おっさんの思い出話いろいろ

このエントリーをはてなブックマークに追加
1おっさん
他スレで“おっさん”と呼ばれていた私の思い出話をしたり、そして皆さん
の鉄道にまつわる旅や車両の思い出話も聞きたいと思い、立ててみました。
別におっさんでなくても、老若男女誰でもかまいません。あなたの思い出の
鉄道旅行や車両、それにまつわるエピソードなど書き込んでください。その
感想や思うことなども入れて頂けるといいですね。
ただし、難しい話は抜きで行きます。非常識なツッコミやヲタク用語の羅列
をするようなレベルの低い言葉遣いをする人は相手にしません。
2おっさん:2006/06/17(土) 17:55:34 ID:WrAMd74U
この前まで他スレで暫くの間、私の思い出話をしてきました。いろいろ書いて
しまったのでスレ違いの批判が出たため、ここにそういう話をする場を立てて
みました。今度は気兼ねなく皆さんの話も聞きたいと思います。
どうか気軽に書き込んで下さい。
3名無し野電車区:2006/06/17(土) 18:24:50 ID:MkDaKpel
...おっさんこれは忠告だけど、
>ただし、難しい話は抜きで行きます。非常識なツッコミやヲタク用語の羅列
をするようなレベルの低い言葉遣いをする人は相手にしません。
みたいな挑発的なことを書くと荒れる(荒らされる)可能性が高くなります。
おっさんは初心者なんだからもうちょっと謙虚に頼みますよ。
ファンをひきつけ、荒らしを遠ざけるようよろしくお願いします。
44番げったー:2006/06/17(土) 18:33:14 ID:yVrT2vRk
4様

>>1
誰?
5おっさん:2006/06/17(土) 18:37:00 ID:WrAMd74U
御忠告ありがとう。私の考えもあるが、御忠告に従い余計な事は言わないでおく。
6名無し野電車区:2006/06/17(土) 21:07:20 ID:/vYTXscx
取りあえずおっさん何か語れや
7おっさん:2006/06/17(土) 21:29:31 ID:WrAMd74U
スタートは小樽駅から「からまつ」で…。

「からまつ」という名前の付いた列車を覚えている方は、もうそこそこの年代の方だろう
と思う。この列車が“現役”で走っている頃が北海道の鉄道が一番賑わっていた頃かも知
れない。小樽と釧路を結ぶ、当初は名無しの夜行鈍行列車だったが、寝台が連結されてい
るという理由でマルス収容の際に名前が付けられた。
当時、釧路方面には「狩勝」という夜行急行列車が走っていたが、寝台主体で3両の座席
車も全車指定(ロザ1、ハザ2)という立派な風格を持った列車で、ワイド周遊券片手の
旅行者にはなかなか乗る事のできなかった列車でもある。そのため、この「からまつ」に
は道東へ向かう足として数多く乗車した。
始発は小樽。長距離列車にしては今思えば微妙な始発駅でもある。しかし、これが幸いし
て、夏の混雑期にも比較的楽に席を取る事ができた。発車して札幌近郊の通勤列車の役割
も受け持ちながら走る。しかし、それもせいぜい岩見沢くらいまで。その先はすっかり夜
行列車の姿へと変わる。思い思いに座席に横になったり、昔、誰からともなく伝わった空
缶を座席にセットして寝る輩、またはもう最初から床に寝袋に入って寝込む者など寝姿は
いろいろだ。
「からまつ」は「狩勝」が対釧路であるのに対して、帯広など十勝へ朝着く列車として便
利な列車だった。そのため、帯広から士幌線、広尾線に、また池田から池北線への列車が
接続していて、本数の少ないローカル線の乗り潰しには重宝した。
それよりも、この「からまつ」には記憶に残る風景がある。狩勝峠。夏ならこの辺りで夜
が明け始める。東の空が漆黒から次第に青みがかり、やがて少しずつ白み始める。その雄
大なパノラマの底の新得の町はまだ暗い闇の中。散在する町の灯りが闇の中に沈んでいる。
その絶妙の上下の色彩バランス。またある時は真っ白な層雲に町全体が包み込まれたその
上を列車が下って、やがて埋もれてゆく不思議な感覚。この時間帯が好きで寝過ごさない
よういつも頑張って起きていた。
釧路に着くのは陽も高くなり始める9時過ぎ。後年寝台を使うようになってからは朝寝坊
ができて良かったが、一寸先も見えない濃い朝霧の中を走る事も多く、池田を出てからが
とても長く退屈な列車でもあった。
8名無し野電車区:2006/06/17(土) 21:37:20 ID:1+e2g5az
空き缶を座席にセットって、空き缶を座席の何処にセットするんですか?
セットすることによって楽に寝られるんですか?
9おっさん:2006/06/17(土) 21:51:43 ID:WrAMd74U
ボックスシートの座席の片方を持ち上げ、そこに空缶を入れ座席と骨組の間に挟む。これで
肘掛けとの高さが狭まり首をひん曲げなくて済むため楽に眠れるという訳だ。
ただし、もともと不安定な場所なので、うっかり寝返りをうとうものなら、大音響とともに
崩壊して床に転げ落ちたりして痛い目に逢うのがタマに傷! また、周囲の顰蹙も大いに買
う事になる。挟み込むのにはちょっとした“細工”が必要だった。
10小乙三:2006/06/17(土) 22:02:47 ID:252gU6E+
なるほど、最近の軟弱なアルミ缶ではムリなわけですね。
ていうか夜行座席車自体がない・・・
11名無し野電車区:2006/06/18(日) 01:06:32 ID:nwbrGuKY
空き缶セットを知らない世代か・・・
弁当ガラは座席の下へ も遠い昔へ・・・
12名無し野電車区:2006/06/18(日) 04:00:48 ID:ntdcLK28
【樺太】宗谷本線part13【直通?】
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/rail/1149349805/
の派生スレだな

なんかこんなスレも出来てる
【廃線】☆☆☆☆天北線について語ろうよ☆☆☆☆
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/rail/1150475900/


あと、メール欄に sage と入れたほうがいいよ。
書き込みしてもスレッドが上位に来ない。

13名無し野電車区:2006/06/18(日) 09:32:51 ID:O/fwEHG+
ttp://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/train/1137129446/
こっちに統合した方がいいだろ。
14おっさん:2006/06/18(日) 11:54:59 ID:qJdZpvpw
御忠告ありがとう。まぁ、いろいろあってもいいじゃないかと思う。
…で、2つ目は青函連絡船がまだ就航していた頃の函館駅。

青函トンネルが開通する前、北海道へは青函連絡船に乗ってやって来るのが一般的と言うか、当然
だった。その北海道の玄関口、函館駅。今はすっかり新しくなって昔の面影はほとんど残っていな
いが、当時の函館駅は独特の雰囲気を持っていた。
何より“内地”の人間にとって函館駅は、北海道に来て最初に降り立つ駅である。その度、それな
りの感慨を持って降り立っていた。
青函連絡船が前方に函館山をはっきり望める到着30分位前になると、下船口には大きな荷物を持っ
た乗客が列を作り始める。この人たちは函館から接続する特急列車の指定券を持っていない自由席
狙いの乗客だ。そして、到着してタラップがつながり、鎖が放たれた途端に自由席に向かって老若
男女関係なく一斉に猛ダッシュが展開される。しかし、指定券を持っている乗客はそれを眺めなが
らゆっくりと降りて行くという光景が、毎日のように繰り返されていた。
それが一番熾烈だったのが未明の1便、11便のいわゆる“1列車ルート”だった。上野から極端に
停車駅を絞って北海道連絡に主を置いた「はつかり」に補完する常磐線回りの「みちのく」、更に
関西からの「白鳥」が1便、11便に接続し、函館からは室蘭・千歳線回り釧路行きの「おおぞら」
と山線を通って旭川に向かう「北海」、そして急行「ニセコ」が待ち受けていた。
深夜便で満足な睡眠もできないうちにいきなりのダッシュを強いられ、ドッと疲れた感じの自分の
前にどこからか漂ういい匂い。席を確保できた安堵感でようやく余裕を持ってホームを見渡すと、
「三平汁」の移動式(?)屋台。寒い時期ならそこから立ち昇る湯気が何とも食欲を誘ってくる。
いつもこの函館駅の「三平汁」の存在が北海道に来た事を実感させてくれた。しかし、若干高かっ
たので、余裕のない旅をしていた頃にはなかなか手が出ず、念願の「三平汁」初体験はかなり後に
なってからの事だった。
15おっさん:2006/06/18(日) 11:55:30 ID:qJdZpvpw
ホームで紫煙を上げて旅客を待っていたのはまだ82系DC。直行タイプの「おおぞら1号」と山線
回りの「北海」がホームに並んで停まっていた。直行タイプの「おおぞら1号」は人気が高く、指
定券がなかなか取れない列車でいつも混んでいた。だから普段は比較的空いている「北海」に乗る
事が多かった。それでも当時はちゃんと食堂車も営業していて、長万部を出てからの営業開始の放
送を待ち構えて足を運んだものだ。メニューも少なく驚く程高く感じたけれど、この食堂車から眺
める北海道の車窓が気に入って、三平汁も我慢していたのである。「北海」は普段は旭川行きだっ
たが、夏場などは網走まで延長運転をした時期もあり、よく利用した列車でもあった。
16名無し野電車区:2006/06/18(日) 23:34:31 ID:IeBR1WTh
せめてsageろよ
17小乙三:2006/06/19(月) 21:09:32 ID:+EbUrN3I
この前あけぼのから白鳥への青森ダッシュは余裕で負けたけど、
白鳥から北斗への函館ダッシュは競争相手がいなかったな。
人の流れも変わったということかな。
18名無し野電車区:2006/06/19(月) 23:57:30 ID:Phl0Ig2E
青函連絡船は廃止になるまで120回を超える程利用した。就航していた全ての船に乗船
したが、運用はほぼ決まっていたので、大雪丸、松前丸には特に多く乗船した。反対に
羊蹄丸は余り乗船の機会には恵まれなかった。後年貨物船から改造した桧山丸、石狩丸
はモノクラスだったことや臨時便や補完便の運航が主だったので、数える程しか乗船し
ていない。
青函連絡船の思い出は山ほどある。鉄道ではないけれど、鉄道の一部として機能してい
たのだから、特にこだわらずいずれ話そうかと思う。
19名無し野電車区:2006/06/20(火) 00:25:45 ID:l9FTaJk+
ブログ作れって言ってんのにスレ立てとな
20plausinar ◆fcoWXWNaG2 :2006/06/20(火) 08:15:13 ID:8z1DMxMP
初めて北海道を旅したとき、贅沢して特急「みちのく」-連絡線-特急「おおぞら」だった。
函館ホームでの立ち食いソバ、あのときがいちばんうまかった。
「みちのく」車中での周囲の話題は、「安宅産業倒産」の話で持ちきりだったことを覚えている。
21名無し野電車区:2006/06/20(火) 09:30:25 ID:sa/yAzkH
>>20
確かに連絡船で着いてホームに立ち昇る湯気は三平汁でも立ち食いそばでも食欲を誘ったな。
特に寒い日だと余計に心惹かれる。ただ、接続時間に余裕がなかったから、いつもそれを横目
にしていた事が多かった。
「みちのく」も「はつかり」がなかなか指定が取れなかったのと、青森に先着するので繁忙期
にはよく使った。私はだから「みちのく」〜連絡船〜「北海」という組み合わせが多かった。
1便、2便に接続の「おおぞら」は函館−洞爺をノンストップで走るというのも、対本州の使
命を担った列車でそれなりのステイタス列車だったな。
22名無し野電車区:2006/06/20(火) 11:25:41 ID:Te+w9Y3B
オナニーはsageてやれ
23名無し野電車区:2006/06/20(火) 11:51:43 ID:4ixnYyoN
俺が初めて渡道した時(昭和63・2月?)は、函館駅ホームで
三平汁を売ってたな〜、アレは美味かった!
今はもう無いんだよね〜(−−
当時は深夜便を受ける北斗1号が4時半だったか5時半?っていう
ありえね〜時間帯の始発特急やな〜と、当時感じたもんだった。

ああ〜当時初渡道は八甲田からの連絡の摩周丸だった。
ホームで三平汁食った後は、当時新鋭だったキハ54で
江差に向かったっけ。厳冬期なのに運転台横でカブリツキでw
24名無し野電車区:2006/06/20(火) 19:02:33 ID:sa/yAzkH
>>23
そうだな。「おおぞら1号」が4:45発、「北海」が4:50発で、当時は確か日本一早出の
特急だった。逆に青森側では「ゆうづる1号」が青森5:03着という早朝の到着で、さす
がにこれ程早起きさせられるのには抵抗があって、この3便系統は1回位しか乗ってい
ないと思う。その後の5便系統は青森に7時過ぎの到着で、函館からも釧路行き「おお
ぞら5号」に網走行き「おおとり」、それに稚内行き急行「宗谷」という道内三方向の
“奥地”まで行く列車が接続していたので、これもよく利用した。
上野を出て丁度24時間前後の時間をかけて釧路、網走、稚内へ辿り着いていたんだよな。
25名無し野電車区:2006/06/20(火) 23:41:00 ID:sa/yAzkH
もう30年以上前のお盆の帰省の真只中、8/12の東京駅。
10:00丁度発の急行「桜島」「高千穂」西鹿児島行き。これに乗るため、2時間前から
『日豊本線経由西鹿児島行き「高千穂」』と札のかかったホームに並んだ。既に両編成
ともグリーン車が1両(オロ11)と普通車自由席6両だけの寂しい編成になっていたが、
言わずと知れた日本最長距離急行列車だ。東海道本線の東京から九州を結ぶ最後の急行
列車は、しかしこの時期大勢の帰省客で長い列が出来ていた。
2時間待った甲斐あって、守備よく狙っていた進行左側の窓側の席に落ち着く事ができ
た。しかし、瞬く間に席は埋まり通路には立ち客が溢れた。
定刻10時丁度、遥かな1550km余りの旅が始まる。「高千穂」が西鹿児島に着くのは
“明日”の14:20になる。実に28時間20分の遥かなる道程…。
乗った車両はナハ11 36。この当時には既に「桜島」「高千穂」は10系客車主体の編成
になっていた。もちろん、オロ11を除けば冷房なんてない。窓をほぼ全開にして夏の蒸
し暑い風を顔に目一杯受けながら東海道を下る。14両の客車を牽引するのは、もちろん
EF58。時々「ピー」というかん高いホイッスルが遥か前の方から聞こえてくる。
相席になったのは皆帰省の人たち。20〜30代のサラリーマン風。一人は延岡、もう一人
は都城と、これから丸一日同じボックスに乗り合わせた旅人としてお付き合いする事にな
る。そして自分の隣のもう一人は20代の若いお姉さん。目的地は大垣だという。新幹線に
乗らずにわざわざ在来線急行で下るとは…。自分はまだ高校生。たまたま回りが若い人だ
ったので、それなりに打ち解けて退屈はしなかった。
通路に立つ人の入れ替えは余りなかったが、少しは余裕の出てきた車内も名古屋を出ると
また車内が混雑してくる。隣のお姉さんが岐阜で降り、代わりに、どんなに混もうとこの
席の位置をガンとして譲らなかったオジサンが、目出たく貴重な席を確保した。
26名無し野電車区:2006/06/20(火) 23:42:22 ID:sa/yAzkH
陽が暮れた頃京都に着く。そして大阪を出ると車内は益々混み合い、最早トイレにに行く
のもままならない超満員状態になった。ずっと窓を開けていたから、タオルで顔を拭けば
あっという間に黒ずんだ。体中ベトベトで気持ち悪い。更に、山沿いに差し掛かってくる
と、窓を開けていれば虫が顔に当たってくる。やむなく少しだけ開けた状態にするけど、
今度は蒸し暑い! 頭上で生暖かい空気をかき回しているだけの扇風機など気休めにしか
ならない。尻も痛くなってきた。しかし、この先が夜行列車になる。洗面所まで人が座り
込んでいる程の超満員の夜行は、正直寝られたものではなかった。
そして一夜明けて門司。ここで「桜島」と「高千穂」は分割される。「桜島」は一足早く
鹿児島本線を西鹿児島へ向け下って行った。「高千穂」は機関車連結もあって、暫くの停
車となる。ホームにはこれを待ちかねたように、大勢の人が列車を降りて疲れた体を思い
思いにほぐしている。また、ホームに備え付けられた洗面台で顔を洗う人も多い。当時は
こんな洗面台も主要駅には備えられていた。
空が白み始めた門司を発車して一路日豊本線に進んで行く。夜行の区間はひたすら耐え忍
ぶばかりだったが、朝日が差し込む頃になると不思議に疲れが消え、また楽しい旅になっ
た。満員だった乗客も少しずつ降りて行き、大分を出る頃にはようやく車内にいくぶん空
席も見られるようになってきた。しかし、東京から乗り通している人もまだ少なからずい
る。寝台特急の「富士」の指定を確保するのは至難だったこの時代、「高千穂」は貴重な
輸送力列車だった。
27名無し野電車区:2006/06/20(火) 23:42:58 ID:sa/yAzkH
岐阜から座った隣のおじさんも佐伯で降り、向いの一人も延岡で降りて行く。もう発車し
て丸一日が経った。尻の方は痛いのだけど、不思議と“慣れた”。何となく茫洋とした日
向灘を眺めて宮崎。空いたと思ったら、またそれ以上の乗車客がいて席は再び埋まった。
宮崎を出ると山越えにかかり、めっきり歩みが鈍くなる。牽引しているのはDF50。こち
らも、もう交わす言葉もなく、ただボーっと外を眺めているだけ。都城に到着。1日以上
共に旅したサラリーマン風の人が手を振って降りて行った。さすがに疲れた表情で。
「高千穂」はもう一つ、最後の霧島の峠越えをしてようやく鹿児島県に入る。軽やかに坂
を下って隼人を過ぎる。前方に雄大な桜島が始めは朧げに、そして次第にくっきりとその
姿を現してきた。やがて錦江湾が左に開けると、ド〜ンと目前に聳え立つ。「やっと着い
た〜!」という実感を桜島を見て初めて感じた。
最後の停車駅、鹿児島を発車して城山のトンネルを抜け、「高千穂」は遥か西鹿児島に静
かに歩みを止めた。14:20、時間通りの到着だった。結構乗客は多かったが、さすがに東
京から乗り通したのはほとんどいなかっただろう。西鹿児島のホームも東京駅と同じよう
に、真夏の暑さだった。
28名無し野電車区:2006/06/21(水) 00:03:57 ID:/vDdme70
おっさんの思い出は何か情緒的でよいね。
九州ブルトレが何故あんなに多く走っていたか、
そして時と共に消えていったかが、よく分かる気がするよ。
29名無し野電車区:2006/06/21(水) 00:43:26 ID:hMDKtbYk
「桜島」「高千穂」みたいな長距離長時間の列車がどんなふうに使われていたか、
車内がどんな様子だったか、今まで想像がつかなかったけど、>>25-27を読んで
雰囲気がよくわかりました。今じゃ考えられない難行苦行ですね。
30おっさん:2006/06/21(水) 21:49:22 ID:IW8R1cs8
名古屋発亀山、新宮回りの天王寺行き921列車。
この列車も「南近畿ワイド周遊券」を使った時にはよく利用した列車だ。名古屋を15時台に発車
し、紀伊半島を一周して天王寺に翌朝5:00に着く長距離鈍行列車だ。反対の天王寺発は924列車。
比較的最近まで通勤と釣り客の足として165系電車に姿を変えて走っていたのを覚えている方も
多いだろう。天王寺−新宮の間は寝台車も連結されたので、前述の「からまつ」と同時期に「南紀」
と名前が付けられた。しかし、後にこの名が特急に召し上げられたため「はやたま」と名前を変え
た。とはいえ、寝台は1回しか使ったことはなく、私の中では921列車、924列車の方がしっくり
くる。更に昔は南海のグリーンの客車が連結されていたことも記憶にある列車だ。
ある初冬の夕方、921列車は梅ヶ谷に停まっていた。ここで交換待ちのための停車である。津や松
阪で一時賑わった車内も既に人影が絶え、車内には自分の他ほとんど人の姿がない。日も暮れ、山
あいの小さな無人駅にDF50のドロドロドロ…という発電機エンジンの音だけが響くだけで、無気
味な程静まり返っている。それと共に、めっきり車内も冷え込んできた。
すると、「カーン」「パチーン」「コン」「カン」…。どこからともなく車内のあちこちから甲高
い、乾いた音が響くようになった。その音は長いの、短いの実に様々…。そして“その音”が響き
始めるとしばらくして徐々に車内が暖まってくる。外を見れば、連結のホースの隙間からもうもう
と白い蒸気が立ち昇っている。そう、この蒸気こそ機関車のSGから送られてくる蒸気なのだ。そし
て先程のその甲高い音は、窓下に這わしてある蒸気の配管が高圧蒸気で暖められ、配管が膨張した
時に発する音と聞いた。
昔のSG暖房の列車は、冬になると蒸気をまとって走る姿が風物詩のように絵になった。やがて電気
暖房が当たり前になり、SGの列車は限られた地域でしか見られなくなったが、何か旅情を掻き立て
る風情があった。蒸気とともに、あの乾いた音が懐かしくもある。
31名無し野電車区:2006/06/23(金) 07:02:09 ID:7zXcjsxC
age
32名無し野電車区:2006/06/25(日) 00:54:21 ID:PDYfaCwT
おっさん、もうネタ切れか。
33名無し野電車区:2006/06/25(日) 01:38:20 ID:AbuyyuTW
俺の初めての北海道旅行。
上野発0600急行「いわて」(601Mだったかな?)
盛岡着1400
盛岡発1500普客(列車番号覚えていない)
青森着1900
青森発1930連絡船
函館着2300
函館発2345(43レ)
長万部着0230 ・・・・仮眠
長万部発0530(121レ?)
上目名着0700
北海道周遊券を目一杯効率的に使うダイヤ。
お盆の頃は上野を2400以降に出る臨急に乗ったこともあった。
発着時刻は大体のとこ。
34おっさん:2006/06/25(日) 05:35:17 ID:y4DMYzvB
>>32
暫く“本業”が忙しくて書き込みできなかった。出先の仕事なので、“仕事の合間に…”が
できない。今日もこれから出るのでできないと思う。それに自分のことばかりじゃ飽きられ
るし、目に止まって何か思い出したら遠慮なく書いてください。私も共感すること、きっと
多いと思うので。
>>33
上目名といえば言わずと知れたC62。私は撮る方は余りしないので、降りたことは1回きり。
C62は私にはそれ程馴染みがなかったせいで、一番騒がれた晩年の急行「ニセコ」や朝夕の
普通列車くらいしか記憶にない。でも、その時の上目名のファンの数は物凄かった。上目名
はファンのためにあるような駅だった。
私個人的には、C62は平坦線をフルスピードで快走している姿も好きだった。C62 2のスワ
ローエンゼルが先頭に立っているのは、私でも知らないが、東海道を疾走していた特急時代
を連想させるものがあった。
35池原あゆみ39ちゃい:2006/06/26(月) 02:34:46 ID:w20xe7cW
なぜさげ進行にする必要があるのか思うが。
以前、可部線廃止区間で中学生の男の子に国鉄型の話をしたら、
とても興味深く聞いてきて、
「もっと国鉄型のこと教えて下さい」なんて言ってきて、
もう少しで三段峡温泉まで誘えるところだったのだが。

「国鉄職員、小4男児を殴る」
76年8月のこと、
旧客にめざめた池原あゆみちゃんという小学校4年生の男の子が、
一人で和歌山線の客レに和歌山市から乗ったところ、
デッキが手動ドアなのが珍しくてウロチョロしていたら、
車掌に腕を引っ張られて客室内に入れられた。
それでもだんすぃなのでまたデッキに出てきたら、
車掌が「危ないから中には入れと言うとるやろが!!」とあゆみちゃんの頭を殴った。

・・・なんてことがあります。
確かに今から思い起こせば
車掌は転落事故が心配で心配で仕方なかったのでしょうね。
現在、JR社の職員が小学生の頭を殴ったらどうなるかな?
36名無し野電車区:2006/06/26(月) 08:54:07 ID:KtE67sb+
殴るというより聞き分けのないガキに拳骨しただけなんじゃない?
37おっさん:2006/06/26(月) 09:39:21 ID:aJOGc+rk
今は朝でノリが今イチなので、書き込みは夜にしようと思う。
週末「夜のあじさい電車」に乗ってきた。生憎、麓の方ではそこそこ咲いていたが、上の方は日照
不足の影響で1週間程開花が遅れているという。車掌さんの名調子(迷調子?)でライトアップさ
れた沿線を楽しんだ。あじさいは残念だったが、この時期だけに見られる螢が見れて、これはラッ
キー!  昔にはなかったこんな楽しめる電車があるのは悪くない。
38おっさん:2006/06/26(月) 13:06:09 ID:aJOGc+rk
初めて小海線に行った時の話。
出発は長野行きの中央線夜行普通列車。GWの真只中だった。昔から山男御用達の
この列車も電車に変わって比較的最近までその姿を残していた。ただ、その当時は
もちろん客車。GWとあって、「アルプス」など夜行に乗る乗客は夕方から新宿駅
構内の指定場所に集まり、列車毎に立てられた札を先頭に並ぶ事になっていた。そ
の際、目印のためワッペンをもらい、そのワッペンの列車、号車毎にホームに上が
って列車に乗車する決まりになっていた。
既に22時を回ると、その指定場所は乗客で埋め尽くされる。そのほとんどが山登り
やハイカーなど重装備の山男、山女で占められた。その人たちには悪いが、お世辞
にも“きれい”とは言い難い逞しい人たちばかりである。
その集団が駅員に誘導されて、ゾロゾロと緩慢な進みでホームに消えていく。そし
てようやく自分たちの乗る夜行普通列車の番になった。牽引機は覚えていないが、
EF64ではないその前の時代だったと思う。しかし、現実はそんな現実など思いを
寄せる余裕は微塵もなく、ワッペンを付けた乗客が席に落ち着くや、ワッペンを持て
なかった一般客が殺到する。窓から出入りなど当たり前だ! 瞬く間に席は埋まり、
通路も人とリュックで埋もれた。この時代は、長距離列車の始発駅はどこも少なから
ずこんな光景が繰り返されていた。

39おっさん:2006/06/26(月) 13:07:53 ID:aJOGc+rk
定刻の0時少し前、夜の新宿を後にする。車内は早くもお休みモード。山男は朝が早
いから移動の車中は貴重な睡眠時間だ。酒などかっくらって夜中まで騒ぐ連中などほ
とんど見当たらない。中には網棚をハンモック代わりに、“C寝台”とウソぶいて寝
袋に潜る強者もいる。車両は茶色のスハ43系だったと思うが、余り覚えていない。
何か初めて見る山男列車に、友人ともども呆気に取られ、困惑していたようである。
この列車は小淵沢の2つ手前日野春で50分程の長時間停車があった。後続の急行「ア
ルプス」の退避もあったと思うが、小淵沢を前にして、小海線に乗り換える乗客の便
宜を計った時間調整のようでもあった。満員の長旅に疲れた乗客の多くがホームに出
て一服している。ここまで来ると朝の高原の冷え込みもあってかなり涼しい。寝不足
目も自然と冴える。見れば、東の空がうっすら白み始め、南アルプスの山の稜線がぼ
んやり浮かんでいるのが分かる。
小淵沢では相当人が降りた。そして大半は小海線に乗り換える。キハ55を主体にした
DCが山男を迎えていた。そして小淵沢を発車して間もなく、いきなり33‰をよじ登
る列車は超満員。2エンジン車であっても歩みはのろい。しかも、八ヶ岳と、その麓
に広がる高原の風景は程なく深い朝霧に覆われてしまった。
降りたのは清里。今でこそ“高原の原宿”と化してしまった“有名なリゾート地”に
なってしまったが、当時はそれこそ降りたのは10人程のハイカーと自分たちだけ。朝
霧にしっとりと包まれた静かな高原の小さな駅だった。待合室にはストーブが灯され、
予想以上の寒さに震える都会の客人を暖かく迎えてくれていた。
40おっさん:2006/06/26(月) 13:08:36 ID:aJOGc+rk
自分たちはこれから後続の「八ヶ岳高原号」を撮影しに野辺山に向かって線路沿いを
歩く。どこまで行けるか分からないが、行ける所までいこうというわけだ。線路に沿
って道路を歩いて行くが、線路が離れると犬走りも歩いた。時には面倒臭くて鉄橋も
渡ってしまう“暴挙”もした! 歩み板が金網状で下が透けて遥か川底が見えるのに
肝を冷やしながら渡り終えた所で後方から汽笛が聞こえた。危機一髪!
振り返るとその鉄橋をC56 159に牽引された「八ヶ岳高原号」がゆっくり、ゆっくり
こちらにやって来る。しかし、煙を怒濤のように天に吹き上げているのを見ると、こ
れが精一杯の力走ということがすぐ理解できた。とりあえず適当な切通しの上に這い
上がりカメラを構えた。やがて、目の前を自転車並み、駆ければ飛び乗れるのではな
いかと思うスピードで、時折「クィ〜ン、キーン、ツツッ…」と車輪を軋ませながら
3両の10系客車に満載の乗客を乗せてゆっくり、本当にゆっくり走り去って行った。
その後、日本鉄道最高地点の手前、雄大な八ヶ岳をバックに鉄橋の上を走る列車の画
が有名だった場所でも撮影した。ここは時刻表の表紙のカットにもなったりして、絶
景だった場所だったが、その後清里、野辺山の開発とともに国道の大きな赤い橋が建
設されて、この素晴らしい眺めは一気に興醒めた。野辺山も最高地点も、周囲にはレ
ストランや若者向け、女性客向けのポップな建物が乱立し、あの旧き良き清里、野辺
山の風景は、そこに通った山男やハイカー、そしてC56を追っかけた鉄ちゃんの記憶
や写真の中でしか残らなくなった。これ程まで景色が一変した場所も他には類を見な
いだろう。それからの清里、野辺山にはほとんど足を運んでいない。大の男が一人で
歩くには恥かしい場所になってしまったからだ。
41名無し野電車区:2006/06/26(月) 16:38:25 ID:kM01FoaH
オナニーはブログ作ってやれよ
42おっさん:2006/06/26(月) 19:09:50 ID:aJOGc+rk
自己満足、大いに歓迎。ここはそのつもりで作ったものだし。
>>41の方もチャチャ入れる前に貴方の思い出話の1つくらい書いてみては
如何ですか? 話は他人の話を聞くより自分が話す方がずっと楽しいと言い
ますから。
433:2006/06/26(月) 19:45:30 ID:ishVKyEz
自分はおっさんの思い出話は読みたいけど、荒らしとのやり取りは読みたくない。
改めてsage進行を提案します。
それともおっさん、荒らしとのコミュニケーションが実は好きとか?
そういうことなら何も言いますまい。
44plausinar ◆fcoWXWNaG2 :2006/06/26(月) 21:23:44 ID:LYQO8yq+
周遊券というのが有ったね。あれには随分お世話になった。
北海道、東北、みなみ東北、山陰・・・・
国鉄バスにも乗り放題で、えりも線や十和田湖線、三陸の黒崎や北山崎もよく利用した。

当時(70年代後半)夜行列車もふんだんに有って、それ自体宿代わりにもなったし、待合室も
一晩中居ることもできた。
盛岡駅の待合室にはテレビが4〜5台あって、随分目移りしたのも思い出。
夜行は、定期列車はシーズン中(夏休み)混んでいたけれど、不思議と臨時列車は空いていたし、
冷房付きのオハ12あたりに良く当たったものだった。

当時の公社大型の時刻表は裏表紙がキリンレモンの広告で、片平なぎささんのアイドル時代の写真
(夏だから水着姿)を思い出す。

そう言えば、国鉄バス十和田湖線の終着、休屋で、バスの誘導をしていた女性、ものすごい美人だった。
45おっさん:2006/06/26(月) 22:02:50 ID:aJOGc+rk
片平なぎさ、懐かしいね〜! 今は一人前の落ち着いた女優になったけど、当時はアイドル
だった。今も残っている古い時刻表を改めて出してみました。ただ、旅行で使ったものは多
くが掠れて分からなくなっているものが多かった…。
ワイド周遊券は一通り全て使った。中でもやはり北海道、九州はダントツだ。それに次ぐの
が東北や意外に南近畿だったりする。当初はそれぞれに違ったデザインの表紙と一緒に綴じ
られていて、それを集めて楽しんでいた。「ミニ周遊券」はその名の通り「32」の地区で発
売されていたが、エリアが狭く夜行が使えないため、ごく限られた地域のものしか使った経
験がない。ただ、一度使ってみたかったけど結局使えなかったのが「立体周遊券」。
臨時の夜行列車について言えば、イメージ的に寄せ集め編成がついて回るが、ある時期から
12系を使った臨時列車が多くなった。時刻表にも「冷房付きで比較的空いている臨時列車を
ご利用下さい」と御案内が載っていたし、一時期時刻表にも冷房車の編成にはそれを示す
「冷」マークが付いていた。そういえば初めて九州へ入った時は、「明星」の寝台が取れず
12系を使った臨時特急「あかつき51号」で入った。12系を使うという事で、特急料金が
100円引き(200円だったかな?)だったのもある面貴重な体験だったかもしれない。他に
も臨時の「しおじ」や「つばさ」には結構長い期間使われていたり、14系が登場するまで
多客期の究極の助っ人に動員されていた。
46おっさん:2006/06/26(月) 23:12:32 ID:aJOGc+rk
今でこそ日本の鉄道全線完乗というのはそれ程珍しくもないし、これを見ている方の中にも経験
がある人もいると思う。私も一応国鉄(JR)、私鉄を含めて全線に乗っている。しかも、ロー
カル線廃止が叫ばれそれが実行に移された以前の話だ。私の場合、「国鉄全線完乗」はまだ国鉄
時代の明知線明知駅(現在の明智鉄道明智駅)。
当時は「国鉄全線完乗」はまだ珍しく、時にはニュースにもなった。しかし、私の場合はそんな
大袈裟な事は考えもせず、同好の友人と2人で恵那からキハ52に乗車して明知に向かった。これ
で国鉄全線を乗り潰したという実感はあっても、それ程気持ちの盛り上がりは感じなかった。景
色が単調で変化に乏しかったからかも知れない。そして列車は呆気無く明知に到着した。
乗って来た乗客が全て改札を出るのを待って、恐る恐る駅員に事情を説明して、記念にするつも
りで持って来た色紙を差し出した。すると駅員さんは、「ああそう、それはそれは。今日は駅長
がいるからよかったな。待っててください、今呼んで来るから」と駅長さんを呼びに行った。
しばらくして初老の駅長さんがニコニコ笑ってやって来た。「いやぁ、こんな事初めてだしなぁ、
なんて書いたらいいんだろう?」と皆にお伺いを立てながら照れながらも日付けを入れて“完乗
証明”を書いてくれた。「なんだよ、早く言ってくれればテレビでも呼んだのに…」と誰かが言
うほど、当時は完乗はまだ珍しかった事だったのだ。しばらく駅員さんたちとそんな話をした後、
どうせだからと、駅長さんが自ら買って出て、駅前でこの色紙を前に一緒に記念写真を撮った。
すると、「何の騒ぎ?」と次第に町の人が集まって、大いにテレ臭かった事を思い出す。
第三セクターになったとはいえ、多くのローカル線が消えた今、その思い出の駅が存在する事自
体貴重かも知れない。第三セクターになってからも訪れてはいるが、もうその駅長さんも駅員さ
んもいない。
余談だが、この後国鉄バスで瀬戸に抜けた。この時乗ったバスが中ドアだけの“ツーマンカー”
だった。これが運転席の横の最前列に座る事が出来た最後のバスだった。
47名無し野電車区:2006/06/27(火) 21:35:18 ID:xD5LuKi4
おっさんの文章はいいですね。
個人的には北海道の廃線に興味があるので、そのうちにまたお願いします。
48おっさん:2006/06/27(火) 22:40:30 ID:yLz/cSoR
今日は新幹線のこぼれ話。
まだ東海道新幹線が0系と100系のX編成しか走っていなかった頃の話。岡山からの帰り、
奮発して100系の1人用個室をキープしていた。乗車するのは東京駅に22時32分に着く
「ひかり」だった。1人用個室はそれ以前に乗った事はある。夜、個室の電動リクライニ
ングをフルに倒して小さな窓のカーテンを開けると、せわしなく上下左右に運動する架線
の合間に見事なまでの満月が見えていたのが忘れられなかった。今夜もそんな夜の風景が
見れるかな…と期待して新幹線改札へ向かったのだが…。
岡山駅の新幹線改札口は人だかりができていた。一部の乗客は駅員に詰め寄って険悪な空
気。何事?と思い近くに行くと、だいぶ前に発生した姫路駅付近の架線事故の影響でダイ
ヤが大幅に乱れているらしい。私の乗る「ひかり」の発車案内を見ると、幸いにも多少の
遅れはあるものの、とりあえず間もなく到着するようだ。ホッとして改札を入ろうとした
ところ、駅員に言われた。「お客さん、ダイヤが乱れているので、次の『ひかり』は本日
は一般車両で運転になっております。恐れ入りますが、グリーン車に乗車して頂いて車掌
に申し付け下さい」「な〜んだよ、折角楽しみにして奮発したのに…」と思ったけど状況
が状況だから仕方ない。まぁ、夜も遅い到着だし、ちゃんと着いてくれればいいかと到着
を待った。
車掌に指定された席に収まる。初期の0系グリーン車のゴールド地のシートも、適度の柔
らかさとゆったり感があって、これはこれでいいものだ。しかし、そのゆったり感も程な
く吹っ飛んだ! 事故現場の姫路に近付くにつれ走りは鈍り、とうとう相生の通過線で停
まって動かなくなった。車内アナウンスによれば、この先足止めされていた列車がダンゴ
状態になっているのだという。夜遅い到着なので、自宅に帰るには40分程の余裕しかない。
しかし、その時間も呆気なく過ぎてしまった。「やれやれ、ホテル探しか…」と覚悟を決
めるしかない。
49おっさん:2006/06/27(火) 22:42:05 ID:yLz/cSoR
足止めを喰らって1時間半が過ぎた頃、ようやく動き出した。が、動き始めたら意に反して
何故かフルスピードで走り出す。「なんや、速う走れんならもっと早くから走らんかい!」
と、となりのおっさんが独り言。同感。しかし、また新大阪の手前になるとノロノロ運転に
なった。
結局新大阪は1時間50分程遅れて発車した。大幅に遅れて出発したため、本来接続するはず
だった三島行き最終の「こだま」へ乗継ぐ乗客の便宜を図るため、静岡、新富士、三島に臨
時停車をするという。「え? それなら…」と、別な“期待”が湧いて来る。どうせもう家
には帰れない。ならば、あとの“期待”は東京着が2時間遅れて特急料金の払い戻しだ。今
も2時間に近い遅れで運転中だし、途中駅にも臨時停車する。この先もある程度列車は走っ
ているだろうし、可能性はかなり高そうだ。もし払い戻しになれば、グリーン個室との差額
を含めて1泊分のホテル代くらいは浮くだろう。まぁ、それならいいかという感じだ。
でも、「ひかり」は東海道に入ると快調に突っ走った。名古屋でも1時間50分の遅れで発車。
本来では次は終点の東京。しかし、今日に限って静岡、新富士、三島に停まる。1駅停まれ
ば新幹線は4〜5分時間が延びるのが常識。さらに東京到着時の混雑も考慮すれば、2時間以
上の遅れで到着の可能性は高い。
ところが、国鉄も智恵を絞った。この3駅で下車する乗客を5、6号車に集めた。人数的に
はそれ程多くないからそのような究極の処置を取ったのだろう。そしてその限られたドアの
みを開け、乗客を降ろすと直ちに発車した。次第にヤキモキしてくる。ブレーキがかかると
何故かニヤッとしたかと思えば、フルスピードで快走しているとイライラしてくる。
新横浜を通過。1時間58分程の遅れだ。ん〜微妙! 東京駅到着時の遅れに期待するしかな
い。八ッ山のトンネルを出て品川を通過。あと2時間遅れまで5分!
そして「ひかり」は何の躊躇もなく終着駅の東京駅に滑り込んだ。時刻は0時31分。特急券
払戻しまであと僅か1分であった!
50おっさん:2006/06/27(火) 22:43:05 ID:yLz/cSoR
一応、改札で聞いてみようと思った矢先、改札上のスピーカーが無常に告げた。「業務放送、
XXA、119分延着。払戻し無し!」 もう笑うしかなかった。結局戻って来たのは個室との
差額分だけ。当然ホテル代には程遠いものだった。改札前では若いお姉さんとおばちゃんが
「タクシー代出してよ、帰れなくなったんだからそのぐらいするのが当然でしょ!」と猛然
と喰ってかかっていた。こんな時女性の方が執念深いとつくづく思ったものである。男性は
仕方ないという表情で、早々に用意された臨時電車の乗り場の方へ向かって行った。それに
しても、現場と指令の見事な連係プレーで払戻しを回避させたのは逆に感心してしまう。僅
か1分の違いで何百万という支出を抑える事に成功したのだから!
どうでもいい事かも知れないが、新幹線というと、この時の事が今でも思い出されて語り草
になっている。
51名無し野電車区:2006/06/27(火) 22:56:28 ID:yuag9SFY
最初から読ませてもらってるけど、おっさん文章うまいですね。
長文なのに全然抵抗なく読める。
52名無し野電車区:2006/06/27(火) 22:59:29 ID:/m89mBy2
夜、個室の電動こけし
をフル回転にして小さな×ん×の×ビ×を広げると、せわしなく上下左右に運動する股
の合間に見事なまでの×リ×××が見えていたのが忘れられなかった。
53名無し野電車区:2006/06/28(水) 00:38:14 ID:oL4pTpvQ
おっさん、たまにはこんなトラブルにも遭遇してたんだなwww

