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名無しさん@お腹いっぱい。:
上洛の可能性 ↓以下で上洛可能
・信玄が健康で長命
・足利浅井朝倉松永本願寺三好残党六角残党らも包囲網一致協力
・三方ヶ原の戦い後、徳川家を早期に攻略乃至は降伏
・武田軍が甲斐に帰らず1年以上遠征可能
・上杉が空になった信濃、上野を 襲うことは決してない
・北条も軍艦の記載のように援軍を出す
・三河尾張国境の 水野家が離反する
・織田との決戦で勝利する
44スレまとめ
>1-12 >45テンプレ
>17-21過去ログ関連スレ
>22-30 過去スレ>34-42スレまとめ
>38-99上野の重要性
>70-78官位、官職の重要性
>100-118上野北信濃を取らずに他方へ攻める・上洛するIF
>121-148信長信玄両者の情勢 戦略性
>145-200甲尾同盟は武田にとって利益か否か・駿河攻め
>182-282上洛戦について・兵の強弱・信玄信長秀吉の戦術能力
>294-339小牧長久手・秀吉家康の能力評価・信長の戦術能力
>376-396機動戦城攻め篭城殿戦など各戦術能力での比較・金ヶ崎の退き口・秀吉の軍功
>388一色藤長書状
>397-426信長と戦い大勝した場合歴史群像
>420-529源氏東国史観関東政権構想
>451謙信と家康、信長の間で対武田同盟(上杉文書・新潟県史391)
>458謙信家康の交渉ソース(本光寺文書)(堀江文書・元亀2年の条)
>462織田上杉同盟(真田文書・群馬県史2719)
>530-553信玄信長の戦術能力
>554-620越後攻略に専念のIF 越後豪族の離反の理由・大名権限の伸張と豪族の不満・
>621-687北条反乱の勝算 越後の地理天候
>687-709本拠地について・駿河攻め・三国同盟を堅持して美濃攻めIF
>703 66-69年信長信玄謙信年表
>710-715新発田の反乱
>742-750謙信上洛の効果
>780-787松永の裏切り先見性について
>788-823織田の家臣武田の家臣について・行政文書
>824-843武田家臣の出自
>828>837武田家臣一覧
>844-856信虎の外交方針政策
>875-967信玄の戦略
各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)
ちなみに、万石あたり250人は比較的低い動員率、
無理すればもっと動員できるだろうがそういう兵力は基本的な守りに残すと解釈。
関東
上野:49万6千石/12400
甲信・中部
甲斐:22万8千石/5700
信濃:40万8千石/10200
飛騨:3万8千石/950
美濃:54万石/13500
近江:77万5千石/19375
東海
駿河:15万石/3750
遠江:25万5千石/6375
三河:29万石/7275
尾張:57万2千石/14300
伊勢:56万7千石/14175
志摩:1万8千石/450
北陸
越後:39万1千石/9775
越中:38万3千石/9500
越前:49万9千石/12500(慶長検地では68万石)
若狭:8万5千石/2125
畿内
山城:22万5千石/5625
大和:44万9千石/11225
摂津:35万6千石/8900
河内:24万2千石/6050
和泉:14万1千石/3550
伊賀:10万石/2500
四国
讃岐:12万6千石/3150
阿波:18万4千石/4570
淡路:6万2千石/1550
各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)は以下参照
ttp://homepage3.nifty.com/ksatake/
1572年(元亀三年)十月三日(信玄、古府中を出立)の各勢力の状況
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…95%(9690)
*飯山周辺は残す。
・上野…36〜43%(4450〜5375)
*倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。
14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。
利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割)
・駿河…100%(3750)
・飛騨…10%(95)
*72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
して上杉氏を頼る。
・越中…?
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・遠江…7.8%(500)
*遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。
武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。
遠征後は20%ほどに増大
・三河…12%(850)
*足助城を落とし、賀茂郡一部・設楽郡ほぼすべて・八名郡一部を支配。ただし全て山地なのがネック。
・美濃…ほぼ0〜5%(0〜675)
*秋山信友が岩村城を落すのが72年11月。 それ以前に落していた恵那郡の小城を、どの程度に見積もるか?
18(21?)郡中これだけでは最大5%もないとする意見。
総計25035〜26635
後北条と同盟。義昭や顕如ら畿内の反織田勢力と連絡を取り合う。背後に上杉と上野方面を巡って火種。
ただし、もともと高税率のうえ、69年以降は戦もそれまでの二倍以上。領国の疲弊はすでに始まっていた
とする説あり、ただしソースは少ない。継戦能力にも疑問。
●織田
・尾張…100%(14300)
・美濃…90%(12150)
*21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺のみ 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…70%(13563)
*浅井・六角は追い詰め中。他には甲賀郡の土豪と野洲郡のいつ蜂起するか判らない一揆衆。
・伊勢70%(9923)
*桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡され乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
・三河…10%(728)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族。
総計51114
この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。
若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山荒木などが味方勢力として存在。
池田和田淡路の安宅などはテンプレ時は旗幟をはっきりさせていない。
●徳川
・三河…78%(5675)
・遠江…92.2%(5875)
*両国とも、武田にどの程度侵略されているか。また調略如何によっては動員はさらに下がるかも。
総計11550
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は グンと下がっているだろう。上杉と同盟。
■三方ヶ原の戦い後の情勢。
1572年
十二月 二十二日 三方ヶ原の戦い
1573年
一月 三日 武田軍野田城を囲む
北山城や摂津河内の国衆から義昭に付く者が続出する。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴。
近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。
二月 十五日 武田軍野田城を落とす。
二十四日 柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。
三月 二十五日 信長、岐阜を出陣。
二十九日 細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。
四月 三日〜四日 上京焼き討ち。二条御所を包囲。
七日 調停の仲介により信長と義昭との和睦なる。
八日 信長、京より岐阜へたつ。
十二日 武田信玄死去
柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。
七月 足利義昭京より逃れる。
八月 朝倉・浅井両家滅亡。
■この情勢をもとにした推測。
織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
(基本的な任務は守備、現状維持)
計算上は2万8千ほどを対武田に向けられるのでは?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
北条の援軍が二千〜三千で、
合計ニ万〜二万五千ほど?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、石高的には10万石3000ほど
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、石高的には6万石1500ほど
北条の援軍が二千〜三千で、
遠征軍合計実数二万五千ほど
信玄率いる遠征軍は石高的には84万石〜90万石で21000〜22500ほど+北条の援軍2000〜3000
+美濃へ入ってくる秋山隊が3000ほど
その他の勢力 東国
●長尾上杉
・越後…100%(9775)
*ただし、揚北衆特に本庄氏の扱いは微妙。
・上野…10%(1240)
*沼田・厩橋近辺と考えるとこれぐらいか? 武田・北条におされ気味。
・越中…20〜25%(1900〜2375)
*神通川以東(新川郡)松倉・富山は1573年正月まで攻撃中。72年〜73年にかけての遠征によって、越中の大部分を支配下に収める。
この時は越中から加賀にまで攻め込み、顕如から信玄へ援軍要請が行われた。
松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・飛騨…三木氏や江間氏とは友好的。1572年の富山攻めでは江間氏が援軍派遣してる
・信濃…5%?(510)
*飯山城とその周辺は保っていた模様。最大見積もってもこの程度。
総計13425〜13900
・遠征能力○
遠征能力は高いが、北陸へ出陣中。仮に北信・上野に出陣するとしてもメリットは薄い? ただし史実
ではこれ以前も以後も関東への出兵を繰り返している。武田・北条・加賀を敵に回して織田・徳川と同盟。
関東の諸将(佐竹ら)とは疎遠になった。
●後北条
・遠征能力○
武田・上杉と並ぶ大国だが、武田とは同盟中。今回の武田西上でも援軍(二千~三千?)も出している。
数年前まで戦っていたとはいえ、手切れをしてまで武田を攻める事は無いだろう。北関東には他に敵
もいる。
●朝倉
・越前…100%(12500)
*寺社領については、明確な根拠を示さない限り否定されます。
・若狭…?
*守護武田氏は抑えているが意味なし。有力国人である逸見氏・粟屋氏などはこぞって織田について抗争中。
朝倉軍の一部は粟屋氏の居城を攻撃していた模様。(武藤氏が反織田に回ったが、この時期の動向は不明)
総計12500+?
・遠征能力○
遠征は10000程度は可能か? 現在、越前にフラフラ様子み。70年の講和以降、浅井への援軍以外に
出兵なし。経済疲弊。一部軍役拒否の状態。若狭の支配圏は低下中、むしろ抑えるための兵力派遣
が必要。
●浅井
・近江…9.5〜14.5%(1850〜2825)
*伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城しか残っていない。
高島郡はもう少し高いとみる説あり。これも考慮に入れた。
総計1850〜2825
・遠征能力△(朝倉が来れば助力可)
単独での侵攻は辛い。木下隊に苦戦。小谷城の眼前に虎御前山砦を築かれて押し込められる。
●六角
・近江…?
*愛智郡鯰江城で逼塞状態。甲賀の土豪がどれほと力になるか?
●松永・筒井(反松永)
・大和(11225、ただし双方合わせて)
*寺社勢力は心情的にも筒井派。土豪も多くが筒井につく。
・遠征能力×(両派とも)
大和で両派が泥沼の抗争中。お互い支援を求めて織田や三好と手を組むことに。
元亀三年の時点では織田の支援を受けた筒井側に有利。松永は押されっぱなし。
●長島一向宗+国人
計20000?
遠征しないが尾張は目と鼻の先。ただし動きは鈍い。守備力は高い。
●石山本願寺+雑賀衆?
計23000?
遠征準備は謎だが、近江まで歩いて1日。 ただし動きは鈍い。守備力は鬼。本願寺自身は織田と直接
軍事衝突は行っていない(するのは後年)。信長との外交ルートあり。
※もともと本願寺と一揆は別ものであり、絶対的な命令権があるわけではない。各地の一揆はそれぞれ
の権益を守るために支配者に抵抗した。また、兵力には老幼婦女が多数含まれていると考えられる。
●北畠
・伊勢…30%(4253)
*大湊など、伊勢湾の海上交易に大きな影響力をもつ。かつては南伊勢五郡を有したが、織田へ離脱
するものが出る。
計?
・遠征能力×
織田による内部からの乗っ取り進行中。そのため勢力としては身動きとれない。隠居させられた北畠
具教は面従腹背。武田と接触をとっているが(根拠は不明)、実質どれほど動かせるかは不明(後年、
具教が討たれたときに北畠残党が挙兵するが、一族などの一部に留まる)。
ほとんど織田の一部とみなしてもいいとする意見あり(ただし、信雄が正式に跡目を継いで北畠軍が
織田の一環として行動するのは74年以降)。
●伊賀
六角に協力したり北畠についたり。基本的には中立。
その他の勢力 三好
三好一族の主だった頭(各国の支配率は不明、動員数は100%の場合)
畿内
・本家:三好義継 三人衆との関係から信長に従っていたが、義昭と共に敵対する
・三人衆:三好長逸、三好政康、石成友通 これも一枚岩ではない。義継や久秀と
抗争の為に行動をともにしていただけ。特に石成は一人信長についた時期もある。
・三好笑岩 基本的に、四国三好家にちかい。信長以前は本家と戦い続ける。
・三好政勝 管領細川家の家臣。長慶を親の仇と長年争い続ける。
・摂津(8900)
・河内(6050)
・和泉(3550)
*ただし、この全てを三好一族が抑えていたわけではなく、細川、畠山、池田、和田、荒木、伊丹、など
その他在地勢力が根を張り、反三好から織田につくものも多数いた。他に足利家につくものも多数いた。
総計18500-敵対勢力
・遠征能力×
反織田という形で立場は同じになったが、指揮が統一されたわけでもなく分裂状態のまま。
統一行動は難しいか。
四国
・阿波三好家:三好長治-篠原長房 基本的に、主筋になる細川家と争ったり講和したり。 畿内には
あまり関わらず。播磨方面で抗争があった模様?
・讃岐十河家:十河在保 阿波三好家と行動を共にす。
・淡路安宅家:安宅信康 四国三好家についていたが、1572年には義昭信長につく。
・阿波(4570)
・讃岐(3150)
・淡路(1550)
*安宅信康が織田についてしまったので、これは三好には加えられない。
離反は確実であるが織田に付いたとも言い切れない。
総計9270-安宅氏の勢力
・遠征能力×
お互いに争ったり結んだり。このころには篠原長房との確執が表面化しだす。73年4〜5月に長房が
討たれた後は抑えられていた豪族たちが反旗を翻すことになる。
四国の三好家関連は、後にほとんど信長に属することになる
おまけ
●足利将軍家
・山城…?
*北山城の国人が義昭に呼応し、明智の配下から離脱者が出たとの記録あり。また細川藤孝や石成友通
などの勢力もあり。細川・明智は織田勢力とみなしてもいい。和田池田伊丹などは義昭勢力。
総計不明
・遠征能力×(史実でも城に篭った)
情勢:信長包囲網側圧倒的に優位という状況にて
信玄が死去しなかったらどうなっていたかを推測
以下、1572年(元亀三年)末日の各勢力の状況
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…99%(10000)*飯山以北は残す。
・上野…45〜50%(5500〜6250)
*利根川以西に北部と南部の東岸を加える
・駿河…99%(3750)
・飛騨…50%(500)
*江間150騎が先方衆となっている。元亀3年9月に木曾方面からの侵攻もあり
・越中…15%(1500)
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っている。71年には謙信に落とされているというのは
誤りで、近年は上洛開始時健在でほぼ確定。
・遠江…40%(2500)
*元々境の地域は両属の領主が多いうえ、徳川側記録に拠ると
侵攻により地侍が靡く様に寝返ったとある。東海道沿いに逼塞、ぺちゃんこ
・三河…20%(1500)
*山家三方衆を誘降、足助城を落とし、賀茂郡、設楽郡ほぼ全域・八名郡一部を支配。
・美濃…5%(675)
*秋山信友が岩村を制圧。
計32000〜33000 + 北条からの援軍2000
●織田
・尾張…100%(13000)寛永検地では52万石
・美濃…90%(12150)恵那を失陥 岩村遠山、郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…50%(9500)
*浅井・六角は追い詰め中。湖南のいつ蜂起するか判らない一向一揆。
・伊勢55%(8000)
*桑名・三重郡の一揆衆。南部5郡の北畠氏を除く。
・三河…0%(0)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族は家康の寄子。
総計43100
●徳川
・三河…75%(5500)
・遠江…60%(3750)
侵略しぬかれぺっちゃんこ
計9250 ただし味方が原の大敗でもっと減じている可能性大
●朝倉
・越前…100%(14000)
・若狭中、東部…70%(1500)
*若狭侵攻で一部を除く中、東部を支配、逸見氏・粟屋氏は織田についたため雪隠詰め
朝倉軍の一部が粟屋氏の居城を包囲中。(武藤氏が反織田に回った)
・加賀…20%(1800)
計17100
●浅井
・近江…18%(3500)
*伊香郡、高島郡の朽木、志賀境を除く、浅井郡7割、朝倉との関係上城は元々破却済み。
計約3500
●北畠
・伊勢…40%(5600)
*南伊勢五郡を領有、誰かが織田へ離脱したと主張し始めた国衆はもともと南勢ではない。
織田軍へ加勢するのは長島を根切りにした時の戦から。
計5600−α 織田は北畠一族や国衆を動かせないが
北畠も表立った行動は難しいかもしれない
●六角
・近江…30%(3000)
*騒動にて家中は崩壊状態の雑魚、甲賀郡他丘陵部を占拠、一揆みたいなもん
●三好
主体は阿波、讃岐、淡路の義賢一門、ただし長春は最悪
・淡路(1550)
・阿波(4600)
・讃岐(3200)
計9350 反織田、とはいえ交戦する情勢でもない
三好康長と
三好義継、松永久秀、俗に言う三好三人衆、三好政勝
・河内(6050)
・和泉(3550)
代替わりと内訌、微妙な存在
●本願寺
まあぱっとみ3万人、近江各地で蜂起する
●長島一向一揆
追い詰められた末根切りに遭ったのが2万人、おそらく3万前後かw
*信長の弟が拠る城を短期間に陥落させたこともある
●将軍義昭
プライスレス
上洛の可能性 第2弾
・信玄が長生きする ○(このスレの最低条件)
・結束があんまりなかった信長包囲網がいきなり結束を固める ×
・他の大名が信玄を上洛させるがために信長を攻撃する ×
・上杉が攻めてこない △
・北条も決して同盟を裏切らない ○
・北条が更に援軍を送ってあげる ×
・武田軍が最低でも小説や漫画ぐらいに強い ×
・武田信玄が小説や漫画くらいに頭が良くて戦争に強い ×
・信 長 と の 決 戦 に 勝 つ (多分無理)
以上×3つ以内で上洛可能かと思われるが――
34スレまとめ
>1-14テンプレ
>16-64経済力と兵力
>65-114近江の支配率 六角の状況
>115-206 72年末の状況 徳川の状況・採るべき行動・どれだけ粘れるか
>223-233岩村城は本当に重要か
>238-252信長の移動速度
>238信長の移動速度の資料
>253-257 73年3月織田は武田を無視していたか
>262 >264伊賀の国人衆 >265-266服部友貞 別スレからのコピペ
>265-296服部友貞 下克上が非難されるか
>305-329織田毛利武田の鉄砲使用例
>331-440石高の貫高への換算 銭の信用度価値 撰銭令
>350京都の米価推移 >366甲州金 >435小田開城人身売買(別本和光院和漢合運)
>436-517経済力と軍事力 傭兵 足軽>467足軽の初見
>527-566小山田・二股かけてる国人衆
>557-572松平家の一族争い
>573-600織田-熱田津島-水野の商業利権 信秀の那古屋城奪取
>594氏親晩年から1550年までの東海年表
>606-641兵站 農村への影響
>641試算によると300人役では農村には数%しか影響がでない
>642-694信長信玄の戦略
>691-693家督を継いだときの両者の状況 >694信虎の主な業績
>695-966武田信玄の戦略は正しいか否か 別の戦略を採った場合の可能性
>746「高白斎記」による小笠原との講和について >758-759信玄信濃侵攻まとめ
>772信長美濃攻め >808武田軍の弱さについて
>873信濃諸勢力石高 >877-878信濃郡別石高・信濃諸勢力石高・年代別武田信濃諸勢力石高
>817-827信玄は何故下伊那や木曽を後回しに信長は北伊勢を後回しにしたか
>833-971北条氏康と河越夜戦に準じる戦いがあったか否か
35スレ まとめ
>1-16テンプレ
>18-187どうすれば上洛可能か 手取り川について 駿河攻めずに美濃を攻めたら
>178>180>184武田の上野攻めまとめ
>31-101織田家の武将の戦績
>125-160斉藤道三朝倉宗滴武田信玄の信長評
>188-195テンプレ詳細部分
>200-295高島郡恵那郡旧六角領 >241旧六角領まとめ
>355-398高島郡の状況
>355朽木磯野 >356多胡氏 >360島氏新庄氏林氏 >362平井山崎高島氏
>378高島郡まとめ >385高島郡の地形
>258-325信長公記とか甲陽軍艦
>326-376常備軍の虚構と農繁期の出兵 上洛時の武田の兵数
>375-415信玄は本気で上洛する気だったか >405>461恵那郡岩村の状況
>418-453織田武田を取り巻く状況
>422-443 72年の武田上杉の戦争
>454-500徳川へ援軍は必要か
>444-452秀吉の手勢 >606-617前波吉継ら朝倉降将の具体的人数ソース
>465「顕如上人文案 巻上」1572(元亀三)年9月10日付 、信玄宛の顕如書状
>471-491二俣攻囲はいつか
>484-523三方ヶ原後の武田の行動 徳川の抗戦力 >515「菅沼記」
>524-585武田織田決戦したら 信玄の戦術戦闘能力 信玄は自軍と互角の軍に勝てるか 国境の国人の動き
997 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2005/11/07(月) 21:26:29
>564-568 >642-674姉川後の浅井と吉田城が落とされた場合の徳川の比較
>661-670数値での浅井徳川国力比較
>580-641徳川は従属するか否か
>663 72年3月に木戸田中城を攻略のソース
>672「京都市小石暢太郎氏所蔵文書」
>682-718 家康の状況 武田に主要な城を攻め落とす戦力があるか 分断できるか否か
>709東海道の諸城
>719-771信長は武田を気にしていたか否か
飯田方面の地理 三河から岩村への進軍 武田滅亡時の織田の行軍路
>723-861吉田城について >769地図へのリンク
>809-810>827三河の城の説明 >817吉田城リンク
>787-823背水の陣と韓信と史記
>852-866伊勢の支配率
>864>884領地の安定化
>890-897徳川降服の可能性
>873-994徳川配下の国人衆の離反の可能性
>984-993平城と山城について それぞれの長所短所
36スレ まとめ
>1-15テンプレ
>19-50吉田城を落とせるか落とすべきか 東三河情勢
>32-101武田の軍事行動の期間 >52-53武田家の主力の主な出陣期間
>92-141武田の財政は逼迫していたか 大名の財政事情と軍役
>125-146石見銀山
>136-145今回の遠征の武田の目標
>148-224信玄存命時のIF 武田の軍事行動の限界
>189-203三河遠江と川中島の距離と策源地の違い
>211-220 1574年の対徳川戦線 >220 1574年武田織田の行動
>225-245別働隊で徳川主力を拘束すれば
>246-339織田を滅ぼせたらどうなるかとか武田に天下が取れるかとか雑談
>340-380武田の家臣は優秀か
>381-406信玄が死ななかったらIF年表
>392-414武田の支配権の不徹底さ >392領内で発給された書類に占める命令系書類の割合
>416-465雑談真田とか勝頼
>466−528武田信虎の軍事行動 >527年表
>530-538信秀信虎比較 >543信忠の内政的な実績
>554-566武田信虎と北条の関係
>581-590三国同盟のときの石高
>591-618権力基盤の確立
>619-775信玄堤とか運とか雑談
>776-786武田義信
>787-799駿河侵攻の是非 駿河をとった後織田と戦わないIF
>800-833北条の国力 何故北条は武田と敵対したか >800関東諸国の石高
>834-957雑談妄想話
>850-851穴山
>933徳川武田領地図
>946新府城安土城再現グラフィック
37スレ まとめ
>1-32テンプレ
>150-153>237-242過去ログ
>61-207>225-235長篠の戦いと徳川の強さ >188-190信長公記より抜粋長篠
>193-223信玄信長の戦術能力 斯波小笠原について
>245-292織田との講和と信長への降伏真田 勝頼降伏のIF
>293-359 73年織田の兵の配置について 何故石高兵力を求める必要があるのか
>328-334 当時の諸勢力
>360-457近江伊勢石高飛騨加賀など
>395-396南近江諸豪族 >404伊勢国人衆 >408>410高島郡
>427>428>430加賀の朝倉領まとめ >444>446飛騨江馬氏まとめ
>458-511 73年織田の兵の配置について >472テンプレ修正
>497-521伊勢近江
>499北畠氏学講座リンク >508高島郡 >519>520修正テンプレ
>526-533石高以外の経済力
>540-553浅井郡について >546まとめ
>559-624北畠
>630-691飛騨越中畿内諸勢力上杉の動向
>692-805北畠と南伊勢 >706本願寺からの贈り物
>754-766江間について >757テンプレ時の江馬に関する書状 >791謙信の越中の行動
>812-820軍鑑での参陣武将
>824-882武田織田の兵質戦術能力 兵農分離について 馬廻りの割合と蔵入地
>877-881上杉の関東での略奪行為人攫い 雑兵たちの戦場
>859-909北畠加賀など
>911-981武田織田の兵質戦術能力
>935-994三増峠の北条軍
38スレ まとめ
>1-21テンプレ
>32-39官位の自称
>60-83本願寺一向宗 三好三人衆の動向と石成について 義昭蜂起に協力した者
>78-100経済力
>90-143織田武田領国の寺社領と大名の寺社勢力への対応
>120-222武田の軍役衆の増加とそれに伴う収入減支出増・財政悪化?があるかについて
>120両棟別共御赦免の書状 >182棟別改
>218-249武田織田の指揮官クラスの死亡について 武田の戦場での強弱
>248-281原田直政について
>268-297 >368-369信長の人事・処罰・追放改易など
>296-357家臣の領地替え
>250-259戦国時代の農村状況・耕地不足か人手不足か
>370-389分国法
>390-571米以外の大名の収入源
>401信長の畿内への矢銭要求のソース?「細川両家記」「多門院日記」「多田院文書」等
>417-418謙信の商業政策
>428-429織田信秀4000貫のソース
>434-469茶器宝物の値段
>470-479甲斐の棟別銭収入の推定
>480-561特産物収入と検地の石高の範囲
>562-571銭について
>572-714信長の上洛への戦略的一貫性?武田の戦略 三河美濃攻め・駿河取得後上杉と決戦の可否
>623義昭による織田斉藤の和議と破談ソース
>648年表
>715-766NHKの信用性 信玄は甲斐の石高を3倍にしたか
>753甲斐郡別石高 >758信玄堤
>767-983甲尾同盟前の三河美濃攻めの可否
>888-988本拠移転
39スレまとめ
>5-20テンプレ
>68-126松倉城主椎名氏の70年代の動向 >77『北陸の中世城郭第15号』
>69-117本拠移転
>128-150遠山氏
>140-149NHK問い合わせ >140NHK返答
>151-215戦乱と災害の影響について >155>175>176災害年表
>259-300上洛の可能性
>301-387 1573年の朝倉上杉の動向
>342朝倉始末記 >362福井県史リンク >374 1573年年表
>385-448包囲網 上洛の可能性 吉田周辺の状況
>450-494水軍について
>466武田水軍の規模 >475水軍説明のHPリンク >477武田水軍コピペ
>485-607吉田城攻囲の可能性二俣野田攻めについて
>497吉田城 >596野田城説明
>623 1573年の徳川の反撃
>669-712 1573年の朝倉本願寺の動向 抑えの兵力
>719-734畿内諸勢力
>728>734摂津河内和泉諸勢力の説明 >732安宅信康の織田に付いたソース
>735-758畿内の状況
>759-810農繁期の出兵
>768>770農繁期の出兵年表
>811-937畿内諸勢力
>817摂津寺院 >826和田惟長を高山親子が追放のソース >891三好康長について
>897>937安宅信康の織田に付いたソース
>866-870信長公記の誤記 >869ソース
>943-973朝廷への貢献
>950信長の朝廷への貢献
>962>971>990ソース >961>963三好長慶の朝廷への貢献 >973若狭の朝廷への貢献
40スレまとめ
>1-16テンプレ
>27-46寝返りそうな武将
>48-174武田織田の大名権力 穴山・小山田
>59北条分限帳>75荒木への述懐天正4年公記
>83-174穴山氏について
>119穴山氏による金山支配 >157ソース >170デジタル身延町史リンク >172穴山氏の金山経営コピペ
>175-195春日馬場の軍役
>259-279信虎の戦略・村上・勝頼時代の北信濃政策
>276-317大名の個人的武勇
>311-339甲陽軍監の信憑性
>388-435信虎の戦略政策と信虎時代の関東東海の状況・信玄との比較
>420-421信虎相続時の甲斐の状況
>438-510信玄の戦下手について
>511-605 >690信虎の戦略政策と信虎時代の関東東海の状況・信玄との比較
>530>546>549武田今川の対等では関係 >572-573上杉北条の力関係
>584関東年表
>606-621謙信の上洛
>700-714指揮官の戦死
>796-800勝沼信元 >799ソース
>865勝頼が陣代ではないソース
>881>889信玄の負債による勝頼の軍役猶予の書状
>801-942家臣の統制上洛できるか
>944-947信長の庶長子・子供の待遇
>955-993姉川の戦い・大名の強弱 >970姉川の戦い信長公記現代語訳 >978姉川の戦い「年代記抄節」
41スレまとめ
>27-41テンプレ
>49-57軍記物での動員兵力
>52-100大名の評価・軍の強弱
>88-148武田軍の戦闘力と川中島の勝敗
>109>111村上旧家臣 >132上杉年譜や軍鑑の説明 >148第4次川中島に関する書状
>149-185武田上杉の財政と領国 牢人や当時の戦場の状況について
>162コシヒカリ
>210-240包囲網の齟齬について朝倉退陣の是非
>241-261 73年正月の織田軍の機動兵力 援軍無くても同盟は成り立つことについて
>262-291織田軍の冬の軍事行動の少なさと家康が援軍を求めたか
織田軍は包囲網の実情武田軍の実情を知っていたのか
>292-330徳川がどれだけ粘れるか・浅井との比較 大須賀の謀叛の理由について
>331-394朝倉退陣の是非・包囲網全体を考えての行動 浅井徳川の状況
>372-429羽柴対浅井朝倉と朝倉始末記
>386始末記の記述>428始末記成立年
>431-445信長は包囲網の内情を入手していたか・情報機密について
>446-539包囲網崩壊の原因について 畿内諸勢力がどれだけ粘れるか 武田軍の圧力の効果
>480岩成の滅亡年表 >514>515野田表撤退柴田等出陣年表
>490-645大名の長期遠征・略奪
>560>561上杉の長期遠征 >597>616大内の遠征
>625-706武田の関東遠征の目的と効果 654深沢城攻め
>707-767短期決戦と長期遠征における背後の安全・北信濃防衛 上杉の足止め
>757-766信長最初の上洛 >760信長謙信の上洛
>784-923長期遠征における背後の安全・北信濃防衛 上杉の足止め
>814>833>836川中島後の信濃での戦い
>859「古今書状」「信長文書の研究518」>889>895謙信68〜69年年表
>912>919>922上杉外交関係のソース
>917室町後期の主要な酒生産地
>954-990上洛の可能性・大名の家督継承
42スレまとめ
>7-32テンプレ
>33-61テンプレの正誤について
>45>50小浜の所領安堵 >59>96織田の堺代官
>62-126 >149-166川中島以後の上杉の対武田信濃への行動 城の守備兵力と防衛力
>196-240武田上洛の可能性
>239-261嫡流断絶後の両家
>256-286甲尾同盟と越尾同盟
>265>269年表
>287-360武田戦績浜松攻めの可否信長の戦術能力
>287-290>303>325>326>339>342344>346武田戦績
>359-388真田など >364大熊朝秀
>422-437織田の援軍・出撃の理由・領国荒らしの効果
>454-484>494-537武田の採るべき徳川戦略・徳川の抗戦力と浅井六角の抗戦力
>485-493短期間での大名の滅亡・大敗の滅亡への影響力
>570-572武田氏参考本
>565-580野田城
>573-630北遠江の城の数支配領域東三河の支配領域 >630奥山への安堵
>677>685東美濃十八城 >687リンク先ソース
>694-742武田織田の領民への統治・税
>717竹生島参詣 >737NHKコピペ
>768-792信長の一向一揆殺戮について >775長島攻め
>793-848大名の寺社政策・寺社同士の抗争
>852-986北遠江諸城・落しただけか支配下か・武田の勢力範囲・北遠江の安堵・孤立した城
>852北遠江諸城一覧 >881北遠江の安堵状報償 >893充行の日付
>909久能城リンク >928武田進撃ルート
43スレまとめ
>1-25テンプレ
>39安堵状と宛がい状>50の城
>54-71上洛できるか 武田の老臣は老害であったか
>80-114天野氏「遠江国風土記」
>97-138織田武田家臣能力比較
>148-210天野氏 >50の城 大日本史料等についての説明 遠江北中部の推測 捏造か否か
>151活字化 >154見付端城
>215-217発言まとめ安価
>233-247天野氏宛の充行状 >233まとめ
>248-279武田の重税織田北条との比較
>255>258武田の税 >266-273北条の税 >279北国国掟
>274-310信玄の金山支配
>304-352堺の支配 義昭追放時護衛したか否か >327義昭追放時の処置ソース
>355-358鉄砲硝石の入手
>359-377遠江国風土記傅天野文書の写し >359>372遠江国風土記伝
>381-403数年速ければ三河攻めの可否
>400-443遠江国風土記伝安堵状と宛がい状続き >400遠江国風土記伝内容 >404疑問点
>420-454武田直轄地
>462-477駿河侵攻と外交
>494-510土屋昌次の奏者としての働き矛盾点充行状の内容の不自然さ
>507不自然な点まとめ >510平尾・鶴松之内百貫文説明
>525-554武田上杉の対朝廷幕府外交・関東管領・信長の地方大名との外交
>555-632土屋昌次天野氏敷地・長田・飯田村の位置
>561天野氏系図リンク >592-595書き出し >600松井氏リンク
>602書き出し土屋右衛門尉書状は奥山文書から引用 >607天保国絵図リンク
>644-676意味解釈 >644大日本史料にあった奥山氏宛の書状 >656書き出し >669-671現代訳
>705-743書き下し意味解釈 漢文古文
>729発言まとめ安価
>745-755かごめかごめ〜という童謡の意味解釈
>774-903書き下し意味解釈 漢文古文
>795本文要約 >870なほ【猶・尚】(副詞)
これで終わりでいいのかな?
>>1乙
でも
>>12までと
>>30で良くないかテンプレ?
残りの過去スレとかまとめは今までみたいに5スレに一回ぐらい載せれば十分なんじゃ
>>1乙です。
ところで、前スレの
>>999。
史実で織田と同盟を結んだ時期に、逆に斉藤と結んで織田を牽制と言うのはちょっと無理。
そこまで西にかまけていれば、せっかく大詰めの段階に入った西上野制圧が遅れてしまう。
西上野を制圧しないままではそこは上杉の勢力圏で、
北信濃は北と西から上杉に圧迫されていたことになり、信濃からの動員さえおぼつかないから、
その情勢で本格的に尾張・美濃の争いに参入するのはちょっと非現実的でしょう。
やはり、信長と境を接するようになった段階で、既に西上野の制圧まで終わっていたなら、
上杉を牽制しつつ尾張・美濃の争いに参入、
あるいはそれを横目で見ながら、三河侵攻って手も考えられたと思うけど。
西上野まで押えた勢力なら、史実においてその勢力で今川攻めや、
三増峠の戦いを行っているので、ある程度の兵力はねん出できただろうし。
ど う で も い い よ
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 19:35:46 ID:+yohcuht
元亀三年(1572年) 武田信玄上洛への道 ダイジェスト
○甲斐の武田信玄起つ
10月3日 武田信玄、甲斐国府中から大軍を率いて出陣。
──『本願寺文書』
10月22日 織田信長、徳川家康へ武田軍との決戦を前
に、簗田広正に作戦を申し含めた上で簗田を派遣した旨
を通知。──『田島文書』
11月5日 朝倉義景、遠藤加賀守へ武田信玄の遠江国
出馬と遠江国・三河国の状況を山崎吉家に注進した内
容を披露した旨を通知。──『鷲見栄造氏所蔵文書』
11月12日 武田信玄、遠藤加賀守へ遠江国過半の
平定と明春(1574年)の美濃国岐阜の攻略予定を
通知。──『鷲見栄造氏所蔵文書』
○信玄の快進撃つづく
11月14日 武田信玄、美濃国岩村城を攻略。
──『鷲見栄造氏所蔵文書』
11月15日 浅井長政、遠藤加賀守へ武田信玄との
密約(同盟)が締結された旨を通知。
──『鷲見栄造氏所蔵文書』
11月19日 松永久秀、大和国片岡の近辺へ出撃し
放火す。この日、信長は武田信玄が遠江国二俣城
を攻囲したことを知る。──『信長公記』
11月20日 織田信長、上杉謙信へ全5ヶ条にわたり
織田信長と武田信玄の敵対状況と、その経緯等を
通知。──『歴代古案』『古証文』『武家事紀』
○三方ヶ原の戦い
12月22日 遠江国三方ヶ原に於いて武田信玄率いる
武田軍と徳川家康率いる徳川・織田連合軍が激突。
──『信長公記』
12月22日 遠江国三方ヶ原合戦に於いて織田・徳川
連合軍が武田軍に敗れ、長谷川橋介・佐藤藤八・
山口飛騨・加藤弥三郎ら、織田軍の諸将が
討死。──『信長公記』
39 :
ダイジェスト野郎は中立なのだ:2006/09/09(土) 20:30:39 ID:6iycrna0
○試練の時 元亀四年(1573年)
1月2日 穴山信君、多胡惣右衛門尉(浅井氏家臣)
へ武田信玄は朝倉義景・浅井長政と申し合わせて
遠江国・三河国へ「出張」し攻略したこと、三方ヶ原に
於いて徳川家康軍と織田の援軍を撃破したことなどを
通知。──『武家手鑑』
2月7日 武田信玄、三河国野田城を攻略す。
──『信長公記』
○流れが変わる時
2月23日 織田信長、遠江・三河周辺を攻略していた
武田信玄は、去2月17日には、早、野田表を撤収したこと
を通達。──『細川家文書』
2月26日 浅井長政、足利義昭御内書が武田信玄に
下されたこと、東美濃へ武田信玄が出撃し加治田城・
つぼ城を攻略したこと、朝倉義景も間もなく出陣する
旨などを通知。──『小島明氏氏所蔵文書』
つづく。
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 00:24:04 ID:njZw5HIK
疑問なのだが、信玄上洛する気あったのか?正室の三条の方が都に帰りたい
とか言い出したのではないか?信濃制圧時点で甲斐〜美濃は移動可能で
岩村城に重臣配していたから、今川領は徳川の餌にしとけばよいまいか?
