1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
評価が分かれるような気がしますが。。。
性格が異様に粗暴だよね、宗麟。
大友氏最盛期を築いた人物でもあるし、難しいね。
関東三国志に比べて九州三国志は野蛮な人ばかりね
大友・好色
島津・陰湿
龍造寺・残忍
というイメージ
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 22:34:57 ID:ArfST8+j
キリスト教が彼を変えてしまったね
キリスト教に入り込んでなければ奈多氏の反乱や周囲との確執も無く戦国時代を生き残れていたのかもしれない
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 22:36:59 ID:AeebkJ5u
島津軍の豊後での行為は凄まじかったらしい。
その後の朝鮮出兵による男子減少とあいまって、「豊後後家」という言葉も生まれたそうだ。
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/04(火) 08:30:57 ID:MmIBTr4C
義統はどうしようもないな
>>6 それは耳川の戦いによってじゃあなかったか?
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/05(水) 07:00:42 ID:ohO6jmt6
道雪が下半身不随という話は、豊後国内に残っている古文書にはほとんど
登場してこないので、あまり信憑性がないとのこと
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/05(水) 07:03:03 ID:ohO6jmt6
海音寺潮五郎
「ある時期にはすること為すことすべて卓抜であるが、ある時期には
暗愚といってもよいようなことしかしないのだ」
「憎いと思い、ほしいと思い立つと、矢も楯もたまらなくなるのが、
宗麟の性質なのだ」(武将列伝「大友宗麟」より)
11 :
公孫参:2006/07/05(水) 10:44:55 ID:wMvsEqxL
妻は奈多神社の娘だよね
そこはうらやましい
今川氏真は蹴鞠。
織田信雄は舞。
大友義統は?
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 00:05:29 ID:5dkQ7pqJ
大友義統は和歌かな
文書整理
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 13:36:28 ID:HPo1UOz5
無能なら北九州六カ国を占めることは不可能だったと思う。
>>13 サンクスd
人間、一つくらいは長所もあるもんだな…。
それにしても、宗麟って耳取川辺りまではよかったんだけどね。変な温情ある辺り(秋月や筑紫等)どっか長慶とだぶる気がする。
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 15:55:37 ID:tf39Nwiy
>>15 先代の遺産もあるし、
後で全部パーになってるし。
九州王 :大友宗麟
雷神の化身 :立花道雪
西国無双 :立花宗茂
豊州3老 :吉弘鑑理、臼杵鑑速、吉岡長増
天正の楠木 :志賀親次
無双の槍使い :吉弘統幸
豊後のヘラクレス:柴田礼能
蛇神の末裔 :佐伯家(大神一族)
イザベル :奈多夫人
豊後の尼御前 :吉岡妙林尼
西国一の女丈夫 :立花ァ千代
19 :
公孫参:2006/07/07(金) 11:28:27 ID:Scs7XPpY
高橋紹運がいませんね
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/07(金) 13:10:27 ID:Nn7Z8rby
立花宗茂
道雪出兵中に立花城に攻め寄せた秋月種実8千の軍を留守隊5百で撃破
島津忠長5万の軍を2千の兵で豊臣からの援軍上陸まで防ぎきる。撤退にかかった
島津軍に追撃をかけ追い払い、高鳥居城を攻略、さらに奪われた宝満城、岩屋城を
即座に奪い返した
志賀親次
豊薩戦争の折、肥後口から豊後に侵入してきた島津義弘軍3万7千の軍を恐れ内通しようと
した父を切腹させ岡城の城主となる。島津軍は兵をいくつかに分け岡城他の豊後の各城を
同時に攻略する作戦にでたが、岡城(千の軍と言われているが7万石×300で実際は2千くらい
あったと思われる)に攻め入った軍(新納忠元が指揮したと言われている)は3度に渡り撃破され
しかもその内の1戦においては島津得意の釣り野伏せを模した戦法で破られるという屈辱を受け
ている。岡城攻略をあきらめた島津軍は稲富新介に5千の兵を与え志賀軍に備え主力を北上さ
せるが、功を焦った稲富は独断で岡城を攻め親次に散々に打ち破られた。
佐伯惟定
豊薩戦争の折、日向口から侵入してきた島津家久軍(これも約1万の軍をいくつかに分散し佐伯
栂牟礼城(2万石×300で600+伊東家の残兵等で千くらいか)には家久の子豊久が攻めてきた)
島津からの使者を切り惟定は伊東家からの客将山田匡徳と組み惟定が正将として豊久軍に正面
から当たり注意を引いたところを匡徳が奇将として奇襲をかけるという戦法(立花道雪の正と奇の
軍法を模したと思われる)で島津軍を撃破した。
>>19 紹運は異名とかがないのがなあ。
道雪に倣って風神の化身とかが
合いそうではあるが
おそらく紹運以上の軍事的実績のある吉弘鑑理にも単独の異名がないしな
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 20:16:54 ID:+3mGPbfG
>>22 2人に相応しい異名あるじゃないか。
: __,,,,,,,,,,yww,,,,、 .l゚“''''z l゚゚゚゚゚゚》
: .,r''',ラx, ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,、 .l“゚” ̄: `゚'i、 .,xネ .タ--r,#━″ .゙''''=,,
.,r''”゙”ヘ、 ,l`l ̄'ョ゙ト | l .l: _、 .] .l ll゜ ,,,,,,,,,,, 'l:
,r″ .゙'l,,《.゙v,,r゙,ナ .』 : _,,,,,,,,,,,,,レ l,yxrr━'''“゚,√ ,ト .レi、 ,l丶 .l'l| l━=l″ :l
.,l° .,, .゚!Z=r〃 “''"““゚“゙ ̄″ ,,f° ,f° .レ .ll: .l`l ,,,,,,,,,,,, l
.,i″ ,l~゚li、 .゙'L ,r″ .,l″ .l′ .ll" .,l 】 .'サ''''″ ]
.,,l° .,√ ゙!i,、 .゚┐ ,r″ ,こ レ .ll" .,l ,l ,,,,,,,,、.,,l
ぐ .,√ ゙!i,、 ゙'l=@ : : : : : : .,r″ .゚'r,, ┃ ,ll ..l: 】 `'=″ ゙y
: `'、..,l° ゚h, ,ト .l'''''"'““゙゚゚゚“゙゙゙”””””””””l ,r″ .,,i,, `'┐ 《 ` .゙=l li、 ,,r″ .,,v-x,
.″ ゚!i、 ,r° .l : ┃ ,,/゜ .,r°゚''=@ .゙'┐ `'=x, ] ヤ° .゚'i、 ,,i´,m, ゙K
゙″ .l,,yvrr━・''''''““゙゚゚゚“゙゙゙”””` .゚'v、 ,r" ゙'┐ .,/ .l′ .セ'!l .,,ri、 ,ト.l, .《,,,ド┃
`゚V″ `='′ il,,,,_ l′'h,_._,,r''″ ゚!i,,,/゜ ゙=,,,,,,,r″
゙”゜ `″ .″
>>20 宗茂、親次に比べると目立たないんだけど佐伯惟定は結構強いんだよな。
佐伯氏は、蛇神・祖母嶽大明神(平家物語では高千穂)を祖とする 豊後大神一族
耳川合戦の翌年7月、島津方与党が佐伯に侵入したのを11歳の惟定が撃退し、。
以後たびたび佐伯諸浦が襲撃されたが、惟定はよく奮戦し防御した。
天正14年11月土持 親信、新名親秀 ら(豊久がいたかは不明)2千余人が佐伯に
出撃、惟定は千八百余の兵で堅田、鬼ケ原にて応戦、島津軍を撃退し、その戦死
者は千人を超え千人塚が建てられた。
以後島津に寝返った柴田紹安の妻子が籠る星河城を落とし人質にとり、紹安を再度
寝返らせ、さらに土持 親信の朝日嶽城を落とした。豊後から撤退中の島津義弘、家久
が梓山を越えて日向に入ろうとしていたところを、佐伯軍が急襲し島津軍を敗走させ、
府内から奪われていた大友家の家宝を取り戻した。(着服したようだが)
大友家改易後は藤堂高虎に仕え、慶長の役での元均との海戦や大阪の役の長宗我
部盛親との戦いに功があり、津祭りでは藤堂家の四天王として扱われている。
>>6 豊後は戦国時代最も悲惨な目に遭った国かもね
島津軍の徹底的な略奪、その後入ってきた佐々成政の横暴といい・・・
フロイスの記述を見ると目を背けたくなるような生き地獄だったみたいだな
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 19:45:25 ID:ZV58xkq1
大友宗麟って、大徳寺の高僧を豊後に呼んで、寺を建立し、家臣にも禅を
薦めるほど熱心だったけど、その後熱が冷めて、達磨像を海中にほおリ投げる
などの奇行を行い、上記の高僧は怒って京都に帰っちゃうんだよね。
それからキリスト教に凝って、あとは大友滅亡への道にまっしぐら。
宗麟の気まぐれ(家臣の妻レイプを含めて)に振り回された、優秀な家臣たち
がかわいそう。
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 09:33:06 ID:AwNPE22x
アホか。キリスト教を信仰したから滅亡した
というわけじゃないだろ。
>>24 >豊後から撤退中の島津義弘、家久
>が梓山を越えて日向に入ろうとしていたところを、佐伯軍が急襲し島津軍を敗走させ、
>府内から奪われていた大友家の家宝を取り戻した。(着服したようだが)
主君の家宝を着服したのかよw
島津に攻められる頃には密かに大友を見限ってたのかもしれないな
鎌倉の官吏公家として戦国まで残ったもの
中原→大友
大江→毛利
三善→三浦
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 21:09:48 ID:PO1TbmLd
大友は鎌倉時代からの嫡流で安定しすぎたのがあだとなった。
島津家が同じ守護大名でも忠良が本家を圧倒する過程で
専制指導が可能になったのと違い、連判衆による合議制が最後まで
維持された。よって軍事活動はなにやら後手後手気味。
>>30 佐伯家は大友家が来る前に事実上豊後を支配していた緒方三郎(源義経を九州に招こう
としたので流刑にされた)の子孫と言われる家で、佐伯は豊後から半独立状態だった。
それが、10代惟治の時に因縁つけられて大友家に攻められたり、12代惟教の時に小原
鑑元の乱に連座したとして、佐伯を追われて、その都度何年後かに帰ってきてるっていう
大友家臣団でもっとも大友に含むところがある一族なのだ。
島津に敵対したのも家久が父や祖父の仇だからって印象があるし、奪った家宝の肩衝も
大友家改易後すぐに藤堂高虎に仕えて献上して、さらに高虎から徳川家康に渡ってる。
それゆえかその肩衝は「佐伯肩衝」というそうだw
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 22:52:32 ID:Vmvmzu4D
>>32 三浦半島かな?あと会津の蘆名も明らかに三浦一族。
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/11(火) 01:40:10 ID:YIHSngnJ
北は大内、毛利 西は龍造寺、東は長宗我部、南からは島津
こんな状態でよく耐えたと思う。
少なくとも70年代以前は西と東と南の心配はなかったんじゃないかな
結構果敢に結婚政策取ってますよね >70年以前
大内や島津とは親戚関係
大内が滅亡し、島津が代替わりして大友との血縁関係が断絶
大友も宗麟になって以降、結婚政策が微妙に変わった
室町から戦国初期までずっと
渋川・大内 対 少弐・大友・菊池・島津の対立図式だったからな
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/12(水) 23:31:36 ID:TOfKt/Mw
秀吉に「最後の臆病者」と罵られた義統君。
まあそれが最後でなかったことは関ヶ原で証明されたがな
吉弘統幸の言うこと聞いておけば・・・
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 09:52:30 ID:lxbGn9wB
志賀親次のせいだろ。義統は悪くないお( ^ω^)。
結局志賀親次というのは大友をどうしたかったんだろう
島津の豊後攻めでは驚異的な防衛力を見せたかと思えば
朝鮮出兵では思いっきり主君の足を引っ張ってるし・・・
キリスト教に熱心だったことだけは分かるが・・・
義統は豊薩戦争中に府内から逃げてた先でキリシタンになっていながら、
秀吉のキリシタン禁教令がでるやすぐさまキリシタンを弾圧して宣教師を
追放しだして、そのとき宣教師達を匿ったのが親次なんだよなあ。
秀吉に親次が言うことを聞かないと泣きつくと逆に秀吉から叱責される体
たらくだし、義統が秀吉から見限られてたのは確かだろう。
そもそも、朝鮮出兵時に親次が撤退を主張したっていうのも信憑性がない
し、大友改易後、親次が秀吉から日田を貰ってるとこを見ても原因は義統
の側にあると思うんだが
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 21:31:55 ID:HOqz1wlt
むしろ大友家は、「地理的」には恵まれていたと思う。
海外との貿易を考えると、特に博多を押さえているという
事は、織田信長よりも商業的に有利である。(他の戦国大名は、
織田家を商業力で凌ぐ事はできません)
本州と陸続きでない事の有利さは、毛利勢力を北九州から
撃退した事からも証明済み。「鳥無き島のコウモリ」である
長宗我部が四国であれだけ頑張ったのですから。
北の大内対策には少弐が盾になってくれてたしな
ここは島津が怖くて泣きっ面で秀吉に助けを求めたヘタレのスレですか?
島津厨しねよ^^
>>45 >>48 ヘタレかどうかはともかく中央の権威を利用することで成立してた大名なのは確かだろうな>大友
考えてみれば義統(吉統)が志賀親次を秀吉にお願いして押さえつけようとしていたのも
オヤジの宗麟と同じようなことをした、つもりだったんだろうが・・・
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 13:46:42 ID:neRFsVDe
家系
* 父:大友義鑑
* 兄弟
o 女(一条房冬室)
o 女(河野通宣室)
o 義鎮
o 晴英(大内義長)
o 親貞
o 塩市丸
* 子
o 義統(吉統)
o 女(一条兼定室、清田鎮忠室)
o 女(久我三休室)
o 親家
o 女(臼杵統尚室)
o 女(小早川秀包室)
o 親盛
近藤氏って鎌倉幕府の中でどういうポジションだったの?
全盛期は北九州の殆どを支配し島津・龍造寺と互角に渡り合う猛将だったのに・・・晩年のへタレぶりは一体何なんだ?
>>51 土佐一条氏とは仲がいいね
というか大友名物中央名門指向か?
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 05:26:44 ID:IA42Wziq
優しくなったんじゃね?
『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいばかりに女たちを南蛮船に運び、
獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫び、わめくさま地獄のごとし。』
ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、
ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、
交換に日本女性を奴隷船に連れ込んで海外で売りさばいたボスの中のボスであった。
キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、
ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、
キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。
『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。
肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、
奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。
鉄の枷をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、
もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。
ポルトガル人の協会や師父が硝石(火薬の材料)と交換し、
インドやアフリカまで売っている。』
日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、
キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。
しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、
火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。
キリシタン大名たちに神社・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。
数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、
数十万人の日本娘が世界中に売られた事実を、
今こそ、日本のキリスト教徒たちは考え、語り継がれよ。
その勇気があればの話だが。
鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」(p249-257)
徳富蘇峰『近世日本国民史』初版(秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録)
竜造寺のスレで宗麟はこんなのに!
_ ,,, . .,,, _
,.、;',,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,.`丶.
/,;;;;;;;;;;;;;:、- ‐ ' ''= 、;;,.ヽ
. ,',;;;;;;;;;;;i'" ヽ;,.'、
{,;;;;;;;;;;;;{ _,,;;;;,、 ,,;,、;,.',
_l,;;;;;;;;;厂 〃 .__、` ,r' ゙゙`'};;,.j
. { トヽ;;;;;! '´ ̄ ` { '=ッ{;< ! . , , .
. ヽ.ゞさ;;} ,.r'_ ,..)、 !;,.! ヽ、_,人_,ノ、_,从,人.ィj、ノv1
ヽニY ,.r' _`;^´! ,';/ )
ヾ:、 ヾ= 三;〉 /'′ ‐=、´ どうも!! 豊後の大友宗麟っす!!
ノ,;:::\ ` ー" , ' ) 趣味は人妻漁りっす!! みんな夜露死苦!!
,.、-',;;;{ ヾ:ヽ、 __ ,∠、 )
',,;;;{ {;;;;;;ヽ }::〈;;;;;;;;l iヽ、 , '⌒r‐v'ヽィ'⌒Yソ、ト、!yヘ!
,;;;;;ヽ、ヽ;;;;\ ,r'::::ノ;;;;;;j j;;;;,.`ヽ、
ちなみにほかの家臣たちも…
《
┃,.´ / 雷ヽヽ
┃! i iノノリ)) 〉
┃i l l.´ヮ`ノリ
ワショーイ ⊂ く/_只ヽ
/■\ ̄/■\道雪┐/■\
( ´∀`) ( ´∀`) ( ´∀`) ワショーイ
⊂ ._つ⊂ ._つ ̄ ̄⊂ ._つ
人 Y 人 Y Y 人 Y
し'(_) し'(_)'(_) し'(_)
/ ̄ ̄ ヽ,
/ ',
{0} /¨`ヽ {0}', 親貞…
l///トェェェイ/// ',
ノ `ー'′ ',
,',ノ 斗ャ fて`Y トミヽ
/ {トミトv|'´ゝ } ノノ:l }:
:/イ { ゝィVr-ヘト、 ! ハ
. | !|Y⌒'ミ{ヾ=' | /イ|
ヽ人 |! /\ :
`'┬' トー'´ ヽ :
:,/{、 || ,.|='´ } :
. ’ ’、 ′ / ̄ ̄ ヽ,
、′・. ’ ; ’、 ’、′‘ / ̄"ヽ / ',
’、′・ ’、.・”; b ,-、 d ./" ̄"ヽ {0} /¨`ヽ {0}
’、′ ’、(;;ノ;; (′‘・. ” r-=、 |. `=' |_ .bi ,-、 id | ヽ._.ノ |
’、′・ ( (´;^`⌒) ” ; ’、′・ `゙ゝヽ、| ノ `ヽ、 / `=' ノ゙`ー | `ー' / ̄ ̄ ヽ,
、 ’、 ’・ 、´⌒,;y'⌒((´;;;;;ノ、" ヽ ,、 にー `ヾヽ'" .ィ"^゙i _,,ノ , | / ',
、(⌒ ;;;:;´'从 ;' ;:;;) ; :) )、 ヽ ,.、 `~iヽ、. `~`''"´ ゙t (,, ̄, frノ ゝ-‐ {0} /¨`ヽ {0},
( ´;`ヾ,;⌒)´ 从⌒ ;) `⌒ )⌒:ゝヽ、__l ヽ`iー- '''"´゙i, ヽ ヽ,/ / l ヽ._.ノ ',
′‘: ;゜+°、::.:::::..、⌒) ;;:::)::.ノ W..,,」 .,->ヽi''"´::::ノ-ゝ ヽ、_ノー‐テ-/ i | `ー'′ ',
`:::、 ...;:;_) ´...:ノ ソ  ̄r==ミ__ィ'{-‐ニ二...,-ゝ、'″ /,/`ヽl : : ヽ )'^`''ー-
lミ、 / f´ r''/'´ミ)ゝ^),ノ>''" ,:イ`i / \ /
! ヾ .il l l;;;ト、つノ,ノ / /:ト-"ノ \ /
. l ハ. l l;;;;i _,,.:イ / / ,レ''" ヽ_,,ノ
人 ヾニ゙i ヽ.l yt,;ヽ ゙v'′ ,:ィ" / r-'"´`i
r'"::::ゝ、_ノ ゙i_,/ l ヽ ゙':く´ _,,.〃_ f´' ll
` ̄´ / l ヽ ヾ"/ `゙''ーハ. l
大友一族…
:::::::::: . 从:::::: ,,ヽヽヽ、 ヽ、 ( ) ノ ノ''/^| ヾ <
::::::::::彡 /:::::::::::: ''、\((n\ ), )/ ( /、n))/ ミ;;,, ミ
::::::::彡 ..::и/:::::::::::....::::::::::::::...ミ三\'''' ':;;ノ;;;;ゞ `´//彡⌒ ヾ ミ
:::::::/イ::::::::^从:::::::::::/⌒ヽ:::::::_ ̄\ ヾヽ,,(//ン;;;;、 ミ 、从
::::::::7;:::::::::::::::::'''w::::::::::::(⌒::::::::::::: ̄> V ' //,-ー;; '´):. 从 ヽ ,|
:::::::7::::::::::::::::::::::::::'''z::::::::::::::,i,::::::::::⌒ \ / -^ lll.:::从 | |
::::彡::::::::::::::::::::::::::::::''''z;;;;;;、:'lii::::::::: , )::、( ,..、 lll::w^::| N |
:::从::::::::::::::::::::/::::::::::::::::::::''\:|::::;:::::::... '';;--------;;、 〈/::::::::::ミ ミ ,|
:::|:|:::::::::::::::::::::|/::::::::::::::::::::/:::〈:|:::;:::::::::::(llll;;;:::::;i:::::::;;,,/ ; |:::::::::::::ミ '| |
::从:/::::::::::::::/::::::::::::::::::::':i:i:::::\::::::::::::::`''';;llllll|llllll;;'' '/::::::::::::ミ '|| ヽ
::::从:::::::::::::::::从/::::::::::::::::::':':l::;;;;;\;;:::::::::::::::::;;;;;;;;;, _/:::|:::::::::ト .∧、∧、∧、∧、∧、
::::::从::::::::::::::::::И/|::::::::::::::::::::::;;;;;l;;||lll|--,'''''''''、 '''''''''-'''|::::i|l::::::::从 . : :┌´
::::/::::/::::::::::::::::::://::i::::::::::::::::::::;;;;;;|,,||ll|. λ || λ |lノ'| |/:i从:::::::从...::::<
::(:::イ::|::::::::::::::::::i:/从:::::::::::::::::::;;;;;;;;;l||l|λ^',::V;;|/::;λ/|ノ'':::::::::::从::::::::<
:::::::::::从::::::::::::::从:|l:|N:::::;:::;;:;:;;;;;;;;;;;;;|lll||.ヾ;;::::::|:::::;;ノ ||l|:::::::::::::::|:|:::::::::::< 紹運…
:::::::、wv\|ヽ:::::::|;;;|;;从;i;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|ll|> | V^V^l/ト'//:::::::::::|::从::::::::/|:ム
~~''''::;;|;;;;从从|;;;;;;;;;;;;;;;;ヾミミ^-^-^ 彡'/::::::i:::/|/::::::::从::::::::∨^ ∨^ ∨^ ∨^ ∨^
∩_ヽノ_∩
/ ノ ヽ
| ● ● |
| __( _●_)_ミ クマー
| /ハ/ \ハ
| | リノ `ヽ}_}| ぎん千代…
| |从 ● ●l |
l l⊂⊃ 、_,、_, ⊂i|
/⌒ヽ丶 ノ__/⌒)
ヽ \ 、 __, < /
ヽ /
/ /
∩___∩
| ノ ヽ
/ ● ● | クマー! ついに大友スレできたのかクマ
| ( _●_) ミ 宗麟くん、おめでとうクマ
彡、 |∪| 、`\
/ __ ヽノ /´> )
(___) / (_/
| /
| /\ \
| / ) )
∪ ( \
\_)
_ ,,, . .,,, _
,.、;',,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,.`丶.
/,;;;;;;;;;;;;;:、- ‐ ' ''= 、;;,.ヽ
. ,',;;;;;;;;;;;i'" ヽ;,.'、
{,;;;;;;;;;;;;{ _,,;;;;,、 ,,;,、;,.',
_l,;;;;;;;;;厂 〃 .__、` ,r' ゙゙`'};;,.j
. { トヽ;;;;;! '´ ̄ ` { '=ッ{;< ! . , , .
. ヽ.ゞさ;;} ,.r'_ ,..)、 !;,.! ヽ、_,人_,ノ、_,从,人.ィj、ノv1
ヽニY ,.r' _`;^´! ,';/ )
ヾ:、 ヾ= 三;〉 /'′ ‐=、´ 誰か俺がいただいた人妻の一覧よろしく!
ノ,;:::\ ` ー" , ' )
,.、-',;;;{ ヾ:ヽ、 __ ,∠、 )
',,;;;{ {;;;;;;ヽ }::〈;;;;;;;;l iヽ、 , '⌒r‐v'ヽィ'⌒Yソ、ト、!yヘ!
,;;;;;ヽ、ヽ;;;;\ ,r'::::ノ;;;;;;j j;;;;,.`ヽ、
雷神を斬った立花道雪
風を起こし、脇差を召喚できたという角隈石宗
先祖が蛇な佐伯一族
まったくファンタジーな連中だぜ
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 04:38:50 ID:MoT0PC7C
宗麟が家督とって直ぐの肥後菊池攻めでは、
菊池だけでなく、肥後・筑後の反大友勢力の一掃まではできなかったの?
肥後をギタギタにして、鑑理か道雪に7万〜10万石を与えておけば
良かったのになぁと思う。
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 04:42:01 ID:MoT0PC7C
筑前・豊前も、原田・秋月・筑紫・麻生・宗像なんぞを
最初に一気にギタギタにできなかったの?
おもいっきり弱そうなんだけどなぁ
攻め滅ぼしても後の統治に支障出る
秋月・筑紫は1557年にギタギタにされてますね♪
秋月文種は自決(諸説アリ)嫡子晴種は戦死♪
残った3児と筑紫親子は毛利の下へ落ち延びてます〜♪
>>68 北条や上杉も神保や里見程度にてこずっているからな。
ゲームみたいに大規模な掃討戦はできないし。
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 22:00:30 ID:Q/MpmnDZ
白百合は散ったみたいな形式のサイトがあったの知ってる人いる?
あれまだあるのかな?
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 00:25:03 ID:Mdsj1JJh
志賀親次と佐伯惟定って大友家潰れた後、どうなったの
志賀親次は浪人の主君義統に従い、関が原の際に西軍方として挙兵。
黒田に敗北し戦死。
75 :
バロン曽志崎:2006/07/25(火) 02:00:26 ID:e5XLCDDC
最終的には、志賀は細川家の家臣、佐伯は藤堂家の家臣。
>>74 それは吉弘統幸な。
最初は善戦してたが、旧知の井上九郎右衛門との一騎討ちの末戦死
親次は日田1郡の領主→福島正則→小早川秀秋→細川忠興と流転
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 11:31:46 ID:Y6Wj1euQ
>>74-76 サンクス
細川家と藤堂家とはまた大会社に転職しましたね。
志賀家の系図みてみたら親次の娘が佐伯惟定の息子の嫁なんだ。
知らなかった。
ちょっと記憶が曖昧なのだが
志賀親次に与えられていた日田は
切支丹がらみで没収されたんだったっけ?
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 14:10:02 ID:mH4fhvS0
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/27(木) 01:23:05 ID:hxF6WyAj
宗麟が家督を継ぐ契機となった二階崩れの変からでもわかるように、
決して磐石の家中ではなかった。
家督相続後も家中が急に一枚板にまとまるわけでもなく、
依然として服していない家臣は多く、宗麟を暗殺する計画だってあったくらいだ。
そんな万全とはいえない状況でのスタートだった。
50年に宗麟が家督を継いだ翌年に大内で陶晴賢の謀叛が起こる。
晴賢の要請で実弟晴英を大内の養子に出して大内家の家督を継がせてる。
俺が一番宗麟を評価している点は何をおいても外交能力。
九州は大分という、現在でも僻地に本拠を置きながらも、
相続した豊後、筑後の守護職のみならず、
大内の支配下にあった豊前、筑前を攻める時には豊前、筑前の守護職を、
龍造寺と敵対する時には肥前の守護職をと、
攻める先々、欲する土地の守護職を獲得していき、
結局59年には九州北部六カ国の守護職に加えて九州探題まで運動して獲得している。
信長みたいな革命者を知っている我々にはこうした旧体制を利用した統治、
国人掌握は古い手に映るだろうが、九州のような土地柄には権威で持って当たるのは正解だと思う。
その割に宣教師を招き、布教を許し、自らもキリシタンに帰依し、インドに家臣を派遣したり、
ポルトガル国王に親書を送ったり、日本発の西洋式病院を作ったりもしてる。
もちろんキリスト教への入信は、南蛮貿易のためであり、
鉄砲や大筒を手に入れて、将軍に鉄砲を献上したりもしている。
宗麟は間違いなく外交や諜報の能力に秀でていたはずなのだが、
反面、自身は粗暴で他人を省みず、利用するはずだったキリシタン信仰に傾倒し、
神社仏閣を破壊して、人臣の心が離れるがままにしているし、
家臣を見る目もなく、賢臣の上申には耳をかさず、能力の無い者に大兵を率いさせている。
円熟期にあった毛利元就を、尼子と結び、旧大内の勢力を利用して、北九州から一掃したり、
島津に敗色濃厚となると、自ら大阪城で秀吉に謁見して支援を取り付けてくるなど、
外交面ではやはり見るべきところがあるだけに惜しい。
秀吉の九州征伐後、豊後と日向を与えられたのに、日向を辞退しているところから見ても、
76年に家督を譲ってからは政治的野心を失ってしまったと見るべきか。
嫡子の義統に才覚が無かったことが宗麟の後半生にも悪名を着せていると思う。
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/27(木) 04:05:12 ID:m7DeS389
>>78 天領っていわれてるけどキリシタンで没収されたんだ。
勉強になったよ
佐伯惟定は祖母神大明神の末裔というだけあってか
神道に傾倒してたぽいな。
わざわざ加賀から佐伯までキクリヒメの像を取り寄せたり
してたらしい。
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/27(木) 21:26:17 ID:GWLvOOnA
513 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:02/04/14(日) 00:12
今山合戦で龍造寺が勝利したというのは、ある程度事実ですが
大友が大敗したとか宗麟が逃げ帰ったとか言うのは捏造です。
佐賀藩以外の史料で検証してみましょう。
八月十三日付けで、今山合戦直前に肥前国人の横岳鎮貞・江上武種に知行充行状が発行されてる。
宛がわれたのは肥前の龍造寺氏の所領か勢力圏で、その後、今山合戦の後の十一月八日付けで
与える坪付が充行状通りに両名に発給されてる。
他に充行状は残ってないが、神代長良に、佐賀・小城両郡内で二千町を超える恩賞が与えられてる。
「九州治乱記」にも引用されてる書状に、八月二十日付で大友宗麟から田尻鑑種宛に
今山敗戦に接し、自ら肥前国境を流れる筑後川を越え、対岸の肥前千栗まで兵を進めると書いてある。
すなわち、今山合戦後も大友の本隊は依然として高良山に駐留しており、健在だった。
その後、十月二十三日付けで、大友宗麟から龍造寺隆信・鎮賢父子宛てに起請文が出てるが
それには隆信が大友の年寄へ起請文が提出して降伏の意を伝えてきたので、それを受け入れると書いてある。
その五日後、宗麟は隆信を赦免して、十一月まで戦後処理を行なって帰陣してる。
その後、元亀三年に隆信と筑紫広門・横岳鎮貞との間に所領紛争が起きるが、大友が三者間の調停に乗り出し
それが不備に終ると大友は「逆臣顕然」という理由で、隆信討伐の軍勢を、勢力圏内の諸勢力へ催促してる。
結局、隆信は天正五年に周辺勢力を仲介して、大友の裁定に従ってる。
また、天正六年には大友から龍造寺に対して、日向方面への出陣命令が出てる。
以上の事から、今山合戦で龍造寺は勝利したものの、局地戦での勝利に過ぎず
今山合戦を含む元亀元年の戦いは大友が勝利して、今までの通説であった
「今山合戦後に肥前から大友の勢力を駆逐した」というのは間違いであり
その後も大友氏は肥前に多大な影響力を及ぼしてる。
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 03:38:16 ID:rbeCS7Fe
>>71 おそらく実際はゲームほど戦力差がなかったんだろうね
大友って聞くとどうしても家臣の方に目がいってしまうな
武田家に匹敵する家臣団って言われてるけど、キャラの濃さなら
勝ってる気がする。
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 21:04:52 ID:oV+E51JT
「家臣の謀反史」という本を出すと、
大友家が一番充実した内容になる気がする。
>>89 『戦国大名 家臣の謀反史事典』
戦国時代の日本、下克上により、家臣が反旗を翻した例はいとまがありません。
この本では、それらの複雑な事情を歴史研究専門家でない人にもわかりやすく、
また、歴史研究を志す人にも広い視野で実態をつかめるように人物関係など
工夫を凝らした編集がされています。
上巻:東日本編(南部、伊達、武田など東海以東) 全500ページ
中巻:西日本編(織田、大内など近畿以西 但し大友除く) 全450ページ
下巻:大友編 全400ページ
出版社 民明書房
一瞬amazonを開こうとした自分が恥ずかしい。
あら、奇矯屋onぷらっとさんお久しぶり。
大友領内での家臣の謀反は、バラエティーに富んでいるね。
立花鑑載、兄絡みの高橋鑑種、田北、田原、秋月、謀反のデパートだね。
立花鑑載・高橋鑑種・田北紹鉄
規模でいうならこの三人かな。田原親貫は一等劣るイメージ。
田原は親子二代で謀反の姿勢を出していたのが、しつこさを感じる。
また、親賢より大きな本家で、大友家に強い影響力を持っていたしね。
奈多氏?
無名に近い弱小武士の古荘郷司近藤能成の子が大友能直。
母親が源頼朝の妾だったので抜擢され、頼朝の稚児に。
それが無名に近い大友氏のその後の興隆の所以?
緒方三郎が失脚して、たなぼたで豊後の守護になったのが
きっかけじゃないかな
無名って言われるけど近藤氏って藤原秀郷・利仁両巨頭の血を継ぐ一族だよな
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/06(日) 19:26:29 ID:GQhiWH7c
田原紹忍
宗像鎮続
吉弘喜兵衛
は最後まで大友家と共にしたんじゃなかったっけ?
秀吉は大友家改易後。田原紹忍に3000石・宗像鎮続には2000石を与え、
岡城の中川秀成に身柄を預けたんだけど、吉統の挙兵に応じて中川家の
旗を持ち出して参加。鎮続は石垣原で戦死。紹忍は中原家から旗を持ち出した
ことを咎められ前線に送られて戦死。
吉弘喜兵衛は従兄弟の立花宗茂に2000石で仕えていたんだけど家康の下に
いた大友義乗のところに行く途中で吉統の挙兵を知り見過ごせずに参加、東軍
につくように進言するんだけど、聞き入れられず石垣原で旧知の井上九郎衛門
との一騎打ちの末戦死。
>>98 まあ系譜上ではな。
しかし、鎌倉時代なら、武家なら大抵はそういう系譜を持っている。
だからそれは当たり前のことで、当時、問題なのは、何代も前の先祖ではなく、
親や祖父、曾祖父くらい。
例えば藤原氏でも貴種筋の出の藤原純友が海賊になたのは、幼少の時に父親や祖父が死に、
いわば後見人がいなくなり出世の術がなくなり、地方官にしかなれなかったことがある。
鎌倉時代の名だたる武家に比べれば大友能直の出の近藤氏は家格の低さや無名性は否定のしようがない。
逆にいえば、だからこそ頼朝にとってはうってつけだったのであり、能直の母親が妾でもあったことから、
自分の意志の代行者として抜擢したのだろう。
大友に限らず、頼朝が九州に送り込んだ、島津や少弐も似たようなもの。
島津も惟宗氏というがはっきりしないし、おまけに大友と同じく頼朝の落胤というホラ話しを持っている。
少弐は武藤頼平は藤原秀郷の子孫というが、少弐を興隆させた養子の資頼は先祖不詳。
つまり、大友、島津、少弐はいずれも鎌倉では弱小の武家であり、頼朝にとっては彼らこそが、
自分の意志の担い手として好都合だった。
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 09:04:05 ID:wt5fwiJP
>>101 憶測で言うなw
古庄(近藤)能成の妻は波多野氏から迎えている。
同じく中原氏も同様に波多野氏から嫁を迎えている。
家格が低いならどうして波多野氏と血縁を結べようか?
大友氏が源氏を名乗ったのは江戸時代に入ってから。
実際、足利尊氏の猶子になっているし、源氏でもある。
それ以前までは、堂々と藤原である。
大友氏が藤原秀郷系であることは明白である。
一族一門衆に、同系が多い事も補強証拠であるし、
関東に残った笠原氏など、明白に秀郷流。
103 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 09:13:49 ID:wt5fwiJP
>>101 >>大友は弱小の武家であり
大友能直は政所の次席である。
大江広元の兄(従兄説あり)の中原親能の猶子でもあり、
決して弱小とはいえない。
そもそも、頼朝知行国7カ国の内、2カ国の守護に任じられている。
しかし、それらは近藤能直の母親が頼朝の妾だったことによる抜擢の結果。
能直の父親の近藤能成やその父(つまり能直の祖父)の事跡は何?
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 21:10:12 ID:wt5fwiJP
頼朝の妻だとの根拠は?
