祖父・能家の仇討ちだし浦上宗景の許可を得ている。
中山信正←浦上宗景の命令
穝所元常←岡郷介が勝手にやっている(乞食女を母親にしたとかトンデモ話)
三村家親←遠藤兄弟が申し出てきたが直家は成功するとはまったく思っていなかったし、成功後もしばらく信じなかった。
金光宗高←毛利氏と内通。2人の息子は厚遇され関ヶ原まで忠節を尽くしている。
松田元賢←明禅寺合戦の際に援軍を出さないでシカト。元賢と伊賀久隆が対立し久隆が挙兵したので援軍だしただけ。
45:人間七七四年 01/02(日) 00:42 1GUVMoUE
アンチ宇喜多の超毛利厨が他スレで大敗して
宇喜多スレに助けを求めてコピペとかワロタwww
むかし大友スレでも他人のフリして超毛利厨が質問しまくってたの思い出すわw
さらに三戦板や日本史スレでも素人のフリして
同じ質問しまくってたからさらに笑えたなw
257 :
人間七七四年:2011/01/04(火) 19:36:43 ID:MhMNyeHQ
>>256 他のスレも拝見させてもらったが荒らしはおまえだよw
258 :
人間七七四年:2011/01/05(水) 01:47:45 ID:FJXcR/ON
毛利厨は失意のあまりに
憤死した因果応報な
元就の哀れな末路を
正視できないようだw
結局、尼子晴久のような尼子最盛期の栄光を胸に
家中からその死を惜しまれつつ逝った偉大な指導者では無く
元就はブザマな悪党として家中からその失策を批難されつつ死んだと言う事実。
259 :
人間七七四年:2011/01/05(水) 02:20:34 ID:VZ8MvKOE
ソースは?
260 :
人間七七四年:2011/01/05(水) 02:51:20 ID:GKCGOaAP
元就が勢力を一気に拡大したのは晩年
隆元も死去してもう中央集権する時間的余裕が無い時期
となれば血族中心で旧来の国人領主たちの盟主的存在の維持は妥当な選択だわ
261 :
人間七七四年:2011/01/05(水) 02:54:38 ID:FJXcR/ON
ごまかし方が非常に残念w
元就の晩年はなんと50年近くありましたwww
262 :
人間七七四年:2011/01/05(水) 04:05:16 ID:GKCGOaAP
>>261 頭大丈夫か?wwwwww
当時の毛利家は数万石の一国人、
で今川を超える尼子大内の2大勢力に囲まれてる
>晩年はなんと50年近くありました
このソースは?w
263 :
人間七七四年:2011/01/05(水) 04:40:29 ID:U+fECar9
>>261 つまり、元就は25歳のころにはもう大勢力に拡大していたと?
馬鹿じゃねえの、お前?
264 :
人間七七四年:2011/01/05(水) 10:42:39 ID:i0m7Dt8A
元就の書状を見るとすごいネガティブで笑ってしまう
265 :
人間七七四年:2011/01/05(水) 14:56:27 ID:VZ8MvKOE
元就が勢力拡大に動くのは40歳頃からじゃないの?
266 :
人間七七四年:2011/01/05(水) 18:41:37 ID:0HqzwLfz
>>264 策略じゃなくて、天然でネガティブすぎて、
書状受け取った周囲の大名もネガティブな考えに取り付かれて、
勝手に内部分裂起こしたり疑心暗鬼になって衰退していったとかいう漫画にしたら面白そうw
鬱大名!毛利元就
267 :
人間七七四年:2011/01/05(水) 19:24:01 ID:SdIZm33Y
>>260>>262 元就は「勢力を一気に拡大した」のは兄を殺し
幸松丸も弟も殺して毛利本家の乗っ取りをした
元就27歳だからバッチリ50年近くあるだろwww
まぁ百歩譲って「晩年」なら
謙信や信玄や信長が死んだ頃だから50歳前後だろ?
47歳で竹原小早川氏の申し出を受けて養子を出して
50歳で妻・妙久の実家の縁で吉川の申し出で
養子出してる頃だとしてもたっぷり25年くらいあるだろwww
俺はどっちを書けばいいのか悩んだぞw
お前のいい加減でデタラメな定義づけが劣悪過ぎたせいなだけじゃねぇかw
勝手に俺のミスにして寝ずに自演してんじゃねーよ無職くんw
それともお前は陶と戦った58歳の時の話か?
それですらまだ余裕で16年も惰性で生きてんだろw
>>尼子大内の2大勢力に囲まれてる
あっ?囲まれてるどころか非常にラッキーと言うかうれしいことに
安芸の一揆の盟主の家柄の毛利を仲間に加えないと安芸が安定しないから
どっちも自分の陣営に来てくださいって好条件を提示してきて
毛利は温るま湯にじゃぶじゃぶ浸かってたじゃんwww
大内から海に近い領地まで要求して労せずして領地広げてるしよ。
>>264>>266 そうだよね。鬱病で精神疾患だったから倫理観も壊れてたんだよ。
元就は「来島扶持を以て隆元、我ら頸をつぎたる事に候」と言ってるように
厳島の戦いにおいて村上水軍が味方になってくれなかったら俺達は絶望的だったと
言ってるように、厳島で陶に勝ったのは陶に瀬戸内海貿易の統制を強要されて
反発した村上水軍のおかげであり元就らは他力本願で勝ちのおこぼれを頂けたに過ぎない。
また兄弟のあまりの険悪さに、隆元が元就にチクって、手紙を出したら
それに反発してさらに険悪になった兄弟の仲。
まぁ追い詰められてネガティブになるよな・・・
義輝は毛利のために和睦を何度も斡旋して助けてあげてきたのに
和睦で相手が安心して対毛利の軍備を緩めると早速奇襲して和睦をブチ壊して
義輝の顔に泥を塗り、将軍の権威を潰しまくり。
それでも元就は恥も知らずに「俺、体調悪いから上洛できねw」ってシカトぶっこき
将軍が元就を心配してたびたび派遣していた名医・曲直瀬道三に診察を受け続けてる劣悪人格者。
いやぁこれおもしろい。
http://www.rcc-tv.jp/motonari/
268 :
人間七七四年:2011/01/05(水) 20:21:04 ID:i0m7Dt8A
>>266 「ゆううつ!」か
でもこれだと憂鬱そうじゃないなww
269 :
人間七七四年:2011/01/05(水) 21:08:40 ID:X5H2gLR6
>>267 何で家督を継いだだけで「勢力を一気に拡大した」とか書くのがわからん
じゃあ他の大名の息子が家督を継いだら「勢力を一気に拡大した」とか書かれてる文献でもあんの
だいだい毛利家の領地は増えてもないのに「勢力を一気に拡大した」とか大内や尼子の領地が
勝手に毛利家の領地になったと267の不思議な脳みそが妄想でもしたの?
270 :
人間七七四年:2011/01/05(水) 23:19:34 ID:XKblcLyG
>>267 ID:SdIZm33Yは戦国時代について素人なのか?
それとも日本語が分かってない朝鮮人なのか?
どちらにしても荒らしだということは分かったw
271 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 05:31:37 ID:fFsuftco
>>269 子作りマシン元就の派閥が幸松丸派の領地をごっそり奪いとって勢力も精力も一気に増したじゃんw
そういや1569年の信長配下の摂津守護池田勝正指揮下の但馬守護山名祐豊攻め・播磨浦上城攻撃は
すさまじい勢いで誰も阻止できなかったと言うね。
なんせルイス・フロイスが天下に高名であり、要すればいつでも五畿内においてもっとも卓越
と賞嘆した池田勝正は金融政策に明るく領地支配の確立から兵農分離まで成し遂げていたとも言われ
根来衆を傭兵として配下に加えて無敵の軍だったとも言われた。
結局、越前朝倉攻めで呼び戻されたが金ヶ崎の退き口において秀吉や光秀らを配下にして殿を務めたほどの実力者。
ほんと元就は運だけで領地を拡大できただけ・・・織田の朝倉攻めのおかげで元就は命拾いしたよね。
ちょうど元就は大友に大敗し宇喜多に備中美作を奪われ、尼子残党に出雲と伯耆の大半を奪われ
毛利方の伯耆の南条と因幡の武田は各々連絡線を分断され孤立し各個撃破の危機下だったんだから。
おまけに信長に許された山名祐豊が織田配下として但馬に帰還して
因幡守護の甥の山名豊国と毛利方攻めしてんだから。毛利厨にとってもう朝倉義景って救国の英雄だよなぁ。
もし朝倉が織田に出仕してたら元就は織田軍にフルボッコされて元就は信長に殺されてたよね。
まぁでも史実では1570年内は信長が志賀の陣で追い詰められて朝倉に土下座したりしてたから毛利は余命伸びたね。
毛利が破滅する寸前に元就がギリギリのタイミングだったけど死んでくれてよかったよね。
272 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 16:47:25 ID:0Ypir06E
>元就は「勢力を一気に拡大した」のは兄を殺し
息をするかのようにさり気なく兄を殺したとか嘘を吐いてる時点で話にならないねw
元就が兄を殺したというソースは?また例によって話を摩り替えて逃げるつもりか?
>子作りマシン元就の派閥が幸松丸派の領地をごっそり奪いとって勢力も精力も一気に増したじゃんw
で、具体的に元々どれくらいの勢力で当主になった後どれくらいまで勢力が拡大したの?
273 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 18:34:12 ID:qk7E5B48
>>263 当時の大内尼子は今川を超える2大勢力だもんな
その勢力のど真ん中で武田氏以下の高橋吉川熊谷らと同レベルで
国人の盟主的立場にはなれても中央集権なんて夢のまた夢
秀吉以外の英雄では断トツ不利なスタートラインつうのにw
274 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 19:26:04 ID:fFsuftco
>>272>>273 酒毒なんて毛利氏でしか使わないような言葉で必死に隠蔽www
戦国大名で酒毒で死んだヤツなんて毛利親子だけwwwなぜなら酒に入れた毒で死んだのを
あからさまに口にすることがはばかられる酒毒と書いてるだけ。
トイレを雪隠と言い換えるようなもん。毛利は雅だねwww
おまけに弟が尼子の支援を受けてたから殺したって言い訳してるけど
実際、弟を殺した後も尼子方にいたじゃねぇかwww
1524年5月大内義隆が銀山城を攻めたときも元就は尼子軍傘下で
7月10日からの銀山城救援合戦に参加しているだろw
1528年10月に大内の味方になったら領地が無料でもらえるから喜んで
元就は家臣の井上元兼の一族の井上新三郎を大内氏への人質に出して
死去寸前の義興は息子を頼むって元就に
安芸可部七百貫・温科三百貫・深川上下三百貫・玖村七十貫等の地を加増してるし。
プププwお前ら毛利領3千貫をどうやって計算して高橋吉川熊谷らと同レベルなんて算出してんの?
しかも3千貫・多治比3百貫だってソースが無いデタラメなのにwww
さらに元就の父の弘元は天皇家領の多治比を横領した大罪人とされてるんだから
本当の元就は朝敵の身分を隠して謝罪もせず多治比すら返却せず
官位を受けた恥知らずで大逆無道な人格なんだよwww毛利捏造軍記乙wwww
275 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 21:08:15 ID:0Ypir06E
>>274 やけに詳しく年表を書ける割には肝心な毛利が大内方に転じた年は書かずに
他の出来事と抱き合わせにして書いて誤魔化してる辺り余程都合が悪いのだろうなw
しかも「井上一族」と書かず「井上元兼の一族」と書いて恰も元兼に直接関係してるかのように捏造する始末w
>酒に入れた毒で死んだ
それを裏付ける証拠は?
>しかも3千貫・多治比3百貫だってソースが無いデタラメなのにwww
では本当は何貫であってそれを裏付ける証拠は何処にあるんだね?
勿論元就が毛利家当主になった直後の時点で
>弘元は大罪人とされてるんだから
弘元が大罪人とされてる証拠は?
276 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 21:57:33 ID:9XE3cjFN
豊元とか弘元も早死にしてるけどそのへんどう考えてるの?
277 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 22:54:55 ID:a5dJit+9
いつもどおりの大フィーバー!
織田・北条・毛利に対して異常なまでのアンチきちがい
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523 : 2011/01/06(木) 05:50:05 ID:fFsuftco
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271 : 2011/01/06(木) 05:31:37 ID:fFsuftco
274 : 2011/01/06(木) 19:26:04 ID:fFsuftco
アンチのやることは捏造と改竄だけ
278 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 23:26:15 ID:ypI8YHg2
弘元は酒が元で死んだって言われてるけど
もしかしたら元就の謀殺かもしれんね
上手く幸松丸の後見になれたし
279 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 23:34:16 ID:PuwpU7TL
>>267は当時の中国地方情勢、
というか毛利の勢力圏の知識全くない模様w
280 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 23:53:13 ID:ZXPyp+ro
>>278 当時10歳のそれも元就とすら名乗ってなかったガキが父を殺してなんの得があるんだね
しかも当時は既に兄興元に家督を譲って隠居の身で実権なんて無いのに
281 :
人間七七四年:2011/01/07(金) 00:13:26 ID:jWelRwYK
ほんとID:fFsuftcoはろくなことしてないな。
282 :
人間七七四年:2011/01/07(金) 00:39:06 ID:ZTc3NEsB
武田最盛期の真田程度の国人に注文付ける
>>1は凄いぜ
283 :
人間七七四年:2011/01/07(金) 01:54:38 ID:jyu3Dxqr
284 :
人間七七四年:2011/01/07(金) 01:58:22 ID:bHwyq0oH
>>275 なにが言いたいのかイマイチ理解できない。
もう少し日本語勉強しようね。
あと俺の意見に文句言うならちゃんとソース付きで反論してねw
>>279 ならお前が立派な年表を作ってから言えよw
>>280 相変わらずアホよな。
元就の年齢なんて関係ねーんだよ。問題は元就の側近や毛利重臣の意向だよ。
信玄だってただ反信虎の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによって擁立されて
クーデターを起してるだけだし。
そもそも織田も伊達も上杉も大友もみんな家督を巡る血生臭い抗争をしてるのに
実に怪しい突然死&怪死をしているのに毛利だけは少年ジャンプの漫画みたいに善意と友情で
平和裏に家督が譲られたなんてことがありえるわけねーだろw
>>282 3千貫をどうやって計算して真田らと同レベルなんて算出してんの?
そもそも一揆の盟主の家柄の毛利をどうにか自分の陣営に招き入れて
安芸での主導権を握りたい大内や武田が使えないと悟った尼子らは元就に非常に優しかったわけだが。
まあ求人がたくさんあり売り手市場で強気の労働者が毛利で、
青田買いしたい大内・尼子の立場の方がはっきり言って低かった。
中国地方の寄親寄子制度の温るま湯世界では、自陣営に付くように威圧はしても
滅亡させるような行動はほとんど採らなかったなぁなぁの戦いばっかだったし。
285 :
人間七七四年:2011/01/07(金) 08:15:35 ID:bO+ippJ4
>>284 >なにが言いたいのかイマイチ理解できない。
都合が悪くて反論出来ない奴ほど理解不能とか言って誤魔化して逃げるよなw
それとも何か?お前の読解力の無さを棚に上げてこっちに責任転嫁するつもりか?w
>あと俺の意見に文句言うならちゃんとソース付きで反論してねw
一度たりともソースを出した事の無いくせによくもまあそうしれっと言えるなw
>そもそも織田も伊達も上杉も大友もみんな家督を巡る血生臭い抗争をしてるのに
つまりどいつもこいつも武士は卑怯を蔑み信義を大切云々とやらを実践してないという事か
その場しのぎの言い訳で自分で墓穴を掘ってりゃ世話ねえなw
>実に怪しい突然死&怪死をしているのに毛利だけは少年ジャンプの漫画みたいに善意と友情で
>平和裏に家督が譲られたなんてことがありえるわけねーだろw
誰も平和裏に家督が譲られたとか主張した覚えは無いが
流石アンチは無い事を捏っち上げて出来事や人の意見を本当にあったかのように捏造するのが好きだなw
286 :
人間七七四年:2011/01/07(金) 10:37:13 ID:oYBD1Vdo
あれが平和裏に見えるってやばくね?
287 :
人間七七四年:2011/01/07(金) 10:54:30 ID:6A/ARiry
相合元綱
288 :
人間七七四年:2011/01/07(金) 18:27:54 ID:bHwyq0oH
>>285 だからちゃんと詳しく書かないと何が言いたいかわからんって言ってるわけ。
馬鹿すぎてわからないの?まぁwikiを見てるだけじゃ詳しく書けないのも無理ないねw
信長は一度は謀反した信勝を許してやっているのに、再度の謀反を企んでたのを
柴田が二度も謀反するのに関わりたくないから通報したから殺され自業自得。
上杉は晴景が越後での反乱の鎮圧に派遣した謙信が活躍して国人の支持を受けていることに
疑心暗鬼を感じて襲いかかってきたからやむなく戦闘するが和睦して殺害したりしてないし。
大友だって宗麟自身が知らないところで二階崩れの変が起きてただけ。
激怒した宗麟は宗麟擁立派にも関わらず津久見美作・田口新蔵人ら首謀者を
義鑑暗殺の罪で死刑にして府内の混乱を落ち着かせただけ。
そもそも入田親誠が斎藤長実ら義鎮派の主要人物を次々と誅殺しまくってたのが悪いわけで
事件が起きて逃げた入田親誠は岳父である阿蘇惟豊の庇護を求めたが
親誠のいままでの悪行に怒った岳父阿蘇惟豊により親誠は殺されてるくらいだし。
史実
高橋氏の嫡男だった高橋元光は比叡尾城主三吉氏を攻めていた。
1515年にも三吉方の支城加井妻城攻めを行い攻撃中にまさかの戦死
嫡男元光の戦死により惣領久光は次男重光の子で孫にあたる興光を後嗣
1516年毛利興元が病死し、久光は興元のあとを継いだ幸松丸の外祖父になった。
久光の死は記録に残されておらず謎である。
さて捏造毛利軍記の安西軍策を見てみよう!
永正17年8月(1520年)興元が病死
(なんと酒毒で死んだはずの興元をさらに4年も延命させて高橋元光の討ち死に話と順序を逆に歪曲w)
1521年3月高橋大九郎(久光)が三吉修理大夫と戦い青屋城郊外で討ち死に(それ元光じゃねーのw)
高橋は元就の兄の子である幸松丸の外祖父であるからと元就は支援にやってきて
家人を高橋の城に付けて従わせ高松領1万6000貫を自然に治めた(善人顔しながら横領www)
しかも高橋は当時、石見国邑智郡の阿須那・出羽、安芸国の北半分、山県郡の東部にまで及び
「三歳子牛の毛数ほど人数持ちたり」と称されるほど強大なものになっていたはず・・・
捏造毛利が主張する毛利3千貫・元就多治比3百貫の毛利が
高橋の親戚や婚姻相手を無視して平気な顔で高松領1万6000貫をいきなり横領できるわけねーしwww
そもそも高橋久光と高橋元光の討ち死がパクリなのでそっくり過ぎて笑えるんですけどwww
※高橋氏の惣領は「大九郎」を名乗っています。さすがに名前は明記できず
安西軍策ではなぜか普段の名前表記を使わず「大九郎」と書いて誤魔化してますw
そうなると実は幸松丸の外祖父に当たる次男重光の娘が興元に嫁いでいたのを
外曽祖父である元光の娘が嫁いだことに捏造している可能性すらあります。
さぁ得意の元就マンセー理論で元就自己正当化を恥知らずにも開始し
歪曲捏造するためなら高橋の系図までグチャグチャにして興元・幸松丸の謀死を隠蔽してます。
289 :
人間七七四年:2011/01/07(金) 19:37:33 ID:bHwyq0oH
訂正
×外曽祖父である元光の娘が嫁いだことに
○外曽祖父である久光の娘が嫁いだことに
290 :
人間七七四年:2011/01/07(金) 20:21:05 ID:MLzGgIBs
>>288 一言で言うと「『天下一品』のラーメンは美味い」ってことでOK?
291 :
人間七七四年:2011/01/07(金) 23:03:55 ID:bO+ippJ4
>>288 >だからちゃんと詳しく書かないと何が言いたいかわからんって言ってるわけ。
お前が何処が分からないのか詳しく書かないとこっちも知りようが無いのだが
それとも具体的に何処が分からないのか書けない事情でもあるの?
>まぁwikiを見てるだけじゃ詳しく書けないのも無理ないねw
で、お前の元就が興元を殺したとか頓珍漢な戯言は何処の資料から引っ張り出してきたの?脳内妄想?
それより1528年10月に大内の味方になったら〜という話は何処の資料から引っ張り出してきたんだね?
それにしても武士は卑怯を蔑み信義を大切云々に対する反論がわざわざ長文にしてまで苦しい言い訳で笑えるなw
ところでさあ、お前を除いて誰も引き合いにすら出してない安西軍策を引っ張り出してきて一体何をしたいの?
一人で勝手に喚いて勝手に悦に入られてもこっちには何をしたいのか理解に苦しむだけなんだけど
あと史実とか偉そうに書くくらいだから義興の死後に高橋氏が大内から尼子に寝返った事も当然知ってるよな?
292 :
人間七七四年:2011/01/07(金) 23:50:51 ID:EHBZ6VnT
>>288 >1516年毛利興元が病死し、久光は興元のあとを継いだ幸松丸の外祖父になった。
これの意味がわからん
幸松丸の母は久光の娘なんだから興元が病死しなくても外祖父じゃん
288の戦国妄想伝だと娘の夫が死なないと外祖父になれんのか?
293 :
人間七七四年:2011/01/08(土) 00:00:54 ID:00gFF56O
織田・北条・毛利のアンチは最近リストラされてしまい
毎日2chにガチで入浸っているんだなぁw
294 :
人間七七四年:2011/01/08(土) 00:35:01 ID:ed4DKf5+
>>293 単芝で煽ると同類に見られるからやめといたほうがいいよ
295 :
人間七七四年:2011/01/08(土) 01:02:26 ID:owWx0uMk
>>284 3千貫って約1万2千石だから200騎の真田の方が断然上だな
加えて井上氏が1/3を占めていて家督継いだ頃は実質2千貫
つうか盟主的存在って安芸では武田氏次いで高橋氏だろうがwww
元就の飛躍はアレが使えない無能だったから、運に恵まれただけ(笑)
296 :
人間七七四年:2011/01/08(土) 05:00:51 ID:JhD0SIM7
>>291 ドコが分からないも何もお前は前後の経緯も書かず断片的に書いてるだけで
具体的には何も書いてないからどのタイミングの何の事柄を指して書いてるかさっぱりわかんねぇじゃんwww
つーか1528年12/19に毛利が大内側になったことで義興が人質として山口に来た
井上新三郎の忠節を賞して所領を宛がってるし(当時は元兼が大内への外交やってた)
それを受けて尼子方への人質として月山富田城に毛利が出していた赤川就秀・光永秀時らが
脱出しようとして光永秀時が尼子に殺されてるのに何言ってんだw
そういや1541年にも元就は尼子から大内氏に寝返った時に義隆に安芸の平野部を中心に一千貫の加増をしてもらったw
元就はちょこちょこと小さい裏切りをしては加増おこづかいのおかわりをもらってる。
こんなことが可能なのも毛利が一揆の盟主の家柄で特別待遇だったからできた。
1540年の吉田郡山城の戦いも地元の吉田歴史資料館の職員によれば
最近の研究では、実際に尼子氏が本隊を動かした戦が殆どなく
尼子側が毛利をあまり激しく攻めた痕跡が見られないと言ってるしw
吉田郡山城の戦いも本当にあったのかねぇ?いや〜毛利のデタラメ捏造は最低だね。
義興の死後に高橋氏が大内から尼子に寝返ったのも
高橋元光が三吉氏のよって討ち死にして以来、高橋はずっと三吉氏と戦ってたが
これは大内や尼子とは関わり合いのない国人と国人同士の争いであり
しかも元就の兄の妻の実家の高橋との関係強化で
久光の養女として長女を出していたので背後に心配することなく戦っていた。
それなのに突然に元就が高橋を背後から奇襲してきたので立ち直らないほどの打撃を受けた。
さらに加増させて尼子を裏切った元就は大内に
高橋が裏切ったと濡れ衣を着せたから高橋はやむなく尼子を頼っただけ。
そして弘中隆兼と備後和智城主の和智豊郷と一緒に重光を討ち
其の子の興光が三吉氏の入君城を落して凱旋してきた時に元就に騙された
叔父の盛光が興光を殺害するや主君殺しとして盛光を殺害。
ちなみに和智豊郷の子の誠春は隆元が急死した時に毒を盛ったとされたのに何ら元就から罪に問われず
6年後に誠春兄弟が毛利の伊予遠征の帰りがけに捕らえられて厳島に監禁され殺害された。
このあたりが元就が誠春に命じて隆元を暗殺したのが
世間にバレたので口封じをするために後々に殺すことになったとされるところ。
>>292 高橋の家系図には別説があってそれも書こうとしてたがめんどくさくなって止めた。
その際の切り取りの編集ミスに気づかなかっただけだ指摘されていま気づいたわスマンな。。
>>295 なに言っているの?石見高橋氏と言われているように高橋は安芸の国人じゃないんだよ?
もともとは備中の国人やってて、その後に石見の邑智郡の阿須那に左遷転封されてきてるんだが・・・
それで豊かな石見出羽氏の領地を狙って拡大していったわけだが。
それと3千貫=約1万2千石ってどうやって算出したの?地域ごとに貫も石も基準はバラバラで
度量衡の統一が不完全ながら執行されたのは秀吉政権によってだよ。
その安芸国における貫の算出方法のソースを頼むわ。
いままで地方における貫の石への変換は戦国板で誰も手を付けてこなかった聖域だから楽しみだわ。
ただでさえ秀吉政権の算出した各国の石高ですら論争した挙句に結果がでなかったのに・・・
297 :
人間七七四年:2011/01/08(土) 14:05:43 ID:hH7fhkDB
>1528年12/19に毛利が大内側になったことで
だからさあ、その記述は何処の資料から引っ張り出してきたのかと聞いてるんだが
誰もその事について書けなんて一言も言ってないし出所を明かせない理由でもあるの?
それにしても寝返った際に脱出しようとして尼子に殺されたとされる光永秀時の没年が1525年なのに
元就が大内に寝返ったのがその3年後の1528年とはまた時系列が滅茶苦茶だな
あと同じく人質として尼子へ行った井上元貞の存在について触れようともしないのはどうして?
そんなに元兼とは別系統の井上姓の人物の存在が不都合なの?
