架空の車両形式・番台スレ 20次車

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1名無し野電車区
2名無し野電車区:2012/09/14(金) 14:35:37.76 ID:xyQMtkZ20
103系1900番台
国鉄が製造した103系の電機子チョッパ制御試験車。
1000番台で主抵抗器からの発熱によるトンネル内温度上昇が問題化したため対策として電機子チョッパ制御車を試作した。
しかし製造コストが高く実用化されなかった。
後に全車電装解除されサハ103-850番台となった。
3名無し野電車区:2012/09/15(土) 07:59:17.49 ID:2UGbkgvA0
4名無し野電車区:2012/09/15(土) 21:46:43.12 ID:eel8hq080
289系
JR西日本が開発した新型振り子式特急車両。
JR北海道が開発した「ハイブリッド振り子」を採用しており、最大傾斜角度8度、本則+50km/hを実現。
走行装置は287系と同じく全車2個モーターとしている。
パンタグラフは地上側で対策済みのため屋根上に直接固定されているが、車体傾斜に対応するため大型のすり板が取り付けられている。
「くろしお」用6連の0番台と「やくも」用4連の1000番台、増結用3連の2000番台がある。
5名無し野電車区:2012/09/15(土) 22:57:06.78 ID:SIts7dSu0
AKB48
6 【東電 65.1 %】 :2012/09/16(日) 02:55:18.32 ID:Tz3ohNXsO
相鉄7000/8000/9000系・台車交換・TDカルダン化(更新準備車):
相鉄の神奈川東部方面線乗り入れで、相手先のJR東日本及び東急電鉄が直角カルダンと電磁弁式直通ブレーキのメンテナンスにクレームを入れられた為、前スレの大規模リニューアルに先駆けて実施された。
但し7000系抵抗制御や旧7000系中間車はあらかじめIGBT-VVVFを搭載。
7000系VVVFでは東急9000系、
8000系では東急2000系/西武6000系/京王8000系、
9000系では東武9050系・20050系/東急1000系/京王1000系初期奇数編成/京成3700系
のようなモーター音を立てていた。
後の更新でGTO部品枯渇対策でIGBT化された為(7000:シーメンス・8000:日立・9000:東洋)、短期間で終わった。
76:2012/09/16(日) 03:06:45.82 ID:Tz3ohNXsO
ちなみに、ブレーキはHRDA/HRA/MBSA電気指令式になり、ワンハンドルになる。但し、下記のテストが行われるまで、縦軸2ハンドルで電気指令に改造のみ。

8000系/9000系ワンハンドル試験改造車両:
TD平行カルダン改造の際に、8000系の2編成をT型、9000系の2編成を左手操作に改造して、直通先の東急とJR東日本各1編成に貸し出して、取扱いのリサーチで、両社の利害関係を考慮。
8anorak?:2012/09/16(日) 05:56:14.28 ID:n3hxK52D0
後世世界もとい平行世界もの
◎日本国有鉄道E50形蒸気機関車
1951年朝鮮戦争末期、38度線での膠着状態の元凶中国共産党支配下満州への侵攻を目的に、マッカーサーの国連軍は、
朝鮮半島と言うよりは満州沿岸部とも言える北朝鮮支配下の咸鏡南道北部と咸鏡北道南部の両沿岸部を奇襲攻撃し占領。
中ソ国境までは至らなかった。同年停戦後は薄い北鮮を挟んで中ソに近い同地は米軍軍政下に。
翌年、韓国の初代大統領で狂気の独裁者李承晩が李承晩ラインを宣言し日本国の竹島と対馬と済州島東部を侵略した。
日韓の宗主国米国は介入し原状回復、韓国の蛮行への懲罰として米国軍政下の咸鏡道中部沿岸を韓国に返還せず、
韓国から日本への永久租借地の体裁で同地の民政を日本に委譲した。これにより日本国任那府が誕生。
地名は古代朝鮮南部にあったヤマト王権の任那日本府をもじった。
そもそも咸鏡道は満州族の領地であって中世に李氏朝鮮が征服。
任那府は、北朝鮮に囲まれ、気候は北海道並の寒冷地、地下資源が豊富で、戦前の朝鮮総督府下と同様に端川と城津を
中心に工業地帯として発展。
戦争で壊滅した旧朝鮮総督府鉄道の咸鏡線等の各路線が国鉄によって復興したが、復旧財源の制約や車両の共通化による
合理化などの理由で日本本土と同じ狭軌になった。舞鶴港等を起点に日本海を横断する鉄道連絡船も設定。
北朝鮮とは軌間が異なり直通せず国境で接続だけ。
1950年代に任那の鉱石運搬重量級貨物列車専用機としてE50形が新造投入された。
D52に動輪一つ追加の軸配置1E1、曲線通過の為にE10と同様に第三・第四動輪はフランジレス。
本土に比べ地盤と路盤が堅く元々大型の標準軌路線故に軸重制限及び最小曲線が緩いので
E10で顕在化した急曲線でのレールへの横圧過大は懸念材料にはならない。
酷寒地なので乗務員の労働条件改善に運転台は密閉キャブで自動給炭装置、さらにボイラーを全溶接構造として圧力は
国鉄SL最大の18kg/cm²で国鉄最高出力機の一つ、軸受けにローラーベアリングなどの新技術も採用。
英国鉄クラス9Fの日本版と評される。
国鉄の動力近代化計画では北任那は後回しにされ、E50は長年同地で活躍したが、1970年代半ばから急速に無煙化され、
1978年に完了、全廃された。
87年国鉄分割民営化で同地はJR任那が継承。
9名無し野電車区:2012/09/16(日) 23:01:45.38 ID:iCLOeRU60
スレ違いかもだが

キハ100形100番台

戦争下の企業整理により一時休線となっていた善光寺白馬電鉄であったが、
戦後復興の中で国有化の上、国鉄戸隠線として列車運行・信濃四ツ谷(現白馬)までの路線延長の再開が検討されていた。
しかしこれに並行して裾花ダムの建設が決定、当時終点であった裾花口駅付近の路盤の一部が水没することとなったために
路線延伸どころか既存区間の存続すら危ぶまれる事態となった。
一時は鉄道延伸派とダム建設推進派の間で県議会、沿線自治体を巻き込んだ論争が展開されたが、
結局「技術的には可能」との判断で急こう配区間を設け、水没区間を迂回することで解決が図られた。
(このこう配区間の存在により後年キハ40系の入線が制限されることとなる。)

民営化後はJR東日本に継承され、飯山線と共通のキハ58形・52形が使用されていたが、両形式では冷房化が困難であることや
一部時間帯で輸送力が過剰であることを考慮し、新型気動車の投入によりサービスレベル向上と運用コスト削減を図ることとした。

この際投入されたのがキハ100形100番台である。
東北地方に投入された0番台車と異なり、混雑時の動線を考慮してクロスシート部が2+1列配置となった。
なお近年大人の休日倶楽部のキャンペーンやNHKの連続テレビドラマに登場したことにより戸隠線は利用者が増加傾向にあり、
繁忙期を中心にキハ110系を使用した臨時列車が運転されている。
この際、キハ100形100番台が飯山線で使用される。(ワンマン運転用機器が対応していないため車掌が乗務する)
10名無し野電車区:2012/09/17(月) 19:16:22.90 ID:tEHMhBjS0
国鉄→JR西日本 キハ73形 和田岬線専用車

1977年に鷹取工場で改造された和田岬線専用車。
新性能化で余剰となった73系を活用し、老朽化した64形客車の置き換えを意図して
改造された。

改造内容は以下の通り。
・ディーゼル機関車の制御を反対側の運転台から出来るように。
・海側ドアの全閉鎖。山側ロングシートの全撤去と海側ロングシートの延長。
・専用機DE10に、電源供給装置の搭載。キヤ10へ形式変更。

所定の改造を施された上で、車両種別は「気動車(動力集中式)」とされ改番が行
われた。所定は7両編成となり、若干輸送力が増強された。

編成は和田岬方より
キクハ73900-キサハ73900×5-キクハ73950+キヤ10901
11名無し野電車区:2012/09/19(水) 08:41:01.27 ID:zHuzFDCjO
北総鉄道7550形
10月のダイヤ改正により北総線発着のアクセス特急の登場と、成田スカイアクセス線
直通の成田空港行きアクセス特急にも増発で北総車を投入される関係で
アクセス特急用及び7250形及び9000形取り替えとして投入された北総版3050形である。
基本的には京成3050形とは変わらないが、帯色は7500形の帯色と3050形の帯を
併せた形で、ドア部分は9100形のように黄色や水色の車両もある。
また製造が今回より総合車両製作所製に変わったため、今までの日車ブロックから
京急新1000形のステンレス車型と同じとなり、ほぼE233系車体となった。
走行系は3050形を基本としながらもスカイライナー同様のディスクブレーキ式で、
駆動がスカイライナー同様のWNカルダン(京成の3050形はTDカルダン)となった点も異なる。
また車内座席のドア部分は9100形同様のセミクロスシートである。
アクセス特急用及び旧式車取り替えにより、8両編成4本が作られている。
北総鉄道車両でスカイアクセス線に入るアクセス特急は同車と7500形及び9100形に
限定される。
(3700形基本の7300形と7800形は北総線発着運用のみ)
なお運用上の関係で送り込みを兼ねた印旛日本医大発アクセス特急成田空港行きや
夕ラッシュ時には北総鉄道車使用の京成本線経由特急成田空港行きも登場する。
また北総線発着のアクセス特急は千葉ニュータウン中央からは各駅となるため、
通常京成線からのアクセス特急が停まらない印西牧の原も停車駅となる。
なお早朝から朝の5本と19時以降の下りアクセス特急は全て印西牧の原も停車駅となる。
12名無し野電車区:2012/09/19(水) 13:46:18.98 ID:Huz41ykM0
川崎市電800形
1992年(平成4年)に登場した600形以来、30年ぶりの連接新造車。
801-840の20本、計40両が東急車輛製造(株)で新造され、
片車体長12500mm、全長25000mm、全幅2500mm、全高3900mmの2扉全金属製車体、
前面は大型の2枚窓をHゴム支持で1枚窓にしていて、前面窓上部に行先表示幕、
窓下に2灯式ヘッドライトが左右に付き、ヘッドライトの下に尾灯が付いた、
バスの前面を思わせる雰囲気で、鉄道車両らしく無いと話題になった。

客用窓は色付きの大型固定一枚窓、客用扉は川崎市電初の2枚折り戸になり、
側面の配置は1D6D3(数字:窓、D:客用扉)となり、
1段ステップ付いたの客用扉は2枚折り戸となっていて、
三菱電機CU77A集中型冷房装置の搭載した川崎市電初の新造冷房車、
内張・天井板は薄いブルー色の化粧板、ロングシートのモケットは濃いブルー、
600形以来のスタテッションポールが復活、車内に3本設置され、
床は薄いグレーとされ、涼しげな印象を与えた。
13名無し野電車区:2012/09/19(水) 13:52:14.56 ID:Huz41ykM0
主電動機は東洋電機製造TDK-8576(62kw)×4、駆動装置は吊り掛け方式、
制御装置は間接式抵抗制御、電気指令式電磁直通ブレーキの他、
吊り掛け駆動方式では珍しく、電力回生ブレーキを装備していた。
パンタグラフは運転席側に各1基載せられ、台車はTS-260を装備した。

800形から塗装が変更され、バスと同じ上半分がスカイブルー、
下半分が白の塗りわけとなり、より一層、バスをイメージさせた。 

1992年(平成4年)環状東線に就航、成就院前車庫に所属、
環状西線に就航、塚越車庫に所属。

2000年(平成12年)更新が行われ、1段ステップの撤去、ステップ跡を塞ぎ、
客用扉の交換が行われ、バリアフリー対応工事が全車に行われ、車体側面、
車体中央の客用窓上に行先方向幕を設置した。
また同時に車内の化粧板交換、床のリノリウム交換、
客用窓の色付き熱吸収ガラスに交換などが行われた。

2006(平成18年)行先方向幕をLED表示に変更。
14名無し野電車区:2012/09/20(木) 10:46:08.78 ID:TChGKfbD0
川崎市電1000形
2000年(平成12年)から2005年(平成17年)までに1001-1080の40本、
計80両が東急車輛製造(株)で新造された800形に続く連接新造車で、
川崎市電初の大量増備された車両でもある。
環状東線の500形、600形、環状西線の700形の老朽取り替えと目的に、
製造した連接車であり、東急300系の車体寸法を一部修正以外、
東急300系のデザインを採用、機器など機能的も同じ車両である。

片車体長12500mm、全長25000mm、全幅2500mm、全高3945mm、
バリアフリー化に対応したセミステンレス低床車体構造、
客用扉はバス型の両開きプラグドア、車いすスペースも設置された。
車外の行先方向幕や車内の旅客案内表示器はLED式が設置、つり革の形状は△で、
車内放送装置には自動放送装置を搭載、日本語/英語のみの放送となっている。
15名無し野電車区:2012/09/20(木) 10:49:51.91 ID:TChGKfbD0
主電動機は東洋電機製造かご形三相誘導電動機TDK-6050Aの60kW×4、
駆動装置は川崎市電初のTD継手式中実軸平行カルダン駆動方式を採用、
制御装置は三菱電機製MAP-064-60V82形のIGBT-VVVFインバータ制御を採用、
回生ブレーキ併用電気指令式空気ブレーキ (HRDA-2)
台車は東急車輛製造製の改良低床形TS-333Aを装備した。

2000年(平成12年)から環状東線に就航、殿町車庫に所属、
環状西線に就航、江ヶ碕車庫に所属。

2007年(平成19年)行先方向幕をLED表示に変更。
16名無し野電車区:2012/09/20(木) 14:53:16.90 ID:TChGKfbD0
川崎市電デト1形
1961年(昭和36年)に車体載せ替えが行われた400形412号車、
416号車の2両を救援車に改造した車輌。

デト1形1-2
救援車として1961年(昭和36年)に車体載せ替えが行われた、
東京都交通局3000形の戦災復旧車である400形412号車、416号車の車体を再利用、
両側面中央に復旧用資材・機材の積載用して片幅1500mmの両開き扉を設置、
作業員の休憩スペースも設置、休憩スペースの天井には扇風機が2列4基装備、
飲料用の水タンクと床下タンク装備のトイレも設置された。

電装品は東洋工機(株)に廃車品を集めて貰い、
412号車、416号車とも主電動機は牽引も兼ねて85kw×4、
集電装置はZ型パンタグラフを2基、両運転台側に装備、
形式変更され、412号車がデト1形1号車、416号車がデト1形2号車となった。

1号車は成就院車庫、2号車は塚腰車庫に配備された。

1983年(昭和58年)救援車としては珍しく、更新が行われ、
木製車内壁を灰色のアルミデコラ化粧板に変更が行われた。

1996年(平成8年)廃車となった500形から2基のパンタグラフを移設。

2012年(平成24年)2両とも健在
17名無し野電車区:2012/09/20(木) 16:32:54.11 ID:m9IzZatlO
東京地下鉄(東京メトロ)05系 05-091F
東西線専用の電気・信号・軌道総合検測車である。
東西線は通過トン数が多いだけでなく、快速運転があるために軌道の破壊も高く
営業速度で検測できる車両が求められた。直通しているJR東日本からE491系を
リースすることも検討されたが、前面非貫通のために地下鉄での使用不可と判り、
既存車両に検測機器を載せて検測車に充てることにした。
折しも東京メトロは東西線の全車両をVVVF化に着手しており、05系の
05-014〜05-018Fも取り替えの対象となるため、唯一ワイドドアでVVVF車両の
05-014Fを改造種車に4両編成の検測車を作ることにした。
改造は京王重機で検測機器はE491系と同一の物を使用する。またE491系にはない
レール探傷車機能も備えた。
2編成作られたため、深川と東葉高速線の八千代緑ヶ丘に配置された。
東西線と東葉高速線で使われるが、JR東日本が直通運転をしている
総武中央各駅停車の検測に使いたいと打診があり総武線各駅停車の検測を
東京メトロが委託することになった。
他の東京メトロ各線の検測も検討されており、千代田線の検測を検討している。
なお置き換えられる15000系2次車は16000系ベースとなるため、ワイドドア以外は
ほぼ16000系車体となっている。
なお新造は4編成のみだがこれは残り1本を千代田線06系を東西線に転用するため。
18名無し野電車区:2012/09/21(金) 12:50:37.90 ID:WAc3bkKl0
東京横浜電鉄キハ1形気動車
東京急行電鉄の前身である東京横浜電鉄(東横電鉄)が1936年(昭和11年)に導入、
大胆なヨーロッパスタイルの大型流線型ボディと、戦前の私鉄気動車としては、
8両が一挙に新造されたことで知られる。
東横電鉄のワンマン経営者であった五島慶太は、コスト計算に極めてシビアな面、
将来像や発展を常に思考する人物で、1930年代中期の東横電鉄では、
利用客増加に伴って輸送力増強が急務であったが、目黒蒲田電鉄などの新車導入で、
資金不足に見舞われ、五島はこれに際し、コストダウンのため、ガソリンカー導入を検討、
地上設備増強、車両製造費用とその減価償却等々、電車増備との徹底した、
費用比較が行われた結果、ガソリンカー導入の方が若干有利であるという結論に達した。

製造は川崎車輛が担当し、1936年(昭和11年)4月からキハ1-8までの8両が順次竣工、
車体両端に運転台を備える3扉車で側窓配置は11D(1)5D(1)4(1)D11、
(D:客用扉、():戸袋窓、数字:窓)となっており、乗務員扉は設けられておらず、
乗務員も客用扉から出入りする。
車体長は17.5mで戦前の私鉄向けガソリンカーでは、滋賀県の江若鉄道が、
1931年(昭和6年)以降導入したキニ4・キニ9形の17.6mに次ぐ大型車体である。
体の両端を前後客用扉付近から緩やかに絞り、曲率が異なりしかも屋根から床面まで、
緩やかな円弧を描く固定二枚窓構成の妻面に接合した大胆な流線型で、
戦前の日本製気動車でも特に洗練された好スタイルの一つである。
19名無し野電車区:2012/09/21(金) 12:54:23.35 ID:WAc3bkKl0
また、運転席脇の車体が絞られている部分には三角窓があり、
これは通風のため外側に開き、ヘッドライトは屋根上中央に埋め込み式で1灯搭載、
腰部の標識灯も左右の腰板部に半埋め込み式で2段配置で、さらに両端の運転台部分は、
雨樋が省略、ここも欧州調の造形で、両端の客用扉下から前面にかけての運転台部分には、
短いスカートが端梁を覆い隠すように取付、流線型のシルエットの一部を構成、
電車運行路線での運用のため、多くのガソリンカーのような低いホームでの、
運用は考えず、ステップを設けられていない。

エンジンは川崎KP170で、実質的には鉄道省キハ42000形用制式エンジンである、
GMH17そのもので、変速方式は機械式で4段変速のD211、
クラッチはキハ42000形同様空気圧による遠隔制御を行い、台車はTR29、
ブレーキはSME非常弁付き直通ブレーキを手ブレーキとともに搭載、
連結器は自動連結器を装備した。

1937年(昭和12年)の日中戦争勃発に伴う燃料統制によって、
ガソリンカーの運行コストは急騰、キハ1形の運用は早期に挫折、諦められ、
以降は本来の電車増備で輸送力増強がなされることになり、
キハ1形も他社に売却されることになり、1937年(昭和12年)9月に五日市鉄道へ、
キハ3・4の2両が売却され、残り6両は1937年(昭和12年)度中に、
東京横浜電鉄の資本系列の非電化路線である神中鉄道(現・相模鉄道)に譲渡、
神中鉄道キハ1形(2代目)1-6となった。
20名無し野電車区:2012/09/21(金) 13:58:59.84 ID:WAc3bkKl0
神中鉄道キハ1形(2代目)・デハ1060形
1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争に伴う燃料統制で、
ガソリン価格暴騰により、東京横浜電鉄から6両が譲渡された車輌。

キハ1形(2代目)
神中鉄道は当時、大小合計20両近くも保有する先進的な非電化鉄道で、
1939年(昭和14年)9月に東京横浜電鉄の傘下に入ると、
海軍厚木基地建設の貨物輸送便宜で、海軍から優先的にガソリン配給を受けていたが、
1941年(昭和16年)の開戦後はガソリンが兵器優先となると、配給が滞り始めたことで、
代燃ガス発生装置を装備するか、電装して電車化するかで検討され、
1942年(昭和17年)6月から現在の東急東横線からの配電で横浜-西谷間が600V電化、
同年中に厚木基地が完成することを見越して、軍部の協力の元、日本車輌萩工場から、
電装品と台車の調達を実施、同時に車体更新を星川工場で着手した。

デハ1060形
車体長17.5mの半鋼製車体、片運転台車の3扉車で側窓配置はd1D(1)3D(1)3D(1)1、
(d:乗務員扉、D:客用扉、():戸袋窓、数字:窓)となっており、
側面には大型の2段上昇式窓が並び、窓上下に補強帯(ウインドウヘッダー)が復活、
前面の両端を乗務員扉付近から緩やかに絞り、曲率が異なりしかも屋根から床面まで、
緩やかな円弧を描く固定二枚窓構成の大胆な流線型で、乗務員室は全室化、
ヘッドライトは屋根上中央に1灯搭載し、腰部の標識灯も左右の腰板部に、
半埋め込み式で2段配置、運転台部分の屋根は張上げとなっていて、
乗務員扉前に屋根から車体下まで雨樋が付けられていて、
連結妻面は切妻型とされ、下段上昇式の2段窓設置、貫通路と幌の設置が行われ、
扉間は全て木製枠のロングシートとなった。
21名無し野電車区:2012/09/21(金) 15:29:40.43 ID:WAc3bkKl0

主電動機は日本車輌萩工場で在庫してた85kwを4基搭載、
制御装置も在庫品のウェスティングハウス・エレクトリック製、
台車は住友金属工業製のKS30LAを使用、集電装置は菱型パンタグラフとなり、
運転室側に搭載された。

1942年(昭和17年)デハ1060形1061-1066で2両運行に就航。

1945年(昭和20年)終戦。

1946年(昭和21年)12月に現在の京急本線からの配電で全線が1500V化に合わせ、
デハ1060形の全車が昇圧改造工事を実施。

1957年(昭和32年)扇風機の取付。

1964年(昭和39年)全車の廃車が決定、同時に他社への売却となり、
翌年、全車が600Vに降圧工事後、上田丸子電鉄に譲渡され、
同社のモハ5280形5281-5286となり、丸子線廃止後は別所線に転じ、
750Vに昇圧工事、1983年(昭和58年)に全車が廃車され、
5281が下之郷車庫で静態保存されている。
22名無し野電車区:2012/09/22(土) 09:21:48.61 ID:Iddn6I3a0
JR貨物 M350系

M250系を更に高速化すべく、強制振り子を搭載し曲線通過速度を向上させた形式

M250系に比して、東京〜大阪間の到達時間を15分縮めることに成功した。
23anorak?:2012/09/22(土) 14:31:12.25 ID:Hfxrtyzg0
>8に続く平行世界もの
◎国鉄003系電車通勤形電車
1980年 標準軌 第三軌条
○高度経済成長期、大阪都市圏の通勤事情は年々悪化し大阪市交通局地下鉄の市外延伸と既存郊外路線への直通を望む
世論が益々強まったのを受け、郊外延伸には首都圏の通勤五方面作戦で実績ある国鉄も担当する事になった。
国鉄が担当するのは次の二路線:
四つ橋線の堺市延伸、国鉄堺市線、御堂筋線と阪和線の混雑緩和目的;
住之江公園駅から国鉄大阪南港貨物線に三線軌条で乗り入れ阪和線杉本町駅に至り、鳳駅まで阪和線の貼り付け線増。
千日前線の伊丹台地延伸、国鉄武庫昆陽線、千日前線有効活用と新幹線公害補償;
野田阪神駅から東海道線塚本駅まで延伸し、そこから国鉄新線として加島を経て山陽新幹線に貼り付けて甲東園まで。
どれも規格は、大阪市交中央線に対する近鉄けいはんな線と同様に、大阪市交の標準軌・DC750V第三軌条等に準拠。
直通開始後、営業最高速度は70km/hから95に向上、加減速度は従来通り。
これらの直通用にと003系が新造された。
本形式の車両形式称号は、標準軌と第三軌条という国鉄にとっての異種規格を示す為に三桁目が0にされた。
車両の意匠は、国鉄財政悪化を反映して市交の同時期の新車10系に比べて製造費低減を打ち出したものとなり、
それは、車体はオールではなくスキンだけのセミステンレス、コイルバネ台車、冷房は車内の車端に床置型、
制御装置は201/203系採用の電機子チョッパではなく、国鉄としては異例の量産車に界磁チョッパを本格採用、
その他の仕様は、車体寸法は車長19m弱等の大阪市交標準規格、全電動車台車に集電靴、先頭前面は105系新造車等にも
多く踏襲されるバンダ目、戸袋窓無しの両開き四扉など。
車種は、クハ003/002(Tc/T'c)、モハ003/002(M/M')の四種。
1981年、上記の二路線が開業し、003系は4M2Tの六両編成で西梅田〜鳳の四つ橋線直通列車や千日前線直通に就役開始。
87年に本形式と当路線はJR西日本に承継。
JR西が株式上場後コストカットと駅ナカ商売に注力してから、異端規格で保守コストが高く、自社の重要ターミナルに
直行しない当路線と本形式は冷遇される様になって近年ガムテープで補修が目立つ。
24名無し野電車区:2012/09/22(土) 14:39:50.24 ID:MNegBXUp0
国鉄 151系郵便輸送専用車

昭和33年に運転開始したビジネス特急「こだま」の成功を受け、更に年々増加する関東〜関西間の郵便の速達性向上のため郵政省が製造した郵便車

クユ181:運転台つき郵便車で、仕分け室を持たないいわゆる「護送便」用の車輛
モユ180:パンタつき中間電動郵便車で、護送便用車輛
モユ181:パンタなし中間電動郵便車で、後増便用車輛
サユ180:中間付随郵便車で、仕分け室つき

なお、編成は「こだま」同様サユ180を中心に背中合わせに連結され、8連で運用された。
速度が向上したため、昼間運転も可能となり、朝9時5分と12時5分に汐留・梅田を相互に発車する昼間便と、23時に発車する夜間便が設定され、
こだまど同様に6時間50分で東京地区と大阪地区を結んだ。

新幹線開業後も引き続き運転され、国鉄が荷物輸送を廃止した昭和57年11月のダイヤ改正まで活躍した。
25名無し野電車区:2012/09/22(土) 14:49:10.67 ID:s3wuBdMHO
東京地下鉄(東京メトロ)3000系(2代目)
日比谷線03系の後継車両。副都心線の東横線直通開始により、これまでの
日比谷線からの東横線の乗り入れが終了することからこれを機に5ドア車両の
削減と初期の03系の取り替えに着手することになって投入された。
基本的には16000系をベースとした18m車両で5ドアはない。
急カーブが多い日比谷線に対応するため銀座線の1000系同様に操舵台車が採用された。
8両編成27本作られる予定で、初期すべてと5ドア車両のチョッパ車両すべてが
取り替えられる予定。
海外譲渡は行われず廃車となる予定だが、初期型の3ドア車両は一部地方私鉄が
譲渡に名乗りを挙げているらしい。
なお03-002編成は解体に際して遺族からの抗議を受けて中目黒事故を
風化させない車両として営業運転せず綾瀬留置となるが当面8両で残される。
26名無し野電車区:2012/09/23(日) 12:52:16.66 ID:HOcgRsJY0
キロ81
キハ80のパーラーカー。
151系と同様に超大型窓で1+1配列のシートが並んでいるが、機器室があるため個室は省略されている。
27名無し野電車区:2012/09/23(日) 21:55:23.39 ID:oalPC/f2O
クユニ183
183系に対応する郵便荷物車である。全て0番台車の房総特急用に作られ、
1000番台で作られる予定だった「あずさ」「とき」用は計画のみで終わっている。
東京方先頭に行くよう連結され、8両作られて
9両編成と6両編成とで各4編成に連結された。
また大型ドアを設けないなど客室化改造も可能なように初めから作られている。
なお臨時「あずさ」では使わないようになっていた。
小荷物及び護送郵便輸送から夕刊新聞輸送用に用途が代わり、東京地下駅で新聞を
積み込む光景が房総特急名物となっていた。
輸送方法は次の通りであった。
内房線 さざなみ9号で東京〜千倉まで輸送(君津〜千倉普通列車)
外房線 わかしお9号で東京〜安房鴨川(勝浦〜安房鴨川間普通)
(安房鴨川〜千倉の内房線も安房鴨川まで運び、そこから普通列車に積み替えて輸送)
総武本線 しおさい11号で東京〜銚子
(成田線も佐倉まで輸送して普通列車に積み替えて輸送[時刻上あやめで輸送出来ないため])
57年改正による荷物輸送廃止後も新聞輸送は廃止に出来ないために残された。
晩年にはときやあずさからの1000番台車の編成に連結されたり、末期には
あさまから転属の189系の9両編成にも1編成だけクユニ183-8が連結された珍編成もいた。
このままの形態のままでE257系500番台登場まで使われていた。
E257系化後は東京方クハE257の全室を封鎖して積み込んで輸送している。
また総武本線の輸送は成田線の輸送と合体化されて前5両がしおさい 後5両をすいごう
で佐倉切り離しで東京〜銚子を運転し、終点銚子で再び合体して上りしおさいで
新宿に戻る運用が組まれている。
28名無し野電車区:2012/09/23(日) 22:18:06.50 ID:FA029V6E0
国鉄 北海道総局 クユニ711

昭和43年、函館本線滝川電化時に登場した、711系用の荷物/郵便合造車
制御付随車だが、運用に柔軟性を持たせるために両運転台となっている。

小樽〜滝川間の客車列車の置き換えで、短距離輸送として活躍したが、のちに小樽〜旭川間の急行「かむい」の一部列車に連結されて
速達輸送を行うことになった。
特に全駅無停車の急行「さちかぜ」は、さちかぜ便と呼ばれ、報道機関や大手会社の小荷物急送に重宝されていた。

昭和57年の小荷物廃止に伴い、重量増加を承知で1M化され、クモハ712として旅客改造されたうえで、函館本線岩見沢以北のローカル運用に
投入され活躍した。JR化後はワンマン改造されたうえで現在でも元気に走っている。
29名無し野電車区:2012/09/23(日) 22:35:23.26 ID:FA029V6E0
JR北海道 スロネ14 スロ14

平成元年、青函ブームと湾岸戦争の影響により北海道は空前の観光ブームに沸いていた。
急行はまなすも連日満席であったが、R55の簡易リクライニングシートによる夜行運用は不評であり
早急な改善の必要に迫られていた。

そこで、分割民営化時に財産分与で本州から譲渡されてきたサロネ581とサロ481を14系化することになった。
当初は運転サイドから重量が重すぎるとクレームがつけられたが、営業サイドとしては運転サイドから提案された
24系B寝台車の改造では北斗星用の予備車が枯渇する危惧があるのと、どうせならA寝台とグリーン車にして
増収したほうがいい、ということで押し切っての改造となった。

座席指定席のオハ14の3両を、スロネ14の2両とスロ14の1両に置き換え、B寝台なしのグリーン車つき夜行列車として
運行を開始した。
これに合わせて、A寝台及びグリーン車用の割引切符も発売した。

乗客からは体質改善を歓迎する声で迎えられた。

その後、北海道ブームがひと段落し、北斗星用の24系が余剰となりはじめたことと、車輛の老朽化が激しいことから
平成12年にスロネ14が廃車となり、14系と併結運転可能に改造されたオハネ24に置き換えられた。

しかしながら、グリーン車の需要は高かったため、現在でもスロ14は連結されて走っているのは周知のことであろう。
30名無し野電車区:2012/09/24(月) 16:18:53.80 ID:9RUZsFkJ0
川崎市営トロリーバス1形(1-4)
開業に先立って一部完成路線で、乗務員養成用に導入した車輌。
日産自動車の90型セミキャブオーバー型ボンネットバス車体を利用して、
1950年(昭和25年)に三菱電機製の電動機、制御部品を使い、
木南車輌で4両が製作された。

全長5000、全幅2400、全高3050mm、乗車定員19名、全席ロングシート、
客用扉は車体左の前寄りに設置、扉は2枚の前折り戸、
主電動機は三菱電機製のMB-800-A形68kwを1基、駆動方式はウオームギヤー、
制御装置も三菱電機製のMF850形AF間接自動式、
制動装置は空気制動機を主とし手用制動機、電気制動(非常用)を備え、
トロリーポールは2本、スライダーシュー式を採用した。
31名無し野電車区:2012/09/24(月) 16:20:20.98 ID:9RUZsFkJ0
1950年(昭和25年)7月の開業前に一部開通路線で乗務員養成用に使用、
7月の開業以降は環状線で使用したが、収容力が低いことから、
日中の路線営業のみに使用され、早い時期に引退、
以降は再び乗務員養成に使用された。

1950年(昭和25年)5月に導入、7月の開業以降は日中の営業運用に入る。

1954年(昭和29年)営業路線から撤退、以降は再び乗務員養成用に使用。

1962年(昭和37年)乗務員養成は100形で行われることになり、全車が廃車、
1号車が市電公園に静態保存、2号車は川通車庫に保管、3号車と4号車は、
電装機器を取り外して、民間に屑鉄扱いで払い下げられた。
32名無し野電車区:2012/09/24(月) 16:53:25.77 ID:9RUZsFkJ0
川崎市営トロリーバス100形(101-114)
1950年(昭和25年)7月の開通用に急遽用意するため、
川崎市に東日本重工業の川崎機器製作所(川崎工場)が在った由縁で、
南米向けに大型バスを製造輸出してた東日本重工業(三菱日本重工業)に依頼、
全長13400mm、全幅2500mm、全高3100mm、ホイールベース6180mm、
リアのオーバーハングが長い、フレームレスモノコック構造の超大型長尺車体、
前面はGMC TDH-5103や富士 TR014X-2(ふじ号)に似ていて、
1灯式ヘッドライトを左右に配置、運転窓両横にはアポロ式ウインカーを装備、
前面窓、後方の3分割窓の上には行先方向幕灯が設置され、
後面窓下に丸型1灯式テールランプを左右に配置、その下に乗降中は点滅する、
白色の小さな丸型1灯式乗降ランプを左右に装備した。

客用窓は上段にバス窓を装備した下段上昇式で、窓の四隅は丸く処理されていた。
客用扉の配置は前扉は2枚の前折り戸、中扉は乗降口が拡大、両側2枚折り戸で、
車体に対して中扉位置が少し前ぎみだったことで、より後部が長く見え、
乗車定員は86名、全席ロングシート、車内中央にはスタテッションポールが5本、
室内灯は白熱灯が中央に6個並んだ。

主電動機は三菱電機製のMB-1100-B形120kwを1基、駆動方式はウオームギヤー、
制御装置も三菱電機製のMF1008形AF間接自動式、
制動装置は空気制動機を主とし手用制動機、電気制動(非常用)を備え、
トロリーポールは2本、スライダーシュー式を採用した。
33名無し野電車区:2012/09/24(月) 16:55:18.16 ID:9RUZsFkJ0
当初、全国で導入したことが無い稀に見る大型車輌だったことから、
運行上で制約が発生するのではないかと危惧されたが、
主要道路の環状廻りだったことで、幸いにも制約も無く、
むしろ朝夕ラッシュ時に乗客の大量輸送に活躍、以後川崎市交通部では、
100形の車体サイズを基本とした。

1950年(昭和25年)2月に購入、順次、日本鉄道自動車製造に送り、
無軌条電車に改造、7月の開通時に14号車までの全車が就航。
朝夕ラッシュ時に威力を発揮。

1951年(昭和26年)前年から雨などの日に感電すると乗客から、
苦情が寄せられていたことで、4月1日から各車の絶縁強化を川通車庫で実施。
34名無し野電車区:2012/09/24(月) 16:58:33.45 ID:9RUZsFkJ0
1958年(昭和33年)アポロウインカーが見難いとの苦情で、
前後のバンパー左右上に白色のライトを装備、乗降時は点滅して、
周囲に知らせるようにした。

1959年(昭和34年)2月8日から11日まで川崎市交通部の創立20年記念と、
建国記念日を祝い、101-104号車が電飾され、夕方に電飾を輝かせ運行。
4月10日には皇太子様御成婚記念として、111-114号車が電飾された。

1960年(昭和35年)車内更新が行われ、内装をアルミデコラに交換、
シート、スタテッションポールの交換、白熱灯から蛍光灯への交換が行われた。

1970年(昭和45年)廃車が始まり、101号車が市電公園に静態保存、
状態の良かった108号車が川通車庫に保管された。

2年に一回、2月8日の川崎市電開業記念日に、108号車は運行されている
35名無し野電車区:2012/09/25(火) 13:33:12.39 ID:oZU+126Z0

川崎市営トロリーバス200形(201-218)
環状線の増車計画で1954年(昭和29年)に川崎市交通部が日野ヂーゼル工業の、
センターアンダーフロアエンジンバスの帝国自動車工業車体をベースに、
東洋工機(株)で無軌条電車化、全長13400mm、全幅2500mm、全高3100mm、
ホイールベース6180mmで、100形と同じくリアのオーバーハングが長く、
前面はセンターアンダーフロアエンジンバスのBD形とまったく同じで、
前面窓、後方の2分割窓の上には行先方向幕灯が設置され、
1灯式ヘッドライトを左右に配置、テールライトが丸型の横並び2灯式となり、
白色の乗降ランプは左右に丸型1灯式を装備し、ウインカーは白色の砲弾式で、
前後車体の丸角に飛び出して付けられていた。

客用窓は上段にバス窓を装備した下段上昇式で、窓の四隅は丸く処理され、
客用扉の配置は前扉は2枚の前折り戸、中扉は乗降口が拡大、両側2枚折り戸で、
中扉の前窓上段バス窓は埋められ、そこに行先方向幕が付き、
車体に対して中扉位置が少し前ぎみだったことで、より後部が長く見え、
乗車定員は102名、全席ロングシート、室内灯は白熱灯が中央に7個並び、
車体中央にスタテッションポールが後方に向い5本並んだ。
36名無し野電車区:2012/09/25(火) 13:34:51.06 ID:oZU+126Z0
主電動機は東洋電機製のTDK-20SD形128kwを1基、駆動方式はウオームギヤー、
制御装置も東洋電機製のES20形KB間接自動式、
制動装置は空気制動機を主とし手用制動機、電気制動(非常用)を備えた。
トロリーポールは2本、スライダーシュー式を採用した。
100形の絶縁不足を考慮して、200形は製造時から絶縁が強化された。

1954年(昭和29年)から1956年(昭和31年)までに201-218号車が就航。

1959年(昭和34年)4月10日には皇太子様御成婚記念として、
211-214号車が飾り付けをされた。

1964年(昭和39年)車内更新を実施、内装をホワイトのアルミデコラに交換、
シート、スタテッションポールの交換、白熱灯から蛍光灯への交換が行われた。

1966年(昭和41年)1月1日からワンマン運行開始。

1975年(昭和50年)から廃車が始まり、201号車が市電公園に静態保存、
状態の良かった217号車が川通車庫に保管された。

2年に一回、2月8日の川崎市電開業記念日に、217号車は運行されている。
37名無し野電車区:2012/09/25(火) 13:52:59.02 ID:oZU+126Z0
川崎市営トロリーバス300形(301-308)
増車計画の10両追加分として1957年(昭和32年)に川崎市交通部が、
富士重工のR9車体を使い、東洋工機(株)に発注、無軌条電車化、
全長13500mm、全幅2490mm、全高3090mm、ホイールベース9100mmで、
前面窓は傾斜、前面窓の上、後方2分割窓に行先方向幕灯が付き、
前扉は前引き折り戸、中扉は両側2枚折り戸で扉位置が中央に付き、
全席ロングシート、室内灯は蛍光灯が中央に5個並び、
車体中央にスタテッションポールが後方に向い5本並んだ。
ヘッドライトは丸型1灯式を左右に装備、テールライトは楕円型1灯式を、
左右に装備して、白色の乗降ランプは後面中央に丸型1灯式を装備、
ウインカーも楕円型で車体四隅に張り付いたいた。

主電動機は東洋電機製のTDK-20SD形128kwを1基、駆動方式はウオームギヤー、
制御装置も東洋電機製のES20形KB間接自動式、
制動装置は空気制動機を主とし手用制動機、電気制動(非常用)を備えた。
トロリーポールは2本、スライダーシュー式を採用した。

1957年(昭和32年)11月までに1-4号車が就航。
38名無し野電車区:2012/09/25(火) 13:54:56.27 ID:oZU+126Z0
1957年(昭和32年)11月15日 3号車が村上外科前-中島四丁目間の交差点で、
内輪差による歩行者巻き込み事故が発生、被害者は重傷を負うことになった。
川崎市交通部の調査によると、ホイールベースの違いによる、
乗務員の内輪差認識不足が原因と判明した。
この事故後、川崎市交通部は300形の搬入を急遽中止、
既に8号車まで製造してたことから8号車までは納入、残り分はキャンセルした。

1961年(昭和36年)3月2日 4号車による再び内輪差による巻き込み事故が発生、
幸い被害者は軽傷で済んだ。

1966年(昭和41年)1月1日からワンマン運行開始。

1972年(昭和47年)トロリーバス寿命としては早く廃車が始まり、
301号車が市電公園に静態保存、他は翌年にかけて全車が廃車解体された。

300形はホイールベースが長く、運転しにくいことで乗務員に不評だった。
この不評が長く運用されなかった原因とも言える。
39名無し野電車区:2012/09/25(火) 21:05:06.98 ID:xAV1EKAb0
鶴見臨港鉄道300形
モハ110形・モハ330形・クハ350形・ モハ130形の置き換え用として1964年に3両4編成が製造。
同時期に製造されていた親会社である京浜急行電鉄の1000形をベースとした車両である。
2008年700形の登場で引退。富山地方鉄道に譲渡された。

鶴見臨港鉄道500形
モハ220形・クハ260形・モハ210形・クハ250形の置き換え用として1988年に3両2編成が製造。
同時期に製造されていた親会社である京浜急行電鉄の1500形をベースとした車両である。

鶴見臨港鉄道700形
モハ110形・モハ330形・クハ350形・ モハ130形の置き換え用として2003年に3両5編成が製造。
同時期に製造されていた親会社である京浜急行電鉄の新1000形をベースとした車両である。
この当時新1000形はシーメンス製のGTO式VVVFインバータを採用していたが、こちらは三菱電機製IGBT式VVVFインバータとなっている。
40名無し野電車区:2012/09/26(水) 08:40:05.49 ID:35nkOQA/0






川崎市営トロリーバス500形
軌道優先法案施行後の1962年(昭和37年)、乗客数の増加による増車計画で、
川崎市交通部が日野自動車工業のRB120形をベースに金沢車体を指定、
東洋工機(株)で無軌条電車化、全長13500mm、全幅2500mm、全高3120mm、
ホイールベース6200mmで、200形と同じくリアのオーバーハングが長く、
前面は日野路線バスのRB120形とまったく同じでデザインで、
前面窓上、後方の2分割窓の上には行先方向幕灯が設置され、
1灯式ヘッドライトを左右に配置、テールライトが丸型の横並び2灯式となり、
白色の乗降ランプは楕円型1灯式をテールライトの下に装備、
ウインカーは白色の砲弾式で、前後車体の丸角に飛び出して付けられていた。

客用窓は上段にバス窓を装備した下段上昇式で、窓の四隅は丸く処理され、
客用扉の配置は前扉は2枚の前折り戸、中扉は乗降口が拡大、両側2枚折り戸で、
中扉の前窓上段バス窓は埋められ、そこに行先方向幕が付き、
車体に対して中扉位置が少し前ぎみだったことで、より後部が長く見え、
乗車定員は102名、全席ロングシート、室内灯は白熱灯が中央に7個並び、
車体中央にスタテッションポールが後方に向い5本並んだ。
前から見ると日野RB形バスと大差は無かった。

主電動機は東洋電機製のTDK-28SD形140kwを1基、駆動方式はウオームギヤー、
制御装置も東洋電機製のES20形KB間接自動式、
制動装置は空気制動機を主とし手用制動機、電気制動(非常用)を備え、
無架線場所でも移動出来るように補助ディーゼルエンジンを搭載、
トロリーポールは2本、スライダーシュー式を採用した。
41名無し野電車区:2012/09/26(水) 08:50:17.42 ID:35nkOQA/0
500形は車輌の大型化と増車計画で製造され、300形の失敗を兼ね、
200形に近くなるように川崎市交通部が設計注文した。

1962年(昭和37年)から1964年(昭和39年)までに501-520号車が就航。

1966年(昭和41年)1月1日からワンマン運行開始。

1972年(昭和47年)車内更新を実施、内装をホワイトのアルミデコラに交換、
シート、スタテッションポールの交換が行われた。

1984年(昭和59年)廃車が始まり、501号車が市電公園に静態保存、
状態の良かった512号車が川通車庫に保管された。

毎年2月8日の川崎市電開業記念日に、500形は運行されている。

500形は長く利用されたことで、市民に馴染みがあることなどから、
川崎市交通部が販売してるトロリーバスのステッカーやキーホルダーに描かれ、
記念碑などにも透写されている。
42名無し野電車区:2012/09/26(水) 08:55:54.51 ID:35nkOQA/0
川崎市営トロリーバス600形
高度経済成長期の自動車増加で市営バスが慢性的な延滞に悩まされてる中、
1961年(昭和36年)1月1日の軌道優先法案施工で延滞無く運行される、
市電とともにトロリーバスの利用客増加が激しく、さらなる増車に対応するため、
1967年(昭和42年)に川崎市交通部が日野自動車工業のRB120形の金沢車体を指定、
東洋工機(株)で無軌条電車化したのが600形。
500形の追加新造分で、主電動機が東洋電機製のTDK-36SD形143kwになり、
形式が600形に変更されたのみで、車体などは500形と大差は無かった。

1967年(昭和42年)から1969年(昭和44年)までに601-620号車が就航。

1977年(昭和52年)シート、スタテッションポールの交換が行われた。

1980年(昭和55年)611-614号車の床下を補強して冷房装置を搭載、
車内床に点検口を設置、冷気は床下から側面のダクトを伝い、
天井から冷気を車内に送風する仕組みとなり、2年間の試験を行った。

1981年(昭和56年)601-610号の床下に冷房装置を搭載。
600形の全車冷房化完了。

1989年(平成元年)廃車が始まり、601号車が市電公園に静態保存、
状態の良かった610号車が川通車庫に保管された。
43名無し野電車区:2012/09/26(水) 09:00:40.92 ID:35nkOQA/0
川崎市営トロリーバス700形
600形から10年後の1977年(昭和52年)に川崎市交通部が日野自動車工業の、
路線バスRE140形をベースに日野車体を指定、東急車輛製造で無軌条電車化、
全長11200mm、全幅2500mm、全高3130mm、ホイールベース5670mmで、
超大型長尺車体採用では無く、700形から路線バスと同じ車体寸法を採用、
新造費用を抑える目的で、路線バスと同じ車体寸法を採用した。

前面は日野路線バスRE140形と、まったく同じでデザインで、前面窓上、
後方窓の上には行先方向幕灯が設置、ヘッドライトは2灯式ユニット、
テールライトはアンバー入り角型の2灯式、白色の乗降ランプは角型1灯式を、
後面下部に左右配置、路線バスと同じデザインとなった。
客用窓は701-712号車までが上段にバス窓を装備した下段上昇式で、
713-720号車が上段下降、下段上昇式の2枚窓に変更された。
客用扉の配置は前扉は2枚の前折り戸だが、折り戸の窓も製造差異が在り、
701-714号車までは折り戸の窓は4枚だが、715-720号車は折り戸の窓が、
上下繋がった2枚となり、中扉も前扉と同じ差異が見れた。
中扉の前窓上段は埋められ、そこに行先方向幕が付いた。
乗車定員は92名、全席ロングシート、室内灯は蛍光灯が中央に5個並び、
スタテッションポールは装備されなかった。
44名無し野電車区:2012/09/26(水) 09:04:20.37 ID:35nkOQA/0
主電動機は東洋電機製のTDK-33MG形120kwを1基、駆動方式はウオームギヤー、
制御装置も東洋電機製のES35形MJ間接自動式、
制動装置は空気制動機を主とし手用制動機、電気制動(非常用)を備え、
無架線場所でも移動出来るように補助ディーゼルエンジンを搭載、
トロリーポールは2本、スライダーシュー式を採用した。

1977年(昭和52年)から1979年(昭和54年)までに701-720号車が就航。

1982年(昭和57年)713-720号車に冷房装置が搭載され、
屋根前側にドームが載せられ、冷房装置が収められた。

1984年(昭和59年)701-712号車に冷房装置が搭載され、
屋根前側にドームが載せられ、冷房装置が収められた。
700形の全車冷房化達成。

1988年(昭和63年)から1991年(平成3年)にかけて全車の車内更新。

2000年(平成12年)廃車が始まり、701号車が市電公園に静態保存、
状態の良かった706号車が動態保存で運行が続けられ、
2012年(平成24年)現在も運行中。
45名無し野電車区:2012/09/27(木) 08:58:01.29 ID:STcv4pvn0
川崎市営トロリーバス800形
1986年(昭和61年)に川崎市交通部が日野自動車工業の路線バス、
P-HT236BA形をベースに日野車体を指定、東急車輛製造で無軌条電車化、
全長11150mm、全幅2490mm、全高3150mm、ホイールベース5670mmで、
700形と同じ、路線バスと同じ車体寸法を採用、客用窓は上段下降、
下段上昇式の2枚窓は拡大され、リア窓も1枚窓で拡大された。
ヘッドライトは丸型2灯式ユニット、テールライトも丸型2灯式ユニットで、
白色の乗降ランプは角型の1灯式を後面下部に左右配置し、
ウインカーは車体四隅に埋め込み式を配置した。

客用扉の配置は前扉は2枚の前折り戸、中扉は乗降口が拡大、両側2枚折り戸で、
中扉の前窓上段窓は埋められ、そこに行先方向幕が付き、乗車定員は92名、
全席ロングシート、室内灯は蛍光灯が中央に5個並んだ。
全車、車体前方中央寄りの屋根に冷房装置を搭載した。

主電動機は東洋電機製のTDK-37MG形130kwを1基、駆動方式はウオームギヤー、
制御装置も東洋電機製のESC40形MJ間接自動式、
制動装置は空気制動機を主とし手用制動機、電気制動(非常用)を備え、
無架線場所でも移動出来るように補助ディーゼルエンジンを搭載、
トロリーポールは2本、スライダーシュー式を採用した。

1986年(昭和61年)から1988年(昭和63年)までに801-830号車が就航。

1996年(平成8年)から全車の車内更新。

2007年(平成19年)から廃車が始まり、801号車が市電公園に静態保存、
状態の良かった822号車が本町車庫に保管された。
46名無し野電車区:2012/09/27(木) 09:19:07.25 ID:STcv4pvn0
川崎市営トロリーバス1000形
1998(平成10年)に川崎市交通部が日野自動車工業の路線バス、
ノンステップ型のKC-HU2PPCE形をベースに日野車体を指定、
東急車輛製造で無軌条電車化、全長10980mm、全幅2490mm、
全高3010mm、ホイールベース5570mmの路線バス寸法を採用、
ヘッドライトは角型2灯式ユニット、テールライトも角型2灯式ユニットで、
白色の乗降ランプは、角型の1灯式を後面下部に左右配置、
ウインカーは路線バスと同じ車幅灯と一体になり、
前後の行先方向幕はLED式となった。

客用窓は横幅が拡大した2枚窓で、下段は固定1枚窓となり、
上段は前後スライドの窓となった。客用扉の配置は前扉は2枚の前折り戸、
中扉は位置が後輪前に移動して、2枚折り戸が付いた。
中扉の前窓上段窓はにはLED式行先方向幕が付いた。
乗車定員は92名、全席ロングシート、室内灯は蛍光灯が中央に5個並んだ。
全車、車体前方中央寄りの屋根に冷房装置を搭載した。

主電動機は東洋電機製の三相誘導電動機125kwを1基、
駆動方式はウオームギヤー、制御装置は東洋電機製のVVFインバータ、
制動装置は空気制動機を主とし手用制動機、電気制動(非常用)を備え、
無架線場所でも移動出来るように補助ディーゼルエンジンを搭載、
トロリーポールは2本、スライダーシュー式を採用した。

1998年(平成10年)から2000年(平成12年)までに、
1001-1030号車が就航。

2011年(平成23年)製造初期車から車内更新。
47名無し野電車区:2012/09/27(木) 09:50:28.69 ID:STcv4pvn0
川崎市営トロリーバス1100形
2007年(平成19年)に川崎市交通部が日野自動車工業の路線バス、
ノンステップ型のBJG-HU8JMFP形をベースに小松事業所指定、
東急車輛製造で無軌条電車化、全長10925mm、全幅2490mm、
全高3285mm、ホイールベース5200mmの路線バス寸法を採用、
ヘッドライトはウインカーと車幅灯一体型の角型2灯式ユニット、
テールライトもウインカーと一体型の縦型3灯式ユニットで、
白色の乗降ランプは、角型の1灯式を後面窓下部に左右配置、
前後の行先方向幕はLED式となった。

客用窓は横幅が拡大した2枚窓で、下段は固定1枚窓となり、
上段は前後スライドの窓で前扉と中扉の間に在る窓だけ、
1枚固定窓とされて、客用窓を屋根の間にLED式の行先方向幕が付いた。
客用扉の配置は前扉は2枚の前折り戸、中扉は1000形と同じ、
位置が後輪前に移動して2枚折り戸が付いた。
乗車定員は92名、全席ロングシート、室内灯は蛍光灯が中央に5個並んだ。
全車、車体前方中央寄りの屋根に冷房装置を搭載した。

主電動機は東洋電機製の三相誘導電動機125kwを1基、
駆動方式はウオームギヤー、制御装置は東洋電機製のVVFインバータ、
制動装置は空気制動機を主とし手用制動機、電気制動(非常用)を備え、
無架線場所でも移動出来るように補助ディーゼルエンジンを搭載、
トロリーポールは2本、スライダーシュー式を採用した。

2007年(平成19年)から2009年(平成21年)までに、
1101-1130号車が就航。

現在の川崎トロリーバス主役である
48 【東電 82.1 %】 :2012/09/27(木) 19:10:53.10 ID:AKcbfteYO
京急新1000形SUS車両改修:
先日の追浜〜田浦での土砂乗り上げ事故で、2シート軽量ステンレスの編成の外板を剥がして、車体強度確保のピラーをトラス状に挿入。
施工は総合車両と京急ファインテックで施工。

京急新700形:
600形のツイングルの失敗を省みて、デュアルシート(L/CカーやTJ同様)。
製造は日立製作所と川崎重工。A-train。
4/6/8両がある(8両:0番台・6両:50番台・4両:70番台)。
新1000形SUS安全改修工事での車両不足と、800/2000形の置き換えを目的とする。
台車は安全性でボルスタ台車だが、従来の円筒案内から、円筒ゴム支持に変更。
VVVFは京急初の日立製。
49名無し野電車区:2012/09/28(金) 13:50:06.06 ID:tca8Ml+f0
静岡鉄道静岡清水線2000系
2008年(平成20年)3月1日に1000系の初期製造分置換え用として、
営業運転を開始した静岡鉄道の通勤形電車。

全長18m、片側3扉の東急車輛製造ステンレス製車両で、前頭部は普通鋼製、
外観デザインは京急新1000形電車と同じフロントガラスは貫通扉も含めて、
左右2分割から運転席前・貫通扉・左右前照灯・種別行先表示器の5分割構成、
客室窓は一段降下式窓、扉間の窓は幅2325mm、車端部は幅1455mmとなり、

内装は白色系化粧板を使用、床材はグレー系ロンリウム材、
中央天井部は一体成形の空調ダクト・ラインフローFRP製ユニット天井、
ロングシートは緑色のモケット、室内側の窓枠はアルミ製とし、
遮光用のロールカーテンを設置、車内ドア上部には旅客へのLEDを使用した、
文字スクロール表示式のドアチャイム内蔵車内案内表示器が設置された。

主電動機は三菱電機製かご形三相誘導電動機(155Kw)のMB-5121-A形、
駆動装置はTD継手式平行カルダン、制御装置は1M方式のVVVFインバータ装置、
制動方式は応荷重装置付回生ブレーキ併用電気指令式空気ブレーキ、
集電装置は東洋電機製造製のPT7117-A形シングルアーム式パンタグラフを搭載、
冷房装置は三菱電機製の屋根上集中式CU-71H形(36,000kcal/h)を搭載、
台車は電動車がTH-2100A形、制御車がTH-2100B形を履いた。

新静岡向きが電動車(Mc)2000番代、新清水向きが制御車(Tc)2500番代、
2001-2501:2008年(平成20年)竣工
2002-2502:2008年(平成20年)竣工
2003-2503:2008年(平成20年)竣工
2004-2504:2008年(平成20年)竣工
2005-2505:2008年(平成20年)竣工
1000系初期車5本と入代わるで2008年(平成20年)から運用、
2013年(平成25年)にも残りの1000系7本と入代わる容で2000系7本の製造予定。
50名無し野電車区:2012/09/28(金) 17:38:33.00 ID:TZ0dk60UO
東京都交通局1-400形
平成3年登場以来これと言った更新が行われていない5300形の急速な老朽化が
進んだことと、先の京急のダイヤ改正や北総線も一部に入る成田スカイアクセス線に入る上にも
120Km/h出せる編成が最終の5327Fの1本しかおらず、スカイライナーの足を
引っ張るなど見劣りが目立ってきた事から新型車両に取り替えることとなった。
本来なら5400形となる所だが、都は今後新造される浅草線 三田の新型車両から
新宿線や大江戸線と同じようにハイフン形式を採用されることになり、浅草線が
1号線であるため頭に1を付けた1-400形と言う新形式が採用された。
車体 車内は新宿線10-300系を基本としたものであるが、走行系を今回から
京成電鉄3050形と同じ走行系を採用されることになった。
但し台車とVVVF装置はスカイライナーと同じものを使用するなど差別化が図られた。
これにより検査を馬込車両工場だけでなく京成電鉄の宗吾車両工場にも委託可能となり、
検査の合理化も図られた。
東京都はアクセス特急の運用には入ってないとは言え、130Km/h運転が出来る点では
京成電鉄の3000 3050 3700形と京急電鉄の600形及び新1000形をも凌駕しており、
東京都の威信が感じられる車両となった。
8両編成29本が新津車両製作所及び総合車両製作所で製造された。
5300形より2本多いのは1本は北総鉄道の7250形をもう1本は追浜〜京急田浦で
土砂崩れに突っ込み脱線した1500形の損傷が激しく修復不可能と判断されたために
それぞれ東京都に取り替えを肩代わりしたため。
次期京急 京成のダイヤ改正で東京都車のアクセス特急が登場する予定で、
京急の8両編成の快速特急の一部も東京都車となる。
なお捻出された5300形の内の5317〜21 5324〜27Fが京急ファインテックに入場しており、
何らかの譲渡改造されるのは有力と見られ、琴電に譲渡されるのではないかと
見られている。
51名無し野電車区:2012/09/28(金) 18:01:14.72 ID:TZ0dk60UO
東京都交通局6-500系
三田線6300系初期型を取り替える新型車両である。こちらも新宿線や大江戸線と
同じようにハイフン形式を採用され、三田線は6号線であるため頭に
6を付けた6-500系が採用された。
基本的には新宿線10-300系をホームドア等がある三田線仕様にしたもので、
新宿線同様に2種類の編成があり、完全6両新造編成と6300系の先頭だけを
取り替えた6-500R編成とに別れている。
なお6-500R編成は東急目黒線の急行運転には原則充当しない。
6-500R編成に加わる6300系も改造に際してVVVF装置等も6-500新造編成と
同じものに取り替えられる予定。
52名無し野電車区:2012/09/28(金) 21:54:23.49 ID:Mi9Dk4HQ0
キハ47-901
キハ47の大出力エンジン試験車。
エンジンがDML30HSHに変更された。
台車がキハ66・67と同一のDT43/TR226になっている。

キハ47-902
キハ47のエンジン2基搭載試験車。
DMF15HSAを2基搭載した。
台車はDT44である。

キハ47-903
キハ47の1.5倍出力試験車。
エンジンがDMF15HZB(330PS)に変更された。
台車はDT44である。

試験の結果1.5倍出力試験車であるキハ47-903が一番コストパフォーマンスに優れていると判断されたが、結局量産化されなかった。
53名無し野電車区:2012/09/29(土) 07:47:00.74 ID:WUsFuoSj0
>>52
国鉄時代の話なら、2エンジンの時点で50番台の形式になると思うの
キハ57とか
54名無し野電車区:2012/09/29(土) 10:05:39.57 ID:WUsFuoSj0
国鉄 北海道総局 キハ56−400

昭和55年、急行運用激減を受けて余剰となっていたキハ56を札沼線通勤列車に充当するために改造された形式

車内をロングシートにし、車体中央部にドアを増設した。
ただし、床下機器の関係でステップは下げられなかったため、ステップ無しとなったうえに、キハ22からの廃車発生品のドアを使用した
半自動ドアとなっている(いわゆる「手で開けてください」式)

そうとうな仕上がりとなってしまったが、平地での2エンジン車ということで遅延しがちなラッシュアワーでも遅れ回復が容易となり(この車輛に乗る乗客以外)
好評を持って迎えられた。

JR化後、中央ドアが両開きに改造されたり、クーラー搭載やワンマン化改造などを経て、老朽化により平成17年に廃車となったが、奇しくもキハ56系としては
最後まで活躍したことは、このスレの住人にとっては周知のことであろう。
55名無し野電車区:2012/09/29(土) 10:44:20.43 ID:WODbS7Pn0
淡路交通鉄道 モハ2100型 2101号・2102号
戦災で焼失した鉄道省キハ36900形(キハ41000形)気動車の車体を、
1948年(昭和23年)に復旧、電動車化した車輌。
車体長15,500mm、車体幅2,600mm、全高3,535 mmの片運転台の半鋼製軽量車体、
窓配置1D (1) 14 (1) D1(D:客用扉、(1):戸袋窓、数字:側窓数)、
側窓は木枠による2段上昇式で戸袋窓と客用扉にも横桟があり、ドアエンジン装備、
1段ステップは廃止され、前面窓は2段上昇式の4枚窓構成から、
2段上昇式の3枚窓となり、運転席窓のみ1枚固定窓とされた。
屋根は鉄製となり、側面と屋根の境に雨樋が全体に回され、
車内は戸袋部がロングシート、ロングシート部には吊革が設けられ、
それ以外が対面式配置の背摺りの低い固定式クロスシート、定員は109名。

主電動機TDK85PS×2、制御器東洋電機製DBI-K4型直接式、台車をブリル27GEI、
集電装置は運転席側にパンタグラフ

1948年(昭和23年)中に2両が就航。

1966年(昭和41年)9月30日に全廃時に廃車、水間鉄道に譲渡する案も有ったが、
復旧車であるため素人目にも傷みや外板の凹凸が判別できるほど、
車体の劣化が酷かったことから譲渡されずに2両とも解体された。
56名無し野電車区:2012/09/29(土) 10:45:48.92 ID:WODbS7Pn0
淡路交通鉄道 クハ2110型 2111号・2112号
モハ2100型と同じく戦災焼失した鉄道省キハ36900形気動車の車体を、
1948年(昭和23年)に復旧、片運転台車、制御車化した車輌。

1948年(昭和23年)中に2両が就航。

1966年(昭和41年)9月30日に全廃時に廃車、水間鉄道に譲渡する案も有ったが、
復旧車であるため素人目にも傷みや外板の凹凸が判別できるほど、
車体の劣化が酷かったことから譲渡されずに2両とも解体された。
57名無し野電車区:2012/09/29(土) 13:04:58.06 ID:WUsFuoSj0
国鉄 キヤ80

昭和35年に特急はつかりに投入されたキハ80系だったが、初期故障によりエンジン停止して
ユニットカットした状態で長距離走行する事態が頻繁に発生し、ついにエンジンから火を吹く事態となり
国鉄当局としても、何か手を打たなくてはならなくなった。

根本的な技術的対策には時間がかかるということで、エンジンを冷ます保安停車処置が取られたが、同時に
平地においても長距離連続運転により生き残ったエンジンに負荷がかかり、さらなるエンジントラブルに見舞われる事態が
発生していたため、2次量産車のキハ80を急きょ先出ししてブースター車として運用することになり登場した形式である。

4両が仙台に配置され、状況によりキハ81の連結器カバーを外して後部に連結された。

そもそも応急処置としての形式だったので、車体の切り抜き番号はキハ80のそれぞれの番号で出場し、車体端に手書きのペンキで
キヤ80 1 というように書かれたもので、外観は貫通部分に雨水よけの板が貼られた以外はそのままであった。

技術的対策が施され、故障発生がおきなくなったことを確認したうえで、翌年2次量産車として営業復帰して形式消滅した。
58名無し野電車区:2012/09/29(土) 21:25:06.66 ID:Kp/VCfMV0
>>52
キハ68
国鉄が製造したキハ47の量産型大出力エンジン仕様車。
エンジンがDML30HSHになっている。
台車はDT43/TR226になっている。
1.5倍出力試験車では1軸駆動で勾配線区での空転多発が懸念されたため2軸駆動の大出力エンジン仕様車の投入に踏み切った。
しかし製造コストが高く少数しか製造されなかった。
59 【東電 79.0 %】 :2012/09/30(日) 23:45:06.09 ID:mtwsZzOUO
東武634型10番台・20番台:
634型が大好評で、350系3編成のうちの異端編成の352Fと1800系最終新造生き残りの異端編成の1819Fを改造。
352F改造編成は634-11〜14
1819F改造編成は634-21〜26

東武50090系・60090系、2連・3連・4連・6連(60090系):
634型の補完的な多客臨時観光列車。
50090系及び野田線投入の60000系を634型のようにして、50000系ワンマン用編成(但しワンマンには非対応)及び60000系をベースにしている。
5139x又は5129xを2本で浅草〜伊勢崎・赤城・西小泉・葛生へ、5149xで東武宇都宮・鬼怒川温泉へ、6169xで浅草〜伊勢崎・赤城・葛生・東武日光・鬼怒川温泉へ観光列車を運転する。
60名無し野電車区:2012/10/01(月) 14:25:23.31 ID:+c1EamKu0
京王電鉄デハ1400形電車(帝都電鉄モハ100形)
京王電鉄井の頭線の前身である帝都電鉄が1933年(昭和8年)に、
帝都線開業に併せて製造した、大型通勤形電車のモハ100形・クハ150形、
合併後のデハ1400形・クハ1450形を記述する。

リベット組立てと溶接を併用、窓の上下にシルヘッダーと呼ばれる、
補強帯板が露出して取付、全長18500mm×全幅2800mm×全高4040mm、
18m半鋼製車体を備える。メーカーである川崎車輌が1930年代に、
各鉄道会社で手がけた標準的な作風を示し、
窓配置は全車ともにd1D(1)3D(1)3D(1)1、乗務員扉と客用扉の間に在る窓は小窓になり、
(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓、数字:窓数)で、当時としては珍しく片運車、
片隅式の運転台、前面は半流線型で窓を3枚並べ、内2枚は下段上昇式、
運転台の1枚は1段固定窓でひさし付、車体幅の全体に渡り鋳鋼製アンチクライマー装備、
幕板中央部に前照灯を、前面向かって左側の腰板下部には標識灯を、それぞれ1灯ずつ備え、
クハとの連結面に引戸式の貫通路を設置、幌は当初、装備して無かった。
定員は100名、座席定員は40名で座席はロングシートを採用、前述の通り片隅式運転台、
反対側の座席は車端部まで延長されて無く、乗務員扉の手前までしか設置されてない。
車内各扉部中央にはスタンション・ポールと呼ばれるつかみ棒が立てられていた。
本形式は当初より全車各扉共にドアエンジンを装備した自動扉車として竣工、
客用扉に「此扉は自動的に開閉致しますから御注意下さい」と注意書きが表記されていた。
塗装はチョコレート色1色を基本とし、屋根部を鉛丹仕上げとしている。
61名無し野電車区:2012/10/01(月) 14:28:15.23 ID:+c1EamKu0
主電動機は120kw芝浦製作所SE-140Bを台車に2基ずつ吊り掛け式で装架、
制御器は東洋電機製造の電動カム軸式自動加速制御器ES-509を搭載、
ブレーキはM三動弁による元空気溜管式M自動空気ブレーキ、
台車はボールドウィンA形改良の軸距2,430mm釣り合い梁式台車を装着、
集電装置は東洋電機製造C2菱枠パンタグラフをデハの運転台寄りに搭載する。

開業時にモハ100形8両、クハ150形8両用意、モハ奇数車は渋谷向き、偶数車は吉祥寺向き、
クハ奇数車は吉祥寺向き、偶数車は渋谷向きとされていて、
帝都電鉄線の主力車として2両編成で重用された。
1936年(昭和11年)から第二次増備車としてモハ100形4両、クハ150形4両増備、
モハ12両、クハ12両の総数24両の大所帯となった。
大東急への合併で同線在籍の各車は他社形式との、車号の重複を避けて、
小田急線の各形式と同じ1000番台の枠内で整理され、以下の通り改番された。
モハ100形101-112→デハ1400形1401-1412
クハ150形151-162→クハ1450形1451-1462

1940年(昭和15年)から4両編成運用開始。
1943年(昭和18年)電力節約で2両編成運用に戻る。

1945年(昭和20年)5月25日から26日にかけてアメリカ陸軍航空隊が実施した、
戦略爆撃によって井の頭線の車両基地であった永福町車庫が被災した際、
1409・1459と1410・1460の二編成は1500形と一緒に被災、それ以外の1400形は、
富士見ヶ丘駅と久我山駅の間に1945年(昭和20年)2月に完成した留置線に居たことで、
被災は免れ、戦後の復興輸送に貢献した。
空襲後、被災した二編成は1500形とともに可能な範囲で修理・復旧工事を実施、
幸い被災程度が軽く、台枠に影響が無いことから早期に復旧した。
62名無し野電車区:2012/10/01(月) 14:37:16.46 ID:+c1EamKu0
1948年(昭和23年)6月1日の東京急行電鉄解体→京王帝都電鉄成立時でも、
形式変更は行われず、大東急時代そのままにされた。
大東急統合後は車体の塗装がダークグリーン1色へ変更され、
更に京王帝都電鉄成立後は順次ライトグリーン1色に再変更されている。

世相が安定し始めた1950年(昭和25年)渋谷-吉祥寺間で終日4両編成運転が開始、
デハの運転台を全室式に改造、運転台ひさしの撤去や前照灯の2灯化改造が行われ、
クハ1450形は全車とも運転台と乗務員扉を撤去して中間車化、乗務員室跡にシート設置、
連結面の引戸式貫通扉を撤去、貫通路に渡り板と幌を装備して、
サハ1300形1301-1312へ改番された。

1960年(昭和35年)動物園線の開業にともない、4編成が1372mm改軌されて転属、
1963年(昭和38年)井の頭線に3000系が投入されると残った2編成は余剰となり、
朝夕ラッシュ時の増発に運用される程度で、日中は富士見ヶ丘に留置されていた。
1964年(昭和39年)余剰となっていた4編成も1372mm改軌して京王線に転用、
1967年(昭和42年)高尾線開業にともない、3編成が運用に入ることで、
残りの2編成も1372mm改軌して転属、
1968年(昭和43年)京王全線ATS稼働開始に備えてデハにATS機器の搭載工事が実施、
動物園線に3編成、競馬場線に3編成と2つの支線で、廃車されるまで運用された。

1975年(昭和50年)1400形の廃車が始まり、デハ1401が保存の為にモハ101に復元、
1067mmに改軌され永福町駅前に運ばれ、駅前に静態保存されたが、
渋谷マークシティ開発計画が発表、井の頭線の渋谷駅がマークシティ内となることで、
井の頭線渋谷駅前のランドマークとして、デハ1401を展示する計画が実行、
1996年(平成6年)に永福町駅から井の頭線渋谷駅前に移動、
建設中のビル内に車輌を搬入、1998年(平成10年)から整備が行われ、
2000年4月7日のマークシティ開業から井の頭線渋谷駅前で公開されている。

デハ1402・1403・1407・1408・1411・1412とサハ1301・1302・1303が、
伊予鉄道へ譲渡、同社のモハ130形133-138、サハ511・512・513となり、
1990年(平成2年)に全車が廃車解体された。
63名無し野電車区:2012/10/01(月) 14:59:38.43 ID:ZJAL/rcV0
JR東日本E721系1000番台

青い森鉄道は、筒井新駅の開業を機に
JRのE721系をベースにした青い森721系を導入したが、
青森県は地理的に北海道に近く、仙台と同様の耐寒対策では
不十分とされた。
そのため、より耐寒性を高めたほか、旅客サービスとして
転換クロスシートを導入した。

このノウハウを本家のJR東日本もフィードバックの上、
内陸を走り、より高い耐寒性が望ましい
磐越西線及び仙山線にも1000番台として導入した。
線区特有のラッピングが施されているのが外観上最大の特徴だが、
予備車は用意していないため、検査時は同系一般車で代行する。
(検査は極力冬季を避けて実施し、冬季に1000番台がフル稼働できる体制が組まれている)
64名無し野電車区:2012/10/01(月) 15:02:42.75 ID:ZJAL/rcV0
JR東日本 クモヤ241・240

近年、新系列の台頭によって、牽引車が以前ほど必要でなくなった
(新系列は編成ごとで管理する上、検査ペースも少なくなった)ことから、
クモヤ143・145が淘汰された。
しかしながら、一方で旅客会社は機関車の扱いを縮小する方針のため、
小規模の甲種・配給輸送などを極力電車免許でこなすべき
必要性もあることから、以前ほど頻度は高くないものの
牽引車を最小限用意する必要から、元横浜線の205系から改造されたものである。
鋼体は基本的に205系をそのまま使用しているが、中央部に
鋼体をくりぬいて幅広ドアをはめ込んである。
また、事業用としての使い勝手から、貫通ドアが必要なため
元の鋼体を生かした先頭車改造が行われているが、
室内の仕切りはワンマン車並みに簡易なものとなっている。
ブレーキシステムは、新旧各系列協調可能なほか、
保安装置も、JRと直通を行う他社各線区のものを併設している。
また、種者のユニット方式のまま2M0Tで改造されたため、単独走行時は無駄が発生することから、
一部のモーターをカットして走る機能も搭載している。
65名無し野電車区:2012/10/01(月) 16:16:14.88 ID:3hmhdh+w0
JR東日本E131系電車

