架空の車両形式・番台スレ 20次車

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516 【東電 90.5 %】 :2013/02/16(土) 21:02:08.12 ID:AI1kr8JcO
東武634-30形、634-40形:
スカイツリートレインの追加改造。
634-30形:1819Fを4M2T・発電ブレーキ化改造(300系と同様の改造)。改造は正雀のアルナ車両。
634-40形:352Fを改造。改造は新潟トランシス。
517 【東電 71.2 %】 :2013/02/17(日) 01:18:00.00 ID:fRbM4oPrO
東武60050系:
半蔵門線直通増発と30000系東上線転属及び10000系野田線転属の車両不足対策。
51069F/51050F同様の保安機器。

東武70000系:
浅草口と久喜・南栗橋以北6連運用の30000系東上線転属と10000系野田線転属での車両不足分の補充。日立A-Trainで、各社がOEM生産。連結の省力化で自動幌装置搭載で中央プラグドア。幌は10000/30000との混結も可能(その場合は)。
日立製作所:71601F
川崎重工業:71602F
日本車両:71401F/71201F
近畿車両:71402F/71202F
が量産先行車として習熟。71601Fが北春日部、71602Fが南栗橋、71401Fが館林、71402Fが新栃木、71201F+71202Fが業平橋留置線で習熟。館林駅・南栗橋駅・北千住駅で区間急行向けの自動幌装置の試験。
518名無し野電車区:2013/02/17(日) 19:28:27.96 ID:cs1rCyvt0
JR東日本 E28系寝台客車
JR東日本が老朽化した24系の置き換えと、寝台特急の体質改善を目的として投入した新型寝台客車。
特にB寝台に関しては、従来の2〜3段寝台の相部屋というスタイルを見直し現在の水準に合わせた設計となっている。

車体はE231系を元にした20mの軽量ステンレス製。
519やり直し:2013/02/17(日) 19:37:47.94 ID:cs1rCyvt0
JR東日本 E28系寝台客車
JR東日本が老朽化した24系の置き換えと、寝台特急の体質改善を目的として投入した新型寝台客車。
特にB寝台に関しては、従来の2〜3段寝台の相部屋というスタイルを見直し現在の水準に合わせた設計となっている。

車体はE231系を元にした20mの軽量ステンレス製。
この車両の特徴として、B寝台は従来のスタイルを見なおし、安価に利用できて尚且つプライバシーを保てるように複数の仕様が用意された点にある。
基本となるナハネE28-0は1名用のビジネスホテルタイプの個室で構成。客室はさながら「ユニットバスの無いビジネスホテル」を思わせる構造になっている。
ナハネE28-500は0番台と同じ個室タイプであるが、2人用となっている。
ナハネE28-1000は航空機のファーストクラスと似た、ベッドにもなる仕切り付きの座席を1+1+1の3列で装備。座席の入り口はずらして配置されており、プライバシーの確保に役だっている。
ナハネE28-3000はフェリーの寝台に近い、出入り口が上下で交互に配置された二段寝台を採用。
ナハネE28-5000はいわゆるカプセルホテルタイプの寝台を採用。
食堂車はカフェテリアタイプのものとし、気軽且つ安価に利用できるようになっている。
ロビーカーはコンビニの機能も併設したものとなっている。また、一部のロビーカーは比較的短距離の路線への投入を考慮し、自動販売機コーナーのみを設置したいわゆるオートレストランとしたものも製造された。
台車等の走り装置は電車と共通化されており、最高速度の向上(120km/h)と整備の共通化を実現した。
520名無し野電車区:2013/02/18(月) 21:46:54.55 ID:qBhR/Y7A0
琴電100形「こんぴら号」
京成がスカイアクセス対応の2代目AE車投入に伴い捻出されたAE100形を譲渡を受けたもの。


琴電2100形「こんぴら2号」
琴電再建の為に京急から特別に譲渡された2100形。勿論、シーメンス製のVVVFユニットもそのまま。


供に旧塗装のまま運行され、東京では実現しなかった定期運行での並びが見られ、高松市内でのシーメンス製電装品の独特のサウンドも楽しめるという一面も。
521名無し野電車区:2013/02/19(火) 07:08:43.68 ID:F3bJzY6SO
高松琴平電鉄1850形
琴電は京急より旧1000形及び700形の譲渡を受けていたが、京急側の供給できる車両が枯渇したために
当初は同じ1435mm軌間で車両規格がほぼ同じの京成電鉄より3300形及び3500形の譲渡が検討されたが、
老朽化が予想以上に激しくて使用に耐えない状態だったために見送られ、再度京急より
800形を供給されることになった。
主に元京急旧600形の1300形取り替えとイベント用の旧式車等を連結していた3両編成に投入するためである。
800形の中でも元々3両編成だったものを更新で2編成でつないで6両編成にした元3両編成落成グループ
4編成が選ばれた。
6両編成を再び切り離して3両にした上に運転台部分を潰して中間車にした部分を
別の800形の運転台部分を接合して元の3両編成当時のに戻したものである。
なお制御機器は1500形のVVVF化により取り外されたものに取り替えられている。
改造は京急ファインテックで施工されて形式は1850形として譲渡されている。
なお琴平線のみに使用され、車両規格上長尾線などには原則使用されない。
なお1編成は京急で登場した当時の塗装にリバイバルした塗装となっている。
なお1300形(元京急旧600形)1編成は京急に返還され、逗子市の公園にあるもう1両も引き取った上で
京急ファインテックで当時の状態で復元した上でイベント用に使われる予定である。
522名無し野電車区:2013/02/19(火) 17:21:52.84 ID:hRTs0C/50
鶴見臨港鉄道モハ100形
鶴見臨港鉄道が1930年(昭和10年)10月23日の電化および鶴見-弁天橋間延伸による旅客輸送開始時に用意した、
半鋼製16m級3扉の両運転台形制御電動車で、10両を新製、101-106は新潟鐵工所、107-110は浅野造船所製、
両社製とも車体構造に大きな違いはなく、台車と妻面の雨樋の形態、通風器の配列が異なる程度で、
窓配置はd1D4D4D1d、総定員は100人(座席40人)、最大長15,845mm、最大幅2,745mm、最大高4,127mm、
自重は32.5tの中型車で、定格出力56kWの電動機を4個装備し、歯車比は73:16、制御方式は非自動間接式(HL)、
台車は新潟鉄工所製が汽車製造製ボールドウィン形、浅野造船所製は日本車輛製造製D-16で、
いずれも釣合梁式の2軸ボギー台車である。