近藤能直の母親は波多野氏からきてますけど。。
>105
頼朝の「妻」じゃなくて「妾」。
出が波多野氏だろうが関係ないのではないか。
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/13(日) 14:23:58 ID:zgozInLR
その根拠は?
波多野氏は頼朝挙兵に参加せずに対立していたけど、
頼朝の側室になったとは、事ないぞ。
よかったら根拠教えてくれ。
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/13(日) 14:29:39 ID:zgozInLR
大友(古庄)能直の母が頼朝の側室ということは、
能直は、頼朝の義理の息子ということだよ。
それを大友氏が政治的に利用しないとは考えられない。
大友氏が源氏名乗ったのは、江戸時代に入ってから。
足利尊氏の猶子になっても、桐紋を許されても
源を名乗らなかったのに。おかしくない?
喧嘩売るつもりはないから、よろしく。
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 00:50:37 ID:L2ArRduY
>大友氏は源姓を用いているが、これを頼朝の落胤であるからとしているが、大友氏のうちで源姓を初めて用いた
>のは南北朝時代初期の氏泰からである。建武三年(1336)、足利尊氏は後醍醐天皇に背いて、九州に逃れた。
>このとき氏泰は忠節を尽くし、尊氏から兄弟を猶子の関係として認めるという御教書を受けている。氏泰の「氏」は>尊氏から偏諱を賜ったもので、弟の氏時もまた同じである。これから以後、大友氏は源姓を名乗っている。すな
>わち、頼朝との血縁関係からではないことが知られる。
ここで一発打消しやん。
>>110 『大友興亡記』や『大友記』『豊後国志』などに、能直の母親が頼朝の妾と書いてあるらしい。
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 02:40:09 ID:R2Rmvwiq
頼朝の落胤を主張せずとも
源氏を名乗れるのが、大友氏。
尊氏の猶子だからね。
しかし、大友は江戸に入るまでは、使い分けていたけれど、
正式な名乗りは藤原である。
そもそも、大友は源氏であることにこだわっていなく、
政治的に利用しているだけ。実際に源氏である資格はあるけれどね。
義鑑時代の家臣編成図において、大友は一族の氏を藤原としていることから
も、大友氏が氏を藤原氏としていたのは確か。
ただし、足利に対しては源氏を名乗ってた。
たんに、源氏を許されただけではなく、猶子になっているからね。
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 02:52:04 ID:R2Rmvwiq
そもそも、大友能直公が頼朝の落胤でないことは既に周知の事実。
ただ、そう噂されても不思議ではないほど源氏と所縁は深いし、
実際に源氏を名乗れる資格があるという事。
偽源氏の徳川が、源氏を有り難がるものだから、
名門故に高家になった(源氏だからなった訳ではない)
大友氏が、其の資格を利用して源氏を名乗っただけ。
そこいらの家が、偽の源氏を名乗ったのと違うの。
実際其の資格はあるし、そもそも堂々の藤原で、一貫してそれを
名乗っていた。一族の墓をみてみて。藤原ってなってるぞ。
大友が藤原氏か源氏かはどうでもいい。
能直の母親が頼朝の妾だったため能直が頼朝の寵愛を受け、
弱小武家の近藤氏の出の能直が、その後の九州三大名の一つの大友氏の祖になれたということ。
当時の大名家にとって、姓がどうでもいいことはなかろ。
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 06:01:03 ID:w+DkWrWY
>>115 http://www2.harimaya.com/otomo/html/ot_roots.html よく読んでみな。
この見解によると、能直公は頼朝の実子なの。
頼朝の落胤とするために、側室としているの。
妾だから出世したという見解ではないよ。
比較の問題もあるけど、古庄(近藤)家は決して弱小ではないよ。
波多野氏や中原親能や大江広元と親類だよ。
砕けて書けば、波多野氏は数千の兵力がある大豪族だよ。
頼朝はどうしても波多野氏の協力を望んでいた。
古庄氏の猶子関係の武藤氏の出世を考えても、単にお気に入りだけでは
ないと思われる。
118 :
115じゃないけど:2006/08/16(水) 10:59:42 ID:b74QXulp
119 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 20:49:40 ID:i8sy0qjl
もーう、読解力ないなぁ・・
あのね、大友能直公の母が頼朝の妾という見解に基づけば、能直公は頼朝
の落胤だと言ってるにすぎないの。別の言い方をすれば、妾説に立ちなが
ら、能直公は頼朝の落胤であることを否定する結論、及び妾であった故に
卿が落胤でないにもかかわらず出世したという結論は、論理的に導かれな
いという事。
これを言いたかっただけ。
120 :
続き:2006/08/16(水) 21:01:02 ID:i8sy0qjl
121 :
続き:2006/08/16(水) 21:03:31 ID:i8sy0qjl
122 :
続き:2006/08/16(水) 21:06:38 ID:i8sy0qjl
能直の母親が頼朝の妾だったとしても、能直が頼朝の子だとはいえない。
能直は、古荘の郷司の近藤能成の子で、能成の妻が頼朝の妾になっただけだろう。
>>117 「波多野氏や中原親能や大江広元と親類だよ」。
母方の波多野氏はともかく、中原氏や大江氏は血縁関係はない。
現在でいえば婚族的親戚にすぎず、婚族的親戚は挙げていけばきりがないよ。
それよりもなぜ、能直が中原親能の猶子になったりしたのかということ。
能直に能力があり、中原親能が気に入ったのかもしれないが、
それだけでは、わざわざ猶子にはならないだろう。
やはり古庄の郷司という近藤氏の家格の低さや弱小性に関連があったのではないか。
だから幕府の要職にあった中原親能の猶子になり、出自の家格を上げたのだと思われる。
もちろん、そればかりではないだろうが。
125 :
念のため:2006/08/17(木) 16:20:31 ID:cWDaXXdQ
近藤氏の家格の低さと書いたが、それはあくまでも鎌倉の御家人の中での
相対的な低さにすぎず、絶対的なものではないということ。
126 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 18:19:43 ID:wsg/nGNp
>>124 中原親能の妻と古庄能成の妻は姉妹。
子の能直の代まで待つことなく、能の字でもつながっている。
実際に、能直は親能の多数のの所領を相続してもいる。(猶子の関係
を超えている)
能直が中原親能の子との説があるほど。
「婚族的親戚にすぎず」とは言い切れない関係があると考えるのが
自然だと思うよ。
127 :
こだわってすまん:2006/08/17(木) 18:26:01 ID:wsg/nGNp
>>125 家格の面でも武藤氏(少弐氏)は古庄家の猶子になっているのは、
古庄家の家格の相対的高さを担保するものと考えられる。
>>123 そもそも妾説は、能直が頼朝の落胤とするために後世に創られたもの
で、落胤を否定するなら、妾関係も成立しないのが論理的でしょう。
なぜ烏帽子親だと考えないのだろう・・・
129 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 00:00:35 ID:D+McvJgN
そんな憶測で言うのなら・・・
中原能直も古庄能直の単に烏帽子親となぜ考えないのだろう・・
130 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 01:29:08 ID:5DHkaL+F
647 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2006/07/28(金) 01:06:43 ID:OGoZwm9L
アリの巣コロリってあるじゃん。
蟻の行列にポンと置くと、一瞬ビックリして列が乱れる。
邪魔だなと言わんばかりに迂回する列が出来る。
そのうち好奇心旺盛な一匹がアリの巣コロリに入る。
そいつをマネして何匹も入る。
毒とも知らずにツブツブを運び出す。一匹が一粒づつ。
いつのまにか行列はアリの巣コロリが折り返し地点になる。
黄色い粒と黒い蟻が作り出す模様は綺麗で見てて楽しい。
一匹が一粒づつ、丁寧にせっせと毒の粒を運ぶ。
せっせと、せっせと、せっせと、せっせと。
蟻さんって働き者だなと思う。俺も頑張らなきゃなと思う。
次の日、あれほど沢山いて俺を困らせた蟻が一匹もいない。
ほんとにいない。探してもいない。泣きたくなった。
このレスを見た人は4日後にあなたの大切な人がいなくなるでしょう・・・・
それが嫌ならこのレスを5つの板にコピペしてください。
信じるか信じないかはあなた次第です。
131 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 23:15:23 ID:eRL+udP+
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 14:12:51 ID:kjuyS6JO
宗麟のキリスト教は、貿易が目的でそれ程熱心ではなかった。
という俺の認識は間違い?
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 15:43:28 ID:jEQJyaxI
宗麟がザビエルとあったのは天文二十年(1551)
年齢的に天文四年(1535)建立の、京都の瑞峯院の開基はできなくても(六歳だ)
出家したのが永禄五年(1563)
永禄六年(1563)頃には臼杵に寿林寺を建立(元亀二年(1571)かも)
一連の行動は、禅宗に帰依していたことを意味するわけで、
仮にキリスト教に魅力を感じていたとしても、この時期は両方なわけで
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 06:53:52 ID:BdYUTRK7
少弐氏は古庄氏の猶子なのか。
名門だな。
>134
???
明日は誰が草伏す屍照らすらん石垣原の今日の月影
と歌って散っていった吉弘統幸の命日が近いな(旧暦だけど)
137 :
名無しさん:2006/09/08(金) 19:04:44 ID:AJI5Q4ML
大友康平は、大友宗麟から数えて何代目になるの?
そういえば幕末の蘭学者の緒方洪庵は佐伯惟教の子孫らしいな。
佐伯家の本姓は大神氏、日向国の大神惟基にはじまり、豊後国に住んだ
緒方三郎惟栄を中興祖、惟栄四世惟康が大友氏に仕えて豊後佐伯に住んだ
ことから佐伯を名乗りました。
代々大友氏の臣でしたが、文禄元年に大友氏が改易されたので、当主惟定は
藤堂高虎に仕え、その末弟の惟寛は備中国足守に移住帰農しました。
惟寛の孫である惟隆は寛永年中木下候に仕え、足守藩士になり、その子孫で
ある佐伯惟因は一女三男をもうけ、娘は吉備津祠官堀家徳政に嫁ぎ、長男は
幼くして死亡、二男惟正が家を嗣ぎました。末男章は緒方洪庵と号します。
尚、惟正の長男惟成は大神太郎と称して大坂に住んだそうです。
http://www.kct.ne.jp/~kshimizu/saek.htm
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 01:10:50 ID:Yw5JK3zW
いんや、佐伯氏が緒方惟栄の子孫というのは詐称らしい。
実際には惟栄の叔父の子孫とのこと。
惟教の庶子・惟照(伊予白木城主)の子孫に「護法の神」と称えられた
児島惟謙がいる。
佐伯氏とかの大神一族が名前に惟の字をつけるのを慣習とするのは
「惟神(カンナガラ):神のあるがまま」という意味を籠めてるんだろうか?
143 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/12(火) 12:23:22 ID:oIF+M+97
名門大友一族に幸あれ!
豊後三老とその一族は
武略の吉弘家
政略の臼杵家
知略の吉岡家
ってイメージになるな。
洗礼名はザビエルにちなんでドン・フランシスコだっけ
歴史資料に門司城合戦での和議の時(1564年)に毛利秀包と大友マセンシアが
婚約したってあるんだけど、両方ともまだ生まれてもいないよなw
他に大友から毛利に嫁いだ人っていたっけ?
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 19:46:53 ID:7cmtmpou
義統が城を落ち延びる際に側室の心配ばかりするので、救い出しに行ったはいいが
そのあと女の心配ばかりして戦っている家臣を省みないので、怒って出奔した側近いるよな。
あれは誰だっけ?
>>147 確か臼杵形部っていう義統の側近だった人。その後毛利家に仕えたそうな。
しかし、義統の正室は戸次川で助けてくれてそのまま護衛についてくれてる
吉弘統幸の叔母なのになあ、なんとも大将たる重みの無い男よ。
宗麟の数代前とかも面白い。
島津・大友・竜造寺を第二次とした場合、
そちらは大内・大友・少弐の「第一次」九州三国志。
政親・義右のあたりが特にドロドロしていて興味深い
勢場ケ原の戦いで吉弘氏直が討ち死
耳川の戦いで吉弘鎮信が討ち死
岩屋城戦で高橋紹運が玉砕
石垣原の戦いで吉弘統幸が討ち死
氏直の父である吉弘親信も大内との抗争で討ち死したらしいし
凄い討ち死率だよなこの一族は
それだけ大友家臣団の中では随一の忠臣
つか、それを良いことに激戦地に投入される確率が高いというか
石垣原の場合は自ら志願したのでちょっと事情が違うけど
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/25(月) 18:50:34 ID:gDj7i0H0
石垣原はなあ、わざわざ従兄弟の宗茂のとこを出て徳川家にいた大友義乗
のとこに行こうとしてたら、吉統に出会っちゃって再起を図ろうとしてたから、
正室の子の義乗が徳川家にいるから東軍につくように言ったら、側室とその
子供が毛利に人質に取られてるから西軍につくって言われてアチャーと思い
つつも仕方なく参加して、思いっきり死ぬ気(辞世の句が明らかに死ぬ気)で
戦ってたからなあ。
いや、吉統なんかほっといて義乗のとこに行っとけよって感じなんだが
こういう生き方しか出来なかったんだろうなあ。。
>側室とその子供が毛利に人質に取られてるから
少納言の局はこの時には後水尾天皇の乳母で京都勤務じゃなかったの?
154 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 09:58:37 ID:+LrMf1Cs
>>148 ライブドアの宮内がホリエモンが女の心配ばかりして、社員を省みないんで庇う気をなくしたって話を思い出した。
いつの時代でもこういう大将はだめだな。
山名豊国みたいなやつだね
156 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/02(月) 20:17:04 ID:0wdDFjJ8
あと吉統の情けないところは、府内から逃げた先の豊前の龍王城で
黒田如水に勧められてキリシタンの洗礼を受けるんだけど、秀吉の
キリシタン追放令で1年もせずにあっさり棄教し家臣たちにも棄教を
命ずるも、志賀親次らの反発を受けて、一計を講じて神道での誓詞
に大友家への忠誠を誓わせることで棄教の証としようとしたら拒否さ
れて逆にキリスト教の方式で忠誠を誓うことを許してしまうは、そのこ
とで秀吉に親次の非難をしたらかえって自分が叱責を受けたという。
そりゃもうなんらかの理由があれば改易させられるわなあ。
157 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 23:51:54 ID:pYuNdl3S
田原親虎、臼杵統景、吉弘統幸、志賀親次、立花統虎、
戸次統常、佐伯惟定、吉岡統増、田北統員、高橋統増
この連中が揃って育ってれば結構凄そうな軍団になり
そうだったんだけどなあ。
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 23:57:55 ID:LCMITFAh
今川氏真以下だな
159 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/10(火) 09:33:31 ID:VrrkksEu
志賀親次のせいで改易されたんでしょ?
160 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/10(火) 11:52:27 ID:LkQx9wWp
>>157 宗麟さえ狂って無ければ、九州くらいなら統御できたろうにな……惜しいわ……。
宗麟はやればできる子というイメージだな。
162 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/14(土) 23:33:02 ID:ZWh7xe7j
志賀親次の母親って奈多夫人の連れ子だっけ?
よくキリスト教の入信許されたな。
田原親虎みたいに妨害されなかったのかな?
吉統の正妻の菊子さんは、大阪で人質になってたところを
大友家の改易で放逐されて、供もなく子供達と豊後を彷徨い
歩き、それを聞いた甥っ子の立花宗茂に保護されるんだけど
結局すぐに亡くなってしまったんだよなあ。
164 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 22:49:12 ID:jTLdM9fx
すみません、質問なんですが、
「大友興亡記」「大友記」なんてのは、活字になっていますか?
そのほか、大友家や江戸期の筑後の立花家など、
大友サイドの、当時の目線での歴史書のようなものがあれば、
教えていただけませんでしょうか。
すでに今山の合戦にふれている人もありますが、
佐賀に関する他地域の記録に興味がありまして。
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 12:29:58 ID:YNLjiQLY
>164
大分県郷土史料集成ってのに入ってるよ
古い本なんでその辺の図書館には無いと思う。
軍勢にわざわざ寺社を打ち壊して教会立てさせてるから、宗麟のキリシタン狂いは真性だった気がする
もっともその割に個人的な戒律は全然守ってないがw
168 :
無名ノ介:2006/10/28(土) 23:52:27 ID:gaHlq1hD
>>157 ゲームでも、政治「も」できる武将が多い。中国以西では稀w
かなりバランスの取れた武将団というイメージがある
(重臣だけだろうけど)
特に臼杵家の連中は全員政治向きな感じだね。
臼杵鑑続・外交事務を管掌、大友晴英を大内義隆の養子にする。
臼杵鑑速・豊後3老、対外貿易の管掌者
臼杵紹柵・筑前志摩郡の統治、博多に房州掘りを築く
臼杵統景も文武に優れていたらしく、鑑速の死後14歳くらいから
政務に携わってたようだが、18歳で紹柵と一緒に戦死したのが惜しい。
170 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 21:47:35 ID:4nXmcWFR
佐伯家
佐伯惟治の乱の後一旦筑後へ移住するが後に許され豊後に帰る。
小原鑑元の乱の後伊予に避難するが、13年後に豊後に帰る。
大友家改易後、すぐに藤堂高虎に仕え明治まで残り、
足守に移住した別家では緒方洪庵を輩出する。
しぶとい一族だよなあ、流石蛇神の末裔w
171 :
164:2006/11/01(水) 21:32:14 ID:RTbOn5oT
地元だけど最近まで大友宗麟以外知らなかった
数年前、佐伯氏の居城だった栂牟礼城に登った。
一人で行くつもりだったのだが、何故か両親が付いて来た。
親父は途中、足を踏み外し沢に転落して行った(T_T)
やっぱ、中世山城を舐めたらいかん
臼杵長景が2万の軍勢で攻めて千余の佐伯惟治軍を落とせず、
騙まし討ちでやっと攻略した城だからねえ。
日本の100人の次号、宗麟だってよ。べっくらこいた…
マジっすか
戦国大名は優遇されてるんだな
177 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 19:36:40 ID:0q8TDEF+
松永久秀から骨喰吉光を取り返したのって誰だっけ?
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/14(火) 20:11:03 ID:TzYBE+v3
日本の100人が宗麟なんで買ってみた
府蘭獅子に吹いた。
不龍獅子虎で更に吹いた。
100人、評伝アラカルトおもろかった
大内晴英(義長)はこのスレの範疇?
181 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 19:18:45 ID:G5dLRTRd
100人のなかで、松永久秀と刀の話は初耳だったので面白かった。
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 09:25:30 ID:AhrZGroE
豊後の石高っていくらだっけ?
天正19年8月吉日付けの「 豊後国御検目録 」だと
大友吉統は23万6,020石余で秀吉に報告してるらしい。
しかし江戸時代だと
杵築藩 32,000石、日出藩 25,000石
森藩 12,000石、府内藩 21,000石
臼杵藩 50,000石、佐伯藩 20,000石
岡藩 70,000石、天領が 69,000石
で合計30万石位みたいなんだが、
これでもまだ少ない感じなんだよなあ。
なんかで豊後42万石ってのを聞いた気もするんだけど。
184 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/05(火) 02:13:12 ID:+4FHwpDz
/
室町初期の訳のわからん家督相続の仕方に萌
どんな相続の仕方?
長男貞順→弟に家督を奪われ謀反
次男貞載→立花家祖
三男宗匡→立花家二代
四男即宗→出家
五男氏泰→大友家七代
>>187-188 d楠
確かに変な相続だ
こういうもめ事は大概母親の身分がどーとかというのが原因であることが多いが
190 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/10(日) 00:08:32 ID:dqmebbAg
実際南北朝時代の大友家は混沌としてるなあ。
氏時の時代に筑後川の戦いで南朝側に負けて
南朝の勢力が強くなると、9代目氏継と、10代目
親世の兄弟が南北に割れて争うことになったりし
てるし。
兄弟相続て・・・なんか殷王朝を思い出す。
守護家の嫡庶と序列が完全崩壊した象徴が応仁の乱なんだそうで。
194 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/28(木) 13:19:32 ID:az/2SDVp
角隈石宗って軍師っていうより妖術師なんだな
つか当時は軍師様=祈祷師だからな
>角隈石宗
死を覚悟して耳川の戦いに行ったというのは、後世の作り話の気がする。
占い以前に島津が有利ということが分かっていたのなら別だが。
川田義朗と直接対峙してほしかったものだ。
>>196 島津が有利って言うか、大友の方が戦う前からガタガタだったからなあ。
大友宗麟の和歌
「富士うつる田子の浦わの里人は雪の中にも早苗とるなり」
後奈良天皇が「雪中早苗」という題を出され、それに奉答した和歌らしいが
宗麟は田子の浦まで行ったことがあるんだろうか?
>>199 もちろん宗麟は田子の浦に行ったこともないし
後奈良天皇存命中に直接会ったこともなかったのでわ
日向の伊東氏とは縁戚だよね。
遠縁じゃなかったかな
大友氏の娘が土佐一条氏に嫁いで生んだ娘が伊東氏の嫁
伊東氏が直接婚姻関係を結んでいるのは
阿蘇氏とか意外に島津氏(但し先代の本宗家)とか
大友氏の婚姻関係で意外なのは
宗麟の母親が未だに誰かはっきりしないと言うところ
卑しい親を持つなら継承じたいが無理なお土地柄だしね。
204 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/09(火) 02:12:20 ID:gg7MkNOj
大友家って高家になったらしいけど子孫今でもいるのかな
>>202 ・大内義興の娘説。
・公家坊城某の娘(伏見宮の娘)
これは、大内氏の文書の記述から。
なんでも最初に嫁いできた大内義興の娘の身持ちが悪くて、重臣たちが激怒して
夫人を山口に送り返そうという話になった。
そのことに気づいた侍女が山口に報告し、大内家から選りすぐりの美女二人が、送られてきた。
そのうちの一人にたちまち手がついて・・・というのが、いきさつらしい。
206 :
>>204:2007/01/20(土) 15:42:23 ID:hVJ4/PWU
大友宗麟ゎ私の御先祖様ですょ(・ω・)
207 :
あら:2007/01/20(土) 15:45:45 ID:hVJ4/PWU
書き込めなかった
吉弘統幸クラスの武将がもう一人いれば
石垣原には勝てそうだったんだがなあ。
ま、援軍で近くまで来てたらしい清正には
やられるだろうけど
209 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/28(日) 22:03:27 ID:XN5jO+Uq
1586〜1587年の薩摩軍との戦いで活躍した順番
1、志賀親次・・・島津義弘軍3万5千に僅か千余の兵で勝利を重ねた。
2、高橋紹運・・・岩屋城で玉砕戦を展開し時間を稼いだ。
3、立花統虎・・・↑を引き継ぎ援軍到着まで耐えた後反撃して失地回復する。
4、佐伯惟定・・・栂牟礼城を守り、豊後から撤退中の義弘家久を追撃し追い詰める等。
5、木付鎮直・・・杵築城を守りぬき島津軍の北上を止め、豊前に逃げた義統を助けた。
6、丹生島城の武将・・・宗麟を守り抜いた柴田礼能、吉岡甚吉、武宮武蔵等。
7、吉岡妙林・・・寡兵の鶴崎城で頑強に抵抗し、一度開城するが策略で取り戻した。
8、利光宗魚・・・鶴賀城主、家久軍の攻撃を3度防ぐが、流れ弾を受け戦死。
9、朝倉一玄・・・留守の火縄という策を用い島津軍を撃退する。
10、狭間鎮秀・・・島津と互角の戦いをするが、講和したため反逆者として討たれる。
11、吉弘統幸・・・戸次川に破れ島津軍に追われる大友義統を救出し、豊前まで逃す。
・・・私見だとこんな感じかな。
>>209 乙。結構粒ぞろいだなあ。
6の連中でもヘラクレスや甚橘は一本立ちで構わないと思うけど。
211 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/05(月) 00:04:41 ID:nMQljhqi
この当時の大友の城主は特殊な境遇で家督を継いだ人が多いしね。
佐伯惟定:耳川で祖父、父等が戦死し10歳で栂牟礼城主になり、
その翌年から島津に与する勢力の襲撃に抗し続けた。
吉弘統幸:耳川で父が戦死し、14歳で筧・屋山城主となり、16歳
の頃に田原親貫の討伐等で活躍した。
吉岡統増:耳川で父が戦死し10歳で鶴崎城主となる。母妙林に鍛えられた。
田北統員:統幸の弟、紹鉄の頼みで田北家に入り紹鉄の乱の後、
12歳で田北家を継ぐ
戸次統常:父鎮連が島津方に内通した疑いで粛清された後、鎧ケ嶽城の城
主となる。戸次川の戦いで戦死。
立花統虎:紹運の長男だったが道雪に乞われて14歳の時立花家の婿養子
となる。ただし7歳の頃に立花家を継いでいた妻から正式に家督
を譲られてはいないらしい。
志賀親次:18歳の頃猫尾城攻めに参加し、その後一度志賀家を継ぐが、
19歳の頃に勝手にキリスト教に入信したことから、家督を返上
する。翌年島津の侵攻に父が内応しようとしたことから、岡城の
指揮権を奪い、島津軍に徹底抗戦を行う。
概ね逆境で鍛えられた連中って感じなんだが、やっぱ志賀親次だけは異
端な感じがするなあ。
212 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/09(金) 02:47:03 ID:PBaW75q4
大友家が改易されなかったら、
西軍にとって結構な戦力になった
ような気もするんだがなあ。
秀吉にとっては所詮外様の大友を改易してそこに子飼いを封じる方が大事だったんだよ
当時は交通の要地だったし>豊後
214 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/09(金) 18:54:22 ID:m1P7r30E
>>212 在国していれば黒田にやられ、
在京なら長宗我部みたいな有様に終わったような。
立花家と行動を共にしてれば、伊勢方面で活躍してたかも・・・。
龍造寺もそうだけど二代目がぱっとしないよな
そのため暗愚扱いになってて弟の評価は兄より良い
216 :
人間七七四年:2007/02/22(木) 17:17:17 ID:s38pT0oT
217 :
人間七七四年:2007/02/25(日) 23:11:18 ID:Qzfk8lSp
>>183 肥後藩の飛び地があるからね。
あと、国東も天領があったと思うけど。
>>189 それは、長男や次男など成人した息子は、戦で手柄を立てて
新たな領地を獲得しようと考えていたからだと思う。
>>190 鎌倉末期から室町初期は、兄から弟へ、弟から兄の子へという
相続が、他にも結構見られるよ。
島津氏もそういう相続しているね。
その時代の一般的な相続方法だったのかも。
Q 江戸時代の大分の飛び地(他国領)に関する資料はないか。
A 飛び地とは、本国から離れている領地のことです。
旧藩時代は、領地が複雑に交錯していたため、県内の各藩とも、
大概飛び地を持っていました。
ここでは、他県の藩が持っていた、大分県内の飛び地(他国領)を紹介
します。
大分県には、肥後領、延岡領、島原領の飛び地がありました。
●肥後領: 大分郡・海部郡・直入郡 慶長6年(1601)、
加藤清正に肥後国のほぼ一円が与えられたとき、この地は肥後藩の領地と
なりました。
寛永9年(1632)、加藤氏は改易されましたが、明治に至るまで、
その後入封した細川氏の領地でした。
肥後からの参勤交代のため、直入郡久住から大分郡野津原・三佐に至る
までの通路沿線に集中しています。
●延岡領: 大分郡・西国東郡・速見郡
正徳2年(1712)、牧野成央(なりなか)が延岡に転じた際、豊後国内に
約2万石を分与されました。
延享4年(1747)、牧野氏は常陸国へ転じ、その後を内藤氏が受け継ぎ、
明治まで及びました。
●島原領: 豊後国東郡・豊前宇佐郡
寛文9年(1669)、松平忠房が島原に転封されたとき、豊前・豊後に
島原領が設けられました。
以後、松平氏は明治に至るまでこの地を治めました。
219 :
人間七七四年:2007/03/25(日) 09:50:15 ID:JGNL0J4g
姉は宗麟が生まれる前に嫁いだんだよね?
宗麟は姉とは会ったことないと思うが。
220 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 02:48:40 ID:cBwtwnTK
女好きな性格さえ直れば、この人かなり天下統一に近づけたんじゃね?
221 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 11:23:12 ID:0jl1xfrn
いや、ネタ板の戦国時代板で書くのは無意味かと思うけどw
やはり無理と言わざるを得ないのではないかと。
配下の家臣に言うこと聞かない香具師が多いし。
222 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 18:29:03 ID:uN7/hkks
キリスト教が国教になってたまるか
223 :
人間七七四年:2007/04/20(金) 10:38:24 ID:bnFw2lOg
冷静に考えると耶蘇教への傾倒が、大名としての幅を狭めたと思うが
224 :
人間七七四年:2007/05/08(火) 15:10:36 ID:aUGrUk5O
本能寺がイエズス会の謀略との説を読んだが、
宗麟が手先として活躍したみたいだね
225 :
人間七七四年:2007/05/08(火) 19:02:01 ID:vkVy5rMX
吉統の「吉」は、秀吉の偏諱なんだな。
豊後を召し上げられてからは、義統に戻したのかな?
226 :
人間七七四年:2007/05/10(木) 14:34:45 ID:hy1tH0FZ
秀吉在世中に戻すことはないと思う
宗厳で通したんじゃないかな
227 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 16:20:03 ID:NqBGFrNy
家臣が小粒ぞろい
留守火縄の朝倉一玄 島津家久を破った佐伯惟定
ついに落ちなかった岡城の志賀親次
岩屋城の高橋紹運 不随の立花道雪
その他にも、
一萬田宗慶・鎮実父子
戸次鎮連・統常父子
騙し討ちを成功させた阿南惟秀
強情な朽網宗暦と子の鎮則
穴囲砦に籠り勇敢に戦い島津軍を通さなかった農民
不運の将柴田紹安 戦巧者の利光宗魚 死して主君を守った足立図書
228 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 16:30:55 ID:NqBGFrNy
逐電した臼杵刑部少輔
鶴崎城の婆さん妙林尼と
息子吉岡統増
大砲を改良した武宮鎮元
日出生城主の帆足鑑直と妻鬼御前
夫婦で新納忠元の軍を破った
田原紹運忘れてた
これに筑紫惟門と 秋月種実入れれば
最強家臣団完成
229 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 16:38:43 ID:NqBGFrNy
間違えた
↑田原紹忍ね
230 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 16:41:48 ID:NqBGFrNy
異論あれば足してくれ
231 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 17:01:18 ID:9wG4dek8
異論はないけどまとまりなさすぎ。
232 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 18:06:16 ID:GoZwO+wN
>>230 立花統虎、吉弘統幸、木付鎮直、吉田一祐、柴田(天徳寺)礼能、若林鎮興
田北統員、狭間鎮秀を追加で。
田原紹忍と柴田紹安はいない方が良いかな。
あと秋月、筑紫は大友家臣とは言い難い。(むしろ抵抗勢力だったし。)
233 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 20:43:23 ID:y63iAPp7
強いて言うなら筑紫広門が大友方♪
ほんと最後の最後になってだけど♪
234 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 21:10:04 ID:g+djBuxm
家臣団まとめ
高橋紹運_横綱_立花道雪
佐伯惟定_大関_志賀親次
田原紹忍_小結_吉弘鑑理
立花宗虎_前頭_若林鎮興
一萬田鑑実_前頭_利光宗魚…
あー分かんねー、難しい
大友氏の家臣の名前ってややこしくないか?
235 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 22:13:42 ID:2XTmMxpP
吉岡長増・臼杵鑑続・鑑速も入れてやってくれ。
一字書き出しが、かっちりしているので名前見て
いるだけで家臣の年代とか、序列がわかって面白
いな。
236 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 22:19:05 ID:ybHdX242
吉岡長増ってあの毛利元就を知略勝負で一泡ふかした鬼謀のイメージがあるんだけど、大内・尼子の残党を扇動して毛利を撤退させた以外に何か知略のエピソードってあるの?
237 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 22:25:09 ID:g+djBuxm
234だがだれか詳しい人、続き書いてくれ、
相撲じゃなくただのランクでいいので
238 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 22:35:41 ID:2XTmMxpP
>>236 竜造寺氏を囲んでいた時、場内に矢文をさかんに打ち込ませて、相手を
疑心暗鬼に陥れたというのがあるな。
あと、二階崩れの変。これは、オレの推測だけど、大友義鑑暗殺の黒幕は、
吉岡長増じゃないかと思う。いろいろな文書でも明らかだけど、長増は、変の
前10年以上干されていたんだよな。なのに義鎮の家督相続と共に、中枢に復帰、
逆に羽振りのよかった義鑑の寵臣入田親誠が粛清され、遺言で後事を託された
重臣一万田鑑相が、中枢からはずされ、2年後反乱を起こす。
こういう重臣の入れ替わりは、偶然には起きないからね。
239 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 23:10:25 ID:kueOhVrt
急にのびだしたね
240 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 23:22:21 ID:ybHdX242
>>238サンクスノシ
体制が変わると側近連中も変わるのは今の企業社会も同じだね。昔の武将達も今のサラリーマンも、組織の中を泳いで行くのは大変なんだな。
代替わりの際の変事に裏で一枚かんでいる臭いのは、まるで太原雪斎みたいだな。確かに義鑑派と宗燐派の派閥対立の中で、吉岡長増が宗燐派の参謀的存在だったとしたら義鑑暗殺を主導したとしても何ら不思議じゃないね。干されていたのなら尚更。
241 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 01:18:20 ID:Dq74YIB+
大友家は武田並に人材が豊富だなあ
242 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 02:56:23 ID:JcqzbuWj
入田宗和の名がないな。
ぶっちゃけ、俺が大友家臣団を知るようになったのは異戦国志の影響が
大きい。
耳川の合戦って、島津の釣り野伏せにやられたんだよな。
釣り野伏せを実戦で使ったのはあれが初めてだったか?
243 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 10:34:47 ID:Fd4JIL9/
宗家の田原親宏の名が出てないような
244 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 12:02:05 ID:BsIV2ehK
245 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 12:24:57 ID:5iviAdfR
有名な戦の多くは釣り野伏せで勝ってる。
秀逸なのは、何度やってるにも拘わらず敵にソレと悟らせない用兵術♪
246 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 14:12:39 ID:Fd4JIL9/
島津が伸びた理由は九州の大大名が九州の北部の戦に手を取られて南部を疎かにしてたせい?
247 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 17:53:07 ID:5iviAdfR
むしろ島津は外敵に絡まれてただけ
ただ、形勢を覆す決定的な大勝利繰り返したもんでのし上がった♪
248 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 20:00:11 ID:JcqzbuWj
入田親実(義鎮の監視係、大友義鑑と共に末っ子塩市丸を擁立しようとするが
二階崩れにて大友家を追われる。その後舅の阿蘇惟豊を頼るも、かかわる事を
恐れた惟豊に斬られる。)
のち島津が大友領内に進行したとき真っ先に寝返ったのは、親実の子宗和で
あった。宗和は父が無実の罪によって殺されたと信じていたという。
249 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 23:35:22 ID:z2i7Qb3i
250 :
人間七七四年:2007/05/30(水) 01:47:33 ID:v6OlOxFg
251 :
人間七七四年:2007/05/30(水) 06:33:26 ID:bojZiqhz
>>250 広義的な意味合いでの表現なんだけど^^;
じゃあ、巻き込まれたでw
252 :
人間七七四年:2007/05/30(水) 22:35:00 ID:v6OlOxFg
>>251 え、えーとじゃあ、
婚礼の席で相手の家紋を切捨てて強引に戦いに持ち込んだ肝付家相手の争いは?
伊東家相手の合戦や耳川、沖田畷は
>>247の言うとおりかもしれないが、
島津が仕掛けて潰していったケースも有る。
253 :
人間七七四年:2007/05/30(水) 22:48:44 ID:ptwJKRu7
薩摩・大隅・日向は失地回復♪
254 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 22:49:57 ID:3TYGtkXf
そ、そうきたか ○| ̄|_
255 :
人間七七四年:2007/06/03(日) 15:01:49 ID:QFVjEFZ0
肥後は侵攻以外なにものでもない。
256 :
人間七七四年:2007/06/03(日) 16:13:10 ID:RxtBSMvc
威圧外交じゃね?w
257 :
人間七七四年:2007/06/04(月) 01:38:51 ID:JrRTbvFF
では、琉球征服は?
258 :
人間七七四年:2007/06/04(月) 14:24:42 ID:pcX9tGX3
259 :
人間七七四年:2007/06/05(火) 00:27:45 ID:0mTfxSsR
>>257 異文化コミュニケーションwwwww♪
>>258の指摘もあるし
そろそろ勘弁してください><
260 :
人間七七四年:2007/06/05(火) 22:34:29 ID:MdPEXFIM
じゃあ大友ネタで続けるか
261 :
人間七七四年:2007/06/20(水) 20:29:31 ID:VWoaAAWd
道雪の意見を聞いてれば耳川の戦いでも負けなかったんじゃないかと思うよ。
むしろ戦わなかったかも。
262 :
人間七七四年:2007/06/21(木) 01:11:06 ID:iar2uypb
宗麟は認知症が始まってのかな?