E721系をベースに直流専用とした車両。
新潟・長野地区の115系置き換え用として新製された。
車体及び車内設備はE721系と同じく正面貫通式・3扉・セミクロス仕様で、
クモハE131-クハE130の2両編成で組成され、ワンマン設備も搭載されている。
クハE130には身障者対応便所も設置された。
2007年から上沼垂と長野に115系の置き換え用として投入され、
信越本線長野−新潟、羽越本線新津−村上、上越線、白新線、越後線、弥彦線、
篠ノ井線松本−篠ノ井で運用されている。
この車両の登場により新潟地区から115系は一掃され、115系1000番台のうち
経年の比較的新しい車両は長野と豊田に転出して115系300番台を淘汰している。
66名無し野電車区:2012/10/01(月) 21:33:46.34 ID:UpwYesro0
●JR東海 キハ25形200番台
JR東海がキハ40形気動車の置き換えのために製造された、キハ25形の両運転台タイプ。
外見的にも機能的にも、キハ25形を両運転台にしたもの。
この形式と、キハ25形0番台・キハ25形100番台の大増備により、JR東海の国鉄型気動車は全て駆逐された。

●ウインディトレイン(キハ11形)
キハ25形の増備に伴い、キハ11形0番台に僅かな余剰が発生した。
これを利用して、キハ11形の1両をトロッコ列車に改造する事になった。
前面・デッキ部分を除く窓ガラス、座席、空調装置が全て取り払われ、
転落防止柵・防水カーテン、デッキ仕切り、窓向きのベンチが設置された。
そして足回りと制御装置は、キハ25形との併結を果たすために、キハ25形相当のものに換装された。
その結果、紀勢線・参宮線でのデビュー時には、海風を感じようと気軽に乗った観光客の度肝を抜く、
激しい走行を魅せたという。
しかしそれは、ほんの序章に過ぎなかった。

●キハ11形1000番台・1100番台・1300番台
ウインディトレイン誕生からしばらくして、JR東海は、キハ11形の機関換装を発表した。
それはまさに、「キハ25形との併結を果たす」という名目でウインディトレインで実施された改造のそれであった。
元々軽快気動車として作られた車体にキハ25形で採用されたエンジンを搭載したら一体どうなるか、
その結果は、ウインディトレインの実績からも明らかだった。
かくしてキハ11形は、キハ25形と混ざって、今日もJR東海の非電化路線を
その車体に見合わぬ爆音を轟かせながら爆走するのであった。
67名無し野電車区:2012/10/01(月) 23:01:40.55 ID:zyBbTv6b0
サハ205-500・600番台
JR東日本でモハ205・204を電装解除した車両。
500番台がモハ205から、600番台がモハ204からの改造。
台車はDT50からモーターを取っただけのDT50Tであるが、TR235とは異なり踏面ブレーキしかないのでブレーキ力確保のためブレーキてこ比を調整している(しかしフラットが多く現場では不評らしい)。
68名無し野電車区:2012/10/02(火) 10:35:57.19 ID:GG6AW0k/P
オクテ40
69名無し野電車区:2012/10/02(火) 16:02:32.69 ID:C48awprx0
クモハ110形(M'c)
111系の短編成用、伊東線のローカル用として1962年(昭和37年)に登場した制御電動車。
クハ111形と同じ車体にパンタグラフと空気圧縮機 (CP) を搭載、
3位側隅に在ったトイレを撤去、モハ111形とユニットを組む電動車で、
台車はモハ111形と同じDT21B、前面は高運転台タイプ、前照灯は大型タイプ、
全車偶数向きで、編成は伊東向きにクモハ-モハ-クハで湘南色。

1962年(昭和37年)から1963年(昭和38年)までに8両を製造、
全車がモハ111形とクハ111形の3両編成を組み、伊東線ローカルで運用、
1974年(昭和49年)以降は全車が赤穂線の播州赤穂駅-東岡山駅間で、
80系とともに運用、後に紀勢本線で運用され、1988年(昭和63年)全車に、
集約分散形AU101形を用いた冷房化改造を実施後、本四備讃線で運用、
1999年(平成11年)から2001年(平成13年)までに全車が廃車解体された。


クモハモハ112形0番代(M'c)
モハ113形またはクモハ113形とユニットを組む制御電動車で、
こちらは新規製造車のみ、パンタグラフ、MGおよび空気圧縮器 (CP) を搭載する。
1974年(昭和49年)から地方ローカル線の短編成用に新造され、
客用扉の半自動(手動で開閉)対応化、前面タイフォンへのシャッター設置など、
寒冷地対策を施し、冷房装置は搭載されなかった。

1974年(昭和49年)から1978年(昭和53年)までに32両を製造。
1990年(平成2年)から集約分散形WAU102形を用いた冷房化改造を実施された。
2009年(平成21年)から初期車輌から廃車が始まった。
70名無し野電車区:2012/10/02(火) 21:35:17.65 ID:cvUf4DLb0
DF200形1000番台

JR貨物は、北海道地区の貨物列車の輸送量増大や高速化に対し、DD51形の重連運転や
大規模な機器更新を実施して走行性能維持・向上に努めてきたが、過酷な運用や気候による老朽化が顕在化しており、
DD51形を置き換えるためDF200形電気式ディーゼル機関車を開発・投入した。
しかし、高性能ゆえに製造費がかさみ、経営基盤が貧弱なJR貨物にとって大きな負担となっていた。
そこで北海道内の幹線高速化事業を担っていた第3セクターの北海道高速鉄道開発鰍ェDF200を新製・所有し、
JR貨物にリースする方式が採られることとなり、1999年にDF200形1000番台として登場した。
システム的には同時期に製作されたDF200形50番台と同型であり、JR貨物所有機と共通運用されている。
71名無し野電車区:2012/10/03(水) 17:21:35.18 ID:RRiaOKjyO
JR貨物DD110形電気式ディーゼル機関車
DF200形では過剰な本州のDD51及びDE10を取り替えるために開発された
DF200形の短小型である。
軸配置はB1B配置の発電エンジン1基のみの電気式で、車体はDH200形の短小型
であるため、一部の中にはDD54形の再来とも言われた。
1両でDD51形並みの牽引力と軸重可変式の1軸台車があるために軸重も可変可能
で、DE10形の置き換えにも兼ねていた。
コスト面ではDH200形より安価であったことから平成11年に901号機が愛知に配置
されて試験の上で翌年より17年までに34両が作られている。
配置は愛知が16 佐倉が8(後に一部除き愛知に移動)秋田が5 東新潟が5である。
これとは別にJR東日本が平成14年に300番台10両が高崎など自社用に作られている。
高崎の2両にはお召し装備が施されており、DD51-842の取り替えとして、
2両長岡に配置されたのはDD14ら除雪用機関車の後押し支援用とみられる。
またDE15形のラッセルヘッドを装置して除雪用にも出来る400番台も2両作られている。
72anorak?:2012/10/04(木) 23:07:40.52 ID:aHu6FtK60
>>8 >>23に続く平行世界もの
◎国鉄167系1000番台電車
1977年
○1978年の紀勢本線部分電化向けの急行形電車捻出を目的に房総地区に東京駅総武横須賀線地下ホームを含む
総武トンネルと東京トンネル(錦糸町〜東京〜品川)が走行可能な167系1000番台が新造された。
走行システムは165系を踏襲するが、優等料金を徴収する列車種を特急に統一するという国鉄の長期経営戦略に基づき、
車両の想定寿命中、急行使用は短期で、急行運用消滅後に普通車は普通列車用に格下げ且つグリーン車は特急形編入の
前提で以下の通りに設計された。
車種は、クハ/クモハ/サロ167-1000(Tc/Mc/Ts)、モハ166-1000(M')。
Tsは特急形への編入前提故に車体はTs183そのもの。
Tc、M'、Mcの意匠は、417系やキハ47に類似した両開き扉を車体中央寄りに二カ所設置、集中型冷房装置、空気バネ台車、
Tcの運転台後部にATC搭載用の機器室、内装は、後年の373系の様に乗降扉デッキとの仕切壁はあるが仕切扉は無し、
全席固定クロスシートでボックスのシートピッチは1600mmと急行形では最大、戸袋窓だけが二人掛けクロス、
便所はTcとTsに集約されTcの車端に大便所と男性用小便所と洗面所各々一つ設置。
全車A-A基準仕様で編成両端に連結されたTcにATCを搭載すれば総武・東京トンネルに乗り入れ可能なはず。
労働組合の新型車拒否対策として本車両に新形式は付与されず、
ベースの165系に対しドアが異質だからという事で無理矢理167系にされた。
本来の修学旅行用0番台との異質さは、鉄道で頭が一杯で規則性に異常に拘るアスペルガー等の発達障害者
いわゆる鉄道ヲタに忌み嫌われ、車掌等の現場職員に「何で167系なの!おかしい!これは171系のはず!」
云々と詰寄って業務妨害する者も出現。
77年に新宿/両国発着の房総急行として就役したが、結局ATCは搭載されず東京駅乗り入れは無く、残存165系と混結、
しかも急行としての活躍はわずか五年程に過ぎず、
82年のダイヤ改正で房総急行全廃・全部特急格上げに伴い、Tsは183系等に編入され、普通車はTcのATC用機器室を客室化
改造の上でよそへ転属。
86年の国鉄最後の全国ダイヤ改正で全車が北近畿地域に集結し、113系800番台と一緒に普通運用に就役。
87年に普通車がJR西日本に承継後、中国地方のローカル運用に現役。Tsは既に廃車。
73名無し野電車区:2012/10/05(金) 22:17:43.10 ID:a65sF3pU0
581・583系1000番台

昼夜兼用として製造された581・583系は座席使用時は4人掛けボックスシート、夜間は3段寝台となっており、
同時代の電車特急列車や客車寝台列車と比較すると客室設備の点で見劣りしつつあった。
また運用サイドにおいては座席と寝台の転換作業に多くの人手と時間を要することから改善が求められていた。
一方、山陽新幹線の延伸により夜行列車が削減され、581・583系に余剰が出始めていたため、
これらの車両を寝台列車専用として客室設備を改善し、電化区間の機関車けん引列車を置き換えることで
速達化と運用効率化を行うと同時に、寝台客車の新製を抑制することとした。
また各地のフリークエントサービス向上のため、当系列を近郊型電車に改造する案もあったが
改造内容が多くコストがかかりすぎるとして新型の一般形客車(後に50系と名付けられる)が製造されることとなった。

○各電動車、サハネ581形
B寝台車は寝台設備を24系25形と同様の側廊下・2段式に変更。
寒冷地で使用される車両は客用扉を引き戸タイプに変更。(全形式共通)

○クハネ581・583形
空気圧縮機をC3000形に換装、また、クハネ581形は電動発電機を210kVAタイプに換装。
寒冷地での隙間風対策として正面貫通扉を閉鎖した車両もある。

○サロネ581形
サハネ581形より改造。
オロネ24形と同様のプルマン式A寝台で、車端部に更衣室を備える。

○サロネ580形
サハネ581形より改造。
オロネ25形と同様のA寝台個室「シングルデラックス」を14室備える。

こうして改造された車両は元番号に+1000(寒冷地対策施行車は+1500)し、1000番台(同1500番台)として区分された。
走行システム的には大きな変更はなく、異常時や臨時列車などでは通常型と混成することも可能であった。
国鉄末期から民営化直後にかけてはさらなるサービス向上のため寝台設備の個室化、共用スペースの拡大が進められた。
特に民営化後は、本系列を所有していたJR東日本、西日本、九州の3社が
それぞれの線区・列車に合わせた改造を施したため、番台区分、改造内容などは多岐にわたる。
74名無し野電車区:2012/10/05(金) 22:19:42.36 ID:a65sF3pU0
クロネ581形(JR九州)
列車の短編成化に伴いクハネ581形より改造。編成の下り寄り先頭車。
従来の寝台設備を撤去し、1人用A寝台個室「シングルデラックス」8室、
2人用A寝台個室「ツインデラックス」2室及びA寝台利用者専用のシャワー設備を配置した。
また、トイレの洋式化、シャワー用大容量水タンクの設置などの改造も行われた。

クハ581形(JR九州)
クハネ581形より改造。編成の上り寄り先頭車。
夜行バスへの対抗策として、寝台設備をすべて撤去し、ゆったりした1人用座席を3列配置した。
指定席特急券のみで利用できる「レガートシート」として人気を博した。

サハ581形・580形(国鉄・JR東日本・九州)
サシ581形より改造。シャワー設備や自動販売機などを設け、
利用者が自由に使用できる「サロンカー」「ロビーカー」として使用された。

モハネ583・582形2000・2500番台(JR西日本)
「日本海」・「北陸」向けに1人用B寝台個室「ソロ」を配置。
運用効率化のため主変圧器を交換し、モハネ581・580形から編入された車両も存在する。

クハネ581形2000番台(JR西日本)
「日本海」の函館乗り入れが決まったことから青函ATCを搭載。

サハネ581形2500番台(JR西日本)
「北陸」向けに、「ソロ」を配置。
走行時間が短く、高速バスとの競合が激しい同列車の現状を鑑み、
車体前位寄りにシャワー設備、サロンを設け、サービスのさらなる向上が図られている。
なお「北陸」編成は個室寝台車の割合が多いことで有名であった。
75名無し野電車区:2012/10/06(土) 10:34:51.65 ID:gHiuBKSg0
大分交通別大線600型ワンマン車(601-604)
1960年(昭和35年)から1961年(昭和36年)にかけて4輌が東洋工機で製造、
窓配置1D4D4D1の3扉2軸ボギー車で、3枚前面窓の中央部窓が横方向に広くなり、
前面窓上に拡大、大型化された行先方向幕を設置、外観上500形に比べて、
重厚で貫禄があり、大分交通の車輌でも美しい車両で人気があった。

12,920×3,894×2,300mm、自重17.2t、定員90(座席38)名、
座席は全車ロングシート、室内灯は蛍光灯となっている。

主電動機は路面電車用規格形SS-60A、制御装置は東洋電機製造ES-250A、
集電装置は菱型パンタグラフ装備、台車は東洋工機製のTK202を履いていた。

1960年(昭和35年)601号・602号車就航。
1961年(昭和36年)603号・604号車就航。

1972年(昭和47年)4月5日 全線廃止とともに広島電鉄に譲渡され、
1067mmから1435mmに対応するため台車変更、扉スイッチの変更などが行われ、
広島電鉄850形(851-854)で白島線の運行に就いたが、
1984年(昭和59年)に4両とも廃車解体となっている。
76名無し野電車区:2012/10/06(土) 15:20:27.11 ID:0URP2WKN0
国鉄115系850番台

1975年にモハ72系の電機品を流用して造られた身延線用のモハ62形・クハ66形を
1985年に新性能化した車両。
新性能化にあたっては主電動機・主制御器を181系からの廃車発生品に交換し、
台車については電動車・制御車ともに101系のものを流用している。
ブレーキは自動空気式から電磁直通式に取り替えられ、勾配抑速発電ブレーキも取り付けられた。
空気圧縮機についても旧型車のものから101系の流用品(C-1000)2台搭載に改められ、
モハ62形の奇数番号車はモハ115形850番台になりパンタグラフは撤去された。
モハ62形の偶数番号車についてはモハ114形850番台となり、クハ66形はクハ115形850番台となった。
新性能化後は横須賀色から身延色(赤に白帯)に変更されて引き続き身延線で活躍し、
JR東海発足後の1988年から1989年にかけて、冷房改造が行われることとなったが、
国鉄時代の集中式ではなく、インバーター式の集約分散式クーラーを2台搭載する方式となった。
同時に塗装も湘南色に変更され、車番もインバーター搭載車のため5850番台に再度改番された。
JRになってからは身延線に加えて東海道本線の三島−浜松や御殿場線でも運用されるようになったが、
2000年の313系3000番台の投入により115系5850番台は真っ先に置き換えの対象となって廃車された。
77名無し野電車区:2012/10/06(土) 22:01:43.73 ID:QFYpkyiN0
JR九州819系

JR九州が投入した蓄電池併用交流近郊型電車。
817系を改造した試験車で得られたデータをもとに開発された。
編成はクモハ819形(Mc)+クハ818形(Tc)の2両編成。クハ818の床下にリチウムイオン電池が搭載されている。
電化区間での走行性能は817系に揃えられており、811系・813系・815系・817系と相互に連結して使用できる。
車内は817系2000・3000番台と共通のオールロングシート仕様となっている。また、運賃箱や整理券発行機などは準備工事のみ。
1次車(0番台)が若松線、香椎線に投入され、キハ31形・キハ40系を置き換えている。
今後は中間電動車(モハ819形)・付随車(サハ818形)を含む4両編成を関門区間に投入し415系を置き換える予定。
78名無し野電車区:2012/10/07(日) 14:32:21.81 ID:7WppDtRp0
JR東日本253系500番台

スカイアクセス線開通に対し、JRではその対応策について
思い切って新車を導入するか、はたまた対都心高速輸送でかなわないことから
253系のリニューアルで済ませてニッチ輸送に特化するかもめていた。
その結果、前者で決定しE259系導入の運びとなったが、
一方でもめにもめた結果、E259系置き換えはスカイアクセス線開通後までもつれ込み、
253系はひとまず解体保留として管内各地に留置された。
そんな折、東日本大震災が発生し、JR東日本としても、
保険はきいたものの、例外なく経営的な損失は小さくなかった。
E259系は、一旦中断しながらも最終的に導入されることとなったが、
253系は、その性能を生かして、ダイヤ上ネックとなっていた185系の近距離特急置き換えに充当されることとなった。
(185系は波動用、もしくは妙高・くびきの置き換えに転用され、183・189系を淘汰している)
ただし、253系自体その過酷な運用から老朽化が進んでいたため、転用は最小限で行われることとなった。
転用対象は、増結時に新造された中間M車と、走行累計の比較的少ない付属編成中心となった。
(これ以外の車両は、3連2本が長野電鉄に譲渡されたほかは、部品取り用として解体された。
なお、200番台6連2本は、VVVF化を含めた大幅な改造がなされ、東武直通用に充当された)

クハ252-モハ252-モハ253-モハ252-モハ253-クロ253 6本
クモハ252-モハ253-サハ253-クハ253 9本

クハ252はクモハ252の電装解除、クハ253はクロハ253の全室普通車化でそれぞれまかなわれたが、
客室は、上記を除き荷物置き場を撤去して更地にしたほかはほぼそのままである。
そのため、従来のリクライニングシートよりも見劣りがすることから
通勤ライナーに格下げも検討されたが、18きっぷ利用客などの流入を抑えたいことから、
格安規格きっぷ発売を前提に特急のままとなった。
79名無し野電車区:2012/10/07(日) 21:32:34.52 ID:jx1fSms+0
阪神電鉄6000系

ジェットカー(5001形・5131形・5331形)置き換え用に製造された車両。
1000系のジェットカーバージョン。

6250(Tc)-6150(M2)+6100(M1)-6000(Mc) 梅田→
(+は切り離し可能で、6150の梅田側と6100の高速神戸側には簡易運転台が装備されている)

6000系投入により、5001形・5131形・5331形は全車廃車され、ジェットカー全車VVVF化を完了した。
80名無し野電車区:2012/10/08(月) 00:21:37.10 ID:nr9NLHhwO
国鉄 クハ73 モハ76形
身延線用に72系をベースに作られたクハ62 モハ66形の大糸線型。
72系をベースにしたものとは違い、こちらは70系のモハ70 クハ76どころか
クモハ51やクハ68まで含まれている。これを115系に準じた車体にしたものである。
クハ-モハ-クハの3両編成で塗装は旧国当時と同じ青色から後に湘南色に変更された。
当初大糸線のみの予定だったが、後に全て70系を基本とした編成が新潟で作られて
これらは赤と黄色の新潟色(後に湘南色)で信越線や上越線などで使われた。
115系の量産により廃車されたが、一部は165系の発生品から新性能化されて
115系870番台に改造されている。
なお新潟地区には76形ではなく、修学旅行用の155系 159系を近郊用にした
改造車も計画されたが、作られずに終わっている。
81名無し野電車区:2012/10/09(火) 20:08:42.82 ID:cVKO6Z0m0
クモハ200-0番台
JR東日本で201系を鶴見線に転用するべく先頭車化改造したもの。
クハと同一の運転台を取り付けた。
ATS-P搭載スペース確保のためMGをクハに移設している。
82名無し野電車区:2012/10/09(火) 20:28:31.71 ID:5ULPHXjK0
HB-E300形200番台

快速「リゾートビューふるさと」、「ナイトビュー姨捨」の利用が好調であることから投入された中間車。
客席は半個室となっているほか、トイレ、車内販売準備室を備える。
83名無し野電車区:2012/10/10(水) 22:54:18.65 ID:3OLdnVnZ0
321系900番台
JR西日本が開発した321系のPMSM試験車。
主電動機がPMSMに変更された。
84名無し野電車区:2012/10/11(木) 20:53:55.41 ID:w02heyx10
国鉄 D53形貨物用蒸気機関車

昭和25年、戦時型D52を改修する際に、牽引力増強のために3シリンダー式に改造された蒸気機関車

当初のもくろみ通り、貨物列車の牽引定数を上げることができたが、昭和30年には「もはや戦後ではない」と
経済白書が宣言し、国鉄も本格的に無煙化に着手しだすと徐々にその活動範囲は限定され、更に構造が複雑で
あったことから現場保守で嫌われ、昭和42年には全車廃車となった。

D53のトップナンバーが青梅鉄道公園で朽ち果てた姿で展示されているのは、この板の住人には周知のことであろう。
85名無し野電車区:2012/10/13(土) 15:36:29.10 ID:X7/FNpUCO
国鉄C13形タンク蒸気機関車
亜幹線及び首都圏の近郊用として開発されてC58形をタンク化したもので
昭和17年から22年までに51両が作られている。使い勝手のいいC58形がベースのために
首都圏のみならず亜幹線の普通や貨物列車用としても使われて原型のC58形をも
駆逐してしまった路線まであった。
主に房総各線や川越線や八高線などで貨客用に使われた他、東北や名古屋地区
などでも使われた。
バック運転を考慮しない設計だったが、後に入換用に改装されたものには
バック運転を考慮して石炭庫にC11形のようにした車もある。
昭和49年に二俣線で使用していた2号機が引退し、その後は新所原駅から後に
天竜二俣駅に保存され、二俣線が第三セクターの天竜浜名湖鉄道になってからも
走行可能な状態を維持して保存されていた。
2006年に天竜浜名湖鉄道は本格的に動態復元を目指すと発表し、準備が進められたが、
折しも天竜川下りの事故で計画が頓挫してしまった。
しかし動態復元への思いは天竜浜名湖鉄道から大井川鐵道へと移り、大鐵は
本格的に動態復元化に着手。
初めてのC58系機関車であったもののC58系の動態運転を手掛ける秩父鉄道から
技術要員が支援に派遣されるなど動態復元は順調に進み、2011年に復元工事を
完了し、4月29日に運転を開始した。
これまで客車5両以上の場合に補助機関車が必要だったが、C58形ベースの
この機関車は7両以上でも必要ないため、最大10両編成のド派手な
川根路号を牽引した武勇伝もある。
86anorak?:2012/10/14(日) 12:53:51.81 ID:uFMtZv1v0
>>72に続く平行世界もの
◎国鉄711系2000番台電車
1978年
○1976年に長崎本線と佐世保線が交流電化されたが、旅客列車は特急以外気動車いわゆる架線下DCが顕著。
国鉄の財政悪化の影響で高価な交直流用電車の新造自体が、特急料金で償還出来る特急専用車以外は見送られたが、
会計検査院に電化の必要性を問われ、そこで交直流よりも安い交流電車で普通から急行の汎用運用可能なのを新造投入。
それは、優等料金徴収列車体系にて急行廃止・特急統合という国鉄の長期経営戦略に基づき、
車両の想定寿命中に急行運用消滅後を見据えて急行形は新造せず、後述の近郊形711系の新派生番台となった。
車種はクモハ/サハ/クハ/サロ711-2000(Mc/T/Tc/Ts)の四種。
Tsは将来の特急形への編入前提故にTs481そのもの。
車両製造と誘導障害対策の費用の抑制や新型車不信の労働組合対策により枯れた技術を採用する事となり、
0番台と異なり、サイリスタ位相制御ではなく、0系新幹線やED76と同様の低圧タップ制御とし、
1M2Tを基本ユニットとし高価な電動車の比率を下げたので、最高速度はキハ58等のDC並に割り切って
歯車比を103系等の通勤形と同じにして加速度を上げた。60Hzのみ対応。
冬期の排雪抵抗上編成中央に中間電動車を置いた0番台と異なり、編成短縮に備えクモハを用意。
TcとTsのみにトイレと洗面所を設置し且つ空気バネ台車とし、他の車種はコイルバネ。全車冷房搭載。
車両の意匠は0番台を暖地向けにしたものでユニット窓と集中式冷房装置が大きな違いで、接客設備も0番台に準じた
固定クロスシート主体で車端の乗降デッキ寄りにロングと、同時期のキハ48や50系客車とも共通項がある。
0番台とは異質過ぎるので新形式を付与すべきだが、労働組合対策で711系にされ暖地向けだから115系に倣い2000番台に。
落成後、博多と長崎・佐世保を結ぶ急行出島・弓張の一部に就役し、普通運用にも。
結局、増備されることはなく、架線下急行・普通DCは残存。
711-2000使用の急行は鉄道愛好者の一部から遜色急行と叩かれた。
82年急行の特急への吸収統合に伴い急行運用は終了し、Tsは485系に編入され、他普通列車専用に。
87年にJR九州承継後、性能上高速列車高密度路線での運用には不適切で閑散路線で専ら使用され、
後年二両編成化でTは廃車。
87名無し野電車区:2012/10/14(日) 17:34:34.46 ID:un2/9po70
西日本旅客鉄道289系
特急『くろしお』に運用されていた287系だが振り子機能が搭載されないために
速度低下と所要時間が延びるなどの問題があった。
そこで『くろしお』のみならず伯備線『やくも』において使用されている381系の全車置き換えを進める目的で
283系『オーシャンアロー』以来の振り子式特急型電車として開発された、これが289系電車である。
製造担当メーカーは近車、川重、日立である。
車体は振り子式となるため283系を基調としたものとなるが素材はアルミ製である。
先頭車は287系と同じく全車貫通型となる。
走行機器は287・321・225系を基調としながらも基本編成は一両4つモーターに戻り、
6両
Mc-M-T-T-M-Tsc(基本編成0番台)

3両
Mc-M(この車両のみ2個モーター)-Tc(付属編成は100番台)
付随車や制御車においても将来電装化が容易なような構造になっている。


最高速度は130km/hである。

現在、日根野電車区と岡山電車区に配置され381系全車の置き換えと
『くろしお』に使用されている287系の福知山電車区に転出により381系と183系の置き換えを行なう。
なお283系は引き続きリニューアルを行い『くろしお』に使われる。
88名無し野電車区:2012/10/14(日) 22:04:53.56 ID:T4szWxbzO
JR西日本283系5000番台
大阪発着の「しなの」に関してはJR東海の383系で運転を行って来たが、頻繁な
編成変えなどで大阪行きの列車に長編成が廻せない実状があった。
そこで大阪発着の「しなの」を西日本でも車両運用を担当させることにした。
当初西日本ははくたか用の683系6連を使う計画だったが、東海は383系と
同一の振り子式特急車両を求めたため、必然的にオーシャンアロー同様の
283系を導入せざるを得なくなり、しなの用は5000番台と区分けされた。
長野方先頭にクロ283を先頭とした6両で、オーシャンアローとほぼ同じ組み方となっている。
これにより大阪発着の「しなの」が西日本車両に変更された。
大阪〜長野間の停車駅も見直され、新大阪 京都 米原 岐阜 名古屋 千種
中津川 塩尻 松本 篠ノ井となり、木曽福島など木曽地方の停車駅はほぼなくなった。
6両編成4本が京都総合に配置されたが、検査時はしらさぎまたははくたか用の
683系が代走する。またはオーシャンアローの車が代走する場合もある。
なお「やくも」と「くろしお」用の381系が京都総合に廻されて来た説も噂されている。
89名無し野電車区:2012/10/14(日) 23:19:37.20 ID:rw8JORkZ0
国鉄→JR105系8900番台
国鉄が1980年代に2両一本だけ導入した105系なのだが何かが変なのである。
窓配置は103系などと同じ20m4扉配置なのだが何故か鋼製ではなくオールステンレス製コルゲート車体となっている。
前面は貫通型で高運転台なのと貫通路の上に方向幕があるのは同じだが貫通路の窓は小型になっている。
最大の注目は台車が他の105系と違いS形ミンデン式空気バネFS396・096を履いており
制御方式も抵抗制御1C4Mであることは変わりないが日立製VMCバーニア制御器となっていて
主電動機はMT55系列ではなくなぜか東洋電機製TDK-845-Bになっている。
ローカル線用としておくのは勿体無いくらい高性能である。

各種試験を行った後、日根野→神領→奈良→明石→広島→新前橋→中原→宮原などを転々とし
JR西日本に継承され現在日根野電車区和歌山派出所所属となり主に紀勢線ローカルに使用されている。


どうやら1980年頃、兵庫県の某関西私鉄系メーカーが
某関東私鉄に納入する筈だったのが注文流れになった試作ステンレス鋼体を
国鉄が次期新型通勤電車にステンレス車を導入するためのデータ取りの目的で
譲り受け鷹取工場で竣工したものであるらしい。

また鋼体を製作したメーカー関係者が漏らした言葉
「注文流れになっていて潰すのも勿体無くて始末に困っていたんだけど
まさかウチと取引のない国鉄さんが譲り受けてくれるとはねぇ・・・・・」

コイツの正体はまさかっ・・・・?!



90名無し野電車区:2012/10/15(月) 01:26:49.95 ID:RhZN48U50
大阪市電”札束電車”
造幣局や日銀支店横を走る大阪市電に日銀が注目して運転された現金輸送電車である。

本車両や本運転についての詳細は長年不明であったが噂は戦後ある時期からあったようである。
「写真を撮ると捕まる」などが著名な都市伝説である。
なおこの都市伝説は子供だけではなく大人の間でもあり、「上司に話すと次の日からいなくなる」「見ると運転席から警官が銃撃してきた」など地域によりバリエーションがあった。
よくある幽霊電車談等とも混合して広まったようであり、「M資金」「3億円事件」などに絡んだものも発生した。
市電全廃後は当然目撃談も無くなったはずだが、「バスになった」「地下鉄になった」など尾びれがついていったようだ。
「漫才ブームのおり、某関西芸人がネタにしたら消された」「某アナウンサーがうっかりしゃべって飛ばされた」と言われるようにもなった。
在阪テレビ局の某調査番組や某生活情報番組でもたびたび取り上げられたのだが、資料が一切無く、調査の進展はなかった。
ところが2013年交通局の書類整理に伴い資料が発見され、詳細の一部が明らかになった。
資料によると以下の通り(次スレ以降に続く)。
91名無し野電車区:2012/10/15(月) 01:33:40.08 ID:RhZN48U50
車両型式は20形となっており、車番は21号、22号、23号とされている。
21号は都島車庫所属、,22号は春日出車庫所属、23号は天王寺車庫所属となっている。
1949年製造。図面の日付は5月20日とあり、竣工に関する書類には9月26日とあるのでこの4ヶ月間にどこかで製造されたと思われる。
メーカーの記載はないが同時期の書類との比較や図面の文字などから近畿車輛と推察される。
製造費は日銀と大蔵省から出ており、運転費用も支払ったようである。
戦災で廃車となっていた1601形の台枠と台車、制御器を使用し、モーターは60馬力モーター2機を搭載、車体は1801型に準じたデザインで側面にはドアを含め窓のないレイアウトである。
中央のドアが現金の搬入用に1mサイズ2枚と大型化されている。
車内は運転室と荷物室内との間に壁と防弾ガラス窓のドアがある。
警備員添乗室があるが国鉄マニ30と異なり座席とテーブルのみでトイレはなく、窓もない。
屋根に通風器が通常の倍設けられ、また添乗室内に扇風機や電気ヒーターが設置されるなど窓がない分換気・室温管理には配慮していたと推測される。
色は茶色一色で目立たないようになっていたが1960年の日付が入った塗装変更案の図面が製造時図面と別にあり、当時の目撃談が同時期を境に「茶色」から「茶色とクリーム」と変化していることからも他の車両に似た2色塗装へと変更されたと推測される。

運行経路は正式な運転系統が設定されていたわけではないが、運行表が発見されており、造幣局横の桜の宮橋電停や日銀支店のある淀屋橋電停を中心に日本全国との輸送を行うため国鉄荷物扱駅に近い大阪駅前電停や湊町駅前発着の運転があった。
早朝・深夜の運転が多かった模様で、よくある幽霊電車目撃談の一因と思われる。
廃車は23号が1967年1月、残る2両は1969年3月となっている。
解体に際しては車庫内で秘密裏に行われたと思われ、解体業者との秘密を厳守する旨の覚書も発見されている。
交通局と労組との書類もあり、「乗務する運転士・車掌に特別手当」「家族も含め口外一切不可」「万一の殉職時には別途見舞金」などの交渉内容が記載されている。
92名無し野電車区:2012/10/15(月) 10:20:31.91 ID:XSzgUpcz0
D13形式 タンク機関車
戦時中に資材削減のために製造された、D51形のタンク機関車バージョン。
テンダを廃することで資材を節減し、また、貨車改造のテンダを連結することで長距離運転も可能という触れ込みだったが、
結局、テンダを付けたまま運用される事が多く、タンク機関車にした意味が全く無かった。
戦後、テンダが新造され、また他のD51形戦時型と同種の改造を受けて、D51形に編入された。
93名無し野電車区:2012/10/17(水) 23:01:50.01 ID:mo3AHEdo0
JR東日本E129系

クモヤE995形「NE Train スマート電池くん」で得られたデータをもとに製造された一般型蓄電池駆動電車。
烏山線で使用されるキハ40形を置き換えるべく投入された。

車体構造はキハE120形とほぼ共通のステンレス製拡幅車体であるが、
オールロングシートの座席配置となっているほか、走行距離が短いことからトイレは設けられていない。
蓄電池の性能向上により主要機器は全て床下に収められている。
当車両の投入に先立ち烏山線全駅に簡易Suica改札機が設置され、Suicaの利用が可能となった。

今後は八高線への投入が検討されているほか、えちごトキめき鉄道が導入に前向きな姿勢を示している。
94 【東電 65.0 %】 :2012/10/19(金) 00:25:08.55 ID:aWFzMaV6O
キハE210系:
>>91のクモヤE995系改造前にキヤE991系の燃料電池車両の量産で、八高北線に導入。
先行試作車のキハE210-901/キハE211-901+キハE212-901を高崎車両センターに投入。
数年後に量産車キハE210-1〜/キハE211-1+キハE212-1〜を増備して、キハ110系を東北に転属。

キハ110系1100番台/1200番台:
キハ110系をキハE120/130同様のクリーンディーゼルにエンジン載せ替えしたもの。
1100番台(プラグドア)は、キハE200ハイブリッド車量産車投入に伴う元小海線車両を改造。
1200番台(引き戸)はキハE210燃料電池車量産車投入に伴う元八高北線車両を改造。
共に原番台+1000。
9594:2012/10/19(金) 01:24:45.00 ID:aWFzMaV6O
>>91じゃなくて>>93だった…。。。
96名無し野電車区:2012/10/20(土) 08:30:57.90 ID:CGM02vif0
国鉄11系電車0番代
1925年(大正14年)から1928年(昭和3年)にかけて日本国有鉄道の前身である、
鉄道省が製造した車体長17m級3扉ロングシートの旧形電車を便宜的に総称したもので、
製造当時はデハ73200形、サロ73100形、サハ73500形、クハ73600形と称し、
1928年(昭和3年)10月に施行された車両形式称号規程改正でモハ10形になり、
1930年(昭和5年)の車両形式称号規程改正で車体長17m級電車の3扉は、
形式10-19内に設定、モハ11形、サロ15形、クハ16形、サハ17形に統合され、
出生によって番代による区分が設けられ、他系列の車両と区別された。
1936年(昭和11年)の車両形式称号規程改正で、クモハ11形に改められ、
1937年(昭和12年)にモハ10形、クハニ16形の形式が誕生した。

具体的にはモハ11形(001-198)、モハ13形(001-026)、サロ15形(001-008)、
クハ16形(001-084)、クハニ16形(001-004)、サハ17形(001-048)の6形式368両を指す。
97名無し野電車区:2012/10/20(土) 08:35:20.80 ID:CGM02vif0
モハ11形(11001-11198)
1925年(大正14年)から1928年(昭和3年)に鉄道省が製造した初の鋼製電車である。
本系列の基幹となる制御電動車で、1928年(昭和3年)までの4年間に198両が製造された。
落成時の形式はデハ73200形で、1928年(昭和3年)の改正でモハ10形、
1930年(昭和5年)二回の改正でモハ11形0番代となった。
前面を平妻の非貫通としたことから運転台の機器配置が余裕が有り、
側面窓配置はd1D22D22D2、屋根の構造のみ、従来の木造二重屋根だが、
ドアエンジンが全面的に採用された。パンタグラフは運転室側の屋根に搭載、
主電動機はMT15形、制御器は電磁空気カム軸式のCS5形、
台車はDT11、奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向きである。

モハ13形(13001-13026)
1932年(昭和7年)度末から1933年(昭和8年)にかけて、東京地区で使用された、
モハ11形の付属編成として13001-13026が製造され、両前面は平妻の非貫通、
窓配置はd1D22D22D1dで、全車パンタグラフは上り向き運転室側に設置されている。

サロ15形(15001-15008)
二等付随車サロ73100形で、1926年(大正15年)度に4両を製造、
および1928年(昭和3年)度に4両の計8両が京浜線用に製造された。
車端部と戸袋部がロングシートである以外は、ボックスシートとなっており、
天井には他に例のない優雅な装飾が施されていた。窓配置は2D22222D2で台車はTR21。
98名無し野電車区:2012/10/20(土) 08:42:04.46 ID:CGM02vif0
クハ16形(16001-16020)
1925年(大正14年)から1928年(昭和3年)にかけて鉄道省初の制御付随車で、
落成時の形式はクハ73600形、1926年(大正15年)から1927年(昭和2年)の、
2年間に20両を製造、1928年(昭和3年)の改正でクハ16形となり、
1930年(昭和5年)の改正でクハ16形0番代になった。側面窓配置はd1D22D22D2である。
奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向きである。

クハ16形(16017-16084)
1925年(大正14年)から1928年(昭和3年)にかけて鉄道省で製造された、
クモハ11形を1947年(昭和22年)に59両、電装解除、制御車化した。
奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向きである。
後年もパンタ台は残されたままだった。

サハ17形(17001-17048)
三等付随車で、1925年(大正14年)度から1927年(昭和2年)度までの3年間に、
計48両が製造、1928年(昭和3年)改番以前の形式はサハ73500形と称した。
形態的にはデハ73200形から運転台を廃した構造で、窓配置は2D22D22D2、
台車はTR23を採用した。

1936年(昭和11年)の車両形式称号規程改正で中間電動車がモハ、
制御電動車はクモハに改称、モハ11形もクモハ11形に改称される。
99名無し野電車区:2012/10/20(土) 08:45:04.46 ID:CGM02vif0
モハ11形の中間電動車改造
1936年(昭和11年)3月31日に鉄道省初の中間電動車モハ50形が誕生、
同年7月5日には40系にも中間電動車が製造されたことで、
鉄道省は各路線の長編成化、存続車輌も50系や40系に倣った中間電動車改造を計画、
翌年から東京圏の京浜線と山手線、中央線の長編成化用に間に合わすため、
クモハ11形30両を中間電動車に改造、同時に全車の更新修繕工事も実施され、
二重屋根から鋼製の丸屋根化され、妻面は丸屋根に合わせた切妻型とされ、
連結面妻部に窓は設置されていなかったが、夏季の換気対策として、
貫通路の両側に開閉可能な窓を設置する改造が大井工場、大宮工場で行なわれた。
改造後は一旦クモハ11形に編入されたが、すぐに本形式モハ10形0番代になっている。
奇数向き15両、偶数向き15両が改造された。

特別修繕工事
1936年(昭和11年)から1939年(昭和14年)の4年間にかけて、
モハ10形の改造と同時に全車の更新修繕工事を実施、
二重屋根の丸屋根化と妻面の切妻工事で外観が大きく変貌した。
100名無し野電車区:2012/10/20(土) 08:47:43.21 ID:CGM02vif0
サロ15形の格下げ
1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発し戦時体制となったことから、
1938年(昭和13年)10月31日限りで、省電は関西急電と横須賀線を除いて、
二等車の連結が中止された。本系列に属するサロ15形は京浜線から中央線へ転属、
車内設備はそのままで三等車代用として使用されたが、1941年(昭和16年)には、
車体中央部に扉を増設し、3扉ロングシート化のうえサハ17形に編入された。
改造は同年12月から翌年12月にかけて大井工場で行なわれ、
番号順に17049-17056に改番された。

元が二等車であることから、オリジナルのサハ17形とは微妙に窓寸法が異なっており、
両端部のドアの戸袋の向きが、オリジナル車が車端側であるのに対し、
サロ35形格下げ車は中央側であるのが異なっていた。
特徴であった天井の装飾は、改造後もそのまま残されていた。

クハニ16形の制定
京浜線や山手線および中央線では、通常運行の電車で小荷物運搬が行われていたが、
毎年増加傾向のことから1937年(昭和12年)頃に運転台直後の客室を仕切って、
荷物室とした車両があったが、1939年(昭和14年)年4月、
これらをクハニ16形に改め、区別をした。これによって4両が本形式となった。
101 【東電 66.4 %】 :2012/10/20(土) 17:34:28.20 ID:RUeqDnakO
JR東日本E503系:
直流電化の仙石線と交流電化の東北本線直通用。ベースはE233系2000番台。
102名無し野電車区:2012/10/20(土) 19:49:40.42 ID:U3BE/doO0
いすみ鉄道 キハ30
JR東日本久留里線のキハ30をいすみ鉄道が1編成購入
塗装は国鉄色のまま
方向幕は交換される
車内は出来る限り国鉄時代に近づける
単行運用の他、JR西日本から購入したキハ28と連結することもある。

いすみ鉄道 キハ40
JR東日本の東北エリアのキハ40を2015年ごろに購入する
塗装は、東北色から国鉄色に塗り替えられる予定となっている
方向幕は取り換えられる
単行運用はもちろんキハ28や上記で述べたキハ30と連結した運用も可能になる
103名無し野電車区:2012/10/20(土) 23:03:22.22 ID:eu7KD15NO
小湊鐵道キハ140形
札沼線(学研都市線)電化に伴って廃車になる予定だったキハ141及び142形を
JR北海道から譲渡したもの。
6両譲渡され、老朽化が進むキハ200形の一部を取り替える。
元々片運転台車だが、小湊は1両編成などもあるために両運転台化を行っており、
キハ141形には142形を 142形には141形の運転台を移植して両運転台化した。
形式は次の通り
キハ141(旧キハ142-3)
キハ142(旧キハ141-11)
キハ143(旧キハ141-5)
キハ144(旧キハ142-8)
キハ145(旧キハ142-13)
キハ146(旧キハ141-9)
車内は北海道当時とそのままとしているが、本州であるために2重窓を廃止している。
また冷房がないためサブエンジン式の冷房装置が取り付けられたが、キハ143 145は
「車窓からの風を体感する車」と銘打って窓開け前提としており、あえて冷房は搭載しない。
塗装は141 146はJR北海道当時の塗装をそのまま使用し、143〜145は
小湊鐵道キハ200形と同じ色を用いる。142は旧国鉄首都圏色を予定。
これによりキハ200形の内の207〜214は廃車となるが、これらの他に
改造対象やミャンマーの譲渡から外れて廃車されたキハ141系の機関 台車 変速機らも
供与されており、これらは残るキハ200形の予備パーツにも使われる。
なおキハ200形もいすみ鉄道同様に旧国鉄色を纏う計画で、201と205が小湊鐵道色以外に
202 旧国鉄色(いすみ鉄道キハ52形と同じ)
203 旧国鉄首都圏色
204 旧国鉄準急色
206 旧国鉄色(蜜柑色にブルー)
207 旧国鉄急行色
となる。
104名無し野電車区:2012/10/21(日) 23:51:41.59 ID:0V1TCV560
いすみ鉄道 2000系
2050年、JR四国で新車導入により不要となった2000系2000+2100の2両を購入した。
他車両とスピードは変わらないが、観光向けにいすみ鉄道内でも振り子を作動させ傾斜を行う。
105名無し野電車区:2012/10/22(月) 17:16:04.05 ID:93OAIZSG0
国鉄11系電車400番代
1934年(昭和9年)から1943年(昭和18年)にかけて日本国有鉄道の前身である、
鉄道省が木造電車の鋼体化改造により製造、車体長17m級3扉ロングシートの旧形電車を、
便宜的に総称したものである。

モハ11形(11401-11532)
大正期に製造された木造電車の車体を台枠から外し、半鋼製の車体を新製、
1934年(昭和9年)から1943年(昭和18年)までの10年間にわたって鋼体化改造、
車体は当時製造中だった20m級車体のモハ31形を模倣し、幅800mmの窓を車端部に2個、
扉間に4個配するものであったが、タネ車の木造電車車体長の都合上、
モハ11形よりも車体長が200mm短く、最も車端寄りの窓1個は幅が700mmとされていた。
側面窓配置はd1D4D4D2、前面は平妻貫通とされ、屋根上通風器はガーランド形2列配置、
パンタグラフは0番代、200番代とは違い、車体後部、連結側の屋根に設置され、
それまでのクモハ11形とは印象を大きく変えた。
また、旧車体から流用した部品の関係で、車内灯や客用扉、貫通扉の形態、
戸袋の方向など、車両ごとの個体差が大きかったのも本系列の特徴である。
1936年(昭和11年)の車両形式称号規程改正で、クモハ11形に改められた。

11系の付属編成用として鋼体化された400番代は401-440までは番号にかかわらず、
運転台はすべて上り向きで製造、441以降は奇数偶数に応じた番号どおりの向きである。
106名無し野電車区:2012/10/22(月) 17:17:34.86 ID:93OAIZSG0
クハ16形(16401-16621)
モハ11形400番代と同じくタネ車は大正期に製造された木造電車で、
制御車だけでは無く、三等付随車、二等付随車まで及んでいる。
改造工場は当初、大井工場のみであったが、1938年(昭和13年)度製からは、
大宮工場が加わり、一部は関西に移動させ、吹田工場で改造された。
側面窓配置はd1D4D4D2、前面は平妻貫通とされ、屋根上通風器はガーランド形2列配置、
401-440までの運転台はクモハと合わせて、すべて偶数(下り)向きで、
それ以降は奇数偶数に応じた番号どおりの向きである。

0番代や200番代と違い、400番代は木造車体から戸閉め装置を流用した関係で、
中央扉と最後部扉の戸袋位置が左右非対称(運転席側は後、助士席側は前)なので、
改造時に中央扉が両方とも後方、最後部扉が両方とも前方に引かれるタイプとした。

1936年(昭和11年)の車両形式称号規程改正で制御電動車はモハからクモハに改称、
モハ11形400番代もクモハ11形400番代に改称される。
107名無し野電車区:2012/10/22(月) 17:20:02.22 ID:93OAIZSG0
両開き扉試作車
1941年(昭和16年)に改造されたクモハ11479とクハ16483は、
省電としては初の両開き扉を採用、扉の幅は1300mmで従来車の1100mmより広くなり、
開閉時間も従来の3秒から0.5秒短縮され、乗降の円滑化に効果が期待された。
同時に扉両側の窓が500mmにされ、窓配置はd1D121D121D11となり、
屋根は鋼板製の張上げ式とされたことで関係者からの評判は良かったが、
扉の構造は、左右の扉それぞれに戸閉め装置を設置してそれぞれ駆動するものであり、
開閉を繰り返して行くと、動作に円滑を欠く時があり、実用には向かないと判断され、
結局、2両のみで終り、11479と16483は大井工場で職員車として使用された。

付随車代用車
戦時中に落成したものの一部は、電装品の不足から、運転台機器を装備しないまま落成し、
付随車代用として運用された。該当車号は16596、16602、16604、16605、16611、
16612、16615、16618の8両は付随車代用のまま戦後まで使用された。

戦後の状況
太平洋戦争中の酷使により鉄道車両の多くは荒廃し、米軍による空襲でクモハ11形21両、
クハ16形45両、計66両が焼失した。それ以外でも架線事故でクモハ11形3両、クハ16形2両が廃車、
脱線事故でクモハ11形1両とクハ16形1両が廃車になっている。
これらの焼け車体や台枠は復旧名目扱いで多くが私鉄に払下げられた。

それ以外だと規格形として割り当てられた40系が路線条件の関係で使用できない、
私鉄各社に代替として1947年(昭和22年)7月からクモハ11形40両、クハ16形40両が譲渡された。
108名無し野電車区:2012/10/22(月) 17:24:02.46 ID:93OAIZSG0
更新修繕と地方転出
戦中戦後の酷使によって疲弊荒廃した電車を戦前の水準にまで戻すため、
1949年(昭和24年)から更新修繕が行なわれ、雨樋の普通化を始め、
通風器はグローブ形通風器に交換、クモハ11形が4個、クハ16形が5個、サハ17形が5個、
固定編成化する為、クハ16形30両の、付随車化工事を大井工場、吹田工場などで行い、
サハ17105-134と改番され、クモハ11-サハ17-クモハ11の3両編成10本、
クモハ11-サハ17-サハ17-クモハ11の4両編成10本となって、南武線、青梅線などの、
戦時電化買収路線や支線区に転出、さらに後年は、地方への転出が進み、仙石線、大糸線、
富山港線、福塩線、可部線、宇部線・小野田線などで使用、各線の色に塗替えられた。

便所取付け改造車
1957年(昭和32年)から1963年(昭和38年)にかけ、長距離運用のある、
飯田線、身延線、仙石線用のサハ17形、クハ16形に対して便所の取付けが行なわれた。
仙石線用の窓は、下部を固定式、上部を内方に倒して開閉する独特の形状であった。
109名無し野電車区:2012/10/22(月) 17:25:51.29 ID:93OAIZSG0
クモハ13形への改造
1957年(昭和32年)10月および1958年(昭和33年)2月に幡生工場で、
可部線用(750V)として両運転台に改造されていた11480および11481がモハ13形に改番、
それぞれ13027、13028となり、13027は両前面に幌枠台座が設置されている。
1958年(昭和33年)3月、11469が大井工場の入換え用として後位に運転台を増設し、
クモハ13形13029となった。改造当時、同車は増設側運転台の乗務員用扉や、
仕切りがなかったが後年、乗務員扉を設置された。

配給車などへの改造
1958年(昭和33年)5月、老朽化した木製配給車モヤ4100形の代替として、
11413と11414が配給車に改造され、モル4511形(4511-1・4511-2)となった。
車体の後位約4分の3を撤去し、無蓋構造としたのは魚腹形の脆弱な台枠を持つ本車は、
あおり戸は採用されず、固定式となっている。

牽引車への改造
1960年(昭和35年)以降、車両基地内での入換、本線上での試運転や回送に使用するため、
牽引車に改造したものである。この頃には、新性能電車が各区に配置されており、
電動車は運転台のないのが基本であり、制御車は動力を持たない付随車であることが多いなど、
これら新性能車用の牽引車が求められていたものである。3両がクモヤ22形に改造され、
他系列からの改造車と区別され、22150-152が付番されている。
3両とも後位に運転台を増設、両運転窓はHゴム支持とされた。
110anorak?:2012/10/22(月) 19:31:43.52 ID:atri4mO10
>>8 >>86に続く後世世界もとい平行世界もの
◎日本国有鉄道樺太総局 JR樺太
第二次世界大戦末期の1945年4月大日本帝国はナチスドイツ敗勢の報告を受けソ連対日参戦に備え内地樺太の防衛を強化。
日本は中世の時代からロシアよりも先に樺太(サハリン島)に進出し、交易拠点を構築し、自国領宣言の碑を建立。
後に遅れてやって来たロシア人と衝突を繰り返し、明治初めにロシアよりも遅れて近代化した日本は樺太千島交換条約で
樺太を放棄。日露戦争の勝利によりサハリン島は北緯50度を国境に北をロシアが南は日本が分割統治。
日本は再び樺太を取り戻し、沖縄や北海道と同様の内地とした。
45年8月ソ連が日ソ中立条約を破棄し、日本の南樺太及び千島列島へ侵略。
先述の増強のお陰で日本軍8月15日を過ぎても抗戦、ソ連苦戦。9月に米軍が進駐し、停戦。
既に東西冷戦が始まり、ソ連封じ込めの為、米英は、南樺太は日本固有の領土だと認め、
連合軍(国連)での協議の結果、サハリン島での日本の領土は同島の最狭部である北緯48度以南とし、
それ以南でもソ連がどうしても欲しい日本海側の不凍港真岡(現・ホルムスク)と最大港湾都市大泊(コルサコフ)、
ソ連海軍の宗谷海峡自由通行の為の西能登呂岬(クリリオン岬)の地勢上重要三地点もソ連の飛地として割譲させられた。
これにより島内日本領は四国並に縮小し、戦後の地方自治制度下で樺太州となる。
全ての鉄道は国有化、国鉄樺太総局が設立。大泊に代わり樺太西岸の本斗(後に好仁)と稚内に鉄道連絡船、車両航送も。
ソ連領になった所はソ連国鉄が承継。島内では日ソ共に軌間は狭軌。
不凍港ホルムスク(真岡)がソ連にとってサハリンの玄関口となるが飛地なので日本領を通過しなければ
他のサハリン内のソ連領に到達出来ないので、かつ日本も樺太両岸を結ぶ幹線豊真線が同地を経由しているので、
日ソ両国鉄は相互直通運転を行い、回廊列車が運行される。
87年4月国鉄分割民営化でJR樺太が発足。
90年代ソ連崩壊と東西冷戦終結によりロシアからクリリオン岬の区分地上権を得て宗谷海峡トンネル着工。
現在、JR樺太は繋がった鉄路を介しロシア鉄道やJR北海道等のJR各社とも直通。
111anorak?:2012/10/22(月) 19:32:53.00 ID:atri4mO10
>>8 >>110に続く平行世界もの
◎国鉄E70形蒸気機関車
>>110の歴史により日本は、かろうじて樺太を領有し続けた、それが敗戦によるソ連への割譲で四国並みに縮小しても。
サハリン島での北緯48度付近の日ソ国境以南の日本領土側にも、ホルムスク(旧・真岡)、コルサコフ(旧・大泊)、
クリリオン岬(旧・西能登呂岬)の三つのソ連の飛地が存在する為、日ソ両国鉄は相互直通運転を行い、
国境が入り組んだオーストリア等の中欧ではお馴染みの回廊列車が樺太でも運行される。
直通はしても、原則、自国の機関車が相手国の車両を牽引することはない。
北海道稚内と結ぶ鉄道連絡船の樺太側発着港は、大泊がソ連の軍港都市になったので樺太西岸の好仁となった。
好仁から樺太州の州都の豊原までの鉄路:好仁〜樺太西線〜ソ連領ホルムスク〜豊真線〜樺太東線〜豊原
豊真線は樺太両岸を結ぶ幹線で、西樺太山脈を越える為に急勾配が連続しループ線もある山岳路線でもあり、
しかも樺太西線との接続駅がソ連の飛地ホルムスク内にあり、極めて特異的である。
WW2で沖縄と同様に樺太は日ソ両軍激戦の戦場と化して鉄道の被害は甚大であったので、
戦後の復興に伴い樺太の鉄道も輸送量が増加した際、車両不足が深刻化。
そこで、1950年代初頭に豊真線の特異性に対応したE70形マレー式デンター型の蒸気機関車が新造投入された。
急曲線や連続急勾配、軸重軽減対策に軸配置1BC2のマレー式を採用。
保守の簡素化の為に複式機関では無く米国大型マレーと同様の単式。
さらにはソ連領内での補機連結の解消を目的に、ボイラーを全溶接構造として圧力は国鉄SL最大の18kg/cm²で
国鉄最高出力機の一つになった。軸受けにローラーベアリングなどの新技術も採用。
酷寒地なので乗務員の労働条件改善に運転台は密閉キャブで自動給炭装置ストーカーも。
マレー式デンター型SLの車両形式称号には70番台が制定され、本機はE70に。
E70は就役後樺太専用機として長年活躍し、ソ連領内にも乗り入れた。
国鉄の動力近代化計画いわゆる無煙化の影響で日本各地からSLが急速に消えた1970年代のSLブームでは、
樺太も人気の地となり、E70の魅力に取り憑かれた者も多かった。
76年に樺太のSLが全廃された。後年、JR樺太により復活運転を実施中。
112名無し野電車区:2012/10/22(月) 21:20:21.90 ID:V3puxqzV0
キハ261形1300番台

「スーパーとかち」用キハ261系気動車の札幌方先頭車。
既存のキハ261形と異なり、キハ260形とユニットを組まない。
これに加え、帯広・釧路方のキロ261-1100+キハ260-1100の2両ユニットを増備し、
「スーパーとかち」をキハ261系で統一することでキハ283系を捻出することとした。
前述の通り当車は中間車とユニットを組まない仕様で落成しており、
列車を組成する際はキハ260形1300番台を組み込むことで4両編成を組成する。
113名無し野電車区:2012/10/23(火) 21:04:42.32 ID:2Rpz/+ZaO
HBキハ263系
JR北海道がJR東日本からハイブリット機関の技術提供を受けて投入する
ハイブリット特急気動車である。
「オホーツク」に使用しているキハ183系全ての取り換えと「スーパー宗谷」
「サロベツ」をキハ183系及びキハ261系から転換し、「サロベツ」に統一する。
編成は遠軽(稚内)方キロハ263を先頭にした4両編成である。
捻出されるキハ261系は全て「スーパーとかち」に集結させる。
手始めに石北線と宗谷線に投入したのはハイブリット特急気動車の試金石的なもので、
最終的目標は「スーパーおおぞら」のキハ281 283系の取り換えではないかと言う見方もある。
なおハイブリット機関の気動車は釧網線の釧路湿原の観光用列車にも投入される計画もある。
114名無し野電車区:2012/10/24(水) 14:05:30.74 ID:2+urDpNY0
国鉄 ナイテ20

昭和33年、東海道昼行特急の旧客を20系客車に置き換えた際に登場した1等展望車
国鉄初の密閉式展望車で、8方向固定可能な一人用リクライニングシートが並ぶ1等室と
長手方向にソファが配置された展望室、そしてその中間に6人用の個室が配置されている。

「つばめ」「はと」用に6両が製造され、運用についた。

その後、昭和39年の東海道新幹線開業後は形式をナロテ20に変更して「あさかぜ」などに連結され
1等客用のサロンカーとして活躍した。

昭和50年3月のダイヤ改正で「あさかぜ」が24系化された時点で3両がナハネフ23に、3両がナロフ20に改造され
ナロフ20は急行「銀河」に連結されて使用された。

JR化直前の昭和60年3月ダイヤ改正までにナハネフ23に改造されたグループは全車廃車され、ナロフ20に改造
されたグループは座席をそのままに普通車化されナハフ20−1000として急行「だいせん」の指定席車として
列車廃止まで活躍した。

現在、出雲市市内の公園にナハフ20−1001が静態保存されているのは、この板の諸氏には周知のことであろう。
115名無し野電車区:2012/10/24(水) 16:01:11.03 ID:8bw0jfXn0
国鉄12系電車
車体長17m級2扉クロスシート片運転台の三等制御電動車に与えられた形式で、
日本国有鉄道の前身である鉄道省が1930年(昭和5年)3月15日から開始される、
横須賀線の電車運転に開発してた32系電車の主電動機開発が間に合わない為、
3扉ロングシート車のモハ11形を基本に設計変更して製造、就航させた車輌。
1929年(昭和4年)から1931年(昭和6年)に計178両を製造、
東京鉄道局管内の電車としては初めて車端部に貫通幌と引戸を装備し、
基本的に同系車だけで編成を組む計画で、東京方に4両を基本編成とし、
横須賀方に付属編成として2両、3両編成を連結、朝夕のラッシュは最大8両編成、
日中は6両編成、7両編成で運行、従来の省電とは一線を画するものとなったが、
1932年(昭和7年)には本来の投入予定だった20m級車体の32系が投入、
順次置換えれ、1935年(昭和10年)までには大部分が横須賀線から、
電車運行の始まった東海道線の東京-熱海間運行に転用された。

モハ12形(001-082)、サロ14形(001-012)、クハ18形(001-040)、
サハ19形(001-034)、クロ28形(001-002)、サロハ29形(001-008)、
の6形式178両を指す。

モハ12形(12001-12082)
1929年(昭和4年)から1931年(昭和6年)にかけて合計82両が製造された、
車体長17m級2扉クロスシートの本系列の基幹となる三等制御電動車で、
扉間のクロスシートは片側4組となり、窓配置はd1D222222D11、前面は平妻の非貫通で、
車端部に貫通幌と引戸を装備、丸屋根、パンタグラフは運転席側に搭載され、
台車はDT11を採用、主電動機はMT15A、制御装置はCS-5、
奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向きである。

サロ14形(14001-14012)
1929年(昭和4年)から1930年(昭和5年)にかけて合計12両が製造された、
車体長17m級2扉クロスシートの二等付随車で、扉間のクロスシートは、
客用扉脇まで片側6組が配置、窓配置はサハ19形と変らない11D222222D11、
車端部に貫通幌と引戸を装備し、台車はTR23を採用した。
116名無し野電車区:2012/10/24(水) 16:06:43.04 ID:8bw0jfXn0
クハ18形(18001-18040)
1929年(昭和4年)から1931年(昭和6年)にかけて合計40両が製造された、
車体長17m級2扉クロスシートの三等制御付随車で、扉間のクロスシートは片側4組、
窓配置はd1D222222D11、車体はモハ12形と同じ前面は平妻の非貫通、丸屋根、
車端部に貫通幌と引戸を装備し、台車はTR23を採用した。
奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向きである。

サハ19形(19001-19034)
1929年(昭和4年)から1930年(昭和5年)にかけて合計30両が製造された、
車体長17m級2扉クロスシートの三等付随車で、扉間のクロスシートは片側4組となり、
窓配置は11D222222D11、車端部に貫通幌と引戸を装備し、台車はTR23を採用した。

クロ28形(28001-28002)
皇族の御乗用として1930年(昭和5年)度予算で2両(28001-28002)が製造された、
二等制御車(貴賓車)で、皇族の葉山御用邸往来や、軍籍にある皇族の横須賀軍港への、
往復といった、貴賓車の需要があったためで、皇太子御乗用には専用列車が仕立てられたが、
その他の皇族の御乗用には定期列車への併結とされたため、運転台付きの制御車とされた。
座席は戸袋部分がロングシートである以外はクロスシートで窓配置はd122D2222D2。

サロハ29形(29001-29008)
1929年(昭和4年)から1930年(昭和5年)にかけて合計8両が製造された、
車体長17m級2扉クロスシートの付属編成用二等・三等合造付属車で、
窓配置は変則となり11D222211D11、車端部に貫通幌と引戸を装備、台車はTR23を採用した。
117名無し野電車区:2012/10/24(水) 16:13:01.31 ID:8bw0jfXn0
東海道線への転用
1932年(昭和7年)に横須賀線へ32系が投入されると、12系の転用先が問題となり、
当時、電気機関車による客車列車で運行してた東海道線が転用先候補となり、
32系と入れ替わるかたちで東海道線に転用されていった。
東海道線に転用された12系は基本8両編成に付属2両編成、または3両編成を連結して、
10両編成、または11両編成で運行された。

戦前の改造
東海道線は長距離を運転することから、一般客からも便所設置の要望が高まり、
1935年(昭和10年)にサロ14形とサハ19形に便所を取付ける改造を大井工場で実施、
両形式とも後位端に取付、便所対面のロングシートをクロスシートに改めている。
サロ14形、サハ19形は全車に施工されたため、形式称号の変更はなかった。

1936年(昭和11年)の車両形式称号規程改正でモハ12形はクモハ12形に改称される。

クロ28形の格下げ
横須賀線に残っていたクロ28形も32系のクロ25形の就航で使用頻度の激減、
休車状態となっていたので、クロ28形を一般用に格下げすることになり、
1937年(昭和12年)4月、大宮工場で格下げ改造を行い、旧貴賓室への壁と扉撤去、
吊革が設けられ、ドアエンジンの設置が行われた。この改造によりクロ28形は、
クハ18形に改称され、2両とも偶数向きであることから、1両を奇数向きに方転して、
クハ18形18041と18042に改番された。

サロ14形・サロハ29形の格下げ
1937年(昭和12年)7月に日中戦争で戦時体制になると、サロ14形、サロハ29形の
格下げが決定され、サハ19形に編入され、サハ19形(19021-19040)に改番された。
19021-19032は元サロ14形で、オリジナルのサハ19形とは外装とは変化無く、
クロスシート数の違いだけで、19033-19040が元サロハ29形で、オリジナルのサハ19形とは外装が違っていた。
118名無し野電車区:2012/10/24(水) 16:34:41.76 ID:8bw0jfXn0
オリンピック試験塗装
1940年(昭和15年)に皇紀2600年を記念して開催予定だった東京オリンピックに先立ち、
省電の塗装変更が計画され、1937年(昭和12年)12系にも試験塗装が行なわれた。
塗色はB案と呼ばれた腰板部が海老茶色、窓回りがクリーム色のもので、
対象は8両編成1本、3両編成1本の計11両であった。
12005-19004-19015-12008-12013-19005-19012-12022 / 12043-19020-12060

戦時改造
1942年(昭和17年)12系にも扉増設とロングシート化が計画され、
車体中央部に客用扉を1か所増設して3扉化することとされた。
しかし、太平洋戦争の戦局悪化により、1両の改造もないまま、計画は中止された。

戦後の状況
太平洋戦争末期の米軍による空襲でクモハ12形11両、クハ18形6両、サハ19形5両の、
計22両が廃車となった。これらは焼け車体や台枠は他系列と同じく復旧名目で、
私鉄などに払い下げられた。終戦後から東海道線では運転が再開された。

更新修繕と塗色変更
戦後の混乱も一段落した1949年(昭和24年)から翌年にかけて、荒廃した車両設備を、
戦前並のレベルに戻すための更新修繕が実施され、前面の雨樋が曲線に変更、
運行表示灯の設置、旅客用ドアを鋼板プレスドアに取り替え、内装の木部の取り替え、
パンタグラフをPS13に交換、ガーランド形の通風器をグローブ形に交換などが行われ、
同時に試験塗装も行なわれ、戦前の窓回りをクリーム色、幕板・腰板を海老茶色の他、
窓回りをクリーム色、幕板・腰板を藤色、窓回りをクリーム色、幕板・腰板を緑、
窓回りをクリーム色、幕板・腰板を青色と計4種類が4両編成4本に塗られた。
119名無し野電車区:2012/10/24(水) 16:55:11.98 ID:8bw0jfXn0
地方への転出
1950年(昭和25年)東海道線に2扉クロスシートの80系が新製投入、
さらに1952年(昭和27年)には4扉セミクロスシートの60系が新製投入され、
余剰となった12系電車は静岡鉄道管理局管内の戦時電化買収線区である、
身延線や飯田線に転用されることになった。その際、身延線用は同線に存在する、
狭小建築限界トンネル通過の際の絶縁距離確保のため、車体全長にかけて、
300mm切り下げた切妻構造・低屋根構造となって印象が大きく変わった。
この改造でクモハ12形は普通屋根車と、身延線用の低屋根車の2種類に分かれ、
身延線を受け持つ富士電車区では、東海道線ローカル列車用の車両も受け持つため、
両者が混在すると運用に支障、不都合が生じるため、低屋根車化された28両を、
番号の空いていた14形に編入、クモハ14形(14001-14028)に改番した。

廃車と現状
12系クモハ12形とクモハ14形、サハ19形、クハ18形の4形式は、
全て静岡鉄道管理局管内に集結し、身延線ではクモハ14形の天下となったが、
本格的な老朽置換えは1965年(昭和40年)に関西地区から身延線、飯田線へ、
30系や32系、35系などの20m級車の転入で始まり、身延線は1970年(昭和45年)、
飯田線は1972年(昭和47年)までには姿を消している。

譲渡
12系は比較的長命を保ったため、戦災車、事故車の払下げを除くと唯一、
1969年(昭和44年)に富士急行へクモハ12形4両(12011・012・015・016)と、
クハ18形4両(18023・026・31・34)が払下げられたに過ぎない。
この8両は、窓枠のアルミサッシ化などの更新を受けたうえで、
モハ7031・7032・7033・7034、クハ7061・7062・7063・7064に改番され、
小田急2200形(富士急行5700形)の転入で、1983年(昭和58年)に廃車され、
モハ7031が富士吉田駅(現富士山駅)電車庫脇に現在も留置されている。
120名無し野電車区:2012/10/25(木) 14:34:54.74 ID:JJbxIJmB0
大日本帝国陸軍 臨時装甲列車群(名称不明)

第二次世界大戦末期、大日本帝国陸軍が本土決戦に備えて計画していた本土決戦用装甲列車。
米軍が上陸してくる海岸に近い線路で迎え撃つ、要塞的役割が期待されていた。
その実態は、装甲列車とは名ばかりの、トキ900形に戦車を載せたような陳腐なもので、
実際に使用されていても要塞としての役割が果たせていたかどうか疑わしい。
一応、両側面には、通常の戦車よりは厚めの装甲が施されていたという説もある。

車両の運用は鉄道省に委託され、終戦の数日前までに全国各地に配備された。
戦後、鉄道省はこの車両を鉄道省の所属であるとして、進駐前の段階で勝手に武装解除。
トキ900形に編入し、無蓋貨車として使用していた。
後に、他のトキ900形同様に全車両が他形式に改造された。

JR東海浜松工場で2000年に復元されたトキ900形は、
一説にはこの幻の装甲列車の生き残りであるという説もあることは、このスレの諸氏には周知の事であろう。
121名無し野電車区:2012/10/26(金) 20:25:54.64 ID:omhD0csn0
東武鉄道6340系 直流特急型電車
東武鉄道は東京スカイツリーへの観光輸送を目的として、6050系を改造した観光特急電車「634形」を登場させた。
この634形は展望性などの面で好評を博したものの、現在では1編成しか存在しないことに加え、主要機器が旧式であることや種車の車体の傷みも激しいことなどから、増発用の新造車両としては完全新製の車両を投入することが適当であると判断。
634形の増発用として新型観光特急電車を製造することを決定した。
6340系はこのために製造された観光特急電車である。

編成は2M1Tの4連。
車体は50000系列をベースとした、日立A-train規格のアルミダブルスキン構体。広幅の車体を採用し、車内に余裕を持たせてある。
側面窓は634形と同じく天井まで届く大型のものを採用。
照明は省エネルギー化のためパワーLEDを用いている。一般的なシンチレーション式のLEDではなく、RGB方式のLEDを使用することで長寿命化を図り、また色の比率を変えることにより照明の雰囲気を変えることも可能としている。
(担当者曰く、東京スカイツリーのイルミネーションをイメージしたとのこと)
座席はスカイツリーの方向となる海側には、窓方向に向けた3列の座席を配置。山側には2列の回転式リクライニングシートを設置している。
中間車となるモハ6342形は半室をバーカウンターとし、またBD上映設備やカラオケ設備などを搭載したイベントカーとなっている。
主要機器は50000系列をベースとしている。
制御装置は日立2レベルIGBTによる1C4M2郡制御、主電動機はTM-03(165kW)。駆動方式はTD継手式平行カルダン。
ギア比は1:5.65と50000系列よりも低く設定し、高速走行に関して余裕のある性能を確保している。
電動空気圧縮機はスクロール式。
日光線の山岳区間に備え、床下に発電制動用の抵抗器を装備する。
台車も50000系列と同じ物を使用するが、ヨーダンパを追加し乗り心地の向上を図っている。
起動加速度は1.65km/h/s、最高運転速度は110km/h(設計最高速度120km/h)と634形及びその種車の6050系に合わせてある。
東武線内専用の車両のため、JR用の保安機器は搭載していない。
日立製作所で合計7編成21両が製造される予定である。
122名無し野電車区:2012/10/26(金) 20:44:08.43 ID:omhD0csn0
京成電鉄(新)3150形 直流通勤型電車
京成電鉄が千葉ニュータウン中央/印西牧の原-成田空港/芝山千代田間のシャトル便専用として開発した新型車両。
この車両の開発の背景には、いわゆる格安航空会社(LCC)の発達がある。
高速バス並の料金で乗れる飛行機として人気を呼んでいるLCCであるものの、発着枠などの関係から便によっては空港を早朝または深夜に発着するものもある。
他の空港と比較して空港アクセスに難のある成田空港の場合、このような便を利用しようとすると、タクシー料金や周辺のホテルへの宿泊料金などで結果的に大手航空会社の割引運賃と大差ない額になってしまうことも珍しくなく、
次第にLCC利用者向けの早朝・深夜のアクセス列車/バスの設定が求められるようになってきた。
3150形はこのために、空港アクセス用のシャトル運行を主眼において開発された車両である。
編成は6M2Tの8連。車体は3000形とほぼ共通の3ドア軽量ステンレス製。
早朝・深夜の運行時の人件費低減のため、ワンマン運転設備が追加されている。
車内や主要機器は3050形を元にしている。但し、車内情報装置はLED式のものを採用している。
電車性能に関しても、3050形と同一のものとなっている。
3050形と同一のオリジナル塗装の他に、ジェットスター・エアアジアジャパン・スカイマークの塗装を施した編成も存在。
123名無し野電車区:2012/10/27(土) 00:54:07.08 ID:od7+Mggf0
西武300系
南海や東武の余剰車改造展望車両の成功を見た西武が3000系余剰車両を改造して作った展望車。
中央と連結面よりの2ドアに改造し、前方ドア跡周辺は柵だけの吹きさらし展望台にしている。
座席は10000系の余剰品を使ったリクライニングシートで車内中央で側面に向け背中合わせになっており展望が楽しめるようになった。
さらに連結面には自販機コーナーを設置。
秩父線の展望列車やライオンズの優勝パレードなどに使用される。
124名無し野電車区:2012/10/27(土) 12:17:18.12 ID:Fe3Wf35TI
西武鉄道に戦後モハ63形が割り当てられたら。

