【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】

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1名無しさん@お腹いっぱい。
大国に囲まれながら中小勢力がしぶとく割拠し続けた
常陸・下野の戦国時代を語りましょう
2名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 02:04:00 ID:Koz/Bdk2
佐野昌綱は謙信を何度も撃退した名将。
佐野房綱は剣術の達人

佐野家最高
3名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 02:07:22 ID:Ck6JNXzY
名城・唐沢山城のおかげでしょ。
4名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 02:18:47 ID:AAPJmN7o
関東七名城だからな
5名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 02:36:03 ID:8yaI3rLp
戦国時代の下野の面白さは異常
6名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 02:37:17 ID:LtFWbaXv
小田の天庵公が最強であろう!


佐竹(笑)
7名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 06:36:31 ID:0p/xBfND
小田氏治って今川氏真と似てるよね
8名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 07:09:55 ID:WxrHtzvR
那須、蘆野、伊王野、千本、福原、大関、大田原
那須七騎
9名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 09:40:02 ID:XVyYQ/kq
千本ノック
10名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 10:40:00 ID:01RaQZJa
おだうじはる「やっべ!北条がまたきた!謙信さんを早くよべー」
謙信「またかよ〜」

北条「ちっ、ヤベエのが来たぞ、今日はこんくらいにしてやらあ逃るぞ!」
暫くして…

おだうじはる「また北条がああ、謙信さんをよべ」
謙信「またかい〜自分とこの火の粉は自分で払えよ〜、なにやってんだよ」

おだうじはる「だって〜」

11名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 10:40:58 ID:ZsIQ2lOL
>>1
乙です
12名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 16:07:31 ID:8/b7F/EJ
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。

※謙信自身が敗北を認めている書状↓
 晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
 かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日                  虎(花王)
[三洲寺社古文書]


【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。

1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。

上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。

謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである

本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
13名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 05:35:28 ID:ICAWepo+
唐沢山城って有名なの?
裏山にあるんだけど@佐野市民
14名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 06:23:45 ID:OcjwZlQB
>>13
天と地と
15名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 09:39:03 ID:MpVxCEpZ
>>13
コーエーゲーではへっぽこ城ですが、上杉謙信が落とせなかったようですよ?<唐沢山城
16名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 13:27:10 ID:Tdvp44qd
北条軍35000人が包囲する中
援軍に来た謙信が44騎で突っ切って入城したとか言う
三国誌演技ばりの逸話があるのも唐沢山だったなw
17名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 16:21:15 ID:T8bEYFtt
合戦大事典にはのってないね、そのエピソード

基本的に一時期を除くと佐野昌綱は北条方
永禄十一年(1568)一月に、北条を撃退した戦はしてるけど
18名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/24(木) 11:52:31 ID:zq7S7Fbx
下野って国人クラスの存在が居ないよね。
佐野、皆川、壬生は小さいながらも大名だし。
那須七騎辺りがそうかな?
19名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/24(木) 12:36:53 ID:0scEPiqt
下総だけどたまには結城のことも思い出してやって下さい…
20名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/24(木) 13:21:38 ID:FQE7hT0K
>>18
国人の定義がはっきりしないが
規模的には皆川や壬生なんかより那須の方がかなり大きい
下野北部は大半那須領だからね
佐竹・千葉・宇都宮などと並んで関東八家に数えられている
21名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/24(木) 16:27:38 ID:F2YBw/H/
ちょっと脱線しちゃうけど、与一って十一男だよね、
でも那須家をつぎ、更に養子に兄(五男)資之を…この系統が嫡流

那須七騎のうち、福原は資之の子資広(与一の兄四郎久隆の養子)、
蘆野と伊王野は資之の養子頼資、千本は与一の兄十郎為隆の系統で、
大関と大田原は丹党


22名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/24(木) 20:29:44 ID:zq7S7Fbx
>>20
那須氏と那須七騎の区別が付かないのか?
23名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 04:39:36 ID:PNaKsZc2
国人は地頭や荘官の末裔が多いが、そもそもその両者とも下野にはあまり存在しなかったのではないか?
24名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 11:15:18 ID:xEzqaKOA
>>18
国人っていう概念がなかったのでわ?

以前、町内会レベルの地域しか支配してないのに、「大名」と紹介されていた
下野大名がいたはず。平石氏だっけな?
今の本田技研の研究所当たりにいたらしいが
25名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 16:32:54 ID:n7caQM+F
国人って西国っぽいイメージと言ってみる

例えば常陸では大掾も江戸も、国人とは言わない
大名とも言わないが
26名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 17:12:06 ID:mrS1/DHf
大名っしょ
27名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 18:38:24 ID:335Cn3GC
土豪ともいえる
28名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 19:54:50 ID:3vshDa2Z
豪族かな
とくに大掾は国香以来の名門だから
29名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:32:06 ID:PNaKsZc2
南方三十三館はランク的には国人だが、一揆とか組まんよね。
一揆といえば、武蔵七党以来の平一揆とかはいつの間に消えたんだ?
30名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 15:10:01 ID:MS85cFmB
応永元年(1368)に敗退し、多くは伊勢に逃れたとされているんじゃ
31名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 23:17:53 ID:lmXrtZCP
大田原氏や大関氏は、戦国時代から明治維新まで、一度も国替えが無い外様大名
として、珍しいらしいよ。
32名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 23:19:08 ID:4sRpQqOA
義宣の小説読んでるけど、秋田移封が泣ける・・
33名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 00:23:17 ID:YqQ7YG0a
幕末の大田原城攻防戦は珍事だな
34名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 20:28:53 ID:bcvau+8h
茨城県立水戸第一高等学校の校舎が水戸城本丸後だったという事実を知っている茨城県人は少ない
35名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 21:24:29 ID:YqQ7YG0a
旧県庁跡の三の丸付近はあれだけ深い掘があるから一目瞭然だが
本丸の掘切は国道やら電車が通ってるから分かりにくいかもね
でも太田城に比べればマシだよ
太田は完全消滅…
36名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 23:51:03 ID:tb4YbyhC
>>34

しかも、二の丸と合わせて城マニアにとって見学しずらい場所だよな。
小・中学校・女子高・女子高のテニスコートに、
本丸の一高ってカメラ片手にうろうろしたら怪しいやつになる。
37名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 04:49:44 ID:QQicupVS
伊達や芦名が絡むのがまた面白いんだな
38名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 06:24:13 ID:3WLHm9/i
佐竹なんか伊達の敵では!ない
39名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 08:24:48 ID:bnm91B1D
捏造の城・宇都宮城へようこそ
40名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 12:17:30 ID:u8IUHEAz
宇都宮城復元するらしいね
非常に中途半端に
41名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 20:38:51 ID:Ugrr2300
宇都宮氏は全国色々な場所に散らばってますね
42名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 19:10:27 ID:bS150Th+
>>32
kwsk


もしかして近衛の書いた「佐竹義宣」か?
43名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/08(金) 02:34:45 ID:4fgqERNj
>>41
本家の跡目相続収めに、鎮西からきますた城井とか
44名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/08(金) 08:54:48 ID:zJOIoLWo
>>41
宇都宮本家がお取りつぶしになった後水戸藩に拾われたり、瀬戸内海で水軍やってたのが
いたり、北九州にぶっ飛ばされて黒田家に殺戮されたのがいたりしたからな

ちなみに宇都宮市に宇都宮さんはほとんどいなかったはず。ルーツとしても伊予宇都宮や
豊前宇都宮の血を引く人の方が多かったような
45名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 15:49:32 ID:0wDa9DoC
伊予宇都宮氏

承久の乱で宇都宮頼綱の子頼業と時朝が活躍
頼綱が伊予守護に任じられ、頼綱の孫景綱の三男泰宗の子、貞宗が伊予に土着

鎮西信房流宇都宮氏

宇都宮初代宗円の孫信房が、平氏追討に功を立て、豊前に所領を得、城井に居城し、
子孫が分出し豊前国内で勢力をはる
46名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 17:26:42 ID:YKmvvbLW
那須七騎は、固定じゃなくてその時々の力が有った六勢力と主家の那須家で
那須七騎じゃなかったかな

あと蘆野じゃなくて芦野だろ
47名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 12:35:25 ID:CkgMvKHv
蘆も芦も同じだよ
芦は蘆の略字だからどっちが正しいかと言えば蘆だろうけど
48名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 16:22:46 ID:5ub3f8Gk
葦ってのもあるし
49名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 22:16:23 ID:c0xBw+Tt
>>47-48
芦名氏の場合、会津の戦国大名は「蘆名」と表記されることがあるが、江戸時代伊達家に仕えた分家は「葦名」と
表記されている。
理由はよくわからないけど、江戸時代の今川家で「今川」と名乗れるのは本家だけで分家は「品川」を名乗ったのと
似たようなものか?
50名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 22:53:14 ID:4C0ADYq9
音さえあっていれば当て字でも対して問題ない
51名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/12(火) 11:25:49 ID:y0Hcy0dC
今川分家の品川氏って今の品川区の名の由来と関係あるの?
52名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/12(火) 11:36:08 ID:8MZCqAm0
天才芸人品川さん
53名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/12(火) 12:32:43 ID:yyxX0h2i
>>49
葦名と蘆名は同じだよ
両方使われてて特に明確な区別はない
54名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/16(土) 12:40:55 ID:seThMo/P
ローゼン大臣こと麻生太郎が宇都宮家の流れを継いでいることについて
55名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 10:45:38 ID:u8uySg7G
那須氏て本当に戦強いな
56名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 22:43:08 ID:7UL8r9YR
宇都宮さんは今でも浅野さんを恨んでるのかな
57名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 12:43:36 ID:i/sqUirH
なんかここら辺りで堤防とか整備して没後に正何位を授かった武将がいた気がしたんだが
名前が思い出せない
58名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/28(木) 19:53:58 ID:CFZm+2ni
大正四年に従五位を追贈された大谷休伯なら、上野だべ
59名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/02(月) 01:28:51 ID:qzuxWsqU
>>44
分家筋なら沢山いる。宇都宮って苗字ではないけど。
某町の前町長さんとか神社の神主さんとか。
60名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/05(木) 11:08:28 ID:RGoTbs/K
下野南部=佐野氏のイメージ強いけど、その頃隣の足利市ってどうだったんだろ?
足利学校くらいしか思いつかん
61名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/05(木) 12:02:07 ID:yKeg6ODx
長尾の本家ともいわれる、足利長尾がいるべさ

もともと鎌倉にいたけど、寛正六年(1465)享徳の乱の功で、山内上杉の推挙で足利の代官職を得、翌年入部
謙信と後北条の争いでは越後方だったが、天正十二年(1584)後北条に降伏

秀吉の小田原攻めで、小田原に籠城、敗戦後没落
62名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/05(木) 12:02:11 ID:IL4rFpPn
>>60
足利長尾氏がおるやん
63名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/05(木) 12:03:32 ID:yKeg6ODx
タッチの差だったね
64名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/05(木) 12:06:49 ID:IL4rFpPn
>>63
あんたには負けたよ
65名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/05(木) 15:42:19 ID:ezZuXxZM
下野南部と言えば名族小山氏がいる
66名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/05(木) 17:40:56 ID:rJ82spMj
>>65
北条に付いた裏切り者だ。
67名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/05(木) 18:12:10 ID:ezZuXxZM
>>66
むしろ北条につかなかった下野の勢力なんて僅かしかいないだろ
というか皆無に等しい
そもそも裏切り者って誰を裏切ったんだよw
68名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/06(金) 01:32:05 ID:SH6C3kC/
宇都宮と那須くらいじゃない?
その宇都宮にしたって、後五年あれば降伏か滅亡かしていたと思うけど。
69名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/06(金) 10:01:09 ID:Eg4tfD9F
宇都宮も何度か北条に服属してるよ
人質も送ってるし
那須も北条側について幾度も宇都宮領や佐竹領を侵食している
70名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/06(金) 14:51:46 ID:rsNQncNQ
>>66は佐竹。
71名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/06(金) 16:38:09 ID:Eg4tfD9F
佐竹も古河公方を通じて北条と結んだ事があったりする
72名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 02:10:10 ID:q3DkbFLG
じゃ、反北条を貫き通した奴は、本当に皆無だな。
73名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 08:36:13 ID:6jbo0X+Q
みんな生き残るのに必死だったから
74名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 18:56:42 ID:VW30R52u
謙信だって北関東衆の反対押し切って北条と同盟したんだしな
75名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/08(日) 00:40:51 ID:dxjz6n0X
>>66は言いがかりと言うことで決着。

まあ大名が滅ぶと言うことは、今で言えば倒産だからな。
自分と家臣の生活のためには背反も仕方ない。
76名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/14(土) 00:35:27 ID:FkJmLnqD
倒産した後残った社員が他社に行く辺りも似てるな。まあ、倒産社長ばかりかき集めていた
水戸徳川家みたいなところもあるけど
77名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/14(土) 03:51:39 ID:1yuaGWpC
しかし現代では倒産したからといって農家になる奴はいない。
78名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/14(土) 15:24:50 ID:Vwaexne9
昔から農地を持ってるやつならともかく新しく農地を手に入れて
なんて相当の資金がないと無理だからな。そのくせ実入りは少ないし。
金持ちの道楽だろ>農家への転職
79名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/14(土) 18:13:59 ID:1yuaGWpC
政治家も落選したら帰農して庄屋にでもなるべきだよな。
80名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 12:43:24 ID:T/NrHpHf
とりあえず佐賀関連の話すると、龍造寺は秀郷系だったよな?
81名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 13:12:25 ID:pcsspZcF
宇都宮城は天守がないんで残念。復元する機運が高まらない。
戊辰のときに白虎隊みたいな美談があればよかった。
82名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 14:43:39 ID:sCPvoNGz
宇都宮城は復元始まってるんじゃなかったっけ?
83名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 00:04:42 ID:MuQJV98S
>>80

佐賀を出すな佐賀を

ここは佐竹・小田・宇都宮・小山のスレだぞ。佐賀はダメだ。
佐賀はいかん佐賀は
84名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 07:02:04 ID:kYCvGEiO
はなわ
85名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 10:42:52 ID:3s1BApVr
>>83
小山→結城→下総→千葉→佐賀
86名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 18:52:07 ID:oIa8aEpO
>>85
どうやったらそうなるのか俺は気になる。
87名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 19:40:40 ID:su15u9Pt
ていうか県名なのか旧国名なのか大名なのかすらわからん
88名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/27(金) 07:03:55 ID:lDzYVA3k
水谷正村や福原資孝とか、地味な名将が多いね。
89名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/27(金) 19:35:10 ID:VlYs9arG
壬生綱房や芳賀高経みたいな野心家もいる。
地味ながら面白い地域ではある。
90名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/27(金) 19:42:02 ID:8qaNaDzO
何故かマイナーだが多賀谷重経も面白い人物だよ
北関東で一、二を争う大勢力にしたし
下手すりゃ佐竹や宇都宮より大きいのではないかと思う
91名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 01:04:41 ID:WqQK6kPD
関東って全体的にマイナーだよな
北条家もメジャーではあるが、メジャーな大名の中だと地味だし
92名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 06:00:32 ID:XZDV7FuD
小田天庵(氏治)は暗愚って評価は定説かな?
傾いた小田家をそれなりに支えたと思うのだが。。。

>>91
畿内を制してこそ、天下という都合上仕方ないわな。
当時はかなり田舎だし。
93名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 15:47:16 ID:ke2Z418q
>>92
別に暗愚じゃないと思うよ
何度も城を落とされて、また城に復帰を繰り返してるから
94名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 12:35:42 ID:0W/g0FT1
天庵のしぶとさは異常だなw
一体何回負けて何回城を落とされた事かわからん
でも天庵自体は暗愚と言われても仕方ない人物かもしれない
というか戦が下手すぎる
菅谷氏をはじめとする家臣団が頑張ったから存続できただけで
でも政治力や人望はあったのかもしれない
家臣達も見離さず氏治を支え続けたし
領民も小田氏贔屓で別の勢力が小田領を支配しても
年貢を納める事を拒否して統治に難渋した
よくわからん人物だ
95名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 01:31:12 ID:qGroDC1q
天庵は直情径行なんだよね。まっすぐな感じ。
96名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 13:48:19 ID:DYVwVCbN
>>94にレスするだけのために(?)常陸小田氏の盛衰って本を買って来てしまった・・・
まだよく読んでないけど、小田城が何回落ちているか抜粋

・弘治二年(1556)三月 結城氏に海老島の戦で敗れ、小田城落城、氏治土浦に落ちる
・同年 八月 氏治小田城奪還

・永禄七年(1564)一月 上杉、佐竹らに山王堂の戦で敗れ、小田城落城、氏治藤沢・土浦に落ちる
・同年 八月 氏治小田城を奪還
・同年 十一月 佐竹勢に攻められ、小田城落城、氏治土浦へ
・永禄八年(1565)十二月 氏治小田城奪還

・永禄九年(1566)二月 上杉、佐竹勢の攻められ、小田城落城
・同年? 時期不明ながら、氏治小田城を奪還

・永禄十二年(1569)十一月、太田三楽、梶原、真壁らに手這山合戦で敗れ、小田城落城、氏治土浦、藤沢に
(こののち小田氏の主力は、土浦、藤沢両城に移る)
・元亀二年(1571)末 氏治小田城を奪還
・元亀三年(1572)末 太田三楽により、小田城最後の落城
(こののち、藤沢城→土浦城→手子生城と順に落されていき、滅亡)
97名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 15:30:14 ID:BGY6IBVY
>・永禄九年(1566)二月 上杉、佐竹勢の攻められ、小田城落城
>・同年? 時期不明ながら、氏治小田城を奪還

このときは「落城」はしていないんじゃないかな。
氏治が小山と結城を頼って和議を申し入れたので、小田城が開城された。
そのかわり謙信は城中の人々(小田家臣の師弟とかだと思うけど)をみんなとっ捕まえて、
身代金を要求した。有名な話やね。
氏治はそのまま在城を許されたっぽい。

小田がここまで城を何度も取り返せたのは、やっぱり鎌倉時代からずっと小田領だったってことと、
太田梶原真壁というのが、小田に対して決定力をもってなかったってことによるんだろうな。
実際には小田のほうが動員力はあったわけで、太田らがなんとか戦術でしのいでいた感じ。
佐竹もこのときは奥州下野で忙しくて、小田のほうは何とかなっているのでいいやと後回しにしていたっぽい。
たまに手隙のときに来て放火する程度。

ちなみにこの永禄九年の小田攻めでこういう落居の仕方をしたことが、
のちの佐竹の戦略に大きく影響をしたようではある。
98名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 21:11:04 ID:Swn/ZjgB
>>96
小田強すぎてワロタw
99名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/05(日) 17:38:50 ID:plOLYeoc
なんつーか、負けん気だけは一人前の今川氏真みたいなんだな、天庵公は。
100名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/05(日) 17:48:01 ID:k0OOdYx9
>>96
94だがレスありがとう
やはり天庵は素敵な男だなw
戦じゃ弱いが占領軍は統治が難しく結局放棄せざるを得なかったようだ
まあ、何度か勝った事もあるようだが決定的な所で弱いんだよ…
土浦城主の菅谷氏もいつも逃げ込んでこられて大変だったなw
101名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/05(日) 22:48:22 ID:GAXGMFmX
小田城ネタですね了解

近くに住む者ですが、今時期は収穫も一段落で本丸周辺の城郭がクッキリ見えるのでオヌヌメ
ナイスな平城だと思います

激戦乱、南北朝時代の遺構がなぜ今日まで遺ってるかと云うと統治されてた祖先から、今だに住民から尊敬されてるのだと(親類談

アクセスは非常に悪いので大きい車では厳しいです

で..関城、大宝城ネタを誰か詳しくおながいします
102名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/05(日) 23:33:11 ID:60b74myQ
氏治の父・小田政治は足利政知の子で、小田家の養子になったってのはホント?
103名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/06(月) 06:58:32 ID:cnZfZFGH
つーか、小田氏は何で山城作らなかったの?
104名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/06(月) 08:52:13 ID:XpWaN5Ts
小田氏の本拠地は山ないし
105名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/06(月) 09:58:38 ID:HGJuxjkS
筑波三
106名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/06(月) 12:09:07 ID:cnZfZFGH
>>104
太田市の金山城なんて大した山じゃないぞ。
筑波山の南側を使えば作れそうなものだってこと。
107名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/06(月) 16:12:59 ID:rI2rBhKC
小田には山城もあるよ
小田城の向かいの山に前山城と言う山城が築かれている
でも、平城の方が使い勝手がいいし小田城があれだけの大城郭に発展したから
ほとんど利用される事なく放置されていたようだ
古い時代は居住区である館と篭城する場合の砦は別個になっていたから
それの名残かもしれない
市史などによると戦国期にも整備されてたような事は書いてある
108名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/07(火) 10:55:45 ID:M6xmIfYc
いくら山城に篭っても後詰めが来ないと意味ないもんな。
109名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/07(火) 13:57:32 ID:s9Mw04gT
下野はよう知らんが、常陸で山城らしい山城って笠間城くらいじゃ

ああ男体山(現在の難台山)城(砦?)もかな
110名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/07(火) 13:59:03 ID:s9Mw04gT
>>97
勉強になります、ありがとうございました
111名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 19:52:02 ID:bPdEBMLL
>>109
水戸以北は山城が多いよ
まあ、小規模なものばかりですが
県境あたりになると月居城や金砂山城みたいな凄い要害にある(ほとんどただの山だけど 

下野の山城だと
北条、上杉、佐竹なんかに攻められまくった唐沢山城が有名だね
あと那須氏の居城烏山城もかなり大規模な山城です
織田信雄もちょこっと居た事があったり
112名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 14:48:37 ID:rK7cnoWk
>月居城
袋田の滝の上の山ですよね
>金砂山城
佐竹秀義が頼朝相手に立籠もった城ですね
そうそう義舜が山入相手に立籠もったか

>ほとんどただの山だけど
非常時に難を逃れるために、常時家臣をおいていた、感じの城ですよね
113名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/27(水) 09:12:23 ID:wmL1Mu5n
宇都宮国綱の所領ってどのくらいだっけ
回易の理由が浅野の養子縁組を断ったからのが原因だけど嫡子に義綱がいるよね
114名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/27(水) 12:36:05 ID:pErHxYVP
下野の矢板市にある川崎城は崖の上に建ってたな。
街道沿いで一面は平野に接してるから守り難そうだけど。
115名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/27(水) 16:50:37 ID:CaWEPiXh
>>113
表高十八万石、実高三十九万石だったらしい
改易になる表向きの理由としては、この差が不正だと
116名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/27(水) 17:33:30 ID:SN2bbFNy
浅野との確執がどこまで事実なのかわからないが
表高と実高が違うなんてどこの大名でも同じ事だし
宇都宮は名門だが秀吉が警戒しなきゃならないような大名ではない
何かしら裏があったのかもね

ちなみに宇都宮の嫡流は水戸藩の家老になった
あと下野と言えば那須家は割と優遇されてるね
大田原・大関は関東で唯一外様として中世以来の領地を幕末まで維持した
那須本家は嫡流が無嗣断絶により改易されたが
分流が交代寄合(在国統治が許された準大名的旗本)として存続した
蘆野・千本・福原も交代寄合として存続
伊王野氏だけは無嗣断絶してしまったが分流は水戸藩に仕えた
117名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/28(木) 23:08:57 ID:B7kMoI+6
下野の大名の家臣にいやに北条氏が多い気がする
宇都宮家臣の北条勝時とか武茂家臣の北条義興、守直やら

執権北条氏って下野に所領持ってたのかな?
そうだとしたらその傍系かも
118名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/12(金) 00:24:22 ID:KjSc+LyG
下野宇都宮の皆様はアンチ浅野ですよね?
私の友人の宇都宮市民は「宇都宮氏は吊り天井事件を起こした馬鹿だ」と嘆いていますが。
119名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/13(土) 18:52:43 ID:DWE0aki0
歴史通なんだか歴史音痴なんだかワケわからんやつだなw
120名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/21(日) 15:59:28 ID:nhJIYTEy
宇都宮城の復元も進んでいるようだね
常陸太田城も復元して欲しいところだが絶対無理だな
というか元々たいした構造物ないし
121名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/06(火) 18:37:17 ID:cjpK3C3s
スレタイに入ってない那須や結城が可哀想。
122名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/06(火) 19:30:03 ID:xarOuV7q
入り切らなかったんだよ
だから守護大名を載せたのさ
ちなみに結城は下総だよ
123名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/06(火) 21:59:24 ID:aEcYDB8q
自分は小山より那須のほうがメジャーなイメージがある
124名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/06(火) 22:59:29 ID:3/Jl9u7K
那須には素直に佐竹与党としてがんばってほしかった
125人間七七四年:2007/02/19(月) 23:25:34 ID:YyiuHQyU
おいおい、芦名のことは、取り上げてなぜ伊達の読み方についてはなにもいうわないのだ?

伊達(だて)これが全国区の呼び方だろ?

戦国期は伊達(いたち)だったと、どこかのサイトでみたことあるよ
126人間七七四年:2007/02/23(金) 00:40:05 ID:VfjGe/cB
領民には慕われてたらしいね、小田氏治
戦は限りなく弱かったけど
127人間七七四年:2007/03/09(金) 22:55:37 ID:UyTnfmYb
彼個人は猛将だけど、猪武者ぽいよね。
128人間七七四年:2007/03/10(土) 11:34:28 ID:DhFpdZ4P
知ってるとは思うけど一応
ttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/1808/
129人間七七四年:2007/03/10(土) 23:49:01 ID:jyT8ba0L
ところで梶原政景ってどう? 反覆常なくて佐竹氏としても相当持て余してる
印象があるんだけど(基本的にゃ反北条だけどさ)。関東の小領主は独立志向
強くてマジでまとめるのに手こずるよな。北条とか佐竹とかホントご苦労なこって
と思うよ。
130人間七七四年:2007/03/12(月) 07:59:21 ID:YD08RANY
>>129
【太田資正】さいたま〜の武将【成田長泰】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1149995235/

こっちの方が詳しい人がいると思うよ。
131人間七七四年:2007/03/17(土) 19:35:27 ID:K90N+ue9
読売新聞の記事を見て、宇都宮城の復元状況が気になって検索してみたら
土塁に変な穴が開いている・・・orz
まさかあれも忠実に復元なんですか?
132仙台藩百姓:2007/03/17(土) 19:44:40 ID:275ig+1c
ほんとだお
宇都宮城の城門はトンネル型だったのかお?(;^ω^)
133人間七七四年:2007/03/31(土) 12:10:03 ID:6kY+TmU+
近所のアリ達が活発に動き出してきた
暖かくなったね
134人間七七四年:2007/03/31(土) 13:21:00 ID:vRfTfN7J
>>131-132
戊辰戦争で旧幕府軍から攻撃された際、藩主は抜け穴から脱出したとか言われてる。
城門があの形だったかどうかは分からないけど。
135人間七七四年:2007/04/04(水) 03:21:07 ID:XnxRmxCC
山上照久(道及)ら、「佐野四天王」について詳しい人いる?
136人間七七四年:2007/04/08(日) 11:32:19 ID:lViQhHEB
多賀谷氏祭りで多賀谷三経の鎧展示されるね
137人間七七四年:2007/04/08(日) 14:03:20 ID:8Viw9UXE
>>136
今年はやるの?
138人間七七四年:2007/04/09(月) 21:29:45 ID:w2Bf/itU
15日だと思う
139人間七七四年:2007/04/10(火) 08:17:27 ID:3BQTW1HP
祭りやってもらえるとは
慕われてる家なんだな
昔からなのか?
140人間七七四年:2007/04/11(水) 11:43:48 ID:4pGZdfFi
土日に城巡りしてきたけど
どこでも花見やってるね
初日は
小田→土浦→小幡→水戸→太田
二日目は
真壁→笠間→小山→大田原→烏山
距離がありすぎてゆっくりできなかったorz
一日二箇所ぐらいにしたほうがいいね
今度は結城・古河・唐沢山あたりに行きたい
笠間城て初めていったけど
まさかあんなに立派なものだとは思わなかった
登るのは結構しんどいけど
141人間七七四年:2007/04/12(木) 08:34:06 ID:XyFYwb+O
このような裏手法を佐竹市長が使っているのは明白だ。
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/police/1153511952/680-684
秋田市民および秋田県民は、自分自身の娘、妻、あるいは女性の場合は自らが
以下のような佐竹市長の組織犯罪犠牲にあってもよいとお考えの方以外は
今後、佐竹市長に票を入れるべきではない。佐竹市長への落選運動の全県展開が必要だ。
こんな悪質なローカルルール裏手法は許されない。
142人間七七四年:2007/04/12(木) 12:50:11 ID:qyJv2f2a
なにこの毒電波
143人間七七四年:2007/04/12(木) 18:18:49 ID:QrFr+pWi
平氏流武田氏(常陸)は何代まで続いたの?
144あぼーん:あぼーん
あぼーん
145人間七七四年:2007/04/13(金) 10:25:56 ID:yarWOAj/
平氏流武田とはなんだ?
146人間七七四年:2007/04/16(月) 17:08:56 ID:cr19FXob
悲劇の武将
結城秀康
家康の二男にして、秀吉に人質に出され
関東の名門結城家の養子として家督を継いだ男
147人間七七四年:2007/05/15(火) 00:15:28 ID:7Ydbwi4d
>>146
裏切り者の晴朝のせいで名門とは云え小大名の結城を継がされて貧乏くじを引いた秀康。
佐竹・宇都宮・結城の三国同盟の証として宇都宮から結城に既に養子に入ってた朝勝が可哀相。
秀康が結城を継が無かったら、もっと大身の大名に養子に行けたかも…。或いは、徳川の家督に…。
148人間七七四年:2007/05/28(月) 16:53:30 ID:qSt6SCMh
がんばれ
149人間七七四年:2007/05/30(水) 16:31:52 ID:xNZyTxd2
>>117
北条勝時は執権北条氏の末裔。宇都宮に亡命して客分になってたけど土着化して家臣になったそうです。改易の城だと結構開明的な秀才だったみたいだけど、詳しい人詳細よろ。
150人間七七四年:2007/06/08(金) 18:50:18 ID:dqp6Q/ZR
あげ
151仙台藩百姓:2007/06/09(土) 06:10:45 ID:3hnLZ469
勝時が首斬られた後、北条氏はどうなったのだおうね
御家を守ろうとした高光、勝時
血筋を守ろうとした高武
いずれにも道理あれども
国綱には他家を継いでるとは言え同腹の弟が二人いる
わざわざ浅野から養子貰う必要があるとは思えないお
そもそも当時国綱は30歳になるかならないかぐらい
弟達は当然もっと若い
慌てて養子貰って世継ぎ決めるほどの歳でもないお
実際翌年に嫡子が誕生している
酷い押し付け話しだお( ´ω`)
国綱は改易の上配流
弟の朝勝は結城家を追い出され
高武も改易の上配流
宇都宮は豊臣政権に酷い目に合わされたおね(;^ω^)
152人間七七四年:2007/07/22(日) 15:27:53 ID:vDHceXIY
>>38
無礼者、高々奥州の田舎侍の末裔が!
伊達の盗人どもこそ新羅三郎義光様以来の源氏屈指の名門佐竹氏の敵ではない。
153名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 05:06:01 ID:5eBCqSSs
下野の勢力地図がよくわからん。
中央の現宇都宮市あたりの宇都宮氏が最大勢力
北部大田原市、黒磯市あたりの那須氏が第二勢力
この2者は北条、佐竹と結んだり離れたりを繰り返しながら、基本的に対立関係。
そこまではなんとなく分かるが、
南部の佐野、小山、壬生、結城あたりとの関係になるとさっぱり。

だれかすっきりと解説してくれ。
154名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 08:02:13 ID:XXo6hsks
>>153
>南部の佐野、小山、壬生、結城
一応宇都宮氏の血縁だったりするから、宇都宮の勢力側なのかな
155名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 08:20:01 ID:j8ePJHlQ
結城は下野じゃなくて下総だからね
なんか結城って場所がら誤解されやすいんだよな
歴史サイトもたまに下野やら常陸やらの表記してるとこあるくらいだし
156名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 11:16:37 ID:cUsgyw1k
佐野小山結城は下野の中央部というよりは国境に近い勢力で
古河公方家を支えた豪族じゃないの

と適当なことを言ってみる
157人間七七四年:2007/07/29(日) 21:51:36 ID:Q3BsEf/j
戦国時代、宇都宮氏の勢力は常陸や下総まで及んでいたよ
158人間七七四年:2007/07/29(日) 23:55:32 ID:gVPud2us0
位置関係を考えても下総はない
下総のうち古河〜石下あたりの北側はすべて結城の支配地
159人間七七四年:2007/07/30(月) 00:16:34 ID:fkp46xXt
>>158
国守職がいたよ
160人間七七四年:2007/07/30(月) 00:45:38 ID:Ta7srfvj
国守職ってだれ?
161人間七七四年:2007/07/30(月) 22:36:43 ID:gHtq2fdf
常陸の笠間は宇都宮支族だったか…。
一方、下野北部の宇都宮支族の武茂・塩谷は佐竹傘下?
162人間七七四年:2007/07/31(火) 00:02:42 ID:hK6Utf8p
>>161
笠間は宇都宮氏族で佐竹の傘下
下野北部の塩谷も一応佐竹の傘下とみていいと思う
163人間七七四年:2007/08/14(火) 21:17:44 ID:8BWUOmpU
小田原泥棒の伊勢のあぶれ者の子孫が必死だなw
164人間七七四年:2007/08/15(水) 01:00:17 ID:4Mk8M55f
えっと、スレ間違えてません?
165人間七七四年:2007/08/22(水) 18:07:28 ID:VJ0/qhXd
あげ
166人間七七四年:2007/08/23(木) 01:00:08 ID:OALHGsbF
>>162
傘下でも佐竹の家臣じゃないよね?。武茂や塩谷は家臣化したけど…。
笠間領は宇都宮氏の支配下じゃなかった?
詳しい方、宜敷く。
167仙台藩百姓:2007/08/23(木) 02:44:04 ID:wQWXfwlM
笠間も塩谷も宇都宮に属していたと思われるお
武茂と言い笠間と言い
宇都宮は一族の領主達を統制する力を失っていたようだお

佐竹も宇都宮一族を攻めて服属させたり
宇都宮家中を追われた者を召し抱えたり
佐竹と宇都宮の関係も案外微妙だお
168人間七七四年:2007/08/23(木) 03:13:08 ID:OALHGsbF
宇都宮広綱・国綱父子時代以降は佐竹との関係は磐石でしょ?
太閤検地で笠間は佐竹の領国ではなく宇都宮領でOK?
169仙台藩百姓:2007/08/23(木) 14:21:07 ID:wQWXfwlM
広綱、国綱時代も北条に通じたりしてるから
必ずしも盤石であったわけでもないお

笠間は宇都宮領だね
だから常陸内でも佐竹領に含まれる事はなかった
宇都宮改易後は豊臣系が入った
その後も水戸藩にはならず笠間は別個の藩として存続する
170千本資政ってどお?:2007/09/04(火) 15:07:11 ID:L45VZzNt
1つ質問があるのですが、宜しいでしょうか?
大関高増(未庵)の正室が佐竹義重の大叔父の娘と聞いたのですが…
具体的には誰でしょうか?
レスお願いします
171千本資政ってどお?:2007/09/04(火) 15:38:58 ID:L45VZzNt
訂正
×未庵→○入道安磧
172仙台藩百姓:2007/09/04(火) 18:50:35 ID:bXyPbL+7
>>170
義元だお( ^ω^)
佐竹義舜の三男
佐竹義元、宇留野義元、部垂義元
初め宇留野氏の名跡を継ぎ、後に佐竹重臣小貫氏の部垂城を奪って部垂義元を名乗る
これを不快とした兄義篤と戦になり十二年の抗争の末に滅ぼされた
反逆者の娘だから微妙かも(;^ω^)
でも義重は高増の子晴増をかなり可愛がっていたようだお
ちなみに高増の三男で初代黒羽藩主大関資増の正室は佐竹義久の娘
どちらも微妙なラインだお
173人間七七四年:2007/09/05(水) 13:39:53 ID:7Gcb/PC7
宇都宮国綱の正室も義久の娘だったと記憶してるが…。
佐竹本家(義重)に娘が少なかったから、佐竹三家実力筆頭の義久の娘が近隣の豪族に嫁に出されたのか…?婚姻は、当然義重の命令って事だネ?
174北条幻庵ってどお?:2007/09/13(木) 16:08:01 ID:MrzzvSkE
>>172
レスご丁寧にありがとうございます。
私はてっきり南義里あたりと思っていたのですが…これではっきりしました。

入道安磧は下野の姦雄!?で、確か弟と息子で那須家中を差配したんですよね。
もう少し、彼の智謀を高く評価しても良いと思うのですが…知名度がなさ過ぎです。

晴増って確か小峰義親の養子になったものの、のちに義広が来たから跡継ぎになれなかったんですよね。

追記
仙台藩百姓さんの顔文字や独特の言い回しにはいつも癒されます。
これもthanks.