263 :
人間七七四年:2007/06/21(木) 13:21:08 ID:gxzz9wYS
認知症ではないと思う
一種の宗教ヒステリーみたいな物には陥っていたように見えるが
264 :
人間七七四年:2007/06/21(木) 21:40:36 ID:IyB3okFq
元々人のいう事聞かない性格だったらしいけど、キリスト教にはまってそれがさらに悪化した感が。
265 :
宇喜多直家信者:2007/06/21(木) 23:45:29 ID:vIERq/h8
大友親貞の系図関係が不明
266 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 09:44:38 ID:RWRaEuoY
親貞って宗麟の弟ではないの?
267 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 10:33:38 ID:edEn4B6o
甥という記述はよく見るね。誰の子か知らんが。
268 :
宇喜多直家信者:2007/06/22(金) 14:55:37 ID:8XExTCMM
今山の戦い大友軍6万は誇張だと思うんだが、
またそれほどの軍を指揮する親貞の系図関係が不明なのも変な話。
まあ宗麟の弟とする人が多いようだが。
269 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 20:18:56 ID:/nQEzVkF
270 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 20:26:32 ID:/nQEzVkF
そんなことより聞いてくれよ皆の者、スレとあんま関係ないけどさ。
この間久々に岩屋城行ったんです。親父のいる城。
そしたらなんか島津勢がめちゃくちゃいっぱい(約福岡ドーム1杯分)で入れないんです。
で、よく見たらなんか垂れ幕下がってて、「降伏拒否 芋侍は薩摩に帰れ」とか書いてあるんです。
もうね、篭城かと。玉砕かと。
親父な、大友への忠節のために736人で篭城してんじゃねーよ、ボケが。
736人だよ、736人。
なんか病人や長男坊は帰しちゃってるし。主従全員で玉砕か。おめでてーな。
太閤様の援軍がくるまで防ぎきるぞー、とか言ってるの。もう涙で見てらんない。
親父な、退路確保してやるから立花城まで退けと。
篭城戦ってのはな、もっと安穏としてるべきなんだよ。
近くの城からの援軍と敵がいつ合戦になってもおかしくない、助かる見込みがあるから篭城する、そんな戦略がいいんじゃねーか。親父殿、どうか立花城にすっこんでくれ。
で、やっと親父に逢えたかと思ったら、親父が、「大友に忠節を尽くせ」、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、キリシタン大名なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、「大友に忠節を尽くせ」、だ。
親父殿は本当に篭城したいのかと問いたい。問い詰めたい。小半刻問い詰めたい。
親父殿、武士の意地で篭城してるだけちゃうんかと。
実父紹運と養父道雪の薫陶を受けた俺から言わせてもらえば今、大友家臣の間での最新流行はやっぱり、寝返り、これだね。
竜造寺をぶったおした島津に降伏。これが昨今の大友家臣。
島津に寝返ればとりあえず命は助かる。そん代わり知行が安堵されるとは限らない。これ。
で、それに島津勢となって岩屋城攻め・・・いいかげんにしろ。
しかしこれをやらかすと太閤秀吉から不忠の臣とされ(てよくて浪人、悪くて切腹す)るという危険も伴う、諸刃の剣。
凡将にはお薦め出来ない。
まあお前ら島津勢は、この統虎の追撃でも受けてなさいってこった。父の仇、覚悟!
271 :
人間七七四年:2007/06/25(月) 20:56:29 ID:tQAN1xZy
宗茂はそんなこと言わない
272 :
人間七七四年:2007/06/25(月) 21:33:23 ID:9HDBOuEN
273 :
人間七七四年:2007/06/25(月) 22:13:50 ID:eaoRriLL
274 :
人間七七四年:2007/06/30(土) 22:50:41 ID:L+HLoC5J
大友氏ってことは宗麟限定じゃなくても良いんだよね?
父親とか息子とか家臣団とか。
275 :
人間七七四年:2007/07/01(日) 00:27:33 ID:0zYsv2GL
勿論側室の子に情が移った父親とか仲の悪かった息子達でもOK
家臣団の話は99%立花ネタで埋め尽くされそうな悪寒
276 :
人間七七四年:2007/07/02(月) 18:59:40 ID:mBr3tXb8
大友スレがあまり伸びないのは何でじゃろ?
好点より欠点が目立つから?
277 :
人間七七四年:2007/07/02(月) 19:04:24 ID:Y5QGRZ5b
家臣団の話題も出していかないからかな?
まあログにも結構出てきてるけどね
278 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 00:23:21 ID:JN5Qzfsr
朝鮮で持ち場を捨てて逃げた吉統アワレw
279 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 01:03:59 ID:Gi/34A5U
大友・家臣とかについて書かれた小説でお薦めあったら
教えてください
280 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 01:12:50 ID:0rvQYePe
郷土史の本なんかでは、大友氏関係で興味深いものも多いけどね。
>>279 架空戦記でお勧めでもないが、異戦国志4巻「大坂落城」の島津九州侵攻戦。
というか、ほかに思いつかん。
282 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 01:35:01 ID:Gi/34A5U
>>282 架空戦記と書いたが、大体は事実だったと思う。
出てきた武将には、佐伯惟定、志賀親次とか、
284 :
長門 ◆q8GdomS4XA :2007/07/03(火) 03:24:26 ID:kygbH0s3
逃亡して取潰しってあるけど朝鮮出兵前から大友家取り潰す気満々なんだがな、秀吉は。
ミスを待ってましたと言わんばかりだし人質名古屋城に連れてこらされてるし
285 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 06:43:40 ID:YQn6Ur3k
秀吉は毛利・大友・島津の西国の大大名を潰したがってた。
宗麟の息子がヘタレだったので上手いこと大友家を潰すのに成功。
286 :
人間七七四年:2007/07/04(水) 06:02:36 ID:yE1l/XzD
>>285 大友・島津は兎も角、毛利もか?
潰したがってるなら小早川にあんなに所領を与えたり
大老に取り立てたりしないだろ。
287 :
人間七七四年:2007/07/04(水) 10:10:05 ID:aXZiL75X
毛利は分裂工作かな
288 :
人間七七四年:2007/07/04(水) 15:52:18 ID:JNMWwwVL
宗麟の子でまともなのは?
>>288 宗麟が最も信頼したのは3男親盛じゃないか
290 :
人間七七四年:2007/07/04(水) 20:53:14 ID:QVI6JFGs
宗麟も父親に信頼されてなかった。
父親と家臣が「あんな奴に家継がせるな!」と騒いだってどんだけw
291 :
人間七七四年:2007/07/04(水) 22:53:14 ID:AAJufxN4
名門で人材も豊富なのに決戦に敗北して衰退、まるで三国志の
どこかの名門みたいだな。
292 :
人間七七四年:2007/07/05(木) 01:31:12 ID:f2htbXoI
293 :
人間七七四年:2007/07/05(木) 18:40:23 ID:GumUid4d
吃音て幼少期の過度のストレスが原因でなるんじゃなかったか。
>>291 その負けた名門以下だよ。
本人はまるでピクニック気分だし。戦闘指揮とってない訳だしね。
キリスト教ってのはそこまで人を狂わすのか。
295 :
人間七七四年:2007/07/08(日) 12:19:06 ID:1mUyGh6S
元々狂ってたけどね宗麟は。
キリスト教にハマってさらに悪化。
296 :
人間七七四年:2007/07/08(日) 13:36:18 ID:oTZ/r/CK
CS時専でで2004年にNHKでやった『大友宗麟-心の王国を求めて』再放送中
・・・
マツケン、宗麟やるには老けすぎだったんじゃないか?
衣裳の考証とか、奈多夫人との結婚式のシーンとかつっこみだすと・・・
でも戦国九州の時代劇は貴重だからあと1時間半我慢してみることにするw
297 :
296:2007/07/08(日) 14:35:04 ID:oTZ/r/CK
ただいま終了。
何かナレーションとかでごまかされて中身スカスカのドラマだった。
不完全燃焼感・・・orz
298 :
人間七七四年:2007/07/08(日) 16:24:15 ID:QDV/AjjF
あのドラマはいろんなとこで不評だから調べときゃ良かったのに。
いろいろはしょり過ぎでわけわからん。
繁栄と衰退を1代で経験した宗麟の人生を90分で語れるはずがない。
299 :
宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c :2007/07/09(月) 03:42:44 ID:pxuZ2Qyp
期待してたが、実際に見て落胆した記憶があるな。
録画したビデオ消した。
300 :
人間七七四年:2007/07/09(月) 06:50:06 ID:/sddX87Z
家臣が道雪のみの活躍じゃあなぁ〜
おまけに耳川の戦いはナレーションのみ、竜造寺は全然出ない
短時間で纏めればああいう出来しかならん
301 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 00:24:38 ID:XXE2OWv9
>>294 そもそも大友家の当主は、現地で指揮をとったりしないよ。
現地で指揮をとるのは、戦の巧者の重臣。
父親の義鑑も大内の軍勢が、山香あたりに来ても府内を
動かなかったわけだし。
302 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 01:04:06 ID:ECQoOXc8
>>294 1回負けただけでガタガタになった某名門より大友は腰は強いよ。
門司合戦に負けたが、謀略&外交で逆転。
今山合戦に負けたが、竜造寺は勢力を延ばしたが肥前内部に留まる。
耳川の時は合戦以前にキリスト教派対神仏派の対立や後継者問題で
内部がガタガタになっていたから半ば自滅じゃね?
303 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 18:16:20 ID:V4VxA/Hg
>半ば自滅じゃね?
大友家衰退の一番の原因は離反者が続出しまくったことで、
その一番の理由は宗麟の性格にあるからな…。
304 :
人間七七四年:2007/07/11(水) 02:15:51 ID:XE2c8CeN
やればできる子だとは思うんだけどなあ>宗麟
305 :
人間七七四年:2007/07/11(水) 18:05:02 ID:VVC9NNFG
やればできる子なのにその力を別方向に向けっぱなしだったね。
キリスト教に改宗した後は特に。
毛利を追い返して気が抜けちゃったのか。
306 :
人間七七四年:2007/07/11(水) 18:31:57 ID:EtX0HUY/
大友の場合身内を養子に仕立てたそばから離反されてる
307 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 00:54:04 ID:g6YyAdtH
離反したのは菊池と立花、他にいた?
308 :
人間七七四年:2007/07/26(木) 16:15:00 ID:2cRQL2fh
>>279 御手洗一而って地元の人が書いた本があるよ
ただもう絶版になってるだろうから手に入れづらいかも知れないけど
309 :
人間七七四年:2007/07/26(木) 19:13:46 ID:h8dB8P3c
宗麟は頭が良いんだか悪いんだかよくわからん人だよね。
外交や内政の才能はあったみたいだけど、人の気持ちを考えないから部下の心を掴めなかったから
政治のほうも段々上手くいかなくなって、耳川で大敗するかなり以前から少しずつ崩壊の道をたどってた。
やっぱ頭悪いのか。
310 :
人間七七四年:2007/07/26(木) 19:49:21 ID:EVMX5nBG
頭はイイんだけど下半身で行動する面が♪w
311 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 19:22:15 ID:dpjBj8Yt
312 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 19:57:00 ID:SdNlTmRz
ho
313 :
人間七七四年:2007/09/06(木) 16:00:39 ID:cWcLpIBx
314 :
人間七七四年:2007/09/07(金) 17:44:11 ID:/b8Kys21
志賀家って本拠はどこ?竹田なのか?
315 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 09:41:28 ID:MY9W7Em7
>>314 そう竹田。
岡城跡がそうだよ。
ちなみに
一万田 朝地町(現豊後大野市)
戸次 大野町(現豊後大野市)
奈多 杵築市
田原本家 安岐町(現国東市)
田原分家 武蔵町(現国東市)
吉岡 鶴崎(大分市)
田北 田北(野津原)→山香町
入田 入田(竹田市)
吉弘 武蔵町(現国東市)
臼杵 江無田(臼杵市)
守役四名
斉藤 丹生(大分市)
小佐井 小佐井(大分市)
田口 臼杵市
津久見 津久見市
実際回ってみると色々わかって興味深い。
入田氏の本拠地は肥後と接しているなあとか、安岐田原(本家)を
北に武蔵田原氏・吉弘氏と南に奈多氏・木付氏で挟んで、けん制
していたのかなあとか。
ちなみに守役四名の領地は、早くから大友家の直轄地に組みこま
れている場所。
316 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 09:43:40 ID:MY9W7Em7
訂正
田北 田北(現竹田市の直入町)→山香町
317 :
人間七七四年:2007/09/10(月) 14:01:03 ID:9Y71MdDy
佐伯・・・
318 :
人間七七四年:2007/10/05(金) 01:36:29 ID:WPNyuBin
阿蘇スレに比べてなんだこの過疎ぶりは
319 :
人間七七四年:2007/10/08(月) 17:03:57 ID:UzKOeE56
麻生氏って麻生太郎となんか関係あんの?
320 :
人間七七四年:2007/10/22(月) 19:54:31 ID:eNDJhUcA
321 :
人間七七四年:2007/10/23(火) 09:52:00 ID:tInLCm3L
佐伯 佐伯市・弥生町
若林 大分市(佐賀関一尺屋・臼杵市佐志生)
追加訂正
吉弘 武蔵町(現国東市)・屋山(豊後高田市) 位置的には、割と近い場所。
>>319 多分、子孫だろう。
帰農したんだろうね。
322 :
人間七七四年:2007/10/23(火) 15:13:35 ID:Fw5fqlov
たろさもそうだが現福岡県知事も麻生だし
筑前は麻生姓多いのか?
323 :
人間七七四年:2007/10/25(木) 15:39:53 ID:twgUYZJQ
324 :
人間七七四年:2007/10/25(木) 15:45:19 ID:twgUYZJQ
>>322 宇都宮氏系麻生氏は筑前が本拠地。
(タロサの曾祖父・炭鉱王太吉は筑前嘉麻郡の出)
あと豊前宇都宮氏系の麻生氏もいるらしいが、
筑前の麻生氏の一部は黒田家に仕えていたこともあるので
話が混乱してくる。
325 :
人間七七四年:2007/10/30(火) 23:21:24 ID:kNYRQWH2
京都国立博物館の「狩野永徳展」見に行った。
宗麟は丹生島城を作るときに永徳に障壁画を頼んだそうな。
もちろんその絵は残ってないのが残念だが。
近所の伊東義祐は金閣寺のまがい物を作ったりして「都かぶれ」になったのが家臣の離反を招いた一因だそうだが
宗麟もなかなかミーハーな・・・
326 :
人間七七四年:2007/10/30(火) 23:42:53 ID:UGCJoTHs
義祐は宗麟に比べて財が格段に少なかったにも関わらず作ったところに華がある。
327 :
人間七七四年:2007/10/31(水) 17:55:58 ID:Wg+ccBTX
>>325 武家官職獲得に熱心で茶器の名物を集め、南蛮文化に浸り、芸術品にも凝るって
大内義隆と被るなww宗麟公は凄まじい女狂いだけどw
328 :
人間七七四年:2007/10/31(水) 19:01:04 ID:aL2fOZVX
大友氏←相模・波多野氏の一族、相模・波多野氏←元は佐伯姓←この相模・佐伯氏は何処から来た一族なんだ?もしや豊後の佐伯氏と関係あるのか?波多野一門の家が豊後に所領を得たのはもしかして鎌倉幕府誕生以前からの経緯がある?
329 :
人間七七四年:2007/10/31(水) 22:30:13 ID:fihcDOfZ
豊後の佐伯氏は、もともと大神氏で宇佐八幡の宮司をやっていたが、
徐々に宇佐氏のほうが大宮司を独占するようになって、豊後(現在の
日出町)に移り住むようになった。
他には、臼杵・緒方・戸次・阿南・大野・佐賀・植田等も大神氏から
出た一族。
大友氏が来る前は、豊後の大部分は豊後大神氏の支配下にあった。
上に書いた一族は、現在の大分県から日田・九重を除くほぼ全域に
わたる。範頼軍に国衙領から軍船を提供したりしている。
豊後大神氏の頭領だった緒方三郎惟義は、源平の紛争の中で平家方で
積年の恨みのある宇佐八幡宮を焼き討ち。その後、源義経を迎え入れよ
うとした疑いもあり、改易・流罪になっった。三郎の兄弟の臼杵・佐賀
等も改易され豊後大神氏の一族は、ガタガタになった。そこに乗り込ん
できたのが、大友一族。残っていた大野氏は滅亡。その旧領は、大友氏
が受け継いだ。
330 :
人間七七四年:2007/11/07(水) 07:21:25 ID:Rkrdwfh3
植田×
稙田○
わさだ地区にある霊山寺の住職の名字は稙田ですね。
331 :
人間七七四年:2007/11/10(土) 21:37:00 ID:BqZSOeRj
332 :
人間七七四年:2007/11/12(月) 18:34:07 ID:+5aDmYqO
333 :
人間七七四年:2007/11/12(月) 22:07:41 ID:QOxEYVhi
完全に架空の人物だな。
大友家は、一字書き出しがかっちりしているから、
重臣で景連はありえない。
334 :
人間七七四年:2007/12/01(土) 17:03:56 ID:AjrA7A5g
>>329 大友が実際豊後に入ったのは親泰の代だね。
335 :
人間七七四年:2007/12/01(土) 20:35:17 ID:4zdDzLSc
>>334 そのとおり。
初代能直は、京と鎌倉を往復する生活をしていたようだ。
ただし、親秀以外の息子たちは、先に豊後に下向して
いたようだ。
初代能直の墓は、戸次系の人間が立てたという話だ。
336 :
人間七七四年:2007/12/10(月) 11:36:32 ID:KO2lv1r3
昨日、岩屋城址と紹運の墓を見てきた。
337 :
人間七七四年:2007/12/10(月) 17:14:38 ID:fi7v+Q+r
紹運の墓どこ?
338 :
人間七七四年:2007/12/13(木) 10:56:19 ID:qBoSC1aY
339 :
-:2007/12/15(土) 09:27:16 ID:lfO/Es83
太宰府駅から歩いて行ったのかな?
340 :
人間七七四年:2007/12/24(月) 04:00:14 ID:2tZ8Vwzo
「 明日は誰が草むす屍や照らすらん
石垣原の今日の月影 」
「臣ハ累代厚恩ヲ蒙リ、死ヲ以テ君恩ニ報ント存レ共、是ノ度ノ戦ハ縦ヘ一旦利ヲ得ル共、
後ノ利運トハ成難シ、臣今軍陣ノ中ニ入リ、生テ再ビ歸ラズ。然レバ今君ノ尊顔ヲ拝スル
モ現世ノ御名残ニ候」
石垣原での吉弘統幸は死ぬ気満々すぎて泣ける。
341 :
人間七七四年:2007/12/24(月) 12:09:43 ID:0rZeqZtZ
吉弘統幸って立花宗茂の従兄弟だよな
・・・どうして出来のいい家臣を抱えながら上司はあんなに馬(ry
342 :
人間七七四年:2008/01/05(土) 16:30:45 ID:7sPD0sOk
343 :
人間七七四年:2008/01/05(土) 16:46:16 ID:0zSKVTp/
宗教が変なんじゃなくて頭が変なんだろ
344 :
人間七七四年:2008/01/05(土) 18:27:13 ID:WMKj9obE
だいたい信仰って言うほどキリスト教を信じちゃいないだろ。
345 :
人間七七四年:2008/01/21(月) 15:32:08 ID:etxp1msU
発展のために利用した口?
346 :
人間七七四年:2008/01/21(月) 17:45:57 ID:4smnRnV7
そりゃあそうだろ。
おかげで硝石の輸入に弾みがつき
鉄砲の大量使用が可能になったし、
大砲ももらえた。
大友館の発掘で発見された金属の分析で、
東南アジア以西の鉱山から採掘されたと
わかった。ここまで貿易が大規模に出来
たのは宣教師のルートがあるからだ。
347 :
人間七七四年:2008/02/08(金) 14:22:57 ID:kB9SgvPY
どこいらの鉱山だったんだろか?
348 :
人間七七四年:2008/02/22(金) 00:32:04 ID:GNPIBi5O
東南アジア各地。
とにかく国内・中国大陸・朝鮮半島の鉱山ではないそうだ。
豊後の府内だけではなく、大分市東部・臼杵・津久見にも外国船が入っていたし
大分市東部・臼杵の地名には唐の人間が在住していた名残もある。
349 :
人間七七四年:2008/03/10(月) 16:19:04 ID:gTrIsWol
別府大学ですか…
350 :
人間七七四年:2008/03/29(土) 15:15:21 ID:RLZJEJS+
経済には敏そうだな宗麟。
351 :
人間七七四年:2008/04/10(木) 20:55:23 ID:75v7JAeV
>>315 吉岡は豊前や国東。
吉岡って地区名がちらほらあるが関連は不明
352 :
人間七七四年:2008/04/10(木) 21:42:48 ID:VXTwfBxy
353 :
人間七七四年:2008/04/13(日) 08:15:38 ID:XOwGsXxz
大友宗麟は地元の宗像氏をさんざ虐めてくれたから嫌いじゃ!
でも配下の忠臣、立花道雪や高橋紹運は嫌いになれないんだよなぁ
そう言えば大友麾下の宗像鎮続は祖が宗像氏説と大友庶家説があるけど
どっちが正しいの?大友庶家が豊後の宗像神社の社領地か宮司を継いだと見るべきかな?
354 :
人間七七四年:2008/04/13(日) 22:48:06 ID:7FW6Mh/e
>>353 >大友庶家が豊後の宗像神社の社領地か宮司を継いだと見るべきか
これが妥当ではなかろうか。
豊後大神氏の一族にも大友の一族から養子が入っているし。
355 :
人間七七四年:2008/04/15(火) 20:24:03 ID:HvWidkns
大神一族でも佐伯家は大友の血を入れなかったから、
大友家臣でも微妙な立場だったんだろうな。
356 :
人間七七四年:2008/04/15(火) 21:59:14 ID:OK9imz0S
佐伯惟教の先代が謀反を起こしているしね。
ただ、佐伯惟教は加判衆に帰参直後に選ばれているし、それにりに
優遇されていたみたいだな。
大友宗麟の人事の特徴は、家門にこだわらない柔軟さがあるが、
自分の使いやすい人間を選ぶ傾向があったそうだ。
357 :
人間七七四年:2008/04/16(水) 12:42:37 ID:2OoiIfJ8
>大友宗麟の人事の特徴は、家門にこだわらない柔軟さがあるが
だろうなぁ、そうじゃないと戸次入道道雪に
2度も大友を裏切った「立花」の名を継いでいいよなんて言わないもん
もっとも当の道雪は本家に遠慮して生涯戸次で通したそうだが
358 :
人間七七四年:2008/04/16(水) 16:59:55 ID:CNHw3oE5
>>357 見ようによったら無茶苦茶失礼なことしてるよな
宗麟が道雪に対して。
359 :
人間七七四年:2008/04/16(水) 17:49:15 ID:dOXc7UB6
>>357 裏切り者の姓を名乗りたくなかったとかいう話もあったよな
360 :
人間七七四年:2008/04/16(水) 18:43:16 ID:2OoiIfJ8
そう言えば高橋家も立花家と同じように
宗麟の命で裏切った高橋家を吉弘鎮理が継いだが
結局吉弘・高橋家も紹運/直次と2代続いただけで
直次は兄が継いだ立花に姓を変え、高橋家は消滅したね
でもこの兄弟、縁起悪い裏切りの姓を捨てて
本姓の吉弘に戻す考えはなかったのかな?
吉弘は武家としては全国的に無名で知名度低いとしても
2人にとって幼少の頃慣れ親しんだ誇れる姓だと思うんだが
361 :
人間七七四年:2008/04/16(水) 19:42:48 ID:/W2l/b/a
>>360 統幸の子の政宣を宗茂が引き取って、柳川で吉弘家を残してたからなあ。
ちなみに吉弘家は当主の親信・氏直・鑑理・鎮信・統幸の5代のうち鑑理以外の4人
までが、討死にしてるからなあ、武人としては誉れ高いんだろうけど、縁起は悪かろう。
362 :
人間七七四年:2008/04/17(木) 00:08:38 ID:sTd3Qp9y
>>357>>358 戸次入道道雪の意識としては、単に立花の名跡を継いだというよりも
「城督」になったという意識の方が強かったのだろう。
まあ、「加判衆」から「城督」は、格落ちだが、先例になっていたから
戸次入道道雪本人もそれなりに納得していたんじゃない。
363 :
人間七七四年:2008/04/25(金) 05:46:50 ID:Ulf1/LYb
柳川の町で偶然「戸次」の表札を上げた家を見た時はなんか嬉しかったな
さて、今年のGWは柳川にうなぎのセイロ蒸しでも喰いに行くか
364 :
人間七七四年:2008/05/15(木) 16:21:26 ID:HuTtWqDf
立花はもともと大友の分かれなんだね。
365 :
人間七七四年:2008/05/15(木) 20:01:53 ID:0w+BumRn
元寇の際に博多に目をつけた大友家が国防の為の名目で立花城を築いて
親族を城督としたのが始まりだっけ。
戦国時代には大内家に取り込まれてたりもしてたけどw
大友貞宗の子 貞順 貞載 氏泰の関係がちと複雑。
367 :
人間七七四年:2008/06/25(水) 13:47:02 ID:SJRxLcad
大友と博多の関係ってどうなの?大内のイメージが強いんだけど
368 :
人間七七四年:2008/07/03(木) 17:05:06 ID:DjYpMS2O
重要拠点だけど攻防の最前線
369 :
人間七七四年:2008/07/03(木) 21:23:57 ID:jdoXm5tL
大友親家(次男)
大友氏の一族田原氏宗家の当主。
1579年、反乱を起こした田原親貫に代わり田原氏の家督を継承。
大友親盛(三男)
田原氏庶流の武蔵田原家の当主。
叔父である田原親賢(紹忍)が、養子の田原親虎を廃嫡し
武蔵田原家の後継者が不在となった為、1581年、親賢の養子となる。
ってwikiにあるんですが、田原宗家を継いだのは次男の方で
でも重臣でよく名前が出てくる田原親賢(紹忍)は庶流の方でとなると
実際に田原家の軍権などを握ったのはどっちだったのでしょうか?
宗家を代表する次男の方?実質的に権力を有した紹忍の養子になった三男の方?
この二人は、実際どういう動きをしたんだろうか?
次男の方は島津に寝返ったりしているようだが
三男はずっと宗麟・義統の方に属したのだろうか?
370 :
人間七七四年:2008/07/04(金) 03:05:57 ID:o6gArraW
親賢の姉妹が義鎮の室だから外戚の親賢が軍権を握ってるんじゃない?
371 :
人間七七四年:2008/07/04(金) 08:43:30 ID:jVmOEP5P
じゃあ息子達は名目上の当主でしかなかったと?
372 :
人間七七四年:2008/07/04(金) 09:13:07 ID:4MKgWcou
そういうわけではない。
>>370 親賢は加判衆を外れた時点権限なし。
373 :
人間七七四年:2008/07/04(金) 11:10:33 ID:1GQnrenm
じゃあ、結局誰が田原家の実権を握ってたのでしょうか?
宗麟の息子らが入った後、時系列で説明してくれると助かる。
・親賢の失脚後は誰が?
・親家の島津加担後は誰が?
とか
374 :
人間七七四年:2008/07/04(金) 22:42:32 ID:Kp4L5rzP
>>373 戦国末期の田原宗家と武蔵田原氏は別家。
なんで一つにまとめて考えるのかに疑問を感じる。
375 :
人間七七四年:2008/07/05(土) 00:15:15 ID:LLgucnj6
>>373 すまん。
ちょっと勘違いしていた。
>>374の言うように田原宗家(安岐)と武蔵田原氏は別家で、親賢は武蔵田原氏の当主だ。
知ってのとおり、田原(含む吉弘氏)氏全体は、大友氏から警戒されていた。
加判衆は、宗麟の祖父義長(曽祖父親治)の頃、定められたらしいが、当初は田原・吉弘・戸次は、
将軍家の在国奉公衆になった過去があったので選ばれず、一族のうち、臼杵・吉岡・一万田・田北が
選ばれた。
後にその方針は徐々に緩められ、義鑑の妹婿になった吉弘鑑理は加判衆になった。
その後も田原氏への切り崩しが進み、武蔵田原氏の親賢は、本来なら分家筋だが、加判衆・方分に任じら
れて、大友家内部での序列は、本家の田原(安岐)と完全に入れ替わった。
これに伴い、安岐・国東の本家の田原(安岐)所領も親賢に預けられるという格好になり、田原氏の惣領権も
親賢に預けられることになった。この時点で、親賢の権限は田原氏全体(吉弘氏除く)への権限と加判衆・方分
としての権限の両方になったわけだ。
この人事は、宗麟が扱いやすい親賢(義兄弟)に田原氏全体(吉弘氏除く)への権限を握らせた方が、都合がよかったから。
つまり、大名権力の強化を図る意図があったわけだ。
ところが、耳川での敗戦後、親賢の失脚し本家の田原親宏が親賢に預けられていた田原(安岐)の所領の返還を
要求してきて、宗麟はこれを飲んだ。このため、親賢の権限は大幅に縮小し、武蔵田原氏限定のものとなった。
その後、宗麟の息子が養子に入ることにより親賢は完全に隠居。実権は宗麟の息子に移る。
その後は、義統が大名権力の強化をさらに図る意味で、安岐田原と武蔵田原は各自別という関係だったのではなかろうか。
376 :
人間七七四年:2008/07/06(日) 03:23:53 ID:TaUe871K
田原氏本家の反乱があったことが抜けてるな
377 :
人間七七四年:2008/07/08(火) 12:26:50 ID:COCtWxkf
378 :
人間七七四年:2008/07/12(土) 11:46:50 ID:MBY91XP8
>>375 親貫が謀反に失敗し(1579〜1580)
親家が継いだ後の田原宗家に仕えた武将で
名のある人物っていますか?
1586年に島津に内応した後とかの合戦等で
記録のある人とかいないのかな?
379 :
人間七七四年:2008/07/12(土) 13:16:55 ID:K/5f5zU7
親宏の弟だったか妙法寺親並がいる。
親家が継いだ後も抵抗を続けていたと思うが。
380 :
人間七七四年:2008/07/12(土) 15:05:04 ID:UyH0NfGg
大分県内で大友家関連の遺品とか見れる博物館とかないの?
381 :
人間七七四年:2008/07/12(土) 21:55:53 ID:K/5f5zU7
382 :
人間七七四年:2008/07/13(日) 16:21:47 ID:X7vuesdj
>>381 大友体験学習館は仮設的な建物?プレハブ小屋にしか見えないが・・
大友歴史ボックス、大友映像ブース、大友体験ボックス・・ネーミングが凄い
383 :
人間七七四年:2008/07/14(月) 12:06:28 ID:vhD4bvpy
1586年の島津氏の侵攻に際し
南志賀家の志賀鑑隆・鎮隆親子は
1・いち早く島津に内応し、北志賀家の当主・志賀親次の守る岡城攻めに加担した。
って説と
2・島津氏に攻められ、居城・南山城が落城(息子はここで自害)、
親父の方は繩張城へ逃走し、籠城したが、ここも島津勢によって落城。
日田へ逃れたが、島津氏に通じた日田郡衆の攻撃を受けて戦死した。
って説があるようなのですが、どっちが正しい
もしくは可能性が高い説なのでしょうか?
384 :
人間七七四年:2008/07/31(木) 16:03:21 ID:r8lOWskU
1、じゃないかな
385 :
人間七七四年:2008/08/07(木) 15:27:05 ID:JmQyJClQ
府内城(館)が、機能していたのはいつ頃までですか?
1563年に丹生島城(臼杵城)に宗麟が拠点を移してからは
どうなってたんでしょう?
誰か在城していた?
それとも廃れるがままになっていたのでしょうか?
386 :
人間七七四年:2008/08/07(木) 19:02:01 ID:/Ntsgpmx
>>385 一応、義統がいたはずで、機能していたと思います。
ただ、臼杵にも重臣の屋敷があったような話は聞いたことがある。
田原親宏が勝手に臼杵の館から国東に帰ったとか。
387 :
人間七七四年:2008/08/07(木) 20:06:06 ID:JmQyJClQ
>>386 家督譲ってから二元政治みたいな事やってたみたいだから
宗麟が臼杵に本拠、義統が府内、みたいな感じだったんでしょうか?
義統が当主になってからは、大友氏の本拠は対外上、どこって事になってたんでしょうか
府内でいいの?
ゲームとかじゃ、いつの時代も府内が大友の本拠みたいな扱いになってるけど
平時の居館程度の物があったってだけ、という認識で構わないですか?
「府内城(大分城)」として城らしい城になったのは、大友氏の改易後だとwiki等にあるので。
388 :
人間七七四年:2008/08/08(金) 12:23:08 ID:ojYD2kC4
>>387 >宗麟が臼杵に本拠、義統が府内、みたいな感じだったんでしょうか?
それでいいと思うよ。
ただ二元政治といっても、大友氏は加判衆の協議で
最終決定していたわけだから、加判のいるところが
本拠地と言うことになるのかも。
日向出兵も義統周辺が強引に進めていたという説も
そのへんの事情から出たのかもな。
ただ、府内の大友館(顕徳)の規模からすれば、単なる
大友氏当主の住居と言うよりは、政庁の機能も持って
いたと言う方が自然だと思う。
ちなみに当時の臼杵と言うのは、大友氏の直轄領で、
関係の深い家臣が多く住んでいた地域で、府内とは
別の経済圏(臼杵・野津)を形成していた地域。
389 :
人間七七四年:2008/08/08(金) 18:15:57 ID:4oHKYHy0
>>388 結局のところ、府内・臼杵の政治・軍事規模はどんな感じだったのでしょうか?
両者の比較でも構わないので教えて欲しいです。
390 :
人間七七四年:2008/08/08(金) 18:45:40 ID:qqjI1iWR
臼杵には豊後や大友領全体の政庁としての機能はないんじゃないかな。
宗麟のキリスト教王国への姿勢は臼杵ではどれほど行動に移していたんだろう。
府内の政庁でキリスト政策やったら反発喰っちまって臼杵に隠居したんではないか?日向侵攻もその延長。
391 :
人間七七四年:2008/08/08(金) 19:43:19 ID:4oHKYHy0
では、基本的には家臣団や軍事力は府内の方へ集まっていたという事でよいのでしょうか?
392 :
人間七七四年:2008/08/09(土) 02:07:05 ID:0FtNJ4y4
臼杵城って、あの島は小さくて狭いから家臣団たくさん住めないだろうし政庁機能は難しいかと。
海上通商貿易で栄えていたのかもしれんけど。
393 :
人間七七四年:2008/08/09(土) 17:58:03 ID:R4neL0XB
ふむ。じゃあ、あくまで宗麟の隠居城みたいな感じで
本拠は府内だったという解釈でOK?
でも甲斐武田の躑躅ヶ先館みたいな感じで
府内は大友時代は防衛拠点として「城」があったわけじゃないんですよね?
何度か攻め込まれてるけど府内で防衛はしないで他の城へ撤退してるし。
394 :
人間七七四年:2008/08/09(土) 18:30:42 ID:0FtNJ4y4
大友居館跡
tp://www.pref.oita.jp/17503/otomo/
天然の要害ではなくて完全な政庁としての役割しかなさそうなので躑躅ヶ館や今川館みたいなもんだったのでは?
395 :
人間七七四年:2008/08/09(土) 20:43:02 ID:R4neL0XB
396 :
人間七七四年:2008/08/09(土) 23:31:17 ID:WS4GR/Jt
>>389 臼杵は、軍事的な拠点と言う性格のほうが強かったと思う。
臼杵城も海城だし、湾も深い守りやすい土地だ。
さらに住んでいる家臣も興味深い。
大友家の水軍の主要人物、若林鎮興は一尺屋(佐志生も領有)、薬師寺は臼杵・津久見。
さらに二階崩れの変で犠牲になった斉藤・小佐井は一山越えた丹生在住。
当時の丹生庄は、現在の臼杵市の一部を含んでいた。
さらに残り二人の津久見は津久見・田口は臼杵の在住。
さらに臼杵氏も臼杵に住んでる。
信頼の出来る人間、十分な水軍の戦力がが期待できたということだろう。
>>390 特に進展なしというのが、本当のところらしい。
宗麟が臼杵に移ってからの十年間は、宣教師は府内から移らなかったそうだ。
隠居も反発を食らったとからというよりは、軍事・防衛上の理由のほうが大きい気がする。
>>393 大分市の郊外には、武家館に毛が生えたような城はあったみたいだけど、立て篭もる
ような城は、府内にはなかったみたいだね。
高崎山が一応詰めの城だったみたいだが、その途中にももうひとつ城があったそうな。
ちなみに武田氏の躑躅ヶ館は、堀や郭が幾重かある実質的には城だった。
詰めの城もすぐ近くの山にあった。
397 :
人間七七四年:2008/08/12(火) 21:17:40 ID:YxbzGGSb
瓜生島伝説って最近知った。大友の貿易港として大きく栄えていたのが
大地震とそれに伴う津波によって一日にして海の底へ沈んだという話。
398 :
人間七七四年:2008/08/12(火) 21:31:07 ID:bLTIpVNH
>>397 正しくは、半島というか岬みたいなものだったらしいけど。
戸数も数百戸というし。
399 :
人間七七四年:2008/08/13(水) 21:17:39 ID:LLPFw2Ca
>>397 伝説じゃなく事実なんだよな
いや、あん時は酷かったよ。軒並み民家が流されたからね
400 :
人間七七四年:2008/08/14(木) 00:48:44 ID:OPjc4kGO
401 :
人間七七四年:2008/08/14(木) 21:34:50 ID:IgXiRSPf
いくつか質問があるので、部分的にでもわかる事がありましたらお願いします。
1・柑子ケ岳城と臼杵城について
筑前に柑子ケ岳城(好士岳城・香地岳城・草場城とも)というお城があり
大内氏の没落後は、大友氏家臣の臼杵氏が城主となったと言われます。
後、大友氏が耳川の合戦に破れて衰退すると、筑前の原田氏に奪われ
龍造寺氏側に属した?とも。
しかし、戦国末期には再び臼杵氏の一族が城主となっています。(秀吉の九州仕置き後?)