西武鉄道モハ401形(史実と異なる)
運輸省が戦後の西武鉄道にモハ63092、モハ63094の割り当てを予定しており
運輸省の統制が嫌いな堤康次郎は始めそれを嫌って辞退しようとしたが。
運輸省から戦災国電の払下げしているのにモハ63割り当て嫌うのけん
山陽ですらやったのにと当時のモハ63の現物を見せられ。
心変わりした堤が20両割り当てを申請した。
西武ではモハ401+クハ1401(未電装)で2両編成10編成
20両導入され、入れ替わりに旧武蔵野鉄道、旧西武鉄道、
雑型客車改造の木造車が地方私鉄に供出された。
地方私鉄に供出
125 【東電 59.8 %】 :2012/10/27(土) 23:38:41.58 ID:g1aP5XaJO
JR東日本E233系900番台・1900番台・5900番台・6900番台:
中央線・京浜東北線・京葉線・埼京線でPMSM(901/1901/5901/6901ユニット)及びDDM(911/1911/5911/6911ユニット)の試作、実用化試験ユニット。
京浜東北仕様はATS-Pも搭載して、宇都宮線・高崎線・東海道線・横須賀線での試運転も行う。
中央線仕様は総武線・総武地下線・常磐線(新金貨物経由)での試運転も行う。
京葉線仕様は成田線・外房線・内房線での試運転も行う。
埼京線仕様は山手線や湘南新宿ラインや東北縦貫線での試運転も行う。
126anorak?:2012/10/28(日) 02:13:23.74 ID:/lTlY6Ca0
>>111に続く平行世界もの
◎国鉄スハ10形客車
1960年 二階建て
>>8の歴史により日本は朝鮮北部の咸鏡道中部沿岸を韓国からの租借地として日本が統治する事になり、
この地を任那府と呼び、地方自治制度対象外の官庁直轄地とした。
戦争で壊滅した旧朝鮮総督府鉄道の咸鏡線等の各路線が国鉄によって復興したが、内地との車両共通化で狭軌となった。
元々旧鮮鉄は北米や後の新幹線に準じる標準軌で敷設されたので、韓国への返還と再改軌を想定して
トンネル等の建築限界は本土の在来線に比べ大きく新幹線に近く、それに伴い車両限界は、車高と車幅の最大値は
本土の在来線と同値だが、車両限界の断面はほぼ直方体と余裕がある点で異なった。
これにより戦後の高度経済成長期には逼迫した需要に対する輸送力増強目的に任那府専用の超大型車両が導入された。
その一つが、10系客車に属する二階建客車スハ10形である。
車体は、車端の平屋区画二つと車体中央の台車間に二階建て区画、両者を結ぶ乗降デッキ区画二つから成る。
最大の特徴は、独自の車両限界断面に沿って車体の二階建て区画の二階から一階までの車体側面が垂直となっている。
一方、本土だと二階と一階の側面を屈折せざるを得なくなり、居住性も悪く、当時の技術では製造費が馬鹿高くなる。
積載重量をス級に収める為に徹底的に軽量化され、その一環として極寒地なのに二重窓を採用せずユニット窓にした。
仮に冷房も搭載していたならばマハ10になっていた。乗降デッキと各階を結ぶ階段は直線状。
台車や接客設備等のその他の仕様はナハ11形を踏襲。
就役後、輸送力増強に貢献したが、黄害という欠点を露呈させた。
便所使用知らせ燈がつくと、一階では「うんこが降ってくるぞ!早く窓を閉めろ!」、「アイゴー」と乗客パニック。
車端設置の便所が垂れ流しだったので糞尿が車内の一階に直撃するのであった。
しかも保温性が悪く、厳冬期は寒かった。
内地からの旅行客には珍しく、乗ってみたい車両だが、毎日利用する地元民にとっては不人気な車両であった。
1950年代から60年代初頭に設計された車両形式は、腐蝕に対し薄過ぎる鋼板の使用等の徹底した軽量化が裏目に出て
寿命が短かった。スハ10も老朽化激しくなり、国鉄末期の1986年までに全廃された。
127名無し野電車区:2012/10/28(日) 09:26:27.14 ID:CVO4f/PZO
国鉄 スハ46 スハフ45 スハニ33
特急用スハ44系の北海道型である。昭和29年に作られており、二重窓やバッテリーの
重量増のために屋根を鋼製とし、アルミサッシにするなどオハ46系の構造も
一部取り入れられている。台車もTR47ではなくオハニ36型と同じTR52又は電車用TR48を客車用にした
TR49を履く。
座席は方転は無理な関係上固定クロスではなく、転換クロスシートとなった。
全て札幌に配置され、特急「ていね」から特急「ニセコ」として函館〜札幌間の
特急に使われ、牽引がC62型であったためにかつてのつばめ はとやはつかりを
彷彿とする編成となり、小樽〜長万部間の重連は特に人気が高かった。
とりわけ2号機牽引はつばめの再来と大人気編成であった。
また比較的平坦な室蘭・千歳線経由の特急「すずらん」にも使われた。
牽引機はD51型が使われたが、これが後に気動車化されていく際に急勾配がある
山線小樽経由より距離が長くても比較的平坦な室蘭・千歳線経由へシフトされていく
布石となってしまった。
なお2等はナロ10及びスロ60が本州より廻されて北海道仕様に改装して
使われていた。
気動車特急の登場後は道内の寝台急行の座席車にも使われるようになり、
狩勝 まりも 利尻に使われていた。
14系化に伴い廃車が始まったものの、スハニ33-3 スハ46-1 3 4 6 8 9 13 16 スハフ45-2 3 6 11が
残されてJR北海道に承継された。また青函連絡船羊蹄丸が船の科学館に
展示される際にスハ46-7 12 スハフ45-5が車両庫に入れられて展示された。
128名無し野電車区:2012/10/28(日) 09:52:11.83 ID:CVO4f/PZO
>>127続き
JR北海道に承継されたスハニ33-3 スハ46-1 3 4 6 8 9 13 16 スハフ45-2 3 6 11は
C62-3が復活時に牽引する客車に選ばれてその際車内を14系と同等に整備され、
座席は回転式リクライニングに変更された。運転終了後は一時期急行「はまなす」に
使われたため、旧客が青函トンネルを通る異様な光景が見られた。
現在SLすずらんを初めとするSL列車牽引客車用にスハシ44らと共に使われている。
なお来年度にスハニ33-3 スハ46-4 8 16 スハフ45-2がJR東日本に譲渡される
(北海道に譲渡したオハ47型1両も返還)予定でこれらは全て土崎の秋田車両センターに
モスボールされており、東北で来年動態復元が決まったC58型の牽引用に
使われる可能性が高い。
また船の科学館閉館に伴い羊蹄丸内に展示されていたスハ46-7 12 スハフ45-5は
解体されるのではと言われていたが、SL急行用で状態のいい旧客を求めていた
大井川鐵道が全て購入して現在新金谷で原型に近い形に整備中で、
大鐵はオハニ36 スハフ43と組成してかわね路に使用する計画である。
なお重量があるため、44系で組成した編成ではC11型重連でもE10型
電気機関車の後補機が必要になると言う。
129名無し野電車区:2012/10/29(月) 14:04:04.64 ID:RFVYoeX30
国鉄 ナユ20

昭和35年、九州夜行特急に郵便車を連結し、首都圏と九州間における主に小荷物の速達性を
重視した郵便車を連結するように郵政省が製造した、20系専用郵便車

カニ21の次位に連結し、編成美を崩さないように深い屋根に20系と同様の塗装が施されている。
目的が速達小荷物の輸送であるため、仕分け室はない護送便仕様となっており、側面には両開きの大型ドアが2か所設置されている。

長らく九州ブルトレに連結されて使用されていたが、昭和40年代後半になってくると速達小荷物の輸送は航空便へシフトしていき、更に列車そのものが14系や
24系といった新系列への更新が進んだこともあり、徐々に郵政省から国鉄へ譲渡され、ナニ20に形式変更され荷物車として東北や関西ブルトレの20系に連結
されるようになっていった。

昭和50年3月、あさかぜの24系化により最後の3両が国鉄に譲渡され形式消滅した。

ナニ20に形式変更はされたものの、その構造が荷物車としてそのまま使えたことから全車原形をとどめたまま最後まで使用され、昭和55年10月、あけぼのの24系化に伴い
ナニ20も形式消滅した。

現在、ナニ20−3が大宮の鉄道博物館にナハネフ23の次位に連結されて展示されているのは、このスレの諸氏には周知のことであろう。
130名無し野電車区:2012/10/29(月) 14:19:36.89 ID:RFVYoeX30
国鉄 スユニ14

昭和49年、14系寝台車を使用したブルトレにおいて小荷物及び郵便輸送の必要性が発生したために製造された
荷物・郵便合造車

外観はスハネフ14の車掌室部分の後ろ、客室にあたる部分が荷物室と郵便室になっており、両開きの大型ドア1か所と
片開きの郵便用ドア1か所がついている。

郵便室は区分室がない護送便用となっており、床下にはスハネフ14と同容量の発電ユニットがついている。
また、列車の特殊性から中間車に組み込まれて運用されることを想定し、乗客が通り抜けできるように側廊下式の通路が確保されている。

さくら、みずほ、日本海などに連結されて使用されたほか、14系座席車に変更された急行「雲仙・霧島」にも連結されて活躍した。
また、14系15型が登場し20系から置き換えられた関西ブルトレ用に、白帯からステンレス帯、車掌室切妻になって登場した100番台も新たに追加製造された。

しかしながら、昭和57年11月で小荷物輸送及び郵便輸送が廃止されたため、全車廃車となった。
特に100番台は登場からわずか4年での廃車となり、国会においてその無駄使いが糾弾されたため、広く国民に知れ渡ることになったのは皮肉なことであった。

不運な車輛であった。
131名無し野電車区:2012/10/30(火) 00:46:27.84 ID:sLrtMU2d0
国鉄 ナハシ20

昭和43年、関西ブルトレや東北ブルトレといった比較的走行時間が短く、かつ輸送力増強として座席車を連結することが効果的な列車に
20系が投入されることになったために製造されたニ等座席車とビュフェの合造車である。

就寝前2時間、到着前1時間程度の営業時間しか取れない列車において、本格的な食堂車では居座る客が多く回転が悪いため、日本食堂側が
国鉄に対して回転の良いビュッフェ方式にしてほしいとの嘆願が出されたことと、1両まるまる食堂車にするよりは少しでも列車定員を増やしたい
国鉄営業サイドの利害の一致と、その両方のサービスに対する乗客からの歓迎により、好評をもって迎えられた。

外観は急行用電車のサハシを深屋根にして客室部分の窓がHゴムの大型固定窓になったような感じで、客用ドアは車体中央についている。

その後、二等座席をフリースペースにしたナハシ20−100も誕生し、ナシ20とコンビを組んで「あさかぜ」などの長距離列車にも連結されるようになり
就寝前に軽く一杯やりたいが、食堂車はどうも・・・という層に受けて繁盛することとなった。

しかしながら、20系から新系列の14系や24系などに置き換えが進むにつれて休車や廃車が出始め、昭和55年10月のダイヤ改正で最後の「あけぼの」から
撤退した時点で全車廃車となった。

現在、大宮の鉄道博物館の屋外休憩所となっているナハシ20−101でお弁当を食べたりしたことがある諸氏は、このスレにはたくさんいると思う。
132名無し野電車区:2012/10/30(火) 01:32:16.10 ID:QLHAecVj0
クモニ103/モニ103/サニ103
余っていた103系と輸送量が減少気味の阪和線・関西空港線を利用してクロネコヤマトの運搬に利用できるようにした車両。
荷物車扱いだが当初特に車内に変更はなく、カーゴを手すりに引っ掛けられるようにした程度であった。
その後渋滞がいないこともあって増発され、車内の椅子を撤去し、荷物棚を設置するなど本格的な荷物車になった。
133名無し野電車区:2012/10/30(火) 13:58:12.57 ID:slvYLGa80
国鉄30系電車
1932年(昭和7年)から1936年(昭和11年)にかけて日本国有鉄道の前身である、
鉄道省が製造した車体長20m級3扉ロングシートの旧形電車を便宜的に総称したもので、
鉄道省の電動車としては初めて全長20m級の鋼製車体を採用した電車である。
両運転台式三等制御電動車のモハ30形、片運転台式三等制御電動車のモハ31形、
片運転台式三等制御付属車のクハ36形、運転台無し三等付随車のサハ37形、
運転台無し二等三等付随車のサロハ44形、三等荷物合造制御付属車のクハニ45形、
6形式328両を指し、20m級の半鋼製車体の側面3か所に幅1100mmの引戸を設け、
運転台後部の窓は600mm、ロングシートの扉両側及び車端部の窓は700mm、
残る扉中間部の窓は800mmとなっていて、窓配置d1D6D6D2となっている。
主電動機は30系用に開発された出力124kWのMT30、制御装置もCS-7となり、
台車は電動車がDT12、付随車用にはTR23を使用、屋根上の通風器は3列で、
車両間に貫通幌と引戸を装備、本系列は4扉ロングシートの40系電車が登場するまで、
通勤型電車の標準形として活躍、年度ごとの設計変更や、戦後の更新などで、
形態もバラエティに富んでいる。

モハ30形(30001-30046)
1932年(昭和7年)から1935年(昭和10年)にかけて合計46両が製造された、
車体長20m級3扉ロングシートの両運転台式三等制御電動車で、窓配置d1D6D6D1d、
両前面は平妻の非貫通型3枚窓、運転室の形状は鉄道省初の全室型となり、
丸屋根、パンタグラフは上り方の運転席側の屋根に搭載され、台車はDT12を採用、
1934年(昭和9年)度の製造分、30021から仕様が変更され、
両前面形状が平妻の貫通型に変更、全車が番号に関係無く上り向きにされていた。
134名無し野電車区:2012/10/30(火) 14:00:30.07 ID:slvYLGa80
モハ31形(31001-31116)
1932年(昭和7年)から1935年(昭和10年)にかけて合計116両が製造された、
車体長20m級3扉ロングシートの片運転台式三等制御電動車で、窓配置d1D6D6D2、
前面は平妻の非貫通型3枚窓、運転室の形状は鉄道省初の全室型となり、
車端部に貫通幌と引戸を装備、丸屋根、パンタグラフは運転席側の屋根に搭載され、
台車はDT12を採用、1934年(昭和9年)度の製造分、31071から仕様が変更され、
前面は貫通型(大阪地区向けは幌台枠付)に変更、同時にパンタグラフも、
車体後部の屋根、連結側にパンタグラフを設置され、見た目が違っている。
奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向きである。

クハ36形(36001-36058)
1932年(昭和7年)から1936年(昭和11年)にかけて合計68両が製造された、
車体長20m級3扉ロングシートの片運転台式三等制御付随車で、窓配置d1D6D6D2、
前面は平妻の非貫通型3枚窓、運転室の形状は鉄道省初の全室型となり、
車端部に貫通幌と引戸を装備、丸屋根、台車はTR23を採用、
1934年(昭和9年)度の製造分、36039から前面が平妻の貫通型となり、
1936年(昭和11年)度の製造分、36057から058の2両は前面が半流線型になり、
台車はTR23。奇数番号は上り向き、偶数番号は下り向き。

サハ37形(37001-37088)
1933年(昭和8年)から1936年(昭和11年)にかけて合計88両が製造された、
車体長20m級3扉ロングシートの運転台を持たない三等付随車で、窓配置2D6D6D2、
両車端部に貫通幌と引戸を装備、丸屋根、台車はTR23。
135名無し野電車区:2012/10/30(火) 14:34:43.18 ID:slvYLGa80
サロハ44形(44001-44014)
1933年(昭和8年)度に6両、1935年(昭和10年)度に8両が製造された、
車体長20m級3扉ロングシートの運転台を持たない二等三等付随車で、
二等室側面窓は幅700mmの窓を二つずつまとめ、二等室と三等室の境界には、
仕切りが設けら、二等車室には固定式クロスシートを2組×2列配置、
三等室にはロングシートを配置、両車端部に貫通幌と引戸を装備、丸屋根、台車はTR23、
また1935年(昭和10年)度からの44007-44014は鉄道省の大井工場、大宮工場で製造、
鉄道省の工場で電車が新造されたのは、1917年(大正6年)以来のことであった。

クハニ45形(45001-45006)
1936年(昭和11年)度に6両が製造された車体長20m級3扉ロングシートの、
片運転台式三等荷物合造制御車で、荷物室を運転台の後位に設置した関係で、
前面は半流型の非貫通3枚窓、荷物室には幅1200mmの両開き式の引戸が2か所設けられ、
側面窓配置はd1D(荷)1D(荷)1D6D2になり、台車はTR23。
4両は常磐線の松戸電化開業用、残り2両は山手線用に用意された。

1936年(昭和11年)の車両形式称号規程改正でモハ30形はクモハ30形、
モハ31形はクモハ31形に改称される。

大阪地区への転入
1937年(昭和12年)1月に4扉ロングシートの40系電車が新造、東京地区に集中配備されることになり、
同時に東京地区で運用されていた30系を大阪地区に転入させることが決定、片町線を始め城東線、
京阪神緩行線に集中配備され、転入した車輌は吹田工場で幌枠台を装備する改造が行われた。
136名無し野電車区:2012/10/30(火) 14:41:10.13 ID:slvYLGa80
サロハ44形の格下げ
前年の日中戦争勃発で戦時体制に入ったことで1938年(昭和13年)3月に、
京阪神緩行線の二等車も廃止され、14両全車が三等車代用として使用されることになった。
1941年(昭和16年)から正式に二等室のクロスシートと仕切り壁を撤去して、
全室三等車に変更、これによりサロハ44形はサハ37形に編入され、
(37089-37102)に改称され消滅した。外装はサロハ時代のままであった。

クモハ30形の中間車化改造
1939年(昭和14年)大阪地区のクモハ30形16両に対し、50系や40系に倣った、
中間電動車化を実施、改造施工車は前面が非貫通タイプの8両、
貫通タイプの8両が両運転台を撤去、運転台機器、乗務員扉を撤去して、
側面窓を設置して客室化、妻面の改造を行い、完全に中間車改造化、
クモハ30形のまま30800番台に改められたが、運用上不都合が生じることで、
予備形式として開けられていた20番代、モハ20形(20001-20016)に改称された。

クモハ30形の片運転台撤去
大阪地区で運用されている両運転台式クモハ30形の非貫通型12両の、
非パンタ側運転台を撤去して客室化、片運転台式にする改造が、
中間電動車化改造と同じ時期、1939年(昭和14年)から1942年(昭和17年)に、
かけて実施され、番号はクモハ31形200番代(31201-31212)に編入するとして、
運転機器や乗務員扉の撤去、側面窓の設置、妻面の改造が行われた。
この改造でクモハ30形の非貫通型は消滅した。
137名無し野電車区:2012/10/30(火) 14:46:34.16 ID:slvYLGa80
戦災と戦後の状況
本系列は戦時の通勤輸送で相当に酷使、戦争の末期に始まった米軍の空襲により、
実に4分の1弱の89両が焼失、戦後は輸送量が激増したことで疲弊の度合いを増していった。
残った車両は1948年(昭和23年)頃から更新修繕により、戦前の状況に復していったが、
それと並行して車内設備の向上等の改良も行われていった。

更新修繕
1951年(昭和26年)から更新修繕を実施、施工された工場や時期によって内容が異なるが、
ガーランド型ベンチレーターをグローブ型ベンチレーターに交換、絶縁強化、
鋼板プレスドアに交換、前面運行番号窓の拡大、行先表示窓を埋め込みの修繕が行われた。

地方への転出
30系の後継車となる40系の大量進出、新性101系の登場で、1955年(昭和30年)頃から、
置換えを本格的に開始、転用線区としては仙石線、身延線、飯田線、大糸線、
宇部線、小野田線など戦時中の私鉄電化買収路線がほとんどである。
地方に転出した30系は、その大半の線区では編成単位、2両、4両編成で運用され、
クハ36形およびサハ37形はトイレの取付が行われ、400番台に改称された。
転出後、雨水の流入による腐食防止で運転台窓や戸袋窓部分にHゴム化改造されるのが多く、
吹田工場施工車では小型化した運転台窓とともに特徴的な前面を形作ることになった。
138名無し野電車区:2012/10/30(火) 14:54:09.86 ID:slvYLGa80
低屋根化改造
トンネル断面が小さい身延線に転出したクモハ30形2両、クモハ31形8両に、
架線とパンタグラフの絶縁距離確保のため、屋根の一部を削って、
パンタグラフの取付位置を低くする低屋根化が行われた。
低屋根化された10両は800番台に改称された。

晩年
1970年代以降、4扉セミクロスシート車の60系が地方線区に転出してくると、
35系よりも座席数が少ない30系は余剰が発生、順次廃車が行われた。

保存
大宮工場で事業用(職員輸送用)として在籍していた30系2両のうち、クモハ31017が、
保存されることになり、国鉄分割民営化直前の1987年(昭和62年)3月30日付けで除籍、
JR化後は大宮総合車両センター内で保管されていたが、JR東海浜松工場から打診を受け、
2002年(平成14年)にJR東海に譲渡、同年から浜松工場の敷地に展示されている。
クモハ31017と組んでいたクモハ31092はJR化後に大宮工場で解体された。
139名無し野電車区:2012/10/31(水) 21:11:38.83 ID:fQVH+oj10
国鉄チキ10000形

コキ10000形を改造して作られたレール運搬用貨車。
重量物を扱い、夜間作業も多く発生するレール取り降ろし作業の安全性と作業効率を向上させるため試作された。
ジブクレーンや照明設備が標準装備されているほか、床下にディーゼル発電機を搭載している。
140 【東電 71.2 %】 :2012/10/31(水) 23:02:53.77 ID:JqVI+jy3O
JR東日本E241系/E541系/E741系・キヤE141系:
工事用列車の電車化及び気動車化を図る為に投入。
E241系は中央線トンネル対応で、東京総合車両センターに配置。
E541系は小山車両センターと勝田車両センターと新潟車両センターに配置。小山車は黒磯選別、勝田車は交直自動切替。
E741系は秋田車両センターと仙台車両センターに配置。
キヤは松本車両センター(小海線)・高崎車両センター(八高線)・仙台車両センター(東北ローカル)・幕張車両センター(久留里線)・秋田車両センター(東北・新潟ローカル)に配置。
小山車は東鷲宮工臨で久喜駅の中線に留置される事も多数。
141名無し野電車区:2012/11/01(木) 00:05:16.09 ID:ValB14ov0
JR北海道 キヤ183

除雪や車輛回送のために在籍するディーゼル機関車の置き換え用として、振り子式車輛の投入により余剰となったキハ183系を活用するとともに
年々減少していく機関士乗務員の代わりに運転士の確保が容易な気動車化をするために登場した形式

中間車でかつ高出力エンジンを搭載しているキハ182−1550番台を改造し、貫通ドアつきの高運転台を便所側に取り付け、2両1組で運用される。
旧客室部分は粘着力向上のために死重が積まれ、一部を資材格納用の荷物室にされている。

DE15のラッセルヘッドやDD14のロータリー装置を着脱可能にし、ロータリー装置についてはDD14と同様1エンジン又は2エンジンの使用が可能なようになっている。
2エンジン使用の場合は、DD14と同様後ろの車輛が推進役を果たす。

また、車輛回送は平地においてキハ283系10連までの無動力回送を牽引する能力があり、札サウと苗穂間の車輛回送を想定している。

全部で16両が改造され、手稲、苗穂、旭川、釧路、函館の各地に配置され活躍している。
142名無し野電車区:2012/11/01(木) 12:44:33.07 ID:QK3a1IAr0
クモハ103・102-2000番台
JR東日本が南武支線用に103系を先頭車化改造したもの。
ATC車に準じた運転台を取り付け、ワンマン化改造を施工した。
両方が先頭車化改造車の編成とクモハ103が0番台の編成があった。
143名無し野電車区:2012/11/01(木) 15:08:25.57 ID:uWi13Ycl0
国鉄32系電車
1932年(昭和7年)から1936年(昭和11年)にかけて日本国有鉄道の前身である、
鉄道省が製造した車体長20m級2扉クロスシートの旧形電車を便宜的に総称したもので、
両運転台式三等制御電動車のモハ32形、片運転台式三等制御電動車のモハ33形、
片運転台式三等制御付属車のクハ38形、運転台を持たない三等付随車のサハ39形、
片運転台式三等郵便荷物合造車のモハユニ23形、運転台無し二等三等合造車サロハ24形、
片運転台式二等三等制御車クロハ25形の計285両のことである。
32系電車は東京地区の横須賀線投入と1934年(昭和9年)須磨-吹田間が電化開業で、
電車の運転が開始されたのに伴い新製投入されたものである。

32系は横須賀線の電車運行で投入される予定だったが、20m級車体と主電動機の開発が間に合わず、
17m級11系の設計変更である12系を投入する運びとなり、横須賀線に20m級車体の投入は、
東京鉄道管理局の悲願でもあった。また阪神間では阪神電気鉄道本線および、阪神急行電鉄神戸線(現・阪急電鉄)が、
京阪間では京阪電気鉄道の京阪本線と、新京阪線(現・阪急京都線)がすでに開業、特に阪急や新京阪では、
強力な150kW、170kW級の主電動機を装備した優秀な電車が高速運転を行い、これらに対抗するため、
同線での急行電車の運行を企図した背景がある。当時としては比較的長距離の運行を想定し、
片側2扉の20m級車体にを装備したが、既に並行私鉄では全鋼製車両も存在してた状況では、
内装が木製の半鋼製の32系では、やや見劣りする感は免れなかった。

基本形式
車体の基本構成は20m級車体2扉クロスシート車で、前後扉両側に立席スペースが増大、
扉間の窓は立席スペースの2枚計4枚と2枚1組6個で計16枚になった。
車端部には貫通幌と引戸を装備し、主電動機は30系と同じ出力124kWのMT30、制御装置もCS-7、
歯車比はモハ12形と同じく高速型の1:2.26、台車は電動車がDT12、付随車用にはTR23を使用、
屋根上の通風器はガーランド型通風器を3列に配置した。
144名無し野電車区:2012/11/01(木) 15:20:41.56 ID:uWi13Ycl0
モハ32形(32001-32016)
両運転台式の2扉クロスシート三等制御電動車で前面形状は平妻の非貫通型3枚窓、
1932年(昭和7年)度中に16両が製造され、定員104名(座席68名、立席48名)、
主に増結用として使用、側面窓配置はd1D2(12)2D1d、全車上り向きにされていて、
パンタグラフは上り方の運転室側屋根に設置された。

モハ33形(33001-33136)
片運転台式の2扉クロスシート三等制御電動車で前面形状は平妻の非貫通型3枚窓、
運転室の形状は全室型、1932年(昭和7年)から1935年(昭和10年)に136両を製造、
1934年(昭和9年)度の33063から仕様が変更され、前面が貫通扉の付いた貫通型となり、
運転室側に載せられていたパンタグラフも車体後部、連結側の屋根に設置された。
側面窓配置はd1D2(12)2D2で、屋根上の通風器が3列となっている。
本系列で最も多く製造された基幹形式である。定員129名(座席74名、立席55名)、
奇数番号車は上り向き、偶数番号が下り向きに統一されている。

クハ38形(38001-38058)
片運転台式の2扉クロスシート三等制制御付随車で前面形状は平妻の非貫通型3枚窓、
運転室の形状は全室型、1932年(昭和7年)から1936年(昭和11年)に58両を製造、
32系としては最も長期にわたって製造された形式で、1934年(昭和9年)の38021からは、
前面が貫通型に変更、1936年(昭和11年)に製造された38051-058の8両は、
貫通扉が付いた半流線型となり、32系で唯一、3回も仕様が変更され、
側面窓配置は、d1D2(12)2D2、車両間に貫通幌と引戸を装備、

サハ39形(39001-39064)
運転台を持たない2扉クロスシート三等付随車で車両間に貫通幌と引戸を装備、
1932年(昭和7年)から1935年(昭和10年)にかけて64両が製造された。
145名無し野電車区:2012/11/01(木) 15:23:54.81 ID:uWi13Ycl0
モハユニ23形(23001-23005)
片運転台式の2扉クロスシート三等郵便荷物合造車で前面形状は平妻の非貫通型3枚窓、
1933年(昭和8年)に横須賀線用に5両を製造、車体は、前位より運転台、荷物室、
郵便室、三等客室に区分、定員80名(座席48名、立席32名)、郵便2t、荷物3tである。

サロハ24形(24001-24004)
運転台を持たない2扉クロスシート二・三等合造車で1934年(昭和9年)に4両を製造、
定員(二等40名、三等60名(座席32名、立席28名)、側面窓配置は2D222242D2。

クロ25形(25001-25002)
片運転台式の2扉クロスシート二・三等制御車で前面形状は平妻の非貫通型3枚窓、
横須賀線に32系が運用されると皇族の葉山御用邸往来、軍籍にある皇族の横須賀軍港へは、
20m級の貴賓車と海軍からの要望を受けて、1934年(昭和9年)に2両を製造、
定期列車への併結とされたため、運転台付きの制御車とされた。
内部の構成は12系クロ28形と同じく、運転室直後に便所と洗面室、その後位に、
区分式の貴賓室(定員12人)が置かれ、腰板には御紋章取付け用の台座が設けられた。
前位側の乗降用扉はその直後に置かれ、切替スイッチ付きのドアエンジンが装備され、
そこから後位は随伴員用の控室(二等室)となり、座席は戸袋部分がロングシート、
それ以外はクロスシートで、奇数車は上り向き、偶数車は下り向きである。
定員は貴賓14名、二等28名(座席16名、立席12人)で窓配置はd1221D2222D2。

東海道線への投入
1934年(昭和9年)9月に東京-熱海間の東海道線にも32系電車の投入が決定、
投入されたのは前面が貫通型のモハ33形16両とサハ39形16両で、8両編成で運行された。
146名無し野電車区:2012/11/01(木) 16:13:09.88 ID:uWi13Ycl0
急行電車運行
1935年(昭和10年)3月3日に京都駅-神戸駅間が電化全通すると緩行電車と、
料金不要の設定で急行電車2本を運行するとともに32系が充てられ、
編成は固定貫通4両編成、クリーム色2色塗装を施した32系で、
(神戸側)モハ33-サハ39-サロハ24-モハ33(京都側)
(神戸側)モハ33-サハ39-サロハ24-モハ33(京都側)
モハ33形は前面が貫通型が選ばれ投入、30分間隔で29往復が設定され、
2編成が4分折り返しで交互に走り、1936年(昭和11年)3月18日には、
元町駅へと延長したことで4月1日から急行が元町駅にも停車、
1936年(昭和11年)5月13日には急行用の車両として斬新な、
流線型の車体デザインを採用した50系(流電)2編成4両が投入され、
32系は急行運用から退いた。32系が急行運用されたのは1年2ヵ月だった。

1936年(昭和11年)の車両形式称号規程改正で中間電動車がモハ、
制御電動車はクモハに規定されたことで32系も改称され、
モハ32形がクモハ32形、モハ33形がクモハ33形に改称される。

クモハ33形の中間車化改造
1938年(昭和13年)横須賀線のクモハ33形8両に対し、50系や40系に倣った、
中間電動車化が計画され、改造施工車は前面が非貫通タイプの4両、
貫通タイプの4両が運転台機器、乗務員扉を撤去して、側面窓を設置して客室化、
妻面の改造を行い、完全に中間車改造化が大井工場で実施、
クモハ33形のまま30800番台に改められたが、運用上不都合が生じることで、
空いていた34形に編入、モハ34形(34001-34008)に改称した。
中間車改造されたモハ34形8両は、横須賀線に居たクハ38形の半流4両、
36055-36058と4両固定編成2本、非貫通のクハ36形と4両固定編成2本とされた。
147名無し野電車区:2012/11/01(木) 16:20:42.69 ID:uWi13Ycl0
オリンピック試験塗装
1940年(昭和15年)に皇紀2600年を記念して開催される予定だった、
東京オリンピックに先立ち、省電の塗装変更が計画され、1938年(昭和13年)、
32系にも試験塗装が行なわれることになり、塗色はB案と呼ばれた、腰板部が海老茶色、
窓回りがクリーム色になり、対象は横須賀線の2本、東海道線の1本に決定した。

38027-34007-34008-38028(横須賀線)
38029-34005-34006-38030(横須賀線)
33109-39047-39044-33113(東海道線)

戦時改造
戦時体制により1943年(昭和18年)に大阪地区のクモハ32形の12両、
クモハ33形(33039-33088)の40両を4扉化する計画が実施され、
戦局の悪化、資材欠乏などでクモハ32形4両、クモハ33形は12両が、
施工されたにとどまった。改造の施工は吹田工機部で、
施工車はクモハ42形、クモハ43形に改称、改番が実施された。
32007→42001、32008→42002、32009→42003、32010→42004、
33037→43001、33038→43002、33039→43003、33040→43004、
33057→43005、33058→43006、33063→43007、33064→43008、
33071→43009、33072→43010、33073→43011、33074→43012、

サロハ24形の格下げ
戦時体制となった後も京都-神戸間で運用されていたサロハ24形も、
1944年(昭和19年)4月1日に二等車廃止により三等車代用とされ、
扉を2か所に増設して4扉化することとされたが、戦局悪化と資材欠乏で、
1両の改造もないまま計画は中止され、サハ39形(39041-39044)に編入された。
148名無し野電車区:2012/11/01(木) 17:31:05.90 ID:2d4JKUYXO
JR貨物(日鐵運輸)M450系
M200系の派生形式で、コンテナではなくロングレール輸送用の貨物電車として開発された。
EF510型と同レベルの牽引力を持つ電動車を前後に連結して付随貨車8両を牽引する。
T450型は製造費用軽減のため、チキ新5500形のブレーキ装置を改造して充てる。
所有はJR貨物だが、レール輸送を行う日鐵運輸が第三者所有者となっており、
塗装は同社所有のチキ新5500形同様のライトグリーン塗装である。
T450形の荷重が改造に際して37tから44tに引き上げられ、100mの60Kgロングレールを
24〜28本積載可能。
新幹線用レールの輸送用であるため、横取り用架台はあるが現場投下は
考慮されていないため、投下装置はない。
同形をJR東日本が興味を示しており、採用された場合はE481系レール輸送車となる可能性がある。
東日本は投下装置付きロングレール用だけでなく、普通レール輸送用の二本立て
兼用可能に設計される予定。
なおこれもレール輸送車はコキ100-101形から改造される(4両1ユニットの
ため)事が検討され、普通レール用はコキ104形又は3両1ユニットの
コキ105形からの改造が検討されている。
149名無し野電車区:2012/11/01(木) 17:36:58.22 ID:uWi13Ycl0
戦災と戦後の更新修繕
太平洋戦争末期の米軍の空襲により、本系列では11両が被災し、廃車となっている。
戦後、戦災や戦時改造から免れ、2扉のまま残った32系は1949年(昭和24年)から、
更新修繕が行われ、ガーランド形3列通風器を屋根中心1列のグローブ形に交換、
クハ38形やサハ39形に便所取付などが行われた。

中部地区・京阪神地区への転用
1950年(昭和25年)に横須賀線と東海道線に80系が新製投入、1952年(昭和27年)には、
4扉セミクロスシートの60系が両線に投入さると、32系の京阪神地区への転用、
ならびに東海道線電化中の名古屋地区へ1953年(昭和28年)6月から転用が始まり、
京阪神地区へ転用された車輌は吹田工場で急電色、中京地区転用された車輌は、
名古屋工場、浜松工場で東海色に塗替えられた。

地方線区への転用と低屋根化改造
1964年(昭和39年)80系や60系の進出、4扉セミクロスシートの新性能105系が登場したことで、
国鉄本社では32系を何処に転用するか検討され、2扉クロスシートという装備を活かせる、
長距離路線の飯田線と身延線に転用を決定、静岡鉄道管理局は身延線への転属する車輌は、
パンタグラフが前位に在る非貫通型は飯田線、パンタグラフが後位に在る貫通型は身延線に、
配置することになり、パンタグラフ取付け部分の屋根高さを低くする改造を浜松工場で行い、
800番台に改称、同時に更新修繕で多くの貫通型が運転窓や戸袋のHゴム化などが行われた。
150名無し野電車区:2012/11/01(木) 17:39:30.71 ID:uWi13Ycl0
クハ38形の電装化
飯田線に転出した半流クハ38形38051と38052が電装化されることになり、
豊川分工場にて30系と同じ主電動機MT30、制御装置もCS-7、台車は戦災廃車で余剰品だった、
歯車比が低速の30系電動車のを使用、パンタグラフは運転室側の屋根に搭載され、
32系列で唯一、半流前面の前パンタ車となり、同時にクモハ33形200番代に編入され、
33201-33202に改称された。この2両は電動車が不足するだろうと予測されたことで、
静岡鉄道管理局が前倒しに電装化を実施した車輌であったが、飯田線に転属して来た32系は、
固定編成化が多く、結局サハ39形を間に挟んだ状態で1983年(昭和58年)8月まで使用された。

終焉と保存
最初に淘汰されたのは飯田線で使用されていた伊那松島機関区の非貫通クモハ32形4両、
クモハ33形4両、クハ38形2両、サハ39形4両が1981年(昭和56年)に廃車され、
豊橋機関区、伊那松島機関区に配置されていた残りも1983年(昭和58年)8月に廃車となった。
クモハ33023が橋機関区で保管されていたが、飯田線沿線での保存が計画され、
1991年(平成3年)に中部天竜駅構内に開設された佐久間レールパークに移された。
なお、同車は2011年(平成23年)に名古屋市港区に開館したリニア・鉄道館で、
製造時の姿に復元のうえ展示されている。
151名無し野電車区:2012/11/01(木) 20:02:18.82 ID:QK3a1IAr0
キハ48系ジョイフルトレイン「キハ・フォーティエイト」
JR東海でキハ48を改造して作ったジョイフルトレイン。
キハ48をベースに内装を改造した。
内装や塗装のデザインにSKE48のメンバーが関わったという。
152名無し野電車区:2012/11/01(木) 22:20:34.49 ID:1GF14gf80
国鉄195系貨物電車

国鉄が貨物列車の復権を賭け、コンテナ列車のさらなる速度向上を図るべく試作した貨物電車。
クコ195(Tc)+モコ195(M)+モコ194(M')+モコ195(M)+モコ194(M')+クコ194(Tc')の6両編成。
走行装置は特急型電車と共通とし、最高速度120km/hを実現した。
また、直流区間専用車であるが、機関車牽引による交流区間・非電化区間への直通も可能であった。

車体はコンテナの重量を支えるため魚腹型の側枠で荷重を負担する構造を踏襲した。
これにより床下への機器搭載が事実上不可能となる(外部からの目視検査や検修が困難)ため、
制御装置、MG、コンプレッサなどは電動車の車端部に機器室を設けて搭載している。
各車に10ftコンテナ4個、もしくは12ftコンテナ3個を搭載可能。

国鉄貨物部門の期待を背負って登場した車両であり、
貨物輸送の衰退に危機感を抱いていた労組側も試験運用には非常に協力的であったが、
通常の貨車に比べ積載量が少ないこと、貨物輸送量が大幅に増える見込みはなく現状でも機関車、貨車の余剰が
発生していることを理由に量産は見送られた。
しかし貨物電車による高速輸送の夢は消えることなく、JR貨物M250系として結実することとなる。
153名無し野電車区:2012/11/03(土) 11:12:56.69 ID:QnHbAKv1O
JR東日本キハ21 23 24形
東日本大震災とそれに続く新潟福島豪雨により、気動車の被災も多かったために
特に被害が多かった只見線などでは車両不足が表面化した。そこで只見線の
救援車両として近隣の会津鉄道に協力を求めるも車両手一杯であることから断られた。
しかしそこへ親会社の京成電鉄を通じて関東鉄道が救援車両のリースに協力出来る
回答が得られたことから2両編成2本リースするキハ2300形をキハ23形として、
4両をリースするキハ2400形をキハ24形として3年間のリース契約を結んだ。
またキハ2100形もキハ21形として1両リースされるため、計9両がJR東日本に
リースされた。
旧国鉄形式が復活したと思えるのは形式上の便宜上でそうしたためで、
実際には関鉄塗装で形式も関鉄のままで使われる。
見返りとして久留里線で廃車予定のキハ37形及びキハ30形が無償譲渡された。
関鉄はキハ37形をキハ370形として取手〜水海道間用に、キハ30形は300形に
編入して旧国鉄塗装のまま使用する予定。
キハ38形の解体部品も購入する予定で、労せずキハ100形や300形など旧式車両を
予備品を確保出来たことでキハ5000形取り替えによる引退のペースを遅くしたと言われている。
154名無し野電車区:2012/11/03(土) 22:22:19.67 ID:B0SXXGW90
クモハ52 3800番台
諸事情あってJR化後も中国地方某路線で使用されていた流電を経費節減のため単行運転できるように改造したもの。
増設側の正面デザインはクモハ113 3800番台に酷似している。
番台も一足飛びに3800番台となっているが社内で猛反対した勢力の精一杯の抵抗だったという。
また、すぐに復元できるような構造になっていたが、改造に携わった某工場スタッフが「すぐ復元できるように設計した」旨匿名掲示板に投稿されている。
2011年廃車となり、元のクモハ52デザインに復元され各地の博物館で展示されている。
155名無し野電車区:2012/11/03(土) 22:47:31.88 ID:99hVpIy20
JR東海 C231系
20XX年、東海東南海地震発生。地震により発生した津波は、名古屋港の防波堤を破壊し、
名古屋市中心部(高台になっている旧城下町を除く)まで多大な津波被害を受けた。
また、各所でで車両共々橋梁崩落、脱線、転覆、火災、暴徒化した外国人労働者による破壊などが発生し、JR東海は多くの車両を喪失した。

そこで、JR東日本は、当時廃車を進めていたE231系の無償譲渡を提案。
ドア数の違いを理由に、当初、JR東海は難色を示したものの、背に腹は代えられず、受け入れた。
譲渡に際し、廃車予定だった0番台を5両編成に改め、形式をC231系に改めた上で、
順次、震災被害が比較的少なかった中央本線経由で輸送した。

これらの車両は、長期間に渡って中央総武線で酷使されていたため、状態はあまり良くなかったが、
リニア中央新幹線が建設途中だった上に東海道新幹線が被災してしまったJR東海に、
もはや在来線の車両を新車で置き換える余裕などなく、
辛うじて生き残った他のJR東海生え抜き車共々、だましだまし使われ続けた。
その結果、JR東日本でE231系が全廃された後になってもJR東海には大量のC231系が走り続ける結果となり、
さながら20世紀末のJR西日本大阪環状線のごとき様相となってしまった。
156名無し野電車区:2012/11/04(日) 01:25:10.81 ID:1sdwdALL0
国鉄クイ151
元々クロ151として製造されるもグリーン車の上位等級が復活し
パーラーカーと個室をもつ同形式の客室がこれに割り当てられ
形式変更されたもの。

国鉄クイ181
上記クイ151が181系に改造された際に誕生した形式。

国鉄クイロ181
東海道新幹線開業により181系が山陽区間に転出したクイ181は
パーラーカー利用が芳しくなく同客室を通常グリーン車に改装
された。

国鉄クイハ181
パーラーカーを通常グリーン車に改装されたクイロ181だった
がそれでも利用率が伸びず、結局グリーン席を普通席に交換
する事になり誕生したのが同形式。昭和48年迄にクハ181-50
&60番台に改造され形式消滅した。
157名無し野電車区:2012/11/04(日) 08:35:33.81 ID:uMPLCgS8O
JR東日本クイE259
東北新幹線の「グランクラス」が好評であることから、在来線特急にも
導入の機運か高まり、既にスピードと所要時間では並行する京成に勝ち目が
なかった首都圏から成田空港を結ぶ成田エクスプレスにグランクラスが導入された。
成田空港方先頭のクロE259をグランクラスに改装し、座席数は海山6席1列の12席のみ。
グリーン車よりグレード高い車両と言うことで、1等を示すイ級を平成以降の
在来線特急に初めて導入された。
来年度には「踊り子」にもE259系が投入されるため、自ずとグランクラスの
特急が増える予定。
料金は普通乗車券にグリーン車指定席特急料金プラス3000円。
モロハE259-1550
クイE259の次に連結される半室グリーン車 普通の合造車。
成田空港方がグリーン席で8席16名定員。
158名無し野電車区:2012/11/04(日) 09:37:25.33 ID:3r+vWOon0
JR東日本 E259系直流特急形電車

東京メトロ東西線直通用に開発された、地下鉄運用可能な特急形電車

平日は朝晩の中央ライナー及び青梅ライナーとして、休日はあずさ及びかいじとして運用される。

西船橋発着で、かいじの一部が千葉発着となる。
中野〜三鷹間は中央線緩行線を走行し、三鷹で中央線に乗り入れる。

外観は成田エクスプレスに似ている。
159名無し野電車区:2012/11/04(日) 14:48:19.41 ID:sWwOcmWL0
JR東日本 キロネE185

地方ローカル線の増収のために登場した、単行ワンマン仕様の気動車
経費削減のために、ハイブリッド気動車となっている。

赤字が続く地方ローカル線の収益改善のため、全列車各駅停車の特急扱いとし、更に料金的に最大限取れる
「個室A寝台」として設定できるようにしている。

車内は片側1ドアで、長手方向にロングシートが並び、適当な長さで低いパーテーションがつく。
定員は10名だが、立席承知で同額を払えば乗せてもらえる。

第一段として只見線に導入され、地方自治体から猛反発を食らうが「それなら赤字分どうにかしろ」とJR側が開き直り
泣き寝入り状態となっている。
他のローカル線を抱える地方自治体は、次はうちかと戦々恐々としているらしい。
160 【東電 71.4 %】 :2012/11/04(日) 18:09:40.06 ID:Zp6X583xO
JR東日本E585系/西日本W585系:
寝台特急あけぼのの24/25系客車の老朽化と、EF64-1000/EF81の老朽化で電車化して効率を上げる目的で投入。
W585系は日本海/きたぐに/シュプールなどの臨時寝台列車用にJR東日本からライセンス供与。
E585系は尾久車両センターに(仙台団臨も兼ねる)、W585系は京都車両所に配置されるが、W585系は日本海/きたぐに/シュプールが運行されない期間はあけぼの運用で貸し出し。

JR東日本E28系/JR西日本W28系客車:
北海道新幹線開通にと25系の老朽化で北斗星とトワイライトの客車置き換え。
E28系はEF510-500(自社所有)、W28系はEF510-0(JRFより借用)による牽引。
161名無し野電車区:2012/11/05(月) 22:50:06.34 ID:KkjHcBfu0
クモユ445・クモニ444
国鉄が開発した特急郵便荷物車。
本当はクモユニにするつもりだったが、床下スペースの関係上クモユとクモニがユニットを組む構成となった。
歯車比は3.5に設定され、120キロ運転が可能。
485系の特急列車と連結して郵便荷物列車の速達化を目論んだ。
郵便荷物輸送廃止後も生き残り、JR東日本とJR西日本に承継され、現在は事業用車代用として使用されている。
162名無し野電車区:2012/11/05(月) 22:52:24.37 ID:u9b+uIoo0
JR東海/西日本700系(史実と異なる)

JR西日本は対航空機における競争力の強化策として500系新幹線を投入、特に速達タイプの「のぞみ」に充当していた。
しかし、軽量化のため採用されたアルミハニカム構造が高価であること、
騒音対策として客室断面積を小さくしたことによる居住性の問題、
従来の300系と座席数が異なることにより異常時の運用が制限されるなどの問題が指摘され、9編成144両で生産を終了した。

そこでJR東海と西日本は適度なコストで500系の走行性能を持ちつつ、居住性・運用の自由度向上を図るべく
新型新幹線車両を共同開発することとした。こうして登場したのが700系である。
500系と異なりT-M1-Mp-M2の3M1Tのユニット構成としたが、主電動機の出力を向上させることで300km/h走行に必要な性能を確保した。
一方、100系、300系で実績のある渦電流ブレーキは、回生ブレーキの進歩によりT車のブレーキ力を負担することが
可能となったことと、重量が大きいことから省略された。
車体はアルミ合金のダブルスキン構造とし軽量化と断熱性・静粛性向上を両立している。
その他、搭載機器の改良や小型化により軽量化された重量を乗り心地や騒音の改善に振り向け、居住性・快適性を向上させた。
懸案であった座席定員の問題も300系と各号車の定員をそろえ、運用の自由度向上を実現している。

登場以降逐次増備がなされ、100系を完全に置き換えた2003年10月のダイヤ改正以降は「のぞみ」の主力として
東海道・山陽新幹線を疾走した。また、山陽区間専用の7000番台も登場し、0系「ウエストひかり」を置き換えた。
しかし、後継のN700系が登場して以降は廃車が進む300系に代わって「ひかり」「こだま」の運用が中心となった。
現在はさらに新型のN700Aの登場がアナウンスされており、その雄姿を見ることができるのもあと数年となっている。
163名無し野電車区:2012/11/06(火) 02:59:54.63 ID:NWfeZ0cT0
> 500系と異なりT-M1-Mp-M2の3M1Tのユニット構成としたが、
> 主電動機の出力を向上させることで300km/h走行に必要な性能を確保した。

なお、この700系の先頭形状から微気圧波対策の膨らみや、乗務員扉などを省く一方
冷房機能強化や言語表示の繁体中国語表記に変更するなどの仕様変更を施したのが
日本の新幹線車両輸出第一号となる台湾新幹線こと台灣高速鐵路の700T型電聯車で
ある事は言うまでもないw
164名無し野電車区:2012/11/06(火) 07:20:05.39 ID:i/HG3Xrl0
国鉄35系電車
1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)にかけて日本国有鉄道の前身である、
鉄道省が製造した車体長20m級3扉セミクロスシートの旧形電車を便宜的に総称したもので、
片運転台式三等制御電動車のモハ35形、片運転台式三等制御付属車のクハ46形、
運転台を持たない三等付随車のサハ47形の3形式が新造され、後に30系や32系からの、
改造編入車を含むようになった。東京・大阪の都市圏内の電化工事が着々と進行すると、
省線電車の運転区間も拡大、中長距離の通勤用として、ラッシュ時にも対応出来る、
サービス提供できるよう、省電初採用の3扉セミクロスシート車として登場した。
最初に投入されたのは中央線で、翌年までにモハ35形が16両、サハ47形16両を投入、
現在の中央線は常に新車が投入されるが、当時の新車は京浜線・山手線優先で、
中央線は17mの11系ロングシートが主体で、20mで3扉セミクロスシートのモハ35形は、
座席数が増えて座れるからと乗客から好評を得た。

モハ35形(35001-35070)
1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)末にかけて合計70両が製造された、
車体長20m級3扉セミクロスシートの片運転台式三等制御電動車で、窓配置d1D6D6D2、
前面形状は平妻の貫通型となり、鉄道省初の車体後位パンタグラフとなり、
戦前の鉄道車両の製造技術が質量ともに向上していた時期に製造されたことから、
登場年次ごとに軽合金製の客用ドアを採用、1935年(昭和10年)度の35055からは、
試作要素的に張り上げ屋根を採用するなど形態が異なっていた。
両車端部に貫通幌と引戸を装備、台車はDT12、主電動機は30系と同じMT30、
歯車比は1:2.56で、奇数番号車は上り向き、偶数番号が下り向きに統一されている。
165名無し野電車区:2012/11/06(火) 07:30:02.85 ID:i/HG3Xrl0
クハ46形(46001-46020)
1934年(昭和9年)から1935年(昭和10年)末にかけて合計20両が製造された、
車体長20m級3扉セミクロスシートの片運転台式三等制御付随車で、窓配置d1D6D6D2、
両車端部に貫通幌と引戸を装備、台車はTR23、1935年(昭和10年)度の、
46015からの6両はモハ35形の35055以降と同じ、張り上げ屋根を採用、
奇数番号車は上り向き、偶数番号が下り向きに統一されている。

サハ47形(47001-47056)
1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)にかけて合計50両が製造された、
車体長20m級3扉セミクロスシートの運転台を持たない三等付随車で、窓配置2D6D6D2、
両車端部に貫通幌と引戸を装備、台車はTR23、1935年(昭和10年)度の、
47047からの10両はモハ35形の35055以降と同じ、張り上げ屋根を採用した。

京阪神緩行線への投入
1935年(昭和10年)京都駅-神戸駅間で急行電車の運行が始まると、
同時に従来から11系や30系で運行されていた緩行電車に35系の投入が決定、
張り上げ屋根を採用したモハ35とサハ47形の4両編成5本が投入された。

1936年(昭和11年)の車両形式称号規程改正で中間電動車がモハ、
制御電動車はクモハに規定されたことで35系も改称され、
モハ35形がクモハ35形に改称される。

大阪地区への転入
1937年(昭和12年)40系電車が新造され、東京地区に集中配備されることになり、
東京地区で運用されていた35系を大阪地区に転入、京阪神緩行線に集中配備され、
転入した車輌は吹田工場で運転台に貫通幌枠と幌が設置されている。
166名無し野電車区:2012/11/06(火) 07:33:26.24 ID:i/HG3Xrl0
戦時改造
1943年(昭和18年)にクモハ35形26両がセミクロスシートを撤去の上、
ロングシート(座席削減)化され、クモハ31形200番代(31231-31256)に編入、
クハ46形14両とサハ47形20両も同様に、クハ36形100番代(36101-36114)、
サハ37形20両(37077-37096)に編入された。

戦災と戦後の状況
太平洋戦争末期の米軍の空襲により、本系列もクモハ35形3両、クハ46形4両が焼失、
これらの車両は戦後、復旧車名目で私鉄に払下げられた。
35系の各形式は戦時改造によってロングシート化されたほか、戦争末期には、
輸送力強化のため更に座席を撤去、ドアエンジンの部分しか座席が存在しない車両も多く、
終戦直後の混乱期を過ぎて復興期には、これらの荒廃した車両の整備復元を目的とした、
更新修繕が1949年(昭和24年)から行われ、セミクロスシートへの復元改造を実施、
同時に元の35系に編入が行われた。

阪和線への転出
1951年(昭和26年)輸送力が急上昇中の戦時電化買収路線である阪和線に一部が転出、
京阪神緩行線に70系が投入された1953年(昭和28年)には35系の阪和線転出が本格化、
1955年(昭和30年)には全車が阪和線に転出した。

二度目の更新修繕とその他の改造
桜木町事故以降列車火災防止のためにとられた対策を取り入れ、1955年(昭和30年)に再び、
更新修繕を実施、施工された工場や時期によって内容が異なるが、主要な工事内容は、
ガーランド型ベンチレーターをグローブ型ベンチレーターに交換、 絶縁強化、
鋼板プレスドアに交換、前面運行番号窓の拡大、側面幕板の行先表示窓を埋め込みなど。
張り上げ屋根車は、この更新修繕でも普通屋根にされなかったことで、後年人気を集めた。
167名無し野電車区:2012/11/06(火) 07:57:54.17 ID:i/HG3Xrl0
地方への転出
阪和線で使用されていた35系であるが、1957年(昭和32年)には70系が投入され、
1961年(昭和36年)には東京地区から40系が転入、新性能電車107系の新製配置に伴い、
徐々に地方路線に転出、それぞれの線区の車両置き換えに伴い地方路線に転出した。
地方路線への転出に際し、使用線区の状況に対応した低屋根化や便所設置などの改造、
勾配や短駅間距離に対応するため、歯車を30系と同じ低速型に交換している。
転出後、雨水の流入による腐食防止で運転台窓や戸袋窓部分にHゴム化改造されるのが多く、
吹田工場施工車では小型化した運転台窓とともに特徴的な前面を形作ることになった。

転用線区としては、仙台鉄道管理局管内の仙石線、静岡鉄道管理局管内の身延線、飯田線、
長野鉄道局管内の大糸線、岡山鉄道管理局管内の宇野線、赤穂線、福塩線、
広島鉄道管理局管内の宇部線、小野田線など、戦時中の私鉄買収路線がほとんどで、
信越本線(新潟地区)・上越線、信越本線(長野地区)などの地方幹線にも転出、
新潟地区に転出した車輌は赤2号と黄5号に変更して使用されている。
168名無し野電車区:2012/11/06(火) 07:59:29.04 ID:i/HG3Xrl0
低屋根化改造
1966年(昭和41年)から身延線に転出したクモハ35形に対し、狭小限界トンネル通過の際、
絶縁距離を確保するため、パンタグラフ取付け部分の屋根高さを低くする改造を、
浜松工場で行い、改造後は800番台に改番された。

便所設置改造
長距離運用が行なわれる身延線や飯田線で使用されていたクハ46形とサハ39形に、
1967年(昭和42年)から1969年(昭和44年)にかけてトイレの取付けが開始された。
改造当初は原番のままで、1968年(昭和43年)5月時点で改造済みだった10両が、
400番台に改番、クハに関しては運転台の向きに応じて奇数、偶数が付された。
本改造は1970年代に入っても追加で実施された。

晩年
使い勝手のいい35系は、他旧形電車と違い、転出先の各路線においても長く活躍したが、
1970年代後半になると、さすがの35系も老朽化が覆い隠せない状態となり、
新潟各線区の信越本線・上越線・白新線・羽越本線以外は同じ3扉セミクロスシート、
新性能電車である111系・113系に置き換えが開始されるようになり、
新潟地区でも1982年(昭和57年)には全車が置換え、廃車となった。
169名無し野電車区:2012/11/06(火) 09:46:29.03 ID:4OkTmF060
719系5000番台(史実とは若干異なる)
奥羽本線の標準軌化により同線の一般列車用には719系の標準軌仕様である5000番台が投入されることとなったが、定期検査に関してはコスト削減のために東北新幹線の仙台総合車両所で行うことが計画された。
このため、定期検査のためとはいえ東北新幹線を走行して同車両所に入線する必要が生じたため、719系5000番台には東北新幹線を自力走行できる仕様が追加されることとなった。
(このため、史実のクモヤ743は誕生していない)
基本仕様は史実の5000番台と変りないが、新幹線上を自力走行するため新幹線用のATCを搭載。また、交流25000Vへの対応化が行われている。
主電動機はMT61系列(架線電圧20000V時150kW)であるが、新幹線区間では架線電圧の昇圧により主電動機出力を実効190kW程度として運用し、出力を確保している(400系と逆のパターン)。
ギア比は1:6.07から1:4.21(19:80)に変更し、160km/hで新幹線区間を走行して仙台総合車両所に向かう。160km/hという高速運転を行う車両であるが、飽くまで定期検査のための回送運転のみであるため、客室は特に気密化は行われていない。

特殊な事情から誕生した車両ではあるが、「160km/h運転が可能な普通電車」「新幹線を走る普通電車」として鉄道ファンから注目されていることは言うまでもない。
170名無し野電車区:2012/11/06(火) 22:40:27.23 ID:1QGMbOl90
鉄道省 EH10型直流電気機関車

昭和16年、増大する石炭需要を賄うために鉄道省は青函トンネルの建設と夕張線〜室蘭本線〜函館本線の
電化を進め、ついに夕張から釜石までの電化及び直通運転が開始されることになった。

夕張から釜石の製鉄所まで2000トン列車を牽引できるように開発されたのが本形式である。
EF10の片側のデッキを撤去し、2両背合連結したような形と性能であった。

この機関車の登場と、上記直通ルートが開業したわずか一カ月後に太平洋戦争が勃発したため、この機関車の登場を待っての開戦とも言われた。

戦時中は期待どおり大量の石炭を釜石製鉄所や本州に送り届ける活躍をしたが、戦争末期には長期間の酷使と空襲により稼働機が激減した。
戦後、北海道からの食糧輸送のためにGHQから最優先で整備を命じられ、昭和21年には全機再稼働にこぎつけ、再び本州の生命を支えることとなった。

のちに、後継機としてEF16をベースにしたEH16が登場し、昭和45年全車廃車になった。

現在、小樽総合博物館にマニ30の前に連結された状態で1号機が展示されているのは、この板の諸氏には周知のことであろう。
171anorak?:2012/11/11(日) 19:14:54.64 ID:CrFWEKsK0
>>126に続く平行世界もの
◎国鉄オハネシ15/25形寝台食堂合造客車
1978年 ビュッフェ
○食堂車での従業員の労働条件は厳しいものであり、車中泊となるブルートレイン等の夜行列車は顕著であった。
その為、高度経済成長により同じ賃金で楽な仕事が増加した1970年代、食堂車の従業員、特に調理師の確保が困難になり、
70年代半ば、山陽新幹線博多開業に伴って新設の新幹線食堂車に限られた調理師等の人材を優先的に集中配置した影響で、
ついに寝台特急、ブルートレインでさえも食堂車の休業、あるいは食堂車を外した列車が急増した。
夜行列車としては理想的な夜遅く出発で早朝到着の有効時間帯を乗客の平均乗車時間が超過しているにも拘わらず
食堂車無しの列車、いわゆる餌なしブルートレインは、乗客には不評であった。
76年に雪だるま式に膨張する赤字対策として76年大幅値上げの影響で、国鉄の利用客は大きく減少した。
夜行としては理想的な有効時間帯を越えてしまった列車は、航空との競争に負け、大打撃。
その様な長距離のくせに食堂車無しで給食サービスに問題があった寝台特急へのテコ入れとして
24系客車グループのオハネシ25形と14系のオハネシ15形が新造され、連結された。
本形式の意匠は、二段B寝台車オハネ15/25の車体半分を新幹線の37形をモデルとした立食ビュッフェにしたものである。
そうしたのは、列車編成の乗客定員をなるべく減らさないことから半室とし、営業形態が、調理師の確保困難から
アルバイト一人でも営業できる立ち食い蕎麦うどん屋とする為である。
そば屋の利用客の回転率を上げる為に立食とし、酔客の長い防止で酒の提供は無し。
乗降扉は車端に寝台区画とトイレ洗面区間に挟めて設置。
78年の登場直後、例えば、ゆうづる、下関あさかぜ、瀬戸、日本海、あかつき、明星、彗星に連結され、
立食蕎麦うどん屋の営業を開始。 店員は鉄道マニアのバイトが多かった。
が、しかし、それでもブルートレイン等の夜行列車の凋落は止まらなかった。
87年の国鉄分割民営化でJR各社に承継される。
バブルの崩壊以後、新幹線、航空、高速バス、格安ホテルの台頭で、夜行列車はどんどん臨時に格下げ若しくは廃止され、
定期は絶滅寸前に陥った。
2012年現在、本形式連結の立食そば屋営業は定期列車では“あけぼの“だけになってしまった。
172名無し野電車区:2012/11/11(日) 20:32:35.58 ID:tKzLC+DwO
京急1800形
京急が2000形の床下機器を流用し、600形の車体を使用して登場した車両。平成10年から平成12年にかけて製造された。
車内は600形と異なり、ロングシートと車端部はクロスシートが採用されている。
(後の600形、ロングシート化改造や新1000形初期車は、これが元にされている。)
8両6本48両と4両6本24両の合計72両が改造されて、直通に使用されている。
尚、2008年からは機器老朽化に伴い、8両編成は三菱製インバーター、4両編成は東洋製インバーターを取り付けている。
現在では8両編成がスカイアクセスにも使用され、4両編成は新1000形・600形4両編成と共に付属編成として使用される。
ちなみにスカイアクセス直通対応車は、601〜608、1121〜1153、1801〜1806となっている。
尚、この改造で不要となった2000形の車体は久里浜工場で解体された。
173 【東電 72.8 %】 :2012/11/11(日) 20:59:21.84 ID:Q9AqJDPEO
IGRいわて銀河鉄道・青い森鉄道EF510-550:
北斗星・カシオペア牽引機のIGR及び青い森乗り入れでの精算目的で投入。
551号機:IGR所有、側面ロゴはIwate Galaxy Railway・カシオペア塗装
552号機・553号機:青い森所有、Blue forest Railway・北斗星塗装。
検修業務と定期検査はJR東日本に委託。田端配置。
ちなみに東日本の訓練や貨物運用には入らない。

E28系/W28系客車・IGR/青い森・北陸新幹線並行在来線会社所有車:
北斗星・トワイライトの客車置き換えで一部ユニットに乗り入れ精算の為に中間組み込み。
外見ではJRロゴが無く、並行在来線会社のロゴがある程度(東武6050系(野岩・会津所有)と同様)で、検修・定期検査はJRに委託で、見分けが殆ど付かない。
174名無し野電車区:2012/11/13(火) 00:04:47.49 ID:PcHMg0lY0
流電 2000系5000番台 交流専用通勤型電車

つくばエクスプレス開業に伴い、千葉県に買い取ってもらえると期待していた流山電鉄であったが
そのあても外れ、このまま厳しい営業を続けなくてはならなくなったため、損失補てんをごねた結果
千葉県が「つくばエクスプレスに車輛リースさせてやる」といって購入した車輛

3編成購入し、つくばエクスプレス側が苦笑しながらリースに応じている。

外観、運用ともにオリジナルと同じだが、車輛銘版が「流電株式会社」になっている。
所属区所の標記は「流山」であるが、当然ながら一度として入庫したことはない。
175名無し野電車区:2012/11/13(火) 09:08:22.00 ID:TbqM3l2d0
国鉄40系電車
1937年(昭和12年)から1954年(昭和29年)にかけて日本国有鉄道の前身である、
鉄道省が製造した車体長20m級4扉ロングシートの旧形電車を便宜的に総称したもので、
旧形電車製造数としては日本最大級となり、製造期間が15年と長期間に渡り量産された。
また鉄道省車輌では、初の4扉鋼製車体で、圧倒的な輸送力・客扱能力を有し、
50系と同じく固定編成を前提のもとで設計、新製投入は東京地区に集中投入され、
輸送力増強を目的に開発された電車であるが、21世紀現在に至るまでJRや大手私鉄で、
ラッシュ輸送に広く用いられている全長20m片側4の通勤輸送向け電車の元祖となった、
日本の鉄道史上画期的な存在である。

運転台無し三等中間電動車のモハ40形、片運転台式三等制御電動車のクモハ41形、
片運転台式三等制御付属車のクハ48形、運転台無し三等付随車のサハ49形、
4形式2064両を指し、50系に続き、運転台が無い中間電動車モハ40形が採用され、
車両の最大長は、連結器長を縮めて車体長を19.5メートルに延長、収容力を増加させ、
幅1000ミリの片開き扉が片側4か所に設置、扉は車端側から2枚ずつ車体中央に、
引かれる構造となり、窓上下に帯が巻かれ、扉間の窓は幅800mmの2段上昇式が4個並び、
運転台後部の窓だけは500mmとされ、前面は半流線型の非貫通3枚窓、連結側は切妻型、
屋根上の通風器は大型の押し込み型が電動車は6個、制御車と付随車は7個並んだ。

主電動機は50系MT36の改良強化型である端子電圧750V時、定格出力142kWのMT40を搭載、
電機子軸受にローラーベアリングを採用、独立した冷却ダクトを持ち、ロングランや、
過負荷へのゆとりがあった。制御装置は次世代の電動カム軸式制御器はCS10を搭載、
台車はローラーベアリングを採用した新台車、DT13が標準台車となった。
176名無し野電車区:2012/11/13(火) 09:15:46.75 ID:TbqM3l2d0
モハ40形(40001-40504)
1937年(昭和12年)から1954年(昭和29年)にかけて合計504両が製造された、
車体長20m級4扉ロングシートの運転台を持たない三等中間電動車で、窓配置2D4D4D4D2、
両車端部に貫通幌と引戸を装備、パンタグラフの搭載位置は制御電動車と同じ法則で、
台車はDT13、奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向き。

クモハ41形(41001-41686)
1937年(昭和12年)から1954年(昭和29年)にかけて合計686両が製造された、
車体長20m級4扉ロングシートの片運転台式三等制御電動車で、窓配置d1D4D4D4D2、
運転台後部の窓だけは幅500mmとされ、前面は半流線型の非貫通3枚窓、運転室の形状は全室型、
車端部に貫通幌と引戸を装備、パンタグラフはPS13型を運転席側の屋根に搭載され、
パンタグラフの鍵外し線は当時としては珍しく、屋根内側に配線、運転室内に引込まれ、
レバー型スイッチで上下操作が出来るようにされていた。台車はDT13。
奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向き。

クハ48形(48001-48462)
1937年(昭和12年)から1954年(昭和29年)にかけて合計462両が製造された、
車体長20m級4扉ロングシートの片運転台式三等制御付随車で、窓配置d1D4D4D4D2、
運転台後部の窓だけは幅500mmとされ、前面は半流線型の非貫通3枚窓、運転室の形状は全室型、
車端部に貫通幌と引戸を装備、台車はTR23。奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向き。

サハ49形(49001-49412)
1937年(昭和12年)から1954年(昭和29年)にかけて合計412両が製造された、
車体長20m級4扉ロングシートの運転台を持たない三等付随車で、窓配置21D4D4D4D2、
両車端部に貫通幌と引戸を装備、台車はTR23。

前面の変更
1941年(昭和16年)6月以降の新造分から52系制御付随車のクハ59形と同じく、
前面は半流線型の貫通で新造、先頭車同士の連結の場合、東京地区の電車は車輌間の行き来は、
行わない方針だったので、幌枠の台座は設置されて無く、スマートな印象を与えた。
177名無し野電車区:2012/11/13(火) 09:21:25.16 ID:TbqM3l2d0
改造編入
1943年(昭和18年)戦時体制下の輸送力増強で、2扉クロスシート車のクモハ32形から10両、
クモハ33形からは20両が4扉改造、40系に編入が計画されたが、資材不足などで実際には、
クモハ32形から4両、クモハ33形からは12両が施工されたに過ぎなかった。
改造の施工は吹田工機部で、施工車はクモハ42形、クモハ43形に改称、改番が実施された。
32007→42001、32008→42002、32009→42003、32010→42004、
33037→43001、33038→43002、33039→43003、33040→43004、
33057→43005、33058→43006、33063→43007、33064→43008、
33071→43009、33072→43010、33073→43011、33074→43012、

戦災と戦後の状況
本系列は、東京地区で使用されたことから太平洋戦争末期の米軍の空襲により、
モハ40形9両、クモハ41形15両、クハ48形11両、サハ49形13両の計48両が焼失した。
この他、33形から改造後に40系編入した5両も焼失、焼失した車体は復旧されたが、
輸送需要の急上昇で、一日でも早く復旧させるために資材と工期を節約目的で、
屋根の骨組以外は木造で作られ、絶縁関係の脆弱であり、ガラスの節約で側面の窓は3段に区切られ、
中段は固定、下段と上段が開けられるように作られていて、極めて粗悪かつ不完全な車輌であった。

連合軍専用車
1946年(昭和21年)日本に進駐した連合国軍の専用車として本系列も接収され、
計20両に指定が行われ、これらは窓下に白帯を巻き、「U.S.ARMY」「U.S.MILITARY CAR」、
「U.S.ARMY SECTION」「ALLIED FORCES CAR」などの標記がなされた。

前面の再変更
1941年(昭和16年)6月以降の新造分から前面は半流線型の貫通で新造されたが、1946年(昭和21年)度の新造再開時に、
前面が再び半流線型の非貫通に戻されて新造、以後新造終了まで非貫通のままで新造された。
178名無し野電車区:2012/11/13(火) 09:29:51.62 ID:TbqM3l2d0
ジュラルミン電車
1946年(昭和21年)復興名目で製造メーカーは電車の新造を再開したが、資材不足は深刻で、
戦時中に航空機の外板に使われていたジュラルミンが余っていたことに目を付け、
川崎車輛で製造した40系のうち12両の外板にジュラルミンを張り、製造した。
これは日本で初めて軽合金製外板を車体に用いた電車であるが、骨組みは普通鋼を用いていて、
外観は溶接構造ではなく戦前型電車のようなリベット留め、クリアーのアクリル塗料を塗り、
1編成は細い青色帯、もう1編成には細い水色帯を入れて、アクセントにして、
番号は900番代を割り当て、京浜線と山手線に投入、照明に蛍光灯を試験的に採用したため、
車内も明るく、乗客や沿線住民から「ジュラ電」と呼ばれて注目を集めた。

クモハ41901-クハ48901-クモハ41903-サハ49901-サハ49902-クモハ41902(京浜線)
クモハ41905-サハ49903-モハ40901-サハ49904-モハ40902-クハ48902(山手線)

もともと腐食しやすいジュラルミンの為、検修区では頻繁に外板整備が行われていたが、
経年電蝕により、1954年(昭和29年)頃から車体に劣化が見られ始めたことで、
1956年(昭和31年)頃に12両とも普通鋼外板に改造された。

40系電車の私鉄導入
私鉄各社は太平洋戦争中の酷使や戦災の結果、多数の電車が損耗し、一方で買い出し客を中心に、
輸送需要が急増加したことで、1946年(昭和21年)から運輸省の統制の下、
大手私鉄に運輸省標準型電車として40系電車を割当供給し、その代わりに中小型車を、
地方中小私鉄に譲渡させることになった。その際、40系電車の割当てを受けたのは東武鉄道、
東京急行電鉄(小田急電鉄・相模鉄道)、名古屋鉄道、近畿日本鉄道(南海電気鉄道)、
山陽電気鉄道の各社線で、1948年(昭和23年)までに合計120両が各社に供給された。
割り当てられた40系電車は、クモハ41形、クハ48形、サハ49形の3形式で、国鉄が一括発注、
各私鉄に割り当てたため、国鉄番号を持つが、国鉄に車籍編入されたことはない。

色見本電車
1948年(昭和23年)山手線所属の電車に試験塗装が6両編成6本に行われ、それぞれ黄緑、
青緑色、青色、水色、橙色、白色に塗られ、色見本電車と呼ばれた。
179名無し野電車区:2012/11/13(火) 10:07:41.55 ID:TbqM3l2d0
桜木町事故
32系改造車で戦災復旧車、戦後製造された40系電車は、資材欠乏と工期短縮により、
簡易化構造で極めて安全性に欠けるもので、新製早々に漏電で全焼する事故が相次いでいた中、
1951年(昭和26年)4月24日、京浜線桜木町駅付近で、切断事故によって垂下していた架線に、
モハ32形から4扉化改造編入、戦災復旧されたクモハ42形が接触短絡、クモハ42003は全焼、
2両目のクモハ43007も車体半分近くまで半焼、焼死者96人・重軽傷者53人を出す大惨事となり、
屋根に木製を使うなど可燃性が高いた車体で、旅客の脱出が困難という車体構造の欠陥、
尚且つ満員状態で、クモハ42003が増結されていた都合上、2両目のクモハ43007と貫通されて、
なかったことで被害が拡大、この火災事故の衝撃は強く、以後「桜木町事故」と呼ばれ、
国鉄戦後五大事故の一つとされている。