鶴見線買収後は後位運転台を撤去、全車が片運転台式に改造、偶数車の方転が行なわれ、2両編成で運行、
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月1日に米軍の空襲によって103と104が被弾大破、使用停止となった。
1948年(昭和23年)5月1日に、鶴見線全線が直流1500Vに昇圧されたのにともない、全車が買収電化線区、
富山港線、福塩線、可部線に転出、1953年(昭和28年)の車両形式称号規程改正では、モハ1500形に編入され、
1501-1508に改められた。これらは買収路線の昇圧後に、すべて私鉄へ払下げられた。
523名無し野電車区:2013/02/21(木) 13:06:11.46 ID:nDsPoBQK0
鶴見臨港鉄道モハ150形(モハ300形)
1934年(昭和9年)、1935年(昭和10年)に旧鉄道省から払い下げられた木製17m級3扉ロングシートの制御電動車、
モハ1形(旧デハ35500形)で、4両が在籍した。入線時の形式は、1934年度分がモハ300形301・302、
1935年度分がモハ300形303・304で、モハ300形入線時に鶴見線の車輌限界が拡大された。
1940年(昭和15年)の改番によってモハ150形151-154に改められた。鶴見線買収後も本線、増結用で使用されたが、
旧番に復することはなく、1945年(昭和20年)8月1日の空襲により153・154の2両が被災、同年末に廃車となった。
1945年(昭和20年)11月には151・152が富山港線に転出、1953年(昭和28年)の車両形式称号規程改正では、
モハ1511形1511・1512に改められ、1957年(昭和32年)に廃車、2両とも私鉄に払い下げられた。
524名無し野電車区:2013/02/21(木) 15:29:39.11 ID:n0oARUsJ0
JR東海 117系赤13号塗装・165系赤13号塗装
JR東海が発足してまだ間もない頃の1987年夏から翌年3月にかけて、117系と165系の全車両に対して車体塗色を赤色13号+正面クリーム色4号に塗り替えを実施した。

JR東海 103系湘南色・119系湘南色・123系湘南色
JR東海が発足してまだ間もない頃の1987年夏から翌年3月にかけて、103系と119系および123系の全車両に対して車体塗色を湘南色に塗り替えを実施した。
525名無し野電車区:2013/02/21(木) 23:39:11.45 ID:f92ruyLp0
>515
実際にあったEF80とかEH50の計画に比べると随分地味かな。
あの時代に試作車900番代というのもない。

58からみの幻の機関車ではEF59は地味だけど(EF58旧の電暖仕様機だっけか)。
あれも製造されてたら、EF58同様新型車体化されたんだろうか?


58ネタでなんとなく思い出した。

EF58 32-34号機
1972年頃、寝台特急増発で逼迫していたEF58の必要数満たすために
EF18を再改造したもの。
旧EF58の形状を残すデッキ付き箱型でありながら新型電機色。
EF18時代と同じ浜松機関区所属で、普段は急行荷物列車中心の運用であったものの、
時に「出雲・紀伊」の先頭にも立った。1979年ころ58の中では最初期に廃車。
526名無し野電車区:2013/02/22(金) 10:37:57.16 ID:4zvG2feW0
鶴見臨港鉄道モハ200形・クハ250形
1936年(昭和11年)に川崎車輛で製造された半鋼製17m級3扉ロングシートの制御電動車および付随車で、
モハ200形201-208が片運転台式、クハ250形251-258が片運転台式制御車で、計12両が製造された。

窓の天地寸法を拡大した2段窓の軽快な印象の関東私鉄タイプで、前面は非貫通の3枚窓で軽い曲面が付いている。
運転室は開放式の全室型で、窓配置はd1D4D4D2で、乗務員扉は両側に設置されており、総定員は120人(座席42人)、
最大長17,500mm、最大幅2,780mm、最大高4,162mm、自重はモハ200形が37.5t、クハ250形が29.5t、
モハ200形は定格出力67kWの電動機を4個装備し、歯車比は70:19、制御方式は非自動間接式(HL)、
台車は日本車輛製造製のD-18である。

当初から2両編成で運行、終戦後も鶴見線に残留、1948年(昭和23年)の鶴見線昇圧に際しては、昇圧対応工事が行なわれ、
1951年(昭和26年)にモハ200形は更新により主制御器をCS5に、台車もDT10に交換、運転台も密閉式の全室化された。
1953年(昭和28年)の車両形式称号規程改正では、モハ200形がモハ1521形(1521-1528)、
クハ250形がクハ5531形(5531-5538)に改められた。1958年(昭和33年)にモハ10形の入線で、全車が可部線に移り、
1959年(昭和34年)6月の車両形式称号規程改正では、モハ1521形はクモハ1521形に改め、1961年(昭和36年)に全車が廃車、
クモハ1521-1524、クハ5531-5534が弘南鉄道に譲渡、同社のモハ2500形2501-2504、クハ2550形2551-2554となり、
クモハ1525-1528とクハ5537-5538の計6両が伊豆箱根鉄道に払い下げられ、同社の大雄山線でモハ30形二代目の31-34、
サハ20形二代目21-22となった。
527名無し野電車区:2013/02/22(金) 10:42:46.20 ID:4zvG2feW0
鶴見臨港鉄道モハ300形(モハ350形)
1938年(昭和13年)度に旧鉄道省から払い下げられた木製17m級3扉ロングシートの制御電動車、
旧鉄道省のモハ1形(旧デハ35500形)で、2両が在籍した。転入時に全車が後位側に運転台を増設した両運転台式で、
朝夕ラッシュ時には増結用で運行、鶴見線買収後も鶴見線で使用されたが、旧番に復することはなく、
1948年(昭和23年)の鶴見線昇圧時で可部線に転出、その後福塩線との間を行き来し、1951年(昭和26年)の更新時には、
主制御器を国鉄標準型のCS5に交換、台車もDT10に交換、1953年(昭和28年)の車両形式称号規程改正では、
モハ1531形1531-1532に改められ、1959年(昭和34年)に全車が後位運転台を撤去して、
片運転台式となり、同年6月の車両形式称号規程改正ではクモハ1531形に改められた。

1960年(昭和35年)5月に1531が大井工場で電装解除および後位運転台復活のうえ救援車に改造され、
クエ9420形9423となった。その際、車体中央部の扉を3400mmに拡大し、室内にはクレーンが装備されている。
また救援作業時に電動発電機と空気圧縮機を駆動するため、パンタグラフは残されている。
当初は高崎鉄道管理局(新前橋電車区)の配置であったが、後に天王寺鉄道管理局の鳳電車区に移り、
最終的には日根野電車区で、1982年(昭和57年)6月に廃車となった。
1532は1963年(昭和38年)に廃車、弘南鉄道に譲渡され、同社のモハ2400形2401となった。
528名無し野電車区:2013/02/22(金) 20:08:32.90 ID:piW9FYjg0
JR北海道 DD51−2000

青函トンネル救援用に木古内駅に常備されていたDE10では、上り勾配に停車した1200トン高速貨の
引き出しが難しいことから、夜行列車縮小で運用に余裕の出来たDD51に青函ATCを装備した形式

