1 :
没個性化されたレス↓:
繰り返しますが、コピペ連投はお断りします。 >某氏
グーグルで検索すれば、ちゃんと出てくる文章で
議論を妨害されちゃたまったもんじゃありません
3 :
没個性化されたレス↓:04/12/08 14:27:37
新スレ、おめでとう!!
重複しますが、コピペ連投はお断りします。私からも。
4 :
没個性化されたレス↓:04/12/09 00:22:34
とりあえず、皆の巡回サイト教えてください
5 :
没個性化されたレス↓:04/12/09 09:56:42
>>5 しかももう70歳ぐらいの人だね。漏れも驚いた。ちょっと感動した。
7 :
没個性化されたレス↓:04/12/10 00:25:27
>>6 70も行ってないと思うよ、奥さんはバレーボールやっているし。
トランスパーソナルのページは検索でヒットしたけど、フロントからそのページに
すぐに行けないから、ちょっとした隠しページかな。いずれ、複雑なサイトだ。
神学の原稿が多い。
>>7 プロフィール見たか?
昭和35年大学卒業とあるから60代後半。
四捨五入して70歳ぐらい。
10 :
没個性化されたレス↓:04/12/10 10:11:33
>>9 スマン、プロフィール見なかった。奥さんばかり追いかけていた・・・
http://salieri-t.air-nifty.com/mezasu/2004/11/post_6.html > ウィルバーのインテグラル・モデルの提起(彼の理論の
> 発展は今までのところ1-5段階までに分けられていて、
> 『進化の構造』『万物の理論』がウィルバー4だそうだ。
> ウィルバー5の文献は、まだあまり日本語になっていない)
> などをもってトランスパーソナル学の理論構築はほぼ
> 終わりつつあり、
> 理論に基づく実践が行われつつあること(例:カリフォル
> ニア州アラミダ郡のグリーン・ビルディング・プロジェクト)、
> トランスパーソナル・ムーブメント全体としては第三段階
> にある現在、mind(知性的な勉強)・身体性・至高体験を
> 統合するための自我形成の大切さが強調されている
> こと、等々
> 今までのトランスパーソナル・ムーブメントでは、座禅・
> 瞑想など、主として東洋の宗教的伝統に注目し、
> キリスト教のバックグラウンドを捨ててきた面があったが、
> キリスト教そのものを立て直さないといけない、という
> ことで、キリスト教の中からトランスパーソナル的な動き
> が出てきたそうだ。
12 :
没個性化されたレス↓:04/12/14 02:52:29
脳を超えてを読もうと思いましたが
分厚いです。挫折しそうです
季実子
15 :
没個性化されたレス↓:04/12/15 22:18:06
>>12 あれはほとんど百科事典ですね。百科事典は通読する必要はないんです。
私は「深層からの回帰」のが好きです。
17 :
没個性化されたレス↓:04/12/16 01:48:38
トランスパーソナル心理学やプロセス指向心理学系の人ってどうして
うっすらサヨがかっているんだろ?
わたしなら、うっすらニューエイジ的宗教色がかっている、という表現をする。
まぁ、ウィルバーとか興味あるし、批判するつもりはないけどね。
まだまっとうな心理学として、社会的に認められているわけじゃないよね?
だからじゃない?
>>19 ニューエイジ的宗教色……これは言わずもがな。
ラジニーシ、トランスパーソナル、エコロジー関係の翻訳者として
有名な星川淳(プラブッダ)氏のブログをたまたま見て驚いたんだ
けど、「北朝鮮はもともと、現在の拉致事件と比べものにならない
日本の植民地暴政に対する武装レジスタンスから生まれた国」だって。
30年前の「朝日ジャーナル」と同じ歴史認識かよ!
21 :
没個性化されたレス↓:04/12/20 20:34:17
新スレおめでとうございます。
今回はコピペ荒らしはやめていただきたい。
22 :
没個性化されたレス↓:04/12/20 20:40:30
23 :
没個性化されたレス↓:04/12/21 14:01:03
菩薩の誓願
「仏や菩薩が過去において一切の生あるものを救おうとして立てた誓願」の意味が、「プールヴァ・プラニダーナ」といわれる言葉の意味で、これが本願である。
この「本」に2つの意味がある。
本とは因の意味。因位(仏になる前)に願を立て、それが果として成就したから、本願(もとの願)という。
本とは根本の意味。悟りを完成する根本になる誓願の意味。
原語のプールヴァは「前の」ということであるから、初めの意味に近い。
しかし、仏となるためには必ず願を起し、その願いの完成したことで仏と言い得るから、仏の根本は願にある。その点で「願」が成仏の根本だから、第二義が近い。仏のことをヴィパーカ・カーヤ(vip^aka-k^aya)と呼び、報身とするのはこの理由による。
[編集]
総願
仏はすべて同じ誓願を持つ。これを総願(s^am^anya-pra.nidh^ana (sanskrit))といい、具体的には四弘誓願(しぐぜいがん)を指す。
衆生無辺誓願度 一切の衆生を度脱せしめん
煩悩無尽誓願断 一切の煩悩を悉く断じつくさん
法門無量誓願学 一切の教法を必ず学習しつくさん
仏道無上誓願成 無上の仏道を成就せん
24 :
没個性化されたレス↓:04/12/21 21:55:14
∧,,∧
(;`・ω・) 。・゚・⌒) トランス!!
/ o━ヽニニフ))
しー-J
。・゚・ パーソナル!!
∧,,∧ て 。・゚・。・゚・
(; ´゚ω゚)て //
/ o━ヽニニフ
しー-J 彡
∧,,∧ 心理学
( ´・ω・)
c(,_U_U ・゚・。・ ゚・。・゚・ 。・゚・
━ヽニニフ
SHさんは、どこか幼さが残ってるところが好きです
面と向かっては言えないのでここでw
26 :
没個性化されたレス↓:04/12/21 22:42:23
>>23 またコピペ荒らしかい。「[編集]」を消し忘れるなよな。
トラパを卒論の対象にしてみては、と勧められました
何やりゃいいんだか…
28 :
没個性化されたレス↓:04/12/22 22:22:54
>>27 トランスパーソナル体験者を取材して、共通点などを分析する。
29 :
没個性化されたレス↓:04/12/23 01:56:15
>>28 あんまりいないと思うんだが…w
軽い体験者なら学内にもいるかもしれんね
宇宙意識と一体化した、とか、UFOにさらわれたとか
生き別れの兄弟とまったく同じ人生を歩んだとか
30 :
没個性化されたレス↓:04/12/23 14:51:57
UFOと生き別れの兄弟の話は、ただのアンビリーバブルな体験にすぎない。
トランスパーソナル体験は、そこに個を超える意識があるのが大前提だよ。
このスレを見ている人はみな体験者なんでしょ?
>>30 その辺、俺もよく解ってないんですが
グロフの本に両方載っていませんでしたっけ?
UFOはプシコイド性体験、パラレル・ライフは共時性体験として。
何でこれトランスパーソナル体験なんだろうと疑問に思った記憶が
32 :
没個性化されたレス↓:04/12/24 21:42:25
>SHさんは、どこか幼さが残ってるところが好きです
>面と向かっては言えないのでここでw
まあ、それは好みの問題ですからね。
「霊性学入門」は情報源としては一級だと思うが、
SH氏の「サニワ」はあんまりあてにならんと思う
33 :
没個性化されたレス↓:04/12/24 21:44:02
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..::*◎.。 . . : : : :: : : :: : ::: :: : :::: :: ::: ::: ::::::::::::::::::::
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.:゚:彡*,.彡〓::,,,○;ミ+:.ミ::. / :::/;;: ヽ ヽ ::l . :. :. .:: : :: :: ::::: : ::::::::::
,;彡::彡彡ミミミミミ:ミ゛  ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄ ̄
■■■■/
..;■■■/;...
ああ、トランスパーソナル・・・。
>>32 なんかですね、物事の好み方・嫌い方に
とても無邪気なものを感じるんですよ
36 :
没個性化されたレス↓:04/12/25 01:30:42
>>30 >このスレを見ている人はみな体験者なんでしょ?
ひょっとして未体験者は俺だけなのだろうか。いや、そんな事ないハズ
個を超えたクリスマス体験がしたいんですが…
このスレに、現在するってことは、
すでに、個を超えたクリスマス経験してるってことじゃないか・・・。
個を超えたクリスマス体験しちゃった…テヘ
なんかヒリヒリする。
MTVのキューブラー・ロスの特集見逃したorz
再放送の予定なし・・・
41 :
没個性化されたレス↓:05/01/09 23:51:07
>その他にも、このブログの内容を断りもなく、波動的に問題のある掲示板に
>大量にコピー&ペーストして混乱を巻き起こすということが、今年は少なくと
>も二回あったようだ(それぞれ別人らしいが)。
>私はそのような波動の悪い場所は見ないので確認はしていないが、
あんたも「波動」が悪いよ。
>>41 あんまここを陰口叩く場所にしてほしくないんですが…
43 :
没個性化されたレス↓:05/01/11 23:04:08
いやいや、陰口たたいてるのは向こうでしょ。
SH氏をフォローすべきところはフォローしてたのに
41の発言で非常に失望した。SH氏の人格もこんなもんかと思ったわけ。
「波動」とやらが俺には見えないので何とも言えない
それにしても、ここvsあそこという構図にはなってほしくないな
メールでSH氏に連絡した人が居るはずで、その人の紹介文にも
影響されたのかもしれないし。今のところ陰口というより先入観の告白では。
45 :
没個性化されたレス↓:05/01/13 20:19:15
しどうあげ
46 :
没個性化されたレス↓:05/01/13 20:38:01
>>44 いや、メールは送っていません。実は。コピペ野郎をどうにかしたかったの
で、そういっただけですよ。まあ、他人が送ったのかもしれませんね。
それともSH氏の学生かもしれない。
>その人の紹介文にも
>影響されたのかもしれないし。今のところ陰口というより先入観の告白では
人の言葉に影響されて、先入観をブログで告白するんじゃ神秘学者として失格だ。
とてもシュタイナーを読んでいるとは思えない。
47 :
没個性化されたレス↓:05/01/13 20:46:50
shの定義する波動=sh氏の先入観
ということでファイナルアンサー
グロフの「脳を超えて」と
ミンデルの「24時間の明晰夢」をようやくゲットしました。
というか、何故これらが絶版ですか?
あんま売れてないからです。
何故売れないのだろう
グロフのなんか通勤途中の車内立ち読みに最適だと思うんだが。
重たそうだな
53 :
没個性化されたレス↓:05/01/24 19:58:01
しどうあげ
54 :
没個性化されたレス↓:05/02/23 00:28:30
個を超えてage
個が無い
個を超えるなんて、あたりまえのことではないの?
意識自体が個体を超えて拡がっているわけだし。
57 :
没個性化されたレス↓:05/03/10 19:13:55
58 :
没個性化されたレス↓:2005/04/09(土) 00:44:00
クリストファー・バックの本て和訳されないんですか?
読みてー!
59 :
没個性化されたレス↓:2005/04/09(土) 00:45:27
あなたが和訳してください。
サルからヒトへ。その進化のステージをさらに進めると何があるか。
その答を導くのがこの分野でもある。
サルがヒトを理解できないように、トランスパーソナルは難解かもしれない。
61 :
没個性化されたレス↓:2005/04/11(月) 01:02:25
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jatp/regime2-irie.html 『テキスト/ トランスパーソナル心理学・精神医学』
ブルース・スコットン、アラン・チネン、ジョン・バティスタ 編
書評: 入江良平 (青森県立保健大学)
> まさによく出来た教科書であるがゆえの不満(?)という
> のもある。ある種の窮屈さとでも言えばよいのだろうか。
> 本書の寄稿者たちは、これらのおそろしく多様で「怪しげ」
> な主題を扱うさいに、あたうるかぎり慎重に、「科学的」な
> スタイルで進み、「オカルト」と同類とみられないように気を
> 配っている。だがそこが私にはちょっと違和感を覚えさせる。
> 近代科学とは知の領域だけの孤立した現象ではない。
> 数学的理性によって完全に統制される世界とは、ある意味
> で、異教を撲滅し宇宙を唯一神の秩序のもとに置こうとした
> キリスト教運動の完成だ。合理的な世界観の中に知を囲い
> 込んで標準化・規格化し、工場のような分業体制によって
> 世界全体を把握しようとするアカデミック・コミュニティは「唯
> 一の教会」というカトリック的理念の後継者に他ならない。
> それは物質的自然の理解と制御において偉大なる業績を
> 上げたが、心の領域に踏み込んだとき、ロシアに侵攻した
> ナポレオンやヒトラーと同じく挫折し、デミウルゴス並みに
> 幼稚で傲慢な科学的心理学という畸形的な知を生み出した。
> トランスパーソナル運動を推進してきたのはこうした近代科
> 学の帝国主義から心を解放しようとする希求である(少なく
> とも私はそう理解している)。
62 :
没個性化されたレス↓:2005/04/11(月) 01:06:43
> 本書で取り上げられている主題を一瞥すればそれは明
> らかだ。何という多様さ!しかもそのすべてはストイック
> な近代科学が懸命に排除してきた「怪しげな」事象や主
> 題ばかりである。
> シャーマニズム、ヒンドゥー教、仏教、キリスト教神秘主
> 義、瞑想、幻覚剤、超心理学、クンダリニー、臨死体験
> ・・・。
> どれ一つをとっても近代科学の全体主義的な人民服は
> 似合わない。もちろん、オカルトの衣装に着替えるべき
> だということではない。それはさらに古い革袋だろう。
63 :
没個性化されたレス↓:2005/04/11(月) 01:07:51
> トランスパーソナルは本質からして十九世紀の工場的な
> 科学の一分枝ではありえない。
> 諸々の実際的な事情を考えれば、個々の研究者が既存
> のアカデミック・エスタブリシュメントとのつながりを断ち切
> ることはできないだろうが、古い殻にもぐりこんでそこに
> 安住するわけにはいかない。
> それは未知の世界の探険であり、いまだ完全には整理
> することのできない発見物の集積なのだ。
> 本書はそうした発見物を手際よく展示することに成功して
> おり、それは誰もが認めることだろうが、器は従来のまま
> だという気がしないでもない。
> とはいえ、それは本書の問題というよりは、(その全体が
> 位置づけられるべき秩序はいまだ輪郭さえ見えていない)、
> トランスパーソナル運動そのものに内在する「途上」的
> 本質に由来するのだろう。
64 :
没個性化されたレス↓:2005/04/11(月) 01:45:40
65 :
没個性化されたレス↓:2005/04/11(月) 06:05:36
> 大学院のゼミは「トランスパーソナル心理学」。
> おっと、トランスパーソナル心理学について書くスペース
> がなくなってしまった(これも面白い話だったんだけど)。
> それはまた今度。
http://blog.tatsuru.com/archives/000173.php > 近代小説の「定型」がどのようにしていま破綻と再生の
> 瀬戸際に立っているか、というたいへんスリリングな
> お話を始める。文学にかぎらず日本の知的状況は
> 「逃れうるものは逃れよ(sauve qui peut)」という前線
> 崩壊状態になっているということを確認した上で、
> 「前線から敗走してきた敗残兵たちが踏みとどまって
> 集合する地点・難破船の乗組員たちが浮遊物を集めて
> 組む筏」のような「次の時代の秩序」の起点がおそらく
> は2005年にその姿を現すであろうという希望にみちた
> 予言で対談を終える。実によい話であった。
http://blog.tatsuru.com/archives/000869.php
対抗文化において重要なことは、そこに東洋宗教への傾倒
が見られたことである。アラン・ワッツや鈴木大拙といった
学者たちは1950年代以前から著作をしていたのだが、
それらは、広く関心を呼んだビートルズのヒンドゥー教への
関心に端を発し、1960年代には目を見張る勢いで大衆
に広がっていった。
文化的な発展としてのトランスパーソナル心理学の起源は、
対抗文化運動の中に認めることができる。実際、トランス
パーソナル心理学にはあの時代の主要な関心の数々が
映し出されている。東洋宗教への関心は、とくに、米国の
日本占領の間にアジアとの接触がより多くなったことで
加速されたのである。
これらの要因はまた、なぜカリフォルニアが例外的にトランス
パーソナル心理学を豊かに育てた土壌になったかを説明
する助けにもなる。カリフォルニアの人々はほとんどがさま
ざまな場所から移住してきた人々である。そのため、彼ら
は伝統的背景のより薄い人々であり、それゆえ新しい可能
性にいっそう開かれている。
科学的なモチーフは驚くようなものではない。
トランスパーソナル心理学は、カリフォルニア州が米国の
主要な科学センターであった1980年代、他のどの州にも
増して多くのノーベル賞受賞者や米国科学アカデミーの
会員を有したカリフォルニアに出現したのである。
『トランスパーソナル心理学雑誌』が創刊された1969年が、
宇宙飛行士がはじめて月面を歩いた年であったのも意味の
あることであろう。
科学が、内面と外部空間、つまり宇宙とトランスパーソナル
へと歴史的ステップを踏み出し、人間性に取り組みだした
のである。
1960年代という浮き足たった日々に誕生して以降、トラ
ンスパーソナル精神医学/心理学という分野は、米国文化
のなかのいくつかの歴史的流れの積み重ねとならび、
その時代を非常に大きく反映したものになっている。
しかし、実用的な科学を霊性と統合しようという努力は、
トランスパーソナル精神医学/心理学がまったく新しく行う
試みである。
この試みは、米国文化に永続的な貢献をなすであろう。
映画 『コンタクト』 ロバート・ゼメキス
http://hotwired.goo.ne.jp/cave/work/w10002.html "地球外生命との交信"。科学的にも哲学的にも、これまで
のパラダイムを一気に覆す可能性があるわけだから、これ
ほど人に夢を抱かせる言葉はない。
このテーマをビジュアル化する時に要となる、知的生命体
との"コンタクト"シーンも、主人公の内面に直接接触する
という形をとって無難に切り抜けているし、宇宙からの交信
発見後、日本に宇宙間移動装置を建設するに至る過程も、
アメリカと世界の政治状況をそれなりに反映させる形で
リアリティを保っている。
中でも大きな特徴となるのは、科学が実証することだけを
信じる科学者と宗教学者との関わりを通して、お互いの立場
の相違を明確にし、最終的に科学的視点と宗教的視点の
融合を描いていることだ。
このきわめて形而上的なテーマが、大きなストーリーの
流れのなかで、何の違和感もなく、スムーズに表現されて
いるところは、まさにハリウッドならではだろう。
「多くの者が共有する知覚」とは、ある時代の、ある「集団
性」の中で、「日常的」に、共同化されてきた「知覚」である。
それは、強固なシステムには違いないが、決して確固とし
た基盤がある訳ではなく、「集団性」(共同性)と「日常性」
(連続性)によって、支えられているものなのである。言い
換えれば、そのように常に「支え」られていない限り、意外
と脆さを露呈するものなのでもある。
分裂病の契機として、「集団性からの逸脱(排除)」あるい
は「適応の崩壊」ということを重視したが、それはまさに、
そのような「知覚」を支える「集団性」と「日常性」に、亀裂
が入ることでもある。そういったことが、その者の心に、
それなりに根源的な作用をなせば、それまでの「知覚」の
連続性を揺るがし、崩壊へ向かわしめるだけの重要な契機
とはなり得るのである。
但し、既に述べたように、それのみで、「共同化された知覚」
が一気に崩れ去り、「幻覚」的な世界がそれにとって変わる
というものではない。そのような知覚の連続性を根本から
破って、「崩壊」を決定づけるのには、また、新たな幻覚的
世界を創出させるには、もっと根源的な衝撃力、外部的な
「力」である、魔的存在の「一撃」を必要とするのである。
「集団性からの逸脱(排除)」は、あくまで、そのような決定
的な「崩壊」に向けての、あるいは魔的存在の一撃を誘発
するだけの、「契機」に過ぎないということである。
ただ、魔的存在の「一撃」といえども、通常は無意識レベル
でのブロックにあって、それのみで意識を捉える、といった
ものではない。(特に現代では、意識と無意識の断絶は、
ことのほか深い。)
やはり、「集団性からの逸脱」や、「適応の挫折」といった、
本人にとって切実かつ現実的な問題、つまり、何らかの
意味で、意識のレベルで「日常性の流れ」にヒビが入ると
いったことが、魔的存在の「一撃」を誘発するという意味で
も、その衝撃を意識にまで届かせるものにするという意味
でも、重要な「契機」の役割をしていることは見逃せない。
要するに、分裂病にとっては、魔的存在の「一撃」という、
いわば「超人間的」な「力」の介入が決定的に不可欠である。
だが、それが「病理」として現れるのは、やはり「集団性
からの逸脱(排除)」や「適応の崩壊」といった、全く「人間
的」な出来事に基づく部分がある、ということである。その
意味で、分裂病は、いわば「見える」レベルにおいては、
確かに十分「人間的」な病であるに違いない。
集団性からの逸脱(排除)
↓
魔的存在の一撃
↓
幻覚
↓
(潜在的)妄想傾向 → (分裂病的)妄想
→ 錯乱
また、魔的存在の一撃は、必然的に分裂病的状態をもた
らすものではないが、何らかの意味で、そのような状態に
陥らせる可能性は高いと言える。そこで、この「一撃」は、
(単に魔的存在の誘発された攻撃衝動というに止まらず)、
やはり、「分裂病的状態」をもたらすという、それなりに意図
付けられたものなのだと思う。
「アポロが月に行ったというのはアメリカのヤラセである」と
いう話は、『これマジ』という番組で取り上げられる前にも、
何度か聞いたことがあった。また、『カプリコン・ワン』という
映画の主題で、とても楽しめた。
ただ、その頃は、そんな話は「月に宇宙人の中継基地が
ある」という話以上に、非現実的な「あり得ざる」ことだと
思っていた。いくらアメリカといえども、「そんなことするはず
も、できるはずもない」からである。しかし、最近は、この
話が現実味のあることして、論議されたりもするようだ。
副島隆彦『人類の月面着陸は無かったろう論』は、説得力
という意味では欠けるが、その本気度、気概は十分伝わっ
てくる。基本的な論点は、「現在のところ人類が月に着陸
して帰ってくるのは、技術的に不可能」ということのようだが、
その根底にあるのは、自分が専門とする国際政治的な
視点から、「アメリカならそれくらいのことはやる」という強い
感覚だと思う。
もし、一定の人が、この話に「現実味」というか、少なくとも、
「あり得ない話ではない」と感じ始めたということがあるのだ
としたら、それは、やはり「アメリカは信用できない」、「アメ
リカならやりかねない」という思いが、蔓延し始めたことの
一つの象徴といえるだろう。技術的にどうこうとか、実際に
「ヤラセ」が可能かということよりも、それが疑われるという
「現実」があることが重要なのだ。
それにしても、その「ヤラセ」は、あまりに大掛かりで、人を
食ったものなので、これが疑われるということは、アメリカの
信用も底を突いたことになる。もちろん、そこには、最近の
アメリカの強引なやり口に対する反発も反映しているだろう。
しかし、実際に「ヤラセ」が行われたか否かは別にして(それ
はやはり考えにくい)、「アメリカならやりかねない」という
思い自体はあるし、それをやりかねないほど、あるいはそれ
を疑われるほど、「アメリカは本当にダメになっている」のだ
と思う。
そこで、アメリカがダメになった(本質的な)理由を指摘して
みようと思う。
考えてみたら、これは、分裂病に続いて、アメリカの「狂気」
の原因を探るようなものである。ただ、政治的なことや時事
的なことには、とんと疎いこともあって、それらは大きく省いて、
本質的な流れを指摘するだけに止めたい。
実際、それは、分裂病の原因の根本に「魔的存在の一撃」
があったのと似て、様々な契機が絡みつつも、やはり根本
には、外的な存在による「一撃」が大きく作用していると思
われるのである。ただ、分裂病と違って、「見えない存在」
ということではないが…。
岸田秀は、日本はアメリカに「強姦」された(無理やり港を
開かされたことを捉えて)のだと言う。確かに、日本のアメ
リカに対する、相反する感情や表面上媚びたような態度は、
「犯された」者独特のものと言えるかもしれない。
しかし、実を言うと、そのアメリカこそ、もっと強い意味で、
「強姦」されたと言うべきなのだ。「アメリカ・アズ・ナンバー
ワン」であり、「世界の警察」であった、アメリカのプライドを、
根本から打ち砕くものがあったのだ。それは、もちろん、
地球上のものなどではあり得ない。つまりは、「宇宙人」と
いうことである。
我々にとって、一般に「宇宙人」は、「ロマン」をかき立てる
もので、アメリカでも、ごく大衆的には、そうなのかもしれな
い。しかし、アメリカ建国以来の理念を持ち続けているよう
な者たちや、特に(軍産さらにその上の)支配層にとって、
「宇宙人」とは、アメリカにとって「脅威」であるだけでなく、
理念上「あってはならない」存在であるはずなのだ。
アメリカの理念とは、「千年王国の建設」で、歴史の無い彼
らにとっては、この理念こそがすべてともいえるだろう。それ
は、プロテスタント的な「予定説」に基づいている。つまり、
自分らは「救われる」(最後の審判で永遠の生を受ける)こと
が約束されている存在で、つまりは、「神」に一番近いところ
にいる(「アメリカ・アズ・ナンバーワン」)。だから、その証し
として、物質的な繁栄をも含んだ「千年王国」を築くのであり、
それを邪魔する「悪魔」は、容赦なく蹴落とす(「世界の警察」)、
というものだ。
注意すべきは、「神」に一番近いとは、「神」による「被造物」
の中で…ということである。つまり、「宇宙の中で一番」という
ことなのだ。また、「世界の警察」というのも、実質上は「宇宙
の警察」ということを意味する。
「スターウォーズ計画」には、モロにこのような思いが反映
されているし、「アポロ」計画をはじめ、アメリカの「宇宙開発」
への思い入れにも、そのような思いが反映されているとい
える。また、「エリア51」に象徴される「制空権」への拘りも、
そうだろう。
まさに、そういった「宇宙への思い入れ」こそが、現実に間
近での「出会い」を可能にしたのだろう。が、その「宇宙人」
の「乗り物」は、アメリカの技術をはるかに凌ぐ「性能」を見
せたばかりか、「千年王国」であるアメリカの領空を、これみ
よがしに「侵犯」したのである。(これらUFOの行動について
は、アメリカの公開した文書にもはっきり記載がある。)
それがアメリカの「プライド」を逆なでしないはずがない。
しかし、それにアメリカは何ら太刀打ちができなかった。
しかも、そのアメリカを子供扱いした「宇宙人」たるや、
「爬虫類」系の「醜い」顔をしていることが分かった。「オー
・マイ…!」。人類(実際にはアメリカ人)は、神の似姿に
おいて作られたはずではなかったのか…。
それ以後、どのような進展があったか、よくは分からないが、
少なくとも、アメリカの理念やプライドは、そこで徹底的に打ち
砕かれたと思われる。それは、彼らを心底「ダメ」にし、
「腐らせる」に十分だった。
もちろん、それはアメリカのごく一部の支配層の話である。
しかしその、いわば「空気」は、アメリカ全体をじわりと侵食
していると思われるのである。その「空気」というのは、
例えば、非常に「シニカル」で、「やけくそ」な気分として
現れる。アメリカは、本当に、何をしでかすか分からない、
「危ない」状況を潜在させているのだと思う。
以上、ごく大ざっぱにだが、本質的な流れを見てきた。
それは「宇宙人」を頭から否定する者には、「妄想」の上塗り
にしか聞こえないかもしれない。しかし、逆に、「宇宙人」が
もし既に来ているとしたら、という発想に立てるなら、十分
そうなるはずのことが述べられているのが、分かるはずで
ある。
なにしろ、アメリカの「狂気」は、そう容易く回復できるほど
根の浅いものでない訳だが、ある意味同情の余地があろう。
> 知性の大革命に適した社会状態がどのようなものかを
> 考えると、それは絶対的平等社会と絶対的階級社会の
> 間のどこかの状態のうちに存在する。・・・絶対的平等
> 社会と絶対的階級社会は、完全に両極端な社会状態
> であるが、ただそこでは人間精神の大革命は起こりにく
> いという一点においては共通する。・・・・けれども民族史
> 上のこれらの両極端の間には、中間的な時代、光輝
> ある苦悩の時代が見出される。
アレクシス・ド・トックビル 「アメリカの民主政治」
http://pathfind.motion.ne.jp/tocqueville.htm > トクヴィルが「いつの日か、その手に世界の半分の運命
> を握る」であろうと予見したのは、アメリカ人とロシア人で
> ある。おそるべき炯眼。いま、150年後の国際関係につ
> いてこれほど適切な予測を立てることのできる知性が存
> 在するだろうか?
http://blog.tatsuru.com/archives/000078.php
映画 『20世紀ノスタルジア』 原將人
http://hotwired.goo.ne.jp/cave/work/w99001.html 記録することがどちらかといえばぼくは苦手なのだと思う。
日記は一週間と続いたためしがないし、きまぐれに撮った
スナップ写真だって撮りっぱなし。フォト・アルバムに整理
することすらおぼつかない。それにもかかわらず、身の回
りの記録メディアはどんどん進化していって、そのたびに
それに手を出す癖は治らないみたいだ。たとえば、ビデオ
をとってみてもVHSはもとより、Hi8からDVまで、各種規格
のテープが未編集の状態でぼくの部屋の片隅では何本も
埋もれている。いったい、いつの間にこれだけた集まって
しまったのか、なんとために編集するあても見返すあてすら
ない記録を撮りつづけたのか、そのことにいったいどんな
意味があるのか。原將人監督の映画『20世紀ノスタルジア』
を見ながら、ぼくが考えるのはそのことだ。
だから、ビデオカメラによる映像の撮影やテープの再生や
編集をめぐる行為(=ビデオ映像)が『20世紀ノスタルジア』
のなかでどのように扱われているのかが、ここでは重要に
なる。一方ではビデオカメラは主体的な個人の道具として
位置づけられ、もう一方では決して個人によって統合され
ることのない視線の記録としてシステムに投げ出されてし
まっていた、とまとめてみることもできるだろう。そして、その
どちらにおいてもビデオ映像が決してポジティブな位置を
与えられていないことに改めて気づかされる。個人の道具
から生まれたビデオ映像は撮影者の自我の呪縛と社会との
軋轢のなかで溶解するしかなかったし、システムの側に
回収されるビデオ映像からはポストモダンなアパシーの影
がどうしたってつきまとうことになるからだ。
こうした枠組みを仮定してみるとき、ぼくたちは個人的で身
体的な感覚のレベルから一歩を踏み出して、『20世紀ノス
タルジア』のビデオ映像の可能性を考えることができる。
つまり、確立された個人でも、遍在するシステムでもない、
あなたとわたしのあいだという関係性のなかにビデオ映像
をポジティブに定位させようとする不断の試みとして『20世紀
ノスタルジア』を改めて観ることができるはずだ。
少なくとも、リアルタイムのかけ声に押されて先を急ぐばか
りがデジタルメディアテクノロジーの使い道と決まってしまっ
たわけではない。そのような試みと実験の連続として『20
世紀ノスタルジア』を観るとき、今後の市民社会における
ビデオ映像の可能性に思いを馳せることになるはずだ。
---
> 近代小説の「定型」がどのようにしていま破綻と再生の
> 瀬戸際に立っているか、というたいへんスリリングな
> お話を始める。文学にかぎらず日本の知的状況は
> 「逃れうるものは逃れよ(sauve qui peut)」という前線
> 崩壊状態になっているということを確認した上で、
> 「前線から敗走してきた敗残兵たちが踏みとどまって
> 集合する地点・難破船の乗組員たちが浮遊物を集めて
> 組む筏」のような「次の時代の秩序」の起点がおそらく
> は2005年にその姿を現すであろうという希望にみちた
> 予言で対談を終える。実によい話であった。
http://blog.tatsuru.com/archives/000869.php
○トランスパーソナル心理学と超心理学をふまえた霊性研究
菅原浩 長岡造形大学助教授(思想)
www.nct9.ne.jp/mandala/
中村雅彦 愛媛大学助教授(社会心理学)
homepage3.nifty.com/yahoyorodu/index.html
○超心理学
笠原敏雄 心理療法家(超心理学)
www.02.246.ne.jp/~kasahara/
石川幹人 明治大学教授(メタ超心理学)
www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/index.htm
○トランスパーソナルの学会
日本トランスパーソナル心理学/精神医学会
wwwsoc.nii.ac.jp/jatp/
日本トランスパーソナル学会
www.ne.jp/asahi/jta/akss/
1968年 1963年に発足した「超心理学研究会」がもとに
なり、「日本超心理学会」が創設される。小熊虎
之助氏(前明治大学教授)が初代会長,大谷宗
司氏(防衛大学校名誉教授)が2代目の会長。
会員数は100名程。1996年より『超心理学研究』
を発行している。
wwwsoc.nii.ac.jp/jspp2/
1991年 湯浅泰雄氏などにより、「気」の研究を中心とした
「人体科学会」が創設される。
www.smbs.gr.jp/
1992年 イギリスのエジンバラ大学、超心理学ケストラー
講座のロバート・モリス教授が来日、日本超心理
学会大会で講演する。
1995年 科学技術庁は「理化学研究所」に「脳科学総合
研究センター」を設置、さらに「放射線医学総合
研究所」の「山本生体放射研究室」が中心になり、
気功などの生体放射、感覚外認識などの潜在
能力、精神のかかわる物理現象、東洋医学など
の実証的解明を目的とする、「国際生命情報科
学会」が創設される。副会長にロバート・モリス
教授がつく。
外気功の実験で、「未知の情報伝達機構の存在」
が示唆され、東京から京都への距離でも届くこと
が確かめられ、応用物理学会でも発表された。
気功に関する科学的研究が英文を伴って掲載さ
れており、海外からの評価も高い。
wwwsoc.nii.ac.jp/islis/sjis/islis.htm
wwwsoc.nii.ac.jp/islis/belabo/belaboJ.htm
また、小久保秀之は日本超心理学会年次大会
シンポジウム「21世紀の超心理学を考える」に
おいて、物理学の貢献可能性としてカオスと量子
力学の研究が注目されると述べている。量子
生物学や意識の量子力学モデルなどは、急速に
研究者の数が増えつつあり、量子力学的効果が
生物レベルで発生していることが検討されるよう
になってきている。
1996年 「日本トランスパーソナル学会」が創設される。
1998年 早稲田大学で「意識・新医療・新エネルギー国際
シンポジウム」が開催され、ノーベル賞物理学者
のブライアン・ジョセフソンは「超常現象の発見は
正統な物理学が既に限界に達していることを呈示
した」と宣言する。
文部科学省の共催で、国連大学国際会議場で
開催される「脳と意識に関するtokyo'99」のプレ
コンファレンスが行われ、ロジャー・ペンローズ
(オックスフォード大学数学教授)と共に、微小管
における量子干渉の重ねあわせ状態が自己収縮
を起こし、我々の意識の流れを作っているという
「量子脳理論」を提唱している、スチュアート・ハメ
ロフ(アリゾナ大学医学部教授)の特別講演会が
開催される。
wwwsoc.nii.ac.jp/islis/belabo/semi98J2.htm
telestar.or.jp/~yokoyas/index2/yokoya.html
1999年 「日本トランスパーソナル心理学/精神医学会」が
創設される。
また、「世界保健機関(WHO)」で、「健康の定義」
に「スピリチュアル(魂・霊性)」の文字を組み込む
かが検討された。
2001年 神奈川県葉山町の湘南国際村において、文部
科学省の外郭団体である科学技術振興事業団
主催の異分野研究者フォーラム「心と精神の関与
する科学技術」が開催された。文部科学省は、
将来的には恒常的な専門教育・研究機関である
「潜在能力科学研究所」や大学院・大学の設置
も射程においた、わが国のニューサイエンスの
拠点づくりも構想しているという。文部科学省は
大学設置の権限を持っているので、将来構想の
実現に向けて第一歩を踏み出した形になっている。
第1回量子応用シンポジウムが開催され、ブライ
アン・ジョセフソン氏などが参加している。
hotwired.goo.ne.jp/news/news/technology/story/20010704304.html
物質科学の方法で理解できないからといって、そうした
経験世界を「実在しない」と切り捨ててしまうのは、あまり
にも物質科学至上主義の見方であるとも言えよう。そう
した経験の世界は、機械による測定が困難であるにしても、
「心の経験」としては否定できないリアリティをもつので
ある。
こうした「心によってのみ経験される世界」を、それなりの
リアリティをもつものとして扱おうとする立場が、フロイトや
ユングに始まる「心的現実の立場」である。深層心理学は、
この立場に基礎をおいている。つまり、物質的リアリティ
とはとりあえず別個のものとして「心的現実」があると考え、
それを探っていくという学問的立場がそこで構想されている。
これは、心の次元に即しての観察・仮説・検証の手続き
からなっている。しかし、ユングまでの心理学は、そうした
心によって経験される深いレベルの現実について、「元型
的イメージ」を通じてのみ知るという立場にとどまっていた。
これに対して、多くの過去の伝統における覚醒夢やヴィ
ジョナリーな現実の世界は、ユングの枠組みをさらに超える
ものであった。
「忘れてならないのは、心が物質にきわめて独特な影響を
与えることを明示する、ある種の現象の真実性を保証
する、非常に有能な科学者、医師、哲学者たちが多くいる
ことである。私自身そのような現象が真実であることを
完全に確信するだけの件数は観察している、と言明する
のにやぶさかではない」
カール・グスタフ・ユング
ユング自身は、心理療法という範囲を超えようとせず、
そうした経験を直接に経験する可能性を認めてはいたが、
それを積極的に研究することには消極的であった。
だが、そうした深いレベルの心的経験は、人類にかなり
普遍的に見られる現象であり、それに本格的に取り組む
ことが、次世代の心理学の課題となったのである。
ウィルバーは、高い段階の意識の存在も、「経験」として
確認しうるものであり、その意味で検証可能性があること
を強調する。彼によれば、ものを知るということには三つの
モードがある。それを「三つの眼」と言っている。
肉の眼とは物質的感覚(五感)によって確認する知であり、
心の眼とは心理学がそれに該当し、「心的現実」を扱う知
である。そしてもう一つ霊の眼があり、神秘的直観によって
世界の奥深いリアリティを知ることである。この三つは、
モードこそ異なるが、いずれも「観察→仮説形成→グルー
プによる検証」という手続きを経るものであり、サイエンス
という精神に合致したものである。
これらは、「どのようにすれば検証できるか」という方法を
提示しなければならない。そうした反証可能性が存在する
限りは、それは学問としての基準を満たしている、とウィル
バーは考えるのである。霊の眼で扱われる領域について
は、「瞑想の実践」がその検証方法に該当する、と彼は
述べている。
アメリカでは、ユング心理学者などがトランスパーソナル
心理学に移行する例も多く、トランスパーソナルは一つの
流れとして定着し、博士や修士の学位が取得できる大学
院レベルの教育機関も既にかなりあり、メジャーではない
が、一角に地歩を占めている。
アメリカでは「永遠の哲学」は異文化であったが、日本では
伝統の一部であり、日本の学問の中で展開されてきた
ユング研究の基礎、また筑波における「気のシンポジウム」
やその流れを汲む「人体科学会」の活動、「気功」の定着、
「気の科学」の研究、などといった状況があり、
最新の西洋科学の「意識研究」と、伝統的東洋哲学の「意
識研究」との交流や統合は、現代におけるもっとも重要な
研究領域の一つであり、
世界全体から見た地理的、文化的特質からして、とくに
わが国で盛んな研究や議論がなされることが期待されて
いる。
だが、理論的な可能性としてはともかく、現実には、心理学
は現在、「ケンタウロス(気の次元)」の段階に到達しつつ
ある状況である。
「新しい科学は霊を必要とする。控えめにいっても、霊の
ための十分な余地がある。いずれにしろ現代科学は、
もはや霊を否定してはいない。“霊を信じますか?”という
問いに対する答えは、かつては“もちろん信じません。
科学者ですから”であったが、しかしまもなく“もちろん
霊を信じます。科学者ですから”という時代がくるだろう」
ケン・ウィルバー (代表的理論家)
「今なお機械論的な科学や医学の正統的な考え方では、
機械のような身体についた頭のなかに心を閉じ込めて
いるが、魂に関する昔からの漠とした考え方の残影は
依然共存している。それはまた、ユング心理学やトランス
パーソナル心理学、超心理学や神秘的伝統、ホリスティ
ックな医学や癒しといった、明解で洗練された理論や
実践から、今日ゆさぶりをかけられているのである」
ルパート・シェルドレイク (生物学者)
「科学は恐らく新しい段階に突入している。もっと人工的
でない状況下で取り扱うべき組織化の複雑性が無視
されているところで、非常に選択された一連の現象だけが
理論化されていたのが伝統であったのだ。私たちに向き
合っている挑戦とは「超常現象とプラトン世界」という
新しい状況にアプローチする方法を見いだすことである」
ブライアン・ジョセフソン (ノーベル賞物理学者)
『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』 リン・マクタガート
http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/book/bookmark2004/denken/denken24.html 時代は確実に変化に向けて急速に動き出している。
そしてその動きが急になればなるほど、
その逆の力もまた強くなるという現象も起こってくる。
実際のところこの世界はきわめて唯物論的に信仰されている。
と同時にまたファナティックなまでの信仰もまた進んでいる。
おそらくその二つの力というのは逆のように見えて
その実どちらもが手を携えているのだともいえるかもしれない。
それはアーリマンとルシファーのようなもの。
私たちは今まさにその二つの力の間の
暴風雨にさらされているように見える。
夜明け前というのは、冬でももっとも冷える。
あたたかい布団から出るのもつらい。
だから布団からでないためのさまざまな口実を思いつく。
しかしやがて否応なくそこから出なくてはならないときがくる。
そしてその夜明け前の時代である今の
さまざまなプロセスそのものこそが
きわめて重要であることに気づくことのできる時代も訪れるだろう。
そのプロセスなくして何も学ぶことはできないのだから。
科学においては、抵抗こそがつねに王道である。
新しい考えはつねに異端と見なされてきた。
彼らの証拠は世界を永久に変えてしまっても
不思議はないものだ。
たしかに、もっと洗練させるべき領域も多いし、
探索すべきほかの道もある。
多くは結局のところは迂回路になるかもしれないし、
袋小路かもしれない。
しかし、ともかくも試験的な探求は始まっている。
それは始まりであり、最初のステップであり、
すべての真の科学が始まる道である。
96 :
没個性化されたレス↓:2005/04/18(月) 22:07:38
いや、すんません、皆あきれてマジでこのスレから人いなくなるので
連投やめてもらえませんか?
誰も来ないスレに貼っても仕方がないでしょう?
『科学を捨て、神秘へと向かう理性』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4198619506/ ジョン・ホーガン (竹内薫・訳) 2004年11月刊行
● 本の紹介
「科学は、ほどほどにしか真理探究の答えを出してくれない」
科学は、決して、「答え」、つまり、宇宙の謎を拭い去れる
ほど強力な理論をわたしたちに与えはしないだろう。
結局のところ、科学自体に限界があり、わたしたちが、
理性的そして経験的に学べるものもかぎられている。
「神秘体験が、真理への洞察をもたらし、客観的な研究を
超えて、補うことができるかもしれない」
その部分は短いものだった。わたしが念頭においていた
科学好きの読者から不興を買うことを恐れたからだ。ところが、
「神秘主義についての部分がいちばん面白かった」
これがきっかけになって、わたしは、神秘主義の本を書こうと
思いはじめた-----
「そういう見方が、どれほど不穏なものか、あまりおわかり
にならないようですね。永遠の哲学は、ある問題の解決
を試みている。世界中の聖伝のそれぞれが、現実に
ついての真実を表していると主張します。それなら、
どの聖典が正しいのでしょうか? どれも正しくない、
全部まちがっているという、一つの理性的な回答も可能
かもしれません。この見解は、無神論か虚無主義に
つながるものです。永遠の哲学者たちは、こうした結論を
避けるために、すべての宗教とすべての神秘主義的な
ヴィジョンに共通性を見いだそうとしているんです。
ところが、あなたは、すべてを出発点にまで戻してしまう。」
ジョン・ホーガン
「このことは、神秘主義がボクたちに与えてくれる基本的
な洞察なんだけれど、物質主義的なフラットランドの人たち
には受け入れがたいんだ。心は、単に短命な物質に
随伴する現象ではない。それは永遠なのだ。神秘主義者
たちは、物質より心のほうが現実の基本であり、したがって、
心は消えることがないと信じる点では完全に一致している。
物質的な宇宙は、深い瞑想から得られる純粋な意識
(アウェアネス)の一つの現われなのだ。」
「『統合心理学』というボクの最新作では、この点が明らか
にされている。異文化にわたり、さまざまな見識ある
現代の研究者たちにいたる、共通性があることを示して
おり-----それは、元素の周期表にもっとも近いものだと
いっていいだろう。ボクたちは、これから何年にもわたって、
化学の理解を深めることができるが、ある日、誰かが
ひょいと現れて、<いいか?銀なんて元素は存在しない
とわかったゾ>なんてことは起こりゃしない。」
ケン・ウィルバー
(代表的なトランスパーソナル理論家、
「永遠の哲学」に基づく現代思想家)
「意識が自分のからだから飛び出していった。わたしには
もはや境界がなかった。わたしは宇宙になった。
ビッグバンからブラックホール、ホワイトホールにいたる、
あらゆる種類の宇宙現象を感じた。」
「もし、誰かが、唯物論的な世界観の範囲内で、それを
説明できれば、まっさきに感激するのはわたしだよ。
だが、そうはならなかった。クリックは、さらに広い考えを
求めている人をバカ呼ばわりしないで、自分のアプローチ
の限界を認めるべきだね。意識は、肉体なしで機能できる
という多くの観察結果を、わたしたちは得ているんだ。」
(”実は、わたしも個人的な心を離れて、別のもっと広い
トランスパーソナルな世界へ旅したことがあるんですよ”
とグロフに賛同したい衝動にかられた-----ホーガン)
スタニスラフ・グロフ
(「トランスパーソナル」、全人類が共有する集合的
無意識と接触する体験を指して、父祖ユングが作った
用語を、この心理学に名づけた精神医学者)
「インド、中国、東アジア、そして、アブラハムの伝承で、
宗教が、それぞれ同じ見解に達したという事実は、
それが、少なくとも人間にとって、経験によらず正しい
という気にさせる。知恵の伝承は、すべてが多かれ
少なかれ、われわれの意識は死に際して消滅して
しまう脳の単なる付随現象ではないと宣言している。
それは唯物論的科学が暗示するより、もっと永続性が
あるものなのだ。だが、永遠の哲学をたった一つの
教義に要約せねばならぬとしたら、それはこうでしょう。
われわれの現世の物質的な世界の向こうには、
無限の超越的な領域が広がっている。」
「これが<無限>だと想像してごらん。その外側に落ちる
ことが不可能な。皿の上のゴマのソバが、われわれの
生きている有限の領域だ。神秘体験は、不明瞭な
妨害物を無限の透明に変えるので、あなたはソバを
透かして-----無限を見ることができる。」
ヒューストン・スミス
(科学主義の牙城、マサチューセッツ工科大学で
15年教えていた、20世紀でもっとも著名な宗教哲学者、
「永遠の哲学」の権化で、ウィルバーの恩師。
グロフの業績に早い段階から注目していた)
ホーガンの結論は、物議をかもした「科学の終焉」の
クライマックスの場面に共鳴する。なぜならば、最も啓発
された神秘主義者たちと最も進んだ科学者たちは、
いずれ宇宙のはかり知れない深遠に臨む同じ場所に
立つことになるからだ。 (原書カバーより抜粋)
『忘れられた真理―世界の宗教に共通するヴィジョン』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4434036742/ ヒューストン・スミス (菅原浩・訳) 2003年12月刊行
● 本の紹介
「価値、人生の意味、目的、質。これらは、海水が漁師の
網をすり抜けるように、科学をすり抜けていく。だが、
人間はこの海で泳いでいるのであり、それを視界から
とり除くことはできない。」
「私たちの過ちは、科学が世界観を与えてくれると期待
したことにあった。今となっては、それが世界の反面――
物質的で、計算可能で、検証可能で、明確にコントロール
可能な反面――しか見せてくれないことが明らかになった。
その反面でさえ、いまや明確に描いてみせることは
できない。視覚化することができないのである。」
『統合心理学への道―「知」の眼から「観想」の眼へ』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393360354/ ケン・ウィルバー 2004年4月刊行
● 本の紹介
「誰も――ユングでさえ――ウィルバーほど、西洋の心理学
を世界の智恵の伝統の力強い洞察に向かって開いたものは
いなかった。ゆっくりと、しかし着実に、ウィルバーは東洋・
西洋の心理学の真の基礎を一冊ずつ築きあげている。」
ヒューストン・スミス
「あまり大げさに取る必要はない。これは単に志向的な
一般化にすぎない。私は、コスモスにはあなたが考えるより
ずっと広く自由な場所があることを示したい。」
ケン・ウィルバー
「私たち現代人は今、非常に奇妙な立場にあるということに、
ほとんど気づいていない。それは、現代の私たちが抱いて
いる世界観とは別の世界観が、普遍的なまでに哲学的に
同意されていたということであり、そのことを認識するのが
困難なことである。それは現在であろうと6000年前で
あろうと、ニューメキシコであろうと日本であろうと、同じ
洞察を報告し、同じ本質的教義を教える人々によって
支持されてきたのである。」
アラン・ワッツ
(牧師、神学者としてスタート、最初キリスト教学研究で
活躍していたが、その後、鈴木大拙の指導を受けて東洋
哲学に開眼し、ともに禅を西洋に広める役割を果たす。
その後、トランスパーソナル研究に関わる)
「それほど知られてはいないが、<人類意識計画>とも呼び
うる研究が現在かなり進行中である。人間の無意識の
領域も含め、”人間意識の諸状態の全スペクトルの地図を
描き出す”努力が進んでいる。このプロジェクトは現在、
世界中で数百の研究者たちによって行われているが、
意識の全領域の地図、つまり人間の「自覚」の「遺伝子」
とも言うべきものすべてを描き出そうと、文化や分野を
超えた多様な学際的アプローチがさまざまに行われている。」
「人間に利用可能な意識の諸状態・諸構造・諸状態の
”マスターテンプレート”に急速に収斂しつつある。多様な
文化横断的アプローチ――禅仏教から西洋の精神分析、
ヒンドゥー・ヴェーダーンタ哲学から実存主義的現象学、
ツンドラ・シャーマニズムから変性意識状態まで――
様々なアプローチを比較・対照することで、ひとつの
マスターテンプレート、つまり、”意識のスペクトル”を
描き出し、各文化が他の文化によって取り残された
ギャップを補うのである。」
「細部の多くは、いまだ精力的に研究が進められているが、
この意識のスペクトルの存在の証拠はすでにかなりの
ものなので、その存在に関してはほとんど議論の余地は
ない。」
「トランスパーソナルな研究はすべて、適切な共同体に
よって確認される、あるいは拒絶されるといった、合意に
よる”事実”に基づいてなされる[反証可能主義者
K.Popperなどによる知識の真の集積に対する基準]。
トランスパーソナル精神医学/心理学は、この全包括的
な意識のスペクトルに基づいている。」
「しかしながら、さらに驚くべきことに、この包括的な全
スペクトルが、世界の偉大な叡智の伝統と本質的に非常に
一致しているということが次第に明らかになってきた
のである。それは多くの現代の科学的な領域に力強い
復帰を果たすほどに、時間の試練に耐えた強さを持って
いる。」
「すべては、この驚くべき意識のスペクトルにかかっている
のである。」
「人間性のさらなる到達点(マズローの著作名)というものが、
オーソドックスな心理学によって、どうしてこれほどまで
無視され、見過ごされ、病理化されてきたのか。実証主義
的な科学は、どうしてこれらすべてを感覚的な物体の山に
還元してきてしまったのか、考えていただきたい。
そこには、われわれに畏れや鼓舞をもたらすような深みや
高さはないのか。われわれの愛のない道にまさるような
崇高な美や真実の煌めき、霊的領域の真実や女神などと
いうものはないのだろうか。それらは人間の可能性の
並外れたスペクトルの一部ではないのだろうか。
トランスパーソナル精神医学/心理学は、そこに従来の
アプローチで考えられていたもの以上のものがあるという
前提を奉じている。すなわち、意識のスペクトルは実際
広大なものであり、そこには確かに個人を超えたものが
あると。」
ケン・ウィルバー
「ここでウィルバーが展開しているポストモダン批判は、
知的な思想レベルでいえば、私たちに”希望”を与える
唯一の哲学である、ということである。」
「簡単に言えば、哲学は、合理性の範囲内ではやるべき
ことをすべてやりつくしてしまったのである。知的言語
あるいは論理ないし知的レベルで考えている限り、
決して自我と合理性の”外”に出ることはできない。
パラドックスや自己言及というお釈迦様の指がいたる
ところで待ちかまえているためである。デリダやラカンを
読めば、ここらへんの事情は十分にわかるはずである。」
「しかし、もっと先に進みたい。私自身は、これはある意味
では、世界史的に見れば”ルネサンス”に匹敵するような
大きな出来事ではないかと考えている。」
訳者
>>99-110 ねぇ、どうしてそう連投したがるの?
何度も「やめる」って言ったのに、またしてしまうのは
どういう衝動にかられてのことなの?