おっさんの文書は、ほんっとに上手い!!
ただ、一つだけ言わせてもらえるなら、文書作成するのは、
ブラウザの書き込み欄以外にしてくれればいいのに、と思う。

あと、北海道ネタになったら、遠慮せずに元の宗谷本線スレに
帰って来てくれよ!!多少のスレ違いも、おっさんなら大歓迎だ!!
54おっさん:2006/06/28(水) 21:29:14 ID:Chg9S9FD
今の時刻表を開くと北海道の鉄道地図はずいぶん寂しくなった。30年前の時刻表を
開くと文字どおり隅々まで線路が巡らされていて、独特の読み方をする駅名も多く
載っていた。鉄道ファンは地理に強いことはもちろん、漢字の読み書きも他の人に
比べて一際強い人が多く、それらは多分この時刻表を眺めているうちに自然と覚え
た結果だろうと思う。普通の人ならまず読めないであろう倶知安、音威子府、標茶
などの地名も難無く読みこなして、周りを驚かせた経験がある方も多いだろう。
しかし、今はこれだけ鉄道の存在が薄くなってしまうと、そんな隠れた“自慢”を
語れる人も減っているのではないだろうか? ましてや地理的な事でも、普段目に
する機会が減れば位置関係などあやふやになってくる。車で走っている範囲でしか
把握ができないし、内地からの旅行客は自分が走る範囲の理解でしかない。道路地
図やナビにしたって地名の正確な読み方さえ分からない事も多く、だから記憶に残
らない。
私はまだ数多くのローカル線が残っている時代に旅をして、その終点から更にバス
であちこち回って地名や位置関係も覚えた。道内でまだ一度も足を踏み入れていな
いのは、意外に札幌に近い赤井川村と長沼町だけになった(つい最近まで北村と東
藻琴村もあったが、市町村合併で村名が消えた)。鉄道に乗るということは日本中
の多くの市町村に足を踏み入れる事であって、大袈裟に言えばそれだけ日本を知る
ということだろう。しかし、今のようにどんどんローカル線が消えていき、鉄道で
気軽に足を運べる「日本」が少なくなって来た事は寂しい限りだ。

北海道に「登川」という駅があった。この駅名を聞いてすぐその場所が浮かべられ
る人はもうそこそこの年代の人だと思う。この駅は北海道で廃止されたローカル線
の駅の1つであるが、この線の“本体”そのものは今でも健在だ。夕張線。登川は
その夕張線の支線の終着駅だった。
今は道東へ向かう幹線として「スーパーおおぞら」などが新しい線路を突っ走って
いる石勝線の開通と引き換えに廃止になったと記憶している。つい最近廃止された
楓が唯一の中間駅だった。分岐点の今の新夕張は、当時は「紅葉山(もみじやま)」
と称し、その名の通り秋には紅葉の美しい風情のある駅だった。
55おっさん:2006/06/28(水) 21:29:51 ID:Chg9S9FD
この登川にはただの1回だけ、それも夕方に行った。行き止まりの2本のレールと
小さなホーム、そして小さな駅舎が1つ。数人が散って行くとキハ22のアイドリン
グの音が響くだけの駅。薄暗くなった山に囲まれた小さな集落に小さな灯りが漏れ
る。恐ろしく寂し気な終着駅だったが、確かにいくらかの人の営みがあった。
折り返しの列車に乗ったのは自分1人。途中の楓に人影はない。列車は静かに紅葉
山に着く。構内には石炭車を長く列ねたD51や9600が我が物顔に往来していた。
まだまだ当時は夕張線も石炭輸送に活躍していた“幹線”でもあった。
余談だが、昔“石炭の街”、今は「夕張メロン」、「夕張映画祭」などそれなりの
全国的産業やイベントが育っていたと思っていたが、先日ニュースで夕張市が“破
産申請”をしたと聞いた。現実は思っている以上に地方財政は厳しい。
5653:2006/06/29(木) 00:05:23 ID:f4Rywa4B
いや〜、おっさんの情緒溢れる文才、マジで最高っす!!

おっさん!!次に北海道に来るときは、必ず鉄板で予告してくれよ。
俺はおっさんに会って、プロポーズする予定なんだからwww
57おっさん:2006/06/29(木) 07:33:27 ID:rSbCyoOj
評価していただけるのは嬉しいけど、たまにはそちらの話も聞きたいですね。
58名無し野電車区:2006/06/29(木) 09:05:52 ID:otoTzi9a
>>55
登川懐かしいですね。ちゃんと委託ながら駅員さんもいらっしゃった。
途中の楓駅も、ちゃんと切符売ってましたね。
もう支線の方は廃坑になって、貨物列車はなかったけれども、
駅構内には炭鉱のなごりが見られました。
紅葉山を走っていたのはD51だけで、9600はいませんでした。
隣の沼ノ沢や清水沢に行けば、社型の9600がいましたが。
59おっさん:2006/06/29(木) 21:39:50 ID:rSbCyoOj
>>58
紅葉山に9600はいなかった…かなぁ? 確かに社型の9600は知っているけど。まぁ、例に
よって“思い込み”があるから、そう言われてみればそうなのかもしれないけど。
9600といえば、今活躍しているC11 207と同じ2ツ目の9600が胆振線に走っていたな。
9600は両数も多かったし、北海道や九州ではあちこちで見られたこともあって、馴染みのあ
るSLだった。
話は変わるが、もうそこそこの“おっさん”年代の方、今のように雑誌やネットで何でも分か
ってしまう時代ではなかった、自分たちの鉄道少年時代、何を見て国鉄や私鉄の車両を覚えた
のだろう? 恐らくと言うか、ある年代以上の方ならきっと誠文堂新光社の「機関車ガイドブ
ック」「電車ガイドブック(旧型と新型の分冊になっていた)」「気動車ガイドブック」「客
車・貨車ガイドブック」「私鉄車両ガイドブック」など一連の「ガイドブック」シリーズで覚
えた方がきっと多いと思う。自分もこのシリーズはいい値段をしていたにもかかわらず、全て
買い揃えて毎日のように眺めていた。自分たちの年代にとってこの本はまさに“バイブル”だ
った。今でも古本屋では結構高値で売られているようである。
60plausinar ◆fcoWXWNaG2 :2006/06/29(木) 22:24:53 ID:sLA/4g+B
>>59
あたしもそうだった。誠文堂新光社のガイドブックシリーズ。
全部ではないけれど、だいたい揃えて、もうボロボロだけど。

社会人になって、オーディオに興味を持つ様になり、MJ「無線と実験」も購読する様になったけど、
出版元は、これも誠文堂新光社、だった。
61おっさん:2006/06/29(木) 22:49:53 ID:rSbCyoOj
北海道の廃線となったローカル線は、廃止が現実的になるとファンを始め多くの人々が訪れた。
美幸線、深名線、名寄本線、天北線、標津線などは今でも当時を偲んで訪れる人も多い。でも、
同じように廃線となったローカル線でも滅多に話に上らなくなってしまった線も意外に多いよう
に思う。とりたて景色が良い訳でもなく、走っていた車両も地味! さらに沿線にも魅力のある
(話題性とか景色とか名所など)ものがなかった線という事が言えようか。
前に書いた「登川支線」もその1つだろう。岩見沢から出ていた幌内線と万字線、どちらが隣の
志文から分岐していた線だったかすぐ分かる方はどれだけいるだろう? 地味と言えば、道南の
瀬棚線や岩内線も同様で、両方とも“正規の分岐駅”が何処だったか覚えているだろうか? 瀬
棚線は数回乗っているけれど、確かに単調な景色は眠気を誘った位しか覚えがない。美利河(ぴ
りか)という美しい名前の駅があったのは覚えているが。岩内線も急行「らいでん」が札幌まで
直通していたもののキハ22が主体の急行で、特に強い印象が残っていない。むしろ、廃線になっ
てかなり年月が経った最近に岩内へ行ってみたら、思いの他活気のある町に見えた。廃線になっ
てからの方が足を運んだ回数が多い紋別や羽幌、中標津なんていう場所も少なくない。
そして、なかなか線名の浮かんで来ない富内線。終点の日高町から占冠まではほんの僅かな距離
で隣接しているのだが。でも、周遊券族のファンの方なら国鉄バスで日勝峠を越えた人も多いだ
ろう。
十勝の広尾線は歌にもなった「愛国から幸福行き」のキップブームの火付け役にもなったので、
今でも覚えている人は多いし、現在も幸福駅にはキハ22とホーム、駅舎が残っている(数年前の
話)。しかし、同じ帯広から出ていた士幌線はさほど話題にはならなかった。唯一趣味的に興味
を沸せたのは、国鉄で初めて末端区間の糠平−十勝三股をマイクロバス代行にした事位か。ちな
みに、私はまだ列車が走っている時代に十勝三股まで乗っている。阿寒湖への途中まで行きなが
ら阿寒湖観光にはほとんど使えなかった相生線も地味か。同じようなのが渚滑線。
こうして見ると、案外北海道には地味なローカル線が多かったようだと改めて思うのである。
62名無し野電車区:2006/06/29(木) 23:36:24 ID:6oFEn8hX
>国鉄で初めて末端区間の糠平−十勝三股をマイクロバス代行にした事位か。
>ちなみに、私はまだ列車が走っている時代に十勝三股まで乗っている。



ちょちょちょ、マジっすか!!!スゲー!!!!!!
ぜひぜひ士幌線、特に糠平〜幌加〜三股の乗車記を激しくキボン!!!

士幌線ならここ↓もご参照されたし。

http://hokkaido.machi.to/bbs/read.pl?BBS=hokkaidou&KEY=1107767979
63おっさん:2006/06/30(金) 07:11:43 ID:C2dXePLr
>>62
面白いところだね。少し眺めてみたらハマってしまいそうだ(笑)。今は時間がないから
見れないけど、帰って来たら見てみる。
十勝三股に行ったのは初めて北海道に行った高2の夏。確かキハ12に乗って行ったと思う。
ただ、残念ながら余り強い印象は残っていない。糠平湖の上をゆっくり走って越えていた
のと、十勝三股に着いて、余りにも何もなくて駅前をウロついて折り返し列車で帰ったと
いうような感じだ。糠平の1つ帯広寄りの黒石平駅は勾配の関係で下りと上りの停車駅が
違っていた。上りだったと思うが(すまん、未確認!)、「電力所前(発電所前?)」だ
ったか、その乗降場に停車していた。その辺り記憶だけなのではっきりしない。どなたか
知っている方がいれば改めて教えていただければと思う。
士幌線は3回くらい乗っていると思うが、十勝三股まで行ったのはこの時だけ。あとは糠
平までだ。マイクロバス代行になってもそのバスには乗っていない。
今は旭川−帯広の都市間バス「ノースライナーみくに号」(層雲峡、三国峠経由の便)が
この士幌線の糠平以遠にほぼ沿って走っていて、十勝三股の駅跡もチラリと見える。
64名無し野電車区:2006/06/30(金) 20:37:08 ID:AReSljKh
>58,59さん
そうですね、社線(大夕張鉄道)には「NO3」とか「NO2」の9600でしたよね。
ところで、大夕張に「D514」って入線してましたっけ?
ttp://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/87965764
D51大夕張出発の写真だそうですけど。
65おっさん:2006/06/30(金) 21:22:43 ID:C2dXePLr
>>64
いつ頃の写真なんだろうね? 私は廃止に近い頃、南大夕張まであの3軸ボギーの客車で往復した
事があるけど、前年ながらほとんど覚えがない。当時のR/F誌増刊でSLの撮影地ガイドや運用表、
ダイヤなどが掲載されていたので、それを探してくれば追分機関区のD51が大夕張まで入る運用が
あったかどうかが分るかもしれないが、何分どこにあるのかがわからない…。
66名無し野電車区:2006/06/30(金) 21:33:59 ID:wWd2Sqem
>>64
これは紅葉山の発車シーンですよ。下りですね。
おそらく現在の駅名、新夕張と勘違いしたのでしょう。
67名無し野電車区:2006/06/30(金) 21:36:19 ID:wWd2Sqem
>そうですね、社線(大夕張鉄道)には「NO3」とか「NO2」の9600でしたよね。

そうです。NO7あたりも撮った記憶があります。
テンダーがC56タイプのものもいましたね。
68おっさん:2006/06/30(金) 22:54:44 ID:C2dXePLr
世の中が「SLブーム」と騒がれた始めたのはもう40年近く前の話だろうか? 国鉄の無煙化
が決まり、SLが近い将来姿を消すことが現実になって来た頃だと思う。でも、まだSLは全
国で相当数が元気に走っていた。その様子がテレビなどで放送されるようになると、鉄道ファ
ンがこぞって各地にSLを求めて繰り出し、いわゆる“名撮影地”も次々と紹介された。鉄道
雑誌にも撮影ガイドと共にダイヤや運用表が載るようになって、ファンはそれを基に計画を練
るようになった。当時はその「1時間目ダイヤ」でも事は足りていたが、自分たちでも丁重に
それぞれの鉄道管理局にお願いすると、ほぼ半分の確率で実際の業務ダイヤを送って来てくれ
た。特に九州の鉄道管理局はこちらが感激するくらい他の線のダイヤを含めて大量に送ってく
れた。もちろん、駆け出しの鉄道小僧にはこれ以上ない「資料」である。反対に「業務用で使
用致しますので、ご希望には添いかねます」と封書1枚返って来た場所もやはり多かった。
そんなSLブームの象徴となったのは伯備線の「布原の三重連」だった。今でもSLといえば
“デゴイチ”と代名詞のように呼ばれるD51が3台連なって急勾配を駆け登っていく写真は、
街中の写真屋さんのポスターや何の変哲もない“風景写真”としてもふつうにお店に飾られて
いたものである。
その布原に行ったのは高1の夏。まだその当時は多少写真も撮っていた。布原は今でこそ伯備
線の列車は通過するものの、芸備線の列車は全て停車する「駅」になっているが、その当時は
「信号場」で停まる列車も限られていた。その数少ない列車が米子からの始発列車だった。こ
の列車は、まさに布原に撮影に行くファンのための列車のようだった。
69おっさん:2006/06/30(金) 22:56:30 ID:C2dXePLr
早朝の米子駅から乗車するのは夜行で着いた多くのファン。さながら現在のイベント列車を撮
影しに行く集団が乗っているような雰囲気だった。自分も同じように「だいせん」を米子で降
りて布原を目指した。珍しいキハ18なんていう車両に感激したりして布原に7時20分頃に到着。
驚く程の人が小さな1両分のホームに降り立った。とにかくお目当ての「三重連」を撮影する
のにはこの列車しかないから当然と言えば当然。それにしてもざっと200人以上はいるか。
普段は山に囲まれ清流がさやさやと流れるだけのこの小さなスペースに、数百人が集結してい
るのだから、その様子推して知るべし。撮影する所は新見方に数百m程歩いた鉄橋を渡った山
の崖の部分だ。後に「ショバ代」を取る取らないで物議を呼んだが、既にそこは大勢の人が訪
れていたので自然と“お立ち台”が出来上がっていた。
お目当ての「三重連」は記憶に間違えがなければ、確か足立からの元々重連貨物列車だったも
のに回送の1両が連結されて「三重連」となったはずである。しかも、線形的には新見方面の
上り列車については、この布原を出てトンネルを出る所までのほんの僅かな登り勾配区間だっ
た。しかし、出発と同時に天に突き刺すばかりの三本の凄まじい煙がファンならずとも人々を
魅了して、SLはそれまでの「汚れるから嫌」というマイナスのイメージから「カッコいい!」
と多くの人がプラスイメージに捉え、この頃からSLブームが始まったのだ。
70おっさん:2006/06/30(金) 22:57:05 ID:C2dXePLr
待つこと1時間余り。山あいに短い汽笛がこだまし、一斉に緊張が走る。多分対面の川岸から
こちらを見れば、崖に張り付くように上下左右の何重にも三脚が乱立しているに違いない。川
岸をチョロチョロしようものなら罵声が飛び交うのは今と変わらない。やがて、白い煙を車体
にまとわり付かせて布原信号場に“主役”が到着する。
息を整えるようにしばし立ち止まり、そして、「ボワァ〜」と先頭のD51が吠えた! 間髪入
れず「ボワァ〜、ボゥ〜」と後の2台が続く。次の瞬間、大量のドレインを左右に吐き出し、
灰黒い煙を猛然と突き上げながら3台のD51がタッグを組んで意外に速いスピードでぐんぐん
加速してこちらに向かって来る。同時に数百台のカメラのシャッターの嵐! 短い汽笛を鳴ら
しながら鉄橋を渡り、目前を轟音とともに横切って3台のD51はトンネルの中へと消えた。
最後の貨車がトンネルに消えると辺りはどよめきが残る。でも、皆満足したような笑顔だ。そ
れにしても、カメラの位置取りに慌てた位予想以上に加速が速かった。
大半の人はこれで“撤収”。程なくやって来る新見行き芸備線の列車は、帰りのファンでごった
返した。走り去った後は何事もなかったように、また静寂が辺りを包んだのだろう。たまに「や
くも」で布原を通る時、あの時カメラを大勢で構えた“お立ち台”にどうしても目が行く。しか
し、そんなことなど何にもなかったように、鬱蒼とした樹木でそこは覆われていた。
71名無し野電車区:2006/07/01(土) 01:41:16 ID:y0wgJEj6
自分のSLの思い出といえば・・・・。
旭川市内を走る宗谷線がまだ高架じゃなく旭川電気軌道をよく利用していた頃のことですが、
旭川四条には当時、電気軌道の駅舎がありその脇の四条通りの踏切が「チン、チン、チン」
と鳴り始めると慌てて駅舎から飛び出し、踏切の真ん前で待構えたものでした。すると、
D51、C55、C58、9600なんかがやって来て目の前でバカでかい動輪を回転させながら通り
過ぎて行ったものです。それだけでも大興奮でした。
それから数年たって宗谷線沿線の街に住むようになり、SLが走っているのが当たり前のよ
うになっていました。ところが気がつくと、SLの最終日!なんとか父親に頼みクルマで追
ってもらい、比布の駅でようやく追い着きました。そこには9600のサヨナラ列車が停車して
いました。しかしホームは人でいっぱい。写真を撮ろうにもなかなか撮れず、やっとの思い
で1枚撮ったものです。出来上がった写真を見て、構図とかアングルに不満が一杯でしたが、
この1枚が自分で撮ったSLの最初で最後の写真です。こういう写真ですから尚更当時のこと
を昨日のように記憶しているのかもしれません。
それにしても、おっさん殿は全国通津浦々訪問されているようですが、羨ましい限りです。
72おっさん:2006/07/01(土) 10:04:23 ID:8CURM874
私は神奈川県の都会育ちなもので、SLというのは初めはあまり縁がなかった。多分初めて見た
のは親父方の婆ちゃんの田舎に行った時、東北本線の瀬峰駅で見たD51の1次型、いわゆる“な
めくじ”の牽引する貨物列車だと思う。当時は東北本線も盛岡までの電化だったはずで、盛岡以
南にもまだSL列車が残っていたようである。ただ、走っている姿ではなかったが、夢中で写真
に撮った覚えがある。今でもその写真は残っているが、当時はどうでもよくて“ついで”に撮っ
ておいたのが、この瀬峰と登米を結んでいた宮城交通のナローだった。これも貴重なカットにな
ったと気が付いたのはずっと経ってからである。
中学になって、“その道”に詳しい友人のレクチャーを受けてからそれまで漠然と“好き”だっ
た鉄道に興味を持ち始め、「クハ」「オハ」が何の意味なのかを理解したのもこの頃だ。先に書
いたガイドブックを買い揃え、更には身近な横須賀線や京急電車の形式や運用に興味を持ち始め
た。そして親父の仕事の関係で鶴見に移ったことでSLとの関わりができる。自転車で15分程の
所に新鶴見操車場があり、ここには高島貨物線用のD51が配置されていたのだ。
73おっさん:2006/07/01(土) 10:04:58 ID:8CURM874
ここで活躍していたSLの番号は今でも思い出せるくらい週末毎に通った。SLに限らず、東海
道を上下する貨物列車の牽引機を目の前にして、覚えた知識を確認できる新鶴見操車場は格好の
“実習の場”だった。ガイドブックにあるように、細かな番台分類までこだわって撮影していた
し、1つ1つ埋めて行くのが愉しみでもあった。だから、いわゆる「走行写真」というより「形
式写真」に主が行っていたのだと思う。
当時高島線で活躍していたSLのうち、D51 791は別名「ナクイチ」と呼ばれ、鉄道開業100周
年を記念して東京駅−横浜湊を走った記念列車の牽引機としてその名を残した秦鶴見区のヒーロ
ーでもあった。高島線が電化された後は大館区に移り、時には「矢立峠の三重連」の牽引機とし
て再び脚光を浴びた。
この他に個人的に思い入れがあるのはD51 774。特にどうというものはないが、私の写真の中に
はよく登場するSLであった。電化後は遠く米子区に移り、山陰本線の旅客、貨物用として天寿
を全うした。ある日の夜、東松江の構内で貨物列車を牽引して停車しているD51 774を見たのが
現役で見た最後になったが、幸いにも解体を免れ、今でも出雲大社の境内に保存されている。
74おっさん:2006/07/01(土) 10:11:27 ID:8CURM874
>>73訂正
… 当時高島線で活躍していたSLのうち、D51 791は別名「ナクイチ」と呼ばれ、鉄道開業100周
年を記念して東京駅−横浜<湊>を走った記念列車の牽引機としてその名を残した<秦>鶴見区のヒーロ
ーでもあった。
[漢字の変換間違え 以下のように訂正]
当時高島線で活躍していたSLのうち、D51 791は別名「ナクイチ」と呼ばれ、鉄道開業100周
年を記念して東京駅−横浜港を走った記念列車の牽引機としてその名を残した新鶴見区のヒーロ
ーでもあった。
75おっさん:2006/07/01(土) 15:11:50 ID:8CURM874
今日は珍しく週末何もしないで家にいるので、もう少し書いてみる。

今JR北海道には3本のJTが道内を走り回っているが、どれも苗穂工場で生まれた新製車だ。
その前、82系を改造した「フラノエクスプレス」「トマムサホロエクスプレス」そして元
祖JTの「アルファコンチネンタルエクスプレス」、略して「アルコン」があったのはよく
御存知だろう。56系気動車を種車として大胆なデザインとゴールドの輝きは、登場時に皆
をアッと驚かせたものだ。私もこの「アルコン」には20回以上は乗っていると思うし、一
番好きなJTでもあった。
初めて乗車したのは登場間もなくの頃。当時はその名の通りホテルが一括買取りでスキー
のツアー客などに限定して発売していたので、乗車するには少々面倒であった。手にした
契約乗車券には列車名と席番が手書きで記入されていた。初めて見た第一印象は、何とも
渋いゴールドの車体に、今までの鉄道車両にはない感激を覚えた。さらに、先頭展望車部
分の6個に仕切られたフロントガラス。インパクトは十分だった。後に急行型気動車を改
造したJTは、基本的にこの「アルコン」スタイルが基になっているのを見ても、それなり
に“完成”されたデザインだったと思う。
車内に入ると、落ち着いた内装とダウンライトのお洒落な造りは好感が持てた。また、出
迎える乗務員や車内販売員も、ホテルの従業員のイメージで迎えてくれ、宣伝文句の通り
「列車に乗った時からリゾート」であった。このような統一イメージと従来の鉄道にはな
かった斬新なアイデアが受け、しばしばマスコミにも紹介されることに至って利用客が増
え、早々に「フラノエクスプレス」がデビューすることになったのは言うまでもない。
76おっさん:2006/07/01(土) 15:13:09 ID:8CURM874
「アルコン」の一番のアピールポイントはやはり一番前の“特等展望席”。従来客車のJT
では最後尾から線路を眺めることはできても、これから進む前の部分を楽しめるものはな
かった。だから「アルコン」の登場は、新たな鉄道旅行の楽しみを紹介してくれた車両だ
と思っている。私も何度も一番前の席をわざわざ指定して取り、“かぶりつき”を楽しん
だ。運転士の運転中の動作が上からとくと見ていられるのも新鮮だった。おのずと自分自
身が“そのつもり”になって、「出発進行!」「場内注意、制限45km/h」なんて信号歓
呼を一緒になって頭の中で呟いてみたり…、なんてあったと思う。ただ、メカ的には所詮
56系気動車からの使い回しなので、運転席の機器レイアウトは何ら旧態と変わりがないア
ナログ然としたものだった。また、運転上は「特急」扱いであったが、足の遅さには勝て
ず、スピードには目をつぶったということである。
その「アルコン」も好評に支えられ、中間に1両増結車が加わった。更にそれでも足らず、
次はキロ26が塗色だけ変えて加わり、究極はキハ56がこれも内装そのまま、これも色だ
けの塗り替えで加わり、最長6両で運転されたこともある。
その「アルコン」も種車の老朽化が進んだことと、スキーのブームが沈静化したことによ
る乗客減を受けてまっ先に引退した。最後は元のままの3両で「さよならアルコン」と名
打って多客臨として通い慣れた札幌−新得を走った。その本当の最終日の新得発の列車に、
私のプランニングで乗車する団体ツアーでお別れ乗車をした。東京のJR北海道プラザでの
み募集したので、小じんまりというか、私のお仲間が大半のツアーであったが、最後尾の
展望席の区画を丁度占めることが出来たので、それはそれで良かったと思う。
その後、長い間苗穂工場の構内に留置されていたが、結局片方は恵庭だったか牧場主?に
引き取られたという話を聞いた。ともあれ、大事にこれからも保管されていかれることを
願うばかりである。
77おっさん:2006/07/01(土) 15:13:46 ID:8CURM874
これは余談。その「さよならアルコン」ツアーの際、新千歳空港から札幌市内まではJR北
海道が所有していたボンネットバスをチャーターした。開拓の森への路線に使っていたバ
スで、今は小樽の手宮鉄道記念館(閉鎖中)で保存されいるものだ。このボンネットバス
が新千歳空港に直接乗り入れたのは最初で最後、大きな観光バスに挟まれて小さなボンネ
ットバスが迎えに来たのだから、皆の注目の的だった。さらに、札幌市内までは高速を通
らず一般道で向かった(高速はさすがにNG)。そして、札幌運転所に直接乗り入れて、た
またまその日にメーカーから回着したばかりの283系の第一編成を見せて頂くことができ
た。振り子を使って車体を傾斜させたり、「おおぞら」のLEDをわざわざ点灯して頂いた
りと、忙しい中サービスして頂いた。その帰り、札幌駅前のホテルまで戻る途中、夕方の
大通り公園をボンネットバスで一周してもらった。人がごった返す中での注目度は思いの
他大きかった。ガイドさんも、いろいろなバスのガイドをしたけれど、まさかボンネット
バスに乗ってガイドをするとは思ってもいなかった…と、苦笑いをしていた。
78名無し野電車区:2006/07/01(土) 22:28:39 ID:atu3grpv
おっさんの文章は実にいいよ。ここで読ませてもらえるのは楽しい。
だがそれだけじゃ勿体ない気がする。
そのうち何らかの形でまとめてみたら? サイトとか本とか。
79名無し野電車区:2006/07/01(土) 23:12:08 ID:y0wgJEj6
文章は実にいいなんて言っちゃいけないのかなぁ?すでにどこかで執筆されていたりして。
80名無し野電車区:2006/07/01(土) 23:23:49 ID:QURC+h0Z
おっさんには遠く及ばないが国鉄時代に育った鉄の漏れもアルコネタに便乗して。

アルコンはもともとがスキーシーズンにトマムへの輸送を行うための列車であったが
そうなると夏場は車輌が余剰となってしまい、一年の半分も遊ばせてしまうことになる。
そのため国鉄では夏場は編成の表記を「リゾートエクスプレス」と変えて、各地のイベント列車や
臨時列車に使用することにしたのですが、このことを覚えている方はいるでしょうか。

これにより、実際にはアルコン編成は道内の各線に入線してはいたのですが、
「アルコン」の名で入線した路線というのはほとんどなかったものと記憶しています。
そして、このような形で入線した路線でも、目的地についた後に折り返しや次の目的地へ向うまで
の合間を利用して、更に小口の臨時列車を運転したケースも見られました。
中には既存の普通列車に増結という形でイベント列車としていたケースもあったようで、
当方がアルコン編成に唯一実際に乗車したのもこのような列車でした。

(一旦送ります)
81名無し野電車区:2006/07/01(土) 23:24:19 ID:QURC+h0Z
(続きです)

そしてこの列車は通常の国鉄単独企画の列車ではなく、地元の百貨店などとの
タイアップ企画という形を取っていたようで、乗車券も通常の切符ではなく
「○○リゾートエクスプレス」のように、列車名の中にその百貨店名が入った
記念切符状の用紙に独自に印刷された、乗車整理券的なものでした。
どちらかというとこの列車、経済効果を狙ったものという類のものではなく
「珍しい列車が折角来るんだから乗りたいよな?だったらなんとか乗れるようにしてもらおうよ」
って感じで運転に漕ぎ着けた感じのする列車でした。
ですが、地元駅や車掌区、機関区にとっても滅多にないイベントであり、一種の祭り的な空気があったのか
あるいは元々国鉄が待ちに結構密着している感のある街ゆえの地域イメージ活動的な意味合いからか
これら部局のお偉方も列車にはズラリと便乗しており、こういった方々ともともと顔見知りだった当方は
ずっとこういった方々と話しこんでいた記憶があります。(ちなみに当時当方小学生だったと記憶しています)

なお、他地域での詳しい実態はわかりませんが、フラノエクスプレスでも旭川〜富良野で間合い運転を
通常の普通列車の大体のような形で運転していた記憶があります。
このときは確か、通常の国鉄券ではありますが特別な切符が必要でしたが、
あいにくと詳細は覚えていないのが残念です。
82おっさん:2006/07/02(日) 00:30:46 ID:vvCHy4pC
>>80>>81
「アルコン」の多客臨には私も良く乗りました。夏は「リゾートエクスプレス」として運転
されましたね。「リゾートおおぞら」「ペパーミントエクスプレス」なんていうのもありま
した。「アルファコンチネンタルエクスプレス」という“まんま”という列車名でも走りま
したが、当初はマルスで印字されたのは「ACE」と究極に短縮されていましたね。
それから、初期の頃にはそのような“現地アルバイト”もありましたね。私は「アルコン」
ではありませんが、「フラノエクスプレス」がデビューした時、富良野に着いて折り返しの
間合いで富良野−旭川を往復していた列車に乗りました。確か急行扱いで、硬券の専用急行
券が用意されていました。一般の人が「フラノエクスプレス」に乗車できる機会になりまし
たから、PRも兼ねていたんでしょうね。

あと、私の昔の思い出話を興味を持って読んで頂いている皆さん、ありがとうございます。
私は別にライターでも文筆活動も特にしている訳ではありません。ここに書いているのは、
本当に仕事の合間に思い付きで書いているだけです。私としては同じ時代を見て来たいろい
ろな方のお話も聞いて当時を思い起こしてみたいと思っているので、遠慮なくそんな話を読
ませて頂ければと思っていますので、どんどん書き込んで下さい。
それにしても、何で皆さん、北海道に話が片寄っているんでしょう? 若い頃は北海道は確
かに魅力のある地でしたけれど…。 読まれている方は北海道の方が多いのでしょうか?
83名無し野電車区:2006/07/02(日) 14:37:34 ID:lrWjpVt1
>>82
おっさんの発祥が宗谷本線スレなんだから、
そこからの追っかけが多いんだよ。
俺もその一人だけどw
84その1-1:2006/07/02(日) 18:40:17 ID:3ch3yvVi
いっつもおっさんにリクエストや感想レスばかりなので、たまにはわしもカキコを。
そうは言っても、その道の専門ではなく、ただ漠然と鉄道ファンになった中途半端な知識で申し訳ないが。

小生はオホーツク紋別の生まれで、紋別駅の隣、潮見町駅のすぐ近くで幼少時代を過ごした。
あの辺は坂の多い地形で、二階の窓からは海と名寄本線を、冬ともなれば流氷を見下ろせるという、
今にして思えば最高のロケーションだった。そのため、当時の風景は今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。

後で分かったことだが、各地でSLが次々と廃止された最中、道東は最後までSLが残った聖地でもあった。
子供の目から見たD51やC62は、問答無用に、無条件にカッコよく見える、男の象徴みたいなものだった。
小生は、煙と蒸気を上げて走るSLを、単なる鉄の塊ではなく、強くて早い生き物として毎日のように見続けていた。
子供の考えることだ、そのうち見ているだけでは飽き足らず、手を振ったり、潮見町駅を出発したばかりのSLと
競争したりと、段々やることがエスカレートして行った。

こんなアホな事を毎日やっているうちに、さすがに運転士さんも俺のことを覚えてくれるようになった。
俺が沿道で手を振ったり、競争を開始したりすると、運行上明らかに不必要な、憎い演出を提供してくれた。
それが「ボーーーーッ」だったのか、「ピーーーーッ」だったのか、ちょっと忘れてしまったんだが、
子供心にも、俺様専用の合図だということをしかと認識し、この上ない喜びを味わっていた。
小生にとって、SLが吐き出す煙は、決して不快なものではなく、心地よい香りであった。

たまに予定外の貨物列車なんぞが通過した日には、大喜びしたものだ。客車や貨客車はともかく、
貨物列車ってのは、とてつもなく長い。あの頃は、紋別でさえ30両くらいの貨物列車は当たり前にあった。
しかも種類が豊富。石炭、木材、化学品、郵便等々、そして最後尾の車掌車。小生は、普通の客車ではなく、
子供にとってある意味謎めいた、「車掌車」に異常な関心を抱き、将来は車掌車に乗って旅をしたい、という
わけの分からん野望を抱いたりもした。
85その1-2:2006/07/02(日) 18:42:04 ID:3ch3yvVi
小生の生い立ちは後にまた説明するが、生まれてから高校まで、鉄道が身近にあったため、乗り鉄というよりは、
見鉄の要素がかなり濃い、そんな鉄オタ的思考回路が自然と形成されていったのだと思う。

ガキの頃、小生が勝手にイメージしていた駅の映像は、だいたい以下のようなものであった。

潮見町駅=俺の駅。主に紋別北高の生徒が通学用に使っていた。そのため、朝と夕方以外は、いつ行っても
          他に客はいなく、また、踏み切り近くのホームだけの乗降場という作りだったため、子供の遊び場としては
          最適だった。
  紋別駅=いつ行っても人大杉な都会の駅。今では見る影もないが、200海里規制前の紋別駅とその周辺は、
          本当に栄えていて、町には人が溢れていた。駅から港に向かって、下り坂の道路が一本伸びていて、
          これが今でも、紋別市内唯一の二車線道路なのだ。かつてそれだけ栄えた歴史の証でもある。

そして、渚骨駅について語りたい。かつて渚骨は、独立した村であった。その渚骨村を基点として、滝ノ上方面に
渚骨線が伸びていた。後に渚骨村は紋別市に吸収され、今では「紋別市渚骨町」となっているが、紋別の年配の
方々にとっては、今でも渚骨は隣の村という印象が強く、沿岸の市町村を順番に言わせたら、
「紋別、渚骨、興部、雄武」という回答が帰ってくる。鉄道の路線に「渚骨」の名残があったのは、このためである。

そんなわけなので、渚骨駅のデビューは、まさに村のランドマーク的存在であり、後に乗り換えの駅として、
更なる発展を遂げる事となる。残念ながら、10年ほど前に、旧渚骨駅は解体されてしまったが、廃止後もしばらくは
残されていて、木造二階建ての威風堂々とした造りは、他に類を見ないものであった。

小生の幼少時代に話を戻したい。ある日の夕方、親父の運転する車で、興部まで行くことになった。
その途中、渚骨駅を通過する。ここで、当時の渚骨駅周辺を記憶だけで図解してみる。
86その1-3:2006/07/02(日) 18:45:49 ID:3ch3yvVi
                                               |  |↑上り坂
←紋別、遠軽方面(名寄本線)                            |  |        (渚骨線)滝ノ上方面→
        ______________________ |@| _______________
─────┤渚骨駅├─────────────────‐ |A| ───────────────
          ̄ ̄ ̄ ̄                               | │   (名寄本線)興部、名寄方面→
                                           | │
──────┘ └───────────────────┘ |
 ←網走方面      R238       興部、稚内方面→          │
_________________________        |
                                       \     |
                                        │ ※ │
87その1-4(終わり):2006/07/02(日) 18:47:16 ID:3ch3yvVi
渚骨駅から暫くは、名寄本線と渚骨線との複線となり、それから徐々に二つの区間が離れていく。
@Aは踏切で、それらは10mほどしか離れていないのに、それぞれ独立して踏み切りが開閉していたのが特徴。
子供の頃は、@=余り開閉しない踏み切り、A=よく開閉する踏み切り、と勝手に認識していた。