更新修繕
この事故後、即座に40系全車、とくに戦時中製造車に対して集中的に行われ、集電装置の二重絶縁と、
集電板の取替え、主回路、補助回路の改良、保安向上、電流遮断器の増設、 車内への耐火塗料の塗布、
車内天井を鋼板に交換し絶縁を強化、ドアコックの設置など、非常時の脱出が安易な構造に、
徹底的な改善・改修が行なわれ、外装ではパンタグラフ母線および空気配管の隠蔽が行われた。
この工事は1956年(昭和31年)までの間に国鉄工場・民間車両メーカーを総動員して行われた。

4扉改造編入車の事業用車へ改造
32形、33形からの改造編入車は全て、国鉄工場で車両基地内での入換、回送時の牽引車・控車、
などに充当される事業用車、クモヤ90形に改造されたことで、42形と43形は消滅した。
0番台(元クモハ43形→クモヤ90001-90013)
1951年(昭和26年)にクモハ43形改造車をベースに改造、側面窓は3段窓のままで、
中段も上昇式に変更、両運転台化を施されたが、比較的原型を保っていた。
20番台(元クモハ42形→クモヤ90021-90023)
1951年(昭和26年)にクモハ42形改造車をベースに改造、側面窓は2段窓に変更された。
180名無し野電車区:2012/11/13(火) 10:20:32.66 ID:TbqM3l2d0
台車の変更
1952年(昭和27年)度製造分から台車の変更が行われ、電動車はプレス材溶接組み立て構造の、
上天秤式ウィングばね式台車であるDT20(電動車)を採用、制御車と付随車は一体鋳造による、
軸ばね式台車のTR48を採用し、従来とは一線を画する乗り心地を実現している。

試作全金属製造(950番台)
1954年(昭和29年)40系の最終8両の車体を軽量構造の全金属車体で組立、
車体側面は従来車にあった窓上下の補強帯を外板の内側に隠し、雨樋を高い位置に置いて、
幕板に埋め込み、内装についても木材の使用をやめて全金属化、窓もアルミサッシの2段窓とし、
室内灯に蛍光灯が採用されている。クハ48形の前面には行先表示器が本格的に採用され、
これにより、当時の国鉄通勤形電車前面形態の基本形が確立した。
番号はジュラルミンの次として、950番代が付番され、(41951-49951-49952-41952)4両、
(48951-40951-40952-48952)4両で、山手線に投入、この全金属車で、40系電車の新製は終了、
以後の通勤型4扉車増備は、101系などの新性能電車に引き継がれていくことになる。

試験冷房改造
1956年(昭和31年)大手私鉄の特急車輌などに冷房装置を搭載した車輌が登場したことで、
国鉄でもサービス格差を改善する目的、将来の通勤車輌への搭載、冷房方式の比較・検討のため、
三菱電機が試作した内部に2基の大型ユニットクーラーを収めた集中型AU20Xを、
クモハ41067-サハ49302-サハ49191-クモハ41122の4両編成に搭載、
東芝が試作した三菱電機と同じ2基の大型ユニットクーラーを収めた集中型TSU50Xを、
クハ48087-モハ40055-モハ40196-クハ48106の4両編成に搭載、冷房装置を搭載するにあたり、
車輌中央部の両側面に補強を入れ、鉄製窓枠をアルミサッシに変更、冷房電源用のMGは、
クハとサハに搭載したことで車輌間の切り離しが行え無い固定編成化された。
181名無し野電車区:2012/11/13(火) 10:52:06.27 ID:TbqM3l2d0
60系への編入
1960年(昭和35年)に新性能通勤電車103系が投入されると、余剰となった40系の転出が始まり、
転用先の中央東線や東北線、山陽線などの長距離路線では4扉ロングシートの通勤車による、
長距離運転が不評を買ったことで、同じ4扉セミクロスシート車の60系に編入改造するこが決定、
改造はロングシートを撤去、セミクロスシートを設置、グローブ形通風器を押込形通風器に、
交換する改造が1964年(昭和39年)から大井工場、大宮工場、名古屋工場などで行われ、
同時に編入改番が行われ、モハ40形がモハ62形、クモハ41形がクモハ63形、
クハ48形がクハ68形、サハ49形がサハ69形に改番が実施された。

アコモ改善工事
1964年(昭和39年)から内装や窓サッシ等の更新工事が行われ、側面窓のアルミサッシ化、
内装を一旦外し、木製内装をアルミデコラ化粧板に変更、床も鉄板とリノリウム貼り、
シート色を深緑から青色に変更、室内灯は白熱灯から蛍光灯に変更されている。
このメニューは60系編入車以外の全車が対象、初期製造分から実施される予定だったが、
実際には後期製造分から順次、行われた。

第一次先頭車化改造
1968年(昭和43年)以降、さらなる地方転出が進み、短編成化されると先頭車が不足したことから、
モハ40形20両が運転台取付改造され、クモハ41形1000番台に編入、運転台はパンタグラフ側とされ、
前面形状は切妻型のHゴム化された非貫通3枚窓、運転席窓上に行先表示器と運行番号表示窓を装備、
これらは施工された工場や、時期によって細部の仕様が異なっていた。
奇数車は上り向き、偶数車は下り向きにされていた。

第二次先頭車化改造
1970年(昭和45年)短編成化にともない不足する先頭車を補うため、モハ40形16両に、
運転台を取り付けたクモハ73形1100番台が製作された。本番台は、奇数番号車と偶数番号車ともに、
1000番代と形態が異なり、奇数番号車は下り向き、偶数番号車は上り向きに運転台を取付たため、
全車が後部にパンタグラフが有り、さらに運転台窓は高運転台構造のHゴム3枚窓となっていた。
182名無し野電車区:2012/11/13(火) 11:21:58.52 ID:TbqM3l2d0
2パンタグラフ搭載車
仙石線に転用されたクモハ41形41471・41496の2両に冬季の架線霜取用として、
屋根後部にもパンタグラフを搭載する改造が1972年(昭和47年)に盛岡工場で実施された。

事業用車への改造
1970年代始め、余剰となっていたモハ40形をベースとして製作、車両基地内での入換や、
回送時の牽引車・控車などに充当されるもので、高運転台構造の両運転台化を施され、
運転台正面中央窓が下に長くなり、特長的な前面となっていた。
首都圏・中京・京阪神向けに配属されたが、ATC化の煽りや101系改造のクモヤ145形が配属されると、
豊田・小山・新前橋・松本・沼津・静岡・神領・大垣・森ノ宮・奈良・網干、岡山・広島・下関の、
各地方基地への転属が相次ぎ、国鉄末期には静岡・長野の2両を残して廃車された。
クモヤ90形100番代(90101-90115)
ブレーキ系統の新旧読替機構(自動ブレーキ・電磁直通ブレーキ)を追加、
保安性を向上し、耐寒耐雪仕様となっている。
クモヤ90形800番台(90801-90805)
中央本線系統の小断面トンネルに対応したパンタグラフ部分のみを低屋根とし低屋根、耐寒耐雪仕様で、
外装は100番台と同様な仕様だが、前照灯を窓下配置のシールドビーム2灯形とされたのが特徴。

架線試験車
1969年(昭和44年)新性能電車の配置で余剰となった40系を架線試験車に改造、
クモハ41157-モハ40091-モハ40302-クモハ41198の4両が充てられ、
モハ40の車両中央付近の屋根には架線観測用のドームが上方へ張出しているほか、
検測時に架線を照らす投光器が設置され、観測室、測定室が設置されており、
クモハ41157には倉庫、電源室、41238は暗室、整理室、寝室が備えられた。
183名無し野電車区:2012/11/13(火) 11:24:45.00 ID:zqtGgYHe0
201系500番台
国鉄が1985年から製造した201系の最終形態。
台車がボルスタレスのDT50/TR235に変更された。
戸袋窓が廃止されている。
当初は1987年で製造を中止するはずだったが東中野事故が起きたため1989年に19両追加製造された(1編成に生き残りのクハ201-3を組み込んだため)。
184名無し野電車区:2012/11/13(火) 11:36:16.27 ID:TbqM3l2d0
その後の状況
40系は4扉車体による圧倒的な輸送力・客扱能力を活かし、山手線・京浜東北線や、
中央線(中央快速線)・常磐線、後に城東線・西成線(現:大阪環状線の前身)、
片町線(現:学研都市線)、京阪神緩行線など各通勤路線で広く用いられたが、
新性能電車101系、103系が登場、徐々に勢力を広げると大都市での用途を失い、中央東線、
東北線、山陽線、などの中長距離路線に転用、1970年代は新たに電化された御殿場線や房総地区、
呉線、仙石線や可部線に転用、一部のクハ48形・サハ49形にはトイレのを取り付けが行われた。
また特殊用途の運用例としては、1971年(昭和46年)から1975年(昭和50年)の年末年始に、
日本海産特産物の臨時荷物輸送列車として村上駅-大垣駅(東京駅経由)間という、
長距離運行を行なったことがある。40系は1981年(昭和56年)から廃車が始まり、
1987年(昭和62年)頃には、ほとんどが廃車されていた。また60系に編入された車輌も、
使い勝手が良いことから国鉄末期まで残っているのが多く、事業用車も国鉄末期まで残っていた。

保存車
クモハ41001が廃車後、大井工場で保管されていたが、2007年(平成19年)10月に、
さいたま市大宮区に開設された鉄道博物館で保存展示され、大宮工場で職員輸送用として、
在籍していたクモハ41形2両サハ49形1両の3両編成、41237-49303-41238も動態保存が決定、
JR東日本管内でイベント用として運行、2002年(平成14年)に電磁直通ブレーキを装備して再復活、
1986年(昭和61年)に陸前原ノ町電車区で廃車、留置されていた前面貫通型のクモハ41316が、
民営化後のJR東日本によって大井工場に搬入され修復、一旦は宮城野電車区で保管されていたが、
1998年(平成10年)に大井工場に移動、同工場で保管、2010年(平成22年)にJR東海から、
名古屋市港区に建設が進められていたリニア・鉄道館で保存したい打診を受けたことで、
JR東海に譲渡され、2011年(平成23年)に名古屋市港区に開館したリニア・鉄道館で、
製造時の姿に復元のうえ展示されている。
185名無し野電車区:2012/11/13(火) 19:32:16.72 ID:533SKuZhO
301系 クハ301-9〜
昭和44年に作られた301系の最終型。千代田線向けに作られ、5連を2本連結した
10両編成として5連6本30両が作られた。
AU712による冷房改造も行われたが、当初更新後の付属編成用を行わない方針
となったため、中間車両が東西線向けに三鷹に転属された車両を除いて平成4年に
廃車された。
103系1200番台 クハ103-1206〜
昭和57年に7両編成2本作られた最終型。この車両ははじめからAU75Bの冷房準備を
行っている。また高運転台になっているのも識別点。
平成元年に冷房改造された際に一度常磐快速用として一時的に松戸へ転出。
平成5年に郡山工場で更新された際に1000番台のモハユニットとサハ103を組み込み
10両貫通で復帰した。
E231系に取り替えられる平成19年まで使われた。
186 【東電 59.3 %】 :2012/11/14(水) 06:08:35.30 ID:gxSTNg4HO
JR東日本205系5900番台:
モハ205/204を改造してPMSM試験用に改造。
埼京線ではE233-6000投入で余剰になる205系の中で事故で片割れユニットのハエ24編成を改造。
モハ204-386→5901側には三菱製PMSM、モハ205-388→5901側には日立製PMSM。
横浜線でもE233-6000投入で余剰となる205系の中で異端の6ドア無し編成のH28編成の大船寄り1ユニットを改造。
モハ205-5902には東芝製PMSM、モハ204-5902には東洋製PMSM。
205系6000番台:
前述のPMSMを鶴見線と浜川崎支線で投入。
・浜川崎支線がクモハ205-6000+クハ204-1300(南武線クハ204-1200を転用)
・鶴見線がクハ205-1400+モハ205-6000+クハ204-1400(共に南武線クハ1200番台を転用)

ちなみに、浜川崎支線の1000番台は寒冷地改造・貫通化改造して高崎転属(107系の一部を置き換え)、鶴見線の1100番台は秩父鉄道に売却。
187名無し野電車区:2012/11/16(金) 09:43:43.22 ID:+DNmqdUQ0
国鉄50系電車
1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にかけて、日本国有鉄道の前身である、
鉄道省が製造した車体長20m級2扉クロスシートの旧形電車を便宜的に総称したものである。
京阪神地区固有の急行電車として計画、それまでの日本における電車原則に反する、
「運転台のない中間車にモーター搭載」とする中間電動車方式を日本初、鉄道省初採用とし、
1936年(昭和11年)1月31日の車両形式称号規程改正で車両の種類を表す記号が変更、
それまでの電動車は全てモハが使われていたが、改正後は動力装置のある運転台車両は、
クモハに名称が変更、50系は最初にクモハが使われた車輌で、4両固定編成を組むことを前提に、
各部の設計が行われて、汎用性を重視する戦前の鉄道省制式電車としては極めて異例の車両である。
基本設計は32系電車に準じ、主電動機は出力136kWのMT36、主制御器はCS7、歯車比1:2.04、
車体形状に当時世界的に流行していた流線形を取り入れ、電気溶接による全溶接構造、
加えて側窓上下の補強用帯を外板裏側に隠した、ノーシル・ノーヘッダー方式を採用、
併せて雨樋を屋根肩部からより上部に移設して、幕板と屋根板肩部を一体とした、
張り上げ屋根方式を採用したこともあって、非常に平滑なすっきりとした外観となった。
また、連結面は完全な切妻とされ、編成としての美観を考慮したデザインとなり、狭窓の初期2編成は、
裾部が丸め込まれた床下のスカートを装着して流麗にまとめられ、当初は「魚雷形電車」と形容され、
後には「流電」の愛称で親しまれたが、床下機器の保守の障害、乗務員扉を省略したことで、
さまざまな不便が生じ、実務にあたる運用・保守の双方から大きな不評を買い、スカートの撤去、
乗務員扉の増設が行われ、各部の改善は52系製造に引き継がれ、本格的な特急形車両開発の礎となった。
188名無し野電車区:2012/11/16(金) 09:45:08.70 ID:+DNmqdUQ0
モハ50形2両(50001-50002)
1936年(昭和11年)度に計2両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
運転台を持たない三等中間電動車で、鉄道省初の中間電動車で、窓配置2D2(12)2D2、
両妻面は切妻型、パンタグラフは番号に関係無く、下り向きの屋根上に搭載、台車はDT12A、
車両間に貫通幌と引戸を装備、屋根上の通風器はガーランド形を1列配置されていた。

クモハ51形2両(51001-51002)
1936年(昭和11年)度に計2両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
片運転台式三等制御電動車で、運転室は全室型、前面は半径1200mmと半径2800mmの円を組み合わせた、
半楕円形の周上に4組の平板ガラス窓を配置、窓柱を15度内側に倒した流線形の前頭部で、
窓配置3D2(12)2D2、パンタグラフは車体後方の屋根、連結側に設置、連結面の妻面は切妻型、
車両間に貫通幌と引戸を装備、屋根上の通風器はガーランド形を1列に配置、台車はDT12A、
全車が番号に関係無く上り向きにされていた。

サハ55形2両(55001-55002)
1936年(昭和11年)度に計2両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
運転台を持たない三等付随車で、窓配置2D2(12)2D2、車両間に貫通幌と引戸を装備、
屋根上の通風器はガーランド形を1列に配置、台車はTR23。

クハ56形2両(56001-56002)
1936年(昭和11年)度に計2両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
片運転台式三等制御付随車で、運転室は全室型、前面は半径1200mmと半径2800mmの円を組み合わせた、
半楕円形の周上に4組の平板ガラス窓を配置、窓柱を15度内側に倒した流線形の前頭部で、
窓配置3D2(12)2D2、連結面の妻面は切妻型、車両間に貫通幌と引戸を装備、屋根上の通風器は、
ガーランド形を1列に配置、台車はTR23、全車が番号に関係無く下り向きにされていた。
189名無し野電車区:2012/11/16(金) 09:48:13.16 ID:+DNmqdUQ0
1936年(昭和11年)3月31日付で4両1編成が川崎車輛兵庫工場で製造、4月22日に2編成目も製造、
急行運用に使用が開始されたのは同年7月1日で、竣工直後の編成は以下の通りで、
東海道線基準で京都寄りにクモハ51形、神戸寄りにクハ56形を連結した。
51001-55001-50001-56001
51002-55002-50002-56002
当初は従来通りの葡萄色を主体として、扉と窓枠、スカートがベージュ、さらに屋根を灰色に塗装、
比較的地味な塗装であったが、すぐに窓周りをクリーム色、幕板と腰板をマルーンの2色、
急電色に変更された。二等車が必要な場合はサハ55形を外し、32系サロハ24形を連結して対応、
1937年(昭和12年)10月にはサハ55形にトイレを設置、全車のスカート撤去、
およびクモハ51形、クハ56形に乗務員扉の設置が行われた。

急行電車運休
1940年(昭和15年)以降は電力事情の問題から急行電車も運休となる事例が出始め、
1942年(昭和17年)11月のダイヤ改正で急行電車の運転を中止された。

戦時改造
戦時体制による輸送強化で、50系も3扉化改造計画が浮上、この計画は戦争の激化による物資の不足、
人手の不足により、1両の改造もないまま終戦を迎えた。

戦後
本系列での戦災廃車は1両も無く、戦時中に扉を増設する等の車体改造は行われなかったが、
クロスシートを撤去、座席のロングシート化が行われており、戦時中の酷使や、戦後の乗客の急増、
整備の不徹底によって荒廃した状態となっていたが、1948年(昭和23年)には戦後いち早く整備が行われ、
戦前の設備が復活、乗客に喜ばれた。
190名無し野電車区:2012/11/16(金) 10:19:12.59 ID:zloJrPzwO
東武2000系(もしも、東急が屈した場合)
18mという要件を押し通した東急が突然東武の要件を飲まざるえなくなった。
20mという点以外は変わらないが、最終的に強度不足で冷房が取り付けられず廃車となった。
その後、関東私鉄はすべて先頭車20.14m?中間車20mというガイドラインが早々と導入されることになる。
191名無し野電車区:2012/11/16(金) 10:37:33.48 ID:+DNmqdUQ0
急行電車復活と阪和線転用
1948年(昭和23年)10月1日に京都-神戸間で急行電車の運行が復活することになり、
4両編成2本が急行運用に入る為、車体塗色を「アイスキャンデー色」と呼ばれる濃淡の青色で塗分け、
その塗分け部に赤線を配した塗色に改められた。1950年(昭和25年)8月から同年9月にかけて、
80系電車が宮原電車区に新製配置、同年10月1日より急行電車に投入されるまで使用され、
その後は阪和線の特急電車運用に転用する為、1950年(昭和25年)9月より本系列を吹田工場で、
車体塗色を緑1号と肌色に近いクリーム3号のツートンカラーに変更して鳳電車区への転属を実施、
この特急色は後に阪和色と呼ばれた。

飯田線に転用
阪和線では年々、乗客の増加が激しくなり、特急運用にも30系、35系の3扉車が活用される状況で、
1955年(昭和30年)から阪和線に70系電車の新製配置が開始されると、乗客から2扉車の50系が、
敬遠されるようになったことで、阪和線での50系運用が難しく、限界に達したと判断され、
日本国有鉄道本社では50系の転用先が検討され、「流線形電車」という記念碑的な車両をどこに、
転用するかが話題となっていたが、2扉クロスシートという装備を活かせる長距離路線を探した結果、
飯田線と身延線が候補に上り、低屋根改造を要しない飯田線に転用されることとなり、
1956年(昭和31年)4月に鳳電車区から豊橋機関区に転属、一旦は4両編成で普通列車に使用され、
同年10月からは飯田線に快速列車が設定され、50系が使用されることとなると、豊川分工場に入庫して、
窓周りを黄かん色、幕板と腰板を緑2号に塗り分けた東海色とされ、快速運用に入ったが、
運転台が広過ぎるのが徒となり、一人乗務の運転士では単線区間の通過駅でのタブレット授受に、
支障をきたすと言うことで、急遽快速使用を止めたが、翌年3月には運転士2人乗務制となることで、
快速運用が復活するが、1961年(昭和36年)3月31日に80系最初期車4両編成が快速運用に充てられると、
快速運用から外され、以後は普通列車に使用、豊橋機関区から伊那松島機関区へ転属、
1968年(昭和43年)以降は横須賀色と塗替えられた。
192名無し野電車区:2012/11/16(金) 10:38:57.64 ID:+DNmqdUQ0
終焉と保存
50系電車は旧形国電最末期の1983年(昭和58年)8月まで使用、戦前の鉄道省を代表する電車なので、
廃車後は第1編成を残し、第2編成が早々と解体されるため、東海道線を上り、横浜で折り返りて、
大船工場に入庫、同工場で解体され、同年8月31日に第1編成が「さよなら運転」と称して、
豊橋-大阪間に臨時運行され、運行終了後は吹田工場に入庫、そのまま4両編成のまま保管されていたが、
国鉄民営化後にクハ56001とモハ50001は末期姿のまま、国鉄吹田工場玄関前に展示されることになった。
残りのクモハ51001とサハ55001は一時期、解体の危機に瀕していたが引続き、吹田工場で留置、
2010年(平成22年)10月にJR東海から名古屋市港区に開館予定のリニア・鉄道館で、
展示する打診を受けたことで、JR西日本からJR東海に譲渡されることが決定、譲渡にあたり、
吹田工場で製造時の姿に復元され、2011年(平成23年)3月14日から同舘で展示公開されている。
193 【東電 72.2 %】 :2012/11/16(金) 12:47:49.30 ID:b6MdMfoLO
>>190
東武2000系(20m車)冷房改造車:
強度不足で廃車とされると思いきや、アルナ工機で車体補強工事をして、1720/1800系同様のキノコ形冷房改造をした(ファンデリアを冷房送風口に改造)。
同時に地下鉄内の熱籠もりで営団から苦情が来るので、電機子チョッパに改造(サヤ8001で試験)直巻電動機をそのまま使う為、9000系量産先行車搭載の主回路チョッパや10000系の抵抗併用界磁チョッパは採用しなかった。
CPはDH-25DからHB-2000に交換し、CP設置車を削減。MGはBLMG
20000系投入後は、業平橋線系統では使いづらいので東上線に転属して地上専用になった。
東上線ATC化に伴い全廃。

東武20000系/20050系/20070系(20m):
2000系の冷房改造でも陳腐化が激しかった為、10000系をベースに投入。また、20m故に東上線の有楽町線直通用編成も製造。9000系量産車は3編成(9102F〜9104F)に留まり、1988年の3(21001F〜21003F)編成と1991年の1編成(21004F)は20000系となった。
ちなみに9050系は製造されず、有楽町線新線に伴う増備は20050系になった。
東上線20000系/20050系:
21000-22000-23000-*24000-25000-26000-*27000-28000-29000-20000(*はサハ)
194名無し野電車区:2012/11/17(土) 11:48:26.58 ID:GPPBetOIO
>>193
東急9050系
7000系の代替として平成元年より投入された9000系の日比谷線対応型。
VVVF装置が東横線用の日立ではなく東洋電機GTOになっているのが区別点である。
8両編成7本投入され、間合いで東横線の地上運用にも使われている。
2012年の直通運転廃止を前に大井町線に転用された9000系のデハ及びサハを
組み込んだ10連化した上で田園都市線への転用を開始。現在残り3編成が最後の運用に就く。
これらの残りと田園都市線2000系全ては豊橋鉄道へ、8500系の8542Fは富士急行へ
それぞれ譲渡されることになっている。
富士急は8500系を7000系として富士登山電車用とフジサン特急用として
3連3本の陣容とする予定で、現行フジサン特急の2000系はしなの鉄道169系の
保守部品取りとして全て廃車され、現行の富士登山電車は銚子電鉄へ無償譲渡される。
195名無し野電車区:2012/11/18(日) 01:10:26.21 ID:e67iuXOc0
クモヤ90-920番台。
牽引用クモヤ90のうち数両は全金属製モハ72-920番台から改造された。
前面はクハ79-920を貫通型にしたような形、最終に改造されたものはクモヤ145などと同じ前面である。
JR化後も東日本に2両、東海に一両、西日本に2両残されたが2000年代に全車廃車となった。
そのうち東日本に残存していたうちの一両は碓氷峠鉄道文化村に保存され、
西日本に残存したうちの一両は松任工場に残されたクハ79920とともに梅小路鉄道博物館の保存車両として保存される予定で
吹田工場に留置されている。
196名無し野電車区:2012/11/18(日) 19:01:22.28 ID:D+vppYK10
>>194
20mだったら東急日比直は廃止にならなかったと思うが。
197名無し野電車区:2012/11/19(月) 10:00:15.48 ID:a1qNkhLE0
国鉄52系電車
1937年(昭和12年)度と1939年(昭和14年)度に日本国有鉄道の前身である鉄道省が製造した、
車体長20m級2扉クロスシートの旧形電車を便宜的に総称したものである。
1936年(昭和11年)に登場した50系電車が好評なことと、京阪神間での優位を確保するため、
翌年の1937年(昭和12年)度中に4両編成4本の計16両が増備され、第1編成が同年6月25日、
第2編成が7月26日、第3編成が9月10日、第4編成が10月8日に宮原電車区へ配置された。

52系は50系と車体基本構造は同一だが、同車の使用実績を反映して側面窓が広幅に変更され、
三等室が1100mm、戸袋車端部が700mm、二等室の部は1200mmとなったことでスマートさが増し、
50系で採用された中間電動車をさらに進化させ、先頭車は完全にモーターを搭載せず、
運転台のない中間車だけにモーター搭載とする完全中間電動車方式を採用、50系で問題視された、
スカートの廃止、乗務員扉も製造時から設置、屋根上の通風器はガーランド形2列に変更された。
主電動機は50系と同じ吊り掛け式だが、出力136kWのMT36から出力140kWのMT42に変更され、
50系の「旧流」に対して52系は「新流」と呼ばれて利用客に好評、大阪鉄道局でも、
旧流を1次車、新流を2次車と呼ぶようになった。

大阪での評価が高かったことから、東京鉄道局でも52系を横須賀線に投入する要求を出し、
検修サイド側からの意見で流線形の前面では何かと不都合と要求が出たことで、前面の設計を見直し、
両端の制御車を流線形から通常の貫通路付きに変更、貫通路付き前面は平妻構造ではなく、
32系制御車クハ58形の最終増備車と同じ半流線形構造の運転台となり、東京鉄道局では、
先頭車同士の連結した場合、通り抜けは行って無いことから幌と幌座の装備は行われ無かったことから、
ひじょうにスマートな前面となり、形式もクハ59形が付番され、後に半流型は3次車と呼ばれ、
当時、横須賀線は20m級6両編成で運行していた都合上、4両編成では運用に支障が生じるので、
モハ52形から電装部分を省いた、運転台を持たない三等付随車サハ57形が8両新造され、
3M3Tの6両編成で1939年(昭和14年)度中に田町電車区へ6両固定編成8本の計48両が配置された。
198名無し野電車区:2012/11/19(月) 10:01:24.05 ID:a1qNkhLE0
モハ52形(52001-52032)
1937年(昭和12年)度に8両、1939年(昭和14年)に24両、計32両が製造された、
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等中間電動車で、側窓は広幅、
窓配置2D2(6)2D2、両妻面は切妻型、車両間に貫通幌と引戸を装備、台車はDT12A、
パンタグラフは番号に関係無く、下り方の屋根上に搭載されていた。

サハ57形(57001-57008)
1939年(昭和14年)に8両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
運転台を持たない三等付随車で、側窓は広幅、窓配置2D2(6)2D2、両妻面は切妻型、
車両間に貫通幌と引戸を装備、台車はTR23。

クハ58形(52001-52008)
1937年(昭和12年)度に計8両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
片運転台式三等制御付随車で、前面は半径1200mmと半径2800mmの円を組み合わせた、
半楕円形の周上に4組の平板ガラス窓を配置、窓柱を15度内側に倒した流線形の前頭部で、
運転室は全室型、窓配置d1D1(6)2D2、連結面の妻面は切妻型、車両間に貫通幌と引戸を装備、
台車はTR23、奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向きである。

クハ59形(59001-59016)
1939年(昭和14年)度に計16両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
片運転台式三等制御付随車で、前面は貫通扉付きの半流線形構造、先頭部は貫通扉付きだが、
幌枠台は付けられておらず、スマートな前面で、運転室は全室型、窓配置d1D2(6)2D2、
運転台後部の窓だけは幅500mmとされ、連結面の妻面は切妻型、車両間に貫通幌と引戸を装備、
台車はTR23、奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向きである。
199名無し野電車区:2012/11/19(月) 10:06:55.66 ID:a1qNkhLE0
車体塗色
京阪神間に投入された2次車はクリームとマルーンのツートンカラー、急電色で塗装され、
横須賀線に投入された3次車はブライトブルーと呼ばれる青20号1色に塗装された。
青20号は4扉通勤車の40系電車で初採用された塗装で、山手線、京浜線に続き3番目に採用、
これ以降、横須賀線を走る32系も順次、青20号1色に塗替えられた。

竣工直後の編成 東京-神戸
58001-52001-52002-58002(急電)1937年
59001-52009-52010-57001-52011-59002(横須賀線)1939年

戦時体制
1940年(昭和15年)戦時体制下の電力事情問題で、京阪神間の急行電車も運休となる事例が出始め、
1942年(昭和17年)11月のダイヤ改正で急行電車の運転を中止、急電色はぶどう1色に塗替えられた。

3扉化、4扉化改造計画
この計画は末期まで実行されず、戦争の激化による物資の不足、人手の不足により、
1両の改造もないまま終戦を迎えた。

戦後
本系列での戦災廃車は1両も無く、戦時中に扉を増設する等の改造は行われなかったが、
クロスシートを撤去、座席のロングシート化が行われており、戦時中の酷使や、
戦後の乗客の急増、整備の不徹底によって荒廃した状態となっていたが、
1948年(昭和23年)には戦後いち早く整備が行われ、戦前の設備が復活した。
200名無し野電車区:2012/11/19(月) 10:14:58.08 ID:a1qNkhLE0
急行電車復活
1948年(昭和23年)10月1日に京阪神間で急行電車の運行が復活することになり、
2次車4両編成2本が急行運用に入る為、車体塗色を「アイスキャンデー色」と呼ばれる、
濃淡の青色で塗分け、その塗分け部に赤線を配した塗色に改められ、残りの2次車2本も、
窓周りをクリーム色、幕板と腰板をマルーンの急電色にに塗り分けたられた。

2次車の横須賀線転用
1950年(昭和25年)8月から9月に80系電車が宮原電車区に新製配置、同年10月1日から、
急行電車に運用されると、急行運用から離脱する2次車の転出先が問題となり、
同年7月1日から横須賀線にも東京-久里浜間に準急電車が設定され、80系電車8両編成が投入、
横須賀線の基本編成が8両編成になったことで、2次車を横須賀線に転出させることが決定、
横須賀線への転出にあたり、2次車は4両+4両の8両編成にされ、そのうちの8両編成1本は、
急電色から横須賀色に変更されたが、アイスキャンデー色の4両編成2本は、
東京鉄道管理局の意向で、アイスキャンデー色のままで運用され、沿線の乗客を喜ばせた。
また2次車の横須賀線転入により、横須賀線から32系6両編成4本が東海道線に転出した。

3次車の編成組替え
横須賀線に80系電車の投入で、基本編成が6両編成から8両編成に変更されたことで、
3次車48両の全編成変えを実施、6両編成4本からモハ52形1両、サハ57形1両を抜き、
8両貫通編成4本、4両編成×2の8両編成2本に組替えられた。先頭車同士が向い合う、
8両編成は貫通は行われなかった。
201名無し野電車区:2012/11/19(月) 10:18:43.57 ID:a1qNkhLE0
便所の設置
横須賀線のクハ58形とクハ59形、サハ57形の全車は、長距離運用に供されることから、
1954年(昭和29年)度に大井工場において便所の新設を行った。その際、便所向い側のシートは、
クロスシートに変更され、全車が対象だったことから改番は行われなかった。

飯田線に転用
1952年(昭和27年)には4扉セミクロスシートの60系が横須賀線に新製配置され、
乗客も2扉車と4扉車の乗車位置違いを上手く利用して、支障の無い乗降を行ってきたが、
沿線の発展とともに年々乗客数が予想を上回る急増加したことで、朝夕ラッシュ時には、
2扉車の乗降時間がダイヤの乱れを生じ出した1956年(昭和31年)2扉車の運用は限界に達し、
日本国有鉄道本社では何処に転用するか早急に検討され、2扉クロスシートという装備を活かせる、
長距離路線の飯田線に転用されることとなり、1956年(昭和31年)末に2次車、3次車の全車が、
伊那松島機関区に転属、すぐに豊橋機関区に転属した。

サハ57形を制御車に改造
飯田線に転出した3次車のサハ57形全車は1957年(昭和32年)1月29日付で豊川分工場にて、
運転台を新設、制御車(奇数向き、偶数向き)に改造され、クハ59形100番代59101-59104に編入、
改造の際、運転室側の前面はクハ59形と同じ半流型となったが、前面の貫通扉は設置されず、
40系と同じ非貫通型の半流型前面とされ、2次車とともに人気を博した。
202名無し野電車区:2012/11/19(月) 11:04:22.85 ID:a1qNkhLE0
飯田線での車体塗色
2次車、3次車の塗色については、転入後も横須賀線時代そのままで使用されたことで、
飯田線には2次車の横須賀色2本、アイスキャンデー色2本、3次車の横須賀色8本が走ったが、
1968年(昭和43年)にはアイスキャンデー色の2次車も横須賀色に塗り直された。

終焉と保存
飯田線の2次車、3次車は旧形国電の運用最末期である1983年(昭和58年)8月まで使用され、
廃車後は国鉄関係者、特に大阪鉄道管理局の関係者の尽力で2次車のモハ52001とクハ58001が廃車時、
末期姿のまま、急電色に塗替えられて大阪の交通科学博物館に保存され、モハ52002とクハ58002も、
末期姿で浜松工場で保管、同工場で修繕された際に横須賀色からアイスキャンディー色に塗替えられた。
国鉄民営化後は引続き、浜松工場で保管されていたが、2006年(平成18年)7月にJR東日本から、
さいたま市大宮区に開設する鉄道博物館で保存展示したいため、譲渡の打診があったことで、
JR東海からJR東日本に譲渡、2007年(平成19年)10月14日から同博物館で展示公開されている。
3次車の保存は、第8編成のクハ59007-モハ52031-モハ52032-クハ59008が横須賀色のまま、
大船工場で保存され、国鉄民営化後も引続き、同工場で保管、公開されていたが、
2006年(平成18年)2月8日に同工場の閉鎖前日に東京総合車両センターに移動、
以後は東京総合車両センターで保管されている。なお元サハ57形から制御車改造された、
クハ59形59103が個人に売却され、現在も購入主の元で保存されている。
203名無し野電車区:2012/11/20(火) 16:27:01.60 ID:SdbRbSBN0
117系900番台
国鉄が製造した117系のチョッパ制御試験車。
201系と同様のチョッパ装置を搭載した。
主電動機はMT60で、歯車比は4.82であるため120キロ運転が可能である。
台車はDT46/TR231を採用。
204名無し野電車区:2012/11/21(水) 13:32:34.34 ID:co89wKxiO
JR北海道881系・JR東日本E759系・JR北海道729系・JR東日本E729系:
北海道新幹線開通に伴う青函トンネルの25kV化に伴い、特急型の白鳥置き換えと一部普通に格下げ。
白鳥は新幹線との絡みで本数削減して、削減分は普通に格下げ。
複電圧で、制御系統はE6系をベースにする。
205名無し野電車区:2012/11/22(木) 09:15:18.08 ID:V+faIRKqO
201系950番台 205系900番台 910番台
国鉄が205系を作るにあたって昭和59年と60年にそれぞれ試作したもの。
軽量化と制御装置系の試験的観点で作られた。
201系950番台は前面は201系と同じだが、車体はステンレス製で東急製のために
当時の私鉄車両同様にコルゲートが多いものを使用している。
制御装置はサイリスタチョッパではなく、当時の大手私鉄が採用し始めた
界磁チョッパ制御式で、東洋電機製の機器を採用した。
そのため走行音は東急8500系同様の轟音だが、重量を電動車で42tから38.5tまで軽量化した。
翌年まず205系900番台が作られた。やはりコルゲートの多いステンレス車体であったが、
側窓は1枚窓下降式となり、制御装置は前年の201系950番台と同じように
界磁チョッパながらこちらは三菱電機製で小田急8000形同様の走行音が特徴。
台車はDT50/TR235試作のDT50/TR235XA XB XCである。
その後車体のステンレス板をコルゲートの少ないタイプを採用した原型に近い
910番台が作られた。
こちらは添加励磁制御式で三菱電機製界磁チョッパと争ったものの、
国鉄は量産車両は添加励磁式を採用することになった。
側窓の1枚窓下降式も採用されたが、910番台は通常の二段ユニット窓で
川崎は先行して920番台用に作ったものなど10両編成4本40両分を二段ユニット窓の
車体で作ってしまったために量産型の1〜4が1枚窓にならなかった要因となる。
206名無し野電車区:2012/11/22(木) 09:39:46.40 ID:V+faIRKqO
>>205続き
配置
201系950番台は三鷹に配置されて中央 総武緩行線で使用された。
もともと編成が6+4編成であったためだが、東西線乗り入れ車両の301系 103系の
誤乗が表面化するなどしたため、平成元年には中央快速用として武蔵小金井に
飛ばされた。ただし6+4編成であったが運用は貫通編成同様の扱いで使われている。
その後豊田に移し、E233系が登場後は京葉線転用が有力視されたものの、
試作的要素の車を残されることはなく平成17年に廃車された。
205系900 910番台は山手線で広範囲に試験を行い、その後運用に加わった。
他線の試運転も精力的に行っており、総武 横浜 埼京 京浜東北などにも入った。
平成16年に231系に押しだされる形で京葉に転属。速度が量産型より劣るため
京葉線での使用は短期でそのまま武蔵野線に転用された。その際抜き取られた
モハはそのまま廃車された。
平成22年に209系500番台に取り替えられて廃車された。
207 【東電 80.1 %】 :2012/11/22(木) 13:46:38.91 ID:xdfqDXNOO
E231系9000番台・E233系9000番台:
永久磁石同期電動機の長期試験目的。
E231系9000番台は取手快速用の付属5連を改造。E233系9000番台は中央線及び京葉線の4連として投入。
(0番台6連+9000番台/5000番台6連+9000番台)
208名無し野電車区:2012/11/23(金) 00:43:16.25 ID:mD7ou2kB0
クモユ445・クモニ444
国鉄が製造した交直流対応の郵便荷物車。
床下機器の関係で1両に纏める事が出来ず、クモユとクモニがコンビを組む構成になってる。
車体構造はクモヤ443と似ている。
485系の特急列車と併結して郵便・荷物列車の速達化を目論んだ。
209anorak?:2012/11/23(金) 17:41:26.30 ID:8lS69VFr0
>>171に続く平行世界もの
◎国鉄マユ45形郵便客車、EF68形直流用電気機関車、EF72形交流用電機
1986年
○1984年2月のダイヤ改正で貨物輸送のリストラと共に荷物と郵便も対象となり、ネットワークが疎となり、
特に走行中の車内で郵便物を区分けする取扱便が全廃、護送便と締切便が残った。
さらに郵政省は86年末までに鉄道の利点が活かせる政令指定都市圏間直行の高速締切便以外は全廃する方針を固めた。
それは、従来は、郵便小包は国鉄独自の荷物輸送とは競合するにも拘らず、郵便車は国鉄の荷物車と混結されて
列車の最高速度が95km/hだったのを、郵便を分離し、最高速度110km/hのパレット輸送車で編成された特急郵便列車を
札幌〜東京〜大阪〜福岡などの各大都市間を直行するダイヤで新設し、この日本を一本で貫く系統以外は全廃。
この実現の為に以下の車両が郵政省の財政的支援で登場した。
マユ45は、パレット輸送特化で客車と言うよりも貨車にかなり近いマニ44をベースにブレーキ機能の改良でmax110km/h。
新造車0番台と先述の荷物列車削減で捻出されたマニ44からの改造車1000番台がある。
EF68は、東北本線黒磯以南及び東海道山陽本線での牽引機として設計され、それは、貨物削減及び85年の東京口
ブルートレイン牽引機のEF66への交代で捻出されたEF65形1000番台を種車に、EF60からEF67への改造と同様に、
回生ブレーキ搭載の電機子チョッパ制御に改造し、EF67と同様に出力を増強、粘着性能を向上、
EF65との大きな違いは定格速度が向上し、EF58並の高速運転性能を有する。
EF72は、東北線交流電化区間用に設計され、新造車だが先述の貨物削減で生じた廃車発生品を活用し、
走行システムはEF71/ED78をベースとして改良された回生ブレーキ搭載のサイリスタ連続位相制御で
ED75と比べて営業最高速度を110km/hに向上し、定格速度も、EF58並の高速運転性能を有し、
その意匠は重連運転を想定していないのでEF70に似る。
1986年11月の国鉄最後の全国規模のダイヤ改正で、先述の車両を使用した特急郵便列車が登場し、
それ以外の鉄道郵便は全廃された。
87年4月の国鉄分割民営化でJR貨物に承継。
その後、鉄道郵便はコンテナが主役となり、路線網も拡大され、その一方でマユ45による輸送形態は縮小し、
2007年で終了し、マユ45は全廃、EF68とEF72は現役。
210名無し野電車区:2012/11/26(月) 02:11:21.51 ID:o25f99Lt0
JR東日本E621系

JR貨物でED75の定期運用がなくなり、おりしも設備の老朽化が進んだため、
日本唯一の地上切り替え方式であった黒磯駅構内を直流化し、
デッドセクションを黒磯ー高久間に設置、
貨客とも交直両用車で運用することとなった。

これに伴い、主に黒磯−郡山での運用車両として
E621系が導入された。
車体はE721系に準じているが、交直両区間に対応すべく、機器配置が大幅に変更されている。
当該区間はワンマン運転のため、E721系後期車同様、ワンマン設備が設置されている。

なお、交流区間では交流専用車との併結も可能で、
郡山以北では、E721系や701系との併結運用もある。

後に羽越線用として、耐寒装備をより強化した1000番台も登場している。
211名無し野電車区:2012/11/27(火) 14:31:41.71 ID:elbJlIKi0
国鉄60系電車
日本国有鉄道(国鉄)が1952年(昭和27年)に製造した旧形近郊通勤形電車形式群の総称である。
横須賀線や東海道線の通勤通学路線用の混雑緩和、長距離通勤路線用にポイントを置いた設計で、
国鉄初の4扉セミクロスシート車として開発、1952年(昭和27年)から1958年(昭和33年)にかけて、
80系電車と同じMM'ユニット方式の運転台を持たない中間電動車モハ60形とモハ61形、制御車クハ66形、
付随車サハ67形、二等車のサロ65形を始め、40系電車からの改造編入車を含めると合計1584両を指す。

1950年(昭和25年)横須賀線と東海道本線東京地区は沿線開発とともに輸送事情逼迫は極めて著しく、
当初は両線に新型車輌投入は早晩と思われていたが、朝夕ラッシュ時は通勤路線と同等な混み具合で、
新型車輌の投入が待った無しの状態となり、苦肉の策として通勤ラッシュ時に抜群の威力を発揮した、
4扉ロングシート車の40系電車を投入する予定だったが、長距離路線の性格上、座席数の確保も、
課題として残されていた都合上、40系電車の4扉と80系電車のクロスシートを合わせた発案がなされ、
車体は40系電車を基本に、扉間にクロスシートを1組、扉両脇に2人掛けのロングシートを設置、
扉部の車体中央にはスタテッション・ポールが1本、吊り革と手摺は40系電車より増設され、
80系電車と同じ動力分散方式で、2両の電動車を1ユニットで取り扱い、片方の電動車(M)に、
主制御器、主抵抗器、パンタグラフ、もう片方の電動車(M')にMG、CPなどの補機類を載せ、
1C8M制御のMM'ユニット方式を80系電車に続いて採用、主電動機もモハ80形と同じ吊り掛け式の、
150kWのMT42Bと電動カム軸接触器式のCS10も搭載、歯車比も80系電車と同一の1:2.56となり、
屋根上の通風器は、通風改善で新開発した取入口に5枚の立てフィンが付いた押込型を1列、
モハ61形は千鳥状に7個配置、それ以外の形式は千鳥状に8個配置した。
クハ66形の前面は計画時、80系電車1次車と同様に半流線型の非貫通型2枚窓で計画されたが、
既に80系電車は前面2枚窓の湘南フェイスで登場してた後だったことから80系クハ86形2次車と同様、
前面2枚窓の湘南フェイスで1952年(昭和27年)から製造された。
212名無し野電車区:2012/11/27(火) 14:33:17.84 ID:elbJlIKi0
基本形式
モハ60形0番代(60001-60178)
モハ61形とユニットを組む車体長20m級4扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M')で、
1952年(昭和27年)から1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、MG、CPなどの補機類が搭載され、
窓配置は2D4D4D4D2で、両妻面は切妻型で幅30cmの2段上昇窓付、車両間に貫通幌と引戸を装備、
台車は新開発したDT17が装備された。ユニットの関係上、全車が上り向きになっていた。

モハ60形200番代(60201-60286)
モハ61形とユニットを組む車体長20m級4扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M')で、
1956年(昭和31年)度から1958年(昭和33年)までに全金属車体で新造、床がリノリウムを張り、
室内がアルミデコラ化粧板、側面窓枠がアルミサッシに変更、台車はDT20を装着している。

モハ61形0番代(61001-60178)
モハ60形とユニットを組む車体長20m級4扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M)で、
1952年(昭和27年)から1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、主制御器、主抵抗器を搭載され、
窓配置は2D4D4D4D2で、両妻面は切妻型で幅30cmの2段上昇窓付、車両間に貫通幌と引戸を装備、
ユニットの関係上、全車が下り向き、パンタグラフは上り向きの屋根上に搭載され、
台車は新開発したDT17が装備された。

モハ61形200番代(61201-61286)
モハ60形とユニットを組む車体長20m級4扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M)で、
1956年(昭和31年)度から1958年(昭和33年)までに全金属車体で新造、床がリノリウムを張り、
室内がアルミデコラ化粧板、側面窓枠がアルミサッシに変更、台車はDT20を装着している。
213名無し野電車区:2012/11/27(火) 14:37:52.36 ID:elbJlIKi0
クハ66形0番代(66001-66068)
車体長20m級4扉セミクロスシートの片運転台式三等制御付随車で、1952年(昭和27年)から、
1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、前面窓は80系と同じ角枠の湘南フェイス非貫通2枚窓で、
乗務員室は全室型、乗務員扉と客用扉間に在る窓だけ幅23cmの下段上昇2枚窓とされ、
窓配置はd1D4D4D4D2で、台車は新開発したTR48を採用した。

クハ66形100番代(66101-66142)
車体長20m級4扉セミクロスシートの片運転台式三等制御付随車で、1956年(昭和31年)度から、
1958年(昭和33年)までに全金属車体で新造、前面窓の木枠がHゴム抑えに変更、
床がリノリウムを張り、室内がアルミデコラ化粧板、側面窓枠がアルミサッシに変更された。

サハ67形0番代(67001-67080)
車体長20m級4扉セミクロスシートの運転台を持たない三等付随車で、1952年(昭和27年)から、
1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、窓配置は2D4D4D4D2、車両間に貫通幌と引戸を装備、
台車はTR48。

サハ67形100番代(67101-67162)
車体長20m級4扉セミクロスシートの運転台を持たない三等付随車で、1956年(昭和31年)度から、
1958年(昭和33年)までに全金属車体で新造、床がリノリウムを張り、室内がアルミデコラ化粧板、
側面窓枠がアルミサッシに変更された。
214名無し野電車区:2012/11/27(火) 14:39:03.30 ID:elbJlIKi0
サロ65形(65001-65040)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない二等付随車で、当初は東海道線専用であり、
1952年(昭和27年)から1955年(昭和30年)に半鋼製車体で新造、定員64名。
二等車であるため車体両端に幅700mmの客用扉を設け、窓は固定式クロスシート普通二等車共通の、
幅1200mmの2段上昇式大窓で、寸法が大きいことから、外観上は軽快な印象を受ける。
窓配置はD8D1となり、後位側に便所と洗面所を設け、座席は布地にブルーの塩化ビニール張りを使用、
床は木床の上に灰色のリノリウムを張り、デッキと客室との仕切は設置されなかった。
座席の布地に化学繊維を多用していることが特徴で、当時はまだ化学繊維が珍しく、
目新しさを強調することを目的に採用したことがうかがえる。台車はTR45を改良したTR45Aを装着、

サロ65形100番代(65101-65142)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない二等付随車で、当初は東海道線専用であり、
1956年(昭和31年)度から1958年(昭和33年)までに全金属車体で新造、床がリノリウムを張り、
室内がアルミデコラ化粧板、側面窓枠がアルミサッシに変更された。
1958年(昭和33年)TR48Aに変更した。後年に従来のモケット張りに変更している。

低屋根車
モハ60形800番代(60801-60826)
1952年(昭和27年)に登場した中央東線向けの三等中間電動車(M')で、MG、CPなどの補機類を搭載、
歯車比は40系電車と同一の1:2.87として、平坦線での高速性能よりは、むしろ勾配区間における、
登坂力に配慮したものとなっていた。

モハ61形800番代(61801-61826)
1952年(昭和27年)に登場した中央東線向けの三等中間電動車(M)で、主電動機や主制御器は、
モハ60形と同一であるが、同線に介在する狭小トンネルの建築限界の関係で、パンタグラフ部分の屋根が、
低く抑えられており、パンタグラフの折畳み高さを低減、歯車比も40系電車と同一の1:2.87として、
平坦線での高速性能よりは、むしろ勾配区間における登坂力に配慮したものとなっていた。
215名無し野電車区:2012/11/27(火) 14:58:37.53 ID:elbJlIKi0
車体塗色
60系電車の横須賀線向けに登場した車両は、横須賀線に投入された80系電車と同じ、
窓周りをクリーム2号、幕板と腰板を青2号の塗り分けられた横須賀色(スカ色)で登場、
すぐに東海道線用の窓周りを黄かん色、幕板と腰板を青20号に塗り分けた「湘南色」でも登場、
先頭車の塗り分けも80系電車と同じ「金太郎塗」で塗り分けられたが、製造年によって、
多少の違いが有り、アールの角度がキツイのと、そうで無いのとで分かれていた。
なお1964年(昭和39年)以降、東海道線東京口で運用されていた車輌も、多線に転出後は、
多くがスカ色に変更されたのが多く、廃車まで湘南色で運用されたのは極僅かだった。

横須賀線での運用
1952年(昭和27年)2月に窓周りをクリーム2号、幕板と腰板を青2号に塗り分けたモハ60形が6両、
モハ61形が6両、クハ66形が4両、サハ67形が8両の合計24両が横須賀線用として固定12両編成2本で、
田町電車区へ配備され、同年中に12両編成6本を配備、それまで横須賀線の主役であった32系電車の、
置き換えを開始、60系電車は戦後横須賀線の主力となり、輸送力の増強に寄与、60系電車の増備に伴って、
横須賀線のダイヤと設備面も全面整備され、同年9月から東京-大船間の東海道線共用路線を分離、
品川-横浜間は品鶴貨物線を通り、横浜駅ホームの2面4線の増設、終日15分ヘッドを基準ダイヤ設定、
東京-横須賀間のホーム長が16両停車可能になったことで、車両面でも基本編成12両に付属編成4両を連結、
最長16連での運転を開始、60系電車の増備とともに、順調に輸送力の強化に努めてきた。
その一方で、横須賀駅-久里浜駅間は輸送需要が格段に落ちることから横須賀駅以南は付属編成4連による、
現行ダイヤにつながる区間列車の運転が開始された。
216名無し野電車区:2012/11/27(火) 15:06:19.51 ID:elbJlIKi0
東海道線での運用
1952年(昭和27年)2月に窓周りを黄かん色、幕板と腰板を青20号に塗り分けたモハ60形が16両、
モハ61形が16両、クハ66形が16両、サハ67形が8両、サロ65形8両の合計48両が東海道線用として、
田町電車区へ配備、下り方から4両目と5両目に東海道線専用で設計された二等車サロ65形を2両組み込み、
基本12両編成と付属4両編成の最長16両編成で運行、電気機関車牽引の客車列車を始め、少数残っていた、
17m級車体の12系電車を始め、32系電車の置換え開始、こちらは運用当初、沿線需要に対して4扉車では、
過剰とも思える車輌配置だったが、沿線の宅地化による人口の爆発的増加で、すぐに需要を満たす、
車輌配置となり、同年9月には東京-大船間が横須賀線との共用路線を分離したことで、
ダイヤパターンも終日15分ヘッドに変更、現行ダイヤにつながる区間列車の運転が開始された。

山スカの登場
中央東線は戦前から甲府まで電化、17m3扉のクモハ11形400番代の4両編成で運行されていて、
1950年(昭和25年)には富士山麓電気鉄道(現在の富士急行線)の河口湖乗り入れ運行用に、
80系電車8両編成で投入したが、桜木町事故後、狭小トンネル内でのパンタグラフ絶縁距離が見直され、
屋根高さを低く抑えた専用の形式が求められたことで、80系電車の投入を一時中止、応急対策として、
クモハ11形400番代4両編成2本のパンタグラフ部分を低屋根改造して同区間に運用投入してたが、
17m級車体では見劣りすることから新たにモハ80形のパンタグラフ部分を低屋根化した、
モハ80形800番代4両を新造、固定8両編成2本による準急「富士五湖」として河口湖乗り入れを再開、
当時の中央東線はダイヤに余裕があることから、臨時列車が増発しやすく、年々、行楽用の臨時列車や、
「自然科学電車」という遠足用の団体臨時列車の運行本数が増加していったことで、
1952年(昭和27年)に60系電車の投入が決定、投入にあたり電動車のパンタグラフ部分を低屋根化、
歯車比は勾配区間の為、高速性能より登坂力に配慮した40系電車と同一の1:2.87とされ、
モハ60形800番代18両、モハ61形800番代18両、クハ66形28両、サハ67形8両の固定8両編成4本、
固定4両編成10本が横須賀色で投入され、「山スカ」の愛称で親しまれた。
217名無し野電車区:2012/11/27(火) 15:26:12.45 ID:elbJlIKi0
その他の運用
1952年(昭和27年)8月、海水浴客の増加による東京-熱海間の急行「湘南」の増発で、
ピンチヒッターとしてヘッドマークを装着した60系電車が使用され、翌年にも使用された。
また1954年(昭和29年)から高崎線や上越線でのスキー臨時電車など通常とは異なる運用もあり、
スキー臨時電車は1981年(昭和56年)まで使用された。

塗色の変更
横須賀線向けに登場した車両は、32系、52系、80系電車と同じクリーム2号と青2号で塗られたが、
1956年(昭和31年)度の製造分からクリーム1号と青15号に変更、既に運用に入ってる車輌も、
順次、クリーム1号と青15号に変更されていった。
218名無し野電車区:2012/11/27(火) 17:08:07.75 ID:elbJlIKi0
第1次更新修繕と冷房化
1960年(昭和35年)に通勤車初の新製冷房車103系が登場すると、他形式の通勤車にも冷房化をと、
乗客から要求が多数寄せられたことで、横須賀線と東海道線の60系電車を冷房改造することが決定、
同時に更新修繕も兼ねる改造が1961年(昭和36年)から行われ、1956年(昭和31年)度製造からの、
全金属車体で製造された車輌から冷房装置を搭載されることになり、搭載する冷房装置は、
1956年(昭和31年)に40系電車で試験搭載、その後103系にも搭載された三菱電機が製造した、
集中型冷房装置AU50Tを搭載、冷房装置を搭載するにあたり車体側面の補強も行われ、
同時に車内のアルミデコラ化粧板を交換、床のリノリウムも交換、白熱灯照明の蛍光灯化、
座席の布地をビニルクロスから通常の青モケット張りに変更する更新修繕が行われた。

第2次更新修繕と冷房化
全金属車体の60系電車に冷房装置の搭載が始まると、冷房されて無い半鋼製車体を敬遠する利用者から、
苦情が多数寄せられたことで、1962年(昭和37年)から半鋼製車体も更新修繕と冷房改造が行われ、
全金属車体と同じ冷房装置を搭載、車内の木板を剥し、薄緑のアルミデコラ化粧板に交換、
木製床も剥され、鉄板を敷かれ、灰色のリノリウム貼りとなり、側面窓もアルミサッシに変更、
白熱灯照明も蛍光灯化、座席も青モケット張りに変更され、クハ66形の運転台窓の角枠は大井工場、
大宮工場、大船工場ではアルミサッシの角枠に変更、その上に外装に合わせた塗装がされたが、
浜松工場や名古屋工場で施工された車輌は角枠からHゴム化され、湘南フェイス非貫通2枚窓でも、
半鋼製車体は2種類の前面が登場した。
219名無し野電車区:2012/11/28(水) 07:44:08.40 ID:05qcGtZ2O
京成電鉄 1600形 1651〜
1500形を一般用に転用して置き換えるために昭和30年に作られた1600形の追加生産車である。
この車両は吊掛ではなく750形同様のTDカルダン制御としたため、1650形と差別化された。
1651-1653 1654-1656の2連2本が最初作られ、昭和32年に1600形と同じく
付随車両1652 1655が作られて3両編成化された。
車内設備は1600形と変わらないが、成田方先頭にトイレが付いており、中間車は
売店を設けていない。
3200形に置き換えられた昭和45年に車体を210形と同一の車体に更新。
主電動機等も3300形と同一にして3連からモハ750形から抜き取ったクハ2200形
を組み入れた4両編成2本に組み替えている。
晩年は千葉線 金町線で使われて平成元年に3600形に取り替えられ廃車された。
3000形以前の青電形式が平成まで本線で生き残った唯一の形式であった。
現在モハ1651形が八千代市の京成バラ園に、モハ1654形は北総線が京成高砂まで
延長開業する平成3年に北総線矢切駅前広場に運転室部分の1/3カットモデルで保存。
220名無し野電車区:2012/11/28(水) 08:22:08.22 ID:xOo++CzS0
40系電車の60系電車へ改造編入
1960年(昭和35年)に4扉ロングシートの新性能103系電車が新造、首都圏通勤路線に投入されると、
40系電車の置換えが始まり、余剰となった車輌をロングシートからセミクロスシートに改造した、
60系電車編入改造が行われ、室内のロングシートを撤去して、セミクロスシートへの交換、
通風器を60系電車と同じ押込型に交換などを行い、改番編入され、編入後はモハ62形、クハ68形の他、
クモハ63形、サハ69形とバラエティーになった。この中にはパンタグラフ部分の屋根を低屋根改造、
編入したモハ62形800番代26両とクハ68形18両、サハ69形8両が中央東線用に配置され、
こちらは元40系電車だったことから「山ゲタ」の愛称で呼ばれた。

地方への進出
1966年(昭和41年)から60系電車の後継車となる4扉セミクロスシートの新性能107系電車が、
横須賀線と東海道線東京地区に少量づつ投入が始まると、60系電車の置換えが始まり、
捻出された60系電車は東北本線の上野駅-宇都宮駅、上野駅-黒磯間で準急・ローカル運用に入り、
高崎線も大宮駅-高崎駅間の運用、中央西線などに転出、それ以外だと新規電化区間の開業用や、
電化区間で運用される電機機関車牽引される客車列車の電車化に投入されるようになった。
横須賀線と東海道線東京地区は1981年(昭和56年)までに、新性能107系電車に置き換えられて全車転出、
その後は東北本線、高崎線、中央西線などで従来と変わらぬ運用を続けた。
221名無し野電車区:2012/11/28(水) 08:24:36.79 ID:xOo++CzS0
「山スカ」のその後
1954年(昭和29年)から8両固定編成4本が中央東線に投入、「山スカ」が増備され、
1960年代に入ると17m級電車に代り、中央東線のローカル運用にも「山スカ」グループが運用され、
中央東線は横須賀色一遍になり、急行と準急が80系電車の「山急」、臨時列車とローカル運用は、
「山スカと山ゲタ」の黄金時代を迎えた。1964年(昭和39年)8月23日に甲府駅-上諏訪駅間、
1965年(昭和40年)5月20日に塩尻駅間までの中央東線全線電化が達成、山スカの運行区間も小淵沢駅や、
塩尻駅まで運用区間を拡大、1960年代から1970年代にかけて中央東線のローカル運用主役だった、
「山スカ」は1977年(昭和52年)から投入が始まった勾配・寒冷路線用の4扉セミクロスシート車の、
新性能電車131系電車が投入されたことで、全車が広島運転所へ転出し、呉線に運用された。

中央西線
1966年(昭和41年)7月の中央西線名古屋駅-瑞浪駅間の電化に伴い、横須賀線と東海道線から、
大垣電車区に転入してきた60系電車によって同区間における電車運転を開始した。同年10月からは、
主に東海道線から転用された60系電車で浜松駅-米原駅間の電車運行を開始、客車列車を置換え、
1968年(昭和43年)には横須賀線から転入した60系電車を新設の神領電車区に移管、
同年8月に電化区間が中津川駅まで延伸されたことによって、10月のダイヤ改正後から、
中央西線の朝ラッシュ時に中津川駅-大垣駅行きの快速を設定、投入された60系電車は、
固定8両編成で運行され、横須賀線からの転入車は、編成の中間に4扉のサハ67形2両だったが、
東海道線からの転入車はサハ67形2両の編成と、格下げ車の2扉サハ75形2両の編成が在り、
同線の混雑時には4扉車と2扉車では扉数が違うために生じる不便を横須賀線と同じ乗降方式で解消、
湘南色で塗られた車輌も順次、横須賀色に塗替えられた。
222名無し野電車区:2012/11/28(水) 08:48:16.81 ID:xOo++CzS0
長野地区
信越本線長野地区が電化された1972年(昭和47年)にサハ75形が組込まれた8両編成を転出させると、
中央西線の60系電車は横須賀線からの転入車だけとなり、横須賀一色で染まった。
その後、沿線の開発とともに利用客の増加で、余剰となっていた4扉ロングシートの40系電車を投入、
1973年(昭和48年)中央西線全線電化に伴い、運転区間を坂下駅まで延長、1975年(昭和50年)には、
南木曽駅まで延長すると、横須賀線から余剰となった60系電車を転入させて、輸送力の増強に務めた。

両毛地区
1968年(昭和43年)の両毛線電化に際し、新前橋電車区へ3扉ロングシートの30系電車を投入、
翌年に40系電車から60系電車の改造編入車、4両編成8本を投入、一部は「房総夏ダイヤ」の、
臨時快速「富津岬」として、千葉鉄道管理局が借り入れた後に新前橋電車区へ移ったグループもある。
その後、1970年(昭和45年)の吾妻線長野原駅-大前駅間開業に伴って同線の運用の一部を受持ち、
東海道線で余剰となった付属4両編成4本を投入、両毛線の主力として運用された。

長野地区
1972年(昭和47年)3月のダイヤ改正で、中央西線から長野運転所に転入した60系電車を活用して、
信越本線長野地区を運行する普通列車の電車化を実施、60系電車の運用区間は軽井沢駅-直津江駅間で、
いわゆる「横軽越え」には投入されず、同時に投入された80系電車も湘南色から横須賀色に塗替えれ、
8両編成同士のすれ違いが見られ、妙高高原-直津江間では新潟色の70系電車との共演が見れた。
1974年(昭和49年)には、長野運転所に123系電車が増備され、普通列車用の60・80系電車を、
松本運転所に転出させたことにより、出入庫運用として篠ノ井線の松本駅まで運転区間を拡大した。
223名無し野電車区:2012/11/28(水) 08:49:40.89 ID:xOo++CzS0
広島地区
電化前の呉線の通勤列車は、C59形やC62形といった蒸気機関車が10両近く連結されたスハ32系や、
オハ35系を牽引する勇壮なもので、電化時に一部EF58形牽引の客車列車は残ったものの、
ローカル列車の主力は電化時の一時代用で充てられた80系電車、40系電車などで運行され、
ラッシュ時には首都圏から転入した40系電車10連で運行されるようになった。
この40系電車の多くが青20号の他、青22号(スカイブルー)、黄緑6号(ウグイス色)が多く、
朱色1号(オレンジバーミリオン色)、青緑1号(エメラルドグリーン)も含まれていたことから、
首都圏の重通勤線区を連想させる雰囲気があった。しかし40系電車のロングシートでは、
ラッシュ時の詰込みはきくものの、座席数が少ないことから、利用者の不満が出ていて、
同時に投入された80系電車に比べて大きく劣ったことで、通勤時にも一定の座席数が確保出来る、
60系電車の配置を要望したが、当時60系電車の余剰は無く、選定車輌が二転三転した結果、
40系電車から60系電車に改造編入された車輌を一時的に投入したが、数が足りないことから、
横須賀線と東海道線で余剰になるたびに随時、60系電車、80系電車を投入させていき、
1977年(昭和52年)に中央東線の「山スカ」が153系に置換えられ、呉線に大量転入したことで、
横須賀線と東海道線からの転入車を山陽本線に転出させ、「山スカ・山ゲタ」グループだけに集約され、
8両固定編成12本、4両固定編成16本を組み、広駅・呉駅 - 広島駅間の通勤列車を中心に、
呉線と山陽本線広島駅 - 小郡駅(現・新山口駅)間で運用を開始し、それまで甲州の山岳地帯を駆抜け、
甲府盆地では遠くに南アルプスや八ヶ岳の山並みを眺めて走っていた「山スカ」が、
一転して穏やかな広島湾の海岸線沿いを走ることになったが、長編成でSL時代の名撮影地の一つである、
黒瀬川橋梁を渡る姿は、C59形、C62形牽引の通勤列車とは違う迫力があった。
224名無し野電車区:2012/11/28(水) 08:57:01.69 ID:xOo++CzS0
先頭車化改造
地方転出の短編成化で、不足する制御車を補うため、1967年(昭和42年)にサハ67形10両に、
前位側へ切妻構造の運転台を取付け、先頭車化改造を行い、新形式のクハ67形とした。
これらの先頭車化改造車は、施工された工場によって運転窓の大きさ、前照灯の取付位置が違っており、
大井工場で施工した4両は103系電車に似た低運転窓と白熱1灯、大船工場で施工した4両は低運転窓と、
窓下の左右にそれぞれ白熱灯1灯を配し、浜松工場で施工した2両は高運転窓に窓下の左右に、
それぞれ白熱灯1灯とバリエーションが違っていた。

一等車の格下げ改造
1960年(昭和35年)7月1日に一等・二等のみの二等級制に移行、東海道線専用であったサロ65形も、
一等車に格上げされたが、地方転出後は一等車の需要が減少することから、1967年(昭和42年)から、
転出後は二等車への格下げを行い、サハ65形となった。

その他の改造
1972年(昭和47年)神領電車区に配置されていたクハ66形の前照灯をシールドビーム2灯に改造、
いわゆる「ブタ鼻」改造が行われたが、改造車は(クハ66071、66072、66075、66076)の4両のみ。
225名無し野電車区:2012/11/28(水) 08:59:10.10 ID:xOo++CzS0
終章と保存
60系電車の本格的な置換えは1983年(昭和58年)から始まり、東北本線・高崎線で運用されていた、
一部の車両が廃車になったほか、翌年には信越本線長野地区一部、1984年(昭和59年)2月には、
中央西線の神領電車区に所属する60系電車が107系に置換えられ、12月には全車の置換えが完了した。
12月17日に中津川駅-名古屋駅間でさよなら運転が実施されている。また、同じ時期に両毛地区、
長野地区でも全車の置換えが完了、最後に残ったのは山陽本線と呉線だけとなったが、
1986年(昭和61年)3月に131系電車の転入によって、60系電車の運用は同年4月1日をもって終了、
60系電車が初製造されて34年にわたる営業運転の歴史は終了した。

保存
東北本線で運用され、廃車となった前面が角枠のままだったクハ66形66001と66002、
モハ60形60001とモハ61001の4両編成が大宮工場で保管され、民営化後は東京総合車両センターで保管、
2007年(平成19年)10月にさいたま市大宮区に開設した鉄道博物館内で保存展示、
中央西線で廃車となったクハ66形66051、信越本線で廃車となったサハ65形65001の2両が、
2011年(平成23年)3月14日に愛知県名古屋に開館したリニア鉄道舘で保存展示、
山陽本線で廃車となったクハ66形66023と66026、モハ60形60027とモハ61形61027の4両編成が、
大阪の交通科学博物館敷地内に保存され、いずれも末期状態、冷房搭載のままだった。
226名無し野電車区:2012/11/30(金) 00:03:38.87 ID:BCI7FG/C0
JR東日本 E551系 交直流特急型電車
JR東日本が常磐線の特急「ひたち」の旧型車置き換えと輸送力増強用に開発した全二階建て特急電車。
常磐線では民営化直後に投入された651系による「スーパーひたち」と、485系を使用する通常の「ひたち」の2種類の特急が走っているが、485系は設備・性能の双方の面で651系に劣り(指定席券もスーパーひたちのものから先に売り切れていくという事態が続発していた)、
またバブル景気で「地方に自宅を構えて特急や新幹線で都心へ通勤する」という利用者が増えていたため、輸送力の増強を迫られていた。
これらの解決策として、全二階建て特急電車で485系を置き換えることが決定。この計画により開発・投入されたのがE551系である。
編成は10両の基本編成と、5両の付属編成で構成されている。基本編成は6M4T、付属編成は4M1T。基本編成の中間車1両はグリーン車となっている。
車体は既に誕生していた415-1901や215系の設計をもとにした、ステンレス製の全二階建て。但し先頭車の1F部分は制御装置や補機を収めた機器室となっている。
座席は回転式リクライニングシート。普通車は輸送力を重視して910mmピッチ・2-2配列、グリーン車は1160mmピッチ・1-2配列となっている。また、一部の車両は車端部に4人用セミコンパートメントを配置。
但し「シートピッチが窮屈」との苦情も少なくなかったため、後期増備車は普通車のシートピッチを970mmに拡大している。
ドアは片側2ドア。乗降時間短縮のため、特急型としては珍しく1300mm幅の両開きドアを採用した。
制御方式は255系に続きVVVFインバータ制御(日立製GTOインバータ)を採用。1C4M3郡制御(付属編成は1C4M2郡制御)とし、先頭車の床下にVVVF装置(を始めとした機器類)を集中搭載している。
主電動機はMT70(史実とは異なる)。全二階建ての巨体を130km/hで走行させるため、230kWという大容量に設定された。
駆動方式はTD方式。ギア比は1:5.65。
台車は軸梁式のボルスタレス方式。ヨーダンパとアンチローリング気候を搭載する。
起動加速度は2.5km/h/sと通勤電車並に設定。最高速度は651系と同じ130km/h。
尚、この車両の投入により、土浦〜勝田間の駅も15両対応化が行われた。
同時期に増備されていた二階建て新幹線「Max」に倣い、一部で非公式ながら「Maxひたち」と呼ばれることがある。
227名無し野電車区:2012/12/03(月) 09:25:51.10 ID:5PBBAA640
国鉄70系電車
日本国有鉄道(国鉄)が1953年(昭和28年)に製造した旧形近郊通勤形電車形式群の総称である。
当時、浜松まで電化されていた東海道線静岡地区や、その後の電化延長による名古屋地区、
関西の阪和線などの中距離通勤路線で使用するために、戦前に製造された35系電車をベースに、
セミクロスシートの3扉車として1953年(昭和28年)に開発され、1956年(昭和31年)まで半鋼製車体、
1957年(昭和32年)からは全金属車体で製造され、中間電動車モハ70形および、制御車クハ76形、
付随車サハ77形の3形式が1959年(昭和34年)までに、合計396両が製造された。

70系電車の開発は戦前製造のセミクロスシート3扉車の35系電車を始め、他系列と混結が前提で、
長距離・長編成での使用を想定していなかったことから同時期に製造されていた80系電車や、
60系電車で採用されたMM’ユニット方式は採用されず、戦前車輌と同じ1M方式で製造され、
主電動機も35系電車と同じ吊り掛け式のMT30を採用、歯車比も1:2.56で制御装置もCS-7を採用、
制御車のクハ76形が前面2枚窓の湘南フェイスで製造されている都合上、ほぼ同時期に製造されていた、
60系電車や80系電車と比較されることが多いが、実際はメカニズム面をはじめ完全に異なり、
製造・運用開始は60系電車や80系電車の方が先であるが、系列番号から勘違いされることがある。
228名無し野電車区:2012/12/03(月) 09:30:31.90 ID:5PBBAA640
基本形式
モハ70形0番代(70001-70142)
車体長20m級3扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間電動車で、1953年(昭和28年)から、
1956年(昭和31年)までに半鋼製車体で新造、窓配置は2D6D6D2で、両妻面は切妻型で貫通路両脇には、
幅30cmの2段上昇窓付、車両間に貫通幌と引戸を装備、屋根上の通風器はグローブ型を1列7個装備、
パンタグラフは上り向きに搭載され、台車はDT17が装備された。

モハ70形200番代(70201-70246)
車体長20m級3扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間電動車で、1957年(昭和32年)から、
1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、車体側面に従来あった窓上下のシルヘッダーを廃して、
窓も上下寸法が大型化、洗礼された車体となり、窓配置は2D6D6D2で、両妻面は切妻型で貫通路両脇には、
幅30cmの2段上昇窓付、車両間に貫通幌と引戸を装備、戸袋窓など固定窓がHゴム化され、
天井に蛍光灯と扇風機を落成当初から設置、屋根上の通風器はグローブ型を1列7個装備、
パンタグラフは上り向きに搭載され、台車はDT20が装備。
229名無し野電車区:2012/12/03(月) 09:32:36.71 ID:5PBBAA640
クハ76形0番代(76001-76094)
車体長20m級3扉セミクロスシートの片運転台式三等制御付随車で、1953年(昭和28年)から、
1956年(昭和31年)までに半鋼製車体で新造、前面は60系電車や80系電車と同じ、運転窓が角枠となった、
2枚窓の湘南フェイスとされ、窓配置はd1D6D6D2(トイレ側は1d1D6D6D11)、両側面の第1と第2客用扉は、
後方に引かれる構造で、第3客用扉だけ前方に引かれる構造となり、乗務員扉と客用扉の間に、
在る窓は幅200mmの下段のみ上昇式開閉であり、3位側に便所を設け、便所の向い側、4位側のシートは、
クロスシートとされ、屋根上の通風器はグローブ型が1列8個並び、台車はTR48を装備。