>>173
確か義宣の養女で入ったはず!!
うろ覚えなので裏を取ってください。
175千本資政ってどお?:2007/09/19(水) 13:27:21 ID:Z1gKtlWb
1つ質問があるのですが、宜しいでしょうか?
1582年5月小山領が小山秀綱に返還された時、
北条氏照の重臣である近藤綱秀も同城していたらしいのですが…
この件について詳しい戦国好きの皆さん、レス募集します!! 
知っていることなら何でも構いません!! 参考文献だけでもレス求む!!
以上、宜敷お願いします。
176人間七七四年:2007/09/19(水) 17:54:40 ID:F3fjna4L
>>175
織田にいわれて、建前だけ小山に返しただけ
実際は北条のお目付け役がいたということだろう
177千本資政ってどお?:2007/09/25(火) 14:23:22 ID:1cEevNNF
>>176
レス、ありがとう!!
調べてみたら、その通りでした。
黒田基樹著『戦国 北条一族』に載ってました
178人間七七四年:2007/10/10(水) 16:20:55 ID:oGz26LwK
あげ
179人間七七四年:2007/10/11(木) 13:59:08 ID:N/1xmGhh
小山・佐野・館林が謙信に敵対したのはいつ頃?
和田・忍・騎西の謀反と同時期?
赤井氏館林は落城し足利長尾家のものにされ小山は落城後は謙信・宇都宮に柔順ですが佐野は人質を気にせずに何度となく反乱してますね…臣下が派閥でも組んでるのかな?
両毛地区はわかりづらいですね…古河公方足利藤氏・関宿城主簗田氏との関係もイマイチわからないし。
赤井氏の娘は由良氏との間に子を生み養子に出して足利長尾を支配した?
180仙台藩百姓:2007/10/20(土) 12:13:45 ID:fLuKmMMp
何度も離反繰り返してるけど小田原攻めがあったのが永禄4年(1561)
翌永禄5年(1562)の時点で既に
酒井(上総東金)・佐野(下野唐沢山)・小山(下野祇園)・宇都宮(下野宇都宮)・成田(武蔵忍)・小田(常陸小田)・山室(上総飯櫃)・高城(下総小金)
が北条方へ転じているお
ちなみに簗田氏は鎮守府将軍(関東公方)の臣下
房総付近には足利家の所領が多数あり簗田氏もその管理者の一人だったお
次第に公方の信頼をうけて重臣として勢力を伸ばし
古河公方足利晴氏の正室は簗田高助の娘、嫡子が藤氏、次男が藤政と言うわけだお(家国はどうなんだろうか)
ついでに里見義弘の室も藤氏の同腹妹だお
181人間七七四年:2007/11/08(木) 15:59:42 ID:FQuIh2OS
結城と小山は先祖も一緒だけど
結城政勝の弟が小山高朝になり
高朝の子どもが結城晴朝になりと 二代にわたり兄弟関係。
従って行動はほぼ一緒だね。
182人間七七四年:2007/11/10(土) 20:54:39 ID:AaEXgCtL
那須や大関なんかも思い出してくださいね。
183人間七七四年:2007/11/21(水) 16:07:13 ID:XjpXsVQX
大田原資清・高増親子はなかなかの人物だね
資清は大関宗増に敗れて一度失脚したものの
再び大関と戦い宗増の一子増次を敗死させ降し
嫡男高増を宗増の養子に送り込み那須家中最大の大関氏を乗っ取りる事に成功した
更に次男資孝を福原氏の養子に送り込み、三男綱清に大田原を継がせ
那須七騎中、大関・大田原・福原の三家を兄弟で固めた
更に娘を主君の那須政資の側室にし
後に政資の跡を継いだ嫡男高資を謀殺し
娘の子である資胤を那須宗家の当主にする事に成功した
高増も那須七騎・千本氏を誅殺し三兄弟で那須家中を牛耳った
佐竹・結城・宇都宮・葦名などと戦いを重ね、たった一度も遅れをとる事はなかく
豊臣・徳川時代も巧に生き抜き、高増の黒羽藩・綱清の大田原藩は
関東でたった二つの関東地生えの外様大名として幕末に至った
資孝の福原も大名格の旗本(交代寄合)として残った
184人間七七四年:2007/11/22(木) 10:01:19 ID:pABTak5A
松野氏、武茂氏、茂木氏など国境の勢力について知りたいけど資料が少ない
185人間七七四年:2007/11/22(木) 13:37:23 ID:pABTak5A
ところで、宇都宮城見てきました
なにやらメカっぽい城だったよ('A`)
城風防災施設
186人間七七四年:2007/11/22(木) 13:57:45 ID:Fe118Nzz
残念だったねあれはただの歴史資料館だよ。
宇都宮動物園の園内にある宇都宮城が吊り天井がある本物だよ。
187人間七七四年:2007/11/22(木) 14:42:23 ID:pABTak5A
>>186
そだね
エレベーター付けるぐらいならもう少し本格的に復元して欲しかったよ
それと土塁の真ん中にコンクリで固めた大穴開ける神経が知れん
本丸の中に御殿風展示場建てればいいのに
動物園の天守で虚しさに泣いたけど
復元もガッカリだ('A`)
宇都宮市には期待できん
188人間七七四年:2007/11/22(木) 16:07:08 ID:ym63QSjM
コンクリート天守ほど萎えるものはないよな・・・。
189人間七七四年:2007/11/23(金) 01:28:25 ID:yvFk7gHG
地方自治体のやる事なんてそれが精一杯だろ
190人間七七四年:2007/11/23(金) 09:59:55 ID:Y0GmNvji
なんでちゃんと復元しないのかなぁ
下手に弄られると復元と言うより破壊になる
遺構を崩して全く違う形に作り替えられてしまった所も多い
191人間七七四年:2007/11/23(金) 10:15:45 ID:KbyoQs3G
コンクリはまじ萎える。つか栃木なら小山祇園城や佐野唐沢山城とかも行ってみたいな。
足利長尾や那須や太田原や大関とか欲張ると毛野地域も見たくなるから群馬も行きたくなる…
192人間七七四年:2007/11/23(金) 13:19:22 ID:E/s+8TfQ
予算がないなら、無理に復元せずに遺構の保存をしてくれと。
城址公園とかで言いからさ・・・。
193人間七七四年:2007/11/23(金) 21:15:08 ID:Y0GmNvji
今まで行った常陸下野城跡
◎=オススメ城跡 ○=そこそこ保存状態よし △=暇ならどうぞ ×=ガッカリ城跡
・常陸
月居城 山
西金砂城 山
太田城 ×
鳥子河内城 山
山方城 ○
大山城 ×
多良崎城 ○
水戸城 △
笠間城 ◎
小幡城 ◎
府中城 ×
木田余城 ×
土浦城 △
木原城 ◎
小田城 ○
・下野
烏山城 薮
大田原城 ◎
勝山城 ◎
宇都宮城 ×
祇園城 ○
唐沢山城 ◎
194人間七七四年:2007/11/24(土) 23:21:26 ID:QRX4kOr/
那須は遠いのになんで謙信の小田原出兵に参加したんかな?何かメリットあったんかいな?
195人間七七四年:2007/11/25(日) 01:39:28 ID:krGrCNOz
祭りに乗り遅れてはならじと思ったとか。
まぁ、これだけの関東の諸将が雁首揃える機会なんて無いコトだし
誼を通じるのも悪くないんじゃないか?
196人間七七四年:2007/11/25(日) 09:49:34 ID:8VZ84InR
那須って参加してたっけ?
197人間七七四年:2007/11/25(日) 14:20:47 ID:8VZ84InR
それはそうと大関高増の築いた黒羽城見てきました
近世にも用いられたぐらいなので1万8000石にしては大きな城です
那珂川と松葉川に挟まれた要害に立つ完全な山城で戦国の雰囲気もよく残しております
元から街道が通っていたので現在も車で近くまで登れる
残念ながらニノ丸は体育館、三ノ丸は芭蕉の館なるものが建っていますが遺構の保存状態はまずまず
本丸跡にある模擬の櫓からは黒羽の町が一望できました
空掘、水掘、土塁、堀切などからなる石垣を用いない典型的な関東の山城です
那須系の城では黒羽城と大田原城が見易いと思います

関係ないけどこの辺りのコンビニやチェーン店は看板が茶色なんだね
京都とかもそうらしいけど自分は初めて見た…
198人間七七四年:2007/11/25(日) 14:42:56 ID:8VZ84InR
ついでに時間があったので黒羽から国道294を北上
那須七騎の伊王野や芦野を通過
正直かなり山深いです…
ここから南関東に押し出すのはかなりしんどそう
宇都宮からでもかなり遠い、逆に白河はかなり近い
那須と結城の争いが絶えなかったのも頷ける
そして関東と東北の境目、白河の関を通過
現在は主要街道からうんと離れていて
関を通過するには10kmぐらい山の中を迂回しなくてはならない
まあ、特にたいした物は残ってないですが…
この辺りはちょっとした史跡が散在してるので時間があれば今頃の時期に
紅葉を楽しみながら回ってみるとよいかもしれません
199人間七七四年:2007/11/25(日) 16:47:56 ID:8VZ84InR
国境を越えるとそれほど時間もかからず白河市内へつく
小峰城は駅前にそびえ立っているからすぐに気がつくと思う
丹羽長重が築いた総石垣の近代城郭だけあって非常に見栄えはする
石垣は高いが割と規模は小さい
木造の天守(三層櫓)と前御門が復元されていて近代城跡の雰囲気がよく出ている
本丸の一段下の腰郭は薔薇園になっている
一般の観光客にはこう言う見世物も必要何だろうけど
城好きとしては薔薇とか白い噴水なんかはちょっと雰囲気が…
何故かポップな音楽が流れてたりしてorz
まあ、その辺りはスルーするとしてよくまとまった城でした
会津若松、二本松、小峰など福島は結構城跡復元に熱心ですね
栃木県も少し見習って下さい
200人間七七四年:2007/11/25(日) 17:58:44 ID:uLy8Hx0G
白河城は南北朝期の結城氏の展示が素晴らしいね。
北畠や後醍醐などの展示が見れるところは他にもあるのかな?
201人間七七四年:2007/11/25(日) 20:02:46 ID:T+yCbFOZ
那須氏は上杉家譜だと小田原攻めに参加したことになっているけど
関東幕注文には名前が無いようだ。
202人間七七四年:2007/11/25(日) 20:15:53 ID:KNxgR3QK
白河に行って白川城跡見てないのか。
203人間七七四年:2007/11/25(日) 22:35:00 ID:8VZ84InR
>>201
関東幕注文では佐竹衆と那須衆の名前がないね
いずれも家譜では名が挙がってるけど
この頃白河・佐竹・那須の戦いが激化していたから参加できなかったのかもしれない
佐竹はとりあえず代官を派遣したようだけど、那須もそうだったのかも
あるいは那須は北条寄りだったから参加しなかったとか
204人間七七四年:2007/11/25(日) 22:42:33 ID:8GE49TQk
北条よりというよりは、
佐竹らと対していたからだろうな。
205人間七七四年:2007/11/25(日) 23:15:42 ID:8VZ84InR
>>200
それってニノ丸跡にある集古苑って所ですか?
白河についたころは既に暗くなりかけていたので展示物関連は見る暇なかったorz
>>202
そうなんだよね
小峰城につられて肝心な白河氏の本拠地を見逃してしまったorz
中世城跡好きを自負していたが、やはり近世城跡は存在感があるからなぁ
まあ、今回は那須氏関連が目的だったので白河にはもう一度行かねば…
那須・佐竹の歴史を知るうえでは南陸奥も押さえねばなるまい
206人間七七四年:2007/11/26(月) 22:36:39 ID:gE3FaWsZ
下野の石高が37万4千石
宇都宮家の石高が39万石…
計算が合わん
207人間七七四年:2007/11/27(火) 02:15:06 ID:vh4r9Efb
佐竹が白河結城と戦闘を始めると謙信は白河救援を約束したそうだが小田原出兵の時は白河結城は関東じゃないし参加しなかったのかな?佐野攻撃に不参加し北上した佐竹の牽制の為に、白河と謙信がいきなり共闘する事になっただけ?
つか具体的には白河結城の為にどんな行動したんだろ謙信?
208人間七七四年:2007/11/27(火) 15:17:49 ID:FJuPdR5z
宇都宮城はいつ完成するんだろ、楽しみだな〜
209人間七七四年:2007/11/30(金) 16:00:27 ID:nidjiO0t
本丸の一辺だけ復元して終わりだったら悲しいですね
というか城じゃない・・・ただの土手です
鬼怒川沿いの堤防の方が立派だよ
210人間七七四年:2007/12/08(土) 17:03:34 ID:bkV1iuzG
今度宇都宮城を見に行こうかな?
宇都宮家関連の資料展示はけっこうある?
211人間七七四年:2007/12/08(土) 18:25:01 ID:N8rZbvls
清明館に多少ありますが遠方からわざわざ来るほどではないです
資料を見たいなら図書館にでも行く方がよいでしょう
212人間七七四年:2007/12/08(土) 21:33:50 ID:XwcqqLa9
>>206
宇都宮家は19万石だろ
213人間七七四年:2007/12/08(土) 23:12:51 ID:N8rZbvls
宇都宮氏は確か小田原征伐の後18万石を安堵されたが
検地の結果39万石が打ち出され大幅な石高隠しが発覚し改易の一要因になったとの事
214人間七七四年:2007/12/11(火) 15:02:20 ID:e2kuTMoj
>>213
長宗我部の場合はどうだったんだろう。たしか慶長検地の段階では
9万と8千石だったが、実際には20万石強あったようだし。
215人間七七四年:2007/12/18(火) 07:22:53 ID:bkP6Mk6I
土佐は土地柄、二期作とか二毛作とかで、更に収穫挙げてそうだなぁ。

しかし表高と同じだけの石高を、隠せるもんなのか?
秀吉も浅野長政も実際に宇都宮に足を踏み入れて、
更に北まで実地を見てるはずなのに、感づかないってのも妙な話。

なんか通説になっていないような裏話がまだありそうだな、改易関係は。
216人間七七四年:2007/12/18(火) 22:31:50 ID:LILDhyq9
こういう関係だから潰しに掛かるのもわかるけどな

下野       常陸
宇都宮国綱(甥)−佐竹義重(叔父)
(兄)
   \     / 
    下総
    結城 朝勝(甥)
    (弟)

東海道と東山道を抑えられてる
あと北行くには冬場は雪が素敵な北陸道

朝勝は家督譲られていたのに当時秀吉の養子だった秀康に奪われてるし
217人間七七四年:2007/12/19(水) 13:43:03 ID:E0ZR31B/
>>215
北条を例に挙げれば、
土地、田ならどれくらいの広さで幾ら畑ならどれくらいの広さで幾ら、で規定されていた。
218人間七七四年:2008/01/04(金) 11:56:54 ID:v1L6Y3wY
宇都宮が18万7千石のうち5万石は常陸笠間だから下野国内では13万4千石。
佐野が3万2千石、那須本家が8万石など
219人間七七四年:2008/01/09(水) 22:31:04 ID:xuPsjMpC
この板、栃木県民はいないのか?
栃木関連は反応がなさすぎるw
220人間七七四年:2008/01/09(水) 23:48:12 ID:9i+U2WXk
へぇ〜佐野より那須の方が石高が上だったんだ。
221人間七七四年:2008/01/15(火) 02:25:15 ID:mH85oJeR
>>219
栃木生まれの栃木育ちだけど、いかんせん知識が無いorz
皆のレス読んで勉強してる。
222人間七七四年:2008/02/01(金) 15:09:17 ID:CGJyUhuA
笠間は本家である宇都宮の滅ぼされたんだね。知らんかった。
223人間七七四年:2008/02/09(土) 23:44:15 ID:SNzkO9BG
笠間氏も独立性が高かったからね
佐竹や宇都宮との関係は悪化し、結城とも敵対していたから小田原征伐にも参陣せず
宇都宮宗家に成敗された
笠間氏の本家である塩谷氏も小田原征伐後、反逆の意思ありと宇都宮宗家に成敗された
壬生氏も元は宇都宮に属していたが宇都宮尚綱討死による混乱のなかで
宇都宮と対立して独立し、北条と結び付きを強めて行ったから小田原征伐後改易された
益子氏も結城氏に寝返った為に宇都宮宗家に滅ぼされた
松野氏、武茂氏、茂木氏らも宇都宮一族だが次第に佐竹寄りになり配下に組み込まれていった
宇都宮は関東屈指の実力者だったが尚綱が那須氏に討たれて以来
家中の分裂が加速し苦しい状況に置かれた
224人間七七四年:2008/02/18(月) 16:07:51 ID:JkN6UL6G
皆川家って今の地図でいうとどこらへんにいたの?
225人間七七四年:2008/02/19(火) 12:50:32 ID:NO2i8EHB
226人間七七四年:2008/02/28(木) 12:05:14 ID:rL0GYYOT
多気山城見てきたけど面白い地形だね
城下町形成するには不向きだが絶好の要害だ
227人間七七四年:2008/03/03(月) 20:21:43 ID:PcGSW13B
65 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2006/10/05(木) 15:42:19 ID:ezZuXxZM
下野南部と言えば名族小山氏がいる


小山氏の子孫は現在、小山市に戻って生活しているそうだ。
ご当主は老齢らしい。
228人間七七四年:2008/03/03(月) 21:02:29 ID:731abafO
小山って高家になれなかったんだね。
やはり源氏でないと不利か。
由良でも(偽源氏みたいだが)高家になってるのに。
229人間七七四年:2008/03/05(水) 02:15:52 ID:bEHDlJVe
北条氏に加担して(というか完全に北条の一支城主)だったからね。
しかも嫡男が早死にしているし。
230人間七七四年:2008/03/11(火) 00:20:09 ID:Jf/RYYxj
結城の付属物みたいに見られてしまった部分もあるんだろうな。
結城が徳川に乗っ取られて続いてしまった以上、
付属物の取り立てなんぞ考えないだろう。
231人間七七四年:2008/03/27(木) 15:14:47 ID:Qvnmyz05
もとは結城が分家なんだけどな 高朝が入って結城の分家になっちゃった。
江戸期は水戸家客分だね。
232人間七七四年:2008/04/10(木) 15:40:50 ID:cDUcZIDb
戦国期の小山は目立たないな。
233人間七七四年:2008/04/13(日) 04:32:47 ID:iZu7QRvp
小山持政の時代が最盛期か……
234東義久もしくは千本資政ってどお?:2008/04/21(月) 11:30:02 ID:Hxzvjp03 BE:445388235-2BP(1)
\●/佐竹氏を語るスレ 其の2
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/
から移動してきました。
1.太閤検地によると旧那須領は8万石。宇都宮領は18万石らしい。
(1).天文十八年(1549) 那須高資は、喜連川五月女坂の戦いで宇都宮尚綱(広綱の父)を敗死させてる。
(2).天正十三年(1585) 義重・宇都宮国綱(広綱の子)・結城晴朝・塩谷義綱が、那須資晴・塩谷孝信に薄葉が原の戦いで敗れた時、国綱は討たれそうになるも、大関高増(安磧)の献策!?でワザと逃がしたらしいね。

2.那須氏の歴史については3つ。
(1).伊王野氏の子孫が書いている↓ココのサイトの閲覧をお進めします。少々長いが面白い。上の話も詳しく載ってる。
http://plaza.harmonix.ne.jp/~ionowie/nasu1.html
(2). 荒川善夫著『戦国期東国の権力構造』
これは那須家中や那須家と上部権力(古河公方・謙信・義重など)の関係について書いてある。

(3). 那須家中は一つにまとまってないから、領土拡張どころではなかったのでは?
那須七党は、大関・大田原・芦野・福原(冨久原)・伊王野の5氏が上那須衆。那須本家(岡本)・千本が下那須衆なんだけど…。
室町幕府側の上那須家と古河公方側の下那須家に分かれて、惣領を争っていたんだよ。(佐竹もそうだけどね。)
結局、1516年に下那須家が、上下那須家を統一するんだけど…
その後も被官国人の独立性が強く、那須本家は他の6氏を支配できず、領主連合体であったようだ。



>>707さんへ
「具体的根拠」は?



追記↓
天正十六年(1588)
大掾清幹、江戸重通と反目し、北条氏の救援を求む。
2月16日 義重父子、江戸氏救援のため出陣。
4月上旬 大掾氏に味方する氏直、霞が関南岸の江戸崎まで出陣。松田憲秀は水軍を使って北岸の高浜に上陸するも、東義久に撃退される。
氏直、矛先を変えて、多賀谷氏の谷田部城、小田の藤沢城を攻撃するも失敗、帰国する。
5月初旬 義重父子、大掾と和して帰国。
「義重家譜」「烟田旧記」
235人間七七四年:2008/04/21(月) 15:01:28 ID:I2GMQHuI
戦国時代の石高なんて分かりゃしないし分かったところで意味ないし
236東義久もしくは千本資政ってどお?:2008/04/21(月) 15:27:58 ID:Hxzvjp03 BE:593850454-2BP(1)
>>235さんへ
私の過去レスを追えば分るが…
私は石高至上主義ではありません!!
260: 常陸の最強武将 佐竹 鬼 義重 スレッド、つまりココ↓
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196512813/
702番目のレスを見てください!!
質問が来たから答えたのみです。

237人間七七四年:2008/04/24(木) 12:52:26 ID:u3pv6r2G
>4月上旬 大掾氏に味方する氏直、霞が関南岸の江戸崎まで出陣。
松田憲秀は水軍を使って北岸の高浜に上陸するも、東義久に撃退される。


水軍を使っての上陸作戦は牽制球投げたようなもんで
それで勝とうとは思っていなかったと思う。
238人間七七四年:2008/04/24(木) 13:07:07 ID:oHyIvEmA
中年だと思ってない中年じじー死ね 中年だと思ってない中年じじー死ね
中年だと思ってない中年じじー死ね 中年だと思ってない中年じじー死ね
中年だと思ってない中年じじー死ね 中年だと思ってない中年じじー死ね
中年だと思ってない中年じじー死ね 中年だと思ってない中年じじー死ね
その老いたすがた気持ち悪すぎ
その老いたすがた気持ち悪すぎ
その老いたすがた気持ち悪すぎ
その老いたすがた気持ち悪すぎ
239人間七七四年:2008/04/24(木) 18:49:36 ID:p/zmtza+
>>238←この書き込みドラマ板の鹿男スレでも見た
同一人物がやってるのか?
240人間七七四年:2008/04/27(日) 07:08:49 ID:D5VdN70t
>>237

北条は霞ヶ浦に水軍を持っていたのか?

それとも相模湾から外房を回って常陸川を遡上し霞ヶ浦まで水軍を持って来たのか?

241人間七七四年:2008/04/27(日) 15:31:39 ID:Ked+AYRC
>>240
在地勢力が麾下になったときに水軍も接収しているかと。
本佐倉城なんか軍港があったはずだし、持っていなかった訳ではないだろう。
242人間七七四年:2008/04/27(日) 17:31:08 ID:l3jHX27q
>北条は霞ヶ浦に水軍を持っていたのか?


持っていたとしても小規模で
戦況を左右するほどの力はなく
兵站や偵察や連絡が主任務だったのではないか?
243人間七七四年:2008/04/28(月) 15:11:06 ID:TYwDzyw4
霞ケ浦は今と違って水域が広大で、それに連なる河川の数も多いから水運はかなり発展していたよ
常陸南部や下総では陸上より水上の方が重要だった
というか舟がないと行動がままならない
だからこの辺りの勢力は皆水軍を保有していた
北条軍が舟で北上してきた事は何の不思議もない
むしろ徒歩で遥か迂回してくるほうが不可解かと
244人間七七四年:2008/04/29(火) 19:01:02 ID:xrVTbjAc
>>234

霞ヶ浦の水上交通網(水運)が発達して居たのは承知してますが、「水軍」と言われるとちょっと違和感がある。

水軍、つまり純粋に戦闘艦を擁して居たのか?

水運用の船に兵士を乗せただけジャマイカ?

245人間七七四年:2008/04/30(水) 15:03:07 ID:GALr8pKV
村上水軍や織田水軍でさえどんな舟乗ってたのか分からんのに
常陸下総あたりの豪族の舟なんて分かるわきゃないだろ
246人間七七四年:2008/05/01(木) 05:00:08 ID:wRfhRGkh
安宅船とか…
関船とか…
小早とか…

村上(毛利)や織田(九鬼)なんかは保有してたのでは?
247人間七七四年:2008/05/01(木) 23:00:50 ID:TRSpS76n
そんなwikiに載ってるようなの今更並べられても…
248人間七七四年:2008/05/13(火) 14:48:37 ID:GJVUuoHt
実力の程は知らないが 平安期から霞ヶ浦には湖賊がいたらしい。
249人間七七四年:2008/05/13(火) 16:25:01 ID:MC0Wx3Zo
船を操る賊がいて、それを討伐する機会があっただけ。
250人間七七四年:2008/05/13(火) 20:22:47 ID:LOKAay23
だから湖賊だろ
251人間七七四年:2008/05/14(水) 05:55:54 ID:GKAN93pd
だから組織化されるほどの規模ではないだろ
252人間七七四年:2008/05/17(土) 19:26:27 ID:Z8ZbIL9a
宇都宮・結城・佐竹連合は最強
253人間七七四年:2008/05/17(土) 20:25:11 ID:UrwZeb1M
佐竹は別に強い訳ではなく、単に攻めにくい土地にあっただけ
254人間七七四年:2008/05/18(日) 00:17:28 ID:HZEiy/GM
お主、義重公が無能だとでも?
255人間七七四年:2008/05/18(日) 10:35:11 ID:wi0CEqiO
結局、常陸から出られなかったのは個々の才能ではなく、地勢的要因によるものということ
256人間七七四年:2008/05/18(日) 11:15:18 ID:IadWknSc
南奥や東下野にも出てますが。
257人間七七四年:2008/05/18(日) 11:49:28 ID:wi0CEqiO
保持はできてない
258人間七七四年:2008/05/18(日) 12:04:18 ID:IadWknSc
出られなかった
と言ったのに
保持とか超後付け設定でワロタw
259人間七七四年:2008/05/18(日) 12:14:12 ID:wi0CEqiO
出ては直ぐに帰るの繰り返し
260人間七七四年:2008/05/18(日) 12:44:25 ID:ZWoYsZuD
253 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/05/17(土) 20:25:11 ID:UrwZeb1M
佐竹は別に強い訳ではなく、単に攻めにくい土地にあっただけ


地形を熟知しているホームでの持久戦には強かった。

こう着状態やにらみ合いを苦にしない芸風。
261人間七七四年:2008/05/18(日) 12:47:48 ID:IadWknSc
対陣を気にしないって?いかに佐竹と言えども田植えや刈り取りの時期は気にしたと思うぞ。
262人間七七四年:2008/05/19(月) 13:50:36 ID:wCwb3zCl
でも佐竹のライバルたちも兵農未分離だから
農繁期にはあまり攻めてこないんだよね。
263人間七七四年:2008/05/19(月) 14:08:10 ID:Wk/UnuCN
でも対陣中に田植えしたいから早く帰りたいよって双方の我慢大会になる事はたびたびある。
撤退→鬼追撃が待ってるからね。
だいたい苦しみながら佐竹が我慢大会に勝って北条を追撃してる。
北条追撃終了後に体も休めず佐竹領地で必死に田植え耕作してるよきっと。
対北条戦は北条の城を落城させるわけじゃないから佐竹は恩賞与えなきゃいかんし頭が痛いだろうけど。
264人間七七四年:2008/05/20(火) 00:37:50 ID:Yg6Enmtl
佐竹は沼や池の周辺の湿地帯とかの、足場が悪い場所での
戦闘に強いイメージがある。
265人間七七四年:2008/05/20(火) 02:04:47 ID:pVwhPFuB
ていうか地理的にも那須や結城の方が佐竹より強くね?
266人間七七四年:2008/05/20(火) 08:45:21 ID:W0yzPz3X
佐竹のホームは山地や丘陵じゃん
河川や池沼が多いのは小田や結城の支配下である常陸南部や下総
267人間七七四年:2008/05/23(金) 14:40:14 ID:eK7uWInY
那須家はまとまりが無いからな、那須七騎が佐竹に内応して謀反とか普通だし
服従どまりで完全な家臣化はしてない独立性の高い土豪の集団だもんね。

宇都宮家なんかもいろんな大名が服従してて仲は悪かったのかね? 完全な家臣化してたのかな?
あと指示系統の話なんだが、宇都宮家←鹿沼氏(服従)←日光山(服従)だと
宇都宮家は直接日光山には指示でき無いんだろうか

時代ごとの那須家の石高と服従してる大名達の石高さらに大名に服従してる土豪達の
石高なんかが載ってる資料ないですかね? 知ってたら教えてくれ。
268人間七七四年:2008/05/23(金) 16:27:39 ID:kv4x1zl8
>宇都宮家←鹿沼氏(服従)←日光山(服従)だと
宇都宮家は直接日光山には指示でき無いんだろうか


たしかできないと思う。
269人間七七四年:2008/05/23(金) 18:29:50 ID:35Imut1t
>>179
>佐野は人質を気にせずに何度となく反乱してますね…
本当になぁ
なんとなく謙信と由良が対立してから
謙信と佐野の関係が改善してるようだけど
また叛いて、人質を越後に差し出して
それでも又叛いて
北条寄りだった由良とも大喧嘩して
佐野の動向は無茶苦茶だから難し過ぎる
誰か分かり易く唐沢山戦史をまとめてくれないかな
270人間七七四年:2008/05/23(金) 19:22:49 ID:/c2j1UEW
志賀高定って宇都宮の忠臣なの?
271人間七七四年:2008/05/23(金) 19:43:27 ID:XGSCYFAH
佐野氏はあんだけ日和ったんだから、さぞや多数の証人(人質)を殺されただろうな。
唐沢山天狗岩に武者の幽霊が出るのもそのせいだろうか。

余談ながら当時の実際の武者姿を見たくて、
深夜の唐沢山に行くべきかどうか一時期迷っていたが、
さすがに不謹慎なんで思い止まりましたw
272267:2008/05/24(土) 14:17:06 ID:me0RNfzl
>>268
どもです。 
服従と言っても対等軍事同盟や不可侵援軍同盟なんかが時代ごとに変化して
一口には言えないんだろうけど、ややこしそうな時代だ。
先方に派遣する使者選びも頭かかえそう
273人間七七四年:2008/05/24(土) 22:54:45 ID:OauhOSOm
>>267
日光山は宇都宮氏と対立する壬生氏と関係が深いから、
間接的な指示とかそんな問題じゃない気もする。
宇都宮家←壬生氏(宇都宮家と対立)←日光山(壬生氏を支援)
274千本資政ってどお?ってどお?:2008/05/28(水) 14:40:20 ID:qa61uOe7
どうも、久しぶりです!!
1.水軍と霞ヶ浦の件
当時の霞ヶ浦は…香取浦という海だったんだよ。
↓詳しくはココをつついて見てね!!
http://www.jsidre.or.jp/com/hpcheck/rekishi/p094_95/p094_95.htm

琵琶湖にも堅田など、資料で確認できる限り数ヶ所の港(湖岸の都市)に水軍があった。
村上や九鬼に比べれば小規模だけどね。
だから、香取浦にもいたんじゃないのかな?


確か、奈良時代まで東山道のルートは、水戸街道ではなく…
下総経由で常陸に入り、そこから水路で
江戸崎→霞ヶ浦→高浜
と続いていたらしい。「常陸風土記」より


ただ、常陸・下総水軍というのは、ざっと見たところ載ってないけどさ。
これも宿題だね。

2.>>267さんへ
小田原征伐後は…わかる限りで
伊王野家は1万石であった所領が735石。
芦野家は700石となった。
大関家は大関安碩(高増)に1万石、増晴に3千石を与えられ、合計で1万3000石の大身となった。
大田原家は7000石の所領を安堵された。

275(´ω`):2008/05/28(水) 14:53:41 ID:/5R7Ij1u
香澄の流海には四十四津というものがあってだな、湖上の通行権を支配していたようだぞ。
そんでそいつらは鹿島社がたばねていたようだ。
もちろん四十四の湊が実際にあったわけじゃないぞ。たくさんあるって意味だ。
三十三館とかと同じだな。
276:千本資政ってどお?:2008/05/28(水) 15:05:42 ID:qa61uOe7
「顔文字」さん、北条の兵力数の数学的分析、どうもありがとう。かつ大変お疲れ様でした。
そして、香取水軍? 鹿島水軍?についてのレスありがとう。
277(´ω`):2008/05/28(水) 15:30:07 ID:/5R7Ij1u
いえいえ、てどお氏の明快な考察に恐れ入っているのはわっちの方でして。
これからもよろしくお頼み申します(´ω`)
278人間七七四年:2008/05/28(水) 15:36:11 ID:qa61uOe7
こちらこそ宜敷ね。
279人間七七四年:2008/05/28(水) 16:17:25 ID:qa61uOe7
霞ヶ浦について。ココから参照。
http://www.ktr.mlit.go.jp/kyoku/river/river_info/kasu_02_01.htm
江戸時代の霞ヶ浦・北浦では、霞ヶ浦四十八津、北浦四十四津と呼ばれる自治組織が霞ヶ浦を入会管理(共同管理)していました。
これらの結束を強化するために従来の漁業の慣習を明文化した「霞ヶ浦四拾八津議掟書」は
入会で漁をするときの漁具、漁法、漁期の制限について規定し、
これにより漁業資源の保護が図られ、湖の秩序が維持されました。

>>274のレス。訂正2ヶ所
1.×東山道→○東海道
2.×「常陸風土記」→○「常陸国風土記」
280(´ω`):2008/05/28(水) 18:23:25 ID:/5R7Ij1u
香澄、香取の流海の海夫をまとめていたのは鹿島社じゃなくて香取社だった。
陸の百姓どもが武力を持っていたことを考えると、
海夫も当然行使できるほどの武力は持っていただろうね。
安宅船や関船はまず間違いなく持っていなかっただろうけれども。

ちなみにこの常総の流海周辺は伊勢とも非常につながりが深いな。
伊勢神宮と香取、鹿島のラインは古代中世から海のハイウェイだったんだろう。
281人間七七四年:2008/05/28(水) 20:58:32 ID:sI37mjFE
>常陸・下総水軍というのは、ざっと見たところ載ってないけどさ。


里見や後北条が水軍を持っていたことは知っているが、
佐竹とかは水軍を持っていたんだろうか?