この一連の流れの中で、大友(臼杵)・原田・大友(臼杵)となった時系列を教えて下さい。
臼杵氏の手を離れ、原田氏が支配していたのは何年から何年くらいまでだったのでしょうか?
2・大友家に属した一万田(一萬田)氏の城について
小牟礼城、鳥屋山城などが一万田氏の持ち城だったそうですが
両城の築城年代・廃城年代、またどれくらいの規模のお城だったのかについて
わかりましたら教えて下さい
3豊後大友氏の一族・木付氏について
十六代当主・木付鎮直、十七代当主・木付統直の生年を推測する資料はありますでしょうか。
両者とも1593年に自害した事だけがわかるのですが・・・
また具体的な戦功・活躍などの事績がわかりましたら教えて下さい。
木付氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ot_kituki.html ここでわかる「1586年島津家から城を守りきった」「大友氏の改易に際し自害した」という事以外で
何か伝わっている事績はないでしょうか?
よろしくお願いします。
402 :
人間七七四年:2008/08/14(木) 21:36:19 ID:IgXiRSPf
>>401の1つ目のタイトル「臼杵城について」は無視してください。すみません。
403 :
人間七七四年:2008/08/15(金) 09:02:23 ID:+vPzxFb9
404 :
401:2008/08/16(土) 16:08:02 ID:0yn9Jvqs
405 :
401:2008/08/25(月) 21:38:42 ID:0CVltAbo
引き続き、大友氏関連の事を調べてまして
図書館で関係書籍とかを読みまくってるんですが
なにせ、発刊が20年くらい前のばっかりなんで、最近の研究がどうなってるのかわかりません。
その時代に出た本を参考にすると、日向侵攻〜耳川合戦はキリスト教国建設を目指した宗麟主導の下、軍事行動が起こされたと
あるんですが、wikiなどでは義統や田原氏などが主導で行ったともあります。
どっちの説が正しいのでしょうか?
書籍を見る限りでは、宗麟は義統に家督を譲った時点で、本国・豊後の支配権は預けた事になったし
妻の奈多氏(仏教徒)と、その兄・田原氏の影響も強かったので
キリスト教国を建設するには、新天地を求めるしかないとして
日向へ侵攻したのであり、領土拡大欲や伊東氏の旧領復帰嘆願などは理由として薄い、とあるのですが。
(伊東氏が田原氏を通じて義統を動かし、日向侵攻に至ったとする資料もあるようですが、これは信憑性が薄いとされていました。)
406 :
人間七七四年:2008/08/27(水) 00:10:54 ID:SdJYB30X
>>56って実話なんですか?
当時の日本の人口ってどれくらいか知らないけど相当少なかったと思うけど
50万人もヨーロッパに人身売買したってにわかには信じられない。
一大名の権限でそんなこと出来たとも思えないし。
なんか嘘臭い。
せいぜい1万人の間違いじゃないの?
407 :
人間七七四年:2008/08/27(水) 01:11:16 ID:7vsjCq6F
>>406 正確な数は知らないけど
硝石・火薬・火縄・大砲の武器類とかと交換に
人身売買が頻繁に行われていたのは事実だと思う。
何十万かどうかは知らんけど、日本が硝石自国でまかなえるようになったのは
だいぶ後で、それまでは輸入に頼っていたので
トータルで考えると結構な数出てたんじゃないのかな。1万は越えてると思うよ。
408 :
人間七七四年:2008/08/27(水) 01:13:24 ID:7vsjCq6F
ただ、宣教師の証言って
敵対する宗教観の持ち主(同じキリスト教のカトリックとプロテスタントでも)を貶める為なら
何でも大袈裟に書くって部分があるので、全てを信じるのも
どうかと思うと補足。
409 :
人間七七四年:2008/08/27(水) 02:18:08 ID:VoQqKmIw
当時の日本に南蛮貿易での支払い対価はあまりないからねぇ。
東北の例で悪いが、伊達氏の「塵芥集」47条に逃亡した下人を捕らえた時の褒美額で女性を5貫文って書いてあるね。性欲に根ざすのか男性3貫文よりも高いね。
南蛮人は容姿や目を見た時の病気の有無などで値踏みしてたらしいから、もっと安く大量に仕入れたんじゃないかな。
410 :
人間七七四年:2008/08/27(水) 12:14:43 ID:Rr3cPi3f
欧米人よりも日本人女性は肌がきめ細かいし、体臭ないしで人気あったんだろ。
九州は人権とかもっとも薄い地方だから売れるならどんどん拉致って売るんだろうな。
411 :
人間七七四年:2008/08/27(水) 17:40:28 ID:7vsjCq6F
>>410 別に九州に何も縁ないけど
>人権とかもっとも薄い地方
って何を根拠に?
当時の日本じゃ人身売買なんてどこでもあったし
九州は南蛮船が最も来る地域だったから、対外国人へ対しての売買が多かったってだけの話でしょ?
412 :
人間七七四年:2008/08/27(水) 19:27:07 ID:eL27bTFt
>>411 >>410ではないが、
前期倭寇の時代に倭寇は中国や半島から人をさらってきて、九州から日本各地だけでなく
琉球を通じて東南アジアにまで輸出されていた。つまり北九州は奴隷貿易の一大拠点だった。
後期倭寇になって中国や半島からさらわれてくる奴隷は減少するが、北九州-琉球-東南アジア
の流通ルートは維持され、北九州が奴隷貿易の拠点であることは変わらなかった。
まあ奴隷貿易の拠点だったとしても
>人権とかもっとも薄い地方
と言われちゃうと、???だけどね。
413 :
人間七七四年:2008/08/27(水) 23:14:57 ID:M8RGYBmM
>>405 >日向侵攻〜耳川合戦はキリスト教国建設を目指した宗麟主導の下、軍事行動が起こされたと
>あるんですが、wikiなどでは義統や田原氏などが主導で行ったともあります
何度も書くように大友氏の最終決定は、大友家当主と加判衆の話し合いで決定されるわけだから、
一応隠居で臼杵にいた宗麟の独断での出兵決定は無理だ。
土持氏滅亡後、土持氏の旧領の直轄領化と宗麟が日向で寺社打ちこわしを行ったということから、
キリスト教徒の理想郷作りと云う話が出てきたんだろう。
これも、蔵入地を増やすために行ったと解釈するほうが自然な話だ。
>>407>>409 硫黄があるよ。
大友氏は、硫黄と鉄製品の輸出を盛んに行っていた。
>大砲の武器類とかと交換
大砲は、買ったんじゃなくて総督からもらった。
ついでに鉄砲伝来のごく初期から宗麟は、鉄砲・大砲の製造を
習得させるために家臣を種子島や明に派遣している。
414 :
人間七七四年:2008/08/28(木) 03:34:29 ID:O/sOkD9k
島津の人権ゼロぶりは有名
415 :
人間七七四年:2008/08/28(木) 09:31:36 ID:tNJlFnDY
| Hit!
|
ぱくっ|
/V\
/◎;;;,;,,,,ヽ そんなエサで
_ ム::::(,,゚Д゚)::| 俺様が釣(ry
ヽツ.(ノ:::::::::.:::::.:..|)
ヾソ:::::::::::::::::.:ノ
` ー U'"U'
416 :
人間七七四年:2008/08/29(金) 05:33:13 ID:Fmm9w2KX
>>413 ん〜じゃあ、義統と加判衆の協議によって
領土拡張の為に進軍したと見るのが自然と?
なんだかいろいろ資料を読んでると
隠居後も、宗麟がかなり活発に動いていて
逆に義統は筑前・筑後などの北九州の攻略に
こだわっていたような形跡が見れるんですが・・・
義統主導であって、宗麟主導ではないって根拠は
どの程度あるんでしょうか?名目上、隠居してたから宗麟は無いってのは
ちょっと弱いような気がするんですが。
417 :
人間七七四年:2008/08/31(日) 20:26:42 ID:4SiTeJ71
>>416 宗麟と義統のどちらの主導なのだろうか? という問いに対し
宗麟の独断は無い というややズレた回答なので(主導と独断は違う)、
それに対して回答するとまたズレるぞ。
当時の家臣団は義統派と宗麟派に分かれていたと思われる。
日向遠征に従った連中は宗麟派が多いから、
宗麟の独断で日向派兵を決めたわけではないだろうが、
宗麟派の主導で出兵に漕ぎ着けたと考えるのが自然じゃないか?
418 :
人間七七四年:2008/09/03(水) 00:34:26 ID:CPRWZFEN
>>417 語弊がありましたね。説明不足ですみません。
宗麟の「独断」か否か?ではなく
義統派閥が先導となったのか、宗麟派閥が先導となったのか?が
聞きたいところでした。
やはり宗麟派閥の主導が有力なのでしょうか?
逆に義統派閥の主導説だと、何が根拠となるんでしょうね?興味あるところです。
で、また質問になってしまうのですが
引き続き、大友氏に関する資料を読んでいたところ
戸次鎮連(立花道雪の養子、名目上の戸次氏の当主)が
1586年頃の島津氏の豊後南部侵攻に際し、内応した人物の1人として挙げられていたのですが
その持ち城として「鎧獄城」とありました。
この城の存在した場所はどこなのでしょうか?
1586年の侵攻で寝返った南郡衆の1人として紹介されていたような気がするんですが
当時の戸次氏は道雪のいる筑前でなく、豊後南部に城を持っていたのでしょうか?
419 :
人間七七四年:2008/09/03(水) 00:36:37 ID:CPRWZFEN
すみません、ちょっと調べたら
「鎧獄城」は豊後国・大野郡藤北名にあったとありました。
自己解決でした。
420 :
人間七七四年:2008/09/03(水) 00:47:02 ID:jSTd2SzH
>>419 403に書いてあるHPを見てみると、写真が載ってる
鎧嶽城
421 :
人間七七四年:2008/09/04(木) 23:48:13 ID:XjvC579R
奈多鎮基 (?〜1587年)
奈多鑑基の三男。田原親賢(紹忍)の弟。父の死後、家督を継ぐ。社奉行。
父同様に社領横領を行う。天正七年、耐えかねた宇佐神社は田原親賢を通じ、鎮基の社奉行罷免を訴えている。
天正八年、安岐城攻めに向かう木村鎮秀、鎮之父子を討つ。このように田原親賢に味方する一方、
家臣に宛てた感状には田原征伐の功を賞したものがある。
田原征伐時、鎮基は双方に軍を送っていたのだろうか。
嗣子無く、久我家から養子を迎えている。天正十五年没。鎮基没後、養子は京に戻り、奈多家は滅亡した。
↑
この人は、親家が田原家を継いだ後は、何やってたんでしょうか?
紹忍との血縁からどっかの城をもらってた?隠棲?
義統か宗麟の直臣?紹忍の下で動いてた?いまいちポジションがわかりません。
422 :
人間七七四年:2008/09/20(土) 15:12:17 ID:ciSUhzbo
なんか豊後の話題ない?
423 :
人間七七四年:2008/09/25(木) 15:44:03 ID:2Ncgk2UD
大友家に3代にわたって仕えたらしいのですが
小田部鎮正・鎮元・鎮房?について何かわかりますか?
424 :
人間七七四年:2008/09/26(金) 17:24:45 ID:tfyYMlnq
宗麟の時代は、大友家中の「宗教紛争」も、相当のものだったらしいね。
425 :
人間七七四年:2008/09/30(火) 03:25:56 ID:3L5VrXpF
小田部氏って筑前早良郡の荒平城主だよね。
鎮元(鎮通)は鷲ヶ城主大鶴上総入道宗雲ノ子? 入道紹叱
鎮房(統房)は鎮元(鎮通)の子?
二人とも龍造寺勢との池田合戦で討死したらしいけど…。
426 :
人間七七四年:2008/10/03(金) 23:53:11 ID:+ia3kp6L
高橋紹運の岩屋城での死に際に関して
いろいろ記述があるけども
あれらは、ほとんど創作ですか?
籠城した方は(少なくとも近臣は)全員玉砕したはずなのに
何故かやたら死に際のエピソードが多い。
・辞世の句
2種類伝わるが、詠んだ句を誰が伝えたのか?島津兵が聞いているわけないし。
・自害に際して、敵に首を渡さないようにと、城に火を放とうとした家臣を止め、
あえて首を取らせることで忠義の士として世に名を残したいとか言った話。
そのやり取りを誰が見ていてどう伝えたのか?
とか。
427 :
人間七七四年:2008/10/04(土) 01:50:48 ID:c8ECrHpK
>>426 辞世の句の一つは、城門に書かれていたんじゃなかった?
428 :
人間七七四年:2008/10/04(土) 11:09:03 ID:E64vwS7K
非戦闘員も何人かは残ってたのかもね
429 :
人間七七四年:2008/10/17(金) 15:08:17 ID:FZBIPHb7
生き残った人もいそうだよね
430 :
人間七七四年:2008/10/17(金) 15:49:49 ID:nTNjyVAR
まあ本当に全員玉砕したのなら、「全員玉砕した」って言う記録自体が残らない。
431 :
人間七七四年:2008/10/17(金) 16:08:26 ID:q4TDey0y
辞世の句って、いつ死んでもいいようにあらかじめ残しておくものじゃない?
432 :
人間七七四年:2008/10/17(金) 22:33:35 ID:3MBb6se0
矢倉の戸に書いた
433 :
423:2008/10/20(月) 07:18:39 ID:NA0+cAVl
>>425 小田部統房は1596年の立花家の文書で2000石貰ってるので
(同時代の小野鎮幸が5000石、吉弘統幸が2000石)
少なくともその頃は存命だったと思います。
また、関ヶ原で立花家が改易された後、
1621年に「柳川に復帰できるかもしんねー」って書状を
宗茂から受け取っているので、この時も(柳川周辺で)存命であったと思われます。
娘が宗茂の養女にもなってますし
結構な重臣であったと思うのですが、いかんせん記録がない。
何かわからんですかね・・・
>二人とも龍造寺勢との池田合戦で討死
あと、この「池田合戦」について、誰か御教授いただけないでしょうか?
434 :
人間七七四年:2008/10/20(月) 08:01:20 ID:z0VWl4bY
辞世の句はいつ死んでもよいように生前にあらかじめ書いて保存してるのがほとんど。
岩屋城が実際に燃えてないのを島津側が不思議に思って生存者に聞いたんでない?
兵以外の非戦闘員を島津が奴隷にとった時に聞いたとか。
苦戦した島津も自分たちが弱いから苦戦したんでない相手がすごかった。彼がいなければ九州制圧してたみたいな気持ちから彼を名将として島津側も誇張したとか
435 :
人間七七四年:2008/11/08(土) 15:22:14 ID:NsNqy6hH
確かに咄嗟に詠むのは難しいよね。
436 :
人間七七四年:2008/11/22(土) 09:49:30 ID:ajWzfFi7
437 :
人間七七四年:2008/11/29(土) 14:26:50 ID:nkZHjtQI
今度のその時歴史が動いたの予告見たけど、
4年前の松平健主演のドラマ映像を流用していたな。
438 :
人間七七四年:2008/11/29(土) 15:43:30 ID:p0j3sERS
過去のドラマ映像の流用は日常茶飯事
今更指摘する程の事じゃねーよな
439 :
人間七七四年:2008/11/29(土) 16:24:35 ID:nkZHjtQI
だから?
それもいちいち指摘するほどのことでもない。
440 :
人間七七四年:2008/11/29(土) 17:34:07 ID:p0j3sERS
↑それもイチイチ指摘する事でもないわなw
441 :
人間七七四年:2008/11/29(土) 18:05:55 ID:nkZHjtQI
それを言うならそれも指摘することでもない。
442 :
人間七七四年:2008/11/29(土) 18:29:21 ID:p0j3sERS
同じ意味の事言ってどうする?
煽り耐性のない子だなぁww
443 :
人間七七四年:2008/11/30(日) 02:24:29 ID:kdfet4WV
↑それもイチイチ指摘する事でもないわなw
444 :
人間七七四年:2008/11/30(日) 06:54:56 ID:Twb7KJ/h
445 :
人間七七四年:2008/11/30(日) 08:05:53 ID:rpk23nNP
あんな低レベルの煽りに反応してしまった彼の日常生活が心配
普段でもちょっとした言動に切れて家族に当たり散らかしてなければ良いが
446 :
人間七七四年:2008/11/30(日) 14:34:23 ID:5PptFOck
大分県民って切れやすいの?
447 :
人間七七四年:2008/12/03(水) 23:53:39 ID:45ZrMhfh
チラっと歴史は動いた見たけど、マイナス面も大きい人なのに何だかなぁって感じ。
448 :
人間七七四年:2008/12/04(木) 00:06:37 ID:7z2OMX5B
吉統もなんか勇ましく描かれてたな
449 :
人間七七四年:2008/12/04(木) 01:07:17 ID:qh1nsBmz
というか、義統の自画像を初めて見た
450 :
人間七七四年:2008/12/04(木) 02:52:05 ID:7z2OMX5B
自画?
451 :
人間七七四年:2008/12/04(木) 03:29:47 ID:Ej9WmCau
義ムネってごつかったんだな
452 :
人間七七四年:2008/12/04(木) 05:55:49 ID:qdSYMESN
義統の絵は本人の姿を写した肖像画じゃなかったね
ありゃどう見ても江戸時代辺りに描かれた錦絵だわ
453 :
人間七七四年:2008/12/05(金) 01:46:12 ID:E6g15KW5
454 :
人間七七四年:2008/12/05(金) 02:00:55 ID:Xv5ZOkQn
455 :
人間七七四年:2008/12/05(金) 23:07:10 ID:VCbMI2ct
だったら最初から煽るなよって感じだけどな
こんな過疎スレで煽って喜んでるなんて……
456 :
人間七七四年:2008/12/06(土) 12:13:19 ID:3nWeAmMb
>>455 いつまでもグダグタと、いい加減流れぶった切れよ
457 :
人間七七四年:2008/12/07(日) 08:04:37 ID:GqrnEk9V
耳川で負けた理由がようわかった
458 :
人間七七四年:2008/12/07(日) 14:52:16 ID:TrMkg+JQ
『歴史は動いた』でようやく取り上げられたのに、スレの伸びが少ないのは宗麟の人望のせいか?w
459 :
人間七七四年:2008/12/07(日) 23:16:14 ID:aDwlkePV
大友アンチきもい
仕事しろよハゲ
460 :
人間七七四年:2008/12/07(日) 23:30:57 ID:NLCiKRtE
461 :
人間七七四年:2008/12/08(月) 10:40:39 ID:QpZ9yO77
大友も、あの支配体制でよく勢力拡大したものだな
決して守護的体質から抜け出せたとも思えないし
そこまでうまくいく何かがあったんだろう
462 :
人間七七四年:2008/12/08(月) 19:24:22 ID:aIelrmLn
少弐も大内も弱ってたから、残るは雑魚ばかり
その空白地帯をうまく突いたんだろうね
463 :
人間七七四年:2008/12/09(火) 03:49:44 ID:46LOOwM2
大友さんは最後の守護大名
ようやく中央集権やりだすのが下手すると義統の代になっちゃうわけで
464 :
人間七七四年:2008/12/09(火) 07:36:12 ID:CDL7Bsqh
さっき夜中に再放送の歴史は動いたで宗麟があってて見たけどなんか泣きそうになるくらい感動した。立派だったんだな
しかも立花道雪がちゃんと輿に乗って鉄砲打ってたから良かった。
465 :
人間七七四年:2008/12/09(火) 08:06:37 ID:e4Y8G30K
その時歴史が動いたの宗麟ちゃんは
奇行蛮行の生涯の中から数少ない良い面を選び出したせいか
純真で人の良いおぼっちゃん大名の様な印象を受けたな
やっぱ家臣の女房を横取りしたりとか、嫁が嫌で家出したりとか
道雪の策略に引っかかり、道雪の家にホイホイ訪れる間抜けな面とかも出してくれないとねぇ
そう言うマイナス面を抱え込んでるにも関わらず一代で数カ国の国守になっちゃって
それを一代で没落させちゃたのが宗麟の宗麟たる所以だと思うんだけどな
466 :
人間七七四年:2008/12/09(火) 22:19:27 ID:3Q96v/+d
もう少し宗麟が頑張ってくれば、大分は九州の‥‥
いや、なんでもない。
それはそれで、キリシタン関係で新たな戦乱が起こっていた可能性があるよな
467 :
人間七七四年:2008/12/12(金) 07:51:08 ID:bLO+MiFo
九州は秀吉の大陸出兵の兵站基地なんだから、大友だろうが島津だろうが、どの道潰される。
468 :
人間七七四年:2008/12/24(水) 22:15:44 ID:ExAhJH6v
大友が改易されなかったら緒方洪庵が滴々塾を佐伯で開いてたかもしれんがな。
469 :
人間七七四年:2008/12/26(金) 11:31:17 ID:Fb3woN2T
そんで福沢諭吉は中津に来なかったと
470 :
人間七七四年:2009/01/05(月) 01:31:46 ID:S726T8jt
471 :
人間七七四年:2009/01/07(水) 06:20:56 ID:JQvllloY
オーケン?
・セックス依存症
・金に汚い
・肝が弱くてなにかにすがる
・ひとの彼女とファック
くらいか共通点。
472 :
人間七七四年:2009/01/10(土) 01:12:59 ID:+qZktyK7
473 :
人間七七四年:2009/01/11(日) 16:41:16 ID:7RaGKCbv
岡城を落とせる武将を挙げてくれ
474 :
人間七七四年:2009/01/11(日) 19:16:23 ID:TNPzL9YS
475 :
人間七七四年:2009/01/13(火) 01:43:34 ID:cBbRDUly
476 :
人間七七四年:2009/01/16(金) 07:43:48 ID:N6WN+K4C
477 :
人間七七四年:2009/01/20(火) 20:59:57 ID:GMwB4Yno
昨日岡城を島津から守ってる夢みたよ
でも城兵は俺含めて4人しかおらず、それに引き換え敵は30人だから
易々と侵入されて乱戦になった
鉄砲はおろか弓矢もなくしょうがないから敵兵が持ってた丸太ん棒を
奪って振り回してた
敵は士気が低く指揮系統もガタガタだったら何とか押し返せたよ
そしたら今更味方がゾロゾロ60人くらい集まってきやがった
ああそういえば最初の4人の中にイチローがいたよ
478 :
人間七七四年:2009/01/20(火) 21:53:29 ID:eVu9VK1J
>>473 まじめに考えると、秀吉とか黒田官兵衛。
武田信玄、真田昌幸あたりなら落とせるかも。
479 :
人間七七四年:2009/01/21(水) 05:07:23 ID:YIU3JEld
>>478 真面目に考えてその面子か・・・
信長の野望しか知らないでしょ?
480 :
人間七七四年:2009/01/21(水) 07:05:40 ID:+kMmy3U3
なら君が名前を挙げて見れば?
仮想の話に信長の野望とか言い出すって…なんか思い入れが有るの?
481 :
人間七七四年:2009/01/21(水) 07:57:47 ID:cB7KsAOa
俺なら岡城攻めには秀吉の名を上げるな
岡城は絶壁に囲まれまともに行けば難攻不落の感あるが
取り付きにくい城と言うのは間道少なく外部から補給の難しい城でもあるから
籠城戦に誘導し秀吉得意の兵糧攻めに持ち込めば落とせるんじゃないかな?
482 :
人間七七四年:2009/01/22(木) 00:23:21 ID:CKL/6Q1b
>>480 現実的に考えて土地勘のない場所での城攻めは
現地の人間以外が主導権握ってやると
大概失敗する。(圧倒的兵力差を要する場合を除き)
黒田官兵衛も城井宇都宮攻めで散々敗れてるし
石田三成の忍城攻めもそうだよね。
秀吉は長らく中国攻めで諸侯を取り込んでいたからこそ
備中高松攻めも成功したわけで。
せめて、九州の武将を出すのが無難なんじゃないの?
いくら仮想の話でも。「真面目に考えると」って前置きしたんだから。
武田や真田なんて無茶過ぎる。
483 :
人間七七四年:2009/01/22(木) 01:12:32 ID:XbIawkvF
>>482 指揮する将に土地勘はいらんよ。
実行部隊に土地勘があればいいだけの話。
また謀略(離間や内通など)による攻略を考えた場合もいらん。
土地勘は必須ではなく、あったほうがいい程度じゃないか?
484 :
人間七七四年:2009/01/22(木) 01:26:00 ID:CKL/6Q1b
>>483 だから、完全架空の話ならいいけどさ
>>748は「まじめに考えて」って前置きしてるんだから
その地方の武将か、それらを指揮できる立場(秀吉とか家康とか)じゃないと
無理でしょ、って話。
そこで武田だの真田だの、まったく他地方の武将や
九州攻めで失態犯してる黒田が出てくるのが非現実的って話。
島津の大攻勢の前に他の一族が次々寝返った中で
残った志賀親次が離間工作に応じるとも思えないし
実際に土地勘の無い黒田勢は散々に打ち破られてるし
土地勘の無い場所で深追いしたり、無理攻めして大敗を喫するって
例はいくらでもあるじゃない。
有名な武将挙げるだけなら、誰でもできるよ。
485 :
人間七七四年:2009/01/22(木) 07:22:07 ID:f0/SvSV7
流れd切りでスマンがこのスレの方が史板の大友関連スレより、大友氏のルーツから考察してて面白いな。
第一、スレタイからしてこちらの方が史板的だし。
486 :
人間七七四年:2009/01/22(木) 21:23:29 ID:XbIawkvF
>>484 志賀が篭城してる設定の話じゃねーぞ?
単に「岡城を攻略するには」って話なんだから、志賀がいる前提なわけない。
篭城武将がアホだと攻略云々の話なんぞ面白くもないから、
任意の良将が篭城した場合の岡城の攻略には、っていう前提で話してるわけだろ。
478とか481はたぶんそう。
真面目に考えて=史実を念頭にして、とでも思ってんのか?
ちょっと頭固すぎるぞ。
ifの話をするときは柔らか〜い思考でいこうぜ。
487 :
478:2009/01/22(木) 22:06:19 ID:X7NtUAtF
>>484 あ、なんか適当に書いてスマン。
秀吉と官兵衛は真面目に。信玄、昌幸は
>>486氏が言うように、
歴史のifって感じで。
秀吉は別格として、官兵衛は実際に岡城を攻略する一歩手前
まで行ったからね。関ヶ原のとき中川氏が西軍から寝返らな
かったら、石垣原の後は佐賀関〜岡城の攻略だろうから、
プランぐらいはあったはず。
まあ、確かに城井谷城の攻略には失敗してるけどね、長政は。
ありゃ兵糧攻め以外で力攻めは無理よ、実際に行って見ると。
大軍が展開出来んからね、地形的に。
岡城の方がまだ包囲しやすい分、官兵衛なら落とせると思う。
志賀氏の戦いも当然、官兵衛は情報としてフィードバックしてる
だろうし。
488 :
人間七七四年:2009/01/22(木) 22:24:00 ID:HkMcs8Lf
>>487 中川氏は東軍じゃなかった?
太田一吉が西軍だよね?
489 :
478:2009/01/22(木) 22:33:08 ID:X7NtUAtF
>>488 中川氏も西軍に援軍出してるんだよね。
関ヶ原の結果次第で、黒田氏と敵対した
可能性は有るかと…
490 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 07:17:06 ID:RSxQFZMk
二階崩れの事で質問お伺いします。大友塩市丸の母親はどこの家の人だったのでしょうか?それと入田親誠は譜代家臣ですか?それとも新参者ですか?
491 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 12:49:16 ID:q7hUdKUb
母は不明、入田氏は大友一族。
492 :
人間七七四年:2009/01/25(日) 21:56:09 ID:RSxQFZMk
493 :
人間七七四年:2009/02/05(木) 20:27:54 ID:jBvD0Fvc
来週の日本史サスペンス劇場・壮絶女のスペシャルは
妙林尼特集なんだね。
ちょっとぐらいは志賀や佐伯の活躍も流すのかな?
494 :
人間七七四年:2009/02/08(日) 01:12:00 ID:0WThWt8W
ないだろ。
妙林尼は、吉岡長増の息子の嫁、一説には吉岡長増の後妻だから、鶴崎近辺の話が主だろうし。
ちなみに出身は、林右京亮の娘、または丹生氏の娘とあって、よくわかっていない。
討ち取られた伊集院久宣の墓は、薩摩のほうに向けて大分市内に建てられている。
495 :
人間七七四年:2009/02/08(日) 01:19:17 ID:f1iSKCqm
息子の甚吉の丹生島城の甚吉坂での活躍くらいは
やって欲しいんだがな。
496 :
人間七七四年:2009/02/09(月) 08:02:13 ID:nawRtK0e
そーりんが九州統一するためにはどうすればよかったの?
497 :
人間七七四年:2009/02/09(月) 11:19:38 ID:FJI+tSWe
島津を倒せばよかった
498 :
人間七七四年:2009/02/09(月) 11:50:54 ID:oXyKvTOc
つ 得体の知れない外来の宗教にうつつを抜かすのをやめる
499 :
人間七七四年:2009/02/09(月) 12:10:55 ID:qYHdqimb
九州探題とって毛利追い出した時点で室町的な意味では九州統一したといえる
500 :
人間七七四年:2009/02/09(月) 12:44:34 ID:0bv6i6Jn
島津家頭首として生まれれば良かった
501 :
人間七七四年:2009/02/09(月) 22:31:50 ID:EiLnWuWr
耳川の総大将を佐伯惟教あたりに任せとけば
負けはしなかったと思うけどね。
502 :
人間七七四年:2009/02/09(月) 23:06:53 ID:/9pPMqJe
酒池肉林やめて奈多八幡の嫁さんとうまくやってれば結構いけたとオモ♪
503 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 20:17:43 ID:rUkcFUWP
すげえな
全国ネットでこんなマイナー合戦
ついでに穴囲砦もやれ
504 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 21:11:47 ID:UjsOzLsj
テレビで妙林尼のやつ見たけどホントは和睦したあと攻将の野村備中とエロい仲だったらしいな
遠山の女城主の例もあるし未亡人のとるべき道というやつか
505 :
人間七七四年:2009/02/11(水) 22:24:26 ID:rUkcFUWP
遠山のはマジで寝返ったんだから違うくね
506 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 01:08:55 ID:EOYIOUgp
>>496 つ[いいからちゃんと重臣の諫言を聞けそして守れ]
507 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 04:30:04 ID:9yYsxVQZ
>>505 信長が信玄にブルってすぐに奪回しなかったのが悪い
508 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 04:54:01 ID:yihHK+9B
>いいからちゃんと重臣の諫言を聞けそして守れ
しかしそれでは宗麟と言えない
やっぱオイタが過ぎるくらいがちょうど良い
509 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 14:07:29 ID:EJKm/B6l
途中まではやりたいようにやって、気味が悪いくらい成功したんだから、
そりゃ重臣の諫言なんて聞く気にはならんわな。
510 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 20:00:20 ID:Sxz36Pzh
>>509 正確には道雪と3老が傍にいる内は上手く行ってたんだ。
511 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 21:51:49 ID:e9r23xQQ
後、戦線が拡大したのもキツイ。周りが毛利、島津、竜造寺って、
強敵だらけ。しかも筑前、筑後は不安定ときてる。
信長ですら戦線を拡大しすぎて、包囲網しかれてピンチになったし。
最低、毛利と同盟を維持して、後顧の憂いを絶たなきゃ九州統一は
出来んでしょうね。あとは島津をつぶせるか?って話だな。
512 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 23:32:13 ID:+p8eGqQO
毛利との戦いの後は、大友は毛利に娘を嫁がせているから、それなりに休戦(同盟)状態だったし、
しかも尼子とか信長とかで毛利は九州に手が廻らなかったから、毛利辺りに憂いは無かったのでは。
結局は、今山の戦いで龍造寺を滅ぼせなかったのが痛かったんだろうな。
ここで龍造寺を滅ぼすなりして柳川を制圧しとけば、
耳川の戦い(島津との戦い)に道雪や紹運とかが参戦できていただろうから、
(もしかしたら鍋島や秋月とかが家臣になっていたかも)
充分、島津を倒せて、九州統一ができていたはず。
以上、妄想でした。
513 :
人間七七四年:2009/02/12(木) 23:39:09 ID:dbofyCZr
幕府の権威を傘にでかい顔してたのに、よりにもよって宿敵毛利が将軍おさえちゃったからね
514 :
人間七七四年:2009/02/26(木) 15:11:40 ID:zdJhEDfU
大内は朝廷、大友は幕府を利用していた感じだったのにね
515 :
人間七七四年:2009/02/26(木) 20:25:54 ID:VUgHmefu
その後は、あっさり信長に乗り換えているよ。
耳側の合戦後の和睦を仲介したのは、信長だし。
明智光秀が出雲・石見は切り取り次第と言い渡されていたとき、
大友氏には周防・長門は切り取り次第と言い渡されている。
ちなみに後継者になった秀吉にも小牧・長久手の戦いの戦勝祝いの使者を
送っている。
島津義久が豊後攻めを躊躇っていたというのも大友と織田・豊臣の関係を考えれば
間違いとはいえないと思う。
516 :
人間七七四年:2009/03/07(土) 20:36:40 ID:uqLf5twv
>>423>>425>>433 鷲ヶ城主・大鶴上総介【鎮正】入道宗雲・(大鶴宗雲で統一さして貰います)
↓
長男 平戸城・松浦鎮信の養子に
次男 荒平城・小田部鎮元には長男九朗(統房)・次男源次郎
>あと、この「池田合戦」について、誰か御教授いただけないでしょうか?
そんな名前付いてるのかw知らなかった。
竜造寺勢(大将・執行越前守)は約5000の兵で荒平城攻めるも篭城する荒平勢をを3ヶ〜6月掛けても落せず、仕方なく矢文にて領土安堵で開城求めるも大友の恩義のため拒否。
荒平側も兵糧尽きてきたので城主切腹で家臣の命助けを求める決断するも、鎮元の父親鷲ヶ城主の大鶴宗雲が立花道雪に援軍と兵糧求める手紙を送りて立花道雪応じて再度篭城を決意。
到着した立花家援軍と合議の末、辰の刻午前8時頃に討って出ことに。小田部勢は手始めに竜造寺に寝返った池田城(大教坊兄弟)を攻めて含め他85首級を攻めて討ち取り。
ただ、援軍で来ていた大鶴宗雲の弟大鶴宗逸が首ひとつも獲れず恥をかいたので、鎮元の息子九朗に勢いに乗って内野城(竜造寺陣城?)を強襲することを進言し進軍するも、
老兵と疲労で池田城救援に向かったて戻ってきた竜造寺勢に囲まれ討死。
**池田城主(大教坊兄弟)が裏切ったかというと、理由は酒の席で家臣同士喧嘩の末に池田の家臣を切り殺し両家不仲に領地も減られ真っ先に寝返り。
荒平城の兵力・騎馬164・歩行侍420・足軽300・小姓180の約1100名余り+老人・女子供。
援軍
鷲ヶ城主・大鶴宗雲の弟大鶴宗逸で約500名、鷲ヶ城も攻められてます。
立花道雪の家臣十時摂津約560騎、内野城から約600Mの離れた老松神社付近に布陣し辰の刻に攻める手筈だったが荒平城主が死んだことを知り戦わず帰還。
>二人とも龍造寺勢との池田合戦で討死
池田合戦で討死は荒平城主鎮元・長男の九朗(統房)親子・宗雲の弟大鶴宗逸。次男・源次郎は落ち延び。
次男・源次郎(土佐統房)は母親と供に落ち延びて立花家に。
初陣19歳で高鳥居城攻め、その時右目負傷で戦場を退く。
後の活躍で立花家の家老2000石の家臣に役職は奉行職、朝鮮の役では2回とも同行。
関が原の時は源次郎【土佐統房】は不明・息子の【鎮考】少年隊隊長として酒見(大川市)付近で四千人の兵を指揮。
源次郎【土佐統房】は立花改易後、宗重にお供するかと誘われるも妻が亡くなった地を離れてたくないので断る。
その後は、田中吉正に仕官し1000石。
立花宗重柳川復帰後は再仕官。
源次郎【土佐統房】500石、後に隠居して宗然寺開基住職に宗の字は宗重が柳川復帰後に貰い受けたもので嫡子は隠居後に代々宗然寺住職を継ぐことになってる。
↓
息子の鎮考は奉行職命じられ1500石
ttp://www1.bbiq.jp/hukobekki/arahirayama/arahirayama.html 大友の小合戦好きなら↑とこに詳しく書いてある。
自分の郷土参考に書かして貰ったので上のサイトと一部違う点はあると思う。
いまさらだが書き込みww
517 :
人間七七四年:2009/03/23(月) 16:26:27 ID:8is91ucc
518 :
人間七七四年:2009/03/24(火) 23:45:57 ID:VZ+xza5M
戦国時代の大友家の軌跡をイラストを使ってドラマ仕立てで
紹介してるサイトがあったはずなんだけど誰か知らない?