武田には『決戦』系のバクチ色の強い戦がないもん、そりゃあ、領土だって伸びんだろ。
一気に膨張した大名家は、大抵その前に一大決戦やって勝ってるもんな。
>>33 今川攻め三増峠は本庄の反乱や一向一揆、越中諸勢力の離反中の出来事だから
それらを数年早く煽動していれば可能かも。
>>36-39 乙
ただ11月12日や2月26日の手紙見ると宣伝文書だな〜って気になる
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 11:01:10 ID:GK4QFeHd
決戦に信長がのってくれるかどうかだな。
それには包囲網の圧力がきつくなったり、信玄が調略で信長家臣の裏切りを増やすとか
信玄の調略が信長の家臣に揺さぶりかけることはどれくらいできたのだろう?
そういう話はあまり聞かないからな。
決戦したら信玄不利、が一貫したこのスレの論調だったような…?
とりあえず徳川潰してからじゃないと挟み撃ちに…
徳川を潰した後じゃないと、徳川への押さえに兵力がさかれて、
織田との兵力差が広がって信玄が不利と言う意見が優勢だったかな。
実際は、
織田の兵力が少なければ、信長は決戦したがらない。
武田の兵力が少なければ、信玄は決戦したがらない。
織田と武田の兵力が互角なら、お互い決戦をしたがらない。
になって、決戦なんかしないと言うのが現実だと思うけど。
織田は決戦を避け補給線を絶つだけの広範な領土を持ってたし
信玄は健康上の理由を除けばあえて不利な決戦をするタイプじゃない。
当初の目的はともかく、決戦にはならないだろうね。
ただどちらの場合も徳川を放置したのはわからないなぁ。
上洛決戦にせよ三河切り取りにせよ。
>>47 徳川を降すなら、わざわざ主力が篭る城を攻撃するよりも、
その根拠地である三河を攻めたほうが効率がいいよ。
三河に領地や妻子がいる将兵は動揺するだろうね。
三河将兵が離脱して、浜松に篭っている遠江将兵(旧今川家臣)の比率が多くなったら、
信玄に内通するやつも出てくるかもね。
それはどうかな?
決戦したら信玄不利というか信玄と信長では軍略の才において絶望的な差が。
山奥に篭っていた史実の信玄は賢いと思う
信長は信玄に対しては土下座外交だった件
ほう、で?
>>50 まぁ「かも」って言うだけだからね。
武田にも駿河将兵が居るだろうし、そのツテでって言う感じかな。
上洛軍に駿河勢はあまり参加してなさそうだけど。
55 :
名無しさん:2006/09/10(日) 22:28:23 ID:2ZM9CmC8
武田軍が上洛する為には、病に倒れた信玄公を長篠城に残して、影武者を大将として、重臣一同が重要事項を協議のもと、尾張に一気に攻め入り、信長を討ち取るのが良い。そうすれば、上洛の道が、ひらける。
ぶっちゃけ、北条氏康の甲相同盟破棄と駿河侵攻だよな
これさえなかったら、信玄の上洛作戦ももっと早くに行われていただろうに
にしても、晩年の氏康は血迷っていたとしか思えん
北条の夢(関東制覇)を保証していた甲相同盟を破棄し、
上野、北武蔵を上杉に割譲までして越相一和を結ぶなんてさ
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 00:22:25 ID:kuUr2gHq
氏康が耄碌していたんじゃなくて、信玄の三国同盟違反が原因だろ。
今川方にも非があるのならば、宣伝工作や北条取り込みを画策しても良いはずだが、
それすら行わずいきなり侵攻しておいて、武田を信用して同盟続行しようぜと言う方が無理。
北条だけではなく、徳川との駿河−遠江割譲案を反故にして無用の恨みを買う辺り、
この時期の信玄が血迷っていたとしか思えん。
その時期に限らず信玄の采配は血迷ってるとしか思えん
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 01:40:29 ID:Epdcuw0w
結局は信長も血迷ったわけで
血迷った時代だったのだよ
信長が戦略的に血迷ってた時期ってあった?
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 02:30:39 ID:Tmjy+X2d BE:207936656-BRZ(1313)
というか今川はもう滅びていた件
大名にも復帰できず後北条以上の愚を晒した今川ワロスw
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 02:40:30 ID:Epdcuw0w
そもそも信玄の外交を批判する奴は、じゃあどうすればいいか
って言われてもまともな回答が出来てないし
信玄の采配を批判する奴は長野や村上に負けた事だけを
あげつらうだけで、勝率の高さや領土が拡大し続けた事は無視。
「弱い相手にしか勝ってない」とか言ってる奴は論外。
死を目前にした信玄が外交関係にしても無謀な上洛にしても
かげりが見えたというなら、まだわかるのだけど。
村上にボコられ、3度目の正直でやっとこさ信濃を支配したは良いが、
村上が泣きついたのは越後の戦争屋集団。しかも「義」によって
噛み付いてくる迷惑極まりない相手。離間策で叛乱起させるも
戦術は恐ろしく巧みで軽く鎮圧されるわ、意地になって利の無い
川中島で4回も戦うハメになるわで散々。諦めて同盟破棄して
駿河攻めたは良いけど、許されるならこっちがやってたわ!と
ばかりに北条のオッサン怒らせて三増峠でまた戦争で痛みわけ。
三方ヶ原で徳川ボコって上洛目指したら途中でアボーン。
戦術や施政面ではトップクラスなのは認めるけど、戦略では
全て裏目にに出てる気がするんだけど、気のせいか・・・・。
>>63 じゃあどうすればいいかって?
単純に駿河侵攻時に北条に話を通して駿河の一部割譲くらいで、
黙認してもらうようにしておけばよかった。
北条だって立派な戦国大名、義だの情だのだけで今川を助ける義理もないし、
自分では動かず領土が増えるなら悪いことじゃあない。
今川の上杉への接触は武田に対する牽制のつもりだろうが、
北条に対する背信行為ともいえるから、そこら辺で名分も立つ。
加えてせっかく盟を結んだ徳川とまで敵対してしまったのは全くの愚作。
あせり過ぎた、欲をかき過ぎたが故の失策としか言いようがない。
私は信玄の戦略は概して正しかったと思うが、
駿河侵攻時の外交的な失敗ばかりはどうしても隠しようがないだろう。
>>64 そこで示されているのは、主に戦術に関してで、
戦略についてではないと思いますよ。
>>63 どうしたらよかったのかは
>>57あたりが言ってるよ。
勝率が高いって、他大名と比べてどれぐらい高いの?
相手が強い弱い云々はそれ言い出すこと自体が論外だよな。
そして上洛に関しても徳川平定が目的だったとなればそれほど無謀な行為でもないぞ。
信玄フォローしたいならそこまでしてやれよ。
>>65 武田は戦をして領土は北条に割譲するなんて有り得ないよ。
あるとすれば共同戦線だけど、下手したら
北条を敵にしながら今川攻略しなくちゃいけなかったし。
たしかに信玄は外交において全く信用を築けないのは問題だけど
俺が言ってるのは「信玄は望んで北条を敵に回した馬鹿」
みたいな極端な事ばかり言ってる奴へのレスだと思ってほしい。
>>66 70戦くらいして3回しか明確な敗戦が無く、領土を拡大し続けた武将を
「合戦下手」と言うのは無理があると言ってるのだよ。
別に擁護だのアンチだのに興味はないし。
ここが信玄をひたすら罵倒するスレだと言うなら大人しく去るよ?
>>67 随分と敗戦の基準が甘そうな査定で。
で、その三回の敗戦した戦は?
それから勝率聞いてるんだけどねぇ。
ついでに他大名との比較も。
勝率持ち出して「信玄は合戦下手じゃない」というなら他大名と「勝率(引き分け除く)」が遜色ないこと示さないと。
上洛云々に関しても
>>66のほうが現実的だろ。
>>67 >下手したら 北条を敵にしながら今川攻略しなくちゃいけなかったし。
実際、北条を敵にしながら今川攻略しなくちゃいけなかったから外交下手って言ってるんだけど。
>>66 戦った時の国力比でもって強い弱い言うのはある程度客観性があるから有用だと思う。
>>67 >70戦くらいして3回しか明確な敗戦が無く、
まずここから間違い
ついでに合戦をどのように定義している?
信玄が戦下手と言われたりするのは戦術戦闘面での話しであって
その場合だと領土の拡大はあまり関係無いし。
>>68 個人的には小岩岳や砥石での敗戦は城攻めの失敗だから
野戦での戦術能力や武田軍の戦闘力の低さを照明する例にはあたらないんじゃないかと思う。
問題は相手を上回る兵力でありながら戦闘面戦術面で負けた上田原や川中島ではないかと。
>>68 そう言ってくると思ったから「明確な敗戦は3回」と曖昧に書いたんだが。
他大名との比較なんて意味あるの?
どう考えても勝ち戦は負け戦より多いんだが采配下手?
>>69 途中計画は失敗で援軍まで呼ばれたが、結局は駿河を平定して
氏政とは同盟結んでるよ。
ごめん。
>>69に対してはちょっと説明不足。
たしかに駿河を巡る一連の外交関係は失敗したと思う。
ただ具体的に北条と仲を保ちつつ、駿河侵攻をするなんて
極めて難しい話だったろうって言いたかった。
「下手したら今川と北条を敵に〜」というのは変な文だ。すまない
まあ超一流どころと比べると信玄は
戦下手戦略下手戦術下手戦闘下手だろうけど
全体としてみるなら十分一流に入ると思う。
たとえそれが弱い相手にしか勝ってないと言ってもね。
信玄の領土拡大は野戦の強さではなく城攻めの巧みさで、これは調略の上手さから。
はっきりいって戦国大名としては、戦い上手よりもこちらの方が数段上。
戦闘は強いが領土は(晩年まで)大して増やせなかった謙信をみれば明らか。
信玄の城攻めが巧み・・・?
十分巧みな方だと思う
そりゃ秀吉と比べれば落ちるけど
力攻めも信長秀吉と比べると少ないかもしれない
織豊政権が得意とした付け城による包囲戦術などもなく
普通に調略で孤立化させて落としたり後詰を無力化して開城などの基本に忠実な戦術だけど
それは織田も毛利もみな同じだし。
あくまで織田なんかと比べるから劣ると思うだけで一流と言っていいと思うけど。
織豊と違うけど、織田と同じで、織田と一緒にされては困る?
携帯からだから分からないだけで、どっかを縦読みするのか?
>>72 予想してるんなら最初から書けばいいのに。
信玄の勝率が五割ぐらいだとして、他の大名が八割ぐらいの勝率なら「采配下手」になるわな。
だから他の大名と比較して欲しかったんだけど、具体的にに知らないからごまかしてるの?
プロ野球全体の打率なんかが四割ぐらいだとイチローなんか極々平凡な選手じゃん。
実際は全体の打率がもっと低いから名選手になってるけどさ。
結局率だけ持ってこられてもどうしようもないじゃん、比較対象がないとさ。
敗戦の基準も明確にしてないし、いくらでも都合よく変えられちゃうじゃん。
ぶっちゃけ一軍事指揮官ならともかく
政治家としてなら
戦略目標を達成していない引き分けなどは負けと同義と思う。
ま、上で言ってるのは戦場における采配軍事指揮に限っての話みたいだから話がずれるが。
>>78 城攻めにおいて調略などが主体なのはどの大名も同じ
ただ織豊政権はそれ+付け城戦術があるということ。
秀吉なんかと比べると劣るとはいえ調略においては武田も優秀
十分実績がある。
三方ヶ原も三増峠も一見華やかな勝ち戦だけど、
戦略面において後手に廻った後の結果だからね。
いまいち評価しきれないのも致し方ない。
>>73 だから、獲得した領土の一部でも渡すという条件で北条が断る理由はない、
取った領土は全部自分のものにしようとするから「極めて難しい話」になってしまうだけ。
また、仮に北条との敵対が不可避、或いは覚悟の上なら、
せめて徳川との敵対は絶対に避けるべきだった。
それをもしくじったのは難しい外交だったからと言うよりも、
外交が下手だったからと言う方が適切だ。
今川攻めの時の外交が失敗だったということは認識しているようだけど、
その原因が「極めて難し」かったから、などと言うのは言い訳以外の何物でもない。
領土一部渡すとかで結果的に北条の出方が180度変わっていたとは思えないがなぁ
>>83 北条氏康が利害得失を冷静に考えていれば、
今川の排除、武田の駿河領有を前提とする甲相同盟は成立し得たと思うんだが
戦国の非情の論理を忘れ、娘への肉親の情に引かれ、
弱体の今川との関係を切ることをしなかった氏康の決断は信玄にとって晴天の霹靂とでも言うべきもの
だから甲相同盟の破綻は、信玄の戦略ミス、計算違いと言うより、氏康の暴走が原因だと思う
また上野、北武蔵を上杉に割譲することにした氏康の決断は、
北条の夢を大きく後退させ、名胡桃問題の遠因になったようにも思うんだよね
やはり、氏康は耄碌していた、と言って良いと思う(三増峠の戦いの時も行動が鈍かったし)
そこは微妙だけど、
河東は北条にとって貫高以上の意味のある土地だから、
抱き込める可能性はあり得るかと。
また、氏真が上杉と提携を計っている事を強調すれば、
消極的賛同くらいは勝ち取れたかもしれん。
外交努力無しで四方に喧嘩売る様な武田家に外交センスを求めては行けないのかも知れないが。
>>85 お門違いも甚だしい。
事後承諾で、一方的に同盟破って今川滅ぼしたけど以後も変わらず四露死苦とか言われて、
はいそうですか、なんて答えを引き出せる訳がないだろ。
そんな奴信用できない。
まあ、武田にとっても北条にとっても、そして上杉謙信wにとっても
この甲相戦は失ったものの方が大きい戦いではあった。
武田・北条がわざわざ衝突する事はなかった、
だからこそ武田は北条を取り込むべきだったし、北条も有る程度の所で妥協すべきだった。
しかし、武田がその一番前提となるべき交渉すらしなかったことが問題。
事前交渉は機先を制する機会を逸することにも繋がるわけで
可能性微妙とあっちゃ、必ずしも取り込みを試みるべきだったといえないのでは?
まして取り込みを試みない決断を血迷ったとは・・・
信玄の外交もまずいと言えばまずいが氏康の行動もおかしいんだよな
強力な勢力に駿東を取られると伊豆相模分断の危機、
本拠地小田原に近すぎるとかもあるのかもしれないが
後に武田徳川と同盟しているからそれはないだろうし。
裏切りを重ねている信玄が信用できなくなったのか
娘が心配だったのか
ただそんな心情的な理由で動くほど戦国大名が甘いと思えない。
氏康が武田に攻撃を仕掛けたのは信玄が徳川に手を出した後だから
北条上杉徳川で組めば武田を倒せると考えたからだろうか
その方が毎年攻めてくるうっとうしい上杉を相手にするより
効率的と思ったのだろうか。
>>88 徳川と事前交渉していますが
相手の行動まで読むのが上手い外交と言うものだろう。
氏康が予想外の行動したって言うのは、信玄の読み間違いなんだから信玄のミスだろう。
相手が予想外の行動したから自分のミスじゃないって言うなら、
外交下手な奴は居ない。
信玄スレって
>>79みたいな人多いよね。
織田と比較したくてしょうがない。
「信長と比較すれば信玄は雑魚」って言いたくてたまらない。
氏康からすれば、三者鼎立を前提とする同盟を一方の都合で潰されたわけだから土地ちょっと貰えば…という問題でもないだろう
北条氏にとって考えれば、西方は二分されたまま安定してたほうがありがたい。一者だと裏切りの可能性が急上昇するから
一番良いのは自力で領土にすることだろうが、東方を中心に敵を幾つも抱えてるから結局できず、次善の策で武田と再同盟…というところだろう
>>91 >>79のどこにも織田の織の字も出てないわけだが。
余程のコンプレックスがあるのか?
氏康の同盟破棄かあ、理由はいろいろあるだろう。
第一に娘の無残な逃走劇&信玄の一方的かつ理不尽な領土欲への嫌悪。
謙信とは別の次元で義理や人情を重んじる氏康だからなあ。
上杉憲政嫡子を北条に売り飛ばした上杉家臣を惨殺した過去もあるくらいかなり潔癖。
実権が実利的な氏政に移っていたら河東分割とか交渉しだいでなんとかなっただろう。
第二には
>>92の言うとおり勢力均衡が崩れること。
甲府と小田原は近接しているから武田は潜在的脅威だし駿府に友好大名がいないと関東攻略が不安定。
もともと武田に比べれば今川との関わりの方が深く古かったわけだし武田が河東から
史実の西ではなく伊豆相模へ進出する野心が見えたのかも知れない。
そうなれば河越夜戦以来の悪夢、東北二正面に大敵を抱えるわけで関東に野心がある氏康には脅威。
第三に女婿氏真を傀儡に駿河に置いておいて…てのは勘繰り過ぎかな。
氏真をずっと庇護していたのは単に氏康の優しさでも何でもなく多少の領土欲とその大義名分の意味もあったろう。
まあ信玄にすれば家臣団分断、西上野進出ほかで謙信の後方攪乱やってあげて松山城攻略にも
大軍率いてやったのにここで裏切るのか氏康、と考えたかもね。自分のことは棚に上げて。
実際遺言で甲相同盟復活を命じた氏康としては短慮だったことが後々分かったんではないか。
信玄と氏康は当時の東国の二大謀略家ながらその思考が違ったのが一番の原因かねえ。
同盟を破棄したのは、三国同盟の一端を今川を攻めた武田だろう。
それ以前にも武田と今川は揉めていたが、それだって武田が今川の仇敵の織田と同盟したからだし。
同盟なんて互いに利益があるから結ぶもの
時節が変われば切れもするさ
切った結果が前より良いものになるとは限らんけどね…
織田と武田が結んでいるから今川の次は北条と氏康が考えても無理は無いか?
いま思い出したが駿府が健在で武田が義信室を送り返した頃か
ていうか織田と武田の婚姻が成立した頃に
今川側から駿相越三国による対武田同盟構想なかったけ?
あの時点で越相同盟は不可能だったろうだろうけど駿河攻めの大義にはなるな。
まあその前に信玄は東三河割譲しろとか氏真に圧力かけているから何とも言えないが。
同盟をどう捉えていたかは当事者次第だなあ。
もちろん戦略の一環だから利益があるから結ぶ、敵の敵は味方、後顧の憂いを絶つとかは当然だが
とりあえず氏康としては武田への牽制のためにも駿河は今川が支えていて欲しかったんだろう。
北条と武田は氏綱・信虎時代からもともと関係悪かったからなあ。今川義元あっての三国同盟。
まあ駿河侵攻、武田北条敵対、越相同盟の流れは信玄にも氏康にも結果的に時間の浪費でお互い不幸だったな。
>>93 だって打率と違って戦なんて勝ち負けの世界なんだから
五割越えてたら十分凄くない?
打率に例えるのがおかしいよ。信玄が五割越えてるか知らないけどさ。
それを比較比較っていう以上、比較対象なんて
必然的に限定されてくるっしょ。
>>99 真っ先に「織田」が出てきたから「コンプレックスあるのね」と言ったまでで。
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/12(火) 19:26:35 ID:7tmmXf9K
足利義昭の織田包囲網要請に上杉も入ったら、少しは上洛は楽だっただろう。
将軍の命令なのにどうして上杉はこの要請をうけなかったんだろう?
上杉が武田が織田を責めている間は休戦協定を結ぶことができて、
上杉も越中、飛騨あたりから、侵攻してきたら、信長苦しかったかもしれないな。
>70戦くらいして3回しか明確な敗戦が無く
そもそもここからして議論が分かれるよな
城攻めの失敗を敗戦とするなら信玄の敗戦はもっと多いし
引き分けも戦略目標を達成していないなら負けと同じでもあるし。
他の大名の生涯戦績でも言える事だが。
>>85 利害得失って、一方的に武田が同盟を破って今川領をすべて併呑するでは、
北条にとっての利が全くないじゃあないか。
一方的に破棄さけ虚仮にされたという事実が残るだけ、さらに事前交渉がなかったということ自体が、
相手がもはや自分たちを交渉相手と見ていない可能性を示しており不審の根拠となる。
そんな状況ではそのまま同盟継続なんて出来るわけがない。
つまり、別に氏康の行動は情に狂ったものでもなんでもない。
仮に信玄が事前に交渉を持ち、
今川が北条にとっても仇敵の上杉と連絡を取っているという名分を示し、
今川領の一部渡すというような「利」も示したなら、それでも氏康が同じ行動を取ったとは思えない。
相手がしっかりと自分たちと交渉するものなら、
関東平定を目指す北条にとって、東海甲信に友好勢力がいたほうがいいに決まっているのだから。
70戦して明確な負けが3戦と聞くと凄いように聞こえるかもしれないが
有名な戦国大名は大抵そのくらいの戦績だ。
70回の戦いのうち半分でも言えるか?60回は勝って当然の雑魚豪族だろ。
わかりやすく言えば信長の野望にも名前が無いくらい無名の奴ら。亀田の戦績みたいな感じ。
相手がA級以上になると負けか引き分け。箕輪城落としたのも業正死後だし村上義清は幸隆のおかげだし。
>>97 そうだね。
上杉は論外とすると武田の周りの勢力は、
織田、徳川、今川、北条だからね。
信玄は織田とすでに同盟しているし、
今回徳川と共同で今川を攻めるとなると、
北条が危機感持つのは当然かもね。
>>103 今川家臣の多くが武田に応じていた状況では、
武田の駿河領有はもう動かし難かっただろう
ならば、現状を追認し、今川と駿河のことはあきらめ、
背後の安全を確保し、関東制覇に邁進するのが北条にとって利益のあること
また、そう判断するのが戦国の論理というものだと思う
武田信玄の駿河侵攻における北条氏康の対応、織田信長の越前侵攻における浅井長政の対応は、
利に従わず、義を重んじた行動をとったという点で、性質が似てるかも
信玄も信長も若干配慮に欠けていたかもしれんが、
戦国の論理を考えた場合、氏康と長政の対応の方が常識はずれなものだったと思う
自己中だな
北条にしてみれば顔に泥を塗られたようなもんじゃまいか。
織田、浅井の関係と武田、北条では関係が全く違うし。
自分から同盟破棄しといて、後から再同盟を申し入れる方がもっと屈辱だろうに
>>89 徳川は今川と敵対してるわけだし、北条とはあまりに異なる
>>106 盟主的存在の大名が簡単に盟約破りを行うようだと内部崩壊に繋がりかねない。
北条も浅井もそうだけど、特に国人連合色の強い大名家は義を蔑ろにはしにくい。
権力の基本構造が地権者連合である以上、この時代義を重んじるって事は統治する上で必要な事なんだよ。
武田だって正に義を欠いて国が揺れた時期もあったでしょ。
現代の感覚だと「利を捨て情に生きた」と見えるかもしれんが、決して利を捨てたわけじゃないんだよ。
しかし真面目に北条方に事前交渉なんざやって裏目に出て
今川に準備を整えられても武田にしてみればって感じかもな。
あと北条が武田の強大化を恐れたってのは十分納得出来る話だ。
盟約破っておいて「武田は関東には興味無いすよ」
なんて言われても信用出来るわけがない。
>>106 一方的すぎ、そんな一方的に相手だけが有利な条件飲んでいるようでは、
逆に戦国の世を渡っていけない。
>>109 その再同盟をすごすごと受け入れるようではさらに屈辱、
というか、相手は破りたい時に破るし、結びたければ簡単に結びなおせる、
なんて話は対等な同盟ではない、そんなもの受けるほうがおかしい。
要するに北条との事前交渉もなしに今川を攻めれば、北条が敵に回るのはある意味当然。
だから、事前交渉をした上で行動するか、
或いは最初から北条が敵に回ることを織り込み済みで行動すべきだった。
つまり、事前交渉なしで攻め、その上徳川も敵に回して東西に敵を作るなんて論外だと。
私は信玄の戦略は概して妥当なものだったと思うけど、
この駿河侵攻時の外交的失敗ばかりはどうしても隠しようがない。
御館の乱後の北条の行動も微妙といえば微妙
武田なんか相手にせず関東攻めろよ
花倉の乱後の北条の行動も微妙
武田が今川と組んだからって今川攻めるなよ
北条はいつだって微妙さwついでに言うなら武田や上杉はもっと微妙。
だからあの三国は妙な均衡が生まれたんだろ。
お互いの足を引っ張りまくる典型的な例だし。
こいつらが信頼出来る同盟結んで領土を外に広げてけば
まあいずれ瓦解して秀吉に組み込まれるにしても
なかなか面白い展開もあったような気もするね。
信玄って晴信という名前より、出家後の名前のほうが有名だよな
謙信もそうだけど
なんで?
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/13(水) 17:07:07 ID:oHbGykVx
色々議論しても天命がなかった人間だからしょうがない。
ほんとうに天から与えられた実力と運命があったならあれから上洛できてたはず。
こういう議論する以前に上洛不可能な人間だったってことよ。信玄は。
そのあたりは織田が上手くやっていたのだろう。
武田と同盟を最初は組んでいて、矛先をほかにそらしておいて、
武田が織田に矛先を向けたら、上杉と同盟して武田の動きを封じる。
互いに拮抗した大名が隣国にいる地域を互いに争わせてその間に上洛して、領土を拡大する戦略をとる。
武田上杉(長尾)北条が三国同盟を結んでいたら、織田の状況は変わっていたと思うけどね。
上杉「絶対に関東は貰う!」
北条「他はいらんが、関東は俺のもの!あと今川は俺のマブダチ。」
武田「信濃は絶対譲れない。ちなみに今川はぶっ潰すから。」
北条「ぶっ殺すぞテメー」
上杉「つーか信濃も俺のもの。」
武田「あたい関東も欲しいかも」
上杉・北条「!」
こんな奴らが仲良く出来るわけない。
実に分かりやすい
>>120 しかし、実際の信玄は晩年は関東よりも東海への進出を狙っていたのだから、
北条との同盟は可能だしむしろ必要不可欠だった。
PHP文庫『武田二十四将』って本買ったんだが(物語としては視点が面白かった)
そこで織田の総兵力は4万5千、武田が2万5千として、
信玄本隊が1万8千、秋山信友の別働隊が2千、上杉への備えが5千。
攻略ルートは野田城に徳川の備えとして6千、信玄本隊1万2千が濃尾に侵攻、
秋山別働隊と合流して岐阜城攻略、美濃の織田方への押さえで6千を割いて
信玄が8千の軍勢で反織田勢力と呼応して上洛、と推測していたが…
これって武田方にほとんど損害なく迅速に三河・尾張を平定して織田の主力を惨敗させなければ
物理的に不可能なような。これでも得られるものは遠江・三河・美濃・尾張の一部なんだよなあ。
一番信玄が人生で無為な時間を過ごしたのは義信廃嫡から駿河攻めまでの空白のような気もしてきた。
この間したことって西上野攻略くらいじゃないか?
西上野を25万石とすれば
旧村上領・川中島で10数年争って、その間手に入れたのは
更科埴科に水内高井の半分に他地域の南伊那木曽安曇の一部で
20万石程度だと思う。
>>122 でも武田は駿河攻略は必須で、その為には
西上野は必要じゃないかなとも思う。
武田から見れば上杉さえいなければ、って感じ?
上杉からすると武田が邪魔なんだけど。
何を言ってるんだ。
信玄公の戦略は完璧だよ。
駿河攻めの前に本庄に反乱を起こさせて越後を攻めわざと失敗。
失敗したので更なる大軍を出陣する準備をして本庄の救援にいくと見せかけ
その軍勢で一気に駿河を攻める。
北条なんかに事前に連絡したら、せっかくの策が台無しじゃないか。
それに徳川といざこざを起こしたのだって計算どおり。
上杉なんて相手にしてられないから、信玄公は西か東に進むしかない。
北条にとっては信玄公が織田・徳川と結び東に進むと思って今川を救援した。
そこで、徳川と駿河・遠江を山分けと言いながら遠江まで攻め込めば遠江の領土を取れる上に、
東には攻めない事を北条に示せて北条との関係も修復できて一石二鳥。
信玄公の軍略は凡人には計り知れませんよ。
と織田厨の俺が言ってみる。
相当な健康不安なくせに長期遠征を直率してる時点で確かに凡人には計り知れないなぁ
普通なら後継ぎのことを考えるか、生きる事に望みを繋いだ療養専念・あるいは楽隠居を望むだろうに…
>>126 自分で織田厨と言うくらいだから分かっていると思うが、
その全てが裏目にでて駿河制圧に手間取り貴重な時間を空費した。
>>123 あの時期に西上野取らなかったら、
それまでに費やしてきた時間が全く無意味になるじゃあないか。
ゲーム感覚で話さないでください。
信濃や西上野を攻略するのに何年掛かっていると思っているんですか。
2年足らずの戦闘でかつての大国今川を滅ぼすなんて上出来じゃないですか。
北条との関係を修復する期間を含めても3年ですよ。
1ターンで一国を攻略しないとダメですか?
>>129 いや、ターンとかじゃあなく、
事実として今川の追討だけなら1年かからず終わっているのに、
北条との外交を誤って3年かかってしまった、という時間のロスが問題なんですが。
若いときのロスは取り戻せても、老齢でのロスは取り戻せなかったという切ないお話でつね
なにを言ってるんですか。
軍勢を集めても今川に悟られない様に周到に準備を行い
北条にも事前報告をせずに攻めたから、
短期間で今川を滅ぼせたんじゃないですか。
しかも、欲しかった駿河の金山を得られた。
もし、北条を事前に味方に付けようして失敗すれば、
今川に連絡され守りを固められ、
攻略に3年どころじゃ有りませんよ。
成果はそのままで、悪い部分のみ非難して評価するのは、
片手落ちをしか言いようが無いでしょう。
それに北条を味方に付けられたとしても、
それだと今川領を徳川と武田と北条で3分割など割があわず、
徳川との共同をやめて北条と組んで今川を攻めれば、
武田が遠江、北条が駿河という事になるでしょう。
それでは欲しかった駿河の金山がとる事ができない。
>>132 対北条戦を織り込み済で戦略を立てているなら問題ない。
しかし、
・余裕ぶちかまして徳川との約束を反故にした挙げ句、いらぬ反感を買う。
・さらに北条の侵攻によって駿河から一時とはいえ完全撤退。
どう考えても武田にとっては青天の霹靂だろ。
対北条戦を考えていたのならば、徳川に喧嘩売るのは正気の沙汰ではないし、
上杉辺りと、同盟とまでは言わなくても関係改善くらいは図っておくべき。
逆に、家康との約を反故にし、対織田戦を視野に入れているのならば
形振り構わず北条の理解を求めておくべきだった。
確かに北条との事前交渉は賭であるのは認める。
しかし氏真が上杉と手を結びつつことなどを強調しつつ、
河東割譲や早川殿の出来る限りの保護などちらつかせれば、
北条も戦国大名、共闘は無理でも黙認くらいは取り付けられる可能性は少なくないと見るが。
仮に北条と徳川の交渉が上手くって、今川家を1年で滅ぼしたとしたら、の時間を信玄がもらったら、上洛できたのだろうか。
そのときは、信長と同盟して、足利義昭がまだ信長との関係が悪化してない頃だけど。
領土が三分割になるけど、ある時間と侵攻速度は格段にあがったかもしれないな。
>>132 成果もなにも、信玄の第一次駿河侵攻は大失敗。なにせ全ての占領地を放棄して
領国へ完全撤退なのだから。
「悪いところしか見ない」ではなく、「悪いところしかない」というのが現実。
特に北条と徳川への外交と戦略の軽視は最悪。
その後の駿河の再占領や北条との再同盟はまた別の話。
>>134 1569年に終わると仮定していいんだろ?
なら志賀の陣に合わせられる。
この時の方がまだ可能性高いし、
この時に可能な限り徳川領を切り取れていれば、
上洛の見込みは辛うじて残る。
>>133 まあ空論だな。
北条はあくまで常に潜在的敵対国であって味方じゃない。
武田の強大化を望む馬鹿じゃない。
武田が北条に領地を割譲なんてのは家臣団の反発を考えても有り得ない。
現代の感覚で語っても仕方ない。
一時的に失敗はして全面激突寸前までいったとはいえ
ここは最終的に全て成功してるという結果で評価すべき。
そもそも志賀の陣のころに信玄がフリーハンドだとして上洛する必然性があるのか?
いっちゃ悪いが織田と敵対したこと自体、?なんだが
はっきりいえば織田との同盟は信玄が生涯で組んだ同盟の中でもっとも機能していて、敢えて敵対する事自体がおかしかった
足利将軍家の要請、とかいうほど幕府に忠誠があるのなら、そもそも信長に先んじて義昭から支援の要請があった時に上洛に方針転換してただろうし
上洛っつうか信玄も戦国大名なんだから領土欲はある罠。
問題はその時期の織田に敵対するより他の方面に目を向けそうな事位。
信長の上洛が大成功したから、後世では上洛の価値を当然の前提としているが
実際にはそんなことはなく、信長以前の上洛者も一時期の滞在だったり軍事行動を伴わない政治的行動だったりと、さほど大勢に影響を与えた話ではなかった
信玄だって信長の後発でなければ上洛なんて考えなかっただろう
自身の本貫地周辺への勢力伸張が第一
>>137 領土拡大と駿河領有が最終目的なら、その結果でもいい。
しかし信玄の最終目的が上洛織田打倒天下人というのなら、3年のロスをつくり
まったく敵わないほどに国力を隔絶されたことは痛恨のミスといえる。
はっきりいって、浅井の離反によって織田の侵略活動が停滞しなかったら、もう
信玄には信長に服属する以外に道はないほどに差を付けられる。信玄が最後に
織田と敵対、上洛戦を行えたのはまったく他人のおかげであり本人にとっては
偶然の僥倖(武田家にとってよかったかどうかは別として)。
信長の武田氏に対する態度は、一貫して宥和的
上洛後、天下静謐の綸旨を名目に九州の大名からすら実質服従の使者差し出させた時だって、武田家には大人しかったわけで
姻戚筋でありつづけるという外交路線が続いてたら、徳川家より上の同盟者として遇されてたんじゃない?
>>142 いや、永禄十三年の信長の禁中御修理、武家御用のための上洛要請こそ天下取りのチャンスかもよ
その呼びかけに応じて、2万くらいの兵力を率いて上洛するんだよ
したらば、信長に対するカウンターバランスとして、信玄は天下の政局に重きを占めることが出来る
また、将軍と組んで、信長を排除することが出来る機会もあるかもしれん
京滞在費用は問題だが、本願寺の支援を期待出来るし、まあ解決可能
顕如は信玄の義弟だしね
背後も気になるが、天皇、将軍の命を奉じるということで上杉と北条の動きを封じることが出来るだろうし、
なんとかなるだろう
>>144 甲斐は息子に任せて、自分は畿内進出に力を入れることはできたのかな。
>>141 俺の個人的意見としては、信玄は信長のように早期から
天下を見据えて行動していたわけではなく
生き残りの為に勢力を拡大していった結果として
地方屈指の強豪に成長したに過ぎないと考えているから
駿河併合は最高の結果だったと考えているよ。
信玄好きな人には悪いが、武田に天下なんて無理に決まっていて
端からそういう「天下統一を考えたら〜」って発想は無いな。
尾張美濃伊勢で武田の最盛期より上、それに
畿内の経済力が加わるんだから、甲斐信濃に駿河じゃ勝負にならない。
天下というなら関東統一くらいしていないと無理。
駿河併合は途中経過が駄目駄目だからなー
駿河を攻めること自体はベターだと思うけど。
せめて徳川と敵対さえしなければ良かったのに、
砥石崩れの時と同じような暴走だな。
148 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/16(土) 17:45:02 ID:5yRnwSIX
>>146 てか最期の上洛作戦だってある意味大義名分ある領土拡大路線だよな。
戦略的に織田の押さえとなる東美濃を制圧して織田方を牽制。
徳川主力を野戦で撃破して野田城などの戦略拠点を制圧して領国を拡大。
で、織田主力を北陸の雪解けを待って各地に分散させて野戦で撃破(春になると謙信が出てくるが)。
濃尾平野で野田城に匹敵する戦略拠点は岐阜かな?でもあれを落とすのは無理だろうなあ。
最終的に主力決戦の後、天下どこ吹く風でさっさと上洛して甲府に舞い戻って
三河・遠江の大部分(ここは徳川への押さえと尾張への橋頭堡以上の意味はないな)を領有し
肥沃な濃尾平野で織田方と攻防繰り返して終りだろう。
あとは周囲の土豪を懐柔したり主要な支城を大軍出して攻略しにいったりで領土を侵食。
駿河や西上野みたいに拠点に一門と譜代家老を入れておいて本国は永遠に甲斐だろうな。
>>143 大名達が天皇と将軍の命令を聞くなら、戦国時代になってない。
まあ信玄上洛作戦は無謀だと思うが、その一環としての
三河・尾張攻略作戦と考えるなら、これが最善なのかもな。
ってかこれしかない。
151 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 01:07:59 ID:ahCG2mJ6
織田厨は必死だよなw
徳川は短期間に50城も落とされたのになw
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 01:20:11 ID:oxmR6Jfu
さすがに釣りとしか思えない
今までの流れだと駿河侵攻のロスがかなり大きかったということか。
あそこで、上手く立ち回っていて、次の矛先を徳川に向けていたら、どうなっただろう。
姉川の戦いに徳川軍がいけなくなり、織田だけであのときの戦いをしていたら、負けた可能性もあるのか。
姉川がどんな戦いだったかよくわかっとらんからな。
どうも大した合戦でもなかったらしい。
氏康が長生きしたら織田・徳川・上杉・北条の反武田連合軍ができたと思う?