もし持っていても、戦闘用ではなく、警備とか偵察用の船か、
伝令用の早船ではないだろうか?

282人間七七四年:2008/05/28(水) 21:23:55 ID:IDfDm2Xh
海上通商路が確立してる地域は安全通行保証税を取る水軍が成長するが
それほどの通商路があったのかねぇ。。
琵琶湖は日本海から京への搬入路だったから栄えたが…鹿島灘を通過し霞ヶ浦を使用して税金まで取られて運び込んだ先が田舎町じゃな。
伊勢からの道ねぇ。せいぜい安房国までじゃないかのう。奇襲灘→遠州灘を通過したあげくに
さらに房総半島をぐるっと迂回して商売するメリットなんてあるかねぇ。瀬戸内海や伊勢湾と違いシブい小さな商売で税とるほどの地力なんてないんじゃない?
阿波国と安房国
和歌山県の那智勝浦・白浜海岸と千葉県の勝浦・白浜の共通点から古くから移住者が多かったと言われてるから安房とは馴染みがあるんだろうが常陸国はどうなんだろ。
房総半島と紀伊半島を重ねると伊勢神宮に鹿島神宮を重ねたりできるけど東京と大阪を重ねるみたいで無理やり感あるし。
283(´ω`):2008/05/29(木) 00:20:55 ID:rlxd6W6O
>>281
佐竹が水軍を持っていたという話は聞いたことが無い。
ただ那珂湊を管理していた佐竹の近習の真崎は那珂川久慈川の水運にそれなりに通じていたようで、
朝鮮渡海の際に佐竹の船奉行になっている。最も真崎しかいなかったとも見れるが。

>>282
そりゃ西国と比べれば海運、湖運の頻度は少なかっただろうね。
しかし年齢階梯制で横の連帯を重視する西国と親方子方で縦の繋がりに重きを置く東国じゃ、
特に入会が重要視される湖上の生活の在り方は違っていたと見るのが自然だ。
例えば利根川を通行する料船が関所で止められたことから千葉氏と揉めて、
幕府が裁許したということが鎌倉時代にあった。
上では香取社が流海の海夫を支配していたと書いたが、だがこれは実は建前であって、
千葉氏のような例を通して戦国時代には地元の領主が津々支配権を横領してしまっていた。
だから東国での事情は琵琶湖や瀬戸とは異なっていたのだ。

また東国にもしばしば「唐人」が訪れていたようで、佐竹義重は元亀二年に白土某に
水上する唐人の便宜を図ってやるように知行宛行し、
また天正二年には伊達輝宗が佐竹に紹介された唐人に会ったと日記に書き残している。
銭にならなければ当然態々大陸人が常陸くんだりまでやってくることは無いわけだ。
また唐人が来ているならば、当然ながら伊勢は言うに及ばず、
堺やそれより遠い日本の地方からも来ていたことは十分に想像できることだ。

ついでに、伊勢志摩の漁師は奈良時代から朝鮮のチェジュ島に行ってあわびなどを
手に入れていたらしく、また近代以後もチェジュ島から房総に結構な数の海女が
来ていたことなども考え合わせると、東国の水運は決して言及する価値が無いものじゃない。
284人間七七四年:2008/05/30(金) 07:06:03 ID:u3DXtiFX
ご近所なのでご挨拶までに

政朝・政勝・晴朝・朝勝ら下総結城氏を語る
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1212098363/
285267:2008/06/02(月) 14:41:51 ID:ASFmYRmm
>>273
>>274
どうもです

自分は、下野新聞社の「那須の戦国時代」って本を参考にしてるんだが
出版が平成元年で古いのと那須地方しか載ってないので県中県南の勢力図
がさっぱり解らんです
286千本資政ってどお? :2008/06/04(水) 16:25:04 ID:tA65CWvo
>>237さんへ
牽制じゃないと思うよ。
高浜というのは、府中(石岡市)と霞ヶ浦の間にある湖岸の村だよ!!
Googleマップで「茨城県石岡市高浜」と検索してみてください。
義重軍は大掾側の玉里城(小見玉市玉里、高浜の東北にある)を攻撃中だった隙を突いて、
松田憲秀軍が高浜に上陸し、大掾の本城である府中城に入ろうとしたんじゃないかな?

>>237さんへ
牽制じゃないと思うよ。
高浜というのは、府中(石岡市)と霞ヶ浦の間にある湖岸の村だよ!!
Googleマップで「茨城県石岡市高浜」と検索してみてください。
義重軍は大掾側の玉里城(小見玉市玉里、高浜の東北にある)を攻撃中だった隙を突いて、
松田憲秀軍が高浜に上陸し、大掾の本城である府中城に入ろうとしたんじゃないかな?

>>282さんへ。
「顔文字さん」の>>283のレスに追加するね。
江戸湾に中国から船が度々来ていたらしい。明と交易していたんじゃないかな?

287人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/07(土) 07:55:43 ID:lpyFVPg+
>>286
高浜に上陸して府中に入るより、直接府中城近辺の湖岸に寄せて上陸した方が手っ取り早い。

高浜から府中へ陸路を採ると、当時は今よりかなり迂回しなくてはならない。
又再び湖水を渡る方が陸路より早いだろう…が、そうすると何故高浜上陸なのか…?

高浜上陸は何等かのイレギュラーだったと思います。天候、風向、地理不案内とか…。

正攻法なら直接玉里救援か玉里より南東部(旧小川町辺り)への上陸し玉里の後詰め。
又は、府中・玉里間への上陸。
但し戦況観望なら高浜上陸もあり得るが…。

しかし府中入城を企てたって説も捨てがたいですね。
288人間七七四年:2008/06/10(火) 16:42:00 ID:/QYTmWKg
小山家の当主(高齢)は現在、小山市内で暮らしていると聞いている。
289人間七七四年:2008/06/26(木) 14:47:27 ID:K21sHFzC
結城は小山であって小山は結城。
290千本資政ってどお?:2008/07/02(水) 12:32:47 ID:TaFvJvuZ
>>287さんへ。貴札披見。態々啓候。
高浜より南、つまり神立や土浦は、小田領(厳密に言うと菅谷氏領)であり、
天正十六年(1588) 当時は、小田は佐竹と同盟もしくは服従関係にあった。
だから北条軍は、大掾側の玉里や高浜に上陸せざるを得なかったのではないだろうか?
恐々謹言。
291千本資政ってどお?:2008/07/02(水) 12:42:04 ID:TaFvJvuZ
あ、そうそう>>270さんへ。
「芳賀高定」只今調査中。
>>267-268さんへ。
宇都宮→鹿沼(壬生氏)→日光山。ちょっと違うんじゃない?

壬生氏は二派に分かれていて、「鹿沼城主の分家の周長」が宇都宮派で…
「壬生城主の宗家の綱雄ー義雄」が北条側であったのは周知の通り。
日光山の支配権は宗家にあったんじゃないかな? (場所は離れているけど…)
以上、「武家家伝 壬生氏」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mibu_k.htmlより
292人間七七四年:2008/07/08(火) 19:08:23 ID:fYODVBuC
小山・結城氏好きならこの本オススメです
http://www.7andy.jp/books/detail/?accd=31623403
293人間七七四年:2008/07/19(土) 14:34:46 ID:gnasbNPR
俵藤太流。
294人間七七四年:2008/07/26(土) 01:36:30 ID:fk0SmwpD
>>289
だから結城市と小山市の越県合併の話が出たんだな。
頓挫したけど…。
295人間七七四年:2008/08/08(金) 15:08:11 ID:6K85a0xY
文化圏は一緒だもんな
296人間七七四年:2008/08/13(水) 04:38:44 ID:3HKSZ3Ip
大田原の図々しさは異常
297人間七七四年:2008/08/19(火) 01:20:54 ID:XZYd3F4u
資清の復帰に隠居の那須資房の意向ってのがどの程度反映してたんだろ
298千本資政ってどお?:2008/08/27(水) 10:16:45 ID:5+shKJrK
>>270さんへ。大変お待たせしました。
芳賀高定は忠臣?
結論
忠臣かどうかの評価は悩むけど…
主家をもり立て、かつ自分の役割を自己認識でき、筋目を通す誠実な人だったらしい。

1,高定登場までを簡潔に…。
芳賀氏は宇都宮氏の一族でもあり、かつ重臣筆頭でもあるという特殊な家系。
芳賀氏と宇都宮氏の関係が始まったのは平安末期から。
奥州征伐の時にはその働きを源頼朝から称された。
あの『太平記』には「宇都宮は関東一の弓取りなり。【紀清両党】の兵は、命を捨てる事を惜しまない」というような文章がある。
紀は益子氏、清は「清原氏=芳賀氏」の事で、両氏は宇都宮氏の軍事部門を司っていた。

この頃、宇都宮氏綱が越後・上野守護になると、芳賀高名(入道禅可)は、その補佐役として同守護代を務めた。
以降、芳賀氏は代々主家と婚姻・養子縁組を通じて、密接な関係を築き、絶大な権力をふるうようになった。
つまり「宇都宮ー芳賀権力体制」(一心同体的な権力)

2,対立、そして高定登場。
戦国時代に入り、宇都宮氏は家中統制を強めようと、度々芳賀氏の相続に介入し、その権力の弱体化を図る。
(1).永正九年(1512) 宇都宮成綱は芳賀高勝を生害する。
(2).永正十三年(1516) 成綱、弟の興綱に芳賀氏を継がせる。
(3).大永六年(1526) 芳賀興綱、甥の宇都宮当主忠綱を追放し、宇都宮家を相続する。(芳賀氏復権。)
(3).天文八年(1539) 宇都宮俊綱(のち尚綱)は、芳賀高孝・高経を蟄居させたのち高経を殺害し「益子高定」に芳賀氏を継がせる。(宇都宮氏の統制強化。)

(4).天文十八年(1549) 芳賀高経の子、高照が那須高資・壬生綱雄・氏康・白河結城晴綱と組んで、 宇都宮尚綱(俊綱)を討ち、宇都宮城を乗っ取った。 (芳賀氏謀反。)

それに対し高定は、幼主広綱を擁して宇都宮城に復帰させようと奔走し、足利義氏(プラス氏康)・佐竹義昭・那須資胤(高資の弟)・江戸忠通を味方に付け…
天文二十年(1551) 那須高資を討ち、
天文二十四年(弘治元年・1555)頃 芳賀高照をそれぞれ討ち取って尚綱の仇を取る。
弘治三年(1557) 壬生綱雄より宇都宮城を奪い、広綱を帰還させた。

3,その後の高定
佐竹の軍事援助を受けて宇都宮城に復帰した広綱と高定だが、未だ内憂外患を抱える状態にあった。
内は、半独立状態の壬生・皆川がスキあらば宇都宮城を…
外は、北は那須・南は結城・小山連合が虎視眈々と宇都宮領を狙っていた。

この状況で高定は「主家と争わず以前のような“宇都宮ー芳賀体制”を守る事こそ、ひいては芳賀氏自体を守る事になる」と考えて、主家をもり立てたのでしょうね。(佐竹との縁組を進め同盟を強固にするなど)

それだけでなく実子を差し置いて、(4).の自分が殺害した芳賀高照次男の高継(高規)に家督を継がしている。
(自分はあくまでも益子氏であり、代理で芳賀氏を継いでいると考えたのでしょうか?)恐々謹言。
299人間七七四年:2008/08/28(木) 03:13:11 ID:7jq1dKK4
芳賀高照の次男高継?

芳賀高経の三男高継…高照の弟じゃなかった?

と、言ってみる

300千本資政ってどお?:2008/09/01(月) 10:40:42 ID:Q/++35j2
>>299さんへ。リポート読んでいただき誠に有難うございます。
そうですね、間違えてました。

>>298を後で読み返してみたら、第2章が大分間違っていたので、追記訂正します。
2,対立、そして高定登場。
(中略)
(1).永正九年(1512) 宇都宮成綱は芳賀高勝を生害する。(宇都宮錯乱始まる。宇都宮家中、二手に分かれて相争う。)
(2).永正十三年(1516) 成綱、弟の興綱に芳賀氏を継がせる。(内乱終息する。)
(3).大永六年(1526) 芳賀興綱、甥の宇都宮当主忠綱を追放し、宇都宮家を相続する。(芳賀氏復権。)
(4).天文五年(1536) 芳賀高経(高勝の弟)は宇都宮興綱を生害する。(芳賀氏の権力強まる。)
(5).天文八年(1539) 興綱の子俊綱(のち尚綱)は、芳賀高孝・高経を蟄居させたのち高経を殺害し「益子高定」に芳賀氏を継がせる。(宇都宮氏の統制強化。)
(以下、中略)
301人間七七四年:2008/09/02(火) 08:43:22 ID:ECqTNNUD
一時は武茂氏が有力だった時期もなかったっけ
302人間七七四年:2008/09/02(火) 19:53:46 ID:gYxMzwUC
那須、宇都宮方面は、何がなんやらで、那須氏は同族で争っているし、
わかりづらい。
303人間七七四年:2008/09/02(火) 21:34:25 ID:LntJAnUT
>>302
那須は基本的な対立構図が下那須系vs上那須系だから案外はっきりしてるぞ。
304人間七七四年:2008/09/03(水) 05:18:58 ID:RGznkm6T
那須・宇都宮方面は半立半属の家が結構多いからかな
あまり詳しくない俺にはカオスに見える
305人間七七四年:2008/09/06(土) 09:35:52 ID:9IU7l/iE
北関東あたりは実際カオスだったよ
配下と言っても独自の印判でもって年貢取ったり禁制出したりしてるからね
独立国と全く変わらん
306人間七七四年:2008/09/17(水) 17:45:05 ID:sI2P/mfJ
>>294
歴史の話じゃなくて申し訳ないが、結城と小山って市民同士も仲良くない?w
自分中学は宇都宮で、小山の高校行ったんだけど、凄くそー感じた、
逆に宇都宮とかには、対抗心持ってる感じ、小山の人って
まー3年も通ってりゃ仲良くなったし、いいやつだったけどねorz
307人間七七四年:2008/09/25(木) 12:35:59 ID:UzIUWmSl
宇都宮氏族の麻生が天下取ったぞ
308人間七七四年:2008/09/26(金) 15:05:39 ID:hIHr+h7f
>>306
小山、古河、結城あたりは他県同士と言う感覚がない
県境はどこでもそうだと思うけどね
小山辺りからすると宇都宮人の方がよそ者に感じる
古河、結城からしても水戸人の方がよそ者に感じる
309人間七七四年:2008/09/27(土) 15:05:42 ID:0NQ82MoH
水戸と古河や結城は藩どころか国まで違うからね
310人間七七四年:2008/09/28(日) 03:18:06 ID:ZTvUO9v0
結城の人達にとって筑西(旧下館)の人はお隣さんだろ。國は違うけど…。
その筑西の人達にしてみても水戸の人は同県同國にもかかわらずよそ者って感じでしょ?けど同じ選挙区なんだよなぁ〜、筑西と水戸。
311人間七七四年:2008/10/07(火) 10:37:11 ID:KSqmJChP
筑西なんかは小山とくっついてるもんね
水戸線が小山まで通じてるけどローカル感は否めない
312人間七七四年:2008/10/14(火) 04:59:25 ID:ChlxBYbR
けど水戸線の方が常磐線よりはやく出来た。
昔の水戸近辺の人々は小山回りで上京してた。
だから常磐線は石岡から水戸へ直通せず友部に繋いで工費削減?
313人間七七四年:2008/10/14(火) 15:45:08 ID:QV/etZmz
>常磐線は石岡から水戸へ直通せず友部に繋いで工費削減?

今の茨城町(長岡だか小鶴だか奥谷だか知らないが)の住人が鉄道建設に強硬に反対したとか。
宿場が寂れるとか 今となっては意味不明だが。
314人間七七四年:2008/10/15(水) 03:41:24 ID:myH7Yy1k
昔、水戸石岡電気鉄道(うろ覚え)なる会社が有った…
計画では水戸から今の国道6号線と同じルートだった…
しかし実際は水戸(柵町)から茨城町の長岡辺りまでの開業路線で蒸気機関車だった…orz
電気鉄道って…

昔、長岡には鉄道が走ってたんだよ
315人間七七四年:2008/10/17(金) 17:48:58 ID:4C0LBCCN
>>313
東京から宮城が新幹線で直通で県の大部分がスルー対象と化したからな
316歴史好き:2008/10/19(日) 16:24:35 ID:vkU1UhA7
天正年間(武田家滅亡までの10年)の佐竹と甲斐武田の軍事関係は
どうだったのでしょうか?
どなたかご存知の方教えてください、推測でもかまいませんが、
317人間七七四年:2008/10/19(日) 18:15:06 ID:HYErbIs2
>>316
越相同盟への対抗から佐竹と武田は一時的に交流があったが、
越相同盟の消滅とともに目立った動きもなく互いに疎遠。
上杉の御館の乱で再び武田と北条が疎遠になると、
それに乗じて佐竹と武田も対北条協調路線をとるようになり、
1580年前後には共同で何度か上野近辺へ侵攻。
織田と武田の不和に義重が和睦の斡旋をしたが、
案の定信長は無視で武田滅亡。
318人間七七四年:2008/10/19(日) 20:00:05 ID:qy2so+4J
上杉謙信が佐竹に手紙を出していて、
「しばらくぶりですが…」という文面を書いてて、現物が残っているらしい。
319人間七七四年:2008/10/19(日) 23:24:34 ID:pgiLaEjL
武家藤原氏嫡流小山氏
320人間七七四年:2008/10/20(月) 01:09:39 ID:0jjliioF
>>316

>>317の「共同」して上野近辺へ侵攻…の「共同」は共謀して同時期って事な

一緒に一つの城を攻めた訳では無いから注意
同陣して無いから
321人間七七四年:2008/10/20(月) 04:27:05 ID:CjRsTsDb
>>319
秀郷やその子孫に詳しい野口実氏によると、秀郷流の嫡流は佐藤氏らしいよ。
322人間七七四年:2008/10/20(月) 05:09:15 ID:7AGVM/S7
佐藤氏は戦国時代もう没落してて、系図も怪しげなもんだろ
323人間七七四年:2008/10/21(火) 19:23:59 ID:U3G51Kwm
>>320
通りすがりに補足
  佐竹軍は七月下旬に上野に出陣。
  武田軍は八月下旬に上野に出陣。

微妙にずれている。


324歴史好き:2008/10/24(金) 11:12:51 ID:kiJ2aT6P
ありがとうございました。
この頃佐竹家に武田家にゆかりある姫が嫁入りすることがあったとしても
決して不思議ではないわけですね。
佐竹家に嫁いだ女性が不縁になって生後まもない娘を残し甲斐へ帰ったが
後年その母を訪ねて北条の領地を大きく迂回して山中を歩き甲斐へ向かう
娘の伝説がありますが歴史的な背景はあっているみたいですね。

325人間七七四年:2008/10/24(金) 11:45:06 ID:5j3zVTYY
>>324
ちょっと待て。そんな話しはじめて聞いたぞ(´ω`;)
詳細plz
326人間七七四年:2008/10/24(金) 12:35:22 ID:zgQorh38
明王峠で亡くなったと言われる白百合姫伝説でしょ
武田と佐竹の婚姻関係と言うのも十分有り得る事だけど
そのような歴史的事実は全くないので
何かの話しがごっちゃになっているのだと思う
327歴史好き:2008/10/24(金) 19:41:12 ID:kiJ2aT6P
武田勝頼の異母妹の松姫(実在)の甲斐から武州へと逃避する
話があります、天正10年に織田の軍勢から逃れるため山中を踏
破して恩方(八王子)へ向かうのですが、記録では幼い姫も多
数同行していたようです。このあたりの話が形を変えて相模湖
方面で残っているのかも知れませんね。
歴史は分からないことが多いだけに奥が深いです。
328人間七七四年:2008/10/24(金) 21:23:50 ID:QMY4MUJd
武家藤原氏嫡流小山氏
329人間七七四年:2008/10/24(金) 21:34:12 ID:5j3zVTYY
http://www.rekishi.sagami.in/shira.html
なるほど。そういう伝説があったのか。全く知らなかった。
でもこれは伝説といえども、割と信憑性のありそうな話だ。
まずコレは武田方面の伝説だということ。
武田は大きい大名だし、他の大名家とも親交が多かったはずなのに、
態々佐竹家に嫁いだと捏造する理由が薄い。
それに武田と佐竹の縁は、戦国時代に関してはそれほど深くない。
同盟期間も短いし、お互いにあまり疎通もなかったにも関わらず、
こういった伝説が醸成されてくるというのは不可解だ。
というわけでこれが本当の話だと仮定すると、真相は下のようになる、かも。

越相同盟への対策から武田と佐竹も同盟することになり、武田から女が送られる。
信玄や義信の娘でないとしたら義重の側室、あるいは佐竹の重臣の正室になったはず。
越相同盟は早々に破綻し、武田と北条が再び同盟。北条と仲良く出来ない佐竹は
武田とも仲良くは出来ないので、甲常同盟も破綻する。
つまりここで武田からの女が佐竹から離縁される理由が出来ることになる。
というか離縁される理由はどう考えてもこれしかない。
天正中期武田勝頼の時代、武田と佐竹は再び同盟し、
なんらかの理由で残された娘が返される。
(武田と佐竹の娘である彼女が江甲和与へ至る過程で、
織田へ嫁ぐとしたのだったら面白い。もっとも織田に嫁ぐ相手はいなさそうだけど)。
ただよく分からないのは通った道が何で相模原なんだということだ。
上野→佐久→甲斐ルートのほうが当時ポピュラーだし、相模原を通ると言うことは、
武田佐竹双方の敵である北条領を突っ切らなければならないので、
最短距離だがあまりいいルートではないはず。娘が幼かったせいからか。
330歴史好き:2008/10/27(月) 17:33:59 ID:yrkaMm4y
この話とは別物でしょうが、佐竹一門の娘で照手姫という美しい姫が
いて横山太郎という武士?が戦乱に乗じてさらい、相模まで逃げた、
小栗判官が横山太郎の屋敷に逗留することになり照手姫に出会う・・・
という伝説が常陸にはあるそうですね。
http://www.rekishi.sagami.in/terute.html

331人間七七四年:2008/11/05(水) 15:18:25 ID:ODERcfc0
>照手姫
モデルは誰なんだろう?
332人間七七四年:2008/11/17(月) 15:48:59 ID:q0Gz5wnc
小栗助重は上野介のご先祖さま。
333人間七七四年:2008/11/27(木) 14:57:02 ID:kBPOLal9
小山や宇都宮より那須の方が強そう
334人間七七四年:2008/11/28(金) 02:17:56 ID:DRQTZHEx
那須は外に打って出ることが絶対にできないような作りの家だからなぁ
宇都宮俊綱(尚綱)が頓死しなければ宇都宮が下野の台風の目になれたかもしれないのに
335人間七七四年:2008/12/08(月) 15:38:42 ID:q2ZBxYph
宇都宮の場合宇都宮錯乱で長期間争っていたのが痛かった。
336人間七七四年:2008/12/08(月) 21:31:24 ID:nBfa/uVe
佐竹ね
337人間七七四年:2008/12/11(木) 02:25:45 ID:VnsYxMrk
スレタイの4大名家で大名として残ったのは佐竹のみか…
338人間七七四年:2008/12/11(木) 12:40:01 ID:PnJFwnx6
でも転封されていなくなってしまった
この地域は那須七騎が上手く生き抜いたな
とくに大関系は2家も大名として存続したし
大関氏は幕府の奉行もやったはず
339人間七七四年:2008/12/16(火) 18:02:06 ID:CsgnwB5x
筑西市(下妻・つくばと境も近い)に住んでるんですがこの辺は誰の領地だったんでしょうか?
やはり真壁氏なんでしょうか?
知ってる方お願いします
340人間七七四年:2008/12/16(火) 19:06:50 ID:BQI4xll3
旧真壁郡近辺ならそうだと思われます。
下館近辺なら水谷氏。
341339:2008/12/16(火) 21:03:33 ID:a1kmVt/9
>>340
素早い返答ありがとうございます
筑西と言っても広いんでわかり辛いですよね すいません

家は↓のページで紹介されている海老ヶ島城から南西に4qぐらいのところです
ttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/6650/akeno.htm
地図で言うと↓でこの地図は小田城と真壁城跡地がありますのでわかりやすいかと思います
ttp://up2.viploader.net/pic2/src/viploaderf145852.jpg

たびたびすいませんがお願いします
342人間七七四年:2008/12/17(水) 01:15:01 ID:Jqg+DP1b
>>339
宇都宮はともかく、小山は実質北条の一支城主にような状況になって
るからなあ
343人間七七四年:2008/12/18(木) 05:45:43 ID:nYUY6Rrh
>>339>>341
この辺り(旧明野町)は争奪戦が繰り広げられた所だから、一概に誰の所領と断言するのは難しいかな…

小田原征伐前と後では大して変わらないと思うが、それ以前となると…

時期を特定して呉れれば良いのだが…
344(´ω`):2008/12/18(木) 06:58:31 ID:etPz4Nvi
>>341
ちょうど結城系、小田系の所領の境目付近だな。

海老ケ島は、もともと結城系の所領であり、室町中期に小田によって攻略され、
その後1595に佐竹家臣で旧小田家臣の宍戸氏が入るまで、ずっと小田系だった。
というわけで、戦国時代はほぼずっと小田に年貢を支払っていた地域だったことは間違いない。

ついでにこの西のほうには鳥羽の淡海(騰波ノ江)という湖沼があって、
今小貝川の流域はほぼ水の下だった。
あなたの住んでいる場所は戦国時代は島のようになっていた場所で、
高道祖で下妻の台地と狭まっていた。。
この湖沼地帯はうんちくせい市の北のほうまで繋がっていて、
今は陸地のくせに、やたらと「島」とか「谷」という文字のつく地名が多いな。
また近世以降に水面上になってあらたに名前のつけられた地名も非常にわかりやすい。
345人間七七四年:2008/12/18(木) 22:52:09 ID:2u7egJzG
小田天庵ほど領民に慕われた小田氏当主はない
346人間七七四年:2008/12/20(土) 10:08:19 ID:kLxJqssg
>>344
龍ケ崎やら江戸崎も今じゃ内陸だが昔は遥か県西まで内海が入り込んでいたから崎なんだよな
県西のあたりで海道を目にするのもその名残りのようだ
常陸南部や下総は水だらけだ
347339:2008/12/20(土) 15:09:06 ID:nHFhvQyv
>>342-346
皆様反応ありがとう御座いました
たしかに浜とか島とか付く地形はめちゃくちゃ多いですね
当時の地形ががどんなだったかから調べていきたいとおもいます
とりあえず家のあたりの領主様は結城系→小田系→佐竹系→天領
って流れみたいですね

争奪戦が結構あったって話ですが小田や結城の動員兵力ってどんなもんだったんでしょうね
348人間七七四年:2008/12/29(月) 15:40:51 ID:rUJdqvyX
牛久沼も名残の一部だね。
349人間七七四年:2008/12/30(火) 04:58:05 ID:9qLpe5Yz
>>347
ずーっと天領?
旗本の知行地とか大名の属領(飛び地)とかになってないの?
350人間七七四年:2009/01/07(水) 14:40:28 ID:WY4JvlVC
常陸の特に西部や南部は入り組んでますから。
351人間七七四年:2009/01/16(金) 05:07:15 ID:i0BHMLZT
小田政治って本当に堀越公方政知の子供なの?
352人間七七四年:2009/01/16(金) 12:06:42 ID:Czt3HAV7
政治実父は足利義澄、足利義稙、足利政知、小田成治など諸説あるが確証を得ない
353人間七七四年:2009/01/18(日) 04:01:04 ID:mPbbeYTi
政治は堀越サイドからの関東への楔の一つとして打ち込まれたのかなぁとか
いろいろ想像しちゃうけどなぁ

北条顕家は騎西城城の小田顕家とは別人なんだよね?
354人間七七四年:2009/01/18(日) 17:25:36 ID:p8PuRYwc
気になって図書館で町史読んできたんだが
小田さんの海老ヶ島城には『海老ヶ島七騎』なる武者が居たらしい
やばい 地元民からすると全く強そうに聞こえないwww
しかも小田の海老ヶ島城失落時にうちの村に落ちてきて地侍化とかある
たしかに七騎と同じ名字の家メチャクチャ多い
しかし海老ヶ島から5キロぐらいしか離れてないのにそんなところで地侍化して大丈夫なのか?
355人間七七四年:2009/01/18(日) 19:01:08 ID:rPodWE7M
>>354
当時は大丈夫だったんじゃなかろうか。
うちの近所にも落城した城の話があるんだけど、そこから逃げ出した
家臣がちょっと離れた場所に住み着いたという砦の伝承がある。
356人間七七四年:2009/01/27(火) 08:04:27 ID:UMQdjwLn
小田政治が堀越公方の息子かどうかという話だが、多分仮冒。
小田が藤原姓から源姓に変わったこととも関係があるだろうな。

多分長尾が管領を継ぎ、北条も管領を私称し、
里見も公方の奉行だか政所管理者から副将軍を名乗り、
佐竹も東国の右京大夫だと言い出したので、
小田も対抗するためにそういう話を作ったんだと思う。
態々公方を担ぎ出したのだから、
恐らく何か小さな縁でもあって、そういうことにしたんじゃないかな。
357人間七七四年:2009/02/06(金) 15:43:49 ID:wqa724dQ
宇都宮・小山・佐竹スレなので質問させて下さい。
今家系図を調べていて、氏綱さんを探しています。

小山家の末裔で家紋が佐竹の扇から来ていて
先祖が宇都宮の綱が入ったと思われる「氏綱(天文十九年享年)@お墓記載」なんですが、
困った事に紀州の小山家なんです。
小山高朝の子供の実隆・経幸が紀州にいるのは調べました(本:紀州小山家文書)が記載はありません。
それでもうひとりの結城家より養子できたもう一人の高朝の関連とややこしくなっていて
もうどうしていいやら解らず詰まっています。

あと小山広綱・宇都宮広綱 は別人ですか?