通常、気動車の動力走行は禁止されている青函トンネルであるが、月に1度程度ハンドル訓練のために
特別に「はまなす」を牽引することがあるのは、撮り鉄の諸氏にとっては周知のことであろう。
529名無し野電車区:2013/02/22(金) 21:33:43.45 ID:fL1YtYi8O
えちぜん鉄道Mc8000形
元JR東海の119系(Mc7000形)投入により近代化をはかるえちぜん鉄道ではあるが、特に単行用の車両は
完全には取り替えにならないため、最後の一手として挙がったのが事業用クモヤ143系を客室化した車両の投入であった。
実は一度JR東海よりクモヤ143-600番台から改造したクモハ123-5600番台2両の購入を計画したが
東海側に断られた経緯があり、その譲渡車両にはMc8000形と言う形式が用意される予定だった。
そこで今回143系の改造車両投入にあたり、その予定された形式を生かすことになった。
すべてJR東日本の車両が選ばれ、クモヤ143-1 2 5 7 12とクモヤ145-115 117の計7両が改造された。
改造はクモハ123系を作るやり方と同じだが、ドアは両開き3ドアとしてMc5100形(元愛環200系)と
同じにしている。
制御装置はMc7000形同様VVVF化され、台車密封コロ軸受化した。
冷房は廃車された211系のAU75Gを再利用し、補助電源はSIVを使用する
これら改造は全て京王重機が一手に行っている。
13年にMc7000形と並行して7両が一気に作られてMc1100形 2100形らを置き換えた。
もう1両Mc2101形が登場するアナウンスがあり、これは来月運用終了するクモハ123-1(ミニエコー)を
えちぜん鉄道が購入して使う説が濃厚となっている。
530名無し野電車区:2013/02/23(土) 21:52:34.49 ID:tLodXome0
国鉄クモハ92000+サハ92500+クモハ92001

浜松工場にて戦災で被災した電気式ディーゼル動車キハ43000とキハ43001を
川崎車両兵庫工場でモハ43900とモハ43901に改造し電車として復旧したものである。
先頭2両が電動車であるためパンタグラフは両端2両の後方部に設置。
元キサハ43500をサハ4301に改番し組み込み三両で使用。
台車と主電動機はクモヤ93000と同じOK-4台車を使用。
浜松電車区に所属し80系湘南電車のデータを取るために東海道本線等で走行試験に用いられる。
試験終了後はモハ6400+サハ6400+モハ6401に改番し飯田線で使用され後に称号改訂で
クモハ92000+サハ92500+クモハ92001に改番し後に台車と主電動機を80系と同じものに変更。
塗装はぶどう色→湘南色→スカ色と変遷。
昭和59年、119系との入れ替わりに廃車。
しばらく浜松工場に静態保存される。
このうちクモハ92000は登場当時の姿に復元され佐久間レールパークからリニア鉄道館に保存。
クモハ92001は川崎重工兵庫工場に保存され、サハ92500は浜松工場に残る。
531名無し野電車区:2013/02/23(土) 22:04:30.78 ID:l1mEGjaRO
袋井市では路線バスが集団ストーカーされてますわ
532名無し野電車区:2013/02/23(土) 22:50:50.57 ID:WKLZoCag0
>530
余程の理由がないと119系投入まで生き残れそうもない雑形電車だけど、
1960年代にクモハ52との共存有りそうだね。
モハ52とキハ43000夢の共演!

こういう夢のある想像って好き。
533名無し野電車区:2013/02/24(日) 05:44:02.66 ID:DxysM4cp0
>434
クモニ83300番代車

東海道本線東京口で185系に併結された荷物電車で車齢の若いゼロ番代車から
1981年に改装されたもの。東京〜熱海間は「踊り子」に併結。熱海から先は単独か
113系併結で沼津・静岡まで往復した。時に大垣夜行のスジに入ることも。

塗装は185系に揃えた斜め帯。但し足回りは未改造。従って旧型国電史上唯一の
「特急」となった。

また、下り方には「踊り子」の丸型ヘッドマークが装着されていた。
このヘッドマークは後日客車踊り子運転時にデザインが流用されたのは有名な話。

1986年11月荷物営業終了により、引退。
534名無し野電車区:2013/02/24(日) 05:52:14.27 ID:DxysM4cp0
>129
亀でスマソ。

20系の郵便車は萌える。凄く萌える!
ただ郵便車だと重量区分は軽量客車でも「オ」かな? オユ20。
荷物車転用だとスになりそう。スニ20。

案外20系編成から外されて、荷物輸送末期まで急行荷物列車や普通列車に
併結で生き残ってそうな雰囲気もあるな。
凋落したブルートレインの末裔っていうのも萌えるわ。
535anorak?:2013/02/24(日) 17:30:58.01 ID:/Ps2+lbS0
>>327に続く平行世界もの
◎国鉄DE60形ディーゼル機関車と14系1000番台客車
1978年 プッシュプル
>>110-111の歴史により日本は敗戦後もかろうじて樺太を領有し続けた。
宗谷本線は鉄道と鉄道連絡船による本州・北海道・樺太の連絡ルートを担う重要幹線で、
1961年から函館〜札幌〜稚内間でキハ80系特急が運行開始。
キハ82は最高速度100km/hなので、さらなる速度向上が要求され、
70年代初頭には最高120km/hのキハ181系の導入が検討されたが初期故障の多発で断念。
振り子式ガスタービン車も検討されキハ391の道内試験走行も実施したがオイルショックで断念。
77年に客車列車両端にディーゼル機関車を配置した英国の"InterCity 125 (HST)"に感化され、
非電化区間の内燃車では5両以上の長大編成であればある程、動力分散方式よりも動力集中式の方が
車両メンテナンス等の運行コストの点で優れているとの研究成果も後押しとなり、
HST型の動力集中方式の新型車を樺太連絡ルート(函館〜札幌〜稚内)の特急に投入することになった。
当時の労使関係悪化の影響で枯れた技術活用の結果、14系客車編成両端にDE50の派生形式DE60の連結で
最高速度110km/h運行に。
DE60はDE50を土台とし、95km/h以上の高速走行実現の為に新幹線911形DLと同様に副変速機を追加、
両運転台の箱形車体で、列車編成端となる第一エンド側はDD54や911形に類似の非貫通型運転台、
客車と連結する第二エンドは客車とは貫通幌もつなぐことから貫通型低運転台。
DF60に挟まれる14系1000番台は、0番台からの主変更点が両端の機関車総括制御用の引き通し線、
耐寒耐雪強化として乗降扉の引戸化及び電源の給電能力の強化。
車種はスハフ14、オハ、オロ14、オハシ14。
オハシは新幹線0系37形類似の立食ビュフェ車。
基本編成はDE60の2両とPC14-1000の10両。
78年10月のダイヤ改正で函館〜稚内区間の樺太連絡特急に就役。
だが時遅く、75年以後の毎年の運賃値上げやストライキの多発の影響で首都圏から北海道や樺太へは
航空が当然になっていく状況を反映し増備されず、
結局、キハ82の置き換えは短編成可能な動力分散式のキハ183系に。
87年4月にJR北海道に承継後、利用客減少で短編成化、ついに2000年にキハ261系に置き換えられ廃車。
536anorak?:2013/02/24(日) 17:34:04.47 ID:/Ps2+lbS0
>>535のケアレスミスの訂正
> 327に続く平行世界もの ×
→ >>462に続く平行世界もの ○
537anorak?:2013/02/24(日) 18:57:05.28 ID:/Ps2+lbS0
>>361 >>372 >>462 >>535-536に続く平行世界もの
◎国鉄405系交直流通勤形電車
登場年 1985 車種 クモハ405(Mc) クハ404(T'ac)
○1970年代半ば、洞海湾で隔てられた北九州市の戸畑区と若松区を唯一結ぶ若戸大橋の渋滞が悪化したのを受け、
筑豊本線の若松駅と鹿児島本線の戸畑駅を海底トンネルで直結して国鉄と相互直通する洞海湾横断鉄道整備事業が施工。
両駅の専用地下ホームから国鉄接続線とは別に二股で分岐して響南町や到津遊園等へ地下鉄として延伸する構想により
直流1.5KV架線方式の地下鉄として建設。事業主は北九州市交通局。
当海底トンネルは、かつての貨物専用市電の伝統で貨物列車の運行も可能な仕様である。
直通先の筑豊線折尾・若松間を交流電化。
1985年夏に北九州市市営地下鉄若戸線として開業し、国鉄鹿児島線小倉駅及び筑豊線折尾駅までの直通運転開始。
この地下鉄の直通用に新造投入されたのが、405系である。
本系列の仕様は、ラッシュ時以外は二両編成で足りる当時の路線実情に国鉄末期の財政難が強く影響され、
同期の同地区の415系1500番台と比べて格下なものとなった。
車体は同期の205系をベースとしたステンレス製で、後の121系と同じ意匠の貫通扉設置の運転台である。
制御装置は1M方式の105系を土台とする抵抗制御で、永久直列回路のみで高速運転向きの直並列組合わせ制御は省略。
主変圧器と主整流器等の交流区間走行用装置とパンタグラフをT'acに搭載集約したMTaユニットを採用。
広域転配を考慮し三電源対応。
製造費削減の為、可能な限り廃車発生品を使い、台車は新品の空気バネ・ボルスタレスではなく中古コイルバネ。
接客設備は四扉ロングシート。
McT'acの二両編成が基本だが、ラッシュ時の運用に二編成以上の増結があるので自動解結装置と電気連結器を装備。
北九州市営地下鉄若戸線直通運用に就役。
1987年にJR九州に承継以後、鹿児島本線での旅客列車の高速・高密度化に対し105系ベースの本系列は対応できず、
小倉・戸畑間は貨物線を走行するようになった。
ワンマン運転対応改造や地下鉄若戸線のATS-P化対応が施工され、現役。
538名無し野電車区:2013/02/25(月) 09:43:43.27 ID:qtY6gnXM0
鶴見臨港鉄道モハ500形・サハ550形
1939年(昭和14年)に川崎車輛で製造された半鋼製18m級4扉ロングシートの制御電動車および付随車で、
日中戦争での戦時体制下、増産で工場への通勤旅客が激増、混雑緩和と輸送目的で日本初の片側4扉車である。
片運転台式のモハ500形501-508、運転台なし付随車のサハ550形551-554、計12両を製造した。