いつもは普通に渚骨駅を通過するだけなのだが、この日はたまたま図の※印のところで一旦車を止める事となった。
いまだに思い出せないのだが、時間にして数分は停車していたので、おそらく親父が公衆電話か何か使ったため、
と思われる。子供にとって数分は長い。俺は車を降り、何気なく踏み切りの方を見上げていた。

するとどうだろう、いつもは片方しか閉じない踏み切りが、@Aとほぼ同時に降りたのだ。そして、渚骨駅から二両のSLが、
並走してきたのだ!それまで汽車というのは、どんなに長い貨物列車でも、「一本」という認識だったから、
それが「二本」並んで走るという、アンビリーバボーなシーンを目撃したのだ。あのシーンは、今まで見たSLの中で、
最もインパクトの強いシーンとして今でもはっきりと覚えている。

(参照)http://aaabbbccc.s6.x-beat.com/upload/src/up8547.jpg
88おっさん:2006/07/02(日) 19:32:37 ID:vvCHy4pC
>>84〜87
いつも感想を頂いていた貴殿は紋別の方でしたか。紋別は名寄本線が走っている時よりも、廃止
された後によく行きました。「ガリンコ号」が初めて運航を開始した時から毎年、決まって冬の
流氷のシーズンの頃に訪れていました。確かに言われてみれば、片側二車線の道は駅から港へ続
く道しかなかったと改めて思い出しました。
幼少時代、男の子は電車や車など“動くもの”に興味を持つのは普通ですが、身近に鉄道がある
とそれが増長されますね。私も小さい頃は横須賀線と京浜急行の線路際だったもので、貴殿と同
じように、毎朝ラジオ体操が終わった後、横須賀線の線路際に行って手を振るのが日課となって
いました。その時やって来るのは横須賀方面への回送電車だったのですが、毎日手を振っている
うちに手を上げてくれる運転士やタイフォンを軽く鳴らしてくれる運転士が多くなってきました。
それで、だんだん電車に興味を持ってきたという訳です。
ところで、いつだか宗谷本線のレスにもありましたが、普段別々の線の別々の踏切が同時に閉ま
って、同時に別々の列車が併走してくるシーンはやはり興奮しますよね。単なる立体交差でも偶
然列車同士が交差すれば何かときめいてしまいます。あと、変換ミスだと思いますが「渚骨」は
「渚滑」ですよね。
89おっさん:2006/07/02(日) 22:50:30 ID:vvCHy4pC
私が旅行を始めたのは中学卒業の時。「南近畿ワイド周遊券」を手にして出かけたのが最初
だった。その旅行を「1番」として、以来現在まで克明に乗車記録を付けている。もともと
好きなものには几帳面な性格(でもA型ではなくB型だ。B型は興味を持ったものには徹底
的にこだわる)で、綿密に予定をノートに書き、乗車車両までしっかりメモを取り続けた。
それが現在まで旅行回数は1133回になった。それ用に延々と昔から専用で使っている「コ
クヨ」のポケットノートはもう100册近い。
その旅行番号「1番」は南近畿に出かけたのだが、いろいろ“訳あり”の旅であった。
出発は3月13日の金曜日! 偶然の一致だったが、その不吉な出来事は早々の東京駅で早
くも起きてしまった。予定では「銀河2号」(当時はまだ偶数、奇数の区別はなかった)で
名古屋に向かう予定だった。友人と待ち合わせして東京駅で列車を待っていると、いきなり
構内放送で呼び出された。「何だ?」と駅事務室に行くと、「お客さん、周遊券持っている?」
といきなり聞かれた。ポケットに入れた覚えがあるので、コートのポケットに手を入れた。
「…あれ? ない!」初めてその時に紛失している事に気がついた。すると駅員さんが身元
を確認して間違えがない事を納得するとどこかに電話をかけた。そして、「前の『銀河』の
車掌さんが持って行った。横浜で駅員に預けるから、先に横浜まで行って受け取って下さい」
と言われた。やれやれ、出だしから何というドジ! 友人を残して私は横浜へ急ぎ、目出た
く周遊券を手にして横浜から「銀河2号」に乗った。
それにしても、何で私の周遊券とわかったのだろう? 後で手にして改めて眺めてみたら、
当時周遊券には表紙が付いていて、きっぷを包み込むように綴じてあった。その裏の部分に
名前を書く欄があり、暇に任せて住所と名前を書き込んでいたのだった。お陰で無事すんな
り戻って来たという訳である。
90おっさん:2006/07/02(日) 22:52:51 ID:vvCHy4pC
翌日は関西本線の加太に撮影に行った。加太−中在家信号場の間にある大きな築堤は、今で
も有名な撮影地である。当時はD51の貨物が前と最後尾に2台付いて急勾配を押し上げてい
た。トンネルの煙対策で編成の前後にSLを付けるという形になったと聞いたが、これはこ
れで迫力もあった。SL列車は1時間に1〜2本程度走っていたが、当日は時折雪が舞う寒
い1日だった。築堤を吹き上がる伊賀下ろしの風が身に凍みる。それでも、それなりの枚数
を稼いで夕方近くまで粘った。
夕方、亀山の駅で友人と夕飯を食べている時、友人が「もう、帰ろうよ」と突然言い出した。
どうもこの寒さで参ったようである。しかし、私にとっては初めての遠出。しかも、SL撮
影などより“重要な目的”があった。初めての中学生同士の旅という当時は一般的ではなか
ったことだったので、両方の親に「単独行動は絶対にダメ」ときつく言われていたのだ。だ
が、私としては一緒に帰る訳には行かない。結局話し合いは平行線。最後は「じゃあ、勝手
に帰れよ」と、半ばケンカ別れみたいになって亀山の駅で別れた。
そしてこの先は本当の初めての「一人旅」になった。しかし、不安などどこにもなかった。
さんざん時刻表で乗る列車や行く先など確認済みだし、見知らぬ土地と列車に乗れるそれだ
けでわくわくしていた。奈良から天王寺まで乗ったキハ35の快速の寒さに耐えた1時間も
強烈な印象だった。天王寺からは初めて1人で乗る夜行、「きのくに」である。それでとり
あえず新宮まで行った。
翌日はすぐ折り返しの「きのくに」に乗って再び天王寺方面に向かった。初めて見る南紀の
海の青さは、地元の神奈川の逗子、江ノ島の海とは全く違って見えた。その「きのくに」で
和歌山の1つ手前、海南で降りた。
この海南で降りたのが今回の最大の目的だった。SL撮影など表向きの理由、この海南に来
たくて出て来たのだ。
91おっさん:2006/07/02(日) 22:53:21 ID:vvCHy4pC
実はこの海南に卒業する直前、3学期が始まってすぐクラスメイトの女の子が突然転校した。
その子は私にとって初恋の人だった。しかし、ふだんはオクテの私には気軽に話もできずに
じっと見ているだけの純情少年だった。突然の前触れ無しの転校は、今考えれば、もしかし
たら夜逃げか離婚だったのか。朝来ていきなり今日から来ないと言われ、ショックは尋常で
はなかった。後日、ようやく居場所が黒板に書かれた。住所だけであるが。それを“暗記”
して家に帰った。居ても立ってもいられず初めて女の子に手紙を書いた。返事は来ない。仕
方がないのでまた書いた。でも来ない。また書いた。来なくても何度も書いた。1週間に1
通から3日に1通、最後は毎日になった。電話がなかったから手紙しか伝える術がなかった。
毎日受験勉強もそこそこに手紙を書くが、1通も返事は来なかった。それでこうなれば実行
あるのみ!となって、SL撮影を表向きに“初恋の人に会いに行くぞツアー”を企てたのだ。
今考えればこれはまさしく「ストーカー」だな。まぁ、友人にも言っていなかったから、帰
ってくれたのはむしろ都合がいい。邪魔されずに済む。
初めて降りた見知らぬ街。もちろん右も左も分らない。まだ野上電鉄というローカル私鉄が
健在だったけど、それには興味を示せなかった。興味は唯一の手がかりの住所だけである。
本屋に入っておおまかな場所を確認し、あとは人に道を尋ねながら探す事1時間余り、ウロ
ウロするので「何探してんの?」と不審に思われて声もかけられた。でも、ようやくそれら
しい家を見つけた。表札はないがここに間違えない。やっと見つけた女の子の家。精一杯の
勇気を出して玄関のドアを開けた。「ごめんください」
…これが私の旅行番号「1番」の旅だった。
92名無し野電車区:2006/07/03(月) 00:36:02 ID:ZrzS9lnF
「ごめんください」の後はどうなったのでしょうか?奥様になられたのでしょうか。
気になってしまいました。
93おっさんファン:2006/07/03(月) 07:21:24 ID:UlfT4NyT
おっさん、いつも面白い話をありがとうございます。

若手の俺には参考になりますので、これからも続けてくださいね。
94おっさん:2006/07/03(月) 21:37:06 ID:kgh/RdP5
>>92
その後…ということだけど、その時は意外に家族ぐるみで歓迎してくれた。翌日は憧れの彼
女と初めてデートもした。帰りに乗った列車の牽引機はC57 7。このSLが横浜で再び高島
線を走るとはこの時は夢にも思わなかったし、それを見た時は驚く他なかった。
それから長い休みごとに旅の帰りに立ち寄るようになった。手紙も届くようになった。今の
人たちの理解している“付き合う”とはずいぶん違うプラトニックな付き合いだったけど休
みごとに行った。一緒に入試を受ける東京の大学の下見にも行った。しかし、互いに希望し
た大学には受からず、彼女は関西の大学に進学した。貧乏大学生の分際では遠恋は所詮成り
立たず、それ以来自然消滅してしまった。
そして何年か経ったある秋の日、和歌山に立ち寄った折に久しぶりに彼女の家に電話をかけ
た。明るいお母さんが出て言った。「あら、久しぶりね。うちの○○○、先週結婚して東京
に行ったんですよ」
電話番号を教えてもらったけど、かけることもなく再び年月が経った。ある時、同窓会を行
うことになり、その連絡のため初めてその電話番号にかけた。懐かしい彼女の声。でも、そ
の後ろで赤ちゃんの泣き声が聞こえていた。
その海南に何回か行った時、野上電鉄の電車にも何回か乗った。この電車、一時半年だか1
年だか経営難で運転休止をしていた事もあった。彼女の家がこの沿線に引っ越したこともあ
って、線路の上を歩いて最寄駅まで行った事もある。「重根」と数学に出て来るような知名
だが、これで「しこね」と読む。ここが彼女の最寄駅だった。電車が通らなくなって赤錆び
たレールの上を歩くのは妙な感じだ。始発の海南駅に隣接した野上電鉄の駅はそこの地名を
取って「日方」と呼んでいたが、ここには古い電車が集められて眠っていた。聞く所によれ
ば、大半が阪神電鉄のお下がりということである。日方の駅といい、電車といい、昭和の初
めにタイムスリップしたよう鉄道だったのを覚えている。
野上電鉄はその後、奇跡的に復活したものの、結局長続きはせず廃止になった。終点の登山
口まで乗ったのは1回きりだった。
95名無し野電車区:2006/07/04(火) 00:09:06 ID:fJyMPVlB
恐縮です、おっさん殿。興味本位に近い気持ちで「この後は」と聞いてしまったものの、
これほどドラマチックな展開が待っているものとは全く思いませんでした。目頭が熱
くなりました。しかし、これほどまでに鉄道の旅が人生に深くかかわっているとは、
羨ましく思います。お話ありがとうございます。
96おっさん:2006/07/04(火) 05:20:58 ID:/Kl+JNde
まあ、“初恋は実らない”というのが俗説だし、こういうホロ苦い思い出など誰にでも1つや2つ
あるのではないかな。そんな人様に言うような話でもないのだが、ついつい“流れ”で書いてしま
った。流れついでに書けば、私のお付き合いした女性は何故か“遠恋”だった。旅先で知り合うケ
ースが多かったから、どうしても遠くなってしまった。だから鉄道と絡みが深い。
「青葉城恋唄」が流行っている頃、「ひばり」で往復した。「シンデレラエクスプレス」が話題に
なる頃、神戸まで往復した。長短入れれば、多賀城、河内長野、神戸、北九州、近くても桐生だっ
た。最近は行きつけの飲み屋のお姉さんに一目惚れして旭川まで飛行機で往復した。
で、今の奥さんは宇都宮である。今までで一番近い所の人だった。旅行した気分にもならない普通
の電車の往復だからつまらなかったが、今までほとんど縁のなかった東武の電車に馴染みができた。
吊り掛け5050系電車にハマって東武を使う事が今でも多い。
97池原あゆみ39ちゃい:2006/07/04(火) 05:54:03 ID:ZrOA8Ynx
荒らし防止のためのさげなんですね。

それではおさ〜んの思い出話をやりましょう。

76年夏、小学校4年生の池原あゆみちゃんは、
クラスメイトと何度も浜寺プールへ行った。
天王寺から鳳まで阪和線、鳳から東羽衣までは阪和線羽衣支線を利用である。
当時の阪和線では、新快速が最優等列車(急行以上は単独行の小学生とは縁がない)で、
天王寺〜和歌山の途中停車駅は鳳のみ、阪和間は45分で走っていた。
あの時代のあの新快速ブルーライナー113系こそ、
113系が最も美しく輝いていたといっても過言ではない。

しかし、新快速の天王寺始発は9:20で、プールの開始時間には間に合わない。
そこで毎回乗っていたのは、70系や3扉・4扉ごちゃ混ぜの旧型国電であった。
70系はセミクロスなのでまだ「萌え」であったが、
72系は、国鉄史上空前絶後の「萎え車」であり、
当時の小学生の目にも「サイテーの電車」と映っていた。
当時、関西の私鉄では、阪急6000系や近鉄8600系など、
現在でも古さを感じない車両がピカピカで走っており、
その落差はそのまま当時の関西における私鉄と国鉄の格差を物語っていた。
まだ76年大幅値上げの前の話である。こどもの初乗り\10の時代だが、
当時の小学生にも、
「国鉄は商売ではないから車両の質は悪いんだ」と認識できたものだった。
98おっさん:2006/07/04(火) 07:21:11 ID:/Kl+JNde
>>97
先述の海南からの帰りには和歌山からその113系の新快速「ブルーライナー」によく乗った。
和歌山−天王寺に特急を使う時代でもなかったから、急行より速い新快速はワクワクした。
あの塗色も気に入って、当時TcM'MTsTbM'MTcの編成で揃えていたHO模型の8両の153
系を、何の躊躇いもなく塗り替えたものだ(“捻出”したTsは実車と同じようにサロ112
に格下げして113系に組み込み、Tbは“休車”となって現在も眠っている)。
阪和線はほとんど天王寺−和歌山の乗車だったから、余り73系などには乗らなかったが、
70系の区間快速にはたまに乗車した。70系は横須賀線で幼い頃東京に出かける時などよく
利用したので懐かしさもあった。しかし、今考えると、あの狭いクロスシートでよく我慢し
て乗っていたと思う。
99名無し野電車区:2006/07/04(火) 11:23:20 ID:TX9BoirQ
おっさん「sage」はしたほうがいいよ
100その2-1:2006/07/04(火) 18:31:08 ID:g3Nwwvel
>>88
うはwww恥ずかしいミスをしてもうたです、ハイ、「渚滑」が正解です。幼少期に、身近に鉄道があったという点は
おっさんと共通していますが、小生の場合は、もっと違う理由があって鉄オタになったので、続きを書きます。

幼稚園まで紋別で過ごした後は、親父の仕事の都合で札幌へ転勤することとなった。
その移転先が、苗穂であった。鉄道ファンに対して、「苗穂」については、もはや説明不要であろう。
我が家のすぐ近くには、広大な苗穂工場があり、ここに住めば鉄道ファンじゃなくても、見たこと無い新旧の車両に
目を奪われ、自然と鉄道への関心が深まること間違い無いだろう。

小生は、小学校〜高校までの12年間を、ここ苗穂で過ごした。苗穂工場以外にも見所が沢山あった。
昭和初期に建てられたと思う、木造平屋の国鉄職員用住宅、赤レンガの札幌ビール工場、旧フルヤ製菓等々、
周辺はまさに「香ばしいかおり」が漂う、ちょっとした巨大探検スポットであった。ただ、どちらかと言えば、
フルヤ製菓から漂う甘〜い香りよりは、苗穂工場から漂う、鉄の焼けた匂いや、油の匂いの方がお気に入りだった。
小学校の夏休みともなれば、友達とチャリをあちこち飛ばして、日が暮れるまで遊びに夢中となっていた。

中でも最も興味をそそったのが、「正体不明の引込み線」である。航空写真で上から見れば、
どの線がどんなRを描いているのか、一目瞭然だが、ガキが行動するのは道路が基準だから、
その視点からすれば、正体不明の引込み線はまさにミステリースポットへの入り口であった。
101その2-2:2006/07/04(火) 18:32:53 ID:g3Nwwvel
すぐそばの本線は、ひっきり無しに列車が行き交うのに対し、引込み線を列車が走る光景には、
ほとんど出くわした事がない。それどころか、もう何ヶ月も放置されたであろうコンテナ車まであり、
それがレールの上にポツンと一人寂しく停止している様は、子供心に哀愁を誘うシーンであった。

さて、その引込み線だが、好奇心旺盛な小学生が黙っているわけがない。列車が通ることは滅多にないから、
ここは安全だと勝手に解釈し、いよいよ線路歩きを決行する時が来た。よく手入れされた本線と違って、
レールは赤く錆び、雑草が生えている。たったこれだけの要素でも、子供にとっては非日常空間なのだ。
小生とその仲間は、みんな勝手に妄想を膨らまし、機運を高めている。当時流行っていた、SFアニメの
秘密基地みたいなものがあるとでも思ったのだろうか、とにかくみんなワクワクドキドキしながら、
線路の上を歩いていったのを覚えている。結局、引込み線のゴールは、地味な工場や運送会社の隅とか、
そういう冴えない場所にたどり着いてしまい、夢破れ、帰りはえらく意気消沈してしまったことを思い出す。

ちなみに、不法に私有地に潜入したにも関わらず、大人から注意を受けたことは、一度もなかった。
我々の姿は、まず間違いなく目撃されていたであろうが、そういう探検ごっこも必要悪として、
大人は黙認してくれたのだと思う。大らかな時代であった。
102その2-3:2006/07/04(火) 18:34:29 ID:g3Nwwvel
小生が鉄オタならしめた具体的要素は、三つあると自負している。紋別で毎日見ていたSL、苗穂工場と
周辺の引込み線、そして以下に記載する、あるテレビ番組が、運命を決定づけた最たるものであると思う。

あれは1983年だっただろうか、何気なくNHKを見ていたら、北海道の廃線をトロッコ列車が走るという。
あの当時の国鉄は、廃止になった区間が極めて少なく、廃線自体が珍しい存在であったのに加え、
そこを人力トロッコ列車が走るなんて、これは面白そうな企画だと、ブラウン管に釘付けになった。

その廃線とは、厳密に言えば「部分運休」扱いだったため、建前上は将来復帰する可能性有り、
とされていたので、レール等はきちんと残されていた。もっとも、運休後は保守点検を一切していなかった為、
普通の列車が通るには危険が伴うと判断された為、人力のトロッコ列車が用意された。

ここまで書けば、大半の北海道の廃線ファンは、どこの路線のことか分かると思う。そう、廃線の聖地、
士幌線の糠平〜十勝三股 の区間のことである。戦前の構想では、十勝三股からさらに北上し、
はるか上川で合流するという壮大なプランも有った。運休決定当時は極めて低いとは言え、このプランが
実現する可能性はゼロでは無かった。これが廃止を逃れ、部分運休扱いにさせた大きな要因の一つである。
103その2-4(終わり):2006/07/04(火) 18:36:06 ID:g3Nwwvel
さて、その番組で今でもはっきりと覚えているシーンが幾つかある。一つは、例の石造りの橋をトロッコが
通過するシーン。小生は、まず橋脚そのものに目が釘付けとなった。古代ローマの建築物を思わせる、
およそ日本の近代建築とはかけ離れた、独特な造り。その橋が大きな弧を描き、圧倒的な存在感を放つ一方、
緑濃き山々の風景と素晴らしく美しくマッチしている。小生は、こんな景色があったのか!!
と、ただただ見とれるだけであった。

ゴールは十勝三股駅。既に殆どの住民が去ってしまい、残っているのは2世帯6人だけという。
あの当時、既に炭鉱の閉山や、若者の農業離れ等で、道内の至るところで過疎が進行していたことは
知っていたつもりであるが、「2世帯6人」という具体的な数値を伴って実際に映像を見ると、
寂しさを通り越して、何か得体の知れない危機感に包まれた記憶がある。

この番組の後、北海道では本格的に赤字ローカル線の廃止が相次ぎ、小生の脳内には、次々と廃線が
インプットされていった。そのため、古い方の「十勝三股」という名は、しばらく忘れてしまったのだが、
あの石橋をトロッコ列車が渡るシーンと、2世帯6人という集落がある、ということは辛うじて記憶に留め、
他の廃線ともども、いつか行ってみたいという、漠然とした希望を抱いていた。
104おっさん:2006/07/04(火) 22:02:28 ID:/Kl+JNde
引込線の話が出てきたが、自分の小さい頃(といっても、小学校高学年から中学まで)住ん
でいた所は、前にも書いたように横須賀線と京急の近く…と言ってしまえば近場の人は大体
想像が出来てしまうけど、逗子に住んでいた。
ここには引込線と言うか、今でも東急車両との車両搬出用に、横須賀線の逗子から京急逗子
線の神武寺(じんむじ)まで連絡線が延びている。京急金沢八景駅近くにある東急車両で新
製した車両はこの連絡線を使って逗子でJRに引き継がれるのだ。京急は標準軌だから、神
武寺−金沢八景の上り線は三線軌道になっている珍しい区間でもある。
だが、この連絡線は逗子から京急と交差する辺りで左に折れ、短いトンネルをくぐり踏切を
越えて神武寺の上りホームの“ウラ”に続いているが、この踏切と神武寺の駅の間はアメリ
カの接収地の敷地にあり、一般の人が立ち入れなかった。でも、車両はこの接収地の中に迎
えのDD11、12(現在はDE10)が来るまで留置されていた。出来たての457系、583系が
鉄条網越しであるが、ナマでいち早く見られるのには興奮したものだ。
その連絡線は1日1回程度しかDLが走らないため、普段から学校への隠れた“通学路”でも
あった。しかし、踏切の先、硬いガードに守られた奥には、車両を留置しておく測線が2本
ある他にポイントがあって、一本の線路が左に緩くカーブして秘密の奥地へと続いていた。
ここの近くにも別の接収地があって、そこは年に1回一般に解放されていたが、そこだけは
1度も解放されなかった。この先、深い山の森の奥に続くのが、開発話で社会問題になった
「池子の森」である。昔、日本軍の「池子弾薬庫」として一般の目に触れることもなく秘密
裏に使用され、そのために現在まで自然のままで残る貴重な敷地なのだ。先程の森に向かっ
て延びるレールは、その弾薬などを運び出す際に使われたのだと思う。
私にとっては、この逗子の住まいと、後に移り住んだ鶴見で新鶴見操車場が近くにあった事
が、鉄道にのめり込む大きな要因になったのだと思う。それに加えて、知識の豊富な友人と
知り合い、基本のイロハから知識を教え込まれたことであろうか。
105おっさん:2006/07/04(火) 23:18:48 ID:/Kl+JNde
今日は10系寝台車の事を書いてみよう。
ここで言う「10系寝台車」とは、タネ車の台枠や台車を利用して生まれたスハネ16なども
入れての事なので、「急行用寝台車」と表現した方が適切かも知れない。
私がこの10系寝台車に初めて乗車したのは、高2の春、九州へ初めて行った時だった。10
系寝台車に初めて乗るというより、寝台車に初めて乗ったのがこの時である。列車は急行
「みやざき」。後の「日南」の前身で、門司港−西鹿児島を日豊本線回りで結んでいた列車
だ。現在の「ドリームにちりん」も、元を辿ればこの列車になる。末端の宮崎ー西鹿児島は
普通列車として運転していた。
初めて乗る寝台車。少しでも長く乗りたいと、始発から乗ろうと予定を組んだが、どうして
も時間が合わない。何せ初めての九州、乗りたい線や列車は山ほどある。下りの門司港から
乗車するのは無理なので、上りに乗る事にした。しかし、西鹿児島発は19時台と早い。いろ
いろ悩んだ結果、少しでも長く乗りたいと霧島神宮から乗る事にした。
夜の霧島神宮駅。時計は21時少し前である。昼間なら駅名にもなっている霧島神宮への人た
ちもいるだろうが、人の姿は全くない。駅だけが煌々と灯りがついているだけだった。ホー
ムに上がると早春の冷気が身に凍みる。宮崎方の出発信号機の緑の輝きがレールを照らす。
シーンと静まり返った山の中の駅にやがてDF50独特の低音の腹にしみるエンジン音が近付い
て「みやざき」はやって来た。
106おっさん:2006/07/04(火) 23:19:46 ID:/Kl+JNde
指定された寝台車に乗車する。車両はオハネ12 71。車内に初めて入った時、カーテンばか
りが目に付いた。そしてその隙間から小さな豆電球が灯っているのが覗けた。「寝台車って
こうなっているのか」と上段、中段、下段と人のいないのをいい事に隅々まで眺めた。
そして自分の寝台を見つける。指定されたのは中段だった。その初めて自分にあてがわれた
ベッドは余りにも狭かった。まず荷物をどこに置いたらいい? 浴衣はあるけど、この狭い
空間でどうやって着替えろというの? 頼り無気なロープ2本で落ちないのか? …なんて
途端に不満が出たものだ。
「走るホテル」と、当時も高嶺の花だった20系ブルートレインの乗車意欲を掻き立てる室内
の写真とはかなり状況は違っていた。寝台幅は同じなんだけど、上下の間隔が驚く程狭かっ
た。
それでもベッドに潜り込み、カーテンを引っ掛ければ、何かわくわくしてくる。カーテンを
引いたとはいえ、ヨレヨレのカーテンでは上の“たるみ”からモロに覗かれる。中段は丁度
目線にあった。何か取って付けたような造作のないベッドランプのスナップスイッチをパチ
ンパチンとやってみたり、いろんな格好で寝てもみた。試しにロープに体を少しずつ預けてみ
たりもした。自分1人の貸切だった車内も、都城、宮崎と停車してそこそこ埋まった。私は
緊張してカーテンの中でじっと息を潜めていた。着替えはとうとう最後までできなかった。

107おっさん:2006/07/04(火) 23:20:23 ID:/Kl+JNde
今度は旅も手慣れて来たある冬の夜。上野から急行「鳥海」に乗った。今夜は下段を取った。
もう10系寝台も、他の寝台も何度も乗っているので、寝るまでにする事はわかっている。別
にどうということもないので、翌朝から始まる東北旅行に思いを馳せていた。
乗車したのはオハネ12の2000番台。そう、電気暖房の車両なのだ。真冬なので暖かい車内
は実に心地よい…って思えたのは最初のうちだけだった。次第に足下の暖房が暑いくらいに
なって来て段々寝苦しくなって来た。そのうちベッド全体が熱くなってきて、もうとても寝
ていられる状態でなくなってきたのだ。まるで“カチカチ山”状態なのだ! やむを得ず、
掛け布団を“下に敷き”、そして上にはコートを被った。それでも何度も何度も寝苦しさか
ら目が覚め、散々な一夜になってしまった。このことがあってから「金輪際冬場には下段に
絶対乗らない」と思って、今でも通常であれば寝台は上段にする。上段なら人とのかかわり
合いも気兼ねもしなくていいし、荷物も置けるからだ。

でも、10系でも良い事もあった。窓が開く事である。朝起きて窓を下げる。全開にすると丁
度窓の把手が手を乗せるのにしっくりいって案配がいい。爽やかな朝風に吹かれながら終着
駅を目指すのは10系寝台ならではだ。「利尻」であの抜海を出た所の利尻富士のパノラマを、
窓に体を預けて眺めるのは格別だった。

何だかんだとはいえ、昔はさんざんお世話になった寝台車である。今は横川の鉄道村でしか
当時を偲べないが、この10系寝台車が連結された急行が日本全国を走り回っていた時が華や
かな鉄道の時代だったのかも知れない。
108名無し野電車区:2006/07/05(水) 08:21:06 ID:0ixcwHLl
おっさん、よっぽどやることないんだねえ。かわいそう。
109おっさん:2006/07/05(水) 23:01:51 ID:RxlKEu6T
同情されなくても、やることは沢山あります。ここに書くのは“やること”が1つ増えた
だけのことですから。それに、この程度の話をするのに20〜30分もあれば十分です。仕事
の合間、仕事が終って寝るまでの間でやっていますから大丈夫です。
仕事も乗り鉄も今でも精一杯していますし、暇を持て余して、誰かの気を引きたくてここに
来ている訳ではありませんから、どうぞ御心配なく。
110名無し野電車区:2006/07/05(水) 23:49:58 ID:6qDMQ2/x
>>108みたいな挑発じみた書き込みなんか無視してどんどん好き勝手に書き込んで下さい。
私もおっさんの書き込みを楽しみにしている一人ですよ♪
111紋別で生まれて苗穂で育った人:2006/07/06(木) 00:31:01 ID:wivlNhO0
禿同。
おっさん、荒らしは「無視」に限ります。
112名無し野電車区:2006/07/07(金) 00:21:36 ID:SUJ6a9C7
>>109
おっさん、そういうコメントは無しでスルーすることを覚えようや。
>>109-110の言うとおり

んで、なんか北の方ばかり多いようだが、関西以西はないの?
113その3-1:2006/07/07(金) 00:58:33 ID:Ba9JTywr
小生は、高校までを札幌の苗穂で過ごした後、旭川の大学へ進学した。在学中はここを拠点に、あちこち
廃線めぐりをした。と言っても、今でこそ廃線探索は、一般的な趣味の一つとして認識されているであろうが、
あの当時は、廃線探索する人=キチ○イみたいな、極めてアンダーグラウンドな匂いが漂っていたものだ。
そのため、仮に写真を撮っても、それを現像に出すこと自体に、何か罪悪感すら感じていたので、
また、単なる貧乏学生であったため、写真を一枚も撮っていなかったことが悔やまれる。

車を買ったばかりのDQNな十代が、舗装道路から回るのは自然の摂理であろう。あの当時、旭川から
舗装道路を通って探索した廃線は、名寄本線、興浜南線、渚滑線、湧網線、相生線、羽幌線、胆振線等であった。
そのうち、車の運転技術も向上し、砂利道を攻めてみたいと思うようになった。

あれは1990年の事だったと思う。旭川から石北峠を目指し、そこから南下して、悪路の三国峠を通過した。
そして、峠を下って最初に目にした廃駅が、件の十勝三股であった。小生は、記憶の奥底から、「十勝三股」の
名を思い出すのに少々の時間を要したが、現物を目の当たりにし、断片的な記憶の点が、線で繋がった。
旧十勝三股駅の圧倒的な存在感はどうだ。レールも、切り替えも、全て残されている。残念ながら駅標は
すでに無かったが、雑草に埋もれて赤く錆びたレールの上に立つと、今にも列車がやって来そうな雰囲気ではないか。
1983年に見たNHKの番組の映像が、次々とフラッシュバックされてくる。小生は飽きることなく、周辺を歩き回った。
114その3-2(終わり):2006/07/07(金) 00:59:51 ID:Ba9JTywr
前述の通り、士幌線 糠平〜十勝三股間は1977年に、復旧を前提とした運休扱いだったため、レールは残された。
その後、レールは撤去不可能なくらいにまで、雑草に覆われた。一方、糠平〜帯広間は純粋な「廃止」だったため、
レールはすぐに剥がされた。先に(事実上)廃止となった区間のレールが残され、後から正式に廃止となった区間の
レールが撤去されたとは、何という皮肉であろうか。

この士幌線ならではの数奇な運命がすっかり気に入り、その後も何度かここを訪れている。終着駅の十勝三股には
特別な愛着があったが、途中の幌加駅もなかなか良かった。そして、車道からかすかに見える、
数々の石造りのアーチ橋。あの頃は、遅かれ早かれ、これらの橋も解体されるか自然崩壊するのだから、
しっかりと記憶に焼き付けておこう、と思ったものだ。その後、まさか保護管理されるとは、全く予想していなかったが。
115名無し野電車区:2006/07/07(金) 13:05:15 ID:WTkx9wcg
おっさん「sage」を覚えたほうが、荒らしが来なくていいと思うよ
116おっさん:2006/07/07(金) 22:36:33 ID:uM42ur0q
>>112
関西以西はないの?…ということだけど、加太や海南、布原や「高千穂」「みやざき」など
の話は書いたと思うけど。北海道は私も月に1〜2回は行っていた事もあるし、学生時代は
夏休みに毎年のように半月以上歩き回った経験があるからそれだけ話も沢山ある。でも、全
国津々浦々行っているから、別に北海道に限らず話は沢山出て来るので、追々書いて行こう
と思う。
…で、「関西」という事で思い出に残る話を考えてみた。いろいろあるけれど、今の季節な
らではの話をしよう。

一昔前まで「夏の時刻表」といえば、帰省の臨時列車と共に全国で数多くの海水浴列車が載
っていた。特に房総地区のように、わざわざ「夏ダイヤ」と称して夏の1ヶ月程度のダイヤ
を特別に組んで、海水浴客輸送をしているところもあった。関西も夏場となれば京阪神から
若狭、丹後、但馬、山陰、紀伊半島に向け、海水浴列車が百花繚乱のように走り回っていた。
私はある時期からマルスで発売できる定期列車はもちろん、臨時列車もできる限り乗車する
ことを始めて今でも継続している。その対象となる列車は始発から終点までマルスで印字さ
れたように乗る事だ。当時は従って、夏といえばこの北近畿の海水浴列車をどう乗り潰すか
連日時刻表と首っ引きで計画を練ったものである。古くは「わかさビーチ」「はしだてビー
チ」「丹後ビーチ」「但馬ビーチ」など「○○ビーチ」と名の付く列車が急行、快速いろい
ろ走っていた。時代は移って「マリンわかさ」「マリンあさしお」「マリンはまかぜ」と特
急主体の列車に変わり、この「マリン○○」というのは「くろしお」「やくも」「雷鳥」に
も見られた。冬場はこれが「但馬スキー」とか「但馬カニスキ号」から「カニカニ但馬」と
いうように年を変える度に名称や区間が変わってその度に乗り潰しに行った。だから北近畿
は年に2回、夏と冬には必ず訪れる場所であった。
117おっさん:2006/07/07(金) 22:38:52 ID:uM42ur0q
その海水浴列車、「○○ビーチ」は主に58系DCが使われた。そして大体宮津線の「丹後ビ
ーチ」と小浜線の「わかさビーチ」は京都−西舞鶴は併結運転だった。両方つながると8両
程度になる臨時といっても堂々たる編成だった。当然ながら車内は海水浴客がほとんど、そ
れも連日満席で、“列車に乗りに来ただけの部外者”は肩身の狭い思いをした。いわゆる
“浮いている”状態だった。それでも、スキー列車よりはまだマシだったが。
しかし、この海水浴列車、編成は立派だけれどいかにせんダイヤが“寝ていた”。ただでさ
え線路容量が飽和状態の京都口の山陰本線のダイヤに割り込ませる訳だから、平気で交換待
ちで5分以上待たされた。時には各駅停車状態で5分、ある時には15分以上も待たされた。
しかし、一応“急行”の威厳なのか、運転停車だけで外に出られない事が多かった。往きは
ともかく、疲れ切った帰りの列車では余計この停車が堪え難いものだったろう。
そのうち子供は「まだ着かんの〜? さっきあと3つって言ったやん!」とお父さんに訴え
る。さすがにふつうのお父さんはこの「運転停車」は想定外だったのだろう。返事に窮して
「もう少しやから我慢しいや」と半ば怒鳴り口調で言い聞かせる。しかし、案の定、その後
はぐずり出してしまう。子供の泣き声は連鎖を呼ぶようで、車内のあちこちから半ベソ状態
の子供の泣き声と親のイラつく声が交錯するようになった。二条とか丹波口で10分も待たさ
れるとさすがにキレかかって「何してんや、早う走れよ!」とつぶやく声が耳に入って来る。
いつも海水浴列車の帰りはこんなことが繰り返されていた。私自身、仕方がないとはいえ、
浮いた状態で見知らぬ家族連れの中に混じっていたりすると、本当にこの時間が長くて堪え
難いものだった。
そしてこの「わかさビーチ」や「はしだてビーチ」はお盆の帰省がピークになる頃に再び臨
時の「わかさ81号」とか「はしだて81号」とかいう列車で走り、指定も付く。しかし、スジ
は踏襲しているからやはりノロい! でも、それにまた付き合いに行くのである。小浜、若
狭高浜、舞鶴、宮津、天橋立、網野、久美浜、浜坂など、夏の暑い盛り意味も分らず毎年徘
徊していた。

118おっさん:2006/07/07(金) 22:39:27 ID:uM42ur0q
そんな海水浴列車が数年前から悉く消えた。若狭、丹後地区もネットワークの充実で臨時列
車が走る必要がなくなった。房総もいつの間にか夏ダイヤが消えた。その昔、浮き輪や麦わ
ら帽子を網棚から吊るし、真っ赤に日焼けした家族連れや若者たちで一杯だった夏の列車の
風景が急になくなった。海水浴場のある駅。駅の周りを含めてビーチサンダル、アロハシャ
ツ、時には水着のまま闊歩していた人々が全くというほど見られなくなった。毎年夏の週末
になると、「湘南海岸には何十万人の海水浴客が訪れ、芋の子を洗うような状態です」とい
うようなニュースも最近は聞かなくなった。
「趣味、生活の多様化」はよく言われる事で、スキー客の減少も同じようなものだろうが、
一昔前までは「夏といえば海水浴、冬はスキー」と庶民の楽しみは決まっていたような時代
だった。ちょっと昔の時刻表をめくり、その列車を見るだけで当時の世相まで読めてしまう
「時刻表」は、改めて面白いと思う。
119名無し野電車区:2006/07/07(金) 23:01:55 ID:AzQGrwc7
>>116
房総夏ダイヤ,千葉生まれの私には懐かしいです。
民営化後数年後に無くなった気がします。
このころはマイカーが増えると同時に東関道や京葉道路など道路網も整備が進み,
荷物もあるのにわざわざ鉄道で海?なんて感じだったのかしら。