>当時は元兼が大内への外交やってた
不正解。大内と交渉してたのは元兼ではなく別の井上姓の人物だし
>そういや1541年にも元就は尼子から大内氏に寝返った時に
1541年と言えば吉田郡山城の戦いが終了した年なのにJhD0SIM7は
元就は短期間のうちに大内→尼子→大内と頻繁に鞍替えしたと意味不明な主張をしたいそうだなw
>地元の吉田歴史資料館の職員によれば最近の研究では、実際に尼子氏が本隊を動かした戦が殆どなく
>尼子側が毛利をあまり激しく攻めた痕跡が見られない
これwikiの丸写しだねw
しかもその次の「むしろ元就との直接戦闘を避けて大内氏との決戦前にやっと本陣を動かしたことからも
大内との戦いを待っていたようにも見受けられる。」の部分を意図的に削除して
「吉田郡山城の戦いも本当にあったのかねぇ?」と繋げてミスリードさせようとしてるのがバレバレなんだよw
>高橋が裏切ったと濡れ衣を着せたから高橋はやむなく尼子を頼っただけ。
高橋氏の尼子への寝返りを正当化させたいからって無い事をあったかのように書くのは良くないぞw
そんなんではお前の行為はお前さんが賤しんでる筈の軍記物でやってる行為とやらと何ら変わるところが無いなw
>しかも元就の兄の妻の実家の高橋との関係強化で久光の養女として長女を出していた
高橋氏と関係があったのはあくまでも本家の話であって当時分家ですらない庶家の元就には本来そんな義理は無いが
そもそも人質というのは背後を脅かされないようにする為に一方的にやるものであって関係強化と言うほど対等な立場なら
双方で人質を出さないと計算が合わないし実際に双方で人質を出し合った例なんて聞いた事無いが
>捕らえられて厳島に監禁され殺害された。
脱走をはかった事については触れないんだなw
298 :
人間七七四年:2011/01/08(土) 16:09:53 ID:JhD0SIM7
あのさ、下記のように何度も指摘してんのになんでちゃんと答えようとしないの?
他人様の意見を否定したいなら、「〜と言う史料なり、ソースがあるからこれは違います」だろ。
お前のやってることは根拠がまったくなく他人様を否定してるだけ。
そもそもソースどころか前後関係も書かずに断片的、散発的な片言でケチつけてるだけ。
しかもソース書かないどころかウソまで書いてよねw
>>なにが言いたいのかイマイチ理解できない。
>>もう少し日本語勉強しようね。
>>あと俺の意見に文句言うならちゃんとソース付きで反論してねw
>>だからちゃんと詳しく書かないと何が言いたいかわからんって言ってるわけ。
>>ドコが分からないも何もお前は前後の経緯も書かず断片的に書いてるだけで
>>具体的には何も書いてないからどのタイミングの何の事柄を指して書いてるかさっぱりわかんねぇじゃんwww
そもそも光永秀時の没年が1525年というのはありえないんだわ。なんせ元就はこの時点で
尼子の手切れなんてしてないんだから光永秀時が尼子の下から逃げる理由がまったく存在しない。
逃げる理由が存在するのは1528年になってから隆景が義興から加冠の儀をやってもらったどころか
さらに大内から加増してもらってはっきりと尼子との手切れを示すようになってから。
デタラメ毛利厨が元就が弟を暗殺したから尼子と手切れしたとか大ウソを言ってるから1525年説が登場しただけ。
井上元貞が元兼と別姓とは初めて聞いたわ。信濃井上氏→安芸井上氏と同じ系統で元兼が井上惣領家であるわけだが?
しかも元兼の代で自立傾向になってきていた井上庶流はほぼ完全に惣領家の元に束ねられたわけだが。
だいたい兵庫助元貞は河内守元兼の兄弟とされてるんだが?あんたチョコチョコとウソ書いてるよね。
まったくのデタラメ書いてわからないと思ってたの?
職員は遺構調査の結果を書いて論じてただけで、「むしろ元就との直接戦闘を避けて大内氏との決戦前〜 」
は勝手に付けられた妄想部分だから削除しただけだ。ミスリードしようとしてたのは付け足した方だろw
高橋へ行った元就の長女は人質ではなく久光の養女としてであり、元就の立場を尊重してたのがわかる。
しかし騙し討ちしたのが元就。しかも死に方が久光・元光・興光の高橋当主3代が
みんな酷似した討ち死に歪曲して描かれており、当時の常識でも明らかに世間に公表できない程の・・・
許されないほどの悪事だったのが皮肉にも露見してしまったw
毛利の自己正当化のための捏造演出がなされている。
299 :
人間七七四年:2011/01/08(土) 19:22:09 ID:dUAC45Dt
>>298 元就が尼子と手を切ったのは1525年だから297の方が正しいだろう
実際に前年の1524年に尼子の介入を受けていた弟の元綱を殺しているし
だいたい1529年に死んだ義興が1533年生まれの隆景にどうやって加冠の儀をやってもらうの?
ところどころいい加減な事を書いてるから説得力がないんだよあんたの文章は
300 :
人間七七四年:2011/01/08(土) 19:46:40 ID:JhD0SIM7
くだらない揚げ足乙。
そんなもん興景と隆景を書き間違えたことぐらいすぐわかる話だろw
もしかしてこれが何を意味するのか
無知すぎてわからなかったから揚げ足だとも気づかなかったのwww
興景の妻は毛利興元の娘で元就の姪の関係なんだよ。
だから高橋と小早川も縁戚で協調関係。
このことがあって毛利は再び大内側へ寝返る条件造りをしてたわけ。
この関係があるから23歳で死去した際に隆景を養子に欲しいって言ってきたわけ。
だから毛利厨がデタラメを吐いてる元就の小早川乗っ取りの謀略で
無理矢理に隆景が小早川へ入れたらわけじゃないわけ。
それで元綱が尼子の支援を得ていたとする根拠は?
1525年に元就が尼子と手を切ったとする根拠は?
301 :
人間七七四年:2011/01/08(土) 21:01:18 ID:plkWBx+4
>>298 他人様に講釈たれたいなら、まずソースぐらい出せよ。
自分はソースを出さないが、批判するならソースを出せって、
それじゃ単なる頭のおかしい人だ。
研究者の論文を一回も読んだことないのか?
302 :
人間七七四年:2011/01/08(土) 21:17:42 ID:hH7fhkDB
>井上元貞が元兼と別姓とは初めて聞いたわ。
あんた読解力無いねw
>しかも元兼の代で自立傾向になってきていた井上庶流はほぼ完全に惣領家の元に束ねられたわけだが。
誰に断って整理したんだ?
毛利が率先して整理するならともかく毛利家臣内に於ける各井上姓の中での序列は元兼は一番下なのに
勝手に井上氏の中だけで話を付けて惣領家だからと言って毛利内でのルールを無視して
一番上に居座るとか横暴な振る舞いをするようでは粛清されても文句は言えないなw
>だいたい兵庫助元貞は河内守元兼の兄弟とされてるんだが?
だから何?兄弟という時点で別系統だが何か?毛利も興元と元就でさえ別の家同士だと言うのに
実際元就が家督相続した際の起請文に署名した宿老15人の中でも元貞と元兼の名は別々に記載されてるし
>職員は遺構調査の結果を書いて論じてただけで、「むしろ元就との直接戦闘を避けて大内氏との決戦前〜 」
>は勝手に付けられた妄想部分だから削除しただけだ。ミスリードしようとしてたのは付け足した方だろw
どうやらJhD0SIM7の脳ミソでは「むしろ元就との直接戦闘を避けて大内氏との決戦前にやっと本陣を動かしたことからも」
の部分は勝手に付けられた妄想部分とやらに分類されて「吉田郡山城の戦いも本当にあったのかねぇ?」は勝手に付けられた
妄想部分とやらに分類されないそうだなwここまで脳ミソが逝かれてればまともに話が通じ合うわけが無いなw
>高橋へ行った元就の長女は人質ではなく久光の養女としてであり
人質と言ったかと思えば舌の根の乾かぬうちに今度は養女と言い出し言い訳が見苦し過ぎるなw
つまり人質ではないのに元就が攻めてきたからと言って幼い子供に八つ当たりした高橋氏は人でなしという事か
>書き間違えたことぐらいすぐわかる話だろw
つまり元就が大内に寝返ったのが1528年というのも書き間違えだったという事か
まあ弟を殺した後も尼子方にいたとか自分で言い出してしまったからには1525年説を自ら認めたら
同時に自分の非を認める事になるから間違いに気付いても1528年説を主張し続けざるを得ないわなw
お前の気持ちは分からんでもないよ、賛同はしてやらないがw
303 :
人間七七四年:2011/01/08(土) 22:04:52 ID:ed4DKf5+
>>300 書き間違えたのなら、謝るくらいしようよ
謝りもしないでその態度は人としてどうかと思うよ
304 :
人間七七四年:2011/01/08(土) 23:00:42 ID:0l3ka1RX
そもそも
>>1の書き込みからしてアホ全開でして…
輝元時代の合議制と優秀な一族の補佐役を必要とする体制で
他家で阿呆の秀秋を参加させたら返ってマイナスだろw
305 :
人間七七四年:2011/01/08(土) 23:58:18 ID:9X+ftMtS
>>304 一国人が晩年に一気に勢力拡大して
何れ迫り来るであろう中央政権と大友に挟まれ
堅実な長男には先立たれた状況下なら最善の選択だよな
306 :
人間七七四年:2011/01/09(日) 00:03:02 ID:x/pHTZq0
>>300 興元の娘は最初山内豊通に嫁いでいる
豊通がいつ死んだかわからんがこれによって
あんたの主張がまるっきり変わるぞ
だいたい興景は1519年生まれだからこの時9歳だけど
この年で正室を娶っているかどうかも考えにくいのに
まして後家を娶るとは考えにくい
>それで元綱が尼子の支援を得ていたとする根拠は?
じゃあ何でクーデターを起こそうとしていたの
巨大な後ろ盾があったからじゃない
>1525年に元就が尼子と手を切ったとする根拠は?
前年に殺した元綱を使って家督問題に介入してきた尼子に不信感を抱いたから
それにこの年元就は陶興房が天野興定を攻撃した時に
大内氏と天野氏の和談を斡旋している
307 :
人間七七四年:2011/01/09(日) 00:52:16 ID:csIg7T/e
>>305 「毛利三家」が脆弱な体制なら
どうなら強固なのか奴は答えてない品w
308 :
人間七七四年:2011/01/09(日) 02:52:22 ID:jQvW2kUk
>>302 毛利内でのルールを無視も何も
元兼が惣領家として毛利次期当主問題を纏めたからこそ
元就の当主就任への道がひらけたんじゃねーか。
誰に断ってとか意味わかんねーwww
元兼が元就支持に一本化していなければ元就の当主就任だってわからん話なのにwww
兄弟という時点で別系統とかさらに意味わかんねーwww
元兼の一族には違いないわけだがwww
そんなに言うなら吉田郡山城の戦いがあったソースを出してくれよ。
元就に裏切られた側なのに高橋氏は人でなし?
えっ?わが子が死ぬのが確定するようなことを平気でやった元就が人でなしでしょw
そんなに1525年に尼子から元就が離反したって主張するならそろそろ明確なソースをくれよwww
>>305 一国人が晩年に一気に勢力大縮小して、おまけに財政破綻してて、子供どもは仲違いしてる状況ですw
しかも兄弟仲を悪くしたのはもともと長男ですwその壊れた関係が嫁いできた嫁との対立まで呼び込み
隆景よ元春まで険悪になりましたwwwおまけに五龍局まで嫁対立に参戦www
>306
元綱がクーデターを起そうとしてたとするソースは?
陶興房と天野氏の和談の斡旋したくらいでなんで尼子を裏切ったことになるの?
尼子方の天野氏が滅亡寸前になって滅亡回避の嘆願で
同じ尼子方の元就に泣きついてきたから大内へ居城の米山城譲渡の条件で
調停しただけで元就自体が別に大内に降伏もしてないんだが。
元就が大内方にいたのなら居城の米山城を奪われるような悲惨な調停にならないはずだが。
1528年に杉因幡守&弥富依重から米山城は天野氏に返却されて、
天野氏が毛利に恩を感じ始めたのは毛利が大内方になることと居城返却が関係してると思われるけど。
もっとものちに元就7男元政に乗っ取られて終了だけどw
興元娘は山内豊通、小早川興景、行松正盛、杉原盛重と嫁ぎ相手が次々に怪死して
家が衰退していく為に元就の政略結婚のたらい回しに利用されている。
山内豊通とは最低でも20歳は離れた政略結婚とされており
1504年に当主として豊通の名は登場しており(娘はまだ出生前)
1522年が豊通の最後の生存証明(娘は10才)
1526年には父の山内直通が当主に復帰して軍を率いていている(娘は14才)
1528年に9歳の小早川興景が義興から加冠の儀(娘は16才になっていて充分に婚期)
今度も元就による政略結婚なのは明らか。
>>307 寄親寄子制度をさっさと止めることだな。兄弟が当主を尊重しないDQNだったし
おかげで破綻財政の毛利宗家の輝元を無視して勝手に所領安堵し自立傾向を志向するようになっていった。
これを放置したまま粛清しなかったのでその結果が家臣たちが合い争い、互いの足を引っ張る
小田原北条の末期に近い政治体制になり関が原でのブザマな破綻ぶりを招いた。
309 :
人間七七四年:2011/01/09(日) 04:35:17 ID:x/pHTZq0
>>308 元就が尼子方ならそもそも調停なんてできないだろう
なんで陶興房が尼子の人間の言うことを聞かなくちゃならん
元就が味方だからこそ聞いたんだろう
そもそも敵対したのに殺されずに居城を奪われてくらいですんでいるじゃん
1526年頃に元就は大内氏の陶興房と共に阿曽沼氏・白井氏を攻めているのに
どうやったら尼子の人間が陶興房と共闘したと思えるの?
それに天野氏が居城を返してもらえたのは大内側の武将として活躍したからだろ
何で関係のない元就が寝返ったから天野氏の居城が天野氏に返るというおかしな事が起きるの
だいたい興景はもともと大内側の人間であり、尼子方の人間の娘を娶るとは考えにくいだろう
1528年までに興景が興元の娘を娶ったとする資料でもあるのかい
310 :
人間七七四年:2011/01/09(日) 05:20:47 ID:jQvW2kUk
>>1526年頃に元就は大内氏の陶興房と共に阿曽沼氏・白井氏を攻めているのに
それデタラメ。その話はさらに大内のために
大友氏1万が援軍としてきてるとかトンデモ。
そもそも相合元綱が尼子の後援を受けていた話は陰徳太平記の捏造話で、
そもそもそのネタ本である安西軍策にはそんな話すら出てこない為、
完全に元就による家督強奪を正当化するために作られた虚構話。
311 :
人間七七四年:2011/01/09(日) 12:29:05 ID:LdFYZ1CU
毛利がどうこうより、ほとんどの衰退は、その原因の一部は勃興期に既に
根があるんでないか。特に昔の政体は祖法みたいのの影響力が強いので、
良システムを子孫が継続しようとするも、どんどん現実と乖離してくる、とか
いくらもあろう。そういうのまで始祖のせいにできるのか疑問
312 :
人間七七四年:2011/01/10(月) 03:06:32 ID:VsoT5gvz
歴史読本に歴史学会の新説についての特集が あり、そこでは厳島合戦での陶軍の
兵力は8千人との新説が紹介されていた! それによるといままでいわれていた2万
の兵力は陶側が各地の戦線に配置した総数 とのこと
オマエら難しく考えすぎw
簡単な話なんだよ。単純に周防17万石VS安芸20万石の戦いだよ。
陶は大内義長を自分の手のうちに収めるために手勢を置くだろうし
北九州にも備えが必要だし、内藤氏の内紛でも援軍を送らないとだし
石見にも和睦したとは言え多少の駐留軍が必要だが
毛利は全軍を投入できる。よって陶軍が寡兵で毛利軍の方が多かった。
陶の視点からだと毛利の事をどう思ってんだろ。
もし実際に毛利の捏造通りの激しい吉田郡山城の戦いがあったとしたら
郡山城攻防戦の時に隆元とともに陶は援軍を派遣するように大内義隆を説得する助太刀してたし
陶と元春は武勇バカ同士でホモ文通するくらい仲が良かった。
義隆との関係あった隆景も同性愛者に教育されたからのちの正室にも生涯よそよそしかったんだよな。
陶が謀反する時は事前に毛利に知らせて同意を得ているし
謀反成功後は毛利に安芸は好きなようにしていいよって言ってる。
吉見正頼の討伐の時に毛利に援軍要請した際に元就が不義なことに要請無視した際にも
陶はそれを背信と糾弾さえせずに大目にみてあげてる寛大ぶりを示していた。
陶からしてみれば毛利に裏切られ火事場泥棒される理由が見当たらないんだよな。
313 :
人間七七四年:2011/01/10(月) 03:08:08 ID:VsoT5gvz
周防17万石VS安芸20万石だし厳島の戦いでの陶軍って実際は水上兵力を含めれば毛利より少なかったりしてなw
なんせ当主を殺してしまったので主従が疑心暗鬼になり、
まとまりにかける陶軍は石見で大苦戦して和睦せざる負えなくなったくらい追い詰められた軍だし
石見から強行軍で中国地方を縦断して進軍してきたら使役の割に褒美がもらえるかもわからんし部下も離散するだろう。
長門守護代の内藤氏すら甥と叔父が内紛中だし。
周防の残留軍は火事場泥棒した毛利にすでにやられてるし北九州にも一応は備えないとだし石見にも兵力を拘置しなきゃならん。
陶は背後に多くの火種を抱えて戦力集中はできないのは明白。周防の石高から6000も動員できないんじゃないか?
元就の壮年期はセックル大好きでひたすらガキを作りまくって成長後には親戚作りをやってたんだろう。
外交的にはことなかれ主義で主に大内の庇護と援助をうけていた。
尼子にも良い顔をしたりと卑屈だが八方美人をしてた。
大内としても安芸守護武田の支配に対して昔から反抗していた国人一揆の議長役をしていた毛利を通して安芸支配を固めていた。
尼子も武田がダメなら安芸支配のポイントは毛利だとして吉川氏経由で支援して優遇していた。
要するに大内と尼子の勢力圏の緩衝地帯に毛利がいたってわけ。
だから双方の傘下に両属し厚遇された毛利はけっこう美味しい地位にいたし力を蓄える事ができた。
またセックル好きのおかげでガキに恵まれ自身も地域の長老になるとかなり有利になった。
毛利は典型的な他力本願タイプで寄生虫・宿り木・小判鮫をして主家が衰退するのを待って地位を簒奪したと言える。
毛利家は代々の安芸国人一揆の議長役という地位が非常に有効になったんだろう。
大内と尼子の自爆待ちで 気付いたら当時の平均年齢50歳でみんな死んでて
自分が地域の長老になってたので 死んで他に誰もいないのでやむをえずみんなに推戴され
(元就視点ではもともと安芸の国人一揆の盟主の家柄だし当たり前じゃボケ国人どもめ!)
吉川も小早川も普通に跡継ぎいないから次男か三男くれない→いいよ別に!
大内義隆が陶の謀反を知り調伏の護摩焚いてたらマジに陶が殺しにきた→陶が北九州で山田事件起こす
→石見国人謀反→討伐中に元就火事場泥棒→厳島でなにやら占いや気をみたりする陶がここ数日は大凶だから戦いたいけど休戦日かぁ!
→大凶?関係ねーよと元就襲撃→卑怯なり元就ぃ! →尼子が石見銀山ゲット!ってあれ晴久突然死
→20歳義久は毛利をビビリ石見を毛利にプレゼントするから和睦♪→うっひゃひゃ銀を出雲国人にばらまけ和睦なんて関係ねw
314 :
人間七七四年:2011/01/10(月) 03:10:21 ID:VsoT5gvz
厳島合戦で毛利が勝ったのは 能島村上水軍が陶 因島村上水軍が毛利
そして来島村上水軍がどっちに付くかで毛利は来島水軍が味方についてくれなきゃ終わりだと言ってた。
瀬戸内海の水運権益を手放して大幅常歩した結果、来島水軍が味方になり毛利が勝っただけ。
毛利は何もしてない。
何が起こるか予想のつかない現実の戦場で、講談のごとく、
何から何まで計算通りにいく、 なんてあるわけ無いでしょ。
過大評価って戦国大名にはつきものなのか、とも思うね。
「来島扶持を以て隆元、我ら頸をつぎたる事に候」(永禄十一年 元就書状)
厳島の戦い後、十三年経っても、あの戦いは来島水軍の助力がなければ、毛利家滅亡の危機
であったことを元就自身が白状している。現に合戦当時、厳島の宮の城から隆景に「来島が
来てくれなければ万事休す、何としても助力が得られるよう交渉しろ」と、
絶望的で哀れなほど追い詰められた書状も出している。これらは、毛利家文書、小早川家文書に現存しているよ。
厳島に囮として宮尾城を築城し桂元澄が陶に偽りの内通をさせて郡山城に行かせずに宮尾城に誘き出した。
これまったくの大ウソ
宮尾城は以前から厳島に存在してたし桂元澄内通の偽起請文なんて存在してないデタラメだし、
1540年に陶が郡山城を救援しに行った時も岩国から厳島に渡海してる交通路。
しかも厳島合戦に従軍した名前に内藤や杉の名前はなく戦死者の名前も陶氏の家臣や周防南部の武士ばかり。
どう考えてみても周防からの動員数しかいない。
毛利の記録はウソばかり。
折敷畑合戦はなかった
ttp://samuraiworld.web.fc2.com/rediscoverofhistory-thebattleofoshikibata.htm 1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、
この合戦に関して発給されてたとされている感状である。全部で五通あるが、
そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論
315 :
人間七七四年:2011/01/10(月) 03:12:42 ID:VsoT5gvz
有田中井手の戦いもウソ臭い。従来よく言われるのが元繁が討ち死にし武田氏は衰退滅亡したということ。
だが実際には跡を継いだ武田光和は勇猛な英主で、父の死去の影響はまったくない。
1524年、大内義興・義隆親子は3万余の大軍を率いて、武田光和の居城佐東銀山城を包囲したが徹底的に抵抗し
尼子経久の援軍が来るまで持ちこたえたし、厳島神主家の後継者争いにも介入し勢力を拡大し続けた。
父が毛利に敗退し衰退してる姿など微塵も感じられない。
熊谷信直の討伐を進めていた矢先に33歳の若さで嫡子を残すことなく急死した事で事態は急変。
若狭守護武田氏の養子をもらう事で重臣の主導権争いが勃発し内紛により武田信実が若狭に逃亡し衰退したのだ。
それでも安芸における更なる拡大を目指し尼子詮久に毛利攻めを要求し実際に毛利攻めの際の武田氏は佐東銀山城に集まり、
大内の大軍の猛攻を支え続ける勇猛ぶりを発揮し毛利への援軍を阻止し陶の別働隊を組織し毛利援軍へ派遣せざるおえなくなる。
毛利が尼子の軍を相手に籠城したことばかりを過大に宣伝するバカがいるが
実際には大内領に隣接した武田の士気の高さと防衛ぶりの方がすさまじい。結局、尼子の撤退で孤立無援でフルボッコ。
なおも耐えていたが尼子経久の死去に伴い尼子派国人領主が大量に大内氏へ寝返ったため完全に孤立し滅亡した。
毛利の資料ってほんとデタラメだよな。
武田もそうだけど尼子も経久死去した後に晴久が暗愚だったから新宮党を虐殺し衰退したみたいに書かれてるけど
実際は晴久時代の尼子が最盛期なんだよな。
晴久の急死後に20歳の義久が石見銀山ごと石見国を毛利に譲渡する和睦を結んだのが致命傷になっただけで。
大嘘つきの元就が見事に約束を反故にして出雲の国人を次々に切り崩して月山富田城まで侵攻された。
西国はまだまだシャーマニズム的な呪術的な戦場判断が一般常識として存在してたから畿内や東国の軍勢の機を見るに敏な用兵には敵わないよね。
毛利・大内・尼子・大友・島津あたりはみんな論理的ではなくて戦場や城かた立ち上る気や天文が地上に与える影響やら
呪術やクジ引きおみくじの神託やら悪日や大凶日や易や暦を盲信してるからね。
島津の上井覚兼の日記なんてみたら笑っちゃうw
あと大友側の角隈石宗の占いとかなw 大友軍内では採用されなかったけど・・・
アホ殿の大友吉統は関が原での大友復興作戦で豊後上陸の場所を戦略面を考えずに
宗麟が運を開いた縁起のいい先例がある場所であった立石に上陸して結果的に黒田如水の派遣した軍に大敗してるしw
元就も山吹城を攻めようとした時にどこぞから家臣が連れてきた呪術者に易をさせたら
「占ったところ食料2年分に水も豊富にあるよ」と言われ見事に騙されて攻めずに安芸に帰ったり
陶の怨霊封じの儀式もやってたな元就w
元就の命で元春が騙して暗殺した本城常光の話が広がり出雲の国衆が尼子側に戻ってしまった時に尼子調伏の呪法やったり、
尼子側も出雲大社や佐久佐社や伯州の大山権現で毛利降伏の祈祷やってたな。 もう呪術合戦状態www
西国の戦いってのはこういう素地が背景にあってのアホレベルの戦いばっかだからマトモに考えちゃダメだよ。
316 :
人間七七四年:2011/01/10(月) 03:19:01 ID:VsoT5gvz
陶は門司海峡あるから軍事上一方的に有利とか意味わからんw周防も安芸も同じ瀬戸内海だから平等な土俵じゃないか。
水運経済は水軍に依存しており毛利だって小早川水軍を持ってたから通行税やら湊使用料を同じように取ってたろう。
だったら差を分けるのは地力 瀬戸内海があるから比較できないなら琵琶湖水運があるからとか
日本海貿易があるからとか伊勢湾があるからとか河川流通があるからと何一つ比較できないだろが。
毛利厨だけがそうやっていつも逃げるんだよなw
陶は大友にもある程度備えないとだし 大内義長が拉致られないよう兵を置かなきゃならん
長門の内藤氏の内紛にも兵を出し介入し自派に勝って貰わなきゃならん。
石見で苦戦しまくり和議したものの破棄して背後を襲ってこないようにある程度の兵を置いて備えなきゃならん。
安芸に振り分けられる兵力なんてごくわずか。
>まず義長が大内にいるのに大友に備えてというのは不自然。 これでは義長がいる意味がないだろ。
大友義鎮の書状で「義長に援軍頼まれたけど毛利との約束で自分は泣く泣く弟を支援しなかった。 その辺のことを考えて、
九州の大内領は大友が継承するのを認めてね。あと秋月とか筑紫が反大友で騒いでるけど支援しないでね。」
みたいな文書が残ってる。これは大友が義長を犠牲にして毛利に内通してることを現しているって事です・・・
それに基地害になった陶は野上房忠に命じて筑前守護代杉興連を殺害し豊前守護代杉重矩も殺したり宗像騒動で北九州情勢は不穏です。
>義長が拉致されないようにと言うけど、厳島合戦に参加しなかった多くの大内氏家臣や内藤隆世は守ってくれないわけ?