相談してみなよ。
『臨死体験研究読本』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4434025414/ ● 本の紹介
石井登氏は、現象学を専門に学び、人間性心理学、トランス
パーソナル心理学、さらに臨死体験に関心を広げ活動して
いる。
臨死体験がなぜ脳内幻覚とは言えないか、「脳内幻覚説」
の代表的論客、スーザン・ブラックモアの説を徹底的に批判
している。現実体験の可能性をひとつひとつ潰していくブラ
ックモアと、セイボムの著書にあたり、その論法の致命的
欠陥を指摘している。「脳内現象説」は、なぜ体験者がプラス
の方向に成長するのか説明できない。ブラックモアは、幻覚
説からこの事実を説明しようとした唯一の論客だが、その
試みの失敗が、明らかにされている。
真正な臨死体験の一切を「脳の機能」から還元して説明する
のにいかに限界があるかがわかる。結局のところ、臨死体験は、
内的世界が実在性をもつというパラダイムに立ったうえで
ない限り、包括的に考察して、それが真正かそうでないかを
区別することができない。
また、「輪廻の主体」という問題に関心を寄せている。蛭川
立『彼岸の時間』の仏教の「無我説」への疑問がいろいろ
述べられている。仏教ができた時代は、魂の存在は自明の
こととされており、死後は自分が消滅してしまうなどと考える
人は一人もいなかった。無我説は、あくまでもその前提が
あってのうえでの「実体性の否定」であって、「あたかも実体
のように存在している状態=意識のスペクトル」を否定して
いるわけではない。ウィルバーの元因領域(≒ユングの
集合的無意識)も、このように根本的に幻影であるかの
ごとく作用している。
臨死体験研究の世界的権威であり、第一人者の集大成
である、ケネス・リング『光のレッスン』が翻訳されていない
現状では、日本語で読める唯一の文献となっている。また、
この本ではこれまで日本語で出た二次文献に頼っているが、
リングなど、欧米の臨死研究者では、どれもすでに常識化
されており、アメリカの臨死体験研究センターには、さらに
膨大な文献が日進月歩で蓄積されつつある。
ワイルダー・ペンフィールド(「脳の分業地図の作成」)、
ジョン・エックルズ(「脳の抑制性シナプスの発見」)、
ロジャー・スペリー(「分離脳の研究」)、一時代を画した
ノーベル賞脳科学者たちは、いずれも、自らの実験的
研究などを通じて、最終的には、唯物論を放棄するに
至っている。(ペンフィールド、1977年。エックルズ、
1984年。スペリー、1988年)
特にエックルズは、1976年に開催された超心理学協会
年次総会の招待講演の中で、要するに脳は、心がサイコ
キネシスで操っているのではないか、とまで発言し、
ペンフィールドとともに、心と脳は別の実在だとする
「二元論」を復活させているのである。
http://www.02.246.ne.jp/~kasahara/brain&mind.htm
『自我と脳 新装版』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4783501378/ カール・ポパー、ジョン・エックルズ 2005年2月出版
● 本の紹介
現代の大脳生理学では、唯物論的な立場が支配的だが、
ポパーはエックルズとともに、デカルトの「心身相互作用
説」を復活させようとした。
精神の存在は物理的には身体に宿っているが、物理的
説明を超えた独自の原理を措定しなくてはならない、と、
ポパーは論じた。
ポパーが強調したかったことは、知識は当初、経験的な
場面で学習されてきたが、数学や物理学などは経験的
知識を超えた自律性を持っていることである。
「”存在の大いなる連鎖”の理論家にとって、気(プラーナ)
とは、物質的身体と心の結合点である。私はそれは真実
だろうと思う。より微細な気のエネルギーの調査が難しい
のは、それは身体的な次元から出発するものの、経験的
には感覚運動領域では知覚できない、ということである。
それは情動空間に属している。こうしたエネルギーは
PETやEEGを用いた脳や辺縁系の動きの観察という
調査の対象になりえる。しかし、こうしたエネルギーのみが
意識の鍵を握っていると主張するのは、難しい。」
「サイというアプローチもある。ここは意識研究において、
もっと問題となりやすい領域である。私は、ある種の心霊
現象が存在することは疑いないと考えている。私が強調
したいのは、感覚運動空間は、少なくとも10以上の空間
の一つであり、経験に基づいた現象の説明ですべてを
説明しようという狂気からは解放されたほうがいい、
ということである。また、同時に、感覚運動世界空間は、
科学的唯物論の世界観の根ざす場である。したがって、
何かそこで、非感覚運動的な現象が発見されると、
その意味が途方もなく拡大されてしまう。サイ現象は、
確かに感覚運動空間に属していない。サイ現象の証拠が
感覚運動空間では説明できないからといって、サイ現象
が存在しないことにはならないのである。」
「私たちは、現象学的空間を見なければならない。そこで
サイ現象を真剣に扱うことができるし、意識の統合研究
に包含することができる。」
「量子論的アプローチは、実質的な証拠に欠けていると
考えているが、それを意識の統合研究に含めようと言っ
たのは、いずれはしっかりとした証拠が見つかる可能性
に対してオープンでありたいからである。『目には目を』
で私は、量子論の様々な解釈と意識研究におけるその
可能な役割について論じたが、しかし、例えば波動関数
の意識による崩壊などというのは、多くの科学者が疑わ
しいと感じている、かなり推論的なものであり、実際の
証拠に欠けていると考えている。」
「こうしたアプローチで問題なのは、もともと主観・客観の
二元論を、それが解くことのできない領域において
解こうとしていることにある。この問題は”後形式操作
段階”で解くことができる。あるいは、そこでは問題自体
が溶解してしまう。」
「しかし、このアプローチは生物的意識と物質との関係を
さらに明確にしていくという意味では重要であろう。」
ケン・ウィルバー
自由意志と運動との関係に関するものとしてリベットの
実験がある。
脳とは別の存在(魂など)が脳を活動させ、運動が現れる
としたら、外界からの刺激なしに、「手を動かそう」という
自発的な意志があった場合、脳活動のどこかにそれが
現れるはずである。そして、「補足運動野」(ペンフィールド
らが命名)が運動のとき、他のどこよりも早く活動しはじめる
ことがわかった。意志は脳活動が現れ始め、ある程度
大きくなったときに現れる。
「ここで重要なのは、こうして生じる補足運動野の細胞の
活動化は、補足運動野の中の他の細胞も含めて、脳の
どこの神経細胞の作用によるものでもないということで
ある。すなわち、補足運動野の細胞はそれぞれがまっ
たく「自然発生的」な、しかも「ある目的に適切」な活動化
を起こす。脳で生じる膨大な数の神経細胞の複雑多様を
きわめる活動パターンから、事物を瞬時に知覚し、その
認知に基づいて直ちに即応的な行動を指令できるような
仕組みを、脳そのものに見いだすことはできない。」
ジョン・エックルス
エックルスは、自我は脳とは別に存在し、自我はこの補足
運動野に働きかけるものとした。そして、自我がどのように
して補足運動野に働きかけるかというと、脳はごく微少な
量子的ゆらぎが結果的に脳全体を大きく活動させるような
カオス的なものであり、ごくわずかでも脳のシナプスに働き
かければよいとした。
脳を形成するニューロン同士は伝達物質をやりとりしながら、
互いの連結や情報の伝達をする。その伝達物質がドーパ
ミンである。ドーパミンは、ニューロン内の微小管を通って、
シナプスを通って、次のニューロンの樹状突起棘を経て、
微小管に運ばれる。微小管はチューブリンと呼ばれるタン
パク質からなる小さな管である。その小さな管の周りには
「秩序化された水」(水を構成する水分子が意志を持つよう
に全体として共同して振る舞う水)で覆われている。この
ような水分子の振る舞いは、生きた細胞内でだけ見られる
もので、量子的干渉で生じると考えられている。細胞が
死んだ途端、このような水は存在しなくなる。
リベットとコルンフーバーの実験によると、皮膚への刺激は
刺激とほぼ同時に知覚されるのに対し、大脳皮質への刺激
は、知覚されるまでに0.5秒要するという。さらに、自由
意志が行動を起こすまでに1秒を要する。すると、人間が
自覚的に意図した応答を要求された場合に、答えを発する
までに最低でも1.5秒かかるという結果となる。
大脳皮質を形成するニューロンの物質的刺激伝達システム
は、他の神経細胞に比べ、このように遅いことが分かって
いる。
ところが人間は、他人から発せられた質問に対しほぼ瞬時
に答える行動ができることを考えると、これは大きな矛盾
となる。
このことは、「心」、すなわち「自我」をともなう大脳の作動
メカニズムが、単なる反射反応のような単純なメカニズム
ではないということを示していると思われる。
ドーパミンのような物質的流れではなく、複数のニューロン
が共同して働くメカニズムを考えないと、人間の自発的行動
が説明できないのである。
この鍵を握っているのが「秩序化された水」の量子的絡み
合いと考えられる。自我意識に関連するニューロンの励起
を神経科学や脳科学における反射反応的な単なる電気
信号・化学物質の交換という考え方ではなく、相対性理論
と量子力学に基づく場の量子論を用いて、空間そのものに
根ざした、よりミクロな立場で解析しようとするのが、「量子
場脳理論」である。
『脳と心の量子論―場の量子論が解きあかす心の姿』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062572168/ 治部眞里、保江邦夫
その萌芽は波動力学の創始者で量子論の創始者の一人
であるシュレディンガーにさかのぼる。彼は「生命は負の
エントロピーを食べて生きている」と言い、量子論的秩序
が巨視的なスケールに現れる現象として生命を捉えた。
実際、生きた細胞の中の水分子はコップ内の水分子とは
まったく異なり、調和のとれた秩序ある運動をする。分子
という量子論的レベルの秩序が、波動場のハーモニーを
構成し、巨視的スケールに現れてくるのが生命であると
考える。
確かに生きた細胞と死んだ細胞では、その周囲の水分子
の秩序が全く異なる。生きた細胞では水分子という電気的
双極子が光の場(電磁場)に導かれるようにシンクロナイズ
している。これは、相対論的量子力学、すなわち場の量子
論によってのみ説明が可能である。
自我を司るニューロンの活動はそういう現象であると考え
られ始めている。
脳の85%は水分で出来ている。体の中で水分量がもっ
とも多いのは、実は「脳」である。液体である血液の水分量
は以外と少なく、80%ほどである。なぜ脳がこんなに水を
多く含むのかは、脳細胞が活発に働くためには、水に浮い
ている状態が必要なのである。しかもシンクロナイズした
水にである。
「還元主義者は、意識の空間を延長空間に縮小(還元)し、
意識を物質的に創発した階層性のネットワーク(原子=
分子、細胞、神経システム、脳)に位置づけようとする。
それは決してうまくいかない。なぜなら、それは話の半分
にすぎないからである。」
「デヴィッド・チャーマーズは最近、物質主義的科学者の
陣地『サイエンティフィック・アメリカン』で、主観的意識は、
常にあらゆる客観的説明を受け付けない、と結論し、
センセーションを巻き起こした。『本論を終えるに当たり、
私は、意識経験とは根源的な性格を持っているため、
それ以上基本的なものに還元できないと申し上げたい。
この考えは、最初は奇妙に聞こえるかもしれないが、
しかし一貫性を持って言えることである』。こうした、
まったく当たり前のことに、アングロサクソン系の哲学者
が大騒ぎを始めることにはいつも驚かされる。」
「チャーマーズはいいポイントをついている。まず意識の
還元不可能性である。宇宙の完全な記述を行うためには、
物質世界に「付け加えられる」必要がある。『したがって
完全な理論とは二つの要素を持つ。無限小から宇宙大
までの物理システムの行動を記述する物理法則と、
こうしたシステムが意識経験と、どのように関連するかを
述べる心理・物理法則である。この二つが、真の万物の
理論を構成するだろう。』、二元論を再導入しようとする
シンプルな試みが大胆と見なされる。明白と思われる
言明が、ラディカルと見なされるのは、還元主義者が
力をふるっている証明である。」
「チャーマーズは、物質主義者、還元主義者(ダニエル・
デネット、フランシス・クリックら)の意識に関する議論の
アプローチは、イージープロブレムを解いたのにすぎない
のであって、意識の中心的な謎はそのままになっている
と主張している。彼はもちろん正しい。おかしなことに
チャーマーズの論文を読んだ物質主義者、還元主義者
は、この神秘に触れているということである。しかし意識
の流れ直接調べる(ヴィパッサナー瞑想のように)かわり
に彼らは座ってチャーマーズの論文を読む。神経ネット
ワークも、階層化され結合された神経通路も、全然、
その喜びを説明しない。すると彼らは頭を掻きながら、
意識の神秘が、なぜかくも理解されるのを拒むのか、
不思議がるのである。」
「チャーマーズは、ハードプロブレムとは脳内の物理プロ
セスがなぜ主観的な意識経験を生むのか、にあるとして
いる。いいかえれば、物質と心はどう相互にインタラクト
しているかにある、ということである。これはデカルト的な
問題であり、デカルト以来、何か解決に近づいたわけ
ではない。それは単純な理由であって、そのディレンマ
は”後形式領域”においてのみ、解決されるのである。
この問いは、実は主観・客観の二元論だからである。
それはデカルトの誤りではない。すべての顕現に刻印
されたものであり、ただデカルトがそれをあまりにも
明確に述べたまでである。しかし、すべての還元論者の
試みは、ほころび始めている。」
「意識の統合理論は、それぞれの象限における次元と
ラインとの”同時追跡”であり、それらの”相関関係”を
調査することである。もちろん、どこかの象限に還元して
はならない。もうひとつは探求者(研究者)自身の内面的
な変容である。意識の変容なしには何も理解できない。」
「意識は突然、なぜか飛び出してくるのである。つまり
意識が外側から見ることのできる階層の、一番上に
付け加えられるのである。」
ケン・ウィルバー
「ビッグバンは、およそものを考える人を観念論者にして
きた。はじめ何もなく、その後ナノセカンドもたたないうち
に”物質としての宇宙”が存在するようになった。
ビッグバンは、他の何よりも唯物論に致命的な打撃を
与えたようである。」
「今日に至るまで多くの物理学者、数学者が、ある種の
デザイナーがいるに違いないという結論に至っている。
最近、非常に有名となった”人間原理宇宙論”を含んで
いる。人間の存在は、確率論的にはありえないため、
宇宙はそもそも最初から人間を創り出すデザインを
持っていたに違いない、とするものである。」
「現代物理学におけるこの観念論的なトレンドは、相対性
理論と量子論という双子の革命にその淵源をもつ。事実、
この初期の革命の先駆者たち、アインシュタイン、ハイゼン
ベルク、シュレディンガー、ド・ブロイ、プランク、パウリ、
などほとんどは、様々なタイプの観念論者か超越論者
だった。”このメカニズムは神秘主義を要請する”(ド・ブロイ)」
「こうした先駆的な物理学者たちは、宇宙とは深いところ
で意識というものを含めなければ意味をなさない、
あるいは十分な説明ができないと考えていた点で共通
している。”宇宙を説明する唯一の方法は、それが永遠の
スピリットの心の中に存在している、と主張することで
ある”(ジェイムズ・ジーンズ卿)」
「こうした”スピリチュアル”な思考方法における最も大きな
問題の一つは---毎日、それに取り組んでいる数理物理
学者は別として---その結論があまりにぼんやりとしていて、
あまりに思弁的であり、”ぶっとんで”いて、薄気味悪くさえ
思われることである。このため、現代の現役の科学者、
物理学者、心理学者、心理療法家は、こうした”観念論的
な思弁”によって自分たちの方向を曇らせないようにして、
仕事をしている。認知論的な行動主義から人工知能まで、
心理的な連結主義から生物学的な心理療法まで、ほと
んどの研究者は、心、心理、意識に関して、唯物論的な
説明をまず念頭におき、そこから離れないようにしている
のだ。」
「客観的なアプローチを代表する典型は、ダニエル・デネット
の広く評価された『解明された意識』だろう。一部の人々が
仮借なく指摘したように”言い逃れされた意識”という題名
のほうが適切な本である。こうしたアプローチすべてに
おいては客観的な表象は、連結主義者のいうネットワーク
の中を走り回ることになる。異なるのは意識という幻影を
生み出すとされる、情報ビットが走り回る客観的なネット
ワークの性質に関する説明だけである。これらの説明は
みな、最終的にはいくつかの疑いなく重要な貢献を除いて、
意識によって意識の存在を否定しようという試みである。
結局のところ、意識というはかないまぼろし、幽霊のような
無のために、膨大な因果的活動が行われている、という
説明なのである。」
「しかし、私とあなたが内省すれば、そこには違った世界が
見いだされる。それはバイトやビットやデジタルなスペック
から構成された世界ではなく、イメージや欲望、意図や
ためらい、望みや期待、希望や恐怖などから構成されて
いる。私たちはこうした内面的なデータを、一瞬のうちに
直接的な形で知る。それらは、単純に私たちに与えられる。
すなわち単純にそこにあり、それに心を配る範囲において、
それを”目撃”するのである。こうした内面的なデータは、
確かに長い、次々に媒介される事象の連鎖の一部では
あろうが、内省の瞬間には、そんなことはほとんど問題
にはならない。私の内面の状態は、私のアウェアネスに、
単純に与えられている。」
「たとえ認知論者、機能論者、行動論者に同意しようと思って
も、すなわり意識とは単に神経ネットワークを駆けめぐる
情報ビットにすぎないと思っても、その観念それ自体は、
私の内面に直接的な把握として知られるのである。
連結的なバスウェイを走り回る情報ビットというものとは
似ても似つかないものである。経験と意識への客観的
なアプローチは、それ自身の意識と経験を記述すること
すらできないのである。」
「簡単に言えば、私の内面的、主観的な経験は、機能論、
認知論、神経連絡論の客観的、経験的な術語にはマッチ
しないのである。私の主観的で内面的な世界(意識、
アウェアネス、心、魂、イデア、観念論など様々な名前で
知られる)は、私の客観的で外面的な世界の記述
(これまた物質、脳、自然、唯物論など様々な名前で
知られる)とは、明らかにそぐわないようである。」
「したがって、ほとんど人間の知の探求が開始されたとき
から、理論家たちがこの二つの内面と外面という非常に
異なった、明らかに対立する知のアプローチのどちらかに
はまってきたということは、驚くべきことではないだろう。
客観的なアプローチが、心理学において様々な行動主義
を生み出したように、主観的なアプローチは様々な形の
深層心理学、例えば精神分析、ユング派、ゲシュタルト
心理学、現象学的-実存的心理学、人間性心理学などを
生み出した。」
「外面と内面、客観と主観のこの二つのアプローチが、人間
のほとんどの知の領域に、しっかりと、そして互いに攻撃的
なまでに存在してきたという事実は、私たちにどちらの
アプローチも非常に重要であるということを告げている。
そして統合的なアプローチは、人間の知の探求における
この二つの深遠な探求のどちらにも敬意を払い、その
二つを包括しようとするものである。
「私たちが、内省と解釈と意識の研究の持つ力にもかかわ
らず、西洋においては過去300年近く、科学が猛烈な
攻撃力でコスモスを完全な”それ”のかたまりに還元・縮小
してしまった。科学的な唯物論、実証主義、経験主義に
併合されてしまったのである。この併合は、西洋のモダニ
ティを多くの面で特徴づけるものである。一般に科学主義
と定義されるこの考え方は、私に言わせれば世界全体
は客観的な”それ”言語で完全に説明しつくせるとする
ものである。あますところなく完全に客観的なプロセスの
”行動”へと還元して説明できるという仮定あるいは思い
込みに基づいているのだ。」
「しかし、まさに人間が異なったアスペクトを持つために、
この”科学的”なアプローチも大きな意味をなすように
思われてしまう。なぜならどんな内面も、それに対応
する客観的な側面をもつからである(私が体外離脱の
経験をしたとしても、それは脳波に現れる)。したがって、
知の探求を客観的なデータと客観的な”それ”に単純化
しようとすることも意味を持ってくるように思われるので
ある。しかし、そもそも客観世界は、主観性と間主観性
の世界がなければ知覚することもできないのである。」
「問題になるのは、”それ”のアプローチこそ、存在の唯一、
重要な領域だと主張すること、真実のたった一つの場所
であると主張することであることである。ビッグバンが
教えてくれたのは、この宇宙は”それ”では説明しつく
せるものではない、ということであった。コスモスという
織物の中には、私たちが不可避的に、内在的に織り
こまれているのである。」
「このような意識のスペクトルを最も深く、方法的に研究した
のは”トランスパーソナル心理学”と呼ばれる学的な領域で
ある。トランスパーソナル心理学は、しばしば最初の三つの
心理学の流れ、行動主義、精神分析、人間性心理学の
後を受けて、”第四勢力”とも呼ばれている。こうして、
人間の経験の全範囲を十全に、そして正確に反映しよう
という意図において、トランスパーソナル心理学と心理
療法とは、その基本的な出発点を意識のフルスペクトルに
おいているのである。もしこの意識のスペクトルが承認され、
考慮されるとすれば、それは、あらゆる領域を劇的なまでに
変容せずにはいられないということである。」
「キリスト教神秘家が好んで言うことだが、人間には(少な
くとも)三つの知の眼がある。物質的な事象を捉える”肉の
眼”、イメージ、概念、観念などを捉える”心の眼”、そして、
スピリチュアルな経験や状態を捉える”観想の眼”である。
これは身体から、心、スピリットに至る意識のスペクトルを
単純化したものである。歴史的には”存在の大いなる連鎖”
として研究されてきた。アーサー・ラヴジョイによれば、その
概念は、人間の文明の歴史のほとんどにわたって、哲学
の主流となってきたものである。ヒューストン・スミスは、
その素晴らしい著書『忘れられた真実』で、世界のすべて
の叡智の伝統は、すべてこの”存在の大いなる連鎖”に
基礎を置いていることを論証している。言い換えれば、
それは存在と認識の、様々なレベルをともなった、
”意識のスペクトル”である。」
ケン・ウィルバー
>>111 気にする人がいるからつい
ごめんもう二度とこない 忘れて
引用ウザイ
自分の言葉で語れ
心理学においては、第二次大戦後のアメリカにおいて、
マスローを中心として、「人間性心理学」が起こってきた。
これは、それまでの心理療法が、もっぱら病的な人を
正常の状態に戻すことを行ってきたのに対し、いわゆる
正常よりもさらに高い次元に至る心の発達があるの
ではないか、と考える心理学である。
ここで注目されたものが、「至高体験」である。マスローは、
こうした経験は何ら異常でも、病的なものではなく、通常
よりも高い心の発達段階を示すのではないか、と考えた。
そして、人間には普遍的に「超越欲求」があるという仮説
を立てた。
人間性心理学は、心の学問における大きな価値転換を
意味している。これは、ユングにもすでに存在していた、
「心の発達」に明確に肯定的価値を与える立場に立つ
心理学であった。
すなわち、これは、西洋の近代的学問において初めて、
東洋の伝統的な思想のような「社会的標準よりも高次の
レベルまで心が発達しうるという可能性を認め、そうした
発達を支持するための学問」という姿勢を明確にしたもの
であった。
インドでは、思想というものは心の内面世界に向かう傾向
があった。そして、心の内側と宇宙とはつながっていると
考えていた。
宇宙の究極とされるものが、「ブラフマン」であり、これは
究極意識、宇宙意識ともいうべきものとされる。さらに、
人間にはそれぞれ、ブラフマンの分有である霊的なものを
持っており、これが「アートマン」である。
つまり、自分が自分である、という意識は根本的にはこの
アートマンの働きである。そしてブラフマンとアートマンは
究極的には一致する。この一致を実際に自分自身で体験
しようというのが、瞑想である。(このように、神あるいは
究極的リアリティを直接的に経験することが可能だ、とする
立場を、西洋哲学では「神秘主義」と呼ぶ。)インドをはじめ
東洋の思想のほとんどは神秘主義である。
そして、究極である宇宙意識(神)と、物質的現実の間には、
いくつかの中間的な次元があると想定される。つまり、世界
というのは、意識のあり方によってそこに展開されるものだ、
という基本的な考え方がそこにある。
また、中国ではどうであろうか。中国思想のキーワードと
なるのが、「道(タオ)」そして「気」である。「タオ」とは、
とらえがたいものであるが、宇宙の根本であり、インドの
ブラフマンにも似たものであろう。もうひとつの「気」という
のは、宇宙万物を作り出しているエネルギーである。
気が集まって物ができる、と考えられている。
中国では儒教と道教という二つがあり、いろいろな意味で
対照的である。しかしタオや気など基本的な思想は共通
している。また仏教もその後入ってきた。中国では、儒教・
道教・仏教は「同じことを三通りの方法で言っているもの」
と理解されることが多く、いずれも「タオ」に至る道である
と考えられていた。そして「気」というものは、単に理論的
に考えられたものではなく、体験されるものであった。
なお日本でも、明治以降の近代化以前は、そのような発想
は広く見られた。日本では儒教・道教はあまり発展せず、
仏教と神道が主流で、それらが一体として混じり合ったもの
を、伝統的世界観として持っていた。
また、イスラムの世界では、思想は二重構造になっている。
つまり、正統的なイスラム教は唯一神への信仰を基本とした
ものであるが、これと同時に神秘主義的伝統があり、
スーフィズムと呼ばれる。スーフィズムでは、神と人間の
合一を理想とする。また、神と物質界の間に中間的段階
(天使の世界など)を想定する多次元的宇宙観も共通して
いる。
「宇宙の究極は物質ではなく意識であり、それが世界を
作り出している(唯心論)」を主張する哲学思想は存在する。
特に「ドイツ観念論」と呼ばれるものがそれにあたる。
また中国には「タオ」の思想を中心とする世界観があり、
中国人の多くは、儒教・道教・仏教の三者を「タオについて
の三種類の表現」として、本来同一のものと見ていた。
日本では、いくつかの例外を除き、体系的な思想は発展
しなかった。日本における世界観は、むしろ「世界感覚」
として、文学や芸術に表現されることが多かった。たとえば、
「幽玄」という美的理想は、一つの世界感覚に基づいている。
もちろん、日本といっても多様なものがあるが、日本独自
の文化が確立した平安時代からは、仏教の思想が中心的
位置を占め、それに神道的なものが混ざり合った形態が
多かった。これは、古今集・新古今集・源氏物語から、
松尾芭蕉まで続いている。その基本的な世界感覚は、
世界とは夢であるというものであった。概念というより世界
感覚として思想を理解する方法は中国と共通したものが
ある。
しかしドイツ観念論には、西洋思想の枠組みから出られな
いという限界もある。たとえば、ヘーゲルの思想がインド的
であるにしても、ヘーゲルにはそれを「経験的に実証する」
という発想はなく、ましてそのための技法体系ということは
考えもつかなかった。このため、単なる理論にとどまり、
その真偽は永遠に証明不可能である。
19世紀後半から20世紀になると、近代の理性中心主義
が「聖なる次元」を喪失させたという問題点は明瞭になって
いた。このような時、フロイトの精神分析が登場した。フロ
イトの『夢判断』が「無意識の発見」の始まりを告げるもの
であった。
フロイトは、意識は人間にとって心の一部を占めるに過ぎ
ず、心の大部分は無意識という領域が占めていると考える。
フロイトに特徴的なところは、心の根源的エネルギーとして
「リビドー」というものを想定したところである。それは、
ここではじめて人間の非理性的な領域が学問の視野の中
に入ってきたということを意味したのである。それは「サイ
エンス」というものの枠組の拡大であった。
しかしフロイトにおいては、「聖」の次元が存在しなかった。
近代特有の「聖の次元を入れることは科学的ではない」
という考えがそこにあったのである。というのは、「人間とは
基本的に駄目なものである」という感覚が、近代知識人の
見方の「癖」として定着したのである。
無意識をすべて性的なものであるという理論は極端なもの
であるとして、反対する声が起こってきた。その代表的な
ものが、ユングである。ユングの仕事は心理学という枠を
超えて大きな思想的影響をもつようになった。
ユングは、個人レベルを超えた無意識が存在すると考え、
集合的無意識を仮定した。これは簡単に言えば、心という
ものは個人という枠に収まっていないものだということを
意味する。つまり心は身体の枠を超える広がりを持つこと
を示唆している。ユングは明確にしていないが、ユングの
理論はデカルト=ニュートン的な世界観とはなじまない。
むしろ唯心論的な世界観を示唆している。
フロイトにおいて「リビドー」として想定されていたものは、
ユングでは「心的エネルギー」とし、性よりも根源的な生命
エネルギーのようなものとして考えられた。これはある意味
では東洋的な「気」「プラーナ」の概念とも類似したものが
ある。つまりユングでは心=エネルギーであって、限界の
ない状態であると想定される。これはフロイトにおいて先駆
的な形で見られたものだが、フロイトはそのすべてを「性」
という枠だけに押し込めようとした。
集合的無意識と並んで重要な概念が「元型」(アーキタイプ)
である。これは、心的エネルギーのあるパターンのことであり、
それが普遍的に同じようなタイプのイメージを生み出す働き
があるという。
ユングの心理学は人間の心を全体的に捉えることを重視し
た。彼は心の主要な機能を、内向型・外向型、そして思考・
感情・感覚・直観の4機能に分類した。人間はその一つが
主要なものとしてあるが、他の機能も潜在的に常に存在して
いるという。
また実際の臨床に当たっても知性的分析に偏ることを避け、
狭い意味での科学というより一種のアートであるという立場
をとっている。これは近代的な知における「思考偏重」を
戒めたものといえる。
フロイトの精神分析が患者を社会に再適応させることを
目的としたのに対し、ユングにおいては心(魂)の成長という
テーマが登場してきた。彼は、魂には自己を癒す能力が
本質的に備わっていると考え、そのプロセスが展開するの
を援助することが心理療法の課題であるとした。
こういう成長のプロセスの目的として、ユングは「自己(セ
ルフ)」を想定する。これは「自我(エゴ)」とは異なり、より
深い次元の魂の全体性を示すものである。「自己」に向か
って魂が変容していくプロセスをユングは「個性化」と呼ん
でいる。
これは、仏教などの東洋宗教の世界とかなり接近してきて
いる。フロイトに始まる心理学は、ユングに至って、人間の
中にある「人間を超えた世界」を発見する入り口のところ
まで来たといえる。
フロイトによって、心=意識という前提が覆された。ユング
に至ると、「現実」という概念そのものが変容しつつある。
一言でいうと、現実についての「実体主義」の否定が進んで
いる。実は、これが20世紀の知の主要な方向であったと
言ってよい。すなわち、現実とは「意識作用の結果による
意識経験」としてのみ与えられているという見方である。
言い換えれば、「世界そのものは存在しない。世界の経験
があるのみだ」ということになる。
したがって、デカルト=ニュートン的な世界観も、世界の
客観的現実を反映したものというよりは、そのように世界を
把握する枠組み(ゲシュタルト)が我々に与えられている、
と考えるのが20世紀思想の大きな流れとしてある。
ここで、ユングの心理学を振り返ってみると、すでにそこに
ノンローカルな発想を顕著に認めることができる。ユングは、
心の世界を一種の「心的エネルギーの海」のような広がり
であるというイメージを持っていた。それが「集合的無意識」
という世界であり、ユングはそれを心の宇宙そのものと
考えていた。
そして、さまざまな心の内容は、そうしたエネルギーの海から
浮かび上がってくる「島」のようなものなのである。これが
ユングの「コンプレックス」という概念である。ユングによれば、
自我もまた一つのコンプレックスである。しかし現代人は、
自我のもともとの世界である無意識の海を忘れてしまって
いる、とユングは警告するのである。
なおここで強調しておきたいことは、こうした考えは、単に
頭だけの理論として生まれたものではなく、ユング自身の
体験および臨床体験という経験データをもっとも矛盾なく
説明できるモデルとして考えられたものだということである。
つまり、「心的現実」の世界にそれなりの実証的基盤を持つ
ものである。
また、ここでさらに問題になってくるのが、いわゆる超常
現象と呼ばれるものである。これは、透視、テレパシー、
予知、念力などの現象であり、「超心理学」と呼ばれる学問
の対象である(超心理学とは現在すでに確立した学問
分野であり、この研究自体は決して怪しげなものではない)。
多くの人は、こうした現象を受け入れるについて心理的
抵抗を示すことが多い。それは、こうした現象がニュートン
物理学の常識に反しているからである。
しかし、世界のノンローカルな性質を示している量子物理学
の理論に従えば、古典的な時空概念を超える作用があり
うることは、科学的知識に矛盾することはないのである。
現在、量子論と超常現象の関係はさかんに議論されている。
先述の、マスローの人間性心理学と同じ流れにあるものと
して、イタリアの精神医学・心理学者ロベルト・アサジョーリ
が作り出したサイコシンセシスという新しい心理学について
紹介しておこう。
ユングでは、無意識はすべて一括して扱われていたが、
アサジョーリは、上位・中位・下位無意識を明確に区別する。
そして、上位無意識に「トランスパーソナル・セルフ」、つまり
私たちの中の「高次の自己」があると考えられる。
サイコシンセシスの究極目的は、このトランスパーソナル
・セルフとつながることである。そうすると、万物のつながり、
圧倒的な愛の存在などが感じられ、他者への深い共感も
生まれてくるという。
そのためには、私たちはパーソナル・セルフ(通常の自我)
への同一化を一時停止する必要がある。
アサジョーリは、こうした心的発達のために、イメージ技法を
中心としてさまざまな方法を考え出している。こうしてパーソ
ナル・セルフとは別の、「純粋自己」とでもいうべき自覚が
生じる。これが心的発達のためのひじょうに重要なステップ
なのである。
アサジョーリが見出したトランスパーソナル・セルフの心的
経験は、古来から宗教体験・神秘体験として知られてきた
ものを脱宗教的な文脈で捉え直したものといえる。
また、ユングでは曖昧なままにとまっていた上位・下位の
無意識を明確に区別したことには特に注目される。無意識
の中には、心の成長につながるポジティブなものと、そうで
ないものとの双方が含まれているという洞察がそこにある。
このような、マスロー、アサジョーリなど、平均レベルを超え
る心の発達を明確に認める立場を基礎として、1970年ころ
に「トランスパーソナル心理学」という心理学の一派が生ま
れてきた。
これまで宗教においてアプローチされてきた領域を、心理学
の手法によって探求する姿勢。つまり、特定宗教の枠組み
から自由な立場において考える。
思想史的に見るならば、トランスパーソナル思想は、東洋
思想への接近と考えることができる。特に、日常的体験を
超えた次元について、体験的にこれを探求するという姿勢は、
それまでの西洋思想に欠けていた視点である。
トランスパーソナル心理学の当初から関わってきた代表的
人物に、スタニスラフ・グロフがある。彼の研究は「意識の
作図学」として知られており、主著『脳を超えて』の中で詳細
に説明されている。
グロフは、特殊な呼吸法を用いた技法を開発し、研究を
継続している。そこで、きわめて強烈なヴィジョン体験が
観察された。
グロフはこれを分類し、「意識の地図」を作ることを試みた
のである。そして、こうした「非日常的意識体験」といわれる
ものが、精神疾患の治療において劇的な効果を持つ場合
が少なくないことを、グロフは膨大な臨床データによって
証明したのである。
グロフは、人間の意識のあり方には大きく言って二つの
モードがあると述べている。それは、「向物質性モード」(ハイ
ロトロピック・モード)、「向全体性モード」(ホロトロピック・
モード)である。
グロフによれば、ほとんどの神経症・精神病は、この二つの
モードの間の不調和によるものである。この二つをどのよう
に統合するかが重要なことであるという。
グロフの研究の意味は、次のようなものが考えられる。
ユングが発見したよりもさらに広大な心的経験の地平を
見出したこと。人間の心的経験は、近代の機械論的世界観
では全く理解し得ない広がりを持っていることは、すでに
ユングの心理学において明らかとなっていたが、グロフの
理論はそうした超時空的な体験をさらに細かく調べ、分類
したものといえる。
これらは、人間の経験しうる心的経験のレパートリーがいか
に広大であるかを示したものである。これは、人間の心的
世界を考える上での基礎的データとなる。
しかしここで、呼吸法などによる経験が、そのまま「心の
発達」を意味するのか疑問が当然出て来るであろう。もち
ろんそうではない。
その問題に関連して、ケン・ウィルバーの思想について
見ていくことにする。
>>134 とりあえず
今連投してる人とあなたは同じ方なの?
2000年、アメリカの大統領選挙戦のさなか、ニューヨーク
タイムズの特集ページの一節で、民主党のゴアがトランス
パーソナル心理学の代表者ケン・ウィルバーの作品を愛読
していることが紹介された。元ニューヨークタイムズの記者
であり、『何が本当に大切か---アメリカの知恵をたずねて』
の著者であるトニー・シュウォーツは、ケン・ウィルバーを
「現代における最も包括的な哲学思想家」と呼んでいる。
マイケル・マーフィーは、オーロビンドの『聖なる生命』、
ハイデガーの『存在と時間』、ホワイトヘッドの『過程と実在』
と並んで、20世紀の四つの最も偉大な著作であると主張
している。もっとはっきりした言い方を好む読者は、アラス
デア・マッキンタイヤの有名な「ニーチェか、アリストテレスか」
という選択肢を引き合いに出し、「いや、現代世界は、
実際には三つの選択肢を持っている、アリストテレスか、
ニーチェか、あるいはウィルバーか」と言う。
このように、ウィルバーは、アメリカにおいては、現代を代表
する現代思想家の一人と評価されているが、日本ではいまだ
に一般に知られるところが少ない。
簡単にいうと、彼は「西洋と東洋の融合」を試み、一つの
新しい宇宙観を提示することを試みている。
ウィルバー思想の背景としては、量子物理学などにおいて
デカルト=ニュートン的な世界観の絶対性が崩壊したという
事実がある。
また、心理学における展開から、「ノーマルを超える自己
成長」という視点が登場してきたという流れである。
また、グロフなどによる、機械論的枠組みでは理解不能な
心的経験が発見され、心というものが通常考えられている
以上の広がりをもつという可能性が見出されたことがある。
そして、さまざまな宗教における神秘体験の共通性に注目
し、「諸宗教の超越的一致」という立場に立つ宗教思想の
台頭という要素がある。これは、オルダス・ハックスレーの
『永遠の哲学』という書に代表され、ここからペレニアリズム
とも呼ばれている。
それは、伝統的な宇宙観の価値を復興させようとするもの
ではあるが、ただしそれを教義としてではなく、その中核
には経験があり、それに基礎をおいているものと見なすの
である。
最後に、キリスト教を背景とした、テイヤール・ド・シャルダン
などの意識進化論の思想もあげられる。
ウィルバーは、このような流れを受け、東洋(と非近代西洋)
の伝統における「叡知」の立場と、西洋心理学を接合する
ことによって、より包括的なパラダイムを提示できると考えた。
また、全体としては「意識進化史観」という枠組みがあり、
これは東洋にはなかったものである。
その特徴は、これまで発見されてきた、人間が持ちうる心的
経験を階層的に位置づけた「スペクトル・モデル」にある。
ウィルバーの理論は時間と共に発展しているが、今は
1980年に出た『アートマン・プロジェクト』を中心にして見て
みよう。ただし、理解しやすくするため若干簡略化してある。
意識の発達段階のモデル:ウィルバーによれば、人間の
意識の発達可能性は、次のように整理することができる
という。
1.前自我的段階(プレ・エゴイック)
これは、さらにいくつかの段階に分けることができる。
要するに、乳児から幼児期の意識であり、自我が未発達
な段階である。自分というものを明確に意識していない。
基本的には身体感覚のみで動いている。
2.神話・共同体段階 (ミシック・メンバーシップ)
ある集団に同一化している意識状態。自分と集団を明
確に分離していない。ものの見方は呪術的・魔術的で
ある。
3.自我段階 (メンタル・エゴイック)
他者と異なる自我の意識が明確に現れた段階。現在の
人類の標準的な意識水準である。合理的・論理的な
判断力がある。
4.ケンタウロス段階
「純粋意識」とも言うべきもの。つまり、自我の制約を
超えた意識であり、想念や感情とは異なる「自分その
もの」の自覚。
( サイキック段階
自然神秘主義。すべての自然と一体化する。
サイの諸問題を無視できず、後期で追加された。 )
5.微細段階 (サトル)
神性神秘主義。時間空間の制約を超える。元型的
イメージの世界。超感覚の発生。
6.元因段階 (コーザル)
無形神秘主義。純粋な形、理念の世界。いわゆる神仏。
光明、絶対的な愛など。
7.統合段階 (ノンデュアル)
神秘主義。すべてをこえた「絶対」そのものとの一致。
究極的な覚醒。宇宙との合一。
サイキック以後が霊性(スピリチュアル)である。
前近代、近代の東西の哲学者、研究者から、百以上の
詳細な分類を確認し、これら分類の比較研究により、意識
レベル分類が生まれた。
1〜3は精神分析に始まる現代心理学で発見されてきた
領域である。また4の段階は、フッサールやベルグソンなど
の「純粋意識」の思想家、およびアサジョーリによって明確
に捉えられた意識経験といえる。
それ以降の、5〜7については、それまでの西洋文明に
おける学問の中で語られたことのないものだが(神秘主義
の中でいわれていたが、異端的なものだった)、東洋の
思想的な伝統ではかなり普遍的に見られるものである。
近代的学問という文脈の中で、こうした意識領域の存在に
ついて正面切って語ったのはウィルバーが初めてである。
こうした伝統では、人間は誰しも、宇宙との究極的な合一
に至るまでに意識を発達させることのできる可能性を持って
いるという考えで一致している。ウィルバーはそれを仮説
として受け入れ、西洋のそれまでの心についての理論と
合体させたのである。
こうした上位の意識状態の存在については、伝統的な文献
にいろいろと記述されており、グロフによるサイケデリック・
セッションでもそれに近いような経験が報告されている。
しかし、そのようなセッションにおける経験は一時的なもの
であり、自分で明確にコントロールすることができない。
そのような一時的状態は、その段階に意識が発達したという
こととは異なる。
ウィルバーはそこで、そうした一時的なものを「意識状態」と
呼び、それを完全に自己のものとしていることを「意識構造」
が変化、拡大したという言葉で言っている。
ウィルバーは、5〜7のような高い段階の意識の存在も、
「経験」として確認しうるものであり、その意味で検証可能性
があることを強調する。「瞑想の実践」がその検証方法に
該当する、と彼は述べている。これは「観察→仮説形成→
グループによる検証」という手続きを経るものであり、
「サイエンス」という精神に合致したものである。そうした
反証可能性が存在する限りは、それは学問としての基準を
満たしている、とウィルバーは考えるのである。
だが、理論的な可能性としてはともかく、現実には、心理学
は現在「ケンタウロス」の段階に到達しつつある状況であり、
それ以上の諸段階については、これを実証的に検証する
段階にはまだ遠いものがある。
ウィルバーの思想は、東洋思想的なアプローチを大胆に
取り入れた点で、西欧近代思想の前提を超えているところ
がある。だが、ウィルバーの理論の妥当性は、理論その
ものではなく、実際の「知覚」によって検証されるもので
あり、そのように作られている。
つまり、人間は日常生活的な常識を超える体験をするもの
であるという事実をふまえて、その体験データを統合的に
説明するモデルとしてウィルバー理論は作られている。
たとえば、臨死体験、退行催眠による前世経験、至高体験、
超心理現象など、こうした体験例を調査し、それとウィルバー
理論とにどの程度の整合性があるかという観点から、
検証を進めなければならない。
この時点での彼の理論によれば、すべて、ある次元の意識
構造は、それ以前の発達ステージの意識を十分に発達させ
てはじめて到達されるものと考えられている。そこで、ステ
ージ5の「微細」次元の知覚能力は、それ以前の自我や
ケンタウロスの段階の上に来ると考えられている。
しかし、多くの体験例によると、個を超える次元の経験には
必ずしも肯定的、超越的ではないネガティブな経験も多数
報告されている。「個を超える、ネガティブな体験世界」は、
ユング、グロフ、アサジョーリなどにも知られている。
この点で、アサジョーリの卵型のモデルが、より体験データ
の正確な理解につながるものと考える。アサジョーリの言う、
上位・中位・下位を含めた「無意識」世界全体が、一つの
体験領域という点で、「微細」の次元をなしている。
そして、アサジョーリの言う意識の領野が、日常的な体験
世界であり、その統合中心が自我(パーソナル・セルフ)
であると考えることができる。
そして、おそらくこの卵形の外側というものがあり、それが
微細を超える次元世界である。アサジョーリの言う「トランス
パーソナル・セルフ」とは、そうした微細以上の次元(ウィル
バーで言えば「元因」)と接触する経験かもしれない。
微細・元因・非二元(統合)の領域区分については、表現
は異なるが過去の東洋思想にも共通してある考えであり、
多くの神秘主義的伝統では一致している。
しかし、微細次元は、必ずしも自我次元よりも無条件で
「上位」とは言えない。むしろ、ユングやアサジョーリが指摘
するように、善も悪も、光も闇も、両義的に共存している
と考えるほうがよい。したがって、こうした領域を知覚する
能力は、必ずしも成長を意味するとは限らない。
むしろ、アサジョーリのように、自我次元は、無意識としての
微細次元に包囲されているというモデルが、さまざまな心的
経験によく適合するのである。
物心の関係という問題がある。これはトランスパーソナル
思想の中でも微妙な問題といえる。ここで注意することは、
これは本質論ではなく、「そのような意識経験が存在しうる」
という心的現実を認めることから出発する必要があるという
ことである。「どの視点から見るか」によって異なってくる
とも言える。
>>163 そのページは知らなかったので、読ませていただきます。紹介ありがとう。
でも貴方が、どこかのページからコピペしてるのであれば
全文そのまま持ってくるのではなくて、URL貼るだけにしたほうがいいですよ
100レス書き込んで、皆100レス読んでくれるわけではないのだから。むしろその反対。
引用厨は自分の言葉で語ってくれよ・・・
引用されるだけでは、討議ができない。
トラパーは体験が重要なんだがね。
おうむ返しはトラパーに反するんだがね。
「キリスト教そのものを立て直さないといけない、ということ
で、キリスト教の中からトランスパーソナル的な動きが
出てきたそうだ。というのも、アメリカのキリスト教徒の
70〜80%は原理主義的なキリスト教徒で、そういう人達
に東洋の宗教を提示しても”悪魔の仕業だ”と片付けられ
るのがおちだから、トランスパーソナルの方からも、西洋人、
特にアメリカ人のメンタリティに大きな影響を与えている
キリスト教を見直さないと、という動きもあったのだろう」
http://salieri-t.air-nifty.com/mezasu/2004/11/post_6.html 「茨城キリスト教大学・心理カウンセリングコースでは「トラ
ンスパーソナル心理学」を学ぶ。トランスパーソナル心理学
とは、従来の心理学の領域を越え、夢、瞑想、宗教といった
題材を手がかりに心の奥底を探る」
http://shingakunet.com/gakkareport/SC000176/GB030001/GK000002/ 「生存するために、特に経済的に生存するためには、人間
性心理学とトランスパーソナル心理学は、ぎこちない結合
を強いられる可能性が高い。そしてトランスパーソナル
心理学は、アメリカ心理学会第32部会の人間性心理学
部門に一緒になるだろうが、その部会は、他の部会に
比較しても勢力が弱い。私のポイントは、両方の心理学が
より全象限・全段階的アプローチに方向を変えない限り、
新しい統合的な対応に対する要求の選択圧力に淘汰
されかねないということである。」
ケン・ウィルバー
「意識の研究は、現在のところ、明らかに脳にその根拠を
おく側面を中心に進められている。意識が完全に脳の
システムに還元できないという、あまりしっかりしている
とは言えない合意がある一方、脳と心が正確にどのよう
な関係にあるのか=「ハードプロブレム」に関しては、
広範な合意さえない。『統合心理学への道』では、心の
側から、統合のテーブルに、その側面の大要を提供する
ものである。私たちが求めている脳と心の両方の側に
公平な心身理論に対して、有効なツールを提供する
だろう。意識の包括的なモデルは、最終的には神経科学
に由来する脳の側面と、心の側面とを包括すべきであろ
うからだ。」
「そこで示した全象限・全段階は、トランスパーソナル、
非二元(ノンデュアル)の段階も包含するが、同時に
『意識のハードプロブレム』にも答えうる、と主張する。」
「ハードプロブレムとは、いかにして私たちが、いわゆる
客観的な、物質的・非経験的な世界から主観的な経験
を獲得できるのか、簡単に言えば、主観性がなぜ客観
世界から生まれるのかという問い、という問いである。」
「相対的な次元においては、主体と客体の関係に対する
相対的な解決は、特定のタイプの汎心論において捕捉
される、と考えられる。それはライプニッツ、ホワイトヘッド、
ラッセル、チャールズ・ハートショーン、デヴィッド・レイ・
グリフィン、デヴィッド・チャーマーズらによって、様々な
形式で語られてきた。」
「私は伝統的な学派としての心理学(行動主義、精神分析、
人間性心理学、およびトランスパーソナル)は、ゆっくりと
衰退していって、二度と文化ないしアカデミズムにおいて
主流な影響力を持つことはない、と考えている。」
「西欧の歴史(伝統文化、モダン、及びポストモダンの混合
としての)のこの時期、また特に2000年を迎えたアメリカ
において、私たちは激しいフラットランドの急流の中にいる。
それは科学的唯物論(オレンジのミーム)と「表層しかない」
とする極端なポストモダン(グリーンのミーム)の乱雑な
結合であり、簡単に言えば内面などなく、すべて眼に見え
る外面のみ、深度はなく、すべて表面のみ、というもの
である。これが、内面のみを扱う、あるいは内面を強調する
心理学(精神分析、人間性心理学、トランスパーソナル)
に、強い選択圧力となって働くのである。ますます生物学
的心理療法、修正行動主義、認知療法などにかたよった
ものになる。四つの学派のうち、三つまでが、繰り返す
生存競争の選択圧力を受けている。」
「行動主義理論が生き残ったのは、それがまさに外面的
行動に焦点を当てたためだが、同時により洗練された
形態に移行したからでもある。その一つが認知科学であり、
もう一つは進化心理学である。現代の心理学の主流の
形態となっている二つの学派において、そこには、いわ
ゆる内観・内省は見られない。内部・深度に対する探求
はない。そこにあるのは客観的なシステム、ネットワーク、
経験科学的な生命の網(ウェブ)をうろつきまわる”それ”
があるのみである。かくして三つの主要な内面的な
心理学派はゆっくり枯れるがままにされてきたのである。」
「私の考えでは、以上の三つの内面的な心理学がこの
新しい社会文化的な選択圧力に生存するためには、
全象限・全段階のフレームワークを認識し、それを適用
する以外にないと考えている。なぜなら、こうした統合的
な心理学だけが内面と外面のリアリティを包含できる
からである。こうすることにより、内面的な心理学は
認知科学および進化心理学の経験的・検証可能な真実
との間に、外面のリアリティのみしかないのだと主張する
還元主義に屈服することなく、橋を架けることができる
のである。」
「すなわち、生き残ることのできる心理学は、ただ全象限・
全段階の形式と接続できる学派である。それは意識の
生物学的・客観的・認知学的な構成要素を完全に受容
する。しかしそれはただ四つの象限の一つとしてのみ
である。統合的なアプローチは、今、支配的となっている
外面的心理学の相対的な真実は受け入れるが、同時
にコスモスとその意識のより包括的な全景をも見ている
ことを忘れないものである。外面と内面、個体と集団が、
互いに還元不可能でありながらも、切り離すことのでき
ない相関関係にあることを指摘する、すなわち脳と身体
における事象と、心と意識の内面的な事象との相関関係、
さらにはそれらが文化と社会のリアリティに分かちがたく
結びついていることを常に指摘する。」
「客観的・外面的アプローチの持つ厳しい限界は、個人の
研究者たちには明らかになりつつある(あるいはいずれ
明らかになる)。したがって彼らは、このフレームワークを
用いることで、より包括的なアプローチを獲得することが
できる。」
「生き残ることのできる心理学とは、全象限・全段階のフレ
ームワークに接続できる心理学である。すなわち、物質・
身体・心・霊の段階をすべて含み、行動的・志向的・文化
的・社会的な次元を包括したアプローチである。こうした
心理学は、もはや我々の知っている心理学ではない。
こうしてその心理学は、もはや心理学ではなく、コスモロ
ジーの本来的に内在する主要な姿となる。その実践は
コスモスの運動そのものである。」
「このため、四つの心理学派は引き続き衰えるであろうし、
その場所は、リアリティの未だ占められていないニッチ
(言うまでもなく、全象限・全段階のスペース)を認識する
新しい文化選択圧力(またはエロス)に適合した統合
心理学のさまざまな形態によって埋められるであろう。
それは、リアリティの、より高い、より広い次元を認識する
ことで、生き残りの確信を得ながら進化することができる。
統合的なアプローチが主張するのは、それがリアリティ
に対して、より適切であるがゆえに、意識的に全象限・
全段階へ進化することは、内在的に生存価値を持つ、
ということである。包括性、適切性の少ないアプローチは、
それに比例して、絶滅の圧力にさらされるだろう。」
「これによって、四つの学派は、歴史の恐竜になる。しかし
同時に、そしてこの点こそ、疑問を呈するところであるが、
真のその心理学は、他の四つの学派の重要な真理を
超越し、かつ包括するのである。失われるものは何もない。
すべてのものは保存されている。」
「真の心理学であるか否かの検証手段は、それが他の
学派の検証された研究データや結論を一貫して消化、
吸収できているかどうかに関わってくる。」
「四つの学派のみならず、発達論的な心理学、進化心理学、
認知科学、現象学・解釈学的アプローチに関しても同様
である。」
「無論これは、たじろぐようなチャレンジであり、あるいは
永遠に到達不可能であるかもしれない。しかし今日、
我々にはそれ以下ではまったく満足できないほど多くの
ことを知っているのである。」
「統合的なアプローチは、現在、非常に多くの大学において
認知されている。ハーバード大学から西ジョージア州立大、
カリフォルニア大学バークレー校からスタンフォード、ヴァ
ーモント大学など。こうした大学の多くの共感的な教授陣
により、統合研究は、真の可能性を開花すると思われる。」
ケン・ウィルバー
そして、内面と外面の統合こそ、「ポストモダン」の課題
なのだと、ウィルバーは言う。
『進化の構造』でのウィルバーの仕事は、すでに心理学の
枠をはるかに超えており、もはや彼を「トランスパーソナル
心理学の代表的な理論家」と呼ぶことはふさわしくない
かもしれない。そして、もし人類そのものが生き残れば、
の話だが、おそらく、プラトンやヘーゲルなどと並んで、
人類の思想史に残っていくような、きわめて正統的な
「現代思想家」の一人になったと見なすべきかもしれない。
そして、現在のウィルバーの思想は、明らかに正統・主流
を目指す大人の思想であり、もはや永遠の反逆児的な
異端・反主流にとどまっている思想ではない。そのことは、
『万物の理論』で、いっそうはっきりとしています。そこでは、
ウィルバーの仲間たちが、ゴア、ブッシュ、ブレアなどの
政治家たちのブレーンに入っていることがはっきり語られ、
「統合的政治学」の展望も語られている。
最新の著作は、「トランスパーソナル心理学」ではなく、
『統合心理学』となっており、そういう意味で、21世紀の
初頭に至って、ウィルバー・コスモロジーとトランスパーソ
ナル心理学は、協力関係でありながらも、生物進化に
おける種の枝分かれに似た、いわば「発展的分岐」の
地点にまで達している、と考えられる。
トラパーは体験が重要なんだがね。
おうむ返しはトラパーに反するんだがね。
ダメだ、このスレ・・・
>>180 貴方、上でもまったく同じ事いってるじゃないか
「一般的に精神医学よりも、心理学の方がこういうコンセ
プトに関しては開かれています。精神医学も医学ですので、
生物学的な原因を求めるやりかたに慣れているし、そう
いうパラダイムを持っています。今までのパラダイムの
破綻について、具体的に示してくれている体験例は、
かなりあるし、数多く、出版もされてはいますが、プロフェ
ショナルな立場から、そういった内容にまともな関心を
向ける人はいません。」
「極端な例では、臨死体験があります。体外離脱で、ケネス
リングの例では元々、盲目の人だったのが見るはずの
無い物を見る、自分がいるのではない他の部屋で何が
おきているのか見えてしまうのです。体験的な報告をふま
えて、パラダイムを変えていく方向に持っていかなければ
難しい。」
「科学というものが何かということに対しての、基本的な
誤解があります。科学的であるというのは、物質的な
価値観に染まるという誤解です。私にとって科学というのは、
どんな分野にでも、科学的方法を応用するのが本当の
科学であってそれにはもちろん、トランスパーソナルな
分野も含まれているはずです。」
「また、スピリチュアルな事と ,宗教とをゴッチャにしている
という問題もあります。トランスパーソナル心理学を批判
する人の中には、私達が、宗教を擁護しているという意見
があります。でも、どんな宗教でも、その大元は何らかの
トランスパーソナルな体験があって、インスピレーションを
うけて始まっているわけです。」
「組織宗教になってしまうと、元々の発想、元々の感覚を
失ってしまって、政治とか、お金とか、ヒエラルキーの問題
になって俗っぽくなってしまいます。日本でもそうかどうか
わかりませんが……仏教は、体験的なものとのつながりを
持っているのではないですか? 西洋のキリスト教の場合は、
霊性から遠ざかっていて、日曜に教会にいけばいいとか、
献金すればいいとかという風になっています。」
「トランスパーソナル体験の科学的な研究と宗教が歴史的
にどのような経過をたどったのかは、別の話しです。
体験の意味合いを、日常の中で観ていくことが大切です。」
「スピリチュアルエマージェンスを、精神科医にどう理解して
もらうかというより、はるかに根っこの問題として、彼らの
発想自体を変えていかねばなりません。そのためには
彼らに、トランスパーソナルな体験の機会を与えるのが
一番です。精神科医で、本人がパワフルな体験をしない
限り、変容した例は一件もありません。私自身もそうです。
一定の宗教を信じているわけではなくて、チェコで医学を
学び、マルクス主義、唯物論的な考え方の中で変わった
のは、自分で体験をしたからです。」
「呼吸さえすれば、自分自身の中に、内なる治癒力が自然に
働いて、自分を導いてくれます。」
「たとえば、車を運転しているとして、ダッシュボードに、
”オイルがきれるよ”というサインの赤ランプがついたと
します。修理工を呼んで、赤ランプ自体をとってもらう
というのでは、困るわけです。」
「理由があって、その症状がでてきているのだから、
出せるような状態を作っておくことが、大切です。」
「日本のように精神的な文化の豊かな国でこういう事を
言わなければならないのは、とても悲しいことです。
すでにあったはずなのに、今では、失われています。
文化が、その間に、まったく別のものを受け入れて
しまったとしか言いようがありません。」
( お坊さんに、同じ事を言われましたよ。 )
「82年にインドのボンベイで会議をやった状況に良く似て
います。本来は、インドも精神的に豊かな国で、思考も
西洋とは別のもののはずなのに、医療関係者は行動
主義的で科学的な振る舞いを身につけています。」
「しかし、インドに住んでいれば、その影響を受けけずには
いられないわけで、彼らは科学とスピリチュアリティを
何らかの形で融合出来るのではないかと、考えています。」
「日本の精神的な伝統の文献を見ると、霊的な瞑想状態
とか、観相状態の時に、突然パワフルなプロセスが出て
くるというのは、よくあります。」
「今朝、私の講演の中で通過儀礼について話しました。
マーガレット・ミードのことをお聞きになった事があるかと
思いますが、彼女の考えは、現在では、意味のある
有意義な通過儀礼がなくなってしまったというものです。
通過儀礼をどうしたら作る事ができるのかという事で、
アメリカで注目されています。」
「2年前、私とクリスティーナはニューヨークの州レベルの
会議に招かれました。私達はどうやれば新しい通過儀礼
を作り出せるか、真剣に議論しました。あらゆる通過儀礼
は、自分の内面に大自然や宇宙とつながるチャンネルを
作ります。自然体験をさせるとか、ホロトロピックブレス
ワーク、そういったことが解決の方向に行くのではないか
と思います。」
スタニスラフ・グロフ
(第三回、日本トランスパーソナル学会、会議録)
http://www.npcj.com/sen/sen980530.html
「意識はどこにあるのかと言った場合、顕現された意識は、
まさしく芸術と同じ所にある、と言わなければならない。
言い換えれば、内面の象限は、配分された現象の機能的
なローカス(座)である。意識は、脳の中に位置している
のでもなければ、脳の外側に位置しているのでもない。
脳は、単純な位置を持った物理的限界である。しかし
意識の多大の部分は、単に物理空間に存在しているの
ではなく、情動的な空間、心的な空間、スピリチュアルな
空間に存在している。これらのうち、どれも単純な位置を
持ったものはない。それでいて単なる物理空間同様に、
(あるいはそれ以上に)リアルなものである。」
「顕現された意識は、すべての象限とすべてのレベルに
わたって配分されているというのは、そのような意味で
ある。外面の象限は、すべて単純な物理的空間に位置を
持ち、指し示すことができる。しかし内面の象限は、
志向性(インテンション)の空間に位置し、延長された
(物理的な)空間に属してはいない。したがって、具体的に
指で指し示すことはできない。しかし意識は、この空間、
つまり延長された空間(物理空間)に根ざしているのと
同じように、根ざしている。」
ケン・ウィルバー
「それは、内にあり外にある自己である。
然り、内にあり外である。」
マイトラヤナ・ウパニシャッド
「真実を言おう。この六尺の体の中に、世界があり、
世界の始まりがあり、世界の終わりがある。」
釈尊
「なぜなら、天の王国、いやむしろ、天の王が、
私たちの中に存在するからだ。」
グレゴリオス・パラマス
「私たちの現在の意識の世界は、存在する多くの意識の
世界のひとつに過ぎず、それらの他の世界は私たちの
人生にも意味のある経験を含むに違いない。そして、
概してそれらの経験とこの世界での経験は分離したまま
だが、二つはある地点で連続的になり、より高いエネル
ギーが浸透するのだ。」
ウィリアム・ジェームズ
「私たちの存在が二つの根本要素からなっていることより、
その根本要素が一つだけだということの方が、もっとあり
えないことであろう」
チャールズ・シェリントン
「心とは、それ自身が基本的な”要素”であると見るべきで
ある。心は脳とは独立して働くもののようである。それは、
プログラマはコンピュータとは独立しているというのと同じ
意味である。脳内のニューロンの働きによって心を説明
することは、これからもずっとできないであろう。心は、
最高度の脳のメカニズムとともに、行動を起こし、行動を
終える。だが、心はエネルギーを持つ。そのエネルギー
の形は、軸索を通り抜けるニューロンの電位とは違うもの
である。」
ワイルダー・ペンフィールド
「時間は人間が発明したものである。
だが空間は、空間は神々のものである。」
マックス・ベックマン(有名画家)
「知識は進歩したが、空間の概念をさらに拡大したエネルギー
という考えも、心を扱ったり、説明したりする力はないという
ことは、ますます明らかになるばかりである。心は、幽霊
よりももっと気味悪く、この空間の世界を歩いている。
目にも見えず触ることもできない。輪郭ももたないもので
ある。それは”もの”ではない。永遠に”もの”の姿を
持つことはない。」
チャールズ・シェリントン
外部に「物」そのものがあり、視覚がそれを反映するという
ような素朴実在論的な発想はここでは捨てられているので、
注意をしておく。また、超感覚的な知覚を前提とするような、
脳を超えた「実体」としての「魂」という観点を持ち出すことも、
ここではおいておくことにする。そうするまでには及ばない
からである。
イメージというのは脳が生み出したとか、脳の内部に局在
するとかいうものではない。ある「世界」に広がって、それ
自体で存在するもので、「所与の現実」である。むしろ、
脳が生み出したというのは二次的解釈であり、それ自体が
一つのイメージ的構成であるということになる。それは
イメージについて内的に観察すれば、当然肯定できる見方
だと言える。脳が特権的な位置にあるどころか、むしろ
イメージの世界に包まれているのである。
もちろん、あるイメージがあるときには、それに対応する
脳のメカニズムがあるとはとりあえずは言える。
しかし、広松渉が『新哲学入門』で言うように、そのメカニズム
では「見る」こと自体の説明にはならない。「見る」ことが
なければ「イメージ」なるものは生まれないはずだからだ。
しかも、それは初めからある「空間」において結ばれるので
あって、脳の中にあるものが外部に投射されたものだと
理解することは困難である。
つまり、「見る」こと自体の複雑な機構は別にして、イメージ
なるものが脳の生み出したものであるとは、とても単純には
言えないのである。
それは、もちろんイメージに限られず、人間のあらゆる認識
や行為について言いえるものである。
そういうわけで、「脳」に特権的な位置を与えることには
さほど根拠がないということを、簡単にではあるが示せた
と思う。
> 現代心理学では、実証主義的なアプローチがもてはや
> されているので、おのずとデータの収集とその解析に
> 膨大なエネルギーを割くことになる。しかし、こうした
> アプローチはあくまでも研究としての体裁を整えるための
> 方便に過ぎないと割り切っている。心理学的なデータは、
> 必ずしも科学的なものである必要はないと思うし、質的な
> 研究であっても十分な場合もある。「実証的研究」という
> ものの限界さえ悟っている。私は、物質的世界を説明
> する言語としての科学には一定の信頼を置いてはいるが、
> 心理現象が科学的世界観の範疇にあるという発想も、
> 1つの考え方に過ぎないと思う。
http://blog.melma.com/00125294/20050104173922
「”元型”の究極的な核心的な意味は、”暗示的に示す
こと”はできても、”はっきりと記述すること”はできない。
というのも、われわれが元型について何を言おうとも、
それらは例証や具体的説明にすぎず、いずれも、
意識の領分に属することだからである。」
「これに類似したものをさらに求めるとすれば、何よりも
まず最広義の”ゲシュタルト(形態)”、今日ゲシュタルト
心理学が理解し、生物学においても応用されているよう
な意味での、ゲシュタルトを挙げることができるだろう。」
「元型とは形式上のものであって、内容的には規定されて
いない。ゲシュタルトにおいてこそ、われわれが構造上、
その根本において保持している被制約性を、文字通り
その全体的な明白な意味を、認知しえると言っていいの
ではないだろうか。」
「しかもゲシュタルトは本来何ら解釈も必要としない。
ゲシュタルトはそれだけで、すでにみずからの意味を
はっきりと示しているのである。」
ヨランデ・ヤコービ 『ユング心理学』 (1973年)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4531080106/
「誰でも4まで数えることができ、円や四角とは何かを
知っている。しかしそれらが形態原理として何を意味する
かは意識されておらず、その心理学的な意味も同様に
意識されていない。私の最も本質的な見解や概念は
こうした経験から生まれたものである。」
「イメージと意味とは同じものであり、イメージが自らを
形成するとすれば、意味は自らを明らかにする。」
「形態はそもそも解釈を必要としない。それはそれ自身の
意味を表現しているからである。」
カール・グスタフ・ユング 『元型論』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4314008407/
右脳は、左脳のように直線的な理屈や単一の因果関係
を追っていくのではなく、さまざまな場を一息に飲み込む。
パターン化されたゲシュタルト(全体像)として、直観的に
把握するのである。こうしたモードの精神作用は、芸術的
活動や、パターン認識、に役立つ。
この右脳の機能は空間にかかわっており、話すことは
時間を使うことであるから、右脳の働きは空間的であり、
左脳は時間的であるという言い方ができる。右脳は左脳
よりも「微細次元」に近い。
そのようなサイキック次元に関わっていく力がなければ、
人間は生きることはできない。このことを示す経験的な
証拠がある。被験者を眠らせるものの、夢を見ることを
禁じると、気がおかしくなってしまうのである。形而上学的
に言えば、より小さなものは、より大きなものによって
秩序づけられ、エネルギーを与えられるからだ。
心は、その左脳(人間に特徴的な)によって堕罪を受け
入れる。その一方で、右脳は超越性を保つのである。
人間が二つの本性を持つことの証明である。人間はこの
世に属していないのである。もし心が、それを完全な
不透明性、生命の欠如から解放しようとするならば、
心のある部分は、外部にとどまっていなくてはならない
のである。
「元型的イメージはさまざまに変形されており、それ自体
具象的な形をもたない基本型から生じたものである。
この基本型は一定の形式要因と一定の原理的な意味を
もっているのが特徴だが、しかしそれらについては
おおよそのことが分かるにすぎない。元型それ自体は
類心的な作用因であり、いわば”心のスペクトル”の
不可視の紫外線部に属している。私があえてこのような
仮説を立てるのは、意識によって知覚される元型が
いずれも何らかの基本テーマの変形であるように思われ
るからである。」
「客観的現実を表すには数学的モデルが必要だが、この
モデルは目に見えない因子を使わなければならない。
心理学の場合には客観的現実を定式化するさいに、
その中に観察者としての心がすでに織り込まれてしまう
ため、なおさらこの[認識上の困難という]普遍妥当性を
免れることはできないのである。心理学の理論は数学的
な形にはなりえない。われわれは心を数量的に図る
物差しをもっていないからである。」
カール・グスタフ・ユング 『元型論』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4314008407/
> 30 :没個性化されたレス↓ :2005/03/26(土) 21:05:47
> 人には、人固有の「こころ」というものはあるよ。
> だからこそ、古代からいろんな人がそれに悩んできたんだ。
> 心理学も本来その「こころ」について研究する学問なんだ。
> でも、昔の科学的方法論ではその「こころ」という現象は
> 捉えられないので、刺激と反応の対応関係の測定から、
> その反応が出てきた過程を推理するという推理心理学
> という方法論での、「心の仮想モデルづくり」になって
> しまったんだ。
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1111693401/30
>>61-95の連投の後
97 名前:没個性化されたレス↓ 投稿日:2005/04/19(火) 11:37:18
>>96 ごめん もうやらない
>>99-133の連投の後
134 名前:没個性化されたレス↓ 投稿日:2005/04/30(土) 20:23:28
>>111 気にする人がいるからつい
ごめんもう二度とこない 忘れて
>>136-163-177の連投の後
180 名前:没個性化されたレス↓ 投稿日:2005/05/02(月) 20:34:03
>>178-179 一区切りついたので、ここはもうこない。
201 名前:没個性化されたレス↓ 本日のレス 投稿日:2005/05/03(火) 10:53:33
>>164 もうここにはこない。
ーーーーーーーーー
人をおちょくってんですか?そんなんでトランスパーソナルなんか勉強して大丈夫?