子供の頃は夏の時刻表に「房総夏ダイヤ」が載ると,
新幹線も大幹線も何も無い千葉なのに,
この時期だけちょっとエラくなったような気がしていましたよ。
120名無し野電車区:2006/07/07(金) 23:06:39 ID:J2Cm2PiC
千葉方面の海水浴は両国から乗ったなあ。
C57牽引の客車だった。
121おっさん:2006/07/07(金) 23:39:36 ID:uM42ur0q
私は神奈川の三浦生まれなもので、特段「海水浴列車」に乗った事はない。家が逗子に移っ
て横須賀線に101系や103系などの普段見られない電車が入って来たのを見た時は、何故か
ワクワクした。
しかし、それよりも京急は夏の日曜は「海水浴ダイヤ」を組んで、車両総動員で、あの230
系までも海水浴特急として走っていた。逗子線にも都営の5000系や京成3200系だったかが
入って来てカメラ片手に撮りに行ったものである。
千葉の海水浴列車はさすがに両国からC57に牽かれて…は記憶にないが、113系の「青い海」
「白い砂」には何回か乗った。「あずさ」が松本から千倉まで来ていた事も、「わかしお」
が甲府から出ていたこともあった。これらは比較的最近の事だけれど、昔の房総の夏ダイヤ
はいろいろ面白いものだったと思う。
しかし、館山の駅前も、本当に海水浴客の姿が消えたな。真夏の週末なのに、普段の週末と
全く変わらない街の風景だった。確かに海水浴客の多くは道路も整備され、渋滞も一頃程で
はなくなったから車で行くのだろうが、それすら目に見えて減っている。そういう自分も海
水浴などもう何十年行っていない!
122名無し野電車区:2006/07/07(金) 23:44:46 ID:y4okaSxh
少し時期は下るが、「くじらなみ」が気になって仕方がなかった。
そのころの時刻表で、ツブれたベタ入りグリーンマークってこの列車にしかなかったし。
123おっさん:2006/07/08(土) 14:03:21 ID:6+5Pn8N+
今日はとりたてする事がない“ヒマなおっさん”なので、ある日の行動を再現してみる。
いつもに増して“長大編成”になるかもしれないが、御容赦願いたい。

時は1988年4月9日(土)。この日付けを見てピンと来る人も多いと思うが、日本の鉄道の
歴史的な出来事のあった日である。宇高連絡船終航の日。そして翌10日は世紀の事業となっ
た瀬戸大橋の開業の日。この年は、1ヶ月前に青函トンネルも開業した歴史に残る1年であ
り、当時は皆さんもそれなりに行動した覚えがあることだろう。私も行動した。

4月9日の昼過ぎ、新幹線で岡山に着いた私は宇野へ向かった。クモハ84001という荷物電
車を再改造した電車で宇野に着く。これから明日までこの本州の岡山県と四国の香川県の往
復が始まる。
まずは最終日の宇高連絡船土佐丸で高松に渡った。最終日とあって船内は人で溢れ、とても
ではないが、のんびり過ごすことはできなかった。
高松駅では既に宇高連絡船の最終便に乗船しようという乗客と、明日の瀬戸大橋開業一番列
車となる「マリンライナー2号」に乗車しようという乗客が長蛇の列を作り始めていた。そ
の様子を確認して私と友人の2人は高速艇桟橋へ向かった。当時宇高連絡船はほぼ1時間で
宇野−高松を往復していたが、その他に高速艇「しおかぜ」が32分、さらにホーバークラフ
トの「とびうお」が22分でこの区間を結んでいた。
124おっさん:2006/07/08(土) 14:46:20 ID:6+5Pn8N+
まずは17時47分発の「ホーバー118便」。これがホーバークラフト「とびうお」の最終運
航便となった。ホーバーと高速艇は便指定制だったので、予め指定を用意して友人と2人で
揺れるタラップから乗り込んだ。何度か乗っているので、それ程物珍しさはない。しかし、
最終運航を記念して、乗船客全員にこの「とびうお」の写真を額に入れたパネルが記念品と
して渡された。なかなか素晴らしいもので、今でも家に飾ってある。しかし、記念品が出た
のはこの2日間でこれだけだった。
ホーバーは夜間運航が制限されていたので、この夕方の便が最終となったが、夕陽にシルエ
ットになって浮かぶ瀬戸の島々をあっという間に後方に過ぎ去るスピード間は悪くなかった。
そして宇野に到着すると船長以下乗務員が全員で最後の乗客を迎えてくれた。特別セレモニ
ーはなかったが、ジンとくるお別れであった。
そして今度は高速艇の最終便。19時47分発の「高速813便」は「しおかぜ」。宇野の連絡
船桟橋の突端に設けられた高速艇乗り場から出る。しかし、特にこれもセレモニーはなく、
ほぼ満席の乗客を乗せ、高松に向かって夜の瀬戸内を疾走した。高松に到着しても特に何も
行われず、静かに幕を閉じた。

125おっさん:2006/07/08(土) 14:48:49 ID:6+5Pn8N+
そしていよいよ宇高連絡船の最終便だ。既に多くの人たちが最終便に長い列を作っていた。
高速艇で往復する前に確認した所では、本来の定期最終便の後に確か阿波丸だと思ったが、
臨時便が出る事が決まっていた。そしてそれに乗る人たちが列を作っていた。私たちもその
列に加わったのだが、どうも気になる事があった。その情報収集の確認も兼ねて駅員に聞い
た時、手持ちのダイヤ表を示してこの臨時便の存在を教えてくれていた。しかし、その臨時
便の後にも1往復の鉛筆書きの“スジ”が引かれていたのを目ざとく見つけた。それを尋ね
ると何故か歯切れが悪くウヤムヤにされたのである。
その臨時便の乗船が始まった。しかし、動き出した列から私たちは外れた。あの“スジ”と
阿波丸と並んで桟橋に停泊していた讃岐丸がスタンバイ状態で待機していたのを見ていたか
らである。私たちは「臨時便の臨時便」に期待した。
126おっさん:2006/07/08(土) 14:49:46 ID:6+5Pn8N+
“読み”は見事に的中した。臨時便の乗船が終る頃になって駅員の「もう1便出ます」とい
う声を聞いた。結局、22時47分に讃岐丸が宇野行き宇高連絡船上り最終「C28便」として
運航された。その最終便に乗ったのは、阿波丸に乗り切れなかった地元も一般の人がほとん
どで、ファンの姿は少なかった。
讃岐丸は4隻就航していた宇高連絡船でも、唯一後年クルージングとしても使用できるよう
に船内を改装された。従って、一般の連絡船の運用にはあまり就かなかった。だから珍しい
体験でもあった。船内は閑散としていたので、皆、のんびり最後の宇高連絡船の船旅を楽し
んでいたようである。
1時間後、宇野に着いた。しかし、乗客は高松で宇野では降りられない事を承知で乗船して
いた。混雑を避けるため、往復乗船が条件で出航したのである。だから乗客は宇野に着く様
子をのんびりデッキから眺めていた。
ところが、これに怒り狂ったのが宇野で待っていたファンである。「降ろせ〜!」「俺たち
は昼間から待ってるんだ〜!」「バカヤロー!」と大声で罵声を上げて騒ぎ出した。その様
子を乗客たちは文字どおり笑いながら“高見の見物”。
やがて乗船が始まり、一部の暴徒と化した一団がデッキになだれ込み、のんびりしていた乗
客たちの間に罵声を浴びせながら強引に割り込んで来る。それが元で小競り合いも始まった。
残念な事にこんな事をしているのは、三脚や銀箱背負った一見してマニアと分る一部の連中。
船員が間に入ると船員にまで喰ってかかる始末だったが、それ程人が多くなかった事もあっ
て、じきに収まった。
結局、10分程遅れて本当の最後の宇高連絡船「C27便」となって讃岐丸は高松へと最後の航
海。やがて、高松港の赤と緑の燈台の灯りに誘導され、ゆっくりと高松へ接岸した。4月10
日午前1時16分、長い宇高連絡船の歴史が幕を閉じた。

127おっさん:2006/07/08(土) 14:50:35 ID:6+5Pn8N+
寂しさに浸る間もなく次は瀬戸大橋である。しかし、既に始発となる「マリンライナー2号」
に乗車しようとする客が高松駅に長い列を作り“札止”になっていた。その後の「4号」に
もあぶれた客で長い列ができていた。とはいえ、やはり瀬戸大橋を通る初列車に乗りたい!
そこで一計を案じた。「マリンライナー2号」は高松駅では例外的に札止であるが、決して
一般客が乗る事ができない全車指定でもなければ定員制でもない。当然途中駅から乗ったっ
て良い訳だ。高松駅では今日だけの特別処置であるから、無用な混乱を避ける意味でも高松
駅から乗らなければ良いだけである。私たちは駅前の終夜営業の喫茶店で暫く時間をつぶし、
そしてタクシーで次の停車駅の鬼無に向かった。
鬼無駅には同じ事を考えたのだろうか、10人程の鉄道ファンが始発列車を待っていた。やが
て暗い夜明け前の向こうからまばゆいヘッドライトを輝かせて「マリンライナー2号」が到
着した。人数を制限したのか、立ち客が少しいるだけで座れはしないけれど案外ゆったりし
ていた。
坂出を発車していよいよ世紀の瀬戸大橋に駆け上がって行く。スラブのゴーという音が響き、
オレンジのナトリウ燈が輝く高速道路が頭上に合流して程なく、スラブの音が鉄橋の響きに
変わった。瀬戸大橋に突入! しかし、まだ時間は5時。うっすら東の空が明けてきたばか
りで辺りはコバルトブルーに包まれているだけ…。それよりも何より、長時間この一番電車
に乗って瀬戸大橋をまっ先に渡りたいと高松駅で辛抱していた人たちの1/4位の人はなん
と白河夜船! 突っ伏して高いびきだ。これじゃあ何のために長時間待ったんだろう。
瀬戸大橋の一番列車渡り初めは10分足らずで終った。
128おっさん:2006/07/08(土) 14:51:29 ID:6+5Pn8N+
しかし、これで私たちも終わりではない。私たちは少々遅れて走っていたので、予定の茶屋
町ではなく、1つ手前の植松で降りた。そして反対ホームに回って今度は下りの瀬戸大橋初
列車の「マリンライナー1号」を待った。こちらも少々遅れて到着したが、それ程混雑して
いる感じではなかった。児島を出て瀬戸大橋を渡り始めると歓声が上がる。丁度日の出にな
り、瀬戸の島々が箱庭のように展開された。道路の下を走っているので、鉄骨の煩わしさは
あるが、思っている以上によく見える。真下が空洞で海が覗けるのも不思議な感覚だ。橋脚
の所のゴトトトンという線路の繋ぎ目の音も新鮮! 今度はゆっくり右に左に瀬戸大橋から
の眺めを堪能して高松に戻って来た。
今度は「マリンライナー6号」で岡山へ向かう。これはパノラマグリーン車の指定を取って
おいた。全て横向きにセットされたシートは異様だった。ただ、横向きにすると足が延ばせ
ず、無理に横向きにしなくても…という感じだった。この「マリンライナー6号」には岡山
方の先頭に「ゆめじ」のグリーン車2両も増結されていて、グリーン車3両を含めた11両の
豪華編成だった。
岡山に着いてようやく一息。友人はここで帰り、この後は私1人の旅となる。今度は瀬戸大
橋を“外”から眺めたいと、バスで鷲羽山の展望台に向かった。目の前に連なる瀬戸大橋の
雄大さに改めて感動する。その後、まだ健在だったナローの下津井電鉄に乗り、下津井まで
行く。今度は下から瀬戸大橋の岡山方1番目、下津井大橋を眺める。後に騒音問題で徐行す
ることになった橋だけれど、その当時はその轟音が迫力として伝わって来たのを覚えている。
その後は児島へ。下津井電鉄で新造されたにもかかわらず、廃止で僅か2年も働けなかった
「メリーベル号」で行った。
既に昼過ぎ、今度は坂出経由で多度津に向かい、琴平から直通の普通で岡山に向かう。正規
の宇多津側から瀬戸大橋にアプローチした。
129おっさん:2006/07/08(土) 18:47:45 ID:6+5Pn8N+
まだまだ続く。今度は倉敷に向かった。次は列車ではなく高速バスで渡ろうというのだ。こ
の日、高速バスはお昼の一般車の供用開始を受けて16時から運行開始となった。その初便で
四国に渡ろうというのである。時間からして一番早く通る倉敷→琴平の便を選んだ。この日
に限っては事前予約だったので、予め別な友人とともに予約を取っておいた。
その友人と落ち合い、倉敷16時発の両備バスに乗った。花束贈呈等賑やかなセレモニーに送
られ出発したバスは、高速のアプローチ部分から渋滞にハマった。ようやく高速に上がって
もノロノロ運転。その原因は橋上での“路上駐車”だった。物珍しさが手伝って、記念撮影
をする人が続出して、橋の上の一番端の車線は見事に塞がっていた。その隙間を探しながら
車が走るので、勢い大渋滞を引き起こしていた。警察のパトカーが「ここは高速道路です。
路上駐車は違反行為です」とスピーカーで叫んでも、最早「みんなでやれば恐くない!」と
いう状態。お手上げだった。しかし、それも無理ない程瀬戸大橋からの眺めは素晴らしかっ
た。この瀬戸大橋がきっかけで各地に広まった「斜張橋」の美しさを改めて感じたものだ。
結局、渡り終ってからも渋滞は続き、これでは琴平まで行ったら戻れなくなると判断し、途
中の丸亀で降りた。所定では17時に着くはずの丸亀に着いたのは18時40分になっていた。
特急で高松に戻る。そしてこの2日間の最後は延長されて初めて四国に乗り入れたブルート
レインの「瀬戸」で帰る。これも「瀬戸」の上り初列車である。寝台の通路の補助席に座っ
て今日の喧噪を思い浮かべながら瀬戸大橋を渡り、早々にベッドに潜り込んだのだった。

130おっさん:2006/07/08(土) 18:49:00 ID:6+5Pn8N+
結局、この2日間で宇高連絡船2.5往復、瀬戸大橋3.5往復、計6往復、実に12回もこの区間
を横断した事になった。そして、「ホーバークラフト最終便」「高速艇最終便」「宇高連絡
船上下最終便」「瀬戸大橋通過上下初列車」「瀬戸大橋高速バス運行初便」「特急『瀬戸』
上り初列車」と、考えられるほとんどの最終と初便に乗った。恐らくこの時、これ以上の事
をした人はまずいないだろうと思っている。また、その後開通した明石大橋、しまなみ街道
も、高速バスの初便で渡り初めを果たした。恐らく私の生きている間に日本国内でこのよう
な大プロジェクトはないだろうから、まさに“一生の思い出”となった2日間だった。

えらく長くなって申し訳ない。
131名無し野電車区:2006/07/08(土) 18:53:55 ID:gayJh1rr
70年代のいい時代の旅を知っているのに、
乗り鉄を続けているのは珍しいですね。
132名無し野電車区:2006/07/08(土) 19:36:22 ID:D2rrQhW6
読み応えありましたよw
私もその2日間同じ辺りウロウロしてました。
宇野行き最終「瀬戸」で入って、宇高を2.5往復してから夜行で松山へ。
松山から「しおかぜ」の岡山行きの一番列車に乗り、
岡山に戻ったあとは、児島−坂出間は何往復したか忘れましたw

あの時は「青函」やってから「宇高」やって、もう大変でした。
函館で連絡船待ちの間に、四国の方のプラン考えたりして。
133名鉄ファンのおっさん:2006/07/08(土) 19:56:50 ID:Et14rnML
こちらにも書かせて頂きます。

おっさんは中学の時から電車通学してたんだよ。(マジの話)
当時の名鉄は通勤型6000系なんて無かったね。
旧800系は蛍光灯じゃなくて丸い白熱灯(こう表現すれば良いか判らんが)で暗かったんだよ。
登校時はパノラマカー、下校時はAL車のボロって
車種が決まっておった。7300系なんて来なかった。
当時の7300系は他のAL車と別運用だったね。
一番の思い出はパノラマカー6両編成の
西尾線西尾行き普通(日曜日のみ)に乗れた事だよ、
今の若い人には信じられないような話だが本当なんだよ。

パノラマカー、SR車、AL車、HL車と今以上に趣味的に
面白かった。大手私鉄では異色の存在で6000系が
登場するなんて想像出来なかったくらい2扉転換クロスシート車
全盛期、それが魅力でした。
134名無し野電車区:2006/07/08(土) 21:29:59 ID:PY61y55J
「レールが結ぶ一本列島」の頃やね。この時代はバブルの始まりの時期で
C62の復活やらオリエント急行やら何でもアリの時代やったな。
旧国鉄の廃線が一段落、JR化で色ん企画が出てきたし、
あの時代は鉄道自体に明るい未来が見えて、趣味的にもよかったなぁと思う。

ところでこのおっさん、瀬戸大橋でこれだけ濃かったら、北海道の廃線ネタも
絶対出てきそう。あと、あんまり目立ちすぎると、アホが「ブログにしてる」
とか言ってスレストさせるかもしれませんな。
135おっさん:2006/07/09(日) 07:51:09 ID:GVkO2zAQ
>>131
昔は確かにいろいろな列車が走っていて、今では姿を消した路線もあって“今思えば”楽し
い時代だったけど、今は今で、昔には想像もつかないような豪華な列車やユニークな列車も
出て来て、それはそれで楽しい。だから今でも乗り鉄は続ける。きっと死ぬまで続くだろう。
別に鉄道だけに限らない。他にも好きな分野は広がった。飛行機だってその1つ。全国の空
港の3/4は制覇したし、新型機種や空港の開港等では初便搭乗もよくしている。最終運航も
もちろんだ。あの「マリンジャンボ」の就航で、まっ先にタラップを上がって機内に入った
のはこの私だ!(それがどうした?というものだけど) バスにしても然り。乗り物は全て
好きだ。
他にもパソコンでも、また、スポーツだって、うまいもの巡りだって人並みにはやっている
と思う。決して「昔はよかった。今はなぁ〜」というような考えでいる訳ではない。幸いに
も友人にも恵まれ、「鉄道」を通じて幅広い年代の人との付き合いもある。自分の息子の年
代の大学生と誘われればドライブだって行く。その度に若い人の発想の面白さに驚くばかり
である。もちろん、「今の若い人は…」というような事もあるが、それはいつの時代でもあ
る事だ。それよりも、この発想の面白さは自分にとって結構プラスになる事の方が多い。だ
から私は若い人ともよく遊ぶ。鉄道のイベントの事で言えば、顔合わせて声をかけて来るの
は若い人が多い。
来週は仙山線のイベントにも行く。また知った顔が何人もいるだろう。それはそれで面白い
ではないか。予定が合えば一緒に旅をするのも悪くない。
136名無し野電車区:2006/07/09(日) 10:51:33 ID:tWfiTVMQ
>>134
要はおっさん1人だけの演芸場にしなければいいんだろ。
だったら、みんなして思い出話を書けば厨も手出しできないはず。
70〜80年代の乗り鉄紀行に限定する理由もないし、
今の乗り鉄でも、あるいは撮り鉄や模型鉄の話でもドラマはある。
文章が下手糞でも本気で書けばメッセージは伝わる。
でもって、みんなして思い出話を書いていけば、すげぇ良スレに
なると思うのだが、どうよ?
137名無し野電車区:2006/07/09(日) 12:15:02 ID:ijYLiBsn
海水浴の話だけど、近頃はどうせ海に行くんならグアムとかハワイ
に行っちゃうんだろうな。
138おっさん:2006/07/09(日) 21:22:00 ID:GVkO2zAQ
>>136
そうですね。私1人で独占するつもりは毛頭ないですから、どんどん皆さんも参加してくだ
さい。この方の言われるように、「思い出話」とタイトルを付けてありますが、別に昔の話
に限る訳ではありません。この前行った旅の話でも全然構いません。失敗談や感動したこと、
楽しいこと、誰かに教えたいことなどあるのではないでしょうか? 私だって皆さんの楽し
い話には興味がありますから。
それから、「本気で書けば…」とありますけど、あまり力を入れ過ぎても、書き慣れていな
い人には返って素直に表現できなくなるかも知れません。思った事をとりあえず打ち込んで
みて、後で読み返して気に入らなければ書き直してみればいいのではないかな。
それから「荒らし」の入るスレやレスは、はっきり言ってしまえば、まさに言いたい放題の
「2chマナー」で成り立っているものばかりだと思います。真面目にレスすればバカ扱いさ
れ、まさに狂気じみた変な世界ですね。「だから2chなんだ」と言う人もいますが、私はそ
んな中でも、地位も年齢も関係なく、気軽に話せる場としてこういう存在があってもいいの
ではないかと思っています。
139名無し野電車区:2006/07/10(月) 11:08:15 ID:YOuwA2gw
飯田線ED62が、DE10に牽引されて二俣線走行してるのを見た。
非電化線に電気機関車がきたのか、今でも分からん。
140おっさん:2006/07/10(月) 12:58:11 ID:mG9OmWLw
>>139
確か元の二俣線、今の天竜浜名湖鉄道の天竜二俣駅構内に鉄道保存館を作る話があって、い
くつかの車両が運び込まれていました。その時に運ばれた1両だったのかも知れません。し
かし、長いこと雨曝しになっていたようですが、今はどうなっているんでしょう。20系客車
もあったと思いましたが、滅多に行かない所なのでわかりません。ここは第三セクターにな
った初日に大混雑の中乗った覚えがあります。あとは1回くらい全線乗ったことがある位か
な。もうだいぶ足を運んでいませんが、沿線は車では何回か行ったことはあるのですけどね。
昔の話をすれば、ここは晩年、C58の牽く朝の通勤列車が三ヶ日辺りの撮影ポイントでよく
紹介されていましたね。また、西鹿島あたりから飯田線の水窪へ抜ける国鉄バスがあって、
途中には線名は忘れましたが未成のまま終った幻の路線があって、橋脚だけが残っているの
も車窓から見られました。
今は国鉄(JR)バスも廃止され、車でなければ辿れなくなりましたが、ちょっと興味のある
ルートだと思います。
141おっさん:2006/07/10(月) 22:29:45 ID:mG9OmWLw
よく「お薦めのローカル線は?」という質問に、多くの人が挙げる五能線。今は3つの編成
の「リゾートしらかみ」が走る“メジャー”なローカル線になり、一般人の知名度もずい分
上がった。秘湯と言われた「不老不死温泉」も大衆の知る所になって、最早“秘湯”ではな
くなった。私も泊まったことがあるが、本当にここから眺める夕陽の美しさは謳い文句通り
である。
そんな五能線に初めて訪れた頃は、まだ8620型SL、いわゆる「ハチロク」が客車と貨車を
つなげた混合列車で運転されていた。若い人に言うなら、昨年まで「あそBOY」を牽引して
いたあの同型機である。このハチロクが数両の貨車と、オハ61系の2〜3両の客車をつなげ
て荒涼とした波打ち際を走るカットはよく紹介された。
実際、能代を出て岩館を過ぎる頃から、列車は日本海に沿って人の稀な荒涼とした景色の中
を走っていく。季節が冬になると殊の外海は荒れ、しばしば線路にまで飛沫が届くようにな
ると、運転も一時停止されることになった難所でもあった。曇る窓ガラスの向こうのどんよ
り沈む空と荒れる海がモノトーンで展開する。背もたれが板張りのオハ61の硬いシートに座
ってこんな景色を眺めているだけで、気分もモノトーンに包まれていくような、そんな暗い
イメージの絵が似合うローカル線が五能線だった。
しかし、夏場の五能線は天気さえ良ければ海は穏やかで青く、爽やかなローカル線である。
低い草に覆われる荒涼とした山肌は、この地の風の強さの証しでもあるが、この景色は北海
道で見られる景色によく似ている。北海道の日本海側の海岸線ってどこもこんな景色が続い
ている。
142おっさん:2006/07/10(月) 23:19:10 ID:mG9OmWLw
深浦は五能線の中でも“それなりの”存在の駅である。ここで列車の始発や終着もあるし、
交換待ちや増解結もある運転上の要所である。しかし、駅そのものの姿は、初めて訪れた時
と余り変わっていない。駅前も、小奇麗な食堂は出来たが、スーパーや小さなお店は以前と
変わっていないような気がする。駅から10分程足を運んだ岩場に来ると、穏やかな青い日本
海がとても爽やかで気持ちがいい。列車待ちの1〜2時間など持て余すことがない。
深浦を出れば再び荒涼とした海岸線を走り、驫木(とどろき)、風合瀬(かそせ)など、難
解な駅名とともに、その駅名のイメージそのものの最果てというような車窓だ。その日本海
も鰺ヶ沢で彼方に消える。久しぶりに町らしい姿を見せる鰺ヶ沢に来ると、何故かホッとす
る。ここで増結もあったり、下校時間なら学生も沢山乗り込んで、途端にのんびりした普通
列車は生活列車に変わる。座席に置いた荷物も網棚に上げるのもこの辺りだ。しかし、折角
席を明けたのに誰ひとり座ろうとしない。それどころか、いぶかし気にこちらに視線を投げ
つける。「そこは俺のボックスだ」と言わんばかりに。やがて、「変な奴が俺の席にいるよ」
と舌打ちして友達のいる席へ移って行った。地方の列車ではよくある体験だ。
鰺ヶ沢を出ると右手には岩木山が美しい姿を見せて来る。その頃、車窓は一面のリンゴ畑の
中だ。沿線最大の五所川原は、津軽鉄道の乗換駅でもある。古色蒼然としたタイムスリップ
したような駅の造りには、やはり旧客がよく似合う。
岩木山を眺めるのは夕方がいい。夕陽のシルエットに浮かぶ姿が私は一番好きだ。中でも、
奥羽本線との接続駅の川辺駅付近から眺めるのが最高だと思っている。
五能線は全線乗り通すと、ゆうに昼間1日かかる。今は「リゾートしらかみ」で簡単に楽し
めるが、やはり私の五能線のイメージでは、オハ61の硬いシートの旧客に揺られるのが一番
だ。津軽鉄道で出番の少なくなったあの旧客を五能線に走らせてもらえないものだろうか…
と、叶わぬ妄想を抱くのである。
143名無し野電車区:2006/07/11(火) 08:10:31 ID:xmXZwwV2
先日、天竜浜名湖鉄道に乗車しまして
天竜二俣駅を通過した時にキハ20と20系客車が1両ずつあるのを確認しました。
放置されているみたいで、傷みが激しく可愛そうでした。
144おっさん:2006/07/11(火) 22:10:55 ID:+CIhH7Ma
まだ新幹線が開業する前の上野駅。「はつかり」「とき」「あさま」「ゆうづる」などの特
急と共に「八甲田」「津軽」「まつしま」「ときわ」「佐渡」「能登」「信州」…など数え
挙げればどんどん名前が出て来るくらい数多くの列車が発着していた。そして上野駅の中央
改札の上には、これから発車する列車の時刻と発車番線を表記した「木の札」が下がってい
た。青や緑、ピンク…と色分けされて(確か方向別だったような気がするが、申し訳ないが
定かではない)吊り下げられていた。
広い改札の上にワイヤーが張られ、発車が近付くと、改札の駅員さんが立つスペースに立て
掛けられていたその列車の札をワイヤーにヒョイと吊るし、発車すると器用な動作で素早く
外す。そしてまた次の列車を掛ける…ということを繰り返していた。
晩年は何処の駅でも発車案内は自動化されていた時代になっていたにもかかわらず、上野駅
はかなり後までこの原始的なやり方を続けていた。しかし、それが郷愁を駆り立て、上野駅
独特の風物詩でもあった。改札口一杯に、特徴のある書体で書かれた列車名と行き先、発車
時刻に発車番線の案内を眺めているだけで、まだ行ったことのない北国の駅へ思いを馳せて
いたものである。
また、独特の節回しで「うえの〜、うえの〜。長い御旅行お疲れ様でした。終着駅、上野で
ございます」という駅のアナウンスも懐かしい。今でも「北斗星」や夜行列車で上野に着い
た時、たまにこの独特の節回しのアナウンスがある。今の時代にもこれは代々受け継がれて
いるのかも知れない。
145名無し野電車区:2006/07/12(水) 01:35:06 ID:fV6ZQu6K
おいらもよく乗り鉄してたけど、
上野に長距離列車が着くと、独特な雰囲気があったね。

到着前の車内での鉄道唱歌にはじまり、着いてからの
『うえの〜、うえの〜・・・』は
東京に帰ってきてしまった、これでこの旅も
終わってしまったんだなぁと、寂しさをよく覚えたもんだ。
(出発時の鉄道唱歌は、旅への期待で嬉しいが、帰りに聞くと妙に切なかった)


あの時代の上野駅は、それこそ、いろんな地方からの列車が
あったから、訛りが飛び交い、地名の入った荷物を両手にぶら下げた
人達がたくさんいたね。

もうあの時代の上野駅は、過去の物になってしまったなぁ・・・。

146おっさん:2006/07/12(水) 03:50:44 ID:9DFMm1tx
アナウンスと言えば、青森とか函館も特徴あったな。文章で表現しようとしても難しいが、
「あおもりぃ、あおもりぃ」とか「はこ〜だて、はこ〜だて」とかいう感じかな。特に青森
駅のは今でもよく耳にする。昔は駅のアナウンスそれぞれに個性があった。
今は「駅メロ」なんて言って、それぞれの駅の発車合図に個性を見出せて、それはそれで楽
しいけれど、やっぱり昔の年代は「発車の合図」は「ジリジリジリ…」という発車ベルなん
だ。もう今では滅多に聞くことができなくなったけど、まだ現役で活躍している駅はあるの
だろうか? そういえば、車掌さんの発車の笛も昨今はあまり聞かなくなった。
147おっさん:2006/07/12(水) 03:51:45 ID:9DFMm1tx
ちなみに「駅メロ」といえば、私個人的には恵比寿駅の「第三の男」のテーマ曲をアレンジ
したのがいいと思っているが、恵比寿が何で「第三の男」? もしかして一時期流れていた
「エビスビール」のCMでBGMに使われていたところから来ているのだろうか? あとは
年代だから高田馬場駅の「鉄腕アトム」。今、水道橋駅が期間限定で読売ジャイアンツの応
援歌の「闘魂込めて」になっているそうだが、まだ聞いたことがない。もちろん、私は典型
的な『巨人、大鵬、卵焼き』の時代で育ったから、野球は巨人ファン! 折角水道橋駅がこ
の応援歌を流してくれているのに、最近の体たらくは何なんだ! 春先の“負けなかった”
巨人は何だったんだ? でも、正直、松井が大リーガーに行ってからつまらなくなったよな。
あの日テレも野球放送の延長は打切りというし、フジに至っては巨人戦の放送すら中止にし
てしまった。深夜の「プロ野球ニュース」がいつの間にか「スポルト」とか名前が変わって
明らかにサッカー主体の枠組みになり、肝心のプロ野球が“その他のスポーツの結果”でひ
と括りにされているのが悲しい。サッカーも嫌いではないけれど、野球で育って来た年代に
は寂しい限りである。やっぱり贔屓だから言う訳ではないが、“巨人が強くないと野球はつ
まらない”のだ。強い巨人を倒そうと阪神や中日が挑んで来るから面白くなる。
そういえば小さい頃は今の「東京ヤクルトスワローズ」は「国鉄スワローズ」だった。「金
田正一」というとんでもないピッチャーがいたんだよな。ピッチャーは200勝で『殿堂入り』
になるけど、金田はそれを倍の400勝したのだ。ピッチャーの使い方が変わった今の時代に、
これからも恐らく破られない“永遠の記録”になるだろう。
おぉ〜っと、またまた話が脱線してしまった。ここは鉄道の話題をするところなんだよな。
148池原あゆみ39ちゃい:2006/07/12(水) 04:45:52 ID:vm0VbdUx
久しぶりに九州へ乗り鉄に行ってきましたが、
唐津線でオールボックスシートのキハ58系に乗れて感激しております。

どうして、急行型はキレイなんだろう・・・?

僕は、小学生の時代でも、特急車に対する興味はあまり強くなく、
基本は急行型です。
車両の知識を仕入れた時点から、急行型萌えです。
それも最初は旧型客車です。
これが基本なので、何年経過しても変化がありません。

この車両愛好の系統は、鉄としては普遍的なものがあるようですね。
なぜ急行型は美しいのか?
ドアと窓の配置、車内の全席ボックスシートなど、いろいろとあると思いますが、
書き込んで下さいませ。
149おっさん:2006/07/12(水) 22:07:32 ID:9DFMm1tx
『急行型が美しい』というのは、思うに“統一された美しさ”ではないだろうか。いわゆる
「国鉄型」として統一された設計思想ではないか。国鉄車両は通勤型、近郊型、急行型、特
急型と基本的なスタイルはほぼ統一されている。どれもそれなりの統一された美しさがある
と思う。
それが崩れて来たのは国鉄末期の頃ではないだろうか。全国統一の設計思想から、その車両
の使用目的、線区に合わせた車両を投入するようになってから明確な区別がなくなって来た
ように思う。特に中途半端な存在になってしまった「急行型」は、特急車両の格下げ使用や、
体裁の良い近郊型を停車駅を減らして早さを提供することで「急行」として運用するように
なった。今のJRの車両で、いわゆる「急行型」と言えるような車両はほとんどない。
私らが若い頃、ワイド周遊券などを使って旅をしていたが、特急に料金無しで乗車できるよ
うになったのはずっと後のことだ。だから自由に乗り降りしていた「急行車両」に馴染みが
できるのも当然のことだと思う。ある年代から上の人にとっては、明確な「急行型」のイメ
ージを持っているから、それが損なわれていない車両を見ると『美しい』と感じてしまうの
だ。
150おっさん:2006/07/13(木) 20:34:32 ID:HFILyu4y
いろいろ長ったらしく書いてきたから、そろそろ飽きられたかな? 私以外の方の反応がな
くなってきたような気がする…。少し休むかな。
151名無し野電車区:2006/07/13(木) 21:57:30 ID:spNx9I8Z
これは写真を適度に入れたブログ向きでしょう。
URL入れて感想はこっちというのがいいな。
152名無し野電車区:2006/07/13(木) 23:01:55 ID:fZveRQZb
急行型・特急型の話が出ていたので・・・・。
子供のころ自分は、宗谷線沿いに住んでいました。で、よく美唄の親せきのところに
行くのに急行を利用したものです。当時の宗谷線を代表する急行といえば、その名も
ズバリの「急行宗谷」でした。宗谷本線、函館本線を全線走破していました。まァ、
よく走ってましたね。でも、宗谷は、結構混む急行だったので、よく乗ったのは
「なよろ」「天北」「紋別」でした。いつだったかの夏休みに急行に乗って美唄に向
かう途中、滝川に停車した時のこと。隣のホームに後方からスーッと入ってきた列車
が・・・・。ガラスは少し青みがかっており、ボディーにはつやがある。あーっ、あ
れが特急なんだ!とその時初めて82系の「特急おおぞら」を見たのでした。その時、
おおぞらの乗客と目があってしまい、「あんたは、急行か」というような表情をされ
たことが昨日のことのように覚えています。悔しかったなァー。でも何せカッコいか
った。
そんな自分が、82系のおおぞらに乗ったのは、それからかなり後のことでした。札幌
から、中標津まで帰省するのに釧路までおおぞらに乗ることになったのです。当時は
石勝線回りになって2年目だったかな?で、183系に段階的に置き換えが始まっていた
時期でもありました。しかしながら、乗り込んだのは、あの82系、ワクワクして乗込み
ました。が、しかし・・・・、ベンチシート?席はみな進行方向に向いてはいるけど
ベンチシート?485、781に乗ったことがあるのでその落差に愕然としました。まぁー
いいや、早く走りだしてくれと思っているとやっと発車。しかし、ここで新たな感動
が。札幌駅構内のポイントを通過する時、音はすれど、振動が体に伝わってこない!
おーっ、これが82系だったのかー、と自分勝手に感動したのを覚えています。
しかし、釧路から札幌に向かう時は183系のおおぞらでしたので、その後82系に乗れる
チャンスはありませんでした。たった一度の乗車体験、これも克明に覚えています。
153S.Fujishi魔:2006/07/14(金) 00:08:31 ID:u5fMgb36
おいらも、いささかばかり古き記憶を掘り起こして見ようと、

初めて北海道に足を運んだのは学校を卒業(追い出され)した後だった
すでに183系が殖え始めていた時期だったが、あえて82系を選んで乗った
直角シートにはやっぱり閉口したが、いちばんの理由は食堂車キシ80だったのだ

あこがれのキシ80で注文したのは「黒ビールとイカめしのセット」だったのだが
黒ビールは「サッポロ黒ラベル」で、イカ飯は冷え切って硬くなったもので、
がっかり、どころかムカムカと腹が立ったのを覚えている。その後イカ飯は食べた事は無い

                       7-13 ふじしましょーじ
154名無し野電車区:2006/07/14(金) 00:12:26 ID:80DpiiWl
1965、6年頃の日豊線についてご存知ありませんか?
155S.Fujishi魔:2006/07/14(金) 00:15:46 ID:u5fMgb36
また、かつて交通公社の時刻表には、食堂車のメニューが載っていて、
忘れもしない1973年中学生のとき、中央西線のD51を撮りに言った帰り
大奮発で「あずさ」に乗った。なぜならサシ181で「オムレツ」を食べてみたかったのだ
夢は叶った、しかし空しかった。あまりのまずさに「ねーちゃん!これいらんからカレー持って来い!」

                            7-13 ふじしましょーじ
156S.Fujishi魔:2006/07/14(金) 00:33:49 ID:n9qU/JaV
新幹線のビッフェでもカレーを食べた。そこそこ・・・の評価の記憶が間違いを生んだ
0系の食堂車に喜び勇んで出撃したはいいが、メニュー見てその高額さに呆れ驚き、
やはりカレーを注文。情けなくて涙が出た

そして100系。ここでも1000円を越すカレーを・・・・バカだねぇ
同じ100系でもG編成(カフェテリア)の頃、「おにぎり」は改札外の世界より
高額で、かつ少量で・・・となると必然的に不味と感じ、やはり不幸だった

されに「のぞみ」時代に突入、新幹線改札のそとにコンビニ等が出きる頃になり
やっと「そこそこ」の食事ができるように・・

食堂車廃止の理由に「要員不足」が言われていたが、それは「日本食堂」やら
「帝国ホテル」みたいな「ファミりー企業」に独占させたせいであって、
もしも「まくど」とか「吉野家」とか入れてたら、その後の食堂車の歴史は・・・
変わってただろう。きっと・・・・・
      7-15ふじしましょーじ

                 
157名無し野電車区:2006/07/14(金) 01:00:12 ID:o5KUmf12
新手の荒らしみたいにみえる....
158名無し野電車区:2006/07/14(金) 01:05:15 ID:yTU05Zp8
おっさんになってまでこんな趣味にリキ入れてるヤシは、やはり痛いな。
159名無し野電車区:2006/07/15(土) 08:52:47 ID:TEOfcV5h
生活も安定し、金もそこそこ余裕ができるおっさんだからこそリキ入れてできるんだよ。
この趣味は道楽とも言えるから(「鉄道」の文字を分解すれば
「金」を「失」う「道」と書くではないか)、余裕のない人には続けられないんだよ。
だから好きなことを続けるために仕事を頑張っているんだよ。
そういうおっさんたちをバカにする>>158君、君だって余裕があれば楽しみたいんだろ?
だったら仕事を頑張って金を稼いで楽しめ!
160plausinar ◆fcoWXWNaG2 :2006/07/16(日) 07:00:50 ID:lmkrgccC
>>147
旧国鉄のTV-CMは、本格的に始めたのが確か'69年あたりだったと思う。
引退したばかりの金田正一氏が新幹線のCMをやっていた。
例のカネやん節で「16両の長ーい編成」と、やってた。
「巨人軍、金田投手」といえば野球好きの子供たちにとっては、「偉大」というよりは親しみの持てる
存在だったんだけど、なぜ(当時珍しい)国鉄のCMに出ているんだろう。と思ったものだった。

周囲の大人たちの「昔、国鉄にいたんだヨ」という言葉を聞いて、
「へえ、機関士か何かやってたの」と言って、思いっきり笑われたことを思い出す。

国鉄は以後、良質なCM作り手の一つとして、様々な「名作」を世に送り出して行くのだけれど、
そのトップバッターに金田正一氏が登場したことは、今考えると震える思いだ。
当時TV-CM作る人たちには「判っている」人がたくさんいたんだなと。