氏康が長生きしても、相越同盟の破棄と甲相同盟の再締結を選ぶんじゃない?
北条の戦略では関東>今川で、武田の攻撃に対して上杉は助けてくれないから。
そもそも氏康が長生きしてたら武田は無くなってる
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 14:07:49 ID:zsiy3lQg
>>157
武田に大敗したのにか?
160 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 20:15:45 ID:ahCG2mJ6
北条厨は捏造が得意だからな。やれやれ
おそらく小田原包囲〜三増峠の戦のことだろう。
あれは氏康父子とは直接対決していないが苦戦していた駿河方面でなくて信濃から侵攻して
あれだけ北条を苦しめたのは大した戦績と思うがな。まあ互いに直接対決は避けられて正解だったと思うが。
氏康が長生きした場合は分からんなあ。大切な駒として氏真を庇護していたわけだし。
息子を越後に人質にしているしお互いに極力主力決戦は避けて残り少ない人生をロスした可能性もある。
だが北条も下手に上杉と手を結んで動けなくなった側面もあるし生きていても中風持ちで健康悪化していた
氏康から氏政に実権が移っていけば自然と史実通り再同盟に至ったんじゃないか?
北条の優先順位はやはり関東進出と伊豆の後背地である駿東の安全にある上に
敵にすれば厄介な謙信が味方になると余り役に立たない現実があったからなあ。
謙信にすれば武田の後方撹乱があってしかも冬に越山して援軍なんて無理難題なんだろうけど。
そもそも上杉との同盟も相互に利益があったのか微妙だからこっちから破綻した可能性もある。
信玄は北条に戦力の大半を集中させていた。そこで上杉が信濃に攻め込めば武田は打つ手がない。
上杉からみればこの上なくおいしい話のはず。謙信は何故攻めなかったのだろうか。
おまえは謙信の敵が信玄だけだと思っているのか?条件は皆同じなんだよ、わかったか低脳
164 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 07:26:24 ID:FQeNUlvq
関東三国志は三国の力が均衡してるから二国が手を組むと
パワーバランスは一気に変わるはずなのに
お互いに利用したいだけなのでイマイチ同盟は機能せず
片方を滅亡させるような傾き方はしないんだよな。
同盟相手を変えると、帰属していた諸豪族との関係も大きく変わるしね。
川一本、山一つあれば係争の地になるから、対立する二家を取り込むと、
裁定しなければならない。それで不満を持った方が敵に鞍替えする。
その意味で、すでに今川の統治が長い駿河は、他家にとっても支配し易い地域ではあった。
ドンだけ長命なスレなんだw
>>162 越中・本庄の離反一向一揆、葦名との係争
関東三国志て武田・上杉・北条だよね?
やっぱり武田のその後の拡大はともかく勢力均衡における今川の存在は大きいわ。
この三国は互いに潜在的脅威・敵対関係だからなあ、だから三国志なんだろうけど。
それでも利害の対立する越相同盟は無理がありすぎたな、珍しく謙信と氏康が現実的だったけど
これだけ無理をした一時的な同盟関係もないんじゃないか?
武田織田同盟だって一時的かも知れないが敵対していた当事国同士じゃないからなあ。
まあ、上杉(長尾)家に謙信ていう戦馬鹿が出てこなかったら、武田は余裕で信濃、越後を支配できたと思う。
北条と今川同盟して、早い段階で越後、甲斐、信濃を支配地域に組み込んでおけば、越中侵略から上洛路線もありだったかも。
武田が越後治める前に、北条が関東まとめてどうするかだな
謙信がいなくても越後落とすのは相当きついというか無理だろ
落としてたら面白かったとは思うが
三国同盟の可能性を少し考えてみた。
長尾家の越後守護代争いに武田晴信介入。
景虎に肩入れして、恩を売る。
その後、越後統一時に武田長尾同盟と同時に信濃を武田に領有権を認めさせる。
それと同時に景虎の父親の念願だった為景の越中攻めを支援する。
長尾景虎の関東管領については、断らせる。
その後、北条と同盟。
これで、武田を中心とした北条、長尾の三国同盟が成立?なんていう展開はありかもしれない。
上杉がその後能登まで取ったとして、武田が甲斐と信濃だけとしたら
三国の中で武田の石高が一番引くいんじゃないか?
その同盟で、一番将来の発展性がないのが武田じゃないか?
北条→関東、今川→尾張方面、武田→信濃方面、という伸張方向がバッティングしなかったから三国同盟が成立したわけだしなー
こうやってみると地形の制約ってのは大きいな、明らかに武田が一番実入りが
少ない。
177 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/19(火) 12:48:55 ID:qFgfF4+S
天の時・地の利・人の和どれが欠けても天下は取れない
人は揃ってたと思うがな。行政官レベルの人間は
勢力拡大すれば増えてくだろうし。二代目の勝頼も優秀だった。
ただ甲信越は守りに適した地形で、その攻略に時間をかけ過ぎて
織田に国力差をかなりつけられてた。
謙信と氏康相手じゃ勢力拡大がままならないのは仕方ないし。
信玄は極めて優秀な武将だと思うが信長に比べ
勝負所で勝負しないって印象あるし、足りないものがあったんだろうな。
>>178 信長もそうだが信玄も危ない戦局に持ち込むのを好まない武将だからなあ。
って大概の武将はそうなんだが、勝てる戦しかしなくて主力決戦を極力避けるのは同じ。
特に信玄は西上野の箕輪攻めや三河・遠江の城攻めでも大軍で何度も攻めているし
謙信や氏康と対陣しても決戦は避けたがっているし。
まあ兵将の人材を無駄に失いたくないのはどの戦国大名でも同じか、そのまま国力の減退だからなあ。
武田の家臣団は有能な武将が首席行政官を兼ねているんだっけ、少なくとも信玄時代は。
まあ家臣団統制では上手いと評判の北条でも顧問は京下り(頼朝みたいだなあ)だけど
評定衆に名を連ねるような連中は第二次国府台など大きな合戦には必ず主力として出てくるからなあ。
まだまだ行政官と武将を分ける時代じゃなかったんだな。
甲陽軍鑑なんかは勝頼時代を武断派VS文治派みたいな対立構図に見せているけど
まだそんな時代でなかったと思う。
武田に足りなかったのは、長期的視野にたって戦略を主導する人材
目先の領土争奪に囚われず、天下全体を見渡して物事を判断できる人間
ってそんな人材、日本広しといえどもほんの少ししかいなかったんだけどね…
いや、天下全体を見るには甲斐では国力が足りなさ過ぎるんだよ。
信玄の戦略はミスこそあれ、概ね正しかったと思うよ。
ってかあれが限界。
最終的には地の利がもっとも無かったことが大きかったのか。
ただ、織田家も滅亡の危機という点では武田家より多かったから、なんともいえないな。
今川に攻められたとき、一世一代の戦いに負けていたり、
浅井長政に裏切られて、後ろから攻め込まれたり、包囲網発動のときとか、
色々あって、最終的には本能寺の変だから、結局は天下統一はできなかったしな。
地の利も
村上に最初から勝っていれば問題無い
または上杉を滅ぼしていれば問題無い
逆に
信長は地の利があろうとも
清洲家に負けていればそこで終わり
弟に負けていればそこで終わり
岩倉家に負けていれば今川に勝てない
桶狭間で負けていればそこで終わり
>>183 そういう条件の違う比較には意味が無い。
自分より大きな後背が同盟国の勢力が大挙押し寄せて来るのは十二分に、滅ぼされる可能性もあるほど不利だろ。
それがなかっただけでも信玄はラッキーじゃん。
信玄は親父の代で領地拡大してるから最初から有数の大名で
むしろかなり好条件だろ。信長や家康とは比べものにならない。
つまり強い奴はどんな悪条件でものし上がるってことだ、信玄が織田や松平に
生まれていたら絶対何もできずに終わってるだろ、信玄に限ったことじゃないけど
まあ信玄が織田家で生まれていたら一族には勝てるかもしれないが
今川には勝てず滅亡か降伏だな。
信長が武田家で生まれていたら、信虎に殺されるか案外意気投合するか
信虎と一緒に家臣団から追放されるか等のようなあっさり滅亡か、
信玄と同じぐらいの成果を残すかか、はたまた信玄以上に急成長するか
いろいろ妄想はできそうだ。
桶狭間で勝利できそうな武将
羽柴秀吉→今川軍が来る前に鳴海も大高も落としてる
上杉謙信→謎補正発動で史実の信長以上に余裕で今川本隊を強襲撃破
毛利元就→伏兵やら夜襲やら偽情報の乱れ飛ぶ戦場に
島津家久→狭隘・泥濘な地に誘い込み、今川義元討取
初代武田勝頼になったらスレのパクリだけど
桶狭間も謎が多いらしいね。
史料として信憑性が高い信長公記が桶狭間に限って年を間違っていたり。
信長公記では1552年。実際は1560年。
駿河・遠江・三河の三国の大名と尾張一国の大名とでは
一見凄い国力の違いが有りそうだけど、今川が若干尾張に食い込んでるのを考慮に入れても、
石高でみれば2万5千対5千なんて言う兵力差にはなるはず無かったり。
石高では90万石対45万石くらいか?
どっかのサイトで1552年の信長の兵力ならこれくらいの兵力差でもうなずける。
牛一はわざと1552年と改竄したのでは?とも書いていたな。
>>188 >羽柴秀吉→今川軍が来る前に鳴海も大高も落としてる
それは無理だと思う。また元就でもどれほどのことができたことか・・・
>>189 美濃への押さえや海西郡の押さえが必要だし
知多郡だけでなく
春日井や蟹江などの沿岸部にも今川の勢力が伸びてるから
信長はある程度兵を分散させていたのではとも考えられる。
>>190 ネタだし、あくまで「できそうな」だから、細かいことは気にせんでくれ。
個人的には謙信や家久ならなんとかなるような気もする。
>>189 当時の信長の支配してる土地は尾張のたった二郡だけ、45万石も無い。
桶狭間は信玄には無理だろうな。
能力云々ではなくそういう戦いに勝った実績が無い。
逆に島津や謙信はそういう戦いの専門家。特に島津。
信長はバランス良いね。普段は信玄みたいな戦いを好むが
いざという時の戦いにも強い。
>>193 1552年ならそれくらいだが、1560年なら今川に取られている部分以外は統一してるんじゃなかったっけ?
弟の信行を暗殺したのが1559年だったかな?。
>>189 国力にそんなに差が無いというのなら、
織田軍があんなにたくさんの将を失う事は無いと思う。
もはやスレ違いだけど。
>>196 国力が勝っていても負けることがあるのに、
そんなに差が無いならたくさん将を失い事が無いって言うのは
おかしいでしょう。
桶狭間で織田の名のある武士にかなりの犠牲が出たのは、砦が玉砕同然まで有利な敵に抗戦したり、佐々らが少数んかつ単独で仕掛けたりしたからでは?
むしろ当時の織田方のそう言った過剰なまでの戦意が不思議
織田一族内の内戦を通じての信長の家臣団掌握の結果かな?
だから敗戦の理由を国力のせいにするのはナンセンスだって、そこをなんとかするのが英雄だろ
たかだか百万石ちょいの田舎の大名をそれ以上に評価しようとするから、
地の不利がとか、周りが強いからとか、アイタタな事言っちゃうんだよな。
>>198 指摘されて始めて気づいた。たしかにあの戦意はすごい。
佐久間大学は降服せずに玉砕。別に動いていた佐々と千秋は信長が砦から出撃
したのを見て今川軍に突撃。
普通なら内応や裏切りや離反している家来が一人二人は出ていてもおかしく
ないよな。
>>201 裏切り離反はそれまでに多々でたから
残っているのは最精鋭と言えるような連中ばかりなのかも。
ついでにいうなら信長が家督を継いで以降はかなりの速さで急成長していることもある。
>>203 信玄大好きなおまえから見たら、震源貶めるヤツは全員同じようなヤツなんだろw
信長は美濃攻略と平行して伊勢攻略も進めていた
これは当時の海運を制御する目的もあっただろうが、京・近江方面へのアクセスルートをもう一つ確保するということになった
金ヶ崎で浅井に裏切られた時、近江−美濃間が危なくなった時にこちらのルートが力を発揮した
戦略的な安全策を予め講じたのも信長が勝ち残った一因
もし軍鑑にあるような、海路一本での上洛を信玄らが考えたとしたらやっぱりリスキーというか、無茶…
敵地に初体験で戦国期にはあまり例がない上陸作戦やろうってんだから
206 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 15:20:02 ID:wdHDCmIN
極端な話、上洛して武田にメリットはあるのか?
本国から遠いし、相手は孤立した中小勢力ではなく大勢力の織田だから打ち破ったとしても武田軍の被害もただではすまない
将軍を押し立てたところで、義昭が信玄に実権を渡すわけないしそこまで聞き分けがいいのならそもそも織田と敵対していない
逆に苦労したのにメリットが無ければ武田家臣団が分裂するし、武田が欲張れば他の勢力が敵対に回ってしまう
将軍の名目上の上位者である朝廷と直接結びついたことで将軍と敵対した場合の政治的損失を最小限に抑えたような事前の方策を採る余裕もないし
織田と敵対したこと自体が不可解
>>204 言い方悪かった。つまらない煽りは嫌だったから控えたんだが
「お前みたいな奴って馬鹿丸出しだな」に訂正する。
信長以外全ての大名が最大でも100万石クラス。
つまり彼らと信長を分けたのは何が違うかって考えると
色々面白いのに、信玄擁護だの何だのとくだらない話を持ち込んで
信長を持ち上げるんじゃなく、他を貶したくて仕方ないんだからな。
話が出来ない馬鹿は引っ込んでろ。
595 名前:名無しさん名無しさん@腹打て腹。 :2006/09/20(水) 23:42:31
竹石圭佑
「竹石圭佑」、1986年に名古屋の肥溜めにて湧いて出た蛆虫。
小学校高学年から万引きを繰り返し
学校内では好みの女子に嫌と言う程ちょっかいを出しまくる。
当時のクラスメートが「お前って何で女子ばっか苛めるんだ?」という様な質問をしたところ、竹石は「女を苛めても仕返しとか怖くねぇもん。だって俺のほうが腕っ節が強いからな。いざとなったらツラァ殴ってやればいいし。」と言ったそうだ。
弱い物に対しては恐ろしいほど高圧的になる竹石、万引きで警察に補導された事を自慢げに話す竹石、自分が世界の中心だと言って憚らない竹石…
数々の犯罪行為も在日中国人の両親から産まれた自分に後ろめたさがあっての反発心からの行動だろうか…
ともあれ、竹石はまさに肥溜めから産声を上げた蛆虫である。
>>207 >それ以上に評価しようとするから
って書いてるじゃん。
百万石クラスはそれはそれで十分凄いけどそれまでの大名だったって話。
それ以上の何かを為す人間なら不利な状況なんかひっくり返してのし上がっていく。
それが出来なかったってだけのことで、それが理由。
つまり信玄にそれ以上の人間になるだけの能力がなかったってだけの話。
それをやれ周囲が強い、やれ地の不利がある、やれ謙信がいなければとかいうから。
ってことを
>>199は言ってると思います!
そしてそれをあおり気味にいったのが
>>200だと思います!
>>209 「○○が無ければ信玄は信長に勝てた!」なんて
真剣に考えてたら論外だけど、そういう論調の人はいないと思うよ。
言われているのは武田の敗因だろ。
だから上杉の存在やら脆弱な国力やらって話になる。
敗因について語ってるのに「武田を必要以上に評価」とか
話を読めない奴がいるって事を言ってる。
>>210 敗因って何の負けをさすのかよく分からないけど、上洛できなかったってことなら信玄の能力が劣るから。
困難な状況でもそれを打ち破る者こそが名将。
って事いってるじゃん、さっきから。
それを認めようとせずに上杉やら脆弱な国力とやら持ち出して、信玄は劣ってないことにしたがってるんだろ。
それをさして「必要以上の評価してる」といってるわけだが。
またファビョッちゃうかもしれないから一応行っとくけど百万石でも十分凄い大名だぞ。
ただ、そんなのが上洛とかはおこがましいって事。
212 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 21:18:15 ID:nhswGk07
武田と上杉ネタにはやたらつっかかってくるよな
天下を取れなかった理由が「周りが強かった」「国力が弱かった」
で通るのなら誰でもそう言えるよな。
一条でも結城でも肝付でも周りが自分より弱くて国力が最強なら天下取れる。
>>211 武田の敗因って言われて理解出来ない?
歴史上、武田は敗者で織田はまあ勝者に分類されると思うが。
あと国が滅亡した要因を「○○の能力が劣ってたから」
で済ませる奴は歴史を語る資格は無いよ。ゲーム板にでも行ってろ。
もちろん能力も要因ではあるが、ゲームと違い現実では
個人の能力より経済力の方がよほど大きいしな。
>>214 エスパーじゃないんだからお前が考えてることなんか分かるわけないだろ。
滅亡の原因なら織田の勢力伸張が早すぎた。
それから滅亡なら信玄じゃなくて勝頼だな。
勝頼もそれなりに伸張してるけど、それ以上に織田が領土広げちゃった。
経済力が原因というなら、堺やら押さえてる三好が統一してもいいのにな?
どうなったっけ、三好。
いい刀もってても、ずぶの素人では使いこなせないし、例えナマクラな刀でも達人が持てば十分素人のそれを凌駕できる。
道具をどう使うか、ないなら他の何かでどう補っていくか、補えないならどうやって作り出すか、奪うか。
それこそが能力ってもんだ。
結局それだけの差をつけられたのは大名に能力が無いとは言わないが、劣ってたってことだろ。
てか上洛と関係ねぇよ。
>>215 君は信玄嫌いのあまりに物事が見えなくなってる。
俺は「能力も要因」だと書いてるのにそれすら読めてない。
エスパー以前に通常人の理解力が無い。
>>200の言う「必要以上に信玄を持ち上げる」レスなんて
いったいどこにあると言うのか?
地の利や情勢について語る事が、信玄を持ち上げる事になるとでも
本当に思ってるのか?
>>213 >「周りが強かった」「国力が弱かった」
これ重要だと思う
中華の事情がモンゴル帝国と清の興隆に幸いしてたりするよ
ハプスブルクの浮上もドイツ諸侯の事情によるものだったりするし
史上、大仕事をした者は何らかの運、情勢に恵まれていたと思う
秀吉なんかその最たる者なんじゃないかな
まあ、運をものに出来るかどうかは実力だと思うけど
>>216 >>211 敗因って何の負けをさすのかよく分からないけど、上洛できなかったってことなら信玄の能力が劣るから。
困難な状況でもそれを打ち破る者こそが名将。
って事いってるじゃん、さっきから。
「それを認めようとせずに上杉やら脆弱な国力とやら持ち出して、信玄は劣ってないことにしたがってるんだろ。
それをさして「必要以上の評価してる」といってるわけだが。」
わざわざカギカッコも付けてあげたぞ。
>個人の能力より経済力の方がよほど大きいしな。
経済力の影響大きいよなんて能力を過小に見ておいて、俺がそれに反発したら、
>俺は「能力も要因」だと書いてるのにそれすら読めてない。
とは恐れ入りました。
やっぱどう考えても上洛と関係ねぇよ。
>>217 その状況ってのをどう利用するか、利用できないかが能力じゃないか。
>>217 重要じゃないとは言ってない。
まぁ俺は武田の国力が低いとはとても思えないが、周りの強さにしたって
戦国時代なら余程地方じゃない限りどこへ行っても強豪と戦うことになるしな
>>209 このスレは基本は上洛の可能性を色々な要素から考えるから、
地の利や時の運、家臣団の能力などを考察するのは、むしろ趣旨にあっている。
それに対して文句いいたいなら、他のスレを立ててて、勝手にして欲しい。
話を戻すけど武田信玄は確かに北条早雲、毛利元就、織田信長のような寡兵をもって、
多数を破る大勝利というのがない気がする。
そのため、一気に勢力拡大とかできなかったのだろう。
>>220 そいつらと違って寡兵で戦う必要が無かっただけだろ。
武田は信玄が当主になった時点で信虎がかなり領土広げてたからな。
最期に究極の寡兵で炎上してりゃ世話ないよな
>話を戻すけど武田信玄は確かに北条早雲、毛利元就、織田信長のような寡兵をもって、
>多数を破る大勝利というのがない気がする。
↓
>そのため、一気に勢力拡大とかできなかったのだろう。
???
頭の悪いのが入りこんでるな。
歴史を様々な観点から語るのに地勢学上の条件を語るのは
当たり前なんだが、それをどうしても理解出来ないなら仕方ないな。
信長は全ての不利な条件を個人の能力で跳ね返した超人で
信長を取り巻いた様々な環境要因は全て考察に値しない、と。
そんな結論で満足していればいい。
まあなんだ
継いだ段階での国力・周辺国との関係・
家督相続時の家中国内の状況を比較すると言うのは意味あると思うぞ
そこから能力の優劣を計れば良いし
信玄謙信義元氏康信長で比較するなら
国力は
氏康>義元>>謙信信玄信長
周辺国との関係
信玄>>謙信>義元>>信長氏康
家督相続時の家中国内状況
氏康(対立相手も無く家中においては非常にスムーズ)
>>信玄(但し廃嫡寸前だったため一番悪いとも言える)
>>義元(花倉の乱)謙信(兄と争いかけたり一族と争ったり)
>信長(信秀晩年には信秀に代わり政務を見ていたとかいう説があるわりに家中は大混乱)
他の、アンチと擁護派が揉めてる大抵のスレでそうなんだけど、
○○は(世間一般の認識よりは)すごくない。
いや、(凡百の同時代の大名よりは)すごい。
と、比較する対象がかみ合ってないんだよね。だから平行線になっちゃんだよな。
これをクリアする画期的な方法ってないもんかね。
>>220 >など、武田と織田を中心にした戦国時代の話が扱われています。
>ネタによっては場所は東北から九州まで、時間は室町から江戸まで
>幅広くカバーしております。
すれ違いなどという言葉は使えないぞ。
それから、その色々な要素のうちに信玄の能力が入ってもおかしくないだろ。
>>224 誰もそんなこと言ってないぞ。
理解力皆無だな。
ID:PSrIuytpは経済力を重視、ID:qPw5dL/jは信玄の能力を重視してるってだけの話。
良い食材がそろえばそれだけでもシンプルに作ればうまい料理になるが、
まずい食材からでも巧い料理を作れるのが一流のシェフ。
だから天の時・地の利・人の和全部が揃わないと天下は取れないと既にガイシュツだがな、何度も
だから信玄は後世惜しいな、という妄想をもたれる晩年の上洛(?)準備の徳川戦途中で没し信長も強敵連破したのに本能寺で散ることになった
個人の価値観や好みで優劣をつけるな、とは言わないが双方冷徹な目で見れば天下は取れませんでした、なんだからあんまり…
信長には名目だけとはいえ古来からの最高権威である天皇のお墨付きがあった
直筆の綸旨を一大名時代に貰ったのは異例(本音は天皇家の領地をなんとかしてくれ、だったようだがw)
父の信秀が以前多額の献金をしたような流れも信長に朝廷が好意を抱く遠因になったんだろう
だから将軍と切れても問題ない、とは行かないまでもある程度食い止める算段がついた
上洛前に伊勢ルートを抑えることといい、信長のやり方は一般的な印象とは違って慎重。対武田外交もそうだったが
武田信玄が信長と同盟を続けていれば、もし本能寺の変になったとき、明智光秀退治で、
上洛できたかもしれないな。
まあ、これもあくまでも空想にすぎない話だけどね。
ちなみに上洛するのは信玄ではなく、武田勝頼になるけど。
その場合は
信長養女の産んだ信勝が武田の次期後継者
信忠と松姫が結婚している
その上、松姫が嫡男を産んでいれば・・・
信長がいつまでも(対等な)同盟してくれると思ってんのか?
織田と同盟するのは従属と変わらないぞ、それで武田が残るのならそれもいいけど
武田が滅んでいなければ岐阜に有る程度の軍勢があるから
本能寺は起こらないだろうって言う意見は多いけどね。
\ \ .\ \
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煤噤 煤噤 煤噤 煤噤
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煤噤 煤噤 煤噤 煤噤
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煤噤 煤噤 煤噤 煤噤
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信長包囲網の最強の駒としては信玄はよくやったと思うけど
信長と同盟結んで信玄の後方を攪乱した上杉は何考えてんの?
信長が巨大化するか自身が勢力を伸ばせばいずれ
ぶつかるのは確実なのに。
双方に利益の大きい織田武田同盟とはわけが違うような。
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謙信からすれば、一向衆問題をともに抱えていて直接利害がぶつかるわけでもない織田より武田のほうが問題でしょ
義のため、といってるけど現実の脅威として春日山を脅かせる位置まで進出していたり、上杉と利害が絡む豪族が多い上野でも衝突を始めた武田のほうがはるかに嫌な相手
織田が将来潰しに来るかもしれないから目の前の積極的な敵を見過ごしましょう、は無理があるのでは?
遅かったんじゃなくて、上杉への対処とか北条との関係改善とか対徳川戦とかで時間を取られた結果では?
信玄の戦略目標が一貫して上洛だったとしても、史実より前倒しは難しいのでは?
三国同盟路線から甲尾同盟路線への戦略転換のあたりも分岐点かも
永禄八、九年頃なら、織田を排除して、美濃制圧も十分可能だったと思う
あと、弘治元年頃に恵那郡の遠山氏のところに進駐した時、
東美濃一帯にもっと勢力を扶植しても良かったかも
北信で謙信と対峙している関係上、
軍事的プレゼンスは無理だろうが、外交的プレゼンスは出来たんじゃないかな
まあ信玄にとって、いつ如何なる時も、勤皇家にして仏法者の軍神謙信の存在は大きな障害だったよな
>>244 人格否定しかできないんだろw
いいよ、無理しなくてw
246 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/23(土) 20:08:46 ID:/7k/Haj5
そもそも戦略目標を信玄が晩年になってから上洛に変更した理由がいまいちわからない
上洛という行為は何を得ることを目的としていたのか?成功した際の展望は?
信長の後追いで上洛を考えた、だったらちと寂しい…
247 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/23(土) 20:12:16 ID:p3kKMBAC
京の童を抱きたかったんだよ
上洛よりも、織田家の力を削ぐことが目的だったのかな?
西上作戦開始時に既に重病人だったろう信玄からすれば、
自分が生きているうちに織田を叩いてその膨張を阻止し、
自分の死後の武田家安泰を図ったのではないかと思う。
上洛が目的だっとして、それが成功した場合、
織田家に取って代わる武田家が新たな包囲網の標的となることは確実。
上洛後に待っている陰謀と激戦を考えれば、信玄の余命はあまりに短い。
信玄は後に続く者たちのために、危険な賭けよりも堅実な方針を採ったのではなかろうか。
250 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/23(土) 22:17:00 ID:X7B3XXht
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>>245 >>224の言っているのは
>>200って事だろ。
それが理解できないなら馬鹿としかいいようが無いけど…。
理解してるなら人格否定も糞も無いし。
>地の不利がとか、周りが強いからとか、アイタタな事言っちゃうんだよな。
>歴史を様々な観点から語るのに地勢学上の条件を語るのは
>当たり前なんだが、それをどうしても理解出来ないなら仕方ないな。
全く違うな
信玄は恵まれてる方だと思うけどねー
国力や周囲を取り巻く環境
信長と比べても有利だし
三好長慶や宇喜多直家なんかと比べると滅茶苦茶有利。
長慶は凄いよな
淡路の国主の部下から始まり四国、近畿を切り取った
たしかに他の大大名と比較して特別不利な要素は無かったよね。
もちろん単純比較は出来ないにしても。
>>253 俺には何が違うかわからないけど、どうしてもこの話題にこだわるなら
ちゃんと具体的に説明した方がいいよ。
>>256 こだわるとかじゃなくて、言ってる事真逆じゃないか?
上は周囲の状況とかをかたるのはアイタタな事、つまり、そんな影響は微々たる物
下は周囲の状況を考察するのは当然で、頭ごなしにそれを否定するのは間違い
>>257 そこまでわかるならスレの一連の流れを読めばわかると思うよ。
実際問題として
>>200みたいなのはうんざりだ。
そういう事言われたら何もスレで語れなくなるからな。
周囲の状況を語るのは問題無いと思うが
問題なのは武田を取り巻く環境は割と有利なのに
それをまるで不利な状況だったかのように言う人間じゃないの?
信玄以上にめぐまれたスタートの大大名は北条氏康と伊達政宗くらいのもんではないか。
当面の敵との勢力比率を考えたら氏康は全然恵まれてないだろう。
じいちゃんの頃から望んで敵対している事ではあるが。
>>259 それはわかるが、このスレは信玄の上洛の可能性や
それに伴う障害について話すからどうしても「上杉がいなければ〜」的な
論調になるのだと思う。
あとやはり100万石クラスに三方を囲まれつつ
最強の織田を打倒しなければならなかった武田の情勢は
毛利、島津、北条、伊達らと比較しても厳しかったのでは?
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>>262 北条氏政や毛利輝元と比較するなら信玄は厳しいけど
島津や元就、北条早雲氏綱氏康と比較するなら楽でしょ。
そりゃ1573年の武田の情勢でなら厳しいけど
継いだ段階では恵まれているにも関わらず
家督継いで30年でその段階までしか伸ばせなかった信玄の責任だし。
無論情勢に恵まれたとはいえ30年で5倍ほどになっているのだから
十分一流だと自分は思うが。
あくまで武田寄りに考えるなら、早い時期から上杉北条という
滅亡させるのは極めて困難な大勢力と絡みがあったのが難しいところかな。
だからこそ唯一味方になる余地のある北条への
外交がいろいろ言われるのだろうけど。
あと
>>264読んで思ったけど、信長以外のほぼ全ての大名が
200万石に到達してないんだよな。例外は島津くらい?
元就や信玄は当然として伊達や家康すら150万石程度しか切り取れなかったし。
その辺が地方政権の限界ラインなのかな?
家康や輝元時代の毛利も超えてるな
269 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/25(月) 11:43:38 ID:/cuavRT/
単に支配領域が広くなりました、だけでは駄目でしょ
例えば島津家は九州の過半を制圧したのに、本家と兄弟達の直轄地がとても少なく、経済的基盤が弱いままだった
これが豊臣家との対決を控えた北上戦・その後の直接対決で思うように戦えなかった原因の一つ
もう一つは義弘などの兄弟に指揮権が分散したため、戦略での混乱が起こったこと
領土に見合った支配体制構築ができなければ、却って領土が重荷になりかねない
織田家、豊臣家の直轄地も相当少ないが
>>266 島津も竜造寺含めて最後の大友への遠征で一時的に支配した領域含めて
かろうじて200万石なんじゃ。
>>268 輝元は200万石は越えてはいないだろ、
200万石近くまでいったと思うが。
他200万石超えていそうなのは最大限に見積もった三好の最盛期か?
実際は穴だらけの支配体制かもしれないが
家康も超えたのは関東に移ってから。
>>270 それ言うならみんな結構少ない
徳川家や江戸時代の大名が異常に多いと見たほうが良いと思う。
豊臣徳川と時代が進むにつれ変化したと言うべきか?
あと織田家は支配体制経済基盤は優れている方だし。
100万石越えた大名でさえ
伊達政宗
北条氏康氏政氏直
上杉謙信
武田信玄勝頼
織田信長
三好長慶
毛利元就輝元
尼子晴久
大内義隆
大友宗麟
竜造寺隆信
島津義久
ぐらいか?
この中で継いだ時点での状況が信玄より有利といえそうなのは
伊達政宗氏政氏直輝元尼子晴久大内義隆大友宗麟ぐらいか?
以外と多いな、信玄は有利でも不利でもないといった位置付けか?
273 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/25(月) 14:40:10 ID:arCrwaN2
実際、豊臣家の直轄領の少なさを政権崩壊の一因とみる説もある
これは家康が関ヶ原の論功でさらにばら撒いたこともあるけど
織田の場合は…?
少なくとも信長・信忠の勢力が家臣達に押されたとか、経済的に問題が起こったって話は聞かないけど内情はどうだったんだろう?
>>272 より恵まれていたのが伊達政宗、北条三代、毛利輝元、尼子晴久、大内義隆
、大友宗麟、島津義久。 同じ程度が織田信長、三好長慶か。
上杉謙信と毛利元就、竜造寺隆信はより厳しい状況での家督継承かな?