> いずれ、原因の究明がなされるだろうが、一つには強迫
> 的なまでの厳しい時間管理が運転士に焦りを与えていた
> ことがあるように思う。新米でオーバーランした遅れを取り
> 戻そうとして、秒刻みの定時運行に執着したことが生んだ
> 事故なのかも知れない。
> インドはきわめてアバウトだった。時刻など全く無視して
> 動いていたのを思い出した。日本は、いってみれば時間
> の神クロノスが動かしているようなものだ。そのクロノスは、
> すべてのものを飲み込み、食べ尽くしてしまう恐ろしい
> 側面ももっている。物理的な時間に縛られると、どこかで
> 無理が生じ、破滅するのである。安全神話は、クロノスに
> よって崩れるのである。
> とかく、こういう事故が起こると運転士の過失責任など、、
> 悪者探しが始まってしまうが、特定個人が責任を追及
> されて終わるのではなく、そういう事故を生み出した組織
> 風土など、社会環境的な要因にも目を向けるべきだと
> 考える。個人を責めるだけでは、何の問題解決にもなら
> ない。
> この事故が起こってから、やたら列車のオーバーランに
> 関する報道が増えてしまった。これまで見過ごされてきた
> 部分に一気に注意が向けられるようになり、重箱の隅を
> つつくようにあら探しが始まってしまうのもいかがなもの
> だろうか。
http://blog.melma.com/00125294/20050427111952
『イメージ体験の心理学』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061491172/ イメージは、心身の動きから思考知覚にいたるまで、大きく
影響している。そのイメージの特徴と、いかにイメージに
治癒効果があるかわかる。ユングなども含むイメージに関わ
る心理学をまとめたもので、心理学一般としてのイメージ
心理学の本としては最もまとまっている。この本を読むと、
イメージとは何か、と強烈な疑問がでてくるはず。
この本では、”イメージ的な世界こそが心の本性である”
と言おうとしている。そして、そのイメージ的な世界の中核
には、臨死体験や神秘体験のようなものがあるのでは
ないか、と関心を伸ばす。そして、夢というのは、一日の
経験をこのイメージ的な世界へと統合する働きではないか、
と解釈している。
ただ、「そのイメージ的な世界には深度や次元がありそこに
移行するための技法」という視点はない。それは心理学では
トランスパーソナルのみが持つものであり、今後、最大の
特徴となってくる。
いずれにしても、ウィルバーは、これまで蓄積されてきた
膨大な臨床データから、新しい、大きなパラダイムを提示
したのである。
それは、ライン(流れ)とレベル(波)、状態、恒久構造と
移行構造、自己の様々な区別(先行自己、前面自己など)
である。
ウィルバーは、自己の成長・発達が単線ではなく複線である
こと、すなわち複数の流れが走っていること、自己とはそれら
複線をなんとか束ねているものであること、レベルとは、
それぞれのライン(流れ)が通過していくレベル(波)である
ことなどを示し、さらに、いったん出現すると以後、恒久的に
残存する構造と、移行的・一時的に現れる構造とを区別した。
こうして、生涯続く人間の成長・発達にマトリックスを与え、
人間の意識の統合理論のための道程を示したのである。
これらのマトリックスをどのように活用し、あるいはどのように
発展させていくかは専門的な心理学者の肩にかかっている。
ただ、『進化の構造』も十分に読まれているとは言えない
現状では、かなり悲観的にならざるをえない。
ウィルバーが強調するもう一つのことは、トランスパーソナル
な体験は、発達のどの段階でも起こりえるということである。
それは一時的な状態として誰にでも起こりえる。
何か特定の聖者のような人にしか起こりえない体験でも
なければ、また長い修行の果てにのみ起こりえるものでも、
特別のドラッグやらではじめて起こるようなものでもない。
ただ、私たちはそうした体験が起こっても、それと気がつか
ないために、恒常的にそれを自分の心理構造の中に組み
込むことができないだけである。
いつも、何度でも、起こりえる。
「ほとんどの心理学者たちが、何かについて”主観的”という
レッテルを貼るとき、それらは信頼できないもの、非科学的
なもの、重要でないものを意味する。そしてそれらは
まったく扱われないか、あるいは”主観的”というくずかご
のなかに投げ捨てられるのである。被験者の内的体験
には豊富なデータが含まれているのであって、いくつかの
研究はあまりにも客観性を重視することに熱心すぎる
あまり、こうした豊富なデータを無視しがちである。こうした
片寄った見方は、少なくとも一部は科学的客観性に関わる
不確かな仮定的基礎に基づいているのであって、それは
決して哲学的に確固たる妥当性をもっているわけでは
ないのである。」
チャールズ・タート (超心理学者)
「私は第三の勢力である人間性心理学を過渡的なものと
思っている。私はトランスパーソナル心理学を、人間性、
アイデンティティ、自己実現などを超えて、人間の欲求や
関心ではなく、宇宙に中心を置いたトランスパーソナルな、
トランスヒューマンな、より高次の第四の心理学の土台
として捉えているのである。」
エイブラハム・マズロー (人間性心理学者)
こうした問題を十分に見据えたうえで、ウィルバーは、
科学的知識だけが唯一の知識の様式なのではないと
いうことに注意を喚起する。
研究者たちは、”非科学的”という言葉が”検証不能”を
意味すると教え込まれてきたために、その言葉を聞くと
いとも簡単にパニックに陥ってしまうが、それこそが科学
主義者たちによって植えつけられてきた慣習的事態なの
だとウィルバーは言う。それは必ずしも即座に、無効な、
検証不能な、非理性的な、無意味なものだということを
意味するわけではないのである。
高次の意識状態の研究にあたっては、もはや科学という
言葉にこだわる必要はないという立場も十分可能である
ことを説得力のある言い方で主張しようとしている。
「科学は単なる良い観察ではない。良い観察ならそれまで
何千年もなされてきた。科学とは特殊なタイプの観察
なのである。」
ケン・ウィルバー
「経験」とは、「感覚器に直接的に感受されたあらゆる経験」
と思われている。だが、そこで使われている「経験」という
言葉が実にあいまいなことである。「経験」とは、感覚的な
経験だけではない。自分の思考や概念、イメージなどと
いったものも、それらを「経験する」。
ウィルバーは、ここに重大な盲点が潜んでいるということを
鋭く指摘する。この「経験」という言葉のあいまいさのなかで、
感覚的経験だけを経験と呼ぶ「経験主義者たち」の主張が
いつのまにか幅をきかせるようになってしまった。
「真の知識というものは必ず経験に基づかなければならない」
という主張は正しいが、だからといって、必ずしも感覚的経験
だけが経験になるわけではない。知識には、「心的経験」に
基づくものもあるのである。
だが、その事実はいとも簡単に見過ごされてきた。その説得
力の強さのため、どうしても「経験」という言葉は「感覚的経験」
を指すという方向に偏りやすく、それと様々な「経験一般」
とは容易に混同され、事態はあいまいなままになってしまう。
心的世界を扱う哲学や心理学といった領域が、感覚的立証
を求める経験主義的科学によって不当な扱いを受けてきた
ことを見たが、同様の過ちが、超越的ないし黙想的知識の
領域に対して犯されてきたことを見いだすことができると
ウィルバーは言う。
中世の宗教的洞察にはまさしく宗教的な超越的霊的知識が
蓄えられていたのだが、それは論理性・合理性を重んじ、
それ以外のものはいっさい排除しようとする哲学が現れた
ことによってその資格を疑われることになったと言える。
しかし、哲学的主張とは相容れなかったとはいえ、そこには
合理的・論理的なモードとは別のモードによって感受された
知識、つまり霊性による知識というものが確かに存在して
いたのである。
たとえば、トランスパーソナルやウィルバー理論の基礎に
なっている日本の禅の例でいえば、そこでは特定の指示
に従って修行が行われ、そのいくつかの段階において、
禅の師と瞑想者(独参)、そしてそれだけでなく瞑想者の
公の参加(総参)、も含んで、真剣なやりとりが交わされる、
という、厳格な反証システムが存在している。
経験主義的科学や哲学的合理主義が悪いのだと言っている
のではない。それらはむしろ、それぞれのアプローチが適切
な対象をもっていることを明確にしたという点で、悪いどころ
か他の領域と混同を避けることにつながる重要性はある。
ところが実際は、歴史的に、事態はそうは進まなかった。
たとえば、経験主義的科学は、しだいに自らのアプローチ
こそが唯一絶対のものであると主張する誘惑に打ち勝て
なくなり、”経験主義”的ではないもの、すなわち五感によって
感知できないものは”存在しない”、あるいは、主観的な
”脳内現象である”などと矮小化して、自らの立場以外は
すべて認めないようになってしまったのである。
ウィルバーは、自らの”三つの眼”とは決してオリジナルなど
ではなくて、実は伝統的な哲学・宗教・心理学をたどりかえ
せば、それらの主な流派のどこにでも認められる普遍的な
ものだということに人々の注意を喚起する。彼はそうした
思想のなかでもっとも深遠なものとして、中世のキリスト教
神学の哲学者、聖ボナヴェントゥラによって述べられた
”三つの眼”を取り入れたのである。
「科学」という名を用いるなら、やはりどうしても科学のもつ
本来的性格である物質主義的傾向を避けることはできない
のである。
ウィルバーはこのことを十分に見定めたうえで、こうした
不可避な傾向、つまり科学主義、あるいは排他的な経験
主義から逃れるためには、いきなり「科学」という言葉を
広げる努力は望みが薄い道だろうと言う。
そのためには、人間の知識とは決して科学に限ったもの
ではないということをしっかりと理解し、超越的ないし黙想的
知識の領域というものが”存在”することや、それにふさわ
しい知識獲得のモードがあるということを認め、それに気づく
ことが必要なのだ、と主張するのである。
ウィルバーは決して超越的・黙想的領域の”科学”が不可能
だと言っているわけではない。将来、”別種の科学”という
ものが成立する可能性は論じている。だが、それが成り立つ
ためには、そのまえにしっかり認識されなければならない
問題がある。
それはすなわち、経験主義的な科学のアプローチで、心的
領域や超越的領域の存在を否定したりしないようにすること、
その存在区分がしっかりと認識されないうちは、心的領域
への本格的アプローチは難しくて当然だと言うのである。
>>167 一貫して強調したかったことは、「脳内現象に収まらない
ものは存在する」、ということです。
霊性(スピリチュアリティ)とは、自己意識の垂直的、
水平的拡張に伴う体験に根ざした心理作用であると
私は捉えている。
垂直的拡張とは、意識の超越的次元に接触し、同調
する心理プロセスであり、最終的には微細意識ないし
元因意識の次元にまで拡張が進んでいく。
これは単に内的な体験にとどまるものではなく、変則的
認知や物心相互作用などのサイキックな現象を伴うもの
である。
これは、ズバリ指摘しておきたい点である。意識の拡張
にはいわゆる超常現象が付き物なのである。だからと
いって、超常化が魂の成長や発達、進化を意味する
とは限らない。
意識の垂直的次元に目を向けるならば、「人間の例外
的体験(Exceptional Human Experience: EHE)」という
概念がある。
http://www.ehe.org/ もともとは、リー・ホワイトという超心理学、トランスパー
ソナル学の研究者が提唱したもので、神秘体験、サイ
キック体験、至高体験、フロー体験と呼ばれてきたもの
の総称である。
それは、大きく5種類に分類され、
神秘体験(転回、統一体験など)、
サイキック体験(体外離脱、予知など)、
遭遇体験(天使との遭遇、UFOなど)、
死に関係する体験(霊媒様体験、臨死体験など)、
通常の例外的体験(審美体験、強い共感など)
などがあげられている。
パーマーとブロードは、この5種類の非尋常な体験を
操作的に捉え、EHEの頻度ないし深さが、生の意味と
目的(実存性)、スピリチュアリティ、人生の変容に
向かおうとする傾向などの心理的変数と高い相関が
あることを見いだしている。
パーマーとブロードの論文は、
Journal of Transpersonal Psychology,34(1)、29−61.
を参照すればよい。
http://blog.melma.com/00125294/20050329160129
「はじめに申しあげたように、われわれはUFO現象を
何よりもまず、もっばら心理学的な事柄として取扱うことに
してきた。そうしたのはほかでもない、噂の伝えるところ
が矛盾だらけでまるで”ありえないこと”だったからである。
これらの噂が、批判や疑惑やすげない拒絶にあったのも
むりはない。噂の実体は幻覚にすぎず、そんな噂がいかに
人の心を傷つけ、理性の抵抗を呼ぶかと考えている人に、
われわれは同意し共感を覚えるものである。
実際、心理学的な説明で十分だし、噂の形成には意識的・
無意識的な空想や、ときには嘘さえも決定的な役剖を
はたしている事実を思えば、それで一件は落着するかに
思われる。
しかし、今日われわれの直面している状況は、それだけ
ではすみそうもない。残念ながら、それではすまされない
だけの理由があるのである。」
「私の知るかぎり、UFOが肉眼に見えるだけでなく、
レーダーにもとらえられ、写真にも写るというのは、
多くの観察例に照らして事実に相違ない。
ルッペルトとキーホーの一致した報告に疑う余地は
なさそうだし、天体物理学教授のメンツェルが、
公認された報告を合理的な方法でなんとか説明しよう
と懸命に試みたにもかかわらず、一例といえども
成功しなかったという事実からしても、そう言わざるを
えないのである。
少なくとも、心的な投影がレーダーに映じたか、それとも
反対に現実の物体が神話的な投影をうながしたか、
そのどちらかしか考えられない。」
「ただ、その際いっておかねばならないのは、たとえ
UFOが物理的な実在であったにしても、それがそのまま
心的投影の原因なのではなく、ただ投影のきっかけに
すぎないということである。
その種の神話的主張は、UFOのあるなしを問わず、
常にあったからである。UFOが目撃される以前には、
だれも、それとこれとを結びつけようとは考えつかな
かっただけである。
これらの神話的な申し立ては、何よりも普遍的無意識
という心的背景の特徴的な性質に由来している。
したがって普遍的無意識は常に投影を行ってきたこと
になる。つまり、大空に現われる円盤ばかりでなく、
他のさまざまな形でも投影されてきたのである。
ただ円盤や、それにまつわる噂という心理的脈絡は、
われわれの時代に特殊な現象で、時代の性格を
よく現している。」
カール・グスタフ・ユング
「潜在的な心的内容に発現のきっかけを与えたのが、
まさにUFOなのである。われわれがUFOについてある
程度、確実に知っていることといえば、それが眼に見え、
レーダー波を反射する表面をもっているということだけに
すぎない。」
カール・グスタフ・ユング 『空飛ぶ円盤』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480080570/ 心的存在としてのUFO現象は古代にまで遡ることができ、
その中心には円い物にまつわる幻視、伝説、神話がある。
ユングはそれを曼陀羅へ通ずる「全体性」の象徴と見て、
そこには人類の深い過去に根ざした元型があると考えた。
現代の神話としてのUFO現象を分析し、心的全体性を
回復する契機にしようとした、ユングの生前に刊行された
最後の著書。
ユングの素晴らしいところは、客観的・実存的・物理的と
我々が認識していることと、主観的・内在的・心理的な事象
とが、想像する以上に区別できるものではないことを、
そして、その「区別できないもの」をどう区別するのか、
に挑んでいるところである。
>>166 >引用されるだけでは、討議ができない。
「今日の精神生活の中には、このような表現を、まさに
とりとめのない幻想、夢想であると思わせる考え方、
感じ方が充満していることである。」
「しばらくの間は、”厳密な科学的事実が教えること”や
現代の何人かの思想家の諸説の中に、存在の謎を解決
してくれるものがあると信じることができるかもしれない。」
「人は、このような者の主張に対して”誰も非難できない”
ような証明をして見せよと要求してくるだろう。だが、
こう要求することで、ひとつの錯覚に陥っていることに、
人は気づこうとしていない。なぜなら、人は事柄の中に
存する証明ではなく、自分が認めたがっているもの、
もしくは認めることのできるものを無意識に要求している
だけなのだから。」
「議論は、それが自分の思考方法の中に存する論拠だけ
を通用させようとする人との間で交わされるなら、不毛
でしかない。”証明すること”の本質をよく知っている人は、
人間の魂が真なるものを発見するのは、そういう議論とは
異なる道の上においてである、ということをよく知っている。」
シュタイナー
>>178 >トラパーは体験が重要なんだがね。
一番目立つものとしては、UFOを見てる。
それは、複数人で肉眼や双眼鏡で、上空の大気中の一定
の距離に確認できる、単なる円い物体だった。一定の回転
をしながら一定の速度で移動していった。それはいわゆる
コンタクトをしようとして、二度以上、現れたものだった。そこ
から考えて、そのUFOについては、上にあげたようなユング
の”普遍的無意識の投影説”がもっとも理解できる解釈では
ないかと考えてる。乗り物と考えるにしては、あまりに単純
すぎて不自然だったからだ。ただ、脳内の幻覚ではなく、
明らかにリアルな物体だった。確認方法もある。
それが一番決定的だった。つまりこの宇宙は、「上の次元」
では、信じられないとはいえ、どういうわけかたしかに、
「そうなってる」ということだ。他の経験から考えても、それは
もう、自分のなかでは間違いないものになってる。ユングは
正しかった。嘘はついてない。それが「答え」だ。
それまではかろうじて”懐疑派”に踏みとどまることもできた
けど、そこで完全に”肯定派”に振り切れてしまった。残念
ながら、そこまでの超常現象というものまでが、「ある」。
そして、それを認めているものを探すことになったのだ。
よって、UFOまでをも認めている人々には、この時代にも
なってよくそこまで認めることができたものだと、特別の尊敬
と、特別の共同体意識を感じてしまうのだ。
>>164 >そのページは知らなかったので、読ませていただきます。
もうここへはきません。もしなにか迷っていて、信じられる
だけ確かなことなら、それが真実であることを念頭に、
より確かな選択をしたい、という人に、なんらかの手助けが
したかっただけです。
それは、この宇宙の深層には、想像を絶する広大な世界が、
ほとんど手つかずのまま広がっているということです。
そこにこそ希望があるはずです。
私個人のことは詮索しないでください。プライベートなことに
ついては、なにも正直に書いてたわけじゃないですから。
私は真実の片鱗を垣間見た、その霊的責任として、蒔くべき
種を、蒔いただけです。芽が出るかはあなたしだいです。
>>225 仙人の言葉を借りるだけなら、それは簡単なこと
何故、前スレから貴方が非難されてるかわかってないの?
「種を蒔く方法」に問題がありまくりだからだよ
連投は迷惑です、と何度言われた?
「もうこない」と何度言い、その言葉を何度破った?
そうやって「本来の意図」の説明に手間をかけるくらいなら
実際、あなたが起こした混乱の釈明くらいしたらどう?
そうじゃなきゃ誰も耳を貸さないよ、今のあなたの言葉には。
ただでさえ、住人の少ないスレであったのに
貴方のおかげで、いったい何人がここを見限ったかわからない
このスレが落ちても、「どうせ連投荒らしがくるから次スレはやめとこう」
という感じになるんだろうね…残念だ。
>>226 >そうやって「本来の意図」の説明に手間をかけるくらいなら
>実際、あなたが起こした混乱の釈明くらいしたらどう?
私にとっても、それは、受け取る準備が十分に出来てい
なかったときに、起こってしまった出来事でした。それだけ
のことを経験すれば、当然、そういうこともありえます。
逆に、これだけの混乱にもなれば、当然、その背景には
それだけの震源地に相当する経験があっておかしくない、
と、薄々感じ取れるはずです。現実は予測不可能です。
なにもかも完璧とはいきません。特にこの時代、特にこの
場所にあっては、そこでいきなり直接言えるほど割り切れ
た人間ではなかったからです。ですから、仮想敵になって
いる懐疑論者に対して、理論武装が必要でした。あらかじめ、
十分な予備知識があればまた違ったかもしれませんが、
私にとっても、心の準備ができていなかったということです。
>>226 正直、今のところは、ここに書いてあることがもし本当だと
すると、それが多くの常識的な世界観に、どのように波及
してくるのかは、まだはっきりとはわからない。ただそれが
存在することが確定できれば、一見回答不能に見える問題
の、解決のヒントの手がかりにはなるはずだと考えてる。
様子をみたかぎり、まだあまりにも時期早尚かもしれない、
とは思ってる。話を聞いただけでは、あまりに身もふたもない
ことで、受け入れられなくて当然、とも思ってる。
ただ、心理学の人ならば、むしろ疑うことを好む分野も強い
反面、間接的にであっても霊性に結びつけていくことの容易
な分野の人もまた、多いと思ったからだ。そういう人に、
内面に向かう心理学についても、その潜在的可能性について、
もっと気づいて、その関心をオープンにしてもらいたいとは
思ってる。
単純に、あるかないか、と言われれば、これまでの経験から、
きっと一通りのものはありますよ、と、あえて主張しておきたい
と思ってる。なぜなら、あと半世紀くらいたてば、そのときには
どれも常識化されてることだと思ってるからだ。存在自体は
確定してて、あとはそれが表面化する時期の問題しかない
と思ってる。
だから、そういうこともありえるかもしれない、という心の
準備だけはしておいたほうが、あとあと行いに後悔したり、
唐突なショックを受けたりすることがないとは思ってる。
だから蒔けるうちに種を蒔いただけだ。
UFOを探そうとするより、視力について勉強しる。
380-780nm, 棒細胞, 受容体タンパク質, 神経の興奮, 視覚連合野
こういったキーワードが出てこなければ大嘘だ。
「科学」について、特に日本の場合に当てはまることを簡単
に述べてみたい。ごく一般的に言って、要するに科学あるい
はむしろ科学技術というのは、一種の「権威」の象徴として
受け容れられているというのが実際なのだろう。そこには、
西洋にみられるような精神的伝統との結びつきはほとんど
ない。権威といっても、それは江戸期以来の現世利益的な
信仰の延長なのであり、要するにより確実な物質的利益を
約束するものとして、それまでの民間信仰的な伝統を
(「非科学的」な「迷信」というレッテルを貼ることで)排除する
ことによって、固められたものだ。
だから、特に日本の場合、歴史的に言っても「科学的」という
のは「非科学的」なものの排除によってこそ価値付けられる
という「排除」の側面が強いのだと思う。「科学」そのものの
実質がそれほど明確ではないのに、「科学的」または
「非科学的」という言葉が一人歩きしているとも言える。
しかし、そのような科学の権威も現代ではかなり揺らいで
いる。もやは、科学が単純に「幸福」をもたらしてくれるもの
とは誰も思えなくなっている。そして、既に「霊的・宗教的」な
ものへと権威の対象を乗りかえた者も多い。(一方では、
その反動として科学の権威回復の動きも強くなっている。)
実を言うと、かく言う僕は元々理系で、「科学主義者」なの
であった。だから、むしろ「科学」に対する「信仰」のような
ものの心理的基盤はよく理解できるつもりだ。そこには、
「真理」への問いあるいは希求というものが確かに存在して
いる。しかし、「科学」という方法論自体にはなんら根源的
な問いが向けられていないというに過ぎないのだ。これは
実際、何物かへの「信仰」というのに共通してみられる構造
なのだが、近代においては「科学」はいわば「共同幻想」化
されているので、その前提が見え難いということに過ぎない
のだ。
「科学」というのが、根源的には哲学や信仰と区別つけが
たいものであるということは、例えば、村上陽一郎氏の
『科学・哲学・信仰』(レグルス文庫)を読んでみるとよく
わかる。科学というのは、「目に見えるもの」を対象とし、
信仰というのは「目に見えないもの」を対象とするという
一見もっともらしい区分けも、ここではその怪しさが暴露
される。「見える」ということもまた、何らかの概念枠への
「信仰」なしには成り立たないものであると言えるからだ。
(この辺は、トーマス・ク―ンの『科学革命の構造』における
「パラダイム」概念を通した方がよく理解できるかもしれない。)
また、「科学革命」の科学史的背景(ヘブライズムの一神教
に始まり「聖俗革命」によって神の位置に成り代った人間
と自然との二元論的対立と自然支配に向けた知の力への
「信仰」を背景とする)についても、明確で説得的な分析が
なされている。
あるいは、河合隼雄氏の『宗教と科学の接点』(岩波書店)
も分かりやすくてよい。
とにかく、もはや「非科学的」とか「科学的」ということに、
本質的な意味合いを認めることは難しくなるはずなのである。
>>229 もちろん、あなたのような説明にすべてを押し込めることで
処理している人物の心理はよくわかるし、それに対しての
説得は、あきらめてますから。心の理論とか、認知の歪み
とか、集団催眠とか、そういうレベルではないんです。
また、観察していた、その当時の状況では、精神状態は
きわめて白々しいほど「さめて」ました。ネットでの混乱は
それから半年後のことです。逆に、時間がたち知識がふえる
ほど、その説明の難しさが明確になってきたということです。
だからといって、今度はそれを、記憶の不確かさ、などに
されても困るのですが。とにかく自分にとってはそれだけ
長時間、複数回、「確認」されたものです。もしそのリアリティ
を疑うとするなら、通常の存在の基盤まで疑わないといけ
ないだけのレベルです。いずれにしても、知識はグレーゾー
ンを選別したり除外することには役立ちますが、知識が
増えたからといって、その知識レベルより、より根源的な
問題については、なにか説明が可能、もしくは容易になる
とはかぎらないです。
結局、体験を言っても、それが脳内過程の説明に収まる
限りでは検討し、それ以外はナンセンスとして疑うというまま
では、結局はそれは、その人のなかの思考パターンで
自己完結しているだけです。ですから、そういう人がこうして
干渉してくることでそういうネガティブイメージを払拭しきれ
ない風潮がある限りは、その対抗としての混乱というのは、
これからも度々続いていくことでしょう。それは体験した人が
諦めずに主張しつづけることで、「それ以上の何か」を示唆し、
変えていくしかないです。
科学の、その本来の領域における価値を否定するつもりは
ありませんが、その知見で、科学以外の領域を自ら体験なし
に鼻から断定して否定するために適用しようとする人がいる
限りは、その風潮に対して異論をもつ人の存在もまた、やはり
一定の割合で存在はしつづけると思ってます。
世界のどこかではつねに自然発生的に偶発的に体験が
「起こってしまう」以上は、そういう体験を否定する形で、
全世界の人が同意に達するという未来の可能性は、ゼロ
に近いので、その野望は諦めたほうがいいんだろうと思い
ます。ホモサピエンスがいるかぎりは、いくら少なかろうと、
どのような形であれ、一定の割合では存在しつづけると
思います。
半世紀後から100年後にもなれば、そういうものを最初から
丸呑みしたうえで、「その先」を探求するような、そういうなん
らかのシステムが明確に確立されていると思ってます。
自分はそういう立場です。そういう体験があり、個人で体験が
違う以上は、そういう体験が起こりえるという世界観以外
では、個々人での立場の相違は埋められないし、違う立場
の人も尊重するしかないです。
>>229 繰り返すと、知識はグレーゾーンを選別したり除外すること
には役立ちますが、知識が増えたからといって、その知識
レベルより、より根源的な問題については、なにか説明が
可能、もしくは容易になるとはかぎらないです。
科学の知識もまた「部分的に極めて有効な相対的な真実」
だとは思ってますが、それが「世界の全体」とは思ってません。
根源的な究極的な絶対的な真実とは思ってません。だから
といって、科学の価値が損なわれることはないです。むしろ、
人間精神とのバランスでいえば、これまでが「信仰の対象
として良くも悪くも影響力をふるいすぎた」とも思ってます。
結局のところ、科学そのものは「方便」として極めて有効な
ツールではあっても、それより根源的な「世界の説明」の代用
にはなりえないということです。今後、いくら科学知識が増加
しても、そこからは厳然とした根源的な謎というものは、
つねに謎であり続けると思っています。究極的な謎に対して、
現在の科学が答えたという錯覚の分解能を高めることはでき、
それがしばしば有効ではあっても、現在の科学の扱うレベル
において、究極的な謎に直接の答えを与えることはない
でしょう。
そういう知識の単純な累積から解決をもたらすとは思えな
い、そういうより根源的な問いについて、少しでも答えを
はっきりさせたいという場合、(知識を効率よく累積するため
に、世界においてどの知識がどのような意味をもち、どの
ような位置づけにあるかを明確にするためにも)、知識を
選定するにあたって、それよりまえにまず、いわば「外堀から
埋めて」おいたほうが効率がいい、という発想は当然でて
きます。
そこまで主張する人がいるとなると、気になってしかたが
ないし、自分でも白黒つけたい、と当然思うと思います。
それを進展させる唯一の方法があり、それが「体験」にあたり
ます。ですから、これからのジェネレーションに対しては、
それを望むかぎりは、私が実際そうしたように、判断材料の
ひとつとして、思いつくかぎりの「行動」に移すことをおすすめ
します。あらかじめあるものなんだと心の準備ができていれば、
普通は、私のようにバランスを崩すことはないはずです。
http://www.our-j.com/japanese/s_groups.html UFOについては、ここに参加してください。メディアや大学の
講演にもでて有名になっている信頼のおける人が主催者
のものです。ここに何度か通えば、どんなに不運でも必ず
本物とはどういうものかがわかるでしょう。とくにこの情報の
氾濫した時代にあっては、それだけ怪しいものも多いものの、
トランスパーソナルも含め、「唯物論以上の何か」に対する
確認手段はいくらでも存在し、表面化しています。良くも悪くも
時代の流れの一方として、もはや表面化していく一方の
ものなのでしょう。
現在の科学の立場にあっても、そういういわば「未科学」
との「両立・並立・共存」は可能だと思っていますし、実際、
そういう形になっているようです。
ただ、ほかにも気功など、いくつかの体験を経てきた限り、
それを現在の科学の延長で「融合・統合・還元」する、つまり、
「脳や物質や神経を根本的な説明原理にする、世界のあら
ゆる現象の一元論化」は、永遠に実現不可能な、「夢物語」
だと主張します。
おそらくそれが、現在の科学の理想的な目標、理念、原動力
としては、あると思いますし、世の中にその例外があると
腹が立つ、そのストイックな心理は、仮に理解してみることも
十分できますが、現実としてどうかというと、残念ながら、
意識の存在だけは、どうしてもその延長線上では結局は
説明しきれない、と体験から結論してます。私としてはそう
いう純粋な野望はもう、あきらめましたし、ある種、挫折させら
れました。
誰もが一度は夢見る、世界のあらゆる事象を記述しうる
一連の方程式、のような、「万物の理論」。それは残念ながら、
そういう形ではもはやありえないのだ・・・。
もちろん、トランスパーソナルなど、それより未来を先読み
した試みの進行に対して、必要以上の干渉をしてこない
かぎり、唯物論だけで説明できるとの仮定のもとで、説明
しつくせるまで、あらゆる説明を試みる、そういうある種、
多産的な「方便」を産出しつくせるまで産出する、という、
タクティカルな知的営為の純粋さには、それが結果的に
唯物論の限界をより色濃くするかもしれないだろうから、
敬意を表するし、そのプロセスに価値や意味は認めてる。
けど、それでもって、意識そのものが脳内現象のみに完全
に「閉じている」ことが証明されることになるとか、まさに意識
するその意識そのものの存在が否定されることになるのは、
それはありえないことだと思ってる。
ある人工的に限定されたモード下の人間において、ある
巧みな人工的定義の洗練によって、外面的な行動では、
ある一面をいいところまでシミュレートできたとしても、
それはあくまで擬似的なモデル、表面的な再現であって、
ライブな意識現象そのものとはまた別だと思ってる。もちろん、
それが「特殊な精神活動」以外での、通常の人間の通常の
意識の、かなり多くの部分を占めることは確かかもしれ
ないが、「それがすべて」と思い込むのと、「それが通常の
モードだが拡張するモードもある」と思うのとでは、その
解釈だけで、人間存在の意味が天と地ほども違ってくる
わけだ。
もちろん本来なら誰だって、脳内過程や神経ネットワーク、
それと物理的環境とのインタラクションだけで、すべての
現象が例外なく自己完結したものとして覆いつくせる、
もしそれが可能であり、現実にもそうなっていたとすれば、
あらゆる世界のものごとの秩序というものは、脳と物理法則
だけに基づいて、すっぱり真偽を単純に割り切り、断定する
ことができ、ある意味、「このまま丸く収まる」格好にもなる
わけで、それができればいいに決まってるし、もしそうなら、
もしかしたらとっくに一件落着になっていて、誰も苦労する
ことなんてなかったかもしれない。
結局のところ、体験していない人にとっては、その体験の
記述を、「全身の脳や神経ネットワークの活性化のループ
としてある種完結している過程」であるかのように、変換して
解釈できる範囲までしか、現状では受け入れがたい、
ということになる。
例えば、瞑想や内気功なら、一見「科学的」に見えるのは、
それが「脳波の変化」や「細胞の活性化」におさまっている
ように「見える」からだ。そこでは「意識の変化」とは、「全身の
神経ネットワークの処理分布の変化」を意味することになる。
ようするにそれがたとえいくら茫洋としていても、あくまで
生理的な活動で、そのフラットな単一のレベルでの「複雑さ
の度合い」として理解されることになる。
つまり、瞑想というのはあくまで脳内の化学的変容であり、
コスモロジーは宇宙そのものに対応するものではなく、概念
に対応する。イメージというものも、脳内で構成されたもの
だ。
トランスパーソナル「体験」というものも、体験がなくその
外部から受け入れようとすると、そういうものとして受け入れ
ることができる範囲の説明にとどまっている限りの人におい
て、「この人はまともだ」と信用されることになるなら、体験
のないその人の認識は依然、そこで変わることがない。
体験しない限りは、そういう風にカモフラージュされ、ある種、
無害化された限りなら、問題ない。まあ、現状では、そのほう
が健全といえるのかもしれない・・・。少なくとも、唯物論者と
「仲良く」疎通できるのは、現状では残念ながらそこまでと
いうことは、それは当然、自覚してのうえだ。
調べてみたらどうやら気というのも、トランスパーソナルでは
十分扱ってるし、普通に語られてるようだ。それを唯物論の
支配する特殊な場において対照させると、気が特別重大な
意味を持ってはくるものの、本来は日常的な、ごく自然に受け
入れるべき存在のもので、実際そうして定着しているところ
では定着しているとおもう。それでもって何か誇大に捉えたり
したいわけじゃない。けれど、気というか、より微細なエネル
ギーというのは、自分は感覚として普通に感じとれるし、
どういうものかもうよくわかってるけど、少なくともそれはどう
考えても、感覚として、五感とは全然違う性質のように思う。
それが幻想だとすると、あまりにも困難な説明が必要になっ
てしまう。実際ちがう次元のものとして、生気論的にありの
ままに認識して受け入れるしか、それはないようにも思う。
つまり実感から、仮に五感までは、うまく脳内現象として
かなりの部分までが説明できたとしても、その五感を認識
するような意識や、そこから拡張されると思われる普通の
ままでは感じないより深層の意識までは否定しきれないと
思ってる。「体験」というのは、それほど「超感覚的」なもの
と思う。五感の感覚的経験だけを視野に入れて見ていれば、
一見それだけで完結した全体のように見えても、「それ以上
のなにか」の気配というものは、どうしても拭い去れない
と思ってる。そういう感受性は本来自然ではないだろうか。
「体験」するというのはそういうことで、誰でも体験すれば、
自ずから当然のように、そういう認識に変化してくるだろう
ということだ。
242 :
没個性化されたレス↓:2005/05/07(土) 15:39:43
なぁ、一体どこを立て読みするんだ?
といっても、一口に体験とはいえ、真正というに値する神秘
体験のようなもの、それもきわめて高い次元の体験をした
ことがあるなんて思っていない。きっとそういうものこそが、
真の意味で人生をポジティブに変容させうるのだろう。それ
だけ限りなく上には上の、想像を絶する、まばゆいまでの
世界というものが存在していると思ってる。
それに比べれば、現在の人類は五十歩百歩でしかないかも
しれない。そういう意味では、自分がなにか普通以上だとは
思ってないし、むしろ横道にそれてバランスを崩しかけてた
くらいだ。ただ、唯物論しか信じるものがないのでは、あまりに
宇宙(スペース)がもったいない、と思ったからかもしれない。
だから、ある程度の手がかりを得られたという感触があった
だけに、唯物論以外のなにかを信じることをよりたしかな
ものにしたい人のために、その手がかりを与えたい、と、
余計な真似ながら、思ってしまったのかもしれない。
こういう自分にとっては本来縁のなかったかもしれない
特殊な場に、寄って関わったのが間違いでもあったかもしれ
ない。舞台を間違えてしまった。
一口に心理学といっても、そのなかで外面と内面、まだまだ
すべては、まったくうまく統合されていないらしいということだ。
この場所とはもう、縁がなさそうだ。混乱させたことについて
は十分、謝りたいとは思ってる。すべては極端な唯物還元
論者がそれ以外を積極的に駆逐している様子があったからだ。
それはもういい。もっと高い次元のことを想うことだ。
>>227-228 「種を蒔く方法」には連投以外の手段はないのですか?
返答希望です
あと、その気がないのならば「もう来ない」などと
口からデマカセを言わないでほしい
あなたの言葉に対する態度を疑われますよ?