358人間七七四年:2009/02/06(金) 16:04:00 ID:/3madPJT
>>357
ヒント:氏綱じゃなくて氏朝。と言ってみる。

宇都宮広綱は元亀天正の頃の人で、
他の広綱とは間違えようのないくらいしっかりした人。
小山と宇都宮は、系図がごっちゃになるほど血縁的に繋がっていない。
359人間七七四年:2009/02/06(金) 16:19:44 ID:wqa724dQ
>>358
早速ありがとうございます。残念ながら氏綱なんです。
もう書いてしまいますが

安居初代1世
小山四郎左衛門氏綱
天文19年10月24日享年

この人を探しております。

宇都宮家とは綱位しか関係ないなーとしか見てないのですが
家紋が佐竹の扇から来ているものなので佐竹と関係があるのかなと思ってます
あとお墓が和歌山なので余計に解らなく・・・
歴史オンチなせいで宇都宮広綱さんが有名な人だと知らずに質問してすいません。
360人間七七四年:2009/02/06(金) 19:29:43 ID:kJfcIS8w
>>359
その氏綱の前後の人はどんな名前と字で、誰に仕えてたの?
そんでどんな資料に書いてあったんだ?
宇都宮広綱のことと同様に、下野の高朝と紀伊の実隆父の高朝では
活躍した時代も場所も全く違うので混同されるはずがない。

>これら小山氏の活動は『紀伊続風土記』に散見しているが、
>文書に年号や名字がないため、その足跡を編年的にたどることは容易でない。

播磨屋のページにもこう書かれているし、信頼されたる可能性が非常に低いな。
361人間七七四年:2009/02/06(金) 20:39:44 ID:kJfcIS8w
暇なのでもうちょっと書いておく。
>ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/oyama.html
>ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/ks_koyam.html
播磨屋のページで見ると、南北朝期の高朝から下野と紀伊の系図が全く違う。
下野小山の高朝の子は朝郷・氏朝だが、紀伊小山は経幸・実隆だ。
これから判断すると、下野小山の系図に、紀州小山の系図を経幸・実隆の
部分から無理矢理繋げた可能性が非常に高い。
しかもurlを見ると紀伊小山氏は「おやま」でなく「こやま」じゃないかい?
東国では「小」を「お」と読み、西国では「こ」と読むことが多い。

また実隆以降、「隆」の字が必ず上について継承されてるのが気に入らないw
土豪クラスでこれがあるのは、相当名門の場合に限ると思うのだが如何なものか。
その上信長に仕える前の人の名前に「左京」「帯刀」と、
かなり江戸臭を感じる百官名が入っている。
経幸系はまだマシで、あざなのみの記載と割と信用できる部類か。
大体土豪クラスは実名が代を通じて定まらないことが多く、
多くの場合あざなや官途のみしか書かれていなかったりする。
「氏綱」という名から判断するに、経幸子の「氏朝」あたりと符合するのでこの系統か。

>家紋が佐竹の扇から来ているものなので
扇の家紋といってもいろいろあるからなあ。佐竹は「月扇五本骨」なんだが。
なんの根拠もない私見だが、たぶん佐竹とは関係がないと思う。
紀州で佐竹といったら、雑賀衆の佐武義昌しか知らんし、
これが月扇五本骨を使用していたかも、「氏綱」と関係あるかも全く不明。

全体から見ると、紀伊小山氏は紀伊の土豪で、下野小山とは全く関係がなく、
経幸・実隆と呼ばれる人から家が勃興したんだろう。
子孫は彼らを先祖とする伝承を持っていたが、確実な文書史料等はほとんどなく、
江戸期に系図を再構成した可能性が非常に高い。これはよくあること。
その際、中途の名前を想像で入れるとともに、下野小山に繋げた。
362359:2009/02/06(金) 22:21:48 ID:ezrb5XUl
沢山情報ありがとうございます。
>>36
資料元は義父の調べた結果の家系図です。それを調べていて不自然だったので
調べると繋がらなかったという事で質問させて頂きました。

ただ上記に書かれてある氏綱からの情報はお墓の情報からのもので
享年だけは記載されています。
元々はちゃんとした家系図があったそうですが昔和歌山の台風?洪水?で流されてしまったとの事です。
その氏綱の親にあたる所が義父も解らず適当に高朝(実隆の父)とくっつけたという無責任な状態orz
氏綱の続きは四郎左衛門の名前だけ繋がってるのです。
ただ、大円寺創興祭神主と書かれた四郎左衛門がいます。これもどこの大円寺だよって感じで信憑性が・・・
そこに藤原則重という名前も書かれています@享年元和九年十二月二十九日

あと「小」は「こ」と呼びます。実際は屋号がついてちょっと違う名前なんです。
その辺はばれてしまうので伏せさせて頂きます。

あと経幸の子孫に「小山肆成」がいます。日本初の天然痘ワクチンをつくった方なんですが
その人の資料より
”正平二十一年(1366)三月田辺口合戦には、多くの負傷者と小山三郎吾郎、同四郎左衛門、周弥三郎、同重左衛門
同兵部丞、−−−割愛−−−−其の子左衛門少尉兼光は、畠山家に属して吉野に奉仕し・・・”
と書かれていて、義父曰くその四郎左衛門が先祖のはずと。
>経幸子の「氏朝」あたりと符合するのでこの系統か。
だからこれだと嬉しいですね。ちょっとこの辺を調べてみます。
ただ、家紋が気になってしまって。家紋は調べると毎回佐竹家が登場するので
関係があるのかと思い私の思いこみで下野国小山を調べていました。

どうも下野国とは違うルートのほうがよさそうですね。
結果スレ違いになってしまって申し訳ないです。歴史の詳しい方の意見が聞けて良かったです。
ありがとうございました。
363人間七七四年:2009/02/16(月) 16:05:14 ID:F4Zc+Sji
ここは詳しいですよね。
364人間七七四年:2009/02/26(木) 15:19:52 ID:zdJhEDfU
下野は力が拮抗していて面白い
365人間七七四年:2009/02/27(金) 13:51:54 ID:Ab0we9CO
拮抗というか
ドングリ'ryというか

あのウチゲバ大好き体質はなんとかならんか
366人間七七四年:2009/03/05(木) 15:15:29 ID:+/IGTlbD
本来力があるはずの小山が 結城とともに叩かれたから。
367人間七七四年:2009/03/06(金) 08:33:28 ID:EO5s3j1O
赤松がとっとと義教暗殺してれば・・・
368人間七七四年:2009/03/16(月) 15:47:16 ID:Kfzj+SlZ
持氏に近づき過ぎたんだ
369人間七七四年:2009/03/17(火) 14:18:57 ID:0IypERhu
バーブ佐竹
370人間七七四年:2009/03/17(火) 14:21:30 ID:0IypERhu
烏山300万石
371人間七七四年:2009/03/20(金) 19:36:40 ID:rzUgm7i9
伊王野の朝鮮出兵時の働きについて
372人間七七四年:2009/03/25(水) 21:42:55 ID:esGIwyB6
age
373人間七七四年:2009/03/27(金) 13:18:00 ID:0J5VyluI
2009 秋田知事選
http://www.sakigake.jp/p/special/09/chijisen/

秋田県角館市、佐竹北家の当主、佐竹のりひさ氏。
【略歴】
1947年、秋田県角館町(現仙北市)生まれ。東北大学工学部卒。
72年、秋田県庁に入庁。工業振興課長、地方課長、総務部次長などを歴任、
97年、県庁を退職。2001年7月、第17代秋田市長に就任、
同年8月、秋田県市長会会長。03年、全国市長会副会長、政府税制調査会委員。
07年6月、全国市長会会長、同7月、地方制度調査会委員。
09年3月、秋田市長を退職し、4月12日の秋田県知事選へ向けて始動。

ちなみに、30年にわたり、姉妹都市交流が続けられているんだとか。
374人間七七四年:2009/03/27(金) 13:19:11 ID:0J5VyluI
姉妹都市交流=秋田市と常陸太田市ですた
375おっぱすぴんく:2009/04/05(日) 22:30:07 ID:CQiXZ+cD
関東の覇者は益子だろwww
376人間七七四年:2009/04/08(水) 23:44:54 ID:84d5NWsf
ましこやきぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいいいい
377人間七七四年:2009/04/12(日) 22:03:04 ID:hZmWTw0G
よし、こうなったら…

栃木県知事に宇都宮氏の子孫を…
茨城県は…、誰が良いのやら。


まあ、何はともあれ、佐竹氏の藩主復帰って事で記念上げ。
378人間七七四年:2009/04/12(日) 23:08:07 ID:z9PXLuwE
佐竹のりひさ氏は、メディアに出るとか言ってるそうだ。そのまんま佐竹とか。
いや、殿様の格好して、さたけ軍団のほうがいいと思うんだけど。ダメ?
379人間七七四年:2009/04/15(水) 04:47:04 ID:1hIdongF
足利の西の端っこ、小俣城主渋川氏は、渋川義勝だけが名前出てきますが、
その先祖・子孫の情報についてご存知の方いらっしゃいますか?
380人間七七四年:2009/04/15(水) 09:29:37 ID:+HSEjNpb
群馬県渋川市にいた渋川一族の傍流なんじゃね〜の?
九州に派遣され失敗して今川了俊と交代させられ、次に関東執事として堀越公方と一緒に関東へ派遣されたが鎌倉へ入れず、扇谷上杉を義政に讒言した罪で失脚したはず、
(本人は確か武蔵国の北のどこだったかに領地もあったはず)
しかも渋川氏の息子が斯波氏の養子になって相続したことが応仁大乱の元凶になったはず。
この足利一門最大の役立たず一族だろ。
381仙台藩百姓:2009/04/23(木) 18:27:55 ID:DP0DtqbP
>>371
蔚山での活躍
早乙女坂で大名(宇都宮尚綱)討ち取る
関山で上杉軍を撃破
地味だけど案外つおいお( ^ω^)
382人間七七四年:2009/04/25(土) 12:25:05 ID:iuSNw2Kk
宇都宮動物園にあった宇都宮城はどうなった?
383人間七七四年:2009/04/25(土) 16:28:28 ID:941IN3qj
>>381
興味が湧いたんでググッてみたけど
鮎瀬豊前てのがいい味出してるな
384人間七七四年:2009/05/02(土) 17:03:40 ID:khwt/WyW
>>377
江戸氏はどうよ
385人間七七四年:2009/05/14(木) 16:07:08 ID:2xtTCKom
江戸は越前で水戸を名乗ったんだよね。
386人間七七四年:2009/05/15(金) 20:48:01 ID:ArMBFBIA
烏山三万石
387人間七七四年:2009/05/16(土) 09:37:27 ID:dI4GO6iB
一郡と何ヶ村か支配してただけの江戸氏が知事とかありえね〜
水戸市長が適任でしょ
茨城は大掾氏、栃木は小山氏
これで決まり
388人間七七四年:2009/05/25(月) 15:05:57 ID:6RAsVGil
大掾さんとかいないな。馬場さんならいるが。
389人間七七四年:2009/05/26(火) 11:54:00 ID:5mCH4vOx
戦国期の守護は小山じゃねーだろ
390人間七七四年:2009/06/03(水) 14:21:52 ID:6LkdwGiD
誰が知事に適任かって話しだから別に戦国時代の守護とか関係ないのでは
大掾氏とか一度も守護職に就いた事ないし
391人間七七四年:2009/06/03(水) 16:39:03 ID:2QhZHfwa
※ここは戦国時代板です。
※ここは戦国時代板です。
※ここは戦国時代板です。
※ここは戦国時代板です。
※ここは戦国時代板です。
392人間七七四年:2009/06/03(水) 23:28:17 ID:+Ku3+WoP
うるせえハゲ
393栃木くおりてぃー:2009/06/06(土) 11:12:47 ID:xij4d+Kg

栃木リンチ殺人事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%83%E6%9C%A8%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%81%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

【強姦】 警部補強姦逮捕 栃木県警「心から深くおわび」 [06/18]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/owabiplus/1213958526/

【栃木】連続強盗強姦の2人 懲役30年と28年を求刑
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20090519/CK2009051902000109.html

【父親が実娘を強姦し続けた】栃木実父殺し事件
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/baby/1096037070/

栃木県立今市高校教師、卒業生も強姦されたと被害届を提出
http://sagool.tv/detail/3880201651115013861/

取り調べ女性への性的行為否定 元栃木県警警部補が無罪主張
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/auto/5043/1190871900/66

【社会】「強姦が好きで、彼女や風俗店では満足できない」 33歳無職の男を再逮捕…栃木
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1240961004/

【栃木】強姦被害者望まなかったのに 宇都宮地検勇み足? 起訴”強行”[01/25]
http://gimpo.2ch.net/test/read.html/wildplus/1232861243/

【栃木/教師】女子生徒への連続淫行高校教諭、3度目の起訴
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1234921971/

【栃木】先生とラブホ女子中学生「ベロチューしまくった」「乳首触りすぎい…まあいっか」お口の中たかゆき★11
http://s03.megalodon.jp/2009-0417-1923-18/tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1239940813/
394人間七七四年:2009/06/06(土) 13:56:39 ID:juMJDnfK
栃木は宗教とアニヲタの王国
395人間七七四年:2009/06/14(日) 01:48:24 ID:WaBFIqFR
名門のすくつ
396人間七七四年:2009/06/19(金) 15:35:50 ID:JoLXny/5
鎌倉まで戻って足利さん。
397人間七七四年:2009/06/27(土) 15:43:35 ID:MqFglreQ
小山さんですよ。
398人間七七四年:2009/07/02(木) 23:14:31 ID:5wyr2lpa
水谷正村に敗れ討死した宇都宮氏家臣の武田信隆という武将は、甲斐武田氏
の一族ですか?
399人間七七四年:2009/07/02(木) 23:17:30 ID:jzuERVdt
麻里谷武田家の人では?
400400:2009/07/03(金) 11:54:13 ID:ICmjaLDR
400Get
401人間七七四年:2009/07/07(火) 20:42:47 ID:DkNIzYsL
荒川善夫・佐藤博信・松本一夫編『中世下野の権力と社会』(岩田書院、2009年発行)
402人間七七四年:2009/07/08(水) 14:38:48 ID:/mTzU29k
http://kobe.cool.ne.jp/guwappa/summer04.htm

最上13万石、上杉91万石の真実。。。。。。。。。。。。。。。。


403人間七七四年:2009/07/12(日) 15:00:29 ID:/qCbd3bs
小田 健夫
404人間七七四年:2009/07/12(日) 23:24:16 ID:H1DSspXE
>>399
 真里谷武田家の「武田信隆」と、宇都宮氏家臣「武田信隆」は同一
人物の可能性が高いのでしょうか?
405人間七七四年:2009/07/15(水) 02:24:08 ID:/2DcVK9c
>>404
真里谷武田信隆は1540年に死去。
水谷正村と宇都宮家所属(?)の武田信隆が戦ったのは1547年。
全くの別人と思われ。
てか宇都宮家の武田信隆って登場史料は軍記か家記のような気がしてならない。
実在は確認できるのか?
実在とすれば下野を根城とした国人領主クラスの家柄だろうな。
いずれにせよ甲斐武田氏の分家とか庶流に当たる(自称含む)とは思うが。
406人間七七四年:2009/07/25(土) 15:08:55 ID:RN1Wy7Hw
常陸武田氏だったりして。
407人間七七四年:2009/08/03(月) 03:35:42 ID:e880Py7I
小山家が関ヶ原以後、筑前国か豊前国(とにかく福岡)に勢力を持ったような記述ってありますかね?ちょっと探してまして(>_<)
408人間七七四年:2009/08/03(月) 11:35:46 ID:jabTt11T
宇都宮氏と勘違いしてないか?
409人間七七四年:2009/08/08(土) 12:10:05 ID:S64ivuT4
つか宇都宮氏って伊予にもいたっけ?
410人間七七四年:2009/08/08(土) 16:34:25 ID:kj31QM/e
>>409
鎌倉時代、伊予は宇都宮氏の領国だぜ?
室町時代に北朝の河野氏に押されて守護職を失ったが、
大洲城を中心に勢力を保持しつづけた。
411人間七七四年:2009/08/08(土) 16:43:56 ID:OUqj18U6
豊前宇都宮 
伊予宇都宮
下野宇都宮

他に居るかな
412人間七七四年:2009/08/08(土) 18:02:02 ID:S64ivuT4
豊前宇都宮氏って本家の下野宇都宮氏を心配しまくってるよね。
宇都宮氏にとって秀吉は最悪だよね。
藤堂高虎配下にでもなって伊予宇都宮氏だけは生き残れたの?
413人間七七四年:2009/08/10(月) 21:34:58 ID:uUdxd/em
>>412
>豊前宇都宮氏って本家の下野宇都宮氏を心配しまくってるよね。
芳賀や壬生の問題に加えて尚綱戦死広綱幼少とかあったからな〜。
豊前の領主なのに下野のことを心配してどうするのかという気もするが、
一族思いだよな、長房w

>藤堂高虎配下にでもなって伊予宇都宮氏だけは生き残れたの?
豊綱の息子が小早川家に拾われたらしいが、よくわからん。
あと大洲宇都宮氏は庶流も少なくなったみたいだし、
一部は伊予の各藩士となった連中もいるんじゃないかな?
414人間七七四年:2009/08/16(日) 16:44:55 ID:TPKFIuEd
豊前や伊予よりは宗家の方が恵まれていたね
宇都宮宗家は別に滅ぼされたわけではないから
一族臣下とも水戸藩など関東諸藩や久保田藩などに拾われて子孫は現在に至っている
高校の時に宇都宮系や那須系の人が結構いたな

前に仕事で数ヶ月大田原にいたのだが
大田原さんが物凄い数いたけどみんな一族なのだろうか…
415人間七七四年:2009/08/20(木) 12:11:34 ID:l/gN00GB
>>414
藩主家の方は東京とかに出ている場合がほとんど(ちょっと前に、大田原家の
当主とそのご子息が地元の墓所を訪れたというニュースを見た)だけど、
庶流の、家臣となっていたような一門だったら、多少は地元に住んでいるのではないかな?
416人間七七四年:2009/08/20(木) 17:52:30 ID:JcH8hdV3
>>415
やはり東京にいるんだね
明治政府も旧藩主を東京に住まわせたから地元に住んでる人は少ないんだよな
大田原の出張に行った会社ではぱっと見た所30人ぐらいは大田原さんがいた
まさか大田原氏のお膝元で明治に名乗った偽者はまずいないだろうから一応一族なんだろう
那須七騎も古い家だから分家がたくさんできたんだな
417人間七七四年:2009/08/21(金) 19:01:56 ID:0Ncdfj5k
衆院選、民主勝利後の最悪シナリオ

民主が国政第一党になる

公明「外国人参政権などの党としての本懐で民主党と一致した」
民主、公明の連立政権成立

国政での外国人参政権が成立
国政選挙で民主、公明、社民更なる躍進

人権擁護法が与党の賛成多数により成立
行政、在日朝鮮人、中国人、宗教法人を批判すると罰せられる様になる

国籍法の更なる緩和
日本国籍と生活保護資格だけ持つ、日本人の血が一滴も入ってない中国人が急増

在日朝鮮系、中国人系の国会議員も出現
親中国の自民議員が民主に寝返る
自民党完全無力化、または解散消滅

日本乗っ取り完了

 「民主党の正体」 「ミコスマ」 「韓国は“なぜ”反日か?」で検索
418人間七七四年:2009/08/29(土) 12:52:04 ID:Ynu8LcPG
藩主ゆかりは間違いないだろうね。
419人間七七四年:2009/09/04(金) 16:04:50 ID:LWXZlizS
小山の本宗ってどうなたったけ?
420人間七七四年:2009/09/05(土) 14:28:41 ID:qCv2D76V
スレタイに佐野氏が…なぜ認めん!
421仙台藩百姓:2009/09/05(土) 17:19:03 ID:bOlFBvM2
>>419
小山に住んでるお( ^ω^)
422人間七七四年:2009/09/08(火) 00:34:06 ID:vTTu4wKJ
結城と云えば奥州征伐で、藤原氏の埋蔵金を運んだのは
有名な話。
423人間七七四年:2009/09/11(金) 17:19:43 ID:Yrgn9JsO
>>420
佐野は単独スレあるよ
424人間七七四年:2009/09/13(日) 12:56:43 ID:CFOg11zz
宇都宮公綱は倒幕した
425人間七七四年:2009/09/18(金) 15:33:28 ID:1zIhVEFF
寛軍に参画だね
426人間七七四年:2009/09/24(木) 15:32:01 ID:feklRCbA
官軍か
427人間七七四年:2009/09/30(水) 15:33:29 ID:dYjTt+EG
維新で?
428人間七七四年:2009/09/30(水) 18:54:23 ID:iYOuMIh6
きんつなちゃんはだいぶ昔の人じゃない?
幕末では秋田で宇都宮氏分家のたけつなちゃんが
かなりの権力を握っていた。
http://www.pref.akita.lg.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1137043033313&SiteID=0

あとはそのころ、同じ家老で宇都宮氏一門の
松野つなとくちゃんも家老してるはず。
他にも宇都宮氏一門で誰かいるかもしれん。

いずれも、家康と浅野の謀略で本家本城を
奪われる様を見ているんだよなぁ。
そりゃあ倒幕したくてたまらんだろう、
なんてこともちょっと考えてしまった。

429人間七七四年:2009/09/30(水) 23:43:50 ID:eROydM0V
宇都宮もバラバラよの。
430人間七七四年:2009/10/08(木) 15:42:01 ID:luzpfPPX
小山がもっと強い方が下野は本来納まりがいい
431人間七七四年:2009/10/14(水) 14:38:02 ID:XjAJec5D
室町期 苦難の連続だから。小山は。
432人間七七四年:2009/10/14(水) 23:46:47 ID:SoMj4F14
このあたりの名門は江戸時代に徹底的になきものにされたな
433人間七七四年:2009/10/16(金) 10:24:48 ID:GR/V4+qN
関東で本領守ったのは那須系だけだね
434人間七七四年:2009/10/17(土) 00:31:19 ID:gw1gt68r
111
435人間七七四年:2009/10/23(金) 16:03:28 ID:N0cMFcIm
幕府のお膝元だからね
436人間七七四年:2009/10/29(木) 15:44:46 ID:xpd7rNOK
宇都宮なんかはかわいそうだな
437人間七七四年:2009/11/04(水) 15:55:59 ID:UcwDFKo6
どこも似たようなかんじだよ
438人間七七四年:2009/11/10(火) 15:09:05 ID:OEbZT7FW
関東の豪族は殆どいない。
439人間七七四年:2009/11/18(水) 15:31:57 ID:XourJ+yz
太田は大名じゃないか
440人間七七四年:2009/11/25(水) 16:07:17 ID:cHMk97PG
北条についたもしくは佐竹についた、で殆どいなくなった
441人間七七四年:2009/11/26(木) 16:28:36 ID:18Ff0ZzU
>>430
逆だろ。
野木宮合戦でまぐれ勝ちして身分不相応な守護職をもらってしまったのが不幸の始まり。
守護という有利な立場でありながら、全く勢力伸長できなかった。
室町期に本家は討伐されて滅亡。その後は事実上、分家結城の支配下。
領域は下都賀郡の東半分しか押さえていない。戦国期には何回も本拠が落城。

西半分の分家皆川ですら1万数千石という事は、小山は5万未満だろうな。
宇都宮には薬師寺を奪われ、一貫して主権を守った那須にも及ばず、上杉北条に大健闘した佐野未満の小山。
442人間七七四年:2009/12/07(月) 01:48:29 ID:neftw+AW
大田原一党があれだけ私利私欲の為だけに動いてよく潰れなかったな那須家
443人間七七四年:2009/12/07(月) 10:17:33 ID:gGHGiPWn
上那須氏の断絶と豊臣氏による改易で事実上2回は滅びてるけどね
資清や高増ら三代はかなりのやり手だな
那須七党の内、四党を支配して大名家を二つも残したのだからたいしたものだよ
まあ、主家にとっては凶悪極まりないだろうけどw
444人間七七四年:2009/12/07(月) 22:18:25 ID:RhaFYxT7
資清と三人の息子は那須家にとって果たしてプラスだったんだろうか

那須家の存亡に関わる自体に必ず一枚噛んでる印象だが、悪い方で
445人間七七四年:2009/12/08(火) 14:34:33 ID:5rnkkOnC
上下の統一からしてアレな決着だから家中の統制力を失っていたんだろう。
3兄弟以前にも千本親子に誘殺されてたり、なめられまくりだな。
ただ、小田原征伐に関しては明らかに主家の失態。
遅参してなければ七党を支配下に置くのを公認されただろうに。
446人間七七四年:2009/12/09(水) 23:54:00 ID:RtwNTLR/
福原資孝だけ大名になり損なったな。
447人間七七四年:2009/12/12(土) 16:27:24 ID:aFfjDo38
小田氏を知って菅谷氏のすばらしさを知りました
448人間七七四年:2009/12/12(土) 22:01:57 ID:evuVZCMD
すぐにどこか別の家に仕官できただろうに。
449人間七七四年:2009/12/14(月) 19:02:29 ID:Qvsh8AuD
でも斜陽の小田氏を最後まで支えたから家康に評価されたんじゃないかな
主家の小田氏が越前松平氏の陪臣(千石)におさまった事を考えれば
菅谷氏は五千石という大身の旗本になれたのだから勝ち組だ
450人間七七四年:2009/12/18(金) 14:57:12 ID:+KnLqQFE
旗本で五千石なら、格としてはそれこそ外様の十万石クラスの大名と同格だもんな。
451人間七七四年:2009/12/26(土) 11:16:06 ID:4aH81Ara
例え10石でも20石でも旗本ともなれば5万石の陪臣より遥か格上だからね
小田氏や宇都宮氏は旗本になった元家臣に平伏しなくてはならなくなった
相馬氏とか那須氏みたいに意地でも江戸に上って御家再興を訴えるべきだったね
452人間七七四年:2009/12/28(月) 07:50:19 ID:PXmEJnij
5千石未満は旗本ではなく御家人ですが。
453人間七七四年:2009/12/28(月) 08:32:45 ID:/m5zSggu
>>452
知行が万石未満・直参で、将軍御目見得ができるのが旗本、できないのが御家人。
石高の多少による旗本・御家人の区分は無いはずだが?

因みに五千石未満を御家人とする説は誰が言ってるんだ?
武鑑にでも書いてあるのか?
一千石以上の知行を持つ御家人なんていたっけ?
454人間七七四年:2010/01/10(日) 23:57:18 ID:eyRtCmjY
那須が佐竹に何回も勝てたのが疑問だったんだが地形みるとまぁ常陸から烏山って攻めにくいな。

鷲子山塊と鶏足山塊が邪魔で那珂川沿いの渓谷みたいな所みたいな細い道からしか兵を入れれない。
防衛戦なら勝ち目はあったかも分からん。
455人間七七四年:2010/01/21(木) 09:42:38 ID:V7aLGsBc
俺もそれ思ったよ
今だと常陸大宮の鷲子から一直線に烏山城下に入れるけど
佐竹の侵攻経路を見ると遥か数十キロを迂回して黒羽や茂木から攻めている事が多い
何でわざわざそんな事するのか疑問に思っていたが、地形を見てみたら一目瞭然だった
烏山から見て常陸側は那珂川と山地が国境を分断していてしかも絶壁が続いている
今でこそ山を削り道を作って橋をかけてあるから通行できるが
近代以前(戦後まで渡し舟があったらしい)は烏山付近に軍勢が渡河できるようなポイントがない
鷲子→武茂→興野から渡河する経路もあるが、これだと烏山城の眼前を渡河する事になり
当然、那須勢が対岸で待ち受けるわけで一番危険な渡河中の攻撃に曝される
実際に佐竹義久などがこれで撃退されている
渡河しても烏山城は急坂に囲まれた台地の上にある山に築かれており非常に攻め難い
西の宇都宮方面や南の茂木方面も難路があり烏山は凄く良いところに築城したと思う
456人間七七四年:2010/01/24(日) 13:36:48 ID:91cIKkTe
大関率いる上那須の連中との連携も地形の関係で上手く行かないんだよな、これが。
457人間七七四年:2010/02/21(日) 08:52:25 ID:k3WCd2W1
逆に宇都宮城は守り難そうな城だよね
八幡山とかを拠点にすればいいのに何であんな平地に築城したのか謎だ
458人間七七四年:2010/03/04(木) 09:28:10 ID:GJfd28Dl
宇都宮城は 成り立ちが 元々居館だったからじゃないかな
宇都宮城って 結構平和だったからねw
459人間七七四年:2010/03/07(日) 12:32:32 ID:OQRnEWtX
小田原征伐のきっかけになった名胡桃城襲撃は宇都宮城襲撃と同時に行われてた訳だが
460人間七七四年:2010/03/28(日) 10:54:02 ID:wHN/EDSJ
下野は結構戦場になってるね
461仙台藩百姓:2010/04/30(金) 15:30:36 ID:Sf7joQux
平安末期に造られたと言うから元はただの居住地だったのだお( ^ω^)
八幡山あたりは寺社が多かったし、宇都宮氏は元々二荒山神社の神職でもあったから
二荒山の真っ正面に居館を構えたのだお( ^ω^)
戦国末期に多気山へ大規模な詰城を整備したとはいえ多気山は城下町まで移動するには不適だし
結局宇都宮城も落城する事はなかったから平城とはいえ大規模に改修されて堅固だったのだおうね( ^ω^)
462人間七七四年:2010/05/01(土) 03:06:59 ID:3R/k0SpO
芳賀高定って隠居するの早すぎないか?

40代ぐらいでもう隠居してたみたいだが。
463仙台藩百姓:2010/05/01(土) 07:27:38 ID:PGWW2Q7w
30代でも珍しくはないけど、
高定の場合は初めから実子ではなく高継に家督を継承させるつもりで
実子との間で家督争いが起きぬよう早めに隠居して高継を後見した
若しくは、芳賀家中からそういう声が挙がった
といったところではないかお( ^ω^)
464人間七七四年:2010/05/01(土) 18:59:19 ID:3R/k0SpO
元々益子氏の出だったな、高定は。

やっぱり芳賀家中ではそう強い地盤が無かったって事なんだろうか。
465人間七七四年:2010/05/02(日) 01:44:54 ID:F97+A0Zq
大田原資清が大関を乗っ取ったみたいに益子と芳賀を両取りして高定が権力拡大してしまえば良かったのに。
466人間七七四年:2010/05/03(月) 12:16:22 ID:Q4mjokfo
壬生じゃあるまいし高定はそんな事しないよ
467人間七七四年:2010/05/10(月) 20:58:29 ID:PN5zPWaW
うちの近くに5,6メートルくらいの芝の小山があって、子供のころ
なんも知らずによく遊んでたんだけど、そこは宇都宮氏と小山氏が
戦った、茂原(多分感じ違ってますw)の戦いの時戦死した無名の武士
をまつった所なんだそうな、宇都宮最南部の茂原町にあります、
468人間七七四年:2010/05/18(火) 21:16:39 ID:KXhgPQ4x
下野中世史の世界
岩田選書◎地域の中世G
松本 一夫 著
(栃木県立文書館館長補佐)
第1章* 中世における下野の位置
 −地政学的アプローチ
(奥州との境界/分権性)
第2章 寒河尼−女性地頭の功績
(頼朝の乳母として/寒河尼の「大功」)
第3章 南北朝〜室町中期における足利庄支配
(観応擾乱期/南北朝後期/室町前期/室町中期)
第4章 南北朝・室町前期における茂木氏の動向
 −上級権力との関係を中心に
(軍事指揮系統/周辺諸勢力との関係/室町幕府・鎌倉府との関係/
鎌倉公方足利持氏との関係)
第5章 「茂木文書」調査報告
(保存の状況/伝来の経緯/若干の古文書学的所見)
補論1* 茂木氏と東茂木保−鎌倉・南北朝期を中心に
補論2* 茂木賢安の置文
補論3 南北朝初期における茂木氏と佐竹氏の交流
第6章 鎌倉末〜室町期の宇都宮一族
 −「宇都宮」を名乗った人々
(宇都宮(芳賀)高久/高貞(弾正少弼家)/左衛門佐(尉)/高有/伊与守家綱)
第7章 南北朝期の越後守護代芳賀氏をめぐって
(文和三・四年段階における文書の伝達ルート/
芳賀高貞・高家は同格か/賀氏発給文書の特質とその意味)芳
第8章 花押の謎
(桃井直常と貞直/山朝氏と桃井六郎/小女性が証判を加えた軍忠状)
第9章 下野中世史研究の回顧と展望
 −『栃木県史』以降
(領主権力論/土豪論/室町期の全体的動向/
都市・交通論/荘園支配関係/宗教史)
469人間七七四年:2010/05/18(火) 21:18:22 ID:KXhgPQ4x
↑追加
2010年5月刊
A5判・222頁・並製本・カバー装
ISBN978-4-87294-616-1 C3321
2800円 (税別)
470人間七七四年:2010/06/03(木) 17:07:37 ID:RIP2LLf7
茂木百騎て酒があって、茂木百騎が飲んだ酒とか書いてあったが
戦国時代に大吟醸とかなかったんじゃ…
471人間七七四年:2010/06/23(水) 22:42:32 ID:rUNvThIF
宇都宮家臣の君島高胤の嫡男って、wikiじゃ五郎永胤になってるけど
俺の持ってる群書類従じゃ六郎高晴になってるんだよな。

wikiのソースは塩谷町史っぽいけど、大元は何が出典なんだろう。
同一人物って認識でいいんだろうか。
472人間七七四年:2010/07/02(金) 13:08:36 ID:5Diz0XYH
佐竹義重で茨城3度目の大河を
473人間七七四年:2010/07/14(水) 10:26:40 ID:M0e1mz3x
1度は慶喜として他になにかあったっけ?
太平記(尊氏)は栃木にカウントかな?
戦国常陸下野で大河は厳しいな…
せいぜい小田原北条の敵役で出て来るぐらいが限界か
平将門vs藤原秀郷なら両国出れるな
474人間七七四年:2010/07/25(日) 22:44:42 ID:a4jLh1U+
塚原卜伝の大河とか狙ってるらしいけど絶対無理だなw

http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1235224540/l50
475人間七七四年:2010/07/28(水) 14:00:57 ID:AaONKo+6
>>473
平将門はもうやってる。「風と雲と虹と」というやつ。
慶喜と将門で茨城は二度大河の舞台になっているということだな。
476人間七七四年:2010/07/30(金) 08:32:59 ID:Bv9edpKQ
もういっそ抱き合わせでいくしかないな
・宇都宮三代(尚綱・広綱・国綱)
・佐竹三代(義昭・義重・義宣)
・那須三代(高資・資胤・資晴)
・那須七騎(大関高増を中心に描く)
・小田氏治(ある意味ネタが豊富)
・古河公方(晴氏、藤氏、義氏、藤政)
・結城晴朝(+結城四天)
477人間七七四年:2010/08/15(日) 08:46:47 ID:znaiDCJ2
結城秀康と戦国DNQスターズなら視聴率はとれるかも
478人間七七四年:2010/08/15(日) 12:04:14 ID:8cZc3aOR
昔あった半年大河を復活させればよいんだが、あれ金かかるらしいからなー。
しかも作った炎立つ、琉球の風、花の乱は視聴率悪く評判も悪かった。
個人的には炎立つは源氏の奥州への野望が面白く、花の乱も日野富子を中心に暗い話ばっかだったものの面白かったのだが。
特に応仁の乱は終わったものの混乱は拡大し最後のテロップで信長の登場までまだまだずいぶんあるみたいなことが表示され、まったく救われない終わり方が良かった。
茨城は幕末の水戸、栃木は足利尊氏があるから良いが群馬は新田義貞が微妙だから悲惨だな。もう剣聖を主人公にするしかw
もっとも実は尊氏が住んでたのは母の実家の京の上杉邸か人質として鎌倉にいたかのどちらかで足利庄に行った事はないらしいw
479人間七七四年:2010/08/15(日) 23:13:09 ID:2UIbZ9Yf
>>478
水戸人だけど、足利行って、どうして足利の遺跡ってほとんど残ってないのか聞いてみたら
南朝が正統とされ、足利は最近まで逆賊扱いだったからと言われた。
水戸学が果たした負の役割が大きいとも。

そう考えると、21世紀の現在、足利と水戸が組んで世界遺産の招致を狙ってるのは歴史の皮肉だね。
480人間七七四年:2010/08/17(火) 20:30:15 ID:s1by1oHv
そりゃあ徳川家と足利家の問題であって
水戸人と足利人にしてみりゃ今更知ったこっちゃないよ
元々何か恨みがあるわけじゃあるまいし
水戸家中の我が家としてはむしろ水戸家に恨みがあるw
481人間七七四年:2010/08/18(水) 07:28:59 ID:5b5Hd95D
>>480
それは内ゲバやって処罰されたのを逆恨みしてるってこと?
ほんと水戸人はクズだなw
482人間七七四年:2010/08/24(火) 09:43:45 ID:jtNKfxEX
>>481
逆恨み?言葉の意味分かってるの?w
水戸家の当主が代々暗愚だったのは事実
水戸藩の悪政は藩士ですら批判している
外様なら間違いなく取り潰し対象だが、御三家だから幕府も見てみぬ振りをするという最悪な状態だった
どうあがいても言い逃れは出来ない
483人間七七四年:2010/08/24(火) 19:22:55 ID:W2nKfdo0
よく分からんけど、水戸藩主は代々暗愚で
それを補佐する水戸藩士も徒党を組んで私闘ばかりで
水戸ってほんとどうしようもないということだけはよく分かった。
水戸はどうあがいても言い逃れはできないな。
484人間七七四年:2010/08/24(火) 20:49:41 ID:jtNKfxEX
まさにその通り
水戸藩は終始統治が定まらず本当に救いようがない
結局藩政改革やったのだって他所から来た人物ばかりだし
まあ、一番の罪は身内贔屓で放置した幕府にあるけど
485人間七七四年:2010/09/12(日) 13:53:27 ID:Iles2dR3
佐竹の史跡も潰しまくって佐竹臭を完全に消した水戸藩の正義
486人間七七四年:2010/09/12(日) 13:59:06 ID:O63dT8eT
秀吉の支持をバックに有力国人達を殺し尽くした佐竹への報いだわな。
487人間七七四年:2010/09/13(月) 23:35:09 ID:PhcmA+xF
三十三館仕置のことは絶対忘れない、絶対にだ。
488人間七七四年:2010/09/15(水) 08:32:44 ID:K/2hezId
>>487
何で秀吉の下に出仕しなかったんだよ〜
遅かれ早かれ潰されてたよ〜
489人間七七四年:2010/09/15(水) 09:28:27 ID:QqD70hmx
>>488
> 何で秀吉の下に出仕しなかったんだよ〜
「そうだね不思議だねグヘヘ」
490人間七七四年:2010/09/15(水) 18:57:12 ID:DYsartF/
田沼殺した佐野氏はどういう流れ?
491人間七七四年:2010/09/16(木) 00:23:06 ID:Pr8byTCS
嶋崎氏は小田原に参陣したのに滅ぼされてる。
不思議だね。
492人間七七四年:2010/09/16(木) 20:55:47 ID:VAePkQH2
猿の機嫌次第な部分があるからな…
家康や上杉や前田や三成を紹介してもらう人脈がないと王手だしな。
493人間七七四年:2010/09/16(木) 21:49:42 ID:3Sz1Kh7F
いや、秀吉の土地権利の一元化政策から言えば、島崎みたいな地侍とほとんど変らないような
南郡の零細領主は、どうあがいても亡くされる運命にあるんだよ。
特に地方は中央からの目が届きにくいので、中央に比べてより大きなブロックで
大名の所領が形成される傾向にある。実はもうほとんど郡県制と変らないレベルで、
中身が民主的な手続きを経て選ばれた首長ではなく封建領主だというだけのもの。

