1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
2 :
298=309:2006/11/20(月) 22:58:18 ID:UFgHqs8g
2ゲト
45スレまとめ
>1-15テンプレ
>16-19 >30過去ログ関連スレ
>20-29 >34-43スレまスレまとめ
>33-55 上野攻めるより先に美濃を攻めたら 決戦したら
>36-39 1572年秋-1573年春関連文書
>56-122甲相同盟破棄と駿河侵攻
>67-104武田の勝率
>123-129西上野攻略
>129-154駿河攻略と第1次駿河攻略成功時のIF
>155-161氏康が長生きしたら
>162-171越相同盟 1569年越後の状況
>172-175信玄謙信が戦わないIF
>178-206信長信玄の家督相続時の石高国内外状況の比較 桶狭間の戦い時の尾張の状況
>207-228信玄はどの程度の能力か不利な環境だったか 継いだ段階での国力・周辺国との関係等の比較
>230-249甲尾同盟を維持していたら 上杉織田の関係 何故上洛しようとしたか
>254-339各大名の国力・周囲を取り巻く環境の比較・恵まれた大名
>272 100万石越えた大名一覧
>278-339竜造寺隆信・大友宗麟・集権体制について
>279-286義信事件について >286義信謀反年表
>277-301相続問題・お家騒動
>345-364信長の戦場指揮の逸話
>365-393信玄の戦術指揮能力三増峠の戦い武田織田の指揮官クラスの死亡について
>394-411信長の戦術指揮能力
>412-471信玄の戦略駿河侵攻
>472-500 100万石クラスの大名 1570年上杉の国力 武田は同程度の勢力相手に拡大できるか
>496同じ国力差から抜けた大名
>501-547同程度の国力相手 上杉との戦力比較 信玄の戦術 織田包囲網の状況
>548-586越後攻め駿河攻めについて 駿河攻め時の北条の思惑 武田の信用度
>587-607武田の上洛について 信玄信長の宗教観 第1次駿河遠征が成功していたIF
>608-635武田信虎の政策・甲斐国人衆
>636-660野々宮合戦 信長信玄の拡大速度・敵対相手の国力状況
>647信長の生涯を通しての拡大速度
>663-680信玄は何故先に美濃を攻めなかったのか 斉藤上杉の比較・尾張信濃の比較
>681-715信秀の晩年尾張の状況 信玄信長家督を継いだ段階の比較
>711-738家格権威官位役職の効果影響力
>742-745直轄領
>746-790包囲網が完全に機能した場合のIF 地勢 武田による斉藤攻めIF
>791-866今川氏真が優秀なら及び織田と同盟した場合のIF 桶狭間後の今川の状況
>914-962家督相続時の有利さ・家臣の発言力傀儡か否か 他大名との比較・地理的優位性
>961-987板垣信方
上洛の可能性 ↓以下で上洛可能
・信玄が健康で長命
・足利浅井朝倉松永本願寺三好残党六角残党らも包囲網一致協力
・三方ヶ原の戦い後、徳川家を早期に攻略乃至は降伏
・武田軍が甲斐に帰らず1年以上遠征可能
・上杉が空になった信濃、上野を 襲うことは決してない
・北条も軍艦の記載のように援軍を出す
・三河尾張国境の 水野家が離反する
・織田との決戦で勝利する
各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)
ちなみに、万石あたり250人は比較的低い動員率、
無理すればもっと動員できるだろうがそういう兵力は基本的な守りに残すと解釈。
関東
上野:49万6千石/12400
甲信・中部
甲斐:22万8千石/5700
信濃:40万8千石/10200
飛騨:3万8千石/950
美濃:54万石/13500
近江:77万5千石/19375
東海
駿河:15万石/3750
遠江:25万5千石/6375
三河:29万石/7275
尾張:57万2千石/14300
伊勢:56万7千石/14175
志摩:1万8千石/450
北陸
越後:39万1千石/9775
越中:38万3千石/9500
越前:49万9千石/12500(慶長検地では68万石)
若狭:8万5千石/2125
5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 18:23:37 ID:5MgUYlr3
畿内
山城:22万5千石/5625
大和:44万9千石/11225
摂津:35万6千石/8900
河内:24万2千石/6050
和泉:14万1千石/3550
伊賀:10万石/2500
四国
讃岐:12万6千石/3150
阿波:18万4千石/4570
淡路:6万2千石/1550
各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)は以下参照
ttp://homepage3.nifty.com/ksatake/
1572年(元亀三年)十月三日(信玄、古府中を出立)の各勢力の状況
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…95%(9690)
*飯山周辺は残す。
・上野…36〜43%(4450〜5375)
*倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。
14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。
利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割)
・駿河…100%(3750)
・飛騨…10%(95)
*72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
して上杉氏を頼る。
・越中…?
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・遠江…7.8%(500)
*遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。
武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。
遠征後は20%ほどに増大
・三河…12%(850)
*足助城を落とし、賀茂郡一部・設楽郡ほぼすべて・八名郡一部を支配。ただし全て山地なのがネック。
・美濃…ほぼ0〜5%(0〜675)
*秋山信友が岩村城を落すのが72年11月。 それ以前に落していた恵那郡の小城を、どの程度に見積もるか?
18(21?)郡中これだけでは最大5%もないとする意見。
総計25035〜26635
後北条と同盟。義昭や顕如ら畿内の反織田勢力と連絡を取り合う。背後に上杉と上野方面を巡って火種。
ただし、もともと高税率のうえ、69年以降は戦もそれまでの二倍以上。領国の疲弊はすでに始まっていた
とする説あり、ただしソースは少ない。継戦能力にも疑問。
●織田
・尾張…100%(14300)
・美濃…90%(12150)
*21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺のみ 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…70%(13563)
*浅井・六角は追い詰め中。他には甲賀郡の土豪と野洲郡のいつ蜂起するか判らない一揆衆。
・伊勢70%(9923)
*桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡され乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
・三河…10%(728)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族。
総計51114
この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。
若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山荒木などが味方勢力として存在。
池田和田淡路の安宅などはテンプレ時は旗幟をはっきりさせていない。
●徳川
・三河…78%(5675)
・遠江…92.2%(5875)
*両国とも、武田にどの程度侵略されているか。また調略如何によっては動員はさらに下がるかも。
総計11550
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は グンと下がっているだろう。上杉と同盟。
■三方ヶ原の戦い後の情勢。
1572年
十二月 二十二日 三方ヶ原の戦い
1573年
一月 三日 武田軍野田城を囲む
北山城や摂津河内の国衆から義昭に付く者が続出する。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴。
近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。
二月 十五日 武田軍野田城を落とす。
二十四日 柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。
三月 二十五日 信長、岐阜を出陣。
二十九日 細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。
四月 三日〜四日 上京焼き討ち。二条御所を包囲。
七日 調停の仲介により信長と義昭との和睦なる。
八日 信長、京より岐阜へたつ。
十二日 武田信玄死去
柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。
七月 足利義昭京より逃れる。
八月 朝倉・浅井両家滅亡。
■この情勢をもとにした推測。
織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
(基本的な任務は守備、現状維持)
計算上は2万8千ほどを対武田に向けられるのでは?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
北条の援軍が二千〜三千で、
合計ニ万〜二万五千ほど?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、石高的には10万石3000ほど
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、石高的には6万石1500ほど
北条の援軍が二千〜三千で、
遠征軍合計実数二万五千ほど
信玄率いる遠征軍は石高的には84万石〜90万石で21000〜22500ほど+北条の援軍2000〜3000
+美濃へ入ってくる秋山隊が3000ほど
その他の勢力 東国
●長尾上杉
・越後…100%(9775)
*ただし、揚北衆特に本庄氏の扱いは微妙。
・上野…10%(1240)
*沼田・厩橋近辺と考えるとこれぐらいか? 武田・北条におされ気味。
・越中…20〜25%(1900〜2375)
*神通川以東(新川郡)松倉・富山は1573年正月まで攻撃中。72年〜73年にかけての遠征によって、越中の大部分を支配下に収める。
この時は越中から加賀にまで攻め込み、顕如から信玄へ援軍要請が行われた。
松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・飛騨…三木氏や江間氏とは友好的。1572年の富山攻めでは江間氏が援軍派遣してる
・信濃…5%?(510)
*飯山城とその周辺は保っていた模様。最大見積もってもこの程度。
総計13425〜13900
・遠征能力○
遠征能力は高いが、北陸へ出陣中。仮に北信・上野に出陣するとしてもメリットは薄い? ただし史実
ではこれ以前も以後も関東への出兵を繰り返している。武田・北条・加賀を敵に回して織田・徳川と同盟。
関東の諸将(佐竹ら)とは疎遠になった。
●後北条
・遠征能力○
武田・上杉と並ぶ大国だが、武田とは同盟中。今回の武田西上でも援軍(二千~三千?)も出している。
数年前まで戦っていたとはいえ、手切れをしてまで武田を攻める事は無いだろう。北関東には他に敵
もいる。
●朝倉
・越前…100%(12500)
*寺社領については、明確な根拠を示さない限り否定されます。
・若狭…?
*守護武田氏は抑えているが意味なし。有力国人である逸見氏・粟屋氏などはこぞって織田について抗争中。
朝倉軍の一部は粟屋氏の居城を攻撃していた模様。(武藤氏が反織田に回ったが、この時期の動向は不明)
総計12500+?
・遠征能力○
遠征は10000程度は可能か? 現在、越前にフラフラ様子み。70年の講和以降、浅井への援軍以外に
出兵なし。経済疲弊。一部軍役拒否の状態。若狭の支配圏は低下中、むしろ抑えるための兵力派遣
が必要。
●浅井
・近江…9.5〜14.5%(1850〜2825)
*伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城しか残っていない。
高島郡はもう少し高いとみる説あり。これも考慮に入れた。
総計1850〜2825
・遠征能力△(朝倉が来れば助力可)
単独での侵攻は辛い。木下隊に苦戦。小谷城の眼前に虎御前山砦を築かれて押し込められる。
●六角
・近江…?
*愛智郡鯰江城で逼塞状態。甲賀の土豪がどれほと力になるか?
●松永・筒井(反松永)
・大和(11225、ただし双方合わせて)
*寺社勢力は心情的にも筒井派。土豪も多くが筒井につく。
・遠征能力×(両派とも)
大和で両派が泥沼の抗争中。お互い支援を求めて織田や三好と手を組むことに。
元亀三年の時点では織田の支援を受けた筒井側に有利。松永は押されっぱなし。
●長島一向宗+国人
計20000?
遠征しないが尾張は目と鼻の先。ただし動きは鈍い。守備力は高い。
●石山本願寺+雑賀衆?
計23000?
遠征準備は謎だが、近江まで歩いて1日。 ただし動きは鈍い。守備力は鬼。本願寺自身は織田と直接
軍事衝突は行っていない(するのは後年)。信長との外交ルートあり。
※もともと本願寺と一揆は別ものであり、絶対的な命令権があるわけではない。各地の一揆はそれぞれ
の権益を守るために支配者に抵抗した。また、兵力には老幼婦女が多数含まれていると考えられる。
●北畠
・伊勢…30%(4253)
*大湊など、伊勢湾の海上交易に大きな影響力をもつ。かつては南伊勢五郡を有したが、織田へ離脱
するものが出る。
計?
・遠征能力×
織田による内部からの乗っ取り進行中。そのため勢力としては身動きとれない。隠居させられた北畠
具教は面従腹背。武田と接触をとっているが(根拠は不明)、実質どれほど動かせるかは不明(後年、
具教が討たれたときに北畠残党が挙兵するが、一族などの一部に留まる)。
ほとんど織田の一部とみなしてもいいとする意見あり(ただし、信雄が正式に跡目を継いで北畠軍が
織田の一環として行動するのは74年以降)。
●伊賀
六角に協力したり北畠についたり。基本的には中立。
その他の勢力 三好
三好一族の主だった頭(各国の支配率は不明、動員数は100%の場合)
畿内
・本家:三好義継 三人衆との関係から信長に従っていたが、義昭と共に敵対する
・三人衆:三好長逸、三好政康、石成友通 これも一枚岩ではない。義継や久秀と
抗争の為に行動をともにしていただけ。特に石成は一人信長についた時期もある。
・三好笑岩 基本的に、四国三好家にちかい。信長以前は本家と戦い続ける。
・三好政勝 管領細川家の家臣。長慶を親の仇と長年争い続ける。
・摂津(8900)
・河内(6050)
・和泉(3550)
*ただし、この全てを三好一族が抑えていたわけではなく、細川、畠山、池田、和田、荒木、伊丹、など
その他在地勢力が根を張り、反三好から織田につくものも多数いた。他に足利家につくものも多数いた。
総計18500-敵対勢力
・遠征能力×
反織田という形で立場は同じになったが、指揮が統一されたわけでもなく分裂状態のまま。
統一行動は難しいか。
四国
・阿波三好家:三好長治-篠原長房 基本的に、主筋になる細川家と争ったり講和したり。 畿内には
あまり関わらず。播磨方面で抗争があった模様?
・讃岐十河家:十河在保 阿波三好家と行動を共にす。
・淡路安宅家:安宅信康 四国三好家についていたが、1572年には義昭信長につく。
・阿波(4570)
・讃岐(3150)
・淡路(1550)
*安宅信康が織田についてしまったので、これは三好には加えられない。
離反は確実であるが織田に付いたとも言い切れない。
総計9270-安宅氏の勢力
・遠征能力×
お互いに争ったり結んだり。このころには篠原長房との確執が表面化しだす。73年4〜5月に長房が
討たれた後は抑えられていた豪族たちが反旗を翻すことになる。
四国の三好家関連は、後にほとんど信長に属することになる
おまけ
●足利将軍家
・山城…?
*北山城の国人が義昭に呼応し、明智の配下から離脱者が出たとの記録あり。また細川藤孝や石成友通
などの勢力もあり。細川・明智は織田勢力とみなしてもいい。和田池田伊丹などは義昭勢力。
総計不明
・遠征能力×(史実でも城に篭った)
あれほど立てるなと・・・・
需要があるんだからいいじゃまいか
もう上洛について語りあうだけではなくなってるし。
信玄って織田包囲網無しでは信長に勝てないんでしょ。
ザコに過ぎないね
単に信長が強すぎるだけだろ
全体として見るなら信玄はやっぱ強いだろ
織田包囲網の最大の立役者は
武田信玄じゃなくて、足利義昭だけどな。
というか、織田包囲網は、足利義昭の策謀だ。
彼は足利幕府最後の将軍だから、不当な評価のされ方だけど
かなりの策士だと思うよ。
南北朝時代の足利家が強かった時代に生まれていたら
かなりの名将として名を残したんじゃないのかな。
義昭評価でよくいわれるけど、そりゃ過大評価というかひいきのヒキ倒し。
実際に義昭がやったのは手紙をばら撒いてもともと信長と敵対していた連中、
信長に反感をもっていた連中に挙兵の名分を与えただけで、別段義昭の唆躁で
信長に敵対したなんて勢力はいない。さらにその勢力もめいめい勝手に戦って
いただけで組織だっていたわけでもなければ、連合軍として同盟を組んでいた
わけですらないのだから。
まだやんのかよwwwwwwwwww
どうせループするだけだろ
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 11:38:06 ID:fKrbjFlh
健康な信玄が25000で、三河尾張国境を越えました。
さあどうなる?
徳川と織田に挟み撃ちされて終了
アグネスタキオンの引退と一緒で、いいときに信玄死んだじゃん
織田にやられてたらここまで持ち上げられることも無かった。
今川義元のようなやられキャラだったな
NHK大河ドラマ『風林火山』
千葉真一=板垣信方
戦国自衛隊か影の軍団みたいなwww
死んだ勝頼は影武者で本能寺を計画したのが勝頼だったとしたら。
そして安土を本拠とする武田・京を支配する明智の連合が…。
羽柴、柴田とどう戦うか!
典厩信繁がいない武田家は信玄の独檀場でしかないので、
信玄がいなくなったらもうアウト。
どう考えても上洛は難しい。
どうでもいいけど信繁と書いてしまうなら典厩って書いた意味なくなるよね
>>20 殲滅されるか
三増峠のように上手く脱出するかもしれない
けど大勢はそのまま織田有利なんじゃ
>>28 殲滅って、、織田軍はどれだけ動員できると思ってるの?
敵地で前後挟撃される困難さを理解してるのか?
元亀四年/天正元年(1573)年
○織田包囲網消滅 ダイジェスト
2月23日 織田信長、遠三周辺の件で武田信玄は2月17日
に野田表を撤収したことを通達。──『細川家文書』
2月26日 浅井長政、某へ足利義昭の屋敷落成、足利義昭
御内書が武田信玄に下されたこと、東美濃へ武田信玄が出
撃し加治田城・つぼ城を攻略したこと、朝倉義景も間もなく
出陣する旨を通知。──『小島明氏氏所蔵文書』
○足利義昭の苛立ちつのる
2月26日 柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆、
足利義昭与党の籠もる近江国石山城を攻略、破却す。
──『信長公記』
3月6日 足利義昭、織田信長へ人質を返還し、戦の
ために、二条城の堀を掘る。──『兼見卿記』
3月25日 織田信長、上洛のために美濃国岐阜城を
出陣。──『信長公記』
○将軍義昭挙兵す
4月2日 織田信長、足利義昭の挙兵に対して洛外を悉く
放火。──『京都市小石暢太郎氏所蔵文書』
4月3日 織田信長、洛外の堂塔寺庵を除外して放火す。
──『信長公記』
4月3日 織田信長、山城国賀茂から嵯峨に至る在所
を悉く焼き払う。──『兼見卿記』
4月4日 織田信長、足利義昭の挙兵に対して上京を
悉く放火。──『京都市小石暢太郎氏所蔵文書』
4月5日 正親町天皇、織田信長へ二条晴良・三条西
実枝・庭田重保を勅使として派遣、足利義昭との和議
を講じさせる。──『兼見卿記』
4月5日 柴田勝家、山城国天龍寺惣寺中へ、織田信長
の厳命により焼き打ち免除を安堵。──『天龍寺文書』
○信長、家康へ信玄の備え怠らぬよう通達す
4月6日 織田信長、上洛にあたり小栗大六を派遣してきた
徳川家康へ足利義昭の挙兵については織田信長の身に
覚えの無いことであり、「君臣御間」ということで従来の忠節
が無駄としないために種々の道理を講じたが足利義昭の
承諾が得られなかったため、去る4月2日・3日の両日に
洛外を、4日には上京を悉く焼き払ったので足利義昭と
講和が成立したことを通達。
また徳川家康の近江国横山周辺への出陣は無用であること、
遠江・三河国境の武田信玄動向の件は油断無きように備え
ることを通知。──『京都市小石暢太郎氏所蔵文書』
4月7日 織田信広・佐久間信盛・細川藤孝、和議に際し
織田信長名代として幕府御所を訪問し、足利義昭と会見。
──『兼見卿記』『信長公記』
4月8日 織田信長、美濃国岐阜城へ向けて京都を発す。
──『兼見卿記』
4月11日 織田信長、近江国百済寺を灰燼にし、美
濃国岐阜城に帰還。──『信長公記』
○信玄没す
4月12日 武田信玄、信濃国駒場に於いて病没。
──『兼見卿記』『信長公記』『本願寺文書』
○義昭足掻くも徒労に帰す
7月2日 足利義昭、京都を「御退座」。
──『本願寺文書』
7月3日 足利義昭、京都二条城を退き山城国槙島城
へ移る。──『兼見卿記』
7月7日 織田信長、入洛して京都二条妙覚寺に布陣。
二条城を攻囲する。──『信長公記』
7月12日 三淵藤英、柴田勝家の勧降により京都二条
城を退城し、伏見城へ移る。──『兼見卿記』
36 :
ダイジェスト野郎は中立なのだ:2006/11/26(日) 23:04:48 ID:EbHC4Tnc
○信長、信玄の病死を伝え、義昭を毛利領へ追放す。
7月13日 織田信長、毛利輝元へ武田信玄は既に病死しており、
朝倉義景は大した行動は出来そうに無いこと、三好氏以下は
取るに足らず、足利義昭が自発的に軍事行動に及ぶ様子は
おそらく無いこと、足利義昭が「天下被棄置」てしまったので織田
信長が上洛して鎮定している状況であること、足利将軍家の件は
「諸事遂議定可随其」としたので毛利輝元へ相も変わらずの
入魂を希望すること、毛利氏分国中に別儀が無いことは結構
であることを通知。──『太田荘之進氏所蔵文書』
>>29 3万弱じゃまいか?
でも尾張まできたら危機を感じてもっと動員するかも。
徳川軍も6千程度はやってくるだろうが。
つうか敵領のど真ん中で孤立した上狭撃されたら確実に殲滅されると思われ。
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 02:32:44 ID:6n9w2IB/
戦国関連の書籍でも、武田は信玄死なずとも簡単に上洛できる状況ではないと言われてるしね
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 04:49:16 ID:B0/kdvlu
>>37 マジレスしていい?
殲滅=損耗10割=皆殺し
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 10:38:02 ID:s5uuSOzj
マジレスって言うか、あげ足取りだな。
4月某日
尾張の平野にて、武田軍2万5千vs織田軍3万で激突
訓練度:武田95p、織田95p、、ほぼ互角
士気:武田80p、織田98p、、、祖国防衛の織田が上
疲労度:武田70p、織田30p
装備(鉄砲):武田300p、織田3000p
民衆の協力度:武田10p、織田100p
地の利、城の利用など:武田10p、織田80p
主将の能力:武田80p、織田95p
部将の能力:武田60p、織田80p
激闘5時間
武田軍1万5千で敗走
織田軍2万5千で追撃
三河某所にて、徳川軍5千待ち伏せ
激闘3時間
武田軍5千で敗走
追撃する織徳軍2万5千
4月某日
武田軍300、甲府に帰還
と、思ったら、上杉軍1万が待っていた・・・
揚げ足取りというか言葉遊びというか
軍としては敵中で雲散霧消してしまえば殲滅と大差ないし
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 17:32:17 ID:B0/kdvlu
日本語としても、軍事用語としても誤ってるのを指摘しただけ
多分、誰かに指摘されるまで使い続けるだろうからな
真面目に書いたレスであればある程説得力に欠ける
適当な書き捨てレスだったらヌルーしたが
軍事用語だと
部隊の2割の死亡か死傷で壊滅じゃなかった?
すると歴史小説なんかで使われる殲滅戦もダウトなのか
言葉狩りジャマイカ
単に43の殲滅の使い方が日本語としても軍事用語としても
間違ってるだけでしょ
それよりもう少し建設的な話をしよう
といっても話題が尽きているかもしれんが
>>34 >4月6日
信玄が野田城を包囲しているころだと思うけど、
家康は、
>近江国横山周辺への出陣
するつもりだったのかなー?
信長は義昭の挙兵に対応するために上洛したみたいだけど、
尾張方面への危機感、ないみたいだねー。
>>47 たしかに、信長と家康は
遠江・三河国境の武田信玄はそのままにして、
家康が近江へ出陣するかどうかを相談しているようですね。
信長の信玄への危機感の薄さと、
家康の信長への気を使ってるのが感じれます。
前年飛騨に参陣した遠山から信玄の病状を聞いて死んだと確信してたとか?
そう簡単に徳川領を侵食できないとふんだんじゃまいか。
実際信玄の侵攻速度は遅かったわけだし。
信玄が浅井なんかに今度岐阜に出陣する積りだよ
って言ってるのと同様
家康の近江出陣も社交辞令みたいなものじゃないか
>>48 ていうか信長は言われるほど危機感持ってなかったらしい。
来たら困るなぁ程度だった。
むしろ信玄の方が直接対決して負けたらどうしようと上洛を渋っていた感がある。
>>52 信長がそれほど危機的状況じゃないというのは理解できるし
テンプレ見てもそのように思えるけど
>ていうか信長は言われるほど危機感持ってなかったらしい。
>来たら困るなぁ程度だった。
>むしろ信玄の方が直接対決して負けたらどうしようと上洛を渋っていた感がある。
これに関しては何かソースとか根拠はあるの?
想像だろう。しかし両者の国力差を考えると仮にそんな感想を持ってたとしても納得できる範囲ではある
>>47 信濃美濃三河国境付近から信濃に入ったころだと思う。
野田城は2月に落としていると思う。
>>54 やっぱしそうか?
信長包囲網全勢力合わせてやっとこさ互角に戦える状態だからな。
それぞれの勢力は「信長なんかとむやみに戦って消耗したら背後からやられる可能性が高い、
それなら牽制だけして戦いは本願寺とかに任せるのが得策」
と考えちゃうのも無理はない
>>55 そうだね。勘違いしてた。
信玄は2月頃から撤退を始めている。
そして、もちろん信長はそれを知っていた。
58 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/02(土) 10:09:46 ID:j1NDmXj9
まぁ、反信長側も呑気といえば呑気
本願寺は越中の一揆を助けるために信濃へ兵を出してくれって西進中の信玄にお願いしてるし
越中の一揆は謙信への餌のために信玄が扇動した捨て石というのが通説なんだけどね
当時の情報伝達速度からくるタイムラグも考慮にいれないといけないかな?
59 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/02(土) 23:53:43 ID:5Xumw7Tb
信長の勢力拡大のスピードは凄まじかったからこのまま放置しておけば余計に立場が不利になる。
信玄としては玉砕覚悟で織田とぶつかるつもりだったのでは。
バカのループは恐い
ループが怖いのにこのスレに来るなんて、
怖いもの見たさってやつ?
中公新書の「信玄の戦略」で原昌胤が虎胤の子ということになってるんだが、そういう説があるの?
>>58 まあ信玄にすれば上洛という大義名分をもった南下政策でもあるわけで。
畿内政権ってのは案外脆いんだよな、四方に敵を抱える恐れが大きいから。
実は信玄上洛、信長との主力決戦なんて信玄自身考えていたかどうか怪しい。
今回の作戦は謙信が動けない状態で短期に東海地方に今後の勢力拡大の橋頭堡を
築きたかっただけかもしれない。東濃や尾張国境を武田が実効支配すれば
信長も主力を率いた各個撃破が史実どおりのスピードでは進まないだろうからねえ。
問題は案外公方―朝廷ラインかな。義昭の行動だけは首尾一貫していないから読めん。
この時期の信長の本貫地は尾張美濃寄りだから畿内政権とはいえないだろう
ってか信長は後年の安土移動の際でさえ距離をとっていたよ。大坂城築城と本拠地移転が信長の案を秀吉が使ったんだというのは俗説だし
畿内政権ってのは確かに言い過ぎかもしれなかったな。
であるなら濃尾に本貫地を置く信長政権にとってやはり東濃や尾張国境に
信玄が実効支配できる橋頭堡を築かれれば厄介にならんかね。
実際武田が信玄没後長篠合戦まで徳川と三河戦線の一進一退を繰り返したから
まあ信長政権にとっては大した影響はなく反信長勢力を各個撃破できたけど
それでも75年までは東濃に築かれた武田勢は木曽路の最前線として機能していたわけでしょう。
三河にも同じようにより強力な前線を構築できるまで信玄が生きていたら信長の武田攻略は
長引いたと思うがなあ。
さすがに信長が各個撃破のペースが落ちこそすれ失敗したとは思えないし
同時に信玄があのまま上洛コースを邁進して濃尾平野で主力決戦したとも思えない。
信玄の「上洛」の目的は後背の安全をようやく確保できた上での織田・徳川領侵略でしょう、というのが
自分の考え。
後背の安全というなら謙信を越中や越後揚北の撹乱で牽制したのは信玄いつもの策だが
後北条の外交や対武田戦線があそこまで機能しなかったのは不可思議だわ。
まあその帰結が氏政の再同盟だろうけど北条の武蔵・相模・駿東の防衛ラインってあそこまで
脆いもんかね。まあ上杉相手の季節限定戦争とは勝手が違うんだろうけど余りに…
国境の小豪族を篭絡して懐柔することと大勢力同士の激突との違いといえばその通りだが。
66 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/07(木) 15:55:47 ID:PhEtHozg
信長は5年ほどかけて地道に斎藤氏を撃破した
時間を浪費したように見えてこれが信長の短期間の雄飛の原動力となった。美濃衆の戦力もさることながら、本拠地周辺に機動的な兵力を持った敵対大名が消滅したから
信玄は何度も謙信の部下を離反させてるんだから、信長のようにしぶとく越後を屈服させるための攻勢を続ければ、障害上杉の動静に戦力を注がなきゃならない非効率な戦略から脱却できたのでは?
できたならやってるだろ
>>66 つーかそういう書き込み見るたびに思うんだが5年や10年で50万石の斎藤氏を滅ぼしたことって相当凄いと思う
早すぎだろ 信玄とか一生かけて80万石程度だぞ それを家督次いで20年足らずで・・
信玄の場合信濃併呑したところで有力勢力のひとつにしかならないからな
勢力拡大は織田より遥かに難しい
信長だって美濃併呑した時点では有力勢力のひとつだ。
勢力拡大だって、信長以前に濃尾や畿内の統一支配を成し遂げたものがいないことを
考えれば、信長だからこそできたといえるものだろ?
信長の相手は分裂した弱小相手だからというのなら、信玄が相手にした信濃の豪族は?
となる。
美濃併合時に百万石以上を領する大名が全国でもどれだけいたというのか
信長の美濃併合以降の西の敵対国との国力比と信玄の信濃攻略時のそれとは全く違う
信玄は信濃納めたところで東西南は同盟国で自分以上若しくは同等の石高、北も同等以上の国力
謀反起こしまくりの家臣団に悩まされ、一揆衆の撃破すらできなかった謙信程度に対処できなかったのが信玄の器の限界
半国の守護代の家老の地位から比類ない勢力まで成長したことが凄いのに、
比類ない勢力だから勝手当たり前って言うのは、突っ込みどころがおかしいだろう。
信長と信玄が親の後を継いだ段階で石高を比べれば、
おそらく大して変わらないはずなんだよ、信玄は甲斐一国、
対して信長は尾張半分以下だが、尾張の総石高は甲斐の倍以上あるので。
だから両者の勢力拡大を比べる上では、まず信玄の信濃侵攻と、
信長の尾張統一戦を比較すべきで、それぞれに要した期間は両者ともあまり変わらない。
問題はその後で、信長はその後斉藤家を比較的短期間に併合したが、
信玄はとうとう上杉を滅ぼせなかった。この段階で両者に大きな差が出来てしまった。
この点には異論はないが、両者の地理的な条件の違いや、
義龍が若死にしたって事情も考慮しなければならないから、
安易な優劣論にはならないと思う。
75 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/09(土) 16:26:54 ID:QPc27xBZ
大してかわらないという根拠がまず曖昧
信長は散々過去スレで出たように父の遺領を丸ごと継がず、弟に分割したりしていた
それでも甲斐22万石と同等ならば、信長の動員兵力は最初から千単位も可能だったはずだ
>>74 家督相続の時点では、信長の方が分が悪い。
独自の動員兵力は1000を切っていた。
尾張国内戦では、兵力劣勢の戦いが多いよ。
大きな要因は信玄の戦闘の下手さにある、同等の勢力相手には負けるか引き分けるかしか
してない。
>>75-76 確かにそうかもね、大して変わらないはずだと言ったのは早計だった。
79 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/10(日) 11:00:01 ID:vQsJD2z5
>>77 それでも百万石の勢力圏を作り上げたのが信玄の本当の凄さ。本質は民政家であり戦略家だから流布してる虚像と大分違うね
川中島でも不用意に兵力を分散させて危機に陥った話が本当なら、やっぱり戦術家として問題あり。もっとも相手方の謙信も戦う前に不用意に兵力を分散させて結局負けてるからどっこいどっこいだが(本当は上杉軍のほうが一千ほど数が多かったが後方に5千残したため劣勢に)
あと川中島で義信がポカしたといわれて、信玄贔屓だと後の廃嫡の正当化の理由の一つになってるが。上杉方から見ると義信は不利な状況から謙信の本陣を脅かすほど果敢に反撃した猛将と見えていた(謙信も後に述懐しているとか)
若い頃の信玄は信長より短気だったのではなかろうか?