車体長は18m級の18,180mm、最大幅2,800mm、最大高4,184mm、自重はモハ500形が38.7t、サハ250形が29.6t、
前面はR付の非貫通3枚窓、屋根布押えは直線、運転室は密閉式の全室型で、側面窓はモハ200形と同じ2段窓だが、
乗務員扉と客扉の間に在る客窓だけ幅が狭く、窓配置はモハがd1D2D2D2D2、サハが2D2D2D2D2で、
扉間は2枚の側窓のうち1枚が戸袋で、開閉可能な窓は、モハで片側4枚、サハでも5枚しかないという極限設計、
車輌間は貫通路を設け、幌と渡り板を装備、総定員はモハが140人(座席42人)、サハが140人(座席48人)、
モハ500形の主電動機は高出力が搭載され、定格出力102kWの東芝電機製造SE-138A電動機を4個装備し、
歯車比は73:16、制御方式は非自動間接式(HL)、台車は日本車輛製造製のD-18改良版長軸台車D-18Kである。

1948年(昭和23年)の鶴見線昇圧では、昇圧対応工事が行なわれ、1951年(昭和26年)からモハ500形とサハ550形は、
更新修繕により内装の交換、絶縁の強化と台車のDT10への交換、モハ500形は主制御器をCS5に交換が行なわれ、
1953年(昭和28年)の車両形式称号規程改正では、モハ1551形(1551-1562)、サハ7551形(7551-7566)に改められた。
1959年(昭和34年)12月の形式番号整理では、クモハ1551形となったが、4扉という構造上、座席数が少ないことから、
地方線区での使用には適さないので引続き、鶴見線で運用され、1967年(昭和42年)3月に全車が廃車された。
両形式に私鉄への払下げ車はない。
539名無し野電車区:2013/02/25(月) 09:45:13.57 ID:qtY6gnXM0
鶴見臨港鉄道モハ600形・サハ650形
1943年(昭和18年)に新潟鐵工所で製造された半鋼製18m級4扉ロングシートの制御電動車および付随車で、
主要寸法は前形のモハ500形、サハ550形と同様であるが、窓上下の補強帯(ウィンドウシル・ヘッダー)を廃した、
平滑な車体が特徴で、鶴見臨港鉄道の新製車としては、最後に落成した電動車である。

500形と同じくモハは片運転台式、サハは運転台なし付随車で、当初は計12両の計画だったが、
戦時中のためにモハ600形4両分しか電装品の調達が出来ないことから、モハ600形601-604、サハ650形651・652の、
計6両を製造したのみだった。1948年(昭和23年)の鶴見線昇圧では、昇圧対応工事が行なわれ、
1953年(昭和28年)の車両形式称号規程改正では、モハ1561形(1561-1564)、サハ7571形(7571-7574)に改められ、
同年からの更新修繕により内装の交換、絶縁の強化と台車のDT10への交換、主制御器をCS5に交換が行なわれた。
1959年(昭和34年)12月の形式番号整理では、クモハ1561形となったが、クモハ1551形と同じく、4扉という構造上、
座席数が少ないことから地方線区での使用には適さないので、クモハ1551形と同じく引き続き鶴見線で運用され、
1970年(昭和45年)3月に全車が廃車された。両形式に私鉄への払下げ車はない。
540名無し野電車区:2013/02/25(月) 11:23:32.44 ID:XeMdL6l/0
>>534
ありがとう

余剰になったカニ21と、カニ21から発電ユニットを撤去して方転したマニ21を両端に連結して
中間車をオニ20で組成した固定編成の急行荷物列車とか、完全新製で発電ユニットつきのカユ21と
車掌室つきのオユ21を両端にオユ21を挟んだ固定編成の急行郵便列車とかも萌えるかも。