また南郡仕置も、豊臣政権によって所領が「与えられた」地方の大名の全てが佐竹と同じように
凄惨な暗殺をしているわけではないので、恐らく義宣の決定でこういうことになったと思われる。
これをしなければしないで肥後や奥州みたいな地侍蜂起に繋がった可能性があるので、
一概にダメだったとも言えない。死んだ人たちはかわいそうだったけれども。
494人間七七四年:2010/09/16(木) 22:05:34 ID:kzOxco7a
しかし明確な惣無事令違反
495人間七七四年:2010/09/16(木) 22:46:39 ID:v1pJRJhH
佐竹の虐殺はいい虐殺。
496人間七七四年:2010/09/17(金) 20:04:37 ID:nYuOp116
それにしてもうまくやったよね。
497人間七七四年:2010/09/18(土) 00:24:01 ID:f5wL+TE+
あざやかだよ。
佐竹がこんなにあざやかに勝ったり殺したりしたこと、他にあるのかな?
498人間七七四年:2010/09/18(土) 07:46:34 ID:Zj5E05LT
水戸藩の場合は単なる領民いじめだが、佐竹の場合は常陸統一という尊い目的のために
やむをえず血を流しただけ。
499人間七七四年:2010/09/18(土) 09:15:54 ID:FW58ulb5
水戸藩の場合は平穏な統治のためという尊い目的のためだが
佐竹の場合は私的な権力の拡大と領土欲という私利私欲のための醜い流血。
500人間七七四年:2010/09/18(土) 10:35:03 ID:f5wL+TE+
>>498は下手な釣りだろ。
吊られるな>>499w
501人間七七四年:2010/09/18(土) 17:18:02 ID:6cd+Zqmp
秀吉や三成にある程度は教唆された現地出身者佐竹
誰にも命じられず率先して嬉々としてやった余所者水戸藩
502人間七七四年:2010/09/20(月) 13:31:59 ID:sfJn+RVV
ちなみに水戸徳川家の虐殺って何?
503人間七七四年:2010/09/20(月) 14:18:57 ID:iB7baYpM
知らないけど、生瀬のことじゃね?
504人間七七四年:2010/09/20(月) 19:16:30 ID:sfJn+RVV
それは何年に起こったことなの?
505人間七七四年:2010/09/20(月) 19:35:32 ID:iB7baYpM
調べな
506人間七七四年:2010/09/20(月) 19:48:50 ID:dlbYe5so
> 瀬谷義彦著 『茨城の史話』(茨城新聞社) 
> 「生瀬の乱を考える――有力な慶長七年説」
>
> ・だがここで『大子町史』に結集された益子公朋氏の慶長七年説に注目する必要がある。
>  それは長い間大子地方を含む水戸藩北郡の郡吏として、領民とじかに接していた加藤寛斎の前記の
> 『常陸国北郡里程間数記』の慶長七年説と、事件後藩命によって小生瀬村の再興のため大子村から移住した
> 旧家大藤家の分家に残る書き上げの慶長七年説とを、地元の伝承を忠実に伝えているものとして評価し、
> 慶長七年十月を強く主張するものである。その事件の内容を要約すると次のようになる。
>
>  慶長七年佐竹氏の秋田転封後(中略)。そこで家康の命で佐竹転封後の慶長七年六月、常陸地方を治めるため
> 水戸に派遣されていた重臣の一人芦沢信重(伊賀守)が、一隊を率いて生瀬地方に来り、村民を皆殺しにした。
> その時村民が逃げこんだ場所が地獄沢といわれ、今日でも正式な地名として残っている、というのである。
>
>  そこで益子氏は、佐竹義宣が転封を命ぜられた時、国元の家老に夏年貢の取立てを指示した書状があることを
> あげて、前の手代というのが佐竹氏の配下で、後から督促に来たのが、交代した領主側の役人であったとしたならば、
> この騒動は慶長七年の領主交代の混乱に伴う偶発事件とも考えられ、地元の伝承とも一致するとされる。
> 実に耳を傾けるべき説明であるが、交代した新領主というのは、当然武田信吉ということになるが、
> 武田が正式に水戸城主となったのは、慶長七年十一月であるから、村民皆殺しという事件が起こった十月には、
> まだ正式に水戸城主はいなかったわけである。この時期の旧佐竹領は、一時的ではあったが、幕府の
> 直轄支配地だったわけで、それを治めるために派遣されたのが、芦沢らだったことになる。
>
>  この領主交代に至るまでの、城主不在の空白時には、すでに述べたことではあるが、七月下旬の
> 家臣車丹波らによる水戸城奪回の計画があり、十月には車らが水戸で処刑されるという、大きな事件があった。
> 生瀬の乱はこうした時に起こったということになると、まず佐竹領接収のため家康から派遣されて、
> 水戸、太田などを中心として各地の治安維持にあたった重臣大久保忠隣、本多正信の連名で六月に出された
> 条例を思い出さざるを得ない。それによると、佐竹の家臣の中には、禁令にもかかわらず、農民に期限もこないのに
> 年貢を催促したり、どさくさにまぎれて、種々の乱暴を働き、勝手に農民を斬ったりして監視の眼のとどかない
> 山林を盗伐する者も出たという(『水戸市史』上巻)。
>
>  一方佐竹の領国引渡しが進み、七月中旬に大体終わった直後、例の車丹波の一揆である。このように
> 生瀬乱前の情勢を概観すると、旧佐竹領内農村では、不測の事件が起こってもおかしくない情勢だったことが分かる。
> かくて生瀬乱の慶長七年十月説は、他の諸説とくらべて、最も有力なものとなる。私も以前の主張の
> 不十分だった点を反省して、慶長七年説をとることに躊躇しない
507人間七七四年:2010/09/20(月) 22:45:13 ID:sfJn+RVV
つまり水戸徳川家じゃないじゃんw
508人間七七四年:2010/09/21(火) 01:25:34 ID:xmP40i9x
慶長7年には水戸徳川家の祖である徳川頼房はまだ生まれていないからね。
509人間七七四年:2010/09/21(火) 01:30:07 ID:5t+JTz4f
岩波文庫の「幕末の水戸藩」を読むと
水戸藩士の間で、生瀬の乱は公然の秘密、水戸藩史の恥部として語り継がれていたようだな。
>>506の慶長七年説はあくまで異説。
510人間七七四年:2010/09/21(火) 01:59:08 ID:xmP40i9x
>>474
鳥取も千葉県と連携して里見氏の大河ドラマ化を訴えている。
>>509
そもそも、その事件の通説って何年よ?
水戸徳川家の成立は慶長14年なのだが。
511人間七七四年:2010/09/21(火) 07:44:06 ID:rb0zNtqC
異説も何も佐竹の代官云々の話になるなら慶長十四年以降じゃ
遅すぎる。その説を唱えた人間が時系列を知らなかったとしか思えないが。


>それによると、佐竹の家臣の中には、禁令にもかかわらず、農民に期限もこないのに
> 年貢を催促したり、どさくさにまぎれて、種々の乱暴を働き、勝手に農民を斬ったりして監視の眼のとどかない
> 山林を盗伐する者も出たという
512人間七七四年:2010/09/21(火) 07:45:18 ID:rb0zNtqC
あと↓佐竹側もずいぶんとあくどいことやってるみたいだね。

>それによると、佐竹の家臣の中には、禁令にもかかわらず、農民に期限もこないのに
> 年貢を催促したり、どさくさにまぎれて、種々の乱暴を働き、勝手に農民を斬ったりして監視の眼のとどかない
> 山林を盗伐する者も出たという
513人間七七四年:2010/09/21(火) 23:03:55 ID:2XmwjXCl
いや、それ自体が捏造だし
本多等の出した禁礼が元ネタだけど(出典・水戸市史)
佐竹が転封した後、旧佐竹領では治安が悪化し手を焼いた徳川の代官等が出した禁礼がそれだ
勿論佐竹云々とは一言も書いてないし、それらの事に佐竹家が関わっていたと読み取る事は出来ない
それを誰が何の為か「佐竹の家臣」の行為であると付け加えた

ちなみにこの話しは生瀬事件と何の関連もない
514人間七七四年:2010/09/22(水) 00:14:16 ID:Mn0GXBV/
国替えのときは追い払われるように常陸から出て行ったからなあ。
百騎ほどしか連れて行けなかったし、当然それ以外の連中は召し放ちということになったわけで、
そういうのが自暴自棄になって犯罪を犯したとしても不思議ではない。
それを取り締まらねばならないのは勿論領地の受け取りをする徳川方で、
佐竹には最早警察行為をする権限も何もないんだから、
佐竹の責任的なことを言われても、という感じだろう。
それに徳川方は国替えをするのもされるのも初めてではないんだしな。
515人間七七四年:2010/09/22(水) 07:38:09 ID:N3fvr2oi
>>513
その水戸市史ってので確認したの?捏造の一言で片付けるんじゃなくて
ソースつきで書いてくれよ。
516人間七七四年:2010/09/22(水) 08:45:15 ID:k6/isOkv
>>514
義宣は国替えの命を受けて、京から国許へ帰らず、
直接秋田へ赴いた。
そのとき自身はわずかな供しか連れて行かなかったが、
もちろん国許からは家臣たちが大挙して移住した。
517人間七七四年:2010/09/22(水) 09:03:58 ID:rh1/qZrY
佐竹至上主義者が佐竹に都合の悪い史料は全て捏造だと騒いでいる真っ最中です
518人間七七四年:2010/09/22(水) 12:15:39 ID:r6pmCXfh
でも実際、徳川に口実つけられて改易される恐れもある戦々恐々な佐竹がそんな勇気ないだろ。
車氏とか水戸城奪還挙兵したやつらも佐竹が転封完了するまでは大人しかったんだし
519人間七七四年:2010/09/22(水) 18:07:31 ID:hZLtkxgO
下総の海上家ってどんな立場?
520人間七七四年:2010/09/22(水) 18:27:12 ID:Mn0GXBV/
>>516
うんそうだね。
>>517
こういう一行レスの馬鹿が出るから困る。
佐竹に都合が悪いも何も、小生瀬虐殺はそもそも芦沢信重がやったとされている事件じゃねーか。
信重は武田家臣でのち水戸徳川家の家臣になった男だ。

水戸藩が編纂した『水府志料』の小生瀬村の項にもこの事件のことは載っていない。
大子村の黒崎某が文政年間に著したとされる『常陸紀行』にも小生瀬のことは出るものの、
事件については書かれていない。また『新編常陸国志』にも、その他の地誌にも載っていない。
知られるようになったのは鈴木成章が明治四十年(1907)に著した『水戸歴世譚』によってで、
事が起こったのは元和三年(1617)丁巳十月であるとしている。
小生瀬の住民が年貢を納めずに役人を打ち殺したため、芦沢が怒って村民を誅戮したとある。
一方私がたまたま持っていた茨城県の歴史という本は、酉の年に起こったという伝説があると書き、
また根拠も書かずに慶長十四年己酉(1609)に起こったとする説が有力であると書く。

どちらの説に従っても佐竹に関係があるとするのは無理がある。
水戸市史のほうは上巻は手元にあるものの、小生瀬事件の記載は多分なし。
近世以降のことが書かれている下巻は持っていないが、多分そっちに書かれているんだろう。
また事件を題材にして飯嶋和一が描いた小説『神無き月十番目の夜』では、
慶長七年(1602)つまり佐竹が転封された年に虐殺が起こっている。
言うまでも無いがこれはあくまで小説だ。
521人間七七四年:2010/09/22(水) 23:08:24 ID:HGkh7h6Z
>>515
だから書いてあるじゃん
慶長七年に本多等徳川氏代官が連署で
勝手に年貢をとらない事、指示に従わない百姓を独断で斬ったりしない事、山林の伐採を禁じる事
などを布告している
それをソースにして水戸市史では下記↓のような

> それによると、佐竹の家臣の中には、禁令にもかかわらず、農民に期限もこないのに
> 年貢を催促したり、どさくさにまぎれて、種々の乱暴を働き、勝手に農民を斬ったりして監視の眼のとどかない
> 山林を盗伐する者も出たという

というような解説がなされているわけだけど
それによるとって、どれによるとそんな解釈になるんだって話しw
522人間七七四年:2010/09/23(木) 01:50:06 ID:32sY/e47
それで水戸市史の原文は?
523人間七七四年:2010/09/23(木) 07:53:24 ID:+O09pg3N
水戸市史・上巻 第十三章 846頁〜847頁
に書いてあるよ
524520:2010/09/24(金) 01:46:56 ID:5vUukf35
>>506 >>511 >>513 >>521
水戸市史上巻にここで指示された禁令についての記述があるというので読んでみた。
文書がどう読まれているのか見ていくので、かなり長いことを断っておく。
状況は佐竹が常陸を出て行ったあと、領国受け取りの為に徳川の家臣がやってきたときのこと。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
なお大久保忠隣・本多正信の連名で、次の定書三か条が出されたのは、六月十四日のことである。
 一、在々の百姓は前々のごとく村に居付いて作物などを油断なくすべし。非分を行う者はすぐ届けるべし。
 一、去年の年貢未進、借銭の取沙汰をしてはならない。人身の売買は停止する。
 一、諸給人衆の荷物などは南郷の赤館まで、前々の百姓が運送すべし。
 右の条例違反者があらば、水戸駐在の花房助兵衛・島田次兵衛へ訴え出るべし。
この第一条と第二条とは、百姓の移動を禁止し、農耕生活の安定を計ったものであるが、
第三条で百姓は給人衆の荷物を赤館まで送らねばならなかったから、その辛労は多大であった。
その上、給人衆は禁令にもかかわらず百姓に未進年貢などの催促、その他種々の難儀を吹きかけて、
勝手に百姓を斬ったりした。村々の治安も乱れて、どさくさまぎれに乱暴を働く者もあった。
監視の眼のとどかない山林を討伐する者も出た。そこで、六月二十二日、
大久保・本多両人の名で再び次の定め書きが発布された。(大意)
 一、在々で理不尽に人を斬るとの噂があるが、もし成敗しなければならない者は水戸奉行中(花房・
島田)へ断るべし。たとえ理を以って致しても、公儀の許可なく我がままをする者は従類共々成敗する。
 一、所々へ狼藉を致す者は、すぐ召捕って、水戸奉行衆へ申上げるべし。
 一、以前からある立山(領主の材木山)は紊りに伐採してはならない。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

これが水戸市史上巻の記述。
定書の全文が意訳になってしまっているので、翻刻された元の文を以下に書いておくが、面倒臭いので
二番目(六月廿二日)の文書だけにする。一番目(六月十四日)のは二番目のと合わせて説明する。
出典は茨城県史料中世編1の鹿島神宮文書。旧字体とかは新字体に直す。■は欠け。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
一 於在々、理不尽に人をきるよ■其聞候、若為無成敗不叶者之義者、水戸奉行中に可相断、
縦理を以いたし候共、不得 公儀、我儘に仕候はゝ、従類共可遂成敗事
一 所々にて致狼藉者有之者、急度めしからめ、水戸奉行衆へ可申上事
一 前々よりのたて山、みたりにきり取へからさる事
右条々於違背之族者、可処厳科者也、仍如件
     慶長七年
         六月廿二日              大久保相模守(花押)
                              本多佐渡守(花押)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
525520:2010/09/24(金) 01:48:17 ID:5vUukf35
わしも文書をきちんと完璧に読めるわけではないので大きな声では言えないが、
水戸市史の理解は落第点と言ってもいいくらい、ちゃんと読めてない。

先ず重要なのは、この文書が、誰が誰に対して何の目的で出されたのかということだ。どうも水戸市史の
文章を見ると、旧佐竹領全体に対して「お触書」のような感じで出されたのだと考えているように見える。
しかしこれは『鹿島神宮文書』として伝わっているのであるから鹿島神宮に対して与えられたものである。
中世の「文書は受益者の元に到来する」のだ。従ってこの文書は鹿島神宮の関係する領域のみに効力を持つ。

さて本文。まず「在々」というのは村(東国では郷村ともいう)のこと。「(給人衆が)勝手に百姓を斬ったりした」と
水戸市史は書くが、もうこの時点でアウトである。「理不尽に人をき」っているのは在々(郷村)の百姓である。
何故そう言わなければならないのか?一条目で「理不尽に人をき」っているものは、水戸の奉行に断って
云々と書いているのに、二条目でもさらに「所々にて致狼藉者有之者」は急度めしからめて水戸奉行衆へ
申し上ぐべき、と書くのは明らかに重複であり、そもそも書く必要のないことである。
この一条目の解釈は、「郷村で理不尽に(村検断等の判断で)人をきっていると(鹿島神宮から)聞いたが、
もし上位権力がない為に罰則を与えられないものがいるならば、水戸奉行中に報告し、(主に水戸奉行中が)
道理を以って判断を下したにも関わらず、その公儀の判断を無視して我侭な振舞をするならば、それら従類共に
成敗を加えなさい」とするべきである。これは主に他郷村との争い等を起こさないようにとの文言であろう。

そうすると二条目もすんなり解ける。「犯罪を犯す狼藉者は捕縛して水戸奉行中へ報告を上げろ」そのまま。
三条目まで来ると分かるが、これは領主が相続されたり、替わった時に出される通例の禁制事項である。
この文書は、鹿島神宮の社領や佐竹が代官をしていた料所などでの意思統一を計ったもので、何かあった
場合には鹿島神宮が郷村へこの文書を見せて、こういう判断をすべきだと促すためのものなのだ。
郷村が人を斬っていたのは、上位権力である佐竹がいなくなったために村独自で裁判を行ったためなのだ。
また六月十四日の定書でも「給人衆は禁令にもかかわらず百姓に未進年貢などの催促」なんて書いているが、
そういう禁令を犯す行動をしている者が給人衆であるなんて事は、定書に一切書いてない。
「去年の年貢未進、借銭の取沙汰をしてはならない。人身の売買は停止する」この文言についても、
(そもそも去年というのが間違っているが……原文では「去(さる)」であって当年の夏年貢のことだろう)
領主が変わるために年貢の割り付け等も変わることを念頭に置いていると思われ、それで年貢を払えない者が、
借銭したり人を売ったりすると話がややこしくなるので、取り合えず停止ということだ。
ちなみにこの時期は太閤検地のあとであり、一般的に貸銭や人身売買によって富を集積していくのは
どちらかというと百姓であって、武士や給人であるところの侍ではないんじゃないだろうか。東国、しかも常陸だし。

こうしてみると、確かに水戸市史が給人とやらを悪者にして、地域の平和を乱していると恣意的に付け加えている。
水戸市史は昭和三十八年発刊らしいので、時代からいっても階級闘争史観真っ只中だから
まあこういう見方も仕方ないのかも知れないけど。
526人間七七四年:2010/09/24(金) 12:28:39 ID:sMsOgTHM
>>524>>525
分かりやすい説明ありがとう
私も鹿島神宮文書という点を見逃していたので非常に勉強になりました
527人間七七四年:2010/09/26(日) 14:48:37 ID:SUOxq0ck
佐竹が悪いって論調は
仙台の伊達と同じで、
いまだに旧水戸徳川系の支配が
水戸を中心として政財界で続いてるって証明でもあるよね。
528人間七七四年:2010/09/26(日) 16:56:51 ID:1jD+g8+u
>>527
頭大丈夫か?陰謀論脳は中学生で卒業しなさい。
529人間七七四年:2010/09/27(月) 06:34:16 ID:ACbesW7r
>>528
東京にしかいないと
分からないかも知れないけど
地方都市なんて
藩主に連なる血筋が
市長や知事になってるの
けっこあるよ?
伊達なんていまだに
家臣の家系が挨拶に来るしw
530人間七七四年:2010/09/27(月) 07:36:09 ID:0mW+0hOh
他の都市ではよく聞くけど旧水戸藩領でもそういうのあるの?
うちも水戸藩士だったけど我が一族は除け者にされているのだろうかw
だいぶ前、従兄の結婚式に徳川さんがいたから親戚に「あれ誰?」て聞いたら
「ああ、水戸家の当主だよ」と言われたけど後で調べたら一橋家の方だし
そもそも水戸家の当主ってどこにいるんだろ…
531人間七七四年:2010/09/27(月) 08:01:09 ID:72ZG448q
当主は徳川博物館の館長だろ。
水戸の政財界を支配してるのかは知らんがw
532人間七七四年:2010/09/27(月) 15:53:28 ID:ozningXT
佐竹分家・・・秋田市長
相馬・・・馬追い祭りのゲスト
徳川本家・・・ベトナム人
慶喜家・・・コーヒー写真
尾張徳川・・・徳川美術館
前田・・・忘れた
井伊本家?・・・彦根市長
紀州徳川・・・滅亡寸前
山内・・・山内興業?
細川・・・熊本県知事・総理大臣
島津・・・島津興業?
533人間七七四年:2010/09/27(月) 18:58:17 ID:un4UZXKY
仙台・青葉まつり」では、
山鉾に乗った仙台市長、雀踊りの仙台市民らに先んじ、
大パレードの先頭集団として行進する武者行列(仙台藩士会)の先頭を歩く。

ttp://www.sengoku-roman.com/20100721-1480.html
偉大なおかたの拝顔できるぞ。好きなやつは行ってこい。
534人間七七四年:2010/09/27(月) 19:10:54 ID:72ZG448q
ここは常陸と下野の戦国大名について語るスレ。
伊達の話題はそろそろスレ違いだな。
535人間七七四年:2010/10/01(金) 18:36:06 ID:6lCDoIFL
地域おこし:戦国期に常陸国を統一、佐竹氏で 桜川の同好会、ブログを開設 /茨城

 義宣の父・義重は、甲の前立てに毛虫を付けたことなどからテレビゲームのキャラクターとして人気。
同じく毛虫の前立てを付けた義宣も、デザインTシャツが販売されるなど、親子そろって注目を集め始めている。

 ただ、関ケ原の戦い後、常陸国から出羽国久保田(現在の秋田市)に国替えを命じられ、同市には
佐竹氏の史料館もあることからファンの視線は秋田に集まっている。また、県生活文化課が「江戸時代以降に
顕著な功績があった」という基準で選ぶ「輝く茨城の先人たち」約200人の中にも入っていない。

 これに対し同会は8月、「何らかの形で佐竹氏を取り上げるべきだ」と県に要望書を提出し、
茨城での復権を目指している。同会ブログでは、佐竹親子が甲の前立てに毛虫を選んだ理由を問うなど
計10問の「ご当地検定」を掲載。10月16日午前10時には、佐竹一族をまつる正宗寺(常陸太田市)で解答を発表し、
現地に来た人には同市内に残る史跡を案内するツアーも企画中だ。同会顧問、橋本菊月斎さん(67)は
「義重を茨城ゆかりの人物として定着させるため『ゆるキャラ』化して発信するなど取り組みを広げていきたい」と語った。【高橋慶浩】
http://mainichi.jp/area/ibaraki/news/20101001ddlk08040072000c.html


小七郎と七人の武将のブログ
戦国常陸、武将佐竹氏

佐竹義重の兜の前立てについて、何故義重が戦国当時の武将から笑われるような田舎者が
付けるような「毛虫の前立て」を採用したかについては諸説あり研究・検証の途上であるのが
常陸の戦国史の現状です。

翻って小田原城を本拠として他国者ながら関八州を席巻した北条早雲こと伊勢新九郎長氏や
氏綱に就いて静岡大学の小和田哲男氏や下山治久氏等の研究に依って後北条氏は戦国大名中
一際目立つ戦国武将として顕彰されてきました。

このブログを契機に「戦国大名・佐竹義重の強さの秘密」が一つでも解明出来るように
読者の皆様方からの御意見を頂ければ幸いです。宜しくお願いいたします。
http://blogs.yahoo.co.jp/yamabuki517/MYBLOG/yblog.html
536人間七七四年:2010/10/03(日) 20:04:12 ID:gv72eYb/
>小七郎と七人の武将のブログ
>戦国常陸、武将佐竹氏

佐竹と別段関わりのない人が利用してるだけじゃないか。桜川市の同好会が
義重のゆるキャラで地域おこしなんて筋違いもいいところだ。
537人間七七四年:2010/10/04(月) 23:41:47 ID:2ljB+5Jt
バサラに巨人バカとして義重佐竹塾が登場したことが影響したかな?
538人間七七四年:2010/10/05(火) 08:02:27 ID:6xgf3LlN
桜川市なら鬼真壁だろうに
桜川市でも真壁地区はまだ分かるとしても
岩瀬地区は佐竹とあまり関係のよろしくない笠間氏の領地が多いし
義重で地区おこしとか意味不明すぎる
539人間七七四年:2010/10/05(火) 09:51:05 ID:oMf+BFV6
この橋本何とかっておじいちゃんウィキペディアで本人乙って言われている人だよ。
義重公もつまんないのに目をつけられたもんだ。


http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/history/1219318312/701-800
757 :日本@名無史さん :2008/11/05(水) 22:53:08
>>756
出典は『剣祖影流愛洲移香斎久忠の系譜と伊勢大神宮神領奉行職伊勢愛洲氏の考察』
(橋本菊月斎、伊勢愛洲氏顕彰会常陸支部、2006年4月)しかないと思う。読んでみても
意味がわからない本だったが、著者本人が自説の開陳してるような気がするんだ。

http://www.unkar.org/read/gimpo.2ch.net/hobby/1247380237
16 :名無しの愉しみ[sage]:2009/07/12(日) 16:57:10 ID:???
>>13
[[利用者:Aisukageryuu]]の別垢だろうね。
あと[[利用者:Monto]]と[[利用者:Tukushiko]]なんかもまず同一人物と見て間違いないと思う。
で、中の人はどうやら[[愛州久忠]]だったかの顕彰会かなんかやってる郷土史家の橋本菊月斎という人らしい。
別に複垢使って議論妨害するわけでもなく、かといって完全に乗り換えるでもなく、ここ1年ぐらい自説をひたすら投稿してる。
[[ノート:陰流]]あたり参照。
540人間七七四年:2010/10/05(火) 13:35:59 ID:DSOfMwkv
常陸太田市公認じゃなきゃダメだろ。
つか三楽斎ファンクラブ会員になりたい…
541人間七七四年:2010/10/05(火) 22:02:40 ID:6xgf3LlN
八郷こそ三楽斎で地域おこしするべきだな
せっかく名将がいたのに知名度ゼロだし
542人間七七四年:2010/10/05(火) 22:58:12 ID:DSOfMwkv
三楽ワンワン倶楽部
〜会員募集中〜
ストライクウィッチーズみたいな三楽様でお願いします。
543人間七七四年:2010/10/06(水) 03:31:27 ID:U0Wy7j77
結城四天王( 山川・多賀谷・水谷・岩上)
萌えはエリアが他県にまたがりすぎて難しいか・・・
なんつーか戦国末期でも
結城晴朝は良いキャラしてるし
家康との付き合いで秀康つながりでおいしかった常陸・下館城 水谷勝俊
佐竹と運命共同体で改易した下総・下妻城 多賀谷重経
の下城コンビに萌えてもいいと思うんだ・・・ストパンのキャラで
晴朝少佐「勝ちゃーん!大丈夫だった?」
勝俊「大丈夫だよぅ」
重経「むむむっ!また少佐とあんなにくっついて!なんなのあの子わぁっ」

岡本禅哲「むぅ萌えた・・・さっそく義重殿に報せてフィギィア買ってもらおう」
544人間七七四年:2010/10/06(水) 09:14:31 ID:EQVNK+qb
片野の三楽と呼ばれていたのに地元じゃ無名だとすると悲しいな。
ちなみに八郷は石岡に吸収されました。
545人間七七四年:2010/10/06(水) 12:37:28 ID:4hEZ/ToF
「斎」を名前に付けていた爺どもを集めて
〜斎ゆるキャラを作るしかないな!
546人間七七四年:2010/10/06(水) 12:50:52 ID:eX4F1xWi
片野自体マイナーだもんな
柿岡も片野も今となってはただの田舎だし、太田親子がいたなんて信じられんw
547人間七七四年:2010/10/06(水) 17:19:02 ID:U0Wy7j77
太田山楽斎1/8フィギア

p://www.kotobukiya.co.jp/item/page/pvc_s-witch_barkhorn/index.shtml
548人間七七四年:2010/10/06(水) 18:01:02 ID:EQVNK+qb
真壁なんかは大きな真壁城があるから旧八郷に比べればまだマシな方だと思うけど、
去年真壁の雛祭にいったら「直江兼続」とか書かれた山車があってガッカリしたよ。

久幹とか氏幹とかってそんなに知られてないのかな?
549人間七七四年:2010/10/06(水) 19:53:13 ID:4hEZ/ToF
>>1
佐竹スレはあるので
下総を含めた利根川中流域関宿周辺エリアのマイナー武将スレにすれば良かったなあ。
550人間七七四年:2010/10/06(水) 20:07:35 ID:Yl7H5EEi
佐野氏大好きなんだが


実際知名度ってどうなんだ?

世間一般じゃ皆無か?ま、佐野市でも「佐野昌綱?はぁ?」って感じだしな
551人間七七四年:2010/10/06(水) 20:18:39 ID:/sPbZNFN
佐野氏はいいよね。
弱小のくせに北条にも上杉にも徹底抗戦したしね。

佐野氏の研究してるのは黒田基樹とか北条大好きな人ばっかりなのかな。
こういう人たちは、北条が佐野氏にとってもすごく友好的で優しい政権だったみたいに書くからイヤだよ。
552人間七七四年:2010/10/06(水) 20:26:42 ID:Yl7H5EEi
>>551

そう唐沢山に篭城して上杉と対峙すること十回…

よく上杉に負けなかった、唐沢山城は落城しなかったとかいうけどさ

実際には降伏→開城とかしてるよね。こういうのは別に落城とは言わんのか…
553人間七七四年:2010/10/06(水) 20:32:49 ID:4hEZ/ToF
降伏じゃないか?
上杉の目付けを入れさせられたり
人質取られたりしてるしね。
小田原征伐後に佐野は復興できて良かったよね!
554人間七七四年:2010/10/06(水) 20:37:56 ID:Yl7H5EEi
確かに、天徳寺さんのおかげですな

それでも永禄7年の唐沢山城の戦いで活躍した佐野昌綱と地獄沢の戦いで武勇を馳せた佐野宗綱が大好きw

ところで上杉側には佐野との合戦の経過が描かれた資料がないのかな?
555人間七七四年:2010/10/06(水) 20:38:17 ID:/sPbZNFN
降伏だね。
佐野領自体が長尾の関東侵攻の基地にされちまってるし。
天徳寺の帰国と復興は良かったよ。
しかし、北条に鞍替えした家中の裏切り者の処分はどうしたのかな?
佐野記あたりに書いてあるように許したのかな。
556人間七七四年:2010/10/06(水) 20:51:53 ID:Yl7H5EEi
人質については大きく二つありますな

・佐野勢にみせしめとして殺した(北条系の資料にあったはず)

・解放され無事だった

山上道牛が北条勢にいるような記実があることから前者は信じられてませんがね

佐野記の通りでしょうね


しかし佐野記は合戦の記述少ない…昌綱なんて永禄2年の北条の攻撃と死んだことしか書かれてないし……何故なんだ!!

唐沢軍談とかも同じような内容なのだろうか?
557人間七七四年:2010/10/06(水) 20:54:55 ID:Yl7H5EEi
>>555


くら替え家臣の話しだたwwww

岩崎系文書には殺されたとありますが、多くの(あまりいないけど)郷土史家は佐野記の記述などを信用してるようですお
558人間七七四年:2010/10/07(木) 02:37:58 ID:TcH0BkKG
>>547
三楽犬ハァハァ
559人間七七四年:2010/10/26(火) 15:46:51 ID:m/S4Qt8I
560人間七七四年:2010/10/28(木) 17:20:10 ID:iUyXmt9k
>>559
落ちてる
561人間七七四年:2010/11/01(月) 01:42:12 ID:cF1+AoZa
8回許して9回目に討伐じゃなかったけ
562人間七七四年:2010/11/03(水) 15:28:20 ID:4QsvZuEv
天庵公について詳しいサイトを見つけた。
ttp://www.rekishi.sagami.in/tukuba.html

>小田氏治は30万石〜40万石を領していたと推測される
まじかよ…
563人間七七四年:2010/11/03(水) 15:44:07 ID:C26UF64p
>>562
そりゃ大きいと思う。
里見氏が上総大半と安房一国で40万石弱と言う説が過大評価あつかいされているのに。
564人間七七四年:2010/11/06(土) 15:12:37 ID:LhqxXXD/
その石高の根拠が書いてないねえ。
565人間七七四年:2010/11/07(日) 08:51:58 ID:R1KndYgX
>>548
久幹や氏幹というかそもそも真壁氏の存在すら一般的にはそう知られてないと思う。真壁氏の元下僕と言われる平四郎は平四郎最中とかあるから少しは由来知ってる人がいるかもだけど

あと山車はその年の大河とか流行りものを演題にしてる感じなのよw
566人間七七四年:2010/11/07(日) 10:58:38 ID:JqQMD9Vk
>>565
そりゃさびしい話だなあ。今度の山車は坂本龍馬かなw

別スレにも書いたけど久幹を「どーむ君」とか適当にゆるキャラ化して
真壁氏と真壁城を売り出せばいいのに。
567人間七七四年:2010/11/07(日) 13:13:55 ID:yADPS1zy
旧水戸藩の地だから戦国以前の歴史を消しまくってて
郷土の英雄に対する敬意がなくなり厳しいな。
568人間七七四年:2010/11/07(日) 13:47:43 ID:2+7Z09zm
>>567
どこまで無知なんだ?
569人間七七四年:2010/11/07(日) 23:22:19 ID:LRL1wKD8
この水戸藩嫌いのヤツだろうけど、つくづく無知だなあ
前にもこんなことやらかしてたけど

978 :人間七七四年:2010/10/16(土) 17:41:50 ID:jfWHtVXk
みんな知らないけど水戸徳川はすごい佐竹への弾圧を二度やってるよね
生瀬殺しは有名で、にわかに佐竹を支持する程度の罪の無い百姓を600人惨殺したよね
天狗党弾圧では残党狩りで武田観柳斎の首を妻に持たせながら拷問したよね
それを忘れたの?復権って何?

981 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:14:16 ID:rwi0FBKn
武田観柳斎ってwww
なんで天狗党弾圧で「武田観柳斎」の妻が拷問されんだよ。

982 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:20:44 ID:O4v0a1PA
>天狗党弾圧では残党狩りで武田観柳斎の首を妻に持たせながら拷問したよね

佐竹と関係あるのそれ?