自動車の話で恐縮だけど、鈴木自動車がフロンテ360を出したとき、CMキャンペーンでイタリア半島を
一周するというのがあった。
TVドキュメンタリーでそれを見たことがあるけど、ドライバーは中年の、頭がつるつるした外人のおっさんだった。
子供心に何故こんな人が出るんだろう、と思ったのだけれど、
ずいぶん後になって、その人が「スターリング・モス」だったことを知り、やはり震える思いだった。
161おっさん:2006/07/16(日) 18:16:15 ID:lHRoWFht
カネやんのCM、思い出した。そういうの、あったな。カネやんは、前にも書いたように物
凄い大投手だったのだが、キャラクターに親しみがあってファンは多かった。少し若い人に
も分るように例えるなら、巨人にいた中畑が似たタイプであろうか。そういえば最近余り姿
を見ないけれど、元気なんだろうか。
ところで、私が本格的に旅行をするようになった頃は「DISCOVER→JAPAN」のキャンペー
ンが始まった頃だった。統一されたこのコピーを入れたスタンプ集めに躍起となったもので
ある。確か全国の9割以上は集めたと思ったが、今はそのアルバムは棚の奥で眠っている。
その後、国鉄からJRになって、当初は各社がノリピーだの富田靖子だのアイドルを前面に
出したCMが一時席巻したけれど、その中ではJR東海のCMがやはり秀逸だったな。今で
もJR東海のCMはイメージ戦略で定評があるけれど、中でも私には「シンデレラエクスプ
レス」がやはり思い出に残る。実際当時そういう事があった経験があるからだ。「牧瀬里穂」
(←で良かったかな?)ほどの美人ではなかったけど、気持ちはCMと同じだった。
彼女は新神戸まで帰る。日曜の20時頃の新幹線が私にはその時間だった。でも、実際は私の
方が圧倒的に新神戸に行っていたので、あのシーンは私にとっては新神戸の駅だった。でも、
新神戸の新幹線の停車時間はほんの僅かで、別れを惜しんでいる時間などほとんどなかった。
列の最後に乗り込んで振り返るとドアが閉まり、手を振るだけが精一杯の何とも慌ただしい
「シンデレラエクスプレス」だった。やはりCMのシーンのようなドラマは、始発の東京駅
や新大阪駅だからこそ生まれるのかなと思ったものである。
162おっさん:2006/07/16(日) 19:05:59 ID:lHRoWFht
食堂車の話が出ていたが、私の食堂車体験も、好んで利用するようになったのはずっと後に
なってからである。特急に乗ることが滅多になかった上に、街中よりかなり高い値段設定の
舌代は文字通り“高嶺の花”だった。とても貧乏学生には手が出なかった。カレーライスで
すら当時の1日分の食費に相当する金額だった。
それでも、北海道に行く時の「はつかり」「みちのく」では必ず足を運び、道内の特急でも
長距離を乗る時はなるべく足を運んだ。道内の食堂車では「イカ刺し定食」や「三平汁」な
ど御当地メニューを奮発して北海道に来ている気分を味わったものだ。
旅にも余裕が出てきた頃には残念ながら食堂車の連結される列車がどんどん減ってきていた。
だから、あえて食堂車の連結されている列車を選んで乗ることも多くなった。中でも、グレー
ドアップされた「あさかぜ」の食堂車が一番好きだった。特に東京駅を発車してすぐ食堂車
に出向いてまずビールを一杯! これが最高だった。丁度その頃、「あさかぜ」は通勤帰り
の人で混雑する横浜駅に到着する。衆人の羨まし気な視線を浴びながら“別世界の一杯”が
何とも堪らない快感であった。
また、当時残っていた東京発着のブルトレの食堂車には、「さくら」には長崎名物のちゃん
ぽんや皿うどんが、「出雲」には出雲そばなど御当地メニューがあったのも懐かしい。
あとはやはり新幹線100系の2階建て食堂車がよかった。当時は東京駅を出てすぐ食堂車に
足を運んでもなかなか座れないで立ったまま空くのを待っていたものだ。やっと席にありつ
けたと思ったら、もう熱海を通過していた…なんてことも珍しくなかった。しかし、明るい
車内は開放感もあって、座ってしまえば時間の経つのも構わずにゆっくり寛いだものである。
だから、名古屋までなら指定などは取らずに、わざと初めから食堂車狙いで行ったことも珍
しくなかった。
163おっさん:2006/07/16(日) 19:06:46 ID:lHRoWFht
今は「北斗星」など豪華な料理を楽しむことが前提の食堂車しかなく、気軽に楽しむことが
できなくなってしまったが、たとえ1人でロイヤルに乗車していても、パブタイムを待ちか
ねて足を運ぶ。ちょっと飲んだだけでもいい値段がかかってしまうけれど、やはり食堂車で
何か食べたり飲んだりしたい。たまたま相席になった見知らぬ人と旅の一時を過ごすことも
ままある。そんな時はついついお酒のペースも上がりがちだ。ただ、朝の朝食はちょっと高
いなぁ…。
ところで、廃車になった「トマムサホロEXP」にキシ80 501が連結されていたが、これの
営業列車に乗車された方はどれだけいるだろうか。デビュー当初は札幌市内のイベント会社
が手配した業者が入って営業していたが、大して営業しないうちに空で走るようになり、や
がては外されてしまった。まだ車籍はあるらしいが、復帰する可能性はまずないだろう。こ
の食堂車も夢空間の食堂車に似た造りで悪くはなかったのだが…。
164plausinar ◆fcoWXWNaG2 :2006/07/16(日) 21:11:42 ID:lmkrgccC
resさせていただきます。
食堂車、今となっては別の意味で高嶺の花と成り果てた存在ですが、あたしも随分と利用
させてもらったものでした。
初めての北海道行きで特急「みちのく」の食堂車、これが初体験でした。
頼んだのはカツライス、要するにとんかつ定食でしたが、たしか700円以上したと記憶しています。
町の食堂で、500円を超えるものは高級品というイメージの強かった時代のこと。
(500円玉なんてまだ存在していませんでした)
印象に残っているのはみそ汁の器がやけに大きかったこと。中身は少なかった、と言うか普通だった。
これは、帰りの「上りはつかり1号」で朝食をとった際に疑問が氷解します。
あの当時の東北本線の特急ときたら、スピード感では今の新幹線以上のものが有りましたから。

自身いちばん利用したのはやはり新幹線の食堂車。乗るたびに出向いた、そんな感じでした。
165名無し野電車区:2006/07/16(日) 22:29:27 ID:UzMWNVOR
>>149
元阪和線沿線民です。
新快速がまだブルーライナーだった頃、本線の新快速と阪和の新快速がヘッドマークの違いはあっても本線のほうがどうしてもかっこよく見えました。
後から思うと113の3ドアの側面が凸凹した感じより153の窓だけ1列に並んだ感じがかっこよかったのですかね。
166杉本町折り返し:2006/07/16(日) 22:38:58 ID:eH/BdEaV
ブルーライナー。鳳車庫へ回送がてらの「普通運用」の時は、
新快速マークの丸い部分をパタンとめくって「=」で走って
たねぇ。
ブルーと関西線色(赤)と東海道色(橙&緑)の混成も笑えた。

美章園〜杉本町間は高架化されて、ずいぶん感じが変わった。
今日現在、架線は撤去済み、レールも大部分ひっぺがされて
いる。ガラーンとして妙な景色や....
167おっさん:2006/07/17(月) 01:16:16 ID:BnWApgVv
珍しい列車に乗った話をしよう。
昔、東京−紀伊勝浦を結んでいた寝台特急「紀伊」という列車があった。Bネ6両の面白く
もない編成だったが、南紀に行くことが案外多かったのでたまに利用していた。
この「紀伊」がある冬の日の未明、名古屋で牽引機のDD51に激突される事故を起こした。
原因は機関士の酒酔い運転だったが、この事故でぶつけられた車両(スハネフ14 102)が
大破し、その他の車両も修理のため車両に不足をきたすことになった。そして急遽スハネフ
14の代わりに座席車のスハフ14を連結して走った時期がある。一時はオハ14もつなげて、
座席車2両、Bネ4両という時もあった。しかし、この処置は車両が復旧してからも散発的
に行われた。よく覚えていないが、3段寝台の2段寝台化の改造の際に、予備車が不足する
と「紀伊」にはこの処置が取られたと思う。確か「いなば」でもたまにスハフ14が連結され
ていたのも覚えている。
当初は単なる電源車代わりの回送扱いだったが、後にマルスに入って一般売りもされた。し
かし、時刻表にその記述やマークがなかったため、利用客はほとんどいなかった。その中で
私はこれを知って数回亀山などから利用したが、いつも私の“貸切り”だった。高い寝台料
金を払うこともなく優々と寝転がって行けたのである。

168おっさん:2006/07/17(月) 01:23:21 ID:BnWApgVv
珍しい列車に乗った話をしよう。
昔、東京−紀伊勝浦を結んでいた寝台特急「紀伊」という列車があった。Bネ6両の面白く
もない編成だったが、南紀に行くことが案外多かったのでたまに利用していた。
この「紀伊」がある冬の日の未明、名古屋で牽引機のDD51に激突される事故を起こした。
原因は機関士の酒酔い運転だったが、この事故でぶつけられた車両(スハネフ14 102)が
大破し、その他の車両も修理のため車両に不足をきたすことになった。そして急遽スハネフ
14の代わりに座席車のスハフ14を連結して走った時期がある。一時はオハ14もつなげて、
座席車2両、Bネ4両という時もあった。しかし、この処置は車両が復旧してからも散発的
に行われた。よく覚えていないが、3段寝台の2段寝台化の改造の際に、予備車が不足する
と「紀伊」にはこの処置が取られたと思う。確か「いなば」でもたまにスハフ14が連結され
ていたのも覚えている。
当初は単なる電源車代わりの回送扱いだったが、後にマルスに入って一般売りもされた。し
かし、時刻表にその記述やマークがなかったため、利用客はほとんどいなかった。その中で
私はこれを知って数回亀山などから利用したが、いつも私の“貸切り”だった。高い寝台料
金を払うこともなく優々と寝転がって行けたのである。

169おっさん:2006/07/17(月) 01:34:06 ID:BnWApgVv
一時期、車を列車に乗せて旅行ができる「カートレイン」が走ったのを覚えておられるだろ
う。滅多に乗ることのできないナロネ21の寝台が利用できる貴重な列車だったが、そういう
利用が考えられなかったから、結局一度も乗ることなく消えて行った。
しかし、その中で熱田−東小倉に設定された「カートレイン名古屋」という列車があった。
名古屋局自慢の欧風客車「ユーロライナー」を3両づつに分け、それに自動車輸送用の貨車
をつなげた2編成を作り、年末年始、旧盆のシーズンを中心に走っていた。これも本来は自
動車と共に利用ということだったが、交通新聞で一般客も乗車できることを知った。さっそ
くチケットの手配をして乗ることにした。
しかし、時刻表にも掲載されていないので指定の確保には苦労した。首都圏の駅で聞いても
埒があかず、マルスでも出ない。やむなく名古屋に確認を取ると、一般客の指定券は名古屋
地区周辺のみどりの窓口でのみ扱うとのこと。それから旅セや駅に電話して申し込みをした
のだが、どこも郵送は扱わないと冷たい返事。しかし、ようやく蒲郡駅で扱ってもらえるこ
とになり、後日チケットが郵送されてきた。しっかりマルスで「カートレイン名古屋」と印
字されていた。
当日、車を積み込んでから旅客ホームに移動し、一般客を乗せる。しかし、一般客に指定さ
れた展望車のスロフ12には私1人だけ。宣伝もしていないのだから無理もあるまい。結局
このまま名古屋を出て客扱いは終了。自動車持ち込みで利用している乗客はコンパートメン
トタイプのオロ12が指定されているが、今夜は空室もある。そこで車掌にお願いして空い
ていたコンパートメント室に移動した。
初めて乗るユーロライナーのコンパートメント室はまさに個室で、天井窓から寝ながらにし
て夜空が眺められる。気に入ってしまった。これ以来、ユーロライナーが多客臨として走る
時は、空いていればこの個室を指定していた。
列車の終点は東小倉の貨物駅であるが一般の客扱いは門司まで。この処置は、その後も暫く
続けられたようだが、宣伝をしなかったり時刻表にも載らなかったので、ほとんど利用者は
いなかったようだ。
こんなマルスで指定券が売られていながら“時刻表に載らなかった臨時列車”って、意外に
ある。皆さんはどうだろう?
170名無し野電車区:2006/07/17(月) 01:52:20 ID:MdyIFBHb
楽しく読ませて頂いております。

1980-90年代、受験勉強を最優先したが為に、あの当時固有の列車、乗ろうと思えば乗れたはずだったのですが、
今になって後悔しています、もっと乗り鉄をやっとくべきだったと。
171もうすぐおっさん:2006/07/17(月) 02:15:08 ID:JXl0nvbh
ほぼ同時期の上り「富士」か「はやぶさ」のどっちか忘れたけど
西明石で脱線して客車が大破してしまった事があったね。
確か当日の列車線は工事で緩行線を通過予定だったとか。
名古屋での事故の事で思い出したよ。
172名無し野電車区:2006/07/17(月) 02:43:18 ID:kEQKjqjm
>>167
いなばにスハフを連結したのは、きたぐにの火災事故を受けてスハネフの難燃化工事のためだった記憶があります。
当時の時刻表にもハザに変更と載っていたような気がする。
173名無し野電車区:2006/07/17(月) 03:20:03 ID:xuMC7hyy
全部読みました>>1=おっさん
紀伊が走っていた区間が地元なんですが、
そんな措置があったとは知らなかったです。
思えば20年以上乗り鉄してないなあ。

ところで、おっさん的には、近場はどうなの?
青梅線とか富士急とか相模線とか。
近すぎて旅情なしかな?
174名無し野電車区:2006/07/17(月) 08:54:53 ID:Hwym5rUH
>>170
受験勉強を最優先した割には日本語が変だな。
おっさんの文章を見習え。
175おっさん:2006/07/17(月) 09:55:22 ID:BnWApgVv
>>171
その事故は「富士」だったな。機関士が路線の変更を失念して減速をせずポイントに突っ込
んだのが原因だったと思った。たまたまホームに激突したのが寝台車の通路側だったために、
車体を大きく抉り取られる程大破した割に、けが人が少なくて済んだのは幸いだった。牽引
機は確かゾロ目のEF65 1111だったはずだ。客車から切り離されて先の方でポツンと停まっ
ていた映像が印象に残っている。
>>172
情報をありがとう。この代替え処置は散発的ではあったが、結構長かったように記憶してい
る。とにかく安く上がるので、東京−関西方面(奈良方面からの)の往復には重宝した。い
つも空いていたから、貸切り状態だったので気楽だったし。
176おっさん:2006/07/17(月) 10:58:12 ID:BnWApgVv
私は神奈川の住民だから、近場といえば首都圏近郊ということになる。その中で好きな路線
もいくつかあるが、その“好きな”という意味もいろいろで、例えば景色が良くて好きとか、
走っている車両が良くて好き、さらには沿線においしい食べ物屋があるから好き…と様々で
ある。これらを全て含む路線と言われれば、やっぱり伊豆急をおいて他にないだろう。
首都圏にいて伊豆や箱根は一番手軽な観光地であるし、鉄道以外の家族旅行や社員旅行など
でもまず第一候補に上がる。彼女、もしくは怪し気な関係の人とドライブ、一泊の温泉旅行
も伊豆は外せない。
鉄道に話を向ければ、伊豆急には代々魅力ある車両が数多く乗り入れているのは皆さん御存
知の通りだ。中でもやはり「リゾート21」は画期的な車両で、今でもこの車両を見ると「伊
豆に来たなぁ〜」と実感する。以前はその展望席に乗るため熱海や下田で早くから並びもし
た。「ロイヤルBOX」もまた秀逸だった。昔の初代「ロイヤルBOX」も良かったが、「リゾー
ト21」に連結された「ロイヤルBOX」はそのゆとりと演出で、185系の「踊り子」に乗るく
らいならと、会社の連中を説得して乗せ、満足してもらったこともある。
その「ロイヤルBOX」も今は外され、予備として残った1両が伊豆高原の引込線にポツンと
雨曝しになっているのを見ると、いつももったいないなぁと思うのである。「星空〜」とか
いう車両毎に違う演出も全て楽しんだものだけど…。
古い話をすれば、それまでの急行「伊豆」に代わって登場した185系特急「踊り子」は、そ
の“汎用性”という中途半端な車両を使用することに加えて、何か今までのイメージにない
“安っぽい”ネーミングの特急として、当初は余り評判が良くなかった。しかし、いつの間
にか「踊り子」のネーミングは一般にも浸透して定着した。伊豆からは「踊り子」の名前が
外せなくなった。
177おっさん:2006/07/17(月) 10:58:46 ID:BnWApgVv
お座敷車両が多客臨として初めてマルスに入って一般売りされたのが確か東京−修善寺を走
った「お座敷レジャー号」だったと思う。今はなき80系客車のお座敷車両が、伊豆箱根鉄道
の凸型電気機関車に牽かれて走った。それが好評だったため、伊豆急にも同じ80系客車を使
って「お座敷踊り子」が運転された。これを切っ掛けにして多種多様な列車が運転されるよ
うになってきた。そして種別が特急になれば「モントレー踊り子」のように、「踊り子」と
必ず名が入るようになった。安っぽいネーミングもいつの間にか“ブランド”になった。
そして登場した「スーパービュー踊り子」。初めて乗った時の印象は強烈だった。「ビュー
レディ」という専門アテンダントが笑顔で迎えてくれ、グリーン車では何かと世話を焼いて
くれるサービスは、やっと鉄道も飛行機並のレベルになってきたのかなと思った。先頭展望
席がリクライニングをしないというグリーン車らしからぬシートに違和感を持ったものの、
すぐに前面展望を楽しむのにリクライニングなど必要がないことも理解した。前面展望は正
直「リゾート21」の方が勝るような感じだけれど、ゴージャス感はさすがにA特急。美しい
伊豆の海を愛でながら、時には日頃使っている駅を軽やかなミュージック・フォーンを奏で
ながら通過していくのを高い席から見下ろすのは、嫌でもリゾート気分を盛り上げる。
どうしても前面展望が楽しみたくてグリーン車に乗る機会が多かったが、ある日、仲間との
旅行で、1人後から追い掛ける形で午後の「SVO」に乗った。その時、初めて普通席に乗
った。しかし、乗ってみると、その名の通り大きな窓からの眺めに満足してしまった。普通
車でも十分ワクワク感が味わえる。そう思うと現金なもので、今までそれ程抵抗なく使って
来たグリーン車の料金が異常に高く思え、それ以降は普段は普通車を利用するようになった。
そして着いた伊豆急下田。いかにもリゾート駅とした雰囲気がこれまたいい。さらに、この
先は伊豆のおいしい海の幸が待っている! 少々交通費が高くつくのが難点だが、伊豆は私
にとって好きなところで、年に1回は鉄道ファンを離れてでも足を向けている。
178おっさん:2006/07/17(月) 11:56:05 ID:BnWApgVv
伊豆も“近場”と言うには…という声もあるだろうから、もっと近場でということであれば、
好きな路線はやっぱり地元の京急かな。品川から三崎口へ向け快走する電車は、毎日使って
いても飽きない。
都会の高架をフルスピードで、またJRと併走する鶴見−横浜の間ではJRの電車を見るま
に追越して行くあの快感はこたえられない。そして横浜を出て丘陵地帯を抜け、横須賀市内
に入ると今度は一転トンネルの連続だ。そこをフルスピードで次々と突っ込んで行くその爽
快感もいい! 横須賀中央を出て長めのトンネルを抜けると視界が開け、遥か向こうに東京
湾が望める。ここまで来ると、一気に今までのせわしなさが消え、一転のどかな風景に変わ
る。この突然の変化もまた魅力だ。天気が良ければ東京湾を行き交う沢山の船の向こうに房
総半島も望むことができる京急でも私の好きな風景の1つだ。そして、久里浜を出ると線路
は単線になって、また一段とローカルぽく変化する。再び東京湾が望めると三浦海岸だ。そ
してこの先三崎口までは周辺に畑が目立つまさに“田舎の風景”。こんな変化に富んだ京急
の路線はいつ乗っても楽しい。

相模線も桜の時期はいい。桜のトンネルがあったりして、それこそ「風っこ号」でも走らせ
たい路線だ。あとは、1週間に1回程行く宇都宮への往復に使っている東武宇都宮線も好き
だ。まだ吊掛けの5050系が健在で懐かしい音を唸らせながら走っているのは、おっさん年
代にはたまらない。別の東武のスレで、この5050系を目の敵にしている書き込みが多いの
を見ると少々寂しくもなる。もう先は長くないだろうが、“あの音”が聞かれるまで、多少
時間がかかっていても東武を利用して行こうと思っている。
179名無し野電車区:2006/07/17(月) 12:01:17 ID:0WhUcb5q
157あまぎ→185踊り子でしょう
180名無し野電車区:2006/07/17(月) 12:49:17 ID:4WOEXuHa
俺は生まれも育ちも現住所も神奈川の35歳。親の実家は世田谷と川崎。
いとこ・親戚連中も横浜、川崎、江戸川、千葉、柏とみんなベッドタウン。
そして家族旅行といえばひたすら車。だから道路・高速道事情にも詳しい。
そんな訳で新幹線デビューは中学の修学旅行。2回目は高校の修学旅行。
在来線長距離&夜行デビューは大学生時代の北斗星。

おまけに鉄道空白市町村にいたから、鉄道原風景が俺には乏しい。
小田急線相模大野での連結切り離しくらいだろうか。
鉄道趣味を持ってしまった今の俺にとっては、ちょっともの足りないなあ・・・。
181おっさん:2006/07/17(月) 13:55:31 ID:BnWApgVv
157系「あまぎ」は1回しか乗ったことがない。伊豆に行く時は153系急行「伊豆」が当然
の選択だった。伊豆に行くようになった時は既に183系「あまぎ」に変わっていた。

鉄道趣味を持つ人は、幼い頃から何らかの形で身近に鉄道の風景があるものだけれど、“鉄
道空白地帯”でとりたて縁がなかった環境にいながら鉄道趣味を持ったというのはどうして
なんだろう? むしろ免疫がなかっただけに突然惹かれて純粋に溶け込んでしまったのかな?
まぁ、動機はどうであれ、同じ趣味のお仲間なのだし、楽しく続けて行かれればいいんじゃ
ないのかな。その夜行デビューの「北斗星」に乗った時の感じも書いて下さいね。
182180:2006/07/17(月) 14:25:11 ID:4WOEXuHa
↑鉄道って遠い存在のものだと思ってたから。
とは言っても神奈川県という土地柄、駅から遠いとはいってもさほどではない。
それだけにあこがれというわけでもなかった。
高校に入学し電車通学をするようになり、単純に面白いなと思った。
もともと、車が好きだったし、学校で禁止されてたバイクも乗り回してた。
バイク通学がばれ、停学になったこともある。乗り物自体が好きなのだと思う。
F1、インディー、MOTOやGTも番組があるときは欠かさず見てるから。
北斗星の記憶は正直、あまりよく覚えてない。でも、目が覚めると大沼あたりで、
そこから札幌までは、本州では見られない風景にずっと釘付けになった。
目覚めたのはそのころかな。でも、形式などの情報はあまりよく覚えられません。
北斗星の車両が20〜30年選手の改造車だと知ったのも、ごく最近ですから。
183おっさん:2006/07/17(月) 22:56:56 ID:BnWApgVv
>>182
自分のペースで楽しんで行けばいいと思います。
車でも何でもそうですが、知らないで使っているよりも、知っていて使った方が楽しい
ですから、興味を持ったらその時はネットや雑誌などで調べてみたらいいと思います。
そうすれば、ますます旅もたのしくなりますから。
184もうすぐおっさん:2006/07/17(月) 23:18:45 ID:JXl0nvbh
>>181
157系は一度でいいから対面したかった車両だったな。
その他、EH10 DF50 DD54 EF57 80系湘南電車 飯田線モハ52など

関西在住で初めて乗り鉄したのが1984.3.23。
もう少し早ければ良かったんだけどな。ま、頭をカンナで削ったような155系(だったはず)
と岐阜で対面出来たんだし、良し、としとくか。
まだ岐阜が地平駅時代でキハ26や55が沢山居た時代ね。
185名無し野電車区:2006/07/18(火) 12:54:25 ID:2bk70gIw
>>172
遅レスだが
漏れが記憶しているのは垂れ流しトイレの循環式汚物処理装置を取り付ける工事の
為と聞いたことがあるが、両方かな?
186おっさん:2006/07/19(水) 01:39:10 ID:IO4gfrso
一通り国鉄の路線を乗り潰してしまうと、次は駅から更にいろいろな所に行ってみたくなる。
北海道などはその最たるものだ。
道内の路線も乗り尽くした何回目かの北海道旅行。札幌行き「大雪」で未明の深川に降りた。
駅の待合室で暫く時間を潰して留萌本線の始発に乗る。夜行列車の寝不足を補うように、キ
ハ22の車内で居眠りをして1時間余り、留萠に着く(昔は留萌の「萌」は「萠」だった)。
ここで増毛行きに乗換えた。増毛まで時刻表では途中駅は2駅だけだったが、道内特有の乗
降場がこの区間には多く、その倍以上列車は停まって増毛に到着した。
今は「増毛」という駅も、SL「すずらん号」の運転以来、「ノロッコ号」も加わって、ず
いぶん知名度が上がった。町の中も、歴史ある建物を整備して公開するようになった。駅舎
も小奇麗な造りに建て替えられ、観光地としてイメージアップを図っている。しかし、当時
の増毛は、うら寂れた集落に過ぎなかった。
何で増毛に降りたのか。ここに来るのは確か2回目で、初めてではない。夏休み前、またも
北海道に行く計画を立てている時、目に留まった地名があった。それが「雄冬」。時刻表で
増毛の先にポツンと飛んで「雄冬」と書かれ、増毛とは道路ではなく“船”で結ばれててい
るのが気になった。「島でもないのに何で船?」と思い、道路地図を広げてみた。すると、
増毛から延びている国道231号線は、浜益村との境の雄冬から“点線”に変わっていた。つ
まり、道路が未完成であることを示していたのだ。反対側の浜益村からの道路も、この雄冬
の集落の手前4km程の千代志別という所で切れている。当時でこそ、増毛側からの道路が
雄冬まで開通したばかりで、それまでは集落なのに、どちらからも“道がない!”、いわゆ
る「陸の孤島」だった訳だ。道が出来たとはいっても、途中には厳しい峠越えがあり、バス
などの便もないため、それでこの船がこの雄冬と増毛を結んでいるのだった。これを知って
から、無性に行ってみたくなってやって来たのである。
道を歩いている人に乗り場を尋ねてやって来たのは、増毛漁港の片隅。漁船が係留してある
港のすぐ前に「雄冬方面乗り場」の看板があった。一見、ごくふつうの民家の軒先が切符売
場だった。
187おっさん:2006/07/19(水) 01:40:22 ID:IO4gfrso
外洋に出るからと乗船名簿に住所、名前を記入して往復2000円位だと思ったが、結構高い
運賃を払って待つこと1時間余り。やがて船長らしきおっさんが出て来て目の前の1隻の漁
船のもやいを解いた。「これ、乗って」。一見、まるで漁船。よく見ると、小さく「増毛−
雄冬」(雄冬海運)とサボ?が掲げてあった。そして、定刻の9時30分、いとも簡単にエン
ジンを始動させると岸壁をスルッと離れた。乗客は自分1人。
最初は船内に入ったが、どこにでもある小さな漁船の船内スペースなど知れたものである。
うす汚い小さな座敷とすえた匂いにたまらず外に出てベンチに腰掛けた。船は港を出て沖合
い1km程の海上を結構なスピードで走る。見るからに漁船が漁場に向かうような走りだ。
当然船は大きく揺れる! 最初は険しい暑寒別岳の山々を見上げる余裕もあったけれど、10
分としないうちに体が参ってくる。私はいろいろな乗り物に乗って“酔った”経験はまずな
い。しかし、さすがに漁船はそこらのフェリーとは訳が違う。かなりヤバくなってしまった。
それからは必死に耐え、雄冬に着くのをひたすら待ったのである。
雄冬には1時間余りで到着した。何とか持ちこたえた。溜め息を漏らしながら降りる私に船
長が声を掛けた。「帰りは12時に出るからね〜!」「え? えぇ〜?」と慌ててもう一度確
認すると、やはり12時に戻るという。時刻表では13時30分発となっているのに…。用がな
いからすぐ帰るんだとか。いやはやアバウト!
「陸の孤島」と言われる位だから、どんな寂れた所だろうと思ってやって来たら、意外!
家が傾斜のきつい崖と海の間の狭いスペースに結構まとまって建っていた。港もそれなりに
整備されていて、およそイメージとは違っていた。まぁ、だからこそ定期船が通っていると
改めて納得。
188おっさん:2006/07/19(水) 01:40:58 ID:IO4gfrso
その「陸の孤島」も、丁度この未開通区間をつなける工事の真最中だった。立入禁止の柵の
向こうには真新しいトンネルもほぼ完成していた。このトンネルの向こうの千代志別までは
約4km。そこまで行けばバスの便もある。何かどうしても行きたくなるのは旅人の性。無
理と分かっていても、工事関係者に“聞いてみた”。「向こうへ行くことは出来ないんです
かね?」言うまでもなく「行けないね」と断られた。しかし、道がない訳ではなかった。
「雄冬山道」という道があるのは事前に調べてあった。ただ、400m程山を登らなくてはな
らず、軽装で越えられる程の道ではないのも理解していた。でも、続けてこの道のことを一
応尋ねてみた。「クマに遇ってもいいなら行け!」
あえなく撤収! 出航が早まったのが返って丁度よい時間になった。後で、暑寒別連峰は道
内でも有数のクマの生息地と知った。無知とは恐ろしいものである。その深くて険しい山々
を帰りは多少眺める余裕も出来た。この時の面白さがきっかけになって、道内の“僻地”巡
りという楽しみが始まった。
程なく国道も開通してこの航路も廃止された。しかし、あの時見たトンネルは、開通直後に
岩盤崩落があって埋まってしまい、再び半年程不通になったという。それだけ地形の険しい
難所だったのだ。今は長距離バスなどであっという間に通り過ぎてしまうようになったし、
雄冬の集落もパーキングが整備されている。あの当時の風景も思い出せないくらいに。

何か鉄道とは関係ない話になってしまった。御容赦。
189名無し野電車区:2006/07/19(水) 22:16:48 ID:8oFYvgtD
増毛〜雄冬と聞くと高倉健の「駅」を思い出す。
わしが増毛駅に行った時、映画で使ったストーブが待合室に置いてあった。
これに倍賞千恵子が…
190おっさん:2006/07/20(木) 10:28:41 ID:LzgWa/gU
2年程前に“明日萌”に友人の車で久しぶりに行った。列車の来ない時間帯なので、誰も人
はおらず、駅の辺りは静まり返っていた。
NHKの朝ドラのロケ地となったことでSLまで運転されるようになり、それまで忘れ去ら
れたような留萌や増毛の地域が息を吹き返した。私も「SLすずらん号」には何回も乗った。
「ノロッコ号」も然り。そしてこの“明日萌”こと恵比島は、列車が着くと大勢の観光客で
ごった返す程賑わった。
そのブームも過去のものとなりつつある。とうとう「SLすずらん号」も今年の9月で運転
が終了することになった。絶えまなく人が訪れていた駅舎も、人気がなければ薄暗くて、何
年も入らなかった倉庫の鍵を開けて入ったような、そんな感じがする。観光客が入れ替わり
記念撮影をしたヒロインのマネキンも余計不気味に映る。この後この駅や駅前のセットはど
うなるのだろう? 人知れず閉鎖され、朽ちて行き、いつしか雪に埋もれて忘れ去られるの
だろうか。
私ら“おっさん”世代には、同じNHKの朝ドラで放送されていた「旅路」の思い出の方が
強い。さすがにまだガキの頃だったので、ストーリーの詳細までは覚えていないが、4ケタ
ナンバーの「キューロク」がふんだんに画面に登場していたのを今でも覚えている。その舞
台となったのは、同じ北海道の塩谷駅だった。ここのホームには「NHK朝の連続ドラマ
『旅路』の駅」という手書きのモニュメントがあったのを覚えているが、今でも残っている
のだろうか? まぁ。「旅路」といっても、NHKの朝ドラを不動の人気にした「おはなは
ん」を知らない世代には無理な話かも知れないが…。あれは伊予大洲が舞台だったよな。
191plausinar ◆fcoWXWNaG2 :2006/07/20(木) 21:12:35 ID:3XAR1Bvr
「旅路」というのはずいぶん懐かしいですね。あたし自身まだ小学生でしたが。
ストーリー自体は、もう覚えていませんが、息子を演じていた松山省二さん。
道を踏み外したものの立ち直り、父のあとを継いで鉄道員となり、
ラスト・シーンではキハ82特急「白鳥」一番列車のハンドルを握っていたのをハッキリ覚えています。
192名無し野電車区:2006/07/20(木) 21:38:24 ID:3SW0hlYy
実際に旅行始めた頃は「北の家族」だったな。
函館駅にスタンプもあった。
193S.Fujishi魔:2006/07/20(木) 23:25:19 ID:IDmH665G
>185でトイレの話が出たが・・・・
いまのわかい諸君にはとうてい信じられないだろうが、すくなくとも1970年代当時
ほとんどの列車トイレは「直下型原型放出式」だったのだ。
東京駅でも、長距離客レの退いた後はすごい光景だった、それをホースで水撒きながら
洗い流していたのだ。夏場などけっこうすごいことになっていた。
また、撮り鉄していた最中に、ぶっかぶせられたことなど、日常茶飯事だった。へたすると、
ゴム製品とか女性用生理用具などの洗礼さえ受けた。
今になって考えると、長距離客レの走る路線は、雑草の生い茂るパワーが凄かったような・・
そんな中、583系など、ごく一部の特急車だけは、まだマシなほうだった。すなわち今流で言うと
「粉砕式消毒付放射式便所」とでもいうもので、排出される「ソレ」は薬品で消毒のうえ
「碾き臼」のような装置によって噴霧されながら東北道を疾走したのだった
忘れようにも忘れられないのは、1972年夏、関西線は亀山の鈴鹿川鉄橋でのこと。
朝一番のC57(当時110号と198号が最後に残っていた)を狙い、鉄橋下で三脚を構えて居た処で、
・・・黄金の霧の洗礼を受けた
朝日に輝く「ソレ」のなんと美しかったことか、
しかし次の瞬間、着ていたシャツを脱いでカメラに被せたことは言うまでもない。
194S.Fujishi魔:2006/07/20(木) 23:30:04 ID:IDmH665G
そういえば、昨年東北線でイベントの旧客列車に乗った
EF55が高崎の旧客を(EF641001の補機つきで)日光まで往復したのだ
乗車したスハフ32は・・・便所が閉鎖されていた。
時代の流れ(トイレの流れではなく)だなぁと思った
195おっさん:2006/07/20(木) 23:49:26 ID:LzgWa/gU
昔は>>193の方が言うように、トイレは垂れ流しが当たり前だった。「停車中には使用しな
いで下さい」というプレートがトイレの入り口に取り付けてあったの覚えている若い方もい
ると思う。それでも我慢できずに入る人はいるから、大きな駅では掃除が大変だった。
また、都市部に入るとアナウンスで「この先は住宅密集地になりますので、トイレの使用を
お控え下さい」というアナウンスも首都圏に入る前や阪和線、京都ー神戸などでは繰り返し
流されていた。
今考えれば、すごい時代だったよな。それでも、沿線からそれが原因で病気になったという
話は不思議と聞いた事がなかった。今の列車のトイレ、除菌クリーナーが当然のように備え
られ、無接触自動洗浄、自動給栓で手を触れる事もない。トイレの技術は目ざましい進歩を
遂げた分野だよな。
196おっさん:2006/07/20(木) 23:55:37 ID:LzgWa/gU
>>194
確か高崎の旧客の編成は、トイレが基本的に垂れ流しではさすがに使用できないので閉鎖し
ている。しかし、1両だけスハフ42の何番か忘れたが、簡易式のトイレに改造してあって、
その車両のみトイレ使用ができると思った。ただ、容量が少ないのか、その場の判断で使用
させないことも多くあるようだ。
197おっさん:2006/07/21(金) 00:23:41 ID:z87JHm0L
「あの時、あの車両に乗っておけばよかった、あの列車に乗りたかった」と思い、後になっ
て残念に思うことはいろいろあると思う。もう現役引退していた車両はどうしようもないが、
まだその頃は走っていて、でも乗る機会に恵まれず乗れないで消えて行った車両や路線とい
うことである。
私にとって、「乗りたかったなぁ」と思う車両の1つは151系のクロ151の個室。現役で東
海道を「こだま」で走っているのを知らない世代ではないけれど、その頃は幼すぎてピンと
来なかった。しかし、乗り鉄に目覚めて旅をするようになってからも、かろうじてこの車両
はクロハ181と名を変え、山陽本線の「しおじ」などで活躍していた。既に1人がけの優雅
な開放室のグリーン席は普通席に改装されていたが、個室だけが登場時のまま走っていた。
でも、やはり場所が遠いのと、貧乏学生には途方もない個室料金をひねり出すのは無理だっ
たし、1人で4人個室に乗るわけにもいかないと、現車を前にして大きな窓から覗くのが精
一杯だった。
それからもう1つ、“走るホテル”と称された20系客車のナロネ20、22に設備されていた
1人、2人用個室。今でこそ個室は当たり前の時代ではあるけれど、当時の個室はこの20系
だけであった。時刻表を見ると、そのA個室の見取図が示され、寝台セットの複雑なメカニ
ズムを見ているうちに、乗ってみたくなっていた。でも、やはり高嶺の花だった。車内を確
認する間もなく姿を消した。そのA個室を含んだ5両(だったかな?)のA寝台車をつなげ
た「博多あさかぜ」は、私にも羨望の列車だった。
198オサーン !!:2006/07/21(金) 02:01:09 ID:3HUp+FnE
ワタシは逆だな。
九州方面行きの「あかつき」に乗っていた時、三原あたりで退避していた夜行急行の姿を
良く思い出す。
「つくし」だとか「日南」だとか「雲仙」とか、ああいった急行にこそ、乗っておくべき
だった..とホゾ噛む思いでいる。
特急の蛍光灯っぽい車内から見る「電灯色の暖かそうな色」と悪く言えば「雑多」で、良
く言えば「自由な雰囲気」が強く印象に残っている。
悪く言えば「貧し気な旅」かも知れないけれど、あの雰囲気は、70年代後半には、滅びて
無くなってしまったのだから。
あれこそ「鉄道旅の終焉」だったのでは? と思う、きょうこの頃です。
199名無し野電車区:2006/07/21(金) 02:48:18 ID:84KDHblK
おっさん、おもろい
54まで読んじまったw
200池原あゆみ39ちゃい:2006/07/21(金) 02:57:57 ID:P8KwcADu
どこまでが同じおっさんさんの書き込みなのか分からない・・・。

僕は年齢的に山陽夜行急行は乗れなかったのですよ。
高校時代は「18きっぷオンリー」でしたから、
大学時代の「ワイド周遊券」の時代からですね。
「八甲田」「津軽」「利尻」「大雪」「まりも」「はまなす」
「妙高」「ちくま」「きたぐに新潟」「だいせん」「銀河82号」
「かいもん」「日南」
といったところでしょうか。