志賀攻めでも川中島でも信長だったら違う面を見せただろうと思う。
信長は戦闘よりも、むしろ調略を基本戦術としていた
また提携や同盟を重んじ、できるだけ無駄な戦は避けていた。
そのための徳川との同盟であり、浅井や斉藤との婚姻政策だった。
また戦争で下したとはいえ、神戸や北畠にも子供を送り込み
相手の家名を残して実質的に乗っ取る形で地盤を固めた。
もし、信長だったら早期から謙信の天才を見抜き忍耐して婚姻政策や
贈り物外交をした事は想像に難くない。
また、北信越の豪族・武将達の調略を基本戦略とし
「天下布武」か何か全武将を一つにまとめるでかいスローガンを掲げ
戦力を拡散せずに甲斐・信濃の戦力を一点集中主義で美濃に向かわせるか
関東制圧に向かわせるか軸のぶれない戦略を敷いたであろう。
てきとうに読んだだけだけど二束三文の小説にでてきそうな発想だな
信長-家康同盟と比べて、信玄-謙信同盟が出来てれば前者の比じゃない。
凄い勢いで越中、越前、信濃、奥羽まで勢力圏が広まってても不思議じゃないはず。
>>82 その場合は北条・今川同盟と抗争する事になるだけ、
地理的に遠い上杉との連携は難しいし、
甲斐は北条・今川に挟まれているから、
多分武田家は滅ぼされた可能性が高いと思うよ。
信玄・謙信同盟成立となると、謙信を頼った信濃豪族達が完全に邪魔者になるな
そもそも対立も協調もしてなかった武田・長尾が抗争始めたのは北信濃支配圏を巡る争いが原因だし
謙信が退くにしろ信玄が譲歩するにしろ、火種は残りそうだ
>>82 あいつらじゃ無理、北条か今川にやられるのがオチだろう。
どっちかが劣勢になったところで同盟破棄されて滅びる、たぶん武田が
>>82 上杉は敵にすれば季節限定で面倒だが味方にすれば季節限定でしか役に立たない。
まあ無理して謙信本陣と衝突したくないんだから越相同盟のときの武田の行動のように
適当に敵勢力に翻弄されて終りだろう。あてにならんよ軍神様は。
>>77 >>79も指摘しているけど信玄の戦略は甲斐を中心とした勢力の拡大。
継続した勢力の拡大が戦略目標なら民力=兵力の損耗を避けるのは当然で
同等の勢力と主力部隊で激突する方が浅薄な戦国大名だろう。乱戦時の戦術面に劣っても
仕方ないしそういう事態で戦いに挑まないのが慎重な信玄らしい戦いだと思うが。
信濃北進、川中島(第四次決戦は最近異論多いが)、西上野、駿河南進も幾度か失敗しても
結局武田の掌中に入っているのは事実、その間に拙速な合戦があったのも事実。
まあ氏康や信長みたいに劣勢における派手な合戦がないっていうのは裏返しに言えば
そういう事態に追い込まれない信虎期の甲斐一国の掌握、名門としての大義名分てのが大きいのだろう。
個々の戦術面に優れていたというのは近世の築いた「虚像」だろうね。
>>86 いや、信玄にも、
塩尻峠の戦い、北条領劫略、三増峠の戦い
っていう神速の機動力を見せた華々しい戦歴があるよ
でも三増峠はかなり危なかったんじゃないの?
最後脱出できたからよかったものの、あの状況は全滅しててもおかしくないよ。
浅利は死んでるし、計画が甘すぎたんじゃないか?
ていうか三増峠って意味の無い撤退戦だし、結局のところ小田原にまで行って何も出来ずに帰ったという話。
これだから甲陽軍艦に毒された奴は
本拠地を攻めることで北条の目をそっちに向け、
駿河領有を確保したという点で非常に有益な軍事行動だったと思うけど。
信玄が駿河を領有できたことってあったっけ
1568年から死ぬまで領有してるじゃん
93 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/11(月) 05:43:07 ID:1zKAcDHQ
上杉って北条と結んでても何もやってないじゃん
何が義だよw
お前が何だよw
ここでは誰も義の話なんかしてないだろ。
武田が駿河獲れたのは氏康が体調崩して軍を指揮できなくなったからじゃないの?
三増峠後に北条の国力が下がった訳じゃないし、結局運がよかっただけ
>>90 別に三増峠のあとに、駿河の北条軍が引揚げて駿河が手薄になったなんて記録はないのだが。
>>95 氏康がいなくても戦果は戦果。
それにその運を生かせたことも評価できる。
駿河確保の戦略的にも成功した作戦だと思う。
>>87 ただ、別に北条方が打撃を受けた様子はないので
華々しいと言えるかは争う余地があるだろうな。
普通に三方が原を上げておけば良かったのではないかな。
それと北条領劫略って何のことかよく分からないんだけど何?
>>96 1569年の10月に三増峠の戦い、
同じ年の11月に駿河に再侵攻、翌年1月にはほぼ占領って時系列で、
関係がないってことはないでしょう。
本拠地への直接攻撃と野戦での勝利により、
北条が防御構想の練り直しをしているうちに、
まんまと駿河占領という戦略目標を達成したというべきかと。
>>95 ちなみに、北条氏康が死亡したのは1571年10月で、
病を得たのもその年になってからだったはず。
いや、1569年の時点でかなり深刻な病状だったよ。一時は書状も書けなくなったほど。
その後、やや持ちなおすが息子の区別すら難しい有様だった。
んで、最後に一気に重体になったのが1571年。
氏康の健康不安に助けられたわけか
信玄は幸運だったな
しかし、謙信って敵に回すと厄介だが味方になると頼りにならない……
まるでにちゃんねらーだな
103 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/11(月) 15:29:41 ID:3PS732lB
北条とはその後二年くらい駿河で戦っています。
完全に占領したのは氏康死後です。富士川以降を手に入れたのは。
というか、駿河の城奪われてなかったか。三増峠の後。
>>103 それはそうだが、少なくとも今川館は1569年の12月に落しているでしょう。
同じ年の4月には北条軍に阻まれ駿河からすごすご撤退しているのに、
9月に北条領に攻め込み、10月に小田原城包囲して帰途に三増峠の戦い、
そして11月に駿河に再出兵して12月に今川館攻略。
この流れで北条領への侵攻が陽動としての用を成していないって事はないと思うが?
その時北条家の実質的指揮を取っていたのが氏康であろうと氏政であろうと、
まともに駿河でやり合って奪えなかったので、
根拠地攻撃という陽動をして、その隙に駿河の主要部を奪取という流れに変わりはないのでは。
>>104 だから、北条領への侵攻の後に、駿河の北条軍に異動がなければ「陽動の役を果した」とは言えないのですよ。
その記録はあるの?という質問です。
三増峠をどうみるかにもよりますが、結果からすれば侵攻してきた武田軍を撃退した、とも言えるわけです。
その結果北条で人事異動が生じて駿河の北条軍が減ったというのならともかく。逆に十月に三増峠、十一月
駿河出兵の流れをみると、仮に北条に駿河の軍を異動するつもりがあったとしても間に合わないような。
104が言いたいのは、駿河防衛軍のことではなく
相模からの後詰が減るからやり易くなるということでは?
>>105 まあ、
>>106さんのとおり。
直接駿河から兵力を削減しなくとも本拠地を別方向から攻めれれれば、
自然と目はそちらに向くでしょう。
しかも主力軍ではないとしても野戦で敗れたのだから、
ごく一時的なものであれ戦力や戦意の低下は避けられない、
迅速に駿河方面へ救援を向けるのは難しくなると。
逆に本拠地を攻められているのに、駿河方面への警戒態勢が全く変わらないというの変だし、
まして警戒態勢が変わらなかったとすれば、にもかかわらず数ヶ月前には撃退できた武田軍に、
今度は今川館まで落されてしまったというのもあまりにも不自然だ。
結局三増峠の戦いと、その二ヵ月後の今川館攻略が無関係ってことはないと思うよ。
相模侵攻は陽動より牽制が適切。それと同時に今川勢への示威も目的だろう。
今川も相模侵攻の後、このタイミングで駿河侵攻をするとは思わなかったのだろう。
不意をつき調略した今川の武将の手引きもあり迅速に制圧、さしたる損害を受けずに駿河を手に入れた。
その背景には上杉家臣への調略や越中の一向宗を利用して、謙信を越後に釘付けに成功させた戦略がある。
109 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/13(水) 07:03:58 ID:5MYhvrni
>>1まあああああああああああだこんなスレが立ってたの????
世間で 信長>>>>信玄なんて言う奴いないよ、いたら笑われるよ
見事な兵卒の揃え方や様々な戦の仕方、外交や工作などを頻繁に利用する信玄
に信長がどうやって勝てるの??1572年の時点では鉄砲数千艇も揃えられない
んだよ、どうやって勝てるの??
信玄が上洛遅すぎた理由は上杉や北条などの警戒だったが、それだけ列強が周
りに多かったってこと、信長の周りってどんなのがいたの?ひたすら弱敵ばか
り、おまけに自らドジって信長包囲網??小競り合いで武田軍にボロボロにされ
てるよねえアハハハ!!
このスレの釣りレベルも落ちたものだ。
112 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/13(水) 19:58:18 ID:ZAV8yKAE
>>109 それじゃあ、たかが2万5千で、どうやって信長を撃破できるか、論証してみろよ
スルーしとけば良いのに。
114 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/14(木) 00:19:05 ID:wTUkc2W1
>>112 家宝買い漁る→家臣の忠誠と能力の底上げ
騎馬Sで騎突→怖いのは謙信だけ
烈風伝は良いよなぁw
無理に同盟破棄して今川に攻め込むよりも、当初の戦略を貫徹して
上杉を滅ぼすべきだったな。北条との不毛な戦いも無かったし、
嫡子の粛清も無かったし、徳川の台頭も無かった。
武田の対上杉の調略はかなり進んでいたから、集中戦略をとれば
あと4〜5年で上杉を滅ぼせた可能性はある。
越中は飛騨の江間氏を侵入させて5万石ばかり掠めとったし、
他の豪族にも一通り調略がかかってる。元亀三年の西上のときは
一斉に日が吹いて上杉の越中支配は壊滅状態。
上野も西側をジワジワ掠め取って、そのまま北条との同盟が健在なら
北条高広を完全に駆逐するのも可能だったろう。
越中・上野の手足をぶった切って締め上げていけば、そのうち越後でも
謙信の権力基盤が瓦解する。上杉を始末してから、天正三年ごろから
木曽路と日本海ルートから西進しても、十分に信長に対抗できたと思うね。
折角謙信を謀略や外交で奔走させても、結局信玄がやったのはその隙に土地を掠め取る程度で打倒戦略ではなかったからなぁ
やっぱり越後領有に魅力が無かったからなんだろうか?
>>116 上杉家臣の内応なんて何度も何度も成功しているのに、
各局ここ一番の合戦で勝てずに終わっているでしょう。
その後続けていても同じことだったと思うよ。
信玄もそう思ったからこそ、方針を転換したのだろうし。
謙信が莫大な遺産を残していたというし越後は魅力あったと思う。
加賀には本願寺という強力な味方もいるから戦略的価値もある。
ただ、駿河も魅力的ではあるし、より落としやすいのは駿河。
少しずつ土地を掠め取っていくようなやりかたでも
塵も積もれば山となり、やがて上杉打倒につながる。
漸進的ではあるがそれが信玄の得意な打倒戦略だと思う。
川中島を通じて、同程度の勢力である上杉に合戦で勝利し
急進的に勢力を拡大するのは困難だと踏んだんだろう。
しかしそのために北条と決裂してしまったのは痛かったなあ。
あそこで躊躇せず武田と袂を別った北条がすごいというべきか。
北条は武田とともに駿河に侵攻する手もあったのに。
まあ武田が駿河を攻めたのはそう間違いではなかったと思う。
おっとこんなスレあったんだ。
流れを切って申し訳ないが山梨県人としての感想。(ただし歴史認識は素人レベル)
上洛は「あの瞬間(朝倉が引き上げる前)のみ運がよければ」可能だったかもくらいかな。
ちょうど来年大河が風林火山で本がいろいろでていて読んでみているが
啄木鳥の戦法はウソ(霧中の遭遇戦?)
武田「騎馬隊」はウソ
長篠の鉄砲3000丁3段撃ちはウソ
山本勘助は実在したとしても軍師ではない
数冊買って読んだがこういうのが多いけど実際はどうなのかな。
買った本の中では洋泉社の真説・川中島合戦というのが結構面白い。
本の中でも触れているが実際に川中島合戦(4次)の詳しい記録ってほとんどないんだね。
川中島から越後の海まで直線でたった50キロ。こいつは魅力だったろうね。
>>120 >武田「騎馬隊」はウソ
武田軍団は、騎兵だけで構成されていたわけじゃないが、
馬上の巧者が多かったことは確かだから、騎馬軍団の範疇に入ると思うよ
ましてや隊程度の規模なら、存在したことは間違いない
122 :
120:2006/12/15(金) 00:57:35 ID:c6u3etE/
>>121 レスどうもです。
山梨県人の自分がいうのもなんですが一応、読んだ本では
「隊」と銘打つからには騎馬武者の集団を意識させるが
当時、騎馬武者(騎馬に乗った侍)はいくらでもいた。
太向義明氏によると武田騎馬隊を打ち出す主張はいくつもあるが抽象的なものばかりで
具体的な根拠を示したものはほとんどないそうです。
一方、戦国時代、戦国大名、戦国武将を扱った書物では騎馬隊に触れているものはないそうです。
武田騎馬隊肯定論者が取り上げるのは長篠の合戦のみだそうです。
例外は川中島合戦図屏風(岩国美術館蔵)ですがこの屏風は永禄4年の合戦の状況を描いたもので
飯富昌景の部隊が描かれていますがその箇所には騎馬兵などまったくなくあるのは馬丁の付いた
空馬だけの列だけだそうです。それでは乗り手はというととっくに下馬して前方に進んで待機しているそうです。
三方ヶ原も騎馬隊で蹂躙したようなものではなく服部半蔵の覚書に当初は双方とも下馬して戦い
武田騎馬武者が出て行ったのは徳川が乱れて追撃戦にはいってからのようです。
とまあ、本の受け売りですが本では騎馬は戦闘力ではなく馬は輸送力と追撃と退却に有効だったと
いいたいようです。
後は武田家武将の名前が昔と変わっているのに驚きました。
秋山信友→秋山虎繁
高坂昌信→香坂(春日)虎綱
内藤昌豊→内藤昌秀
とか地元なのにねえ(涙)これって正式に認知されているのかな?
>>121 そんな事言ったなら織田だって北条だって上杉だって、
みんな騎馬軍団になってしまう。
基本的に騎兵のみの編成を持たずに騎馬軍団の名乗るのは詐称ってものだよ。
まだ騎馬軍団がいたなんて遺物がいたんだな
125 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/15(金) 08:19:39 ID:p0BN+U42
つうか謙信の遺産は家臣や領民が貧しいのをいいことに高利貸しした結果じゃないの?
謙信の財力が戦略に役立った事例なんてあるの?誰かをカネで買収したとか
謙信は、越後の石高に対して多い兵力を動員してるんじゃないか?
財力のお陰かもね。
騎馬軍団と呼べないっていうのはちょっとなぁ
ただ、騎馬隊がいないっぽいってだけでしょ。
なんらかの根拠はあったんだと思うよ。
てか、過去スレで解決してなかったっけ?
いや、過去スレを問題にするのなら騎馬の比率はむしろ上杉や北条のほうが高いぞ、とか
甲陽軍鑑でさえ騎馬突撃を否定して下馬戦闘するってかかれているぞとか
否定論ばっかじゃなかったか?
いや、騎馬突撃をしないからといって、騎馬軍団ではないとはいえないし
騎馬突撃が可能かどうかについても、サラブレットを使った実験では話にならないし。
暴れ馬だったから、突撃は無理、というのはわからないでもないが
それほどの暴れ馬なら、鎧武者を乗せるだけの馬力はあるし
兵器としてはかなりの脅威になるので、無いとは言い切れない。
追撃の時に、騎馬武者が自然と突出して
あたかも騎馬突撃のように見えた可能性はある。
追われる側としては、これだけでも相当な恐怖だろう。
>本では騎馬は戦闘力ではなく馬は輸送力と追撃と退却に有効だったと
この辺がいいところだとは思うけどね。
特に、山地は部隊の移動が遅いのが普通なのに、それなりのスピードで来られたら
どれほど恐怖を感じるか。
移動速度の遅いはずの小荷駄隊が速くなるだけでも、とんでもない脅威になる。
あくまで、黒澤明的な騎馬軍団が否定されたに過ぎないんだよ。
〜とは言い切れない。
〜の可能性はある。
某新聞社の社説みたいだな
暴れ馬ならなおさら槍持った足軽の中に突っ込ませて、暴れられたら落馬して首とられるぞ
追撃にしても何十キロもある鎧着た武者の乗ったポニーがマトモなスピード出るわけ無い
ちゃんと整備されてない石ころだらけの道を全力疾走でもしようもんならポキポキ馬の脚が折れる
しかも騎馬武者ともなれば、その首討ち取れば相当のご褒美がでるぐらいの身分のもの
雑兵に狙い撃ちされる
それから物資輸送隊の速度が上がってもそれ自体に脅威は無い
それに伴って軍全体の速度があがることに意味があるわけで、戦場ではもはや輸送部隊速度うpの恩恵はもうない
そして荷駄部隊が騎馬軍団とやらの任務なら「武田騎馬軍団」じゃなくて「武田輸送軍団」だな
騎馬軍団で盛り上がっているところ越後侵攻問題に戻して悪いが…
いわゆる「北進」か「南進」かなんて議論はやっぱり信玄の限界の一部になってしまうんだよな。
まず信玄中期までの戦略がいわゆる「北進」であったことは否定できないだろう。
一、信虎から家督相続時点で甲斐は完全支配(河内・郡内も服属)。
二、諏訪盆地、佐久盆地への進出は信虎時代から始まっておりかつ甲府との距離が近く勢力も弱い
三、諏訪、佐久を拠点とすれば松本、伊那、上田、さらに善光寺平への進出も容易。これらは
甲府からの実質的な距離も近い。いわば甲府を中心とした同心円的支配。
四、木曾は松本の、西上野は佐久盆地の重要な後背地。まあ西上野攻略は手間取った上に
北条の北武蔵進出に対する上杉牽制の役目も大きかったから単なる「北進」とは言えないかも知れんが。
五、そもそも「北進」の目標は日本海にあったのか?現実に謙信が、またその父や関東管領顕定がそうで
あったように越後は「ゆるやかな統一と分裂」にあり支配困難な大国。更に冬季は国境が封鎖されるために
迅速な軍事行動が不可能で「甲府を拠点とする限り」支配は不可能である。
六、いわゆる「三国同盟」のうち特に義元−信虎・信玄ラインは緊密な関係。一方、信虎−氏綱ラインは
信虎と扇谷上杉との関係から険悪。もっとも信玄−氏康時代からは好転してかなり相互に戦略的に
協力している(西上野攻略、越中一揆煽動、松山合戦など。まあ利害が一致していたわけだが)。
七、信玄の領国支配において「甲府を拠点とする」限り駿河は強力かつ野心的でなく友好的な同盟者が
支配していることが望ましい。それがなければ甲斐本国や伊那盆地の国境は不安である。
八、ということで三河に脅かされ家臣団を掌握しきれていなく、混乱した駿河を放置することは危険である。
氏康−氏真ラインも氏綱−義元ラインが簡単に破綻したように駿相関係が安泰とは言えない。特に河東は
氏康時代に喪失した「小田原を拠点とした」北条にとっての重要な後背地。
というわけで「北進」から「南進」への戦略転換は前者の行き詰まりではなく甲斐や分国の安全保障の側面が
大きいと思うが如何?偶然「北進」が信越国境で滞った時期と駿河侵攻時期が重なっただけで実際駿河領有は
東に北条という大勢力を抱える以上、氏真がまともでない形で相続したのだから止むを得ないことだと思う。
北条に野心なしか?と言われれば氏直を庇護した氏真の養子にしたりと結構えげつないことしているからなあ。
その意味では氏真との侵攻前の敵対や駿河侵攻と北条手切れも仕方ない出来事だった。
万単位の軍で考えるからおかしなことになるんじゃないの?
数百人規模の備ええに十数人の騎馬隊で突撃かける戦の話が
つたわって、万単位の軍になったときもその印象が残ってたって
話じゃないの?
>〜とは言い切れない。
>〜の可能性はある。
>某新聞社の社説みたいだな
そっちはどうなんだ?
否定できる絶対的な根拠があるのか?
根拠が無いのに断定してるだけじゃないか。
>それに伴って軍全体の速度があがることに意味があるわけで、戦場ではもはや輸送部隊速度うpの恩恵はもうない
部隊の中で移動が遅いは、小荷駄隊ではないか?
山岳部において、小荷駄隊が部隊全体のスピードを落としていることは無いのか?
小荷駄だけはぐれさせるわけにはいかないんだから。
部隊全体の機動力が上がれば、それだけ布陣するスピードが上がる。
まだ布陣していまい、と思うような時に
すでに敵が布陣していたらどうだ?
騎馬武者達がすでに陣取っていたらどうだ?
>暴れ馬ならなおさら槍持った足軽の中に突っ込ませて、暴れられたら落馬して首とられるぞ
そんなことが本当にできると思うか?
武者を乗せた超重量の物体が突撃してきて、そんなことができるのか?
恐怖のあまりまともに戦う事はできないんじゃないのか?逃げないで戦うほどの士気があるのか?
まして、追撃戦に使うのだからやられる側のその士気の低さは明らかだと思うが。
あと、これも参考になるかも
ttp://blog.livedoor.jp/taka0219j/archives/50727297.html しかも、日本の馬は欧州のと違って短足だったので、重さに強かった可能性は十分にある。
>>133 >>128とかは?
というか、
>>129こそが典型的な騎馬軍団否定論なんだけどね。
普通は当時の軍隊の騎馬の運用はそういう状況だから、
とても騎馬軍団とは言えない、って結論になる。
ところが、発想の逆転というか何というか、
なぜかそういう状況でも「騎馬軍団」といえるって話になってしまっているが。
>>135 129は128に対する答えでもある。
「騎馬突撃」をあまり重視しすぎるのは問題だと思ってる。
でも、それは世界規模で考えて初めて
敵陣に「騎馬突撃」しないとダメって話になりうるのであって、
当時の日本人にとっては、「騎馬突撃」が無くても「騎馬軍団」ではない、と思わないはず。
要は、当時の人間が武田軍団を騎馬に強い軍団として特別視したかどうかが大切で、
だから「恐怖」「脅威」という言葉を使っている。
つまり、当時の日本において、
最も騎馬の恐ろしい軍団であれば、
それは日本にとって間違いなく「騎馬軍団」なんだ。
日本の「色黒」は、アフリカでは全然「色黒」じゃないでしょ?
そういうこと。
騎馬軍団というから違和感を感じる
騎馬部隊程度ならイメージ的に合いそうだけど
でもそれは武田に限らず他の大名にも存在していることだからな
ちょっと例えが不十分だったかな。
現在、白米は別にご馳走でもないよね?
でも、戦国時代に白米は間違いなくご馳走だったよね。
でも、現在白米がご馳走で無いからといって
戦国時代にはやっぱり白米はご馳走だった。
当時の人間、その地域の人間にとってどうだったのかが、一番大事でしょ。
騎馬部隊っていうと、騎馬隊があるみたいでおかしくなる。
>でもそれは武田に限らず他の大名にも存在していることだからな
だから、他の大名とは違う「騎馬軍団」と言わしめる何かがあるんじゃないかと。
>騎馬軍団というから違和感を感じる
当時、武田と戦った人間は
ヨーロッパもモンゴルも知らないわけだから。同じ視点で見ないといけない。
当時に神も仏もいたように騎馬軍団もいたってことだな
アホクサ
>>136>>139 いや、ちょっと待ってくれ。
あなた根本的に間違えてはいませんか?
当時の人は誰も「武田騎馬軍団」なんて言っていませんよ?
「武田騎馬軍団」というのは、現代の人間が、
それこそモンゴル軍やヨーロッパの騎兵部隊のような騎馬軍団を思い浮かべて、
戦国時代の武田家にもそういうものがあったと思ってしまい、そういう呼び方をしただけ。
しかし、実際にはそのような軍団は存在しなかった。
だから「騎馬軍団はなかった」という話になる。
つまり、「騎馬軍団」という言葉は戦国時代当時は関係なく、あくまでも現代人の感覚。
現代人がそのようなものが武田家にあったと誤解して、現代においてそう名付けてしまっただけ。
確かに当時でも東国の武士は騎馬が巧みだ位のイメージはあっただろうが、
それは武田も北条も上杉も皆同じ。
武田軍だけを特別扱いなんて誰もしていない。
143 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/15(金) 19:16:00 ID:AVGFougA
>現代人がそのようなものが武田家にあったと誤解
なぜ、武田だけ誤解されるの?
そういう話なら、武田以外にも言われるはず。
>>143 いや、騎馬軍団なんて信長公記どこにも書いてないし・・・・、
確かに「馬上巧者」とは書いてあるがそれは関東勢の小幡氏に対しての言葉、
正に関東勢は騎馬が巧みだというイメージがあったことを示す例にはなるが、
別に武田軍全体のことでも、武田軍だけ特別にそうだというわけでもないし、
まして騎馬軍団だとも言ってはいない。
>>144 武田勢に完膚なきまでにやられてしまった神君家康公の手前、
江戸時代は武田最強ってことにしておかないといけなかったからだよ。
148 :
OPS:2006/12/15(金) 20:02:26 ID:FGAE4kNR
学校の先生が僕に一つの宿題を出しました。
武田信玄晩年の西上作戦においてもし信玄に三年の余命があれば天下が取れたか
京を制圧できたか。
信長はどんな行動に出たか。
家康は攻め滅ぼされたか。
みなさんに一つ意見が聞きたいです。
そんな宿題でるのかww
>>131 武田の北進が滞った時期をいつごろだと看做してますか?第五回川中島から
第一次駿河侵攻までだって五年は間があいているのだが。
桶狭間で氏真がトップにたってからだって八年は経っている。
偶然、とみるには時間があきすぎていると思われるが?
151 :
120:2006/12/15(金) 21:27:49 ID:c6u3etE/
120,122です。数字コテ今回で止めます。
>>148 県人の自分個人の考えでは「運」と「包囲網」があれば上洛は可能だった。しかしその後はもっと大変だったでしょうね。
自分自身はあれが上洛作戦だったかわかりません。ただ上洛するという宣伝をしなければ
包囲網はできなかっただろうし戦いながら運がよければ行けるところまではいくつもりだったのではないでしょうか?
朝倉が引き上げた時点で上洛はほとんど諦めたと思います。
騎馬隊については言いだしっぺなので読んだ本では<以下、引用します>
ようは騎馬隊でも騎馬軍団でも呼び方はどうでもよく組織化されていたかいないかを問うているみたいですね。
たとえ騎馬突撃があったとしてもそれが騎馬隊組織化の存否となんの関係もない。
乗馬の馬格で当時は120〜140センチ程度でこんな小さな馬では重い鎧武者をのせたらよろよろ歩きであったというのが
加茂儀一氏の意見だった。これはいささか極論かもしれないが実験結果や当時は蹄鉄の技術もなかった。
これでは怒涛のような突進など期待できない。
おまけに馬上の働きというのは意外に不自由で槍や薙刀などは使いにくかった。
これは安芸武田流の宗家を継いで流鏑馬(やぶさめ)指導などを行っていた金子有りん氏(りんの漢字が出てこない)が詳しく説明している。
こういう条件下では武田家に限らず騎馬主体の戦法など発達しようがない。
<というのが記載されていました>
ただ武田館址から出土した馬骨の写真も載っていて小柄だが太い骨格を持っていてかなりの重量物を背負って
斜面を登り下りが出来たのが推測されるとも書いてあります。
著者は、すずきまさや という歴史研究家です。
どうも長文すいませんでした。
連投すいません。
>>151で以下の理由から
馬は輸送力や追撃、退却時に威力を発揮したと結論づけていますね。
なるほど。でも信長公記にあるように、
馬防柵を設置。騎馬武者の突撃、威力など馬鹿に出来ないんではと思うんだが。
>>151 それもまた極論かと。
騎馬軍団や騎馬隊というほどの戦闘部隊はなくとも、
少なくとも「馬上巧者」な武者がいて戦力になっていたのもほぼ間違いない。
大体サラブレッドあたりと見比べるから、極めて小さいと思ってしまうのであって、
ユーラシアを席巻したモンゴル軍の馬だって大きさは日本の在来馬と大して変わらない。
ま た そ の 議 論 か
>>154 >騎馬軍団や騎馬隊というほどの戦闘部隊はなくとも
これで結論が出ているでしょう。武田に騎馬隊やら騎馬軍団なんていう、軍事兵科でいう
騎兵部隊は存在しない。そもそも十六世紀の日本の軍制で騎兵隊を編成するなんて不可能。
>少なくとも「馬上巧者」な武者がいて戦力になっていたのもほぼ間違いない
こちらについても、誰も否定してませんよ。しかし、そういった「馬上巧者な武者」がどれ
ほどいても、それは騎馬隊、騎馬軍団なんてものにはならない。
なんでお前らそんなに言葉にこだわってるの?
そんなのどうでもいいというのが第三者の意見です。
154も156もイメージしてる部隊は一緒でしょう?
ならそれでいいじゃないかと。
騎馬隊という言葉を近代的な意味に限定する必要はない。
そもそも、誰が騎馬隊の意味をそんな狭く限定したんだ?
北斗七星は星座じゃないそうですよ。
でもあれは星座と言っていいと思う。
誰かが勝手に決めた「星座」の定義なんて知ったこっちゃない。
三方ヶ原の戦いで家康に完勝したことが
信玄の過大評価につながっている
長い江戸時代で講談などで褒めちぎられ
様々な伝説が生まれたのだろう
武田騎馬軍団のような・・・
>>156 それはよく承知していますよ。
ただ
>>151で紹介されている論を読むと、
あたかも騎馬が戦力になっていなかったと言っているかのような印象だったので、
もしそうなら、それは極論だろうと。
>>157 昨日も書き込んだ事だけど、
少なくとも「騎馬軍団」って言い方は現代人が現代人の感覚で、
そういうものが武田軍にあったと誤って思い込んでしまい名づけたもの。
しかし、実際にはそういうものは存在しなかったのだから、
「武田騎馬軍団」はなかったと結論するしかない。
160 :
篭城者:2006/12/16(土) 10:20:04 ID:tQWlx+xY
とりあえず、
当時の文献で、武田家だけを特別視したものがない事はわかりました。
その事は、こちらの勘違いでした。すいません。
どうやら、明治政府の陸軍が色々と捏造を行ったようです。
しかし、
騎馬軍団って本当に現代の尺度で考えないといけないんでしょうか。
日本国内で最も騎馬に優れた軍団は
日本において「騎馬軍団」ではないんでしょうか。
日本の野球界において、150kmを投げるピッチャーは、メジャーリーグのレベルを知った現在では、
剛速球投手と呼んではいけないんでしょうか。
もう1つ戦国的に例えると、
織田軍を最強兵力を誇る軍団だ!
と言ったら、
今の兵器の前では何の力もないから
最強兵力とは呼べない
当時の火縄銃を指して
今の兵器に比べたらたいしたことがないから
兵器とは呼べない
と言われているような違和感を覚えます。
>>160 だから、別に武田軍が日本国内で最も騎馬に優れた軍団って訳でもないんだって。
一段落目で自分が言ったことをもう忘れてるの?
>>161 その前に、現代的な概念でしかない騎馬軍団なんて呼び方で、
戦国時代の軍隊を語るほうがおかしいと気がつきませんか?
163 :
篭城者:2006/12/16(土) 11:09:52 ID:tQWlx+xY
>だから、別に武田軍が日本国内で最も騎馬に優れた軍団って訳でもないんだって。
ですから、西国の人間が東国の誰に当たっても
「騎馬軍団」だ!