>>273 他大名と同じく若しくはそれ以上に、重臣や寄子へ配分していたため
割合からいくと少なかったという説があるね。
>>274 長慶は信玄は勿論、下の三人よりも厳しい状態でスタートしたと思うが。
一部の庶流が図に乗りすぎてるから排除を求めたら主人から逆臣扱いにされ、
主人ごと排除したら、その主人が将軍を取り込み幕府直々の逆臣にされるという滅多にないスタート。
>>275 同感。
>>274 三好長慶は信玄や信長なんかよりも非常に厳しい状況から
下手したら元服前に死んでいた。
石高で考えるなら
信玄は信長謙信と同程度かな
ただ周囲を取り巻く状況では圧倒的に信玄が有利
氏康や義久も石高では大幅に信玄を上回っているが
強国と敵対している分状況は不利。
信玄の場合、弟始め親族衆との関係が良かったのが何より良い条件だったかも
お家騒動で力を減らした大名は沢山いる
信長だって弟に所領の一部を押領された上、二度も背かれた
>>276 島津侵攻時の竜造寺隆信、大友宗麟はどちらも当主が狂乱していた時期だけに
両者とも内通者が多く出ていて、強敵と言い切れないと思う。(熊は強大だったが)
それと、氏康の代は既に北条優位でしょう、河越攻めも最後の力を振り絞った感が強い。
>>277 お家騒動は自らの力量も関係するから、一概に有利不利は言えないと思うが。
信繁始め親族と関係良好だったのは、信玄故とも考えられるし
信行が背いたのも信長が原因かもしれない(後年の出来事を考えるに)
それでも息子とは意志の疎通をはかれなかったんだな
人として信玄駄目だな、自ら進んで息子殺したのってこいつくらいだよ。
徳川信康もそうじゃないか
人としてってのは無しにしようや
義信事件の顛末は武田家に禍根を残しているが、
義信が南進に同意しなかったこともあるし、
武田の勢力拡大ということも考慮すると、やむを得ないものだったろう
>>278 >島津侵攻時の竜造寺隆信、大友宗麟はどちらも当主が狂乱していた時期だけに
>両者とも内通者が多く出ていて、強敵と言い切れないと思う。(熊は強大だったが)
そんな事実が何処に?大友から離反者が出るのは島津との戦いの後
竜造寺も島津と戦う時は問題など無く最盛期と言っていい。
石高では島津と竜造寺が戦った時は多少竜造寺が上程度で
大友と島津が戦った時は大友は島津の2倍はあると思うが。
氏康の代になった直後から上杉家の反攻は始まっていて一時は江戸付近まで攻められている、
扇谷家に対しては北条の方が有利ではあるが、それでも武蔵の半分程度は保有している、
忍岩附などを奪うのは氏康の代。
また
>河越攻めも最後の力を振り絞った感が強い。
もとても信じられない、この時追い詰められていたのは氏康の方だと思うが。
駿河河東を失い、古河公方の離反まで受けている。
氏康が継いだ段階で既に関東最大勢力になっているとはいえ
四面楚歌状態、今川両上杉里見古河公方など割と強大な敵対者が多い。
>>277 信玄と親族衆との関係に関しては有力な相手が信繁しかいなかったというのが
まず大きい。他は戦えるような相手じゃない。
近い親族はほとんど滅ぼされるか無力化されていて、信繁以外の弟は幼い。
国人衆も勢力を削られている、その上名門武田家の嫡男で守護、
信虎の成果や生まれの恩恵による部分も大きいと思う。
そして国人の支持を受けれたため、他に対抗馬を担ぎ出す勢力が存在しなかったことも大きい、
これは信玄の人望ゆえか信虎追放のための御輿として好都合だったからかは分からないが。
>>283 >義信が南進に同意しなかったこともあるし、
義元の戦死は1560年
駿河攻めは1568年
駿河を攻めるためとするならタイムラグが大きいと思う。
1564年徳川が三河統一
三河攻めを今川に持ちかけたのがいつかは分からないが
徳川に三河を奪われる様を見て信玄が駿河攻めを考えたという
可能性もあるかもしれないが、この時期は上野攻略の最中
今川と敵対するような真似をするとは思えない。
東美濃での織田武田の戦いが1565年春
義信事件が1565年夏
甲尾同盟が1565年秋
むしろ織田との同盟と婚姻が問題なんじゃ・・・
>>284 >竜造寺も島津と戦う時は問題など無く最盛期と言っていい。
>石高では島津と竜造寺が戦った時は多少竜造寺が上程度で
家督を渡して以降、親類縁者の謀殺や肥後での粗暴な振る舞いが続き
肥前・肥後の国人が離反し始めた時期、開戦の理由も有馬の離反。
>そんな事実が何処に?大友から離反者が出るのは島津との戦いの後
改宗とそれに伴う寺社の破却、家督を継いだ義統の無能さや宗麟との対立
権勢を振るった紹忍への反感等が招いた家中対立は深刻
耳川の敗戦も統制不足からの勝手な突撃が要因の1つ。
知らない事まで、わざわざ言及しなくていいよ。
>この時追い詰められていたのは氏康の方だと思うが。
扇谷上杉は氏綱の代から衰退の一途、対して北条は関東の最大勢力
北条の優位は既に決まりつつあったと思う。 微妙なところではあるけど
>信玄と親族衆との関係に関しては有力な相手が信繁しかいなかったというのがまず大きい。
信長も信秀勢力の継承者としては信行しか居ない
他の親族は元来から協調していたのでもないし。
>>287 その説明によると大友に関しては内通者離反者いないじゃん・・・
それに竜造寺から国人が離反って、それその時期から急に始まったわけじゃなく
もっと前からなんじゃ・・・
国人の反乱を潰しつつ謀殺しつつ勢力を広げたのが隆信だと思うのだが・・・
北条に関しては扇谷上杉への優位は決まっていたと思うが
上杉への優位はまだ決まっていない、
だからこそ足利が離反したといえるのだし。
信秀は大名ではなかったし
晩年は負けがこんで体制が不安定になってたんじゃまいか。
それが家督相続時の揉め事の一因になっていたのかもと妄想。
信秀は信清にまで離反されるからねー
信長が後を継いでからの信勝の謀反信広の離反は
信長の人格にも問題あるだろうが一番の理由は
道三の死亡と蟹江城を奪われたことじゃないかと。
武田スレですよ、ここ
武田スレじゃないですよ。
過去スレ読めば。
>>294 スレタイはよめてもテンプレは読めないようで
ここでは「武田は上洛できたのか?」から始まって。現在では
「どうすれば武田は上洛できたのか」
「どうして武田は上洛できなかったのか」
など、武田と織田を中心にした戦国時代の話が扱われています。
ネタによっては場所は東北から九州まで、時間は室町から江戸まで
幅広くカバーしております。
296 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 08:20:04 ID:9dkCV88f
戦国時代なんだから、人格云々というような現代人好みの話ではなく利権の奪い合いでしょ
武田家では信虎が甲斐を纏め上げた功労者であるにもかかわらず、急進的過ぎるということで国人層の憎悪を一身に受けることになった
逆に言えば、信玄が反信虎で立った以上信繁を守り立てるメリットを持つ実力者はいない
織田家の場合、信長は信秀から既に城を譲られ独自の側近団で固めはじめてたから、旧来勢力(恐らく信秀に対して家臣というより同盟者意識を持っていた)からすれば追い落とされる危機感があった
弟に味方した連中の主力は、柴田といった元々信秀存命時から信行に付けられた者達か、林氏のように対今川戦略で既に信長と不穏になっていた連中だし
>>296 言ってる事はまともだがその改行はいかがなものか。
>>296 だな。
氏親はそれなりに対策をとっていたにも関わらず
義元が家督を争う羽目になったのも福島氏がいたせいだし。
弟は何の経験も軍事力も無かったのに。
元就が弟と争ったのも背後に吉川尼子が。
他に嫡男ほどではないにしても弟に兄に対抗するだけのそれなりの軍事力がある場合は
本人よりも親の責任だし。
>>289 >その説明によると大友に関しては内通者離反者いないじゃん・・・
内部崩壊が始まっていたのは認めるわけだね?
>それに竜造寺から国人が離反って
>それその時期から急に始まったわけじゃなくもっと前からなんじゃ・・・
力関係から靡いたのは別として、例えば? 小田を始めとして
一連の流れにおいて、隆盛を誇っている状況での国人離反は珍しいと思うが。
>>296 >急進的過ぎるということで国人層の憎悪を一身に受けることになった
戦国時代なんだから、人格云々というような現代人好みの話ではなく利権の奪い合いでしょ
信虎が抜けた存在となっていたから、言ってる事には同意。
>織田家の場合、信長は信秀から既に城を譲られ独自の側近団で固めはじめてたから
結局、配慮が足りず旧来勢力や国人層をまとめきれなかったわけだ
織田の別家は信秀死後の状況からして仕方ないが、信行へ流れたのは信長が原因でしょう。
>>299 自分は
>>284や
>>289の意見に近いのだが
耳川直前の大友は確かに内部で問題はあったがそれでも島津より強大。
内部で問題と言えば織田も豊臣も問題や対立を抱えていたが勢力を広げている。
大友の問題が具体的に表れるのは耳川敗戦後で、
田原の謀反秋月筑紫竜造寺の離反なども島津との大敗を受けたあと。
>>299 >一連の流れにおいて、隆盛を誇っている状況での国人離反は珍しいと思うが。
つ信長
というか竜造寺からの離反が相次いだのが80年前後に多いって単にその時期に
竜造寺が急成長したからじゃ、離反者も増えたが同時に勢力も拡大している、
単に配下の国人の絶対数が増えてるだけなんじゃ。
>織田の別家は信秀死後の状況からして仕方ないが、信行へ流れたのは信長が原因でしょう。
どっちかというと
>>291が言うように今川と斉藤の影響なんじゃ、
信長が原因であるならもっとはやく行動していてもおかしくない、清洲を奪う前とか。
ついでに信秀にも原因あると思う、信勝に城や家臣を与えすぎたんじゃ・・・
元就や信長北条のように後継者対策をもっとしておけば。
実際のところ、お家騒動はある意味でチャンスだったりする
公然と敵対してくれたお陰で、自分の反対者を簡単にいぶり出して叩けるわけだから
信長にしろ、家康にしろ家中分裂の危機を乗り越えた後は領国一職支配を成し遂げてその後の雄飛の原動力としている
その家々によって状況が全く違うから、その大名の生涯を通じて見ないとなんともいえないという当たり前の結論が妥当だと思うが
たしかに異なる状況を並べて○○の方が有利
などと論じるのには無理もあるよな。
例えば尼子と敵対した元就と今川と敵対した信長を比較しても
どっちが不利だとか一概に比較出来る話じゃない。
桶狭間なんて大ピンチと同時に、ある意味大チャンスだったわけだし。
隣接する最大勢力のを討ち取れて、おまけに
分裂して同盟相手まで誕生するんだから。
>>302 それは「勝った」からであって、織田家が大ピンチな状況におかれていたことに
かわりはない。
あの状況で「よっしゃ!義元を討ち取って松平を独立させてこちらの同盟相手に
するチャンス到来だぜ!」とか考えたならそいつは頭のネジが百本ばかし抜けている。
>>303 書き方悪かった。
あくまで結果論から考えてな。
でもワロタよw
>>300 >耳川直前の大友は確かに内部で問題はあったがそれでも島津より強大。
>内部で問題と言えば織田も豊臣も問題や対立を抱えていたが勢力を広げている。
織豊とは全く別、内部対立はあったかもしれないが
信長、秀吉は優れた当主であり統制も執れていたのに対し
耳川直前の大友家は若い当主と先代が対立、しかも当主は器量に疑念を
抱かせる振舞いが多く、先代も異教に傾倒、さらには神仏を弾圧して家臣団の反感を招き
家中は能力のない寵臣が実権を掌握。
そんな状況で遠征を強行しても気力が湧かないのは当然で
耳川で大敗したのも必然だと思う。
>というか竜造寺からの離反が相次いだのが80年前後に多いって単にその時期に
>竜造寺が急成長したからじゃ、離反者も増えたが同時に勢力も拡大している
勢力拡大に伴って傘下へ入る国人が増えるのは自然だが
九州の覇権を掴んだ時期に離反が増えるのは不自然だし
加えて離反者に親族・縁者や数年来傘下へ収まっていた家も多く、
粗暴、残酷な振舞いへの反感・鬱憤からと考えるのが自然じゃないか?
この辺は自分の意見というより、書籍や軍記物の受け売りなんだけども
>>305 なんか大友に関しては結果論過ぎ。
竜造寺に関しては状況無視してないか?
離反者がでようが勢力は拡大して上手くいってる分には基本的に問題無いと思う、
それが原因で衰退しているわけでもないし。
最もあのまま勢力を拡大しつづけても信長や武田信虎同様いずれ破局を迎えるとは
思うが。
信虎の破滅は、残虐な振る舞いではないとおもうがね。
信玄は豪族連合に支持されて大名になった
と、いうよりはそれ以外に家督を継げる選択肢がなかったわけだな
もし父と同様に国人層を完全な統制下に抑える方法を考えてることがわかったら、それこそ父のように追放か
過去スレで武田の豪族連合体質が信玄に与えたデメリットは散々言われてきたが、それがなければ戦国大名として誕生できなかったというジレンマ
自分の意志を通して武断的に領国支配強化、という方策は採りたくても取れなかっただろう
そして、晩年にはそれまでの実績と宗教的権威の利用などでようやく強力な指導体制を作ったが、それが信玄個人のカリスマという形でしかなかったので没後に反動が息子とその側近に
何しろ武田譜代の跡部すら勝頼に頼りにされただけで「奸臣」扱いされるぐらいだし・・・
309 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/27(水) 10:24:56 ID:bkqgkAHN
信玄が上洛を目指した理由、なんとなくわかる
およそ合理的な理由ではなかったんだ
戦国に生まれて生涯を戦に捧げた武人として、畳の上で死ぬのは不本意だったんだよ
そして最後を飾る戦は敵が強いほど良い
しかしその望みはかなえられなかった・・・・・・
釣りなのか本気なのか
>>306 結果論では無いよ、耳川の合戦では統制が利かず布陣も好き勝手
作戦無視しての抜け駆けが敗戦の端緒となった
軍勢は多くとも烏合の衆では勝てない。
>竜造寺に関しては状況無視してないか?
無視しているのはそちらだと思うが。
大友から覇権を奪ったにもかかわらず、島津と衝突する時期は離反が続出。
やはり、鍋島直茂を始めとする家臣の諫言を無視してまで実行された
数々の苛烈・残酷な処置が原因だと思う。
>>308 >過去スレで武田の豪族連合体質が信玄に与えたデメリットは散々言われてきたが
もっとも主張する度、散々に否定されたが。
>>311 >もっとも主張する度、散々に否定されたが
知らないなー。ゼヒ教えてほしい。簡単でしょ?過去ログよめですませないでね。
>>311 何スレ目かわかれば見てくる
教えてくれ
>>311 分かるとは思うけど
>>過去スレで武田の豪族連合体質が信玄に与えたデメリットは散々言われてきたが
>もっとも主張する度、散々に否定されたが。
これに対してね
>>314 直臣はもとより先方衆も含めて、軍事面で組織だった体制を整えているが。
武田家が豪族連合体質ならば、戦国時代の大名は皆豪族連合体質
で、該当する過去ログは?
>>311 >結果論では無いよ、耳川の合戦では統制が利かず布陣も好き勝手
>作戦無視しての抜け駆けが敗戦の端緒となった
>軍勢は多くとも烏合の衆では勝てない。
普通はそれを結果論と言うんじゃないか?
多分大友が勝っていれば全く逆のことを言われていたと思うが、
確かに大友家にはいくつかの問題はあったが、その問題が
絶対的な国力の差を覆せるほどのものなのか?
耳川で大敗したのも必然などと言えるのか?
自分含め周りの人間の意見は苛烈・残酷な処置で離反が続出して問題があるのか?
だと思うが
中途半端な支配体制のままで見かけだけ勢力広げるのと、織田や徳川のように強固な
支配体制固めるのとどっちがいいのか?
六角のように統制に失敗するならともかく竜造寺の場合は織田や徳川の様に反乱潰しながら
勢力を広げているのだから問題無いんじゃないか?
>>315 何のソースも論拠も無しに
>直臣はもとより先方衆も含めて、軍事面で組織だった体制を整えているが
これでは
何の説明にもなっていないと思うが・・・
論拠が講談でも小説でもいいから何らかの説明をするべきでは?
戦国時代に豪族連合体質じゃない大名なんて存在しません、信長だけは封建もどきの体制だったけど
>>318 お前は講談がソースですと言われて、はいそうですかとそれをソースとして認められるのか
321 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/27(水) 23:21:18 ID:D4rBrcIz
はいはい
>>320 というか>311は講談や小説すらあげてないんだし
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/28(木) 03:17:38 ID:AGqAY/+t
のぶながさいきょうばんざい
>>317 それを結果論と呼ぶとしたら、人間はあまりに無能すぎる存在だな。
大友家の家中分裂、執政の出鱈目さから来る士気低下は深刻で大きな問題だろう
実際、領国の広さだけでは合戦に勝利できなかった、耳川で大敗したのも必然。
>僕の意見は苛烈・残酷な処置で離反が続出して問題があるのか?ってこと
織田家が効率はよくても、強固な支配体制でない事は歴史が証明しているが、それは置くとして
全盛期を築く時期にも苛烈・残酷な処置あるが、それは謀略等理由のある行為で
後年の竜造寺隆信が見せる、離反続出の契機となった常軌を逸した異常性とは別モノ
>それを結果論と呼ぶとしたら、人間はあまりに無能すぎる存在だな。
(^ω^; )うっわ・・・
327 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/28(木) 11:40:07 ID:C8X1G1zK
「武田家の組織だった体制」が何を具体的に指しているのかわかんないからなぁ
寄親―寄子のシステムなら、それこそ全国的なデフォ
でも、「豪族連合的な武田家」の否定でしょ肝は?
例えばどんな時期からの体制を指しているのか。豪族代表といえる板垣・甘利らが両職として実質武田家を取り仕切ってきた時代以降のことだよな?
それを過去ログで展開してるみたいだから過去ログのスレ番号教えてといっても教えてくれない
本当はなかったんじゃないかと疑っちゃうぜ
>後年の竜造寺隆信が見せる、離反続出の契機となった常軌を逸した異常性とは別モノ
別物という根拠は?
つーかほとんどすべて小説講談妄想を根拠にしてないか?
なんか石田三成がいる限り西軍が負けるのは必然と言うようなタイプに思える
どんなタイプだよ
信玄がもう少し戦上手なら…
田原って無能なのに重用されたの?
信玄が謙信くらいの合戦上手で、秀吉みたいな城攻め上手な家臣がいてくれたら、
上洛が楽だったろうに。
それだったら誰でもできる。
2.5倍の兵力で家康を打ち破る野戦能力、長野業正が死んだ途端に箕輪城を攻め落とす攻城能力
微妙な信玄
信玄が死ななかったら織田家は滅んでた
ほんとソースなりなんなりの提示を求められると消えるな
>>333 田原紹忍は
無能と言いきれるだけのエピソードはあるか微妙
耳川では総大将となっている軍記物もあるらしいが
そうでない軍記物もあるらしいし。
重用された一番の理由は豊後最大勢力の田原総領家を牽制するため
じゃないかと。
田原家を弱体化するため田原家の領地を庶流の紹忍に与えてる。
340 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 01:07:36 ID:iUfTfO3w
あの時には信長は相当な数の銃を持っていたのだろうから病身の信玄が
勝てたかどうかはよくわからない
だいたい騎馬の突撃を使えば勝頼と同じ事になった可能性も
なくはないのだから
き、騎馬の突撃?
信玄は病身だったからこそ、自分が死ぬ前に織田家に痛撃を加えて、
勝頼の活路を残しておきたかったのではないかな。
信玄は信長を高く評価していたし。
343 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 02:57:04 ID:/AlRvgbI
織田:中日
武田:犯珍
もし村上義清に勝てていたら武田はもう少し生き残れただろうか。
戦国大名は、生存競争に勝ち抜くために様々な施策を考えたが
結局、地方で巨大化した大名達はよりドライスティックな形で近世大名の雛型に移行した織田家に追い抜かれた
その信長は明智の謀反で散り、討った明智も織田家中から総スカン食う形で滅亡
結局、徹底した検地刀狩りによる民衆の直接支配を成し遂げた豊臣家の全国制覇でこの競争は終焉したわけだが
347 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 13:32:05 ID:HdNPY0n/
前田利家が晩年に若い大名に戦の話を聞かれた時、信長のやり方を引き合いに出した
積極的に前に出て有利なら時に大将自ら攻撃を指示し、不利なら叱咤して持ちこたえさせたと
信玄の実戦での指揮ぶりはどうだったんだろう?
>>347 信玄はそのようなことしなさそう
というか総大将が自ら突っ込むなよ信長・・・
349 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 19:22:07 ID:rOEcrOZ2
大将が自ら突っ込むとはいってないでしょ
陣頭指揮した、ぐらいにしか
上田ヶ原の戦いでは信玄は先方が反撃で壊滅しつつあるのを確認できず渡河して、あやうく自身も討たれかけた
先陣にいるほうが却って状況を把握できて安全ということかも
350 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 19:56:32 ID:oqt+TJex
つうか雨の日にたたかえばいいんじゃね?
敵がこっちの有利な日取りで戦ってくれると思ってるアホが一人
桶狭間は雨のレースだから義元は不利って実況は言ってたけどな。
武田も2万5千の騎馬突撃があるから足場の良い晴れの方が有利だな。
そんな事言ったってつられません!
二万五千頭のポニーが突進してくるぜ
鉄砲一丁あれば勝手に全滅するだろうな
357 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/30(土) 22:23:33 ID:uQ3djIU0
豊臣秀吉によれば、もし信長が5千の兵を率いて1万の蒲生氏郷軍と戦うことになったら迷い無く信長に味方するそうだ
蒲生軍が4千近い首をとってもその中に信長はいないだろうが、信長軍が五つ首取ればその中には間違いなく氏郷がいるだろうと
『名将言行録』からなんだから信憑性はアレだが、信長の軍事的傾向の一面を表しているな
人の評価をアテにするなら俺は今頃自衛隊の幹部候補生として自衛隊行ってるはずなんだが
359 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/30(土) 23:02:09 ID:H4/yk8GF
評価者の質が違う
それなら武豊が絶賛したモノポライザーの悲劇はどうなる
つまり自分はお馬さんレベルだと。
評価者の話してるんだろうに
頭おかしいのか?
お前さんが馬に対しての評価と人間に対しての評価を一緒にしているから。
ついでに言えば、
死んだ人間に対しての実績からの評価と
現在の実績から評価して未来を予測するのが当たるか外れるかも
全然話が違う。
ところで真面目な話、信玄の戦術指揮能力についてはどう思う?
煽りは一切抜きで公平に頼む。
俺は信濃・西上野攻略に苦戦したのを差し引いても
優秀な指揮官だったと考えているが。
いかに優れた戦略があっても、結局は戦術が駄目なら
戦略目標は達成不可能だし、要所要所では
ちゃんと勝利しているようにも見える。特に対北条。
>>365 煽り一切抜きでも
優秀より下、平凡よりは上ぐらいになると思う。
劣勢の相手にしばしば苦戦している、
勝ち戦はすべて数に頼った戦い、それを評価するとなると政治や戦略能力。
戦場に着くまでの行動は優秀だが、
戦場での行動・戦闘面においては平凡。
そんな所だと思う。
367 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/01(日) 10:26:05 ID:Y9tkHqgb
戦場での決戦を志向し、「自在に動く数千の兵があれば、どんな敵でも打ち破ってみせる」との豪語が伝わる謙信とは対照的だな
孫子に深く傾倒していた影響か、戦術的優位な体勢を執拗に模索してから戦ってるし、謀略や外交を好む
諏訪侵攻なんかはその典型かも
武田は旧型勢力
武田氏の幹部を見ればわかる通り、地元豪族から成る一門衆・譜代衆だけが要職を独占し排他的
信虎の代に家臣に加わった他国者武将の子弟ですら足軽大将ぐらいまでがせいぜいで、それより上になるのは困難だった
信玄自身が無能とは程遠く各種の改革を行ったことは確かだが、よくこの基本構造を変えずにやれたものだとむしろそこらへんを感心する
>>365 対村上の敗戦を考えると、
要所要所でちゃんと勝利しているとは言えないでしょ。
370 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/01(日) 16:14:42 ID:9O+/xr3X
三増峠なんて素晴らしい指揮だったと思うのだが、どうかな?
氏康が不在とはいえ山道で挟撃されるという最悪の状況を覆しての勝利。
半歩でも間違えば全滅という恐ろしい状況であれだけ鮮やかな指揮をとれるのは信玄だけだろう
371 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/01(日) 16:18:00 ID:XV94Ql91
あれ逃げただけじゃないの?
実際は北条側の損害は大したことない
373 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/01(日) 20:34:12 ID:mei2wXCg
三増峠の戦いは、例によって良質の史料が少なくて本当はどうだったか、がわかんない合戦の一つだからな
北条氏照書状によれば「足軽を蹴散らし、武将(宗の者)を何人も討った。信玄を討ち取れなかったのが残念」と、北条方の勝利と喧伝している
一方、信玄勝利としているのは例によって軍鑑
宣伝の可能性がある書状と、偽造疑惑がついて回る後世の本じゃあ・・・・・・
後北条の文書・書状も大半が写本で眉唾なのだが。
この書状は写本ではなかったような?(山吉文書)
だいたいそれをいったら武田氏関連の書状も写本が大半・・・・・・
まあ、甲斐への撤退という目標を完遂した信玄の勝利で良いと思う。
翌月には駿河に再出兵しているし、そこまでの損害は無かったんじゃね?
まあ、高級将官であるところの浅利を失ったのは手痛い所だろうけど。
撤退に勝利もなにもないと思うが。
小田原遠征から三増峠合戦までは駿河方面で苦戦した北条に対する
逆方向からの牽制でしょう。もっと大胆に言えば越相同盟に対する牽制。
小田原を落城させるつもりも北条の関東分国を切り取るつもりもなかったんだから
大軍を動員した戦略的側面の方が大きい。
でないと落城寸前の滝山城攻めをやめさせた説明がつかん。
どっちにしろ駿河での戦闘は続いているわけだからどっちも大した被害無しかねえ。
川中島第四回戦も直後の武蔵松山城攻めを考えたら兵卒の被害は少ないと言われるし。
で、
>>365の本題に戻ると
やはり戦闘指揮官としてはそこまで劣っているとは思わないが政略家として評価したほうが適切かと。
兵農分離がなされていない現状で戦闘に勝利しても兵卒を失えば将・民からの信望も労働力・国力も損なうだけ。
武田の主要な敗戦で武将討死が多いのは国人である彼らが兵卒=領民を護るためにも当然か。
圧倒的な戦力差で相手を戦わずして倒せるならそれに越したことはないんだから。
ただ政略家としては後継問題が甘かったな。国人連合たる武田家の強さは組織にはなかったんだから。
勝頼を陣代とせずに当主とする、というより義信廃嫡から適当な時期に勝頼に家督相続させてもよかったんじゃないか?
別に氏康や氏政みたいにそれで実権を失うことはないだろうし(廃嫡事件があるから家中に動揺があったんだろうが)。
それが仮にしなかったのではなくできなかったとすれば新興の北条家(氏政・氏直への円滑な家督相続)
よりも名門武田家は領国支配は磐石ではなかったと言わざるを得ない。
>>376 三増峠は撤退戦の一局面の出来事であり、この一事をもって勝ち戦とは到底いえない。
これが勝ち戦になるのなら、金ヶ崎退陣も勝ち戦になってしまう。
>武田の主要な敗戦で武将討死が多いのは国人である彼らが兵卒=領民を護るためにも当然か。
具体的にどれぐらい多いの?
よくこういうの見るけどさ、ただ単に武田が有名だからそういうのが目立つってだけじゃないのか。
>>380 うーん、困ったことに比較する史料は少ないんだよなあ。
江戸期にそういう史料が残った(悪い言い方すれば創られた)のが有名大名なわけで
兵卒の士気を考えれば戦国後期の大規模戦で国人クラスの武田に限らず討死は多いと
考えられると言ったほうが適切だったかな。
第二次国府台とかでも北条・里見は有力武将を失っているから。
むしろ織田家が戦国後期にしては有力武将の戦死が少なすぎると言ったほうがいいか。
>>370 似たような状況に摺上原の戦いがあるが、
政宗の方が戦術的には状況が厳しかったにも関わらず
三増峠のような曖昧な勝敗ではなくちゃんと勝利し
かつ葦名領を手に入れるという結果を出している。
相馬葦名佐竹の侵攻に対し、相馬領を攻め急転し、佐竹と葦名が合流する前に
葦名を壊滅させ、そのまま芦名領を奪い、ついでに南陸奥の諸豪族も従属させている。
信玄のは戦術的にも戦略的にも意味があったのか難しいが
政宗の方は戦術的にも戦略的にも勝利している。
政治外交的に無駄になったけど。
>>378 >武田の主要な敗戦で武将討死が多いのは
これ前にもあったが織田だって武将討死が十分多いって結論にならなかったか?
383 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/02(月) 08:03:37 ID:MFrCrBSj
元々、戦国時代の軍隊の敵殺傷率はさほどでもない
三増峠での武田軍戦果3千なんてちょっと信じられん。そこまで戦闘力が北条軍に対して隔絶してるなら、戦争全般でもっと優位に戦っているはず
やっぱり武田氏の討死が多いのは、武将クラスにも大損害が出る撤退戦での打撃がいくつもあること・軍鑑などで武将名が有名なことの相乗効果だろうな
足軽大将クラスの討死がいちいち有名なのってちょっと他にないんじゃない?
三増峠の勝敗はともかく、戦果から戦闘力って発想はよくわからん。
385 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/02(月) 14:05:15 ID:vt2o/IlX
信玄は箕輪城攻めの際、兵糧に困った家臣団に三割の高利率で米を貸し出したほどのツワモノ
計算高い人間だから、戦においても堅実なのは必然
ただこういう人間は往々にして計算が狂った際の挽回の仕方が上手くない
それは確実に言えるよな。
だから計算の範疇に収まらない高能力の武将相手には
しばしば敗退している。
そこらへんは信玄の凄さでもあるけど弱点でもあったな。
比較的短時間の戦闘で三千人も殺せるわけがないでしょ
それだけの損害っつったら長篠日記準拠の3万以上の織田軍損害と同等
手取川合戦で一方的奇襲かけて勝利したっていう謙信の手紙を信じた戦果以上だ
>>382 >これ前にもあったが織田だって武将討死が十分多いって結論にならなかったか?
スレ番教えて
スレ番はしらんが、参加したので憶えている。
例えば織田家としては元亀年間に兄弟二人(天正元年も入れれば一人追加)が戦死。
また武将クラスとしては森可成や坂井政尚、氏家ト全、原田直政らが戦死。
さらにかつての一長林佐渡の継嗣新次郎通政、二長平手政秀の息子兄弟三人が戦死。
林や平手はとっくに家老職は解かれているが、それでも所領は大きなものでそれだけ
戦力も抱えていた立派な織田家の重臣クラス。
また森、坂井、原田などは戦死した時点では後に有名になる秀吉や光秀と地位の上で
同格かまたは上回っていた。
彼らは、途中で退場したのであまり有名でない、というだけ。
参加してないけど、見てきたので張ってみる。
238 名前: 無名武将@お腹せっぷく 2006/01/11(水) 00:41:25
というか、普通に織田でも重臣クラスの戦死はあるよ。
それが、戦死という結果からマイナーにとどまっているため印象に残らないだけ。
例えば、追放まで信長家臣のナンバー1、柴田よりも上だった佐久間信盛は本来は
次男。大学助が桶狭間で戦死してから、彼が佐久間一族の代表(総領格)になった。
佐々成政は三男だし、前田利家は四男。近江戦線で戦死した坂井尚政や森可成も
その頃は秀吉や光秀よりも地位は上な重臣だった。
また一族で言えば信繁のような副将格とまでは言えないが、連枝の重要人物の戦死
がそれなりにある。連枝衆筆頭として信長の戦に従軍した庶兄信広や京を守る重要
地点宇佐山を森と共に任された弟信治などの戦死の意味は小さいとは言えないだろう。
信玄ちゃんがもし長生きしていたとして、
上洛はできなかったかも知れないけれど、
信長が無事におられた気にもなれないなあ。
やっぱ武田がヘンに有名だから武将がよく死ぬイメージがあるってだけか
394 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/03(火) 08:15:50 ID:qLgsonCC
基本的に信玄の戦というのは、勝ちにしろ負けにしろその理由がわかりやすいね
一方、信長のそれは結果論から逆算できても、基本的に余人が真似できるものではない
桶狭間のように総数で負け、外交で遅れを取り少ない戦力をさらに分散させて各個撃破くらいながら、唯一の天候変化のタイミングを掴んで大将部隊同士の決戦に持ち込んで勝利、なんて真似はもう計算どうこうの世界じゃない
お手本にするなら信玄だが、凄みでいえば信長
桶狭間は天祐でもあるからそこまで大きく評価に入れてもなぁ。
天佑(天候変化のことか?)を利用できるほどの深い位置まで敵中突破していたのは人為的な判断では?
桶狭間はまさに秀吉評と伝わる信長の軍事的評価そのものだな。いくら敵に首を取られてもその中に信長はおらず、織田軍がいくつか首をとればその中に敵大将はいる、と
>>396 いや、だから「そこまで大きく評価」と書いたんだが。
桶狭間は偶然の要素もかなり大きいし。
398 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/03(火) 10:14:05 ID:oPywzuRJ
ではどの程度なら評価していいのか、はっきりしてくれんと。
まぁ信長の用兵はちょっと普通じゃないところがあるよな。
森部の戦いでは劣勢な味方兵力を却って分散させて勝利している。天王寺合戦でも包囲下に突入してから兵を分けて後背を突かせている。
どちらも孫子なんかの原則には思いっきり反している。
偶然をモノにできるのも実力だと思われ。
そういう香具師でないと一代で大勢力は築けないんじゃまいか。
400 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/03(火) 11:25:16 ID:fHj/b3To
でも信長がそういう瞬間的な判断に頼った戦をしてるのは勢力が小さい時か、思わぬ劣勢を強いられた時だけで
基本は信玄と同じかそれ以上に外交・調略を重視し、大兵力を整えてぶつけることを重んじてるでしょ
普通の人間なら、桶狭間みたいな勝ち方すれば調子こいて天運を信じて無謀な戦続けそうなものだけど。信長にはそれが無かったのが一番の怖さかも
つうか外交軽視で大戦に勝ち続けた英雄ってナポレオン位だからナー
まあ外交軽視っつうよりは政治体制が当時のヨーロッパと合わなかったって事
情の方が大きいか。
外交軽視の英雄といえばアレクサンダー
元々相手が違う文化圏に属する連中で、外交が通じにくかったという面もあるが
講和交渉も蹴っ飛ばし、部下がついてこなくなるまで只管戦闘を頼りに突進
404 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/03(火) 19:42:50 ID:pyWcucxT
朝倉滅亡前の追撃戦なんかは、信長一人だけが朝倉軍の撤退を予想した
経験豊富な織田家中誰一人信じなかったのに、朝倉軍は本当に逃げた
このあたりの直感力というか、軍事的センスは普通に並じゃなかったようだな
一度だけなら偶然かもしれんが、二度三度となると必然
感が鋭いってのは強みだよね。一人の生死で戦いはどう動くかわかったもんじゃないから。
自然を読む力を持っていたら天下を取れる可能性が格段に上がると思われる。
勘っていうか鋭い読みだよな。それもずば抜けた読み。
407 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/03(火) 21:07:55 ID:Fp36iQzW
信長の軍事的才能は幼少期から思春期にかけて魚や虫や獣らと、
ごく自然に触れ合って育まれたものだと思う。
彼の動物的な感などは、書物から得た才能とは到底、思えない。
逆に信玄は書物から得た知識が自身の才能に、
直結している部分が垣間見える。
>>406 瞬間の判断力ってやつか。
信長の合戦で一番好きなのは天王寺合戦だな。
本願寺攻めの最中に逆襲され、逆に天王寺砦に包囲された明智その他。
その知らせを聞いた信長は急遽かき集めた3千で1万5千の包囲軍に突入。
包囲を突破して砦の兵と合流するやそのまま外に打って出て本願寺勢を蹴散らすという。。
鮮やかというか無茶苦茶というかw
信長は勘が鋭いからすごいだなんてデタラメ言っちゃだめだろ。
朝倉攻めにしろ、桶狭間にしろ情報力と緻密な作戦のほうが評価されるべき。
信玄の戦は場当たり的
信長は戦略からの必然
でも信玄のほうがすきだ
411 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/04(水) 03:15:11 ID:tjKOQBmw
信長ほど馬で山野を駆け廻り、川を何度も泳いだ大名も珍しいのではないだろうか。
少なくとも信長の乗馬に関しては、走行距離、走行時間ともに相当なものだよ。
>>410 信玄の方が戦術的に必然で
信長の方が戦術的には場当たりな気がする
兵を分散させたり劣勢でも戦ったり
戦略的には信玄は場当たりかもしれんが
戦略的にも信玄は常に多数で当たるから場当たり的ではないだろ。
駿河攻めは外交に失敗しただけで、それも北条との決戦には至らず
再同盟にこぎつけてる。
事前に北条に手を回さず、さらに徳川にまでちょっかい出すのは場当たり的ではないのか
なにこの信玄補正フィルター
>>414 全く何の算段も無いなら場当たり的になるだろうな。
ところでその「補正フィルター」みたいな言い回しやめなよ。
そういう話をすると話のレベルが下がるだけ。
東西に敵を抱えることになるかもしれない状況下で、わざわざ積極的に西に敵を作る意図とはなんぞや
これによるメリットは
そしてその算段とやらはなんだ
信玄の行為は全て意味があって、当初は場当たり的でも、結果的に問題解決したから、総合的に場当たり的じゃないというのは高いレベルの話なのか?
つか実際駿河から一時撤退してるじゃないか
信玄としては後のことを考えた威力偵察程度のつもりだったのが、徳川を予想外に刺激してしまったとか?
後の動きを見ると二正面作戦を最初から考えてたわけでもないだろうし(考えてたら、最高の愚将。上杉とあわせて三正面)
>>414 そもそも場当たり的で戦略の無い武将が北条上杉織田に囲まれて
120万石まで拡大出来るわけないだろ。
お前は駿河攻略における一連の行動は全て場当たり的で
事前の目論見も全く無いメクラな戦争だったが
結果的にうまくいっただけだと言いたいのか?
周囲を敵だらけにした事をもって戦略眼が無いと言うなら
信長も戦略眼皆無だな。
お前みたいな奴は一事をもって大袈裟に持ち上げすぎなんだよ。
で、反対意見にはフィルター呼ばわりやらで、やたら攻撃的。
議論する資格無いよ。
419 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 09:03:59 ID:PDn3xycr
信玄という出家後の名前が一番有名なことが、端的に武田家が旧来型勢力だったということを示している
中世的な宗教が世俗にも大きな力を持っていた。財政面では様々な諸役を新説したが、逆に言えばそれに耐えられる経済特権を維持していたということ
一門・譜代偏重の人事といい、実に「日本的」だった
しかし、これが悪一辺倒かというとそうでもない。徳川三百年がこれと同じ一門譜代偏重で持った(宗教は徹底統制したが)ことからわかるように、安定性はある
信長のような実力主義は活力を呼ぶが、光秀謀反のようなトラブルを孕んでしまう(外部の人間であるオレを重用してくれた、と生え抜き以上の忠誠を発揮するタイプもいるが。腕一本で生きる人間は野心家であることが多い)
>>418 今川攻めの事言ってるのにいつの間にやら大名の生涯の戦略にすり替えか
今川攻めに関しては言うとおり
だから、その事前協議なく攻め込むとか、徳川にまでちょっかいだすとか、その凡人の俺には到底理解できない信玄が心に秘めた算段とやらを聞いてるんだが
質問に答えずに、じゃぁ○○も△△だなというのはレベルの低い話じゃないのか?