クハ76形100番代(76101-76132)
車体長20m級3扉セミクロスシートの片運転台式三等制御付随車で、1957年(昭和32年)から、
1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、車体側面に従来あった窓上下のシルヘッダーを廃して、
窓も上下寸法が大型化、洗礼された車体となり、前面窓がHゴム化され、戸袋窓の固定窓もHゴム化され、
窓配置はd1D6D6D2(トイレ側は1d1D6D6D11)、両側面の第3客用扉だけ前方に引かれる構造で、
乗務員扉と客用扉の間に在る窓は幅200mmの下段のみ上昇式開閉であり、3位側に便所を設け、
便所の向い側、4位側のシートはクロスシートとされた。台車は0番代と同じTR48を装備。
230名無し野電車区:2012/12/03(月) 09:40:35.36 ID:5PBBAA640
サハ77形0番代(77001-77050)
車体長20m級3扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間付随車で、1953年(昭和28年)から、
1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、窓配置は2D6D6D2で、両側面の第1と第2客用扉は、
後方に引かれる構造で、第3客用扉だけ前方に引かれる構造となり、両妻面は切妻型で貫通路両脇には、
幅30cmの2段上昇窓付、車両間に貫通幌と引戸を装備、屋根上の通風器はグローブ型を1列8個装備、
3位側に便所を設け、便所の向い側、4位側のシートはクロスシートで、台車はTR48を装備。

サハ77形100番代(77101-77116)
車体長20m級3扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間付随車で、1957年(昭和32年)から、
1958年(昭和33年)までに全金属車体で新造、車体側面に従来あった窓上下のシルヘッダーを廃して、
窓も上下寸法が大型化、洗礼された車体となり、窓配置は2D6D6D2で、戸袋窓など固定窓はHゴム化され、
両側面の第3客用扉だけ前方に引かれる構造で、両妻面は切妻型で貫通路両脇には幅30cmの2段上昇窓付、
車両間に貫通幌と引戸を装備、屋根上の通風器はグローブ型を1列8個装備、3位側に便所を設け、
便所の向い側、4位側のシートはクロスシートで、台車はTR48を装備。

車体塗色
70系電車の車体塗色は窓周りを黄かん色、幕板と腰板を緑2号に塗り分けた「東海色」登場、
阪和線用は窓周りをクリーム3号、幕板と腰板を緑1号に塗り分けた「阪和色」、
京阪神緩行線向けには、51系電車の増備として投入されたこともあり、ぶどう色2号の一色で登場、
1964年(昭和39年)に新潟地区に転属した車両は、雪中での視認性向上のため、他の旧形電車と同様、
窓周りを黄5号、幕板と腰板を赤2号との「新潟色」と呼ばれる塗装に変更された。
231名無し野電車区:2012/12/03(月) 09:46:32.52 ID:5PBBAA640
東海道線静岡地区
1953年(昭和28年)3月に窓周りを黄かん色、幕板と腰板を緑2号に塗り分けたモハ70形8両、
クハ76形8両の4両編成4本が、当初の予定どおり沼津機関区に投入されて、沼津駅-静岡駅間、
沼津駅-浜松駅間を運行、後の増備された車輌も新設された沼津第二機関区(後の沼津電車区)に配置、
蒸気機関車牽引の客車列車置換えに貢献、1957年(昭和32年)には4両編成15本の配置となり、
週末のみの運用区間で、沼津駅以東の熱海駅や小田原駅まで延長運用が行われた。
黄かん色と緑2号に塗り分けは乗客から「東海色」などと呼ばれ、この塗色を採用するにあたり、
静岡地方特産品にちなんだミカンとお茶に由来して採用、その後、国鉄は「東海色」を直流電化区間の、
近郊形3扉セミクロスシート電車における車両制式色とし、後年は地域に関係なく広く採用され、
民営化後の東海旅客鉄道(JR東海)でもコーポレートカラーとしてオレンジ色を採用、引き継がれている。

東海道線名古屋地区
1953年(昭和28年)7月21日に浜松駅-名古屋駅間が電化され、11月11日には稲沢駅間まで電化されると、
名古屋駅-静岡駅間、名古屋駅-浜松駅間を電車による運行が計画され、1954年(昭和29年)3月1日に、
窓周りを黄かん色、幕板と腰板を緑2号に塗り分けたモハ70形8両、クハ76形8両の4両編成4本が、
名古屋客貨車区に配置され、名古屋駅-浜松駅間の運行を始め、同年11月1日に静岡駅まで運行、
1955年(昭和30年)7月20日には米原駅間まで電化されたことで、4両編成を7両編成化する為、
モハ70形8両、サハ77形4両を配置、新たに7両編成5本を配置、7両編成9本の計63両が運用された。
1956年(昭和31年)11月19日の東海道全線電化では名古屋電車区から大垣電車区に配置換えをされ、
同じく大垣電車区に配置された32系電車4両編成を併結した11両編成で、大垣駅-名古屋駅間、
名古屋駅-浜松駅・静岡駅間などに運用された。
232名無し野電車区:2012/12/03(月) 15:03:18.56 ID:5PBBAA640
京阪神緩行線
1953年(昭和28年)3月にぶどう色一色のモハ70形12両、クハ76形8両、サハ77形4両の6両編成4本が、
35系電車と一緒に輸送力増強を図るという位置付けで宮原電車区に配置、車体塗装が地味なことから、
早々に利用客から「茶坊主」と呼ばれ、その後の増備は中断するが、1955年(昭和30年)から、
1957年(昭和32年)にかけて緩行電車の7両化に伴う増備が行われ、モハ70形4両配属の他、
7両編成4本が新たに配備、電動車の比率がMT比4M3Tと高かった。

京阪神緩行線に投入された70系電車を語るうえで忘れてはならないのは、代用「急電」への投入で、
1950年(昭和25年)から急電に投入された80系電車は8連編成で投入され、ラッシュ時20分ヘッド、
日中30分ヘッドで運行していた。しかし急電の予備編成は2本しかなく、京阪神沿線の発展とともに、
1954年(昭和29年)には編成不足となり、そこで編成に余裕のあった70系電車を急電に代用、
塗色はぶどう色のまま、客用ドア横に急行表示を掲出し、前面には急電の羽根型ヘッドマークを装着して、
急電運用を開始、使用された70系電車は塗色がぶどう色のままだったため、緩行電車と勘違いされて、
誤乗車が相次ぎ、乗客からの苦情が多かったことから、1955年(昭和30年)再び代用急電を運行する際、
前年の反省と秋以降の急電増発を考慮し、このときは塗色をマルーンとクリームの関西急電色に変更、
ヘッドマークを装着して運行した。前述のとおり急電の利用者は増加し、夏季運用終了後の9月1日から、
急電の終日20分ヘッド化を実施した。1956年(昭和31年)1月に入って80系電車が1編成投入され、
ようやく代用急電の任を解かれた。
233名無し野電車区:2012/12/03(月) 15:08:24.70 ID:5PBBAA640
阪和線
戦前から高速電車として名高い阪和線は、戦時買収私鉄の中でも他の路線とは一線を画す存在で、
戦時中の荒廃が酷く、復興には時間がかかったが、1950年(昭和25年)に京阪神間の急電を80系電車に、
置き換えたことで捻出された「流電」50系電車1次車4両編成2本と32系電車の4両編成×4本により、
新設の特急運用と従来の急行運用に投入、これらの車両は利用者から好評であり、特急や急行も、
年々増発されていったが、利用者の増加のペースも速く、50系電車1次車や32系電車の2扉では、
ラッシュ時の乗降に時間がかかるようになり、また従来の阪和社形電車も主力として運用されていたが、
1954年(昭和29年)に入ると、国鉄標準型への改造工事を更新修繕と同時に実施していたことから、
工場へ入る期間も長く、車両数は慢性的に不足していた。その一方で、阪和線と並行する南海電気鉄道が、
南海本線の特急・急行用にオール2扉車の11001系電車を投入し、阪和線に対して質的優位に立った。
同時に南海鉄道が、当時他の戦時買収私鉄各社(鶴見臨港鉄道や青梅電気鉄道など)とともに進めていた、
戦時買収線の復帰・払い下げ運動、阪和電気鉄道の旧経営陣が進めていた阪和電鉄の再興運動に加え、
南海鉄道と比較して目に見えて復興の進まない阪和線に対して苛立ちを覚えた利用者や沿線住民の一部が、
同調、大きな動きに発展する勢いがあった。国鉄としても阪和線は手放せない路線であることから、
何らかの目に見える対策が必要であり、そのために阪和線専用の新車投入を約束、新車といっても、
南海11001系電車と同じ転換クロスシートの2扉車を阪和線に投入することは、当時の国鉄では、
80系電車は急行・準急運行で手が一杯、60系電車も横須賀線や東海道線で一杯であり、
誰が見ても阪和線に投入が困難なだけでなく、なおのこと無理な話であった。
234名無し野電車区:2012/12/03(月) 15:22:41.82 ID:5PBBAA640
以上のような問題点やラッシュ時への対応を考慮した結果、ラッシュ時にも対応できて乗り心地や、
居住性に優れた車両ということで当時、東海道線静岡地区や名古屋地区、京阪神緩行線に配置され始めた、
70系電車の投入が決まり、第一陣の6両×4本(24両)が1955年(昭和30年)の9月から10月にかけて、
窓周りをクリーム3号、幕板と腰板を緑1号に塗り分けた通称「阪和色」で、鳳電車区へ配属され、
直ちに特急・急行を中心に運行を開始、70系電車配置による置換えで、1956年(昭和31年)4月には、
「流電」50系電車の1次車4両2本が飯田線に転出した。
戦時買収私鉄路線に国電最新鋭の新車が投入されることは、空前の出来事であり、
尚且つ6両編成化されたことによって座席数が増えたことで、「流電」50系電車や32系電車より、
快適なクロスシート、明るい阪和色とあいまって利用者から好評をもって迎えられた。
70系電車の第2陣は1957年(昭和32年)明けから年末にかけて、全金属車両の6両×5本(30両)が投入され、
従来車と合わせて6両×9本の合計54両が配属、阪和線の輸送力の増強に追われていたが、
70系電車の後継となる新性能の近郊形電車の登場まで、まだ時間がかかることが予想され、
その間にも阪和線の輸送力増強には待ったなしの状況となり、1958年(昭和33年)から中央線快速、
城東線・西成線→大阪環状線に新性能101系電車を投入、捻出した40系電車を京阪神緩行線に転入させ、
70系電車の全車を阪和線に転出させた。この時点で70系電車は東海道線静岡地区、名古屋地区、
阪和線のみとなり、阪和線での70系電車は同線の主力となり、70系電車が国電としては破天荒な、
「特急」「急行」のヘッドマークを付けて阪和線を疾走した。
235名無し野電車区:2012/12/03(月) 15:31:43.90 ID:5PBBAA640
1958年(昭和33年)10月1日から紀勢西線直通の気動車準急列車「きのくに」の新設に伴い、
「特急」を「快速」に、「急行」を「直行」に種別変更を実施、1962年(昭和37年)1月22日には、
阪和線の快速運用に新性能103系電車が投入されると、阪和線での70系電車天国に暗雲がたちこめ、
新潟地区の電化開業を控えた同年5月11日に転出する35系電車と一緒に70系電車の6両編成2本が、
電化応援分として長岡第二機関区に貸し出された。

更新修繕
1964年(昭和39年)から1953年(昭和28年)と1954年(昭和29年)製造車に対して、更新修繕を実施、
クハ76形の運転台窓Hゴム化、運転台窓下部への通風器取付、前面下部にタイフォン取付、
鉄窓をアルミサッシに変更、照明の蛍光灯化、座席の布地をビニルクロスからモケット張りへの変更が、
1966年(昭和41年)まで行われた。

地方への進出
阪和線へ集中配置された70系電車だったが、前述のように1962年(昭和37年)に新潟地区への、
応援分として貸し出されたが、それ以降は何事も無く、1969年(昭和44年)に60系電車の後継車、
4扉セミクロスシートの新性能107系電車の配属が決定すると、余剰となった70系電車を、
新潟地区に転出させた。また1965年(昭和40年)に東海道線静岡地区に70系電車の後継となる、
3扉セミクロスシートの新性能111系電車が投入、捻出された70系電車は電車化が急務であった、
長岡運転所や新前橋電車区に転出した。
236名無し野電車区:2012/12/03(月) 17:09:21.34 ID:5PBBAA640
新潟地区
1962年(昭和37年)5月20日に新潟地区上越線の新潟駅-長岡駅間が電化、電車運行されることになり、
当初は余剰があった17m級11系電車5両編成、20m級30系電車4両編成で運行を始めたが、
電化前から新潟鉄道管理局(新潟支社)としては、80系電車や60系電車の配置を国鉄本社に出していたが、
80系電車や60系電車は当時、転属させる余裕は一切無いことで、白羽の矢が立ったのが70系電車で、
沿線の発達とともに激増する乗客で捌くために阪和線へ新性能103系電車を配置、捻出した35系電車と、
貸し出し名目で70系電車の6両編成2本が長岡第二機関区に転出させた。この6両編成2本は阪和色のまま、
新潟駅-長岡駅間で一時的に運用されていたが、翌年には窓周りを黄5号、幕板と腰板を赤2号の、
「新潟色」に塗替えられ、その後も長岡運転所で使用、1963年(昭和38年)9月13日にも阪和線から、
6両編成3本が長岡運転所に転出、1965年(昭和40年)以降、新性能111系電車の投入で置換えられた、
70系電車が東海道線静岡地区から大量転入してきた。当初は新潟駅-長岡駅間だけであった運転区間も、
延長され、上越線は清水トンネルを越えて高崎駅まで、信越本線は電化区間の拡大によって直江津駅、
のちには妙高高原駅まで拡大した。新潟地区に転出した70系電車で特筆すべき点は、窓周りを黄5号、
幕板と腰板を赤2号の、いわゆる「新潟色」に塗装されていたことで、降雪量の少ない地域の者から見ると、
少しどぎつく見えるが、冬季における視認性の向上や、日本海側の冬の気候に打ち克つために、
明るい色を好む地域性から「新潟色」の採用に繋がった。しかし、冬季だけでなく、新緑の風景や、
越後平野の水田にも映える塗色であったことから、ローカルカラーとして定着していった。
237名無し野電車区:2012/12/04(火) 10:08:26.76 ID:UFhdE5dp0
両毛地区
1967年(昭和42年)6月10日に長野原線の渋川駅-長野原駅間が電化、当初は余剰となっていた、
17m級11系電車4両編成で運行していたが、9月1日から20m級車体の30系電車3両編成を転入させ運行、
1971年(昭和46年)3月7日に吾妻線に改称したとともに、東海道線静岡地区から新性能111系電車の、
置換えで捻出された70系電車4両編成3本を転入させた。当初は「東海色」のままで運用されたが、
新前橋電車区に所属する30系電車や60系電車に合わせて、横須賀色「スカ色」に塗り替えられた。
その後、大きな動きはなく、1982年(昭和57年)まで使用、吾妻線の主力として運用された。

岡山地区
1971年(昭和46年)に新性能107系電車の配備で阪和線から捻出された6両編成4本が、
山陽本線岡山地区に転属、30系電車や35系電車に混じり、ローカル運用に入り、
阪和色からぶどう色に塗替えられ、京阪神緩行線以来の「茶坊主」が復活、1979年(昭和54年)に、
東海道線静岡地区から転出して来た新性能111系電車に置換えられるまで運用された。

広島地区
1977年(昭和52年)3月15日に阪和線の新性能化が完了、4月1日に「さよなら運転」を実施した後、
4両編成6本の計24両が福塩線に転入、17m級11系電車を置換えるとともに運用を開始、
阪和色のまま、同線に残る35系電車、30系電車とともに運用された。
238名無し野電車区:2012/12/04(火) 10:13:07.22 ID:UFhdE5dp0
終章
70系電車の本格的な置換えは1975年(昭和50年)に阪和線に新性能131系電車が投入されから始まり、
翌年には余剰となった70系電車の一部は4両編成され、東海道線の岡崎駅-新豊田駅で旅客営業開始した、
岡多線に4両編成5本が転属、1977年(昭和52年)3月15日に阪和線の新性能化が完了、4月1日に、
「さよなら運転」を実施したあと、余剰廃車を除く24両が福塩線に転出した。
新潟地区では1976年(昭和51年)1月-2月にかけて日本海側を豪雪が襲った際、信越本線の新潟駅、
宮内駅間や上越線の宮内駅間-高崎駅間などで70系電車の普通列車が雪に耐え切れずに空転して、
次々とダウン、多くの普通列車が遅延や運休を余儀なくされたことで、この事態を憂慮した当時の、
新潟鉄道管理局は国鉄本社に対して70系電車の置き換えを要請、国鉄本社も当時推進していた、
地方線区近代化の一環として耐寒耐雪構造を強化した115系電車を長岡運転所に大量投入、
1978年(昭和53年)1月から4月にかけて70系電車を一気に置き換えた。この置換えと同時に、
上越線での減車化(6→5両へ)と運用も見直され、運用減となった上越線では、清水トンネルを通過して、
高崎駅までの運用が消滅している。また信越線でも毎年の豪雪と1978年(昭和53年)6月の集中豪雨による、
柏崎駅の冠水により、70系電車とともに配置されたばかりの新性能115系電車5両編成4本が水没してしまい、
信越線の新性能計画が大きくずれ、急遽休車中や留置されていた70系電車の中からMT比3M2Tの、
強力5両編成を組成して運用に投入、信越線の新性能化は翌年の1979年(昭和54年)3月になった。
1976年(昭和51年)4月26日から70系電車による運行が始まった岡多線にも新性能化の波が押し寄せ、
1980年(昭和55年)3月に111系電車に置換えられて廃車、1981年(昭和56年)11月から吾妻線も、
新性能115系電車への置換えを開始していて、翌年の1982年(昭和57年)1月までに115系電車化された。
239名無し野電車区:2012/12/04(火) 10:15:01.72 ID:UFhdE5dp0
このように1970年代後半から1980年代の初めに「玉突き廃車」を実施していた70系電車であったが、
最後に残ったのは福塩線だけとなった。福塩線の70系電車は阪和線からの転入車だったモハ70形200番代、
クハ76形100番代の全金属車体を主体とした4両編成6本で、阪和線時代とは異なり単線区間を、
のんびり走行していたが、置換えによって捻出された新性能111系電車の転入によって同線における運用は、
1982年(昭和57年)12月26日をもって終了、これをもって29年にわたる営業運転の歴史は終了した。

保存
広島工場内にモハ70形200番代のラストナンバー、70246とクハ76形100番代のラストナンバー、
76132が一時期、保管されていたが、のちに廃車解体され、JR関連では保存車両は存在しないが、
廃車後に民間企業が購入したサハ77111が倉庫代わりとして使用されていたが、荒廃したことで、
1997年(平成9年)に解体され、民間人が購入したクハ76123が自宅敷地内に保存されていて、
これが唯一残る70系電車となっている。
240名無し野電車区:2012/12/04(火) 17:11:36.42 ID:6yV0Vghh0
>>54
そのような車両は四国転用だろ。
241名無し野電車区:2012/12/04(火) 17:16:12.00 ID:6yV0Vghh0
オランダ鉄道113系電車
2006-2007年ごろ、JR本州3社が所有していた113系電車を1435mm化改造の上オランダに転用した。
車体塗色は湘南色のまま、主電動機もそのまま使用している。
242anorak?:2012/12/05(水) 18:33:51.33 ID:RqiIOLKq0
>>209に続く平行世界もの
◎国鉄131系直流近郊形電車
1982年 碓氷峠自走
○最大66.7‰の連続急勾配が在る信越本線の横川・軽井沢区間の碓氷峠越えには、補機としてEF63の二両が
全列車に連結されたが、普通列車運用の115系三両編成をEF63二両が推進・牽引するのは不経済であった。
そこで、信越線の高崎・小諸区間でのローカル列車の合理化を目的に碓氷峠を自走出来る近郊形電車が新造された。
それが131系である。
本系鉄には、最大66.7‰の急勾配区間の碓氷峠での登坂性能のみならず、他の区間にて最高120km/h走行する特急の運行の
邪魔にならない、つまり特急のスジを痛めず、変えずに済む高速性能も要求され、
なおかつ製造費と保守費低減の為に201系で実用化の電機子チョッパや界磁チョッパを採用せず、抵抗制御を採用。
これら従来の方法では相反する要求を満たす為に、つまり登坂性能には103系等の通勤形を超え、南海ズームカーや
神戸電鉄の車両に匹敵する高い歯車比を採用する一方で、115系等の国鉄標準の近郊形電車の高速性能を満たす為に
後述する規格外の大型の大出力主電動機を採用する事になった。
そのモーターは大き過ぎて、カルダン駆動方式では台車に収納出来ないので、吊り掛け駆動方式となった。
車種と標準編成は、軽井沢←クハ130(Tc')クモハ131(Mc)クモハ131(Mc)→横川。
碓氷峠走行中での故障に備え、EF63を二両一組で運用するのを踏襲し、本系列も1M方式電動車Mc二両一組で運用。
Mcに走行用の機器を集約し、パンタグラフは二基搭載し、一基は予備。全車、台車はコイルバネ。
ブレーキ系は、主力の発電ブレーキに加え、抵抗制御ではあるが磁気増幅器搭載で回生ブレーキも併設し、
特に停電時に急勾配で停車状態を維持する為の各種ブレーキへの非常電源となる大容量の蓄電池を搭載。
車体の意匠は115系に準じ、両開き三扉のセミクロスシート、Tc'に便所、冷房搭載。
1982年11月のダイヤ改正で就役開始し、碓氷峠を通過する普通列車の大半が131系に置き換えられた。
205系の登場を機に85年に界磁添加励磁制御に改造され、回生ブレーキの失効速度が下げられた。
87年JR東日本に承継。97年の長野新幹線開業の際、信越線の横川・篠ノ井区間は上下分離方式で引き続きJRが運営。
2003年に新型車に置き換えられ全車廃車。
243anorak?:2012/12/05(水) 19:00:33.21 ID:RqiIOLKq0
>>241の訂正と追記

訂正
>本系鉄 × → 本系列 ○
>高い歯車比 × → 大きいギア比 ○

追記
>97年の長野新幹線開業の際、信越線の横川・篠ノ井区間は上下分離方式で引き続きJRが運営。

国鉄が破産寸前の1980年代に東北上越新幹線が開業したが、それらの利益が高金利の建設債務と並行在来線の赤字で
相殺されて経営改善には貢献しなかった、という教訓から、整備新幹線の建設には、一に財源には公的無償資金援助、
二に並行在来線の経営分離の自由が認められた。
北陸新幹線高崎・長野区間着工の際、JR東日本は並行在来線の横川・篠ノ井区間を経営分離する事を表明。
JR東が発足当時とは想定外の黒字であった事から『税金等の公的資金の援助で新幹線という金の卵を手に入れて、
赤字の在来線を納税者に押し付けるとは、そこまで一民間企業を厚遇して良いものだろうか』云々の批判を受け、
結局、インフラを第三セクターの第三種鉄道事業者の保有とした上でJRが第二種鉄道事業者として運営を継続する事で、
97年秋の長野新幹線開業時に横川・篠ノ井間が新しいJRの地方交通線として信越本線から分離する事になった。
これは他にも波及し、並行在来線の上下分離区間は路線名が変わるが、全区間は外観上JRが一体運営。
244anorak?:2012/12/05(水) 19:04:15.97 ID:RqiIOLKq0
>>242-243の訂正と追記

訂正
>本系鉄 × → 本系列 ○
>高い歯車比 × → 大きいギア比 ○

> >>241 × → >>242 ○

追記
>97年の長野新幹線開業の際、信越線の横川・篠ノ井区間は上下分離方式で引き続きJRが運営。

国鉄が破産寸前の1980年代に東北上越新幹線が開業したが、それらの利益が高金利の建設債務と並行在来線の赤字で
相殺されて経営改善には貢献しなかった、という教訓から、整備新幹線の建設には、一に財源には公的無償資金援助、
二に並行在来線の経営分離の自由が認められた。
北陸新幹線高崎・長野区間着工の際、JR東日本は並行在来線の横川・篠ノ井区間を経営分離する事を表明。
JR東が発足当時とは想定外の黒字であった事から『税金等の公的資金の援助で新幹線という金の卵を手に入れて、
赤字の在来線を納税者に押し付けるとは、そこまで一民間企業を厚遇して良いものだろうか』云々の批判を受け、
結局、インフラを第三セクターの第三種鉄道事業者の保有とした上でJRが第二種鉄道事業者として運営を継続する事で、
97年秋の長野新幹線開業時に横川・篠ノ井間が新しいJRの地方交通線として信越本線から分離する事になった。
これは他にも波及し、並行在来線の上下分離区間は路線名が変わるが、全区間は外観上JRが一体運営。
245名無し野電車区:2012/12/05(水) 22:08:48.12 ID:QP4oT5lo0
国鉄 ナシ21 ナシ21−100

昭和39年に登場した、2両連節構造の食堂車
通常の食堂車の調理室側を背中合わせに連結したような外見を持っている。

昭和33年に登場した20系寝台特急は「動くホテル」と呼ばれ、好評を持って迎えられていたが、
乗客から食堂車の混雑について苦情が発生していた。おりしも東京オリンピックを控え外国人観光客対策も
視野に入れて、国鉄本社営業部としても日本食堂と協議に入っていた。

当初は単純に食堂車の増結を国鉄側は提案したが、日本食堂側から従業員確保が難しいこと(1列車に14名の従業員)
混雑の大半は飲酒を伴う「居座り組」であり、回転率が悪く収益上もよろしくないことから平行線をたどっていた。
戦前のように定食時間を設定する等検討がなされたが、それはそれでトラブルの種になることから折衷案として1両は現状の
食堂営業をしつつ、もう1両を予約制のレストランとすることで決着した。
その際、厨房従業員の合理化のために厨房をできるだけ1か所にしたい、との要望と、厨房の広さの兼ね合いから連節構造として
通路の2/3を厨房直結とすることで、料理などを運ぶ専用通路として確保する構造となった。

部内では「食堂車より1両でも寝台や座席車を連結して輸送力確保すべき」との意見も上がったが、東京オリンピックに来る
外国人観光客対策も必要、とのことから導入が決定された。

レストラン車は、発車後から21時までをディナータイムとし、23時までをパブタイム営業として自由開放する形になり、外国人は
もよとより、財界人や芸能人、政治家などいわゆる上流階級の走る社交場として機能し、若いサラリーマンなどは「いつかは俺も」
という憧れの食堂車となっていた。また、一生に一度の新婚旅行客なども奮発して乗ることも多く、終始華やいだ雰囲気であった。

しかしながら、航空機の発達とともにそういった客層のブルトレ離れが進み、更に昭和47年には新系列の14系や24系などが登場
したこともあり、昭和50年10月のダイヤ改正で最後まで残っていた「あさかぜ」用の3組6両が廃車されて形式消滅した。
246名無し野電車区:2012/12/06(木) 17:42:17.71 ID:5kpKs8Sd0
フェラーリ新幹線
フランスのTGVをベースに、車体を真っ赤に塗り、車体各所にフェラーリ(Ferrari)のロゴが入っている。
247名無し野電車区:2012/12/06(木) 23:09:08.61 ID:t7clqyvk0
国鉄 747型特急用航空機

昭和50年、オイルショックの影響などにより全国新幹線網の建設が中断・延期などの憂き目にあっていた。
更に航空機の発達が追い打ちをかけて在来線長距離特急の乗客減少が続いていた。

そこで、国鉄は「建設予定の整備新幹線の代行輸送」を名目に、航空事業本部を設立し、航空輸送に乗りだすことになり
ボーイング747を導入することとなった。

羽田空港に羽田航空営業所(電略:ハタクウ)を開設し、機体には所属略称である「東ハネ」と標記された。
機体の塗装は国鉄バス風の白地に青いラインで、尾翼には大きな動輪マークと、2階席下部分に巨大なJNRマークが入った。

客室乗務員は全員男性で、チーフは「車掌長」の赤腕章を、その他の乗務員は「乗客専務」の腕章をつけ、パイロットは
「操縦士」の白腕章をつけて乗務した。なお航空機関士はそのまま「機関士」の腕章を着用していた。

国鉄分割民営化により、JRエアとして現在でも各路線に就航しているのは、この板の諸氏には周知のことであろう。
248名無し野電車区:2012/12/06(木) 23:42:57.97 ID:zx2yA8VE0
>>247
近鉄航空 L-1011形特急用航空機
近鉄が国鉄航空事業本部に対抗して設立した「近鉄航空」の羽田-伊丹線で使用された機体。
(近鉄が航空事業に参入した理由としては、かつて構想されていた関東地区への進出計画の名残であったとも言われている)
機体は同社の特急車両と同じく、オレンジと紺色で塗装されている。

1985年頃からエコノミークラス+1000円で利用できる「デラックスシート」を装備したことでも知られているが、これが後の「アーバンライナー」のデラックスシートにつながったとも言われている。
また、日本航空の「クラスJ」はこの座席を参考にしたという説も存在する。

近鉄航空は現在は「近畿エアライン」に社名を変更し、関空/伊丹と新千歳・羽田・福岡・那覇を結ぶ路線を運航していることは周知のとおりである。
249名無し野雷車区:2012/12/07(金) 22:15:09.21 ID:8DKQG6jV0
まるでルフトハンザの逆バージョンだな
250名無し野電車区:2012/12/07(金) 22:50:23.46 ID:Rj9KUeMZ0
阪神国内航空 YS-11
近鉄航空とほぼ同時期に阪急グループが設立した「阪神国内航空」で使用されていたYS-11。
同社の設立の経緯としては、当時の阪急電鉄社長の「阪急は伊丹空港の近くも走っている、ならば空の旅にも進出してみてはどうだろうか」という考えがあったためと言われている。
機体は開業当初は阪急電鉄の車両と同じくマルーン一色で塗装されていたが、
利用者から「暗色系の機体は軍用機を思わせる」という声が出たことや、
また日光による機体温度の上昇で空調の効率が悪化するなどの理由により白地にマルーン帯に改められた。
この塗装は現在まで続いていることは周知の通りであろう。
垂直尾翼にはこれも阪急電鉄の車両と同じく、Hankyuのイニシャルである「H」を図案化したマークが描かれていた(後に阪急グループ共通のCIに変更)。

阪神国内航空の特徴として、
・「料金はエコノミークラス、サービスはファーストクラス」の考え
・開業以来一貫してターボプロップ機を使用
という点がある。
このうち「料金はエコノミークラス、サービスはファーストクラス」を実現するために、同社のYS-11はオリジナルよりも定員数の減少(64人→48人)が行われ、代わりにシートピッチの拡大やハイグレードな座席の設置などが行われている。
サービス内容に至っても、全席エコノミークラスでありながら同時期の日航・全日空のファーストクラスのそれとほぼ同等の水準であると評された。
1998年に後述する新型ターボプロップ機に置き換えられ、全機退役している。
251名無し野電車区:2012/12/07(金) 23:16:22.17 ID:Rj9KUeMZ0
ナニワ航空機 N-100
阪神国内航空がYS-11の後継機として導入したターボプロップ式旅客機。
先述の通り同社は開業以来一貫してターボプロップ機を使用しているが、ターボプロップ機に固執する理由としては巡航速度に於いてはジェット機に対して燃費と静粛性で有利である、短距離での離着陸が可能なために小規模な空港にも進出しやすいという実用的な理由の他に、
阪神国内航空の初代社長の「プロペラがある飛行機の方が旅のロマンを演出しやすい」という考えがあったためと言われている。
(実際、同社の宣伝では『プロペラ式の飛行機で優雅な空の旅』『速さよりもゆったりと飛んでみませんか』などの、速さよりもゆったりとした旅行をアピールするようなキャッチフレーズを幾度と無く採用している)
一方で開業以来使用されてきたYS-11形機が機体そのものの老朽化や安全装置取り付けの難しさで退役の時期を迎えたことや、48人という定員の少なさから後継機の導入が求められてきたものの、
大型旅客機市場はほとんどジェット機が占めており、今更になって"時代遅れの低速なターボプロップ式旅客機"を一社のためだけに製造するようなメーカーが現れることは無いことは明白であった。
このため、阪神国内航空の親会社である阪急電鉄は自社開発の旅客機を製造することを決断。
航空機メーカー「ナニワ航空機」を設立し、"自社仕様の旅客機"を製造することを決定した。
人員に関しては、YS-11の製造元である旧日本航空機製造のOBの採用の他に、三菱重工業や川崎重工業からの引き抜きもあったと言われている。
252名無し野電車区:2012/12/07(金) 23:18:12.01 ID:Rj9KUeMZ0
こうして「阪神国内航空専用機」としてロールアウトした機体がN-100である。
ネーミングは阪急電鉄のかつての名車・100系「P-6」から採用されたという説がある。
機体はボーイング767シリーズとほぼ同クラスの、ワイドボディ中型機とされた。
座席はエコノミーのみのモノクラスではあるものの、多くのファーストクラスと遜色ないシートピッチと座席に設定されている。
このため乗客定員は180名程度と、中型機としては比較的少ない数となっている。
主翼は安定性を重視し、高翼式とした。
エンジンはターボプロップ方式。C-130形輸送機と同型の、アリソンT56-A-15を4発搭載する。プロペラは4枚翼。
ターボプロップ機でありながらフライバイワイヤやグラスコックピットを採用し、新型ジェット機とほぼ同等の機能や操作性を備えている。
巡航速度は500km/h、最大速度は580km/h。

元々は事実上の阪神国内航空の専用機として開発された機体であるが、整備性の良さや堅牢性、さらに燃費や使い勝手の良いターボプロップ機であることからアジア地域の一部の航空会社でも採用されている。
海外向けの機体は座席を通常のエコノミークラスと同程度まで増やしたものも存在する。
(堅牢性に関しては、ナニワ航空機のスタッフに日本航空機製造のOBが多数在籍していたためだとも言われている。
 またこの点から、一部の航空ファンからは『YS-11の実質的な後継機』と見られることもあるらしい)
253名無し野電車区:2012/12/08(土) 08:10:10.45 ID:voI3EhJTO
京成航空CRJ700
過去に谷津遊園の遊覧ヘリコプターなどを手掛けていた日本ヘリコプターが
親会社の京成電鉄と吸収されて京成航空として遊覧ヘリコプター及び報道や
送電線パトロールなどのヘリコプター業に進出した。
そして2012年にローコストエアラインとして航空輸送の導入を決める。
採用されたのはカナダボンバルディア製小型ジェット旅客機CRJ700である。
成田空港をハブとして7機を導入。名実共にエアスカイライナーとして運航された。
行き先は成田〜伊丹 福島 庄内 中部国際であるが、直後にIBEXを吸収合併により、
IBEXが運用していた仙台と小松にも就航した。
>>215も後継機材としてCRJ700を採用し、ジェット化が図られた。
現在三菱が開発中の旅客機のカスタマーとして加わっている。
なお富士急が出資しているフジドリームエアラインを来年度に吸収合併する。
これにより、成田〜静岡も就航する予定。
また大型機材の計画でエアバスA319または日本の航空会社が採用していない
B737NGシリーズのB737-900の導入を検討している。
254名無し野電車区:2012/12/08(土) 08:12:07.16 ID:voI3EhJTO
>>253訂正
>>215は誤りで正しくは>>252
255名無し野電車区:2012/12/08(土) 10:25:58.59 ID:948v6x690
国鉄80系電車
日本国有鉄道(国鉄)が1950年(昭和25年)に開発した、旧形長距離列車用電車形式群の総称で、
いわゆる「湘南電車」の初代車両であり、客車列車の置き換えを目的に当初から、
長大編成組成を前提として設計され、電車が長距離大量輸送に耐えることを実証した車両である。

電車化の本命だった東京駅-小田原駅・熱海駅間の東海道本線東京地区は、戦前から蒸気機関車、
電気機関車牽引による客車列車運行と横須賀線から転属した17m級12系電車、20m級32系電車による、
混合運用を行っており、終戦後の混乱期における輸送事情逼迫は極めて著しく、加減速性能、
高速性能に優れた電車を用いて、列車運行頻度を増やし、激増する輸送需要に対応しなければ、
ならない状況に陥り、鉄道省時代からの懸案であった東海道本線用の長距離電車の開発用に、
1948年 (昭和23年) 4月26日、関西急電で使用されていた52系電車2次車4両編成2本を使用して、
4M3Tの強力編成を作り、中間に17m級サハ17形を改造した性能試験車サヤ16形(16001)を連結、
この時は119km/hの最高速度を記録、同年5月10日には横須賀線で使用してた52系電車3次車、
6両編成2本を組替えして6M3T編成、同年5月23日には京浜線の40系電車11両、8M3T編成1本を使用して、
茅ヶ崎-辻堂間で高速度試験が行われた。この結果を元に同年10月から企画と開発が始まり、
開発に際しては実績のある既存技術に加え、当時各製造メーカーで試験が繰り返れていた、
動力分散方式を採用する案となり、動力分散方式として2両の電動車を(1ユニット)で取り扱いをして、
片方の電動車(M車)に主制御器、主抵抗器、パンタグラフといった主電動機のコントロールに、
直接関係した機器を2両分、もう片方の電動車(M')にMG、CPなどの補機類を載せる1C8M制御の、
MM'ユニット方式を日本初、鉄道車輌として初採用する案が決定された。
256名無し野電車区:2012/12/08(土) 10:28:17.05 ID:948v6x690
主電動機は吊り掛け式150kWのMT42Bが開発され、MT42Bは国鉄が採用した電車用吊り掛けとしては、
最大の出力、国鉄最後の吊り掛け式となり、高速域での速度性能向上に加え、弱め界磁と、
起動減流抵抗による減流起動を組み合わせることで衝動が小さくスムーズな起動を可能とした、
電動カム軸接触器式も界磁機能付きのCS10Aも搭載、歯車比は高速運転に適した1:2.56、
装備する台車は専用に開発されたDT16の改良版である高速運転用台車DT17Bを装備し、
制御車と付随車の台車はTR28が装備されたが、1952年(昭和27年)からTR48に変更、
ブレーキシステムには複雑精緻な電磁空気弁による長大編成用自動空気ブレーキを装備し、
編成の先頭から最後尾まで、ほぼ遅延なくブレーキを動作させることが可能となり、日本の電車としては、
未曾有の長大編成である12両編成、16両編成運転が実現、乗り心地やコスト面での改善を図った。

車体は車端に寄せたデッキを備えた片開き片側2扉で、客車と同様のデッキと客室を壁で仕切る配置とされ、
ドア幅については乗降を円滑にするため、他の電車と同じく1100mm幅を採用、長距離運用を意識して、
客車に極力近づけたことは画期的であり、内装は木製、照明は白熱灯が片側10個2列に並び、
客用扉の窓も横桟が3本入り、古臭く見えたが、不規則運用も兼ねて、最初から耐寒設計を導入、
座席下には電気暖房を備え、座席のシートピッチも客車同様とされたが、ビニールクロスの座席は、
夏期の乗客から不評を買ったことで、後年はモケットに変更された。また窓の高さが、
客車や従来の電車よりも若干高い設計とされていて、屋根上の通風器は箱型の押込み式が千鳥上に、
モハ80形は9個、クハ86形とサハ87形は10個並び、クハ86形の乗務員室後ろのデッキ部分は、
夏期になると蒸し風呂だと乗客から不評を買ったことで、1954年(昭和29年)度製造分からは、
通風器が横並びに2個配置とされ、それ以前の製造車にも順次、取付られていった。
257名無し野電車区:2012/12/08(土) 10:30:39.31 ID:948v6x690
前面形状は1949年(昭和24年)末に製造されたクハ86001-86010の運転台正面は小田急1700形3次車に似た、
前面に限り雨樋位置を上に上げた、張り上げ屋根構成でシルヘッダーを捲いた非貫通の2枚窓であったが、
クハ86011からは2枚窓が傾斜した湘南2枚窓とされ、最初にこのデザインを試みたクハ86011-86016の6両は、
クハ86010までの台枠を流用した関係で、中心に「鼻筋」となる鋼板合わせ目のない、曲面の付いた形状で、
続くクハ86017以降は、台枠形状を変更して折れ目の付いた「鼻筋」が出現、ここに80系電車の象徴、
後の60系電車や70系電車、私鉄各社にも広がる湘南2枚窓デザインが完成、このデザインはスピード感と、
近代性があり、当時としては極めて斬新な形状で「湘南型」と呼ばれた。

また1956年(昭和31年)度製造の全金属車両からは正面窓がHゴム支持による車体直結の固定窓になり、
車体側面に従来あった窓上下のウィンドウ・シルヘッダーを廃して、窓も上下寸法が大型化、
側面窓枠がアルミサッシ化され、内装もアルミデコラ化粧板を使用する完全な全金属化され、
床はリノリウム貼り、当初から蛍光灯照明となっている。これは60系電車も同じになっている。
258名無し野電車区:2012/12/08(土) 10:33:27.53 ID:948v6x690
基本形式
モハ80形0番代(80001-80168)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M)で、モハ81形とユニットを組み、
主制御器、主抵抗器を搭載、パンタグラフは上り向きの屋根上に搭載、ユニットの関係上、全車が下り向き、
1950年(昭和25年)から1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、窓配置D1(10)1D、
車両妻面は切妻型で幅30cmの2段上昇窓付、車端部に広幅貫通路と幌を装備した。

モハ80形200番代(80201-80248)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M)で、モハ81形とユニットを組み、
主制御器、主抵抗器を搭載、パンタグラフは上り向きの屋根上に搭載、ユニットの関係上全車が下り向き、
1956年(昭和31年)度から1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、窓配置D1(10)1D、
車体側面は従来あった窓上下のウィンドウ・シル/ヘッダーを廃して窓も大型化、床はリノリウムを張り、
室内はアルミデコラ化粧板の採用、蛍光灯採用、側面窓枠が鉄枠からアルミサッシに変更され、
1958年(昭和33年)度製造分から、三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載され、
国鉄急行型電車では初の冷房搭載車輌となった。

モハ81形0番代(81001-81168)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M')で、モハ80形とユニットを組み、
MG、CPなどの補機類が搭載され、1950年(昭和25年)から1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、
窓配置D1(10)1D、車両妻面は切妻型で車端部に広幅貫通路と幌を装備、貫通路両脇には幅30cmの、
2段上昇窓が付き、ユニットの関係上、全車が東海道線基準で上り向きになっていた。

モハ81形200番代(81201-81248)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M')で、モハ80形とユニットを組み、
MG、CPなどの補機類が搭載され、1956年(昭和31年)度から1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、
窓配置D1(10)1D、車体側面は従来あった窓上下のウィンドウ・シル/ヘッダーを廃して窓も大型化、
床はリノリウムを張り、室内はアルミデコラ化粧板、蛍光灯採用、側面窓枠がアルミサッシに変更され、
1958年(昭和33年)度製造分から、三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載された。
259名無し野電車区:2012/12/08(土) 10:37:25.34 ID:948v6x690
モハ82形0番代(82001-82004)
1951年(昭和26年)に富士山麓電気鉄道(現在の富士急行線)の河口湖乗入れ運行用として、
パンタグラフ部分の屋根を低くして、パンタグラフの折畳み高さを低く抑えられた専用形式で、
歯車比は加速力より登坂力を重視した40系電車と同じ1:2.87とされたモハ83形0番代と、
ユニットを組む運転台を持たない三等中間電動車(M)で、新造当初は、
モハ80形800番代が付番されたが、1954年(昭和29年)にモハ82形に改番された。

モハ82形100番代(82101-82104)
1958年(昭和33年)度に4両が全金属車体で新造、窓配置D1(10)1D、車体側面は従来あった、
窓上下のウィンドウ・シル/ヘッダーを廃して窓も大型化、室内はアルミデコラ化粧板を採用、
床はリノリウムを張り、蛍光灯採用、側面窓枠がアルミサッシに変更され、
新造当初から三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載された。

モハ83形0番代(83001-83004)
1951年(昭和26年)に富士山麓電気鉄道(現在の富士急行線)の河口湖乗入れ運行用として、
歯車比が40系電車と同じ1:2.87にされたモハ83形0番代とユニットを組む運転台を持たない、
三等中間電動車(M')で、新造当初は、モハ81形800番代が付番されたが、
1954年(昭和29年)にモハ83形0番代に改番された。

モハ83形100番代(83101-83104)
1958年(昭和33年)度に4両が全金属車体で新造、窓配置D1(10)1D、車体側面は従来あった、
窓上下のウィンドウ・シル/ヘッダーを廃して窓も大型化、室内はアルミデコラ化粧板を採用、
床はリノリウムを張り、蛍光灯採用、側面窓枠がアルミサッシに変更され、
新造当初から三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載された。
260名無し野電車区:2012/12/08(土) 10:54:55.50 ID:948v6x690
クモユニ84形(84001-84004)
車体長20m級の両運転台を持つ郵便荷物合造制御電動車で、1951年(昭和26年)度に半鋼製車体で新造、
前面形状はクハ86017以降の湘南型非貫通2枚窓で、神戸寄りに郵便室を配置、幅1000mmの両開きを配置、
東京寄りに荷物室が設置され、幅1200mmの両開きを配置、窓配置はd1D(郵便)1111D(荷物)1dで、
パンタグラフは両運転室側に載せられていた。

サロ85形0番代(85001-85016)
日本初、狭軌路線初の車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない二階建て二等付随車で、
1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)に準急列車用として16両を新造、窓配置D2(5/5)2D、
台車間をバスタブ状の床構造として1階の床高さを線路面ギリギリまで引き下げた構造で、
デッキから客室に入ると神戸寄りから海側に洗面所、山側に便所、海側に2人掛け座席を両2列配置、
山側にラセン階段、1階座席は2人掛けを両配置10列、2階座席も2人掛けを両配置10列とし、
海側に2人掛け座席を両2列配置、山側にラセン階段、海側に車掌室、山側に乗務員室となっている。
座席はリクライニング機能が付いた回転クロスシートで、目的地に到着後は乗車する車掌が、
進行方向に向って座席の向きを変えていた。建築限界や車両限界の関係上、東海道線以外の路線、
中央線などには入線が出来ず、後年は東北本線の上野駅-黒磯駅間で使用され、1960年(昭和35年)から、
冷房改造を実施、その際に偶数車の車掌室と乗務員室を撤去、補助冷房として室内冷房機が搭載された。

サロ85形100番代(85101-85116)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない二階建て二等付随車で、1958年(昭和33年)から、
1959年(昭和34年)に全金属車体で16両を新造、窓配置D1(10)1D、車体側面は窓上下のウィンドウ、
シルヘッダーを廃して、窓も大型化、側面窓枠がアルミサッシ、床はリノリウムを張り、
室内はアルミデコラ化粧板、蛍光灯の採用、二階建て車輌は集中冷房装置の搭載が困難なことから、
両車端部の屋根上に、三菱電機がサロ85形専用に開発した分散式冷房装置ATU10型が搭載、
偶数車は車掌室と乗務員室を撤去、補助冷房として室内冷房機が搭載された。
261名無し野電車区:2012/12/08(土) 10:58:23.13 ID:948v6x690
クハ86形0番代(86001-86058)
車体長20m級2扉クロスシートの三等制御付随車で、1950年(昭和25年)から1955年(昭和30年)に、
半鋼製車体で製造、窓配置dD1(9)1D、前面形状は86001-86010の運転台正面が半流線型の、
ウインドシル・ヘッダーを巻いた非貫通2枚窓で、86011以降の製造分からは傾斜を付けた正面2枚窓に変更、
86011-86016は86010までの台枠を流用した関係で、中心に「鼻筋」となる鋼板合わせ目のない、
曲面の付いた形状であったが、86017以降は、台枠形状を変更して折れ目の付いた「鼻筋」が出現した。

クハ86形100番代(86101-86128)
車体長20m級2扉クロスシートの片運転台式三等制御付随車で、1956年(昭和31年)度から、
1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、正面窓がHゴム支持による車体直結の固定窓となり、
車体側面は窓上下のウィンドウ・シルヘッダーを廃して、窓配置dD1(9)1D、側面窓枠がアルミサッシ、
窓も大型化、、床はリノリウムを張り、室内はアルミデコラ化粧板、蛍光灯の採用、
1958年(昭和33年)度製造分から、三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載された。

サハ87形0番代(87001-87088)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等付随車で、1950年(昭和25年)から、
1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、窓配置D1(10)1D、車両妻面は切妻型で、
車端部に広幅貫通路と幌を装備、貫通路両脇には幅30cmの2段上昇窓が付いた。

サハ87形100番代(87101-87168)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等付随車で、1956年(昭和31年)度から、
1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、窓配置D1(10)1D、車体側面は窓上下の、
ウィンドウ・シルヘッダーを廃して、窓も大型化、側面窓枠がアルミサッシ、床はリノリウムを張り、
室内はアルミデコラ化粧板、蛍光灯の採用、1958年(昭和33年)度製造分からは三菱電機製造の、
集中型冷房装置AU50Mが搭載された。
262名無し野電車区:2012/12/08(土) 11:00:22.99 ID:948v6x690
クハニ88形(88001-88004)
車体長20m級クロスシートの片運転台式三等荷物合造制御車で、前位より運転台、荷物室、三等客室に、
区分され、荷物室には幅1,200mmの両開きの荷扱い扉、窓配置はd1D(荷物)1(8)1Dという、
変則的なものとなっていて、基本編成下り方専用、1952年(昭和27年)度に製造された。

サシ89形(89001-89008)
車体長20m級の簡易食堂車で、1951年(昭和26年)から1952年(昭和27年)に半鋼製車体で8両を新造、
側面に客用扉は東京寄りの車体端に在るだけで、神戸寄り山側の端には物資積卸用として、
750mm幅の片開き業務用扉を設置、側窓は下段上昇式の2枚窓、窓配置11(10)1D、
車両妻面は切妻型、車端部の広幅貫通路には片側2枚引き戸の4枚両引き戸を装備した。
調理室はは神戸寄りの山側に設置され、電気コンロ、大型電気冷蔵庫、大型冷水器、ジュースクーラー、
アイスクリームストッカー、サイフォン式コーヒー沸かし器、トースター等の電気機器を備え、
カウンターと通路を挟んで海側の側面に沿ってテーブルが設置され、着席用に丸型の回転椅子を装備、
景色を見ながら食事が出来るようになったいた。また車体中央から東京寄りは山側に2人掛けテーブル、
海側に4人掛けテーブルを設置、床下には自車電源用の50kVAのMG・CPを搭載、食堂用の水タンクは、
東京寄りに楕円型の1500Lを1基、神戸寄りに丸型の600Lを2基、床下に搭載した。
サシ89形は東京駅-浜松駅間の急行「遠州」用として日本初、狭軌路線初の二階建て二等付随車とともに、
1951年(昭和26年)度に4両を製造、提供された食事はモーニング洋食を始め、サンドウィッチ、
トースト&コーヒーやジュースなどの軽食が中心で、後のビッフェ車の原型となった。

サシ89形100番代(89101-89108)
車体長20m級の簡易食堂車で、1956年(昭和31年)度に4両、1958年度に4両が全金属車体で新造、
車体側面は窓上下のウィンドウ・シルヘッダーを廃して、窓も大型化、側面窓枠がアルミサッシ、
床はリノリウムを張り、室内はアルミデコラ化粧板、蛍光灯の採用、1958年(昭和33年)度製造分は、
三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載された。
263名無し野電車区:2012/12/08(土) 11:03:17.34 ID:948v6x690
改造形式
クハ89形(89001-89022)
地方線区への転用過程で必須だった短編成化に伴うサハ87形100番代からの改造。

車体塗色
湘南色
80系電車の独特な窓周りをオレンジ(黄かん色)、幕板と腰板をブルー(青20号)に塗り分けた塗装は、
「湘南カラー」や「湘南色」と呼ばれ、茶色1色塗装が当然だった当時の鉄道界に新鮮な驚きを与えた。
この塗色は、日本国外の鉄道雑誌に掲載されていたアメリカのグレート・ノーザン鉄道の大陸横断列車、
「エンパイア・ビルダー」用車両の塗装にヒントを得て、「湘南地方の海と太陽」を重ね合わせて、
国鉄で考案されたと開発に携わった国鉄技術者が証言している。当初発注車は窓周りが比較的濃い、
朱色であったが、評判が悪かったため、次からみかん色に変更、ほかにも彩度や明度は、塗料の退色など、
耐久性の問題もあり、時代により、あるいは担当工場により、塗り分け線とともに幾度か変更されてきた。
これ以降、「湘南地方の海と太陽にちなんだもの」と国鉄もそのようにPRした。
この塗色は1968年(昭和43年)のダイヤ改正でオレンジ色とグリーン色の「東海色」に変更されるまで、
国鉄の直流急行形電車の標準塗色の一つとなり、「東海色」に変更後もオレンジ色は引き継がれて、
オレンジ色をコーポレートカラーとして採用している東海旅客鉄道(JR東海)を筆頭に、
現在の本州JR各社にまで引き継がれ、東海道本線を走るステンレス車両の211系電車、さらにJR化後に、
登場したE231系電車、E233系電車にも、帯色として多少色が薄くなってはいるが受け継がれている。

また湘南顔の80系電車および60系電車、70系電車で採用された塗り分けは「金太郎塗」と呼ばれ、
国鉄の初期の試作型気動車のほか多くの私鉄でも採用された。初期2枚窓の80系1次車は当初、
オレンジ色の部分が比較的少なかったが、のちに2枚窓のものと同様に大きくした。
264名無し野電車区:2012/12/08(土) 11:14:51.03 ID:948v6x690
横須賀色
東海道本線東京口に続き、1950年(昭和25年)7月に横須賀線向けとして80系電車が投入された。
これらは東京駅-横須賀駅間に設定された準急電車「三浦」運用に充当、この「横須賀線用」は、
その初期には戦前の32系電車、52系流線型・半流型電車と同じ、窓周りをクリーム2号、
幕板と腰板を青2号に塗り分けられ、派手な「湘南色」車と異なり、落ち着きがあった。
1956年(昭和31年)からクリーム1号と青15号に塗装が変更された。

関西急電色
横須賀線に続き、1950年(昭和25年)10月に東海道本線京阪神地区向けとして80系電車が投入され、
戦前の52系流線型電車と同じ、窓周りがクリーム3号、幕板部および腰板部がぶどう色3号の、
関西急電の伝統であった「急電色」に塗装された。この色の80系電車は、派手な「湘南色」車と異なり、
独特の渋味のあるたたずまいで異彩を放っていた。また塗り分け線も湘南色とは異なっていた。

塗り分け調整
80系電車は、最初に登場した0番代から全金属車体の100/200番台に至るまで、湘南色の塗り分けには、
微妙な違いがあり、特に全金属車体となった200番台車と、それ以前のウインドシル・ヘッダー付き、
半鋼製車体の80系電車各車とでは、車体構造や側窓寸法の相違から基本塗り分けラインが異なっており、
混結運転時には美観の点で難が出るので、何処の電車区でも極力混結は行われなかった。
265名無し野電車区:2012/12/08(土) 11:20:41.31 ID:948v6x690
営業運転開始後
東海道線東京口
1950年(昭和25年)4月1日に窓周りを黄かん色、幕板と腰板を青20号に塗り分けたモハ80形6両、
モハ81形6両、クハ86形4両、サハ87形8両の12両編成2本が田町電車区に配置、試験運転後の、
5月1日から設定された東京駅-小田原駅間の準急電車に運行、当初準急電車の名前と愛称は無く、
乗客から「湘南電車」の愛称で呼ばれていたことで、国鉄でも準急電車に名称を付けることになり、
5月26日から準急電車「湘南」として、黄かん色と青20号の塗り分けも「湘南色」と呼んだ。
同年6月18日に田町電車区へ12両編成2本が配置されると、伊豆方面の乗客に的を絞った、
準急電車「伊豆」を7月1日から東京駅-伊東駅間で運行、同日から先頭車に「湘南」「伊豆」の、
ヘッドマークを取り付けて運行されるようになり、ヘッドマークは当初、丸型だったが、
1951年(昭和26年)4月からは丸型の両側に羽を付けた容に変更された。

横須賀線
1950年(昭和25年)7月17日に窓周りをクリーム2号、幕板と腰板を青2号に塗り分けたモハ80形4両、
モハ81形4両、クハ86形4両、サハ87形4両の8両編成2本が田町電車区に配置、翌月の8月1日から、
東京駅-横須賀駅間に設定された準急電車「三浦」として運行を開始、1952年(昭和27年)9月から、
東京-大船間の東海道線共用路線を分離、品川駅-横浜駅間は品鶴貨物線を通るルートに変更、
横浜駅ホームの2面4線の増設、東京駅-横須賀駅間のホームが全駅で延伸されたことにより、
8両編成から12両編成で運行された。
266名無し野電車区:2012/12/08(土) 11:24:38.01 ID:948v6x690
東海道本線京阪神地区
東海道本線東京口に続き、1950年(昭和25年)10月に東海道本線京阪神地区向けとして、
宮原電車区に80系電車8両編成2本を投入、これらは戦前以来の急行電車運用に充当すべく、
戦前形50系電車の阪和線転用、52系電車の横須賀線転用と引き替えに新製配置されたもので、
この「関西急電用」80系電車は、50系・52系流線型電車以来の関西急電の伝統であった「急電色」、
窓周りがクリーム3号、幕板部および腰板部がぶどう色3号に塗り分けられた。

東海道線長距離
東海道線東京口や横須賀線、京阪神地区での80系電車による運行が始まると、接客設備が電車としては、
良好であったことから、1950年(昭和25年)11月には東京駅-静岡駅間に準急電車「駿河」を、
12両編成で運行、1951年(昭和26年)2月には東京駅-浜松駅間への運用領域を拡大が図られ、
1950年(昭和25年)4月に開発が間に合わなかった狭軌路線初の二階建て二等付随車サロ85形と、
簡易食堂車サシ89形が1951年(昭和26年)3月に田町電車区へ配置されると、東京駅-浜松駅間に、
基本12両編成+付属4両編成の16両編成で急行電車「遠州」が運行されるようになり、
これは電車としては当時、世界最長編成の電車列車であった。
その後、1953年(昭和28年)7月21日に名古屋駅間までが電化されると、東京駅-名古屋駅間を、
急行電車「東海」が運行され、「遠州」と同じくサロ85形2両、サシ89形1両を組込んだ16両編成で運行、
1956年(昭和31年)11月19日に東海道全線が電化されると、東京駅から一気に大阪駅間を運行する、
急行電車「せっつ」を運行、1958年(昭和33年)には東京駅-姫路駅間に急行電車「はりま」を運行した。
267名無し野電車区:2012/12/08(土) 11:29:36.25 ID:948v6x690
中央東線
中央東線の東京駅から富士山麓電気鉄道(現在の富士急行線)の河口湖まで乗り入れは、
1950年(昭和25年)9月から80系電車8両編成1本で行われたいたが、桜木町事故後、
トンネル内でのパンタグラフ絶縁距離が見直され、80系電車での乗入れを一時中止、
1951年(昭和26年)からパンタグラフ部分の屋根を低くし、歯車比を40系電車に同じとした、
モハ80形800番代2両、モハ81形800番代2両を新造、同年8月から準急電車「富士山麓」として、
新宿駅-河口湖駅までの乗入れ運行した。

高崎線
1952年(昭和27年)4月1日に大宮駅-高崎駅間が電化、当初は30系電車で電車運行が始まったが、
同年7月1日から東京駅-高崎駅間で80系電車を使い、準急列車「あかぎ」が8両編成で運行され、
1954年(昭和29年)に60系電車が配置されたことで、8両編成から12両編成に変更、
1958年(昭和33年)には60系電車ともに16両編成化された。

東北本線・日光線
1958年(昭和33年)4月14日に東北本線大宮駅-宇都宮駅間が電化され、上野駅-宇都宮駅間を電車化、
80系電車による上野駅-宇都宮駅間の準急列車「ふたあら」を運行開始、1959年(昭和34年)5月22日には、
宇都宮駅-黒磯駅間が電化させたことで、上野駅-黒磯駅間を80系電車による準急列車「なすの」を運行、
同年(昭和34年)9月22日に日光線が電化されたことで、同年10月1日から国際的観光地である日光市に、
東京から直接向かう急行列車「日光」が東京駅-日光駅間を80系電車で運行された。
急行「日光」の編成は8両編成2本で、サロ85形100番代2両を挟んでいた。
268名無し野電車区:2012/12/08(土) 11:33:06.18 ID:948v6x690
山陽本線
1964年(昭和39年)7月25日に全線電化が完成すると、神戸駅-下関駅間に電車運行が設定され、
8月1日から急行電車「防長」が湘南色の基本12両編成+付属4両編成の16編成2本で運行された。

臨時・団体
1950年(昭和25年)の登場後から行楽用、企業旅行や修学旅行などの臨時団体に、
使用されることが多くなり、同年12月29日には帰省準急電車として東京駅-静岡駅間を運行、
1951年(昭和26年)4月には行楽用の臨時準急電車「日本平」が東京駅-静岡駅間で運行、
その後も毎年、団体臨時に運行されることが多くなり、東海道線名古屋駅までの電化が完成した、
1953年(昭和28年)7月以降は修学旅行用の臨時団体電車などの運行が多くなった。

更新修繕と冷房化
1958年(昭和33年)度から冷房装置を搭載して新造された翌年、初期車から更新修繕と同時に、
冷房装置の搭載が決定、木製室内をアルミデコラ化粧板を交換、木製床を剥し、鉄板を敷き、
その上に灰色のリノリウムを貼り、鉄製だった前面窓と側面窓枠はアルミサッシ枠に変更され、
座席の布地を青モケット張りに変更する更新修繕が行われ、冷房装置搭載にあたり側面補強とともに、
三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載する工事が1964年(昭和39年)まで全車に行われた。
269名無し野電車区:2012/12/08(土) 11:34:03.73 ID:duALeXBO0
711系800番台
80系電車(主に300番台)を交流化改造。
出入り口にはステップが取り付けられ、車体塗色は交直流急行色に変更された。
吊り掛け駆動方式のため、他の711系とは併結できない。
270名無し野電車区:2012/12/08(土) 11:42:59.58 ID:948v6x690
地方への進出
1960年代後半に入ると国鉄電化の伸張に伴って首都圏や京阪神地区を始め、運用線区を拡大していき、
その後も本州内の国鉄直流電化区間の大半で、おもに急行電車から臨時電車まで広範に運用された。
もともと大出力であり、電動車(M)比率を上げることで急勾配での運用も十分に可能であったため、
山岳路線でも広く用いられた。但し当初より他系列電車との混結を考慮しない設計であり、改造車を含め、
制御電動車が存在しなかったので編成は最短でも2M2Tの4両以上となった。運用線区の広域化の過程では、
さまざまな対策が施されて、信越本線長野電化時には横川駅-軽井沢駅間の碓氷峠越え区間に備えた、
いわゆる「双連」が施され、トンネル断面制約のある中央西線(中津川以北)への投入に際して、
モハ80形のパンタグラフを低断面トンネル対応形 (PS23) への交換が行われた。
地方線区への転用過程で必須だった短編成化に伴うサハ87形のクハ89形化改造などが行われた。

先頭車化改造
地方転出の短編成化で、不足する制御車を補うため、1966年(昭和41年)からサハ87形の前位側へ、
切妻構造の運転台を取付け、先頭車化改造を行い、新形式のクハ89形とした。
これらの先頭車化改造車は、施工された工場によって運転窓の大きさ、前照灯の取付位置が違っており、
大井工場で施工した4両は103系電車に似た低運転窓と白熱1灯、大船工場で施工した4両は低運転窓と、
窓下の左右にそれぞれ白熱灯1灯を配し、浜松工場で施工した2両は高運転窓に窓下の左右に、
それぞれ白熱灯1灯とバリエーションが違っていた。

その他の改造
1972年(昭和47年)神領電車区に配置されていたクハ86形の前照灯をシールドビーム2灯に改造、
いわゆる「ブタ鼻」改造が行われたが、改造車は(クハ86051、86052、86061、86062)の4両のみ。
271名無し野電車区:2012/12/08(土) 11:46:00.94 ID:duALeXBO0
JR西日本 サロ222・223形
JR東日本E217系のグリーン車サロE216・E217形をJR西日本が223系に編入改造。
サロ222形の種車はサロE216形、サロ223形の種車はサロE217形である。
272名無し野電車区:2012/12/08(土) 11:47:35.70 ID:948v6x690
飯田線
1967年(昭和42年)3月にクモユニ96形に置換えられたクモユニ84形の全車が飯田線に転入、
1983年(昭和58年)6月の同車廃車まで同線で他系列と併結され、運用された。

中央西線
1968年(昭和43年)7月に新設の神領電車区へ12両編成2本が転入、翌年にも2本が転入、
転入車は湘南色から横須賀色に塗替えられ、中津川駅-名古屋駅間の準急電車に運用され、
翌年にも12両編成2本が神領電車区へ転入した。

京阪神地区
1950年(昭和25年)10月から京阪神地区で関西急電として80系電車が運用されてきたが、
1972年(昭和47年)3月に宮原電車区へ新性能121系電車が置換えで配置され、捻出された80系電車は、
「急電色」のまま、神領電車区に転出、その後横須賀色に塗替えられた。

長野地区
1972年(昭和47年)に60系電車とともに12両編成4本が転入、長野運転所、松本運転所に配置され、
信越本線長野地区での準急電車運行、湘南色は順次、横須賀色に変更されたが、湘南色のまま、
廃車まで残ったのあった。また 大糸線の準急電車運行に投入された初期2枚窓車のクハ86形2両を含む、
8両編成1本は大糸線転属に際して青22号一色に塗り替えられ、「海坊主」という愛称で親しまれた。
273名無し野電車区:2012/12/08(土) 11:49:25.02 ID:948v6x690
終焉
80系電車の本格的な置換えは1981年(昭和56年)から始まり、3月に中央東線の河口湖乗入れが、
新性能125系電車に置換えられたのを始め、同年10月に東海道本線東京駅乗り入れが消滅、
東北本線・高崎線で運用されていた車輌も1983年(昭和58年)から60系電車と同じく廃車になり、
信越本線長野地区や中央西線、山陽本線でも1984年(昭和59年)から廃車が始まった。
それ以降も急行電車や準急電車、団体電車での運用も残っていたが、老朽化や機器整備の合理化の見地から、
1986年(昭和61年)1月18日に80系電車の運用は終了、2月1日と2日に東海道線東京口の東京駅-熱海駅間、
高崎線を含む東京駅-高崎駅間で「さよなら運転」が行われ、湘南色と横須賀色の16両編成4本が運行、
80系電車が初製造されて36年にわたる営業運転の歴史は終了した。

保存
高崎線で運用され、廃車となった前面が角枠のままだったクハ86形86027と86028、
モハ80形80027とモハ81027の4両が大宮工場で保管され、民営化後は東京総合車両センターで保管、
2007年(平成19年)10月にさいたま市大宮区に開設した鉄道博物館内で保存展示、
山陽本線で廃車となったクハ86形86127と86128、モハ80形80241とモハ81形80241が、
大阪の交通科学博物館敷地内に保存され、狭軌路線初の二階建て二等付随車サロ85形85001と、
サシ89001がさいたま市大宮区に開設した鉄道博物館内で保存展示、サロ85形85101が、
2011年(平成23年)3月14日に愛知県名古屋に開館したリニア鉄道舘で保存展示、
クモユニ84形84001が浜松工場で保管、84002が民営化後の東京総合車両センターで入替用事業車として、
運用と保存された他、山陽本線で廃車になったクハ86形86007が民間に売却され、個人宅で保存、
神領電車区で廃車になったクハ86051も個人に売却され、個人宅で保存されている。
274名無し野電車区:2012/12/08(土) 12:32:52.80 ID:vLkg7LK50
817系9000番台
JR九州が七つ星を導入するも料金が非常に高く利用率は低迷していた
そんな状況を打破するため2018年に投入されたのがこの817系9000番台である
特徴は817系の構体をほぼそのまま使用した寝台電車ということである
817系3000番台ベースの3両編成で門司港側から順に1号車、2号車、3号車、となっています
乗客は1号車の運転台よりの両側の扉でのみ乗降できます
車内設備は1号車には乗降扉の目の前にホテルでいうフロントがありそこにはスタッフルームも併設されています
1号車の後ろ半分はロビーカーになっており展望席部分は床から1段高くされています
2号車には客室が3室あり各部屋にトイレと風呂も併設されています
3号車はレストランカーになっており
通路は外側に迂回するように配置されレストラン内の人の流動を極力抑えることに成功しています。レストラン内はこちらも床が1段高くされており外からの注目を集めることなく、なおかつ御食事時の素晴らしい眺めに貢献しています
275名無し野電車区:2012/12/08(土) 13:05:20.13 ID:vLkg7LK50
817系9000番台 続き
厨房は車両の二分の一のスペースに設けられており業務用扉は3号車の運転台よりの両側の扉を使用、レストランの席の数は3組と全乗客が同時に使用できるだけの席を確保しております
全体での特徴は全車両車イスに対応していること、813系や817系など他の車両とも併結できること、非電化区間では電源車を介して
ディーゼル機関車を連結して運行することが可能だということ、その電源車は双頭連結器と屋根上にパンタグラフを設置し車内にディーゼルエンジンと変電機を備えており直流区間への乗り入れも
機関車に牽引してもらう必要があるが可能であること、そして、この車両に対応する改造を受けた機関車は推進運転時にこちら側の運転台で遠隔操作が可能なこと、などが挙げられる。
遠隔操作が可能な機関車はJR九州の全てのディーゼル機関車(七つ星用のものも含む)、JR貨物門司機関区のDD51の一部、同じく門司機関区のEH500の内の二両などがある。
但し、遠隔操作が可能ではない機関車でも牽引したり低速になるが推進運転も可能である
276名無し野電車区:2012/12/08(土) 20:18:37.74 ID:Qy80pNc00
キハシ26
キハ56の半室ビュッフェ車。

キハシ27
キハ57の半室ビュッフェ車。

キハシ28
キハ58の半室ビュッフェ車。
後年冷房と4VKが搭載されて番号が+2000になった。
277名無し野電車区:2012/12/09(日) 02:31:48.55 ID:Q0Tx2KQnO
東武鉄道2030系
20000系登場で余剰となった日比谷線直通用2000系を支線転用改造して昭和63年に登場した。
当時日光鬼怒川地区では3070系が活躍していたが、勾配線区ゆえに電制装備車の配置が運転サイド(の労働組合)から求められており、それに応えた転用である。
先頭車のみを対象に地下鉄乗り入れ機器の撤去、抑速ブレーキ、耐雪ブレーキの追加、霜取りパンタの増設、ドアカット回路の設置、正面貫通路の整備と幌の設置、老朽箇所の修繕が行われた。
なお、冷房化は車体強度の問題もあり見送られた。
塗装はセイジクリームをベースに窓下にロイヤルマルーンの帯を巻いた独特のものである。
力のあるオールM編成は電制も良く効き、運転サイドからは喜ばれた。
しかし依然として非冷房であることが営業面では好ましくなく、平成10年にツリカケ冷房車5050系に置き換えられて姿を消した。
278名無し野電車区:2012/12/09(日) 09:21:30.52 ID:r9zbVjrzO
東武鉄道Q634系「TOBU-Eye」
東武鉄道が開発した総合検測車である。関東一円に広大な路線を持つ東武鉄道は
軌道用の検測車と軌陸式の架線検測車しか持っておらず、営業運転レベルの
検測が出来なかった。そこで東武鉄道は営業運転速度で運転しながら検測する
総合検測車を導入することになった。
同型の検測車両を持つ小田急や東急の検測車両を検討した結果、既存車両を
改装した総合検測車を作ることになった。
当初8000系のモハ8500-クハ8600から改装する計画だったが、日光線など
勾配路線があることや2連の大師線や亀戸線などもあるため、6050系4編成から 改装された。
改造されたのは6158F 6161F 6164F 6173Fである。なお6173F改造車が東上線向け
以外は全て本線(スカイツリーライン)系統である。
モヤQ634は検査用含め2パンタ式とし、電気架線信号系を、クヤQ634は
軌道検測及び動揺測定 レール探傷を行う。
本線向け3本は南栗橋に2本と七光台1本配置とし、前者は東武動物公園以北の
伊勢崎線 日光線と宇都宮線を検測し、上毛電気鉄道の検測も委託。
七光台配置車は野田 亀戸 大師線と浅草〜東武動物公園間の本線を検測する。
東上線配置車は森林公園配置で、東上線と越生線以外に秩父鉄道の検測委託も行う。
またCS-ATCも搭載しているため、曳舟〜押上間の検測も可能。
279名無し野電車区:2012/12/09(日) 12:46:17.89 ID:gF7fwgEr0
JR九州 717系3000番台
JR西日本117系電車をJR九州が交流化改造。
出入り口にはステップが取り付けられ、車体塗色が変更された。
280名無し野電車区:2012/12/09(日) 12:52:07.64 ID:gF7fwgEr0
JR四国N6000系電車
JR東海313系電車をベースにしたJR四国の新型電車。
281名無し野電車区:2012/12/09(日) 12:58:26.71 ID:gF7fwgEr0
JR四国3000系気動車
ベースはJR北海道キハ283系気動車。
メーカーは日本車輌製造。
282名無し野電車区:2012/12/09(日) 17:27:13.76 ID:SoEivcK6O
JR東海671系
1990年代初頭、名古屋〜北陸を結ぶ「しらさぎ」用に投入。371系の交直両用版。3編成のみ投入。
「(ワイドビュー)しらさぎ」として運転。前面展望が楽しめたり二階建てグリーン車が連結されていて子供や鉄ヲタに人気。
283名無し野電車区:2012/12/09(日) 21:49:25.54 ID:CZWDAOha0
JR東日本 E26系100番台

カシオペア用として使用されているE26系をベースに、上越線経由で「日本海の夕日を楽しむ」
夜行列車用にグレードアップされた車輛

主な相違点として、電源車をカハ26として中間車化し、食堂車の隣にサロンカーとして連結するようにしたこと。
また、札幌側最後尾車が展望スイートを含むスイート車となり、行きも帰りも最後尾の景色を楽しめる個室となった。