娘婿である毛利隆元とその父元就を支持する五男・隆春派と内紛中で山口にまで抗争は波及してます。
>毛利だって尼子に備えて兵を置かなければならず、宍戸隆家が残ってるから兵力不足だ
石見も備後も大内領国化していて尼子から安芸は安全圏になっている。
尼子晴久の戦力集中は東側で1551年〜1554年に渡り備前に出陣し播磨の浦上政宗と結んで宗景の居城である備前天神山城・沼城まで進出
1553年4月備後北部の三次盆地に勢力を持つ江田氏は毛利氏を中心とした大内氏方国人の攻撃を受けた。
江田氏を支援するため、晴久は自ら備後国高へ出陣して萩瀬にて毛利の援軍の陶晴賢率いる大内軍と激突したが勝敗つかず、
10月には江田氏の居城・旗返山城は落城し山内氏も大内方へと下った。尼子側国人宮氏も滅亡し備後は大内氏側へ。
1554年新宮党を謀殺する。この年の前後には相変わらず浦上氏と敵対し尼子の戦力は備前へ。
1555年に厳島合戦により石見の大内勢力が大減退によりやっと尼子が石見に再進出。
1556年に毛利軍を忍原にて撃破(忍原崩れ)9月には石見銀山を奪取する→尼子晴久急死
→尼子義久20歳が銀山ごと毛利に譲渡し和睦を願う→元就が約束を裏切って銀山収入を使って出雲国衆を裏切らせる。
317 :
人間七七四年:2011/01/10(月) 03:24:55 ID:VsoT5gvz
>毛利は安芸の大内陶派を討って安芸をほぼ統一したのが厳島の数ヶ月前だろ
安芸の中枢部沿岸部はほぼ大内の支配下にあったが元就が尼子から大内氏に寝返ったときに、
大内氏から広島湾に近い飛び地の所領数カ所をもらっている
>対する陶は、当主義隆を討った後に家中をまとめあげ、更に大友家から当主養子を
迎え実質的に九州からの脅威を排除するという政治的センスもある男だ。
→陶は北九州を混乱させ恐怖政治の殺戮だけでなく無能の石見守護代の問田隆盛を信任して
石見の吉見正頼の謀反が鎮圧できず津和野三本松城の戦いなどで陶自らが周防から遠征し大苦戦し実質敗北の失策続き。
>毛利の影響下にあるのは山間部ばかりって言えるから毛利って実はそんなに凄くないしw
→山間部でも相当な収益を上げていました。毛利氏の足元の安芸吉田で駒足銭という通行税を徴収する権益を井上氏は持っていた。
吉田は出雲街道の要衝にあり石見銀山や石見、安芸の国境地
帯に広がる当時我が国最大の一大製鉄「工業」地帯に往来する商人達の通行が
多く駒足銭の徴収権は重要な経済的な権益だったが井上を滅亡させ元就は横領した。
また正妻の実家である吉川氏を奪い貴重だった鉄の生産地も手に入れ(謙信も毛利から鉄を買っていた)
元就は高橋氏に出した人質の娘を見殺しにして高橋氏を滅ぼし木材売買も手に入れた。
>大内全体の軍事指配を行っていた西国無双と呼ばれた陶
→陶は実力でのし上がってきた男ではありません。少年時から美男で義隆に寵愛されただけ+父の威光の七光りの無能。
直情型で独断専行な性格で文官の相良武任との政争に負けた挙句に追い詰められ破れかぶれの無計画な謀反です。
陶は主家殺しで疑心暗鬼になり片っ端から有力大内家臣団を虐殺し自らまわり中に敵を作りまくり自爆した。
末期症状で自分の領国の周防さえ満足に統治できなくなってたろう。
陶の主力となった元就をよく知る勇将江良房栄の殺害を安芸守護代弘中隆兼に
身の潔白を示すために殺せと命じ軍のさらなる不和を演出w
さらに慎重論を進言し再三諫めたら弘中隆兼を臆病者呼ばわり。
渡海後に弘中隆兼が武王の例を引用し宮尾城の準備ができてないので運気や占いを信じずに今すぐ落城させろと
陶に進言するも大凶日は休戦日として軍備を解き無駄に日数を費やすアホぶり。
318 :
人間七七四年:2011/01/10(月) 03:30:53 ID:VsoT5gvz
大友三老(臼杵鑑速や高橋紹運の父である吉弘鑑理)の吉岡宗歓(吉岡長増)や大友水軍育成の若林鎮興は大友の隠れた名将ですね。
ビビり臆した元就が陶と戦うのを嫌がったが、ホモ変態兄の義隆を殺されて激怒していた隆元が強硬に陶に謀反するのを主張したからやむなく。
さらに厳島合戦は因島村上と来島村上の水軍が主力であり、地理的に因島は小早川と親しく、能島は陶と親しく
来島水軍が去就をハッキリしない時に、元就が来島水軍が味方しなければ、我々は破滅と泣きの言葉を書いている。
陶が拒否した瀬戸内海水運において元就は大幅譲歩して来島を必死に味方にしたから陶に勝てたにすぎん。
北九州攻防戦では大友の吉岡宗歓にこの点を見事に喝破されて、陶に付いて負けた側の能島の村上武吉の買収に成功させられ、
村上武吉が見て見ぬフリをしてもらってる間に、毛利の船舶による補給ルートの破壊と大内再興軍の無事な中国地方上陸を成功させられ
水軍に頼りきる元就が他力本願で勝った厳島合戦は、結果として大友が正確に毛利の弱点を認識し
周到に謀られ毛利大敗敗走する原因を作っている。 筑前方面の通行税を取る権限を武吉にちらつかせ
村上武吉を買収した吉岡は最初、元就に謀られているのか確認で、筑豊方面の毛利軍へ送る周防の食料貯蔵地を奇襲してみたが、
武吉が動かなかったために元就は大したヤツじゃないと知り計略の成功を予見した。
大内再興軍を輸送した若林鎮興はこのあとも大友水軍を育てて、国東半島封鎖戦で、ついに毛利水軍を撃破してますよ。
さらに島津侵攻軍には臼杵城防衛に活躍し、朝鮮役にも出陣。
瀬戸内海の制海権を握ってた分、毛利がチートだったわりにボロボロに負けまくったアホ元就。
しかも制海権の痛感した大友側は努力して1580年あたりには大友水軍を毛利水軍と同等かそれ以上になっちゃってますw
田北紹鉄の謀反が鎮圧された頃、田原親貫が城井鎮房と秋月種実に支援されて叛乱。
毛利が支援で派遣した毛利水軍は大友の名将若林鎮興が大友水軍を率い瞬殺し周防灘まで追撃掃討戦。
毛利の大敗を知り、田原側の城が次々に開城し田原滅亡。
秀吉も大友の手法を学んだのか、来島水軍も1582年には秀吉の調略で織田に寝返る始末。
吉岡長増とは?毛利の主力軍が筑前に集結しているのを見て尼子の遺臣山中幸盛に弾薬、
鉄砲資金を援助して尼子の侵攻を手助けし、毛利に下っていた尼子旧臣の米原綱寛に山中幸盛に合力するよう促し成功。
長増は輝弘を送るにあたり、周辺海域を支配している村上水軍の村上武吉を
筑前方面の通行税を取る権限を餌に寝返らせるが、この寝返りを毛利元就の策略と疑い、
8月9日に大友水軍の若林鎮興に筑前の毛利軍に送る食料補給基地(周防にある)を
襲わせて村上の出方を伺った。すると確かに武吉は見て見ぬ振りをして、鎮興の攻撃は成功した。
大内旧臣たちに大内輝弘に協力するよう調略を開始し、さらに豊前小倉城を攻めると流言を流してわざと毛利氏につかませ、
10月9日に田原親宏に小倉城を攻撃させて吉川元春、小早川隆景の注意を釘付けにし、
同日、輝弘に兵を与えて筑前に出兵中の隙を突いて毛利領の周防国に侵攻させた。
毛利氏の強みは村上水軍に守られ、大友が周防.長門を攻撃できないことであった。
これを突破したことは長門に本陣を構える元就を驚愕させる。この策は見事に当たり、
兵がいない周防は輝弘によって次々と侵食されてゆき、驚いた元就は主力軍を全て筑前から撤退させた。
319 :
人間七七四年:2011/01/10(月) 06:05:16 ID:ak0in1zC
>寄親寄子制度をさっさと止めることだな。兄弟が当主を尊重しないDQNだったし
何だコイツw
勃興前の毛利家と同格の他家の当主になれば家臣団掌握の為に自領優先は当たり前w
しかも当主といっても実権は元就が維持している
関が原は広家と恵瓊の不仲が原因+長老的存在が死去したのが大きい
5カ国割譲を申し出た毛利と時代錯誤の北条では比較にならんわwwww
320 :
人間七七四年:2011/01/10(月) 09:17:56 ID:1EiMcLNU
>元兼が元就支持に一本化していなければ元就の当主就任だってわからん話なのにwww
それを裏付ける証拠は?多治比時代から既に元就と親交のあった井上庶家の存在は無視ですかそうですかw
>兄弟という時点で別系統とかさらに意味わかんねーwww
起請文に署名した宿老15人の中で元貞と元兼の名が別々に記された事が何を意味するのかまだ理解出来てないんだなw
別々に名が記されてる時点で別の家同士だという事がまだ理解出来ないとはこいつ救いようの無いバカだなw
>元兼の一族には違いないわけだがwww
だから何?元兼の一族だから井上庶家の毛利に対する功績は井上一族の功績だからイコール元兼の功績とでも言いたいの?
そんなジャイアニズムばりに横暴な振る舞いをしていれば粛清されても文句は言えないなw
>えっ?わが子が死ぬのが確定するようなことを平気でやった元就が人でなしでしょw
おいおい、わが子が死ぬのが確定するとかそれ人質の扱いと全く同じじゃないかw
自分の都合に合わせて人質と言ったり養女と言ったり主張に一貫性が無いなw
>なんせ当主を殺してしまったので主従が疑心暗鬼になり、 まとまりにかける陶軍は
>石見で大苦戦して和睦せざる負えなくなったくらい追い詰められた軍だし
>石見から強行軍で中国地方を縦断して進軍してきたら使役の割に褒美がもらえるかもわからんし部下も離散するだろう。
何で他の奴でさえ付いていってないのにそんな奴に付いていかなければならないんだよw
沈みゆく船に死ぬまで付き合う義理なんてましてやこの戦国の世には無いしw
>元就視点ではもともと安芸の国人一揆の盟主の家柄だし
その根拠としてる話はどれも元就が当主になった後の領地が広がった後の話であって
元就が当主になる前から安芸の国人一揆の盟主の家柄だったという証拠は一切提示されてないねw
>吉川も小早川も普通に跡継ぎいないから
なんだ、吉川も跡継ぎが居なかったのか。それなら正室の縁として元就に頼らざるを得ないわなw
>折敷畑合戦はなかった
そのサイトに書かれてる明石口合戦こそ、実は折敷畑合戦のことであるという事と
この合戦において宮川甲斐守が戦死したことは、毛利氏の家臣に与えられた感状や陶晴賢が発給した
感状によっても裏づけられる。また元就の書状によってもこの折敷畑付近で両軍の衝突があったことも明らか。
という事を意図的に削除してる時点でミスリードさせようとしてるのがバレバレだなw
それともまた例によって推測に過ぎないとか痛々しい言い訳を展開するのかな?w
>有田中井手の戦いもウソ臭い。従来よく言われるのが元繁が討ち死にし武田氏は衰退滅亡したということ。
有田中井手の戦いもウソ臭いとか言いながら言ってる事は戦とは全然関係ない話だね
しかもまた例によってこのスレで言われてる事ではなく“従来よく言われる”事に対して因縁を付ける始末w
そのうち元就が房栄が元就と内応しているという虚報を流して房栄を殺させたとか
新宮党の粛清には元就の謀略が働いたとかぬかしてきそうだなw
>晴久が暗愚だったから新宮党を虐殺し衰退したみたいに書かれてるけど実際は晴久時代の尼子が最盛期なんだよな。
短期的にはプラスであったかもしれないが中長期的にはマイナスだった事には変わりは無いけどな
よりによって親族を粛清してしまったが為に晴久亡き後若き当主をサポート出来る親族が居なくなってしまったからな
それにしても経久の子供達は長男の戦死はまだいいとして養子に出した三男には謀反を起こされるは
次男が率いる新宮党は宗家の制御が利かなくなるはで毛利以上のgdgdぶりだなw
それを思うと兄弟仲が悪い程度で済んだ毛利三兄弟や元就死後も離反せずに輝元のサポートを続けた元春隆景は相当なものだな
321 :
人間七七四年:2011/01/10(月) 14:58:48 ID:yRbyJnmR
長文書く奴ほどかえってアホに見える。
322 :
人間七七四年:2011/01/10(月) 18:38:03 ID:MmgNbUo7
山里の一国人で一代で晩年一気に勢力拡大
こんな人に先進的な体制作りを求める
>>1ってw
323 :
人間七七四年:2011/01/11(火) 00:00:07 ID:UvDTVj/E
信長も信玄も北条も自らの政治体制で崩壊してるのに
なぜ毛利だけに文句言うんだろうな
324 :
人間七七四年:2011/01/12(水) 03:32:27 ID:G0Iye7ej
>>319 >>5カ国割譲を申し出た毛利と時代錯誤の北条では比較にならんわ
つーか譲渡も何も大半がすでに秀吉に切り取られた領地とか突っ込まれてたじゃんw
じゃ聞くけど統治や政治において毛利と時代錯誤とやらの北条の違いを教えてくれよ。
どう考えたって毛利の方が遥かに後進的だけどな。
>>320 お前は自分自身にはなんら根拠なくいい加減なことを吐いてばっかだなw
再三にわたり論拠を以って否定意見を言えと言ってるのにwww
早く論拠を出してみろよwww
そもそも井上元兼の父の光兼が多治比を元就に返却するように働きかけてるわけで
惣領家は元就のために井上一族を纏めてるんだぞ。
それは1558年隆元への手紙において書かれてる話だ。
多治比を井上元盛が奪った。だが不思議にも元盛は死んだ。
とか
兄が死んで兄弟も叔父も甥を一人も持たずにただ一人で頑張ってきた。
と書かれている。
まぁそもそも兄弟も甥も叔父もいるんだから元就はデタラメを吐いていて
彼が邪魔だとして抹殺してきた人間達がさも最初からいなかったことにしている以上、
多治比を井上元盛が奪った話すらデタラメだと思うがな。不思議にも死んだとか暗殺だろw
こんな手紙を見せられたら父はワシにウソばかり書いてくると不信感すら湧き上がるのも無理はない。
百歩譲って元盛が横領したとしても元就擁立に尽力した元兼まで殺害する理由にはならない。
しかも横領されて不憫に思った杉の方が元就の世話をしていたそうだが、
その大恩ある杉の方の出身は高橋氏だとしている。それすら滅亡させるとか鬼すぐるwww
むしろ1513年3/19付で志道広良が元就は今後は広良の援助を得て毛利のために奉公する誓約書を書かせてたりと
元就の謀反をすでに警戒している姿が現れていたり1523年7/15に幸松丸死去7/19元就擁立決定
神仏詣の粟屋元秀が将軍から元就の相続許可をもらって帰ってくる7/25家臣から連署状をとる
この流れのスムーズさから幸松丸の暗殺後までを視野にいれて練られた謀反のなは明らか。
>>ジャイアニズムばりに横暴な振る舞い
へぇ〜例えばどんなことを元兼はやったんだ?
325 :
人間七七四年:2011/01/12(水) 03:37:00 ID:G0Iye7ej
>>わが子が死ぬのが確定するとかそれ人質の扱い
養女として養育していたって元就の人の道に反した行為をされたら殺されてしまうのは当たり前。
最初から人質としていたなら養女とは言わない。養女とは自分の娘として他家に嫁がせるものであり、
当家のい留め置いて人質とすることではない。
元就の違背が養女を人質に変えてしまったに過ぎない。
>>何で他の奴でさえ付いていってないのにそんな奴に付いていかなければならないんだよ
つうかそうしたのは石見で戦っていた陶の背後を襲う元就の背反行為が原因だろwww
>>その根拠としてる話はどれも元就が当主になった後の領地が広がった
お前ほんとに無知だね。
安芸に鎌倉時代から毛利は割拠して代を重ね、1404年一揆契約においては毛利は総領光房以外に4人が
連署に加わったほどの発言力を有していた。ちなみに元就マンセー論では一揆を対等な同盟と捏造してるが
本来は首謀者がわからないように傘連判の形式にしているだけ。
>>意図的に削除してる時点でミスリード
ミスリードするならそもそもリンク貼らないだろwお前ガチで馬鹿www
毛利捏造史に書いてあるような内容の折敷畑合戦はなかったと主張してるだけだしw
>>短期的にはプラスであったかもしれないが中長期的にはマイナス
中長期的にもプラスだったが、突然の晴久の死が改革を挫折に追い込んだだけだアホ。
>>養子に出した三男には謀反を起こされるは 次男が率いる新宮党は宗家の制御が利かなくなるはで
三男の塩冶氏の同盟勢力がそもそも反尼子の雲大社・雲南地域に力を持つ三沢氏・多賀氏等らである以上は
尼子との対決姿勢に進むのは仕方が無いことで、その勢力を三男の跡に引き継いだのが次男吉田国久なんだから
いずれ宗家の制御が効かなくなるのは明らかで晴久は粛清の道を選んだんだよアホ。
そしてその失敗をそのまま真似したのが両川体制なわけだがwww
ちなみに渡邊世祐氏によれば1517年の毛利所領は40余りの荘を保有し判明している7荘だけで5700貫に上るとしていた。
つまり毛利の3000貫しかなかったってのはそもそも大ウソなんだよw
そんで大内と尼子の間をくるくると渡り歩いているのは
塩冶興久が反乱していた1531年に
安芸可部七百貫・温科三百貫・深川上下三百貫・玖村七十貫等の地を
大内から加増してもらった大恩を忘れ大内を裏切り元就が晴久と義兄弟にまでなっている事実でもわかるだろwww
326 :
人間七七四年:2011/01/12(水) 21:25:08 ID:KKa70QXo
>>324 >つーか譲渡も何も大半がすでに秀吉に切り取られた領地とか突っ込まれてたじゃんw
あいかわらず頭おかしいよな
秀吉がいつ毛利の領地の大半を支配したんだ?
まさか播磨や因幡が毛利家の物だと思ってないよな
>そもそも井上元兼の父の光兼が多治比を元就に返却するように働きかけてるわけで
つまり多治比が奪われているのは事実だよな
なのに多治比を井上元盛が奪ったのは出鱈目だとか
自分で自分の書いたことを否定する文を書くなんてほんとに馬鹿
>この流れのスムーズさから幸松丸の暗殺後までを視野にいれて練られた謀反のなは明らか。
だいたい家督相続の手順が早いから謀反だとか意味がわからない
時間をかければ家督争いも起きたかもわからんし
元就は正室の子で他の兄弟は側室の子だから
スムーズにいったにすぎんだろう
327 :
人間七七四年:2011/01/12(水) 23:56:27 ID:o7RuYm1i
>>326 >自分で自分の書いたことを否定する文を書くなんてほんとに馬鹿
都合によって人質になったり養女になったりとかその場しのぎの言い訳を繰り返してるからなw
何処かで破綻するのは当たり前w
328 :
人間七七四年:2011/01/14(金) 02:40:43 ID:bwRFqjlz
1569年8月から9月にかけて宗景は義昭・信長の派遣した池田勝正や別所安治の攻撃を受ける
池田や秀吉により此隅山城を落とされた山名惣領家の但馬守護山名祐豊は逃走し、
まもなく京で信長に一千貫の礼銭で但馬復帰を許されてる。但し竹田城主の太田垣氏の生野銀山は織田直轄。
毛利方の武田高信に因幡を奪われ但馬に逃げた山名豊国は尼子と織田に擁立され因幡守護の家督を継いだ。
山名豊国を後援する織田方の但馬芦屋城の塩治高清を毛利方の高信が攻撃するも撃退。
1570年4月姉川の戦い。また信長が赤井直正に丹波奥三郡の安堵を以って丹波平定完了していた。
12月信長が朝倉浅井らに屈服(志賀の陣)
1571年に織田方の山名祐豊が丹波国氷上郡の山垣城を攻撃したので赤井直正と対立し
祐豊は竹田城や此隅山城を直正に奪われたので有子山城に居城を移す。
(信長と義昭の関係の破綻が本願寺や丹波国人の離反につながっていたと言う)
1572年毛利方の高信は尼子党と山名祐豊に大敗し鳥取城を山名豊国に奪われる。
1573年4月信玄が陣中で死去。8月朝倉義景が自刃。9月浅井長政も自刃。
12月浦上宗景が信長から備前・播磨・美作3カ国の朱印状を与えられる。浦上配下になった小寺や別所が織田に反感。
この間元春が但馬南部の灰吹法導入し始めた生野銀山を狙って親将軍義昭の反織田派を糾合しつつ東進を続けており
山名祐豊は対赤井対毛利で信長に支援を求めたが義昭や本願寺らの織田包囲網の影響で支援できず
太田垣輝延が吉川に降伏したこともあり但馬守護の山名祐豊も降伏し吉川が1575年5月まだには但馬平定してる。
(因幡山名豊国と但馬山名祐豊が毛利が高信を切る条件で尼子と織田から離反しには毛利に付き高信不審死。
こういうことを普通にやる毛利に三村や南条や宇喜多らが毛利への不信の元になった)
1575年5月長篠の戦。長島一向一揆を昨年ようやく潰したのに続き8月に越前一向一揆も平定し明智を丹波征討へ。
丹波赤井直正から吉川へ太刀や馬が贈られ救援依頼が来ていたが明智の丹波攻略軍にビビって援軍に行かなかったw
6月に毛利は三村を切り捨てる条件を呑み浦上に謀反した宇喜多と組んで三村元親を攻め滅ぼす。
1575年末になり支援に来ない吉川への不信感から山名氏が織田との接触を始め芸但和睦破綻。
1576年1月に丹波の赤鬼の渾名ある赤井直正は
波多野秀治の明智への謀反もあり大勝利を得ることで山名も毛利に再接近。7月第一次木津川口の戦い。
7月吉川元春の命を受け山田重直が山中幸盛&羽柴秀吉との内通疑惑のある
福山茲正を羽衣石城下で暗殺したことを契機に伯耆南条元続が毛利を離反。
(山田が1582年羽衣石城を落城させた際の毛利の恩賞は恩賞の先行給付の濫発で土地が無く久米郡内僅か28石w)
329 :
人間七七四年:2011/01/14(金) 02:42:18 ID:bwRFqjlz
1577年3月織田の雑賀攻め鈴木重秀を降す。8月上杉謙信上洛の期待から松永久秀謀反し信貴山城の戦い
1578年3月播磨東部の三木城でも毛利に期待し別所長治が織田を離反し背後を閉じられた秀吉が播磨で孤立。
7月信長が別所攻略を優先し上月城放棄命令をするが山中らは死守を決意。
毛利は上月城の戦いで山中幸盛を処刑するも織田信忠を恐れるあまりそのまま引き返し別所救援に行かず見捨てる。
10月摂津有岡城にて本願寺との内通を疑われた荒木村重が
織田に謀反し同調した播磨中部の小寺政職らも相次いで織田を離反。
11月第二次木津川口の戦いで毛利大敗。丹後国の一色義道も織田を離反したので光秀や細川の攻撃を受ける。
1579年3月には毛利から見捨てられた八上城と黒井城が明智により分断され
6月八上城の波多野兄弟が毛利に見捨てられ落城。8月には赤井の黒井城落城し織田の丹波平定成る。
一色義道も但馬へ逃走中に謀反で自刃。子の義定が弓木城でなおも抵抗。10月宇喜多直家が秀吉に付く。
1580年2月毛利が見捨てた三木城が落城し別所自刃。5月秀吉の大軍勢が居城である但馬有子山城を包囲する中で
毛利の援軍を待ちながら山名祐豊死去し子の山名堯熙が有子山城を棄て因幡へ逃走。
7月毛利に見捨てられた荒木村重が花隈城から逃走。8月毛利から見捨てられた本願寺が織田と和睦し石山退去。
9月毛利に見捨てられた因幡の鳥取城も豊国が秀吉に降伏落城し秀吉は去る。
1581年3月鳥取城は吉川経家を迎えるが秀吉の鳥取再包囲に元春は南条の攻略を口実に見捨てた為10/25経家自刃。
秀吉が急速南下し一気に渡海し11月17日には淡路国を従え長宗我部の攻撃に苦戦中の阿波の三好支援も開始。
1582年早々直家死去が明らかに。3月武田滅亡。4月備中高松城の戦い開始。6月信孝の四国征伐軍編成・本能寺の変
330 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 03:15:28 ID:EWwo5Iom
武田元繁を智勇に優れた猛将とか項羽のようだとマンセーしているが
そもそも温科国親に離反されあっけなく大内に敗れて服属させられたどころか
上洛していた大内義興の隙をついて暴れた時も毛利興元にすら簡単に敗れているアホ。
むしろ元繁の跡を継いだ子の光和こそ知勇兼備の名将。
1526年白井氏が大内に偽りの降伏をしてみせたがすぐまた武田=尼子側に戻ってきてる。
1527年広島湾での大内の攻略戦は難儀していて阿曽沼氏が降伏後に再度白井氏攻めで府中城へ行くも落城しないで苦戦し停滞してる間に
孤立していた和智氏や湯浅氏ら備後勢までもが尼子方になってしまう。
どうやら広島湾のある安芸西部での苦戦の影響で大内領国から白井氏とその背後にある武田氏の領国を瀬戸内海からわざわざ迂回して
孤立していた安芸東部と備後西部の大内の支配拠点だった鏡山城へ
長駆増援を送るのも難しいらしくいつの間にか大内により鏡山城が廃城になってたらしい。
そこでこれ以上尼子の侵蝕を防ぐため大内が石見方面から侵攻して尼子と三次市和智町のあたりで戦い
11月まで和智細沢山で対陣してる時に鏡山城に代わって新たに標高600mの高さに
防衛力を強化した曽場ヶ城を築城し大内軍との長期孤立にも耐えうる仕様にしている。
(しかしあまりの高さに不便を感じて大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いの1543年に新たに築城した槌山城に弘中隆包を配置してる)
1528年の7月にはいまだ大内がもたもたと白井氏攻めをしてるのが確認される。
その後、1529年大内義興死去もあり安芸での勢力挽回を諦め11年に渡り武田攻めを放棄している。
しかし1539年6月に武田光和が突然の病没で後継や方針問題が生じて品川左京亮らは決起し香川光景の八木城を攻撃するなど混乱が始まり
養子として入った若狭守護武田元光の子の武田信実が佐東銀山城から逃亡。
この事態の変化に喜んだ大内は1539年暮れより武田攻撃再開するも佐東銀山城の武田配下は頑強に抵抗。
1540年尼子晴久が信実の佐東銀山城に復帰させる。元就が威圧で騎下にならないと知り尼子は撤退したのちに
信実は出雲国へ逃亡したが300余の兵が籠城してた佐東銀山城はなおも落ちず武田氏の重臣香川氏らは大内と和睦することで武田滅亡。
武田はかなりの抵抗をしていたが信実の二度の逃亡が痛かった。まぁ安芸武田氏の血を受け継ぐ安国寺恵瓊が毛利を傾けるわけだがw
1550年7/13に無実の井上一族を虐殺して経済利権を略奪した元就の下に8/24付の陶からホモ恋愛相手の元春宛に書状が届く。
義隆が赦免してくんないから義隆の子を取り立てる相談を杉や内藤と相談してる。
毛利殿ともさらに御入魂したい。よってお望みのことあらば粗略にしません。
1551年1/27付で義隆も陶が挙兵したら大内側に味方するように頼んでる。
しかし毛利は大恩ある大内を裏切りさらに陶まで裏切り
浦上宗景も宇喜多直家も大友宗麟も尼子義久も三村元親も南条元続も欺いて裏切りを続けた・・・
331 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 03:18:56 ID:EWwo5Iom
晴賢から江良房栄を離反させようと恩賞で釣った元就。しかしいざ寝返ると約束を違えてたった知行三百貫しかくれない。
ふざんけんな約束ちげーよと文句言ったら隆元が逆ギレしてシカト・・・援軍もなく孤立した江良は晴賢に虐殺される。
毛利の偽書状のせいで折敷畑の戦いの信憑性がおかしくなった為に年代特定ができず
1554年9月とも1555年4月とも言われるようになった元就の詐術による野間一族虐殺の話もひどい。
ちなみに吉川元春と野間隆実の間柄は双方ともに熊谷信直の娘を妻にしていたことである。
大内さらには陶を裏切った不義の元就に怒って籠城。元就親子は苦戦の末に悪辣な詐術を弄した。
野間隆実の舅の熊谷信直の降伏勧告の内容は熊谷氏重臣の水落甲斐守を人質に出し
援軍の兵も周防国へ送り届けるし隆実の生命も保証。これを受け入れ矢野城は開城した。
しかし援軍の羽仁源七らが水落甲斐守を人質にして帰る途中で吉川の奇襲に合い全滅。
野間家臣野村弥五郎、豊島伊豆守や城兵も矢野城下の真教寺に幽閉されて虐殺。
隆実も酒肴のご馳走のあとに風呂で虐殺され野間一族は滅亡。
元就の悪質さはもはや精神異常の域に達しているのではないか?