と思うでしょう。
たまたまその代名詞が武田だったというだけです。
>現代的な概念でしかない騎馬軍団なんて呼び方
言葉は時代によって定義が変わります。呼び方に恒久的に絶対的な定義なんてありません。
164 :
篭城者:2006/12/16(土) 11:13:51 ID:tQWlx+xY
特に、織田・徳川の勢力が最初に当たる山岳部である事が大きいのではないでしょうか。
平野で当たる以上の衝撃があると思います。
言葉が時代によって変わるって、
そもそも騎馬軍団なんて言葉当時はなかったと、何度言えば分かるのか・・・
あなたのやっていることは自分の都合で変えているだけ。
当時に現代の騎馬軍団なんていない、そんな表現をした当時資料も無い。
格別武田氏において騎馬武者の存在比率が高かったわけでもなく、むしろ北条やらのほうが多い。
にもかかわらず「騎馬軍団」といわれるのは武田氏のみ。
これだけそろえば創られたものと考えるのが普通だと思うが。
ID:tQWlx+xYのいってる事は、当時の概念・人々の意識に「騎馬軍団」がいたのだから、存在するというものなら、
当時の人がいると信じて裁判にかけて殺された魔女も存在したということになるぞ。
一九九〇年代の人々からすればノストラダムスの地球滅亡も真実だったということになるぞ。
人前でこんなこといってたら黄色い救急車呼ばれるぞ。
167 :
篭城者:2006/12/16(土) 12:08:40 ID:tQWlx+xY
泥仕合になるので、これで最後にします。
例え話です。
昔、弁慶という人が居ました。
彼は、身長は160〜170程度でしたが、当時としては「巨人」でした。
しかし、当時、日本には彼を巨人と呼ぶ人間は居ません。
「巨人」という言葉は無かったからです。
彼を「巨人」と呼んではいけないのでしょうか。
その当時の基準で、言葉を使うべきなのではないでしょうか。
「方面軍」という言葉だって、当時はありません。
当時と今では軍制も違います。それでも、当時としては「方面軍」と呼ぶべきものだったから、今現在「方面軍」と呼んでいます。
「騎兵」という言葉は、元々騎馬に乗ったものを指す言葉でした。
しかし、今は馬に乗っていなくても「騎兵」です。
なぜなら、当時の「騎兵」に近いからです。
このように、言葉は時代や地域等の背景によって
使い分ける事になります。意味も変わってきます。
>>159 120,151です。
誤解を与えたらすいません。
著者も
当時、騎馬武者(騎馬に乗った侍)はいくらでもいたとあります。
単なる騎馬武者の群れを「隊」というのはどうかというのです。
騎馬突撃があったとしてもそれが「隊」とは因果関係はないのでは?
ちなみに前レスでも書いているように戦力になっていなかったとは著者は一言も書いてありません。
馬上のチャンバラより輸送力や追撃、退却時に威力を発揮したということです。
繰り返しますが武田館址から出土した馬骨の写真も載っていて小柄だが太い骨格を持っていて
(前足が発達している)かなりの重量物を背負って 斜面を登り下りが出来たのが推測されるとも書いてあります。
169 :
篭城者:2006/12/16(土) 12:49:42 ID:tQWlx+xY
>>166 これだけ読んでいなかったので、例外的に反論します。
>格別武田氏において騎馬武者の存在比率が高かったわけでもなく
数が必須条件だと勝手に決め付けないでください。
それはあなたが勝手に定義した妄想の騎馬軍団です。
数があるに越した事はないですが、
要は、質の問題。いかに、騎馬の運用がうまかったか。強さが騎馬にあると思わせたか。
>むしろ北条やらのほうが多い。
それについては163、164で反論済みです。
初めて出会う事の驚きをよく考えてください。2番目3番目に会った者より印象が強くなるのは必然です。
>当時の概念・人々の意識に「騎馬軍団」がいたのだから、存在するというものなら
この解釈が既におかしいです。
私は、当時の人々はヨーロッパやモンゴルの騎馬隊を知らないのだから、
騎馬の驚異的な運用がなかれていれば、日本にとっては「騎馬軍団」なんですよ。
雑賀衆が他の勢力から突出して鉄砲の運用がうまかったら、
それは「鉄砲軍団」です。現代の感覚と比べても意味がありません。
>魔女も存在した
スレ違いにはなりますが、「魔女」と呼ばれる人間は存在していました。
しかも、本当に魔女はいました。
しかし、ファンタジーのような魔法を使う、とかいうのは勝手な妄想です。
魔女と呼ばれる人達は、薬の調合を得意とする民族に端を発します。
教会が、彼らのその能力を脅威と思い、異端のレッテルを貼りました。
それが、時代を経るにつれ勝手にファンタジーのような魔女のイメージを作られてしまったのです。
まるで、武田騎馬軍団が騎馬武者だらけで構成されているというイメージのように。
勝手に作った妄想のイメージが裏切られたからといって、
存在そのものを未定する、というのはあまりにも極論です。
>武田館址から出土した馬骨の写真も載っていて小柄だが太い骨格を持っていて
これは、結構な証拠になりうるのではないでしょうか。
巨人と言う言葉が無いから巨人じゃないって言うんじゃなく、
騎馬軍団じゃないから騎馬軍団ないんだろうに。
いつまでやるんだ?
ちなみに当時に騎馬軍団と勘違いしたやつが居たとしても、
たんに勘違いしたやつが居るというだけだぞ。
鉛を金と勘違いしたら鉛が金になるのか?
やたら「騎馬軍団はなかった」に拘ってる人は
最近その話を耳にしたので人に言いたいのでしょうか。
しかし一連のレスから当時の「騎馬隊」の内実が明らかになった今、
それを騎馬隊と呼ぶかどうかにこだわるのは不毛な話だと思います。
ともかく武田軍には屈強な騎馬武者がいた。
彼らの力で数的劣勢を覆し上洛することは可能だったか。
優秀な指揮官が精兵を率いれば逆転劇はありえる。
ただ相手の信長も非常に優秀な指揮官で兵も熟練・・・。
>>169 なら武田氏が他大名と比べても画期的な騎馬武者の運用をしたということを示してくれ。
それにしても、当時織田信長が導入した普通のそれよりちょっと長い槍をもって「織田長槍部隊」なんていわれてるか?
魔女にしてもそのファンタジーを信じてる人間が多数いたわけだから、当時の感覚から言えば魔法使う魔女がいたんだよ。
都合よく時代とか、対象ずらしちゃだめよ。
ドラキュラが十字架に弱いとかニンニクを嫌うとか地底人とか火星人の地球侵攻とか。
当時の感覚って言うのは大事だけども、既に騎馬軍団には現在で定義されてて、それと合致しないならその定義における騎馬軍団は存在しない。
まして当時に「騎馬軍団」なんて呼ばれてすらいないのに、なぜわざわざ「騎馬軍団」と呼ぶ必要があるのか。
論文でも書いて「普段は輸送部隊で、追撃においては敗残兵を狩り出す騎馬武者の集団とはバルバロッサである」とか論文書いて新しく言葉創ったら?
というか、当時「騎馬軍団」という言葉があって、現在とは違う意味で使われていたというなら、
当時の意味ではそれは騎馬軍団だ、と言えるかもしれないが、
そもそもそんな概念当時はないからね。
現代的な意味でしか「騎馬軍団」という言葉がない以上、現代的な意味でそれを捉えるしかなく、
そして現代的意味の騎馬軍団は当時存在していなかったのだから、
「騎馬軍団」は存在しなかったと結論するしかない。
当時方面軍という言葉はなくとも、現代の感覚で方面軍といえるものがあったのだから、
それを方面軍と呼ぶことに支障はないが、騎馬軍団は存在しなかったのだから、
存在しないものを騎馬軍団と呼ぶのはおかしい。
まあ、確かにただの言葉の使い方だけとも言えるけど、
議論が言葉と言葉で行われる以上、こういう詭弁を放置すると、議論にならなくなってしまう。
174 :
篭城者:2006/12/16(土) 17:13:50 ID:tQWlx+xY
もうずっと黙っていようと思っていたんですが
言いたい放題なので、反論します。
「騎馬軍団」の定義は、本当に1つしか存在しないのですか?
騎馬突撃を必須とするかどうか1つ取っても、解釈が違うのに。
>魔法使う魔女がいたんだよ。
>都合よく時代とか、対象ずらしちゃだめよ。
いつ、時代をずらしました?
魔女狩りはそんな短期間に行われたものではないですよ?
元々、そういう所から始まったのに、やがて魔術でも使うかのように恐れられ
魔女狩りは壮絶なものになっていったんです。
勝手にイメージを膨らませてね。
>>174 兵科として騎兵隊を意味する「騎馬軍団」の意味は一つしかありません。
仮に当時騎馬軍団という言葉があり、武田にそのような軍があったとしても、それは
中世日本という狭義でしか通用しない騎馬軍団があったというだけであって、軍制に
おける騎兵部隊が存在したということにはなりません。
そして、現代日本において「武田騎馬軍団」という言葉が使われる場合はまず騎兵部隊
のことをイメージして語られてきました。だからこそ、「武田に騎兵部隊なんてない」と
いう意味で「武田騎馬軍団なんてない」と結論されるのです。
当時の日本人が騎兵隊をしらなかったらとか言い出したところで、十六世紀の日本には
武田に限らず騎兵隊なんて存在しません。当時の人間が武田の騎馬武者を使った独特の
戦法を指して「騎馬軍団」と呼称したとしても、それは兵科としての騎兵隊にはなりません。
>>171 120です。
もし私を指しているのならば
>最近その話を耳にしたので人に言いたいのでしょうか。
これに近いです。
正確にいえば本で読んだので実際どの程度世間で認知されているか皆さんにききたいだけです。
人に言いたいのではなく聞きたいのです。
自分は山梨県人なのでお恥ずかしいかぎりですが周りにあまり関心がある人がいなくて。
しかし子供のころに聞いた話と最近の本ではだいぶギャップがありますねえ。
177 :
篭城者:2006/12/16(土) 17:46:24 ID:tQWlx+xY
兵科としての騎兵隊なんて、最初から期待してません。
騎兵隊がなければ、騎馬軍団と呼べないという根拠はあるんでしょうか?
そもそも、現代とは兵器も何も違うわけですから、
現代とまったく同じ条件を当てはめる事自体、無理があるはずです。
軍の編成に騎馬を集中して運用するというシステムが無いならば
その軍には騎馬隊は存在しないと言って良いでしょう
日本には騎馬武者はいましたが騎馬隊は無かったのです
>>177 だから、兵科としての騎馬隊がなければ騎馬軍団とは言えないんだよ。
あなたが自分で述べている通り、
確かに当時「方面軍」という言葉はなかった、「方面軍」というのは現代の概念、
しかし、その現代の概念にに当てはまる実体が当時にもあったから、
それを「方面軍」とよんでいる。これは問題ない。
同様に当時「騎馬軍団」という言葉はなく、それは現代の概念、
そして、その現代の概念に当てはまる実体は当時はなかった、
だから「騎馬軍団」はなかったと結論するしかないでしょうが。
あなたは自分の都合で勝手に言葉の意味を定義し、
つまり、そういうものを騎馬軍団と呼ぶのだと自分で勝手に定義し、
だから騎馬軍団はあったと言ってもいいと言い張っているだけ。
はっきり言って詭弁にすらならない、ただ難癖をつけているだけ、
仮にも話し合いを行おうとする上で、これほど有害なものはない。
>>変なコテ
黙る気がさらさら無いなら最初から言わないほうが良いよ。
そもそも騎馬軍団が存在したって言う自分からしてまともに定義づけしないじゃないか。
しいていうなら当時の人間が武田氏の騎馬武者みて、脅威を感じて、それを騎馬軍団とした、なんて随分とアバウトでどんな風にも解釈を変えられるもの。
魔女にしても魔女狩り開始時点と勝手にイメージを膨らませて魔法使うっていうイメージとがあると自分で認めてるじゃないか。
短期間に行われたものでないというならなおさらのこと。
というか魔女に対してそういう魔法使い的な「イメージ」があって、当時の人間が「魔法使いだ」と認識すれば存在したことになるんだろ?
どういう理由でとか一切関係ない。
まず武田氏の騎馬軍団の定義して、どういう資料にその定義の騎馬軍団の存在がみられるのか明確にしたら?
現代とは兵器も何も違う時代の存在を、現代の既に定義がある言葉を使ってその存在を示そうとしてる時点で間違い。
だからなんか新しい名称つけたらと提案してるのに。
騎馬部隊なんてものはなかったし
当時の人も騎馬軍団なんて意識はない。
なのになんで騎馬軍団があったなんていえるんだ?
投石部隊はあったが騎馬部隊なんてもんはない。
182 :
篭城者:2006/12/16(土) 18:44:50 ID:tQWlx+xY
元々、騎馬軍団と呼んだって構わないじゃないか、
って話から始まってる(129-136)のに、
いつの間にか、絶対に存在する根拠を示せ!
って話にされて…
卑怯極まりないよ、ホントに…。
183 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/16(土) 18:45:09 ID:+RQcmiqE
戦力区分じゃなくてステイタスシンボルなんじゃねーの?
騎乗しているのが指揮官で、一般的な数の歩兵(雑兵)が配下に付く。
>>182 もう書き込むのは止めたほうが良いかと
少し落ち着いてから過去ログなど読み返してみられては如何か
>>182 いや、最初から一貫して騎馬軍団と呼ぶのはおかしいという話にしかなっていないが。
大丈夫?
>>120 特に誰を指したわけではありませんが。
世間での認知度は低めだと思いますよ。
少なくとも私の周りでは。
しかし戦国板での認知度はかなり高い気がしますね。
初心者を煽るネタとして格好の材料になるんでしょう。
馬鹿らしい。小さい小さい人間が多いようです。
まあ私のチンコの小ささも友人の間で有名ですが。
自分には、本当につまらないことで言い争っているように見えます。
互いに意地があるのでしょうか。こんな便所の落書きに。
ここで名誉を傷つけられても実生活には何の関係もないのに。
187 :
186:2006/12/16(土) 19:44:48 ID:dvytBAhy
訂正
×チンコの小ささ
○度量の小ささ
>>182 一億歩譲って、武田信玄・勝頼の軍を武田騎馬軍団と呼称してもかまいませんよ?
ただし、そこで使われている「騎馬軍団」という単語は兵科としての騎兵部隊の事
を意味するのではないということをはっきりさせておけば。
ただ、そんなことをしても言葉をもてあそんでいる以上の意味が見出せませんがね。
「自分の定義では象とは四本足で歩く動物のことだ。だから現代では犬と呼ばれている
動物も象と言ったって問題ないじゃないか」
ま、主張するのは個人の自由です。それが他者に受け入れられるかは全く別ですが。
190 :
篭城者:2006/12/16(土) 20:07:44 ID:tQWlx+xY
だったら、これからは兵科じゃないって但し書きつけますよ。
それで気が治まるんだったらね。
しかし、なぜそこまで現代の兵科の呼び名に拘るのか理解できませんよ。
「騎馬軍団」っていう兵科はないんでしょう?
だったら、「騎馬軍団(騎兵部隊ではない)」
って書けばいいんですか。
「騎馬軍団(本当は違うけど個人的にはこう呼んでいます」
でいいよ。
学研の歴史群像ごときを引き合いに出していいかどうかはわからんが、
「武田氏などは(中略)非戦闘員も含めた総人員の
7%から8%というところ」だそうだ。
騎馬武者の割合がね。
そして、後北条氏はさらに騎馬武者の割合が高かったとか。
それでも、10%には至らなかっただろうと。
そして、「長篠以前は騎馬白兵戦主体であったかのような主張は
明らかに誤りである」と言っている。
>>190 現代では、騎馬軍団という言葉が騎兵部隊の意味で使われるからです。
少なくとも、武田について語るとき、騎馬軍団といって騎兵部隊のことを指さないで
使っている例は見たことありません。
そしてあなたがどう表現しようとそれで気が治まろうと、「騎馬軍団(騎兵部隊ではない)」
といってうなずく人は極少数派でしょうね。はっきりいって、あなた一人を満足させる
だけの効果しかない言葉の遊びにしかなっていません。
武田軍団は、軍役状などから分かるとおり歩兵の長槍部隊も存在していることは確かであり、
全軍が騎兵からなる騎兵軍団ではない
だから、武田騎兵軍団は存在しなかったと言える
そういう騎兵軍団は、世界史上でも、蒙古やテュルクマンしか存在しないと言えるだろう
だが、武田騎馬軍団なら存在したと言える
なぜなら、信長公記の
「馬防ぎの為、柵を付けさせられ」(馬を防ぐために柵を作ったのであって、歩兵を防ぐためではない)、
「関東衆、馬上の巧者にて、是れ又、馬入るべき行にて(一番、二番同様に騎馬戦術で)、推し太鼓を打ちて、懸かり来る」
という記述や、家康が石川数正に宛てた書状に「馬一筋に入り来るべく候」という文言があることから、
織田、徳川方が武田の大規模な騎馬戦術を警戒していることが明らかであるからだ
このように他国から恐れられている騎馬戦術を持つ軍団は、十分に騎馬軍団の範疇に入ると言えよう
そもそも「広義の騎馬軍団(主戦力であれ副戦力であれ、威力のある騎馬戦士が多数いる軍団)」を、
蒙古やテュルクマンの「狭義の騎馬軍団(騎兵軍団)」と同じ意味で捉えていることが混乱の原因だろうと思う
>194
ごめん。
もう終わってるから。。。
>>195 あんたの人生が?
そんなレスはしなくていいんだよ。
レスするなら正面からしてやってくれ。
197 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/16(土) 22:00:42 ID:P3/6p9vq
釣り目的のレスに正面はないだろうw
騎馬軍団の話はもう食傷気味だから
引っ張らずに他の話題にしてくれ
っていいたいんじゃないか?
と脳内補完によるフォロー
>198
補完乙
正確には>194の内容は「個人的には騎馬軍団と呼べると思う」というだけ。
そんな話はもう終わっていると言う事。
まあ正面からレスするなら
194でいう騎馬軍団は存在した
しかし質は別として形式的にはそのような騎馬軍団は各大名も持っていた
関東衆が特に質に優れた騎馬武者である可能性は十分ある
しかしそれなら武田以外の関東の大名も騎馬軍団であった
史料上からは騎馬の比率が多い大名は武田ではなく北条
とすると戦国最強の騎馬軍団は北条と考えるのが妥当なんじゃないか
冗談じゃない!
戦国最強武田騎馬軍団が、嘘だということになったら、
信玄が信長に勝てる要素がなくなってしまうじゃないか。
そんなことは・・・断固認めない。
>>201 えー、我が共産党は憲法改悪を断固認めません。
で、なんでそういうことするの?
まさかおもしろいと思ってやってるわけじゃないだろうし。
何か嫌なことがあったのだろうか。
>>202 えー、我が共産党は憲法改悪を断固認めません。
で、なんでそういうことするの?
まさかおもしろいと思ってやってるわけじゃないだろうし。
何か嫌なことがあったのだろうか。
そろそろ捨民党の登場だろ?
いや、だから東国山岳部の騎馬軍団なのが問題なんだって。
山の中で自由に布陣されたら、平野でやられるよりびっくりするって。
別に、武田騎馬軍団があるからといって
北条騎馬軍団があったって、一向に構わないんだが。
天下を取った徳川を苦しめた、というだけでも特別扱いする理由はある。
とりあえず、表現の自由を守ろう!基本的人権を守ろう!憲法改悪絶対阻止!!
弱小(あくまで比較)だったころの徳川を苦しめたからってどういう理由だよ。
だったら、後に天下を取った徳川を下僕扱いしていた今川はさらにもっと特別扱い
するべきだと?
それから、騎馬は山の中では動けない。馬とは平地を走るように進化した動物なので
少しの傾斜にも弱い。未訓練の馬では30度の坂でもダメだったとか。訓練でもう少し
いけるようにはなるそうだが。
>>206 ちょ、おま30度ってwwwwww
軽自動車が登れなくなる激坂wwww
いや、チャリでも頑張れば行ける!
多分。
馬上での巧者が多数いた
山に慣れ親しんだ馬なので山での輸送隊として重宝した
少数精鋭の騎馬の奇襲部隊がいた
アルプスアイベックスなみに崖から駆け下りて奇襲出来た
多分騎馬(武者が強い)軍団だったってとこじゃないのかな
武田の騎馬は史実でその具体的な強さは発揮されているのか?
長々と騎馬の話をしているが
武田騎馬隊らしき物が他の大名家より
圧倒的に優れていた訳では無いでいいんじゃないの?
武田軍の強さは騎馬隊がいたからじゃ無いだろ
それじゃあ武田の強さの理由って何?素朴に気になる
>213
強くなかったんだろ。
215 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/18(月) 02:04:41 ID:gW5PsX2F
アーッの契りを結んだ集団だったのでみんなの結束力が強かった。
しかしなんだかんだ言って武田が
山国一国から百万石を超える大大名にまでなったのは事実。
強くないというのは無理があるような・・・。
もし強くないなら武田家の強大化の理由ってなんなの?
217 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/18(月) 02:10:13 ID:gW5PsX2F
まあ一番の理由は周りがというか武田家が攻めた相手が
武田家より国力低かったことだろうな
アーッはともかくとして武田家は結束力が強かったのでしょうか?
勝頼の最後を見るとそうは見えないのですが。
やはり信玄のカリスマや統率力が結束の源だったのでしょうか?
220 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/18(月) 02:21:51 ID:gW5PsX2F
勝頼はアーッをしなかったし、諏訪の跡継ぎという認識で
後継者と認められなかった。
一番の理由はアーッをしなかったから。
家臣達はアーッに飢えていた
>218
駿河攻めや北条との戦いはどうでしょうか?
対等かそれ以上の国力を持つ相手と戦って
領土を拡大しているのは強さの証明にはならないでしょうか?
質問ばかりですみません
223 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/18(月) 02:27:31 ID:gW5PsX2F
信玄が同盟関係をしっかり考えなかったのがいけない。
駿河攻めはウジザネ公の周りがボロボロになってました。
そう、武田滅亡の時と同じシチュエーション。
>223
いえ、同盟をこじらせた事の是非ではなくて
対等かそれ以上の北条を相手に見事に領土を獲得してみせたのは
ある程度の強さの証明になるんじゃないか、とおもったんです
225 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/18(月) 02:42:39 ID:gW5PsX2F
北条さんは援軍を出してる余裕がなかった。
家中ボロボロの今川家を倒すのは簡単だった。
一回駿河に出張ってませんでしたっけ、北条。
それで武田が小田原まで攻め込んで
そのあともう一回駿河を攻めて占領したんじゃなかったでしょうか
北条は上杉がバカ過ぎて役に立たなかったから領国の守備を優先したらしい。
つまり駿河を再度占領できたのは謙信のおかげ。それに氏康の体調悪化と死。
なるほどなるほど。それで北条が領国守備優先に
走ったきっかけというのはやはり武田の小田原攻めや三増峠などの
一連の北条戦役なんでしょうか?
あと上杉に対しては足利義昭を通じて和平を働きかけてたりしてませんでしたっけ
>>224 俺もなんやかんや言って信玄はかなり名将だと思う。
戦国屈指の名将の一人だと思う。それ以上ではないが。
武田の強さといえば合戦と調略かな。
合戦は弱小勢力にはけっこう強い。
だいたい数的優位をもって押し切ることができる。
これは簡単なようでいて難しいこと。失敗例は大内や今川。
確かに同格かそれ以上の相手には勝てないが、
それが普通なのでマイナス評価にはならない。
但し数的優位を保てたのは戦略、戦術に優れたからというよりは
>>218の言うように父が築いた土台の部分が大きい。
勿論その土台をそっくり掌握したのは信玄の手腕として評価できるが。
戦略で言えば同格以上の北条を敵に回したり
戦力差の明らかな信長に喧嘩売ったり、疑問のつく行動がある。
戦術的には対村上の大敗のように国力がなければ終わってたこともある。
んで、攻城戦はお世辞にも上手いとは言えないと思うが
それを補うように調略で切り崩すのはよくやってたな。
まあ攻城戦なんてだいたいそんなもんではあるけど。
後、思いつくのは金山による経済力かな。
それと中盤までの今川・北条との友好関係。
これは両者の利害関係の一致によるところが大きいので
一概に信玄の手腕とは言えないが武田の強さを支えた地盤なので挙げとく。
>229
丁寧な説明ありがとうございます。
>>221 そりゃ弱くは無いと思う、信玄も武田家も
ただ超一流かと言われたら否定せざるを得ない気がする
駿河攻めですが当時の今川家は武田家の半分程度の国力
家中はバラバラ
それに加えて徳川家と組んで攻めたのだから
勝つのはわりと普通のことだと思う
北条との戦いは北条から領土を奪ったと言っても旧今川領で
北条領と言えるか微妙ではある
また上野方面では逆に武田が攻められていたりもする
>>228 >武田の小田原攻めや三増峠などの
それそのものはあまり関係無い気がする
それよりその武田との全面戦争に対し、上杉が北陸での争いにかまけて
越相同盟が機能しないこと
更に北条氏にとって本来の敵である
三船山合戦以降里見氏が勢力を盛り返しはじめたこと
古河公方簗田氏が独立離反の動きを見せたこと
北関東で佐竹宇都宮氏が連携し、バラバラだったのが
ある程度統一の方向に向かってきたこと
により武田の相手をしている場合じゃなくなったことに加えて氏康の死亡も
>231
>上野方面では逆に武田が攻められていたりもする
これは初めて聞きました。その結果とられた領土とかあったんでしょうか?
>>232 いくつかの城が寝返ったりしているが
多分北条との再同盟時にまた武田に帰属したと思われる
元亀元年信玄は駿河や上野を行ったり来たりしているが
見方を変えれば武田が北条に振りまわされているようにも見える
久々にきたら騎馬隊だけの部隊は存在しなかったことは周知の事実だと思っていたけどとんだ厨もいるのね。
なぜ他家にも存在した騎馬が武田家だけ有名かと言えば馬自体が強かったの。甲斐や木曽は名馬の産地として有名。天然の坂路調教地だから。
競馬の世界で昔は関東馬の方が強く、理由を調べたところ坂のある競馬場で調教していたことがわかり、関西馬が坂路調教を取り入れたところ関東馬を圧倒した事実がある。
現在では坂路=山道で育てた(鍛えた)馬は強いと言うことは立証されている。
235 :
234:2006/12/19(火) 06:14:09 ID:JVn2b9CL
その論法でいけば武田に限らず同地を支配した歴代の勢力とか周辺の騎馬も有名じゃないとおかしくなるが
普通に甫庵の創作が後世を毒しつづけてる、でしょ
>>234 関東のほうが大レース多い
輸送競馬は馬にとって負担
→有力馬は関東に入厩する
後天的に鍛えられる部分なんか極々僅か
>>237 競馬論議は競馬板で・・・
関西馬が良績を残しているのは異論ないけどさ
>>186 どうもレスありがとうございます。遅れましてすいませんでした。
今日、本屋である本を立ち読みしたら信玄が天下を取れなかった理由で孫子を持ち出して
川中島の合戦で別働隊が間に合わなくて謙信と信玄の一騎打ちがあったなんて書いてあった。
まだこんなことを書いている作家がいるのかって萎えてしまった。
いやはやよく出版したものだ。当然買いませんでしたが。
>>239 天下を取れなかった理由として?
一騎打ち?
「信玄の戦争」とかいう本じゃなかったですかね?それ
>>240 あ、言葉足らずでごめん。
天下を取れなかった理由として孫子の兵法を取り上げていた。
まあこれは著者の考えでべつにとやかくいうつもりはないですが。
あきれたのは川中島の方です。
昔よく言われていた事柄(啄木鳥の戦方〜一騎打ちまで)に別働隊が間に合わなかった
とういうのを付け加えただけの文章です。
とくに現地調査や文献などを調べた様子も見受けられなかったので駄目だこりゃとなった次第。
一騎打ちで勝ってたら天下統一してたんじゃね?
現在の事情は知らんが当時の馬は産地から全国に供給されているんじゃないか?
どこかの馬が強かろうが結局みんな陸奥や関東甲信と九州南方の馬を使っているんだから
馬の差は存在しないだろ
245 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/19(火) 23:36:24 ID:9rHK0/4w
>>244 なわけねーだろ。基本的に、馬は自給自足。自分が使う馬は自分の家で生んで育てて調教して使う。
馬ってのは戦力ですよ?例えば甲斐で生産された他より優れた馬を信濃や越後などの敵に渡すなんて
すると思うか?
>>245 >馬は自給自足。自分が使う馬は自分の家で生んで育てて調教して使う。
マジで?ソースは何?
ていうか各個人がそんな簡単に育てられるものなのか?
ついでにそんな小規模じゃ経済性悪そうだし。
中国なんかじゃ馬は北か南の産地から供給されるみたいだが。
>例えば甲斐で生産された他より優れた馬を信濃や越後などの敵に渡すなんて
>すると思うか?
第3者を介すれば普通にあり得ると思うが、
またそれとは別に敵対しない相手になら普通に売り渡すこともあると言うことなんじゃ。
山内一豊の妻が馬を買った話しや
信長やその家臣達が南部の馬を使っていたりとかすることから
普通に馬市場があったと考える方が自然だと思うが。
家というのが各家ではなくて大名家を指しているのかもと言う可能性もあるけど
御料牧場みたいな官牧の存在があることからやっぱ効率的に生産するためにも
戦国時代でも牧場で大量生産が普通だったと思うけど・・・
武士の装備は自弁の時代
逆に牧で集中生産してそこから分配してるシステムだったら馬が行き渡らないだろ
自弁と牧場で大量生産
どっちかでないといけないのか?
並存していたと考えるのが常識的じゃないのか。
陸奥みたいな所では主に自弁
畿内みたいに貨幣経済の発達したところでは
馬喰による流通もあったと
そりゃ馬に関わらず武士の装備は自弁が基本だろうけどさ
(大坂の陣で家康が鉄盾を支給したとかの例もあるけどさ)
いくら自弁と言っても刀槍も各自が一から作ってるわけじゃなく
買うなりして手に入れているんだろうから
馬だって買うのが普通なんじゃないか
でないと馬喰なんて職業成り立たないし
名馬の逸話なんかが成り立たなくなる
下級の武士は、普段農耕に使ってる馬に乗って戦争に行く。
大名や、重役クラスは、東国産の良馬を買い求める。
てことじゃないの?
だいたいそういう感じでいいんじゃないか。
余裕がある奴は良い馬を買い求める、と。
で、多くの奴はたぶん余裕がないので地元馬が中心になる。
すると良馬の産地は合戦で少し有利になる。
武田が合戦でよく勝てば何故強いか分析されるようになり
強さの要因の一つとして良馬の多さを挙げる人もいた、という話では?
しかし
>>236の言う通り、昔から甲斐勢力が騎馬で有名だったという
話は聞いたことがないから(単に不勉強だったらスマン)
実際のところ良馬がそこまで有利をもたらしたとは思えない。
甲斐の黒駒といえば聖徳太子が乗ったという言い伝えがあるほど大昔からから有名だぞ。
平安時代には朝廷に献上していたという記録もあったはず。
山梨や長野を含めて各地にある駒ヶ岳と言う名前は良馬が自生していた山を指すことが多い。同様に駒がつく地名もそういうのが多い。
あと馬の売買については、信長に馬を売ったとかで謙信に切られた家臣がいたはずだが。
柿崎景家か。怪しいもんだけどな。
>>253 いや、良馬の産地なのは分かるけど。
騎馬隊が強い、というエピソードはある?
256 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/21(木) 00:45:21 ID:prNOu0lM
たしか信長が安土で楽市令を出したときに、中山道を通る商人はかならず立ち寄れ、
馬商人は安土でのみ商売をしろとかだしたと聞いた記憶が。
>253
自分の馬を安土で売ったら信長が買い付けてその礼状を柿崎に送る→謙信が内通を疑って誅殺。
だったかな。正直不思議なエピソードではある。
257 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/21(木) 02:12:11 ID:vFarEK5X
>>256 景家は病死したっていう話をきいたことがある。
二万五千のうち、草が五千で信長と家康を暗殺。
三河・尾張・美濃まで取れれば天下が見えてくるかも
このスレでは信玄は信長に及ばないという意見が
多数派のようですが、実際に信玄は戦国大名達のランクを
つけるとするなら、どこらへんにはいると皆さんは思われるでしょう?