僕自身は、鉄としての車両そのものへの憧れが強かった小学校時代の方が、
思い出深いのですが。
やはり70年代はいろいろな意味ですごかった時代でしたからね。
201オサーン !!:2006/07/21(金) 04:58:06 ID:3HUp+FnE
>>200
「39ちゃい」を真に受ければ、ワタシとそう変わらない気もス。
ただ「乗り鉄」に目覚めた時期によって大きく違っては来るかも...。
何し、色んな意味で『過渡期』だったからね。
新幹線開業とか、蒸機の全滅とか、民営化とか、そゆことよりも、
実は『旧タイプ客車の一掃』が大きな変革だったという私見を
持っておるのですけれども。
39ちゃいさんが乗った「だいせん」は、20系でしたか?
「かいもん」や「日南」は??
門司港から乗りましたか? その頃の門司港駅周辺は、どんな感じ
でしたか???
ヒマがあったら、聞かせてくださいなー。
202池原あゆみ39ちゃい:2006/07/21(金) 05:20:38 ID:P8KwcADu
「だいせん」も「かいもん」も「日南」も、
乗ったのは座席車で、12系ボックスシート原型の時代です。
「かいもん」「日南」は門司港から乗りました。
今から考えたら門司港始発だったというのは貴重な体験ですね。
門司港駅周辺は、まだレトロ地区として注目される前で、
まだまだ港湾関係の施設がたくさんあったように記憶します。
西鉄の門司側の路面電車が廃止された直後でした。
駅舎は当然ながら現在と同じものですが、
なにぶん国鉄なのでJR九州時代のようにきれいに手入れはされていなかったと思いますよ。
どちらかというと現在からは想像できない荒れた駅という感じでした。
203おっさん:2006/07/21(金) 11:07:00 ID:z87JHm0L
>>200
「おっさん」のネームがあるのは、全て私“おっさん”の書き込みです。
>>198
ブルトレから退避している窮屈な夜行急行を眺めていた…なんて、羨ましい。私らは、周遊
券族だったから、窮屈で悶々とする車内で、横をブルーの列車が軽やかに追いこして行くの
を羨望の気持ちで眺めていました。寝台車に躊躇なく乗るようになったのは、やはり働き出
してそれなりにお金があるようになってからのことです。でも、それが「旧き良き鉄道旅行」
というなら、それをさんざん体験した私は確かに楽しい時代を見て来たのかも知れません。
でも、窮屈でしんどかったのが現実だったんですけどね。
204名無し野電車区:2006/07/21(金) 13:12:09 ID:84KDHblK
205おっさん:2006/07/21(金) 18:27:35 ID:z87JHm0L
>>204
ん〜、あまり出しゃばるのも何だし、取りあえずはここに書いていくことにします。それに、
私の話は長くなってしまいがちですから。(笑)
もちろん、そこで誘導して頂けるのは別に構いませんので御自由に。

その大垣夜行といえば、後年特に「青春18きっぷ」が発売されるようになってから、名古屋、
関西方面への足として圧倒的な人気を呼ぶ事になった。この大垣夜行は、もともと東京−大
阪の夜行普通列車143列車、144列車としてEF58の牽く鈍行列車として運転されていた。
この夜行列車は、42-10の改正だったか思い出せないが、このダイヤ改正の際に廃止になる
事になっていた。しかし、それが新聞報道された途端に利用客から廃止反対の声が上がり、
大騒ぎになった。それを聞いた当時の高木国鉄総裁(だったと思う)が「そんなに利用者が
いるのなら廃止にすることはない」と鶴の一声で存続が決まったという経緯がある。
結局、運転区間は東京−大阪から東京−大垣に短縮されたものの、電車化の上、列車番号も
同じ143M、144Mとして生き延びたのである。
私は昔はよく大垣夜行には乗った。しかし、「18きっぷ」の時代になると、反対にあまり使
う事はなくなった。というより、あえて避けた。何故かといえば、あの殺人的混雑が嫌だっ
たからである。とにかく、下りについて言えば、かなり早くから列に並ばなくてはならず、
それは2両連結されたグリーン車は尚更だったから、それが億劫だったからである。自然と
足は遠のき、余程の事情がない限り使う事はなかった。
それに、その頃は仕事をそれなりにしていて、何もぎゅう詰めの列車に並んでまで乗ること
もない位になっていたのである。だから、名古屋へは前日の新幹線で行って泊まるか、大阪
へは、走っていれば「銀河51(81)号」が普通の選択だった。
通勤帰りにこの大垣夜行を見た事もよくあったが、新橋、品川、横浜など、帰宅を急ぐ通勤
客が2つドアに殺到し、ぎゅう詰めになるのを目の当たりにして、とても乗る気にならなか
った。余りの混雑に、よく窓ガラスが割れる事故があったようだ。
206おっさん:2006/07/21(金) 18:28:09 ID:z87JHm0L
今は「ムーンライトながら」として全車指定、当時のグリーン車よりも寝やすいゆったりし
たリクライニングシートは、当時の153系や165系のボックスシートとは雲泥の差である。
並ばなくて済むようになった今の状態になってから、年に数回、「18きっぷ」の使える時期
に使うようになっている。要は、私は並んで乗る事が億劫になったのだ。もうそれは若い頃
に嫌と言う程経験したから、今になって無意味な(当時はそれも意味があったのだが)列車
待ちはもういいと思うのである。でも、席が確保できているなら、時にはリーズナブルな旅
もアリということで、たまに使うのである。
207(屮゚Д゚)屮 :2006/07/22(土) 18:44:23 ID:xKpdyHQr
おっさんら! 下がって来てんぞー!!
も ちっと上げてけ。
あ、忙しいのネ。スマね。
208名無し野電車区:2006/07/22(土) 19:17:40 ID:Cofbaik4
オサーン、宗谷スレからあそびにきたよ(^o^)

165系といえば、18キッパーなら一度は乗車経験があるだろう、ムーンライトえちご
転クロシートで、編成によっては座席がよかったり、簡リクやシートピッチが狭くて鬱だったり
ボックスシートはボックスを一人で占領できれば快適だった希ガス

俺がガキの頃もまだ直下型トイレだた
列車が走り出すまで親に我慢させられたこともあった
線路に黄色がぶちまけられていたなんて、今考えると最悪な話ですな
209オサーン !!:2006/07/22(土) 19:32:37 ID:xKpdyHQr
オサーンは、ぶっちゃけムーンライト系は好きくない(´・ω・`)
一度、ムーン九州に博多→大阪まで乗ったことあるけど、
福岡で公演があったのかして「モーおた」が大挙して乗って来た。
なんか「白装束」にラミネートしたブロマイドを鎧のようにしたのや、
特攻服の背中に「りかっち命」とか大書きしてる割に、車内では異様に
静かでヒソヒソ喋りおるのがブキミ悪かった。
それがトラウマになったかどうだか、以来乗らんくなったなぁ。

線路の落し物はなぁ。
大や小は、まだマシよ。
210名無し野電車区:2006/07/22(土) 23:59:54 ID:NJXFC1eS
>>209
静かならべつにいいじゃないか
211名無し野電車区:2006/07/23(日) 00:23:35 ID:YoA1eTbz
その昔、直下型で子供を産んでそのまま捨てた
というのがあったらしいね。
212オサーン !!:2006/07/23(日) 00:39:20 ID:lfaBckH2
>>210
うん。まぁそうなんだが。なんか「静かに熱気を帯びて」おったのよ。
それと、これは隣あった「モーヲタあんちゃん」なんだが、靴を脱いだ
は良いが、9歳のよー。

>>211
もったいつけた書き方してスマソね。
オサーン、実は、某線の線路脇の家で育ったんだ。ある夏、線路の茂みに、
やたらと野犬が群れるので、大人たちが調べてみたら、足が落ちてた。
ひと月以上前にあった踏み切り事故の残りだったらしい。
以来、オサーン等は、撮り鉄するに出掛けても、決して線路だけは歩かな
かったんだよ。
213おっさん:2006/07/23(日) 01:42:56 ID:cNg+eR+m
昨日は「烏山山あげ祭り号」に乗って来た。何やら宇都宮駅でヲタが先行電車内で暴れて発
車が遅れたらしく、あおりで到着が遅れ、烏山に20分程遅れて到着した。帰りも車両トラブ
ルで遅れ、さんざんだったようだ。私は烏山行きしか乗らないで、あとは山あげ祭りを見た
り、同行した自分の連れ合いと、鉄は関係なく早めに戻った宇都宮市内の居酒屋にいた。私
の最近の“乗り鉄”って、こんなもんだ。目的の列車さえ乗ってしまえば、あとはそんなに
執着はしない。
でも、DD51の牽く12系客車もこれまた懐かしい鉄道風景だ。旧客が淘汰され、本線から退
いた12系客車がオレンジのDD51に牽かれているのも、暫く前まではよく見られた風景だ。
さらに、DL牽引とは思えないスピードで東北本線を爆走していたのには、ちょっとワクワク
してしまった。また、あの「ピ〜〜」という甲高いホイッスルの音が昔の汽車旅を思い出さ
せる。
まぁ、今日はいろいろあったけれど、機会があれば、再び本線筋をフルスピードで12系を牽
引して快走するDD51の列車に乗ってみたい。
それにしても、今日の沿線の人出は凄かったな。まるで復活運転をしたSL列車並だった。
でも、自分勝手でトラブル起こすようなヲタだけは勘弁してほしい。
214オサーン !!:2006/07/23(日) 02:11:19 ID:lfaBckH2
>>213
ですね。
和紙も、80年代頃までは、廃止直前の地方私鉄や、そういうのを撮り鉄してたが、
ヲタというか、取り鉄するファンの無節操さに嫌気が差して遠ざかったんすよ。
公共のホームで、大掛かりな三脚立てて、普通の乗客が前を横切ると「どけ!」
とか怒声を上げる等、よく見られた風景でしたから。
それに「さよなら運転」とかのイベントより、やっぱりフツーの光景が好ましか
ったですからね。
思えば、あの頃「特別だったもの」は、今でもソコソコ残っているけども、あの
頃「ありきたりだったもの」が、全く姿を消してしまうなんてなぁ。
215おっさん:2006/07/23(日) 02:25:52 ID:cNg+eR+m
>>209
いつだか“三大ヲタク”というのを聞いた事がある。「アニメ」「アイドル」そして「鉄道」
というらしい。しかも、その3つは“=”で結ばれる事も多いのだという。言われてみれば
納得する心当たりは十分ありそうだ。
私は確かに「鉄道ヲタ」ではあるし、いい年して「アイドル」だって嫌いではない。所詮は
ミーハーだ。私の中学〜高校の頃は、今で言う「アイドル」の元祖と言える「南沙織」(写
真家「篠山紀信」さんの奥さん)、「天地真理」(今は見る影もないが…)、「小柳ルミ子」
(当時はこれでも“清純派アイドル”だった)のデビューと同世代だ。更に「キャンディー
ズ」「浅田美代子」「アグネスチャン」「麻丘めぐみ」…と続々アイドルがテレビや「明星」
「平凡」なんていう雑誌を賑わしたものだ。男性アイドルだって「郷ひろみ」「西城秀樹」
「野口五郎」などが同世代だ。今のように“追っかけ”をしたり親衛隊なんかに入って騒ぎ
はしなかったけど、人並みに大きなグラビアを部屋に貼ってニヤニヤしたものである。今の
「モー娘」だって「あやや」だって素直に可愛いと思う。
しかし、よくいる親衛隊だか何だか、あそこまでは流石にできなかった。あくまで「アイド
ルはアイドル」、恋人でも何でもない。その位の分別は付いていたし、それよりも鉄道の方
が現実的に面白く、楽しかったのだ。
同様に「アニメ」も然り。アニメも決して嫌いではないけれど、あそこまでのめり込めない。
生態は「アイドル」と似通った“非現実的なものへの憧れ、願望”とでも言うか。
もちろん、人の好きなものをとやかく言うつもりはないけれど、何事もほどほどに…という
程度が良いのだと思う。>>209のモー娘親衛隊にしろ、コミケのシーズンにアニメのコスプ
レそのままに“ヒロインの美少女”になり切って「MLながら」に乗る“男”! やっぱりど
う考えても“異常”であろう。あそこまでされると、一般人にとってはさすがに“ドン引き”
である。「鉄道ヲタ」も同じだろう。一般人に嫌悪感を持たせる事をして、とても“まとも”
な事とは言えないと思う。
何事もほどほどに…がいいのだと思う。が、しかし、それに夢中になるから面白い!…と、
これも真実なのだ。
216名無し野電車区:2006/07/23(日) 02:59:37 ID:AvpEYK5x
>>215
コスプレは場所を選んですれば済むからいいですが、鉄ヲタはどうしても
活動中の姿が公衆の目に触れるからやっかいですね。
控えめに行動しているつもりでも、写真撮ったりしてれば自ずと目立つ・・・。
日本社会では「目立つ」というだけで嫌悪されることもあるから、
極論すれば、「ほどほど」にしようとすれば実質的に外では活動できない、
ということにもなりかねません。
217オサーン !!:2006/07/23(日) 03:25:21 ID:lfaBckH2
カメラ板あたりでもワァワァ言われ出してることだけれども、昨今では、
首からカメラを提げてウロついてるだけでも、不審者扱いされたり、職
質を受けたりすることもザラらしい。
誰だって見知らぬ人からカメラを向けられれば、良い気はしないだろう
し、あまりの傍若無人ぶりには感心しませんが。

アイドルのライヴなどは、元々が「お祭り」であるし、少々ハメを外す
ことも許されるのだろうが、鉄道となると「主役」は、たまに物見遊山
で訪れる旅人ではなく、生活路線として使っている地元の方々だから、
そのへんをキッチリ理解してないと、どうにもギクシャクしてしまう。
一度「輪の外から」じっくり観察してみたらどうだろうか? 何がそこま
で異様なのか? なんとなく見えてくると思うのだけども。

>>215
追伸:和紙も「モー娘。」は嫌いではありませんよ。
メンバー全員のフルネームも言えます。ただし「5期メンバー」まで、
ですけどね。現役メンバーではないけど、安倍なつみさんが好きです。
あ、充分「ヲタ」か(笑)。
218おっさん:2006/07/23(日) 11:30:50 ID:cNg+eR+m
>>216,217
なんて言うのかな、一部のおかしな人間がいるおかげで、普通に楽しんでいる人まで好奇の
目で見られて嫌な思いをするのは、別に鉄道趣味に限らずいろんな分野でもあることだ。
何でそんな人間が出て来るようになったのか、突き詰めれば今の教育が悪い、社会が悪い、
親の躾がなってない…と必ず最後はそこに行き着いてしまう。そう言って片付けてしまって
も何の解決にもならないのだけど、人間として基本的な事が理解できない「幼児性の抜けな
い大人」が多くなってきているようだ。
私は鉄道が好きでこの歳になっても精力的に動いているし、生き甲斐にもなっているけれど、
余裕を持った楽しみ方を覚えているから、何もガツガツはしない。ハプニングがあればそれ
をむしろ楽しむ余裕さえ持っている。だからやっていて面白いと思うのだ。
いちいち挙げていたら、それこそ小言親父になってしまうが、みんな、何でもっとゆったり
楽しむ事ができないのだろう? ちょっと挨拶ひとつ、ちょっと一声「失礼します」とか声
をかけるだけで人の気持ちは全く変わるものだ。そういう他人とのコミュニケーションが取
れない、いわゆる“ヲタク”が、この「アニメ、アイドル、鉄道」に多いから、一般人から
そんな風に揶揄されるものだと思う。
219オサーン !!:2006/07/23(日) 15:03:29 ID:lfaBckH2
>>202
亀を許せ。

門司港の話をします。
実は昨年暮に行ってきました。大阪から18切符で。
ずいぶん以前にも訪ねたことがあったので再訪になりますか。
その「ずいぶん前」に、たぶん「39ちゃい」さんと接近遭遇してる可能性高しデス。
わざわざ、山陽線の下関で降りて唐戸桟橋まで歩き、連絡線に乗って門司港に上陸
する... という凝った行き方をしました。
荒れてましたねぇ、門司港。駅自体の保存は悪くなかったと記憶しますが、ゴミの
散乱具合とか、周辺の寂れ方とか。
で、港湾労働者向けの食堂で夕食にしたのですが、それまでは旅行しててもカレー
ライスとか親子丼とか、そんな物しか食えなかった和紙は、この時初めて「定食」
を注文したのでデス。しかも苦手な魚の... とは言っても「アジフライ」でしたが。
これが全ての始まりだったような気がします。以後、旅先の食事は「地元民の通う
ような食堂で必ずサカナ系の定食」になりましたし。

さて昨暮に再訪した時に、その「アジフライを食った食堂」を探しましたが、再開
発が進んだために、なかなか発見できませんでしたが、ようやく「ここかな?」と
思われる店に行き着きました。港が埋め立てられ、かつて海沿いだった店が陸に寄
ってたので判らなかったんです。
雰囲気もスッカリ「観光客向け」になっていて、アジフライはありませんでした。
門司港から和布刈方面への引込み線も廃止になっていましたが、廃線跡をてくてく
と和布刈の先まで歩いて行ってみました。
レトロ地区と呼ばれる「観光区」はともかく、そこここに昭和の残照が生き残って
る町で、まるで「かつて」を落穂拾いするような旅で楽しかったデスよ。

220おっさん:2006/07/23(日) 17:45:16 ID:cNg+eR+m
九州の筑豊には炭坑のために建設された線が数多く入り組むように敷かれていた。ここの路
線図を見ないで描ければ“一流のファン”と言われたものである。私も何とか覚えた。
初めてこの辺りを訪れた時、まだSLの宝庫だった。直方駅の周辺でカメラを構えれば、96
00やD50、D60、C11、C55なんていうSLが絶え間なく行き交い、ものの2〜3時間佇ん
でいるだけで、フィルムはあっという間になくなった。伊田線は主に9600の牽引する貨物列
車、筑豊本線は客車を牽くD50、D60、C55が軽やかに走り去って行った。
場所を折尾−中間に移せば、若松からの本線と、黒崎からショートパスしてくる路線が複々
線の体裁で並び、香月線への8600がこれに加わった。そして、唯一の優等列車「かもめ」
が颯爽と走り抜け、色彩に弱かったこの地の写真を彩ってくれていた。とにかく、ここでは
休む間もない程次々にSLがやって来ていた。
また、気動車といえば、キハ58系の800代という車両が配置されていた。主に日田彦山線な
どの急行「はんだ」とか「ひこさん」などに使用されていた。このキハ58系800代の車両は、
修学旅行用にも使う前提で設計された車両だった。だからといって、基本的に155系などと
は違い、車内仕様が他の58系と大差ない造りだったから、それ程インパクトはなかった。で
も、車内に大きな速度計が取り付けてあったり、一部ボックスが救護用として座席がフラッ
トになる設計になっていたと記憶している。また、最大の特徴はその塗色で、クリームの部
分が155系と同じような黄色に塗られていたから、一目で判別できたのである。確かこの車
両はこの直方区と郡山区(山形区だったかもしれない)にのみ配置されていたはずだ。ただ、
この車両が本来の修学旅行に使われていた写真や記事を余り見た記憶がない。私が見た限り
では、何の制限もなく、他の58系に混じって使われているだけだった。
そういえば、日田彦山線には浜田を発車して、山陰、美祢、山陽、鹿児島、日豊、日田彦山
久大線を通って天ヶ瀬に至る急行「あきよし」というのもあった。どっかのスレに出したい
ような列車だけれど、どこにこのルートを走る意味があるのかよく分らない列車だった。
221名無し野電車区:2006/07/23(日) 18:06:38 ID:P1OnZFIb
週刊現代
私鉄駅売店などで
明日発売開始!!!

JR東日本のことが書かれているよ!!!
222おっさん:2006/07/23(日) 23:41:50 ID:cNg+eR+m
「ラーメンと蔵の町」のキャッチフレーズで売り出して、その名が広まった喜多方。駅を降
りて街に出れば、数多くのラーメン屋と昔ながらの蔵造りの町並みが広がる。基本的に喜多
方ラーメンは醤油味に縮れ麺と私好みの味だから、何回も足を運び、ラーメン屋をハシゴし
たこともある。
その喜多方から磐越西線と分かれて北に向かっていたのが日中線だった。その存在に気付い
た頃から廃止されるまで、1日客車列車3往復というスタイルは変わりがなかった。列車は
朝1往復、夕方2往復と、その名の「日中」に1本も運転されない“日中線”と揶揄されて
いた。その日中線も2回乗っている。
初めて乗った時は、夜行の「ばんだい」で会津若松に着き、すぐ接続の熱塩行き始発の直通
列車に乗った。編成はオハフ61とオハニ61の2両。C11に牽かれて夜明けの会津盆地を走
る。そして喜多方から日中線のか細いレールの上をゆっくりとしたスピードで辿って行く。
終点の熱塩駅はモダンな屋根が特徴の駅舎だった。無人駅になって相当年月が経っているせ
いで痛みが目立っていたけれど、こんなローカル線に不似合いなデザインだったのを覚えて
いる。
車掌の誘導で牽引機のC11が機回しされて反対側に連結される。転車台などもちろんないか
ら、帰りの行程はバック運転だ。その作業が終る頃、2両の客車は通学の学生で一杯になっ
ていた。学生と、ごく僅かの通勤客が日中線のお得意さんだった。
223おっさん:2006/07/23(日) 23:42:30 ID:cNg+eR+m
発車して次の会津加納と喜多方の手前の会津村松は貨物扱いのある駅だった。日中線の列車
はそのため、客貨併桔の混合列車というスタイルで運転されていた。それが最後まで気動車
化をされずに機関車牽引で残った理由なのだと思う。その貨物扱いは朝の上りと夕方の上り
の2本で設定され、そのための停車時間が8〜10分程取ってあった(会津村松は夕方の1本
のみ)。しかし、晩年は貨物扱いがほとんどなかったので、これは無意味な長い停車時間に
なっていた。
この朝の上り列車は会津加納でも8分停車しているが、特に何もなく、続々集まって来る学
生をのんびり待っているだけだった。停車駅毎に学生を乗せて、朝の「スクールトレイン」
は一杯の学生を運んで喜多方に到着する。そして夕方、この学生たちの下校時間に合わせて
発車するまで、構内で日中線の客車は、日中、のんびり昼寝の時間となる。
次に乗った時は、もうDL化されていた。夕方の列車で高校生たちと熱塩まで往復した。帰
りの貨物扱いもなくなったので、人気のない列車が喜多方までゆっくりと戻った。そして、
今度は通勤帰りと部活で遅くなった学生を運んでもう1往復。これで1日の仕事は終わる。
この日中線は熱塩の先、米沢まで延ばす計画があったらしい。しかし、並行する国道にはバ
スの路線もあり、本数もそこそこあるので日中線の存在価値はほとんどなくなっていた。
結局、ローカル線廃止が決定され、実行されるようになるとともに、呆気なく廃止となって
しまった。終点の熱塩駅の駅舎は保存され、日中線の資料展示館となっているらしいが、線
路跡もサイクリングロードになっているので、機会があればいつか昔を偲んで走ってみたい
と思っている。
224おっさん:2006/07/24(月) 22:04:49 ID:UcsETJY1
東京駅から「さざなみ」に乗って1時間半の内房線に浜金谷という駅がある。この辺りまで
来ると、ちょっとした旅の気分に触れられるような、そんなのどかな房総の海と山の風景に
なる。
私は神奈川の三浦半島出身だから、東京から「さざなみ」ということは少なく、自宅に近い
久里浜から東京湾フェリーで金谷に渡り、そして浜金谷から館山や安房鴨川に向かう事が多
い。40分程の小さな船旅だけれど、それだけでもちょっとした旅に出ているような感じにな
る。時折、大きなタンカーや貨物船が直前を横切ったり、漁船がひしめく海上をすり抜けて
行くのを見ていると、東京湾がいかに混雑しているかが一目で分るようだ。
そして着いた金谷港から歩いて7〜8分の所に内房線の浜金谷駅はある。夏なら混雑する国
道を横切って、駅までの路地を暫く歩くと駅前に出る。
駅前といっても、車が転回する程度のスペースはあるが、タクシーが常駐している訳ではな
く、時折送迎のマイカーが出入りするだけだ。そして、他には小さな商店と小さな食堂があ
るだけの、特にどうとはない、ごく普通のローカル線の駅という佇まいである。駅近くにあ
る民家の駐車場に、ここで飼われている猫が沢山いて、しばし列車待ちの私の遊び相手にな
ってくれている。
小さな駅舎の浜金谷駅は、昼間だけ委託の職員がいるけれど、たまにマルスを操作するくら
いで、切符はもっぱら1台の券売機任せだ。特に改札などはなく、乗客は発車時間が近付く
と勝手に跨線橋を渡ってホームに降りて行く。ホームは列車交換ができるだけの、ごく普通
の島式1本だけだ。
225おっさん:2006/07/24(月) 22:05:20 ID:UcsETJY1
ホームに立って館山の方を向けば、向こうに険しい鋸山が屏風のように立ちはだかっている。
ここにはロープウェイが懸かっていて、この頂上からの東京湾や房総の眺めは秀逸だ。浜金
谷を出た電車は暫くするとこの山の下をトンネルで抜ける。反対の木更津側は、線路が緩く
右にカーブして、やはりトンネルに吸い込まれる。ベンチに座れば、風に木が揺れてさざめ
く音くらいしか聞こえない。ゆったり時間が過ぎていくだけの、典型的なローカル線の駅の
風情だ。
やがて、遠くからジョイントの音が響いて来て、懐かしい青とクリームの電車が顔を出した。
ほとんど人気のなくなった車内の好きなボックスに席を取り、荷物を横に置いて足を延ばせ
ば、もう旅気分だ。館山まではあと約30分。ここは電化された頃から、今までほとんど変わ
らない駅の風景が続いている。
226池原あゆみ39ちゃい:2006/07/26(水) 01:44:12 ID:+vG6I6h0
ちなみに僕が日中線に乗れたのは会津バスになってからでした。
会津バス日中線が、今年から
「会津ぐるっと」のフリー区間に含まれるようになったのは、
熱塩温泉の湯治客を対象に考えているのだろうが、
日中線記念館訪問の鉄の利便も考えているのかも。
ただし記念館は通常は施錠されていますよ。中が見学したいときはアポが必要らしいです。

現在の会津バス日中線の乗客数を見ていると、
「こりゃ鉄道で存続は無理だわ」と理解しますがね〜。
かなり代替バスには乗ったのですが、
「鉄道のまま残せたのでは・・・」と思う線も少しながらあります。

久里浜〜浜金谷ルートというと、僕は昔、
「東京湾フリー」で、東京→久里浜→浜金谷→東京→久里浜→浜金谷→東京、
と、一日に二周したことがあります。
217系のグリーンにハマっていたのですね。
データイム券を使い切るという目的もありました。
227おっさん:2006/07/26(水) 02:52:45 ID:WbZTdKSf
横須賀線の駅には案外面白いものがある。
田浦駅もその1つだ。この駅、ホームの両端がトンネルにはさまれている。よく谷間に駅が
あり、駅の前後がトンネルというものは少なくないが、ホームの両端が完全にトンネルに接
している駅はそうないはずだ(新幹線の新神戸もそうだったかな)。ホームは10両分しか
ないから、11両の電車が来ると、先頭1両と2両目の最前部ドアが締切りとなり、頭をトン
ネルに突っ込んで停車する。そのため、田浦駅で扱う「田浦スイッチ」という機能がE217系
には装備されている。
それはともかく、この田浦駅は、昔は横須賀線内の貨物駅として機能していた。前後をトンネ
ルにはさまれながらも、側線までトンネルを掘って貨物が発着していた。そしてここから引
込線がいくつか延びていた。
貨物はタンク車と日産自動車が近くにあるため、晩年はこの新車輸送が多く、赤色のク5000
が横須賀線の名物貨物だった。この入換えに携わっていたのがディーゼル機関車の黎明期に
活躍したDD11とDD12だった。小さな機関車が回送で一生懸命ロッドを回転させて走って行
くのが思い出される。たまにDD12が来ると、何かがっかりしたものだ。
入換えがDD11なら、貨物の牽引機はもっぱらEF10。雑多なスタイルを持つEF10は、当時
バイブルだった「機関車ガイドブック」と照らし合わせながらチェックしていた。
また、ここにはこれもいくつかグループがあるED17も、久里浜機関支区に24、26の2両が
配置されていた。ED17の中では唯一デッキを備えたグループで、ここだけの存在だった。
その貨物も、日産の車輸送が廃止になり、大量のク5000があちこちの操車場の片隅に放置
されるようになった。入換えの機関車もDD13からDE10に変化し、貨物列車はEF15の牽引
になって、そして消えた。現在の横須賀線に機関車が入るのは、臨時列車の牽引と、東急車
両からの甲種回送位なものである。
あと、横須賀駅も面白い。ホームは1面2線なのだが、1本は行き止まりになっていて、実
質単線発着になっている。従って、下り列車は田浦で上り列車の発車を待つ事もある。それ
とこの駅は昔から「階段が1段もない駅」である。外から改札〜ホームと段差が全くない。
究極の「バリアフリー」の駅なのだ。、
228おっさん:2006/07/26(水) 23:16:33 ID:WbZTdKSf
今日、たまたま昭和天皇の話が出ていた。それでちょっと思い出したのだが、昭和天皇が御
崩御された昭和64年1月8日(…だったよな)、その報を私は朝の通勤電車の中で知った。
京急で横浜を発車して程なく「只今、昭和天皇が御崩御されました」と短い車内アナウンス
があった。でも、電車の中では別に動揺もなくいつもの静かな満員電車の車内だった。
その日、一日中テレビはこのニュースや特番一色だった。固唾を飲んで国民が注目した新し
い元号を、当時の小淵官房長官が「平成」と掲げたあの瞬間を覚えている方も多いだろう。
小淵さんはあれで広く国民に顔が知れ渡ったんだと思う。
この日は金曜日。私は仕事が終ってから四国へ乗り鉄をするために最終便で徳島へ飛ぶ予定
になっていた。それまで余り感じていなかったが、羽田に着くと明らかにいつもと違う雰囲
気が漂っていた。土産物屋やレストランが早仕舞いをしている。見ると、広告の灯りも消さ
れていた。これがニュースでも言われていた“自粛”ということか。しかし、食べ物屋まで
店仕舞いは困る! おかげで食べそびれてしまった。、
そしてJASの最終便に搭乗する。離陸して巡航に移り、ふだんなら飲み物サービスが始まる
のだが、一向にその気配がない。すると「皆様、本日は昭和天皇御崩御のため、機内サービ
スは控えさせていただきます」というアナウンスがあった。「これも“自粛”かよ」と溜め
息ひとつ。乗客は薄暗い機内でじっと押し黙って徳島まで運ばれた。
バスで市内に出て、この日の宿となる徳島駅前の東急インに入った。相変わらずテレビは昼
間の続きで一切の娯楽番組が自粛されていた。
229おっさん:2006/07/26(水) 23:17:09 ID:WbZTdKSf
腹が減ったので遅い飯でも…と繁華街へ出たのだが、見事に全ての店が今夜は灯りを消して
「喪に服していた」。レストランも、飲み屋も、怪し気な通りも、全て真夜中のように真っ
暗だった。仕方なく、ホテルならレストランもあるだろうと戻ってみたが、ここも“自粛”
で営業終了になっていた。「食欲は“自粛”できないぞ〜!」と叫びたい気持ちである。当
時は今ほどコンビニがあった訳でもない。思わぬことで夕飯にありつけなくなってしまった。
フロントに泣きついたら、カップ麺の自販機ならあるという。結局、ホテルの一室でカップ
麺をすすりながら広告の灯りの消えた市内を眺めて、この歴史的な一日を送ったのである。
しかし、翌日もちゃんと列車は動いていた。この日の宿の高知は、昨日の“自粛”“喪に伏
す”は何だったの?と思う位、ふつうに繁華街は賑わって広告の灯りもきらびやかに灯って
いた。この国はそういう国なんだと改めて感じる出来事だった。
230名無し野電車区:2006/07/26(水) 23:42:55 ID:qc3famjq
>>おっさん
先の帝が崩御されたのは1/7です。
昭和最後の日の切符を近くの駅まで回に逝ったのが懐かしい。
まだ硬券だったなあ。

で、昭和から平成へと変わる瞬間、わたしはテレビを見ながらお茶漬け喰ってました。
231オサーン !!:2006/07/27(木) 01:55:39 ID:wqu/a0EN
その頃、和紙は、かけだしの写植打ちで、よって「昭和→平成」への変更作業
に追いまくられてましただ。
いろんな「書体」の、いろんな「号数(写植では「級数」と言いマス)の平成を
打つべし!打つべし!打つべし!の日が、しばらく続いたのを思い出します。
232おっさん:2006/07/27(木) 10:49:02 ID:B60P/BCk
>>230
御指摘感謝。
>>231
「写植」って、懐かしいなぁ。仕事が出版関係だからよく近所の写植屋にはお世話になった。
Q数シートや書体見本帳と合わせながら、独特の指定の仕方を覚えたものだ。でも、Macの
普及が進むに連れ、急速に取って変わられてしまったな。今でも「写植屋」ってあるのだろ
うか? 私も2〜3年前に中国語を使う仕事があって、探した挙げ句、その専門の写植屋を
見つけて頼んだのが最後だと思う。「和文タイプ→写植→パソコン」と、時代の流れを体験
してきた世代である。台紙にイラスト原画や写植をカッター、定規、水色鉛筆、カッティン
グマット、ペーパーセメントなどを使って切貼りしていたのが当たり前の時代だった。
今ではもちろんMacでそんな昔の話など忘れてしまう位、ふつうに数ある書体を駆使して使
っているけれど、ただ唯一難点は、特殊なというか、昔からある旧字体のサポートが弱い所
だ。例えば小樽の「樽」、飛騨の「騨」、高島屋の「高」、「鴎」、「葛」などの旧字が普
通の状態では使えないんだよな。特殊な外字ソフトを入れれば対応するけど、これは印刷過
程でトラブルの元になるし。写植をした経験があれば、このような字だけ注文が入った事が
あるのではないかな?
「写植」と聞いて、ちょっと懐かしくなった。
233名無し野電車区:2006/07/27(木) 10:58:19 ID:peVGgJ7h






234名無し野電車区:2006/07/27(木) 11:08:10 ID:zkNsKiBP
おっさんと言ったら、


おっ!サンテレビ

を思い出す漏れは逝ってよしでつか?
235名無し野電車区:2006/07/27(木) 11:15:09 ID:wqu/a0EN
>>233
ウザイんなら来るなよ。
オツムのゆるいガキ。

>>234
チミのカキコは、私的には「おk」だが、
あまりにローカルすぎて、ていうか、関西在住でも
知らない人の方が多いよ、きっと。
こないだ「東京者」に『らいよんちゃん』の話題ふったら、
何? 小堺の番組のマスコット(?_?)... って言われたよ。
236おっさん:2006/07/27(木) 13:42:52 ID:B60P/BCk
こんな時間に冷やかしが入ると考えてみたら、世間一般の学生は夏休みの真っ最中なんだな。
ヒマな学生が多いもんだ。昼間からパソコンに向かっていないで、外に乗り鉄でも撮り鉄で
も行ったらいいのにと思う。金がなかったらバイトして稼げよ、と“小言親父”についつい
なってしまう。
そういうおっさんも、今日は仕事が一段落してまったりしている。いい歳して昼間からこん
な事してんなよ…と突っ込まれても仕方がないか。

最近、というかここにいろいろ書き込み始めて暫く経つけど、私の独り言ばかりになってい
るのがちょっと気にかかる。勝手なもので、反応がないならないで少し寂しいし、独りよが
りになっているのか心配になってしまう。果たして興味を持って見て頂ける人がどれだけい
るのかな?と考えてしまう。どうなんだろう…?
237名無し野電車区:2006/07/27(木) 15:18:15 ID:cv7Sy8md
>>236
あまりレスはしてませんが、興味深く読ませてもらってます。
238名無し野電車区:2006/07/27(木) 16:46:22 ID:N+62ANrX
>おっさん
ROMってるだけですが、いつも楽しく読んでおります。
不惑の年を迎えたばかりのおっさん未満(のつもり)の自分も、
そのうちいくつかの思い出をここに書き込んでみるつもりです。
239名無し野電車区:2006/07/27(木) 19:35:27 ID:8ZkRe0Bv
>>232
級数世代がハバを利かせている業界からの仕事だと
ポイントで慣れてる漏れは換算に苦労する……

ってここそういう業界の香具師が少なくとも3人はいるわけかw
240おっさん:2006/07/27(木) 20:06:50 ID:B60P/BCk
>>237>>238
楽しんで読んで頂き、ありがとうございます。ちょっと、ホッとしました。

「歴史的な1日」という事であれば、「国鉄」から「JR」に変わった時も“歴史的な1日”
だっただろう。
この日、東京駅などから各地へ「国鉄→JR旅立ち号」なんていう特別列車が発車して行っ
た。私は残念ながら全てのコースの抽選に外れ、ニュースで見る事しかできなかった。国鉄
最後の日も、普段通りに山手線の103系に乗り、京急で家に帰った。何か大晦日の「行く
年来る年」みたいなテレビ中継を家で眺め、程なくふとんに潜るという普段と変わらない一
日だった。
そして翌日、いつもと同じように通勤電車に乗ると、あれあれ、車体の横に大小さまざまな
JRマークが貼られているのには驚いた。駅の表示のそこかしこにもJRのマークが溢れ、
その変わり身の早さに唖然としてしまった。途端に「国鉄」という表現が古臭く聞こえるよ
うになってしまったのは、まさに広告のなせる業であろう。
241おっさん:2006/07/27(木) 20:08:26 ID:B60P/BCk
この[JR」という名称、当時は結構違和感があったものだ。アルファベットの略称は3文
字が一番しっくり覚えやすいものだが、2文字となると何か物足らない気がした。でも、慣
れとは面白いもので、いつの間にか自然に「ジェイアール」で根付いてしまった。「国電」
として親しまれた首都圏の電車の呼び方に困り、「E電」なんていう名前を無理矢理付けた
ものの、人々には受け入れられずに「JR」で話が通うようになってしまった。
今振り返れば、2文字であった事が返って良かったのだと思う。何故かといえば、私鉄の路
線を言う時は以前から「東急東横線」とか「京王井の頭線」とか頭に会社の名前を付けて呼
ぶのが一般的であり、その会社名は概ね2文字の略称で呼ばれている(大手で3文字は小田
急くらいか)。だから同じように頭に「JR」を付けて「JR中央線」という呼び名が自然
と定着したのも、そう考えれば納得できる。「ジェイアール」という語の響きも良かったの
かもしれない。「JR○○線」と自然な語の響きで線名とつながる。
私自身、密かに危惧していたのが、昔の人が国電の事をいつまでも「省電」と言っていたよ
うに、いつまでも「国電」と言うのではないかと思っていたけれど、心配する事ではなかっ
た。いち早く「JR」で順応してしまっていた。
242plausinar ◆fcoWXWNaG2 :2006/07/27(木) 20:41:12 ID:5iVvJP9K
国鉄からJRへ移行したころ、あたし自身自動車乗りから再び鉄道乗りを復活させた時分だった。
周遊券も健在で、いろいろ旅をしたけれど、分割・民営化されてもそんなに変わらないだろう、
くらいに思っていた。
個人的には国鉄の接客の悪さ、なんてそれほど感じてはいなかったし。
そんなある日、地方(たしか新津だった)で手にした切符、ピンク色で全体に模様のある、
何の変哲もないものだったけど、ふと見てみると
「こくてつ・こくてつ・こくてつ・・・」と、印刷されていることに気がついた。
「ああ、この「こくてつ」という言葉も無くなってしまうんだなあ」と思った途端、
はずかしいけれど、泣けてきた。
何だかんだ言いながら、自身旅の想い出と「こくてつ」は密接な関係にあったことを、
その時思い知らされた。
243おっさん:2006/07/27(木) 21:05:37 ID:B60P/BCk
きっぷの地紋が「こくてつ」だったのは覚えているけれど、私鉄の硬券の地紋は「てつどう」
と「PJR」だった。「ん?『PJR』って何よ? 何の略?」とずいぶん悩んだものであ
る。
244名無し野電車区:2006/07/27(木) 21:29:12 ID:poI9mRsL
たまにはこんな、まともに進行するスレもいいもんですね。
「おっさん」には自分の書いたものをキチンとまとめて保存しておくことをおすすめしたいです。
245名無し野電車区:2006/07/27(木) 22:33:45 ID:54Y5iZ4J
>>224
亀レスだが、あの駅にいる駅長さんってすごい感じのいい人小さな
子供たちと笑顔で話をしていたのがすごい印象に残ってるわ。(その時は夏休み)
そして、電車が来てその電車に乗ろうとした大きな荷物を抱えた
お年寄りの人の荷物を持ってあげて運転手の人に声を掛けて待って
あげてた姿が印象的だった。今は業務委託駅になってしまったんですか。
あの駅長さんはどこにいったんだろう・・・。
246S.Fujishi魔:2006/07/27(木) 23:05:00 ID:s47JCOuL
>>225
「ぽっぽや」の高倉健サンのように、ひっそりときえていったんだろう
247おっさん:2006/07/28(金) 12:24:08 ID:7aXBHvDy
今日もそれ程忙しくないので、こんな時間から来ている。