そして、俺は信玄が生涯通して 常 に 場当たり的な行動はしていないといって、駿河攻めまで場当たり的ではないというお馬鹿な信玄フィルターに反論してるまで
そりゃ駿河攻めにスポット当てるのは当然、つかお前が駿河攻めを軽視しすぎ
挙句に自分の気に入らない言葉の一事をもって大袈裟に騒ぎ立て、反対意見には議論する資格wない呼ばわり
大層レベルの高い話をされる方でございますね
信長のの字も出てないのに信長持ち出すあたり、よっぽどコンプレックスあるんだな
今川氏が滅んだら、徳川氏が勢力を拡張しようとすれば織田か武田どちらかを相手にしなければ袋小路になる
武田側からすれば、家康が今更信長を裏切るとも思えないので次はオレ達とだ、と判断したのかね
予防的に攻撃をかけようとしたとか?
でも先制攻撃にしては不徹底だよな・・・・・・?
422 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 10:52:38 ID:PK2RgBv/
>>420 本題は信玄の戦略全体に関する話だ。ちゃんと理解してるか?
信長の例を挙げたのは信長が戦略的に極めて優れた武将だからなんだが
コンプレックスとはどういう意味だ?
お前は全体的にレスがくだらない偏見や煽りに満ちている。
コンプレックスだのフィルターだのと、くだらない単語を
なぜ交える必要性がある?
つーか、ID:S6vvE4doはスレの上の方でも粘着して
議論の相手にレッテルはりしてる奴っぽいw
424 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 11:51:01 ID:2svn3ILj
信玄のは行き当たりばったりというより、利用した相手への事後対応不足じゃないかね?
諏訪侵攻の際も、相手の一族を分裂させて半数を味方につけたはいいが、彼らを出し抜く形で諏訪氏と頭越し講和したために後に敵対されている
これは簡単に撃破できたけど、そういう傾向があるかも
信玄自身の判断なのか、重臣連の合議の結果なのかはわからんが
>>422 だから俺はお前が今川攻めまで場当たり的じゃないといってるから、それについて聞いてるんだろ?
で、その信玄の算段ってなんなのさ
いちいちあっちこっちに話を飛ばすなよ
煽りと分かってるならそこはスルーできるぐらい耐性つけとけよ
426 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 13:27:25 ID:PK2RgBv/
>>425 そもそも場当たり的ってのは、その場の思いつきだけで
何の先の見通し無く行動する事を意味しているわけだ。
信玄の駿河侵攻が仮に思いつきだけで、対北条の外交を
一切考慮してないなら、たしかに場当たり的と言える。
だからあえて信玄の戦略全体に話を戻して
信玄はそれほど愚かな武将ではないと書いた。
真面目な話をしている場面で信玄フィルターなんて言葉を使い
相手を全否定しておいて、スルーしろは都合よすぎだろ。
>>426 つまりなんらかの目的があって、北条と事前協議せず、徳川おちょくったんだろ?
そのなんらかの目的は何なんだと
それほど愚かな武将ではないならなんらかの目的があるんだろ?
428 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 13:55:41 ID:PK2RgBv/
>>ID:PK2RgBv/
中山さん、お疲れ。
次は強打の聖陵が相手ですから、もう少し深く守ってもいいかもしれませんね。
>>ID:S6vvE4do
倉橋もお疲れ!
__
, ‐' ´ ``‐、 / ̄:三}
. /,. -─‐- 、. ヽ / ,.=j
_,.:_'______ヽ、 .! ./ _,ノ
`‐、{ へ '゙⌒ `!~ヽ. ! /{. /
`! し゚ ( ゚j `v‐冫 , '::::::::ヽ、/
. {.l '⌒ ゙ 6',! / :::::::::::::::/ __
. 〈 < ´ ̄,フ .ノー'_ , ‐'´::::::::::::::;/ (_ノ)‐-、
. ヽ.、 ` ‐", ‐´‐:ラ ':::::::::::::::: ;∠. ヽ_} ゙ヽ
,.r` "´ /:::::::::::::::::::ィ´ `ゝ !、 /
/ / :::::::::::::::: ; '´ /´\ / r'\
. i ! ::::::::::::::/ 墨 | .!::::::::/ヽ、.._!ヽ. ヽ、
{ {:::::::::::;:イ / ‖i:::::::/:::::::::::::/ \
. ヽ ヽ,.ァ‐'´ /ヽ 二 ,/`ヽ、::::::::: / ヽ
ヽ、 ,. ‐'" .ノ ,〈 > `'‐- '
> _,. ‐'´ / / `)
,ゝ _.⊥.-r┬:/
ヽ_,. -‐i"!´「L.=!┘ ヽ
< / / |
/ 、i / __ ./
>>428 駿河攻めは場当たり的に見えるかもしれないけど、信玄はそんなことする愚かな武将じゃないよ
だろ?
431 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 14:11:36 ID:PK2RgBv/
>>430 お前が駿河侵攻を場当たり的と考えるのは
対北条の外交と徳川への敵対行為だろ?
それで何で
>>427みたいなトンチンカンな話になるわけ?
目的を持たずに侵攻する武将がいるとでも思ってんのか?
>>431 北条と敵対する可能性があるにもかかわらず、東西に敵を抱えるリスクをあえて犯す理由はなんなんだ?
何か目的があって徳川まで敵に回したんだろ?
先を見通してれば、徳川とは友好的に行くか、最初に北条と協議しておくか、どっちかだろ
或いは、今川と結んで徳川攻めると同時に織田と手を切るか
実際には徳川と結んで、北条は無視で駿河攻めたんだから、徳川にちょっかいださずに、対北条に備えるべき
にも関わらず、徳川にまでちょっかいだした目的は何なんだと
で、俺にはその目的が見出せないから場当たり的だといってる
>>432 駿河は武田にとっては絶対的に欲しい土地なのは当たり前だろ。
それでも北条に関しては外交の失敗だとはっきり書いた。
事前協議無しに侵攻したからこそ、わずかな期間に
駿府を占拠出来たという側面もあるわけで
それが必ずしも間違っているとも思えないが、失敗は失敗。
但し、信玄は他の人も書いているように見通しがやや甘い傾向はある。
そしてそれは場当たり的とは違う。
場当たり的とはそういった見通しが一切無しに行動する事。
信玄は基本的にしっかりした戦略があり、多方面に
敵を構える愚は避ける傾向が強かった大名。
つーか、何度も同じ事を言わせないでくれ。
家康に関しては最初から敵。お互いに駿河をお互いに駿河を巡って
敵対するのは当たり前の話。
駿河侵攻段階では利害が一致しただけだろ。
>>433 駿河巡って徳川と敵対する見通したてたなら尚の事北条と協議すべきだろ
北条が敵対するとわかってて、それでもなお駿河に攻め込んで徳川にちょっかい出して、当然のように北条がきたら駿河撤退の過程を見てどこに見通しを立ててたと言える?
見通しが甘いとかそんなレベルじゃない
ちょっと考えれば想定できること、それに対して何らかの対策を施してたならいざ知らず、何も為さずに攻めて、でも見通しは立ててたよはないだろ
最初から北条と協議して、或いは北条の援助も得て駿河攻めれば早くなることはあっても遅くなることないだろ
或いは徳川は何とかなだめておいて、徳川に回す兵も全て注ぎ込んでなるべく早く駿河抑えて北条と話し合うか
多方面に敵を構える愚を避けるなら尚の事どっちかしなければならんだろ
ちょっと駿河を早く取る為に、失った北条の信頼と駿河からの一時撤退という時間ロス
どう見れば見通しが立ってたというのか
>>434 敵対国の徳川に実を与えないのは当たり前の話。
それから戦国の世で衰退する今川の為に、氏康があれだけ強硬な
姿勢をとるなんて予想はなかなか難しいだろ。
氏康さえ軍を出さなければ問題なく駿河は掌握出来ていた。
それでも結果として多方面に敵を構え失敗した。これは事実。
但し結果論で語るなら、この時は撤退に終わっていても
駿河攻略という戦略はそのものは完全に成功している上に
北条との再同盟にも成功している。
結局は戦略的成功を収めて全面的な勝利に終わった作戦を
一時的な撤退をもって場当たり的とまで評価は出来ないと思う。
戦略が場当たり的というのは、戦略が無いと言ってるも同然。
だからそれは違うと言ってるだけなのに、なぜそこまで
必死に煽ってまで食い下がる?
436 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 16:31:21 ID:pLA35B9Y
ちょっとまて。徳川と敵対した理由は、大井川を境にするという協定を武田側から破ったからだ
実を与えちゃいけない敵対国だというのなら、そもそも協力したのが間違いってことだろう
>>436 北条が参戦しないって踏んだ以上、徳川なら牛耳れると
甘く見てたって事なのかもな。
たしかにだったら最初から共同戦線張るなとは思うし
一連の行為は武田の外交に対する不信感を募らせたとも思う。
徳川と揉めたのって、北条参戦前だっけ?
439 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 17:31:10 ID:q9V/QmMh
1586年12月に秋山信友が大井川を越えて徳川勢力圏に侵攻
1569年1月、家康の抗議を受けて秋山を引かせる。同月、援軍を率いてきた北条氏政と興津で対陣
ちょっとオレの調べでは1月中の正確な時系列がわからんかった。微妙なタイミングだったのは確かなようだが
大井川ラインを越えて遠江攻略が短期間で達成出来たなら
信玄としては珍しく短期間で達成出来た大戦果だったんだよな。
>>435 最初に駿河を攻撃して失敗して総撤退した作戦と、後に作戦を組みなおして改めて
再侵攻して占領した第二次駿河侵攻はまったく別の戦略。
「武田による駿河征服」は政治目的であって戦略とは違うぞ。そこを混同している。
政治目的の達成と、戦略目標の達成と、戦術的な勝利はすべて異なる。
何度もこの例えを出しているが、君のその理屈が通るのならば
「結果的に信長は越前を支配した。だから結果論からいって金ヶ崎退陣も失敗とはいえない」
なんてなってしまうぞ。
>>441 ああ、なるほど。たしかにその通りだった。
しかし金ヶ崎で撤退したからといって、信長の一連の作戦を
全て否定する人間もいないとは思う。
信玄の場合、対北条外交を軽視した結果、駿河及び遠江攻略が失敗し
撤退をした事で、一連の作戦における戦略眼が全て
否定されているように見える。
まるで望んで周囲全てを敵に回したかのような書き方というか。
信玄は駿河攻めの時だけでなく
砥石崩れでも下手な手を打っていると思う。
塩尻峠の戦い2年後の1550年7月小笠原を攻めて一気に小笠原領を制圧
そこまでは良かったが一気に制圧に成功して調子に乗ったのかそのまま
村上領砥石城を攻めて撤退。
この時の砥石崩れの結果、小笠原長時が勢力を回復させせっかく制圧した
旧小笠原領もまた危険になると言う結果。
7分勝ちがいいってのは信玄の場合経験論かもね。
信長の金ヶ崎攻めの場合1570年当時織田が攻めるのに適して相手が
朝倉ぐらいしかいないというのもあるから、敵を増やしたには当たらないかも
この時点じゃ六角は逃亡本願寺ともまだ敵対していない、北畠も従っている
三好を攻めるには水軍が無いし。
>>443 元々駿河攻めの動機から考えてみると
北進の限界
↓
南進派と北進派で家中分裂(?)
↓
義信の廃嫡
↓
駿河攻め
論功行賞を与える事や家中分裂との決別。
家中の地盤固め的な要素が、一見不可思議とも思える侵攻を後押していたと考えられる。
戦争論や孫子等のセオリー通りの解釈では、
駿河攻めの理由を一概に当てはめる事は確かに難しい。
意外に面白い話してるね。
良スレ。
>>446 いきなりの駿河攻めは北条に連絡して失敗した時のデメリットを考え、
北条は味方につかないと言う前提の各個撃破なだけじゃないのか?
1:駿河に不意打ちをして、今川の軍事力に対してダメージを与える。
2:占領地への押さえの兵力すら惜しんで、全力で北条を叩く。
3:北条を叩いて、弱体化した今川を全力で攻める。
占領するだけが軍事目的じゃないだろう。
449 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/05(木) 10:05:13 ID:EtXKr6zI
占領することが軍事目的じゃない、というのは後世の見方でしょ
当時の常識からいって、領土占領ないし相手方屈服を伴わない軍事的成果なんてありえるの?
この話題だけじゃないが、当時の視点と現代の視点がごっちゃになってるケースがままあるぞ
屈伏、占領以外の軍事的成果が有るかも何も
合戦の勝利だけに満足して引き上げる事はあるが。
普通はこの場合も軍事的成果と言うだろう。
>>450 作戦目的を達成できなければ、軍事的成果とはいいません。
相手にダメージを与えるのが作戦目的なんだろ。
>>451 最近は潰した戦車の数が多かったと言う理由だけで「ノモンハン事件は日本軍の勝利」と主張する奴もいるからな。
作戦目的、今川家を撃破しての駿河領有
東の徳川氏とは密約を結んで味方に、西の北条氏は不介入を予測
東とは自身の迂闊な先制から敵に回し、西は完全に目論見を外して敵対した
そして数年かけて齟齬を修正して、最終的には駿河領有
問題はこれが信玄の生涯に与えた悪影響なんだけど、この作戦だけを見れば、曲折はあっても成功でしょ
西と東逆じゃね?
>>454 なんどもいっているが、成功したのは第二次駿河侵攻作戦(と、勝手に名づけておく)。
第一次は、東西を敵に回して占領地から総撤退という大失敗。
「曲折はあっても成功した」のは「駿河領有」という「政治目標」。
ただ、この政治目標を達成するために信玄が払った犠牲(時間や人名、政治的財産)が
見合ったものだったかどうかは別(信玄の生涯に与えた影響のことね)。
北条が不介入なんて言う予測は成り立ち用がないんだから、北条が介入するのを前提で行動したと考えるべきでは?
同盟相手を見殺しにしたら、北条の今後の外交が崩壊する。
最初の作戦は同盟破棄に協定破りしたとはいえ
二俣城も短期間で落としてたら1年経ずに15万+25万石
それに金山やら港までゲットか。
上洛作戦よりこちらが鍵だったかもね
たまに信玄は詰めが甘い欲をかいて失敗する
今、立ち読みしてきた歴史群像の「武田信玄」によると、駿河攻めは信長からの勧めもあったと記述してたんだが
これマジで?
一度目の駿河侵攻の時には、今までの陸だけの戦争から
海を交えた3D戦争への進展だからな。
北条、徳川は海を使って補給してくるが、自軍にはそれを
断つことはできない。自軍は陸だけ事と次第によっては
補給路を断たれるかもしれない。
これじゃ長期戦は不利だものな。
>>461 薦めたかはしらんけど同意はしてたんじゃなかったっけ?
北条が不介入と仮定すれば
徳川の支配体制が固まる前、若しくは徳川が占領する前に
武田が遠江を実行支配してしまおうとするのは当然な気もする。
信玄としてはついでに天竜川以東ぐらい手に入れたかったのかもね。
>>448 もし仮にそれが真実だとすれば
武田は何で徳川とも敵対したと言うことになる
>>454 その論理で成功と言えるのであれば
勝ち組み大名のほとんどすべての作戦が成功になる。
陸だけの戦争から海を交えた3D・・・・・?
昔の日本の内陸部って平面世界だったんだ、知らなかったな
俺もちょっと思ったw
まあ言いたい事はわかるけどね。
お前らに質問があるが当時の徳川家康の評判はどんなもんだったの?
幼少の頃から人質としてたらい回しにされた挙句
独立後は三河の一向一揆に手を焼き、信長の遠征には毎回同行する金魚の糞状態
三方ヶ原の戦いでも大敗して、信玄というか当時の大名たちが家康のことどの程度評価していたのか
晩年の信玄が病身を押して出陣して家康を屈服させるだけで満足できたのかな?
現代の人間からすれば徳川を従えるのは大戦果なんだが当時家康を評価してたのは信長くらい?
信濃侵攻直後のベターな戦略って何だろう。
北進は中策、史実でも調略が高い効果を見せてたけど長尾相手はリスク高過ぎ。
東進も中策、切り取れても精々西上野。
南進は領土ゲト出来るのか?
西進は・・・冬になったら権六さんと同じ目に。
南進すれば北条と敵対する以上、上策なんて無いと思う。
西上野無しで北条とあの時点での今川と戦えるかも疑問。
どちらに進出しても大大名と激突する運命。
結局自分に匹敵するような国力の大名に勝てない限り
史実のようにちまちまと勢力伸ばすぐらいしか出来ないと思う。
4方全てに100万石クラスの大名が絡んでくるのは武田くらいじゃね?
後期織田は別として。
>>472 後期大友ぐらいかな?
島津竜造寺毛利と
ただ上杉と徳川はこの時期100万石無いと思う。
50万石ぐらいと思う
上杉はもろもろ含めると、百万石には届かなくても結構いきそうな気がする。
>>474 どうだろ?
本庄の反乱も鎮圧してようやく揚北も支配できた70年ぐらいで
越後40万石に
上野は東上野の厩橋以北程度、上野1/4程度で10万石程度
越中飛騨は一部の勢力を従属させていて
あと関東に上杉に協力する勢力がいるぐらいか?
ただ対武田にはあまり関係無いような・・・
>>473 ああ大友がいたな。
まあ、あと毛利は織田長宗我部大友。ちと微妙か?
>>475 上杉は直江津やら金山やらで石高以上に動員力あると思う。
>>476 四国全土でも80万石ほど
その上82年の段階でも長宗我部は四国の半分程度
>>473 島津はかなり後期(伊達も然り)だし、龍造寺は領国支配が安定しないうちに沖田畷で逝ったから無視でいいかも。
百万石クラスというラインに一体どういう意味があるんだ?
そしてなんで後期織田(いつぐらいなんだろうか)がなんで別なんだ?
そしてそんな比較にどんな意味があるんだ?
確かに国力差で考えた方がいいかもな。
それだと初期織田とか初期毛利SUGEEEEEで話が終わるかもしれんが。
そういえば長宗我部も自分よりでかい勢力を駆逐してでかくなった大名だな。
100万石前後まで国力が増大すると、簡単には滅亡させられないと思う。
それこそ三好のような例でもない限り。
百万石対百万石ならそうだろう。
百万石対二百万石ならどうだろう。
百万石対四百万石ならどうだろう。
では五十万石対五十万石ならどうだ。
もしくは二十万石対二十五万石なら。
信玄において百万石というラインは信玄自信が百万石だから設定されたであろうライン。
もし他の大名において同じ様に語るなら、その大名に合わせてラインが変わって当然。
そして自分で言ってるように、謙信みたいに石高に完全に依拠してるわけじゃない場合の大名はどうなる。
>>483 信玄が100万石だったから同じく100万石レベルに囲まれていては
勢力拡大は難しいだろうなって話をしてると思うんだけど違ったか?
領土の広さもさることながら、大名の統制力とか経済力も加味しないと
石高っつっても大抵は慶長検地あたりの後年の生産力からの逆算だから正確さも期し難いし厄介かも…
まあ武田は順当に勝つ事はできるが順当に負けるんだろうな。
強豪だがそれ以上ではないという。
上洛しようというならどこかで自国と同格の大名をつぶさなきゃいかんわけだが・・・
まず無理だな。
>>484 >>472で信玄以外に四方全てが百万石クラスの大名はいるか、との質問。
その百万石というラインの設定理由を聞けば
>>482 そこで
>>483で、その百万石という設定ラインは信玄に使うのは適当として、他の毛利なり織田なりに使うの不適当といってる。
わかった?
あとどこにも勢力拡大が難しいなんて出てきてない。
めんどくさいから読んでないけど、ウザイからダマレ。
>>488 ??
もともとが
>>469氏
>>470氏の話題を受けて自分が出した話題なんですが…。
武田に上策と呼べるほどの勢力拡大が可能かどうかを考えたくて
石高などを基準に考察してみようかと思って質問したみたのだけど。
>>489 ならNGにするかスレ見ないかどっちかするといい。
>>490 なら他の大名持ち出す必要ない。
他の大名参考にするというならどんぐりの背比べな状況から抜け出した大名を対象にすればいいだけの話。
百万石とかわざわざ規定意味がない。
しつこい。キモイ。
>>491 武田以外の大大名がどんな状況だったかを問うのには意味がある。
ちゃんと話の流れを読んでから発言して欲しい。
こちらはスレが荒れるのが嫌でかなり気を使ってる。
>>492 専用ブラウザだとNG登録簡単。おすすめ。
>>493 百万石の規定が意味無いと言ってるわけだが。
同じ国力差でそこから抜け出した大名の状況を見ればいい。
そもそも百万石超える大名はそれほど多いわけでもないし例になるものが多くない。
状況見てそこから何か得ようと思うなら例は多いほうがいい。
100万石越えた大名は
>>272 の挙げた大名ぐらいしかいないからなー
同じ国力差から抜けた大名は
九州だと島津竜造寺
四国だと三好長宗我部
中国だと尼子毛利宇喜多
畿内だと・・・筒井赤井内藤荒木?
東海だと浅井斉藤織田三木松平
甲信だと武田小笠原諏訪
北陸だと・・・
関東だと足利北条佐竹里見宇都宮
出羽だと最上安東
陸奥だと相馬伊達津軽?
ぐらい
一応16世紀で考えてみたけど
間違い多いかも
>>272のリストで滅亡か滅亡寸前にやられてるのって
武田以外はみんな西国だな。なんか意味あるのか?
あ、自己解決しました。
500 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 10:42:10 ID:D0290ytA
国力って相対的なものだからなぁ…
ほぼ同格の斎藤氏を5年ほどで潰した信長
上杉あたりと最期まで泥仕合だった信玄
むしろこのあたりの効率かと。信玄は上杉家臣団離反に成功したりしたけど、基本的には上杉の矛先を変えるためでしょ。勢力下に納めるためじゃない
このあたりの戦略志向の差かね?
上杉には崩壊する内部的要因があんまり無かったって事かもしれんな。
もし、武田に信長が生まれていたら海津あたりに本拠地を移している。
って言う意見が以前にあったな。
武田家の構造じゃあ、無理って言う話も有ったが。
むしろ雪が問題かも
越後は気候が厳しいから、軍を展開させられる期間が短いから攻撃する側としてはかなりやりにくい
敵も条件は同じだが、地元で防衛側の利がある
それに信玄自身は上杉と敵対したのはあっちから手を出してきたからだという守備的な思いがあったのかも。村上らとの戦争にいきなり首突っ込んできやがって!みたいな
だから信長がやったように、時間がかかっても手間かけてでも併合するという展開は思わなかったとか
信州とかあのあたりも結構雪凄いんじゃないのか
勝てなかった理由を土地のせいにするのはもう飽きた。
日本のどこに行っても悪条件なんてあるわけでそこをなんとかするのが名君だろ
名将だって万能じゃないし。
507 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 16:46:51 ID:Ji1x82hY
勝てなかった理由を土地のせいにするんじゃなくて
勝てなかった理由を考えるのもスレの主眼なんでない?
>>500 信長の場合斉藤以前に
織田信友、織田信賢とほぼ同格の相手を倒してるのも凄い。
今川と戦いながら。
まあ信友は斯波氏と争っていたり、信賢は息子と争っていたりとかあるが・・・
信賢はともかく信友の斯波氏との争いは後に似たような状況に信長が陥ったが
信長は追放して解決しているから対処によってはそれほど問題じゃ無かったかもしれない。
信長が優れていたのか信友が劣っていたのかは分からないが。
>>501 信玄と敵対した当初は地位的にたいしたことない
国人は独立的反抗的
越後国内は一向宗との対立がある
崩壊する内部的要因は十分有ると思う。
>>503 雪はむしろ武田にこそ有利に働くんじゃないか?
信州も雪降るがそれ以上に信越国境こそ豪雪地帯で冬は交通が閉ざされる、
武田のほうが冬の間に信濃で有利に戦略を進められるはずじゃ。
そりゃ信濃で行動するならじゃないか
>>503は越後に進入する場合の事いってるんだろ
>>509 信玄はそもそも信濃を統一できてないし。
だから信濃統一までを考えれば信玄の方が冬場は有利だったはず
まさか信濃を統一する前に越後に本格的に攻め入るはずも無いし。
ただ夏以外の季節は本拠地からの距離の関係上謙信の方が有利な気もするが
んじゃなんで信玄は信濃平定して越後侵入しなかったんだろうね?
単純に武田がそこまで強くなかったからじゃないか
一応信玄も越後に侵入したことあるけど、その時はあっさり退いているから
支配が目的より牽制とか別のことが目的だったと思うし。
513 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 23:52:54 ID:HsDNn6mE
おまえら のぶながこうきもよんでないくせに ちょうしにのるなよ〜
>>512 真面目に語ってるのか、いちびってるのかよくわからん奴だな
甲斐という本拠地からの距離がありすぎる>越後攻略
移転という選択肢は信玄の発想にはないだろうし、武田氏の構造も考えて×だし
(勝頼が新府に移動しようとしただけで避難ごうごうだったことを考えると、後年の指導権を確立した信玄でも難しいだろう)
それに信濃は上杉氏と衝突し始めたタイミングは、制圧して間もない不安定な地域
>>496 ここでいう武田って信虎のことだよね。
>>514 織田にも武田にも偏らずニュートラルな視点で語っているのだと思う。
>>515 敵対した当初は
武田は甲斐約22万石に信濃佐久小県更科埴科諏訪 安曇1/2伊那1/2築摩1/2
水内高井の一部約28万石くらい
で50万石に対し
長尾は越後3/4で約30万石に
水内高井郡 安曇1/2で10万石
で40万石
50万石と40万石じゃそれほど差は無いから時間がかかるのも無理は無いと思う。
信長の美濃制圧みたいにほぼ全力(平行して伊勢攻略に手をつけてるから完全な集中ではない)を傾けてしつこく調略と軍事攻撃を繰り返しても結構時間がかかるからな、やっぱり対等の勢力の相手を打倒するのは大変だよ
信長の場合は、美濃攻略に斎藤龍興が死んでから攻略したので、約6年かかった。
斎藤家も家臣団分裂を起こして、力が弱ってもそれだけ時間がかかった。
長尾家の場合、謙信が家臣団をまとめきれないとはいえ、戦での強さは圧倒的だから
時間がかかったのだろう。
謙信が美濃にいたら、いくら信長でも6年で攻略とは無理そう。
同じような勢力だから攻略が難しいというより、
名将と名将が戦ったらよっぽど戦力に差がない限り
そう簡単に勝負が付かないって言う感じと思う。
越後に居るのが謙信でなければ信玄は越後を取れたかもしれないし、
信長は義龍が死んでなかったら美濃を取れなかったかもしれない。
家康は義元が生きている時は従属するしかなかったが、氏直相手なら三河と切り取れた。
>>519 相手の弱みに付け入って攻めたのが信長、信玄はそれを利用して攻める意志が無かったのか出来なかったのかはおいといて攻めなかった
その差が攻略できたか出来なかったかの結果
あと謙信がどこそこにいたらとか寒いだけだからやめとけ
その仮定から出てくる結果は個人の好みとか主観におおいにに左右される
俺はこう思う、いや俺はこう思うの応酬になるだけ
>>520 名将だろうが凡将だろうが国力に差がなければ決着はつきにくい
差があれば簡単に決着がつく
それに見当違いの、名将だから決着がつかないという事くっつけて納得しようとしてるってだけの話
522 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/08(日) 23:52:31 ID:m191Dsks
1貫=12.5石(1,000貫=12,500石)
つまり
知行40貫=知行500石(公35:民65として実収175石)=切米(現米)175石取り=500俵取り=100人扶持取り
そして
現米1石=1両=10万円
ちなみに100人扶持の100人とは自家の使用人や家臣の家族も含むので、軍役上の動員家臣はせいぜい10〜15人
ただし、防衛線や総力戦の場合はその3〜5倍は可
523 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/08(日) 23:54:08 ID:oPrYYb6f
武田「上洛すんのマンドクセ。」
524 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 01:09:36 ID:zhahNrpX
織田厨はなんで信玄と謙信という名前に過剰反応しちゃうんだろうね
>>521 >相手の弱みに付け入って攻めたのが信長、信玄はそれを利用して攻める意志が無かったのか出来なかったのかはおいといて攻めなかった
正気で言っているか?信玄の領土拡大なんてほとんど調略→侵略のコンボなんだが。
対諏訪氏、対今川氏が代表格だし、対上杉(長尾)氏でも越後の不満な豪族を扇動
反乱させまくっている。上野の長野氏なんて、それまで負け続けたのが当主が死んだ
とたんに攻略。
ただしこれは信玄をけなすわけではない。大名としてはこちらの被害をいかに少なく
して戦に勝つかは美徳であって責められることではけしてない。
こういったことを卑怯なんていうヤツは戦というもの、武士というものを判っていない
ただの馬鹿。
朝倉宗滴曰く「犬畜生とののしられようとも、武士の本義は戦に勝つこと」
信長が美濃を攻めたときは調略して攻めたけど、
信玄が越後に調略したときは攻める為に調略したんじゃなかった
という意味だろう。
武田信玄があと10年生きていたら、上洛の可能性は上がったのかな。
少なくても武田が徳川を侵食している間は織田の侵略速度は鈍るだろうし、他にも勢力がつけいる隙があるはず。
武田信玄が死んでから織田包囲網の崩壊の早さを考えると包囲網の要のひとつだと思う。
その間に信長が宗教勢力を虐殺に追い込んでいたら、上杉謙信も信長の同盟を破棄するとかありそう。
謙信は利益よりそういうことで外交を考える大名だから、ありえる。
信玄は参戦するのが遅すぎたからあんま関係ないんじゃまいか。
せめて志賀の陣のときだったら牽制になったかもしらんが
信玄が参戦するころには危機を脱していたしなあ。
あのまま生きてても徳川を早急に降せなきゃ結果は同じ。
勝頼だって徳川を積極的に攻めてたしな。
>>527 それは楽観視し過ぎじゃないか?
義輝謀殺後の謙信は北条や信長と同盟するなど大義よりも実利的な外交をするようになっている。
まあ信玄が10年と言わず数年長生きしていたら東美濃、遠江、三河に勢力を浸透して
信長も包囲網各方面の各個撃破は難しくなっただろうから天下統一への時間は必要以上に要しただろうな。
その間に信玄が新たな分国支配を確立して、これが一番の問題なんだが家督相続を危篤状態ではなく
健全な間に問題なく行なえれば武田はしばらく存続しただろうねえ。晩年の信玄には確か勝頼と連名で
文書発行していたと記憶しているからそこを何とかできなかったものか。
え?上洛?それは何とも言えない。結論から言えば包囲網が狭まったってところか。
野田城を抜いて雪解けを待って朝倉・浅井連合が圧力を加えて互角ぐらいの主力決戦ならどうなったかな?
多少の脚色はあるだろうけど姉川合戦みたいに三河勢抜きでは少数の浅井にも押された尾張の兵だからなあ。
自分はそれでも信玄の作戦目標は領土拡張の延長と織田兵との主力決戦による撃破だと考えているから
岐阜は陥とさず(てか陥とせず)帰国してしばらく戦線は膠着したんじゃないかと思っている。
兵站ももちろんだがそんなに長期間にわたって甲府を空けることはできないでしょう?
やはり勢力拡大には何らかの軍事的な空白地が必要だよな。
信長の場合、衰退していた三好はともかく
本願寺という厄介な勢力にも悩まされ随分と進撃速度は鈍った。
関東は言わずもがなな三国志。北条が伸びたのも武田滅亡時が大きいし。
毛利も尼子を潰して以降、大友や織田と接触してからは拡大出来てない。
まあ当たり前の話なんだけどさ。
>>525 流れ読めないやつなんだな
>>529 疲弊しきってひぃひぃいってる浅井朝倉に期待しすぎ
浅井は完全に丸め込まれてるじゃないか
尾張兵だから弱いとかこの狭い国土でそんな顕著な差が出るわけ無い
>>529 武田信玄は互角で主力決戦なんてしたことないが。
互角しか兵が用意できなきゃ戦わないと思われ。
弱兵なのは武田もおなじだしな
極端な話、浅井兵と武田兵は戦ってないんだから
浅井兵は尾張兵はもとより甲信兵より強かった、とかいう可能性もw
そして調略によりその浅井兵は織田方に何割か寝返っている(姉川の俗説では大活躍した磯野氏なども)から、兵の強弱云々をいったらまたわけがわからなくなるぞ
信長なら常識外れの奇跡を起こしそうな気がするが、信玄だとそういうことができそうもない
互角の兵なら信長どころか家康にも絶対に勝てないぞ信玄は
川中島 武田軍20000 上杉軍10000 結果として滅亡への遠因を作り、純粋な勝利とは言いがたい
三増峠 武田軍20000 北条軍12000 武田軍の被害も少なくなく、信長が上洛していた時期に無用の合戦
三方原 武田軍25000 徳川軍14000 山県が徳川の旗本に押されつつ圧勝するも徳川軍の主だった者はほとんど討ち取れず
以上は信玄を名将と称する時によく参考にされる有名な勝ち戦。
他にも兵力では優勢なのに結構負けていたりする。
兵力で勝らねば合戦を発生させなかったことは大変な能力だと思うが、
実態はよく言われるような兵が強くて戦術が巧みだとかいう話とは程遠いように思う。
全国平均で見たのならいざ知らず、少なくとも信長とか元就とかの一級どころとタメ張れる実戦指揮官とは思えないな>信玄
年貢を免除される軍役衆だって、自分達の土地耕す時間が無ければ困る
遠征時期には自ずと限界があり、それをどう配分して敵を屈服させるかが当時の大名の手腕
このスレで信玄を戦国最強の指揮官だなんて思ってる奴はいないし。
戦略を重視し互角じゃ戦わないだけで、絶対勝てないとは思わない。
ただ、有利な局面でのマズい采配も目立つな。信玄は。
本人も謙信みたいに戦術に自信は持ってないだろうよ。
戦おうとしないんだから勝敗以前の問題
あきらめた時点で試合は終わりだよ
それは違うw
信玄の魅力は自分で作った敵に四方を囲まれ、その不利な状況の中領土を拡張するという凄いんだか凄くないんだかわからんところだろ。
信玄も一貫していないんだから評価し辛い。
絶対に戦略上勝てる(負けない)状態で合戦に臨むのは戸石崩れ以降はその通りだろう。
政略に関しては信濃・越中・越後・西上野・駿河とこれを否定することはさすがにできない。
余り無茶をしないことは当然、甲斐国人衆の統制を考えれば無益な損害を出したくないからね。
ただ戦術面では皆が仰る通りそこまで一般に流布されるような「無敵」でなかったこともまた同意。
策士策に溺れるではないが臨機応変な戦術や配下武将の戦場での統制はどうも苦手だったような。
それだけに最期の信玄西上作戦があまり政略面で実績がないことが理解しがたい。
この間やったことって北条再同盟と秋山の東美濃攻略による信長牽制ぐらいじゃないかね?
織田・徳川家臣団が簡単に切り崩せないのは分かるが国境沿いの国人を離反させたぐらいで
大規模な作戦(と言われるように)なわりに謀略が少ないよなあ。
もちろん秋山別働隊の東美濃攻略は戦略上非常に重要だから信玄の政略を否定する気はないが
余りにそれまでの軍事行動に比べると稚拙に思える(小田原包囲から三増峠は武蔵で別働隊の行動があった)。
単に時代や地方が違うからといえばそれまでだが。
信玄は病気で弱ってたんじゃまいか。
545 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/10(火) 08:06:10 ID:VXPztSph
信玄は畿内諸勢力の弱体化を積極的に把握していて、早めに強引にでも西へ向う意図を示さないと駄目だ、と考えたとか?
同盟を結んだころの織田と武田はほぼ同勢力だったのに、あれよあれよと言う間に差をつけられたのが印象に残っていて焦ったのかも
こうしてみると、上杉氏と対立したことが信玄の生涯全般で悪影響を及ぼしているよな(謙信側から見ればお互い様だが)
だけど上杉と縁戚にあたる高梨氏らの排除なくして信濃制覇はありえなかったわけだから
なんともなぁ
畿内の状況がわかってたら寧ろ織田、徳川とは仲良くするんじゃないか?
実際浅井朝倉が長期間織田を牽制してないと徳川攻略は難しいし。
武田としては、情勢が不利とわかっても徳川氏と講和するわけにはいかないんじゃ?
北条氏のような同格の相手ならともかく、格下相手に武田がへりくだる事ってあったっけ?
構和=へりくだるじゃないとは思うが、今川を倒したあとは徳川さか攻めるところは無いんだよね。
拡張政策を止めるわけにも行かないし。
上杉は放置プレイか
551 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/10(火) 16:25:51 ID:LmJLd0ap
自分から喧嘩売っておいて、新田庶流自称程度の徳川に甲斐源氏名門の武田家が頭下げられるわけないだろう!