そもそも元就の最大の失策は三村家親の行動を許可して浦上宗景を離反させたことだな。
宗景は尼子晴久と同盟を組んだ兄で当主の浦上政宗に対抗し毛利元就と同盟し挙兵。
毛利本隊や毛利に従う備中の三村家親率いる備中衆の援軍を得て各地で政宗・尼子の連合軍を撃破し、
1560年頃までに政宗の勢力を備前東部から駆逐し備前国の支配権を握ており、ここで元就が浦上と三村の間をうまく調整できなかった。
月山富田城を包囲していた1564年に三村家親は元就から陣を離れるのを許してもらい備前国に侵攻し岡山城の金光宗高を攻撃し浦上の敵対。
続いて1565年に家親は美作国にも侵攻し浦上配下の直家の娘婿である後藤勝元の守護する三星城を攻めたが直家の加勢で失敗。
結局、1567年には明善寺合戦に発展し家親は討ち死に(鉄砲暗殺は当時の鉄砲の命中精度が悪すぎてデタラメ話である)
332 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 04:07:05 ID:UL/AyKsl
三好実休とか雑賀衆の狙撃で死んだらしいけど
それもデタラメっすか
333 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 04:58:16 ID:EWwo5Iom
渡邊大門氏も鉄炮での三村家親暗殺を
ありえない作り話で荒唐無稽と断じてる。
334 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 07:25:24 ID:9nev0MRz
>>331-333 その書き方では明善寺合戦で家親が討ち死にしたようにとれるけどそうではなく、
当時の鉄砲で狙撃できる性能・技能があったか疑問、陣営を夜襲してたまたま鉄砲が家親に当たった、くらいが妥当と書いてあるよ。
で妙禅寺合戦は『備前軍記』の1567年5月ではなく、家親の死後3ヶ月後1566年5月という説が有力らしい。
暗殺において一丁の鉄砲で遠くから狙い撃ったのがあり得ないという話で、戦場で鉄砲隊が将の方を狙って当てることはできるだろう。
335 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 08:30:11 ID:UL/AyKsl
敗走途中、熟練された鉄砲隊に襲撃されて死ぬのは有り得る?
336 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 18:02:37 ID:0nY6acd0
>>330 大内義隆が陶の挙兵を知っていたならなんで陶を討たなかったんだ?
そもそも主君を討った陶を裏切っても問題はないだろう
>浦上宗景も宇喜多直家も大友宗麟も尼子義久も三村元親も南条元続も欺いて裏切りを続けた・・・
浦上宗景は毛利の庇護を受けて勢力を伸ばしたのに裏切って独立したじゃん
宇喜多直家が裏切ったのは主君浦上宗景の方じゃないか
毛利から織田に寝返ったのは孫の輝元の代だから元就は関係ないし
大友宗麟や尼子義久は別に主君でもないし欺いたりはしたけど
部下じゃないんだから裏切りという表現はおかしいだろう
三村元親や南条元続は輝元の代に離反しているし
彼らの都合で離反しているからこっちの方がよっぽど裏切り行為じゃね
>>331 江良房栄の件は元々陶に討たせるためにやってるんだからいいんじゃない
それにまだ陶倒してないのにどうやって領地をやったんだ?
野間隆実の件だが主君である大内を討った陶はいいのか?
この時は陶を討つつもりだから不安定な要素は除いただけ
何で元就の最大の失策が三村家親の行動を許可して浦上宗景を離反させたことなんだ?
家親が死んだのは家親自身のせいだろうし
宗景が離反したのも元々そのつもりだったからじゃない
337 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 18:10:49 ID:Kf0092u3
なんだよ。毛利厨くんに数日の猶予を与えて俺の質問の回答を待ってたが黙殺ですかwww
>>326 >>秀吉がいつ毛利の領地の大半を支配したんだ?
俺は譲渡も何も大半がすでに秀吉に切り取られた領地とか突っ込まれてたじゃんと書いているんだぞ。
誰も播磨や因幡が毛利家の物なんて書いてないじゃんwお前ってさ頭おかしいだろ?
だがな、
>>328>>329に書いたように元春や隆景に勇気があれば反織田連中を糾合し増援してれば
少なくとも但馬〜摂津ラインの毛利領国化も可能な情勢だった。
信長が明智が丹波で苦戦中のため敵中孤立の危機に成りかねない播磨に秀吉を派遣したのも
秀吉が姫路を拠点にしたのも北に位置する生野銀山からの輸送ルート確保のためで
結局、勇気の無い毛利が姫路を攻撃できずに逃げた為それを手にすることができずに敗退を続けた。
>>多治比が奪われているのは事実だよな
池享氏も多治比が奪われたとする元就の話を怪しい話と一刀両断にしてるわけだがw
>>家督相続の手順が早いから謀反だとか意味がわからない
たまたま神仏詣してた粟屋元秀が将軍から元就の家督継承の許しを得て帰ってくるとか出来過ぎなんだがwww
たまたまの突発的事態なのに速やかに将軍や幕府要路の重要人物たちへの取り次ぎの速さや
斡旋費用にどんだけ大金や贈り物を持って京にいるんだwww
>>327 養女として高橋が養育して他家に嫁がせる予定だったのに、元就がその長女を犠牲にして襲ってきたんだから
養女が人質に転落して殺されたって話なのにどんだけアホなんだお前www
>>334 書き方が悪かったね。すまん。あまり最終チェックをしないでレスするもんでね。
さて話を変えて
義興死後の守護大内義隆への対抗権力としての守護代の家中形成の進化が陶隆房のクーデターを呼んだ。
そして吉川山陰領国形成と吉川小早川の毛利本家へのクーデターたる関が原の対立から
元春宿願の岩国吉川領の成立への道。
元春の独立へ向けた動きは元就が死去するや顕著になり
仲が悪かった兄の子の輝元を周防長門2ヵ国に押し込めて大友と対峙させる一方で
隆景と共に両川は東へと広域支配目指して領土を広げていくのである。
天正9年には湯原春綱へ元春が出した書状には
「作州祝山数年被遂籠城、御忠義之段吉田ニ茂被感思召候、可被加似合之御褒美之由候、
当時依無明所、末次・黒田百貫之内五十貫地之事、従吉田可被成御扶持間之事、拙者令裁判進置候」
今回の奉公に輝元から加増すべきところだが、俺が勝手に加増してやる!と宗家を蔑ろにしているのがわかる。
毛利宗家は元春の無断決定による褒美を追認するだけの象徴的存在に落とされ、元春らは寺社に対しても独自支配を進めていく。
そして天正15年の広家の家督相続では山陰国衆15名が吉川氏に「任御下知 上様へ可抽馳走候」となる。
館鼻氏もこの事実を吉川氏による山陰国衆統制の完成と評価している。
338 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 18:55:21 ID:Kf0092u3
>>336 >>大内義隆が陶の挙兵を知っていたならなんで陶を討たなかったんだ?
義隆は長門国守護代内藤興盛に陶は謀反しないですよって言われてたし
陶の調伏の護摩焚いて効き目がでてきたと思ってたから。
>>主君を討った陶を裏切っても問題
主に対する二重裏切りは悪辣かつ悪質で到底容認できるようなものではない。
浦上宗景との配下だった直家らは毛利を信じていたが
月山富田城を毛利と共に包囲していた三村が備前や美作へ侵攻するのを容認して
月山富田城から備中へ戻るのを容認したから元就が浦上らを裏切った。
>>宇喜多直家が裏切ったのは主君浦上宗景の方じゃないか
直家は赤松政秀や将軍義昭の命で織田側に付いて浦上宗景や赤松義祐の追討軍に参加しただけのこと。
それに浦上と宇喜多の間を仲裁しろと織田から書状が来たのに
それも無視して宇喜多を支援してたのも毛利。
>>毛利から織田に寝返ったのは孫の輝元の代だから元就は関係ないし
誰も元就とは書いてないが?なに言ってんだ?
>>大友宗麟や尼子義久
将軍の顔を立てて和睦して兵を収めた安心してたら
卑怯にも無防備なところを狙って元就が裏切って奇襲してきてんじゃん。
将軍の面目丸つぶれにして顔に泥を塗ってばっかりなのに
将軍から派遣されてくる名医からの診察は厚かましくも毎回受診してる恥知らずが元就。
>>彼らの都合で離反
毛利に忠節を尽くしていた武田高信を切り捨てて山名と結んだ時に
高信を匿った塩治高清が吉川に何度と無く赦免を乞うたのに許さなかった時と
同様に宇喜多直家と三村元親を天秤にかけて
父の代から毛利への奉公に忠節抽んでていた三村を切り捨てたのが毛利。
南条元続の場合もさしたる証拠もなく讒言を信じた吉川の命を受けた
山田重直が福山茲正を羽衣石城下で堂々と暗殺して
脅迫してみせたことに恐れ南条は離反しただけ。
>>江良房栄の件は元々陶に討たせるためにやってる
いやもともと陶に討たせるためにやったわけではない。
陶からの離反が判明したので今さら引き返せない房栄の足元を見て毛利が恩賞で約定を破りケチったため。
それで抗議しただけなのに、逆切れして梯子を外した冷酷さが毛利らしい。
>>野間隆実の件だが主君である大内を討った陶はいいのか
主に対する二重裏切りは悪辣かつ悪質で到底容認できるようなものではない。
>>陶を討つつもりだから不安定な要素は除いただけ
吉川元春と野間隆実の間柄は双方ともに熊谷信直の娘を妻にして親しかったのに
詐術を弄して降伏させておいて武士の倫理を辱めて野間一族虐殺はあまりにも悪逆無道。
>>何で元就の最大の失策が三村家親の行動を許可して浦上宗景を離反させたことなんだ
うまく間を調停してれば労少なくして大利を得て浦上の影響圏たる播磨・美作・備前の支配を
円滑に進められていたのは間違いないから元就の最大の失策だと言った。
339 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 19:00:38 ID:Kf0092u3
元就は武門の誇りが無く、戦にも弱かった。ゆえに卑怯な真似ばかり。
たびたび下記のような詐術で降伏させて虐殺を繰り返している禽獣以下の悪賊。
且山城に籠城した内藤隆世と大内義長ら2000に対して
内藤隆世が責任をとって自刃すれば義長と兵を助命すると元就は約束しておきながら
長福院に監禁した挙げ句に義長に自刃を強要。
約を平気で破り武士を辱める卑怯者が戦国史最強の卑劣人間元就。
元就には相手を尊重するとか、信義とかまともな人間なら生まれながらに持つ人間性がまったくない基地害。
忠義と武勇で評判だった内藤の籠城での指揮ぶりから元就は苦戦した挙げ句に悪質な嘘をついた卑怯者。
自分の命と引き換えに大内家を後世にちゃんと残してくれると元就を信頼して死んだ内藤が哀れ。
相手の信頼を裏切りまくりで武門の道を汚すことでは戦国一の元就。
340 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 21:53:11 ID:i0JsG73B
>>337 自分は元就が大内に寝返ったのが1528年だと主張する根拠すら出さないくせに
人には俺の質問の回答を待ってたが黙殺とか身勝手な言動かよ
ホント頭が逝かれてるとしか言い様が無いなwww
それより早く元就が大内に寝返ったのが1528年だと主張する根拠をだせよ
答えられないから黙殺したかwww
341 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 23:06:58 ID:0nY6acd0
>>338 >義隆は長門国守護代内藤興盛に陶は謀反しないですよって言われてたし
なら義隆が元就に援助を求める必要もないじゃん
>>主に対する二重裏切りは悪辣かつ悪質で到底容認できるようなものではない。
一度でも主君を裏切るのは悪辣かつ悪質で到底容認できるものじゃないんじゃないか
それに陶は主君ではないわけで
>>月山富田城を毛利と共に包囲していた三村が備前や美作へ侵攻するのを容認して
この時は1564年だけど浦上が離反したのは1563年でどうやったらこれが原因なるの
まさか元就が大内に鞍替えしたのが1528年とか書いたみたいに捏造とかするのか
>直家は赤松政秀や将軍義昭の命で織田側に付いて浦上宗景や赤松義祐の追討軍に参加しただけのこと
将軍の命令ならかつての主君を討つのはいいのか
いやなら討たなくてもいいのにこれって裏切りとは言えないのか
>無視して宇喜多を支援してたのも毛利
で結局毛利は宇喜多を裏切ったのか
宇喜多のために支援したんでしょ毛利は
>誰も元就とは書いてないが?なに言ってんだ?
じゃあ誰なんだと
スレで元就が原因と自分で書いてあるのにそっちこそなに言ってんだ?
>>卑怯にも無防備なところを狙って元就が裏切って奇襲してきてんじゃん
別に無防備なところを狙ったわけでもないし
突然国を侵攻してるわけでもないのに
奇襲してきたとか勝手に書いてるだけじゃないか
何かの記述で書かれたりでもしたの
それに尼子との雲芸和議は毛利にとっては不利なものを
将軍の顔を立てて結んでるし
将軍の面目丸つぶれにして顔に泥を塗ったのなら
何でその将軍は名医を派遣してくれたんだ
特に気にしてなかったからだろう
>父の代から毛利への奉公に忠節抽んでていた三村を切り捨てたのが毛利。
宇喜多を味方にした時に三村を切り捨ててないだろう
三村が離反しなければそのまま毛利の傘下としての行動もできた
>南条元続の場合もさしたる証拠もなく讒言を信じた
元尼子家臣である福山茲正が毛利と敵対行動してもおかしくないし
実際に離反しているところをみればやってたんだろ
>いやもともと陶に討たせるためにやったわけではない。
なら何で裏切りが判明したの
>詐術を弄して降伏させておいて武士の倫理を辱めて野間一族虐殺はあまりにも悪逆無道。
敵対してきたんだから一族虐殺されても文句は言えないだろ
源氏は平氏を皆殺ししたし、北条氏もそうだったじゃないか
>うまく間を調停してれば労少なくして大利を得て
そもそも三村と浦上は領地問題でも起こしてたのか
342 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 23:48:38 ID:aYJ7QmSL
まあ晴久の新宮党粛清の件は中央集権化がどうだとか言って擁護するくせに
元就の井上一族粛清の件は利益を独り占めがどうだとか言って叩く偏向振りだから
正気を求める方が無理な相談だけどなw
343 :
人間七七四年:2011/01/16(日) 02:55:01 ID:GYjW/L0o
せめてもう少し読みやすい書き方を出来んもんか。
344 :
人間七七四年:2011/01/16(日) 03:15:41 ID:ZcY+V041
>>340 ぶざまだな。お前はまったく根拠を出さずに逃げてきただけなのにオウム返しばっかw
じゃあ1525年だと盲信する君に逆に聞くが、そのデタラメ話に従うと
其の後に大内軍+大友1万の援軍+毛利軍+高橋氏+野間氏+多賀谷氏+阿曾沼氏+小早川にまで
膨れ上がって安芸国が大内一色に統一されてるはずなのに
しかも大内が周防から進出した先の白井氏まで降伏しているし海賊衆も広島湾制海権も大内側。
そこまで固めているのになんでたかが孤立した武田氏すら降伏させられないの?
>>341 >>なら義隆が元就に援助を求める必要もないじゃん
お前さ、時系列って知らないの?
>>一度でも主君を裏切るのは悪辣かつ悪質で到底容認できるものじゃないんじゃないか
じゃあ二度となると元就は悪辣どころか悪魔の所業だな。
>>1563年でどうやったらこれが原因なるの
お前さ、日本語理解できないなら書くなよ。元就は浦上と三村の調整に失敗した挙句に月山富田城から
三村に攻撃を許可して出撃させたのが1564年なんだよ。わかる?
1563年の段階では三村の行動は旧尼子残党の備前金川城松田元賢や美作三星城主の後藤勝基の討伐レベルだった。
しかし両者は直家との婚姻関係が成立しており、衰亡している尼子から浦上への転換をはかっていた。
しかも浦上宗景は浦上政宗と戦闘を続けており、やむなく双方が和議する動きのでざるおえなくなった。
ここで毛利が尼子残党討伐の大義名分を降ろして調整をしてうまくやってればよかったと主張してるわけ。
しかし1564年に元就は公式に三村に対して攻撃許可してしまった。
そして7月には直家と三村は千騎谷合戦で本格的な軍事衝突をしてしまい後戻りできなくなった。
>>将軍の命令ならかつての主君を討つのはいいのか
当たり前だろwwwだから直家だって久松丸を擁立したんじゃねぇか。
>>毛利は宇喜多を裏切ったのか
毛利は織田軍の攻撃を宇喜多に防がせて見殺しにしようとしてたじゃねーかw
直家には弱気なところを察せられないようにするのが肝心とか言って
毛利は内緒で織田と和睦しようとしてるし、さんざん国人達を切り捨ててきたのも毛利。
>>じゃあ誰なんだと
だからそこ「毛利」って書いてあるだろ字も読めねーのかw
>>突然国を侵攻してるわけでもないのに
和睦を無視して侵攻してきてどの口がそんな図々しいことを言うんだ?
>>雲芸和議は毛利にとっては不利
はぁ?元就が主張した出雲国への不介入って言う尼子にとっては到底呑めない条件を
将軍の顔を立てて譲歩して認めたんだぞ。いいか元就から提示してきた和睦条件だぞ。
お前は本当に無知だな。
>>宇喜多を味方にした時に三村を切り捨ててないだろう
はぁ?宇喜多に味方して父の代から毛利に忠孝してきた三村を切りすてるは反対だと元春が言ってるだろ。
>>敵対行動してもおかしくないし
で、その謀反のソースは?
>>源氏は平氏を皆殺
で、いつ野間氏は元就の父を殺したんだい?
>>三村と浦上は領地問題でも起こしてたのか
旧尼子の家臣の扱いで領土問題に発展してるわけだが。
>>342 >>337吉川山陰領国形成と吉川小早川の毛利本家へのクーデターたる関が原の対立から
元春宿願の岩国吉川領の成立への道。
>>325謀反した三男の跡に引き継いだのが次男吉田国久なんだから
いずれ宗家の制御が効かなくなるのは明らかで
ここら辺をよく読んでね。それと井上一族に上記のような行動をした形跡は無い。
345 :
人間七七四年:2011/01/16(日) 13:46:30 ID:aIiFENvP
346 :
人間七七四年:2011/01/16(日) 14:33:52 ID:CucFCDgx
毛利元就の伝記に
1525年 元就は尼子氏との関係を絶ち、大内氏に従う
とあるが
これは著者の吉本直志郎氏が間違ってるの?
347 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 03:35:03 ID:YDckX+6+
>>345 はっ?お前ってネット検索だけで俺と言い争ってたのwww
では渡邊氏や池享氏や館鼻氏の名を挙げてもわからなかっただろうね。ごめんな。
もうそんなくだらないことしか反論できないみたいね。
>>346 吉本氏はたしか児童作家だったよね。何歳向けの本を読んだの?
つうか毛利厨って今まで数々のデタラメを書いては逃亡してきたよねw
そろそろ逃げずに回答してくれないか?
348 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 03:38:19 ID:YDckX+6+
毛利厨って本当にガチバカで大ウソつきだな。
門司城の所属なんて史料少ないし、猫の目のようにコロコロ所属が変わるから
多少の知識ある人間は
>>門司はほとんど毛利が支配しているだろ
なんて迂闊な発言はしねーよアホ。
お前は門司城の攻防の推移をまったく知らないで発言を繰り返してるのバレバレだからw
とりあえず少しわかりやすくまとめてやったから感謝しろや。
まぁ圧倒的に大友側が優勢だけどな。
ただ地理的に毛利側の方が門司に隣接しててめちゃくちゃ有利な反面で
大友側は背反常ない豊前の独立心旺盛な国人たちが豊後の山谷を越えての補給の邪魔ばかりするのが大問題となってるだけ。
毛利が奇襲し怒留湯主水の門司城を奪う→道雪が仁保就定を破り門司城を奪回
毛利が6月に奪回し仁保隆慰を置く→1558年9月田原親宏が奪回→毛利が奪回?再度、仁保就定配置?
1559年3月下旬に筑紫氏が博多へ乱入し大略奪大会
1559年9月田原常陸介が仁保就定から門司を奪うが毛利に再奪回される。
大友側が奪回に動くが基本的には豊前全域の国人討伐がメインで、大友は花尾城や香春岳城を攻める。
最前線の門司城でも一進一退の攻防戦
1560年3月宗麟も後詰めで出馬するが、一方で幕府の仲介工作開始。
1560年9月26日田原親宏や武蔵田原親賢が率いる国東郡衆や宇佐郡衆が門司を攻略し、落ち行く波多野大和守興滋親子を討ち取ったらしい。
12月に牢人決起により門司城が落城し毛利側が仁保隆慰を後任にする。
1561年吉岡臼杵のニ老が北上
2月下毛郡代を勤めてきた野仲鎮兼が旧領仲尾郷・築地村に乱入宇佐郡一帯で暴れ
妙見城督を田原親賢に譲った杉因幡守隆哉も謀反し松山城に籠城し筑紫秋月宗像が挙兵
1561年7月大友側が宇佐宮香春社を焼き討ち
8月田原15000小倉表集結を仁保就定が元就へ急報
9月道雪が花尾城と香春岳城攻略に成功。
9月に豊後水軍が蓑島辺で村上水軍に敗北し海上輸送が頓挫。
築城・上毛・下毛・宇佐で牢人が蜂起し大友の兵糧輸送不安により11月撤退。
宇佐も混乱中なので宇佐郡衆や吉岡や臼杵は小倉南区の貫山を超えて日田に帰り着く。
349 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 03:40:19 ID:YDckX+6+
高橋鑑種が毛利領への調略で成果を挙げたため毛利討伐発向準備を下令するも、
和睦の話が現実味を帯びてきたので中止。
1562年9月道雪が補給線を切り開くため松山城の戦いで毛利を大破。
9〜10月に両軍が中元寺や桜井や柳浦で交戦
10月13日道雪や吉弘が松山包囲のついでに門司郷大里で門司城番や村上水軍を撃破し
城将冷泉五郎元豊や桂兵部大夫元親、赤川助右衛門(又左衛門尉元吉)を討ち取る
大友尼子同盟
松山城の天野隆重もしきりに城番の交代を隆元に願うまで追い込まれる。
これを受けて元就は追いつめられ1563年3月和睦。
和睦の時の門司城の扱いは不明
1564年4月毛利の唆しで秋月筑紫謀反 7月には彦山も謀反 8月毛利は大友と和睦誓紙を交換しつつ高橋に謀反を勧める背信行為。
高橋は毛利領の国人への調略で成功を収め、毛利領侵攻に自信があったが中止になり、毛利領の国人達に対して面目を失い恥をかいていた。
大友側が幕府に、うわべで和睦のフリしてるだけで和睦条件である九州の国人との関係を切らない元就に圧力を加えるよう依頼。
なお、これ以上の謀反を煽るようなら大内の旧臣たちをこちらも煽ると警告。
まったく改まらない元就に激怒しこの後に実際に大友側にいた大内輝弘を毛利領へ上陸させようとして
中国側の島へ渡海するも、内応した陶や内藤の親大内国人が毛利側に討たれ上陸失敗。
1568年5月20日西大野宮山に籠城していた仁保隆慰らが田原親宏に落とされ
大坂山の杉と西郷も降伏し田原勢は7月に杉七郎重良の苅田松山城攻撃を開始受け
1569年3月両川が門司城を奪い小倉着陣し前年の玖珠郡長野氏の三岳城攻めに続き、三岳城で(企救長野?)長野を攻略し立花へ
立花城攻防戦で大内輝弘の上陸に成功&小早川軍の敗北で攻防戦に大友が勝利。
大友と連動し尼子再興軍の出雲山中とともに浦上宗景と一味した藤井一党も備後方面で毛利へ挙兵
孤立した高橋鑑種が大友に降伏したので高橋の名跡を奪い、腹心の紹運に高橋の名跡を与え
高橋鑑種には代わりに規矩一郡を与え小倉城に高橋鑑種を移す。
門司城の状況は不明
(小倉城に一度は毛利側へ寝返ってから大友に降伏してる危険な高橋が配置されたことから、
目と鼻の先の門司城は大友側だったと言われる。毛利側の史料の追放された高橋を拾って小倉へ配置したってのは大ウソ捏造)
1570年2月大友側として高橋鑑種が門司城を攻撃
門司城の状況は不明
ちなみにもともと小倉築城は住吉神社領吉母浦へ流れついた寄船を利用し掻楯板として毛利側の急造の城
暗黒寺が交渉役として小倉津町衆に外構え70枚を、堀隔子造成は規矩郡中へ申しつけ金具調達は本人
毛利は南条と一緒に堀担当の日野衆を派遣する。
小倉は家久が1570年に伊勢神宮上洛途中に午後2時ころ小倉の町に着き大友統治下の高橋鑑種殿の館を一見したと出てくる。
ほんと毛利厨みたいな無知なヤツは疲れるな。。
350 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 03:41:55 ID:YDckX+6+
しかも四国での戦いが毛利勝利で終了させて、その後の記述を意図的に隠蔽してる。
実際は伊予国での主導権も隆景は失ってる。
大友の後援の一条氏が西園寺も降し主導権を握るが
相次ぐ当主の死去で弱体化していた
(一条房家死後に嫡男の房冬がわずか2年で死去し、
その跡を継いだ房基が28歳で自殺し7歳で家督を継いだ兼定)
兼定が讒言を信じたりで自爆して家臣に追放されちまう。
豊後へ逃げたのちに大友兵を借りての長宗我部の決戦が天王山だったし。
鳥坂峠の戦いだけを強調する毛利の捏造史観では
翌年11月には東表の合戦に一条氏が大勝利し
甲之森城主の長山伯耆に切敷のうち六町を与えて形勢逆転してる話は黙殺してんだよな。
さらに元亀年間には甥の宗麟と宇和郡へ大攻勢をかけるなど河野氏は衰退する一方。
結局、秀吉の手先になった隆景は河野氏滅亡の元凶に変身したし。
711 :人間七七四年:2010/05/31(月) 00:22:38 ID:U9xpAMAs
毛利厨って史料を読んでないのが明白だよね。
明らかにwikiの知識しかないのモロバレw
だからこういうブザマな結果になる。
712 :人間七七四年:2010/05/31(月) 18:11:55 ID:5n+mVq+r
あぶねぇ。毛利の都合のいいところで終わらす年表信じちゃってたぜ。
何でもかんでも勝ち戦にして気持ち悪いよ毛利厨。
713 :人間七七四年:2010/05/31(月) 23:05:41 ID:tJTAKIdZ
>>711 そもそも毛利家に信用できる一次史料なんてあるの?