245 :
没個性化されたレス↓:2005/05/07(土) 18:05:44
246 :
没個性化されたレス↓:2005/05/07(土) 18:08:05
宗教思想史のなかの心理学
---神教的心理学と多神教的心理学
http://homepage1.nifty.com/norick/psy-in-reli.html > 本稿は、西洋における心理学の歴史を宗教との関連から
> 考察し、心理学を宗教史の枠組みに位置づけることを
> 目指したものである。心理学の発生に宗教が関与して
> いたことを示すいくつかの先行研究を概観する。
> かつて宗教心理学は宗教学の下位部門として認知され
> ていた。それに対して、ホーマンズの「宗教と心理学」運動
> という切り口が提示されてからこの方、心理学を近代に
> おける宗教思想の一翼をになうものとして見る立場が、
> 徐々に台頭してきている。突き詰めれば、それは心理学
> を宗教現象の一形態として見ることを意味する。
> いわゆる教科書的な心理学概論の冒頭には、心理学史
> に関する一瞥が設けられるものだが、その多くは“心理学
> は哲学から派生した”という見解をとっている。細かく見ると、
> 心理学という言葉自体は、ルターの協力者であったメラン
> ヒトンの造語であり、心理学の通史では、アリストテレスが
> 遠祖とされることはしばしばある。では、西洋の宗教的伝統、
> たとえばキリスト教のなかにはなかったであろうか。
> ここで、心理学のオーソドックスな学説史は立ち止まる。
> あたかも、心理学には宗教的ルーツなどないと突っぱねる
> かのように。
> 実体としての「魂」は論じられなくなり、感覚を処理する
> 主体としての「心」が対象化される。唯物論的方向性は
> 徐々に強まり、内観主義を批判し、物理的刺激とそれに
> 対する反応の連関を調査する行動主義心理学が登場
> する。結局、近代の主流派心理学は伝統的な宗教=
> 哲学の魂論の世俗化バージョンと言えるのである。
> さらに、スコットランドのトマス・リードは、感覚そのもの
> から知覚を導き出すことはできないと、指摘した。つまり、
> 身体的感覚から心的表象は生まれないという心身問題
> の指摘である。そして、感覚と知覚の両者のあいだには
> 因果性と法則を見いだすことができないのにもかかわらず、
> 心理学は、その断絶を無視して、あるいは意図的に両者
> を混同することによって成り立っているとした。
> ここで筆者は、「身体的感覚を処理する心」の心理学か、
> 「身体に分散された魂」の心理学かというリードの二分法
> に対して、別の二分法を立てたいと思う。すなわち、
> 「神―魂・理性・心―身体」という一神教的ヒエラルヒーを
> 基軸とする心理学か、「諸霊―魂・心(無意識・身体・
> 意識)」という多神教的コスモロジーと癒しの実践を特色
> とする心理学および心理療法かという二分法である。
> 便宜上、この二つの類型を一神教的心理学と多神教的
> 心理学と呼ぶことにしよう。実は一神教的心理学と多神
> 教的心理学という言葉は、筆者のオリジナルな用語では
> なく、ヒルマンがすでに用いているものである。
> だが、この二つの系譜は、決して相互に没交渉であった
> わけではないし、両立不可能でもなく、ときには折衷や
> 総合が試みられる。それは、歴史宗教と民衆宗教が現代
> の大衆宗教へと交錯しつつ融合する段階で、「宗教と
> 心理学」の複合する多様な思想運動を開花させるに至る
> のである。
> 歴史宗教と民衆宗教の融合は、大筋においては、次の
> ような展開を遂げると言えるだろう。まず、歴史宗教の
> 民衆への浸透としての宗教改革が起こり、その後、民衆
> 的宗教性の棄却か、折衷・統合かという二つの方向性
> が生じる。
> 前者は、迷信排除の啓蒙主義的傾向、一神教的心理学
> の道行きに重なる。
> 他方、大衆レベルでは、宗教的実践の個人化が進むと
> 逆説的に一神教の神との結びつきが薄れ、多神教的
> 心理学への転換が起こり始める。そして、このような実践
> 的動向の自己理解のために、心理療法的な心理学が、
> アカデミックな言語体系を提供するようになる。
仏教は本来「近代的世界観」を大きく超える「知恵」を持っ
ているのに、近代的合理主義に近いなどと歪めて解釈され
たことから、矮小化されてしまった。
そもそも仏教が単なる合理主義に囲い込まれている限り、
何ら再生の余地は見出せないだろう。それでは、所詮は
「分かり切った事」の確認をもたらすために持ち出されるぐ
らいが関の山だからだ。
いくつかの根本的な誤解があるのだが、まず明らかにして
おきたいのは、仏教は死後の世界とか魂を説かなかった
というのは大間違いであるということだ。
誰も真剣に解脱を目指している訳ではないような状況で、
死後の生を説かないとすれば、むしろそちらの方が仏教の
本来のあり方から遠く外れるものとも言えるのではないか。
まあ、本当は「仏教」がどうのこうのというのではなくて、
我々自身が「死」とどのように向き合うかという問題なんだ
よね。しかし、逆に言えば、多くの者がそれと真摯に向き
合うことは近代的世界観を超える現実的な「突破口」とも
なり得るということを意味する。
何しろ「死」の問題は我々がそろそろ避けずに真摯に向き
合わなければならないものとなっていきているということ、
そして、それに直接携わる位置にいるという意味では、
仏教も大きな役割を担い得るはずだということでもある。
かつてのように、「死者」を良き処へと導く「導引」まで期待
することは無理だとしても、せめて死者(及び生者)への
思いを込めて真摯に(またできるだけ簡素に)葬式を執り
行うことから始めて欲しいものだ。
日本人は一般にクリスマスを祝うというよりクリスマスに
かこつけて盛り上がってしまおうという乗りなんだよね。
誕生は神道で、結婚式はキリスト教で、葬式は仏教でと
いうのも、ある意味「すみ分け」的な「知恵」と言えなくも
ないけど、むしろ何でも都合良く取り込んでいけるものは
取り込んでしまおうという「たくましき」発想で、要するに
宗教に対するいい加減で「現世利益」的な関わり方である
には違いないのだ。
まあ、ここのところ一神教的な排他性、攻撃性をこうも見せ
つけられていると、こういうのも確かに一つの知恵というか
バランス感覚なのかなと思ってしまいがちだけどね。
僕は、鈴木大拙を通して禅(というよりも広く「東洋」と言っ
た方がいい―実際、鈴木大拙に接するまでは東洋など
「知らなかった」と言った方がいいくらいなのだ。)を知って
から、結構仏教は興味をもって自分なりに勉強したけど、
キリスト教の方はほとんど手付かずで、全くと言っていい
ほど疎いのだ。
決して何か「意識的」な抵抗があるわけではないのだが、
漠然とした抵抗のようなものはやはりあるかなという気も
する。知的には興味が大ではあっても、あまり感情的に
入っていけないところがあるという感じか。一般に日本人
にはどこかにこのような無意識的な抵抗が潜んでいるの
ではないかとも思える。
これはやはりキリスト教の教えというよりも、「伝道」などの
過程を通して植え付けられていった排他性や攻撃性という
マイナスのイメージが大きいのではないかと思う。
元々のキリスト教が決してそうではなかったのは分かって
いるのだけれどね。
ところで、ある精神科医の人のサイトで、日記が結構面白
いので読んでいたら、フロイトは「まるで証明されていない
ことばかり」、ユングは有無を言わさず「トンデモ」で片付け
られていた。精神科医でも精神療法に力を入れている人は
結構いるし、精神科医兼ユング派の分析家という人もい
るから、これが必ずしも共通認識というわけでもないだろう。
が、やっぱり大方の見方であることには違いないのだろうね。
ついでに僕が言っている事なんかは「チョートンデモ<圏外>」
ということになろう。一応フォローしておくと、この人は単純
に「生物学主義者」というわけではないようだけど。
それにしても、ユングが「トンデモ」であるようでは、精神医
学とは何らの接点も見出し得ない。実際、ユングは「精神
医学」と「霊性」との「接点」のような位置にあると思う。
ユングの論も精神科医としての治療経験と自身の(霊的)
体験から汲み出されているわけで、本来接点は大ありなの
だ。
それに、ユングがしたように、ある非日常的な体験を独自
の「内的な現実」として認めてかかるのでなければ、どうと
り繕ってみたところで、結局は「日常的現実」からの「逸脱」
か「誤謬」でしかないではないか。そこには「霊性」も顔を
出す幕すらないのだ。それでは、精神医学というのは、
「日常的現実」の唯一の正統性を背後から補強する「イデ
オロギー装置」だと言われても仕方がないと思う。
まあ、僕としては、せめてユングくらいには、そのような体験
の理解の可能性を見出してまともに取り組めないものかと、
歯痒いばかりなのが実感だ。
さらに、逆に何らかの非日常的体験に見舞われた者の側
から言っても、ユングについての知識は重要だと言える。
それはそのような衝撃的な体験を受け止めていくうえでの、
「バイアス」または「緩衝帯」のような役目をしてくれるから
である。
いずれにせよ、まずはそのような体験を「内的現実」として
しっかり受け止めていくことが重要だ。これをクリアすること
の重要性は計り知れないものがあるにも関わらず、一般
にユング以外にはこの点を明示したものにお目にかかれな
いというのは本当に驚くべきことだ。これは「現実の多重性」
という視点がないとできないことなのではあるが。
そして、たとえ個人的なものを超えたようなものであっても、
まずは起こっている出来事を何らかの(普遍的)「無意識の
投影」として引き受けてみること。これは主観的な問題に
過ぎないとも言えるが、これで、ある意味現象の「他者性」
が薄れ、体験の直接的な衝撃が緩和されるのである。そう
して、冷静に認識していくための余地も生み出されるのだ。
但し、ユングも言うように、それらは強力なエネルギーを
伴った「自律的」な「存在」として現れるものであるから、
単なる「幻想」を暗示するような一般的な「投影」の理解で
は捉えることはできない。
まあ、いずれにせよ、望まずして、準備もなくそのような体験
の領域(「実在の境界領域」)に入れられることはいくらでも
あり得るのだから、ユングくらいは必須の予備知識でなけ
れればならないはずだと言いたいのだ。
アジア的な発想ではどうかというと、どうしたって今西進化
論になる。生物は個体としてではなく、「種」として「変わる
べき時には変わるべく」進化する。適者生存的な自然淘汰
ではなく、「すみ分け」るべく進化するのだ。これは、確かに
「アジア的」だろう。僕としてもこっちの方に断然「説得力」
を感じる。ウイルス進化論も種の間での遺伝子の水平移動
を説明するもので、今西進化論に与するものだ。
しかし、「遺伝子」は生体の構造の基底となるものであるこ
とには違いないが、所詮は蛋白質のアミノ酸の配列を決め
るものに過ぎないことを忘れてはいけない。そのレベルで
「進化」を云々してもほとんど始まらない。(「ミーム(文化的
遺伝子)」なる概念はほとんど「シャレ」にもならない。)それ
はウイルスについてもそうで、それが単体で「進化」を司る
などということは考えられない。
この点、ウイルスをいわば背後からある種の秩序の元に
回す「見えないシステム」を想定するライアル・ワトソンの
説は興味深い。また、物質的システムに形態形成的な力
をもたらし、種同士の間で「形態共鳴」をもたらすシェルド
レイクの「形態形成場」の理論は大いに注目される。これは、
神秘学的な発想では「エーテル的な場」とか「エーテル体」
とか言われるものに近いとも言えるが。
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/4270/
『「私」は脳のどこにいるのか』
http://www.logico-philosophicus.net/trash/19971229.htm 結局「心は脳の活動」であると考える方が「自然で理にか
なう」から科学者ならこれに従うのが「潔い」、二元論は
「思いこみ」に過ぎず「誤り」である、というのでは、拍子抜
けがしてしまった。要するに、科学者なら「唯物論」的な
「見方」あるいは「発想」に従うのが「正しい態度」であると
言っているようなものだろう。まあ、物質科学の世界では
それは暗黙の前提と言ってよいもので、それが単に明示
的に示されているというに過ぎないのだ。それにしても、
「唯物論的発想」=「科学的態度」というのはやはり安易な
「すり替え」という気がする。
リベットらの実験というのは、要するに「手を動かそう」とい
う意志より数百ミリ秒先に脳内に電位が現れているという
ものだ。だから「自由意志は原因ではなく、脳の活動の結
果」であるというのは、何とも凄まじいばかりの短絡的な結
論づけである。だが、そもそも「手を動かそう」という意志と
いうのを単純にある時間的一点に極限して理解するなどと
いうことは無理ではないか。その動作に向けられた直接的
な意志に先立つ「潜在的な身体イメージ」は常に伏在して
いるはずなのである。
いずれにせよ、そこで言われる「意識活動」なるものは、
心のある表層的な活動の一部であり、それで脳と心の問題
を全体として理解できるなどと考えることは所詮無理なのだ。
やはりこの問題はまだまだ「解決」などという段階にはない
というのが本当のところだろう。というより、その糸口が物質
科学的な方向の延長に見出されるものとはとても思えない
のである。
ついでに「唯脳論」なるものにも触れておこう。
通常の「唯物論」と違って、「唯脳論」は素朴実在論的な
意味で「物質」を信奉するものではないようだ。例えば、
「机の上にりんごがある」というような知覚像があるとする。
それは実際に「りんご」なるものが外部に存在することの
証にはならず、一種の「幻想」である可能性がある。しかし、
そうだとしても、その像は脳が生み出したものであることは
動かせない事実である。このように像に限らず、思想にしろ、
芸術にしろ、人間の営為は全て正しい、正しくないは別に
して脳によって生み出されたものであるという意味で、
人間にとって脳が全てであるとされるもののようだ。
全ては幻想かもしれないという時代の気分を反映しつつ、
脳だけには特権的なメタの位置が与えられている。これは
「唯物論」が脳だけに局限化された形でより鋭利に提出
されているとも言えるし、むしろ脳の特権性によってより
強固に補強された「幻想論」だとも言える。つまり、人間は
脳の生み出した「幻想」に閉じられた存在であるいったニヒ
リスティックな人間観に彩られている。そもそも、「唯物論」
が隠し持っていたニヒリズムがここに来てはっきり露呈され
て来たのだと言えるかもしれない。
いずれにせよ、脳にそのような特権的な位置を与えること
自体を疑問視する立場からすれば、この論は大したもので
はないだろう。
また、シュタイナーの『霊界の境域』では、この霊界の恐怖
について、次のように言われる。
「最初、霊界は全く未知のもの、魂が感覚界において
体験するものとは全く異なったものである。魂は霊界に
面して完全な「無」を見ることになる。魂は果てしない、
空虚な、荒涼たる奈落を覗き込んだように感じる。
―このような感情は、事実、魂の無意識の深みの中に
存している。この感情は恐怖へ変化する。魂はそれとは
知らずに、この感情の中を生きている。…霊界の「非在」
を証明し得たから霊界を否定するのではなく、魂の
「霊界を前にした恐怖」を思考によって覆い隠したいと
意志するゆえに、霊界を否定し、霊界を認識する可能性
を否定しているのである。…「唯物論」は「恐怖」から
発生している。」
キルケゴールのいう「無の深淵」などはまさにこれを言い
表していると思う。我々の恐怖心の反映と言える面もある。
いずれせよ、それはどこか遠くにあるのではなく、我々の
自我の殻の間隙をついて、いつでも侵入しうるほど身近に
ある。それが普通は「健全」な自我によって一応遮られて
いるだけである。
まずは我々を潜在的に脅かせているこの恐怖に気づくこと
が、唯物論克服に向けての始まりとなろう。
「魂」あるいは「エーテル体」の方が先にイメージどおり動い
てしまい、後から体がついてくるというような感覚がよくあっ
た。あるいは実際にそのように「知覚」もした。
体に疲れというものを全く感じない。心身が統一され、意識
も研ぎ澄まされていて、何も思わない「無」の状態に近いの
だが、一瞬の閃きで体を自由に操ることができるという感じ
だった。
ここまでのことは、後にも、先にもこのとき一度だけだった
のだが…。魂の状態がいわば体を超えていたために、体が
何ら抵抗、障害として感じられない状態だとも言える。
ここからは、一種の「想像力の実験」として受け取ってもら
えば結構なのだが、このような状態というのは、その都度、
一種の微妙な「テレポート」が連続的に起っているという
感じなのだ。
で、そのとき「運動」というのは、実はこのような非連続的な
「瞬間移動」の積み重ねとして理解できるのではないかと
いうことが閃いてしまった。
ミクロのレベルでは「量子飛躍」といって量子の位置の瞬間
的な飛躍というのがあるが、まさにそれと同じようなことが
マクロレベルでもその都度起っているのではないかと思えた
のだ。
まあ、これは当時の想像力の異常な活性化に伴って生じた
エピソードの一つで、単なる閃きにしか過ぎないのである。
ただ、現在でもこれを本当に否定するだけの材料は必ずし
も見つかっていないように思うのだが、どうだろうか。
>>244 >「種を蒔く方法」には連投以外の手段はないのですか?
>あなたの言葉に対する態度を疑われますよ?
こういうものに半端に関わる人にありがちな、いわゆる
「内弁慶」であり、現実的に社会的に、具体的な行動をする
ような積極性は「皆無」でしょう。すべては間接的な表現です。
ここに書いてあること自体が真実か否かも、さしあたって
どうでもいいんです。そこにさほどこだわっているわけでは
ないんです。ただ、「変わるべくして変わる」、そういう、
ひとつの「判断材料」を片手間に提供していたのだ、と
お考えください。私はあくまでその「媒体」にすぎません。
ユング的にいえばそう、「トリックスター」というものがあり
ます。それをまさに演じてしまった、というのが、一番適当な
表現かもしれません。本当はそれ以上でもそれ以下でも
ないんです。残念ながら、さして自分の現実と結びついて
いるわけではありません。
>>244 実のところ、一番最初に言ったのが本音で、本来、芸術とか
文学とか、そういう非体系的・非主流系の青年ですから。
こういう特殊な狭い世界に慣れていなかったものですから。
すべては注目されてしまったがゆえのはったりです。周囲の
反応の、予想外の大人げなさには、さすがに社会学的関心
の対象として、その意外性に、多少驚きもしました。そうした
フィールドワークの連続として、ここまで続いてしまった、
ということなのかもしれません。
まだ自分を決めてないし、守るべきものもないし、どうとでも
転べるので、そういう意味では無責任な「奉仕活動」とでも
言うべきものでした。こうなった必然性はなにもなかったし、
すべては周囲のニーズに合わせて、社会的に構成された
人物像だとさえいえるのかもしれない。だから、あなたが
私に問うことがあるとしたら、むしろ、あなた自身にそれが
なんであるか問うしかない。
反駁するもの、つまり他者依存性があるとしたら、あなたに
賭けられたものがそれだけ大きいということなのかもしれない。
けれども、私はあなたではない、私はあなたにはなれない。
それは残念ながら。
>>244 道すがらもののはずみで、ある意味、ここまでの「ブロック
バスター」をぶちあげてみてしまったものの、正直残念ながら、
これからの人生において自分が直接関わっていくような、
そういう具体的なイメージがあるわけじゃない。そこまでの
覚悟や必然性があったわけでもない。これだけの影響を
与えておきながら無責任な話だが、ある意味、「これで
済んだ」という感覚さえある。「もったいない」とさえ思える
ものの、白昼夢のなかの一つのドラマだったとさえ思える。
自分自身にも含め、今回の「こと」が、どれだけの「インパクト」
をもつものだったのか、はっきり自覚できないのだ。少なく
とも、外側から今後もその動向になんらかの関心を持ち続け
るだろうことまでは確かかもしれない。それ以上は今後なり
ゆきでどうとでも転びうるものだ。そうなると、むしろこれを
好機として影響を受けることのできた、もっと適したどこかの
誰かに、今回の「こと」を託した、と、自分に都合よくなんでも
いいふうに捉えたくもなってくるものだ。ここまでくると、はな
はだ思い上がった空想ながら、そのどこかの誰かにあたる
人物が、数年後になって自分の足どりをふと振り返ってみて、
あの出来事は自分にとってこういう意味があったのか、と、
そう、気づくことのできるような、そういう、ひとつの回想の
機会を与えたのならそれでいい、とさえ思っている。未来の
ことは誰もわかりはしない。自分にとって悪いほうに転ぶと
いう予感があるなら、それはごまかさないでほしい。自分を
ごまかしたり、無理をすることではないものだ。すべては
その人の関心のおもむくままにだ。
コピペが長すぎて、
おそらく貴方以外の誰も読んでいないと思うんだけど
その件に関してはどう思います?
>>268 どうも思わない。過ぎたことに執着しても仕方ないからだ。
少なくとも自分の問題は、”心理学”とか”科学”とか、
そういう既成の枠組みでは、どうしても「はぐらかされる
こと請け合い」だとわかった。根本的にレベルが違うもの
に端を発する(自分の見解)のに、そのレベルが無いか
物質的基盤に立ち上がったイリュージョンに閉じている、
もしくはあったとしても考慮に値しないか執着するべきで
ないとして、それを自分でよく味わってみることもなく、
それはもう分かりきっていることなんだからそれは今とな
っては自分でことさら明示的に意識したり考えるまでも
ないことなんだ、といわんばかりに、脳や宗教道徳など、
下位のレベルの言説へと、即座に引き下げ、すり替えら
れて「ネタにされてしまう」ところに、反発や違和感を感じて
いた、ということかもしれない。
つまりそれは結局のところ、「哲学」の問題だということだ。
自分の根本的な姿勢からいって、哲学寄りなのかもしれ
ない。おそらくそれを「考える」としたら、結局は哲学的な
かたちで自分で考えていかないかぎり、なにが解決なのか、
はぐらかされるように思える。逆に、哲学のように「考えない」
としたら、結局は広義の体験から自分の認識を変えていか
ないと、解決されないように思える。そういう問題のように
思える。普通の心理学や科学の「客体的な実験」は、
最初からかなり客体化されてしまっていて、部分的なヒント
であることは確かなものの、より根源的な問題に対しては、
遠く及ばないような感じもある。かといって、まだそれに
明確な表現を与えることはできそうにない。
>>269 皆を追い出して
掲示板を独り占めして「どうも思わない」と開き直られてもですね…
電車で足開いてすわって、席独り占めしてる人と同じじゃないですか
自分のブログとかでやった方がいいんじゃないすか?
271 :
没個性化されたレス↓:2005/05/15(日) 22:05:28
>>269 オイ、コラSHさんその他にに迷惑だろ。
ひどすぎるぞ。shさんはあんまり好きじゃないけど、これはやり過ぎ。
著作権侵害でタイホされるぞ。
>>270 あなたこそ無神経というかデリカシーに欠けてませんか。
追い出しても、独り占めも、してるつもりはない。むしろ
こっちがいわれのないいいがかりまでつけられてる。
とうぜん防御も働く。むしろ私を追い出したり、独り占め
しなければ、成り立たないと考えるほうが、どうかしてると
思う。それだけここがカルト構造になってる証拠だ。
過去は過去だ。いつまでもいちいちひきずるより、気持ちを
切り替えるほうが、生産的だと思うが?
>>270 まあどうしてもここは排除的なようなので、もう来ない。
ここは、というか現代の心理学は、基本的に科学的
心理学一辺倒のようだ。ほかの心理学とされるものが
入ってくる余地は、結局は今後もほとんどなさそうだ。
精神分析的心理学にしたって、哲学、文学ということに
なるのだろう。精神医学も基本的には生物学が中心
のようだ。臨床心理学、社会心理学というのも、主流の
心理学とはずいぶんパラダイムが違っているように
思える。それだけマイナーだということだ。
それだけ純粋科学的なものしか、もはや理解がなくな
っているということかもしれない。これはどうしようもない
時代の流れかもしれない。今後もそれは加速していく
ような気がする。それが良いか悪いかはわからない。
あと、ここには自分のことは一言もほんとのことは
書かなかった。たしかなことがあるとすれば、それだけが
たしかなことだとおもう。言ってもネタにされるので
書かなくても当然しょうがない。周囲がそうである以上、
プライバシーに関わることは、どうしたってこんなところで
書くわけがないからだ。だからただただ、かく乱して
いただけだともいえる。でたらめに近いとおもう。それ
なので忘れてほしい。注目したり相手にしたほうが悪い
とまでは思わないが、お互い不幸だったとしかいいようが
ない。全部が嘘と認識してもらったほうが余計な影響が
でなくて無害かもしれない。それに不満があるとしたら、
その人のほうが今回のことに割り切れていないわけで、
その人の問題かもしれない。自分も今回のことはなかった
ものとして、完全にリセットしようと思う。ネットがどうだろう
とそれは雑念しか生まれないからだ。今回は誰の影響も
受けなかったし、今回を今後に反映するつもりもない。
これまで書いてきた自分の意見らしき体裁を装ったネタも、
それこそ思ってもいないネタとしてすべて忘れてしまう
つもりだ。すべての雑念を追いやって、すべてを白紙に
戻して、ただただ無心になるということだ。だらだら引っ
ぱるより、それが潔いことだ。
ほかの面白いこと見つけた。
この心理学板はもうこない。
ここは自分にはろくなものはなかった。
二度と来ることはなさそうだ。
無駄足だったので後悔してる。
混乱させたことには
何度も繰り返してるがすまないと思ってる。
いずれにしてももうどうでもいいことだ。
これ以上かかずらっていても
自分には損にしかならない。
あまりにテイクイットイージーに考えすぎた。
278 :
270:2005/05/16(月) 20:15:55
>>273 こんな事言っても何もならんが、ここは俺が立てたスレなんだよ
>>1-3に書いてあるでしょ?「連投はやめて」って。
あんたが普段行ってる掲示板で俺が連投を始めたらどうだ?
皆逃げないか?一線を引かないか?それを追い出すといわないか?
あなたがやってきたことは、まさにソレだ
「過ぎたこと」と何度も言ってるけど
これからも連投を続けるようであれば、まったく「過ぎたこと」じゃないんだよ
>無神経というかデリカシーに欠けてませんか
このスレの
>>90あたりから、何度もやんわりと説得してきたのは俺だ?
あんた何べん自分が言ったこと破ってきた?「もう来ない」「すまなかった」と言いつつ
数日過ぎたら性懲りもなくまた連投始めて…あいた口がふさがらんよ
こっちがキツく注意しすぎたかな、と反省してたくらいなのに…どういう神経してるんだ?
279 :
270:2005/05/16(月) 20:19:14
>>276 このスレでも、前スレでも、既に同じ言い分を聞いた気がするがな
気のせいか?
もうアンタの言うことなど誰も信じない
「無心」になった結果、自分が口走ったことまで忘れてりゃ世話ねーや
280 :
270:2005/05/16(月) 23:56:49
>連投氏
つい熱くなってしまった。ごめん
あなたの文章って、とにかく物事に対して罪悪感を抱くことを
何とか拒否しようとしてるところがあって、その態度にイラついてしまった
言い過ぎてしまったことは謝る。ごめん
俺もしばらくはここに来ない。頭冷やしてくる
立てた当初は、ようやくまともなトラパスレになるか・・と思ったもんだけど
こんなことになってしまって残念だ。
ユングは、人類に共通の無意識を、身体に見いだそうとした。
それを裏切りとみて関係を絶ったフロイトもまた、晩年には、
ユングの影響を受けつつ、人類に共通の無意識の源を導入
したのだった。このエスもまた、「身体」に見いだされた。
ユングの「元型」、フロイトの「エス」、それは意識を導き、
目標を与え、さらには意識そのものを産み出す存在へと
位置づけられてゆく。
その存在は、意識よりも優位になり、晩年には、フロイトも
ユングも、これら無意識のすべてを意識化するのは不可能
だと認めざるをえなかった。
フロイト最晩年の著作、『精神分析概説』につけた心の構造
の図では、身体と物質に通じる底の部分が開かれている。
エスを提唱した当時、閉じていた部分である。
フロイトが「テレパシー」の存在を認めたことに関係している。
『続精神分析入門』によると、母親と子供を同時に精神分析
した結果、思考が直接伝わったとしか考えられない事例に
出会ったのである。
フロイトのこの「転向」は、弟子たちのあいだで激しい議論を
巻き起こした。フロイトとユングは、ともに近代科学的な立場
との共存をはかろうと努力した。少なくとも「意識的」には
そうだった。にもかかわらず、ともにそれは「身体の無意識」
を基本とするような心理学へと向かわざるをえなかった。
「真実を言おう。この六尺の体の中に、世界があり、
世界の始まりがあり、世界の終わりがある。」
ブッダ
「なぜなら、天の王国、いやむしろ、天の王が、
私たちの中に存在するからだ。」
グレゴリオス・パラマス
臨床心理学誕生の時代、イギリスのマイヤーズらは、スピリ
チュアリズムと呼ばれる、霊魂の存在を科学的に実証しよう
とする研究をさかんに行い始めた。臨床心理学はこれらの
あいだをぬって、自然科学のいまや正統派となった路線に
できるだけ沿おうと努力した。
もしもこの方向に精神分析が進むなら、そこで出会うだろう
無意識は実際広大であって、これまでの意識中心の理論
構成を、根底からくつがえす恐れすらある。
臨床心理学に未来への展望が開けるとしたら、このあたり
からに違いない。
>>279 信じるものではない。「認識」するものだ。
自分としてはまだ従来の世界観を踏みこえるつもりはない。
単純に「あるかないか」という問題ではないと思うからだ。
仮に「ある」としても、それがどういう意味を持ち、従来の
世界観とどういう関係があるのか、まだ自分は十分理知的に
把握できていないと思うからだ。それが十分にわかってくる
までは、「わからない」という立場をとりたいと思う。
体験はしているので、「ある(かもしれない)」という立場は
擁護したい。ただ従来の世界観とはあまりに「断絶」が大き
すぎて、そこからは「身もふたもなく見えて」扱えない。
少なくとも、その延長線上では「ありえない」と思えてしかた
ない。実際、「通常」のところには「ない」かもしれない。
それだけ西洋人、いや現代人は非常に特殊な、狭い考え
方のなかに、固着してしまったということだ。
>>280 「安息」が訪れるのはずっと先なんだよ。
「夜明け前の時代」が一番「冷える」。いずれにせよあと
半世紀くらい長い目で見ていないと、なんらかの選択を間違え
るかもしれないと忠告しておきたい。いずれにしろ、全世界
規模で変わるというシナリオをたどらないと、共通認識の変化
というものは、どうしようもないものかもしれない。だが
見方を変えれば、それは運命論に定められてはいる。
確実に変化の兆候は見られ、やっぱりねえのかと、感情的
に居直ったり、絶望したり、他を断罪・駆逐することが正義だと
躊躇なく確信したり、そういう極端な行動は、後々必ず後悔
することになるからもはやよしたほうがいい。「絶対ない=
余地なし」というのももはや「ある意味間違ってる」といえる
段階には来ているからだ。にもかかわらず「ない」が一番
極まっている時期でもある。「中間的な時代」と言える。
近くても、2013年より近いことはありえそうにない。
つまりまだまだ「未来」でしかないということだ。
私は「答え」を知っている。それは言わない。
なおこれは、なにか高みから見下ろしたような、
ニヒリスティックな捨て台詞のように聞こえてしまうかも
しれない。誤解のないようにいっておくと、
これは「ある」とする人を批判したり口を封じたりするような、
そういう意図は無いつもりだ。
むしろ自分の甘い考えへの戒めといえる。
「実在の境界領域」に踏み込んでしまったとき、
おそらくは誰でも一度は通る道なのだ。そういう幻想は
本質的でなく「横道」になることも多いかもしれない。
とにかく「意識状態」とか「イメージ感覚」とか「概念」があり、
ようは「気持ちのもちよう」みたいなものなんだと、
漠然と捉えて、受け入れればいいだけのことだ。
具体的にどうなってるのか大げさに難しく考えなければいい。
それが健全といえる。誇大にこだわることはないものだ。
それを怪しげに感じている人を説得するつもりもない。
事実、現時点では怪しげでないもののほうが稀かもしれない。
>>280 ほとぼりがさめたころに、また立てればいいだけのことさ。
ここは注目されすぎていわば「手垢が付きすぎた」んだ。
もう邪魔はしない。「被害妄想」が過ぎたかもしれない。
>>280 自分としては、排除・否定・無視・駆逐をしている「風潮」に
対して批判したところで、それは「やっぱりな」という世間の
「固定観念」をより強固にするだけで、「思うつぼ=逆効果」
だと思ってる。はっきり言って、ブーメランになって返って
きて、「毒気」を当てられるだけだ。
それは「逆」にしても同じことが言えると思う。
つまり、自分と違う立場を専門でもないのに孫引用ばかりで
狂信的に叩いたりしていれば、それだけ、ここのコミュニティの
「科学を盾にしたその裏にある教条宗教性」、狂信性・排他性
・攻撃性・排除性・カルト性・盲目性、というものが、狂気の
ように狭い空間のなかでブーストのように高まっていき、
やがてそれは、自ずから自らの本性があらわにされるように、
今回のように「自然」と、「ここ」のイメージは悪くなっていく
だろうということだ。幸いなことに、そういう人とは今後も
「他人事」になるだろうだから好き勝手いえるものの、
ここはそういう「病理構造」を内在的に抱えてしまってると思う。
人のことをいえたものではないが、そこまで「原理主義的」
な人物がまぎれこんでいるということだ。そして始末の悪い
ことにそれを「自分の心理学」に「絶対的な真理」として
「投影」してしまってる。その人物にかかれば、精神分析を
叩く一方で、その精神分析を使って叩くという「使い分け」
もお手の物、という勢いだ。なまじ「科学」を標榜している
だけに、「その適用のしかたの狂気」が見えずらくなって
いる。これらはしっかり「観察」していたことだ。ログにも残
している。その人というのは、自分に対してもまったく少しも
「とまどい」がいかないようでは、それは終わってると思う。
そこに「ここの病根」がある。
心理学そのものは、もっと「世俗的」なものだと思っているし、
ただでさえ影響力があるのだから、本来そのくらいがちょう
どいいと思っている。専門家としてのプライドもあるだろうから、
なんでよりによって素人からと思うかもしれないが、そもそも
学問板でもここまで大人げない態度しかとれない融通の
きかなさで支配しているのはここだけだ。そもそも、ほかの
学問板はそこまでの「教育的指導」で「硬直化」なんてして
いない。それだけ皮肉な言い方を好むなら、ここが「健全」
だということだ。そもそも、「絶対性を装う」というのは、
「ある一定の見方の絶対視と強要」という面があるわけで、
ただでさえ心という本来融通無碍なものであってみれば、
それには一定の責任がともなってくるのは当然だと思う。
「心」は心理学の専売特許ではない。一定の見方だけを
すべてだというのなら、それは「布教活動」と言われても
仕方ない。
その人が専門家でないことを祈りたいものだが、そこが
どうしても受け入れがたい印象であり、どこか間違っている
と思わせるところだ。「他の立場を受け入れろ」とまではいわ
ないが、せめて自分の立場をもっと「相対化」してみる努力
はもっと必要なのではないか。
『心理学への異議―誰による、誰のための研究か』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4788509415/ フィリップ・バニアード
>心理学は使われ方によって、人々のためにもなれば、
>人々を操作する道具にもなるのです。今まで語られる
>ことの少なかった大胆な「心理学への異議」ですが、
>心理学を学ぶ人々は誰もが心すべき問題です。
研究しているだけだ、というなら誰も文句は言わない。だが
それを「素人」に対してふりかざすなら、その「情報の小出し
にしかた、使い分けの恣意性」には一定の責任はともなっ
てくる。そういう「テクニック」を巧みに「使い分けてる」人が
ここには本当に多いと思っているのだ。それは心理学を専門
にしたことの重荷として引き受けたのだから、そういう乱用が
「習慣」として「定着」している「ここの文化」について、
少しは見直す点もあるはずだと思ってる。
もちろん「一枚岩」ではなかった。それなりにいろいろ違う
人がいる。少しはこういう心理学もとりあえず存在らしき
ものは認めて理解を示しているような、「もっと」客観的に
クールに見れる、そういう「片意地の張っていない」本当に
「自然体」の人々もいることは見て取っているし、そういう
人に対しては、プラスにならない影響や混乱を与えてしまっ
てすまなかったな、という気持ちが自然とわいてくる。そう
いう人々が多数派になっていくのなら、真にバランスが
取れることになるだろうし、真に健全だと思える。結局、
押し付けようとして誰も受け取ろうなんて思う人はいない
ということだ。自分の反省でもある。自分は、すべての立場
はそれぞれ「部分的には正しい」ところがあると思っている。
問題がでてくるとしたら、ひとつの立場がすべて、と思い
込むことにあるのだろう。
あと、ここはダーウィン主義的進化論・生物学主義者が
多いような気がする。それをやたらに敷衍するというのは
「便利すぎる」ゆえにどこか危ういところを感じてしまう。
そういう「極端さ」を見るにつけ、ますます、どんなに厳しか
ろうと、「霊性の科学的・実証的研究」を地道に積み重ねて
いくという立場「もまた」、バランスを「担保」するうえで、
重要なことのように思えてくる。
それが精神文化の「空洞化・形骸化・教条化・閉塞化」を
打ち破ることはあっても、それがどのような精神文化にお
いても、さらなる衰退には決してつながらないと思うからだ。
現象界はそれなりに多様性をもつべきものの、究極的な
世界全体としては、それだけで一定の自律性・普遍性を
もっていると思っているからだ。現象界のものはどれも
どうしても部分的な、相対的なかたちしかとりえないが、
究極のレベルのものほど一致してくる、というふうに捉えて
いる。それが確信できないという人は、ほんとうに心の
奥底からはこの世界のことを信じていないのではないか。
しかしその究極というのは、一回の転生経験だけではどう
いう道をたどるにせよ「それだけでは究極までいかない」と
思っている。つまり、イアン・スティーヴンソンの研究など
から推測して、転生の主体のようなものがあり、普通は
転生を通じて次第にそれが発達するという風になっており、
それが究極に至るのを「早める」技法や智慧がある、という
風に考えてる。ウィルバーも「理論的に」そうなっている
ようだ。ただ、だからそういう知識にただこだわればいい、
とは思えない。しかしながら、そういう「可能性」に対して広く
開いておくことは、大切なことではあると思っている。
もっとも、たかがまだ素人の一人物が、ここで何を書こうと、
それとは関係なく、現実というものは進行していくわけで、
いずれそれが実る日も、必ず来るのだろう。それがどういう
かたちになるのかはわからないし、あまりこだわっていない。
「現時点」において、スピリチュアリティの研究、そのありかた、
そのスタンスとしては、自分は中村雅彦先生の考えと一番
「近い」のかもしれない。つまり、自らも体験的なリアリティの
なかに置いたうえでフィールドワーク的な研究をする、そして
いくら「不完全燃焼感」が残ったとしても、その一方で地道に
「心理学的データ」を積み重ねる、そして、そこから今後の
社会のありかたについても考え、根気強くとりくんでいこうと
いう気ももっている、ということだ。自分との距離感として、
違和感がなく、どことなく相性の一致を感じた。さすが社会
心理学がご専門だと関心してしまったし、真摯に見習いたい
と思っている。そのようなわけで一番支持している。
いずれにしても、それは、これからの100年のオーダーで
考えていくべきことだと思う。現代人が現代の普通の生活を
していて、そのなかでの差異くらいで、一気に「究極か/それ
以下か」、なんてそこまでの「短絡さ」が成り立っているわけ
がない。もしそうなら、過去から現在に至るまで、誰も苦労
なんてしてないとわかるはず。そういう謙虚さと、現在の
一般的な人類の意識レベルで現実的に届く範囲から、
つまり「下から段階的に」取り組んでいく地道さが必要だと
思う。下を把握できれば把握できるほど、それだけ現代に
おいてそれを乗り越えていくハードルも低くなる。なにごとも、
あせらないことだ。
まだまだそういう「環境整備」の段階だと思っている。
そのなかでの「細々とした混乱」はこれからもあっても、
それはそういう「細々とした混乱」を次にはより把握して
回避・解決しやすくするための、そのための「マッピング」
をより精緻にしていく、もしくは「豊富」にしていく、そういう
現代的なステップになっていくものだと思う。また、その
体験において何が何にどれだけ影響しているのか、そう
いう要因を、現代のコンテクストとの整合性から、探って
いくためには、いくらでも課題があるように想像される。
だから、「もう分かりきっている。いまさらあえて」という
批判は、必ずしもあてはまらないと思う。たしかに一通りの
ことはもう、過去の霊的伝統や宗教で言われていて、
それなりに「一致」することはすでに認められているし、
それを「宇宙モデル」として認めたうえで出発するものな
わけだから、現代的な「細かいところでの解釈」はともかく、
全世界でそれだけの「一致」があった以上は、それらの
すべての歴史的文化的価値が、今後、否定されたりする
ような可能性はありえないわけだから、それは「安心」して
いいわけだ。
ただ、それは現実的には、そんなに単純にもなっていない
と思う。物質的宇宙の空間や時間のスケールを考えてみれ
ばわかるように、ものすごく広大であり、普通の人間の経験
というものはものすごく限られているはずだ。まったく違う
文化背景での体験を比較してみることは、いまだなされた
ことのない試みであり、おそらく想像以上の広がりが発見・
実感されることになるだろうと思う。また思わぬ「共通点」や
「改善点」もより明らかに見えてくるかもしれない。
そういう意味では、その「一致の大枠」のなかでの「未知」
というものは、いくらでも「眠っている」わけだ。すでに分かっ
ていることも多い以上、分かっていなかったことですでに
あった過去やすでにある現実よりは、分かることで良くなる
ことはあっても、現実的には大したことは起きないはずだ。
これまでも、いくらでも、あるところではあったわけだから、
それよりは「楽観視」している。それによって「本物を観る眼」
というのも次第に自然に出来てくることになるだろうと思う。
そうして、多くの現代人においては、周囲との歩調を合わせ
るかたちで、100年のオーダーで、徐々に「段階」を経ながら、
さまざまな「霊的進化」のプロセスをたどることになるだろう
と思う。
もっとも、以上のことは、「そうするべき」、「そうあるべき」、
と他人に説得してるつもりはない。「誇大妄想」を語っている
と思ってもらってかまわない。遠い未来には当然、そういう
可能性はでてくると思っている。あせらないことだ。
我々の素朴な常識からすると、経験の内容のほとんどは
意識状態に特有なものであり、無意識状態にはそうした
経験の内容はないかのように感じられる。
ところが心理学の知見はそれを否定するのである。
精神分析を興したジグムント・フロイトが、無意識状態にも
信念や願望、感情があり、ときにその抑圧が精神疾患の
原因になると説いた。続いてカール・ユングは、無意識とは
我々の集合性と創造性の源であるとした。
東洋思想では、意識と心とを分離して考える。心は精神的
活動プロセスや認知の機能である一方、意識は「存在」する
ものである。心はずっと「物的」である。例えばサムキヤ・
ヨーガでは、心は「物に関する知」であり、「物の一部」で
ある。物自体が、西洋思想よりもずっと「心的」なのでは
あるが。それは、物とは独立した高位の次元の「意識」から
影響を受けるともされる。
「人間の潜在性拡大を探る組織的な探索は、西欧近代に
おいては、ジグムント・フロイトが単身で着手したといわれ
るが、それはおそらく当たっているであろう。フロイトに
よる諸々の発見こそ、人間に隠されたさまざまな潜在性を
探る西洋の科学的な、あるいは少なくとも高度に専門的
な探索の舞台を設定したものだからである。フロイトの
諸発見とともに、近代世界で初めて、”人間研究”が開始
された。おそらくは西洋史上、もっとも偉大な心理学者」
ケン・ウィルバー
しかし彼は、自分のパラダイムに固着したため、その後の
発展の道を閉ざしてしまった。
一方、ユングは深層心理学の理論をさらに一歩進め、東洋
思想を取り入れることで集合的無意識の理論にまで拡大
した。ユングにはフロイトのようなパラダイム固着が無く、
その後の心理学の発展の基礎ともなった。
ウィルバーの『意識のスペクトル』の主張をかいつまんで
いうと、意識は多次元的である、あるいは、多くのレベル
からなっている。
心理学、心理療法、宗教の主だった学派や宗派は、それ
ぞれ異なったレベルに力点を置いている。したがって、これ
らの学派や宗派は互いに対立しているわけではなく相補的
であり、それぞれのアプローチはそれ自体のレベルに着目
している限り、おおむね正しく、妥当なものである。
こうして、意識に対するおもなアプローチの真の統合が実現
可能となる。この統合は選択的なものではなく、フロイト、
ユング、マズロー、メイ、バーン、その他、著名な心理学者
はもちろん、ブッダからクリシュナムルティに至る偉大なる
聖者の洞察にも同等の価値を描くものである。心理学の根を、
枝を少しも傷つけることなく、形而上学の豊かな土壌に根づ
かせるのである。
要点は、人間の意識はスペクトルのような階層構造をなし
ており、それぞれの階層によって現れる現象が全く異なって
います。学者が人間心理を研究するに当たり、どの階層に
注目しているかで、全く違った学説を唱えていますが、どれも
間違っているわけではなく、観察する対象が異なっている
ため、見方が変わるだけで相互に矛盾しているわけではあり
ません。
これまでの学者は、これらのスペクトルの階層をゴチャマゼ
に議論したので、いろいろな食い違いを生じたのですが、
ケン・ウィルバーはそれらを明解に区別説明したのです。
私たちが世界を「観測」するとき、「そこにある」棒切れや
石ころよりもずっと深い水準で観測しているのだ、とプリブ
ラムは結論づけた。私たちは物体と「共鳴」「同期」すること
によってそれを知覚する。世界を知るということは、文字
通り、その「スペクトル領域」に波長に合わせることなのだ。
なにかを見つめるとき、私たちはそのイメージを、外の世界
にある三次元のものとして「見ている」のである。私たちは、
現実の物体があるのと同じ空間に、その物体の仮想イメー
ジを「生成」して「投影」する。その結果として、物体とその
物体の知覚とが「一致」する。このことは、物を見るという
行為が一種の変換プロセスであることを意味する。
ある意味では、観測という行為において、私たちは時間とも
空間とも関係のない干渉パターンの世界を、まさに目の前に
見えるリンゴの世界に変換しているのである。脳はきわめて
弁別脳の高い「周波数分析装置」なのである。
脳には、本来なら利用できる記憶保管庫であるゼロポイント
フィールド(量子真空)の無限の波動情報を制限する一定の
メカニズムがある。
プリブラムと同様、日本の保江邦夫の数式も、脳のプロセス
が量子の水準で起こり、脳内のネットワークが量子コヒー
レンスによって足並みをそろえて動作していることを示して
いる。保江邦夫と治部眞里は、スチュワート・ハメロフとは
独立に、微小管にそった振動場をつうじて生じていることを
理論化している。脳のすべての機能の基礎が、ゼロポイント
フィールド(量子真空)との相互作用に関係していることを
理論家した人たちもいる。
それぞれが、パズルの一片を手にしているように思われた
こうした科学者たちの多くは、やがて協力しあうことを決意
した。
カール・プリブラム、保江邦夫、スチュワート・ハメロフ、
それにマギル大学物理学部のスコット・ヘイガンは、人間の
意識の性質に関する理論をまとめている。彼らの理論に
よれば、微小管と樹状突起の細胞膜が身体の「インター
ネット」を構築していた。
光子は微小管の芯を貫通し、身体中の光子と交信すること
ができて、それによって脳全体にある微小管内の原子内
粒子に集合的協同がもたらされる。もしこれが事実なら、
思考とか意識といったものの単一性、が説明されるだろう。
ハメロフは、電子が周りの環境とももつれあうことなく、こう
した光のパイプを楽々と通る、つまり、定まった単一の状態
に落ち着く、ことを観察した。このことは、電子がひとつの
量子状態、可能なあらゆる状態のうちのひとつ、にとどまり、
脳がそのなかから「最終選択」できることを意味している。
これはもしかすると、「自由意志」というものをうまく説明して
くれるのだろうか。私たちの脳は、あらゆる瞬間に、量子的
選択をくりかえし、可能な複数の状態のなかから選びとって、
ひとつの現実の状態をつくっている、というわけだ。
こうしたことのすべてが、異端となるひとつの考えを導いた。
意識とは、身体のあらゆる部分で生じる全体的な現象であり、
たんに脳内だけで起きるものではない。
もっとも基本的な水準でみれば、意識とはコヒーレントな
「光」である、というのがその考えだった。
生物の仕組みは、一種の量子プロセスだった。細胞間
コミュニケーションなど、体内のあらゆるプロセスは、量子の
変動によって引き金を引かれる。高次の脳機能や意識
といったものも、量子レベルの機能のように思われた。
量子記憶に関するウォルター・シェンプの発見は、とりわけ
常識外れの考えを導き出した。短期記憶や長期記憶が
そもそも私たちの脳内にはまったく存在しておらず、ゼロ
ポイントフィールド(量子真空)に保存されている、という
ものだ。
プリブラムの発見以降、アーヴィン・ラズローなど数多くの
科学者たちが、脳とは究極の保存媒体であるゼロポイント
フィールドに対する単なる検索・読み出し機構にすぎない、
とまで議論するようになっている。
プリブラムの日本の同僚たちは、私たちが記憶と考える
ものが、ゼロポイントフィールドから放射されるコヒーレント
な信号にすぎず、長期記憶とは構造化してひとまとめに
されたこうした波動情報だという仮説を提案している。
もし彼らが正しいのなら、私たちの脳は保存媒体ではなく、
あらゆる感覚の受信機構であり、脳は、ホログラフィックな
変換を通じ、ゼロポイントフィールド(量子真空)を通じて
記憶に同調していたのだ。
それは、知識やコミュニケーションについて、私たちが理解
しているよりもずっと深くて広範囲の能力を人間がもっている
ことをほのめかしている。
私たちの個別性、私たちが孤立した存在だという感覚その
もの、の境界線をぼやけさせることにもなった。もし生物の
究極の姿が、フィールドと相互作用をしながら量子情報を
交換する荷電粒子だというなら、どこまでが自分で、どこから
が外界になるのだろう? 意識は私たちの肉体のなかに
閉じ込められているのか、それとも身体の外の量子真空
のなかに存在するのか?
もし私たちとそれ以外の世界とがそれほど密接に相互に
結びついているのなら、実際のところ、「そこにある世界」
などという表現はもはや意味をなさない。エネルギーを交換
しパターン化し、量子真空に記憶し、呼び出すシステムという
考えは、人間がもつさまざまな可能性や、世界との関係に
ついて多くのことを語っていた。
現代物理学者たちは、何十年も人類の進歩を妨げていた。
ゼロポイントフィールド(量子真空)の影響を無視すること
によって、相互結合性の可能性を排除していたし、数多く
の超常現象について明確な科学的説明を与えられないで
いた。
「洞窟の影に映る影を抱きしめる下降者は、有限の領域を
無限の価値に変換しようとして、結局、上昇者とおなじよう
に、この世界をひどくゆがめてしまう。下降者は、『この世』
ではけっして得られないものを、この世から得ようと願い、
また強制するのである」
「個人の発達においては、人はエロス(より広い、より高い
アイデンティティへの拡大)を通じて上昇し、アガペー
(下位のホロンを思いやり、抱擁する)を通じて統合する」
『魂の再発見―聖なる科学をめざして』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393710150/ ラリー・ドッシー
脳を超えて、古代の智恵と量子物理学、神秘主義と科学
的探究、宗教と西洋医学を結ぶものは何か。「癒し」の
パラダイム変革について、現代医学界のオピニオンリーダー。
「意識のノンローカルな性質」から、代替医療、ホリスティック
医学が見えてくる。
『バイブレーショナル・メディスン』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4531081277/ リチャード・ガーバー
人間とは単なる物質ではなく、複合的な生命エネルギー
システムの存在である。人体の多次元的なリアリティを
解明し、現代医学+世界の代替医療+宗教的・霊的な
癒しのわざを大胆に融合させた、21世紀の治癒と健康の
大統一ビジョンを描く記念碑的大著。医学と宗教の架け
橋となったアメリカ心身医学界のベストセラー。
これほどスピリチュアルな内容を大胆に取り入れた医学
の本は見たことがない。この本を読むと、正統派の西洋
医学が古色蒼然としたものに見えてくる。いわゆる代替
医療として一括される様々な分野を、「波動医学」という
視点からの統一的な理論と実証的な研究によって基礎
付けようとする。この分野についてこれだけ広範な考察と
徹底的な理論化がなされた意義ははかり知れない。この
本を踏まえることなしに代替医療の分野を語ることはでき
ないのではないか。それほどに重要な本だと思う。
『投影された宇宙―ホログラフィック・ユニヴァースへの招待』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393366247/ マイケル・タルボット
2005年4月刊。94年刊、「ホログラフィック・ユニヴァース」
の新装版。幼い頃より超常現象を体験し、科学がなぜ超常
現象を解明できないのかについて探究を続ける。
アインシュタインの弟子、デイヴィッド・ボームと、神経心理学
の名著『脳の言語』著者、カール・プリブラムは言う、「私たち
の世界はすべて、時空を超越したレベルからの投影である」。
ホログラムとしての脳、魂の影、覚醒夢と並行宇宙、臨死
領域、ドリームタイム、そして「全観的」宇宙…。
奇妙ではあるが、科学的に確かな数多くの事例を根拠と
して構想された、ダイナミックな宇宙観への招待。
トラパはやっぱダメだな。
『ダーウィンのブラックボックス―生命像への新しい挑戦』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4791756339/ マイケル・ベーエ
(進化論について自説での補足)「デザイン説」を取って
いる。いい線はいっている。
神が進化を「促した」。意識のともなった創造的エネルギー
により進化した。物質的に進化するシステムを創造した神
はいない。また、物質的に進化するシステムそのものが
神というわけでもない。
進化論に反して、種は非常に安定しており(正常な遺伝子
を残すのが生命の本質)、種と種の間には大きな「断絶」
があって、中間種を作り出すことが非常に難しいことが、
最新の生命科学で分かりつつある。
神は無から高等な生物を創造したのではなく、すでにある
生物から新たな生物をデザインしていった。新たに種を
創る際は、コンポーネントプログラミングのように、すでに
創られた種を使用する。そのほうが「降下」するエネルギー
が「最短経路」になるから。
物質(無生命)からの生命の創造はバクテリアレベルまで
であり、高等生命は、すでに存在する種のリプログラミング
によって創られている。つまり、偶然なにかができ、それが
機能するのではなく、目的がまずありきで、各生命に合っ
たコンポーネントを「組みこむ」。よって、他の種でも有効な
血中成分が人類に効くこともありえる。
極端な話、全然系統の違う種のコンポーネントすら使え
てしまう。顔が水に浸かると心拍数が半分に落ちる「潜水
反射」という機能をもちあわせる種がある。人類、クジラ、
アザラシなどである。これらの生物はどれもまったく別の
系統である。潜水反射は、他系統のコンポーネントを追加
的に組みこむことができる例だ。海生哺乳類の機能を
もちあわせるので、人類も海辺の動物から進化したと
考える「アクア説」があるが、あれは「嘘」であり、事実は、
イルカ、クジラの機能を、我々人類に組みこんだだけだ。
新しく種を創る際は、まったく新しいコンポーネントを「造る」
のではなく、「組みあわせる」というわけだ。そして多くの
コンポーネントが似ていれば、近い系統とはいえるわけだ。
ちなみにコンポーネントとは「DNA」のこと。DNAは、
バイオフォトン(生物光子)の保存場所であり、放出源で
あり、量子力学やゼロポイントフィールドが関わっている。
キリンの首は長いため、血圧は高く、キリンが水を飲むため
に頭を下げると、血が下がって脳溢血を起こしてしまう。
これを防ぐために、血が脳に達する部分に「ワンダーネット」
という網状の血管が広がっており、血圧を分散する仕組み
になっている。
中間種の不在から見て、キリンの首は次第に長くなった
というネオダーウィニズムの立場は否定される。キリンの
首は短期間に一挙に伸びたということになる。進化論は
それをホメオボックスの突然変異とか、中立突然変異とか、
ウイルスなどによって説明しようとする。
ところが、現存するキリンの祖先形動物であるオカピの
脳には、キリンのように首の長くない彼らには必要ないの
に、すでにワンダーネットが備わっている。
それに関してサイエンスライターの金子隆一は「もっとわかる
進化論」において次のように言っている。
「この事実に対する、唯一の筋の通った解釈は、キリンの
祖先が高い所にある木の葉を食べるために首を伸ばす
決心をかため、将来を見越してワンダーネットを準備して
いたというものである。つまり、キリンの首は合目的的に
進んだという、結論になってしまうのである。このような
例は、生物界に続々と見つかっている。この謎に答えられ
る進化論こそが、一番正しい進化論ということになる」
プログラミングは必ず段階を踏んでいる。オカピの元となる
草食種を造り、オカピを造り、キリンを造るというようにする。
宇宙があることが神の証明だ。地球があることが証拠だ。
生物がいることが証拠だ。人類に意識があることが証拠
だ。つまり、物質だけを見ていると、「痕跡が大きすぎて、
逆に痕跡だと気づかない」。次元を誤ると、いつまでも捉え
られない。科学は「神学」をさけているだけ。つまり、「神が
いる場合、どんな理論ができるか」という思考をさけている
だけ。神(意識)を扱わないで神(意識)を証明できるわけ
がない。
創造とは、土からの個別創造などではなく、「意識生命体
による段階的な変化」のことである。神にも変更できない
物理的な法則と、神が任意に決められる法則がある。
これらに基づいて世界ができている以上、地球で生命が
利用できるような物質を増やし、人類などが生存できる
環境を作るには、何億年もかかる。45億年の年齢の物体
にするには、45億年の時間を必要とする。
昔よりは「神」に近い。つまり、現代のほうが精神面、知識
面で、神を認識することが容易になっている。科学や思想
の発展が進んだおかげで、古代や中世より現代のほうが
神について理解しやすい。
創造の真の意味は「意識が関わって変化すること」だが、
人間の意識が関わっても創造である。生物の進化は進化
論のように起きたのではなく、まだ認識されていない創造
的エネルギーによって起きたのである。それは、最終的には
電磁気エネルギーとしても現れる。つまり、原始スープに
電流を流す行為は、末端部分で神の行う行為と「同じ」
である。人間が認識しているエネルギーと、認識していない
エネルギーのすべてが、神(意識)によるものだということだ。
ドイツのマールブルク大学の理論生物物理学者フリッツ・
アルバート・ポップは、光のもっとも重要な保存場所であり、
バイオフォトン(生物光子)の放出の源となっているのが
DNAであることを示した。
その放出が、生体システムによる、ゼロポイントフィールド
変動の補正現象ではないかと考えるようになった。
ネオダーウィン主義者たちがとなえる現在の理論よりも、
もっと優れた説明を与えるモデルを手にしたのだ。もしDNA
があらゆる種類の周波数をつかっているのなら、情報を
符号化して伝達する波動を介して、より完全な生物が作れる
だろう。
このモデルはさらに、幻肢も説明できるかもしれない。もし
かすると患者は、依然として存在する真の物理的実体、
ゼロポイントフィールドに刻まれたその肢の影を体験して
いるのかもしれない。
「ホメオパシー」もまた、光子吸収だった。ホメオパシーは
同じもので治療するという考えが基礎にある。共鳴する
音叉のように、適切なホメオパシーは悪い振動を吸収して
しまうというわけだ。
また、分子の電磁気信号が、「鍼灸」を説明するかもしれ
ない。中国医学では人体には経絡が走り、そこに「気」と
呼ばれるエネルギーが流れる。それは「つぼ」に入り、西洋
の生物学に対応しない内臓に流れ込み、エネルギーを与え
る。この流れが阻害されると病気になるわけだ。研究の結果、
つぼの多くは、周辺と比べて、圧倒的に低い電気抵抗を
もつことがわかった。それはすべて中国医学の場所と一致
していた。
ポップは確信した。DNAとバイオフォトン(生物光子)放出
の理論がただしく、これが身体のプロセスを駆動させている
ことだけは間違いない。自分が観察した量子的プロセスに
よって生物が動かされていることに疑念はなかった。
1991年以降、バンヴェニストは、ホメオパシーにおいて、
特定の分子の信号を、増幅器と電磁コイルを使うだけで
伝達可能なことを示してきた。
四年後には、コンピュータを使って、こうした信号を記録・
再生することができた。分子の活動をコンピュータに記録し、
その物質に感受性があるとされる生物システムに対して、
何千回もの実験でその記録の再生を試みている。すべて、
そうした生物システムは物質そのものが作用したとだまさ
れて、しかるべき反応を見せた。分子が非局所的に、
かつほとんど同時にたがいに交信することを可能にする
媒質は、ゼロポイントフィールド(量子真空)が生み出して
いるように思われた。
エネルギーと情報の伝達にとって、水はきわめて重要であり、
バンヴェニストの研究でも、水という媒質内でなければ、
分子信号を伝えられないことが示されている。
神(意識)が関わった偶然、それを必然と呼ぶ。
創造には「志向性(意識のベクトル)」が存在する。例えば、
海辺の鳥を造ろうとする方向は似ている。ベクトルの方向が
似ていれば、似た生物(似たようなカモメ)が複数できるの
は当然。また、1代までなら交配できてしまうかもしれない。
ライオンとトラ、馬とロバ。
ベクトルの出発点は、必ずしも到達点に近いわけではない。
中間種・中間DNAなどない、分離元種が系統の近くにない
など。例えば、近似種の創造というのがある。
ある種Aに
対して、形態的にも性質的にも似ている種Bや種Cがある
としよう。進化論ではX百万年前に分かれたと主張するだろ
うが、その分かれた元は1つとして存在しない。なぜなら、
DNAの構造を認識している神が、目的の種から離れた
元種からそれぞれを造ったため、似通った生物がいるのに
分離元種がいないというわけだ。
今までのプログラムからコンポーネントを集めて、複数の
プログラムを作ろうとした。だが出来たプログラムは、似た
ようなデザインとなってしまった。どちらも悪くないので、
どちらも残した。交配不能な類似型はその顕著な例である。
322 :
没個性化されたレス↓:2005/05/22(日) 14:37:05
age
なんでコイシはアク禁にならんの?