上杉は論外だろう。あんなの相手にしてられない。
なんで論外なんだ
頭下げれば講和成立するわけじゃない、利害一致しなきゃダメ。
武田と組んで何の得があるのか、そもそも信玄は信用できるのか、講和とか言っておきながら
不意打ちくらわす算段なんじゃないのか。
越後を取るには雪が降るまでの間にかなり攻め込めるだけの戦力差が必要だが、上杉と武田にはそこまでの差はない。
反乱煽ればいいじゃない
実際性交してるし、よくそういう手段使ってるみたいだし
三国同盟やぶって信頼失うよりよっぽど現実的
もしかしたら北条の支援もあるかもしれない
それが無くても反乱時期示し合わせて同時に攻め込めば有利な状況作れる
甲斐からだと越後より駿河のが近い。
今川は徳川に攻められてボロボロ。
雪まみれの越後より駿河のが魅力的。
正直北条があんなに必死に攻めてくるとは思わなかった。
こんな理由で駿河攻めたんじゃまいか。
北信濃の飯山の向こうはすぐ謙信の本拠春日山で抵抗が激しいから
やはり攻めるのも越後に足がかりを築くのも難しいんじゃないだろうか?
謙信の本拠地がもっと信越国境から離れていればまた違ったかもしれないが。
信長だって最初は斉藤の稲葉山や西美濃など斎藤氏の影響力が大きい地域での
攻勢は進展せず、斉藤氏の影響力の少ない東美濃から攻めていったわけだし。
案1 三国同盟を結ばずに上杉と同盟→今川か北条に滅ぼされる可能性大
案2 三国同盟後に斎藤とも同盟して織田・徳川の拡大を遅らせる→史実とあまり変わらない?
案3 織田と同盟せずに徳川領に攻め込む→浅井・朝倉が頑張ればなんとかなるかも。
>>557 そんなとこだろうし、その戦略で間違ってなかったと思う。
信玄が講談並みの戦術家なら越後攻略に乗り出してもいいけど
それでも駿河を攻める方が遥かに良い。
それだけに北条の介入さえなければな。
そうすれば武田は三年早く上洛戦に臨め、北条は関東計略をあと五年は早く進めたかもしれん。
両者にとって不幸だった。
村上義清を相手にする前に、長尾と連絡を取ればよかった。
今川氏真を相手にする前に、北条と連絡を取ればよかった。
周囲への配慮が足りない気がする…。
村上はそうかもね。
北条は事前に連絡して決裂すると、あれだけの電撃的な駿河攻略は
無理な気がする。
とはいえまあ、進撃の結果は見ての通りだけど。
関東経略が大事だからこそ、西の後背地の安全は脅かせない
北条としては今川救援は戦略上も当然の選択
最初に連絡入れたら反対して、もっと早く今川にテコ入れして武田軍が史実より苦戦したかもよ
北条も戦国大名だから、利次第だと思うがね。
特に、今川と上杉との交渉をつつけば一定の理解を示すだろう。
武田同様、北条にとっても上杉は大敵なんだし、
この時期は北条優勢で関東経略を進められている時期でもあるから。
利次第というか
後背を任せるなら信頼できて、尚且つ北条と敵対したら致命的になる今川氏が良いに決まっている
武田氏が強大化して何かの拍子に敵対してきたらアボンだから
どう見ても北条氏にとっては今川>武田でしょ
実際、対織田徳川戦の逼迫から上杉と勝頼が接近して両者は再び敵対している
もちろん北条にとって理想型なのは、甲相駿の三者鼎立。
あなたの言うとおり武田の強大化は潜在的な危険を増す事に繋がる。
しかし決定的に敵対するのは勝頼と上杉の講和からで、それまでは今川よりも共同歩調をとっている。
後詰めや援軍などの緊密さは対等の関係としては異常と言ってもいい。
それに今川と北条の仲は河東一乱以降必ずしも良好ではない(義元は北条との同盟に乗り気ではなかった)し、
援軍や後詰めではお互いそこまで助け合っていない上、武田の駿河侵攻当時は実力的にも信頼に足らない。
それに未来の情勢をもって、その当時に判断しろと言うのは無理だろ。
実力的に信頼に足らない今川と、信頼に足る武田。
ただ背を向け合っている今川と、互恵関係にある武田。
北条の敵:上杉と歩調を合わせようとしている今川と、北条と共に上杉を封じ込める武田。
当時の情勢を見れば、北条にとって武田との同盟の方が良いに決まってる。
本当に武田との同盟がそこまで良いなら現実の北条も
あそこでわざわざ敵対したかどうか。
実力的には良くても武田って信用ならない相手だからなぁ。
史実で同盟してないんならそれが正解なんだろ、当人同士が一番良く分かってる
その史実は「事前協議」ということしてない結果だからな
史実では越相同盟を破棄して、再同盟してるんだが。
569の言うように信頼してないのならば、するか?
あれは半分くらい恫喝じゃなかった?
駿河侵攻で北条と交渉するのはリスクも高いと思うなぁ。
結果論で語るにしても事前の外交交渉が正解とは断言できないし。
恫喝?初耳だが
徳川幕府の都合で武田が盛大に評価されてるけど甲相駿の中心は今川。
三国同盟のときも主導したのは今川だし当時地方で齷齪してた武田北条と違って
今川の動きは明らかに天下を意識したものだった。
まぁ北条が何考えてたかなんてわかるわけないことだが
戦国時代なんだから、信頼、信用なんて持ち出してもねぇ
>>574 氏康に限らず北条家としては実は『北条五代記』なんかに記されているように
氏真追放時、恩顧ある今川を追放するなど北条もこれまでか云々以前に
義元相続後の関係悪化以降事実上対等の関係だよな、潜在的に脅威ではないものの。
今川・北条関係は今川を盟主とするくらい緊密ではないだろう。
氏康・氏政にとって問題なのは今川領が蹂躙されることではなんて信義の問題ではなく
駿東という伊豆相模の地政上の後背地に強大かつ信頼に足らない勢力が存在することが問題だったわけで。
実際氏康じゃああり得ないかもしれないが今川が最早領国を維持できないレベルにまで荒廃すれば
(史実の氏真の領国支配を考えれば対徳川でジリ貧はあれど駿河一国は維持できただろうけど)
北条も駿東にアクションを起こしたんじゃないかね?
しかし三国同盟期の武田・北条は直接・後方支援の規模にしても尋常ではないくらい
協調関係にあったな。信玄や氏政なんかは謙信・氏康と比べて実利的な人物に描かれがちだが
信義に厚いとは言わないまでも同時代ではそこまで酷いとも言えないような。
同盟相手が信用出来るかどうかってのは立派な「利」だと思うよ。
少なくとも織田・徳川同盟に比べれば脆弱すぎたことは確か
なんでかねぇ?織田徳川(松平)間だって長い抗争の歴史があったのに
人質時代の家康と信長が幼馴染だったのです。
>>576 戦国時代に豪族が大名に属するのは「たよりになる大将」であるから。
頼りになるというのは「いざという時に助けてくれる」という事。
自分に不利益じゃないからと言って同盟相手を見捨てる大将には
人はついて来ない。
581 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/12(木) 11:19:46 ID:sV84RjZL
と、いうことは今川を裏切った武田は大将として失格で
北条は大将として合格と
流石に今川に義理立てして武田との絶滅戦争やる義理まではねーからノルマは果たしたと
武田の場合助けるどころか逆に襲い掛かってきそうだからな
実際に襲い掛かってるんだから。息子まで切って
戦国の習いといえばそれまでだけど
特に理由もなく虐殺する男だもんな
585 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/12(木) 22:33:19 ID:vnoPUAYR
実際に襲い掛かってこられて、丸焼けになるよりマシ
氏康も信玄に好きなようにやらせるほど甘くないな。さすがに。
587 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/13(金) 00:01:30 ID:6eFwiOOk
信玄も今川も上洛は考えていなかったというのがある。
今川は京までの道中にある六角や斎藤と何の連絡も取り合っていない。
上洛する気だったら書状を送るなりするでしょ? 上杉なんかは
上洛する時は朝倉とかにちゃんと書状を送ってるし。
まさか道中にいる大名を何の大義名分もなく攻撃するわけないし。
今川は織田だけを意識していたと見るのが妥当。
信玄も、信長が動けないうちに遠江・三河あわよくば尾張まで
占拠できればいいやくらいに考えていたに違いない。
それなら十分実行可能な戦略だろ?
信玄もさすがに死期は悟ってただろうから
死ぬ前に徳川はなんとかしておきたかったってとこだろう。
信玄は朝倉や本願寺と連絡を取ってた
朝倉の退陣に激怒した件といい、少なくとも戦略上の要点と把握していたのは確かだろうな
結局三河占拠どころか帰る途中に徳川の伏兵にボコボコにやられてるじゃん。
病気の信玄が直率するのではなくて、勝頼あたりに全権を任せて自分は本国で療養とかはできなかったんだろうか
家督相続が既成事実化して次代が楽になるし、自身の寿命も伸びたかも
信玄の卒業旅行 上洛編
なんの卒業さw
人生かw
行儀よく真面目なんて出来やしなかった
夜の駿河 同盟協定 破棄して回った
裏切り続け 足掻き続けた
早く将軍に なりたかった
この人生からの 卒業
595 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/15(日) 10:29:08 ID:AJINO/uE
信玄はマジで宗教を信じてたの?それとも宗教団体と友好を深めるための方便?
自分を不動明王の化身と称した、とか言われてるけど
あの生臭親父が頭から信じているとは思えない。
麻原や信長みたいに自己以外を神格化できない性分だろ。
597 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/15(日) 11:27:19 ID:yKIiyq0w
信長の宗教不信の原因は、若き日の体験によるもの
父・信秀の病気平癒をある高僧に頼み、その高僧は治ると確約したが結局効果はなく父は病没
怒った信長は、僧を殺した。位牌に抹香を投げつけたのはその延長線上かもしれない
一方で宗派そのものを潰しにかからなかったのが、合理的な信長らしいが
信玄の初回の駿河遠江攻略が成功してたら面白かったな。
140万石にまで拡大した武田に三河一国の徳川はジリ貧だし
姉川の戦い以前の段階なら浅井朝倉も健在。
強大化し過ぎた武田と早い段階で決戦、決戦になれば
織田が勝てば統一は早まり、武田が勝てば
かなり混沌とした状況になる。
若しくは武田が勝頼の代でもかなり持ちこたえて
本能寺が起きなかったりして、逆に統一が早まったりして。
想像の種が尽きないわ。
599 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/15(日) 12:34:01 ID:8uflajdb
信玄の駿河侵攻は、博打のような物で、普通は出来ないと思う。
12日 氏真・信玄、薩た山に着陣。北条軍、小田原出陣沼津着。
今川部将が寝返って、氏真駿府に引き上げる。
(今川部将の裏切りが1日遅かったら、前後に挟み撃ちにあっていた)
13日 氏真、掛川逃亡。北条軍、蒲原城入り駿河〜甲斐の道封鎖。
(裏切りが少なく、氏真が数千の兵で、駿府の詰城に篭っていたら
軍勢は多いけど、駿府と興津の間に閉じ込められていた)
600 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/15(日) 19:06:38 ID:U/SU+ySn
>>594のは笑えるが、ちょっと切ない。
まあ、校舎のガラス叩き割る信玄は近寄りがたいわな。
行儀よく真面目なんて出来やしなかった
村の妊婦 ウザイ家臣 殺して回った
戦い続け 足掻き続けた
早く信濃を 盗りたかった
この支配からの 追放
byのぶとら
>>598 その状況じゃ
織田が浅井を敵に回さないとか
武田は上杉を攻めるとかの可能性が高いと思うが・・・
それに69年70年程度の時期では三好の脅威もあることだから
武田が織田の邪魔をしようものなら、武田の方が義昭に敵視されかねない。
70年71年ぐらいの織田が浅井朝倉本願寺を敵に回した時に武田が
織田を攻めれば畿内への影響力を織田は失うかもしれない、
でも寿命があるから結局織田に盛り返されて
織田の勢力伸張をかなりの時間遅らせる程度ぐらいになるんじゃ
>>602 ああ、信長包囲網の時期があったか。
となるとあの上洛戦?のタイミングは遅すぎたというより
むしろ絶妙のタイミングに近かったのかな。
結局、駿河攻略が仮に成功しても武田に天下は無いだろうな。
武田の矛先は上杉よりも徳川に行くだろうから
織田との全面対決は必然だと思うけど信玄がもたない。
>>597 信長は敵対しない限り
寺社には以外と優しいぞ
605 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/16(月) 13:52:54 ID:h6awnaxu
信長の特徴の一つは実証主義であること
軍で連れている人夫が荷物の軽重で言い争いした時、大名の自分がわざわざ荷物一つ一つを手に持ってチェックして公平だとした
こういうマメな一面が人物として面白い
信長の性格は複雑で、好悪どう思うにせよ強い印象に残るね
606 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 12:59:37 ID:pNmcD8s+
信玄の望みは瀬田に武田の旗を立てること
つまり上洛して何をするか、とか何のために上洛するか、ではなくて
上洛自体が目的だったんだよ!
自分の死後を考えて、最大勢力の織田家を叩いてバランスを取るのが目的だと思う。
上洛成功→武田家包囲網形成→信玄病死→袋叩きは破滅コース
608 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 19:05:13 ID:i8R6cV+h
突然関係ない話で申し訳ないんですが、信玄が死んだ後、
下手に勝頼に信勝の後見役でリ−ドとってもらうよりも
信虎に(勿論後見役なんてもんじゃなく)戻ってきてもらうなんて事ってやっぱりありえなかったんですか?
>>608 信虎の追放は信玄との親子相克なんてものじゃなく、甲斐国人衆の総意として
おこなわれたもの。そんなヤツをいまさら連れ戻して権力を預けるなんて出来
ないでしょう。武田家が仮に認めても、武田家以外の甲斐住人が認めない。
信虎暴君説は作り話やろが
611 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 22:35:19 ID:Vi8pN7ec
信虎と信玄を比べたら信玄のがずっと虐殺王、略奪王なんだが・・・・
信玄堤なかったら、悪逆非道なイメージになっただろうね。それぐらいしかないもんな。善政は
「暴君だから認めない」というのではありませんよ。
理由はどうあれ「一度は自分達が否定した支配者を受け入れられるか」ということです。
613 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 23:05:51 ID:UMRkKptJ
自分を追放した家臣をそのままにしておけるかー
と信虎は考えてるかもしれない
少なくとも追い出した当事者にとっては恨まれているかもと考えてもおかしくない
もっとも当事者なんて馬場ぐらいしか生き残っていない気もするが
でも信玄に重用された重臣たちって、実は信虎に見出され引揚げられた人物が
多いんですよ。
信虎からしたら「オレが目をかけてやったのにあっさりと裏切って息子について
重臣ヅラしてやがって!」となるかもしれない。
重臣たちからしたら「引き立ててもらった恩義がありながら力にならなかった我々
を、信虎様は水に流してくれるだろうか?」となるかもしれない。
信虎ってかなりの高齢になるでしょ
普通に無理では?
信玄の翌年に死んでいたとオモ
81歳だったかな
信虎が勝頼同様の中央集権化を目指してのだとすれば
やっぱり国人衆とは相入れないよな
619 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/18(水) 10:11:00 ID:rzoihBp5
他国の人間の積極登用とか、躑躅ヶ崎舘への家臣の移住とかやってたからな
国人衆からすれば許しがたい行為だったんだろう
抵抗を強引に排除すれば当然粛清となる
馬場って信虎時代から重臣?
違うだろ
622 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/18(水) 16:55:00 ID:pfChVSAh
いや、馬場も信虎時代に重用されはじめた連中の一人
地元出身だから他国衆組とは違うが
623 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/18(水) 19:46:18 ID:YWwXIZIo
一応信玄の死後、勝頼に信濃に引き取られてたみたいね信虎、
信玄が信玄堤を考案したなんて記述は存在しないしな
625 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/18(水) 21:29:08 ID:YWwXIZIo
信玄が死んだときどう思ったんだろうね信虎、
信虎が桶狭間直後に駿河で後継問題で暴れて危うく京に逃れたってのは史実かね?
だとしたら失敗こそしたものの大した謀略家なんだが。
勝頼との対面ではかなり悪態をついたんだっけかな。
引き取られたのかな?どうも押しかけてきたイメージが強いけど。
でも結局甲斐本国には戻れず、まあ危なっかしい祖父を信玄死後の不安定な甲斐に
戻すほど勝頼も馬鹿じゃあないわな。
中山道から岐阜を襲うという方法は何故取らなかったのだろう?
やっぱり山道で険しく、守りやすく攻め難いという理由から?
直接織田を脅かすという点では非常に効率的では在ったのだけど・・・
それに上洛目指すなら中山道突っ切るのが一番楽だし、
散々言われているけど、三方ヶ原は上洛ではなくて当然ながら三遠征伐だわな・・・
因に、勝頼の時代に駄目駄目になったのは、軍役のわりに獲得する所領が少なかったから。
信玄時代は雑魚が相手だったから連戦連勝できたけど、
勝頼の時代には周りは織田、徳川、上杉、北条という大大名に囲まれて、容易に領土を広げられなかった。
逆に信長は畿内、中国地方に割拠する精々一国程度の雑魚を相手にすれば良かった。
信玄の時代は、武田の身代も小さかったわけで
629 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/19(木) 00:49:17 ID:QjJtarEx
630 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/19(木) 01:15:40 ID:1lFKldbO
☆
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| |彡 ビシィ
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| ___) | ∩∩ ∠ リュンパッチ♪
| ___) | | |_| | \______
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ヽ__)_/ \___ _____, )__
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631 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/19(木) 01:29:46 ID:I2mESfvm
信虎スレってあんの??
>>627 単に守りやすい所を守って、攻めやすい所から攻めただけと思う。
徳川も単独で数千の兵力を動かせるし、当時は徳川家に今川氏直も居たらしいから
主力が岐阜を攻めている時に氏直の旧領復帰を名目に駿河が攻められると、信玄は引き返さざる得ない。
駿河に大兵力を置くと信濃の守りが薄くなり、信濃が家康に攻められ信玄の後方が塞がれる。
そしたらやはり信玄は引き返さざる得ない。
駿河と信濃に大兵力を置くと、信玄が率いる兵力が減って織田と戦えない。
>>633 同意
兵力的地理的に攻めやすいところを攻めただけだと思う。
あと氏真ね
>>631 ここで平気じゃないか?
ここはもう総合スレみたいになって久しい
信虎の話題も何度と無く出ている。
信虎は所領が得られない無駄な戦を繰り返したせいで
追放されたという意見があるけど、
追放されたのは丁度信濃攻略が順調に進んでいる頃
ちょっとおかしい気もする。
そういえばここでは
野々宮の合戦とか長野業政相手の敗戦とかどういう扱い。
よくある武田の敗戦記録のコピペを講談色を出きる限り抜きにして考えたら、
どの程度真実が含まれていると思う。
>>636 嘘ではないけど誇張あり程度と思っている。
野々宮合戦は小笠原が武田を撃退したのは史実だとしても
結局は中塔城に篭城していることから
武田の先鋒を退けて、一時的に武田の勢力伸張を妨げた程度でしかないと思う。
武田側にまともな戦死者もいないみたいだし。
小笠原1千対武田1万というのも誇張だと思う、当時の武田は確かにそれぐらの兵力を
集めることは可能だったと思うが。
638 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 23:25:42 ID:k9JJTV2m
死を覚悟した長時以下1000が武田勢1万相手に突っ込む話しか・・・
長時自ら18人切り捨てたというが・・・
まあ半分は創作だな。
それでも武田は相変わらず弱いなという気がするが。
高遠や藤沢にまで苦戦してたりするからなー
最も信長も伊勢攻めで峰城とかで苦戦しているけどなー
>>639 というよりも、武田家も織田家もそうなんだけど、
後々の大大名も最初はそんなに強くない訳です。
信長だって美濃取るのに10年近くかかってる訳です。
でも、その後は版図を何倍にも拡大するのにそんなに時間はかかっていない。
つまり、国の大きさに比例して大名の戦闘能力も強くなる。
なんか信長の野望とかのやりすぎかどうかしらないが、
大名個人や家臣団が優れていれば連戦連勝できるとかいうのは妄想ですよ。
武田家なんて甲斐の山奥の田舎の大名で、いくら名門とは言え、
如何せん小笠原や高遠の時代には大した軍隊規模でなかったのだから当然といえば当然。
>>640 そういうレベルの話しじゃないだろ
上に挙がってる話しはどれも圧倒的とまではいかないにしても
かなりの戦力差で苦戦した例だよ。
完全に勘違いしてないか?若しくは知らずに適当なことを言ってるか。
>>640 信長の例を挙げて微妙な具合で信玄も10年近くかかったその後は版図を何倍にも拡大してた、としたいようだな。
むしろ逆だとおもうけどね。
美濃をとった後の信長の拡大速度が異常なのであって他ではそうそう見られる
もんじゃない。
毛利だって北条だって何年もかけてすこしずつ領土を拡げていった。
100万石から何倍にも拡大する大名がたくさんいたら
日本がいくつあってもたりんよな
普通は武田・上杉・北条間みたいな傷の引っ掻きあいと裏切りあいに終始するよな
電撃的に領地を広げたといえば信長と政宗だけど、この二人の場合リスクの高い戦略に打って出て成功させるという橋を渡ったからだし
最晩年の信玄と関東管領就任時の謙信は電撃的に賭けはしたけれど、
失敗したんだよなあ。
もし成功していたら信長や政宗のレベルじゃないかも知れなかったが、
やっぱり人の運ってやつだねえ。
>>643 >美濃をとった後の信長の拡大速度が異常
それも微妙だと思う。
試しに
1561年1568年1575年1582年での織田家の石高をある程度求めると
1561年
尾張57.2万石の大半(丹波郡海西郡を除く)仮に47万石とし
三河の一部
>>7より仮に3万石で計50万石
1568年岐阜城に入った後、中部伊勢に侵入する前
尾張57.2万石と三河一部3万石・美濃54万石の大半
北伊勢の一部、面倒なので全部で120万石
1575年長篠の戦い後
尾張三河一部美濃恵那郡以外で仮に50万石とする伊勢56.7志摩1.8近江77.5
若狭8.5山城22.5大和44.9摂津35.6河内24.2和泉14.1
で合計396万石-摂津本願寺や大和の寺社領(仮に36万石とする)などで差引360万石
1582年本能寺直前
東海甲信上野に北陸畿内、山陰・山陽の一部
越中は3/4で30 伯耆半国で5美作半国で9.3
約790万石+徳川(+穴山)領69.6で合計約864万石
このように考えると7年ごとに見ると停滞していたと言われる美濃攻めの時期も2.4倍
美濃をとった後の急成長と言われる時期で3倍、
包囲網を脱し安定しだした?時期も2.4倍でそれほど変化が無いと思える。
むしろ異常に早いのは桶狭間の頃まで
信光信行を別扱いするなら9年ほどで勢力を5〜6倍にしているんじゃ・・・
>>641 かなりの戦力差で苦戦というが、実際のデータなんて脚色されててイマイチ解らないよ。
しかも攻める側からしたら輸送部隊をはじめ、様々な非戦闘員も含まれる為、一概に優位とは言えないのです。
>>643,645,646
うん、信長の拡大具合は尋常じゃないよね。
しかし、リスクの高い戦略というより、相手が精々一国単位の弱小大名だったっていうのも大きいのでしょうね。
信玄の場合は、弱小の高遠や小笠原、村上を滅ぼし大きくなった時には、周りの勢力も同様に大きかったのです。
西に織田、北に上杉、南に今川、西に北条。
だもんで、川中島の戦いをはじめ、大大名との小競り合い、威嚇のしあいが非常に多いわけです。
因に毛利だけど、元就が表舞台に出てきた1520年くらいから、30年かけて安芸を統一。
そこからさらに10年ちょっとかけて周防長門を版図に加え、さらに10年で石見、出雲。
さらに10年で備後、備中、伯耆、因幡、美作。
こう考えると、田舎で文化的影響力と生産力が低いだけで、意外と毛利も意外と大きく版図を広げているのです。
>>644 だから室町幕府体勢を脱却し、他国を積極侵略する戦国大名が現れると
僅か50年程で覇者が決定してしまったわけです。
>>647 x倍で考えるとね・・・でも年単位の石高増加率を考えると・・・
>>648 年単位の石高増加率じゃ
ばらつきでかすぎて役に立たないと思うが。
ついでに毛利は意外でも何でも無いだろ。
>信玄の場合は、弱小の高遠や小笠原、村上を滅ぼし大きくなった時には、周りの勢力も同様に大きかったのです。
信長や元就は周りの勢力も同様に大きかったがその大きな勢力を倒し続けたことで大きくなったのだから
根本的に信玄とは違うと思う。
信玄の場合(これは謙信にも言えることだが)、そもそも格上ないし同等の相手を倒そうって考え自体がなかったんじゃないだろうか
それこそ信長が斎藤氏を倒したように、何年でも粘り強くその敵打倒に精力を傾注するってことはなさげ
武田・上杉・北条間でしばしば同盟と破棄が繰り返されているように、機会的に相手を足絡みできればいい程度で動いてた気配
美濃、伊勢をとった後は織田と同様にデカい勢力なんて存在しないし。
三好、浅井朝倉は各個撃破してるわけで。
つまり美濃併呑の苦労は成功すれば十分に報われる、と
敵の分断・各個撃破はまた別の手腕だと思うが
いややはり迅速な勢力拡大には、何らかの勢力空白地帯は必要だよ。
信長も信玄も元就も、削りやすい部分を削ってる。
自分と同等以上の相手が、全く内紛などの問題を起こさなければ
武力で打倒するのは非常に難しいし時間もかかる。
まあ調略なんてみんなやってるけどね。
そういう意味じゃ惜しかったのは信玄なんかより氏康かな。
長生きして上杉の内紛まで生きてれば…。
というか、武田北条の二人がかりで
上杉とドンパチやって何で勝てんのかと。
>>653 その意見には半分しか同意できない。
内紛なんて外的要因の方が大きいと思う。
諏訪家も信玄が煽らなければ高遠が完全に敵対することは無かったし、
小笠原も村上も隣に武田家という巨大勢力がいなければ配下の国人衆が
離反することも無かった、
長尾上杉家も信玄や葦名が煽らなければ国人衆や一向一揆が反乱することもなかった。
内紛なんて実力次第でいくらでも起きる。
織田信友も今川も戦場で負けなければ内紛なんて起きずに滅びなかった可能性は高いのに。
>>654 北条は上杉以外に敵多かったから。
主な所で里見佐竹結城と
氏康の代では古河公方も微妙な立場に位置しているし、
上野だけでなく武蔵の一部までがあっさり謙信に付いている。
657 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 17:17:19 ID:94Q2AxzU
地味に調略を続ける、という手法を何年も続けたからでしょ、信長の美濃併呑成功は
上杉にしろ武田にしろ、そういう意味での徹底さが無かったからじゃない?
労の多い戦略をしつこく続けるほうがどうかしてるのかもしれんがw
>>655 そう思ったからどこでも調略やってるって書いたんだけどね。
たしかにその通りだとは思う。
ただ城のひとつふたつを調略で落とすのと
内紛にまで発展するのは別かな。
後者は必ずしも仕掛けた側の実力とも言えないし。
信長を比較対象に語るのは酷だろ
>>648 >信玄の場合は、弱小の高遠や小笠原、村上を滅ぼし大きくなった時には、周りの勢力も同様に大きかったのです。
>西に織田、北に上杉、南に今川、西に北条。
当時の織田は小さく四方を敵に囲まれている状態。上杉は謙信の経営手腕でもっていただけで直轄地なんて全然ちっこいよ?
そろそろ決めようか
信玄の上洛は何%の確率で成功したか
俺は0.003%ぐらいだと思う
>>659 あくまで信玄の上洛についてスレであり、
上洛の一番の障害になると思われるのは信長である以上、
信長と比較するのは仕方が無いと思う。
信玄も上洛するつもりなら、道三と義龍が争っているのを利用して、なんで美濃に攻めなかったのだろう?
信長は美濃の斎藤家と復縁して三遠攻める手段もあっただろうに、敢えて美濃を攻め取った。
そして岐阜に移って即上洛戦を行った。
糞田舎を攻めて米や人をそこそこ確保するよりか、都市を攻めた方が遥かにパフォーマンスに優れている。
極論になるのだけど、大きな四国まるごと手に入れるより、
小さな東京都23区手に入れた方が遥かに資産価値や文化価値が高い。
だから信長は上洛と同時に、当時の文化的な中心地であった堺での権益をもぎ取ったのだろうね。
>>663 道三と義龍が争っていた頃って、ちょうど謙信と北信を巡って争っていた時期。
基本的に一進一退だったが、それでもじわじわと信玄の勢力が浸透していた。
つまり一応優勢に進めている戦争をいきなり打ち切って方向転換は難しい。
同じ頃、信長はまだ尾張国内でもがいている最中。
55年は丁度第二回川中島の真っ最中だからねー
なんつーか希代の戦争マニア謙信に目を付けられたのが痛いな…
信長も稲葉山に将軍様マンセーのサイヤ人が居たら、
三遠やら伊勢やらを削るのがやっとで、
100〜150万石くらいで終わったかもね
また手取川の話しが始まるからやめろw
>>667 それは斉藤と上杉を直接比べることはできないから微妙だが
越後と違い美濃は石高は大きいし、一向宗の不安も無い、
国人衆は越後ほど独立的で強力でもないから
謙信からすれば越後を治めるよりは楽そう。
>>669 「そうだ、京都へ行こう」で被る負担は減るだろうさw
って、マジレスすると当然美濃の方が統治しやすいだろうけど、
同様に信濃・甲斐の統治より尾張一国の統治の方が易しい
>>670 同感だ
甲斐信濃は地域ごとに分裂している、交通の便は悪い
と統治は難しいだろうな
逆に各地域ごとに分裂しているから、一つ頭を抜けたような勢力があれば
各個撃破して統一することは楽だろうな。
尾張は港などからの収入もあるし経済力もある、交通の便もいいし京ともそこそこの距離。
不安な点は伊勢長島ぐらい
統一は困難だが統一後の統治は容易
頭悪いのはすぐ謙信が美濃にいたらとかいいだすな
謙信が美濃にいても結果は変わらないと思う
連年の調略で主力にまで根こそぎ裏切られたら戦争マニアの力でもどうにもならない
それこそ桶狭間急の奇跡が必要だが、謙信にはそういう戦績はない
ただ、「負けるときでも敵に損害を与える」ことはやってるから織田の重臣層に被害が出ることはありえるかも
美濃に謙信がいても戦争マニアにならないんじゃまいか。
あれは必要にかられて出兵しまくってたわけだから。
美濃なら豊かだからマターリするかもよ。
まあ確かにその土地に生まれたからその大名はそういう性格だ、とかそういう考え方だ、とかいえるわな。
やっぱもしどこどこに何々がいたらって議論は意味ないと思うよ。
横光漫画読んで武田家好きだったのにマジショックだわ
戦国随一の鬼畜集団だったなんて知らなかったよ
>>676 そこまで酷くは無いと思う
鬼畜集団というか本当に最悪なのは九州の大名
畿内の大名と違ってめぼしい輸出品が無いから人間売ってたんだっけか
>>673 武田厨は余程謙信が嫌いなんだな。冷静に事実を見つめる思考回路さえないのかw
何か調略ってのを勘違いしてる奴がいるな
また地域のせいか、尾張が恵まれてるとか言ってるがあの状況から抜きん出るなんて
それこそ不可能だろ。信玄じゃ桶狭間は千回やっても勝てないだろうし国内平定すら危うい。
むしろ信玄は戦国大名じゃ親父からそのまま受け継いだおかげでかなり有利な状況。
けど尾張が分裂してたのって信長自身が招いた側面もあるしな。
集権化の為に。
信玄だったらそういう事をやらなかった可能性もある。
そもそも「○○が××だったら〜」みたいな妄想には意味が無い。
>>681 そもそも、同盟国だし桶狭間は有り得ませんから
684 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 23:51:45 ID:goH9vofF
681番目にすごい馬鹿が出現した件
>>683 >>681が言っているのは、「尾張が恵まれていると言っても信玄が織田家に生まれていたとしても」
といっているんだと思うが。
>>682 尾張は分裂したんじゃなくて、初めから統一なんてされてないだろ。
信長の織田家は、実力はともかく地位としては「尾張下四郡の守護代の三人いる家老のうちの一人」でしかないんだから。
信秀の跡継ぎって時点で純粋な家老とは違うだろ。
信虎くんがいたから晴信くんのやるべき道ができたのれす
まわりは別に信秀の家臣なわけじゃないしな
信秀個人の力で軍隊を動かす責任者になってただけで。
しかも晩年は負けがこんでたわけだし。
急進力はなくなってたんじゃまいか
690 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 02:49:25 ID:16hiv3JB
信玄は生まれが恵まれてたのは言うまでもない
義景や氏政や義元と同じくらい恵まれていた。
むしろ恵まれてなかったのは家康、信長、秀吉、長政、謙信の方が
よっぽど恵まれていなかった。
義元は家督争いがあっただろ
不可解な死もあったし
>>687 だから「実力はともかく地位としては」って書いたんだけどね。
>>689 信秀は精々下四郡の軍勢を率いていたぐらいじゃないか?
>>691 浅井は六角に従属してたのを長政が独立したんじゃなかったかな。
信秀は最盛期は尾張の大半に協力してもらうことができたんじゃ
1544年の美濃攻めは一応1万5千というし
晩年は負けつづけて離反され続けたとはいえ、
それでも織田信友と同程度の勢力はあるだろうな
尾張の1/4ぐらいか
信長が集権の権化っていうのは同一人物はいつの時代も同じ方針を持って動いている、というたぐいの誤解か妄想
信長は信行に父の遺領を分け与えたり、戦った相手もしばしば許すなどむしろその手の問題には甘かったほう
尾張時代は後年支配地で何度もやる検地すらやってないし
信長が信行と対決した直線の原因は、信長直轄領を奪ったから
そして稲生合戦で大敗し一度許された後も、また同じことをしたため
一度は許す、というのがむしろスタンス
柴田勝家に対する態度なんかまさにそれで一貫してたわけで
信行って信勝の事だろ
こんな仮定には意味は無いが、信長の場合
外的要因(今川)さえ無ければ、他の大名と比べて
さほど不利とも思えないけどな。
少なくとも元就と同列に語るなんてとんでもない話。
統一後も常に外交戦略を駆使して有利な状況を作ってる。
意味が無いというか馬鹿だな。
最大の障害を除外しといて対して不利じゃないって何の冗談だよ。
そんなこといったらどの大名も対して不利じゃなくなるぞ。
>>699 少なくとも「信玄が尾張にいたら〜」とか「謙信が美濃にいたら〜」
と語るよりはマシ。
あくまで外的要因を省いて絶対的な評価をしているだけ。
ていうか、除外しなくても、元就の方が不利な状況だったろう
外的要因を外してって、毛利に対しての尼子や大内の影響を無くしたらぬるぬるだろ。
外的要因を外すなんて、さらに無意味で馬鹿な話だ。
話のわからん馬鹿だな。
10万石以上の力を最初から所持してる大名と
一国人とでは相対的な比較以前に全く与えられた選択肢が違うだろ。
あくまで考慮しないで単独で見てるだけ。
「信玄が〜」「謙信が〜」なんて妄想とは違う。
信長の所領が10万というソースは?
信長の初期の動員兵力は、例えば有田中井手の元就自身の兵力とほぼ同数の7百なんだが…
今川いなくても
織田信友は織田信長に近い勢力を有しているし、
織田信安は上4郡の大半に影響力を有し織田信長を上回る勢力、
更に後には斎藤家も敵対。
これだけでもかなり不利な大名だと思うが・・・
家督を継いだ段階の勝頼ぐらいか?
>>704 仮に10万石ほどだとしても、周囲に敵がいる上に兄弟も信用できないから、
結局それぐらいの兵力になるんじゃないか?
厳しい情勢でも尾張統一出来れば一躍大大名だからな。
それが難しいといえばそれまでだが、可能性はある立場。
>>706 それ言うなら誰でも可能性はあるわな
信玄だって今川や北条滅ぼしていれば大大名
結局それが出来たのが元就や信長で
できなかったのが信玄ただそれだけのことじゃないか
豊かな領地だということは、敵対勢力も豊かということ
楽だというのはあまりに一面的過ぎるべさ
>>700 そりゃニラ食べたヤツがニンニク食べたヤツを臭いというようなもんだ。
どっちも臭いのにな。
お前が言いたいのは自分の意思で動かせる兵力だけを純粋に見れば対して不利じゃないってことか?
700ってのは少ないな。
3万石に届かない。
信長の直轄領がそんくらいだったのかな。
信勝はどんくらいもってたんだろ。
あと武田とか毛利もそうだけど、彼らは家格があるから調略工作するにも説得力がある
信長にはそれがなかったということも考慮に入れて欲しい
安芸一番の名族は安芸武田?