ほとんど軍記物からの引用じゃね?
351 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 03:44:24 ID:YDckX+6+
1567年11月からの隆景の伊予遠征ってさ、
そもそも宗麟が一条へ援助して
伊予方面に毛利の目を向けさせておいて
その間に北九州の親毛利勢力を撲滅させる策なんだよな。
中国で動員された国人達はみんなは
いくら大義名分で、「厳島の恩返し」※を強調しても
「なんで小早川の私欲のために俺らが狩り出されなきゃならんわけ(怒)」
って超不満タラタラでの従軍だったし。
しかも、伊予遠征してたら
大友が親毛利勢力をフルボッコしまくり北九州の情勢悪化で
一条氏を伊予から追い払うこともできぬまま
伊予遠征打ち切りして船に乗るや
中国国人たちは故郷を海上から眺めながらも帰れず、
そのまま北九州直行に付き合わされて
中国の国人達の士気がものすごい低くなっちゃうんだよな。
おかげで隆景の軍は立花城下の決戦で道雪に大敗し、
最後は降雪の夜に毛利全軍追撃をうけて泣きながら大敗走だもんな。
その間の四国でも大友の後援を受けている一条氏が西園寺をも降し伊予での主導権を握り
1568年11月には東表の合戦に一条氏が大勝利し
甲之森城主の長山伯耆に切敷のうち六町を与えて河野との形勢逆転に成功し
1569年11月には毛利が上記のように大友の前に大敗。
1570年からの元亀年間には甥の宗麟と一条氏は宇和郡へ大攻勢をかけるなど河野氏は衰退する一方。
この成功で傲慢になった一条兼定が家臣の讒言を信じたりで自爆して家臣に追放されちまい
豊後へ逃げたのちに、大友兵を借りて一条VS長宗我部の決戦で敗北し
長宗我部の四国での覇権が確立していくわけだが。
※過大評価って戦国大名にはつきものなのか、とも思うね。
「来島扶持を以て隆元、我ら頸をつぎたる事に候」(永禄十一年 元就書状)
厳島の戦い後、十三年経っても、あの戦いは来島水軍の助力がなければ、毛利家滅亡の危機
であったことを元就自身が白状している。現に合戦当時、厳島の宮の城から隆景に「来島が
来てくれなければ万事休す、何としても助力が得られるよう交渉しろ」と、哀れなほど追い
詰められた書状も出している。これらは、毛利家文書、小早川家文書に現存しているよ。
何が起こるか予想のつかない現実の戦場で、講談のごとく、何から何まで計算通りにいく、
なんてあるわけ無いでしょ。
352 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 03:46:37 ID:YDckX+6+
wikiだけの知識で必死に対抗しようとするバカ毛利厨乙w
はぁ?毛利が四国支配寸前だった?伊予を毛利が平定するチャンスがあったとかバカも休み休み言えよwww
ぜんぜん知識もないアホ丸出しで毛利史観を盲信してんじゃねーよ。
阿波や讃岐が毛利の管理下に置かれてるから毛利の功績?もうデタラメすぎて腹が痛いよwww
伊予国松前城主加藤氏の場合
毛利軍の侵攻に対して弟や正木城を預かる佃らは
宇和島城主藤堂氏の援軍の申し出を「独力で守るわ!」と断り
5/18に決戦し村上・能島・曽根の三将を打ち取るも加藤側の被害はわずか味方手勢十余人の戦死。
これにより正木付近で毛利軍は壊滅させ敗走、さらに追撃し毛利と戦闘を重ね、
毛利軍は久米郡如来寺に籠城し一揆軍の決起を促す。
19日加藤軍の先頭の黒田九郎兵衛は山門を打ち破り寺内に乱入し
毛利兵を討ちまくるうちに鉄砲に当り討ち死。
あとに続いた飛松兵介も討死するも佃は兵を二手に分け前後より攻めて毛利軍を打ち破る。
この戦いで荏原村一揆と毛利を打ち破り、さらに和気郡山越村でも一揆と毛利軍撃破
毛利軍の最後は還熊八幡社を本陣にしたところ
佃は八幡山を襲撃し毛利の防衛線は破られ風早浦から逃げ帰った。
浮穴郡荏原城、和気郡山越付近と佃率いる加藤軍は連戦連勝し
一方、藤堂領宇和郡松葉村でも力石良連らに三瀬六兵衛が打ち取られ伊予の毛利壊滅。
阿波国徳島城蜂須賀氏の場合
家康が上杉征伐の際に御陣場御見習いと称して
小笠原秀政の娘と婚姻してるこの時わずか15歳の至鎮を強引に連れ出して人質となして出征。
やむなく至鎮を守るために益田一正ら18騎も随行。
三成挙兵→至鎮の婚約者の小笠原秀政の娘を救うべく高木法斎が徳島にいた家政の許可なく
北陸軍として加賀大聖寺城に入ったために三成による弾圧を免れることに成功。
大坂方から木俣半之丞が徳島にきたが人質を取られた家政は家康追討の名分がないと反対。
これを受けて大坂から家政に親しい前田玄以が徳島へ出仕要求にきた。
家政は仕方がなく大坂へ出てきて「患いの最中でなおかつ年寄りでもあるから従軍は勘弁して欲しい。
その代わりに国兵を差し出すから自由に使って差し支えない」
と大阪に味方すると約して、諸将の了解を得て下城しのちに高野山へ行く。
そこで大坂方から小川越前&小早川豊前が徳島へ来て家政の意として大谷・木下勝俊に属して北陸へ向かうように指令。
9/12に1万で兵庫上陸するや蜂須賀隊を率いる稲田示植が病として進軍を3日の間ストップをかけ
15日枚方で関ヶ原の東軍勝報を聞き近江草津で至鎮に合流。
生駒一正は未だに部屋住みなりしも20騎を率いて家康に従う←ここら辺は至鎮と同じパターンだろ。
生駒親正は西軍として丹波田辺城を攻め向かうも関ヶ原を聞き家康を恐れて高野山へ行く←家政と違い大坂でうまく言い訳ができんかったw
西軍化した生駒も蜂須賀もまったく士気がなくやる気ゼロの軍
どこに毛利の功績があって、毛利が四国の大半を支配下に置けそうだったんだ?
毛利はいつもどうりに激弱かったので、西軍の足を引っ張って大坂方が苦労してただけだぜ。
353 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 03:49:47 ID:YDckX+6+
なんだ小早川隆景 VS 直江兼続がdat落ちしてんのか。
1000レスまで毛利厨が泣きながら埋め逃げして次スレを立てないとかwww
結局、隆景の功績がまったく出せずに逃走だもんな。
【戦国屈指の】 毛利元就総合スレッド 【策君】と同じで
次スレ立てられないとか毛利厨って戦国板の中で最弱厨だな。
まぁけっこう笑えた厨ではあるな。
ウケたと言えば、もう可哀想すぎて、あえて指摘しないであげたのが下記の自信満々のレス
>785によると
古代氏族系図集成によると松野家そのものは西美濃の出だし父松野平八からして
秀吉配下で丹波三百石。父死亡後に遺領を継承し羽柴秀俊の与力になり秀俊の
小早川入りに従っている
と
古代氏族系図集成は系譜史料の集大成のようなものでかなりの優れものな資料。
もちろんこの書に載っている系譜が完全に正しいというわけではないが江戸時代以前の
系譜を確認するにはまずこの書を調べてみるのが早い。
本だろうがwebだろうが、古代氏族系譜集成によれば○○家は・・・ という記述があれば
まずその系譜に間違いはないと考えるのが普通。
それくらいの準一級資料。
こりゃあバカすぎだわ。そもそも古代氏族系図集成のどこに上記のレス内容が書かれているんだっていうwww
ではここに古代氏族系図集成の該当箇所を転記しておこう。
松野連
呉王夫差公子慶父忌後裔
牛慈→長堤(筑紫国夜須郡松峡野住)→大野→広石→津万呂(ここで松野連姓)→
(かなり長く面倒だから24代の名前は記入しない)→久親→種眞→(三代略)→主馬/仕小早川隆景※3
慶父忌以後、牛慈以前の系図は「百家系図稿」に卑弥呼や倭王を経る系図を参考史料に掲げている。
※3金吾中納言小早川秀秋の重臣に松野主馬首正重がおり、1万石を領していたが、関ヶ原役時に主人を諫めると言われる。
354 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 03:52:49 ID:YDckX+6+
これしか書かれてないのに
松野家そのものは西美濃の出だし父松野平八からして
秀吉配下で丹波三百石。父死亡後に遺領を継承し羽柴秀俊の与力になり秀俊の
小早川入りに従っている
の文章の証明をしてることになってるんだから、もうチョンもビックリの捏造王ぶりだよw
しかもこの書は平安時代までをメインにしてるもんなのも知らないんだからw
>>系譜に間違いはないと考えるのが普通←もうね複数系図まで掲げてるのも知らずに何言ってんだかっていう。
いまだに論争あるし、関係各所の子孫達からクレームくるぞw
アホ毛利厨のことは置いておいて、ここで注目なのは、
主馬が隆景に仕えていたと記していること。主馬の親どころか三代不明なこと。
またその主馬と松野主馬首正重が同一人物だと認めてはいない。
あくまで参考として言及してるに過ぎない。
まったく関係なし、嗣子断絶回避のため養子として入り継いだなどいろいろな考え方もある。
いきなり同一人物と考えるのはまったくおかしい。
まぁおれとしては、三原へ行く隆景と別れて秀秋についていった村上景親 清水景治 日野景幸らが
隆景から景の名までもらっているほど信任されているってことだよ。
古代氏族系図集成を見たこともないアホ毛利厨が
シッタカ大ウソを恥ずかしくもなくやってました。
要約するとデタラメなWIKIの内容を丸パクりして、
そのソースになぜか自信満々に古代氏族系図集成の名前を出し
見事にデタラメがバレると言う戦国板史上最大の低脳アホバカぶりです。
355 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 07:38:37 ID:XW2e5ua8
>>347 で、お前さんの珍説はその渡邊氏や池享氏や館鼻氏とやらの論文か著書の何処の記述を参考にしたの?
当然名前を出せるくらい博学なご様子だからそれくらい言えるよな
356 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 09:59:06 ID:hyXHDSTA
>>347 子供の頃読んだ火の鳥文庫引っ張り出してきたんだわ
そんで、子供向けだったら何?
吉本氏が「どうせ子供の読み物だし」と、間違ったことを書いているとでも?
357 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 10:09:27 ID:YpIFwrrf
君も長文を抜き出しておきながら松野うんぬんの話題のきっかけになってるこの駄文を
省くのは卑怯だわ。
秀秋へ譲った際に松野主馬入道道円は隆景家臣最強の武人と言われており
隆景旗本でしたが、隆景は特に名指しで付け家老として秀秋を頼むと懇願してますね。
これひどすぎw
もっとも小説wに松野主馬が隆景旗本という珍説な記載はあったけどね。
358 :
人間七七四年:2011/01/18(火) 04:49:34 ID:DA3ipLcH
>>355>>356 ぶざまだな。お前はまったく根拠を出さずに逃げてきただけなのにオウム返しばっかw
じゃあ1525年だと盲信する君に逆に聞くが、そのデタラメ話に従うと
其の後に大内軍+大友1万の援軍+毛利軍+高橋氏+野間氏+多賀谷氏+阿曾沼氏+小早川にまで
膨れ上がって安芸国が大内一色に統一されてるはずなのに
しかも大内が周防から進出した先の白井氏まで降伏しているし海賊衆も広島湾制海権も大内側。
そこまで固めているのになんでたかが孤立した武田氏すら降伏させられないの?
籠城って友軍からの支援が来るのを前提にしてやるもんだけど、
そもそも上記のような状態なら籠城継続しないだろw
>>357 昔から言ってるがお前には他人の言葉を否定する時はちゃんとソースなり論拠を出せと言ってるだろw
その時もお前はなんらソースを出さずに逃げ回ってたじゃねーかw
しかもその小説自体知らないが誰のなんて言う題名の小説なんだよ。まさかとは思うが本当に実在する本なのかね。
つうか相変わらず単発ID自演を飽きもせずにやってるのなワロタw
359 :
人間七七四年:2011/01/18(火) 09:13:02 ID:Q/eetSE0
渡邊大門『宇喜多直家・秀家』ミネルヴァ書房(2011年1月10日刊行/定価3,000円・税別) ※アマゾンで受付中です。
目次
はじめに
第1章 宇喜多氏の評価と出自
1)宇喜多氏の評価をめぐって
2)宇喜多氏の系譜
第2章 宇喜多氏の黎明―宇喜多能家
1)備前・美作の様相
2)宇喜多氏の前史について
3)宇喜多氏中興の祖能家
4)能家の栄光と没落
第3章 「梟雄」の時代―宇喜多直家
1)父興家と幼少期の直家
2)直家の台頭過程
3)直家と諸勢力との戦い
4)浦上宗景との対決
5)宇喜多氏領国の形成
第4章 若き五大老の相貌―宇喜多秀家
1)秀家の誕生と父直家の死
2)秀家の台頭過程と羽柴秀吉
3)文禄・慶長の役と五大老への道
4)秀家と芸能
5)岡山城下町編成と領国の形成
6)宇喜多氏家臣の家中騒動
第5章 関ケ原合戦と秀家
1)合戦前夜―五大老から二大老へ
2)関ヶ原合戦はじまる
3)秀家と家臣らの動向
第6章 八丈島での宇喜多氏
1)秀家の処遇をめぐって
2)八丈島での生活と秀家の死
3)秀家没後の宇喜多氏
参考文献
おわりに
宇喜多一族略年譜
人名索引
360 :
人間七七四年:2011/01/18(火) 18:16:15 ID:RcQUurAH
>お前はまったく根拠を出さずに逃げてきた
お前の事だろwお前は何時自分の思い込み以外で根拠を出してきたんだね?w
そもそも普通言いだしっぺが先に根拠を出すのが筋だろw
>そこまで固めているのになんでたかが孤立した武田氏すら降伏させられないの?
それ全然1528年説を主張する根拠になってないねw
そんな事よりお前何時も真夜中にしか書き込みしないね
毎晩夜更かしして翌朝差し支えるなんて事ないの?
そうでなくとも単発ID自演がどうだとか被害妄想があるご様子だから一度病院で診てもらっては如何かな?
361 :
人間七七四年:2011/01/18(火) 19:02:56 ID:DA3ipLcH
>>360 お前はいつも自分の意に沿わぬからって理由だけで
まったく根拠もないくせに違う!とか根拠だぜとかブタみたいに喚いてるだけで
一度も根拠の提示をしたことねーだろwww
こっちの質問にはまったく回答しないでオウム返しの連続だしよwww
>>348>>349>>350>>351>>352>>353>>354の時もお前は一度も根拠を挙げずに俺の意見を否定しまくり
結局は逃亡したじゃねーかwwwww
今が深夜とは恐れいったわwww
362 :
人間七七四年:2011/01/18(火) 23:59:19 ID:3PZf40un
毛利は伊予の河野も見捨てたりしてたし
関が原で西軍を見捨てて大坂城を明け渡して
自分だけ助かろうとする下劣極まりない家風は
元就から始まったといえる。
363 :
人間七七四年:2011/01/19(水) 00:22:14 ID:lMX7kEyr
>>352 >5/18に決戦し村上・能島・曽根の三将を打ち取る
西軍決起が七月なのに五月にどうやって村上・能島・曽根の三将を打ち取れるの?
これで無知とかデタラメとか書いてるんだよな
自分の書いてる文もろくに書けないくせによ
それにそんなに自分の持論に自信があるなら本でも書いて発表でもしたらどうなんですか?
仮におまえが書けと言われても無知なもんで書けないんで
どうぞ自信のあるあなたが書いてください
出したら自分の無知ぶりが曝け出されるかもしれないけれど
364 :
人間七七四年:2011/01/19(水) 01:30:27 ID:fWu+Pkgo
>>363 揚げ足取って棄て台詞なんてなんかもう毛利厨哀れとしか言えないな。。
三津浜の戦いを前に9月17日に三津浜に上陸したなんてことは
チョコっと調べればすぐ見つかる話なんだから5月と書かれてんのは単なるミスに過ぎないのにね。
もう重箱の隅をつつくレベルのキチガイ。
そういや三津浜の戦いでは毛利の将の木屋元公と宍道政慶も一緒に敗走してるけど
宍道政慶ってのちの輝元による熊谷元直や天野元信らを謀殺した五郎太石事件に関わってるよね。
輝元って言えば関が原での無条件降伏で六カ国を失ったけど
セコイことにその国ではすでに年貢を徴収して軍費に使ってたんだよね。
だから徳川から徴集分は全部返却するように命令されて毛利は破滅だって嘆いたんだよね。
福島正則にも残額の6万石分は来年の秋まで待ってくださいって土下座しても許可してくれなかったりw
それで如水に「もう返還のアテもないので防長も徳川に返還すれば家臣達とも関係ないし
自分ら親子の生活分の扶持だけもらえたらそれでいいや」ってこぼしたんだよね。
そしたら「防長を返還しても輝元殿はすでに徴集した分の祖米の返還は求められるけどどうするわけw」
って言われて「えっ?普通なら家産財産を棄てたら借金チャラじゃないの?殿様とか最悪じゃん。
中国やインドへ逃げたいけど無理だし誰も助けてくんないし」
って如水に暗に助けてって訴えて泣いたって話あるよね。
これほんとに実話なのかねぇ。
365 :
人間七七四年:2011/01/19(水) 01:39:11 ID:/9oR51ua
輝元って言えば関が原での無条件降伏で六カ国を失ったけど
セコイことにその国ではすでに年貢を徴収して軍費に使ってたんだよね。
だから徳川から徴集分は全部返却するように命令されて毛利は破滅だって嘆いたんだよね。
福島正則にも残額の6万石分は来年の秋まで待ってくださいって土下座しても許可してくれなかったりw
それで如水に「もう返還のアテもないので防長も徳川に返還すれば家臣達とも関係ないし
自分ら親子の生活分の扶持だけもらえたらそれでいいや」ってこぼしたんだよね。
これのソースなに?(´・ω・`)
366 :
人間七七四年:2011/01/19(水) 07:32:05 ID:09xqUhQH
市松は交渉に行った奴の酒豪っぷりに感心して待ってくれたはず
367 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 06:00:28 ID:BV/uS3aA
>>344 訂正 元就が主張した出雲国への不介入→元就が主張した石見国への不介入
>>325 毛利は総領光房以外に4人が連署に加わったほどの発言力を有していた・・・
毛利光房・平賀妙章の一揆中心人物が義満の一揆討伐軍派遣を逃れる為に降伏交渉しており
山名氏を通して降伏し七通の赦免の御教書を出してもらう予定だったが時期に恵まれず
特に毛利光房がたびたび懇願していたのにも関わらず義満が死去で沙汰止み。
1517年の毛利所領は40余りの荘を保有し判明している7荘だけで5700貫に上るとしていた・・・
毛利家文書151・252号によれば1475年備後国伊多岐・重永・山中など世羅台地にも毛利は3000貫を獲得し備後国にも発言力を持っている。
大内の元就への加増は毛利家文書253〜255号などにも見られるが、
幸松丸が鏡山城先陣を勤めたのは毛利家文書239でわかるが鏡山城攻防に信頼できる史料は無く
平賀氏は鏡山城落城の現形の功で東西条616貫を経久から与えられてる(平賀家文書61号)
義興による加増の由来が毛利家文書251号に書かれているが元就が過去を振り返って書いているので、
安芸の大半が尼子になびいたが毛利だけが大内に忠勤したとかデタラメが書いてある。
ここに尼子がやってきた時に幸松丸が死んで元就が継いだと書いており、なぜ死んだのかまったく触れてない実に不審である。
毛利家文書239号に元就が跡を継ぐのは尼子の承認ありの証拠。1525年に大友1万の大軍が大挙して大内軍として参加ってのは、
1527年7年3月に豊前守護代の杉興重が大友兵を同伴しての仁保島や日地島攻撃して帰った行動(一万田文書)と混同していると思われる。
この広島湾の島への攻撃の影響もあり白井膳胤降伏するも総領白井備前の府中城は
武田光和の後詰めもあり落ちず尼子の南下の阻止のため陶や杉らを派遣し備後へ。
1529年には高橋と佐々部領を併合した毛利は国人領主から脱皮し尼子に対して互角に戦えるほど成長している。
大内から加増してもらった大恩を忘れ大内を裏切り1532年7/10に尼子晴久と元就が妻の実家の吉川の仲介で兄弟契約してる(毛利家文書210号)
大内は厚遇してきた挙句に大国化した毛利の背反によっては致命的なことに成りかねないほど、その動向が無視できない存在になっており
1537年6年12月から4年間隆元を大内へ人質に出させたり、1539年9月に義隆と改めて誓言の交換をさせたりしている。
1541年に武田滅亡し7月の論功行賞において預けられていた可部・温科の代所として&隆元人質在国4年を賞し(毛利家文書303号)
さらに南方の佐東郡も加増されてる佐東や安南に合計1000貫の所領をもらった(毛利家文書258号)
さらに毛利は1542年11月武田の一族判氏の遺領である判の地も貰い武田の佐東川川口の川内衆水軍を毛利直属にしてる(毛利家文書251号・260号)
毛利は佐東川下流に所領を得て広島内海進出の足掛かりとなった。ほぼ安芸一国支配を確定させた。
1543年後半から備後攻略をはじめ神辺城攻略が開始され大内氏の西条守護の弘中隆兼が備後管轄したが、
内郡と呼ばれた備後北半七郡直接支配は元就に委ねているなどますます大内義隆の元就への厚遇ぶりが窺える(「譜録」渡辺三郎左衛門)
陶の謀反に同調した元就は陶が厳島接取した同日8/20金山城を手に入れ、
さらに陶から己斐河以東の左東郡を与える約束をしてもらっている。また9月には義隆側の西条木追山城も手に入れる(二宮俊実覚書)
陶は義隆を滅ぼし上関(堺)での村上氏の特権を認めず騎下の米良船を自由に通過させ
1552年2月厳島に掟を下して港に立ち寄る諸回船から警護米を取り立てるのを禁止。
さらに4月義隆時代に能島村上武吉の叔父で後見人の村上隆重を通して村上一門に与えていた特権も否定。
厳島で京・堺商人から駄別安堵料を受領することを禁止し、京堺商人から礼銭の献上を要求し村上水軍は反抗的態度になる。
元就が元春を犬のように頼りないから熊谷が助けてやってくれと言っている(熊谷家文書126号)元春はヘタレ無能だったのがわかる。
万代記 厳島合戦日記 1555年9月29日のところ 厳島渡海する時、前日より西風もってのほか吹き荒れ時雨あり。朝、河ノ内衆召し出し、
今日暮れに堤ノ浦へ富り手人数15000ばかり有り一時に漕ぎ渡ると申され…9月廿九日 大江元就 ※元就は4,000どころか1万5000の兵力を動員している事実。
368 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 17:48:03 ID:DQ9FcGmN
>>366 いかにも正則らしいエピソードだけど
それは単なる逸話?それとも史実?
年月日はいつの出来事になってるの?