昭和30年代に東海道の夜行急行群と前後して急行速度で走る汐留〜梅田間の急行郵便列車という設定でね。
541 【東電 82.9 %】 :2013/02/26(火) 08:03:04.78 ID:J/Ye8sPyO
東急9000/2000/3000/5000/6000系ATACS対応車:
東横線及び田園都市線における過密ダイヤで、CS-ATCでも捌けない所で、埼京線E233系・山手線E235系での実績から導入。
田園都市線に乗り入れる大井町線も対象。
東武・メトロ・西武・横浜高速鉄道にも要請(費用は東急が半分負担)。
目黒線では8連化の為、3000系を6→5両(サハ1両廃車)にして大井町線各停、5080系81F/82Fを大井町線急行に転用して、6050系を導入。
田園都市線では、5000系4050型を投入の他、ATACS改造済み車両を東横線に貸し出し。
542 【東電 83.1 %】 :2013/02/26(火) 08:14:06.02 ID:J/Ye8sPyO
東京メトロ日比谷線・東西線・千代田線・半蔵門線ATACS改造:
この4線ではラッシュ時の過密ダイヤと、ドアの関係によるホームゲートATOが導入出来ない為、JR東日本のATACSを導入。
日比谷線では、03系と東武20000系の改造で13000系を導入。
東西線では05系後期車(14F以降)とE231-800の改造で15000系の追加。
千代田線は06系と16000系とE233-2000と4000系の改造で有楽町・副都心用17000系を借り入れ。
半蔵門線は08系と5000系と50050系に導入の為、メトロが18000系を導入。東武は51069F/51050F(30000系の置き換え)及び60050系を投入。
543名無し野電車区:2013/02/26(火) 08:58:16.81 ID:FO8G6Efw0
鶴見臨港鉄道支線用モハ1形
1930年(昭和5年)に鶴見臨港鉄道が吸収合併した海岸電気軌道のボギー車1-10号車で、元京浜電気鉄道1号形電車であり、
最大長13,335mm、最大幅2,388mm、車体高3,607mm、自重は18.4t、丸妻の正面三枚窓、側面窓配置はD16D、
総定員76名(座席30名)、制御方式は直接式、主電動機は50kWのGE製×4、台車はペックハム14-B-3、
木造のモニター屋根、開放デッキ、トロリーポール集電、救助網付きの路面電車形である。

吸収合併後、鶴見臨港鉄道モハ1形1-8となり、9号車と10号車の2両は芝浦製作所の工員専用輸送用として、
鶴見臨港鉄道が芝浦製作所に無償譲渡、その際、救助網を撤去、開放デッキに重なり合う2枚引戸を設置した。
この改造は翌年、鶴見臨港鉄道の8両にも行なわれた。1937年(昭和12年)同線廃止時に廃車、5-8号車の4両が、
福井鉄道に譲渡され、同社のモハ100形101-104となり、1-4号車は解体された。
芝浦製作所の元9号車と10号車は廃止後も芝浦製作所の敷地内に在る引き込み線に置かれていたが、
9号車が戦時下の金属供出で解体、10号車はそのまま留置されていたが、戦後の復興期に資源として解体された。
544名無し野電車区:2013/02/26(火) 09:24:50.69 ID:FO8G6Efw0
鶴見臨港鉄道支線用モハ10形
1931年(昭和6年)に軌道線用として製作された半鋼製両運転台形ボギー制御電動車で、汽車製造で4両(11-14)が製造された。
最大長13,260mm、最大幅2,400mm、車体高3,610mm、自重は19.3t、前面は非貫通形3枚窓、側面窓配置は1D10D1、
総定員は78人(座席34人)、制御方式は直接式、主電動機は54kWの芝浦電機製のSE-118Fを2個装備していた。

1937年(昭和12年)12月に軌道線廃止にともなって全車が鉄道線に移った。その際、軌間を変更(1372mm→1067mm)し、
扉部分のステップを撤去し、集電装置をポールからパンタグラフに交換したが、1939年(昭和14年)までに使用が停止され、
秋保電気鉄道に譲渡、同社のモハ50形51-54になった。
545名無し野電車区:2013/02/26(火) 09:35:53.50 ID:FO8G6Efw0
鶴見臨港鉄道支線用モハ20形
1933年(昭和8年)に軌道線用として製作された半鋼製両運転台形ボギー制御電動車で、汽車製造で4両(21-24)が製造された。
最大長13,420mm、最大幅2,740mm、最大高4,253mmで、自重は17.2t、前面は非貫通形3枚窓、側面窓配置は1D10D1、
総定員は80人(座席38人)、制御方式は直接式で、主電動機は58.2kWの東芝電機製のSE-119Cを2個装備していた。

1937年(昭和12年)12月の軌道線廃止にともない、鉄道線用に転用され、軌間の変更、扉ステップの撤去、
集電装置をポールからパンタグラフに交換するなどの改造を受け、1939年(昭和14年)に再就役した。
この4両は、元軌道線車両としては唯一1943年の国有化時にも在籍、引継ぎ対象となったが、ほとんど使用されないまま、
1948年(昭和23年)10月に廃車された。1950年(昭和25年)に21・22が茨城交通に譲渡され、同社茨城線のモハ1・2となり、
入線に際して集電装置は再びポールに戻され、台車はブリル27MCBに交換された。
23・24は福武電気鉄道(後の福井鉄道)に譲渡され、同社のデハ31・32になった。
546 【東電 73.3 %】 :2013/02/28(木) 13:23:03.59 ID:e2Q505uYO
京成・北総・千葉NT・都営・京急、C-ATACS対応車両:
都営浅草線では羽田空港〜成田空港へのアクセス列車による過密ダイヤで、JR東日本で実用化したATACSを採用だが、C-ATSでバックアップする独自方式。
改造順序:
1.京成3050形/NAE形(成田スカイアクセス専用車/スカイライナー)
2.京急600形(羽田空港〜成田空港向け)
3.京成3000形3001F/3026F〜/AE100形(快速特急/シティライナー運用)
4.京急2100形/1000形/1500形/1700形(A快特/SH快特)
5.京成3700形8連(快速特急運用)
6.北総7300/7500/9100/9200(京急内快特)
7.都営5300形
8.京成3000形3002F〜3025F/3700形6連/3600形/3500更新
など。
9.京成4000形(仮)/4100形(仮)(金町線・千葉線向け)
京急2000形・800形/京成3500未更新/3300形などは退役予定の為、搭載見送り。
C-ATACSの先行導入は京急文庫構内から(分割併合の際のC-ATS過走制限に引っ掛かる為)
C-ATACSアンテナは先頭デハの連結面。
547546:2013/02/28(木) 13:33:35.05 ID:e2Q505uYO
C-ATACS導入によって、浅草線押上〜京急京急蒲田の過密ダイヤ対策になる。
また、C-ATACSには、京急がCTC不採用でもATACSデータを運転主任詰所で送受信する機能や、北総区間でのスカイライナーの高速化などの車上信号データ送受信など、線区に応じたカスタマイズ。
京急で2200形(仮)及び京成AE200形(仮)では、車体傾斜の情報データの送受信の検討。
C-ATACSの無線通信はLCXで、東京メトロのように壁面や架線柱に敷設。
548 【東電 70.0 %】 :2013/03/01(金) 23:04:17.40 ID:P2NkTZoPO
東武70000系/600系・T-ATACS対応:
東武鉄道で2013年3月のダイヤ改悪で、地元自治体無視や、加須市長との対立などで伊勢崎線・日光線(非業平橋本線)冷遇ドケチダイヤが組まれたが、
・10000系列の野田線転用
・30000系の東上線転用
で業平橋本線浅草口などの車両不足で、50000/60000系をベースに中央貫通路・自動幌の車両導入。
600系も区間快速減便が利用客の顰蹙を買った為と6050系の51F〜72Fの老朽化と77F・78Fのジョイフルトレイン改造と伊勢崎線快速新設。
日光線区間快速と準快速(改悪前の区間快速)で、区間快速or快速と準快速の毎時交互運転。※伊勢崎線快速:東武動物公園以北:久喜・(加須)・(羽生)・館林・足利市・太田・木崎・境町・新伊勢崎・伊勢崎/藪塚・新桐生・相生・赤城/佐野市・佐野・田沼・葛生
※伊勢崎線区間快速:久喜以北各駅停車又は館林以北各駅停車。