ベクトル到達点という目的はあるものの、到達点周辺の
エリア内で、どれだけ「可能性(意識のポテンシャル)」を
与えるか、ということまで意識して創造されている。
そのポテンシャルは、けっして他の種への移行という形で
は現れない。
「人類の潜在能力」はその「最たる例」となる。
ベクトル到達点という目的はあるものの、その結果が完全
な生物を生み出すわけではない。ベクトルの方向も大きさ
も完全に決定しているのではなく、ファジーさをもつ。
海辺の鳥を造るベクトルが生み出された結果は、できた種
が「海辺の鳥」であればいいだけで、「完璧な海辺の鳥」で
ある必要はない。この到達点のファジーさこそが、創造の
ポイントなのだ。
人間の作る絵や彫刻などもこのファジーさをもつ。つまり、
神(意識)の行う創造は、人間の作る「芸術」と系統を同じく
する。科学で絵や彫刻を論じるのはナンセンスなのと同様、
科学で神(意識)が図れないのはこれが原因。
創造は、物質的完璧ではなく芸術的。
花や蝶は人間がみて「綺麗」だと感じるのがほとんどである。
美の概念は神を始め、全生物に共通する。これは「芸術種」
と呼べる。
綺麗な花を咲かせる植物が自然選択される根拠はない。
綺麗な生物が、鑑賞用に創造された。ただ、それだけで
ある。
人間の芸術創作において、外界そのものを写真みたいな
絵にしたり、彫刻でその物体とまったく見た目の同じ物
(作り物の動物)を造る行為、それが芸術だろうか?
人間のヒューマニティや葛藤など、言葉や理論では表せな
いものを、絵や彫刻に反映させてこそ芸術である。
そこには理論的な完璧さはなく、ファジーという要素が存在
する。
ステップポイント(断続的進化、創造的進化)。進化は必ず
段階を踏んでいる。
いきなりキリンを作るのではなく、オカピの元となる草食種
を造り、オカピを造り、キリンを造るというようにする。また、
できたキリンに問題がなければ、アジャストメントはない。
ウマの場合は、速く走らせることが創造ベクトルの頂点なの
で、さらに改良の余地があれば変えることになる。
ステップポイントがメインだが、アジャストメントもある。
類似種らしき化石が出てくるのは、微調整があったから
だろう。
博物館には、現在の馬(エクウス)が小型の祖先(エオキッ
プス)から、あたかも順々に進化してきたような図がよく展示
されているが、初期の種では指が5本あったが、次第に3本、
1本と、指が失われていった。現存するウマにおいても、
ごくまれに3本指の個体が生じることは先祖の名残とされる。
創造ベクトルにより誕生したウマだが、もう少し改良する
ことも可能だと判断し、ひづめを中心に微調整したわけだ。
調整が甘いと先祖の名残が出る。
試作種。いきなり種を創造して終わりではなく、完成品に
向けた途中の種も存在する。
例えば、古代の巨大なトンボは試作種だろう。
飛べない鳥は試作種であろう。
また、大きいダチョウなどは、飛べる鳥をどこまで大きくで
きるか、という意図の見出せる試作種である。
ハミングバード(はちどり)は地球最小の鳥だが、どこまで
小さくできるかの限界を試した意図が見出せる。
中間型(間の形質)と中間種(移行段階)は異なる。
カモノハシは爬虫類と哺乳類の間の存在とされているが、
くちばしももち、卵を産むという点を考えると、爬虫類、鳥類、
哺乳類の間となる。これは、爬虫類、鳥類、哺乳類を意識
して造った意図的中間型ということだ。
こんな、どの類にも属さないような種がいることが進化で
ない証拠。
水中では、目と耳を頭部の溝の部分に収めて、機能しない
ようになっているのは、神経が多く分布して、接触、電気や
振動などに敏感な柔らかいくちばしが、水生動物から出る
微弱な生体電流を感知するので、目や耳を使用しなくても
獲物の位置を正確に捉えることができるから。
形態や行動もさながら、機能までも他の種を逸脱している。
致命的欠点をもつ種もある。
大人のキリンは座ると立てなくなるようだ。これは不利な
形質どころか致命的欠陥である。こんな種が厳しい淘汰に
耐えて生き残れるするはずがない。首が長くなる以前に
座っても立てるようになる個体が自然選択される。つまり、
進化論の説明に説得力がなくなる。
象の場合でも、ずっと体を横にしていると、その下の部分に
血が流れずに壊死が始まってしまうようだ。
「こんな種でも生きられる」ように調整されている。
変化は必ずしも時間的に連続ではなく、ある一定の時期に
変化して、しばらくはそれを安定させることもある。つまり、
間隔的に起きている。
古生物学を解析すると、大絶滅の後に多くの種が出現する
傾向がある。これは、あらかじめ絶滅や新種誕生が予定
されているとも考えられる。また、自然に絶滅したとしても、
「地球に多くの生命を存在させよう」という意思が読み取れる。
地球上にはさまざまな特徴をもった、本当にたくさんの生物
がいる。
現在も新たな種が生み出されている可能性もある。
中世代や現代の魚類がなぜ両生類に、両生類が爬虫類
にならないのか? なぜ「魚→両性→爬虫」となる進化
時期が1度しかないのか?
魚類が陸に上がったのは、ある特定の年代で一度だけ
起こっている。「以後、魚の陸上進出が起こらなかったのは、
陸上のニッチ(生態学的位置)が両生類に占められていた
から」というわけではない。
もう両生類を造ったのだから、魚類を両生類にする理由が
ないのだ。なぜなら、既成の両生類から両生類を作るほう
がエネルギーが少なくてすむからだ。
共生する生命と、寄生細菌。
一部の細菌(クラミジア、リケッチア)は、細胞外では増殖
できない偏性細胞内寄生細菌として知られている。これは
細菌やウィルスを「動植物のため」に創造した論拠になる。
人間と人体に宿る菌の関係もそうだが、アリとアブラムシの
ように、まったく別の種が互いに「共依存」する関係にある
種がある。偶然そうなったのではなく、生命同士の関係も
含めて創られたのだ。たまたま、共依存の関係ができあが
ったと思うのは、進化よりもさらに確率の低い可能性を求め
ることになる。
動物と細菌による「共進化」もこれに該当する。
植物にせよ、動物にせよ、「食べられてたまるか」という
物質を作り出す種がある。「進化の過程で偶然にそんな
物質を作り出す種が食べられずに自然選択された」とでき
るが、初めから食べられないように創造された種なので
毒をもつのだ。
逆に、甘い果物は食べられるために創られた種である。
甘く美味しくなる遺伝子をもつ生命が自然選択されてきた
など無理が大きい。なぜなら、食べられてからの進化など
手遅れだ。進化したい頃には、別の種の胃袋の中だ。
そもそも、他の生物に食べられて、種を撒き散らしてもらう
という宿命も、創造によるものである。
痕跡器官は、例えばモグラの目なら光のあるところにいた
証しとされる。進化にみえがちの論だが、「光のあるところ
にいた生命の遺伝子を参考にした」と切り返せばいいだろ
うか? 芸術種と同じ感覚で、外見的に目のない哺乳類は、
神は好まなかった。
もしくは、「創造の際、取り除くまでもなかった」という考えだ。
あってもなくてもほとんど同じなら、その器官を取り除くエネ
ルギーが大きかった場合は、それを避けるようになっている。
虫垂(もう腸)、尾骨などの痕跡器官など、「東洋的視点」が
ないと、一見無意味に見える要素もある。
クジラの大腿骨やヘビの後ろ足の痕跡のように、その生物
に必要ない器官の名残があり、「段階的な創造」であること
が窺える。痕跡器官はステップポイントを経た創造の証拠
なのである。
「生物が優れたデザイナーによって造られたものなら、その
デザインは完全なもの。生物には今では使っていない無意味
な細胞組織はなんだ」と進化論者はいう。
だがこれは創造が「芸術(ファジー)」に属することを知らな
いからだろう。
進化論派は、「各生物の酵素比較が進化の強力な証拠
であるのは、酵素が似ているだけでなく、違いをもうまく
説明できるから。もし酵素がデザインされたのであれば、
デザイナーはなぜそれぞれ少しずつ違ったアミノ酸配列に
したのか。それも進化の系統樹にうまく合うように」という。
その答えは、単に「高等生命には、高等な酵素が与えら
れる」のである。酵素の比較によって得られるのは、物質
進化の系統ではない。個別に創造と言っても順番があり、
すでに創造した生命の構造を無視してではなく、踏まえて
創ったのである。よって、系統に合うようになっても不思議
はない。また、すでに造った生命と関わらせながら新しい
生命を誕生させている。なにも考えずに次々と別々の生命
を造っては、それらはうまく関わらなくなる。
一方、人間が大腸菌と同じアミノ酸コードをもっていることは、
大腸菌と人間が共通の祖先をもっている(祖先を共有して
いる)ということの有力な証拠ではなく、大腸菌を人間の
体に住まわせるために創造した(または、色々な菌も棲め
るように人間を創造した)からである。
ここで進化論派は、一方で「酵素は進化の系統だから少し
ずつ違う」としながら、また一方で、「全然レベルの違う生命
が同じような酵素を作れるのは同じ先祖をもつ」と矛盾する
ことを言っている。
この地球の大気や海の塩分の安定は偶然ではなく、生命
が自らのために創造し維持している。この地球上の微生物
から植物、高等生命体に至るまで、ありとあらゆる生命が
一丸となって、地球環境を保つために働いている。
大気は偶然にできたのではなく、意図的に創られた要素
であり、生物の利益になるように創造され、維持されている。
惑星に人間が住めるようになるのは大変なことなのだ。
自然界には92の元素が存在する。しかしすべての生命の
基礎はその中から選りすぐられた、わずか4+16種の元素
から作られている。
物質の自然な状態は混沌であり、あらゆるものは荒廃し、
無秩序になる傾向がある。生命は絶えず外から新しいエネ
ルギーを受けて、この法則に逆らおうとしている。一つに
力にまとまるように繋ぎ止めている力は「気(微細エネルギー)」
であり、生命はみな、「超物理的な存在」である。
「あなたが世界である」
クリシュナムルティ
「前世紀は原子力の時代であった。しかし、
今世紀が”量子真空”の時代になったとしても
ちっとも不思議ではない」
パル・パソフ
量子真空、生物光子、デジタル生物学、脳のホログラフィ
モデルと量子論、量子の非局所性とサイコキネシス、そして、
トランスパーソナル心理学。
科学(サイエンス)は理論であり、神秘主義は感性である。
両方そろって、初めて真理(ニューサイエンス)に近づける。
神秘主義は、感性がないと客観性を帯びることはない。
神秘主義者はこのことを承知している。
ここが宗教と異なる。よって、一般人にはすすめない。
神秘主義は、「神の奇跡は説明できない」というような
宗教的甘えはない。どのようなメカニズムでその奇跡が
起きたのか、納得するまで追求する。
神秘主義は、感性であり、これは「アート(芸術)」である。
私は、「正しい」ことを説明したわけではない。
世界の「美しさ」を表現したかっただけだ。
「もはや私が生きているのではなく、
キリストが私の中で生きているのです」
聖パウロ
「みんな好きなんだよ!禅では、みなが<いただきます>
っていうんだが、これは、世界中でもっとも短い食前の
祈りで、わしのお気に入りなんじゃよ」
「スピリチュアルなものを制度化しなければ、歴史になんの
足跡も残せん。もし、イエスのあとに、教会を建てた聖
パウロが続かなかったら、<山上の説教>も一世代の
うちに消えてしまったことだろうて。」
「特に、優位を占めている宗教のキリスト教では、指導者
たちが三流だといわざるをえん。<われわれ>だけ真理
に達した。そうでない者は地獄へ落ちるべし。こうしちゃ
ーいけない、あーしちゃーいけない、とりわけ余計なこと
はしちゃいけない。」
「まず、われわれは手厚い世話を受けている。次に、その
ことに感謝して、お互いの重荷を分かち合えばいい」
ヒューストン・スミス
「初めて、瞑想によって神秘的な虚空に踏み込んだとき、
ボクは、この不思議な広大な広がりのなかに独りで
いたくないという、漠然とした感じに襲われた。情動は、
空の雲のように、あなたのアウェアネス(意識)を通り
抜ける。あなたは<空>のように拡がったように感じる。
来るものすべてに注意が向くのではなく。あなたが、
この空のような状態でリラックスしているかぎり、死も、
それほど強烈な恐怖にはならない。」
「合流してからも、さらに生まれかわりたいかどうかは、その
時点での選択になる。あなたの質問から察するに、あなたは、
神秘主義を、どこか奇妙で風変わりな現象だと考えている
ようだ。本当は、神秘主義的な意識とは、人間の認識の
進歩が頂点に達した結果にすぎない。150億年なんて、
なんでもないのだ。ほんの一瞬の出来事なのだよ。神秘
主義者たちは、この点には確信がある。ずっと、同じことを
やってきたんだ。心は、単に短命な物質に随伴する現象
ではない。それは永遠なのだ。物質的な宇宙は、深い瞑想
から得られるアウェアネス(純粋な意識)の一つの現われ
なのだ。」
ケン・ウィルバー
これは「中身」にはなんら踏み込まず、あくまで科学主義や
唯物論を徹底的につきつめることで、逆に「それ以上のなに
か」を浮き彫りにするのにとどまるものである。その手法上、
ここだけ読めば、ある種矛盾した、奇妙なものに映るかも
しれない。
それ以上のことは何も書いていない。真の宇宙像(コスモス)
をここで提供しているわけではない。ここから想像したものは、
世界の末端にもならない。それが科学の提供できるすべて
である。すべての次元は見える宇宙に重なっている。だが、
見える宇宙が宇宙そのものではない。それが次元が違うと
いうことの意味だ。
神秘主義は、科学と矛盾せずすべてを包括しうるが、科学
とは直接関係ない。この意味で神秘主義は、科学主義や
唯物論とは相容れない。扱う次元が違うのである。
存在の次元が違うのだ。次元が違うものを還元することが
科学的でも統合でもない。ビヘイビアとコンシャスネスは、
存在の次元が違う。意識は存在している。そしてそれはそれ
自体で自らを変化させうるものなのだ。
私は「入口」を、明瞭かつ鮮明に示しただけだ。それは一度
読めば十分なもので、あとは外される梯子でしかない。ここ
から先を知的に理解するには、メタフィジックスやアートに
踏み込むしかない。それは、自分でその次元まで認識、
もしくは体験しなければ「わからない」性質のものだ。そこに
踏み込むかは「実存的選択」ということになる。
わからないながらも、ささやかながらも、世界は、これからの
あなたの生に開かれている。あなたが世界だ。
タダで読めるトワイライトゾーン&ムウ独演中
残念ながら、超常現象というのは「ある」。UFOを見たと
いったが、あれは本当のことを書いた。検証手段も書いた。
ただ、周囲の反応で、心理的な抑圧がかかった。
あるからといって、それを現時点でことさら明示化するのが
健全だとは思えない、ということだけに迷っているだけで、
存在自体に迷っているわけではない。つまり、そこにことさら
の幻想を見ること、には疑問があるものの、存在自体が
幻想だと言っているわけではない。宗教的にいえば「方便の
問題」といえる。
方便を抜きにして語ってしまっている、とはいえる。ずるい
ようだが、ネットだからあえて書いてみただけで、現実では
言わないことし、「常識的な一般人」の立場を踏み出すつもり
もない。それほど「普通」の人間だと思っている。書いてある
ことは事実だが、あくまでネット人格にとどまるものだ。
同じ(少なくとも内心においては)肯定的世界観に立つ人々
以外には、ここに反応してほしいわけではない。もし反応する
なら、無視できない人になんらかの「アンビバレントな問題」
があると思っている。超常現象に誇大な幻想を見ることには
疑問だが、それが存在しないわけでもないのだ。
超常現象からわかればいいことは、物質次元とは違う精神
的な次元の世界があるということだけだ。物質科学から
霊性が生まれないように、超常現象から霊性が生まれる
わけじゃない。ただ、それを示唆することで、唯物論を相対化
するトリガにはなるかもしれないだけだ。意識の高い人間が、
結果的に超常現象を併発することはあっても、その逆は
真ではないのだ。どの次元からでも結果的に超常現象は
現れうるからだ。結果だけを見ていても判断できないのだ。
科学は「出てくる結果しか見ない」という限界があるわけだ。
だから、それを認めたあとは、そこからトランスパーソナル
心理学のようなもの、がどうしても必要になってくるのだ。
自分もこれから実践をともなったうえで理解していくつもりだ。
意味や価値のある世界観<コスモス>と技法とその実践が
すべて結びついて、初めて<ユニバース>も意味をもつ。
でなければ、人文学<ヒューマニティーズ>がある意味がない。
私<アイ>において、「すべてはまだ始まってすらいない」。
すべては、いまここにある。
『キリスト教神秘思想史・1 教父と東方の霊性』には、
「霊性(スピリチュアリティ)」の定義が出ている。
「フランス語<spiritualite'>の訳語。主観側からみた人間
の宗教性を意味する。生活における宗教性の具体的実現
の仕方と、それに関する理論を指す。霊性は、人間の宗教
性のあらゆる次元に関わるため、教義学・典礼学・神学的
倫理学などの神学的諸学とともに、心理学・社会学などの
諸学がその解明に寄与しうる。その中心的主題となるのは、
祈り・瞑想などの宗教的行為と、その発展の諸段階および
指導理念、そして超越に向かう人間の方法的努力(修得
修行)およびその経験(神秘体験)である。」p.43
心理学などが「解明に寄与できる」と書いてある。また、
祈りや瞑想などの行為と、その発展の諸段階、そこにおけ
る「方法」と「神秘体験」が「主題」と書いてある。
アメリカの医師ラリー・ドッシーは、『医学の再創造』の中で、
医学の歴史を、第1期:機械論的医学、第2期:心身医学、
第3期:ノンローカルの医学と分類し、第3期が現在始まり
つつあるとまとめてる。そこで特に「祈りの治癒効果」に注目
している。医学的治癒効果が注目されつつあるわけだ。
また、セラピューティックタッチや気功法、鍼灸など、「気」の
エネルギーを用いる治療法がかなり認知されてきており、
アメリカ政府は正式にこれらの「代替医療」を研究する部門
を設立してる。
キリスト教神学、仏教学の分野では、形而上学は研究の
対象になってる。ただ、体験というより文献にもとづく。
とはいえ、そういう人がそこまで教条的かというと、トランス
パーソナルの学会を調べれば、イスラム学、密教学、神学、
仏教学、東洋医学、と、ひととおりの系統の人が関わってるし、
学会もまた違って禅学系のところにある。マイナーと思って
いるが、案外、そういう研究をしている人は、リベラルなところ
も持ち合わせているということなのかもしれない。
それでも「ここに書いてあること」はリベラルすぎたと思って
いる。
ただ、UFOとかも、現象としてはトランスパーソナルのなかに
入ってるわけだし、どうせ体験というのはそういう次元で起こ
っているわけだから、いずれはそういうものとすら直面せざる
をえないはずだ。
というわけで、この世界はもうあれかこれかしかないかの
ように思われ、未来への希望をまったく見失いかけてたが、
少しながら自信を持ち直してる。世間で認知されなくても
いいと思ってる。
マイナーながら、そういう時代の流れを認識すれば、まだ
認めることまではできなくても、「本当の世界の広さ」に比して、
「我々」の「常識」のほうがいかに狭いものなのか、認識を
徐々に変えていくことも、知的にできないことじゃないと
わかるはずだ。
進化には「創造的な働き」がどうしても必要になる。
ホメオボックスの突然変異、中立突然変異、ウイルス、
パンスペルミア(宇宙起源)などは、どれも偶発的・破壊的
なものであって、そこから生じるのは奇型などでしかない。
生物をより高次に進化させるようなものではありえない。
それらが作用した結果、生物が変化したことはあったとして、
進化するためには、偶発的・破壊的な力でなくて、創造的
な作用でなくてはならない。つまりダイナマイトをランダムに
爆発させれば、破壊しか生まないが、計画的・創造的に
用いれば、土木工事を推進できるのと同じだ。
しかしながら、進化論や宇宙論、いまだ諸説が入り乱れて
いる分野だが、それらがこれまで明らかにしてきたデータや
これからのプロセスが、根本からくつがえされたり、否定
されるようなことは、それはないと考えている。炭素測定法
が明らかにしてきたとおり、例えば、天文学的時間において
文字通り、6000年前に7日間で一挙に万物が創造された
ことは考えられない。根本的・本質的プロセスはともかく、
物質次元においては、天文学的な時間というのはあくまで
天文学的な時間としてあったと考えている。
それでもなお、そこからは「人間原理宇宙論」というものが
出てくるものなのだ。
創造は時間をかけて段階的になされたと見る。
ある一時期において、創造的な力がインプットされることに
より、生物は飛躍的に前進し、新しい種がつくられる。そして
その段階が完成し、次の段階を準備するための一定の期間
が経過した後に、再び創造的な力がインプットされて、次の
新しい種がつくられるというように、段階的に創造されたと
見るのである。
これを進化論的なパースペクティブで見れば、1972年、
アメリカの古生物学者、ニールス・エルドリッジとスティーブン・
グールドが提唱した「断続平衡説」と同じである。
種は通常、なにも変化しない長い平衡期を経た後、突如と
して、その平衡を断つような形で進化するのである。
また、日本の霊長類研究の創始者であり、生態学・人類学者
である今西錦司が提唱した「今西進化論」も、似たように
「生物は進化するべきときに進化する」としている。
進化のシステムをなにも語っていないのが欠点とされるが、
それは「自然のありのままの需要と認知」という姿勢を貫いて
いるからだ。実際これが本来の、現象界から把握できる限界
であるべき考え方であり表現なのだからしかたない。
進化は形而上学的なのだ。
生物の断続的変化が起きない時期は実は「混沌」であり、
神の意識が関与している時期が「秩序」である。混沌時期
には生物学者のいう自然淘汰や自然分布などが成立し、
秩序時期には意図的淘汰や意図的分布が存在する。なぜ
なら、混沌(カオス)と秩序(コスモス)のバランスこそが、
創造の意図であるからだ。
それは形而上学的には、「流出論」である。
そして人類が到着する。「人間原理宇宙論」である。
これからの科学の展開とは矛盾しないことだろう。
生物学は、細胞の中に遺伝子が存在し、そこに遺伝子暗号
が組みこまれていることを明らかにした。現代の生命科学は、
人間のDNAの全系列における遺伝子の地図を作ろうとする
<ヒトゲノム計画>をすでに完了させている。
その遺伝子暗号は人知もはるかに及ばない高度な内容を
もっている。これを偶然に生じたと考えるのは非科学的、
非合理的な態度だろう。その奇跡を、ある生命科学者は、
畏敬の念をこめて「サムシンググレート」とまで形容する。
人知を越えた存在、すなわち創造主が存在し、そのロゴスが、
プログラムとして、デザインとして、遺伝子に「宿っている」と
みればよいのである。それはそう、バイオフォトンのように。
超心理学の実験を認めるとするなら、動物にも微妙なサイ
があることがわかっている。もちろん、人類も動物としての
側面を多く持ち合わせる。
だが---もしそれを意志するのならばの話だが---意識的に、
究極的には宇宙にまで合一できるような、そういうポテン
シャルをもつのは、人類だけだ。そういう自由意志はある。
しかしながら---本当に究極にまで達した人は、これまでの
歴史上では、1000人もいない---それくらい、少なくとも
これまでは、それだけの厳しさがあった。
サイは、物理学的には説明しきれないが、心理学が物理学
的に説明しきれないからといって、現象としてないことには
ならないのと同じように、超心理学もまた現象としてある。
それぞれ、扱っている対象が違うだけなのだ。
宇宙には次元や構造やプロセスというものがあり、一定の
普遍性がある。だから「永遠の哲学」のような立場が語れる
し、意識のモデルというもので捉えられ、それが成立する。
それはスペクトルのように、次元が違うと性質もまるで変わる。
一通りのサイはあると考えるが、物質世界全体としては、
厳然たる現実の限界があることは変わらない。万能感は
なんら通用しない。我々近傍のアストラル次元は、物質世界
とはまるで性質が違う。物質次元には物質次元の、厳然たる
限界がある。時間的パースペクティブでみれば、ちゃんと
科学が明らかにしてきたようなプロセスがあったと考える。
やはり、物質次元へは、意識で変動するものと変動しない
要素があるのかもしれない。だが、最終的には物質次元にも
インタラプト(割り込み)してくる。サイがある以上、せめて
その出現のしかたさえ分かれば、世界をほんとうの意味で
「理解」することにさえなるかもしれない。その末端だけは、
やはり「量子論」が手がかりになるかもしれない。
いわゆる超常現象と呼ばれるもののすべては、どれも電磁気
となんらかの関係があるらしいところに「共通点」がある。
本物のクロップサークルも、科学的調査では、水分とプラスマ
が関わっている。出現のしかたの説明について、もうすこしで
一点突破ができそうな気配もあるのだが。
あと、「重力」も気になる。いまだ根本原理は謎のままだ。
そして、スーパーストリングのような、極めて純粋数学的な
仮説に向かう展開になった。だが、これは仮説であり、実験
で検証されているわけではない。重力を伝達していると思わ
れる重力子も仮説上の存在に過ぎず、いまだ未発見だ。
だからといって、そういう探求を否定するつもりはない。
いまだ、さまざまな諸説が入り乱れている。
そこら辺にきっとヒントがある。ここはある種「哲学的」な、
大胆な発想の転換も必要になってくるのかもしれない。
それこそ、「イメージ」できるかどうかなのかもしれない。
というわけで、自分としては今後、科学そのものに深入り
するつもりはない。これはあくまで雑学にとどまるものだ。
自分はそういうタイプじゃない。もともと向いてないし、これ
以上は自分にとっては横道にそれることにしかならない。
ものごとにはなにごとも相性というものがある。相性を
見極めなければ不幸になってしまう。だからあなたも自分の
相性に合うことをやるべきだ。迷ってはいけない。
これからは、ヒューマニティーズやアート、それも感性的な、
中途半端なところで、アプローチしていくことになると思う。
それが自分を賦活する道のように思える。論理だけでは
どうしてもまったく導けない、そういう人間精神の「深み」と
いうものがあることに気づいた。それがまるで足りなかったし、
それを補うかのように求めているというのもある。
ケン・ウィルバーを理解することが、自分にとっては必要な
ことのように思える。いずれにしても他人にはどうでもよかっ
たことだ。余計な影響を与えてしまっただけのことだ。
お互い不幸でしかなかったことだ。自分はマイナーでかまわ
ないと思っている。
ビックバンによる物質的宇宙誕生の瞬間、同時に「意識」も
生じた、と考えてみる。しかしこの意識というのは、現在の
人間がもつようなイメージとはまったくかけ離れた、プレパー
ソナルで全体的な超微細無意識である。それは宇宙全体
にあまねく広がっている汎心論的なものだ。
このように言うと、「そのビックバンの前」を純粋数学的に
想像したくなったり、「意識のそのまた究極的な始原」を
想像したくなったりするかもしれないが、とにかく物質が物質
であると思考できるのと、意識が意識であると意識できる
のが、とにかくどっちが先ともいえない、とする。とにかく、
「それ」や「その前」ということは、人知では計り知れない、
想像しにくいが、無限になにも起こっていない、それは、
物質でも意識でもないとする。
その意識は、「進化」のプロセスによって、積み重ねられる
レイヤーのように、その全体が変化していく。そうして進化
した層は、宇宙全体の中で限定を受け、しだいに局所系
を形成していく。
それに対応して、物質的宇宙のあり方も変化していく。
星雲の形成、銀河系の形成、太陽系の形成、地球の形成、
というように。
プレパーソナルで全体的な無意識の限定化、局在化の
プロセスに対応した証拠として「現実」に、この地球は宇宙
船地球号として、この太陽系において、まさに奇跡的な
環境を持つに至る。
そして、そのプレパーソナルな無意識は、地球で生命を
出現させるにまで至る。「進化」のプロセスは、宇宙生成から
一貫して変わらず、地球上の生命進化、意識進化をも
促進しつづける。
氷河期が終わり、約5億5千万年前、それまでのプレパー
ソナルな無意識のプロセスが次々と臨界に達し、結果、
ごく短期間で、まるでありとあらゆるタイプの生物を試行錯誤
でつくったかのような、それまでの時代にはいなかった
新しいタイプの多種多様な多細胞生物が爆発的に出現する。
その中には、現在も生きている生物のおもだったものすべて
が含まれていた。生物におけるビッグバン、「カンブリアの
大爆発」である。
プレパーソナルな無意識のさらに複雑な局在化の表れと
して、神経系が発現する。それは、高度に複雑化された
動的な局所系を作り出すことになる。
神経系が複雑に高度に組織化されるにつれ、プレパーソ
ナルな無意識から個体としての意識が生じてくる。それに
ともなって感覚はより鮮明なものとして現れてくる。個体の
自我意識も強化されてくる。意識が統一的なのも、その
一貫したプロセスの現われとみなす。
宇宙誕生から現在までの、プレパーソナルな無意識から
パーソナルな意識への進化のプロセスを眺めたとき、初期
は非常にゆっくりと進み、時間の経過とともに上昇のスピー
ドは加速されてくる。
そこには分節、停滞、飛躍がある。
ここでは例えば、「なぜ意識は存在するのか」という問いは、
「なぜ素粒子は存在するのか」という問いと等価に近い。
意識の起源や存在については問いが生じるのに、素粒子の
起源や存在についての問いが生じないのは、意識が物質的
宇宙の生成より後発するものである、という前提に立って
いるからなのだ。
「意識はなぜ存在するのか」と「素粒子はなぜ存在するのか」
という問いは等しく、「存在はなぜ存在するのか」という謎
である。
「意識化」と「局在化」は一見すると矛盾するように見える。
「意識化」は過程統一体としてのアスペクトであり、「局在化」
は空間としてのアスペクトであるといえる。「意識化」と同時に
「局在化」が進むという逆説が、意識の成立の根本にある。
「局在化」が進行し、逆に「意識化」が全く生じなかったとした
らどうなるだろうか。「局在化」された世界が世界のすべて
となり、結局、「局在化」そのものが消滅してしまう。
意識と物質、どっちだけでも成立せず、一体化されたもの
として進化してきたのだ。
「意識化」と「局在化」の現時点における極限が、人類の
「意識と心」とそれに「相関」する「脳」であると、とりあえずは、
みなせる。
地球上における生命の誕生は、プレパーソナルな無意識
からパーソナルな意識へとむかう、最初の萌芽であると
考えられる。
そして、生命個体に着目してみると、原始バクテリアから
加算的、統合的に、進化していくことに気づかされる。
そこでここだけフラットに見ると、「局在化」とは正反対の
ように見える。これが科学的に検証可能なものであるため
に、科学的世界観において生命進化は、形態において
そうであるように意識もまた、加算的、統合的に発展して
きたものとされ、そこに「局在化」という視点はまったく生じ
ないことになる。
この問題に対する答えとして、進化のプロセスをさかのぼる
ほど個体としての意識よりも、例えば種全体としてのプレ
パーソナルな無意識のほうが優勢であるということであり、
意識の個体性の観点からみれば、やはり「局在化」は進行
しているのである。
つまり、原始バクテリアは種全体としてのプレパーソナルな
無意識で、人類はパーソナルな意識であるということに
おいて、空間的にも人類のほうが局在化されている。
進化のプロセスを経るほど、意識化のスピードは加速され
てくる。
宇宙生成時には「局在化」が圧倒的に優勢であったが、
人類のレベルまでくると「意識化」が圧倒的に優勢になる。
プレパーソナルな無意識からパーソナルな意識が優勢に
なってくる。
感覚は分化し鮮明さを増してくる。神経系はそれにそって
進化してくるわけである。自我意識と感覚の鮮明さも密接
に関係しているように思える。デカルトの「われ思う、ゆえに
われあり」は、自我意識の確立と、鮮明な感覚による延長
の把握だ。
これは宇宙生成時からの必然的な到達点であるということ
になる。これにより科学の発展と自我意識の強化が進められ、
強い自我意識が成立してくる。
自我意識の確立によって、現在の状況があるわけだが、
これによって意識の進化は確定したのだろうか。いや、
そうではない。変わることなく意識化を駆動しつづける。
ここで意識化がピタリと止まるとは考えられない。ばらばら
になったそれぞれの自我意識は、個を超えてトランス
パーソナルな意識へと向かうはずだ。
これがトランスパーソナル思想のベースになっている。
あくまで自我意識を否定するのではなく、それを包含し、
かつ超えていく。
だがこれは、大変難しい課題かもしれない。
デカルト以降、確立されてきた自我意識と、科学および
科学的世界観をそのまま温存し、かつ全体的な意識に
目覚める、ということであり、そうでなければ、厳密な意味
では、トランスパーソナルとはいえないのだ。科学を成立
させる意識と、全体的な意識は、なかなか両立しない。
トランスパーソナルを完全に具現化した現代人とはどのよう
なものだろう。「心脳問題」が完全に解決されている、といえ
ばいいだろうか。
それは生命誕生に次ぐ、第二の臨界なのだろうか。
このように、トランスパーソナル思想は、プレパーソナルな
無意識→パーソナルな意識→トランスパーソナルな意識
(これはまだほとんど実現されていないため「トランスパーソ
ナルな無意識」の状態にある、とされている)、という基本的
な枠組みを持っている。
一方、「物理主義」は、できればそのパーソナルな意識自体、
「消去」したいと思っているはずだ。だから「プレ-トランス」
もない。
鮮明な感覚でもって把握される延長、それは、自分自身の
身体も含まれる。が、しかし、それを行っている主体である
<私>はどうしても問わずにはいられない。
結局、デカルトの二元論の問題に帰って行くし、トランス
パーソナル的思考にぶち当たらざるをえない。
もし宇宙誕生から現代に至る、その必然としての、トランス
パーソナルへの進化の道筋がもし本当に、この宇宙に内在
しているものだとしたら・・・だがこの展望はあまりに「出来
すぎていて」、楽観的すぎる印象すらある。
あたかも自動的に達成されていくような雰囲気さえある。
理論にもとづき、ベルトコンベヤーに乗せられていくように、
はたして次々と達成されていくだろうか。
意識の成立、<私>の存在、現代人が思考するかぎりは、
その「負」の側面と分かちがたく結びついている。
「心脳問題」に感じられる原理的不可能性に、はたして
これから現代人は、たとえば「瞑想の実践」によってなら、
それを乗り越えられるというのか。
哲学と科学による現代文明は、西欧において勃興したが、
それがなくて人類の文明はそのまま推移し続けることが
できただろうか。おそらくできなかった。
もし西欧で興らなければ東洋で興っていたかもしれないし、
アフリカで興っていたかもしれない。宇宙に意識というものが
存在し、生命の誕生も「偶然の中の必然」だったのでは
ないか。そしてその一方で、東洋と非近代西欧においては、
「神秘主義への道」は「準備されていた」のではないか。
あまりに「出来すぎている」かもしれない。物質からの自立
的な進化はありえない。だが、宇宙のプロセスをあとから
振り返ってみれば、そこには創造、つまり、「断続的進化」の
足跡がある。
歴史を振り返れば、新しい文明が、単純にその前の時代との
折衷だったことは一度もない。新しい文明とは、その前の時代
の人にとって「想像もできないこと」「未知なるもの」だった。
トランスパーソナルの方向がこの「未知なるもの」であるか
はわからない。
それはかつて誰もなしえなかった神への道、アートマン
プロジェクトだ。そこにおいて、自我段階から霊的段階へ
入ると、人類が魔術的段階にあった時代にもっとも突出した
部分が、再構成される。
自我、つまり論理や理性は含んで超えられ、そこに直観が
芽生えてくる。さらには時間や空間の制約を超える。そこで
はテレパシーさえ起こる。
人類は今、この段階を「醸造中」である。
超心理学とトランスパーソナル心理学
http://homepage3.nifty.com/yahoyorodu/tpintro.htm 意識の作図学
http://homepage3.nifty.com/yahoyorodu/para5.htm というわけで、この宇宙のほんとうの成り立ちを理解する
ためには、それは片手間でやれるほど、半端なデータでは
いかないということが次第にわかってきた。いちいち他人
にかかずらっていたら、時間がいくらあっても足りない
ということになる。
宇宙論、進化論、心脳問題・・・考えれば考えるほど、
スタニスラフ・グロフの臨床データというものが重大な意味
をもっていることに気づかされる。
人類の進化のプロセスを遡る、細胞、動物、地球、天体、
宇宙と同化する。つまりそれは、量子真空の向こうがわ、
宇宙の記憶としての意識にアクセスしているに違いない。
グロフのデータはほかならぬこの宇宙を語っているのだ。
ウィルバーの理論もスミスの理論も、グロフのデータに
頼っているところも多いようだ。『脳を超えて』は、もし人類が
生き残れば、人類史に永遠に残ってもおかしくない。
ここに書いたことは「ひとつのものの見方」と受け取って
ほしい。もし意識というものがあったとして・・・もはや物理
法則そのものと思っている人はさすがにいないだろう・・・
科学的な世界観と矛盾しない世界観とはどのようなもの
だろうか、という思考実験をやってみただけだ。正しいとか
間違っているとか、こだわっているわけじゃない。いくら
なんでもこれは単純すぎると思っている。科学的世界観
とは矛盾しなくても、あくまで別物だとは思っている。
ただ意識のおかれるべきところはどこだろうか、宇宙では
ないのだろうか、ということだ。意識そのものは科学の中に
ないのではないだろうか、ということだ。
結論から言うと、内面においては、無理して科学と結び
つけることはない、とも思える。
しかしながら、現代において生活するうえでは、科学的な
思考、つまり自我の強化とは無縁でいられないわけで、
それらの思考との不可避な接触において、それと相容れ
ない精神の空間、精神の方向性をどう確保し、どう調和
させるかを考えることは、避けて通れない。
それを現代的に説得力のあるかたちで示し、解決すること
は、より生活の全方向に調和し、身近にすることにつながる。
現代で普通になりたつような、そういう現代的なかたちを
模索することは大切なのではないだろうか。
そういう意味で、ウィルバーのようなインテグラルな方向
には、可能性を感じてしまう。これから理解することになる
のかもしれない。私もそろそろ旅立ちのときかもしれない。
「私は、これこそ東洋と西洋、南と北を包含した最初の真の
意味での世界哲学であると考えたい。コスモスにはあなた
が考えるよりずっと広く自由な場所があることを示したい」
ケン・ウィルバー
ウィルバーは概念的な拘束衣を提供しているわけではない。
まったく逆なのだ。ウィルバーのヴィジョンが示されるまで、
それは誰も完全には把握していなかった。私もまだ把握
していない。
「かつて私は、この付加と分化というプロセスを自然の豊饒性
に我々が押しつけた偏見であると考えてきた。しかし、
ここで自然が私たちに告げているのは、こうしたストーリー
を、実は自然は受け入れている、ということである。」
スティーブン・グールド(生物学者)
自然には階層性という秩序がある。
意識の量子力学モデルでは、意識は物質世界と量子レベル
で「相互作用」し、物質世界を変化させている、と考える。
人体のレベルでは、それはたとえば微小管などを通し、
物質世界全体としても、それ全体として活動している。
ブーツストラッピング、ハイパースペース、スーパーストリング
など最先端の物理学では、意識と物質世界を接続する
試みもある。
微細エネルギーは、物理学の四つの力と違う、より微細な
エネルギーとされ、次第に確認されつつある。それは、気、
プラーナなどと各地でいわれ、心と身体をつなぐ双方向の
バイオエネルギーであるということが、東洋でも西洋でも
一致している。それが物質のインパクトを心に伝え、また
心の志向性を物質に伝えるとされる。
結論から言うと、きわどいほどの最先端の科学とはもはや
矛盾しないし、科学によって否定されることもない。
おそらく科学のどこから入っても矛盾しない。否定できると
思っている人は、ほんとうの最先端をちゃんと見ていない
のかもしれない。
とはいえ内容的に難しく、自分も理解できているわけでは
ないため、それも無理はない。だが、もうそこまできている
はずだ。
ささやかながらも、あなたの心を、思い込みの狭い枠から
解き放つ、その手助けになれたのなら、私は幸いである。
脳中心主義の問題は、その教説内容の貧困さ自体にある
のではない。
すでに十分な複雑な配慮のもとでなされているはずの自分
や他人の行動を、「頭の中」でしか成り立たない、貧困な
抽象論、一般論にすっぽりとおさめることで、勝手に「格下げ」
してしまう、そんな態度にあるのかもしれない。
「世界」を特定の、すなわち自分の「頭の中」に閉じ込める
ことで、納得したいだけの者には、コスモスはそれほど広い
場所ではない。
ささやかながらも、あなたの心を、思い込みの狭い枠から
解き放つ、その手助けになれたのなら、私は幸いである。
というわけでここにはもうこない。
もともと楽観的な明るい人間なのかもしれない。
あまり暗く深刻に考えたりしない。
ここはあまり冗談が通じない人が多いのかもしれない。
そんなにストレスあるのか?と心配になってしまう。
ここに書いたことも借り物みたいなものなので、
気にしないでほしい。
ネットは読まないほうがいいと思う。なにもプラスにならない。
ここはマイナス思考の人が多い。自分の好きなものだけ
見ていきたい。相性の悪い人とはもう関わらないつもりだ。
どうしても表現という風になってしまう。
どういう形にせよ自分は表現の道でいくことは間違いない。
それがどういう形になるかはまだ明らかになっていない。
私自身が、新しいステージに入ることが先決だ。
まだあまり詳しいわけではないが、東洋思想で言われて
いたリアリティの描写というのは、あながち嘘ではないの
ではないかと思う。科学が西洋の悟りだとするなら、東洋
思想は東洋の悟りというわけだ。
例えば唯識というのがある。これは実際の実践に基づくと
ころに特徴がある。まず「認識作用は存在する」という立場
に立ち、実践を通して究極に到達しようとするパラダイム
である。
唯識では、西洋の五感にあたる認識作用(眼識・耳識・
鼻識・舌識・身識)と区別されたものとして、意識、末那識、
阿頼耶識という別の認識作用が同じように存在するとされ、
そこでは、西洋で認識されているよりはるかに細かい意識
の分類がある。五感もその一部に含まれているわけだから、
当然、それとは違う性質を持っており、それが人間によって
認識されていた、ということになる。
唯識の「意識」とは、文字通り、意によって生じる識だ。つまり、
西洋的には志向性によって脳内に立ち上がってくる幻想
(イリュージョン)に対応するのかもしれない。これは脳内過程
と密接な「相関関係」がある。
「末那識」とは、さらに深層のレイヤーで働いている「自我
保持機構」のこと。「阿頼耶識」とは、「アラヤ=アドレス」の
こと。これが自己や自然界を「変換」している。
きわめて合理的だと思うのは気のせいだろうか?長期記憶
などとも対応しているのではないか。もしかしたら現時点での
人間の認識の頂点にあるものかもしれない。
これは西洋思想の「唯心論」ではない。心も物質も究極の
存在ではなく、さらに「空」へと統合されるからだ。これらが
すべて「重なっている」ということになるだろうか。
私たちが意識について語るときの混乱というのはすべて、
実のところ認識の区別の混乱にあるのかもしれない。その
観察は何千年も行われてきたわけだから、その洞察は、
もっと真剣に見直されてもいいのかもしれない。それが
正確に認識されれば、おそらくは科学とも矛盾しないはずだ。
「どんな人間の考えも100パーセント、間違っているとは
考えられない。どの方法が正しく、どれが間違っていると
するよりも、どれも正しいが、部分的なのだと仮定する。
そして、このような部分的な真実のどれか一つを取り上げて、
他を捨て去るのではなく、どのようにそれらを組み合わせ
ることができるのか、どのように統合できるのかを考える」
「互いに組み合わせるということができるということを示さ
なければ、ある特定の方法なり領域なりを本当に尊重
したことにはならない。それが本当の世界哲学を作る道
である」
ケン・ウィルバー
それは折衷主義の対極にあるものだ。ウィルバーは寄せ
集めではなく、全体を組み合わせられることを示したのだ。
興味がある人は、ウィルバーの本を読むことだ。
私としては海外も視野に入れている。
また、ここに書いてあることは、どれも科学の営みとは矛盾
しないことに気をつけていただきたい。あらゆる科学の展開
に開かれており、それを妨げるものではない。それを包括
しうるものなのだ。
しかしながら、進化論についてはどうしても「新しい見方」を
必要とすることになるはずだ。それについては、やはりこれを
おすすめしておきたい。
『ダーウィンのブラックボックス―生命像への新しい挑戦』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4791756339/ 著者のマイケル・ベーエは第一線の分子生物学者だ。生命
はミクロレベルでは非常に複雑であり、それそのものは自然
選択によって進化しうる道筋が想定できないことなど、極めて
科学的に進化論の弱点を指摘している。
そして「デザイン説」をとっている。もっとも「デザイン」が行わ
れたあとに、自然選択の過程が起こることについては積極的
に認めている。そして生物学は、どの部分がデザインによる
ものなのかを区別する研究プログラムを取るべきだと言って
いる。
最新の進化論が明らかにしてきた大局的な道筋について
は認めるし、それは受け入れてもよさそうだと思っている。
ただそういう道筋は、プログラミングの過程であり、現象界
から見るとどうしてもそこで完結しない「ノンローカルな組み
合わせやミッシングリンク」がしだいに増えてくるだろうと
思っている。そういう意味では進化論は「面白い」分野なの
かもしれない。
「カンブリアンビックバン」で突然、生物が出現している。
そこで現在に至る主要なものはすべて揃っていた。三葉虫
は高度に完成された形態だった。大進化は、小進化の積み
重ねではどうしても説明できない。量子レベルでプログラム
信号が入力された、と考えている。
ベーエは神の存在を認めているが、特定の宗教を信じて
いるわけではない。また、創造論者になるな、といっている。
誰がデザインしたかは議論しなくていいといっている。
そういう立場がある、ということを認識することは大切だと
思っている。
それがおそらく一番バランスが取れているはずだからだ。
私も立場が近い。私は、脱宗教的・霊的な神の存在を認め
る。それは究極的には、いかなる属性も持たない脱宗教的・
霊的な「空」にいきつくと考えておく。
進化論もすでに明らかになっているところはそれを部分的
な見方として認める。
なにもおかしなことは言っていないはずだ。これで、科学を
包括し、個人の精神的な空間も、しっかり確保できたはずだ。
ここまで理解すれば、個人で瞑想や祈りをすることも意味が
あることだと、少しはとっかかりを得られたはずだ。
私としては特定の宗教に結びつけることはすすめない。
望む人は誰がなんと言おうと入るようになっているし、
望まない人は誰がなんと言おうと接点を感じられないもの
だと思うからだ。そういう、理屈では説明ができない、
機会にかかわるものだと思っている。とくに自分で自覚的に
実践するわけでもない宗教的なものは、伝統的に文化や
歴史のあるものはともかく、新興宗教はすすめない。
結局は怪しいものがほとんどだと思うからだ。
「空」というのは、神秘主義的な意味で、もっと脱宗教的な
中立的な言葉にすれば、「ノンデュアル(非二元)」のような
感じになるはずだ。東西神秘主義、永遠の哲学、トランス
パーソナル、で一致している。
そうはいうものの、こういうものは瞑想や祈りなどの適切な
実践と結びついていなければすぐにおかしくなる。それだけ
の落とし穴だらけだと痛感している。
やはり心理学や精神医学や哲学について軽視することには
反対だ。トランスパーソナルパラダイムやウィルバーモデル
に従って、臨床心理学的、精神医学的、哲学的に、あたうる
かぎり慎重に検証できるところまでは検証していくべきだと
思う。認知されるとすれば、それはそういう地道な積み重ね
しかないはずだ。やっぱりそこがなあなあだと、いつまでた
っても発展していかないと思う。
ただそれはあくまで「相関関係」としてであって、意識は
存在する構造や状態をもち、たんに心の持ち方や考え方
や見方が変わっているのではなく、存在や器質が変わっ
てくることを、自分でも体験的に認識していくようでないと、
神秘主義であるべきものを、脳の幻覚や誤認識とか、
進化上の偶然など、病理化されたネガティブな説明に還元
してしまうだけになる。実際に脳波を調べれば、そんなもの
におさまっていないと、しだいに知られてくるはずだ。
2001年末、オランダの医学グループが体外離脱について
論文を発表している。一般的に体外離脱と呼ばれる現象は
脳の誤認識などといった脳内現象とされているが、それだけ
では説明がつかない事例が多数認めらたというのだ。こう
いう従来の世界観を逸脱する事例は、科学の現場から集積
されつつあり、それは否定しきれないものになってくる。
体験した人にとっては、普通の科学ではありえないことは
絶対にゆずれないところのはず。そこはあえて差別化して
主張し続けるだけの、それだけの意味というものがある。
なぜなら、実際に、意識は存在するからだ。
融合する科学と宗教
−われらはいっしょにこれから何を論ずるか−
おれたちはみな農民である ずいぶん忙しく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと 生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはそういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験と
われらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識して
これに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう
求道すでに道である
宮澤賢治
ウィルバー(永遠の哲学)と言っていることが同じだ。
脱宗教的だが適切な、「瞑想」や「祈り」などの実践に、
通常の心理学・医学・生理学が説明しようとするような
見方以上の、神秘的・霊的な意味や価値を認める。
それを個人で実践してみることをおすすめする。
やはりポストモダンには反対で、永遠の哲学の立場を
支持する。つまり、神秘主義にも、科学にも、同じくらい
のリアリティがある。
『永遠の哲学―究極のリアリティ』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4892031429/ ウィルバーじゃないが、瞑想や祈りなど、自己による意識
的変革のともなわない宗教は、教条的になるだけで、
すぐにおかしくなるし、だめだと思う。やっぱりモノの考え
方ではなくて、自分の意識状態なり意識構造が変わら
ないと、神秘主義としては意味がない。
これまでの体験から、ほんとうに有効なものとして体得した
ものとするには、そこには落とし穴だらけだというのが実感
することだ。ウィルバーだってそれが究極かはともかく
何十年もかかっている。
それだけ甘いものではないはずなので、認知科学をメタファ
にしたりとか、そういう自分流で理解できる範囲でやること
には自己満足の域をどれだけ出るのか疑問を感じている。
もし持続的にやるなら、病理とかもあるはずで、自分が全体
のどういうステップにいるのか、もっと客観的に把握するため
の語彙が必要になってくると思っている。
もっと広く、トランスパーソナルがこれまで何年も積み重ねて
きた臨床データとかを真剣に受け止めたうえで、心を開いて
おくことは大切なことだと思っている。
そういうわけで、自分としては甘く考えることはできない。
中途半端に触れるくらいなら、まったく触れないほうが、
よっぽどバランスをくずさないとさえいえる。
ということで、よっぽど気が向かない限りは、あえて無理に
興味をもつことはすすめない。それより普通に心理学とかを
やっていたほうがよっぽどためになるはずだ。
ほんとは簡単なのだ。誰でも出来る。普段つねになんらか
の思考や感情にまきこまれている。「いま・ここ」にいること
が少ないのだ。だからいま・ここをしっかり意識すること。
いま・ここで起こっていることを意識することだけなのだ。
なにも特別なものじゃない。すべて起こっていることを「平等」
に「目撃」する位置にとどまる。すべてが自然に起こっている。
すると自分と対象という固定した見方がゆるんでくる。
それだけでも精神的にプラスな変化がでてくるはずだ。
それが基本だと思っている。別にふつうに共存可能だ。
それだけやっていれば十分ともいえる。
もちろんいろいろ怪しいものからそうでないものまで深め
ようと思えばそれはたくさんあるのは知っている。ただ、
ほんと自分としてはちょっと考え方が間違ってたと思って
いる。
ほんとにこういうのをことさら特別化する人で、普通の
常識人より明らかに素晴らしいという人というのは少ない
と思っている。もちろん言葉や外見だけをあげつらっては
わからないことも多い。ただ自分もおかしかったと思って
いる。
「瞑想」や「祈り」の医学的効果が認められてくれば、もち
ろん、その精神の深みは医学に還元されるものではないが、
少なくとも、自分で自分の意識をより良い方向に変える習慣
ももっと一般化してくるはずだ。人生の見方が生き生きして
くる。それだけ自分を変えるものがあるはずだ。暗い暗いと
不平を言うよりも進んで明かりを点けることだろう。それは
本来、特別なことじゃないことだとわかってくるし、普通に受け
入れられるようになってくる。
ことさら特別化するからおかしくなるし、おかしなものも
できてくる。宗教というのはそういう風にしてどんどん
おかしくなっていったりもするものだと思う。他人でも自分
でもなくて、そういう対象化して考えるからおかしくなる。
「今ここを平等に目撃する」ことから始めるのが一番シン
プルで確実で基本のはずだ。そういうことをやる人は
世界中で増えている。瞑想や祈りを欠かさないこととは
切り離せないと思っている。
「異端」であることを強調するのは、日本社会のように、
みんなが自主的な判断をもたず、いざというときに左顧
右眄し、集団から孤立するのを極度におそれる態度を
なんとか克服しないかぎり、どの領域でも、とくに宗教の
ような領域では、真の革新は不可能だという思いがつよく
あるからでしょう。日本の伝統的な仏教は人々に訴える
力を失い、「ほとんど風景にすぎなくなった」というのは、
「葬式仏教」化した今日の日本の仏教界に対する、痛烈
で、的確な批評だと私は思っています。「現実生活のうち
で個性ある生き方」を徹底的に貫くことに帰着するので
しょうね。もちろん、そういう意味でならば、「異端者の
すすめ」大賛成です。
それにしても、我々は既存の価値観がガラガラと音を
たてて崩れる大変な時代に生まれ合わせたものですが、
ある意味では、政治的宗教的権威に気兼ねなく、意志
さえあれば「個」のパラダイムを創造できるほどの自由を
与えられていることに、まず感謝しなくてはならないと
思います。
とくに老練な法然に対して、一見未熟な「万年青年」を
思わせる明恵のうちに持続的な理想主義と粘りづよい
意志力をごらんになり、そのことと、彼の周囲に多くの
すぐれた芸術家が育ったこととを結びつけておいでに
なるのは興味深かった。
また、『摧邪輪』などでは教義的に真っ向から対立した
法然と明恵の二人が、「口称念仏」と「座禅瞑想」という、
ともにつよい身体的要素を伴った宗教体験を通じて
旺盛な想像力を獲得したことへの注目も重要だと思い
ました。
これはなにも、宗教思想だけの問題ではなく、現代でも、
伝統的思想や外来思想に新しい生命を与えるためには、
クリエイティブな想像力によらなければなりませんし、
クリエイティブな想像力を働かすためには、「身体」を
通さなくてはならない、と思うからです。
仏教ばかりでなく、一般に宗教においては、意識的自我
は個人的自我あるいは個人主義的自我として退けられ、
小我を捨て意識的自我を脱した大我に近づき、至ること
こそ宗教的真理を実現する道だと見なされています。
そしてそれは、そのかぎりではいいのですが、宗教あるい