観たの2001年だからもう無いかも知れないが
519 :
人間七七四年:2009/03/25(水) 01:00:21 ID:PZ+XuEnz
島津に比べかなり場所的に武が悪い大友。うん、秋月とかの反乱やら龍造寺などと戦いながらの耳川の合戦だからきついよね。大友良いとこもあるけど、愚かというか。道雪が死んでからの敗色が濃厚。
520 :
人間七七四年:2009/03/25(水) 01:01:53 ID:PZ+XuEnz
でも大友氏好きです。民守ったから(*-ω-)y
521 :
人間七七四年:2009/03/28(土) 13:19:05 ID:3GIeZvPK
宣教師に人を売り飛ばしたりはしてないの?
522 :
人間七七四年:2009/03/30(月) 14:17:30 ID:lhw4zGcX
前の方をよく読め。
523 :
人間七七四年:2009/04/08(水) 22:54:51 ID:mqNGBheR
宗麟の心は大分の人たちに受け継がれていると俺は思っている。
524 :
人間七七四年:2009/04/18(土) 08:20:48 ID:C+A0+jhO
道雪がいい
525 :
人間七七四年:2009/05/02(土) 11:47:47 ID:GbHIzcLr
強いよな
526 :
人間七七四年:2009/05/16(土) 14:32:02 ID:u2kAPHFd
宗麟が暗愚なのか。
527 :
人間七七四年:2009/05/16(土) 20:51:57 ID:3A2RaQmV
宗麟はやれば出来る子だけど、
基本ニートで突然狂乱したりする人。
528 :
人間七七四年:2009/05/30(土) 11:45:37 ID:hTyjFiRW
宗教に嵌まって狂乱する人とか コワイ。
529 :
人間七七四年:2009/05/31(日) 00:15:50 ID:KJpvpx0I
|ヽ ,,|,~'i、 .,_ ,ri、 .l゙‐'"'i、 ,, ,i、 ,、 vi、
| k, ヽ广 | | 'l''゙l┘ .`'グ/ |゙l.,ィ |.| )゙l /'゙l″、 r-,、 、 .:c、、
ッ┘`,l゙ ,ノ ヽ ,,,,,`'′ .,/,,,!‐'', ,ノ う゜.| | .,ノ ヽ ,,,,,`'′ |゙l ゙l,ヽ .|゙l ヾi、
゙i、/゙,-'''i、 .く, .,巛 ‘r\ /.'゚_ / ./‐I / | | .〈、,l]゙l `',\ | | ,。 .,i´゙l | | . il゙ ゙l
l゙.l゙ ゙lッ'" ././ | | .,,) ゙l .!/]/ 丿 | .l゙.|、 /丿| | .,,〉.) | ゙l .,リ .`-" .l゙ | .,l〕 .ヽ"
/.l゙ j,i´ l゙,E.,l゙.| `'''′ l゙{ /,,| | ゙l,ヽ .゙l,d,,l゙ | `'''゙ ゙l ゙‐'| ゙l ゙‐'|
/ l゙ ゙l,~゙'''i、 .゙l´丿 | ゙l, '(/|゜| .゙-゙l .゙l`丿 \.,} \.,}
∨ `''ー" ゙'" ヽ ゙l ヽ} `" `
530 :
人間七七四年:2009/05/31(日) 21:42:50 ID:XSg8dUuo
幅取りすぎだなそのAA
531 :
人間七七四年:2009/06/01(月) 05:42:16 ID:G4IyPYH0
|ヽ ,,|,~'i、 .,_ ,ri、 .l゙‐'"'i、 ,, ,i、 ,、 vi、
| k, ヽ广 | | 'l''゙l┘ .`'グ/ |゙l.,ィ |.| )゙l /'゙l″、 r-,、 、 .:c、、
ッ┘`,l゙ ,ノ ヽ ,,,,,`'′ .,/,,,!‐'', ,ノ う゜.| | .,ノ ヽ ,,,,,`'′ |゙l ゙l,ヽ .|゙l ヾi、
゙i、/゙,-'''i、 .く, .,巛 ‘r\ /.'゚_ / ./‐I / | | .〈、,l]゙l `',\ | | ,。 .,i´゙l | | . il゙ ゙l
l゙.l゙ ゙lッ'" ././ | | .,,) ゙l .!/]/ 丿 | .l゙.|、 /丿| | .,,〉.) | ゙l .,リ .`-" .l゙ | .,l〕 .ヽ"
/.l゙ j,i´ l゙,E.,l゙.| `'''′ l゙{ /,,| | ゙l,ヽ .゙l,d,,l゙ | `'''゙ ゙l ゙‐'| ゙l ゙‐'|
/ l゙ ゙l,~゙'''i、 .゙l´丿 | ゙l, '(/|゜| .゙-゙l .゙l`丿 \.,} \.,}
∨ `''ー" ゙'" ヽ ゙l ヽ} `" `
532 :
人間七七四年:2009/06/15(月) 15:54:10 ID:swGkGtc3
面白い題材ではある
533 :
人間七七四年:2009/06/24(水) 01:12:27 ID:DIZSbyVO
大友家って優秀な武将多かったけど
家臣団体系は旧態依然?
534 :
人間七七四年:2009/06/24(水) 03:47:04 ID:VODBa/DR
まさに旧態依然だろうね。
義鑑&宗麟の代で頑張ったけど大名に権力が集中出来る戦国大名家になったのは、耳川で有力な重臣が粗方戦死した後だし。
一方島津は領地経営者と戦闘指揮官を完全に切り離して、
厳密な責任管理がなされた当時の日本としては最先端体制を薩摩統一の段階で完成させたチート集団。
そりゃいくら優秀な家臣が大量に揃っていても太刀打ちでけんわ
535 :
人間七七四年:2009/06/24(水) 17:52:22 ID:tF5aaT40
>>534 薩摩は結果的にそう言う体制になっちゃっただけで、それを仕組みとして取り入れたわけじゃ無いだろ。
536 :
人間七七四年:2009/06/24(水) 23:42:13 ID:PClMrIUy
>>535 だから改革に四苦八苦して滅亡していく家がある中、流れでそうなった事を指してチートって言ってるじゃん。
537 :
人間七七四年:2009/06/25(木) 01:00:06 ID:oPnhd8GL
538 :
人間七七四年:2009/06/25(木) 17:24:05 ID:qFt5Q5U4
島津の場合は秀吉のおかげだろ
539 :
人間七七四年:2009/06/25(木) 20:10:18 ID:ZzVK1NKU
秀吉に臣従したのは大友の方が先なのにね
秀吉のおかげというより秀吉に敵対してたから徹底的に介入されたというのが正しいかも
540 :
人間七七四年:2009/06/25(木) 23:11:52 ID:QY1Gu7+9
>>534 >まさに旧態依然だろうね。
大友は「最後の守護大名」ってどっかで聞いたけど、家臣の知行と軍役が比例してなかったりしたってことか?
よくそんなんで九州6カ国も制覇できたって思うな。
まあ大内が消えて運が良かったのもあるけど。
541 :
人間七七四年:2009/06/28(日) 21:14:59 ID:Jb/vj/hR
支配国ってのは、要するに得ていた守護の数だからね
大内や少弐の後釜も平然と幕府に主張してたから、
下剋上で大暴落した元名門の株を買い漁って喜んでただけというか
542 :
人間七七四年:2009/07/04(土) 11:12:42 ID:pFkqVb9s
そりゃちょっと違う。
元々その国に所領があり、影響下にある勢力が
あるんだから、ちゃんと意味がある。
筑後・豊前は守護を度々つとめているし。
筑前・肥後・筑前にも所領と影響下にある勢力が、いた。
543 :
人間七七四年:2009/07/04(土) 15:33:24 ID:BnMhDK1i
守護大名と戦国大名の違いがいまいち分からん。戦国後期に生き残っていた中では
大友家は守護大名寄りの体制だったということ?
544 :
人間七七四年:2009/07/04(土) 23:55:25 ID:0UbKkE4w
武田や伊達も似たようなもん
545 :
人間七七四年:2009/07/05(日) 09:21:16 ID:sAd2qOvY
>>542 >筑前・肥後・筑前にも所領と影響下にある勢力が、いた。
筑前や肥後は分かるけど、肥前はあんまり大友の影響受けてそうな国衆がいないと思うがなあ。
有馬や松浦が大友寄りだったの?
546 :
人間七七四年:2009/07/05(日) 19:49:26 ID:5Pr0laan
江戸時代の逸話に、大友家じゃ新たに重臣を設けるとき、家中の入り札(投票)でその人物を決めていたが、
義統の時代になってそれが行われなくなり、家老達は大友家の衰退の表われだといって嘆いた、ってを
読んだのだが、重臣を投票で決めるなんてこと、ホントにやっていたのかね?
547 :
人間七七四年:2009/07/05(日) 21:01:10 ID:B3Jh0KXz
>>545 少弐氏衰亡後の肥前小田氏とかは大友派だろ。
少弐氏・大友氏VS竜造寺氏・大内氏の対立構図から、
主に東肥前を地盤とする反竜造寺・親少弐派は、地勢上大友と近しい家もあった。
有馬や松浦は大内派だったような気がする。
548 :
人間七七四年:2009/07/05(日) 22:31:46 ID:HKV8ib3W
>>545 松浦鎮信、龍造寺鑑兼、高木鑑房・馬場鑑周
>>546 その重臣というのが、加判衆のことなのか分からないが。
わりと、当主の独断で決めていたみたいだよ。
宗麟ほどじゃないが、父の義鑑も加判衆の構成を独断で
大きく入れ替えたりしている。
加判衆の構成も、最初は大友の被官だったが、徐々に
又庶流、有力な一族も入るようになっていった。
始まりを考えれば、入札というのも考えにくい。
また、この制度が穏やかに豊後国内の有力者の従属を
促していったんだろう。
549 :
人間七七四年:2009/07/06(月) 05:47:12 ID:f64YCn8L
>>548 なるほど。大友家は君主権力が戦国の初期から比較的強かったのかな?
550 :
人間七七四年:2009/07/08(水) 21:19:26 ID:WT/lS8qk
>>549 大河の毛利元就でも描かれてていた将軍が大内義興たよって流れてきた明応の政変で、
確か大友は真っ二つに割れて当主親子が殺されるという規模の内乱とかやらかしているから、
その時にあらかたの国人勢力をぶっつぶして君主権をある程度確立した可能性ってのはある。
551 :
人間七七四年:2009/07/08(水) 21:26:06 ID:4xaSYqdD
膿を出せたわけか
552 :
人間七七四年:2009/07/09(木) 11:08:07 ID:j8UPrbRD
ぶっ潰したと言うより、段々、解体して行った感じ。
本家が、大きく強くなったと言うより、一族や国人を小さく
していった。
田原氏から武蔵田原氏、吉弘氏を切り放す。
佐伯氏から、他の豊後大神氏を切り放す。
有力者の朽網氏を反乱をキッカケに解体。
553 :
人間七七四年:2009/07/09(木) 18:48:58 ID:Xjmn8S1p
>>552 佐伯氏はよく生き残ったよなあ。
惟治から惟定までの5代で3度は
滅びかけたのに、その都度復活して
幕末には緒方洪庵を輩出してるし。
554 :
人間七七四年:2009/07/10(金) 19:56:20 ID:RUQJQV/L
それどころか、源頼朝にも潰され書けたわけだし。
純友の乱にも関わったのに生き残ったわけだし。
555 :
人間七七四年:2009/07/11(土) 12:31:23 ID:hWCSTz2x
逆に言えば戦国の終わりまで良く生き残ったものだw
556 :
人間七七四年:2009/07/13(月) 11:24:09 ID:8i/TTaTI
武田とかもそうじゃん
外部からの攻撃で勢力的な弱体しなければそうそう滅亡しないよ
557 :
人間七七四年:2009/07/13(月) 11:37:32 ID:RSoo0STV
勢力崩壊の原因は内側、決め手は外側だしな
558 :
人間七七四年:2009/07/15(水) 16:07:31 ID:+9kVciag
大友家ってのは毛利との多々良浜合戦で四万、龍造寺との今山合戦の時は六万(一説では八万)
も動員できたのかい?武田信玄の上洛時でさえ2万五千しか動員できなかったのに
やっぱ勢力だけは侮れないな。
559 :
人間七七四年:2009/07/15(水) 16:30:59 ID:0zPJUpaw
武田家も、北条とか上杉とかの抑えを気にしなければそのぐらい動員できなくもないんだし、
むしろ当時の日本の動員力のヤバさに気づくべき
560 :
人間七七四年:2009/07/16(木) 00:00:40 ID:4I4X6sh9
動員力には、出兵先の生産力も関係するよ。
つまり、現地でどれだけ兵糧が調達できるかね。
基本的に、豊後、筑後、筑前、肥後、肥前は、生産力が高い。
豊前も豊後、筑前から兵糧を運びやすい。
対して戦国時代の信濃は面積の割りに生産力が低い。
交通事情も厳しい。だから信玄は、棒道を整備したわけだ。
上杉謙信が、やたらと大義名分、義を重んじたというのも、兵糧の調達という
観点からは、立派な実利となった。
だって、相手の要請によって出兵してくるのだから、当然要請した側がある程度、
兵糧の面倒をみることになる。そうすると上杉側は、自己調達の手間が省ける
ことになる。
ちなみに大友は、多々良浜合戦では豊前、筑前の軍勢をかなり動員している。
今山合戦では肥前、筑前・筑後の軍勢を動員しておいて、後半になって豊後勢を動員している。
561 :
人間七七四年:2009/07/18(土) 22:49:26 ID:o1XAGfeS
>>560 >大友は、多々良浜合戦では豊前、筑前の軍勢をかなり動員している。
動員できたのは「九州探題さま」のブランド力かねえ?
562 :
人間七七四年:2009/07/18(土) 22:53:28 ID:kD8zDG1O
その九州探題さまが嫌で毛利に付いた筑前衆も多いがな
563 :
人間七七四年:2009/07/19(日) 23:31:52 ID:VSLiYzXD
遠藤周作の『王の挽歌』で、
「九州探題さまが動座なされた!」と言って、ドドッと九州の兵が大友に参集する場面があった。
宗麟がめっちゃ大物に思えたよw
564 :
人間七七四年:2009/07/19(日) 23:53:41 ID:lcP5kRB2
565 :
人間七七四年:2009/07/19(日) 23:59:36 ID:lcP5kRB2
正直合戦なんかより宗教の本だからあまり面白くないが、一番印象に残った箇所といえば
暗い広間ですすけた仏像のように並んだ同紋衆に怯える宗麟という箇所が一番印象に残ったなw
566 :
人間七七四年:2009/07/20(月) 12:29:34 ID:sKcmPqxr
王の挽歌は宗教パートが始まる前ぐらいまでが面白い
大内輝弘そそのかして毛利に信仰するあたりまで
567 :
人間七七四年:2009/07/20(月) 12:32:58 ID:sKcmPqxr
×信仰
○侵攻
もうやだ
568 :
人間七七四年:2009/07/20(月) 12:47:29 ID:OSVX+vHb
>>565 なるほどね、だから猿をけしかけてみたり、いきなり禅問答をふっかけてみたり
してからかいたくなるのね(笑)
569 :
人間七七四年:2009/07/20(月) 23:04:40 ID:3M2K82iY
>>564 新潮文庫版・上巻のp270。
毛利に応じて、竜造寺が挙兵したあたり。
570 :
人間七七四年:2009/07/25(土) 23:45:54 ID:4xNDBAm9
さすがムネリンさま!
571 :
人間七七四年:2009/07/27(月) 22:29:57 ID:QjjeWNDp
大友は毛利を追い払ったぞ!!
572 :
人間七七四年:2009/07/28(火) 07:20:09 ID:w/JuIX80
宗麟はキリスト教熱から、家督を息子に譲り家中を混乱させた二元政治をやる前までは英雄って言っても差し支えない。
妻の実家からも総スカン喰うほどキリスト教に入れあげて瓦解しちまったな…
573 :
人間七七四年:2009/07/28(火) 07:39:15 ID:3I+To7BR
宗教戦争だからな
>妻の実家からも総スカン喰うほど
というよりはキリスト教が入りこんだ宗麟を
一番厳しく批判して反発したのが妻とその実家だから
妻の実家にすら批判された、みたいな論調はちょっと違う
574 :
人間七七四年:2009/07/28(火) 08:41:34 ID:w/JuIX80
他家だけでなく
家族にすらと言う意味で使っただけなんだが誤解を与えたならすまない。
まぁ奈多八幡宮の大宮司家の娘の彼女がキリスト教を許すわけないもんね。
575 :
人間七七四年:2009/07/29(水) 00:01:23 ID:HrYjmyvr
>宗麟はキリスト教熱から、家督を息子に譲り家中を混乱させた二元政治をやる
違うって。
宗麟が、キリスト教を熱心にしていたのは晩年ぐらい。
宗麟が臼杵に移ったのも、純軍事的な理由で、宣教師たちは
連れて行っていない。宣教師達は、ずっと府内に留まった。
そもそも「キリシタン大名」と言う言葉にこだわりすぎるのは
間違いだ。
信長が何でも、最先端だったというようなもの。
576 :
人間七七四年:2009/07/29(水) 08:59:21 ID:e+ro7Fcb
確かにキリシタン大名で、キリスト教に没頭する余り
後の行動を左右するまでに至ったってのは偏見と誇張だよね。
577 :
人間七七四年:2009/07/29(水) 09:41:45 ID:G9LTy34d
部下の家臣の嫁も寝取るほどの女好きだったから
懺悔宗教にマッチングしていたのだろうね。
旧約聖書も読んだのかな?
隣人を貪るなかれ
そんな経緯だから嫁家としちゃ
何を信仰しようが悪い虫が付いた状態にしか見えんわな
578 :
人間七七四年:2009/07/29(水) 10:28:34 ID:48dxOgJR
旧約の偉大な王、ダビデは部下を殺して人妻を寝取ってますが何か。
そうやって生まれたのがソロモンだったり。
579 :
人間七七四年:2009/08/03(月) 15:37:00 ID:jabTt11T
「夷には夷を以て制す」の政戦略で卓越した手腕を発揮し
毛利・島津に対して大出血を強要し「労多くして利少なし」に追い込み翻弄した西国最強大名大友氏。
580 :
人間七七四年:2009/08/03(月) 22:23:48 ID:iH9wCiXy
>>579 > 「夷には夷を以て制す」
これをやり始めると衰退の証拠。
581 :
人間七七四年:2009/08/03(月) 22:53:50 ID:tHpmVxug
>>jabTt11T
お前、いろんなスレで馬鹿にされまくりだなww
582 :
人間七七四年:2009/08/04(火) 08:18:58 ID:zl02VHHh
>>580 ロシアに対して日本を利用した大英帝国は衰退しませんでしたよ。
583 :
人間七七四年:2009/08/04(火) 11:49:26 ID:Y8OCoR5h
>>582 え?それから50年もたたずに崩壊してるじゃん。
584 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 02:18:13 ID:vnE947ll
「50年も」って近代史の50年は相当長いけどなあ
585 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 06:47:05 ID:OGBZl7M0
崩壊言っても第二次対戦後じゃねぇか。
日本の進出が現地アジア人の独立心を刺激したからであって、同列には語れない。
586 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 09:27:30 ID:OGBZl7M0
ちなみに南アフリカでもボーア人とか使って黒人同士の共食いさせてるな英国は。
中東でも二枚舌で民族間を争わせて成功してるし。
自らの戦力を温存して他者と他者を争わせて自滅させるのは上策でしょ。
敵の敵は味方ってのにも通じてるし。
この場合は民族間対立や領土紛争を煽って、敵の敵に仕立て上げてるけど。
さらに上をいく神策は、兵を用いずして未然に、それら敵の謀を伐つだけどな。
そーいう偉人がいないのかアジアアフリカの悲劇。
日本には海舟や竜馬がいたから英国や仏国らの煽りと介入を阻止して泥沼の内戦は避けれたけど。
587 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 12:23:50 ID:ULKvAV9S
とうとつに
昨日の『なんでも鑑定団』に宗麟の書状3通が出た件
588 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 14:15:58 ID:sCAs2lIw
>>586 > 日本には海舟や竜馬がいたから
すまん、久々に鼻で笑ったw
いまだに海舟や竜馬をそんな高評価している人間がいたとはw
589 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 18:50:31 ID:h2Ti+FJa
590 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 19:37:41 ID:fOkyZK2r
> 日本には海舟や竜馬がいたから
当時海外事情を少しでもしってるヤツはすげぇ危機感持ってたよ
海舟や竜馬はその一握りの人物に過ぎない
591 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 20:01:00 ID:u8kTMF/u
竜馬とかどうでもいいんですけど・・喧嘩やめて・・。
それより、その書状の話が気になる。700万っていい値がついたね。
宗麟もなかなかじゃないかw
で、どんな内容の書状だったんでしょうか?晩年?
592 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 20:57:51 ID:Q245ftb0
俺もぱっと見だけど見た>宗麟の書状
印までばっちりサインつき(『宗麟』ってなってる)のが一番高くて、
残りは印なしが2つ(この2つは右筆が書いたらしいもの)って感じ。
書状の内容までは聞いてなかったけど、右筆がかなり筆の達者なようで、
そこらへんも鑑定のおっちゃんが褒めてたっぽい。
593 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 21:15:14 ID:fOkyZK2r
書状の内容は確か家臣に50町やるから良く治めるよーにと
その家臣に天草に使いをやるから船を用意してくれじゃなかったか?
594 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 21:19:47 ID:GdpTKHg7
天草五人衆関連のだったのかな?
595 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 21:26:27 ID:u8kTMF/u
情報ありがd。
最近、鑑定団見てなかったからなー。
まさか宗麟モノが出て高値がつくとは。
596 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 02:10:53 ID:GpVX644m
通りすがりの別武将ヲタですが先日の鑑定団で宗麟のお宝の事でスレに来てみました
一応録画していたのでどんな内容だったか大まかに書きます
書状は全て小代宛で内一通は「小代八郎次郎殿」とあり
その八郎次郎宛のは「(初代)八郎次郎の元服に際し名を授ける」と約束た内容ですが、
書状の保存状態は微妙に悪いようです(100万)
残り二通は
>>593が書いていた内容になります
一通は知行状で「つい最近支配した豊前筑前から、50町与えるのでしっかり収めよ」
宗麟が1570年3月に豊前筑前を手に入れた際に、家臣に領地を分け与えた内容が書かれていて知行的にも価値が高いそうです(300万)
もう一通は命令書で「天草方面に所用があり、使いを出すので船を用意し無事送り届けるように」
その命令書には「三非斎」という号?(印鑑?)があります
またこの手紙だけ光沢のある薄い上質の雁皮紙を使用していて、保存状態もいいそうです(300万)
鑑定金額の違いは保存状態以外は書状の内容によるものです
それ以外にも色々言ってましたが、とりあえずこんな感じです
長文失礼しました
597 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 02:14:41 ID:GpVX644m
↑
× 約束た内容
○ 約束した内容
連投スマソ
598 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 06:57:50 ID:d4IyFwC8
あー見れば良かった
599 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 13:31:26 ID:dfm3VS7q
600 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 14:00:39 ID:jYDVg/X0
>ヤッパリ毛利島津に勝ち続けた不敗の政戦略大友こそ最強だわな。
たった1回の敗北でグタグタに崩れ
大名の地位はおろか家名失うとは
なんと逆説的な最強であろうか
601 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 14:14:33 ID:PtU/t1cE
その「1回の敗北」が「致命的な敗北」ならしょうがない。
602 :
人間七七四年:2009/08/07(金) 07:41:16 ID:LooSTMoQ
携帯URLを貼り付けるなんて恥ずかしくないのだろうか
603 :
人間七七四年:2009/08/07(金) 16:42:23 ID:1IrfuRFi
耳川のことか?
あれは田北鎮周が独断で島津と戦端を開いたのが原因で戦争計画は破綻、陣形からして乱れてしまった。
よって大友が弱い根拠にはならない。
そもそもあれはたかが大友二軍で、一軍は筑前方面だったし。
だいたい龍造寺のようなあっという間の崩壊現象も起きてない。
むしろ田北のせいでずるずる引きずり込まれた戦いの中で、戦略的組織的行動ができなかった大友側の方が島津を圧倒していた。
陣が長く伸びていたために敗北しただけ。
二軍ゆえアホも混ざってたな。救援に向かわず傍観してたと言われるガン細胞の志賀親守・親度親子あたりも島津に内通してたかも知れんし。
604 :
人間七七四年:2009/08/07(金) 18:13:13 ID:EasYHev+
keitaityuume
605 :
人間七七四年:2009/08/07(金) 21:25:02 ID:q9RAmrr0
>そもそもあれはたかが大友二軍で、一軍は筑前方面だったし。
敗軍の将、兵を語らずを知らんのか?どう言い訳しようと負けは負け
キミの書いてる事は負け犬の遠吠えだ、素直に負けを認めようよ
606 :
人間七七四年:2009/08/07(金) 22:25:44 ID:1IrfuRFi
敗軍の将とは…田北のことか。
島津との和睦交渉を無視して島津攻撃を開始し、大友二軍を破滅に追い込んだ田北には確かに兵を語る資格はないな。
立花道雪が耳川にいたら島津は破滅していたと思うと非常に残念だ。
607 :
人間七七四年:2009/08/07(金) 22:45:23 ID:q9RAmrr0
>>606 敗軍の将とは君の事だよ
だいたい歴史に"たられば"は禁物と言われてる理由が分からんのか?
立花道雪が耳川にいたらと言うが、そこで道雪が病死したらとか
実は伊東と島津は繋がっていて、大友を潰すための策だったとか
たられば認めれば色んな手法で勝つ事も出来るし、負ける事も出来る
敗戦の事実を認めず空想の世界で勝利を収めるのは空想戦記物だけにしとけ
608 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 11:33:26 ID:S64ivuT4
一軍と言えば対北条の佐竹軍
二軍と言えば対伊達の佐竹軍
609 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 16:49:33 ID:kj31QM/e
610 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 16:56:19 ID:S64ivuT4
大友>>島津>>毛利は確実。
611 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 17:42:16 ID:JgAduMci
煽るだけで大友の話をしない携帯上げ豚が一匹
612 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 18:06:38 ID:S64ivuT4
613 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 18:50:07 ID:JgAduMci
自意識過剰の豚が一匹反応した
誰もお前の事とは言ってないのに図星の携帯上げ豚
614 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 19:46:14 ID:S64ivuT4
>>612 >>610レスは私なわけだが?
しかし豚と言う言葉を使うあなたは人格が劣悪だねぇ。もう少し余裕を持った方がいい。
615 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 22:09:47 ID:3s2E8yz3
>>ID:S64ivuT4
お前は十分、人格が劣悪だ
人の意見には素直に耳を傾けるように
616 :
人間七七四年:2009/08/08(土) 22:16:33 ID:h9D9QKkY
sageは覚えたらしいなw
携帯URLが恥ずかしいと気づくのはいつかな
617 :
人間七七四年:2009/08/09(日) 09:28:27 ID:n6uEAn/Y
というか行く先々のスレで醜態を晒してる手合いなのね
毛利や北条スレでも見苦しさを炸裂させてるという
618 :
人間七七四年:2009/08/12(水) 21:07:43 ID:/iPMQklQ
619 :
人間七七四年:2009/08/12(水) 22:54:16 ID:jcd44iy2
大友の興亡ぶりは異常
620 :
人間七七四年:2009/08/12(水) 23:00:48 ID:/iPMQklQ
鎌倉以来の家だから、異常ってほどでもないような。
621 :
人間七七四年:2009/08/12(水) 23:30:41 ID:FhsiRS0o
>>618 >筑前戦国史 (増補改訂版)
先日書店で見かけたが筑前戦国史持ってるせいか
表紙が変わったぐらいに思えて買わんかった
中身見比べたら違いが分かるんだろうが
まぁ、改訂版より新刊待ってるんだが
吉永先生もお歳だからなぁ、無理は言えねぇ
622 :
人間七七四年:2009/08/13(木) 00:59:58 ID:V4RMdJO2
吉永正春氏の著者は無駄に格好付けた台詞がないから好きだな
623 :
人間七七四年:2009/08/13(木) 01:14:47 ID:NXRfcRd9
624 :
人間七七四年:2009/08/13(木) 05:05:32 ID:0RLpt6hT
売国奴自民党の日本人を滅ぼすために
再生産不能な下流を構造的に増やして、人口減ったら移民で格安の労働力を輸入っていう
政策がマクロで進み始めている。これは富を偏在させて極端な格差支配構造を定着させるだけ。
下流の我々は移民の安い労働力との競争にさらされたうえに、彼らの社会保障や教育費、
治安コストを税で新たに負担させられるのだ。売国奴自民党の応援団の企業は安い労働力を歓迎して受け入れるだろう。
これでは誰のための国家かという議論になる。上記のような発想だとまさに
お上、売国奴自民党、財界、在日、マスコミ貴族という富裕者がわが世を謳歌するための国家像でしかないわけで。
韓国人、中国人1000万人移民計画の売国奴自民党のように移民政策を提唱する人は民主主義国家であることを全く無視している。
主とは売国奴自民党、在日、中国人、韓国人、在日、マスコミであって国民は消耗品にすぎない、こういっているわけなんだよ。
売国奴自民党、マスコミ、財界、在日、韓国人、中国人を支えるために、庶民に対する増税を繰り返す羽目になる。
派遣労働者諸君、我々が自分と派遣仲間の生活向上のために何をかなさんとするなら、
真実を知らなければならない。なぜ売国奴自民党は我々派遣労働者をだまし、利用し、裏切るのか。
在日と財界とマスコミの悪の正社員たちに支えられた売国奴自民党が描く在日、韓国人、中国人、財界ユートピアの真実を。
売国奴自民党議員が国籍法をゴリ押し
ttp://dubai.2ch.net/test/read.cgi/news/1228409732/ 【社会】 "国籍法改正での懸念、現実に" 不正認知で子供に日本国籍取らせる、中国人逮捕…服役男性の名前悪用
ttp://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1234498856/
625 :
人間七七四年:2009/08/14(金) 00:39:24 ID:fre5HFFA
『民主党の主張する25%削減実施を断行した場合、一世帯当たりの負担額は
毎年、可処分所得が22万円、光熱費が14万円、合計36万円の負担増
なおこの時点で予想されるガソリン価格への「上乗せ分」は1リッター170円』
【第16回】温暖化ガス25%削減
民主党マニュフェストより
ttp://fate.cocolog-nifty.com/fate/2009/07/post-5b35.html 『2020年までに温暖化ガスを25%削減(1990年比)するため、排出量取引市場を創設し、地球温暖化対策税を導入する』
ここまで明確に恐ろしい金額の増税が謳ってあるのに、不思議とマスコミはこれについて伝えません。
さて、突然ですが問題です。
民主党の主張する25%削減実施を断行した場合、一世帯当たりの負担額(可処分所得+光熱費)は年間いくらになるでしょうか?
(中略)
では、まず冒頭の回答です。
正解は可処分所得が22万円、光熱費が14万円、合計36万円の負担増です。
更に付け加えると、この政策目標実施で想定されるGDP押し下げは3.2%、失業者は88万人。
なおこの時点で予想されるガソリン価格への「上乗せ分」は1リッター170円。つまり化石燃料自動車には乗るな、ということですね。
(試算は日本エネルギー経済研究所。PDFファイルですがこちらから詳細が読めます)
これに諸手をあげて賛成できる方だけにして下さい、民主党に投票する方は。
あとから「聞いてないよ」と云っても無駄です。マニュフェスト――じゃなかった「政権政策集」でしたね――に書いてあるのですから。
626 :
人間七七四年:2009/08/14(金) 01:02:01 ID:/Er+7Lu1
何故こんな過疎スレでこんなコピペを張るんだろう?
627 :
人間七七四年:2009/08/14(金) 01:09:47 ID:OZpsWlaa
Oh!友よ!
628 :
人間七七四年:2009/08/18(火) 20:42:12 ID:YBHhYUMv
自民公明工作員は至るところに沸くなぁ。
629 :
人間七七四年:2009/08/24(月) 20:51:36 ID:ATBBz3mr
>>625 ___
./ \
.| ^ ^ |
| .>ノ(、_, )ヽ、.| <あまり私を怒らせないほうがいい
__! ! -=ニ=- ノ!___
/´ ̄ ̄ .|\`ニニ´/ `ヽ
{ .|__  ̄ ̄ヾ }
i;;',,, r---イ /|,、_,, ,',;:',i
.l;';',;,, } /;\ / ヽ / ,;,;;',;l
.|;;',;, } ./;;;,, \ / ;;;;;;ヽ ,,;;','i
i;',, / /;;,',';; ノ--, ',',;;::',',゙i ,,';';i
i;,'; /./,',',';;" / \ ',',',;;,'i ,;',i
/ / i 、 / ヽ ',;::'、| \
ヽヽヽヾ丿 〈 ヽ'' {////
```` ト, i | 、 i´´´
630 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 13:51:32 ID:q+KH8T70
きめぇwww
631 :
人間七七四年:2009/09/01(火) 00:39:51 ID:80SwSQRb
>>621 本屋でパラっとめくった限りでの感想
良かった点
・墓所や古戦場の現地名の改訂
・文章の改行が増えて読みやすくなった
・掲載写真が新しくなった
悪かった点
・1ページぶちぬきだった図が小さくなった
・「香井田くずれ」の取材エピソードや伝説がカットされてる
・作者の自作漢詩が増量
632 :
人間七七四年:2009/09/01(火) 10:50:09 ID:Rb3Rt2Kn
> ・作者の自作漢詩が増量
わらたw
これはもうご愛嬌だな。
633 :
人間七七四年:2009/09/01(火) 13:13:20 ID:ncCpdm9V
大友晴英って二階崩れの時に何をしていたの
宗麟と一緒に行動?巻き添えを食らわないために避難?
634 :
人間七七四年:2009/09/03(木) 23:23:39 ID:QU5ZElNX
635 :
人間七七四年:2009/09/08(火) 00:41:06 ID:oGR0uJbV
636 :
人間七七四年:2009/09/09(水) 11:49:36 ID:EMsdx74D
九州戦国の武将たち(吉永)
九州戦国合戦記(吉永)
筑後争乱記(川村哲夫)
このへんはどんな感じ?
637 :
人間七七四年:2009/09/12(土) 21:38:14 ID:6FG7xiX0
638 :
人間七七四年:2009/09/13(日) 05:05:50 ID:HTcTe4pC
『九州のキリシタン大名』はそこそこ読めた
639 :
人間七七四年:2009/09/13(日) 12:53:45 ID:XaCVP/dj
「なんでも鑑定団」で宗麟の書状が3枚出てきた
640 :
人間七七四年:2009/09/13(日) 20:03:37 ID:QW+cP0nq
641 :
人間七七四年:2009/09/14(月) 13:53:05 ID:7EoKyKVt
再放送で見たんだろ。
642 :
人間七七四年:2009/09/15(火) 17:52:59 ID:YTzE5d/U
643 :
人間七七四年:2009/09/16(水) 18:41:28 ID:vq6RQ+al
改宗したため家臣が分裂。耳川合戦では勝手に突撃。
644 :
人間七七四年:2009/09/19(土) 12:49:37 ID:022h/fgE
志賀親守のせいや!