T-ATACS導入に関しては、東武型ATS-PやベースのTJ-ATCのバックアップとして、
館林及び南栗橋及び下今市及び北千住の連結作業省力化及び、
太田での快速・区間快速新設で伊勢崎方面と赤城方面の分割併合や、
太田〜浅草・久喜・館林と太田〜伊勢崎の縦列停車での移動閉塞機能による実現。
なお50000系or60000系3連ワンマンには準備工事が施工。
549 【東電 75.7 %】 :2013/03/03(日) 23:03:27.91 ID:eaa/aUT3O
東武70000系量産車:
30000系の東上線転用と10000系の野田線転用で車両不足対策で50000/60000系をベースに正面貫通路・自動幌・移動閉塞(T-ATACS)による、分割併合の省力化をコンセプトとした、A-Train構造の車体で、
幹事の日立製作所の他、日本車両・川崎重工業・近畿車両で習熟運転の量産先行車を2・4・6両を各2本生産したが、
習熟運転中に先頭車同士の貫通路のプラグドアが浅草駅の急カーブで破損する問題が発覚した為、
館林工場(津覇車両)で破損防止の為のプラグドアのアームにダンパーを試験的に取り付け、また、正面ドア縁にゴムを取り付ける加工(外側アルミ、内側FRP)を施工して、製造4社立会で量産車にフィードバック。

東武600系量産車:
量産先行車として2連3本が日立製作所・総合車両製作所・新潟トランシスで製造され、
快速の分割併合(館林にて、太田行きと葛生行き、太田にて伊勢崎行きと赤城行き、下今市にて東武日光行きと鬼怒川線など)に自動幌採用だが、
習熟運転中に両開きプラグドアが浅草駅急カーブで破損する危険性が発覚して、浅草駅場内に入る直前で業平橋車両基地までバックする羽目となり、
対策として浅草側先頭車を東武日光側先頭車より広く開く改造と、アームへのダンパー取付などを行った。
550名無し野電車区:2013/03/04(月) 00:08:17.45 ID:si2/HxJtO
国鉄ナハ11-500 ナハフ11-500
ナハ10系の改良版で水が入って老朽化の要因であった下降窓をやめ、アルミサッシを使用した
ユニット窓式に戻したものでナハ11が33両 ナハフ11が22両作られている。
尾久と金沢に配置されて重量上長編成とスハ43系での組成が困難だった信越線の横川〜軽井沢間を
越える急行に重宝られ、急行「越前」「妙高」に用いられた。
晩年は秋田で使われていた車もあり、ナハ11-515 517とナハフ11-513の3両が秋田にあった。
JR北海道に譲渡された43系に代わる車として復元にあたったが、老朽化の関係でナハ11-517を515とで
ニコイチで復元され、ナハフ11-513は品川に放置されたナハフ11とニコイチで復元された。
現在SL運転用等で高崎に配置され、唯一のナハ10系として人気が高く、先のSL碓氷では最後尾に
「かもめ」のテールマークをつけ、C61牽引であったために当時を彷彿とした列車となった。
なお最近白熱灯タイプのLED蛍光灯をつけたためにニセナハ10系化している。
551名無し野電車区:2013/03/04(月) 11:42:32.37 ID:8yR2Bv4G0
国鉄80系電車500番代

1956年(昭和31年)から製造された100番台(クハ86形・サハ87形)・200番台(モハ80形)を、
1971年(昭和46年)に冷房改造化、新番号に区分した。

急行運用や団臨運用で不足する急行型電車のピンチヒッターとして、80系電車を使用、
サービス改善を目的に冷房装置を搭載した。改造対象は当初、0番代が候補だったが、
耐寒設計、シートピッチの拡大、側窓枠がアルミ合金製な100番代・200番代が選ばれ、
大井工場を始め、浜松工場や吹田工場で三菱電機製AU-71集中冷房を搭載、同時に更新修繕も行なわれ、
床の鋼体化、リノリウム貼り、内壁はアルミデコラ化粧板、室内照明の蛍光灯化が行なわれた。

冷房改造後、各運用、とくに団臨に多く投入され、勾配路線を始め、各地の電化路線で重宝されたが、
80年代後半に入ると車体の老朽化が目立ち始めたことで、1990年(平成2年)から廃車が始まり、
1992年(平成4年)までに全車が廃車された。
552名無し野電車区:2013/03/05(火) 13:46:20.70 ID:eSAeJ2qK0
EF58-200番台
昭和30年代の国鉄は動力分散式推進派(以下、分散派)が主導権を握ったが
動力集中式推進派(以下、集中派)も存在していた。
昭和36年度に旅客用ELが20両ほど必要となった際、EF58の追加生産で間に
合わせようとした分散派と、EF60を旅客用にした本格新形式を生産させようと
した集中派とで深刻な対立が発生してしまった。経営層まで巻き込んだ騒動と
なり、外観や性能はEF60をベースにした旅客用新型機だが形式はEF58とする
折衷案で最終的にまとまった。
宮原機関区に18両が配属されたが、既存のEF58と共通運用とされたため、
持てる性能を十分には発揮できなかった。またSG搭載のため、水と蒸気による
軽量車体腐食が激しく、昭和53年までに古いEF58よりも早く全機廃車された。
「いつかは改形式してやる!」との集中派のオーラのせいか、信越線用ELは
EF62/EF63とされたため、EF61が欠番(欠形式)となってしまった。
553名無し野電車区:2013/03/06(水) 17:10:49.97 ID:5/ccuGLH0
東急電鉄3100形電車
元は東京横浜電鉄が1926年(大正15年)2月に丸子多摩川駅-神奈川駅間の開通に合わせ、
川崎造船所でモハ100形101-116の16両が製造された。

モハ100形
車体長16500mm×全幅2750mm×全高4050の16m級両運転台3扉車のリベット組立の半鋼製車体、
前面は丸妻3枚窓の非貫通、運転窓は固定、それ以外は下段上昇式の二段窓を備え、
連結器上に横幅が短いアンチクライマーを装備、尾灯は前面の左側下に1灯、前照灯は屋根上に1灯、
窓上下にシルヘッダーを巻いた近代的な外観を持ち、半密閉、半解放を装備した全乗務員室、
丸屋根で屋根上の通風器は小型の箱型が直線上に並び、渡板は通風器を挟む容で屋根両脇に設置、
側面窓配置はd1D(1)3D(1)3D(1)d、(d:乗務員扉、数字:窓、D:客用扉、():戸袋窓)と、
後の関東私鉄車輌、基本デザインとなった車輌、最初期の鋼製電車である。

主電動機はゼネラルエレクトリック社製のM275形80PS×4、
制御機はウェスチングハウスHL式、集電装置は菱形パンタグラフを渋谷側の運転台屋根に装備、
台車はブリル26-MA-3形、K1A形連結器を装備、後に自動連結器に交換された。