は信仰がそこにとどまるときには、きわめて不十分だと
思うのです。そのように私が考えるきっかけになったのは、
「逆光の存在論」をさらに突きつめていったときです。
「逆光の存在論」という考え方を唱えたときには、私の
主張の重点は、宗教を成り立たせている基礎には、
次のことがあるはずだ、ということでした。
すなわち、「一般に宗教的意識の出発点とされるのは、
〈虚無の自覚〉である。だが、その自覚とは、さらにいえば、
人間の自然的な生命力がみずから発する光とエネルギー
を失って、他から〈逆光を浴びる〉ときに生ずる」。
「ひとは自己の自然的な生命力について、有限性を
自覚するとき、有限な生命力に依拠した個体ではなく
なり、むしろ他者から無限のエネルギーを受け取りうる
個体になる」と。
これは、小我から大我への変換の有り様を示したもの
です。
しかし、本当は、ひとは、そのような往相だけでなく、
逆方向の還相をも実現しなければならないはずです。
つまり、この「我」が真に自己を実現しようとすれば、
宗教の否応なしにもつ集団的・制度的な制約や拘束に
囚われずに現実に対処するために、「無意識的大我」
からある意味で個人性を回復した「自覚的大我」に至ら
なければなりません。
この還相において個人性を回復しなければならない
のは、なぜかと言えば、意志的・自発的な行動は、
最終的には個人的ならざるをえないからです。
これと同じ流れにあるものとして、イタリアの精神医学・
心理学者ロベルト・アサジョーリが作り出した「サイコシン
セシス」という新しい心理学について紹介しておこう。
ユングでは、無意識はすべて一括して扱われていたが、
アサジョーリは、上位・中位・下位無意識を明確に区別
する。そして、上位無意識に「トランスパーソナルセルフ」、
つまり「高次の自己」があると考えられる。
サイコシンセシスの究極目的は、このトランスパーソナル
セルフとつながることである。そうすると、万物のつながり、
圧倒的な愛の存在などが感じられ、他者への深い共感も
生まれてくるという。
そのためには、私たちはパーソナルセルフ(通常の自我)
への同一化を一時停止する必要がある。
アサジョーリは、こうした心的発達のために、イメージ技法
を中心としてさまざまな方法を考え出している。
こうしてパーソナルセルフとは別の、「純粋自己」とでもいう
べき自覚が生じる。これが心的発達のためのひじょうに
重要なステップなのである。この純粋自己は、哲学者たちが
見出そうとした「純粋意識」を心的経験として捉え直した
ものとしても注目できる。
アサジョーリが臨床的に見出した「トランスパーソナルセルフ」
の心的経験は、古来から宗教体験・神秘体験として知られ
てきたものを脱宗教的な文脈で捉え直したものといえる。
これまで書いてきたことと総合してこれを読めば、こういう
体験が「ほんとうはどういうレベルで起こり変化するものなのか」、
右脳をフルに働かせれば、漠然とながらもそろそろ「イメージ」
できるかもしれない。
それはこれまでの心理学や科学のレベルをこえたところで
起こっている。だが、科学に反する現象ではないことも、
理知的に理解できるかもしれない。そしてそれは「自覚」される。
アサジョーリもいうように、それにはレベルの違いがあるものの、
プロセスやアスペクトの描像としては、おそらくそれは、
あながち間違っているわけでもないはずなのだ。
自分はこれに近いものを体験したことがあるかもしれない。
そういうものをほんとうに自らのものにするには、ちゃんと
した知識が必要かもしれない。今後は、自覚的に取り組んで
みるつもりではいる。
『サイコシンセシス―統合的な人間観と実践のマニュアル』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4414325048/ ロベルト・アサジョーリ
新時代を担う人々に向けて、分析から統合への道、
フロイトやユングの同僚であった精神医学者アサジョーリ
が創始した、トランスパーソナル心理学最初の体系、
サイコシンセシスの原典。
というわけで、体験したら、こういうものがすでにあること
を知って、”自分は大抵のことはわかっている”、という思い
込みを捨てて、新しい臨床の現場からわかってきたことを
謙虚に学ばせてもらうということが大切かもしれない。
自分は、そこから学びたいことはある。
プライドが高い人ほど、自分の分野については”経験を疑う
勇気をもつことが大切だ”と言うのだが、”こういうものは経験
から自然に知ることでやってみるまでもないだろう”と言う
のだ。そういう「経験主義」は、あくまで自分の枠内での経験
は疑っても、自分のこれまでの経験をほんとうには疑って
いないということになる。
けれども、えてしてそういう予想を裏切って、大きく変わり
うることもある。主観的な経験というものには限界というもの
があり、あえてやらないと、一生の人生で、結局まったくめぐり
あわあい経験というのもやはりある。それほどまでにトランス
パーソナルというのは、「ラディカルな経験主義」だと思って
いる。
そういうプライドが、「自然のありのままの受容と認識」と
相互理解を妨げ、思い込みを出ないまま、遠回りを招いて
いることもありそうだというのが、自分でも痛感する。
自分としてはそういう積み重ねたプライドが一度の体験の
まえではしょせん無力であり、なんにもならないことを
知っているので、自分としてはそういうプライドを捨てて、
あらゆる固定観念での予断を抜きに、新しい臨床の現場の
人たちから、これから積極的に学ぶ姿勢をもっていきたい。
というわけでもうここにはこない。
自分も思い込んで、安易に軽視していた部分がある。
トランスパーソナルというのは、
思ったより”さらに超えている”ところもあるようだ。
精神的な内面的な変容に関心があるなら、
トランスパーソナルをまなぶことだと思う。
脱宗教だし、ちゃんと現代の臨床にもとづいている。
それを自分でやってみて、
ワークショップに参加してみたりすればいい。
まだ若い自分でさえ、知らずに遠まわりした感がある。
こういうことに興味をもつ人は、枝道的なことをやるくらい
なら、トランスパーソナルから入ることをおすすめしたい。
現代人には一番スムーズにいくはずだ。
宗教のほうがよっぽど歴史も重みもあるかもしれない。
しかし”それゆえに”、宗教になんらの接点がなければ、
どうしようもないものだ。その重みが重いほど、接点の
ない現代人には引き受けられるはずがない。
自分はこれからも「無宗教」にしか立てないかもしれない。
これまで神秘主義ですら特定の宗教の神秘主義しか
なかったとすれば、そうですらない神秘主義になるかも
しれない。正直、東洋というわけでもない。
ほんとにそれでいいのか、という気持ちはある。そういう
ものが成立するのかはわからない。だが現代に至っては
すでに、マイケル・ベーエやケン・ウィルバーなど、特定の
宗教に立たない神秘主義が成立してしまっている。
自分はそれでもさしあたってはかまわないし、それなりには
深めていけると思っている。そういうものは霊的な深みに
接していくうちに、自然と決まったりもするものかもしれない
からだ。とにかく精神的なものにとっかかりをもつだけでも
大切だと思うのだ。
「中途半端だ」といえばそれはそうなのだからしかたない。
「まったくもとうと思わない」とか、「まったく内面から高め
ようとは思わない」よりは、いくらかましだとは思っている。
それは宗教ではなく、神秘主義であり、アート的な心理学
でしかないと、ありのままに受け入れてる。それが中途半端
だということもマイナーだということも認めたい。それでいい
と思っている。
自分としては中途半端に関わってバランスを崩したこともあり、
実在性を肯定しながらも、それゆえに、ますます現代の宗教的、
霊的なものの実質に、厳しく、疑い深くなったところもある。
そこで、トランスパーソナルでも臨床心理学や精神医学で
専門にやっていて、目立たない現場で地道にやっていてなお
かつ臨床的に結果を出している人を信用したいと思っている。
やはり、健康的・医学的にプラスの効果や結果がはたして
どれだけあるのか、という実利主義的姿勢は、一見こういうもの
に適用するにしては冷めてはいても、とりとめもないところが
あるだけに、とことんクール(否定のための否定も不毛であり
冷静じゃない)に見ていけるくらいでないと、すぐにおかしな
ところにいく。
肯定的懐疑派=脳や進化で説明し、神秘主義を肯定する
懐疑的肯定派=医学的に説明し、神秘主義を肯定する
神秘主義を肯定するにも、アプローチにおいて、こういう
境界線があると思う。前者は、ニューバーグ、ダギリの
「神経神学」が代表的で、後者が、「永遠の哲学」「トランス
パーソナル心理学」になる。その境界線は「超心理学」を
考慮に入れるかどうかでわかる。ただそんなにわかりやすい
わけではなく、その中間、混交、曖昧、保留もある。
どちらも「普遍性があり肯定的でもある」ということでは
共通しているところもあるかもしれない。でも、意味は
大違いで、相容れないと思っている。ニューバーグは
「量子真空」についても言及している。でも瞑想の扱える
範囲だけで言っていて、それがすべてでは全然ない。
脳では説明しきれないと思っている。トランスパーソナルは、
ヨーガや臨死体験まで、ずっと広くそのまま受け入れて説明
しようとする。ほかの解釈はできないかや、どこまで説明
できるのか、とことん突き詰めて、なお説明できない何かを
明らかする辛抱づよさが必要だ。
当然、その解釈の余地はともかく瞑想中に脳内で起こる
ことそのものは認めるのが健全なわけで、重なっている
ところは事実として包括しなければならないし、病理との
区別はしっかり認識するべき、とはいえる。
でも、「脳に刺激→一時的な擬似感覚」、「宗教者の脳状態
→恍惚のときと類似」、こういう脳内現象を仮定にした短絡的
な決めつけが多い。あくまで「引きの姿勢」でやっているの
だと認識しつつ、話半分に受け止めるべきだ。
「神秘‖脳状態」とは大きなギャップがあると思っている。
人によって脳状態も違ってくるようだ。パーシンガーも側頭葉
を刺激しても、どのような状況下においても、神秘的感覚を
体験したことはないそうだ。脳を刺激しても人に信じさせる
ことは不可能なのだ。脳科学にはそれだけの限界がある。
トランスパーソナル精神医学で細かく見ていくしかない。
トランスパーソナルも宗教的信念を述べるものではないが、
霊的領域は認めるもので、あくまでそのようにして扱う。
そこが違う。
どっちを信じるかは、好みで決めればいいかもしれない。
どっちにしたって重なっているところはある。宗教者において
そういう脳状態があることは認めるしかないのかもしれない。
ただ前者とは立場が違うと感じるし、好きじゃないかもしれ
ない。そういう説明ですべてが解決するとも思えないし、
なにごとも複数の見方というものがあるもので、一致する
ことはないものと、諦めるしかないかもしれない。
そういう意味では伝統的な宗教の本質は否定しない。
どういう立場をとりたいか、わかってもらえたかもしれない。
現時点のことで今後それは変わったり深まりうるはずだ。
一つの見方だけにこだわっているわけでもない。これっきり
にするので、もうここにくることはないかもしれない。
まだそれをうまく言語化して分類できるわけではないが、
西洋の定義する「意識」とは極めて特殊なものだと思う。
トランスパーソナルの指すものはそれを体験しない限り、
理解できないところがあるのは仕方ないかもしれない。
それは西洋の定義する「意識」ではないかもしれない。
同じ言葉でも指しているものが同じとは限らない。
それをカテゴリーエラーしてとれば当然通じないはず。
食い違うからといって、どちらかが否定されることはない。
それは「重ね描き」で解決するしかない。
そういう意味では、ここに書いたことも「言葉遊び」「はっ
たり」が多いかもしれない。トリッキーな表現をしている
自分の責任もあるが、境界領域についてまだ現代人は
適切な「語り」を見出していないのも事実のはずだ。
これまで自覚されていなかった体験をし、それを本来
おかれるべき適切なところに組み込むには、当然、
そういう必要性が出てくる。つまり矛盾があるわけでは
なく、本来別のものが混同されているという混乱がある。
これは、体験もあり、なおかつ科学や哲学についても
語れる人材が、これから切り開いていく課題かもしれない、
というわけだ。その橋渡しの努力をまさにやっている
一人が、ウィルバーということになるかもしれない。
そういう新しい領域に対する新しい語彙の開発や整備
ということも、トランスパーソナルの役目でもあるはず
なのだ。
「統合的な統合は、真に統合的であるために、主要な世界観
の全てが、(例え部分的であっても)基本的に真であるような
やり方を見出さなければならないということだ。
これは、高次のレベルがより正確な見解を示しており、
低次のレベルは虚偽、迷信、あるいは原始的なナンセンスさ
を示しているのではないということだ。
「子どもじみた」魔法とサンタクロースの神話にさえ真である
といえる意味が無ければならない。
なぜならそれらの世界観は、要するにそのレベルで、
あるいはその波から、世界が見える見え方だからであり、
そしてすべての波はコスモスの不可欠な要素だからである」
ケン・ウィルバー(『万物の理論』)
「断固たる唯物論者兼無神論者としてこの研究を始めた
私は、霊的な次元が人間の魂と宇宙の事象を解明する
鍵であるという事実に心を開かざるをえなかった。
この霊的な次元を自覚し、養い育てることは、我々の
存在にとって望ましい本質的なことであると強く感じた。
それは、われわれがこの惑星で生き延びていくための
不可欠な要因であるかもしれない。」
スタニスラフ・グロフ(『深層からの回帰』)
そういう意味としては、精神の、その本来おかれるべき
空間を守りたい人は、進化論や脳科学について、とくに
その哲学的側面について、勉強しておくという方向性もある
かもしれない。どこまで「分かった」とされているのか、
そしてそれがどれだけ妥当なのか、確認しつづけておく。
そのうえで、なおかつ、それ以上の何かを擁護するために
何が語れるか、を明らかにする。
進化論について、アメリカでは、それに反対するクリスチャン
による創造論に基づく創造科学というものが昔から根強く
あり、主張としては分かれるが、6000年前に創造主に
よって大地から個別創造された、ノアの洪水もあった、など。
進化論に異論をもつ人がいることは悪いことだとは思わない。
けれども、いくら奇跡を感じても、それはあまりおすすめしない。
さすがに科学の、その全体との整合性を持たせられるとは
思えないからだ。少なくともクリスチャンで、進化論に全面
同意できる人はいない。
私の考えは、よっぽどのものがないかぎり、マイケル・
ベーエのようなデザイン説をとっておく。特定の宗教とは
結び付けないで、科学の年代を受け入れる。ビックバンもあり、
進化もあったが、進化論の説明は部分的であるとする。
ウィルバーも「意識進化論」に立っているはずだ。
というわけでここに書いたことはあまり意味がないと
思っている。すでにあるからそれを読めばいいじゃん、
ということになる。
「ホロン」という概念もある。アーサー・ケストラーの造語で、
複雑系のシステム理論や生物学でも使われることがある。
ウィルバーも使っている。
それに比べたら、ビックバンがあったかとか年代うんぬん
というのは、本質ではなく枝葉かもしれない。
ようはコスモロジー、思考の枠組みが大切だと思う。
というわけで自分としてはおぼろげな直観というものはある。
それを確かなものにしていくということが必要だということだ。
それがどういう形になるのかはまだ明らかになっていない。
私自身が、新しいステージに進むことが先決だ。
>>181 病人に対する同情心も沸かない人なんだろうな
427 :
426:2005/05/30(月) 03:12:53
ありゃ、、、誤爆した スマソ
正直、今回の件で西洋的なるもの、一神教的なるもの、
それはもはや現代人の集団心理、心性になっているといって
もいいが、自分自身も含め、その強烈な偏見・欺瞞・独断・
固着をまざまざと見せつけられ、現代人の平均的な精神性
とはまだこんなものか、と、正直、自分を含む現代人の考えの
狭さ、その限界というものに、心底、失望したところもある。
この板で今後数年にわたって生起するだろう全出現・反応
パターンをもはや「見切った」という感想すらある。それくらい、
「東洋の心理学」がもつ本当の深みと比べるとほんとに考え方
が少ないし狭い。なにも心理学に恨みがあるわけじゃない。
むしろ逆で期待が大きすぎたのかもしれない。心理学に本来
求めるべきでないものを求めようとしていた、そういう根本的な
無理と間違いがあったわけだ。お互い不幸だったとしかいい
ようがない。
こんなんじゃ、自分も含め、いつまでたっても本当の人間の
精神性なんてわかりっこないし、たどりつけっこないんだろうな、
と思う。自分はかなり”宗教的な人間”だと思っているが、
人類は現代において、ついには宇宙原則を見失ったのだ、
という喪失の絶望をどこか感じる人というのは大切だと思う。
ニューバーグは、カトリック系修道女とアメリカ人仏教徒が
瞑想的状態に入ったところ、ほとんどが、自他未分の感覚の
部位の脳の抑制で、主観と客観があいまいになり、一体感
が高まり、それが「恍惚状態」と類似し、「進化の副産物に
すぎない」のだという。それだけで、神秘体験のもっとも深遠な
体験は、絶対的な、”ひとつになる感覚(センスオブユニティ)”
で一致している、と結論づけてしまう。それで万事解決だと
いう。それで納得するのだ。それがさらなる研究の”きっかけ”
や”とっかかり”になるのなら、それはそれで悪いことではない
かもしれない。だが、ほんとにそれがすべてだというなら、
これまでの宗教はなんだったのか、興ざめしてもおかしくない。
なにかが安易だとしか思えない。そういう実験に参加した
”現代人”というものが、そこまでいくのに、はたしてどれほど
の修練をしたのかはわからない。ほんとにそれでわかった
つもりなのか、と思ってしまう。そういう実験に参加する信仰者
というのは、教義のまえで恍惚な進化の副産物といわれて、
自身の中で、それにどう折り合いをつけているというのだろうか。
科学者のほうにも、信仰者のほうにも、どちらにも矛盾と
疑問が多い。そう思うほうがおかしいのだろうか。
西洋人がついには宗教を信じることができず、なぜ東洋、
しかもミニマリズムの極致のような日本の禅にいったか、
それがよくわかってしまう。
そういうわけで、自分としてもそれだけの「無明」を、
ひとまずは自覚しておいたほうがいいのかもしれない。
ただ、アメリカのトランスパーソナルの教科書のほうが、
読むと、もっと秘教的で不思議な事象が、いろいろと書いて
ある。それだけ読んでも世界はまったく色んな面を見せる
かのように。それを読むと、宗教体験というのは、とても
そうした自他未分の感覚とはまとめきれない。
結局は、自身で瞑想をして、たしかめるほかないのだ。
それに、ほんとに覚醒したのなら、宇宙的な叡智(トラン
センデンタルウィズダム)を自身で直覚するということなのだ。
それは超感覚に近い。それが日本の禅のはずだ。
結局、科学に載せたところで、まだまだ浅いということになる。
素直に、鈴木大拙でも読んだほうがよさそうだ。
トランスパーソナルの教科書を読むと、精神医学に力点が
かかっているからか、落とし穴がたくさんだというのがよく
わかる。自己愛や依存性というのもある。宗教を背景にした
瞑想といっても、そういう霊的な問題というのものが色々
出ていて、プレトランスなどを、かなり疑っているというのが
印象的だ。
日本の代表の安藤治氏による「瞑想の精神医学--トランス
パーソナル精神医学序説」を読んでも、副作用とか、途上の
落とし穴とか、色々な期間を通過していかなければならない
ことがわかる。そこでは、サイキックオープニング(心霊能力
の開眼)ということも起こってくると書いてある。
自他未分というのは、ものすごく選択的なところしか見て
いないような気がする。
「瞑想の精神医学」をよく読むと、西洋の科学の前提から
すると、けっこうものすごいことが平気で書いてある。
微細とか宇宙の全情報とか、カルマとか。
それに仮に「ひとつになる」のがもしほんとうだとして、
それは元因(天上界)ではあっても、究極ではないはず
なのだ。究極は、さらに非二元(無限)との合一がある。
ヒューストン・スミス(個人的信仰はキリスト教)がまとめて
いるもので、ウィルバーもそうなっている。それは西洋の
神秘主義で一致しているもので、東洋でも「空」という
ことで変わらないものだ。そうなると、それは脳状態とどう
対応しているのだろうか。
というわけで、自分でも錯覚なのかと疑わなければなら
ないと思いかけたが、ちゃんと調べれば調べるほど、脳に
還元されるような、そこまで単純なものじゃないことが
わかってきた。
信仰のある人で、結局は脳に還元されてしまうのでは
ないかと心配している人には、少しは安心?していただけ
たと思う。まさかそれまで脳に還元されることを望んでいる
人はいないはずだが?ただ脳と相関があることもたしか。
やはりこういうものはむしろ、医学的・心理学的な術語の
ほうがフィットするのかもしれない。
「餅は餅屋」だとおもっている。こういう分野にかぎって
そんな安易に甘んじるほうが、なにか自分に都合のいい
理解できる範囲での解釈に当てはめてる、そういう
「アドホックで自己陶酔的な態度」をもっていると思う。
自分としても、そういう色物的偏見を再生産するのに協力
してしまったところがあると思う。地道に努力されている
方にもうしわけなかった。そういう真面目にやってるかた
がたが一番、苦労と苦悩を強いられるのかと思うと、
心苦しくてしょうがない。ユングにしても、引き上げと引き
下げのなかで中途半端といわれ、「板ばさみ的位置」に
おかれて、ある意味、不当な扱いを受けているのだろう。
瞑想ならば、日本の代表の安藤治氏の著書のほうが
信用できる。この方は精神科医をしていて、当初は懐疑的
で仕事とは分けるべき、と思っていたそうだ。それが
医学的な効果に注目され、自身でも瞑想をやられ、渡米
して研究をしたということだ。一見とんでもないものでも、
こういう一見縁のなかったかのようにみえる、そういう
真面目な人が配剤されて支えているから、現実にはなり
たちつつあるんだな、と思う。そういう意味では、まだまだ
こんなものじゃないと、安易に引き上げまくって肯定する
ばかりでも、一見肯定しているようにみえて、それが浸透
の妨害に協力している面もあるのだろう。自分としても、
虚無の自覚が足りなかったということだ。
あまりに引き下げてそこで簡単に納得する人がいると、
つい、それがすべてじゃない、と一気に、これならどうだ、
と、引き上げたくなる。きっとどちらも偏ったものの見方を
しているのは事実なのだろう。自分としても、それは
大いに自覚している。
ということで、トランスパーソナルはやはり精神医学や
臨床心理学が、専門的に積み重ねていくことで成り立つ
ことは間違いのないことなのだろう。自然と浸透していく
ものだと思う。自分はそれを妨害しただけと自覚する。
こういうものはただでさえすでにある思い込みでの価値
判断や予断が多いものなので、自身のつまらない、という
見方や思考や感覚に左右されてはいけないんだろうなと
思う。自分もそれに左右されていた。
少し信仰や体験があるからって、あるいは脳に詳しい
からって、それだけで特別とも思えない。そういう外見に
とらわれると真実が見えてこないところがある。かといって、
よくわかってない人が言っていることがおもしろくないとか、
たいしたことないとか、主観的な見え方や思いつきや格好
での関係ない美的価値判断と安易に結びつけて、(実際
にはまだまだ神秘でも究極でもなんでもないのに)それを
神秘のままにしておくことを自己正当化するとか、外から
くさしていても、そこからは内面からのほんとうにプラスな
ものは生まれないのだろう。自分から一般的な間口を閉ざ
していることにもなる。自己陶酔に耐える必要もあるの
だろう。
現時点でいくら中途半端に見えたとしても、思っていた
ものが、引き下げられる不安があっても、それに耐える
必要もあるのだろう。そういう一見「つまらないこと」の
積み重ねがあるからこそ、よりたしかななにかが、部分的
にでも言えるようになってくると思うからだ。究極の神秘は、
引き下げきれない。それは生命の神秘でもある。
安藤治氏のような、自身で瞑想を実践されたうえで、宗教
的甘えを無視して、医学的なクールさでことごとく突破して
いける才能を信用し、サポートしていく必要があるのだろう。
しかし安藤治氏というのは、どれだけの体験をなされている
のかわからないが、よりによって保守的な現代医学の現場
に巻き込まれてながら、どうしてこうも固定観念というもの
から自由に語れてしまうのか。抵抗や予断もなしに、ユング
もグロフもタートもすべてを受け入れたうえで、クールに叙述
してしまってる。宗教的甘えがないし、否定しているわけでも
ない。そうとう精神的なキャパシティがあり安定した人なの
かもしれない。禅の瞑想とはこういうことなのだろうか。
こういう方もいるんだなと思う。なかなか他人には真似でき
ない。ある意味、天才としか思えない。こういう一見なんの
縁もなかったかのような人こそがどういうわけか配剤されて、
平気で突破していくものなんだなあ、と思う。
そういう意味では、伝統では空けてはならぬとされた蓋が
現代医学のもとで、ついには開けられてしまったことに、どう
反応してよいのやら、という、前人未到、前代未聞の状況
でもあるわけだ。
それにくらべたら自分はたいしたことないなと思う。
迷いと混乱があるうちは、なにごともだめだろう。
他人やネットを気にしているうちはだめなのだ。
自身の内面からの変革しかないのだ。
一般的に適切に広まることはよい結果をもたらすだろう。
でもこういうことは思い上がりが禁物なのだろう。
なにも、やっているからってそれで特別なわけじゃない。
自分の精神のリラクゼーションとして望んだ人がやる。
他人はそれを適切にサポートすることができるだけなのだ。
自分としても思い上がっていた。
なかなかどうして落とし穴がある。
おそらく、実践するにも、思い上がりが一番の障壁に
なるだろう。自分自身はごまかせないというわけだ。
そういう意味では適切な精神の置かれかたでやらないと、
いくらやっても身にならないし逆効果にすらなるかも
しれない。厳しいところはある。
宗教というのは本来、そういうピットホールをあらかじめ
避ける仕組み(哀れみ、計らい)になっていたはずなのだ。
ただ、それが宗教の時代からして象徴的な言葉になって
いたため、解釈の余地ということになり、それが時代を
経ていくうち、適切に伝わらなかったり、やたら敷衍され
拡大解釈されて教条化されることで、偏見や競合になり、
もはや別のものになってしまったり、そういう不幸があった
と思っている。それで普遍的な道を閉ざしてしまったところ
もあると思っているわけだ。
それを、医学や心理学の共通言語に置き換えて、マニュ
アルとして、あくまで現代的なサポートというかたちにできる
かどうかとも思える。
ふつうに他のことをしていて瞑想をしている人もいるだろう。
だから趣味でいいんだというかもしれない。でも、そういう
人が病理に見舞われることもあるかもしれない。それに
霊的次元を理解しない人が、どうして精神医学的にサポート
できるだろうか。宗教といっても精神医学的なものまでは
なかなかタッチできないはずだ。そこで「偏見をなくそうという
偏見」に出会うかもしれない。本人にとっては面白半分とは
いかないのだ。もちろんそれに「すがる」というトラブルもまた
出てくるだろうし、偏見がなくなるとは限らない。とはいえ、
知られなくては解決できないものもあるわけだ。
普及するということは、あるいは時代背景からしても、
それだけ突発的な発現も頻発していくかもしれないのだ。
ほんとにそんなものがあるのか?と思うかもしれない。
それは、精神医学のDSM-4、「臨床的関与の対象となること
のある状態、追加」、V62.89 宗教または神の問題、とある
ので、調べてみてほしい。そう書かれているからといって
認知されているわけでも対応があるわけでもないものの、
一応、そういう記述は追加されつつあるということなのだ。
というわけで、どうしてこういうものが必要なのか、現実は
なかなかそうはいかないものの、頭ではわかったかもしれ
ない。それがもし適切に実践されるなら、人類の精神性は
わずかながらも上昇していくことになる。それはあくまで
方向性のひとつであり、価値判断ということになる。それが
すべてではないのだ。ただ現実には開かれてしまいつつ
あるということなのだ。
というわけでこれは一種のボランティアであったと理解して
いる。瞑想なんて誰でも出来る。ただ、こういう(研究)存在
もできつつあるよと、知らしめる手助けだったと考えている。
それだけ、怪しいものも氾濫しつつあると思うからだ。判断
材料を個人で増やしていくことは損にはならないはずだ。
というわけで自分としてもありがちな落とし穴にはまった
という感じはある。まだまだ過渡期でしかないということだ。
あんまり期待は投影できない。
ただ、安藤治氏のような本格的で地道な人もいるし、
海外でも研究は蓄積されつつあるわけで、学会では研究
会も行われ、こういうことに関心をもつ新しいジェネレー
ションが増えつつあるということだ。
自分もこんなところでくすぶっているわけにもいかない。
はったりにかまけるのは時間の無駄であり損だったと
考えている。どうせここで何を書こうと、それがどうだろうと、
どうせ学会では勉強会とかで新しいジェネレーションが
参加しつつある。もはや自分すら、ある意味では出遅れ
てしまっているということだ。もっと先をいっている人もいる
はず。
はっきり言って、こういうことを知る人は、いつの時代にも
一定の割合ではいたわけだ。めずらしいものでも大したもの
でもない。それが顕在化しただけといえる。そういう意味では
自分よりももっととんでもない体験をし、それを認識している
人なんで、もはや珍しくないのだ。それが常識だろうとそう
でなかろうと、現実は現実であり、大した違いはない。
というわけで自分なんて全然目立つもんじゃない。現代
であろうと知られていないだけで、覚醒者に近いお方もいる。
なおかつ超心理学も研究されてる本山博というお方もそうだ。
検索すれば、どういう経歴かはわかるはず。
そういう意味では目が覚めた。こういうことを知るものの
うちでは、それはもはや常識でしかないのだ。一般からすれ
ば芸術系というものが常識外れのように見えても、芸術系
のなかではそれができただけではどうということでもないのだ。
いちジャンルの違いでしかないといえる。
超常現象がどうのだとか、その程度のことで驚くほうが
不思議としかいいようがない。そういうものはグロフとか、
そういうものに携わっている医師にとっては、日常的な
ものなのだろうし、理解できる思考の枠組みさえあれば、
それでもいろいろ意外性はでてくるだろうものの、その
うえで淡々とルーチンワークで見分けて処理している
くらいの感覚はあるんだろう。実際には、すべては慣れ
の問題でしかない。グロフはLSDも体験し、ありとあらゆる
ものすごい体験をしてきたし居合わせてもきたはずだが、
それでも現在もなんの健康への支障もなく、平気で続けて
はいる。それを違うところで小難しく考えるから、整合性
だとか、一見不合理にも見え、拡大解釈してもしまいがち
だが、そういう世界はそういう世界で平気で普通になり
たっているというだけの話だ。
受け入れる準備のある人には、それほど高いハードル
でもないというわけだ。だから、みだりに他人に影響を
与えず、そっとしておくべきところもあるといえる。
自分は世間の常識に、敏感なところと鈍感なところが
あったとはいえる。哲学的のようだが、この世界というもの
は、よくわからないところがある。
くりかえすと、この面でも、自分すら出遅れてしまっている
ということだ。だからここを特別視している人はそろそろ
目を覚ましてほしい。こういうことでもっと先を行っている人
はいくらでもいる。ジャンルの違いでしかないのだ。
調べれば、それはもう、この数年間でいきなりすべてが
噴出して顕在化してきたかのように増加傾向にある気が
する。自分はたまたま偶発的に目立っただけにすぎない。
学会の基礎研究会のところを読むと、心理学/精神医学
だけにとどまらず、人類学、宗教学、エコロジー、教育学、
社会学、哲学など、他の多くの分野へも、学際的な広がり
を見せており、今後この動きは、着実に浸透していくもの
と思われます、と書いてある。学部生から研究者まで多方面
の参加をお待ちしていると書いてある。きっとこのあいだ
にも、あらゆる分野の新しいジェネレーションが参加しつつ
あるということなのだろう。
ここを気にすることもまた、無駄なことなのだ。もはやこれは
時代の流れというものになっているのであり、存在自体が
常識的に広まることは、もはや時間の問題でしかないのだ。
「トランスパーソナル」という言葉も、ネットで調べると、ずい
ぶんブームとしてポピュラーに広まっていることがわかる。
自分の認識のほうが出遅れていたのだ。
というわけで自分もまた、いかに狭い固定観念にとらわれ
ていたものだったのか、それがわかった。結局、取り越し
苦労でしかなかったということだ。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jatp/kenkyukai2.htm 上をみれば、このジャンルにおいては、西洋分析哲学も、
臨死体験も、超心理学も、ヨーガも、キリスト教神秘主義も、
仏教も、ヒンドゥー教も、ユングも、もはやなんでもござれ
なのだ。この現代日本においても、早くもこれだけのものが
ひととおり揃い集まってしまう。
拍子抜けしてしまうが、そういう世界はそういう世界でなり
たってみれば平気でなりたってしまう、それだけの話なのだ。
自分はまだ若いし、新しいジェネレーションのつもりだった。
こういう方向性だけがすべてとは思わない。これはひとつの
方向性にすぎないのだ。それでもほんと、自分の常識という
ものは「出遅れている」ことを実感する。現実(リアリティ)
というものは、まだまだ自分の想像力をはるかに超えている
のだろう。違ったフレームのなかだけで考えていただけ
なのだ。現実には他のフレームもまた成立しうるということだ。
その哲学的な意味が、単なる思弁的な言葉遊びではなく、
もっと現実的なレベルで、了解されたような感覚すらある。
成立してしまっているところを一度見てしまうと、それがあるか
ないか、とかいったことがバカらしく思えてしまう。そういう
意味では目に毒かもしれない。その先がまだ始まってすら
いないだけなのだ。なにか狭い枠に呪縛されていた、そこから
精神的に解放されたところもある。世界は、自分が思うよりも
まだまだ広い。自分で体験しなければどうしてもわからない
世界というものがあるのだ。他人は他人、自分は自分なのだと、
余裕はできた。
ありながら知らなかっただけだったのだ。ジャンルが違うだけ
だったのだ。ようやくカルチャーショックから立ち直り、ギャップ
を受容したのかもしれない。
人には相性というものがある。それがわかった。相性の
悪い人と関わって、はっきりいってろくなことがなかった。
ものが通じないし、自分にはプラスにならなかった。
自分はどうしても昔から霊的ななにかがあったと思って
いる。これは最初からあったのだからしょうがない。はっきり
いって、そういうものがあるという直感は何度も得てきた。
そういう縁も多い。当たったこともある。具体的にはいえない。
だがそういう宇宙的な感覚を、むりやり合理的な枠組み
で押さえつけてごまかそうとしていたと思う。そこに無理が
あった。きっと根本的な相性というものがあって、論理では
なくて、どうしてもそう転んでしまうようなところがあるのかも
しれない。それをどんなに論理で説明しようとしても、
またどんなに論理で説明されても、ピンとこないものだ。
人間にはそういうなにかの働きがあるのだと思う。それを
魂とかいうのかもしれない。
そういうものの、概念だけでなく体験や感覚にもとづいた、
真の対話というものができるようになりつつある時代という
のは、まだまだ過渡期であるにしても、一方では悪いこと
じゃないはず。きっとこれまでは本物じゃなかったところも
あったはず。そういうものを適切に語るものを、現代人は
見失ったのかもしれない。
というわけで一通りの注意点とかは書いておいた。
普通の人はこういうことに興味ないのに無理して興味を
もつことはおすすめしない。その人にとっても時間の
無駄だと思うからだ。それがわかったことだ。
こういうものは体験とか感覚がないと、また同時に、それを
適切に扱えるべき、本来の語彙を十分持ち合わせ、かつ
十分に把握していないと、なにも有効に語れないからだ。
どっちが欠けていても、またずれていても、先に進めない。
そういう意味では、やはりハードルの高いところを感じる。
現代で、そういう環境というのは整備されているわけじゃ
ないと思う。自分でなんとかいろいろなものを頼りにしながら
やっていかなければならないところも多いようだ。トランス
パーソナルがあるだけましといったところか。
自分も今回の一件はひとまずすべて意識の外におきたい。
ちゃんと把握しないと魂とか言っても妄想にしかならないと
思う。もうちょっと知識がついてからでないと、やはりなんとも
手の内どころがない。まだ、うまくかすることさえできていない。
やはり魂の次元には魂の用語があり、そこに代替はきかない
ということなのだ。魂には魂の心理学がある。それにはそれの、
適切な語彙というものがある。レベルが違うし、レベルの違い
というものもあるので、それがないと、全然つかみどころが
ないかのように見えるのだ。それがあってちゃんと見えてくる。
そういうことで、縁のない他人と関わってしまったことで、
余計な影響を与えてもしまったなら、すっかりと出遅れても
しまったのだ。得したことはなにもない。ものすごく遠回りを
したと思っている。トランスパーソナル心理学というから
心理学かと思ったが、心理学板というのもなんだか間違って
いたようだ。新しいジェネレーションはほかにもいるし、出て
きつつある。自分は自分、他人は他人、もっとクールに
考えるべきだった。そう思ってなければこういうものは
やってられないし、きっと新しいものは切り開いてはいけ
ないのだ。トランスパーソナルの現状に不満がある人も
いるのかもしれない。ということはひるがえってみれば自分
ならそれより理想的なヴィジョンが自覚化できないにせよ、
あるつもりだということだろう。もしそうなら、仮に理想的な
ヴィジョンがあるとして、それを自分が提案してみよう、
おそらく、そのくらいの意気込みがないと、新しい状況は
開けないのだ。それがトランスパーソナルでなくても、
自分の領域でもそうなのだ。
まあ、あまり思い上がるつもりはない。あまり自分はこれだけ
にこだわっているわけじゃない。違うことをやる可能性もある。
ただここに注目している人がいるからだ。どうせもっと新しい
ジェネレーションだってでている。注目するところが違うはず。
なぜここまで注目することか疑問だ。そんなに気になるなら、
自分でやればいいこと。なんにせよ、もうすでに先人がやって
いるからといって、まずそれをしっかり追従する必要がやはり
ある。結局、手間をはぶくことはできない。
自分のことはここに書かない。
スピリチュアリティとは、そもそもは流行とはまったく関係
ない。永遠のものだと認識している。その意味では、
新奇性に意味があるわけじゃない。そういう期待とは違う
ところにリアリティがある。リアリティそのものでもある。
癒されること、鼓舞されること、深まることに意味があると
思うのだ。それは、これだけに限らないところもあるはずだ。
そういう意味では、自分は正直、ここでなにかの橋渡しを
するために、四苦八苦して、誰かの代わりに配慮や努力を
するつもりない。
462 :
没個性化されたレス↓:2005/05/31(火) 21:47:31
スピリ厨アリティとは、そもそもは流行とはまったく関係
ない。永遠のものだと認識している。その意味では、
新奇性に意味があるわけじゃない。そういう期待とは違う
ところにモハメドアリがある。ウイッキー(あるいはサンコンでもイイ)そのものでもある。
癒されること、鼓舞されること、深まることに意味があると
思うのだ。それは、これだけに限らないところもあるはずだ。
そういう意味では、自分は正直、ここでなにかの橋渡しを
するために、四苦八苦して、誰かの代わりにパンチパーマ
架けるつもりない(ナウじゃないし・・・)
現代物理学の諸発見は、たとえば、宇宙の全側面は相互
作用し、統一的全体の一部であるというような神秘体験が
真実であることの証拠として引用されることが多い。神秘
体験では、統一ないし主客二分の超越という感覚の一部は、
神秘状態が体験される通常の様式である表示的様式に
由来する。ここでは、神秘的エピソードは、それを超えた何か
を指し示すことなく、あるがままに体験される。二元性がまっ
たく体験されないのは、分析や省察が関与しないからである。
したがって、表示的様式で体験された神秘的なエピソードと、
表象的様式を使う現代物理学理論の間には相関関係は
つくれないのである。
確かに、神秘体験は表象的様式によって接近しうるし、種々
の検証にかけられる。たとえば、もし神秘体験をもつ人が
真に宇宙と一つならば、その人は宇宙全部の知識をもって
いるはずである。テレパシーと透視のテストの成績は、霊的
伝統でしばしば主張されているように、神秘体験と高度に
信頼性をもって相関するはずである。これは、科学的探究の
問題である。超心理学的な研究は、サイのいくつかの形が
存在することに対する強力な証拠を証明しており、モダン
からポストモダンな世界観への移行において特異な役割を
演じている。
心はわれわれが今日知っている物質や神経系の物理学的
特性とは独立した(十分に理解されていない)方法で存在
するということである。心のこの異なった「非物理的な」側面は、
脳や神経系と強く相互作用する可能性があるが、心という
ものを完全に理解しようとするならば、脳の特性が理解され
ねばならない。
常識では、真実は主観的か客観的かのいずれかと考えられ
ることが多い。その場合、トランスパーソナル精神医学は、
電子や草木のような物質的過程を扱う物理学と化学か、
しばしば想像上の内的世界に関わる人文学かのどちらかで
なくてはならない。西洋分析哲学は、様相論理学によって
説明されている人間の心の深層構造を反映するその他の
真実の諸様式があることを明らかにしている。
人間の状態を適切に理解するには、真実のすべての様式が
必要である。数学者であり哲学者のアルフレッド・ノース・
ホワイトヘッドの言葉を言い換えると、問題は単に、トランス
パーソナル体験が真実か、そうではないかではない。真の
問題は、どの意味で真実なのか、である。
豊かで多様式的なアプローチによってのみ、トランスパーソ
ナル精神医学は、真に科学的・人間主義的・実践的・霊的な
専門的学問として、成熟し、その可能性を完全に成就するで
あろう。
ホワイトヘッドはウィルバーも大きな影響を受けている
哲学者でもある。のちのプロセス神学にも影響を与えた。
「キリスト教徒[西洋人]は外的世界にあまりにも心を奪わ
れており、われわれはまさに神をまったく失ったのである。
そして、ヒンドゥー教徒は内的生活に没頭しており、外的
生活を失いがちで、インドはあのように粉々になりうる。
であるから、世界の将来はこれらの反対の伝統が出会う
ことにかかっている。そして真理はつねに、反対のもの
の出会いに存ずるのである。」
ベーデ・グリフィス神父
(通常の行動)心理学に、(非教条主義的)神学や神秘主義
を同一視(物質主義的還元)する勘違いはよしたほうがいい。
扱っている領域が違うのだ。心理学はあくまで心理学であり、
それ以上ではない。それを生き方にまで過度に内在化させる
ことは間違いだと思っている。それがいい結果をもたらす
とは思えない。もっと生き方とは切り離して扱うべきものだ。
もし心理学がすべてだというなら、それでは神学はいらない
といっていることになる。そんな神学者はいないはずだ。
キリスト教神学、そして仏教学の分野では、霊性的な立場の
研究はあり、霊性というものが存在すること、そして修行の
意義、神秘体験の価値を認めている。その宗教の大枠という
ものはあるものの、互いを尊重した対話は可能なのであり、
こうした学問を「仲間」と考え、その現代的な成果から学ぶ
べきものは多いはずだと考えている。神学とは分けて考えた
ほうがいい。そのほうが結果的に世界が広がるだろう。
フラットランド
http://www.kitanet.ne.jp/~k-taka/Wilber/idea/g_n_c.htm >ここでは現実(リアリティ)はすべて「物質」という形をとる。
>物質以上のレベルをあつかう諸学問、生物学や心理学は
>常に還元主義的に――生命や心を「物理的な感覚、あるい
>はその延長で」把握できるものにへと引き下げて――研究
>される。また、当然ながら神学や神秘主義は単に空想を
>扱う(似非)科学と見なされている。
これをよく理解する必要がある。
いずれにせよ、行動的心理学は科学を標榜しており他の
学問にくらべてそういう分を超えた傲慢的心性が強い。
その確信を緩め、バランスを取るために、必要悪として、
あえて強気に出たところもある。心理学それ自体は環境的
リアリティを扱うものであるが、それが唯一の見方ではない。
もっとラフに扱われるべきものだと考えている。そういう専制
主義的傾向があるかぎりは、何度でも何度でもしつこくしつ
こく指摘していく必要もあるのかもしれない。
心理学を悪者にしたいわけではない。反応があるから、
それに対してどうしてこういう反応があったのか思いつき、
そうして反応が続いてきただけだ。自分は相手にされたり
反発されると、余計ムキになってエスカレートしていく性格
だということがわかった。論破の欲求というものがあり、
誰でも一度は通るものなのかもしれない。無視できない
ほうも悪い。
その問題については、SH先生に宗教思想の歴史的パース
ペクティブからロゴス中心主義を徹底的に解体・相対化して
もらい、そこにバランスのとれた説得力のある形式を与えて
いただくことに、勝手ながら期待をもっている。SH先生くらい
自分は急進的なところもある。
『思想史のなかの臨床心理学―心を囲い込む近代』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062583119/ この實川幹朗という方も、トランスパーソナルの学会におられ、
同じくらい急進的な印象を受けた。超心理学も取り上げており、
近代文明に共通する意識中心主義をラディカルに突いている。
バランスを取っていくためには、もはやそのくらいの急進性は
必要悪だと考えている。
というわけで、すべてを脳に囲い込こめるという確信は、
撃破できたと思う。
いずれにせよ妥協はしない。
自分の見解を変えるつもりはないのだ。
引いて見れる人はいいのだと思うのだが、私は、
唯物主義的心理学を過度に自己に内在化させてしまい、
ニヒリズムに陥ったらしき人を知っている。だから
心理学にはあまりいい印象をもっていない。
それ自体はあまり心(精神)にはよくないと思っている。
心理学は心理学で役に立つところはあると思う。
ただそれはあくまで神学(魂のレベル)や霊のレベルとは
別物でなければならないはずだと思っている。心理学のみ
では決して、その代替にはなりえない、という確信がある。
そこをどう考えるかということになる。
「トランスパーソナル」のようなかたちで、現代において、
それをあえて「明示化」せざるをえなくなるまでに至った理由
はそれなりのものがあるはずだと思っている。
ようは、ある説明ができると、他の説明はできなくなって
いくと考えることに、根本的な間違いがあると考えている。
無視できない人の遠まわしな嫌がらせもあり、ますます
西洋宗教的なるものから遠くなってきた。その適用の仕方、
そのキャパシティのなさに抵抗感が強まったのだ。とことん
失望しきれてよかった。そういう人はそういう人なのだと、
これからは最大限に尊重していくことにとどめたい。
その文脈からいくと、ものすごい泥沼になるとわかった。
教条主義、直解主義、根本主義、それは、なにもかもが錯綜
していることでわかる。それはまた、見せかけとは裏腹に、
見えない形での形骸化と硬直化に至るだけだ。体験的基盤
から始まっていなければ、どうしたってアドホックなものになる。
宗教や教義だけから理解しようとすると、人生がいくら
あっても足りない。
なまじ宗教に結びつけたり配慮しようとしたからまずかった。
最初からその文脈に乗らなければいいのだ。霊性とは宗教
ではない。特定の宗教団体および教義とは無関係なのだ。
宗教とされる秘教的側面、神秘主義的伝統、瞑想的伝統、
そこだけを現象としてエッセンスとして抽出して、きっちり
分けてみる必要がある。そして、起こった体験を理解する
必要がある。そこから、宗教を再発見すればいい。それしか
ありえない。
そういう意味では、心理学や無宗教者を批判しているかの
ようだが、ポップなスタンスで心理学をやれている普通の人
とは、あながち遠いというわけでもない。ここが特殊すぎる
だけなのだ。そうとしか考えられない。ほかの心理学とは
イメージが違いすぎる。
せっかく日本には日本の、そこにフィットした霊性というもの
がもとからあり、それに少なからず接点のあるトランスパーソ
ナルがある。そこに生まれたのだから、それを生かさないこと
はない。そのほうがはるかに文化的コストが少ない。そっち
のほうが本来、無理のないはず。いままでが無理があった
だけの話だ。どうせ日本人には最初から相性がいいに決まっ
てる。そういう文化的遺伝子が潜在的に流れてる。どんなに
自らのよってたつアイデンティティを拒絶しようたって素質は
もとからあるのだ。それを不自然に否定したうえでコスモポリ
タンを気取るほうがどこか倒錯しているとしか思えない。日本
語を使っているのだし。まるで空気のように浸透し、いつの
まにか広まってるにきまってる。放送大学でだって、トランス
パーソナル臨床そのものをダイレクトに流してる。アメリカに
比べたら大してじたばたするほどのハードルなんて無いに
等しい。取り越し苦労でしかなかったのだ。それが良いも悪い
もない。地理的特質であり条件なのだから仕方ない。ゆるやか
にその運命を受け入れることだろう。
やはりそれを深めたい。そのほうが圧倒的に理解しやすい。
合わないものを土台にしたってそのいらぬ心的コストによっ
て本末転倒になるだけだ。やはり一神教的なるもの西洋的
なるものは真に受けてしまうと、らちがあかない。あまりにも
特殊すぎる。西洋人じゃないのだ。逆に、知的にそういう
枠組みだけしかなかったことで、バランスを崩したような気が
する。
日本にはもとから禅なり神道なりがある。そっちのほうが
なにも抵抗が無い。それ以外は遠回り以外の何者でもない。
本物なところは認めても、副作用的なもの、そこにはあまり
にも余計に付着しているものが多すぎる。余計バランスを崩す。
やはりトランスパーソナル的に理解していくしか自分にはない。
西洋はそこらへんに理解のある人を経由して間接的に
学ばせてもらうしかなさそうだ。それにとどめたい。
自分も、書き方が自分本位で、ずばずば書きすぎて、
そこに配慮が欠けるきらいがあることはあると思う。
それもこれも、宗教がまったく一致してないのが悪い。
最初からそれに結び付けなければいい。それなしに
やっていける道のほうがはるかに心的な負担が少ない。
「霊性」は「世界観」ではあっても、特定の宗教や教義
とは関係ない。その宗教という概念が邪魔をしている。
やはり脱宗教的にとらえていく注意が必要なのかもしれない。
あくまでこれは体験に基づくものでなくてはならない。そして
複数が共存するものである。既成の宗教とは違う。
宗教に結びついたとたん、その同一線上で語られると、
面倒なことになるようだ。もっとゆるやかなものだと思う。
478 :
THE グル:2005/06/02(木) 01:33:05
ハッキリ言って、認知心理学科に人気はねぇよ。皆無だ。
学生はみんな臨床に行っちまう。認知行くのは少ねぇ少ねぇ。
臨床やりたくて心理学科行くってのが大半だ。
臨床がねぇ心理学科にも人気があるのは、
心理はすべからく臨床をやる、と思い込んでいるアホが多いからだ。
魂のアイデンティティって読んだことあったな。
思い出してくれ、か。。
深く静かに。
>>478 そういうニーズとサプライの、極端な剥離とギャップを
どうするかは、心理学をやっている人が考えることだ。
仲良く出来ないで憂さ晴らしにとどまってるのが悪い。
現在の臨床を支持しているわけじゃない。トランスパー
ソナルはオーソドックスとは解決法がオルタナティブだ。
それは臨床以前のコスモロジー(世界観)の提案であり、
その認識が臨床においては意識のスペクトルの帯域に
合った処方を”使い分ける”ことに波及すると提案してる。
あれかこれかと考えるから、葛藤を生む。ニヒリズムを
回避する余裕、考えや世界の幅をもっと広げる余裕、
そういう余裕を拡張、確保することもひとつの解決に
なりうるのではないかというだけのことだ。「外面」の思考
にとらわれすぎない。「内面」つまり自分の精神の空間
のキャパシティそのもののほうを拡張する、という発想だ。
そもそも、瞑想とはそういうメカニズムだそのことが、
このところ読んでいて私もやっと理解しはじめたことだ。
「スピリチュアルは、この世の見方を変えるだけでは
ない。それは、考える人自身を変えることなのだ。
ケン・ウィルバー
ウィルバーはそういう思考枠(ワークフレーム)をいろ
いろと提供してくれている。それは宗教でも教義でも
ない。世界観(パラダイム)なのだ。
そのテンプレートを紹介するだけでも、余計なニヒリズム
を回避することができるのではないかということだ。
それがやっとわかったことだ。
それは、そのオルタナティブな発想なり解決法に共感
する人が、将来にでも、そのテンプレートを紹介して
みて反応をみてみればいいだけのことだ。
自分が興味あるだけで、正直、他人のことは知った
こっちゃない。
読んでいれば、事情はそれなりに見えてくるものだ。
「心理学がわかる。」(「現場から」のほうか?)を読んだ
ことがあるが、そこで「トランスパーソナルにまで広がり
をみせつつある」などと、さらりと触れているところが
あった。
まったく認識されていないわけじゃない。
ただ、用語紹介では末尾にわざとらしく超心理学をいち
いち紹介まではしておきながら、多くの心理学者には
認められていない、などと明示的に排除してはいたが。
また、心理学史みたいなところで、福来のエピソードだけ
取り上げ、認めさせることができなかった、とか言って
いる。これは森達也のドキュメンタリー本を読むと、もっと
複雑な事情があるということがわかる。
清田氏、彼は心理学科を卒業しており、その卒業研究でも
教官の支持を得て、自らの超能力について研究している。
そのときにメディアにはめられたという。だがその後も、電気
通信大学、防衛大学、ロンドン大学、ウィスコンシン大学、
コロラド大学、ワシントン大学、ヴァージニア大学、などで、
実験にすすんで参加してきた。
自分はまえに、清田氏が手を触れずにスプーンを切断する
ところを肉眼で見たことがある。切断面も触ったが、なめらか
だった。どう考えてもトリックでできるものじゃない。
本物のマクロPKのはずだが、だからといって、
見てみれば、こんなもんか、と大したことはない。
一見、ありえないかのようだが、あれも本を読むと、電磁気
と関わりがあるらしい叙述がある。
スプーンを切断した直後だけ、両者が磁石のように引っ
付くのだ。
バーチャル大学<超心理学編>
http://homepage3.nifty.com/yahoyorodu/vucont.htm それについては、これは中村先生によるものだが、ここの
第2〜5章が参考になる。
1774年の時点で、フランスのメスメルも「動物磁気」とか
言っていたわけだし、日本の福来も放射線に例えて「精神
線」と言っていた。
ワシリエスクの研究では、電波増幅器を補助的に使用した
テレパシー実験において、波長46.20m(6.5MHz)に、
「テレパシー波」があることをつきとめてる。
日本の小久保も、「超心理学会シンポジウム:21世紀の
超心理学を考える」において、「電磁波」に注目している。
電磁波そのものとは思えないし、やたらにその意味する
ところを敷衍するのは妄想だろう。だがこうなってくると、
あながち「シャレ」ともいえないわけだ。
>物理現象に関しては観察(計測)可能ということで、
>特にPKに対する物理学者の抵抗はものすごいもの
>があります。
>しかし、超心理学の研究は荒唐無稽な論理展開
>ばかりをしているのではなく、従来型の科学のパラ
>ダイムから検証可能な仮説も提案していることを、
>科学者たちにはもっと知ってもらいたいと思います。
>たとえば、以下のような研究は電磁波を専門に研究
>している人なら追試可能な実験計画だと思うのですが
>・・・
>The Mechanism of Telepathy Eugen Vasilescu and
>Elena Vasilescu, JSPR, 1996,Vol.61, No.845, pp.211-220.