それは別のスレでやってください
あ、お気にさわったらすいません。
信玄が並み居る戦国大名たちの中でどれだけの力を
持つ存在であったかがわかれば、そこからどれだけの条件を
付加すれば上洛が可能であったかがわかりやすくなるのでは、と
思ったんです。
能力や国力運などを除外して結果で考えるのであれば
信玄は20万石から100万石へ成長した大大名
元就や信長家康三好長慶尼子経久宇喜多直家みたいな異常な成長率誇る大名や
佐竹義昭義重、最盛期までの長宗我部元親伊達政宗竜造寺隆信などには及ばないものの
かなりの成長率
一流大名といって良いと思う
ただ国力とか運を考慮すると信玄が相手をして勝てたのはかなり格下の相手ばかり
戦場では常に相手を上回る兵力で戦っている
包囲網が余程上手く機能して、武田が戦場で織田の兵力を上回れば可能性はあるかも
ただ信長は信玄と違って相手より少数の兵でも何度か勝っているので
武田が兵数で上回っていても不安は残る
264 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/27(水) 09:04:35 ID:yNjWw3jP
>>263 伊達政宗は膨張率三倍だし信玄より条件もいいから
信玄より上ではないとおもうぞ。
266 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/27(水) 16:45:16 ID:zINShE4m
政宗のほうがすごいかもな。
数年で芦名倒してるからな。
そりゃ50万石も相続してりゃあね
信玄や元就だったらもっと急激に成長したよ
畠山なんて4万石程度の小大名相手にてこずって
1万3千の大軍でも二本松落とせず撤退し
その間に援軍呼ばれて逆に死にはぐって
何だかしらないが居なくなったから二本松攻撃再開したが落ちない
内応させて戦力削いでみたが落ちない
城下焼いてみようとしたら撃退され
また総攻撃してみたが落ちない
結局4ヶ月攻め続けたが落ちず諦めて相馬氏の仲介で助命を条件に開城させた
葦名は当主不在+内乱、佐竹は関東で忙しく援軍にこれなかったからよかったものの
生まれた時代も地域も微妙に違うのだから、
比較するのは難しいだろう。
無難に古人のいうとおり、一定の業績を残した人物は、
まとめて英雄ということでいいんじゃないかという気がする。
戦略的には信玄が上に思うが戦術的には謙信や信長が上に思う。
信玄には人口密度、国力がなかったのが不運だったのでは。
>>263氏の
>ただ国力とか運を考慮すると信玄が相手をして勝てたのはかなり格下の相手ばかり
>戦場では常に相手を上回る兵力で戦っている
はもっともだと思うが信玄の思想自体が5,6分の勝ちが一番いいと思っている?ので
当然ではないでしょうか?
兵隊の補充は簡単にはきかないのでよほどの事情がないかぎりどの大名も不利な条件で
戦いを挑む馬鹿もいないと思うが。戦略で戦わず勝つのが一番。
(桶狭間みたいな少数が多数を相手に勝つなんて運や環境がないとそうそうないと思う)
とりあえず攻められそうなとこを手当たりしだいに攻めて
まわりを敵だらけにしちゃった信玄の戦略を
上洛を考えて一気にいった信長の戦略とくらべるとかなり落ちるとおもうぞ。
信玄の一番の失敗は長期的な戦略がなかったことじゃないの。
>>267 たかだか二十万石を百万石程度にしかできなかった人間と、毛利元就を同列においてる時点で間違い。
次にAがBであったならもっと成長できたよってのは、(現にお前によって)主観に大いに左右されるから不毛で無意味な仮定。
人取橋は倍近い兵力差だし、結局二本松城とったんだから、川中島の信玄から見た戦果と大差無い。
川中島なんか半分ほどしかない兵力の謙信に弟まで討ち取られてそれこそ死にはぐってる。
村上相手にはコテンパンにやられてるし、独立して領土も少ない徳川に逆に侵蝕されてる今川攻めたら逆に甲斐に叩き返されてるし。
大差ないじゃん。
>>269 一時的とはいえ周囲を敵だらけにしといて戦略が優れてるはない。
相手より常に多い兵士で戦に臨むのは大変結構なことだが、それが信玄上洛に際してもかなえられる願いかどうか。
自分より優位な相手とは戦いたくないというのは包囲網の面々も同じで、どこも積極的に織田と戦いたくない。
そんな中で信玄が上洛行動起こした場合に、織田が武田より多い兵力で阻止しようとするのは明白。
そうなれば信玄は甲斐に逃げ帰る。
仮に包囲網の面々が積極的に織田と戦って、信玄が兵的優位を確保して織田と決戦することになった場合に、
その不利を何度か覆した信長相手だとこれまた不利をひっくり返されるから微妙。
後者の、包囲網勢が積極的に攻勢に出た場合のことを
>>263はいってるわけだが。
で、どっちにしても上洛は不可能と。
後者の後半の展開はアレなんだが、そもそも前提からして無理矢理だからな。
>>269 そう、みんな優勢な状態で戦いたいんだよ。
けど天下を目指すなら、最大勢力以外はすべて一度は劣勢の戦いに臨むことになる。
常に兵力多数で戦えるってことはないと言っていい。
だから戦術的な能力はとーーーっても大切なんだ。
戦略だけで勝つのは理想だけど、現実はそんなに甘くない。
数的劣勢を覆した大名が運だ環境だって言うけど不思議なことに
一度数的劣勢を覆した大名は二度、三度と覆す傾向にある。
例えば信長、元就。これはもう彼らの能力によるものだと思う。
で、信玄は国力とか運とかっていうが。。。
信長だって最初から尾張50万石を継承していたわけじゃない。
むしろ尾張内は敵だらけ、国外も敵だらけ、信玄より状況はずっと悪い。
元就については言わずもがな。
それに京への近さって言うなら甲斐→美濃→近江。尾張→美濃→近江。
実はほとんど変わらないんだよね。
運ってなに?よくわからんけど。寿命のこと?
でも当時は人生50年。信玄は十分生きてる。何のこと?
全体として君の考えは非常に好きじゃない。
戦わず勝つって、戦国時代っていう名称を馬鹿にしてない?
この時代は戦うことが最良の道なんだよ。だから戦国時代っていうんだ。
合戦で己を強さを見せ付けてこそ「勝つ」ことができた、そういう時代だ。
ここは何の根拠もなく言うけど。
273 :
261:2006/12/28(木) 03:28:51 ID:hcgyrvAe
>>262 このクソみたいな流れは262のせいってことだ。
分かりやすい煽りだが効果はあったな。クソが。
信長=元就>>>>>>信玄=政宗
>261
随分カリカリしとるようだが、とりあえず信玄の京への道のりに
信濃をいれてないのと、木曽路が大軍で行くには橋頭堡がないと厳しいのと
戦争における調略の重要性を軽んじているのはどうかと思うぞ。
>>275 横からだが
>戦争における調略の重要性を軽んじているのはどうかと思うぞ。
どこに調略を軽んじている発言があったんだ?
>>戦わず勝つって、戦国時代っていう名称を馬鹿にしてない?
この時代は戦うことが最良の道なんだよ。だから戦国時代っていうんだ。
合戦で己を強さを見せ付けてこそ「勝つ」ことができた、そういう時代だ。
ここは何の根拠もなく言うけど。
この部分だな。戦う前に十分に調略や下準備を整えておいて「戦わずして勝つ」
状態をつくるのは重要だろう。関が原なんかそれで決したようなもんだし。
もっとも完全に戦わないというわけにはいかないが、やたらめったらに戦う事が
最良の道じゃあるまい。
被害妄想じゃないか272も275も
どっちも戦争だけで勝つとか戦争外だけで勝つとか考えてるわけじゃないだろ
極端過ぎ
まあ269は信玄に国力が無かったと思う辺りがアレだが
誤解の無いようにいっとくと俺は269じゃないぞ
>>280 いや文体からして269とは別人だと思っている
上のは単に269への感想
連続で書いたため勘違いされるようなことになってしまったみたいで済まないが
>>275 ちょっと生理ひどくてイライラしてた。
みんなごめん。
女性だったのかΣ(゚д゚lll)
なんかみんなカリカリしているね。俺269だけど。
そんなに滅茶苦茶なことを書いた覚えはないつもりだったんだが。
戦わず勝つってそんなに変か?別に毎度毎度そんなことがあるとは思っていないけど。
ようは戦う前に戦略レベルで有利な条件を整えて実際の戦闘で被害を出来るだけ少なくする
という意味でいったんだが。なにも戦闘なしで本当に勝つなんて思っていないよ。
>>279 俺は山梨県人だ。今でも国力は無いぞ。逆に国力があったと思うのか?
あ、連投すまん。
>>272 えらいカリカリしているようだが別に喧嘩しているわけじゃないし落ち着けよ。
あと「運」というのは山梨の人口密度が一番だな。
>>284 確かに甲斐は国力低いけど
信玄勝てた大名はそれに輪をかけて低い
信長や元就の場合は周りが国力高いため
相手の兵力を上回るや戦わずして勝つなどの戦略は選べない時期があり
どうしても戦術で挽回する必要があった
誤 信玄勝てた大名
正 信玄が勝てた大名
>>286 ん?俺が不勉強なのかもしれんが信玄が戦った大名は上杉、北条、今川(氏真)、松平くらいしか思いつかないけど。
織田は岩村城あたりの局地戦だからどうかな?
どれを指しているの?まあ松平よりは国力はあっただろうが。
>>288 不勉強だと思います。諏訪、小笠原、村上などの信濃の大名たちと戦ってますから。
領域が一国未満でも戦国大名扱いは普通されます。
あいつらは大名じゃない、せいぜい豪族レベルだとか主張するのも自由ですが、その
場合信玄は国持ち大名でありながら豪族に負けたとなりますがよろしいか?
ええ、いいと思います。
>>288 簡単に書くと
武田23万石対諏訪4万石
武田25万石対高遠藤沢4万石
武田33万石対村上16万石(上田原の頃)
武田27万石対小笠原10万石(塩尻峠の頃)
村上は信濃の半分近くだけどそれ以外は皆1郡程度の勢力
また上杉も武田より国力は低いし
今川が滅ぼされた時は
武田は既に80万石に対し今川は40万石ほどで、それに加え30万石ほどの徳川と共同
ただ北条は武田の倍ぐらいの国力だけど局地戦で勝ったり駿河を奪い返したけど滅ぼせたわけじゃないし
信長は継いだ段階で尾張の1/4
15万石ほどで70万石超の今川と戦いながら
同程度の勢力の清洲織田家を滅ぼし
更に美濃50万石ほどの斎藤家を敵に回しながら
信長700対弟についた柴田勝家1700に打ち勝ち
一応尾張の半分を支配する岩倉織田家を滅ぼし
桶狭間で勝って
同程度の国力の斎藤家を滅ぼしたと
でこの段階で100万石超えたから単独で信長を上回る国力の相手はいなくなったため
これ以後の相手はみな織田よりも低い国力の相手となったけど
>>291 なるほどサンクス。
>武田33万石対村上16万石(上田原の頃)
>武田27万石対小笠原10万石(塩尻峠の頃)
これだといかに甲斐一国の国力が弱かったのがよくわかる。
おまけにその頃の武田晴信の甲斐での地盤は決して強固なものではなかったからね。
その点では長尾景虎も同様だろうけど。
ではこの辺で自分はいったんおちます。
今も山梨は国力が弱いんで(笑)一兆円の借金があるそうですわ(涙)
cXOk/V/I は武田以外の大名にも興味もった方がいいよ。
じゃなきゃ、ずっと
>>292みたいなこと言い続けるんだろう。
?
強い弱いは相対的なもの
後背が同盟により不安のない22万石+アルファで10万石程度の奴を相手取れば普通は優勢で当然じゃないか
信玄は悪政を行ったというのが2chでいわれる事があるんですが
実際の所はどうだったんでしょうか?
でも他国の農書や甲府の農民達から受けがいいけどな
武田家
本領での本年貢は安かったが
棟別銭やらその他の特別税が多くて高かった
このあたりは三戦板時代の過去スレでかなりやったような
>>298 まあ税の高さは一つの指標だけど、高税=悪政というわけではない。
例えば税が適正に使われ、何らかのかたちで民に還元されるなら。
その点、信玄はそれなりに良い使い方をしてたから
受けがいいんじゃないかと思ったりする。
金貨の造幣や治水、頑張ってたみたいだし。
戦費も多いけど侵略戦に勝つなら甲斐的には文句ないしね。
もちろん負けた側は辛かっただろうけど。信濃とか。
いずれにせよ実際のところは善政、悪政と一括りにすることはできないだろうな。
ああいうのは極めて恣意的な概念で、前政権は常に悪政と言われる。
信玄だけじゃなく政治一般についてそうだと思う。
農書”培養秘録”より
徳川家興りて200余年、戦国時代の旧癖は今に治せず。
それ兵法を講明する家は極めて多けれども、食料が
満ち足りるよう講明する家は極めて少ない。
故にしばしば飢餓となり、餓死者が野に満ちる
大国を領する諸侯といえども、大概みな財用のたらさるに
困りて借金の淵に堕ちいらざる者は稀なり。
故に兵法を講するといえども、内実は武備も衰えたること
甚だしい。
これ皆、食法を修めざるの禍いなり。
ふりかえるに中古以来賛美すべき至りは、武田信玄公のみ。
乱世の中といえども、よく農政を修めて境内の百姓を撫安し、
衣食富みたりて、武備もまた精鋭なりき。
故にかの家滅びてすでに200年に及ぶといえども、甲州の百姓
皆その恩を慕たいて、涙をすにいたる。
なおかつ彼の家にて堤防を築きて洪水の難を防ぎ、
百姓の為に農を勤めるに便よきならしめたる水利精要の
如きにいたりては、最も善を尽くしたる者にて、
世の宝とする所なり
絶世人英雄感嘆するにあまりあり。
軍事的には戦に勝って少しづつでも領土が拡大するなら、
従軍する者たちには実入りがあるのだし、雑兵だって略奪による臨時収入があるから、
多少税金が高くても基本的に問題はない。
信虎に対する不満が高まったのも、単純に税が重かったからでも、
軍役がきつかったからでもなく、甲斐統一以後領土の拡大が著しく停滞して、
信虎に従う豪族たちの実入りが少なくなってしまったから。
だからこそ、税も軍役も信虎時代以上だったにもかかわらず、
信玄に対しては信虎時代ほどの不満は出なかった。
ところが、長篠の戦以後領土の拡大がまた長く停滞してしまい、
一気に破綻への道を突き進むことになってしまったと。
>>301-302 別の見方をすると、信玄の経済は他国からの略奪で賄われていたものであり、
これは領土が拡大する限りにおいては機能する自転車操業でもある。
長篠によって経済が破綻したというのはたしかだが、正直、信玄があと10年
生きていても同じ状況に陥っただろう。というか、信玄晩年にすでのその兆候
はある。今川を落とした結果、周囲にあるのは上杉、北条、徳川&織田。どれ
も一万以上の軍を動員できる大国であり、侵略するにはこちらも万以上の軍を
動かす必要がある。それで大きな領土を得られれればいいが、実際にはこの頃
になるとそれぞれの城をいくつかをおとして終わりなんて戦果も少なくない。
これでは”わりが合わない”ということになる。
北条氏のように税を安くしかつ簡素化した大名が存在したのを無視して信玄賛美されると、いかにも江戸時代の政治的都合って感じがするな
>>304 実際それもあるんだけど甲州流水利土木術は
かなりのもんなんだよ。砂の多い川を堰き止める方法とか実に
こまかく記されてて、その後の堤防技術に大きな
影響をあたえてるから。
だから土性変換や気候変通を専門とした農書で
武田がベタ褒めされんのも道理ではある。
>>304 でも、北条って上杉にさんざん狩場にされたんでしょ?
いくら税が軽くてもセキュリティサービスが皆無じゃ困るな。
当時にとって治安は何にも代え難い重要項目だと思う。
>>300 全体的な善悪論には同感だけど
>その点、信玄はそれなりに良い使い方をしてたから
って具体的にこれはという点あるの?治水以外に
>>301 江戸時代後半、甲陽軍鑑にどっぷりつかった時代の評判が役に立つのか?
甲斐では江戸時代初期の伊奈?あたりだかがやった治水事業のほうが大規模のはずだが
それも何時の間にか信玄の功績となっているし
>>302 >信虎に対する不満が高まったのも、単純に税が重かったからでも、
>軍役がきつかったからでもなく、甲斐統一以後領土の拡大が著しく停滞して、
>信虎に従う豪族たちの実入りが少なくなってしまったから。
ただそれだと何で信虎の信濃侵攻が上手くいった直後に追放劇が起きたのかということになる
>>305 それは同感
徳川史観の影響がかなり大きいとはいえ
16世紀半ばに大規模な治水を行った大名を自分は寡聞にして知らない
これが後半になるとかなりの大名が行っているが
>こまかく記されてて、その後の堤防技術に大きな
>影響をあたえてるから。
ただこれは知らない、できれば体系別に詳しく
>>306 奥深くまで侵入されたのは最初の時だけで
後は北条領の外周部や親北条勢力領じゃないか
それほどセキュリティーが甘いとも思えないが
これは地理的要因も大きいと思う
武田だって駿河や信濃は荒らされたこと多いし
>>307 堤防溝キョク志に詳しくあったと思うけど
今手元にないから書けない
スマン
税が高くて払えない、これでは食っていけないと言う。
すると役人が飛んできて家族を人質にされたり、殺されたりする。
かたや税は安いが戦争のときはほったらかしにされ
家族を殺され土地を奪われ奴隷にされることもある。
どっちがいいかは当時の農民に聞いてみないと分からないな。
>>308 堤防溝恤志
キョクがひらがなだったけどこれのこと?
分類が森林工学だけど自分はそっちは何も知らないんで
別に謝らなくてもいいって
いろいろと専門書調べたことある人間なら、それをもう一度取り寄せて調べて
まとめあげるということにどれだけ時間かかるか分かってるから
>>310 それそれ
なんか尻切れとんぼな会話でかっこ悪くて
312 :
300:2007/01/01(月) 15:29:56 ID:RGhRUROc
>>307 とりあえず金貨の造幣と戦勝を挙げたが
他は、年貢を納める枡の大きさを統一した話とか?
これは土豪による中間搾取を防止したんだと思う。
でも武田のことあんまり知らないんだよね。
300はすごく適当な推測。
詳しく知ってる人がいたら教えて欲しい。
あ、自分もちょっと調べてみます。
>>309 北条だって戦争の時放置していたわけじゃないし
武田だって民を守りきっているわけじゃないし
戦争の時は何処の大名下でも基本的に同じじゃない?
信長にしたって焼かれたりとか初期にはあったと思うし
武田は農民の逃散とか凄かったようだから
当時の農民にとってはあまり良い政治だったとは思えないけど
北条以外の大名はみな似た様なものか?
>>312 『武田信玄 伝説的英雄像からの脱却』笹本正治 中央公論社
お勧めです。1997年でやや古い本ですが。
度量衡や貨幣の業績を称える一方で、信玄堤や椿道などは「信玄がやったという確かな
史料はない」と疑問も呈しています。
315 :
300:2007/01/01(月) 17:46:30 ID:RGhRUROc
4公6民の他、以下の諸役も多い。
棟別銭(家屋税)年200文、
過料銭(臨時の軍事費)、
普請役(築城や堤防の役)、など。
年貢はまあ普通の範囲だが、
棟別銭に関しては他大名に比べ明らかに高い。
過料も多め。普請役も多め。
これだけ見れば農民にはけっこうきつかったと思う。
ただ治水のおかげで新田開発ができ、水害も緩和された。
金山開発で頑張ればけっこうな賞与が出ることもあった。
悪いことばかりでもなかったと言える。
それと良い悪いは別にして収奪システムは確固と作られてる。
農民には厳しいが戦国大名としてはそれが正しいのだろう。
で、大規模な鉱山開発、治水、築城を続けた結果、
土木工事のレベルがかなり上がったらしい。
また武具・工芸関係の職人を優遇したので腕のいいのが集まり
紙細工とかそれなりにいいのができてたらしい。
そういうので、農民とは関係なく
>>305のいうように
農書関係では評価がとても高いようです。
>>307 あまりにも直後すぎなんだよ。
信濃で領土を拡大したその同じ年に信虎は追放されている。
それが極めて上手くいったことから考えても、
計画はそれよりずい分前から入念に行われていたはずで、
たまたまその年に領土拡大に成功したからといって、いきなり中止には出来ないでしょう。
仮に中止にしてしまっても、そういう計画を企てたという事実は残ってしまうから、
その後はその発覚を恐れ続けることになる。
その時点ではもうやるしかなかったと言うことでしょう。
もしも3年できれば5年くらい早く領土の拡大に成功していれば、
何とかなったかも知れないが。
>>316 正確にはその前年からじゃないか
軍鑑だと晴信の初陣とされる36年からになるけど
ただ計画が随分前からと言うのは・・・
そんな根回ししていたら普通は途中で漏れるんじゃないか?
>>317 誰もそう簡単に漏らさない。
しかしまあ謀反の理由を戦争が上手く行かないからってことだけで説明するのも厳しいな。家臣への厳しい態度、強引過ぎるやり方への反発も一つの理由だったと思う。他にも要因はいろいろあるんじゃないかね。
>>318 でもクーデーターや謀反の失敗の大半が露見しかけて無理に実行したら
やっぱ駄目でしたという例が多いから長期だとやっぱ漏れるんじゃないか
しっかりと組織立っているならともかく、甲斐の豪族の寄せ集めなんだし
ただ後段は同意、単一の理由によると考える方がおかしいな
今川がひそかに後押ししている可能性もありうるし
義信の謀反はなんでバレたんだっけ
いつになく落ち着いた雰囲気。素敵だね。
信虎が追放された要因だけど、
信虎の人格や専制性もやっぱり一因ではあるんでないかな。
外征に成果が上がらない事だけに求めるのもいけないような・・・
>>317 年は勘違いだったかも知れないが、
恐ろしく手際よく成功したことから、場当たり的な計画ではなかった可能性が高い。
なるほど失敗したクーデターは漏れそうになって慌てて実行し、
やっぱり失敗ってパターンが多いと思うが。
成功した場合はしっかりともらさずに機が熟すまで待てたからだとも言えるし。
もちろん信虎追放は単一の理由だけではないでしょう。
領土が拡大できないだけで追放では、
ほとんどの中小の戦国大名が追放されることになってしまうし。
根本的な理由として信虎の専制的な政に対する不満はあっただろうが、
領土の拡大とそれに伴う家臣団への利益の分配がもう少し多くあれば、
その不満も多少は解消されまた違った展開になっていた可能性も大いにあるだろうと。
なんと言っても当時の武田の重臣がそのままスムーズに晴信体制に移行してるしねぇ。
事後処理という程の乱れもなく信州計略にかかってるしクーデターというよりやはり追放か。
>>323 そう。成功する場合はしっかり根回ししてある。
それが仇になって漏洩、失敗することもあるけど、
漏洩を恐れてばかりでもダメってことね。
ごめん間違えた。論点は「長期」ってところか。
微妙なところだな。焦って短期でやって失敗したら元もこもないし
かといって長期過ぎれば状況も変わるし密告も出てくる。
そもそも武田の場合が「長期」に過ぎたかどうかを考えるのは難しい。
まず他家の場合を参考に、武田独自の状況などを加味して考慮する、
ちょっとめんどくさい。
織田で考えるなら
信勝謀反は信長はある程度感づいていたのか林の元に乗り込んで問いただしたりしている
荒木は途中でばれた?
松永は北陸情勢受けて突発?
光秀は突発?
陶の謀反の例だと義隆はある程度感づいていたかもしれないけど
陶の権力が強すぎて止め様が無かった?
道三の場合も気づかれていたけど土岐には止めることが出来なかった?
伊達の天文の乱だと
根回し不足か周辺諸国を巻き込んで何年もの大乱に
六角の観音寺騒動の場合は突発的だけど上手くいった?
信虎の場合はまず専制的な行いから、基本的に豪族たちの反感が高まっていた。
しかも、甲斐統一後長いこと領土拡大がなく、それに伴う利益豪族たちへの利益の配分もなかった、
確かに追放される前年に始めて領土拡大に成功したが、
それで一気に不満が和らぐというほど劇的なものでなく、
結局追放は決行されたって事でしょう。
信虎追放後のゴタゴタがほとんどないことは、
極めて広範に信虎への不満が溜まっていたということであり、
つまりその原因は慢性的なものであったことが推測される。
不満は慢性的
計画は首謀者だけである程度たてていた?
根回しは極短期間ってとこじゃないか
そもそも信虎が駿河にいつ行くかなんて計画段階では分からないことだし
330 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/04(木) 03:43:33 ID:4hS7bA0X
ずっとタイミングを図っていたとすれば長期的だったといえる。
が、もういいじゃないか。長期かどうかなんてたいして重要な話じゃない。
結果は成功した。原因は信虎の態度やら何やらいろいろ。
で、加えて戦争しても甲斐以降領土を拡張できなかったことも一つの原因だったかもしれない。
そうだとすれば領土を拡張できた信玄はその限りでマシな統治者だったといえる、と。
それだけで善政と言うには足りないと思うが。
信虎があちこちから集めた他国者の新参家臣団からも裏切られたっぽいからなー
>>332 信長に似てるな
信勝(信行)に負けて追放されたようなもんか。
もう少しうまく歯車が回転してれば、どういう業績を残したやら。
信玄が健康だったら上洛は成功するよ!
だって俺が蒼天録でシミュレートしたもん!
楽勝だったよ、その後信長倒して天下統一!
信玄強すぎ!信玄最高!離反最高!
はいはい
すごーくおもしろーい
信虎程度の領土拡大では不足だった可能性もある
信玄でさえ最初の10年ぐらいは軍役に不満を持たれていたみたいだし
信虎追放は面白いテーマだね。何せその後の家中に動揺がほぼ見られない。
もちろん信虎が残虐行為を繰り返したなんてのは眉唾だけど守護大名から
戦国大名に転換する時期にかなり甲斐の国人層に不満があったのは事実だろう。
守旧的にして分家筋が多く信虎と同格意識をもった有力国人層の守護専制への嫌悪、
領土拡大や外交政策における行き詰まりと無益な軍役負担との嫌悪、人心一新の機運など
案外晴信相続時は有力国人の連合政権における守護傀儡化が目的だったのかもねえ。
いずれにしろ武田を考える上では「守護職」ないし「守護大名意識」をもう少し検証する必要が
あるかも。信玄の「大儀なき横柄な」信濃侵攻もその意識が強いように感じられる。
まあ、戦国時代の侵攻にいちいち大儀なんて求めても仕方ないとは
思うけどな。
「一年に二度も戦する信玄は信虎と変わらない」という不満が妙法寺記に載っている
戦で喜ぶのは土地とかもらえそうな武士階級の中程度以上だけ
>>338 国人同士でもさまざまな繋がりと言うか派閥みたいなものも
あったりするからそれなりに大儀が無いと禍根とか残すよ
まあ、あっても不平は出るだろうけど
341 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 14:06:50 ID:WZkZwlXG
信玄は生涯に三回負けているらしいけど
そのうち二回は村上義清に負けた
あとの一回は誰に破れたの?
343 :
バナナマン:2007/01/05(金) 14:25:16 ID:dRRdeqd2
四回戦は一応引き分けか信玄の勝ちでしょ
>>343 信玄の弟とか重臣が何人か死んでるから局地戦としては信玄の負け
自分自身
346 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 16:36:40 ID:9Ktk1oAY
時の流れ
347 :
、:2007/01/05(金) 16:43:32 ID:f9hcXSgq
たしか長野業正に負けてなかったっけ?
>>347 落とせなかったときは信玄自身が率いてないから、どうだろう。
「3回」の真意はよく分からんな。
業正には6回攻めてものの見事にはね返されたんじゃなかった?
徳川侵攻(上洛とも)も結局失敗してるんだから負けだな
薩田峠で北条に負けてたような。
>>347 城を攻めて落せなかったってのを負けに数えると、
生涯負けなしとか言われる謙信ですらボロボロ負けが出てくることになるし、
信玄なんてどのくらいあるか直ぐには数えられないくらいになってしまう。
多分敗戦3回なんて言っているからには、そういうのは除外した上でのことでしょう。
信玄の生涯戦歴72戦49勝3敗20分
で3回負けていると言うのは
対村上の上田原
対村上の戸石城攻めの失敗
対村上の一環である小岩岳城攻めの失敗
の3つ
先人がどういう基準で選んだのかは謎だけどね
このよく伝わっている成績では信玄は業正とは戦っていないことになっている
また家臣の落とした城も信玄の勝ち戦に加えていたり
落とされた城は負け戦に加えなかったり
城攻めて落とせなかった場合は基本的に引き分け扱いにしていたり
戦いによって戦略で勝ちとしていたり戦術で勝ちとしていたり
薩田峠での北条との戦いも無かったことになっている
まあ信玄の『生涯戦歴72戦49勝3敗20分』を根拠に信玄を評価する人間メディアは
基本的に講談小説準拠と考えていいんじゃないか
長野攻めの6回はどうも信玄が攻めてなかったり、
刈り働きだけで帰ったのが混じったり、
兵力的にありえないのが入ってたり、いろいろ不明確だからなあ・・・。
甲陽軍艦が捏造の塊だからな
>>351 薩垂峠?
勝敗つかずな感じではあるが今川への後詰に行けなかった北条がむしろ負けてる。
かといって武田が勝ったとも断言できないが、少なくとも負けてはいないと思う。
357 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 22:24:35 ID:LDFia4vh
まあ、なんというか、箕輪城外を思う存分焼き払ったり奪ったりできれば
「引き分け」と当時の人は解釈したのでは?有能な将が勇猛な兵を率いて
篭る城、が大変堅いのは当たり前のこと。それをポンポン抜けなかったか
らと言って負けというのは大げさだろう。
>>357 城攻めはおとせないのが普通だしなあ。
負け、と言ってしまうのはちょっと。
相手の体力を奪えれば引き分けとしていいと思う。
>>357-358 戦争の定義からやり直しましょう。
目的を達成できなければ勝利とは言いません。
城を落すのが目的で攻めて落せなければ、その過程で雑兵を何人討ち取ろうと
究極、敵大将を討ち取ろうと、相手の国力を奪おうと、それは負けです。
逆に、端から焼き討ち略奪で相手の国を乱すのが目的で出兵して、敵が出てきた
からもしくは出てくる前に撤退したのならそれは負けとはいいません。
武田が駿河に侵攻した後に薩田峠は北条の大軍に攻めとられてる。
さらに徳川が北条と通じた。だから信玄は甲斐に撤退したんだよ。
>>359 なるほど。
俺は負けの数をやたら増やさないために負けの定義を狭めた。
でなければどうしても攻撃側に不利な判定になると思ったので。
例えば3度の攻城戦の末、4度目についに陥落なんてケースで、
結局勢力を伸ばした側に1勝3敗という数字がつくのは、微妙じゃない?
それで
>>359のように言ったんだが、
君のように「負け」の意味に拘るのもいいと思うよ。
>>360 えと、言ってることがよく分からん。
武田が駿河侵攻→薩田峠を北条が占拠→徳川が北条へ→信玄撤退
という流れだと言いたいのでしょうか?
だとすれば俺の知ってる歴史とはずいぶん違うんだけど。
別に城攻めの勝ち負けの定義とか負けの意味を狭めようとかどっちでもいいけど
問題なのは基準が曖昧なことだな
引き分けなら引き分けにすべきだし負けなら負けにするべき
大名ごとはもちろん信玄だけにしても基準がちょっとな
ついでに合戦のカウントの仕方も曖昧
正直72戦という数値なんていくらでも変えられそう
>>355 しかし72戦というのも軍鑑にしか記述が無いような武田の戦勝を数えていたりする
>>363 だいたい
>>360の言う通りでしょ
武田が駿河侵攻→薩田峠を北条が占拠→武田と北条対峙
武田本格的な衝突を裂け迂回して甲斐へ撤退
駿河の大半を北条が占拠
その間北条と徳川が同盟
戦術的には武田は北条に勝てなかったし
戦略的には駿河の大半の支配権を失った武田の大敗
365 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 23:56:20 ID:WZkZwlXG
信玄を負かしたのは村上義清だけ
また直接は戦ってないが上杉為景の軍にも勝っている
もっと評価されていい武将だな
>>361 別に微妙でもなんでもなく、その例では一勝三敗です。
信長の例になりますが、長島攻撃ではそれこそ二度失敗して三度目に成功で
一勝二敗とカウントされてますがね通常は。
>364 でも言ってますが、『信玄の生涯戦歴72戦49勝3敗20分』は勝ち負け引き分けの基準が
ものすごく曖昧、というより信玄に有利になるように恣意的にカウントしている。
>>364 同意w
正直どっちでもいいし問題は基準。
で、薩峠の話だけど北条が薩田峠を占拠って具体的にいうと何のこと??