…というより、昨日から突然我Macの御機嫌が悪くなり、思うように立ち上がら
なくなった。それに輪を加えてディスプレイが突然逝ってしまった! たまた
ま昔使っていたひと回り小さなディスプレイがまだあったので、引っぱり出し
て何年かぶりでつないでみた。久しぶりの“火入れ”で一抹の不安があったが、
多少の再設定は必要だったが、特に問題もなく表示してくれた。画面の小ささ
は如何ともし難いが、何か独立して駆け出しの頃にお世話になったディスプレ
イは妙に懐かしい。

実際の鉄道でも、廃車前提で留置されていた車両が、水害や事故で急遽復活し
て暫く活躍した例は多々ある。今回のことは言ってみればそんなところか。
こんなハプニングでも、すぐ鉄道にケースを置き換えてイメージしてしまう私
は、やっぱり鉄道ヲタだ。
そういえば、鉄チャンの人は仕事でも鉄道の考え方を流用してしまう人って、
結構多いと思う。たとえば、伝票番号とか、作業番号とか、プロジェクト番号
とか、仮だったり、試案だったりするとその番号に「900番代」「9000番代」を
付けている人、きっといると思う。また、全国に支店があったりすると、そこ
の営業所を「大阪支社梅田支店」なら[大ウメ]とか自分で勝手に略号を付け
て秘かにほくそ笑んでいる人、お得意さん回りなら、ダイヤを作成してそれに
則って車を運転している人、いるんじゃないかなぁ? 
私もいくつかは心当たりがある。ある日、先方から見積書が届き、伝票番号を
見たら[5-902]とかになっていた。後日、その担当者にそれとなく尋ねてみ
たら、案の定、鉄ちゃんだった。以来、同じ趣味の仲間として今もお付き合い
が続いている。一般人なら何とも思わないかも知れないが、見る人が見れば
“わかる”。しかし、知られたら大笑いされるか、感心されるか、大バカにさ
れるかなんだけどな。まぁ、大バカにされたって、それで少しでも仕事が楽し
くなればそれでよし。笑って話せるくらいの度量は持っているつもりだ。
248名無し野電車区:2006/07/28(金) 12:31:07 ID:DESiUjtO
>>247
うんうん。わかりますよその気持ち。

あと、機械操作の仕事をする際にはチェック表用意して指差喚呼しちゃいます。
あとイレギュラーの帳票に付番する際には8000番台つけちゃいます。
249名無し野電車区:2006/07/28(金) 13:19:15 ID:Im75Ro2P
天皇崩御の日は土曜日でしたね
250名無し野電車区:2006/07/28(金) 17:22:55 ID:WhIQVBMT
わたくしは中坊なんですが、ここのスレの人のおっさんて
何歳ぐらいの人たちなんですか。
251おっさん:2006/07/28(金) 18:30:47 ID:7aXBHvDy
また、適当な記憶だけで書いてボロが出たな。改めて記録ノートを見てみた。
御指摘の通り、1月7日は土曜日だった。翌日は徳島線経由で高知まで行って
泊まり、月曜の朝一の便で東京に戻って出勤していた。
いつもながら、適当な記憶だけで書いて申し訳ない。>>249さん、御指摘あり
がとうございます。

>>250
ここでいろいろ書いている私“おっさん”は、多分君のお父さんよりそこそこ
上の年齢です。さらに、私の他に書いていただいている方よりも多分上だと思
います。同年代で活躍する芸能人は沢山いますが、共通して言えるのはみんな
“若い”ですね。とてもそんな年齢には見えない人が多いですよ。私自身そう
思っていますし、実際の年齢が自分でも信じられないくらいです。
ここで私や他の方が書いていることは、君にとってピンと来ない、また、昔の
写真でしか知ることができないことかも知れませんが、ひとつ確実に言えるの
は、“確かにこういう時代があった”ということです。つたない文章でどれだ
け伝えられるか分かりませんが、楽しく読んでいただき、それなりにイメージ
を抱いてもらえれば嬉しいです。
そして、君も遠慮なく参加して、思っていること、あったこと、聞きたいこと
など書いてください。待っていますよ。
252名無し野電車区:2006/07/28(金) 19:25:23 ID:uX7yVfeK
           ____
      ┌" ̄ 且.IIIIII ̄†"┐
  ┌" ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄"┐
  |゙       l │急 行]│ l        ゙|
  |丁 ̄ ̄ ̄ ̄i|| ̄ ̄ ̄||i ̄∧∧ ̄丁|   /
  |│        |||      ||| (, ゚Д゚)│
  |┴────゙||───||゙────┴|  
  |   ̄ ̄ ̄ .||―――||.  ̄ ̄ ̄  |
  |.  (○) ○||比 叡||○ (○)  .|
  |_____ ____||\_/|| ________|
.  |       |||      |||       |
  |.  ◎. ~|||┌─┐|| |~ .◎  .| /
.  |_二二二__.l:===:l.__二二二_|  プァァァァァァン!
   | |古古||. H  |×l]|  H .||古古| | \
.   |  ̄ ̄ ̄l=====l ̄ ̄ ̄ |
   |.____________.|
     ―//――――\\―
    ―//――――――\\―
253オサーン !!:2006/07/28(金) 23:43:02 ID:hutqzzc7
オサーン名物「超・亀レス」
>>232
>>239
和紙は今でも「Q数表」を手元に置いてますよ。
Q⇔ポの対照表が付いてますからね。
プリンタのフォントとか、ポでしか指定できないスもんね。
ちなみに「写植屋」は、とっくに廃業しとりますが、コーヒーのコースターには
ゴナDBのサブプレートを使ってます (^。^;

閑話休題
>>250
若い貴方に「逆質問」します。
貴方のジェネレーションでは、鉄道の「どんなシーン」に
萌え〜... となるのかな?
例えばガキ時分の和紙は「581/583系、いわゆる月光型」が大好物でした。
でも後に「旧電機フェチ」に化けました。
それは現在進行形で「蒸気機関車」まで古いと、割りに冷静なクセに、
旧電機の「いかつい顔」や、リベットや溶接跡や、モーター独特の匂いetc.に
ハゲしく萌えます。

諸先輩方。これってやっぱり「原体験」とか「幼児体験」とかが、
深く関わってるんでしょうかなねぇ?
254おっさん:2006/07/28(金) 23:57:33 ID:7aXBHvDy
私が昔乗った私鉄で今は消えたもの…。岩手開発鉄道、同和鉱業、筑波鉄道、
加悦鉄道、野上電鉄、別府鉄道、下津井電鉄、鹿児島交通…等々この他にもい
くつもある。
別府鉄道なんて何処にあったか覚えているだろうか? ちなみに、「別府」は
<べっぷ>ではなく、<べふ>と読む。山陽本線の土山駅から別府港を経て今
はなき国鉄高砂線の野口駅まで走っていた。
ここの鉄道がすごかったのは、まるで明治か大正時代のような2軸の客車車両
が、堂々と“旅客列車”として運賃を取って営業していたことだった。遊園地
やテーマパークのアトラクションを連想しても大差ないような、本当に乗った
時のインパクトは強烈だった。本業は貨物輸送で、旅客輸送はオマケみたいな
ものだったが、いくら何でもさすがにこんな車両を走らせているのは、この時
代でもこの鉄道くらいだった。これが大阪近郊に存在していたのも驚きだった。

255おっさん:2006/07/28(金) 23:59:52 ID:7aXBHvDy
同じように、本業は貨物、旅客輸送はオマケみたいな私鉄は他にも同和鉱業、
岩手開発鉄道、それに鹿島臨海鉄道もそうだった。中でも異色だったのは鹿島
臨海鉄道だった。
現在はJR鹿島線に接続して北鹿島(鹿島サッカースタジアム臨時駅)−水戸
を結ぶ近代的な路線が「鹿島臨海鉄道」だが、元々は国鉄鹿島線北鹿島駅と鹿
島のコンビナートや港を結ぶ貨物線として誕生している。その貨物線に、1日
3往復の旅客列車が走っていた。
そもそも貨物専用の路線に何で旅客列車が走るようになったのか。それはこの
路線が成田空港へのジェット燃料輸送に使われるその“見返り”として地元が
要求したものだった。
ある日、この鹿島臨海鉄道に乗りに行った。列車は朝、昼、夕方の各1往復ず
つ鹿島神宮駅に乗り入れて来る。夕方の列車に鹿島神宮から乗り込んだ。車両
は国鉄から移籍したキハ10。とりたて大きな改造をする訳でもなく、塗色を変
えた程度で走っていた。
夕方の下校時間になって学生が乗り込んで来るかと思っていたが、学生どころ
か誰も乗って来ない。乗客、自分1人。列車はエンジンを唸らせて鹿島神宮の
その先へ走り出す。
5分程で北鹿島に着いた。しかし、ここは貨物駅というか信号場みたいな所だ。
ここまでが「国鉄」で、ここから先が「鹿島臨海鉄道」になる。そしてここで
進行方向が変わる。運転士が車内を歩いて反対側に移り、暫くして走り出した。
左右の車窓は砂地に低い松林が続き、それ以外変化がない。ようやくその林が
途切れると、広々としたヤードが展開して、その片隅の小さなホームに停まっ
た。神栖である。ここに機関区などがあった。列車はその先鹿島港南が終点に
なっていた。鹿島神宮から25分程の乗車だった。
256おっさん:2006/07/29(土) 00:00:47 ID:7aXBHvDy
しかし、ここ鹿島港南に降りたはいいが、まさにコンビナートへ続く産業道路
の途中、およそ民家や商店、それどころか倉庫や会社などほとんど見当たらな
い何にもないところだった。終点とはいっても、列車はその先の貨物駅まで回
送されて折り返し、神栖の車庫まで戻るようだが、この先は不特定多数の一般
人を不用意に立ち入らせないため、こんな中途半端な所に駅を作っているもの
と理解した。それにしても、政争の道具にされ、こんなどれ程の利用客か知れ
た路線に無意味な列車を走らされたこの鉄道もいい迷惑だっただろう。
もう鹿島神宮まで戻る列車もない。帰りは前の通りを走っていたバスに乗って
鹿島神宮まで戻ったのである。そしてこの路線の旅客列車は、数年走っただけ
で、人知れず消えて行った。
257オサーン !!:2006/07/29(土) 00:49:21 ID:Z1jCRVYr
>>254
おっさんさん、同和鉱業は「片上」の方ですか?
そっちなら和紙も行きました。廃線が何ヶ月か延期になった時期です。
奥の鉱石加工場あたり全体が廃墟化してて独特な雰囲気でした。

加悦鉄道は何度か行きました。最初は「客車から改造した」単行のディーゼル
でしたが、以後は国鉄と共通の車両ばかりでしたね。
正月の2日に行って「加悦駅近くの喫茶店」で昼飯食ったら、今年の初客とか
で、ご祝儀もらったのを覚えてます。千円ぐらい入ってたかなぁ。

別府は廃止直前に行きましたよ。ボギーは朝夕の2往復だけで、それが満員で
乗れませんでした。駅員がテンパって怒声あげてましたっけ。
廃線後にも訪ねましたよ。一部サイクリングロードになってたけれど、別府港
駅跡は、トラックヤードになってて、まったく面影なかったです。

下津井電鉄は何度も乗りましたが、まさか廃止になるなんて思ってなくて、
しっかり見聞しなかったのが心残りです。

鹿児島交通ていうか「南薩」は82〜84、行き倒しましたよ。
バラスも満足に無い路盤で、ゴンゴンゴンッという上下動で、舌噛みそう
でした。

今、関西で、比較的「古色然」としているのは「和歌山県御坊・紀州鉄道」
でしょうか。一昨年に訪ねた時は、まだ「緑とアイボリー」の旧車で運行
してたけれど、最近は新しいレールバスが導入されてるらしいですけど。
市役所前から先、以前は日高川までレールが延びてたんですが、その廃線
跡が、けっこう楽しめますよ。

258おっさん:2006/07/29(土) 11:25:37 ID:J4DuOoxl
同和鉱業は、小坂も片上も両方乗った。秋田はまだ花岡まで走っている時に乗
っている。国鉄車両のようなしっかりした造りの気動車だったな。どちらも貨
物主体とはいえ、旅客輸送もしっかりしていたので、そんなにすぐ廃止になる
とは思っていなかったから、それぞれ1回しか乗った経験がない。
岩手開発鉄道も確か終点まで行くのは1日3往復だけだったな。場所が場所な
のと、ダイヤが不便だったのでなかなか行く機会に恵まれず、廃止直前に1回
訪れただけだった。立派な線路の上を、言っては何だが安っぽい気動車が走っ
ていた。昼間はよく盛で昼寝をしていたのを思い出す。廃止後も保管されてい
ると聞いているが、今はどうなんだろう?
南部縦貫鉄道も“現役”時代に乗っている。よくもまあこんな列車が走ってい
るな…というのが率直な印象だった。吊り革が定位置から外れてランダムに片
寄っていたり、小さな車内灯はまさにバスそのもの。そして、話声も聞き取れ
騒音と振動! 当時だってこんなバスはもう走っていないぞ…というシロモノ
だった。それが今も大切に保管されているのは、ある面幸せな車両なのかも知
れない。
259おっさん:2006/07/29(土) 11:27:26 ID:J4DuOoxl
蒲原鉄道も、まだ加茂まで走っている時に乗っている。北陸鉄道も白山下まで
走っている時、小松からの路線がある時に乗っている。最近次々と路線が廃止
されている名鉄のローカル線も皆乗った。野上電鉄は前に書いた通り。有田鉄
道は長らく湯浅まで1駅紀勢本線に乗り入れていたが、廃止間近で、バス輸送
に多くが転換されていた時だったので、藤波からしか乗っていない。しかも、
移籍してきた小さなレールバスだった。滅多に動くことのなかったキハ58系の
私鉄版もと富士急のキハ58003が車庫で昼寝をしていた。両運転台のキハ58な
んて、何かユーモラスだなと思っていたら、晩年、実車に現れたのには驚いた。
でも、このキハ58003、自慢の2エンジンのうち1基を外されていたんだよな。
紀州鉄道も、まだ日高川まで走っていた頃に乗っている。「日本一短い私鉄」
なのに、名前は大きい!と不動産屋が目を付けたのは有名な話。今でも残って
いるのは奇跡のようだ。
加悦鉄道の客車改造気動車は1回だけ乗ったな。先に廃止になった岩滝口方に
延びるレールが長い間残っていて、ここに乗りたかったといつも見る度に思っ
ていた。
下津井電鉄は近鉄四日市線などを除けば、唯一地方私鉄で最後まで残った762mm
のナローゲージの私鉄で、当時からファンには人気があった。茶屋町からの路
線が剥がされ、これも珍しい接続駅のない私鉄として営業していた。晩年には
「メリーベル号」なんていう遊覧電車まで導入したけれど、2年しか走ること
ができないで廃止されてしまった。今でも保管されているらしいが、一時期近
鉄(今は三岐鉄道)のその路線への身売り話も出ていたが、結局立ち消えにな
った。瀬戸大橋線で児島を出てしばらくすると左手に急勾配を登ってくる下津
井電鉄の路線跡を目にすることができる。
また、地味な所で、大元から出ていた岡山臨海鉄道も乗っている。
260おっさん:2006/07/29(土) 11:28:08 ID:J4DuOoxl
鹿児島交通はまだ伊集院まで走っている頃に何回か乗っている。本当に路盤は
最悪で、よくこんな線路の上を列車が走っているなという感じだった。どの駅
も荒れ放題で、吹上浜に降りた時は、列車が行ってしまえば、松林と砂浜だけ
の人気のない周囲に唖然とした。夜ならとても恐くて降りられないような所だ
った。キハ07のあの特徴的な気動車も健在で、行く度に乗っていたけれど、ま
あ、よく揺れたな。結局台風による水害で再起不能になり、そのまま廃止され
てしまったのは残念だったが。最近、枕崎の駅舎が取り壊されたと聞いた。あ
の広々としたのどかな駅舎が消えたのはちょっと寂しい。

振り返れば、消えた地方私鉄はどれも個性豊かな鉄道ばかりだ。でも、裏を返
せば時代に取り残された鉄道でもあった。消えて行ったのは当然のことだった
のかもしれない。今でも生き残っている地方私鉄はそれなりに近代化されてい
る。また、そうでないと生き残れない。郷愁だけでは成り立たないのは事実だ
けれど、それによって全てが画一化されていくのはちょっと寂しい気がする。
この先も、くりはら田園鉄道、神岡鉄道など近々歴史に幕を引く鉄道がある。
また1つ個性のある鉄道が消えて行くのは、やはり寂しい。
261名無し野電車区:2006/07/29(土) 11:35:35 ID:qQ0gZBbB
これ、何人位で、書いてるのかな。
262おっさん:2006/07/29(土) 12:03:20 ID:J4DuOoxl
これ、何人位が見てくれているのかな?
263plausinar ◆fcoWXWNaG2 :2006/07/29(土) 15:35:46 ID:HsfJ5WTB
同和の小坂には何回か乗った。宮脇俊三氏の著作に出てくる「キツネが化けた様な」美女に会いたくて。
でも、会えなかった。夏休みだったのかなあ。
車両はたしか空気バネ、単行仕様でもちゃんと放送設備もある。ワンマンではなくて車掌さんが乗務してた。
放送の際、急行気動車のチャイムが鳴りっ放しだったことを思い出す。
揺れはそんなにひどくはなかった。現在残る小私鉄でもっとひどいのがある位。
大館駅での自動券売機が妙に浮いていた。
沿線の「樹海ライン」はよく通るけど、同和小坂ももっと乗っておけばよかった。
264名無し野電車区:2006/07/29(土) 15:47:10 ID:LYFpAycP
同和の片上の方に1回だけ乗ったが、元キハ07はかなり揺れた。つり革が網棚に
当たるカチンカチンという音でにぎやかだった。
その日は雨で、勾配を登るときに空転したらしく、車掌さんが運転台脇の床に開けた穴から
ペットボトルに入れた砂を撒いていた。今ではそんな光景もまず見られないだろう。
265宗谷スレの577:2006/07/29(土) 21:27:35 ID:yLEaNgjv
おっさん、このスレ何人くらい見てるのかなとか言っているから
遊びにきたついでに記念カキコしますよ
カキコする人は少ないかもしれないけれど、見ている人はいるだろうね
yahooやgooブログならアクセス数がわかるけれど、2chはわからないよね

そういえば、おっさん と オサーン!! の二人がいるようですね
宗谷スレではおっさんをオサーンと呼んでいたから、ちょっと混乱してしまった
といわけで、ソバとラーメンネタは向こうでレスしまつ ノシ
266おっさん:2006/07/29(土) 22:01:00 ID:J4DuOoxl
今の時期、全国で花火大会が開かれている。旅をしていて、列車の窓から花火
が見えると、「もっと遅く走ってくれよ」と思ってしまう。帰宅を急ぐ人たち
も、一斉に窓の外に釘付けになって無心に眺めている。みんな同じような顔で、
なんかちょっとホッとする瞬間だ。
数年前、夜の木次線、出雲坂根まで往復する「奥出雲おろち号」が走った。何
だか納涼ビール列車と何処が違うの?と思うくらい、団体さんはトロッコ車内
で御機嫌だった。出雲坂根では駅前で焼鳥やイカ焼きなど小さな出店が出たり
して、1人で乗ってもそれなりに楽しかった。
その帰り、出雲横田の辺りに来た時に、花火が上がった。列車は徐行するどこ
ろか、しばらく停車して花火鑑賞と洒落た。特に派手な花火もなく、ちょっと
したものではあったけど、トロッコ列車に乗って、ビールを飲みながら花火鑑
賞なんてなかなかオツなものではないか。
列車ではないが、夏の夜、飛行機で羽田から大阪伊丹へ飛んだ時、次第に高度
を下げ、生駒の山々を通過して前方に大阪市街の素晴らしい夜景が広がる頃、
眼下でひっきりなしに花火が上がっているのが望めた。日本一の打ち上げ数を
誇るPLの花火大会だった。“上から見る花火”は初めての経験。何か不思議
な感覚だった。
また、今の時期、羽田に到着する便で、風向きにより着陸する滑走路へのアプ
ローチの関係でTDLの近くを通過することがある。この時、右側に乗ってい
れば、TDLの花火がしばらく楽しめる。
折から今夜は東京の隅田川花火大会。浅草周辺は人で埋まる。私は最近東武に
乗ることも多いのだが、発車までのしばらくの合間を利用して、昨年は隣の業
平橋まで往復した。この時ばかりは浅草の狭い構内のために最徐行で隅田川を
渡るのが幸いしている。ゆっくりと川を渡る電車の窓から、十分花火を楽しむ
ことができた。こんな花火鑑賞も結構面白い。
267名無し野電車区:2006/07/29(土) 22:09:58 ID:r7gABb2R
http://www.nipusa.com/common_product.asp?id=26175
堺正章・夏目雅子主演 西遊記T・U』 全話セットDVD12枚
268名無し野電車区:2006/07/30(日) 01:00:27 ID:aQeb/AfE
>>262
んじゃ、スレ巡回のついでに記念カキコ。
おっさんのカキコ楽しみにしてますよ。
269おっさん:2006/07/30(日) 21:51:32 ID:yN/hrnb0
>>265>>268
ご声援ありがとうございます。ウザいと言われるまで、書いていこうと思いま
す。

“日本一の赤字線”。この不名誉なレッテルを逆手に取って、時の美深町長が
東京・銀座までキャラバン隊を繰り出したことで有名になった美幸線。しかし、
町長の願いも空しく、呆気無く廃止となってしまった。
この美幸線には2回程乗った記憶がある。ただ、正直な所、そんなに印象が残
っていない。小さな川に沿って蛇行しながら渓谷を遡り、辺りが開けた所が終
点の仁宇布だった…、と、こんな程度の印象しかない。まだ廃線が現実になる
前の事だったので、狂気じみた騒ぎもなく、乗り鉄に来たファンが数人乗って
いるだけで、特にどうという事なく往復しただけだった。

数年前、その美幸線跡を友人の車で走ってみた。
美深の市街を抜け、きれいに鋪装された道々を当時と同じ渓谷を眺めながら快
適なドライブが続く。折から転換バスが前を走っていた。追い抜いた時に車内
を覗いたけれど、乗客の姿は一人もいなかった。
美深から20分程で終点だった仁宇布に着いた。この地に不似合いな信号機を左
折すると仁宇布の駅前である。意外に広々とした構内には、今は車両に変わっ
てトロッコ車両が並べて置いてあった。
ご存じの通り、現在は仁宇布から美深よりの線路約5kmをそのまま利用して、自
走トロッコを楽しめる「トロッコ王国」が春から秋にかけて開放されている。
なかなか楽しい施設で、私も3回程遊びに来ている。とにかく、往復約30分と
いう長時間の“運転”が楽しめるので、1回来て病みつきになってしまった。
この時も1往復、友人と交代で運転してきた。
この仁宇布のホームに場違いなサハネ581が鎮座している。ライダーハウスと
して夏場に開放されていたが、最近閉鎖されたらしい。中に入ると、東北線の
特急として活躍してきた当時そのままの雰囲気が残っていた。でも、この車両、
まさかこのような北海道の奥地で余生を送るとは夢にも思わなかっただろう。
270おっさん:2006/07/30(日) 21:52:21 ID:yN/hrnb0
この日は、さらに足を延ばす。近くの名勝松山湿原にも行ってみた。針葉樹に
囲まれた湿原に立つと、シーンと静まり返って全く音が聞こえない。時々、カ
サカサと木々が揺れる音は鳥が飛び立った音か。こんなに音のない世界にいる
ことがピンときていない。そんな感じだった。
美幸線が成し得なかった先を求めて車を走らせる。思った程深い山はなく、小
さな峠を越えると、辺りはサイロが点在するのどかな風景になった。そして、
志美宇丹という集落に入る。実はここまで私は北見枝幸からバスを使って以前
に訪れていた。バスが入る一番奥がこの志美宇丹だったのだ。
その志美宇丹には、まさに志半ばで捨てられてしまった美幸線の未成部分がそ
のままの形で残されていた。道路に沿うように続く築堤は、下から見ていると、
いつ列車が現れてもおかしくない雰囲気をしている。車を停めて上に登れば、
真新しい砂利が一面に敷かれ、本当にもうあとはレールを敷くだけという状態
だった。トンネルのコンクリートも真新しく、本当にこれが打ち捨てられてし
まうとは思えない程の、完成間近の姿で止まってしまっていた。橋梁などの建
造物には完成した日付けのプレートが埋め込まれている。それが余計に空しい。
このまま暫く走ると歌登町の中心街に出る。この歌登には昔、歌登町営軌道と
いう軽便鉄道があって、美幸線はその廃線跡をなぞるところも多かったと聞く。
この美幸線、もし北見枝幸まで開通していたら、今頃は“特急「天北」”がこ
の整備された築堤の上を快走していたかも知れない。停車駅は、浜頓別、北見
枝幸、歌登、美深…。
この日は陽も傾いてきたので、歌登で打切りにした。帰りは、咲来に抜ける道
を使って音威子府はパスしてしまった。後になって、そばを食べてくればよか
ったと車内で後悔したのである。
271名無し野電車区:2006/07/30(日) 22:57:10 ID:14jU8DW5
トロッコ王国は今年の6月に行ったけど、ここ2〜3年で急激に
客が減ってヤヴァそうな雰囲気。
転換バスはもう長いことあんな感じですっからかんらしい。
272名無し野電車区:2006/07/30(日) 23:14:19 ID:VGEV3Wa0
ここは列車は通りません、という立て札が立つ廃線の踏切を横切る鉄道転換バスに萌え〜
273名無し野電車区:2006/07/30(日) 23:59:36 ID:JkK/04Gl
トロッコ王国すいてるのか。
ものすごく混んでるというからあきらめていたのだが。
274名無し野電車区:2006/07/31(月) 00:14:30 ID:TrU4Hh9e
美幸線について、笑えないような笑えるようなエピソードを一つ。1970年代の出来事だったと思う。

日本一の赤字線という、不名誉な冠がついたことで、その存在が広く知れ渡った美幸線。
乗り鉄さんと違って、地元自治体はたまったもんじゃない。とにかく赤字を返上し、何が何でも、
未成区間の似宇布〜北見枝幸を開通させ、真の美深〜枝幸=美幸線を開通させるのだ!!
と有志が集い、やおら「美幸線を考える会」みたいなものが結成され、最初の決起集会を
地元美深で開催することとなった。

メンバーは自治体と国鉄関係者で、皆大きな関心があるのか、最初の集会には、
遠方からの参加を含め、かなりの人数が集まった。但し、そのほとんどは、

  マ  イ  カ  ー

で来た。この惨劇を見た主催者は、

「だめだこりゃ」

と、最初から諦めムードだったらしいwww
275おっさん:2006/07/31(月) 00:59:18 ID:5NB0h5X6
「トロッコ王国」って最近は人が少ないのですか。一時期は順番待ちで、乗っ
ても運転できるのは限られた人だけ(あとは牽引する客車トロッコ?に乗って
いるだけ)というので、秋になって人が少ない頃に行っていたんですけどね。
そういえば、最近ポスターらしきものも見ないようだし。

>>274
こういう話は廃止ローカル線ではよく耳にしますね。実際、列車が使いにくい
から仕方ないのだろうけど、現実はそういう状態なんだよね。
276名無し野電車区:2006/07/31(月) 20:21:45 ID:xsiXwh2i
>>274
可部線の時も地元の国会議員のところへ車で陳情に行って、呆れられたらしいよ。
鉄道は地球に優しいから残すべきだと言っていたのに、
廃線後は動態保存しているディーゼルカーを、
一般公開と称して一日中アイドリングさせて排気ガスを撒き散らしている。
町興しのためなら何でも許されるらしい・・・
277名無し野電車区:2006/07/31(月) 21:50:59 ID:lOOuD3K/
>>276
> 可部線の時も地元の国会議員のところへ車で陳情に行って、呆れられたらしいよ。

このあたりの話って、山形新幹線開業にともなう飛行機撤退の話でも言われていた。
これだけあちこちで聞かれるのを見ると、どうも都市伝説という可能性も考えた方が良い
ような気がするな。

> 廃線後は動態保存しているディーゼルカーを、
> 一般公開と称して一日中アイドリングさせて排気ガスを撒き散らしている。

それでも、環境に与える影響最悪の自家用車よりは、ましなんでないの?
大体、観光施設の CO2 排出が駄目なら、そりゃ偉いこと。

まあ、"進歩的文化人" よろしく、皮肉りたいのは分かるが、事態が変化した今、
目的も変化しているんだから、打つ手も変わるのは許容されるべきでしょう。
278おっさん:2006/08/01(火) 00:32:17 ID:taVLPtqb
おっさんからのお願いですが、ここでは気軽に書いて読んでいただけるのを主
旨としています。ですから、難しい話や論説、意見などは話の流れで多少は構
いませんが、程々にお願いしたいので、よろしくお願い致します。

「宗谷本線スレ」の方で、礼文島「桃岩YH」の話が出たので、ちょっと書いて
みる。

今の若い方にとって「ユースホステル(YH)」はどんなものか知っている方は
いるだろうか? 私らが学生の頃、安い宿に泊まるといえば、まずYHに泊まる
のがセオリーだった。当時のビジネスホテルの1/3〜1/4位で泊まれる安
い宿泊代は貧乏学生の味方だったが、安い反面見ず知らずの旅行者と相部屋に
なったり、半ば強制的に参加させられる夕食後のイベントを嫌う人も多かった。
実は、私もそれが嫌でYHにはほとんど泊まった経験がない。ただ、それが仲間
や友人を作る切っ掛けにもなり、旅先で知り合って付き合いが始まるのも、こ
れが発端というのも少なくなかった。

北海道にもYHは数多くあり、その中では評判になるYHもいろいろあった。中で
も浜頓別YHは、誰が泊まっても評判が良く、文句なく好感度ナンバー1のYHだ
った。アットホームなペアレント(経営者)と、自ら進んでバイトを買って出
た若者に、多くの旅人が北海道の素晴らしさを満喫して、それは口コミで広が
っていた。
それに対し、別な意味でナンバー1の称号を付けられたのが礼文島の桃岩YHだ
った。
279おっさん:2006/08/01(火) 00:35:08 ID:taVLPtqb
稚内からフェリーが香深港に着くと、YHや民宿の大きな旗を振って「おかえり
なさ〜い!」と出迎える。連泊する旅人も総出で出迎えるのがならわしだ。だ
から港は出迎えるそれらの人たちと、礼文島を離れる旅人が入り乱れ、港は人
で大混雑だった。
船から降りた旅人は、ふつうはまずそれぞれの宿まで、車やマイクロバスで運
ばれる。しかし、桃岩YH違った。「荷物はこのトラックに載せてね〜!」と、
まず荷物だけトラックの荷台に手際よく積み上げられ、さっさと先行してしま
った。
残った手ぶらの私達は、リーダーらしい真っ黒に日焼けした、ボサボサ頭にバ
ンダナ、無精髭の大男の挨拶をまず聞かされる。
「ようこそ、桃岩YHへお越し下さいました。これから私達が我桃岩YHの一時の
お世話をさせていただきます。しかし、ここに来ていただいたからには、ここ
のルールにも従っていただきます」
「なんだ、いきなり命令かよ」っと、思う間もなく、
「は〜い、ではこれから“出かける(港を離れる)”仲間をみんなで送りましょ
う」
と港を出て行こうというフェリーに向かって一列に並ばされた。フェリーには
礼文島を離れる旅人が色とりどりのテープを握り、友に叫んだり、手を振って
いる。そして、フェリーがゆっくりと桟橋を離れると、みんなで「いってらっ
しゃ〜い!」と大合唱で見送らさせられた。それは、何度も何度も港を出て行
くまで続く。
いきなりの洗礼に呆気に取られる旅行者に次なる試練!
「さぁ、これから桃岩YHまで歩いて行ってもらいま〜す。自然がいっぱいの礼
文島は歩くのが一番で〜す」
大きな旗を持つリーダーを先頭に、いきなりの山道を旅行者は強制的に歩かさ
れて向かうことになった。有無もない。峠まで一気の登りはきついが、展望台
からの利尻富士の眺めにすっかり魅了されてしまった。その展望台のそばにそ
の「桃岩」がある。確かに桃の形をした大きな岩なのだが、初めて来た時には
この岩の上にも登ることができた。しかし、岩がもろく崩れやすいとの理由で
翌年から登ることは禁止された。
280おっさん:2006/08/01(火) 00:36:04 ID:taVLPtqb
一時休んだ後は、サミットのトンネルを越え、西海岸が広がるとYHまではすぐ
そこ。港から40分程で着いた。桃岩の丁度裏方にその「桃岩YH」はあった。
着いたらさっそく昼飯。全くの強制ではないが、旅行者はもうここのルールに
従うしかない。黙ってリーダーの“今後の予定”を聞きながら飯を食う。
この桃岩YHの一番の行事は「礼文島8時間コース」である。島の北端スコトン
岬からこの桃岩YHまで、礼文島の西海岸をおよそ8時間かけて縦走するイベン
トだ。連泊する人ならまず参加させられる。途中は山あり、海岸あり、岩場あ
り、時には道なき道を進む結構過酷なルートである。しかし、その足で知る礼
文島は間違えなく心に残った。
ぐったりしてYHに戻ると、夜は伝統の“踊り”のレクチャー! これが夜遅く
まで続く。
その狂気じみた行事の連続に、いつしか「気狂いユース」の名で知れ渡った。
「桃岩」と聞くだけで、皆吹き出した。知名度は抜群だった。
しかし、港を離れる時、苦楽を共にした見ず知らずの旅人は友人になり、あの
馬鹿騒ぎの見送りも、今までこんなに心のこもった見送りを受けたこともない
感動的なシーンに映った。こんなYHなど、今の時代に生き残っていないと思っ
ていたのだが…。
281名無し野電車区:2006/08/01(火) 12:57:32 ID:1p0qZdTy
美幸線の切符販売の件で思い出したんだけど、
当時の「売上」の計算方法ってのが「発行駅の所属路線」で計上されていたので、
がんばっていくら美深からの美幸線の切符を売ったところで、美幸線の売上には
一円にもならなかった、という話だ。

いまでは発売駅基準ではなく区間基準で計上されるらしいけど。
282名無し野電車区:2006/08/01(火) 22:33:06 ID:eQ0x/B38
ほんのガキの頃、下津井電鉄に茶屋町から乗ったことがある。
別に乗り鉄ではなく、沿線に母親の実家があったからだが。
ガキの目から見てもショボイ感は否めない、小さな車両だった記憶がある。
電柱の独特な形状(横に長い三角形?)も何となく覚えているな。

母親は戦争中、電車に乗っていて機銃掃射を受けたことがあると言っていた。
283名無し野電車区:2006/08/01(火) 23:24:17 ID:N4t4ct+A
>>280

自分が礼文に行ったときには、3 つユースがあった。そのうち 2 つは止まった。
しかし、桃岩だけは恐くて行けなかった。ちなみに、その時、台風で足止めされて、
帰りが一日遅れた。出発日は 10/1 となった。

港には、踊っている集団がいた。あれは印象的だった。
284名無し野電車区:2006/08/02(水) 00:12:17 ID:N4RVMuLt
このスレsage杉なので、ある程度age


データ落ちすんなよ!!
285名無し野電車区:2006/08/02(水) 00:40:33 ID:hYDCG4It
>データ落ちすんなよ!!