>伝統的に旧ソ連や東欧圏では昔から電磁波仮説に
>沿った生物間通信の可能性が検討されてきました。
>サイの媒体として電磁波を考えるには物理学サイドか
>らのさらなる検証を求めたいところでもあります。
>そのためには食わず嫌いから、ただ批判だけをしない
>で地道に実験を繰り返して欲しいですね。 検証可能な
>部分は検証すべきであると思います。
と、中村先生は、積極的な姿勢を見せている。
おもしろいことに、超心理学の研究は、歴史上、一度も終わ
った試しがない。清田氏だって、いまだやっているのだ。
ノーベル賞物理学者のブライアン・ジョセフソンも、日本の
シンポジウムに来たときに清田氏の本物のマクロPKをもう
肉眼で見ているし、それを考慮に入れて理論化の研究を
試みているのだ。
石川先生も、物理レベルはともかく、体験レベルでの存在
を肯定しているそうだから、きっともう、彼のを見ているん
じゃないかと思っている。それが「体験」に当たるはずだ。
そうでないと、超心理学にここまで肩入れするメリットが無い。
他人をアホ呼ばわりするだけの
>>478、というより心理学
に流れているそういうプライドと傲慢性に、同情はしない。
実験系が人気がないというなら、臨床系の人気によって
飯を食わせてもらっているということになる。臨床のおかげ
で、実験をやれていることに、むしろ感謝すべきだ。
それどころか、その憂さ晴らしに叩いたり駆逐したり無視
したりしている。そのほうがレベルが低いしガキでしかない。
同情はしない。
傲慢なだけで、同情の余地は無い。
そういう傲慢性に開き直れるのが主流なのだ。
他の学問とくらべ自己批判性が欠けているし、
そんなものに、誰も同情できるわけがないのだ。
「一番問題なのは、100年以上も研究が継続されていな
がら、超常現象に関する問題を科学が解決していないの
はなぜか、ということである。科学の枠内で革新的活動
を続ける緊密な社会集団が15年以上も存続することは
まずないと言える。俎上に載せている問題が解決されるか、
さもなければその集団自体が消滅してしまうかのいずれ
かだからである。なぜ超心理学は、科学の枠内で正当性
を確立することも完全に拒絶されることもなく、100年以上
も生き存えてきたのだろうか」
ジェイムズ・マックレノン
(メリーランド大学・社会学者)
社会学や科学哲学のひとは、超心理学くらい取り上げるし、
もっと自己批判はやってる。問うてみること、それがほんとの
「学問」なのだと思っていたが。森岡正博氏だって、ディープ
エコロジーと結びつけて、トランスパーソナルくらい、扱ってる。
> トランスパーソナル心理学のリンク集。トラパは別に
> ヤバくない。ヤバいのはトラパを「うさんくさい」の一言
> で斬って捨てるその心性。日本でやっているセミナー
> 系は同意できないのが多いが。
http://d.hatena.ne.jp/Gen/20040630#p3 新しいジェネレーションだって、注目しつつある。
社会心理学の中村雅彦氏だって、超心理学の講座くらい
大学のなかでやってる。
『オカルト流行の深層社会心理―科学文明の中の生と死』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4888484015/ >科学とオカルトの超克へ向けて。自前の実証的調査研究
>に立脚した分析。心霊研究・超心理学や近代科学史を踏ま
>えた現代オカルトの位置づけと特徴の把握。専門家の視点
>によるオカルト流行の歴史的・深層心理的構造の解明。
>科学信仰とオカルト信仰の双方を同時に超克する新たな
>世界観の提示。
この「オカルト流行」を取り扱った、この心理学の本だって、
超心理学自体は認めたうえでの、そのうえでの分析なのだ。
それなのに主流のほうは、なにが「科学じゃない」、なにが
「オカルト」だか。その一言でばっさり斬って捨てたつもりに
なれる、その心性。クリティカルシンキングもいいが、超常現象
なぜ信じてしまうのか、とか、さもありがちな「問題設定」、
心理学の知見で否定したつもりになっても、心理学の啓蒙の
ダシには使う、その鈍感さ。それで一体、なにをどれだけ一線を
画したつもりだというのだろうか。
科学と宗教、キリスト教と心理学
http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/emao/index.html 臨床系のクリスチャンのページを見ると、このくらいが健全
だろうと思う。知人にもプロテスタント系のクリスチャンがいる
が、基本はともかく、ほかはほんと適当なもんだし、スタンス
も人によるものでしかない。そこまで大人げないもんじゃない。
超常現象くらいあることが前提、もしくはあってもかまわない
くらいのものだ。オカルトくらい、はまってたもんだし。
もはや、存在自体は認めてから、その先の話だと思っている。
少なくとも、それはもはや、徐々に緩めていかなければなら
ない、時代の流れのはずなのだ。
透視と念写で、日本の超心理学を開拓した福来友吉と
御船千鶴子、日本の第二世代といえる、清田益章。
それでもなお、それを無視する人を私は否定しない。
だが、超心理学の問題は、いまだ日本でも根深いものと
してあるということがわかったと思う。
超心理学を否定したうえで、「トランスパーソナルにまで
広がりを見せつつある」、なんてことが言えるのかわから
ない。そうだとしたら、そうして成り立つトランスパーソナル
やスピリチュアル(霊性)というものは、どういうふうに
理解されているのか。
いくらオブラートに包んでも、先送りはできても、そのトラ
ウマは、いずれは表面化してこざるをえない、という困った
状況がある。
そんな状況なのに、急速に広まりつつあるように感じる。
出ている本の数が、半端じゃない。
なんだか、心理学をとりまく「ギャップ」がすごい。
疑うことは悪いことじゃない。必要なことでもある。
これまでの人生で縁の無かった人は、きっとなぜ信じるのか、
不思議でたまらないはずだ。神秘的なものに簡単に惹きつけ
られる傾向が、不愉快ですらあるかもしれない。だが、そこで
少し、立ち止まってみることもまた、世界が広がるはずだし、
心が豊かになることもある。ためしに森達也の本を読んでみる
と、なにか得るものがあるはずだ。
こういうことは、「中間」というのが大切だと思う。
そして現代でも、本人が真偽を確認しようとする気があるの
ならば、いくらでもそういう機会は散らばっていることもわか
ったとは思う。清田氏だって、なんだかんだ言いつつ、いまも
やっているはずだし、学会とかに行けば、見せてくれる。
そしてそれは、メディアから間接的に情報を得るだけでは、
決して白黒つかないことも、歴史的にわかるはずだ。
全米科学振興会(雑誌「サイエンス」の発行団体)は、
1969年、アメリカ超心理学会の参加を許可している。
扱っても問題ない。
アメリカ心理学会、特別委員会は、1983年、アメリカ数理
統計学会で審査されたラインの研究管理方法の提出を受け、
審査した結果、すくなくとも実験管理の方法には問題がない、
としている。信頼性も問題ない。
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/psi/1-3.htm 21世紀に至っても、全世界に研究コミュニティはこれだけ
あり、インターネットから、アクセスできる。石川先生も、
乱数生成器の実験を行っており、日本超心理学会にも
積極的に参加している。
まだまだ認められてはいないが、今後この世界で「無い」
ことが確定する可能性は、もはや「ゼロ」だと思っている。
その意味では、不安はない。
超常現象や代替医療と呼ばれるもののすべては、光や
電磁気、それそのものではないにしても、最終的にはその
辺の物理的なエネルギーに現れていることで共通する。
そしてそれは、物理学的に、検証可能な部分もある。
これまでは届かなかったが、コンピュータ技術の発展で、
それが届きつつある。
もしそうだと、なにがどう変わるのか?
フラットランドの世界観が見直され、
以下のような世界観の信憑性が高まる。
ちまたには怪しいものが多いし、トリックもあると思う。ただ、
どうして懐疑派はああも表面ばかりに注目するのか疑問だ。
そういう悪趣味があるのかわからない。どれもなにか劣化
したものから間接的に様子をうかがっていくだけで、ほんとう
の原典には決してあたろうとしてない。わざと本物との接触
を寸止めで避けているとしか思えない。
そういうものにかまけることこそが、ほんとうのオカルト趣味
と呼ぶべきもので、未来に振り返ってみれば「時間の無駄」
になることだろう、ということが、わかったと思う。だが、そう
いう人はそういうことが好きなのだし、やらせておけばいい
と思う。なんらかの啓蒙になることもあるのかもしれないし、
人の趣味を否定するつもりはない。
しかしながら、なんらかの超常現象を確認すること自体は、
本当に簡単だ。それ自体は、それでどうということもない。
実のところ、厳密な実験を計画しないかぎり、普通の人は
どうしても確認できない、とか、そういう特別な条件はないと
思っている。自分もスプーンは大勢の一般人が見ている
ところで見たわけだし。他の人もちょっとおおって言うくらい
で平然としてた。そんなもんなのだ。
だからといって、特定の業者や宗教団体とは関係ないし、
いかなるグッズに協力するつもりもない。
http://homepage3.nifty.com/yahoyorodu/oclt1.htm 調べてたら、中村先生も大学院生のとき清田氏のをみた
んだ。目撃人数も、自分のときと状況が似ている。ここで
説得するつもりはないが、清田氏のはほんと、日本の心理
学関係者でも、見ている人は多いんだと思う。失礼ながら、
若干の引用をさせていただく。
>私がまだ名古屋大学の大学院生だった1985年10月
>25日、超心理学のテーマで修士論文をまとめようとして
>いた後輩が、東京から清田益章氏という「超能力者」を
>呼んできて、スプーン変形と念写の「公開実演会」を実施
>した。実演会には名古屋大学の教官、大学院生、学部生
>が50人近くも集まった。清田氏はわれわれが用意した
>スプーンを何本か選んで、その「切断」と「螺旋状変形」を
>試みた。私はその一部始終を彼の隣の至近距離から観察
>した。彼の「実演」は成功だった。
>しかし、その実演を見た人々からはさまざまな反応が
>生じた。実験心理系の人々は、観察事実を否認する
>傾向が強かった。一方、臨床心理系の人には見たこと
>をありにままにとらえて判断は保留しようという「良識派」
>が目立った。このように、同じ事象を観察してもこれほど
>までに観察者の認知は異なっていたのである。
>ワグナー他(1979)は、無作為に選ばれたあらゆる専門
>分野を網羅した大学教授、1188名を対象に、ESPに
>対する態度の調査を実施している。その結果、全体で
>はESPの存在について3分の2の教授が肯定的な回答
>を得ていた。
>社会科学系に分類された心理学者の反応がもっとも
>否定的なものになっていた。心理学者の53%がESP
>は有り得ないと考えているのである。
>ただ、アメリカの大学教授の超心理学に対する反応は
>許容度が高いといえる。なぜなら、全体の84%の教授
>が超心理学を正当な科学的研究だと認めているため
>である。
http://www.02.246.ne.jp/~kasahara/pub-resp.htm >超常現象の存在を否定するわが国の精神科医の調査
>によってすら、「さまざまな超常現象の存在を信ずる者は、
>看護学生群で6割、教師・医師群では3割5分」もいる
>そうです。
>日本の医師・教師群の三分の一もが信者なのです。
>それどころか、アメリカの調査結果ではさらに比率が
>高く、自然科学系の大学教授二九四名を対象にした
>一九七九年の調査によれば、ESPが「既に立証されて
>いる」か「かなりありそう」と答えた者は五六パーセント
>にも昇っています。
>私の友人の社会学者が調査した結果によれば、超常
>現象の実在に関しては最も懐疑的と思われる、アメリカ
>科学振興協会(AAAS)の幹部であるエリート科学者
>(一一九名)の間ですら、その比率が三〇パーセントにも
>なっているそうです
(『サイの戦場』四八三ページ)。
>さらに困ったことに、肝心の奇術師が、かなりの高率
>で超常現象の実在を信じているようなのです。
>カリフォルニアとドイツで行なわれた調査によれば、
>それぞれ八二パーセントと七二パーセントもの奇術師
>が、職業上のポーズとしてではなく、本当に超常現象
>の存在を信じていることがわかったそうです
>(なお、このデータは、奇術の専門誌に掲載された論文
>から取ったものです)。
>主流派の科学者の多くが、自分のトランスパーソナル
>な「新しいパラダイム」に、ひそかに共鳴していると、
>グロフはいった。
>彼が大学で講演をすると、教授連が一対一で話し合い
>たいと、あとからいってくることがある。
>(「科学を捨て、神秘へと向かう理性」)
ということで、内心では超常現象の実在を信じている人は、
これくらい多いと思っている。
実験心理系以外の自然科学者というのは、きっかけさえあ
れば、いつでも転がりうるところを持ち合わせていると思う。
>科学的な方法論が絶対的な基準であるという教条主義
>に陥ってしまうことは戒めなければならない。科学的世界
>観は1つの価値観である。その手続きに沿って世界の
>リアリティを示すことはできるが,それが唯一無二のもの
>だとは限らない。リアリティ(現実)は多元的なものである
>と私は考えているのである。
http://homepage3.nifty.com/yahoyorodu/oclt1.htm これまでの観察から、実験心理系というのは、立場のため
の立場というものがあるのか、自然科学をやっている人よりも、
科学を必要以上に絶対視する「教条主義の要請が強い」と
思っている。
だから、話半分に受け止める、そういう注意を払っているのだ。
まあ、同情の余地はある。徐々に緊張を緩めていくことだ。
でもすぐに認められるとかそういうことはないだろう。
これが科学とは思ってない。
ただ、科学がすべてではない、とは思ってる。
「形而上学的な問い」をもっている人に対しては、
なんらかの貢献はできたと思う。
少なくとも、判断材料となるものを、
提供できたと思う。
科学を超えているもの、を示したつもりだ。
科学ではないが、科学とは矛盾しない。
科学を包括するものだ。
いずれにせよ、これを読んだからといって、
ライフスタイルを変えることはおすすめしない。
確認したい人が、確認すればいいだけだ。
だが、自分も、中村先生も、笠原氏も、
おそらく石川先生も、清田氏の本物を見ているはずだ。
よく考えたら、自分もそれが最初のきっかけだった。
あれを見て、変わった人が多いはず。
見てしまえば、良くも悪くも、
そのように変わってしまうこともある。
清田氏の昔は、本で知るだけだが、日本の超能力者として
はかなりのカリスマアイドル的存在だったと思われる。スプ
ーン曲げ自体はそこまで特別じゃないと思うし、特別持ち上
げたりするつもりはないが、彼は本物なのだ。
彼は、スプーン曲げというより、その部分に手を触れずに
切断できる。スプーンの下だけ持って垂直に立てたまま、
触れていない首のところに次第に溝ができつつ、ポロリと
落ちる、といった感じのことができる。
まあ、そういうなかば決定的なものを見ていないうちは、
疑っておくのが健全、かもしれない。いくらここにこう書か
れていても、それだけで信じるのはどうかと思う。
ただ、確認することはけっこう簡単、というだけだ。
宗教とか、拡大解釈することはおすすめしない。
見たところまでで保留しておくことが大切だ。
科学的思考は否定しない。
ただどういうわけかそれを超えるものもある
(かもしれない)のだ。
信じるかどうかは人それぞれといえる。
それを許容するほどまでに、この世界は謎が多い、
ということだけわかればいいと思う。
●大学に入り込むインテリジェントデザイン説
インテリジェントデザイン説の概念について考えたことの
ある科学者は少ない。この説の論点は、科学の知識では
自然界を完全に説明することは不可能だし、そうできる
ようには絶対にならないだろうというものだ。
生物系は複雑過ぎるし、化石記録中に周期的に見られる
生物の爆発的増加はあまりに大規模で、種間の差異は
自然選択だけで説明するには大きすぎる。インテリジェント
デザイン説の擁護者はこうした認識の上に立って、高い
知能を持つ創造者が地球上の生命を方向づけているに
ちがいないと論じている。これは神学ならば結構な考え方
だが、科学的とはいえない。
それでも、米国の大学キャンパスではインテリジェントデザ
イン説は学生たちに人気があり、この問題を扱う講座を
設けている学校もある。大学でインテリジェントデザイン説
が論じられることは、こうした動きを正当化するものになる
だろうか。そして、科学者はどう対処すべきなのだろう。
Nature2005年4月28日号でGeoff Brumfielがこの観念論
の最前線から報告する。
とはいっても、まだまだ科学は唯物論的な世界観のなかで
錯綜しているのであり、そこから近い将来に、大規模な
パラダイムシフトが起こるかは、誰もが予測不可能なことだ。
まだまだ当分は並立することになると考えるのが妥当だ。
並立していることだけわかればいい。
縁の無い人にまで影響を与えるつもりはない。
こういうものを反映させやすいのは、やはり臨床系の人だ。
体験と癒しという、強力なセントラルドグマがあるので、
そういう制約はなく、かなりの融通が利くところがある。
527 :
没個性化されたレス↓:2005/06/05(日) 00:27:09
>>527 ご紹介ありがとうございます。
石川勇一先生
http://www.sagami-wu.ac.jp/ishikawa/ >臨床心理学を主たる研究領域として、人間の心の問題
>の解決法や、心の成長や可能性について探求していま
>す。人間の心・身体・霊性(Mind-Body-Spirit)に眼を向け
>て、トランスパーソナル心理学や代替療法なども研究し
>ております(いうまでもなく、いかなる特定の宗教団体や
>思想集団からも完全に独立しており、ニューエイジ的な
>発想とも異なっています。当研究室は、臨床的・実践的
>でありつつ、公共性にたえうる学問的なスタンスを堅持
>しております)。ごゆっくりご覧ください。
このかたもロジャースを中心に、トランスパーソナルに取り
組んでおられます。誠実ながら、かなり意欲的にトランス
パーソナルの臨床に取り組まれているので尊敬してます。
研究なども読めるようになっています。
はっきり言って、科学的思考のなかだけでは、こういう
ことは類推できない。やっぱりないよな、という「再確認の
どうどうめぐり」を繰り返すだけだ。だったら自分から無視
して関わらないほうがいい。時間の無駄だとおもう。
リアリティは多元的で、物質的リアリティから類推するもの
とはまったく性質のちがうリアリティの次元もあるんだ。
レベルが違うんだ、と割り切るしかない。違うレベルがある
んだ、と割り切れるかどうかなのだ。
それは通常は知覚されていないし、そこまで意識が拡張
すれば、物質を知覚するように、別のレベルで性質もちがう
ものだと「はっきり分かる」ものなのだ。それを他のレベル
から説明しようとすると、どうしても失敗するし、その失敗が
また説得力を失わせることになる。
やっぱり神秘主義は神秘主義で、どうしても物理学の
レベルを超えている、という説明になるしかないのだ。
『量子の公案―現代物理学のリーダーたちの神秘観』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4875021372/ ケン・ウィルバーがこの本でまとめたのは、量子物理学と
ある種の神秘体験には、同定しうる平行関係まではある
ものの、基本的には物理学と神秘主義には共通するもの
がないことをまとめている。ハイゼンペルク、シュレーディ
ンガー、アインシュタインは、異なる領域である、という結論
で一致している。つまりリアリティは多重なのだ。
ただ、その近傍に、物質を粗雑(グロス)とすると、それより
微細(サトル)とされる、そういう性質の気のエネルギーと
いうものがあり、その集散が、おそらく量子的な真空から、
電気と重力の変動に関わるものになっている。それがさま
ざまな、超常的な現象として現れてうるということなのだ。
奇妙なことかもしれないが、完全に自己完結したものとして
説明しきれてはいないものの、これはまったく関係のない
ところで、プラーナとかエーテルとか、さんざん古来から言わ
れてきたことや、行われつつある実験でも、かなり一致して
きている。
東洋哲学(東洋医学)で気とかいわれていることは、あれ
は比喩じゃなくて、最終的には物理的にも反映されうる、
そういう実在を語っているのだ。とくに気はその反映の
結果が計測しやすいものであり、かなりもう計測されてる。
早稲田大学で心理学をやっている春木豊先生とかも、
外気功とか東洋医学の研究のほうに行って、人体科学会
やトランスパーソナルの学会にもいる。早稲田大学では
そういうことに理解があって、ジョセフソンとかもここで
公演をしたりした。
つまり東洋哲学と物理的実在とは、実際そういう風にして
対応している。つまり精神(物質から類推するような性質
じゃない)と物質を媒介するような位置にある。物理的な
リアリティとはまたちがった性質のゆるやかなものから、
最終的に物理的エネルギーに浸透するかのようにゆる
やかに反映されるようなイメージだろうか。物理的なエネ
ルギーより微細な次元があるということなので、違う素粒子
があくまで違う素粒子でしかないように、現代物理学の
次元とは直接は結びつかない。そこは、カテゴリーエラー
じゃない。
代替医療も超心理学も、すべてがそのあたりから説明
されてくるはずだ。これはもう、間違いないと思ってる。
そこは科学的に扱えるのだ。現在の基盤に立たず、東洋
哲学の基盤に、まったく全次元的に立ってしまえば、そこ
からの一点突破、全面展開はいずれ現実的にできる。
その意味での、「現在の基盤に立たないニューサイエンス」
はあるのだ。
カプラやズーカフやボームのように、量子物理学的な性質
のリアリティからの類推だけで、ほかのすべてを導こうとする
ほうが、一見合理的で理にかなうかのようだが、トリッキー
なことなのだ。つまりそういう形での「現代科学との和解」
は本質的にないし、その意味での、「現在の基盤に立つ
ニューサイエンス」はない。
気功で雲を消すとか、水がうんぬんとか、ホメオパシーも、
電気的な情報の変動では、共通したメカニズムだと思う。
といっても心理が関わるので、科学をこえているわけだが。
超常現象といっても、まったくでたらめの支離滅裂ではなく、
現れかた(または現れやすいところ)には、ある種の特徴
や性質、一貫性がある。超常現象は超心理学や人間科学
(心理学や医学)で扱える。
とくに「気」は、ほんとに計測にかかりやすくまた代替医療
でもあるので、かなりの研究機関が日本にもあり、その
実在性はかなり信憑性が高いものになっている。心理学
の人でも、気はほんと、取り扱ってる人はいる。
もっとラディカルなことを考えると、多世界解釈とか量子うん
ぬんよりも、もっと手前の次元のところで、人間の「意識」の
作用により、「気」を媒介して、新たな「平行宇宙」を「現実
世界」として選択しているのかもしれない。つまり、「気」を
操ることと、一般人が肉体を操ることは、気の集散の影響度
の程度の問題で、プロセスの末端だけみれば大差が無い
現象かもしれない。ただ気は「媒介する亜物質」のような
ものであり、それは意識そのものとは考えにくい。東洋では、
これはかなり一貫しているように思う。こういうことは、可能
世界とかいうものがそれにあたるかはわからないが、なん
らかの西洋哲学の領域とも重なりうる。
気は、電気に影響しやすく物質を構成する原子に捕捉され
やすい、そういうさらにより微細な、亜物質的なものなので、
自然の状態では、かなり拡散した状態になっていると思わ
れる。
素粒子実験で、計測に引っかからないのは、高真空状態
で行っているからだろう。検出器の高感度センサーなりは、
頑丈な真空チェンバーの中に置かれている。
拡散した状態にあり、なおかつ、そういう性質のものなら、
真空チェンバーを透過して、センサー部分に到達し、そこに
影響を与える可能性は、ほとんど無い。
日本の治部真理・保江邦夫による『脳と心の量子論』でも、
「水の電気双極子」とか言っている。
おそらくそれが、「気」の末端で現れているものだ。
この方は、プリブラムの脳のホログラフィモデルを受け継い
でいる人だから、そういう理念を諦めなければ、そこらへん
から、かなりまっとうに説明できると確信してる。
ただ、いくら量子論でも、それが還元論的では、相関して
いることをいくら詰めていくことまではできても、意味や
価値などを、それでなにか説明したことにはならないはず。
脳自体は物理的な限界がありつつも、波形分析変換器や
乱数生成器のようなものでしか、ないかもしれないからだ。
「気」と、「電気双極子」が、密接な関係があることは確か。
ただそれそのものではない。もっと微細なものといえる。
チャールズ・タートのいう「変性意識状態」とは、瞑想時な
どの、リラックスした意識の状態を指す。
この状態の時に、超常現象の発現や、天才的な創造性が
開花しやすいという。
このとき、通常意識の実体的領域に対して、脳から送り込
まれる情報を、意識的に遮断、抑制している、と考えられる。
そのうえで、通常意識の実体的領域に、「願望のイメージ」
を描くと、脳から送り込まれる雑多なノイズによる拡散が
ないために、超時空間的な変動により、外界への影響が
より鮮明に現れる、と考えられる。
わかったかと思う。
こういう風に、脳より一歩手前から考え、なおかつそこに
次元性があり、それが並存しつつ作用もしうる、というふう
に考えていかないと、こういうものは、ほんとうには理解
できないのだ。
ということで、現時点では、臨床系、医療系、そういう人
たちにしか、こういうものはおすすめしない。
あまり反映しやすいとは思えないからだ。
すくなくとも、変性意識とかいうのは、唯物論的な世界観
の土俵に乗って理解しようとすると、それは自縄自縛に
なってしまう。
どういうことかというと、それは、カーペットの上に乗りなが
ら、そのカーペットを持ち上げようとするようなものなのだ。
「分析」と「統合」は、根本的に、ベクトルが違うと思われる。
そこを割り切れるかどうかということになる。
そのレベルとはまったくちがう--そのレベルにはそのレベル
の---説明原理が必要になる。心理は物理とは性質がちがう
からだ。かといって、どちらかが存在しないわけでもない。
それはそのレベルまで認識しないと理解できないものだ。
結局、これ以上、深層のリアリティに深く踏み込んでいくには、
以上のように、東洋哲学そのままに、結局は理解せざるを
得ないだろう、ということになってしまう。
それほどまでに、東洋哲学というのは、心理や物理を、
ありのままに認識、記述していたものだと思う。
ここまでしつこく書いておけば、ありがちな、まちがった
カテゴリーエラーに陥る人はいないはず。
それじゃ身も蓋もないじゃん、と、がっかりしたってしょうが
ない。きっとこれからは、こういう考え方が、一方では増え
てはくると思う。
結局、ある種こういうものは神秘主義的にならざるをえない
と思う。
それが割り切れない人は、こういうものを理解しようとする
のはやめたほうがいいと思う。
中途半端に理解しても、中途半端なものにしかならない
からだ。
ユング心理学→人間性心理学→トランスパーソナルときて
いるもので、やっぱりどう取り繕ったって、すごく宗教的な
ものではあると思う。唯物論を徹底するようなものとは、
相容れない。主流でなくて当然なところもある。
やはり、霊性を深くつきつめるには、物質主義(唯物論や
機械論)とはまったく相容れないものであることを、きっちり
しておく必要がある。
科学と関わっているのは、特殊なところだけだ。それは
表面(サーフェス)にすぎない。そこだけを見ていたら拡散
してしまう。厳密にすればするほど、拡散するところがある。
科学をやっているわけでもないのだから、物質主義的な
科学に配慮したり説得したり媚びたり共感をわかせなけれ
ばならない道理もない。もっと毅然としているべきだ。
こちらにやたら干渉してくる科学主義者のほうが不必要に
限定された見方に固執しており、嫉妬がましくて、滑稽な
ものであったと、はっきり認識すべきだったといえる。
これまで人々が、科学がすべてを語れると過信しすぎて
いただけといえる。考えれば考えるほど、どうしてここまで
の過信がえられたのか、疑問がわく。
人類すべてがそれだけをつきつめたところで、結局は人間
精神の想像力というものは急速に枯渇し、狭量な人格の
縮小再生産のらせんから抜けられなくなり、やがて人類は
絶滅するだけだ。
こういう平均化を免れた小集団というものは、人類の生き
残りのために、おそらくは必要なものだと確信する。
ジェームズやユングから、マズローへ、さらにはトランス
パーソナル心理学へと、そこに霊的科学の研究としては
本流がある。
霊性とは特殊なものなので、それが少なくとも今の世間と
ずれているのは当然で、それでかまわない。深ければいい
のであって、主流でなくていい。
工学が物理学に基礎づけられているとすれば、トランス
パーソナルは超心理学に基礎づけられている。
それほどまでに特殊な学問なのだ。唯物論的世界観から
ははっきりと逸脱している。それほどまで超えているし、
あくまで超えていなければならないものだ。
とてもふつうのひとにはおすすめできるものじゃない。
ものすごい例外的な位置にあると思っている。
というわけで、唯物論者を批判することはしない。
これは住み分けするしかないような部類のものだ。
霊的なもので、次元がちがう。
これは教科書でもはっきりと超心理学を扱っているものだ。
霊的な体験というのも、そういう次元と接触しているもので、
いくらまともにやっても、それが唯物論におさまるわけじゃない。
その意味で、まともなトランスパーソナルなんて原理的には
成立できない。とても普通の人にはおすすめできるものじゃ
ない。
ブームを否定するつもりはない。それは現代に特有の、
心の問題が噴出した、その現れといえるからだ。
超常現象自体はなくならないので、それが今後、かなりの
範囲に知れ渡った場合、それをまったく完全に確信をもって
否定しきれていた人たちは、いったいどういう態度をとり
はじめるのだろうか、そこには同情の気持ちすらある。
『魂のライフサイクル―ユング・ウィルバー・シュタイナー』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130130838/ 西平直 東京大学出版会
これもトランスパーソナルの学会のお方だ。そう考えると、
こんなにも霊性というものが、まだまだ出てきちゃいけない
ところもあるはずなのだが。
はたしてそういうきわめて唯物論的な人たちはこのギャップ
がほんとに顕在化してきたとき、対応しきれるのだろうか?
どうやって対応するのか、自分には思いつかない。
完全に唯物論が成り立っているなどと、本気で信じている
のだろうか?それを方便としてでなく、ずっとずっと維持し
つづけられるとはとても思えない。
超心理学の実験でも、変性意識状態では正答率が高く
なるという。はっきりいって、「マクロPK」も一通りあると
思っている。
つまり、通常意識状態では、古典物理学的なリアリティに
おける理論と観察がほぼ一致する。変性意識状態では、
量子物理学的なリアリティよりさらに微細で心的な次元で
起こっているかもしれないプロセスなりメカニズムが活性化
してくる。
変性意識状態は、物質的宇宙の時空間のフィルターを超え
ているところがある。超心理学者のバチェルダーは晩年の
論文で、超常現象の本質を「普遍的創造原理」と呼んでいる。
一見トリッキーのようだが、プリブラム的な「脳のホログラフィ
モデル」に立たないと、人間の深層心理は整合的に理解
できない。
変性意識状態を探求するなら、やはりチャールズ・タート
にしたがい、超心理学を基礎にしなければ理解できない。
こと、この領域に関しては、物質科学的に考えるほど逆に
説明に一貫性がなくなるという逆転がある。自然科学的
素朴実在論をこえる必要がある。
自然科学的な素朴実在論に傾倒、信奉している、そういう
習慣がついている人には、あまり面白い結論にはならない。
あれかこれか、と考えたところに短絡化や錯覚があったと
思われる。
天動説は、物質的宇宙における地球と太陽の関係うんぬん
がどうこうではなく、もともとは、それをまるごと含んだ物質
次元と、さらに高次(深層)の霊的次元との「次元性」につい
て語っていたと思われる。エーテル説も、エーテルが物質
よりさらに微細な亜物質であり、物理学的に相互作用する
剛体のレベルで、そのように影響するとはかぎらない。
それは物質次元の宇宙、その現実の中にある事象とは、
直接は対応していない。東洋哲学では物質次元をこえた
次元も人間が認識できることはたんなる常識でしかない。
それを西洋では神秘主義と呼んで不可知化したことが
致命的な欠点であり偏見だったと思われる。一方で形而
上学というのも、体験による検証という発想が欠けている。
西洋では東洋では一体であるものが分離しているし、
そのために、すべてを遠回りしている。
結局、コペルニクス的転回といっても、物質的リアリティの
次元しかない、認識できないという偏見的仮定のうえで
西洋宗教と科学が対抗したつもりが、しょせんは双方に
カテゴリーエラーがあり、否定された!という短絡的な錯覚
が起こっただけと思われる。
仮定の話をしても意味がないが、それが東洋であれば、
最初からニューサイエンスみたいなものが成立していても
おかしくない。心を排除する必然性はさほど無かったといえ
る。そう振り返ってみれば、数量化によって、物質的には
進歩もあるが、霊的・精神的には、短絡的な単なる徒労
でしかないと感じられるものがずいぶんと多い。
その時点での科学技術では計測できなかっただけだ。
現代には、コンピュータも、心理学的統計技術も、医学的
計測機器もある。エーテル、つまり気だって、計測する
つもりがあるなら、末端だけなら計測できる。
西洋でも、天動説とかエーテルといった形で、昔からあっ
たヴィジョンだったといえる。ただ西洋には物質主義的還元
なり否定なりをする、体験と実践のない、そういうバランス
の悪さがあったといえる。霊的・精神面では、東洋のほうが
明らかに適切で進んでいることは認めるしかない。
これは事実だからしょうがない。
超常現象が存在する以上は、いずれは顕在化する、
そういう未来のひとつの方向性として、確実に存在してる。
それがある以上は、世界のどこかで一定の割合で発生
するし、そういうものが完全に消滅しなお存続するような、
そういう人類の未来があるとは想像できない。新しい
ジェネレーションというのはつねに更新されていくわけで、
もはやあきらめる人がいるとは思えない。遅かれ早かれ、
必ずやってくる。やはり動いてしまっている以上、唯物論
の破綻、それ自体は、仮に最も遅くて100年後だろうと、
たんなる時期の問題でしかない。いずれは到来する未来
を、現在の尺度なり土俵なりで、いくら良いか悪いか推し
量っても、いくら否定しても、きっとそれは徒労なんだろう。
ジェネレーションは更新されていく。未来にはすべてが、
常識が、変わっているかもしれないからだ。それが未来
というものの定義だろう。
560 :
没個性化されたレス↓:2005/06/06(月) 14:40:17
「こういった例は千回も経験しているからだよ」(アドラー、もとい頭がクルクルぱーソナル心理学)
「で、この新しい事例で、先生の経験は千と一回になるんですね」(ポパー、科学哲学者)
この世(とあの世)がどうなっているかより根源的に本質的
にはっきりさせたいなら、瞑想して精神を深めながら、
いまはさしあたっては、トランスパーソナル心理学や超心理学、
ニューサイエンス(代替医療系科学)を学ぶことだ。
それが霊性(スピリチュアル)であり、「現代の東洋」にあた
る。それは、東洋ではもとからあった。もっとも本来の東洋には
まだ届かないが、それは100年後の未来の話だといえる。
やはりニューサイエンスは幻想ではなかったといえる。そう
いう未来の方向性はやっぱり存在しているし、衰退したわけ
ではなかったのだ。むしろ、ジェネレーションの更新によって
表面化しつつあり、技術的にも、手が届きつつある。代替医療
系の科学から、気の次元の末端部分も、かなりのところ
まで突き止められるだろう。
「分析的、客観的に、核心に迫る西洋式の知識探求法は、
それ自体、破壊的なものだ。なぜならば、分析的にものを
見ることは、知識の対象を、いかに重要で複雑であっても、
つまるところ、一つの対象だけに絞ることになるからだ。」
「わしは、科学者たちは、科学専攻の学生たちと問題を起こ
したことなどなかった。じゃが、わしの仲間の哲学者たち
がわしを追い詰めたんじゃ。」
哲学者たちは、究極の知識の様態として科学を崇めていた。
科学は、人類に大きく貢献してきた。それにもかかわらず、
今や、あまりにも多くの人たちが、科学的な真実のみが
唯一の重要な真実だと考えている。この科学主義的な
イデオロギーが、わたしたちの人生に伝統的に意味と目的
を与えてくれていたすべての信仰を軽視することによって、
「不必要な人間の苦痛を創り出したんじゃ。」
とヒューストン・スミスは嘆いた。
たとえ、伝統的な宗教の影響力が下がってきているとして
も、スピリチュアルなものは、わたしたちの文化を通して、
ふつふつと湧き上がり続けている。このアルバカーキの会議
がいい証拠でしょう。
「しかし、ともかく、そう書こうと思っておる。怒りに満ちた、
気難しい本になっても、それはそれでいいじゃないか。」
彼は、新書では、できるだけ激しく自分のメッセージを伝える
気になっていた。
「それにしても、コスモスの進化というのは、すごいと思わ
ないか? 何しろ、塵(素粒子や原子)から道元が生まれ
たのだから」
ケン・ウィルバー
ということで、これは臨床系、代替医療系、精神医学系、
あとはあんまり気張っていない人にしかすすめない。
結局、懐疑派とかそうやって気張って生きるのは損だ。
余計な苦悩とストレスを生むだけだ。
そういう世界で群れるのは自業自得的な要素がつよい。
精神世界を豊かにすることを考えたほうがいい。
結局、そういうのは「マゾ」に近いと思っている。
自縄自縛的なところがある。
臨床系の人は、あまり他人にとらわれず、
トランスパーソナルに触れてみることをすすめたい。
そういう人たちとは、住む世界が違う、と考えればいい。
そういう「波動の悪いところ」には、自分から近づかない。
フラットランドがすべてじゃない。雑念にとらわれない。
とくに臨床系の人はとらわれることはないと思う。
霊的な面を深めればいい。
ニューロンの同時発火だが、やはりそこに位置的に重なり
合っている亜物質的だが実体といえる場の存在を仮定
せざるをえないはずだ。それがエーテルということだが。
脳内など、微小管があり、水と電気双極子が関わるとか、
エーテルと物質次元と同調しやすい条件があるのかもしれ
ない。ようは、複雑な有機組織や、非決定な物理系、など、
ある種の条件をもつような複雑系においては、量子的な
真空を経て、エーテルが同調しやすいのかもしれない。
量子的真空がエーテルの表層かもしれない。それはアイ
ンシュタインの一般相対性理論でも、ある種のエーテルは
要請されるからだ。もっとも一般相対性理論やそこでの
エーテルがどうだろうと、それに先立ってあるものなのだ。
見かけ上であるにせよ、そうでないにせよ、ある種の通常
は拘束された自由意志がある。通常意識状態でも、脳内
など部分的になら、自由意志によりエネルギー保存則が
破れていてもおかしくない。エーテル的な場において、任意
にニューロンを同時発火させている。イメージ的なものが
先立っているところがあり、物理法則がすべてでない。
客観的な物理的実体(電磁波など)
→脳(ニューロンの活動パターン)→主観的認識
ここにおいて脳は「物」のほうにふくまれる。それは客観的
な物理的実体で、主観的認識の原因だが、それ自体は
主観的には認識できない。物とは独立に感覚がある。
数理的な相関関係があっても、錯覚的な要素があっても、
電磁場のパターン自体はあくまで無味無臭なパターンで
しかなく、それでも色がある。そこには質的な断絶がある。
感覚(少なくとも通常の五感)は、脳と密接な相関関係が
あることは当然だが、それ以上の要素はぬぐいされない。
脳に随伴する現象といったところでなにも説明できない。
どんなアクロバットをほどこしても、哲学も、二元論も、
排除できそうに無い。
二元論のほうが、唯物論を包含できるともいえる。
哲学のほうが根源的だ。
ただ、どんな哲学でもいいわけではない。
すくなくともあらゆるトランスパーソナル体験や変性意識
状態を包含できなければ、それは宇宙全体のレベルから
考えれば部分的といわざるをえない。
それをどうやって説明できるかが、手がかりになるわけだ。
573 :
没個性化されたレス↓:2005/06/06(月) 23:40:13
ただ、どんな黒人でもいいわけではない。
すくなくともあらゆるクンタキンテやチキンジョージ
を包含できなければ(ハルクホーガンではない。念のため)、それは宇宙全体のレベルから
考えれば部分的といわざるをえない。
それをどうやって説明できるかが、手がかりになるわけだ
そこでウイッキーさんですよといういう意見もあろうが、
彼はスリランカ人であって黒人ではない。厳密にはコーカソイド=白人なのだ。
そういうレベルの、いわばメタフィジカルな説明原理という
のは、まだまだいくらでも転びうるところがある。
ウィルバーも、臨床データから、モデルを5段階も変化させ
ているし、これからの臨床データの範囲の拡大によっても、
それはさらに変わりうる。まだまだ限界はあるが、その
統合の範囲は、ほかに比べるものがない。
やはり、唯物論というのは、それそのものだけではけっして
霊的にいいわけでもなさそうだ。それで宗教を迷信として
とりのぞけばはいおっけー、なんてものではなさそうだ。
実際、そういうものを徹底している懐疑的な人を見ていれば
わかる、性格も意地も悪い人が多いし、ストレスもためて
そうだし、他人に狭量で批判ばかりしているし、見た目とは
裏腹なところがある。
唯物論的な霊性なんてものは、そんなものどこにも存在
していないことからわかる。物質そのものはあくまで粗い
ものだとの認識で共通している。
唯物論とは距離を置く必要がある。
それを徹底させるのは科学ではあっても、
霊性とはちがう。
これは科学じゃない。霊的なものだ。
科学的な認識がすべてを担えると思った傲慢さが間違い
だったといえる。それ自体は人生なり生き方なりの幸福
とはまったく関係ない。
これをやるなら科学はさっさとこえてしまったほうがいい。
むしろ宗教を研究しているような人が関わるべきものだ。
心理学をやってるくせに、ここが唯物論的すぎることしか
いわないのが悪いだけといえる。そういう人たちは、それ
以外の心的な会話をさまたげる人たちは、間違っている
方向に入っているといえる。
傲慢であることはまちがいない。
はっきりいって、ここの人は、空疎なことしか言っていない。
臨床とか他人の批判とか、疑うだけで提案が無いとか、
心理学じゃないとか概念がどうとか、同じことばかりくりかえ
して、あまり創造的な建設的なものが生まれてこない。
でてきた反応にたいして、必死にそれをさまたげることだけを
くりかえしているだけの進展のない不毛な無限運動といえる。
こと心については解体しかない。
こと心については深層に入っていかないで、表層だけだ。
心理学に心を求めるのはよしたほうがいい。それとは違った
ものを扱っている。
霊性を深めたいなら、素直に、人文学的なものにいくことだ。
あとは芸術など。
嫉妬がましく干渉してくるほうが悪かったといえる。
あとは、宗教心理学とか、ニッチを選ぶとか。
ここは好き勝手書いただけで、自分の今後にはなにも反映
させるつもりはない。ここでのことと現実とはまったく関係
しない。たかがネットのことで相手をしたほうが悪かったと
いえる。そういう教訓を与えたと思ったほうがいい。自分の
ことを書いたわけじゃない。忘れたほうがいい。
暗い方向にいかず、いかに楽しめるかを考えたい。
あまり深刻な自虐的な方向には考えない。楽天的に
考える。
これは書き捨てられたものといえる。もはや捨てられたもの
だ。思い残すことはない。ここに書いたことは自分の決断なり
をなんら反映するものではない。ここを念頭になにかを選択
したことによるあらゆる結果については責任はとらない。
すべて自己責任でおねがいしたい。
メッセージがあるとしたら、相手にしたほうが暇人で悪い、
というものだ。ここでのことで誰にも影響されるつもり
は無い。ここからはまったくの未知だしリセットしたい。
自分に集中したい。たにんはどうでもいい。
はっきりいってネットはもう読んでない。
ほかにたくさん読んでいるからだ。
最後に。
ここの、村社会体質の秩序なりを、乱すつもりは、ない。
こういうことは、うやむやが一番迷惑をかけるものだ。
もう、こういう「霊性の時代」だからはっきり言っておくと、
超能力なりがあることだけは、保障するし、責任は取れる。
それは中村先生なりも、人生を張っていることなんだから。
自分としてはかなり確かなものとして確認できた自信はある。
それは、スプーン切断であり、UFOであり、気の感覚である。
思い込みとかいうレベルを、「はっきり超えた」といえる。
そして現代では、「あってもかまわない」という態度でいられる
新しいジェネレーションというのは、少なくない傾向にある。
トランスパーソナルをやっている人で、なんらかの体験の
ない人はいないだろう。きっとそういうものが転機にはなって
いるはずだ。諸富先生も少しはあったみたいだし。大体、
体験がなければ必要性がわからないし、体験なしには人間
そうも変わりえない。体験があればいいわけじゃないが。
ある種、人生を張っているところもあると思う。
ウェブを色々調べたりすると、現代では、偶発的なスピリ
チュアルエマージェンス(SE:霊的発現)らしきものも、
少なくないと思う。それはサイキックオープニングなりだ。
それ自体はけっしてプラスとは限らない。複合的な要素だ。
それを適切に理解する枠組みが、現代にはまだ整備されて
いない。それがトランスパーソナル精神医学の存在意義だ。
霊的な全段階、全象限、すべてのスペクトルを認識した
うえで、それに適切に対応できる、駆け込み寺的なものが
少なくなってきている。というより、医学的現代的な成果
までを包含できている集団なんて、また存在しない。
それは理論的には、まだウィルバーしか到達していないし、
残念ながら、霊的な最先端はそこにしかまだ存在しない。
その意味では、新しいジェネレーションでも、臨床系・医学系・
人類学系・宗教学系など、現場に近い人にこそ、その存在を
認知してもらい、「新しいパラダイム」に対応してもらいたいと
思う。とりあえず私は、そのための、単なる「あるなし論議」に
不要なコストを費やすことを削減する手助けをしたつもりだ。
超常現象はありますよ。やっぱりそれははっきりさせておく
必要がある。そうでないと、スピリチュアルエマージェンスに
適切に対応できる人なんていないからだ。
はっきりいって、無いものを、続けられる人間はいない。
引っ込みがつかないような嘘を突き通せる精神力がある
なら、そのほうがどうかしている。それだけでも、超常現象
を信じるに値する材料はそろっている。代表の安藤先生
の本だって、唯物論をこえることは記述されている。
そうでなければ、適切には、理解できるはずが無いからだ。
トランスパーソナルをやるということは、例外なくそういう
覚悟がいることだといえる。本来ならそんなものは覚悟でも
なんでもなく、幻想でしかないはずだが。唯物論かどうか
では、まともかどうかは判断できないということになる。
そういうものがあると都合が悪かろうと、あるものはある。
むしろ隠そうとするから、都合が悪くなっているだけのこと
でしかない。あろうとなかろうと、さほど変わらない。むしろ
隠すより、すべてにおいて本来の理解が適切に可能になり、
より理解が進むとさえ思っている。
それほどまでに良いものであり、新しいよりよいものを生み
出す原動力がすべてに内在しているものであることは、
間違いがない。グロフらが提出したスピリチュアルエマー
ジェンスの概念も、きわめて現代的なコンテクストのなかで、
臨床の積み重ねがあったからこそであり、DSM-IVのように
改正の動きもでている。これに賭ける価値はある。一点
突破全面展開のようなことも夢ではない。
ある以上、どういうかたちにせよ、未来においては、一発
逆転満塁ホームランのような局面はありうると思っている。
唯物論には明らかなる「外」がある。それは信じていい。
ただ、それを念頭に入れたことによるあらゆる結果には、
責任は取れない。すべて自己責任にしてほしい。影響を
与えておきながら、無責任な話だが、とかくこういうものは、
よほどしっかりとした条件なりが、本人に用意されていな
いと、簡単にバランスを崩すものだ。そして現代において
はまだまだそういう環境なりは十分に用意されていない。
日本にもトランスパーソナルが入ってきただけ、まだましな
環境になってきていると、禁欲的に考えておいたほうがいい。
自分としては、科学的心理学というものがどういう体質の
ものかわかったので、ここでいつまでも邪魔するつもりは
ない。はっきりいって、そういうものとは、相性が悪すぎる。
村社会みたいに、嫉妬がましく、無視してこないのが悪い。
はっきりいって気の科学とか、そういうものを認識している
人は、ちゃんと認識していると思う。ただまだ時期が早いと
みて、禁欲的にでているだけだ。いつでも転びうるものだ。
日本トランスパーソナル心理学/精神医学会
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jatp/ 研究の視野は、
○身体技法や諸種の東洋的意識鍛錬実践を含めた
新たな心理療法に関する臨床的・理論的研究、
○人間の変容と治癒に関する研究、
○心理学諸派の理論や実践との比較・統合的研究
(とくに人間性心理学およびユング心理学との対話)
○心理学および心理療法と宗教(とくに仏教)との
関係に関する研究
○創造性や芸術の心理療法的意義に関する研究
○臨死状態やターミナルケアなどに関する研究
の領域にも広がりをもっている。
トランスパーソナル心理学/精神医学がわが国に紹介
されるようになって、十数年が経過し、主要な理論的
書物の公刊のみならず、その実践も行われるように
なってきた。
しかし、わが国ではいまだ専門的な学術研究や議論が
十分に行われるまでに至っていない。
米国でのおよそ30年に及ぶ歴史やその進展には、
現代において注目されるべき数々の学問的主張や業績
が積み重ねられており、現在その活動は、欧州の数ヶ
国や豪州、ロシアなどでも行われるようになっているが、
わが国でも本格的な研究や議論が精力的になされる
ことが待たれており、その期は熟したと考えられる。
●上記のアプローチは、人間が取りうるさまざまな
「意識(状態)」を重要視することにもつながる。
●「意識」というものは、哲学的にも定義づけの不可能な
概念と言われるが、それは人間という存在にとって最も
根本的な重要問題であることは明白である。
●心理学や精神医学は、本来、この意識という問題に
もっとも密接に関わる学問領域であるが、従来のそれら
は、「科学的学問」としての方法論上の問題と関係して、
この「意識」に直接アプローチすることを避けてきたよう
に思える。
●トランスパーソナルのアプローチは、これらの「科学的
学問」の問題にも挑戦しながら、あくまでも科学として
人間の「意識」という問題にも新たに取り組もうとする
姿勢をもつ。
●この姿勢には、東洋の伝統文化に存在する各種の
瞑想的伝統や修行による「意識状態」への関心を強く
もつ点も際だった特徴の一つとして含まれている。
●東洋にこれまで積み上げられてきた「心理学的体験の
記述や洞察」は、人間がどのような意識状態を取りうる
のか、意識状態によってどのような認識や知覚の変化
があるのか、意識をいかにして変容させることができる
のかといった「意識研究」の成果であると考えることも
できる。
●最新の西洋科学の「意識研究」と伝統的東洋哲学の
「意識研究」との交流や統合は、現代におけるもっとも
重要な研究領域の一つであり、それらをつなぐことの
できる「トランスパーソナル」というフィールドは現在
世界的に大きな注目を集めている。
●こうした研究は、世界全体から見た地理的、文化的
特質からして、とくにわが国で盛んな研究や議論が
なされることが期待されている。
●研究の視野は、
○意識および変性意識の実践的・理論的研究、
○瞑想をはじめ意識の変容に関わる世界の
伝統的諸技法やシャーマニズムの研究、
○それらの現代における意義についての研究、
○文化および社会と意識との関係に関する研究、
○物質と意識(脳と精神)、身体と意識(精神)の
関係についての研究など、
幅広い分野を含む。
●「トランスパーソナル」は、もともと心理学の中から
必要性に迫られて生まれた概念だが、近年では他の
学問諸分野からも大きな関心が寄せられるように
なっている。
●すでにトランスパーソナル精神医学、人類学、宗教学、
社会学、生態学などの名称も使用されるようになり、
学際的交流と研究活動が行われるようになってきた。
●従来の科学的諸学問の枠組みからは排除されがち
であった人間のある種の心理的体験が、トランスパー
ソナルという用語で学術的に取り上げられたことに
よって、そうした人間の体験がそれら諸学問のなか
でも本来重要な位置を占めていることが再評価され
ようとしている。
●この動きは、ただ学問的研究にとってだけでなく、
現代社会に生きる人間にとって非常に重要な意味を
含んでいると考えられる。
●このような議論を深めていくためには、従来の学問枠
にとらわれることなく、さまざまな学問領域からの発言
を活発に行える場が必要になってきているが、
本学会ではそれらの議論に積極的な場を提供したい。
□新たな世界観の探究に向けて
トランスパーソナルな発達段階における人間の体験的
意識は、古来から世界の各地で、人間の生にとってかけ
がえのない貴重な洞察を残してきたものと考えられる。
科学主義的・合理主義的・個人主義的世界観が行き渡
ったように見える現代が一種の行き詰まりを見せ、それ
に変わる新たな世界観を必要としているとすれば、
これまでその現代的価値観の進展ゆえに排除され、
蔑視されてきたとも言えるそれらの貴重な諸洞察を、
人間の心理学的体験として正当に評価しなおし、
それらを再発掘しながら、現代の学問的立場に立った
議論を行うことは重要な意義をもつ。
また、そうした大きな時代の転換期のなかで新たに浮上
しつつある人間の意識の変化は、トランスパーソナルと
いう概念と深い関連をもつものであり、それらを積極的に
取り上げることは大きな価値をもつ。
その中心的課題としては、
●西洋近代科学と東洋哲学や宗教との対話・
そして統合への努力、多文化間の対話、
●霊性と宗教、霊性と現代社会、地球規模の危機
への反応、これらに関わるオルタナティヴの模索、
●現代思想におけるトランスパーソナル理論の
位置づけおよび従来の諸学問との関係や対話に
関する研究
などが挙げられる。
日本トランスパーソナル心理学/精神医学会
に関連するインターネット・サイト
●人体科学会
http://smbs.gr.jp/main/modules/news/ 現代の社会では科学技術や経済発展が顕著な反面、
精神の不安、モラルの衰退、愛の喪失といった心理的
危機が広がっているようです。
1970年代欧米でニューサイエンス運動が生まれ、現代
科学の見直しとともに東洋の文化伝統に注目する機運
が生まれてきました。
臨床心理分野では東洋諸宗教の瞑想法・身体技法を
取り入れた新しい治療技術を開発する動きが強まって
います。
医療分野では東洋医学を始め世界の伝統医療の価値
と意味が見直され、新しい統合医療とホリスティック医学
の考え方が広まってきました。
また気の研究実践に基づく中国との交流から、人間の
潜在能力の研究や心身相関性について新しい見方が
生まれてきました。
人体科学会は従来の学問分野の境界を越えて、
文科系から医療体育系、理工系まで総合した観点に
立っています。
●日本ホリスティック医学協会
http://www.holistic-medicine.or.jp/ 20世紀、西洋医学が人間の身体性(からだ)を対象に、
大いなる達成を果たしたあと、新しい世紀の到来とともに、
身体性を超えて精神性(こころ)と霊性(いのち)にも
注目する医学を待望する声が内外に高まってきました。
そのひとつの現われが、代替療法の台頭から統合医学
へと向かう世界の潮流です。この流れが水嵩を増すに
つれ、その彼方にホリスティック医学がわずかながら見え
てきました。決してひいき目ではありません。たしかに
見えてきたのです。
しかし、まだ相当の道程を残していることもたしかです。
ホリスティック医学は人間まるごとをそのまま促えるので
すから、代替もなければ統合もありません。生老病死を
そっくり対象とする医学ですから途が遠いのも当然です。
しかし、ゴールが見えてきた今からが正念場です。志は
高く力を合わせて、この正念場を物にしていこうではあり
ませんか。
『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309906079/ 分野は、物理学、医学、生物学、脳科学、心理学など、
多岐にわたります。所属先はイェール、プリンストン、
スタンフォード、エディンバラといった世界有数の大学や
研究機関。また、合衆国政府による国家プロジェクトや
NASAが支援する先進研究にかかわった科学者もいます。
いずれも、あやしげな人物ではなく、れっきとした正当科学
のただなかに身を置く第一級の研究者たち。しかも、知的
探求心が旺盛な天才肌ぞろいです。だからこそ、既存の
科学の限界を超える未知のフロンティアへと踏みだしていく。
──どのようなフロンティアなのでしょう?