塗装はトワイライトエクスプレスのように落ち着いた深い色となり、カシオペアの未来感ある塗装とは違ったものとなっている。

この列車の登場に合わせて、専用塗装のEF510が2両登場し、好評を持って迎えられている。
284anorak?:2012/12/09(日) 22:54:04.94 ID:CqOu4B5B0
>>242-244に続く平行世界もの
◎国鉄HD40形ラックレール対応ディーゼル・電気両用機関車
○1960年代に首都圏と北陸の短絡ルートとして塩尻と高山を結ぶ信飛線が着工し、80年に開業。
経路は、塩尻〜新島々〜白骨温泉〜安房峠〜平湯温泉〜高山。全線電化単線。
信飛線は長い連続急勾配の存在で動力車に高粘着性能を要求されるので且つ秘境での給電諸経費削減に交流20kV60Hz。
飛騨山脈(北アルプス)横断は安房峠を長大トンネルで貫くにも火山帯なので難工事が予想されたので
建設費と工期抑制の為に安房峠を地形に沿って越えるルートを採用した。
故に最大80‰の急勾配区間の出現となり、豪雪地帯なのでスリップの危険など粘着運転のみでは危惧されたので
ラックレールを採用。それは、昔の碓氷峠のアプト式では無く、構造が単純なフォン・ロール(Lamella)式。
当路線用にED42以来のラックレール対応機関車となるHD40が新造された。
交流電化の利点を最大限活かす為に交直流両用電機とせず、粘着性能に優れたサイリスタ連続位相制御の交流電機に
ディーゼルエンジンと発電機も搭載した、電気式ディーゼル機関車とのハイブリッドとした。
形式称号の動力種表記はHとなる。
直流電化と非電化区間での走行はELではなくDLモードで、また信飛線での除雪や急勾配上の停電時にも。
固有仕様は以下:車体が車長20m弱のデッキ付き。
軸配置はラックレールに噛み合う歯車(ピニオン)をzとしてB-1zz1-Bと、三つの台車の内、中間台車が歯車専用。
主電動機は動輪用に475KWのが四つ、歯車用のが二つ。
常用ブレーキはELモードでは交流回生ブレーキ、DLモードは発電。非常用には電磁吸着ブレーキなど。
ラッセルヘッドかロータリーヘッドを接合し除雪も行う。
電車牽引に備え双頭連結器。客車や直流用電車への冷暖房用電源装置搭載。
ラックレール区間を含む45‰以上の急勾配を通過する際、列車の前後共に当機を連結しプッシュプル運転。
当区間を通過する車両は連結器強化などの横軽対策と同様のを要する。
78年に試作車登場、量産され80年に就役し、新宿発着の直流用特急電車も塩尻・高山区間で牽引。
87年にJR東海に信飛線と共に承継。JR貨物塩尻機関区に常駐し、委託。
数年後にはラックレールから鉄輪式リニアモーターカーへの切り替えで引退予定。
285名無し野電車区:2012/12/10(月) 21:46:24.47 ID:VkLtyCiQ0
>>252-253補足

N-100はYS-11に続く事実上の国産旅客機第二弾であるが、機体サイズがB767とほぼ同程度なことから「政治的圧力で頓挫するのではないか」と心配する動きもあったものの、
「阪急グループの事実上の専用機」という当初の目的や、4発の中型機とは言え"遅れてきたターボプロップ機"ということもあって意外なほどスムーズに事が進んだという逸話がある。

また、N-100の開発と、ナニワ航空機の設立に関して当時の阪神国内航空の担当者はこう語っている。
「まずボーイング社に言ってみたのですが、『発展途上国向けならともかくなぜ先進国の航空会社、
 それもたった一社だけのために時代遅れのターボプロップ機を作らなければならないのか』と断られました。
 次にマグダネル・ダグラス社を当たってみたのですが、ここにも『今更MD-94Xを生産ラインに載せろというのか』と言われました。
 エアバスからも『採算がとれるかどうかは絶望的。A320を買う方が安上がりだ』と言われました。
 フォッカーに至っては、『我々には大型ターボプロップ機の経験は無い。
 経営面で苦しい我社としてはありがたいが、あなた達の会社が命知らずであるならばこの案件を受けてもいいだろう』とまで言ってきました。
 このことを本社の幹部に直談判したら、『仕方ない。どこも作らないというのなら自分たちで作ればいいだけだ』ということになり、自前の航空機メーカーを設立する運びとなったのです」

これらを含めたナニワ航空機設立と、N-100の開発の逸話に関してはNHK「プロジェクトX」の『大阪発の翼、大空へ』の回で取り上げられたことはご存知の通りであろう。

N-100の操縦性に関しては、実質的な"前作"であるYS-11(ナニワ航空機には日本航空機製造のOBが多数在籍している)の反省を活かし極力素直なものに仕上がっていたと評されており、
実際に本機に搭乗したFAAの関係者も「このような航空機が日本だけしか飛ばないのは惜しい」と評していたことがある。

あとエンジンに関して訂正
×アリソンT56-A-15
○プラット&ホイットニーT34-P-9W
286名無し野電車区:2012/12/11(火) 16:02:51.31 ID:X8oudSay0
国鉄101系電車
1955年(昭和30年)に登場した日本国有鉄道の直流通勤形電車。
国鉄の電車として初めて中空軸平行カルダン駆動方式を採用、近代的メカニズムを搭載し、
いわゆる「新性能電車」のはしりとなった系列で、80系電車や60系電車に続き、2両の電動車を、
1ユニットとして必要機器を分散して搭載するMM'ユニット方式を引続き採用、
直巻整流子電動機を抵抗制御、発電ブレーキ併用の電磁直通ブレーキと、コイルばね台車、
車体は切妻形で運転台は傾斜した平面3枚窓のシンプルなデザイン、両開き4扉を持つ軽量構造の、
全金属車体、車内は扉間7人掛け、車端部3人掛けのロングシートを備え、続く103系電車にも、
ほぼそのまま引き継がれた、国鉄通勤形電車の一時代を画した仕様である。
この基本システムは1980年代前半に至るまで、国鉄電車に広く応用された。

1951年(昭和26年)頃から各車輌製造メーカーでは駆動方式を従来の吊り掛け駆動方式から脱却して、
新世代のカルダン駆動方式にする研究と試作が続いていたが、共振や製造コストの高さなどで、
開発が延滞していたが、アメリカ・ウェスティングハウス・エレクトリック社などから最新技術を導入して、
1953年(昭和28年)に大手私鉄の東武鉄道と京阪電気鉄道、営団地下鉄などがカルダン駆動を採用した、
高性能なカルダン駆動車の通勤電車が開発、増備され、通勤輸送の質的改善に成果を上げていたことで、
1953年(昭和28年)9月に国鉄でも新性能通勤電車の開発を始め、開発当初は加減速性能の向上を狙って、
全電動車方式(オールM編成)を採用したのが大きな特徴である。個々の電動機の能力を極限まで、
高めるのではなく、全車両を電動車として編成全体の出力を高める方針が取られ、
主電動機は新開発した高回転型で小型軽量なMT46形が用いられた。
287名無し野電車区:2012/12/11(火) 16:10:14.95 ID:X8oudSay0
車体
1954年(昭和29年)に試作された40系電車全金属車体の基本構造を採用、全金属製セミ・モノコック構造、
車体長は19.5m、ウィンドウ・シル/ヘッダーのない車体の断面は幅2.8m、両側がまっすぐ立ち上がる形で、
前面は切妻非貫通型、運転台の前面は上部が室内に約10度傾いた3枚窓で、3枚の運転窓は各独立した、
Hゴム支持となり、運転台上方に方向幕と運行幕枠の取付、前照灯は幕板上部に埋込まれ、
客用扉は1300m幅の両開き扉に変更、ドア間の側面客室窓はアルミサッシを用いた全開可能な2段上昇式を、
2組1セットにまとめたデザインとなり、戸袋窓は縦方向に長いHゴム支持の固定窓とされ、
通風器は通風能力を重視した大型グローブ式を電動車は屋根上に6個1列、付随車は屋根上に7個1列に並び、
室内の通風器通風口には換気面と居住性改善のために扇風機を設置、この扇風機は40系電車を始め、
60系電車、80系電車の小型と違い、かなり大きい大形の扇風機が設置された。室内は40Wの蛍光灯照明が、
国鉄車輌では初採用され、座席は扉間7人掛け、車端部3人掛けのロングシート、制御車は戦前からの、
半流型52系電車と同じ、運転台と扉の間には座席の設定は行われ無かった。客室から運転台への扉は、
客室から見て右側に配置、この配置は後の103系電車を始め、多くの国鉄車輌に長く用いられている。

走行機器
主電動機は新開発のMT46形で、端子電圧375V、1時間定格100kwの直流直巻整流子電動機(補極付)で、
分路界磁制御自己通風型であり、主制御器も新開発したCS12形で、発電ブレーキの制御が追加、
ブレーキは電磁直通方式のSELD方式、台車は新開発のDT21形を電動車に採用、付随車はTR64形。
288名無し野電車区:2012/12/11(火) 16:11:27.92 ID:X8oudSay0
基本形式
クモハ100形
車体長20m級両4扉ロングシートの片運転台を持つ制御電動車(M')で、モハ101形とユニットを組み、
MG、CPなどの補機類が搭載され、1955年(昭和30年)から1957年(昭和32年)までに、
全金属車体で10両を新造、ユニットの関係上、全車が偶数向きとされていた。

クモハ101形
車体長20m級両4扉ロングシートの片運転台を持つ制御電動車(M)で、モハ100形とユニットを組み、
主制御器、主抵抗器を搭載、パンタグラフは車体後方、連結側の屋根上に搭載、ユニットの関係上、
全車が奇数向きとされ、1955年(昭和30年)から1965年(昭和40年)までに全金属車体で新造された。

モハ100形
車体長20m級両4扉ロングシートの運転台を持たない中間電動車(M')で、クモハ101形・モハ101形と、
ユニットを組み、MG、CPなどの補機類が搭載され、1955年(昭和30年)から1965年(昭和40年)までに、
全金属車体で新造、ユニットの関係上、全車が偶数向きとされていた。

モハ101形
車体長20m級両4扉ロングシートの運転台を持たない中間電動車(M)で、モハ100形とユニットを組み、
主制御器、主抵抗器を搭載、ユニットの関係上、パンタグラフは全車下り向きの屋根上に搭載、
1955年(昭和30年)から1965年(昭和40年)までに全金属車体で新造された。
289名無し野電車区:2012/12/11(火) 16:18:25.23 ID:X8oudSay0
サハ101形
車体長20m級両4扉ロングシートの運転台を持たない付随車(T)で、1955年(昭和30年)から、
1963年(昭和38年)までに全金属車体で新造された。

クハ100形
車体長20m級両4扉ロングシートの制御付随車(Tc)で、1955年(昭和30年)から、
1965年(昭和40年)までに全金属車体で新造、全車が偶数向き専用とされたいた。

クハ101形
車体長20m級両4扉ロングシートの制御付随車(Tc)で、1955年(昭和30年)から、
1965年(昭和40年)までに全金属車体で新造、全車が奇数向き専用とされていた。

計画の頓挫
試作車10両1本が1955年(昭和30年)3月に登場し同年6月から中央線で営業運転を開始したが、
すぐに使用電力の多さが問題になり、限流値の抑制により加速力を抑えて運転することになった。
10M100%乗車時の起動加速度は約2.2km/h/s、旧形電車の6M4T100%乗車時の起動加速度は約2.0km/h/sで、
このため全電動車編成でありながら付随車を従えて走る旧形電車と性能面では大きく変わらなかった。
同年7月に量産車の全電動車10両編成2本を同線に投入したが、試作車の投入時と状況は変わり無く、
性能を十分に発揮することが出来ないことから量産車の中央線投入を一旦、中止した。
290名無し野電車区:2012/12/11(火) 16:19:33.56 ID:X8oudSay0
電力設備が整っていないことで性能を殺さざるを得なかった101系電車だが、中央線の新性能化後は、
総武線や常磐線など他の通勤路線に順次投入することが計画されており、これらの路線の多くが、
10両編成であること、電気設備が中央線同様101系電車の全性能運転には耐えられないこと、
MT比1:1にすると加速度が旧形国電以下に落ちることから加速度を維持するために起動電流を多く、
流す必要があるが、主電動機の温度上昇問題もあり、どの程度まで過負荷にできるかは未知数であった。

そこで1955年(昭和30年)11月に営業列車を用いてMT比1:1とした場合、主電動機の温度上昇についての、
試験を行ったところ、MT比1:1で限流値350Aの場合は、閑散時もラッシュ時も限界温度以上の熱を持ち、
いずれ運用に支障が出ることが判明したことで、国鉄本社は101系電車を非効率と位置付け、
次世代の汎用的通勤電車として101系電車が使えないこと結論付けたことから、どのような線区でも、
設備投資を増強せずとも使用でき、さらに車両制作費の面でも経済的なMT比1:1編成が可能な、
標準型通勤電車の開発を新たに始めていくことになり、それまではMT比2:1とした101系電車を、
新造して間に合わすことにして、この時点でクモハ100形の新造は中止となった。
291名無し野電車区:2012/12/11(火) 17:18:01.54 ID:X8oudSay0
次期通勤電車までのつなぎ
101系電車が通勤輸送を改善する最善手にならないことは明らかではあったが、次期通勤電車の設計には、
回生ブレーキなどの試験結果なども待つ必要があり、当面は101系電車の増備を続ける必要があり、
中央線には6M4Tの朱色1号のMc-M'-Tc-Mc-M'-T-T-M-M'-Tcの10両編成で投入されたのを皮切りに、
1956年(昭和31年)から車体塗装を黄色5号に塗られた山手線へ6M4Tの10両編成が投入され、
翌年の1957年(昭和32年)には黄色5号で総武線に10両編成が投入、1958年(昭和33年)には、
中央線と同じ朱色1号に塗られた10両編成が大阪環状線に投入され、1959年(昭和34年)には常磐線に、
朱色1号の10両編成が投入、京浜東北線に黄色5号の10両編成が投入された。
京浜東北線に投入された10両編成はMc-M'-T-Tc-Mc-M'-T-M-M'-Tcの基本6両編成+付属4両編成で、
1959年(昭和34年)当時、京浜東北線では基本編成と付属編成の分離運転が考慮されていたことと、
下十条電車区と蒲田電車区では検修線が10両分無く、配置されていた40系電車は4両と6両に編成を、
分割して検修を行っていたことに合わせた為で、当時、京浜東北線は配置両数は700両以上と多く、
103系電車投入後でも4分の3は旧形国電であったため、少しでも新性能化を促進する目的で、
1961年(昭和36年)に京浜東北線へ103系電車と同じ青22号に塗られた10両編成が投入された。
1965年(昭和40年)7月から赤羽線も10両編成になっており、車両の配置も山手線と同じ池袋電車区で、
あった絡みで、山手線に103系電車が投入、捻出された101系電車を用いて赤羽線の101系電車化を行った。
292名無し野電車区:2012/12/11(火) 17:20:17.23 ID:X8oudSay0
800番台
中央本線の臨時列車増発で、トンネル断面の小さい高尾以西への入線に対応するために、
パンタグラフ取り付け部の屋根高さを低くした構造の車両で、1961年(昭和36年)に、
パンタグラフを備えたクモハ・モハ101形のみが登場した。
特徴として、他系列の低屋根車と同じく低屋根部分は扇風機に代わってファンデリアが備えられ、
国鉄時代末期までは全車武蔵小金井電車区に配置されていて、1980年(昭和55年)には鶴見線に転用。
クモハ101形800番代(801-806)モハ101形800番代(801-810)

その後
本来、中央線用として500両程度作ればよかっただけの101系電車の製造が完全に打ち切られたのは、
103系電車の製造開始から5年が経過した1965年(昭和40年)で、常磐線が1961年(昭和36年)から、
Mc-M'-T-M-M'-T-T-M-M'-Tcの基本10両編成にMc-M'-M-M'-Tcの付属5両編成を併結した15両編成化、
したためで編成両数の違いから編成の組替え、電動車2両を組み込む必要が生じたこと、山手線から、
総武緩行線に101系電車を転用する際に、大阪環状線など一部の増備に際して、将来の転用を視野に、
分割り出来る編成Mc-M'-Tc-Mc-M'-T-T-M-M'-Tcの基本7両編成に付属3両編成の増備が必要と、
なったためで、その結果、製造両数は1375両に及び、1000両近くが101系電車の性能に適さない路線での、
使用となり、また6M4Tでの運転自体も性能ギリギリだったことから、1960年(昭和35年)以降、
新製冷房103系電車の新造と配備以後も冷房化改造が満足にできないなどの弊害があり、
中央線、山手線、京浜東北線、総武緩行線など首都圏の重通勤路線は103系電車化するまで、
冷房化率を上げることが困難であった。
293名無し野電車区:2012/12/11(火) 17:25:58.18 ID:X8oudSay0
南武線
1967年(昭和42年)中央線に新製冷房車の103系電車が配置で捻出された10両編成2本が南武線に転出、
新たに電動車2両を新造して、編成をMc-M'-T-M-M'-Tcの6両編成4本に変更して投入したが、
南武線投入車への冷房改造は1972年(昭和47年)まで行われなかった。

武蔵野線
1973年(昭和48年)4月1日に武蔵野線府中本町駅-新松戸駅間の開業にともない、
常磐線の松戸電車区から15両編成6本を転属させ、Mc-M'-T-M-M'-T-T-M-M'-Tcの10両編成6本と、
Mc-M'-M-M'-Tc+Mc-M'-M-M'-Tcの10両編成3本に組替え、同線には一部区間に、
長大トンネルが存在することから、A基準に準拠した難燃化対策が施された。
その後、京浜東北線に配備されていたMc-M'-T-Tc-Mc-M'-T-M-M'-Tcの10両編成5本を転入させ、
Mc-M'-M-M'-Tc+Mc-M'-M-M'-Tcの10両編成3本を関西本線(大和路線)の電化用に転属させた。

関西本線(大和路線)
1973年(昭和48年)9月20日に関西本線(大和路線)湊町駅-奈良駅間電化用に、
武蔵野線の武蔵野操車場からMc-M'-M-M'-Tc+Mc-M'-M-M'-Tcの10両編成3本が転入、
関西本線(大和路線)では、分割されて5両編成で運行、1989年(平成元年)3月13日の、
ダイヤ改正まで運行された。

片町線
1976年(昭和51年)常磐線から捻出された5両編成5本が転入、さらに大阪環状線の森ノ宮電車区から、
Mc-M'-T-T-M-M'-Tcの7両編成から付随車1両を外した6両編成3本が転入、片町線で運用開始。
294名無し野電車区:2012/12/11(火) 20:56:28.91 ID:POUCUzznO
西武鉄道350系
1977年に初の4ドア車両として2000系を投入したが、現場サイドからすれば
既存の101系を基本とした4ドア車両を求める声が多く、1984年に新101系シリーズ
最終型の301系モハ313編成投入した後の1986年に101系の4ドア車両試作車として
8両編成5本が落成した。今回からは東急以外に日立が製造に参入したため、所沢工場製は2本のみ。
走行系は新101系(301系)を基本としているものの、車内は3000系に準じたもの
となり、また冷房装置はラインテリアに変更され、補助電源はSIVに変更された。
101系シリーズ唯一の側面方向幕も付いた車両でもある。
新宿線に3本 池袋線に2本されたが、池袋線には馴染めず、2年後には全て
新宿線に転属された。
1988年にも2本投入される予定であったが、既存の101系ベースの車両よりも
2000系を増備が得策と判断され、その後は新2000系に4ドア車両の量産が
切り替えられてしまい製造は打ち切られた。
主に準急や急行に用いられたが、10両編成にするためには2連車が必要であったが、
新宿線には新101系の2連がなく、401系の連結が出来ないことから単独使用が余儀なくされた。
苦肉の策としてサハ1350形の間の5-6号車に新101系のを連結する変則的な
混血10両編成が組成された。
組まれた101系のモハは242 245 258 259である。モハ1355の編成には2連の290編成を
組み込んだ。
2006年の更新工事により制御装置をVVVF制御化され、車内は9000系に準じた
ものとなった。同時に9000系に編入されることになり9050系に差別化されている。
2011年にはシングルアームパンタ化及び全車両が30000系と同じ空気圧縮機に変更された。
なおこの際に全車両が10連貫通化されているが、4M6Tとなったために真ん中に
組み込まれる車両の種車は301系のサハに変更され、4ドア車両に車体を更新している。
また2010年に全車両が池袋線へ集結されている。
295名無し野電車区:2012/12/11(火) 21:41:22.51 ID:7hwFibP60
JR北海道 クモハ710

721系などの増備により、711系が札幌圏から室蘭本線苫小牧以南及び函館本線岩見沢以北での
ローカル運用が増えていった。
しかしながら、それらの区間では3連では過剰輸送になることからモハ711を制御車化して2連にするとともに
ワンマン対応化することとなった。

改造は最小限とすることとなり、室蘭/札幌方デッキ部分左側に運転席を取りつけ、背後の雪切室を廃止して左側ドアを
設ける形となり、新設されたドアは台車と支障することからステップがせり出す方式となった。

貫通ドアを内開きの先頭車と同じものにし、ヘッドライトを4灯つけただけで、中間車の顔のままとなった。

形は変であったが、2連ワンマン化により地方輸送に貢献することとなった。
296名無し野電車区:2012/12/11(火) 22:04:06.65 ID:/UwV9mxh0
JR九州415系電車 沖縄仕様
JR九州が所有している415系の普通鋼製車体オールロングシート車を、トイレなしの3両編成に組み換え。
偶数向きクハ411(トイレ付き): 廃車
奇数向きクハ411(トイレなし): 偶数向きに方転改造
モハ415: 先頭車化改造(廃車クハから運転台部分を移植)
297名無し野電車区:2012/12/11(火) 22:13:48.07 ID:/UwV9mxh0
>>296続き
沖縄に鉄道建設
軌間: 1067mm(三六軌間)
駅ホームの高さ: 1100mm(レール面上より)
建設ルート: なるべく米軍基地の敷地内を通すようにする。
298名無し野電車区:2012/12/12(水) 06:50:57.80 ID:9TknB9qe0
冷房改造
主電動機の低さとMT比率の問題で、冷房化が困難な101系電車は製造終了まで非冷房で製造されたが、
中央線の架線を、より太いシンプルカテナリーに交換工事が終了した1964年(昭和39年)から、
中央線の編成を8M2Tの10両編成に変更、同時に編成替えした編成から冷房改造が施されたが、
翌年に101系電車の新造が終了したことで、冷房改造が施工された編成は10両編成5本で終了した。
それ以外は主要通勤路線に新製冷房車の103系電車配置による捻出で、転用線区に移ってから、
編成の組替えで電動車の比率が高い場合のみ、冷房改造を実施することになり、最初は103系電車と同じ、
集中冷房装置を搭載したが、1970年(昭和45年)からは車体補強が必要無い、東芝・日立製の、
分散式冷房装置を搭載したが、全車には施工されず、全体の40%しか冷房改造されなかった。
299名無し野電車区:2012/12/12(水) 06:53:39.34 ID:9TknB9qe0
終焉
1979年(昭和54年)3月に常磐線では103系電車の置換えが完了、置換えられた一部は廃車され、
中央線でも103系電車、201系電車への置換えと老朽化に伴う廃車が始まった。
1980年(昭和50年)に武蔵野線でも10両編成2本が103系電車に置換えられ廃車、
1981年(昭和56年)には総武線の津田沼電車区に所属する10両編成4本が103系電車に置換えで廃車、
1983年(昭和58年)には大阪環状線の10両編成5本が103系電車に置換えられて廃車が始まった。
首都圏の重通勤路線から101系電車が消え去るのは1985年(昭和60年)の中央線で、
3月14日のダイヤ改正で快速以外の運用が終了、3月25日には快速運用も終了した。
青梅線・五日市線で使用されていた車両は1986年(昭和61年)に103系電車に置換えられ、
民営化後は東日本旅客鉄道(JR東日本)には210両が継承され、継承された多くが冷房改造車で、
南武線は1992年(平成4年)、鶴見線は1997年(平成9年)まで運用された。
南武線の浜川崎駅-尻手駅間(南武支線)は特殊路線として2両編成3本(6両)が、
2003年(平成15年)まで運用された。南武支線用の車両は最初に製造されたクモハ100形10両のうち、
3両が使用されており、JR発足後にワンマン化(塗色も変更)と冷房化の2つの改造を受けており、
他線で使用されていた車両が、周り回って南武支線に配置、2003年(平成15年)11月28日に、
205系1000番台への置き換えにより、定期運用を離脱、廃車後は解体された。
300名無し野電車区:2012/12/12(水) 06:56:51.57 ID:9TknB9qe0
近畿圏では大阪環状線・桜島線(JRゆめ咲線)・片町線(学研都市線)・関西本線(大和路線)などで、
運用されていたが、関東地区以上にハイペースで103系電車への置換えで撤退が進み、
西日本旅客鉄道(JR西日本)に継承されたのは片町線で使用されていた14両(うち冷房車8両)のみで、
同線での編成はMc-M'-T-M-M'-Tcの6両編成で、冷房車は中央・総武緩行線からの転入車が多く、
非冷房車は大阪環状線からの転入車であった。その後、桜島線に転用されたが、207系電車によって、
置き換えられる形となり、1991年(平成3年)3月30日に同線での営業運転を終了し、
同年4月29日のイベント電車の運転を最後に翌1992年(平成4年)に全廃された。

時期は前後するが、1982年(昭和57年)の水害で関西本線王寺駅に留置されていた60両が使用不能、
(電気機器の冠水による絶縁劣化および、床材が水を吸い膨れ上がる現象が発生したため)となり、
急遽関東地区から廃車予定車を転属させ2年間使用に充てられた。この時、元中央線快速の車両は、
オレンジ地に前面黄帯入り、元中央・総武緩行線の車両は関西地区には福知山線103系電車にしか、
なかった黄色のまま使用され、共に異彩を放っていた。

保存
国鉄初の新性能電車として試作、老朽化のため1979年(昭和54年)に廃車されたクモハ101-001が、
廃車後もJR東日本東京総合車両センター(旧・大井工場)正門前に静態保存されていたが、その後、
2007年(平成19年)10月14日に埼玉県さいたま市に開設された鉄道博物館に移設され、展示されている。
301名無し野電車区:2012/12/12(水) 06:59:28.47 ID:9TknB9qe0
秩父鉄道への譲渡など
現在、JR線上からは消滅した101系電車であるが、埼玉県の羽生駅-三峰口駅間を走る秩父鉄道では、
国鉄時代の1981年(昭和56年)頃からJR化後まで譲渡された3両編成12本(計36両)が在籍している。
形式は1000系電車となり、Tc-M-M'c(クハ101形-モハ101形-クモハ100形)の編成6本と、
Mc-M'-Tc(クモハ101形-モハ100形-クハ100形)編成6本で譲渡された。
入線当時は黄色に茶帯の塗装に前面に「秩父鉄道」と表記されていた塗装で比較的原型を保っていたが、
後のワンマン化を前にクリームを基調として赤と青の帯を施した塗装に変更された。その後、
冷房化(分散冷房)やパンタグラフの2基搭載化などを経て、2008年(平成20年)までは全車が、
在籍していたが、2009年(平成21年)2月に7000系電車の入線により1004Fと1009Fの2編成が、
運用を離脱し廃車された。なお、鉄道博物館の開館に併せて4編成が同年秋からオレンジバーミリオン、
スカイブルー・カナリアイエロー・ウグイス(関西線色)の4種類の塗装へ順次復元されている。

なお、京福電気鉄道福井支社(→えちぜん鉄道)や福井鉄道などが他社から車両を譲り受けた際は、
軌間が合わないなどの理由から台車や電装品を101系電車の廃車発生品に交換するなど、
部品提供の事例がある。また、愛知環状鉄道では開業にあたって車両を製造する際に、
経費削減の観点からモーターなどに101系電車の廃車発生品を採用している。
302名無し野電車区:2012/12/12(水) 12:22:09.65 ID:Ydc9Hq8B0
JR北海道カーフェリー津軽丸、松前丸

1986年、JR発足直前に青函トンネル開通後の輸送の補完として青函連絡船をカーフェリー化して存続することが決定した。これは例えるなら東海道新幹線に対する国鉄高速バスといった位置付けである。
1988年3月に鉄道航送終了後青森、函館の両桟橋をカーフェリー仕様に改装し経年の浅い石狩丸、檜山丸をカーフェリーとして再改装し、カーフェリー用新造船として津軽丸、松前丸を投入して1989年3月に運行を再開した。
本船は旧津軽丸型を一回り小さくし近代化させたような雰囲気をしており座席区分も旧津軽丸型と同じである。ただし座席は100系新幹線のものをベースにしたものになっていたり、車椅子用の設備が用意されているなどと時代に合わせた改善点がいくつもある。
なお本航路は2000年4月にJR北海道カーフェリーとして分社化されている。
303名無し野電車区:2012/12/12(水) 22:53:16.70 ID:yqZkJa/w0
コキ108
JR貨物が試作した120キロ運転対応コンテナ車。
構造はMc250系のT260形に似ている。
基礎ブレーキ装置をディスクブレーキと踏面ブレーキの併用とし、ブレーキを強化することで120キロ運転に対応。
また台車がコキ10000形以来の空気ばね台車となった。
貨車では前例のない電気指令式ブレーキを採用したため、牽引機関車が限定される(EF200・EF210・EF510・EH200・EH500・EH800・DF200、それ以外の機関車でも非常時に牽引可能なように自動空気ブレーキを併設しているが最高速度が110キロになる)。
304名無し野電車区:2012/12/13(木) 19:09:35.93 ID:gi7CHr1T0
JR北海道771系電車
JR北海道の在来線の1435mm化&車両限界拡張&低床ホーム化に伴い製作される非振り子の特急型電車。
正面のスタイルは789系(基本番台)に類似するが、車体長25m&車体幅3.4mとなり、
車輪直径は910mmに、床面高さはレール面上1300mmに、ステップ高さはレール面上550mmになり、
架線電圧は新製当初より25kV(50Hz)対応となっている。
またステンレス車体側面のビードも復活。

JR北海道773系電車
771系と同時に製作される振り子式の特急型電車。
車体幅は3.2mで、ステップ高さはレール面上550mmとなっている。

両系列ともに車両限界の関係で札沼線および新千歳空港駅には入線不可。また本州以南の在来線(狭軌のまま)にはもちろん入線できない。
305名無し野電車区:2012/12/13(木) 22:53:07.59 ID:uoWDZKO70
クム9000
JR貨物が開発した高速バスピギーバック輸送用貨車。
高速バスや観光バスをそのまま貨車に乗せることで乗り換えなしで目的地まで列車とバスで移動できるようにした。
しかし高さ制限から三菱ふそうエアロキングのような車高の高い2階建てバスは搭載できないのが難点だった。
DMVはバス側に鉄道用の車輪を搭載する必要があるが高速バスピギーバック輸送なら無改造でそのまま貨車に積載可能である。
306名無し野電車区:2012/12/14(金) 16:31:25.77 ID:ot4lB/r2O
クム2000 85000
平成5年にピギーバック輸送は効率の悪さなどから輸送を廃止にする線が高まった。
そこでJR貨物はトラックではなく乗用車を函館近辺にダイレクトに運べる利点を
生かして時間がかかるフェリーに対抗すべく青函間を乗用車を行き来する
輸送に切り替えるべく、既存のクム1000 80000双方を改造したもので、
2形式で18両ずつ36両が改造された。
輸送は単独または高速貨物列車の後部に5〜7両を連結して輸送する。
運用は青森(タ)〜五稜郭間である。
牽引はED79型又はEH500(将来的にはEH800型も加わる)又は輸送専用に青函ATCを
追加装着したDF200型を用いる。
国産及び輸入の普通乗用車及びSUV RV車 ミニバン ワゴン車 ライトバン系なら
2台、軽自動車なら3台積載可能で、1〜2t積みの普通トラックや最大2〜3t
積みロング又は4tトラック1台まで積載可能。
(但しパネルバントラックは不可)
人員は積載された乗用車の車内に乗ったまま輸送。
費用は運転手分の青森〜五稜郭間の普通運賃と積載する車により料金が変わる。
軽自動車\2800
1500CC以下\3500
1500CC以上3000CC以下\4200
それ以上 ミニバン RV車など\4500
2tまでのトラック\7350
2t以上4t以下のトラック\8400
冬季は荒天などで欠航する青函間のフェリーが多く、確実に輸送できる貨物列車による
マイカー輸送は対フェリーの切り札として登場したためにフェリー会社は危機感を強め、
東日本フェリーは高速フェリー「ナッチャン」を新造で3隻投入したが、
かえって逆に経営を傾けさせるだけで結果的に破綻に追い込ませた。
瀬戸大橋線にも倉敷から高松や松山で使う計画だったが、これは見送られた。
307名無し野電車区:2012/12/14(金) 19:35:50.78 ID:W826IFs30
>>282は561系。

>>88
683系は交直両用電車なので木曽地区の狭小トンネルを走れないよ。
308名無し野電車区:2012/12/14(金) 19:45:04.21 ID:CgYFnGnq0
新規姉妹スレ立ち上げ
タイトル: 【JR北海道】キハ281・283系気動車 廃車への道のり
309名無し野電車区:2012/12/14(金) 20:02:38.11 ID:kg5BS+Tz0
>>302
 廃止する頃に青函連絡船を何隻か残すって検討はしたらしいが、採算が合わないってことでやめたそうだ。
310名無し野電車区:2012/12/14(金) 20:11:04.32 ID:RwxOTRpg0
>>305
クム90000
JR貨物が開発したクム9000の改良版。
バスタブ型台枠を採用することでエアロキングを搭載できるように改良した。
しかしエアロキングは全高が3.8mもあるためにエアサスをパンクさせて車高を下げる必要があるのと架線と接触する可能性があることから中央本線に入線出来ないのが難点である。
311名無し野電車区:2012/12/14(金) 21:34:56.11 ID:tc/CCYjB0
京都市営地下鉄10系「スーパーマリオブラザーズ塗装」

2016年に地下鉄開業35周年を迎える京都市営地下鉄は、35周年の記念イベントとして烏丸線に任天堂の看板キャラクター「スーパーマリオブラザーズ」の塗装を施した車両を運行することを決定した。
スーパーマリオの起用の背景としては、
・国際観光都市である京都にふさわしい、世界的に知名度の高いキャラクターであること
・特定の年齢層・国だけではなく、世界中で愛されているキャラクターであること
・任天堂が京都を代表する企業の一つであること
・(飽くまで噂レベルでしか無いが)担当者がスーパーマリオブラザーズのファンであったとされる
などがあったと言われている。
6両編成の各車両が初代「スーパーマリオ」の地上ステージ・地下ステージ・水中ステージ・アスレチックステージ・空中ステージ・城ステージをモチーフとした塗装を施され、
車内も座席のモケットが同シリーズのアイテムである「スーパーキノコ」を意識した赤字に白の水玉模様の入ったもの(優先席は緑地に白の水玉模様)に変更された。
車内情報装置のプログラムも変更され、駅名表示などの前後に同シリーズのアイテム(スーパーキノコ、ファイアフラワーなど)の絵が表示されるようになった。

なお、京都市営地下鉄への直通運転を行う近鉄及び京阪も、任天堂のゲームソフトをモチーフとしたデザインを採用した列車を登場させている。
312名無し野電車区:2012/12/15(土) 04:51:50.72 ID:WigsoLBdO
>>311
京王電鉄9000系 小田急電鉄新4000形 「サンリオキャラクタートレイン」
多摩センターにある全天候型テーマパークであるサンリオピューロランドを
最寄り駅とする小田急と京王が開園から間もなく25年を迎えるために、
サンリオキャラクターの列車を走らせようと言うことになった。
しかしキャラクターは京王と小田急とは別れた。
京王はドアの注意喚起にも使われているハローキティとキキとララを採用し、 小田急はマイメロディとけろけろけろっぴをキャラクターに採用した。
小田急は前面もマイメロにモチーフとしたものとなり、綾瀬方はマイメロのピンクで
唐木田方はクロミの黒色となった。
座席のモケットは京王が白色にハローキティ又はキキとララのイラスト 小田急は
同じく白色にマイメロ クロミ けろっぴのイラストとなる。
車内情報装置も京王はハローキティ 小田急はマイメロのキャラクターが登場する。
また小田急はマイメロに合わせて車内がピンク色を主体としたものとなった。
(当初予定されていたクロミをイメージした黒色の車内はさすがに見送られた)
また京王は側面のLED幕にもハローキティ等のキャラクターが出る。
両者とも小田急は多磨急行を京王は都営線直通の相模原線急行に主体に使われるが、
特に京王は相模原線だけでなく京王線にも充当されるため、京王八王子行きや
高尾山口行きの準特急などにも普通に充当されている。
小田急も全編成10両で運転する急行に充当されることがあり、マイメロ電車が
ついに片瀬江ノ島や小田原まで入ってきたと2chの小田急スレで入っている。
いよいよ箱根湯本か?と書き込みめ高まっているらしい。
313名無し野電車区:2012/12/15(土) 13:20:11.87 ID:h5f738fT0
>>311
京都市営地下鉄100系「けいおん!塗装」

2081年に地下鉄開業100周年を迎える京都市営地下鉄は、100周年の記念イベントとして50年ぶりに新造した烏丸線の車両100系に京都アニメーションの看板キャラクター「けいおん!」の塗装を施した車両を運行することを決定した。
けいおん!の起用の背景としては、
・国際観光都市である京都にふさわしい、世界的に知名度の高いキャラクターであること
・特定の年齢層・国だけではなく、世界中で愛されているキャラクターであること
・京都アニメーションが京都を代表する企業の一つであること
・(飽くまで噂レベルでしか無いが)担当者がけいおん!のファンであったとされる
などがあったと言われている。
4両編成の各車両が初代「けいおん!」の主役である平沢唯、秋山澪、田井中律、琴吹紬をモチーフとした塗装を施され、
車内も座席のモケットが同シリーズの衣装である「制服」を意識した紺色の背もたれに灰色のシートカバー模様(優先席は夏服にあわせ白色の背もたれに灰色のシートカバー)に変更された。
車内情報装置のプログラムも変更され、駅名表示などの前後に同シリーズのアイテム(ギター・カスタネットなど)の絵が表示されるようになった。

なお、京都市営地下鉄への直通運転を行う近鉄及び京阪も、京都アニメーションのアニメ作品をモチーフとしたデザインを採用した列車を登場させている。
314anorak?:2012/12/15(土) 19:13:58.68 ID:veh4VamK0
>>284書き直し
◎国鉄HD40形ラックレール対応ディーゼル・電気両用機関車
○1960年代に首都圏と北陸の短絡ルートとして信飛線(塩尻〜新島々〜安房峠〜神岡〜飛騨古川)及び
白山線(角川〜白川郷〜三方岩岳〜白山下〜鶴来〜寺井)が着工、80年開業。
一部並行の北陸鉄道の路線は廃止。
飛騨山脈(北アルプス)及び白山山地の横断は火山帯なので長大トンネルは難工事が予想され、
建設費と工期抑制の為に安房峠及び三方岩岳を地形に沿って越えるルートを採用。
故に両峠越えは箱根登山鉄道並の最大80‰の急勾配区間となり、粘着運転のみでは豪雪時に空転多発が危惧されるので
ラックレールを敷設、昔の碓氷峠のアプト式では無く、構造が単純なフォン・ロール(Lamella)式。
両路線では長い連続急勾配の存在で動力車に高粘着性能を要求されるので且つ秘境での給電諸経費削減に、
両路線に挟まれた高山本線飛騨古川・角川間と共に交流20kV60Hzで電化。
当ルート用にED42以来のラックレール対応機関車となるHD40が新造された。
直流電化の塩尻駅構内に乗り入れるが、交流電化の利点を最大限活かす為に、なお且つ急勾配での停電時に備え、
サイリスタ連続位相制御の交流電機にディーゼルエンジンとブラシレス交流発電機も搭載した、
電気式ディーゼル機関車とのハイブリッドとした。
形式称号の動力種表記はH、4x番は特殊機。
交流通電架線下以外での走行はELではなくDLモードで、DLモードの性能はELモードの半分。
車長20m弱のデッキ付き箱形車体。
軸配置はラックレールに噛み合う歯車(ピニオン)をzとしてB-1zz1-Bと、三つの台車の内、中間台車が歯車専用。
主電動機は動輪用に四つ、歯車用が二つ。
保安装置はEF63/71を踏襲し、ブレーキはELモード専用の回生、発電、電磁吸着ブレーキなど。
ラッセルヘッドかロータリーヘッドを接合し当ルートの除雪も行う。
電車牽引用双頭連結器。客車用EG。
ラックレールも含む40‰以上の急勾配区間では、原則、列車の前後共に当機を連結しプッシュプル運転。
当区間を通過する車両は連結器強化等の横軽対策と同様のを要する。
78年に試作車登場、80年に塩尻・寺井間で就役。
87年にJR東海に当ルートの塩尻・白山下間と共に承継。
数年後にラックレールから鉄輪式リニアモーターカーへの切り替えで引退予定。
315名無し野電車区:2012/12/21(金) 13:36:26.93 ID:nKeBzHD70
国鉄103系電車
国鉄通勤形電車として、当時の国鉄の財政・設備・保守などの各事情を考慮の上で、
経済性を最重視して設計され、1959年(昭和34年)10月から1983年(昭和58年)1月までの23年間に、
総計3468両を製造、国鉄通勤電車初の新製冷房車として製造された電車でもある。
基本的な構成は、国鉄初の新性能通勤電車で前作に当たる101系電車を基に、おおむね踏襲している。
切妻形車体・3枚窓による運転台のシンプルなデザイン・1300mmの両開き4扉・扉間7人掛け、
車端部3人掛けのロングシート・コイルばね台車はウイングばね軸箱支持・直巻整流子電動機を用いた、
抵抗制御・MM'ユニット方式で、国鉄初のディスクブレーキ付き台車を付属車に採用した。

国鉄の汎用的通勤形電車として設計されたため、比較的駅間が短く速度の低い線区を主に使用することを、
前提として設計されているが、週末などの臨時電車運転を考慮して主電動機の界磁を35%まで弱めて、
高速特性を近郊形電車の111系並に設定している。設計当時多くの路線で最高速度が95km/hで有り、
よほど特殊な線区以外では高速運転をする機会はなかったが、大量に製造されるうちに、
駅間距離が長い路線やブレーキ初速度の高い路線などに投入された結果、高速性能を求められる、
ケースも増え、加速性能では分流抵抗による弱め界磁率の誤差などを修正する小改造を、
高速域からの電気ブレーキ性能では過電圧対策などを施して改善した車両も存在した。
なお、最初の投入先が山手線であったことから一部の雑誌執筆者からは駅間距離が短い山手線専用形式と、
言われたこともあったが、当時の関係者によって完全に否定されている。最高速度は100km/hと、
なっているが、MT比1:1では90km/hを超えると加速余力は少なく実用95km/h程度である
本系列の設計は帝都高速度交通営団(現在の東京地下鉄)東西線乗入用のアルミ製車両である、
301系電車の基本となったほか、地方長距離路線用の4扉セミクロスシートの107系電車にも応用された。
316名無し野電車区:2012/12/21(金) 13:39:26.16 ID:nKeBzHD70
標準形通勤電車の設計
101系電車の失敗が確実となった1955年(昭和30年)を境に、首都圏の通勤事情は年々悪化、翌年の、
1956年(昭和31年)1月には中央線の朝ラッシュ時に56分30秒という過去最高の遅延を記録するなど、
「交通地獄」の様相を呈して来ていて、この状態を緩和するため、同年秋から山手線に101系電車を、
6M4Tの10両編成で投入を開始したが、101系電車の性能上、山手線などで使用する場合はモーターに、
電流をあまり流すことが出来ないため、電気ブレーキをカットすると共に、力行時の限流値も低く抑える、
必要があり、同線を走っていた旧形国電よりも運転速度は遅くなったが、101系電車は両開きドアで、
あることからラッシュ緩和に効果があること、山手線から捻出される旧形国電を他の路線の増結用に、
回すことができること等の利点を買われたものである。このように103系電車の設計がまとまるまでの間、
中央線用に設計された101系電車を性能的に適さない山手線や総武線などに増備せざるを得なかったのは、
待ったなしのラッシュ輸送改善のためであり、101系電車を入れても新性能電車投入のスピードアップ、
などの効果が薄いため、これら通勤路線に適合した仕様でMT比1:1を実現し低コストで大量に量産しうる、
新形通勤電車が必要となり、101系電車では当初全M車編成で3.2km/h/sという高い加速度が目標とされたが、
変電能力と架線温度で6M4T化により2.0km/h/sの加速度と3.0km/h/sの減速度になり、新形通勤電車の、
投入候補線区のうち、次期車両の投入予定4線区を検討した結果、高加速度のメリットが大きくないことが、
明らかになってきた。輸送力向上のための運転時隔短縮が本来の目的であり、高加速度は駅間での、
運転速度を高めて閉塞区間を速く通過することで次の列車を早く通すという考え方に基づく要求だが、
これを達成するためには実際には高減速度の方が重要ということが判明したため、2.0km/h/s程度の、
加速度にとどめ、むしろ3.5km/h/sという減速度を目指す、新通勤電車の形式は103系電車となった。
317名無し野電車区:2012/12/21(金) 14:07:42.82 ID:nKeBzHD70
車体の設計
車体は101系電車をベースにしているがいくつか変更点が有り、前面窓がHゴム支持の3枚つづりとなり、
運転中の乗務員に対する軌道の流れによる圧迫感を防ぐため、運転台窓を天地方向にやや縮小した。
運転台機器は視認性を重視したメーター類配置、操作性・疲労軽減性を考慮して手前に傾けられた、
マスコン・ブレーキハンドル・運転士座席、扱いやすさの観点から多用するスイッチ類を制御卓に集約、
正面行先表示器の拡大と電動化、後位側面に電動行先表示器(方向幕)を設置、その下の側窓は下段上昇、
上段下降式に変更、行先表示器指令器と冷房制御盤を運転室背後の客室仕切板に設置したことで、
運転室背後の客室仕切中央の窓を2枚とも廃止、客室内3位側妻窓上部には配電盤を設置し、
その下の妻窓上段を固定化、居住性の改善目的で、座面拡張と蛍光灯の増設を実施、電動空気圧縮機を、
2倍の能力があるC2000形とし、三菱電機製の集中冷房装置AU60系が搭載が決定され、
冷房電力供給用電動発電機 (MG) は制御・補助回路兼用としつつ、自車を含め4両まで、
一括給電可能な出力 (160kVA) の物をモハ102形に集約搭載、終着駅での折返しで、
長時間停車による冷暖房効果を損失させないため半閉回路を新設。
318名無し野電車区:2012/12/21(金) 14:10:21.07 ID:nKeBzHD70
走行装置
103系通勤電車用として、端子電圧375VのMT56が設計されたが、想定される速度域や消費電力量などを、
考慮して全界磁定格回転数は1250rpmで103系電車に搭載した場合の定格速度は33.5km/hという、
中速形の電動機となり、高速域での使用も考慮したが、保守との兼ね合いから補償巻線を設けない範囲で、
最大限弱めることとし、弱め界磁率を35%と高くとって高速性能をカバーした。正規運転時における、
RMS電流を1時間定格の80%、回復余力を10%と見込み、電気ブレーキの有効範囲なども比較検討した結果、
主電動機出力は120kWとした。定格速度は38.5km/hとなり、定格回転数は1420rpmとなった。
これは定格速度が低く、実際の運転では弱め界磁運転が多くなるため、定格を85%界磁上において、
バランスをとっている。また最大許容端子電圧をMT54などの750Vではなく900Vまでにしたことで、
電気ブレーキの有効範囲も広く取ることが可能となった。

台車
試作車の台車は電動車がDT21形の派生形式であるDT26C形、付随車がTR62X形で、
量産車は電動車がDT33形、付随車がTR212形で、このTR212形は車輪間にディスクブレーキを、
装着した形式で、国鉄車輌初のディスクブレーキ装着車となった。
319名無し野電車区:2012/12/21(金) 14:14:13.88 ID:nKeBzHD70
0番代
1959年(昭和34年)から1983年(昭和58年)まで製造された、103系の基本形式である。
非常に長期にわたり大量に製造されたため、途中で様々な改良が加えられている。
製造時期ごとに解説する。以下の分類は製造年度ではなく製造年による区分である。

基本形式
モハ103形0番代 (M)
モハ102形、クモハ102形とユニットを組む電動車で、パンタグラフと主制御器を搭載する。

モハ102形0番代 (M')
モハ103形とユニットを組む電動車で、電動発電機と空気圧縮機を搭載する。

クハ103形0番代 (Tc)
制御車。車番が奇数の車両は奇数向き、偶数の車両は偶数向きの先頭に連結される。

サハ103形0番代 (T)
運転台のない付随車。

クモハ102形0番代 (Mc')
モハ103形とユニットを組む制御電動車で、電動発電機や空気圧縮機を搭載する。
常磐線上野駅-取手駅間の付属編成用として1967年(昭和42年)9月から1970年(昭和45年)に、
偶数向き専用で新造され、後年は改造編入車を含んだ。
320名無し野電車区:2012/12/21(金) 14:23:09.90 ID:nKeBzHD70
1960年-1964年製造車
モハ103:1-220・モハ102:1-220・クハ103:1-98・サハ103:1-188が該当する最初の量産車グループ。
山手線向けを皮切に、1962年(昭和37年)に京浜東北線や中央線など順次首都圏各線区へ導入された。
試作編成に存在しなかったサハ103形が追加された。山手線に先行投入されていた試作車は、
のちにこのグループに合わせた仕様に改造されている。

1964年-1970年製造車
上記に続いて製造された量産車グループで、モハ103:221-336・モハ102:221-336・クハ103:99-158、
サハ103:189-268・クモハ102:1-117が該当する。本グループの1967年(昭和42年)度から、

1970年-1974年製造車
モハ103:337-429・モハ102-337-429・クハ103-159-226・サハ103-269-362が該当。これまでの運用で、
表面化した問題への対策が講じられ、随所に改良が行われたことから、俗に「1次改良車」とも呼ばれる。
変更点は客室窓をユニットサッシに変更、クハ103形の前照灯を新造時からシールドビーム2灯に変更、
モハ103形の主制御器をCS20A形からCS20D形に改良などが行われた。

1974年-1981年製造車
モハ103:430-856・モハ102:430-856・クハ103:226-426・サハ103-362-576が該当する。
本グループでは、クハ103形に一部設計変更が実施され、山手線・京浜東北線ATC化のため準備工事を施工。
運転台後部にATC装置(ATC-6形)搭載のため機器室を設置、同部分の戸袋窓を廃止、
前面窓ガラスにデフロスタを取付(後にガラスを熱線吸収ガラスに交換したため撤去)、
2人乗務用に運転室助士側に座席とワイパーを増設、車内を地下鉄乗入車と同じA-A基準に準拠、
ブレーキ弁がME40A形からATC対応の非常抜き取り化されたME48形に変更。
後に中央快速線や総武線などのATC非設置線区にも投入されることになり、対応するクハ103:277-426は、
ATC関連を非装備で製造され、ATC機器室の省略・戸袋窓を復活・ME48形ブレーキ弁装備で落成した。

1981年-1983年製造車
モハ103:856-1216・モハ102:858-1216・クハ103:426-512・サハ103:576-692が該当する。
321名無し野電車区:2012/12/21(金) 14:37:55.32 ID:nKeBzHD70
0番代の投入先
1958年(昭和33年)6月に国鉄本社運転局・営業局・電気局・工作局などが議論、同年10月の常務会にて、
新形通勤103系電車の投入線区は山手線を始め、京浜東北線・中央線・総武緩行線の4線に決定された。
1966年(昭和41年)7月には常磐線への投入も決定、101系電車による15両編成化を考慮して、
新形式クモハ102形の設計と新造を決定した。

山手線
1960年(昭和35年)4月1日から黄緑6号1色に塗られた10両貫通編成が品川電車区と池袋電車区に配備、
翌月の5月1日から営業運転を開始、5月以降も品川電車区や新設の田端電車区に配備されていき、
黄緑6号1色は乗客から「ウグイス色」と呼ばれ、1970年(昭和45年)3月31日に同線から、
同じ黄緑6号1色に塗られた40系電車が引退、同年4月1日に山手線は完全103系電車化となった。

山手線初の通勤電車10両貫通編成
1952年(昭和27年)10月1日のダイヤ改正において、山手線は40系電車による10両編成化が実現したが、
当時は検修施設の関係で基本6両編成+付属4両編成となっており、40系電車クモハ41形電車の前面は、
半流非貫通型が多く、数が少ない半流貫通型でも幌を装備して無い関係から、先頭車同士の場合、
基本編成から付属編成への通り抜けは不可能となっていた。1960年(昭和35年)5月1日から、
103系電車10両貫通編成が投入されると、山手線初の貫通編成となり、これは通勤形電車では初めての事で、
運転中に余分な運転台がない分だけ定員数が増え、ラッシュ輸送に適した編成となった。
322名無し野電車区:2012/12/21(金) 14:41:13.01 ID:nKeBzHD70
京浜東北線
1962年(昭和37年)2月1日から青22号1色に塗られた基本6両編成+付属4両編成の10両編成が、
下十条電車区と蒲田電車区に配置、その後も順次配置、1964年(昭和39年)に検修施設の問題を、
改修すると同時に10両貫通編成を配置、1972年(昭和47年)6月30日に同線から同じ青22号1色の、
40系電車が引退、同年7月1日に103系電車化が達成される。

中央線
1962年(昭和37年)から朱1号1色に塗られた10両貫通編成が三鷹電車区に配置、快速電車に投入され、
その後も順次配置、1966年(昭和41年)には新設された豊田電車区に配置されたが、中央線の配置は、
1970年(昭和45年)に終了、最終的に10両貫通8本、基本6両編成+付属4両編成4本の配置で終った。

総武線
1963年(昭和38年)に黄色1号1色に塗られた10両貫通編成が三鷹電車区と津田沼電車区に配置されたが、
総武線には101系電車が大量に配置されていたことで、103系電車の配置は1970年(昭和45年)までに、
10両貫通編成6本、基本6両編成+付属4両編成6本の配置で終った。

首都4線以外の投入
増備が進むと次第に本来の投入予定線区とは性格を異にする路線にも本系列が投入され始めた。
323名無し野電車区:2012/12/21(金) 14:46:47.62 ID:nKeBzHD70
阪和線
阪和線の天王寺駅-鳳駅間は朝ラッシュ時の混雑が1964年(昭和39年)4月に319%となっていた。
このような状況において、さらに鳳以南では1968年(昭和43年)度までに26,000戸の住宅開発と、
都市開発が予定されており、このような状況下、早晩にラッシュ対策に追われる事が予想され、
1964年(昭和39年)7月から快速列車の一部に6M2Tの103系電車8両編成を投入した。
快速のスピードアップが図られることで、電動車6両に制御車2両の強力編成となり、
東和歌山駅(現在の和歌山)-天王寺駅間で通勤時間帯8分、日中6分の時間短縮が行われた。
103系電車は山手線や京浜東北線という緩行線用に、これまで使用しており、快速用として、
使用するのは、このときが初めてである。

常磐線
常磐線は上野駅-取手駅間は40系電車による10両編成化を1956年(昭和31年)に達成し、
1959年(昭和34年)には101系電車が投入、1961年(昭和36年)10月のダイヤ改正後から朝夕ラッシュのみ、

101系電車による15両編成化されたが、1964年(昭和39年)10月には1時間の混雑率270%で、首都圏でも、
最も混雑する路線となった。そこで同線増強のため、101系電車を捻出して、103系電車を投入する、
計画が持ち上がるが、当時103系電車は山手線、京浜東北線、中央線、総武線の4通勤路線に集中配置が、
続けられてる状況で多線に投入する余裕が無く、先送りの状態だったが、1966年(昭和41年)4月には、
混雑率300%を越え、京阪神緩行線と同じくお手上げ状態になるのが予想されたことで、国鉄本社でも問題化、
7月の常務会で常磐線に新型103系電車の配置を決定、1967年(昭和42年)に3月に10両貫通編成が、
松戸電車区に配置、4月1日から運用開始、7月から付属4両編成を併結した14両編成で配置、運用された。
1968年(昭和43年)の3月以降の配置から付属編成が新形式クモハ102形を含めた付属5両編成となり、
朝夕ラッシュ時にも101系電車と車輌数が合う15両編成で同年4月1日から運用、それ以前に配置された、
14両編成とともに常磐線の主力として使用され、101系電車が同線から撤退した1975年(昭和50年)に、
常磐線の103系電車化が達成される。
324名無し野電車区:2012/12/21(金) 14:52:39.26 ID:nKeBzHD70
京阪神緩行線
1962年(昭和37年)に入ると京阪神緩行線が通勤路線へ変貌したことを受けて、大阪鉄道管理局では、
通勤型103系電車の投入を検討していた。この背景には前年の昭和36年12月には朝ラッシュ時、
30分あたりの混雑率は、東淀川駅→大阪駅間で普通電車が303%、快速電車が294%、塚本駅→大阪駅間で、
普通電車が282%、快速電車が333%となっており、平均的にラッシュ時は300%の混雑率を記録し、
昭和37年度電車転属要求会議において大阪緩行新形式電車取替用として318両の要求をしている。
しかし、当時のラッシュ時の近距離快速電車の編成は15分間隔で8両-10両編成であり、国鉄本社は、
快速増発のために新形式が必要というのであれば、むしろ増発せずに増結すれば良いとの意見などもあり、
大鉄の高性能電車については今後の課題として体良く却下されている。

当時、関東首都圏でも軒並みラッシュ時は200%の混雑率を記録、山手線、京浜東北線を始めとする、
重通勤路線、東海道線や横須賀線などの長中距離路線でも慢性的な混雑から車輌を転用することは、
難しいと判断、103系電車投入で、余剰があった40系電車を関東から京阪神緩行線に転用していた。
転用された40系電車ではラッシュ時の輸送力では抜群の威力を発揮するが、昼間時の着席サービスが、
犠牲になることから大阪鉄道管理局は何とかして3扉クロスシートの京阪神緩行線を維持しようとしたが、
ラッシュ時には300%近い乗車率で、超満員の乗客でドアガラスが破損するなど、もはやお手上げの状態で、
3扉クロスシート車を主眼としていた大阪鉄道管理局の方針、根本が覆る状態となっていた。
325名無し野電車区:2012/12/21(金) 14:55:29.58 ID:nKeBzHD70
この頃から大阪鉄道管理局の考え方にも柔軟性が出てきて、着席サービスより輸送能力重視に変更、
40系電車の転入を積極的に受け入れるとともに、新型103系電車の配置を国鉄本社に要求、
爆発的な通勤需要の伸びを見せる東京圏の配置を優先した結果、京阪神緩行線は待たされ続けたが、
1967年(昭和43年)に入ると国鉄本社でも京阪神緩行線の投入を先送りにしていると、
1970年(昭和45年)の大阪万博開催に間に合わない状況になる懸念が出たことで、同年5月14日から、
明石電車区と宮原電車区に10両編成の103系電車が配置され始め、同線の35系電車、70系電車を、
新潟地区の長岡運転所に転出させ、2年後の1696年(昭和44年)2月までに両電車区に、
18編成180両が勢揃いして万博輸送に当たることとなり、乗客からは冷房付きで好評だった。

中央本線名古屋地区
1974年(昭和49年)から中央西線名古屋地区に投入され、神領電車区(現在の神領車両区)に配置、
投入分は1974年度からのATC非装備の新造分と、ATC対応車の投入で山手線・京浜東北線から捻出された、
初期製造車編成の2つに分かれ、どちらも塗装は青22号1色となり、投入時に以下の改造を施工、
前面窓ガラスにデフロスタを取付(後にガラスを熱線吸収ガラスに交換したため撤去)、
2人乗務用に運転室助士側に座席とワイパーを増設、先頭車側面にサボ(行先方向板)受けの設置、
サボを使う関係で方向幕の使用は行わず、前面の方向幕も「中央線」・「普通」などの、
ステッカー貼付による固定表示とされ、運用は10両貫通編成とされていたが、京浜東北線からの転入車は、
基本6両編成+付属4両編成のままで運用された。
326名無し野電車区:2012/12/21(金) 15:00:18.00 ID:nKeBzHD70
横浜線
1974年(昭和49年)6月から東神奈川電車区に1980年度新造分の7両編成が配置され始め、
翌年にも7両編成3本が配置され、1979年(昭和54年)3月までに7両編成12本を配置、
同年9月30日に40系電車が同線から引退、103系電車化が完了した。

南武線
1981年(昭和56年)6月から中原電車区に1981年度新造分の6両編成が配置、
1983年(昭和58年)度末までに6両編成8本が配置された。
327名無し野電車区:2012/12/21(金) 15:15:14.90 ID:/AHJCmGd0
長文はご遠慮ください。
このスレは毎回のように512kBを超えているし。
328名無し野電車区:2012/12/22(土) 08:49:07.99 ID:cFsKrri30
試作車
1959年(昭和34年)に先行試作車として新造された車両で、山手線用に4両編成2本が製造された。
量産車との相違点は台車が、DT26C形(電動車)・TR62X形(付随車)を装着、製造当時の車両番号は、
ウグイス色の地に白文字(量産車は黒文字)で、当初は1-を称していたが、
1960年(昭和35年)3月31日付けで900番台に区分変更・改番された。
モハ103:1-2・モハ102:1-2 → モハ103:901-902・モハ102:901-902
クハ103:1-4 → クハ103:901-904
1962年(昭和37年)12月に量産車化改造が施工された後は山手線から中央線に転用、4両編成のまま、
900番代と併結用に新造された0番代6両編成に併結されて10両編成で運用、最終配置は豊田電車区で、
老朽化により1992年(平成4年)に全車廃車となった。

改造工事
1974年(昭和49年)から1980年(昭和55年)までに山手線・京浜東北線に配置されたいた、
半数のクハ103形運転台後部にATC装置を搭載する改造が行われ、同部分の戸袋窓は、
内側だけ板で塞がれていた。この改造は財政事情を軽減する目的で新造車より改造車の方が、
コスト削減になることから実施され、改造対象外の編成は捻出され、他線区に転出させた。
改造対象編成はランダムに選ばれて、1964年(昭和39年)度から1970年(昭和45年)度製造車が多く、
山手線の改造対象車のうち2編成は1960年(昭和35年)度から1964年(昭和39年)度製造だった。
また、1975年(昭和50年)頃から、1970年度まで製造されたクハ103形0番代は白熱1灯の前照灯を、
シールドビーム2灯化する改造も行われた。
329名無し野電車区:2012/12/22(土) 09:19:55.13 ID:cFsKrri30
車両延命改造
車両の寿命は各社の規程などにより決められ、本来の車両の置き換え時期を延命工事により伸ばし、
その間の車両投資を抑制、コストを低減する効果や、陳腐化したアコモデーションの改善効果がある。
103系電車においては1986年(昭和61年)度から1960年-1964年の初期車輌に延命工事を開始、屋根鋼板補修と、
ポリウレタン樹脂系塗屋根化、外板取替(屋根・腰板部・窓周辺)、雨樋取替、側窓枠取替、
外板塗装更新、空気配管取替および除湿装置取付、主回路配線引替、ジャンパ連結器の取替および、
片栓車の両栓化、引戸の取替(上レール・下レール座・戸車取替)、室内化粧板とカーテン取替、
シートモケット取替(フットライン入り)、握り棒・荷物棚のステンレス化、吊手の取替、
各ゴム類をステンレス金属板押え化(前面窓、戸先・戸当り・Hゴム・押えゴム・側扉窓)、
ME40形ブレーキ弁をME48形への交換が行われた。 本工事は複数の工場が担当しており、
化粧板の柄や腰掛モケットが微妙に異なるなど、仕様に差異が見られる。

後期製造車輌の前面金属板設置
1974年以降製造のクハ103形前面窓は、窓支持用Hゴムの保護と防止のため、
先頭車の前面ガラス・運行番号表示器・行先表示器の縁部分が金属板で覆う改造工事も行われた。
330名無し野電車区:2012/12/22(土) 10:25:42.13 ID:f4JMk2+60
JR東日本 クロE233

京浜東北線の混雑緩和のために11連化されることとなったが、同時にサービス向上のために数十年ぶりに特別車輛を連結することとなり登場した形式

運転区間は長いが通しで乗る客はほぼいないため、座席は全て撤去され、吊革・手すりが増強されている。
お座敷車輛を除く、日本初の「椅子なしグリーン車」として話題となった。

なお、グリーンアテンダントによる車内改札・車内販売とSUICAタッチ機能が搭載され、椅子がない以外は湘南新宿ラインなどと同等のサービスである。

乗客からは、この快挙を好評をもって迎えられている。
331 【東電 89.6 %】 :2012/12/22(土) 13:37:44.51 ID:WVd1lkEWO
JR東日本E28系/JR西日本W28系:
北斗星・トワイライトの24系の老朽化による置き換え。
E28系は1〜、W28系は501〜になる。
・並行在来線第三セクター所有ユニット
B寝台車の一部が対象。
100番台:IGR所有
150番台:岩手県所有
200番台:青い森所有
250番台:青森県所有
600番台:新潟三セク所有
650番台:新潟県所有
700番台:富山三セク所有
750番台:富山県所有
800番台:金沢三セク所有
850番台:石川県所有
(東武6050系の100番台/200番台、こどもの国線Y000系、北総9100形と同様のスキーム)

蛇足:ちなみにトワイライト牽引にも充当されるJR貨物EF510-0及び牽引には充当されないEF81は植民地車庫問題で富山機関区から吹田機関区へ転属し、富山機関区閉所。
蛇足2:富山地区のローカル線は高山本線をJR倒壊に売却、大糸線をJR束に売却などで並行在来線区間の飛び地路線をJR他社に売却。富山運転所閉所。
332名無し野電車区:2012/12/22(土) 15:26:31.13 ID:/sod99PHO
阪和電気鉄道→南海電気鉄道山手線 ロコ5700形(はなたちばな)

阪和電鉄が南紀直通列車『黒潮号』を最大4両から6両に増強すべく、日本車輌で3両製造した大型旅客用蒸気機関車。

主要部分はC57形と同一だが、当初からドア付の半密閉キャブや前側上部を斜めにカットしたデフレクターを付けた。

また、煙突から発電機までを収めたスーパーケーシングを採用する等、鮮鉄パシコや満鉄パシハの影響も受けた外観になり、しかもカラーリングは専用の客車とともにマルーンとオレンジのツートンを計画した。

1939-40年に5701-5703が竣工し、特急(省線内は快速)『はなたちばな』を天王寺〜白浜間で牽引したが、1940年に阪和電鉄は南海電鉄に吸収合併されてしまい、『はなたちばな』は『しらはま』に改称され、スピードダウンしてしまった。
333名無し野電車区:2012/12/22(土) 15:54:39.99 ID:/sod99PHO
続き

1941年には客車(スロヨ・スヨ・スヨフ)はブドウ色1号、ロコ5700は黒鉄色と、鉄道省に準じたカラーリングに改められた。

1943年、南海山手線は鉄道省に買収され、阪和線になったが、ロコ5700と客車群も鉄道省籍になった。

この頃にはスーパーケーシングは撤去され、C59形の縮小形のような外観になっていた。

ロコ5700形は和歌山からの紀勢西線で運用され始めたが、1945年に阪和線が空襲で大被害を受けると、再び天王寺まで乗り入れた。

1947年、ロコ5700形はC57形に編入されたが、250番台(C57 251〜253)になり、同時に名古屋機関区に転属して関西本線に投入された。

ロコ5701〜5703改めC57 251〜253は終始3両纏めて運用され、配置も名古屋→奈良→亀山と揃って移動。
1969年に252が廃車され、残る2両は1970年に廃車されて番台消滅した。

1971年、251が和歌山市役所敷地内に静態保存されたが、竣工50年を迎えた1989年に大幅な化粧直しを施され、阪和電鉄時代のスタイルに復元されるとともに、ナンバープレートも“5701”に付け替えられた。
334名無し野電車区:2012/12/22(土) 16:10:07.65 ID:LA7lfyGe0
北越急行 HK−200
北陸新幹線開業による「はくたか」撤退後の160km運行を継続するため、
2014年に新潟トラソシスで6両を製造、バリアフリー・トイレ付。
1編成2両で越後湯沢〜直江津〜上越駅間を66分で1日12往復運行予定。
現在のHK−100は各駅停車用となり、6両はえちごトキめき鉄道に売却し
相互乗入れ用の車両に充当される。
なお、JR東日本から払い下げられる115系4編成12両は、直江津〜上越
〜新妙高高原間の運用となる。
335名無し野電車区:2012/12/22(土) 16:12:31.10 ID:LA7lfyGe0
>>334
(誤)新妙高高原
(正)妙高高原
336名無し野電車区:2012/12/25(火) 09:50:36.89 ID:IA9M2c9E0
103系電車続き
前面強化工事
1992年(平成4年)9月14日に成田線大菅踏切事故で運転士が殉職したことから踏切事故などでの、
乗務員の保護のために前面を強化する工事が1995年(平成8年)3月末までに施工された。
本系列では主に検査入場の際に工場にて鋼板を取付る工事を施工した。1970年以降に製造された0番代は、
製造当初から前面が強化されているため改造対象外であった。1993年(平成5年)12月までの、
大宮工場にて施工車は尾灯上部の足掛けが外側にズレて設置されているが、インドネシアに譲渡された、
初期先頭車は全車がこの形態だった。

JR東日本のリフレッシュ改造工事
本系列は分割民営化時には現役車両はすべて承継され、運用路線ごとに特化した仕様への改造も施工、
京浜東北線・常磐快速線用・南武線では外幌取付とそれに伴う妻窓閉鎖工事が行われ、
座席全交換(207系と同一の下部が空洞の片持ち式)と青系統で3-4の区分入仕様に交換、
冷房風道のラインフロー化、扇風機→ラインデリアへの交換、車内スピーカーの更新・増設、
照明へのカバー取付、荷棚のパイプ化などが行われた。
337名無し野電車区:2012/12/25(火) 11:30:11.00 ID:IA9M2c9E0
訓練車
1990年(平成2年)にJR東日本では、乗務員を対象に定期的に行う異常時の取扱いや応急処置等の、
教育訓練のため0番代の保留車を訓練用に整備することになった。予備車の削減で一般営業用車両を、
現車訓練に用いることが難しくなったことも一因である。本系列の訓練車編成は0番代4両3編成が整備され、
豊田電車区・浦和電車区・松戸電車区に配置した。一般車両との識別のため、これらの編成の車体には、
2本の白帯と「訓練車」の文字が書き込まれた。浦和・豊田配置のモハ102形は、一部のドアの締め切りや、
荷物棚の撤去、機材置場の設置などを行ったため営業用車両から事業用車両に変更となり、
新形式のモヤ102形となった(モハ102-138・140→モヤ102-1・)。
その後、改造種車がATC未搭載だったことから、ATCの搭載改造が行われ、浦和配置車は、
同区の営業用車両が209系電車に統一された後も使用されていたが、旧仕様の本系列では訓練に対して、
実用性が低くなることもあり、2000年(平成12年)に廃車、豊田配置車は201系四季彩編成が訓練車を、
兼ねることから、2002年(平成14年)に廃車、松戸配置車は同区内の103系電車が営業離脱した、
2006年(平成18年)に廃車された。これにより本系列の訓練車編成は消滅。
338名無し野電車区:2012/12/25(火) 11:37:05.53 ID:IA9M2c9E0
JR東海のリフレッシュ改造工事
分割民営化後、80両の0番代を承継、1964年-1970年製造車30両、1970年-1974年製造車50両で、
全車がリフレッシュ工事を施工、側窓の上段下降・下段固定のユニット窓化、側扉・妻扉取替、
握り棒・荷物棚のステンレス化、座席袖仕切取付、バケットシート化のリフレッシュ工事が行われ、
承継車はすべて青22号1色のスカイブルーであったが、塗色の変更も行われ、同社のイメージカラーである、
クリームにオレンジと緑の帯に塗り替えられた。新塗色の登場は1989年(平成元年)で、
当初は前面にJRマークがなく、帯に切れ目がなかった。
339名無し野電車区:2012/12/25(火) 17:28:04.78 ID:IA9M2c9E0
JR西日本の改造工事
承継車両の多くが1970年-1974年製造車が多く、積極的に延命を図っている。また、JR化後に、
新たな用途が多数発生しており、それに合わせた改造も見られる。

窓閉塞と扉交換
民営化後の車両延命改造では雨水の浸入を防ぎ車体腐食の遅延化ならびに窓清掃の簡略化から、
1989年(平成元年)頃より戸袋窓と妻面窓の閉鎖工事を施工した。2008年(平成20年)7月現在で、
戸袋窓残存車は日根野電車区・岡山電車区・広島運転所に4両編成1本ずつ、計12両のみである。

ATS-P形導入に伴うブレーキ弁改造・交換
ATS-P形搭載に付随して、ブレーキ弁の改修が施工され、電源投入方式がJR東日本と異なるため、
非常抜取対応のME48形は導入せず、従来からのME40形に電気接点部分改造施工で対応。
その後117系電車などに採用されたME49系への交換が開始された。

座席モケット交換
イメージアップの一環として、座席モケットが茶系統で3-1-3の区分入仕様に交換したが、その後、
緑色などの試験を経て近年ではシーマンブルー1色に再交換されつつある。優先座席も青地に、
ピクトグラムの入ったものに交換されている。
340名無し野電車区:2012/12/25(火) 17:31:07.93 ID:IA9M2c9E0
0番代各線からの撤退
201系・205系・209系・E231系電車などの投入・転用により下記のとおり撤退した。
時期は定期運用離脱時で撤退後にイベント運転されたケースもある。