645 :
人間七七四年:2009/09/22(火) 22:01:00 ID:YfOEw1uC
( ^ω^)( ^ω^)( ^ω^)
646 :
人間七七四年:2009/09/23(水) 10:31:39 ID:TPMsW4lq
バカ義統に家督を譲らなきゃ大友最強のままだったのに勿体無い。
647 :
人間七七四年:2009/09/24(木) 09:26:05 ID:ftyrYdOu
大友衰退の原因の80%は宗麟が作ったと言っていい。
648 :
人間七七四年:2009/09/24(木) 09:43:16 ID:y90YIjl6
豊後三老さえ揃ってれば、西国で大友に勝てる大名皆無。
649 :
人間七七四年:2009/09/27(日) 00:20:41 ID:bfA/sRjS
衰退も伸張も、宗麟だったな
650 :
人間七七四年:2009/09/28(月) 19:43:54 ID:cECiS8fJ
道雪指揮で毛利の侵攻を押し戻したように
島津ごときも押し戻せるはずなのに、耳川での敗北ぶりは異常。
軍の統率と指揮ができてなかったと言わざるおえないね。
道雪が耳川の指揮をとっていれば島津なんて撃破してたのに惜しいことだ。
651 :
人間七七四年:2009/09/28(月) 20:14:51 ID:+1/hQ9ye
>>650 道雪が指揮を執っていても、田北鎮周が抜け駆けしたら
結局、島津の釣り野伏せに引っ掛かり
結果は同じ
652 :
人間七七四年:2009/09/29(火) 08:14:42 ID:SXey+M6i
田北はまとまりのない自軍を嘆き、自殺突撃をかけた。
好戦的な道雪公なら、まとまらず士気振るわずの状況にはならない。
釣り野伏ごときで臆病風を吹く惰弱な将兵は立花にはおらんし
芋侍の島津ごとき跳ね返すだけの士気と戦意があるわな。
豊前筑前戦線に比べたら島津芋侍なんて猿以下だろ。
653 :
人間七七四年:2009/09/29(火) 21:38:02 ID:TkobwSKd
好戦的で、島津を芋侍と見くびっている状況こそ
釣り野伏せに引っ掛かる要素たっぷりだな(仙石みたいに)
654 :
人間七七四年:2009/09/29(火) 23:38:30 ID:oy/gAn2z
道雪公のどこが好戦的なんだろうか?
毛利の立花攻めでは敵の陣の隙を見つけるまでは
立花城に籠城して耐えに耐えてたんだが
これが好戦的な猪武者なら籠城などせず
敵の布陣を見た時点でなにも考えずに突っ込んでたと思うぞ
655 :
人間七七四年:2009/09/30(水) 00:20:47 ID:1ciXTDj8
戦機を見るに敏な賢い勇将ってことだろ。
好戦的だが、無謀盲勇ではないって言う。
656 :
人間七七四年:2009/10/01(木) 12:37:43 ID:ScJynECI
>>608 実にわかりやすい表現だ。
佐竹も大友も北部地域と南部地域に軍管区があり戦線が二つにわかれて駐屯する大名だしな。
657 :
人間七七四年:2009/10/02(金) 13:46:25 ID:dQyLvrcM
道雪は神か?龍造寺を攻めきれず最後には圧されて和議を結ばざるをえなかったのに
中央が腐っているだけだと思う
658 :
人間七七四年:2009/10/02(金) 14:28:43 ID:fY2kG53Z
龍造寺に圧せられてないよ
たぶん今山の戦いを言ってるんだと思うけど、あれは単なる局地戦で、あれで龍造寺が大勢を挽回できたわけでない。
毛利上陸の報に接して、その迎撃のために龍造寺と和睦しただけ。
その和睦を拒否して毛利を支援する力すら龍造寺にはなかった。
659 :
人間七七四年:2009/10/03(土) 21:41:44 ID:AmWqBl9l
毛利がはじめて治世が良好な互角の国大友とガチで戦ってみたらボロクソに負けました。
毛利風情如きが大友と戦おうなんざ、傲慢の極み。
代替わりを繰り返し斜陽衰退した大内や尼子如きとはレベルが違うわな。
660 :
人間七七四年:2009/10/03(土) 23:15:10 ID:CIcxmhRM
あんまり戦国史詳しくなかった頃、大友が毛利と北九州で戦ったのも知らなかったし、
まして大友が毛利に勝ったと知ってまたビックリw
島津に負けて、秀吉に泣きついたというヘタレ・イメージしかなかったから、新鮮な発見だったよw
661 :
人間七七四年:2009/10/04(日) 01:03:39 ID:jzknsJRc
耳川の戦いはさながら官渡の戦いだな。
662 :
人間七七四年:2009/10/05(月) 08:48:31 ID:S9R3Rkwh
しかし道雪健在のみぎりには島津は道雪の武名を恐れ、大友領を侵すことはなかった。
まさに守護神道雪。立花3000は他家の1万!
道雪の前に大雪の夜間にボロクソに敗走しながら中国へ泣いて逃げ帰った小早川隆景の恐怖と畏怖からきた発言である。
663 :
人間七七四年:2009/10/06(火) 09:01:20 ID:YpTlusKl
豊後三老があと少し生きていたら…九州なんか統一できたのに
664 :
人間七七四年:2009/10/08(木) 17:04:11 ID:qvxSOgoC
665 :
人間七七四年:2009/10/10(土) 09:59:18 ID:UmJzAv4Y
臼杵城は実によい遺構であった。
島津ごときでは到底落とせるような城ではなかったな。
あそこに籠もり、豊後国内の指揮をとり各要地や拠点を策源地として島津分断、焦土作戦、補給遮断、後方遮断による島津包囲といった頭脳戦をして
島津を徐々に追い詰めていく手並みは神だったな。
666 :
人間七七四年:2009/10/10(土) 11:47:06 ID:BoFse6LM
杵築市民です
杵築城って大友の関係者のお城ですかね?
あのお城って市内では有名な割に誰が治めていたのか全然話題にならないし・・・
667 :
人間七七四年:2009/10/10(土) 13:22:45 ID:UmJzAv4Y
元々は木次城と言って、大友配下の木次氏の居城。
島津の侵攻にもビクともせずに要害ぶりを示した。
幕府で木次を杵築と誤字をあてた為に漢字が変わったと聞いたことあるな。
視察したが島津ごとき弱兵ではとても攻略は不可能にしか見えなかったな。
むしろ後方の城も攻略できずに放置して、ここまで突出し大友の大戦略に見事にハマって疲労した島津のバカぶりが笑えた。
668 :
人間七七四年:2009/10/10(土) 15:03:53 ID:BoFse6LM
>>667 ありがとうございます
杵築にそんなエピソードがあったとは
669 :
人間七七四年:2009/10/10(土) 15:30:11 ID:UmJzAv4Y
杵築駅から遠いし、バスはあまり便数がないのが旅行者にはキツい場所だね。
ただそれだけに雰囲気は非常に良かった。
似たように駅から離れている秋月城や出石城も街並みが良かったなあ。
670 :
人間七七四年:2009/10/10(土) 21:48:09 ID:0TCvu/at
木次氏じゃなくて木付氏だろ。
671 :
人間七七四年:2009/10/10(土) 22:22:39 ID:/UDJzPbS
大分交通の国東線が現役ならもっとアクセス良かったんだけどねぇ
672 :
人間七七四年:2009/10/13(火) 23:16:32 ID:6Avnh2jN
大友って「強い守護」の典型だよね
673 :
人間七七四年:2009/10/16(金) 14:45:20 ID:wa/XwDfe
>>662 小早川は寡兵の宇喜多に負けるぐらい弱いからな。
明との戦いも宗茂がいなかったら負けてた
674 :
人間七七四年:2009/10/16(金) 15:05:40 ID:fJyr4K5L
小早川1万は他家の3000に価する!
675 :
人間七七四年:2009/10/16(金) 16:26:16 ID:/SYK9X+Z
所詮大友w
676 :
人間七七四年:2009/10/16(金) 17:40:42 ID:fJyr4K5L
その所詮大友に大敗して大雪の夜に泣いて中国へ敗走したヘッポコ毛利軍w
大友の追撃にパニクって悪条件の中で強行して逃げ出した為に兵が脱落しまくったが、そのすべて見捨てたのが殿の無敗の神将吉川元春くんw
毛利がボロクソになりながら逃げ出したのに無敗毛利w
さすが百戦無敗の天才元就の歴史捏造謀略能力はスゴい。
677 :
人間七七四年:2009/10/16(金) 21:03:05 ID:lfThVbzo
気持ちの悪いのが沸いていますね
678 :
人間七七四年:2009/10/16(金) 23:17:04 ID:qogcrW0h
宗麟が秀吉に立花を直臣に取り立てるように頼んだって話は本当ですか?
耳川の後で立花家も切り離すってことは、
もう大友の没落は止めれないと諦めてたのだろうか。
679 :
人間七七四年:2009/10/16(金) 23:41:33 ID:Sc0cwvq5
>>678 さあ、それは疑問だね。
毛利から吉川、小早川を切り離そうとしているし、
島津には、三殿体制を強いたり、伊集院を取り立ててるし。
それに加えて立花家は、江戸時代続く上でそれなりに自家に
都合よく脚色がされているよ。
こういうのは、立花に限った話ではないが。
680 :
人間七七四年:2009/10/17(土) 04:00:12 ID:QjpHcR+N
>>678 島津から先に攻撃されそうな宝満城、岩屋城、立花城の筑前の領地を
豊臣に譲ることで、援軍を確実に出させるようにしたのかもね。
681 :
人間七七四年:2009/10/17(土) 09:25:49 ID:wsjYTZd4
むしろ島津に降伏したり内通してた大友重臣らが宗茂を邪魔に思って讒言でもしたんじゃね?
682 :
人間七七四年:2009/10/17(土) 11:40:38 ID:5hwiF00F
>>680 大友は豊後一国に押し込められる事分かってたから
筑前領を豊臣に譲ってどうこう画策したと言うより
なにも口出し出来ず、豊臣の思うように任せるしかなかった感じだな
島津の押さえとしては大友以外に肥後に加藤、豊前に黒田を入れ
筑後の立花や筑前の小早川はその援兵や後詰め役だろう
そう考えると大友の旧筑前・筑後領は対島津対策の補給基地と言える
683 :
人間七七四年:2009/10/18(日) 16:32:52 ID:0Ufe+kaF
勢場ヶ原の戦いでは痛み分けでしたがその後、足利義晴を通じて大友と大内は和睦しています。
これは結果的にプラスだったのでしょうか?
684 :
人間七七四年:2009/10/19(月) 23:51:47 ID:U/jYzKCD
志賀親守は島津家久の追撃を振り切りました
685 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 12:01:12 ID:IG5kg9PT
元就を撃破した大友こそ最強
686 :
人間七七四年:2009/10/24(土) 23:44:58 ID:LJLqhlLl
( ´A`)ぅうむっ。
687 :
人間七七四年:2009/10/25(日) 12:43:55 ID:xZSqKTDs
大友家家臣団の文武両道ぶりは異常
688 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 01:27:59 ID:zLLrud4W
大友家臣団に離反がなければ天下は大友のものだったと言っても間違いあるまい。
689 :
人間七七四年:2009/10/28(水) 23:54:57 ID:lXm587I7
どなたか志賀親次が島津義弘の軍勢を破った戦いの詳細、もしくは資料をご存知の方
いらっしゃいませんか?
690 :
人間七七四年:2009/10/29(木) 09:04:45 ID:SM00GViH
義弘に決戦地を指定した挑戦状を出して城外で決戦したんだおね。
島津得意の横撃ができない地を指定したと思われ。
691 :
人間七七四年:2009/11/05(木) 21:45:44 ID:eXEEXHn+
志賀一族はアキレス腱
692 :
人間七七四年:2009/11/06(金) 01:19:24 ID:UDVL/s63
スカパーの時代劇専門チャンネルであったなNHKの大友宗麟
693 :
人間七七四年:2009/11/06(金) 16:20:42 ID:POYfWwF0
筑前侵攻ではその入り口に当たる筑紫攻めでボロクソになり、次の高橋紹雲攻めを国人達から拒否されて島津ボロクソ。
立花城攻めはもはや遠くからやあやあ騒ぐ以外に手はなく、挙げ句の果てに大敗走。
続いて占いで豊後侵攻を決めるあほぶり。しかもビビり迷って二度目のクジ引きで決めるw
天正15年病になる秀吉は新田八幡宮に乱入したかららしいw
南郡衆筆頭の志賀親度(義統の愛妾一の対殿を奪いとって囲ったのがバレた)の誘導で肥後口から攻めた義弘3万7000は1000に満たない親度の子の若干20歳の志賀親次の岡城で何度となく大敗。
やむなく義弘は岡城に留まり、新納忠元を玖珠郡、新納久時を大分郡攻略に向かわせるべく軍を3つにするアホな戦力分散をする。
しかし玖珠郡の要衝の角牟礼城で森五郎左衛門1000に忠元は大敗。
やむなく標的を日出生城攻略に変更するも、城を空にして出現した帆足鑑直300が急襲し忠元まで重傷になる大敗。
久時4000も権現獄城の狭間鎮秀300の奇策の前に敗走(のち義統が狭間を謀殺)
さらに義弘は決戦地を指定した挑戦状を叩きつけた親次にまた敗れるわ、
阿南惟秀の謀略で親次が笹原目城攻めをして白坂石見が討ち死にするなど敗北続きなために三者は合流せざる負えなくなり肥後口対は停滞。
日向口から豊後に入った家久隊は栂牟礼城の佐伯惟定の前に大敗(あまりの完勝なためのち秀吉が激賞した)。
王子ヶ城の野津院衆も島津を破る活躍。
やむなく臼杵方面へ転戦したら病み寝込みながら宗麟自ら指揮した丹生島城の国崩しの前に逃げ惑うハメに。
籠城に向かない館の大友館を放棄して龍王城に義統が向かったのに釣り込まれた島津はさらに深く侵入の上、鶴崎城で吉岡長増の子の妻妙林尼の知略の前に島津3000は16回攻めて落ちずに苦戦敗走。
そのため龍王城も杵築城もまったく落ちずに島津敗走。
その間に後方の鶴ヶ城を利光宗魚に奪われ撤退補給路を封鎖され慌てる醜態。
必死に力攻めしても落ちず。
結果、島津は半数の兵を失い、残った兵2万のうち実動可能兵6000に満たなかった。
さらに仙石が鶴ヶ城救援積極攻撃を主張したが義統の無傷の8000は拒否し兵力温存。
仙石3000長宗我部3000が盲信自爆
帰り道を作るために義久は鶴ヶ城を必死に攻撃、たまたま宗魚が流れ矢に当たり落命し開城したが島津3000も道連れにした。
その間に志賀、佐伯らが次々に城を奪回に後方遮断。
694 :
人間七七四年:2009/11/06(金) 16:54:14 ID:POYfWwF0
その他各地の攻防
木付城(江戸時代になり杵築)の木付鎮直は忠元を追撃し大いに破ったため勝山城と呼ばれるようになった。
逆竹城(山の城)朽網鑑康が病没する中で息子の鎮則は島津の数度の攻撃を撃破。
久保泊城では四浦の武士と呼ばれた鳩、加嶋、加島、紀らに島津は撃退される。
松牟礼城をみただけでビヒって攻めずに敗走した島津。
吉田一祐は平原坂にて島津を撃破し月山の太刀を宗麟から恩賞としてもらう。
柴田宮千代は岩瀬砦に籠城し島津兵98を討ち取り暴れまわった挙げ句に落城。
捕らえられて島津軍に引き出されるが脇差しで敵将を刺した為殺されるが、妹が兄を討った者を刺し、妹も殺される。
菅迫城の朝倉一玄は留守の火縄の計で空城の駄原城を炎上させ、反乱や失火と思って襲いかかって入城してきた島津軍を志賀らとともに包囲し壊滅させる。
帆足鑑直の妻の鬼御前は空城を自らの侍女に鎧を着せて誤魔化していたが、角牟礼城で籠城していた森鎮生に嫁いだ娘に
「昼も夜も油断せぬように。合戦難儀でも先走って自害せず、城を枕に討ち死にしなさい。未練な働きをするなら七回生まれ変わっても勘当です」と書き送った。
このように大友側は各拠点を固守して島津軍の戦力を暫時減少させつつ、撤退焦土戦略で島津の攻勢限界点まで持久策と後方遮断を行う。
島津は低脳なので力攻めと条件反射しかしないからどんどん島津兵力は低下する。
釣り野伏しかやらないので大友側は夜襲をメインに行う。
695 :
人間七七四年:2009/11/06(金) 17:52:02 ID:POYfWwF0
訂正
鶴ヶ城→鶴賀城
権現獄城→権現岳城
鶴崎城の故吉岡長増は豊後三老の長老にして毛利軍壊滅に功績をあげた謀略の献策立案者。
大内逆上陸作戦において村上武吉を買収して成功に導いた智者。
その名を恥ずかしめず島津を撃退した妙林尼は素晴らしい。
またその際に大友水軍を率いて大内輝弘を上陸させ、毛利の補給路を遮断した若林鎮興の功績から、宗麟が水軍の重要性を痛感し、
若林に税を免除し水軍の育成を命じ、のち田原親貫の反乱では国東半島を海上封鎖した際に支援にきた毛利水軍を大破し大友水軍を大きく成長させ、
この島津侵攻の際に臼杵や丹生島の征海権を握り島津水軍を撃退したという。
佐伯惟定は日向豊後国境の梓峠で義弘を大破した際に義弘が命より大切にしていた唐物茶入を戦利品に堂々と凱旋し、のちに佐伯肩衝と呼ばれる。のち藤堂高虎配下となる。
696 :
人間七七四年:2009/11/06(金) 23:21:12 ID:6sx7EMPg
ID:POYfWwF0
高橋紹雲までは読んだ
紹雲の誤字でそれから先は読む気失せた
697 :
人間七七四年:2009/11/07(土) 09:25:27 ID:5JnQ4S7D
なんか、気持ち分かる
698 :
人間七七四年:2009/11/07(土) 09:50:01 ID:ucRm6jPp
大友は名将揃い
島津は痴将揃い
699 :
人間七七四年:2009/11/07(土) 14:23:37 ID:0OXiihCr
この土日、国東の吉弘にでも言ってみるかな。
700 :
人間七七四年:2009/11/07(土) 22:48:20 ID:pAYGiLYA
700get!
701 :
人間七七四年:2009/11/08(日) 10:01:09 ID:YQaOk6bN
昔は辞書なんてないし、文部省による漢字の読み書きの全国統一もない。
読みをムリヤリあて字してたんだから雲でも運でも云でも間違ってないぜ。
702 :
人間七七四年:2009/11/08(日) 10:13:31 ID:e5f1esNX
なにやら、江戸以前の人間が混じっているようだな。
703 :
人間七七四年:2009/11/08(日) 12:06:40 ID:t2VtNR5O
>>701 当時の人がレスしたのならともかく
現代人なら注釈で参考文献ママとか断り入れない限りOUT
昔はアルファベットなんて日本に無かったから
ABC書けなくてもカタカナで書けばOKなんて、英語のテストじゃ通用しないぞ
704 :
人間七七四年:2009/11/08(日) 12:25:34 ID:YQaOk6bN
いつからテストになったんだよw
わざわざテストとか蛇足つけて自分の意見をさも正しいみたいに書くなよ。
正宗を正宗と書いても間違いになるなんて聞いた試しがない。
705 :
人間七七四年:2009/11/08(日) 12:45:49 ID:01dUalmp
>>704 現実はやり直しの利くテストより厳しいんだぜ?
706 :
人間七七四年:2009/11/08(日) 12:51:21 ID:r8ltjc3x
707 :
人間七七四年:2009/11/08(日) 15:33:18 ID:zCFYhlL+
まあまあ…良いじゃないですか。2ちゃんねるで多少の誤字脱字に
目くじら立ててたら、楽しみは半減ですよ。
何度も同じ間違いがあるなら、さりげなく正解を教えてあげるのが、大人の対応かと。
708 :
人間七七四年:2009/11/09(月) 09:14:18 ID:6GHAtoBw
今川から北条に仕えた福島なんて
九島とか久島なんて表記されてたりしてるし、
政宗は正宗と書かれたりしてるので当て字が普通なのに、IDを変えまくって自演までしてなぜそんなに島津厨は必死になってんだw
名前の読み方だって実際はどう呼んでたのかわからん武将も多いくらいなのに。
709 :
人間七七四年:2009/11/09(月) 19:23:47 ID:smPLOpIg
>>708 >IDを変えまくって自演までしてなぜそんなに島津厨は必死になってんだw
出た!根拠のない自演発言
読解力無かったり、自分の間違いを認めたくないヤツほど
根拠もない自演発言しちゃうんだよなぁww
710 :
人間七七四年:2009/11/10(火) 04:58:54 ID:husqC0Sk
711 :
人間七七四年:2009/11/16(月) 00:59:11 ID:7CAb7jHM
高橋チンシュが岩屋城で玉砕
(``7‐、 _
__/´ ' ノ
ン-o= ─ 、/_
!O7。 /‐o‐(::::) <ちんちん シュッ! シュッ! シュッ!
'、'`二'ヽO ン
ヽi_:ノ! /
u∪
712 :
人間七七四年:2009/11/16(月) 20:28:08 ID:BSiEjAGP
大内氏との抗争はデメリットが大きかったが
その大内氏と和議を結んだことが大友氏の飛躍につながったのは面白い。
なんだかんだで大内氏の自滅で豊前や筑前が労せず手に入ったし
毛利の侵攻も大内を利用することで退けた。大内さまさまだな。
713 :
人間七七四年:2009/11/16(月) 23:23:13 ID:9qKT+odj
714 :
人間七七四年:2009/11/16(月) 23:55:47 ID:XEbZ48YP
ドン・フランシスコは
少しだけ、バテレンに日本娘と硝石を交換しただくだ!!
しかも、日本娘はキリストを信仰してない魔女だから問題無し!
715 :
人間七七四年:2009/11/18(水) 20:42:12 ID:tTblAxMp
716 :
人間七七四年:2009/11/20(金) 23:45:17 ID:CZIxo/y3
高橋珍種か
717 :
人間七七四年:2009/11/21(土) 12:16:44 ID:/eZCR66M
義統が柔弱なアホ過ぎて家臣団が
再婚してキリスト教熱を爆発させている隠居した宗麟に現場復帰させて二頭政治をさせてるのが末期中の末期だよな。
しかも耳川での敗死や寿命で相次いで、他国衆との取次役だった人々が大半亡くなってしまって、連絡が不通になっちゃってしまい、離反が相次いだし。
宗麟側近には他国衆への取次や推挙する役割は与えられなかったから支障が出ていた。
この大友のシステムが島津への内通を誘発してしまった。
しかしこの混乱中の豊前豊後の各郡主城が寡兵だったのに、さんざんに島津を敗走させまくり、まったく落ちなかったのがすごい。
718 :
人間七七四年:2009/11/21(土) 17:01:20 ID:rFIXb9Ju
>>711 息子の高橋トーマスだよ。前総理の先祖だよ
.(⌒( ) )
(⌒ :::)
) ;;))
ソ
Π ______________
/r'⌒ヽヽ .\. \ \ ≡≡
|(´∀` )Π □□ .| □ □ □ |□ □ □ | ≡≡
●|||||||||||●____|_____|_____..| ≡≡
ロ ̄ ̄ ロ∈○○∋~○○○○~~∈○○○∋ ≡≡
719 :
人間七七四年:2009/11/25(水) 20:12:54 ID:KLBuOgIe
また義統悪役論か
720 :
人間七七四年:2009/11/26(木) 11:51:59 ID:6xDQyVQp
義統は悪役じゃないが柔弱だから朝鮮役で改易された。
秀吉は利用価値がないとわかると改易しちゃうからね。
721 :
人間七七四年:2009/11/29(日) 11:18:06 ID:b5bJ0qXa
大内の内乱とか織田と戦っている毛利の背後を突くことでしか領土を増やせない
オナ友(笑)
722 :
人間七七四年:2009/11/29(日) 12:23:47 ID:I0iZF+dC
大内の内乱もなにも
大内の存続のために義長をプレゼントしたじゃん
毛利が織田と戦ってる時は大友も、わざわざ毛利と戦う余裕なんて全然ありませんでしたが何か?
723 :
人間七七四年:2009/11/29(日) 12:59:56 ID:Yr0obiAZ
>>721 >大内の内乱とか織田と戦っている毛利の背後を突くことでしか領土を増やせない
具体的にどの時期にどこを獲得したのか言ってみろよw
724 :
人間七七四年:2009/11/29(日) 15:41:18 ID:b5bJ0qXa
全部
ハイエナ大友つるっぱげ
725 :
人間七七四年:2009/11/29(日) 19:32:35 ID:Yr0obiAZ
>>724 どこもハイエナじゃねーかw
つるっぱげはまぁ仕方ないなw
つか大友貶めてるのはどこの奴なんだw
726 :
人間七七四年:2009/12/01(火) 11:53:31 ID:m+aEDFlN
大友親親
727 :
人間七七四年:2009/12/01(火) 12:01:57 ID:eKBiL9hb
ハイエナはどう考えてもヘタレ元就じゃねぇかw
728 :
義統 :2009/12/07(月) 00:05:57 ID:/RqT+ujq
そうだ!そうだ!
729 :
人間七七四年:2009/12/07(月) 00:19:05 ID:Yc0XbstY
大友側としては萩を全部毛利にもってかれたのは痛かったでしょ。
730 :
人間七七四年:2009/12/07(月) 00:48:08 ID:8tKDCOaa
萩?
731 :
人間七七四年:2009/12/07(月) 19:21:53 ID:2B6EHk2L
たられば論だけど、宗麟が筑前、筑後を押さえて立花山城
あたりに居城を移せばどうだったか。豊後は義統に任せて。
前線でシャカリキになってりゃ、宗教に耽ってる暇もなかったろうに。
どうせ二頭政治するなら、こっちの方が合理的。
732 :
人間七七四年:2009/12/08(火) 07:48:30 ID:uUa8o/x3
さすがに博多をキリスト王国にしちゃうのは無謀過ぎだろね。
それに毛利領に隣接してるせいもあり、豊前すら一族の謀反多いからいきなり国人割拠な筑前に拠点変更は現実的じゃないねぇ。
733 :
人間七七四年:2009/12/08(火) 17:19:06 ID:LEu6e5GX
>>731 前線には、戦の巧みな重臣を配するのが大友家のやり方だから、そんなの無理だね。
だいち、博多は守りにくいし、周辺の豪族にも信頼できる者が少ない。
734 :
人間七七四年:2009/12/08(火) 21:25:57 ID:V0S4zP4u
質問スレではお世話になりました。
二階崩れの変は単なる家督争いというだけでなく、西日本の歴史も左右していたことに気が付きました。
もしも二階崩れの変が発生せず大友家が混乱していない状態だったら
陶も大友の介入を恐れて大寧寺の変を発生させることもなかったでしょうし
そうなると毛利が独立して厳島の戦いを起こすこともなくなります。
その場合、大内義隆は大友や龍造寺と和睦して九州への侵略を放棄しているので
龍造寺を討伐中に毛利のような横槍もしてこないでしょう。
それならば大友家が龍造寺を下して北部九州の覇者、いや南部九州も平定できたかもしれません。
皮算用とはいえ、あれだけ毛利に邪魔されたにもかかわらず勢力を伸ばしたのですから可能性はあると思います。
735 :
人間七七四年:2009/12/09(水) 08:14:04 ID:t/R9rAv+
無計画の陶はバカだから結局は行き詰まって暴発する史実は変わらないと思うよ。
結局は義隆の男色の嫉妬トラブルだし。
アホ義隆も陶が謀反する気満々だったのに、なんら手を打たずに座視して殺されてるし。
無能無策の陶は過大評価されすぎだから。
736 :
人間七七四年:2009/12/09(水) 12:56:02 ID:MSB0zaoh
しかし二階崩れの変や義統と父子と確執があるにもかかわらず
大友家をあそこまで発展させた義鎮&家臣団は優秀だよな。
これで家中が一枚岩だったらどれだけ躍進したか見てみたかったぜ
737 :
人間七七四年:2009/12/10(木) 01:14:18 ID:W3qIqG8D
豊後三家老が生きてる時はすばらしかった。。。
738 :
人間七七四年:2009/12/10(木) 07:54:05 ID:73Z5sUML
毛利や島津から博多を完全に守りきった大友は西日本最強。
守りきった博多の富が朝鮮出兵を支えたと言える。
739 :
人間七七四年:2009/12/10(木) 08:42:30 ID:LKNYtJog
>毛利や島津から博多を完全に守りきった大友は西日本最強。
なにを妄言をw
守りきってないから博多の町は度々戦火にみまわれ
後の太閤町割りに繋がったんじゃないか
740 :
人間七七四年:2009/12/10(木) 11:39:14 ID:5ZMiuXtN
伊東や阿蘇や相良と大友の関係はどういったかんじだったのでしょうか?
ただの支援者?それとも同盟関係?まさか従属?
741 :
人間七七四年:2009/12/10(木) 15:07:48 ID:73Z5sUML
>>739 戦火がまったく無かったとは書いてないが文盲ですか?
>>740 相良や阿蘇は従属してる。土持は従属してるが伊東はどうなんだろうな。
義祐は従三位だし従属することはないだろね。
日向から逃げ出した後に信長配下の秀吉へ祐兵が仕えた時に、秀吉との謁見を勧められた義祐は藤原三位入道の俺様がなんで羽柴なんざに会わなきゃならんのだと拒否したくらいプライド高かったからね。
祐兵は山崎合戦で武功を立てて伊東氏再興をしたりと大河ドラマにしたら面白い人物だよね。
742 :
人間七七四年:2009/12/10(木) 15:14:38 ID:5ZMiuXtN
743 :
人間七七四年:2009/12/10(木) 18:18:12 ID:LKNYtJog
>戦火がまったく無かったとは書いてないが文盲ですか?
完全に守りきったと書いてるくせにまたまた妄言をw
だいいち大友は既に領地領国を守りきれる自信がなかったから豊臣に頼ったんだし
高橋紹運や立花宗茂が寡兵で頑張り通せたのも豊臣参戦の勝算があったからで
筑前の大友嫌いの国人達が島津と呼応し、豊臣参戦がなければ大友単独で筑前死守はまず無理だし
筑前が島津に落ちれば大友は豊前はおろか豊後すら守り切れたかどうか凄く怪しいんだがな
豊臣と言う他人のふんどしを頼っておいて西日本最強なんて恥ずかしくてよう言えんわ
744 :
人間七七四年:2009/12/10(木) 21:32:15 ID:PUW59XcF
>>743 まあ、西日本最強は言い過ぎと思うけど、当時秀吉の援軍を
貰えるだけの実力は有ったってのは評価できる。
取るに足らない武将なら見殺しだろう。義統がもっと上手く
やれば、伊達政宗レベルの評価は有っただろう。
ま、史実は残酷だが。
745 :
人間七七四年:2009/12/11(金) 23:04:05 ID:l+rqurUG
大友が支配してからは他氏に支配実績なんてまったく無いから完全に守りきってるだろ。
それにな、紹運の700の籠城で島津は5倍の死者を叩き出してる。
死傷者は最低に見繕ってもその3倍以上はいるわな。
もっとも抵抗が激しいエリアにいた上井が率いた日向勢は壊滅状況になったんだぜ。
これに驚いた国人たちは立花城攻めを拒否した為に島津単独で立花城攻めしなきゃならなくなった。
しかも炎天下の中で立花城は2000も籠城してるわけだw
島津が立花城を力攻めできなかったのはなぜだかわからんのか?
お前の無知な頭の中では島津圧勝だとでも思ってんのか?
百歩譲って、例え立花が落ちても到底豊前攻略なんて兵力不足で無理だわな。
まー立花から逃げ出した島津は殿さえ機能せず軍として崩壊しての逃走だし。
次に体制を整えての豊後遠征に至っては豊後国の各郡拠点城に兵を集中させた大友の前に城攻め失敗の連続じゃないか。
府内は大友館であり防衛に向かないから放棄した以外で拠点城は一つでも落城した城はない。
島津は街道を東奔西走して疲労しただけ。
特に豊後と日向国境の佐伯地域さえ略定できずに深々と侵攻した家久の軍なんて消耗が激し過ぎて軍として崩壊してた。
佐伯惟定(18)、志賀親次(18)、吉岡妙林、戸次常統、吉弘統幸、宗像掃部らに島津はたびたび敗走させられてる始末。
宗麟の丹生島では国崩しの前に3日で島津は逃げ出したのに豊前竜王城の義統までたどり着けるわけがねーよw
746 :
人間七七四年:2009/12/12(土) 00:19:56 ID:S+QaxKHo
まー弱毛利両川が11月7日から高橋が人質を取っていた豊前宇留津城攻めを開始して籠城兵1000&この地域の男女の生き残った民400を磔にして無意味な大量虐殺をして海に捨てて進軍し、
豊前香春岳の高橋元種(秋月種実の子)をやっと降伏させたのは12月11日と弱毛利の進軍はあまりにトロく遅い遅すぎる。
立花城までの距離はまだまだ籠城する原田氏を始めとして、かなりあるわけだし、
だいたい島津が立花城から敗走したのが8月23日なんだから講談話とは違って現実には豊臣の力なんざ頼りにしてねーよな。
747 :
人間七七四年:2009/12/12(土) 01:00:26 ID:xjEcPpdL
確かに佐伯方面の島津軍は酷いな。
宇山城−八幡山城ラインで撃退されて、中山峠を越えてないので
佐伯氏の居城である栂牟礼城が見える所まで行けてない。
おまけに死者多数だったので、島津軍兵士を弔った耳塚とか残ってる。
まあ仮に、栂牟礼城付近まで行けてたとしても
小田山城、木戸城まで取り込み
大城郭になった栂牟礼城は落ちないだろう。
748 :
人間七七四年:2009/12/12(土) 05:41:55 ID:uEvu5KE3
>>745 長文乙
>お前の無知な頭の中では島津圧勝だとでも思ってんのか?
俺はお前みたいに贔屓の引き倒しなんかしないから
島津圧勝なんて思ってもないし、豊後口の攻めの悪さと言ったらw
ただな、前も言ったよーに豊臣と言う他人の褌で相撲とっておいて
西日本最強って言ってるお前の態度が痛恥ずかしいと思ってるだけ
歴史にifはタブーだが、1度豊臣参戦がなかった場合の事シミュレーションして見る事を勧める
豊臣参戦が無ければ島津は岩屋城で急そぎ無理攻めする必要は無くなるし、戦略も変わる
他の支配地域も安定するから新たな増員増援可能になるし、場合によっては本国空ける事も
龍造寺や有馬や大村と言った肥前勢や宗像・麻生の筑前勢も島津に付く、つーか付かざる得ない
大友からの援軍が得られず孤立した岩屋・立花両城は玉砕して名を残すか、形戦って開城するか
が、後顧の憂いがない島津勢が兵糧攻めを選択した場合それすらも叶わない可能性も出てくるぞ
無理攻めをせず戦力殆ど損なう事無く筑前を勢力下に収め、肥前勢の助力があれば後は火を見るより明らか
小領主ばかりの豊前勢では島津にあらがうのは無理、大友は3方向から圧迫され豊後に逼塞させられる
ここから島津を追い落とし、大逆転勝利を収めるのなら大友はまさしく西日本、いや日本最強と言えるが
それだけの戦略・戦術が大友にあれば島津の北上はおろか、耳川の敗北すら無かったわなぁ・・・
749 :
人間七七四年:2009/12/12(土) 07:52:46 ID:S+QaxKHo
>>748 醜いからもう無理すんなw
お前はまるでこの戦役の知識がないだろ。
お前の文章には知識のカケラすら見えないw
知ってると強弁するなら戦況説明してみろよ。
大方、歴史読本とかの島津侵攻マップを見ながら戦況も知らずに島津強ぇ〜とか厨二病で心酔してるだけだな。
それに岩屋城を島津が強引に力攻めした理由は豊臣の援軍が来るからとか妄想か?
秀吉が派遣した毛利が豊前上陸したから隣国の筑前攻略を諦めて立花城から撤退したって論法なら、
なんで毛利が豊前上陸したのに隣国の豊後侵略を開始したの?