983 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:32:55 ID:kmKnVGS/
>>981
得意げに叩きたがるような手合いに限ってこれだもんなww
武田耕雲斎って言いたかったんだろ

984 :人間七七四年:2010/10/17(日) 01:41:51 ID:1Hij7UwS
武田耕雲斎─水戸藩士
武田観柳斎─新撰組組長

覚えとけよ?
570人間七七四年:2010/11/08(月) 04:46:16 ID:m+RzIFYy
実際、水戸へ行って歴史本を見ても
佐竹の本ひとつ売ってないどころか佐竹に触れてない
江戸以降のことばかり書かれてる本ばっかで笑えた。
571人間七七四年:2010/11/08(月) 08:06:25 ID:qXNq1CEf
そりゃ佐竹が水戸を本拠にしたのなんてたった10年程度だもんなw

でも川又書店の郷土史コーナーには佐竹の本売ってるだろ。
572人間七七四年:2010/11/08(月) 08:41:27 ID:L9ueiz5y
水戸は佐竹というより江戸氏だろ
573人間七七四年:2010/11/08(月) 11:01:56 ID:qXNq1CEf
戦国武将江戸重通をモチーフにしたゆるキャラで
水戸市の地域おこしをしようぜ。
574人間七七四年:2010/11/08(月) 14:03:51 ID:eXvsV0pc
茨城県の県都が佐竹軽視な時点で終わってるんだけどな。
だから江戸も真壁もみんな知名度ない。
結局、水戸藩閥の子孫が掲示板でも必死に工作してるだけだろうね。
575人間七七四年:2010/11/08(月) 14:16:39 ID:qXNq1CEf
豊臣政権に取り入って常陸全土を10年程度治めただけの
佐竹をなんで茨城県民全体がそこまでありがたがらなくてはいけないのか
問いたいね。佐竹と水戸市とはほとんどの期間直接縁がなかったんだから
軽視されても仕方がないわな。

真壁が水戸藩領でなかったことはもう気づきましたか?
576人間七七四年:2010/11/08(月) 14:25:05 ID:eXvsV0pc
水戸は県都だろ。
茨城県全域を代表してるはずだ。
別に水戸以外の茨城県内の市町村に強制させろとは言ってないわ。
577人間七七四年:2010/11/08(月) 15:03:35 ID:A4Tw86r4
>>576
頭大丈夫かお前?もう手遅れっぽいが。
578人間七七四年:2010/11/08(月) 15:35:59 ID:xrZf+405
水戸閥の陰謀君
そりゃブログにでも書いてくれ
ここや佐竹スレを荒らさないでくれ
579人間七七四年:2010/11/09(火) 08:15:38 ID:cYnr3u1f
>>575
豊臣政権下でも常陸全土ではなかったりする
小田領は結城氏へ、笠間領は宇都宮氏へ、岡見領は由良氏などへ与えられている
あと旧里美村周辺は岩城領で、県西の下総との境界付近は多賀谷領が入り込んでいる
常陸一国与えられたとか書いている本が非常に多いけど
実際は結構な範囲に抜けがある
この点を見ても人々の佐竹氏への関心の低さがうかがえる

最近、ハッスル黄門様が茨城県のキャラみたいになってきたけど
茨城を水戸藩で推してくのも無理あるよね
県南及び県西は水戸藩関係ないし
人口にすれば半分は無関係となる

>>573
それいいかも
いっそそのくらいマイナーな方がうけそうだ
地元民としてももう少し江戸氏に関心持って欲しいw
580人間七七四年:2010/11/09(火) 08:15:41 ID:cYnr3u1f
>>575
豊臣政権下でも常陸全土ではなかったりする
小田領は結城氏へ、笠間領は宇都宮氏へ、岡見領は由良氏などへ与えられている
あと旧里美村周辺は岩城領で、県西の下総との境界付近は多賀谷領が入り込んでいる
常陸一国与えられたとか書いている本が非常に多いけど
実際は結構な範囲に抜けがある
この点を見ても人々の佐竹氏への関心の低さがうかがえる

最近、ハッスル黄門様が茨城県のキャラみたいになってきたけど
茨城を水戸藩で推してくのも無理あるよね
県南及び県西は水戸藩関係ないし
人口にすれば半分は無関係となる

>>573
それいいかも
いっそそのくらいマイナーな方がうけそうだ
地元民としてももう少し江戸氏に関心持って欲しいw
581人間七七四年:2010/11/09(火) 09:10:51 ID:jR1Woegq
茨城全県は無理でも旧常陸部分を代表できる由緒があるものというと
鹿島神宮くらいか?

鹿島氏はもちろん、佐竹、小田、大掾、笠間、真壁と敵味方関係なしの
崇敬はあった。もっとも、今の人間は逆にそこまで重要視してはいないんだが。
582人間七七四年:2010/11/09(火) 10:11:04 ID:y7kThAtc
崇敬ね。

義重は最初のうちは鹿島神宮の権威を利用して常陸に力を浸透させようとしていたが
そのうち実力が付いて来ると社領の返還を求められても無視するようになった
かなり後まで出陣の吉日を選んでもらったりはしてるのだが。
583人間七七四年:2010/11/09(火) 10:48:54 ID:jR1Woegq
別に絶対的な権威として崇め奉ってたなんて言ってないがね。

鹿島神宮側もその社領を保証する権威が無い時代に生き残りをかけて権威の拡大と
見入りのいい商売にいそしむために大名たちを利用したってこと。
584人間七七四年:2010/11/09(火) 10:50:41 ID:jR1Woegq
実入りだな。つか、思いついただけで別に気に入らんならいいよ。
実際、県北に住んでると鹿島はいわきとかよりも遠く感じるしな。
585人間七七四年:2010/11/09(火) 12:48:51 ID:cYnr3u1f
鹿島神宮いいじゃないか
常陸の一ノ宮だし
俺は県北だけど鹿島神宮、静神社、笠間稲荷はよく初詣に行くよ
鹿島神宮は結構芸能人なんかも来るんだよね

しかし鹿行の歴史も複雑だな
586人間七七四年:2010/11/10(水) 15:32:42 ID:F5u2e+XM
鹿島城址の石碑に鹿島氏の石高が三万石とあったんだが
妥当なんだろうか?
587人間七七四年:2010/11/10(水) 21:12:28 ID:y2e7z1CS
>>586
鹿島氏のことは知らないが、関ヶ原の戦功で里見氏が鹿島に飛領を与えられた時は3万石とされた。
588人間七七四年:2010/11/10(水) 21:44:19 ID:F5u2e+XM
どうも。
町割りは佐竹が大分いじったようだけど石高がそこまで極端に変化するわけは
ないからだいたいその規模なんだろうね。里見氏が与えられたのは
鹿島郡らしいから烟田氏等の一族領含めて三万石ってことか。
589人間七七四年:2010/11/13(土) 22:10:48 ID:5b/+kkvD
>>580
細かい事ですまんが、
笠間は元から宇都宮の傘下のような。半独立状態だったのは間違いないが。
佐竹は部垂や山入を克服して戦国大名になったのに対し、
宇都宮は戦国の最後まで家臣団を統制できなかったのは非常に残念だ。
590人間七七四年:2010/11/13(土) 22:37:29 ID:wrl66x6D
益子と笠間はまさに犬猿の仲
591人間七七四年:2010/11/14(日) 08:22:51 ID:TNyvjW1L
那須、宇都宮も内訌に散々苦しめられたからね
佐竹、宇都宮は当主が本拠地追われていたし那須に至っては当主が何人も殺されている

最近下野の城巡りをしている
下野の城って大大名がいなかったからこじんまりしてるけど何か好きだな
常陸の城って立地からしてやる気ないんだもんw
592人間七七四年:2010/11/14(日) 19:02:54 ID:qM12Dd/S
西方家が宇都宮領の西端だから西方という名乗った訳だから
宇都宮と西方の中間にある壬生は、どう考えても元は宇都宮一族(横田家の分家という説)
あるいは家臣(通字の胤から下総千葉家の分家説)だよな。
それなりの書籍ですら下級公家の下向説(笑)を採用してるの見ると呆れる。
593人間七七四年:2010/11/14(日) 23:45:29 ID:TNyvjW1L
状況的に見れば宇都宮氏ゆかりの一族と見るのが自然だね
でも氏家氏なんかも出自が曖昧なんだよな
あと、武茂氏は何であんな飛び地みたいになっているのだろう
594人間七七四年:2010/11/16(火) 11:57:48 ID:pw78/EnI
話ぶった切ってすみません。
みんなどうやって宇都宮家の事とか調べてるんですか?
自分ググっても『喜連川五月女坂の戦い』とか知りたくても、
満足いくような情報も調べられなくって・・・。
595人間七七四年:2010/11/16(火) 13:05:29 ID:1bo331D+
>>594
栃木県史や宇都宮市史を読んではどうか
596人間七七四年:2010/11/16(火) 22:56:06 ID:VNKgQwRj
下野のことはさっぱりだけど、上の人の言うとおりローカルなものから
攻めて行った方がいいと思う。もっとローカルなのが検索したら
出てきた。ただ、情報が古いかもね。

http://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000009656213.html
喜連川町史. 第6巻(通史編 1)

喜連川五月女坂の合戦  309  


それと本の検索にはこういうものをどんどん活用すべき。

県内図書館一括検索
http://www.lib.pref.tochigi.jp/soumoku/soumoku_top.htm

ぐぐっては参考文献を見つけこっちで図書館を検索の繰り返しで、
図書館行く前にかなり絞れるはず。
597人間七七四年:2010/11/17(水) 19:09:07 ID:ItM1n99M
>>595
なるほど!!
そういう県史や市史から調べる手があるんですね!!

>>596
詳しく丁寧に有難う御座います!!
こういう調べ方を知らなかったので胸が高鳴っています。
次の休日は図書館にこもってしっかり調べてみます!!
598人間七七四年:2010/11/17(水) 20:16:59 ID:fjTPq6/G
こういうことは調べ方がわかってくると面白すぎて中々抜けられなくなるよw
といいつつ…

http://www.iwata-shoin.co.jp/local/database/32.htm
中央図書館を使うなら、県史・市史に加えてこういう県史研究なんかも置いてあるはずだから
利用してもいいかと。中には自分の知りたい合戦や人物なんかをピンポイントで特集している
記事もあるかもしれない。

あと、見過ごしがちだけど「大日本地名辞書」や日本歴史地名体系の「栃木県の地名」とかは単なる地名研究に留まらず
歴史研究のガイドラインにもなるはず。ただ、「大日本地名辞書」は吉田東伍の独自研究の面も強いので少し注意が
必要かもしれない。

ネットだとこういうのも後々何かの手がかりになるかな?

栃木県立図書館レファレンス事例
http://www.lib.pref.tochigi.jp/reference_ex/r_top.htm
599人間七七四年:2010/11/19(金) 15:35:50 ID:KRHDF7UP
小山家の現在の当主(ご老人)は、小山在住らしい。
600人間七七四年:2010/11/19(金) 15:51:29 ID:XbrbRRNO
格闘家の岡見勇信はあの岡見氏の流れなのかな?
601人間七七四年:2010/11/20(土) 13:48:57 ID:4+55O8UO
>>562
『小田家風記』によると「土浦城主 菅谷摂津守 七万八千石」をはじめ
一万石越えの小田家一門や配下武将がゴロゴロしてることになっている。

ただ、あまり信用に足る内容とは思えんw
602人間七七四年:2010/11/20(土) 13:51:16 ID:4+55O8UO
603人間七七四年:2010/11/20(土) 20:24:53 ID:di3YODt5
小田は15万石ぐらいではないだろうか?どうだろう。
604人間七七四年:2010/11/20(土) 23:41:58 ID:riFjYvBc
ttp://yamaguti.ddo.jp/show?page=72

かなり時代は遡るが
605人間七七四年:2010/11/20(土) 23:58:47 ID:P5Igpy9O
小田氏(洞含む)の最盛期は大まかに見て
つくば市、土浦市、八郷町、牛久市、かすみがうら町、千代田町、石下町、
水海道市、明野町、茎崎町、伊奈町、谷和原村、藤代町、新治村、岩井町
辺りだから15〜20万石ぐらいだと思う
606人間七七四年:2010/11/21(日) 11:14:00 ID:rqYdfxk1
氏治時代はどの程度だったんだろう。
軍記物でしか知らなくて申し訳ないが、既に氏治の前の政治時代から
合戦で負け込んできてるから、既に最盛期ではないような。
607人間七七四年:2010/11/21(日) 11:18:23 ID:djmKJfZM
小田氏は石高以上に、霞ヶ浦交易の利潤が大きかった感じがする。
608人間七七四年:2010/11/21(日) 13:59:53 ID:fY7QMgUw
それはどうだろうな。基本的に大名は年貢を取っているだけなので、
霞ヶ浦の利潤が大きくても、大名の収入に直結するわけではないんだ。
役銭なども、守護大名程度の権力しか持たなかった小田が、
はたしてどこまで強制力を以って徴収できたか非常に疑問。
似たような話で武田の金山経営なんていわれるけど、実際には、金山を経営していたのは
金山衆という「企業」で、武田は税金を賦課して軍役に従事させるだけだったりする。
佐竹の場合には、義宣が金山への業務に関する命令を出している文書があるので、
少なくとも豊臣期には佐竹の所有物だった可能性が高いが、実際に掘っている人夫達と
どういう契約を以って採掘採集を行わせていたのかまではよく分からない。
609人間七七四年:2010/11/22(月) 08:11:59 ID:d13zg9ab
そういや小田氏や大掾氏も守護と同程度の課税権を幕府に認められていたんだっけ
常陸国は佐竹氏、大掾氏、小田氏の三頭体制だったとか
610人間七七四年:2010/11/23(火) 13:21:28 ID:1C21UKU1
>>609
それだけじゃなく守護に従う必要のない鎌倉公方・幕府の奉公衆がわらわらいるからなあ。
常陸はそんな複雑怪奇な支配非支配関係が戦国末期くらいまで続く。
611人間七七四年:2010/11/23(火) 14:53:59 ID:bXOEg4rX
結城の乱で幕府や関東管領に反旗を翻して滅亡した者達の子の功を賞賛して
やたら関東管領と対立した足利成氏公。
だがこの対立軸が関東管領と古河公方の利根川対立ラインを形成し
関東管領の謙信の関宿城攻防でも歴史的対立が影響を与えたと言える。
そもそも関東管領主催下での彼らの序列化は微妙過ぎる問題。
612人間七七四年:2010/12/04(土) 00:04:20 ID:A3jpgWCs
二重三重支配で戦乱起こらないほうが不思議だわな
613人間七七四年:2010/12/04(土) 01:05:54 ID:KGfwYQp6
>>612
しかし平和なときはそれも安定剤の役割を果たしていたんだぜ
614人間七七四年:2010/12/04(土) 02:36:03 ID:2Gq+RO6X
中世はそんなところがあるなあ。

棲み分けというか共存共栄の妥協というか。

共倒れを防ぐ生活の知恵かも。
615人間七七四年:2010/12/04(土) 09:46:21 ID:rYPytEYc
関東副将軍里見参上!
616人間七七四年:2010/12/14(火) 01:05:37 ID:xdqN2PnT
不屈の返り忠、佐野昌綱参上!
617人間七七四年:2010/12/16(木) 15:08:51 ID:bL4GlnUs
宇都宮家が関ヶ原まで存在したら
どちら側についたんだろう
618人間七七四年:2010/12/16(木) 15:32:53 ID:GRQpe+9f
>>617

地理的に徳川とはケンカしたくないから東軍についたと思う。
619人間七七四年:2010/12/16(木) 16:38:07 ID:NxzU8Gfu
うまく行けば佐竹を潰すチャンスだしな
620人間七七四年:2010/12/16(木) 19:30:42 ID:xl0fXxK5
宇都宮家にとって佐竹って何だったんだろうな。
佐竹側の創作によくあるような盟友なのか?
北条という強力な外敵の前でかろうじて同盟してただけか。
621人間七七四年:2010/12/16(木) 19:39:28 ID:jxJEyb+c
仲は良くも悪くもない(どちらかというと良い)という感じだろうか。
622人間七七四年:2010/12/16(木) 19:40:47 ID:jxJEyb+c
>>619

関が原の頃になると、たいていの大名は所領安堵で生き残るだけで満足していたようにも思う。
623人間七七四年:2010/12/16(木) 19:55:28 ID:pJOLyho4
>>620
宇都宮氏庶流からしたら盟友
624人間七七四年:2010/12/16(木) 21:54:32 ID:hymCl0X/
義重の姉妹が宇都宮に嫁いで
その子が結城の養子に入ってたよな〜。
秀康に結城当主を奪われた関係もあり
関ヶ原ではその子が白河で上杉と佐竹の連絡係
625人間七七四年:2010/12/18(土) 19:07:27 ID:oVA44UOc
>>532
県知事よ。
626人間七七四年:2010/12/18(土) 19:22:41 ID:m/7tdzrI
佐竹分家は県知事になった。

ただ、あそこは分家といっても御一門衆と重臣を兼任しているような形態。
627人間七七四年:2010/12/19(日) 12:59:46 ID:u9AfBOKS
宇都宮は佐竹の与力みたいな扱いだし、岩城らと同じ運命だろ。
実際弟どもが上杉に与しているし
628月孔雀:2010/12/19(日) 13:31:00 ID:WsS39nC3
茨城と下野は、言葉も東北に似ていて、
文化的に関東と東北の中間のように感じます。
629月孔雀:2010/12/19(日) 13:32:05 ID:WsS39nC3
常陸と下野か、茨城と栃木でした^^;
630人間七七四年:2010/12/19(日) 13:36:30 ID:vTXG1r1b
改易された大友義統も義宣の水戸に預けられたように佐竹って流された人の行き着く終着駅感が激しい。
631人間七七四年:2010/12/19(日) 18:13:19 ID:oVXwgV9Q
佐竹は日本一古い大名でしょ。平家時代からだから。
632人間七七四年:2010/12/19(日) 18:46:44 ID:Y3eZR4A8
平家時代?
633人間七七四年:2010/12/25(土) 20:44:22 ID:eq4xQsUO
九州と四国と栃木の宇都宮氏はぜんぶ秀吉に改易されたんだっけ?
634人間七七四年:2010/12/26(日) 22:36:26 ID:xPv8PSJi
>>631
でも、途中で上杉から養子を入れたから、一番古いのは相良じゃないかな?
635人間七七四年:2010/12/26(日) 23:42:42 ID:uqoGHCGd
時々佐竹関連スレにはこういう人が沸くが
なぜ養子を入れると佐竹が断絶してることになるのか、意味不明。
636人間七七四年:2010/12/27(月) 01:17:44 ID:0ke0GfBz
大友家辺りも、元寇の乱で出兵してたよね
637人間七七四年:2010/12/28(火) 21:29:12 ID:SOASEfOn
>>635
たしかに。ちゃんと血は繋がっているし
古い「大名」って言ってるんだから、あくまで
「血」ではなく「家」が対象なのに
638人間七七四年:2010/12/28(火) 22:18:20 ID:ozPPXdd8
>>637
こういうやつが増えたのは
天皇の跡継ぎの議論で男系だの女系だの議論があってネットのごく一部が盛り上がったからだろうね。
佐竹にとってはとんだとばっちりだ。
639人間七七四年:2010/12/28(火) 23:37:10 ID:xFQNDson
>>18
千本、伊王野、大金氏あたりは国人だろう
640人間七七四年:2011/01/06(木) 17:49:57 ID:0lv6m2sQ
下野は地味だよなー
641人間七七四年:2011/01/06(木) 17:58:12 ID:oWbV62jI
下野って、那須(+七騎)、宇都宮、佐野位しか分からん。
642人間七七四年:2011/01/06(木) 20:22:12 ID:RZ5HcgOf
せめて小山氏は思い出して…
643人間七七四年:2011/01/06(木) 23:27:56 ID:ypI8YHg2
佐野、皆川、壬生、長尾、茂木…いっぱいいるじゃない
644人間七七四年:2011/01/08(土) 00:18:56 ID:fyvEvF8z
そいつらは戦国大名と呼べるのか
645人間七七四年:2011/01/08(土) 12:17:34 ID:FmNMWnTb
それを言うと佐竹、宇都宮、那須、小山、結城、小田、大掾なども戦国大名とは言い難いけど
646人間七七四年:2011/01/08(土) 12:23:38 ID:fyvEvF8z
まぁ北関東以北は全体的にそうだな
647人間七七四年:2011/01/09(日) 13:03:45 ID:II+M/LWC
いや佐竹氏は立派な戦国大名でしょ
648人間七七四年:2011/01/09(日) 14:48:22 ID:5nRkvwoP
最終的にはしっかり戦国大名への進化は果たしたな。
649人間七七四年:2011/01/09(日) 15:32:17 ID:0Yfu7JVB
佐竹氏が国人豪族らの特権を廃して家臣に組み込み
集権化を成功させたのは1591年以降だからやはり戦国大名とは言い難い
洞中体制は戦国時代頃に発生した独自の体制だけど
構造的にはあくまで室町体制の域を出ていないと思う
佐竹氏も義昭時代から戦国大名化への試みが続けられていたが
成功のめどがついていなかったと言っていい
そこに豊臣氏の東国進出があり、これを契機に中央政権の権威を利用して一気に近世大名へと飛躍した
650人間七七四年:2011/01/09(日) 23:29:19 ID:EgJBuMKA
実りがない議論だな。
「洞中」について論じた市村高男氏ですら、「戦国大名」と「国人」との間にいくつかの段階があって、
佐竹はその中間段階のかなり上の方に位置すると言ってるだろう。
集権化できてなかったら戦国大名と呼べないなんて言ったら、
上杉謙信も毛利元就も戦国大名とは言えなくなっちゃうよw

峰岸氏は天正以降の佐竹氏は、戦国大名と言っていいと結論してるし、
佐々木倫朗氏や黒田基樹氏はほぼ戦国大名扱いしてるだろう。
「戦国大名」なんて所詮学問的分類のひとつに過ぎない。
去年の茨城歴史館のテーマなんて、『戦国大名常陸真壁氏』だろ。
651人間七七四年:2011/01/10(月) 12:30:56 ID:iPzwso/I
上杉は国人達に軍役かけられるぐらいの集権化に成功している
洞体制の諸氏とは全く違う
652人間七七四年:2011/01/10(月) 12:59:28 ID:Y+z3XhUR
「戦国大名」という言葉をどれくらい広義に取るかの違いだから、
かみ合わないってさw
653人間七七四年:2011/01/10(月) 13:07:17 ID:/CJlPUJw
つーか洞がどうこう言ってる>>651
まともに『戦国期東国の都市と権力』読んだことないだろw
654人間七七四年:2011/01/10(月) 15:28:51 ID:iTTZS+Bs
>>653
謙信の天正年間の軍役と、成田小田佐竹の洞秩序による軍事力動員では質的に違うんでね?
兵科、人数、旗の指定まで行えた上杉氏と同列には扱えない。
655人間七七四年:2011/01/11(火) 21:23:35 ID:X7SkqYSG
なるほど
656人間七七四年:2011/01/13(木) 12:45:13 ID:7TAtuo7i
地元の佐竹領(常陸)はあまりにしょぼい城しかないから下野の豪族達の城ですら感動を覚えるわw
茂木城と黒羽城がお気に入り
常陸なら小幡城と笠間城かな

常陸太田城の北東に瑞竜という小山があるのだが、太田城と同じぐらいの高さあるし
あそこに付城造られたら危険過ぎると思ってたらやはり城があったんだね
小野崎氏の居城だったらしいけど(後に佐竹氏が接収)
僅か500mぐらいしかない所に他の勢力の居城があるというのも凄いな
657人間七七四年:2011/01/16(日) 10:36:34 ID:gjPZqhJ9
wikiの矢板市関係の城にはキチが一人いるな
658人間七七四年:2011/01/17(月) 02:31:31 ID:YDckX+6+
政宗厨は輝宗を不当に過小評価する一方で
葦名盛氏や佐竹義重を過大評価して
石高を大きく見せようとするアホだから。
659人間七七四年:2011/01/17(月) 09:56:24 ID:hyXHDSTA
佐竹義重や蘆名盛氏を過大評価したって
政宗のマヌケぶりは変わらんだろ
660人間七七四年:2011/01/17(月) 10:53:27 ID:/gFf1Ycl
subがんばってんな
661人間七七四年:2011/01/18(火) 13:25:16 ID:jp7Nsj8r
>>656

> 僅か500mぐらいしかない所に他の勢力の居城があるというのも凄いな


きわめて珍しいというか類例はないと思う。
662人間七七四年:2011/01/26(水) 11:12:06 ID:tVwZKars
すごいよねw
663人間七七四年:2011/02/03(木) 20:29:48 ID:TTgP0lPd
ほしゅ
664人間七七四年:2011/02/03(木) 22:31:55 ID:hu0Fl6U0
1558年の多功の戦い、1574年の金崎の戦い

って本当にあったのか?
どうも嘘くさい
665仙台藩百姓:2011/02/04(金) 15:06:12 ID:q7Cty7cx
また始まったお( ^ω^)
「長尾に都合悪い事は全て無かった事にしたい病」が( ^ω^)
666人間七七四年:2011/02/04(金) 16:26:53 ID:MJ+2yLh2
伊達上杉北条といった大物の厨は来ないでください
667人間七七四年:2011/02/04(金) 17:07:10 ID:GAoRia6i
スレタイに入ってるけど佐竹もいらんと思う。専用スレあるんだし。
668人間七七四年:2011/02/05(土) 00:14:27 ID:rZFtMDgI
>>664

あったことはあったが、戦果が誇張されている可能性もあると思う。
669人間七七四年:2011/02/05(土) 02:12:49 ID:6H77klvl
影虎はともかく、勝頼は金崎原まで何をしに来たのかな?とは思う。
状況的にあんまり意味ないような。
670人間七七四年:2011/02/05(土) 13:17:53 ID:CtIahwit
>>669

武威の誇示、ではないだろうか?
671人間七七四年:2011/02/15(火) 21:32:19 ID:rHoy1K/J
だろうね
672人間七七四年:2011/02/17(木) 02:11:41 ID:If62oVw9
宇都宮国綱→水戸宇都宮氏
結城朝勝→秋田宇都宮氏
芳賀高武→?
673人間七七四年:2011/02/23(水) 20:12:34.41 ID:2OoMN3K7
宇都宮興廃記ってどこで読めるの?
674人間七七四年:2011/02/26(土) 15:44:51.20 ID:8bpjuyua
栃木県立図書館で”宇都宮興廃記”で検索すると『下野史料36〜40』が
ヒットするのでそれで読めるかもしれない。ただ、内容がはっきりわからないので
最悪、『興廃記』の解説がちょろっとだけという可能性も。

ttp://www.geocities.jp/momiji0286/muramati.html
ttp://www.geocities.jp/momiji0286/sankousyoseki.html
こちら情報では『塩谷町史第二巻』に載っているとのこと。中近世資料編だから
期待はできそうだが、町に関わる部分だけを引いている恐れもある。

http://opac.library.tochigi.tochigi.jp/OPP1500?ID=4&SELDATA=TOSHO&SEARCHID=0&START=1&ORDER=ASC&ORDER_ITEM=SORT1-F&LISTCNT=20&MAXCNT=100&SEARCHMETHOD=DT_SEARCH&MENUNO=1
内容を見ると文献・戦記物語という項目がある。


ttp://www5a.biglobe.ne.jp/~miyaya/bandou-nenpyou.htm
こちらは『宇都宮資料(正しくは史料)』から引いている。
『宇都宮史料』ならば県立図書館にあるよ。
675人間七七四年:2011/02/26(土) 20:18:44.86 ID:o9kaitsN
>>674
ありがとう。知人が捜していたので
教えてあげたいと思います。
676人間七七四年:2011/02/26(土) 23:49:41.54 ID:8bpjuyua
我ながらあまり役に立ったとは思えんw

ttp://www5a.biglobe.ne.jp/~miyaya/bandou-nenpyou.htm
今日、結城関係調べてて↑のサイトにたどり着いたんだけど参考文献にある
『結城史料』なんて存在しないんだよ。おそらく『結城市史』の古代中世史料編
なんだと思うんだけど。だから『宇都宮資料』も別のタイトルの可能性があるというか
普通に『宇都宮市史』なのかもしれない。明日自分が行く図書館に『宇都宮市史』の
中世通史編・中世史料編があるようなので忘れなかったら調べてみる。
677人間七七四年:2011/02/26(土) 23:57:10.01 ID:8bpjuyua
下野史料の39は確定っぽい。

39 宇都宮興廃記・日光山法度・宇都宮戦災世帯人口調
http://lib.ohtawara-city.jp/opac/wopc/pc/pages/SearchResultDetail.jsp?srv=&id=15043

初めから横断検索すればよかった。
その友達には宇都宮関係はまずこれで調べてみるよう言っといてw
http://kensaku.tochilib-unet.ocn.ne.jp/cgi-bin/ilisod/odplus.sh
678人間七七四年:2011/02/27(日) 18:36:33.85 ID:4KqPBm1B
『宇都宮市史』があるのは同じ市内の別の図書館だと行ってから気づいたので
見られなかった。その知人の健闘を祈っておくw
679人間七七四年:2011/02/27(日) 18:46:55.98 ID:+Uclff6t
知人が探してたんじゃなくて、てめえが探してたんだろって
680人間七七四年:2011/02/27(日) 22:30:21.52 ID:4KqPBm1B
どっちでもいいや。
ちなみに今見てる結城市史に普通に『宇都宮興廃記』が引かれててワロタw
『下野国誌』所収と書いてある。
681人間七七四年:2011/02/28(月) 16:22:50.32 ID:l2Qj7NLI
えーなんかキモいオヤジ
682人間七七四年:2011/03/16(水) 13:18:53.25 ID:zzcVsu7W
岩城氏は
いまの常磐地域を治めたという認識でおk?
佐竹の一族?
683人間七七四年:2011/03/16(水) 17:01:43.57 ID:yVWPBEpB
佐竹の一族ではないが縁戚関係
684人間七七四年:2011/03/24(木) 16:51:09.66 ID:w2WxsdVu
結城・小山・小田・宇都宮 イマイチ連合
685人間七七四年:2011/03/26(土) 21:36:09.93 ID:bCQJc62b
>>682
磐城の土地(国)じゃねえの?。

常磐は、常陸と磐城の頭文字をとった合成語。

686人間七七四年:2011/03/26(土) 23:05:32.39 ID:mbsPW1aW
北茨城は、どっちの領地?
水戸?岩城?
687人間七七四年:2011/04/04(月) 11:55:23.46 ID:TF/BxpT2
水戸
688人間七七四年:2011/04/04(月) 13:40:52.79 ID:FRmHCab8
横田氏宍戸氏の行方を教えてください
689人間七七四年:2011/04/09(土) 01:28:41.08 ID:F4P2iGas
教えてあげません
690人間七七四年:2011/04/16(土) 01:45:24.37 ID:+RjiRgCC
>>609-610
守護・・・佐竹
半国守護・・・山入
旧守護・・・小田、宍戸(関東奉公衆)
守護格・・・大掾(吉田・行方・鹿島・真壁・南5郡、東条・方穂2荘、小栗保の棟別銭の徴収権)
京都扶持衆・・・真壁
関東奉公衆・・・

埋めて
691人間七七四年:2011/04/17(日) 01:36:34.27 ID:Cvj2aWqe
守護格多すぎw
692人間七七四年:2011/04/17(日) 02:21:23.94 ID:P9pCsfXu
>>690
真壁の家格って、結構良さそうだね。
下野の分布図も余力があれば何卒……。
693人間七七四年:2011/04/17(日) 03:23:10.53 ID:tAbEBbmc
これだけ多けりゃ佐竹も頭が痛いな
694人間七七四年:2011/04/17(日) 17:16:33.15 ID:pPRmDWrH
>>692
大掾氏族の中で飛びぬけているわけでもないし、京都扶持衆だったせいで辛酸を舐めている。

ただ、その真壁氏が天下が定まる頃には佐竹の外様家臣で第一の立場にまで
行くからわからない。
695人間七七四年:2011/04/18(月) 22:14:09.59 ID:/KDbrktR
鬼真壁
696人間七七四年:2011/04/18(月) 22:21:26.43 ID:o76PN7Cu
鬼真壁が具体的にどうしたの?
697人間七七四年:2011/04/20(水) 20:47:54.08 ID:HidUI1qW
小田宣長だぉ
佐竹に宣の字貰ったぉ
長尾景勝やお猿さんには負けない
698天変地異発動! ◆tenpen5cB. :2011/04/22(金) 17:37:41.41 ID:e1+IA2Qe
今回東日本を破滅に向けた、悪魔の家系佐竹氏族。
この戦国時代のスレに存在しているのがネット時代として
日本最大の不幸であろう。

こんな屑家系を語る必要はない。
二度と子孫を作らせず、家系ごと日本から葬れ。
赤子が出来たら包丁で殺せ。
699人間七七四年:2011/04/22(金) 19:50:06.15 ID:/WxWlvGa
唐沢山城とかは無事だろうか
700人間七七四年:2011/04/22(金) 21:00:19.89 ID:VqKagx4z
700get!
701人間七七四年:2011/04/28(木) 09:59:21.30 ID:qLPiM2pB
茨城最強
702人間七七四年:2011/04/28(木) 12:43:19.19 ID:9wdQyX8x
魔法少女の群馬県
703人間七七四年:2011/04/28(木) 13:26:36.79 ID:JHYda1G4
小田氏治最強
704人間七七四年:2011/04/29(金) 03:17:40.86 ID:oqV7SKj3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%AB%98%E5%9F%8E
2度とここにも行けないし野馬追いも見られないのかね・・・
705人間七七四年:2011/05/01(日) 18:43:11.37 ID:q4LhwzGf
おまいら
多賀谷氏のこと忘れてない?
706人間七七四年:2011/05/01(日) 19:56:52.15 ID:cD/gIwxz
そりゃ単独スレがあるからな。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1169863719/l50

>>704
そうとは限らんだろうが。なんかそういう悲しむだけのレスはイライラする。
707人間七七四年:2011/05/06(金) 17:46:23.78 ID:9T3I9zAo
多賀谷よりは水谷のほうがおもしろい
708人間七七四年:2011/05/10(火) 12:50:47.12 ID:gdWMPx2A
佐竹歩くところ自殺者多数。

死に神一族、「佐竹氏」

佐竹歩くところ自殺者多数。

死に神一族、「佐竹氏」

佐竹歩くところ自殺者多数。

死に神一族、「佐竹氏」

佐竹歩くところ自殺者多数。

死に神一族、「佐竹氏」
709人間七七四年:2011/05/16(月) 00:47:00.97 ID:2luU0fBT
??
710人間七七四年:2011/05/20(金) 01:18:39.85 ID:G8z0Y0OO
天下の六大名佐竹氏を宇都宮や小田のような雑魚と一緒にするな
お山なんか結城の子分じゃねーか
711人間七七四年:2011/05/25(水) 00:41:44.37 ID:Qv8bqm7G
茨城県史料中世編

I  1970年  県南5郡
II  1974年  県北4郡
III  1990年  県西5郡とI,IIの補遺
IV  1992年  青森県・秋田県
V  1994年  秋田県・岩手県・宮城県・山形県・福島県
VI  1996年  栃木県,群馬県,埼玉県

15年音沙汰なし
千葉は?東京は?神奈川は?山梨は?静岡は?新潟は?・・・京都は?
712人間七七四年:2011/05/28(土) 01:22:09.64 ID:0MszFSWb
>茨城県知事の一覧(いばらきけんちじいちらん)は、茨城県の歴代知事(官選:46代46人/民選:17代4人)を務めた人物の一覧。
岩上二郎 1959年(昭和34年)4月23日 - 1975年(昭和50年)4月22日 4期
竹内藤男 1975年(昭和50年)4月23日 - 1993年(平成5年)8月11日 5期
橋本昌 1993年(平成5年)9月26日 - 5期


この15年余りは準備期間で近い内に刊行が再開される


橋本昌が編纂事業に金を出さない
713人間七七四年:2011/05/28(土) 19:27:34.36 ID:/lTOQCWa
>>710
お山w
714人間七七四年:2011/05/28(土) 19:56:16.97 ID:hMYB8oZ2
小山ゆうえんち〜♪
715人間七七四年:2011/05/28(土) 21:57:13.33 ID:kU2+j7eA
家格は別として血統で言うと小山が上で結城は分家だったりする
716人間七七四年:2011/06/02(木) 01:23:39.97 ID:sQKVkLTl
>>694
佐竹と姻戚関係にあった宇都宮、養子を取っていた多賀谷より上だしね
717 忍法帖【Lv=6,xxxP】 :2011/06/05(日) 14:00:10.79 ID:wmNmUSsA
いや、それはない
真壁は天正18年以降佐竹の家臣に組み込まれたけど宇都宮と多賀谷は独立大名
ちなみに江戸時代になってからは
多賀谷→茂木→真壁→宇都宮→伊達→塩谷→武茂→箭田野
といった序列
718人間七七四年:2011/06/05(日) 22:00:12.76 ID:sZDDnax7
岩城からの侵略者
719人間七七四年:2011/06/05(日) 23:11:40.43 ID:Us8yHSPf
>>715
小山は滅亡してるからな
720人間七七四年:2011/06/07(火) 22:33:35.68 ID:R8vZT7sS
三回断絶してるよな。

まぁ三回目は家督簒奪っぽいんだが。
721人間七七四年:2011/06/08(水) 09:01:21.55 ID:4Ucp0oy7
>>719

小山家の現在の当主は老人だが、小山市内に住んでいると聞いた。
722人間七七四年:2011/06/16(木) 08:07:53.81 ID:RWcLyWOn
国綱の人物ってどんなだったのか

改易されるくらいだから、
秀吉の気にも止まらない、
平凡大名かな

逆に気を許してはならないほど、
危険視されていて、
浅野の懐柔政策にものらず、
それゆえの改易だったりして
723人間七七四年:2011/06/16(木) 21:20:21.88 ID:vtDZZiQi
ふむふむ
724人間七七四年:2011/06/16(木) 23:05:50.46 ID:PzT6wAUX
>>722
国綱は凡庸な人物だったが弟の朝勝と高武は過激な人物であったようだ
特に高武は、浅野の懐柔作に国綱が従おうとした事に激怒し
親浅野派だった重臣の北條松庵と今泉高光を次々殺害した事で浅野を怒らせて改易に追い込まれた
と言うのが通説
725人間七七四年:2011/06/18(土) 18:55:05.55 ID:ciq9Lx/v
朝勝が結城の入嗣に失敗したのは、
その過激さを危ぶまれた一面も、
あるのかな
726人間七七四年:2011/06/19(日) 01:41:37.72 ID:jTPnuKZM
ただ、市村高男のように結城晴朝が一旦朝勝に家督を譲った後に豊臣政権の受けをよくするために朝勝を廃して秀吉の養子だった秀康を新たに養子に迎えて家督を譲ったという説を唱えている学者もいる。
この説だと、朝勝が豊臣政権に対して内心不満を持っていて豊臣シンパとみなされた北條松庵や今泉高光が殺害されたと言う説明も可能だと思う。
727人間七七四年:2011/06/21(火) 08:42:06.64 ID:S2aroYR+
隣の佐竹が豊臣政権で国を広げたのに、
宇都宮には何も出来なかったことを、
逆恨みしてるのか?
那須の領土でも狙ってたとか
728人間七七四年:2011/06/21(火) 08:59:22.82 ID:m/IXOjoB
729人間七七四年:2011/06/21(火) 20:36:08.99 ID:9BjH1a01
>>727
???
730人間七七四年:2011/06/22(水) 08:13:24.33 ID:H4M3jQOv
宇都宮って小田原役後は領土拡張したの?
731人間七七四年:2011/06/24(金) 00:32:38.25 ID:yaMBmISc
独立状態だった益子・笠間は取り戻した。
塩谷郡は宇都宮氏、塩谷氏、喜連川足利氏、蔵入地に分割。
壬生領は徳川氏、結城氏、宇都宮氏、蔵入地で分割。大半は結城へ。
壬生を元宇都宮一族とすれば、喪失した事になるな。
732人間七七四年:2011/06/24(金) 08:04:33.85 ID:tukVw2jJ
塩谷?こんな小大名がいたんだ
旧壬生領、
確かにこの辺りに芳賀らの不満の種はありそうだ
733人間七七四年:2011/06/24(金) 11:45:56.98 ID:8cE1YhkW
塩谷氏は微妙な立ち位置
基本的には武茂氏や笠間氏と同じ宇都宮一門で洞中に属していたが
小田原征伐辺りからは笠間氏同様に良く分からない

他には那須七騎の一部が与力として宇都宮氏に付けられてはいたようだね
佐竹氏や結城氏は大幅に領地を加増されたのに宇都宮氏は微妙
外交いまいち上手くいってなかったのかもしれない
国綱や今泉・北條らが浅野長吉の養子の件をのんだのは単に押し付けられただけではなく
少しでも外交的優位を得たい思惑があって宇都宮氏の方も望んでいたのではなかろうか
734人間七七四年:2011/06/24(金) 19:02:14.72 ID:IhD/z0qx
塩谷、武茂、松野あたりの宇都宮庶流家は
いつごろから完全な佐竹配下になったのですか?
その理由としてなにか明確なものがあるのでしょうか。
735人間七七四年:2011/06/24(金) 22:43:49.33 ID:RTNHZ4No
完全に配下に組み込まれたって言ったら秋田移封以後じゃないかな?
736人間七七四年:2011/06/25(土) 05:33:08.55 ID:HQrG7jBu
>>734
宇都宮がグダクダになったあたりだよ。
佐竹は義昭のころかな?