薩田山砦も横田城も武田が制圧した上で北条と対峙したでしょ。
で、北条はこれを抜けず撤退。その後蒲原城まで武田が攻略してるし。
この一連の戦いで駿河の主導権を握ったのは明らかに武田。
>>366 通常って何よw
まあ俺が言いたいのは1勝3敗という戦歴にも関らず3敗の方が勢力拡大してる微妙さ。
数字を見てぱっと分かるほうがいいでしょ。でももうその話はいいよ。俺は君の言い分認めてるし。
それと俺は信玄の3敗とかいう戦歴の恣意性は否定しないよ。
むしろアンチ信玄だからその恣意性に大きな疑問を感じる一人。
だいたい生涯何戦何勝なんていろんな武将で言われるの全部そうだよねw
369 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/06(土) 00:48:46 ID:vy/k2O0+
ああー疲れた。全部読んだよ
ここで疑問に思うのは
「武田何しに兵出したんだ?」だ。
国力(兵力)は信長が優勢、地の利もある。
騎馬軍団みたいな特別のウリもない
で、武田信玄は「自分より弱い勢力としかやりたがらない」でオケ?
ジリ貧が恐くなってトチ狂ったのか?それとも誰かが言うように橋頭堡獲得?
思うに信長の勢力全体を潰そうなんて考えてなかったんじゃないか?
むろん京なんて本気で目指してなく。
なんてね。ただのドキュンだったのかもね
上杉為景って誰だよ
なんというか、釣りかもしれんが
「自分より弱い勢力としかやりたがらない」というのは
どこの大名も同じ。そしてそううまくはいかないのも戦国時代。
信玄にしたって国力同等以上の北条と戦って駿河を奪取してみせた実績が
あるように完全に国力上のやつとだって状況次第では戦うだろう。
北条攻めの時に芦名、越中一向一揆、甲越一和などで謙信の足をからめとって
北条を攻めて状況を打破したように、当時の信長は四方に敵勢力を抱えていて
武田だけに集中できない状況だったと思う。
この状況に乗じて上洛を狙ったのかそれともただの領域拡大かは議論の分かれる所だが
少なくとも信玄は無茶に兵をだしたのではないと思うぞ。
個人的には四方の反信長勢力と頻繁に連絡をとってたり、これに乗じて足利義昭が挙兵した
事、兵站の問題などから上洛前の橋頭堡確保だと思う。
>>367 >薩田山砦も横田城も武田が制圧した上で北条と対峙したでしょ。
そういう話しもある
ただどっちでもその後駿河が北条のものとなり
信玄は蒲原城をはじめとして各城を取り戻すための戦いをする羽目になるわけだが
その状態を持って武田有利とするのはいくらなんでもおかしい
この時点では北条が有利でしょ
>>368 >だいたい生涯何戦何勝なんていろんな武将で言われるの全部そうだよねw
それどころか信玄一人にしても基準が曖昧だからなー
小岩岳を敗戦と数えるなら藤沢や飯山、箕輪あたりの城を攻めた時も敗戦とするべきだし
滝山や高天神も敗戦とするほうが正しい気がする
若しくは小岩岳も引き分けとするべきか
まあそれ言ったら戸石崩れも城攻めの失敗だから引き分けにするべきと考えることも出来そうだが
すまんレス読んでないので流れみてなくてすまんが、
朝倉が撤退したのを詰問してる信玄の書状があるでしょ?
あれは、少なくとも最終的にはやはり信玄の目標は織田打倒=上洛、だったことの証だよね?
>>374 いや
単に朝倉が撤退すると織田の大規模な徳川への援軍が来る可能性が出るので
それを恐れただけと言う可能性もある
長期的には織田の打倒も考えていただろうけど
状況によっては織田との再同盟も普通にあると思う
たいした損害もなく、包囲を切り上げて自主的に帰ったなら引き分け、
大きな損害を受けて逃げ帰ったなら敗北、とかそんな分け方なんじゃないかな、
よく載ってる戦績とかは。
>>376 まあそのたいした損害と大きな損害の差が曖昧なのが一番の問題だな
>>373 俺は依然373がどう考えているのかよくわからん。
理解力不足。本当すまん。俺の書き方が悪かったとこもあるし。
そもそも薩田近辺の戦いは多いがどれのことかも不明なまま。
とりあえず俺の考えを示すので指摘してくれ。
1568.12.13 第一次薩田峠の戦い 武田vs今川
朝比奈信置の内応により今川軍撤退、駿府今川館までも放棄。
武田は薩田以西の駿河を攻略、さらに秋山が遠江まで一部進入。
1569.1.18〜4.20 第二次薩田峠の戦い 武田vs北条
両軍主力を率いて対峙するが、特に衝突もなく両軍撤退
北条は結局今川の後詰に行けず
1569.10.6 三増峠の戦い 武田vs北条
両軍少なくない損害受ける。一般的には武田勝利だが、そうだろうか
1569.11.28 岡部正綱らが駿府今川館を占拠
よって再び武田が駿河に侵攻
1569.11.30 薩田山砦の戦い 武田vs今川旧臣・北条
武田が薩田山砦を制圧、さらに横山城も攻略
1569.12.6 蒲原城の戦い 武田vs北条
武田が北条綱重の守る蒲原城を攻略。以降、蒲原城は武田の支配下に
1569.12.8 岡部正綱、開城
以降、岡部正綱らは武田に臣従。駿河の武田領国化がほぼ完成。
このように俺は薩田戦など一連の戦いで武田が有利に事を進めたと思うが
どの時点で駿河が北条のものになり(駿河の大半を北条が占拠?)、
いつ北条の手に渡った蒲原城を武田が取り戻したのか教えてくれ。
薩田以東の一部駿河が北条の手にあったことは同意するがほんの一部だしな。
>378さん、おれは373じゃないけど
第二次薩田峠の戦で信玄が甲斐に戻ったあと
掛川に逃れていた今川氏真が家康に和議で騙されて城を落とされ
北条領地の伊豆まで退去したんだよ。
この時氏真は北条に駿河の支配権を委譲してる。
これによってまだ駿河には各地にいくらか今川家臣が残ってたが
統治権力は北条に移り、北条は各城に武将と兵力を派遣したんだよ。
その間隙をついて北条牽制の為に信玄は小田原を攻めたんだよ。
こんな感じでどうかな?
>>378 基本的に一緒でも
徳之一色城や花沢城についてはどう考えてるの?
思うに今川勢力残党を北条と考えるか否かの違いではないかと
>>378 >>380は基本的に年号と事項は一緒、
でも駿河西部の北条方についた城についてあなたはどう考えるの?
という意味の文章
あと
>薩田以東の一部駿河が北条の手にあったことは同意するがほんの一部だしな。
一部か?富士川以東は大半じゃない?
富士川以西を一部というならまだ分かるけど
69年の秋以降は武田が駿河で主導権を握ったが
69年春の段階では北条が主導権を握っていると考えている
>>373でのこの時点と言うのは当然69年春のこと
>>379 今そこのところについて書こうとしてたw
373が379のことを言わんとしてたなら納得だが、
俺的に話が錯綜してたから確認しときたかったんだよ。
まあ、とりあえずその路線で話を進める。
第二次薩田峠で北条の目的は掛川城への後詰。
しかし北条は薩田に布陣する武田を抜けなかった。
結果、今川は徳川の圧力に耐えかね開城し、滅亡。
今川を救援する北条の目的はかなわなかった。
その意味でむしろ北条の負けと書いた。
で、武田側としても北条の目的は阻止できたが
だからといって駿河を制圧できるようになったわけでもなく勝ったとも言えない。
従って
>>364につき、戦術的に勝てなかったというのは同意する。
しかし駿河の名目上の支配権を北条にとられたのは薩田峠で勝てなかったことより
徳川より先に今川を降伏させられなかったことや同盟を破ったことに原因があると思う。
第二次薩田峠をもって武田の戦略的大敗というのは武田に酷な評価。
と、言いたかったのです。
>>380,381
問題は把握したがちょっとレスすることが多くなったので絞るよ。
だいたい上の記述でまかなえてると思うんだが。
>思うに今川勢力残党を北条と考えるか否かの違いではないかと
ぽいなあ。だいたいそんな感じな気がするよ。
>69年春の段階では北条が主導権を握っていると考えている
そこがわからん。第二次薩田峠をどう捉えるかという話かもしれんが
俺は薩田から動けない北条は後手に回っている感じがするんだけど。
どうも遅くまでつき合わせてすまんね。どーぞもうお休みください。
寝ても「論破されて逃げ出た北条厨m9(^Д^)プギャー」とか言わないから。
大丈夫。絶対言わないから。絶対。
>>382 >第二次薩田峠で北条の目的は掛川城への後詰。
ここも相違点みたいだ
自分は北条の目的をどさくさにまぎれて駿河を横取りすること
武田の目的を駿河の制圧
と考えているから
北条にとって今川がどうなろうが気にしないだろう
大義名分に利用した程度の存在でしかないと
>徳川より先に今川を降伏させられなかったことや同盟を破ったことに原因があると思う。
>第二次薩田峠をもって武田の戦略的大敗というのは武田に酷な評価。
>と、言いたかったのです。
これは自分の書き方の問題だったかも
第二次薩田峠をもって武田の戦略的大敗と言っているのではなく
それらを含めて武田の戦略的大敗
ただ武田も一部駿河を占領しているから
最初の駿河攻め全体でみるなら戦略目標の一部達成にはなるかもしれない
>>384 >北条の目的をどさくさにまぎれて駿河を横取りすること
あー。そういう見方か。
まず、俺は後詰を成功させることの意義を重視してるのかな。
あれはけっこう重要だと思うんだよね。
成功すれば周りの小勢力がなびくようになるし信頼も築けるし。
あそこで武田に勝てば駿河攻略上の意義はかなり大きかったと思うんだよ。
それと北条氏だって今川は存続していて欲しかったと思うよ。
北条氏の目は基本的に関東だし関東にたくさん敵がいる。
いつでも駿河に兵を向けれるってわけじゃないし
本拠に近い駿河は少しでも同盟軍がいたほうがいい。
どうでもいいって程ではないと思う。
>それらを含めて武田の戦略的大敗
はい同意。大敗とまでは思わないが、疑問はつくと思う。
後年の秀吉の北条攻めの際は、東海道からの攻撃で箱根城塞軍が容易く落とされてからは小田原城がいきなり包囲されて
折角大動員した兵力が封殺されて一方的に敗北、だからなぁ
387 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/06(土) 21:45:05 ID:7pkTqOET
要するに一般に言われる信玄を三回負かした武将は村上義清って事でしょ?
どのレスをどう要約したらそんな結論になるのか説明してくれ
390 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/07(日) 01:35:31 ID:xb5lt/5S
一般に信玄は生涯三回しか負けていないと言われてる
村上義清は信玄に三回勝った
=信玄に勝った事ある武将は村上義清だけ
言われているのが間違い
どうせ城攻め失敗も引き分けに加えるおかしな評価からでしょ
だいたい上州の虎こと長野の爺様が出てこない時点で……
392 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/07(日) 14:12:08 ID:xb5lt/5S
上州の黄斑 ってどういう意味?
393 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/07(日) 14:13:46 ID:LuupZxEy
AOEとかでよくいるタイプ。
内政と軍備整備に時間かけてるうちにアーチャーラッシュであぼーん
信玄は雑魚にしか勝ってない
395 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/07(日) 17:38:16 ID:LuupZxEy
信長最強これ常識
396 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/07(日) 17:47:32 ID:OgYjZ0/l
早雲最強、これ常識
397 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/07(日) 17:57:38 ID:LuupZxEy
>>396 それは否定しないが、早雲と信長では時代が違う。
398 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/07(日) 18:13:22 ID:abjatYom
今川義元にしても信玄にしてもみんな100万石超えてから天下鳥
に乗り出しているが当時の100石ってどうゆう意味があったの?
399 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/07(日) 18:24:03 ID:LuupZxEy
>>398 偶々じゃないの?
義元だって最近の説じゃ天下取りに向けての上洛じゃないって話だし、
信玄もこのスレを読むかぎり勢力圏拡大が主眼だったというほうが説得力ある。
>>398 義元は実は100万石持ってないよ
80万石ぐらい
そもそも天下取りのために動いていた、というのは後付けだからな
信長以外はスローガンすら掲げなかったわけで
みんな自分の勢力拡大と保全が第一だったんでしょう、普通に
もし本気で天下取ろうと考えてたら、例えば義元なら上洛しやすいようにより西側に本拠地を移動させるなりしたはず
確かに、目的なんてそれぞれ違うからな。
例えば天下を狙った織田、地方政権の樹立を狙った北条、義を貫いた上杉
自転車操業のため、国を維持するためにひたすら侵略を続けた大名もいる。
>>402 >義を貫いた上杉
( ゚д゚)ポカーン
404 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 12:04:46 ID:d3F87slv
>義を貫いた上杉
>義を貫いた上杉
>義を貫いた上杉
>義を貫いた上杉
>義を貫いた上杉
>義を貫いた上杉
>義を貫いた上杉
関東に援軍送ってやっただろうが。それも14回も。
こんな事してくれる大名は他にいないぞ。
それと多少の略奪は仕方のない事だ。
じゃなきゃ国人は言うこと聞いてくれないし
>>405 援軍じゃなくてしっかり領土奪ってるじゃないか
ついでにいえば謙信ほど同盟者を裏切った大名は戦国期といえど珍しいぐらいだぞ
>>405 人身売買は?
はっきりいってやったことだけ見ていくと信長のほうがよっぽど義に溢れてるよ
まあ人間バーベキューよりはマシって程度かな
あのコピペも馬鹿が張り付け回った上杉謙信のコピペと変わらん。
人身売買って上杉ばかり騒がれているが、どうなんだ?
>>410 武田もすごいよ>人身売買
ただ、人身売買はどうでもよく、謙信の政治上の言動をみるととても義の人とは言えん。
人身売買ってなんだ?西洋でも名のある家の者は殺さず身代金でかたをつけてたけどその事を行ってるのか?
ああ、武田様は豪族虐殺とか一族一門金山送りとかやってたみたいだけどな。
413 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 17:45:16 ID:MztopU8+
春秋に義戦なし
負けた腹いせに城下を荒らしまくって帰る軍神上杉謙信w
416 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 19:46:57 ID:tXSUCSBw
武田信玄の本を読んでいて、疑問に思ったことがあるのですが、よろしければ
お答えいただきたく。
武田信玄はなぜ早い段階で美濃のほうの攻略をしなかったのでしょうか?
そのほうがよっぽど早く上洛できそうな気がしてくるんですが。
やはり、武田にとっても斉藤は手ごわいんですかね?それとも、上杉が
いたから?または、駿河のほうからでないといけない理由でもあったとか?
417 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 19:54:43 ID:/ZQ2kM+9
418 :
416:2007/01/08(月) 20:02:16 ID:tXSUCSBw
>>417 それは、今川・北条と同盟をきってからですよね。それよりも前の段階で
美濃攻略をしなかたったのは何でかなぁと。
美濃の国力を舐めちゃいかん。それに交通の面もあるしね。
それに
>>417の言う通り海に面した領地ってのは重要だよ。
>>416 今川義元が倒れるや否や、武田は今川との同盟破棄するとともに
織田とは友好的な関係を築いているんですよ。織田の親族が武田に
人質として差し出されたんじゃなかったかな?
その織田は斉藤を攻め立てたわけで。
要するに当初、武田は今川領を織田は斉藤領を欲したわけ。
斉藤領を武田と織田とで食い合うよりも信玄は弱体化した
今川領のほうに魅力を感じた。
三国同盟破棄前なら理由は
謙信と川中島で争ってるからでしょ。
もし謙信との争いがなかったなら美濃方面から上洛しているはず。
当面の問題のない今川義元は将軍の命令に従って西上している。
将軍の命令?
よく美濃から上洛しろと言う人が出てくるが
武田が簡単に美濃を取れるとはとても思えん
美濃からって人は信玄だったら楽勝とでも思ってるの?
できたならそうしてるだろ。
当事者の信玄がしてないんだからそれが最善だったんだろう
だから信濃―美濃ルートは無謀だと何度言えば(ry
信濃から美濃は山路だから大軍や兵糧の輸送が難しいのでは
交通の発達した東海道の方が大軍を率いての上洛がしやすいと思う。
もちろん海に面している利点もあるだろうし。
そもそも、木曾氏が武田に服属するようになったのが結構後のことじゃなかったか?
>>427 1554年か55年
2回目の川中島の時だな
交通面は同じ山道の上野を攻めれたことから
飯田から東美濃を攻めることは可能だろうけど
謙信とやりあってる上に
美濃は50万石超の大国
謙信とある程度停戦和睦が出来たとしても
信玄が勝てるかどうか
>>420 >今川義元が倒れるや否や、武田は今川との同盟破棄するとともに
>織田とは友好的な関係を築いているんですよ。織田の親族が武田に
>人質として差し出されたんじゃなかったかな?
それは違うと思う
三国同盟の完全な破棄は68年
武田と織田が同盟結ぶのは65年
人質ではなく信長が養女としていた遠山家の娘を勝頼の嫁に送った
430 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/09(火) 10:36:22 ID:b+Wq4m6a
結局、信玄はどうあがいても天下なんぞ取れなかったということだな。
上洛できたところで、信長みたいに大胆に本拠地を移すという発想も
なかっただろうし。
もし信玄が上洛を果たすなら、南部晴政と同じように日本海経由で若狭から京へ向かうのが一番だが、
そもそも信玄は日本海を見ることなく終わった。
ある意味、謙信との対決は日本海経由の上洛ルートを拓くためだったと言う新書をこの間読んだ。
木曽路を抜けて美濃を攻め取るより楽だと考えたかも知れない。
>>431 謙信を完全に打倒し、さらに北陸の全て制圧して京に抜ける上洛ルートの
どこが美濃コースより楽なのかわからんww
景虎の力量を見誤っていたのだろう。
越後は為景・晴景・景虎が三代に渡りほぼ掌握されているように見えるが、
実際には国人たちも信服している様子がない。
美濃の方が手ごわく見えたんじゃない?
一向宗と折り合いがつけば北陸の制圧は容易な気がするが
上洛と言うのが謙信みたいな上洛なら
若狭湖西は半ば将軍家の管轄だから平和裏に上洛は出来そうだ
顕如に嫁を出してるから、本願寺や一向宗への折り合いは問題ないんじゃねの
>>433 いや、謙信だけじゃないから。
日本海コースだと越後、越中、加賀、越前+近江か若狭を制圧
木曽路コースなら美濃、近江だけでOK
いくら一向宗と友好関係にあるといっても何があるか分からんし
領地が接すれば問題が起きることは十分あるわけで。
それに加賀を素通りできたとしてもまだ木曽路の方が楽。
>>434の言うような上洛だけなら別に日本海に出ずとも
美濃を通っていけばいいわけで。まあ、いずれの上洛にせよ
上洛のために日本海ってのは新書らしく飛躍した話だと思う。
越後の直江津から若狭まで船で行くとか
438 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/09(火) 18:12:52 ID:b+Wq4m6a
そもそも信玄は上洛して何をするつもりだったの?
源氏の名門の俺が上洛して将軍を奉じて天下に号令をかけたら
皆が平伏するとでも思っていたのだろうか。
その前に信長を倒さなければならないわけだが、無理だろ、兵力2倍でも怪しい
> 美濃を通っていけばいいわけで。
甲斐源氏の名門武田が、成り上がり者の斉藤道三を信用する理由が無い。
仮に、武田信玄が上洛を目指していたとしたら、その理由は、天下に号令するという理由ではなく、
息子に偏緯を賜って宗家としての権威を確立して、領国経営を安定させることが目的でないのか。
それを脅かすかも知れない仮想敵である隣国を信用して、のこのこ上洛するほど信玄はお人よしではないだろう。
海路経由であれば、天候しだいで厄介な隣国をパスすることも可能だ。
不可能でしょうよ
443 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 00:53:56 ID:KXBD9Afr
謙信も簡単に上洛してるし、越後を取って
たまに京に遊びに行きたいという野望があったのかもしれない。
445 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 01:10:02 ID:Ubfqmgdq
父親を追放し、嫡男を幽閉して殺し、三男に跡を継がせず
お気に入りの側室の娘の子供を跡継ぎにして国を滅ぼした信玄万歳!
人は城、人は石垣、人は堀とかよく言うよ。
またまた、義信事件の本質や
年齢からして勝頼が後継となるしかなかった事情を
全くわかっていない荒らしがいるのか・・・・
人は城・・・の言葉なんて、信玄はひとことも発してないんだけどね。
早い話が
「人は商品」
でFA?
木曽路からの攻略はあり得ないだろう。木曾谷と東濃は信府の後背地。
それと謙信の二度の上洛は軍事的なものではなく領国経営の権威付け。
しかも朝廷と幕府に対する「公式訪問」だ。信玄の「上洛」とは話のレベルが違う。
まあ甲府を本拠とする限り上洛作戦も領土拡大の一環だと自分は思うがなあ。
当時の織田家の石高はかなりアバウトだが武田家の約6倍。畿内での商業収入も加えたら織田の経済力は計り知れない
もし信玄が生きていて織田領内に攻め込めていても、
織田家が本気になれば他の敵対勢力を相手にしつつ武田の兵を圧倒的に上回る兵の動員も不可能ではなかった。
ただでさえ不利な攻める側なのにあの兵力で本気で上洛する気だったのか知りたい
>>445 それは間違い
正しくは 人は尻 人は石垣 人を掘り
>>450 6倍は絶対ありえない
1572年じゃ武田は100万石ほど
それの6倍って言ったら600万石になる
尾張美濃伊勢近江若狭山城摂津河内和泉大和
すべて足しても400万石いかないぐらいだぞ
正確にはテンプレ見ればわかることだが
453 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/11(木) 00:08:53 ID:V1gO0SVk
ラインハルトさまは、自分の数倍
あるが兵力分散した同盟軍を
各個撃破したな
ただ、信長は信玄軍を十分ひきつけてから叩くつもりだったと思う
信玄軍が本当に一直線に京都行くつもりなら、だけど。
銀英伝の戦術は実際にやったら失敗するものが多い
例を挙げるなら他のにしたまえ
「尾張の弱兵」伝説を忘れたか。
尾張兵3人=三河兵1人、三河兵3人=甲州兵1人、とかいう強さの公式があるそうだが、それでいくと尾張兵9人を甲州兵1人で相手できることになるぞ。
俺は織田の何が嫌って、ビジネスライクで武士の美学がないところだな。
銭を旗指物にすんなっつーの。
>>641>>645 信玄が死んだ当時の状況から考えれば、武田軍があのまま京に向かってきたら信長としては本当にやばかった。
信玄は一向宗とともに信長包囲網の代表格だったから、武田軍が上洛してきたら、反信長勢力はさらに勢いづいただろう。
長篠で織田・徳川が勝てたのは、長篠城にこだわり、敵に挟み撃ちされる状態になったのに撤退せず、軍議の場で「御旗・楯無も照覧あれ」を言ってしまったバカ勝頼のおかげ。
信玄相手だったら、ああはいかなかった。
家臣に裏切られて殺され、死後、家臣に家を潰されたバカ信長の信者乙。
458 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/11(木) 01:34:53 ID:sNC5SpMy
6文銭あげ
>>457 真田の六文銭は、「この銭を持っていつでもあの世にいってやるよ」という決死の覚悟の表れ。
ただ銭をリアルにデザインしただけの織田の旗とは一緒にすべきではない。
だいたい何だよ、「天下布武」って。
要は「日本を武力で統一します」って宣言してるだけで、何の深みもない。
やっぱり織田はクソだな。
>>459 いろいろ大変だと思いますが、お幸せに。
>>460 皮肉どうも。
信長厨がウザいだけなんで、心配ご無用。
462 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/11(木) 09:51:46 ID:C7TR1qxU
アーッを一回でも減らしておけば
徳川くらいは滅ぼせたかも。
そーすれば、勝頼にバトンタッチしたときに
歴史がかわっていたかも。
>>461 流石に釣り針隠さないと誰も食いつかんよ
てゆーか最近のレスで信長厨いたっけ?
このスレをクソスレ認定します
御旗楯無ご照覧あれれ?
>>452 太閤検地からのデータでは、当時の信長の領地だった所からは約450万貫、甲斐、信濃、駿河からは77万貫が
70年と検地の時じゃそんなに違いあるの?
ヒント 西上野 三河 遠江 美濃 飛騨 あと信長はそれらのすべてを領し
ていたわけではない。
ていうか、テンプレを見れ
469 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/11(木) 21:15:41 ID:yD719WR+
てか石高だけの動員力で計算するからおかしなことになるんだよな。
米の価値や流通ルート、商業的な収入や貨幣の流通やら色々考慮しなきゃどれだけ兵集められるか分からんし
まぁそんなもんデータに残ってないから正確なのは分からんだろうけど
470 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/11(木) 21:36:05 ID:At/tryt6
信長厨まだいんのだからスレが糞になんだよ
471 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/12(金) 12:51:34 ID:/9SpW+Vb
テンプレ通りの領土支配率で大雑把に貫高計算すると
尾張・・・570000
美濃・・・486000
近江・・・542500
伊勢・・・392000
三河などその他・・・約40000
計2003000貫
甲斐・・・230000
信濃・・・390000 駿河・・・150000
上野や遠江、三河など・・・約200000
計970000貫(ただし上野や遠江の土地が山岳ばかりなのを考慮せず)
収穫だけで計算すると差としては二倍とちょっとくらいだったのかな
472 :
OPS:2007/01/12(金) 13:51:00 ID:gnXa8wFe
信玄が上洛できたではなく信玄に上洛の願いがあってもすでに数年前から
労咳の症状があるのだから信玄が後五年長生きしたらとしたほうがいいと思う。
ちなみに信玄が長生きしても天下は取れていない。
せいぜい信長を京都から追い出すことくらいしか出来ないと思う。
己の死期を悟って、ええい!いっちゃええ!ってとこだろ
474 :
OPS:2007/01/12(金) 14:03:18 ID:gnXa8wFe
戦国期の間に生産力の変動があっただろうしな
信長の統一後戦火とほとんど無縁だった尾張なんかは滅茶苦茶発展してそうだ
逆に謙信の管領就任記念の遠征の時には「相州亡国」と記録に残るほど徹底して略奪されたそうだからかなり酷いことになってただろう
>>475 信長は、灌漑や治水事業を行ったという記録が残っていないので、
その間に尾張の生産環境が好転したという理由はあまりないんじゃないかな
どっちかというと三河の徳川のほうにそういう記録が散見される。
また、信玄率いる武田は灌漑と治水の功績で後世名を残しているわけだが。
(もっとも、信玄がやったわけではない事跡も信玄のお陰になっていたりする)
そういえば信長政権下での柴田勝家や佐々成政の治水事業はいろいろ記録にあるのに
信長の直轄事業での農村政策ってあんまり見かけないな
尾張は広大で肥沃で豊穣な濃尾平野がある。
そんな水害を気にしなくてはいけないような地で、
耕作する必要もしなければ、
耕作しなければならないほどの人手もこの時代はいないでしょ
479 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/13(土) 14:08:28 ID:5Tzy0/vm
道路整備が有名なんじゃないか
軍の機動力も上がるし、流通の面でも
効果大。治安もいいし物も売れるから
農民としても作物を作れば作るほど売れるという
相乗効果で繁栄していたのではなかろうか
あのな、治水事業なんてどの大名でもやってるの、当然のこと。
その当然のことを信玄だけやたら特別に取り上げているだけ
481 :
OPS:2007/01/13(土) 16:53:31 ID:LLC6MbNu
尾張は気候がそこまで厳しくないんじゃないの。
今もそうだし。
482 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/13(土) 18:05:42 ID:TfseLCxS
信玄だけやたら特別に取り上げているだけ
信玄だけやたら特別に取り上げているだけ
信玄だけやたら特別に取り上げているだけ
信玄だけやたら特別に取り上げているだけ
>>482 そんなおかしいか?
そのとおりだと思うけど。
>>483 武田の治水は特に技術的に高い水準にあるから有名
485 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/13(土) 22:56:32 ID:xgwhVJmt
信玄堤は事業として他に比べて大きかったんじゃ?
尾張は昔から水害が多発する地域じゃなかったっけ?
特に初期の信長にとっての重要な商業拠点だった津島は、
周囲に弥富とか輪中地域が多いから水害の被害はあったんじゃないかな。
秀吉が堤防作ったり、江戸時代に薩摩藩が千の松原のとこつくったりしてたような・・・
と、戦国時代に詳しくない愛知県在住のROMがいってみました。
>>456 まあ信玄がもっと長生きしても大規模な西上作戦は
死ぬ間際にしかやらないだろうから成功率0だろうな。
488 :
OPS:2007/01/14(日) 08:49:33 ID:eRJIlkcE
僕愛知県に住んでいますが台風は少し激しいですが雨はそこまで激しくありません。
西上作戦の成功はないという結論が出たのでしょうか。
>>488 現在は度重なる治水事業を経た後だから。
戦国時代の尾張は水害多発地帯で間違いない。
だからこそ江戸時代に大規模な治水工事が行われた。
490 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/14(日) 16:54:27 ID:6k4XmEy+
木曽三川の暴れっぷりは有名だろ?
>>488 名古屋市内で育ったならガキの頃に社会見学で木曽三川の千本松原へ出かけて
木曽三川のどうしようもない暴れっぷりも過大に聞かされて育ってるはずだが
何も勉強してなかったのか、それとも登校せずに引き篭もっていたのかw
実は愛知といっても三河地方の人の可能性もあろうかと。
寶暦治水は愛知県内の社会科で普通にやるんじゃねぇの?
良く知らないけど。
ちなみに千本松原地点を中心に行われた木曽川治水工事は、寶暦の薩摩藩の手伝い普請で行われ、
藩が潰れるんじゃないかというくらいの巨費を投じても、ついに完成しなかった。
千本松原の瀬割り堤は、総延長の1/10も造れずに頓挫した、
折角造った大ぐれ川の洗い堰は、藩士が去った半年後の洪水で簡単に壊れてしまった。
それ以降、二本松藩が担当した第11回目の手伝い普請まで次々治水工事が行われたが、
千本松原の瀬割り堤はとうとう完成せずに、明治を迎えている。
実際問題、信長がどれだけ裕福でも、木曽川治水には手の付けようがなかったんじゃねぇの?