正則って米が余ってんのか、大坂の陣で大坂方に米をやったり、
八丈島の宇喜多秀家に米と酒をあげたりしてるよね。
それって毛利から徴収したもんなのかねぇ。
369 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 20:36:55 ID:sZOiwz/t
>>368 昔、TVの歴史バラエティで見ただけだから、ソースは良く解らんなぁ。
ちなみに毛利から交渉に行った人は酒の飲み過ぎで早死したってオチも付いてた。
370 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 05:05:37 ID:3RPj7SSm
>>367 訂正 義隆側の西条木追山城も→義隆側の西条槌山城も
吉川元経の妹と元就が婚姻してるし、元就の妹と吉川元経も婚姻してるから
尼子と元就は婚姻関係で深くつながってる。
1515年末にも吉川経基(子が国経と尼子経久正室・孫が元経・曾孫が興経)が
尼子経久に毛利との縁談を提案していることからも窺われる。
ゆえにまず幸松丸を殺害し元就が跡を継いだのは尼子の承認あってのことだろう。
一方で毛利家臣は栗屋や井上などを代表に陶を通じて大内とつながってる。
その家臣団を取りまとめているのが志道だろう。
だからどっちと手を組んでも片方との完全な断交などは無く、連絡チャンネルは残している。
好条件さえ提示されたらすぐに陣営を変える蝙蝠が元就の欲深いスタンスだろう。
>>毛利家文書251号に書かれているが元就が過去を振り返って書いているので、
安芸の大半が尼子になびいたが毛利だけが大内に忠勤したとかデタラメが書いてある
元就の捏造ストーリーによって1523年尼子の鏡山城攻撃を境として
大内は東西条からも全兵を撤退させたので中国地方はこれより20年の間、尼子の勢力が強かったが
そんな中で毛利だけは大内に忠節したから大内から得た領地は正当だと主張して大ウソを吐いてる。
その元就の吐いたウソを正当化させる為か、大内側にずっと属していない証拠になるような
尼子からの加増などの書状がかなり処分されていると思われる。
そんな中で珍しく残っているのが
1532年7/10尼子晴久と元就が妻の実家の吉川の仲介で兄弟契約してる(毛利家文書210号) だろう。
このタイミングは尼子経久の三男の塩冶興久(妻の実家は備後山内氏)謀反の時期と重なっており、
経久と晴久と元就が協調して興久を挟撃体制を敷いているのであり、
1533年には興久は備後へ逃走してなおも反抗しているが、元就と晴久の義兄弟化は地理的にも乱の鎮圧に効果はあったろう。
そして乱の鎮圧後は当然に尼子から加増があったはずであろう。
しかし1534年9月23日には大内義隆から元就に官位を授けるように後奈良天皇に申し出て、
のちに叙任しておりさっさと尼子を裏切っている。そしてさらに吉川興経から尼子との和睦を斡旋されているが
元就に怒っている尼子側が拒否しているのが笑える。さすが鉄面皮元就である。
元就は一揆のリーダーとしてその婚姻関係をフルに使っている為に
保護者である大内も尼子も一目を置かざるおえない強固な立場がある。
これを期待して小早川も吉川も宍戸も熊谷も養子や婚姻を申し出てきたのであり、
かれらの家々の婚姻関係もフルに動員すると石見や備後にも影響力を行使でき、
その毛利系列会社の力は大内や尼子以上の兵力を安芸において動員するのも可能な巨大勢力であった。
371 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 15:05:36 ID:1Y+eb5RV
まあ高橋と吉川は仲が悪くて双方が戦をした時も親戚筋の毛利は立場に困ってたのか我関せずの中立的態度だったからね。
熊谷元直や武田信繁を討ったのも当時、京洛で武名を挙げていた鬼吉川だと思う。
のちに熊谷が武田から離れた原因も、大内から毛利に加増された地を熊谷に与える話で買収したって話だし。
しかも当時のその地は奪われて毛利のものじゃなくなっていたと言う…空手形っぷりw
こんな話で熊谷と毛利が親しくなるんだから元就が元直を殺しているとは思えない。
たしか佐々部は高橋と毛利の共同支配みたいな両属だったよね。
372 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 05:55:13 ID:FM+vOKV1
>>371 >>毛利のものじゃなくなっていた
可部の地のことだね。
毛利は総領光房以外に4人が連署に加わったほどの発言力で安芸一揆の盟主の地位が毛利家。
1513年3/19付で志道広良が元就は今後は広良の援助を得て毛利のために奉公する誓約書を書かせてたりと
元就の謀反をすでに警戒している姿が現れていて、その3年後に興元が唐突に急死・・・実に怪しい。
毛利家文書239号に元就が跡を継ぐのは尼子の承認ありの証拠・・・
尼子の安芸進出に伴い鏡山城における幸松丸暗殺と毛利の尼子への寝返り。
1529年大内義興死去もあり安芸での勢力挽回を諦め11年に渡り武田攻めを放棄している。元就が高橋一族を裏切り虐殺。
1530年より義隆は九州に出兵し豊後の大友氏や筑前の少弐氏と覇権を争うが龍造寺家兼の反攻にあって大敗(田手畷の戦い)
塩冶興久が経久に対して反乱を開始。大内は九州方面で苦戦中のため尼子経久と和睦し内乱に不介入。
1532年大友氏&少弐氏が大内領へ攻め込んできたので義隆は長府で指揮を取る。
7/10尼子晴久と混乱を望む元就が妻の実家の吉川の仲介で兄弟契約。尼子が美作へ侵攻し確保さらに備前を攻略。
1533年には塩冶興久が妻の実家である山内氏の備後へ敗走していると思われる。
1534年少弐氏から龍造寺家兼をら離反させる一方で大友氏の本拠の豊後を陶に攻めさせるが失敗(勢場ヶ原の戦い)
9/23尼子と大内を争うように仕向けようと暴れている元就を恐れる義隆が
背後を固める為の懐柔策として元就に官位を授けるように後奈良天皇に申し出る。
1536年少弐氏を滅亡させ龍造寺胤栄を肥前守護代に任じ北九州での大内の覇権をついに確立させる。
1537年12月不信感が募る毛利に対して隆元を大内へ人質に出させる。尼子が石見に侵攻。
1538年尼子が石見銀山を攻略し因幡を平定し播磨へと侵攻。足利義晴の仲介を受けて大内が大友の和睦成就。
細川晴元と対立する足利義晴から大内と尼子と大友は上洛して幕政に加わるよう要請を受ける。
1539年6月に武田光和が突然の病没 後継問題で武田信実が佐東銀山城から逃亡
尼子が別所就治の三木城攻撃。尼子が備後の宮氏・渋川氏を従属させる。大内が石見銀山を奪取。
9月義隆が毛利と改めて誓言の交換をさせ暮れより11年ぶりに大内が武田攻撃再開
武田信実に尼子が援兵を派遣するも佐東銀山城が落城。信実は一時若狭へ逃亡。
戦乱の利を知る元就が望んだように大内尼子の平和状態がついに破綻。1540年晴久が信実の佐東銀山城に復帰させ、
1541年一揆の盟主毛利を威圧帰属させ安芸を尼子側にした鏡山城攻撃(1523年)の再現を試みるも毛利家臣が威圧の動揺で
方針を変更しそうにないと知ると、一揆盟主毛利を明確な敵にして安芸全体を敵に回す不利を悟り尼子は撤退し大内も隆元解放。
373 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 05:57:19 ID:FM+vOKV1
銀山城攻めの陣中で竹原小早川興景23歳死去 武田滅亡 11月経久死去。
1542年月山富田城の戦い1543年吉川興経の裏切りから大内敗走し沼田小早川正平が20歳討死。
備後南部の要たる神辺城が大内から離反し尼子側へ。7月尼子が石見銀山を奪回
義隆は隣接する小早川とその水軍の離反を恐れ対策を練る(両小早川は西条槌山城や平賀氏への防波堤である)
1544年に義隆が隆景を竹原小早川家の相続させる。沼田小早川鶴丸盲目ゆえ隆景を鶴丸の妹に娶わせ沼田小早川を継がせる。
1546年吉川経世や森脇祐有が吉川興経にクーデターし大塩氏を討ち取るや
尼子の来襲が来る前に大内の支持を得て正当化しようと謀り義隆の支持で元春を養子にする。
苦戦が続く備後神辺城攻めに義隆は小早川隆景に続きさっそく吉川を率いさせた元春も投入する。元就が井上一族虐殺。
鏡山城攻撃の意義・・・大内は周防口入り口(周防守護代は陶)に当たる厳島神主家の紛争や
広島湾とその背後の山脈(向こう側は石見銀山)を支配する武田やその背後を守る白井備前の府中城を抜くことができず、
安芸と備後の支配の拠点として東西条の地に鏡山城を築城して東から武田を威圧する一方で尼子の進出への睨みを利かせていた。
これを守るも落とすも安芸一揆国人連合ネットワークのリーダーの毛利の帰趨次第だったので安芸でもっとも重要な拠点であり、
のちに大内は鏡山城→曽場ヶ城→槌山城とその防御力を向上させて西条守護の弘中隆兼に任せているほど。
武田滅亡後の1543年後半から大内が備後の本格攻略をはじめ神辺城(備後南部最大の要衝)攻めが開始され
西条守護の弘中隆兼が備後管轄したが、内郡と呼ばれた備後北半七郡直接支配は元就に委ねている。
(大内の支援を受けて神辺城の備後守護山名忠勝を追放した杉原理興が山名を称す月山富田城の戦いの敗戦により大内離反)
1549年長期に渡り継続された平賀勢を主力とした攻撃でついに神辺城陥落。
1551年陶の謀反に同調した元就は難攻不落の武田氏の拠点だった銀山城(金山城)を手に入れ
9月には安芸備後支配の要衝の地たる義隆側の要害槌山城も手に入れるなど非常にあざとい。
1552年晴久は山陰山陽8ヶ国守護及び幕府相伴衆に
1554年6月尼子が陶晴賢同盟し11月に新宮党を謀殺。大内義隆の姉婿の石見津和野城吉見正頼が陶と対決。
1555年厳島の戦い。元就は「陶に義理立てして恩を返したい」と心にも無いことを言って陶に裏切りをかます一方で
隆元も桂元澄に「主君を裏切った陶は天罰を受けその身を滅ぼす。
うちも巻添えになりたくない」とまたまた陶に内通して義隆を討った忘恩の仲間だったことを忘れる。
1556年忍原崩れ、1559年降露坂の戦いと石見銀山攻防で戦にはめっぽう弱い毛利が尼子晴久に大敗続き。1560年12月晴久死去。
374 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 06:27:29 ID:i1ZmRAgP
>>370-374 ID:3RPj7SSm=ID:1Y+eb5RV=ID:FM+vOKV1
自演乙!
他のスレでもこの流れでがんばっているね
375 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 07:52:24 ID:XaITnNDK
>>367 吉川軍は何度となく
鳥取城包囲中の指揮官だった宮部継潤や
その配下だったのちの津和野藩主亀井らに
ボロ負けしまくってたらしいから弱いよね。
元春自体は南条ごときの攻略に時間がかかりまくり鳥取城に行けなかったって言い訳してるけど怪しいよね。
まあ南条ごとき小身相手に大苦戦して、
吉川軍の兵を分けて鳥取でも各個撃破されまくる時点で元春なんて弱すぎなんだけどね。
376 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 18:53:59 ID:FM+vOKV1
穂井田元清について
宇喜多直家を仲間にするべく祖父の代から毛利への忠勤に励んできた
備中三村氏を切り棄て天正3年に滅亡させた時に毛利に敗死に追い込まれた
庄元資(穂井田元祐のこと。元亀2年に宇喜多との戦いですでに戦死してる説もある)
の養子と称した四男穂井田元資のことを元就は毛利元就三子教訓状において
「虫けらな子どもたちだが、万が一にも恐れ多くも成人するなんて虫がいたのなら
隆元・元春・隆景は弟たちを哀れんでどこか遠境などにでも飛ばしてしまえ
まぁ大抵はそんなのマヌケで無力だからその時はどのように処理しても良い」と言っている。
そんな悲惨な待遇のためか宇喜多直家が織田に寝返り上口が大破した
天正7年10月8日に輝元宛に元清28歳は以下のような悲壮な書状を出している。
今度上口之儀太破に及び候、然るべき者、我等は内々に罷り立つ御用の覚悟に候。孤度之儀、
以って其れ故同行奉る処と悲壮な覚悟であり、
隆景とともに出陣するといっており、すぐ出立するとも。
万が一、備前衆も罷り出て対陳する者がいれば難儀になるとか
七男の19歳天野元政の天野家が阿曾沼や保利などに訴人多いので何とか安堵してやって欲しい。
(元政は元就の抜けた歯を頂き、終生肌身から離さず大切に所持していたと言う)
また我等の弟の九男大田元綱12歳はまだ幼少で彼のことまでは申し上げまじき候ことですが
なんとか御目をおかけください。
母の乃美大方(元清や元政や秀包の母)もお願いします。
甲山様のいる備後衆は表裏の者が多いので一段と御心付けください。
(備後甲山城主山内直通の子の豊通の妻は興元の娘で甲山と呼ばれていた)
中の丸様のことも大切にすることは洞春様(元就)へのお届けでもあります。
(中の丸は小幡氏から元就側室になり奥向きを仕切っていた側室の子を養育していた)
毛利家内で立場のない虫けらの元清はこの戦いで戦死する代わりに
母達や弟達のことだけはせめて引き立ててやって欲しいと輝元に哀願する手紙である。
元清がもはや織田に勝てそうになく自分の死を以って忠孝しようとしてる姿や
備中戦線の維持どころか備後の国人達がすでに裏切りしそうで気をつけろなど
毛利の敗亡を前に悲壮な覚悟が見える。
これでは小早川らは秀吉との講和しか頭に無かったであろう。
そしてこの悲壮な決意が子のいない隆景に伝わったのかまもなく大田元綱が
母の乃美大方が小早川氏庶流・乃美氏の出身と言うことで養子に迎えられ、
のち秀吉から「秀」を与えられ小早川秀包となり地位がやっと虫けらの地位から向上した。
だが小早川家や安国寺恵瓊による毛利からの独立の野望の犠牲になり秀秋にその地位を奪われたのであった。
やはり隆景にとって乃美大方の子らは虫けらにしか思われてなかったのだ・・・ 養子も単なる気まぐれか嫌がらせだったのだろう。
そしてその独立を羨望嫉妬した吉川広家の関が原での家康への毛利本家買収事件に発展するのである。
377 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 02:37:45 ID:zsMyP6z8
戦国一の裏切り者にして人格破綻者アスペルガー虐殺者毛利元就。
378 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 02:48:07 ID:zsMyP6z8
門司城攻防戦
宗麟との同盟軍の尼子軍が後方で侵攻開始し
宗麟が政戦略外交を駆使して毛利を屈服させ香春岳城・松山城・門司城を大友に返却し和議させる。
この際に宗麟は自分から将軍に大金をつんで和議斡旋を頼んでおきながら元就が困って和議を受託しようとしたら
条件を次々に出してなかなか和議を結ばないという卓越した外交交渉をしてのけたので元就の一方的譲歩になった。
1566年尼子滅亡
宇喜多直家は勇武で鳴る三村家親を暗殺し翌年1566年7月には息子三村元親を明善寺合戦で破り
備前西部・美作から三村氏を追い払い備中深くまで侵入し
1568年には撫川城(備中南東)・猿掛城(備中南西)・斎田城(美作・備後国境沿い)と宇喜多の前に次々落城し、
最後の仕上げとして直家の調略で備中の名族庄氏が裏切り備中中枢の松山城の居城を奪われ三村氏は崩壊。
三浦氏(美作西部の有力者)も三村氏より美作西部の要衝高田城を奪還。
多々良浜の戦い1569年
宗麟の謀略として大内輝弘の逆上陸が開始され
後方では隠岐国から上陸した尼子残党が出雲一国をほぼ奪回寸前になり
毛利軍は多大な犠牲と苦戦の末に落とした立花山城を大友に返却し撤退。
1569年元就が対大友戦で長府へ(翌年正月に輝元をおいて元就は吉田へ帰る)
大友との多々良浜の戦いが開始され大友に支援された大内軍が後方の周防国へ上陸し
破竹の進撃を開始しついに山口攻撃を開始し無視できない状況に。さらに尼子残党が隠岐より上陸し出雲一国をほぼ制圧してしまう。
毛利は大損害を出しながら何とか確保した立花城さえ大友に譲渡し九州完全撤退を決意し交渉に入る。
毛利軍が備中猿掛城を落城させるも備中斎田城で宇喜多勢に大敗。毛利方香川春継が尼子・三浦氏より高田城奪取。
1570年2月尼子残党の月山富田城攻略失敗。尼子と宇喜多直家は手を結ぶこととし、
尼子勝久・山中幸盛らは備中より美作へ1000の援軍を派遣し三浦氏を支援し10月には毛利軍を破り高田城は落城。
尼子勢は備中を次々に降し幸山城(倉敷北方)・松山城などの諸氏は尼子に降り毛利方の城攻めを開始しほぼ毛利は備中失陥。
同年に宇喜多配下の花房職秀は荒神山城を築城し美作支配の拠点とする(宇喜多が美作をほぼ制圧完了)
9月に元就重症の急報あり尼子残党を元春に任せ、輝元と隆景は大友の動きを警戒しながら元就のもとへ急行。
1571年6/14元就死去。
8月に新山城で山中幸盛を元春が捕縛するも逃げられる(尼子勢力が減退し始める)
毛利が備中中部で反撃を開始し松山城落城させるも備中幸山城が備中北部を制圧していた尼子に攻められ降服。
1572年毛利の支援で三村元親が佐井田城を奪取し松山城に居城を移す(備中の軍事バランスが毛利方へ)
宇喜多と毛利はこの後も一進一退の抗争を繰り返す。
1574年山名氏から援助を受け尼子軍が因幡国より出雲侵攻。
対織田で宇喜多・毛利は同盟し毛利の背反に激怒した三村氏は織田へ。
1575年毛利が松山城や猿掛城を落城させ三村氏を滅亡させ備中平定に成功。
1576年毛利氏が美作高田城奪取。
1577年宇喜多によって浦上は滅亡へ。
織田軍に参加した尼子残党が播磨上月城を攻略
379 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 02:50:42 ID:zsMyP6z8
(参考史料)
越後39
越中38
能登21
加賀35-5=30
佐渡1
上野49-34=15
信濃+出羽+飛騨+下野=6
かなり小さく見積もって150万石ってところか。
あまりに小さく見積もりすぎて削りすぎかな??? さすがに上野は削りすぎかも・・・
加賀も削らなくても良いのかも知れんね。+10の160万石でもぜんぜんおかしくないような気がする・・・
(参考史料)羽柴秀吉の中国遠征軍
播磨35万石
但馬11万石
因幡8万石
伯耆10万石のうち東部3郡羽柴方の南条6万石
宇喜多備前22万石+美作18万石
合計100万石
あーもう石高で同等に追いついちゃってるよ・・・これじゃ毛利軍はどうあがいても100%かなわないわ。
そういや他にも近江長浜からつれて来てる兵や信長からも与力つけてもらってるし
淡路6万石
長宗我部に侵攻され滅亡寸前の三好讃岐領もあるんだよな。
周防16
長門13
石見11
出雲18(尼子残党が暴れていたが詳細不明につき削らない事にする)
備後18
安芸19
備中17-10=7(尼子残党とそれを支援する宇喜多同盟軍がかなり攻勢に出ており三村滅亡寸前だが元就死去後には挽回し始めている)
隠岐4(尼子残党の策源拠点になっていたので元就死去時に領有していたかまったく不明だが+する)
美作と備前(元就死去時はほぼ宇喜多支配下)
毛利元就死去時の石高は106万石
380 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 02:52:46 ID:zsMyP6z8
九州(大友の四国侵攻による宇和郡領有による伊予での河野氏支援も含む)と中国東部での無意味な二面作戦という愚策で
東部・西部ともに劣勢に追い込まれるが死去寸前に愚かさを悟り九州から完全撤兵(健康への不安からか?)
謙信が関東を放置し上洛戦で北陸に戦力集中したのと違い元就は戦略変更が遅すぎて宇喜多や大友の支援で尼子残党が巨大化してしまった。
元就死後に中国東部のみに敵を絞り込み反攻しある程度の成功を収めてるところを見ると老害が出始めていたかも。
伯耆(10万石)因幡(8万石)情勢
1564年 西伯耆の要衝たる尾高城は毛利方の杉原盛重が派遣される。
1568年 毛利氏の九州出陣で伯耆の領主たちが九州に赴いた隙を狙って
尼子勝久・山中幸盛らによる尼子再興戦が開始され伯耆各地を奪回し始める。
1569年 山中幸盛らの尼子残党に尾高城を奪われる(陰徳太平記)
1571年 毛利と同盟して因幡を乗っ取った武田高信が但馬侵入するも山名氏の塩冶高清に大敗。
西伯耆の浄満原で杉原盛重が尼子氏残党(信長の支援で但馬因幡の山名氏を復興させた)と戦う(陰徳太平記)
1572年 因幡国人の大半が山中幸盛側になびき武田高信の大敗で鳥取城陥落し因幡が完全に山名領国化。
西伯耆と分断された東伯耆の国人の南条宗元は毛利と同盟しているが
孤立無援の中でかなり苦戦してると思われる(毛利に援軍派遣の余裕はない)
※陰徳太平記は毛利氏によって編纂されているので毛利贔屓になっている。
よっておそらく杉原盛重は浄満原で負けていると思われる。
元就死後に元春のがんばりで対尼子の出雲情勢が好転してくる状況で、なおかつ美作国方面はほぼ宇喜多の手に落ちている。
よって伯耆以東は尼子の勢力圏化が進み連絡線も断たれ孤立した各国人が独自の防衛政策で必死に守っており
毛利の軍事プレゼンスも期待できない以上は影響力が皆無に等しく毛利領と見なすのはかなり無理がある。
しかも出雲・隠岐もかなり尼子に蹂躙されているが
>>693ではまったく石高を削っていない状況なのでさすがに伯耆分は追加不能。
厳密に計算したら元就死去時の石高は、ほぼ100万石切るくらいまで落ちる気がする・・・がそんな事したら毛利厨が過小評価だと騒ぎ出しそうだし遠慮しとこう。
>>645>>650 微妙なところなんで謙信の場合はあいだをとって155万石とするか・・・160万石でもおかしくなさそうだがそんな事したら毛利厨がヒイキとか騒ぎ・・・w
やはり隠岐は毛利領から石高削るべきだな
隠岐は現在こそ島根県だから近いように感じが実際は出雲と伯耆の境目の北海上にある。
また山中鹿之助が拠点を置いていたのは新山城といい松江市の北だ。
とするとさらに背後にある隠岐はまだ安全圏だろうし新山城の位置から万が一には隠岐に脱出するルート保全もあったと思われる。
381 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 05:43:38 ID:RcHJiGGx
>>376 なるほど。隆景が秀秋を養子に迎えた真相は、
そもそも元清なんて虫けら同然だから切り捨てるのは厭わないし、
毛利から自立した小早川の家格を、
毛利より凌駕させたい為に申し出たと言うことか。
吉川が嫉妬するのも無理はない。
やっぱり関ヶ原の破綻の原因は隆景にあるよね。
382 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 18:05:03 ID:zsMyP6z8
>>381 豊臣政権が元春の悪態を嫌って、秀長が隆景を使って巧みに北九州に呼び出して
父と兄を毒殺し吉川を冷遇してきたからね(宣教師が元春は毒殺と記述してる)
その一方で豊臣に媚びた隆景・秀元・恵瓊が
独立大名になればそりゃあ毛利内は抗争対立状態になるよ。
>>337のように、かっては小早川と吉川は毛利からの自立の野望で
共同歩調を取ってたのに隆景によって裏切られたのだから。
関が原後に広家は岩国領主になったものの自立には失敗し毛利本家から終生冷遇されたな。
>>364 瀬戸内海に面した三田尻や山口での築城許可が許されないどころか
「毛利殿はおのれの立場を弁えていないと見えますな!」って言われて
「いや言ってみただけで、最初から萩にしようと思ってただけです」ってむっちゃ動揺して
やむなく萩にしてるし、この後に輝元が側近に
「これほど苦労をさせるなら諸国を流浪していたほうがまだマシだよ」って
ショボーンしたくらいだし事実だと思うんだが。
383 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 19:38:27 ID:9w8gNMHR
自演乙
384 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 19:59:11 ID:zsMyP6z8
元就の娘の五龍はそもそも反輝元でその孫の宍戸元続は熊谷元直・吉川広家らと共に
内通して関が原で家康に毛利主家を売っぱらった立役者になる。
宍戸(五龍家)や熊谷(元春正妻出)らも嫉妬していたのだろう。
元春の妻・新庄局と五龍の仲がむちゃくちゃ悪かったのが
三子教訓状に書かれているからこの協力関係は、よほど隆景・秀元・恵瓊が嫌いだったのだろう。
そして毛利家中の闘争が五郎太石事件をデッチあげて熊谷元直を謀殺したのだろう。
その点、五龍の血筋はあざとく関が原後に宍戸元続は輝元に怨まれているのを危険視し
さっさと広家を見限り輝元に媚びて対立し、
元続兄弟の内藤元盛(伯父の内藤隆春の婿養子)を売り飛ばし
大坂の役では広家に内緒で輝元命令により佐野道可の名に偽装させ
大坂城に入城させ、敗北するや自害させる。
その2人の息子元珍・元豊の身柄保障約定も破り自刃に追い詰め
元続は虫けらの如く兄弟を利用し棄てた。
元就以来の虫けらに武士の名誉も人権もなし政策の伝統をみることができよう。
ちなみに綾木の大方が(隆春の娘で元盛の妻)これを知るや抗議する
すると元珍の子・元宣を幽閉して家名存続の約束を反故にしている。
さすが極悪非道のキチガイ元就の血統のサラブレッドである。
385 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 02:57:51 ID:Asy/QulM
穂井田元清は身分に劣等感を感じてたよね。
だから息子の宮松丸には豊臣秀長の娘をもらい
秀吉から「秀」の字を貰い秀元と称させて
輝元の養子にさせざるおえなくして、
やっと隆景と対等に話ができるようになり、
対抗した隆景が必死に秀秋を養子に貰い受け
立場の逆転阻止を図ったと言える。
その劣等血統の呪いとやらか関ヶ原後に次第に
大坂と家康の地位が逆転し険悪化が始まるや
秀元は家康養女を正妻に迎えて権力保持するなど
立場や地位を守る手段は選んでない。
そして徳川家光の御伽衆になり輝元が死去するや
公然と毛利宗家を軽んじ反抗し始めたし。
秀元もやはり隆元や元春や隆景ら三兄弟の吉川母の血統を
恨み続けた元清の悔しさを晴らし祖父に復讐したかったんだろうね。
家康への内通の吉川広家書状に宍戸元続や熊谷元直と共に連署した
益田元祥も正妻が広家の姉妹なのに、宍戸元続同様に
さっさと広家を見限り秀元についてるしね。
秀元は長府藩を守り、さらに清末藩も生まれ子孫繁栄する一方で、
吉川の自立を完全に押さえつけ、小早川も改易し
毛利本家も5代目は虫けら秀元の長府藩からの養子だし元就への復讐は成就したよね。
386 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 06:07:30 ID:N5TNvFZS
隆景なんて隆元に無理やり吉田城下に俺の屋敷作る土地だせよって要求して
隆元がふざけんな家臣優先だって言ってんだろ!一寸もやらねーよって言ったら超キレまくったほどの無双な御仁で嫡男を敬う気持ちはまったく無いし
隆元も元春と隆景は俺を無視して除け者にするとか元就にチクってる。
さらに宍戸に嫁いだ五龍局と元春妻の間が険悪で
隆景がその仲裁をしようとバカな考えを起こしてみたら
さらに隆景と元春の間柄まで険悪になってしまったほどの
狂犬病一家こそが893元就組の教えそのものだから…逸話の中の兄弟仲良しなんて完璧な捏造だしね。
だから隆元は暗殺され、ついで元春までも暗殺されるハメに。
そして独裁者隆景によって輝元がフルボッコにされるのであった。
隆景ほど元就の教えをちゃんと学び実行した人間はおるまい。
387 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 18:50:39 ID:1PeSMQ5h
後世の逸話では隆景と元清がやたら親しかったことを
強調してるのがいかがわしい。
実際は隆景と元清は刃傷沙汰に及び、
隆景が殺される一方で
元清も重態になり、
隆景の死の一ヶ月後に死んだと思うね。
隆景は元就の教えである弟達は虫けら同然の教訓ゆえ
元清の身分向上を恐れ、秀元の暗殺をも考えていたのであろう。
それに危機感を持った元清が隆景暗殺に成功し、
恐喝者隆景の暴力に怯えていた輝元が
喜んで秀元を大切にしてくれたんだろう。
そしてその厚遇が虫けらの家系の癖にと吉川元長の反発を生んだと。
あるいは隆景暗殺には滅亡した武田の一族の恵瓊の暗躍もあるかもしれない。
388 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 20:05:10 ID:HAt8/+Vn
>実際は隆景と元清は刃傷沙汰に及び、
>隆景が殺される一方で
>元清も重態になり、
>隆景の死の一ヶ月後に死んだと思うね。
ソースは?
389 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 23:36:21 ID:IJIfjals
ソース持ってきてくれたら尊敬しちゃうしこんなとこで毎日毎日チマチマ打ってないで論文発表しちゃいなよww
そしたら皆信じてくれるよwww
390 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 02:18:15 ID:2cj0m0tU
>>388>>389 >>死んだと思うね。
>>あるかもしれない。
想定にまでソース要求とかwww
負け犬毛利厨もう必死www
涙が出るほど哀れ過ぎてワロタwww
391 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 02:23:32 ID:4WRrzxAt
そこまで長々と語ったくせに
結局妄想なのかよ…
392 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 02:26:36 ID:2cj0m0tU
393 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 02:31:20 ID:4WRrzxAt
妄想に14行も使うなんて狂ってるって話
394 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 03:00:18 ID:2cj0m0tU
>>393 どう数えても13行ですがw
幼稚園児キターwww
395 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 06:28:40 ID:4WRrzxAt
>>394 たった一行の間違えを、そんな自信満々に指摘されても…(笑
小学生か?
396 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 07:52:05 ID:bXg12gMT
日付が間違えてたら揚げ足取りだわぁわぁわめいて
行数間違えてたら鬼の首とったように喜ぶとか・・・
397 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 14:29:56 ID:6YMwLlmd
数が数えられない事は非常に恥ずかしいことなのでは?