宇都宮の跡取りがどうので揉めて、
ムモマツノで佐竹の軍勢を借りて宇都宮宗家奪還してなかったか。
737人間七七四年:2011/06/25(土) 13:26:17.97 ID:wOqjBp1P
>>733
>那須七騎の一部

伊王野と蘆野だな。宇都宮が潰れた後もこっちは残った。
738人間七七四年:2011/06/25(土) 14:48:10.66 ID:p4dJeh+I
那須七騎は上手い事生きのびたよな
旗頭の那須氏と旗下筆頭の伊王野氏は没落したけど
739人間七七四年:2011/06/25(土) 23:33:52.66 ID:NDmz+FD7
大関と大田原は関東の外様大名で最後まで転封されなかった稀有な例だよな。大名未満だった福原とかも転封なし。

後々全員まとめて戊辰戦争であっさり新政府軍に付いたから大失敗だった訳だが。
740人間七七四年:2011/06/25(土) 23:59:57.07 ID:p4dJeh+I
御三家でさえ新政府についている状況じゃ外様の小大名にはどうしようもないかと
大田原城は旧幕軍に攻められて結構激戦になったんだよな

そういや、大田原や黒羽は一応陣屋なんだよね
どう見ても城だけど
741人間七七四年:2011/06/26(日) 20:49:21.12 ID:s7m1tUw+
黒羽藩は関東の藩では珍しく洋式兵装を取り入れた先進的な装備だったらしいな。

おかげで活躍して2万石の小藩なのに戦功賞典で1万5000石貰ってる。
742人間七七四年:2011/06/27(月) 11:27:09.43 ID:jDki5R4q
相変わらず大関は立ち回り上手いな
743人間七七四年:2011/06/27(月) 12:35:54.41 ID:04yBWsyp
男系の血統は別の家になって途絶えてるけどな。
実質他家に乗っ取られるなら、旗本や大名の家老になった方がマシという考えもある。
744人間七七四年:2011/06/27(月) 13:05:55.71 ID:PRR64ZgX
うむ、関心感心
745人間七七四年:2011/06/27(月) 13:32:46.14 ID:B4dCQWjO
家と血統は別なんだろうけど、
男性血統が残ってると、なぜか萌えるよね
746人間七七四年:2011/06/27(月) 18:46:52.74 ID:SP6WZ+GQ
北條松庵
って何者?
越後毛利?後北条?鎌倉北条?
747人間七七四年:2011/06/27(月) 18:56:57.04 ID:XmhaQ0uY
>>746
本物の北條氏(執権北條氏)一族の生き残り
748人間七七四年:2011/06/27(月) 22:20:37.33 ID:+VirXYL2
>>732
宇都宮の被官だね。
被官といっても芳賀氏同様に宇都宮家の家老のようなことをしてたくらい
宇都宮家に近い。
749人間七七四年:2011/06/28(火) 16:24:19.61 ID:ZfWVe9gn
弘前大学教授夫人殺人事件の冤罪被害者の故・那須隆氏って交代寄合那須家の当主だったらしいけど子供はいらっしゃるの?
1949年、25歳の頃に捕まって14年間服役、1963年に39歳で釈放、1971年に冤罪発覚じゃ結婚も養子縁組も難しかっただろうし
冤罪が原因で名門那須氏断絶とか悲惨すぎる
750人間七七四年:2011/06/28(火) 17:37:07.25 ID:Dn/UUCb4
血統ではもうとっくの昔に断絶してるんだろうけどね
家督自体ははどうなんだろうね
751人間七七四年:2011/06/28(火) 21:45:00.83 ID:ttpl5MMA
冤罪なんて、昔の方がもっと酷いだろ
752人間七七四年:2011/06/29(水) 11:14:43.25 ID:dtfMXvSP
そういう意味合いの話じゃねえよ
753人間七七四年:2011/06/29(水) 11:32:48.66 ID:zJZZAfy6
>>747
ほほー。勉強になります。
754人間七七四年:2011/07/01(金) 12:30:03.34 ID:dBdHHbuU
>>751
名張毒入りぶどう酒
755人間七七四年:2011/07/02(土) 05:28:38.65 ID:MLQu8W0t
そういや大田原資清が追放されてから復帰するまでの間、大田原領は誰が管理してたんだ?
756人間七七四年:2011/07/03(日) 14:13:45.21 ID:ZigRrlq1
>>749
一応、那須隆氏は釈放後結婚してる
子息がいるかは不明(喪主は奥様だし)
ただし妹夫婦や甥が支援者の中心としていたから、養子に迎えている可能性はある
757人間七七四年:2011/07/04(月) 09:57:55.42 ID:wG5wM1xm
元々那須氏の血は引いてないんじゃないの?
758人間七七四年:2011/07/07(木) 17:27:00.65 ID:5l2hoWuh
江戸時代の再興時に既に血縁無い養子もらってるからその通り
日本の場合、血筋より家重視だから特に問題は無い
そもそも婿養子貰っても家付正室に子が生まれず側室腹が継ぐ方が遥かに多いし
上杉鷹山の様に側室も一族出身の者はかなり珍しい
759人間七七四年:2011/07/07(木) 17:56:48.46 ID:JFfZ64h6
養子と言っても血縁がある場合が殆どだよ
全く血縁がない場合は少ない
760人間七七四年:2011/07/07(木) 20:24:01.87 ID:W1VrTa17
常陸と下野って半分東北だよね
761人間七七四年:2011/07/07(木) 20:32:36.29 ID:Jq7R90zB
そうだね
762人間七七四年:2011/07/07(木) 22:27:01.35 ID:5l2hoWuh
>>759
交代寄合初代の資弥は青木氏出身だが恐らく血縁無い
その後津軽・佐竹からも入ってるが一代止まりで本庄松平出身の資穀入りその血が明治迎えたと記憶しているがその後養子入ってたっけ
763人間七七四年:2011/07/07(木) 23:30:27.53 ID:J0h1SfJB
>>762
青木氏の系図がよく分からないけど
青木氏と血縁がなければ那須氏の血は一滴も受け継いでないっぽいね
さすがにここまで中身が入れ替わってるのは珍しいかも
764人間七七四年:2011/07/09(土) 16:52:07.79 ID:kB6ZFcXo
宇都宮家臣の多功氏って本当に戦での功績多いな。

居なかったら小田原まで宇都宮持たなかったんじゃないのかってぐらい。
765人間七七四年:2011/07/09(土) 20:23:55.22 ID:hKYMP0Y4
まあ壬生と小山に対する最前線だからなぁ
必然的に先陣を務める場合が多かったろうし
766人間七七四年:2011/07/12(火) 17:41:04.80 ID:nAmXOrzM
茂木城見てきたけど面白い縄張りだな
こんなタイプは見た事ない
767人間七七四年:2011/07/14(木) 21:04:33.10 ID:wc0IVLE7
>>747
鎌倉北条ってことか
768人間七七四年:2011/07/14(木) 21:55:14.40 ID:kVhc8I7b
>>763
蜂須賀氏かな
中身はもはや徳川の親藩同然で別物なのに
相変わらず盗賊の子孫扱いうけちゃったという
769人間七七四年:2011/07/15(金) 00:29:20.56 ID:skTo8iVN
冤罪で捕まったのは吉宗の子孫か
770人間七七四年:2011/07/15(金) 15:21:10.21 ID:wX3i0jRf
771人間七七四年:2011/07/15(金) 16:41:36.73 ID:KruNZo96
斎藤伝鬼坊は出ないのか、残念
772人間七七四年:2011/07/16(土) 09:43:36.51 ID:wOzhXTvX
>>768
言われたほうではなくて、言ったほうに蜂須賀の血が流れていたというオチつきだし
773人間七七四年:2011/07/21(木) 01:18:21.48 ID:6ETt6MrP
>>770
見れんw
774人間七七四年:2011/07/23(土) 07:42:52.45 ID:IJkm3F8S
那須って2000人以上兵を動員出来た事ないよな。

どんな一大事でもとにかく兵が集まらない。
775人間七七四年:2011/07/25(月) 20:59:36.30 ID:CzbPzyID
これはちょっと感動した

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110725-00000026-san-l09
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110723-00000056-mailo-l09

1550年代の蓮の種は、紅色の蓮。
1590年代以降の蓮の種は、緑色の蓮らしい。
つまり・・・浅野が宇都宮氏時代の蓮を取っ払って
別の蓮を植えたんだろうな。
どんだけゲスなんだよ。
776人間七七四年:2011/07/26(火) 14:54:17.42 ID:0/qYNJ8B
>>775
どこにも突然鼻の色が変化したなんて書かれておらんぞ?
単純に気候や環境の変化によって植生が変わったんだろ。
よくそこまで短絡的に陰謀論に結び付けられるもんだ。
777人間七七四年:2011/07/26(火) 20:26:05.89 ID:PUpNa8CS
>>776
この記事には無いけど
蓮の種が発見された時(1年ぐらい前か)、放射線量の化学分析をした上で
1590年代以降には別の蓮に変わってたという記事があったんだよ
お前こそ事情も知らないくせに知ったような口きくなって。
778人間七七四年:2011/07/27(水) 15:50:15.29 ID:SuvSGyGT
775は蓮の種類が変わったことと
浅野の陰謀を安直にむすびつけるな

と、いいたいのでは。その辺を理解する読解力がない人の
「つまり…」というのあてにならないよね
779人間七七四年:2011/07/27(水) 19:37:25.65 ID:f4f5je9Z
お前、何も知らないのな。
宇都宮氏改易後、宇都宮城と城下町は大改修されてる。
まあ浅野氏ではなく蒲生氏の可能性もあるけどな。
日野町とかは蒲生氏の出身地から名付けられた。
土塁や水堀まで織豊系の縄張りに改めてる時期に、ちょうど蓮も変わってるんだから、
どちらかと言えば人為的な変化と考えるのが自然。
城の植物は、一種のシンボル的なものでもあるからな。
その辺の道端のタンポポが在来種から外来種に変わったとかいうレベルの話じゃねえんだよw
780人間七七四年:2011/07/27(水) 19:55:33.14 ID:Gb/IrSc2
1590年以降に新領に入部して
在来の城の大改修しなかった大名なんて存在しないだろ。
その中で、浅野だけが特別にゲスだと言える理由って何か挙げられるの?
781人間七七四年:2011/07/27(水) 20:02:21.82 ID:SuvSGyGT
775だけど、第三者的に見て、780のいっている方が受け入れやすいなぁ
779さんむきにならないでね

それなりにへ〜と思える情報もアップしてるんだから
782人間七七四年:2011/07/27(水) 21:23:45.92 ID:f4f5je9Z
>>780
大改修した事自体は別に何も。
権力を恣意的に使って改易し(たとされている)、相手の居城の種を立ち斬ろう
としたのが浅野氏だったら尚更に陰険ですね。って話。
蓮だけに限らず、改易の後に宇都宮氏関係の神社仏閣も幾つか廃社廃寺になってるしな
>>781
778みたいな挑発的なレスを棚に上げて、何取り繕おうとしてんだよ。お前が言うなw
ニートって本当に虫が良いんだな
783人間七七四年:2011/07/27(水) 22:01:49.67 ID:/QACLe5q
>>781
いや、当事者のお前が「第三者的に見て」とか言える立場じゃないから。
こいつ半端じゃねえ馬鹿だ
784人間七七四年:2011/07/27(水) 22:08:41.16 ID:f4f5je9Z
>>781
つーか775は俺なんだが。
成り済ましかよ。
ま、たぶん776と書きたかったんだろうけどな。

この流れの教訓をID:SuvSGyGT風に言えば
ろくに知らない事を安直に断定するな(キリッ
785人間七七四年:2011/07/29(金) 00:28:14.38 ID:i+aSVXi4
宇都宮もいつの間にか佐竹与力扱いになってるなwiki
786人間七七四年:2011/07/30(土) 17:11:00.23 ID:0BGyQmWi
佐竹と同盟していないときの戦は負けばかりの
イメージが強いからね

大軍で那須を攻め奇襲で惨敗、壬生にプレッシャーかけられ
水谷が火事泥棒のように南部を侵攻…

787人間七七四年:2011/07/30(土) 18:01:10.44 ID:gd4zhJdu
陰謀論はともかくとしても、
実際に蓮の品種が変わったのは人為的なものだろうな。
もっとも、嫌がらせとかそんな目的ではないだろうが。
788人間七七四年:2011/07/30(土) 20:08:18.00 ID:HkL5D/QP
例えば蓮の収穫量はどちらの方がぐれているか、とか、そういうものを見てみるべきだろうな
789人間七七四年:2011/08/03(水) 08:29:25.99 ID:NgUPKGjs
宇都宮の取り次ぎは浅野
佐竹では石田
中央との取り次ぎ役が違うのに、
寄騎の関係になることに違和感を感じる
790人間七七四年:2011/08/03(水) 11:25:25.28 ID:gDPbxW+r
いや、与力じゃないし

小田原征伐の時に常陸南部や下野南部は佐竹、宇都宮、結城、由良など に分配されたが
この配分には石田と浅野の政争があったんだろうな
791人間七七四年:2011/08/18(木) 09:50:25.77 ID:NbwgiJ+h
宇都宮城を見学に行ったら史料に
宇都宮城主に1年間だけ浅野がなってたけどマジ?
792人間七七四年:2011/09/07(水) 16:38:10.26 ID:4sNAOIY2
佐竹と宇都宮が縁戚で強固な同盟関係にあるのを知っていながら、取次が別々。
分断させようとしてたのか?豊臣政権は。
徳川を仮想的国とするなら、
得策ではないと思うが。
793人間七七四年:2011/09/07(水) 21:13:03.08 ID:XpqAlhbb
いや、と言うより
石田と浅野が影響力を強める為に取り合いしていたと言った方が正しい

>>791
マジ
794人間七七四年:2011/09/07(水) 21:56:32.00 ID:sVxnDabj
上杉からの繋がりで石田にすべきだったんだよな
弟達や那須との関係みるにどちらにせよ西軍で没落な気もするが
795人間七七四年:2011/09/07(水) 23:27:38.81 ID:oEkgQhWC
浅野と徳川は豊臣政権内部で派閥作ってたと言う人も多いしね
796人間七七四年:2011/09/13(火) 21:27:27.53 ID:AISutj1e
宇都宮家は被害者か
797人間七七四年:2011/09/14(水) 19:08:40.80 ID:8oArfRfE
佐竹ってなんで東北に何度も遠征してたの?
関東での戦いに興味が無かったのかな。
798人間七七四年:2011/09/14(水) 19:44:19.38 ID:uaI/EiUr
>>797

後北条が強すぎ。
799 忍法帖【Lv=16,xxxPT】 :2011/09/14(水) 19:44:21.06 ID:2Us0gcaX
東北の小勢力併呑するほうが楽チンだろ
宇都宮とは婚姻結んでるし北条とガチンコするには実力足りないし
800人間七七四年:2011/09/14(水) 20:42:10.80 ID:8oArfRfE
みもふたも無いw
そんな理由で目を付けられた白河結城氏や岩城氏が悲しい。
801人間七七四年:2011/09/14(水) 20:54:54.78 ID:7NTrY9XG
小田天庵様がいたから
802人間七七四年:2011/09/15(木) 10:54:56.29 ID:4zbgTQGD
あぁ、負けまくりのザコ豪族ね。
例年の横浜ベイスターズのような奴ら。
803人間七七四年:2011/09/15(木) 22:30:58.42 ID:Qm2DhDXO
天庵様を馬鹿にするな
夜中に目が覚めたら鋤鍬持った領民が布団を囲んでた、
なんてことになりかねんw
804人間七七四年:2011/09/16(金) 00:19:28.75 ID:UKVGD+oz
>>797
関東は物理的に無理
東は海で西は那須氏・宇都宮氏などの同盟国がある
南は真壁氏・大掾氏・江戸氏・太田氏などの洞中領主が小田方などの勢力と戦って領地を広げているから邪魔する訳にはいかない
だから彼らの後詰めが佐竹氏の役目だった
さらにその外には結城氏・小山氏・佐野氏・簗田氏などがいて、彼らとも協調関係にあったりした
だから佐竹氏が南下するとなると遥か武蔵の方まで攻めて飛び地を獲るしかないけど当然そんなのは現実的ではない
逆に南陸奥の白川氏などとは領地を接している
室町時代には依上(大子町)まで白川氏が進出して来ており佐竹氏とは100年来の仇敵だった
とりわけ白川氏の領する高野郡は常陸口の要所で南陸奥の街道が交わり
依上や東館(矢祭町)から常陸太田へ直行する事が出来る
実際、戦国時代初期頃に南陸奥連合に攻められて常陸国内(里美村)まで進入されて窮地に陥った事がある
だから佐竹領の防衛上、高野郡は絶対に手に入れたい土地だった
佐竹義舜が依上を奪還したのを皮切りに(依上は佐竹領だったが内乱の最中に取り上げられて白川氏に与えられていた)
義篤・義昭・義重と4代に渡って戦火を交えて来た
つまり南陸奥こそが佐竹氏本来の主戦場であり
南部は佐竹氏の意図と言うより同盟国や洞中の援軍要請に答える為に出陣している内に
北条氏の台頭で戦火が拡大していってしまったに過ぎない
805人間七七四年:2011/09/16(金) 06:58:50.89 ID:oNJBA6/3
>>791
城主というか、城代、管理人的立場だったんだろうな
806 忍法帖【Lv=17,xxxPT】 :2011/09/16(金) 11:31:51.40 ID:Ji2ZrEFS
なんで宇都宮国綱は関ヶ原で東軍に参加しなかったの?
旧領復帰とまではいかなくても2〜3万石の小大名として復帰できたんじゃないの?
朝鮮出兵で頑張ったのに復興できなくて疲れちゃったのかな、弟の朝勝は反東軍だけど、別に宇都宮家の為に動いていた訳じゃないみたいだし
嫁の実家の佐竹と歩調合わせてたわけでもないみたいだし、国綱が東軍で活動しても何の問題もなさそうだが
807人間七七四年:2011/09/16(金) 13:14:29.90 ID:LXhs/t9e
関ヶ原当時は国綱って佐竹の客分になってたんじゃないの?
808人間七七四年:2011/09/16(金) 13:35:11.93 ID:1eG0wAbk
まあ佐竹の下でうろちょろしてたから、動くに動けない感じだったんだろ。
あえて佐竹と別れて博打を打つほどの決断力も無かっただろうし。
809人間七七四年:2011/09/16(金) 13:50:21.79 ID:SEHuASJy
弟二人は行動派なんだけどな
国綱は特別パッとした逸話もないし大勢に流されるイメージしかない
810人間七七四年:2011/09/16(金) 14:46:16.52 ID:lhVscAqX
宇都宮は浅野の罠に掛かって改易されてから佐竹の寄騎扱いだったしね。
寄親の佐竹が明らかにしないのに、宇都宮だけで勝手に動くわけにいかなかったんだろう。
大名に復帰できないまま浅草で憤死してしまった・・・と。
弟の朝勝が秋田でちゃっかり文化人ライフを楽しんだのとは対照的だ。
811人間七七四年:2011/09/16(金) 21:48:07.76 ID:XWLuFenW
>>810
朝勝は西軍側として活動してたんだけど
何もしなかった国綱は浪人で西軍側についた朝勝は久保田藩の十二大将 という家中14位ぐらいの扱いになった皮肉
でも恐らく国綱は相馬氏のように江戸で大名復帰運動してたのではないかと思う
812人間七七四年:2011/09/17(土) 07:33:09.51 ID:LDt4c5ja
>>801

阪神時代の江夏、国鉄時代の金田みたいな存在か?
813人間七七四年:2011/09/17(土) 07:36:47.08 ID:LDt4c5ja
>>804

> 南部は佐竹氏の意図と言うより同盟国や洞中の援軍要請に答える為に出陣している内に
> 北条氏の台頭で戦火が拡大していってしまったに過ぎない


佐竹と後北条の会戦が数回あるが、どれも佐竹が判定負けという感じでいいの?
814人間七七四年:2011/09/17(土) 08:51:29.56 ID:hg6su80K
元亀三年の多功ヶ原合戦で佐竹・宇都宮らが北条を破ってるのは
北条大好き黒田基樹ですら認めてるよ
815人間七七四年:2011/09/17(土) 13:24:56.65 ID:eKYvuqI3
>>811
同母弟の朝勝・高武がよりによって上杉傘下で戦ってるからな
信頼的に無理だろ
816人間七七四年:2011/09/17(土) 13:49:35.94 ID:WGQoRiQv
那須の話なんだが大田原資清はいつ娘を那須政資の正室にさせたんだろう。

追放中の身分で那須の正室に娘を押し込めるとは思えないから追放前(1518年以前)か復帰後(1542年以後)のどちらかか?
817人間七七四年:2011/09/18(日) 03:00:54.77 ID:YL9NFHfX
追放前だろうね
追放後だと年齢的に少し無理がある
818人間七七四年:2011/09/18(日) 05:00:48.31 ID:mhETDW9l
あの辺の大名、基本的に姻戚や同盟でつるんでるわけだしさ、
ガッと連合して、関が原の戦いとかで背後から家康襲えば一発逆転あったね

天下取った後は、連立内閣みたいで幕府やれそうな気がする
819人間七七四年:2011/09/18(日) 12:17:40.98 ID:1iywi3o4
資晴の事も考えると確かに復帰後はちょっとキツイな。

政資の長男であるはずの高資が実力行使で家督を奪いに行ったのも既に資胤が居たからと考えたほうが自然。
820人間七七四年:2011/09/18(日) 14:04:34.57 ID:AkRnbrvk
>>818
連合体は弱いから無理
それぞれ独立勢力だしお互いの利害が絡むから簡単に結束が崩れる
対北条戦でも対伊達戦でも結局それで決定力に欠けた
821人間七七四年:2011/09/18(日) 14:46:37.61 ID:yLI8rgU/
>>818
そもそも佐竹領内は例の「南方三十三館の仕置き」の余波が未だ続いており、
南方三十三館の残党があの時期ですら策動し、何かあれば東軍と結んで反佐竹行動を取る気
満々だった。

そんなだから佐竹は国境の外に出ることすら不可能だっただろう。
822人間七七四年:2011/09/18(日) 20:50:15.68 ID:x0epvpuv
そもそも西軍につくと言う発想がない
真田と同じで佐竹にも何の相談もなかったから三成挙兵は義宣にとっても寝耳に水
単なる上杉討伐だと思っていた
だから先鋒の須田盛秀らは既に上杉領へ進入していたし
須田氏や葦名盛重らを先鋒にしている事からして、葦名家や二階堂家の復興を目指していたのだろうと思われる
そんな時に三成挙兵の急報が届き、佐竹家中は動揺した
取り敢えず先鋒を赤館で留めて軍議を開いたが、石田と徳川のどちらが「豊臣軍」なのか判断に迷った
義久らは断固徳川支持を主張したが、西軍に人質を取られている事や義宣が乗り気じゃなかった事などで
結局は消極的徳川支持という形になった
初めから徳川と戦う事なんて想定していなかったから、その準備もなかったし
西軍参加は無理なんだよ
823人間七七四年:2011/09/18(日) 21:19:57.35 ID:2WIM7p8i
>>821
何か裏付けの史料あるの?
ないでしょ
824人間七七四年:2011/09/18(日) 23:48:38.87 ID:XujCznxo
>>823
秋田転封が決まったとき、車丹波が徳川への蜂起を主張したが
「常陸には三十三館の件でまだ佐竹に恨みを持っている者たちがいる。
彼らが混乱に乗じて立ち上がったらどうしようもない」
と義宣がその案を退けた……らしい。
どこで読んだ話だったか忘れたがw、近デジだったかも。
825人間七七四年:2011/09/19(月) 00:30:46.50 ID:alz1j+Rg
有名な挿話だが、それは史料じゃないよね。
しかも、関が原の話ですらないし
826人間七七四年:2011/09/19(月) 00:43:45.10 ID:L/LQPez+
佐竹は転封以前の記録が少ないからなあ
史料と言われても伝承と紙一重だ
記録する習慣がなかったんじゃないかとさえ思える
827人間七七四年:2011/09/19(月) 02:14:59.32 ID:ds6CTBIr
>>821
>>824
そのへんの話は確か藩翰譜あたりにも出てたな
828人間七七四年:2011/09/19(月) 02:23:02.53 ID:0NgWZbtK
>>825
移封の時点でそうなら関ヶ原の段階でも当然同じ状況だったと見るのが自然だと思うが?
829人間七七四年:2011/09/19(月) 04:01:46.51 ID:COgxyVYe
転封の話しが決まった時は義宣、義重、葦名盛重、岩城貞隆、相馬義胤ら一門は上方や江戸にいたし
義宣は即日、国元に使いを送って一刻も早く常陸を立ち退くように指示している
梅津政景などは行き先が決まってないうちから取り敢えず水戸を立ち退いて下野に滞在するよう家族に連絡している
そして転封先が決まると留守居役の和田昭為や小場義宗らは直ちに秋田へ先行して後続を迎え入れる準備を始めた
義宣、義重、盛重、貞隆、義胤らが上方や江戸を発ったのは3ヶ月近く経って移動が片付いてから
したがって蜂起など思いもよらない事で考えもしなかったと見て良いだろう
まして車はこの頃、家臣ですらないし口出しなどできるわけもなく
恐らく義宣とは一度も顔を合わせる事もなかったと思われる
と言うか義宣が伏見を発ったのは車が死んで1ヶ月以上経ってからだし
どう考えてもその逸話は事実ではない
830人間七七四年:2011/09/19(月) 05:36:09.19 ID:jjAkPAkc
>常陸には三十三館の件でまだ佐竹に恨みを持っている者たちがいる

逸話は与太でもこの認識はあった、
あるいは周りからそう思われてしまうような状況だったのかね
831人間七七四年:2011/09/19(月) 07:52:15.45 ID:OxbXpGVL
>>811
>でも恐らく国綱は相馬氏のように江戸で大名復帰運動してたのではないかと思う

だろうな。
死去時に浅草に居たのも、そういう理由だろうし。
相馬氏は外様で大大名の伊達氏への牽制役として使えたので、旧領復帰が叶った。
関東から外様がほぼ消えた状況下で、わざわざ宇都宮氏を
大名に復帰させる必要性は無かったと。
832人間七七四年:2011/09/19(月) 08:21:22.15 ID:alz1j+Rg
>>826
佐竹は史料豊富だよ。
茨城県史料中世編や秋田藩家蔵文書の膨大な量を見るべし。
もちろん北条や武田の文書量には全く敵わないが。

833人間七七四年:2011/09/19(月) 10:33:32.97 ID:TdreEtDC
北条と比べたら、そらなあ
834人間七七四年:2011/09/19(月) 11:59:57.90 ID:Md7BLRd9
佐竹は資料はたくさんあるが研究が進んでないだけ
佐竹関係書籍は豊富にある一次資料を無視して永慶軍記を丸写ししたような手抜き本ばかりだし
民間にもまだまだ資料が山ほど眠ってる
835人間七七四年:2011/09/19(月) 15:11:42.95 ID:TdreEtDC
今現在、佐竹研究の第一人者と言ったら誰なんだろうな
836人間七七四年:2011/09/19(月) 17:20:13.90 ID:PGzm/wOP
誰だろうな
里見ですら、佐藤博信・滝川恒昭クラスの人がいるというのに。
837人間七七四年:2011/09/19(月) 19:39:28.49 ID:quEOO99C
黒田基樹氏
838人間七七四年:2011/09/19(月) 20:22:21.93 ID:ds6CTBIr
徳川譜代の大久保氏が宇都宮系だな
839人間七七四年:2011/09/19(月) 20:34:02.22 ID:alz1j+Rg
>>835
藤木久志 市村高男 佐々木倫朗 今泉徹 
好きなの選べ

>>837
冗談きついww
でも、怖いもの見たさってやつで、黒田氏の書く佐竹の戦国史をいつか読んでみたいなw
「佐竹義重は永禄○年に北条氏康に従属し、○年に離反した」
とか目を疑うような記述が満載だろうねw
840人間七七四年:2011/09/19(月) 23:21:27.59 ID:JmShEyj9
市村氏が良いね
変に贔屓したり自分の想像で書いたりせずに資料の解析のみに徹しているから信頼できる
841人間七七四年:2011/09/20(火) 01:16:00.36 ID:jqjfj97D
>>840
そうでもないと思うわ
842人間七七四年:2011/09/20(火) 09:30:43.30 ID:cZxMxFF/
黒田も優れた研究者だが、見方が偏ってる
843人間七七四年:2011/09/20(火) 10:20:18.43 ID:eNwFf4nx
関原軍記大成に出て来る渋「井」内膳は
渋「江」内膳の間違いと思っておk?
茨城訛りか?
844人間七七四年:2011/09/20(火) 17:11:36.92 ID:jqjfj97D
>>842
市村も結構かたよっているよ
市村と同じバイヤスで見れば見にならないのだろうが
845人間七七四年:2011/09/20(火) 22:18:08.42 ID:fx/fbqOr
ID:jqjfj97D

市村が具体的にどう偏ってるの?
846人間七七四年:2011/09/20(火) 23:12:15.47 ID:jqjfj97D
>>845
黒田といっしょ
ときどきに肩入れしているサイドがある
そこに至るまでに史料をあげるけど
論拠なしに結論にいっていることがチラホラあるよ
そこの結論に至った論拠をなぜ示せないのかと
847人間七七四年:2011/09/20(火) 23:28:17.28 ID:fx/fbqOr
>>846
「具体的に」って書いてるでしょ。
君の印象ではなくて、具体的にどんな偏った記述があるの?
848人間七七四年:2011/09/21(水) 01:57:45.50 ID:cWJpBq/9
>>847
必死だにならなくても自分が偏ってないと思っていればいいんじゃないか?
それも人によっての印象だろう。
849人間七七四年:2011/09/21(水) 02:00:13.35 ID:tzUukJC8
市村氏は特定大名の研究じゃなくて権力構造の研究が主だから肩入れも何もないと思うがね
850人間七七四年:2011/09/21(水) 02:20:04.81 ID:McEfLPeG
黒田信者は相変わらず頭悪いなw
851人間七七四年:2011/09/21(水) 12:41:12.09 ID:XdfUXbYe
結局具体的な話にはならないんだなw
852人間七七四年:2011/09/21(水) 20:30:36.76 ID:IMi/EJTg
それ以前に市村ってもう高知から帰ってこないんじゃないか?
853人間七七四年:2011/09/23(金) 20:35:25.21 ID:mtDxpCDR
戦国の城とかいうイラスト付きの本で多気山城が載ってた。
多気山城って惣構えだったんだな。知らなかった。
854人間七七四年:2011/09/23(金) 21:13:05.83 ID:9jw5HCXA
>>853
城域の外側に堀と土塁の遺構の一部が見つかっただけで、(しかも現在は消滅)
惣構があったかどうかは分からんよ。

西ヶ谷のその本の解説文、酷過ぎるよね。
「天正13年の戦いは、宇都宮勢が岩城に出陣中に小山秀綱が襲来したもので、佐竹義重が後詰となった。
 翌年五月の合戦は後北条、小山、佐竹が多気山を直接攻め、大手の大谷口で合戦となった。
 この時、佐竹軍は小山に駐屯し、北条氏照の指揮下にあった」

「佐竹が後詰に来た」という書状を、宇都宮支援のためではなく、
何と北条氏照の命令で宇都宮を攻めに来たと誤読してる。
一体どうやったらこんな間違い犯すのかね?