山手線-1990年(平成2年)3月
横浜線-1992年(平成4年)3月
埼京線・川越線(大宮駅-川越駅間-1997年(平成9年)11月
八高線・川越線(八王子駅-川越駅間)-1997年(平成9年)11月
京浜東北線・根岸線-1998年(平成10年)3月
中央線・総武緩行線-2002年(平成14年)3月
青梅線・五日市線-2002年(平成14年)4月
中央緩行線・営団東西線-2003年(平成15年)6月
仙石線-2004年(平成16年)11月(2004年7月-2007年3月は運用されず)
南武線-2005年(平成17年)12月
京葉線-2005年(平成17年)11月
武蔵野線-2005年(平成17年)12月
鶴見線-2005年(平成17年)12月
常磐快速線・成田線-2006年(平成18年)3月
341名無し野電車区:2012/12/25(火) 17:34:56.41 ID:IA9M2c9E0
譲渡
2006年(平成18年)現在、本系列の国内私鉄各社への売却実績はないが、2004年(平成16年)に、
JR東日本の16両がインドネシア鉄道会社(KRLジャボタベック)に売却された。
いずれも車両延命改造を受けた0番代のクハ103形+モハ103形+モハ102形+クハ103形で、
すべて1970年製造以降が選べれ、翌年にも8両が売却された。
342名無し野電車区:2012/12/25(火) 17:38:27.90 ID:IA9M2c9E0
1500番代
短編成用や踏切事故対策として1974年(昭和49年)から新造された本グループでは、
最低2両編成が組めるようにパンタグラフ付き制御電動車クモハ103形が新造され、
踏切事故対策や視認性向上のために高運転台構造に変更、窓下の面が間延びしないように、
運転室窓下にはステンレスの飾帯を設置、既に0番代はブレーキ弁がME48形で製造されていたところを、
1973年(昭和48年)製造までのME40A形ブレーキ弁装備で新造、また地方線区から投入予定だったため、
冷房装置は搭載されず、全車が非冷房車で落成した。

基本形式
クモハ103形1500番代 (Mc)
モハ102形とユニットを組む制御電動車で、パンタグラフや主制御器などの主回路を、
構成する機器群を中心に搭載する。前面が高運転台構造、奇数向き専用で新造された。

クモハ102形 (Mc')
クモハ103形とユニットを組む制御電動車で、電動発電機や空気圧縮機などの、
補助的な機器を中心に搭載する。偶数向き専用。

モハ102形1500番代 (M')
クモハ103形とユニットを組む電動車で、クモハ102形と同様に電動発電機と空気圧縮機を搭載する。

クハ103形1500番代 (Tc)
制御車。前面が高運転台構造、偶数向き専用で新造された。

サハ103形1500番代 (T)
運転台のない付随車。
343名無し野電車区:2012/12/25(火) 17:52:06.08 ID:drH9UDf10
長文はご遠慮ください。
344名無し野電車区:2012/12/25(火) 18:02:00.37 ID:drH9UDf10
JR東海 モハ372形
サハ373形をJR東海が電動車化改造。
これにより373系のMT比を1:2から2:1に変更する。
345名無し野電車区:2012/12/25(火) 19:55:11.16 ID:Vgo2UJC90
>>長文の人
せめて自分のblogでやっちくり〜
ここで見るのがキツイんすよぉ
346名無し野電車区:2012/12/26(水) 16:15:23.22 ID:vRvL0UjZ0
115系1300番台
国鉄が1983年から製造を開始した115系の最終形態。
東北・高崎線の混雑が激化したため、415系500番台に準じたオールロングシートで落成した。
4両編成と7両編成があり、最大15両編成で運転された。
現在は東京口での運用から撤退し、高崎・長野・新潟地区で運用されているが、ロングシートのため乗客からの評判はいまいちと言われている。
347名無し野電車区:2012/12/26(水) 19:16:51.44 ID:lvqyMSq00
>>52>>58>>203に便乗
キハ47-900番台
キハ47-0の直噴エンジン搭載車。
キハ47-1900番台
キハ47-1000の直噴エンジン搭載車。
348名無し野電車区:2012/12/26(水) 20:08:48.39 ID:1YRm19WpO
国鉄オシ21形食堂車

後継の14系の設計が進んでいた1970年、20系の最終増備分としてオシ17形から改造編入したもの。

種車は喫煙室に非常口扉がない11以降とし、厨房の電化、蒸気暖房撤去と電気暖房取付、冷房装置改造(エンジン直結から電動式に)。
台車改造(枕バネをベローズ形エアサスとしたTR57A)、ブレーキ装置改造(AV→AREB)等を行い、車体カラーリングも20系に合わせたが、将来の14系へのリプレースも考えて長期間の使用は考えていなかったため、内装は殆ど手を加えなかった。

7両が改造されて青森に配属され、『ゆうづる』『あけぼの』に使用されたが、稼働期間は僅か3年に過ぎず、1973年10月には運用からはずされ、75年3月までに全廃された。
349名無し野電車区:2012/12/26(水) 21:35:33.31 ID:P+mm5lM30
国鉄 キハネ82系

非電化区間が多く残る九州ブルトレ用に開発された、寝台気動車

走行時間の大部分が昼行時間帯になる九州ブルトレの速度向上のため、キハ82系をベースに
寝台車化した。
これにより「富士」「はやぶさ」などに投入され、非電化区間が残る大分以南、熊本以南での速度向上が可能になった。

ただし、走行用エンジンは騒音振動が多いため、おおむね21時前後に停車する駅で機関車に付け替え、おおむね朝6時前後に
到着する駅で自走に切り替える運用とされた。

東京駅に発着する最後の気動車特急として、昭和57年のダイヤ改正まで元気に走っていた。
350名無し野電車区:2012/12/26(水) 23:57:57.64 ID:1YRm19WpO
↑すごく重そう。実質マロネ・マハネかカロネ・カハネ。
351名無し野電車区:2012/12/27(木) 09:56:26.17 ID:MBcyrcGzi
485系5000番台

北陸新幹線開業による北越・くびき野廃止
E653投入によるいなほ置き換え

以上により運用離脱した485系3000番台だが、依然として高価な交直流車、JR東日本全電化区間で走行可能な本系列はまだまだ魅力的なものであり、新潟〜長岡〜直江津〜上越を結ぶ新たな新幹線リレー列車が求められたことから3000番台を再リニューアルすることとした。

最高速度は110km/hに抑制し、快速・普通や波動用としての運用のみに限定。
側板は沿岸部を走ることから塩害による腐食が進行しており交換とした。
台車、主電動機は老朽化のため各地の廃車発生品を再整備の上、流用。
客室内はほぼ従来のままとし、車内販売設備は廃止として自販機を設置する。
編成は全て2M2Tの4両編成とし、MM'ユニットを増結用として揃えた。
4連が6本、MM'ユニットが4本の計32両で運用。
2014年以降、快速くびき野として上越〜直江津〜長岡〜新潟やキハ40・115系置き換えとして新津・新潟〜酒田や直江津〜長岡の普通・快速にて運用する。
352名無し野電車区:2012/12/27(木) 15:01:27.47 ID:LkWIUZ7q0
>>347続き
キハ41-900番台
キハ47-0の両運転台タイプの直噴エンジン搭載車。
353名無し野電車区:2012/12/27(木) 15:05:14.75 ID:LkWIUZ7q0
長文はご遠慮ください。
354名無し野電車区:2012/12/27(木) 20:29:12.33 ID:5rstVoCU0
モハ153・152-162〜
国鉄が1966年から製造した153系の最終形態。
151系・161系を181系に改造した際に発生したMT46モーターを流用して製造した。
台車がDT32に変更された。
比較的車齢が若くクハ153-500番台と共にJR東海に承継され、主に急行「東海」や大垣夜行に使用されたが、1996年に廃車となった。
355名無し野電車区:2012/12/27(木) 20:42:07.34 ID:5rstVoCU0
>>354
追記
試作冷房車を兼ねていて製造当初からAU12Sを7個搭載している。
当初40kVAのMGをモハ152に搭載していたが後に撤去された。
356anorak?:2012/12/29(土) 18:13:32.63 ID:exFeeQUl0
>>314に続く平行世界もの
◎国鉄ED31形交直流両用電気機関車
1980年
○1930年代に軍の富士演習場への輸送目的に御殿場から須走へ至る鉄道省須走線が開業。
60年、中央自動車道の建設が決定し、富士吉田から赤石山脈(南アルプス)を横断する最短経路が選定されたのを受け、
国鉄も秘境を通過する中央道建設資材輸送用、且つ中津川線(中津川・飯田間)と共に東名間の鉄道バイパス線として
南アルプス横断の中央道に並行する駿甲信線を須走線の延伸で以て着工。
経路は、現在の地名で、御殿場駅〜須走〜山中湖〜富士吉田〜鳴沢〜精進湖〜身延線久那土駅〜身延町役場〜早川町役場
〜静岡市井川村畑薙ダム湖(大井川鉄道延伸新線と接続)〜飯田市上村遠山郷〜喬木村〜飯田線元善光寺駅。
地形及び地質上の理由でやむを得ず最大50‰の連続急勾配路線となってしまい、動力車にかなり高い粘着性能の要求、
且つ秘境での給電コスト削減の為、交流20KV電化とし、富士川を境に50Hzと60Hzに。
中央道の経路が甲府・諏訪回りに変更されてしまったが、駿甲信線の建設は高速道を反故された地元への見返りとして、
且つ東海道線迂回路として中止されずに続行。
81年、富士南アルプス線として開業。中津川線も飯中線として。
神戸電鉄や南海高野線並の最大50‰の連続急勾配路線である富士南アルプス線用に新造投入されたのがED31である。
御殿場駅等の当路線の両端は直流電化であるが、抵抗制御の直流機に変圧器と整流器を追加した標準の交直流機では、
高粘着性能を期待した交流電化の利点を否定するので、交流区間と直流区間各々専用の制御装置を搭載。
ED78土台の急勾配専用機としてのサイリスタ連続位相制御と回生ブレーキ装備の交流電機に、抵抗器等の最低限の直流区間
直通用制御機器を追加。交流区間と直流では性能差があり、直流では落ちる。
外観はEF64-1000に酷似し、貫通型運転台、軸配置B2B、最高速度85km/h。
40‰以上の急勾配区間では列車編成の前後共に当機を連結しプッシュプル運転が原則なので無線による総括制御が可能。
但し連結器強化の50系客車は単機牽引。
80年に試作車が登場し、81年に富士南アルプス線開業に伴い御殿場・飯田間で就役。
87年にJR東海に当ルートと共に承継。
2006年に旅客列車は新形電車に置き換えられ、大半が廃止され、残りJR貨物に譲渡。
357名無し野電車区:2012/12/29(土) 20:52:10.02 ID:DZuC6GA0O
東武鉄道EF6001
昭和39年に後に製造する西武鉄道よりも前に作られた大手私鉄初のF型電気機関車である。
国鉄EF60型電気機関車をそのまま東武鉄道仕様にしたものであるが、手間がかかるクイル式をやめ、
一般的な吊掛式となっている。2340KW出力のために当時の貨物列車の重量ではほぼ単機牽引可能であった。
この機関車の製造が成功利に終わったため、ED5050型の製造が中止されたほどである。
EF6008型以降はEF65型規格にしたEF6050型を含め昭和49年までに12両作られ、貨物列車だけでなく東上線車両の
西新井工場入場の回送用など幅広く使われた。
東上線の貨物列車廃止などで残り5両に減らされていく中、新越谷付近の高架複々線化に伴う急勾配で
貨物列車が廃止危機の際もこの機関車があったから辛くも生きながられたようなものだった。
またこの機関車の利を生かし、東京レールセンターよりレールを東武鉄道への受け渡しの任も
担っていた。東武鉄道の貨物列車は2008年そのレール受け渡し貨物列車の廃止で終焉を迎える。
さよなら運転では入ることがなかった浅草駅より下今市までJR東日本から借りた旧型客車を使って運転された。
残存した5両は6001 6003 6008 6052 6054で、さよなら運転は6001が行った。
その後5両全てが秩父鉄道に譲渡し、デキ800型として現存。この車両は単機で20両もの鉱石列車を
牽引可能で、デキ100型と200型を引退に追いやった。デキ805(元EF6008型)は旧国鉄色に
変更の上、パレオエクスプレスの後補機専用となっているが、C58-363の脱線破損に伴って
SL代走で牽引を行っている。
なお平成元年に廃車されたEF6002は東武動物公園内に静態保存され、2002年に廃車された6006は
杉戸工場に放置されていたが東京スカイツリー完成時にソラマチにこの機関車がヨ104と共に展示されている。
またEF6007の半分カットモデルは東武博物館に展示。
358名無し野電車区:2012/12/29(土) 21:36:52.85 ID:+4skfF8t0
京成電鉄AE+(プラス)形
20XX年、●●線(仮称:浅草線短絡線)を介した羽田・成田両空港間の
直通運転のために登場した。地下鉄対応のため、前面は3050形がベースと
なっている。先に登場した3代目スカイライナーAE50形の80番台という位置づけになっており、
AE81〜AE86の計6編成が製造された。


最終編成が、北総線区間で北千葉道路を併走するトヨタの某スポーツカーと併走
すると、一部のマニアの心が躍るらしいが、詳細は不明。
359名無し野電車区:2012/12/29(土) 23:20:14.11 ID:jI13kr560
キハ225系
JR西日本が開発した225系ベースのハイブリッド気動車。
JR西日本では初となるハイブリッド方式を採用した。
DMF18HZ(620PS)で発電しモーターに電力を供給するシステムである。
電車と遜色ない130キロ運転も可能である。
電車の223系や225系とも併結可能。
360名無し野電車区:2012/12/30(日) 08:55:13.23 ID:qVuM6vfc0
国鉄モハ102・103:4000番台
仙石線や中央西線に転属の際に中間車だけセミクロスに改造された。
ドア間に左右6組ボックスシートが設置された。
361anorak?:2012/12/30(日) 18:56:16.45 ID:VLJJps1E0
>>356に続く平行世界もの
◎国鉄ED80形交直流両用電気機関車
○1960年代半ば、神戸市鷹取から明石海峡、淡路島、鳴門海峡を経由して四国鳴門へ至る本四淡路線が着工された。
経路は、山陽本線鷹取〜奥須磨〜塩屋〜淡路夢舞台〜淡路大磯〜洲本〜福良〜鳴門線鳴門。
両海峡の最狭部は海釜(かいふ)と呼ばれる水深が深い海底渓谷となっている為、海峡最狭部上に設置出来る本四架橋―
明石海峡大橋と大鳴門橋―とは異なり、それを避けて水深が浅く平坦な海底を選びトンネルを建設したので、
明石海峡トンネルと鳴門海峡トンネルは対応する本四架橋とは離れている所にある。
それでも関門トンネルに比べ水深が深い等地形上の制約で両トンネルは最大40‰の急勾配が連続する線形上の難所に
なったが故に動力車にかなり高い粘着性能が要求されることから、本四淡路線は鳴門線と高徳線池谷・徳島区間と共に
交流20KV60Hzで電化。山陽線と接続する鷹取操車場前手前に交直デッドセクション。
85年の夏に全線開業。阿波池田・川之江短絡線も。
鷹取・徳島ルート専用に投入されたのが、ED80である。
財政破綻寸前の国鉄末期を反映して、84年2月のダイヤ改正で貨物輸送の大リストラで捻出された九州用のED76を種車に
84年から85年に登場した改造車。
種車の制御装置にてシリコン整流器と磁気増幅器を交流区間用回生ブレーキ回路組み込みのサイリスタに換装し小型化、
客車暖房用SGをEGに交換小型化、そして空いた所に、駅構内等のわずかな距離の直流電化区間に乗り入れ、
着回しや入替えなどの構内走行のみで足りる最低限の直流区間直通用制御機器、抵抗器等を追加。
交流区間の運転性能―例えば最高100km/h―に比べ直流区間での運転性能は構内走行―最高45km/h等―に特化し、
本線走行はできず、交流区間と直流区間では性能が異なる。
つまり、従来の抵抗制御の交直流機では連続急勾配路線での交流電化の最大の利点を否定するので、
交流区間と直流各々専用の制御装置を搭載。
本四淡路線開業後、当ルートの貨物と旅客の牽引に就役、鷹取・徳島間の50系客車の普通列車の運用が大半を占め、
夜行の運用も。
87年4月の国鉄分割民営化で、ED80は本四淡路線と共にJR四国に承継。
2000年代に当ルートのローカル旅客は完全電車化され、多くが廃車、一部はJR貨物に譲渡された。
362名無し野電車区:2012/12/31(月) 07:32:12.23 ID:bWOSX1Ge0
JR北海道 クキ100

カートレイン北海道の好調を受けて、積載車種の拡大のために車輛限界一杯まで広げた
車輛輸送用の貨車を新製した。

これによりRV車やワゴン車の積載も可能になり、一部4トン車を改造したキャンピングカーなども積載でき
首都圏から北海道に自分の車でドライブに行きたいが、自走は疲れるしフェリーでは時間がかかる、という
ユーザーに好評を持って迎えられた。

同時に北斗星用の食堂車とロビーカーの予備車を連結し、サービス向上が図られた。

青函トンネル工事による北斗星減便後は、B寝台がデュエットの室内にコネクトドアをつけた4人用寝台に
改造された車輛と、ロイヤルとソロの同じくコネクトドアをつけた合造車となり、更に人気が上った。

2013年夏には、E26系をベースにし、貨車と客車をトータルで設計した新編成が投入されるとのプレスリリースも出て
期待が高まっている。
363名無し野電車区:2012/12/31(月) 13:10:22.23 ID:gRTW20/N0
長文はご遠慮ください。
364名無し野電車区:2012/12/31(月) 13:45:58.83 ID:sEwDDUAV0
ヌルポ1

暖房車、配給車、陶器車の機能を備えた貨車。
が、需要がなくなったので昭和40年代半ばには全廃となっている。
365名無し野電車区:2012/12/31(月) 19:01:13.20 ID:ukfl6Y+n0
>>364
馬鹿じゃね?
366名無し野電車区:2012/12/31(月) 20:46:28.30 ID:lQFOxIq4O
京葉臨海鉄道HKD70型ハイブリッド機関車
KD60型に続く新型機関車で、JR貨物が開発した初のハイブリッド機関車であるHD300型を
初めて臨海鉄道で量産で採用したもの。車体や性能はHD300型と共通で、塗装は赤でなく青塗装が区別点。
購入の背景にはディーゼル規制に伴い老朽化が進むKD55-100番台が今後使えなくなる関係もある。
今回の配備には千葉県と沿線の千葉市 市原市が補助金を出しており、製造する6両中
2は千葉県 5は市原市 6は千葉市が第三者保有する。そのためオリジナルのりんてつ塗装は1 3 4のみで
2は県の花菜の花をモチーフにしたもの 5はJEF市原 千葉 6は千葉ロッテマリーンズのラッピングである。
今後東京レールセンターのある小名木川貨物線の京葉臨海譲渡にともなってりんてつ江東線として
東京レールセンターから新小岩までの輸送を受け持つ関係で新小岩に機関支区が作られる。
その関係でさらに4両追加製造された。(もう1両はKD60-4を移動)
捻出されるKD55型は廃車にはならず譲渡される。
KD55-101 102 岩手開発鉄道に譲渡
KD55-103 福島臨海鉄道に譲渡
KD55-201 神奈川臨海鉄道に譲渡
KD55-202 大井川鐵道に譲渡(SL列車の補機及び井川線向け本線貨物列車牽引 客車入換用)
KD60-3 鹿島臨海鉄道に譲渡
先に仙台に渡ったKD55型も貸し出しから完全移籍譲渡となる。
367名無し野電車区:2012/12/31(月) 21:01:29.17 ID:ncIsa/Ql0
>>364>>363>>365より馬鹿だとは思えない
368名無し野電車区:2012/12/31(月) 23:57:51.49 ID:mDWazu3Ni
JR北海道N889系

北海道新幹線開業に伴う道内特急再編で函館〜新函館〜札幌〜旭川をフリーゲージトレインにて新在直通を行うことを目的とした車両

新幹線区間の最高速度260km/h、在来線区間の最高速度160km/hとして設計
さらにハイブリット車体傾斜システム・自己操舵台車を採用して本則+50km/hまで走行可能とした
車体幅は在来線規格とし車体長を25mとする
台車軌間の変更は30秒で行うことが可能

6両編成計10本でスーパーカムイとして運用
369名無し野電車区:2013/01/01(火) 21:42:46.66 ID:lg2eXqni0
サハ711
711系のサハ。
900番台を3連化するために投入された。
しかしMc-T-Tcと電動車が偏ったため評判が思わしくなく(クモハが先頭だと冬季に空転が多発し、クハが先頭だと連結器の衝撃が大きい)、731系が投入されると900番台共々廃車されてしまった。
370名無し野電車区:2013/01/02(水) 13:39:55.90 ID:1vUwyH0s0
225系1000番台
JR西日本が開発した225系の快速マリンライナー仕様。
2両編成である。
先頭部に貫通幌を取り付け出来るように幌枠が設けられた。
223系5000番台や5000系と併結可能。
371名無し野電車区:2013/01/02(水) 16:48:15.67 ID:phYwxYSs0
>>368
北海道の在来線は1435mm化をするべき。
372anorak?:2013/01/02(水) 18:38:13.32 ID:TFjtdJ+o0
>>361に続く平行世界
◎国鉄ED75形400番台交流電気機関車&50系4000番台客車
○沖縄返還間もない1975年に鉄道建設公団により沖縄縦貫線が着工、85年夏に国鉄沖縄本線として開業。
規格は軌間1067mm、交流電化20KV60Hz、高規格の在来線。
経路は、海洋博公園〜運天港〜名護〜許田〜石川〜具志川田場〜コザ〜沖縄県総合運動公園〜普天間〜琉球大〜浦添牧港
〜那覇旭橋、運天港と鹿児島駅桟橋を結ぶ国鉄の鉄道連絡船を介して内地とレールが繋がる。
後年、那覇空港に延伸し、モノレールとは旭橋と空港で接続。
当路線は、米軍基地及びそれによる民間建造物密集地の偏在により鉄道用地の確保困難が故に、
起伏の富んだ地形と相まって、国鉄としては異例の道路直上高架と地下線の比率が高く、急勾配が多い厳しい線形となり、
動力車に高い粘着性能を要求されるので当時の技術水準から交流電化を採用。
車社会及びバス会社が強力な沖縄の実情、並びに財政破綻寸前の国鉄末期を反映して、開業時に新車は投入されず、
84年2月のダイヤ改正で余剰になった機関車と客車で運行する事になり、
しかも当路線は踏切が無い事且つ分岐器が可動式ノーズと贅沢なインフラになっている事から機回し省略の合理化の為、
列車編成の端に機関車、一方の端には制御用客車を連結するプッシュプル運転も実施。
それらが、ED75形400番台とオクハ等の50系4000番台客車である。
ED75-400は、九州用のED75形300番台を種車に、整流器と磁気増幅器を回生ブレーキ回路組み込みのサイリスタへの換装、
後述のプッシュプル運転用装置の追加などで改造。
50-4000は、車種は制御車オクハ50(Tc)と中間車オハ50(T)で、オクハはオハフの車掌室を運転台に改造、
オクハとオハに機関車制御用引通し線、屋根に分散式の冷房装置を搭載、冷暖房の電源はED75のEG。
84年から85年に施工、登場。
沖縄本線開業時に就役。
基本編成はEL+TTTc、オクハを先頭に動力車ED75を最後部とする推進運転は、力学的不安定さの懸念から、
211系電車と同様に、付随車は三両までとし、四両以上は牽引のみとした。
青春18切符シーズンでは鉄道連絡船接続列車は最大六両で運行。
87年4月の国鉄分割民営化では沖縄本線と連絡船と共にJR沖縄(シンボルカラーは寒緋桜のピンク)に承継。
電車化の進展で2000年代に大半が廃車。
373名無し野電車区:2013/01/02(水) 19:09:54.57 ID:phYwxYSs0
>>372
軌間は1067mmでよいが、ルートは米軍基地の中を通すべき。
374名無し野電車区:2013/01/02(水) 23:41:02.10 ID:1vUwyH0s0
415系2000番台
国鉄が製造した415系の寒冷地仕様車で、北陸地方に投入。
クモハ415-モハ414-クハ411の3両編成である。
半自動ドアスイッチとスノープラウとレールヒーターを搭載した。
内装は211系1000番台に準じたセミクロスシートである。
375名無し野電車区:2013/01/03(木) 16:17:21.57 ID:LLZJgQAm0
207系910番台
JR西日本で207系を改造して作ったロールバー試験車。
福知山線脱線事故をきっかけにロールバーで車体を補強することを決断。
事前に廃車予定の103系や113系にロールバーを取り付け衝突実験などを繰り返したという。
376名無し野電車区:2013/01/03(木) 19:22:53.36 ID:HcsfZPqs0
JR西日本 201系体質改善・再リニューアル車
改造内容
車内に行き先案内スクロール追加
シート交換
車いすスペース設置
つり革交換
といった205系とほぼ同様の改造を行う

この改造に先行してLED行き先表示器が取り付けられたとかという話もある。
377名無し野電車区:2013/01/03(木) 21:53:56.95 ID:Rb95ihAw0
>>373
絶対無理
378名無し野電車区:2013/01/04(金) 09:08:33.27 ID:RtK/q5lg0
E237痛勤痛学タイプ

幅広6ドア車、座席は優先席のみ。吊り革、摑まり棒を多数設置。
駆け込み乗車抑止対策として、ドアは挟まれると痺れ激痛が走るスタンガン電流仕様。
これにより、乗降時間の短縮と発車チャイム鳴動以降のスムーズな発車が可能となる。
特に、DQN学生が多い路線で大きな効果が期待される。
379名無し野電車区:2013/01/04(金) 20:22:20.57 ID:XAPFVQP40
南海1000系 なんばパークス10thラッピング
2003年のなんばパークス第1期部分完成から10年経つ2013年に運行されるラッピング車
1000系6連車にラッピングされる。

なんばパークス10thPR大使にNMB48が起用されるとかされないとか…


南海8000系2連車
南海7000系・7100系の2連車を置き換える目的で2014年に登場
主な仕様は8000系4連車と同じ
パンタなし車が初登場

南海2000系ワンマン化改造車
南海本線・高野線で活躍している初期2000系2連車を改造し支線運用にも対応させる
380名無し野電車区:2013/01/04(金) 22:49:27.05 ID:MWCY4+wG0
>>377
沖縄に鉄道建設
軌間: 1067mm
駅ホームの高さ: 1100mm(レール面上より)
建設ルート: なるべく米軍基地の中を通すようにする
とするべきである。
381名無し野電車区:2013/01/07(月) 18:51:05.07 ID:95KlBu6X0
近鉄40000系
近鉄が試験的に製造した「通勤車と併結可能な特急車」。
車体の構造や塗装がシリーズ21に準じており、通勤車と併結しても違和感がないようにしている。
足回りや内装は22600系と同等であるが、通勤車と特性を合わせる「通勤車モード(加速度3.0km/h/s、高速域の加速余力が弱い)」に切り替える事も出来る。
2両編成である。
青山峠通過や阪神電鉄乗り入れも可能。
阪奈特急を一部特別車とするために投入。
382名無し野電車区:2013/01/07(月) 18:53:49.64 ID:95KlBu6X0
近鉄17000系
近鉄が試験的に製造した大阪市営地下鉄中央線乗り入れ対応特急車。
日本の鉄道車両では史上初のパンタグラフと集電靴を両方搭載した車両である。
近鉄けいはんな線・大阪市営地下鉄中央線走行時は集電靴を、それ以外の路線走行時はパンタグラフを使用する。
コスモスクエアから奈良まで直通列車を運転することが可能になった。
383 【東電 83.5 %】 :2013/01/07(月) 21:24:15.23 ID:UVFszCAfO
JR北海道735系5000番台/789系5000番台/東日本E721系1000番台:
青函トンネルの25kV昇圧対策型。
青函快速海峡(白鳥減便分)に使われる。

JR北海道789系5000番台/東日本E751系5000番台:
青函トンネルの昇圧対策改造。
つがると白鳥の一本化運用。
384名無し野電車区:2013/01/07(月) 22:38:08.52 ID:9/CRmskZ0
>>313
なお、この車両の登場とほぼ同時期に、任天堂から同社の携帯型ゲーム機向けソフトとして「けいおん!」を題材にした音楽ゲームが発売されており(同社の『大合奏!バンドブラザーズ』をベースとした製品)、関連性が疑われているとかいないとか。
385名無し野電車区:2013/01/09(水) 20:07:00.43 ID:1b2E7Bq/O
【「国鉄クモハ80(80107〜80112、80316・80325・80341・80343)】

昭和33年秋の準急「東海」「比叡」などの153系化以降、80系の順次短編成化の方向性が見えてきたことから、すでに増解結の便宜のため簡易運転台を設置する改造を受けていた大垣の11両すべてに、試験的に完全先頭車化改造を施すこととした。
改造内容は、すでに簡易運転台があったパンタ側デッキに運転台を設置するもの。
車端の2〜3人掛けロングシートを潰して、仕切りは端部クロスシートから約10センチ程度離すかたちで設置。
先頭部には101系初期車の顔(埋め込みテールランプ・棒ワイパーさらに方向幕窓も装備)をもってきた。
塗装は、クハ86にならった金太郎塗り分けだが、上部塗り分け線は後のクハ85と同様に処理されていた。
また、片渡りの80107〜80112については両渡りに改造して、偶数番号車は方向転換(80316含む)して偶数向きで使用した。
奇数車が2両多いのは、昭和30年製クハに偶数車が2両多い(86081・86083が欠番)に対応しているし、方向転換も可能な両渡りなので問題はない。
80系のみで2両編成が組めるようになったので、飯田線進出や小量増結には重宝すると期待はあったが、改造部分に元々あった広幅幌はもちろん活かせず、貫通構造にしていないことが弱点だった。
結果的に、旧型随一の長編成高速運転が可能な80系のメリットは幹線系で長く求められ、あまりメリットはなかったようだ。
のちに余剰が必至のサロやサハを種車にしたクハ85も登場しており、以後はクモハ80化改造は行なわれなかった。
2両単位での使用は、80系ではあまり求められない環境だったわけだが、増結の場合には重宝したため、準急〜急行の「伊那」「富士川」「白糸」の増結時に方向幕に準急(急行)の赤文字を掲げ、「伊那」以外はヘッドマーク付きで走った。
また、青文字の「快速」も用意され、臨時急行「伊那」(快速区間)や快速「近江路」などで掲げられたことがある。
半鋼製6両は昭和52年度の静岡・名古屋地域の新性能化によって全車引退した。
昭和53年の80系飯田線進出にあたっては、全金車全部が残り、165系投入の昭和57年12月まで、2両の附属編成用に中部天竜以南で活躍した。
386名無し野電車区:2013/01/10(木) 22:54:38.98 ID:ajT/C3E50
国鉄キハ47-2000番台・キクハ47、キハ48-2000番台・キハ40-3000番台・キクハ48
17系気動車や旧型客車の置き換えに登場した40系気動車だが、
投入後期になると冷房付きを望む声が大きくなってきた。
40系気動車にAU13型クーラーを6基搭載した場合、電源機関搭載により走行機関が搭載できないことが判明した。
そこで冷房電源車には廃車となったキハ28・キロ28の冷房用エンジンと発電機を搭載しキクハとし、
キクハとキハ1両をユニットとして編成し、キハには上記の番台を与えた。
早朝・夜間にはキハ40-3000番台は単行運転となったが、この場合冷房の使用は停止した。
しかし、これらの車両は1両当たりの出力が105馬力しかなく、しかも重量が増加し、遅延が常態化し、利用者の不満が増大する結果となった。
387名無し野電車区:2013/01/11(金) 07:41:56.62 ID:H1EcX+cv0
長文はご遠慮ください。
388名無し野電車区:2013/01/11(金) 07:47:38.26 ID:H1EcX+cv0
長文警報発令中!!
389名無し野電車区:2013/01/11(金) 07:53:58.94 ID:H1EcX+cv0
参考:
http://caltrain-hsr.blogspot.jp/
または、"blog"で検索
390名無し野電車区:2013/01/11(金) 08:06:11.54 ID:H1EcX+cv0
長文警報発令中!!
391名無し野電車区:2013/01/11(金) 08:09:03.48 ID:H1EcX+cv0
参考:
http://www.blogger.com/home
または、"blog"で検索
392名無し野電車区:2013/01/11(金) 08:25:47.57 ID:H1EcX+cv0
長文警報発令中!!
393名無し野電車区:2013/01/11(金) 08:36:11.48 ID:H1EcX+cv0
参考:
http://www.blogger.com/
または、"blog"で検索
394名無し野電車区:2013/01/11(金) 09:03:56.68 ID:H1EcX+cv0
長文警報発令中!!
395名無し野電車区:2013/01/11(金) 12:39:30.00 ID:NCExN2L00
モハ213-5000番台
JR東海が製造した213系の中間電動車。
当初はJR西日本みたいにサハを増備する計画であったが加速度が1.4km/h/sしか出ず211系5000番台と足並みが揃わない事からモハを増備することになった。
関西本線に投入されたが、のちに飯田線に転属した。
396名無し野電車区:2013/01/11(金) 12:48:27.93 ID:moMIUwdQO
クモハ313-3100
一両編成、ワンマン。
397名無し野電車区:2013/01/11(金) 14:29:31.82 ID:oKvHRLgX0
>>396はクモハ313-3300。
これのロングシート版はクモハ313-2400である。
398名無し野電車区:2013/01/11(金) 21:10:32.93 ID:G3zTt6ZG0
JR西日本 381系こうのとりLED行き先表示化
381系やくもと同様に、側面方向幕をLED行き先表示に交換する。
399名無し野電車区:2013/01/12(土) 18:04:50.27 ID:1aTOc6yb0
787系ハイテク車両
バッテリー発火、ブレーキ故障、燃料噴出など、ネタに困らない車両です。
400名無し野電車区:2013/01/13(日) 10:23:41.02 ID:/N66f/430
キハ787系気動車
401名無し野電車区:2013/01/14(月) 20:01:07.46 ID:+lPh8OHm0
国鉄E10形
板谷峠で使用されていた4110形を置き換え、輸送力増強を図るべく登場したタンク式蒸気機関車。
当時同区間の電化工事が計画されていたことからそれまでのつなぎとして5両が投入された。
先輪・従輪を設けた1E2の軸配置としたが、曲線通過を容易にするため第3動輪をフランジレス、
第1・第5動輪と先輪・従輪を横動可能とする構造は4110形を踏襲している。
一方で出力を向上させるためボイラーを大型化(直径はD52形のそれと同じ)したが、
急勾配の連続する同区間では人力による給炭は限界に近く、また、トンネル内での煙害発生も危惧されていた。
そこで国鉄(製造時は運輸省)の蒸気機関車としては初の重油専燃機として開発されることとなった。

完成後、福島〜米沢間の専用機として投入され、排煙が少ないことから乗客からは好評であった。
また、石炭を使用する蒸機に比べ圧倒的に楽な乗務、かつ余裕のある出力で乗務員からの評価も高く、
各鉄道管理局や乗務員区からの見学者も多く訪れ、後の重油併燃改造機の登場に一役買った。
投入から1年後には板谷峠の電化工事が完了し敦賀へ転出、北陸本線の中ノ郷〜敦賀〜今庄間で補機として使用された。
1957年、近江塩津経由の新線が開業したため再度転出、瀬野機関区にて瀬野〜八本松間の補機として運用された。
この際、走行中補機解放を行うため対応改造を行っている。
1962年、同区間の電化完成により三度余剰となる。前述の通り性能には定評のあった同機であるが、
新製から15年がたち戦時規格による部品・車体の経年劣化による故障が発生するようになっていた。
少数機ゆえに予備部品も確保しづらく、さらに全国的に蒸気機関車は縮小傾向で余剰が発生していることから
保留車を経て1963年に全車廃車となった。

その特殊性ゆえ電化に追われ各地を転々とした同機であるが、廃車がちょうど鉄道90周年事業の時期であり、
また当機が国鉄最後の新製蒸機であったことから解体を惜しむ声が上がり、製造された5機全てが静態保存されている。
402名無し野電車区:2013/01/14(月) 20:56:41.43 ID:PiSaauhx0
クモヤ119
JR東海で運用離脱した両運転台のクモハ119-100番台を牽引車に改造したもの。
車内の座席を撤去し救援資材を搭載した。
211系や313系などと連結可能なようにブレーキ読替装置も搭載している。
403名無し野電車区:2013/01/14(月) 22:05:18.29 ID:6GZbvOw80
長文はご遠慮ください。
404名無し野電車区:2013/01/14(月) 22:08:21.30 ID:6GZbvOw80
長文警報発令中!!
405名無し野電車区:2013/01/14(月) 22:11:41.61 ID:6GZbvOw80
参考:
http://www.blogger.com/
または、"blog"で検索
406名無し野電車区:2013/01/14(月) 22:17:03.79 ID:6GZbvOw80
長文警報発令中!!
407名無し野電車区:2013/01/14(月) 22:40:52.53 ID:6GZbvOw80
参考:
http://www.blogger.com/home
または、"blog"で検索
408名無し野電車区:2013/01/14(月) 23:14:11.04 ID:6GZbvOw80
長文警報発令中!!
409 【東電 75.6 %】 :2013/01/14(月) 23:35:38.55 ID:r3crdkADO
ID:6GZbvOw80←うっとうしい
410名無し野電車区:2013/01/14(月) 23:39:13.38 ID:AY/P7G6j0
スカイライナー暴動事件
1978年5月スカイライナーを中核派が放火したことに対し、6月関東を中心に全国の鉄道ファン1万人(警察庁発表、ファンたちは20万人と発表)が抗議のため中核派本部に押しかけ、謝罪を要求した。
これに対し応対した中核派が「京成なんかボロい」「スカイライナーしょぼい」などと馬鹿にする発言を重ね、更にファンの目前でスカイライナーの写真を燃やしたためファンが激怒、
鉄道ファン側は仕返しに本部内にある資本論その他の左翼系書籍を燃やした上小便をかけるなどの報復処置に出て暴動に発展。
中核派100人、鉄道ファン50人が負傷する事件となった。
これを教訓に過激派は鉄道ファンを刺激する発言を控えるようになったとされる。
411名無し野電車区:2013/01/15(火) 13:56:02.63 ID:LeootWWD0
長文警報発令中!!
412名無し野電車区:2013/01/15(火) 14:04:49.71 ID:LeootWWD0
>>409
うっとうしいのはID:1b2E7Bq/OとID:+lPh8OHm0とID:r3crdkADOとID:AY/P7G6j0のほうだろ。
413名無し野電車区:2013/01/15(火) 14:16:17.13 ID:LeootWWD0
長文レス禁止
414名無し野電車区:2013/01/15(火) 15:25:14.27 ID:LeootWWD0
ここは2ちゃんねる。長文レスは投稿禁止。
もし長文レスを投稿したければ、ここではなくBloggerか、または各出会い系サイトに行ってそこに投稿せよ。
415名無し野電車区:2013/01/15(火) 15:34:12.77 ID:LeootWWD0
113系3000番台
国鉄が1982年から製造した113系2000番台のマイナーチェンジ版。
屋根上の冷房装置が153系廃車発生品のAU13型に変更されている。
形式は、クモハ113-3000、モハ113-3000、クハ111-3000、クハ111-3100、サハ111-3000。
416名無し野電車区:2013/01/15(火) 15:39:47.26 ID:m2Kx31io0
馬鹿にマジレスするのあれだが、このスレは特性上長文が多くなる傾向なのは仕方がない。
それともアレか、短い文しか読めない頭なのか。
ネットばかりやってるからそうなるんだよ。
417名無し野電車区:2013/01/15(火) 15:40:22.43 ID:LeootWWD0
>>415続き
内装化粧板の色は、2000番台の淡緑色から薄茶色4号に変更された。
モハ112は、外観の変更がなされなかったため、2000番台の続番だが、内装化粧板の色は同様に薄茶色4号に変更された。
418名無し野電車区:2013/01/15(火) 15:52:11.16 ID:LeootWWD0
>>416
キロバイト数は必ずレス数を下回らねばダメ。
419名無し野電車区:2013/01/15(火) 16:01:38.81 ID:m2Kx31io0
これはbloggerとやらのステマですか?
420名無し野電車区:2013/01/15(火) 23:01:44.15 ID:JBCz0pLL0
かつて、ムーンライトながらというコテハンを名乗り、
メール欄にmuraseという実名を含むメールアドレスと入力していた、
統合失調症(精神分裂病)プラス同性愛者という変質者が、
再び、年末から、当スレや、JR東海在来線車両スレ、四国新幹線スレなどで、
鉄道路線・車両板で暴れ出しています。

いかにも統合失調症患者さんらしい書き込み内容は、
我々健常者にとっては事実上の荒らしです。

彼は、Wikipediaでも妄想を書きまくって、何度でも書き込み禁止措置をくらっています。

メールアドレスから彼のブログやyoutubeのマイページを見つけ出してみると、
はっきり言って、すげー異常です。

困ったもんです。
親御さん、お気の毒です。
421 【東電 78.8 %】 :2013/01/15(火) 23:15:00.61 ID:ktLU8iiMO
ID:LeootWWD0←いい加減にしろ!
というかスレ潰し必死!
Twitterじゃないんだから…。。。

スレ汚しに反応してスレ汚しスマソ…。。。
長文警報厨の透明削除と荒らし報告頼みます。。。
422名無し野雷車区:2013/01/15(火) 23:28:58.33 ID:rpGttR7C0
>>420
同性愛者は変質者じゃありません
423名無し野電車区:2013/01/16(水) 00:34:16.53 ID:rpTzGtFM0
IDが赤い奴は馬鹿まで読んだ
424 【東電 72.6 %】 :2013/01/16(水) 01:10:04.27 ID:+F6Kh3+LO
ID:rpTzGtFM0←必死だな
425名無し野電車区:2013/01/16(水) 10:12:47.23 ID:CJsletve0
>>420-421
長文レスは書き込むな。
426名無し野電車区:2013/01/16(水) 10:16:10.97 ID:CJsletve0
長文はBloggerへ、sexual contentはYouTubeかまたは各出会い系サイトへ行け。
長文やsexual contentをここに投稿するな。
427名無し野電車区:2013/01/16(水) 10:19:02.09 ID:rqm74W9U0
Bloggerのステマ乙
428名無し野電車区:2013/01/16(水) 10:28:14.59 ID:CJsletve0
sexual contentはここではなくYouTubeかまたは各出会い系サイトへ行ってそこに投稿せよ。
長文レスはここではなくBloggerかまたは各出会い系サイトへ行ってそこに投稿せよ。
429名無し野電車区:2013/01/16(水) 10:40:54.85 ID:rqm74W9U0
>>421
てか、Twitterのお陰で「長い文章を読む能力のない人間」が更に量産されるんじゃないかと今思った。
今ですら携帯やスマホの画面に収まる文章でなければ読めないような奴が増えているし。
430 【東電 88.7 %】 :2013/01/16(水) 11:49:10.39 ID:+F6Kh3+LO
ID:CJsletve0 必死だな。
Twitterじゃないんだから…。。。
あとアンカーを付けると透明削除出来ずにあぼーん痕跡が残って、1001まで逝く。
431 【東電 88.7 %】 :2013/01/16(水) 11:51:48.35 ID:+F6Kh3+LO
更に言わせてもらうと、短文連投は連投規制に引っかかる。
スレ汚しスマソ…。。。
432名無し野電車区:2013/01/16(水) 13:17:54.11 ID:4iEasxCF0
http://www.youtube.com/user/nagara373
YouTube上の日本の新幹線の動画や中国の高速鉄道(CRH)の動画
Metacafe上の日本の新幹線の動画や中国の高速鉄道(CRH)の動画
433名無し野電車区:2013/01/17(木) 16:00:44.59 ID:8wvavito0
まあ長文云々はともかく、ある意味妄想という公開オナニーをしあう紳士淑女の社交の場とはいえ
もう少し人に読ませておおっと思わせる文を書くことを心がけたいね
434名無し野電車区:2013/01/17(木) 21:38:11.07 ID:JCWBFMFb0
クモユニ143形1000番台
国鉄でクモユニ143を120キロ運転に対応させるべく歯車比を3.5に変更した車両。
塗装は183系に合わせて国鉄特急色に変更された。
特急「あずさ」や房総特急と併結し郵便荷物列車の高速化を目論んだ。
435名無し野電車区:2013/01/18(金) 15:15:40.14 ID:dSZcyxN60
日本の新幹線の動画と中国の高速鉄道の動画、それに"nagara373"というユーザーアカウントをYouTubeから消せ!
日本の新幹線の動画と中国の高速鉄道の動画はポルノ動画と比べてもずっと悪い。
"nagara373"というユーザーアカウント: http://www.youtube.com/user/nagara373
アメリカにはフランスのTGVでいいじゃん。
436名無し野電車区:2013/01/18(金) 23:54:52.44 ID:QEOsch/t0
>>50
亀レスで悪いが、
その番号じゃ乗り入れ協定違反だぞ。
千の位を「1」として良いのは京急だけ。
437名無し野電車区:2013/01/19(土) 09:16:54.86 ID:nhegI6Cx0
JR西日本 207系更新試験車
207系2000番台の7両編成1本を試験的に改造
改造内容
種別幕のフルカラーLED化
ヘッドライトテールライトを221系更新車仕様化
7両固定編成化=両端の電連撤去
スカート強化
中間封じこめ先頭車をサハ・モハ化 475系で行われた内容と同じ運転台は残る
438名無し野電車区:2013/01/19(土) 19:14:30.16 ID:JwTno7mbO
京成電鉄3070形
金町線専用の3000形である。当初は先頭を3000形初のT車とした2M2Tとする予定であったが、
原則金町線専用とは言え乗り入れ規格に合わせた関係でオールM車の4連となっている。
但しパンタグラフは高砂方と金町方の中間車(3071-2 3071-3にあたる)1つずつとなる。
走行系やCP等は3050形に準ずる。
また今回からは製造が総合車両製作所製となった関係で、車体が日車ブロックから京急新1000形
ステンレス車体と同じ仕様に変更されている。
(これは今年度新造予定の8両編成車から始められる予定)
4両編成5本が作られて全て高砂配置となっている。原則金町線専用で、4両編成の本線普通等には
原則充当しない。
これにより創立100周年リバイバル塗装の3300形と未更新の3500形残りが全てが廃車される。
但し3500形の一部を2連化の上で琴電に売却される予定で、オールステンレス車体の3585-3588が含まれている。
なお内2本は葛飾区及び集英社の第三者所有となっている。
これにより1編成はこち亀が、もう1編成は柴又寅さん記念館及び山田洋次ミュージアムの
ラッピングになる可能性が高い。
439名無し野電車区:2013/01/20(日) 09:28:19.69 ID:JNhFkvdt0
サロ110形1200番台冷房準備車
国鉄が、京阪神地区で使用しているサロ112の置換用として、1976年〜1978年にかけて製造。
基本的な仕様は、冷房装置が未搭載である点以外は、首都圏向けと大差ない。
高槻・宮原に配属され、京阪神快速に用いられた。
1977年に、一部が冷房改造されたものの、結局全車には及ばなかった。
1980年の京阪神地区快速のグリーン車廃止を以てして、全車が幕張・静岡に転属。
同時に、残る冷房装置未搭載車も冷房改造された。
440名無し野電車区:2013/01/20(日) 13:07:08.53 ID:IqCt0vhN0
213系1000番台
国鉄が1987年から製造した213系のマイナーチェンジ版。
以下の相違点がある。
・クモハ213のユニットペアとして、モハ212(パンタグラフのない中間電動車)が登場
・このため、クモハ213は1M方式ではなく、モハ212とユニットを組む。
・編成美を整えるため、モハ213(モハ212とユニットを組むパンタグラフ付きの中間電動車)およびサハ212(便所付きの中間付随車)が登場。
・サハ213が大量に製作された。
中間車が多く、かつ1M方式ではないため、211系の足回りに213系の車体を組み合わせたスタイルで、117系や185系を彷彿とさせる。
本形式は首都圏の湘南ライナーと急行格下げの「踊り子」「かいじ」などに投入され、捻出された185系は大垣―下関間に新設の山陽本線急行に転用された。
441名無し野電車区:2013/01/20(日) 17:17:26.81 ID:bHWafKUwO
サロ110-402〜405
153系からの改造のサロ110や、リクライニングしない回転シートでサービス的にも見劣りするサロ111形を
取り替えてしまいたい意向から、1両のみの改造予定だったサロ110形400番台はさらに4両が追加改造された。
402の改造種車はサロ165-133で、これは津田沼に新造配備された165系サロ165形最終番号車であるため、
サロ165-130改造の401同様に冷房装置はAU13E5基搭載である。
残りは全てAU12S搭載車で、403はサロ165-113 404はサロ165-129から改造されている。
405は唯一の交直流急行型からで、サロ455-11からの改造である。
(もう2両計画され、サロ165-105と唯一の451系からのサロ451-22からの改造が予定されたが打ち切られた)
全て静岡から国府津と渡り歩いたが、初期型車両などが多くて老朽化が激しく、サロ110-1200や
サロ124らに置き換えられ、402を除き95年には消滅している。
402は92年に難燃化改造をして1402と改番して総武快速線に転入し、幕張に配備されたが
総武快速線が完全E217系化される直前に取り替えられて廃車された。
ラストランではスカ色の10両にこの車両1両だけ湘南色で纏った武勇伝がある。
サロ110-601 602
乗れる自体が奇跡的と言われたサハ165-7改造のサロ110-501以上の超異例の改造車である。
改造種車は何と153系のモハ153形64と78で、電装解除した上にグリーン車に格上げた珍車であった。
急行伊豆などで使われた田町車が選ばれたが、602のモハ153-78は元関西の新快速車で改造前は
グレーに青帯であった。
座席は簡易リクライニングで、窓枠と座席が一致しないのは501同様である。定員は48名。
改造に際して側面幕を追加したために台車が初期型サロ110形同様TR55(後にTR69に交換)以外は
サロ113形と見分けがつかない程だった。
静岡〜田町と渡り歩き、晩年は国府津にいた。E231系に置き換えられて602の廃車で消滅したのは
何と2002年の事で、21世紀まで残っていた唯一の国鉄153系として後世に残されるだろう。
442名無し野電車区:2013/01/20(日) 18:33:33.27 ID:T7I6eqv+0
213系くびき野転用車
JR西に在籍していた213系は、2003年のマリンライナーからの撤退時に、クロを抜き取りMcTMcTTc'の5両編成に組み替えてJR東に譲渡された。
443名無し野電車区:2013/01/21(月) 23:50:49.54 ID:AYrG+8fe0
121系1000番台
JR四国が製造した121系のビッグマイナーチェンジ車。
車内の座席がオールロングシートに変更された。
また側窓が1段上昇窓から1段下降窓に変更され、方向幕が取り付けられた。
444名無し野電車区:2013/01/22(火) 11:36:00.31 ID:slhvnGt90
JR東海キハ281系気動車
北海道の在来線の1435mm化に伴いJR北海道はキハ281系気動車をJR東海に譲渡。

JR東海キハ283系気動車
北海道の在来線の1435mm化に伴いJR北海道はキハ283系気動車をJR東海に譲渡。
445名無し野電車区:2013/01/22(火) 11:48:44.95 ID:jdQeBAGB0
ED78形5000番台
JR東日本でED78を標準軌化改造したもの。
主に故障時の救援用に使用。
400系と連結できるように連結器を双頭連結器に交換した。
446名無し野電車区:2013/01/22(火) 18:18:08.85 ID:lvNRqVh90
JR西日本323系
大阪中心部にあふれる103系や201系などを置き換えるべく登場した。
基本321系と同じ設計で、帯の色がオレンジ、全面の貫通扉が無いといったところに違いがみられる。
8両で、大阪環状線に投入され、後に大和路線、阪和線にも投入される模様。
(大和路線、阪和線は6両で、それぞれ帯の色も違う大和路線はウグイス、阪和線は水色)
普通を中心に使用され、103系を次々と置き換えていく予定。
447名無し野電車区:2013/01/22(火) 21:20:16.74 ID:qsHcTfF60
JR四国80000系電車
JR四国のミニ新幹線電車。

近鉄80000系電車
上記の近鉄所有車両。
448名無し野電車区:2013/01/22(火) 21:38:51.42 ID:QuBpCOw90

全面 ×
前面 ○

>>370
ついでに補足
225系のマリンライナー投入により、223系5000番台の一部が広島地区へ移り、呉線で運用開始。
主に快速「通勤ライナー」「安芸路ライナー」などに使用され、同線を走る105系の一部は廃車となる。
ついに國鉄廣嶋に変化が訪れたのであった・・・!
449名無し野電車区:2013/01/23(水) 01:21:24.13 ID:7zmiUXF70
阪急1000系(2代目)
阪急神戸線と神戸市地下鉄西神・山手線の相互直通に伴う乗り入れ規格対応車両として新製
地下鉄車両に合わせるため起動加速度を3.3km/hに強化。4M2Tの6両編成とされたため、9020-ではなく新たに1000系を与えられている
8000系での試験を実用化し、主電動機に永久磁石同期電動機、制御装置に新型VVVFインバータ(東芝製)を実装
阪急線内は8両もしくは10両で運用するため、2両編成も新造されたが、既存の7000系、8000系とも併結可能
10両での運用時には6+2+2(梅田→)という編成も見られる
本形式の新造により5000系は全て宝塚線用になり、神戸線用車両は7000系以降で統一された。また三宮での分割併合も復活している
450名無し野電車区:2013/01/23(水) 12:31:51.23 ID:rsN7EEcI0
213系0番台JR東海仕様
国鉄が関西本線に投入した213系0番台。
2両編成である。
オールクロスシートであるのとトイレがある、冷房がAU79であることから5000番台と識別できる。
1999年に東海道線での新快速運用に対応するべく120キロ対応化改造が施行された。
2011年に飯田線に転属したが、トイレが元々付いてるため半自動ドアの設置のみで済んだ(が、トイレの位置が後付けした5000番台と違う上にバリアフリー対応になってないという問題を抱えている)。
451名無し野電車区:2013/01/23(水) 15:31:16.90 ID:kgfadHV50
JR西日本421系電車
JR西日本が213系を交直流化改造。
同時にドアステップも取り付けられた。
452 【東電 83.5 %】 :2013/01/23(水) 16:44:56.88 ID:Sap8z4ruO
長野電鉄205系/213系:
東急8500系の出物が無い為なかなか3500系の置き換えが出来なかったが、JR東日本が埼京線及び横浜線にE233系投入で余剰になる205系と、JR西日本が岡山地区225系投入による223-5000玉突きで余剰となる213系を譲受。
いずれも湯田中線対応の抑速対応、また、213系は無料特急メイン。
453名無し野電車区:2013/01/23(水) 21:13:14.47 ID:i+cjKGA50
近鉄シリーズ21ステンレス車
3000系の試験の結果を実用化。銀色の車体に山吹色のラインが入る。
それまでのシリーズ21との相違点は、
・行先表示機がフルカラーLEDとなっていること
・車内にLCDが設置されていること
・スタンションポールがあること
・UVカットガラスを使用し、窓カーテンを省略していること
等があげられる。
また、この度本系列初の4両編成が製造された。これから8000系列を置き換えていく模様。
454名無し野電車区:2013/01/24(木) 15:39:18.31 ID:m3rWsirL0
>>453
近鉄シリーズ21のステンレス車なら、3扉転換クロスシートの5220系でよいだろ。
投入先は大阪・名古屋線で、5820系(4扉アルミ車体LC)増備車ともどもガラス繊維製の蛍光灯カバー装備で。
455名無し野電車区:2013/01/24(木) 15:50:21.07 ID:m3rWsirL0
>>452
JR東185系と215系、およびJR西213系は交直流化改造の種車にする。(改造時出入り口にドアステップの取り付けも併せて実施)
改造後はそれぞれ573系(185系改造車)、551系(215系改造車)、および421系(213系改造車)。
456名無し野電車区:2013/01/24(木) 15:55:23.78 ID:m3rWsirL0
>>455続き
なので213系の長野電鉄譲渡はない。
457あぼーん総合車両所:2013/01/24(木) 21:56:57.40 ID:qQrBziDE0
JR西の近郊電車、223系のクモハ223-3059。1次車の仕様のままだったら出て来た可能性があったが、
2次車で仕様変更になった(3モータで空転が酷くて結局4モータに戻した)ので
幻になった。実番号はクモハ223-2059。
458名無し野電車区:2013/01/25(金) 12:17:51.32 ID:owa0XmxW0
DC10
国鉄が開発した入替用小型ディーゼル機関車。
TOMIXの「Cタイプ小型ディーゼル機関車」を実車化したような車体形状である。
459名無し野電車区:2013/01/26(土) 00:17:40.49 ID:yPrN7blf0
JR九州851系電車
460名無し野電車区:2013/01/26(土) 00:27:37.28 ID:yPrN7blf0
JR東海キハ185系気動車
JR四国が新型気動車を導入した際に余剰となるキハ185系気動車をJR東海に譲渡。
スノープラウとセラジェットが取り付けられ、エンジンはキハ25系のものと同タイプのものに取り替えられた。
高山線に投入。
461名無し野電車区:2013/01/26(土) 00:33:50.30 ID:yPrN7blf0
近鉄2000系南大阪線転用車
近鉄2000系電車を狭軌化の際、主電動機を永久磁石同期電動機に交換した。
462anorak?:2013/01/26(土) 18:19:33.81 ID:OG5h//1s0
>>372に続く平行世界もの
◎国鉄EF17形直流電気機関車
1958年 第三軌条
○鉄道が陸上交通機関の主役−特に物流で−かつ蒸気機関車全盛の時代、急勾配区間の長大トンネルにて
SLからの煤煙がトンネル内に充満し、酸欠に陥り、運転乗務員の窒息事故が多発。
1950年代、輸送力増強、輸送経費低減、労働環境改善、快適な旅行実現などの目的で電化推進となるが、
より低コストで出来る方法が模索され、交流電化が有力視され、仙山線で実験、北陸本線の交流電化に至る。
但し、各地に無数にある古い狭小断面トンネルに対して、交流の場合、高電圧の絶縁距離確保の観点から、
トンネル断面の拡張、あるいは新しいトンネルの掘削が必要で建設費が膨らんでしまう。
北陸本線等の幹線では交流電化の際に勾配緩和等の線形改良を兼ねて新線を建設しても費用対効果上ペイ出来るが、
関西本線等の亜幹線以下の路線では困難であった。
それでも、当時は、D51よりも低出力なDF50などディーゼル機関車の技術が未熟だったので、
急勾配・長大トンネル区間だけを部分電化したいとの要望が多くあった。
そこで、架空電車線方式に比べ建設費が安い第三軌条方式が検討された。
1958年、モデル線として関西本線の亀山〜木津区間が第三軌条方式(DC750V)で電化された。
但し、構内作業の安全確保の為、拠点駅構内と車両基地は架線方式。
当区間では、難所加太峠越えを筆頭に明治開業時の狭小断面トンネルが多く存在し、普通の電化が困難だった。
当区間用に同年に新造投入されたのが、EF17である。
EH10を土台に、DF50で実現した軸配置B-B-B、吊り掛け式、屋根にパンタグラフ、床下・台車に可動式集電靴を設置し、
複電圧対応回路で架線と第三軌条の両対応。
意匠は、小型デッキ付きの交流試作機ED44/45(90/91)に酷似し、塗装はEH10と同じ。
貨物列車のみならず旅客や郵便小荷物も牽引するが、冬季には暖房車の連結が必要であった。
第三軌条電化後、接続路線が非電化で、夜間など保線作業の時間帯は通電停止などにより牽引機の全てが
本形式で置き換えられた訳ではなかった。
安全性の問題で第三軌条廃止と架線化が幾度も検討されたが
1982年の関西線全線電化の際、国鉄末期の財政難により関〜柘植間の加太峠だけが第三軌条のままに、
代替機の登場によりEF17は全機廃車。
463名無し野電車区:2013/01/26(土) 19:57:01.32 ID:Wg3CoF100
E219系

中央・総武緩行線で使用されていた103系は新型通勤電車(後のE231系)で置き換えられる予定であったが
経年による故障が多発したことから早急に代替が必要となった。
設計・製造期間を短縮するため、当時量産されていた209系・E217系の車体構造・システムを
ほぼ流用する形で登場したのがE219系通勤電車である。
混雑緩和のためE217系で採用された拡幅車体を採用しつつ、走行装置は209系と共通として通勤型電車としての性能を確保している。
なお、外見上は前面貫通扉があるように見えるが実際には装備していない。
464名無し野電車区:2013/01/27(日) 09:13:53.00 ID:YJQ2i6gv0
>>462
末期(というか国有化直前)に電化計画を立てたが、第三軌条方式
だったそうだな>関西鉄道

そうなるとリアルで実現したのかも?
465 【東電 85.9 %】 :2013/01/28(月) 17:27:24.35 ID:Eb/4mSrLO
長野電鉄205系/213系:
長野電鉄では東急からなかなか8500系の出物が無く、8090系も秩父鉄道にかっさらわれた。
そこで、JR東日本で埼京線と横浜線にE233-6000投入で余剰となる205系に白羽の矢。
またJR西日本では岡山地区の225系投入による223系のローカル転用で玉突きとなる213系(200番台は除く)、JR東海では飯田線の313系投入と統一で玉突きとなる213系に白羽の矢。
466465:2013/01/28(月) 17:32:04.16 ID:Eb/4mSrLO
長電イベント車両:
埼京線・横浜線から譲り受けた中に、なぜかサハ204/サハ204-100が含まれ、ドアを全て埋めて、全て展望窓に。
内装は窓側に向かって椅子。
467名無し野電車区:2013/01/28(月) 18:15:57.18 ID:/yvEg1yy0
JR西日本関西本線用223系
221系の改良工事を行う際、関西本線では車両が不足することから、福知山線の223系6000番台を転入。
従来の221系と混じって、4両または8両で大和路快速や快速に使用される。
また、福知山線には225系を新造して対応している。

なお、関西本線ではこれからも223系を使う予定で、221系の改良工事が終わった際、一部の221系は2両編成に
改造され、桜井線の105系を置き換えるとのこと。
468名無し野電車区:2013/01/28(月) 19:50:13.28 ID:3QBP/UZK0
121系3800番台

JR西日本のローカル線普通用として登場した電車。


京阪神緩行線で使われていた205系0番台の余剰サハ車に運転台をつけ、
105系4ドア車の足回りを組み合わせて製作された。
そのため四国の0番台と異なり4ドアロングシートとなっている。

性能は121系とほぼ同じで、ブレーキは電気指令式、モーターと制御器は105系から流用。
台車はクモハが105系から流用のDT33コイルばね台車、クハが種車のTR235ボルスタレス台車を履いている。

車内は車イススペースとトイレを付けた点以外はそのままで、新しい前面はもちろん(略


桜井・和歌山線などに投入され、沿線の人には新車だと思われているらしい。
469名無し野電車区:2013/01/28(月) 21:28:10.81 ID:B+VJOy010
ED61-1000番台

昭和49年から50年にかけて、中央東線をEF64に統一するため、余剰となった
ED61をブルトレ牽引機に抜擢したものである。主な改造内容は以下のとおり。
・駆動方式を吊り掛け式に変更
・ギア比をEF65と同じ3.83に変更
・回生制動撤去
・元ダメ引き通し+編成増圧装置のいわゆるP型化
重連で一時間定格3,120kw・許容130km/hという、出力も高速性能もEF65Pを
大きく上回るカマとなった。全18両のED61のうち、竜華の2両を除いた16両が
改造され、EF65Pに準じた特急色となって東京機関区に配置された。
しかし全ブルトレを置き換えるには両数が足りず、「瀬戸」「出雲」「いなば・紀伊」
の3往復に限定運用された。しかも各列車ともEF65で牽引可能なスジで引かれ
たため、性能をもてあまし気味であった。
昭和53年にEF65PともどもEF65PFに置き換えられ、ED62へ再改造の上、伊那
松島機関区および豊橋機関区へ転出した。
EF60-500番台とともに、短命だったブルトレ牽引機として知られている。
470名無し野電車区:2013/01/28(月) 23:15:37.27 ID:Ztga1ReT0
国鉄キハ95形

国鉄が新生JRへの支援策として最後に設計・製造した試作気動車である。
国内の鉄道車両メーカーへ、さらなる高出力・高効率な直噴式エンジンの製造を打診したが、建機メーカーの小松製作所から小型・軽量な高出力エンジンについて提案を受けた。
国鉄技研と小松による共同開発によって新型機関を製造、これを搭載した気動車がキハ95となる。

・車体は当時製造中のキハ54系と同様のステンレス製軽量車体で耐寒性も考慮
・台車はボルスタレス台車DT50を気動車向けに設計変更した試作品を使用
・液体変速機は新エンジンに合わせた試作品を使用
・新エンジン出力は250PSで2基搭載
・ブレーキは従来車と混結を考慮せずに電気指令式ブレーキを採用

以上により国鉄気動車としては最高クラスの性能を持ち、110km/hでの走行が可能となった。
試験として東北本線などを走行後、函館本線にて運用に就いて、一部普通列車のスピードアップが図られる。

ただし、財政事情を鑑みて試作1両のみの製造に止まり、JR各社にて増備されることもなかった。
JR北海道にて運行継続とされたが、1形式1両かつ従来車との併結が不可能なため、整備・運用の煩わしさから早々に廃車となってしまった。
471名無し野電車区:2013/01/28(月) 23:33:15.20 ID:B+VJOy010
EF70-1300番台

北陸線のEF70を昭和49年度に50Hz高速用へ改造したものである。
当時、上野-青森の20系客車「ゆうづる」の水戸以北はED75-1000番台
牽引で最高速度が100km/hに抑えられ、583系「ゆうづる」との到達時間
差が問題となっていた。ED75の高速改造も候補にあがったが、奥中山
越えでは重連での運転が必要となるため却下された。
一方、昭和50年の湖西線本格開業でEF70に余剰が見込まれることから、
これを改造転用することに決まり、湖西線用EF81を早期に落成させ、改造
期間を稼いだ。改造種車は昭和39年度第5次債務車のうち日立製14両
(EF7058〜71)が選ばれ、最高速度110km/h(許容120km/h)のP型に
生まれ変わった。
青森機関区配置となり、昭和50年3月改正から4往復の20系「ゆうづる」
専用機として活躍を開始した。後年の客車「ゆうづる」縮小にもかかわらず、
最後まで東北地方交流電化区間の旅客専用機として活躍したが、JRへ
引き継がれた個体はなく、昭和62年までに全機廃車された。
472名無し野電車区:2013/01/29(火) 11:42:20.02 ID:yD52kqXz0
キハ54形951

>>470にて廃車されたキハ95だが車体はキハ54と同様のもので、新エンジンについても小松製作所が鉄道車両用エンジンに本格参入してきたこともあり、整備が可能となってきた。

そこで苗穂工場にて、液体変速機やブレーキ、台車を従来品に交換するなどキハ54等と併結を可能にする編入改造が行われて再び運用に就いた。

後の液体変速機等従来品の更新に際しては、小松のコモンレール式新型エンジンを搭載することとなった。
1基搭載で出力は450PSとやや落ちたが、軽量化・高効率化が図られて従来とほぼ同等の走行性能である。
473名無し野電車区:2013/01/29(火) 21:18:12.82 ID:2pFJ0NVi0
キハ48ジョイフルトレイン「キハ・フォーティエイト」
JR西日本でキハ48 4・1004をジョイフルトレインに改造。
内装のデザインにNMB48のメンバーが関わったという。
474名無し野電車区:2013/01/30(水) 13:37:58.09 ID:svzBn72UO
EF71-1000番台
昭和55年から作られたEF71形の最終形である。車体はEF64-1000に準じたものとなり、過大な出力は
EF64形と同じく2550KWに落とし、サイリスタ位相制御はそのままだが、性能的にはEF81形を交流のみに
したようなものとなっている。
また変圧器と整流器も共用化が図られたために50Hz60Hz両用で、屋根上もEF81形に近く、
パンタも下枠交差式である。
製造総数は29両で、九州向けのブルートレインと高速貨物列車の牽引用としてED76形1000番台と
並行して製造され、当初23両製造予定だったED76形1000番台は17両の製造に変更された。
またこの機関車の投入で初期のED76形が置き換えられる逆転現象も生じている。
F形機投入の背景には東京口のブルートレインの長編成化やロビーカー等の連結により重量が増え、
ED76形では牽引力不足との見方があったと見られる。
黄金期の東京口の九州ブルトレの牽引は次の通り
「さくら」門司〜長崎(佐世保行きは切り離す鳥栖からED76)
「みずほ」門司〜熊本(長崎行きは鳥栖からED76)
「はやぶさ」門司〜西鹿児島
「富士」門司〜西鹿児島→宮崎・南宮崎
博多までと短距離の「あさかぜ」は充当されず、関西口の九州ブルトレの牽引は「なは」のみで他は全てED76を使用。
九州ブルトレの減少に伴って大型機で牽引力もある事から青函用の用途に切り替えられる車両も増え、
後に14以降が青函ATC取り付けにより、1500番台化されている。
最末期はさくら・はやぶさの門司〜熊本 長崎から富士・はやぶさの門司〜熊本のみ(富士は
大分まで関門のEF81形400番台がそのまま牽引に変更)となり、「なは・あかつき」はED76化されて
関西口の九州ブルトレは充当されなくなった。
また貨物用としてJR貨物に譲渡されるようになり、ブルトレが全廃後は1001〜1008号機は九州内の
貨物列車用として大分へ、1009〜1013号機は青函用に転用されている。
1500番台は1501〜1514のJR北海道の寝台特急・急行用と1515以降のJR貨物向けとに分けられている。
その内1501 1503 1507はカシオペアの銀塗装(但し北斗星等にも使用) 1509 1512はトワイライトエクスプレスの
ダークグリーン塗装で、それ以外はブルトレ塗装である。
当初九州ブルトレ減少期に東北へ回す計画もあったが、EH500形の量産の目処がたったことから見送られている。
475名無し野電車区:2013/01/30(水) 16:06:31.28 ID:eCFNH1uv0
>>381書き直し
近鉄40000系電車
近鉄が開発した秘境区間ローカル用電車。
車体や足回りは22600系と同等であるが、歯数比を通勤車並に大きくとってあり、出入り口が各車両とも片側2箇所で、デッキと客室との仕切りは省略され、座席は転換クロスシートで、整理券発行機と運賃箱が設置されている。
2両編成である。通勤車との併結運転も可能。
青山峠越えの普通列車、および鳥羽・志摩線の普通列車に投入。
476名無し野電車区:2013/01/30(水) 22:39:08.42 ID:Iyv2KXHl0
近鉄6640系
近鉄が製造した5200系の南大阪線用バージョン。
5200系をベースに狭軌に設計変更した。
2両編成である。
主に快速急行で使用される。
477名無し野電車区:2013/01/31(木) 00:34:05.10 ID:93CMIdvJ0
>>476に触発されて
近鉄5000系
近鉄が製造した5200系の2両編成バージョン。
5200系をベースに2両編成・ワンマン対応に設計変更した。
整理券発行機と運賃箱を備える。
5200系との併結6両編成を組むこともある。
478名無し野電車区:2013/01/31(木) 18:24:33.84 ID:fK7cyQiM0
>>454への返事も兼ねて
近鉄5220系
ステンレス車体の「シリーズ21」で、4両編成3扉。
名古屋線、大阪線に投入。
これにより、昼間の名古屋線急行(四日市行きを除く)の伊勢側4両は、全て3扉クロスシート車となった。
479名無し野電車区:2013/01/31(木) 21:12:28.53 ID:ivr33+Kg0
101系5000番台
JR西日本で101系の主電動機をMT54に交換した車両。
原番号+5000である。
480名無し野電車区:2013/02/01(金) 13:43:03.97 ID:vWU2cme0O
近鉄5520系
ステンレス製シリーズ21の地下鉄乗り入れバージョンで、京都市交通局烏丸線乗り入れ用として開発され、
3200系を転用させる(抑速ブレーキがあるために基本的には標準軌線はどこでも入線可)ために投入された。
シリーズ21車体であるが、今回5223F・5226F・5227Fは近鉄電車として初の総合車両製作所製の車両となる。
制御装置の電装品は日立製で3220系と共通である。
この車両投入の玉突きで3220系以外の3200系を名古屋線と大阪線へ転用されている。
京都市交通局もこの車両を10系の取り替えと位置つけ、同車両を緑帯にした20系を投入する予定で
6両編成19本が投入される。こちらはすべて総合車両製作所製となる。
また京都線と奈良線のみだった乗り入れを急行列車で橿原線の橿原神宮前までと大阪線の青山町(又は名張)
までに直通運転を伸ばす予定。
481名無し野電車区:2013/02/01(金) 15:43:29.95 ID:E/tQAIWN0
>>480は3240系だろ。
(ステンレス車は3扉転換クロスシート車が5220系で4扉地下鉄乗り入れ車が3240系)
5220系(>>478)・3240系ともに近畿車輛のほか総合車両製作所(東急車輛)でも製作。
482名無し野電車区:2013/02/01(金) 15:51:26.03 ID:E/tQAIWN0
JR九州851系電車
JR九州が開発する次世代特急型電車。
非振り子・正面貫通型で分割併合に対応する。
483名無し野電車区:2013/02/01(金) 21:42:48.05 ID:gvLzQL+X0
>>481
もしくは3220系の続番にするとか?(3224F〜)

近鉄9220系
ステンレス製シリーズ21の地上線用4両編成。
主に奈良線・京都線・橿原線などに投入された。
ワンマン運転に対応し、田原本線でも走れる。これにより、3両編成の8400系を置き換えた。
また、近い将来田原本線と生駒線を直通運転する際には、1020系とこの9220系が主力となる。
編成は大阪側から9221・9971・9271・9921となっている。中間2両がM車。
484名無し野電車区:2013/02/03(日) 06:45:28.53 ID:C9Z3hBr30
国鉄477系交直両用修学旅行専用電車.