俺の友人で実家が静岡の寺社の息子だったやつの事だが、
高校1年の時にアルファベットがMまでしか書けないやつだった。
まあ親父に習字を書いてもらいそれを提出して仏教系大学に合格したそうだが。
それよりも恥ずかしい人間ってリアルにいるもんなんだな…驚いた。
398 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 17:25:36 ID:6YMwLlmd
そういや元就に隆元が「元春と隆景は私に協力する気持ちは全くありません」って言ったら元就も
「隆景の態度には私すら怒ってるのだから隆元が怒る気持ちはよくわかる。
元春ももともと仲良くなるような性格じゃないから諦めろ」とか言ってたよね。
元就の子供ってみんなが余りにも身勝手でバラバラ過ぎて逆に笑えない。
399 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 17:45:31 ID:4WRrzxAt
言い訳すると
コピペした時に一行空白ができて
それがプラスされ14行になった、という
専ブラだから
数を数えるとか関係ないんだけれども
400 :
人間七七四年:2011/02/03(木) 17:19:20 ID:TtyUN/7w
401 :
人間七七四年:2011/04/02(土) 19:14:12.04 ID:piQ+elsC
>>367 毛利元春から4代目の長屋教親が厳島神主家藤原親藤の養子となるなど
毛利家はむちゃくちゃ分家や支流が増加しててかなり巨大な影響力を保持してたよ。
祖父や父が南朝側に付き越後毛利と安芸毛利が分裂した時代に
九州探題・今川了俊から郡山殿と尊名で呼ばれ九州で勇名を馳せた毛利元春の孫で
応永の安芸国人一揆においてリーダーとして幕府と交渉した毛利光房の孫である
豊元は応仁の乱で東軍だったが、帰国するや西軍に寝返って
西軍大内政弘を助けて大活躍した褒美に西条盆地の所領を加増してもらったり
備後でも西軍山名政豊の援軍をして東軍方の山名是豊の軍勢を撃退し
世羅台地の所領を加増してもらったりと基本的に毛利は拡大し続けてるよ。
なぜか長州藩は今で言う鬱病患者となって酒に依存して死んだと
仙台史が米沢生まれの輝宗を過度に過少評価に書いて藩祖の政宗を過大評価で書くのに似て
山口史は藩祖の元就を過大評価に書く反面で広島の弘元・興元を暗君に捏造しようとしてんだよね。
おそらく酒毒とは毒酒のことで暗殺されたと見るべき。
なんせそれ以前の毛利当主は酒に弱いなんて記述はないし酒毒なんて言葉もない。
だから元就は息子達に酒は飲むなと執拗に注意したんだろう。
402 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 05:29:28.93 ID:iUPXuSz+
ちょっと流れぶった切るけど毛利のあの豪族連合体としての性格ってどうにか
ならんかったんだろうか?いくら何でも16世紀後半になってあそこまでの
寄り合い所帯ってそうないぞ。
403 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 09:03:20.34 ID:3SeYfD68
伊達とか江戸時代になっても中央集権できてない家もたくさんあったんだから、どうにもならないんじゃね?
毛利は結局、関が原後に輝元が大粛清をやってどうにかなった分、幕末まで旧体制をひっぱった家よりはましだろう。
404 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 13:05:04.53 ID:XtMcFBwj
久々に覗いてみたが珍説君は結局鬼の首を取ったかのように喜んで重箱の隅を突いた行為を指摘されたら発狂しだして逃げたのか
405 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 13:18:44.75 ID:9gUms4wk
406 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 13:24:47.44 ID:PddBPe+h
隆元の生前は無能な奴と思ってたら実は内政上手で亡くなってから困った元就と弟達
407 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 13:25:46.63 ID:PddBPe+h
408 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 13:37:45.94 ID:9gUms4wk
>>406 別に上手い下手じゃなくて
ただ単に携わってたから。
一次史料に隆元が内政の天才みたいな記述は無い
409 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 17:45:18.48 ID:EspPTfbp
早逝した嫡男を過大評価したがるんだよ。
実際に成長しても兄弟間の険悪さから
輝元以上にグダグダになって瓦解するだろうけど。
410 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 18:28:50.31 ID:EspPTfbp
まぁ成長って言っても40歳の中年なんだけどな。
信長とか謙信とか信玄の寿命が50前後だから
隆元の実績で考えりりゃ凡将でしょ。
411 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 19:11:33.43 ID:iUPXuSz+
>>410 まあ内政能力に一定手腕があったようだけどそれまでだわな。
412 :
人間七七四年:2011/04/08(金) 06:56:56.27 ID:w09XBXLG
すでに40歳になってたのか当時の感覚じゃもうおっさんじゃん…いくらなんでも隆元無能過ぎだろ。
若年死去なら同情票も入れてやれるがこれはもういつ死んでもおかしくない年齢
413 :
人間七七四年:2011/04/08(金) 18:46:53.27 ID:pNLysOkD
昔は赤子の死亡率が非常に高い
それを除けば平均寿命は60
よって隆元は早死です
414 :
人間七七四年:2011/04/08(金) 20:55:25.09 ID:w09XBXLG
>>413 それバカ作家のデタラメ。
赤子の出生数と死亡数を記録していたわけでもないのにそんなことわかるわけがない。
戦国大名の代名詞たる
上杉謙信・織田信長・武田信玄
らの寿命も50歳前後
415 :
人間七七四年:2011/04/08(金) 21:55:13.61 ID:zc6ysZTY
>>414 異議あり。戦国時代の代名詞なら信長、秀吉、家康だと思います。
そしてそれらの寿命は49、62、75です。しかも信長は討死で病死では
ありません。
416 :
人間七七四年:2011/04/10(日) 09:01:08.27 ID:qBPAFGT9
>>415 じゃあ聞くけど赤子の死亡率ってどこから算出したの?
信長が討ち死にも何も隆元も暗殺なんだけど。
ブザマだから毛利の講談軍記安西軍策では詳細にはまったく触れずに軽く病死したって捏造してるけどw
家康の寿命なんて当時でも突出して長生きな例で
じきに死ぬだろうと計算した大坂方の誤算にもなったんだが。
まさか加藤清正49歳死去・浅野幸長38歳死去よりも家康がずっと長く生きるなんて誰も思ってなかったからな。
417 :
415:2011/04/10(日) 09:55:57.92 ID:jcNuZeTw
>>416 赤子の死亡率云々言い出したのは俺じゃねーぞ。
ただ隆元が良い暮らしをしていた大名としては早死になのは事実だろ。
それに隆元の暗殺なんて説の一つの説に過ぎん。そもそも一体だれが
何の目的で暗殺したってんだ?
418 :
人間七七四年:2011/04/10(日) 14:26:23.94 ID:3/bs71Z5
>>417 >そもそも一体だれが何の目的で暗殺したってんだ?
どうせまた元就が暗殺したと言いたいんだろ奴は
419 :
人間七七四年:2011/04/10(日) 15:26:14.05 ID:7def7fdw
>>417 じゃあ俺が気に入っている説(笑える的な意味で)を推しておこう。
尼子晴久の死亡年に二説あることと晴久、隆元の呪殺説が混ざったトンデモだけど。
1561年尼子晴久死亡、しかし尼子家は晴久の死を隠していたため元就はそのことに気づかなかったのだった。
1563年、石見を巡る争いで尼子に連敗していた元就は、晴久さえ死ねば勝てると思い晴久に呪術をかける。
ところが晴久本人は二年前に死亡しているから呪いは行き先を失い、呪者のもとに帰ってくる…
ここでようやく晴久死去の報が伝わり、毛利「やった!呪いが効いた!」
しかし、晴久の件は呪いとは関係なく、呪いそのものは隆元にかかっていたのだった。
420 :
人間七七四年:2011/04/10(日) 22:03:51.86 ID:jcNuZeTw
まあでもトンデモの部類かもしれないけど隆元が暗殺だった場合
毛利家の記録に残らないパターンが2つほどあると思う。
1つ目が元就による嫡男暗殺説。ただこれは可能性としては低い。
何故なら嫡男を殺さねばならぬほどこの親子が対立していたなら
それ自体が何らかの記録に残っていてもおかしくないが一切残って
いないから。
2つ目は元春、隆景ら他の兄弟が共謀して隆元をやっちまった説だ。
これは可能性としては十分あるような気がする。この2人がいなければ
毛利の軍事は立ち行かないわけで元就が尼子攻めの為に黙認した可能性は
無きにしも非ずだと思うが。
421 :
人間七七四年:2011/04/10(日) 22:28:57.61 ID:R4sn2wjf
まるっきり無いな。
記録に残ってるのは隆景が兄者が死んだら毛利はおしまいだー、と錯乱したことのみ。
422 :
人間七七四年:2011/04/10(日) 23:06:52.31 ID:jcNuZeTw
>>421 だからとんでもだって言ったじゃん。
話変わるけど仮に元就が経久ばりに長生きしたら織田、大友との戦いは
どうなっただろう?逃げ込んできた義昭を受け入れたかも含めて興味ある。
423 :
人間七七四年:2011/04/11(月) 08:12:11.73 ID:n3cI+vCI
兄弟仲がむちゃくちゃ悪かったから兄弟による暗殺だろ。
その後に輝元相手に好き勝手やってるし。
424 :
人間七七四年:2011/04/11(月) 10:27:29.16 ID:RFY3uj95
まだ暗殺説を唱えてる奴がいるのかよいい加減ウザい
425 :
人間七七四年:2011/04/11(月) 12:55:57.12 ID:KjruOWWk
でもある意味毛利元就と上杉謙信は良い時期に死んだよな。
彼らが長生きしたら信長の噛ませ扱いされてた可能性も十分あるし。
426 :
人間七七四年:2011/04/11(月) 22:19:54.74 ID:OL3Jno1o
どだろうね? 元就生きてたら織田との協調路線を続けてたかも知れないし。
毛利と織田が組んでたら、本願寺もまともに動けないし、織田の天下統一が
めちゃくちゃ早くなってたんじゃね?
427 :
人間七七四年:2011/04/12(火) 19:58:37.10 ID:qauHA2aw
どういう行動に出るかは興味あるね。
元就は結局は自分の知ってる世界(大内+尼子の旧領)で生きてる人間だからね。
その他の世界には関心がないというか、関心を持つ持たないという次元にすらなかったわけだから。
やっぱり和睦?
428 :
人間七七四年:2011/04/12(火) 20:50:24.39 ID:A6/4Y2ia
立花さんとか高虎みたいな奴が中国地方にいれば面白かったのに
仮に毛利の部下にいたら毛利も天下をのぞんだだろうか
429 :
人間七七四年:2011/04/12(火) 22:02:23.37 ID:WZhnR46R
アホかよ。
すでに元就が生存時に尼子残党を織田が後援してて衝突してるじゃんw
430 :
人間七七四年:2011/04/13(水) 17:14:02.87 ID:jxkDcJqk
そうすると大友領に多少侵食して250万石+石見銀山+博多の富を得た
元就と信長の対決もあり得たわけだな。なんか勝てる気がせんけど
431 :
人間七七四年:2011/04/13(水) 20:54:46.89 ID:TZOudsDE
いやいや元就は大友に大敗して撤退してんのに博多の富とか全くねーから。
ただ武田の西上中のドサクサなら
家康への援軍は雀の涙だし信長本隊は一切岐阜から動けなかったから
吉川らやりたい放題やってただろうね。
吉川が丹波の赤鬼や波多野兄弟と一緒に光秀を破れば京へ入京できる。
432 :
人間七七四年:2011/04/13(水) 21:27:49.72 ID:ljqjn4nl
>>402 相対的にだが、
畿内や西日本は寺社や公家の力が強く残っていて、農村有力者在地土豪がそのまま武家であり、
在地との結びつきが強く、昔から経済も発達しているため在地勢力の力が強く、
昔からの経済と交通の発達から横の繋がりも強かったので、
守護などの上位支配者の力が弱く、それに対し在地勢力側は強く、武家以外の諸勢力もあり、
権利関係が複雑であったため、どうしても一揆的な連合体になってしまうものらしい、
それに対し東国は家父長的な縦社会と農奴による惣村体系であるため、
上からの統治が行いやすい、
みたいな論文を読んだことがある。
433 :
人間七七四年:2011/04/13(水) 23:33:24.25 ID:oa177Giu
何の論文だよw
434 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 07:10:15.66 ID:4+htLx+Y
関ヶ原だと毛利とか吉川は悪くかかれてるのが多いんか?
大河とか小説とか
435 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 07:31:11.67 ID:kb+Y+FZM
>>431 しかしそれを維持できたか?って言うと無理だわな。ただ大友家は
勝手に自滅するのでそこに付け込めれば相当勢力を伸ばせれた可能性は
結構高いと思うけど。
436 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 09:42:24.82 ID:P5CoEOOS
元就が生きてれば元春と隆景の戦略外交の対立を表面化させないで
指揮命令系統を元就に一本化できるし元就がいる限りは大友織田同盟があっても背後の安芸本国に不安はなく
元春も出雲に戻らず京へ行けるだろう。
大友が耳川で敗北してもその後に龍造寺と島津が肥後で対立し始め、
織田が島津と大友の和睦を斡旋してるし
筑後では道雪が龍造寺を柳川城へ追い込み圧倒してる。
437 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 12:13:16.69 ID:kb+Y+FZM
>>436 でも史実では大友はその後龍造寺にじわじわ領土を浸食されてる。
道雪は1人しかいないわけだし島津はともかく竜造寺と毛利に挟撃されたら
大友の滅亡が早まっても全然おかしくないよ。元就にとっては博多と京だったら
博多の方が重要だろうし。上手くいけば毛利300万石超対織田400万石の
戦国ファン胸厚の戦いが見れた可能性もあるよ。
438 :
人間七七四年:2011/04/15(金) 07:11:00.25 ID:Cg0DIfeQ
>>437 それはないよ。
その頃には大友も水軍育成に力を入れてきたおかげで
国東半島の田原親宏親子の反大友挙兵に際に毛利が水軍を派遣して増援したが国東半島沖で大友水軍の若林鎮興に大敗して
関門海峡や豊後水道の制海権を毛利は喪失し二度と九州情勢に介入できなくなったから。
しかも島津と大友の和睦を信長が斡旋しており
信長は長門周防を大友の切り取り次第だと認めており
大友が中国地方侵攻準備中だったが本能寺の変で没ったし。
毛利が生きる道は秋月の甘言に乗って財政悪化を挽回すべく博多を狙って九州に介入した挙げ句に
たびたび大敗するのを繰り返した史実のような超財政悪化要因を避けて確実に尼子残党を早期撲滅し、
元就と信玄が死なないうちに出来る限り東へ進出しておくことが重要。
439 :
人間七七四年:2011/04/15(金) 08:52:14.82 ID:m7BkYhCB
440 :
人間七七四年:2011/04/15(金) 11:46:52.86 ID:Cg0DIfeQ
>>439 信長が大友と島津の和睦仲介してる以上は、
龍造寺は肥後で島津と対立するだけだから
島原で決戦するかはわからんがどうせ勝手に島津と激突するだけだろ。
そもそも龍造寺はそんなに怖くない。
厄介なのは秋月・高橋・長野の兄弟が筑前豊前で暴れてるのを立花城・宝満城・岩屋城の兵力で圧倒してはいるもののムチャクチャウザイこと。
441 :
人間七七四年:2011/04/27(水) 10:32:23.10 ID:15+20429
>>436 それは同意。
実際、織田→大友→周防鴻峯(山口市内)を守っていた市川元教が天正6年3月に宗麟に通じて謀反したりして周防長門が大混乱になってる。
これに困った元春は8月に義昭に頼んで京を奪回するために島津は大友を牽制し、毛利が東上する援軍を出すように使者を出してもらってる。
この天正6年正月は輝元が栗屋元種を摂津に派遣し、
高野山金剛峯寺も出兵し、義昭の先鋒として阿波・淡路の三好軍を率いて六角義堯も堺へ上陸し
大和多武峰の衆徒も動員してる。
さらに淡路の岩屋城に水軍を率いて児玉就英が入り、三木の別所支援を開始と毛利方が圧倒的に有利。
まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・
謙信死すと備えていた信忠の大軍が播磨へ移動してくる情報が入る。
上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが
7月元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。
10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば三木城攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。
信長は荒木を説得する時間を稼ぐために11月に正親町天皇の勅命を出させて輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えるほど危機的状況に追い込まれていた。
すぐに義昭が元春に大出兵を勧めたが隆景との対立からかダラダラして時間を浪費しているうちに
信長は荒木配下の高山右近と中川清秀を降伏させて摂津を奪回して荒木を孤立させるのに成功した。
これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。
元就が安芸にいて息子達に全指令を出してればうまくいっていた話だろう。
あと6/26に九鬼水軍が大筒で雑賀衆の船を撃破しているんだが
これ鉄鋼船の実戦試験だったっぽい。
毛利はこれの研究を怠って11/6に鉄鋼船の前に大敗し海路での本願寺支援ルートが途絶えてしまう。
天正7年に輝元は謙信に代わって武田勝頼に家康を攻撃して織田兵力を引き付けてくれるに要求するも
その毛利は1/16の出陣寸前に正月早々にまた宗麟の調略で毛利重臣の杉重良が謀反して田原宗亀が援助に来援してきたために出兵中止。
武田軍は遠江の国安へ出撃してきたので信長は摂津から安土へ急いで戻ったので、
本願寺や荒木や義昭が播磨へ侵攻するチャンスと毛利へ言ってきたが、大友の動きが気になり、動かないうちに淡路岩屋も織田に取られてしまった。
これを見た宇喜多は毛利を見切り6月になると叛旗を翻した。
すると美作の草荊景継や南条元続も毛利を見切り
光秀や幽斎により丹波丹後の制圧にほぼメドがつき
天正8年に別所が自決し播磨が織田に落ちる。
すると3月には本願寺も降伏し、
秀吉は宇喜多に美作で隆景を攻めさせ、
南条には伯耆で元春を足止めさせてる内に
秀長を先鋒に但馬・因幡を平定する。
天正6年中まで元就が生きてたら余裕で上洛できてたよ。
442 :
人間七七四年:2011/04/27(水) 16:53:24.84 ID:x6KF/Tec
>>441 最後まで大友に足を引っ張られてんだな。
だから財政再建の為とは言え博多を奪おうとして宗麟と戦わずに
九州を無視して東を固めるべく進軍していけば良かったものを。
元就最大の失策だよなー。
その失敗による時間の浪費がのちのち息子達や孫をさらなる地獄に引きずりこんだからなあ。
443 :
人間七七四年:2011/04/28(木) 12:31:32.54 ID:9wdQyX8x
そもそも元就は尼子晴久にボコボコにされてるからな〜
444 :
人間七七四年:2011/04/29(金) 01:43:18.49 ID:jNlFX+k2
他にも1575年に下関攻められたりと
1578年の耳川合戦で大友が衰退していなければ更に苦労させられただろう
とはいえ1581年には毛利が豊後に侵攻したりもしているが
445 :
人間七七四年:2011/04/29(金) 09:55:30.19 ID:o7hj7FD1
446 :
人間七七四年:2011/04/30(土) 08:45:19.87 ID:jxxRZULE
豊後三老がいた時代の大友家中の働きがい満足感は異常。
三老が死去して道雪が博多の押さえの最前線指揮官として豊後から転出した後の田原専制の悲壮感も異常。
447 :
人間七七四年:2011/04/30(土) 16:28:54.50 ID:Kav8hzek
>>438 >関門海峡や豊後水道の制海権を毛利は喪失し二度と九州情勢に介入できなくなったから。
更に言うと来島水軍も離反しちゃったり伊予方面が長宗我部によってきな臭くなったりといろいろ
448 :
人間七七四年:2011/05/01(日) 01:35:31.66 ID:SN3lWbJm
>>413 いや赤子も含めた場合の平均寿命は30程度だよ。
もちろん「間引き」は含んでない値でな。
もっとも百姓はともかく武士階級で間引きはないだろうが。
449 :
人間七七四年:2011/05/01(日) 01:45:19.57 ID:SN3lWbJm
450 :
人間七七四年:2011/05/01(日) 06:58:19.53 ID:OGdRIs5K
信長も敦盛で人生50年って唄ってるし
リアル当時の歌だし一般的には50歳までには死ぬと言う体験からくる人生観があっただろ。
>>416のように豊臣政権は家康は直に死ぬと計算違いをしてたし。
結城秀康に至っては34歳で死去だし結核菌などの病気の特効薬も切開手術も塩分取り過ぎは脳卒中になるなんて知識も無かった時代に現代の一応は衛生を意識する諸外国の平均寿命並みに生きたとは思えない。
451 :
人間七七四年:2011/05/02(月) 06:10:13.80 ID:D4tB44+g
>>449 戸籍データもないのだからそんなもんまったく信用できないだろ…
江戸時代ですら40歳までにほぼ隠居だし。
452 :
人間七七四年:2011/05/02(月) 07:03:17.89 ID:Yetyivoj
徳川15代将軍の平均寿命を計算すると51歳なんだよね。
もっとも、これは八歳で死んだ家継があまりに痛い。徳川15代将軍の平均寿命を計算すると51歳なんだよね。
あと、21歳で死んだ家茂もねえ・・・・
なんでこんな奴らを将軍にするんだか?
彼らを除けば60近いんだが。
453 :
人間七七四年:2011/05/02(月) 11:20:52.54 ID:9umVhkrW
江戸時代は戦乱もなく各地の特産薬も自由に手に入るしね。
そりゃあ寿命は延びるよ。
宇喜多直家さまも52歳で死去して秀家が9歳で家督継いでるし。
むかしは30代が働き盛りだったんだろうね。
維新が若い指導者だったと言うけど、それが当たり前の時代でしょ。
454 :
人間七七四年:2011/05/03(火) 10:16:00.19 ID:GiUWgUGo
まあ大正生まれの人の外見は今に比べたら20歳は老いて見えたって言うしね。
いまの便利な電化生活とは違うし
衛生法も栄養学も無いから50歳ともなると腰も曲がって70歳くらいには見えたと思うよ。
なんせ当時の日本人は肉食じゃないし牛乳すら飲んでないからね。
昭和二桁生まれのいまの爺婆は栄養状態がいいから腰も曲がってないし長生きするわな。
戦国時代なら死はもっとみじかにあったからこそ神仏依存もあったんだろ。
50歳も生きれば良い方だろう。
455 :
人間七七四年:2011/05/07(土) 10:57:13.75 ID:93XF4+to
現代人でも30代後半になると白髪が生えるが
昔の人は白髪が生え始めると
体も筋肉も磨耗しあちこち痛んでくるし
その頃までには嫡男が元服してるのが理想的な生き方で
いつ死んでも大丈夫なように家督を譲って隠居を考えると言うし
いまと違い寿命はかなり短かったし、それが人生観として反映されてる。
まー世代サイクルや時間の概念が現代人とは20〜30年は違うだろう。
456 :
人間七七四年:2011/05/19(木) 23:55:11.68 ID:XWxCqDgZ
毛利の両川って実は無能なんじゃないか?
包囲網しかれたり裏切り続発の信長相手に
ガンガン勢力圏を削られまくってるんですけど。
457 :
人間七七四年:2011/05/20(金) 00:18:38.37 ID:048u1D8L
一昔前の60代なんてヨボヨボしかいなかったが、最近の60代はバリバリの現役がザラにいるじゃん。
458 :
人間七七四年:2011/05/20(金) 09:55:18.46 ID:VlhVCCnh
>>456 無能だろ 長男死んだら殆ど領土伸びないし
三矢だから強かった訳で両川だとカス
459 :
人間七七四年:2011/05/20(金) 13:40:18.73 ID:9087vAaT
元就の中国制覇は武力制圧では無い地域も多くなんとなく支配した感じだから織田や武田と比べると毛利は弱そう
460 :
人間七七四年:2011/05/20(金) 14:23:33.70 ID:AFeR0SIT
小早川隆景は四国・九州征伐、朝鮮の役に出陣して活躍してるが
461 :
人間七七四年:2011/05/20(金) 17:27:33.61 ID:IKhYfTe+
無能はねぇだろ無能は。
ただ、元就の作った旧体制(元就の時点はベストだった)を次代が改革出来なかったんだろ。
小早川にしろ吉川にしろ単独では優秀だったかも知れないが、それぞれの家の事情があったろう。
中心たる毛利が強力なカリスマ失ってまとめる力がなかったと言うかよくわかんねごめん。
462 :
人間七七四年:2011/05/20(金) 18:52:53.56 ID:wWw/wmgm
>>460 >四国・九州征伐、
あんなの消化試合もいいところだろ。
家康が秀吉に頭下げた時点で秀吉の天下は決まったようなもんだし。
463 :
人間七七四年:2011/05/20(金) 18:53:39.03 ID:wWw/wmgm
>>459 いや最盛期の勢力圏は毛利は武田の2倍はあったんだから武田より弱いということはない。
464 :
人間七七四年:2011/05/20(金) 21:33:37.55 ID:TBlZQLrm
>>459 武田だってなんとなく傘下にしたところが多かったから、
織田の甲州侵攻で裏切られまくったんだろ。
465 :
人間七七四年:2011/05/21(土) 15:10:46.44 ID:GtdJTgo+
毛利もなんとなく傘下にしていた吉川広家の裏切りにより関ヶ原で大敗したんだよね
466 :
人間七七四年:2011/05/21(土) 19:19:32.26 ID:xBjBmO6W
歴史人での格付けランキングでは毛利元就は三位、武田信玄は八位だったな(笑)
政宗 謙信 氏康より下の信玄(笑)
これが全国に喧伝されたわけだ(笑)
467 :
人間七七四年:2011/05/21(土) 19:56:06.08 ID:IRacuP4C
大友に大敗し急速に領国大縮小しまくり滅亡寸前で失意のうちに死んだ元就に何を期待しろとw
468 :
人間七七四年:2011/05/21(土) 20:25:26.46 ID:QfJ5Bv48
戦略ないよね 元就って外交力もナッシング
いったいこいつの何を評価していいやら
469 :
人間七七四年:2011/05/21(土) 23:00:15.26 ID:GKiUwreT
っ厳島の戦い
470 :
人間七七四年:2011/05/21(土) 23:14:02.48 ID:lEf0ia21
ああ水軍に土下座して援助してもらって勝たせてもらった一発屋の元就爺か
471 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 02:15:33.64 ID:f5iRIN1D
まず邪魔になりそうな江良房栄を、陶に殺させ
陶本体を誘き寄せて、その大将を討った戦術は評価すべきだと思うが
毛利アンチ低脳杉
472 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 03:26:17.09 ID:GtxX8I5W
473 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 11:53:01.31 ID:DfRPaIV1
>>470 つまり陶側は水軍が味方してくれなかったほど酷かったという事か
474 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 12:24:42.57 ID:OslqlfV4
陶は水軍の利権を否定したから、それは当然
利益が一致した
475 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 22:47:30.23 ID:A1zNvvOx
だからのちに今度は
それを知る大友が村上水軍を買収し
簡単に毛利を裏切ったので毛利大敗w
476 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 10:44:02.60 ID:DS08Q1QX
結局煽り厨は長男にも先立たれた後の最晩年を引き合いに出して叩くしか手立てが無いんだなw
477 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 11:05:48.88 ID:8wEEreJF
ギャーギャー騒いでも秀吉来るまでは大して領地が減ってないからな
大敗したからどうなったん?って話 それが原因で滅亡したならマヌケだけどさぁ
負けた負けたって騒ぐだけとか小学生か(笑)
478 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 13:13:50.26 ID:2qPZsFmN
尼子晴久に一度も勝てずにフルボッコされまくり
元就が死去する時は尼子残党を後援した大友&宇喜多&織田の攻勢に滅亡寸前。
義昭の織田包囲網で織田が西国から全面撤退したので
浦上がまた態度がデカくなり宇喜多を家臣扱いしたので
宇喜多が織田を離反して毛利方になって尼子残党支援を止めたおかげで毛利は助かっただけ。
毛利自身はなんもやってない。
479 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 14:58:42.99 ID:d4sl0LWd
逆に言うと晴久も存命中に毛利を滅ぼせなかったから所詮はそれ程度という事か
480 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 15:53:16.58 ID:2qPZsFmN
晴久は上洛を目指してたから
田舎のカッペ元就なんて
最初から眼中になかっただけ
481 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 16:02:46.95 ID:1GYrxyHb
眼中になかった(笑)
伊達信者とか武田信者とか上杉信者とか、みんなこういうこと言うよね
敗北宣言してるようなもん
482 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 18:05:58.45 ID:8wEEreJF
その眼中にない奴に後に一族共々滅ぼされるとはかなりのマヌケだな
483 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 18:38:28.62 ID:PIFdrz62
その尼子の家臣の山中鹿介の子が慶長年間に
伊丹の鴻池郷で酒造業してボロ儲けし
鹿介の孫が1615年には大坂に進出し
のちに土下座して大金を借り続けていた毛利・・・大名貸しの餌食毛利w
484 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 20:10:24.70 ID:d9jHOxe0
鹿介の子孫の鴻池家では毛利家への財政支援を行わなかった筈だが
485 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 21:10:03.48 ID:2qPZsFmN
してるだろ…
486 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 22:28:23.14 ID:DS08Q1QX
金貸しなんて他に幾らでもあるのに何でわざわざ尼子家臣が子孫のところから借りなければならないんだね?