>>710 名古屋から鳴海までは10キロぐらい?
清洲から稲生までは数キロぐらいだから
兵站要員がいらないとかで
700は純粋な戦闘要員ということで兵が少なく見えるということもあるんじゃ
>>708 尾張みたいな土地だと相手を攻めるのに兵站は関係無い
距離が近いから1日で攻めて戻って来れるから
隣国攻めるのに何日もかかるような国と違い
少ない費用で戦争ができる、また冬でも戦争できる
など攻める側に有利な要素が多いから、国力が互角ならともかく
国力で劣っている勢力は信濃なんかの弱小勢力よりも守りにくいんじゃないかと思う。
717 :
711:2006/10/25(水) 20:07:58 ID:uEpxH0Nb
あれ、大江広元の家系って家格低いことになるのか?名門だろ。
織田も古くからの守護代だし初期は藤原をなのってたから
別に悪くはないとおもうよ
それがアドバンテージになるほどの良い家柄でもないだろ。
>>718 それは織田信友とか上下四郡守護代の家系であって、
信長はあくまで守護代家老の家系。
本当かどうかは知らないが、朝倉が信長に従わなかった理由の一つに
朝倉家は織田信友と同じく斯波氏の守護代の家系であり、
守護代家老の家系の信長に従うのを由としなかったとも言われている。
戦国時代で、そもそもアドバンテージになる家柄なんてあったの?
ほとんどが建前に過ぎないと思うんだが
722 :
711:2006/10/26(木) 00:49:02 ID:5QvlvakR
なんか、毛利の家格に関して図らずも釣りみたいになってしまったみたいだなw
こんなに気持ちいい論破(あんま好きな言葉じゃないけど)初めてした。
まぁ、毛利がその家格を外交調略等で利用したかどうかは知らないんだけども。
悦に入るのは勝手だが、意味不明
>>722 釣りだと思うが一応突っ込んでおくと、毛利家は大江広元の家系に辛うじてつながっている程度で、
家格がどうとか言うほどのものではない。
まあ名門か否かはともかく早くとも信長躍進以前は権威は重要なアドバンテージだな。
腐っても幕府、信玄も甲斐守護に加えて信濃守護を拝命したし義元も三河守護を得ている。
名門はこういう大義名分に結構こだわっているなあ。
守護代クラスだけど関東管領、謙信なんてその典型例だし東国では有効だったのかねえ。
北条だって形式的には古河公方を擁しているのが対上杉管領の大義になったわけだし。
726 :
711:2006/10/26(木) 01:14:01 ID:5QvlvakR
>>724 か?
曲がりなりにも安芸の国人領主のトップに立てたのは由緒がはっきりしてたからだろ。
まぁ、どっちにしてもこのスレで比較するべきは織田と武田だから、毛利の話はスレ違いか。
>>721 これははっきり違う。
例えば、今川家が尾張侵攻を上洛活動と認識された(認識されるだけの権威を持っていた)のは、
今川氏という家格による。
>>725 「関東管領山内殿」の威力は、越山第一回目を見れば想像つくと思うが。
>>725 要は実力があれば、後から付け足せるものかと
家柄だけで実力ない者がいくらでも滅びる時代だし
武田、毛利、織田で決定的にアドバンテージ、ハンデになるような
家柄の差はないのでは?
>>726 それがどんなアドバンテージだと?
そもそも今川の「家格」が原因で唯の尾張侵攻が上洛と認識されたというのもちょっとなぁ
なんか、信玄が信虎から磐石に基盤を継いだことにされてるな…。
>>728 武田、毛利、織田は家格がアドバンテージ、ハンデにならないのは同意だけど
今川は実力にプラスされるだけの家格ではあったと思う。
まあそれも実力あってのことだけど。
十分な実力があれば官位役職家格なんてどうとでもなるけど
実力が無ければ駄目だろ、そして信長も元就も当初は実力無かったし。
また実力が互角であれば家格とかはそれなりに効果あるだろ
また実力無くても権威だけで将軍家とかいろいろ出来たのだから
やっぱし権威はそれなりに重要だと思うぞ
毛利や織田程度の家名なら腐るほど点在しているわけだが。
信長秀吉家康が天下取ってる時点でアドバンテージなど関係無いことがわかる。
強い奴はどんな境遇からでも這い上がってくるものだ
まああんまひどいと這上がれないけどな。
家名うんぬんはさておき実力をうらづける権威というのは結構大切。
三人とも権威にはかなり気をつかっていたし。
副将軍の位より、大津と堺に代官置く権利下さい、という男もいたけどな
これは朝廷の官位じゃないからか?
735 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/27(金) 15:23:53 ID:WZL+sK/F
出自で人々を支配する正当性が無い秀吉は、特に気を使ったよね
武家官位体制で自分を頂点として大名連中を取り込もうとしたし
736 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/27(金) 17:37:54 ID:5fqbVCMJ
もう一人の決勝進出者は 『黄金の風』 フェイト・テスタロッサ に決定!
以上で準決勝は終了!
今年の決勝進出者はこの2人だッ!!!
翠星石@ローゼンメイデン トロイメント vs フェイト・テスタロッサ@魔法少女リリカルなのはA's
錬金のアルカナ 黄金の風
Suiseiseki - Rozen Maiden -träumend- vs Fate Testarossa - Maho Shojo Lyrical Nanoha A's
Angel of Desu Strike Friendship
3ヶ月の長きに渡って開催されたこのアニメ最萌トーナメント2006もいよいよ終結!
果たして今年の優勝者は一体だれに決まるのか?!
決勝は 10/28 (土) !
ttp://zcwprd.chez-alice.fr/up2/file/b1_004424.jpg 刮 目 し て 待 て ! !
信長の場合は既に十分な実力があったからじゃないか
あとは幕府の体制下に入りたくなかったからとか
後に官位も返上しているし。
尾張守護職になったこともあったから
官位役職も必要とする時期は求めていらなくなったら返上したり断ったりしてるのでは。
官位役職にはそれなりの力があるけど義務や限界も生じるのかもしれない。
謙信は関東管領になったことで越後の豪族をまとめただけでなく北信濃や
関東の豪族からの支持も得たわけだが、代わりに関東に遠征する義務
みたいなものも生じてしまったし。
義務というか権利。
信玄が義務とか守るわけないじゃん。周りもハナから信用しないだろうし意味ないと思うよ。
口実などいくらでも作れるわけだが
武田宗家自体の直轄領はどのくらいなんだろうか
つまり信玄などが代官を置いてる土地だが
甲斐でさえ親族衆や重臣等がいて割合少ない気がする
>>742 それは誰にもわからないんじゃ
信玄の旗本の数から推測するぐらいしか手段が無いと思う。
というかほとんどの大名の直轄領が不明なんじゃないかと。
おおよそは推測できるかもしれないが。
>>742 親族衆や譜代家老衆、外様である先方衆のそれは間接統治になるだろうな。
足軽大将衆の軍役が信玄の自由裁量に委ねられる直接の軍事力じゃないか?
まあ現実として多くの合戦にこれら身分を問わず諸将をほぼ自由に動員できたんだから
合戦における個々の指揮系統はともかく直轄領がどれだけか?てのは不毛な議論かもしれん。
勝頼の最期を見て旗本が数十人しかいないとは言えないしねえ。
とはいえ信玄自身の直轄領が少なければ
発言力が低くく、したくない戦も重臣どもが
乗り気になったらせざる得なくなってしまう
なんとなく信長は多そうだ
暇なのでIF
武田まで全力で織田と戦うだと確実に包囲網側が有利なので
武田を除く包囲網の面々が一致協力して全力で戦えば
武田がいなくても織田に勝てるかどうか。
本願寺の大部隊と三好の全力動員だけで十分各地の守備隊を除く織田の主力と戦えそうだが
武田が全力で織田を攻めるには徳川をどうにかしないといけないが、武田は徳川を攻略しきれていない。
武田が織田と全力でぶつかるなんてことは徳川を滅ぼさない限りはできないので前提からして間違い。
単独で見れば織田のほうが圧倒的だから、包囲網側のどの勢力も織田とやりあいたくない。
織田の主力がどこか別の遠方を攻めてるときにちょっかいだすか、来るべき織田の侵略に備えたいところ。
武田が滅亡覚悟で織田をひきつけておくか、はたまた三好がそれをするか。
どっちにしてもどこかが囮になる必要があるが、そんなにうまく連携取れるほど包囲網側が緊密に連絡をとれているのかどうか。
>>747 いやそうじゃない
現実的に考えれば包囲網側が勝つのはまず無理だけど
単純に戦力で比較して包囲網側が滅亡覚悟で戦えばという御伽噺
そりゃ包囲網側の圧勝だろ、でなきゃ将軍様の御伽噺にのるアホはおらん
包囲網側には所謂外線の利があった
連携が完全なら、織田軍を封殺するのは十分できたんだろうが当時の通信能力を考えるだけでそれは空論だなぁ
三好一党松永他畿内勢力が頑張って2万5千
浅井朝倉も頑張って2万5千
将軍様も頑張って6千
北畠が2千
六角が1千
これだけで織田とは互角に戦える?
それに加えて本願寺が数万動員すれば
織田と畿内の親織田勢力を優に上回るな。
つまり完全に連動できたら信玄イラネ、と
…あれ?このスレは……?
>>751 松永を動かすには筒井をどうにかしないといけないし、
三好一族は、一族をまとめてかつ反三好勢を処理しなければならないし、
朝倉は若狭を完全掌握しないといけないし・・・
そういうのも捨て去ってしゃにむに織田と戦うっていう前提なんだろ。
自領土が壊滅しようが何されようが織田信長を討てればいいと突撃する感じで。
全く意味無いどころかおもしろくもないし可能性もない仮定の話だ。
外線の利より、この時代は内戦の利の方が
勝ってるでしょう
同時多発的に行動起こせるのならともかく
タイミングずれた攻撃は各個撃破だ。
756 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 21:26:21 ID:dtopOcM7
織田厨ばーか
織田に捨て身でかかったら包囲網の外側の奴らが襲いかかって来ます
>>754 ああ、すまん。
レスの繋がりを見てなかったよ。
罰として高校生に混じって世界史の講義を受けてくるよ
武田からしたら、上杉、北条という二大勢力が近くにあったので、完全に領地を空にして戦うとかは無理だべや。
でも良く考えたら、正味信玄の主領土って長野県と山梨県なんだよね・・・。
上杉謙信が信玄死後に信濃を攻めなかった理由も何となく判る希ガス。
信長としても武田家討伐の優先順位は多分相当低かったと思う。
謙信は越後防衛のため北信濃に出兵していたと言うぐらいだからねー
いつもちょっかい出してたの信玄だしねー
そんなに信濃は豊かな土地じゃないのに、なんで固執してたんだろ。あんな枯れ地どうでもいいじゃん
他に伸張できそうな方向がなかったからじゃない?
先代信虎はあっちこっちに喧嘩売ったのにさっぱり領土が広がってない訳だが
信玄の最後の2万5千というのは、追い込まれての最後の賭けでしょう?
まるで、第二次世界大戦で真珠湾攻撃をした日本軍と同じ。
このままだと、織田が中央を平定し、やがて、自分たちの独立が保てなくなる。
甲信地方の武田信玄が、どれだけ天下を狙っていたか疑問だよ。
地政学を勉強するれば、甲斐出身の信玄が天下を狙うなんて
そうとう無理があるよ、それぐらい地政学的に不利だ。
甲斐を中心にできるだけ領国を広げて
生き残りたいというのが本当のところじゃないのだろうか?
最後の遠征は、自身が天下を狙うのではなく(というか、天下は無理)
足利家を中心とした旧秩序を回復して
自らの安泰を願った行為だと思う。
信玄は信長より中央に遠かったけど、それよりはるかに早く生まれていたわけだから
信濃南半分を取った時点で美濃を志向していれば天下取りに名乗りを上げられたかも
もっとも信玄にその発想自体があったかは疑問だが
これだけは言える
武田信玄が地政学なんか勉強…
するればっ
蝮の道三とガチンコか、謙信より厄介だぞ。
でも道三と義龍のゴタゴタにつけいれればそれなりにいけるかも
それまでに東美濃はとっておかなきゃいかんが・・・
美濃攻めてる間に信濃かなり取られそうだな
つか分断されて滅びるだろ
771 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 18:14:48 ID:WuuG1CZg
おだちゅーばっか
772 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 18:31:01 ID:tH+Erfeq
地政学的に言ったら源頼朝は絶対に天下を獲れなかっただろうし
後醍醐天皇も京への復帰も無理だっただろうw
地政学的にはナポレオンだって毛沢東だって・・・
わけわからねえ。
>>773 だが実際謙信との戦いをやめたことが武田崩壊の序曲だ
今川攻めた時点で北条が敵に回ったし徳川攻めたら織田も徳川も敵に 周り全部敵
775 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 19:41:44 ID:tH+Erfeq
>>774 カリスマ武田信玄が死んだ事が武田家崩壊の序曲だ
間違いない!
>>775 いやいや、信玄の存在自体が武田崩壊の序曲だ
親父のように追放されてりゃ良かったのに
777 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 20:26:10 ID:tH+Erfeq
>>776 いやいや、信虎の存在自体が武田崩壊の序曲だ
甲斐の小領主としておとなしくしてりゃ良かったのに
甲斐から天下を狙うのは地政学的に無理って
足利尊氏や源頼朝がどこから旗揚げしたのか・・・
ただ単に時を得なかっただけだ
武田の一番の失敗は織田徳川との敵対。
780 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 20:42:50 ID:g5Sz/2MX
太郎義信が生きていればなー
戦に弱いことがやっぱ一番の原因じゃないか
北条氏康の死後に同盟復活しとるがな
783 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:16:36 ID:H8U/2iKI
ギリギリのタイミングでな。氏康死ななければ確実に滅ぼされてた
氏康存命から水面化での交渉はあったとみるべきだろ。
さもなくばあんなにスムーズにいかないだろうし、
甲相同盟復活が噂され、謙信が氏政に詰問していたりもするし。
786 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 23:54:16 ID:WuuG1CZg
暇なので織田厨
>>772 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 18:31:01 ID:tH+Erfeq
>地政学的に言ったら源頼朝は絶対に天下を獲れなかっただろうし
戦国大名の勢力過程と源頼朝の勢力過程は違うだろう?
源頼朝は、全国の開発領主が自らの既得権益確保のための象徴として
担がれただけで、用がなくなれば切り捨てられたわけだし。
武田信玄の場合は、そういう象徴にはなりにくいでしょう?
一から武力・経済力で、自国を拡大していかねばならない。
だからこそ、戦国時代なわけで。
>>778 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 20:28:39 ID:7OrB37Id
>甲斐から天下を狙うのは地政学的に無理って
>足利尊氏や源頼朝がどこから旗揚げしたのか・・・
足利尊氏や源頼朝も、全国的なうねりの中での担がれなわけで。
とにかく武田信玄が天下を狙おうと思ったら
単純な国力・武力だけでは無理。
2万5千の武田軍があそから武力で京都を制圧するのは厳しい。
対外的な政治環境・諜略などで、かなり運がないと無理。
例えば、武田信玄が全国の大名に担がれ、旗頭にならないと難しい。
足利尊氏や源頼朝みたいに。
でも、武田家があの当時、その位置にいたかは微妙。
担がれには足利家があったわけだし、あの信長包囲網は
足利義昭の権威と外交力だから。そう考えると、足利義昭はなかなかやるw
信長も足利家の権威に対抗するために、最後に天皇を使った。
武田家は源氏といってもね、義家系の源氏である足利家ほどの権威はないでしょう?
また、あの当時は、足利尊氏や源頼朝ほど、清和源氏が
全国の新しい旗頭になったかどうかは難しい。
なるのなら、足利家の誰かさんをそのまま起用するでしょう?
というか、足利家以外なら、今川家とかかなり有力だったと思うんだが。
桶狭間で...
信虎が執政末期にそれまでの多面戦略に懲りて、今川と結び北条と関係修復を計った仮定を信玄は理解していたのかな?
なんか同じ轍を踏んでる。信虎のそれが多分に甲斐の混乱に乗じられた受動的なものだったのに対し、信玄のそれは明らかに自分のミスだよな
年老いて判断が鈍ったんだろうか?
791 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 17:47:41 ID:uLyQn7pB
もしかして、今川氏真が優秀な人物なら武田はピンチだったんじゃね?
父親のほうから攻め込んで討ち取られたわけだから、こだわり捨てて織田と結べたら滅亡もなかっただろう。
「このままでは今川は武田にのみこまれます。今川領取り込んだ武田が相手では徳川どのは滅亡を待つばかり。
織田どのは数年後強大な敵を東に抱えることになるでしょう。
今、我が今川と結ぶならば上杉、北条とともに武田の動きを封じる役目を担えるでしょう。
徳川どのの三河領有を認めるのと引き換えに、不戦協定を結び遠江への侵攻は停止していただく。
そして共に南信濃を切り取りにかかります。
織田どのにとっても美濃の東が同盟者の徳川どのの領土であるほうが望ましいと思うが、どうでありましょう?」
とか1567年あたりに織田にもちかけたらよかったんじゃね?
792 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 17:52:53 ID:Lnv7bix+
>>791 そんな事したら、あっさり信長に裏切られて
土地だけ没収されるよw
信長に対しては弱みを見せたり誘われてもないのに降ると
骨の髄までしゃぶりつかれ一族郎党皆殺しの目に遭うのは歴史が証明している。
徳川方から同盟や政略結婚を申し込まれて
それに頷くなら良い選択だけどね。
>>791 織田と武田は同盟結んでいるのにそこに割って入るのは難しくないか?
それに織田と結んだら家臣からの反発が起こるだろうし、さらなる混乱を招きかねない
氏真が本当に優秀なら徳川独立後即行動起こして叩いた方が早い
氏真が今川家衰退に歯止めをかけられなかったからこそ、
武田に付け入られる隙ができたわけだし
794 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 19:38:37 ID:uLyQn7pB
織田、武田が東美濃で対峙した
1565年春、その年の秋の甲尾同盟
この間はチャンスありそうじゃね?
このころ、義信事件があるってことは、武田、今川が敵対しそうなことは
すでに今川方にもわかってるんだろうし。
とにかく、信長としては
武田がどうなろうが、あんまり意味なし。
とにかく、近畿を完全統一するのが先決だった。
その間、毛利や武田や朝倉はおとなしくしてくれみたいな。
信長にとっての最大の敵は本願寺だった。
本願寺さえ倒せばみたいな...今でいう層化みたいなもん?
>>792 信長が、何の根拠も理由もなく、自分より立場が弱い降服者というだけで
「骨の髄までしゃぶりつかれ一族郎党皆殺しの目に」遭わせた一族という例
を歴史の上で挙げてもらえませんかね?
「歴史が証明している」なんて言うのだから、当然一つ二つでなくいくつも
例があってソースも確かにあって直ちに挙げられますよね?
>>791 氏真が優秀ならば再度上洛を行うだろうよ。当然元康は独立することなく
今川軍先手衆となり織田軍と戦っただろうね。
親の仇に恭順して同盟を結ぶなど戦国大名としては自殺行為。
>親の仇に恭順して同盟を結ぶなど戦国大名としては自殺行為。
よくあることじゃないか?
三好長慶や宇喜多直家もそれに近いし、上杉憲政も親の仇の子に頼り
竜造寺政家も一時的とは言え島津に恭順、
大名以下の国人レベルでは小山田信有も信虎に仕えたり、
そういえば山内一豊も信長に仕えているか。
>>796 多分彼はイメージで語ってるから催促しても出てこないか、某新聞社ばりの曲解に曲解をかさねたモノしか出てこないと思うよ
>>797 当主がまさかの討ち死にで家臣が動揺してる中、すぐに尾張討伐に向かうのはそれこそバカ殿
駿河戦線は一進一退。しかも越相同盟は事実上機能せず氏康も最晩年は積極性を失っていた。
氏政は謙信曰く信玄と並ぶ大将、まあとにかく打算的というかマキャベリストな側面が強いよな。
氏康存命ならさすがにあそこまで武田側有利な甲相同盟復活までは至らず武田の駿東・関東侵犯など
泥沼の紛争が続いた可能性は否定できないけれど同盟復活は必然だっただろうねえ。
少なくとも北条・武田両家とも互いを滅ぼそうなんて考えはなかっただろう。
越相駿の包囲網も三方面からの武田の牽制が主目的でしょう?
同盟後は徳川に対しては終始武田が優勢で東美濃でも織田を圧倒していたのは否定できない事実。
そう簡単に武田を滅ぼす勢力の存在は少なくとも信玄上洛の時点ではまずいなかったかな。
>>798 仮にも東海一の弓取りと揶揄された大名家のとる策ではない。
>>799 戦国の世の大名で蹴鞠などで遊んでばかりいる方が余程バカだろ。
氏真がそれなりの将であれば父の志をついで再度挙兵するのは当然。
尾張まで兵を出せる状態ならなぁ。
803 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 02:27:20 ID:5Tgd7w7u
親の仇というけど
氏真は京都に逃れたあと
信長になついてなかったっけ?
804 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 04:01:10 ID:zNF94ZNK
>>803 信長も晩年は氏真に優しかったもよう。
もう、ライバルではないわけだし、案外、家康がやったみたいに
高家みたいな形で登用したりしてな。
親の仇というけど、侵攻したのは今川のほうだし
また、桶狭間で敗走して、それから攻めるのは難しいと思う。
今川が織田を倒せるとしたら、桶狭間のときが最大のチャンスだった。
織田が一旦、尾張を完全併合したら、なかなか攻略は難しい。
また、松平に独立されたのも痛かった。
あれで、ほとんど天下は難しくなった。
あと、今川内も、必ずしも一枚岩でなかったのかもしれない。
805 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 06:12:40 ID:CVcrsckI
無知な
>>796とキチガイの
>>799へ
織田信長の苛烈な所業
@北畠具教に対して信雄の養子入りを条件として和睦。
養子入りした途端に、北畠親子の身の安堵を反故にし、軍勢を差し向け惨殺。
(厠の糞壺に吊るされ、汚物を身に受けながら衰弱死)
A伊勢の神戸具盛も同様の手口で、一族家臣の多くを殺されたうえで近江国日野城に幽閉。
B長島付近の農民を無差別に痛めつけて長島に押し込め兵糧攻め。
退去すれば許すという条件を提示し城外に出た途端に女・子供を含めて
全員を皆殺し。
C降伏してきた波多野兄弟を、その場で殺害。
D同盟軍の徳川家康の正妻と嫡男を粛清
E武田氏滅亡後に武田に属していた者は例え恭順の遺志を示そうと
容赦なく一族まとめて根絶やしにせよ、とするいわゆる「武田狩り」を命じた。
F義理の母にあたる阿古御料人の指を一日一本ずつ切り落とし、その後、惨殺した。
G無抵抗な佐久間信盛、佐久間正勝、林秀貞、安藤守就を用済みになったので追放
H岩村城城主の未亡人(於艶;信長の叔母)を自ら救出に駆けつけなかったくせに
武田に降りたという理由で磔。
806 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 07:12:13 ID:wGUVNMCM
「骨の髄までしゃぶりつかれ一族郎党皆殺しの目に」遭わせた一族という例
は?
807 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 07:21:48 ID:CVcrsckI
まあ、聞くだけ無駄で無意味だな
809 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 07:28:32 ID:CVcrsckI
まあ、日本語の理解できない半島の方にも分るように
馬鹿丁寧に馬鹿にでも知恵遅れにも分るように説明するが
BとEには既に無数の一族郎党が含まれてるだろうw
また、その他の例もそれに順ずるのは知能指数80以上ある日本人なら
理解可能。
810 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 07:31:07 ID:CVcrsckI
歴史板には知恵遅れな方と日本語が理解不能な人には今後来ないで下さいね。
では、いってきます。
>>788 言ってる事が地政学とは関係ないような・・・
>>805 >信長が、何の根拠も理由もなく、自分より立場が弱い降服者というだけで
>「骨の髄までしゃぶりつかれ一族郎党皆殺しの目に」遭わせた一族という例
>を歴史の上で挙げてもらえませんかね?
その九つは全て理由もなく、根拠もなく行ったと?
つか六番目は命令で「行った例」じゃないぞ
813 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 10:10:55 ID:5Tgd7w7u
氏真自身は織田と組むのにこだわりなかったのかもね。
なついてるくらいだからw
1565年に織田と組んで武田の侵略をかわすのに弊害なのは
やっぱ家臣団なんだろうね。
これを納得させられるかどうか、。ってことだね。
信長の興味は西にあったわけだからな
ただ今川と織田の間には独立した徳川氏が緩衝地帯として存在するわけだからな
即座に結ぶメリットは少ないだろう
むしろ諏訪氏侵攻時から同盟破棄と縁戚でも容赦なく殺害する履歴を重ねてきた武田氏のほうが怖い。史実通りに
>>805 はい、無知晒しおつかれさま。
それらの所業をどう評価するかは人それぞれだが、それのどこが
>信長が、何の根拠も理由もなく、自分より立場が弱い降服者というだけで
>「骨の髄までしゃぶりつかれ一族郎党皆殺しの目に」遭わせた一族という例
というのかね?
@北畠は信玄の上洛戦のおり、密使を遣わして武田への内応を約したことがある。
書状も残っている。また紀伊方面で一揆の扇動もおこなっていたとか。理由アリ。
A神戸家の場合は、殺されたのは養子入りに反対した者達、つまり政治的敵対者
であり、理由アリ。
B農民でも無差別でもない。さらに言えば、一揆側は一度降服内応を自分から提案
して約束しておきながら、破った例がある。つまり降服が信用できない。
Cこれはまあありか。しかしその後残った家臣団を皆殺しにしたのは明智。そも
この策の提案実行者も明智。
Dはい講談オツ。現在では信康事件は徳川家の内部事情であり、信長は巻き込まれた
とする説が有力。昭和以前で止めてないで、少しは勉強したら?
Eこちらも講談オツ。武田遠征で殺したのは戦死かあるいは戦後降服せずに抵抗を
続けたり逃亡してつかまった連中ばかり。通常の戦後処理だな。武田遺臣虐殺はよく
言われるが、実はでは誰が殺されたのか?と聞いても名前が挙がらない。
知る限り、「降服を表明したがゆるされず処刑」されたのは小山田親子くらいしか
いない。そしてこれにも理由はある。降服にもルールや手順や約束事というのがあり、
小山田はそれを守っていない。
Fこれは知らない初耳。詳しくききたい。同じように殺されたのは朝倉義景母がいるが、
別に義理の母でもないしな。これは残酷な例ではあるが、上に挙げた条件からは外れるな。
Gまあいろいろと言われているが、これも上の条件からは外れるね。日本語、理解できる?
Hどういう事情であれ大名に近しい親族がただ降服しただけならともかく、明確に裏切って
るんだからねえ。ちなみに救援にかけつけずに〜というのなら、徳川家康も上杉謙信もして
いるな。
以上。頼むから、自分で挙げた条件くらいは守ってくれよ。あと講談や小説でなくてもっと
勉強したら?
今川家自体がガタガタなんだから、どこと同盟結んでもあまり意味がないような
北条家は信義に厚いから史実では頼りになったけど、今川本隊は寝返りや日和見続出でボロボロでしょ
西の大内義隆の例のように、合戦を指導しない大名に対しては家臣は求心力をもてない時代
いずれどこかの大名に食いつぶされるのは避け難い
817 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 15:01:55 ID:cSL5l1H1
>>816 大内義隆は自身の官位昇格のために朝廷工作に奔走していたみたいだな。
そのために、金を多く使った。
そうすることが大内の権威を高め、大内にとって良しと思っていたのだろう。
一介の地方国主の大内義隆は従二位まで昇格、将軍だった足利義輝の正三位より上で
全国の大名では最高位の官位になったw
しかし、それでは大内家内の家臣には、何の利益にも還元されなかった。
もともと、大内の支配体制は、支配国の守護代による寄り合い所帯で
大内氏はその上に乗っかる状態。ちょうど、足利将軍家の縮小版だった。
そのために、それぞれの守護代の独立性が高かった。
直轄領が無かった状態になってしまったのでは?大内自身は。
義隆の例は、戦争に負けたのを苦に以後軍事を遠ざけたことをいってるんじゃ?
氏真は自身にそういう体験が無いのに軍事嫌いだったらしいから
氏真が出陣を試みたのって上杉の小田原攻撃による北条からの援軍要請時ぐらいじゃね?
氏真が優秀だった場合なら義元死後も巻き返しを図ることができるかもしれないが、
史実どおりの氏真ならどんな手段を使っても無理な気がする
一部を除き、基本的に大大名となっている所って、所謂領地バブルで、
すなわち領土拡大→恩賞という予めインフレを予想した経済システムで成立していたから、
軍役の割りに獲得できる領土や恩賞が少ない国人衆や守護代達の離反を招く場合が非常に多い。
だから、大軍を率いた大規模合戦での敗北し、更に殿様が打たれるなんてのは、
すなわちその大名家の死にかなり近い訳で、氏真がいくら優秀でも無理に近い罠。
同様の現象は川越夜襲での上杉家、厳島での大内家(陶家)、沖田畷の戦いの龍造寺家とか。
821 :
あ ◆Hbcmdmj4dM :2006/11/02(木) 22:32:50 ID:IfqSLpOX
か
桶狭間の合戦が1560
信玄の今川侵攻が1568
完全降伏が1569
長篠の戦い1575
武田家滅亡が1582
重臣旗本が多数詩れたら
よほどの即戦力がいなければ
行政や戦の指揮ができる武将不足で
再建するのに時間がかかるり
滅亡するのも仕方がないのでは
現代だって6・3・3・4で16年必要だしw
823 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 23:12:41 ID:bz6H5RxG
ID:CVcrsckIを晒し上げ
824 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 02:12:28 ID:312o9W1w
ID:bz6H5RxGを晒し上げ
825 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 02:18:00 ID:312o9W1w
>>815 はい、ハクチ晒しおつかれさま。
なんか悪い宗教に洗脳されてないか?
自分が認めたくない事実、自分の知らない知識を全て
「小説ニダ」「講談ニダ」「捏造ニダ」と叫んでれば良いのだから
君等の民族は楽でいいね。
これ以上、馬鹿の相手はできないわ。
二度と、この掲示板には来るな。
>>825 議論をしてくれ。レッテル貼りでなくて。
それから、根拠をもとにした議論ができないのなら、2chどころでなく現実社会で
やっていけないぞ。
827 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 03:42:58 ID:312o9W1w
>>826 それは
>>815に言いなさい。
俺もURL貼っとくべきだったが上の1〜9はwiki抜粋だ。
それに反論して「小説ニダ」「講談ニダ」「捏造ニダ」と叫び
自説を展開してるアホは何一つ、根拠もソースも持ってきてない。
>>827 wikiがソースになると思ってる香具師がこの板にいたとは驚きだな。
論敵を朝鮮人扱いするのも楽でいいな。
>>827 もっと論理的な反論をしろよ。
@の書状が残ってるとか
Aの殺されたのは政治的敵対者であるとか
そういう事に対する反論だ。
そもそも北畠の最後については諸説あるだろうが。
きっと何をいってもまともなものは返ってこないんだろうけど。
そもそも反論できないならレスすんなよ。
そもそもそういう事件があったことを証明してからの話じゃないか
しかも議論の本筋に関係無い荒し
同盟者になったらどうか、という話でなんで信義違反した同盟者どころか、他の反逆例まで持ち出して残虐残虐言い出さなきゃならんのじゃw
講談じゃない!ソースはちゃんとwikiにある!ってのは新感覚の反応だ
833 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 11:05:23 ID:Cqmki3Ay
今川が勝つには、積極的に攻勢に出るしかないでしょ
塩止めみたいな経済封鎖じゃ却って相手に口実を与えるだけ
嫡男で縁戚の義信処罰を口実に今川から上杉・北条と組んで攻め込むぐらいしないと
>>827 wikiはソースにならんよ。特に歴史関係は、ほとんど講談や小説準拠の一般に
流布している「お話」ばかりで学説はロクに反映されていない。
君、現実世界で論文・レポートというものを書いたことないでしょ。
>>835 大学で論文やレポートを書くのにWikiはアウトだよね。
だって、誰でも編集できるんだから
全く参考にならん。
ならば義信のクーデターを今川が後押しするというのはどうだろう
信玄のクーデターだって今川との通謀があったから上手くいったんだし
838 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 12:44:06 ID:312o9W1w
>>829 論敵じゃないからw
ヤツは単なる厨房だろ。
彼の主張を一つ一つ見て御覧よ。
根拠の無い話や彼の脳内ソースだけで純粋にストーリー展開をし
自分が認めたくない主張だけは「知らない!」「講談ニダ!(ソースもってこいよw)」
「小説ニダ!(どの小説家いえよw)」ばかりだからw
どこが‘論’的やねんwww
>>838 では「厨房ではない」あなたは、自分の主張をソースを持ってもう一度展開して
ください。すでに指摘しましたが、wikiはソースとなりませんから、あなたの主張
にも根拠がありません。
そして主張を始めたのはあなたですから、まずあなたの側に立証責任がありますよ。
アンチの荒しなんていう屑、いちいち相手にせずにNGワードに指定すればいいのに
841 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 12:58:27 ID:A/knhzVh
>>838 お前は単なるWiki厨だろ。
自分の主張を一つ一つ見て御覧よ。
Wikiの話や自分の脳内ソースだけで純粋にストーリー展開をし
Wikiに乗ってないことは「違う」「半島人だろ」
Wiki以外のソースもってこいよw
誰でも編集できる、という時点でwikiはなぁ。人取橋の戦いだけでも「伊達政宗」の項と「人取橋の戦い」の項では違うんだよね。
違った、伊達政宗じゃなくて佐竹義重だった。
ぽまいら。
屁理屈しかこねられないやつと議論しようとした所で
同じ答えしか返ってこないぞ。
頭の不自由な子はスルーが基本。
氏真が突如大宇宙の啓示を受けて、人類を救済する覇王としての覚醒を遂げない限り大名・今川存続は無理っすか
氏真に優秀な弟が出来て、蹴鞠時に不遇な死を遂げれば・・・。
氏真の中の人が信長に変われば…
848 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 15:45:21 ID:312o9W1w
>>839 >>841 立証もなにも、全て織田信長によって殺された人々というのは
不変の事実だろ?それをひっくり返そうというの?
ヤツの言ってるのは、その理由が違うニダ!と脳内妄想を展開してるだけで
織田信長がそれらの人々を惨殺した事は誰一人(ニダ野郎も含めて)疑う事すらない
厳然とした事実なんだよw なんで、それを一々立証責任云々ってw
アホですか?
その議論に割って入るつもりは無いが、信康の事件はさすがにもう信長主導とする説はほとんど無い。
大昔にお偉いさんが信忠を暗愚と決め付けてそういう説を流してしまった事で一時主流にはなったが、
近年、信忠の事跡が明らかになるにつれ、暗愚どころかかなり優秀な息子だった
可能性が様々な面で指摘されていくうちに、信長が信康を殺す利点があまり無くなってきてしまった。
もともと関係は良好の上、信康の嫁は信長の娘でいわば義理の息子。
信忠が優秀で信康も優秀なら、信長にとってめでたくはあっても余計な事を考える必要など無い。
更に当時の「家」の考えで言っても、いくら主家であっても配下の嫡男に死ねと言える程の強権は
さすがに余程の事でもなければ無い。家康はたまたま子が居たが、平たく言えば滅びろって
言ってる様なもんなわけで、遠回しに改易没収してるのと大差ない。
こんな事は天下統一後の秀吉や徳川政権ですらそうは言えない。
まして信長にとっての徳川家は関係こそ強弱が出来たとは言え、紛れもない盟友。
そんな無理をする意味があるとは思えない。
ってわけで、信康関連のとこだけ外して貰いたい、あとはどうぞ。
立
不
ヤ
織
厳
ア
>>851 横レスだが発端は
>>792だと思う。
792 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2006/11/01(水) 17:52:53 ID:Lnv7bix+
>>791 そんな事したら、あっさり信長に裏切られて
土地だけ没収されるよw
信長に対しては弱みを見せたり誘われてもないのに降ると
骨の髄までしゃぶりつかれ一族郎党皆殺しの目に遭うのは歴史が証明している。
徳川方から同盟や政略結婚を申し込まれて
それに頷くなら良い選択だけどね。
これを史料とまでは行かなくても、研究や学説などを挙げて説明すればいい筈なんだが。
ただのアンチ信長の煽りにいつまで付き合ってスレを荒らす気だ
>>852 >>796が「理由もなく」とわざわざ断った以上
「理由なんか関係ねぇ!殺した事実が重要なんだ!」は通用しない
そもそも事実かどうかにすら疑問をもたれてるが
そんで
>>796あてのレスで回答してるし
それにまっとうな理由なく斬るのと理由があって斬るのとは随分違うぞ
856 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 16:22:01 ID:312o9W1w
じゃあ、今川氏真は頼まれてもないのに信長に土下座して
同盟・庇護をお願いしろと?浅井家・荒木家の二番煎じになるに決まってるじゃないかw
後々、因縁吹っ掛けられて御家断絶。最高に運が良くて追放だろうw
>>856 浅井は別に因縁を吹っ掛けられていないと思うが。
むしろ浅井側だろう、最終的に信長と断行したのは。
858 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 16:33:47 ID:312o9W1w
信長天下統一後も、本気で今川の所領を残してくれて一族も無事だと思ってたらめでたいよ。
>>858 そういう想像は良いから先に
>>792をきちんと根拠を挙げて主張した方が良いと思うがねえ。
860 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 16:52:25 ID:312o9W1w
>>859 既に多数の例が挙げられてだろうがw
信長は自分にとって利用価値が無くなったらタイミングを見計らって例外なく殺害、もしくは追放。
そんなの例を挙げたら枚挙に暇が無い。逆に利用価値が無いのに温存、重用を続けた例が
あるのか聞きたいくらいだw
島津と大友の間を信長が講和斡旋したように、信長に徳川と今川の間を取り持ってもらっていたらどうだろう?