1930年(昭和5年)に東横線で2両編成運用が開始されると、全車が片運転車改造され、
反対側の運転機器撤去、乗務員扉の撤去、客用窓と座席の設置、妻面に扉無しの貫通路を設置が行われ、
側面配置はd1D(1)3D(1)3D(1)1になり、偶数車は元住吉工場の転車台で方向転換された。
1935年(昭和10年)には乗務員室の全室化が全車に行われ、1939年(昭和14年)の目黒蒲田電鉄との、
合併時にモハ100形継承、1942年(昭和17年)全車が大東急に引き継がれ、デハ3100形(3101-3112)に改番、
1945年(昭和20年)空襲で2両が被災、翌年復旧、1947年(昭和22年)に大手私鉄各社に課せられた地方私鉄への、
車両供出命令と「運輸省規格A型」の製造と引換で全車が地方私鉄に譲渡され東急から消滅。
上田丸子電鉄に譲渡された3101が廃車後、東急に里帰り、後に電車とバスの博物館へ保存された。
554名無し野電車区:2013/03/06(水) 17:22:38.55 ID:eY0+HixU0
189系900番台

115系オールMなら碓氷峠自走可能という検討結果を受け、115系の足回りと183系
1000番台の車体を組み合わせて1編成12両が試作された。
  McM'MM'MM'MsMs'MM'MMc'
12M運転は横軽間のみで、それ以外の区間では2ユニットを開放した8M4T相当とした。
パンタグラフはM車に各1基とし、クモハ189に大型MGを搭載するスペースが無いので
各M'車に70KVAのものを搭載した。碓氷峠での走行試験は順調であったが、ギア比が
大きいので高崎線で181/183/485系のスジでは走れないというのが致命的とされ、
量産車は169/489系と同じEF63重連との総括制御方式に戻された。
量産車登場に並行して量産改造(一部電装解除、先頭車に大型MG搭載、台車変更、
ギア比変更等)がなされ、量産車と共通運用で「あさま」に投入された。
  TcMM'MM'TsTsMM'MM'Tc
長野新幹線開業時に全車廃車となり、中央線や波動用として生き残った車両はなかった。
555名無し野電車区:2013/03/06(水) 18:03:19.31 ID:eY0+HixU0
157系900番台

>>554の量産改造別世界編

モハ8両はそのまま189系モハとなったが、残り4両についてはクモハ先頭で短編成向き、
貴重なモロがあるということで、McMs'+クロ157+MsMc'のお召電車に抜擢された。
DT21台車や70KVAMGはそのまま残された。性能面でさすがに189系は名乗れないという
ことで、まさかの157系登場となった。
  クモハ189-901→クモハ157-901
  モロ188-901→モロ156-901
  モロ189-901→モロ157-901
  クモハ188-901→クモハ156-901
たまの試運転時以外は大井工場の屋内車庫が定位置だったため、「幻の電車」と呼ばれた。
E655系登場で廃車。
556名無し野電車区:2013/03/06(水) 19:14:46.77 ID:bfxhT2I50
近畿日本鉄道6700系電車

戦後大量に製造された国鉄モハ63形のうち、近畿車輛製の一部の車両は近鉄に割り当てられ、
狭軌路線で1928年以降新車の投入のなかった南大阪線に配置されることになった。
電装済みの車両10両と未電装の車両5両がそれぞれモ6700形、サ6750形として1948年に登場した。
ただ、車内は南海に投入されたモハ63形である1501形と同様、天井や照明、座席の完全整備、
貫通路・貫通幌の取り付けなどが行われ、居住性の向上が図られた。
1951年の桜木町事件の後、側窓の2段化や先頭部の貫通化などの整備改造が行われて、
引き続き南大阪線で阿部野橋−藤井寺間の普通を中心に活躍した。
1957年に6800系ラビットカーが登場した後も、4扉20m車という収容力の大きさから
朝ラッシュ時には重宝され、さらに142kwの大出力の主電動機を持つこともあって、
桜のシーズンには休日の吉野行きの臨時急行にも運用された。
ただその後は車体の老朽化もあり、1971年に6020系ラインデリア車と同じ車体に更新して、
6720系となり、編成もモ6721形奇数−モ6721形偶数−ク6771形の3両編成となった。
車体は6020系6132F以降同様、種別表示灯・排障器が付けられ車体幅は2740mmとなっている。
電機品は6700系のものを流用したものの、ブレーキ装置はHSC-D電磁直通ブレーキに改められ、
ク6771形の台車は新製の車体直結型ダイヤフラム空気バネ台車になった。
更新後は他の6000系列の車両と同じく、普通のほか急行・準急に幅広く運用されたが、
1981年〜1982年の冷房改造にあわせて高性能化改造することになり、形式も6080系に改められた。
モ6721形はモ6080形に、ク6771形はク6180形にになり、主電動機は10100系流用の132kwのものに、
制御器等は6200系と同じものに交換され、電動車の台車についても車体直結型空気バネ台車に交換された。
その後は6020系と共通運用で使用され、1991年に車体更新が行われて化粧板の張替えや、
電動方向幕の取り付けが行われたが、1990年代後半に全車両が養老線旧型車淘汰のため養老線に転属した。
その後養老線が養老鉄道となってからは一部の車両がマルーン一色に復元されてた。
557名無し野電車区:2013/03/07(木) 07:37:51.90 ID:nln7+Joo0
東急電鉄3150形電車
元は目黒蒲田電鉄が1927(昭和2年)大井町線開業用に日本車輌でデハ100形101-108の8両が製造された。

デハ100形
車体長16500mm×全幅2750mm×全高4052の16m級両運転台3扉車のリベット組立の半鋼製車体、
前面は丸妻3枚窓の貫通型、運転窓と貫通扉窓は固定、それ以外は下段上昇式の二段窓を備え、
前照灯は屋根上に1灯、窓上下にシルヘッダーを巻き、半密閉、半解放を装備した全乗務員室、
側面配置はd1D(1)3D(1)3D(1)d(d:乗務員扉、D:客用扉、():戸袋、数字:窓)、
丸屋根で屋根上の通風器は小型の箱型が直線上に並び、渡板は通風器を挟む容で屋根両脇に設置、

主電動機はゼネラルエレクトリック社製のM265形75PS×4、
制御機はウェスチングハウスHL式、台車はブリル27-MCB-2形、自動連結器を装備した。
集電装置は菱形パンタグラフを大井町側の運転台屋根に装備した。

1938年(昭和13年)大井町線で2両編成運用開始、デハ100形の片運転台化が行われ、奇数車は二子玉川、
偶数車は大井町側の運転機器を撤去、乗務員扉も撤去して、客用窓と座席の設置、乗務員室は全室化され、
側面配置はd1D(1)3D(1)3D(1)1となり、1939年(昭和14年)東京横浜電鉄と目黒蒲田電鉄の合併でモハ150形に改番、
1942年(昭和17年)大東急成立でデハ3150形(3151-3158)となり、1945年(昭和20年)空襲でデハ3153が廃車、
残り7両は戦後復興輸送に従事、1947年(昭和22年)に大手私鉄各社に課せられた地方私鉄への車両供出命令と、
「運輸省規格A型」の製造と引換で全車が地方私鉄に譲渡され東急から消滅。
558名無し野電車区:2013/03/08(金) 08:44:05.35 ID:fQospGIV0
東急電鉄3160形電車
元は池上電気鉄道が1928年(昭和3年)に汽車会社でデハ100形101-108が8両、
1932年(昭和7年)に日本車輌でデハ200形201-208を8両製造した。