国鉄が1969年から製造した、457系をベースとした修学旅行専用系列。
さしずめ、167系の交直両用版といったところで、車内には、大型の脱着可能な折り畳み式テーブル・
速度計・電池式時計・出入台部の飲料水タンクと洗面台が装備されている。
客用扉は、457系と同様のステップ付きだか、幅は155系や167系に準じた700mmとなっている。
冷房装置は、当初は「修学旅行向け」ということもあり冷房準備車として登場したが、後に搭載された。
塗装は赤3号と黄色5号のいわゆる「修学旅行色」だが、塗り分けパターンそのものは457系に準拠している。
当初は南福岡・門司・仙台・勝田に配属され、北九州・東北地区の修学旅行専用列車に用いられた他、
門司配属分は、下関の167系の代走として中国地区の修学旅行専用列車に用いられることもあった。
また、勝田配属分については、東北地区や常磐線沿線ばかりか、
田町の167系の代走を勤めることもしばしばあったとか・・・
しかし、修学旅行用列車の新幹線への移行に伴い、門司配属分は金沢へ、南福岡配属分は鹿児島へとそれぞれ転属。
同時に、折り畳み式テーブル・速度計・電池式時計の撤去、洗面所の改装、冷房装置の搭載といった各種改造が施工され、
塗装も457系と同様の、赤13号とクリーム4号の「交直流急行色」に逐次変更された。
(これら一連の改造工事は、勝田・仙台配属分についても施工された。)
485名無し野電車区:2013/02/03(日) 14:33:47.85 ID:FOy54nT30
>>478
妄想の世界だから余計なお世話かもしれんが、
近鉄は朝ラッシュ時の本数減らし車両数を必要最小限にしたいみたいなので、
3ドアクロス車なんて造らないと思うぞ。
486名無し野電車区:2013/02/05(火) 20:59:29.12 ID:zhf7dscw0
サヤ103
JR西日本で不要になったサハ103を電源車に改造。
車内にディーゼルエンジンを積んだ。
285系の非電化区間乗り入れ用に投入。
ブレーキ読替装置も搭載している。
これによりサンライズ瀬戸の高知乗り入れとサンライズ出雲の浜田乗り入れが実現。
487名無し野電車区:2013/02/08(金) 07:25:26.32 ID:ipOgoTLVO
広島電鉄2200・2300形
宮島線直通列車の輸送力増強用として、1972年に廃止となった大分交通別大線の500形、1100形を譲受し1973年に登場した。
入線の際に標準軌台車への交換、宮島線直通色への塗装変更が共通して行われ、500形は2両連結車に改造されて2200形に、1100形はそのまま2300形となった。
2000、2500形と共に宮島線直通の主力となり、1980〜82年には冷房化と方向幕の大型化が行われた。
1990年代に入ってからは連接車の増備により運用が激減し、2200形は3950、5000形に置き換えられる形で2000年に全廃された。
2300形は市内線での運用で活躍を続け、最晩年には大分交通時代の塗装に変更された。
しかしPASPY導入の際2000形と共に改造対象から外れ、2010年に使用休止となった。2301ABはその後廃車となり、大分県別府市に静態保存されている。
2302ABは荒手車庫に留置されている。
488名無し野電車区:2013/02/08(金) 21:18:10.07 ID:vbrcI7yRO
東急デハ250形
新機能を備えて鳴り物入りで玉川線に投入されたものの、特殊構造が災いしていたデハ200形を
世田谷線に投入するにあたり、連接式はそのままにカルダン制御や超低床軽量車体をやめ、
通常車体のデハ70形らに合わせたタイプも開発された。
それがデハ250形で、昭和37年に上町に3編成作られたが後にデハ80形に移行したために
それ以上は製造されずに終わった。
2連であるが、ドア位置 ステップなどはデハ70形2連と合わせられ、デハ200形は通り抜けられる
のに対しこの車両は連結間の通り抜けはできない構造となっていた。
平成2年にカルダン化され、平成6年には冷房も取り付けられたために世田谷線旧式車両唯一の冷房車
として人気も高く、新型車両のデハ300形が登場後もこの車両は残されるのではないかと噂された。
しかしデハ70形 80形をデハ300形に置き換え完了後まで使われた後この車両らも全てデハ300形に改造された。
なおデハ254 255は玉電廃止時にデハ200形の203と205を改造して世田谷線に使用する計画だったが、
構造が災いして見送られている。
489名無し野電車区:2013/02/10(日) 09:22:29.35 ID:Of1O8TOG0
モハ457
国鉄が1971年に北陸地区向けに8両がサハ455形8両と同時に製造された。
本形式はモハ456-20〜27とユニットを組んでいた。
490名無し野電車区:2013/02/10(日) 09:33:53.65 ID:Of1O8TOG0
457系1000番台
国鉄が1972年から製造した457系のマイナーチェンジ版。
クモハ457-1000、モハ457-1000、モハ456-1000、クハ455-1000、クハ455-1100、サハ455-1000、サロ455-1000、サハシ457-1000がある。457系0番台との相違点は以下の通り。

クモハ457-1000、クハ455-1000、クハ455-1100は前照灯がシールドビームである。
サロ455-1000は2連の固定窓で、回送運転台はない。
サハシ457-1000は冷房装置がAU13型6基(普通室2基、ビュッフェ4基)となっている。
各形式とも、側面方向幕がついている。
クハ455-1000、サハ455-1000、サロ455-1000はMGが160kVAのものになった。
クハ455-1100はMG非搭載。
1974年製造分より、主変圧器がTM20に変更された。
1978年製造分からは、CPがC-1000に変更され、シートモケットの色が茶系に変更された。
1980年製造分からは、Hゴムが廃止された。
1983年製造分からは化粧板が薄茶色4号から白色チェック柄+木目調に変更され、モハ456-1000は平天井化された。
491名無し野電車区:2013/02/10(日) 09:39:19.46 ID:Of1O8TOG0
国鉄459系電車
457系1000番台の横軽協調運転対応版で457系1000番台と同じく1972年に登場。
形式は、クモハ459、モハ459、モハ458、クハ459、クハ459-100、サハ459、サロ459、サハシ459
492名無し野電車区:2013/02/10(日) 09:41:36.70 ID:Of1O8TOG0
>>484は457系800番台
493名無し野電車区:2013/02/10(日) 10:07:36.59 ID:Of1O8TOG0
国鉄881系電車
国鉄が製造した振り子式交流特急型電車。
381系をベースに交流専用サイリスタ式にし、さらに雪切室を設置した。車体長は21.3mで出入り口はステップ付き。

国鉄585系電車
国鉄が製造した振り子式交直流特急型電車。
381系をベースに交直両用にし、さらに雪切室を設置した。車体長は21.3mで出入り口はステップ付き。
494名無し野電車区:2013/02/10(日) 16:31:53.67 ID:7ezwcJfw0
京阪新2000系
旧2000系列及び1000系・5000系の代替で2014年登場。
7203F以来18年ぶりとなる7両固定編成で、本線の準急・区間急行・普通などに使用される。
主電動機には京阪電気鉄道では初となる永久磁石同期電動機(PMSM)を採用し、
従来の三相誘導電動機を使用する13000系と比較して更なる消費電力削減を実現した。
車体構造は13000系をベースとしているが、以下の変更点がある。
・将来の廃車時におけるリサイクルを考慮して車体に使用されるアルミ合金の材質統一が図られている。
・側窓に連続窓を採用し、ドア間は京成3000形などと同様の下降窓と固定窓の組み合わせとした。
・全面塗装から車体全体にカラーフィルムを貼り付けるフルラッピングに変更。
・各ドア上部に17インチ液晶ディスプレイを用いた車内案内表示器を2台設置。左側を広告動画用、右側を旅客案内用として使用する。
本形式は2027年までに7両37編成が製造される予定である。
495名無し野電車区:2013/02/10(日) 16:40:10.19 ID:jJeWP2Nl0
クモニ125
JR西日本が開発した自転車積載車。
サイクルトレインとして自転車持ち込みを可能とするため自転車固定ラックを車内に取り付けた。
座席を全て撤去したため荷物車の「ニ」の記号が付いている。
自転車固定ラックは街中の有料自転車置き場のようにコインパーキングになっており、200円で利用できる。
496名無し野電車区:2013/02/10(日) 20:15:56.76 ID:t+44IhVK0
>>484>>492補遺
457系800番台のその後
1983年に、鹿児島所属車は京都へ再転属した。
1986年には、勝田所属車は新潟へ転属。1987年には金沢と京都所属車はJR西日本が、仙台と新潟所属車はJR東日本がそれぞれ承継した。
これらの車両はドアの幅が狭いために近郊型化改造ができず、一方でJR東日本所属車両ではシートをリクライニングシートに交換した車両が出ている。
497名無し野電車区:2013/02/10(日) 20:50:17.17 ID:jJeWP2Nl0
477系
国鉄が開発した457系の修学旅行仕様。
ドア幅が167系に合わせて700oに変更された。
需要予測から3両編成である。
東北・九州地方の修学旅行列車で導入された。
東北地方では東北新幹線が上野まで開通したなかったこともあり1985年まで継続され、その後はドア幅が狭いことから近郊型化改造は見送られ、JR化後リクライニングシート化改造が行われ波動輸送用として使用された。
九州地方ではJR化後も修学旅行輸送が続いていたが、のちに小倉または博多で新幹線に乗り換えるスタイルを取ったため九州外に出る事は無くなった。
498名無し野電車区:2013/02/10(日) 23:35:31.52 ID:3Jmw/z9/0
国鉄763系電車
国鉄が1980年から製造した北海道向けサイリスタ式交流急行型電車。
711系100番台とは以下の相違点がある。
・ボックスシートの窓際にもひじ掛けが設けられた。
・車端部のロングシートや吊革はない。
・車体長は21.3mに伸ばされ、ボックスシートのシートピッチは12系客車やキハ65系気動車と同じ1580mmに拡大された。
・0番台はMM'ユニット方式を採用。1000番台は711系100番台と同様の1M方式。
・歯数比は4.21を採用。
・全車両新製冷房車で登場。
・パンタグラフはモハ762-0およびモハ763-1000に搭載。
・車体塗色は赤色13号に窓回りクリーム色4号。
・冷房装置はパンタグラフ付き中間電動車がAU72型(1983年製造分からはAU79型)、その他はAU13型6基。
・シートモケットの色は茶系を採用。
形式は、クモハ763、モハ763、モハ762、クハ763、クハ762、サハ763、サロ763、サハシ763、モハ763-1000

763系2000番台
国鉄が1985年から製造した763系の転換クロスシート版。
転換クロスシートのシートピッチは910mmとなっている。
形式は、モハ763-2000、モハ762-2000、クハ763-2000、クハ762-2000、サハ763-2000
499名無し野電車区:2013/02/10(日) 23:59:14.48 ID:3Jmw/z9/0
国鉄465系電車
国鉄が1980年から製造した457系のフルモデルチェンジ版。
車体長が21.3mに伸ばされ、普通車のシートピッチを12系客車・キハ65系気動車並みの1580mmに拡大。出入り口はステップ付き。
もちろん従来の交直流急行型電車との連結も可能。
形式は、クモハ465、モハ465、モハ464、クハ465、クハ464、サハ465

国鉄469系電車
465系の横軽協調運転対応版で465系と同じく1980年に登場。車体長は21.3mで出入り口はステップ付き。
形式は、クモハ469、モハ469、モハ468、クハ469、クハ468、サハ469

サロ465
サロ455-1000の車体長を21.3mに伸ばした形式で、1982年から製造された。出入り口はステップ付き。

サハシ465
465系のビュッフェ車。1982年から製造された。車体長は21.3mで出入り口はステップ付き。

サロ469
サロ465の横軽協調運転対応版で1982年から製造された。車体長は21.3mで出入り口はステップ付き。

サハシ469
サハシ465の横軽協調運転対応版で1982年から製造された。車体長は21.3mで出入り口はステップ付き。

国鉄477系電車
国鉄が1985年から製造した465系の転換クロスシート版。車体長は21.3mで出入り口はステップ付き。
転換クロスシートのピッチは910mmで側窓は2連窓になっている。
もちろん451・471-465・469系と連結可能。
形式は、モハ477、モハ476、クハ477、クハ476、サハ477
500名無し野電車区:2013/02/11(月) 00:09:23.15 ID:f+88LvN60
>>499補足
それらの形式の1500番台が1987年から製造。211系や415-1500と同じステンレス製になる。

465・469系: 歯数比4.21とMT54系主電動機は踏襲したが、主制御器は117系と同じCS43系を採用。車体長が21.3mに伸びたため。1983年製造分からは内装化粧板の色が薄茶色4号から117系と同じ白色チェック柄+木目調に変更された。
477系: CS43系主制御器と歯数比4.21は踏襲したが、主電動機が211系と同じMT61系に変更された。
465・469・477系共通: 冷房装置は先頭車とグリーン車・ビュッフェ車はAU13型6基、パンタグラフつき中間電動車がAU75型、パンタグラフのない中間普通車がAU13型8基、これらの形式の1500番台はAU75型。

465・469・477系いずれも、シートモケットの色は117系と同様の茶系シートでHゴムはない。

急行型のステンレス車は、正面がJR北海道721系電車と同じ顔つきになっていたはずである。
(415系1500番台や213系などの近郊型のステンレス車が211系の顔つきになったのとは対照的)
501名無し野電車区:2013/02/11(月) 00:22:21.32 ID:f+88LvN60
>>498-500補足
465・469・477・763系いずれも、普通車のドア幅が従来車より狭くなっています。
502名無し野電車区:2013/02/11(月) 15:18:41.53 ID:nrVhb5a70
781系1000番台
国鉄が1986年から製造した781系のマイナーチェンジ版。
車体がオールステンレス製になり、キハ183系500番台気動車やキハ185系気動車と同様のスタイルになった。車体長は21.3mで出入り口はステップ付きだが、片開き式の引き戸が片側に2か所となっている。
主電動機はMT61系に変更された。
形式は、クモハ781-1000、モハ781-1000、モハ780-1000、クハ780-1000、サハ780-1000、サロ780-1000、サシ781-1000。
503名無し野電車区:2013/02/11(月) 15:26:04.28 ID:nrVhb5a70
国鉄487系電車
781系1000番台と同時期に国鉄が製造したオールステンレス車体・電機子チョッパ制御方式の交直両用電車。
車体長は21.3mで出入り口はステップ付きだが、781系1000番台と同様出入り口は片開き式の引き戸が片側に2か所となっている。
歯数比は1:4.21に変更され、主電動機はMT61系に変更された。
形式は、クモハ487、モハ487、モハ486、クハ486、サハ486、サロ486、サシ487。
1989年以降の増備車は、制御方式が界磁添加励磁制御に変更された。
504名無し野雷車区:2013/02/11(月) 22:26:03.06 ID:QCyrbdi80
>>493
585系
寝れないだろ。
505名無し野電車区:2013/02/12(火) 15:22:00.51 ID:f/ImfcmT0
EF18(2次)
戦前形貨物用EL(EF10、EF12)の老朽置き換えのため、余剰が発生して
いたEF58のうち、MT41搭載の初期形(1〜31)で検査周期がきたカマから
ランダムに15両が選ばれ、改造された。
改造といっても、ギア比を2.68から4.15に変更しただけである。
ただし、貨物機標準の茶色にしただけではEF5860・61と区別できないとの
現場の声を受けて、ステンレスのネコヒゲも撤去されたトホホな姿になって
飯田線身延線吾妻線等で短い余生を過ごした。
506名無し野電車区:2013/02/12(火) 18:44:00.56 ID:E+GK8o2GO
名鉄2850系
当初は2200系の2連増結用として用意された形式であった。
しかし方針を変更し、往年の名車を再現した編成に変更された。これにより1200系2本を
予定された制御機器交換を行わせずに事故復旧車の1384F共々引退させる。
公募により、2851Fは800系なまず 2852Fはパノラマカー7000系 2853Fは3400系いもむしとなった。
基本的には2000系及び2200系をベースとし、前面を変えたものであるが、3400系いもむしに
復刻した2853Fは往年の車体も復刻しており、車体形状も異なる。
なお一部特別席で一般席付はなまず復刻の2851Fのみでいもむし復刻版 パノラマ復刻版は全車
μチケット必要の特別席のみで、中部国際空港行き列車のみしか充当されない。
ちなみになまず復刻版は大ムカデ いもむし復刻版は6連であるためにグリーンスネークなるあだ名がある。
507名無し野電車区:2013/02/12(火) 23:12:44.48 ID:0lvyUQs20
国鉄185系電車 JR西日本仕様
国鉄が山陽地区に新設の急行用として京都・下関・福知山・出雲の各車両基地に投入した185系電車。
これらの車両はJR西日本が承継しJR西日本により歯数比を4.82から4.21に変更された。
508名無し野電車区:2013/02/14(木) 20:16:00.00 ID:6PRcUGt60
JR東海471系電車
JR東海が製造する界磁添加励磁制御の長距離用交直両用電車。
1両あたりの長さは21.3m、出入り口は片開き2扉、ステップ付き(ステップ高さはレール面上950mm)、デッキ付きで座席は回転リクライニングシート、床面高さはレール面上1140mmである。
運転台機器及び主な電気部品はJR東日本211系2000・3000番台などのVVVF化改造に伴う発生品を流用。ギアユニットは歯数比1:4.21のものを新規に製作。
509名無し野電車区:2013/02/14(木) 20:21:36.00 ID:6PRcUGt60
JR東海671系電車
JR東海が製造する特急「しらさぎ」用の交直両用電車。
383系の非振り子・交直両用版。
車体長は21.3m。
床面高さはレール面上1140mmで出入り口はステップ付き(ステップ高さはレール面上950mm)。
基本編成はTscMM'TTMM'Tc'の8両編成。
付属編成はTcMM'Tc'の4両編成。
Tscはパノラマグリーン車。
TcとTc'はともに貫通型構造。
510名無し野電車区:2013/02/14(木) 20:26:06.03 ID:6PRcUGt60
JR東海673系電車
JR東海が製造する波動用の交直両用電車。
373系の交直両用版である。
車体長は21.3m。
床面高さはレール面上1140mmで出入り口はステップ付き(ステップ高さはレール面上950mm)。
McM'TTc'の4両編成とMcM'Tc'の3両編成を設定。
511名無し野電車区:2013/02/14(木) 20:30:56.59 ID:6PRcUGt60
JR北海道723系電車
JR北海道721系の2ドアバージョン。
出入り口はステップ付きで、6両編成と3両編成とがある。15両編成まで対応可能。
片開き式のデッキ仕切り扉と蛍光灯カバーを備える。シートモケットの色は茶系で窓際にも肘掛を備え、ロングシートや吊革はない。窓には横引きカーテンを備える。
512名無し野電車区:2013/02/15(金) 17:29:39.78 ID:2ApAEUaK0
スウェーデンが1980年代に電化方式を交流15kV16.7Hzから交流25kV50or60Hzに切り替えしていたらあったと思われる車両

新幹線100系スウェーデン仕様
東海道・山陽新幹線を走っていたものとの相違点は、出入り口が低床ホーム用のステップ付きになり、パンタグラフがシングルアームになり、耐寒耐雪仕様になったこと。
16両の長大固定編成のため、スカンジナビア半島では使い勝手が悪く、特に1990年代末にレジーナが登場してからは出番が減り、現在は夏の観光シーズン以外は車両基地で寝そべっている状態が続いている。
日本国内の100系が全て引退した現在も、スウェーデンに投入された本系列はしぶとく残り、本系列最後の活躍をしている。
513名無し野電車区:2013/02/15(金) 22:18:24.42 ID:bZglKpZ40
>>511は、内容からすれば、761系の方が相応しくないか?
514名無し野電車区:2013/02/15(金) 23:05:02.24 ID:gZeCWVqq0
キハ185系100番台

キハ185系の両運転台仕様

主に増結用に用いられるが、単行での特急運用も存在する。
車内には単行運用に備え、前後で指定席と自由席に分ける事ができるように中央部に間仕切りがある。
515名無し野電車区:2013/02/16(土) 09:35:15.99 ID:U/6ZpnEA0
EF58 900番台
電気機関車新性能化のテスト車として製造された。
車体デザインはEF58(新)と同デザインだが、先輪が廃止され、EH10同様に車体下にC+Cの台車が置かれた構造となっている。
その他の機器はEH10に近く駆動方式も釣掛式である。
特殊な構造のためか早々と休車状態となり、現在は鉄道博物館と交通科学博物館に1両ずつ展示されている。
516 【東電 90.5 %】 :2013/02/16(土) 21:02:08.12 ID:AI1kr8JcO
東武634-30形、634-40形:
スカイツリートレインの追加改造。
634-30形:1819Fを4M2T・発電ブレーキ化改造(300系と同様の改造)。改造は正雀のアルナ車両。
634-40形:352Fを改造。改造は新潟トランシス。
517 【東電 71.2 %】 :2013/02/17(日) 01:18:00.00 ID:fRbM4oPrO
東武60050系:
半蔵門線直通増発と30000系東上線転属及び10000系野田線転属の車両不足対策。
51069F/51050F同様の保安機器。

東武70000系:
浅草口と久喜・南栗橋以北6連運用の30000系東上線転属と10000系野田線転属での車両不足分の補充。日立A-Trainで、各社がOEM生産。連結の省力化で自動幌装置搭載で中央プラグドア。幌は10000/30000との混結も可能(その場合は)。
日立製作所:71601F
川崎重工業:71602F
日本車両:71401F/71201F
近畿車両:71402F/71202F
が量産先行車として習熟。71601Fが北春日部、71602Fが南栗橋、71401Fが館林、71402Fが新栃木、71201F+71202Fが業平橋留置線で習熟。館林駅・南栗橋駅・北千住駅で区間急行向けの自動幌装置の試験。
518名無し野電車区:2013/02/17(日) 19:28:27.96 ID:cs1rCyvt0
JR東日本 E28系寝台客車
JR東日本が老朽化した24系の置き換えと、寝台特急の体質改善を目的として投入した新型寝台客車。
特にB寝台に関しては、従来の2〜3段寝台の相部屋というスタイルを見直し現在の水準に合わせた設計となっている。

車体はE231系を元にした20mの軽量ステンレス製。
519やり直し:2013/02/17(日) 19:37:47.94 ID:cs1rCyvt0
JR東日本 E28系寝台客車
JR東日本が老朽化した24系の置き換えと、寝台特急の体質改善を目的として投入した新型寝台客車。
特にB寝台に関しては、従来の2〜3段寝台の相部屋というスタイルを見直し現在の水準に合わせた設計となっている。

車体はE231系を元にした20mの軽量ステンレス製。
この車両の特徴として、B寝台は従来のスタイルを見なおし、安価に利用できて尚且つプライバシーを保てるように複数の仕様が用意された点にある。
基本となるナハネE28-0は1名用のビジネスホテルタイプの個室で構成。客室はさながら「ユニットバスの無いビジネスホテル」を思わせる構造になっている。
ナハネE28-500は0番台と同じ個室タイプであるが、2人用となっている。
ナハネE28-1000は航空機のファーストクラスと似た、ベッドにもなる仕切り付きの座席を1+1+1の3列で装備。座席の入り口はずらして配置されており、プライバシーの確保に役だっている。
ナハネE28-3000はフェリーの寝台に近い、出入り口が上下で交互に配置された二段寝台を採用。
ナハネE28-5000はいわゆるカプセルホテルタイプの寝台を採用。
食堂車はカフェテリアタイプのものとし、気軽且つ安価に利用できるようになっている。
ロビーカーはコンビニの機能も併設したものとなっている。また、一部のロビーカーは比較的短距離の路線への投入を考慮し、自動販売機コーナーのみを設置したいわゆるオートレストランとしたものも製造された。
台車等の走り装置は電車と共通化されており、最高速度の向上(120km/h)と整備の共通化を実現した。
520名無し野電車区:2013/02/18(月) 21:46:54.55 ID:qBhR/Y7A0
琴電100形「こんぴら号」
京成がスカイアクセス対応の2代目AE車投入に伴い捻出されたAE100形を譲渡を受けたもの。


琴電2100形「こんぴら2号」
琴電再建の為に京急から特別に譲渡された2100形。勿論、シーメンス製のVVVFユニットもそのまま。


供に旧塗装のまま運行され、東京では実現しなかった定期運行での並びが見られ、高松市内でのシーメンス製電装品の独特のサウンドも楽しめるという一面も。
521名無し野電車区:2013/02/19(火) 07:08:43.68 ID:F3bJzY6SO
高松琴平電鉄1850形
琴電は京急より旧1000形及び700形の譲渡を受けていたが、京急側の供給できる車両が枯渇したために
当初は同じ1435mm軌間で車両規格がほぼ同じの京成電鉄より3300形及び3500形の譲渡が検討されたが、
老朽化が予想以上に激しくて使用に耐えない状態だったために見送られ、再度京急より
800形を供給されることになった。
主に元京急旧600形の1300形取り替えとイベント用の旧式車等を連結していた3両編成に投入するためである。
800形の中でも元々3両編成だったものを更新で2編成でつないで6両編成にした元3両編成落成グループ
4編成が選ばれた。
6両編成を再び切り離して3両にした上に運転台部分を潰して中間車にした部分を
別の800形の運転台部分を接合して元の3両編成当時のに戻したものである。
なお制御機器は1500形のVVVF化により取り外されたものに取り替えられている。
改造は京急ファインテックで施工されて形式は1850形として譲渡されている。
なお琴平線のみに使用され、車両規格上長尾線などには原則使用されない。
なお1編成は京急で登場した当時の塗装にリバイバルした塗装となっている。
なお1300形(元京急旧600形)1編成は京急に返還され、逗子市の公園にあるもう1両も引き取った上で
京急ファインテックで当時の状態で復元した上でイベント用に使われる予定である。
522名無し野電車区:2013/02/19(火) 17:21:52.84 ID:hRTs0C/50
鶴見臨港鉄道モハ100形
鶴見臨港鉄道が1930年(昭和10年)10月23日の電化および鶴見-弁天橋間延伸による旅客輸送開始時に用意した、
半鋼製16m級3扉の両運転台形制御電動車で、10両を新製、101-106は新潟鐵工所、107-110は浅野造船所製、
両社製とも車体構造に大きな違いはなく、台車と妻面の雨樋の形態、通風器の配列が異なる程度で、
窓配置はd1D4D4D1d、総定員は100人(座席40人)、最大長15,845mm、最大幅2,745mm、最大高4,127mm、
自重は32.5tの中型車で、定格出力56kWの電動機を4個装備し、歯車比は73:16、制御方式は非自動間接式(HL)、
台車は新潟鉄工所製が汽車製造製ボールドウィン形、浅野造船所製は日本車輛製造製D-16で、
いずれも釣合梁式の2軸ボギー台車である。

鶴見線買収後は後位運転台を撤去、全車が片運転台式に改造、偶数車の方転が行なわれ、2両編成で運行、
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月1日に米軍の空襲によって103と104が被弾大破、使用停止となった。
1948年(昭和23年)5月1日に、鶴見線全線が直流1500Vに昇圧されたのにともない、全車が買収電化線区、
富山港線、福塩線、可部線に転出、1953年(昭和28年)の車両形式称号規程改正では、モハ1500形に編入され、
1501-1508に改められた。これらは買収路線の昇圧後に、すべて私鉄へ払下げられた。
523名無し野電車区:2013/02/21(木) 13:06:11.46 ID:nDsPoBQK0
鶴見臨港鉄道モハ150形(モハ300形)
1934年(昭和9年)、1935年(昭和10年)に旧鉄道省から払い下げられた木製17m級3扉ロングシートの制御電動車、
モハ1形(旧デハ35500形)で、4両が在籍した。入線時の形式は、1934年度分がモハ300形301・302、
1935年度分がモハ300形303・304で、モハ300形入線時に鶴見線の車輌限界が拡大された。
1940年(昭和15年)の改番によってモハ150形151-154に改められた。鶴見線買収後も本線、増結用で使用されたが、
旧番に復することはなく、1945年(昭和20年)8月1日の空襲により153・154の2両が被災、同年末に廃車となった。
1945年(昭和20年)11月には151・152が富山港線に転出、1953年(昭和28年)の車両形式称号規程改正では、
モハ1511形1511・1512に改められ、1957年(昭和32年)に廃車、2両とも私鉄に払い下げられた。
524名無し野電車区:2013/02/21(木) 15:29:39.11 ID:n0oARUsJ0
JR東海 117系赤13号塗装・165系赤13号塗装
JR東海が発足してまだ間もない頃の1987年夏から翌年3月にかけて、117系と165系の全車両に対して車体塗色を赤色13号+正面クリーム色4号に塗り替えを実施した。

JR東海 103系湘南色・119系湘南色・123系湘南色
JR東海が発足してまだ間もない頃の1987年夏から翌年3月にかけて、103系と119系および123系の全車両に対して車体塗色を湘南色に塗り替えを実施した。
525名無し野電車区:2013/02/21(木) 23:39:11.45 ID:f92ruyLp0
>515
実際にあったEF80とかEH50の計画に比べると随分地味かな。
あの時代に試作車900番代というのもない。

58からみの幻の機関車ではEF59は地味だけど(EF58旧の電暖仕様機だっけか)。
あれも製造されてたら、EF58同様新型車体化されたんだろうか?


58ネタでなんとなく思い出した。

EF58 32-34号機
1972年頃、寝台特急増発で逼迫していたEF58の必要数満たすために
EF18を再改造したもの。
旧EF58の形状を残すデッキ付き箱型でありながら新型電機色。
EF18時代と同じ浜松機関区所属で、普段は急行荷物列車中心の運用であったものの、
時に「出雲・紀伊」の先頭にも立った。1979年ころ58の中では最初期に廃車。
526名無し野電車区:2013/02/22(金) 10:37:57.16 ID:4zvG2feW0
鶴見臨港鉄道モハ200形・クハ250形
1936年(昭和11年)に川崎車輛で製造された半鋼製17m級3扉ロングシートの制御電動車および付随車で、
モハ200形201-208が片運転台式、クハ250形251-258が片運転台式制御車で、計12両が製造された。

窓の天地寸法を拡大した2段窓の軽快な印象の関東私鉄タイプで、前面は非貫通の3枚窓で軽い曲面が付いている。
運転室は開放式の全室型で、窓配置はd1D4D4D2で、乗務員扉は両側に設置されており、総定員は120人(座席42人)、
最大長17,500mm、最大幅2,780mm、最大高4,162mm、自重はモハ200形が37.5t、クハ250形が29.5t、
モハ200形は定格出力67kWの電動機を4個装備し、歯車比は70:19、制御方式は非自動間接式(HL)、
台車は日本車輛製造製のD-18である。

当初から2両編成で運行、終戦後も鶴見線に残留、1948年(昭和23年)の鶴見線昇圧に際しては、昇圧対応工事が行なわれ、
1951年(昭和26年)にモハ200形は更新により主制御器をCS5に、台車もDT10に交換、運転台も密閉式の全室化された。
1953年(昭和28年)の車両形式称号規程改正では、モハ200形がモハ1521形(1521-1528)、
クハ250形がクハ5531形(5531-5538)に改められた。1958年(昭和33年)にモハ10形の入線で、全車が可部線に移り、
1959年(昭和34年)6月の車両形式称号規程改正では、モハ1521形はクモハ1521形に改め、1961年(昭和36年)に全車が廃車、
クモハ1521-1524、クハ5531-5534が弘南鉄道に譲渡、同社のモハ2500形2501-2504、クハ2550形2551-2554となり、
クモハ1525-1528とクハ5537-5538の計6両が伊豆箱根鉄道に払い下げられ、同社の大雄山線でモハ30形二代目の31-34、
サハ20形二代目21-22となった。
527名無し野電車区:2013/02/22(金) 10:42:46.20 ID:4zvG2feW0
鶴見臨港鉄道モハ300形(モハ350形)
1938年(昭和13年)度に旧鉄道省から払い下げられた木製17m級3扉ロングシートの制御電動車、
旧鉄道省のモハ1形(旧デハ35500形)で、2両が在籍した。転入時に全車が後位側に運転台を増設した両運転台式で、
朝夕ラッシュ時には増結用で運行、鶴見線買収後も鶴見線で使用されたが、旧番に復することはなく、
1948年(昭和23年)の鶴見線昇圧時で可部線に転出、その後福塩線との間を行き来し、1951年(昭和26年)の更新時には、
主制御器を国鉄標準型のCS5に交換、台車もDT10に交換、1953年(昭和28年)の車両形式称号規程改正では、
モハ1531形1531-1532に改められ、1959年(昭和34年)に全車が後位運転台を撤去して、
片運転台式となり、同年6月の車両形式称号規程改正ではクモハ1531形に改められた。

1960年(昭和35年)5月に1531が大井工場で電装解除および後位運転台復活のうえ救援車に改造され、
クエ9420形9423となった。その際、車体中央部の扉を3400mmに拡大し、室内にはクレーンが装備されている。
また救援作業時に電動発電機と空気圧縮機を駆動するため、パンタグラフは残されている。
当初は高崎鉄道管理局(新前橋電車区)の配置であったが、後に天王寺鉄道管理局の鳳電車区に移り、
最終的には日根野電車区で、1982年(昭和57年)6月に廃車となった。
1532は1963年(昭和38年)に廃車、弘南鉄道に譲渡され、同社のモハ2400形2401となった。
528名無し野電車区:2013/02/22(金) 20:08:32.90 ID:piW9FYjg0
JR北海道 DD51−2000

青函トンネル救援用に木古内駅に常備されていたDE10では、上り勾配に停車した1200トン高速貨の
引き出しが難しいことから、夜行列車縮小で運用に余裕の出来たDD51に青函ATCを装備した形式

通常、気動車の動力走行は禁止されている青函トンネルであるが、月に1度程度ハンドル訓練のために
特別に「はまなす」を牽引することがあるのは、撮り鉄の諸氏にとっては周知のことであろう。
529名無し野電車区:2013/02/22(金) 21:33:43.45 ID:fL1YtYi8O
えちぜん鉄道Mc8000形
元JR東海の119系(Mc7000形)投入により近代化をはかるえちぜん鉄道ではあるが、特に単行用の車両は
完全には取り替えにならないため、最後の一手として挙がったのが事業用クモヤ143系を客室化した車両の投入であった。
実は一度JR東海よりクモヤ143-600番台から改造したクモハ123-5600番台2両の購入を計画したが
東海側に断られた経緯があり、その譲渡車両にはMc8000形と言う形式が用意される予定だった。
そこで今回143系の改造車両投入にあたり、その予定された形式を生かすことになった。
すべてJR東日本の車両が選ばれ、クモヤ143-1 2 5 7 12とクモヤ145-115 117の計7両が改造された。
改造はクモハ123系を作るやり方と同じだが、ドアは両開き3ドアとしてMc5100形(元愛環200系)と
同じにしている。
制御装置はMc7000形同様VVVF化され、台車密封コロ軸受化した。
冷房は廃車された211系のAU75Gを再利用し、補助電源はSIVを使用する
これら改造は全て京王重機が一手に行っている。
13年にMc7000形と並行して7両が一気に作られてMc1100形 2100形らを置き換えた。
もう1両Mc2101形が登場するアナウンスがあり、これは来月運用終了するクモハ123-1(ミニエコー)を
えちぜん鉄道が購入して使う説が濃厚となっている。
530名無し野電車区:2013/02/23(土) 21:52:34.49 ID:tLodXome0
国鉄クモハ92000+サハ92500+クモハ92001

浜松工場にて戦災で被災した電気式ディーゼル動車キハ43000とキハ43001を
川崎車両兵庫工場でモハ43900とモハ43901に改造し電車として復旧したものである。
先頭2両が電動車であるためパンタグラフは両端2両の後方部に設置。
元キサハ43500をサハ4301に改番し組み込み三両で使用。
台車と主電動機はクモヤ93000と同じOK-4台車を使用。
浜松電車区に所属し80系湘南電車のデータを取るために東海道本線等で走行試験に用いられる。
試験終了後はモハ6400+サハ6400+モハ6401に改番し飯田線で使用され後に称号改訂で
クモハ92000+サハ92500+クモハ92001に改番し後に台車と主電動機を80系と同じものに変更。
塗装はぶどう色→湘南色→スカ色と変遷。
昭和59年、119系との入れ替わりに廃車。
しばらく浜松工場に静態保存される。
このうちクモハ92000は登場当時の姿に復元され佐久間レールパークからリニア鉄道館に保存。
クモハ92001は川崎重工兵庫工場に保存され、サハ92500は浜松工場に残る。
531名無し野電車区:2013/02/23(土) 22:04:30.78 ID:l1mEGjaRO
袋井市では路線バスが集団ストーカーされてますわ
532名無し野電車区:2013/02/23(土) 22:50:50.57 ID:WKLZoCag0
>530
余程の理由がないと119系投入まで生き残れそうもない雑形電車だけど、
1960年代にクモハ52との共存有りそうだね。
モハ52とキハ43000夢の共演!

こういう夢のある想像って好き。
533名無し野電車区:2013/02/24(日) 05:44:02.66 ID:DxysM4cp0
>434
クモニ83300番代車

東海道本線東京口で185系に併結された荷物電車で車齢の若いゼロ番代車から
1981年に改装されたもの。東京〜熱海間は「踊り子」に併結。熱海から先は単独か
113系併結で沼津・静岡まで往復した。時に大垣夜行のスジに入ることも。

塗装は185系に揃えた斜め帯。但し足回りは未改造。従って旧型国電史上唯一の
「特急」となった。

また、下り方には「踊り子」の丸型ヘッドマークが装着されていた。
このヘッドマークは後日客車踊り子運転時にデザインが流用されたのは有名な話。

1986年11月荷物営業終了により、引退。
534名無し野電車区:2013/02/24(日) 05:52:14.27 ID:DxysM4cp0
>129
亀でスマソ。

20系の郵便車は萌える。凄く萌える!
ただ郵便車だと重量区分は軽量客車でも「オ」かな? オユ20。
荷物車転用だとスになりそう。スニ20。

案外20系編成から外されて、荷物輸送末期まで急行荷物列車や普通列車に
併結で生き残ってそうな雰囲気もあるな。
凋落したブルートレインの末裔っていうのも萌えるわ。
535anorak?:2013/02/24(日) 17:30:58.01 ID:/Ps2+lbS0
>>327に続く平行世界もの
◎国鉄DE60形ディーゼル機関車と14系1000番台客車
1978年 プッシュプル
>>110-111の歴史により日本は敗戦後もかろうじて樺太を領有し続けた。
宗谷本線は鉄道と鉄道連絡船による本州・北海道・樺太の連絡ルートを担う重要幹線で、
1961年から函館〜札幌〜稚内間でキハ80系特急が運行開始。
キハ82は最高速度100km/hなので、さらなる速度向上が要求され、
70年代初頭には最高120km/hのキハ181系の導入が検討されたが初期故障の多発で断念。
振り子式ガスタービン車も検討されキハ391の道内試験走行も実施したがオイルショックで断念。
77年に客車列車両端にディーゼル機関車を配置した英国の"InterCity 125 (HST)"に感化され、
非電化区間の内燃車では5両以上の長大編成であればある程、動力分散方式よりも動力集中式の方が
車両メンテナンス等の運行コストの点で優れているとの研究成果も後押しとなり、
HST型の動力集中方式の新型車を樺太連絡ルート(函館〜札幌〜稚内)の特急に投入することになった。
当時の労使関係悪化の影響で枯れた技術活用の結果、14系客車編成両端にDE50の派生形式DE60の連結で
最高速度110km/h運行に。
DE60はDE50を土台とし、95km/h以上の高速走行実現の為に新幹線911形DLと同様に副変速機を追加、
両運転台の箱形車体で、列車編成端となる第一エンド側はDD54や911形に類似の非貫通型運転台、
客車と連結する第二エンドは客車とは貫通幌もつなぐことから貫通型低運転台。
DF60に挟まれる14系1000番台は、0番台からの主変更点が両端の機関車総括制御用の引き通し線、
耐寒耐雪強化として乗降扉の引戸化及び電源の給電能力の強化。
車種はスハフ14、オハ、オロ14、オハシ14。
オハシは新幹線0系37形類似の立食ビュフェ車。
基本編成はDE60の2両とPC14-1000の10両。
78年10月のダイヤ改正で函館〜稚内区間の樺太連絡特急に就役。
だが時遅く、75年以後の毎年の運賃値上げやストライキの多発の影響で首都圏から北海道や樺太へは
航空が当然になっていく状況を反映し増備されず、
結局、キハ82の置き換えは短編成可能な動力分散式のキハ183系に。
87年4月にJR北海道に承継後、利用客減少で短編成化、ついに2000年にキハ261系に置き換えられ廃車。
536anorak?:2013/02/24(日) 17:34:04.47 ID:/Ps2+lbS0
>>535のケアレスミスの訂正
> 327に続く平行世界もの ×
→ >>462に続く平行世界もの ○
537anorak?:2013/02/24(日) 18:57:05.28 ID:/Ps2+lbS0
>>361 >>372 >>462 >>535-536に続く平行世界もの
◎国鉄405系交直流通勤形電車
登場年 1985 車種 クモハ405(Mc) クハ404(T'ac)
○1970年代半ば、洞海湾で隔てられた北九州市の戸畑区と若松区を唯一結ぶ若戸大橋の渋滞が悪化したのを受け、
筑豊本線の若松駅と鹿児島本線の戸畑駅を海底トンネルで直結して国鉄と相互直通する洞海湾横断鉄道整備事業が施工。
両駅の専用地下ホームから国鉄接続線とは別に二股で分岐して響南町や到津遊園等へ地下鉄として延伸する構想により
直流1.5KV架線方式の地下鉄として建設。事業主は北九州市交通局。
当海底トンネルは、かつての貨物専用市電の伝統で貨物列車の運行も可能な仕様である。
直通先の筑豊線折尾・若松間を交流電化。
1985年夏に北九州市市営地下鉄若戸線として開業し、国鉄鹿児島線小倉駅及び筑豊線折尾駅までの直通運転開始。
この地下鉄の直通用に新造投入されたのが、405系である。
本系列の仕様は、ラッシュ時以外は二両編成で足りる当時の路線実情に国鉄末期の財政難が強く影響され、
同期の同地区の415系1500番台と比べて格下なものとなった。
車体は同期の205系をベースとしたステンレス製で、後の121系と同じ意匠の貫通扉設置の運転台である。
制御装置は1M方式の105系を土台とする抵抗制御で、永久直列回路のみで高速運転向きの直並列組合わせ制御は省略。
主変圧器と主整流器等の交流区間走行用装置とパンタグラフをT'acに搭載集約したMTaユニットを採用。
広域転配を考慮し三電源対応。
製造費削減の為、可能な限り廃車発生品を使い、台車は新品の空気バネ・ボルスタレスではなく中古コイルバネ。
接客設備は四扉ロングシート。
McT'acの二両編成が基本だが、ラッシュ時の運用に二編成以上の増結があるので自動解結装置と電気連結器を装備。
北九州市営地下鉄若戸線直通運用に就役。
1987年にJR九州に承継以後、鹿児島本線での旅客列車の高速・高密度化に対し105系ベースの本系列は対応できず、
小倉・戸畑間は貨物線を走行するようになった。
ワンマン運転対応改造や地下鉄若戸線のATS-P化対応が施工され、現役。
538名無し野電車区:2013/02/25(月) 09:43:43.27 ID:qtY6gnXM0
鶴見臨港鉄道モハ500形・サハ550形
1939年(昭和14年)に川崎車輛で製造された半鋼製18m級4扉ロングシートの制御電動車および付随車で、
日中戦争での戦時体制下、増産で工場への通勤旅客が激増、混雑緩和と輸送目的で日本初の片側4扉車である。
片運転台式のモハ500形501-508、運転台なし付随車のサハ550形551-554、計12両を製造した。

車体長は18m級の18,180mm、最大幅2,800mm、最大高4,184mm、自重はモハ500形が38.7t、サハ250形が29.6t、
前面はR付の非貫通3枚窓、屋根布押えは直線、運転室は密閉式の全室型で、側面窓はモハ200形と同じ2段窓だが、
乗務員扉と客扉の間に在る客窓だけ幅が狭く、窓配置はモハがd1D2D2D2D2、サハが2D2D2D2D2で、
扉間は2枚の側窓のうち1枚が戸袋で、開閉可能な窓は、モハで片側4枚、サハでも5枚しかないという極限設計、
車輌間は貫通路を設け、幌と渡り板を装備、総定員はモハが140人(座席42人)、サハが140人(座席48人)、
モハ500形の主電動機は高出力が搭載され、定格出力102kWの東芝電機製造SE-138A電動機を4個装備し、
歯車比は73:16、制御方式は非自動間接式(HL)、台車は日本車輛製造製のD-18改良版長軸台車D-18Kである。

1948年(昭和23年)の鶴見線昇圧では、昇圧対応工事が行なわれ、1951年(昭和26年)からモハ500形とサハ550形は、
更新修繕により内装の交換、絶縁の強化と台車のDT10への交換、モハ500形は主制御器をCS5に交換が行なわれ、
1953年(昭和28年)の車両形式称号規程改正では、モハ1551形(1551-1562)、サハ7551形(7551-7566)に改められた。
1959年(昭和34年)12月の形式番号整理では、クモハ1551形となったが、4扉という構造上、座席数が少ないことから、
地方線区での使用には適さないので引続き、鶴見線で運用され、1967年(昭和42年)3月に全車が廃車された。
両形式に私鉄への払下げ車はない。
539名無し野電車区:2013/02/25(月) 09:45:13.57 ID:qtY6gnXM0
鶴見臨港鉄道モハ600形・サハ650形
1943年(昭和18年)に新潟鐵工所で製造された半鋼製18m級4扉ロングシートの制御電動車および付随車で、
主要寸法は前形のモハ500形、サハ550形と同様であるが、窓上下の補強帯(ウィンドウシル・ヘッダー)を廃した、
平滑な車体が特徴で、鶴見臨港鉄道の新製車としては、最後に落成した電動車である。

500形と同じくモハは片運転台式、サハは運転台なし付随車で、当初は計12両の計画だったが、
戦時中のためにモハ600形4両分しか電装品の調達が出来ないことから、モハ600形601-604、サハ650形651・652の、
計6両を製造したのみだった。1948年(昭和23年)の鶴見線昇圧では、昇圧対応工事が行なわれ、
1953年(昭和28年)の車両形式称号規程改正では、モハ1561形(1561-1564)、サハ7571形(7571-7574)に改められ、
同年からの更新修繕により内装の交換、絶縁の強化と台車のDT10への交換、主制御器をCS5に交換が行なわれた。
1959年(昭和34年)12月の形式番号整理では、クモハ1561形となったが、クモハ1551形と同じく、4扉という構造上、
座席数が少ないことから地方線区での使用には適さないので、クモハ1551形と同じく引き続き鶴見線で運用され、
1970年(昭和45年)3月に全車が廃車された。両形式に私鉄への払下げ車はない。
540名無し野電車区:2013/02/25(月) 11:23:32.44 ID:XeMdL6l/0
>>534
ありがとう

余剰になったカニ21と、カニ21から発電ユニットを撤去して方転したマニ21を両端に連結して
中間車をオニ20で組成した固定編成の急行荷物列車とか、完全新製で発電ユニットつきのカユ21と
車掌室つきのオユ21を両端にオユ21を挟んだ固定編成の急行郵便列車とかも萌えるかも。

昭和30年代に東海道の夜行急行群と前後して急行速度で走る汐留〜梅田間の急行郵便列車という設定でね。
541 【東電 82.9 %】 :2013/02/26(火) 08:03:04.78 ID:J/Ye8sPyO
東急9000/2000/3000/5000/6000系ATACS対応車:
東横線及び田園都市線における過密ダイヤで、CS-ATCでも捌けない所で、埼京線E233系・山手線E235系での実績から導入。
田園都市線に乗り入れる大井町線も対象。
東武・メトロ・西武・横浜高速鉄道にも要請(費用は東急が半分負担)。
目黒線では8連化の為、3000系を6→5両(サハ1両廃車)にして大井町線各停、5080系81F/82Fを大井町線急行に転用して、6050系を導入。
田園都市線では、5000系4050型を投入の他、ATACS改造済み車両を東横線に貸し出し。
542 【東電 83.1 %】 :2013/02/26(火) 08:14:06.02 ID:J/Ye8sPyO
東京メトロ日比谷線・東西線・千代田線・半蔵門線ATACS改造:
この4線ではラッシュ時の過密ダイヤと、ドアの関係によるホームゲートATOが導入出来ない為、JR東日本のATACSを導入。
日比谷線では、03系と東武20000系の改造で13000系を導入。
東西線では05系後期車(14F以降)とE231-800の改造で15000系の追加。
千代田線は06系と16000系とE233-2000と4000系の改造で有楽町・副都心用17000系を借り入れ。
半蔵門線は08系と5000系と50050系に導入の為、メトロが18000系を導入。東武は51069F/51050F(30000系の置き換え)及び60050系を投入。
543名無し野電車区:2013/02/26(火) 08:58:16.81 ID:FO8G6Efw0
鶴見臨港鉄道支線用モハ1形
1930年(昭和5年)に鶴見臨港鉄道が吸収合併した海岸電気軌道のボギー車1-10号車で、元京浜電気鉄道1号形電車であり、
最大長13,335mm、最大幅2,388mm、車体高3,607mm、自重は18.4t、丸妻の正面三枚窓、側面窓配置はD16D、
総定員76名(座席30名)、制御方式は直接式、主電動機は50kWのGE製×4、台車はペックハム14-B-3、
木造のモニター屋根、開放デッキ、トロリーポール集電、救助網付きの路面電車形である。

吸収合併後、鶴見臨港鉄道モハ1形1-8となり、9号車と10号車の2両は芝浦製作所の工員専用輸送用として、
鶴見臨港鉄道が芝浦製作所に無償譲渡、その際、救助網を撤去、開放デッキに重なり合う2枚引戸を設置した。
この改造は翌年、鶴見臨港鉄道の8両にも行なわれた。1937年(昭和12年)同線廃止時に廃車、5-8号車の4両が、
福井鉄道に譲渡され、同社のモハ100形101-104となり、1-4号車は解体された。
芝浦製作所の元9号車と10号車は廃止後も芝浦製作所の敷地内に在る引き込み線に置かれていたが、
9号車が戦時下の金属供出で解体、10号車はそのまま留置されていたが、戦後の復興期に資源として解体された。
544名無し野電車区:2013/02/26(火) 09:24:50.69 ID:FO8G6Efw0
鶴見臨港鉄道支線用モハ10形
1931年(昭和6年)に軌道線用として製作された半鋼製両運転台形ボギー制御電動車で、汽車製造で4両(11-14)が製造された。
最大長13,260mm、最大幅2,400mm、車体高3,610mm、自重は19.3t、前面は非貫通形3枚窓、側面窓配置は1D10D1、
総定員は78人(座席34人)、制御方式は直接式、主電動機は54kWの芝浦電機製のSE-118Fを2個装備していた。

1937年(昭和12年)12月に軌道線廃止にともなって全車が鉄道線に移った。その際、軌間を変更(1372mm→1067mm)し、
扉部分のステップを撤去し、集電装置をポールからパンタグラフに交換したが、1939年(昭和14年)までに使用が停止され、
秋保電気鉄道に譲渡、同社のモハ50形51-54になった。
545名無し野電車区:2013/02/26(火) 09:35:53.50 ID:FO8G6Efw0
鶴見臨港鉄道支線用モハ20形
1933年(昭和8年)に軌道線用として製作された半鋼製両運転台形ボギー制御電動車で、汽車製造で4両(21-24)が製造された。
最大長13,420mm、最大幅2,740mm、最大高4,253mmで、自重は17.2t、前面は非貫通形3枚窓、側面窓配置は1D10D1、
総定員は80人(座席38人)、制御方式は直接式で、主電動機は58.2kWの東芝電機製のSE-119Cを2個装備していた。

1937年(昭和12年)12月の軌道線廃止にともない、鉄道線用に転用され、軌間の変更、扉ステップの撤去、
集電装置をポールからパンタグラフに交換するなどの改造を受け、1939年(昭和14年)に再就役した。
この4両は、元軌道線車両としては唯一1943年の国有化時にも在籍、引継ぎ対象となったが、ほとんど使用されないまま、
1948年(昭和23年)10月に廃車された。1950年(昭和25年)に21・22が茨城交通に譲渡され、同社茨城線のモハ1・2となり、
入線に際して集電装置は再びポールに戻され、台車はブリル27MCBに交換された。
23・24は福武電気鉄道(後の福井鉄道)に譲渡され、同社のデハ31・32になった。
546 【東電 73.3 %】 :2013/02/28(木) 13:23:03.59 ID:e2Q505uYO
京成・北総・千葉NT・都営・京急、C-ATACS対応車両:
都営浅草線では羽田空港〜成田空港へのアクセス列車による過密ダイヤで、JR東日本で実用化したATACSを採用だが、C-ATSでバックアップする独自方式。
改造順序:
1.京成3050形/NAE形(成田スカイアクセス専用車/スカイライナー)
2.京急600形(羽田空港〜成田空港向け)
3.京成3000形3001F/3026F〜/AE100形(快速特急/シティライナー運用)
4.京急2100形/1000形/1500形/1700形(A快特/SH快特)
5.京成3700形8連(快速特急運用)
6.北総7300/7500/9100/9200(京急内快特)
7.都営5300形
8.京成3000形3002F〜3025F/3700形6連/3600形/3500更新
など。
9.京成4000形(仮)/4100形(仮)(金町線・千葉線向け)
京急2000形・800形/京成3500未更新/3300形などは退役予定の為、搭載見送り。
C-ATACSの先行導入は京急文庫構内から(分割併合の際のC-ATS過走制限に引っ掛かる為)
C-ATACSアンテナは先頭デハの連結面。
547546:2013/02/28(木) 13:33:35.05 ID:e2Q505uYO
C-ATACS導入によって、浅草線押上〜京急京急蒲田の過密ダイヤ対策になる。
また、C-ATACSには、京急がCTC不採用でもATACSデータを運転主任詰所で送受信する機能や、北総区間でのスカイライナーの高速化などの車上信号データ送受信など、線区に応じたカスタマイズ。
京急で2200形(仮)及び京成AE200形(仮)では、車体傾斜の情報データの送受信の検討。
C-ATACSの無線通信はLCXで、東京メトロのように壁面や架線柱に敷設。
548 【東電 70.0 %】 :2013/03/01(金) 23:04:17.40 ID:P2NkTZoPO
東武70000系/600系・T-ATACS対応:
東武鉄道で2013年3月のダイヤ改悪で、地元自治体無視や、加須市長との対立などで伊勢崎線・日光線(非業平橋本線)冷遇ドケチダイヤが組まれたが、
・10000系列の野田線転用
・30000系の東上線転用
で業平橋本線浅草口などの車両不足で、50000/60000系をベースに中央貫通路・自動幌の車両導入。
600系も区間快速減便が利用客の顰蹙を買った為と6050系の51F〜72Fの老朽化と77F・78Fのジョイフルトレイン改造と伊勢崎線快速新設。
日光線区間快速と準快速(改悪前の区間快速)で、区間快速or快速と準快速の毎時交互運転。※伊勢崎線快速:東武動物公園以北:久喜・(加須)・(羽生)・館林・足利市・太田・木崎・境町・新伊勢崎・伊勢崎/藪塚・新桐生・相生・赤城/佐野市・佐野・田沼・葛生
※伊勢崎線区間快速:久喜以北各駅停車又は館林以北各駅停車。

T-ATACS導入に関しては、東武型ATS-PやベースのTJ-ATCのバックアップとして、
館林及び南栗橋及び下今市及び北千住の連結作業省力化及び、
太田での快速・区間快速新設で伊勢崎方面と赤城方面の分割併合や、
太田〜浅草・久喜・館林と太田〜伊勢崎の縦列停車での移動閉塞機能による実現。
なお50000系or60000系3連ワンマンには準備工事が施工。
549 【東電 75.7 %】 :2013/03/03(日) 23:03:27.91 ID:eaa/aUT3O
東武70000系量産車:
30000系の東上線転用と10000系の野田線転用で車両不足対策で50000/60000系をベースに正面貫通路・自動幌・移動閉塞(T-ATACS)による、分割併合の省力化をコンセプトとした、A-Train構造の車体で、
幹事の日立製作所の他、日本車両・川崎重工業・近畿車両で習熟運転の量産先行車を2・4・6両を各2本生産したが、
習熟運転中に先頭車同士の貫通路のプラグドアが浅草駅の急カーブで破損する問題が発覚した為、
館林工場(津覇車両)で破損防止の為のプラグドアのアームにダンパーを試験的に取り付け、また、正面ドア縁にゴムを取り付ける加工(外側アルミ、内側FRP)を施工して、製造4社立会で量産車にフィードバック。

東武600系量産車:
量産先行車として2連3本が日立製作所・総合車両製作所・新潟トランシスで製造され、
快速の分割併合(館林にて、太田行きと葛生行き、太田にて伊勢崎行きと赤城行き、下今市にて東武日光行きと鬼怒川線など)に自動幌採用だが、
習熟運転中に両開きプラグドアが浅草駅急カーブで破損する危険性が発覚して、浅草駅場内に入る直前で業平橋車両基地までバックする羽目となり、
対策として浅草側先頭車を東武日光側先頭車より広く開く改造と、アームへのダンパー取付などを行った。
550名無し野電車区:2013/03/04(月) 00:08:17.45 ID:si2/HxJtO
国鉄ナハ11-500 ナハフ11-500
ナハ10系の改良版で水が入って老朽化の要因であった下降窓をやめ、アルミサッシを使用した
ユニット窓式に戻したものでナハ11が33両 ナハフ11が22両作られている。
尾久と金沢に配置されて重量上長編成とスハ43系での組成が困難だった信越線の横川〜軽井沢間を
越える急行に重宝られ、急行「越前」「妙高」に用いられた。
晩年は秋田で使われていた車もあり、ナハ11-515 517とナハフ11-513の3両が秋田にあった。
JR北海道に譲渡された43系に代わる車として復元にあたったが、老朽化の関係でナハ11-517を515とで
ニコイチで復元され、ナハフ11-513は品川に放置されたナハフ11とニコイチで復元された。
現在SL運転用等で高崎に配置され、唯一のナハ10系として人気が高く、先のSL碓氷では最後尾に
「かもめ」のテールマークをつけ、C61牽引であったために当時を彷彿とした列車となった。
なお最近白熱灯タイプのLED蛍光灯をつけたためにニセナハ10系化している。
551名無し野電車区:2013/03/04(月) 11:42:32.37 ID:8yR2Bv4G0
国鉄80系電車500番代

1956年(昭和31年)から製造された100番台(クハ86形・サハ87形)・200番台(モハ80形)を、
1971年(昭和46年)に冷房改造化、新番号に区分した。

急行運用や団臨運用で不足する急行型電車のピンチヒッターとして、80系電車を使用、
サービス改善を目的に冷房装置を搭載した。改造対象は当初、0番代が候補だったが、
耐寒設計、シートピッチの拡大、側窓枠がアルミ合金製な100番代・200番代が選ばれ、
大井工場を始め、浜松工場や吹田工場で三菱電機製AU-71集中冷房を搭載、同時に更新修繕も行なわれ、
床の鋼体化、リノリウム貼り、内壁はアルミデコラ化粧板、室内照明の蛍光灯化が行なわれた。

冷房改造後、各運用、とくに団臨に多く投入され、勾配路線を始め、各地の電化路線で重宝されたが、
80年代後半に入ると車体の老朽化が目立ち始めたことで、1990年(平成2年)から廃車が始まり、
1992年(平成4年)までに全車が廃車された。
552名無し野電車区:2013/03/05(火) 13:46:20.70 ID:eSAeJ2qK0
EF58-200番台
昭和30年代の国鉄は動力分散式推進派(以下、分散派)が主導権を握ったが
動力集中式推進派(以下、集中派)も存在していた。
昭和36年度に旅客用ELが20両ほど必要となった際、EF58の追加生産で間に
合わせようとした分散派と、EF60を旅客用にした本格新形式を生産させようと
した集中派とで深刻な対立が発生してしまった。経営層まで巻き込んだ騒動と
なり、外観や性能はEF60をベースにした旅客用新型機だが形式はEF58とする
折衷案で最終的にまとまった。
宮原機関区に18両が配属されたが、既存のEF58と共通運用とされたため、
持てる性能を十分には発揮できなかった。またSG搭載のため、水と蒸気による
軽量車体腐食が激しく、昭和53年までに古いEF58よりも早く全機廃車された。
「いつかは改形式してやる!」との集中派のオーラのせいか、信越線用ELは
EF62/EF63とされたため、EF61が欠番(欠形式)となってしまった。
553名無し野電車区:2013/03/06(水) 17:10:49.97 ID:5/ccuGLH0
東急電鉄3100形電車
元は東京横浜電鉄が1926年(大正15年)2月に丸子多摩川駅-神奈川駅間の開通に合わせ、
川崎造船所でモハ100形101-116の16両が製造された。

モハ100形
車体長16500mm×全幅2750mm×全高4050の16m級両運転台3扉車のリベット組立の半鋼製車体、
前面は丸妻3枚窓の非貫通、運転窓は固定、それ以外は下段上昇式の二段窓を備え、
連結器上に横幅が短いアンチクライマーを装備、尾灯は前面の左側下に1灯、前照灯は屋根上に1灯、
窓上下にシルヘッダーを巻いた近代的な外観を持ち、半密閉、半解放を装備した全乗務員室、
丸屋根で屋根上の通風器は小型の箱型が直線上に並び、渡板は通風器を挟む容で屋根両脇に設置、
側面窓配置はd1D(1)3D(1)3D(1)d、(d:乗務員扉、数字:窓、D:客用扉、():戸袋窓)と、
後の関東私鉄車輌、基本デザインとなった車輌、最初期の鋼製電車である。

主電動機はゼネラルエレクトリック社製のM275形80PS×4、
制御機はウェスチングハウスHL式、集電装置は菱形パンタグラフを渋谷側の運転台屋根に装備、
台車はブリル26-MA-3形、K1A形連結器を装備、後に自動連結器に交換された。

1930年(昭和5年)に東横線で2両編成運用が開始されると、全車が片運転車改造され、
反対側の運転機器撤去、乗務員扉の撤去、客用窓と座席の設置、妻面に扉無しの貫通路を設置が行われ、
側面配置はd1D(1)3D(1)3D(1)1になり、偶数車は元住吉工場の転車台で方向転換された。
1935年(昭和10年)には乗務員室の全室化が全車に行われ、1939年(昭和14年)の目黒蒲田電鉄との、
合併時にモハ100形継承、1942年(昭和17年)全車が大東急に引き継がれ、デハ3100形(3101-3112)に改番、
1945年(昭和20年)空襲で2両が被災、翌年復旧、1947年(昭和22年)に大手私鉄各社に課せられた地方私鉄への、
車両供出命令と「運輸省規格A型」の製造と引換で全車が地方私鉄に譲渡され東急から消滅。
上田丸子電鉄に譲渡された3101が廃車後、東急に里帰り、後に電車とバスの博物館へ保存された。
554名無し野電車区:2013/03/06(水) 17:22:38.55 ID:eY0+HixU0
189系900番台

115系オールMなら碓氷峠自走可能という検討結果を受け、115系の足回りと183系
1000番台の車体を組み合わせて1編成12両が試作された。
  McM'MM'MM'MsMs'MM'MMc'
12M運転は横軽間のみで、それ以外の区間では2ユニットを開放した8M4T相当とした。
パンタグラフはM車に各1基とし、クモハ189に大型MGを搭載するスペースが無いので
各M'車に70KVAのものを搭載した。碓氷峠での走行試験は順調であったが、ギア比が
大きいので高崎線で181/183/485系のスジでは走れないというのが致命的とされ、
量産車は169/489系と同じEF63重連との総括制御方式に戻された。
量産車登場に並行して量産改造(一部電装解除、先頭車に大型MG搭載、台車変更、
ギア比変更等)がなされ、量産車と共通運用で「あさま」に投入された。
  TcMM'MM'TsTsMM'MM'Tc
長野新幹線開業時に全車廃車となり、中央線や波動用として生き残った車両はなかった。
555名無し野電車区:2013/03/06(水) 18:03:19.31 ID:eY0+HixU0
157系900番台

>>554の量産改造別世界編

モハ8両はそのまま189系モハとなったが、残り4両についてはクモハ先頭で短編成向き、
貴重なモロがあるということで、McMs'+クロ157+MsMc'のお召電車に抜擢された。
DT21台車や70KVAMGはそのまま残された。性能面でさすがに189系は名乗れないという
ことで、まさかの157系登場となった。
  クモハ189-901→クモハ157-901
  モロ188-901→モロ156-901
  モロ189-901→モロ157-901
  クモハ188-901→クモハ156-901
たまの試運転時以外は大井工場の屋内車庫が定位置だったため、「幻の電車」と呼ばれた。
E655系登場で廃車。
556名無し野電車区:2013/03/06(水) 19:14:46.77 ID:bfxhT2I50
近畿日本鉄道6700系電車

戦後大量に製造された国鉄モハ63形のうち、近畿車輛製の一部の車両は近鉄に割り当てられ、
狭軌路線で1928年以降新車の投入のなかった南大阪線に配置されることになった。
電装済みの車両10両と未電装の車両5両がそれぞれモ6700形、サ6750形として1948年に登場した。
ただ、車内は南海に投入されたモハ63形である1501形と同様、天井や照明、座席の完全整備、
貫通路・貫通幌の取り付けなどが行われ、居住性の向上が図られた。
1951年の桜木町事件の後、側窓の2段化や先頭部の貫通化などの整備改造が行われて、
引き続き南大阪線で阿部野橋−藤井寺間の普通を中心に活躍した。
1957年に6800系ラビットカーが登場した後も、4扉20m車という収容力の大きさから
朝ラッシュ時には重宝され、さらに142kwの大出力の主電動機を持つこともあって、
桜のシーズンには休日の吉野行きの臨時急行にも運用された。
ただその後は車体の老朽化もあり、1971年に6020系ラインデリア車と同じ車体に更新して、
6720系となり、編成もモ6721形奇数−モ6721形偶数−ク6771形の3両編成となった。
車体は6020系6132F以降同様、種別表示灯・排障器が付けられ車体幅は2740mmとなっている。
電機品は6700系のものを流用したものの、ブレーキ装置はHSC-D電磁直通ブレーキに改められ、
ク6771形の台車は新製の車体直結型ダイヤフラム空気バネ台車になった。
更新後は他の6000系列の車両と同じく、普通のほか急行・準急に幅広く運用されたが、
1981年〜1982年の冷房改造にあわせて高性能化改造することになり、形式も6080系に改められた。
モ6721形はモ6080形に、ク6771形はク6180形にになり、主電動機は10100系流用の132kwのものに、
制御器等は6200系と同じものに交換され、電動車の台車についても車体直結型空気バネ台車に交換された。
その後は6020系と共通運用で使用され、1991年に車体更新が行われて化粧板の張替えや、
電動方向幕の取り付けが行われたが、1990年代後半に全車両が養老線旧型車淘汰のため養老線に転属した。
その後養老線が養老鉄道となってからは一部の車両がマルーン一色に復元されてた。
557名無し野電車区:2013/03/07(木) 07:37:51.90 ID:nln7+Joo0
東急電鉄3150形電車
元は目黒蒲田電鉄が1927(昭和2年)大井町線開業用に日本車輌でデハ100形101-108の8両が製造された。

デハ100形
車体長16500mm×全幅2750mm×全高4052の16m級両運転台3扉車のリベット組立の半鋼製車体、
前面は丸妻3枚窓の貫通型、運転窓と貫通扉窓は固定、それ以外は下段上昇式の二段窓を備え、
前照灯は屋根上に1灯、窓上下にシルヘッダーを巻き、半密閉、半解放を装備した全乗務員室、
側面配置はd1D(1)3D(1)3D(1)d(d:乗務員扉、D:客用扉、():戸袋、数字:窓)、
丸屋根で屋根上の通風器は小型の箱型が直線上に並び、渡板は通風器を挟む容で屋根両脇に設置、

主電動機はゼネラルエレクトリック社製のM265形75PS×4、
制御機はウェスチングハウスHL式、台車はブリル27-MCB-2形、自動連結器を装備した。
集電装置は菱形パンタグラフを大井町側の運転台屋根に装備した。

1938年(昭和13年)大井町線で2両編成運用開始、デハ100形の片運転台化が行われ、奇数車は二子玉川、
偶数車は大井町側の運転機器を撤去、乗務員扉も撤去して、客用窓と座席の設置、乗務員室は全室化され、
側面配置はd1D(1)3D(1)3D(1)1となり、1939年(昭和14年)東京横浜電鉄と目黒蒲田電鉄の合併でモハ150形に改番、
1942年(昭和17年)大東急成立でデハ3150形(3151-3158)となり、1945年(昭和20年)空襲でデハ3153が廃車、
残り7両は戦後復興輸送に従事、1947年(昭和22年)に大手私鉄各社に課せられた地方私鉄への車両供出命令と、
「運輸省規格A型」の製造と引換で全車が地方私鉄に譲渡され東急から消滅。
558名無し野電車区:2013/03/08(金) 08:44:05.35 ID:fQospGIV0
東急電鉄3160形電車
元は池上電気鉄道が1928年(昭和3年)に汽車会社でデハ100形101-108が8両、
1932年(昭和7年)に日本車輌でデハ200形201-208を8両製造した。

デハ100形
車体長16300mm×全幅2750mm×全高4050の16m級両運転台3扉車のリベット組立の半鋼製車体、
池上初の半鋼製車で前面は平妻形の貫通形、運転窓と助手窓とも1枚固定窓とされ、
側面配置はd1D(1)3D(1)2(1)1d、(d:乗務員扉、数字:窓、D:客用扉、():戸袋)で、
窓上下にシルヘッダーを巻き、半密閉、半解放を装備した全乗務員室、
二重屋根で屋根上の通風器は小型の箱型が下段屋根に4個直線上に並んでいた。

主電動機はゼネラルエレクトリック社製のM265形75PS×4、
制御機はウェスチングハウスHL式、台車はブリル27-MCB-2形、自動連結器を装備した。
集電装置は菱形パンタグラフを五反田側の運転台屋根に装備した。

デハ200形
車体長16300mm×全幅2750mm×全高4050の16m級両運転台3扉車のリベット組立の半鋼製車体、
デハ100形の追加製造分で、二重屋根が丸屋根となった以外、変更は無い。

1934年(昭和9年)池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄に合併されると全車引き継がれ、デハ100形はモハ120形、
デハ200形モハ130形へ改番され、1939年(昭和14年)東京横浜電鉄、さらに1942年(昭和17年)の、
大東急成立でモハ120形、モハ130形ともにデハ3160形3361-3376へ改番された。

東急3000形の一員となったデハ3160形だが、制御方式の違いから目蒲・東横の在来車との混結が出来ず、
戦争中は戦災車を出さなかったが、戦後の長編成化運用時に使い勝手は良くなかったことから、
早期に整理対象となり、1947年(昭和22年)に大手私鉄各社に課せられた地方私鉄への車両供出命令と、
「運輸省規格A型」の製造と引換で全車が地方私鉄に譲渡され東急から消滅。
559名無し野電車区:2013/03/08(金) 14:53:50.47 ID:3wHKgoNb0
残り容量 5KB弱
560名無し野電車区:2013/03/08(金) 15:17:14.59 ID:k+JiRRxmO
只見線BRT計画
新潟福島豪雨で甚大な被害を受けた只見線の只見〜会津川口間の復旧を断念し、国道252号を使用した
BRTに転換されることになった。
現行キハ40系を東北の復旧に優先させるため、八高線をキハE130系に全取り替えし、玉突きに
キハ110系を只見線に投入した。
なお小出〜只見間は新津 会津川口〜会津若松は現行通り会津若松運輸区管轄。
なおBRTには会津観光自動車が参入を表明しており、被災区間のみならず尾瀬や南会津方面へも期待される。
561名無し野電車区:2013/03/09(土) 09:38:39.23 ID:ux/neRFW0
東急電鉄3200形電車
元は東京横浜電鉄が神奈川駅-高島駅開業と目黒蒲田電鉄との相互乗り入れ専用車輌として、
1928年(昭和3年)からモハ200形201-210、クハ250形251-260の計20両を川崎造船所で製造した。

モハ200形
車体長17000mm×全幅2760mm×全高4120の17m級片運転台3扉車のリベット組立の半鋼製車体、
前面は平妻の非貫通3枚窓、運転窓以外は下段上昇式の2段窓を備え、連結器上に横幅が長い、
アンチクライマーを装備、尾灯は前面下部に2灯設置、前照灯は屋根上に1灯、丸屋根、窓上下に、
シルヘッダーを巻き、側面配置はd1D(1)3D(1)3D(1)1、(d:乗務員扉、数字:窓、D:客用扉、():戸袋窓)、
連結妻面の貫通路左右には下段上昇式の2段窓、貫通路には渡り板と幌が設置され、
当初から2両編成で運用想定だったことから貫通路に扉は設置されてなかった。
乗務員室は半室開放型の全室型を備え、乗務員扉も左右に設置されていた。

本形式は速度向上と将来の昇圧を見据えて、主電動機を100HPの大型化、台車の軸距が200mm伸びていて、
1926年(大正15年)4月から始まった目黒蒲田電鉄との相互乗り入れ専用車輌、高速運用目的に製造された。
集電装置は菱形パンタグラフを運転台側に装備と関東私鉄のオーソドックス型。

クハ250形
車体長17000mm×全幅2760mm×全高4060の17m級片運転台3扉車のリベット組立の半鋼製車体、
デハ200形の制御車として、外装はデハ200形に准じ、東京横浜電鉄初の制御車。

電動車は渋谷向き、制御車は高島向きにされていた。

1935年(昭和10年)2月1日に東京横浜電鉄で急行運転の開始されると4両編成で運行、
1942年(昭和17年)大東急成立でデハ3200形3201-3210、クハ3250形(3251-3260)に改番、
1945年(昭和20年)3203と3204が戦災に遭い、翌年クハとして復旧、翌年に電装化、1948年(昭和23年)に、
目蒲線と池上線に転属、1955年(昭和30年)11月5日に目蒲線1500V昇圧で全車が池上線に転属、
1957年(昭和32年)8月10日に池上線の1500V昇圧で全車の廃車が決定、デハ3205-3208とクハ3253-3254が、
昇圧対応工事を施され、近江鉄道に譲渡され、デハ3201が両運転台改造、昇圧対応工事を施され、
元住吉車両工場の入換車として使用、1985年(昭和60年)に復元され、電車とバスの博物館へ保存された。
562名無し野電車区:2013/03/09(土) 15:07:32.78 ID:XTzl0T3l0
JR東海700系新幹線728形/729形/727形900番台

C編成を東海道こだま専用モノクラスとするため、718/719/717を改形式したもの。
内装等には一切変更が無く、グリーン車の設備のまま普通車指定席として使用される。
多客時に臨時ひかり/のぞみに使用される際には出入り口にグリーン車ステッカーが
貼られ、グリーン車扱いとなる。
改形式に合わせ、編成記号も懐かしのKとなった。
563名無し野電車区:2013/03/10(日) 08:50:55.72 ID:1i+ryrcH0
C6250

烏山線活性化を目的に、バブル全盛期に栃木県と沿線自治体が費用を負担して製造された。
軸重を15tとした、いわゆる軽C62である。
JR東日本に貸し出され、銀河鉄道999として【烏山←C6250+12系客車3連+DE10→宝積寺】で
運行されたが旅客誘致効果は無く、経費のみが嵩むお荷物になってしまった。
JR北海道に又貸しされてC62ニセコとして走ったこともあったが、これも長続きせず、
現在は高崎のクラの奥で静かに眠っている。
564次スレ誰かヨロ:2013/03/10(日) 16:08:32.17 ID:1i+ryrcH0
565名無し野電車区
確かMAX512KBだったはずだが。
もう50程書き込めると思うが。