すまんが、それはネタなのかマジなのか?www


286名無し野電車区:2006/08/02(水) 20:59:58 ID:uJVzrx/4
>>284
っていうかなぜ皆がsageてるのかもわかってないしな。

とりあえずクマー
287名無し野電車区:2006/08/02(水) 22:53:10 ID:ZL1h+dQe
おっさんあげ
288おっさん:2006/08/02(水) 23:53:00 ID:Vtod06/O
私が乗り鉄を始めた頃、国鉄が運航していた連絡船は、青函連絡船、宇高連絡
船、宮島航路ともう1つ、仁堀航路というのがあった。呉線の仁方駅と予讃本
線の堀江駅の間を結んでいた航路である。本州と四国を結ぶ瀬戸内海を横断す
る航路だったが、どちらも都市に直結している訳ではないので、存在は地味で
意識して乗ろうと思わなければまず使うことのなかった航路だった。
しかし、この航路の存在は、いわゆる“一筆書き”の乗車券を作る時には非常
に大きいものがあった。つまり、四国をルートに組み込む場合には宇高連絡船
と絡めて、どちらかが入口、出口となって計画を立てることができた訳である。
周遊券が使えないルートで計画する時は、当時は普通乗車券の“一筆書き”が
当たり前だったから、四国の出入りの時にはどうしてもこの航路の存在を無視
しては計画が出来なかったと言える程だった。
ただ、実際に利用するとなると1日3往復しかなく(末期は2往復)、どちら
も便利とは言えない駅だったから、乗車券のルートには組入れても近接する民
間航路を利用することも多かった。それでも、この航路には3回程乗っている。
「西鹿児島→稚内鈍行日本縦断の旅」でも使った。
289おっさん:2006/08/02(水) 23:54:07 ID:Vtod06/O
最初に乗ったのは2度目の四国旅行の時に仁方から乗船した。
呉線にも初乗りだったが、広島から乗って全線に乗ることなく仁方駅で下車す
る。しかし、降りて一瞬戸惑ってしまう。辺りの風景からして、とても連絡船
が発着するような駅とは思えなかったからだ。駅の前に港も海もない。ふつう
ののどかな田舎の風景じゃないか。降りる駅を間違えたかと思ってホームの案
内に目をやれば、「乗り換え 仁堀航路」と確かに書かれてあるのを見てホッ
とする。でも、「どこに乗り場があるんだよ」と見回してしまった。
駅には当たり前であるが乗り場への案内が出ており、それに従って路地を海の
方向に向かって歩く。迷うことなく10分程で桟橋に着いた。そこは、何の変哲
もないごく普通のフェリー桟橋という趣だった。あえて「国鉄」というものが
なければ、同居している民間フェリーと何ら変わらないものだった。私はその
“一筆書き”の乗車券を持っていたので乗船券を買うことはなかったが、窓口
では、恐らく四国内のそこそこの乗車券類も扱っていたと思うが、定かではな
い。
当時就航していたのは安芸丸。確か250トン程のフェリーだったと思ったが、
この大きさは、瀬戸内の島々を巡るフェリーではごく普通に見られた大きさだ
った。後に瀬戸丸(399トン)が新造されて就航している。それによって安芸
丸は宮島航路に転用された。瀬戸丸も航路廃止後は宮島航路に場を移している。
私は両方の船に乗ることができた。
船内は他のフェリーと造りはそれ程変わらない。座敷と座席、それにちょっと
したデッキがあったと思う。乗船客はそれ程多くなくて、それぞれ皆思い思い
に寛いでいた。
290おっさん:2006/08/02(水) 23:54:46 ID:Vtod06/O
堀江までは安芸丸の時が約2時間、瀬戸丸になって1時間40分程になった。し
かし、この辺りの瀬戸内海は比較的島が少ないので、景色はそれ程面白味はな
く、また売店のようなものもないので、乗ってしまえば退屈な航路だった。
着いた堀江港もどうということはないフェリー桟橋だった。仁方も堀江も、近
くの島々とのフェリー航路のターミナルではあったけれど、全く「国鉄色」の
感じられない風情だった。桟橋から堀江駅までは歩いて7〜8分程。途中には
蔵があったり、古色溢れる民家があったりで、明らかに広島側とは家の造りが
違って見えたのが印象に残る。
堀江駅は数多く走る急行は1本も停車しないローカル駅だった。航路に接続は
全く考慮されておらず、高速で通過する急行「うわじま」などを見送って暫く、
2両の編成でやって来たローカルに乗って松山へ向かった。
291おっさん:2006/08/03(木) 19:35:14 ID:2HDxT5q4
土曜日の夕方、私はバスである線の終着駅に向かった。バスはこれから乗る線
に沿って、30分程でその駅前に着いた。そこはローカル線の終着駅とは程遠い
イメージの、何処にでもあるような郊外の住宅街の一角にあった。
広い駅前道路に沿って商店や食堂、そして住宅が広がるような普通に見られる
ような郊外の風景の中で、道路から引っ込んだ所にある終着駅は意外に構内は
広く、コンテナ車を中心にタンク車など貨車が何両も留置されていた。
小じんまりとした駅舎に入ると頭上に掲げた時刻表に“やっぱり”目が行く。
「発車時刻:16時14分 行先:清水」
そこそこのスペースのある時刻表板に書かれていたのは、この1本だけだった。
1日1本の“超”ローカル線、清水港線三保駅に来たのであった。
近年、石勝線の楓駅が1日朝の1往復だけというのが話題になったが、この清
水港線は朝三保に向かって出発し、夕方三保から清水に帰るという究極のロー
カル線になっていた。もっとも、この清水港線の本来の目的は港につながる貨
物輸送が主体の貨物線だった。ただ、沿線に高校が多く、その学生の輸送のた
め旅客列車が残されていたのである。
292おっさん:2006/08/03(木) 19:36:03 ID:2HDxT5q4
夕方の上り列車はその学生達の下校時間に合わせて運転される訳だが、今日は
土曜で学生の姿は少ない。半日で終れば学生は沿線で頻発しているバスで帰る。
入れ替えたのか、それとも朝着いてそのまま据え付けられていたのかは定かで
ないが、目の前に止まっているのは茶色のスハ43系客車が4〜5両くらいだっ
たと思う。1日1本の列車の客車を満席にしてしまう学生の数というのも、や
っぱり究極である。
牽引するのは定期列車ではここと当時の和田岬支線だけだったと思うDD13であ
る。部活帰りのいくばくかの学生を乗せて、時間になるとゴトリといきなり動
き出す。列車は、右手に倉庫や貨物船が停泊する港を眺め、左には先程通って
来た広い道に沿って住宅地が続く線路をゆっくりと進む。向こうの小高い山は
日本平だ。途中駅でも学生がチラホラ乗って来る。彼等は列車が走り始めても、
いつもの事のように平気でヒョイとデッキに飛び乗ってくる。
巴川口という駅のそばには船を通すため、運河を跨いだガードが上下する可動
橋があり、これが沿線唯一の名物だった。一際大きなジョイント音を響かせて
ソロリソロリと渡る。
三保を出てから25分、右にカーブして東海道線が寄り添って来ると清水到着で
ある。しかし、列車は東海道線のホームには程遠い手前の小さなホームで止ま
った。車内に乗っていた学生が、ゆっくりとそのホームに降りて前の方に歩い
て行く。思えば1回も車内放送はなかった。車内の巡回に来た訳でもなく、車
掌が乗務していたのかさえ定かでない列車は、これで今日の仕事を終える。
高校生の後について行くと、貨物ヤードの中をロープだけで仕切られた“通路”
をしばらく歩いて、ようやくホームに続く連絡道につながった。何から何まで
異様な清水港線だった。
結局、清水港線はこの1回だけの乗車で終ってしまった。数年前、ドライブつ
いでに、並行している道路を走ってみたが、駅によっては跡形もなかった所も
あったが、終点の三保は何となく当時の面影を伺わせる広い構内は、それ程手
がつけられないまま残っていた。もちろん、レールは剥がされていたが。この
近く、名勝「三保の松原」や日本平から望む富士山は、文句なくナンバー1の
富士山の眺めだった。
293名無し野電車区:2006/08/03(木) 21:49:33 ID:tm0FXN3K
清水港線ですか。地元なので懐かしいです。
巴川の可動橋は廃止後もかなりの期間(10年程?)残ってました。

清水駅も東海道線のホームは1面2線でしたが広大な貨物ヤードが広がってましたね。
今では清水港線の痕跡はおろか、貨物の取り扱いすら無くなり寂しい限りです。
294238:2006/08/04(金) 09:53:04 ID:+5zjmSwC
清水港線か〜。懐かしいなあ。
大学在学中は沿線に住んでいたのに(どこの大学か丸バレだけど)
結局一度も利用することなく卒業して20年が経過してしまったけど、
今でも1度だけでもいいから乗っておけばなあ、と思い返してます。
それにしても清水市から静岡市清水区になるというニュースを聞いたときは、
「何故だ!」
と憤ってました。

295おっさん:2006/08/04(金) 17:17:34 ID:bpJzVKfo
徹夜の仕事が今終った。今週は徹夜が続いた。まぁ、年齢も年齢だから、徹夜
はやはりしんどいな。でも、列車に乗って徹夜は昔は何でもなかったけど、今
はさすがに1泊がいいところだ。
ところで、清水にいた方からのレス、ありがとうございます。懐かしく思い出
していただけると嬉しいです。清水市はもう合併で「区」になってしまったん
ですよね。ちびまるこの舞台の清水はもう清水ではなくなっている訳ですね。
静岡市は元々市域が結構広くて、大井川鉄道の終点の井川も「静岡市」だった
のには驚いたものです。浜松市も、飯田線のかなり奥の方まで市域になりまし
たが、昨今の市町村合併は、私らにとってもピンと来ない新しい名ばかりで、
全国的に大概の市町村の所在地は把握していると自負していたものがかなり揺
らいでいます。「え?そこ何処にあるの?昔の市町村名で言ってくれたら分か
るのに…」と戸惑うばかりです。そういえば、いつだか話題になった「セント
レア市」になるはずだった町の合併話はどうなんたったんでしょうね。私の住
む神奈川県も、横須賀から平塚辺りまでひとくくりで「湘南市」という話もあ
りましたが、沙汰止みです。いろいろ事情はあるだろうけど、馴染んできた地
域の名前が消えてしまうのは淋しいものがありますね。

296おっさん:2006/08/05(土) 00:43:52 ID:Aqjjy8zp
想い出話をここに書く時、手許にもう茶色く変色した70〜80年代の時刻表を引
っ張り出すようになった。厚さは今のおよそ2/3位か。売値は500円と、今の半
分だ。中を開けばそこはもうリアルタイムな“その時代”が蘇る。どのページ
を開いても、見覚えのある列車、懐かしい駅名が目に入って、手が停まること
もしばしばだ。冒頭の路線図には、日本中くまなく線路がつながっていた。そ
の路線図に1つ1つ乗った路線をマーカーで塗りつぶしていくのが楽しかった。

その、まだ塗りつぶせないで残っていた1つのローカル線に乗るためにこの日
は出かけた。
上野から普通を乗り継いで5時間あまりかけて降り立ったのは小千谷。当時は
上越新幹線などまだなく、上越線には「とき」が1時間おきに走っていたが、
その時の自分に「特急」などそう簡単に使える分際ではなかった。かといって
急行「佐渡」も適当な時間にはなく、結果的に高崎で乗換えて普通でやって来
たのである。
余り時間に余裕がなかったので、周辺散策することもなく前もって調べていた
ように駅前の道を下る。程なく信濃川を跨ぐ長い橋に出る。夕方の帰宅なのか
車が列を作る橋を足早に渡り切って、目指すのは魚沼線の西小千谷駅。
その西小千谷駅は迷うこともなく案外すぐ見つかった。着いてまもなく、終着
となる列車が入って来た。車内から帰宅の高校生がパラパラと降りて来て、駅
前に停めてある自転車に乗ってそれぞれの家に散って行く。一段落した頃合に
折り返し来迎寺行きとなる2両のディーゼルカーに乗り込む。
297おっさん:2006/08/05(土) 00:44:30 ID:Aqjjy8zp
魚沼線はその線の現状が案外不便で、国鉄全線完乗の最後の方に乗った線にな
ってしまった。もちろん、長岡というジャンクションを通ることはままあるの
だが、多少時間的な余裕があっても、その運転されているダイヤが乗り潰しに
余りにも不便だった。ローカル線の典型のような朝晩しか列車が走っていなか
ったからである。朝夕各2往復だけ、土曜日のみ昼間に1往復という完璧なま
での過疎ダイヤであった。しかも朝の2往復は夜行で来て使うには不便、夕方
だと日没になってしまうなどで、結局後回しになってしまっていた。
今回、その魚沼線に乗ろう!と思ってやって来たのだった。しかし、時間的に
来迎寺から入るには都合が悪く、それで小千谷から西小千谷まで歩いて17:40
発のこの列車に乗ることにした。日没までぎりぎりという時間ではあるが。
2両のディーゼルカーはキハ26 400+キハ55の編成だったと思う。迷いもなく
このキハ26 400の方に乗った。この車両は元キロ26の格下げ車両で、ゆったり
したロマンスシート(向い合せで固定されていた)の“乗りドク”車両だった
ので当然の選択である。
西小千谷から数人の乗客を乗せて発車した。列車は米どころ新潟の田んぼの中
をゆっくりとしたスピードで走って行く。ようやくゆったりと車窓を愛でる余
裕ができれば、辺りは一面の見事な黄金色の稲穂が広がっていた。もう秋なん
だと実感するような風景だった。
その風景も、次第にコバルト色の夕暮れに包まれて行く。誰も乗り降りのない
無人の駅にも明かりが灯るようになった。大きく右にカーブして、信越本線の
レールが近付いてくれば終点の来迎寺。列車は欠き取り式の行き止まりホーム
にゆっくりと到着した。西小千谷から24分の短い魚沼線の乗車は終った。
この魚沼線も、乗車したのはこの1回だけで、ひっそりと廃止されてしまった。
298おっさん:2006/08/06(日) 00:42:50 ID:SLUPxzsn
長いこと旅をしていると、思わぬ珍事件に遭遇することもある。
1月のある日、近江今津の駅で下りの「雷鳥」を待っていた。この近江今津に
停車する「雷鳥」は日に数本しかないが、たまたま丁度良い時間にあったので
利用したのだと思う。
粉雪がチラつく寒いホームに上がって到着を待つ。やがて接近合図が流れ、遠
くから3つのライトを輝かせて「雷鳥」が近付いて来る。私と数人の乗客は、
それぞれ自由席の札のかかった下に立って、荷物を持ち、到着を今や遅しと待
っていた。何の疑問も持たずに…。
やがて、ホームの端にライトが近付いて来たのでそれとなくそちらを向いた。
「…あれ?」何かが変だ! 次の瞬間、「うそだろ〜!?」と思う間もなく、
「雷鳥」はフルスピードでホームに入って来たのである。停車するどころか、
そのままのスピードで目の前を一瞬のうちに通り過ぎてしまった! 茫然と見
送る私と他の乗客、そして駅員! その通過している最中に非常制動がかかる
エアーの抜ける音をはっきり耳にした。しかし、当然のことながらホームに停
まりきれず、「雷鳥」はホームを外れるどころか、最後尾さえも駅構内を通り
越して遥か先に停車していた。
ホームで待っていた私達は一瞬何が起きたのか混乱していた。自分が時間を間
違えたかとも思った。そしてお互いに顔を見合わせ、「行っちゃったよ〜」と
笑うしかなかった。ホームに立っていた駅員は「通過してしもうた、何やっと
んのや」と、慌てて事務室に駆け込んで行った。
たまにニュースで聞いていた停車駅通過を目の当たりにするとは思わなかった。
さぁ、このあとどうするのか、急に鉄ちゃん的思考を巡らせる。バックするに
しても構内を行き過ぎて停車しているから簡単には後退できないのは知ってい
る。乗客が少ないから私達はタクシーで敦賀まで丁重に送られるのかな?とか
いろいろ考えが巡った。駅のホームもアナウンスは一切ない。そのまま5分程
時間は過ぎた。
299おっさん:2006/08/06(日) 00:43:31 ID:SLUPxzsn
駅員がホームの事務室から出て来た。「申し訳ございません。特急は今バック
して来るので、少々お待ち下さい」と告げた。見ると、ゆっくりと「雷鳥」が
こっちに向かって後退して来た。そして定位置に停車してドアが開く。降りる
乗客も何人かいて、一様に呆気に取られた顔をしていた。
結局「雷鳥」は15分程遅れて近江今津の駅を発車した。急制動で車輪に傷がつ
いたのか、フラットの音がけたたましく響いていた。
後にも先にもこんな経験はこの1回だけである。場合によってはニュースにな
るような事故であった。
300池原あゆみ39ちゃい:2006/08/06(日) 01:31:18 ID:WKOlzVyq
一応、下げておきますね。

おっさんさん、読んでいますから、よろしく。
ただしおっさんさんは僕よりかなり年上の方ですね。
僕は世代的に「ギリギリで連絡船が大学時代に間に合った」者ですから。
301おっさん:2006/08/06(日) 21:32:44 ID:SLUPxzsn
「はつかり」が八戸を出る。「次の停車駅は××です」というふつうのアナウ
ンスがあり、そして少し間を置いてこんなアナウンスが続く。
「青森から青函連絡船にお乗り継ぎの方に予めお知らせ致します。この「はつ
かり○号」に接続の連絡船は△時△分発の□便「**丸」です。ご乗船の方に
はこれから乗船名簿をお渡し致します」
東京から長旅をしてきてこのアナウンスを聞くと、にわかに心が騒ぎ、急に北
海道が身近に感じてくる瞬間だ。だいたい船名もこの時点で告げられるので、
「今日はまた大雪か」「お? 今日は羊蹄? 珍しいぞ」なんて思ったものだ。
やがて車掌が白とグリーンの乗船名簿を持って車内を回って来る。白は普通船
室用、グリーンはグリーン船室・寝台利用者用の乗船名簿だ。見ていると、道
内連絡の強い性格の列車では、大半の人がその乗船名簿を車掌から受け取って
いる。車内で配られるのは右上に「特」の文字が書かれていて、これは特急接
続客を表していたと思った。晩年は洗面所などに吊るしてあって、乗客がめい
めいそれを持って行って書き込むスタイルに変わったようだが、グリーン車の
利用客やグリーン船室利用でグリーンの乗船名簿が必要な乗客には、直接車掌
が渡していた。
302おっさん:2006/08/06(日) 21:33:34 ID:SLUPxzsn
住所、氏名を記入した券面を見ていると、いよいよ北海道に渡るんだという実
感が徐々に高まって来る。車内も何となくそわそわしてくるのもこの頃だ。そ
して、列車が到着の20分くらい前になってくると、大きな荷物を抱えて前の車
両へと移動を始める乗客が次第に増えて来る。青函連絡船の乗り場は進行一番
前の先頭車の先なのだ。気が付くと、先頭車の通路は立って到着を待つ人で一
杯になった。
ゴトゴトいくつもポイントを渡り、ゆっくりと青森駅のホームに入って来る。
「あおもりぃ〜、あおもりぃ〜」という独特のイントネーションのホームのア
ナウンスに迎えられたホームでは、しかし、先を争うように連絡船の階段に向
かって走り込む姿が絶えない。皆、連絡船の席を確保するのに必死だったのだ。
でも、そう簡単には乗せてくれない事も多かった。まずは手前で止められる。
そして最初はグリーンの乗船名簿を持ったグリーン船室・寝台利用者が優先さ
れた。次は「特」の入った乗船名簿接続列車の指定券などを持った人、そして
その後は前から青森駅の連絡船桟橋待合室で並んでいた人が乗船するというの
が一応の原則だった。ただ、これは繁忙期だけのようで、空いている便にはそ
のまま先着順で乗船させていた。
青森駅の連絡船待合室は函館と違って長椅子で、横になるにはもってこいの椅
子だった。深夜便もあるので、基本的に駅は閉鎖して出られないものの、連絡
船待合室は24時間いることができた。そのため、私もたまにここで夜明かしを
させてもらった。ただ、その日の最終便が出ると、必ず公安官が巡回してきて
乗車券等の提示を求められたのには、少々ウンザリしたものだったが。
蛍光灯がきらびやかに灯るきれいな待合室とは程遠い、年季を感じさせる造り
と椅子は、無数の旅人の思いが染み渡っているような、そんな何とも言えない
“重み”があった。連絡船や列車を待つ間、数台のテレビを皆がお菓子や弁当
を食べながら何となく見ている…というのがいつもの風景だった。私もここで
「紅白歌合戦」を何度見た事か。
時折貨車の押し込むガシャーンという音が響き、ディーゼル機関車のエンジン
が唸るのを聞きながらまったり過ごした一時も、また忘れられない1コマだっ
た。
303199:2006/08/07(月) 02:42:40 ID:au8dWrL6
おっさんは、なんだか知らんけど北海道に想いがあるんだろうな
>>14といい>>302といい文章が生きいきとして、人が動き活気あふれている
当時の様子が手に取るようにわかる
だらだら長生きしてもしゃーないな、人間中身がないとな
304おっさん:2006/08/07(月) 18:07:39 ID:3Y0u+XmQ
今日もうだるような暑さの1日だ。何か仕事にも身が入らず、遊びに来てしま
った。こんな事ができるのも、フリーの身の勝手さゆえんである。

前回に青森駅の待合室の話をしたついでに、ちょっと駅の「待合室」というも
のを思い出してみた。
今の駅の待合室と言えば、主に駅の構内にあって、自分の列車まで時間のある
乗客が過ごす待合室、そしてホームにあって列車が来るまでの短い時間を雨風
や暑さ寒さをしのぐための待合室と2通りに分けられると思う。
後者のホームなどに設置された待合室は、大都市やその郊外の駅でもごく普通
に見られるものであるが、前者の駅構内にある“本来の待合室(ここでは「待
合室」として独立したスペースのあるもの)”は、どちらかといえば近年縮小
傾向にある。駅の改築の際にそのスペースは概ね狭められてしまうか、若しく
は廃止されてしまった駅も少なくない。
理由を考えれば、夜行列車など長距離列車の減少や廃止、また、列車回数の増
加、さらに夜間の治安の問題等が挙げられるだろう。さらに、駅構内や周辺に
時間を潰せるような店鋪や飲食店、ファストフードの店が充実して、待合室を
利用する機会が減少しているのは事実だ。私も、最近は時間があればどこかの
お店や喫茶店で時間を潰す事が多く、待合室で列車を待つ事は稀である。
とはいえ、地方のそこそこの駅にはまだ待合室は残っている。造りに多少の新
旧の違いはあっても、FRP製の4人がけくらいの椅子と小さな物置き台、屑籠、
そして売店、飲み物の自動販売機、それに加えてJRお勧め旅行やトクトクき
っぷのチラシの入ったラック…などが大体共通のアイテムだ。もちろん、冬は
暖房、夏は冷房の設備は概ね整っている。トイレも身近にあって、そこで暫く
過ごすには十分の設備はある。
305おっさん:2006/08/07(月) 18:08:31 ID:3Y0u+XmQ
FRP製の椅子は、ゴロ寝をしたりして不用意に使用されるのを防ぐ意味合いも
あって、一時であっという間に全国に広まった。それまであった長椅子の大半
はある時期を境に尽くこれに交換されてしまって、駅寝を決め込む時には悩み
ものだった。それでも、今でもたまに見られるが、地方に行けば「地元老人会」
なんていうお年寄り団体が手作りの座布団を提供してくれて、冬の寒い時期に
は冷たいFRP製の椅子に直に触れる事なく重宝したものだ。
その椅子も、最近の新しく出現した駅の待合室にはその駅ごとに凝った造りの
ものが出て来たり、反対に止まり木スタイルのラバーだけだったりと色んなも
のが見られるようになった。
もう1つ、待合室に付き物だったのはテレビ。することがない待合室で唯一の
暇つぶしアイテムだった。大体「○○テレビ」とか書かれた札があって、“御
当地放送局”が寄贈してその番組を流していた。ただ、今の時期なら高校野球
をずっと流しているといった事も多く、特に2台以上ある駅待合室では、どち
らかがNHKというのが暗黙の了解だったようだ。昔は列車に乗って旅をして
いると、世の中の情報に疎くなって、このテレビが貴重な情報源だったのであ
る。
しかし、最近そのテレビも次第に見なくなってきた。特に改装されて新しくな
るとまず消えてしまう。
最近の待合室は造りは小奇麗なんだけれど、スペースが狭く、所在な気に佇む
人が多かったりで、確かに近寄り難い雰囲気がある。ゴミ箱すらないので、辺
りも散らかったままだったり、決して見かけ程に居心地の良いスペースではな
い。特に大きな駅程その本来の使われ方をしていないケースが顕著に見られる
のはどうしたことだろう。
306S59年夏:2006/08/07(月) 23:03:38 ID:9BgLW5VI
青森の連絡船待合室なつかしい!!

たしか青森着22時半頃の列車で着いたが、その時点で0時30分発の1便は満員札止め。
最終”はつかり”と”白鳥”からの客と函館からの特急券を持っている客を優先的に乗せ、
余裕があったら乗せるとの事。
その時点では何とか乗れるんじゃないかと思うも、白鳥・はつかりが到着すると満席に。
5時半発の便まで待たされるのかなと思ったら2時40分に臨時便を出すので、それに乗れという事になった。
広い待合室には、自分と同じく1便にあぶれた客がぽつん、ぽつんと座っていた。
すっかり発着の終わった青森駅での2時間は長い長い物だった。
あ、やっぱり途中で公安が切符拝見と来たな。
乗船が始まると船内はガラガラで、座敷にゆったり寝ることが出来たので満員の1便より快適に過ごせたと思う。
本来なら4時半頃着いて、7時過ぎの便で帰るハズだったので朝市見物して近場も散策できたはずだが
臨時便なので函館での滞在時間は40分程。朝市をチラ見して、函館線のホームも踏まずに帰ってきた。

その後連絡船で函館を訪れることは出来ず、次に函館を訪れたのは青函トンネル開通の翌々年かな?
八甲田と海峡を乗り継いでの事だった。長い長い青函トンネルを抜けても今一つ北海道と実感が涌かず、
江差線に入って函館山が見えても、今一つ函館に来たという感じがしなかったが、
”はこだて”という駅名表と構内の”みかど”を見て、あぁ、函館にまた来れたと思った。
どうも俺は駅名表や駅を見ないとその町に来た感じがしない。
空路の場合は特にそうで、千歳空港に降りても”北海道なんだよな?”程度にしか思わないが、
新千歳空港駅で切符を買う時点で、”おっ?”、改札を抜けて721系を見て”あ〜、やっぱ北海道だ”と実感する。

307おっさん:2006/08/08(火) 00:12:03 ID:X1oHINsf
函館駅の“みかど”とは懐かしいな。私個人はそれほど利用はしなかったが、
あの独特の書体の看板が思い出される。となりのスタンド焼そば屋やそば屋に
はよくお世話になった。向いの店同士、客をよく取りあっていたな。

今は私も北海道の出入りはほとんど飛行機だ。千歳空港に着いて北海道を感じ
るのは、南千歳で外に出て、広々とした空を見た時に実感する。あとは空港で
「白い恋人」の電光看板を見た時かも。
ところで、新千歳空港にはVIPラウンジがあるのをご存じだろうか? そこ
は改札を入って左側のホームに降りる階段のそばの引っ込んだ所に出入口があ
る。実は私はJR北海道の方からここの利用カードを頂戴していて、たまに利用
した事がある。言われた通り、改札口でカードを提示して利用を告げると通し
ていただけるようになっている。でも、利用させていただいているのに申し訳
ないが“大した事ない!” 時には団体待合室にも利用されるとのことで、50
人程が入れるちょっとした椅子とテーブルがあるだけで殺風景だ。一応コーヒ
ーやお茶等の自動給湯器(無料)、新聞などがあって、奥からわざわざ出て来
た女性職員(若い女性です)がテーブルまで持って来てくれる。その職員はそ
のあと、端のカウンターの中でスタンバイしてくれて、用があれば世話をして
くれるのだが、1対1では逆に監視されているようで落ち着かない。
まぁ、それだけの事である。「VIPルーム」という位だから、JALの「サク
ララウンジ」のようなものを期待していたから拍子抜けだった。

それから、連絡船の2時台に出る便は定期便として毎日運航されていた。しか
し、普段は貨物専用便としての運航で客扱いはしなかった。ただ、繁忙期には
このように直前の1、2便系統を補完する意味で、期間限定で客扱いをしたり、
救済用に便宜的に客扱いをしていた。私も同じような状況で乗った事は数回あ
る。座敷を占領して寝ていけて楽だったし、函館に朝丁度よい時間に着くので、
案外便利な存在だった。
308名無し野電車区:2006/08/08(火) 00:30:13 ID:6ezOIkce
>>304
北海道は外に待合室を造るのは状況が悪すぎるから今でも
待合室が結構ありますよね。 だいたいが10分前くらいに
改札が始まって電車が発車すると締め切ってしまうって感
じだな。
309名無し野電車区:2006/08/08(火) 08:07:44 ID:p6IAAUGe
漏れは少し年代が下なんだが、青函連絡船というと
101,102便あたりに使っていた車輌渡船改造の船が好きだった。
アレは座席が簡リクだったので、普段キハ22や56ばかり乗ってた漏れにとって
「超高級品」である簡リクに座れるのが嬉しかった。
今思うとあんな座席に喜んでたってのもすごい話ではあるんだけど。

っていうよりも、どう考えたって座敷の方がラクなのになあ……当時小学生の漏れの感覚は
やっぱり普通とは違っていたようで。
310名無し野電車区:2006/08/08(火) 08:07:52 ID:butH9XIV
>>298
雷鳥の近江今津のオーバーランはその時の車掌さんが後年出版された本に
書かれていたと思いました。裏車掌手帳?だったかな
ちょっと図書館で見てきます
311おっさん:2006/08/08(火) 11:56:43 ID:X1oHINsf
>>310
近江塩津のオーバーランのことが本に書かれていたんですか? それが本当な
らすごい偶然ですね。いくらなんでも、あのような事故などそうある事ではな
いはずだし、近江塩津という駅での話なら“その列車”だった可能性はありそ
うですね。続報をお待ちしています。
312名無し野電車区:2006/08/08(火) 13:28:34 ID:I8BdGZvy
話そらすようで大変申し訳ないのですが、
「VIPラウンジ」と聞くだけで、一瞬物凄い恐怖感が、、、

いや、何でもないです、2ちゃんねらの独り言です。
313名無し野電車区:2006/08/08(火) 19:15:13 ID:p6IAAUGe
>>312
それこそVIPクオリティ

>>おっさん
近江今津ですよね?
314おっさん:2006/08/08(火) 19:47:04 ID:X1oHINsf
そう、近江今津。単なる勘違いでした。失礼。近江塩津なら「雷鳥」は通過して
当たり前だよな〜!

新千歳空港のその“VIPルーム”は「ツインクルラウンジ」とか言ったかな?
懇意のJR北海道の方が“それらしく意味深に”言っていたので足を運んでみた
のだが、あの通り、全くの拍子抜けだった(笑)。“特別な客”というより、
“特別に監視が必要な客”としてカードを渡されたのかも知れないと思ってい
る。
315名無し野電車区:2006/08/08(火) 20:54:56 ID:SCzoqqbY
元大阪車掌区のSさんが書かれた「車掌 裏 乗務手帳」にある話と 298 とは違うみたい
本は、四月の大阪行き雷鳥で堅田駅を通過しそうになったと書いている
雷鳥はほとんど湖西線内ノンストップだから、そういう事もよくあったのでは…
316おっさん:2006/08/08(火) 23:05:39 ID:X1oHINsf
>>315
続報ありがとう。確かに湖西線は特急の停車は少ないし、同じような造りの駅
が多いから、そういう“うっかりミス”も起こりやすいんだろうな。

日中線、清水港線、魚沼線と本数の少ないローカル線の話をしてきたが、今日
は関西圏のそんな路線のことを思い出してみた。
関西圏でも1日2本しか列車が走らない超閑散線区があった。それも2線区あ
った。1つは姫路−飾磨港を走っていた播但線の“支線”である。朝と夕方に
1往復ずつ気動車が往復していただけだった。
同じ播但線とはいっても、姫路駅の発車ホームは全く違っていた。本来の播但
線は大阪方の本屋側に行止まり式のホームで発着していたが、この通称“飾磨
港線”は確か山陽本線ホームの岡山方先端に欠き取った専用ホームから発着し
ていたと思う。それほど同じ線名を名乗っていても関連は何もなかった。
朝の列車は2両の気動車。キハ47系だったような記憶があるがはっきり覚えて
いない。ほとんど乗客の乗っていない空の列車は、山陽本線のレールを越え、
山陽電鉄のガードの下をくぐるとゆっくりと左に折れて行く。住宅の裏を通る
ような、何となく引込線のような所をゆっくりとしたスピードで辿っていく。
朽ち果てる寸前のような荒れたホームの亀山、飾磨の駅に律儀に停まるが乗客
の乗り降りは全くなし。乗っているのも、わざわざ乗りに来たファンと思える
人が数人だけ。10分余りで終点の飾磨港に静かに到着する。
線路はホームの先、防波堤の手前で終っていた。倉庫やら小さな船工場などが
その両側に並んでいる。人気がなく静かな日曜の朝。目の前のその防波堤の先
には、まばゆい朝陽に輝く播磨灘が広がっていた。
降りた人は数人。やはり乗り鉄の人のようだった。所在なげにウロウロして折
り返しを待っているご同輩であった。
5分程で折り返した列車は、私たち乗り鉄組の他に数人を乗せただけで発車し
た。ふだんなら学生や通勤客で賑わう車内だろうが、休日の朝は実に静かな車
内だった。

317おっさん:2006/08/08(火) 23:06:17 ID:X1oHINsf
もう1つは福知山線の支線。塚口駅で別れてこれも港のある尼崎港まで走って
いた。やはり朝と夕方1往復ずつが全てであった。この線は“飾磨港線”とは
違って、一応貨物線だった。そこに通学輸送で客車列車が残っていたのである。
清水港線と同じような性格の路線と思えばよい。
清水港線同様に旅客列車は客車で残っていて、ここもDD13が4両程の客車を牽
引していたと思った。
始発は尼崎の1つ先の塚口駅である。福知山線は塚口から尼崎へは上り線はほ
ぼ直角にカーブしてつながっているが、支線の列車はそのレールと別れ、真直
ぐ上り勾配を登って東海道線と直角に交差する。その交差部分に“支線の尼崎
駅”があった。本来の尼崎駅とは300m程離れていて同じ駅とは思えないが、一
応「尼崎駅」だった。本来の駅とどのような形でつながっていたのか、今とな
っては思い出せないのだが。
その先もほぼ直線的にレールはつながり、僅かな乗客を乗せて実にゆっくりと
したスピードで走って行く。そして阪神電車と交差して終点の尼崎港に到着。
…と、ここで尼崎港駅はどうだった、と、駅の描写をするところなのだけど、
残念ながらここがどうしても思い出せない。とにかく、折り返しには時間があ
ったから、この後さっさと阪神電車の尼崎駅に出て阪神で梅田に戻ったという
記録しか残っていないのである。
もちろん、乗車したのは確かだが、言い換えれば、それ程何も印象に残らない
ような路線だったということだ。こんな乗り潰しをした路線も中にはある。
どちらも、乗車したのはただの1回きりで、いつの間にか時刻表から消えてし
まっていた。
318名無し野電車区:2006/08/09(水) 20:29:24 ID:Co3HixOl
>>311
本を借りて来たんですが残念ながら違っていました。雷鳥の湖西線区間だったのですが
昭和60年4月4日、新潟発大阪行きの雷鳥18号で、堅田駅を通過5分前に車掌(作者)
が、なんか胸騒ぎがするので気にかけていたら減速せずにポイントに突入
慌ててブレーキをかけたそうです

逆パターンで別の車掌が白鳥で通過駅である小松を停車駅と勘違いして急制動
止めた後で通過駅と気づいたので、駅手前で異音がしたので止めた、と言い訳をして
ごまかした、という話があるので、似たような話はあるもんですね

この車掌さん、尼崎の福知山支線も乗務していたそうで当時の逸話も出ています

参考文献、車掌裏乗務手帳、坂本衛、山海堂
319名無し野電車区:2006/08/09(水) 20:33:36 ID:Co3HixOl
読み返したら315さんが書かれていたんですね、申し訳ありません
320おっさん:2006/08/09(水) 23:10:47 ID:CQc+ca/0
>>318
重ねて続報をいただきありがとう。今度この本を見る機会があったら注意して
おこう。

さて、今日は長崎駅の話。
今日は長崎の被爆61年の「原爆の日」。当時の悲惨さは、広島と共に資料館へ
足を運ぶと言葉が出なくなるほどの衝撃を覚える。
その長崎も現在は言わずと知れた情緒のある港町になり、平和な空の下、多く
の観光客が日々訪れている。私もこの長崎には数え切れないくらい行った。乗
り鉄としても、長崎電気軌道の市内電車など興味津々の場所であるが、そんな
ことを別にして散歩するのが好きな街である。横浜で育った経験が長いので、
同じ港町として共通するイメージが自然と親しみを感じさせるのかも知れない。

現在の長崎駅は改装されて、広く明るい構内と行き止まりのホームに「白いか
もめ」とブルーの「シーサイドライナー」が並んで乗客を待っている。それな
りに都会ぽくお洒落な造りに改装されているけれど、前の長崎駅も三角屋根と
ステンドグラスの結構モダンな造りだった。当時は珍しかった駅前のペデスト
リアンデッキが折角のその三角屋根を隠してしまっているのがもったいなかっ
たが、街の雰囲気にマッチする雰囲気のある駅だった。
改札の前に立って、行先が「東京・さくら」「新大阪・あかつき」というよう
な遥か大都会へ向けての列車が何とも言えぬ雰囲気を醸し出していた。特に、
まだ陽の高いうちに発車する「みずほ」「さくら」というブルートレインには
たまらぬ列車旅の香りを不思議と感じたものだ。日頃珍しくもない「東京」と
いう行先が何故か遥か先の大都会への憧れというイメージで見えるのは何故だ
ろう。
321おっさん:2006/08/09(水) 23:11:28 ID:CQc+ca/0
「港町」というのは昔から歌が付き物だ。その情緒のある雰囲気が特に演歌の
世界にはしっくり馴染むのだろう。この長崎にも「長崎の鐘」「長崎は今日も
雨だった」「思案橋ブルース」などいろいろある。全国の港町を巡る「港町ブ
ルース」にもしっかり唄われている。
その名曲が長崎の駅には流れていた。といっても、BGMのようにずっと流れ
ていた訳ではない。「さくら」「みずほ」「あかつき」などの長距離ブルート
レインが終着駅の長崎に着いた時に流されていた。長旅を終えて長崎のホーム
に降りた時に駅に流れる「長崎は今日も雨だった」のムーディーなメロディー。
なかなか旅心をくすぐってくれるではないか。途端にこの長崎が好きになって
しまうようだ。「長崎の鐘」も流れていたと思う。聞いた話では、雨だと「長
崎は今日も雨だった」で晴れなら「長崎の鐘」だったと言うが、その辺ははっ
きり覚えていない。でも、雨でその歌は“お約束”過ぎるような…。
昔はどこにでもあった「日食」がこの長崎にもあった。もちろん、メニューに
は「ちゃんぽん」「皿うどん」は欠かせない。また、当時の「さくら」にもこ
のメニューがあって、食堂車を使う時のお楽しみだった。

時代は移って、今は東京行きのブルートレインも消え、かろうじて京都へ「あ
かつき」の1本だけが孤塁を守る。私も、長崎にブルートレインで着いたのは
「みずほ」の最終列車以降1回もない。図らずも、私の東京発のブルートレイ
ン乗車の最終列車にもなってしまった。
国鉄時代の伝統を受け継いだ「かもめ」は30分おきに頻発するインターシティ
に姿を変え、派手なレタリングの個性的な車両が発着する姿は、かつての情緒
はさすがに薄れたように思う。「あかつき」が到着した時に「長崎は〜」のメ
ロディーは今でも流れているのだろうか?
でも、ホームに立って前を見ると、海に向かって広がった車両基地、そして背
後に聳える稲佐山と電波塔は、当時とほとんど変化がないように見えた。もち
ろん、そこに佇む車両はカラフルになってはいたが。
322おっさん
今から26年前の1980年1月のJTB時刻表。
「車両シリーズ」として457系が紹介されていた。また、新車トピックとして、
東海道・山陽線の新快速が117系に代わるということが紹介されていた。
117系は同時期に登場した関東地区の185系と仕様はさほど変わらないのに、方
や主に特急、方や料金不要の快速と、ずいぶん違和感を感じたものだ。
そのうち中京圏にも導入されて、18きっぷで西へ向かうと、転換クロスの117系
に出会うとホッとしたものだ(今でもそれが変わりないのも何だろうと思うが)。
それまでの国鉄電車らしからぬ丸みを帯びた全面デザインの印象は強く、私の
好きな車両の1つでもある。
最近はあまり乗る機会がなくなってしまったが、岡山から先の「サンライナー」
で、日中のどかな車内から俊足を飛ばして走る車窓を眺めるのがお気に入りで
ある。