言ってることが矛盾してるじゃん。
立花城を島津はすでに力攻めできる余力なんて無かったんだよ。
秋月にしたって独力で岩屋や宝満を守れるほどの力は無く、島津を追撃した余勢を駆って宗茂が取り戻すほど立花軍には余力があった。
さらに肥後占領も始まったばかりで島津兄弟は筑前侵攻に参加してないし、義弘らは肥後経営で動けなかったにも関わらず、
秀吉の援軍が無ければ占領地を安定させて力攻めせず本国まで殻にして進撃して筑前攻略?完全に現実を無視してるねw
そもそも肥後統治って言っても散々に略奪やり放題だったから反感を買ってることはあってもw
島津は補給を軽視して現地略奪が基本だから長期戦になると兵力離散して戦力が低下していくんだよ。
そもそも島津には制海権すらないからね。
750 :
人間七七四年:2009/12/12(土) 10:12:48 ID:c5H8q5MF
751 :
人間七七四年:2009/12/12(土) 10:27:04 ID:S+QaxKHo
>>750 お前みたいな無知が指揮官だと全滅だな。
薩摩芋なんて、上方の軍兵から装備が貧弱過ぎて戦いの最中にもバカにされて笑われた軍隊じゃねぇか。
そんなに捏造島津最強神話を盲信したいのかアホ過ぎてワロタ
752 :
人間七七四年:2009/12/12(土) 10:31:43 ID:SdwKXVWU
しかし岩屋城の玉砕ってのは
ある程度で降伏が当然の当時としてはものすごいことだよな
普通なら「城主切腹とか退去」とかで和睦するのに・・
そこまでして時間を稼ぐってすごい忠誠心だよな
753 :
人間七七四年:2009/12/12(土) 10:34:02 ID:SdwKXVWU
しかし後々のことを考えたら大友の戦力・人材を温存して本州に撤退させて
豊臣と合流してから暴れまわった方が活躍により豊後以外も与えられたのではと思うところもある
754 :
人間七七四年:2009/12/12(土) 12:30:33 ID:bOEc6QyK
>>751 え?なになに?
いきなり
>>750に噛み付いてる、この人怖ーーい
>>753 >豊臣と合流してから暴れまわった方が活躍により豊後以外も与えられたのではと思うところもある
九州平定後に日向一国与えられる話もあったが断ってるね
もしもの話だが豊後・日向二カ国持っていれば朝鮮の不始末で
罰として召し上げられるのはどちらか一国で済ませられたのであれば
大名の地位から滑り落ちる事もなく、その後の大友も別の姿を描けたと思うんだがなぁ
755 :
人間七七四年:2009/12/12(土) 14:02:39 ID:OfRAaOhb
目クソが耳クソを笑ってるスレと聞いてやってきました
756 :
人間七七四年:2009/12/12(土) 15:06:03 ID:uEvu5KE3
>いきなり
>>750に噛み付いてる、この人怖ーーい
なんだ、ID:S+QaxKHoは狂犬だったのか
成る程噛まれる訳だ、こりゃ手を出さない方が無難だな
757 :
人間七七四年:2009/12/12(土) 15:31:12 ID:S+QaxKHo
論破されて他人を装い必死に自演乙w
758 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/12(土) 21:17:06 ID:H2EZwJRM
日付変わるまで単発ID合戦なり復帰なりを眺めると勝敗が分かりそうだな。
759 :
人間七七四年:2009/12/12(土) 21:55:08 ID:F3epnbAE
狂犬が駄犬に噛み付いてるスレと聞いてやってきました
たまにレスが伸びてるからなんだと思えば
まさに絵に描いたよーな状況だなぁ
760 :
人間七七四年:2009/12/13(日) 02:06:30 ID:xQqSLjK8
筑前の要たる博多の制するには立花城が最重要拠点であり、
高橋紹運が秀吉援軍を計算していたと言うのは歴史を知る後世の人の講談。
そもそも秀吉は九州や関東に対して何度となく、援軍出す出す詐欺をやっている。
秀吉の口先の言葉をいちいち盲信して他力本願をするようじゃ武将として失格。
岩屋で大出血を島津に強いて、立花攻城の戦力を落とす戦略目標の達成と亡き道雪との義理だろう。
おそらく紹運は「父は死後に亡き道雪公に恥じることはない。宗茂よ!後は己が力で武運をひらいてみせよ」との遺志であろう。
大分郡 篭城に不向きな大友館から移転→龍王城(大友義統)&丹生島城(大友宗麟)
筑前口 日田郡&球珠郡 角牟礼城(森・魚返・中島・志津利)
豊前口 速見郡&国埼郡 杵築城(木付鎮直)
肥後口 直入郡&大野郡 岡城(志賀親次)
日向口 海部郡 栂牟礼城(佐伯惟定)
島津は補給路の概念が欠如してるね。まぁ現地略奪で調達してるんだろう。
さらに島津は時を経るに従い飛躍的に島津兵の消耗率はかなり高くなっていく。
豊後での略奪限界・上記の城主らが後方撹乱や補給遮断の焦土作戦で戦力ガタ落ちになっていく。
さらに島津兵の特徴として、略奪しまくって持って帰れる限界量まで達すると軍法を無視して
故郷に帰るという習性がある。
大友側の長期持久策が成功したと見るべきだろう。
志賀親次・佐伯惟定はたびたび島津軍を撃退しまくったので秀吉が激賞している。
761 :
人間七七四年:2009/12/13(日) 02:09:59 ID:xQqSLjK8
762 :
人間七七四年:2009/12/13(日) 08:01:59 ID:fuh3aq3+
島津は検診の劣化コピーな感じですよね。
検診は小田原侵攻した際は沼田城→厩橋城を攻略し策源地として→由良の金山城や成田の忍城の岩槻城などを自陣営を招いたのち
街道を制する古河城や松山城を攻略し補給路を確保してから、侵入し小田原で北条を威嚇したのちに
今回の目的であった鎌倉鶴岡八幡宮での関東管領職就任式を北条の目と鼻の先で挙行し見せつけて帰った。
島津の場合は、家久が日向口の入口たる佐伯地域をまったく攻略できないままに放置し内部深くに侵入し苦戦。
義弘が肥後口の入口たる岡城が攻略できず、やむなく兵力を分散し玖珠郡方面へ派兵するも角牟礼城で大敗。
さらに兵力を分散して手当たり次第に攻めるも、
小田原城のような城を築いてない大友は言わば、伊豆方面で籠城したようなもんで龍王や丹生島で籠城。
結局、島津は戦略的な郡単位の面の支配が不可能どころか戦術的な点の支配さえ出来ず敵中孤立してたのであり、
背後の補給路上には敵の要害が策源地として健在し、
死に物狂いな必死な攻城戦でいたずらに島津は兵力を大きく失われて壊滅状態になってしまった。
結局、島津は秋月にさんざん利用されたに過ぎなかった。
763 :
人間七七四年:2009/12/13(日) 08:03:59 ID:fuh3aq3+
訂正
成田の忍城や太田の岩槻城などを
764 :
人間七七四年:2009/12/14(月) 01:31:47 ID:g1mfCF/l
大友は南郡衆筆頭の志賀親度の島津内通の混乱からよく立ち直ったよな。
普通の大名なら志賀レベルの内通で敵を呼び込んだら崩壊してるよな。
まー島津に戦略的思考がなく、
各地の篭城がうまく言って体制回復の時間が稼げたということか。
後期では篭城組の調略で逆に島津が退路封鎖にあって悲惨な逃避行になってるし。
豊後からの退却ではもはや肥後口から脱出できずに、
義弘らも佐伯の敵勢力圏でフルボッコされながら逃げてんだよね。
765 :
人間七七四年:2009/12/14(月) 09:34:38 ID:uEk3gwvx
>>764 相良氏が殿をしたから、かろうじて豊後から日向へ島津は脱出できたに過ぎない。
相良氏がいなければ島津は壊滅してたろうね。
相良氏も日向経由で肥後の領国に帰っている。
はっきり言ってこの戦役を島津の勝ちなんて言うやつは歴史群像やコーエー程度の知識しかない無知。
島津は戦略目標を一つたりとも達成できず敗北した。
766 :
人間七七四年:2009/12/14(月) 11:16:07 ID:uEk3gwvx
それと宗麟が豊後と日向がもらえるはずだったと言うのは、かなり初期の話じゃないかな?
宗麟が断ったって言うより、秀吉が秋月種実と高橋へ養子に入った次男高橋元種を助命してやった時点で、日向すべてを譲られる可能性は消えたんじゃないかな?
相良は肥後南に安堵を受けてるし、
秋月は島津寄りだから、島津領の近くに封じるとしたら日向しかないし。
高橋が縣(延岡)、秋月が高鍋に減転封に決まる前に…ちょうど島津降伏土下座の時期に宗麟は病死しちゃうけど。
でも病で屋台骨の実質的指導者が寝込んでいたわりに大友はがんばったよなあ。
宗麟がもうちょっと早く死没してたら、さすがに組織崩壊が始まり籠城戦略も破綻してヤバかっただろうな。
自分の死亡→大友瓦解滅亡となりかねず、病との戦いでもあったわけで宗麟の悪運による粘り勝ちのような気もする。
767 :
人間七七四年:2009/12/15(火) 15:19:14 ID:vzi1cwen
略奪王島津って群盗犯罪集団だよな。
日本人を奴隷にしたり白人商人に売却したりしてさ。
しかも上方から来た兵に軍備の貧弱さをあざ笑われたり、
寡兵の藤堂高虎に翻弄させるし
蒲生氏郷には島津弱すぎとか言われるし
島原で龍造寺軍を討ったのはキリシタン式からの援助の有馬大鉄砲隊と2台の大砲だし。
大陸から鬼島津って呼ばれたとか言うけど、鬼って大陸だと幽霊だろ。鬼は強いと解釈するのは日本だけだしw
島津強いなんてエピソードは捏造三昧にもほどがあるだろ!
768 :
人間七七四年:2009/12/15(火) 17:07:48 ID:Hj0l+CZj
しかし大友の底力はすごいよな。
普通の当主だったら滅亡していそうなピンチが何度もあるのにそのたびに勢力を拡大しているね。
俺には真似できん。俺では大友家の当主にはなれないぜ。
諸分家が本家を担ぎたくて、それぞれの溢れすぎる愛がぶつかり合うイメージで。
770 :
人間七七四年:2009/12/16(水) 01:10:11 ID:llzFtjeM
>>745 周囲が湿地帯で多くの峰を持つ立花山の要害堅固さは、岩屋城をはるかに超える。
大軍でやってきた毛利も力攻めを避けたからね。
秀吉の援軍が来る来ない関係なく、島津が立花を落とせるわけがない。
力攻めしたら返り討ちにされるだけ。
771 :
人間七七四年:2009/12/16(水) 02:55:06 ID:VoZBWz+v
立花山城に籠城せず、あえて岩屋城に籠城したのはどういった理由があったのでしょうか?
兵を後方にまとめるよりも、分割したほうが時間稼ぎに有利なのでしょうか?
772 :
人間七七四年:2009/12/16(水) 07:09:13 ID:m2IvcGPA
>>711 宗茂も父に、岩屋を放棄して要害の立花へ撤退してきてくださいと書状を出してるが断っている。
おそらく宗茂の弟がいる宝満城や立花城のさらなる防衛力強化の土木作業の時間稼ぎや、岩屋を撤退した場合、娘婿の筑紫氏を見捨てたと誤解される可能性があるからじゃないかな。
食料や水などの更なる備蓄など籠城側がやるべきことは多いからね。
さらに紹雲は道雪との信義のために立花城だけは守りきりたい想いがあったのだろうし、
立花城が落城しない限り筑前国の支配者は西の大友と号された立花城督の手の内だから。
実際、島津追撃をした宗茂は秋月が手に入れた宝満と岩屋を簡単に奪回してるし、岩屋はそれほどの要害ではないだろう。
ちなみに当時の海岸線は現在より立花城側に近いはず。
まー島津は秋月に利用されただけなのには賛成。
773 :
人間七七四年:2009/12/16(水) 08:06:51 ID:VoZBWz+v
>>772 なるほど。やはりそのような理由があったのですね。
断って玉砕とは泣けますわ
>>772のアンカーがポップアップされてちょっと鬱になった。
775 :
人間七七四年:2009/12/17(木) 01:15:19 ID:j1vh2hrv
西日本最強の智将宗麟公
776 :
人間七七四年:2009/12/17(木) 08:37:14 ID:jj1tUEPe
九州三国志
大河ドラマ最終回
「道雪よワシもすぐ逝くが良い土産話が出来そうじゃ…そちの立花の養子のことじゃ」
死せる宗麟
生ける義弘を走らす!
777 :
人間七七四年:2009/12/20(日) 02:32:50 ID:oWcdLz+U
大友は局地戦では凡ミスするが、大局では間違わないんだよな。
んで島津も毛利も結局、秋月に操られただけなんだよな。
もっともそれが顕著なのが、島津の筑前侵攻かな。もともと島津は豊後攻略しようとしてたのを、秋月が大友を倒すのに筑前攻略の必要性を強く説いて道案内を買って出たから、筑前攻略を優先することに島津は変更しちまう。
これ無駄に時間を費やし兵力を消耗させただけで島津の大失策だよな…
778 :
人間七七四年:2009/12/20(日) 09:37:26 ID:N96zKgK1
>>777 いえてる
全知全能ではないが土壇場では最善手を打ってる感じ
779 :
人間七七四年:2009/12/20(日) 23:08:05 ID:FyynYLiW
subの合いの手なんか打つなよ
それともIDチェンジした同一人物ですか?(w
780 :
人間七七四年:2009/12/20(日) 23:36:50 ID:o1ZAN0T6
大友宗麟は、戦術家じゃなくて戦略家・政略家だから。
臼杵鑑速に送った手紙の内容を見るとよくわかる。
781 :
人間七七四年:2009/12/21(月) 09:46:09 ID:cV/rLg9z
782 :
人間七七四年:2009/12/21(月) 14:03:43 ID:M/RTe+F2
783 :
人間七七四年:2009/12/22(火) 13:34:26 ID:X7DIlvGd
大内義長って二男なのに扱い悪いね
ホモの大内に人身御供にだされるわ、毛利に殺されるわかわいそうだ
塩市丸とどっちが悲惨かねえ
784 :
人間七七四年:2009/12/23(水) 13:28:24 ID:usbgdOKy
785 :
人間七七四年:2009/12/23(水) 15:20:32 ID:Gm2Z6cZF
元来、古庄氏は武蔵七党横山氏流。
山口(横山)孝久の子・景久が相州愛甲郡古庄を領し、古庄氏を称したのに始まる。
大友能直の生家を古庄とも近藤とも称するのは、
その横山氏流古庄氏に、秀郷流近藤氏(駿河権守景親の流れ?)
が婿入りして古庄氏の地盤を継ぎ、
姓としては藤氏を称することになったためと思われる。
786 :
人間七七四年:2009/12/23(水) 18:36:14 ID:UbEcS3/c
>>784 さすが宗麟公
日本史板で戦国大名のスレ立てが許されるのは真に偉大な人物のみ。
787 :
人間七七四年:2009/12/23(水) 19:16:09 ID:UbEcS3/c
薩長のキチガイの島津サイキョー毛利サイキョーマンセーマンセー洗脳にダマされている人々がいるのが嘆かわしい。
鹿児島や山口とそれに便乗する広島らは息を吐くように捏造歪曲する。
788 :
人間七七四年:2009/12/23(水) 19:20:36 ID:PyScCNed
大内が健在の場合
縁者の大友と傘下の龍造寺が九州をかけて東西対決していたのだろうか?
789 :
人間七七四年:2009/12/23(水) 19:28:27 ID:PyScCNed
ところで大内義隆やその嫡子が病死した場合
晴英には大内家の跡取りになる可能性は残っていたのでしょうか?
謀反でなく自然に相続した場合は陶の傀儡になることなく
大友が大内を吸収し(もしくは強い同盟関係で)巨大勢力が誕生することになりますが
790 :
人間七七四年:2009/12/23(水) 19:29:57 ID:UbEcS3/c
龍造寺なんてザコだよ
今山での戦いで勝った勝った騒ぐのはクズ鍋島の罠にかかったようなもんだ。
あんなただの局地戦如きで大勢なんてまったく変わらなかった。
佐賀城に押し込め滅亡寸前に追い詰めた状況は変わらず、今山後も以前として大友が圧倒したまま。
毛利がやってきたから和睦して引き返しただけだし
この際に龍造寺は大友とは戦わない誓詞を出させられていて、研究者によってはこれを大友への従属化の証しとする場合もある。
このため大友に苦戦した毛利への背後からの援護射撃すら龍造寺には出来なかった。
791 :
人間七七四年:2009/12/23(水) 19:31:55 ID:UbEcS3/c
>>789 だいたいは骨肉の争いになるもんじゃないかな?
792 :
人間七七四年:2009/12/23(水) 19:38:52 ID:UbEcS3/c
そもそも龍造寺なんて、関東三国志をパクって、九州三国志なんて造語で呼ばれるようになり、無理やり大友と同格みたいな雰囲気にさせられた可哀想な被害者。
毛利に利用されてただけの存在で、のち毛利が九州から敗走したあとの力の空白を埋めた存在にすぎんし、
北条早雲みたいに中央の激しい争いを横目に、辺境にいて盗賊横領をして漁夫の利を掠め盗った泥棒猫な龍造寺には最初からそんな資格はない。
793 :
人間七七四年:2009/12/23(水) 19:53:27 ID:PyScCNed
>>791 しかし宗麟なら義統みたいに喧嘩しながらも
なんとかうまくやっていくと思うんだけどな
だいたい大友家中に謀反者が発生したのもしばしば毛利がけしかけたせいです。
大内=大友になって毛利が手を出せなければ大友に死角はないのではないでしょうか?
794 :
人間七七四年:2009/12/23(水) 20:03:07 ID:UbEcS3/c
その辺は難しいね。うまくやるかも知れないね。
ただ癖のある大内家臣団の総意次第じゃないかな?
大内と大友の利害調整がうまくできればよいけど。
特に貿易や領地における紛争が起きないような取り決めができるかが鍵だよね。
うまく大内の目を東に向けさせるように仕向ける必要はあるね。
ただ博多を手に入れられないと大友も幕府への献金など戦略外交が、従来のように思う通りにはできなくなるかも知れない。
キリシタン貿易をより一層強化しないとだね。
795 :
人間七七四年:2009/12/23(水) 20:04:08 ID:pdXJUC9u
>>793 宗麟が菊池義武を滅ぼしたみたいに
義統が大内滅ぼすのでは?
796 :
人間七七四年:2009/12/23(水) 20:16:37 ID:UbEcS3/c
>>795 それは俺も思って骨肉の話を出した。
でもまあ菊池の叔父が野心家だったし対等には論じられないから難しいトコ。
797 :
人間七七四年:2009/12/23(水) 20:31:38 ID:PyScCNed
>>795-796 なるほど
大内の山口もキリスト教と縁のある地ですから
宗麟が強く欲する可能性はありますな
798 :
人間七七四年:2009/12/24(木) 08:44:30 ID:QclKPjMM
みんな年いくつ?
799 :
人間七七四年:2009/12/24(木) 12:24:04 ID:wl5es4RO
大友って清国皇帝みたいなものだな
「眠れる獅子」かと思えば、実は「眠れない豚」だった。
そんで毛利、島津、龍造寺に攻められ跡形もなく消え去ったな
800 :
人間七七四年:2009/12/24(木) 16:09:36 ID:h7wQgXDc
801 :
人間七七四年:2009/12/26(土) 12:01:15 ID:52BujpzU
>>799 毛利、龍造寺、島津
みんな宗麟が勝利したザコ大名ですな。
毛利は大友に大敗したダメージで織田との戦いに満足に戦えず
龍造寺はフルボッコされて佐賀城に押し込まれて和睦し毛利支援も出来ずに毛利敗走を見てたね。
島津も大友に大敗して長駆鹿児島まで敗走。ダメージがデカ過ぎて秀吉先鋒の南下に大した抵抗もすでにできないまでに弱体化。
802 :
人間七七四年:2009/12/26(土) 16:56:46 ID:bQDXZeMx
ぶっちゃけ成り上がりの毛利なんかより大内のほうがよっぽど脅威だったよな
それは同意
804 :
人間七七四年:2009/12/27(日) 03:14:26 ID:23Ak7R9x
805 :
人間七七四年:2009/12/27(日) 08:00:51 ID:hmp9r4rZ
大友のスレだから詮無いことかもしれぬが、なぜこうも大友がマンセーされているんだ?
806 :
人間七七四年:2009/12/27(日) 09:22:13 ID:DmXo3vZa
そういうのを藪をつついて蛇を出すと言うんだぞ
807 :
人間七七四年:2009/12/27(日) 09:22:39 ID:usKUhj2K
一人熱烈なのがいればこんな過疎スレ簡単に流れが変わるんやで
むしろ大友にこれだけ熱烈なヲタがいるのはありがたいこと
808 :
人間七七四年:2009/12/27(日) 09:24:54 ID:YcM7C0nd
>>801 たしかに。秀吉本軍がまったく必要なかったくらい島津なんて速攻で大敗降伏したもんな。
秀吉の大軍や徳川前田上杉などを相手にガチで粘った小田原北条と比べたら
島津が大友の抵抗で、豊後で大敗。さらに筑前で大敗し鹿児島まで大敗走。
さらに懲りずに再度の豊後侵攻で完全大敗しまたまた鹿児島まで大敗走。
そんで秀吉の先陣が南下する時には島津はすでに崩壊してたからあっさり敗走降伏。
まあ島津なんて所詮、道雪が死ぬまでは大友領に侵攻すらしなかったヘタレだしな。
809 :
人間七七四年:2009/12/27(日) 09:32:56 ID:usKUhj2K
大友マンセーするのに他を貶めないとできないのがちょっと悲しいけどね
単体じゃマンセーできないっていってるようなもん
むしろ大友のアンチなのでは
810 :
人間七七四年:2009/12/27(日) 09:43:02 ID:G8vg745z
宗麟始め、大友諸兄の頑張りも次代の義統が総て水泡にしちゃった訳で・・・報われねぇ
大領を失った大名は他にもいるが、義統の失し方は小早川金吾並にイメージ悪い
811 :
人間七七四年:2009/12/27(日) 12:38:35 ID:QdlEdWER
>>802>>803 同意
大内>>>毛利>島津だよねぇ。
>>810 朝鮮出兵では誤判断でも改易されてない大名はいるから明らかに秀吉の裁定は不平等なんだよね。
実際、志賀に大敗した島津の逆恨み讒言説は存在してる。
毛利からの讒言という可能性は低い。なぜなら関が原で当初、東軍に付こうとした大友は
毛利の懇願で西軍に付いているから。
812 :
人間七七四年:2009/12/27(日) 14:27:29 ID:YcM7C0nd
まあ大友改易滅亡と言っても
大友諸流の立花家が生き残ったから命脈は生き続けてるんだよな。
宗麟が立花を秀吉直臣にしてもらうように頼んだのが大友血脈の延命の布石になったんだよな。
さすが宗麟の遠謀は抜かりがない。
813 :
人間七七四年:2009/12/27(日) 14:41:37 ID:YcM7C0nd
訂正
×諸
○庶
814 :
人間七七四年:2009/12/27(日) 17:23:09 ID:sbVQCRn1
宗麟公は天下人・大内義興の血を引いている
さすがだよな
815 :
人間七七四年:2009/12/27(日) 22:39:37 ID:sbVQCRn1
そういえば宗麟公は大内義長の兄というのは当然として、大内義興の孫にあたり、大内義隆の甥でもあるので
大内輝弘よりも伯父大内義隆や弟の遺領を継承する正当制があるんですよね
816 :
人間七七四年:2009/12/27(日) 23:22:27 ID:TQm8Pw9T
IDIDwwwwwwwwwwwwwwwww
817 :
人間七七四年:2009/12/27(日) 23:59:20 ID:YcM7C0nd
まさに西国一のサラブレットだな
818 :
人間七七四年:2009/12/28(月) 00:15:20 ID:KVne2yb8
宗麟の母親はハッキリしていない。
大内氏の娘という説もあるが、他に天皇の御落胤説、阿蘇氏の娘説。
819 :
人間七七四年:2009/12/28(月) 14:46:09 ID:2RbJEqsJ
どちらにせよ大友家の嫡流というだけでも名門中の名門だからな
820 :
人間七七四年:2009/12/28(月) 22:56:17 ID:2RbJEqsJ
天文二十三年(1554)、肥後守護織
永禄二年(1559)、豊前、筑前、筑後守護織、九州探題織、大内家家督
永禄三年(1560)、周防、長門守護織、左衛門督叙任、桐の紋を授与
ちゃんと旧大内領支配の正当性は手にしているんだよな
821 :
人間七七四年:2009/12/29(火) 00:53:07 ID:b8uPCm9Y
名誉職と領地は別物ってことだな
822 :
人間七七四年:2009/12/29(火) 00:54:30 ID:WeYoY4ru
oh,友よ!
823 :
人間七七四年:2009/12/29(火) 09:53:37 ID:1N56/n7/
大内が少弐を調略で破った時に有効であったように
官位官職や守護に就任することは国人懐柔にも有利な影響を与えた。
でも毛利・龍造寺・島津など権威を理解できない蛮人には効果がなかった。
824 :
人間七七四年:2009/12/30(水) 12:26:34 ID:HQlALIO6
面白い、実に面白い表現だ。
要するに大友は時代に乗れなかった人物でな。
825 :
人間七七四年:2009/12/31(木) 12:43:17 ID:7c3PjOYj
>>824 そうだね時代の流れに乗れず九州から逃げた元就や
関が原で滅亡寸前に追い詰められた輝元の無能さは致命的
826 :
人間七七四年:2009/12/31(木) 13:05:39 ID:7XELvjRJ
晴英の評価は低いが俺は不憫に思うぜ
実権のないあの状況ではどうしようもないとおもう
827 :
人間七七四年:2010/01/03(日) 23:35:41 ID:nMOnSMdU
( ´A`)ぅうむっ。
828 :
人間七七四年:2010/01/07(木) 09:26:22 ID:cumJVHAK
大友や大内は由緒ある名門で家臣を従えていたが
毛利は成り上がりに過ぎないので最後まで国人連合の盟主的立場だった
この差は大きい
829 :
人間七七四年:2010/01/07(木) 19:07:32 ID:hxpW6pz8
元就なんて後年の方になると配下の国人達から「上様」と呼ばれている。
こういう事は大内や大友にはまるで見られない。
毛利は盟主どころか、大友や大内以上の強力な支配者として君臨している。
830 :
人間七七四年:2010/01/08(金) 15:46:20 ID:ry1jSsow
はい大ウソ
毛利が関が原でも大坂陣でも中途半端なマネをして失敗の連続なのも
秀吉の命令で九州や朝鮮へ行く際の遅さの叱責も
ぜんぶ、国人連合で毛利に指揮力がないため。
無論、織田との戦いで後退を続けたのも、国人たちに毛利のために決戦するほどの意思がないため高松でも遠巻きで見てるだけ。
大友や大内の方がまだマシ
831 :
人間七七四年:2010/01/10(日) 16:21:25 ID:d2ICnwf5
マシというより大友は代々の名家だから
成り上がり途は比較にならないぜ
滅びの美学なんだろ。
833 :
人間七七四年:2010/01/11(月) 20:56:41 ID:l9AVGTIA
大友家って中原姓なの?藤原姓なの?
834 :
人間七七四年:2010/01/13(水) 03:48:11 ID:64mCZX0X
鎌倉時代前後まではどこの馬の骨か良くわからん。ってのが一番真摯な態度だろうな。
まああの時代の成り上がりだわ。鼻の穴ふくらませて言うほどの名家でも無い。
835 :
人間七七四年:2010/01/14(木) 11:29:11 ID:o6oi5NAa
>>834 >鎌倉時代前後まではどこの馬の骨か良くわからん
いやいや、大友はそこまで不明な出自ではない
836 :
人間七七四年:2010/01/18(月) 21:07:04 ID:HUNTogqs
837 :
人間七七四年:2010/01/18(月) 22:06:26 ID:d4x7mBlj
某SSを読むまで
大友?
ああ、島津にイジメられるモブ大名?
位の認識だった
838 :
人間七七四年:2010/01/19(火) 14:51:55 ID:IHf4ucGK
>>790 鍋島側が捏造してるからね。
今山の戦いで敗死した総大将の大友親貞は
宗麟の甥で大内を継いだ義長の息子。
当時はわずか5歳なわけだ。
満足な指揮すれできない幼児を最前線送りなんて
完全に討ち死にさせるための人事だねこれ。
それが酒宴で飲んだくれている隙を急襲され
自ら抜刀して戦い討ち死にしたなんて矛盾したことを書いてる。
辻褄を合わせるために宗麟の弟33歳に捏造された。
島津の豊後侵攻も宗麟の次男で剛勇無双独眼竜にして田原本家を継いだ
ドン・セバスチャン親家が義統と不仲だったから島津に内通したのが原因で
大友内紛が拡大しただけで島津自体は街道を走り回ってただけで大した武功もない。
だいたい三男の田原親賢(奈多夫人と兄弟)養子パンタレアン親盛の指揮の下で
島津が策していた秋月との協調戦略を完全に阻止され
豊前に入ることすらできなかったヘタレ。
豊前小倉城の高橋鑑種の養子秋月種冬や豊前国馬岳城の豊前長野氏の養子秋月種信
香春岳城の秋月元種らとの連絡線を完全に断ち切られて孤立無援にされたのは島津の方。
秋月種実からしたら島津のボロボロぶりに「島津マジつかえねぇ脆すぎだ」と思ったろう。
大友にとっては大内の攻勢の時の方がはるかに脅威だった。
大内>>>>越えられない壁>>>>>>>島津=毛利
ちなみに高橋紹雲が岩屋で討ち死にしたのも
義統の妻が姉妹で次期大友当主が甥になる計算があったから。
839 :
人間七七四年:2010/01/19(火) 15:52:46 ID:177xCF6+
大友宗麟は大内氏の正統後継者
正式に家督を継承している。
なぜか毛利が長州山口にずっといたから毛利が後継者と思われがちだが
毛利はただ単に裏切って侵略しただけなんだよな
840 :
人間七七四年:2010/01/19(火) 23:56:34 ID:psF0G1Ug
>>838 ねつ造かどうかは知らんが
僅か5歳の子供を総大将にする方がどうかしていると思うぞ
仮に当主の代理、錦の御旗として子供を担ぎ出したとしても
それならそれでそう簡単に攻め込まれない様後方の
更に後方に配置するとか回りが配慮するのが普通と思うのだが
841 :
人間七七四年:2010/01/20(水) 00:02:05 ID:lSdECzdq
>>838 大友って捏造のカタマリだったんだね
だから跡形もなく消え去ったのか
842 :
人間七七四年:2010/01/20(水) 00:08:10 ID:4yRV8q7e
>>840 そもそも今山合戦は大内義長が死んでから10年以上経っての出来事なので、
>>838がどこでその話を仕入れたかは知らんけど、大友八郎が大内義長の子息で
たった5歳なんてのはあり得ん。
八郎という人物も大友宗麟の弟だったり甥だったりで、系図上の関係がよくわからん。
今山合戦というと、最近は龍造寺による勝利ってのは全体で見ると局地的なもので、
今山合戦の帰趨が直ちに肥前の支配権に影響を及ぼしたという性格のものじゃないという
指摘もあるんだよね。
843 :
人間七七四年:2010/01/20(水) 00:29:29 ID:5uDAu8gu
844 :
人間七七四年:2010/01/20(水) 08:08:31 ID:lSdECzdq
>>838 弘治4(1557)4 大内義長自害
元亀1(1570)8 今山合戦
義長死後13年経って5歳の子がいたとは精子の冷凍保存でもしていたんだろかね
845 :
人間七七四年:2010/01/20(水) 08:25:06 ID:bQ/jFlPJ
へー5歳でもう元服してるんだー
846 :
人間七七四年:2010/01/20(水) 11:21:20 ID:lSdECzdq
【宗麟】大友氏について語ろう【義統】
↓
大友氏の捏造について語ろう
ワラタ
848 :
人間七七四年:2010/01/20(水) 22:51:38 ID:5uDAu8gu
贔屓の引き倒しも過ぎると暴走しちゃうと言う典型になっちゃったな
849 :
人間七七四年:2010/01/20(水) 23:56:56 ID:kJX9r38+
揚げ足取りのひどい荒らしがわんさか湧いてるなキモっ。
単に15歳と書くのに、なんらかの間違いで5歳とレスした脱字ミスだろな。
ちなみに親貞の仮名から義長の遺児だとするのは定説でより正確に書くと14、15歳だとされる。
義鎮は義長が第二の菊池義武になるのを恐れて、義長の大内入りに反対したとも言われ
義長をよくは思っていなかったとされる。
また親貞の陣の右はがら空きで討ってくださいな陣形だったために故意にやったと思われる。
その証拠に、この戦の結果は大勢にまったく影響はなかった。
この後の和睦は竜造寺の大友への隷属と竜造寺の横領した地の国人への返還の取り決めだった。
これは毛利の戦略を崩壊させた大友の大戦略の一環とも言われる。
850 :
人間七七四年:2010/01/21(木) 00:20:21 ID:MXjC+0cS
疲れてたか何かで文献を読み間違えたんじゃね?
大友に関して知識ないアホが鬼の首を取ったように騒いでるだけでくだらん。
少しは知的なレスでもしたらどうなんだと・・・
まぁ講談や歴史読本レベルの毛利厨や島津厨だろねぇ。
851 :
人間七七四年:2010/01/21(木) 01:11:35 ID:iieaM2zM
>単に15歳と書くのに、なんらかの間違いで5歳とレスした脱字ミスだろな。
>>838ははっきり"幼児を最前線"と書いているのだが
15歳を幼児と書くのも脱字ミスか?それとも自己弁護かな?
852 :
人間七七四年:2010/01/21(木) 02:25:45 ID:MXjC+0cS
>>851 くだらん粘着野郎だねぇ。
少しは大友に関する話を提供したらどうだ?荒らしクン。
君には吉岡長増についてのレスでも聞きたいな。
853 :
人間七七四年:2010/01/21(木) 02:42:39 ID:PO1TxBkM
粘着は言い過ぎだろ
851は間違った事は言ってないし
逆に粘着だ、荒らしだ、厨だ、と話をうやむやにしているほうがどうかと思う
過剰反応しすぎ
854 :
人間七七四年:2010/01/21(木) 18:11:13 ID:PYE26ZVr
鍋島が捏造しているんだと
鍋島三十五万七千石を愚弄するか!
控えおろー 下郎ども!
855 :
人間七七四年:2010/01/21(木) 19:12:08 ID:iieaM2zM
>逆に粘着だ、荒らしだ、厨だ、と話をうやむやにしているほうがどうかと思う
話をうやむやにするしかないだろう
彼の書き込みは撤退を転進、全滅を玉砕と詭弁を弄した
旧軍と同じ類の詭弁や欺瞞に満ち溢れてる
>また親貞の陣の右はがら空きで討ってくださいな陣形だったために故意にやったと思われる。
この一文を見ても詭弁だと言う事が分かる
敵を誘うためにわざと空けた陣形なら誘いの乗った敵に対処する備えをとるはずだか
そう言った備えもせず、総大将討ち取られる様な陣形ってどんだけ無様な陣形だよ
逆に言えばそう言った備えが無かったって事は元々敵を誘う為の陣形では無かったって事だろ
ったく、総大将の命引き替えにしたリスキー過ぎる戦術って、いったいドコの馬鹿が思いつくんだか・・・
856 :
人間七七四年:2010/01/21(木) 23:24:48 ID:hNe+de7u
そもそも興味深いのは、なぜ鍋島が今山合戦後に杏葉紋を使い始めたかということ。
竜造寺の当主である隆信より、鍋島の方をあえて優遇するという。
これって、勘繰れば、大友氏の竜造寺の分断政策じゃないのか?
857 :
人間七七四年:2010/01/22(金) 09:59:39 ID:5fUUapnH
>>856 でも、当時は合戦で敗った相手の家紋とか馬印を、
敢えて自分の物として使うってのは、有る話だし
そう珍しくはないと思う。
やっぱりまだまだ「大友氏」のネームバリューは
そこそこ有ったんだろうね、当時は。
858 :
人間七七四年:2010/01/22(金) 14:48:40 ID:mJqBQ25m
大分でここは行っとけっていう、史跡はありますか?