やりたくてもやれなかったと。
聞いた話なんだが、木曾三川は地形から水は尾張側でなく伊勢側に溢れやすいんだそうな。
尾張の治水は領主レベルで個別にやってたから〜の功績とはっきり残らないとか、そんな事情?
http://www.cbr.mlit.go.jp/kisojyo/production/ryuuiki/suigai/main2.html 木曽川の水が西に向かって溢れやすくなったのは「御囲堤」が作られて以降の事
それ以前は、水の到達が早い揖斐川や長良川から尾張方向に向って溢れる現象もあったようだ。
それぞれの川の洪水到達時間が違うことから、尾張と伊勢の低湿地では洪水の往復ビンタ状態で、
水は長い時間引くことが無く、水に漬かった作物はすべて腐ってしまったそうだ。
従って木曽三川地帯での治水は霞堤のようなものでは駄目で、
中世から「輪中」と呼ばれるものが発達してきた。
これらの堤防の建設と補強は郷村単位の責任で、領主の出る幕はなかったんじゃないか。
仮に出る幕があっても、輪中堤防の補強程度の工事では、歴史に残らないんだろう。
それで信長の治水実績は歴史に残ってないんじゃないか。
>>496 すごく説得力あるな。同意。
普通、治水といえば複数の郷村にまたがる問題だから
一つの郷村だけでは対応できず領主権力が必要になる。
逆に各郷村で対応できる、せざるをえない場合なら大名は出る幕ないな。
ちょっと輪中に興味もったのでwikiを読んでみた。
こんな酷い環境でも人間は住もうとするんだな。すごい。
輪中、極めて特異な住環境。小学校の教科書に登場するわけだ。感動した。
武田は大したことない派は
信長派なんでしょ
武田ファンだけど過大評価は嫌だ派かもよ
ヨイショが好きな奴ばかりじゃないってことさ
武田の幻想をきかされて育ったが調べて残念になった派かも。
まあ2chにありがちなんだよな
世間で実像以上に評価が高い人間を必要以上に貶める
503 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/16(火) 03:19:25 ID:gVdmjZQ3
,. / |´ ̄`ヽー- 、 ト、 , -‐、/./.- 、 米国より戻ること風の如く
/ | | ヽ l l ( 火◇風 ノ
/o ̄`ハ._.ゝ===┴=く.ノ- 、 ノ ◇ ◇ ( 打席に立つこと林の如く
/o O / l´/ /' '\\ lo ',ヽ ( 山◇ 林 }
\___/. ト、 -・=- , (-・=-ハ ∧ `⌒/7へ‐´ 不振の言い訳すること火の如く
/ ,イ レ_ "" ) ・ ・)("" ミl~T--‐彡 /./
/ ̄ ̄l. 彡、┃ノヨョヨコヨi┃ノ'l l::::::::::彡ー7⌒つ、 年俸の札束こと山の如し
彡:::::::::::l ト、.┃ |ユコユコ|┃/| l::::::::::::ミ {,_.イニノ
彡ソ/ノハ ト、┃ヽニニニソ┃,イ 川ハ ヾー‐'^┴
┗━━┛
しかしそこまで貶めてる香具師はあんまいないような。
信玄があと5年生きてて(その5年で信長を京周辺から追い払う)
なおかつ勝頼が信玄時代からの宿将達の言う事をもうちょっと聞いていたら天下を取れたかもしれない
配下に真田親子が揃うから戦争も強いしマジで天下狙えるな。
ゲームなら。
宿将達の意見を聞いてるじゃないか、軍鑑の捏造ならともかく史実なら
両職や比較的大身の領土を持った家臣達に逆らってたのなら、信虎のようにいくら戦績があろうと排除されるのが武田家なんだから
単に信虎と信玄の父子仲が悪かっただけだろ、なんで武田家の体質みたいに言ってるんだ
信虎の親父もその前も、親子の相克があったから。
仲が良かろうと悪かろうと
個人の勝手で追放なんかできないって
大名家をなんだと思ってるんだ…
511 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/16(火) 17:43:20 ID:uCUxFPBA
親子の相克なんて武田家無いほうだよ。
最後は信虎も戦力になるんじゃないの?
九鬼を一蹴した信虎がかっこいい
512 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/16(火) 18:46:58 ID:HPeJsGTY
蒸しかえして悪いんだけど、武田に騎兵は存在しなかったってことだが、
そもそもみんなが映画で見るような騎兵って想像の産物でしかないと思うんだが。
映画で見るよな演舞の剣戟が現実にはないのと同じようにさあ。
映画で馬上同士で剣をよくあわせたりしてるけどさ、
あれおかしくね。剣が短いから、あわせるだけが精一杯で
とても相手に傷を負わせることできんだろってかんじだし。
その前に、騎兵の速さをいかさず馬上ののろのろ剣をあわせてたら
足軽のいい標的だろっていいたい。
やっぱ、騎兵ってのは移動力重視のために存在してるんじゃないか?
敵がいないところに神速の速さで兵が現れるというところに騎兵の強みが
あると思う。あと敵を混乱させる役目とか。
その点、武田に限らず、坂東武士は義経の馬の使い方といい
馬術に長けていたと思う。
ただいくら馬術に長けた武田家とは言っても、
馬で横に列をくんでランスを構えて突撃するっていうヨーロッパで
用いられた戦い方はなかったと思う。
でも、それにしても一旦突撃して相手を撹乱てのが主目的であって、
相手の戦線がくずれれば追撃するのは歩兵が主役で、
騎兵も個別に逃げまどう兵を後ろから殲滅していくだろうがお手伝い程度だと思う。
騎兵なんて姿はかっこいいが映画で見るより地味な仕事だよ。
逃げまどう歩兵を後ろから速さでもって槍で突いたりするのはとても美しいと思うけどさ。
>>509 信虎とその親父の間に親子の相克なんてなかったが。
>>512 悪いと思ってるなら蒸し返すなよ包茎
該当スレでやれ
蒸し返すと言っても、
「だと思う」だけでは正直話の対象になれないわけだが。
だからと言って「〜だ」でも話の対象にはならないな
517 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/16(火) 22:16:15 ID:pJRDj+Ob
そもそも騎馬隊を講談に組み入れた人は、
何から騎馬隊を思いついたんだろう?
元々騎馬隊という概念はあったのかな。
518 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/16(火) 22:30:37 ID:xTiYCSE6
519 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/16(火) 22:42:21 ID:f/P8TwRh
とりあえず木曽は名馬の産地だな
関東や奥州は昔から牧場がたくさんあって名馬を排出してたが
江戸期になって関東が都市化したため馬といったら木曽というイメージが
できたんじゃまいか?そんで武田軍ウマーみたいな流れになったとか。
520 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/16(火) 23:14:43 ID:4kI89FXr
織田は城や砦の作り方・攻め方がうまいのに対し、
武田含む関東の武士は、用兵術や兵の精強度訓練度重視の感がある。
騎馬隊は存在しなかったかもしれないが
武田は騎馬の機動力を生かした戦いが実際得意だったと思うね。
だから武田軍は平地戦が強かった。
という妄想が江戸時代に流布したんだな
戦いの前の下準備の差で既に勝負は付いてただろう
三河兵が強かったとか評判だが、三河の足軽1人で敵足軽を3〜4人殺してたわけじゃないだろうし
>>521 というのが鈴木眞哉の主張だわな
以前軍事板でもこの「騎馬軍団(特に騎馬突撃)」についてスレ建って、
えらい議論になった事があるが、よくよく議論を読んでると、
騎馬突撃否定派は「映画影武者みたいな突撃あるわけない」とし、
「騎馬突撃があるとすれば、追撃戦とかくらいだろう」と主張。
で、これに対する騎馬突撃肯定派の意見が面白くて、
まず、「否定派が主張するような無謀な突撃あるわけがない」と頭から否定派に同意、
その上で「騎馬突撃というのは追撃とかで行われるのが普通なんだ」と反論してて、
結局双方考えているものは同じであるのに、意見が対立しつづける、という滑稽な結果になっていた。
もっとも「騎馬隊否定」の御大鈴木眞哉なんかは、
最初のころは「騎馬突撃はない。みんな下馬して戦った」と、
合戦中の騎馬武者の存在すら否定していたのが、
最近出た歴史群像の中では、
「合戦中の騎馬武者はいくらでもいた。追撃戦としての突撃ならあっただろう」
と主張が微妙にかわっていたのが面白かった
「否定派」が否定したいものと、
「肯定派」が肯定したいものとが食い違っているのに、
互いに譲らず議論しつづけてる印象を受けたね
524 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/16(火) 23:53:47 ID:pJRDj+Ob
まぁ、ただの農民だからね。
足軽の強さに大差はなかったろうよ。
三河兵の特徴というかあそこの軍団の特徴は、
家康が三河統一以後、石川、酒井の両家老のほかに「旗本一手役」なる、
家康の直轄軍を創設してこれを強化して徳川軍の主力にしたのが大きいよね
「領主連合」の色合いが強い当時の大名家にあっては、
大名自ら意のままに動かせる画期的な軍団だと思う。
本多忠勝、榊原康政、井伊直政、大久保忠世など、
後々「三河軍団」の代名詞となる有名な将のほとんどは、
この旗本一手役出身だもんね
武田ってこういうの組織してなかったのかね?
526 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/17(水) 00:08:00 ID:gg1oQFIn
>
>>523 では、騎馬隊があった可能性はあるが、映画のような集団での突撃があったかは不透明。
そして現在知られている騎馬隊とは、源氏の騎馬武者が大好きなある講談者が、武田の立地と
徳川様を追い詰めた武田が弱いわけない、という大義名分で
造り上げたファンタジー?
個人的には、川中島四回戦での高坂・馬場隊の戻りの速度がわかれば
騎馬隊の有無も判明すると思うのだが。
そんな戦いあったかは知らんがね。
527 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/17(水) 00:11:50 ID:gI+5had0
>>524 江戸時代の農民みたいな存在じゃなかったと思うぞ。
一家に一馬一牛くらい飼っていつでも兵役やりまっせってくらいのゲリラ兵じゃまいか?
>>526 俺もあったのかどうか知らん
つか「騎馬隊」という騎馬武者だけの兵科についても件のスレでは否定的だったね
「寄親寄子」の制度が基幹の当時において、
そんな事はありえない、と
可能性としては各武将が指揮する備の中でならば、
「騎馬組」を組織する事はありえなくもないだろうが、
備の一つが丸々騎馬隊などはありえない、という話だったね
さっきも書いたけど、
肯定派も否定派も双方考えている事は似ていると思う
・時代劇のような突撃はない
・騎馬隊という組織はない
・騎馬の活躍は追撃やかく乱などがメインと考える
などなど。
ただこれを「だからこんなん騎馬突撃とは違うんじゃボケ」と否定するか、
「アホか、これこそが騎馬突撃なんじゃボケ」と肯定するか、
それだけの違いでもめてる感じだった。
そのスレの中に限ればね
529 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/17(水) 00:18:51 ID:gg1oQFIn
>>527 もしそうだとしたら、馬の産地である武田の兵は
めっぽう強い事になっちゃうじゃないか。
・・・・ん!?
>>527 つか武田(特に甲州兵)はそういうもんでしょ
だから、「畑仕事があるときは仕事は出来ません」みたいなのを言うやつもいるわけで。
そしてそいつらまとめるのに武田は苦労してきていたわけで…
531 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/17(水) 00:27:55 ID:r9+tH2rG
>>529 それは大丈夫だよ。農民だから農作業しなきゃいけない。いくさは小遣いかせぎ
いくら馬の産地と言っても、
一人一馬というほど馬はいないわけでw
533 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/17(水) 00:31:20 ID:r9+tH2rG
それに馬なんてそのころみんな飼ってたよ。たぶん
平時にはトラクターもない当時、
農作業にも頑張ってもらわないといけないし、
合戦になったら貴重な移動手段だし……
まあむざむざ死ぬのがわかっている「影武者」のような贅沢な使い方は出来んなw
千人規模の戦では、五十騎位の騎馬武者の突撃でも
効果は十分あると思うが
精強な者を選りすぐれば十騎でも行けそうだ。
五十あれば流れを変えることもできるかもな。
しかし50は50。下手すれば少数精鋭を使い減らす危険もある。
やはり奇策か劣勢側の挽回策に思えるなぁ。
騎馬ってのは敵にさらす面積が広いから、防御においては劣る
騎馬だけを(しかも当時の身分ある人を)単独で突っ込ませるのは効率上も社会体制からも無理でしょ
歩(軍役で同行させた部下)騎混成の突撃がせいぜいじゃないの?
隊列を整えている敵部隊に少数の騎馬武者が突っ込んでも弓矢の餌食だろう。
乱戦のところに突っ込んでも乱戦で身動きが取れなかったら馬を狙われて落馬して終わりだし。
そもそも騎馬武者って、実際に戦闘する時は下馬するらしいが。
542 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/17(水) 11:18:34 ID:49HsNE0M
チンギスハンとかティムールみたいにいかないものかね。
大陸でもサファヴィー朝は騎馬で突っ込んでオスマンの火器
にやられちゃったみたいたまけど。
地形的に騎馬の大部隊が動きやすい場所が日本じゃ少ないし
仮に騎兵部隊を編制できたとしても、無駄が多すぎて使い物にならないんじゃ?
まして日本の場合、鉄砲が爆発的に普及して戦国後期だと三割の装備率に達するし、既存の弓矢とかもあるし
だから甲信地方の山岳地に強い品種なら編成できたんじゃないの?
軍用馬として使える馬がでるのは十に一つぐらいの割合らしいし、50や100騎分を生産するのは無理というわけじゃないとは思うが
>>544 山岳地に強いからって地形を無視できるわけじゃない
結局のところ険阻な起伏であっぷあっぷになるか、分散を余儀なくされたところを袋にされるか
そんなところじゃないか?
だいたい、武田家の騎馬の率自体がそもそも高くない。騎馬だけを分離できるほど余剰があるとも思えない
昨今騎馬のみの編成が否定された要因としては、
先ず第一に当時の軍役に関する資料の研究が進んで編成が明らかになってるからだしな。
武田なんかはむしろ歩兵の組織的運用の嚆矢として注目されてるくらい。
後はまぁ、大陸や欧州のように使うには単純に馬という資源が足りなかったという事もある。
日本でも数があれば大陸の弓騎兵のような編成は可能だっただろうけど。
伊達が少数だけど鉄砲持たせて運用したって話があるよね。
騎兵は、突撃をまちうけられたらとてつもなく弱い兵種。
欧州でも長槍隊や弓隊が騎兵を破った事例はいくらでもある。
騎兵を敵真正面に突撃させるのは、相手が民兵かよほど準備不足でないかぎり
自殺行為に近いと言えるだろうね。
突出した相手を横から強襲ってのが基本的な使い方で
騎兵は奇兵としての役目しかないように思う。あと斥候・伝令か
鎌倉時代は一騎駆けがあったらしいが馬上から敵を左に見て矢を射掛けるのが基本で、
一騎打ちについては刀はほとんどつかわず、とっくみあいで馬上から落として短刀で首を取る
ってのが常だったらしいね。
騎馬の話しになった途端に盛り上がってるな。
しかしスレ違いなので巣にお帰り
550 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/17(水) 19:06:20 ID:/RK/pLSj
流れを変えるが、信玄って信長や家康に見られるような、
「専制体制」を領国内で完成させてたの?
織田の場合は言うまでもなく、
徳川の場合でも直轄の旗本先手備を常備軍の一つに据えて主力として、
大名の専制体制を作ってたわけだけど、
武田の場合はどうなんだ?
551 :
OPS:2007/01/17(水) 19:54:25 ID:rwZcx6hc
武田が天下を取るには本拠地を上方の近くにおいてそこを本拠地にしなければいけないし。
西上作戦の際の二万五千の兵力のうち八割方が農民だろ。
>>548 古代の槍兵は?マケドニアのファランクスみたいな。
ゲルマンのシールドウォールもなかなかの防御力で、
弓兵との連携によってやっと撃破しているわけで・・・
日本と西洋じゃ全く違うから比較しても意味無いんですが、馬の種類が違う槍も違う
戦い方も違う考え方も違う土地も違う
>>550 まずお前の言う「専制体制」の定義を明らかにしないとどうしようもない。
しかしそれはたぶん不可能なのでその質問は却下する。
>>552 重騎兵による突撃をいかした攻撃は馬の品種改良のすすんだ中世ヨーロッパから
始まったらしいから、古代の騎兵は機動力のみを優先させえた奇兵としての
役割が大きかったんだと思う。だから古代で騎馬の突撃はなかったと予想してみた。
結局さ、否定派は「映画影武者みたいな突撃」じゃねぇ!!
って勝手に騒いでるだけで
肯定派は、映画なんか最初から誇張に決まってるのに、と思ってる。
つまり、映画と事実を区別できないような奴が、勝手にショック受けて騒いでるだけ。
>>556 むしろ実際の騎馬部隊の運用を知りたいな。
武田やその他の戦国大名での。
映画みたいな突撃を単独で行えば
ネー元帥の二の舞ですよ
558 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/17(水) 22:50:52 ID:611sjg7q
>>554 「専制体制」って言い方は大げさだったね
要は徳川とかが持ってたような信玄直轄の旗本衆が、
武田の家ではどれくらい機能してたのかを知りたいと思ったのさ
559 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/17(水) 23:09:41 ID:LugpW0fx
>>558 でも、織田も清洲会議みるからには家臣団の専横を許してるように見えるけどな
柴田が悪いのか羽柴が悪いのか分からんが
信玄はかつがれて親父追放したぶん、家臣団との連帯がつよかったが
勝頼は四男坊の元敵方諏訪の跡取りでもあったわけだから家臣団と不和になっても
しょうがない。
武田勝頼のウィキページの方が詳しいからどうでもいいけど
561 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/17(水) 23:13:44 ID:gg1oQFIn
きっと三百年後の未来、似たようなを理由で
連合艦隊や特攻隊の存在を2ちゃんで否定されるんだろうな。
562 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/17(水) 23:15:10 ID:611sjg7q
>>559 織田の場合信長のワンマン体制で、
そのトップとしかも後継者まで本能寺でいなくなったら、
指導者不在でバラバラになるのはやむをえないのかも。
徳川の場合でも同じようなケースがあったら同じ運命になってたろう。
あとは、あの勝頼のwikiのソースを知りたいんだけどね
大河ドラマ「風林火山」の監修の柴辻俊六と、
信玄研究で名高いとされる笹本正治氏とじゃ解釈がまた異なるようだし…。
信玄のムックとかじゃ「偉大なる信玄の巧みな家臣操縦術」とか書くばかりで、
武田家臣団の実態ってのがあまり分からなかったもので、
ここで質問させてもらってたんだけど。
563 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/17(水) 23:20:22 ID:gg1oQFIn
>>555 突撃は知らんが、古代エジプトで集団騎兵を生かした
大規模な包囲作戦はあったらしいぞ。
時期も戦いの名前も忘れたが、エジプト軍が唯一ローマに接近した戦役だ。
564 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/17(水) 23:40:11 ID:LugpW0fx
>>562 ソースは書いてないようだね。
履歴からみる単独で書いたわけではなさそうだし
多面的な考察と言えるんじゃなからうか
それと一般に武田家家臣と言われている人でも本当に家臣と言えるのかちょい分からんね
実際は武田家を国人領主の盟主としての位置づけていたのかもしれん。
565 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/17(水) 23:51:18 ID:611sjg7q
>>564 wikiだとそういう位置付けだね<国人領主の盟主
もっともこれは徳川とかでもそうだったよね
酒井・石川・大久保などみんな地元の実力ある豪族
三河一向一揆を経て、
この一揆で家臣団をまとめる必要があると思ったのか、
石川・酒井の両家老とは別に、
自分の城下町に常駐する直轄軍である旗本一手役を組織して、
これを主力として活躍させていった
一手役出身といえば、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、大久保忠世など
みんな元々小さな国人領主層の出身だったけど、
弱小勢力であったため家康の直轄軍に組させやすい、という背景があって、
こういう直轄軍を組織しやすかった
一方の武田の場合もよく「家臣団一枚岩の団結」というんだけど、
具体的にそれはどういうものだったのか、
むしろwikiの説明だと「一枚岩の団結」は非常にもろい、ということになってしまう
このあたりの詳しい事知りたいと思うんだけど
>>562 いや徳川でもすでにあったよ。
一度目は松平清康が若死にしたとき。跡継ぎの広忠がまだ子供で権力を発揮することが
できない状態だったので内乱状態へ。今川家の後援を得て復帰。ヒモつきになる。
二度目は広忠暗殺、後継者家康は他家に人質でやはり松平家主催者が不明、権力不在と
なった時。このときはまた今川が乗り込んで家臣たちの動揺(ないし妄動)を押さえつける。
これにより家康の当主権が今川の手によって確立、保証されることになり完全に従属する。
はっきりいって今川の援助がなければ、広忠も家康も当主の座は一族の他のものか有力な
家臣(豪族)の誰かに乗っ取られておしまいだったろう。その代わりに従属することになったが。
>>566 松平の頃はまだ「旗本先手役」とかのような「徳川」時代の軍制出来てないんじゃない?
あの当時は一族が結集して勢力を誇った、典型の戦国大名の状態だったんだから。
「旗本先手役」などのちに「庄屋仕立て」と呼ばれるような、
「徳川」の組織が作られるのは三河統一前後だったと思うんだけど
>>567 566は徳川も織田のように家臣分裂の時があったよ、
と言いたかっただけではないか、と
軍制がどうのとかとは別の話で
武田氏の軍役で一番戦力持ってたのは春日で千騎超えていた
これは対上杉やらなにやらで城代の彼にかなりの戦力が与えられていたからだろう
後は旗本が特段多いとかいうことはなかった
570 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/19(金) 10:11:22 ID:hVCsE22V
信玄が無闇に旗本を強化したら、家臣団がオレ達いらないの?とか警戒するからできないんじゃ?
信長みたいに豪族のあぶれた次男以下をリクルートするとか、家康みたいに独立後の領国再編のドサクサに紛れてやるとかは普通にはむずかしいでしょ
古流の馬術を調べれば馬の使い方も解るかも
>571
まぁ武田に騎馬隊があったかとか上洛できたかとかには関係ないけどね。
そりゃ関係ないね〜
でもま刀にしても馬にしても事実を一つ知ると
その後、極論が多いからいけないよ
いや、騎馬隊がなかったから弱くて上洛できない
とか言い出す人間もたまに居るから。
騎馬隊のあるなしと強さは関係ないんだがなあ。
話を突然変えてすまないし、ほとんど一人語りなのだが、
以前、「信玄の目的は上洛じゃなくて徳川領攻めだろう」と言う意見に
「徳川だけを攻めるのに2万5千も動因するわけが無い、だから上洛だ」
と言っている奴が居てそのときはスルーしたのだが、
最近になって、じゃあ徳川攻めには何人で十分だと言うのかと聞いてみたい。
まぁ言った奴はもう居ないだろうけど、同じように「2万5千も動因しているんだから」
って思っている奴居るのかな?
577 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/21(日) 17:45:23 ID:fD4j3G8B
おもたんだが、豊臣が天下統一してから、
大名とその家臣団の関係ががらっと変わったんじゃなかったか。
例えば、毛利はやはり毛利家を盟主に国人領主連合の体をなしてたが
豊臣政権下では、毛利・吉川・小早川はそれぞれ豊臣新恩という形で領地を与えられ
もしくは安堵され、名目だけにしろそれぞれ独立していた。
また、今までは国人領主らは毛利と同盟こそすれ、領地は自分のものだったはずだが
豊臣が新恩という形で毛利に領地を与えたため、名目だけにしろ毛利から領地を
配分されるという形になった。
これによって、新恩領地内の統治がしやすくなり、国人領主は完全に家臣化した。
また、元盟主と新恩による新興大名との関係が微妙になり、小早川家への豊臣の
干渉や島津の伊集院粛正などがおこった。
こういうことではないか。
>>577 それはあると思う。
豊臣政権の後ろ盾を得る事で、
国人領主を膝下に押さえ込む事が可能になった。
ある時点までは、諸大名と豊臣政権の利害に一致する面があったということ。
>>575 持っていける最大勢力で攻めるのは戦略の基本。
25000だから上洛だったなんて馬鹿しか考えない。
よって終了。
>>579 しかし、三方原で勝ったんだからにわかに近隣から
いくさに参加しだす周辺の豪族・農民・野武士もいるはずだ。
25000が何を基準とした数かよく分からないけど
しょせん浮き草である雇われ兵は負け戦になると給料をもらえないと踏むから
農民兵のような土地から逃げようのない兵にくらべて弱兵であることは明らかだし
武田方の兵の増加分も加味すれば信玄は上洛も十分考慮に入れていたと思うよ。
徳川はもう急な再起が不能なまでには押さえたし、
織田方は包囲網で疲弊していることはうかがえるから
尾張へ進行するぐらいまでは攻め込む手はずは当初あったはず。
しかも尾張は織田の勢力基盤。包囲をするだけで打撃を与えられる。
そうさせまいと信長が必死こいて尾張に強行軍かけてきたところを野戦で迎え撃てば
おもしろい展開になったと思うがね。
はずだ、よく分からないけど、思うよ、うかがえるから、あったはず、
いや、資料の提示もなしに強引解釈を元にした持論を展開しても説得力がないな。
>いくさに参加しだす周辺の豪族・農民・野武士もいるはずだ。
これについては上杉の例もあり、戦国としては当然の推測だが
>武田方の兵の増加分
その増加分ある「にわか」は、浮き草である雇われ兵と同レベルだと思うが。
武田が新しい支配者になるかもしれないから、媚を売って味方するのであって
旗色が悪くなったら、当然引くでしょ。
>尾張へ進行するぐらいまでは攻め込む手はずは当初あったはず。包囲をするだけで
と
>上洛も十分考慮に入れていたと思う
が矛盾する。
上洛する為には、美濃か伊勢も考慮に入れなければいけないと思うが。
尾張を包囲する事=上洛はできない、とはならないか?
尾張を包囲攻撃した上にその足で美濃や伊勢を落として上洛もする、となるとさすがに疲弊しすぎてキツいと思うが。
上洛できるとしたら、尾張程度はあっと言う間に落とすぐらいのスピードが必要だろう。
兵農分離とかは関係なく、単純に疲弊が激しいという点を考えて欲しい。
>>582 兵の増加分の話は2万5千にこだわる必要はないのではないかという意味で
雇われ兵という言い方は、織田は兵脳分離による兵の常備兵化がありましたが
それにデメリット面もあったのではないかという示唆でした。
武田は農民兵の分だけ寡兵でも統率力があり、逆境でも士気が高かったと思います。
>尾張へ進行するぐらいまでは攻め込む手はずは当初あったはず。包囲をするだけで
と
>上洛も十分考慮に入れていたと思う
が矛盾する。
まあ、そうですね。
戦果次第で上洛も考えていたということが言いたかったのですが
美濃があるかぎり上洛は無理なかんじがしてきました。
でも、尾張で勝てば形勢がかなり変わったと思うんですよ。
松永や宇喜多は平気で寝返りますし、寺勢力も勢いを増すはずです。
それもあくまで勝てばの話ですが、たとえ負ける可能性があるとしても
信長のあのころの進撃の速さは尋常ではありません。
包囲網のあるうちが一番の好機はずで、決戦にのぞむのが良策だったと思います。
包囲網は後世の作り話なんだけど
>>583 ちょっと待て、この時期宇喜多は織田とは関係無かろう。
第一次と第二次の包囲網がごっちゃになってないか?
>>583 農兵のほうが強い、というのであれば、尾張の農兵を抱えて本拠地で戦う織田の方が
有利、という発想はありませんか?
常備軍のデメリットと農兵のメリットを比べるのは片手落ちでしょうに。
>>580 25000がなんの基準もなにもスレタイ読めよ。
後、25000だから上洛が無理って言ってるんじゃなくて、
25000だと言う事が上洛が目的だったと言う証拠には
ならんと言ってるだけだ。
>>580 なかなか頭の弱そうな書き込みだがもう一歩。
>信長が必死こいて尾張に強行軍かけてきたところを「無敵の騎馬軍団」で迎え撃てば
とすればもっと良かったと思う。
ところで兵農分離が進む=旗本が増えるという認識で良い?
刀狩も必要か?
>>589 >兵農分離が進む=旗本
いや、兵農分離=刀狩=一揆抑制
兵力は激減するから、世が治まってきた証でもある。
592 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/23(火) 11:59:51 ID:3Jz3YzoL
織田の兵農分離は、半農半武の武士を専業化するほうだろう
信長が兵をカネで雇ってたとか言う話は「日本国王記」とかの外国人のものぐらいにしか出てこないはず
そうだな。兵農分離というか、武士の専業兵士化といった方がいい。
蔵米から扶持されていた……つまり当主の懐からサラリー貰ってた武士とかの例かな?
いや俺が言いたかったのは、本来土着である武士を土地から切り離したってこと。
本拠の移転がそうだし、軍団もその一つだと思う。
ああ、間違った情報に踊らされたね。だから話が通じてない。
本拠の移転と在地性の喪失は違う問題だよ。
もし本拠の移転が在地性を喪失させるなら、武田家はとっくに在地性を喪失してる事になる。
あと、家臣団の集住はどこもやってる普通の事なので
家を焼いたとかそういう講談じみた事は全然関係ない。
在地性の喪失は、検地だよ。北条を見た方がいいな。
もっとも検地の為には、検地をできるだけの権力が必要になるが。
>軍団もその一つ
方面軍のことかな?
まぁ、権力があって加増すれば国替えにも応じるでしょ。
何を突然そんな嬉しそうにw
俺は信長だけがやってたとは言ってねーよ。
だから兵農分離じゃなくて、って言ってるだろーがこのタコ。
まあ、相次ぐ本拠の移転と言えば良かったな。
家臣団の集住については俺は何も言ってない。
家を焼いた話は講談つーか信長公記に載ってる。
検地も在地性と関係あるが、本拠移転も関係ある。
俺にはなぜ君がそんなに嬉しそうなのかが分からない。
俺にはなぜ二人が(ry
>>592 単純に考えるとだね。
半分以下は農業に専念する人たちになるんではないかね?
農民がすべて狩り出されるのがそれまでの軍制だろ?
すべてが職業武士になるなら、農民に専業するものがいないので年貢もとれんことになる。
ということは、兵農分離をすることで兵の数が半減することになるよ。
しかし、ほとんどの場合、織田軍が相手の兵の数より多く兵を招集していた事実を考えれば
ほとんどが傭兵だったとみるべきじゃねえか?
>>600 >半分以下は農業に専念する人たちになるんではないかね?
何を根拠に?
>農民がすべて狩り出されるのがそれまでの軍制だろ?
違います、農民の極一部です、すべて狩り出せるなら甲斐一国で20万ぐらい動員できる(女子ども含むが)
>すべてが職業武士になるなら、農民に専業するものがいないので年貢もとれんことになる。
まあ理論上はそうなるな
>ということは、兵農分離をすることで兵の数が半減することになるよ。
事実江戸時代は減ったみたいだな、戦国時代の動員力が講談の誇張の可能性もあるが
>しかし、ほとんどの場合、織田軍が相手の兵の数より多く兵を招集していた事実を考えれば
>ほとんどが傭兵だったとみるべきじゃねえか?
織田軍が相手より多数の兵を用意出来るようになったのは美濃制圧後
石高100万石超となってから
単純に国力の差だね
信長の数百を数える戦争の中で、敵より少ない兵力で戦った記録は
弘治2年(1556年)の稲生の戦い、永禄3年(1560年)の桶狭間の
戦い、天正4年(1576年)の天王寺砦の戦いの3回だけであり、必
要な状況での、先見のある選択だったとされている。
と、あるけどね。
信長は、下調べをして入念に攻略していく戦略を常としていて
付け城を建ててじっくり勢力を剥いでいくやり方が多い。
いわゆる戦上手という感じではなく、
戦では相手が弱ったところを数にものを言わせて圧倒するだけ。
兵農分離がいつからのものか知らないがね。
>>602 その三回とも勝利している。一方、信玄は一度もない。そして
>下調べをして入念に攻略していく戦略を常としていて
これは信玄も同じ。
なんで信長に対しては「戦上手という感じではなく」なんて言っておいて、
信玄に対しては同じことを言わないんだ?
>>601 半分以上が農業に専念するのまちがいだね。
江戸時代の士農工商の割合から言うと、農民が85%が武士7%を養う形になっていた。
何かと出費の多い武士を農民が養うには、武士と農民を1:1で分けるわけにはいかんでしょ。
あと、
農民すべてを狩り出すっても、女子供老人はつれていかんってのは常識の範囲だと了解してくれw
そら、本願寺などは欣求浄土厭離穢土と女子供さえ兵に狩り出すようにしむけたのかもしれんがさ。
605 :
名無し議論スレにて投票方法審議中 :2007/01/23(火) 21:10:18 ID:ttsSlCJt
相手が雑魚だからなんじゃねーの?
>>604 >農民がすべて狩り出されるのがそれまでの軍制だろ?
農民すべてが狩り出されるわけないのは常識の範囲じゃないのか?
農繁期に出兵したらその年の収穫は諦めるのか?
>農民すべてを狩り出すっても、女子供老人はつれていかんってのは常識の範囲だと了解してくれw
お前が農民すべてって言うからお前の言い分に合わせたんだろ。
>>603 気に障ったのなら申し訳ない。
信長が他の大名とちがうのは攻城のうまさがあったからだと考える。
付け城を建てて、相手を牽制し、同時に商人をよんで相手の経済をふさいでいく。
一夜城など陣城の普請が素速いのも特長。さらに調略をかけると。
こういった今までになかった戦を確立したのが信長。
対して、信玄は城攻めが苦手で、野戦が得意。
ちなみに攻城戦では騎馬はまったく役にたたない。
>>606 そうカリカリしなさんなって。文章が意味分からんくなってるから
兵農分離の話をしてるんだから、
農民の中からいくさに使える者すべてって意味だと察してくれ。
もうこの話はいいだろ?
>>602 >信長の数百を数える戦争の中で、敵より少ない兵力で戦った記録は
>弘治2年(1556年)の稲生の戦い、永禄3年(1560年)の桶狭間の
>戦い、天正4年(1576年)の天王寺砦の戦いの3回だけであり、必
>要な状況での、先見のある選択だったとされている。
そんな適当のこと一体誰が言ってるの?