信長を仇と思う重臣達がいる以上不可能かね?
>>860 それは
>>792の主張とは違うと思うぞ。
信長に対しては弱みを見せたり誘われてもないのに降ると
骨の髄までしゃぶりつかれ一族郎党皆殺しの目に遭うのは歴史が証明している。
だからな。
利用価値云々とは言ってない。
863 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 16:56:17 ID:312o9W1w
>>862 北畠、神戸の例だけでもゲップが出るくらいだろう。
後の例も同様だろう。十二分に証明されまくってるじゃないかw
幕府を離れてまで信長の元にはせ参じたお陰で、幕末まで繁栄した細川氏とかはいるけどなぁw
865 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 16:58:04 ID:312o9W1w
>>864 細川は猛烈に利用価値ありまくりじゃないかwww
>>861 ・今川家中を取りまとめられるか。
・その後の徳川と今川をどうするのか。
徳川も今川も勢力を拡大する先が無くなるが。
あと、時期にもよるが徳川に関しては最低三河は与えないと駄目だろうが、
それを今川側が認めるか。
遠江はどうするのか。
問題山積だろうな。
>>863 足利義昭は利用価値が無くなった後も追放されただけで済んでるが。
>>863 北畠、神戸の例と言っても普通に反抗したから邪魔だから潰されたと言うだけで
別段珍しいことじゃないし。
一つでもいいからちゃんとした例を上げてみたら
869 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 17:02:57 ID:312o9W1w
>>869 そういう例がある以上「十二分に証明されまくってる」なんて言えないだろうに。
871 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 17:07:06 ID:312o9W1w
>>868 恭順したから反抗したから殺害されたという根拠があるなら出して下さいね。
北畠具教は養子縁組して、まもなく殺害されてるけどねw
具教が恭順後、反抗した証拠や殺されなければならなかった理由を挙げて欲しいね。
>信長に対しては弱みを見せたり誘われてもないのに降ると
>骨の髄までしゃぶりつかれ一族郎党皆殺しの目に遭うのは歴史が証明している。
まずこれを挙げてもらわないと話しにならないんじゃないか?
ただ
>信長に対しては弱みを見せたり誘われてもないのに降ると
って信長以外に対しても弱みもなく誘われても利益も無いのに降るやつなんているのか?
>>871 まもなくって信長の伊勢侵攻が69年で、殺害が76年なんだが?
信長の長島攻めに協力しなかった件
紀伊大和の反織田勢力と連絡を取った件
武田信玄と連絡を取った件?
というか信長おいてに限らず養子を送られて
受け入れた側に力が無い場合はひたすら従順にして全面協力していなければ
殺されたり潰されたりするだろ。
873 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 17:28:01 ID:PQncwEOK
ID:312o9W1w
>>861 二勢力の調停はよっぽど権威があるか武力があるかしないと無理。
875 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 17:58:43 ID:312o9W1w
まあ、オマイ等が氏真だったら信長のケツの穴まで舐めて惨殺されてた。
そう考えると氏真はここのネラーの100倍は賢者確定。
勝利宣言乙
877 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 19:59:47 ID:BjkFcDj/
ID:312o9W1w晒しage
これはひどい
相手に対して朝鮮人と言っていたID:312o9W1wの方が朝鮮人にしか見えない件
まあ小早川隆景も吉川元春も北条氏邦にしても
幽閉なり暗殺なりしているしな
残虐といえば黒田長政の和平のため宴席に呼び出して皆殺しも
かなり酷いし
a
後々の憂いを断つのは大名なら当然のことだろう、信長に限ったことじゃない。
別に信長に限らずこの時代の(後世からすれば)残虐行為というのはほとんど
時代の常識か、あるいは政治的必然があったかだからねえ。
>>883 IDが変化してない・・・何ゆえ?
信玄だって諏訪を降伏後殺しているし
結局みんなやってるとしか言い様がないんだよな
だから露骨に無知なアンチにいちいち構うなと
ほら本筋の話題がきえちゃった(´・ω・`)
886 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 14:54:25 ID:zGzYi7+N
今川氏真にも遠く及ばない池沼のクズどもが集うスレ?
きっと彼は波多野三兄弟の子孫なんだよ。
だから許してやれ。
波多野三兄弟の子孫なら許すしかないな・・
つってもまあ、どっちが汚いとかきれいとかわからないのがああいう時代だからなあ
まぁ信長の方が今川との同盟なんて望まないけどね。
従属ならともかく。
徳川の今川領進攻が進んでいるし、当時は武田とも良好だしね。
891 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 02:24:58 ID:OVOSFeib
風林火山(プ
波多野は織田家を裏切ったのだから当然な気がする。
それに降伏した以上責任をとるのはある意味当たり前。
もっとも降伏ではなく家臣に裏切られて光秀に捕縛されたみたいだが。
清洲同盟は信長が死ぬまで続いた戦国期としては異例の強い同盟だったからな
今川は既に利用価値もないほど暴落してたしねぇ
894 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 15:20:03 ID:H5+RXcLY
信玄が上洛するタイミングって義昭が朝倉に居て教導を求めていた時が一番良かったんじゃないの?
でも信玄は勿論、謙信も上洛支援どころか矢止め(和睦)すら蹴って争いつづけたんだよな
朝倉は地理的にも近かったけど動かなかった
実は信長は美濃攻略前に義昭の要請に応じて上洛しようとしていた。これは斎藤龍興が和睦に一旦応じながらこれを破ったせいで大敗して御破算になったんだけど
それで信長は「天下に面目を失った」そうなんだけど、受けた恥辱の割に美濃制圧時に龍興は生かして追放だけで留めている
信長が最初から将軍家の利用だけを考えていたとか、常に残虐だったとかの通説に対する一考察の材料になるだろうね
895 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 16:51:10 ID:VLCi/DqU
今川氏真にも遠く及ばない池沼のクズどもが集うスレはここですか?
>>894 謙信が動けなかったのは信玄と顕如の攻撃を受けていたせいじゃないか。
そして顕如と三好は繋がっている。
過疎なので
信虎が玄広恵探に味方した前島一族を倒したり、義元が北条と争って救援を求めた時
工藤が出兵に反対したり、
一部の家臣は今川と同盟を結びたくなかったのでは、そして家臣の意向を受けて
信虎は初期は今川と戦い続けたのではという説を唱えてみる。
あと信玄廃嫡の話しは軍鑑にしかなく、仲が悪いとしたら何で三条氏から嫁を
そして官位や義晴から名前を貰うような努力したのか、
親子の仲は別に悪くなく無理やり家臣達に祭り上げられ首のすり替えを行われたのでは
と言う説も挙げてみる。
1537年以降に仲が悪くなったと言われればそれまでだが。
898 :
名無しさん:2006/11/10(金) 00:39:29 ID:N7+XAtCa
武田菱の旗と、風林火山の旗を、京の都にたててほしかった。
>>894 和睦を反故にしたには龍興だけど、その事情を考慮に入れずに
信長をこき下ろしたのは義昭だからじゃね?
その辺の理由で義昭をただの御輿扱いしたのかも
浅井長政はしっていたんだろうな
信長に従えば家康の様にいいように
つかわれることを・・・
でも使われてれば北近江から北陸一帯
宰領できたかもしれない
902 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/10(金) 07:40:12 ID:nkFsJbqj
ヽ/⌒ノ)
ノ_◎_ ヽ
∧,,∧(・ω・` ヽ=ゝ
/ο ・ )Oニ)<;;>
/ ノ lミliii|(ヾゝ
(o_o,イ__ヽ´|(__) ノ~⌒)彡
ノllllllllヽ| | ̄ノl ノ
/ /~ヽ ノ'''''''~ヽヽ\ヽ_
ヽニフ|_| (_/ ヽノ
(_ヽ
斎藤龍興は追放後も三好や朝倉に身を寄せて刀禰坂合戦で討死するまでしつこく信長に抵抗していた
斎藤利治(濃姫の弟説がある。ってことは斎藤家本流?)は信長に仕え、越中月岡野合戦で上杉家の謙信以来の重臣・河田長親を大破し首級360を得るなど活躍するが、本能寺の変の時信忠に殉じる
信長に関わる斎藤氏の後裔って他に誰がいたっけ?
904 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/10(金) 13:24:23 ID:y8tgcx8b
仮に信玄や謙信が義昭将軍擁立の教導を買ってでたとしても、他の大名の勢力圏が京との間にある
山城あたりを軍事的に支配できても飛び地になり、維持は困難
大内氏のように軍を常駐させれば本国で尼子氏が隆盛し、それを抑えるために派遣した武田元繁が却って自立を企てるような事態が信玄らにも起こりかねない
普通に無謀かね?
要するに義昭教導者募集中の時期には信長だけが幕府に忠臣足らんとしてたわけだね
でも義昭があまりに頼りない上に勝手なんでキレて制限に走ったと
オレの上に立つ奴はオレよりできるべきだ、と思ってたのかな
>1-15テンプレ
>16-19 >30過去ログ関連スレ
>20-29 >34-43スレまスレまとめ
>33-55 上野攻めるより先に美濃を攻めたら 決戦したら
>36-39 1572年秋-1573年春関連文書
>56-122甲相同盟破棄と駿河侵攻
>67-104武田の勝率
>123-129西上野攻略
>129-154駿河攻略と第1次駿河攻略成功時のIF
>155-161氏康が長生きしたら
>162-171越相同盟 1569年越後の状況
>172-175信玄謙信が戦わないIF
>178-206信長信玄の家督相続時の石高国内外状況の比較 桶狭間の戦い時の尾張の状況
>207-228信玄はどの程度の能力か不利な環境だったか 継いだ段階での国力・周辺国との関係等の比較
>230-249甲尾同盟を維持していたら 上杉織田の関係 何故上洛しようとしたか
>254-339各大名の国力・周囲を取り巻く環境の比較・恵まれた大名
>272 100万石越えた大名一覧
>278-339竜造寺隆信・大友宗麟・集権体制について
>279-286義信事件について >286義信謀反年表
>277-301相続問題・お家騒動
>345-364信長の戦場指揮の逸話
>365-393信玄の戦術指揮能力三増峠の戦い武田織田の指揮官クラスの死亡について
>394-411信長の戦術指揮能力
>412-471信玄の戦略駿河侵攻
>472-500 100万石クラスの大名 1570年上杉の国力 武田は同程度の勢力相手に拡大できるか
>496同じ国力差から抜けた大名
>501-547同程度の国力相手 上杉との戦力比較 信玄の戦術 織田包囲網の状況
>548-586越後攻め駿河攻めについて 駿河攻め時の北条の思惑 武田の信用度
>587-607武田の上洛について 信玄信長の宗教観 第1次駿河遠征が成功していたIF
>608-635武田信虎の政策・甲斐国人衆
>636-660野々宮合戦 信長信玄の拡大速度・敵対相手の国力状況
>647信長の生涯を通しての拡大速度
>663-680信玄は何故先に美濃を攻めなかったのか 斉藤上杉の比較・尾張信濃の比較
>681-715信秀の晩年尾張の状況 信玄信長家督を継いだ段階の比較
>711-738家格権威官位役職の効果影響力
>742-745直轄領
746-790包囲網が完全に機能した場合のIF 地勢 武田による斉藤攻めIF
791-866今川氏真が優秀なら及び織田と同盟した場合のIF 桶狭間後の今川の状況
取りあえずここまで
907 :
一部修正:2006/11/10(金) 17:30:35 ID:K+Wiv5c1
45スレまとめ
>1-15テンプレ
>16-19 >30過去ログ関連スレ
>20-29 >34-43スレまスレまとめ
>33-55 上野攻めるより先に美濃を攻めたら 決戦したら
>36-39 1572年秋-1573年春関連文書
>56-122甲相同盟破棄と駿河侵攻
>67-104武田の勝率
>123-129西上野攻略
>129-154駿河攻略と第1次駿河攻略成功時のIF
>155-161氏康が長生きしたら
>162-171越相同盟 1569年越後の状況
>172-175信玄謙信が戦わないIF
>178-206信長信玄の家督相続時の石高国内外状況の比較 桶狭間の戦い時の尾張の状況
>207-228信玄はどの程度の能力か不利な環境だったか 継いだ段階での国力・周辺国との関係等の比較
>230-249甲尾同盟を維持していたら 上杉織田の関係 何故上洛しようとしたか
>254-339各大名の国力・周囲を取り巻く環境の比較・恵まれた大名
>272 100万石越えた大名一覧
>278-339竜造寺隆信・大友宗麟・集権体制について
>279-286義信事件について >286義信謀反年表
>277-301相続問題・お家騒動
>345-364信長の戦場指揮の逸話
>365-393信玄の戦術指揮能力三増峠の戦い武田織田の指揮官クラスの死亡について
>394-411信長の戦術指揮能力
>412-471信玄の戦略駿河侵攻
>472-500 100万石クラスの大名 1570年上杉の国力 武田は同程度の勢力相手に拡大できるか
>496同じ国力差から抜けた大名
>501-547同程度の国力相手 上杉との戦力比較 信玄の戦術 織田包囲網の状況
>548-586越後攻め駿河攻めについて 駿河攻め時の北条の思惑 武田の信用度
>587-607武田の上洛について 信玄信長の宗教観 第1次駿河遠征が成功していたIF
>608-635武田信虎の政策・甲斐国人衆
>636-660野々宮合戦 信長信玄の拡大速度・敵対相手の国力状況
>647信長の生涯を通しての拡大速度
>663-680信玄は何故先に美濃を攻めなかったのか 斉藤上杉の比較・尾張信濃の比較
>681-715信秀の晩年尾張の状況 信玄信長家督を継いだ段階の比較
>711-738家格権威官位役職の効果影響力
>742-745直轄領
>746-790包囲網が完全に機能した場合のIF 地勢 武田による斉藤攻めIF
>791-866今川氏真が優秀なら及び織田と同盟した場合のIF 桶狭間後の今川の状況
>>905 信長は旧態依然・形骸化した権威などに従うつもりは毛頭なかったろうよ。
せいぜい上洛の大義名分が立つし京の案内役程度には利用できると思っていた。
少なくとも足利幕府の忠臣の意識は希薄だったろうね。
909 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 01:02:32 ID:9UUmHWwc
>>908 それは美濃併呑後の話でしょそれくらいのでかさになったからこそ
その見通しが立ったと見るほうが自然に思えるが。
ちょっと質問ですが。
上にでている「美濃攻略以前に上洛要請があって信長はやろうとしたけど、美濃との和議が
整わなく出来なかった」って何の史料にありますか?
今日、地政学で見た戦国時代関係の本を立ち読みしたけど
武田家って、本当に不利な立場だったんだよね。
まさに小国の立場。
大国である関東、東海に囲まれてという感じ。
常に周辺関係との緊張から国を運営しなきゃいけなかった。
武田には金鉱あったじゃん。
つかそれなら横の富裕な国を攻め取れる絶好のポジションじゃないですか。
まあ実際には関東なんて使えねー湿地だらけの糞田舎だけど。
もっと不利な立場の国はたくさんある。
若狭の方の武田さんとかさw
贅沢いったらきりが無いって
それに地政学でいうなら武田は中国の戦国七雄の秦の位置にいるとも言える。
>>915 関東平野統一すれば
300万石になる。
たしかに金鉱も重要だが
結局は農耕社会は石高だと書いてあった。
軍事技術の優劣が大きな影響を及ぼしたり
石高以外の要素が大きくなったのは
近代の産業革命以降だと書いてあった。
どの国だって長所と短所がある、相対的に見れば武田は有利な立場だろう
919 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/12(日) 00:04:48 ID:MsVGuXdG
相対的に不利なのって、どこ??
国で言うならやっぱ飛騨とか美作それに山陰の一部とかじゃ・・・
国よりも周りとの関係とかの方が重要でしょ
信長秀吉家康を見る限り能力さえあれば国の大きさは関係無い。
信玄じゃいくら初期勢力が大きくても所詮は一大名の器でしかない、気がする。
>>917 300万石?それ1598年以降の話じゃね?
信玄の時代はそんな豊かじゃないよ。
関東は秀吉以降の開発が大きすぎるのでその数字当てにならない。
で、関東の北条といっても氏康の頃はまだ相模と武蔵の半分を支配した程度。
関東に割拠する群雄の一人に過ぎず大国というほどではない。
まあ当時の金鉱の重要性の話はともかく
基本が石高だというのは同意する。
しかしその石高に依拠して考えるとだね、
今川は駿河15万石と遠河25万石。その先の三河は29万石。(石高は1598年)
一方甲斐は22万石、信濃40万石。隣接する美濃は54万石、上野は50万石。(同じく1598年)
京都への近さっていうなら北条よりは恵まれてるし、
どうしよう信玄超めぐまれてるよ?
後、周辺と緊張がない国なんてどこの世界を探してもない。
まあ信長より信玄や謙信が有利だったという設定なら、なんでもいいんだろうなぁ
設定というか、事実だろ
まあ流石にその事実は変え様が無いな
そ〜ですね〜
>>926 なんと言おうが、それが設定だと思う根拠を示さない限り
妄想入ってるのはあんたの方だと思われるんですよ。
生きてて恥ずかしくありませんか?
>>927 信長が信玄や謙信より恵まれてるという根拠はいず
匿名掲示板のやりとりで「生きてて恥ずかしい」なんて考える人間は、
飛騨の襞ほどの土地も治められないだろうねぇ
929 :
928:2006/11/12(日) 01:35:27 ID:MsVGuXdG
訂正
×信長が信玄や謙信より恵まれてるという根拠はいず
○信玄や謙信が信長より恵まれてるという根拠はいずこに?
>>928 易々と挑発に乗るんだなぁ。まるで猪武者だ!!
いやいや、こんな夜中だし普通のレスでは返してくれないかと思ってさ。
恥なんて言ってごめんね。つきあってくれてありがとう。(馬鹿でありがとう)
ところで根拠を示す立場にあるのはあんたですよ。
信長と信玄・謙信を比較するのはあんたが始めた話。
俺は信玄と北条・今川しか比較してないし、その根拠は915、922で示した。
ああ、もしかして921に反応したの?でも921も謙信なんて・・・。
逃げ場がないから、時間かかった後で茶化すしかなかったのか
こんな夜中だからこそ相手したのにw
おやすみなさい
いかん
このままだと滑稽すぎて、寝られそうにない
炭化した英雄(笑)に黙祷して、こころ落ちつかせますね
是非におよばず!! デアルカ
両方恥ずかしいヤツだからもうくるな
信玄が他の大名より有利な立場や環境で継いだという根拠は
過去スレだけでなくこのスレでさえ示されているのに・・・
せめてこのスレだけでも読んでから発言しなよ。
関東は糞田舎ってほどでもないだろう。
江戸、小田原はかなり発展した町だったし。
しかし氏康と信玄のどっちが有利かときかれると難しい。
石高では氏康だが回りとの関係がやばいからなあ。
だから地理的要因はもういいってば
937 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/13(月) 01:28:09 ID:PMPGVq73
信玄( ´,_ゝ`)
最近は、家督相続時は、板垣・甘利の傀儡だったという説が有力みたい
だな。軍事的才能は親父の方があったと見るべきだろね。有力な足軽大将は
みんな親父の抜擢による。名前に「虎」の字が入っているのはその名残。
信玄の良さは、情報と謀略。
これも、武田家の「団結の無さ」「当主の権威の無さ」「戦闘力の弱さ」
を克服するための苦肉の策。そうして積み上げたものが、晩年の
「常勝神話」となり、周囲の勢力を畏怖させることになるが、それも長篠
で実態を露呈させた。
鉄砲戦術以前に、「情報」と「謀略」の優位が無ければ、武田の力って
あんなもんだってこと。
傀儡政権のどこが他の大名より有利が状況だったのか…
結局、その政権成立時の条件が
そのまま機動的に動けない体制を生み出して
戦略性の無い展開を繰り返したわけだが…
甲斐統一は親父がやってくれて、22万石と金山を苦労せず丸ごと入手
父祖の代から武田を悩ませた外国の大勢力とはこれまた親父が修交済み
二正面作戦の苦労も、一族間相克の泥沼とも無縁のスタート
これで恵まれてないのなら、何を恵まれていないというのだ?
でも家臣の力が強すぎて傀儡政権だったとしたら
大内や六角みたいに家臣の力が強すぎたというなら
やはり不利なんじゃないか?
信虎の中央集権が中途半端だったのか晴信が家臣の力を
強くさせすぎたのかは分からないけど。
942 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/13(月) 11:59:51 ID:yqPbZ0bk
武田家が両職に専横されていたかって事ははっきりわからないわけでしょ?
信玄がむしろ積極的に二人に頼っていたという事も考えられる
少なくとも板垣や甘利が信玄を蔑ろにした根拠がない以上はちょっと…
晴信の場合は傀儡、というほどかどうか議論すべきところだと思うが
継承時に古参の家臣の方が大きな発言力を持つのはごく普通の現象。
大勢力で親父が健在で家中への睨みが利いていて
子もそれなりの年齢で軍功をあげてきて発言力がある、
という諸条件が満たされた幸運な例は少ない方だと思う。
家臣の言いなりかどうかなんて、自業自得だろう。
>>943 > 大勢力で親父が健在で家中への睨みが利いていて
> 子もそれなりの年齢で軍功をあげてきて発言力がある、
勝頼のことか。
勝頼は家督継承時に親父死んじゃってるじゃん。
家督は譲られていないし勝頼は不幸な例だろ
最悪というほどでもないが
幸運な例はやはり北条だろうな親が隠居して後見の立場をとって権力委譲
武田家に御旗楯無がある限り傀儡などあり得んだろ
御旗・盾無は権力を正統化するが権力の源泉ではない。
御旗盾無のみを以って傀儡を否定することはできないのではないかな。
しかし実際のところ、後の晴信と家臣の関係を見ても
追放はせいぜい家臣が主導したというくらいで
傀儡、というほどのことはなかったと思うが。
>>939 家督継承時に傀儡であっても後に実権を奪い返す例はある。
家臣と大名の関係は刻々変化するものであり
大名個人の能力いかんによっては劇的な変化もありうる。
信玄は最後まで関係を変えれなかった暗愚な大名だという話?
>>947 軍鑑では家督を相続したのは勝頼の息子ということになってるけど、
事実上相続したということでいいのではないか。
後継者と目されてから家督を相続するまで、親父の基でそれなりの時間を経ている。
問題は、だからと言って家臣団に強力な指導力を発揮するようになったとはいえないこと。
重臣たちを自分や自分の直臣が統制できず、最後まで苦しんだような形跡がある。
結局、親父が偉大で軍歴があるというのは、重要な要件じゃないと思う。
織田をモデルにするわけじゃないけど、問題は、経済権益を直接掌握することができたかどうか。
織田の津島・熱田湊のような。
>>950 当主がイニシアティブをとるために必要なものといえば
血統、経済力、軍事力、政治力、個人的能力、、などなど。
どれも重要だと思う。どれが最も重要かといえば
それは場合によるので一概には言えないでしょう。
でも信長の場合、家臣に対し強い指導力を発揮できたのは
経済力に加えて戦争の強さや性格が重要な要素になっていると思う。
俺は経済力より戦上手だったことが決定的な要素だと思うが
水掛け論になりますねw
ただ、戦国時代という言葉の通り、当時は戦争がとても意義のあることだったと。
経済権益というが、その権益を守っているのは軍事力。
家臣、国人衆を守ってくれるものは強大な軍事力、戦に強い当主。
そういう風に考えれば戦争に強いことがいかに大切な要素かは分かると思う。
経済力のある大名は他にもいたが、
そのなかで信長が抜きん出たのは何故かと、
他の大名と比べれば誰より戦争に勝っているという要素が俺は目についた。
書きすぎたな。消えます。
失礼しました。
>>951 織田は、美濃攻め長島攻め雑賀攻めなど苦戦や敗退も目に付く。
勝ちの数が多いのはその通りだが、誰よりも活発に兵を動かし攻め続けたからだろう。
それが出来たのは信長(というか親父の代からそうだが)の経済力ではないのか。
> 家臣、国人衆を守ってくれるものは強大な軍事力、戦に強い当主。
信長は決して家臣や国人衆を「安堵」させなかった。
むしろ、常に戦いに駆り立て続けた過酷な君主と見られていたのではないか。
常に外征して、本国に敵を入れなかった。
これは信玄にも言えることだけど。
>>953 親父の本拠地を弟にくれてやっていたりと、信長は当初から経済力を握っていたわけではない
桶狭間戦の前の会議で重臣達が「知恵の鏡も曇るのか」と信長への失望を表しているが、裏を返せばその時点までは知恵あり、と見られていたということ
尾張統一戦や対今川で見せた実力についてきたんだろう
だいたい苦戦や敗退も目に付くというが、戦歴全般としては勝利のほうが多いんだから
過酷な軍役も、結局のところ所領拡大という形で見返りがあったわけで。実際に信長存命中に軍役拒否や家臣困窮などの、戦争しすぎで領国が疲弊した場合に起こる現象は織田家では起きていない
穏当に家督を譲られるだけでも、結構家臣の力が強いのに
ましてや、家督を家臣の力で奪ったような信玄は
それこそ
傀儡中の傀儡になるのは明白と思うけど。
実権を取り戻した頃にはもう寿命…なんて所だったんじゃないか?
しかも、
中央集権を進めることへの反対勢力として担がれているわけだから…
もう宿命みたいなものじゃないかと。
傀儡が嫌なら実力を見せるしかない罠
>>958 957や939によると信玄にはそんな実力がなかったらしい。
かなりいろいろな資料を否定する斬新な言説だ。
拠って立つ資料か本を教えてくれると嬉しいが。
960 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 00:35:13 ID:2qELn7kW
信玄が有利だったの!!
961 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/16(木) 16:06:38 ID:WBA4zxHI
傀儡なら板垣の娘を正室に押し付けられるとか、そういう支配強化の手段が見受けられてもおかしくないと思うが
甘利や板垣が命令無視したとか権勢振るったとかいう逸話はないよね?
むしろ馬場あたりのほうが遠慮なく主君にたてついているw
君主を叱責する馬場タン(*´Д`)ハァハァ
うちの地方ではババ=うんこです。
それから風呂のことをタンタンと言ったりします。
963 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/16(木) 18:58:00 ID:BQvndn4S
よく45スレも続くなw
>>961 正室押しつける現正室が三条氏だから無理なんじゃ
その上三条氏は甲斐に何ら影響力を有していないから
無理に排除する必要も無いだろうし。
板垣が命令無視したとか権勢振るったとかいう逸話は結構ある。
史実かは知らないけど。
>正室押しつける現正室が三条氏だから無理なんじゃ
訂正
正室押しつけるは現正室が三条氏だから無理なんじゃ
信玄公は巧妙に板垣甘利を暗殺して実権を握ったと言ってみる
967 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/16(木) 22:18:17 ID:13lzvnC8
信玄にそんなこと無理
968 :
告知:2006/11/17(金) 08:15:09 ID:a8pfx+pN
公演のご案内をさせて下さい。
内容は、武田信玄息女、松姫を中心に巡っていくお話でございます。
歴史が好きな方、
武田一族がお好きな方は、きっと楽しめると思います。
◆市民劇場八王子夢座第四回公演◆
『みすず刈る』〜松姫哀歌〜
■場所■
八王子市芸術文化会館 いちょうホール(小ホール)
■日時■
平成18年
11月17日(金)
1回目:開場13:30〜
2回目:開場18:30〜
11月18日(土)
1回目:開場13:30〜
2回目:開場17:30〜
※各回30分後に開演
■料金■
前売り/当日共¥2000
ご連絡、お待ちしてます。
今の状況って、信玄が有利だったと言うのを認めない武田厨が、家臣の力が強かったから信玄は有利じゃないと言いだして、
信玄に実力が無いと言われたと思った武田厨が、それに対して反論しているのか?
970 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/17(金) 14:00:20 ID:U4OME5Bu
板垣の専横の逸話って具体的に何?
せいぜい戦場で首実検やったぐらいしか独断癖のある話知らない
>>971 ちなみに下のほうの本、信玄が後1年生きてたら天下獲っていたんだってさ。
随分と安い天下ですね
974 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 02:46:55 ID:P+nVxY4n
1000なら、天下布武は信長の単なるドメスティックバイオレンス
975 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 02:51:41 ID:Mr6i6l3I
信玄が京まで行くわけないでしょ。
だって死ぬ頃には、もう3月で農作期になってた。
どう考えても、一回目の遠征は近江を征服するだけで終わっていた。
二回目は直接伊那郡から、美濃に直接進軍する気だった。
>>975 信玄が近江を征服できるわけがないだろ(笑
977 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 06:13:04 ID:Mr6i6l3I
すまん。近江ではなくて遠州だった。
>>975 三方が原の合戦の直後に浜松城の大手を攻めれば落ちた可能性があった。
そうすれば後方の高天神城や掛川城も自落して、遠州制覇が果たせてた。
しかしそうしないのは信玄の個性がそうなのであって、
信玄が信玄である限り、遠州制覇は不可能だったということだと思う。
>>975 農作期というのをどう考えれば遠江征服だけで終わることになるんだ?
980 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 08:47:32 ID:Mr6i6l3I
?信玄の兵は農民だぞ。信長の兵農分離ではないんだ。
当然田植えの時期には帰る。
信玄は甲府を9月くらいにたっている。なぜかとろとろと遠州をうろちょろしている。
三方が原が終わったあともゆっくりしているのだ。
まだ岐阜城があるというのに。川中島だって信玄、謙信農作期を守っている。
これを守らないと兵の士気が落ちるのだ。
とにかく進軍速度は遅い。あまりに遅いので朝倉は引き上げたよ。
兵農分離信者か…
頑張って過去スレか他スレ読んできな。この板でそんな話すると恥ずかしいよ。
教科書に書いてある事がいつまでもすべて正しいとは限らないんだよ。
簡単に釣られるオマエの方が恥ずかしい
じゃ、結論は無理ってことで次スレいらないな
984 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 22:06:06 ID:ub/Ah83Q
そうだね
結論は、ずーーーーーっと前に出てる。
武田信玄の上洛は、不可能だと。
できるわけないよ、普通に考えて。仮にできたとしても一応は戦国有数の名将である信玄が
できなかったのに俺達が考えられるわけがない
>>970 勝鬨式や首実検・論功行賞
村上氏との勝手な戦闘
家中の反対を押しきって村上氏と交戦
かなり問題になりそうな行動だと思うが
まあソースは軍鑑なんだが
あと信方の死から4年後板垣家は断絶させられている
甘利の息子も重用はされていない
45スレまとめ
>1-15テンプレ
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>33-55 上野攻めるより先に美濃を攻めたら 決戦したら
>36-39 1572年秋-1573年春関連文書
>56-122甲相同盟破棄と駿河侵攻
>67-104武田の勝率
>123-129西上野攻略
>129-154駿河攻略と第1次駿河攻略成功時のIF
>155-161氏康が長生きしたら
>162-171越相同盟 1569年越後の状況
>172-175信玄謙信が戦わないIF
>178-206信長信玄の家督相続時の石高国内外状況の比較 桶狭間の戦い時の尾張の状況
>207-228信玄はどの程度の能力か不利な環境だったか 継いだ段階での国力・周辺国との関係等の比較
>230-249甲尾同盟を維持していたら 上杉織田の関係 何故上洛しようとしたか
>254-339各大名の国力・周囲を取り巻く環境の比較・恵まれた大名
>272 100万石越えた大名一覧
>278-339竜造寺隆信・大友宗麟・集権体制について
>279-286義信事件について >286義信謀反年表
>277-301相続問題・お家騒動
>345-364信長の戦場指揮の逸話
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>394-411信長の戦術指揮能力
>412-471信玄の戦略駿河侵攻
>472-500 100万石クラスの大名 1570年上杉の国力 武田は同程度の勢力相手に拡大できるか
>496同じ国力差から抜けた大名
>501-547同程度の国力相手 上杉との戦力比較 信玄の戦術 織田包囲網の状況
>548-586越後攻め駿河攻めについて 駿河攻め時の北条の思惑 武田の信用度
>587-607武田の上洛について 信玄信長の宗教観 第1次駿河遠征が成功していたIF
>608-635武田信虎の政策・甲斐国人衆
>636-660野々宮合戦 信長信玄の拡大速度・敵対相手の国力状況
>647信長の生涯を通しての拡大速度
>663-680信玄は何故先に美濃を攻めなかったのか 斉藤上杉の比較・尾張信濃の比較
>681-715信秀の晩年尾張の状況 信玄信長家督を継いだ段階の比較
>711-738家格権威官位役職の効果影響力
>742-745直轄領
>746-790包囲網が完全に機能した場合のIF 地勢 武田による斉藤攻めIF
>791-866今川氏真が優秀なら及び織田と同盟した場合のIF 桶狭間後の今川の状況
>914-962家督相続時の有利さ・家臣の発言力傀儡か否か 他大名との比較・地理的優位性
>961-987板垣信方
ほんと堂々巡りだな。
よくみんな飽きないねぇ
ぶっちゃけ信玄は上洛出来たよ
寿命さえ今少し長かったらな
あの尊大かつ傲慢な信長が、一度は義昭を追い詰めつつも、
義昭に対して低姿勢で臨まなければならなかったほどの緊急事態だったんだから
家康に対する援軍も申し訳程度のものだったしね
これらの信玄西上時の信長の弱気な態度は、
志賀の陣の時のプライドをかなぐり捨てたなりふり構わなさに通じるものだ
992 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 22:21:34 ID:8TD0uI/Z
うそ
ところで、次スレは980がたてるのか?
994 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 22:57:34 ID:zuzep/NE
信玄が最強でしょ。
上洛戦の見事さは、信玄生涯最高の芸術だよ。
信玄の軍事力、戦略、政治力の集大成だよ。
あと一ヶ月寿命があれば、織田勢は撃破されて
いた。
あの時の信長が信玄にあてた手紙の卑屈さった
らないよ。
四方八方包囲されて、ついに信玄上洛と聞き、
「信玄公に敵する意思は、全くございません〜」
と繰り返し繰り返し、必死で命乞いしている。
あんた、生き神じゃなかったんかい!?
戦術的には謙信、獲得領土では秀吉だけど、秀吉は
戦国大名とは時期が少しずれてるよね。
995 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 23:04:33 ID:zuzep/NE
信玄が今川領を攻めたのは、黒川金山が枯渇し始めたので、
安倍川金山を狙っての事でしょ。
必然だよ。
しかし謙信は戦術は天才だが、時局の読めない奴だ。
戦略がないよね。
寿命がもう少しあれば、上洛はできたよ。
ただし天下は獲れない。織田にもすぐに取り返されるだろう。
ただ、織田の天下は相当遅れる事になるだろう。
上洛という物を大きく考えすぎだよ。天下と結び付けすぎ。
997 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/20(月) 00:35:07 ID:UFgHqs8g
武田(甲信)の兵は農民の徴兵が主体で、
農繁期には国へ戻さなければならないので、
織田・徳川を一時 的に倒しても、京都の恒
久的制圧は困難。
頼朝のように関東に首都を開くと言う事も考えられるが、
当時の経済圏の中心は京都で、京都からの税収を管理する
には京都に守護職を置かないと、近畿圏の大名が信長の様に
税収を軍資金にして台頭する恐れがあるから、やはり京都守
護職が必要。
故に、武田信玄の天下獲りも、上杉謙信も同様に不可能。
しかし、三方ケ原で大勝したあとに、甲州へ引き返さずに
織田を撃破しておけば、勝頼の時代にあのように短期間で
滅ぶ事はなかったろう。
うほっ兵農厨
だから、、
信玄自身が、信長にはかなわないと判断して引き返したものを、
何べんループすれば気がすむのか?
上洛、それは男のロマン 完
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