859 :
人間七七四年:2010/01/22(金) 18:26:40 ID:SdUoyEqU
838 :人間七七四年:2010/01/19(火) 14:51:55 ID:IHf4ucGK
鍋島側が捏造してるからね。
今山の戦いで敗死した総大将の大友親貞は
宗麟の甥で大内を継いだ義長の息子。
当時はわずか5歳なわけだ。
満足な指揮すれできない幼児を最前線送りなんて
完全に討ち死にさせるための人事だねこれ。
それが酒宴で飲んだくれている隙を急襲され
自ら抜刀して戦い討ち死にしたなんて矛盾したことを書いてる。
辻褄を合わせるために宗麟の弟33歳に捏造された。
860 :
人間七七四年:2010/01/26(火) 16:43:17 ID:ol0UH/ZG
>>852 そうだね、ロクに知識ない荒らしが喚くから過疎化すんだよね。
厨房相手に金を稼いでる歴史読本やコーエー本の迎合記事レベルの本を読んで知った気になる痛いアホが多いね。
>>853>>854>>855>>859コイツらほど役に立たないレスのみで無知でキモい粘着はなかなかないね。
>>647 義統がかなりのアホで、重臣を簡単に殺そうとしたり、無駄に対立したり
義統の母の兄にあたる田原紹忍が豊州の賢人たちの死去後に勝手な政治をしたのが原因。
豊州二老の吉岡長増(1573年死去)・臼杵鑑速(1575年死去)
吉弘鑑理(1571年死去)・臼杵鑑速の死で豊後三老の最後の生き残りの道雪が
危機的な筑後戦線の建て直しのため、加判衆から1571年に立花城督として筑前に転出したのが痛い。
吉岡長増がキレて田原のやったことを全否定したこともあったが、彼等の死後に
田原紹忍の押さえつけて監視できる人材がいなかった。1578年耳川の総大将もコイツ。
また、このアホ兄妹は奈多宮司出なのでキリスト教嫌いが激しくいろいろ騒動起こしてる。
あと大友が秀吉に助けてもらったというのは歴史を知らなさ過ぎる。
あれは単に1585年の正親町天皇の勅命に沿った和睦勧告なだけ。
大友の統治体制ってかなりよくできてて、二階崩れの変はそもそも大友館を中心に家臣団の集住と官僚化の成功によるところだし
毛利の最大の欠点でもあった寄親寄子制のような家臣による国人層の主従化の阻止により
家臣の私兵化を抑止しており、大友宗家の力の源泉である加判衆や方分や城督の任命と剥奪が原因になった
家臣の小規模反乱しかおきていない。
861 :
人間七七四年:2010/01/26(火) 19:38:25 ID:HcPs0fQR
>>860 そうだね、ロクに知識なのに捏造するから叩かれるんだよね。
そうだね、捏造を突っ込まれて悔しいから今頃自演したり自己弁護しちゃうんだね
天の視座を持つ人と全く歴史について語っていない人がいるのはわかった。
863 :
人間七七四年:2010/01/28(木) 01:17:19 ID:Mm+9W1bk
>>860 >
危機的な筑後戦線の建て直しのため、加判衆から1571年に立花城督として筑前に転出したのが痛い。
そうは言っても、加判衆→城督は、人事上の慣例として、かなり定着していたのよ。
たとえばも、吉弘鑑理、小原鑑元なんかもそのコースをたどってた。
田原親賢については、功罪相半ばだな。
宗麟は、自分のコントロールの利く田原親賢に田原氏全体を掌握させることで、
田原氏をコントロールすることができたわけだし。
奈多夫人のおかげで、国東を掌握する田原・吉弘・奈多に閨閥を築けた。
864 :
人間七七四年:2010/01/28(木) 16:32:31 ID:zLBz2DIU
吉川広家が毛利輝元に領土を返上して主家を守ったように
立花宗茂も主家を助けんかい!と思うのは俺だけだろうか?
865 :
人間七七四年:2010/01/28(木) 18:35:19 ID:1amsisNg
>吉川広家が毛利輝元に領土を返上して主家を守ったように
広家は主家を守るどころか危うく潰しそうになったし
家康から与えられた新領を主家に譲った形で返上ではないんだがな
>花宗茂も主家を助けんかい!と思うのは俺だけだろうか?
宗茂から見れば立花は家臣としてさんざん大友を助けたが
今はもう立場が違うしもう自力でなんとかしなさいって気分だったのでは?
866 :
人間七七四年:2010/01/28(木) 18:44:24 ID:RF4wX/TX
>>864 広家は駄目だろ。
宗茂は紹運から昔の関係より現在の関係に対して筋を通すように教育されてたからな。
それでも吉統の夫人や子を助けたり、田原親家や吉弘統幸を預かったりしてるんだがな。
867 :
人間七七四年:2010/01/30(土) 01:11:24 ID:qk38T0gy
龍造寺隆信って大内に従属し、蒲池に従属し、大友に従属しやり遂げたのは肥前統一だけ。
耳川後の混乱に乗じて大友に攻め込み、恩ある蒲池一族を皆殺しにしたりして筑前・筑後・肥後・豊前を支配したけど
調子に乗って沖田畷で戦死。
停戦を無視して何度も攻めてくる毛利とか
恩知らずの龍造寺とか
隣は最悪な奴ばかりだよな
868 :
人間七七四年:2010/01/30(土) 11:51:25 ID:zszAp2w+
大友って戦国以前までは良い思いをしたんだから満足だろな
少弐と仲良くご臨終か
869 :
人間七七四年:2010/01/30(土) 13:00:26 ID:8kJtwEEU
870 :
人間七七四年:2010/01/30(土) 13:29:22 ID:JumocD5C
5歳が酒宴で飲んだくれていたことにびびった。
871 :
人間七七四年:2010/01/30(土) 13:35:10 ID:qk38T0gy
島津を否定したらそれにまけた大友家も否定することになる
大友家は義統さえ有能ならあんな結果にならなかったろうに
872 :
人間七七四年:2010/01/30(土) 13:53:08 ID:vs+wTkyJ
大友は地理的に上下にならず者がやってくるから挟まれついてないよな。
しかも豊後は山谷ばかりで輸送力も悪いオマケつき。
873 :
人間七七四年:2010/01/30(土) 15:38:18 ID:9/9iCDZO
鎮西ナンバー1の少弐を大内と一緒に追い落としてさあこれからって時に
戦国後期までは完全に空気だった島津に出し抜かれちゃったね
874 :
人間七七四年:2010/01/30(土) 16:23:30 ID:qk38T0gy
龍造寺っていう恩知らずのクソデブと
毛利という恥知らずに挟まれたら厳しいのは仕方がない。
近隣に足を引っ張る勢力がない島津のほうがだんだん有利になるのは当然だな
875 :
人間七七四年:2010/01/30(土) 16:44:09 ID:vs+wTkyJ
日本人を拉致監禁し奴隷にして海外に売りまくった犯罪集団隼人蛮族さつまいも
876 :
人間七七四年:2010/01/31(日) 00:41:44 ID:FYboZIfx
>>833 大友は波多野(藤原)氏族だし、中原氏の猶子になってるのも事実だしで、
両方とも正しい
じゃね?
877 :
人間七七四年:2010/01/31(日) 09:28:14 ID:O8CjD3ZA
頼朝公の子だよ
878 :
人間七七四年:2010/01/31(日) 17:35:11 ID:NfRJR4sM
879 :
人間七七四年:2010/01/31(日) 19:41:23 ID:O8CjD3ZA
綺羅星のごとき大友の将帥たち
880 :
人間七七四年:2010/01/31(日) 21:44:23 ID:Aqicguzq
あれだけの家臣がいると綺羅星と言うか玉石混淆だな
本当に大友の将帥が綺羅星の様だったらあんな結果には、と思うことが多々ある
881 :
人間七七四年:2010/02/01(月) 00:02:49 ID:3y6aQv2z
知略縦横
882 :
人間七七四年:2010/02/05(金) 10:43:39 ID:eoLtgm7A
龍造寺は今山合戦で息の根を止めるべきだったと思う
宗麟の優柔不断さが肥前を失ってしまった
883 :
人間七七四年:2010/02/05(金) 17:14:51 ID:9dPQd8je
今山に孤立布陣したのは素性のまったく不明で武功もない総大将の親貞だけだからねぇ。
親貞の左翼の川上にいた鑑連は攻撃を聞いても
救援にまったく動かず
川上川の対岸の吉弘鑑理も動かず
かなり離れていた右翼の小田鎮光も動かず。
危険すぎると反対する隆信に対して強く奇襲を勧めた鍋島は戦後に大友の定紋の使用が許可される・・・
ここでもまた敵に内通疑惑のある鍋島でした。
884 :
人間七七四年:2010/02/05(金) 19:59:01 ID:1e7/antH
1582/08/01には島津か毛利に殺される運命の悲惨な人か
885 :
人間七七四年:2010/02/05(金) 20:01:02 ID:1e7/antH
そういや綺羅星ってエロ小説家だよな
>>4の理由がやっと分かった気がするよ
886 :
人間七七四年:2010/02/05(金) 20:10:59 ID:f1VHLR/I
蒲池氏について質問。大友氏の傘下で隆盛していた蒲池氏は
龍造寺に恩を仇で返されて虐殺されましたよね?
その後はどうなったのでしょうか?
887 :
人間七七四年:2010/02/06(土) 00:09:57 ID:5kHK5wYp
滅亡した
888 :
人間七七四年:2010/02/06(土) 12:35:57 ID:qBXPNmQF
889 :
人間七七四年:2010/02/07(日) 00:07:58 ID:ivpdQ8N9
松田聖子(本名、蒲池法子)はその蒲池の子孫じゃなかったっけ?
890 :
人間七七四年:2010/02/07(日) 00:15:57 ID:Wl5nqBaq
891 :
人間七七四年:2010/02/07(日) 12:36:27 ID:MlRiEaBa
>>887-890 サンクス
近所に蒲池さん多いから疑問に思ってましたがやっぱり生き残りがいたんですね
892 :
人間七七四年:2010/02/07(日) 19:12:15 ID:Y+MUq/kK
滅亡と皆殺しは違うからなあ。
ちなみに田口蔵人息子は、豊薩合戦で利光城で討ち死にしたそうだ。
893 :
人間七七四年:2010/02/07(日) 23:02:36 ID:Wl5nqBaq
蒲池は大友を見限り龍造寺の幕下となり
さらに島津に内通し龍造寺に征伐されたヘタレ
894 :
人間七七四年:2010/02/07(日) 23:15:02 ID:OR8Xii9S
大友で安芸攻め取ってみたがそっから先が中々進まないお
895 :
人間七七四年:2010/02/07(日) 23:53:33 ID:HsqaX5wZ
>>890 それ相当前から粘着してるキチガイが立てたスレだよ
2000年代初頭からいる
896 :
人間七七四年:2010/02/08(月) 09:11:12 ID:Gjd+uPA1
国人の離反が続いたのは義統のころでしょうか?
宗麟はスケベだが優秀なイメージで義統は暗愚なイメージなのですが
897 :
人間七七四年:2010/02/08(月) 18:59:29 ID:jE1ZQ+V7
>>896 どうかな?宗麟が現役バリバリの頃も離反はあるし、
宗麟と義統の二頭政治が弱体を早めた感はするよね。
まあ当時は「そこそこの人物」では家を保てないって
言う混乱期だし、一概に義統を責めるのは厳しいか…?
でも立花宗茂、志賀親次みたいな、若く優秀な家臣を
使いこなせなかったのは致命的。
898 :
人間七七四年:2010/02/09(火) 00:07:27 ID:zE4PfPOg
バテレンは中絶禁止だから宗麟の子って相当な数だろな
899 :
人間七七四年:2010/02/09(火) 02:29:56 ID:iJ6H+ac/
領内で間引き禁止して孤児院に入れる制度作ったり、
アルメイダの病院で領民は無料で治療を受けれるようにしてたらしいけどな。
900 :
人間七七四年:2010/02/09(火) 12:47:56 ID:hubYklmi
大友に離反が頻発したのは、他家と違って寄親と寄子の関係が薄かったから。
寄親寄子制の強化と言うのは、相互監視という目的もあったんで、大友氏では、
反乱が多く起こった。
しかし、寄親寄子制の弱いことはメリットも多くて、結構な有力者が反乱を
起こしてもあっさりと終結している。
(巧網氏、佐伯氏、田原親述、一万田鑑相、小原鑑元)
901 :
人間七七四年:2010/02/09(火) 23:30:36 ID:IHZvOvib
大友の領地が薩摩あたりだったら生残れただろな
薩摩大隅なんて欲しがる奴っていないだろから
902 :
人間七七四年:2010/02/10(水) 00:44:39 ID:eusospwi
>>900 寄親寄子制は後進的なもの。
これは中国地方では特に顕著で
大内や尼子や毛利とオセロをひっくり返すように
ばたばたと国人たちが大挙として陣営を変えまくる原因。
島津家久を最低でも二回以上は大破したと言われる佐伯惟定だが
これを補佐したのは山田宗昌と言われている。
この人物は伊東氏の家臣だったりする。
朽網をどう間違うと巧網になるんだ。
904 :
人間七七四年:2010/02/10(水) 21:08:37 ID:mBm3X66Z
高校の卒論一応血繋がってるから大友宗麟について書いたわ・・・懐かしいな
905 :
人間七七四年:2010/02/10(水) 21:32:54 ID:q+PjBHxx
>>903 まあ、木付氏を杵築氏と間違う事も有りますよ…
906 :
人間七七四年:2010/02/10(水) 21:44:52 ID:TsEN/ZB4
得川の名が欲しくて徳川と改名する人もいるしな
907 :
人間七七四年:2010/02/10(水) 22:59:29 ID:rwjbP1Y7
鑑○鎮○統○の名前が多すぎてこんがらがるな。。。
他家でも偏諱をもらってる家臣は大勢いるけど、信○とか康○とかはわかりやすい
大友三代は字面がインパクトあるからかな
かんちんとう
909 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 03:11:05 ID:NF8sIJTv
緩やかな連合体たる寄親寄子制が原因で
尼子経久・晴久と相次いで亡くなった尼子氏や
大内義隆の謀反による死亡後によるあっという間の瓦解を引き起こしたおかげで
ただ単純に長生きしていただけの地域の長老格の元就の実力なき拡大が成立した。
また秀吉が「毛利はグダグダやって動きが遅い」と激怒するほどのトロい国人動員や
関が原での毛利家中分裂の原因にもなった。
大友は家臣統制を強めていく過程で有力者の反乱が起こるが寄親寄子制ではないので
広範囲にわたる一大反乱に拡大することがなかった。
これが大友が毛利に大勝した理由であろう。
910 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 03:58:37 ID:STGi7jCF
大勝かどうかは知らんが、毛利が秀吉に降るまで
国人衆を統率しきれるだけの支配力がなかったのは確かだね
秀吉がバックについた途端に独立性の強い国人衆をドンドン難癖つけて滅ぼして直轄化していってるし
911 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 11:43:04 ID:HRG/tJgA
秀吉を前に後退を続けたのも
毛利に国人はただ単に寄子として従っていただけなので
血を流す決戦をするほど心服してないために非協力的だった。
大内や尼子復興軍があれだけ大規模に膨れあがったのも国人たちが毛利への忠誠心がなかったから。
それが寄親寄子制度の弱点。
北条が籠城ばかりなのもこれのせい。
912 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 11:47:46 ID:PO2pqXQ0
大内や尼子も寄親寄子制だとしたら
なんで大内や尼子復興軍のほうが分が悪いのにこれに与してしまったんだろう?
913 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 11:53:44 ID:HRG/tJgA
ムリヤリ九州に連行されて戦わされていたから嫌気がさした国人もいたのだろう。
九州での戦は敗北したために領地の加増すら満足いくものではなく、国人は貧しさを増した。
これは大内が上洛した際にムリヤリ従った国人が勝手に帰国したりした時の気持ちに似たものだろう。
この九州での負の遺産から対織田戦ではさらに士気が低下して、
もはや毛利は彼らに決戦の強要すらできなくなった。
914 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 12:05:09 ID:PO2pqXQ0
納得です
915 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 18:56:31 ID:62UAfMQ3
由布惟信ってどういう評価?
オレ苗字は油布だけどそいつの子孫っての最近知ったんだけど
916 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 19:22:32 ID:HRG/tJgA
>>915 名将道雪が若き宗茂に遺した叩き上げの将。
宗茂の活躍も道雪の兵略を駆使した彼ら重臣の補佐によるもの
917 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 19:32:07 ID:62UAfMQ3
>>916 んじゃあまあまあってことか
ありがとう
918 :
人間七七四年:2010/02/12(金) 11:56:50 ID:iI2sK1nr
>>917 すごい武将だから自慢してよいレベル
立花四天って信長の野望に昔は登場してたけど最近の信長の野望シリーズでは圧力かなんかで消されたんだっけ?
919 :
人間七七四年:2010/02/12(金) 14:04:41 ID:GpDwxGkV
宗茂や道雪はたしかに名将だが
彼らばかり注目されて三家老が軽んじられる傾向があるのが気に入らない
920 :
人間七七四年:2010/02/12(金) 14:32:51 ID:7tLPacPT
自慢はしない方がいいと思うが。
「俺、誰々の子孫なんだぜ〜」とか言われても胡散臭がられるだけだと思うよ
(それが事実であっても)
921 :
人間七七四年:2010/02/12(金) 19:06:42 ID:FUb+YU61
922 :
人間七七四年:2010/02/12(金) 23:29:05 ID:st1CYF6k
>>918 由布と小野は出てんじゃね?
と言うか信長の野望シリーズ一通りやってるがこの二人と道雪、宗茂、直次ぐらいしか立花の人間見てないんだが。
923 :
人間七七四年:2010/02/13(土) 17:01:24 ID:nio8Cyln
>>922 天下統一シリーズだと何故か薦野増時と米多比鎮久は出ないのに、
立花鑑載に殺されたその父親達は出てるんだよな。
あと十時惟忠とか妙な人選をしてる気がするw
924 :
人間七七四年:2010/02/14(日) 18:24:17 ID:+wKIL3GR
>>918 嵐世記あたりではいたけど革新で消えてなかったっけ?
最新のでは登場すんの?
925 :
人間七七四年:2010/02/14(日) 21:15:08 ID:buUB1hJH
>>920 俺、赤穂浪士の討入りしなかった方の子孫なんだぜ!
微妙・・・w
926 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 22:22:21 ID:WnzrtHoQ
宗茂が秀吉の寝首を取ってれば大友が天下を取れたな
927 :
人間七七四年:2010/02/16(火) 22:39:08 ID:iBPkuu0Q
宗茂がそんな野心家なら宗茂大友蹴落として立花が天下取っとるわ
928 :
人間七七四年:2010/02/17(水) 11:02:00 ID:ALMQS+Gr
道雪や紹運はよく宗麟を見限らなかったな
耳川の戦い以降この二人に独立されたら大友は滅亡していただろう
929 :
人間七七四年:2010/02/17(水) 11:44:27 ID:SiF0Vn74
大友って滅亡しただろ
どこに大友が残ったんだよ
930 :
月孔雀:2010/02/17(水) 14:04:15 ID:JIKGRD1m
何故キリシタン大名になったか、教えて?
931 :
月孔雀:2010/02/17(水) 14:17:06 ID:JIKGRD1m
赤穂浪士って、浅野匠のカミの奥さんが吉良上野介に
やられちゃったんでしょ。そりゃ、切れるでしょ。
932 :
人間七七四年:2010/02/17(水) 14:18:42 ID:P9bXwXm9
>>927 当時の立花勢に大友へ攻め込むほどの余裕はない。
島津・秋月の防戦で手一杯。島津へ寝返るという選択肢はあったかもしれんが
>>928が言いたかったのは、この2人が存命中に独立なり離反なりしたら
もっと早く大友は潰れていただろう、って事だろ?
まがりなりにも大友家を残して、島津から守ったわけだから。
(後に改易されたのは義統が馬鹿だっただけで件の2人は関係ない)
933 :
人間七七四年:2010/02/17(水) 16:45:11 ID:NymvKmF1
ちんシュスレでみましたが、麻生太郎は高橋ちんシュこと紹運の子孫だというのは本当ですか?
934 :
人間七七四年:2010/02/17(水) 19:48:04 ID:+VsaaKJu
>>932 >当時の立花勢に大友へ攻め込むほどの余裕はない。
>>926へのレスはそう言う意味で書いたのではないのだがな
まぁ、宗茂が無防備な秀吉の寝首をかっ切る事を試みる程の野心家なら
大友に天下取らせるフリをして斎藤道三みたいに大友の名を利用したり
出来の悪い義統を追放して家乗っ取る事ぐらい平気でやるだろうって事
935 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 04:00:34 ID:jrYJ/wGv
風雲録で吉弘鑑理と佐伯惟教が速攻で死ぬ仕様には何か意味があったのだろうか
936 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 10:24:30 ID:0ex041d/
>>928 その可能性は結構あったかもしれないな
2人とも宗麟より人望集めていただろうし
937 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 13:10:40 ID:hZXSuyBM
2人が見限って筑前が失われたとしても大友は滅亡しない。
それが大友が家臣団を統制するための城督制度の狙いでもある。
938 :
人間七七四年:2010/02/18(木) 19:02:11 ID:tVB35cd8
宗麟は嫌いだけど道雪、紹運、宗茂は好き
939 :
人間七七四年:2010/02/19(金) 23:10:31 ID:WzvBgjHP
宗麟は「この人の為なら死んでもいい」
なんて思わせる器量の人間じゃ無い事だけは確かだな
940 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 00:24:17 ID:+QukfOhf
実際は宗麟のために命を棄てて討ち死にした武将がたくさんいたわけだが。
家臣の反乱って言うのも実際は、家臣の官僚化や国人統制する過程でおきた中央集権への努力の反発によるもの。
宗麟への取次をした側近に力を持たせず側近政治もやらなかった。
また宗麟は独裁せず行政府たる加判衆による合議に任せていた。
941 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 00:31:33 ID:YLM7jZvg
だよな
合議制というのは非常に良いとおもう
ただ大内みたいに評定衆に丸投げするようではだめだが
942 :
人間七七四年:2010/02/20(土) 20:06:47 ID:k9DXZiKe
>>940 ほぼ同意だ。
ただ、当時の人間がどう考えていたかは、別だと思う。
宗麟に限らず、父、祖父も加判衆の人事には自分の意向を
かなりストレートに反映させたみたいだしな。
943 :
人間七七四年:2010/02/21(日) 07:28:29 ID:ZdYp9vJ7
守護大名上がりゆえに諸家が乱立し、いろいろと難しい政治状況の中で近世大名化への手を打つべく、
宗麟は勢力ある田原本家を牽制する人事をしたりと政治力学的にけっこういろいろと手を打ってるね。
944 :
人間七七四年:2010/02/21(日) 21:12:31 ID:WLVUalSz
精力的に人妻にも手を打ってるね。
945 :
人間七七四年:2010/02/21(日) 21:50:09 ID:ZdYp9vJ7
946 :
人間七七四年:2010/02/21(日) 23:03:04 ID:K8nMZEpT
>>944 それが真実と信じられてしまうのが宗麟の宗麟所以
947 :
人間七七四年:2010/02/22(月) 04:39:41 ID:iI4NUv3g
948 :
人間七七四年:2010/02/22(月) 11:34:47 ID:UHhdB1Lj
>>947 むしろ信用できる一次史料にそんなの書いてない。
949 :
人間七七四年:2010/02/22(月) 18:26:50 ID:c9tTLAWg
たぶん大友記って読み物のせいだろうねぇ。
仏教徒の人が書いた戦記なのか
宗麟を仏教を弾圧するキチガイみたいに悪く書いてるんだよねぇ。
住吉大明神・万寿寺・彦山炎上のすべてを証拠一切なく
すべての火災をキリシタン宗麟が魔宗仏教弾圧を目的として命じたことにしてるほどだから。
しかも信長の比叡山焼き討ちと宗麟の彦山焼き討ちは戦国二大法難認定されてるし。
950 :
人間七七四年:2010/02/22(月) 18:28:56 ID:oPKCYjpK
前から疑問だったんだが
英彦山ってなんで読まないのに英がついているんだろうな
951 :
人間七七四年:2010/02/22(月) 18:50:10 ID:G5ZQBFoF
元々彦山だったのが霊元法皇の院宣により英の字が授けられ英彦山となった
952 :
人間七七四年:2010/02/22(月) 19:16:36 ID:c9tTLAWg
381 :人間七七四年:2010/02/06(土) 17:22:36 ID:s0KGK69J
家臣団の府内集住に成功した反面で二階崩れの変が起きた大友や六角氏の挫折や武田信虎追放劇のように強権発動で豪族連中を屈服させて中央集権化を目指すのに失敗したんだな。
結局、そういうことをせずに甘やかしたり、欲で釣って自陣営に引き込んでる大名が
成功して版図拡大してんだよな。
それで豊臣政権の力を借りて上杉のように官僚化へ脱皮するか
最上のように失敗改易するか、伊達や島津のようにグダグダなまま封権制度を引きずるか。
あと伊東義祐は期待してた長男次男が早世したんだっけたしか。
それで寺社作ったりして供養してたりが京洛文化に憧れ→享楽と誤解される方面に流れた感じ。
大友といい伊東といい、いろいろと誤解されて悪い印象を刷り込まれてるよね。
大分県と宮崎県はもっと郷土の英雄を賞賛しなきゃならんよ。
953 :
人間七七四年:2010/02/22(月) 19:57:40 ID:oPKCYjpK
954 :
人間七七四年:2010/02/25(木) 01:26:26 ID:eog4PEY/
>>949 宗麟の周りには奇怪不吉なことがやたら起きているなど
ありえない現象やデタラメ妄想を書きまくってるからね。
大友滅亡の前兆をわざわざ作りだして宗麟を愚主として描こうとしてる。
このイメージが先行しちゃって宗麟のイメージを悪化させてる。
955 :
人間七七四年:2010/02/25(木) 23:47:27 ID:TEMiHpou
美化されたものより信頼性があるんじゃない
956 :
人間七七四年:2010/02/26(金) 20:33:57 ID:NSP2jlLu
宗麟って愚将?知将?
昨今、道雪を遠ざけたり、耳川の戦いを断行するなど
あまり良い噂を聞かない
実際どうなのよ
957 :
人間七七四年:2010/02/26(金) 20:44:54 ID:HnzT3chD
wwwwwwwwwwwwwwww
958 :
人間七七四年:2010/02/26(金) 20:54:44 ID:ryUBB9NV
同程度の信頼性というのが関の山かと
959 :
人間七七四年:2010/02/27(土) 00:16:05 ID:bH538EAP
社寺の打ちこわしは宗麟がその寺領を奪って直轄地を増やし、褒賞に与えたりする政治的意図があるよね。
宗麟は毛利を撃破したりと知将でしょ。
もっとも手腕を発揮したのは島津が臼杵の丹生島城を攻めた際に、宗麟の元には兵がいなかったため、
避難してきた女子供を指揮して3日のうちに島津軍を撃破して敗走させた指揮力は見事。
大友傾国は義統・奈多夫人・紹忍の三人に人望も才覚も協調性もなかったのが原因でしょ。
まぁ豊臣権力を背景に島津に内通した重臣を改易しまくり、近世大名化を謀った手腕は褒められるけど。
それに絡んでの話だけど、島津侵攻時の大友の根拠地って臼杵なんだよね。
府内はただ単に国府にあった政庁として大友家臣団が集住してた場所に過ぎないわけで。
ただ家臣の移転まで進んでないようで、家臣が府内に集住してるから大事な会議などでは、いまだ府内に行かざるおえない場面があるだけで。
朝鮮出兵時には鶴崎に家臣を移住させようとしてるし。
義統って島津戦や朝鮮役での臆病な振る舞いや大友再興軍の敗北を見ると軍事的才覚はないようだし
紹忍や奈多夫人に振り回されて、言を左右に変え定見を持たず、宗麟のような学識もないと酷評されてるし。
宗麟が現役の頃は加判衆の衆議に任せていたけど、
義統は独裁に近いことやって、死罪を連発しては宗麟がとりなしてる。
このあたりは島津への離反の導火線でしょ。
そのうち「父は隠居してるのに口出しが多すぎる」とかなり険悪な関係になってるし。
まぁ親子相克は戦国大名の運命で、信玄が父を追放したり、政宗が父を銃殺したりしてるから。
佐竹義宣も戦国の荒々しさで義重を追放して関が原に臨んでたら家康もヤバかったかもしれんし。
960 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 06:21:41 ID:ycaIck2w
>>955 寺社領を没収する為に攻め込むなんてのはどこの大名もやってること
それくらい寺社の政治・軍事的な意味合いは現在のそれとは比較にならないものがあった。
さらに仏教徒もキリスト宣教師も自分達に不利益な事をした大名については
滅茶苦茶な難癖をつけるのが常。
領内に強い寺社勢力があったりする大名はとかく必要以上に悪く書かれるきらいがある。
(松永弾正が東大寺焼いたとかいう話も、寺社保護派の筒井サイドからの悪評だしね)
961 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 11:37:32 ID:yIq7I5uv
宗麟はキリスト教を保護することで、汚職寺社勢力を牽制してたからね。
実際、司祭らは布施をまったくもらわなかったから弱者を中心に支持を得て、僧侶側は逆に布施が貰えなくなったり迷信を信じなくなる民衆のせいで経済的打撃を受けたために、かなり嫌がらせを教会にしてたね。
さらに民衆の支持を無くしてきた僧侶たちの寺社領を宗麟は没収しまくった。
こういう経緯があるから島原の乱後の江戸前中期あたりから宗麟は無能とか倫理観ないとか記述されるようになった。
僧侶側が宗麟を悪く書いて印象操作に成功したと言える。
宗麟は信長のような旧勢力打破や家臣の統御を進めて反感を買って悪く書かれてるだけで名君だったのは間違いない。
しかも宗麟は豊後三老など加判衆の合意に任せて独裁をやってないし。
さらに通商を発展させ貿易港の臼杵への遷都を進めていた。
962 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 17:47:15 ID:ycaIck2w
しかし次代・義統が救いようが無いダメ当主だったのは異論はないと思う
963 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 19:35:03 ID:yIq7I5uv
奈多氏の血がモロに出たのか義統の軟弱ぶりは凄まじいからね。
秀吉曰わく、島津戦において宗麟は臼杵に踏みとどまり島津を撃破したので、その大功から日向国をやろうと言い、
さらに秀吉は島津を撃破した立花氏や佐伯氏や志賀氏らを激賞した反面で、
大友改易の時において「義統は島津に対して臆病にも一戦もせずして府内にすら踏みとどまず豊後を捨てたので、改易して当然だったが宗麟に免じて許した」と言われてるし。
964 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 00:35:04 ID:Fj0w4+Lk
どうもね、大友氏の直轄領自体が枯渇して戦功に報いる褒美が出せなかったっぽいね。
だから寺社領を没収せざるおえなかったようだ。
また天正6年には奈多夫人と離婚して府内から出て執務の大半を放棄してるし、
7/25には洗礼を受け、9/6には延岡市に入って教会を作り礼拝するなどキリスト教のことで
宗麟は頭がいっぱいで毎晩祈りをしてたっぽい。
11月の耳川の敗戦までこのような調子で、宗麟は耳川の指揮などは取っていないだろう。
っ宗麟にわりと忠実な田原親賢は島津との和睦交渉をしていたそうだから決戦に到るとは思ってなかったはず。
義統はドモリだったし年寄の連署状にも「彼は宗麟ほど学殖がなく、部下への統率力もない」と言われてる。
ただ
島津に対して臆病にも一戦もせずして府内にすら踏みとどまず豊後を捨てた
の部分はある程度仕方がない。と言うのも次男で加判衆の親家が島津に内通して反乱したことは大きい。
また宗麟が義統に天正12〜13年頃に出した書状で
志賀親守を宇目村という場所に派遣したが、
折を見て持ち場を離れてしまう。
原因は女色家である為で、
大友家存亡の時にこれでは困る
という書状を出してるので宗麟が女癖悪いと言うのはガセっぽい。
そもそもキリシタンだから奈多夫人と離婚した後も側室も置いてない。
965 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 13:36:18 ID:ZcTqgOe9
宗麟が女好きで遊興しまくり政治を疎かにしていたとか、家臣を殺し妻を奪ったとかふざけた大嘘を書きまくってるのは
宗麟に大敗しまくって恨みに思い続けていた毛利側の書いた陰徳太平記です。
百戦無敗の朝臣元就とか書いてるデタラメ二次史料以下のトンデモ本。
966 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 18:06:19 ID:CBRpiH5C
>>965 それはあるな。大内も暗愚で部下に背かれたから
毛利が仕方なくとって変わったみたいな印象操作(おそらく明治以降の教育)しているしなあ
明治維新の頃の毛利の殿様も大内の殿様とおなじように
・政治を部下に丸投げ
・領民に重税
・朝廷に貢ぎまくり
・政権争いで部下がクーデター(大内は殺され、毛利は生き残った)
まったく同じなのになぜか大内はこき下ろされ、毛利は正一位もらって評価されている
967 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 19:17:44 ID:bvJIFa0a
>>964 志賀親次が親度の子で、親度が親守の子なら
天正12〜13年時、志賀親守は60歳を過ぎてると思われるので
その書状に書いてる事が本当なら、かなりの女色家だな
968 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 21:31:18 ID:8sEaRjzk
いっとくけど俺、天下の大友ですよ?
969 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 23:46:39 ID:CIkRxjQ6
ほー
970 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 00:01:27 ID:8DEnzPT6
いっとくけど俺、殿下の犬友ですよ?
971 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 00:54:34 ID:uJl9ki7G
>>965 >>宗麟が女好きで遊興しまくり政治を疎かにしていた
老人になってもガキを作りまくってたS○Xマシーン元就のことを直接批判できんしな。
>>家臣を殺し妻を奪った
あぁこれ輝元のことを暗に非難してんだろwww
なんというかこれ毛利による毛利自身へのブーメランだろwww
972 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 10:03:41 ID:x3Ltq1sv
>>971 輝元はリアルやる夫だから仕方が無い・・・
まぁ大名として残ったし
973 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 12:41:30 ID:xQxIksG5
輝元って社会経験だけで言うなら、
上杉謙信、伊達輝宗、細川藤孝、最上義光、島津義久あたりと並んでるはずだが(偏諱的に)、
いつまでも若殿感漂ってるよな
974 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 14:11:31 ID:OGl3j9gU
輝元にはこのAAが何故かしっくり馴染むw
↓
ノ´⌒ヽ,,
γ⌒´ ヽ,
// ""⌒⌒\ )
i / ⌒ ⌒ ヽ )
!゙ (・ )` ´( ・) i/
| (__人_) |
/\__ `ー'_/
/ /
975 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 14:32:37 ID:WoZRdCE0
>>974 輝元に失礼だろ・・・
どう見ても輝元の方が出来る子
976 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 14:48:42 ID:54V7yxcl
>>974 どっちかというと主家を売った安国寺恵瓊じゃね?
977 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 18:14:59 ID:OcnFz7KZ
安国寺は毛利のために尽くした忠臣だろ。
主家売ってないだろ。
978 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 21:24:50 ID:Aafj5W7I
ここは大友家のスレだぜ
979 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 01:17:20 ID:atk/fiN5
人間性欠如の元就スレなんて人気なさすぎてスレすら立てられないというのに
宗麟スレは早くも1000レスか。
さすが時代を先取りし過ぎた名将宗麟公!
980 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 16:02:44 ID:uFslHbnK
毛利はスレが濫立しすぎ
実際は家中がバラバラだった大友がなぜか2chではほぼ一枚岩だな
立花さんは史実通り一人立ちしてるみたいだけど
981 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 19:34:39 ID:DFZTQVFa
大友スレは日本史板に2つある
982 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 20:03:52 ID:L+YKxjO/
やっぱ大友は毛利に占領されたな
983 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 21:48:36 ID:FN0xSgBi
宗麟は家臣の妻を横取りする変態
984 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 01:54:02 ID:y9hYT1nP
なんでこんなハゲで活発に議論するんだ
985 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 02:19:59 ID:sy3rNmmO
毛利厨必死乙
>>979 元就スレはかつて存在していたが
毛利厨は一次史料をまったく読んでないことが発覚w
完全にフルボッコされ論破さて逃走したので
次スレが立てられなかっただけwww
まぁ無能だけどS○X中毒で長生きしてたら
地域の長老として祭りあげられた無能ジジイで確定済み。
50歳までウダツがあがらなかったw
そもそも自分の長女を犠牲にして裏切り奇襲したりマジ非道なジジイが元就。
さんざん世話になりながら井上元兼を暗殺して井上の利権を奪い取ったり、
危機一髪を助けてくれた恩人の陶隆房が石見で苦戦すると知るや裏切って奇襲し火事場泥棒するわ
もうキチガイ過ぎ。
しかも元就死去寸前には毛利崩壊寸前になってて、元春が鎮圧に出動して元就の葬儀にすら出れなかった。
986 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 08:36:15 ID:dE24oZqA
別に毛利でも大友でもどっちでもいいけど
上に書かれている事なんて戦国の世なら、大概どこもやってるでしょ。
・人質を見殺し(弱小勢力であちこち所属先を変える国人には日常茶飯事)
・重臣の粛清
・昨日の味方が今日の敵、好きあらば攻め取る
987 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 08:54:32 ID:psgfzA2q
へえ〜実の子である長女を見殺しにした大名なんていたっけ?
例えば誰?
友好関係なのにいきなり奇襲して虐殺するのは元就くらいしかいねーだろ。
陶なんてなんで元就から攻められたかわからなかったから激怒したし。
988 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 10:12:28 ID:dE24oZqA
>>987 大名として確固たる地位を築いた人物なら、そうはいないだろうが
所謂、「国人」と呼ばれる弱小勢力の人物なら吐いて捨てる程いるだろ
人質(実子)を見殺しにして家を取ったなんてのは。
長篠の奥平氏とか。
友好関係から虐殺に転じるのも、それこそ吐いて捨てる程いるがな。信長とか
毛利「だけ」がやってる事じゃないでしょ
989 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 10:29:19 ID:LbniEaFK
990 :
人間七七四年:
ついでに日本史板の大友宗麟スレ2つもリンクしたらいいと思います。