黒田基樹ですらこんなこと書かないよ。
855人間七七四年:2011/09/23(金) 23:24:47.35 ID:xKlNgFie
黒田基樹ですら!?
856人間七七四年:2011/09/24(土) 01:27:32.68 ID:Dnp0gP6B
うむ
857人間七七四年:2011/09/24(土) 20:39:56.35 ID:7EUtQe2W
>>854
凄すぎるw
宇都宮氏が宿敵の那須氏や、宇都宮を攻めるような関係の佐竹氏の領地をどう掻い潜って岩城を攻めるのだろうか?
とか、書いてて疑問に思わなかったのだろうか
しかも何故宇都宮を攻めるのに小山に駐屯したのか謎過ぎる
858人間七七四年:2011/09/24(土) 22:37:02.40 ID:CTrOPpry
>>854
俺が読んだ本には
岩城だの小山は出て来なかったから、多分それは別の本。

多気山城に限らず、惣構の全容を遺構・遺跡として
証明するのはハッキリ言って無理だと思う。
町人が住んでた区域なんて宅地化・農地化などの土地改良、
道路整備で消滅してて当然。

惣構があった可能性は高いと思うけどな。
宇都宮城下を焼かれて移ってきた訳だし、移転先でも簡単に
放火されるような構造の城下にはしないだろ。
多気山城って本拠だったのは約5年で、高度な惣構があったとは思わないが。
859人間七七四年:2011/09/25(日) 02:18:43.66 ID:KxZqS004
本拠を移した訳ではなさそうだが
宇都宮城は依然として健在だったし、多気山城は詰め城的なものだったと思う
基本的に宇都宮城と多気山城の二城に篭っていたし、宇都宮城は放棄していない
恐らく商業地は宇都宮のままで一部の武家屋敷だけ移したものと思われる

戦国末期には城がどんどん肥大化して近隣を飲み込んでいるから総構えはあっても不思議ではないね
ただ、江戸時代に見られるような計画的な町割りをしていたのかは謎
城を広げていく過程で、結果的に集落を呑み込んでいったという側面もあるのではないかと考える
常陸の小幡城も外郭は極めて広範囲に及んでおり、集落も取り込んでいたと見て間違いない
これも総構えと言えなくもない
860人間七七四年:2011/09/25(日) 22:51:42.02 ID:JX4oIi3e
いや、本拠は多気山城に遷してるのは間違いないだろ。
県史や市史その他の各種資料にも載ってる。
宇都宮城周辺の地名が多気山周辺にも残っていて、
それも塙田や下河原のような明らかに町人百姓が住むような地名だから
武士だけでなく民衆も移転したんだろう。

誰も宇都宮城の方を放棄したとか廃城にしたとは書いてないぞ。
ちょっと取り違えが多すぎじゃないか。
861人間七七四年:2011/09/26(月) 17:46:43.60 ID:UTy1W1EG
>>860
宇都宮市史にも栃木県史にもそんな事書いてない
北条勢などに攻められた時は宇都宮城を有力家臣に預けて国綱は多気山城に篭った
多気山城は一大「軍事拠点」となった、と書いてあるだけ
宇都宮家系図でも多気城と宇都宮「本城」と記されているし
那須記などでも多気山「出城」と記されている
862人間七七四年:2011/09/26(月) 19:14:32.76 ID:VCjotlXb
ここですか 大田原最強スレは
863人間七七四年:2011/09/26(月) 21:24:23.57 ID:QZO1bXTz
>>861
>那須記などでも多気山「出城」と記されている
元は出城だから、そう表記される場合もあるだろう。

小田原征伐後、秀吉が宇都宮城に着陣して11日間滞在して宇都宮仕置を行う。
奥羽の各大名(と、その軍勢)も宇都宮に滞陣して秀吉との引見も行う。
秀吉が来る半月前には宇都宮城は増田等の豊臣勢に接収されていた。
帰り道でも秀吉は宇都宮城に10日間滞在。
秀吉が黒川城へ行く間も豊臣勢の一部は宇都宮城で待機してただろう。

という事からすれば、宇都宮氏の政調機能、家臣団、町人街も
多くは秀吉が来る前から多気城に存在してたという事。
それは本拠の移転と捉えるのが普通。
何より知名に町人地の地名が残ってんだから。
移転して5年という短期間で後北条の脅威が無くなったから、文書に残らなかっただけで。
宇都宮城も単なる支城ではないから、有力家臣が配されるのは当然。
姓と同じ名の城だから、本城と強調してるだけだろ。
864人間七七四年:2011/09/26(月) 21:46:48.94 ID:ggiaxP0y
惣構が「あってもおかしくない」ことと、実際に「あった」かどうかは全く別のことだ。
本拠移転の問題も同じ。
所詮推定に過ぎないんだから、あまり強弁しすぎるのは良くない。
「おれは遷した可能性が高いと考える。なぜなら・・・」くらいの書き方にしとけばいいんじゃない。
865人間七七四年:2011/09/26(月) 22:21:48.81 ID:QZO1bXTz
地名が残っている事に関しては「思われる」じゃなくて「事実」だから。
>恐らく商業地は宇都宮のままで一部の武家屋敷だけ移したものと思われる
少なくともこの部分は推測としてもほぼ当たらないだろ。

戦国時代に「一大軍事拠点」を作るというのは
単に詰城レベルの話ではないだろう。特に追い詰められてる側なら尚更に。
勝頼が新府へ移転したのを詰城に入るとは誰も言わないようにな。
866人間七七四年:2011/09/26(月) 22:33:51.75 ID:QZO1bXTz
あと小田原戦の直後に宇都宮氏が簡単に宇都宮城を
豊臣勢に差し出していた事も俺個人の「推測」ではなく、公式記録に残っている「事実」だから。
本拠機能がある城をものの数日で、自分から明け渡したり出来ないだろ。
867人間七七四年:2011/09/26(月) 23:50:13.07 ID:YFAbinI/
>>863
敵が攻めて来た時に宇都宮を出て多気山に篭ったと書いてあるわけだが
つまり平時には宇都宮にいたと考えるのが普通
本拠地を移したとは何処にも書いてない
姓と同じだから本城と強調してるとか滅茶苦茶過ぎる理屈
そもそも多気山に商業地まで含めて本拠地を移したとか一体何が論拠になってるの?
書状類から軍記まで一通り見てみたけど多気山本拠移転の話は見つけられなかった
豊臣方の調書でも宇都宮氏の本拠は宇都宮城となっていて多気山は書いてないし
それに宇都宮城を豊臣に差し出したとか接収したなんて何に書いてあるの?
小田原征伐以後も宇都宮城は宇都宮氏のものだし、秀吉は単に滞在しただけでしょう
868人間七七四年:2011/09/27(火) 00:56:41.54 ID:DsgQ91tU
1486年5月 江戸通雅が徳宿氏を攻め滅ぼすが鹿行の援軍と戦い多数の死傷者を出し撤退
1512年10月 鹿島景幹が下総米野井で討死
1522年月 島崎利幹が長山氏を攻め滅ぼす
1524年月 鹿島氏の内訌に江戸・大掾・島崎・小高・玉造・武田氏らが加担して鹿島義幹が城を追われる
1524年月 高天ケ原の戦いで鹿島義幹が鹿島・島崎氏に討たれる
1530年月 烟田泰幹が鉾田から大和田に逃れる
1531年2月 小田政治と江戸通泰が鹿ノ子原で合戦
1532年月 江戸忠通が小幡義清を誘殺して小幡城を奪う
1533年月 武田氏が木崎砦を築く
1536年月 玉造宗幹が島崎利幹と南郷で戦い富田城を奪う
1536年月 烟田泰幹が鉾田に復帰
1538年月 烟田泰幹が烟田に本拠を移す
1546年月 江戸氏の助けを得た園部兼彦が小田氏から園部城を奪還
1546年月 大掾慶幹が長者原で小田政治・小高直幹を破り小高城を奪う
1559年月 江戸・大掾・玉造・武田氏らと小田・小高氏が柄ケ崎で戦い江戸氏らが勝利
年月 烟田氏を牽制するために鹿島治時が鉾田に城を構えて3男・義清を配す
1563年2月 小田氏治が三村合戦で大掾貞国を破る
1564年1月 上杉輝虎らが小田城を攻め落とす
1566年月 武田通信が烟田忠幹の所領3ケ村を侵略
1568年3月 鹿島氏重臣・津賀大膳が暗殺される
1569年3月 千葉氏派・鹿島氏幹と江戸氏派・鹿島義清兄弟が軍事衝突
1569年6月 鹿島治時が義清派の烟田忠幹を夜討ち
1569年7月 鹿島治時が烟田忠幹を降伏させる
1569年10月 鹿島氏幹が家中の島崎某に暗殺される
1570年4月 江戸重通の妹婿・鹿島義清が家督
1571年月 武田信房が野友城を築く
1571年月 鹿島氏と武田氏が和睦

塚原卜伝のドラマスレにレスしたいから鹿行周辺について訂正と加筆おねがい
869ついでに作った:2011/09/27(火) 00:58:55.10 ID:DsgQ91tU
                           宇都宮正綱
                             ‖――――宇都宮成綱 平野重資
                 ┌佐竹掃部――女子                ‖
佐竹義人―┬佐竹義俊―┴佐竹義治――佐竹義舜――女子     ┌女子
        │                             ‖     │小山高朝――女子
        │江戸通勝―┬江戸通雅―┬江戸通泰―┬江戸忠通―┤          ‖
        │        │        │        │ ‖     ├江戸通政―┬江戸重通
        │        │        │芳賀高経――女子     │        ├女子
        │        │        │        │        │        │ ‖
        │        │        ├女子     └女子     │烟田忠幹――烟田通幹
        │        │        │  ‖        ‖     │        └女子
        │        │        │宍戸政家――宍戸政里  │          ‖
        │        │        ├女子              │鹿島治時――鹿島義清
        │        │        │  ‖――――女子     └女子
        │        │        │鹿島景幹     ‖        ‖――――額田照通
        │        │        └女子     ┌鹿島通幹    額田篤通
        │        │           ‖     │
        │        └女子      岩城由隆  │
        │           ‖――――大掾高幹―┴大掾常幹
        │         大掾清幹┐ 土岐原治頼―女子
        │               └―女子        ‖――――芹沢国幹
        │小高兵部――女子        ‖――――芹沢定幹
        └女子        ‖―――┬芹沢秀幹
           ‖――――芹沢範幹  └女子
         芹沢俊幹              ‖――――島崎氏幹
                           島崎利幹
870人間七七四年:2011/09/27(火) 01:04:56.94 ID:v4Xgzol4
>>868
そもそも高天原の戦いは大永四年で確定なのか?
どうも調べてもはっきりしないようなんだが。史料の裏付けも期待できないし。
871 忍法帖【Lv=26,xxxPT】 :2011/09/27(火) 09:23:30.09 ID:s2uba2My
江戸氏にも連敗しまくってた小田氏超絶弱すぎw
872人間七七四年:2011/09/27(火) 21:29:18.32 ID:2VnhGhWx
そんな小田にも負ける大掾
873人間七七四年:2011/09/28(水) 00:28:16.19 ID:Zf18f4wt
江戸氏って海沿いに結構勢力伸ばしてたんだよな
874人間七七四年:2011/09/28(水) 00:42:54.03 ID:7I/uI2M1
島崎大炊助室同大炊助母は
島崎利幹⇒島崎忠幹、島崎氏幹⇒島崎利幹かも

>>870
1526年な気もするけど、そこいら辺も直してほしい


                             皆川俊宗
                              ‖――――皆川広照
                           ┌女子
                  ┌水谷正吉―┴水谷正村――女子
           水谷勝吉―┴女子        ‖        ‖
                     ‖        ‖        ‖
           結城政朝―┬結城政勝――女子        ‖
             ‖    ├小山高朝――――――――結城晴朝
┌宇都宮成綱―女子     └女子
└宇都宮興綱            ‖――――宇都宮広綱┌宇都宮国綱
   ‖――――――――――宇都宮俊綱   ‖―――┴結城朝勝
┌小田成治女                     ‖
└小田成治女                     ‖
   ‖――――――――――佐竹義昭――女子
 佐竹義篤
875人間七七四年:2011/09/28(水) 02:55:41.86 ID:DjXleAB2
876人間七七四年:2011/09/29(木) 15:30:39.41 ID:2bmYNZ9h
>>875
お前が一番魅力的だよ。
877人間七七四年:2011/10/02(日) 01:19:49.30 ID:hekGFqUV
鉾田から7〜8km北西の大和田に逃れるってのが分からない
南(鹿島か中居)から圧迫されたってこと?
鉾田から烟田への移動は武田氏?
878人間七七四年:2011/10/04(火) 12:32:54.12 ID:3TrVGJX5
>>869
おつ
879人間七七四年:2011/10/07(金) 18:07:30.15 ID:r0motI9+
鹿島の剣術を世間に広めたいでおじゃる
880人間七七四年:2011/10/07(金) 23:44:38.58 ID:oiuYE2hb
門外不出です
881人間七七四年:2011/10/09(日) 08:59:00.78 ID:D9AhLmf/
>>816-817 >>819
今さらなんだがちょっと待った。

那須高資の実母である岩城常隆の娘が輿入れしたのは1521年だからそれはおかしい。
那須政資の継室に大田原の娘が入って資胤が生まれるのは少なくともこれ以後のはず。
882人間七七四年:2011/10/10(月) 07:55:23.92 ID:koPUepws
まさか追放中に娘を継室にするというウルトラCをやったのか?
883人間七七四年:2011/10/10(月) 13:19:20.51 ID:JgKN2Md+
さすがにそれはないなw
1542年の復帰後、その年のうちに娘を継室に出して資胤を懐妊した
と、考えるしかない
884人間七七四年:2011/10/12(水) 01:38:00.78 ID:XExbXqJ2
1542年復帰で娘を那須政資の継室に入れて早くても資胤誕生に10ヶ月ぐらいかかる訳で
何月に復帰したか知らんけどおそらく年は越すだろうから1543年に資胤が生まれたとしよう。

となると1557年に息子資晴が生まれた時に資胤の歳は多く見積もっても14歳(数え年15歳)か…
当時の結婚の基準なら無理ではないがスレスレだな。
885人間七七四年:2011/10/12(水) 22:42:19.45 ID:ljHUqsOK
15歳以下で子供作るのは絶対ないとは言えないが、かなりレアケースだからね
那須氏は不明な点が多いから、どこかで間違ってる可能性が高いな
886人間七七四年:2011/10/13(木) 22:10:49.14 ID:vm8V9Ctq
那須資資
887人間七七四年:2011/10/16(日) 12:51:37.33 ID:1jl+/a2q
利家はまつを10才で妊娠させた
888人間七七四年:2011/10/16(日) 13:19:02.22 ID:u3L4YeJ6
小田は弱いと思うが壬生・結城・水谷あたりは結構強いだろ
889人間七七四年:2011/10/16(日) 14:12:20.90 ID:NSJeTfb4
水谷正村、結城晴朝は名将
890人間七七四年:2011/10/16(日) 17:23:32.68 ID:hZeWwgU8
>>887
結婚してるから妊娠させても無問題
しかし母子の死亡率を考えると大問題
「死んでも代わりはいくらでもいる」が大前提
891人間七七四年:2011/10/16(日) 22:47:34.75 ID:Hn9jM1Cs
早く結婚しても一定年齢までは別の場所で養育するのが普通だからな
正妻は政治的意味合いが大きいから粗末には扱えないし
セックスするだけなら相手はいくらでもいる
892人間七七四年:2011/10/17(月) 00:36:02.08 ID:oTZlbq4m
>>888
いきなりどうした?
893人間七七四年:2011/10/17(月) 17:09:24.47 ID:rnAtqrRV
水谷氏は正村をはじめ、けっこう使える人物を
輩出しているよね。

勝宗の時代には譜代大名になってるし。
ま、その後お家は廃絶になっちゃうけど…
894人間七七四年:2011/10/17(月) 18:21:14.62 ID:ty8+M/p/
一応、旗本として一門の相続が認められたんでは
895人間七七四年:2011/10/17(月) 20:14:35.77 ID:rnAtqrRV
うん。はじめは3000石で、その後500石増。

役は先手鉄砲組頭だったので役高1500石なんで、
計5000石取りの立派な寄合旗本扱いだったみたい。

幕政においては水谷勝久が鬼兵こと長谷川平蔵の
後見役をしていたらしい。
896人間七七四年:2011/10/17(月) 20:29:01.27 ID:9Wga+kfF
そのくらいの旗本だったら最下級の大名よりよっぽど暮らし向きはよさそうだな。
897人間七七四年:2011/10/17(月) 23:21:22.86 ID:RznOKSy9
結城四天王では一番成功したな
898人間七七四年:2011/10/18(火) 00:15:54.03 ID:eeMeUflb
下館と真壁が近いせいだろうけど系図を見ると戦国時代の水谷と真壁って
嫁入りしたりされたりがあったみたいだな。
899人間七七四年:2011/10/18(火) 16:00:16.14 ID:I9in7AK3
小田方だった真壁を説得し、
反小田勢力に加わらせるよう工作したのが
水谷治持。その後真壁が佐竹傘下になっても
私的な交流はあったのかも。

鬼真壁の墓も下館の定林寺にあるしね。
900人間七七四年:2011/10/18(火) 17:50:16.65 ID:4IMIXmpB
私的な交流も何も正村の妹が真壁に嫁いでるよ。
その相手は氏幹入道道無とあって、氏幹なのか、あるいは
父の久幹(道無)の方なのかはわからんけど。
901人間七七四年:2011/10/18(火) 18:46:47.20 ID:I9in7AK3
で、結城四天王って
多賀谷、水谷、山川…あとひとつは何家?

ひょっとして小山なの?
902人間七七四年:2011/10/18(火) 19:18:21.23 ID:K7zIpGD7
岩上朝堅・・・

そういや岩上二郎って茨城県知事いたね
903人間七七四年:2011/10/18(火) 20:56:42.85 ID:4IMIXmpB
結城の話題が続くな。次のスレタイは佐竹を抜いて結城を入れよう。
結城単独スレもあるけどね。
904人間七七四年:2011/10/18(火) 21:11:37.55 ID:4IMIXmpB
しまった。常陸でも下野でもないかw
905人間七七四年:2011/10/19(水) 23:05:51.40 ID:GgFq7/UE
本拠で言うと下総なんだよな
多賀谷や水谷はセーフだけど
906人間七七四年:2011/10/19(水) 23:19:32.96 ID:9nCtxPsv
>>899
久幹が継いだ当初の真壁が小田に属していたのって
軍記物以外の裏づけある?
907人間七七四年:2011/10/20(木) 01:04:12.74 ID:cZGH5aHD
つっても治幹やし
908人間七七四年:2011/10/20(木) 01:40:34.69 ID:cZGH5aHD
治 幹ね
909人間七七四年:2011/10/20(木) 09:25:25.01 ID:tbP+5Ahr
>>907
どういうこと?
910人間七七四年:2011/10/21(金) 01:08:04.94 ID:hwmFEi74
小田からもらったんでしょ、「治」
911人間七七四年:2011/10/21(金) 08:12:14.55 ID:2tJKaWVy
治幹の二代後の久幹の話なのに?
同時代の史料ではどうなんだって話が聞きたかったんだが。
912人間七七四年:2011/10/21(金) 17:23:13.34 ID:imAsbXl6
869の家系図に出てくる芹沢某って
芹沢鴨につながる一族なのですかね?
913人間七七四年:2011/10/22(土) 01:08:03.11 ID:S/29rArL
少なくとも久幹の祖父の代には公方などではなく
小田から諱をもらうような関係だったんでしょうよ
914人間七七四年:2011/10/22(土) 01:19:22.47 ID:S/29rArL
>>912
自称(?)だけどね
915人間七七四年:2011/10/22(土) 12:35:15.77 ID:5iwbLZpT
>>913
北条から諱をもらうような関係だった氏幹は佐竹側に行っちゃいましたね。
916人間七七四年:2011/10/22(土) 19:50:56.71 ID:zJGML9a8
ちょっと待て
真壁氏幹の氏の字は、小田氏治からもらったと考えてる学者って誰か実在するの
917人間七七四年:2011/10/22(土) 20:21:55.58 ID:8Q4zD1gS
小田さんは将軍家の血を養子としていれた名家ぞ!
918人間七七四年:2011/10/23(日) 00:49:47.06 ID:W64qSnZz
治は小田しかいないが、氏は公方か北条といわれてますな
919人間七七四年:2011/10/23(日) 00:50:52.28 ID:W64qSnZz
氏治の氏とおなじように
920人間七七四年:2011/10/23(日) 01:41:49.57 ID:bH6DM4gM
公方説はあまり聞かんな。とはいえ一応真壁の家伝に北条からとは書いてはあるが、
義幹の諱と違って与えた側からの書状が残っているわけではないから一考の余地はあるね。
921人間七七四年:2011/10/23(日) 06:07:27.22 ID:uxu4O5E5
確かに、よく考えると北条というのも些か不可解だな
氏幹が元服する頃は一字貰うような関係だったとも思えない
古河公方や小田と考えた方がしっくりくる
922人間七七四年:2011/10/23(日) 12:26:26.75 ID:7bQ/wnp3
足利政知→小田政治→小田氏治
923人間七七四年:2011/10/26(水) 01:31:07.98 ID:h98Bi+i5
兄 氏幹 1550〜1622 1565年北条氏政より偏諱(真壁系図)
弟 義幹 1552〜1630 1561年佐竹義昭より偏諱(真壁文書)

義幹のが先に元服したのか?
掘るとちょっとおもしろいかも
924人間七七四年:2011/10/26(水) 14:10:19.92 ID:fpKjzR2O
そういや重幹の次男は宇都宮朝勝の養子に入って
家老にまで出世してるんだな
925人間七七四年:2011/10/26(水) 14:11:36.29 ID:fpKjzR2O
924に追記
宇都宮家の家老ではなく久保田佐竹家の家老
926人間七七四年:2011/10/27(木) 12:17:00.72 ID:M+mRfwTt
戊辰戦争のときに佐竹当主は徳川軍側につくと決めていたが、
久保田の宇都宮(真壁から婿養子)が新政府側につこうとゴリ押ししたっけ。
927人間七七四年:2011/10/27(木) 14:18:15.44 ID:ti72oIXI
真壁は結構外交センスある印象
928人間七七四年:2011/10/27(木) 23:51:52.30 ID:6cRwWqCT
他の大掾一族と違って内紛もなかったから他から干渉されることもなかった。
その辺は久幹や氏幹が当主としてすぐれた政治感覚と統率力を持っていたってことかな。
929人間七七四年:2011/10/30(日) 21:40:34.03 ID:OOWkpE4T
>>923
アッ────── !!!
930人間七七四年:2011/10/31(月) 00:58:27.13 ID:r07UySh8
結城朝勝って娘いたの?
931人間七七四年:2011/10/31(月) 09:14:25.36 ID:iWP76NYX
娘「しか」いなかったというべきか
932人間七七四年:2011/10/31(月) 18:52:39.08 ID:r07UySh8
宇都宮国綱子孫→水戸藩家老
結城朝勝子孫→久保田藩家老
芳賀高武子孫→水戸藩?
芳賀は伊達か上杉、越前松平に仕えて欲しかった
933人間七七四年:2011/10/31(月) 22:57:50.87 ID:edKVHtMz
水戸藩にも結城の子孫の家老居なかった?斉昭の怒りに触れて腹を切らされてる
934人間七七四年:2011/11/01(火) 00:01:59.80 ID:RQxMXl/7
結城寅寿だな
晴朝庶子名乗ってるが実際は白河結城氏庶流中畠氏っぽい
因みに白河の子孫は
白河本家→久保田藩士
小峰氏(本家簒奪済?)→仙台藩家老
中畠氏→水戸藩家老
水戸藩と久保田藩は西の細川と並んで没落名門の引き取り口だからな
本当は引き取るべき上杉喜連川がボロボロだからってのもあるけど

越前松平に仕えた名族もいるの?


935人間七七四年:2011/11/01(火) 09:11:45.62 ID:mGCKINIz
梶原政景が久保田を出奔したのち越前松平に仕えたような気がする
936人間七七四年:2011/11/01(火) 09:23:32.01 ID:lWSfc+06
あれは新旧家臣団の政争で負けたからだよね
937人間七七四年:2011/11/01(火) 09:45:19.64 ID:mGCKINIz
雪の峠だね
938人間七七四年:2011/11/01(火) 20:25:49.45 ID:a8IlCYKy
>>929
氏幹って初名だっけ?
939人間七七四年:2011/11/02(水) 12:48:24.61 ID:WiH/8zFw
>>934
越前松平配下で関東名族の城主レベルだと
岩上朝堅、多賀谷三径、山川朝貞、梶原政景、太田資武、小田氏治、岡見治広、上三川成業、江戸宣通、春秋重元
あたりかな
940人間七七四年:2011/11/07(月) 01:31:04.88 ID:TbeyemuJ
>>928
もちろんそれもあるだろうけど
大掾一族の中では地理的に孤立してる場所に本拠があったのが大きい。
鹿島や行方の辺りに居たら、最終的には33舘の主と共に誘殺されてたと思う。
941人間七七四年:2011/11/07(月) 10:58:11.31 ID:fwJRbPv+
そういや、真壁氏って完全に孤立しているんだな
元は大掾宗家と接していたのだろうけど、小田氏が八郷方面に進出した事で孤立したのだろう
武茂氏や鷲子江戸氏みたいな立ち位置だは
地理的に見れば小田氏に従うのが自然
後に佐竹方に転身するが、これはこれで孤立している気がするが
942人間七七四年:2011/11/07(月) 12:23:26.29 ID:MOfACUBX
同じく佐竹陣営の多賀谷氏が東南を固めてるんでは?

でもって、太田三楽が中郡を押さえれば、常陸南部の戦線がつながり
北条の北上を防げると…。
943人間七七四年:2011/11/07(月) 18:15:17.84 ID:3sfYJY38
>>940
いや、地理的に微妙な場所にいたから真壁は立ち回りがうまくなったんだろ。
そのifは無意味すぎる。
944人間七七四年:2011/11/11(金) 00:29:56.76 ID:5IugzRXZ
>>938
へぇなんていうの?氏幹の初名
945人間七七四年:2011/11/11(金) 01:27:29.07 ID:gl6HPxDs
柳瀬良幹
946人間七七四年:2011/11/11(金) 10:31:21.98 ID:Vasyl/xu
>>945

名前も地味だな
947人間七七四年:2011/11/11(金) 23:34:12.63 ID:MRWbtkKG
宇都宮一門の横田氏はどこ行ったの?
庶流は佐竹でかなり出世してるけど
948人間七七四年:2011/11/16(水) 00:37:46.77 ID:si960SEY
『塚原卜伝』から
東武志(鹿島景幹)
須田邦裕(鹿島義幹)
永島敏行(松本備前守)
田山涼成(塚原土佐守)
中村錦之助(吉川覚賢)
石井英明(吉川常賢)
堺雅人(塚原新右衛門)
松田悟志(玉造常陸介)
江波杏子(物忌・龍子)
藤田三三三(当禰宜)
伊藤星(物忌・采子)
時代考証・峰岸純夫・飛田英世
949人間七七四年:2011/11/16(水) 22:35:53.35 ID:bEuwzald
BS時代劇かw
950人間七七四年:2011/11/17(木) 00:07:48.75 ID:G6y8FUWw
卜伝面白かったわ。続編希望
951人間七七四年:2011/11/17(木) 09:24:47.04 ID:T/Rp0YA9
佐竹スレは複数あるし、次のスレタイに佐竹はいらんと思う。
かといってときどき話が出る鹿島とか真壁程度では微妙だし、
話題の多い結城も下総だしなあ。
952人間七七四年:2011/11/17(木) 13:40:44.88 ID:ROfURNrL
じゃあ、那須、益子あたりはどう?
953人間七七四年:2011/11/17(木) 18:29:29.64 ID:Wvoim81E
佐竹は絶対に必要。
佐竹を中心に、この地域の小大名が連合して北条に対抗した歴史的意味でも
洞中という珍しい家中構造を共通して持つという意味でも、
佐竹と比較したり敷衍したりするのは避けられないから。

でも、結城の話題を入れたいのは同意。
次スレは「常陸・下野・下総の戦国大名」にしない?
954人間七七四年:2011/11/17(木) 19:04:19.96 ID:+HAiG0aj
>>953
それだったら上野も入れて「北関東の戦国大名総合」、にしてもいいかも。
955人間七七四年:2011/11/17(木) 19:24:44.85 ID:Wvoim81E
>>954
それは反対
956人間七七四年:2011/11/17(木) 22:56:06.04 ID:3fiITyjv
上野は微妙に常陸下野の文化圏から離れているからね
どちらかと言うと武蔵と統合すべきかと
下総は良いと思う
結城氏、多賀谷氏、水谷氏などは佐竹氏、宇都宮氏と非常に関係が深いし
あと、鹿島氏と香取氏とか
957人間七七四年:2011/11/18(金) 09:06:25.30 ID:NvNEr2Nc
常陸下野ではなく、「常総下野」ならばその範囲もカバーできるな。
スレタイに結城が入っても不自然ではなくなる。
958人間七七四年:2011/11/18(金) 15:53:40.37 ID:++DX8393
下野だけフルネーム(?)なのもバランス悪いんで
常総野州じゃダメ?
959上杉景勝・北条氏政:2011/11/18(金) 17:57:49.76 ID:b7efn0uV
お前ら俺の部下だろう
960人間七七四年:2011/11/18(金) 18:13:01.23 ID:kUZ7nhJm
>>959
くたばれ

【東方之衆】 常総野の戦国大名2 【佐竹・宇都宮・小山・結城・小田・那須】

長いかな?
961人間七七四年:2011/11/18(金) 20:24:18.05 ID:umlTHGZA
両毛文化圏と言うのがあってだな…
962人間七七四年:2011/11/19(土) 00:27:52.29 ID:Z4X5bPgZ
>>960
長い
確か全角で24文字か25文字辺りまでだったはず
963人間七七四年:2011/11/19(土) 14:12:25.08 ID:IVd1crYR
【佐竹・江戸】 常陸の戦国大名2 【小田・大掾】
【宇都宮・那須】 下野の戦国大名2 【小山・佐野】
【結城】下総の戦国大名【千葉】

の分立でいいだろ。
微妙に立場が違うものを一緒にするのは無理
964人間七七四年:2011/11/19(土) 23:11:59.68 ID:sCpDayPo
いや、実際無理じゃなかったけど・・・
それに常陸下野合同でも1000まで5年3ヵ月もかかったのに
分離したら間違いなく保守カキコのみのスレになるか落ちるかだと思う
965人間七七四年:2011/11/19(土) 23:32:11.62 ID:NccLOyhe
>>963
逆に、結城と千葉を一緒にして「下総の戦国大名」とするのは、非常に違和感が。
結城の本領が常陸下野の三国に跨ってる上に
旗下三家(多賀谷・水谷・山川)の所領まで加えると、下総が本拠と言えるのかすら怪しくなるくらい。
小山との強固な結びつきもあるし、
可能であれば、東関東・常総野のくくりで語った方が、はるかに有意義
966人間七七四年:2011/11/20(日) 01:01:17.49 ID:H+yA7seU
じゃあ佐竹は陸奥の一部を支配してたから陸奥も入れるのか?
967人間七七四年:2011/11/20(日) 08:45:33.51 ID:bDn5oFkD
関東の残念なお大名でいいじゃん
968人間七七四年:2011/11/20(日) 08:46:48.66 ID:bvkb6op1
常陸・下野はむしろ南陸奥と関係が深いかな
969人間七七四年:2011/11/20(日) 09:44:26.48 ID:6HyfvM6J
利根川以東の旧古河公方圏エリアの人達
970人間七七四年:2011/11/20(日) 19:52:48.97 ID:dEYclyI6
下総入れない方がよくね?
971人間七七四年:2011/11/21(月) 00:06:45.66 ID:1N28osFa
>>969
それだw

でも、あまり細かすぎると気付かれない恐れがあるし
現行のスレタイでいいんじゃないの?
大名がしぼれないなら「常陸下野の戦国大名」だけでいいかと
もしくは大名の名前じゃなくて他のサブタイトル付ければいいのでは?
たまに結城氏の話題出ても「スレ違いだ!」と目くじら立てる人もこのスレにはいないし
972人間七七四年:2011/11/21(月) 13:09:50.67 ID:DrOOob4W
969

観点いいっな〜。利根川以東の戦国武将は
他の地域と違って守護地頭色を色濃く残してますもんね
973人間七七四年:2011/11/21(月) 18:49:34.02 ID:DKl+3U5X
でも昔の利根川って江戸湾に注いでいたんだろ?
974人間七七四年:2011/11/21(月) 23:38:01.00 ID:zURo4hl7
そう
だから利根川水系が武蔵下総の国境になっていた
そして利根川を境に後北条らの新興勢力と上杉、佐竹、宇都宮らの守護系勢力が異なった体制を敷いた
そして更に西部は管領の上杉系の勢力、東部は古河公方の足利系の勢力と分かれていた
まあ、年代によって少しずつ変化しているが大まかに見ればそう言う分け方ができる
研究家の中にもこの分類を使っている者が結構いる
975人間七七四年:2011/11/22(火) 11:33:27.85 ID:f/IRvYkk
関宿城から利根川と江戸川の分岐点を眺めると
スーパー堤防が防ぐ水量ハンパねぇぞ。
まじ怖い。
上流にダムがあってもあの怒涛ぶり。
976人間七七四年:2011/11/23(水) 10:15:38.00 ID:0crllVbL
977人間七七四年:2011/11/23(水) 11:27:10.39 ID:Df9pa0ru
【宇都宮・那須】 下野の戦国大名2 【小山・佐野】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1322006429/

で下野は分離独立したが、常陸はどうするね?
978人間七七四年:2011/11/23(水) 23:39:02.07 ID:/f2TzWQ1
分離しちまったか
常陸は必要ないかな
常陸は佐竹抜きでは語れないから佐竹スレだけで十分
佐竹と関係が薄いのは岡見や江戸崎土岐辺りだけど今まで一度も話題になった事ないし
979人間七七四年:2011/11/23(水) 23:48:16.22 ID:v6woXd9p
【佐竹・江戸】 常陸の戦国大名2 【小田・大掾】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1322059640/l50
980人間七七四年:2011/11/24(木) 13:19:25.77 ID:31s07uUo
分離しちゃうといずれも過疎スレ必至だろうね。

最近のネタも結城、真壁あたりが主流だし…。
981人間七七四年:2011/11/24(木) 14:04:14.68 ID:F9F4EJHV
下野の話題っつても
宇都宮から小山以東の話題ばかりだしな。
新幹線以東とも言うか。
栃木県の投資も集中してるからな。
人口も宇都宮集中で
群馬県みたいに前橋、高崎、伊勢崎、太田のような
バランス人口分布になってない。
982人間七七四年
age