純粋にソースが知りたい
>>604 で当時の農民の中で女子供老人はどれぐらいの割合を占めるんだ?
95%ぐらい占めるのなら
女子供老人以外の農民がすべて狩り出されるというのも数値的に成り立ってくると思うが
>>607 一体何を根拠に信玄が城攻め苦手で野戦が得意何だ?
城攻めはともかく史実から考えるなら信玄は野戦は下手だろ
>付け城を建てて、相手を牽制し、同時に商人をよんで相手の経済をふさいでいく。
付け城はともかく商人をよんで相手の経済をふさいでいくなんて具体的には?
>>608 別にカリカリはしていなが、
相手に察してもらわないと成り立たない文章しかかけないなら
チラシの裏にでも書いていた方がいいな。
>>609 >そんな適当のこと一体誰が言ってるの?
>純粋にソースが知りたい
さあ。信長公記じゃね?でも割と聞く話だと思ったがね。
>で当時の農民の中で女子供老人はどれぐらいの割合を占めるんだ?
今と割合はいっしょでしょ。
そもそも2万5千っていうのは検地時の石高を参照にして
人口を予想、さらにその中から兵として使える人口の割合を計算
そんで守備に残す兵を差し引いての数じゃねえの?
公称の動員数ってのは多めに見積もってるからあてにならないって言うし。
>>610 犬山がそうだったて聞いてる。
楽市楽座もその一環だとも聞いたな。
>城攻めはともかく史実から考えるなら信玄は野戦は下手だろ
そうなの?
川中島は謙信が相手だからいいとして、他は負け戦少ないと思ったが。
>>612 一般的にはまず聞かない
普通なら桶狭間のみを挙げるか
それ以外の幾多の小兵力で戦った戦を挙げるはず
>さあ。信長公記じゃね?でも割と聞く話だと思ったがね。
さあってお前は何の本もしくはHPを見て上のような発言をしたんだ?それともお前の推測?
ただ確かに信長公記で信長が相手より小兵力で戦い
信長と相手の兵数まで明記されているのはその3つだけだと思うが
>今と割合はいっしょでしょ。
だったら農民の中からいくさに使える者すべてって意味にはならないことは分かるな
戦に狩り出されるのは農民の極一部
>公称の動員数ってのは多めに見積もってるからあてにならないって言うし。
その通り、だから狩り出される農民の率も更に減ると言うわけだ。
>>613 >犬山がそうだったて聞いてる。
>楽市楽座もその一環だとも聞いたな。
例によってソースは?
この際、wikiレベルでもいいから
>そうなの?
>川中島は謙信が相手だからいいとして、他は負け戦少ないと思ったが。
そうだろ、というか信玄こそ数で押し切ってるだけで、時折小兵力相手に負けるような武将じゃないか?
無論相手より兵をそろえるのは当然のことでそれが悪いとは少しも思わないが。
ついでに謙信がほんとに強いかどうかも分からないのに相手が謙信だからいいってのも暴論だし
首巻の11に
赤塚合戦で信長800山口1500
同じく首巻の43に
斉藤3千信長700〜800
がまだあったや
まあ勝った例とは言いきれないが
>>614 どうせ、味方が寡兵にも関わらず勝利したというから書かれたんじゃないか?
それに何度もいうが信長は常に大兵力で戦ったというのはよく聞く話ですが。
>>今と割合はいっしょでしょ。
>だったら農民の中からいくさに使える者すべてって意味にはならないことは分かるな
>戦に狩り出されるのは農民の極一部
なんかどんどん話がずれてるんですが…。
何度も言いますが、話題は兵農分離から始まっているわけです。
農民を動員する軍制は、兵農分離された軍制より動員数が多いということが言いたいわけです。
なぜなら、兵農分離をすると戦に使える者でも農民であれば徴兵されないからです。
しかし、農民を動員する軍制では、戦に使える者(15〜40の男子)がいればみな動員します。
わかりましたか?
>>617 >どうせ、味方が寡兵にも関わらず勝利したというから書かれたんじゃないか?
信長公記読めばわかるがそうでもない
というか
>>602の発言は何を元にしているの?
伝聞調だから元ネタがあるのでしょ
>それに何度もいうが信長は常に大兵力で戦ったというのはよく聞く話ですが。
それは知っている、大抵の小説や漫画ではそうなっているんでしょ
史実は異なるようだけど
>農民を動員する軍制は、兵農分離された軍制より動員数が多いということが言いたいわけです。
そんなことは多分ほとんどの人が知っていると思うが
こっちが最初から聞いているのは
>>600や
>農民を動員する軍制では、戦に使える者(15〜40の男子)がいればみな動員します。
これの根拠。
こんな軍制採ってる大名って一体何処さ?
長宗我部は結構それに近いものがありそうな気がするが
>しかし、農民を動員する軍制では、戦に使える者(15〜40の男子)がいればみな動員します。
>わかりましたか?
動員できるのは大名が兵糧・武具を用意できる経済的範囲内の人数と言う
「常識」をまず理解した方がいい。
一般的に言われている「1万石250人」と言うのはそういう意味だ。
>>615 これはわたしもうろ覚えだったんで、
ちょっと検索してみましたが、残念ながらこれといった情報がでてきませんでしたね。
なんかの本で読んだんですが、本が分かりません。おそらく
美濃攻略のために小牧山に築城、本拠を移し、犬山攻めをおこなったことだと思います。
犬山は軍事的にも経済的にも重要な拠点だったことは間違いないようで
ここから信長は美濃攻めを行おうとしてたんですが、小牧山城は犬山を牽制する付け城の
役割だけでなく、犬山の経済を削ぐために商人に税を免除したとか。
ひょっとして>617は、農民軍は農村から「戦に使える者(15〜40の男子)」を根こそぎ、
それこそ100人の村人口で該当者が40人いたらその40人全部を徴兵すると考えているのか?
本当にそう考えていたのなら、馬鹿とか阿呆とか無知とか低脳としかいいようがない。
>>619 よくわからないんですが
兵農分離しようがしまいが徴兵数は変わらないと言いたいんですか?
石高だけで徴兵数がきまると?
624 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/23(火) 23:33:11 ID:/RKHXIlJ
>>622 じゃねえの?
よく戦で働き手がいなくなったとか話あるじゃん。
>>623 まあ基本的には兵農分離しようがしまいが変わらないだろう
いざとなったら幕末の長州藩みたいに武士以外から兵をそろえてもいいわけだし
徴兵数の上限が決まるのは石高というか経済力、財政状態だな
>>623 変わらないとは言わないが、経済力の範囲内でしか動員できないのは当然。
逆に聞きたいが兵糧や武具は誰が用意すると思っているのかな?
>>623 大前提として、軍隊の規模は国力によって規定される。それ以下になるのが普通で、
それ以上になることはめったにやらない。
やる場合もあるけどね。その場合、国があっというまに破綻する。
徴兵可能人口を全て徴発するなんて、どんな国家体制でも不可能。
例えば明智光秀は一万石六百人という徴兵基準を設けた。これは単純に言うと
「一万人を養える生産力のある土地から、六百人を徴発する」ということだが、それ
でも酷と評価される。一般的な戦国時代の徴発率は一万石三百〜四百人ほど。
これは武田でも変わらない。そして年に二回も戦をすれば民は怨嗟する。
>>627 年二回以上の戦なんて戦国時代じゃ当たり前じゃないか?
ていうかもっと多くないか?
>>624 仮に農民の中で「戦に使える者(15〜40の男子)」の割合が
40%程度で
一国の中で農民層の占める割合が90%としたら
甲斐は総人口20万人としたら
20万*0.9*0.4=7万2千人動員できることになる
しかもこれ農民だけの兵数で専業武士を加えていないから
まあ実際には女子ども含む農民全体の3%ぐらいなら
史実にあるような兵数と同じぐらいになるだろう
20万*0.9*0.03=5400人
これに専業武士分を加えれば信玄の最初期の兵数ぐらいになるんじゃないか
>>629 妙法寺記の引用でしょ怨嗟するってのは
確かに年二回以上の戦なんて戦国時代じゃ当たり前だとは思うが
>>626 戦があるからくすねてくればいいだろうよ。終わった後に。
それに配給もされるとは思うが、食糧が自前もちでないとは限らんし。
日頃は盗みは死罪が当たり前だった時代で、
戦役においては農民は略奪がゆるされていたわけでされに手柄をたてれば
褒美があるため、農民にもおいしい話だったとも言える。
>>632 そりゃ戦が3日ぐらいで終わるならともかく
(雑兵物語で兵は数日分は自前とあったような気もするが)
遠征が長期の場合はどうするんだ?
一人一人半年分ぐらい用意するとでも
ついでに略奪で兵站を賄いきれるとは思えないし
そんな無謀な武将ばかりでもないだろう
一石は人間一人が一年間に食べる米の量らしいね。
仮に当時の甲斐の石高は20万石前後であるとしても
人口は20万以下だろう。
仮にここで多めに見積もって15万とする。
15万の内、農民を85%とし、武士を7%とする。
男女比を1:1、年齢別人口統計は不明だが、男子の中で15〜40才までの者の割合を50%とする。
すると、150000*(0.85+0.07)*0.5*0.5=34500となる。
たしかに多いなw
当時の甲斐が16万石ていど、人口8万程度としても2万弱ある。
しかし、これだと確かに農民総動員とはいかないが、結構動員している可能性はあるな。
日本の戦国時代の人口は
1200万〜最大で3500万まで諸説あるみたいで
太閤検地の石高が約1850万石
まあどっちにしても
戦に参加する農民の数は極一部ということだろう
武田の場合は基本的に軍役衆のみだけらしいけど
>>607 信長はどっちかと言えば野戦の方が得意だが。
まぁ何でもできたんだろうけど
>>634 100人の村がある。
うち男は50人。
子供が25人、大人が20人、老人・病人が5人くらいか。
20人の大人のうち何人を徴兵できるかということだが
せいぜい5,6人が限界だろう。それ以上となると村の機能が麻痺する。
平常で3人程度、限界で6人程度だろうか。
普通に考えても
>>627や
>>630が打倒なラインだと思う。
総動員掛けた島津の岩屋城攻めで損害が大きすぎて壊滅的打撃を受けた
村があったとかいう話しはあるけど、
長篠の織田勢の損害で、そういう話は聞かない。
まあ、あったのかもしれんけど。
そういうのは、農民の比率が低かったと考えるべきだったのか、
村ごとの動員が低くて痛手になりにくかったのかどうなんだろう?
640 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/24(水) 11:59:22 ID:7TyV4djY
信玄は長野氏を滅ぼした時、兵糧が無くて困ってる部下に米を貸し出しました
利率は三十パーセント
これは信玄自身には財力がそれなりにあったこと・しかし部下に無償提供できるほど豊かではなかったことを伝えている
たぶん豊かでも無償提供はしないと(ry
信長は無償提供してた
甲斐攻めの時もご褒美の意味もあってか大盤振る舞い
へー。いつ?
1582年3月24日の菅屋に命じた扶持米の件だな
あー、甲斐攻めのときのやつ。信長公記にあったな。ありがとう。
でも
>>642を読むとそれ以外もあったようだけど、それは分かる?
しかし信長って土地はともかく褒美はよく出すよな。
何かと言っては服とか茶器とか黄金とか気前良くポンと。
>>639 いくつか可能性は考えられるが
まず最初に九州は全体として誇張が多い
島津は石高に比べ兵数が多いから、無理な動員をしている可能性
江戸時代は武士の割合が非常に多いからもともと農民の数が足りていない可能性
特に鉄砲の発達した地域での力攻めによる城攻めであるため死傷率が高かった
合戦と違って城攻めであるから実際に城に攻撃を加えた先手勢に被害が集中した
ことから全体としての島津軍の戦死者は少なくても先手衆の一部に被害が集中して
ある村の部隊はほぼ全滅したという可能性もあるんじゃ
長篠は単純に織田軍の戦死者は大した数ではないことと
また動員したのは柴田明智を除く近江衆に
美濃尾張に滝川の北伊勢丹羽の若狭衆+細川筒井の一部
信長の援軍が3万とするなら動員率はかなり低いことになりそ
>>640 謙信も高利率で金貸していたな
>>645 首巻の東美濃攻めの時に兵糧を整えろと黄金を与えたことがあったと思う
648 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/26(金) 09:23:24 ID:CDUgidet
信玄や謙信が、長期戦が苦手だった理由はそこか
略奪と人身売買と動員した連中の自弁に頼った兵站じゃあちょっと天下は狙えそうに無い
……って晩年になって少しは改善された、とか無い?
例によって軍鑑がソースだからアレだけど「できればワシが荷駄隊を指揮したい」と部署に不満な内藤に信玄が諭した話があるし
あるよ。有名なのが第一次駿河侵攻時の総撤退
北条に薩田峠を奪われた上、北条氏邦に輸送隊を襲われたため
昔って男の方が多くなかったけか
>>648 長期戦の定義がどうなのかは知らないが一応信玄も謙信も川中島2回戦で
200日近く戦ってるぞ。それじゃだめかね。
国境線の対峙で200日でギブアップじゃあねえ。
信長の軍は本国を離れての遠征を何度も行っている。
653 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/26(金) 21:51:36 ID:Fy8PzvkE
信長好きーが多くて困ったな。
>>653 その時歴史が〜 とか偉人100人〜 とかで戦国オタだけじゃなく一般でNO.1の人気を誇る男だからな
そりゃ多少は他より多いだろう
ところでよく分からんのですが、
戦争に行って兵糧の確保に苦労するのは何故?
国の人口は変わらないんだから、消費する米の量も変わらないはずですよね?
戦争に行ったからっていつもより多く飯食うわけじゃなし・・・。
兵士を出した村ではその分米が余ってるんだから、
それを回していけば何の問題もないような気がします。
結局、米を移動させるコスト、人夫の足代でお金がかかるから苦しくなるってことでしょうか?
それとも遠いところまでめんどくさいから行けないってことでしょうか?
それと、農繁期になったらどうのこうのって話があるけど
通常なら徴兵されるの100人中3人か4人なんですよね?
勿論その分他の人が忙しくなるのは当然だけど
100分の3なら補えないほどのことでもないし、絶対に帰らないといけないってことはないような。
まあ戦争嫌だろうし普通に帰りたくなる気持ちはかなりあったと思いますが。
信玄の時代だと地元に食うものが無くなったから、
他国へ行って略奪してたってのが現実
>>655 謙信なんて冬に食べ物がないから、わざわざ関東に行って略奪してたよ。
軍隊っていうのは基本的に何も生み出さず消費するだけ(屯田とかの例外はあることはあるけど)
兵を出した土地から男手がなくなると生産活動が阻害されるし、当時のことだから治安も悪化する
攻め込まれた土地は戦火と略奪を受けて荒廃
冷静に考えたら良い事は何も無い
>>655 機械化以前の農業ってものをなめてません?
男手だけでなく、女も子供も動けるなら老人も使って、かつ必要になれば他人の
田んぼも相互に手伝いあって(村単位で連帯責任)、ようやく必要な労働力を確保
できるのです。
ついでにいうと、男の働きと老幼女の労働力はイコールでもありませんよ。農繁期
に主戦力となる成年男性が奪われるというのは、「人口比率でいってたかが数パーセント」
に留まらない喪失なのです。
>>655 兵が自分で用意する食料なんで数日分の非常食のみ。
基本の兵糧は大名又は豪族が用意する。
そして大名や豪族は米を全部食料にする訳じゃないからね。
米を売ってその金で武具などを整える。
戦の時に動員した兵を養う米は当然その分減る。
作った米が移動するだけだから兵だって養えるはずとはならない。
当然、逆に金で米を買うことも出来るけどね。
秀吉は兵糧攻めをする前にその地域の米を買い占めたりしたらしいし。
>>656,657
つまり戦争をするまでもなく飢えていたんですかw
米に困ったから戦争をする、と。
なら農民は喜び勇んで戦場におもむきますね。
戦争が多くて嘆く農民なんていないでしょう。
「今日はやったるでー!」とか叫んでそうですね。
>>660 そう、村人総動員の農業だからこそあえて3%という数値にしたのです。
尤もそのなかでも成年男性の役割は大きく、成年男性5分の1もの損失は
決して軽くない損失だというのは重々承知の上です。
しかしそのうえで、カバーが不可能になるほどの数字ではないと思うのです。
苦しくはなるでしょうが、防衛戦なら行かざるを得ませんから。
>>661 武具については、納得します。
時代と地域にもよりますが武装は基本は兵士の自弁です。
しかし確かに大名側が用意するものもたくさんあったでしょう。
>戦の時に動員した兵を養う米は当然その分減る。
減るのは当たり前です。戦争しなくても減りますよ。
要するに、戦時は平時と比べて何にコストがかかったかということを具体的に知りたいのです。
武具代、人夫代、他に何があるでしょうか?
>兵士を出した村ではその分米が余ってるんだから、
>それを回していけば何の問題もないような気がします。
戦国時代は異常気象が続いて慢性的に食料なんだよ
だから戦争しようがしまいが、始めから米なんか余らん。
しかも普段から米を食ってる農民の方が少ない。
>なら農民は喜び勇んで戦場におもむきますね。
>戦争が多くて嘆く農民なんていないでしょう。
>「今日はやったるでー!」とか叫んでそうですね。
その通り。
しかも食料だけでなく奴隷狩りまでしてた。
農民=戦争の被害者という構図は戦後民主主義、平和主義の産物。
実際には農民は戦争の被害者でもあったが、一方で加害者でもあった。
ただ、一方で次男三男があぶれてたとか言う話もあるよね。
労働力が取られるというなら、それを使えばいいのでは?
と思ってしまうが
確か、兵糧ってだいたい売ってしまってるんじゃなかったっけ。
戦時に買い戻して。
普段食べてる米と兵糧も違うものじゃなかったか。白米はこの時だけで。
>>656,657,663
私には食糧調達が戦争の第一の目的だとは思えません。
敵国の略奪によって得られる食料・金品では
自国で不足していた食料分と戦争にかかった膨大な費用を補えないからです。
略奪や奴隷狩りは戦争についてまわるものですが
それが戦争の第一の目的であったことはないと思います。
戦争は経済的に余裕のある国だからこそできるのだと思います。
余裕もないのに戦争というのは無理というか自滅行為というか。
それと
>戦国時代は異常気象が続いて慢性的に食料なんだよ
これのソースが知りたいのですが、良ければお教えください。
応仁の乱前後は畿内で厳しい気候が続いたようですが、
戦国時代全般全国を通じて異常気象と言うのは初めて聞いたので。
後年の国民国家のような目的で戦争していたわけじゃない。かなずしも統一的な合理性がついてまわったわけではない
基本的に、武力と権力を独自にもった勢力が乱立していたという社会背景があり
その利権のぶつかり合いがすぐに殺し合いに発展、それが時代を経るにつれ大名権力の下に統合されつつ争っていった
>>665 藤木久『飢餓と戦乱の戦国をいく』参照。
「応仁の乱前後は畿内で厳しい気候が続いたようですが」どころでない実態が判ります。
確かに利があるな。
戦国時代というほど、勢力図が大きくかわる大戦乱が続く為には
命に関わる資源の取り合いでもないとなかなか大規模にはなりにくいと思うし。
満たされてる者同士の利権争いだけなら、小競り合いの繰り返し以上にはならないように思うし。
>>665 殿様から足軽まで同じ目的で戦争してるわけじゃないんだよね。
戦国大名ってのは「国家」じゃないんで。
まず国家ありきの近代的歴史観のみで戦国を見るから訳分からなくなるのよ。
>>667の言うように藤木久志の本でも1冊読みなさい。
気の利いた図書館なら1冊ぐらいあるだろうから
>>662 >武具については、納得します。
>時代と地域にもよりますが武装は基本は兵士の自弁です。
何時の時代と言うより、農民を動員した場合の農民分の武具は
大名・豪族側が準備するだろう。
>>戦の時に動員した兵を養う米は当然その分減る。
>減るのは当たり前です。戦争しなくても減りますよ。
>要するに、戦時は平時と比べて何にコストがかかったかということを具体的に知りたいのです。
「基本の兵糧は大名又は豪族が用意する。」
をワザと無視したのかな?
少なくとも大名・豪族にとっては戦が無い時は動員する兵の分の兵糧は不要だから、
戦が起こればその分のコスト(兵)はかかるが。
×:戦が起こればその分のコスト(兵)はかかるが。
○:戦が起こればその分のコスト(兵糧)はかかるが。
>>648 >信玄や謙信が、長期戦が苦手だった理由はそこか
そこかが何処かは分からないけど両者とも長期戦多いよ
ただ信長みたいに付け城築いて一部の将士に長期間包囲させるみたいな例は知らないけど
>動員した連中の自弁
動員した連中が一農民を指しているのか領主を指しているのか分からないけど
織田家も1582年の武田攻め時点で各武将に兵糧の補給に注意するよう
兵糧が続くように率いる兵士を精鋭のみに絞るように指示している
織田家も基本構造は一緒
>>655 >兵士を出した村ではその分米が余ってるんだから、
>それを回していけば何の問題もないような気がします。
それは臨時徴収するという意味だな
あとは
>>670に同意
戦時の兵糧は基本的に大名又は豪族が用意するものだから
ついでに武田の場合は戦争に動員する農民は棟別銭免除になる
動員すればするほど収入が減り支出が増える
農民が従軍すれば略奪が出来るし手柄を立てれば褒美も貰えるから、
喜び勇んで戦に行くみたいなレスをよく見かけるが、
到底同意できない。
手柄を立てると言っても農民兵が農民兵を倒しても手柄とはならないだろうし、
農民がれっきとした武士を倒すなんて一握り。
略奪にしても村を襲う程度じゃたかが知れている。
大名の方針として村々を組織的に略奪するのならともかく、
数千人の農民が動員されているとして、
隙を見て戦場近くの人口が精々2・3百の村を数箇所襲ったとしても、
精々ウサ晴らしが出来る程度。
それに侵略戦ならともかく防衛戦では味方の領内を略奪するわけには行かない。
>>673 普通に組織的に略奪は行われているが?
そして、防衛戦ではそういうことは基本的にできないが、
だからこそ、それもあって防衛戦では一般に士気が振るわなくなるんだよ。
>>669 目的が主体によって違うのは当たり前。それは近代国家でも同じこと。
>>657が主体を謙信、大名においていたから私も大名の目的について論じた。
>>667 やっぱり藤木ですかww 何といっていいやら。
戦国時代以前はもっと厳しい時代もあったしそれが普通だった。
それに地域差もある。東北と甲信越と畿内じゃそれぞれ違う。
藤木の本はその辺をカバーしてなかったように思いますが、
ちゃんと読んでないのでまず読んでみます。
禁制札というのがあって、
戦争になると村などが掲げる事がある
これはある勢力(例えば武田とか)が
略奪禁止のお墨付きを与えたという証なのね
逆に言うと、そういう公認を取り付けないと、略奪に晒されるわけ。
略奪で稼げるだけでなく、食事+αの手当も付くので、
オバサマ衆まで軍に随行することがあった。
一種の出稼ぎだったわけだ。
この辺りについて詳しく書いた本を読んだ事があるが、
残念ながら書名を失念してしまった・・・
>戦争に行って兵糧の確保に苦労するのは何故?
守備側は食料を城にしまい込んで現地調達できなくするから。
>国の人口は変わらないんだから、消費する米の量も変わらないはずですよね?
>戦争に行ったからっていつもより多く飯食うわけじゃなし・・・。
>兵士を出した村ではその分米が余ってるんだから、
>それを回していけば何の問題もないような気がします。
村にある食料は農民の私有財産なので、
いくら大名でも「戦争やるから余分に差し出せ」とは言えない。
よって大名は年貢から蓄積した米と金銭で購入した分の米で戦争する事になる。
それが切れたら撤兵。
>>675 いや、近代国民国家では国(軍隊)の目的=国民(兵)の望みという認識の一致
によって成立する。実際には異なる思惑が国にあったとしても、少なくとも
国民そのように認識させる。
また、藤木氏の著作ではそれぞれの地域にも言及されている。そもそも地域に
差異があるというのなら、そのことを主張するあなたが証明する必要がある。
どうぞやってください。こちらの主張のソースは藤木氏の論文であると明示
してますから。
過去スレで、藤木氏のデータベースから甲斐における天災記録の抜粋とか
あったと思うが、どのへんだったかちとわからん。
>>670 武田だと召集時に馬・鉄砲を持って来るよう言われてたと思うが。
各村毎に騎馬一騎、鉄砲一丁、みたいに。
胴丸は支給されることもあったが多くはそこまで面倒見てくれない。
>基本の兵糧は大名又は豪族が用意する
長文になりそうだったのでわざとレス省きました。
大名の米は年貢で領民から取り立てたもの。
戦がなければ領民が消費するはずだったもの。
人口が変わらない限り、戦のあるなしを問わず当然に減る。
戦でコストになると表現するのはおかしい。
たぶん私の言い方が悪くて伝わらないと思います。
>>678 大名の話をするところなので近代国家の話はもういいでしょう。。
地域差があるのは当たり前なので証明って言われても。
日本全域が同じ気候だなんて常識でありえないでしょう。
藤木は甲信越に焦点を置いてた印象があります。
甲信越だけをもって日本を語ることもできんだろうと思ったのです。
まあとりあえず読んでみます。読まないとこれ以上のレスは無駄かと。
レスし忘れていたが
上洛戦するまでの信長は長期遠征はほとんど無い
距離のせいもあるが、ほとんど数日単位の戦いしかない
初期では信玄謙信のほうがよほど長期戦をしている
>>678 39スレ
>151-215戦乱と災害の影響について >155>175>176災害年表
>>679 >大名の米は年貢で領民から取り立てたもの。
>戦がなければ領民が消費するはずだったもの。
意味が分からん
戦に合わせて年貢の量が増減すると言いたいのか?
>>679 > 大名の米は年貢で領民から取り立てたもの。
> 戦がなければ領民が消費するはずだったもの。
当時の農民に米を買い戻す金なんか無いでしょ
公共工事に従事すると粥が支給されることはあったようだが。
大名の年貢米は大名の私有財産であって、国家の財産ではないの。
これが近代国家と戦国大名の大きな違い。
農村は農村にある分の食料で自分達の空腹を満たさなきゃならない。
逆に言えば
>>677でも書いたけど、農村の財産である米・雑穀は大名の財産ではない。
> 人口が変わらない限り、戦のあるなしを問わず当然に減る。
「ある国では10人の農民がいて10人分の食料が取れる。
その10人が国内にいようが戦地にいようが、トータルで消費する食料は変わらないはず」
というのがあなたの主張なんだろうけど、
農村には元から食料なんて余ってないのよ。
農村では7〜8人分の食料を10人で分け合って食ってたのが現実。
常に空腹だから、戦争に行っても余った食料は残った人たちで食っちゃう。
こんな状況は第二次大戦期まで続く。
日本の農村が飢饉の恐怖から開放されたのって、第二次大戦後ですよ。
>>682 まあ「戦があるから増税」はあっても「戦がないから減税」なんてないでしょうなあ。
>>679 戦の場合は、通常よりも支出が増大するという意味を理解してないような。
この時代の米はまず貨幣というか通貨の意味を持っているということを知ってますか?
>>682 ごめ。書き間違えたw
大名が年貢で取り立てた米は、
年貢として取り立てられなかったとしても農民が必要的に消費していた米。
大名が保有しててもその米は農民の生活のために消費される運命にある。
治水工事に使われるかもしれないし、戦争に使われるかもしれない。
年貢っていうのは戦争がなくても消費される運命の米なんだから、
戦争がなければ減らないと考えるのはおかしいと言いたかった。
>>683 それって戦争がなくても飢えてるってことですよね。
だとしたら戦争で兵糧の確保に困るんじゃなくて
もともと米が足りてなかったという話になる。
それでいいと思う。
でもそれは私の問いたいこととは別でして。
「ある国では10人の農民がいて10人分の食料が取れる。
その10人が国内にいようが戦地にいようが、トータルで消費する食料は変わらないはず」
しかし実際にはそれ以上の消費がある。
戦争によって独自に減る分がある。
それは具体的に言うと何なのかというのが私の問いでして。
>>684 >戦の場合は、通常よりも支出が増大する
私はその支出の内訳が具体的に何があるか知りたいのです。
武具代という話が出ました。私は運送料を考えました。他は何があるかなって考えてます。
年貢米と近代国家の税金を同一視してはいかんよ
>>685 大名や農民に貯蓄という概念が無く
一大名家と言う概念を捨てて
日本全体をマクロ的視点で見ればそうなるかもね
若しくは大名とその領民が他国との一切の経済的繋がりが無いと仮定するなら
>>687 >しかし実際にはそれ以上の消費がある。
>戦争によって独自に減る分がある。
>それは具体的に言うと何なのかというのが私の問いでして。
普段は村の食料を細々分け合って食ってる数千、数万の若い男どもが、
「腹一杯」食う分ですよ。
足軽への支給米は一日4合ですぜ?
ちなみに
>>683の前半部については
私と話の抽象度に大きなズレがあり、回答しづらいです。すみません。
私の話はかなり抽象的なので。
>>687 農閑期にするべき他の仕事もある
畑耕して穀物作るだけが農民の暮らしじゃない
井戸や用水路メンテナンスしたり
江戸期に比べれば少ないだろうが、商品作物作ったり、
二毛作したりする地域もある
甲信についてどうだったかは不勉強でどうかはしらんが。
人手を引っ張られれば、本来できたはずの活動が出来なくなる
これも経済的損失
>>687 農民が消費する量はほとんど変わるわけ無いだろ
つーか大名の財政の話ししているのに農民の食べる米の量考えてどうするんだ?
ついでに農民が米だけで生活できるならその考え方でも間違ってないかもね
>>683 >農村には元から食料なんて余ってないのよ。
>農村では7〜8人分の食料を10人で分け合って食ってたのが現実。
>常に空腹だから、戦争に行っても余った食料は残った人たちで食っちゃう。
>こんな状況は第二次大戦期まで続く。
>日本の農村が飢饉の恐怖から開放されたのって、第二次大戦後ですよ。
ここは意見を異にするな
>>690 なるほど。兵士としての賃金ですか。
普段食べる分しかあげないんじゃ、ただ働きってことになりますもんね。
武功を立てた者への特別の報奨も高くついたでしょうね。
死んでしまった場合も遺族に特別の賞金か償金みたいなのが出たんでしょうか。
>>693 >農民が消費する量はほとんど変わるわけ無いだろ
そうです。それを言いたいのです。
しかし戦争をすると国が消費する量は明らかに増えますよね。その話です。
>農民が米だけで生活できるならその考え方でも間違ってないかもね
もちろん米は必要な場合、金に換金するものとして考えています。
富一般を包括的に「米」という言葉で表したのだと考えてもらって結構です。
で、結局戦をすると儲かるの?
それともコストの方が高くつくの?
勝った場合は、儲かりそうな気がしないでもないが
引き分けの場合は?
>>696 >しかし戦争をすると国が消費する量は明らかに増えますよね。その話です。
戦争したって国全体で食べる量は増えないよ
食べる量と財政を一緒にしてどうするんだ?
>>697 戦争には金儲けの側面もあるが、それだけじゃない。
外敵を叩く、勢力を拡大する=生き残りの模索
という側面も忘れちゃいかんよ。
特に大名家にとっては大事な視点だったんじゃないか?
>もちろん米は必要な場合、金に換金するものとして考えています。
>富一般を包括的に「米」という言葉で表したのだと考えてもらって結構です。
だったらなおさら「国内で食べる量」でひと括りにするのはおかしい。
>>696 >もちろん米は必要な場合、金に換金するものとして考えています
細かいことですが一応。米は換金するものではありません。米がそのまま流通貨幣として
機能していたということです。
で、戦場になった地域における出費の一つとして、上の方でもでていた禁制というものが
あります。これは大名が村や寺社などに「うちの兵に濫坊狼藉はさせない」という保証を与える
もので、この禁制のある地域で略奪をかました兵は処罰の対象になります。
で、この禁制をどうやって手に入れるかというと、ぶっちゃけ金で買います。
ちなみに信長は、京都焼き討ちのときに義昭に味方した上京は上納金を突っぱねて焼き討ち。
下京はそれより少ない上納金を持ってきたときに受け取らずに返還して、無料で保護してる。
>>674 >だからこそ、それもあって防衛戦では一般に士気が振るわなくなるんだよ。
防衛線では士気が振るわないなんて初めて聞いたがソースは?