デハ100形
車体長16300mm×全幅2750mm×全高4050の16m級両運転台3扉車のリベット組立の半鋼製車体、
池上初の半鋼製車で前面は平妻形の貫通形、運転窓と助手窓とも1枚固定窓とされ、
側面配置はd1D(1)3D(1)2(1)1d、(d:乗務員扉、数字:窓、D:客用扉、():戸袋)で、
窓上下にシルヘッダーを巻き、半密閉、半解放を装備した全乗務員室、
二重屋根で屋根上の通風器は小型の箱型が下段屋根に4個直線上に並んでいた。

主電動機はゼネラルエレクトリック社製のM265形75PS×4、
制御機はウェスチングハウスHL式、台車はブリル27-MCB-2形、自動連結器を装備した。
集電装置は菱形パンタグラフを五反田側の運転台屋根に装備した。

デハ200形
車体長16300mm×全幅2750mm×全高4050の16m級両運転台3扉車のリベット組立の半鋼製車体、
デハ100形の追加製造分で、二重屋根が丸屋根となった以外、変更は無い。

1934年(昭和9年)池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄に合併されると全車引き継がれ、デハ100形はモハ120形、
デハ200形モハ130形へ改番され、1939年(昭和14年)東京横浜電鉄、さらに1942年(昭和17年)の、
大東急成立でモハ120形、モハ130形ともにデハ3160形3361-3376へ改番された。

東急3000形の一員となったデハ3160形だが、制御方式の違いから目蒲・東横の在来車との混結が出来ず、
戦争中は戦災車を出さなかったが、戦後の長編成化運用時に使い勝手は良くなかったことから、
早期に整理対象となり、1947年(昭和22年)に大手私鉄各社に課せられた地方私鉄への車両供出命令と、
「運輸省規格A型」の製造と引換で全車が地方私鉄に譲渡され東急から消滅。
559名無し野電車区:2013/03/08(金) 14:53:50.47 ID:3wHKgoNb0
残り容量 5KB弱
560名無し野電車区:2013/03/08(金) 15:17:14.59 ID:k+JiRRxmO
只見線BRT計画
新潟福島豪雨で甚大な被害を受けた只見線の只見〜会津川口間の復旧を断念し、国道252号を使用した
BRTに転換されることになった。
現行キハ40系を東北の復旧に優先させるため、八高線をキハE130系に全取り替えし、玉突きに
キハ110系を只見線に投入した。
なお小出〜只見間は新津 会津川口〜会津若松は現行通り会津若松運輸区管轄。
なおBRTには会津観光自動車が参入を表明しており、被災区間のみならず尾瀬や南会津方面へも期待される。
561名無し野電車区:2013/03/09(土) 09:38:39.23 ID:ux/neRFW0
東急電鉄3200形電車
元は東京横浜電鉄が神奈川駅-高島駅開業と目黒蒲田電鉄との相互乗り入れ専用車輌として、
1928年(昭和3年)からモハ200形201-210、クハ250形251-260の計20両を川崎造船所で製造した。

モハ200形
車体長17000mm×全幅2760mm×全高4120の17m級片運転台3扉車のリベット組立の半鋼製車体、
前面は平妻の非貫通3枚窓、運転窓以外は下段上昇式の2段窓を備え、連結器上に横幅が長い、
アンチクライマーを装備、尾灯は前面下部に2灯設置、前照灯は屋根上に1灯、丸屋根、窓上下に、
シルヘッダーを巻き、側面配置はd1D(1)3D(1)3D(1)1、(d:乗務員扉、数字:窓、D:客用扉、():戸袋窓)、
連結妻面の貫通路左右には下段上昇式の2段窓、貫通路には渡り板と幌が設置され、
当初から2両編成で運用想定だったことから貫通路に扉は設置されてなかった。
乗務員室は半室開放型の全室型を備え、乗務員扉も左右に設置されていた。

本形式は速度向上と将来の昇圧を見据えて、主電動機を100HPの大型化、台車の軸距が200mm伸びていて、
1926年(大正15年)4月から始まった目黒蒲田電鉄との相互乗り入れ専用車輌、高速運用目的に製造された。
集電装置は菱形パンタグラフを運転台側に装備と関東私鉄のオーソドックス型。

クハ250形
車体長17000mm×全幅2760mm×全高4060の17m級片運転台3扉車のリベット組立の半鋼製車体、
デハ200形の制御車として、外装はデハ200形に准じ、東京横浜電鉄初の制御車。

電動車は渋谷向き、制御車は高島向きにされていた。

1935年(昭和10年)2月1日に東京横浜電鉄で急行運転の開始されると4両編成で運行、
1942年(昭和17年)大東急成立でデハ3200形3201-3210、クハ3250形(3251-3260)に改番、
1945年(昭和20年)3203と3204が戦災に遭い、翌年クハとして復旧、翌年に電装化、1948年(昭和23年)に、
目蒲線と池上線に転属、1955年(昭和30年)11月5日に目蒲線1500V昇圧で全車が池上線に転属、
1957年(昭和32年)8月10日に池上線の1500V昇圧で全車の廃車が決定、デハ3205-3208とクハ3253-3254が、
昇圧対応工事を施され、近江鉄道に譲渡され、デハ3201が両運転台改造、昇圧対応工事を施され、
元住吉車両工場の入換車として使用、1985年(昭和60年)に復元され、電車とバスの博物館へ保存された。
562名無し野電車区:2013/03/09(土) 15:07:32.78 ID:XTzl0T3l0
JR東海700系新幹線728形/729形/727形900番台

C編成を東海道こだま専用モノクラスとするため、718/719/717を改形式したもの。
内装等には一切変更が無く、グリーン車の設備のまま普通車指定席として使用される。
多客時に臨時ひかり/のぞみに使用される際には出入り口にグリーン車ステッカーが
貼られ、グリーン車扱いとなる。
改形式に合わせ、編成記号も懐かしのKとなった。
563名無し野電車区:2013/03/10(日) 08:50:55.72 ID:1i+ryrcH0
C6250

烏山線活性化を目的に、バブル全盛期に栃木県と沿線自治体が費用を負担して製造された。
軸重を15tとした、いわゆる軽C62である。
JR東日本に貸し出され、銀河鉄道999として【烏山←C6250+12系客車3連+DE10→宝積寺】で
運行されたが旅客誘致効果は無く、経費のみが嵩むお荷物になってしまった。
JR北海道に又貸しされてC62ニセコとして走ったこともあったが、これも長続きせず、
現在は高崎のクラの奥で静かに眠っている。
564次スレ誰かヨロ:2013/03/10(日) 16:08:32.17 ID:1i+ryrcH0
565名無し野電車区
確かMAX512KBだったはずだが。
もう50程書き込めると思うが。