科学が「不思議の力」をとらえ始めた。従来、宗教や
東洋思想、神秘や魔法などとして排除されてきた領域に
ぐんと近づいた。
たとえば、私たちは健康(からだ)が、こころの持ちよう
と深くかかわっていることを経験的に知っているわけです
が、それを科学的にきちんと説明するのは難しい。
もちろん、精神神経免疫学や代替医療の科学的解明など、
さまざまな取り込みも始まっている。それでも、大きな発想
の枠組み(パラダイム)が変わっていないため、もどかしさ
を拭えなかった。自分のお城を出ずに、城外のサカナを
暗闇で釣っているような感じ・・・。
ところが、本書は既存の科学的成果を踏まえながらも、
さらに一歩踏み出して、新たなパラダイムを提唱している。
しかも、それがきちんとした科学的な実験や理論によって
裏付けられている。本書が発売されるや欧米でセンセ
ーショナルな話題を巻き起こしたのも、そのためです。
──「ゼロ・ポイント・フィールド(量子真空)」とは?
ゼロ・ポイント・フィールド(ゼロ点場)は、現代物理では
ベーシックな概念です。
宇宙のエネルギーは物質がなにもない「ゼロ」の状態でも、
かならず「ゆらぎ」がある。空っぽの真空(量子真空)にも
かかわらず、粒子(仮想粒子)が飛び出し、沸き立っている。
そんなにぎやかな「無のエネルギーの海」にあらゆるモノや
存在は浮かんでいるわけです。
こうした量子の世界は、量子テレポテーションが起こったり
と、私たちの日常から見れば、超常現象の世界なわけです。
ただ、その不思議な現象は、ミクロな物質の領域にとどまる、
というのが既存科学の守備範囲だった。
本書は、その守備範囲を広げて、ミクロとマクロ、生命と
物質、こころとからだ、自己と他者、といった壁を突破して
いく。しかも、ひじょうに慎重に既存科学の手法や成果を
取り込みながら進めていく。そこが圧倒的にスリリングな
わけです。
──生命と物質、こころとからだがどのようにつながって
いることがわかってきたのですか?
たとえば、生物光子(バイオフォトン)という生き物が発する
微かな光があります。これはホタルが発するような光では
なく、肉眼では見えない弱い放射線です。
本書に登場するフリッツ=アルバート・ポップは、DNAが
生物光子の放出源であることを突き止めました。まるで
音叉のように、DNAから細胞へ、体内分子へと、光の共鳴
がおこり、それが健康と病気の鍵をにぎることがわかって
きた。健康とは、こうした生物光子が放出されなくても
いい「無」の状態ということなんです。
いっぽうで、私たちの意識も脳内だけではなく、からだ全体
に広がるコヒーレント(レーザーのように波の位相がそろった
状態)な光とかかわることが明らかになってきている。
このように従来、光=物質と思われていたモノが、生命や
意識と密接につながっていることがわかってきたわけです。
既存の科学では謎とされていたホメオパシーの効果や、
ガンなどの病因にも文字通り、"新たな光"が当てられて
います。また、従来、エネルギー医学、サトル(微細)エネ
ルギーなどと呼ばれていたものの本質が見えてくる。
本書は「生命と意識と健康」というテーマに限っても、その
根源に触れる発想を得られるでしょう。
──本書は、リモートビューイング、サイコキネシス、
スピリチュアルヒーリングなども扱っています。
こういった分野は、「科学的」といえるのでしょうか?
まず、「科学」と「科学のようなもの(疑似科学)」は明快に
分けられないことを確認しておきたいですね。これは「線引
き問題」といわれ、さまざまな考えがありますが、いまだに
決定打はありません。それほど「科学の合理性」というのは、
曖昧なものなんです。私たちは「科学―非科学」から「善―
悪」まで、露骨な二元論をまず疑ってかかるべきだと思い
ます。
とはいえ、本書は従来の「科学」のフレームからはずれる
のではなく、既存の「科学的なアプローチ」をとても大切に
しています。登場する科学者たちも、科学の王道でめざま
しい成果をあげた俊才揃い。かれらは「科学的な知」によっ
て、超常現象の世界に挑んでいく。
意識のはたらきを探る上で、リモートビューイング、サイコ
キネシス、ヒーリングなどはひじょうに興味深い現象である
わけですね。実際、欧米ではこうした現象を、第一級の
研究機関がまっとうな科学的テーマとして扱っている。
たとえば、保守的な校風で知られる米プリンストン大学の
名誉学部長が、熱心に研究に乗り出している。その成果は
権威あるアカデミックな機関からも認められ、米国政府や
ボーイング社などの大手企業が研究を支援さえしてきた。
また、従来は、代替医療、量子力学、脳科学、超心理学
などと分野ごとに紹介されてきたわけですが、著者の取材
によって初めてその全体像が浮かび上がってきた。
しかも、たんなる寄せ集めではなく、点を線としてつなげ、
新たな大陸、輝かしい未知のフロンティアを開くことに成功
している。
それは、「ゼロ・ポイント・フィールド(量子真空)」を軸に
据えたことが大きい。
さらに、理論と実証データをたくみに織り交ぜているのも
特色です。従来の本はややもすると観念的な理論にかた
よりがちだったわけですが、本書には多くの実証データが
盛られているため、説得力を増している。
──最後に、本書のいちばんの魅力とは?
人生観や世界観を変えてしまう「根源的な元気」が湧いて
くる。生命と物質、こころとからだ、自分と他者・・・・などと、
分離してしまった世界観をくつがえす。そんな数百年単位の
パラダイム変動がいまやってきている──その胎動を伝え
る初めての本です。
こうしたムーブメントは、私たちの暮らしや産業を変えて
いくだけではありません。私たち自身の生き方も変えて
いくでしょう。
私の記憶が、脳内だけではなく「外」にもあるとしたら──。
私の健康や意識は集団の意識と深く関わっているとしたら
──。強い願いや思いが世界を動かせるとしたら──。
未来からの意思が、過去を変えられるとしたら──。私が
いまここにいるだけで世界から影響を受け、また世界に
影響を与えているとしたら──。
私とは時空を超えた巨大なネットワークの結び目であり、
私のDNAや細胞が光を発しながら、宇宙の根源的なエネ
ルギー(量子真空)とつながっているとしたら──。
近代的な「個」に分断されるのではない、まったく新しい
生命力にあふれた世界が見えてくる。そして、あらゆる
存在とつながっている「私」が誕生することになる。
本書はそんな新しい「私」に生まれ変わるためのガイド
ブックでもあります。
「前世紀は原子力の時代であった。しかし、
今世紀が量子真空の時代になったとしても
ちっとも不思議ではない」
パル・パソフ
「新しい科学的真理が勝利を収めるのは、
反対者を説得して新しい光が見えるように転向させること
によってではない。ゆくゆくは反対者が死に、
新しい考え方に馴れた若い世代が育ってくるからである」
マックス・プランク
●日本トランスパーソナル学会
http://www.ne.jp/asahi/jta/akss/index.htm 今ほど私たちの生き方を根本から問われている時代は
ありません。しかしながら、私たちは依然として、来るべき
時代の新たな目標を見出せないまま、希望のなさの中に
閉じ込められているようです。では、私たちは、どこに新た
な時代の希望を見出しうるでしょうか。
私たちは“トランスパーソナル”(個を超える)という考えに
それを求めます。それは現代のさまざまな問題には、近現代
の合理主義・科学主義、そして個人主義の限界が映し
出されていると考えるからです。
過去の世代や将来の世代とのつながり、人間と大自然との
つながり、そして、人間と人間を超えたものとのつながり。
〈個を超えたつながり〉の回復によってでしか、現代社会の
矛盾は根本的に解決できないのではないか、と思えるのです。
私たちはまた、個人の内面(心)と社会や環境とのつながり
にも着目します。世界的な規模で広がる社会・環境の荒廃は、
同時に、個人の内面で進行しているプロセスと一致している
と考えるからです。
海外に目を移しても、こうした考えは、1960年代後半アメ
リカ西海岸を中心としてトランスパーソナル心理学が誕生
して以来、ほかのさまざまな学問領域にも波及して、今や、
世界各国で国際会議が開かれるなど、次第に世界規模の
潮流となりつつあります。
日本トランスパーソナル学会は、“トランスパーソナル”と
いう考えに関心を抱く人々が集い、研究活動や情報の交換、
一般社会への普及活動、海外をも含めた研究成果の発表
や紹介などをおこないます。
この学会は、特定の学問領域に限定された学会ではなく、
心理学、哲学、宗教学、教育学、人類学、社会学、医学、
生態学、物理学、政治学、経済学など、さまざまな学問の
境界を超えた学際的な学会です。
また、心理療法やカウンセリング、ミュージックやアート、
ヒーリング、エコロジー、スピリチュアルな瞑想や宗教的
実践など、さまざまな実践活動に関わっています。
まだまだこんなに偏見が強いものだとは思わなかった。
はっきりいって風当たりはまだまだ強い。
それだけに新しいジェネレーションは賭けてみる価値はある。
突破口はある。
自分としては出遅れた感がある。
もう、ボランティアをするつもりはない。
西洋の最先端の科学的研究に、東洋の伝統的な
精神文化への、熱い想いがあるのをみてとれば、
そこには、日本にあった、精神文化を再発見するための、
ひとつのルート(道筋)が見出されるはずだ。
真の生きた精神文化を再生し、
そこにまた新しい精神文化の場所(空間)を生み出すには、
他人に流されずに突き進む、自由意志を必要とする。
奇跡はある。
体験してみなければわからないものがある。
これからのジェネレーションに賭けるしかない。
それでは健闘を祈る。
ずいぶん遠いところにきてしまった感じがある。
自分は本来、ここに寄るべきではなかったといえる。
ますます現代の病根が浮き彫りになるかのように
見えてきたところもある。
科学がうんぬんとか言っているうちは、
いつまでも深層的無意識の体験領域には入っていかないし、
そういう会話を受け止めるものもなくなってく。
そういう意味では、ユングすらオカルト扱いされてるうちは、
さらにそこを宗教や、究極のレベルまで進んだ、
トランスパーソナルは安泰といえる。
そういう意味では西洋の「深層心理学」は貴重だ。
特にユングの系列。「魂」を語る、オカルト的なものでもある。
合理主義者が、いかに滑稽なまでにそういうものを裏では
意識しつつ、嫉妬して無視できていないのを見ればわかる。
それだけ、自分に届かないものを感じてる証拠だ。
そういう意味では、
あからさまに「体験的な魂」を語れるところというのは
あったほうがいいし、現代ではものすごく貴重な場所だ。
うらやましければ、自分でやればいいことだ。
それは永遠のものといえる。
やはり、トランスパーソナル心理学や超心理学、
量子力学をたよりにすれば、この世界ではどういうことが
起こりえるのか、だいぶ、見えてくるところがあることは
否定できない。
そういうことがどうしても知りたいという気持ちが
おさえられない人は、の話だが。
おそらく、世の中には二つの人間がいる。
道具的に解釈すればそれで事足りると考える人と、
どんな方便(言い訳)にも満足することなんてできずに、
全体、すなわち世界に起こりうるあらゆる事象を、
矛盾の無い、統合的なヴィジョンで理解しなければ、
気が済まない人だ。
「知る」「分かる」だけで「なぜ」を問わないでいられる人と、
バラバラにあるパーツを必然的に収斂するただ一つの
かたちへと統合し、「理解する」ことを追求してしまう人だ。
量子力学にもそれが現れている。
自分にはまだ、その全体像はまったく見えていない。
それはいくらでも更新しうるところもあるからだ。
そういう意味では、数理的なお遊び、読み物としては
おもしろく、その行く末がどうなるかも、興味深いものの、
「量子論」や「超ひも理論」だけで、世界の究極理論も、
万物の理論も、あったもんじゃないといえる。そういうこと
がありえると、いまだ本気で信じている人は、ちょっと
科学信仰が抜けてなく、素朴で純粋過ぎると思う。
そういう方向性は、もはやポストモダンな、純粋数学に
近いと、割り切っておいたほうがいい。やりたい人だけが
やればいいようなものだ。量子論の解釈がどうだろうと、
それだけをいじくったところで、本質とはいいがたい。
そんなにこの宇宙は、スタティック(静的)でも、
還元論的な全体論でも、もはやありえないだろう。
やはり20世紀的なプログラムは、もう完成の段階に
達しているということだ。言い方を変えれば、
それはある限界が見えてきた、ということでもある。
無限の直線的進歩はない。
やはり、ニューサイエンス的な方向に向かいそうだ。
21世紀は、量子真空(ゼロポイントフィールド)、
これを理解するだけで、ものすごいことができるようだ。
まさかこんなところから一点突破、全面展開ができるとは。
ガン治療、ホメオパシー(水の記憶)、DNAと生物フォトン、
脳のホログラフィ、集合的無意識、ヒーリング、超心理学、
宇宙航行の推進力、すべてこれで突破できるようだ。
これが、代替医療系生物学や、ユング的心理学への、
橋渡し(インターフェース)になる。
やっぱり、物理学は、
一番上の階層ではなかったということだ。
物理学→生物学→心理学→神学→神秘主義
という、統合への道筋(ルート)がある。
量子真空(ゼロポイントフィールド)、ここにきて、
ものすごい鉱脈を掘り当てたのかもしれないということだ。
これを組み込むと、物理学も修正されるようだ。
これこそ「新しい科学(ニューサイエンス)」かもしれない。
ものすごい変動期に居合わせているということだ。
こうなると、誰も予測できないところがある。
『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』
リン・マクタガート
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309906079/ とりあえず一冊えらぶとすればこれを読めばいい。
ここに「ルネッサンス」がある。
つまり量子真空、やはりこの情報的な場こそが、
エーテルを裏付けるものだということだ。
もはやここまで分かってきてしまうと、
この方向性は、すべてが変わってもおかしくない。
まだこれがすべてではないような気もするが、
それでもすごいことが書いてある。身震いするほど、
この解釈は、正しいところを突いてるという直感が
ある。この量子論解釈なら矛盾がなさそうだ。
『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』
リン・マクタガート
↑これはほんとラディカルでおそろしい本といえる。
これをしっかり理解しないと、自分も道を決めかねる
ところがある。それほどすべてが変わりうる理解に
達してしまってる。理系の人はこれを読んだほうがいい。
『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』
リン・マクタガート
↑こうなると、パラダイムシフトが起きてもおかしくない。
自分もまだまだ見直しが必要のようだ。
けっきょく、他人に嫉妬する
大人げない人が世の中の大半ということだ。
自分の好きなことやったほうがいい。
合理主義者とか、論理とかいっても、
しょせんはある種のわかりやすい感情で動いてる。
他人のこと言えない五十歩百歩の世界ではある。
自分のやりたいことをやるべきだ。
なにか自分に言い訳してやってると、
他人に怒りを向けて嫉妬するようになるようだ。
私としては、センスがあるなら、
文学系や芸術系や臨床系をおすすめしたい。
統合に向かうようなものだ。
もっともそういうものはセンスがないとどうしようもない。
こればかりはどうにもならないものだ。
その人の個性がないとやれないものでもあるからだ。
651 :
没個性化されたレス↓:2005/06/08(水) 02:33:23
分析というよりも、共感的な深まりを見せるものだ。
たとえば植物なら植物に同化してそれを味わってみる。
そういう理解のしかたといえる。
やっぱりそういうイメージ的な、右脳的なもののほうが、
霊性とはいえるわけだ。
霊性というのは、行為でなく存在であり、外面でなく
内面というところがある。
直観的な観察、観想であり、黙想ということになる。
そういうことに価値を置ける、精神的な余裕が生まれて
こないようでは、そこには霊性も芽生えない。
なんの意味や価値があるの?アホじゃない?
そういう風に何かにせかされたり、白けているようでは、
時間のなかをあくせく通り過ぎるだけということになる。
必要性より、無駄といえる。
それが結果的に大きな心の癒しを生む。
芸術的療法や
精神文化というのはそういうものだろう。
『フィールド』、これをしっかり理解してしまえば、科学的
リアリティとの矛盾はすべて解消されてくる。それほどに、
重要なエッセンスがすべて凝縮されてるかのように、
うまくまとまっている。かなりのサポートになる。
量子真空が、微細エネルギーが潜在している場だという
ことだ。大体、そんなところにあるだろう、という直観は、
神秘主義的な発想としては古来からあるし、誰もが抱く
発想なわけだが、漠然とした観念論的な言葉で語られて
いた次元が、やっと具体的な言葉で突き止められてきて、
医学的・工学的に手が届きつつあるようだ。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/islis/sjis/journalJ/abst10J.htm >気功時のヒトの手における生物フォトンと温度変化
>全ての生物系からは超微弱強度の光(生物フォトン)が
>放射されていることが知られている。しかし、気功時の
>生物フォトン放射の実態は解明されていない。本報告で
>は、気功と生物フォトンおよび皮膚表面温度変化の相関
>を解明するため、ヒトの手から発する生物フォトンと、放射
>赤外線による皮膚表面温度の測定を行った。その結果、
>通常、物質は温度が上昇するとフォトンの放射強度も増加
>するが、本実験の例では、気功時において皮膚表面温度
>の低下と生物フォトン放射強度の増加が観察された。
↑ここにも生物フォトンとか出てきている。日本でもこういう
コミュニティのなかでは、もう突き止められていることだし、
整合性のあることなのだ。
あまりにインパクトが大きすぎるので、これがいつ公に
認められるかはわからないが、扱える以上、この量子論
解釈がおそらく本質を突いているだろうということだ。
つまり、実在の根源的な水準では、意識は時空を超えて
いる。確率世界でもある確率状態のなかで影響を与えら
れるということだ。驚くべきことに、東洋の霊的伝統の見解
とも、一致している。
まさかここまで一致していて、探求自体はうまくいっている
とは思わなかった。この理解を医学のもとで推し進めれば、
ヒーリング治療などの効果も上げられるかもしれないのだ。
海外というのは受け皿が広い。ニューサイエンスの日本語
でうかがい知れる、まだ唯一の本だろう。
これなら、トランスパーソナル心理学にも接合できる。
ニューサイエンスは「もう過去のもの」とされている風潮も
一方では強くなってもいるわけだが、科学哲学や現象学を
やっている人の文章を読むと、どうやら「ニューサイエンス
のメタファはどうあれ、現象自体はほんとのことらしい」という
ことが分かっているらしいと思える文章がある。
やはり気のコミュニティあたりなのか、その人がどこから
その確信を得たのかはわからないが、自然科学と社会
科学を横断するものが求められているということだ。
それもひとつの方向性になるのだろうことは間違いない。
「時々ではあったが、外来診療の折に、瞑想、いわゆる
新々宗教と言われるところで、ある種の宗教的実践を
行った人たちが多かったように思うが、によって精神的
に不安定になり、精神科の扉をたたく人たちに出会う
ようになった。彼らのなかには、精神病とは判断できない
人々、伝統的な精神医学の枠内では理解できない人々
にも出会った。それまでは、仕事とは異質のものと捉え
て、完全に切り離して考えていた。そうした関心や体験
は、生き方に大きな影響を与えるものではあったが、
それは個人的な問題であって、仕事とは関係がない。
いやむしろ、それらを仕事のなかに少しでも持ち込んで
しまうことは許されないことだと考えていた。だが、
トランスパーソナル心理学に出会って、その考え方は
変化した。決して精神医学とは無関係ではないということ、
むしろそれを知ることによってこそ精神医学の幅を広げ
ることができるのではないか、ということを強く主張して
いたからである。」
安藤治
瞑想を自己流でやるのには落とし穴もある。
トランスパーソナルには数十年の蓄積がある。
誰でもわかってもらえない霊的医学的な問題の、
「駆け込み寺」になってくれるということだ。
こんなに頼りになることはない。
瞑想は時空をこえる。
安藤先生の本も参考になる。自己流でやって、なんらか
のトラブルがあった場合は、ここに相談すればいい。
興味があることは、東洋や日本の、海外からも評価の
受けるそういう高度な精神文化において、かつて非常に
うまくいっていた、その生きた原理なりエッセンスの部分を、
現代においていかに、うまく再生させるか、ということだ。
禅など、かなり洗練された部分もあると思えるからだ。
やはり灯台下暗しというわけにはいかない。
安藤先生も、そういう問題意識をもっておられるように
思えるし、それでかなりいける、と思えるところもある。
松岡正剛の編集工学的な方向性も、思想的には、魅力が
あり興味深いところではある。あの方も、諸富先生のトラ
ンスパーソナルの学会のほうにおられるようだが。
http://www.honkunji.or.jp/torans.html >科学界でも批判されている啓蒙的合理化宗団と化し
>機械的合理科学心酔ー途の宗団になってしまっています。
>真実仏教の神髄は見失っています。これはあらゆる宗教
>宗団にも言えることではないでしょうか。
>欧米では、1960年代、世界で最も著名なあらゆる分野
>の科学者たちが寄り合ったシンポジウムの結論として
>還元主義機械的宇宙論は論駁され、有機体宇宙論の
>新しいパラダイムが起こりました。
>そしてトランスパーソナル(個を越える、心の探求)という
>学術的理論に多数の欧米科学者たちが真剣に取り組み、
>研究、体験による素晴らしい成果を今日挙げております。
>当時の欧米科学者たちは予言していたのです。それで
>心ある科学者達が還元主義機械的合理科学の進展に
>対して、歯止めをしたのです。
>日本は当時の古い西洋科学を導入し、個の確立、また
>物質文明の発展を急ぐ余り、東洋的精神的態度の日本
>人がその精神的叡知を見失い、合理主義、所謂、機械
>的宇宙論還元主義一筋の科学形態で有機体宇宙論は
>異端派の学問と毛嫌いしていました。
>然し行き詰まりを生じ、ここ10年前、その導入をせなけ
>ればならなくなったというのが現実です。
>一昨年東京の神保町の書店三省堂で、麗々しく[トランス
>パーソナルコーナ]と垂れ幕が下がり、それに関する欧米
>の翻訳書物がずらりと並んでおりました。
>私は「日本にも黎明の時が来たか!」と嬉しく思い、
>つい多くの冊数を買い込んでしまいました。
>現在、超個とか心の探求という感覚は、個から出切れない
>閉鎖的日本人には視線が及ばないのだと思いました。
>それを扱うのが仏教である筈であるが、仏教界の指導者
>も現代化と称する物質中心の合理主義に感化され、
>その修行指導が形式化して、仏教徒共々というところで
>しょう。
http://www.honkunji.or.jp/!KYOUGI2.HTM >トランスパーソナルという心を土台とした科学の起こりは
>視座の次元を高め、宗教への一歩近寄ったものであり、
>従来宗教者として述べられなかったことが述べられる
>機会になったということである。
>ユングは自然界の事象としてシンクロニシティー(共時性)
>等を言い、それが投影の元とせられる魂と称せる無意識
>の世界の自立性を論じている。そして偶然的に見える
>事象にもその相関関係があることを視座の次元を変えて
>言っている。
>しかし私はそれに更に言いたいことは、シンクロニシティ
>ーという自然現象界の事象だけでなく、この自然界に
>仏の世界からのはたらきがあり、現象界の次元の姿も
>変わるという不思議な事象があるということである。
やっぱり、ユングは正しかったということだ。
仏教の世界観、量子力学の観測問題、代替医療と超心理学、
ユングとパウリの「シンクロニシティ理論」がないと説明できない。
それほどに自身に霊的体験もあるユングの諸概念は、
魂の次元を語ることを「可能」にする。
東洋と西洋、物理と心理、ユングが最初に繋げている。
ユングが後の道筋に与えた影響力は計り知れない。
仏教も、やはり、形式化、しているところがあるということだ。
この真理を受け継いでいかなければならないということだ。
超心理学も、代替医療も、その最先端の実証は、
ユングの理論を後になって裏付けるものになっている。
それほどに、ユングは本質を突いてたということだ。
やっぱり見えない次元をちゃんと理解するためには、
そういう概念をこまかく検討していく必要があるということだ。
ますます、重要性を感じた。
誰かが継承していかなければいけないということだ。
本発表者は特に近代インド思想を専門とし、かたわら日本
近代の宗教哲学にも関心を抱くものであるが、
日本におけるトランスパーソナル理論の構築に向けて少し
でも前進していくための一つの条件として、明治期仏教思想
が先駆的に果たそうとした〈仏教と心理学との統合〉の試み
を再評価し、それとトランスパーソナル心理学の諸理論を
比較することによって、トランスパーソナル心理学の試みを
日本の思想的伝統に定位させることが必要であろうと考える。
本研究では、原坦由(1819-1892)の実験仏教学の構想と、
井上円了(1858-1919)の仏教心理学の構想の全体的特徴
をとりあげ、それとケン・ウィルバーの基本的立場を比較する
ことにより、日本の近代仏教思想とトランスパーソナル心理学
との接点について考えてみたい。
次世代のエピステーメ
青森保健大学 入江良平
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jatp/99sympo.htm トランスパーソナル心理学という言葉はかなり曖昧に使わ
れてきたが、私はそれを「近代科学のパラダイムに囚われ
ることなく意識や心の問題にアプローチしようとする試みの
総称」と理解している。
その探求のための枠組み、多くの人々に共有される枠組み
はいまだ見い出されていないが、それはこれから多くの人
々の努力を通じて出来上がってゆく「次世代のエピステーメ
ー」となりうるかもしれない。トランスパーソナル学の可能性
の中心はそこにあるように思われる。
ユングの仕事がこれからのトランスパーソナル学にとって
最も貢献できるのは、おそらく夢や空想や芸術療法におい
て現れる象徴的イメージの拡充、それによる無意識との
折衝という彼の実践である。ここで重要なことは、理論的な
アプローチよりむしろそれを経験的なデータとして、事実と
しての無意識に接近しようとする姿勢であり、そのように
して得られた経験の蓄積と共有である。 現代の我々が
ユングの仕事を継承してゆく意義があると思われる。
現在日本におけるトランスパーソナルの可能性
姫路獨協大学教授 實川幹朗
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jatp/99sympo.htm 学問はしかし、己の前提を対象にはできない。精神医学と
心理学は始めからまさに対象が人間であるゆえに、もしこ
の前提が問えないとするなら、いわば自分の庭の中での
堂々めぐりが避けられない。
近代的前提を問いなおすとは、個人主義、理性主義、意識
中心主義を問いなおすことである。トランスパーソナルの
持つ意義は、敢えてこのタブーに踏み込むことにある。
殊に、三つのなかでも頑固な前提である個人主義を揺さぶ
り、さらに、人間中心主義から脱却してゆこうという試みの
持つ魅力と、そして危険は、私たちに目眩く思いを味わわ
せる。
ただし、このことが全く新しい試みであると思ったりしては
ならない。むしろ、私たちはトランスパーソナル的になること
より、近代以前からの深く大きな流れに触れる。
ここで言う「人間の立場」とは、西洋近代的な人間のことで
はない。地球上の自然との、さらに宇宙全体との係わりの、
あるべき姿を取り戻した人間のことである。この人間の在り
方そのものがトランスパーソナル研究の最大の課題なの
である。
ということで、
ユング派の研究、は基礎になりうるということだ。
日本でもウィルバーのような構想はあったということだ。
宮沢賢治しかり、井上円了しかり。十分、接点はある。
日本の精神的な伝統を生かせるということだ。
ということで、こういうものを知らなかった人には、
いささかインパクトが強すぎたかもしれない。 だが、
この学問自体は、1960年代からあったということだ。
やっと日本に入ってきただけといえる。
こういうものを伝えていく人は少ないだろうが大切といえる。
ということで、
いつまでもお遊びに付き合っているつもりはない。
こういうものは、
同じところに立つ共感者のうちでないと通じない。
トランスパーソナル心理学と世界観の問題
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jatp/99sympo.htm トランスパーソナルの立場は、西洋的な学問知の根本的
反省の上に成り立っている。
その基本的志向は、「存在の深みへのまなざし」にある。
しかしそれを思弁的思想として扱うのではなく、瞑想その
他の実践をふまえ、体験という心的現実に立脚した探求
を行うことをめざす。
ここで、西洋的学問知の領域を踏み越えようとする明確な
意志が存在していることに注目すべきだろう。
一方、伝統的な霊的・宗教的伝統の側からも、その世界観
を不動のドグマではなく、「心的現実に基盤を持ったモデル」
として捉えることが求められる。
諸宗教の統一は、密教的立場において求められるのであり、
顕教的な一致はありえない。トランスパーソナルは、人類の
「霊における統一」を理想として持っている。私たちは魂の
中に住んでいるのであり、その逆ではない。この洞察を基礎
として、トランスパーソナル的探求は出発しているのである。
「私は私、あなたはあなた、私はあなたの期待に応える
ためにこの世に生きているわけではない。あなたは私の
期待に応えるためにこの世に生きているわけではない。
もし二人が出会えばそれはすばらしいこと。もし二人が
出会わなければ、それはいかんともしがたいこと」
パールズ(ゲシュタルト療法)
だれでもない者になるまえに、まずだれかになるということ
が必要だ。
そして、マズローによると、人間は生まれながらにしてスピ
リチュアルなものを欲求するという。
現代は、言葉だけの、表層だけを追う時代であり、
本当の精神文化の深みが失われつつある時代である。
それすらもうわからなくすらきている
魂的な感性としては、危機の時代でもある。
どういうことを言っているのか通じなくてもいい。
同じ価値観でないと、どうしても通じない世界がある。
ひとつの価値観しかないなんてことありえない。
無理して違う価値観の人と感性を共有するつもりもない。
もともとここには縁が無かったのだ。
縁のない人間もいる。
微細エネルギー論と
トランスパーソナル心理学の統合に関する
理論的諸問題
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jatp/99ippan2.htm 微細エネルギーについては、人体科学会、ISSSEEMなどの
組織で研究が行われているが、それは主に「微細エネルギ
ーの物理的次元への影響」を測定することが主眼となって
いる。しかし微細エネルギーには心的、身体的現実という側面
があり、それには心理学的なアプローチを行う必要がある。
ユングの「心的エネルギー」を再検討することから始めてみ
たい。ユングはインドの「プラーナ」をヒントとしてこの概念を
作ったと言われる。それは心の根本的なエネルギーとして
措定され、それがさまざまなコンプレックスを作り出すとされる。
ここで注意すべきことは、ユングはこうした力動的なモデルを、
単に物心二元論的に区分された「心」の領域においてのみ
認めたのではなく、いわゆる物・心の双方を含む「一なる世界」
(ウヌス・ムンドゥス)の基本的な性格と考えていたらしいこと
である。これが共時性の宇宙観である。
ここでは、「心的エネルギー」は、心だけでなくいわゆる物の
領域にもわたってさまざまな秩序を「布置」する。このように
見てくると、これは「気」の世界観とも類似している。
ここで私は、ウィルバーによる最近の「階層的ホロン秩序」
(ホラーキー)の宇宙モデルを階層的多元論モデルの精錬
された形と考え、そこにおけるホロンを「微細エネルギーの
場による秩序」と捉え直す可能性を探ってみたい。
また、ウォシュバーンのモデルは、「エネルギーの変容」に
ついてのトランスパーソナル心理学的視角を与えるものと
して注目に値する。ただし、これは多次元モデルによって
補足されるべきものであると考える。ウォシュバーンは、
変容は「基盤」との接触によって起こるものと考えるが、
ただちに「基盤」そのものとの接触が可能であるかどうかは
疑問がある。
ここで注目されるのは、アーノルド・ミンデルの「ドリーム
ボディ」の概念である。ドリームボディとは、微細エネルギー
場であると捉えることができる。さらに、ミンデルが『コーマ』
で示唆するように、このドリームボディの場が多重的構成
を持つと考えるとき、微細エネルギー場のモデルとホラーキ
ーモデル、さらにウォシュバーン的な「変容」のモデルが
統合される可能性が生じる。
現代思想としての重要性
――ポストモダニズムを越えるウィルバー
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jatp/sympo3-resume.htm ウィルバーの読者の多くが感じていると思われるが、彼の
著作が放つ最大の魅力の一つは、近代性(モダニティ)を
乗り越える思考の筋道が、人々に共有可能な仕方で明ら
かにされていることにある。
近代性に対して疑義を投げかけているという意味で、さし
あたり彼の理論もポストモダニズムの潮流のうちにあると
考えることができる。
近代思想のさまざまな前提、人間性の中心に理性があり、
理性によってのみ世界の真理を把握することができる
(理性中心主義)とか、主体から切り離されて独立に、客観
的で価値判断を離れた世界が実在する(客観主義)とか、
それゆえリアリティは一つであり、万人にとって共通のもの
である(普遍主義)、などといった枠組みを、彼もまた乗り
越えようとしているのである。
ウィルバーの主張は、「トランスパーソナル」という概念を
根幹に据えつつ、現代思想のこうした傾向をことごとく乗り
越えようとする試みとして理解できる。
ポストモダニズムの反−形而上学的な傾向との対比から
すると、彼の思想は「新しい形而上学」と呼ぶことができる
のではないだろうか。
日本の西洋科学への賞賛やその結果は、しばしば西洋の
それらを超えたものを生み出しており、またそれと同じように、
多くの西洋人が日本人以上に日本やアジアの文化のなかに
ある深い哲学や瞑想実践などに尊敬の念を示しているの
です。
科学に熱い視線を寄せる日本の人々は、しばしば科学と
瞑想は相容れないものと考えますが、それは誤った姿勢の
ように思えます。現代、非常に数多くの西洋人が日本そして
アジアのもっとも重要な世界への貢献として瞑想やそれに
関連したさまざまな哲学的理解に注目しているのです。
たとえば、禅は、他の瞑想実践と並んで、西洋の人々や
西洋の文化、学問に深い影響を与えており、熱心に研究
する価値のある対象とみなされてきました。ここ20年間の
間に、1000を超えるほどの科学的文献が公にされ、その
心理学的、身体的効果とともに、多くの心理学的、身体的、
生化学的作用が探求されてきました。
そして、トランスパーソナル精神医学やトランスパーソナル
心理学のような新しい研究分野が現れ、瞑想的な諸実践
から生じる重要な体験の意味についての研究が盛んに
なされるようになってきています。
しかし、驚くべきことには、こうした研究は日本ではほとんど
なされておらず、いままでの有意義な成果も日本の学者
たちにはほとんど知られないままになっているのが現状
です。それゆえ、瞑想研究の豊かな成果を日本の学者たち
の手元に届けることで、必ずや重要な貢献をなすにちがい
ありません。
この領域においては、科学者でありながら、実践家でも
あることが大変に重要なのであり、西洋にもたらされた
瞑想というすばらしい贈り物のために、日本からの計り知れ
ない恩恵に、西洋の科学、文化が少しでも報いることが
できればと願っています。
ロジャー・ウォルシュ
(カリフォルニア大学・精神医学・哲学・人類学)
率直に、自分としては、心理学はあくまで外側から学ぶに
とどめたい。これはまだまだ思想でしか扱いにくい。本来の
心理学らしい心理学ほど、心理学では「心理学じゃない」
というが排除がつよいという、皮肉な逆転がある。
縦割りがあるので、なかなか互いに相容れていないし、
逆にいえば、その構造があるために、ウィルバーみたいな
統合的志向性は扱いにくい、という現実的な状況がある。
これは10年やそこらでどうこう変わるものでもないだろう。
臨床や、発達なら、結び付けやすいといえる。現在のオー
ソドックスな心理学というのは、行動の予測と統御という、
きわめて機械論的なパラダイムに立っており、なまじ自然
科学よりも無駄とも思える科学主義にこだわっており、
それが大したこととも思えないが、どういうわけかそうある
ことに過剰な自信と自負をもっているらしいので、そっと
しておくことが無難である。狭量で硬直したものがある。
いずれにせよ、<こころ>というのは構成概念であり、
素朴心理学、と考えられている。外面として共通するとされる
表層しか扱わないのであり、方法論上のこだわりもあるのか、
それ以上の考察に積極的なわけではない。内面は扱わない。
内面というのは、イメージや夢や無意識、心的エネルギー、
コンプレックス、魂的なリアリティだが、学問としては、ユング
の系統において、一番あからさまに顕著に語られている。
あとは、意外なところで、気のコミュニティ、その周辺の東洋
医学すべてが、実は心的エネルギーを扱っているのであり、
臨床とも接点がある。これは、ノンローカルな心を扱ってる。
それ以上の、ものすごいディープな領域もある。それは、
仏教学や神学やトランスパーソナルの思想になる。
いずれにせよ、考えれば考えるほど、オーソドックスな
心理学ほど、本来の心を排除しているという、皮肉がある。
心ではなく行動を扱ってる。生態学に近い。そこを勘違い
して心理学に妙な期待を抱かなければ、不幸になることは
ない。
鍼灸というのも、刺激による生理的活性化とか、科学的な
裏づけで説明するものもあるが、あれも気の次元にアクセス
している。微細身体(サトルボディ)というものがあり、これは
誰でも簡単に気感として感じられるようになるもので、それ
からやればわかるものだ。経絡やツボというのも、気の次元
のネットワークやチャネルで、西洋医学とは対応してない。
鍼灸というのは、肩こりなどの不定愁訴とされるもののほか、
精神的な意外なものにも、かなり劇的な効果がでる。つまり、
心的エネルギーなのだ。
このツボを指でたたく簡易的なものとして、精神療法に応用
したのが、「TFT(思考場)療法」と呼ばれるものだ。ほかにも
イメージ点を操作するものもある。
こういうものも、生物フォトンの変化を計測していけば、その
相関関係から間接的に、作用メカニズムが同時追跡して
いけるものだ。ウィルバーも分かってると思う。
とにかく、実体的であることは、体験すればわかる。
それはそれで、特に鍼灸は効果があると実感したわけだが。
瞑想というのは、無意識を緩めていく。そうして拡張していく
もののようだ。といってもこういうものは、そこまで体験しない
と、これまでの経験上、言葉だけではどういう感じのものが、
まさにそれにあたるのかはわからない。
やぱり、瞑想が基本だということだ。
「無境界」というセラピー論も、ずいぶん面白いことが書いて
ある。ああいうのも、現代人には有効なはず。
やっぱり、
心理学板に立てたのが無理があったよな、と思う。
いってみればこれは、
ドイツ文学、ロマン主義みたいな要素もあるわけで、
それと科学なんて、相性が悪すぎる。
ウィルバーは、もっと現代的に努めてると思うが・・・。
それでもそういうヴィジョンはあるわけだ。
水と油みたいなところは、やっぱりあるのだ。
それくらいの相性、価値観の違いなんて、
世界にはいくらでもある。現代の日本がそれだけ
単一的なだけなのではないだろうか。
ここの文脈に、無理してあわせようということが、
土台無理な話だったということだ。
意識が、あるかないか、とか言っているんだから。
イマージュを深めていくようなものじゃない。
あまりこういうことに固執するのはやめたい。
いい加減、病的だと思われるからだ。
唯物論的な世界観で説明できないことはなんでも
脳内の妄想だとしか受け取れない人がほとんどだ。
そういう二元論でしか考えたりできない限界がある。
とくに心理学では人間がいかに自身の心理に自覚
できてないかを疑うことを義務付けられている。
そのわりに自身の寄って立つ基盤だけは疑わない
というパラダイム的限界がある。であるから、その
基盤から変則的事例と表現されるものについては、
ほかの説明原理も担保していく必要があり、トランス
パーソナルのように専門化せざるをえない。そういう
ものは、それだけ珍しいことには間違いない。
私から言わせれば、脳内の妄想のほうが珍しいもの
であり、実感も興味もわかないわけだが。そういうもの
の一部も、超心理学でわかった特性や、トランスパー
ソナルでわかった変性意識の世界を知れば、より高次
の説明原理で統合的に理解できるところはあるかも
しれない。トランスパーソナル以外は、次元性の違いが
なく、基本的には平坦に捉える説明原理しか持って
いない。そういう高次の統合は、最初からあきらめて
いるので、そういう説明に積極的ではないところがある。
ニュートン的世界観ですべてを考えようとするか、
それを包括した上でアインシュタイン的世界観にふみ
こんで考えることもするか、その違いといえる。もっとも、
質的にこえているところはあるため、その例えが妥当
だとは思えない。
そういう結論が見えてる議論はらちがあかないので、
素直に思想として自分でやることだとおもう。はっきり
いって、トランスパーソナルだけでも、それをちゃんと
究めようと思ったら大変な、そういうものにはなって
きてる。
もう数十年の蓄積があるので、海外には文献もたく
さんあるようだ。それを歴史的に追跡するだけでも、
もはや専門的にやらなくてはならない段階にはきて
いるようだ。
深めようと思えばキリがないところはある。
自分としてもとんだ時間の無駄をしてしまったという
ことだ。ほかに見るべきところはたくさんある。気分
転換に興味あるほかを読んでいたら、だいぶ気分が
変わった。やっぱり、同じ興味を共有する人と探求
することだ。みんな熱心に興味持ってるし、それが
有意義といえる。
興味のある同好者が、理科系と文科系をこえ、あから
さまに超心理学などを、熱心に議論できる場が次々に
生まれている。そういう時代になっている。インターネット
もある。それだけでもありがたいと考えるべきだった。
「新しい科学的真理が勝利を収めるのは、
反対者を説得して新しい光が見えるように転向させること
によってではない。ゆくゆくは反対者が死に、
新しい考え方に馴れた若い世代が育ってくるからである」
マックス・プランク
きっと、ここは自分が興味をもつべきものに他人も興味
をもってくれなく、ほかの興味にひかれていく人が、気に
なってしかたがないのだろう。他人の興味に干渉しない
と自分の興味が維持できない(またはそう思い込んで
いる)不健全な構造になっていると思われる。それを
一言で言えば、嫉妬感情、ということになる。
ほんとに自分に熱中している人は、他人なんて気になら
ない。大体、ネットでうんぬんウォッチしている習慣がある
時点で、その人というのはどこかおかしいところがあると、
それに気づくことだったといえる。井戸端会議と本質的な
大差はない。
世界はもっと豊穣だ。
自分をどこか無理している人は、他人におなじ無理をさせ
ないとそれが正当化できないのではないかと不安になる。
そうして自分の正当性をあちこちに探し、あちこちに必要
以上に他人へと発露させようとする。そういう過剰な滑稽さ
の矛盾に、本人は気づいていないところがある。
自分もここの特殊性に洗脳されかけ染まりかけていた。
真に受けてると息が詰まるだけだ。トランスパーソナルの
先駆者たちと、新しいジェネレーションを見ていればいい。
自然や、芸術や、思想など、新しい空気を取り入れることだ。
こうやるべき、と思ってやるとろくなことがない。
人にはタイプがあり、人それぞれ違う。
肩の力を抜いて、自分の本来のことをやることだ。
自分の興味を抱いたその直観を信じることだ。
相性を見抜かないと、どうしようもない。
心理学だけが唯一の心の説明ができるという錯覚から
抜け出すことだ。心を取り扱わないといっておきながら、
心は行動であると意図的にミスリードしているところがある。
精神世界への科学的探求を、妨げているところがある。
その「平坦な世界(フラットランド)」からなんとしてでも
抜け出さないと、精神世界は見えてこない。
なにごともトライアンドエラーはある。
だからといって、探求できないわけではない。
そういうフロンティアを目指すチャレンジャーも
一定の割合ではいる。
「考古学」のようなタイプの役に立たない純粋研究に
ロマンを抱けない人は、こういうことには共感できない。
そういうフロンティアの知見に感銘を受けるかどうかだ。
これは現代考古学の特徴と似ている。そう考えれば、
なにをやろうとしているかが俄然、わかりやすくなる。
エジプト古代文明において、ピラミッドが高度に数学的な
設計をもっており、それは大地のエネルギーを増幅し、
魂を天界へと運び上げる、史上最大のモニュメントだった、
と聞かれてそこに想像力を働かせ、ピンとくるかどうかだ。
それがピンとこないと、ただの未開人の不可解な徒労
としか思えなくなる。エジプト考古学は、不可侵な計測
技術によって、旧来のイメージを刷新していった。
生物フォトンの研究で、電荷の場所が中国医学の場所
と一致していたと聞いて、驚きを感じるかだ。現代におい
て、新しく発見される未知のものも出てくるはずだ。
いくらでも既存の常識的な固定観念が刷新される可能
性は眠ってる。そういう可能性に心をオープンでいられ
るかだ。
ユングだって、「意識の考古学」の側面はある。意識の
スペクトルとは、「発掘しうる地層」に他ならないのだ。
そういうイマジネーションがその原動力になる。考古学
のように、それは現在形でありうるのだ。
「ディスカバリーチャンネル」を見れば、前世記憶や古代
シャーマンをテーマにしたものだってある。日本と違い、
アメリカの番組は、それに真正面から真剣に取り組む。
前世問題では、アイスランド大学超心理学教授のハラ
ルドソン、シャーマンでは、超心理学者クリップナー、
トランスパーソナル精神医学者グロフ、一線の研究者
ばかりだ。体外離脱の実験もある。
たまに批判的な意見も入るが、全体としてはこうした
「意識のフロンティア」の探求に対し、かなり好意的な
製作態度をしている。
日本ではここまで真面目な体裁の番組はなかなかない。
例外的に、森達也のテレビ作品があると思っている。
こうしたテーマを専門的に語れる、日本の専門家がまだ
あまりいないということだ。
*
1905年、「トランスパーソナル」という用語が登場したのは、
哲学者・心理学者ウィリアム・ジェイムズの講演記録だそうだ。
1942年、ユングの翻訳家たちが、ユングのドイツ語の
訳語に、この「トランスパーソナル」を使用し、これに追随
するものとなったそうだ。
1960年代半ば、人間性心理学の非公式の集会にて、
グロフは、マズローやフランクルとともに、「トランスパーソ
ナル」という用語を提案したという。
1968年、人間性心理学同好グループは、「第四勢力」
としてこれを宣言したという。
1977年、ボストンで「トランスパーソナル心理学会」が
初めて国際会議として開かれ、回を重ねるごとにその関心
領域を拡げていったという。
1978年、第4回国際会議の際に、心理学の枠組みを超え、
「国際トランスパーソナル学会」(ITA)が発足したという。
この中には、フリッチョフ・カプラ、フランシスコ・ヴァレラ、
カール・プリブラム、デヴィット・ボーム、エリザベス・キュプラ
ー・ロスなど、さまざまな専門家が集まり、その中心人物が、
自ら禅を体験したケン・ウイルバーだったという。
1979年、コルドバ・シンポジウム「科学と意識」を受けて、
1984年、筑波大学で「科学・技術と精神世界」と題された
日仏協力シンポジウムが開催され、デヴィッド・ボーム、
ライアル・ワトソン、カール・プリブラムなど、が集まったという。
その頃、日本では吉福伸逸氏を中心に、菅靖彦氏、岡野
守也氏が、共同でトランスパーソナルの翻訳本を精力的に
出していった。彼らの多大な貢献がなければ、今ほど浸透
しなかったということだ。
1985年、国立京都国際会議場で、「第9回、国際トランス
パーソナル学会」が「伝統と科学の融和」と題されて開催
されたという。当時まだ日本では「トランスパーソナル」という
言葉はあまり知られていなかったにもかかわらず、ユング派
の河合隼雄氏が中心になったおかげで多くの関心を集め、
日本における本格的な紹介への足がかりとなったという。
この会議には、ヴァレラ、キュブラー・ロス、グロフなど、
多数が参加したという。
『宇宙意識への接近―伝統と科学の融和』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393366042/ 河合隼雄・編、吉福伸逸・編
これを機に、しばらくはまだまだ時期早尚という困難な面が
続いたが、日本でも主要な理論書の翻訳によって、その実践
も行われてきたという。
1991年、筑波大学で日中友好の「気のシンポジウム」が
行われ、その流れで「人体科学会」や「気の科学」が始ま
ったという。
1990年、第9回「日本心理臨床学会」で、日本のアカデ
ミズムでの、初めてのトランスパーソナルの発表があった。
満員になり、手応えは十分だったという。
1992年、「アメリカ心理学会」において、第32部門の人間
性心理学会の活動のなかに、トランスパーソナルの分野が
組み入れられている。
1994年、アメリカのトランスパーソナル関係者が提出した、
「心理宗教的」ならびに「心理的霊的」の項目が、「アメリカ
精神医学会」の、「DSM-IV」に収録されている。
1996年、「日本トランスパーソナル学会」の第1回創立
会議が、南伊豆で開催されたという。
*
ここまで発掘するのが大変だった。なかなか情報がまとま
ってない。微妙な年代としては、間違っているところがある
かもしれない。
アメリカのトランスパーソナル心理学会の会員数は、1990
年代初めに、約3000人になっている。すでに、四半世紀に
およぶ歴史や発展があるということだ。
注目されるべき、数々の知見が積み重ねられており、
わが国でも、本格的に取り組む必要性がますます高く
なってきた、ということだ。
一応、100年前から、ちゃんとした流れがあるわけだ。
アメリカでも、まだまだ「ものすごくマイナー」なことは
確かだろうが、アメリカ心理学会にも、組み入れられて
いるし、アメリカ精神医学会のDSMにも組み入れられ
ている。その意味では、「公式」ではある。
こういうことを日本の心理学の人では、「まったく知らな
かったらしい」あるいは「知っててもあえて言っていない」
というのは、どこか不自然というか、信じられない話だ。
とくに、1985年に、日本でかなり大きなイベントがあっ
たらしい、というのは驚きだ。
河合隼雄氏が中心だったとは。これを日本の心理学者
で知らないひとはいないはず。
日本のトランスパーソナルは、アメリカにこんなにも遅れ、
やっと上陸してきたという状況なんだから。
これほどあまりにも免疫がなさすぎるのは問題がある。
それもこれも、言っていないことが問題だといえる。もっ
とも、最近になっては、言われてくる傾向にあるようだ。
これからは、超心理学すら、中村先生や、石川先生が、
メディアに登場して、顔を出していくということもあるんだ
ろうが。
意識に限らず、アメリカの「ディスカバリーチャンネル」で
取り上げるものにはみな、「フロンティアへの探検」に
対する、大きな興味というものがある。これはアメリカの
文化の懐の大きさ、長所にもなりうるところだ。奥地を探検
するのと、意識のフロンティアを探検するのを、同じ目線
でとらえているわけだ。この点、「未知」に対する感性が、
日本より健康なところもある。
日本は「北海道」などを除いて、未知が少ない。そういう
国土に住んでいれば、そうした想像力が沸きにくいのも
無理はない。
探検もせずに、「・・など大したことない」「・・などあるはず
ない」などと、最初から決めつける人々ばかりだと、フロン
ティア・スピリットは完全に失われてしまう。
きっと、考古学とか人類学の人とかなら、
こういう価値観は素直に共感しやすいんだろうが。
そういうものに似ているとはいえる。
そういう研究では、もっと役に立たないものはいくらでもある。
それに比べたら、臨床的効果もみとめられるものだ。
まああまり説得するつもりはない。
やりたいひとがやればいいものだ。
ロマン主義だ、などと批判されがちだが、
そういう意味では、遠くを想像することは大切だといえる。
それは宇宙であり、古代であり、同時に今でもある。
永遠、ということかもしれない。
そういうまなざしを、一方では忘れないことだろう。
永遠の空間、永遠の時間、永遠の今、
それがトランスパーソナルということかもしれない。
古いものが、新しくよみがえることもある。
あまり他人の狭量な考えに左右されると、
精神の余裕がなくなってしまうものだ。
はあ、自分も免疫がなかっただけということだ。
調べれば調べるほど、
昔からあって、それなりにうまくいっているものだったとは。
これを取り越し苦労といわずしてなんといおうか。
ありもしない不安に取り付かれていただけといえる。
結局、人間というのは、思い込みの産物ということだ。
勝手に妄信的に思い込むから、おかしくなる。
思考が入りすぎるから、おかしくなる。
そういう意味では、宗教というのは、おすすめできない。
もっと静謐(せいひつ)にとりおこなうべきものだ。
神社の、奥深い静かな森の、砂利のなかの足音だけが鳴る、
肌寒い朝もやを想像すればいい。
そういう感性こそ、日本的なエッセンスの良いところだと思う。
そういうものを見過ごしがちだったといえる。
大きな神社の気場というのは、非常に清々しいものがある。
鹿島神宮であり、熱田神宮であり、出雲大社でもある。
出雲大社は行っていないが・・・。
雰囲気というのもあるものの、こまかい気感として、
ここにはなにかある、というのが明瞭にわかるようになる。
ものすごく浄化されるようなこともある。
神社で、森で儀式を執り行うということは、
そこに細かい存在作用が降りてきて介在するものだ。
それが本物かは感覚としてわかるものなのだ。
最初に居合わせたときに感じたときは、驚いた。
今まで、そういうものは形式がすべて、と思っていたからだ。
まさか現代にまで、そういうものがライブなものとしてあるとは。
それを感じてか、執り行っている人はいるということだ。
本物の神社というのは、そのまま開かれているにも関わらず、
ものすごく浄化された場だと感じるわけだ。
そのよさが、ひとたび、わかってしまえば、
宇宙のほんとうの奥行きというものは実感として
得られるものなのだ。
そうしたら言葉だけの思い込みが全然、
ピンとこないものになる。
そういうものを一度も感じたことがない人というのは、
それはいくらなんでも思い込みだと疑ったほうがいい
のではないだろうか。
自殺しようと川に飛び込んで奇跡が起こって助かった、
とか、聞いたこともある。それで宗教に結びつくのは、
どうもピンとこなかったが、たぶん本当の話なのだろう。
そういう体験に裏付けられていない、条件付けだけの
独善的な信仰というのは、どこか本物でないように
思えてしまう。宇宙中心でなければならない。
人間の道理をこえているところもある。
そういう奇跡、臨死体験というのも、酸素の欠乏とか、
なんらかの脳内機序もその過程にはあるものなのかも
しれない。ただ、その体験の内容によっては、あきらか
にそれ以上の次元の、創造的な、価値あるものもある。
それは特定の宗教に寄らず、起こることもある。それを
病理化するしかなくて、進化の副産物のような色物扱い
して、はたしてそれでいいのか。そういうものはそういう
もので、次元が違うものとしてあるのではないか。
ま、臨死体験なんて、下手すれば戻ってこれないわけで、
そういうものを万人が体験できるわけではないのは確か。
そういうものを興味本位で読んでも仕方ないところはある。
やっぱり純粋に、大きな神社の、本物の清浄なる気場を
感じとるということが、一番、間違いがないところがある。
神道というのは清浄なるものがある、と、直接的には
感じるものがある。あまりそこに余計な宗教的背景なりを
付着させているつもりはない。さしあたってはオープンに、
気場を浴びてみるという、直接的な味わい方もあるという
ことを言いたかっただけだ。気功をやって気感がわかる
ようになってから、そういうことに詳しい人に案内して
もらえば、それなりにわかるものだと思う。
まあ、ほんとのところ、トランスパーソナルがどうこうという
より、それを知るよりまえから、霊的なるものとの接点は
あったわけで、ほかにこれというものがなかったという以外、
これに肩入れする理由があるわけでもないのだ、が。
一番、中立的で緩やかに感じたから、というのもある。
そういう体験をしない限り、これに関わって、あまり得する
ことがあるわけではない。トランスパーソナルというのは、
そういう体験に痛切なるものがある人が、なんらかの
ボランティアとして、宗教を超えて、やっているという面も
あるような気がする。体験的のない人が、これに関わって、
なにかその意義がつかめるとは思えない。
はっきりいってほかにこれといったものがなかっただけで、
これがすべてと思っているわけじゃない。こういうものは、
とかく学問的にやれば遠回り的な印象を受けるのはしかた
ない。ただ、それだけ、学問的にやるものがほかにない
ような気がするのだ。それだけでも貴重なものはある。