>696
>もちろん米は必要な場合、金に換金するものとして考えています
なのだったら、自己負担・大名負担かのかわりなしに
戦に必要な武具などを整える為に平時は不要なコストがかかると言うだけじゃないか。
貫高制をスルーするのもいつもの流れだなw
よく考えたら、戦国時代の年貢は金納じゃなかったっけ。
年に2回も出兵がある異に対して民が不満を持っていたと言う記録がある時点で、農民が喜び勇んで戦に赴いたと言うのはありえないだろう。
>>709 人によりけりでしょ
農業だけで食っていける連中は当然行きたくないだろう
人によりけり、といっても当時は農業が基幹だからなあ
武士すら半農だったわけで
自分が死ぬかもしれないんだぞ
死ぬかもしれないねえ
農民にとって農繁期は出兵はもってのほかだろうけど
農閑期は三日以上の出兵ならその間食い扶持が減るから
行ってこいじゃないの?万が一手柄でも立てれば
賞与があるかもしれんのだし。
手柄を立てる確率より死んだり怪我する確率の方が高そうだけどね。
>>716 じゃあ、手柄を立てる確率も低いって事だ。
甲斐や越後の場合、参戦目的は略奪と人攫いの出稼ぎだから
農閑期はむしろ戦してくれなきゃ困るんじゃないの?
本格的合戦に及ぶ確率的にはさして高くないし
>>718 だったら戦が多くて怨まれるなんて言う記録は残らないんだって。
同じ事をしつこいな。
>>719 年二回だったら農繁期にぶち当たるだろう
だから恨まれたんでしょ
逆に年一回の暇な時期にだけやるのなら恨まれないということ
戦をしたことじゃなく、年二回もって点がポイントだよ
ぶっちゃけ戦地に連れて行かれる農民の不満は
領国拡大と密接に関係する
近隣での短期間出征なら負担は小さく、種々のメリットの方が大きくとも、
戦地が遠くなり、敵勢力が強くなれば滞陣が長くなる
これを解決するには、税制を優遇してやるなり
何らかの便宜をはかることで、負担をはかるなどしないといけない
基本的に武田の話なんじゃないの?
実際に武田が年2回出兵してるんだから仕方ないだろう。
>>717 求めているのは略奪品であって手柄じゃあないから問題ありません。
武田だと略奪が目当てなのか農繁期の戦の割合が他の時期よりも多い
>>719 恨んでいたのは農民なのか軍役衆なのか国人衆なのか
はっきりとは分からないと思うけど
農繁期に攻めて、相手の田の稲を刈るって戦法もあるよ。
戦が儲かるものなら戦で財政が圧迫されるなんて言う事はないけどね。
それは戦争の性質によっても変わる。
食料不足で口減らし・略奪のために行う戦争と
領土防衛や征服を目的にした戦争では採算性が違う。
さらに、戦国末期には大量の物資移動と相場操作による利益も生じるようになった。
豊臣はこれで儲けた
728 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/31(水) 08:12:59 ID:GwdnEBO0
儲かるというより、領民を食わせるのは死活問題
土一揆でも勃発した日には収拾が大変
恩賞で財政が傾くのとはまた別の理由からだから
……でも信玄って今川館の財宝狙って命令違反の常習犯である馬場のためにおじゃんになったことあるなw
>>728 今思えば重文・国宝の山だったろうにな・・・
武田は嫌いじゃないが、その点だけは甲斐の山猿と罵りたい
馬場信房「武田が略奪目的で戦争したといわれると恥なんでやいたよ(`・∀・´)エッヘン!!」
信玄「ちょ……息子殺してまで財宝どころか一国を略奪しにきたんだってばよ( ゚д゚)ポカーン」
食わせるのが目的なら、そもそも戦をしないでその分年貢を減らせば良いだけの話だけどね。
>>731 領民はそれでいいだろうが武士階級が困る
戦があるから自分らの存在理由があり、大名に意見できたり恩賞もらえたりするわけだから
>>726 略奪で儲かるのは兵であって
指揮官大名は直接的には儲からないんじゃ
信玄。最後のё旅 「上洛☆レボリューション」
>>733 やっぱり謙信の関東侵攻は略奪がメインだったとする説も怪しいな
なんでそうなる。
>>733 略奪もさせてくれない奴についていけるか!とは考えられんかな。
>>729 兵卒風情のすることを大将がしようとしたら普通は止めますよ。
開城させて立ち退かせるべきだったろうけど。
それすると今川が家宝はもってっちゃうだろうけどW
>>736 そしたら略奪禁止した信長の上洛軍に誰がついていくんだw
口減らしっていう割には
戦争での死傷者は少ないんでしょ。
上手い事死んでくれればいいが、普通は死者<傷者でしょ。
ケガだけされて働き手にもならなくなったら
かえって痛手じゃ。
>>739 口減らしってこの場合は単に食費が浮くという意味でしか使ってないだろ
謙信の略奪目的の戦闘という説は、まず端境期の農村から人を離すという目的があった。
そのうえで他国で略奪をして一石二鳥と。
ちなみに略奪には食料以外にも人狩りで身代金or奴隷売却で金を得るという手段もある。
2chでは小田原の話しが一人歩きしているんだな
>>740 ってことは
村に居られると蓄えの食料が減るから
しばらく村を追い出して食料現地調達のサバイバルグルメツアーに出すってことか。
略奪する方も必死だろうな。
>>743 だから負け戦や引き分けの合戦が続くと不満が極めて増大する。
まあ、サバイバルってほど危険ではなかったわけだが。
>>744 100人に2、3人でも死ねばかなり危険だと思うが。
不具になる確率はかなり高いわけだし。
>>745 中世は世界的に春先には餓死者が出る世界。
特に当時の越後は米所ではないし、雪に覆われてしまえばそれまで。
100人に2,3人餓死するならば、その2,3人をわくわく略奪ツアーに出す方が良い。
死んだり怪我をしたりするリスクよりリターンの方が大きいからな。
謙信は奴隷市を開いてレートまで決めたけど
これって寺社と同じように座の利用料を商人や人買いから取ったんじゃないの?
なら利益になる
信玄だって志賀城落とした時家臣達のご機嫌を捕虜を与えることで買おうとして、金山に奴隷売り払ってるから儲けてるんじゃ?
>>747 逆にいうと、そうでもしないと戦で土地支配するだけじゃあ儲けが出ないってことでは?
まあ、切り取った支配地の儲けを当てにしなきゃならない時点で
終わっとるちゃあ終わっとるんだけどね。
>>748 ただ支配をしても手柄の配分と地元豪族への懐柔、部下の派遣、軍の配備、それに伴う軍費と維持費と
収穫の少ない地域だと逆にマイナスになるだろうしね。利益が出るのは支配して2年後とかそんぐらいでないの。
751 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/03(土) 02:27:26 ID:wTCkjaH/
最近の研究だと武田軍団はそんな強くなかったらしいじゃない?
まとまりなく好き勝手やるとかで
は?信玄って野田城攻撃中に流れ弾にあたって戦死してんだから
信長と戦う前に惨敗ってことで間違いないよな?
最近の研究じゃなくても武田はそんなに強くないだろ、基準によるけど。
同兵力で織田に勝つことは絶対に無い
釣りなのか馬鹿なのか?
武田がそんなに強くないと言う事と、
織田より強いか弱いかは別の問題だろう。
実際織田って弱くないしなあ。
まあ兵の強さなんてその場の状況でかわるだろうし。
でも武田が織田領に侵攻した場合
武田は相当不利になるだろうな。
それこそ、織田領に侵入した時の状況によるんじゃないの?
武田兵は弱い信長兵に負けて勝頼あぽーんしたんだけれど・・・。
まぁ豪族集合体の体質から、抜けきれなかったからなんだろうけど。
どれだけ個人が強かろうが挟み撃ちを受けた上前には1千丁(あるいは3千)、後方には五百丁の鉄砲で撃ちまくられたら勝てない罠
test
761 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/07(水) 09:15:56 ID:jyLAUn+h
そもそも織田と手切れして野合集団の反信長側についたのが間違いだと思う
これ多分ねガンバって二千人くらいだよ
戦国時代に二万もいるわけないだろ?
きっと桁違う。
だから秀吉に踊らされてるんだって
なんか変なのが湧いているな。
あちこちで拙い日本語を駆使して頑張っているけれど、適当にあしらわれて可哀想だw
764 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/10(土) 09:58:52 ID:L5IeW1/k
信玄って息子や家臣に名族の名跡継がせてるけど
これってほとんど断絶したり滅んだ(信玄自身が滅ぼしたところもある)家ばっかりだよね?
養子政策での勢力乗っ取りじゃなくて単純は箔つけにすぎないの?
765 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/10(土) 20:01:55 ID:P39bXxEx
いろんなスレで、武田騎馬軍団が存在価値ゼロみたいに嫉妬
してるアホな連中多いが、日本の名馬(精強)の産地は甲斐
と信濃だってこと知らないの?ただでさえ日本一の山間地帯
で鍛えあげられた武田兵がそれに乗って戦ってたんだよ、お
まけにそれらを指揮してるのは信玄だ(巧みな素早い陣形な
ど)
およそ強さのパラメータを全て兼ね備えてたと言ってよいね
武田騎馬軍団は
766 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/10(土) 20:05:41 ID:P39bXxEx
武田兵一人倒すのに、徳川兵三人でかからないと倒せないって言われてたね
ちなみに弱兵で知られる織田兵三人でかからないと徳川兵一人を倒せないと
言われてた、まあ単純に言って武田兵一人倒すのに、織田兵九人でかからな
いと倒せないってことに・・・・・・・爆笑)
日本の名馬の産地は陸奥だろが
そんなに強い兵をかかえていて、二代かけてもトータルして四カ国以上の
征服はできなかった信玄勝頼ってどれだけ戦が下手なんだよ?
そしてそんな弱い兵を率いて二十数カ国を征服した信長。
769 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/10(土) 21:11:55 ID:P39bXxEx
>>768 メガトン級大爆笑!!アハハハハハハハハハハハハ
結局反武田は、大小でしかものを見ることが出来ないからアホなんだよねえ
武田の周りに誰がいた?上杉、北条、今川、更には斉藤道三もいた、有力か
つ広範囲に渡って領土を有していた大名ばかりが敵。
信長の周りは所詮雑魚敵ばかり、いや別に信長を軽視してるわけではないで
はないが、あの包囲網の状態で信玄に攻撃されたらひとたまりもなかったの
は事実だよ。
山梨県の「・・牧」と地名が残ってるのは良質な甲斐駒の産地だったらしいね。
771 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/10(土) 21:30:13 ID:d6i3DPBa
騎馬軍団騎馬軍団って過信しすぎな。乗馬とかやった事がある人なら実感できるだろうが、
実際には一級の熟練者でもない限り馬上で剣槍振り回して戦うなんてのは無理。
そして一般兵全てがそんな熟練者である筈もない。
騎馬軍団が騎乗したまま剣槍振り回して突撃して蹂躙するなんて妄想は現実には起こっていない。
772 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/10(土) 21:33:32 ID:F1S7FMWD
773 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/10(土) 22:02:37 ID:zEZ7nP1a
武田騎馬隊が否定される一番の理由
8%
さて、謙信玄厨よ、これをどうやって覆す
775 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 01:41:08 ID:iQjqXfVy
そうだまずはまわりの敵の状況だ朝倉も浅井もまだいたからな…勝頼はその点厳しい状況だよな、もう朝倉浅井も滅亡してたからな。
776 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 02:59:31 ID:Jlbxg87U
今川義元はアホなので公家大名であり武将ではないので、大軍を狭い道
でトロトロ進軍していたのが命取りだった
武田信玄は有能な戦国随一の大名であり指揮官として右に出るものはい
ないので、大軍動かすにも戦略を緻密に練る(三方原での魚燐の陣が良い例)
信長のおかれた状況、織田軍の情報(布陣の仕方や鉄砲の数など)をない
がしろにはしないだろ、てゆうか家康軍でも一度も勝てなかったぐらいなん
だから信長が信玄に勝てるなんて保障はどこにもないよ
777 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 03:37:22 ID:Jlbxg87U
>>771 更に爆笑!!!現代の乗馬って、趣味かもしくは競馬といったよ
うに戦う為に訓練された騎手なんてほとんどいないだろ?戦国の乗馬兵と
の比較のし方がおかしいだろばーーか、何をするにも馬は移動の際必要に
なる時代の騎手と現代の騎手とでは違うね
まあ俺が思うには、信玄は陣形が巧みだったから機動力をいかしての騎馬
軍団だったのが敵から見て脅威に写ったんだと思うよ、八幡原で上杉に襲
撃された時、魚燐からすかさず鶴翼の陣に変形させるぐらいだし(完成す
るのが少し遅かった為攻め込まれたが)あんなの出来るのは武田だけだね
三方原で家康が大敗した理由をもう少し勉強した方が良いね
・・・バカの振りってそんなに楽しいのか?
第二次大戦の初期まで槍持った騎兵は普通にいたけどな
780 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 09:47:22 ID:W3Pr+Xjx
騎馬軍団の騎馬ってのはあくまで素早く移動するためのものであって、みんなが馬上で戦っていたわけではない。
戦国にその名を轟かせた武田の騎馬軍団でさえ、戦う際には下馬するもん
多分スレ活性化のためのわざと武田厨を装ったレスなんだろうけど
ネタが使い古されすぎてるから食いつく気がいまいち……
782 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 13:50:03 ID:uYqkNXs9
三国志板の2万5千の騎馬隊を率いた武田信玄スレが消えたからな。
783 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 14:18:28 ID:Kft9ySgv
>>776 信玄はそんなアホな義元に勝てなかったの?
784 :
メガトン ◆xfEWihaR6w :2007/02/11(日) 23:46:29 ID:VAbSRu84
>>783???戦ってないだろ両者は
まあ俺が思うに、クソ漏らしを手なずけるか潰すかしておいて
三河遠江を完全に手中にし、それを見た北条家は武田に2度と
逆らわないだろうから、更に上杉とも同盟が組まれるかもしれ
ないね、これで巨大な同盟圏が出来れば、信長といえど簡単に
天下は取れなかったかもしれない
785 :
人間七七四年:2007/02/12(月) 13:24:12 ID:tN3EoinB
>>784 多分そう言うアホがいると思って釣ってみたんだが。
矛盾点よく考えてみな、墓穴ご苦労さん。
786 :
人間七七四年:2007/02/12(月) 15:51:47 ID:J3zmXQAl
剣槍振り回して戦わないと騎馬軍団じゃないのか…
無茶苦茶だな、否定厨は
そんな騎馬、世界中探してもそうそう存在しねぇよ…
787 :
人間七七四年:2007/02/12(月) 16:46:20 ID:9bzq7dU5
欧州などの中世の騎士がランスで戦うイメージしかないんじゃないか
あと映画とか大河とかに毒されてるんだよ
788 :
人間七七四年:2007/02/12(月) 18:27:07 ID:HD/EFsXN
では、あなたが想定する騎馬軍団像をまず提示してください。
789 :
人間七七四年:2007/02/12(月) 19:12:24 ID:hgXwk/3x
おれの想定する騎馬軍団は・・・
騎射によるヒットアンドアウェイを行う遊牧民的な軽騎兵かな。
パルティアン・ショットで有名なパルティアやモンゴル・突厥など
中央アジアなどの地域で大活躍した
790 :
メガトン ◆xfEWihaR6w :2007/02/12(月) 20:52:52 ID:BL9QF+5K
>>785 はあああ??矛盾点ってなあに?どこがなの?
信玄と義元が戦ったことなんてあるのかよ、あっそうか
義元が3州(三遠駿)を支配してる間、手が出せなかっ
たとか抜かすわけじゃあるまい?
信濃攻略に目がいってた信玄はやはり義元を警戒しつつ
も背後の盾みたいに認識してたんだろうよ
791 :
人間七七四年:2007/02/13(火) 03:13:38 ID:f5/VMvZc
792 :
人間七七四年:2007/02/13(火) 14:08:41 ID:p1OmrSfg
ただ単に移動するだけとか、弓矢を扱う程度なら問題はないだろうが、
刀や槍で実際に敵の兵士と斬りむすぶというのは非常に熟練度を要求される。
馬上では自由に動けない為、一度武器がぶつかりあうとその衝撃で馬が回ってしまい、体勢が不安定になってところを討ち取られる事になるからだ。
戦国期の騎馬軍団の目的は移動が主なものであって、馬上で戦う事は稀だった。
武田の騎馬軍団もその例外ではなく、いざ戦う際には下馬するものだったと甲陽軍艦にも書いてある。
793 :
人間七七四年:2007/02/13(火) 18:53:00 ID:P6ooVXCO
甲斐一国で今川攻めとは恐れ入ったわ
794 :
人間七七四年:2007/02/13(火) 22:05:02 ID:eicobEM5
バラバラだった信濃を取るのにすらあれだけ時間かかったのにな。
795 :
人間七七四年:2007/02/13(火) 22:15:51 ID:TVvUJVsa
下馬戦闘についてはいろいろな説があるが、それが事実だとすると武田の騎馬は
>789がいうような騎馬隊ではなかったということだな。
796 :
人間七七四年:2007/02/13(火) 23:02:17 ID:5pQxXHUw
>>789はギャグで書いてるんだろ。
下馬以前に軽騎兵って言う時点で、武田と言うより戦国時代の日本の騎馬武者とは関係ないんだから。
797 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 10:45:35 ID:zgb0AQSl
織田騎馬軍団には勝てないよ
稲葉山城攻撃から撤退する時、追撃してきた斎藤軍を織田の騎馬隊が逆撃している
馬揃の時も十五騎一組編制で馬場を走り回っている
さらに、爆竹を鳴らして鉄砲の音に馬を慣れさせる訓練を信長自らが行っている
これらは全て公記に記された歴史的事実である
798 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 11:23:28 ID:GFJy6eKD
>稲葉山城攻撃から撤退する時、追撃してきた斎藤軍を織田の騎馬隊が逆撃している
追撃してくるって事は逆に言えば確実に待ち伏せできるって事でもある。織田じゃなくても別に出来る事だろ・・・信玄だって小田原城攻略出来ずに帰るときに
調子にのって追撃してきた北条軍を返り討ちにしている
>馬揃の時も十五騎一組編制で馬場を走り回っている
別に敵の兵がいるわけでもなし、統制とって動く事がそんなに珍しいのか?
>さらに、爆竹を鳴らして鉄砲の音に馬を慣れさせる訓練を信長自らが行っている
これってあくまで鉄砲にびびらないようにするためだろ?だから何って感じなんだが・・・
しかも現代みたいに火薬が有り余ってるわけでもないのにわざわざ爆竹用意ってもったいないな。
鉄砲隊の射撃訓練の横に馬つないでる方が経済的な気がする
799 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 11:40:00 ID:zgb0AQSl
>>798 だから騎馬隊という編制でやっている実戦や訓練の記録なんだよ
戦国時代で騎馬隊のみの運用を行った当時記録が厳然とあるのは異例
歩騎混成で待ち伏せした信玄の例や、そっちの主観で良いとする訓練と比べるほうがナンセンス
800 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 12:12:05 ID:HDOqGYjg
それ当代記じゃね?
801 :
メガトン ◆xfEWihaR6w :2007/02/14(水) 21:47:40 ID:Z+0IvdRr
>>799 そりゃあ一軍全体騎馬で構成されることはないでしょ 笑)
突撃や移動の際重要な役割を果たしていたことは事実、特に武田の
場合素早い行動に長けていた
802 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 23:36:48 ID:vFCePd/O
1部隊というならともかく、1軍すべて騎馬じゃないと騎馬軍団とは言わないなんて、
世界中の誰も思ってないんじゃないか?
803 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 23:54:56 ID:GLJ6usLQ
武田の素早い行動・・・
具体的に何かあるのか?
804 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 00:52:39 ID:C+/qgVPa
8%(笑)
もし当時そんなこといってたら北条の奴等にバカにされてたんだろうなー
805 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 02:30:15 ID:0FRE4G8U
>>803 善光寺平に上杉勢が進出したとき、甲府の信玄は即座に出陣したのは迅速な行動といって良いんじゃない?
まあ、騎馬じゃなくて狼煙ネットワークのおかげなんだが
806 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 10:05:39 ID:c7ixCTj8
織田騎馬軍団があったのなら、桶狭間で今川軍が全く反応できないうちに中入が成功したのもうなずける
もっとも戦闘においては信長自らも下馬して槍振るったという記録があるから、やはり移動手段であったんだろう
807 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 14:17:41 ID:iZHp4kx2
だいたい山がちで道路もろくに整備されてない日本でどうやって騎馬の大集団が走れるんだ?
信長の騎馬軍団(つか規模からすると鉄砲組みたいな馬廻のみの特殊部隊っぽいが)みたいなごく少数が運用できるレベルがやっとでしょ
808 :
メガトン ◆xfEWihaR6w :2007/02/15(木) 15:03:58 ID:fpWLOJKL
>>803 ほんとに基本的なこと何も知らないでアンチ武田やってられる
んだねえ、まあ無知だから余計にわーわー言ってるんだろうけど。
野戦における部隊の編成の仕方とか知らないの?陣形だよ陣形
八幡原や三方原なんかが特に有名だが(魚燐から突撃あるいは反転など)
上杉に突撃された時は魚燐の陣だったが、すかさず鶴翼に切り替えるな
んてのは到底並みの部隊では出来なかったね。
809 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 15:13:41 ID:bQm+REY4
いやー、江戸時代の畳水練ともいうべき軍学によって構成された八幡原や三方ヶ原を
もってくるとは思わんかった。武田マンセーは近年の歴史学の研究成果も知らないで
やってられるんだねえ、まあ無知だから余計にわーわー言ってるんだろうけど。
810 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 16:20:53 ID:u9mRM9xj
811 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 16:21:29 ID:sndNWFQx
だいたい初めて聞いた時から不思議だったんだよな。
なんで「守りを固める」のに横一文字の鶴翼なのか、って。
やっと分かったよ。越後勢の犀川渡河を防ごうとして川沿いに
水音を頼りに展開してたら霧が晴れちゃったんだな。
812 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 17:07:19 ID:4BkmoKjF
諏訪や、小笠原とか相手にしてる時代なら、敵の備に六十騎位で
突っ込んでも戦果を挙げることは出来ると思うけど。
813 :
メガトン ◆xfEWihaR6w :2007/02/15(木) 20:44:47 ID:fpWLOJKL
>>809 ばーーか、その近年の歴史学とやらが正しい証拠でもあるのかよ
君は学生君?さすがに大学生は馬鹿にされるだけあってアホだねえ。
なら、クソ漏らしの軍が武田軍を追撃してる時、何で武田軍は待正面待ち
伏せ出来たのか理由とか言えるの?
クソ漏らし軍の動向が情報で得たとしても部隊全体をすぐに反転出来るの
は通常の編成では至難なこと。
814 :
メガトン ◆xfEWihaR6w :2007/02/15(木) 20:59:58 ID:fpWLOJKL
815 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 21:48:43 ID:8BgHmJWn
ゲームじゃないんだからどっちが優秀とかの問題じゃないだろ?
武田が信濃を取るまで今川が指加えて見てるとは到底おもえん
で、甲斐だけでは全く歯が立たないのは明らか
武田は桶狭間が無かったら強大な今川を気にしながら信濃、越後勢を相手にしなければいけなかった。
それが、弱小徳川、衰退今川に変わって一方面は軽くなった。
これ事実ね
816 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 21:48:47 ID:TawBrTLU
なんだwikiか
817 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 21:51:47 ID:6IqiFYcX
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l l l 人.'´三`' /l f'^i-、__
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{ -‐' ´ ̄ソ /::::::::::::::::|l:::::||::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::l!:::::::::::ト-
ttp://www.nicovideo.jp/watch/ut6A4nX-R0yYM 「東方軍vs陰陽軍の戦に参加するのだ」
818 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 21:53:19 ID:6IqiFYcX
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ttp://www.nicovideo.jp/watch/ut6A4nX-R0yYM 「東方軍vs陰陽軍の戦に参加するのだ」
819 :
メガトン ◆xfEWihaR6w :2007/02/15(木) 22:04:10 ID:fpWLOJKL
>>815 頭の鈍感な公家おじゃるマンセーは自らも鈍感だということに気づいて
ないから始末に終えないねww
優秀か否か両方の将を比較し合ってるのはお前らの方だろターーーーーーーコ
桶狭間があったから武田は楽になれたって?そういうタラレバなことばかりい
ってるから駄目なんだよ、君達世間でも馬鹿にされてるんじゃ内科医?
まあ信濃の方が3州の雑魚大名なんかより優れてたから信玄は力をつけるのが
ややおじゃるより遅かっても仕方ない罠。
それから仮におじゃるが尾張を平定したならその後の斉藤家はどうするつもり
だったの?武田は一時斉藤家とも軽い同盟組んでたんですが。
820 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 22:23:28 ID:CccHk940
信濃の方が東海の大名より優れていようがなんだろうが、国力が今川>武田なのは明らか。
指揮する者の能力がよっぽどかけ離れていない限り、数の多い(国力の高い)方が有利になるのは至極当然の事。
駿河遠江三河の東海三州に加えて尾張まで手中に収めれば、武田単独では今川に敵対する事は不可能に近い。
武田・斎藤・北条の三勢力が包囲網でも作らない限り、まともに戦えないと思う。
だが北条は関東平定&対上杉を優先するだろうから、わざわざその包囲網に参加するとは考えにくい。
だから、今川の勢力が衰退していない状態で敵対すれば武田に勝利の道は無かったと思う。
そもそも甲相駿の三国同盟を組んだのは互いの利益を考えての事だが、武田・北条と今川では微妙に事情が違う。
武田と北条は、それぞれ信濃や関東の平定、それに上杉という問題があったから背後の安全を確保しようとした。
だが今川が敵対するのは同盟相手の武田北条を除けば尾張の織田のみであり、国力の差を考えれば問題にすらならない。
上洛=尾張侵攻を考えずに、武田北条を潰そうと動いていればかなりピンチであったと思う。
821 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 22:25:20 ID:qrGO9+4a
えらく粘る釣り氏だな
822 :
メガトン ◆xfEWihaR6w :2007/02/15(木) 22:26:25 ID:fpWLOJKL
哀しきおじゃるオタの悪ふざけスレだと思ってみて見れば、本気で
公家のおじゃる>>>>>>>武田とか想像してる連中はマジ爆笑
桶狭間での出来事が不運だとか、わけの分からん屁理屈をこねて強
引に(凡将から知名度回復!)みたいなことやってても意味ないっ
て。
なら信玄や信長秀吉、元就といった名将達がどうして戦国の世をま
っとう出来たかっていう理由を考え抜かなければ駄目だね。
公家のおじゃるは織田領に隣接しておきながら、信長の政治、部隊
編成、戦闘の仕方などを軽視してきたせいでの自業自得なんだよ、
分かる?情報戦略に長けてなかった証拠だね、ついでに公家大名な
ので頭も鈍感そのものだい!^^
雪斎の死が悔やまれるって?関係ないね、信玄のように大名として
常に周囲に敏感でないと勝ち残っていけないんですよ、ニャハ^^
823 :
メガトン ◆xfEWihaR6w :2007/02/15(木) 22:31:51 ID:fpWLOJKL
>>820 ←←←アホや、病気やこいつwwww
タラレバなことを、長々としたレスしてて恥ずかしくあらへんか?
↑↑でも書いたが、隣の国の状況もまともに解釈出来ていない公家大名
が領土を拡大すればする程統治出来るんかいな。
国は拡大する程難しくなるってのは理解してるよなあ?
てゆうより、桶狭間でぶざまに首とられてるんやからもうやめとけって
みっともなく武田に逆らうんは 将)
824 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 22:44:23 ID:H4fkMdPx
釣りじゃなくて真性に思えてきたな
これは孔明の罠か
825 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 22:44:30 ID:8BgHmJWn
で、武田は今川義元が存命でも信濃を攻略できたというのか?
ずいぶんお気楽な性格だな
俺なら武田と諏訪、小笠原辺りの戦に介入して信濃の南側ぐらいは分捕るけどな
武田がいちゃもん付けたら 三州より強力なw 信濃の豪族に軍資金でも贈って暴れさせて
自国の兵で甲斐を南側からけん制するよ
826 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 22:46:37 ID:L1G73MZg
>>823 >タラレバなことを、長々としたレスしてて恥ずかしくあらへんか?
まぁこのスレ自体が「信玄が死ななかったら」「信玄が死ななければ」だしな。
タラレバが嫌なんだったらこない方がいいよ。
827 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 23:28:57 ID:nSgDZ9Uu
武田って滅亡したんだよね(´・ω・`)
織田と・・・・クソ漏らしの軍にさ・・・・・・
皆殺しにされてさ・・・・・・・
クソ漏らしの軍の1000石の旗本で細々と生きたけどさ・・・・・・
滅んだんだよね・・・・・・・・・
これでもかってぐらいに大敗しまくって滅ぼされたんだよね・・・・・・・
何十年もかかって手に入れた信濃を一月で落とされて・・・・・・
翌月には甲斐まで落とされて・・・・・・
別に3倍の兵がいた!!!とかじゃないのに(´・ω・`)
828 :
メガトン ◆xfEWihaR6w :2007/02/15(木) 23:30:36 ID:fpWLOJKL
>>826 いや違うよ、このスレは実際に信玄が生き続けて上洛出来れば
どうなるかってスレだろ?つまりとっくに無様に死んでる義元なんて関
係ないのだよ、何いつまでもみっともなくおじゃるマンセーして荒らし
てるわけ?いい加減身の程わきまえた方が良いね君達www
>>825お気楽だねえ、鈍感で情報軽視なおじゃるでは信玄には勝てないね
てゆうかいい加減おじゃるには用の無いスレなんだから消えたら?
829 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 23:31:49 ID:KTYpybCn
程度が低いのがエセ関西弁使いたがる法則。
九州弁や東北弁など同様に関西弁も各地で全然違うが、
バカはナケナシの脳味噌で必死に何処の言葉かわからない聞きかじりの関西弁を使いたがる。
釣りとしてもヘボい、煽りとしても低レベル、せめて内容があればと思うが、
書いてる本人が低脳なんで、レスに知識や論法が介在しようがないのがなぁ。
830 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 23:36:14 ID:KKSa3Lpx
>>827 最後の武田侵攻の時は三倍どころじゃない兵力差があったと思ったが。
831 :
メガトン ◆xfEWihaR6w :2007/02/15(木) 23:42:59 ID:fpWLOJKL
>>829そうやって空回りレスしとるから君達は駄目なんやなあ。
口で喋るのと書き込むのではニュアンスが違うのは当然のこと、てゆうか
武田が悔しいからって話をそらしても意味ないでーーーーーーーーーーー
てゆうかホンマに消えたらどうなんや?ここは信玄の上洛スレ、お前ら惨
めったらしいおじゃるオタが来るべきところやあらへんでーーーーーーー
832 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 23:47:45 ID:KTYpybCn
PCすら買えない携帯厨に煽られてもなぁ。
833 :
メガトン ◆xfEWihaR6w :2007/02/15(木) 23:53:02 ID:fpWLOJKL
>>832PCだよアハハ残念〜〜〜可哀想に、そこまで空回るとやはり
今川オタらしくて立派だね、てゆうか早く消えろスレ違い
834 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 23:55:01 ID:KTYpybCn
PCすら買えない携帯厨に煽られてもなぁ。
835 :
メガトン ◆xfEWihaR6w :2007/02/16(金) 00:58:23 ID:Yr8Cyibc
ああなるほど、自分がPC持ってないから僻んでるのか?
836 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 01:03:27 ID:3/Qp4+Vr
sageも出来ない携帯厨に煽られてもなぁ。
837 :
メガトン ◆xfEWihaR6w :2007/02/16(金) 01:14:56 ID:Yr8Cyibc
段々支離滅裂になってきたねえ、馬鹿だねえ武田に歯向かうネタに
つきたんならさっさと寝れば良いものを。
携帯でレスしてるんじゃないのに何いつまでも空回りしてるのかな?
838 :
人間七七四年:
ここまでまとめた