487 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 22:35:33.79 ID:qLiEMwnL
尼子の子孫を家臣にしているはずだから、それを窓口にして・・・
ということはないの?
488 :
人間七七四年:2011/05/24(火) 00:04:36.02 ID:SYKzizjg
明治維新で鴻池は破産し毛利は公爵
毛利家臣は新政府要職
毛利の勝ちだ
489 :
人間七七四年:2011/05/24(火) 00:23:40.40 ID:zOI32kem
輝元は大借金超赤字で領地を全部幕府に返したいと言い出すほど破綻してたんだから
金を貸してくれるならどこでも有り難いだろ。
ハッキリ言って選べる立場じゃないね。
つーかいま鴻池財閥は江戸期最強の勝ち組だし
明治も日本有数の財閥で、その栄華が傾いたのはGHQの財閥解体だぞ。
いまは東京三菱UFJに資本参加してるし
東大阪市にあるショッピングモールの鴻池グラナリーコートなどの経営もやってる。
さらに山中鹿助の別系統の家系と言われるゼネコン鴻池組もあるし。
490 :
人間七七四年:2011/05/24(火) 07:01:19.07 ID:2tZ2216h
>>489 逆だ逆。鴻池が毛利には貸してやらねぇ、って言ってたんだ。
491 :
人間七七四年:2011/05/24(火) 13:37:54.86 ID:zOI32kem
断られたのがマジなら面子丸潰れ最強に情けねぇw
つうか破綻して絶望した輝元を見て
秀元が激鬼再検地して倍近い石高を無理やり叩きだす悪魔政治で
さらに毛利領は生き地獄のように荒廃したよね…
492 :
人間七七四年:2011/05/24(火) 14:13:56.95 ID:D44tavvy
その生き地獄とやらのソースをお願いしますw
妄想で生き地獄www
493 :
人間七七四年:2011/05/24(火) 15:54:34.36 ID:YNfvoyQZ
領民が苦しんだのは拠点を萩に移されたからじゃないの?
494 :
人間七七四年:2011/05/24(火) 17:13:59.78 ID:OXxEQ/VX
495 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 23:00:37.35 ID:Yl9bWRWa
元就は尼子晴久に一度も勝てなかったのかい?
496 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 23:10:30.77 ID:WJc1/q53
郡山城に出兵してきたのを撃退してるな
まあ、これは大内の力が大きかったけど
497 :
人間七七四年:2011/07/16(土) 14:18:55.45 ID:bCZgQhtd
大内の援軍が来るまで半年間ほど独力で戦ってるな
498 :
人間七七四年:2011/07/16(土) 18:26:42.34 ID:whnG6D2q
地元の吉田歴史資料館の職員によれば
「最近の研究では、尼子側が毛利をあまり激しく攻めた痕跡が見られない」との事からや、
実際に尼子氏は本隊を動かした戦が殆どなく、
むしろ元就との直接戦闘を避けて大内氏との決戦前に
やっと本陣を動かしたことからも大内との戦いを待っていたようにも見受けられる。
また尼子方はこの後も美作三浦氏・備中中村氏攻撃の為に、遠征をしている。
つまり、郡山攻めの後も軍勢を展開出来たという証拠であり、
巷で言う程の損害が出たのかは不明である。
499 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 20:54:01.86 ID:aGagRqBk
>>498 どうせwikiからの丸写しなんだから決して関係ない話でもない事だし
都合の良い所で切らないで最後まで貼り付けてはどうなんだね
(
>>498の続き)
しかし郡山攻め以降、尼子氏が不利になったのは事実であり、
その原因は、日和見的であった安芸国・備後国の
尼子傘下の国人や土豪が大内方へと転じたことである。
また、激戦が大内・尼子間で繰り広げられ、
結果的に尼子氏が撤退したことにより、
安芸での尼子氏劣勢は決定的なものとなった。
更に、大内義隆はこの機に乗じて尼子氏を叩くべく
室町幕府から尼子討伐の綸旨を出すように働きかけそれに成功、
尼子氏にとっては窮地に追い込まれてしまった。
この戦いの結果、尼子氏と大内氏の立場が逆転し、
膠着状態であった中国地方の勢力争いが大きく動くきっかけとなった。
また、毛利氏は安芸国での優位を確立し、
戦国大名として雄飛する第一歩となった。
500 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 21:49:29.34 ID:39kboqp6
>>499 尼子が郡山攻め後に安芸で尼子劣勢になったと言うのは完全に捏造。
実際は武田光和の急死により若狭武田からの養子が入る形で安芸武田が弱体化し尼子は安芸での影響力を失っている。
501 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 23:37:57.33 ID:0RMJGcEg
でも安芸武田氏が滅亡したのは吉田郡山城の戦いより後だよね
502 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 01:34:31.57 ID:B0XW34T6
>>501 若狭から来た武田信実には実権はなく
大内氏との講和を主張する家臣が実権を握ったために
内紛が勃発し、信実は若狭へ逃亡してしまう始末で
武田当主不在になってしまったことで
厳島神主家内も大内化が始まり完全に尼子の影響力は失われている。
503 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 05:01:41.22 ID:2/+Us52I
ん?つまり、尼子の安芸国内での勢力は完全に武田に寄りかかっていて、
武田が崩れた瞬間、影響力が消滅したってこと?
別に武田が安芸国内尼子派国人を支配していたわけでもないのに、
それっておかしくないか?
尼子派最大勢力だったのは間違いないだろうけど、各国人は個々に
尼子派になっていて、尼子が大きなダメージを受けたわけでもないのに、
なんでいきなりみんなそろって大内派になるのさ?
郡山合戦が大したことない戦闘で尼子の軍事力が健在なら、それを
後ろ盾に吉川とかが尼子派として光和を支援して、大内派家臣団を
討てばいいだけじゃないの?
504 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 11:06:31.65 ID:247PXhTP
>>503 時系列が理解できてないね。
光和が突然死んだから信実が養子として武田に来たわけだが。
死んだ光和を支えるとか意味不明でしょ。
そもそも大内の大軍が本国から東進するのをせき止めていたのが武田で
そのために大内は厳島経由で海上を迂回していたほどに不便な状況。
だから安芸や備後の支配は毛利に頼らざる負えなかったので加増しまくって毛利を優遇していた。
尼子は威圧で毛利を現形させようと(自軍派に転向させようと)狙っただけで
武力鎮圧を狙ったとする一次史料はまったく無い。
この時期になると尼子は武田を利用しての安芸支配を諦め、
毛利を尼子に現形させてることで安芸に影響力を残そうと妥協していて
同時期に厳しく攻められていたのは毛利でなく
尼子に半ば見捨てられて大内の大攻めを受けた銀山城の武田の方だから。
505 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 23:42:12.20 ID:7MTG3TK6
どっちにしても郡山攻め後に尼子傘下の国人や土豪が大内方へと転じた件については触れようともしないんだな
506 :
人間七七四年:2011/07/19(火) 01:00:56.22 ID:lot6Vr+h
>>505 でさ、お前は安芸の誰が郡山合戦後に大内側へ転じたと主張してんの?
あとな、その時の尼子の目的は石見銀山であり
郡山城へ進んだのは陽動。ここで毛利の現形を待ちながら
小笠原長隆を後援して石見銀山を大内から奪取してから本国へ帰ってる。
その撤退でも尼子は大した被害を受けてない。
507 :
人間七七四年:2011/07/22(金) 11:00:54.07 ID:42kW20pu
実際、尼子は上洛狙いで浦上らと争い播磨まで進出してたから安芸方面を長らく放置してきているうちに
安芸の国人達が大内の影響力を背景に利用していた安芸一揆指導者の家系の毛利に
大半が従ってきていた状況なので
次第に背後の不安定化が懸念される事態になってきており
毛利を潰すのが目的ではなく毛利を現形させて尼子に付かせることで
安芸で失われた尼子の影響力を復活させようとしただけだからね。
中国地方ってのは寄親寄子制なので威圧と領地加増のアメと鞭で交渉することで
地域指導者を現形させてオセロのように勢力をひっくり返すのが伝統的手法。
そう言うやり方だから主従関係が曖昧なまま大内も多数の国人を率いて上洛もできた。
508 :
人間七七四年:2011/07/22(金) 21:15:35.88 ID:dFOa1FWA
>>507 んで、現形させようと郡山城を包囲してる間に、大事な尼子派だった武田が大内に攻撃されて、
どうしようも無くなって何の成果も得られず、臆病野州どのを犠牲にして逃げ帰った、と?
結果として、安芸国内の尼子派が衰退しまくって、毛利メシウマなわけだろ?
郡山城戦の結果として安芸国内における尼子のプレゼンスが低下して、毛利がのし上がった、
って因果関係は通説となんにも変わらないじゃないか?
509 :
人間七七四年:2011/07/22(金) 23:20:55.20 ID:W6u9GmLR
嫡男人質に出してるから簡単にはひっくり返らないよ。
尼子の状況認識甘かったとしか言いようがない。
もっとも、元就が二股外交で晴久と兄弟の契りしたりしてたんで、脈ありと見たのか、そうだとしたら元就にしてやられたわけだ。
兵などの犠牲は少なくても、「敗走」と
周囲にみられたら、みんな雪崩をうって
大内に付こうとするよ。
510 :
人間七七四年:2011/07/23(土) 12:30:31.27 ID:xBf/vlbq
毛利の小猿が調子づかなきゃ尼子さまが天下を統一していたのによ
511 :
人間七七四年:2011/07/23(土) 18:31:27.33 ID:7WOLK9+1
>>508>>509 大事?すでに本領を失ってる武田を!?
だからね、尼子はもう安芸で支持を失って脱走してきただけの武田を見捨ててんの。
武田の代わりに毛利に現形してもらおうとしてんだから。
銀山城自体が旧武田親大内の勢力によって牛耳られていたんだから。
それで信実が帰国して銀山のみ奪回しただけの話で
それに対して大内から求められて毛利軍から児玉を監軍として
熊谷信直と香川光景が銀山城奪取を策す信実と戦ってんの。
そんで尼子の優先する目的は石見銀山なわけ。
(信実が銀山城から叩き出された時に石見銀山も大内に奪われていた)
さらに臆病野州なんてただの講談逸話レベル。
そもそもその逸話の元ネタは安西軍策の尼子比丘尼と呼ばれた話からきてる。
しかも軍策ではその臆病野州を討ち取ったのが宮崎の陣にいたはずの
元就の下人である中原が軍策曰く「どうやってきてたのかわからないが」
なぜか尼子本陣を攻める陶軍騎下にいて矢を額に命中させて殺したが
尼子軍が死体を持って陣に駆け込んで首は取れなかった。
などと書いてあってデタラメ過ぎる。
>>臆病野州どのを犠牲にして逃げ帰った
さらに軍策ではこの戦いのあとに戦果をチェックしたら尼子400討死・大内540討死
毛利と吉川の戦いは勝負付かずおのおの引き上げたと書いてあるわけだがw
>>結果として
はぁ?俺はことごとく論破されてるし、しかも俺が書いた質問も全て無視した挙句に
俺の書いた意見を自分の意見のようにまとめて
「結果として」ってなに言ってんだ?意味わからん。
大内が九州戦線を安定させて、いよいよ東に目を向けたから
安芸での大内の軍事的プレゼンスが増大したのであって
尼子の安芸での軍事的プレゼンスなんて武田光和死亡後にとっくに完全に失われているわ。
512 :
人間七七四年:2011/07/23(土) 18:50:31.65 ID:7WOLK9+1
>>毛利がのし上がった
あくまで大内傘下での安芸における指導者としてだ。
陶の謀反に元就が加担し大内義隆を自刃に追い込んでから流れが変わる。
>>嫡男人質に出してるから
隆元1人と毛利家存続に較べたらな。。。
そのためにも元就はSEX魔王とも言うべきガキの大量生産をしていたのであろう。
もっとも正妻の子である元春と隆景までを人間扱いしてるが、
それ以下は虫けらと元就は呼んでるが。
しかし元就は長女を虫けらのように見捨てて高橋攻めをしている。
よって長女を見捨ててる前科がある以上は甘いとか意味がわからん。
>>「敗走」と周囲にみられたら
見られてないだろ。そんなソース見たことない大内が出雲遠征で大軍を催したから
相変わらず寄親寄子な心が移りやすい国人が褒美目当てで寄って来ただけで。
だから大内は裏切られ敗走することになるが。
そもそも高橋と佐々部領を併合していた毛利は単独でも尼子と戦える力を持ってる。
(1517年の毛利所領は40余りの荘を保有し判明している7荘だけで5700貫に上る)
>>元就が二股外交で晴久と兄弟の契りしたりしてたんで
塩冶興久の謀反が現実味を帯びる中の1530年5月28日の陶の書状から
大内と尼子も講和してて興久でなく経久を支持してるし、
1531年7月に晴久と元就が義兄弟の契りを結ぶというのも大内と尼子が和睦してるのでおかしくない。
(そもそも元就は尼子の後援を得て毛利の家督を継いでいるし、契りは妻の実家吉川の斡旋だし)
興久と婚姻している備後北部の山内氏領も戦場になる以上は
元就も関係なしと言うわけに行かないだろう。
(西条守護の弘中隆兼が南備後を支配していたが大内から毛利は北備後七郡の管轄を任されているし
1475年以来、北備後の伊多岐・重永・山中など世羅台地に毛利は3000貫の領地を持っている)
要するに元就は大内と尼子からも無視できない安芸一揆の盟主の家柄であり
両者の間で背反し遊泳してうまい汁が吸えた立場にいただけのこと。
別に二股外交と呼ぶほどスゴイ離れ業をやってはいない。
むしろ尼子が甘いのでなく、いろいろと経緯を見ると
毛利を厚遇して加増をしまくってきた大内こそ甘くて涙目。
もっとも信用ゼロだから大内は隆元を人質に取ったり、誓詞の交換を強要したりしてんだが。
513 :
人間七七四年:2011/07/23(土) 19:52:58.04 ID:rtB9UtIz
また性懲りも無く長文珍説君が復活したのかよ
いい加減ウゼえな
514 :
人間七七四年:2011/07/23(土) 20:47:11.93 ID:nN3LquzL
まだ元就が非力な弱小勢力スタートだと思い込んでるバカがいるのか…
515 :
人間七七四年:2011/07/23(土) 20:49:39.51 ID:BmXIeo0L
うーむ、長いけど意味わかんないや、
珍説本の中の 人が書いてるみたい。
516 :
人間七七四年:2011/07/24(日) 01:05:50.23 ID:Xd8Y+4g3
>>513>>515 珍説?理解力のない頭の悪い毛利厨乙w
おっと誤字になってるトコ発見
>>俺はことごとく論破されてるし
「俺にことごとく論破されてるし」に修正。
517 :
人間七七四年:2011/08/08(月) 18:49:35.02 ID:lN7Nbulw
こんにちは( ̄▽ ̄)
私の家は長州の永代家老(毛利一門)の家系で、明治には華族になっています。
最近、ご先祖様の事をいろいろ調べるようになりました。大江家〜戦国時代〜幕末
ても、ここを読んでみると、皆さん凄く詳しいですね。
どうしてそんなに詳しいのですか?
私の一族なんて一応のざっくりとした歴史は知ってますが、◯◯の戦いは〜、動員兵力は〜、石高は〜、とか全くわからないです。(^◇^;)
とても参考になりますので、ちょくちょく見にきますね。
518 :
人間七七四年:2011/08/08(月) 20:07:50.85 ID:tFWO4bzc
>>517 このスレに居座ってる長文珍説君はそらでものを言ってるだけだから本気にしない方がいいよ
519 :
人間七七四年:2011/08/08(月) 23:25:31.96 ID:lN7Nbulw
>>518 了解です。
歴史は見る人によって180度評価が違ってくるので、面白いですね。
たとえば、元就が天才か無能か?
アンチも含めて議論を楽しく読ませていただきます。
520 :
人間七七四年:2011/08/11(木) 09:53:58.23 ID:FDJT/oGt
その長文の人はちゃんと一次史料を明記して情報量も豊富である一方で
それを感情的に否定してる厨房側は一切一次史料を出さないで「〜と俺は思う」レベルの反論しかできず、
議論に負けると相手の人格否定の悪口中傷で必死に貶してる以上は
どちらが信頼できる書き込みをしてるかは議論を待たないけどな。
情報量の多さと一次史料を用いた書き込みを長文珍説と無理やり否定する不遜横暴な態度は好感を持てない。
521 :
人間七七四年:2011/08/12(金) 11:57:25.67 ID:54U2MUy4
>長文の人はちゃんと一次史料を明記して情報量も豊富である
また性懲りも無く息をするように嘘を吐くなよ長文珍説君w
522 :
人間七七四年:2011/08/14(日) 19:11:01.32 ID:p7pjEErP
523 :
人間七七四年:2011/08/15(月) 05:53:21.04 ID:XP7zVJ5s
ああいえば、ソースいう奴だな。
読んでやったが最初のどこそこの
所領貰ったとかのとこや、
熊谷に元春よろしく、とかの
話しだけじゃ無いかい?
しかも、謙遜して書いてるのに、
ストレートに元春ヘタレと解釈するとは、
KYにも程がある。
524 :
人間七七四年:2011/08/15(月) 08:55:51.97 ID:p9qSTrsV
>>523 で、お前がソースを出したとするレスのリンクを貼るか教えてくれよ。
それに元春がヘタレなのは明白でしょ。
自分が絶対に勝てる国人風情だけを相手に選んで戦ってただけで
いざ互角の兵力を持つ織田軍が来ると徹底的に逃げ回ってただけじゃん。
525 :
人間七七四年:2011/08/15(月) 10:19:23.99 ID:yjsBa3lZ
本当に謙遜なら「犬のように頼りない」なんて酷いこと書かないだろ・・・
526 :
人間七七四年:2011/08/15(月) 13:04:26.16 ID:p9qSTrsV
まあリアルに穂井田元清以下の息子達を虫けら同然と書状に書くほどのDQN父親が元就だからな。
元就は長女を見殺しにしてるし、
元就のアスペが似たのか次女の五龍局も元春の妻をいじめてるし
確実に元就は性格や思考に難があるアスペだな。
隆元も元春も隆景もいがみ合って仲が悪いし
父親の教育がキチガイじみていた影響だろうな。
527 :
人間七七四年:2011/08/15(月) 16:35:50.79 ID:StfJCKNd
キチガイ毛利アンチ
528 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 02:40:21.91 ID:lA/giBkB
義昭側近の一色昭辰も天正3年8/24に元春に
修理大夫一色義辰(一色義道)の本国丹後の儀につき
輝元御出勢の刻は本意に任せるので頼みます。
(毛利を)御馳走することは本望です。
などと言っていて毛利は丹後も傘下に収めているんだよな。
でも元春は援軍も出さずに同じく元春に
救援依頼した丹波の赤鬼の赤井直正兄弟同様に見捨ててんだよね。
ほんとヘタレだよ元春って・・・
529 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 04:06:36.60 ID:aZlCHDd0
元春って元就が死んだ時も出雲高瀬にいて葬儀をガチでシカトしたし
隆元が死んだ時も出雲白鹿にいて葬儀をガチでシカトしたぐらい親兄弟と仲が最悪レベルだったんだよな…
530 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 05:15:46.22 ID:XHEkx7Q8
>>524 長文のソースの話しで、こちらは、
ソースのいる書き込みはしてないよ、(笑)
長文が笑えるのは、散々元就たちを、
ウソつき捏造、ヘタレと散々こき下ろし
得意になってるが、その根拠のソースが
毛利側の資料って、どうやって捏造見分けてるんだ?
毛利家文書は、全て捏造の可能性あるよ、
長文君の解釈だとね。
531 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 06:44:31.35 ID:LY5OpnzT
毛利の資料は全部捏造なの?ソース全力
532 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 11:24:14.88 ID:NbwgiJ+h
>>530 日本語として意味不明。
現実が認められずに
お前ついに頭がとんだのか?
533 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 09:29:40.40 ID:0R8q54gQ
>>528 隆景や安国寺が義昭を毛利領に呼ぶのに消極的な一方で
積極的な元春が義昭との窓口をやってたから義昭も毛利が有利になるように各国を毛利方にしてたからね。
決断できない毛利に痺れをきらした義昭側近の六角義堯が義昭の越後行きを策したら
それを知った毛利は義昭の力によって今まで毛利方になった各国国人達が毛利に失望し一挙に離反するのを恐れて
急遽、義昭を毛利が奉ずるのはとても名誉があることだと言い出して義昭を急いで毛利領内に呼んだ。
534 :
人間七七四年:2011/10/17(月) 16:06:59.02 ID:ZUYs4MMG
>>522 陶が村上水軍に冷たいのは
武田滅亡寸前の時に
厳島神主家が村上水軍による大内からの厳島奪回作戦が成功し、
毛利を助けに吉田に来て尼子と対陣した陶の背後が封鎖された恨みがあるんだよ。
威圧で毛利を従属させようとしていた尼子だったけど
隆元を人質に大内に出していた毛利が従属しないと悟り、出雲へ帰陣
(以前、元就が尼子服属を申し出たが、元就は信用できないと吉川に伝えていたから
すぐ元就は従属するとタカをくくっていた)
それで武田と神主家は滅亡。
厳島合戦では村上水軍には厳島攻略ノウハウがすでにあったんだよ。
しかも陶の謀反のときに桜尾城を元就と江良が陶の策で無血で収めていたが、
陶が石見津和野攻めに苦戦してる時に
旧武田勢力の銀山城の北に位置する山岳地帯から石見に至る周辺の山里国人一揆らが陶に謀反。
このチャンスに江良を桜尾城から元就は追放し、
孤立した銀山城も明け渡させて岩国まで毛利に服属。
このため陶は西安芸全域まで敵になっており、陸路から毛利攻め不可能となった。
厳島神主家と村上水軍による厳島渡海作戦時より、
百倍有利な展開で、
厳島合戦も村上水軍によって行われ
元就からしたら棚から牡丹餅状態で
ほとんど何もやってないのに、
一揆連合から推戴され祭りあげらた神輿として勢力が拡大した。
しかしこんな言い加減な主従関係すらない
烏合の衆では織田に勝てるわけもなく、
大内がかってやった将軍の権威を求心力にして、
主従関係でない
今となっては巨大一揆組織となった安芸国人を公儀のためと言う口実で、
家臣化を目指そうにも、
大友に大敗し博多も手に入らず、
山口の復興にも失敗し
領主のいない闕地もなく褒美すら与えられず、
輝元を周防長門に押し込めた叔父らは
山陰や山陽の領国化を目指し東進、
輝元に相談せずに闕地をみつけてきたら輝元に相談せずに安堵を開始していく。
535 :
人間七七四年:2011/10/17(月) 17:13:20.00 ID:MlD7xqcF
>1
一番の原因は小早川家が乗っ取られてしまった事が原因だろう
536 :
人間七七四年:2011/10/17(月) 19:18:16.13 ID:SSbJsGfa
>>534 おお、
>>337の話に似た話が登場してる。
やっぱり元春や隆景の自立化っては本当なんだな。
ちなみに元就4男の元清も息子に秀長の娘を貰い自立化を図ってますよね。
秀吉は大名との対面でも、家康・利家・政宗・秀家・輝元らと秀元を同席させて大名との謁見までやってたくらい秀元の地位が高かった。
家康は元清の息子秀元の、父の遺領の相続に対して秀吉の遺令と称して毛利内での相続問題に介入してて、
そこに家康と領地をより多く奪おうとする自立を狙う秀元の連携が見え隠れしてて、輝元は元康と相談したりしてる。
家康側は「長門と周防の一部(出雲+伯耆+隠岐の合計石高分+周防元清遺領)と安芸・備後の元清遺領を
秀元に配分するべきだとして譲らず、福原が秀元に諫言したり秀元が周防の国人に騒ぎを起させて恫喝してる。
家康は秀元を利用して着々と毛利内の分断を図っていて、輝元は家康に対して怒り狂ってるのが見える。
そこで家康への対抗から輝元領の減少を食い止めるべく奉行と輝元による運命共同体の姿があるんだよね。
会津征伐ってのは家康の上杉弱体化分断工作がうまくいかなかったから実力行使に出ただけ。
クーデター側は反家康側内がどんどん分断化や協調体制の各個撃破されていくのを見ているはずなんだよ。
徳川内の分断化にむけた介入による反撃ができないところに反家康側の弱さがあった。
537 :
人間七七四年:2011/10/18(火) 11:55:16.02 ID:Qr1uVJaz
息子兄弟を険悪な関係のまま
元就が無責任に逝ったのがすべて悪い。
538 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 12:55:53.02 ID:0xb46DuS
>>529 元就も隆元に
元春のことはもう諦めろと突き放してるくらいだから仕方が無い
539 :
人間七七四年:2011/10/20(木) 13:46:15.88 ID:2bXrOAv4
元春が主張したように柴田と同盟して
秀吉を挟撃してたら
毛利が天下取れたのにな。
結局、隆景と如水と秀長に親子毒殺された元春。
540 :
人間七七四年:2012/01/10(火) 08:13:57.42 ID:VmCCAuP1
>>537 優しさと弱さの区別が付かないのが、チョウセンヒトモドキ
541 :
人間七七四年:2012/07/01(日) 01:42:02.55 ID:cktX4iLJ
542 :
人間七七四年:2012/07/01(日) 01:43:20.31 ID:cktX4iLJ
543 :
人間七七四年:2012/09/08(土) 20:58:32.35 ID:tueBF4wE
お前ら毛利をへたれとか言うなよ
その毛利に滅ぼされた家らはごみ同然になっちまうぞ
544 :
人間七七四年:2012/09/27(木) 22:52:01.10 ID:4pKg2Bqf
毛利氏って、実は3回日本の歴史を変えてるんだよね・・・もっとかも知れんが
鎌倉幕府創立の時の「顧問弁護士」の大江広元と宝治合戦の毛利季光
戦国時代の元就と両川、関ヶ原の輝元・広家と小早川秀秋
幕末の長州藩
武家でこれだけ後世に影響を与えたのは他にいないと思う
公家の藤原家ぐらいだろう
545 :
人間七七四年:
上杉や伊達は幕末が残念すぎるし細川や佐竹は江戸以降は空気
自称()を除く鎌倉から続く名門としては、毛利は一番要所要所を抑えてるね
島津も活躍はしているものの、鎌倉は大江毛利ほどは目立ってはいないし